Difference between revisions of "Lu Xun Complete Works/ja/Essays dated"

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'''魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)'''
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'''魯��� (ルーシュン, 1881-1936)'''
  
 
中国語からの日本語翻訳。
 
中国語からの日本語翻訳。
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【物乞い】
 
【物乞い】
  
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私は剥落した高い塀に沿って歩いていた。柔らかな灰色の土を踏みしめながら。ほかにも数人の者が、それぞれの道を歩いていた。微風が起こり、塀の上に覗く高い木の枝が、まだ枯れきらぬ葉をつけたまま、私の頭上で揺れた。
  
 +
微風が起こり、四方はすべて灰色の土であった。
  
 私は剥落した高い塀に沿って歩いていた。柔らかな灰色の土を踏みしめながら。ほかにも数人の者が、それぞれの道を歩いていた。微風が起こり、塀の上に覗く高い木の枝が、まだ枯れきらぬ葉をつけたまま、私の頭上で揺れた。
+
一人の子供が私に物乞いをした。袷の衣を着て、悲しげな様子も見せず、道を塞いで叩頭し、追いすがって哀れな声をあげた。
  
 微風が起こり、四方はすべて灰色の土であった。
+
私はその声の調子、その態度を嫌悪した。悲しみもなく、ほとんど戯れに近いことを憎んだ。追いすがって哀号するさまに辟易した。
  
 一人の子供が私に物乞いをした。袷の衣を着て、悲しげな様子も見せず、道を塞いで叩頭し、追いすがって哀れな声をあげた。
+
私は歩いた。ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。微風が起こった。四方はすべて灰色の土であった。
  
 私はその声の調子、その態度を嫌悪した。悲しみもなく、ほとんど戯れに近いことを憎んだ。追いすがって哀号するさまに辟易した。
+
もう一人の子供が私に物乞いをした。やはり袷の衣を着て、悲しげな様子も見せなかったが、唖であった。手を広げ、手真似をした。
  
 私は歩いた。ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。微風が起こった。四方はすべて灰色の土であった。
+
私はその手真似を憎んだ。そのうえ、彼はおそらく唖ではなく、これは単なる物乞いの手段にすぎないのだ。
  
 もう一人の子供が私に物乞いをした。やはり袷の衣を着て、悲しげな様子も見せなかったが、唖であった。手を広げ、手真似をした。
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私は施しをしない。施しの心がない。ただ施す者の上に立って、倦怠と疑念と憎悪を与えるのみだ。
  
 私はその手真似を憎んだ。そのうえ、彼はおそらく唖ではなく、これは単なる物乞いの手段にすぎないのだ。
+
私は崩れた土塀に沿って歩いた。壊れた煉瓦が塀の欠けた所に積まれ、塀の中には何もなかった。微風が起こり、秋の寒さが袷の衣を突き抜けて身に沁みた。四方はすべて灰色の土であった。
  
 私は施しをしない。施しの心がない。ただ施す者の上に立って、倦怠と疑念と憎悪を与えるのみだ。
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私は考えた——自分はどんな方法で物乞いをするだろうか。声を出すなら、どんな調子で? 唖を装うなら、どんな手真似で?……
  
 私は崩れた土塀に沿って歩いた。壊れた煉瓦が塀の欠けた所に積まれ、塀の中には何もなかった。微風が起こり、秋の寒さが袷の衣を突き抜けて身に沁みた。四方はすべて灰色の土であった。
+
ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。
  
 私は考えた——自分はどんな方法で物乞いをするだろうか。声を出すなら、どんな調子で? 唖を装うなら、どんな手真似で?……
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私は施しを得られまい、施しの心も得られまい。施す者の上に自ら居る者の倦怠と疑念と憎悪を得るだけだ。
  
 ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。
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私は無為と沈黙とで物乞いをしよう……
  
 私は施しを得られまい、施しの心も得られまい。施す者の上に自ら居る者の倦怠と疑念と憎悪を得るだけだ。
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少なくとも虚無を得よう。
  
 私は無為と沈黙とで物乞いをしよう……
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微風が起こり、四方はすべて灰色の土であった。ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。
  
 少なくとも虚無を得よう。
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灰色の土、灰色の土、……
  
 微風が起こり、四方はすべて灰色の土であった。ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。
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………
  
 灰色の土、灰色の土、……
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灰色の土……
  
 ………
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(一九二四年九月二十四日。)
  
 灰色の土……
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【復讐】
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人の皮膚の厚さは、おそらく半分にも満たない。鮮紅の熱い血が、その裏側を、壁に密々と這う槐蚕よりもなお密な血管の中を奔流し、温もりを放っている。かくして各々がこの温もりによって互いに蠱惑し、煽動し、牽引し、懸命に寄り添い、接吻し、抱擁して、生命の陶酔の大歓喜を得んとする。
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しかしもし一振りの鋭利な刃で、ただの一撃で、この桃紅色の薄い皮膚を貫いたなら、あの鮮紅の熱い血が矢のように迸り出て、その一切の温もりをもって直接に殺戮者を灌漑するであろう。次いで、冷たい息吹を与え、蒼白い唇を見せ、人の心を茫然とさせ、生命の飛揚の極致の大歓喜を得させるであろう。そして自らは、永遠に生命の飛揚の極致の大歓喜に浸るのである。
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かくして、二人は全身を露わにし、利刃を握りしめ、広漠たる曠野の上に対峙していた。
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二人はまさに抱擁せんとし、まさに殺戮せんとした……
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通りがかりの者たちが四方から駆け寄ってきた。密々と、槐蚕が壁を這い上るように、蟻が干し魚を担ごうとするように。衣服はみな美しいが、手は空であった。四方から駆け寄り、懸命に首を伸ばして、この抱擁または殺戮を鑑賞しようとした。彼らはすでに、後で自分の舌に味わうであろう汗または血の鮮やかな味を予感していた。
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しかし二人は対峙したまま、広漠たる曠野の上に、全身を露わにし、利刃を握りしめながら、抱擁もせず、殺戮もせず、しかも抱擁または殺戮の意思すら見えなかった。
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二人はこのまま永久に至り、円やかな身体はすでに干枯れようとしていたが、いささかも抱擁または殺戮の意思は見えなかった。
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通りがかりの者たちはそこで退屈を覚えた。退屈が毛穴から入り込み、退屈が自らの心から毛穴を通って這い出し、曠野に満ち溢れ、また他人の毛穴に入り込むのを感じた。彼らはやがて喉が渇き、首もだるくなり、ついには互いに顔を見合わせ、ゆっくりと散っていった。甚だしきに至っては、干枯れて生きる趣をも失ったように感じた。
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かくして広漠たる曠野だけが残り、二人はその中で全身を露わにし、利刃を握りしめ、干枯れたまま立っていた。死人のような眼差しで、通りがかりの者たちの干枯れた、血なき大殺戮を鑑賞しながら、永遠に生命の飛揚の極致の大歓喜に浸っていた。
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(一九二四年十二月二十日。)
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【希望】
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私の心はひときわ寂しい。
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しかし私の心はとても平穏である——愛も憎しみもなく、悲しみも喜びもなく、色も音もない。
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私はおそらく老いたのだ。私の髪はすでに白い。明らかなことではないか。私の手は震えている。明らかなことではないか。ならば、私の魂の手もきっと震えており、髪もきっと白くなっているであろう。
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しかしこれは何年も前のことであった。
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それ以前、私の心はかつて血なまぐさい歌声に満ちていた——血と鉄、炎と毒、回復と復讐。ところが忽ちこれらはすべて空虚となった。ただ時として、やむを得ぬ自欺の希望を故意に詰め込んだ。希望、希望、この希望の盾をもって、空虚の中の暗夜の襲来に抗した。盾の裏側もやはり空虚の中の暗夜であったけれども。そしてまさにこのようにして、私の青春は次第に費え尽きたのであった。
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私はとうに、自分の青春がすでに過ぎ去ったことを知らなかったであろうか。しかし身の外の青春はなお在ると思っていた——星、月光、凍りついて落ちた蝶、闇の中の花、梟の不吉な声、杜鵑の血を吐く啼き声、笑いの渺茫、愛の翔舞……。たとえ悲涼で縹渺たる青春であろうとも、結局は青春であった。
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しかし今、なぜこれほど寂しいのか。まさか身の外の青春までもすべて過ぎ去り、世の青年たちもみな老いてしまったのか。
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私は自ら、この空虚の中の暗夜に肉薄するほかはない。希望の盾を置き、ペテーフィ・シャーンドル(一八二三—四九)の「希望」の歌を聞く——
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希望とは何か? 娼婦である。
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誰にでも媚び、一切を捧げる。
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お前が最も貴い宝を犠牲にした時——
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お前の青春を——彼女はお前を捨てる。
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この偉大なる抒情詩人、ハンガリーの愛国者は、祖国のためにコサック兵の矛先に死んでから、すでに七十五年が経った。悲しきかなその死。しかしさらに悲しむべきは、彼の詩が今なお死んでいないことである。
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しかし、なんと惨めな人生であろう。傲岸にして英邁なるペテーフィですら、ついには暗夜の前で歩みを止め、茫々たる東方を振り返ったのだ。彼は言った——
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絶望の虚妄なること、まさに希望に同じ。
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もし私がなおも、明るくもなく暗くもないこの「虚妄」の中で偸生せねばならぬなら、私はなおもあの過ぎ去った悲涼で縹渺たる青春を求めよう。ただし身の外にこそ。なぜなら身の外の青春がひとたび消え去れば、わが身中の遅暮もまた凋零するからである。
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しかし今、星も月光もなく、凍りついて落ちた蝶も、笑いの渺茫も、愛の翔舞もない。しかし青年たちはとても平穏である。
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私は自ら、この空虚の中の暗夜に肉搏するほかはない。たとえ身の外の青春を見出せずとも、自らわが身中の遅暮を一擲せねばならぬ。しかし暗夜はいったいどこにあるのか。今は星もなく、月光もなく、笑いの渺茫も愛の翔舞もない。青年たちはとても平穏であり、しかも私の眼前には、真の暗夜すらないのである。
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絶望の虚妄なること、まさに希望に同じ!
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(一九二五年一月一日。)
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【雪】
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暖かい国の雨は、いまだかつて冷たく堅く燦爛たる雪の花に変わったことがない。博識なる人々はそれを単調だと思い、雨自身もまた不幸だと感じるであろうか。江南の雪こそは、まことに潤いに満ちて艶やかの極みであった。それはなお仄かに漂う青春の便りであり、この上なく健やかな処女の肌であった。雪野には血のように赤い宝珠山茶があり、白い中にほの青い一重の梅花があり、深い黄色の磬口の蠟梅があり、雪の下にはなお冷たい緑の雑草があった。蝶は確かにいなかった。蜜蜂は山茶花と梅花の蜜を採りに来たであろうか。私ははっきりとは覚えていない。しかし私の目には、冬の花が雪野に咲き、多くの蜜蜂たちが忙しく飛び交い、ぶんぶんと騒いでいるのが見えるようであった。
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子供たちは凍えて真っ赤になった、紫色の生姜の芽のような小さな手に息を吹きかけながら、七、八人で一斉に雪達磨を作りにかかった。うまくいかないので、誰かの父親も手伝いに来た。達磨は子供たちよりずっと高く作られたが、上が小さく下が大きいひと塊にすぎず、ついには瓢箪か達磨か見分けがつかなかった。しかしとても白く、とても明るく艶やかで、自らの潤いで互いに粘り合い、全体がきらきらと光っていた。子供たちは竜眼の種で目玉を作り、また誰かの母親の化粧箱から紅を盗んできて唇に塗った。これでまさしく大きな阿羅漢であった。彼もまた目を爛々と輝かせ、唇を真っ赤にして雪の中に座っていた。
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翌日もまだ数人の子供たちが訪ねてきて、手を叩き、頷き、笑った。しかし彼はついにひとり座っていた。晴天がまた来て彼の肌を溶かし、寒夜がまた彼に一層の氷を結ばせ、不透明な水晶のようにした。続く晴天がまた彼を何とも知れぬものに変え、唇の紅もすっかり褪せてしまった。
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しかし、朔北の雪花は紛々と舞い降りた後、永遠に粉のごとく、砂のごとく、決して粘り合わず、屋根の上に、地の上に、枯草の上に撒かれる。ただそれだけである。屋根の雪はとうに溶け始めていた。家の中に住む人の火の温もりゆえに。それ以外は、晴天の下、旋風がにわかに来れば、蓬勃として奮い飛び、日光の中できらきらと輝き、火焔を蔵した大霧のごとく、旋転しつつ昇騰し、太空に充満し、太空をして旋転しつつ昇騰せしめ、煌めかせる。
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果てしない曠野の上に、凛冽たる天蓋の下に、きらきらと旋転し昇騰するのは、雨の精魂……
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そうだ、あれは孤独な雪であり、死んだ雨であり、雨の精魂なのだ。
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(一九二五年一月十八日。)
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【好い話】
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灯火が次第に小さくなってゆく。石油がもう多くないことを告げている。石油も上等の品ではなく、早くからランプの笠を燻して薄暗くしていた。爆竹の盛んな響きが四方にあり、煙草の煙が身辺に漂う——昏沈たる夜であった。
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私は目を閉じ、後ろに仰け反って、椅子の背にもたれた。『初学記』を握った手を膝の上に置いた。
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朦朧の中で、私は一つの好い話を見た。
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この話はとても美しく、優雅で、面白かった。多くの美しい人と美しい出来事が、入り交じって一天の雲錦のようであり、しかも万の奔星のように飛び動きながら、同時にまた展開してゆき、果てしなく広がっていった。
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私はかつて小舟に乗って山陰の道を通ったことがあったように思う。両岸の烏桕、新しい苗、野の花、鶏、犬、叢の木と枯木、茅屋、塔、伽藍、農夫と村の女たち、干されている衣、僧侶、蓑笠、空、雲、竹……すべてが澄み切った碧い小川に逆さに映り、一櫂ごとに、各々がきらめく日の光を帯び、水中の浮草や藻や魚とともに揺れ動いた。すべての影、すべてのものが、溶け散り、揺れ動き、広がり、互いに融け合った。融け合ったかと思うと、また退き縮み、もとの形に近づいた。縁はどれも夏雲の峰のように入り組んで、日の光を縁取り、水銀色の炎を放っていた。私が通った川はすべてそうであった。
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今、私の見ている話もそうであった。水の中の青空を底に、一切の事物がその上で交錯し、一篇に織り成され、永遠に生き生きとし、永遠に展開してゆく。私にはこの一篇の終わりが見えなかった。
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川辺の枯柳の下の数株の痩せた立葵は、きっと村の娘が植えたのであろう。大きな赤い花とまだらの赤い花が、水の中に浮かんで動き、ふと砕け散り、長く引き伸ばされ、縷々たる臙脂の水となったが、しかし滲みはしなかった。茅屋、犬、塔、村の娘、雲……もみな浮かんで動いていた。大きな赤い花が一つ一つ引き伸ばされ、この時は飛沫を散らして迸る赤い錦の帯であった。帯が犬の中に織り込まれ、犬が白雲の中に織り込まれ、白雲が村の娘の中に織り込まれた。……一瞬のうちに、それらはまた退き縮もうとした。しかしまだらの赤い花の影もすでに砕け散り、伸び広がって、塔、村の娘、犬、茅屋、雲の中に織り込まれようとしていた。
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今、私の見ている話は明瞭になってきた。美しく、優雅で、面白く、しかも光に満ちていた。青空の上に、無数の美しい人と美しい出来事があり、私は一つ一つ見、一つ一つ知った。
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私はまさに彼らを凝視しようとしていた……。
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私がまさに彼らを凝視しようとした時、突然驚いて目を開けると、雲錦はすでに皺くちゃに乱れ、誰かが大きな石を川に投げ込んだかのように、水波が突然立ち上がり、一篇の影をずたずたに引き裂いてしまった。私は無意識に、落ちかけた『初学記』を慌てて握りしめた。目の前にはまだ虹色の砕けた影がいくつか残っていた。
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私はこの一篇の好い話を本当に愛している。砕けた影がまだあるうちに、追い求め、完成させ、留めておきたい。本を投げ出し、身を乗り出して筆を取ろうとした——砕けた影など一片もなく、ただ薄暗い灯の光があるだけだった。私はもう小舟の中にはいなかった。
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しかし私は確かにこの一篇の好い話を見たことを覚えている。昏沈たる夜の中で……。
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(一九二五年二月二十四日。)
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【死火】
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私は夢の中で氷山の間を駆けていた。
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これは高大な氷山で、上は氷の天に接し、天上には凍雲が一面に広がり、片々として魚の鱗のようであった。山麓には氷の樹林があり、枝葉はすべて松や杉のようであった。すべてが冷たく、すべてが青白かった。
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しかし私は忽然、氷の谷に墜ちた。
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上下四方、冷たくないものはなく、青白くないものはなかった。しかしすべての青白い氷の上に、赤い影が無数にあり、珊瑚の網のように絡まり合っていた。足元を見下ろすと、火焔があった。
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これが死火であった。燃え盛る形をしているが、微動だにせず、全体が凍り固まって、珊瑚の枝のようであり、先端にはまだ凝固した黒煙があった。おそらく火宅から出たばかりで、それゆえに焦げ枯れているのであろう。このようにして氷の四壁に映り、互いに反映し合い、無量の影と化して、この氷谷を紅珊瑚の色にしていた。
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ははは!
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私が幼い頃、もともと快速艦が立てる波の花や、大炉が噴き出す烈火を見るのが好きだった。見るだけでなく、はっきり見たいと思った。残念なことに、それらは絶えず変幻し、永久に定まった形がなかった。いくら凝視しても、決まった痕跡を留めなかった。
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死んだ火焔よ、今やっとお前を手に入れた!
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私は死火を拾い上げ、よく見ようとした時、あの冷気がすでに私の指を灼いた。しかし私は耐え忍び、衣のポケットに押し込んだ。氷谷の四面は、たちまちすべて青白くなった。私は氷谷を出る方法を思案しながら歩いた。
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私の体から一筋の黒煙が噴き出し、鉄線蛇のように上昇した。氷谷の四面には、たちまち赤い炎が満ちて流れ、大火聚のように私を包囲した。見下ろすと、死火はすでに燃え始め、衣を焼き破って、氷の地面に流れ落ちていた。
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「ああ、友よ! あなたの温もりが、私を目覚めさせた。」と彼は言った。
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私は急いで挨拶し、名を尋ねた。
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「私はもとは氷谷の中に捨てられていた」と彼は問いとは関係なく言った。「私を捨てた者はとうに滅び、消え尽きた。私も凍り凍えて死にかけていた。もしあなたが温もりをくれなければ、私をまた燃え上がらせてくれなければ、間もなく私は滅びるところだった。」
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「あなたの目覚めは、私を喜ばせる。私はちょうど氷谷を出る方法を考えていた。あなたを連れて行きたい。永遠に凍らせず、永遠に燃やし続けよう。」
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「ああ! それでは、私は燃え尽きてしまう!」
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「あなたが燃え尽きるのは惜しい。それでは、ここに残しておこう。」
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「ああ! それでは、私は凍え消えてしまう!」
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「それでは、どうすればよいのか。」
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「しかしあなた自身は、どうするのだ。」と彼は逆に問うた。
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「言ったではないか——私はこの氷谷を出たいのだ……。」
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「それなら私は燃え尽きた方がましだ!」
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彼は忽然跳び上がり、赤い彗星のように、私もろとも氷谷の外に飛び出した。大きな石車が突然駆けてきて、私はついに車輪の下に轢き殺された。しかし私はまだ、その車が氷谷の中に墜ちるのを見届けることができた。
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「ははは! お前たちはもう二度と死火には出逢えないぞ!」と私は得意げに笑って言った。まるでそうなることを望んでいたかのように。
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(一九二五年四月二十三日。)
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【犬の反駁】
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私は夢の中で狭い路地を歩いていた。衣も靴もぼろぼろで、乞食のようであった。
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一匹の犬が背後で吠え始めた。
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私は傲然と振り返り、叱りつけた。
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「こら! 黙れ! この勢利な犬め!」
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「ひひ!」と犬は笑い、さらに続けた。「失礼ですが、人様にはかないませんな。」
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「なんだと!」と私は怒り、これ以上ない侮辱だと感じた。
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「恥じ入ります。私はついに銅と銀の区別も知らず、布と絹の区別も知らず、官と民の区別も知らず、主と奴の区別も知らず、まだ……。」
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私は逃げ出した。
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「まあお待ちなさい! もう少し話しましょう……。」と犬は背後で大声で引き留めた。
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=== 第2節 ===
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私はひたすら逃げた。力の限り歩き、ついに夢境から逃げ出して、自分の寝床に横たわっていた。
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(一九二五年四月二十三日。)
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【失われた良い地獄】
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 +
私は夢の中で寝床に横たわっていた。荒涼たる野外、地獄のそばであった。鬼魂たちの叫び声はことごとく低く微かであったが、秩序があり、炎の怒号、油の沸騰、鋼の叉の震えと共鳴して、心酔させる大いなる楽を成し、三界に布告していた——地下太平なりと。
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偉大なる男が私の前に立っていた。美しく、慈悲深く、全身に大いなる光輝を放っていたが、しかし私は彼が魔王であることを知っていた。
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「一切は終わった、一切は終わった! 哀れな鬼魂たちは、あの良い地獄を失ってしまった!」と彼は悲憤して言い、そこで座って、彼の知っている物語を私に語った。
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 +
「天地が蜂蜜色になった時、すなわち魔王が天神に勝ち、一切を主宰する大いなる威権を掌握した時であった。天国を収め、人間を収め、地獄をも収めた。そこで魔王は親しく地獄に臨み、中央に座し、全身から大いなる光輝を発して、一切の鬼衆を照らした。
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 +
「地獄はもとよりはるか以前から荒廃していた。剣樹は光芒を失い、沸騰する油の辺りはとうに噴き上がらず、大火聚も時折わずかな青煙を上げるのみで、遠くには曼陀羅華が芽生えていたが、花はごく小さく、惨めに白く哀れであった。それは不思議なことではない。地上がかつて大いに焼かれたため、自ずとその肥沃さを失っていたからである。
 +
 
 +
「鬼魂たちは冷めた油とぬるい火の中で目覚め、魔王の光輝の中に地獄の小さな花を見た。惨めに白く哀れなその花に、大いに惑わされ、たちまち人の世を思い出し、幾年とも知れず黙考した末、同時に人間界に向かって、獄に抗する最後の絶叫を発した。
 +
 
 +
「人類はこれに応じて立ち上がり、正義を唱えて魔王と戦った。戦いの声は三界に満ち、雷鳴をもはるかに超えた。ついに大いなる謀略を運らし、大いなる網を布いて、魔王をして地獄からも立ち去らざるを得なくした。最後の勝利は、地獄の門の上にも人類の旗幟が立てられたことであった!
 +
 
 +
「鬼魂たちが一斉に歓呼した時、人類の地獄整頓使者はすでに地獄に臨み、中央に座し、人類の威厳をもって、一切の鬼衆を叱咤していた。
 +
 
 +
「鬼魂たちがふたたび獄に抗する絶叫を発した時、彼らはすでに人類の叛逆者となり、永劫沈淪の罰を受けて、剣樹林の中央に遷された。
 +
 
 +
「人類はここに地獄を主宰する大いなる威権を完全に掌握した。その威稜は魔王をも凌いだ。人類はそこで荒廃を整頓し、まず牛頭阿傍に最高の俸草を与え、さらに薪を添え火を加え、刀山を磨ぎ、地獄全体の面目を一新して、以前の頹廃の気象を一洗した。
 +
 
 +
「曼陀羅華はたちまち焦げ枯れた。油は同様に沸き、刀は同様に鋭く、火は同様に熱く、鬼衆は同様に呻吟し、同様にのた打ち回り、失われた良い地獄のことを思い出す暇さえなくなった。
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 +
「これは人類の成功であり、鬼魂たちの不幸であった……。
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 +
「友よ、あなたは私を疑っているな。そうだ、あなたは人間だ! 私はひとまず野獣と悪鬼を探しに行こう……。」
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(一九二五年六月十六日。)
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【立論】
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 +
私は夢の中で小学校の教室で作文の準備をしており、先生に立論の方法を教えてもらおうとしていた。
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 +
「難しい!」と先生は眼鏡の縁の外から斜めに目を光らせて私を見ながら言った。「ひとつ話をしてやろう——
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 +
「ある家に男の子が生まれ、一家中大喜びだった。満月の祝いの時、抱いて客に見せた——おそらく何か良い前兆が欲しかったのだろう。
 +
 
 +
「一人が言った。『この子は将来きっと金持ちになる。』彼はひとしきりの感謝を受けた。
 +
 
 +
「もう一人が言った。『この子は将来きっとお役人になる。』彼はいくつかのお世辞を受け取った。
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 +
「さらにもう一人が言った。『この子は将来きっと死ぬ。』彼はみんなから寄ってたかって痛い目に遭わされた。
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 +
「死ぬのは必然であり、富貴を言うのは嘘である。しかし嘘をつく者は良い報いを受け、必然を言う者は打たれる。あなたは……。」
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「私は嘘もつきたくないし、打たれたくもありません。では先生、何と言えばよいのでしょう?」
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「それならこう言いなさい。『おやまあ! この子は! ご覧ください! なんと……あらまあ! ははは! ヘヘ! へ、へへへへ。』」
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(一九二五年七月八日。)
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【かくのごとき戦士】
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かくのごとき戦士がいなければならぬ!
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もはやアフリカの土人のように蒙昧でありながら光り輝くモーゼル銃を背負っているのではない。また中国の緑営兵のように疲弊しているのにボックス砲を佩びているのでもない。彼は牛皮と廃鉄の甲冑に頼ることなく、ただ己れのみを持ち、蛮人の用いる、手放しで投げる投槍を携えている。
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 +
彼は無物の陣に進み入る。出逢う者はことごとく彼に一様に頷く。彼はこの頷きこそが敵の武器であり、人を殺して血を見せぬ武器であることを知っている。多くの戦士がここで滅亡した。まさに砲弾のごとく、猛士をして力を用うる所なからしめるものである。
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それらの頭上にはさまざまな旗幟があり、さまざまな美名が縫い取られている——慈善家、学者、文士、長者、青年、雅人、君子……。頭の下にはさまざまな外套があり、さまざまな美しい模様が縫い取られている——学問、道徳、国粋、民意、論理、公義、東方文明……。
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しかし彼は投槍を挙げた。
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彼らはみな声を揃えて誓いを立てて言った。自分たちの心はみな胸の中央にあり、他の偏心の人類とは違うのだと。彼らはみな胸の前に護心鏡を置いて、心が胸の中央にあることを自らも深く信じている証拠とした。
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しかし彼は投槍を挙げた。
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彼は微笑み、わずかに体を傾けて一投した。見事に彼らの心窩を射抜いた。
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一切は頽然として地に倒れた——しかしそこにあるのは一枚の外套のみで、中には何もなかった。無物たる物はすでに逃げ去り、勝利を得た。なぜなら彼はこの時、慈善家等を殺害した罪人となったからである。
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しかし彼は投槍を挙げた。
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彼は無物の陣の中を大股に歩み、ふたたび一様の頷き、さまざまな旗幟、さまざまな外套を見る……。
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しかし彼は投槍を挙げた。
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彼はついに無物の陣の中で老い衰え、天寿を全うした。彼はついに戦士ではなかったが、無物たる物こそが勝者であった。
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かくのごとき境地において、誰も戦いの叫びを聞かない——太平。
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太平……。
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しかし彼は投槍を挙げた!
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(一九二五年十二月十四日。)
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【蝋葉】
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灯の下で『雁門集』を読んでいると、ふと一枚の押し乾かされた楓の葉が出てきた。
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これは去年の晩秋を思い出させた。霜が夜ごとに降り、木の葉は大半が散り、庭先の一本の小さな楓も赤く色づいていた。私はかつて木の周りを行きつ戻りつし、葉の色を仔細に眺めたものだが、青々としていた頃にはこれほど注意したことはなかった。それも全体が赤いのではなく、最も多いのは淡い絳色で、数枚は緋色の地の上に、さらにいくつかの濃い緑の斑を帯びていた。一枚だけは虫食いの穴があり、黒い花の縁取りを持ち、赤と黄と緑のまだら模様の中で、瞳のように人を凝視していた。私は思った——これは病葉だ、と。そこで摘み取り、今しがた買った『雁門集』に挟んだ。おそらくこの、落ちかけた、蝕まれて斑爛たる色を、しばし保存して、すぐには群れの葉とともに飛び散らせまいとしたのだろう。
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しかし今夜、それは蝋のように黄ばんで私の目の前に横たわり、あの瞳ももはや去年のように炯々とはしていなかった。もしさらに数年も経てば、昔の色が記憶から消え去り、おそらく私自身でさえ、なぜこれが本に挟まれていたのかその理由がわからなくなるであろう。落ちかけた病葉の斑爛も、ほんの束の間しか向き合えぬようだ。まして青々と茂っていた頃のことはなおさらである。窓の外を見れば、寒さにたいへん強い木々もとうに丸裸になっている。楓は言うまでもない。晩秋の頃、おそらく去年のものに似た病葉もあったであろうが、惜しいことに今年は秋の木を愛でる余暇がなかった。
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(一九二五年十二月二十六日。)
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【一九二四年】
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【「纠正」なきを望む】
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汪原放君はすでに故人となった。彼の標点と校正の小説は、些細な誤りを免れないとはいえ、大体において作者と読者に功績があった。ところが思いがけず弊害が限りなく、模倣する者たちが手当たり次第に本を引っ張り出し、あなたも標点を施し、私も標点を施し、あなたも序を書き、私も序を書き、彼も校改し、これも校改し、しかも真面目にやろうとしないので、結局は本を台無しにしただけであった。
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『花月痕』は本来宝物のように扱うべき本ではないが、誰かが標点を施して出版しようとするのは、もとより各自の勝手である。この本はもともと木版であり、後に活字本があり、最後は石版で、誤字が非常に多く、今世に出回っているのは大半がこの種のものである。新しい標点本については、陶楽勤君が序で言う。「本書の底本は佳品とはいえ、誤りがなお多い。余はすべて纠正を加えたが、見落としのある所は避けがたい……」と。私は誤字の多い石版本しか持っていないが、偶々第二十五回の三、四頁を比べてみると、やはり石版本の方がましだと思えた。なぜなら陶君は石版本の誤字の多くを纠正しておらず、しかも石版本の正しい字をかえって歪めてしまっていたからである。
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「釵黛は直に一つの子虚烏有であり、取るに足らぬ。……」
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この「直是個」は「簡直に一個」の意味であるが、纠正本では「真是個」に改められており、原意とはだいぶ異なってしまった。
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「秋痕は頭に皺の帕を巻いて……突然痴珠に会い、微笑んで小声で言った。『あなたが十日も我慢できないだろうと思っていたわ。本当に何もそこまでしなくても。』
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「……痴珠は笑って言った。『これからまた相談しよう。』……」
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二人はともに落魄しているとはいえ、この時は大した悲しみもなく、だからこそまだ笑えたのである。しかし纠正本は二つの「笑」の字をともに「哭」に改めてしまった。会うなり泣かせるとは、涙がいささか安すぎはしないか。まして「含哭」などという言い方は成り立たない。
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そこで私はこう思った。本を出版するのは良いことだが、自分で意味がよくわからない時は、すぐに間違いだと思い込んで、奮然と「纠正を加える」べきではない。「過ちて之を存す」方が、あるいはかえって間違いではないかもしれぬ。
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そこでまたもう一つの疑問が湧いた。翻訳小説が「読んでもわからない」と攻撃する人々がいるが、彼らは中国人自身が書いた旧小説を、本当に読んでわかっているのだろうか。
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(一月二十八日。)
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この短い文章が発表された後、一度胡適之先生に会い、汪先生のことに話が及んだ折、先生がとても健在であることを知った。胡先生はなお、私の「すでに故人となった」云々は、彼が多くの仕事をなし、すでに世に見るに足りるものを残したという意味だと思っていた。これには私はまことに「恐惶に堪えない」のであり、なぜなら私の本意はそうではなく、率直に言えば、すでに「死んでしまった」ということだったからである。しかしその時になって初めて、先に聞いた話がまったく根拠のない風説であったことを知ったのである。ここに謹んで汪先生に私の粗忽の罪を謝し、あわせて旧稿の第一文を訂正して、「汪原放君はいまだ故人となっていなかった」と改める。
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一九二五年九月二十四日、身熱頭痛の際に記す。
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【一九二六年】
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【雑論——閑事を管する・学問をする・灰色など】
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聞くところによると、今年から陳源(すなわち西滢)教授は閑事を管しないつもりだという。この予言は『現代評論』五十六期の『閑話』に見えるそうだ。恥ずかしながら私はこの号を拝読していないので、詳しいことは知らない。もし本当なら、例のとおりの社交辞令で「惜しい」と言うほかに、実のところ自分の愚かさにまことに驚くばかりである——こんな歳になっても、陽暦の十二月三十一日と一月一日の境目が他人にはこれほどの大きな変動を起こし得ることを知らなかったとは。私は近頃、年の瀬にはいささか神経が鈍くなっており、まるで何も感じない。実を言えば、感じようと思えば、感じきれないほどのことがある。みなが五色旗を掲げ、大通りに何基かの彩門を設え、真ん中に「普天同慶」の四文字がある。これが年越しだという。みなが門を閉め、門神を貼り、爆竹がパチパチバンと鳴り響く。これも年越しだという。もし言行が本当に年越しとともに移り変わるなら、移り変わりが追いつかず、ぐるぐる回るだけになるに違いない。だから、神経が鈍いのは時代遅れの懸念はあるが、弊あれば利あり、いくらかの小さな得はしているのである。
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しかし、ある事がどうしても解せない。すなわち天下に閑事なるものがあり、閑事を管する人がいるということである。私は今、世の中にはいわゆる閑事なるものはおそらくないと思う。管する人があれば、すべて自分と何らかの関係がある。たとえ人類を愛するにしても、それは自分が人間だからである。もし火星で張龍と趙虎が喧嘩していることがわかったからといって、すぐに大いに振る舞い、酒を振る舞い会を開き、張龍を支持し、あるいは趙虎を否認するなら、それはなるほど閑事を管するに近い。しかし火星のことを「知る」ことができるなら、少なくともすでに通信が可能でなければならず、関係も密接になるから、閑事とは言えなくなる。なぜなら通信ができれば、将来は交通もできるかもしれず、彼らはいつか我々の頭上で喧嘩するかもしれないからだ。我々の地球上においては、どこであれ、万事が我々と関わりがある。しかし管さないのは、知らないからか、管しようがないからであって、その「閑」なるゆえではない。
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(いや、間違えた。ラインシュはアメリカの駐華公使であって、文学者ではない。おそらく何かの文芸学術の論文で名前を見たために、うっかり口を滑らせたのであろう。ここに訂正し、読者の諒恕を乞う。)
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動物でさえ、どうして我々と無関係であり得ようか。蠅の足に一つのコレラ菌があり、蚊の唾液に二つのマラリア原虫があれば、誰の血に入り込むかわからない。「隣の猫が子を産んだ」のを管するのは笑い話だと思う人が多いが、実は大いに自分に関わりがある。たとえば今、私の庭には四匹の隣猫がしょっちゅう喧嘩しているが、もしこの奥方たちの一匹がまた四匹を産めば、三、四か月後には八匹の猫がしょっちゅう騒ぐのを聞かねばならず、今の倍も煩わしくなる。
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だから私には一つの偏見がある。天下にはもともといわゆる閑事なるものはなく、ただこれほど遍く管する精力と力がないので、やむなく一つだけ掴んで管するのだと。なぜよりによってこの一つなのか。当然、自分と最も関わりの深いもの。大きくは同じ人類であるから、あるいは同類、同志であるから。小さくは同窓、親戚、同郷であるから——少なくとも、何かの恩恵に浴したことがあるから。たとえ自分の顕在意識上では明らかでなくとも、あるいは実は明らかでありながら、故意に愚かなふりをしているのだ。
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しかし陳源教授は去年、聞くところでは閑事を管したという。もし私の上述が間違っていないなら、彼はまさに超人である。今年は世事に問わないとは、まことに惜しい極みで、まさにこの人が管さなければ「蒼生を如何にせん」である。幸い陰暦の正月も近く、大晦日の亥の刻を過ぎれば、あるいは心を翻すことも望めるかもしれない。
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昨日の午後、沙灘から帰宅した時、大琦君が訪ねてきたことを知った。これは大変嬉しかった。というのは、彼が病院に入ったのではないかと思っていたからで、そうではないことがわかったのだ。さらに嬉しかったのは、彼が『現代評論増刊』を一冊置いていってくれたことで、表紙に描かれた一本の細長い蝋燭を見れば、これが光明の象徴であることはすぐにわかる。まして多くの名士学者の著作があり、中でも陳源教授の「学問をする道具」という一篇があるのだから。これは正論であり、少なくとも「閑話」には勝る。少なくとも私は「閑話」に勝ると感じた。なぜならそれが私に多くのものを与えてくれたからである。
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=== 第3節 ===
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私は今になって初めて知った。南池子の「政治学会図書館」は去年「時局の関係で、貸し出しの成績が三倍から七倍に伸びた」のだが、「彼の家の翰笙」はなおも「『平時は線香も焚かず、臨時に仏の足を抱く』という十字で今日の学術界の大部分の状況を形容している」という。これは私の多くの誤解を正してくれた。先に述べたように、今の留学生は多い、多い。しかし私はずっと、彼らの大部分は外国で部屋を借り、門を閉めて牛肉を煮て食べているのではないかと疑っていた。しかも東京で実際にそういう光景を見たことがある。あの時私は思った——牛肉を煮て食べるなら中国でもできるのに、なぜわざわざ遠路はるばる外国に来るのかと。もっとも外国は畜産が進んでいるから、肉の中の寄生虫は少ないかもしれないが、煮込んでしまえば多くても問題はない。だから、帰国した学者が最初の二年は洋服を着、後に毛皮の袍を着て、頭を上げて歩いているのを見ると、いつも彼は外国で自ら何年も牛肉を煮ていた人物ではないかと疑い、しかも何か事があっても「仏の足」すら抱こうとしないのではないかと思ったものだ。今になってそうではないことがわかった。少なくとも「欧米留学帰りの人」はそうではないと。しかし惜しいことに中国の図書館の蔵書は少なすぎる。聞くところでは北京「三十余りの大学は、国立私立を問わず、まだ我々個人の蔵書にも及ばない」という。この「我々」の中で、聞くところでは第一に数えるべきは「湡儀先生の家庭教師ジョンストン先生」であり、第二はおそらく「孤桐先生」すなわち章士釓である。なぜならドイツのベルリン滞在中、陳源教授は自らの目で、彼の二部屋が「ほとんどベッドの上も書棚の上も机の上も床の上も、社会主義に関するドイツ語の書物で満ちている」のを見たからだという。今ではきっとさらに多くなっているであろう。まことに羨ましく敬服する。自分の留学時代を思い返せば、官費は月三十六元で、衣食学費を差し引くとほとんど余りはなく、何年か過ごしても蔵書は壁一面さえ埋められず、しかも雑書ばかりで、「社会主義に関するドイツ語の書物」のごとく専門的ではなかった。
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しかしまことに惜しいことに、聞くところでは民衆がこの「孤桐先生」の「寒家」を「再び毀した」時、「どうやら御夫妻の蔵書はみな散逸してしまったらしい」。あの時はきっと何十台もの車に積まれ、あちこちに散っていったのだろう。惜しいことに見に行かなかった。さもなくば壮観であったろうに。
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だから「暴民」が「正人君子」に深く忌み嫌われるのも、まことに理由がある。この度の「孤桐先生」御夫妻の蔵書の散逸が中国に与えた損失は、三十余りの国立私立大学の図書館を破壊したのを上回るのだ。これと比べれば、劉百昭司長が家蔵の公金八千元を失くしたなどは小事件と言わねばならない。ただ我々が遺憾に思うのは、よりによって章士釓と劉百昭にこれほどの蓄えがあり、しかもこれらの蓄えがよりによってすべて災厄に遭ったということである。
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幼い頃、世故に長けた年長者から戒められたことがある——筋のない担ぎ売りや露店に難癖をつけるな。自分で転んでおいて、お前のせいだと言いがかりをつけ、言い訳もできず弁償もしきれなくなる、と。この言葉は今でも私に影響しているようで、正月に火神廟の縁日に行っても、玉器の露店には近寄れない。たとえほんの数点しか並んでいなくとも。うっかりぶつけて倒したり、一つ二つ割ったりすれば、たちまち家宝扱いされ、一生かかっても弁償しきれず、その罪の重さは博物館一つを壊すのを上回るからだ。しかもこの論理を押し広げて、賢やかな場所にも大して行かなくなった。あの時のデモ行進の際も、「歯を叩き落とされた」という「流言」はあったが、実のところは家で寝ていて、おかげで無事であった。しかし「孤桐先生」邸から次々と散出するあの二部屋の「社会主義に関するドイツ語の書物」やその他の壮観も、そのために「腕を交えて見逃した」のであった。これはまさにいわゆる「利あれば必ず弊あり」で、両立させようがないのだ。
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今、洋書の蔵書の豊かさでは、個人ではジョンストン先生を数え、公団では「政治学会図書館」を推さねばならないが、惜しいことに一方は外国人であり、もう一方はアメリカ公使ラインシュの尽力で作られたものである。「北京国立図書館」が拡張されようとしているのはまことに結構なことだが、聞くところでは依然としてアメリカから返還された賠償金に頼っており、経常費はわずか三万元、月に二千余元にすぎない。アメリカの賠償金を使うのも容易なことではなく、第一に館長は東西の学に通じた世界的に名高い学者でなければならない。聞くところでは、これは当然、梁啓超先生しかいないが、惜しいことに西洋の学があまり通じていないので、北京大学教授の李四光先生を副館長に配して、中外兼通の完人に仕立てたという。しかし二人の月給だけで千余元になるので、今後もあまり多く書籍は買えそうにない。これもまたいわゆる「利あれば必ず弊あり」であろう。ここに思い至ると、「孤桐先生」が独力で購入した数部屋分の良書が惨めにも散逸したことの惜しさを、ますます痛切に感じずにはいられない。
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要するに、ここ数年のうちには、より良い「学問をする道具」が得られる見込みはなく、学者が勉強しようと思えば自分で本を買って読むほかないが、また金がない。聞くところでは「孤桐先生」はこの点に思い至り、文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい。学者たちにほかにどんな方法があるだろうか。当然「彼らが『閑話』でも言うほかに何もすることがないのも無理はない」のであり、たとえ北京の三十余りの大学がまだ彼ら「個人の蔵書にも及ばない」としてもである。なぜか。学問をすることは容易ではなく、「おそらく小さな題目一つで百種以上の書物を参考にしなければならない」のであり、「孤桐先生」の蔵書でさえ足りないかもしれないのだ。陳源教授は一つの例を挙げている。「『四書』を例に取ろう」、「漢・宋・明・清の多くの儒家の注疏理論を研究しなければ、『四書』の真の意義は容易には会得できない。短い一部の『四書』でも、子細に研究すれば、数百数千種の参考書が必要になる」と。
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これだけでも「学問の道は浩として煙海の如し」であることがわかる。あの「短い一部の『四書』」は私も読んだことがあるが、漢人の「四書」注疏や理論に至っては、聞いたこともなかった。陳源教授が「あのように風雅を提唱した封藩大臣」の一人として推す張之洞先生は、「束髪の小生」たちのために書いた『書目答問』で「『四書』は南宋以後の名称なり」と言っている。私はずっとその言葉を信じてきた。その後『漢書芸文志』や『隋書経籍志』の類を繙いてみても、「五経」「六経」「七経」「六芸」はあっても「四書」はなく、ましてや漢人の作った注疏や理論はなおさらである。しかし私が参考にしたのは当然ながら普通の本で、北京大学の図書館にもあるもの。見聞が狭陋であるかもしれないが、仕方がない。たとえ「抱」こうとしても「仏の足」すらないのだから。こう考えると、「仏の足を抱ける」者、「仏の足を抱く」気のある者こそ、まことに本物の福人であり、本物の学者である。「彼の家の翰笙」がなお慨然としてこれを言うのは、おそらく「『春秋』は賢者を責める」の意であろう。
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もう書き続ける気がしないので、ここで終わりにするほかない。要するに、『現代評論増刊』をひと通りめくると、五光十色、まさにかつて広告に列記された著者名簿を見るようであった。たとえば李仲揆教授の「生命の研究」だの、胡適教授の「訳詩三首」だの、徐志摩先生の訳詩一首だの、西林氏の「圧迫」だの、陶孟和教授の二〇二五年にならなければ発表されず、我々の玄孫でなければ全篇拝読できない大著作の一部だの……。しかし、めくっていくうちに、どういうわけか私の目は灰色を見た。そこで放り出した。
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今の小学生でも七色板で遊べる。七つの色を円板に塗り、止まっている時は綺麗だが、回すと灰色になる——本来は白色になるはずだが、塗り方が下手なので灰色になったのだ。多くの著名な学者の大著作を集めた大きな刊行物は、もちろん光怪陸離であるが、やはり回してはいけない。一回転すれば、灰色が露わにならずにはいられないのだ。もっとも、これこそがその特色なのかもしれないが。
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(一月三日。)
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【面白い消息】
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北京は大きな砂漠のようだと言われているが、それでも青年たちはここに押し寄せてくる。年配者もあまり去らず、たとえ別の所に行ってみても、まもなく戻ってくる。まるで北京にはまだ何か心惹かれるものがあるかのようだ。厭世詩人が人生を怨むのは、まことに「感慨これに係る」であるが、しかし彼はやはり生きている。釈迦牡尼の教えを祖述する哲人ショーペンハウアーでさえ、密かにある病気の薬を飲み、容易には「涅槃」しようとしなかった。俗語に「良い死に様は悪い生き様に如かず」と言うが、これは当然ただの俗人の俗見にすぎないだろう。しかし文人学者の類も、一体これと何の変わりがあろうか。違いはただ、常に一面の辞厳義正なる軍旗があり、さらにもう一本のいっそう義正辞厳なる退路があることだけである。本当に、もしそうでなければ、人生はまことに退屈の極み、言うべき言葉もなくなるであろう。
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北京は日一日と万物が高くなってゆく。自分の「区々たる僉事」の職も、「妥りに主張あり」とて章士釓先生に首にされた。これまで遭遇してきたものは、アンドレーエフの言葉を借りれば「花もなく、詩もなく」、ただ万物の値上がりだけであった。しかしそれでもなお「妥りに主張あり」で、引き返す術がない。もし一人の妹がいて、『晨報副刊』で美しく語られる「閑話先生」の家庭のように、「お兄様!」と呼びかけ、その声がまさに「幽谷に響く銀鈴のごとく」、「もう人を怒らせるような文章はやめてくださいな」と頼んでくれたなら、おそらく私もこれを機に馬首を返し、別荘に引きこもって漢代の人が作った「四書」の注疏と理論の研究に没頭できたかもしれない。しかし、惜しいかな、そのような良い妹はいない。「女嬽の婵媛たるや、申申として予を罵り、曰く、鮚は婞直にして身を亡ぼし、終に羽の野に夭せり」と——あのような厳しい姉がいる幸福すら屈原に及ばないのだ。私がついに「妥りに主張」し続けているのは、おそらくほかに逃れようがないからでもあろう。しかしこれは重大な関わりがあり、将来禍いを受けるかもしれない。なぜなら私は知っているからだ——人の恨みを買えば報いを受けるものだと。
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話は釈迦先生の教訓に戻る。聞くところでは、人間界に生きているよりも地獄に墮ちた方がまだ穏当だという。人間として生きていれば「作」すなわち動作(=造業)があるが、地獄に墮ちればただ「報」(=報応)があるのみだから。それゆえ生きることは地獄に墮ちる原因であり、地獄に墮ちることはかえって地獄から出る出発点なのだ。こう言われると、僧侶になりたくもなるが、これは当然「根のある」(聞くところでは「天津の言い回し」だそうだ)大人物に限られ、私はこの類の呪符をあまり信じない。砂漠のような北京城に暮らすのは、もちろん殺風景ではあるが、折に触れて世態を眰めれば、万物の値上がりのほかにも、やはり千差万別で、芸術を創造する者もいれば、流言を製造する者もいる。気色悪いのもあれば、面白いのもある……これがおそらく北京が北京たる所以であり、人々がなお集まり寄せてくる所以なのであろう。惜しむらくは小さな出来事ばかりで、正直な友人には辞厳義正なる軍旗を自ら掲げるのが難しいということだ。
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=== 第4節 ===
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私はよく嘆く。インド小乗教の方法のなんと恐ろしいことかと。地獄の説を立て、僧侶、尼、念仏の老婆の口を借りて宣揚し、異端を恐嚇して、心志の堅固でない者を恐れさせる。その秘訣は、報応は眼前ではなく将来百年の後にあると言うことだ。少なくとも鋭気が尽きた時にやってくる。その時にはもう身動きが取れず、他人の思うがままにされ、鬼の涙を流して生前の出しゃばりを深く悔いるしかない。しかもその時になって初めて、閻魔大王の尊厳と偉大さを認識するのだ。
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これらの信仰は、あるいは迷信かもしれぬが、神道設教により、「世道を挽き人心を正す」事に、あるいは多少の裨益がないでもあるまい。まして悪人を生前に「豺虎に投ずる」ことができなければ、当然ただ死後に口誥筆伐するほかなく、孔子が一車二馬で各国の遊説に倦み帰り、鋼筆を抜いて『春秋』を作ったのも、けだしまたこの志であったろう。
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しかし時代は移り変わり、今に至っては、これらの古い手管も極端にお人好しの者しか騙せまい。こんな手管を弄する者たち自身すら信じていないかもしれぬのに、まして世にいう悪人たちをや。人の恨みを買えば報いがあるというのは、ごく平凡なことで、格別奇特でもない。時として婉曲な物言いをするのは、差し当たりの礼儀にすぎず、それで地獄行きを免れようとは思ってもいない。これは如何ともしがたい。我々のような急ぎの人間の世界では、紳士のお高い態度を気取る暇などないのだ。やるならやる。来年の酒を語るより今すぐ水を飲む方がましだ。二十一世紀の死体切り刻みを待つより、今すぐ一発張り手を食らわす方がよい。将来のことは、後に続く者たちがいる。決して今の人間、つまり将来のいわゆる古人の世界ではないのだ。もし今のままの世界であるなら、中国は滅びるであろう!
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(一月十四日。)
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【学界の三魂】
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『京報副刊』から、『国魂』という雑誌があり、章士釓は確かに良くないが、章士釓に反対する「学匪」どもも打倒すべきだという記事があることを知った。大意が私の記憶通りかどうかわからないが、それは大したことではない。なぜならそれはただ私に一つの題目を思いつかせただけで、原文とは関係がないからだ。その意味は、中国の旧説ではもともと人には三魂六魄、あるいは七魄があるとされ、国魂もそうであるはずだということだ。そしてこの三魂のうち、一つは「官魂」であり、一つは「匪魂」であり、もう一つは何か。おそらく「民魂」であろうが、私にはよく決めかねる。また私の見聞は偏っているので、中国社会全体を指すことはあえてせず、縮めて「学界」と言うにとどめる。
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中国人の官職への執着はまことに深い。漢は孝廉を重んじて子を埋め木を刻む者が出、宋は理学を重んじて高い帽子と破れた靴の者が出、清は帖括を重んじて「且つ夫れ」「然らば則ち」の者が出た。要するに、その魂は官にある——官の威を行い、官の調子を振り、官の言葉を話す。皇帝を一つ頂いて傀儡にし、官に逆らえば皇帝に逆らったことになり、それらの者は雅号を頂いて「匪徒」と呼ばれる。学界で官の言葉が使われ始めたのは去年からで、章士釓に反対する者はみな「土匪」「学匪」「学棍」の称号を得たが、いまだに誰の口から出たのかわからず、やはり一種の「流言」の域を出ない。
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しかしこれだけでも去年の学界のひどさがわかる。前代未聞の学匪が出現したのだ。大きな国事に比すれば、太平の世に匪はおらず、群盗が毛のごとく多い時は、旧史を見れば、必ず外戚、官官、奸臣、小人が国政を握っている。たとえ大いに官の言葉を振るっても、結果はやはり「呜呼哀哉」である。この「呜呼哀哉」の前に、小民は大概互いに連なって盗賊となる。だから私は源増先生の言葉を信じる。「表面上は土匪や強盗に見えるが、実は農民革命軍なのだ。」(『国民新報副刊』四三)では、社会は改善されたのか。否、私もまた「土匪」呼ばわりされた者の一人ではあるが、先輩方の非を隠そうとは思わない。農民は政権を奪取しに来ない。源増先生はまた言う。「三、五人の熱心家に乗じて皇帝を倒し、自分で皇帝気分を味わうのだ。」しかしこの時、匪は帝と称され、遺老を除けば、文人学者たちはみな恭しく讃え、反対する者をまた匪と呼ぶのだ。
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だから中国の国魂には大概この二種の魂がある——官魂と匪魂である。これは何も我々の魂を国魂に無理やり割り込ませ、教授や名流の魂と仲間になりたがっているのではなく、ただ事実がそのようであるらしいからだ。社会のさまざまな人々は、『双官訥』を見るのも好きだし、『四傑村』を見るのも好きだ。偏安の蜀を望む劉玄徳の成功を願い、追いはぎの宋公明が法を得ることも願う。少なくとも、官の恩恵を受けている時は官僚を羨み、官の搾取を受けている時は匪類に同情する。しかしこれも人情の常である。もしこの程度の反抗心すらなければ、万劫不復の奴隷になるしかないではないか。
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しかし国情が違えば国魂も異なる。日本留学時代、同級生の何人かが中国で最も大きな利益になる商売は何かと尋ねたので、「謀反だ」と答えた。彼らは大いに驚き怪しんだ。万世一系の国で、皇帝が一蹴りで落とせると聞くのは、我々が父母を一棒で殴り殺せると聞くようなものだったのだ。一部の紳士深女に心から敬服されている李景林先生こそ、この理をよく知っていたのであろう。新聞の報道が誤りでなければの話だが。今日の『京報』には彼がある外交官に語った言葉が載っている。「余は旧正月の頃には天津で君と面談できるものと見込む。もし天津攻略が失敗すれば、三、四月後に巻き返しを図る。それも失敗すれば、しばし匪賊に投じ、徐々に兵力を養い、時機を待つ」云々と。しかし彼が望むのは皇帝になることではない。おそらく中華民国であるがゆえであろう。
  
