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= 故事新編 (故事新编) = | = 故事新編 (故事新编) = | ||
| − | ''' | + | '''魯��� (ルーシュン, 1881-1936)''' |
中国語からの日本語翻訳。 | 中国語からの日本語翻訳。 | ||
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| + | === 第1節 === | ||
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| + | 故事新編 | ||
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| + | 序言 | ||
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| + | この小さな集子は、書き始めてから編み終えるまでに経た日数は実に長い。まる十三年だ。 | ||
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| + | 第一篇「補天」――元は「不周山」と題していた――はまだ一九二二年の冬に書き上げたものだ。当時の考えは、古代と現代の双方から題材を取って短篇小説を書こうというもので、「不周山」は「女媧煉石補天」の神話を取り、試みに書いた第一篇だった。最初はとても真面目だったが、フロイト説を借りて創造――人間と文学の――の起源を解釈しようとしただけだった。なぜか途中で筆を止め、新聞を見に行った。不幸にも、汪静之君の『蕙の風』に対するある人物の批評を見た。「涙ながらに哀願する、青年よこのような文字を書かないでくれ」と。この哀れな陰険さに滑稽を感じ、再び小説を書いた時には、どうしても古い衣冠の小男が女媧の両脚の間に現れることを止められなかった。これが真面目から油滑に陥った始まりだ。油滑は創作の大敵であり、私は自分に甚だ不満だった。 | ||
| + | |||
| + | こうした小説はもう書くまいと決心し、『吶喊』を編む際にこの篇を巻末に付け、一つの始まりであり、また一つの終わりとした。 | ||
| + | |||
| + | この時、批評家の成仿吾先生が創造社の門前で「魂の冒険」の旗の下に板斧を振り回していた。彼は「庸俗」の罪で『吶喊』を数斧で斬り殺し、ただ「不周山」だけを佳作と推した。正直に言えば、これこそ私がこの勇士を心服できないどころか軽蔑した原因である。 | ||
| + | |||
| + | 一九二六年の秋になって、厦門の石屋に一人で住み、大海に向かって古書を繰り、四方に人気なく、心は空洞だった。そこで回想が心に出土し、十篇の「朝花夕拾」を書いた。同時に古代の伝説を拾い集めて八則の「故事新編」を完成させるつもりだった。しかし「奔月」と「鋳剣」を書いただけで広州に駆けつけ、この仕事はまた完全に放置された。 | ||
| + | |||
| + | 今やっと一冊にまとめた。速写が多く、「文学概論」にいうところの小説とは呼べない。叙事は旧書に根拠があることもあるが、口から出まかせのこともある。古人に対する敬意が今人に対するほどではないので、やはり油滑を免れない。十三年経っても進歩がないのは、見るに「不周山の類にすぎない」が、古人をさらに死なせてはいないから、しばらくは存在の余地があるかもしれない。 | ||
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| + | 一九三五年十二月二十六日。魯迅。 | ||
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| + | 補天 | ||
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| + | 一 | ||
| + | |||
| + | 女媧は突然目覚めた。 | ||
| + | |||
| + | 夢から驚いて覚めたようだが、どんな夢を見たかもう覚えていない。ただとても煩悶で、何かが足りないようでもあり、何かが多すぎるようでもあった。煽動する和風、暖かな温もりが、彼女の気力を宇宙に吹き散らした。 | ||
| + | |||
| + | 彼女は自分の目を擦った。 | ||
| + | |||
| + | 粉紅色の空に、曲がりくねった石緑色の浮雲が幾筋も漂い、その背後で星が明滅している。天辺の血紅色の雲の中に光芒四射の太陽があり、流動する金球のように荒古の熔岩に包まれている。もう一方には生鉄のように冷たく白い月。しかし彼女は誰が沈み誰が昇るかに構わなかった。 | ||
| + | |||
