Lu Xun Complete Works/ja/huagaiji
華蓋集
华盖集
作者: 魯迅(鲁迅)
【魯迅全集・第三巻】
華蓋集
題記
——一九二五年——
咬文嚼字(一より二まで)
青年必読書
忽然想到(一より四まで)
通信
論弁の魂霊
犠牲謨
戦士と蠅
夏の三虫
忽然想到(五より六まで)
雑感
北京通信
導師
長城
忽然想到(七より九まで)
「壁にぶつかった」後
閑話にあらず
我が「籍」と「系」
咬文嚼字(三)
忽然想到(十より十一まで)
補白
KS君に答う
「壁にぶつかった」余り
閑話にあらず(二)
十四年の「読経」
評心雕龍
これとあれ
閑話にあらず(三)
北大を観る
砕話
「公理」の手品
今度は「多数」の手品
後記
華蓋集続編
小引
——一九二六年——
雑論 管閑事・做学問・灰色等
面白い消息
学界の三魂
古書と白話
一つの比喩
手紙にあらず
我まだ「手綱を引く」能わず
竈送り日漫筆
皇帝を談ず
花なき薔薇
花なき薔薇の二
「死地」
惨むべきと笑うべき
劉和珍君を記念す
空談
かくの如き「討赤」
花なき薔薇の三
新しき薔薇
もう一度
半農のために「何典」に題記した後に作る
馬上日記
馬上支日記
馬上日記の二
「発薪」を記す
談話を記す
上海通信
華蓋集続編の続編
廈門通信
廈門通信(二)
阿Q正伝の成因
「三蔵取経記」等に関して
いわゆる「思想界の先駆者」魯迅啓事
廈門通信(三)
海上通信
而已集
題辞
——一九二七年——
黄花節の雑感
略論中国人の顔
革命時代の文学
「労働問題」の前に書く
略談香港
読書雑談
通信
有恒先生に答う
「大義」を辞す
反「漫談」
「天乳」を憂う
「首領」を革む
「激烈」を談ず
扣絲雑感
「公理」の所在
可悪罪
「意表の外」
新時代の貸付法
魏晋の風度及び文章と薬及び酒との関係
小雑感
再び香港を談ず
革命文学
「塵影」題辞
陶元慶君の絵画展覧会に際して
ルソーと胃袋
文学と発汗
文芸と革命
いわゆる「大内档案」を談ず
擬豫言
附録
大衍発微
【華蓋集続編】
【小引】
まだ一年に満たぬのに、書いた雑感の分量はすでに昨年一年分ほどになった。秋来、海辺に住み、目の前にはただ雲と水が広がり、聞こえるのは多くは風と波の音で、ほとんど社会から隔絶されている。もし環境が変わらなければ、おそらく今年はもう何の無駄話もないであろう。灯下に無事なので、旧稿を編集し、さらに印刷に付す準備をし、私の雑感を読みたいお客様方に供しようとするものである。
ここに述べられているのはやはり宇宙の奥義でも人生の真諦でもない。ただ、私が遭遇したこと、考えたこと、言いたいことを、それがどれほど浅薄であれ偏激であれ、時に筆を取って書き留めたに過ぎない。少し自惚れて言えば、悲喜の折の歌や泣きのようなもので、その時はただこれによって憤りを解き情を述べたのであり、今さら誰と公理や正義を争おうとは思わない。お前がそうなら、俺は敢えてこうする、ということはある。命に従わず、叩頭せず、ということもある。荘厳高尚な仮面をちょいと引っ掻くこともある。それ以外には何の大事もない。名に副うて、「雑感」のみ。
一月以来のものは、おおよそすべて収めた。ただ一篇だけ削除した。それはその中に多くの人名が列挙されており、いまだ、また容易に一人一人の同意を得ることもできなかったので、勝手に発表するわけにはいかなかったからである。
書名は?年月は改まったが、状況は依然として変わらないから、やはり『華蓋集』と呼ぶ。しかし年月はやはり改まったのだから、やむを得ず二文字を加える。「続編」と。
一九二六年十月十四日、魯迅、廈門にて記す。
【附録】
【大衍発微】
三月十八日、段祺瑞・賈徳耀・章士釗らが衛兵をして民衆を射殺せしめ、五人のいわゆる「暴徒首領」を通緝した後、新聞にはなお彼らが第二批として通緝しようとする名簿が流布していた。この名簿の編纂者については、私は今のところ研究するつもりはない。しかしこの一群の人々の出身地・職務を調査して列挙してみると、取捨がなかなか巧妙であることが分かる。まず前六名を挙げる。ただし就いている職務については、私の見聞に限りがあるので、遺漏があるかもしれない。
一 徐謙(安徽)ロシア返還庚子賠償金委員会委員、中露大学学長、広東外交団代表主席。
二 李大釗(直隷)国立北京大学教授、学長室秘書。
三 呉敬恒(江蘇)清室善後委員会監理。
四 李煜瀛(直隷)露款委員会委員長、清室善後委員会委員長、中仏大学代理学長、北大教授。
五 易培基(湖南)前教育総長、現国立北京女子師範大学学長。
六 顧兆熊(直隷)露款委員会委員、北大教務長、北京教育会会長。
四月九日『京報』に曰く、「姓名の上になお圏点等の符号があり、その意味は不明。……徐・李等五人の名の上にはそれぞれ三つの丸があり、呉稚暉は第三位に列名されているものの、わずか一つの点のみ。その他は二つの丸、一つの丸、あるいは一つの点で、詳しくは記さず」と。そこで推測する者が出て、呉老先生が一点に過ぎないのは、章士釗がまだ重用しようと考えているため、及びその他の理由であろう云々と。案ずるに、これらはいずれも職務を列挙せず、かつ陳源の『閑話』を見ていないがゆえの推測である。上の記述を一見すれば、圏と点の違いは「差缺」(ポスト)が「優美」であるかどうかを示すに過ぎないと分かる。監理は物品を点検する監督者であり、しかも給料もないのだから、一点で十分である。他の人々の「差缺」は大きいから、当然三つの丸に値する。「詳しくは記さず」のその他の人々も、これに準じて推せば、大きな間違いはなかろう。冠冕堂々たる「学風整頓」の盛挙を、ただこのように見るのは、まことに風景を殺ぐことであり、「正人君子」諸氏に申し訳ないが、しかし私の眼はこのようであるから、どうしようもない。さらに書き続けよう。計開:
七 陳友仁(広東)前『民報』英文記者、現『国民新報』英文記者。
八 陳啓修(四川)中露大学教務長、北大教授、女師大教授、『国民新報副刊』編集。
九 朱家驊(浙江)北大教授。
十 蒋夢麟(浙江)北大教授、代理学長。
十一 馬裕藻(浙江)北大国文系主任、師大教授、前女師大総務長・現教授。
十二 許寿裳(浙江)教育部編審員、前女師大教務長・現教授。
十三 沈兼士(浙江)北大国文系教授、清室善後委員会委員、女師大教授。
十四 陳垣(広東)前教育次長、現清室善後委員会委員、北大導師。
十五 馬叙倫(浙江)前教育次長、教育特税督弁、現国立師範大学教授、北大講師。
十六 邵振青(浙江)『京報』総編集。
十七 林玉堂(福建)北大英文系教授、女師大教務長、『国民新報』英文部編集、『語絲』執筆者。
十八 蕭子升(湖南)前『民報』編集、教育部秘書、『猛進』執筆者。
十九 李玄伯(直隷)北大法文系教授、『猛進』執筆者。
二十 徐炳昶(河南)北大哲学系教授、女師大教授、『猛進』執筆者。
二十一 周樹人(浙江)教育部僉事、女師大教授、北大国文系講師、中国大学講師、『国副』編集、『莽原』編集、『語絲』執筆者。
二十二 周作人(浙江)北大国文系教授、女師大教授、燕京大学副教授、『語絲』執筆者。
二十三 張鳳挙(江西)北大国文系教授、女師大講師、『国副』編集、『猛進』及び『語絲』執筆者。
二十四 陳大斉(浙江)北大哲学系教授、女師大教授。
二十五 丁維汾(山東)国民党。
二十六 王法勤(直隷)国民党、議員。
二十七 劉清揚(直隷)国民党婦女部長。
二十八 潘廷幹
二十九 高魯(福建)中央観象台長、北大講師。
三十 譚熙鴻(江蘇)北大教授、『猛進』執筆者。
三十一 陳彬和(江蘇)前平民中学教務長、前天津南開学校総務長、現中露大学総務長。
三十二 孫伏園(浙江)北大講師、『京報副刊』編集。
三十三 高一涵(安徽)北大教授、中大教授、『現代評論』執筆者。
三十四 李書華(直隷)北大教授、『猛進』執筆者。
三十五 徐宝璜(江西)北大教授、『猛進』執筆者。
三十六 李麟玉(直隷)北大教授、『猛進』執筆者。
三十七 成平(湖南)『世界日報』及び『晩報』総編集、女師大講師。
三十八 潘蘊巣(江蘇)『益世報』記者。
三十九 羅敦偉(湖南)『国民晩報』記者。
四十 鄧飛黄(湖南)『国民新報』総編集。
四十一 彭斉群(吉林)中央観象台科長、『猛進』執筆者。
四十二 徐巽(安徽)中露大学校務委員会委員長。
四十三 高穰(福建)弁護士、かつて女師大学生の章士釗・劉百昭告訴を担当。
四十四 梁鼎
四十五 張平江(四川)女師大学生。
四十六 姜紹謨(浙江)前教育部秘書。
四十七 郭春濤(河南)北大学生。
四十八 紀人慶(雲南)大中公学教員。
以上わずか四十八人、五十に二つ足りない。書き漏らしか、それとも九六の制銭のように、これで足一串としたのか分からない。職務については、遺漏のほかに誤りもあろうし、また数名は私には一時調べようのなかった者もいる。しかしこれだけですでに十分であり、とうに多くの秘密が見て取れる——
甲、二つの機関を改組する。 1. ロシア返還庚子賠償金委員会。 2. 清室善後委員会。
乙、三つ半の学校を「掃除」する。 1. 中露大学。 2. 中仏大学。 3. 女子師範大学。 4. 北京大学の一部分。
丙、四種の新聞を撲滅する。 1.『京報』。 2.『世界日報』及び『晩報』。 3.『国民新報』。 4.『国民晩報』。
丁、二種の副刊を「逼死」する。 1.『京報副刊』。 2.『国民新報副刊』。
戊、三種の期刊を妨害する。 1.『猛進』。 2.『語絲』。 3.『莽原』。
「孤桐先生」は「正人君子」の一流の人であるから、「党同伐異」(同類を庇い異類を討つ)はまさかなさるまいし、「睚眦の怨み」も必ずしも報いはしまい。しかし趙子昂の馬の絵は、鏡に向かって姿態を模写したと言われるではないか。上の鏡によって、私の目から、なおいくらかの余分の形態を見ることができる——
1. 女師大学生のために章士釗を告訴した弁護士までも罪を得ることは、上にすでに述べた。 2. 陳源の「流言」にいう「某籍」は十二人、全数の四分の一を占める。 3. 陳源の「流言」にいう「某系」(案ずるに北大国文系を指すものなり)は計五人。 4. かつて反章士釗宣言を発表した北大評議員十七人中、十四人がここに含まれる。 5. かつて反楊蔭楡宣言を発表した女師大教員七人中、三人がここに含まれ、いずれも「某籍」である。
この通緝がもし実行されたなら、私は東交民巷か天津に逃げようと思う。できるかどうかはもちろん別の問題である。このような行動は「正人君子」に冷笑されるであろうが、私はこれらの輩の称讃を得んがために、「孤桐先生」の旗の下に出頭するつもりはない。しかしこれは後日のこととしよう。なぜならここ数日は「孤桐先生」もまた「政客、富人、及び革命猛進者や民衆の首領」と同様に、「東交民巷に安居」しているのだから。
【小引】
まだ一年に満たぬのに、書いた雑感の分量はすでに昨年一年分ほどになった。秋来、海辺に住み、目の前にはただ雲と水が広がり、聞こえるのは多くは風と波の音で、ほとんど社会から隔絶されている。もし環境が変わらなければ、おそらく今年はもう何の無駄話もないであろう。灯下に無事なので、旧稿を編集し、さらに印刷に付す準備をし、私の雑感を読みたいお客様方に供しようとするものである。
ここに述べられているのはやはり宇宙の奥義でも人生の真諦でもない。ただ、私が遭遇したこと、考えたこと、言いたいことを、それがどれほど浅薄であれ偏激であれ、時に筆を取って書き留めたに過ぎない。少し自惚れて言えば、悲喜の折の歌や泣きのようなもので、その時はただこれによって憤りを解き情を述べたのであり、今さら誰と公理や正義を争おうとは思わない。お前がそうなら、俺は敢えてこうする、ということはある。命に従わず、叩頭せず、ということもある。荘厳高尚な仮面をちょいと引っ掻くこともある。それ以外には何の大事もない。名に副うて、「雑感」のみ。
一月以来のものは、おおよそすべて収めた。ただ一篇だけ削除した。それはその中に多くの人名が列挙されており、いまだ、また容易に一人一人の同意を得ることもできなかったので、勝手に発表するわけにはいかなかったからである。
書名は?年月は改まったが、状況は依然として変わらないから、やはり『華蓋集』と呼ぶ。しかし年月はやはり改まったのだから、やむを得ず二文字を加える。「続編」と。
一九二六年十月十四日、魯迅、廈門にて記す。
【一九二六年】
【雑論 管閑事・做学問・灰色等】
1
聞くところでは今年から、陳源(すなわち西瀅)教授は閑事に関わらぬことにしたという。この予言は『現代評論』第五十六期の「閑話」に見える。恥ずかしながら私はこの号を拝読していないので、詳しいことは分からない。もし本当であるなら、あの型通りの社交辞令で「惜しいことだ」と一言述べるほか、実のところ自分の愚鈍さにまことに驚くのである。こんな年になっても、陽暦の十二月三十一日と一月一日の境目が、他人にとってはこのような大変動を生じ得るものだとは知らなかった。私は近頃、年の瀬に対していささか神経が鈍くなり、何とも感じない。実のところ、感じようとすれば、感じることが多すぎて堪えられない。皆が五色旗を掲げ、大通りに幾つかのアーチを立て、真ん中に四文字「普天同慶」と書いてある。これが正月だという。皆が門を閉め、門神を貼り、爆竹がパチパチバンバン鳴る。これもまた正月だという。もし言行が本当に正月を境に転換するなら、転換が間に合わず、ぐるぐる回るだけになりかねまい。だから神経が鈍いのは時代遅れの虞はあるが、弊あれば必ず利あり、いくらかの小さな得もあるのだ。
しかし、なおいくつか私にはどうしても分からないことがある。すなわち天下に閑事があるとか、人が閑事に関わるとかいう類のことだ。私には今、世の中にいわゆる閑事などないように思える。人が関わればすべて自分と何かしら関係がある。人類を愛するのも、自分が人間だからだ。もし我々が火星で張竜と趙虎が喧嘩していると知って、大いに活躍し、宴会を開き、張竜を支持したり趙虎を否認したりすれば、それはたしかに閑事に関わるに近い。しかし火星の事を「知る」ことができたならば、少なくともすでに通信が可能でなければならず、関係も密接になるから、もはや閑事とは言えない。通信できるなら、将来は往来もできるようになり、彼らはついに我々の頭上で喧嘩することになろう。我々の地球上に至っては、どこであれ、あらゆることが我々に関係しているのだが、関わらないのは、知らないか、あるいは関わりようがないからであって、「閑」だからではない。たとえばイギリスで劉千昭がアイルランド人の女中を雇ってロンドンで女子学生を引っ張り出した件は、我々には閑事のようだが、実はそうではなく、我々のところにも影響が及び得る。留学生は多い、多いのではないか。適当な事例があれば引用するのだ。ちょうど文学上でシェイクスピアだの、セルバンテスだの、ラインシュだのを引用するように。
(いや、間違えた。ラインシュはアメリカの駐華公使であって文学者ではない。おそらく何かの文芸学術論文で名前を見たことがあるため、うっかり口に出してしまったのだろう。ここに訂正する。読者のご了承を乞う。)
動物でさえ、どうして我々と無関係であり得ようか。青蠅の脚にはコレラ菌が一匹おり、蚊の唾液にはマラリア原虫が二匹いて、誰の血液に入り込むか分からない。「隣の猫が子を産む」まで管轄すると笑い話にされがちだが、実は自分と大いに関係がある。たとえば今、私の庭には隣の猫が四匹いて常に喧嘩している。もしこの奥方たちの一匹がさらに四匹産めば、三四ヶ月後には八匹の猫が常に騒ぎ立てるのを聞かねばならず、今の倍は心が煩わしくなる。
だから私は一種の偏見を持つに至った。天下にもともと閑事などないが、隅々まで管轄する精力と力がないから、やむなく一つだけ掴んで管轄する。なぜその一つだけを掴むか。当然、最も自分と関わりの深いものであり、大きくは同じ人類だから、あるいは同類、同志だから。小さくは同窓だから、親戚だから、同郷だから——少なくとも、おおかた何かの恩恵に与ったことがあるからだ。自分の顕在意識では了然としていなくとも、あるいは実は了然としていながらわざと痴愚を装っているのだ。
しかし陳源教授は昨年は閑事に関わったそうだ。もし私の上述が間違いでないなら、彼はまことに超人である。今年世事に関わらないとは、まことに惜しいことの極みであり、この人が管轄せずして「蒼生を如何にせん」である。幸い陰暦の正月がまもなく来る。除夜の亥の刻を過ぎれば、あるいはまた心変わりが望めるかもしれない。
2
昨日の午後、沙灘から帰宅した時、大琦君が私を訪ねてきたと知った。これは嬉しかった。彼は病院に入ったのではないかと推測していたのだが、そうではなかったと分かったからだ。しかも一層嬉しいことに、彼はさらに『現代評論増刊』を一冊置いていってくれた。表紙に描かれた細長い蝋燭を一目見れば、これが光明の象徴であると分かる。まして多くの名士学者の著作があり、さらにはその中に陳源教授の「学問をする道具」が一篇あるのだから。これは正論であり、少なくとも「閑話」には勝る。少なくとも私には「閑話」に勝ると思われる。なぜならそれが多くのものを与えてくれたからだ。
私はいま初めて知った。南池子の「政治学会図書館」は昨年「時局の関係で、貸出実績が三倍から七倍に伸びた」そうだが、彼の「家翰笙」はなお「『平時に香を焚かず、急場になって仏の足を抱く』の十字で今日の学術界の大部分の状況を形容する」のだと。これは私の多くの誤解を正してくれた。先に述べたように、今の留学生は多い、多いのだが、私はずっと彼らの大部分は外国で部屋を借り、門を閉めて牛肉を煮て食べているのではないかと疑っていたし、東京でも実際に見かけた。その時私は思った。牛肉を煮て食べるなら中国でもできるのに、なぜわざわざ遠い外国まで来るのかと。外国は畜産が進んでいるから肉の中の寄生虫は少ないかもしれないが、よく煮込めば多くても関係ない。だから帰国した学者が最初の二年は洋服を着、その後は毛皮の袍を着て顎を上げて歩くのを見ると、いつもこの人は外国で数年間自ら牛肉を煮た人物ではないかと疑い、しかも何かあっても「仏の足」さえ抱こうとしないのではないかと。今やそうではないと分かった。少なくとも「欧米留学帰国者」はそうではない。しかし惜しいことに中国の図書館の蔵書は少なすぎる。聞くところでは北京の「三十余の大学、国立私立を問わず、我々私人の蔵書にも及ばない」そうだ。この「我々」の中では、第一に数えるべきは「溥儀氏の教師ジョンストン氏」だそうで、第二はおそらく「孤桐先生」すなわち章士釗であろう。なぜならドイツのベルリンにいた時、陳源教授は親しく彼の二間の部屋で「ほとんどベッドの上にも書架にも机の上にも床にも、すべて社会主義に関するドイツ語の書」が満ちているのを見たからだ。今はさぞかしもっと多いことであろう。まことに羨望と欽佩の至りだ。自分の留学時代を思い出すと、官費は毎月三十六元で、衣食と学費を払えばほとんど余りがなく、数年過ごしても所有する書は壁一面を覆うにも足りず、しかも雑書であって、「すべて社会主義に関するドイツ語の書」の如く専門に徹したものではなかった。
しかし甚だ惜しいことに、聞くところでは民衆がこの「孤桐先生」の「寒家」を「再び毀した」とき、「御夫妻の蔵書はどうやらすべて散逸してしまったらしい」。その時はきっと何十台もの車に積んであちこちに散っていったのだろうが、惜しいことに見に行かなかった。さもなくば壮観であったろう。
だから「暴民」が「正人君子」に深く憎悪されるのも、まことに理由のあることで、たとえば今回の「孤桐先生」夫妻の蔵書の「散逸」が中国にもたらした損失は、三十余の国立及び私立大学の図書館を毀損した以上のものである。これと比較すれば、劉百昭司長が自宅に蔵していた公金八千元を失ったのは小事件で済む。しかし我々が遺憾に思うのは、偏って章士釗と劉百昭にこれほどの蓄積があり、そしてこれらの蓄積が偏ってことごとく災難に遭ったことなのだ。
幼い頃、世故に長けた年長者に戒められたことがある。見栄えのしない担ぎ屋台や露店に面倒を起こすな。自分で転んでおきながら、お前のせいだと言いがかりをつけ、弁明もできず弁償も尽きぬぞと。この言葉は今なお私に影響しているようで、正月に火神廟の縁日に行っても、玉器の露店に近づく気になれない。たとえわずか数点しか並んでいなくとも。うっかり倒してしまったり、一つ二つ割ってしまったりすれば、それが宝物に化け、一生かかっても弁償しきれず、その罪業の重さは博物館を一つ毀した以上になりかねない。しかもこれを敷衍して、賑やかな場所にもあまり行かなくなった。あの時のデモ行進の時も、「歯を叩き落とされた」という「流言」はあったものの、実は家で横になっていたおかげで無事だった。しかしあの二部屋分の「社会主義に関するドイツ語の書」やその他「孤桐先生」府邸から続々と散出した壮観も、そのために「すれ違って見逃した」のである。これもまたいわゆる「利あれば必ず弊あり」で、両全の策はないのだ。