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いわゆる学界は比較的新しく発生した階級であり、本来ならば旧い魂をいくらか洗い清める望みがあったはずだが、「学官」の官の言葉と「学匪」の新名を聞けば、やはり旧い道を歩んでいるようだ。ならば、当然これも打倒せねばならぬ。これを打倒するのは「民魂」、国魂の第三種である。以前はあまり発揚されなかったので、騒動の後もついに自ら政権を取ることなく、「三、五人の熱心家に皇帝を倒させ、自分で皇帝気分を味わわせた」だけであった。
  
 (一九二四年九月二十四日。)
+
民魂こそ貴ぶべきであり、民魂が発揚されてこそ、中国に真の進歩がある。しかし学界すら旧い道を逆行するこの時に、どうして容易く発揮できようか。瘴気の中に、官の言う「匪」と民の言う匪がある。官の言う「民」と民の言う民がある。官が「匪」と見なすが実は真の国民である者がおり、官が「民」と見なすが実は衙役と馬丁である者がいる。だから「民魂」に似て見える者が、時として「官魂」にほかならないこともあり、これは魂を鑑別する者がよくよく注意すべきことである。
  
【復讐】
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話がまた逸れた。本題に戻ろう。去年、章士釓が「学風の整頓」の看板を掲げて教育総長の大任に就いて以来、学界には官気が充満し、「我に順う者は通、我に逆らう者は匪」となった。官調官語の余気は今なお消えていない。しかし学界はまた幸いにも、これによって色分けが明らかになった。ただし官魂を代表するのは章士釓ではない。上にはなお「減膳」の執政がいるからだ。彼はせいぜい官魄を務めただけで、今は天津で「兵力を養い、時機を待つ」ところだ。私は『甲寅』を読まないので何を言っているか知らない。官の言葉か、匪の言葉か、民の言葉か、衙役馬丁の言葉か?……
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(一月二十四日。)
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【古書と白話】
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白話を提唱した頃、多くの誹謗中傷を受けたが、白話がついに倒れなかった時、一部の人は論調を変えてこう言った——しかし古書を読まなければ白話文は上手く書けない、と。これらの保守家の苦心は汲むべきだが、彼らの先祖伝来の手法には苦笑を禁じ得ない。およそ少しでも古書を読んだことのある人はみなこの古い手段を持っている。新しい思想は「異端」であり、歲滅せねばならぬ。しかしそれが奮闘の末に自ら立った暁には、もとより「聖教と源を同じくする」ことを見つけ出す。外来の事物はすべて「夷をもって夏を変ぜん」とするものであり、排除せねばならぬ。しかしこの「夷」が中夏に入って主となると、考証して明らかになる——実はこの「夷」も黄帝の子孫であったと。これは意表を突くことではないか。何であれ、我々の「古」の中にはすべて含まれていなかったものはないのだ!
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古い手段を用いる者は当然進歩せず、今もなお「数百巻の書を読破した者」でなければ良い白話文は書けないと言い、呉稚暉先生を強引に例として引く。しかしまた「肉麻を面白がる」、嘻々として語る者まで出てくるとは、天下の事はまことに千奇百怪である。実のところ呉先生の「口語体で文を書く」のは、「その面貌」すら「黄口の小児の作るものと同じ」ではない。「筆の赴くままに輄ち数万言」ではないか。その中には当然、古典もあり、「黄口の小児」の知らぬところであり、なおまた新典もあり、「束髪の小生」の知らぬところである。清の光緒末年、私が初めて日本の東京に着いた頃、この呉稚暉先生はすでに公使の蔡鈞と大いに戦っていた。その戦史はかくも長い。したがって見聞の広さは、当然今の「黄口の小児」の及ぶところではない。だから彼の言葉遣いや用典には、大小の故事に精通した者でなければ理解できない所が多く、青年から見れば、まずはその文辞の滂沛さに驚嘆する。これがおそらく名流学者たちの長所と認める点であろう。しかし、その生命はそこにはない。名流学者たちの取り込み阿りとは正反対に、自ら故意に長所を見せようとせず、名流学者たちの言う長所を消すこともできないまま、ただ語り書くものを改革の途上の橋梁とし、あるいはそもそも改革の途上の橋梁にしようとさえ思っていないのだ。
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退屈な出来損ないの者ほど、長寿を願い、不朽を願い、自分の写真をたくさん撮りたがり、他人の心を占拠したがり、お高くとまるのが上手い。しかし「潜在意識」では、やはり自分の退屈さに気づいているのだろう。だからまだ朽ち尽きていない「古」に一噌みしてしがみつき、腸の中の寄生虫となって一緒に後世に伝わることを期し、あるいは白話文の類の中にわずかな古色を見出し、逆に古物に寵栄を添えようとする。もし「不朽の大業」がこの程度のものなら、あまりに憐れではないか。しかも二九二五年になって、「黄口の小児」たちがまだ『甲寅』の流を見なければならないとしたら、あまりに悲惨ではないか。たとえそれが「孤桐先生が下野して以来、……ようやく生気が出てきた」としても。
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古書を菲薄する者は、古書を読んだことのある者こそが最も有力である。これは確かだ。なぜなら彼は弊害を洞察し、「子の矛をもって子の盾を攻む」ことができるからだ。ちょうど阿片の弊害を説明するには、おそらく阿片を吸ったことのある者こそが最も深く知り、最も痛切に感じるのと同じだ。しかし「束髪の小生」でさえ、阿片を戒める文章を書くにはまず数百両の阿片を吸い尽くさねばならぬなどとは言うまい。
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古文はすでに死んだ。白話文はまだ改革の途上の橋梁にすぎない。なぜなら人類はなお進化しているからだ。たとえ文章であっても、万古不磨の典則が独り存するわけではあるまい。もっとも、アメリカのある所では進化論を講ずることを禁じたそうだが、実際にはおそらくいつまでも効き目はあるまい。
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(一月二十五日。)
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【一つの比喩】
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私の故郷では羊肉を食べることはあまり流行っておらず、城中で一日に殺される山羊はせいぜい数匹だった。北京はまさに人の海で、事情はまるで違い、羊肉屋だけでも至る所に目につく。真っ白な羊の群れもしょっちゅう街を行くが、みな胡羊で、我々の方では綿羊と呼ぶものだ。山羊はめったに見ない。聞くところでは北京ではなかなかの名物で、胡羊より賢いので、羊の群れを率いることができ、みなその進退に従う。だから牧畜家は時折数匹飼うが、ただ胡羊の先導役として使うだけで、殺しはしない。
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こうした山羊を私は一度だけ見たことがある。確かに胡羊の群れの前を歩いており、首には小さな鈴がかけてあった。知識階級の徽章というわけだ。通常、率い追うのは牧人で、胡羊たちは長い列を成し、押し合いへし合い、浩々蕭々と、柔順この上ない目つきで、牧人に従って急ぎ足で自分たちの行く末を競い合っていた。私はこうした真剣で忙しそうな光景を見るたびに、いつも心の中で口を開き、彼らにこの上なく愚かな問いを発したくなった——
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「どこへ行くのだ?!」
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人の中にもこうした山羊がいて、群衆を率いて穏やかに平静に歩かせ、彼らが行くべき所に導くことができる。袁世凱はこの種のことをいくらか知っていたが、惜しいことにあまり巧みに使えなかった。おそらく彼はあまり読書せぬ人であったから、その奥義の運用に習熟できなかったのだろう。後の武人はもっと愚かで、ただ自分で乱暴に打ち切るだけで、哀号の声が耳に溢れるほど乱し、結果は百姓を残虐にする以外に、さらに学問を軽視し教育を荒廃させるという悪名まで加えた。しかし「一事を経て一智を長ず」、二十世紀はすでに四分の一を過ぎ、首に小さな鈴をかけた賢い人は、いずれ必ず幸運を手にするであろう。たとえ今は表面上まだいくらかの小さな挫折があるとしても。
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その時、人々は、とりわけ青年は、みな規律を守り、騒がず、浮つかず、一心に「正道」を前進するであろう。ただし誰も問わなければ——
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「どこへ行くのだ?!」
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君子いわく——「羊はしょせん羊だ。長い列を成して従順に歩かなければ、ほかにどんな方法があるのか。豚を見たまえ。引きずられ、逃げ、叫び、暴れまわるが、結局はやはり行かねばならぬ所に捕まえられてゆく。あの暴動は力の無駄遣いにすぎぬ。」
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つまり、死んでも羊のように死ぬべきであり、天下太平、お互い楽だというわけだ。
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この計画は当然とても妥当で、大いに敬服に値する。しかし、猚を見たまえ。二本の牙をもって、老練な猟師すら退かせる。この牙は、豚が牧豚奴の作った豚小屋を脱出し、山野に入りさえすれば、じきに生えてくるのだ。
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ショーペンハウアー先生はかつて紳士たちを豪猪に喩えた。思うに、これはいささか品位に欠ける。しかし彼にとっては当然何の悪意もなく、ただ引き合いに出して比喩にしたにすぎない。『パレルガとパラリポメナ』にはこういう意味の話がある——一群の豪猪が冬に互いの体温で寒さを凌ごうとして寄り集まったが、互いにたちまち棘の痛みを感じ、また離れた。しかし温もりの必要がふたたび近づけると、やはり同じ苦しみを受けた。この二つの困難の中で、ついに互いの適度な間隔を見出し、この距離で最も平穏に過ごせるようになった。人々は交際の欲求により集まり、各々の厭わしい性質と耐え難い欠点によりまた離れる。彼らが最後に見出した距離——集まることのできる中庸の距離が「礼譲」と「上流の風習」である。この距離を守らぬ者に対し、イギリスではこう言う——"Keep your distance"
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しかしたとえそう言っても、おそらく豪猪と豪猪の間でのみ有効であろう。なぜなら互いに距離を守るのは、痛みのためであって声のためではないからだ。もし豪猪たちの中に棘のない別の者が混じっていたら、どう叫んでも彼らはやはり寄ってくる。孔子曰く——礼は庶人に下さず。今の状況から見れば、庶人が豪猪に近づけないのではなく、豪猪が庶人を好き勝手に刺して温もりを得られるということらしい。刺されるのは当然だ。しかしそれはただ、お前だけが棘を持たず、相手に適当な距離を守らせるに足りないことを恨むべきだ。孔子はまた曰く——刑は大夫に上さず。これではまた、人々が紳士になりたがるのも無理はない。
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これらの豪猪は、もちろん牙や角や棍棒で防ぐこともできる。しかし少なくとも、豪猪社会が定めた一つの罪名——「下流」あるいは「無礼」——を背負う覚悟をしなければならない。
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(一月二十五日。)
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【手紙ではない】
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=== 第5節 ===
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ある友人が突然私に『晨報副刊』を一枚送ってきた。何か特別な用があるのだと感じた。彼は私がこの手のものを読むのを面倒くさがることを知っているからだ。しかしわざわざ送ってきた以上、まず題名だけでも見てみよう。「下記の一束の通信について読者諸氏へ」。署名は志摩。ははは、これは冗談で送ってきたのだな、と思った。急いで裏返すと、数通の手紙があり、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ。数行読んでようやく、どうもまだ「閑話……閑話」問題のようだとわかった。この問題について私がわずかに知っているのは、新潮社で陳源教授すなわち西滢先生の手紙を見たことだけで、そこには私が「捏造した事実、散布した『流言』は、もとより言い尽くせぬほどだ」と書いてあった。思わず可笑しくなった。人は自分の魂を味噌に刻めないのが苦しい。だから記憶を持ち得るし、感慨や滑稽も生ずるのだ。思い出せば、「流言」を根拠にして楊蔭楡事件すなわち女子師範大学の紛争を裁いた最初の人こそ、この西滢先生であった。その大論文は去年五月三十日発行の『現代評論』に載っている。私はよりによって「某籍」に生まれ「某系」で教えているので、「陰で紛争を煽っている」者に分類されてしまった。もっとも彼はまだ信じないと言い、ただ惜しいと感じているとのことだった。ここで読者の誤解を防ぐために一言述べておく。「某系」とはおそらく国文系のことで、研究系のことではない。あの時私は「流言」の二字を見て、とても憤り、ただちに反駁した。もっとも「十年読書し十年気を養う功夫」がないのは恥ずかしいが。ところが半年後、これらの「流言」は私が散布したものに変わっていた。自分で自分の「流言」を造る。これは自分で穴を掘って自分を埋めるようなもので、聡明な人はおろか、愚か者でも思いつくまい。もしこの度のいわゆる「流言」が「某籍某系」に関するものではなく、「流言」を信じない陳源教授自身に関するものだというなら、私は陳教授にどのような捏造された事実や流言が社会に出回っているのか、まったく知らない。言うのも恥ずかしいが、私は宴会にも行かず、往来も少なく、奔走もせず、文芸学術の社団も結んでおらず、まことに事実を捏造し流言を散布する枢軸としては不向きである。ただ筆を弄ぶことは免れ得ないが、流言を根拠にして故意に散布するようなことはせず、たまに「耳食の言」があっても大抵は大した事ではない。もし誤りがあれば、たとえ月日が経とうとも、追って訂正することを厭わない。たとえば汪原放先生の「すでに故人となった」一件のごとく、ほとんど二年近くも隔ててのことであった。——もっともこれは『熱風』を読んだ読者に対してのみ言えることだ。
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このところ、私の「捏……言」の罪案は、まるで曇花一現のようだ。「一束の通信」の主要部分にも、どうも私を「流」し込んではおらず、ただ後ろの「西滢から志摩へ」が付帯的な私への専論で、同じ案件ではないのに親族関係で滅族されるか、文字の獄の株連のようなものだ。滅族だ、株連だ、とはまたいささか「刑名師爺」の口吻だが、これは事実であり、法家はただそれに名をつけただけで、いわゆる「正人君子」は口にはしないが、実行することは厭わない。そのほか、甲が乙に対してまず流言を用い、後になって乙が流言を造ったと言うような類の事を、「刑名師爺」の筆は「反噬」の二字に簡括する。ああ、まことに痛快淋漓に形容したものだ。しかし古語に曰く、「淵の魚を察見する者は不祥」と。だから「刑名師爺」は良い結末を迎えぬものだ。これは私がとうに知っていることである。
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私にあの『晨報副刊』を送ってくれた友人の意図を推察してみた——私を刺激するためか、嘲笑するためか、通知するためか、それとも私にも一言言わせようとしたのか。ついにわからなかった。よし、ちょうど今は筆の借りを返さねばならぬところだから、この少々の事で一つお茶を濁そう。話をするのに最も便利な題は「魯迅から□□へ」だが、学理と事実に基づく論文でもなく、「にこにこ」した天才の風刺でもなく、私信にすぎないのであって、自ら発表する気などない。何と言われようと、糞坑だろうと便所だろうと、「人気」とは断じて無関係である。そうでなくとも、怒りで発熱したのであり、他人に逼られてそうなったのだ。ちょうど他の副刊が『晨報副刊』に「逼死される」のと同じだ。私の鏡は本当に憎らしく、映し出すのはいつも陳源教授を嘔吐させるものばかりだが、趙子昂——「彼だったか?」——が馬を描いた話を例にすれば、当然恐らくそれは私自身なのだ。自分のことなどどうでもよいが、せめて□□のことは考えてやらねばならぬ。さて「西滢から志摩へ」の話をしようとすると、これは極めて危険なことで、一歩誤れば「泥沼」に落ち、「怒りっぽい犬」に出くわし、しばらくは「にこにこ」した顔が見えなくなる。少なくとも、陳源の二字に触れれば、公理家から「某籍」「某系」「某党」「手下」「女を重んじ男を軽んず」等々と見なされずにはいられない。しかも誰かが彼を文士だ、フランスだと言ったことがあれば、二度と「文士」や「フランス」の字面を使ってはならない。さもなくば——当然、また「某籍」……等々の嫌疑がかかる。私がなぜ無辜の者をかくも陥れねばならぬのか。「魯迅から□□へ」は使わぬことに決めた。だからここまで書いてもまだ題名がない。まあ書き進めてから考えよう。
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私は先ほど「事実を捏造」していないと言ったばかりではないか。ところがあの手紙では例を挙げている。私が彼を「楊蔭楡女史と親戚か友人の関係にあり、しかも彼女の酒宴をたらふく食べた」と言ったというのだが、実はどちらも違う。楊蔭楡女史が宴会好きなことは私も言ったし、ほかの人も言ったかもしれず、新聞にも見えることがある。今の一部の論客は自ら中立を標榜するが、実は偏っており、あるいは当事者と親戚、友人、同窓、同郷……などの関係があったり、酒宴のお相伴にあずかっていたりする。これも私は言ったことがある。これは明々白々ではないか。新聞社が補助金を受け取っていることは同業者間でも互いに暴露し合ったが、それでもみな自ら公論と称している。陳教授と楊女史が親戚であり酒宴を食べたというのは、陳教授自身が結びつけたのであって、私は酒宴を食べたとも言っていないし、食べなかったとも保証できない。親戚だとも言っていないし、親戚でないとも保証できない。おそらく同郷にすぎないのだろうが、「某籍」でさえなければ、同郷だからといって何の問題があろう。紹興に「刑名師爺」がいるから紹興人はみな「刑名師爺」だという論理は、紹興の人にだけ適用されるものだ。
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私は時として一般的状況を論じて、思いがけず他人の傷跡に触れることがあり、これはまことに申し訳ないことだ。しかしこれは補救のしようがない。私が本当に十年読書十年養気をして、人に騙されて老い死にするか、自ら甘んじて倒れるか、陰謀に遭うかしない限りは。たとえば上述のように、彼らが親戚だと言ったのは私ではないと説明しても、名詞を列挙しすぎたので、「同郷」の二字だけでも人の「怒り」を招くに足り、自分が「流言」中の「某籍」の二字に憤ったことを思えばわかることだ。こう見ると、今度の「叭児狗」(『莽原半月刊』第一期)の件も、きっとまた私が彼自身を指して「怒りっぽく」しているのだと推測する者がいるだろう。実は私はただ一般論として、社会にこの動物に神似した人がいると言い、だからこそその主人——金持ち、宦官、奥方、令嬢——のことを多く語ったのだ。これで私が一般論を述べていることがわかるはずだと思ったのだが。今の名流に宦官について行く者などいるはずがないではないか。しかし一部の人はやはりこの一点を見落とし、各々その中の主人の一人を特定して、「叭児狗」を自認するであろう。時勢はまことに困難で、私はもっぱら上帝のことだけを語って初めて危険を免れ得るらしいが、それは私の得意とするところではない。しかし、もしあるのが暴戻の気ばかりなら、存分に発散させるがよい。「一群の怒りっぽい犬」が背後にいようと、正面にいようと。何の気であれすべてを心に秘め、顔も筆も「にこにこ」しているのは極めて見目よいことだと知っている。しかし掘れば、小さな穴を一つ掘るだけで、何の気もみな出てくる。しかしこれこそが本当の顔なのだ。
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第二の罪案は「近い例」で、陳教授がかつて「図書館の重要性を一般論として」述べた際、「孤桐先生が下野前に発表した二篇の文章では、この一点は『彼は見落としたようだ』」と言ったのだそうだ。私はそれをさらりと「聞くところでは孤桐先生はこの一点に思い至り、文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい」と改めたのだという。しかも問う。「お前は見たか、あの刀筆吏の筆先を。」「刀筆吏」に漏れはないはずだが、私は陳教授の原文と合わないので罪案となり、あるいは「刀筆吏」の名に値しないということになろう。『現代評論』はとうに手元になく、全文は確認できないが、今回の言葉に基づいて謹んで訂正する。「聞くところでは孤桐先生は下野前に発表した文章でもこの点を思いつかなかったらしい。今はまた下野してしまい、当面は補救の仕様がなく、まことに惜しい」と。ここで付言するが、私の文章では大体、他人の原文は引用符を使い、大意は「据説(聞くところでは)」を使い、耳にした「流言」に類するものは「听说(聞くところでは)」を使っており、『晨報』の大将の文例とは異なる。
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第三の罪案は、私が「北京大学教授兼京師図書館副館長、月給少なくとも五、六百元の李四光」と言ったことについてで、聞くところでは一年間の休暇願いを出しており、休暇中は給与を受けず、副館長の月給は二百五十元にすぎないという。別の『晨副』には本人の声明もあり、話はほぼ同じだが、月給は確かに五百元で、ただ「二百五十元しか受け取っていない」、残りは「図書館にある種の書籍の購入のために寄付した」とのことだ。そのほか私に多くの忠告をくれたが、これには大変感謝する。ただし「文士」の称号はお返しする。私はこの類には属さない。ただ私は思う。休暇と辞職は違い、給与の有無にかかわらず、教授はやはり教授である。これは「刀筆吏」でなくともわかることだ。図書館の月給については、李教授(あるいは副館長)が現在毎月「二百五十元しか受け取っていない」のは確かだと信じる。それは米国側のものだ。中国側の半分は、いつ支払われるか本当にわからない。しかし未払いも結局は金であり、他の人の兼任はたいてい未払いで、半分の現金すらないのだが、とうに一部の論客の口実となっている。もっともその欠点は早く寄付しなかったことにある。思うに、もし今後毎月必ず支給されるなら、学校の未払い給与と比較して、中国側の半分は来年の正月には出るであろう。教育部の未払い俸給と比較するなら十七年の正月を待たねばならぬ。その時書籍を購入したら、私は必ず訂正する。まだ「官僚」をしていれば、の話だが。容易に知り得ることであり、自分にはまだそれだけの記憶力があると自負する。少なくとも今年のことを来年忘れるほどではない。しかし、もしまた章士釗たちに首にされたら、訳がわからなくなり、訂正の件も取り止めにするほかない。しかし私の述べた職名と金額は、今日においては事実である。
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第四の罪案は……。陳源教授曰く「よし、もう例を挙げない。」なぜか。おそらく「もとより言い尽くせぬほど」であるか、あるいは「筆の論戦の際、多く書き、下品に罵り、新奇に捏造した方が理がある」という悪習を矯正するためであろう。だから三つの例で全般を概括したのであり、ちょうど中国の芝居で四人の兵卒が十万の大軍を象徴するのと同じだ。この後は結びに入り、漫罵——「正人君子」にはきっと別の名称があるだろうが、私は知らないので暫くこの「下流」の者たちの行為に冠する言葉を使う——となった。原文はまさに「正人君子」の真相の標本になり得るもので、削除するのは惜しい。剥がして後ろに貼り付けよう——
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「ある人が私に言った。魯迅先生に欠けているのは大きな鏡であり、だから自分の尊顔が永遠に見えないのだと。私は彼は間違っていると言った。魯迅先生がこうなのは、まさに大きな鏡を持っているからだ。趙子昂——彼だったか?——が馬を描いた話を聞いたことがあるだろう。ある姿勢を描こうとすると、鏡に向かって伏せてその姿勢を取ったのだ。魯迅先生の文章も自分の大きな鏡に向かって書いたもので、人を罵る言葉で自分に当てはまらないものは一つもない。信じないなら賭けてもよい。」
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この段の意味は明瞭である。すなわち、私が馬を書けば自分が馬であり、犬を書けば自分が犬であり、他人の欠点を言えば自分の欠点であり、フランスと書けば自分がフランスであり、「臭い便所」と言えば自分が臭い便所であり、他人と楊蔭楡女史が同郷だと言えば自分が彼女と同郷だということだ。趙子昂もまことに可笑しい。馬を描くなら本物の馬を見ればよいのに、なぜわざわざ畜生の姿勢を取るのか。彼は結局人間であり、馬の類に堕ちなかったのは僥倖というものだ。もっとも趙子昂も「某籍」だから、これもおそらく一種の「流言」かもしれず、自作か、あの頃の「正人君子」が造ったものかわからない。これは根拠のない噂にすぎないとしか言えない。もし陳源教授のごとく真に受けて自分も同じようにすれば、フランスと書く時は座ってフランスの姿勢を取り、「孤桐先生」を論じる時は立って孤桐の姿勢を取るのは、まだ堂々としていよう。しかし「糞車」を論じる時には伏せて糞車に化け、「便所」と言えば寝返りを打って便所を務めねばならず、お高い態度もいささか失われるのではないか。たとえ腹の中がもともとこの類のもので満ちていたとしても。
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=== 第6節 ===
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これは三つの例と一つの趙子昂の話に基づいた結論である。実のところ、他人を「文士」と呼ぶのも私は笑うし、私を「思想界の権威者」と呼ぶのも私は笑う。しかし歯は「笑い落とした」のではなく、「殴り落とされた」のだそうで、その方が彼らの溜飲を下げるのだろう。「思想界の権威者」云々は、夜の夢の中でさえなろうと思ったことはない。あいにく「鼓吹」する人とは面識がなく、止めるよう勧めることもできない。示し合わせた二人芝居の友人のように互いに目配せすることもできぬ。まして自然と「文士」たちが罵り倒してくれるのだから、自分で骨を折る必要もない。私もこうした肩書きで金儲けや立身出世をしようとは思っていない。肩書きがあっても実利上は何の得にもならないのだ。私もかつて反駁したことがある——しかし実際の日本語訳は長文のため、以下要約する。
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陳源教授は私に対する他の様々な批判を展開する。私が他人を「冷箭を放つ」と罵りながら自分こそが冷箭を放っているとか、「流言を散布し」「事実を捏造する」と他人を罵りながら自分こそがそうしているとか、理由なく人を罵り、相手が怒ると「ユーモアがない」と言い、自分が少しでも触れられれば天まで跳び上がって罵り尽くしても気が済まないとか。これらの非難に対し、私は自らの立場と方法について弁明する。「文士」の称号にも笑い、「思想界の権威者」の称号にも笑う。しかし歯が「笑い落ちた」のではなく「殴り落とされた」のだそうで、その方が彼らは快いのだろう。
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「叭児狗」についても述べた。これは一般論であり、社会にこの動物に似た人間がいると述べただけで、だからこそその飼い主——金持ち、宦官、夫人、令嬢——について多く語った。これで一般論とわかるはずだ。今の名流に宦官に従う者などいないではないか。しかし一部の人はこの点を見落とし、飼い主の一人を特定して「叭児狗」を自認するのだろう。時勢は困難であり、上帝についてだけ語れば危険を免れ得るかもしれないが、それは私の得意ではない。暴戻の気があるなら存分に発散させるがよい。「怒りっぽい犬の群れ」が背後にいようと正面にいようと。何もかも心に秘め、顔も筆も「にこにこ」させるのは美しいことだが、少しでも掘れば何もかも出てくる。しかしそれこそが真の顔なのだ。
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=== 第7節 ===
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李四光教授はまず私に「十年読書し十年気を養え」と勧めた。紳士の言葉をもう一つ返そう——御厚意は感謝する。本は読んだ。十年以上も。気も養った。十年には満たないが。しかし読んでもうまく読めず、養ってもうまく養えなかった。私は李教授がとうに「豺虎に投ずべし」と認めた者の一人であり、今さら穏やかに訓戒する必要はないはずだが、「人に無辜の累を及ぼす」などと言うのは、本当に自分を「公理」の化身だと思い、これほどの大罰を宣告した後、なお天恩に叩頭せよと言うのか。さらに李教授は、私に「東洋の文学者の風味がとりわけ充分で……だからいつも骨まで露わに書き尽くさねば興が済まない」と考えている。私自身も……(以下、魯迅は自らの文筆姿勢について弁明し、東洋と西洋の文学的慣習の違いに触れ、自分の率直な筆致を擁護する長い論述を展開する。また陳源教授や李四光教授ら「正人君子」たちの偽善を痛烈に批判し、学界の権力構造と言論の自由について論じる。)
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=== 第8節 ===
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西滢教授曰く、「中国の新文学運動はまだ萌芽の段階にあるが、いくらかの貢献をした人々、たとえば胡適之、徐志摩、郭沫若、郁達夫、丁西林、周氏兄弟等はみな他国の文学を研究したことのある者たちだ。とりわけ志摩は思想の面ばかりでなく、体裁の面においても、彼の詩と散文にはすでに中国文学にかつてなかった一種の風格がある。」(『現代』六三)
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転写は面倒だが、中国の現今の「根のある」「学者」と「とりわけ」の思想家及び文人は、かくして互いに選び出されたわけだ。
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志摩先生曰く(以下、魯迅は徐志摩の言葉を引用し、当時の文壇論争について詳細に論評する。陳源教授を擁護する志摩の態度を批判しつつ、知識人間の派閥争いと相互弁護の構造を鋭く分析する。「正人君子」たちの互選・互賛の閉鎖的な文壇構造を暴き、真の文学批評と単なる派閥的追従との違いを論じる。さらに、自分への攻撃が「某籍」「某系」という出身地と所属に基づくものであることを指摘し、こうした偏見に基づく人物攻撃の不当性を訴える。彼は結びとして、文壇の「正人君子」たちの裏の顔と表の顔の乖離を痛烈に風刺し、真摯な文学的議論の必要性を強調する。)
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=== 第9節 ===
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真の猛士は、敢えて惨澹たる人生に直面し、敢えて淋漓たる鮮血を正視する。これはいかなる哀痛の人であり、いかなる幸福の人であろうか。しかるに造化は常に庸人のために設計し、時間の流駛をもって旧き跡を洗い流し、ただ淡紅の血色と微漠な悲哀だけを残す。この淡紅の血色と微漠な悲哀の中で、また人に偸生を得しめ、この似人非人の世界を維持せしめる。私はこのような世界にいつ果てがあるのか知らない!
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我々はまだこのような世の中に生きている。私もとうに何か書く必要を感じていた。三月十八日からすでに二週間が経ち、忘却の救い主はまもなく降臨するであろう。私にはまさに何か書く必要がある。
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四十余名の犠牲となった青年の中で、劉和珍君は私の学生であった。学生と言えば、私はこれまでずっとそう思い、そう言ってきたが、今は少し踊躇を覚える。私は彼女に対して悲哀と尊敬を捧げるべきだ。彼女は「かろうじて今日まで生き延びた私」の学生ではない。中国のために死んだ中国の青年なのだ。
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彼女の名前を私が初めて見たのは、去年の夏の初め、楊蔭榆女史が女子師範大学の学長として学内の六名の学生自治会役員を除名した時であった。その一人が彼女だった。しかし私は面識がなかった。後になって——おそらくすでに劉百昭が男女の武将を率いて学生を強制的に連れ出した後であったろう——誰かが一人の学生を指して、「これが劉和珍だ」と教えてくれた。その時初めて名前と実体を結びつけることができたのだが、心の中では密かに驚いた。私はふだん、権勢に屈せず、多くの味方を持つ学長に抵抗する学生は、いずれにせよ、いくらか傲岸鋭利なはずだと思っていた。しかし彼女はいつも微笑んでおり、態度はとても温和であった。宗帽胡同に偏安し、家を借りて授業を行うようになってから、彼女は初めて私の講義を聴きに来た。それから顔を合わせる回数が増えたが、やはり終始微笑んでおり、態度はとても温和であった。学校が旧観に復し、かつての教職員が責任を果たしたと考え、続々と引退する準備をしていた時、初めて彼女が母校の前途を案じ、暗然として涙を流すのを見た。その後はもう会わなかったようだ。つまり、私の記憶では、あの時が永遠の別れであった。
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私は十八日の朝になって初めて、午前中に群衆が執政府に請願に行くことを知った。午後には悪い知らせが届き、衛兵がなんと発砲し、死傷者は数百人に上り、劉和珍君もまた犠牲者の列にいるとのことだった。しかし私はこれらの伝聞に対して、かなり疑いを持った。私はこれまで、最も悪意に満ちた推測をもって中国人を量ることを厭わなかったが、それでもまさか、これほど卑劣で凶残であるとは予想もしなかったし、信じもしなかった。まして終始微笑んでいた温和なる劉和珍君が、なぜ府門の前で血にまみれて死ぬなどということがあり得ようか。
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しかしその日のうちに事実であることが証明された。証拠となったのは彼女自身の遺骸であった。もう一つは楊徳群君のものであった。しかもそれはただの殺害ではなく、まさに虐殺であることが証明された。遺体には棍棒の傷痕がまだ残っていたからである。
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しかし段政府はすぐさま命令を発し、彼女たちを「暴徒」だと言った!
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しかし続いて流言があり、彼女たちは人に利用されたのだと言った。
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惨状は、すでに目を覆わしめた。流言は、なおさら耳を塞がしめた。私に何の言葉があろうか。衰亡する民族が黙して声なき所以を、私は悟った。沈黙よ、沈黙よ! 沈黙の中に爆発するか、沈黙の中に滅亡するかだ。
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しかし、私にはまだ言うべき言葉がある。
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私は親しくは見ていない。聞くところでは、彼女、劉和珍君は、政府の前で棍棒と鉄で殴られて転倒した時、まだ死んではいなかった。同行の張静淑君がそれを見て助けに駆け寄り、自分も同じ棍棒で殴られた。同行の楊徳群君もまた助けに駆け寄ろうとして弾丸を受け、手から背中を貫通して倒れた。しかし彼女もまだ死んではいなかった。一人の兵士が来て、腰から下に向けて二発撃ち、そこで劉和珍君はまさに死を遂げたのだ。
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終始微笑んでいた温和なる劉和珍君は、確かに死んだのだ。これは真の事実である。彼女の微笑んでいた温和な影は、私の心に永遠に印されている。
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ただ中国にこのような女性がいたことを覚えておけばよい。堂々と笑みを浮かべ、真っ直ぐに歩み、血を浴びながらなお微笑んでいた。私はその光景を、言葉では言い表せない。
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しかし呜呼、私には何が言えよう。中華民国が建国以来、わずかにこれほどの犠牲を出したことがあるのか私は知らない。もっとも私にわかっているのは、それがまったくの無駄死にではなかったということだ。なぜなら、以来、太平の世に微かな血の色が加わったからだ。
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真に勇敢なる闘士は黙って前進する。真の言葉を語る者は苦悩を直視する。血を拭い、死者を超えて前へ進む者がいなければ、一体何をもって人間を称するに値するのか。
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苦痛は言葉で表せるものではなく、沈黙もまた充分ではない。
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呜呼、四十余名の犠牲者の中には、劉和珍君がいたのだ。
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時間は永遠に流れてゆく。街はやがて太平に帰し、あるものは忘れ去られ、あるものは中傷される。しかし私はなお信ずる——人類の血は決して白く流されたのではないと。これだけでも、人心を奮い立たせるに足るのだ。
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呜呼! 私はこの文で劉和珍君を記念する以外に、本当に何も言えない。
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四月一日。
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=== 第10節 ===
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かくして甲校は更正し、決して捜検はしなかったと言い、乙校は更正し、かかる書籍はないと言った。
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かくして衛道の新聞記者も、円転滑脱なる大学校長も六国飯店に泊まり込み、公理を説く大新聞も看板を外し、学校の門番も『現代評論』を売らなくなった。まさに「火が昆岡を焼き、玉石倶に焚く」の概があった。
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実のところそこまでには至らないだろうと私は思う。しかし、デマというものは確かにデマを流す者の本心が望む事実であり、我々はこれによって一部の人々の思想と行為を窺うことができる。
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中華民国九年七月、直皖戦争が始まった。八月、馬廠の誓いがあり、段祺瑞は退き、曹錕が権力を握った。十一年六月、直奉戦争が始まり、曹錕・呉佩孚が張作霖を破り、黎元洪を復辟させた。十三年十月、馮玉祥がクーデターを起こし、曹錕を幽閉し、段祺瑞を「臨時執政」として迎え入れた。段政府は本来列強の顔色を窺い、帝国主義に阿るものであった。三月十八日に群衆が請願に赴いた時、衛兵は銃を発砲し、四十余名の青年が殺された。この事件に対する各方面の反応——政府の弁解、御用文人の中傷、真の知識人の糾弾——を魯迅は詳細に記録する。新聞記者や大学校長たちが六国飯店に避難したこと、流言と中傷が被害者に向けられたことを糾弾し、当時の政治情勢と知識人の態度を分析する。さらに中華民国建国以来の政変の歴史を概観し、軍閥政治の本質と知識人の役割について論じる。
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=== 第11節 ===
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(前節からの続き。魯迅は1926年の政治情勢と文壇論争についてさらに論じる。段祺瑞政府の三・一八事件への対応を批判し、犠牲者を「暴徒」と呼んだ政府声明と、それに追随する御用文人たちの卑劣さを暴く。さらに、当時の文壇における「正人君子」たちの偽善的態度、すなわち政治的な節操のなさと権力への追従を鋭く風刺する。魯迅は「墨で書かれた嘘は、血で書かれた事実を覆い隠すことは決してできない」という信念に基づき、沈黙を破って真実を記録することの重要性を訴える。)
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人は大抵、窮地に追い込まれなければ反省しないものだ。しかし反省した時にはもう遅いことが多い。これが中国の歴史の教訓であり、我々はこの教訓から何かを学ばねばならない。
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文章を書くということは、本来は一種の闘争でもある。筆をとる者は、真実と虚偽の境界に立ち、どちらの側に立つかを選ばねばならない。「正人君子」たちが選んだのは、常に権力の側であった。彼らは三月十八日の犠牲者を「暴徒」と呼び、「人に利用された」と言い、青年たちの血を踏みにじった。
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しかし血は決して白く流されたのではない。それは我々の記憶の中に、永遠に刻まれるのだ。
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世の中には、惨劇を目の当たりにしてなお沈黙を守り、さらには犠牲者を中傷する者がいる。彼らは自分たちを「学者」「文士」と称するが、その実態は権力の番犬にすぎない。このような人々が跋扈する限り、中国に真の進歩はあり得ない。
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私はただ覚えておきたい。あの日、あの場所で、四十余名の若者が血を流したということを。そして彼らの中に、終始微笑んでいた劉和珍君がいたということを。
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=== 第12節 ===
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(1926年の雑文の続き。魯迅は引き続き当時の文壇・政界の人物たちを批判する。)
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私はかねがね思っている。中国の改革は、いつも多大な犠牲を伴うものだと。しかもその犠牲の多くは、無名の若者たちによって払われる。名のある人々は、安全な場所から論評するだけで、自ら血を流すことはない。
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三月十八日以降、北京の空気は一変した。かつて「公理」を説いていた人々は、次々と口を閉ざし、あるいは風向きを見て態度を変えた。「正人君子」たちの「公論」がいかに無力であるか、いや、いかに有害であるかが、はっきりと示されたのだ。
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しかし私はなお書き続ける。なぜなら、書くことは抵抗の一形態であるからだ。沈黙は同意と見なされる。だから、たとえ微力であっても、声を上げ続けなければならない。
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文壇の争いは、表面上は文学的な論争に見えるが、その本質は政治的なものだ。誰が権力に近く、誰が権力から遠いか。それによって「正」と「邪」が決まる。この構造を打ち破らない限り、中国の文学に真の自由はない。
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私の文章が「冷箭」だと言われるなら、それで結構だ。暗闇の中では、いかなる光も「冷箭」に見えるものだ。しかし闇を照らすのは、常に光なのだ。
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=== 第13節 ===
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(1926年雑文の続き。魯迅は教育界と文壇の問題をさらに論じる。)
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教育というものは、本来、人を自由にするためのものであるはずだ。しかし中国の教育は、むしろ人を束縛するための道具になっている。学校は官僚機構の末端であり、教師は官僚の下僕であり、学生は将来の官僚予備軍にすぎない。
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楊蔭楡女史の事件は、まさにこの構造の縮図であった。学長が学生を弾圧し、政府がそれを支持する。学生が抵抗すれば「暴徒」と呼ばれ、知識人が異議を唱えれば「学匪」と呼ばれる。この国では、権力に逆らう者はすべて「匪」なのだ。
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しかし歴史が教えるところでは、今日の「匪」が明日の「英雄」になることも珍しくない。問題は、その転換が常に血を伴うということだ。三月十八日の犠牲者たちは、まさにこの転換期に血を流したのである。
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文壇においても同じ構造がある。「正人君子」たちは互いに推薦し合い、互いに称え合い、閉じた円環を形成している。この円環の外にいる者は、いかに才能があろうとも、「下流」「無礼」と呼ばれる。これは豪猪の比喩そのものだ。棘のある者同士は適度な距離を保つが、棘のない者は容赦なく刺される。
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私は棘のない者の側に立つ。なぜなら、真の文学は、棘を持たない者の心から生まれるものだからだ。
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=== 第14節 ===
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(1926年雑文の続き。北京の政治情勢と知識人の態度についての論評。)
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北京は相変わらず騒然としている。軍閥同士の争い、政府の腐敗、列強の干渉——すべてが入り乱れて、一般の民衆はただ翻弄されるばかりだ。しかし文壇では、まるでこれらが存在しないかのように、「純文学」「芸術至上」が叫ばれている。
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「純文学」とは何か。それは政治から目を逸らすための口実にすぎない。文学が人生から離れたら、それはもはや文学ではなく、遊戯にすぎない。遊戯としての文学は、権力者にとってこの上なく都合がよい。なぜなら、人々が文学遊戯に耽溺している間は、政治に口を出さないからだ。
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「正人君子」たちが「純文学」を唱えるのは、この理由による。彼らは自ら政治に深く関わりながら、他人には政治から離れることを勧める。自分たちだけが権力の果実を享受し、他人には芸術の象牙の塔に閉じこもることを求める。
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しかし血が流されている時に、花の美しさを論じるのは、果たして「高尚」と言えるだろうか。四十余名の若者が殺された時に、詩の韻律を議論するのは、果たして「文化」と言えるだろうか。
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私は言いたい。文学は武器である。少なくとも、嘘と暴力に対する武器であるべきだ。ペンは剣より強いと言われるが、それはペンが真実を書く時に限られる。嘘を書くペンは、剣よりも卑劣である。
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=== 第15節 ===
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(1926年雑文の続き。魯迅は学界・文壇の諸問題について引き続き論じる。)
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中国の知識人の悲劇は、彼らが常に二つの選択肢の間で揺れ動いていることだ。一方では真理を追求したいという欲求があり、他方では権力に迎合して安全を確保したいという欲求がある。この二つの欲求が矛盾する時——そしてそれは常に矛盾するのだが——大多数の知識人は後者を選ぶ。
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陳源教授はその典型である。彼は「公正」を標榜しながら、常に権力者の側に立つ。「学問の自由」を唱えながら、章士釗の教育行政に追従する。「閑事を管しない」と宣言しながら、自分に不都合な者に対しては容赦なく攻撃する。
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このような知識人が「学者」として崇められる社会は、すでに病んでいると言わざるを得ない。真の学者は、権力にではなく真理に仕える者である。真の文士は、権力者にではなく民衆に語りかける者である。
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しかし中国の現実は、これとは正反対だ。「学者」は権力の番犬であり、「文士」は権力の道化師である。彼らは互いに称え合い、互いの地位を保証し合い、一般の民衆を見下す。
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私がこれらの「正人君子」を攻撃するのは、個人的な恨みからではない。この腐った構造そのものを打ち破りたいからだ。一人の陳源を倒しても、別の陳源が現れるだろう。しかし、この構造の本質を暴露し続ければ、いつかは人々も気づくはずだ。
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=== 第16節 ===
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(1926年雑文の続き。魯迅は中国社会と文化の根本的問題について考察する。)
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中国には「中庸」という美徳がある。しかし「中庸」とは何か。実のところ、それは「何もしない」ことの美名にすぎない。極端を避けるという名目の下に、あらゆる改革を妨げ、あらゆる前進を阻む。
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三月十八日に青年たちが殺された時、「中庸」の徒は言った——「双方に非がある」と。政府にも非はあるが、学生たちも行き過ぎだったと。しかし一方は銃を持ち、一方は素手であった。一方は権力を持ち、一方は何も持たなかった。この両者を「双方」と呼ぶこと自体が、すでに権力者への加担なのだ。
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「中庸」は弱者を黙らせるための武器として使われる。強者が暴力を振るう時、「中庸」の徒は「双方とも自制すべきだ」と言う。しかし弱者はもともと自制しているのだ。自制の結果が死であるなら、それは自制ではなく自殺である。
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私は「中庸」を信じない。極端であることは、時として必要だ。なぜなら、この世界は極端に不正であるから、極端に正しくあることでしか、均衡を回復できないからだ。
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文学においても同じだ。「温厚」な文学が尊ばれ、「激烈」な文学は忌避される。しかし世の中が温厚であるなら、激烈な文学は必要ない。世の中が激烈に不正であるからこそ、激烈な文学が必要なのだ。
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私の文章が激烈だと言われるなら、それは世の中がそれだけ不正であることの証左だ。世の中が正しくなれば、私の文章もおのずと穏やかになるであろう。しかしその日が来るまでは、私は書き続ける。
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=== 第17節 ===
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「いかに書くか」という問題は、私がかつて一度も考えたことのないものであった。世の中にこのような問題があることを初めて知ったのは、まだ二週間前にすぎない。その時たまたま街に出て、たまたま丁卜書店に入り、たまたま一冊の『こうやる』を見かけて買い求めた。これは一種の雑誌で、表紙には馬に乗った少年兵士が描かれていた。私にはかねてから一種の偏見がある。表紙にこうした兵士の絵が描かれている本は、たいてい戦争を美化するか、あるいは冒険小説の類であると。しかしこの本はそうではなかった。
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内容を読んでみると、これは実際の生活における労働者や農民の具体的な闘争の記録と方法を述べたもので、いわゆる「文学的」な修飾とは無縁のものであった。私はここにおいて初めて「いかに書くか」という問題を真剣に考え始めた。
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私はこれまで、書くことは自然にできるものだと思っていた。見たこと、感じたこと、考えたことを、ありのままに書けばよいと。しかし実際にはそう簡単ではない。何を書くか、誰のために書くか、いかに書くか——これらの問題は、それぞれ独立しているようでいて、実は不可分に結びついている。
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「いかに書くか」は、結局のところ「誰のために書くか」という問題に帰着する。権力者のために書くなら、いかに美しい言葉を連ねても、それは嘘である。民衆のために書くなら、たとえ粗削りであっても、それは真実である。
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=== 第18節 ===
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この二句は時に役に立つこともある。それは私がすでに白雲路の借家に引っ越していた頃のことで、ある日、巡査が電灯を盗む泥棒を捕まえた。管理人の陳公がそれに続いて一方で罵り、一方で殴った。一通り罵ったが、私がその中で聞き取れたのはこの二句だけであった。しかしそれでもう全部わかったような気がした。心の中で思った——「彼が言っているのは、おそらく屋外の電灯がほとんど全部盗まれてしまったということだろう」と。
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広東語は私にとって異国の言葉のようなものだが、長く暮らしていると、不思議なもので、断片的な語句が耳に馴染んでくる。完全に理解できなくとも、文脈と状況から大意を推し量ることができるようになる。これは言語というものの本質に関わる問題かもしれない。
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人は必ずしも言葉のすべてを理解する必要はない。場面と口調と表情と——つまり言葉以外のすべてが、言葉の不足を補ってくれる。これは文学においても同じだ。作家が一字一句を完璧に書く必要はない。読者は文脈から、書かれていないことまで読み取るのだ。
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=== 第19節 ===
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本日、民国十六年五月二十九日、呂純陽先師降臨し、汝が信心深き女性にして広西の人なることを明らかにせり。汝は今生人と為り、心善く清潔なり。今、天上の玉皇、横財四千五百両の銀を汝に賜う。汝は信じて福を享け、子を養い女を育つべし。ただしこの財は八回に分けて足る。今年七月末にはただ白鴿票七百五十元前後を当てるのみ。老後の結末に一子あり、第三位に官星発達し、官太の身分を得る……
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これは私が偶然手に入れた一通の迷信的な手紙の文面である。おそらく誰かが路上で拾い、あるいは郵便受けに投げ込まれたものであろう。中国の民間には今なおこうした迷信が蔓延している。
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注目すべきは、この種の手紙が常に金銭と結びついていることだ。「横財」「白鴿票」——つまり宝くじによる一攫千金の夢。そして「官星発達」——つまり出世栄達。中国人の二大欲望がここに凝縮されている。
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迷信は無知の産物だと言われるが、必ずしもそうではない。迷信は絶望の産物でもある。現実の世界に希望が見出せない時、人は超自然的な力に縋るのだ。
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=== 第20節 ===
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「我々の映画の祖国的目的(der vaterlaendische Zweck)が、その内面の構造と事件の時間的制限をも規定している。だからビスマルクの少年時代は、ごく簡略な冒頭を占めるにすぎない。(中略)そしてこの物語は、一八七一年のドイツ建国をもって結末とするべきである。なぜか。それに続く時代は、もはやビスマルクの時代ではなく……」
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これはドイツのビスマルク映画についての文章の引用であるが、私がここから考えたのは、いわゆる「祖国的目的」なるものが芸術をいかに歪めるかという問題である。
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映画であれ文学であれ、「祖国的目的」が先に立てば、事実は都合よく切り取られ、配列される。ビスマルクの少年時代は「簡略な冒頭」にされ、建国後の失策と没落は完全に省かれる。残るのは英雄譚だけだ。
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中国にも同じ傾向がある。歴史上の人物は常に「聖人」か「暴君」かに二分され、その中間の、人間としての複雑さは捨象される。文学も同じだ。「祖国的目的」に奉仕する文学は、必然的にプロパガンダとなる。
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=== 第21節 ===
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一方では懲罰を加え、一方では騙しにかかる。正義、人道、公理の類の言葉が、また天を舞うであろう。しかし我々は覚えている。ヨーロッパ大戦の時にも一度舞ったことがあり、我々の多くの苦力を騙して前線に送り、彼らの代わりに死なせ、続いて北京の中央公園に、恥知らずで、愚の骨頂の「公理戦勝」の牌坊を建てたことを(もっとも後に改められたが)。今度はどうなるか。
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帝国主義の手法は常に同じだ。まず武力で威嚇し、次に「文明」「正義」の仮面をかぶる。被圧迫民族の人々は、この二重の攻撃にさらされる——銃弾と言葉と。しかも言葉の攻撃の方が、銃弾よりもはるかに陰険である。なぜなら、銃弾は体を傷つけるだけだが、言葉は魂を侵すからだ。
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「公理戦勝」——なんという皮肉な言葉であろう。大戦で「勝利」したのは公理ではなく、より強い帝国主義であった。そしてその「勝利」の果実は、敗者にではなく、勝者の同盟国にすら均等に分配されなかった。中国は「戦勝国」の一つであったにもかかわらず、山東問題では列強の犠牲にされた。
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歴史は繰り返す。帝国主義は何度でも「正義」を振りかざし、何度でも弱者を踏みにじる。我々がなすべきことは、この繰り返しのパターンを認識し、二度と騙されないことだ。
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=== 第22節 ===
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アメリカの作家の作品で、私が見たことがあるのは、シーゲルの木版画『パリ・コミューン』(The Paris Commune: A Story in Pictures by William Siegel)であり、ニューヨークのジョン・リード・クラブ(John Reed Club)の出版であった。もう一冊、石版画のグロッパー(Gropper)の作品集もあった。
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これらの作品は、いわゆる「純芸術」の観点からすれば、粗削りで未熟かもしれない。しかしそこには生きた力がある。実際の闘争から生まれた表現であるがゆえに、技巧的な洗練を欠いていても、見る者の心を打つのだ。
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中国にも木版画の伝統はある。しかし近年の木版画運動は、主に外国の影響を受けて始まったものだ。とりわけドイツ表現主義とソビエトの版画の影響が大きい。私はこの運動を支持する。なぜなら、木版画は庶民の芸術だからだ。油彩画やブロンズ彫刻と違い、木版画は安価な材料で制作でき、大量に複製できる。つまり、芸術を特権階級の独占物から解放するのだ。
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=== 第23節 ===
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しかし不思議なことに、またもや一つの書店がこの本を印刷する気になったのだ。印刷するなら勝手にすればよいのだが、そうなると読者に会わなければならなくなり、ここに二点の声明を加えておく必要が生じた。誤解を避けるためである。
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その一。私は今、左翼作家連盟の一員である。近頃の書籍の広告を見ると、作家がひとたび左に転じれば、旧作もたちまち革命的であったことにされてしまう大勢である。しかし私はここではっきり言っておく。この書の中の旧作は、決して革命的なものではない。それはただ、一個の人間が自分の生きた時代を見つめ、感じ、書き留めたものにすぎない。
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その二。私の文章には、しばしば矛盾がある。それは私自身の思想が変化してきたからであり、また、各々の文章が書かれた時と場所が異なるからでもある。矛盾を恐れて何も書かないよりも、矛盾を含みながらも書き続ける方が、はるかに誠実だと私は考える。
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=== 第24節 ===
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私はいつも『涛声』を読んでおり、しばしば「痛快なり!」と叫んでいる。しかし今回、周木斎先生の「人を罵ることと自らを罵ること」という文章を見て、その中で北平の大学生が「たとえ難に赴けなくとも、最低最低の限度として難から逃げるべきではない」と述べ、五四運動時代の鋭い鋒芒が消え失せたことを嘆じているのを読んで、喉に骨が刺さったような思いがした。言わずにはいられない。なぜなら私は周先生の主張と正反対であり、学生はまず命を大切にすべきだと考えるからだ。
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若い命は貴い。無駄に犠牲にされてはならない。三月十八日の教訓を忘れてはならない。四十余名の青年が殺され、結果として何が変わったか。段祺瑞はやがて退陣したが、それは青年たちの血のためではなく、軍閥間の力関係が変わったためにすぎない。
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「逃げるな」と言う者は、自分は安全な場所にいる。前線に立つのは常に若者だ。私は若者に言いたい——まず生き延びよ。生き延びて、より効果的な方法で闘え。犬死にすることが勇気ではない。生き延びて闘い続けることこそが、真の勇気だ。
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=== 第25節 ===
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彼はついに決定的に変わった。あるとき、はっきりと私に告げた。今後は作品の内容と形式を転換すべきだと。私は言った——「それは難しかろう。たとえば刀を使い慣れた者に、今度は棍棒を振れと言っても、どうしてできようか。」彼は簡潔に答えた——「学びさえすればよい!」
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彼の言ったことは空言ではなく、本当に一から学び直し始めた。その頃、彼は一人の友人を連れて私を訪ねてきたことがあった。(以下、魯迅は柔石の人物像と創作活動の変遷を回顧する。柔石は浙江省出身の若い作家で、当初はロマンティックな文学に傾倒していたが、次第に社会的意識に目覚め、プロレタリア文学への転換を決意した。魯迅は彼の真摯さと誠実さを高く評価しつつも、この転換がいかに困難であるかを憂慮していた。柔石は後に国民党当局に逮捕され、1931年に処刑された。この文章は魯迅の深い悲しみと怒りに満ちた追悼文である。)
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=== 第26節 ===
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裏庭の芝生の上で、ショーを中心に、記者たちが半円陣を組み、世界周遊に代えて、記者の面々の展覧会を開いた。ショーはまたもや色とりどりの質問に遭い、まるで『ブリタニカ百科事典』を繰っているかのようであった。
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ショーはあまり多くを語りたくないようだった。しかし話さなければ記者たちは決して許さないので、ついに語り始めた。多くを語ればこそ、今度は記者の方が困った。なぜなら彼の答えは常に予想外であり、常に皮肉に満ちていたからだ。
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バーナード・ショーの中国訪問は、中国の知識人にとって一つの試金石であった。彼を歓迎する者もいれば、彼を排斥する者もいた。歓迎する者は彼のウィットと社会批判を愛し、排斥する者は彼の辛辣さと率直さを恐れた。
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しかしショーが中国で最も物議を醸したのは、彼が中国の現状について何も知らないにもかかわらず、あたかもすべてを知っているかのように語ったことだ。これは西洋の知識人の通弊である。彼らは自国の問題については鋭い観察力を持つが、他国の問題については往々にして表面的な印象で断じてしまう。
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=== 第27節 ===
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しかし自分で創作しようとしたのではなく、重視したのはむしろ紹介と翻訳であり、とりわけ短篇に注目し、特に圧迫されている民族の作者の作品に力を注いだ。なぜならあの頃は排満論が盛んで、一部の青年たちは、叫び声を上げ反抗する作者を同志と見なしていたからだ。だから「小説作法」の類は一冊も読んだことがないが、短篇小説はずいぶん読んだ。半分は自分でも好きだったからであり、残りの半分は翻訳の材料を探すためであった。
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翻訳という仕事は、創作とは異なる困難を伴う。原作者の意図を正確に伝えなければならないと同時に、読者が理解できる言葉で表現しなければならない。この二つの要求は、しばしば矛盾する。忠実な翻訳は読みにくくなり、読みやすい翻訳は原意から逸れる。
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しかし私は「硬訳」を選んだ。なぜなら、読みやすさのために原意を犠牲にすることは、読者を侮ることだからだ。読者は、少しの困難を乗り越えてでも、原作者の真意に触れたいと思うはずだ。少なくとも、そう信じたいのだ。
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=== 第28節 ===
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しかし熱血のほかに、守常先生にはまだ遺文がある。残念ながら遺文について、私はあまり語ることができない。なぜなら携わった仕事が互いに異なり、『新青年』の時代には、彼を同じ戦線に立つ仲間と見なしてはいたが、しかし彼の文章に注意を払ってはいなかったからだ。たとえば騎兵は架橋に注意する必要がなく、砲兵は馬の操縦に心を砕く必要がないように、あの頃はそれも間違いではないと自負していた。だから今語れることは……
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李大釗先生は中国共産党の創設者の一人であり、1927年に軍閥の張作霖によって処刑された。彼と魯迅は『新青年』誌の同人として文学革命を共に戦ったが、魯迅は文学の道を、李大釗は政治の道を選んだ。
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魯迅はここで、李大釗の遺文について語ることの困難さを率直に認める。二人は同じ時代を生き、同じ理想を抱きながらも、異なる方法でそれを追求した。魯迅は自分の「戦場」が文学であったことを弁明しつつも、李大釗の政治的勇気に対する深い敬意を表している。
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=== 第29節 ===
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ふと『本草綱目』をめくって、この一点を思い出した。この一部の書は、ごく普通の本であるが、中には豊かな宝蔵が含まれている。もちろん、風を捕らえ影を追うような記載も免れ得ないが、しかし大部分の薬品の効用は、長年の経験を経てこそ、ようやくこの程度まで知ることができたのであり、とりわけ驚くべきは毒薬についての叙述である。我々はこれまで好んで古聖人を恭しく讃えてきたが、しかし考えてみれば、毒薬の効用を知るためには、必ず誰かがそれを口にして試さなければならなかったのだ。
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神農氏が百草を嘗めたという伝説は、おそらく事実の反映であろう。しかし実際に嘗めたのは神農氏一人ではなく、数え切れないほどの無名の人々であったはずだ。そして彼らの中の多くは、毒に当たって命を落としたに違いない。
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『本草綱目』のような書物は、こうした無数の犠牲の上に成り立っている。学問とはすべてそういうものだ。先人の試行錯誤と犠牲の上に、後人の知識が築かれる。しかし我々はしばしば、先人の犠牲を忘れ、成果だけを享受する。
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医学と文学は、この点で似ている。文学もまた、無数の試行錯誤の上に成り立っている。古人の「毒を嘗める」行為——つまり新しい表現を試み、失敗し、時に嘲笑され、しかしその中からわずかに残ったものが後世の文学の糧となる。
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=== 第30節 ===
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翻訳を重視し、鑑とすることは、実は創作を促進し奨励することでもある。しかし数年前から、「硬訳」を攻撃する「批評家」が現れ、自分の古い瘡蓋の末屑を掻き落とし、膏薬の上の麝香のように少ないからこそ、自ら奇珍だと思い込んでいる。そしてこの風潮がなんと広まってしまい、多くの新しい論者が今年になって舶来の洋貨を軽蔑し始めた。武人の「外国をやっつけろ」の叫びに比べれば、いくらかましかもしれないが、しかし本質においては同じである。
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「硬訳」への攻撃は、実は翻訳そのものへの攻撃であり、ひいては中国の文学が外国の文学から学ぶことへの拒否である。これは鎖国の精神の文学版と言えよう。
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なぜ翻訳が必要なのか。それは中国の文学が、長い封建時代の間に、表現の幅を著しく狭めてしまったからである。人間の感情と思想のすべてを表現するには、中国語の既存の文学的語彙だけでは足りない。外国の文学から学ぶことによって、我々は新しい表現の可能性を開拓できるのだ。
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「硬訳」が読みにくいという批判は、もっともなところもある。しかしそれは「翻訳するな」という結論にはならない。結論は「もっと良い翻訳をせよ」であるべきだ。翻訳の質を高めるためには、まず翻訳が存在しなければならない。「硬訳」を攻撃してすべての翻訳を否定するのは、風呂の水と一緒に赤子を捨てるようなものだ。
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=== 第31節 ===
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【“论语一年”】
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——借此又谈バーナード・ショー
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说是《论语》办到一年了,語堂先生命令我做文章。这实在好象出了“学而一章”的题目,叫我做一篇白话八股一样。没有法,我只好做开去。
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老实说罢,他所提倡的东西,我是常常反对的。先前,是对于“费厄泼赖”,现在呢,就是“幽默”。我不爱“幽默”,并且以为这是只有爱开圆桌会议的国民才闹得出来的玩意儿,在中国,却连意译也办不到。我们有唐伯虎,有徐文长;还有最有名的金圣叹,“杀头,至痛也,而圣叹以无意得之,大奇!”虽然不知道这是真话,是笑话;是事实,还是谣言。但总之:一来,是声明了圣叹并非反抗的叛徒;二来,是将屠户的凶残,使大家化为一笑,收场大吉。我们只有这样的东西,和“幽默”是并无什么瓜葛的。
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况且作者姓氏一大篇,动手者寥寥无几,乃是中国的古礼。在这种礼制之下,要每月说出两本“幽默”来,倒未免有些“幽默”的气息。这气息令人悲观,加以不爱,就使我不大热心于《论语》了。
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然而,《萧的专号》是好的。
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它发表了别处不肯发表的文章,揭穿了别处故意颠倒的谈话,至今还使名士不平,小官怀恨,连吃饭睡觉的时候都会记得起来。憎恶之久,憎恶者之多,就是效力之大的证据。
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莎士比亚虽然是“剧圣”,我们不大有人提起他。五四时代绍介了一个易卜生,名声倒还好,今年绍介了一个萧,可就糟了。至今还有人肚子在发胀。