| + | 地上はすべて嫩緑で、あまり葉を替えない松柏さえ格別に瑞々しい。桃紅と青白色の斗のように大きな雑花が、目前では分明だが遠くでは斑爛たる霞となっている。 | ||
| + | |||
| + | 「ああ、こんなに退屈だったことはない!」と彼女は思い、猛然と立ち上がった。あの非常に円満で精力に溢れた臂を天に向けて伸びをすると、空はたちまち色を失い、不思議な肉紅色に変わり、彼女のいる場所も一時見分けがつかなくなった。 | ||
| + | |||
| + | 彼女はこの肉紅色の天地の間を歩いて海辺に至った。全身の曲線が淡いバラ色の光の海に溶け込み、身体の中央だけが純白に濃くなった。波濤は驚き、秩序正しく起伏した。しかし浪花が彼女の身に飛沫した。この純白の影が海水の中で揺れ動き、まるで全体が四方八方に迸り散ろうとしているかのようだった。しかし彼女自身は気づかず、ただ自然に片膝をつき、手を伸ばして水を含んだ軟泥をすくい、数度捏ね揉むと、両手の中に自分に似た小さなものが出来上がった。 | ||
| + | |||
| + | 「あは!」 | ||
| + | |||
| + | 彼女は余りにも嬉しくて笑い声を上げた。それが地面に降り立つと、すぐに「まーまー」と叫んだ。最初は這い回り、すぐに立ち上がって歩き出し、そして走った。 | ||
| + | |||
| + | 彼女はこうして多くの小さな人間を造った。造っては地面に置き、彼らは皆嬉しそうに「まーまー」と叫びながら走り回った。やがて彼女は疲れたが、まだ足りなかった。そこで藤蔓を泥水に浸して振り回すと、飛び散った泥しぶきが地面に落ちて皆人間になった。 | ||
=== 第2節 === | === 第2節 === | ||
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後記 | 後記 | ||
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華蓋集続編 | 華蓋集続編 | ||
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上海通信 | 上海通信 | ||
| − | |||
華蓋集続編の続編 | 華蓋集続編の続編 | ||
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海上通信 | 海上通信 | ||
| − | |||
而已集 | 而已集 | ||
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大衍発微 | 大衍発微 | ||
| − | |||
=== 第3節 === | === 第3節 === | ||
華蓋集 | 華蓋集 | ||
| − | |||
| − | |||
題記 | 題記 | ||
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一九二五年十二月三十一日の夜、緑林書屋の東壁の下にて記す。 | 一九二五年十二月三十一日の夜、緑林書屋の東壁の下にて記す。 | ||
| + | |||
| + | === 第4節 === | ||
| + | |||
| + | 一九二五年 | ||
| + | |||
| + | 咬文嚼字(一から二まで) | ||
| + | |||
| + | 一 | ||
| + | |||
| + | 伝統思想の束縛から脱却して男女平等を主張する男が、外国の女性の姓を訳す時にはことさら軽やかで艶麗な字を好んで使う。草冠、女偏、糸偏を加えるのだ。「思黛児」でなければ「雪琳娜」だ。西洋と我々は遠く離れているが、姓には男女の別がなく、中国と同じだ(スラブ民族が語尾で若干区別する以外は)。だから我々周家の娘が別に「絹」と名乗る必要がなく、陳府の奥方も別姓にする必要がないのと同じく、オーウェン嬢を「嫗紋」と改める必要はなく、トルストイ夫人のために特別に苦心して「妥嬭絲苔」と書く必要もないのだ。 | ||
| + | |||
| + | 伝統思想の束縛から脱却して世界文学を紹介する文人が、外国人に中国の姓を名乗らせたがる。Gogolは郭姓、Wildeは王姓、D'Annunzioは段姓か唐姓、Holzは何姓、Gorkyは高姓、Galsworthyも高姓。もし彼がゴーリキーに触れたら「我が高家のrky」と呼ぶのだろう。『百家姓』一冊がいまだにこれほどの威力を持つとは思いもよらなかった。 | ||
| + | |||
| + | (一月八日。) | ||
| + | |||
| + | 二 | ||
| + | |||