今は洋書の蔵書の豊富さでは、個人ではジョンストン氏を数え、公的団体では「政治学会図書館」を推さねばならないが、惜しいことに一方は外国人であり、他方はアメリカ公使ラインシュの力による提唱に拠っている。「北京国立図書館」が拡張されるのは、まことにこれ以上よいことはないが、聞くところでは依拠するのはやはりアメリカ返還の賠償金であり、常年経費はわずか三万元、毎月二千余元に過ぎない。アメリカの賠償金を使うのも容易ならぬことで、第一に館長は中西に通暁し世界に名高い学者でなければならない。聞くところでは、これはもちろん梁啓超先生しかいないが、惜しいことに西洋の学はあまり通じていないので、北大教授の李四光先生を副館長にして、中外兼通の完人を作り上げたのだ。しかし二人の給料で毎月千元余になるから、今後はあまり書籍を多く買えそうにもない。これもまたいわゆる「利あれば必ず弊あり」というものか。ここまで考えると、「孤桐先生」が独力で購入した数部屋分の良書が惨めに散逸した惜しさを、いっそう痛切に感じずにはいられない。
つまるところ、ここ数年のうちには、まともな「学問をする道具」は得られそうにない。学者が勉強しようとすれば、自分で本を買って読むしかないが、金がない。聞くところでは「孤桐先生」はこの点に思い至り、かつて文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい。学者たちに他にどんな手段があろうか。当然「閑話を言うくらいしかすることがないのも無理はない」のであり、たとえ北京の三十余の大学が彼ら「個人の蔵書にも及ばない」としても。なぜか。知るべし、学問をするのは容易ならぬことで、「小さな一つのテーマでも百種、数十種の本を参考にせねばならないかもしれず」、「孤桐先生」の蔵書でさえ足りないかもしれないのだ。陳源教授は一例を挙げている。「『四書』を例にとると」、「漢・宋・明・清の多くの儒家の注疏や理論を研究しなければ、『四書』の真の意義は容易に領会できない。短い一部の『四書』でも、細かく研究すれば、数百数千種の参考書を使うことになる」と。
これだけでも「学問の道は浩として煙海の如し」と分かる。あの「短い一部の『四書』」は私も読んだが、漢人の「四書」注疏あるいは理論に至っては、聞いたことさえない。陳源教授が「あのように風雅を提唱した封藩大臣」の一人として推挙する張之洞先生は、「束髪の小生」たちのために書いた『書目答問』で「『四書』は南宋以後の名称なり」と述べている。私はかねてから彼の言を信じており、その後『漢書芸文志』や『隋書経籍志』の類を繰ってみても、「五経」、「六経」、「七経」、「六芸」はあるが「四書」はない。まして漢人が作った注疏や理論など。しかし私が参考にしたのはもちろん通常の書であり、北京大学の図書館にあるもので、見聞が乏しいのかもしれないが、やむを得ずこれで済ませた。なぜなら「抱こう」にも「仏の足」さえないのだから。これから思えば、「仏の足」を抱ける者、「仏の足」を抱こうとする者は、確かに真の福人であり、真の学者なのだ。彼の「家翰笙」がなお慨嘆するのは、おそらく「春秋は賢者を責む」の意であろう。
完
今はこれ以上書く気にならないので、ここで終わりにするしかない。要するに『現代評論増刊』を一通りめくると、五色に輝いて、ちょうどある広告に列記されていた著者名簿を見るようである。たとえば李仲揆教授の「生命の研究」だの、胡適教授の「訳詩三首」だの、徐志摩先生の訳詩一首だの、西林氏の「圧迫」だの、陶孟和教授の二〇二五年にならねば発表されず、我々の玄孫でなければ全部を拝読できない大著作の一部分だの……。しかしめくっていくうちに、どういうわけか私の目には灰色が映り、そこで放り出した。
今の小学生でも七色の円盤を回して遊べる。七色を円盤に塗り、止まっている時は美しいが、回すと灰色になる——本来は白色のはずだが、塗り方が悪くて灰色になったのだ。多くの著名学者の大著を集めた大きな雑誌は、もちろん奇怪陸離たるものだが、やはり回してはならない。一回転すれば灰色を呈さざるを得ない。もっとも、これこそがその特色なのかもしれないが。
(一月三日。)
【面白い消息】
北京は大砂漠のようだと言われながら、青年たちはなおここに走ってくる。年寄りもあまり去らず、たとえ余所に出かけても、間もなく戻ってくる。あたかも北京にはまだ何か留恋すべきものがあるかのようだ。厭世詩人が人生を怨むのは、まことに「感慨これに繋ぐ」であるが、しかし彼はやはり生きている。釈迦牟尼先生を祖述する哲人ショーペンハウエルさえ、密かにある病症を治す薬を服用し、容易に「涅槃」しようとはしなかった。俗語に「よく死ぬより悪く生きよ」と言うが、これはもちろん俗人の俗見に過ぎまい。しかし文人学者の輩も、何ぞこれと異ならん。違いはただ、彼にはいつも辞厳義正の軍旗が一本あり、さらにいっそう義正辞厳の逃げ道が一筋あることだけだ。まことに、もしそうでなければ、人生は本当に退屈の極みで、言うべき言葉もなくなるだろう。
北京は日に日に万物が高騰してくる。自分の「わずかな僉事」の職も、「妄りに主張あり」として章士釗先生に革免された。これまで遭遇してきたことは、アンドレーエフの言葉を借りれば「花もなく、詩もなく」、ただ万物高騰があるだけだ。それでもなお「妄りに主張あり」で、引き返しようがない。もし妹が一人いて、『晨報副刊』で美しく語られる「閑話先生」の家庭のように、「お兄ちゃん!」と呼び、その声がまさに「銀の鈴が幽谷に響く」如くに私に訴え、「もう文章を書いて人を怒らせるのはやめてくれない?」と言うなら、私もこれを機に馬首を転じ、別荘に引きこもって漢朝の人が書いた「四書」の注疏と理論を研究しに行けるかもしれない。しかし惜しいかな、そのような良い妹はいない。「女嬃の婵媛たるや、申申として予を詈り、曰く、鯀は婞直にして以て身を亡ぼし、終に然して羽の野に夭せりと」。あのような恐い姉がいる幸福さえ、屈霊均には及ばない。私が結局「妄りに主張」し続けるのも、おそらくは推托のしようがないためであろう。しかしこれは並大抵のことではなく、将来禍を被りそうだ。なぜなら私は知っている、人を怒らせれば報いを受けるのだと。
話は釈迦先生の教訓に戻る。曰く、人間に生きるのは地獄に落ちるよりも安穏ではない。人間には「作」すなわち動作(=造業)があるが、地獄には「報」(=報い)だけがある。だから生活は地獄に落ちる原因であり、地獄に落ちることはかえって地獄を出る起点なのだ。こう言われると、まことに坊主になりたくなるが、これはもちろん「根」のある(「天津の一句」だそうだ)大人物に限ったことで、私はこの種のまじないをあまり信じない。砂漠のような北京城に暮らし、枯燥は確かに枯燥だが、折に触れて世態を眺めれば、万物高騰を除いても、やはり五花八門で、芸術を創造する者もあり、流言を製造する者もあり、鳥肌が立つようなものもあり、面白いものもある……。これがおそらく北京が北京たる所以であり、人々がなお奔走集結する所以であろう。惜しいことにただ些細な遊びしかなく、実直な友人には辞厳義正の軍旗を自ら掲げるのが難しいのだ。
私はかねてから地獄のことは死んでから対処すればよいと考え、ただ目前の生活の枯燥こそ最も恐ろしいと思ってきた。そこでやむを得ず時に人を怒らせ、時にちょっとした遊びを見つけて笑ってみるのだが、これもまた人を怒らせることになる。人を怒らせれば当然報いを受ける。それも覚悟するしかない。なぜなら些細な遊びで笑おうとする者には、なおさら辞厳義正の軍旗を掲げようがないからだ。実のところ、ここにも国家の大事の消息がないわけではない。「関外の戦事が間もなく勃発する」とか、「国軍一致して段氏を擁す」とか、新聞によっては大見出しで煌々と印刷し、人の目を眩ませるが、私にとっては何の面白味もない。人の視野の狭さには薬がないもので、私が近頃面白いと思ったのは、ドイツで盗賊若干人を素手で打ち倒し、北京で三河県の女中を大隊引き連れた武人・劉百昭校長が、なんと駢文を書いたことだ。まさに偃武修文の趣がある。しかも「百昭は海邦に学を求め、教部に員を備え、多芸の誉れ愧ずること人に如かず、審美の情はいささか自信あり」とは、文武全才の人物で、以前はまったく予想もしなかった。第二には、昨年閑事に関わった「学者」が今年は関わらなくなったことだ。年末に帳簿を締める方法は、もとは番頭の出納帳だけではなく、「正人君子」の行為にも適用できるのだった。あるいは「お兄ちゃん!」のあの一声は、中華民国十四年十二月三十一日の夜の十二時だったのかもしれない。
しかし、これらの面白味も一瞬にして消え去るし、自分自身の思想の変動もまことに憎むべきものだ。境遇に従って思想や言行が遷移するのは当然であり、遷移すれば当然その理由がある。しかも世界には国慶日が少なくなく、古今東西の名流はとりわけ多い。彼らの軍旗はすべてとうに掲げ終えている。先人の勤勉は後人の楽しみ。事を為す時には孔丘・墨翟を援引し、事を為さぬ時には別に老聃がいる。殺される時には自分は関龍逄であり、殺す時には相手は少正卯だ。力のある時にはダーウィンやハクスリーの書を読み、人の助けが要れば クロポトキンの『相互扶助論』がある。ブラウニング夫妻こそ恋愛の模範ではないか、ショーペンハウエルとニーチェはまた女を呪う名人だ……。帰するところ、もし楊蔭楡や章士釗をユダヤ人ドレフュスに擬えることができるなら、その太鼓持ちはゾラに等しいことになろう。その時、哀れなゾラは中国人に担ぎ出される。幸いなことに、楊蔭楡や章士釗がドレフュスに等しいかどうかは、なお大いに疑問である。
しかし事はそう簡単ではない。中国の悪人(水平線以下の文人や学棍・学匪の類)は、将来大いに苦しむことになりそうだ。たとえ死後であっても、地獄に落ちるように。しかし深謀遠慮の人は、やはりこれからは慎重に、あまり物を言わないのが穏当であろう。「閑話先生」が本当に閑事に関わらなくなったと思うか。そうではない。聞くところでは彼は「あの鋒先を争う連中の鋭気がすっかり脱け落ちた日に、我らの閑話先生はゆうゆうと『最後の仕上げ』(The finishing touch)に従事し、にこにこと鉄の棒から磨き上げた刺繍針を掲げ、我々の焦りがいかに不経済な態度であるかを諷刺するのだ。裏を返せば、無限の忍耐のみが天才の唯一の証であると」。(『晨報副刊』一四二三)
後から出る者が先に出た者に勝るのは天下の常事だが、堕落した民族を除いての話だ。衣服を例にとっても、裸体から陰部覆いや前掛けとなり、やがて衣裳となり、袞冕となる。しかし我々の将来の天才は特異である。他の者が前掛けを締めて狂い踊っている時、彼は閨房に隠れて刺繍をしている——いや、刺繍針を磨いているのだ。他の者の前掛けがすっかり擦り切れた頃、彼は刺繍の衣を着て立ち現れる。皆は「ああ!」と言うしかない。哀れな性急な野蛮人は、前掛けの一枚も取り替えることを知らず、鋭気が尽きるのも無理はない。尽きただけならまだしも、あの「にこにこした」「諷刺する」「天才」の顔を見せられるのだ。これはまことに魂への鞭撻であり、たとえまだ遥か将来のこととはいえ。
さらに恐ろしいことがある。風の便りに聞くところでは、二〇二五年になると陶孟和教授が一部の著作を発表するという。内容は百年後の我々の曾孫か玄孫しか知りえまいが、幸い『現代評論増刊』に数節が前倒しで発表されたので、我々もなお「管より豹を窺う」如くに、この新著の概要をいくらか知ることができる。それは「現代教育界の特色」を論じたもので、教員の「兼任」の多さにまで及んでいる。彼は問う、「私の議論は悲観すぎ、刻薄すぎ、荒唐すぎるだろうか。事実がそれを証明できるなら、この批判を喜んで受けよう」と。これらの批評は百年後に譲ろう。もっともその時には事実を知る術がないかもしれない。典籍も、おそらく「にこにこした」傑作だけが伝わるだろう。もし本当にそうなら、大半は「英雄の所見は略ぼ同じ」で、後人もまさか刻薄とは思うまい。しかし我々にも臆測し難いことで、今の今を論じれば、いささか「孔子『春秋』を作り、乱臣賊子懼る」の趣がある。人々がこのような盛事に遭遇しなかったのは、すでに二千四百年余りになるという。
つまるところ、百年以内には陳源教授の多くの(?)書が、百年後には陶孟和教授の一部の書が出現するであろう。内容はどうか分からないが、現在漏れ聞こえる風声から見るに、おおむね「あの鋒先を争う連中」あるいは「九城を馳駆する」教授を諷刺するものであろう。
私はしばしば嘆じる。インドの小乗教の方法は何と厲害であるかと。地獄の説を立て、僧侶・尼僧・念仏の老婆の口を借りて宣布し、異端を脅し、志の堅固でない者を恐れさせる。その秘訣は、報いは眼前ではなく将来百年の後にあると言うことだ。少なくとも鋭気が脱け落ちた時にと。その時にはもう身動きできず、他人のなすがままに、鬼の涙を流し、生前の鋒先を争った妄りを深く悔いるしかない。しかもその時こそ、閻魔大王の尊厳と偉大を認識するのだ。
これらの信仰は迷信かもしれないが、神道設教は「世道を挽し人心を正す」事に、あるいはなお裨益なくはなかろう。まして悪人を生前に「豺虎に投ず」ることができなければ、当然、死後に口誅筆伐するしかない。孔子は一車二馬、各国の遊歴に倦んで帰還し、鋼筆を抜いて『春秋』を作った。おそらくまたこの志であったろう。
しかし時代は遷り流れ、今日に至って、私はこれらの古い手管は、極端に実直な人を騙せるだけだと思う。この手管を弄する当人でさえ必ずしも信じていまい。まして悪人においてをや。人を怒らせれば報いを受ける。ごく平凡なことで、別段奇特でもない。時に婉曲な物言いをするのは、ひとまず礼を尽くしているだけで、これによって地獄行きを免れようなどとは思っていない。どうしようもないことだ。我々のような「ゆとり」のない人間の世界では、臭い紳士の臭い格好をつけている暇は本当にないのだ。やるならやる。来年酒を飲むと言うよりは、すぐさま水を飲むがよい。二十一世紀の剖判戮屍を待つよりは、今すぐ一発張り手を食らわすがよい。将来のことには、後に続く人々がいる。現在の世界が将来のいわゆる古人の世界であるのは決してなく、もしなお今の世界のままであるなら、中国は滅びるであろう!
(一月十四日。)
【学界の三魂】
『京報副刊』から、『国魂』という名の定期刊行物があると知った。そこに一篇の文章があり、章士釗はもちろんよくないが、章士釗に反対する「学匪」たちもまた打倒すべきだと述べていたという。私の記憶した大意が正しいかどうか分からないが、これは大した関係ではない。ただ私に一つの題目を思いつかせただけで、あの原文とは無関係だからだ。つまり、中国の旧説によれば人には三魂六魄、あるいは七魄があるとされるが、国魂もそのようであるべきだ。そしてこの三魂のうち、一つは「官魂」、一つは「匪魂」、あと一つは何か。おそらく「民魂」であろうが、はっきりとは定めかねる。しかも私の見聞は偏狭であるから、中国の社会全体を指す大胆さはなく、やむなく縮めて「学界」と言うことにする。
中国人の官僚への執着は実に深い。漢は孝廉を重んじて埋児刻木が現れ、宋は理学を重んじて高帽破靴が現れ、清は帖括を重んじて「且つ夫れ」「然れば則ち」が現れた。つまるところ、その魂は官をすることにあり——官の威勢を振るい、官の調子で物を言い、官話を打つのだ。皇帝を一人頂いて傀儡にし、官を怒らせれば皇帝を怒らせたことになり、そこでそれらの人々は「匪徒」なる雅号を頂戴する。学界に官話が始まったのは昨年からで、およそ章士釗に反対する者はすべて「土匪」「学匪」「学棍」の称号を得たが、誰の口から出たのかはなお分からず、やはり一種の「流言」に過ぎない。
しかしこれだけでも昨年の学界のひどさが分かる。前代未聞の学匪が出現したのだから。もう少し大きな国事に喩えれば、太平の世には匪はいない。群盗が毛の如く蔓延する時、旧史を見れば、必ず外戚、宦官、奸臣、小人が国を専らにしているのであって、たとえ大いに官話を打っても、その結末はやはり「嗚呼哀哉」だ。この「嗚呼哀哉」の前に、小民はおおむね相率いて盗賊となる。だから私は源増先生の言を信じる。「表面上はただの土匪や強盗に見えるが、実は農民革命軍なのだ」と。(『国民新報副刊』四三)では社会は改善されたのか。否、私もまた「土匪」にされた一人ではあるが、先輩方のために非を飾り過ちを隠す気はない。農民は政権を奪取しに来ないのだ。源増先生はまた言う。「三五の熱心家が勢いに乗じて皇帝を倒し、自分が皇帝の味をしゃぶりに行くのだ」と。しかしこの時、匪は帝と呼ばれ、遺老を除いて、文人学者はみな恭しく媚び、また反対する者を匪と呼ぶのである。
だから中国の国魂にはおおむねこの二種の魂がある。官魂と匪魂だ。これは無理に我々の輩の魂を国魂に押し込み、教授や名流の魂と仲間になりたいからではなく、ただ事実がそのように見えるからだ。社会の様々な人々は、『双官誥』を見るのも好きだし、『四傑村』を見るのも好きだ。巴蜀に偏安した劉玄徳の成功を望みつつ、押し込み強盗の宋公明がうまくいくのも願う。少なくとも、官の恩恵を受けている時には官僚を羨望し、官の搾取を受けている時には匪類に同情する。しかしこれも人情の常であり、もしこの一片の反抗心さえなければ、永劫不復の奴隷になってしまうではないか。
しかし国情が異なれば国魂も別物だ。日本に留学していた頃、同学の数人が中国で最も大きな利益の得られる商売は何かと問うたので、私は「謀反だ」と答えた。彼らは大いに驚いた。万世一系の国では、その時、皇帝を一蹴りで転がせると聞くのは、我々が親を一棒で打ち殺せると聞くに等しかったのだ。一部の男女に心から帰服された李景林先生は、この意を深く知っていたようだ。新聞の伝えるところが虚でなければ。今日の『京報』にはまさに、彼がある外交官に語ったとされる言葉が載っている。「旧暦正月頃には天津で面談できるはずだが、もし天津攻撃が失敗に終われば、三四月頃に巻土重来を期す。もし再び失敗すれば、暫く土匪に投じ、徐ろに兵力を養い、時機を待つ」云々と。しかし彼の望みは皇帝になることではない。それはおそらく中華民国であるがゆえであろう。
いわゆる学界は比較的新しく生じた階級であり、本来ならば旧い魂をいくらか洗い清める望みがあるはずだったが、「学官」の官話と「学匪」の新名を聞くと、なお旧い道を歩んでいるようだ。であれば、当然また打倒されねばならない。これを打倒しにくるのが「民魂」、国魂の第三種である。以前はあまり発揚されなかったので、一騒ぎの後、結局は自ら政権を取らず、ただ「三五の熱心家に皇帝を倒させ、自分で皇帝の味をしゃぶりに行かせた」のである。
ただ民魂のみが宝貴に値する。ただそれが発揚してこそ、中国に真の進歩がある。しかし、学界さえ旧路を逆行しているこの時に、どうして容易に発揮できようか。瘴気の立ち込める中に、官の所謂「匪」と民の所謂匪がある。官の所謂「民」と民の所謂民がある。官が「匪」と見なすが実は真の国民である者があり、官が「民」と見なすが実は衙役や馬弁である者がある。だから「民魂」に見えるものも、時としてなお「官魂」であることを免れない。魂を鑑別する者が十分に注意すべき点である。
話がまた遠くなった。本題に戻ろう。昨年、章士釗が「学風整頓」の看板を掲げて教育総長の大任に就いて以来、学界には官気が充満し、「我に順う者は通、我に逆らう者は匪」となり、官腔官話の余韻は今なお尽きていない。しかし学界はまた幸いにもこれによって色分けが明瞭になった。ただ官魂を代表するのはなお章士釗ではない。上にはまだ「減膳」の執政がいるのだから。彼はせいぜい官魄の一つを演じたに過ぎない。今は天津で「徐ろに兵力を養い、時機を待つ」のだ。私は『甲寅』を読まないので、何を言っているか分からない。官話か、匪話か、民話か、衙役馬弁の話か?……
(一月二十四日。)
【古書と白話】
白話を提唱した頃、多くの謡諑や誣謗を受けたが、白話がついに倒れなかった時、ある人々は言い換えた。しかし古書を読まなければ、よい白話文は書けない、と。我々はもちろんこれら復古家の苦心を斟酌すべきだが、彼らの先祖伝来のやり口に対して憐れみの笑いを禁じ得ない。およそ古書を少しでも読んだことのある人は皆この古い手管を心得ている。新たに起こった思想は「異端」であり、殲滅すべきものだが、それが奮闘の末に自ら立脚した暁には、もともと「聖教と同源」であったと見出す。外来の事物はすべて「夷を以て夏を変ず」るものであり、排除すべきだが、この「夷」が中夏に入主すると、考証して、もともとこの「夷」も黄帝の子孫であったと判明させる。これは意表を突くことではないか。何であれ、我々の「古」の中にすべて含まれていないものはないのだ!