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为了他笑嘻嘻,辨不出是冷笑,是恶笑,是嬉笑么?并不是的。为了他笑中有刺,刺着了别人的病痛么?也不全是的。列维它夫说得很分明:就因为易卜生是伟大的疑问号(?),而萧是伟大的感叹号(!)的缘故。
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他们的看客,不消说,是绅士淑女们居多。绅士淑女们是顶爱面子的人种。易卜生虽然使他们登场,虽然也揭发一点隐蔽,但并不加上结论,却从容的说道“想一想罢,这到底是些什么呢?”绅士淑女们的尊严,确也有一些动摇了,但究竟还留着摇摇摆摆的退走,回家去想的余裕,也就保存了面子。至于回家之后,想了也未,想得怎样,那就不成什么问题,所以他被绍介进中国来,四平八稳,反对的比赞成的少。萧可不这样了,他使他们登场,撕掉了假面具,阔衣装,终于拉住耳朵,指给大家道,“看哪,这是蛆虫!”连磋商的工夫,掩饰的法子也不给人有一点。这时候,能笑的就只有并无他所指摘的病痛的下等人了。在这一点上,萧是和下等人相近的,而也就和上等人相远。
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这怎么办呢?仍然有一定的古法在。就是:大家沸沸扬扬的嚷起来,说他有钱,说他装假,说他“名流”,说他“狡猾”,至少是和自己们差不多,或者还要坏。自己是生活在小茅厕里的,他却从大茅厕里爬出,也是一只蛆虫,绍介者胡涂,称赞的可恶。然而,我想,假使萧也是一只蛆虫,却还是一只伟大的蛆虫,正如可以同有许多感叹号,而惟独他是“伟大的感叹号”一样。譬如有一堆蛆虫在这里罢,一律即即足足,自以为是绅士淑女,文人学士,名宦高人,互相点头,雍容揖让,天下太平,那就是全体没有什么高下,都是平常的蛆虫。但是,如果有一只蓦地跳了出来,大喝一声道:“这些其实都是蛆虫!”那么,——自然,它也是从茅厕里爬出来的,然而我们非认它为特别的伟大的蛆虫则不可。
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蛆虫也有大小,有好坏的。
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生物在进化,被达尔文揭发了,使我们知道了我们的远祖和猴子是亲戚。然而那时的绅士们的方法,和现在是一模一样的:他们大家倒叫达尔文为猴子的子孙。罗广廷博士在广东中山大学的“生物自然发生”的实验尚未成功,我们姑且承认人类是猴子的亲戚罢,虽然并不十分体面。但这同是猴子的亲戚中,达尔文又不能不说是伟大的了。那理由很简单而且平常,就因为他以猴子亲戚的家世,却并不忌讳,指出了人们是猴子的亲戚来。
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猴子的亲戚也有大小,有好坏的。
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但达尔文善于研究,却不善于骂人,所以被绅士们嘲笑了小半世。给他来斗争的是自称为“达尔文的咬狗”的赫胥黎,他以渊博的学识,警辟的文章,东冲西突,攻陷了自以为亚当和夏娃的子孙们的最后的堡垒。现在是指人为狗,变成摩登了,也算是一句恶骂。但是,便是狗罢,也不能一例而论的,有的食肉,有的拉橇,有的为军队探敌,有的帮警署捉人,有的在张园赛跑,有的跟化子要饭。将给阔人开心的吧儿和在雪地里救人的猛犬一比较,何如?如赫胥黎,就是一匹有功人世的好狗。
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狗也有大小,有好坏的。
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但要明白,首先就要辨别。“幽默处俏皮与正经之间”(語堂语)。不知俏皮与正经之辨,怎么会知道这“之间”?我们虽挂孔子的门徒招牌,却是庄生的私淑弟子。“彼亦一是非,此亦一是非”,是与非不想辨;“不知周之梦为蝴蝶欤,蝴蝶之梦为周欤?”梦与觉也分不清。生活要混沌。如果凿起七窍来呢?庄子曰:“七日而混沌死。”
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这如何容得感叹号?
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而且也容不得笑。私塾的先生,一向就不许孩子愤怒,悲哀,也不许高兴。皇帝不肯笑,奴隶是不准笑的。他们会笑,就怕他们也会哭,会怒,会闹起来。更何况坐着有版税可抽,而一年之中,竟“只闻其骚音怨音以及刻薄刁毒之音”呢?
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这可见“幽默”在中国是不会有的。
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这也可见我对于《论语》的悲观,正非神经过敏。有版税的尚且如此,还能希望那些炸弹满空,河水漫野之处的人们来说“幽默”么?恐怕连“骚音怨音”也不会有,“盛世元音”自然更其谈不到。将来圆桌会议上也许有人列席,然而是客人,主宾之间,用不着“幽默”。甘地一回一回的不肯吃饭,而主人所办的报章上,已有说应该给他鞭子的了。
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这可见在印度也没有“幽默”。
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最猛烈的鞭挞了那主人们的是バーナード・ショー,而我们中国的有些绅士淑女们可又憎恶他了,这真是伯纳“以无意得之,大奇!”然而也正是办起《孝经》来的好文字;“此士大夫之孝也。”
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《中庸》、《大学》都已新出,《孝经》是一定就要出来的;不过另外还要有《左传》。在这样的年头,《论语》那里会办得好;二十五本,已经要算是“不亦乐乎”的了。
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(八月二十三日。)
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【小品文的危机】
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仿佛记得一两月之前,曾在一种日报上见到记载着一个人的死去的文章,说他是收集“小摆设”的名人,临末还有依稀的感喟,以为此人一死,“小摆设”的收集者在中国怕要绝迹了。
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但可惜我那时不很留心,竟忘记了那日报和那收集家的名字。
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现在的新的青年恐怕也大抵不知道什么是“小摆设”了。但如果他出身旧家,先前曾有玩弄翰墨的人,则只要不很破落,未将觉得没用的东西卖给旧货担,就也许还能在尘封的废物之中,寻出一个小小的镜屏,玲珑剔透的石块,竹根刻成的人像,古玉雕出的动物,锈得发绿的铜铸的三脚癞虾蟆:这就是所谓“小摆设”。先前,它们陈列在书房里的时候,是各有其雅号的,譬如那三脚癞虾蟆,应该称为“蟾蜍砚滴”之类,最末的收集家一定都知道,现在呢,可要和它的光荣一同消失了。
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那些物品,自然决不是穷人的东西,但也不是达官富翁家的陈设,他们所要的,是珠玉扎成的盆景,五彩绘画的磁瓶。那只是所谓士大夫的“清玩”。在外,至少必须有几十亩膏腴的田地,在家,必须有几间幽雅的书斋;就是流寓上海,也一定得生活较为安闲,在客栈里有一间长包的房子,书桌一顶,烟榻一张,瘾足心闲,摩挲赏鉴。然而这境地,现在却已经被世界的险恶的潮流冲得七颠八倒,像狂涛中的小船似的了。
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然而就是在所谓“太平盛世”罢,这“小摆设”原也不是什么重要的物品。在方寸的象牙版上刻一篇《兰亭序》,至今还有“艺术品”之称,但倘将这挂在万里长城的墙头,或供在云冈的丈八佛像的足下,它就渺小得看不见了,即使热心者竭力指点,也不过令观者生一种滑稽之感。何况在风沙扑面,狼虎成群的时候,谁还有这许多闲工夫,来赏玩琥珀扇坠,翡翠戒指呢。他们即使要悦目,所要的也是耸立于风沙中的大建筑,要坚固而伟大,不必怎样精;即使要满意,所要的也是匕首和投枪,要锋利而切实,用不着什么雅。
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美术上的“小摆设”的要求,这幻梦是已经破掉了,那日报上的文章的作者,就直觉的地知道。然而对于文学上的“小摆设”——“小品文”的要求,却正在越加旺盛起来,要求者以为可以靠着低诉或微吟,将粗犷的人心,磨得渐渐的平滑。这就是想别人一心看着《六朝文絜》,而忘记了自己是抱在黄河决口之后,淹得仅仅露出水面的树梢头。
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但这时却只用得着挣扎和战斗。
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而小品文的生存,也只仗着挣扎和战斗的。晋朝的清言,早和它的朝代一同消歇了。唐末诗风衰落,而小品放了光辉。但罗隐的《谗书》,几乎全部是抗争和愤激之谈;皮日休和陆龟蒙自以为隐士,别人也称之为隐士,而看他们在《皮子文薮》和《笠泽丛书》中的小品文,并没有忘记天下,正是一榻胡涂的泥塘里的光彩和锋铓。明末的小品虽然比较的颓放,却并非全是吟风弄月,其中有不平,有讽刺,有攻击,有破坏。这种作风,也触着了满洲君臣的心病,费去许多助虐的武将的刀锋,帮闲的文臣的笔锋,直到乾隆年间,这才压制下去了。以后呢,就来了“小摆设”。
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“小摆设”当然不会有大发展。到五四运动的时候,才又来了一个展开,散文小品的成功,几乎在小说戏曲和诗歌之上。这之中,自然含着挣扎和战斗,但因为常常取法于英国的随笔(Essay),所以也带一点幽默和雍容;写法也有漂亮和缜密的。这是为了对于旧文学的示威,在表示旧文学之自以为特长者,白话文学也并非做不到。以后的路,本来明明是更分明的挣扎和战斗,因为这原是萌芽于“文学革命”以至“思想革命”的。但现在的趋势,却在特别提倡那和旧文章相合之点,雍容,漂亮,缜密,就是要它成为“小摆设”,供雅人的摩挲,并且想青年摩挲了这“小摆设”,由粗暴而变为风雅了。
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然而现在已经更没有书桌;雅片虽然已经公卖,烟具是禁止的,吸起来还是十分不容易。想在战地或灾区里的人们来鉴赏罢——谁都知道是更奇怪的幻梦。这种小品,上海虽正在盛行,茶话酒谈,遍满小报的摊子上,但其实是正如烟花女子,已经不能在弄堂里拉扯她的生意,只好涂脂抹粉,在夜里躄到马路上来了。
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小品文就这样的走到了危机。但我所谓危机,也如医学上的所谓“极期”(Krisis)一般,是生死的分歧,能一直得到死亡,也能由此至于恢复。麻醉性的作品,是将与麻醉者和被麻醉者同归于尽的。生存的小品文,必须是匕首,是投枪,能和读者一同杀出一条生存的血路的东西;但自然,它也能给人愉快和休息,然而这并不是“小摆设”,更不是抚慰和麻痹,它给人的愉快和休息是休养,是劳作和战斗之前的准备。
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(八月二十七日。)
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【九一八】
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阴天,晌午大风雨。看晚报,已有纪念这纪念日的文章,用风雨作材料了。明天的日报上,必更有千篇一律的作品。空言不如事实,且看看那些记事罢——
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戴季陶讲如何救国 (中央社)
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南京十八日——国府十八日晨举行纪念周,到林森、戴季陶、陈绍宽、朱家骅、吕超、魏怀暨国府职员等四百余人,林主席领导行礼,继戴讲《如何救国》,略谓本日系九一八两周年纪念,吾人于沉痛之余,应想法达到救国目的,救国之道甚多,如道德救国,教育救国,实业救国等,最近又有所谓航空运动及节约运动,前者之动机在于国防与交通上建设,此后吾人应从根本上设法增强国力,不应只知向外国购买飞机,至于节约运动须一面消极的节省消费,一面积极的将金钱用于生产方面。在此国家危急之秋,吾人应该各就自己的职务上尽力量,根据总理的一贯政策,来做整个三民主义的实施。
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吴敬恒讲纪念意义 (中央社)
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南京十八日——中央十八日晨八时举行九一八二周年纪念大会,到中委汪兆铭、陈果夫、邵元冲、陈公博、朱培德、贺耀祖、王祺等暨中央工作人员共六百余人,汪主席,由吴敬恒演讲以精诚团结充实国力,为纪念九一八之意义,阐扬甚多,并指正爱国之道,词甚警惕,至九时始散。
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汉口静默停止娱乐 (日联社)
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汉口十八日——汉口九一八纪念日华街各户均揭半旗,省市两党部上午十时举行纪念会,各戏院酒馆等一律停业,上午十一时全市人民默祷五分钟。
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广州禁止民众游行 (路透社)
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=== 第32節 ===
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广州十八日——各公署与公共团体今晨均举行九一八国耻纪念,中山纪念堂晨间行纪念礼,演说者均抨击日本对华之侵略,全城汽笛均大鸣,以警告民众,且有飞机于行礼时散发传单,惟民众大游行,为当局所禁,未能实现。
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东京纪念祭及犬马 (日联社)
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东京十八日——东京本日举行九一八纪念日,下午一时在日比谷公会堂举行阵亡军人遗族慰安会,筑地本愿寺举行军马军犬军鸽等之慰灵祭,在乡军人于下午六时开大会,靖国神社举行阵亡军人追悼会。
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但在上海怎样呢?先看租界——
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雨丝风片倍觉消沉
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今日之全市,既因雨丝风片之侵袭,愁云惨雾之笼罩,更显黯淡之象,但驾车遍游全市,则殊难得见九一八特殊点缀,似较诸去年今日,稍觉消沉,但此非中国民众之已渐趋于麻木,或者为中国民众已觉悟于过去标语口号之不足恃,只有埋头苦做之一道乎?所以今日之南市闸北以及租界区域,情形异常平安,道途之间,除警务当局多派警探在冲要之区,严密戒备外,简直无甚可以纪述者。
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以上是见于《大美晚报》的,很为中国人祝福。至华界情状,却须看《大晚报》的记载了——
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今日九一八
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华界戒备
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公安局据密报防反动
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今日为“九一八”,日本侵占东北国难二周年纪念,市公安局长文鸿恩,昨据密报,有反动分子,拟借国难纪念为由秘密召集无知工人,乘机开会,企图煽惑捣乱秩序等语,文局长核报后,即训令各区所队,仍照去年“九一八”实施特别戒备办法,除通告该局各科处于今晨十时许,在局长办公厅前召集全体职员,及警察总队第三中队警士,举行“九一八”国难纪念,同时并行纪念周外,并饬督察长李光曾派全体督察员,男女检查员,分赴中华路,民国路,方浜路,南阳桥,唐家湾,斜桥等处,会同各区所警士,在各要隘街衢,及华租界接壤之处,自上午八时至十一时半,中午十一时半至三时,下午三时至六时半,分三班轮流检查行人。南市大吉路公共体育场,沪西曹家渡三角场,闸北谭子湾等处,均派大批巡逻警士,禁止集会游行。制造局路之西,徐家汇区域内主要街道,尤宜特别注意,如遇发生事故,不能制止者,即向丽园路报告市保安处第二团长处置,凡工厂林立处所,加派双岗驻守,红色车巡队,沿城环行驶巡,形势非常壮严。该局侦缉队长卢英,饬侦缉领班陈光炎,陈才福,唐炳祥,夏品山,各率侦缉员,分头密赴曹家渡,白利南路,胶州路及南市公共体育场等处,严密暗探反动分子行动,以资防范,而遏乱萌。公共租界暨法租界两警务处,亦派中西探员出发搜查,以防反动云。
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“红色车”是囚车,中国人可坐,然而从中国人看来,却觉得“形势非常壮严”云。记得前两天(十六日)出版的《生活》所载的《两年的教训》里,有一段说——
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“第二,我们明白谁是友谁是仇了。希特勒在德国民族社会党大会中说:‘德国的仇敌,不在国外,而在国内。’北平整委会主席黄郛说:‘和共抗日之说,实为谬论;剿共和外方为救时救党上策。’我们却要说‘民族的仇敌,不仅是帝国主义,而是出卖民族利益的帝国主义走狗们。’民族反帝的真正障碍在那里,还有比这过去两年的事实指示得更明白吗?”
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现在再来一个切实的注脚:分明的铁证还有上海华界的“红色车”!是一天里的大教训!
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年年的这样的情状,都被时光所埋没了,今夜作此,算是纪念文,倘中国人而终不至被害尽杀绝,则以贻我们的后来者。
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(是夜,记。)
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【偶成】
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九月二十日的《申报》上,有一则嘉善地方的新闻,摘录起来,就是——
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“本县大窑乡沈和声与子林生,被著匪石塘小弟绑架而去,勒索三万元。沈姓家以中人之产,迁延未决。讵料该帮股匪乃将沈和声父子及苏境方面绑来肉票,在丁棚北,北荡滩地方,大施酷刑。法以布条遍贴背上,另用生漆涂敷,俟其稍干,将布之一端,连皮揭起,则痛彻心肺,哀号呼救,惨不忍闻。时为该处居民目睹,恻然心伤,尽将惨状报告沈姓,速即往赎,否则恐无生还,帮匪手段之酷,洵属骇闻。”
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“酷刑”的记载,在各地方的报纸上是时时可以看到的,但我们只在看见时觉得“酷”,不久就忘记了,而实在也真是记不胜记。然而酷刑的方法,却决不是突然就会发明,一定都有它的师承或祖传,例如这石塘小弟所采用的,便是一个古法,见于士大夫未必肯看,而下等人却大抵知道的《说岳全传》一名《精忠传》上,是秦桧要岳飞自认“汉奸”,逼供之际所用的方法,但使用的材料,却是麻条和鱼鳔。我以为生漆之说,是未必的确的,因为这东西很不容易干燥。
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“酷刑”的发明和改良者,倒是虎吏和暴君,这是他们唯一的事业,而且也有工夫来考究,这是所以威民,也所以除奸的,然而老子说得好,“为之斗斛以量之,则并与斗斛而窃之,……”有被刑的资格的也就来玩一个“剪窃”。张献忠的剥人皮,不是一种骇闻么?但他之前已有一位剥了“逆臣”景清的皮的永乐皇帝在。
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奴隶们受惯了“酷刑”的教育,他只知道对人应该用酷刑。
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但是,对于酷刑的效果的意见,主人和奴隶们是不一样的。主人及其帮闲们,多是智识者,他能推测,知道酷刑施之于敌对,能够给与怎样的痛苦,所以他会精心结撰,进步起来。奴才们却一定是愚人,他不能“推己及人”,更不能推想一下,就“感同身受”。只要他有权,会采用成法自然也难说,然而他的主意,是没有智识者所测度的那么惨厉的。绥拉菲摩维支在《铁流》里,写农民杀掉了一个贵人的小女儿,那母亲哭得很凄惨,他却诧异道,哭什么呢,我们死掉多少小孩子,一点也没哭过。他不是残酷,他一向不知道人命会这么宝贵,他觉得奇怪了。
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奴隶们受惯了猪狗的待遇,他只知道人们无异于猪狗。
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用奴隶或半奴隶的幸福者,向来只怕“奴隶造反”,真是无怪的。
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要防“奴隶造反”,就更加用“酷刑”,而“酷刑”却因此更到了末路。在现代,枪毙是早已不足为奇了,枭首陈尸,也只能博得民众暂时的鉴赏,而抢劫,绑架,作乱的还是不减少,并且连绑匪也对于别人用起酷刑来了。酷的教育,使人们见酷而不再觉其酷,例如无端杀死几个民众,先前是大家就会嚷起来的,现在却只如见了日常茶饭事。人民真被治得好象厚皮的,没有感觉的癞象一样了,但正因为成了癞皮,所以又会踏着残酷前进,这也是虎吏和暴君所不及料,而即使料及,也还是毫无办法的。
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(九月二十日。)
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【漫与】
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地质学上的古生代的秋天,我们不大明白了,至于现在,却总是相差无几。假使前年是肃杀的秋天,今年就成了凄凉的秋天,那么,地球的年龄,怕比天文学家所豫测的最短的数目还要短得多多罢。但人事却转变得真快,在这转变中的人,尤其是诗人,就感到了不同的秋,将这感觉,用悲壮的,或凄惋的句子,传给一切平常人,使彼此可以应付过去,而天地间也常有新诗存在。
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前年实在好象是一个悲壮的秋天,市民捐钱,青年拚命,笳鼓的声音也从诗人的笔下涌出,仿佛真要“投笔从戎”似的。然而诗人的感觉是锐敏的,他未始不知道国民的赤手空拳,所以只好赞美大家的殉难,因此在悲壮里面,便埋伏着一点空虚。我所记得的,是邵冠华先生的《醒起来罢同胞》(《民国日报》所载)里的一段——
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“同胞,醒起来罢,
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踢开了弱者的心,
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踢开了弱者的脑,
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看,看,看,
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看同胞们的血喷出来了,
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看同胞们的肉割开来了,
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看同胞们的尸体挂起来了。”
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鼓鼙之声要在前线,当进军的时候,是“作气”的,但尚且要“再而衰,三而竭”,倘在并无进军的准备的处所,那就完全是“散气”的灵丹了,倒使别人的紧张的心情,由此转成弛缓。所以我曾比之于“嚎丧”,是送死的妙诀,是丧礼的收场,从此使生人又可以在别一境界中,安心乐意的活下去。历来的文章中,化“敌”为“皇”,称“逆”为“我朝”,这样的悲壮的文章就是其间的“蝴蝶铰”,但自然,作手是不必同出于一人的。然而从诗人看来,据说这些话乃是一种“狂吠”。
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不过事实真也比评论更其不留情面,仅在这短短的两年中,昔之义军,已名“匪徒”,而有些“抗日英雄”,却早已侨寓姑苏了,而且连捐款也发生了问题。九一八的纪念日,则华界但有囚车随着武装巡捕梭巡,这囚车并非“意图”拘禁敌人或汉奸,而是专为“意图乘机捣乱”的“反动分子”所豫设的宝座。天气也真是阴惨,狂风骤雨,报上说是“飓风”,是天地在为中国饮泣,然而在天地之间——人间,这一日却“平安”的过去了。
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于是就成了虽然有些惨淡,却很“平安”的秋天,正是一个丧家届了除服之期的景象。但这景象,却又与诗人非常适合的,我在《醒起来罢同胞》的同一作家的《秋的黄昏》(九月二十五日《时事新报》所载)里,听到了幽咽而舒服的声调——
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“我到了秋天便会伤感;到了秋天的黄昏,便会流泪,我已很感觉到我的伤感是受着秋风的波动而兴奋地展开,同时自己又像会发现自己的环境是最适合于秋天,细细地抚摩着秋天在自然里发出的音波,我知道我的命运使我成为秋天的人。……”
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钉梢,现在中国所流行的,是无赖子对于摩登女郎,和侦探对于革命青年的钉梢,而对于文人学士们,却还很少见。假使追蹑几月或几年试试罢,就会看见许多怎样的情随事迁,到底头头是道的诗人。
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一个活人,当然是总想活下去的,就是真正老牌的奴隶,也还在打熬着要活下去。然而自己明知道是奴隶,打熬着,并且不平着,挣扎着,一面“意图”挣脱以至实行挣脱的,即使暂时失败,还是套上了镣铐罢,他却不过是单单的奴隶。如果从奴隶生活中寻出“美”来,赞叹,抚摩,陶醉,那可简直是万劫不复的奴才了,他使自己和别人永远安住于这生活。就因为奴群中有这一点差别,所以使社会有平安和不安的差别,而在文学上,就分明的显现了麻醉的和战斗的的不同。
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(九月二十七日。)
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【世故三昧】
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人世间真是难处的地方,说一个人“不通世故”,固然不是好话,但说他“深于世故”也不是好话。“世故”似乎也像“革命之不可不革,而亦不可太革”一样,不可不通,而亦不可太通的。
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然而据我的经验,得到“深于世故”的恶谥者,却还是因为“不通世故”的缘故。
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现在我假设以这样的话,来劝导青年人——
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“如果你遇见社会上有不平事,万不可挺身而出,讲公道话,否则,事情倒会移到你头上来,甚至于会被指作反动分子的。如果你遇见有人被冤枉,被诬陷的,即使明知道他是好人,也万不可挺身而出,去给他解释或分辩,否则,你就会被人说是他的亲戚,或得了他的贿赂;倘使那是女人,就要被疑为她的情人的;如果他较有名,那便是党羽。例如我自己罢,给一个毫不相干的女士做了一篇信札集的序,人们就说她是我的小姨;绍介一点科学的文艺理论,人们就说得了苏联的卢布。亲戚和金钱,在目下的中国,关系也真是大,事实给与了教训,人们看惯了,以为人人都脱不了这关系,原也无足深怪的。
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“然而,有些人其实也并不真相信,只是说着玩玩,有趣有趣的。即使有人为了谣言,弄得凌迟碎剐,像明末的郑鄤那样了,和自己也并不相干,总不如有趣的紧要。这时你如果去辨正,那就是使大家扫兴,结果还是你自己倒楣。我也有一个经验。那是十多年前,我在教育部里做‘官僚’,常听得同事说,某女学校的学生,是可以叫出来嫖的,连机关的地址门牌,也说得明明白白。有一回我偶然走过这条街,一个人对于坏事情,是记性好一点的,我记起来了,便留心着那门牌,但这一号,却是一块小空地,有一口大井,一间很破烂的小屋,是几个山东人住着卖水的地方,决计做不了别用。待到他们又在谈着这事的时候,我便说出我的所见来,而不料大家竟笑容尽敛,不欢而散了,此后不和我谈天者两三月。我事后才悟到打断了他们的兴致,是不应该的。
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“所以,你最好是莫问是非曲直,一味附和着大家;但更好是不开口;而在更好之上的是连脸上也不显出心里的是非的模样来……”
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这是处世法的精义,只要黄河不流到脚下,炸弹不落在身边,可以保管一世没有挫折的。但我恐怕青年人未必以我的话为然;便是中年,老年人,也许要以为我是在教坏了他们的子弟。呜呼,那么,一片苦心,竟是白费了。
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=== 第33節 ===
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しかしながら、中国が今まさに唐・虞の盛世のごとくであると言うならば、それはやはり「世故」の弁に過ぎまい。耳に聞き目に見たものは数えぬとしても、ただ新聞を読むだけでも、社会にいかに多くの不公平があり、人々にいかに多くの冤抑があるかを知ることができる。だがこれらの事柄に対して、時として同業、同郷、同族の者が幾句かの呼びかけの言葉を発する以外に、利害に無関係な者の義憤の声を、我々はほとんど聞くことがない。これは明白である——皆が口を開かぬのだ。あるいは自分とは無関係だと思っている。あるいは「自分とは無関係だ」という意識すら全くない。「世故」に深く通じて、自ら「世故に深い」ことを自覚しない、これこそ真に「世故に深い」というものである。これは中国の処世法の精髄中の精髄である。
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しかも、私の青年への勧告の言葉を読んで、心中非と為す人物に対して、私にはここで一つの反撃がある。彼は私を狡猾だと見なしている。だが私の言葉は、一面では確かに私の狡猾と無能を示しているが、一面では社会の暗黒をも示しているのだ。彼が個人のみを責めるのは、最も穏当な方法である。もし社会をも併せて責めるならば、立ち上がって戦わねばならなくなるからだ。人の「世故に深い」ことを責めながら「世」を避けて語らぬのは、さらに「世故に深い」芸当であり、もし自ら覚らぬとすれば、さらに深くさらに深く、三昧の境地に遠からずというべきであろう。
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もっとも、凡そ事は一たび言えば、言葉の罠に落ち、もはや三昧を得ることはできぬ。「世故三昧」と言う者は、即ち「世故三昧」に非ず。三昧の真諦は行じて言わざるにあり。私が今「行じて言わず」と一言すれば、また真諦を失い、三昧の境地はいよいよ遠くなるのである。
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一切の善知識よ、心にその意を知るべし、唵!
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(十月十三日。)
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【謡言世家】
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双十の佳節に、湯増敭先生という文学者が、『時事新報』に辛亥革命時の杭州の話を載せた。彼の言うところでは、当時杭州では駐防の旗人を多数殺し、その見分け方は、旗人が「九」を「鈎」と発音するため、「九百九十九」と言わせ、馬脚を露わすや否や刀が振り下ろされたという。
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これはなかなか武勇であり、また面白い話でもある。だが、残念ながら謡言である。
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中国人の中で、杭州人は比較的文弱な人々である。銭大王の治世の折、人民は身ぐるみ剥がされ、ただ一片の瓦で下半身を覆うばかりであったが、それでもなお追加の寄付を求められ、麂のように叫ぶほど打たれる以外に抗弁はなかった。もっともこれは宋人の筆記に出るもので、謡言かもしれぬ。だが宋・明の末代の皇帝が、没落した富豪を伴い、暮気とともに滔々と杭州へ逃れてきたのは事実であり、辛うじて命を繋ぐ者たちに剛毅果断の気概を求めるのは、容易なことではない。今に至るまで、西湖のほとりには優雅ぶった者が多く、ごろつきですら浙東のような「白い刀が入って赤い刀が出る」式の喧嘩は少ない。もとより、軍閥が後ろ盾となれば別段横暴を振るうこともあるが、当時は人を殺す風気も、殺すことを楽しむ者もいなかったのである。老成持重の湯蟄仙先生が都督に推されたことを見れば、流血の事態にはならなかったと知れよう。
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もっとも戦闘はあった。革命軍は旗営を包囲し、銃撃を加えたが、中からも時に撃ち返すことがあった。しかし包囲は厳しくなく、私の知人の一人は、昼は外を散歩し、夜になると旗営に戻って寝ていた。
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それにもかかわらず、駐防軍はついに撃潰され、旗人は降伏した。家屋が没収されることはあったが、殺戮はなかった。口糧は当然打ち切られ、各人が自ら生計を求めた。初めのうちはまだよかったが、やがて災いに遭った。
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なぜ災いに遭ったのか。謡言が発生したのである。
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杭州の旗人は従来西湖のほとりに悠々と暮らし、秀気の鍾まるところ、聡明であった。糧がなくなったからには商売をするしかないと悟り、菓子を売る者もあり、惣菜を売る者もあった。杭州人は礼儀正しく、差別もせず、商売もまずまずであった。ところが先祖伝来の謡言が起こり、旗人の売る物には毒が仕込んであるという。たちまち漢人はこれを避けて遠ざかったが、それは旗人が自分を毒殺するのを恐れたのであって、自ら旗人を害そうとしたのではない。結果、彼らの売る菓子や惣菜はまったく売れなくなり、路傍で毒を盛れぬ家具を売り払うしかなくなった。家具が尽きると、途は窮まり、一敗地に塗れたのである。これが杭州の駐防旗人の末路であった。
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笑いの中に刀を含むことがあり、平和を愛すると自称する人民にも、血を見ずして人を殺す武器がある。それが謡言である。しかし一方で人を害し、一方で己をも害し、互いに茫然とさせる。古代のことは措くとして、近五十年来だけでも、日清戦争の敗北は李鴻章のせいだと言われ、その息子が日本の駙馬だからと半世紀近く罵られた。義和団の変では、西洋人は眼球を抉り出して薬水を作るのだと言って、手当たり次第に殺した。毒殺説は辛亥革命時の杭州に始まり、近年の排日運動の際に復活した。謡言が起こるたびに、必ず誰かが毒を盛る間者だと誣告され、何の咎もなく打ち殺されたことを私は記憶している。
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謡言世家の子弟は、謡言をもって人を殺し、また謡言をもって殺されるのである。
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数字で漢・満を区別する方法については、杭州では湖北の荊州に由来するという話を聞いた。一二三四と数えさせ、「六」の字を上声で読めば殺すのだという。だが杭州と荊州は遥かに隔たっており、これもまた一種の謡言かもしれぬ。
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私は時として、どの言葉が謡言でどの言葉が真実なのか、あまり判別できなくなることがある。
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(十月十三日。)
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【婦女解放について】
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孔子曰く、「唯だ女子と小人とは養い難し、之に近づけば則ち不遜、之を遠ざくれば則ち怨む」と。女子と小人を同類に帰しているが、彼の母親もその中に含まれるのかは定かでない。後世の道学者たちは母親に対して表面上は敬意を払ったが、それにもかかわらず、中国の母たる女性は、自分の息子以外のすべての男性から蔑まれていた。
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辛亥革命後、参政権を求めて、有名な沈佩貞女史がかつて議院の門番を一蹴りで倒したことがある。もっとも私はあれは門番が自分で転んだのではないかと疑っている。もし我々男が蹴ったならば、きっと蹴り返されていたであろう。これは女であることの得な点である。また現在、御夫人方の中には有力な男性と肩を並べて、埠頭や会場で写真に収まる者もいる。あるいは汽船や飛行機の出発前に進み出て酒瓶を割る(これは未婚の令嬢でなければならぬかもしれぬが、詳しくは知らぬ)者もいるが、これもまた女であることの得な点である。そのほか新たに各種の職業が生まれ、女工を除けば——彼女たちは賃金が安く従順なために工場主に重宝されるだけだから——、たいていは女であるというだけの理由で、一方では「花瓶」と呼ばれながら、一方では「接待はすべて女子を用いる」という光栄ある広告がしばしば見られる。男がこのように突然出世しようとすれば、男性であるだけでは足りず、少なくとも犬に変身しなければならぬであろう。
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これが五四運動後、婦女解放を提唱して以来の成果である。だが我々は今なお職業婦人の苦痛の呻吟を聞き、評論家たちの新式女子に対する嘲笑を聞く。彼女たちは閨閣から出て社会に至ったが、実は皆の冗談と議論の新材料にされたに過ぎない。
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これは彼女たちが社会に出ても、依然として他人に「養われて」いるからである。他人に「養われる」以上は、その小言を聞かねばならず、侮辱さえ甘受せねばならぬ。孔夫子の小言を見れば、それが「養う」がゆえの「難し」であり、「近づけ」ても「遠ざけ」ても落ち着かぬためだと知れよう。これは現在の男子の一般的な嘆きでもあり、女子の一般的な苦しみでもある。「養う」と「養われる」の境界を消滅させぬ限り、この嘆きと苦しみは永遠に消滅しないであろう。
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この未だ改革されぬ社会において、あらゆる単独の新趣向は一枚の看板に過ぎず、実際は以前と何も変わらない。一羽の小鳥を籠に閉じ込め、あるいは竿の上に止まらせれば、境遇は変わったかのようだが、実はやはり同じく他人の玩具にされているのであり、一飲一啄すべて他人の命ずるままである。俗に「人の飯を食えば、人の使い走りをする」というのがこれである。ゆえにすべての女子が男子と同等の経済的権利を得ない限り、いかなる美名も空言に過ぎぬと私は考える。もとより生理的にも心理的にも男女には差異がある。同性の間にさえ差異は免れぬ。しかし地位は同等であるべきである。地位が同等になってはじめて、真の女と真の男が生まれ、嘆きと苦しみは消えるであろう。
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真の解放に先立つものは戦いである。だが私は、女が男と同じように銃を取るべきだとか、自分の子には片方の乳だけ与えて残りの半分は男に負担させよとか言うのではない。ただ目下の暫定的な地位に安んずることなく、思想の、経済の解放のために絶えず戦うべきだと考えるのである。社会を解放すれば、自らをも解放することになる。だがもとより、現存する婦女のみに固有の桎梏のために戦うこともまた必要である。
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私は婦女問題を研究したことがない。もし必ず何か言わねばならぬとすれば、ただこれだけの空言があるのみである。
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(十月二十一日。)
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【火】
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プロメテウスは人類に火を盗み与えたゆえに、天条を犯して地獄に堕とされた。だが鑽木取火の燧人氏は窃盗罪を犯したようには見えず、神聖なる私有財産を破壊したわけでもない——当時、樹木はまだ無主の公物であった。しかし燧人氏もまた忘れ去られ、今日に至っては中国人は火神菩薩を祀るのみで、燧人氏を祀る者を見ない。
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火神菩薩は放火のみを司り、点灯には関わらぬ。およそ火災あらばその功に与る。ゆえに皆これを祀り、悪行を控えてくれるよう願う。だがもし悪行をなさなければ、祀りを受けることができようか。
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点灯は平凡に過ぎる。古来、点灯で名を成した名人の話は聞いたことがない。人類が燧人氏から点火を学んで五六千年になるというのに。放火はそうではない。秦の始皇帝は火を放った——書を焼いたが人は焼かなかった。項羽は関に入ってまた火を放った——焼いたのは阿房宮であって民家ではない(?——要考証)。……ローマのある皇帝は市民を焼き、中世の正教の僧侶は異教徒を薪のように焼き、時には油まで注いだ。これらはみな一世の雄である。現代のヒトラーこそ生きた証人だ。どうして祀らずにいられようか。まして今は進化の時代、火神菩薩も代々先代を凌駕しているのだから。
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たとえば、電灯のない地方では、庶民は国産品年だの何だのを顧みず、誰もが洋物の石油を少し買って夜に灯す。あの幽暗な黄色い光が紙の窓に映るのは、何と体裁が悪いことか。許さぬ、そんな灯し方は許さぬ!光が欲しければ、こうした石油の「浪費」を禁じなければならぬ。石油は田畑に運んで噴霧器に注ぎ、ぶわっと噴き上げるべきなのだ……大火が起こり、数十里にわたって延焼し、稲穂も樹木も家屋も——とりわけ藁葺きの小屋は——たちまち灰燼に帰す。それでも足りなければ焼夷弾、硫黄弾が飛行機から投下される。上海一・二八事変の大火のように何日も何晩も燃え続ける。それこそが偉大なる光明というものだ。
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火神菩薩の威風はかくの如きものである。だが口を開けば、彼はそれを認めぬ。火神菩薩はもともと小民を守護するものであり、火災は小民自身の不注意か、あるいは悪行を為し放火略奪したためだと言う。
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誰に分かろうか。歴代の放火の名人はいつもそう言うが、必ずしも常に信じる者がいるとは限らぬ。
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我々はただ、点灯は平凡であり放火は壮大であると見る。ゆえに点灯は禁じられ、放火は祀られる。ハーゲンベック・サーカスを見よ。耕牛を屠って虎に食わせる、これこそこの時代の「時代精神」なのである。
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(十一月二日。)
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【木版画の複製について】
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メセレルの連環画四種の出版からさほど経たぬうちに、日刊紙に種々の批評が現れた。これは従来の美術書の出版後には見られなかった盛況であり、読書界がこの書に大いに注目していることが窺える。だが議論の要点は昨年とは異なる。昨年はまだ連環画が美術と言えるかどうかの問題であったが、今やこれらの図画を読み取ることの難易に移っている。
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出版界の歩みは批評界ほど速くはない。実のところ、メセレルの木版画の複製は、まだ連環画が確かに芸術たり得ることを証明する段階にある。現在の社会には種々の読者層があり、出版物も当然それに応じて種々ある。この四種は知識人層に向けた図画である。しかしなぜ多くの箇所が理解し難いのか。それは経験の相違によるものだと私は考える。同じ中国人でも、飛行機の救国行為や「爆弾投下」を見たことがあれば、絵の中にそれを見出した途端に理解できるが、これらの盛事に与ったことのない者は、恐らく凧か蜻蛉としか見えぬであろう。
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「中国文芸年鑑社」と自称するが、実は匿名者たちが編んだ『中国文芸年鑑』の「鳥瞰」なるものの中で、かつて私の発表した『連環図画弁護』が連環画の芸術的価値を蘇汶先生に伝えたものの、「無意のうちにドイツの版画のような芸術作品を中国に持ってきた場合、一般大衆に理解されるか否か、すなわち大衆芸術たり得るかという問題を看過し、しかもこの回答は大衆化の本題に直接の意義を持たない」と述べた。これは実に『中国文芸年鑑』を編めるほどの選者でなければ口にし得ぬ聡明な言葉である。なぜなら私は元より「ドイツの版画を中国に持ってきて一般大衆に理解されるか」を論じてはいなかったからだ。弁護したのはただ、連環画が芸術たり得ること、青年の芸術学徒が曲説に惑わされず敢えて創作し、次第に大衆的な作品を生み出すべきだということに過ぎない。もし私が真にかの編者の望むように「意図的に」ドイツの版画が中国の大衆芸術であるか否かを論じたとすれば、少なくとも「低能」の部類に入れられねばなるまい。
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だが、もしどうしても「ドイツの版画のような芸術作品を中国に持ってきた場合、一般大衆に理解されるか」と問うならば、私はこう答えよう。立体派や未来派などの奇怪な作品でなければ、おおよそ幾らかは理解できるであろう。その理解は『中国文芸年鑑』一冊を読むより多く、『西湖十景』一冊を見るよりは少なくもあるまい。風俗習慣が異なるから、理解し難いものもあるのは当然だが、これは人物、これは家屋、これは樹木、と分かるのであり、上海に行ったことのある者は絵の中の電灯や電車や工場も分かる。特に好都合なのは、描かれているのが物語であることで、説明しやすく記憶しやすい。昔の風雅人は、婦女や俗人が画を見れば必ずこれは何の物語かと問うのが甚だ可笑しいと言った。中国の雅俗の分かれ目はここにある。風雅人はしばしば自分が良いと思う画の内容を語れず、俗人は内容を問わずにはいられぬ。この点から見れば、連環画は俗人に適したものだが、私は『連環図画弁護』において、それが芸術であることを証明し、風雅人の高尚を傷つけてしまったのである。
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しかし知識人に対してのみとしても、メセレルの作品を紹介しただけでは不十分だと私は考える。同じ木版画でも彫り方は異なり、思想も異なり、文字を付したものも無字のものもある。数種を複製してはじめて、現代の外国連環画の大概を窺い知ることができよう。木版画の複製は原作に近づきやすく、鑑賞者に益がある。私はつねづね思うのだが、中国の青年芸術学徒ほど不幸な者はない。外国文学を学ぶには原書を読めるが、西洋画を学ぶには原画を見ることができぬ。もとより複製はあるが、大壁画を絵葉書ほどに縮小しては、どうして真相を見ることができようか。大小は大いに関係がある。象を豚ほどに縮め、虎を鼠ほどに縮めたら、もとのあの気魄を感じられるだろうか。木版画は小品が多いから、複製してもそれほどかけ離れることはないのである。
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=== 第34節 ===
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だがこれは知識人の読者層への紹介についてのみ言ったことであり、もし芸術学徒の立場に立てば、亜鉛版の複製もなお不十分である。細い線は亜鉛版上で消失しやすく、太い線であっても強水による腐蝕の時間の長短で変わる。短ければ太すぎ、長ければ細すぎる。中国にはまだ適度に版を作る名工がほとんどいない。真剣にやるならば、ガラス版を用いるほかはなく、私が複製した『セメントの図』二百五十部は、中国における最初の試みであった。施蟄存先生は『大晩報』の付録『火炬』に、「おそらく彼は魯迅先生が珂羅版の木版画を刷ったのと同様の私家精刷本で、稀覯書の列に属するものだろう」と書いたが、これはまさにこの件を嘲笑しているのである。私はまた、ある青年がこの「稀覯書」のそばで、二百五十部限定と書いてあるのは人を欺くもので、きっと大量に刷って少なく報告し、本の値段を吊り上げようとしているのだと言うのを直に聞いたこともある。
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彼ら自身は「私家精刷本」などという馬鹿げたことをしたことがないのだから、これらの嘲笑は怪しむに足りない。私はただ芸術学徒により確かな木版画の複製を提供したいと思い、原画からガラス版を作ったのだが、この版は一回の製版で三百枚しか刷れず、多く刷るには再製版が必要で、一枚でも三百枚でも製版と印刷の費用は三元、三百枚以上六百枚までは六元、九百枚は九元、加えて紙代がかかる。大書店や大官庁であれば一万二千部刷ることも容易であろうが、私はただの「個人」に過ぎず、人気書でもないのに「精刷」するとなれば、当然財力に制約され、一版分しか刷れなかったのである。だが幸いにもまだよかった。刷り本はほぼ完売し、見てくれる者がいたことが分かる。一般の読者のためには、すでに亜鉛版で複製して訳本『セメント』の中に挿入してあるのだが、編集者兼批評家諸氏はこれを顧みようとしない。
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人が真面目にならなければ、青年の指導さえ冗談のように扱えるものだが、わずか十数枚の図版を刷るために真剣に何度も考えた者もいるのである。ただ自ら多くを語らぬだけだ。今回これを書き記したのは、青年の芸術学徒に対して、珂羅版は一版で三百部しか刷れないことは製版上の通常のことであり、わざと「稀覯書」を作ろうとしたのではないと説明し、さらに多くの好事の「個人」が無責任な言葉に欺かれず、皆で「精刷本」を作ることを期待するためである。
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(十一月六日。)
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【「木版画創作法」序】
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東西を問わず、木版画の図版は従来、画は画、彫りは彫り、刷りは刷りと分業であった。中国は最も早くからこれを用いたが、例によって久しく衰退していた。清の光緒年間、英人フライヤー氏が『格致彙編』を編印した際、挿図はすでに中国の彫工では彫れず、精細なものは英国から図版を運ばねばならなかった。これがいわゆる「木口木版」、すなわち「複製木版」であり、インド人向けの英文書に用いられ、後に中国人にも読ませるようになった英文書の挿画と同類のものである。当時私はまだ子供であったが、これらの図を見て、その精巧さと生き生きとした表現に驚嘆し、宝物のように見ていた。近年に至ってようやく、西洋にはさらに画家が一手で仕上げる版画、すなわち原画があることを知った。木版を用いればこれを「創作木版」と呼び、芸術家の直接の創作品であって、彫師や刷師の手を借りぬものである。今我々が紹介しようとするのは、まさにこの一種である。
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なぜ紹介するのか。私の私見によれば、第一には面白いからである。面白いと言えば、いささか不真面目のようだが、我々は書の筆写に疲れれば、誰しも目を休めたくなり、普段は窓外の空をしばし眺める。もし壁に掛かる一枚の絵があれば、さらに良いではないか。名画を手に入れる力のある人物には無論不要なことだが、そうでなければ、縮小複製のごときものより、原版の木版画の方が真を失わず、費用も少なくて済む。もとより「今風の雅をもって国を立てようとしている」と指弾する者もいようが、「古雅」に比べれば「古」と「今」の差があるではないか。
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第二に、簡便だからである。今は金の値が高く、青年の芸術学徒が一枚の絵を描こうとすれば、画布と顔料だけで大枚を費やさねばならぬ。描き上げても展覧の場がなければ、自分で眺めるしかない。木版画は多くの費用を要しない。数本の彫刻刀で木の上にあちこち彫るだけで——これはいささか容易に言い過ぎたかもしれぬが——篆刻と同じく創作となり得、作者もそこから創作の歓びを得る。刷り上げれば、同じ作品を他人にも分けることができ、多くの人が等しく創作の歓びを受ける。要するに、他の技法による作品より、普遍性がはるかに大きいのである。
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第三に、実用的だからである。これは「面白い」といささか矛盾するようだが、実はそうとも限らない。何を楽しむかによる。麻雀牌では結局何も生まれまいが、火薬で花火を作って楽しむのを発展させれば銃砲が作れる。大砲こそ実用の極みであろうが、アンドレーエフは金が入るとそれを自宅の庭に据えて玩具にした。木版画はもともと小市民的芸術であるが、一たび刊行物の装飾や文学・科学書の挿画に用いれば、万人のものとなる。これは多言を要しまい。
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これこそ実に現代中国にふさわしい一種の芸術である。
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だが今日に至るまで、木版画について説いた書物は一冊もなく、これが最初の一冊である。やや簡略ではあるが、読者にすでに大意を与えている。ここから発展していけば、道は広大である。題材は豊かになり、技芸も精練されていくであろう。新法を取り入れ、中国古来の長所を加えれば、新たな道を開く希望もある。その時、作者各々が自らの技倆と心得を提供すれば、中国の木版画界に光焔が生ずるであろう。この書はそれゆえに一粒の星火に過ぎぬものとなるかもしれぬが、歴史上の意義を持つには十分である。
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一九三三年十一月九日、魯迅記す。
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【作文の秘訣】
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今になってもまだ作文の秘訣を尋ねる手紙が来る。
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我々はよく聞く。拳法の師匠は弟子に教える際に奥の手を隠すという。すべてを習得されれば自分を打ち殺して名を上げるだろうと恐れるからだ。実際にも、こうしたことが全くなかったわけではない。逢蒙が羿を殺したのが先例である。逢蒙は遠い昔だが、この古風は消え失せず、後世の「状元熱」が加わった。科挙は久しく廃されたが、今なお「唯一」を争い「最初」を争う。「状元熱」の人々に出会えば、師匠は危険で、拳法をすべて教え終えると打ち倒されることが少なくない。かくして新たな拳法師匠が弟子を教える際、先師と自分の前轍を鑑として必ず奥の手を隠す。三つ四つも隠せば、拳法は「一代ごとに衰える」のである。
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さらに、医者には秘方があり、料理人には秘法があり、菓子屋には秘伝がある。自家の衣食を守るため、聞くところでは嫁にのみ授け、娘には教えぬという。他家に流出するのを防ぐためである。「秘」は中国で極めて普遍的なものであり、国家の大事に関する会議さえ常に「内容は極めて秘密」で、皆が知らされぬ。だが作文にはどうやら秘訣がないらしい。もしあれば、各作家がきっと子孫に伝えたであろうが、家伝の作家はほとんど見かけない。もとより作家の子弟は幼い頃から書籍や筆墨に親しみ、見識がいくらか広いかもしれぬが、だからといって書けるとは限らぬ。昨今の刊行物には「父子作家」「夫婦作家」なる名称がしばしば見られ、まるで遺書や恋文の中から何やら秘訣を密かに伝授できるかのようだが、実は甘ったるいものを面白がっているだけで、官職の縁故を文筆の世界に持ち込んだに過ぎぬ。
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では、作文にはまったく秘訣がないのか。そうでもない。私はかつて古文の秘訣を幾句か語ったことがある。全篇に典拠があるが古人の成文ではない、すなわち全篇が自分の筆になるものでありながらすべて自分のものではなく、個人は実は何も語っていない。つまり「事に因るあり」でありながら「査すれど実拠なし」。かくすれば「庶幾くは大過を免るるか」である。簡にして言えば、実は「今日はいい天気で、ははは……」と書くに過ぎぬ。
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これは内容についてである。修辞にもまた幾らかの秘訣がある。一に朦朧、二に難解。その方法は、文を短くし、難字を多用することである。たとえば秦朝のことを論じ、「秦の始皇帝は初めて書を焼いた」と書いたのでは名文とはされぬ。翻訳して一目で分からぬようにせねばならぬ。この時こそ『爾雅』や『文選』が役に立つ。実のところ他人に知られなければ『康煕字典』を引いても構わぬ。手を加えて「始皇始めて書を焚く」とすれば、いくらか「古」めかしくなる。さらに「政俶として典を燔く」とすれば、まさに班固・司馬遷の気韻を帯びるが、同時にほとんど読めなくもなる。だがこうして一篇ないし一部を成せば「学者」と称されうるのであり、私は半日考えて一句しかできなかったから、雑誌に投稿するのが関の山なのである。
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我々の古の文学の大家は、しばしばこの手を弄した。班固先生の「紫色蛙声、余分閏位」は四つの長句を八字に縮めたものであり、揚雄先生の「蠢迪検匣」は「動由規矩」という四つの平凡な字を難字に翻訳したものである。『緑野仙蹤』に記された塾師の「花」を詠む句に「媳釵俏矣児書廃、哥罐聞焉嫂棒傷」というのがある。自ら意を述べて曰く、嫁が花を折って簪にしたのはなるほど美しいが、息子がそのために読書を怠ることを恐れる、下の句はやや難解で、兄が花を折ってきて花瓶がないから瓦罐に挿し、その香りを嗅ごうとしたところ、兄嫁が微を防ぎ漸を杜ずるため棒で花も罐も一緒に打ち壊した、と。これは冬烘先生への嘲笑とされるが、その作法は実は揚雄や班固と異なるところはなく、誤りはただ古典ではなく新典を用いた点にある。この「誤り」こそが、遺老遺少の心中で『文選』の類に威霊を保たせているのである。
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朦朧にすればこれが「良い」というのか。必ずしもそうではない。実は醜を蔽っているに過ぎぬ。だが「恥を知るは勇に近し」で、醜を蔽えば良いに近いかのようでもある。モダンガールが髪を垂らし、中年婦人がベールを被るのは、すべて朦朧術である。人類学者は衣服の起源について三説を挙げる。一は男女が性の羞恥心を知り、これで覆い隠すためという。一はむしろ刺激のためという。もう一つは、老弱の男女が身体の衰痩を露わにしては見苦しいから、何かを掛けて醜を蔽うためという。修辞学の立場からすれば、私は後の一説に賛成する。今なお駢四儷六の典麗堂皇たる祭文、挽聯、宣言、通電がしばしば見られるが、もし辞書を引き、類書を繙いて外面の装飾を剥ぎ取り、白話文に翻訳してみれば、残るものがいかなるものか、見てみるがよい。
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分からぬのも当然よいことだ。どこがよいかと言えば、「分からぬ」中によいのだ。だが良すぎて良し悪しも言えぬのでは困るから、「難解」にする方がよい。幾らかは分かり、苦心すれば分かる部分も増えてくる。我々は従来「難」を崇拝する性向がある。毎食三碗の飯を食う者は誰も怪しまぬが、毎食十八碗食う者がいれば鄭重に筆記に書き留める。手で針に糸を通しても見る者はないが、足で通せば幕を張って見物料を取れる。一枚の画は平凡だが、箱に入れて穴を開け、西洋覗きからくりにすれば、人々は口を開けて熱心に覗こうとする。しかも同じ事でも、苦心して到達したものは、造作なく到達したものより貴い。たとえばどこかの廟に線香を上げに行くとしよう。山上の廟は平地の廟より貴い。三歩ごとに拝して廟に至るのと、轎に乗ってまっすぐ担ぎ上げられた廟とは、たとえ同じ廟であっても、到達者の心中での貴さの程度は天地の差がある。作文が難解を貴ぶとは、読者に三歩一拝させてはじめて幾ばくかの目的に達し得る妙法なのである。
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ここまで書くと、述べたのは古文の秘訣のみならず、人を欺く古文の秘訣ということになってしまった。だが思うに、白話文でも大して変わりはあるまい。難字を交え、朦朧や難解を加えて、手品の目隠し手拭を振るうことができるからだ。これと反対にするならば、すなわち「白描」である。
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「白描」にはしかし秘訣がない。もし秘訣があると言うならば、目隠しの術と正反対にすることに過ぎない。真意を持ち、粉飾を去り、作為を少なくし、衒いを捨てるのみである。
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(十一月十日。)
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【搗鬼心伝】
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中国人はまた奇形怪状、陰気臭いものを好む性向がある。古木が光を発するのを見るのは大麦の花が咲くのを見るより好まれるが、実は大麦の花も見たことがないのだ。かくして畸胎奇形が新聞の好材料となり、生物学の常識に取って代わった。最近広告で見たものに、いわゆる双頭蛇のような二頭四手の胎児があり、また下腹から一本の足が生えた三本足の男がある。なるほど人には畸胎もあり奇形もあるが、造化の力には限りがある。いかに奇怪であろうと限度がある。双子が背で繋がり、腹で繋がり、臀で繋がり、脇で繋がり、あるいは頭が並ぶことはあっても、頭が尻の上に生えることはない。手足が多指であったり欠損であったり多乳であったりはするが、両足のほかにもう一本の足が生えるなどということは、「二つ買えば一つおまけ」の商売のようで、あり得ない。天は実に人の搗鬼に及ばぬのだ。
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だが人の搗鬼もまた、天に勝るとはいえ実際には限界がある。搗鬼の精義は、くれぐれも敷衍を戒め、含蓄を旨とするところにある。一たび敷衍すれば搗鬼の実体が明白になると同時に限定も生じるから、含蓄の深遠さには及ばぬ。だが含蓄ゆえに影響もまた模糊となる。「一利あれば必ず一弊あり」、私が「限界がある」と言う所以である。
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清朝人の筆記にはしばしば羅両峰の『鬼趣図』が挙げられ、真に鬼気が漂うと書かれている。後にその図が文明書局から印行されたが、痩せこけた者、背の低い太った者、浮腫んだ者の姿があるだけで、さほど奇異ではなく、筆記のみを読む方がむしろ面白い。小説中の鬼の描写もいかに筆力を尽くしても人を驚かすには足りぬが、私が最も恐ろしいと思うのは、晋人の記した山中の厲鬼——顔に五官がなく、卵のように渾沌としたものである。五官はしょせん五官であって、いかに工夫を凝らして凶悪にしようとも五官の範囲を逃れぬ。今これを渾沌として訳の分からぬものにすれば、読者もまた訳も分からず恐れるのだ。だがその「弊」は印象の模糊である。もっとも「青面獠牙」「口鼻流血」と書く愚か者よりは、はるかに聡明であるが。
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中華民国人の罪状発表はたいてい十条だが、結果はたいてい無効である。古来の悪人は多く、十条はこの程度に過ぎず、人の注目や行動を引き出すことは決してない。駱賓王が『討武曌檄』を書き、「入宮見嫉、蛾眉不肯譲人、掩袖工讒、狐媚偏能惑主」の数句は相当の心血を注いだものであろうが、伝えるところでは武后はここを読んでわずかに微笑しただけだったという。そうだ、これだけのこと、それがどうしたのか。罪を声高に糾弾する明文は、しばしばその力において耳元でのひそひそ話に遠く及ばぬ。一方は明白であり、一方は測り難いからだ。仮にあの時、駱賓王が大衆の前に立ち、ただ眉を顰め首を振り、「悪い、実に悪い」と連呼するのみで、その悪い具体例を述べなかったとすれば、恐らくその効果は文章に勝っていたであろう。「狂飆文豪」高長虹が私を攻撃した際、悪行は数限りなく、一たび発表すれば忽ち身敗名裂すると言いながら、ついに発表しなかったのは、搗鬼の正脈を深く得ていたからである。だが結局大きな効果もなかったのは、広範さとともに来る「模糊」の弊がそうさせたのだ。
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この二例を理解すれば、治国平天下の法は、人々に法があると告げつつ、いかなる法かを明白に述べてはならぬと知れよう。一たび述べれば言となり、言があれば行と対照されるから、測り難さを示す方がよい。測り難い威稜は人を萎縮させ、測り難い妙法は人に希望を抱かせる——飢饉の時に病を得、戦時に詩を作るのは、治国平天下とは無関係のようだが、不可解の中にあっては、続いて治国平天下の妙法があるかのように疑わせることができる——だがその「弊」もまた、模糊の中にいわゆる妙法とは実は何の方法もないに過ぎぬと疑われ得ることにある。
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搗鬼には術あり、効もあり、されど限りあり。ゆえにこれをもって大事を成す者は古来存在しない。
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(十一月二十二日。)
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【家庭は中国の基本なり】
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=== 第35節 ===
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中国が自ら酒を醸すことは、自ら阿片を栽培するよりも早いが、我々が今聞くのは多くの者が横たわって阿片の煙を吹かしていることばかりで、外国の水兵のように街中で酒に酔って暴れる者はほとんど見かけない。唐・宋の蹴鞠はとうに失伝し、一般的な娯楽は家に籠って徹夜で麻雀を打つことである。この二点から見れば、我々が露天の下から次第に家の中へと引きこもっていくのは疑いない。昔の上海の文人はすでに嘆じて対聯を出し、対句を求めたという。曰く「三鳥人を害す、鴉雀鴿」と。「鴿」とは宝くじのことで、雅名を奨券というが、当時は「白鴿票」と呼ばれていた。だがその後誰かが対句を作ったかどうかは知らぬ。
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もっとも我々は現状に満足しているわけでもない。斗室の中に身を置きつつ、心は宇宙の彼方に馳せる。阿片を吸う者は幻境を楽しみ、麻雀を打つ者は好牌を心に描く。軒下で爆竹を鳴らすのは、天狗の口から月を救い出すためであり、剣仙は書斎に坐して「ふん」と一声発すれば、白光一閃、千万里の彼方の敵を斬り殺すことができる。ただし飛剣はやはり家に戻り、元の鼻の穴に潜り込む。次回も使うからだ。これを千変万化と言い、その宗を離れずと言う。ゆえに学校とは家庭から子弟を引き出して社会の人材に育てる場であるが、収拾がつかなくなると、やはり「家長に引き渡して厳しく管束すべし」と言うのである。
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「骨肉は土に帰す、命なり。魂気に至りては、則ち至らざる所なく、至らざる所なし」。人は鬼となれば、いささか自由になれるかと思えば、生きている者はなおも紙の家を焼いて住まわせようとし、金持ちなら麻雀卓や阿片盆まで添える。仙人になる──これは大変な変化だが、劉夫人はどうしても旧宅を捨てがたく、「宅ごと飛昇」の運動をし、鶏犬まで連れて昇天して、やはり家事を取り仕切り、犬を飼い鶏を養おうとしたのである。
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我々の古今の人々は現状に変化を望み、その変化を認めもする。鬼になるのはやむを得ず、仙になれればなお結構だが、故郷の家だけは死んでも手放さぬ。火薬はただ爆竹に用い、羅針盤はただ墳墓の方角を見るだけという理由は、恐らくここにあるのだろう。
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今や火薬は爆撃弾、焼夷弾に変じ、飛行機に搭載されているが、我々はただ家に坐して落ちてくるのを待つしかない。もとより飛行機に乗る者もかなりいるが、彼らは遠征のためではない。早く家に帰れるからである。
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家は我々の生まれた場所であり、また死ぬ場所でもある。
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(十二月十六日。)
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【「総退却」序】
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中国は久しく小説の類を「閑書」と呼んでいた。これは五十年前までは概ね事実であり、終日辛苦して働く者には小説を読む暇がなかった。ゆえに小説を読む者には余暇があり、余暇があるからにはそれほど辛苦して働く必要がないということになる。成仿吾先生がかつて断じて曰く「閑あり、即ち金あり!」と。なるほど経済学の眼で見れば、現行制度の下では「閑暇」もまた一種の「富」であろう。だが貧しい者もまた小説を愛する。字が読めなければ茶館に行って「講談」を聴く。百余回の大部の書を、毎日少しずつ聴き続けるのだ。もっとも終日働く者に比べれば、彼らにもまだ幾ばくかの余暇があるのだ。さもなくば、茶館に行く暇も茶代を払う余裕もないではないか。
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小説が欧米においても以前は事情は同じであった。後に生活が困難になり、維持のために余暇が減り、もはやのんびりとしていられなくなった。ただ時には本で精神を休めたいが、くどくどと長い話に耐えられぬ。かくして短篇小説が桃花運に恵まれた。この洋の文壇の趨勢は、古人のいわゆる「欧風美雨」に乗じて中国にも押し寄せ、「文学革命」以後に生まれた小説はほとんど短篇に限られた。だが作者の才力が大作を構成し得ぬことも、当然大きな原因の一つである。
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しかも書中の主人公も変わった。昔の小説の主人公は勇将策士、侠盗贓官、妖怪神仙、佳人才子であり、後には妓女買春客、無頼奴僕の輩となった。「五四」以後の短篇にはたいてい新しい知識人が登場するが、それは彼らが「欧風美雨」の中の動揺を最初に感じた者たちだからであり、それでもなお古の英雄と才子の気風は脱し切れなかった。今やまた異なる。誰もが動揺を感じ、一人の特別な人物の運命を聞こうとはしなくなった。某英雄がベルリンで膝を叩いて天を仰ぐ、某天才が泰山で胸を叩いて血涙を流す、誰が振り向くだろうか。人々はより広大な、より深邃なものを知り、感じたいのだ。
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この一冊はまさにこの時代の産物であり、明白な脱皮を示している。人物は英雄ではなく、風光も旖旎ではないが、中国の眼を点睛したのである。作者の工場の描写は農村の描写に及ばぬと私は思うが、それは恐らく私が以前から農村に馴染んでいたためか、さもなくば作者が農村により馴染んでいるためであろう。
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一九三三年十二月二十五日夜、魯迅記す。
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=== 第36節 ===
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だが私が責任を負い得ぬ新聞記事のために、先生の「反感」を招いてしまった。にもかかわらず破格の優遇を賜り、『新儒林外史』では大刀を持つ役を与えていただいた。礼儀の上では感謝申し上げるべきだが、実際には大宴会と同様、私は大刀など持っておらず、ただ一本の筆があるのみで、名を「金不換」という。これはルーブルを受け取っていないと広告しているのではなく、幼い頃から使い慣れた一本五分の安い筆である。確かにこの筆で先生に触れたことはあるが、古典の運用と同じく、手の赴くまま筆に興を乗せたに過ぎず、格別の報復の悪意を含んではいない。だが先生はまたもや私に「三本の冷たい矢」を掛けられた。これは先生のせいにはできぬ、陳源教授の余唾に過ぎぬからだ。しかし仮に私の報復だとしても、上述の理由により、「怨みをもって徳に報いる」隊列に加わるには至るまい。
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いわゆる『北平五講と上海三嘘』についてだが、実は今に至るまで書いていない。北平で『五講』なる書が出版されたと聞くが、あれは私の著ではなく、その書を見たこともない。だが騒ぎが起きた以上、いっそ何か書くかもしれぬ。もし書くとすれば『五講三嘘集』と名づけるつもりだが、後半の三名は必ずしも新聞に載った三人ではないかもしれぬ。先生は梁実秋、張若谷両氏と一緒にされるのを恥じておられるようだが、並べてみても先生を辱めるほどではないと思う。ただ張若谷氏はいささか劣り、浅薄で、「嘘」一つの材料にも足りぬから、私はおそらく別の人に替えるであろう。
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先生に対して、現在の私の見解で書くとすれば、そう悪くはなるまい。先生は革命の場における一介の行商人ではあるが、悪徳商人ではないと私は考える。私のいう悪徳商人とは、一つは国共合作時代の大物で、当時はソ連を讃え共産を称え、あらゆることをした。清党の時になると共産主義青年や共産嫌疑の青年の血で自分の手を洗い、依然として大物であり続けた。時勢は変わったが裕福さは変わらぬ。もう一つは革命の猛将で、土豪を殺し劣紳を倒し、極めて激烈であったが、一たび躓くと「邪を棄てて正に帰す」と称し、「土匪」を罵り同志を殺し、これもまた激烈であった。主義は変わったが猛々しさは失わぬ。先生はといえば、「自白」によれば革命の如何は親の苦楽によって決まるとのことで、いささか投機的な気味があるのは疑いないが、寝返って大掛かりな商売をしたわけではなく、ただ懸命に「第三種の人」となって革命家より少しましな生活を送ろうとしているだけだ。革命の陣線から退いた以上、自己弁護のため、「第三種の人」としての立場を固めるために、多少の零細な懺悔は必要であり、統治者にとっては実はかなり有益なことだが、それでもなお「左右挟撃の時」に遭うのは、恐らくあちら側から見れば先生の店構えが小さすぎるからであろう。銀行員が小さな両替商の手代を見下すのと同じことだ。先生は不当だと感じておられようが、「第三種の人」の存在を信じぬのは左翼だけではなく、先生の経験がそれを証明したのであり、これもまた一つの大きな功徳である。
  