| + | 昔、我々が化学を学んだ頃、教科書には「金」偏と非「金」偏の奇怪な字がたくさん出てきた。元素名だという。偏旁は「金属」か「非金属」を示し、もう片方はおそらく音訳だ。しかし化学の先生も説明に苦労し、「今回は馴染みの悉」「今回は休息の息」と注釈を加えなければならなかった。今は有機化学が訳されるようになり、この種の怪字はさらに増え、さらに難しくなった。中国の化学者は皆新しい倉頡を兼ねることができる。思うに、原文をそのまま使って造字の労を省けば、本職の化学でもっと成果が上がるだろう。 | ||
| + | |||
| + | 北京ではよく見かけるさまざまな地名がある。「闢才胡同」「乃茲府」「丞相胡同」「協資廟」「高義伯胡同」「貴人関」。しかし底を探ると、元は「劈柴胡同」「奶子府」「縄匠胡同」「蝎子廟」「狗尾巴胡同」「鬼門関」だったという。字面は変わったが意味は元のままだ。 | ||
| + | |||
| + | (二月十日。) | ||
| + | |||
| + | 青年必読書 | ||
| + | |||
| + | ――『京報副刊』の募集に応じて | ||
| + | |||
| + | 青年必読書:これまで気にしたことがないので、今は言えない。 | ||
| + | |||
| + | 附注:しかしこの機会を借りて自分の経験を少々述べ、若干の読者の参考に供したい。 | ||
| + | |||
| + | 私の考えでは中国の書をあまり読むな、あるいは全く読むな。中国の書を多く読めば読むほど言葉が出なくなり、最終的には口が利けなくなる。しかし外国の書を読み過ぎると、中国のことを忘れがちになる。 | ||
| + | |||
| + | 私はこれが自分への批判を招くことを知っている。しかし私の主張は変わらない。中国人を毒するものは中国の書であり、これは事実だ。 | ||
| + | |||
| + | === 第5節 === | ||
| + | |||
| + | 一九二六年 | ||
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| + | 閑事を管する・学問をする・灰色等についての雑論 | ||
| + | |||
| + | 1 | ||
| + | |||
| + | 聞くところによると今年から陳源(即ち西瀅)教授は閑事を管さなくなるそうだ。この予言は『現代評論』五十六期の『閑話』にあるという。恥ずかしながら私はこの号を拝読しておらず、詳しいことは知らない。もし本当なら、例の決まり文句で「惜しい」と言う以外に、自分の愚かさに驚く。この年になって、陽暦の十二月三十一日と一月一日の間にこれほどの大変動が起こりうることを知らなかったとは。 | ||
| + | |||
| + | しかしまだ考えてもわからないことがある。天下に閑事があるのか、人が閑事を管するのか。私の考えでは世の中に閑事なるものはおそらくなく、人が管することですべてが自分と関わりを持つ。人類を愛するのも自分が人間だからだ。もし火星でだれかが喧嘩していると知って大騒ぎするなら閑事と言えようが、火星の事を「知る」ことができるならすでに通信可能であり、関係は密接になっている。我々の地球上では、どこの事であれすべて我々に関係がある。それを管さないのは知らないか管しきれないからであって、「閑」だからではない。 | ||
| + | |||
| + | だから閑事というものがあるとすれば、閑事を管する陳源教授は超人ということになる。 | ||
| + | |||
| + | (中略) | ||
| + | |||
| + | 2 | ||
| + | |||
| + | 昨日午後、沙灘から帰宅した時、大琦君が訪ねてきたと知った。嬉しかった。彼が病院に入ったのではないかと案じていたからだ。特に嬉しかったのは、彼が『現代評論増刊』を一冊残してくれたことだ。表紙に細長い蝋燭が描かれているのを見れば光明の象徴とわかり、しかも多くの名人学者の著作があり、中でも陳源教授の「学問をする道具」がある。 | ||
| + | |||
| + | 今初めて知ったのだが、南池子の「政治学会図書館」は去年「時局の関係で貸出実績が三倍から七倍に伸びた」そうだ。しかし陳源教授の言う「孤桐先生」即ち章士釗は、ベルリンで二部屋に「社会主義に関するドイツ語の本」がぎっしり詰まっていたという。 | ||
| + | |||
| + | しかし残念なことに、民衆がこの「孤桐先生」の「寒家」を「再び毀した」時、「御夫妻の蔵書は散佚してしまったらしい」。数十台の荷車で各方面に散っていったのだろう。見に行かなかったのが残念だ。さぞ壮観だったことだろう。 | ||
| + | |||
| + | 「短短の一部の『四書』」と言っても、漢宋明清の多くの儒家の注疏理論を研究せねば「四書の真の意味は理解しにくい」。数百数千の参考書が必要だそうだ。 | ||
| + | |||