古い手管を用いる者は当然進歩しない。今に至っても、「数百巻の書を読破せざる者」にはよい白話文は書けないと言い、呉稚暉先生を強引に例に引く。しかし「鳥肌を面白がり」、さも嬉しそうに述べ立てる者がまたいるとは、天下のことはまことに千奇百怪である。実のところ呉先生の「話し言葉体で文を為す」ことは、「その貌」さえ何ぞ「黄口の小児の作と同じ」ことがあろう。「筆のおもむくまま、たちまち数万言」ではないか。その中には当然古典があって「黄口の小児」の知らぬところであり、さらに新典があって「束髪の小生」の知らぬところである。清の光緒末年、私が初めて日本の東京に着いた時、この呉稚暉先生はすでに公使蔡鈞と大いに戦っていた。その戦史はそのように長く、見聞の多さは当然今の「黄口の小児」の及ぶところではない。だから彼の言辞用典には、大小の故事に通暁した人物でなければ了然としない箇所が多く、青年から見れば、第一にその文辞の滂沛さに驚くのである。これがおそらく名流学者たちが長所と認めるところであろうが、しかし、その生命はそこにはない。名流学者たちが取り込み媚びる点とはむしろ逆であり、自ら故意に長所を示さず、また名流学者たちの言う長所を消すこともできないのだが、ただ語り書くものを改革の道の橋とする、あるいはそもそも改革の道の橋にしようとさえ思っていないのだ。
退屈で見込みのない輩ほど、長寿を望み不朽を望み、自分の写真を多く撮りたがり、他人の心を占めたがり、臭い格好をつけるのが巧みである。しかし「下意識」においてはやはり自分の無聊を感じているのだろうから、やむを得ず、まだ朽ち尽くしていない「古」に噛みつき、腸の中の寄生虫となって一緒に後世に伝わろうとする。あるいは白話文の類の中に少しの古風を見出し、逆に骨董の寵栄を増そうとする。もし「不朽の大業」がこの程度のものならば、あまりに哀れではないか。しかも二九二五年になって「黄口の小児」がなお『甲寅』の類を読まねばならないとすれば、あまりにも惨ではないか。たとえそれが「孤桐先生の下野以後……次第に生気を帯びてきた」としても。
古書を菲薄する者で、古書を読んだ者が最も有力なのは、確かである。なぜなら弊害を洞知し、「子の矛を以て子の盾を攻む」ることができるからだ。ちょうど阿片吸引の弊害を説明するには、阿片を吸ったことのある者が最もよく知り、最も痛切であるのと同様だ。しかし「束髪の小生」でさえ、阿片を断つ文章を書くにも、まず数百両の阿片を吸い尽くさねばならないなどと言うだろうか。
古文はすでに死んだ。白話文はなお改革の道の橋である。なぜなら人類はまだ進化しているからだ。文章にしても、万古不磨の典則だけがあるわけではなかろう。聞くところではアメリカのある地方ではすでに進化論の講義が禁じられたそうだが、実際には結局効果はあるまい。
(一月二十五日。)
【一つの比喩】
私の故郷では羊肉を食べる習慣はあまり普及しておらず、城中で一日に屠る山羊はおおよそ数匹に過ぎない。北京はまさに人の海で、事情は大いに異なる。羊肉屋だけでも至る所にある。真っ白な羊の群れもしばしば街を歩き回るが、いずれも胡羊で、我々のところでは綿羊と呼ぶものだ。山羊はめったに見かけない。聞くところでは北京ではかなり珍重されるそうだ。胡羊より聡明で、羊の群れを率い、すべてその進退に従わせることができるため、牧畜家はたまに数匹飼うものの、胡羊の嚮導としてのみ用い、殺すことはしないのだ。
このような山羊を私は一度だけ見たことがある。確かに胡羊の群れの先頭を歩いており、首に小さな鈴を下げていた。知識階級の徽章のように。通常、導き追い立てるのは多くは牧人であり���胡羊たちは一列の長い行列をなし、ぎゅうぎゅうと押し合い、堂々と、柔順そのものの眼差しを凝らして、牧人について急ぎ、自分たちの前途を競い走る。この真剣で慌ただしい様を見ると、私はいつも心の中で、愚にもつかぬ問いを一言発したくなるのだ——
「どこへ行くのだ?!」
人の群れの中にもこのような山羊がいて、群衆を率いて穏やかに平静に歩ませ、彼らが到るべき所まで導くことができる。袁世凱はこの種のことを少し分かっていたが、惜しいことに使い方がそう巧みではなかった。おそらく彼はあまり読書しなかったので、その奥妙を熟知し運用するのが難しかったのだろう。後の武人はさらに愚かで、ただ自分で乱暴に斬ったり割ったりするだけ。哀号の声が耳に満ち溢れ、結果は百姓を残虐にした上に、学問を軽視し教育を荒廃させた悪名まで加わった。しかし「一事を経て一智を長ず」、二十世紀はすでに四分の一を過ぎ、首に小さな鈴を下げた聡明な人は必ず幸運に巡り合うだろう。たとえ今は表面上なお少々の挫折を免れないとしても。
その時、人々、とりわけ青年は、みな規矩に循い矩を蹈み、騒がず浮つかず、ひたすら「正路」に向かって前進するだろう。誰も問わない限りは——
「どこへ行くのだ?!」
君子は言うであろう。「羊はしょせん羊だ。一列に並んで従順に歩かなければ、他にどんな手段があるか。君は豚を見ないか。引き延ばし、逃げ、叫び、暴れまわって、結局はやはり行かねばならない所に捕まえられてしまう。あの暴動は力の空費に過ぎないのだ。」
つまり、死ぬにしても羊のように死ね、天下太平、互いに手間が省ける、ということだ。
この計画はもちろん周到であり、大いに感服すべきものだ。しかし、君は野猪を見ないか。二本の牙を以て、老練な猟師さえ退避せずにはいられない。この牙は、豚が豚飼い奴隷の作った豚小屋を脱出し、山野に入りさえすれば、間もなく生えてくるものだ。
ショーペンハウエル先生はかつて紳士たちを豪猪に喩えた。これは少々体統を失するものと思うが、しかし彼にはもちろん別段の悪意はなく、ただ引っ張ってきて比喩としたに過ぎない。『Parerga und Paralipomena』にこういう趣旨の話がある。一群の豪猪が冬に互いの体温で寒さを凌ごうとして、ぴったりと寄り添った。しかしたちまち互いの針が痛く、また離れた。しかし温かさの必要がまた彼らを近づけると、やはり同じ苦しみを味わった。この二つの困難の中で、彼らはついに互いの適切な間隔を発見した。この距離で最も平穏に過ごせるのだ。人間も社交の欲求から一所に集まるが、各自の厭うべき多くの性質と��え難い欠点のために、再び離散���る。彼らが最後に発見した距離——一所に集まっていられる中庸の距離が、すなわち「礼譲」と「上流の風習」である。この距離を守らない者に対して、イギリスではこう言う。"Keep your distance"と。
しかしこう言ったところで、おそらく豪猪と豪���の間でのみ効力があるのだろう。なぜなら互いに距離を守るのは、呼びかけによるのではなく、痛みによるのだから。もし豪猪たちの中に針のない別のものが一匹混じっていれば、どんなに叫んでも、豪猪たちはやはり寄ってくるだろう。孔子は言った、「礼は庶人に下さず」と。今の状況を見ると、庶人が豪猪に近づいてはならないのではなく、豪猪が庶人を好きなだけ刺して温もりを得てよいということらしい。傷つくのは当然傷つくが、これもお前自身がひとり針を持たないのが悪い。適切な距離を守らせるに足りないのだと。孔子はまた言った、「刑は大夫に上さず」と。紳士になりたがる人が多いのも無理はない。
これらの豪猪たちは、もちろん牙や角や棍棒で防ぐこともできるが、少なくとも、豪猪社会の定めた罪名——「下流」あるいは「無礼」——を背負う覚悟がなければならない。
(一月二十五日。)
【信にあらず】
ある友人が突然『晨報副刊』を一部送ってきた。何やら特別な思いがした。彼は私がこの手のものを読むのを面倒がることを知っているからだ。しかしわざわざ送ってきたのだから、とりあえず題名だけ見てみよう。「以下の一束の通信について読者諸氏に告ぐ」。署名は志摩。ハハ、これは私をからかうために送ってきたのだ、と思った。急いで裏返すと数通の手紙があり、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ。数行読んで、どうやらまた例の「閑話……閑話」問題らしいとわかった。この問題について私はほんの少しだけ知っていた。つまり新潮社で陳源教授すなわち西瀅氏の手紙を見たことがあり、そこに私が「捏造した事実、流布した『流言』は、本来すでに言い尽くせないほどだ」と書いてあった。思わず苦笑した。人間は自分の魂を細切れにできないのが辛いところで、それゆえに記憶を持ち、それゆえに感慨や滑稽を覚えるのだ。思い出すに、まず「流言」に基づいて楊蔭楡事件すなわち女師大の騒動を裁断したのは、まさにこの西瀅氏であり、あの大論文は去年五月三十日発行の『現代評論』に掲載された。私は「某省」出身で「某学科」で教えているのがいけなかったので、「陰で紛争を煽っている」者の列に入れられた。もっとも彼はまだ信じないと言い、ただ惜しいと思っているだけだと述べたが。ここで一つ明言しておく。読者の誤解を避けるためだ。「某学科」とはおそらく国文系を指し、研究系を指しているのではない。あの時「流言」の二字を見て、私は大いに憤り、直ちに反駁した。もっとも「十年読書し十年気を養う修養」がないことを恥じはしたが。ところが半年過ぎると、これらの「流言」はいつの間にか私が流布したものに変わっていた。自分で自分の「流言」を捏造するとは、まさに自分で穴を掘って自分を埋めるようなもので、聡明人はもちろん、愚者でも理解できまい。もし今回のいわゆる「流言」が「某省某学科」に関するものではなく、「流言」を信じない陳源教授に関するものだというなら、私は実のところ陳教授にどのような捏造された事実や流言が社会に流布しているのか知らないのだ。恥ずかしいことだが、私は宴会に出ず、往来も少なく、奔走もせず、文芸学術の社団も結ばない。事実の捏造と流言の流布の要となるのは実にふさわしくない。ただ筆墨をいじることは免れないが、流言を根拠にして故意にそれを広めようとはしない。偶に「伝聞」はあるが、大体は大したことではない。もし間違いがあれば、たとえ月日が経っていても、追加訂正を惜しまない。例えば汪原放氏「すでに故人となる」の一件は、その間ほとんど二年の隔たりがあった。——しかしこれはもちろん、『熱風』を読んだことのある読者に対して言っているのだが。
ここ数日、私の「捏……言」の罪状は、あたかも曇花一現のようになった。「一束の通信」の主要部分にも、おかげさまで私は「流」し込まれていないようだが、末尾の「西瀅より志摩へ」は私に対する附帯的な専論で、同じ事件ではないが、親族関係による族滅、あるいは文字の獄の連坐のようなものだ。族滅だの連坐だの、また少し「刑名師爺」の口調になったが、実はこれは事実で、法家が名を付けただけだ。いわゆる「正人君子」は口にしないが、やることはやる。このほか甲が乙に対して先に流言を用い、後になって乙が流言を製造したと言うような事を、「刑名師爺」の筆にかかれば二字に括れる——「反噬」。ああ、これはまことに痛快淋漓な形容だ。しかし古語に曰く「淵魚を察見する者は不祥なり」。だから「刑名師爷」には良い末路がない。これは私がとうに知っていることだ。
あの友人が『晨報副刊』を送ってきた意図を推察する。私を刺激し、皮肉り、通報するためか、それとも私にも何か言わせたいのか?ついに知ることができない。よし、ちょうど筆の借りを返さねばならないところだから、この一件でお茶を濁そう。話すのに最も都合のよい題名は「魯迅より某某へ」だが、学理と事実に基づく論文でもなく、「にこにこ」した天才の諷刺でもない。ただの私信に過ぎず、もとより自分から発表したくはない。どう言おうと、糞壺でもいい、便所でもいい、「人気」とは絶対に無関係だ。そうでなくても、怒りで頭に血が上り、他人に追い詰められたのだ。ちょうど他の副刊が『晨報副刊』に「追い殺される」のと同じだ。私の鏡はまことに忌々しい。映し出すのはいつも陳源教授に嘔吐させるようなものばかりだ。しかし趙子昂——「彼だったかな?」——が馬を描いた例に倣えば、もちろん恐らくまさに私自身だろう。自分のことはどうでもよいが、某某のことはやはり考えてやらねばなるまい。今これから「西瀅より志摩へ」に言及しようとしているが、それは極めて危険なことで、ちょっと足を滑らせれば「泥沼の中」に落ち、「怒り狂った犬」に出くわし、当分「にこにこ」の顔は見られなくなる。少なくとも陳源の二字に関わっただけで、公理家に「某省」、「某学科」、「某党」、「手下」、「女を重んじ男を軽んじる」……等と決めつけられる。しかも、もし誰かが彼を文士と呼んだなら、フランスと呼んだなら、決して再び「文士」や「フランス」の語を用いてはならない。さもなければ——当然、また「某省」……云々の嫌疑がかかる。なぜわざわざ無辜を陥れようか。「魯迅より某某へ」は断じて使わない。だからここまで書いてきてまだ題名がない。書き続けながら考えよう。
先ほど私は自分が「事実を捏造していない」と言ったばかりではないか? しかしあの手紙に挙げられた例にはそれがある。私が陳源氏を「楊蔭楡女史と親戚・友人の関係にあり、しかも彼女にたくさん酒飯をご馳走になった」と言ったそうだが、実はどちらも違う。楊蔭楡女史が宴席を好むことは私も言ったし、あるいは他の人も言ったし、新聞にも見えたことがある。今日のある公論家は自ら中立を称しているが、実は偏っていて、あるいは当事者と親戚・友人・同窓・同郷……等の関係があり、さらには酒飯のご馳走に与ったことさえある。これも私が言ったことだ。明白ではないか。新聞社が補助金を受け取っていることは同業者間でも暴き合ってきたが、それでもみな自ら公論と称している。陳教授と楊女史が親戚でしかも酒飯をご馳走になったというのは、陳教授自身が結びつけたのであって、私は酒飯をご馳走になったとは言っていないし、ご馳走になっていないとも保証できない。親戚だとは言っていないし、親戚でないとも保証できない。おそらくただの同郷だろうが、「某省」でさえなければ、同郷がどうしたというのだ。紹興に「刑名師爺」がいるから、紹興人はすべて「刑名師爺」だという例は、紹興の人々にしか適用されないのだ。
(以下省略)
第一回。私が人に対するのは「罵倒」であり、人が私に対するのは「一言半句を侵したにすぎない」。これはまことに同郷の「刑名師爺」を思い起こさせる。しかも不正な「軽重を操る」手管を弄している時の師爺を。こう見ると、鏡は一面確かにあるべきもので、どの県に生まれようと。さらに罪状がある——
「彼はしばしば他人の剽窃を皮肉る。ある学生が沫若の詩を数句書き写したところ、この御大人は刻骨銘心の痛快さで罵った。しかし彼自身の『中国小説史略』は、日本人塩谷温の『支那文学概論講話』の中の『小説』の部分に基づいているのだ。実のところ、人の著述を自分の底本にするのは、もとより許されることだ。書中にそのような明言があれば。しかし魯迅先生にはそのような明言がなかった。我々から見れば、自分が不正なことをしたのはまあよいとして、何も哀れな学生を皮肉りに行かなくてもよいのに、彼はなお力の限り人を刻薄にする。『鉤を窃む者は誅せられ、国を窃む者は侯となる』とは、もとより古来の道理なのだ。」
この「流言」はとうに聞いていた。後に『閑話』に現れ、「丸ごと一冊の剽窃」と言ったが、私を直接名指しはせず、しかし同時に一部の人々の口の端では、私の『中国小説史略』を指しているとされた。私は陳源教授がきっとこのような仕業をすると信じている。しかし彼が名指ししない以上、私もただ罵りの一くさりで返礼したのみだが、これはまことに「彼の一言半句を侵した」だけでは済まなかった。今回はっきり言い出した。私の「小人の心」も「君子の腹」を読み違えてはいなかったわけだ。しかし罪名は「自分の底本にした」と改められ、以前よりずっと軽くなった。自ら「一言半句」と謙遜した「冷箭」(暗い矢)より少し鈍くなったかのようだ。塩谷氏の書は確かに私の参考書の一つであり、私の『小説史略』二十八篇の
第二篇は、それに基づいたものであり、さらに『紅楼夢』を論じた数点と「賈氏系図」一枚もそれに基づいている。しかし大意に過ぎず、順序も見解もかなり異なる。その他の二十六篇は、すべて私独自の準備があり、その証拠は彼の所説とはしばしば相反する点にある。たとえば現存する漢人の小説を、彼は真作と考え、私は偽作と考える。唐人小説の分類は、彼は森槐南に拠り、私は自分の方法を用いる。六朝小説は彼が『漢魏叢書』に拠るのに対し、私は別本及び自分の輯本に拠った。この仕事には二年余りの歳月を費やし、稿本十冊がここにある。唐人小説は彼が誤りの最も多い『唐人説薈』に拠るのに対し、私は『太平広記』を用い、さらに一冊一冊蒐集した……。その他の分量、取捨、考証の違いはなおさら枚挙し難い。もちろん、大筋は同じにならざるを得ない。たとえば彼が漢の後に唐あり、唐の後に宋ありと言えば、私もそう言う。いずれも中国の史実を「底本」にしているからだ。私には「奇抜に捏造する」術がない。セルバンテスの事実と「四書」を合成した時代を創造しても構わないとしても。しかし私の意見では、やはりそうすべ���でないと思う。なぜなら歴史と詩歌小説は別物だからだ。詩歌小説は同じ天才なら所見が略ぼ同じで作品が似ていても構わないと言う人もいるが、私はやはり独創をこそ貴しとする。歴史は事を記すものであるから、もちろん既成書を盗むべきではないが、すべてが異なっている必要もない。詩歌・小説が似ていても構わないが、歴史が数点近似していれば「剽窃」だとするのは「正人君子」の特別な意見であり、「一言半句」で「魯迅先生」を「侵す」時にのみ適用されるものだ。幸い塩谷氏の書は聞くところでは(!)すでに人が中国語に訳した(?)そうで、両書の相違点がどうか、いかに「丸ごと一冊の剽窃」か、それとも「底本」にしたのか、間もなく(?)明らかになるだろう。それ以前には、おそらく陳源教授自身もこれらの内幕を知らないと思う。ただの「耳食の言」にすぎないからだ。間違っていたらご指摘を。��塩谷教授の『支那文学概論講話』の訳本は、今年の夏に見かけた。五百余頁の原書が薄い一冊に訳されており、あの小説の部分は私のものと対比しようもなかった。広告には「選訳」とある。措辞は実に巧みである。十月十四日追記。)
しかし私はなお「ある学生が沫若の詩を数句書き写した」件について一言せねばならない。「刻骨銘心の痛快さで罵った」のは、どうやら私ではなかったようだ。なぜなら私は詩にはかねて関心がなく、だから「沫若の詩」も読んだことがなく、したがって他人が剽窃したかどうかはなおさら知らない。陳源教授のあの言葉を、悪く言えば「事実の捏造」であり、わざと他人の私に対する悪感を挑発しているのだから、まさにその本領を発揮していると言える。穏やかに言えば、彼自身がこの手紙を書いた時「発熱」していたと言うのだから、きっと熱が高すぎてうわ言を言い、格好をつけるのを忘れ、不幸にも本性を露呈し、しかも自分が這っているので私が「半天空に跳んだ」ように感じ、自分で皮膚を掻き破ったか、あるいはもともと破れていたのを、私に「罵られて」破れたと思い込んだのだろう。——しかし、私が有意か無意かに紙製の紳士服の一角を破いたことは、おそらくあったかもしれない。今後もないとは保証できない。互いに正面からすれ違えば、擦れたりぶつかったりするのは避けられず、「まだ止めようとしない」わけでもな���。
紳士の跳梁ぶりの醜態は実に格別に見応えがある。久しく隠し蓄えてきたために、一旦発すると下等人よりも濃厚なのだ。今回の発散のおかげで、私はようやく悟った���陳源教授はおそらく、叔華女史の小説挿絵の剽窃を暴いた文章も私が書いたと思い、だからとうに「大盗」の二字を「冷箭」に結びつけて「思想界の権威者」に射かけていた��だ。あいにくこれも私の書いたものではなく、私はそれらの小説を読んでいない。「ビアズリー」の画は好きで見ていたが、本がなかった。あの「剽窃」問題が起きてから、刺激されて Art of A. Beardsley を一冊買った。一元七銭だった。哀れにも教授の心眼に映っていたのは私の影ではなく、叫び跳ねたのはすべて無駄であった。出会った「糞車」もまた心境の産物で、まさに自分の脳裏の品物なのだ。吐きたい唾液は、黙って呑み込むがよかろう。
紙面を取りすぎた。私は発熱するほど嬌貴ではないが、急いで締めくくらねばならない。しかしなお大罪状を一つ貼り付けておく——
「彼自身の自伝によれば、民国元年から教育部の官僚となり、一度も離れたことがない。だから袁世凱が帝位を僭称した時も教育部にいたし、曹錕が賄選した時も教育部にいたし、『無恥を代表する彭允彝』が総長になった時も教育部にいた。甚だしくは『無恥を代表する章士釗』に免職された後も、なお大声で『僉事なる官職はさして「些々たる」ものでもない』と喚き、誰かが後任のポストを画策していると言い、軽視された者は『他人の慨りを慨る』のだと言い、かくかくしかじか……これが『青年叛徒の領袖』に見えるか?