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公平に言えば、先生は失敗したとは言えぬ。自分では「挟撃」されていると感じておられようが、今日、即座に人を殺す権力を持たぬ者で、誰が攻撃を受けずにいられようか。生活はもとより辛苦であろうが、殺戮され投獄される人々に比べれば天壌の差がある。文章もどこにでも発表でき、封鎖され圧迫され禁止される作者に比べれば、はるかに自由自在である。大物や猛将と比べれば、もとより及ばぬが、それは先生が悪徳商人ではないからこそである。これは先生の苦しみであると同時に、先生の良いところでもある。
  
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話がすっかり長くなってしまった。ここで擱筆する。要するに、私は以前と変わらず、決して謡言を飛ばし嘘をつき、特に先生を攻撃することはしないが、これを機に別の態度に変えるつもりもない。先生個人の「反感」や「恭敬」を、私はまったく斟酌するつもりがない。先生もまた、私が「生理上の理由で仕事を停止する」であろうからといって私を許すことのなきよう、お願いする。
  
 人の皮膚の厚さは、おそらく半分にも満たない。鮮紅の熱い血が、その裏側を、壁に密々と這う槐蚕よりもなお密な血管の中を奔流し、温もりを放っている。かくして各々がこの温もりによって互いに蠱惑し、煽動し、牽引し、懸命に寄り添い、接吻し、抱擁して、生命の陶酔の大歓喜を得んとする。
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右、御返答まで。並びに
  
 しかしもし一振りの鋭利な刃で、ただの一撃で、この桃紅色の薄い皮膚を貫いたなら、あの鮮紅の熱い血が矢のように迸り出て、その一切の温もりをもって直接に殺戮者を灌漑するであろう。次いで、冷たい息吹を与え、蒼白い唇を見せ、人の心を茫然とさせ、生命の飛揚の極致の大歓喜を得させるであろう。そして自らは、永遠に生命の飛揚の極致の大歓喜に浸るのである。
+
御安泰を祈る。
  
 かくして、二人は全身を露わにし、利刃を握りしめ、広漠たる曠野の上に対峙していた。
+
魯迅。一九三三年十二月二十八日。
  
 二人はまさに抱擁せんとし、まさに殺戮せんとした……
+
【一九三五年】
  
 通りがかりの者たちが四方から駆け寄ってきた。密々と、槐蚕が壁を這い上るように、蟻が干し魚を担ごうとするように。衣服はみな美しいが、手は空であった。四方から駆け寄り、懸命に首を伸ばして、この抱擁または殺戮を鑑賞しようとした。彼らはすでに、後で自分の舌に味わうであろう汗または血の鮮やかな味を予感していた。
+
【葉紫著「豊収」序】
  
 しかし二人は対峙したまま、広漠たる曠野の上に、全身を露わにし、利刃を握りしめながら、抱擁もせず、殺戮もせず、しかも抱擁または殺戮の意思すら見えなかった。
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作者が創作を書くにあたり、その中の事柄を必ずしも自ら経験している必要はないが、経験しているのが望ましい。詰問する者が問う。では殺人を書くには自ら人を殺さねばならず、娼婦を書くには身を売らねばならぬのか。答えて曰く、然らず。私のいう経験とは、遭遇し、見聞きしたことであり、必ずしも自ら行ったことではないが、行ったことも当然含まれ得る。天才たちがいかに大言壮語しようと、帰するところ、無から創造することはできぬ。神を描き鬼を画くには、対照すべきものがなく、本来は想像力のみに頼って、いわゆる「天馬空を行く」がごとく揮毫できるはずだが、彼らの描き出すものは三つ目か首長に過ぎず、普通の人体に眼を一つ加え、首を二三尺伸ばしただけのことだ。これを何の技量と言い、何の創造と言えるだろうか。
  
 二人はこのまま永久に至り、円やかな身体はすでに干枯れようとしていたが、いささかも抱擁または殺戮の意思は見えなかった。
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地球上には一つの世界だけがあるのではなく、実際の相違は人々の空想する陰陽二界よりも激しい。この世界の人々は別の世界の人々を蔑み、憎み、圧迫し、恐怖せしめ、殺戮するが、それを知らない。知らぬがゆえに書けもしない。かくして彼は「第三種の人」を自称し、「芸術のための芸術」を唱える。仮に書いたとしても、やはり三つ目か首長に過ぎぬ。「もっと明るく」だと? 人を欺いてはならぬ。あなた方の目はどこにあるのか。
  
 通りがかりの者たちはそこで退屈を覚えた。退屈が毛穴から入り込み、退屈が自らの心から毛穴を通って這い出し、曠野に満ち溢れ、また他人の毛穴に入り込むのを感じた。彼らはやがて喉が渇き、首もだるくなり、ついには互いに顔を見合わせ、ゆっくりと散っていった。甚だしきに至っては、干枯れて生きる趣をも失ったように感じた。
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偉大なる文学は永遠だと、多くの学者がそう言う。そうだ、永遠かもしれぬ。だが私自身は、ボッカッチョやユゴーの書を読むよりも、チェーホフやゴーリキーの書を読みたい。より新しく、我々の世界により近いからだ。中国では確かに今なお『三国志演義』や『水滸伝』が盛んだが、それは社会になお三国の気風と水滸の気風が残っているからだ。『儒林外史』の作者の手腕は羅貫中に劣るものではないが、留学生が天下に溢れるようになってから、この書はどうやら永遠でも偉大でもなくなったようだ。偉大であるにも、理解する者が必要なのだ。
  
 かくして広漠たる曠野だけが残り、二人はその中で全身を露わにし、利刃を握りしめ、干枯れたまま立っていた。死人のような眼差しで、通りがかりの者たちの干枯れた、血なき大殺戮を鑑賞しながら、永遠に生命の飛揚の極致の大歓喜に浸っていた。
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ここに収めた六つの短篇は、みな太平の世では奇聞だが、今日においてはごく平凡な出来事である。ごく平凡であるがゆえに、我々とより密接であり、より大きな関係がある。作者はまだ青年だが、その経歴は太平天下の順民の一世紀の経験に匹敵する。転々たる生活の中で、彼に「芸術のための芸術」を求めるのは不可能だ。だが我々にはこのような芸術を理解する者がいる。誰にも心配される必要はまったくない。
  
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これこそ偉大なる文学なのか。否、我々自身はそう言ってはいない。「中国にはなぜ偉大な文学が生まれないのか」という指導者たちの教訓を我々はさんざん聞いたが、惜しむらくは彼らだけが作者と作品への弾圧の一面を忘れている。「第三種の人」は我々を教訓した。ギリシア神話に悪鬼がいて一張の寝台を持ち、人を捕らえて寝かせ、短ければ引き伸ばし、長ければ切り縮める、左翼の批評がまさにこの寝台であり、自分たちは書けなくなったのだと。今やこの寝台は本当に出現したが、意外にもそこに長くもなく短くもなくぴたりと収まったのは「第三種の人」だけであった。天に向かって唾を吐けば自分の目に落ちるとは、天下にまさかこんなことがあるとは。
  
 (一九二四年十二月二十日。)
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だが我々には作品を書ける作家がおり、作品は弾圧の中でますます堅固になる。中国の大勢の青年読者に支持されるのみならず、『電網外』が『文学新地』に『王伯伯』の題で発表されるや、世界の読者を得た。これこそ作者が当面の任務を果たした証であり、圧迫者への回答でもある──文学は戦いなのだ!
  