| + | しかし漢人の「四書」注疏というものを私は聞いたこともない。張之洞先生が「束髪の小生」のために書いた『書目答問』にも「四書は南宋以後の名」とある。『漢書芸文志』『隋書経籍志』にも「五経」「六経」「七経」はあっても「四書」はない。ましてや漢人の注疏など。 | ||
| + | |||
| + | === 第6節 === | ||
| + | |||
| + | 華蓋集続編の続編 | ||
| + | |||
| + | 厦門島での四ヶ月間、つまらぬ文章を数篇書いただけで、最もつまらぬものを除くと六篇残り、これを「華蓋集続編の続編」と称する。一年中に書いた雑感はこれで全部だ。 | ||
| + | |||
| + | 一九二七年一月八日、魯迅記す。 | ||
| + | |||
| + | 厦門通信 | ||
| + | |||
| + | H.M.兄: | ||
| + | |||
| + | ここに来てもうすぐ一ヶ月になりますが、三階建ての楼に怠惰にして、各方面にほとんど手紙を書いていません。この楼はすぐ海辺にあって、昼も夜も海風にびゅうびゅう吹かれています。海辺にはかなり貝殻があり、何度か拾いましたが、特別なものはありません。周りに家は多くなく、私が知る最寄りの店は一軒きりで、缶詰や菓子を売っており、番頭は女性で、年格好からすると私より一世代上でしょう。 | ||
| + | |||
| + | 景色は一見悪くなく、山もあり水もあります。着いた時、ある同僚がすぐに教えてくれました。「山光海気は春秋朝暮すべて異なる」と。石も指差して見せてくれました。「これは虎に似ている、あれは蝦蟇に似ている、あれはまた何々に……」忘れてしまいましたが、実はあまり似ていませんでした。私は自然美への感受性に乏しいことを自ら恥じており、たとえ良辰美景に遭遇してもさほど感動しません。しかし何日も忘れられなかったのは鄭成功の遺跡です。私の住所からそう遠くないところに城壁があり、彼が築いたと言います。台湾を除けば、この厦門こそ満人の入関後、我々中国が最後に亡んだ地であると思うと、悲しくもあり嬉しくもあります。台湾は一六八三年、いわゆる「聖祖仁皇帝」二十二年にようやく亡んだのです。 | ||
| + | |||
| + | 周りは非常に静かで、近くには北京や上海の新しい出版物が一つも買えません。時に寂しさを覚えますが、あの灰烟瘴気の『現代評論』も見かけません。あれほど多くの正人君子、文人学者が筆を執っていながら、なぜあまり流行しないのか不思議です。 | ||
| + | |||
| + | ここ数日、今年の雑感を編もうと思っています。これらのものを書いて以来、特に陳源に関するものを書いて以来、「中立」を自称する何人かの君子が忠告してくれました。「これ以上書くとつまらなくなりますよ」と。しかし私は忠告のせいではなく、環境の変遷で近頃雑感がなく、旧作をまとめることも忘れていたのです。数日前の夜、突然梅蘭芳「芸員」の歌声が聞こえてきました。蓄音機に残されたもので、粗くて鈍い針先のように鼓膜を刺して不快でした。そこで自分の雑感を思い出しました。おそらくこれも梅「芸員」を崇拝する正人君子たちを刺激して不快にさせるから、もう書くなと言うのだろうと。しかし私の雑感は紙に印刷されたもので空気を震動させません。見たくなければ開かなければよいのです。わざわざ中立を装って私を騙す必要はありません。 | ||
| + | |||
| + | (中略) | ||
| + | |||
| + | 厦門通信(二) | ||
| + | |||
| + | 散歩に出ることもあります。叢葬の中を。これはBorelが厦門について書いた本の中で早くから言っていたことです。中国全国がすなわち一つの大墓場だと。墓碑文に通じないものが多く、先妣某と書いて息子の姓名がないもの、頭に横書きで地名があるもの、「敬惜字紙」の四字が刻まれたものまであり、誰に字紙を敬惜させるのかわかりません。こうした文盲ぶりは読書したせいです。字の読めない人に墓の中の人は誰かと聞けば「父親」と答え、名前を聞けば「張二」と言い、自分の名を聞けば「張三」と言う。そのまま書けば明瞭だ。しかし碑を書く人が文を弄ぶから、かえって弄べば弄ぶほどわけがわからなくなる。 | ||
| + | |||
| + | 私は以前と同じです。ただあまりに静かで、何も書く気になりません。 | ||
| + | |||
| + | 魯迅。九月二十三日。 | ||
| + | |||
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Latest revision as of 14:00, 26 April 2026
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対訳: ZH-EN · ZH-DE · ZH-FR · ZH-ES · ZH-IT · ZH-RU · ZH-AR · ZH-HI · ZH-JA · ← 目次