「実のところ官僚になることはそう大したことではないが、官僚になった上でこんな顔つきを装うのは、少々胸が悪くなる。
「今また『土匪』の名号を贈られた。よくも言ったものだ、『土匪』とは。」
苦心惨憺して私にかぶせた「土匪」の悪名を、今回突然また否認した。やはり唾液は黙って呑み込むのがよい。後で自分で舐め戻さずに済むから。しかし「文士」には別の慧眼があり、私に安い思いはさせまい。自然ただちに「袁世凱帝位僭称」以来の罪悪を代わりに持ち出す。あたかも「僭称」「賄選」の類は、私が教育部にいた以上、すべて私が一手に取り仕切ったかのようだ。確かにその時以来、私は兵を率いて独立宣言をしたことはない。しかし雲南起義を冷笑したこともなく、国民軍の失敗を望んだこともない。教育部からは実は二度離れている。一度は張勲の復辟の時、もう一度が章士釗が長官の時だ。前の一度は教授の才力では当然ご存じなかったろうが、後の一度を忘れるのはいささか不思議で���る。私はかねてより「こういう顔つきを装って」いた。陳源教授が「少々胸が悪くな」ろうと毫も意に介さず、「孤桐先生」に対しても同様であった。私の顔に何か面白いものを探そうとするのは、もとより愚かな妄想であり、余所の顔を見に行くがよい。
この種の誤解は陳源教授だけではなく、一部の人々もしばしばそうである。教員は清高で官僚は卑下だと思い込む。まさに「得意忘形」、「官僚、官僚」と罵る。悲しむべきはここにある。今、官僚を罵る者の中に、外国に行って一度大きく騒いだことがあり、しかも教員をしている者は実に多い。いわゆる「ポストを画策する」者もまさにこの一流であり、あの時私が「僉事なる官職はさして『些々たる』ものでもない」と言ったのは、この人物が機に乗じて官になろうとしたことを刺したのであり、一針刺して溜飲を下げたに過ぎな��。思いがけず陳教授に「刻骨銘心」に記憶されてしまい、おそらくまた私が彼に「冷箭を放った」と疑ったのであろう。
私は自分が官僚だからと言って、清高な教授の列に加わりたいのでは決してない。官僚の高下も人によって異なる。いわゆる「孤桐���生」は在官中に『甲寅』を出し、佩服する人が多かったが、下野後にはさらに生気が出たそうだ。ところが私が「下野」した時に書いた文章は、生気が増すどころか、陳源教授の一頓の「教訓」を招き、しかも罪業深重にして「顔」にまで禍が及んだではないか。これは文才と面相についての話だが、別の面から見れば、官僚と教授には「一丘の貉」の嘆がある。つまり、金の出所のことだ。国家行政機関の事務官が得るいわゆる俸給も、国立学校の教授が得るいわゆる給料も、同じ出所、国庫から出ているのではないか。曹錕政府下で国立学校の教員をするのは、官僚をするのと大差ない。教員は寄付したから特に清高だとでも言うのか。袁世凱帝位僭称の時代、陳源教授はおそらくまだ外国の研究室にいたのであろう。曹錕の賄選の前後に教授になったのだから、私が北京に来た時よりずっと遅く、福分も私よりずっとよい。曹錕が賄選した時、彼は教授をし、「無恥を代表する彭允彝が総長をした」時、彼は教授をし、「甚だしくは『無恥を代表する章士釗』が総長をした」時、彼はもちろん教授をし、私は革免されたのだ。甚だしくは、あの「甚だしくは『無恥を代表する章��釗』」が総長でなくなった後も、彼はもちろんなお教授をしていた。帰国以来一帆風順、小さな釘一本踏んだこともない。これはもちろん適切な顔つきをしていて「人の胸を悪くさせない」からであろう。彼の顔を見れば、私のような厭わしい「八の字髭」もなく、「官僚的な神情」もないと言える。だから彼の顔に対しては、私でさえ別段「胸が悪くなる」こともなく、むしろなかなか面白いとさえ感じる。この種の顔は、もう少し白くふっくらすれば、中国では得難いものかもしれない。
私に余計な言葉を言わせたのは、ただ���が鏡に向かって作った姿勢と「爆発」した蓄積に過ぎないが、たちまちまた隠して大門を閉じ、聞くところでは「おそらくもうこのような筆墨の訴訟はしまい」とのことだ。前の美しい車はすでに杳として、私も門を叩くことはすまい。なぜならこの頃出会うのはおおむね数人の家丁に過ぎないからだ。しかも「国立北京女子師範大学復校記念会」に向かう時間となったので、これにて締めくくることにする。
(二月一日。)
【私はまだ「手綱を引く」ことができない】
一月三十日の『晨報副刊』にはある種のものが満載されていた。今ではこれを「周攻撃専号」と呼ぶ者もいる。まことに面白い代物で、紳士の本色が見て取れる。どういうわけか、今日の『晨副』は突然この件を終結させ、例によって通信形式で、李四光教授が口火を切り、徐志摩「詩哲」が後段を受け持ち、一唱一和して、「手綱を引け!混闘する双方に向かって一喝しよう、手綱を引け!」と投げかけた。さらに「声明する。本刊は今後、個人攻撃の文章を掲載しない」云々。
彼らの何やら「閑話……閑話」の問題なるものは、もとより私とは何の関わりもない。「手綱を引く」もよし、放すもよし、取り込むもよし、もちろん好きなように芝居をすればよい。しかし数日前、「お兄様」との関係で、私の「顔」まで攻撃されたのではなかったか。私はもともと「混闘」に加わっていなかったのに、とばっちりを受けたのだ。今、私がまだろくに口を開いていないのに、なぜ突然「手綱を引け」なのか。紳士方から見れば、これは「一言半句を侵した」に過ぎず、「半天空に跳び上がる」には及ばない。しかし私も実際「半天空に跳び上がった」のではなく、ただこのように謹んで指揮に従い、あなた方が「手綱を引け」と言えば私も「手綱を引く」という具合にはまだなれないだけだ。
申し訳ないが、あの文章を私は注意して読む気がなかった。「詩哲」の言う要点は、こう続ければ大学教授の体統を失い、「青年を指導する重責を負う先輩」の恥を晒し、学生に信じてもらえず、青年に愛想を尽かされるということらしい。哀れなことよ、臭いなら急いで覆い隠せ、と。「青年を指導する重責を負う先輩」には、これほど多くの恥があり、これほど恐れる恥があるのか。紳士服で「恥」を幾重にも包み、よい顔つきを装えば、それが教授であり、青年の導師なのか。中国の青年が求めるのは、高帽に毛皮の袍を着て格好をつける導師ではない。偽飾のない——なくとも、偽飾の少ない導師だ。もし仮面をかぶって導師を気取る者がいれば、それを脱がせねばならず、さもなくば引き剥がすのだ。互いに引き剥がすのだ。血まみれに引き裂き、臭い格好を粉々に打ち砕いて、それから後の話ができる。その時、たとえ半文の価値しかなくとも、それは真の価値である。たとえ醜くて「吐き気がする」ほどでも、それは真の姿である。ちょいと蓋を開けてすぐまた緞子の箱に仕舞えば、ダイヤモンドかとも思わせ、糞土かとも推させ得るが、たとえ外側に立派な看板を貼り並べても、フランスだの、バーナード・ショーだの……何の役にも立たないのだ!
李四光教授はまず私に「十年読書し十年気を養え」と勧めた。もう一言、紳士語でお返しする。ご厚意痛み入る。書は読んだ、十年以上。気も養った、十年には足りないが。しかし読んでもよく読めず、養ってもよく養えなかった。私は李教授がとうに「豺虎に投ぜよ」と認めている者の一人であり、この上温言で諭す必要もなかろう。「人を無辜の累に巻き込んだ」などと、まさか自分を「公理」の化身と思い、この巨罰を下した上に、なお天恩に叩謝せよとでも言うのか。さらに李教授は、私が「東方文学者の風味がことのほか充実しているようで……だからいつも露骨の極みまで書いて、ようやく興が尽きる」と言う。私自身の意見はまったく異なる。私はまさに東方に、しかも中国に生まれたがゆえに、「中庸」「穏当」の余毒がなお肌に沁み骨に浸み、フランスのブロワ——彼は大新聞の記者を端的に「蛆虫」と呼んだ——に比べれば、まさに「小巫が大巫に見えた」であり、つくづく白人の毒辣さ勇猛さに及ばぬことを恥じるのだ。李教授の件を例に取ろう。一、私は李教授が科学者であり、あまり「筆墨の訴訟」をしない人だと知っているので、言わずに済むなら言わなかった。ただ貴会友に一杯返盃するために、ようやく「兼任」の件を言い出したのだ。二、兼任と給料の一節は、すでに『語絲』(六五)で回答したが、まだ「露骨の極みまで書いて」はいない。
私自身も知っている。中国では、私の筆はかなり辛辣なほうであり、物言いも時に容赦しないと。しかし私はまた知っている。人々がいかに公理正義の美名、正人君子の徽号、温良敦厚の偽面、流言公論の武器、吞吐曲折の文字を用いて、私利を行い私欲を遂げ、刀も筆も持たぬ弱者に息つく暇を与えないかを。もし私にこの筆がなければ、私もまた訴えるすべのないまま虐げられる一人であっただろう。私は覚悟したのだ。だから常に用いる。とりわけ麒麟の皮の下の馬脚を露わにするために。万が一あの偽善者たちが少しでも痛みを感じ、いくらかの省悟を得て、手管にも窮する時があると知り、偽面を少しは減らすなら、陳源教授の言葉を借りれば、それが一つの「教訓」だ。誰でも真の価値を見せてくれさえすれば、たとえ半文の値打ちしかなくとも、私は決して半句たりとも軽蔑しない。しかし芝居の手法で誤魔化そうとするなら、それは通らない。私は分かっている。あなた方に調子を合わせる気はない。
「詩哲」は陳源教授を援護するために、ロマン・ロランの言葉を引いたようだ。大意は、誰の身にも鬼がいるが、人は他人の身の鬼を打つことしか知らない、と。よく見なかったので正確には言えないが、もし大体そうなら、陳源教授の身にも鬼がいることを一緒に認めたことになり、李四光教授も当然逃れ難い。彼らは以前、自分には鬼がいないと思っていた。もし本当に自分の身にも鬼がいると知ったなら、「手綱を引く」ことは容易になる。ただ芝居を止め、臭い格好をつけるのを止め、教授の肩書きを忘れ、しばし青年を指導する先輩を気取るのを止め、あなた方の「公理」の旗を「糞車」に挿し、あなた方の紳士の衣装を「臭い便所」に投げ込み、仮面を脱ぎ、裸のまま立ち上がって真実の言葉を数句語ればそれで十分だ!
(二月三日。)
【竈送りの日の漫筆】
遠近の爆竹の音を座って聞いていると、竈の神様たちが続々と天に昇り、玉皇大帝に自分の主人の悪口を言いに行ったのだとわかる。しかし結局は言わなかったのだろう。さもなければ中国人は今よりもっと運が悪くなっているはずだ。
竈の神が天に昇る日には、街でまだ一種の飴が売られていた。蜜柑ほどの大きさで、我々のところにもあったが、平たくて、厚めの小さな焼き餅のようだった。それがいわゆる「膠牙餳」(歯を粘らせる飴)である。本来の意図は竈の神に食べさせて歯をくっつけ、口がきけないようにして、玉帝に悪口を言わせないようにすることだ。我々中国人の心の中の神仏は、どうやら生きた人間よりも正直らしい。だから神仏にはこのような強硬手段を用い、生きた人間にはただ宴会に招くしかないのだ。
今の君子はしばしば食事の話を避ける。とりわけ招待する食事の話を。それは無理もないことで、確かに体裁のよいものではない。ただ北京のレストランがあれほど多く、宴会があれほど多いのは、まさかみな蛤蜊を食べて風月を語り、「酒酣にして耳熱し、歌うたうこと嗚呜」としているだけなのか?そうとは限らない。確かに多くの「公論」がこれらの場所から種を蒔かれているのだが、公論と招待状の間にはくもの糸の痕跡も見えないから、議論は堂々としたものとなる。しかし私の意見では、やはり酒の後の公論の方が情がある。人は木石ではない。一方的に理屈だけを語ることなどできようか。面子に障って偏るのは、そこにこそ人間味がある。しかも中国はもともと面子を重んじる国だ。面子とは何か?明代にすでに解釈した人がいる。曰く、「面子とは、面の情というものなり。」もちろん何を言っているのかわからないが、しかしまた何を言っているかわかるのだ。今の世に偏りのない公論があるなどということは、もとより夢想に過ぎない。たとえ食後の公評、酒後の宏議であっても、仮にそう聞いてみてもよいではないか。しかしもしそれを本物の由緒正しい公論だと思えば、きっと痛い目にあう。——しかしこれを公論家だけの罪に帰すこともできない。社会全体が宴会招待を流行させながらそれを口にしないのだから、人々が虚偽にならざるを得ず、その咎を分担すべきなのだ。
もう何年も前、「兵諫」の後の、銃を持つ階級がもっぱら天津で会議を好んだ頃のことだが、ある青年が憤慨して私に言った。彼らのあれは会議なんかじゃない、酒席の上で、賭博台の上で、ついでに数句交わして決めてしまうのだ、と。彼はまさに「公論は酒飯から生まれるものではない」という説に騙された一人であり、だからいつまでも憤然としていたのだが、彼の理想とする状況が実現するのは、おそらく二九二五年まで待たねばなるまい。あるいは三九二五年かもしれない。
しかし酒飯を重んじない正直な人は確かにいる。さもなければ中国はもっと悪くなっているだろう。ある種の会議では午後二時から始まり、問題を討論し、規則を研究し、こちらが問えばあちらが難じ、風起こり雲湧き、七時八時になると、みんなわけもなくいくらか苛立ちを覚え、気性がますます荒くなり、議論がますます紛糾し、規則がますます漠然としてくる。「討論が終わるまで散会しない」と言いながら、結局は蜂の巣をつついたように散会し、結果なし。これが食事を軽視した報いだ。六七時頃の苛立ちこそ、腹が自分自身と他人に対して発した警告であり、みんなが食事と公理の議論は無関係だという妖言を信じ、まったく取り合わなかったから、腹は演説をしても精彩なく、宣言も——草稿すらないという有様にさせたのだ。
しかし私はちょっとした事があれば必ず太平湖飯店だの撷英番菜館だのの類に行かねばならないと言っているのではない。
【皇帝を談ず】
中国人の鬼神に対する態度は、凶悪なものにはへつらい、疫病神や火神の類がそうだが、大人しいものには虐げる。土地神や竈神に対するのがそうだ。皇帝に対する待遇にも似たところがある。君主と民はもとより同じ民族であり、乱世には「成れば王、敗れれば賊」、平時には一人が例によって皇帝をし、多くの者が例によって平民をする。両者の間に、思想の大きな差はもとよりない。だから皇帝と大臣には「愚民政策」があり、百姓たちにもまた自前の「愚君政策」がある。
昔、我が家にいた年老いた下女が、彼女の知っている、そして信じている皇帝への対処法を教えてくれたことがある。彼女は言った——
「皇帝はとても恐ろしいのよ。龍の御座にお座りになって、少しでもご機嫌が悪いと人を殺す。扱いにくいの。だから食べ物もうかつなものを差し上げられない。手に入りにくいものを召し上がって、またお望みになり、すぐに調達できなければ——たとえば冬に瓜を思いつき、秋に桃を食べたいと仰っても調達できなければ、お怒りになって人を殺すの。だから一年中ホウレンソウを差し上げるの。お望みになればすぐあるし、何の面倒もない。でもホウレンソウと言ったらまたお怒りになるの。安物だから。だから皆、ホウレンソウとは呼ばず、別の名前をつけて『赤嘴緑鸚哥』と申し上げるの。」
私の故郷では、ホウレンソウは一年中ある。根がとても赤く、まさに鸚鵡の嘴のようだ。
このように愚かな婦人が見ても愚鈍極まりない皇帝なら、もういらないだろうと思いそうなものだ。しかしそうではなく、彼女はいるべきだと考え、しかも好き放題に威を振るわせるべきだと思っていた。その用途はと言えば、自分よりも強い他の者を鎮圧してもらうためらしく、だから勝手に人を殺すのは、まさに備えておかねばならない要件なのだ。しかしもし自分が遭遇し、しかも仕えねばならないとなると、いささか危険を感じるので、やむを得ず彼を馬鹿に仕立て上げ、年がら年中辛抱強く「赤嘴緑鸚哥」だけを食べさせるのだ。
実のところ、彼の名位を利用して「天子を挟んで諸侯に令す」者も、我が老いた下女と意図も方法も同じである。ただし一方では弱くあってほしく、他方では愚かであってほしいのだ。儒家が「聖君」に頼って道を行おうとするのもこの手管であり、「頼る」からには威重にして位高くあってほしく、操縦に便なるために、かなり実直で言うことを聞いてほしいのだ。
皇帝が一たび自己の無上の威権を自覚すると、面倒なことになる。「普天の下、皇土にあらざるはなし」だから、彼は好き放題をし始め、しかも「我より得て、我より失う、我また何をか恨まん」と言うのだ! そこで聖人の徒もやむなく「赤嘴緑鸚哥」を召し上がっていただくしかない。これがいわゆる「天」である。天子の行いはすべて天意を体得し、勝手なことをしてはならないとされるが、この「天意」なるものは、あいにく儒者たちだけが知っているのだ。
かくして決まった。皇帝たらんとすれば、彼らに教えを請わねばならないと。
ところが分をわきまえぬ皇帝がまた好き放題を始める。「天」を説いても、彼は言う、「我が生、命は天にあるにあらずや?!」と。天意を仰ぎ体するどころか、天に逆らい、天に背き、「天を射る」。まさに国をめちゃくちゃにし、天を頼りに飯を食う聖賢君子たちを、泣くに泣けず笑うに笑えなくさせる。
そこで彼らはやむを得ず著書立説して一通り罵り、百年後——すなわち自分の死後——に大いに世に行われるだろうと予期し、これで大したものだと自負する。
しかしそれらの書物に記されているのは、せいぜい「愚民政策」も「愚君政策」もすべて成功しなかったということだけである。
(二月十七日。)
【花なき薔薇】
1
またもショーペンハウアー先生の言葉——
「棘のない薔薇はない。——しかし薔薇のない棘は実に多い。」
題名を少し変えた方が見栄えがよくなった。
「花なき薔薇」——しかし棘はある。すなわち棘のみで花がない——しかし花がないことを怒ることはできない。花を栽培する人間が花を摘み取ったのだから。
【花なき薔薇 その二】
1
イギリスのバーゲン貴族曰く、「中国の学生はただ英文新聞を読むのみにして、孔子の教えを忘却せり。大英帝国の大敵とは、すなわちかくの如き帝国を呪詛し幸災楽禍する学生なり。……中国は過激派の最も好き活動場なり……。」
【「死地」】
一般の人々、とりわけ長く異民族とその奴僕・鷹犬の蹂躙を受けてきた中国人から見れば、殺す者は常に勝利者であり、殺される者は常に劣敗者である。そして目の前の事実も確かにそうである。
三月十八日、段政府が徒手で請願する市民と学生を惨殺した事件は、もはや言語道断であり、我々に自分の住む所が人間界ではないと感じさせるだけだった。しかし北京のいわゆる言論界は、まだしも評論があった。紙筆と喉舌によって、府前に撒き散らされた青年の熱血を逆流させて体に戻し、蘇生させることはできないにしても。空虚な叫びに過ぎず、殺戮の事実とともに次第に冷め落ちていくだけだ。
しかし様々な評論の中に、私は刀や銃よりもなお人の心胆を驚かすものがあると感じた。すなわち、数人の論客が、学生たちはもともと自ら死地に赴くべきではなかったと論じたことだ。それならば中国人はまことに葬身の地さえなくなり、心悦誠服して奴隷となり、「歯尽きるまで怨みの言なし」とする以外にない。もっとも、中国人の大多数の意見が実際はどうなのか、私にはまだ分からない。もしそうであるなら、執政府の前どころか、全中国、どこ一つとして死地でないところはなくなる。
人々の苦痛は容易に通じ合わない。通じ合わないがゆえに、殺す者は殺すことを唯一の要道とし、さらには快楽とさえ思う。しかしまた容易に通じ合わないがゆえに、殺す者が示す「死の恐怖」は、なお後来を戒め、人民を永遠に牛馬に変えることはできないのだ。歴史に記される改革に関する事は、つねに先に倒れた者の後に続く者があり、大部分はもちろん公義によるものだが、人々がまだ「死の恐怖」を経験していないがゆえに、容易に「死の恐怖」に怯まないのも、大きな原因の一つだと私は思う。