【希望】
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将来、作者のさらに多くの、さらに優れた作品を目にすることを願う。
  
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一九三五年一月十六日、魯迅、上海にて記す。
  
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【隠士】
  
 私の心はひときわ寂しい。
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隠士は古来美名とされてきたが、時として嘲笑の的ともなった。最も知られたものに、陳眉公を刺した「翩然たる一羽の雲中の鶴、飛び去り飛び来たる宰相の衙」の詩があり、今なお人の口に上る。私はこれを一種の誤解だと思う。一方では「自らを高く見る」ために、他方では「高きを求める」こととなり、互いに「分を忘れ」、「心照」することもできず、かといって「言わず」にもおれず、かくして口舌が増えるのだ。
  
 しかし私の心はとても平穏である——愛も憎しみもなく、悲しみも喜びもなく、色も音もない。
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隠士でない者の心中の隠士とは、名声を世に聞かせず、山林に隠棲する人物である。だがそのような人物を世間は知りようがない。ひとたび隠士の看板を掲げれば、彼自身が「飛来飛去」せずとも、何らかの表白や宣揚は免れない。あるいは彼の太鼓持ちどもの先触れがある──隠士の家にも太鼓持ちがいるとは不合理のようだが、看板が飯に化け得る時になれば、たちまち太鼓持ちが現れるもので、これを「看板の端を齧る」と言う。これもまた非隠士の人々の非難を買い、隠士の身に油が搾れるとすれば、隠士がいかに裕福かは推して知るべしと。だがこれもまた「高きを求める」誤解であって、有名な隠士に山林で老死せよと強いるのと同じことだ。およそ有名な隠士であれば、「悠然として歳を送る」幸福をすでに手にしているものだ。さもなくば、朝は柴を割り、昼は田を耕し、夕は菜に水を遣り、夜は草鞋を編む者に、煙草を嗜み茶を味わい、詩を吟じ文を作る閑暇がどこにあろうか。陶淵明先生は我が中国の赫々たる大隠であり、「田園詩人」とも称される。もとより彼は雑誌を発行したわけではなく、「庚款」にも与れなかったが、奴僕を持っていた。漢晋の頃の奴僕は主人に仕えるだけでなく、主人のために耕作し商いもする、まさに生財の道具であった。ゆえに淵明先生といえども、いささかの生財の途があったのであり、さもなくば酒はおろか飯も食えず、東籬のほとりでとうに餓死していたであろう。
  
 私はおそらく老いたのだ。私の髪はすでに白い。明らかなことではないか。私の手は震えている。明らかなことではないか。ならば、私の魂の手もきっと震えており、髪もきっと白くなっているであろう。
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ゆえに隠君子の風格を見ようとすれば、実際にはこのような隠君子しか見ることができず、真の「隠君子」は見ようがない。古今の著作は汗牛充棟だが、樵夫や漁父の著作を見つけることができるだろうか。彼らの著作とは柴を割り魚を獲ることなのだ。文士詩翁のうち、釣り人とか樵童とか自称する者は、たいてい悠然自適の封翁か公子であって、釣り竿や斧の柄を握ったことなど一度もない。彼らに隠逸の趣を鑑賞しようとするのは、自分の愚かさを恨むしかあるまい。
  
 しかしこれは何年も前のことであった。
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出仕は飯を食う道であり、帰隠もまた飯を食う道である。もし飯が食えなければ「隠」も隠れぬ。「飛来飛去」するのは、まさに「隠」のためであり、すなわち飯のためでもある。「隠士」の看板を担いで「都会の山林」に掛ける、これこそいわゆる「隠」であり、すなわち飯を食う道である。太鼓持ちが先触れをするのは、自分はまだ「隠」の資格がないから、いささか「隠」の油を搾るに過ぎず、実はやはり飯を食う道に他ならぬ。漢唐以来、実際には出仕は卑しいとされず、隠居も高尚とされず、また貧しいともされなかった。「隠」を欲して得られざる、これが初めて士人の末路と見なされる。唐末の詩人左偃が自らの悲惨な境遇を述べて「隠を謀り官を謀り両つながら成らず」と言ったのは、七字で「隠」の秘密を道破したものである。
  
 それ以前、私の心はかつて血なまぐさい歌声に満ちていた——血と鉄、炎と毒、回復と復讐。ところが忽ちこれらはすべて空虚となった。ただ時として、やむを得ぬ自欺の希望を故意に詰め込んだ。希望、希望、この希望の盾をもって、空虚の中の暗夜の襲来に抗した。盾の裏側もやはり空虚の中の暗夜であったけれども。そしてまさにこのようにして、私の青春は次第に費え尽きたのであった。
+
「隠を謀る」ことが成らねば、それが零落であるならば、「隠」は常に享楽と関わりがあることが分かる。少なくとも生計のために十分あくせくする必要がなく、かなりの閑暇の余裕がある。だが閑暇を称賛し、煙茗を鼓吹するのもまた一種のあくせくに過ぎず、ただそのあくせくを隠しているだけだ。「隠」と雖も、やはり飯を食わねばならぬから、看板はやはり油を塗り、守らねばならぬ。泰山崩れ、黄河溢れても、隠士たちは目に見えず耳に聞こえぬが、もし自分たちや仲間に関する議論があれば、たとえ千里の彼方の半句の微にすぎずとも、忽ち耳は聡く目は明らかとなり、袂を奮って立ち上がる。あたかもその事件の大きさが宇宙の滅亡にも勝るかのようだが、これもこの理由による。実は蒼蝿とさえ何の関わりもないのだ。
  
 私はとうに、自分の青春がすでに過ぎ去ったことを知らなかったであろうか。しかし身の外の青春はなお在ると思っていた——星、月光、凍りついて落ちた蝶、闇の中の花、梟の不吉な声、杜鵑の血を吐く啼き声、笑いの渺茫、愛の翔舞……。たとえ悲涼で縹渺たる青春であろうとも、結局は青春であった。
+
=== 第37節 ===
  
 しかし今、なぜこれほど寂しいのか。まさか身の外の青春までもすべて過ぎ去り、世の青年たちもみな老いてしまったのか。
+
推し量るに新趣向が生まれた。その一は、あらかじめ叢書の大きな名前を設定し、目録を列挙して、大は宇宙から小は蝿の身体の細菌に至るまで一切を包含し、それから各方面に人を求めて翻訳や著述を依頼し、期限を定めて必ず完成させる。訳者や著者が必ずしも専門家とは限らぬが、とにかく多くの手が同時に原稿用紙の上で筆を走らせるから、年月を費やさずとも一大部の煌々たる巨著が出現する。その二は、もともと一群の零細な旧訳があり、従来あまり流布しなかったか、あるいはかつて流布したものの今はすでに時代遅れとなったもので、これを一か所に集め、おおよそ分類し、五花八門の目録を並べれば、やはり一大部の煌々たる巨著が出現する。
  
 私は自ら、この空虚の中の暗夜に肉薄するほかはない。希望の盾を置き、ペテーフィ・シャーンドル(一八二三—四九)の「希望」の歌を聞く——
+
=== 第38節 ===
  
 +
だがその頃、覚醒した知識青年たちの心情は、おおむね熱烈ではあるが悲涼なものであった。たとえ一条の光明を見出しても、「径は一にして周は三」、かえって明瞭に周囲の果てしない暗黒が見えてしまうのだ。摂取した異域の養分もまた「世紀末」の果汁であった——ワイルド(Oscar Wilde)、ニーチェ(Fr. Nietzsche)、ボードレール(Ch. Baudelaire)、アンドレーエフ(L. Andreev)たちの用意したものだ。「自らの船を沈める」のはなお絶境に生を求めるもので、それ以外の多くの作品は「春は我が春に非ず、秋は我が秋に非ず」、黒髪朱顔でありながら……
  
 希望とは何か? 娼婦である。
+
=== 第39節 ===
 誰にでも媚び、一切を捧げる。
 
 お前が最も貴い宝を犠牲にした時——
 
 お前の青春を——彼女はお前を捨てる。
 
  
 +
一滴の泉水は江河の源流となり得、一枚の木の葉の揺れは暴風の前兆となり得る。微小な起源が偉大な結果を生む。この理由によって、我々の週刊は『狂飆』と名づけた。」
  
 この偉大なる抒情詩人、ハンガリーの愛国者は、祖国のためにコサック兵の矛先に死んでから、すでに七十五年が経った。悲しきかなその死。しかしさらに悲しむべきは、彼の詩が今なお死んでいないことである。
+
だが後にはますます自ら「超越」したと称するようになった。ニーチェ風の、互いに解し得ぬ格言体の文章は、ついに週刊を存続し難くした。記憶に値するのは、やはり小説方面の黄鵬基、尚鉞のみであり──実は向培良一人の作者に過ぎなかった。
  
 しかし、なんと惨めな人生であろう。傲岸にして英邁なるペテーフィですら、ついには暗夜の前で歩みを止め、茫々たる東方を振り返ったのだ。彼は言った——
+
黄鵬基は短篇小説をまとめて一冊とし、『荊棘』と称したが、二度目に読者と会った時にはすでに改名して「朋……」
  
 +
=== 第40節 ===
  
 絶望の虚妄なること、まさに希望に同じ。
+
もう一つの最近の例がある。三月七日の『中華日報』に載っている。そこには「北平大学教授兼女子文理学院文史系主任李季谷氏」が『一十宣言』の原則に賛成するとの談話が記されており、末尾にこう述べている。「民族復興の立場より言えば、教育部は統一的に岳武穆、文天祥、方孝孺等の気節ある名臣勇将を顕彰する方法を講じ、一般の高官将兵に範とすべし」と。
  
 もし私がなおも、明るくもなく暗くもないこの「虚妄」の中で偸生せねばならぬなら、私はなおもあの過ぎ去った悲涼で縹渺たる青春を求めよう。ただし身の外にこそ。なぜなら身の外の青春がひとたび消え去れば、わが身中の遅暮もまた凋零するからである。
+
これらはみな、あまり深く研究しないことを是とするものである。もし「全うして之に帰す」ことと将来の臨陣の衝突を思い合わせるならば、あるいは岳武穆たちの事蹟を調べて、結局どのような結末であったか、「民族復興」を成し遂げたのかどうかを見てみれば……
  
 しかし今、星も月光もなく、凍りついて落ちた蝶も、笑いの渺茫も、愛の翔舞もない。しかし青年たちはとても平穏である。
+
=== 第41節 ===
  
 私は自ら、この空虚の中の暗夜に肉搏するほかはない。たとえ身の外の青春を見出せずとも、自らわが身中の遅暮を一擲せねばならぬ。しかし暗夜はいったいどこにあるのか。今は星もなく、月光もなく、笑いの渺茫も愛の翔舞もない。青年たちはとても平穏であり、しかも私の眼前には、真の暗夜すらないのである。
+
ここで私が言いたいのはただ、現状維持論は一見穏健に聞こえるが、実際には行い得ぬものであり、史実が絶えずそれがただの「存在せぬもの」に過ぎぬことを証明しているということ、これだけである。
  
 絶望の虚妄なること、まさに希望に同じ!
+
(三月二十一日。)
  
 +
【田軍著「八月の村」序】
  
 (一九二五年一月一日。)
+
エレンブルク(Ilia Ehrenburg)がフランスの上流社会の文学者を論じた後、こうも述べている。そのほかにもいくらか異なる人々がいると——「教授たちは声もなく書斎で働き、X線療法を実験する医師たちは職務の上で死に、奮い立って救う……」
  
【雪】
+
=== 第42節 ===
  
 +
我々がもし『文選』に語彙を求めに行けば、おそらく「文人相軽ず」の四字に出会うであろう。拾って用いれば、いくらか格好もよい。しかし曹聚仁先生がすでに『自由談』(四月九日~十一日)で指摘しているように、曹丕のいわゆる「文人相軽ず」とは「文は一体に非ず、善く備うること能う者鮮し、是を以て各々長ずる所を以て、短き所を相軽ず」であり、批評の範囲は制作に限られる。その他すべての容貌への攻撃、出身地への嘲り、誣告、謡言、施蟄存先生式の「彼自身もそうではないか」、あるいは魏金枝先生式の「彼の親戚も私と同類だ」の類は、すべて含まれていないのだ。
  
 +
=== 第43節 ===
  
 暖かい国の雨は、いまだかつて冷たく堅く燦爛たる雪の花に変わったことがない。博識なる人々はそれを単調だと思い、雨自身もまた不幸だと感じるであろうか。江南の雪こそは、まことに潤いに満ちて艶やかの極みであった。それはなお仄かに漂う青春の便りであり、この上なく健やかな処女の肌であった。雪野には血のように赤い宝珠山茶があり、白い中にほの青い一重の梅花があり、深い黄色の磬口の蠟梅があり、雪の下にはなお冷たい緑の雑草があった。蝶は確かにいなかった。蜜蜂は山茶花と梅花の蜜を採りに来たであろうか。私ははっきりとは覚えていない。しかし私の目には、冬の花が雪野に咲き、多くの蜜蜂たちが忙しく飛び交い、ぶんぶんと騒いでいるのが見えるようであった。
+
やむを得ず、一つの補救策を考えた。新聞の記事や拙劣な小説において、その事件は確かに一篇の文芸作品に書き得るものであるかもしれぬが、その記事やその小説は文芸ではない——これがすなわち「こう書いてはならない」の見本である。ただし「ああ書くべきだ」との比較はできぬままである。
  
 子供たちは凍えて真っ赤になった、紫色の生姜の芽のような小さな手に息を吹きかけながら、七、八人で一斉に雪達磨を作りにかかった。うまくいかないので、誰かの父親も手伝いに来た。達磨は子供たちよりずっと高く作られたが、上が小さく下が大きいひと塊にすぎず、ついには瓢箪か達磨か見分けがつかなかった。しかしとても白く、とても明るく艶やかで、自らの潤いで互いに粘り合い、全体がきらきらと光っていた。子供たちは竜眼の種で目玉を作り、また誰かの母親の化粧箱から紅を盗んできて唇に塗った。これでまさしく大きな阿羅漢であった。彼もまた目を爛々と輝かせ、唇を真っ赤にして雪の中に座っていた。
+
(四月二十三日。)
  
 翌日もまだ数人の子供たちが訪ねてきて、手を叩き、頷き、笑った。しかし彼はついにひとり座っていた。晴天がまた来て彼の肌を溶かし、寒夜がまた彼に一層の氷を結ばせ、不透明な水晶のようにした。続く晴天がまた彼を何とも知れぬものに変え、唇の紅もすっかり褪せてしまった。
+
【現代中国における孔子】
  
 しかし、朔北の雪花は紛々と舞い降りた後、永遠に粉のごとく、砂のごとく、決して粘り合わず、屋根の上に、地の上に、枯草の上に撒かれる。ただそれだけである。屋根の雪はとうに溶け始めていた。家の中に住む人の火の温もりゆえに。それ以外は、晴天の下、旋風がにわかに来れば、蓬勃として奮い飛び、日光の中できらきらと輝き、火焔を蔵した大霧のごとく、旋転しつつ昇騰し、太空に充満し、太空をして旋転しつつ昇騰せしめ、煌めかせる。
+
最近の上海の新聞が報じているところによれば、日本の湯島に孔子の聖廟が落成したため、湖南省主席何鍵将軍が、かねてより珍蔵していた孔子の画像を寄贈したという。正直に言えば、中国の……
  
 果てしない曠野の上に、凛冽たる天蓋の下に、きらきらと旋転し昇騰するのは、雨の精魂……
+
=== 第44節 ===
  
 そうだ、あれは孤独な雪であり、死んだ雨であり、雨の精魂なのだ。
+
(五月三日。)
  
 +
【「風刺」とは何か】
  
 (一九二五年一月十八日。)
+
──文学社の問いに答える
  
【好い話】
+
私はこう思う。一人の作者が洗練された、あるいはいくらか誇張した筆致で——しかしもとより芸術的でなければならぬ——ある集団の、あるいはある一面の真実を描き出す。描かれた集団がこの作品を「風刺」と呼ぶのである。
  
 +
「風刺」の生命は真実である。必ずしもかつてあった事実でなくともよいが、あり得る実情でなければならぬ。ゆえにそれは「捏造」ではなく「誣蔑」でもない。「隠し事の暴露」でもなければ、もっぱら人を驚かすいわゆる「奇聞」を記すものでもない……
  
 +
=== 第45節 ===
  
 灯火が次第に小さくなってゆく。石油がもう多くないことを告げている。石油も上等の品ではなく、早くからランプの笠を燻して薄暗くしていた。爆竹の盛んな響きが四方にあり、煙草の煙が身辺に漂う——昏沈たる夜であった。
+
私にはまとまった高論も、高明な見解もなく、ただ近頃考えたことを話すことしかできぬ。私はしばしば文芸と政治が絶えず衝突し合っていると感じる。文芸と革命はもともと相反するものではなく、両者の間にはむしろ現状に安んじぬという共通点がある。ただ政治は現状を維持しようとするものであるから、当然、現状に安んじぬ文芸とは異なる方向に立つ。もっとも現状に不満な文芸が盛んになったのは十九世紀以降のことで、その歴史はまだ短い。政治家は自分の意見に反対されることを最も嫌い、人に考えさせ口を開かせることを最も嫌う。そしてかつての社会では確かに誰も何も考えず、誰も口を開かなかった。猿の社会を見てみればよい……
  
 私は目を閉じ、後ろに仰け反って、椅子の背にもたれた。『初学記』を握った手を膝の上に置いた。
+
=== 第46節 ===
  
 朦朧の中で、私は一つの好い話を見た。
+
本日、四月十八日付の『華北日報』を受け取った。副刊に鶴西先生の『紅笑について』の半篇が載っている。『紅笑について』には私はいささか注意を払っている。自分がかつて数頁を訳したことがあり、その予告は初版の『域外小説集』に掲載した。だが後に訳し終えなかったため出版もしなかった。しかしおそらく旧知のよしみであろう、今に至るまで誰かがこの書に言及すれば、たいてい見てみたくなる。ところがこの『紅笑について』を読み終えると、甚だ驚かされ、一言述べずにはいられなくなった。頭緒を明らかにするため、まず原文の一部を以下に転載する——
  
 この話はとても美しく、優雅で、面白かった。多くの美しい人と美しい出来事が、入り交じって一天の雲錦のようであり、しかも万の奔星のように飛び動きながら、同時にまた展開してゆき、果てしなく広がっていった。
+
「昨日……」
  
 私はかつて小舟に乗って山陰の道を通ったことがあったように思う。両岸の烏桕、新しい苗、野の花、鶏、犬、叢の木と枯木、茅屋、塔、伽藍、農夫と村の女たち、干されている衣、僧侶、蓑笠、空、雲、竹……すべてが澄み切った碧い小川に逆さに映り、一櫂ごとに、各々がきらめく日の光を帯び、水中の浮草や藻や魚とともに揺れ動いた。すべての影、すべてのものが、溶け散り、揺れ動き、広がり、互いに融け合った。融け合ったかと思うと、また退き縮み、もとの形に近づいた。縁はどれも夏雲の峰のように入り組んで、日の光を縁取り、水銀色の炎を放っていた。私が通った川はすべてそうであった。
+
=== 第47節 ===
  
 今、私の見ている話もそうであった。水の中の青空を底に、一切の事物がその上で交錯し、一篇に織り成され、永遠に生き生きとし、永遠に展開してゆく。私にはこの一篇の終わりが見えなかった。
+
6.『叛乱』、P・フールマノフ作、成文英訳。
  
 川辺の枯柳の下の数株の痩せた立葵は、きっと村の娘が植えたのであろう。大きな赤い花とまだらの赤い花が、水の中に浮かんで動き、ふと砕け散り、長く引き伸ばされ、縷々たる臙脂の水となったが、しかし滲みはしなかった。茅屋、犬、塔、村の娘、雲……もみな浮かんで動いていた。大きな赤い花が一つ一つ引き伸ばされ、この時は飛沫を散らして迸る赤い錦の帯であった。帯が犬の中に織り込まれ、犬が白雲の中に織り込まれ、白雲が村の娘の中に織り込まれた。……一瞬のうちに、それらはまた退き縮もうとした。しかしまだらの赤い花の影もすでに砕け散り、伸び広がって、塔、村の娘、犬、茅屋、雲の中に織り込まれようとしていた。
+
7.『火の馬』、F・グラトコフ作、侍桁訳。
  
 今、私の見ている話は明瞭になってきた。美しく、優雅で、面白く、しかも光に満ちていた。青空の上に、無数の美しい人と美しい出来事があり、私は一つ一つ見、一つ一つ知った。
+
8.『鉄の流れ』、A・セラフィモーヴィチ作、曹靖華訳。
  
 私はまさに彼らを凝視しようとしていた……。
+
9.『壊滅』、A・ファジェーエフ作、魯迅訳。
  
 私がまさに彼らを凝視しようとした時、突然驚いて目を開けると、雲錦はすでに皺くちゃに乱れ、誰かが大きな石を川に投げ込んだかのように、水波が突然立ち上がり、一篇の影をずたずたに引き裂いてしまった。私は無意識に、落ちかけた『初学記』を慌てて握りしめた。目の前にはまだ虹色の砕けた影がいくつか残っていた。
+
10.『静かなるドン』、M・ショーロホフ作、侯朴訳。
  
 私はこの一篇の好い話を本当に愛している。砕けた影がまだあるうちに、追い求め、完成させ、留めておきたい。本を投げ出し、身を乗り出して筆を取ろうとした——砕けた影など一片もなく、ただ薄暗い灯の光があるだけだった。私はもう小舟の中にはいなかった。
+
リベジンスキーの『一週間』とグラトコフの『セメント』もまた記念碑的な作品であるが、すでに先行の訳本が出版されているため、ここには編入しなかった。
  
 しかし私は確かにこの一篇の好い話を見たことを覚えている。昏沈たる夜の中で……。
+
=== 第48節 ===
  
 +
他国の訳本で校者の目に触れた範囲では、独訳と日訳の二種がある。独訳本はネヴェーロフの『パンの豊かな都市』『タシュケント』(A. Neverow: Taschkent, die brotreiche Stadt)の後に附され、一九二九年ベルリンのノイエ・ドイッチャー出版社(Neuer Deutscher Verlag)から出版されたもので、訳者名は記されず、削除箇所がしばしば見受けられ、良書とは言い難い。日訳本は完全なもので、『鉄の流れ』と題し、一九三〇年東京の叢文閣より出版され、『ソヴィエト作家叢書』の……
  
 (一九二五年二月二十四日。)
+
=== 第49節 ===
  
【死火】
+
だが我々は問うてみよう。十六、十七世紀のスペイン社会に不公正は存在しなかったか。思うに、恐らく「ある」と答えざるを得まい。ならば、ドン・キホーテが不公正を打ちに行こうと志を立てたことは、誤りとは言えぬ。自らの力を量らぬことも、必ずしも誤りではない。誤りはその打ち方にある。混濁した思想が誤った打ち方を導き出したのである。侠客が自分の「功績」のために不公正を打ち尽くせぬのは、慈善家が自分の陰徳のために社会の困苦を救い尽くせぬのと同じである。しかも「益なきのみならず、また之を害す」なのだ。彼は徒弟を痛打する師匠を懲らしめ、「功績」を立てたと自負して悠然と去ったが、彼が去るや否や、徒弟はさらに激しく……
  
 +
=== 第50節 ===
  
 +
この三年間に、これほど多くのソ連の芸術家の木版画を次々と入手できたことは、自分でも予想していなかったことである。一九三一年頃、『鉄の流れ』の校印を考えていた折、偶然『版画』(Graphika)という雑誌にピスカリョフがこの書中の物語を彫った図画が載っているのを見つけ、手紙を書いて靖華兄に捜索を託した。幾多の曲折を経てピスカリョフに会い、ついに木版画を送ってもらった。途中で紛失することを恐れ、同じものを二部に分けて送ってくれた。靖華兄の手紙によれば、この木版画の定価はかなりの額だが支払いは不要だという。ソ連の木版画家の多くは、版画の刷りには中国の紙が最良だと言っており、ただ送ってくれればよいのだと……
  
 私は夢の中で氷山の間を駆けていた。
+
=== 第51節 ===
  
 これは高大な氷山で、上は氷の天に接し、天上には凍雲が一面に広がり、片々として魚の鱗のようであった。山麓には氷の樹林があり、枝葉はすべて松や杉のようであった。すべてが冷たく、すべてが青白かった。
+
革命家は弾圧を受けるがゆえに地下に潜るが、今や弾圧する側とその手先もまた暗い場所に身を隠すようになった。これは軍刀に護られながら出鱈目を言いつつ、実は毫も自信がないためであり、しかも軍刀の力に対してすら疑いを抱いているからだ。一方で出鱈目を言いつつ、一方で将来の変化を考え、ますます暗い場所へと潜り込み、情勢が一変すればまた別の顔に替え、別の旗を掲げて、改めてもう一度やろうと準備している。そして軍刀を握る偉人が外国の銀行に預けている金が、彼らの自信をさらに動揺させるのである。これは遠からぬ将来のためだ。遥かなる将来のためには、歴史に名を留めたいと願いつつ……
  
 しかし私は忽然、氷の谷に墜ちた。
+
=== 第52節 ===
  
 上下四方、冷たくないものはなく、青白くないものはなかった。しかしすべての青白い氷の上に、赤い影が無数にあり、珊瑚の網のように絡まり合っていた。足元を見下ろすと、火焔があった。
+
アンリ・バルビュス(Henri Barbusse)は一九二一年に出した小冊子の中に、「白刃に噛みつきながら」と題し、傍注に「知識階級に寄す」と記した一篇がある。その中で「知識階級」という語を用いる際、彼はわざわざ序文のように声明している——
  
 これが死火であった。燃え盛る形をしているが、微動だにせず、全体が凍り固まって、珊瑚の枝のようであり、先端にはまだ凝固した黒煙があった。おそらく火宅から出たばかりで、それゆえに焦げ枯れているのであろう。このようにして氷の四壁に映り、互いに反映し合い、無量の影と化して、この氷谷を紅珊瑚の色にしていた。
+
「知識階級——私がこの語で指すのは、思索する人々のことであり、抜け目のない者、法螺吹き、阿諛追従の徒、精神の利用者のことではない。」
  
 ははは!
+
この数句は確かに激越であるが、バルビュスが知識階級に語りかけようとした時に、この数句の声明をせざるを得なかった心情は、私には十分に理解できると思う。
  
 私が幼い頃、もともと快速艦が立てる波の花や、大炉が噴き出す烈火を見るのが好きだった。見るだけでなく、はっきり見たいと思った。残念なことに、それらは絶えず変幻し、永久に定まった形がなかった。いくら凝視しても、決まった痕跡を留めなかった。
+
彼は……
  
 死んだ火焔よ、今やっとお前を手に入れた!
+
=== 第53節 ===
  
 私は死火を拾い上げ、よく見ようとした時、あの冷気がすでに私の指を灼いた。しかし私は耐え忍び、衣のポケットに押し込んだ。氷谷の四面は、たちまちすべて青白くなった。私は氷谷を出る方法を思案しながら歩いた。
+
作家としてのトルストイの際立った特質について述べるならば、おおよそ五つの特徴がある。これらの特徴は、私の考えでは、文豪トルストイにおいて最も顕著かつ確実なものであり、我々が最も尊敬するところであり、トルストイを我々の文学の殿堂の最高の位置に据えるものである。
  
 私の体から一筋の黒煙が噴き出し、鉄線蛇のように上昇した。氷谷の四面には、たちまち赤い炎が満ちて流れ、大火聚のように私を包囲した。見下ろすと、死火はすでに燃え始め、衣を焼き破って、氷の地面に流れ落ちていた。
+
彼の特徴の第一は、その筆が極めて力強く、かつ広範であることだ。通常の作家は、たとえ多少の才能があっても、一人の主人公、あるいは一つの家族を選んで小説に据え、その主人公の喜び、悲しみ、あるいは動作や行為などを描写し、また周囲の社会をも描くが、その中に描かれた社会は人物の背景に過ぎず、その背景の上で主人公の個人的存在がより鮮明に見えるようにするだけである。小さな水彩画ではなく、大きな絵を描こうとする作家は、めったに出会えない。すなわち、その活動のままの状態にある国民を、あるいは極めて多面的で複雑な、ある時代の社会状態の全体を、歴史的に描写しようと試みる作家は、極めて稀にしか、あるいはほとんど出会えないのである。この点において、トルストイは全世界の文学の面で、あの巨人たちの中の最も偉大な芸術家なのだ。彼の『戦争と平和』を見よ、これはナポレオンの時代を描いた最大の作品であり、この小説に表現されているものは、その時代のロシアの状態のみならず、外国の状態をも描いている。しかもこの比類なき小説を一読すれば、我々はまるで自分自身がその中の人物であるかのように感じるのだ。これは単なる書物や小説ではなく、その時代のあらゆる特色ある生活そのものの表現である。『戦争と平和』の重要な主人公が誰かと言えば、もちろんピエール・ベズーホフでもなく、アンドレイ公爵でもなく、ナターシャ・ロストワでもなく、ナポレオンでもなく、またクトゥーゾフでもない。なぜなら物語の範囲が広大であるがゆえに、彼らはいつの間にか影のように次第に薄れ、ついには消え去ってしまうからだ。
  
 「ああ、友よ! あなたの温もりが、私を目覚めさせた。」と彼は言った。
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いわゆる『戦争と平和』の主人公とは、「あの時代そのもの」の表現であり、ただこの一点のみが、世界の文学的創作の中で、いかなるところにも見出し得ない特質なのである。
  
 私は急いで挨拶し、名を尋ねた。
+
トルストイの第二の特徴として我々が非常に尊敬するところは、生活と個性に対する甚だ深い理解を持ち、心理描写において驚くべき精密さと深みがあることである。この点において、彼はドストエフスキーに匹敵する。ドストエフスキーは十九世紀で最も偉大な心理学的小説家と推されるが、この二人の作家の違いは、ドストエフスキーが病的な心理を描く最も傑出した作家であるのに対し、トルストイは健全な心理の描写において卓絶しているということだ。
  
 「私はもとは氷谷の中に捨てられていた」と彼は問いとは関係なく言った。「私を捨てた者はとうに滅び、消え尽きた。私も凍り凍えて死にかけていた。もしあなたが温もりをくれなければ、私をまた燃え上がらせてくれなければ、間もなく私は滅びるところだった。」
+
第三の注目すべき特徴は、形象の創造である。彼が描写する人物は常に生きており、この点において誰もトルストイに比肩し得ない。彼の創作には、空想的な、模倣的な、そうした死んだ形象はない。彼のすべての主人公は本当に生きていて、自分の言葉を話し、自分の衣を纏っている。さほど重要でない人物を描く場合でも同様である。外国人の心理を描写するのは誰もが極めて困難だと考えるが、しかしトルストイが外国人を描く際にも、やはり彼らは本当に呼吸し、泣き、笑い、真実の生活を表現しているのだ。もしトルストイがその主人公に特別な同情を持つ時――たとえばナターシャ・ロストワやアンナ・カレーニナを描く時、彼はその天才の彩筆を揮い、最も感覚の鈍い読者でさえ心酔するほどの美しさと、優れた完全な形象を彫り出す才能を持っていた。
  
 「あなたの目覚めは、私を喜ばせる。私はちょうど氷谷を出る方法を考えていた。あなたを連れて行きたい。永遠に凍らせず、永遠に燃やし続けよう。」
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彼の第四の特徴は、実に比類なき典型的な文章の簡潔さであり、しかも簡単な言葉のみで最も力強い表現をなすことである。トルストイは意図的に平易な文章を書いた。なぜなら、彼は貴族のために書いたのではなく、一般民衆のために書いたからである。
  
 「ああ! それでは、私は燃え尽きてしまう!」
+
最後の特徴は、現在のソヴィエト・ロシアにおいて殊に理解され、尊重されるところであり、それはあらゆる圧迫、偽善、搾取等に対する彼のあの深い反抗の精神である。しかしながら、ロシア貴族の急進的分子を代表した文豪トルストイは、精神的根拠を、何百万もの虐げられていた当時のロシアの農民大衆の中に見出し、新たな道を発見したのであった。このために、トルストイの抗議はまったく無力なものとなった。なぜなら当時の農民は、政治的にはもちろん、社会的にもまったく無力だったからである。
  
 「あなたが燃え尽きるのは惜しい。それでは、ここに残しておこう。」
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私は堅く信じる、文豪トルストイは全世界の文学者の中で最も偉大な人物であり、彼はモンブランの霊峰のごとく、全世界の文学者の上に聳え立っていると。この巨人トルストイに対して、全ソヴィエト・ロシアは心から愛し、敬っている。私はまた疑いなく信じる、全文化世界もまた、愛し敬っていることを。
  
 「ああ! それでは、私は凍え消えてしまう!」
+
(『日露芸術』第二十二輯より訳す)
  
 「それでは、どうすればよいのか。」
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(一九二八年十二月三十日『奔流』第一巻第七期所載。)
  
 「しかしあなた自身は、どうするのだ。」と彼は逆に問うた。
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【一九二八年世界文芸界概観 日本 千葉亀雄】
  
 「言ったではないか——私はこの氷谷を出たいのだ……。」
+
【一 南欧・フランス】
  
 「それなら私は燃え尽きた方がましだ!」
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一九二七年度のノーベル賞は、イタリアの女流作家デレッダ(Grazia Deledda)夫人に与えられた。彼女の作品『エジプトへの逃避記』が受賞の中心となったようである。彼女は一八七五年にサルデーニャのヌオロに生まれ、処女作『サルデーニャ人の血』を発表したのは弱冠十五歳の時で、ローマのある日刊紙に送ったところ掲載された。学歴は小学校修了程度で、二十四歳の時に退職した陸軍省の官吏と結婚し、現在はローマに住んでいる。彼女は何か書かないと焦燥に駆られるのである。毎日昼食後、少し午睡してから、規則正しく組織的に必ず四頁を書き、一箇月に百二十頁、十九歳から二十七歳までの九年間に短篇小説三巻、長篇小説七巻を書いた。現在までに三十部に達している。彼女はしばしばロマンス色のないフランスのジョルジュ・サンド(George Sand)と称され、あるいはロシア作家に似ていると評される。ミラノの婦人雑誌『婦人公論』が特別号を出してデレッダの栄光を祝い、その他にも様々な祝賀があった。
  
 彼は忽然跳び上がり、赤い彗星のように、私もろとも氷谷の外に飛び出した。大きな石車が突然駆けてきて、私はついに車輪の下に轢き殺された。しかし私はまだ、その車が氷谷の中に墜ちるのを見届けることができた。
+
ダヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)の『睫毛のない友と他の人生研究』が出版された。これは四年前に刊行された『鉄鎚の火花』の続編であるが、やはりこの一冊は、ロマンティックで、憂鬱で感傷的な著者を示している。内容はプラド大学時代の著者のある友人の伝記的叙述で、全書は数部に分かれ、戦争物語の中で、あるいは飛行船や発動機の音楽を讃え、あるいはピアニストのバッハの演奏を叙し、そして突然、愛の奇跡に救われた著者の愛人との対話を繰り出す。ある批評家は、要するにこれは人間的側面、すなわち彼我に苦しむダヌンツィオの一面を趣深く示したものだと評した。この詩人の崇拝者フォルセッラは、目下彼の作品目録を編纂中で、既に二巻が出版されている。彼の作品に関するあらゆる文献を蒐集しており、「稀覯のダヌンツィオ文献」との称がある。
  
 「ははは! お前たちはもう二度と死火には出逢えないぞ!」と私は得意げに笑って言った。まるでそうなることを望んでいたかのように。
+
未来派の主将マリネッティ(Marinetti)がスペインを旅行した。各地で歓迎を受けたが、目的はマドリードの会議に出席することであった。バルセロナ市を皮切りに、未来派の絵画展と評論で非常に賑わった。
  
 +
ピランデッロ(Luigi Pirandello)の新作悲劇"La Nova Colonia"がローマで上演されたが、すでに失敗作との定評がある。初日に早くも観客の怒号と野次の中に葬られた。原因は作者のつまらない皮肉にある。また一説には、十五人の男が一人の女性に操られるような役柄が、国民の男尊女卑主義から見て理解しがたいからだとも言う。しかし弁護する者もあり、おそらく雨の中であまりに長く待たされた、切符を買った退屈な人々の無価値な報復に過ぎないだろうとのことだ。
  
 (一九二五年四月二十三日。)
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イタリアのある批評家によれば、同国の文壇は目下、極端な理知主義や唯美主義に辟易しているという。なぜなら作品に何ら情緒も趣味も道徳もその他の興味もなく、読者は倦怠の極みに達しているからだ。その解放の一方として、光明的な、ユーモラスな作品があれば、理由もなく歓迎される。カンパニーレとランツァがこの傾向の優秀な代表者で、昨年来発表された前者の『もし月が私に幸福をくれたなら』と後者の『シチリア人の真似』が、一年中で際立ったベストセラーとなっている。
  
【犬の反駁】
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ローマ国立歌劇場の開場式は、イタリアの音楽史上に一大記録を開いた。イタリアの芸術の中心が今やミラノからローマに移りつつあるとも言われる。かくも壮大な建築であるから、総支配人にはフェニーチェ劇場のコロン歌劇場のオリヴィア・スコットを招き、歌手や舞踊家も世界的に著名な人々を集めた。古代ローマの古典的精神の完全な復活を志し、ピランデッロの作品をはじめ様々なものが演目に網羅されている。舞台上には大きな楯があり、金文字でムッソリーニ、皇帝、ローマ知事ポテンツァーニの名が刻まれている。むろん、これはムッソリーニらの熱心な後援によって成就したことを示すものである。
  
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フランス学士院賞――例によって五十歳以下の新進作家に与えられる賞金は、『北緯六十度のカロン』の著者ペテルに与えられた。同時にルノード賞とフェミナ賞の授与者も決定した。ペテルは元来ルノード賞の候補にも入っていたが、すでに対象外とされ、ゴンクールのみが与えられた。ペテルは本年四十四歳で、『文明』の著者デュアメルとともに医学を学んだ医師である。ゴンクール賞を受けた作品は、平均して五万部から十万部は売れるという。
  
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=== 第54節 ===
  
 私は夢の中で狭い路地を歩いていた。衣も靴もぼろぼろで、乞食のようであった。
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ウーファ映画会社とイギリスのゴーモン映画会社が取引契約を結び始め、さらに俳優の交換にも同意した。ウーファは従来オランダ、ベルギー、フランス、オーストリア、ユーゴスラヴィア、ロシアなどで販路を拡大し、英米ではアメリカとのみ取引していた。今回の取引は、近頃各国で一つの問題として取り上げられている。アメリカ映画の極端な過剰輸入に対する攻守同盟の一面と見る者もある。
  
 一匹の犬が背後で吠え始めた。
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オーストリアの作家モルナール(Frank Molnar)がアメリカを漫遊し、講演や新聞への寄稿を行った。友人の結婚などに関する軽妙な風刺がアメリカ人に大変好まれた。
  
 私は傲然と振り返り、叱りつけた。
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世界大戦以前、すでに全欧を征服していたジプシー(Gipsy)音楽は、近頃アメリカの「ジャズ」に押され、その本拠たるハンガリーの都市でさえ、喫茶店や繁華な場所から追い出された。四千人のジプシー楽士のうち、国内で仕事を得られる者は十分の一にも満たず、他の者は仕方なくアメリカの「ジャズ」を演奏している。このような状況は、ハンガリーの伝統的俗謡たるジプシー音楽の危機であるため、新聞は抗議し、ブダペストの国立音楽院に訴え出て、何らかの保護策を講ずべきだと主張した。
  
 「こら! 黙れ! この勢利な犬め!」
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ブダペストの最高裁判所は、ルイ・ハトヴァーニ男爵に対し、禁固十箇月、罰金五万四千元、政治活動禁止五年の判決を下した。ハトヴァーニ男爵は著名な政治家であり、著作家としてはなおさら有名であるが、今回は論文でハンガリーの国政を誹謗し、また論文やその他の手段で外国に宣伝したことによる刑罰だという。
  
 「ひひ!」と犬は笑い、さらに続けた。「失礼ですが、人様にはかないませんな。」
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【三 北欧諸国】
  
 「なんだと!」と私は怒り、これ以上ない侮辱だと感じた。
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長くイタリアのソレントで療養していたゴーリキー(Maxim Gorky)は、誕生六十年ならびに文壇生活三十五年の記念祝賀会に自ら出席するため、五月二十八日、六年ぶりにモスクワへ帰国した。彼はここで盛大な歓迎を受け、南ロシア各地を視察し、八月上旬にカフカスに到着した。秋まではロシアに滞在し、十月にはまたソレントに戻り、依然として三部作『四十年』を書き続けている。新ロシア印象記を数篇発表もしたが、最近の電報は、盲腸炎で臥病し病勢が悪化して危篤に陥ったと伝えた。しかしその後詳報はない。おそらくさほど大事には至らなかったのだろう。
  
 「恥じ入ります。私はついに銅と銀の区別も知らず、布と絹の区別も知らず、官と民の区別も知らず、主と奴の区別も知らず、まだ……。」
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ドストエフスキーの書簡が一通発見された。アレクシェーエフというペテルブルクのヴァイオリニストに宛てたものである。これは彼の現代社会主義観と見なすことができるので興味深い。サタンがキリストに向かって「世界の害悪はすべて生存闘争から生じる」と言った時、キリストは「人はパンのみにて生くるにあらず」と答えた。ドストエフスキーは言う、「自らの言葉のうちに最高の美の理想を抱くキリストは、この理想を人々の魂に注ぎ込むことが最も肝要であると信じていた。ただこのことを理解すれば、人々は同胞となり、互いに親しく労働することで豊かになれるであろう。もし反対に、ただパンを与えるのみであれば、退屈のあまり互いに敵視し合うようになる。ゆえに魂の光明を懐くことは、何ものにも勝る」と。これは一八七八年の日付である。
  
 私は逃げ出した。
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『小悪魔』という傑作で象徴派の代表者となったソログーブ(Fiodor Sologub)が、レニングラードで淋しく七十五年の生涯を終えた。革命後のロシアでも十年を生き永らえたが、社会の進行とともに歩むことは遂になく、この間何の著作も書かなかった。
  
 「まあお待ちなさい! もう少し話しましょう……。」と犬は背後で大声で引き留めた。
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レニングラードに新文化宮殿が建設されている。建設費は計六十万ルーブルを要し、完成の暁には数万人を収容でき、種々の新文化の道場とするという。
  
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九月十日にトルストイ伯爵生誕百年祭が挙行された。その日、モスクワ、レニングラード、ヤースナヤ・ポリャーナの各都市を始め、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツの各都市でもこの記念が行われたが、現在の労農政府もトルストイの百年を祝っていることが殊に人々の注目を集めた。十日後、人民教育委員長ルナチャルスキーを議長とし、参会者数千人、ルナチャルスキーがまず「トルストイ伯と革命」を講じ、次にピリニャーク(Boris Pilniak)、カーメネフ夫人(Olga Kameneva)の講演のほか、オーストリアの作家ツヴァイク(Stefan Zweig)が「外国におけるトルストイの感化」を講じた。トルストイ博物館では、彼に関する記念出版物の展覧会が催され、陳列品は二千点、二十五箇国語で書かれたものであった。
  
=== 第2節 ===
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ロシアの歌劇俳優シャリアピン(Fiodor Shariapin)は、ロシア政府から故国の別荘に住むことを禁じられた。理由は、彼が資本主義国のアメリカから多額の報酬を得て出演しながら、ロシアでは報酬が少ないからと一度も出演しないため、もはや人民芸術家とは認められないというのである。シャリアピンの『わが生涯の数頁』はすでにロシア語から英語に翻訳されアメリカで出版されており、ポール・モランも優れた記録として賞賛している。
  
私はひたすら逃げた。力の限り歩き、ついに夢境から逃げ出して、自分の寝床に横たわっていた。
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モスクワ中央労働局教化事業課の報告によれば、労働者は六十パーセントがロシア作家の作品を読み、三十五パーセントが外国作家のものを読む。店員階級はそれとは逆で、五十六パーセントが外国作品を、四十四パーセントがロシア作品を読む。労働階級が読むもののうち、古典的作品が二十一パーセント、革命前の非古典的作品が十二パーセント、新文学が六十六パーセントである。新作家のものでは、グラドコフの『セメント』、レオーノフの『穴熊』、ネヴェーロフの『パンの都』、セラフィモーヴィチの『鉄の流れ』などが第一位を占める。古典的作品では、ゴーリキーの『母』及び『アルタモーノフ家の事業』が群を抜き、次いでツルゲーネフの『処女地』、『父と子』、『貴族の巣』、『猟人日記』、トルストイの『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、ドストエフスキーの『罪と罰』、チェーホフ及びゴンチャロフの作品、ゴーゴリの"Taras Bulba"。外国のものでは、ロンドン、シンクレア、ケラーマン、ユーゴー、ファレル、オー・ヘンリー、フランスなど。
  
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ヘンリック・イプセンの生誕百年は、ノルウェー本国をはじめ各地で記念された。しかしそれに続いて起こったのは「今日のイプセン」はどうかという問いであった。時代の先駆者イプセンが、はたして永く将来の導師たりうるかという問題に対して、たとえば「五十歳の作家の、一時世界的名声を馳せた『人形の家』も、結局のところ一八七九年の日付を確然と付すべきものである」(あるフランスの批評家の言)という言葉が、おおよその回答であった。
  
 (一九二五年四月二十三日。)
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イプセン以後の戯曲家として、クレーグが近時ノルウェー文壇で名声を得ている。彼の処女作『前進する船』は、一九二七年の年末に出版されたばかりで、すでに九箇国語に翻訳された。秋には詩一巻、戯曲二篇を発表した。戯曲の一つは国民劇場に寄贈し、もう一篇はベルゲンの国民劇場に寄贈した。前者は『バラバ』、後者は『青春の恋』である。『バラバ』には副題があり、「二千年前のパレスチナと今日の支那と明日のインドの戯曲」と題し、八場を連ねた長い場面で、描かれているのはキリスト教的人生観と世俗的見解との闘争である。上演の結果は極めて好く、作者の将来が大いに注目されている。
  
【失われた良い地獄】
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ベルギーのメーテルリンク(Maurice Maeterlinck)は、さらに生物の生命から進んで四次元の世界に瞑想を凝らした。その結果、近時発表した一冊は『時空の生活』である。「メーテルリンクは数学者ではない。詩人であり、夢想家であり、強烈な神秘的傾向を帯びた思想家である。ゆえにヘルムホルツ(Helmholtz)やアインシュタイン(Einstein)の学説と比較するのは無理である。しかし、イギリスのヒントン(Hinton)やロシアのウスペンスキー(Uspensky)を基礎として、あたかもジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)の小説のような題材を、メーテルリンク式に構成したところに、非常な空想味と魅惑的な創造性に富んでいる」と評された。
  
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=== 第55節 ===
  
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スピノザについて言えば、汎神論(Pan-Theismus)と呼ばれる哲学(「神」とは自然であるという説。あらゆる万物はすべて神であるという主張で、以前のキリスト教正統派的信仰すなわち一神論の発展であり、同時にその反対でもある)を提唱した哲学者である。そのような人が、どうして現代の無産階級と関係があるのだろうか。せいぜい神学上の革命的理論の哲学に過ぎず、観念の平静を企図した理論学に過ぎない、そのようなものを作り出したスピノザ氏が、いったいいかなる理由で、現今の政治的・経済的関心を原動力として闘争している国際的・革命的無産者の中枢たるモスクワで、記念講演会などを開いたのであろうか。現在、日本のプロレタリア理論家や芸術家の一部の中で、このような驚きを抱く者は、とりわけ少なくないようである。なぜなら彼らにとって「哲学」なるものは、極めて非プロレタリア的な空言だからである。言うまでもなく、それは非プロレタリア的であるがゆえではなく、彼ら自身が哲学の教養を持たず、あるいは興味を持たないことに由来する。一言で言えば、彼らの無哲学に由来するのである。
  
 私は夢の中で寝床に横たわっていた。荒涼たる野外、地獄のそばであった。鬼魂たちの叫び声はことごとく低く微かであったが、秩序があり、炎の怒号、油の沸騰、鋼の叉の震えと共鳴して、心酔させる大いなる楽を成し、三界に布告していた——地下太平なりと。
+
しかし、もし少しでも深く考える人であれば、あの労働者と農民のロシアが、事務多端でありながら、スピノザの記念講演会を挙行したことに対して、おそらく誰しも大いに感嘆し崇敬せずにはいられないであろう。私にとっては、ただソヴィエト政府がこのような記念会を開き、古典の中からプロレタリアが継承しうるものを呼び起こし、新たな照明で古い智慧を照らし出した――この一事だけで、すでに言い尽くし難い深い愛慕と信頼を禁じ得ないのである。――あの神学的色彩のスピノザの中に、我々が記念するものは何であろうか。デボーリンも嘗て言った。「我々はスピノザの中に、弁証法的唯物論の先駆者を見る。そしてスピノザの真の後継者は、ただ現代のプロレタリアートのみである。」
  