故事新編 (故事新编)
魯��� (ルーシュン, 1881-1936)
中国語からの日本語翻訳。
第1節
故事新編
序言
この小さな集子は、書き始めてから編み終えるまでに経た日数は実に長い。まる十三年だ。
第一篇「補天」――元は「不周山」と題していた――はまだ一九二二年の冬に書き上げたものだ。当時の考えは、古代と現代の双方から題材を取って短篇小説を書こうというもので、「不周山」は「女媧煉石補天」の神話を取り、試みに書いた第一篇だった。最初はとても真面目だったが、フロイト説を借りて創造――人間と文学の――の起源を解釈しようとしただけだった。なぜか途中で筆を止め、新聞を見に行った。不幸にも、汪静之君の『蕙の風』に対するある人物の批評を見た。「涙ながらに哀願する、青年よこのような文字を書かないでくれ」と。この哀れな陰険さに滑稽を感じ、再び小説を書いた時には、どうしても古い衣冠の小男が女媧の両脚の間に現れることを止められなかった。これが真面目から油滑に陥った始まりだ。油滑は創作の大敵であり、私は自分に甚だ不満だった。
こうした小説はもう書くまいと決心し、『吶喊』を編む際にこの篇を巻末に付け、一つの始まりであり、また一つの終わりとした。
この時、批評家の成仿吾先生が創造社の門前で「魂の冒険」の旗の下に板斧を振り回していた。彼は「庸俗」の罪で『吶喊』を数斧で斬り殺し、ただ「不周山」だけを佳作と推した。正直に言えば、これこそ私がこの勇士を心服できないどころか軽蔑した原因である。
一九二六年の秋になって、厦門の石屋に一人で住み、大海に向かって古書を繰り、四方に人気なく、心は空洞だった。そこで回想が心に出土し、十篇の「朝花夕拾」を書いた。同時に古代の伝説を拾い集めて八則の「故事新編」を完成させるつもりだった。しかし「奔月」と「鋳剣」を書いただけで広州に駆けつけ、この仕事はまた完全に放置された。
今やっと一冊にまとめた。速写が多く、「文学概論」にいうところの小説とは呼べない。叙事は旧書に根拠があることもあるが、口から出まかせのこともある。古人に対する敬意が今人に対するほどではないので、やはり油滑を免れない。十三年経っても進歩がないのは、見るに「不周山の類にすぎない」が、古人をさらに死なせてはいないから、しばらくは存在の余地があるかもしれない。
一九三五年十二月二十六日。魯迅。
補天
一
女媧は突然目覚めた。
夢から驚いて覚めたようだが、どんな夢を見たかもう覚えていない。ただとても煩悶で、何かが足りないようでもあり、何かが多すぎるようでもあった。煽動する和風、暖かな温もりが、彼女の気力を宇宙に吹き散らした。
彼女は自分の目を擦った。
粉紅色の空に、曲がりくねった石緑色の浮雲が幾筋も漂い、その背後で星が明滅している。天辺の血紅色の雲の中に光芒四射の太陽があり、流動する金球のように荒古の熔岩に包まれている。もう一方には生鉄のように冷たく白い月。しかし彼女は誰が沈み誰が昇るかに構わなかった。
地上はすべて嫩緑で、あまり葉を替えない松柏さえ格別に瑞々しい。桃紅と青白色の斗のように大きな雑花が、目前では分明だが遠くでは斑爛たる霞となっている。
「ああ、こんなに退屈だったことはない!」と彼女は思い、猛然と立ち上がった。あの非常に円満で精力に溢れた臂を天に向けて伸びをすると、空はたちまち色を失い、不思議な肉紅色に変わり、彼女のいる場所も一時見分けがつかなくなった。
彼女はこの肉紅色の天地の間を歩いて海辺に至った。全身の曲線が淡いバラ色の光の海に溶け込み、身体の中央だけが純白に濃くなった。波濤は驚き、秩序正しく起伏した。しかし浪花が彼女の身に飛沫した。この純白の影が海水の中で揺れ動き、まるで全体が四方八方に迸り散ろうとしているかのようだった。しかし彼女自身は気づかず、ただ自然に片膝をつき、手を伸ばして水を含んだ軟泥をすくい、数度捏ね揉むと、両手の中に自分に似た小さなものが出来上がった。
「あは!」
彼女は余りにも嬉しくて笑い声を上げた。それが地面に降り立つと、すぐに「まーまー」と叫んだ。最初は這い回り、すぐに立ち上がって歩き出し、そして走った。
彼女はこうして多くの小さな人間を造った。造っては地面に置き、彼らは皆嬉しそうに「まーまー」と叫びながら走り回った。やがて彼女は疲れたが、まだ足りなかった。そこで藤蔓を泥水に浸して振り回すと、飛び散った泥しぶきが地面に落ちて皆人間になった。
第2節
魯迅全集・第三巻
華蓋集
題記
——一九二五年——
咬文嚼字(一至二)
青年必読書
忽然想到(一至四)
通信
論弁の魂霊
犠牲謨
戦士と蒼蠅
夏三虫
忽然想到(五至六)
雑感
北京通信
導師
長城
忽然想到(七至九)
「碰壁」の後
並びに閑話にあらず
我が「籍」と「系」
咬文嚼字���三)
忽然想到(十至十一)
補白
KS君に答う
「碰壁」の余
並びに閑話にあらず(二)
十四年の「読経」
評心雕龍