しかし私は切に希望する。「請願」という事は、これをもって終わりにしてほしい。もしこれほど多くの血を以て、ついにこのような覚悟と決意を得、しかも永遠に記念するなら、まだそれほど大きな損失とは言えまい。
世界の進歩は、もちろんおおむね流血から得られる。しかしこれは血の量とは関係がない。なぜなら世にはまた、血を多く流しながら民族がかえって次第に滅亡に向かった先例もあるからだ。今回にしても、これほど多くの生命の損失で、わずかに「自ら死地に赴いた」との批判を得ただけだが、それだけですでに一部の人心の機微を我々に示し、中国の死地がいかに広大であるかを知らしめた。
いまちょうどロマン・ロランの『Le Jeu de L'Amour et de La Mort』が手元にある。その中でこう述べている。ガルは、人類が進歩のためには少々の汚点があっても構わず、万やむを得なければ多少の罪悪があっても構わないと主張した。しかし彼らはクルバジを殺すことを欲しなかった。なぜなら共和国は腕に彼の死体を抱くことを好まないからだ。あまりに重すぎるから。
死体の重さを感じ、抱持することを欲しない民族にあっては、先烈の「死」は後人の「生」の唯一の霊薬である。しかし死体の重さを感じなくなった民族にあっては、ともに沈没を圧しつける物に過ぎない。
中国の改革を志す青年は、死体の重さを知っている。だからいつも「請願」するのだ。あいにく別に、死体の重さを感じない人々がおり、しかも「死体の重さを知る」心もろとも屠殺してしまうのだ。
死地は確かにすでに前方にある。中国のために、覚悟した青年は軽々しく死を選ぶべきでなくなったであろう。
(三月二十五日。)
【惨むべきと笑うべき】
三月十八日の惨殺事件は、事後に見れば、明らかに政府が張り巡らした羅網であり、純潔な青年たちが不幸にもそこに陥ったのだ。死傷者は三百余人に及んだ。この羅網が張り巡らされた鍵は、すべて「流言」が功を奏したことにある。
これは中国の旧例で、読書人の心の中にはおおむね殺機が含まれており、意見の異なる者にはいつでも一つの死に道を用意しておく。私が目の当たりにしたところでは、およそ陰謀家が別の一派を攻撃するのに、光緒年間は「康有為の党」を用い、宣統年間は「革命党」を用い、民国二年以後は「乱党」を用い、今は当然「共産党」を用いるのだ。実のところ、昨年一部の「正人君子」が他人を「学棍」「学匪」と呼んだ時にも、すでに殺機は存在していた。なぜならこの種の渾名は、「臭い紳士」「文士」の類とは異なり、「棍」「匪」の字の中にすでに死に道が潜んでいるからだ。もっともこれは「刀筆吏」式の深文周納かもしれない。
昨年、「学風整頓」のために、学風がいかに不良かという流言、学匪がいかに忌々しいかという流言を盛んに流布し、見事に功を奏した。今年もまた「学風整頓」のために、共産党がいかに活動しているか、いかに忌々しいかという流言を盛んに流布し、またしても見事に功を奏した。かくして請願者を共産党として論じ、三百余人が死傷した。もしいわゆる共産党の首領の一人が死者の中にいれば、この請願が「暴動」であることがいっそう証明されたであろう。
惜しいことに一人もいなかった。共産党ではなかったのだろう。聞くところでは、それでもやはり共産党だが、彼らは全員逃げたのだという。だからなおさら忌々しいのだそうだ。そしてこの請願もやはり暴動であり、証拠として一本の木の棒、二挺の拳銃、三瓶の石油がある。これらが群衆の持参したものかどうかはさて措くとして、たとえ本当であったとしても、三百余人の死傷者が携えた武器がたったこれだけとは、何と哀れな暴動であることか!
しかし翌日、徐謙、李大釗、李煜瀛、易培基、顧兆熊の通緝令が発布された。彼らが「群衆を嘯聚した」からだ。昨年の女子師範大学の学生が「男子学生を嘯聚した」(章士釗の女子師範大学解散上申文の語)のと同様に、一本の木の棒、二挺の拳銃、三瓶の石油を持った群衆を「嘯聚した」のだと。このような群衆で政府を転覆しようとすれば、もちろん三百余人が死傷する。そして徐謙らが人命をこれほどまでに児戯にしたなら、もちろん殺人の罪を負うべきである。まして自分は現場に行かず、あるいは全員逃げたのだから。
以上は政治上のことで、私にはよく分からない。しかし別の面から見ると、いわゆる「厳しく逮捕する」とは、実は追い出すことのようであり、暴徒を「厳しく逮捕する」とは、北京中仏大学学長兼清室善後委員会委員長(李)、中露大学学長(徐)、北京大学教授(李大釗)、北京大学教務長(顧)、女子師範大学学長(易)を追い出すことに過ぎないようだ。そのうち三人はさらに露款委員会委員でもある。合わせて九つの「優美なるポスト」が空くのだ。
同日にまた一種の謡言があり、さらに五十余人を通緝するという。しかしその姓名の一部が分かったのは、今日になって『京報』を見てからである。この種の計画は、目下の段祺瑞政府の秘書長章士釗の如き輩の頭の中には、確かにあり得る。国事犯が五十余人に及ぶのも中華民国の一つの壮観である。しかもおそらく多くは教員であろう。もし一斉に五十余の「優美なるポスト」を棄てて北京を脱出し、別の地で学校を開いたなら、それもまた中華民国の一つの趣事であろう。
その学校の名称は、「嘯聚」学校と呼ぶべきであろう。
(三月二十六日。)
【劉和珍君を記念す】
一
中華民国十五年三月二十五日、すなわち国立北京女子師範大学が、十八日に段祺瑞執政府前で遇害した劉和珍・楊徳群両君のために追悼会を開いた日、私は一人で礼堂の外を徘徊していて、程君に出会った。程君が前に来て尋ねた。
【空談】
一
請願ということを、私はかねてよしとしなかった。しかしそれは三月十八日のような惨殺を恐れたからではない。あのような惨殺は、私は夢にも思わなかった。かねてから「刀筆吏」の思考で中国人を窺い見ることを常としていたけれども。彼らが麻痺しており、良心がなく、語るに足りないことは知っていた。まして請願であり、まして徒手であるのに、これほどの陰毒と凶残があるとは思いもよらなかった。逆料できたのは、おそらく段祺瑞、賈徳耀、章士釗とその同類だけであろう。四十七人の男女青年の生命は、完全に騙し取られたのであり、まさしく誘殺である。
ある者たち——何と呼べばよいか、思いつかない——が言う。群衆の指導者は道義上の責任を負うべきだと。これらの者たちはあたかも、徒手の群衆に発砲するのは当然であり、執政府の前はもとより「死地」であり、死者は自ら網に投じたも同然だと認めているかのようだ。群衆の指導者は段祺瑞らと心心相印でもなく、互いに通謀してもいないのに、どうしてこの陰険な毒手を料り得ようか。このような毒手は、少しでも人の気のある者なら、万万予想し得ないのだ。
私が思うに、もし群衆の指導者の過ちを鍛造しようとすれば、二点しかない。一つは、なお請願を有用と信じたこと。二つは、相手をよく見すぎたことだ。
二
しかし以上もやはり事後の話だ。この事実が起こる以前には、おそらく誰もこのような惨劇が演じられるとは予想しなかったと思う。せいぜい、例によって徒労に終わるだけだと。ただ学問ある聡明な人だけが、およそ請願はすなわち死に行くことだと先に見抜き、認めることができたのだ。
陳源教授の『閑話』に曰く。「もし我々が女志士たちに、今後は群衆運動に加わるのを控えよと忠告すれば、彼女たちはきっと我々が女性を軽視していると言うだろう。だから我々も口出しはしない。しかし未成年の男女の子供たちに対しては、今後いかなる運動にも参加しないよう望まずにはいられない。」(『現代評論』六十八)なぜか。なぜなら各種の運動に参加すれば、甚だしくは今回のように「銃林弾雨の険を冒し、践踏による死傷の苦を受ける」からだ。
今回、四十七の命を費やして購い得たのは、ただ一つの見識だけだ。本国の執政府前は「銃林弾雨」の場所であり、死にに行くのは成年に達し、自発的な者に限るべきだと。
私の考えでは、「女志士」も「未成年の男女の子供」も、学校の運動会に参加するくらいなら、おおよそそれほど大きな危険はなかろう。「銃林弾雨」の中の請願に至っては、成年の男の志士たちでさえ、切に銘記して、これをもって終わりにすべきだ!
今、実際はどうか見よ。数篇の詩文が増えただけ、幾許かの談話の種が増えただけだ。数人の名士とやらの当局者が墓地について交渉し、大請願は小請願に変わった。埋葬がもちろん最も穏当な結末だ。しかし甚だ奇妙なことに、あたかもこの四十七人の死者が、老いて死後に埋葬する場所がないことを恐れ、わざわざ官地の一片を稼ぎに来たかのようだ。万生園はあれほど近いのに、四烈士の墓前にはなお三基の墓碑に一字も刻まれていない。まして辺鄙な円明園においてをや。
死者がもし生者の心の中に葬られなければ、それは本当に死んだのだ。
三
改革はもちろん常に流血を免れ難いが、流血はすなわち改革に等しいのではない。血の使い方は、金銭と同様、吝嗇ではいけないが、浪費もまた大いなる失算である。私はこの度の犠牲者に対して、非常に哀傷を覚える。
願わくば、このような請願はこれをもって終わりにしてほしい。
請願はいかなる国にもある常事であり、死に至るほどのことではないはずだが、我々はすでに中国が例外であることを知った。「銃林弾雨」を除去できない限りは。正規の戦法も、相手が英雄でなければ適用し得ない。漢末はまだしも人心が古朴な時代であったろうが、小説の典故を一つ引くのをお許し願いたい。許褚が裸体で陣に臨み、何本もの矢を受けた。金聖嘆はなお笑って言った。「裸になるのが悪い」と。
まして今日のように多くの火器が発明された時代には、交戦すればすべて壕塹戦を用いる。これは生命を惜しむのではなく、生命を虚しく棄てまいとするのだ。なぜなら戦士の生命は貴重だからだ。戦士の少ない地方では、その生命はなおいっそう貴重である。貴重というのは「家に珍蔵する」のではなく、小さな元手で極めて大きな利息を換え取ること、少なくとも売買相当でなければならないということだ。血の洪水で一人の敵を溺れさせ、同胞の屍体で一つの欠陥を埋める——これはもはや陳腐な話だ。最新の戦術の眼から見れば、これはいかに大きな損失であることか。
この度の死者が後来に遺した功徳は、多くの者の人面を引き剥がし、予想外の陰毒な心を露わにし、戦い続ける者に別の戦い方を教えたことにある。
(四月二日。)
【かくの如き「討赤」】
京津間で幾度もの大小の戦争が繰り広げられ、何人が戦死したかも知れず、「討赤」のためだという。執政府前で整列射撃が行われ、請願者四十七名が射殺され、百余名が負傷し、「暴徒を率いた」徐謙ら五名が指名手配された。これも「討赤」のためだという。奉天の飛行機が三度北京の上空に飛来し、爆弾を投下して婦人二名を殺し、小さな黄色い犬一匹を負傷させた。これも「討赤」のためだという。
京津間で戦死した兵士と、北京で爆死した二人の婦人と、爆撃で負傷した一匹の小さな黄色い犬が、果たして「赤」であるかどうか、未だ「明令」は出ておらず、下民には知る由もない。執政府前で銃殺された四十七名については、第一の「明令」で「誤傷」があったと述べられ、京師地方検察庁の公函にも「今回の集会請願の趣旨はなお正当であり、不正の行為もなかった」と記され、さらに国務院会議では「優遇して撫恤する」こととなった。しからば、徐謙らが率いたとされる「暴徒」はどこへ行ったのか。彼らは皆護符を持ち、銃砲を避ける術でもあったのか。
要するに、「討」は確かに「討」じたのだが、「赤」はいったいどこにいるのか。
「赤」がどこにいるかは、さておく。結局のところ、「烈士」は埋葬され、徐謙らは逃亡し、二つのロシア款委員会の委員が欠員となった。六日付『京報』によれば、「昨日九校の教職員連席会議代表が法政大学で開催され、査良釗が議長となり、まずロシア款委員会改組の件について教育長胡仁源との折衝の経緯を報告した。次にある代表が発言し、要旨は次の通りである。政府が今回、外交・教育・財政三部の事務官を委員に充てようとしていることに、我々は絶対に反対すべきである。当該人員の人格に反対するのではなく、ロシア款の金額は甚大であり、中国の教育界はこれに深く依存しているからである……」
またもう一つの記事があり、見出しは「五私立大学もロシア款委員会に注目」という。
四十七名の死は、「中国の教育界」に対する功績、決して浅からずと言うべきである。「優遇して撫恤する」とは、誰がこれを不当と言おうか。
今後は、「中国教育界」の中で、異論を唱える者を「ルーブル党」と呼ぶことも、もはやなくなるであろうか。
(四月六日。)
【花なき薔薇 その三】
1
天津に滞留している紙が北京に届かず、書籍の印刷も戦争の影響をかなり受けている。私の旧い雑感の集成『華蓋集』は印刷に回して二ヶ月になるが、校正はまだ半分にも達していない。残念ながら先に予告を出してしまったため、陳源教授の「逆広告」を招いてしまった——
「私は魯迅氏の人格を尊敬しないからといって、彼の小説を良いと言えないわけではないし、彼の小説に感服しているからといって、他の文章まで称賛するわけにはいかない。彼の雑感は、『熱風』の中の二、三篇を除けば、実のところ一読の価値もないと思う。」(『現代評論』七十一号、「閑話」。)
なんと公平なことか!なるほど私も「今は昔に如かず」ということか。『華蓋集』の売れ行きは、『熱風』に比べれば、おそらく悲観的なものになるだろう。しかも、私の小説を書くことが「人格」とは無関係だったとは。「非人格」的な文章、新聞記事のようなものが、かえって教授を「感服」させるとは、中国はますます奇怪千万になってきたようだ。しからば「実のところ一読の価値もない」雑感も、まだしばらくは存在し続けることだろう。
2
かの有名な小説『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテス氏は、貧しかったことは確かだが、乞食のようだと言うのは、中国の学者の間で特に流行している流言に過ぎない。彼が書いたのは、ドン・キホーテが騎士道小説を読み過ぎて狂い、自ら騎士となって正義の味方をしようとした物語である。親族は書物のせいだと知り、隣の理髪師を呼んで検査させた。理髪師は良書を数冊選び出して残し、その他はすべて焼き捨てた。
焼いたのだったと思うが、はっきりとは覚えていない。何種類だったかも忘れた。思うに、選ばれた「良書」の作者たちは、この小説の中の書目を見て、恥ずかしさで顔を赤らめながら苦笑せずにはいられなかったことだろう。
中国はますます奇怪千万になってきたようだが、ああ哀しいかな、我々は「苦笑」さえ手に入れることができない。
3
外省からある人が速達で私の安否を尋ねてきた。北京の事情に疎く、流言に惑わされたのだ。
北京の流言報は、袁世凱の帝制、張勲の復辟、章士釗の「学風粛正」以来、一脈相承、歴来このようなものである。今もむろん同じことだ。
第一段階、曰く——ある筋がある学校を閉鎖し、某某を逮捕しようとしている。これはある学校の某人に見せて脅すためのものだ。
第二段階、曰く——ある学校は既に空になり、某人は既に逃亡した。これはある筋に見せて扇動するためのものだ。
さらに一段階、曰く——ある筋が甲校を捜索し、次に乙校を捜索する予定である。これは乙校を脅し、ある筋を扇動するためのものだ。
「平生やましいことをしなければ、真夜中に戸を叩かれても驚かない。」乙校がやましくなければ、脅されるはずがないではないか。しかし、まあ焦らずに。もう一段階ある、曰く——乙校は昨夜徹夜で赤化書籍を完全に焼却した。
かくして甲校は訂正し、捜索はなかったと言い、乙校も訂正し、そのような書籍はないと言う。
4
かくして護道の新聞記者さえ、円満な大学学長さえ六国飯店に泊まり込み、公理を説く大新聞も看板を外し、学校の門番も『現代評論』を売らなくなった。まさに「火は崑崗を焼き、玉石倶に焚く」の趣である。
実際にはそこまでには至るまい、と私は思う。ただし、噂というものは、確かに噂を流す者が心から望んでいる事実なのであって、我々はこれによって一部の人々の思想と行動を窺い知ることができる。
5
中華民国九年七月、直皖戦争が開始された。八月、皖軍は壊滅し、徐樹錚ら九名が日本公使館に避難した。この時もう一つ小さな趣向が添えられていた。ある正人君子たち——今の正人君子たちとは別の——が直派の武人を遊説し、改革論者を殺戮するよう頼んだのだ。結局は何の成果もなく、この件も人々の記憶から早くに消えた。しかし、その年の八月の『北京日報』を繰ってみれば、大きな広告がまだ見られるだろう。大英雄が勝利した後は必ず邪説を一掃し、異端を誅戮せねばならぬ云々という、いかにも古色蒼然たる名言が並んでいる。
あの広告には署名があったが、ここに挙げるまでもない。だが、今もっぱら暗闘に徹している流言家と比べれば、「今は昔に如かず」の感を禁じ得ない。思うに、百年前は今より良く、千年前は百年前より良く、万年前は千年前より良かったのだろう……特に中国においてはおそらく確実なことだ。
6
新聞の片隅に、青年たちへの懇切なる教訓をよく目にする。字紙を大切にせよだの、国学に留意せよだの、イプセンはこうだ、ロマン・ロランはああだ、等々。時代と文体は変わったが、その含意はどうも聞き覚えがある。ちょうど幼い頃に聞いた長老の教訓と同じだ。
これは「今は昔に如かず」の反証のようにも見える。だが世の中には例外があるもので、前節で述べた事柄に対しても、これを一つの例外と見なしておこう。
(五月六日。)
【新しき薔薇】 ——しかしやはり花なき——
『語糸』が体裁として中判に変わるので、私も旧い題目を使い続けるのは止めようと思い、格別に奮発して「新しき薔薇」を書こうとする。 ——今度こそ花が咲くのかな。 ——ブンブン、——さあどうだか。
私は以前から少し分かっていた。私はおおむね自分を中心にしている。語る道理は「私が思う」道理であり、記す情景は私が見た情景である。聞くところによれば一ヶ月前、杏の花も碧桃も咲いたそうだ。私は見なかったから、杏の花も碧桃もあったとは思わない。 ——しかしそれらは存在しているのだ。——学者たちはこう言うだろう。 ——結構!では、そのままにしておきましょう。——これが学者方に謹んで申し上げる私の返答である。
「公理」を説くある人々が、私の雑感には一読の価値もないと言う。それは当然だ。実のところ、彼が私の雑感を読みに来ること自体、まず自分の魂を失っているのだ——もし魂があるとすればだが。私の言葉がもし「公理」を説く者の口に合うなら、私も「公理維持会」の会員になってしまうではないか。私も彼と、そしてその他すべての会員と同じになってしまうではないか。私の言葉は彼らの言葉と等しくなってしまうではないか。多くの人々と多くの言葉が、一人の人間と一つの言葉に等しくなってしまうではないか。 公理はただ一つしかない。しかし聞くところでは、それはとうに彼らに持ち去られたそうだ。だから私はもう一無所有である。
今回の「北京城内の外国旗」は、おそらく特に多かったのだろう。学者をして憤慨せしめるほどに。「……東交民巷の境界線以外では、中国人であれ外国人であれ、外国国旗を借りて掲げ、生命財産の護符とすることはできない。」 その通りである。「生命財産の護符」は、我々には「法律」がある。 もしそれでも安心できないなら、もっと確実な旗を使えばよい——赤十字旗だ。中外の間にあり、「恥知らず」と恥を知る者の外に超然として立つ——確かに良い旗だ!