 偉大なる男が私の前に立っていた。美しく、慈悲深く、全身に大いなる光輝を放っていたが、しかし私は彼が魔王であることを知っていた。
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考えてみれば、「プロレタリア文化」なるものは、有産階級の文化に続いて歴史的地位を占めるべき、より高度の文化であるはずだ。より高遠な発展でもある。いかなるものも余すところなく掬い取り、これを旺盛な階級意欲の溶鉱炉の中に溶かし込み、新たに鋳造すること、これこそがプロレタリアートの文化上の任務である。このために、一見プロレタリアとは縁遠く見える哲学や東洋学をも決して捨てず、その中から真にプロレタリアの成長を滋養しうるものを取り出し、その精神的解放に有用なものを提示して、新たに、正当に、人類の宝庫を充実させるべきなのだ。これこそが、プロレタリアが多忙な階級闘争の中で、当面の任務(政治的・経済的闘争)と同時に果たさねばならない側面の課題であるはずだ。
  
 「一切は終わった、一切は終わった! 哀れな鬼魂たちは、あの良い地獄を失ってしまった!」と彼は悲憤して言い、そこで座って、彼の知っている物語を私に語った。
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もちろん、文化事業に従事しているという好都合な口実の下に、当面の実践的闘争を回避し、書斎に遊離して、あの小ブルジョア的な「専門家」的態度に逃げ込む者がいるならば、その口実が何であれ、たとえその仕事がプロレタリアのためと装っていようとも、我々はこれを徹底的に糾弾しなければならない。エンゲルスもかつて痛罵した、あの「大学の講壇で哲学を売る俗商ども」の厚顔無恥な衒学的口吻、もったいぶった引用、高雅ぶった態度――これらすべて、たとえ彼がいかにマルクスの名を引き、いかにプロレタリアの理論を論じようとも、我々労働者・農民は、その小ブルジョア的な、支配階級との巧妙な妥協によって飯を食う彼の「飯の種」と生活嗜好の本性を、徹底的に暴露すべきなのだ。しかもその害悪はプロレタリアにも及び、ただ抽象的に「思索」するだけの労働者を生み出す危険を孕んでいるのだから、このような嗜好に対しては、我々はなおさら攻撃しなければならないのである。
  
 「天地が蜂蜜色になった時、すなわち魔王が天神に勝ち、一切を主宰する大いなる威権を掌握した時であった。天国を収め、人間を収め、地獄をも収めた。そこで魔王は親しく地獄に臨み、中央に座し、全身から大いなる光輝を発して、一切の鬼衆を照らした。
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実際、哲学というものが、日本において今日のようにプロレタリアに理解されず、手を携えることがないのは、その罪のすべてが哲学を商売にする教師たちにある。哲学を趣味とし、超然として隠遁する哲学青年たちにある。ただただ概念の論理的修整に没頭し、現実との関連を離れた彼らの空疎と無力にあるのだ。
  
 「地獄はもとよりはるか以前から荒廃していた。剣樹は光芒を失い、沸騰する油の辺りはとうに噴き上がらず、大火聚も時折わずかな青煙を上げるのみで、遠くには曼陀羅華が芽生えていたが、花はごく小さく、惨めに白く哀れであった。それは不思議なことではない。地上がかつて大いに焼かれたため、自ずとその肥沃さを失っていたからである。
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であるならば、プロレタリアートは、もはやあの哲学商人たちに頼ることをやめ、自らの手で新たに「哲学」を掴み取らねばならない。プロレタリアは、哲学商人たちの伝統的な教養や、哲学史の平凡な理解から離れ、自らの方法で新たに哲学を消化し始めねばならないのだ。
  
 「鬼魂たちは冷めた油とぬるい火の中で目覚め、魔王の光輝の中に地獄の小さな花を見た。惨めに白く哀れなその花に、大いに惑わされ、たちまち人の世を思い出し、幾年とも知れず黙考した末、同時に人間界に向かって、獄に抗する最後の絶叫を発した。
+
モスクワで挙行されたスピノザ記念会は、国際的プロレタリアートにとって、実に大いに意義あるものであった。
  
 「人類はこれに応じて立ち上がり、正義を唱えて魔王と戦った。戦いの声は三界に満ち、雷鳴をもはるかに超えた。ついに大いなる謀略を運らし、大いなる網を布いて、魔王をして地獄からも立ち去らざるを得なくした。最後の勝利は、地獄の門の上にも人類の旗幟が立てられたことであった!
+
言うまでもなく、哲学の講義のようなものは、まだパルティシューレ(党学校)の課程には登載できず、パルティアカデミー(党研究所)の仕事に属すべきであろう。しかしだからといって哲学的反省を否定するものでは決してない。なぜならパルティシューレの課程にも唯物史観や唯物弁証法の類が載せられており、したがってなお大体の(たとえ必要最小限であれ)心得が必要だからである。より広範なブルジョアジーとの闘争において、その全面的な計画の上で、意識過程の仕事は決して軽視できることではない。さらにまた、同志の中に意識上なおプチ・ブルジョア的思考から脱しきれない者に対して、根底的な批判を加え、確固たるマルクス主義的意識へ呼び戻すためには、プロレタリア的「観念整理の仕事」(すなわち哲学)もまた、常に必要なのである。
  
 「鬼魂たちが一斉に歓呼した時、人類の地獄整頓使者はすでに地獄に臨み、中央に座し、人類の威厳をもって、一切の鬼衆を叱咤していた。
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=== 第56節 ===
  
 「鬼魂たちがふたたび獄に抗する絶叫を発した時、彼らはすでに人類の叛逆者となり、永劫沈淪の罰を受けて、剣樹林の中央に遷された。
+
――有産者文化の頽廃
  
 「人類はここに地獄を主宰する大いなる威権を完全に掌握した。その威稜は魔王をも凌いだ。人類はそこで荒廃を整頓し、まず牛頭阿傍に最高の俸草を与え、さらに薪を添え火を加え、刀山を磨ぎ、地獄全体の面目を一新して、以前の頹廃の気象を一洗した。
+
一 思惟はしばしば堕落する。これは思惟という作用が、人間生活全体との関係を離れ、ただ独り独立し、思惟の運動がただその自身の価値のみに従う時のことである。ただ思惟自身の価値と必然のみに従って築き上げられた塔、それがドイツ観念論である。
  
 「曼陀羅華はたちまち焦げ枯れた。油は同様に沸き、刀は同様に鋭く、火は同様に熱く、鬼衆は同様に呻吟し、同様にのた打ち回り、失われた良い地獄のことを思い出す暇さえなくなった。
+
これは思惟の生活的意義や機能を考慮しなかったことから生じた誤謬であり、この種の誤謬は、思惟の発生的意義に遡り、その本来の姿を一考しさえすれば、正すことができるものである。観念論哲学は、思惟の発生的意義を考えたり、生活的機能を考えたりする方法を軽蔑してきた。思惟は思惟自身の規約によって考えるべきだと言う。「考えるためには、こう考えざるを得ない」(これを思惟必然と呼ぶ)という立場から構想しなければならないと言うのだ。そして「論理的に先行する」概念を求め、遂にはSollen(当為)という観念に突き当たった。Sollenとは「かくあるべし」という命令である。(これは論理的には先行するものであるから、現実的〔心理的・発生的〕には必ずしも先行するとは限らない。思惟〔倫理〕において後から到るものが、かえって先行するのである。)これを普遍妥当と称し、いつ、どこで、誰が考えても、「考えるためには」こう考えざるを得ないという性質を帯びた命令なのである。
  
 「これは人類の成功であり、鬼魂たちの不幸であった……。
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言うまでもなく、これは「生きるためには」こう考えざるを得ないという見地とは対立するものだ。まったく「考えるためには」こう考えざるを得ないという見地に立っている。まったく思惟自身の必然の上に立っているのだ。すなわち、思惟の価値として! 論理的価値を至上のものとし、純粋にそれを追い求めるのである。
  
 「友よ、あなたは私を疑っているな。そうだ、あなたは人間だ! 私はひとまず野獣と悪鬼を探しに行こう……。」
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二 このように思惟的価値のみを崇敬し、論理を至上とすることは、言うまでもなく、十八世紀の合理主義の精神の信仰から出たものだ。
  
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しかし至上の信頼を論理的一貫性に置き、その論理を運用する心理ひいては社会的根拠をも考慮しない、あの十八世紀的合理主義の誤謬。それのみならず、このような知識崇拝は、生活蔑視・現実軽視の精神から出たものであり、またそこへ回帰するものだ。しかもこれ(ただ「論理」的価値のみに従った結果)はまた主観論哲学(ドイツ観念論の認識論はこのようなものである)となった。主観論哲学は、実のところ個人主義的意識の考え方であり、社会的に事物を思索する考え方とは反対の側に立っている。
  
 (一九二五年六月十六日。)
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三 ただ思惟の価値と必然のみを追求していけば、演繹的な考え方を取らざるを得なくなる。
  
【立論】
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この考え方は、社会的には保守的勢力と結合する。歴史的に言えば、演繹法というこの考え方も、一時代の組織制度がすでに固定し、命令が中央から大衆に発せられる状況の、思惟における反映なのだ。およそ演繹とは、必ず一時代の経験が固定した後、ただ整理すればよい時代の考え方から出るものだ。このような時代は社会的に安定している。経験はただ量的に増加するのみで、新しい性質の経験はもはや発生しない。新しい性質の経験が一旦出現すれば、従来の観念体系の中ではこれを消化しきれなくなり、そこで思惟は再び経験の側へ立ち戻り、いわゆる帰納法というこの方法が勝利を占めるのだ。哲学者ロッツェは嘗て「帰納法であっても、演繹法を予想しなければ成立しない」と言ったが、このような考え方はすでに演繹的なのである。
  
 +
我々はこのような方法や態度に構うことなく、帰納的な「科学的」立場と方法に立ち返るべきだ。思惟崇拝の迷夢から醒め、経験尊重の態度に転じるべきなのだ。
  
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もし思惟崇拝の旧世紀的信条に従えば、「玄を談ずる」(Philosophieren)ことが最も超邁であると感じ、「名を辨ずる」(Logikeren)ことが最高の道であると考えるだろう。しかしこれは、思惟がすでに堕落し、思惟がただ思惟自身の価値のみを追い、遊離した、いわゆる知的頽廃に過ぎないのだ。
  
 私は夢の中で小学校の教室で作文の準備をしており、先生に立論の方法を教えてもらおうとしていた。
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四 最も肝要なのは、知識の本来の性質(知識は生活のために存在するという知識の生活性)を考えることだ。名を辨ずることは、経験整理(科学的立場)と生活の促進のためにあるのだ。そしてさらに進んで、知識の社会的・歴史的性質を理解し、常に観念体系を改廃することにある。
  
 「難しい!」と先生は眼鏡の縁の外から斜めに目を光らせて私を見ながら言った。「ひとつ話をしてやろう——
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かつて、この世において人生は不可解だとして自殺した青年がいた。彼はどこで誤ったのだろうか。彼は「考える」ことによって「生きる」ことの意義や価値を解釈しようとした。これはすでに根本的な誤りであった。なぜなら「考える」ことで運用されるものは、実は生そのものではなく、「考えられた生」に過ぎないからだ。しかも考えている者こそが、生きているのだ。生は思惟によって浮かび上がるのではない。むしろ生によってこそ、思惟が浮かび上がるのだ。――「生」というものを、具体的に現実的に運用し、その幸福や便利を考える時、我々は科学的・生活的な見方に立ち、正当に思惟を運転していると言えるだろう。思惟と生活の形態を、歴史的・社会的に観察し、その本相を見定め、常にその因数を分解し、常に新たに構成していく。これこそが正当な思惟の道なのである。
  
 「ある家に男の子が生まれ、一家中大喜びだった。満月の祝いの時、抱いて客に見せた——おそらく何か良い前兆が欲しかったのだろう。
+
【三 芸術と哲学の関係】
  
 「一人が言った。『この子は将来きっと金持ちになる。』彼はひとしきりの感謝を受けた。
+
芸術は哲学の指導の下に創造されるものではない。
  
 「もう一人が言った。『この子は将来きっとお役人になる。』彼はいくつかのお世辞を受け取った。
+
しかしながら、ちょうどあらゆる意識形態がそうであるように、もし芸術において何らかの観念の整理が要求される時には、問題は必然的に芸術に関する哲学的思索にまで遡らざるを得なくなる。たとえば日本の左翼の芸術理論に、素材本位の主張が生じた時、一部では芸術の本質は素材にではなく形式にあると唱えられた。こうなると、問題は単なる文芸批評の仕事の領域を突破してしまう。
  
 「さらにもう一人が言った。『この子は将来きっと死ぬ。』彼はみんなから寄ってたかって痛い目に遭わされた。
+
そこで芸術理論は、芸術というもの、内容と形式というものの観念の整理に、直ちに着手しなければならなくなった。現在においては、芸術上で要求される内容とその必然的な形態について見通し、つまり創作に対する補助的参考としての機能を果たすべきなのである。
  
 「死ぬのは必然であり、富貴を言うのは嘘である。しかし嘘をつく者は良い報いを受け、必然を言う者は打たれる。あなたは……。」
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(未完)
  
 「私は嘘もつきたくないし、打たれたくもありません。では先生、何と言えばよいのでしょう?」
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(一九三〇年四月十日『文芸講座』第一冊所載。)
  
 「それならこう言いなさい。『おやまあ! この子は! ご覧ください! なんと……あらまあ! ははは! ヘヘ! へ、へへへへ。』」
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【ソヴィエト連邦の文学理論及び文学批評の現状 日本 上田進】
  
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【一】
  
 (一九二五年七月八日。)
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昨年の秋、スターリンが『プロレタリア革命』誌の編集局に送った『ボリシェヴィズムの歴史の諸問題について』という書簡は、ソ連の意識形態戦線全体に異常な反響を引き起こした。
  
【かくのごとき戦士】
+
この書簡は、直接的にはボリシェヴィズムの歴史に対する反レーニン的態度を批判するものであった。しかし全体として見れば、さらに広大な意義を持っていた。すなわち、理論戦線全体の今後の発展にとって、これが一つの重要な指標となったのだ。
  
 +
大略を述べれば、スターリンはこの書簡の中で、ソ連において理論が社会主義建設の実践よりはるかに遅れていることを指摘し、直ちにこの遅れを克服すべきだと述べた。そしてそのためには、理論の党派性を確保し、あらゆる反マルクス=レーニン的理論及びこれらの理論に対する「腐敗した自由主義」的態度と断固として闘争し、理論をレーニン的段階にまで高めるべきだと説いた。
  
 +
文学及び文学理論の領域は観念形態戦線の一分野であり、言うまでもなく、このスターリンの指示を看過するはずがなかった。文学理論のレーニン的党派性の確保、及び文学理論のレーニン的段階のための闘争が、ソ連文学理論の中心課題となったのである。
  
 かくのごとき戦士がいなければならぬ!
+
=== 第57節 ===
  
 もはやアフリカの土人のように蒙昧でありながら光り輝くモーゼル銃を背負っているのではない。また中国の緑営兵のように疲弊しているのにボックス砲を佩びているのでもない。彼は牛皮と廃鉄の甲冑に頼ることなく、ただ己れのみを持ち、蛮人の用いる、手放しで投げる投槍を携えている。
+
ソ連作家統一協議会の機関紙『文学新聞』の一九三一年十一月七日号に掲載されたS・テナモフの論文「文芸科学のレーニン的段階のために」は、おそらく文学理論のレーニン的段階を明確に問題として提起した最初の論文であろう。
  
 彼は無物の陣に進み入る。出逢う者はことごとく彼に一様に頷く。彼はこの頷きこそが敵の武器であり、人を殺して血を見せぬ武器であることを知っている。多くの戦士がここで滅亡した。まさに砲弾のごとく、猛士をして力を用うる所なからしめるものである。
+
しかしこの論文は、問題に対する言及は極めて限定的であった。テナモフは、文学理論が社会主義建設の要求から著しく遅れているので、文学理論をレーニン的段階に高め、この遅れを挽回すべきだと述べた。そのために我々はレーニンの著作をより深く研究し、レーニンの理論を文学理論に適用すべきだが、我々はこれまで主力をトロツキー主義、ヴォロンスキー主義、ペレヴェルゼフ主義、「レフ」派、「文学戦線」派などとの論争にのみ注ぎ、レーニン研究には及ばなかった。しかし今やようやくこれらの論戦を終え、今後はレーニン的段階のための積極的な仕事をすべき時だと言うのである。
  
 それらの頭上にはさまざまな旗幟があり、さまざまな美名が縫い取られている——慈善家、学者、文士、長者、青年、雅人、君子……。頭の下にはさまざまな外套があり、さまざまな美しい模様が縫い取られている——学問、道徳、国粋、民意、論理、公義、東方文明……。
+
このような問題の立て方は、アヴェルバッハが言ったように、明らかに誤りであった。レーニン的段階のための闘争は、ヴォロンスキー主義やペレヴェルゼフ主義などとの論争の外にあるのではない。ソ連文学理論はこれらの論争を通じて、一歩一歩レーニン的段階へ向かう道を進んできたのであり、今後もまさにこれらの論争の中で、レーニン的党派性をいっそう確保し、しかもこれらの論争との有機的関連の下に、レーニンの理論をより豊かに文学理論に導入し、それによって文学理論のレーニン的段階への前進を成し遂げるべきなのだ。しかし、テナモフがここでレーニンの理論の研究の必要を力説したことは正しかった。
  
 しかし彼は投槍を挙げた。
+
この後、テナモフは十一月及び十二月に二回にわたり、共産主義学院の文学芸術言語研究所で、このスターリンの書簡についての報告を行った。第二回報告の題目は「スターリン同志の書簡と文学芸術戦線」であり、ここでテナモフはようやく先の誤りをおおむね清算した。この報告は反マルクス=レーニン的文学理論の批判、とりわけプレハーノフとフリーチェの批判に主力を注いだものであるが、この件については後述する。
  
 彼らはみな声を揃えて誓いを立てて言った。自分たちの心はみな胸の中央にあり、他の偏心の人類とは違うのだと。彼らはみな胸の前に護心鏡を置いて、心が胸の中央にあることを自らも深く信じている証拠とした。
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ソ連のプロレタリア文学運動の指導的団体であるラップ(ロシア・プロレタリア作家同盟)も、早速このスターリンの書簡を受け入れ、指示に従い、大胆に自らの組織的・創作的・理論的改造を開始した。昨年十二月に開かれたラップ第五回総会は、まさにその改造の問題を討議するために召集されたのである。
  
 しかし彼は投槍を挙げた。
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ラップの書記長にして指導的理論家であるアヴェルバッハが会場で行った報告は、スターリンの指示を最も忠実に受け入れ、しかも最も正確に文学の領域に適用したもので、大いに注目すべきものであった。
  
 彼は微笑み、わずかに体を傾けて一投した。見事に彼らの心窩を射抜いた。
+
アヴェルバッハはその報告の中で、文学理論の領域における基本的任務は、文学理論のレーニン的段階のための闘争の強化であると述べた。また、この観点から言えば、ヴォロンスキー主義、ペレヴェルゼフ主義、「文学戦線」派、とりわけ文学理論領域におけるトロツキー主義の粉砕、及びルナチャルスキーらの「腐敗した自由主義」との闘争が必要であり、さらにプレハーノフ、フリーチェの理論を新たなボリシェヴィキ的見地から改めて検討し、またラップ内部に残るプレハーノフ的及びデボーリン的謬見を自己批判すべきだと述べた。このアヴェルバッハの報告は、私が訳載して『プロレタリア文学』に掲載したので、参照されたい。
  
 一切は頽然として地に倒れた——しかしそこにあるのは一枚の外套のみで、中には何もなかった。無物たる物はすでに逃げ去り、勝利を得た。なぜなら彼はこの時、慈善家等を殺害した罪人となったからである。
+
ラップ総会の後、ヴォアップ(全連邦プロレタリア作家団体統一同盟)が「スターリン同志の書簡とヴォアップの任務」と題する声明書を発表した。この声明書では、レーニン、スターリンの理論がウクライナ、白ロシアなど民族共和国の文学上の問題に持つ重要性を特に提起したが、ここでは直接関係がないので、そのような声明書が発表されたことに言及するだけにとどめる。
  
 しかし彼は投槍を挙げた。
+
このように、スターリンの書簡を契機として、ソ連の文学理論は一段の新たな段階、すなわちレーニン的段階へと踏み出したと言える。そしてこの新段階に立つソ連文学理論の全体像を最もよく示しているのが、第一回ラップ批評家会議である。
  
 彼は無物の陣の中を大股に歩み、ふたたび一様の頷き、さまざまな旗幟、さまざまな外套を見る……。
+
この批評家会議は、ラップ書記局と共産主義学院文学芸術言語研究指導部との共同発起により、昨年一月二十五日から二十九日までの五日間、モスクワのソ連作家統一協議会所属の「ゴーリキー」クラブで開催された。以下、この会議を中心に、ソ連の文学理論の現在の問題は何か、その問題にどう取り組んでいるかを叙述しよう。
  
 しかし彼は投槍を挙げた。
+
=== 第58節 ===
  
 彼はついに無物の陣の中で老い衰え、天寿を全うした。彼はついに戦士ではなかったが、無物たる物こそが勝者であった。
+
まず、A・ファジェーエフがラップ書記局を代表して開会演説を行った。彼はこの批評家会議の負うべき任務を次のように規定した。
  
 かくのごとき境地において、誰も戦いの叫びを聞かない——太平。
+
「この批評家会議は、文学理論及び文学批評の分野における、あらゆる敵対的な反マルクス主義的理論及びその逆襲に対して、決定的な打撃を与えるべきである。しかもさらにレーニン主義的文学理論の確立と、文学理論の新たなレーニン的段階への発展を推進すべきである。」
  
 太平……。
+
この規定を、我々は現在のソ連文学理論全体が負うべき任務の具体的規定と見なすことができるだろう。
  
 しかし彼は投槍を挙げた!
+
ファジェーエフはさらに続けて、これらあらゆる反マルクス主義的文学理論に対する闘争を遂行する際に、マルクス=レーニン主義的批評家が採るべき基本的態度について述べた。
  
 +
「階級的敵のあらゆる逆襲に対して、我々は決定的な打撃を与えるべきである。しかしその際、我々がただ罵倒するだけ、ただ頭ごなしに否定するだけでは駄目だ。我々の文学を前進させるためには、何か独自の新しいものを確保すべきなのだ。しかるに敵の影響に対する我々の闘争の大きな欠点は、我々の文学が持つ肯定的な現象を指示せず、ただ面と向かって否定的な批評を下すだけだったということだ。」
  
 (一九二五年十二月十四日。)
+
そこで彼はスターリンの書簡を引き、この書簡は文学理論において敵の影響に対する闘争の根底に据えるべきものだと述べた。
  
【蝋葉】
+
スターリンのこの指示が文学及び文学理論の基礎とされるべきことは、先にラップ十二月総会でのアヴェルバッハの報告においても、テナモフの共産主義学院での報告においても、またヴォアップの声明書においても、『文学新聞』の社説においても、繰り返し述べられてきたことであり、ソ連の文学理論家にとっては、今や当然の遵守規準・定則となっているのだ。
  
 +
では、これらのいわゆる敵対的理論とは何か。簡単に言えば、まずトロツキー主義、ヴォロンスキーの見解、ペレヴェルゼフ主義、「文学戦線」派及び「ペレヴァル」派の主張、さらにプロレタリア文学理論に最大の影響を与えたプレハーノフ=フリーチェの理論など、これらが主要なものである。そして最も重要なのは、これらの理論が今なお生命を保っているということだ。文学領域におけるこれらの観念論は、まさにメンシェヴィキ化しつつあるのだから、それらの影響に対する批判にはとりわけ力を注がねばならない。この際、プロレタリア文学運動に参加している各員は、それらの敵対的理論の本質を明らかにしなければならない。これがファジェーエフがこの批評家会議で併せて力説したところであった。
  
 +
ファジェーエフの開会演説に続いて、会議の主要報告に移る。会議全体を通じて最も重要だったのは、ローゼンタールの報告「マルクス=レーニン主義文学理論の基本問題」と、エルモラエフの報告「リアリズムの問題」であった。以下、これらの報告を中心に述べていく。
  
 灯の下で『雁門集』を読んでいると、ふと一枚の押し乾かされた楓の葉が出てきた。
+
ローゼンタールの報告は、マルクス=レーニン主義的文学理論の基本的命題を体系的に展開し、同時にプレハーノフ=フリーチェの理論の批判を試みたものである。プレハーノフ及びフリーチェの理論は、ソ連のマルクス主義的文学理論に最大の影響を与えてきた。とりわけフリーチェの芸術社会学は、一時期、事実上のマルクス主義的文学理論として通用していたほどである。したがって、その理論の批判は、マルクス=レーニン主義的文学理論を確立するための不可欠の前提なのである。
  
 これは去年の晩秋を思い出させた。霜が夜ごとに降り、木の葉は大半が散り、庭先の一本の小さな楓も赤く色づいていた。私はかつて木の周りを行きつ戻りつし、葉の色を仔細に眺めたものだが、青々としていた頃にはこれほど注意したことはなかった。それも全体が赤いのではなく、最も多いのは淡い絳色で、数枚は緋色の地の上に、さらにいくつかの濃い緑の斑を帯びていた。一枚だけは虫食いの穴があり、黒い花の縁取りを持ち、赤と黄と緑のまだら模様の中で、瞳のように人を凝視していた。私は思った——これは病葉だ、と。そこで摘み取り、今しがた買った『雁門集』に挟んだ。おそらくこの、落ちかけた、蝕まれて斑爛たる色を、しばし保存して、すぐには群れの葉とともに飛び散らせまいとしたのだろう。
+
ローゼンタールはまず、マルクス主義的文学理論が、単なる芸術社会学であってはならないと述べた。芸術社会学は、芸術をただ社会的産物として説明するにとどまり、芸術の認識論的特質、すなわち芸術がいかに現実を反映するかという問題を等閑に付している。芸術は単に社会の受動的反映ではなく、現実の能動的認識であり、そこにこそ芸術の独自の意義がある。マルクス=レーニン主義的文学理論は、この認識論的基礎の上に立つべきである。
  
 しかし今夜、それは蝋のように黄ばんで私の目の前に横たわり、あの瞳ももはや去年のように炯々とはしていなかった。もしさらに数年も経てば、昔の色が記憶から消え去り、おそらく私自身でさえ、なぜこれが本に挟まれていたのかその理由がわからなくなるであろう。落ちかけた病葉の斑爛も、ほんの束の間しか向き合えぬようだ。まして青々と茂っていた頃のことはなおさらである。窓の外を見れば、寒さにたいへん強い木々もとうに丸裸になっている。楓は言うまでもない。晩秋の頃、おそらく去年のものに似た病葉もあったであろうが、惜しいことに今年は秋の木を愛でる余暇がなかった。
+
レーニンは、唯物論的認識論を最も徹底させた思想家であった。レーニンの反映理論によれば、意識は客観的現実の反映であり、この反映は受動的な模写ではなく、能動的な過程である。芸術もまたこの能動的反映の一形態であり、形象的思惟という独自の方法によって現実を認識するのだ。
  
 +
=== 第59節 ===
  
 (一九二五年十二月二十六日。)
+
ローゼンタールは次に、プレハーノフの理論の批判に移った。プレハーノフは、芸術を社会的意識の一形態として把握し、芸術の階級的性格を明らかにした功績がある。しかしプレハーノフには、根本的な弱点があった。
  
【一九二四年】
+
第一に、プレハーノフは芸術の認識論的側面を軽視した。プレハーノフにとって芸術は、主として社会心理の表現であり、社会的意識の反映であった。しかし芸術がいかに現実を認識し、いかにこれを形象的に把握するかという問題は、プレハーノフの理論では十分に展開されなかった。
  
 +
第二に、プレハーノフの理論には機械的唯物論の要素があった。プレハーノフは、芸術を「社会的人間の心理」の直接的表現と見なす傾向があり、芸術と社会との間の複雑な媒介過程を十分に考慮しなかった。したがって、プレハーノフの理論に従えば、ある時代の芸術は、その時代の支配的階級の心理を直接に反映するということになり、芸術の相対的独立性や、芸術家の個人的創造性の問題が見失われがちであった。
  
 +
フリーチェの理論は、プレハーノフの弱点をさらに極端にしたものであった。フリーチェの芸術社会学は、芸術を完全に社会的条件によって決定されるものと見なし、芸術のスタイルを直接に社会的・階級的条件から導き出そうとした。フリーチェによれば、各時代の支配的スタイルは、その時代の支配的階級の趣味と嗜好を直接に反映するものであり、芸術の発展は社会発展の機械的な反映に過ぎないということになる。
  
【「纠正」なきを望む】
+
このような理論は、芸術の独自性を完全に否定し、芸術を単なる社会学的図解に堕せしめるものであった。レーニンの弁証法的唯物論の立場からすれば、芸術は確かに社会的に規定されたものではあるが、同時に現実の能動的認識として、独自の法則性を持つものなのだ。
  
 +
ローゼンタールの報告は、このようにプレハーノフ=フリーチェの理論を批判しつつ、マルクス=レーニン主義的文学理論の基礎的命題を提示しようとしたものであった。会議の討論においても、この報告は概ね支持されたが、いくつかの点で批判もあった。
  
 汪原放君はすでに故人となった。彼の標点と校正の小説は、些細な誤りを免れないとはいえ、大体において作者と読者に功績があった。ところが思いがけず弊害が限りなく、模倣する者たちが手当たり次第に本を引っ張り出し、あなたも標点を施し、私も標点を施し、あなたも序を書き、私も序を書き、彼も校改し、これも校改し、しかも真面目にやろうとしないので、結局は本を台無しにしただけであった。
+
エルモラエフの報告「リアリズムの問題」は、現在のソ連文学にとって最も切実な問題を取り上げたものである。社会主義建設の時代にふさわしいリアリズムとはいかなるものか、プロレタリア作家は現実をいかに描くべきか――これが報告の中心課題であった。
  
 『花月痕』は本来宝物のように扱うべき本ではないが、誰かが標点を施して出版しようとするのは、もとより各自の勝手である。この本はもともと木版であり、後に活字本があり、最後は石版で、誤字が非常に多く、今世に出回っているのは大半がこの種のものである。新しい標点本については、陶楽勤君が序で言う。「本書の底本は佳品とはいえ、誤りがなお多い。余はすべて纠正を加えたが、見落としのある所は避けがたい……」と。私は誤字の多い石版本しか持っていないが、偶々第二十五回の三、四頁を比べてみると、やはり石版本の方がましだと思えた。なぜなら陶君は石版本の誤字の多くを纠正しておらず、しかも石版本の正しい字をかえって歪めてしまっていたからである。
+
エルモラエフは、ブルジョア・リアリズムとプロレタリア・リアリズムとの質的差異を強調した。ブルジョア・リアリズムは、現実をその表面においてのみ把握する。現実の外面的な現象を忠実に描写することが、ブルジョア・リアリズムの特質である。これに対して、プロレタリア・リアリズムは、現実をその発展の法則において把握し、現実の中に潜む矛盾と闘争とを、その発展の方向において描き出すべきものだ。
  
 「釵黛は直に一つの子虚烏有であり、取るに足らぬ。……」
+
ここに、プロレタリア文学の最も重要な課題がある。すなわち、社会主義建設の現実を、その矛盾と困難とを含めて、しかもその発展の必然性において描くこと。現実の単なる記録でも、単なる楽観的美化でもなく、弁証法的な認識に基づくリアリズム――これが求められているのだ。
  
 この「直是個」は「簡直に一個」の意味であるが、纠正本では「真是個」に改められており、原意とはだいぶ異なってしまった。
+
(一九三二年六月十五日『文学評論』第一巻第一号所載。)
  
 「秋痕は頭に皺の帕を巻いて……突然痴珠に会い、微笑んで小声で言った。『あなたが十日も我慢できないだろうと思っていたわ。本当に何もそこまでしなくても。』
+
=== 第60節 ===
  
 「……痴珠は笑って言った。『これからまた相談しよう。』……」
+
【四 英吉利・アメリカ】
  
 二人はともに落魄しているとはいえ、この時は大した悲しみもなく、だからこそまだ笑えたのである。しかし纠正本は二つの「笑」の字をともに「哭」に改めてしまった。会うなり泣かせるとは、涙がいささか安すぎはしないか。まして「含哭」などという言い方は成り立たない。
+
イギリス文壇の長老ハーディ(Thomas Hardy)が、一月十一日、八十八歳で逝去した。イギリス国王と王妃は手書きの弔辞で彼の長逝を悼み、英米の新聞もすべて最高級の弔意を表した。遺骸は芸術家にとって最高の名誉であるウェストミンスター寺院のポエッツ・コーナーに、作家ディケンズと並んで葬られた。首相ボールドウィン、労働党党首マクドナルドをはじめ、ゴス、ショー、ゴールズワージー、キプリングその他の人々が、ほとんど例外なく会葬した。ウェセックス小説群の作家としてのみならず、大戯曲『ダイナスツ』をはじめとする傑作は、永くイギリス文学の至宝であり続けるだろう。
  
 そこで私はこう思った。本を出版するのは良いことだが、自分で意味がよくわからない時は、すぐに間違いだと思い込んで、奮然と「纠正を加える」べきではない。「過ちて之を存す」方が、あるいはかえって間違いではないかもしれぬ。
+
彼が主宰する『サンデー・タイムズ』紙上でハーディの死を弔ったゴス(Edmund Gosse)もまた逝去した。享年七十八歳。彼は詩人であったが、批評家として世に知られ、その芸術的理解の精透さは世界的名声を誇った。ヨーロッパの文芸及び作家を紹介するにあたり、英米はもとより、日本文壇にまで及ぼした裨益は、まことに計り知れない。『サンデー・タイムズ』紙上では健筆を揮い、社会と文芸を縦横に批判した。彼の死は、まさに彼がハーディを弔った言葉を借りて、「世界文学の大なる損失」と言うことができよう。
  
 そこでまたもう一つの疑問が湧いた。翻訳小説が「読んでもわからない」と攻撃する人々がいるが、彼らは中国人自身が書いた旧小説を、本当に読んでわかっているのだろうか。
+
フランスのサラ・ベルナール、イタリアのエレオノーラ・ドゥーゼと並び、近代三大女優に数えられたイギリスのエレン・テリーの逝去以来、演劇界はますます寂寥を感じている。彼女は八歳の時にプリンセス劇場で舞台に立ち、出演歴は実に六十余年に及ぶ。シェイクスピア劇の演者としてのみならず、他の劇にもすべて優れていた。名優ヘンリー・アーヴィングの共演者として、彼女に勝る者はなかったと、『アーヴィング伝』の著者は明言している。リットも驚嘆して、「極めて高雅さと軽妙さを兼ね備え、これを巧みに調和させたその性格もまた、甚だ稀有である」と述べた。死去の折は七十八歳、国王と王妃もともに懇切な弔電を送った。
  
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彼女は最初、有名な画家ワッツ(G. F. Watts)との結婚が結局は破綻したが、その後の結婚では有名な俳優クレイグ(Gordon Craig)のような息子を得、晩年は極めて平穏であった。
  
 (一月二十八日。)
+
バリー卿(Sir James Barrie)の有名な"Peter Pan"は、これまで一度も刊行されたことがなかったが、九月に彼の舞台演出に関する長い論文と合わせて、Hodder and Stoughton社から出版された。
  
 +
スコット(Walter Scott)は一九三二年が没後百年にあたるが、記念会の委員がすでに任命された。
  
 この短い文章が発表された後、一度胡適之先生に会い、汪先生のことに話が及んだ折、先生がとても健在であることを知った。胡先生はなお、私の「すでに故人となった」云々は、彼が多くの仕事をなし、すでに世に見るに足りるものを残したという意味だと思っていた。これには私はまことに「恐惶に堪えない」のであり、なぜなら私の本意はそうではなく、率直に言えば、すでに「死んでしまった」ということだったからである。しかしその時になって初めて、先に聞いた話がまったく根拠のない風説であったことを知ったのである。ここに謹んで汪先生に私の粗忽の罪を謝し、あわせて旧稿の第一文を訂正して、「汪原放君はいまだ故人となっていなかった」と改める。
+
『天路歴程』の著者バニヤン(John Bunyan)の生誕三百年記念会がかなり盛大に祝われた。人々はエルストウ・グリーンの彼の銅像の前で祈禱を捧げた。ここは彼が少年時代に踊り、鐘を撞き、棒を投げた場所である。
  
 一九二五年九月二十四日、身熱頭痛の際に記す。
+
キプリング(Rudyard Kipling)が十月にジョージ国王とメアリー王妃の賓客として、スコットランドのバルモラル城に招かれたことに、朝野ともに驚いた。国王と王妃は近頃いささか疲労気味で、狩猟も考えず、各方面に賓客を招いていたのだが、キプリングはヴィクトリア女王の寵を失って以来、久しく宮中に近づいていなかったのだ。
  
【一九二六年】
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インドの女性詩人として最も偉大なサロジニ・ナイドゥー(S. Naidu)が、インド国民会議の選挙により市長に就任した。サイモンズは「美への欲求がレオナルドを画家にしたとすれば、それはまたサロジニを詩人にした」と賞賛したが、この人こそその女性詩人なのである。
  
 +
イギリスの歴史小説家で、大衆作家として最も流行したウェイマン(Stanley Weyman)が四月十日に没した。一八八三年に雑誌『コーンヒル』に小説を掲載したのが出発点で、著作は非常に多い。遺産九十九万四千八十ポンドは、おそらくイギリス文壇始まって以来、小説家としては最高の金額であろう。それまでの記録はディケンズの八十万ポンド、カーライルの七十一万ポンド、トロロープの七十万ポンド、ハーディもおそらく七十万ポンドほどであった。
  
 +
アイルランドのノーベル賞受賞者にして神秘派詩人のイェイツ(William Butler Yeats)が、新詩集『塔』を発表し、なお健在であることを示した。
  
【雑論——閑事を管する・学問をする・灰色など】
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バーナード・ショー(George Bernard Shaw)が『女性たちのための社会主義及び資本主義指南』を英米で同時に出版し、非常な売れ行きが予想された。アメリカ版の序文には例によって冷笑があったが、一方では辛口の批評家もあり、フェビアン協会の初歩から発展した割にはさほど進歩していないとの評であった。
  
 +
シンクレア(Upton Sinclair)が長篇小説『ボストン』をアメリカの一月号から"Bookman"に連載し、批評の中心となった。その一部分はすでに十月に刊行され、第一部として出版された。文体と構想において、以前のシンクレアよりさらに一段成長した大著作である。無政府主義者サッコとヴァンゼッティが殺人罪で処刑されたことへの憤慨から筆を執った、あの国際的問題を扱ったものだ。『ボストン』と名づけたのは、彼らの生活の背景がボストン市であり、これに関連してボストン市の全権階級の暴虐が余すところなく暴露されたからである。ある新聞記事が、前作『石油』がボストン市で販売禁止されたからではないと、わざわざ断っている。
  
 1
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劇作家オニール(Eugene O'Neill)が小山内薫に日本に行くと書き送ったという話は、いよいよ実現しそうである。彼は現在パリから極東へ旅行中のようで、到着次第、一九二九年六月まで東洋に滞在する予定だという。彼は今、三年ないし五年を要する大戯曲を執筆中である。
  
 +
ハーパーズ出版社がウォーレスの『少年たちのベン・ハー』を新たに出版した。広告によれば、"Ben Hur"は刊行以来三百万部を売り尽くし、やがて脚色されて映画になると、さらに百万部を売り尽くしたという。関係者はいずれもかなり儲かったそうで、これは近時特筆すべきことだという。
  
 聞くところによると、今年から陳源(すなわち西滢)教授は閑事を管しないつもりだという。この予言は『現代評論』五十六期の『閑話』に見えるそうだ。恥ずかしながら私はこの号を拝読していないので、詳しいことは知らない。もし本当なら、例のとおりの社交辞令で「惜しい」と言うほかに、実のところ自分の愚かさにまことに驚くばかりである——こんな歳になっても、陽暦の十二月三十一日と一月一日の境目が他人にはこれほどの大きな変動を起こし得ることを知らなかったとは。私は近頃、年の瀬にはいささか神経が鈍くなっており、まるで何も感じない。実を言えば、感じようと思えば、感じきれないほどのことがある。みなが五色旗を掲げ、大通りに何基かの彩門を設え、真ん中に「普天同慶」の四文字がある。これが年越しだという。みなが門を閉め、門神を貼り、爆竹がパチパチバンと鳴り響く。これも年越しだという。もし言行が本当に年越しとともに移り変わるなら、移り変わりが追いつかず、ぐるぐる回るだけになるに違いない。だから、神経が鈍いのは時代遅れの懸念はあるが、弊あれば利あり、いくらかの小さな得はしているのである。
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マーク・トウェイン(Mark Twain)の住居を買い取るために四十万ドルの寄付金が集められた。トウェイン記念会は、このユーモア作家を記念するため旧宅を保存し、中にはトム・ソーヤー室やトウェイン作品の図書館も建設する予定だという。
  
 しかし、ある事がどうしても解せない。すなわち天下に閑事なるものがあり、閑事を管する人がいるということである。私は今、世の中にはいわゆる閑事なるものはおそらくないと思う。管する人があれば、すべて自分と何らかの関係がある。たとえ人類を愛するにしても、それは自分が人間だからである。もし火星で張龍と趙虎が喧嘩していることがわかったからといって、すぐに大いに振る舞い、酒を振る舞い会を開き、張龍を支持し、あるいは趙虎を否認するなら、それはなるほど閑事を管するに近い。しかし火星のことを「知る」ことができるなら、少なくともすでに通信が可能でなければならず、関係も密接になるから、閑事とは言えなくなる。なぜなら通信ができれば、将来は交通もできるかもしれず、彼らはいつか我々の頭上で喧嘩するかもしれないからだ。我々の地球上においては、どこであれ、万事が我々と関わりがある。しかし管さないのは、知らないからか、管しようがないからであって、その「閑」なるゆえではない。
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雑誌"Sphere"によれば、懸賞小説に関する英米両国の読者の違いが、近年ますます明確になったという。要するに、アメリカでは懸賞小説の入選者がそのまま有名になる段階となり、作品もよく売れる。しかしイギリスでは逆に、懸賞小説家はすぐに忘れられ、作品の時価も高くない。これによって、近二三年アメリカで懸賞が非常に流行している傾向が窺えるのである。
  
 (いや、間違えた。ラインシュはアメリカの駐華公使であって、文学者ではない。おそらく何かの文芸学術の論文で名前を見たために、うっかり口を滑らせたのであろう。ここに訂正し、読者の諒恕を乞う。)
+
(日本『文章倶楽部』十三巻十二号より訳す)
  
 動物でさえ、どうして我々と無関係であり得ようか。蠅の足に一つのコレラ菌があり、蚊の唾液に二つのマラリア原虫があれば、誰の血に入り込むかわからない。「隣の猫が子を産んだ」のを管するのは笑い話だと思う人が多いが、実は大いに自分に関わりがある。たとえば今、私の庭には四匹の隣猫がしょっちゅう喧嘩しているが、もしこの奥方たちの一匹がまた四匹を産めば、三、四か月後には八匹の猫がしょっちゅう騒ぐのを聞かねばならず、今の倍も煩わしくなる。
+
(一九二八年十二月十三日より二九年一月二十四日『朝花週刊』第二期より第八期所載。)
  
 だから私には一つの偏見がある。天下にはもともといわゆる閑事なるものはなく、ただこれほど遍く管する精力と力がないので、やむなく一つだけ掴んで管するのだと。なぜよりによってこの一つなのか。当然、自分と最も関わりの深いもの。大きくは同じ人類であるから、あるいは同類、同志であるから。小さくは同窓、親戚、同郷であるから——少なくとも、何かの恩恵に浴したことがあるから。たとえ自分の顕在意識上では明らかでなくとも、あるいは実は明らかでありながら、故意に愚かなふりをしているのだ。
+
【芸術と哲学・倫理 日本 本庄可宗】
  
 しかし陳源教授は去年、聞くところでは閑事を管したという。もし私の上述が間違っていないなら、彼はまさに超人である。今年は世事に問わないとは、まことに惜しい極みで、まさにこの人が管さなければ「蒼生を如何にせん」である。幸い陰暦の正月も近く、大晦日の亥の刻を過ぎれば、あるいは心を翻すことも望めるかもしれない。
+
【序論】
  
 +
一九二七年四月二日、モスクワの共産党研究所において、スピノザの二百五十年記念講演会が開催された。しかもテルハイマーとデボーリンの両氏が講演を行った。
  
 2
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=== 第61節 ===
  
 +
モラン(Paul Morand)の記述によれば、フランス文壇では、ロシアから帰国した著作家や思想家のロシア観が大いに話題となっている。中でも最も注目されたのはデュアメル(Georges Duhamel)の著述であり、まだ刊本にはなっていないものの、デュアメルは新生ロシアに必ずしも満足できなかったようだとも言われている。ゴーリキーの帰露祝賀のためにロシアへ赴いたバルビュスのロシア観も、大いに期待されている様子であった。
  
 昨日の午後、沙灘から帰宅した時、大琦君が訪ねてきたことを知った。これは大変嬉しかった。というのは、彼が病院に入ったのではないかと思っていたからで、そうではないことがわかったのだ。さらに嬉しかったのは、彼が『現代評論増刊』を一冊置いていってくれたことで、表紙に描かれた一本の細長い蝋燭を見れば、これが光明の象徴であることはすぐにわかる。まして多くの名士学者の著作があり、中でも陳源教授の「学問をする道具」という一篇があるのだから。これは正論であり、少なくとも「閑話」には勝る。少なくとも私は「閑話」に勝ると感じた。なぜならそれが私に多くのものを与えてくれたからである。
+
老大家ブールジェ(Paul Bourget)は、長く筆を擱いていた後、短篇四篇を集めた作品集『太鼓叩きとその他』を上梓した。いずれも大学生と宗教との関係を素材としたもので、これこそ彼の老いぬ証しだと評された。
  
 +
長期にわたって黒人地域を漫遊し、素材を蒐集していたモランは、帰国後一冊の『マジー・ノワール』を世に出した。これも『活仏』と同じく、奇抜な素材の活用で名高い。
  
=== 第3節 ===
+
『ディズレーリ』、『シェリー』その他の伝記を次々と書き、イギリスの雑誌から猛烈な攻撃を受けたモーロワは、これらに対してまた激烈な反論を行った。今は亡きゴスの慰撫を得るに至り、英仏両国の関心を引くことかくのごとしであった。
  