これとあれ
並びに閑話にあらず(三)
我、北大を観る
砕話
「公理」の手品
今回は「多数」の手品
後記
華蓋集続編
小引
——一九二六年——
雑論 管閑事・做学問・灰色等
有趣な消息
学界の三魂
古書と白話
一つの比喩
信にあらず
我はまだ「帯住」できず
送竈日漫筆
皇帝を談ず
花なき薔薇
花なき薔薇の二
「死地」
可惨と可笑
劉和珍君を記念す
空談
かくの如き「討赤」
花なき薔薇の三
新しき薔薇
もう一度
半農のために「何典」に題記の後、作る
馬上日記
馬上支日記
馬上日記の二
「発薪」を記す
談話を記す
上海通信
華蓋集続編の続編
廈門通信
廈門通信(二)
阿Q正伝の成因
「三蔵取経記」等に関して
いわゆる「思想界先駆者」魯迅の啓事
廈門通信(三)
海上通信
而已集
題辞
——一九二七年——
黄花節の雑感
略ぼ中国人の顔を論ず
革命時代の文学
「労働問題」の前に書く
略ぼ香港を談ず
読書雑談
通信
有恒先生に答う
「大義」を辞す
「漫談」に反す
「天乳」を憂う
「首領」を革す
「激烈」を談ず
扣糸雑感
「公理」の所在
可悪の罪
「意表の外」
新時代の貸金法
魏晋の風度及び文章と薬及び酒の関係
小雑感
再び香港を談ず
革命文学
「塵影」題辞
陶元慶君の絵画展覧の時
ルソーと胃袋
文学と発汗
文芸と革命
いわゆる「大内档案」を談ず
擬豫言
附録
大衍発微
第3節
華蓋集
題記
一年の暮れの深夜に、この一年間に書いた雑感を整理してみると、なんと『熱風』に収めた丸四年間に書いたものよりも多かった。意見の大部分は相変わらずだが、態度はあの頃ほど直截ではなくなり、措辞もしばしば遠回しになり、議論もまたしばしば些末な事柄に拘泥していて、大方の識者の笑いを買うに十分であろう。しかし他にどうしようもないではないか。今年はたまたまこうした些末な事柄に出会い、しかも些末な事柄に拘泥する気質があったのだ。
私は偉大な人物が三世を見通し、一切を観照し、大いなる苦悩を経て、大いなる歓喜を味わい、大いなる慈悲を発することを知っている。しかし私はまた、それには深く山林に入り、古木の下に坐し、静観黙想して天眼通を得なければならず、人間界から離れれば離れるほど、人間界をますます深く、ますます広く知るのであり、そうすれば発する言葉もますます高く、ますます大きくなり、かくして天人の師となるのだということも知っている。私は幼い頃、空を飛ぶ夢を見たが、今なお地上にいて、小さな傷の手当てすら間に合わず、心を開いて意を豁くするような余裕はない。立論はすべて公正妥当、平正通達で、「正人君子」のごとくなどとはいかない。ちょうど水に濡れた小蜂のように、泥の上を這い回っているだけで、洋館の中の通人に比肩しようなどとは決して思わないが、それでも自ずから悲苦憤激があり、それは断じて洋館の中の通人に理解できるものではない。
この病の根底は、私が人間界に生きていて、しかも一介の凡人であり、「華蓋運」に当たっているということにある。
私は生まれてこのかた算命を学んだことはないが、年長者から聞いた話では、人には時として「華蓋運」に当たることがあるという。この「華蓋」は彼らの口頭ではおそらくすでに「鑊蓋」に訛っているであろうから、ここに訂正しておく。したがって、この運は和尚にとっては吉運である。頭上に華蓋があるのだから、当然、成仏作祖の兆しである。しかし俗人はそうはいかない。華蓋が上に被さっては、覆いかぶさるだけで、釘に頭をぶつけるしかない。私が今年雑感を書き始めた時、早速二つの大きな釘にぶつかった。一つは『咬文嚼字』のため、もう一つは『青年必読書』のためである。署名および匿名の豪傑諸氏からの罵倒の手紙は一大束になり、今なお書棚の下に詰め込んである。その後また突然、いわゆる学者、文士、正人、君子等々に出くわした。聞くところによれば、みな公の話をし、公理を談じ、しかも深く「党同伐異」をよしとしない人々だという。惜しいことに、私は彼らとあまりにも違っていたので、彼らに何度か伐たれもした——しかしこれは当然「公理」のためであって、私の「党同伐異」とは異なるのだ。こうして現在に至るまでまだ決着がつかず、「来年を待つ」ほかない。
こんな短評を書くなと忠告してくれる人もいた。その好意には大いに感謝しているし、創作の貴さを知らないわけでもない。しかしこういうものを書きたくなる時には、やはりこういうものを書かずにはいられまい。もし芸術の殿堂にそのような面倒な禁令があるならば、いっそ入らないほうがましだ。砂漠に立って飛砂走石を眺め、嬉しければ大いに笑い、悲しければ大いに叫び、怒れば大いに罵り、たとえ砂礫に打たれて全身がざらざらになり、頭は割れて血が流れようとも、時折自分の凝った血を撫でて、模様があるように思えば、中国の文士たちに従ってシェイクスピアと一緒にバター付きパンを食べるよりも、面白くないこともないだろう。