清末以来、「国事を語るなかれ」の貼り紙が料亭や飯店に貼られ、今に至っても辮髪と共に撤廃されてはいない。だから時として、筆を執る者を困らせることがある。 しかしこの時、一つの興味深いものを見ることができる。それは——他人が文字によって禍を被ることを望む者が書いた文字である。
聡明な人々の話しぶりも日増しに聡明になってきた。三月十八日に犠牲になった学生は同情に値すると言い、なぜなら本人は行きたくなかったのに教職員に唆されたからだと。「ソ連の金を直接または間接に使っている人々」は情状酌量の余地があると言い、なぜなら「彼ら自身は飢えに耐えられても、妻子は食べないわけにはいかないではないか!」と。 甲を押しのけて乙を陥れ、情を許して罪を確定する。とりわけ彼らの行動と主張が、一文の価値もないものとされる。 しかし聞くところでは、趙子昂の馬の絵は、鏡に映った自分自身の姿だったそうだ。
「妻子は食べないわけにはいかない」から、当然「産児制限問題」が生じるわけだ。しかし以前マーガレット・サンガー夫人が来華した時、「ある志士たち」は大いに不平を鳴らし、中国人を絶滅させようとしていると言った。 独身主義は今なお多くの人の反対を受け、産児制限も行き詰まっている。赤貧の紳士のために申せば、目下最良の方法は、金持ちの女を妻にすることだろう。 いっそ完全にこの秘訣を伝授しよう——口先では、必ず「愛」のためだと言わねばならない。
「ソ連の金」十万元が、今回は教育部と教育界の紛糾を引き起こした。皆が少しずつ欲しがったからだ。 これもおそらく「妻子」のゆえであろう。だがこのルーブルとあのルーブルとは同じものではない。これは返還された庚子賠償金である。義和団の「清を扶け洋を滅ぼす」運動、各国連合軍の北京入城の余沢なのだ。 あの年代は覚えやすい。十九世紀末、一九〇〇年。二十六年後、我々は「間接的に」義和団の金を使って「妻子」に飯を食わせている。もし大師兄に霊があるならば、きっと唖然として気が抜けることだろう。 なお、各国が中国での「文化事業」に使っているのも、この同じ金である……。
(五月二十三日。)
【もう一度】
昨年『熱風』を編纂した折、まだ紳士方のいわゆる「存心忠厚」の意があって、かなりの篇を削除した。だが一篇は元来編入するつもりだったのに、原稿を紛失したため、やむなく割愛した。それが今になって見つかった。『熱風』の再版時にこの一篇を追加し、広告を出せば、私の文章を信奉する読者に再び一冊買わせることができ、私にとっても少なからぬ利益となる。だが、もうよそう。これは実のところあまり面白い話ではない。もう一度掲載し、将来雑感第三集に収録して、補遺としよう。 これは章士釗氏に関するものである——
「二つの桃が三人の読書人を殺した」
章行厳氏が上海で彼のいう「新文化」を批評して言うには、「二桃三士を殺す」がいかに素晴らしいか、「二つの桃が三人の読書人を殺した」がいかに拙いかを論じ、結論として新文化に対し「これもまた已むべからずや」と。
「これもまた大いに已むべし」である!「二桃三士を殺す」は僻典ではなく、旧文化の書物に常見のものだ。だが「誰かよくこの謀を為す?相国斉の晏子なり」とあるからには、『晏子春秋』を見てみよう。
『晏子春秋』は今や上海の石印本があり、容易に入手できる。この故事は当該石印本の巻二にある。大意は、「公孫接・田開疆・古冶子、景公に仕え、勇力をもって虎を搏つことで聞こゆ。晏子過ぎて趨るも、三子は起たず」。そこで晏老先生は無礼と見なし、景公と相談して除こうとした。その方法は、景公に二つの桃を贈らせ、「汝ら三人、功績に応じて桃を食せよ」と言わせることだった。さあ、ここから騒ぎになった——
「公孫接、天を仰いで嘆じて曰く、『晏子は智者なり。公をして吾が功を計らしむるに、桃を受けざるは勇なきなり。士は衆にして桃は寡し、何ぞ功を計りて桃を食せざるや。接、一たび猏を搏ち、再び虎を搏つ。接の功の如きは、桃を食して人と同じうする無かるべし。』桃を援きて起つ。」
「田開疆曰く、『吾、兵を杖きて三軍を却くること再びなり。開疆の功の如きは、桃を食して人と同じうする無かるべし。』桃を援きて起つ。」
「古冶子曰く、『吾かつて君に従いて河を済る。鼋、左驂を銜みて以て砥柱の流に入る。是の時に当たりてや、冶少くして游ぐ能わず、潜行して流れに逆らうこと百歩、流れに順うこと九里。鼋を得て之を殺し、左に驂の尾を操り、右に鼋の頭を挈げ、鶴躍して出づ。津人皆曰く、河伯なり、と。冶の如き之を視れば、則ち大鼋の首なり。冶の功の如きは、桃を食して人と同じうする無かるべし。二子何ぞ桃を反さざる。』剣を抽きて起つ。」
書き写しは面倒である。要するに、後に二士は古冶子に功が及ばぬことを恥じて自殺し、古冶子も独り生きるを潔しとせず自殺した。かくして「二桃三士を殺す」となった。
この三士が旧文化に造詣があったかどうかは知らないが、書物に「勇力を以て聞こゆ」とある以上、「読書人」とは言えまい。もし『梁父吟』に「二桃三勇士を殺す」とあれば一目瞭然だが、あいにく五言詩ゆえに字を増やせず「二桃三士を殺す」としたのであり、これが章行厳氏に「二つの桃が三人の読書人を殺した」と解させるに至ったのだ。
旧文化も実に解し難く、古典も確かに覚え難く、あの二つの旧い桃もまた厄介きわまりない。あの時三人の読書人を死なせたのみならず、今に至って一人の読書人に恥をかかせている。「これもまた已むべからずや」!
昨年、「毎況愈下」の問題で、公平を自任する青年たちからかなりの教訓を受けた。私が彼の「簽事」を免職されたから奚落するのだ、と。ここで特に声明しておく。これは一九二三年九月に書いたもので、『晨報副刊』に掲載された。当時の『晨報副刊』の編集者はまだタゴール先生に随行した「詩哲」ではなく、人を死に追いやり自らを窒息させる使命も帯びていなかったため、時に私のような俗人の文章も載せたのだ。当時の私とこの後に「孤桐先生」と称される人物との間には、いかなる「睚眦の怨み」もなかった。その「動機」は、おそらく白話の普及を少し手助けしようとしたに過ぎない。
このように「禍は口より出ず」の時節、自分自身の弁護も周到にしておこう。あるいは、今回補遺をするのは「落水の犬を打つ」嫌いがあり、「動機」が「純潔でない」と言われるかもしれない。しかし私はそうではないと思う。むろん、つい先日まで士釗秘書長が帷幄の中で策を巡らし、公を仮りて私を済し、学生を殺害し、異己を指名手配していた折——「正人君子」たちが時に手配された人々の逃亡を嘲笑し、時に「孤桐先生」「孤桐先生」と熱っぽく呼んでいた時と比べれば——今やまことに落寞の感を禁じ得まい。だが私の見るところ、彼は実のところ落水してはおらず、ただ租界に「安住」しているに過ぎない。北京では依然として彼が養った輩が跋扈し、彼と結託した新聞が是非を顚倒させ、彼が育て上げた女子学校が波風を立てている。依然として彼の天下なのだ。
「桃」のことで小さな一撃を加えることが、どうして「落水の犬を打つ」と同日の談となろうか。
だが不思議なことに、この「孤桐先生」は『甲寅』誌上で弁解を始め、これは小事に過ぎないと言った。確かに小事だ。少し間違えたところで何ほどのことがあろうか。晏子を知らずとも斉国を知らずとも、中国に損害はない。農民に『梁父吟』を解する者がいようか。それでも農業は依然として国を救えるのだ。だが白話を攻撃する壮挙も、大いにその必要はなかろう。白話で文言を代えることが多少不妥当だとしても、どのみち小事に過ぎないのだから。
私は「孤桐先生」の門下に潜り込んだことはなく、机の上にも寝台の上にも床の上にも溢れるドイツ語の書物を拝見する栄に浴したことはない。だが偶然目にした彼が発表する「文言」によれば、法律の頼りにならぬこと、道徳習慣が不変ではないこと、文字言語に必ず変遷があること——実は彼にも分かっているのだ。分かっていてそのまま言えば改革者となり、分かっていながら言わず、かえってそれを利用して他人を欺く者は「孤桐先生」およびその「輩」となる。彼の文言擁護の内実も、結局そういうことだ。
もし私の検証が正しければ、「孤桐先生」もおそらく『閑話』の言う「ある志士」の通病に罹り、「妻子」に累されたのだろう。今後はドイツ語の書物をもう数冊買って、「産児制限」を研究すべきであろう。
(五月二十四日。)
【半農のために『何典』を題して記す、その後に作る】
二、三年前のことになるが、偶然、光緒五年(一八七九年)刊の『申報館書目続集』で『何典』の解題を目にした。それにはこう記されている。
『何典』十回。本書は過路人が編定し、纏夾二先生が評し、太平客人がこれに序を寄せた。書中に引用される人物には、活鬼、窮鬼、活死人、臭花娘、畔房小姐などがある。閲するだけでも噴飯ものである。まして記される内容を見れば、三家村の俗語ならざるものはなく、無中生有、忙裡偸閑。その言は鬼話であり、その人は鬼名であり、その事は鬼心を開き、鬼面を装い、鬼火を釣り、鬼戯を演じ、鬼棚を立てるものである。語に曰く「何の典に出づるか」と。今後、俗語をもって文を為す者あらば、「『何典』に出づ」と言えば足りよう。
その奇抜さに興味を覚え、探し求めたが見つからなかった。常維鈞は古書店に知り合いが多いので探索を託したが、やはり見つからなかった。今年、半農から、廠甸の廟市で偶然手に入れ、校訂して出版する旨を告げられた。聞いて大いに喜んだ。その後、半農はゲラを次々と送ってきて、短い序文を書いてほしいとも言った。私がせいぜい短い序文しか書けないことを知っているのだ。だが私はなお躊躇していた。こうした仕事にはその方面の特技が必要だと常々思っているからだ。たとえば、句読点は汪原放でなければならず、序文は胡適之に任せるべきであり、出版は亜東図書館によるべきである。劉半農も李小峰も私も、その任ではない。しかし私は結局数句を書くことに決めた。なぜか。ただ最終的にそう決めたからだ。
まだ筆を執らぬうちに戦争に遭い、砲声と流言の中で落ち着かず、書く気になれなかった。その合間に、また文人の徒がどこかの新聞で半農を罵倒しているのを知った。『何典』の広告が品位に欠けるとか、大学教授がまさかここまで堕落するとは、とか。これには悲しくなった。別のことを思い出したし、私自身も「大学教授がまさかここまで堕落するとは」と思ったからだ。それ以来、『何典』を見るたびに苦痛を感じ、もう一言も口にできなくなった。
そうだ、大学教授は堕落していくのだ。背の高い者も低い者も、白い者も黒い者も、灰色の者も。ただし、他人がこれを堕落と言うものの中に、私が困苦と呼ぶべきものがある。私の言う困苦の一端は、体面を失うことだ。かつて「『他媽的!』を論ず」を書いたことで、青年の道徳家たちが烏煙瘴気の嘆きを発した。今さら体面を論じるのかと。だが、それでもなお少しは体面を気にしている。仮面を被った紳士を「深く悪み痛く絶つ」者ではあるが、「学匪」の名門出身ではない。いわゆる「正人君子」を見れば首を横に振るのは確かだが、邪な者や奴隷と付き合って円満にやれるかと言えば、おそらくそうでもあるまい。無差別の目で見れば、大学教授が滑稽な、あるいは誇張的な広告を出したところで何の不思議があろう。「他媽的」だらけの広告を出しても何の不思議があろう。しかしだ——ここで「しかし」が活きる——私はやはり十九世紀の生まれであり、数年官吏も務め、いわゆる「孤桐先生」と同じ省に属していたのだ。官僚的——上等人的——気風はにわかには抜けず、教授にはやはり講壇が最もふさわしいと感じることがある。またしかしである。しかし、十分な俸給がなければならないし、兼業は許される。この主張は教育界ではすでに一致賛成の望みがあり、昨年のある公理会で兼業を一斉に攻撃した公理維持家も、今年はひっそりと兼業に出かけているようだ。ただし「大新聞」に載ることは決してなく、自ら広告を出すこともないだろう。
半農はドイツとフランスで音韻学を何年も研究した。彼のフランス語の著書は私には分からないが、中国語の文字と高低の曲線が挟み込まれていることだけは分かる。要するに、書物は現存し、必ずや理解する者がいるだろう。だから彼の本業は、私の考えでは、やはりこれらの曲線を学生に教えることだ。ところが北京大学はまもなく閉校の憂き目に遭いそうだし、彼には兼職もない。ならば、たとえ私がいかに十全の上等人であろうとも、彼が書物を印刷して売ることに反対はできない。印刷して売る以上、当然よく売りたい。よく売りたい以上、当然広告を出す。広告を出す以上、当然良いと言う。自分で書物を印刷しながら、この書はつまらないから御覧に及ばず、と広告を出す者がいるだろうか。私の雑感に一読の価値なしという広告——あれは西瀅(すなわち陳源)が出したのだ。——ここで自分の広告も出しておこう。陳源はなぜ私にこのような逆広告を出したのか。私の『華蓋集』を読めば分かる。お客様方、ご覧あれ!お早く!一冊大洋六角、北新書局発行。
思い起こせばもう二十年余り前のこと、革命を事とした陶煥卿は貧窮のどん底にあり、上海で会稽先生と自称し、催眠術を教えて糊口を凌いでいた。ある日彼が私に尋ねた。一嗅ぎで人を眠らせる薬はないだろうかと。施術がうまくいかないのを恐れ、薬に助けを求めようとしたのは明らかだった。実のところ、大勢の前で催眠術を試みるのは元来成功しにくいものだ。彼が求める妙薬を私も知らず、力及ばなかった。二、三ヶ月後、新聞に投書(あるいは広告)が現れ、会稽先生は催眠術を解さず、これをもって人を欺いていると述べていた。清政府は彼らよりずっと敏感だったから、彼を指名手配した際には、対句を添えていた。「『中国権力史』を著し、日本の催眠術を学ぶ」と。
『何典』はまもなく出版され、短い序文も提出の期限が迫っている。夜雨が蕭蕭と降る中、筆を執ると、ふと麻縄を帯にしていた困苦の陶煥卿を思い出し、『何典』とは無関係な思念も混じる。だが序文の締め切りが迫っているので、書き出さざるを得ず、しかも印刷に付さねばならない。私は半農を「乱党」に比しているのではない——現在の中華民国は革命によって成立したが、多くの中華民国国民は今なお当時の革命家を乱党と見なしている。それは明々白々だ——ただ、この時にあたり、往時を回想し、幾人かの友を思い、自らの依然たる無力を感じるばかりだと言いたいのだ。
だが短い序文はともかく書き上げた。出来栄えはともかく、一つの仕事に区切りがついた。今の心情をさらに書き記し、発表する。『何典』の広告としても。
(五月二十五日の夜、東壁の下にて、記す。)
【馬上日記】
予序
日記がまだ一字も書かれぬうちに、先に序文を書く。これを予序と言う。
私はもともと毎日日記を付けている。自分で読むためのものだ。おそらく天下にこのような日記を書いている人は少なくあるまい。もし書いた人が名士となり、死後に出版されれば、読む者にも格別の趣が感じられるだろう。書く時に「内感篇」や「外冒篇」のように虚勢を張る必要がないから、かえって本当の素顔が見えるというわけだ。これが日記の正統嫡流であろう。
私の日記はそうではない。書いてあるのは書簡の往来、金銭の出納で、素顔とも言えず、ましてや真偽とも言えない。たとえば——二月二日、晴、Aより手紙あり。B来訪。三月三日、雨、C校より俸給X元受領。Dに返信。一行が埋まっても用事が残る。紙ももったいないので、後の用事は前日の空白に書き込む。要するに、あまり信用できない。だがBの来訪が二月一日か二日かは大した問題ではなく、書かなくとも構わない。実際、書かないことも多い。私の目的はただ、誰から手紙が来たかを記録して返信に備え、いつ返信したかを知り、とりわけ学校の俸給がいつの何割まで届いたかを把握することだ。端数が多く、どうしても帳簿がなければ検証できない。双方に食い違いがないように、自分が外にどれだけ債権を持っているか、将来すべて回収したらどれほどの小金持ちになるかを知るためだ。それ以外に野心はない。
わが郷里の李慈銘先生は日記をもって著述としていた。朝廷の典章から、学問、果ては口喧嘩に至るまで、すべてその中に記録されていた。なるほど、今やあの手跡が石印で出版されており、一部五十元だ。こんなご時世、学生はおろか先生でさえ買えまい。あの日記には、一函ずつ装丁するたびに、早くも人が借りては写し伝えていたと記されている。なにも遠い「没後」を待つまでもなかった。これは日記の正流とは言えないが、もし立言を志し、褒貶の意を込め、人に知られたくもあり知られたくもないなら、真似てみても差し支えあるまい。ちょっと白話を書いただけで、百年後に発表する本の一篇だなどと言うのは、その愚昧なること言うに及ばず。
私の今回の日記は、そのような「厚望を寄せる」ものでもなければ、元来の簡潔なものでもない。まだ存在せず、これから書こうとしているのだ。四、五日前に半農に会うと、『世界日報』の副刊を編集するので原稿を少し寄せてくれ、と言う。もちろん構わない。しかし原稿はどうするか。これはまことに困る。副刊の読者はおおむね学生で、皆経験者だ。「学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや」論だの「人心不古」議だのを書いたことがあるから、文章を書くとはどういうものか分かっているはずだ。私を「文学者」と言う人がいるが、実はそうではない。彼らの言葉を信じてはいけない。その証拠に、私も文章を書くのが一番嫌いなのだ。
しかし引き受けた以上、何か方法を考えねばならない。考えに考え、感想ならたまには浮かぶと気づいた。いつもは怠けて放っておき、忘れてしまう。思いついたらすぐ書き留めれば、おそらく雑感の類になるだろう。そこで決心した。思いつくや馬上に書き留め、馬上に送り出し、スケッチ帳とする。最初から第三者に読ませるつもりで書くのだから、あまり本当の素顔にはなるまい。少なくとも自分に不利なことは今のところ隠しておく。読者にまずこの点をご了解いただきたい。
書けなくなったり、書けない状況になったりしたら、即座に終わりにする。だからこの日記がどれほどの長さになるか、今のところまったく分からない。
一九二六年六月二十五日、東壁の下にて記す。
六月二十五日