私は今になって初めて知った。南池子の「政治学会図書館」は去年「時局の関係で、貸し出しの成績が三倍から七倍に伸びた」のだが、「彼の家の翰笙」はなおも「『平時は線香も焚かず、臨時に仏の足を抱く』という十字で今日の学術界の大部分の状況を形容している」という。これは私の多くの誤解を正してくれた。先に述べたように、今の留学生は多い、多い。しかし私はずっと、彼らの大部分は外国で部屋を借り、門を閉めて牛肉を煮て食べているのではないかと疑っていた。しかも東京で実際にそういう光景を見たことがある。あの時私は思った——牛肉を煮て食べるなら中国でもできるのに、なぜわざわざ遠路はるばる外国に来るのかと。もっとも外国は畜産が進んでいるから、肉の中の寄生虫は少ないかもしれないが、煮込んでしまえば多くても問題はない。だから、帰国した学者が最初の二年は洋服を着、後に毛皮の袍を着て、頭を上げて歩いているのを見ると、いつも彼は外国で自ら何年も牛肉を煮ていた人物ではないかと疑い、しかも何か事があっても「仏の足」すら抱こうとしないのではないかと思ったものだ。今になってそうではないことがわかった。少なくとも「欧米留学帰りの人」はそうではないと。しかし惜しいことに中国の図書館の蔵書は少なすぎる。聞くところでは北京「三十余りの大学は、国立私立を問わず、まだ我々個人の蔵書にも及ばない」という。この「我々」の中で、聞くところでは第一に数えるべきは「湡儀先生の家庭教師ジョンストン先生」であり、第二はおそらく「孤桐先生」すなわち章士釓である。なぜならドイツのベルリン滞在中、陳源教授は自らの目で、彼の二部屋が「ほとんどベッドの上も書棚の上も机の上も床の上も、社会主義に関するドイツ語の書物で満ちている」のを見たからだという。今ではきっとさらに多くなっているであろう。まことに羨ましく敬服する。自分の留学時代を思い返せば、官費は月三十六元で、衣食学費を差し引くとほとんど余りはなく、何年か過ごしても蔵書は壁一面さえ埋められず、しかも雑書ばかりで、「社会主義に関するドイツ語の書物」のごとく専門的ではなかった。
+
兄ゴンクール(E. Goncourt)がゴンクール・アカデミーに託し、死後二十年経ったら当時の芸術界の仲間への書簡一万余通を発表するようにと言い残したが、一八九六年の彼の死後三十年以上を経ても、なお発表されていない。この中にはゾラの書簡も数百通含まれている。ゾラの子の婿が大いに抗議し、そもそも自分たちに一度も相談せずに、発表を拒むのは不当だと主張した。発表されない理由は、多くの箇所に不都合があるためらしい。
  
 しかしまことに惜しいことに、聞くところでは民衆がこの「孤桐先生」の「寒家」を「再び毀した」時、「どうやら御夫妻の蔵書はみな散逸してしまったらしい」。あの時はきっと何十台もの車に積まれ、あちこちに散っていったのだろう。惜しいことに見に行かなかった。さもなくば壮観であったろうに。
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『アルフォンソ八世の仮面を剥げ』を書いたために祖国スペインから永久追放され、南仏のマントンで大作『世界の青春』を執筆中であった作家イバニェス(Blasco Ibanez)が、気管支肺炎と糖尿病のため、一月二十八日に六十一歳で逝去した。二人の息子ジークフリートとマリオは急病を聞くや否やバルセロナから駆けつけたが、すでに間に合わなかった。彫刻家ベレンスタインが死面と手型を取った後、南仏のトラビュックに葬られた。
  
 だから「暴民」が「正人君子」に深く忌み嫌われるのも、まことに理由がある。この度の「孤桐先生」御夫妻の蔵書の散逸が中国に与えた損失は、三十余りの国立私立大学の図書館を破壊したのを上回るのだ。これと比べれば、劉百昭司長が家蔵の公金八千元を失くしたなどは小事件と言わねばならない。ただ我々が遺憾に思うのは、よりによって章士釓と劉百昭にこれほどの蓄えがあり、しかもこれらの蓄えがよりによってすべて災厄に遭ったということである。
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アヤラ(Ramon Perez de Ayala)がスペイン学士院の会員に選ばれた。彼は世界的名声を持つ作家で、まだ壮年ながらすでに小説、詩、批評、論文、戯曲など二十余巻の著作がある。彼の傾向は自由主義であり、伝統破壊主義である。これこそスペイン学士院の特色であり、他国の穏やかで古色蒼然たる学士院と異なる所以だと、この件の報告者はそう記している。
  
 幼い頃、世故に長けた年長者から戒められたことがある——筋のない担ぎ売りや露店に難癖をつけるな。自分で転んでおいて、お前のせいだと言いがかりをつけ、言い訳もできず弁償もしきれなくなる、と。この言葉は今でも私に影響しているようで、正月に火神廟の縁日に行っても、玉器の露店には近寄れない。たとえほんの数点しか並んでいなくとも。うっかりぶつけて倒したり、一つ二つ割ったりすれば、たちまち家宝扱いされ、一生かかっても弁償しきれず、その罪の重さは博物館一つを壊すのを上回るからだ。しかもこの論理を押し広げて、賢やかな場所にも大して行かなくなった。あの時のデモ行進の際も、「歯を叩き落とされた」という「流言」はあったが、実のところは家で寝ていて、おかげで無事であった。しかし「孤桐先生」邸から次々と散出するあの二部屋の「社会主義に関するドイツ語の書物」やその他の壮観も、そのために「腕を交えて見逃した」のであった。これはまさにいわゆる「利あれば必ず弊あり」で、両立させようがないのだ。
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スペインの「エレオノーラ・ドゥーゼ」と称される名女優マリア・ゲレーロが亡くなった。彼女は二十年間舞台に立ち、スペイン国民の注目の的であり続け、時代は移り変わっても名声は揺るがなかった。葬儀では有名なベナベンテ(J. Benavente)が柩の傍らに立った。彼女の訃報が伝わったその夜、マドリードの全劇場の男女俳優が皆、喪章をつけて舞台に立ったという。
  
 今、洋書の蔵書の豊かさでは、個人ではジョンストン先生を数え、公団では「政治学会図書館」を推さねばならないが、惜しいことに一方は外国人であり、もう一方はアメリカ公使ラインシュの尽力で作られたものである。「北京国立図書館」が拡張されようとしているのはまことに結構なことだが、聞くところでは依然としてアメリカから返還された賠償金に頼っており、経常費はわずか三万元、月に二千余元にすぎない。アメリカの賠償金を使うのも容易なことではなく、第一に館長は東西の学に通じた世界的に名高い学者でなければならない。聞くところでは、これは当然、梁啓超先生しかいないが、惜しいことに西洋の学があまり通じていないので、北京大学教授の李四光先生を副館長に配して、中外兼通の完人に仕立てたという。しかし二人の月給だけで千余元になるので、今後もあまり多く書籍は買えそうにない。これもまたいわゆる「利あれば必ず弊あり」であろう。ここに思い至ると、「孤桐先生」が独力で購入した数部屋分の良書が惨めにも散逸したことの惜しさを、ますます痛切に感じずにはいられない。
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=== 第62節 ===
  
 要するに、ここ数年のうちには、より良い「学問をする道具」が得られる見込みはなく、学者が勉強しようと思えば自分で本を買って読むほかないが、また金がない。聞くところでは「孤桐先生」はこの点に思い至り、文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい。学者たちにほかにどんな方法があるだろうか。当然「彼らが『閑話』でも言うほかに何もすることがないのも無理はない」のであり、たとえ北京の三十余りの大学がまだ彼ら「個人の蔵書にも及ばない」としてもである。なぜか。学問をすることは容易ではなく、「おそらく小さな題目一つで百種以上の書物を参考にしなければならない」のであり、「孤桐先生」の蔵書でさえ足りないかもしれないのだ。陳源教授は一つの例を挙げている。「『四書』を例に取ろう」、「漢・宋・明・清の多くの儒家の注疏理論を研究しなければ、『四書』の真の意義は容易には会得できない。短い一部の『四書』でも、子細に研究すれば、数百数千種の参考書が必要になる」と。
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【二 ドイツ・オーストリア】
  
 これだけでも「学問の道は浩として煙海の如し」であることがわかる。あの「短い一部の『四書』」は私も読んだことがあるが、漢人の「四書」注疏や理論に至っては、聞いたこともなかった。陳源教授が「あのように風雅を提唱した封藩大臣」の一人として推す張之洞先生は、「束髪の小生」たちのために書いた『書目答問』で「『四書』は南宋以後の名称なり」と言っている。私はずっとその言葉を信じてきた。その後『漢書芸文志』や『隋書経籍志』の類を繙いてみても、「五経」「六経」「七経」「六芸」はあっても「四書」はなく、ましてや漢人の作った注疏や理論はなおさらである。しかし私が参考にしたのは当然ながら普通の本で、北京大学の図書館にもあるもの。見聞が狭陋であるかもしれないが、仕方がない。たとえ「抱」こうとしても「仏の足」すらないのだから。こう考えると、「仏の足を抱ける」者、「仏の足を抱く」気のある者こそ、まことに本物の福人であり、本物の学者である。「彼の家の翰笙」がなお慨然としてこれを言うのは、おそらく「『春秋』は賢者を責める」の意であろう。
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ハウプトマン(Gerhart Hauptmann)が戯曲"Til Eulenspiegel"を書いた。オイレンシュピーゲルとは十四世紀頃に実在した人物で、ハウプトマンは彼を世界大戦時の飛行将校とし、終戦後に帰郷してから恋愛その他の奇抜な冒険的行為を繰り広げる。その中には反戦の意見も含まれている。要するにこれは、作者自身の大戦感想の詩的叙述なのだ。このほか『ハムレット』に関する戯曲一篇も書いた。彼の主張によれば、シェイクスピアの『ハムレット』はエリザベス朝時代の役者や座長が勝手に改作した偽作であるという。その『新ハムレット』の中で、自作の台詞はわずか五百行で、二千五百行はシェイクスピアの原文そのままである。批評家は痛烈に罵り、「シェイクスピアの台詞からは永遠なるものの低語を聞くが、ハウプトマンからは紙の擦れる音を聞く」と評した。さらにもう一つ、『幽霊』という新作もある。
  
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ドイツ文学協会が五人の新会員を選出した。いずれも詩壇・小説界の代表者で、その中にはフランク(Leonhart Frank)とウンルー(Fritz von Unruh)がいた。
  
 完
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ズーダーマン(Hermann Sudermann)は初春に『狂える教授』を出して健在を示したが、十月十七日のベルリン電報は、二週間前に脳卒中で倒れ、フュルステンベルクの療養院で保養中であると伝えた。彼は七十一歳の高齢で、もとより半身不随であったが、発病時にはちょうど新しい戯曲を執筆中であった。
  
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トラー(Ernst Toller)はその後あまり執筆せず、夏にはイギリスを漫遊した。彼は来訪者にこう語った。「今は勇敢な体験を試みているところだ。戯曲は、最も明確に社会問題を把握するものを求めている。労働階級に関する題材を。ロシア以外では、何と言っても良い俳優はドイツが一番だ。英米は扇動的な三文芝居でドイツの劇場を攪乱しているが、それでもなお良い戯曲は存在する」云々。彼自身もある戯曲を構想中であった。
  
 もう書き続ける気がしないので、ここで終わりにするほかない。要するに、『現代評論増刊』をひと通りめくると、五光十色、まさにかつて広告に列記された著者名簿を見るようであった。たとえば李仲揆教授の「生命の研究」だの、胡適教授の「訳詩三首」だの、徐志摩先生の訳詩一首だの、西林氏の「圧迫」だの、陶孟和教授の二〇二五年にならなければ発表されず、我々の玄孫でなければ全篇拝読できない大著作の一部だの……。しかし、めくっていくうちに、どういうわけか私の目は灰色を見た。そこで放り出した。
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音楽家シューベルト(Franz Schubert)の没後百年にあたり、ドイツ本国をはじめ英米でも記念音楽会が開催された。本国では『シューベルトの書簡その他』などの新刊が出版された。
  
 今の小学生でも七色板で遊べる。七つの色を円板に塗り、止まっている時は綺麗だが、回すと灰色になる——本来は白色になるはずだが、塗り方が下手なので灰色になったのだ。多くの著名な学者の大著作を集めた大きな刊行物は、もちろん光怪陸離であるが、やはり回してはいけない。一回転すれば、灰色が露わにならずにはいられないのだ。もっとも、これこそがその特色なのかもしれないが。
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チェコスロヴァキア大統領マサリク(Masaryk)は、自らの七十歳の誕生を記念して、十万チェコ・フランをドイツ作家協会のKuenstler Konkordia(芸術家連合)に寄贈し、著作家の生活と権利に関する活動の基金とした。マサリクもまた文学者であり、様々な政治に関する著作を持つことは周知の通りである。
  
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=== 第63節 ===
  
 (一月三日。)
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この批評家会議における問題の全体的な見取り図を示した後、次に個別的な報告の内容に立ち入ろう。
  
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先に述べたように、ローゼンタールの報告は「マルクス=レーニン主義文学理論の基本問題」と題するものであった。この報告の眼目は、プレハーノフ的文学理論からレーニン的文学理論への移行の必然性を論証し、その移行の基本的方向を指示することにあった。
  
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ローゼンタールはまず、プレハーノフの文学理論の基礎的命題を検討した。プレハーノフによれば、芸術は社会意識の一形態であり、社会の経済的基盤を究極の規定因とする。この命題自体は正しい。問題はしかし、プレハーノフがこの命題をいかに展開し、いかに具体化したかにある。
  
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プレハーノフは、社会の経済的基盤から芸術への移行を、「社会心理」という媒介概念によって説明した。すなわち、経済的基盤は社会心理を規定し、社会心理は芸術を規定する。この図式は一見合理的に見えるが、実はここにプレハーノフの根本的弱点が潜んでいる。
  
【面白い消息】
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なぜなら、プレハーノフにおける「社会心理」概念は、きわめて曖昧であり、しかも受動的なものとして把握されているからだ。プレハーノフにとって社会心理とは、経済的基盤の直接的反映であり、したがって芸術もまた、この社会心理の直接的表現、すなわち経済的基盤の間接的反映に過ぎなくなる。ここには、芸術の能動的認識としての側面が完全に欠落しているのだ。
  
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レーニンの認識論は、この弱点を根本的に克服するものであった。レーニンによれば、認識とは客観的現実の受動的反映ではなく、客観的現実の能動的反映である。認識は、実践を媒介として、客観的現実にますます深く接近していく過程であり、この過程において主体と客体との弁証法的統一が実現されるのだ。
  
 北京は大きな砂漠のようだと言われているが、それでも青年たちはここに押し寄せてくる。年配者もあまり去らず、たとえ別の所に行ってみても、まもなく戻ってくる。まるで北京にはまだ何か心惹かれるものがあるかのようだ。厭世詩人が人生を怨むのは、まことに「感慨これに係る」であるが、しかし彼はやはり生きている。釈迦牡尼の教えを祖述する哲人ショーペンハウアーでさえ、密かにある病気の薬を飲み、容易には「涅槃」しようとしなかった。俗語に「良い死に様は悪い生き様に如かず」と言うが、これは当然ただの俗人の俗見にすぎないだろう。しかし文人学者の類も、一体これと何の変わりがあろうか。違いはただ、常に一面の辞厳義正なる軍旗があり、さらにもう一本のいっそう義正辞厳なる退路があることだけである。本当に、もしそうでなければ、人生はまことに退屈の極み、言うべき言葉もなくなるであろう。
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芸術に即して言えば、芸術は単に社会心理の受動的表現ではなく、現実の能動的認識である。芸術家は、形象的思惟という独自の方法を通じて、現実の本質に迫り、現実の中に潜む矛盾や法則を、形象を通じて把握し表現するのだ。ここにこそ、芸術の独自の認識論的意義があり、芸術が単なる社会学的図解に還元され得ない所以がある。
  
 北京は日一日と万物が高くなってゆく。自分の「区々たる僉事」の職も、「妥りに主張あり」とて章士釓先生に首にされた。これまで遭遇してきたものは、アンドレーエフの言葉を借りれば「花もなく、詩もなく」、ただ万物の値上がりだけであった。しかしそれでもなお「妥りに主張あり」で、引き返す術がない。もし一人の妹がいて、『晨報副刊』で美しく語られる「閑話先生」の家庭のように、「お兄様!」と呼びかけ、その声がまさに「幽谷に響く銀鈴のごとく」、「もう人を怒らせるような文章はやめてくださいな」と頼んでくれたなら、おそらく私もこれを機に馬首を返し、別荘に引きこもって漢代の人が作った「四書」の注疏と理論の研究に没頭できたかもしれない。しかし、惜しいかな、そのような良い妹はいない。「女嬽の婵媛たるや、申申として予を罵り、曰く、鮚は婞直にして身を亡ぼし、終に羽の野に夭せり」と——あのような厳しい姉がいる幸福すら屈原に及ばないのだ。私がついに「妥りに主張」し続けているのは、おそらくほかに逃れようがないからでもあろう。しかしこれは重大な関わりがあり、将来禍いを受けるかもしれない。なぜなら私は知っているからだ——人の恨みを買えば報いを受けるものだと。
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この観点からすれば、プレハーノフの「五項公式」――(一)経済的基盤→(二)社会心理→(三)芸術――は、根本的に修正されなければならない。この公式は、芸術の認識論的側面を等閑に付し、芸術を社会心理の機械的反映に還元しているからである。
  
 話は釈迦先生の教訓に戻る。聞くところでは、人間界に生きているよりも地獄に墮ちた方がまだ穏当だという。人間として生きていれば「作」すなわち動作(=造業)があるが、地獄に墮ちればただ「報」(=報応)があるのみだから。それゆえ生きることは地獄に墮ちる原因であり、地獄に墮ちることはかえって地獄から出る出発点なのだ。こう言われると、僧侶になりたくもなるが、これは当然「根のある」(聞くところでは「天津の言い回し」だそうだ)大人物に限られ、私はこの類の呪符をあまり信じない。砂漠のような北京城に暮らすのは、もちろん殺風景ではあるが、折に触れて世態を眰めれば、万物の値上がりのほかにも、やはり千差万別で、芸術を創造する者もいれば、流言を製造する者もいる。気色悪いのもあれば、面白いのもある……これがおそらく北京が北京たる所以であり、人々がなお集まり寄せてくる所以なのであろう。惜しむらくは小さな出来事ばかりで、正直な友人には辞厳義正なる軍旗を自ら掲げるのが難しいということだ。
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ローゼンタールは、さらにフリーチェの芸術社会学の批判に移った。フリーチェは、プレハーノフの弱点をさらに推し進め、芸術のスタイルを直接に階級的条件から演繹しようとした。フリーチェの『芸術社会学』によれば、騎士階級のスタイルは「記念碑的」であり、ブルジョアジーのスタイルは「絵画的」であり、プロレタリアートのスタイルは「建築的」である等々。このような図式的な社会学主義は、芸術の具体的分析を不可能にし、芸術の独自の法則性を完全に抹殺するものであった。
  
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会議の討論において、ローゼンタールの報告に対しては、概ね賛同が表明されたが、いくつかの重要な批判もあった。
  
=== 第4節 ===
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=== 第64節 ===
  
私はよく嘆く。インド小乗教の方法のなんと恐ろしいことかと。地獄の説を立て、僧侶、尼、念仏の老婆の口を借りて宣揚し、異端を恐嚇して、心志の堅固でない者を恐れさせる。その秘訣は、報応は眼前ではなく将来百年の後にあると言うことだ。少なくとも鋭気が尽きた時にやってくる。その時にはもう身動きが取れず、他人の思うがままにされ、鬼の涙を流して生前の出しゃばりを深く悔いるしかない。しかもその時になって初めて、閻魔大王の尊厳と偉大さを認識するのだ。
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批判の第一は、ローゼンタールがプレハーノフの理論を全面的に否定する傾向があったのに対して、プレハーノフの功績をより正当に評価すべきだという意見であった。プレハーノフは、マルクス主義的文学理論の先駆者であり、芸術の階級的性格の解明に大きな貢献をした。問題は、プレハーノフの限界を指摘しつつも、その積極的な成果を継承し発展させることにあるはずだ。
  
 これらの信仰は、あるいは迷信かもしれぬが、神道設教により、「世道を挽き人心を正す」事に、あるいは多少の裨益がないでもあるまい。まして悪人を生前に「豺虎に投ずる」ことができなければ、当然ただ死後に口誥筆伐するほかなく、孔子が一車二馬で各国の遊説に倦み帰り、鋼筆を抜いて『春秋』を作ったのも、けだしまたこの志であったろう。
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第二の批判は、ローゼンタールが認識論的側面を強調するあまり、芸術の社会的規定性の問題を軽視する傾向があるのではないかという懸念であった。芸術が現実の能動的認識であることは正しいが、この認識そのものが社会的に規定されていることを忘れてはならない。芸術家は社会的存在であり、その認識は社会的立場によって制約されている。この点を曖昧にすれば、芸術の党派性の問題が不明確になる恐れがある。
  
 しかし時代は移り変わり、今に至っては、これらの古い手管も極端にお人好しの者しか騙せまい。こんな手管を弄する者たち自身すら信じていないかもしれぬのに、まして世にいう悪人たちをや。人の恨みを買えば報いがあるというのは、ごく平凡なことで、格別奇特でもない。時として婉曲な物言いをするのは、差し当たりの礼儀にすぎず、それで地獄行きを免れようとは思ってもいない。これは如何ともしがたい。我々のような急ぎの人間の世界では、紳士のお高い態度を気取る暇などないのだ。やるならやる。来年の酒を語るより今すぐ水を飲む方がましだ。二十一世紀の死体切り刻みを待つより、今すぐ一発張り手を食らわす方がよい。将来のことは、後に続く者たちがいる。決して今の人間、つまり将来のいわゆる古人の世界ではないのだ。もし今のままの世界であるなら、中国は滅びるであろう!
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次にエルモラエフの報告について述べよう。エルモラエフの「リアリズムの問題」に関する報告は、現在のソ連プロレタリア文学の創作実践にとって最も直接的な意義を持つものであった。
  
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エルモラエフはまず、リアリズムの概念を歴史的に検討した。十九世紀のブルジョア・リアリズムは、現実をその表面的現象において忠実に描写することを旨とした。バルザック、フローベール、ゾラなどのリアリズムは、社会の矛盾や醜悪さを容赦なく描き出したが、その描写はなお現象の表面にとどまっていた。彼らは社会の矛盾を見たが、その矛盾を解決する歴史的力をまだ見ることができなかった。
  
 (一月十四日。)
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これに対して、プロレタリア・リアリズムは、現実をその本質において、その発展の法則において把握する。プロレタリア作家は、社会の矛盾を描くだけでなく、その矛盾の中に新しいものの萌芽を見出し、歴史の発展の方向を描き出さなければならない。これがプロレタリア・リアリズムの独自の特質であり、ブルジョア・リアリズムとの質的差異の核心である。
  
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しかし、これは決して現実を美化することではない。エルモラエフは、この点を特に強調した。プロレタリア・リアリズムは、現実の困難や矛盾を回避してはならない。むしろこれらを正面から描き、しかもその中に発展の必然性を見出すことが求められるのだ。これを回避して、社会主義建設の成果のみを楽観的に描くならば、それはリアリズムではなく、虚偽のラッカー塗りに過ぎない。
  
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エルモラエフはさらに、リアリズムと「弁証法的唯物論的方法」との関係について論じた。プロレタリア・リアリズムの方法は、弁証法的唯物論的方法に他ならない。現実を矛盾の統一として、発展の過程として把握すること、これこそが弁証法的唯物論的方法の本質であり、同時にプロレタリア・リアリズムの方法的基礎なのだ。
  
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この報告に対しても、いくつかの重要な意見が出された。まず、リアリズムの概念そのものについてのさらなる精密化が求められた。「現実の本質を描く」とは具体的に何を意味するのか。芸術は科学ではないのだから、現実の法則を概念的に把握するのではなく、形象を通じて把握するのである。形象的認識の独自性をどう理解するかという問題は、なお未解決のまま残されていた。
  
【学界の三魂】
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また、プロレタリア・リアリズムと浪漫主義との関係についても議論があった。プロレタリア文学には、現実を変革しようとする意志、理想への志向が不可欠であるが、これは浪漫主義的要素ではないのか。リアリズムと浪漫主義の弁証法的統一という課題が、会議の中で提起された。
  
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=== 第65節 ===
  
 『京報副刊』から、『国魂』という雑誌があり、章士釓は確かに良くないが、章士釓に反対する「学匪」どもも打倒すべきだという記事があることを知った。大意が私の記憶通りかどうかわからないが、それは大したことではない。なぜならそれはただ私に一つの題目を思いつかせただけで、原文とは関係がないからだ。その意味は、中国の旧説ではもともと人には三魂六魄、あるいは七魄があるとされ、国魂もそうであるはずだということだ。そしてこの三魂のうち、一つは「官魂」であり、一つは「匪魂」であり、もう一つは何か。おそらく「民魂」であろうが、私にはよく決めかねる。また私の見聞は偏っているので、中国社会全体を指すことはあえてせず、縮めて「学界」と言うにとどめる。
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さらにこの会議では、ペレヴェルゼフ主義に対する批判が重要な議題となった。ペレヴェルゼフの文学理論は、一時期ソ連の文学研究において大きな影響力を持っていた。
  
 中国人の官職への執着はまことに深い。漢は孝廉を重んじて子を埋め木を刻む者が出、宋は理学を重んじて高い帽子と破れた靴の者が出、清は帖括を重んじて「且つ夫れ」「然らば則ち」の者が出た。要するに、その魂は官にある——官の威を行い、官の調子を振り、官の言葉を話す。皇帝を一つ頂いて傀儡にし、官に逆らえば皇帝に逆らったことになり、それらの者は雅号を頂いて「匪徒」と呼ばれる。学界で官の言葉が使われ始めたのは去年からで、章士釓に反対する者はみな「土匪」「学匪」「学棍」の称号を得たが、いまだに誰の口から出たのかわからず、やはり一種の「流言」の域を出ない。
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ペレヴェルゼフの理論の核心は、文学作品の中に描かれた「形象」を、直接に特定の階級の心理の表現と見なすことにあった。ペレヴェルゼフによれば、作家は自己の階級的立場から逃れることができず、その作品に描かれた形象は、作家が属する階級の心理を不可避的に反映する。したがって、文学研究の任務は、作品の形象分析を通じて、作家の階級的帰属を明らかにすることにある。
  
 しかしこれだけでも去年の学界のひどさがわかる。前代未聞の学匪が出現したのだ。大きな国事に比すれば、太平の世に匪はおらず、群盗が毛のごとく多い時は、旧史を見れば、必ず外戚、官官、奸臣、小人が国政を握っている。たとえ大いに官の言葉を振るっても、結果はやはり「呜呼哀哉」である。この「呜呼哀哉」の前に、小民は大概互いに連なって盗賊となる。だから私は源増先生の言葉を信じる。「表面上は土匪や強盗に見えるが、実は農民革命軍なのだ。」(『国民新報副刊』四三)では、社会は改善されたのか。否、私もまた「土匪」呼ばわりされた者の一人ではあるが、先輩方の非を隠そうとは思わない。農民は政権を奪取しに来ない。源増先生はまた言う。「三、五人の熱心家に乗じて皇帝を倒し、自分で皇帝気分を味わうのだ。」しかしこの時、匪は帝と称され、遺老を除けば、文人学者たちはみな恭しく讃え、反対する者をまた匪と呼ぶのだ。
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この理論は一見マルクス主義的に見えるが、実はいくつかの根本的な弱点を持っている。第一に、ペレヴェルゼフの理論では、作家の世界観や意識的努力の役割が完全に否定される。作家は自己の階級的宿命から逃れられず、いかに意識的に他の階級の立場に立とうとしても、その作品には結局自己の階級の心理が表出されるというのだ。これは一種の社会的宿命論であり、人間の意識的活動の能動的役割を否定する機械的唯物論の立場に他ならない。
  
 だから中国の国魂には大概この二種の魂がある——官魂と匪魂である。これは何も我々の魂を国魂に無理やり割り込ませ、教授や名流の魂と仲間になりたがっているのではなく、ただ事実がそのようであるらしいからだ。社会のさまざまな人々は、『双官訥』を見るのも好きだし、『四傑村』を見るのも好きだ。偏安の蜀を望む劉玄徳の成功を願い、追いはぎの宋公明が法を得ることも願う。少なくとも、官の恩恵を受けている時は官僚を羨み、官の搾取を受けている時は匪類に同情する。しかしこれも人情の常である。もしこの程度の反抗心すらなければ、万劫不復の奴隷になるしかないではないか。
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第二に、ペレヴェルゼフの理論では、「階級」概念が極めて静態的に把握されている。階級は、歴史的に発展し変化する動態的な存在であるにもかかわらず、ペレヴェルゼフにおいては、一種の固定的な社会学的範疇として扱われている。したがって、ある作家の作品を分析する際にも、その作家が属する階級の「本質的」心理を抽出し、これに作品を還元するという、きわめて図式的な方法が採られることになる。
  
 しかし国情が違えば国魂も異なる。日本留学時代、同級生の何人かが中国で最も大きな利益になる商売は何かと尋ねたので、「謀反だ」と答えた。彼らは大いに驚き怪しんだ。万世一系の国で、皇帝が一蹴りで落とせると聞くのは、我々が父母を一棒で殴り殺せると聞くようなものだったのだ。一部の紳士深女に心から敬服されている李景林先生こそ、この理をよく知っていたのであろう。新聞の報道が誤りでなければの話だが。今日の『京報』には彼がある外交官に語った言葉が載っている。「余は旧正月の頃には天津で君と面談できるものと見込む。もし天津攻略が失敗すれば、三、四月後に巻き返しを図る。それも失敗すれば、しばし匪賊に投じ、徐々に兵力を養い、時機を待つ」云々と。しかし彼が望むのは皇帝になることではない。おそらく中華民国であるがゆえであろう。
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第三に、ペレヴェルゼフの理論は、文学の党派性の問題を事実上否定する。もし作家が自己の階級的宿命から逃れられないのであれば、プロレタリア作家がブルジョア的影響を克服しようとする意識的努力は無意味ということになる。党による文学の指導も不要ということになりかねない。これは、レーニンの文学の党派性の原則とは根本的に矛盾する。
  
 いわゆる学界は比較的新しく発生した階級であり、本来ならば旧い魂をいくらか洗い清める望みがあったはずだが、「学官」の官の言葉と「学匪」の新名を聞けば、やはり旧い道を歩んでいるようだ。ならば、当然これも打倒せねばならぬ。これを打倒するのは「民魂」、国魂の第三種である。以前はあまり発揚されなかったので、騒動の後もついに自ら政権を取ることなく、「三、五人の熱心家に皇帝を倒させ、自分で皇帝気分を味わわせた」だけであった。
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会議においてペレヴェルゼフ主義が批判されたのは、まさにこれらの理由からであった。しかし同時に、ペレヴェルゼフの理論が持つ一定の積極面、すなわち文学作品の社会学的分析の方法の開拓という功績も認められるべきだという意見もあった。
  
 民魂こそ貴ぶべきであり、民魂が発揚されてこそ、中国に真の進歩がある。しかし学界すら旧い道を逆行するこの時に、どうして容易く発揮できようか。瘴気の中に、官の言う「匪」と民の言う匪がある。官の言う「民」と民の言う民がある。官が「匪」と見なすが実は真の国民である者がおり、官が「民」と見なすが実は衙役と馬丁である者がいる。だから「民魂」に似て見える者が、時として「官魂」にほかならないこともあり、これは魂を鑑別する者がよくよく注意すべきことである。
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トロツキー主義の文学理論についても、会議では重要な批判が行われた。トロツキーの文学論の核心は、プロレタリア文学の可能性そのものに対する否定にあった。トロツキーによれば、プロレタリアートは過渡期の階級であり、したがって独自の文化を生み出すことはできない。プロレタリアートの歴史的任務は、階級なき社会の建設にあるのであって、独自の階級文化の創造にあるのではない。プロレタリアートが権力を掌握した後に生まれる文化は、もはやプロレタリア文化ではなく、全人類的な文化であるべきだとトロツキーは主張した。
  
 話がまた逸れた。本題に戻ろう。去年、章士釓が「学風の整頓」の看板を掲げて教育総長の大任に就いて以来、学界には官気が充満し、「我に順う者は通、我に逆らう者は匪」となった。官調官語の余気は今なお消えていない。しかし学界はまた幸いにも、これによって色分けが明らかになった。ただし官魂を代表するのは章士釓ではない。上にはなお「減膳」の執政がいるからだ。彼はせいぜい官魄を務めただけで、今は天津で「兵力を養い、時機を待つ」ところだ。私は『甲寅』を読まないので何を言っているか知らない。官の言葉か、匪の言葉か、民の言葉か、衙役馬丁の言葉か?……
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この理論に対する批判は、すでにかなり以前から行われてきたが、今回の会議では、トロツキー主義が文学の領域においてなお残存する影響として、いわゆる「同伴者」理論が取り上げられた。トロツキーは、ブルジョア知識人出身の作家を「同伴者」と呼び、プロレタリア作家よりもむしろこれらの「同伴者」のほうが芸術的に優れているとした。この見解は、プロレタリア文学運動そのものを過小評価し、ブルジョア的要素に妥協する危険を孕んでいたのである。
  
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=== 第66節 ===
  
 (一月二十四日。)
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会議の後半では、創作批評の具体的問題が取り上げられた。すなわち、現在のソ連プロレタリア文学の作品に対して、マルクス=レーニン主義的批評はいかにあるべきかという問題である。
  
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この問題に関する主要な報告は、ユージンが行った。ユージンは、現在の批評活動の主要な弱点として、以下の点を指摘した。
  
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第一に、批評があまりにも社会学的に偏り、作品の芸術的特質の分析が不十分であること。批評家は作品の思想的内容の正しさを検証するだけで、その思想がいかに芸術的に形象化されているかを問わない傾向がある。しかしマルクス=レーニン主義的批評は、内容と形式との弁証法的統一において作品を把握すべきであり、思想の芸術的形象化の問題を等閑に付してはならないのだ。
  
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第二に、批評があまりにも否定的であり、肯定的な指示を欠いていること。これはすでにファジェーエフが開会演説で指摘した点であるが、ユージンもまた力説した。批評は、敵対的傾向を暴露し批判するだけでなく、プロレタリア文学の肯定的な成果を指示し、その発展の方向を示すべきである。批評が単なる否定に終始するならば、創作を促進するどころか、むしろ萎縮させる結果になる。
  
【古書と白話】
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第三に、批評がしばしばグループ的偏見に支配されていること。ソ連のプロレタリア文学運動の内部には、いくつかのグループが存在し、それぞれが自己のグループの作家を過大に評価し、他のグループの作家を過小に評価する傾向がある。マルクス=レーニン主義的批評は、このようなグループ主義を克服し、客観的な芸術的判断を行うべきである。
  
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ユージンの報告に対しては、会場から多くの補足的意見が出された。特に問題になったのは、「社会的注文」の概念であった。「社会的注文」とは、社会がその時々に文学に対して提起する要求のことであり、プロレタリア文学はこの社会的注文に応えるべきだとされてきた。しかしこの概念は、しばしば機械的に解釈され、文学を単なる政治的宣伝の道具に貶める危険を孕んでいた。
  
 白話を提唱した頃、多くの誹謗中傷を受けたが、白話がついに倒れなかった時、一部の人は論調を変えてこう言った——しかし古書を読まなければ白話文は上手く書けない、と。これらの保守家の苦心は汲むべきだが、彼らの先祖伝来の手法には苦笑を禁じ得ない。およそ少しでも古書を読んだことのある人はみなこの古い手段を持っている。新しい思想は「異端」であり、歲滅せねばならぬ。しかしそれが奮闘の末に自ら立った暁には、もとより「聖教と源を同じくする」ことを見つけ出す。外来の事物はすべて「夷をもって夏を変ぜん」とするものであり、排除せねばならぬ。しかしこの「夷」が中夏に入って主となると、考証して明らかになる——実はこの「夷」も黄帝の子孫であったと。これは意表を突くことではないか。何であれ、我々の「古」の中にはすべて含まれていなかったものはないのだ!
+
会議の最終日には、総括的な決議が採択された。この決議は、会議の成果を要約し、今後の文学理論と文学批評の基本的方向を指示するものであった。決議の主要な点は以下の通りである。
  
 古い手段を用いる者は当然進歩せず、今もなお「数百巻の書を読破した者」でなければ良い白話文は書けないと言い、呉稚暉先生を強引に例として引く。しかしまた「肉麻を面白がる」、嘻々として語る者まで出てくるとは、天下の事はまことに千奇百怪である。実のところ呉先生の「口語体で文を書く」のは、「その面貌」すら「黄口の小児の作るものと同じ」ではない。「筆の赴くままに輄ち数万言」ではないか。その中には当然、古典もあり、「黄口の小児」の知らぬところであり、なおまた新典もあり、「束髪の小生」の知らぬところである。清の光緒末年、私が初めて日本の東京に着いた頃、この呉稚暉先生はすでに公使の蔡鈞と大いに戦っていた。その戦史はかくも長い。したがって見聞の広さは、当然今の「黄口の小児」の及ぶところではない。だから彼の言葉遣いや用典には、大小の故事に精通した者でなければ理解できない所が多く、青年から見れば、まずはその文辞の滂沛さに驚嘆する。これがおそらく名流学者たちの長所と認める点であろう。しかし、その生命はそこにはない。名流学者たちの取り込み阿りとは正反対に、自ら故意に長所を見せようとせず、名流学者たちの言う長所を消すこともできないまま、ただ語り書くものを改革の途上の橋梁とし、あるいはそもそも改革の途上の橋梁にしようとさえ思っていないのだ。
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一、マルクス=レーニン主義的文学理論のレーニン的段階への発展を推進すること。そのために、レーニンの著作の研究を深め、レーニンの認識論・弁証法を文学理論に創造的に適用すること。
  
 退屈な出来損ないの者ほど、長寿を願い、不朽を願い、自分の写真をたくさん撮りたがり、他人の心を占拠したがり、お高くとまるのが上手い。しかし「潜在意識」では、やはり自分の退屈さに気づいているのだろう。だからまだ朽ち尽きていない「古」に一噌みしてしがみつき、腸の中の寄生虫となって一緒に後世に伝わることを期し、あるいは白話文の類の中にわずかな古色を見出し、逆に古物に寵栄を添えようとする。もし「不朽の大業」がこの程度のものなら、あまりに憐れではないか。しかも二九二五年になって、「黄口の小児」たちがまだ『甲寅』の流を見なければならないとしたら、あまりに悲惨ではないか。たとえそれが「孤桐先生が下野して以来、……ようやく生気が出てきた」としても。
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二、プレハーノフ=フリーチェの理論の批判的克服を継続すること。ただし、彼らの積極的功績を正当に評価しつつ、その限界と誤謬を明確にすること。
  
 古書を菲薄する者は、古書を読んだことのある者こそが最も有力である。これは確かだ。なぜなら彼は弊害を洞察し、「子の矛をもって子の盾を攻む」ことができるからだ。ちょうど阿片の弊害を説明するには、おそらく阿片を吸ったことのある者こそが最も深く知り、最も痛切に感じるのと同じだ。しかし「束髪の小生」でさえ、阿片を戒める文章を書くにはまず数百両の阿片を吸い尽くさねばならぬなどとは言うまい。
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三、ペレヴェルゼフ主義、トロツキー主義、ヴォロンスキー主義など、あらゆる反マルクス主義的文学理論に対する闘争を強化すること。
  
 古文はすでに死んだ。白話文はまだ改革の途上の橋梁にすぎない。なぜなら人類はなお進化しているからだ。たとえ文章であっても、万古不磨の典則が独り存するわけではあるまい。もっとも、アメリカのある所では進化論を講ずることを禁じたそうだが、実際にはおそらくいつまでも効き目はあるまい。
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四、プロレタリア・リアリズムの理論をさらに発展させ、創作実践との有機的結合を図ること。
  
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五、文学批評の質的向上を図り、社会学主義的偏向を克服し、作品の芸術的分析を強化すること。
  
 (一月二十五日。)
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この批評家会議は、ソ連文学理論の発展史上、一つの重要な画期を画するものであった。会議で提起された諸問題の多くは、なお未解決のまま残されたが、問題の所在を明確にし、その解決の方向を指し示したことに、会議の大きな意義があったと言えよう。
  
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=== 第67節 ===
  
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しかしながら、この批評家会議の後の文学理論の展開は、必ずしも会議の決議が期待したような方向には進まなかった。一九三二年四月二十三日、ソ連共産党中央委員会は「文学・芸術団体の改組に関する決定」を発表した。この決定によって、ラップをはじめとするすべてのプロレタリア文学団体は解散させられ、単一のソヴィエト作家同盟に統合されることとなった。
  
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この決定は、ソ連の文学運動に根本的な転換をもたらした。ラップの指導路線には、セクト主義的偏向や、同伴者作家に対する過度の排撃など、多くの問題が含まれていた。しかし同時に、ラップがマルクス=レーニン主義的文学理論の確立のために行った積極的な努力もまた、評価されるべきものであった。
  
【一つの比喩】
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党の決定の後、アヴェルバッハらラップの指導部は厳しい批判を受けた。彼らのセクト主義、コマンド主義が糾弾され、プロレタリア文学運動を党の直接的指導の下に置く新たな体制が確立された。
  
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この激動の中で、先の批評家会議で提起された理論的問題の多くは、新たな文脈の中に置き直されることとなった。特に「社会主義リアリズム」の概念が、一九三二年以後、ソヴィエト文学の基本的方法として公式に提唱されるに至った。
  
 私の故郷では羊肉を食べることはあまり流行っておらず、城中で一日に殺される山羊はせいぜい数匹だった。北京はまさに人の海で、事情はまるで違い、羊肉屋だけでも至る所に目につく。真っ白な羊の群れもしょっちゅう街を行くが、みな胡羊で、我々の方では綿羊と呼ぶものだ。山羊はめったに見ない。聞くところでは北京ではなかなかの名物で、胡羊より賢いので、羊の群れを率いることができ、みなその進退に従う。だから牧畜家は時折数匹飼うが、ただ胡羊の先導役として使うだけで、殺しはしない。
+
「社会主義リアリズム」の概念は、先の批評家会議で議論された「プロレタリア・リアリズム」の概念を発展させたものと見ることができる。しかし両者の間には、重要な差異がある。「プロレタリア・リアリズム」がもっぱらプロレタリア作家のための方法であったのに対し、「社会主義リアリズム」はすべてのソヴィエト作家の、つまりプロレタリア出身の作家のみならず、旧来の「同伴者」作家をも含めたすべての作家の、統一的な創作方法として提唱されたのである。
  
 こうした山羊を私は一度だけ見たことがある。確かに胡羊の群れの前を歩いており、首には小さな鈴がかけてあった。知識階級の徽章というわけだ。通常、率い追うのは牧人で、胡羊たちは長い列を成し、押し合いへし合い、浩々蕭々と、柔順この上ない目つきで、牧人に従って急ぎ足で自分たちの行く末を競い合っていた。私はこうした真剣で忙しそうな光景を見るたびに、いつも心の中で口を開き、彼らにこの上なく愚かな問いを発したくなった——
+
「社会主義リアリズム」の定義は、一九三四年の第一回全ソ作家大会における規約の中で、次のように述べられている。「社会主義リアリズムは、ソヴィエト芸術文学及び文学批評の基本的方法であり、芸術家に対して、現実をその革命的発展において、真実に、歴史的に具体的に描写することを要求する。しかもこの際、芸術的描写の真実性と歴史的具体性は、勤労者を社会主義の精神において思想的に改造し教育する任務と結合されなければならない。」
  
 「どこへ行くのだ?!」
+
この定義の中に、先の批評家会議で議論された諸問題が、新たな形で凝縮されていることは明らかであろう。現実を「その革命的発展において」描くという要求は、エルモラエフが論じた「発展の法則における現実の把握」という命題の発展である。「真実に、歴史的に具体的に」描くという要求は、プレハーノフ的な図式主義やフリーチェ的な社会学主義を排し、現実の具体的な認識を重視する立場の表現である。
  
 人の中にもこうした山羊がいて、群衆を率いて穏やかに平静に歩かせ、彼らが行くべき所に導くことができる。袁世凱はこの種のことをいくらか知っていたが、惜しいことにあまり巧みに使えなかった。おそらく彼はあまり読書せぬ人であったから、その奥義の運用に習熟できなかったのだろう。後の武人はもっと愚かで、ただ自分で乱暴に打ち切るだけで、哀号の声が耳に溢れるほど乱し、結果は百姓を残虐にする以外に、さらに学問を軽視し教育を荒廃させるという悪名まで加えた。しかし「一事を経て一智を長ず」、二十世紀はすでに四分の一を過ぎ、首に小さな鈴をかけた賢い人は、いずれ必ず幸運を手にするであろう。たとえ今は表面上まだいくらかの小さな挫折があるとしても。
+
こうして、一九三二年の批評家会議から一九三四年の作家大会に至る過程で、ソ連の文学理論は「社会主義リアリズム」という新たな段階に到達したのであった。この理論がその後いかに展開し、いかなる問題を提起したかは、ここでは述べる余裕がない。ただ、その出発点の一つが、ここに叙述した批評家会議にあったことを指摘するにとどめよう。
  
 その時、人々は、とりわけ青年は、みな規律を守り、騒がず、浮つかず、一心に「正道」を前進するであろう。ただし誰も問わなければ——
+
(一九三二年七月十日『文学評論』第一巻第二号所載。)
  
 「どこへ行くのだ?!」
+
=== 第68節 ===
  
 君子いわく——「羊はしょせん羊だ。長い列を成して従順に歩かなければ、ほかにどんな方法があるのか。豚を見たまえ。引きずられ、逃げ、叫び、暴れまわるが、結局はやはり行かねばならぬ所に捕まえられてゆく。あの暴動は力の無駄遣いにすぎぬ。」
+
【三】
  
 つまり、死んでも羊のように死ぬべきであり、天下太平、お互い楽だというわけだ。
+
さらに、この批評家会議に関連して、ソ連文学理論の現状を理解するために必要な若干の補足を加えておきたい。
  
 この計画は当然とても妥当で、大いに敬服に値する。しかし、猚を見たまえ。二本の牙をもって、老練な猟師すら退かせる。この牙は、豚が牧豚奴の作った豚小屋を脱出し、山野に入りさえすれば、じきに生えてくるのだ。
+
まず、ヴォロンスキー主義について。ヴォロンスキーは一九二〇年代初頭に『赤い処女地』誌の編集長として、ソ連文壇に大きな影響力を持った批評家である。彼の文学理論の核心は、芸術を「直覚的認識」の一形態と見なすことにあった。ヴォロンスキーによれば、芸術家は直覚を通じて現実の本質を把握する。この直覚は階級的に制約されたものではなく、芸術家個人の才能に属するものである。したがって、芸術の価値を階級的立場によって評価することは誤りであり、芸術は「階級外的」なものとして、その独自の基準によって評価されるべきだとヴォロンスキーは主張した。
  
 ショーペンハウアー先生はかつて紳士たちを豪猪に喩えた。思うに、これはいささか品位に欠ける。しかし彼にとっては当然何の悪意もなく、ただ引き合いに出して比喩にしたにすぎない。『パレルガとパラリポメナ』にはこういう意味の話がある——一群の豪猪が冬に互いの体温で寒さを凌ごうとして寄り集まったが、互いにたちまち棘の痛みを感じ、また離れた。しかし温もりの必要がふたたび近づけると、やはり同じ苦しみを受けた。この二つの困難の中で、ついに互いの適度な間隔を見出し、この距離で最も平穏に過ごせるようになった。人々は交際の欲求により集まり、各々の厭わしい性質と耐え難い欠点によりまた離れる。彼らが最後に見出した距離——集まることのできる中庸の距離が「礼譲」と「上流の風習」である。この距離を守らぬ者に対し、イギリスではこう言う——"Keep your distance"
+
この見解は、トロツキーの文学理論とも密接に結びついていた。トロツキーもまた、プロレタリア文学の可能性に否定的であり、ブルジョア出身の「同伴者」作家の芸術的優位を認めていた。ヴォロンスキーはこの立場をさらに推し進め、芸術の階級性そのものを事実上否定したのである。
  
 しかしたとえそう言っても、おそらく豪猪と豪猪の間でのみ有効であろう。なぜなら互いに距離を守るのは、痛みのためであって声のためではないからだ。もし豪猪たちの中に棘のない別の者が混じっていたら、どう叫んでも彼らはやはり寄ってくる。孔子曰く——礼は庶人に下さず。今の状況から見れば、庶人が豪猪に近づけないのではなく、豪猪が庶人を好き勝手に刺して温もりを得られるということらしい。刺されるのは当然だ。しかしそれはただ、お前だけが棘を持たず、相手に適当な距離を守らせるに足りないことを恨むべきだ。孔子はまた曰く——刑は大夫に上さず。これではまた、人々が紳士になりたがるのも無理はない。
+
ヴォロンスキー主義に対する批判は、すでに一九二〇年代半ばから、ラップを中心として展開されてきた。批判の要点は、ヴォロンスキーが芸術の階級性を否定し、文学の党派性の原則を無視していること、そして「同伴者」作家に対する無批判的な態度が、ブルジョア的影響に対する闘争を弱めていることにあった。
  