しかし、ただ恨めしいのは私の眼界が狭いことで、中国一国だけでも、この一年の大事件は数え切れないほどであった。私はしばしばそれらに言及できず、何の感慨もないように見えた。私はかねてから中国の青年が立ち上がり、中国の社会に対して、文明に対して、一切の忌憚なく批評を加えることを大いに望んでいた。そこで『莽原週刊』を編纂印刷して発言の場としたが、惜しいことに話しに来る者はきわめて少なかった。他の刊行物では、反抗する者への打撃がほとんどで、これは実に考えるのも恐ろしいことであった。
今は一年の暮れの深夜で、深くてこの夜も尽きようとしている。私の生命の、少なくとも一部分の生命は、すでにこうしたつまらないものを書くことに費やされてしまい、私が得たものは、自分自身の魂の荒涼と粗野だけであった。しかし私はこれを恐れもせず、また隠そうとも思わず、むしろ実のところいくらか愛しくさえ思っている。なぜならこれは、私が風砂の中を転々として生きてきた瘢痕だからである。自分もまた風砂の中を転々として生きていると感じる者には、この意味がわかるだろう。
私が『熱風』を編んだ時は、遺漏のもの以外に、好幾篇を削除した。今回はいささか異なり、折々の雑感の類は、ほとんどすべてこの中に収めてある。
一九二五年十二月三十一日の夜、緑林書屋の東壁の下にて記す。
第4節
一九二五年
咬文嚼字(一から二まで)
一
伝統思想の束縛から脱却して男女平等を主張する男が、外国の女性の姓を訳す時にはことさら軽やかで艶麗な字を好んで使う。草冠、女偏、糸偏を加えるのだ。「思黛児」でなければ「雪琳娜」だ。西洋と我々は遠く離れているが、姓には男女の別がなく、中国と同じだ(スラブ民族が語尾で若干区別する以外は)。だから我々周家の娘が別に「絹」と名乗る必要がなく、陳府の奥方も別姓にする必要がないのと同じく、オーウェン嬢を「嫗紋」と改める必要はなく、トルストイ夫人のために特別に苦心して「妥嬭絲苔」と書く必要もないのだ。
伝統思想の束縛から脱却して世界文学を紹介する文人が、外国人に中国の姓を名乗らせたがる。Gogolは郭姓、Wildeは王姓、D'Annunzioは段姓か唐姓、Holzは何姓、Gorkyは高姓、Galsworthyも高姓。もし彼がゴーリキーに触れたら「我が高家のrky」と呼ぶのだろう。『百家姓』一冊がいまだにこれほどの威力を持つとは思いもよらなかった。
(一月八日。)
二
昔、我々が化学を学んだ頃、教科書には「金」偏と非「金」偏の奇怪な字がたくさん出てきた。元素名だという。偏旁は「金属」か「非金属」を示し、もう片方はおそらく音訳だ。しかし化学の先生も説明に苦労し、「今回は馴染みの悉」「今回は休息の息」と注釈を加えなければならなかった。今は有機化学が訳されるようになり、この種の怪字はさらに増え、さらに難しくなった。中国の化学者は皆新しい倉頡を兼ねることができる。思うに、原文をそのまま使って造字の労を省けば、本職の化学でもっと成果が上がるだろう。
北京ではよく見かけるさまざまな地名がある。「闢才胡同」「乃茲府」「丞相胡同」「協資廟」「高義伯胡同」「貴人関」。しかし底を探ると、元は「劈柴胡同」「奶子府」「縄匠胡同」「蝎子廟」「狗尾巴胡同」「鬼門関」だったという。字面は変わったが意味は元のままだ。
(二月十日。)
青年必読書
――『京報副刊』の募集に応じて
青年必読書:これまで気にしたことがないので、今は言えない。
附注:しかしこの機会を借りて自分の経験を少々述べ、若干の読者の参考に供したい。
私の考えでは中国の書をあまり読むな、あるいは全く読むな。中国の書を多く読めば読むほど言葉が出なくなり、最終的には口が利けなくなる。しかし外国の書を読み過ぎると、中国のことを忘れがちになる。
私はこれが自分への批判を招くことを知っている。しかし私の主張は変わらない。中国人を毒するものは中国の書であり、これは事実だ。
第5節
一九二六年
閑事を管する・学問をする・灰色等についての雑論
1
聞くところによると今年から陳源(即ち西瀅)教授は閑事を管さなくなるそうだ。この予言は『現代評論』五十六期の『閑話』にあるという。恥ずかしながら私はこの号を拝読しておらず、詳しいことは知らない。もし本当なら、例の決まり文句で「惜しい」と言う以外に、自分の愚かさに驚く。この年になって、陽暦の十二月三十一日と一月一日の間にこれほどの大変動が起こりうることを知らなかったとは。
しかしまだ考えてもわからないことがある。天下に閑事があるのか、人が閑事を管するのか。私の考えでは世の中に閑事なるものはおそらくなく、人が管することですべてが自分と関わりを持つ。人類を愛するのも自分が人間だからだ。もし火星でだれかが喧嘩していると知って大騒ぎするなら閑事と言えようが、火星の事を「知る」ことができるならすでに通信可能であり、関係は密接になっている。我々の地球上では、どこの事であれすべて我々に関係がある。それを管さないのは知らないか管しきれないからであって、「閑」だからではない。