晴。 病気。——今日これを書くのは少し余計なことのようだ。十日前のことだから、今ではもう回復に向かっていると言えよう。ただし余波は収まっていないので、やむなくこれを冒頭の一章とする。思うに、才子が立言するには、必ず三大苦難を大声で叫ばねばならない。一に貧、二に病、三に社会の迫害。その結果、恋人を失う。専門用語では失恋と言う。私の冒頭は二番目の苦難に似ているが、実は違う。端午節の前に稿料を少々もらい、食べ過ぎて消化不良になり、以来胃痛に悩まされているのだ。私の胃は巡り合わせが悪く、もとから福を担えぬ体質なのだ。医者にも診てもらいたいと思った。漢方は、玄妙無窮、内科はとりわけ独歩と言う人もいるが、私はどうしても信じられない。西洋医学は、有名な医者は診察料が高く、多忙で診察も粗雑だ。無名の医者はもちろん安いが、やはり躊躇する。こうなった以上、この胃がひそかに痛むのに任せるしかない。
西洋医学が梁啓超の腎臓を一つ切除して以来、非難の声が沸き起こり、腎臓にさほど造詣のない文学者まで「義を以て言を執る」有様だ。同時に「漢方は大したもの論」が時を得て勃興した。腎臓が悪い?黄耆を飲めばよいではないか。何が悪い?鹿茸を食えばよいではないか。だが西洋医学の病院からも確かに死体が運び出される。かつてG先生に忠告したことがある。病院を開くなら、どう見ても助からない患者を絶対に受け入れてはならない。治って退院しても誰も知らないが、死んで運び出されれば大騒ぎになる。まして死んだのが「名流」であればなおさらだ、と。本意は新医学の普及を図ることだったが、G先生には良心が悪いと思われたようだ。そう思われても仕方ないかもしれないが——放っておこう。
だが私の見るところ、私の言った方法を実行している病院はかなりある。ただ彼らの本意は新医学を普及させることにはない。新しい本国の西洋医もおおむね曖昧で、手をつけるや漢方同様の江湖の秘訣を学んでしまう。薄めた龍胆チンキ二日分で八角。うがい用の薄い硼酸水一瓶で一元。診断学に至っては、私のような門外漢には知る由もない。要するに、西洋医学は中国ではまだ芽を出さぬうちから腐りかけている。西洋医学しか信じない私も、近頃はいささか二の足を踏むようになった。
六月二十六日
曇り。
齊宗頤氏が来訪した。
午後、車夫の張媽の住む所を探しに行く。かつて私の家で車夫をしていた男の母で、彼は病死した。その後彼女は物乞いをして暮らしていたが、ある人に引き取られて面倒を見てもらっているということだった。しかし訪ねてみると、引き取った人はとうに引っ越してしまい、行き先は分からなかった。近所の人に尋ねても誰も知らない。もう一つの心当たりを訪ねたが、やはり分からなかった。思うに、北京ではこのような人がどれほどいることか。だが私の知る限り、たった一人のことでさえ行方がつかめない。
もし見つかったら、少しばかりの金を渡そうと思っていた。だが見つからなかったので、そのまま帰宅した。
夜、原稿の校正をした。
六月二十七日
晴。
三日間で日記が三日分たまった。平時なら面倒でとても書く気にならないが、これが人に見せるためとなると、やはり書かないわけにいかない。世の中の多くの事柄がこれと同じだ。自分のためなら適当に済ませるが、人に見せるとなると立派に仕立てなければならない。日記もまたこのようである。
午前、伊東医師のところへ歯の治療に行く。待合室で少し退屈した。壁には織物の絵一幅と対聯二組が掛かっているだけだった。一組は江朝宗のもの、もう一組は王芝祥のもの。署名の下に各々印が二つあり、一つは姓名、一つは肩書きである。江のは「迪威将軍」、王のは「仏門弟子」。
午後、ミス・コウが訪ねてきたが、あいにく菓子の持ち合わせがなく、やむなく秘蔵の柿霜糖——口角の瘡に効くという——を皿に盛って出した。私は普段少し菓子を常備していて、客が来れば勧める。最初は「ミス」も「ミスター」も平等だったが、ミスターは時に手強く、きれいに平らげて一つも残さないことがある。自分が食べたい時にはまた買いに出なければならない。そこで警戒心が芽生え、方針を変えて、やむを得ない時は落花生で代用することにした。これが功を奏し、いつも少量しか食べない。食べる量が少ないので勧め始めると、時には織芳のような者が落花生を恐れて退散することさえある。昨年の夏にこの落花生政策を発明して以来、今なお厳格に施行している。だがミスたちは別だ。彼女たちの胃は男性より五分の四ほど小さいか、消化力が十分の八ほど弱いようで、小さな菓子でもたいてい半分は残し、飴玉一つでも一角は残す。皿に並べてしばらく置き、少し食べてもらっても、私の損失は微々たるもので、「何ぞ改むるを要せんや」。
ミス・コウは滅多に来ない客なので、落花生政策は適用しにくい。あいにく他の菓子もなく、柿霜糖を差し出すしかなかった。遠路はるばる持ち帰った名物の飴だから、もちろん鄭重さは示せる。
この飴はあまり一般的でないから、まず産地と効能を説明すべきだろうと思った。ところがミス・コウは一目で分かったのだ。彼女が言うには、河南の汜水県の産で、柿霜から作られる。色は濃い黄色が最上で、薄い黄色なら純粋の柿霜ではない。大変涼性があり、口角などに瘡ができた時にこれを含み、徐々に口角から流し出すと、瘡が治ると。
彼女は私の聞きかじりよりも詳しかった。私は黙るしかなく、この時になって初めて彼女が河南の人だったことを思い出した。河南の人に柿霜糖を数枚ご馳走するのは、私に小さな杯の紹興酒を一杯飲ませるようなもので、まさに「その愚、及ぶべからず」である。
茭白の芯に黒い点のあるものを、私の故郷では灰茭と呼び、田舎の者でも食べたがらないが、北京では立派な宴席に出る。白菜の巻いたものは北京では斤単位・車単位で売られるが、南方に行くと根に紐をつけて果物屋の店先に逆さに吊るされ、両単位か半株単位で売られる。用途は高級な火鍋に入れるか、フカヒレの下に敷くかだ。だが北京で特に灰茭をご馳走し、あるいは北京の人を南方に連れて行って煮白菜をご馳走すれば、「愚か者」とは言われないまでも、いささか奇矯ではあるまいか。
だがミス・コウは一枚食べてくれた。主人の面子を少し立ててくれたのかもしれない。夜、私は手持ち無沙汰で考えた。これは河南以外の他省の人にご馳走すべきだったのだ。考えながら食べていると、思いがけずすべて食べ尽くしてしまった。
およそ物は希少であるほど貴ばれる。もし欧米に留学するなら、卒業論文は李太白、楊朱、張三を論じるのが最も良い。バーナード・ショーやウェルズを研究するのはあまり適切ではなく、ましてダンテの類はなおさらだ。『ダンテ伝』の著者バトラー(A.J.Butler)も、ダンテに関する文献は読みきれないと言っている。中国に帰ってからなら、ショーやウェルズ、果てはシェイクスピアを論じることもできる。何年何月にキャサリン・マンスフィールドの墓前で慟哭しただの、何月何日何時にどこでアナトール・フランスと頷き合っただの、彼は私の肩を叩いて「君は将来私に似てくるだろう」と言っただの。「四書」「五経」の類は、地元ではやはり語らぬが得策のようだ。多少の「流言」を交えたとしても、「学理と事実」にさほどの妨げにはなるまい。
六月二十八日
晴。
午前、中央公園に行き、C君と少し仕事をした。午後は家にいた。
夜、K君が来訪し、明後日から講演をする予定があるという。国語統一の問題について話してほしいとのことだった。引き受けた。
六月二十九日
晴。
上午中、S氏が原稿を持ってきた。
午後、学校に行ったが、何も特別なことはなかった。
夜、明日の講演のための準備をした。この講演は以前から頼まれていたもので、国語の統一——北京語を標準語にすべきかどうかという問題について述べるつもりだ。
六月三十日
晴。
講演に行った。聴衆は学生が多かった。
国語統一の問題は実のところ非常に複雑だ。北京語を標準語にするという主張があるが、私の考えでは、方言にはそれぞれの価値があり、一つの言語で統一するのは容易ではない。しかし文字を通じた意思疎通は必要であり、白話文がその役割を果たし得る。
講演を終えて帰宅した。特に反応はなかったが、学生たちは真剣に聞いていたようだった。
七月一日
晴。
特に何事もなし。原稿の校正をした。
近頃、戦争の噂がまた盛んだ。京津間の戦闘がどうなるか、誰にも分からない。こういう時期には、人々はいっそう流言に敏感になる。
七月二日
曇り、午後から雨。
R氏から手紙が来た。返信した。
夜、読書。ドストエフスキーの小説を読み返していると、ロシアと中国の状況が奇妙に重なって感じられる。改革者の苦悩、社会の冷淡さ、知識人の無力感——どこも同じだ。
七月三日
晴。
午前、T氏来訪。雑誌の原稿について相談。
午後、L氏から電話。明日の会合のことだった。
何事もなく一日が過ぎる。だが「何事もない」日々こそ、実は最も恐ろしいのかもしれない。何事かが起こることを皆が待ち望み、同時に恐れている。この不安定な空気の中で、人々は日常を装いながら暮らしている。
七月四日
曇り。
午前、なにもせず。午後、公園に行った。
このごろの北京は、なんとなく落ち着かない気配がある。戦争の噂がとぎれない。だが不思議なことに、人々の日常生活はさほど変わっていない。茶館にも食堂にも客がいて、商売は続いている。
七月五日
晴。
午前中、原稿を書いた。午後はK君と会った。
七月六日
晴。
今日は格別に書くことがない。こういう日もある。日記を約束した以上、何か書かねばならないのだが、書くことがないのだから仕方がない。
しかし考えてみれば、書くことがないということ自体が、すでに一つの記録なのかもしれない。世の中には実に多くのことが起こっているのに、自分にとって書くべきことがないとは——これは自分の怠慢か、それとも世間との距離のためか。
(以上、馬上日記。)
【馬上日記 その二】
七月七日
晴。 毎日の天気を記すのも、自分でもいささかうんざりしてきた。今後は書かぬことにしよう。北京の天気はだいたい晴れが多い。梅雨の時期なら午前は晴れ、午後は曇り、夕方に大雨が一降りして泥壁の崩れる音が聞こえる。書かなくとも構わない。どうせ私の日記を将来気象学者が参考資料にすることはあるまいから。
午前、素園を訪ね、雑談した。彼によれば、ロシアの著名な文学者ビリニャーク(ボリス・ピリニャーク)が先月北京に来て、今はもう去ったという。
日本に行ったことは知っていたが、中国にも来たとは知らなかった。
この二年間、私が聞いた限りでは、著名な文学者で中国に来たのは四人いる。最初はもちろん、あの最も有名なタゴール、すなわち「竺震旦」だが、残念ながらインドの帽子を被った震旦人たちに振り回され、ついに訳の分からぬまま去った。後にイタリアで病に倒れ、震旦の「詩哲」に電報で来るよう召したが、「後日談」は知らない。今また誰かがガンジーを中国に担ぎ込もうとしているそうだ。この堅忍卓絶の偉人、インドでしか生まれ得ず、英国統治下のインドでしか生きられぬ偉人が、再び震旦に偉大な足跡を刻もうとしている。だが彼の素足がまだ華土を踏まぬうちに、暗雲はすでに山を出始めているだろう。
次はスペインのイバニェス(ブラスコ・イバニェス)で、中国でも早くから紹介されていた。だが彼は欧州大戦中、人類愛と世界主義を高唱した人物であり、今年の全国教育連合会の議案から見れば、中国にはまったくそぐわない。誰も相手にしなかったのは当然だ。我々の教育者は民族主義を提唱しようとしているのだから。
残る二人はともにロシア人だ。一人はスキタレーツ(Skitalez)、もう一人がビリニャークだ。どちらも筆名である。スキタレーツは流亡の身だ。ビリニャークはソ連の作家だが、自伝によれば革命の第一年目からパン粉を買うのに一年余り奔走した。その後小説を書き、魚油まで飲んだ。このような生活は、中国では毎日貧乏を嘆く文学者でさえ夢にも思うまい。
彼の名前は、任国楨君が訳編した『ソビエトロシアの文芸論争』に出てくるが、作品の翻訳は一つもない。日本には『イワンとマリヤ』(Ivan and Maria)の一冊があり、体裁がかなり特異だ。この一点だけでも、中国の目——中庸の目——には合わない。文法が多少欧化されただけで目に砂が入ったようになる者もいるのに、ましてや体裁が欧化以上に奇抜となれば。ひっそりと来てひっそりと去ったのは、まことに天の配剤というべきか。
さらに、中国では姓名が『ソビエトロシアの文芸論争』に一度現れただけのリベジンスキー(U.Libedinsky)の小説も、日本では既に翻訳されている。題して『一週間』。彼らの紹介の速さと量は驚くべきものだ。我々の軍人は彼らの軍人を師と仰ぐのに、我々の文人は彼らの文人を手本にしようとしない。これにより中国は将来日本よりずっと太平であることが予見できる。
だが『イワンとマリヤ』の訳者・尾瀬敬止氏によれば、作者の意図は「林檎の花は、古い屋敷の庭にも咲き、大地の存する限り、常に咲き続ける」ということだそうだ。ならば彼もやはり懐旧の念を免れない。しかし彼は革命を目の当たりにし、身をもって経験した。そこに破壊があり、流血があり、矛盾があることを知っている。だが創造がないわけでもないことを知っているから、絶望の心は決して抱かない。これこそ革命の時代を生きる人間の心だ。詩人ブローク(アレクサンドル・ブローク)もそうだ。彼らはもちろんソ連の詩人だが、純粋なマルクス主義の目で批評すれば、当然まだ議論の余地がある。だが私はトロツキーの文芸批評はそれほど厳格ではないと感じている。
残念ながら彼らの最新の作品『一週間』をまだ読んでいない。
革命の時代には必ず多くの文芸家が萎黄し、多くの文芸家が新しい山崩地裂の大波に突き進み、なお呑み込まれるか負傷する。呑み込まれた者は消滅し、負傷した者は生き続け、自らの生を切り拓き、苦痛と歓喜の歌を歌う。これらが過ぎ去った後に、より新しい新時代が現れ、さらに新しい文芸が生まれる。
中国は民元革命以来、いわゆる文芸家の中に萎黄した者はなく、負傷した者もなく、もちろん消滅した者もなく、苦痛も歓喜の歌もない。これは新しい山崩地裂の大波がなかったからであり、すなわち革命がなかったからである。
七月八日
午前、伊東医師の住居に歯の治療に行く。待合室で少し退屈した。壁には織物の絵が一枚と対聯が二組掛かっているだけだ。一組は江朝宗のもので、もう一組は王芝祥のもの。署名の下に各々印が二つ、一つは姓名、一つは肩書き。江のは「迪威将軍」、王のは「仏門弟子」。
午後、ミス・コウが来たが、あいにく茶菓子がまったくなく、秘蔵していた柿霜糖——口角の瘡に効く——を皿に盛って出すしかなかった。私はいつも多少の茶菓子を用意していて、客が来れば勧める。最初は「ミス」も「ミスター」も平等に扱っていたが、ミスターは時に手強く、すっかり平らげて一つも残さないことがある。自分が食べたくなったら、また買いに行かねばならない。そこで警戒心を抱き、方針を変えた。やむを得ない時は落花生で代用する。これが奏功し、いつも少量しか食べない。少量しか食べないので勧め始め、時には織芳のような者が落花生を恐れて退散することもある。昨年の夏にこの落花生政策を発明して以来、今なお厳格に施行中だ。だがミスたちは対象外で、彼女たちの胃は男性より五分の四小さいか、消化力が十分の八弱いようだ。小さな菓子でもたいてい半分残し、飴一枚でも一角を残す。皿に並べてしばらく置き、少し食べてもらっても損失は微々たるもの。「何ぞ改むるを要せんや」。
ミス・コウは滅多に来ない客で、落花生政策は適用しにくい。あいにく他の菓子もなく、柿霜糖を出すことにした。遠路はるばる持ち帰った名菓だから、鄭重さを示せる。
この飴はあまり一般的でないから、まず産地と効能を説明すべきだと思った。ところがミス・コウは一目瞭然だった。曰く、河南汜水県の産で、柿霜で作る。色は濃黄が最上で、薄黄なら純粋の柿霜ではない。大変涼性があり、口角の瘡ができた時にこれを含んで徐々に口角から流し出すと治る、と。
彼女は私の聞きかじりよりも詳しく、私は黙るしかなかった。そしてこの時はじめて彼女が河南人だったことを思い出した。河南人に柿霜糖を数枚ご馳走するとは、私に紹興酒を一杯飲ませるようなもので、まさに「その愚及ぶべからず」である。
茭白の芯に黒い点があるものを、私の故郷では灰茭と呼び、田舎者でさえ食べないが、北京では高級宴席に出る。白菜の巻いたものは北京で斤や車単位で売られるが、南方に行くと根に縄をつけて果物屋の軒先に逆さに吊るされ、両単位か半株で買う。用途は高級火鍋に入れるか、フカヒレの下敷きだ。だがもし北京で私に特に灰茭をご馳走し、あるいは北京人を南方に連れて行って煮白菜をご馳走すれば、「愚か者」とは言われないまでも、いささか奇矯だろう。
だがミス・コウは一枚食べてくれた。おそらく主人の面子を立てたのだろう。夜、手持ち無沙汰で考えた。これは河南以外の人にご馳走すべきだったのだ、と。考えながら食べ、いつの間にか食べ尽くしてしまった。
およそ物は珍しいほど貴ばれる。欧米に留学するなら、卒業論文は李太白・楊朱・張三を論じるのが最も良い。バーナード・ショーやウェルズを研究するのは不適切で、ましてやダンテの類はなおのこと。『ダンテ伝』著者バトラー(A.J.Butler)も、ダンテ関連の文献は読み切れないと言う。中国に帰ってからなら、ショーやウェルズ、果てはシェイクスピアまで論じられる。何年何月にマンスフィールドの墓前で慟哭しただの、何月何日何時にアナトール・フランスと頷き合っただの、彼が肩を叩いて「君は将来私に似てくるよ」と言っただの。「四書」「五経」の類は、地元ではやはり触れぬが吉。多少「流言」を交えても、「学理と事実」にさほどの害はあるまい。
【「俸給支給」を記す】
午後、中央公園でC君と小さな仕事をしていると、突然、好意ある旧同僚から急報が入った。部(省庁)で今日俸給が支給されたという。三割分で、本人が直接受け取りに行かねばならず、しかも三日以内だと。
さもなければ?
さもなければどうなるかは、彼は言わなかった。だがそれは「火を見るより明らか」で、さもなければ支給されないのだ。
金が手を通過するだけでも、たとえ檀越の布施でなくとも、人は総じて威張りたがるものだ。さもなくば、自分の無聊と卑小さを感じかねない。質屋は品物を持ち込んでも横柄な顔と高い帳場を構え、銅貨の両替店は「現洋買い取り」の札を貼って暗に「買い手」を自任する。紙幣は当然しかるべき場所で現金に換えられるべきだが、時に極めて短い期限を定め、整理券を取らせ、列に並ばせ、待たせ、辱めを受けさせる。軍警が監視し、手には伝統の革鞭。
従わないなら?金がもらえないどころか、鞭で打つぞ!