だから閑事というものがあるとすれば、閑事を管する陳源教授は超人ということになる。
(中略)
2
昨日午後、沙灘から帰宅した時、大琦君が訪ねてきたと知った。嬉しかった。彼が病院に入ったのではないかと案じていたからだ。特に嬉しかったのは、彼が『現代評論増刊』を一冊残してくれたことだ。表紙に細長い蝋燭が描かれているのを見れば光明の象徴とわかり、しかも多くの名人学者の著作があり、中でも陳源教授の「学問をする道具」がある。
今初めて知ったのだが、南池子の「政治学会図書館」は去年「時局の関係で貸出実績が三倍から七倍に伸びた」そうだ。しかし陳源教授の言う「孤桐先生」即ち章士釗は、ベルリンで二部屋に「社会主義に関するドイツ語の本」がぎっしり詰まっていたという。
しかし残念なことに、民衆がこの「孤桐先生」の「寒家」を「再び毀した」時、「御夫妻の蔵書は散佚してしまったらしい」。数十台の荷車で各方面に散っていったのだろう。見に行かなかったのが残念だ。さぞ壮観だったことだろう。
「短短の一部の『四書』」と言っても、漢宋明清の多くの儒家の注疏理論を研究せねば「四書の真の意味は理解しにくい」。数百数千の参考書が必要だそうだ。
しかし漢人の「四書」注疏というものを私は聞いたこともない。張之洞先生が「束髪の小生」のために書いた『書目答問』にも「四書は南宋以後の名」とある。『漢書芸文志』『隋書経籍志』にも「五経」「六経」「七経」はあっても「四書」はない。ましてや漢人の注疏など。
第6節
華蓋集続編の続編
厦門島での四ヶ月間、つまらぬ文章を数篇書いただけで、最もつまらぬものを除くと六篇残り、これを「華蓋集続編の続編」と称する。一年中に書いた雑感はこれで全部だ。
一九二七年一月八日、魯迅記す。
厦門通信
H.M.兄:
ここに来てもうすぐ一ヶ月になりますが、三階建ての楼に怠惰にして、各方面にほとんど手紙を書いていません。この楼はすぐ海辺にあって、昼も夜も海風にびゅうびゅう吹かれています。海辺にはかなり貝殻があり、何度か拾いましたが、特別なものはありません。周りに家は多くなく、私が知る最寄りの店は一軒きりで、缶詰や菓子を売っており、番頭は女性で、年格好からすると私より一世代上でしょう。
景色は一見悪くなく、山もあり水もあります。着いた時、ある同僚がすぐに教えてくれました。「山光海気は春秋朝暮すべて異なる」と。石も指差して見せてくれました。「これは虎に似ている、あれは蝦蟇に似ている、あれはまた何々に……」忘れてしまいましたが、実はあまり似ていませんでした。私は自然美への感受性に乏しいことを自ら恥じており、たとえ良辰美景に遭遇してもさほど感動しません。しかし何日も忘れられなかったのは鄭成功の遺跡です。私の住所からそう遠くないところに城壁があり、彼が築いたと言います。台湾を除けば、この厦門こそ満人の入関後、我々中国が最後に亡んだ地であると思うと、悲しくもあり嬉しくもあります。台湾は一六八三年、いわゆる「聖祖仁皇帝」二十二年にようやく亡んだのです。
周りは非常に静かで、近くには北京や上海の新しい出版物が一つも買えません。時に寂しさを覚えますが、あの灰烟瘴気の『現代評論』も見かけません。あれほど多くの正人君子、文人学者が筆を執っていながら、なぜあまり流行しないのか不思議です。
ここ数日、今年の雑感を編もうと思っています。これらのものを書いて以来、特に陳源に関するものを書いて以来、「中立」を自称する何人かの君子が忠告してくれました。「これ以上書くとつまらなくなりますよ」と。しかし私は忠告のせいではなく、環境の変遷で近頃雑感がなく、旧作をまとめることも忘れていたのです。数日前の夜、突然梅蘭芳「芸員」の歌声が聞こえてきました。蓄音機に残されたもので、粗くて鈍い針先のように鼓膜を刺して不快でした。そこで自分の雑感を思い出しました。おそらくこれも梅「芸員」を崇拝する正人君子たちを刺激して不快にさせるから、もう書くなと言うのだろうと。しかし私の雑感は紙に印刷されたもので空気を震動させません。見たくなければ開かなければよいのです。わざわざ中立を装って私を騙す必要はありません。
(中略)
厦門通信(二)
散歩に出ることもあります。叢葬の中を。これはBorelが厦門について書いた本の中で早くから言っていたことです。中国全国がすなわち一つの大墓場だと。墓碑文に通じないものが多く、先妣某と書いて息子の姓名がないもの、頭に横書きで地名があるもの、「敬惜字紙」の四字が刻まれたものまであり、誰に字紙を敬惜させるのかわかりません。こうした文盲ぶりは読書したせいです。字の読めない人に墓の中の人は誰かと聞けば「父親」と答え、名前を聞けば「張二」と言い、自分の名を聞けば「張三」と言う。そのまま書けば明瞭だ。しかし碑を書く人が文を弄ぶから、かえって弄べば弄ぶほどわけがわからなくなる。
私は以前と同じです。ただあまりに静かで、何も書く気になりません。
魯迅。九月二十三日。