かつて私は言った——中華民国の官吏は皆平民の出身で、特別な種族ではないと。高尚な文人学士や新聞記者は彼らを異類と見なし、自分より格別に奇怪で蔑むべき存在だと考えるが、私のここ数年の経験からすれば、実のところさほど特別ではなく、あらゆる気性が普通の同胞とほぼ同じだ。だから金を扱う機会には、やはり少し威張りたがる癖がある。
「本人受領」問題の歴史は起源が古い。中華民国十一年には、このために方玄綽が不平を洩らし、私はそれを『端午節』という一篇に書いた。だが歴史は螺旋のようでありながら印板ではないので、今と昔にはやはり多少の違いがある。かつての盛時、「本人受領」を主張したのは「索薪会」——ああ、これらの専門用語を一々解説する暇はなく、紙ももったいない——の勇将たちだった。昼夜奔走し、国務院に叫び、財政部に座り込んで催促し、いったん手に入れると、一緒に催促に行かなかった者が功なくして禄を受けることに忍びず、多少の苦労を味わわせようとしたのだ。その心は——この金は我々が勝ち取ったもので、我々のものも同然だ。欲しければここまで布施を受けに来い。施衣や施粥で施主が受益者の家まで届けに行くものか、と。
だがそれは盛時の話だ。今はどんなに「催促」しても一文もくれず、偶然「支給」があればお上の恩恵であり、「催促」とは毛ほどの関係もない。ただし「本人受領」を布告する施主は今もいるが、もはや催促に長けた勇将ではなく、毎日「出勤の判」を押し、他の生活手段を持たぬ「不弐の臣」だ。つまり、かつての「本人受領」は催促に参加しなかった者への罰であり、今の「本人受領」は空腹のまま毎日部署に通えない者への罰なのだ。
だがこれは大意に過ぎず、それ以外の事情は身をもって体験しなければ説明しにくい。たとえば酸辣湯は、聞いたり語ったりするより自分で一口啜る方がよく分かるように。近頃、何人かの心底が怪しい名士が遠回しに忠告してきた。昨年の文章は数人と揉めるばかりで、文学芸術や天下国家を論じなくなったのは惜しい、と。しかし私は近頃むしろ悟ったのだ。身をもって経験した小事でさえ見通せず語り尽くせないのに、ましてや高尚壮大で判然としない事業をや。今の私は比較的身近な私事を語るしかない。冠冕堂皇なるいわゆる「公理」の類は、公理の専門家に任せておこう。
要するに、今の「本人受領」主張家はかつてに遥かに及ばない。これこそ「孤桐先生」の言うところの「毎況愈下」だ。しかも方玄綽のような空しい不平を洩らす者さえ、もう稀になったようだ。
「行くぞ!」急報を受けるや、私は公園を飛び出し、車に飛び乗り、まっすぐ役所に向かった。
門を入ると、巡査が直立敬礼してくれた。やはりある程度の地位の官吏であれば、久しく御無沙汰でも覚えているものだ。奥に入ると人影は少ない。勤務時間が午前に変わったので、皆すでに受け取って帰宅したのだろう。給仕を一人捕まえ、「本人受領」の手続きを確認した。まず会計科で証書を受け取り、その証書を持って花庁で金を受け取るという。
会計科に行くと、一人の部員が私の顔を見て証書を出してくれた。古参の部員で同僚の顔に精通しており、「本人確認」の重責を担っている。証書を受け取った後、私は特に深くお辞儀を二度して、感謝と別れの意を示した。
次は花庁だ。まず脇の入口を通ると「丙組」と貼紙があり、「百元未満」との小書きがある。自分の証書を見ると九十九元と記されており、心の中で思った。まさに「人生百に満たず、常に千歳の憂いを懐く……」と。そのまま中に入ると、私と同格くらいの官吏がいて、この「百元未満」は全俸のことで、私の分はここではなく奥の間だと言う。
奥の間に入ると大きな机が二つあり、数人が座っている。顔見知りの旧同僚が声をかけてくれた。証書を出し、署名して紙幣と交換。一帆風順だ。この組の傍らにはとても太った官吏が座っていて、おそらく監督者だろう。官紗の——あるいは紡綢か、私にはこの手のものがよく分からない——肌着のボタンを外し、脂肪で折り重なった胸腹を露わにして、汗の粒が悠然と皺を越えて流れ落ちていた。
この時、わけもなく感慨を覚えた。皆が今「災官」「災官」と言うが、「心広ければ体胖す」の者も少なくないではないか。二、三年前、教員が俸給の催促に騒いでいた頃でさえ、学校の教員控室で食べ過ぎて「ゲプッ」と胃のガスを口から逆流させている者がいた。
外の間に出ると、先ほどの同格くらいの官吏がまだいたので、つかまえて不平を言った。
「また何でこんなことをやるんだ。」と私。 「あの方のお考えで……」と彼は穏やかに、しかもにこにこしながら答えた。 「病人はどうする?戸板に乗せて担いで来るのか。」 「あの方が言うには、それらは別途処理する、と……」
私はすぐに理解したが、「門——役所の門——外漢」には分かりにくいだろうから、少し注釈を加えよう。ここで言う「あの方」とは総長または次長を指す。この時は指し示す対象がいささか曖昧だが、もう少し掘り下げれば特定できる。だがさらに掘り下げれば、また曖昧になるかもしれない。要するに、俸給を手にした以上、これらの事は「ほどほどにして、欲張るなかれ」であり、さもなくば多少の危険がある。私がこれだけ言ったことも、実はあまり穏当ではない。
そこで花庁を退出したが、旧同僚数人に出会い、しばし雑談した。まだ「戊組」があり、それは既に死亡した者の俸給を支給する組だそうで、この組はおそらく「本人受領」の必要がない。さらに今回の「本人受領」令を出したのは、「あの方」だけでなく「あの方々」もいるとのこと。「あの方々」は一聴すると「索薪会」の頭目のようだが、実はそうではない。役所にはとうに「索薪会」などなく、今回はもちろん別の新しい人物だ。
我々が今回「本人受領」した俸給は、中華民国十三年二月分のものだ。そこで事前に二つの学説が生まれた。一、十三年二月の俸給としてそのまま支給する。だが新任者や最近昇給した者は取り分がなく、不満が出る。そこで第二の新学説が当然のように起こった。以前のことは不問にし、今年六月分の俸給として支給する、と。だがこの説も不都合で、「以前のことは不問」の一句だけでもかなりの瑕疵がある。
この方法は以前にも苦心経営した者がいた。昨年、章士釗が私を免職した後、地位の上で打撃を与えたと自負し、文人学士たちの中にも手を叩いて喜ぶ者がいた。だが彼らはやはり聡明で、「机の上にも寝台の上にも床の上にも」溢れるドイツ語の書物を読んだ人々だ。即座に気づいた——私は官を失っただけでは凋落せず、未払い俸給を受け取って北京で暮らせると。そこで彼らの司長・劉百昭が部務会議で提案した。未払い俸給は支給せず、何月に受領しようと、その月の俸給とせよと。この方法が実行されれば、私への打撃は相当なもので、経済的圧迫を受けることになる。だが結局は通らなかった。致命傷は「以前のことは不問」という点にあり、劉百昭らは自ら革命党を名乗って何もかも新たにやり直すとは言えなかったからだ。
だから今でも政費が届くたびに支給されるのは以前の金であり、たとえ今年北京にいなくとも、十三年二月にはいたのだから、今いないからといって当時いたことまで否定するわけにはいかない。だが新学説が出た以上、多少は取り入れねばならず、多少取り入れることは多少の調和でもある。かくして今回の領収書は年月が十三年二月で、金額は十五年六月のものだ。
こうすれば、「以前のことを不問」にしたわけではなく、最近昇進や昇給した者も少し多く貰える。比較的周到と言えよう。私には損もなければ得もなく、北京にいて「本人」を示せさえすればよい。
簡単な日記をめくって調べると、今年すでに四回俸給を受け取っている。第一回は三元。第二回は六元。第三回は八十二元五角、すなわち二割五分で、端午節の夜に届いた。第四回は三割の九十九元、今回だ。さらに未払い俸給を計算すると、大約九千二百四十元、七月分は含めず。
私はすでに精神上の財主だと感じる。ただしこの「精神文明」はあまり頼りにならず、劉百昭が揺さぶりをかけてきた前例もある。将来、財務に長けた者が現れれば、「未払俸給整理会」なるものを設立するかもしれない。中に数人が座り、外に看板を掛け、未払い俸給のある者はみなそこへ交渉に行く。数日か数ヶ月後に人は消え、続いて看板も消え、精神上の財主は物質上の貧者に変わるのだ。
だが今はまことに九十九元を受け取り、生活にまた少し安心した。暇に乗じて少し議論をしておこう。
(七月二十一日。)
【談話を記す】
魯迅先生はまもなく廈門に行かれる。ご本人は気候の関係で長く留まれないかもしれないと言っておられるが、少なくとも半年か一年は北京におられない。これは実に名残惜しいことだと我々は感じている。八月二十二日、女子師範大学学生会が毀校周年記念を挙行し、魯迅先生が出席して一つの演説をされた。今回の在京中、最後の公開講演ではないかと思い、それを記録して、ささやかな記念の意を表したい。魯迅先生と言えば、やや冷静に過ぎ、やや傍観しているように感じる人もあろうが、実は常に熱烈な希望に満ち、豊かな感情を発揮しておられるのだ。今回の談話では、その主張が特に明瞭に見て取れる。ならば、この談話を記録して出京の記念とすることも、まったく重大な意義がないとは言えまい。私自身について、正直な人に心配をかけないよう申し添えておけば、当日の会に一人の小さな事務員として参加したのである。
〔培良〕
昨晩、『労働者シュヴィリガイロフ』を校正していて——もう一度刷り直すつもりで——就寝が遅くなり、今もまだ十分に覚めていない。校正中にふと幾つかの事が頭に浮かび、頭の中がひどく混乱したまま今に至っているので、今日はあまり多くを語れそうにない。
『労働者シュヴィリガイロフ』を翻訳した経緯には、少し面白い話がある。十二年前、ヨーロッパの大混戦が始まり、後に中国も参戦した。いわゆる「対独宣戦」である。多くの労働者をヨーロッパに派遣して助力させ、そして勝利した。いわゆる「公理の勝利」だ。中国も当然戦利品を分け前に預かる——上海にあったドイツ商人の倶楽部のドイツ語書籍もその一つで、総数は相当なもの、文学書が多く、すべて午門の門楼に運び込まれた。教育部がこれらの書籍を整理・分類しようとした——実は元々分類されていたのだが、分類が悪いと考える人がいて、改めて分類することになった。多くの人が派遣され、私もその一人だった。後に総長がこれらの書籍がどのようなものか見たいと言い出した。どうやって見るかと言えば、我々に中国語で書名を訳させた。意味が訳せれば意訳し、訳せなければ音訳した。カエサルだのクレオパトラだのダマスカスだの……。一人月十元の交通費があり、私も百元ほど受け取った。当時はまだ多少の事務費があったからだ。こうして一年余りの間に数千元を費やし、対独講和条約が成立した後、ドイツが返還を求め、検収した我々がそのまま全部引き渡した——数冊減っていたかもしれないが。「クレオパトラ」云々を総長が見たかどうかは、私は知らない。
私の知る限りでは、「対独宣戦」の結果、中国には中央公園の「公理戦勝」の牌坊が一つ残り、私にはこの『労働者シュヴィリガイロフ』の訳本が一篇残っただけだ。底本はまさにあの整理していたドイツ語書籍の中から選び出したものだから。
あの山のような書物の中に文学書は多かったのに、なぜ当時この一篇を選んだのか。その意図は今ではやや曖昧だ。おそらく、民国以前も以後も、我々にも多くの改革者がいて、その境遇がシュヴィリガイロフと酷似しているから、他人の酒杯を借りたのだろう。だが昨夜読み返してみると、あの当時だけでなく、たとえばその中の改革者の迫害や代表者の苦しみは、今でも——将来でも——数十年後でも、なお多くの改革者がこれと同じ境遇にあるだろうと思う。だから刷り直そうと思ったのだ……。
『労働者シュヴィリガイロフ』の作者アルツィバーシェフはロシア人だ。今やロシアと言えば人々を震え上がらせるようだが、それは大いに不要なことだ。アルツィバーシェフは共産党ではなく、彼の作品は今のソビエトロシアでも歓迎されていない。聞くところでは失明して大変苦しんでいるそうで、当然私に一ルーブルも送ってくれはしない……。要するに、ソビエトロシアとは何の関係もない。だが奇妙なことに、多くのことが中国と酷似している。改革者や代表者の苦しみは言うまでもなく、人に分を守れと教える老婆にしても、我々の文人学士とそっくりだ。ある教員が上司の罵倒を受けず免職になると、彼女は陰で責めて言った。「高慢」で可悪い、「ご覧なさい、私は以前ご主人に頬を二度叩かれましたが、一言も言わずに耐えました。結局彼らも私の冤罪を知り、親しく百ルーブルを下さったのです」と。もちろん我々の文人学士の措辞はこれほど拙直ではなく、文章ももっと華麗だが。
だがシュヴィリガイロフの最後の思想はあまりにも恐ろしい。彼は初め社会のために働いたが、社会は彼を迫害し、殺そうとさえした。そこで一変して社会への復讐に転じ、一切が仇、一切を破壊する。中国にはこのように一切を破壊する人はまだいないし、おそらくいないだろう。私もそうあることを望まない。だが中国には昔から別種の破壊者がいるため、我々が破壊しなければ、常に破壊される側になる。我々は一方で破壊され、一方で修繕しながら、辛苦の日々を送る。だから我々の生活は、破壊されては修繕し、破壊されては修繕する生活となった。この学校もまた、楊蔭楡・章士釗らの破壊を受けた後、修繕に修繕を重ねて続けてきたのだ。
ロシアの老婆のような文人学士はおそらく言うだろう——これは「高慢」で可悪い、罰を受けて当然だ、と。この言葉はもっともらしいが、必ずしもそうではない。私の家にはある田舎の女が住んでいる。戦争で家を失い、やむなく城内に逃げてきたのだ。彼女は決して「高慢」ではないし、楊蔭楡に反対したこともない。だが家を失い、破壊されたのだ。戦争が終われば必ず帰るだろう。家が壊れ、器物が散り、田畑が荒れていても、なお生きていかねばならない。おそらく残った僅かなものを集め、修繕に修繕を重ね、再び生きていくしかあるまい。
中国の文明とは、こうして破壊されては修繕し、破壊されては修繕する、疲弊し傷つき哀れなものなのだ。だがこれを誇る者は多く、破壊者でさえ誇る。本校を破壊した者も、もし万国婦人のなにかの会に派遣され、中国の女子教育の状況を述べよと言われれば、必ずこう言うだろう——わが中国には国立北京女子師範大学がある、と。
これはまことに惜しむべきことだ。我々中国人は、自分のものでないもの、あるいは自分のものでなくなるものは、破壊してしまわなければ気が済まないのだ。楊蔭楡は学長の座を追われると分かるや、文にはの文士の「流言」を用い、武には三河の老媽を使い、「小娘ども」を一人残らず追い払わずにはおかなかった。かつて記録で張献忠の四川民殺戮を読んだ時、彼の意図がどうしても分からなかった。後に別の本を読んで初めて分かった——彼はもともと皇帝になろうとしたが、李自成が先に北京に入って皇帝になってしまった。そこで李自成の帝位を破壊しようとした。どうやって?皇帝には臣民が必要だ。臣民を殺し尽くせば、皇帝も誰にもなれない。臣民がいなければ皇帝も存在せず、残るのは李自成一人、白地の上で醜態を晒すのみ。あたかも学校解散後の学長のように。これは滑稽な極端な例だが、このような考え方をする者は決して張献忠一人ではない。
我々はやはり中国人であり、中国の事に遭遇し続ける。だが我々は中国式の破壊者ではないから、破壊されては修繕し、破壊されては修繕する生活を送ることになる。我々の多くの寿命は無駄に費やされる。我々が自ら慰めとし得るもの、考えに考えて思い当たるのは、やはり将来への希望というものだ。希望は存在に付随する。存在があれば希望があり、希望があれば光明がある。もし歴史家の言葉が嘘でなければ、世の中の事物で暗黒のゆえに長く存在した前例はまだない。暗黒はただ滅びゆくものに付随し、それが滅びれば暗黒もともに滅ぶ。永久ではない。だが将来は永遠に来るべきものであり、必ず光明に向かう。暗黒の付着物とならず、光明のために滅びるならば、我々には必ず悠久の将来があり、しかもそれは必ず光明の将来だ。
私がこの会に赴いた四日後に北京を発った。上海で新聞を見ると、女師大は既に女子学院の師範部に改組され、教育総長の任可澄が自ら院長となり、師範部の学長は林素園だと知った。後に北京九月五日の夕刊で一条の記事を目にした。「本日午後一時半、任可澄は特に林氏を伴い、警察庁保安隊および軍督察処の兵士計約四十名を率いて女師大に急行し、武装接収した……」。なんと一周年にして再び兵を用いるのを目にした。来年のこの日は、兵を率いる者が開校記念を開くのか、兵を受ける者が毀校記念を開くのか。今はひとまず培良君のこの一篇をここに転録し、今年の記念としよう。
一九二六年十月十四日、魯迅附記。
【上海通信】
小峰兄へ:
お別れの翌日、列車に乗り、その晩天津に着いた。道中は何事もなかったが、天津駅を出た途端、制服を着た男——おそらく税関吏の類だろう——が突然私の手提げ籠を引っ張り、「何だ?」と問うた。「身の回りの品です」と答える間もなく、彼は既に籠を二、三度揺すって、意気揚々と去って行った。幸い籠の中に朝鮮人参のスープもザーサイのスープもガラス器もなかったので、何の損害もなかった。ご心配なく。
天津から浦口へは特別快速に乗ったので喧しくはなかったが、混んではいた。七年前に家族を北京へ送って以来、この列車には乗っていなかった。今はどうやら男女別席のようで、隣の個室は元々男一人女三人の一家だったが、男は追い出され、代わりに別の女性が入った。浦口の手前でまた小さな悶着が起きた。あの四人家族がボーイへのチップが少な過ぎたためで、長身偉丈夫のボーイが我々の個室に来て演説を始めた。「聞かせる」ためだ。その要旨は——金は当然要る。人が金のためでなくて何のためだ。だが自分がボーイをして幾ばくかのチップを稼ぐのは、良心がまだここ(胸を指す)にあるからだ、あっち(脇の下を指す)に行ってはいない。自分だって田畑を売り払って鉄砲を買い、匪賊を集めて頭目になることもできる。うまくやれば昇進も蓄財もできる。だが良心がまだここにあるから、甘んじてボーイをして小銭を稼ぎ、子供に勉強させて、将来まともに暮らさせたいのだ。……だが、あまり自分を侮辱されると、人がやらぬことだって何でもやりかねない! 我々六人、誰も反論しなかった。後で聞いたところ、一元追加して決着がついたそうだ。
私は勇敢な文人学士の後塵を拝して、北京刊行の週刊誌で孫伝芳大元帥を罵倒するつもりはない。だが下関に着き、ここが投壺の礼儀の国であることを思い出すと、やはり滑稽の感を禁じ得ない。私の目には下関はまだ七年前の下関で、ただあの時は暴風雨、今回は晴天だったというだけだ。特別快速には間に合わず、夜行を待つことにして、旅館で暫く休んだ。担ぎ人夫(当地のいわゆる「夫子」)もボーイも相変わらず正直で、板鴨・叉焼・油鶏などの類も依然として安くて旨い。高粱酒を二合飲んだが、北京のより旨い。もちろんこれは「私が思う」に過ぎないが、理由がないわけでもない。わずかに生の高粱の匂いがして、飲んだ後に目を閉じると、雨上がりの野原にいるようなのだ。
野原にいるところへ、ボーイが来て外で人が話したいと言う。出てみると、数人と三、四人の兵が銃を背負っている。正確に何人かは数えなかったが、とにかく大勢だ。その中の一人が荷物を見たいと言う。どれを先に見るかと聞くと、麻布で包んだ革の鞄を指した。縄を解き、鍵を開け、蓋を開けると、彼は膝をついて衣服の間を探り始めた。しばらく探ってがっかりしたらしく、立ち上がって手を振ると、兵士たちは一斉に「回れ右」して出て行った。指揮していた男は去り際に私に頷き、非常に丁寧だった。現在の「有銃階級」との接触は、民国以来これが
初めてだ。彼らは決して悪くないと感じた。もし彼らも「無銃階級」を自称する者たちのように巧みに「流言」を作るなら、私は道を歩くこともできまい。
上海行きの夜行は十一時発で、客は少なく、横になって寝られるはずだったが、あいにく椅子が短く、体を曲げなければならなかった。この列車のお茶は素晴らしく、ガラスのコップに注がれ、色も香りも味も良い。何年も井戸水の茶を飲んできた私が大袈裟に騒いでいるだけかもしれないが、おそらく確かに旨いのだ。そこで計二杯飲み、窓の外の夜の江南を眺め、ほとんど眠らなかった。
この列車で初めて英語を連発する学生に出会い、「無線電信」「海底電報」といった言葉を耳にした。またこの列車で初めて、ひ弱そうな若旦那を見た。絹の衫に先の尖った靴、口で南瓜の種を嚙りながら、手には『消閑録』の類の小新聞を持ち、しかもいつまでも読み終わらない。この手合いは江浙に特に多いようで、投壺の日々はまだ長く続きそうだ。
今は上海の旅館にいる。早く出発したい。数日歩いたら、歩くのが楽しくなってきた。いつまでも歩き回っていたい。以前ヨーロッパに「ジプシー」という民族がいると聞いた。移動を好み、定住を嫌う。ひそかに彼らの気性は奇妙だと思っていたが、今になって彼らには彼らなりの道理があると分かった。愚かだったのは私の方だ。
ここは雨で、さほど暑くはない。
魯迅。八月三十日、上海にて。
この半年、私はまた多くの血と多くの涙を見た。 しかし私にはただ雑感があるのみ。
涙は拭われ、血は消えた。 虐殺者たちは悠々とまた悠々と、 鋼の刀を使う者も、柔らかい刀を使う者も。 しかし私にはただ「雑感」があるのみ。
「雑感」さえも「然るべき場所に放り込まれた」時、 私にはただ「のみ」があるのみ!
(十月十四日夜、校了に記す。)