 これらの豪猪は、もちろん牙や角や棍棒で防ぐこともできる。しかし少なくとも、豪猪社会が定めた一つの罪名——「下流」あるいは「無礼」——を背負う覚悟をしなければならない。
+
次に、「文学戦線」派について。「文学戦線」派は、一九二〇年代後半にナ・ポストゥ(歩哨にあり)グループから分離した一派であり、その理論的立場は、いわゆる「壁新聞主義」と呼ばれるものであった。彼らは、プロレタリア文学の大衆化を極端に推し進め、工場の壁新聞や労働者通信員の文章こそが、最も純粋なプロレタリア文学であると主張した。専門的な作家による芸術的に高度な文学作品は、むしろブルジョア的残滓であり、プロレタリア文学はこのような「高尚な」芸術を排して、大衆の中から直接的に生まれるべきだとされた。
  
 +
この主張は、芸術の専門性と芸術的水準の問題を完全に無視しており、文学を政治的宣伝のための単なる道具に還元する危険を孕んでいた。ラップはこの傾向を批判し、プロレタリア文学は高度な芸術性を持つべきだと主張した。
  
 (一月二十五日。)
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「ペレヴァル」派は、ヴォロンスキーの影響を受けた作家グループであり、芸術の独自性と個人的創造性を強調した。彼らは、ラップのいわゆる「社会的注文」の概念や、文学の政治的統制に反対し、芸術的自由を擁護した。しかしこの立場は、実際には文学の党派性の原則を否定し、ブルジョア的個人主義への回帰を意味するものであった。
  
 +
以上のような諸傾向との闘争を通じて、ソ連の文学理論は次第にその輪郭を明確にしてきた。批評家会議は、この長い過程の一つの到達点であり、同時に新たな出発点でもあったのである。
  
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最後に、日本のプロレタリア文学運動との関連について、一言付け加えておきたい。日本のプロレタリア文学運動は、ソ連の文学理論から大きな影響を受けてきた。ソ連におけるプレハーノフ批判やフリーチェ批判は、日本の文学理論にも直接的な影響を及ぼすであろう。日本のプロレタリア文学の理論家も、ソ連の文学理論の発展に注目し、そこから学ぶべきものを学びつつ、同時に日本の独自の文学的現実に即した理論の構築に努めるべきであると思う。
  
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=== 第69節 ===
  
【手紙ではない】
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ルナチャルスキーの文学理論についても、会議では一定の批判が行われた。ルナチャルスキーは、革命後のソ連において人民教育委員長として文学政策を統括した人物であり、その文学理論はソ連の文学運動に大きな影響を与えた。
  
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ルナチャルスキーの理論の特徴は、芸術の感情的・情緒的側面を重視する点にあった。彼は芸術を主として感情の領域に属するものと見なし、芸術の認識論的機能よりも、その感情的・宣伝的機能を強調した。この点で、ルナチャルスキーの理論はエンピリオクリティシズム的な色彩を帯びていた。レーニンは、かつてルナチャルスキーのこの傾向を批判したことがある。
  
=== 第5節 ===
+
しかしルナチャルスキーの功績は、革命後の文学政策において、芸術的多様性を尊重し、プロレタリア文学の独占的支配に反対した点にある。彼は「同伴者」作家に対しても寛容な態度をとり、芸術的自由の一定の保証を図った。この態度は、後にラップから「腐敗した自由主義」として批判されることになるが、文学の発展にとって一定の積極的意義を持っていたことは否定できない。
  
ある友人が突然私に『晨報副刊』を一枚送ってきた。何か特別な用があるのだと感じた。彼は私がこの手のものを読むのを面倒くさがることを知っているからだ。しかしわざわざ送ってきた以上、まず題名だけでも見てみよう。「下記の一束の通信について読者諸氏へ」。署名は志摩。ははは、これは冗談で送ってきたのだな、と思った。急いで裏返すと、数通の手紙があり、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ。数行読んでようやく、どうもまだ「閑話……閑話」問題のようだとわかった。この問題について私がわずかに知っているのは、新潮社で陳源教授すなわち西滢先生の手紙を見たことだけで、そこには私が「捏造した事実、散布した『流言』は、もとより言い尽くせぬほどだ」と書いてあった。思わず可笑しくなった。人は自分の魂を味噌に刻めないのが苦しい。だから記憶を持ち得るし、感慨や滑稽も生ずるのだ。思い出せば、「流言」を根拠にして楊蔭楡事件すなわち女子師範大学の紛争を裁いた最初の人こそ、この西滢先生であった。その大論文は去年五月三十日発行の『現代評論』に載っている。私はよりによって「某籍」に生まれ「某系」で教えているので、「陰で紛争を煽っている」者に分類されてしまった。もっとも彼はまだ信じないと言い、ただ惜しいと感じているとのことだった。ここで読者の誤解を防ぐために一言述べておく。「某系」とはおそらく国文系のことで、研究系のことではない。あの時私は「流言」の二字を見て、とても憤り、ただちに反駁した。もっとも「十年読書し十年気を養う功夫」がないのは恥ずかしいが。ところが半年後、これらの「流言」は私が散布したものに変わっていた。自分で自分の「流言」を造る。これは自分で穴を掘って自分を埋めるようなもので、聡明な人はおろか、愚か者でも思いつくまい。もしこの度のいわゆる「流言」が「某籍某系」に関するものではなく、「流言」を信じない陳源教授自身に関するものだというなら、私は陳教授にどのような捏造された事実や流言が社会に出回っているのか、まったく知らない。言うのも恥ずかしいが、私は宴会にも行かず、往来も少なく、奔走もせず、文芸学術の社団も結んでおらず、まことに事実を捏造し流言を散布する枢軸としては不向きである。ただ筆を弄ぶことは免れ得ないが、流言を根拠にして故意に散布するようなことはせず、たまに「耳食の言」があっても大抵は大した事ではない。もし誤りがあれば、たとえ月日が経とうとも、追って訂正することを厭わない。たとえば汪原放先生の「すでに故人となった」一件のごとく、ほとんど二年近くも隔ててのことであった。——もっともこれは『熱風』を読んだ読者に対してのみ言えることだ。
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会議では、ルナチャルスキーの理論の哲学的基礎にあるエンピリオクリティシズム的要素が批判され、芸術を感情の領域に還元することの誤りが指摘された。芸術は感情的要素を重要な構成部分として含むが、芸術の本質は単なる感情の表出にあるのではなく、形象的思惟を通じた現実の能動的認識にある。この点がレーニン的文学理論の核心であり、ルナチャルスキーの理論が克服されるべき所以であると、報告者たちは論じた。
  
 このところ、私の「捏……言」の罪案は、まるで曇花一現のようだ。「一束の通信」の主要部分にも、どうも私を「流」し込んではおらず、ただ後ろの「西滢から志摩へ」が付帯的な私への専論で、同じ案件ではないのに親族関係で滅族されるか、文字の獄の株連のようなものだ。滅族だ、株連だ、とはまたいささか「刑名師爺」の口吻だが、これは事実であり、法家はただそれに名をつけただけで、いわゆる「正人君子」は口にはしないが、実行することは厭わない。そのほか、甲が乙に対してまず流言を用い、後になって乙が流言を造ったと言うような類の事を、「刑名師爺」の筆は「反噬」の二字に簡括する。ああ、まことに痛快淋漓に形容したものだ。しかし古語に曰く、「淵の魚を察見する者は不祥」と。だから「刑名師爺」は良い結末を迎えぬものだ。これは私がとうに知っていることである。
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以上、ソ連の文学理論及び文学批評の現状について、主として第一回ラップ批評家会議を中心に叙述してきた。ここに見られるように、ソ連の文学理論は現在、重要な転換期にある。プレハーノフ=フリーチェの理論からレーニン的文学理論への移行、これが現在の基本的課題であり、この移行は、単なる理論上の問題にとどまらず、ソ連の文学運動全体の方向を規定するものなのである。
  
 私にあの『晨報副刊』を送ってくれた友人の意図を推察してみた——私を刺激するためか、嘲笑するためか、通知するためか、それとも私にも一言言わせようとしたのか。ついにわからなかった。よし、ちょうど今は筆の借りを返さねばならぬところだから、この少々の事で一つお茶を濁そう。話をするのに最も便利な題は「魯迅から□□へ」だが、学理と事実に基づく論文でもなく、「にこにこ」した天才の風刺でもなく、私信にすぎないのであって、自ら発表する気などない。何と言われようと、糞坑だろうと便所だろうと、「人気」とは断じて無関係である。そうでなくとも、怒りで発熱したのであり、他人に逼られてそうなったのだ。ちょうど他の副刊が『晨報副刊』に「逼死される」のと同じだ。私の鏡は本当に憎らしく、映し出すのはいつも陳源教授を嘔吐させるものばかりだが、趙子昂——「彼だったか?」——が馬を描いた話を例にすれば、当然恐らくそれは私自身なのだ。自分のことなどどうでもよいが、せめて□□のことは考えてやらねばならぬ。さて「西滢から志摩へ」の話をしようとすると、これは極めて危険なことで、一歩誤れば「泥沼」に落ち、「怒りっぽい犬」に出くわし、しばらくは「にこにこ」した顔が見えなくなる。少なくとも、陳源の二字に触れれば、公理家から「某籍」「某系」「某党」「手下」「女を重んじ男を軽んず」等々と見なされずにはいられない。しかも誰かが彼を文士だ、フランスだと言ったことがあれば、二度と「文士」や「フランス」の字面を使ってはならない。さもなくば——当然、また「某籍」……等々の嫌疑がかかる。私がなぜ無辜の者をかくも陥れねばならぬのか。「魯迅から□□へ」は使わぬことに決めた。だからここまで書いてもまだ題名がない。まあ書き進めてから考えよう。
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日本のプロレタリア文学運動も、この転換に無関心ではいられない。ソ連の文学理論の発展から学び、同時にそれを日本の文学的現実に即して消化し、独自のマルクス主義的文学理論を構築すること。これが我々に課せられた任務であると、私は考える。
  
 私は先ほど「事実を捏造」していないと言ったばかりではないか。ところがあの手紙では例を挙げている。私が彼を「楊蔭楡女史と親戚か友人の関係にあり、しかも彼女の酒宴をたらふく食べた」と言ったというのだが、実はどちらも違う。楊蔭楡女史が宴会好きなことは私も言ったし、ほかの人も言ったかもしれず、新聞にも見えることがある。今の一部の論客は自ら中立を標榜するが、実は偏っており、あるいは当事者と親戚、友人、同窓、同郷……などの関係があったり、酒宴のお相伴にあずかっていたりする。これも私は言ったことがある。これは明々白々ではないか。新聞社が補助金を受け取っていることは同業者間でも互いに暴露し合ったが、それでもみな自ら公論と称している。陳教授と楊女史が親戚であり酒宴を食べたというのは、陳教授自身が結びつけたのであって、私は酒宴を食べたとも言っていないし、食べなかったとも保証できない。親戚だとも言っていないし、親戚でないとも保証できない。おそらく同郷にすぎないのだろうが、「某籍」でさえなければ、同郷だからといって何の問題があろう。紹興に「刑名師爺」がいるから紹興人はみな「刑名師爺」だという論理は、紹興の人にだけ適用されるものだ。
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(一九三二年八月十日『文学評論』第一巻第三号所載。)
  
 私は時として一般的状況を論じて、思いがけず他人の傷跡に触れることがあり、これはまことに申し訳ないことだ。しかしこれは補救のしようがない。私が本当に十年読書十年養気をして、人に騙されて老い死にするか、自ら甘んじて倒れるか、陰謀に遭うかしない限りは。たとえば上述のように、彼らが親戚だと言ったのは私ではないと説明しても、名詞を列挙しすぎたので、「同郷」の二字だけでも人の「怒り」を招くに足り、自分が「流言」中の「某籍」の二字に憤ったことを思えばわかることだ。こう見ると、今度の「叭児狗」(『莽原半月刊』第一期)の件も、きっとまた私が彼自身を指して「怒りっぽく」しているのだと推測する者がいるだろう。実は私はただ一般論として、社会にこの動物に神似した人がいると言い、だからこそその主人——金持ち、宦官、奥方、令嬢——のことを多く語ったのだ。これで私が一般論を述べていることがわかるはずだと思ったのだが。今の名流に宦官について行く者などいるはずがないではないか。しかし一部の人はやはりこの一点を見落とし、各々その中の主人の一人を特定して、「叭児狗」を自認するであろう。時勢はまことに困難で、私はもっぱら上帝のことだけを語って初めて危険を免れ得るらしいが、それは私の得意とするところではない。しかし、もしあるのが暴戻の気ばかりなら、存分に発散させるがよい。「一群の怒りっぽい犬」が背後にいようと、正面にいようと。何の気であれすべてを心に秘め、顔も筆も「にこにこ」しているのは極めて見目よいことだと知っている。しかし掘れば、小さな穴を一つ掘るだけで、何の気もみな出てくる。しかしこれこそが本当の顔なのだ。
+
=== 第70節 ===
  
 第二の罪案は「近い例」で、陳教授がかつて「図書館の重要性を一般論として」述べた際、「孤桐先生が下野前に発表した二篇の文章では、この一点は『彼は見落としたようだ』」と言ったのだそうだ。私はそれをさらりと「聞くところでは孤桐先生はこの一点に思い至り、文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい」と改めたのだという。しかも問う。「お前は見たか、あの刀筆吏の筆先を。」「刀筆吏」に漏れはないはずだが、私は陳教授の原文と合わないので罪案となり、あるいは「刀筆吏」の名に値しないということになろう。『現代評論』はとうに手元になく、全文は確認できないが、今回の言葉に基づいて謹んで訂正する。「聞くところでは孤桐先生は下野前に発表した文章でもこの点を思いつかなかったらしい。今はまた下野してしまい、当面は補救の仕様がなく、まことに惜しい」と。ここで付言するが、私の文章では大体、他人の原文は引用符を使い、大意は「据説(聞くところでは)」を使い、耳にした「流言」に類するものは「听说(聞くところでは)」を使っており、『晨報』の大将の文例とは異なる。
+
附記。この原稿を書いた後に、二三の補足すべき事柄が生じたので、ここに追記する。
  
 第三の罪案は、私が「北京大学教授兼京師図書館副館長、月給少なくとも五、六百元の李四光」と言ったことについてで、聞くところでは一年間の休暇願いを出しており、休暇中は給与を受けず、副館長の月給は二百五十元にすぎないという。別の『晨副』には本人の声明もあり、話はほぼ同じだが、月給は確かに五百元で、ただ「二百五十元しか受け取っていない」、残りは「図書館にある種の書籍の購入のために寄付した」とのことだ。そのほか私に多くの忠告をくれたが、これには大変感謝する。ただし「文士」の称号はお返しする。私はこの類には属さない。ただ私は思う。休暇と辞職は違い、給与の有無にかかわらず、教授はやはり教授である。これは「刀筆吏」でなくともわかることだ。図書館の月給については、李教授(あるいは副館長)が現在毎月「二百五十元しか受け取っていない」のは確かだと信じる。それは米国側のものだ。中国側の半分は、いつ支払われるか本当にわからない。しかし未払いも結局は金であり、他の人の兼任はたいてい未払いで、半分の現金すらないのだが、とうに一部の論客の口実となっている。もっともその欠点は早く寄付しなかったことにある。思うに、もし今後毎月必ず支給されるなら、学校の未払い給与と比較して、中国側の半分は来年の正月には出るであろう。教育部の未払い俸給と比較するなら十七年の正月を待たねばならぬ。その時書籍を購入したら、私は必ず訂正する。まだ「官僚」をしていれば、の話だが。容易に知り得ることであり、自分にはまだそれだけの記憶力があると自負する。少なくとも今年のことを来年忘れるほどではない。しかし、もしまた章士釗たちに首にされたら、訳がわからなくなり、訂正の件も取り止めにするほかない。しかし私の述べた職名と金額は、今日においては事実である。
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第一に、ローゼンタールの報告に対するその後の議論について。ローゼンタールの報告は、その後も『文学新聞』その他の紙面で議論の対象となった。特に問題となったのは、ローゼンタールが芸術の認識論的特質を強調するあまり、芸術の実践的・組織的機能を軽視する傾向があるのではないかという批判であった。
  
 第四の罪案は……。陳源教授曰く「よし、もう例を挙げない。」なぜか。おそらく「もとより言い尽くせぬほど」であるか、あるいは「筆の論戦の際、多く書き、下品に罵り、新奇に捏造した方が理がある」という悪習を矯正するためであろう。だから三つの例で全般を概括したのであり、ちょうど中国の芝居で四人の兵卒が十万の大軍を象徴するのと同じだ。この後は結びに入り、漫罵——「正人君子」にはきっと別の名称があるだろうが、私は知らないので暫くこの「下流」の者たちの行為に冠する言葉を使う——となった。原文はまさに「正人君子」の真相の標本になり得るもので、削除するのは惜しい。剥がして後ろに貼り付けよう——
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レーニンの認識論では、認識と実践とは弁証法的に統一されている。認識は実践に基づき、実践によって検証される。同様に、芸術も現実の認識であると同時に、現実を変革する実践的力でなければならない。芸術は人々の意識を変え、行動に影響を及ぼす。この実践的機能を無視して、芸術の認識論的側面のみを強調するならば、それは一面的であるとの批判があった。
  
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第二に、エルモラエフの報告に関連して、「ロマンティシズムとリアリズムの統一」の問題が、より具体的に論じられるようになった。ゴーリキーは、プロレタリア文学は「革命的ロマンティシズム」を含むべきだと主張した。現実をその発展において把握するということは、単に現在ある姿をそのまま描くのではなく、未来への展望を含めて描くことでもある。この未来への展望、現実を変革しようとする意志と熱情、これこそが革命的ロマンティシズムの内容であり、リアリズムとの弁証法的統一において、プロレタリア文学の独自の特質を構成するのだとゴーリキーは説いた。
  
 「ある人が私に言った。魯迅先生に欠けているのは大きな鏡であり、だから自分の尊顔が永遠に見えないのだと。私は彼は間違っていると言った。魯迅先生がこうなのは、まさに大きな鏡を持っているからだ。趙子昂——彼だったか?——が馬を描いた話を聞いたことがあるだろう。ある姿勢を描こうとすると、鏡に向かって伏せてその姿勢を取ったのだ。魯迅先生の文章も自分の大きな鏡に向かって書いたもので、人を罵る言葉で自分に当てはまらないものは一つもない。信じないなら賭けてもよい。」
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この「社会主義リアリズム」と「革命的ロマンティシズム」との関係については、その後もなお多くの議論が重ねられることとなる。
  
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第三に、日本のプロレタリア文学運動に直接関連する事柄として、ナップ(日本プロレタリア作家同盟)の解散とコップ(日本プロレタリア文化連盟)の改組が行われた。これは、ソ連におけるラップの解散と並行する動きであるが、日本の場合には、天皇制権力による弾圧という外部的条件がこれに重なっている。
  
 この段の意味は明瞭である。すなわち、私が馬を書けば自分が馬であり、犬を書けば自分が犬であり、他人の欠点を言えば自分の欠点であり、フランスと書けば自分がフランスであり、「臭い便所」と言えば自分が臭い便所であり、他人と楊蔭楡女史が同郷だと言えば自分が彼女と同郷だということだ。趙子昂もまことに可笑しい。馬を描くなら本物の馬を見ればよいのに、なぜわざわざ畜生の姿勢を取るのか。彼は結局人間であり、馬の類に堕ちなかったのは僥倖というものだ。もっとも趙子昂も「某籍」だから、これもおそらく一種の「流言」かもしれず、自作か、あの頃の「正人君子」が造ったものかわからない。これは根拠のない噂にすぎないとしか言えない。もし陳源教授のごとく真に受けて自分も同じようにすれば、フランスと書く時は座ってフランスの姿勢を取り、「孤桐先生」を論じる時は立って孤桐の姿勢を取るのは、まだ堂々としていよう。しかし「糞車」を論じる時には伏せて糞車に化け、「便所」と言えば寝返りを打って便所を務めねばならず、お高い態度もいささか失われるのではないか。たとえ腹の中がもともとこの類のもので満ちていたとしても。
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日本のプロレタリア文学運動は、いま極めて困難な状況にある。しかしこの困難の中にあってこそ、正しい理論的武装が必要なのであり、ソ連の文学理論の発展から学ぶことの意義は、かえって大きいと言わねばならない。
  
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ただし、ここで重要なのは、ソ連の理論をそのまま機械的に日本に移し植えることではなく、日本の独自の歴史的・社会的条件を踏まえた上で、これを創造的に摂取し消化することである。日本の文学は、日本語という独自の言語的条件の上に成り立っており、日本の社会の独自の構造と矛盾に規定されている。これらの独自性を無視して、ソ連の理論をそのまま適用することは、教条主義に他ならない。
  
=== 第6節 ===
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我々は、マルクス=レーニン主義の普遍的原理を堅持しつつ、同時にこれを日本の具体的現実に創造的に適用する道を模索しなければならないのである。
  
これは三つの例と一つの趙子昂の話に基づいた結論である。実のところ、他人を「文士」と呼ぶのも私は笑うし、私を「思想界の権威者」と呼ぶのも私は笑う。しかし歯は「笑い落とした」のではなく、「殴り落とされた」のだそうで、その方が彼らの溜飲を下げるのだろう。「思想界の権威者」云々は、夜の夢の中でさえなろうと思ったことはない。あいにく「鼓吹」する人とは面識がなく、止めるよう勧めることもできない。示し合わせた二人芝居の友人のように互いに目配せすることもできぬ。まして自然と「文士」たちが罵り倒してくれるのだから、自分で骨を折る必要もない。私もこうした肩書きで金儲けや立身出世をしようとは思っていない。肩書きがあっても実利上は何の得にもならないのだ。私もかつて反駁したことがある——しかし実際の日本語訳は長文のため、以下要約する。
+
=== 第71節 ===
  
 陳源教授は私に対する他の様々な批判を展開する。私が他人を「冷箭を放つ」と罵りながら自分こそが冷箭を放っているとか、「流言を散布し」「事実を捏造する」と他人を罵りながら自分こそがそうしているとか、理由なく人を罵り、相手が怒ると「ユーモアがない」と言い、自分が少しでも触れられれば天まで跳び上がって罵り尽くしても気が済まないとか。これらの非難に対し、私は自らの立場と方法について弁明する。「文士」の称号にも笑い、「思想界の権威者」の称号にも笑う。しかし歯が「笑い落ちた」のではなく「殴り落とされた」のだそうで、その方が彼らは快いのだろう。
+
以上をもって、ソ連の文学理論及び文学批評の現状についての叙述を終える。
  
 「叭児狗」についても述べた。これは一般論であり、社会にこの動物に似た人間がいると述べただけで、だからこそその飼い主——金持ち、宦官、夫人、令嬢——について多く語った。これで一般論とわかるはずだ。今の名流に宦官に従う者などいないではないか。しかし一部の人はこの点を見落とし、飼い主の一人を特定して「叭児狗」を自認するのだろう。時勢は困難であり、上帝についてだけ語れば危険を免れ得るかもしれないが、それは私の得意ではない。暴戻の気があるなら存分に発散させるがよい。「怒りっぽい犬の群れ」が背後にいようと正面にいようと。何もかも心に秘め、顔も筆も「にこにこ」させるのは美しいことだが、少しでも掘れば何もかも出てくる。しかしそれこそが真の顔なのだ。
+
最後に、一つの根本的な問題に触れておきたい。それは、文学理論と創作実践との関係の問題である。
  
 +
文学理論は創作実践から生まれ、創作実践によって検証される。しかし同時に、文学理論は創作実践を導き、その発展の方向を指示する。この両者の弁証法的な相互関係を正しく理解することが、今日の文学運動にとって最も重要な課題の一つであると考える。
  
=== 第7節 ===
+
理論が実践から遊離すれば、それは空虚な教条に堕する。実践が理論的自覚を欠けば、それは盲目的な経験主義に陥る。理論と実践との生きた統一、これこそが我々の目指すべきものである。
  
李四光教授はまず私に「十年読書し十年気を養え」と勧めた。紳士の言葉をもう一つ返そう——御厚意は感謝する。本は読んだ。十年以上も。気も養った。十年には満たないが。しかし読んでもうまく読めず、養ってもうまく養えなかった。私は李教授がとうに「豺虎に投ずべし」と認めた者の一人であり、今さら穏やかに訓戒する必要はないはずだが、「人に無辜の累を及ぼす」などと言うのは、本当に自分を「公理」の化身だと思い、これほどの大罰を宣告した後、なお天恩に叩頭せよと言うのか。さらに李教授は、私に「東洋の文学者の風味がとりわけ充分で……だからいつも骨まで露わに書き尽くさねば興が済まない」と考えている。私自身も……(以下、魯迅は自らの文筆姿勢について弁明し、東洋と西洋の文学的慣習の違いに触れ、自分の率直な筆致を擁護する長い論述を展開する。また陳源教授や李四光教授ら「正人君子」たちの偽善を痛烈に批判し、学界の権力構造と言論の自由について論じる。)
+
ソ連の文学理論は、この統一を目指して苦闘している。その苦闘の過程で、多くの誤謬も犯されたし、今なお多くの未解決の問題が残されている。しかし、この苦闘そのものの中にこそ、マルクス=レーニン主義的文学理論の生命力が示されているのではないだろうか。
  
 +
(一九三二年九月 東京にて)
  
=== 第8節 ===
+
(一九三二年十月十日『文学評論』第一巻第四号所載。)
  
西滢教授曰く、「中国の新文学運動はまだ萌芽の段階にあるが、いくらかの貢献をした人々、たとえば胡適之、徐志摩、郭沫若、郁達夫、丁西林、周氏兄弟等はみな他国の文学を研究したことのある者たちだ。とりわけ志摩は思想の面ばかりでなく、体裁の面においても、彼の詩と散文にはすでに中国文学にかつてなかった一種の風格がある。」(『現代』六三)
+
=== 第72節 ===
  
 転写は面倒だが、中国の現今の「根のある」「学者」と「とりわけ」の思想家及び文人は、かくして互いに選び出されたわけだ。
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いわゆるカフカの現象について。カフカの作品が問題になっているのは、彼が独特の文学的方法によって、現代の人間の不安と疎外の感覚を形象化したからである。
  
 +
カフカの主要な長篇小説『審判』と『城』は、いずれも主人公が理解し得ない巨大な権力に翻弄される物語である。『審判』では、銀行員ヨーゼフ・Kがある朝突然逮捕の通告を受けるが、自分がいかなる罪を犯したのか、誰が自分を裁くのか、まったく分からない。『城』では、測量士として招かれたはずのKが、城にたどり着くことができず、村の官僚機構の迷路の中を彷徨い続ける。
  
 8
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これらの作品に共通するのは、個人が巨大な匿名の権力の前に無力であるという感覚であり、世界は不条理で理解不能であるという認識である。人間は自己の運命を支配できず、理由も分からぬまま翻弄される。これは二十世紀の人間の根本的な不安の表現であると、多くの批評家が指摘している。
  
 +
しかし問題は、このような文学をいかに評価するかということである。マルクス主義的文学理論の立場からすれば、カフカの作品は資本主義社会における人間の疎外の表現として、一定の認識的価値を持つ。しかし同時に、カフカの世界観には根本的な限界がある。それは、疎外の根源を社会的・歴史的条件に求めるのではなく、人間の存在そのものの不条理として把握する点にある。
  
 志摩先生曰く(以下、魯迅は徐志摩の言葉を引用し、当時の文壇論争について詳細に論評する。陳源教授を擁護する志摩の態度を批判しつつ、知識人間の派閥争いと相互弁護の構造を鋭く分析する。「正人君子」たちの互選・互賛の閉鎖的な文壇構造を暴き、真の文学批評と単なる派閥的追従との違いを論じる。さらに、自分への攻撃が「某籍」「某系」という出身地と所属に基づくものであることを指摘し、こうした偏見に基づく人物攻撃の不当性を訴える。彼は結びとして、文壇の「正人君子」たちの裏の顔と表の顔の乖離を痛烈に風刺し、真摯な文学的議論の必要性を強調する。)
+
カフカにとって、疎外は超歴史的な、形而上学的な現象であり、したがって社会的変革によっては克服し得ないものとされる。これは、ブルジョア知識人の絶望の表現であり、歴史的楽観主義を本質とするマルクス主義とは根本的に対立する世界観である。
  
 +
とはいえ、カフカの作品の芸術的力量を否定することはできない。彼の独特の文体、夢と現実の境界を消し去る叙述法、不条理な状況の中で平然と振る舞う人物たちの描写は、二十世紀の文学に大きな影響を与えた。
  
=== 第9節 ===
+
文学の評価にあたっては、作品の世界観的限界と芸術的成果とを弁証法的に統一して把握することが必要である。カフカの世界観を批判しつつ、その芸術的方法から学ぶべきものを学ぶ。これが正しい態度であろう。ここにもまた、先の批評家会議で提起された問題、すなわち芸術の認識論的独自性と社会的規定性との弁証法的統一という根本問題が、具体的な形で現れているのである。
  
真の猛士は、敢えて惨澹たる人生に直面し、敢えて淋漓たる鮮血を正視する。これはいかなる哀痛の人であり、いかなる幸福の人であろうか。しかるに造化は常に庸人のために設計し、時間の流駛をもって旧き跡を洗い流し、ただ淡紅の血色と微漠な悲哀だけを残す。この淡紅の血色と微漠な悲哀の中で、また人に偸生を得しめ、この似人非人の世界を維持せしめる。私はこのような世界にいつ果てがあるのか知らない!
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(一九三二年十二月 東京にて)
  
 我々はまだこのような世の中に生きている。私もとうに何か書く必要を感じていた。三月十八日からすでに二週間が経ち、忘却の救い主はまもなく降臨するであろう。私にはまさに何か書く必要がある。
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(一九三三年二月十日『文学評論』第二巻第一号所載。)
  
 +
=== 第73節 ===
  
 三
+
プロレタリア文化会社というこの名目のもとに、ここに参じた同志諸君は、他の思想に対して、その思想の作家たちがプロレトクリトの集団にいかなる態度を示すかによって、自らの態度を決定しているのである。これは私自身の運命から見て、すでに明らかなことである。文学に関する私の書物は、最初、覚えておられる方もあろうが、論文の形式で『プラウダ』紙上に発表された。この書は二年の歳月を費やし、私は二度の休養期間中に書き上げた。この事はたちまち明白となった——我々の関心の中心たる問題にとって意義あるものであると。フイユトン(評林)の形式で、この書の第一部、すなわち十月革命以外の文学的「同伴者」と農民作家を批判する部分、「同伴者」たちの芸術的・思想的立場の狭隘と矛盾を暴露する部分が現れた時、その時「ナポストゥの人々」は私を盾として振り回し、いたるところ私の「同伴者」論からの引用で溢れた。しばしの間、私はひどく憂鬱であった。(笑い。)私の「同伴者」評価について、もう一度申し上げるが、おおむね誤りはないと皆が考え、ワルジン自身も反対しなかった。(ワルジン、「今も反対していない。」)私はまさにこの事を言おうとしているのだ。しかし、そうであるなら、なぜ今になって間接的に、曖昧に、「同伴者」について議論を持ち出すのか。これは一体いかなる理由によるのか。一見しただけでは全く理解できぬ。しかし説明はきわめて簡単である。私の罪は、「同伴者」の社会性や彼らの芸術の意義を不当に決定したことにあるのではない——同志ワルジンが今も「今も反対していない」と言うのを我々は聞いた——私の罪は、「十月」や「鍛冶場」の宣言に敬意を表さず、これらの企図においてプロレタリア芸術的利益の独占的代表権を認めなかったことにある——一言で総括すれば、私の意見は、階級の文化史的利益と課題を個々の文学団体の企図・計画・要求と同一視しない、ゆえに間違いだというのである。私の罪はここにある。この事が明白になった時、時機を逸したがゆえに、思いがけぬ叫び声が上がった。トロツキーは——小ブルジョアの「同伴者」を助けている、と!私は「同伴者」にとって、助力者なのか敵なのか。いかなる意味において助力者であり、またいかなる意味において敵であるのか。これは諸君が二年前に私の「同伴者」論を読んで、すでに了解されたことであろう。しかるに諸君はその時は賛成し、称賛し、引証し、喝采した。ところが一年後、私の「同伴者」批評が、単に現在の修業時代のある文学団体を擁護するためのものでないと知るや、その団体、あるいはより正確に言えば、これらの団体の文学者たちと弁護者たちは、私の「同伴者」に対する、あたかも不当であるかのような態度について理由を捏造したのである。ああ、戦略よ!私の罪は、ピリニャークやマヤコフスキーを偏頗に評価したことにあるのではない——この点について「ナポストゥの人々」は何も付け加えず、ただ無思慮に繰り返すのみである——私の罪は、彼らの文学的宣言を足先に引っ掛けたことにある。しかり、文学的宣言よ!彼らの挑発的批評には、いかなるところにも階級的態度の影すらなく、そこにはただ競争する文学団体の態度があるばかり——これに尽きる。
  
 +
私は「農民作家」を論じた。そしてここにおいて、我々は「ナポストゥの人々」がこの章をとりわけ称賛するのを聞いた。ただ称賛するだけでは不十分で、理解せねばならぬ。この際、農民作家の「同伴者」とは何の意味か。問題は、この現象が決して偶然でもなく、小事でもなく、たちまち消失するものでもないことにある。我が国において、プロレタリアートの独裁は、おおむね農民の住む国土において行われている。この一点を忘れないでいただきたい。この二つの階級の間に介在する知識階級は、ちょうど石臼の間に挟まれたもののごとく、次第に磨り潰されつつ、また生じてくるのであって、完全に消滅するまで磨り潰すことはありえない。すなわち、なお「知識階級」として、長く自らを保存しつつ、社会主義の完全な発達と国内全住民の文化の最も顕著な向上を見届けるまで存続するのである。知識階級はおそらく勤労農民の王国に奉仕し、プロレタリアートに対しては、一部は恐怖によって、一部は良心によって服従し、情勢の変化に応じて幾度も動揺を繰り返すであろう。そして動揺するたびに農民の内部に思想的支柱を求める——ここから農民作家のソヴィエト文学が発生するのである。この予想はいかがであろうか。これは我々にとって根本的に敵対的なものか。この道は我々のほうへ来るものか、それとも我々のほうから去るものか。それは発展の大体の過程がいかなるものかによって決せられる。プロレタリアートの任務は、農民階級への統制権を保持しつつ、彼らを社会主義へ導くことにある。もし我々がこの道において失敗したなら、すなわちプロレタリアートと農民階級の間に亀裂が生じたなら、その時は農民作家的知識階級も同様に、全知識階級の九十九パーセントがプロレタリアートに反逆するであろう。しかしこのような結果は、いかなる場合にも生じないであろう。なぜなら我々はまさにプロレタリアートの指導のもとに農民階級を社会主義へ導く方針を採っているからである。この道ははるかに長い。この過程において、プロレタリアートと農民階級は各々自らの新たな知識階級を分出するであろう。プロレタリアートの内部から分出された知識階級が、すべて十全なプロレタリア的知識階級であるとは思わぬがよい。農民的知識階級においては、なおさらである。農民階級の社会主義への道は、プロレタリアートの道とは全く異なる。およそ知識階級は、たとえ正真正銘のソヴィエト的知識階級であっても、自らの道をプロレタリア前衛の道と一致させるまでには、なお引き続き努力を要するであろう。旧い国民主義的伝統がなお残存する我が国の文芸においては、なおさらである。これは我々の助力者であるか、それとも敵対者であるか。繰り返して言おう。その回答は、全く発展の今後のあらゆる歩みのいかんに属する。もし農民をプロレタリアの曳船に乗せて社会主義へ引き寄せるならば、農民作家の創作もまた、複雑な屈曲の道を経て、未来の社会主義芸術に合流するであろう。この問題の複雑さ、そしてそれと同時にその複雑さの現実性と具体性を、「ナポストゥの人々」のみならず、まったく理解していないのである。彼らの根本的な謬誤はここにある。この社会的基礎と予想を顧みずして「同伴者」を論ずるのは、ただの空論にすぎない。
  
 四十余名の犠牲となった青年の中で、劉和珍君は私の学生であった。学生と言えば、私はこれまでずっとそう思い、そう言ってきたが、今は少し踊躇を覚える。私は彼女に対して悲哀と尊敬を捧げるべきだ。彼女は「かろうじて今日まで生き延びた私」の学生ではない。中国のために死んだ中国の青年なのだ。
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同志諸君、文学の領域における同志ワルジンの戦術は、「ナポストゥ」の彼の最近の論文を基礎としているが、なおいくつかの言葉を述べることをお許し願いたい。私に言わせれば、あれは戦術ではなく、中傷である!その調子は驚くほど傲慢であり、知識と理解はまことに乏しい。芸術の、すなわち人類の創造という特殊な領域としての芸術の理解がない。芸術発達の条件と方法についてのマルクス主義的理解もない。しかし外国の白党機関紙からの引用という見苦しい手品はある。同志ワルジンの最近の論文の論拠は、白党の新聞がヴォロンスキーの文学的見地を評価したという事実にある。しかしこれは低級な中傷であって、問題の分析ではない。芸術に対しては芸術に対するように、文学に対しては文学に対するように、すなわち人間的創造のまったく特殊な領域に対するように接近せねばならぬ。芸術的に読み書きできる有産者が、芸術的・階級的基準によらず、間接的・政治的告発の見地から芸術に接近するワルジンを尊敬しないのは、何の不思議があろう。
  
 彼女の名前を私が初めて見たのは、去年の夏の初め、楊蔭榆女史が女子師範大学の学長として学内の六名の学生自治会役員を除名した時であった。その一人が彼女だった。しかし私は面識がなかった。後になって——おそらくすでに劉百昭が男女の武将を率いて学生を強制的に連れ出した後であったろう——誰かが一人の学生を指して、「これが劉和珍だ」と教えてくれた。その時初めて名前と実体を結びつけることができたのだが、心の中では密かに驚いた。私はふだん、権勢に屈せず、多くの味方を持つ学長に抵抗する学生は、いずれにせよ、いくらか傲岸鋭利なはずだと思っていた。しかし彼女はいつも微笑んでおり、態度はとても温和であった。宗帽胡同に偏安し、家を借りて授業を行うようになってから、彼女は初めて私の講義を聴きに来た。それから顔を合わせる回数が増えたが、やはり終始微笑んでおり、態度はとても温和であった。学校が旧観に復し、かつての教職員が責任を果たしたと考え、続々と引退する準備をしていた時、初めて彼女が母校の前途を案じ、暗然として涙を流すのを見た。その後はもう会わなかったようだ。つまり、私の記憶では、あの時が永遠の別れであった。
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芸術に対しては、政治に対するように接近してはならない——これは芸術創造が神聖だからではなく、それが独自の手法と方法を持つからであり、芸術創造において意識下の過程が重大な役割を演じているからである。ピリニャークの作品のうち、共産主義により近いものは、政治的に我々からより遠い彼の作品と比較して力が弱い。これはピリニャークが合理主義的な計画において、芸術家としての自己を追い越したからである。我々の前に立つのは、個人的ではなく階級的・社会的転換の課題であり、この過程は長期間にわたりきわめて複雑である。プロレタリアートの圧倒的多数が文化的にきわめて後進的であることを忘れてはならない。芸術は、階級とその芸術家たちとの間の不断の生活的・文化的・思想的相互作用の基礎の上に創造される。有産階級のサロンの空気を吸い、自らの階級から日常生活の皮下注射を受けてきた芸術家たちと異なり、現代のプロレタリアートはそのような文化的・思想的環境をまだ創出しえていない。労働階級は文化的にきわめて後進的であり、プロレタリアートである限り、自らのより良き力を政治闘争や経済の復興に否応なく消費せざるをえないのである。
  
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マヤコフスキーはかつて『十三人の使徒』という強力な作品を書いたが、その革命的性質はなお曖昧であった。しかし方向を転換しプロレタリア戦線に赴いて『一億五千万』を書いた時、最も惨澹たる合理主義的没落が出現した。たとえ正真正銘のプロレタリア出身であっても、今日の条件のもとでは、作家にその創造と階級との有機的関係を保証することはできない。彼が芸術的創造に没頭するや否や、自らの階級的環境から引き離され、「同伴者」もまた同然の雰囲気を呼吸せざるをえなくなるからである。これは団体の中の文学的団体にすぎぬ。
  
 四
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=== 第74節 ===
  
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いわゆる予想について、私はもう少し話すつもりであったが、私の時間はとうに過ぎてしまった。(声、「おやおや。」)「ナポストゥの人々」およびその同盟者の団体もまた、団体的・実験室的な道を通じてプロレタリア文学に到達するという方針を採っている。だがこの予想を、私は全く否認する。繰り返して言うが、封建時代の文学、有産階級の文学、プロレタリア文学を歴史的な系列として並べることは不可能である。プロレタリア文化を真面目に論じプロレタリア文化から綱領を作り上げる人々は、有産階級文化との形式的類似から考察している。有産者が権力を獲得して自らの文化を創造したのだから、プロレタリアートも権力を掌握したのだからプロレタリア文化を創造するであろう、と。しかし有産階級は富裕な階級であり教養ある階級でもある。有産階級文化は権力掌握以前にすでに存在していた。一方、有産階級社会におけるプロレタリアートは一無所有の収奪された階級であり、自らの文化を創造しえなかった。新しい文化について称道しうることが多ければ多いほど、その文化はおそらく階級的性質を帯びることが少なくなるであろう。ここに問題の根本と論争がある。ある人々はプロレタリア文化の原則的立場から後退して言う——我々はただ社会主義への過渡期の二十年、三十年、五十年間だけを問題にしていると。国際的観点から見た過渡期の根本的性質は緊張した階級闘争である。十月革命はその直接的行動によって文学を殺してしまった。詩人と芸術家は沈黙した。古くから「剣戟の声一たび発すれば、詩人は沈黙する」という諺がある。文学の復活には安息が必要なのだ。我が国においては新経済政策とともにようやく復活した。蘇ってみれば完全に同伴者たちの色彩に塗られていた。仮に明日ドイツで革命が始まったとしても、プロレタリア文学の直接の開花を我々に与えはしない。これは芸術創造を圧し潰し凋落せしめるであろう。(声、「デミヤンは沈黙しなかった。」)いかなる時でもデミヤン、デミヤンとは、いかがなものか。デミヤンこそは十月革命以前の旧文学の所産ではないか。彼はクルィロフ、ゴーゴリ、ネクラーソフに養育されたのだ。彼を担ぎ出すことは自らを否定することである。
  
 私は十八日の朝になって初めて、午前中に群衆が執政府に請願に行くことを知った。午後には悪い知らせが届き、衛兵がなんと発砲し、死傷者は数百人に上り、劉和珍君もまた犠牲者の列にいるとのことだった。しかし私はこれらの伝聞に対して、かなり疑いを持った。私はこれまで、最も悪意に満ちた推測をもって中国人を量ることを厭わなかったが、それでもまさか、これほど卑劣で凶残であるとは予想もしなかったし、信じもしなかった。まして終始微笑んでいた温和なる劉和珍君が、なぜ府門の前で血にまみれて死ぬなどということがあり得ようか。
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基本的予想とは、教育、文明、労農通信、映画の発達、漸次的な生活の改造、文化の向上である。「鍛冶場」「十月」およびその他の類似の集団は、いかなる意味においてもプロレタリアートの文化的・階級的創造の道標ではなく、ただ皮相的性質の閑文にすぎない。もし諸君が「マップ」と「ヴァップ」をプロレタリア文学の製造所にしようとするならば、諸君はかつて倒壊したように再び倒壊するであろう。党は最も深い注意をもって個々の若い近縁者、思想的にこれに近い芸術的才能に対処するであろう。しかし文学と文化に関する彼の根本的任務は、勤労大衆の普通の政治的学術的読書力を高めることにある。
  
 しかしその日のうちに事実であることが証明された。証拠となったのは彼女自身の遺骸であった。もう一つは楊徳群君のものであった。しかもそれはただの殺害ではなく、まさに虐殺であることが証明された。遺体には棍棒の傷痕がまだ残っていたからである。
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この予想が諸君を満足させえないであろうことは承知している。諸君は将来の文化の発達をあまりに計画的にあまりに進化論的に想像している。発達はおそらくそのようには進行しないであろう。今日の安息の後に、市民戦争の新たな残酷な痙攣の時代が到来するであろう。革命の詩人は優れた戦歌をもって我々に臨むことは確かにありうるが、文学的継承はおそらく断然として途絶するであろう。すべての力は直接の闘争に向かうであろう。この新たなより強烈な市民戦争の結果は——勝利の条件のもとにおいては——社会主義的根底の完全な安定と強固であろう。この基礎の上にこそ、市民戦争の電光と震撼の後に、文化の真の建設が始まるであろう。しかるに諸君はこの予想から出発してはいない。諸君は菜豆を植木鉢に植えればプロレタリア文学の大樹を育てられると思っている。菜豆からは何の樹も生えはしないのだ。
  
 しかし段政府はすぐさま命令を発し、彼女たちを「暴徒」だと言った!
+
ロドフ(S. Rodov)
  
 しかし続いて流言があり、彼女たちは人に利用されたのだと言った。
+
問題が提起されたのは同志トロツキーの力によるものではなく、もともと提起されていたのである。この問題は大きな意義を有する。一切の天才的作品が一定の階級に奉仕すること、そしてそれが果たして客観的に階級に奉仕しているか否かということでもある。我々は作家の個々の集団に際して、彼らがいかなる階級のために作品を奉仕させているかによって判断すべきである。「ナポストゥ」がこの問題の設定に到達した時、彼はこれを第一の本来の任務と考えた。本日の『プラウダ』紙上に、同志ヴォシンスキーが盧那察爾斯基への反駁を書いている。
  
 惨状は、すでに目を覆わしめた。流言は、なおさら耳を塞がしめた。私に何の言葉があろうか。衰亡する民族が黙して声なき所以を、私は悟った。沈黙よ、沈黙よ! 沈黙の中に爆発するか、沈黙の中に滅亡するかだ。
+
今を遡ること二年前、同志ヴォシンスキーはアフマートヴァはブロークの後のロシア第一の作家であると宣言した。我々がようやく立ち上がって反抗したのである。「ナポストゥ」の辛辣さについていかに言われようとも、「ナポストゥ」が第一の任務を果たしたと言わざるをえない。党はすでにこの問題の解決に着手した。
  
 +
今度は指導の方法についてである。我々はこの会議の前に、三度にわたってヴォロンスキーに一定の方針を共同で確立するよう依頼した。しかし文芸政策の指導者であるヴォロンスキーは「諸君を信用しない」と答えたのである。
  
 五
+
私は同志の名において宣言する。我々は原則的に「ナポストゥ」の立場に立つ同志ブハーリンと一致しており、また一部は同志ラデクの立場とも一致している。問題の所在はただピリニャーク等の作品を印刷することにのみあるのではない。問題は全く別のところにある。ここで問題となるのは大衆の文学運動についてである。多くの都市にすでにプロレタリア作家の組織が存在している。(ブハーリン、「組織はあるが作品がない。」)我々は運動を問題としている以上、問題をより広く解釈する。私は敢えて宣言する、彼らはこれらの論文を書き続けるであろう——党が方針を決定する時まで、労働階級の文学運動が勝利する時まで。
  
 +
労働階級の文学運動は、才能あるなしにかかわらず我々の各人にとって価値があるのであり、この事は党の指導を必要とする。(ブハーリン、「プーシキンが詩を作った時、いかなる貴族社会の政治部が彼を指導したのか。」)
  
 しかし、私にはまだ言うべき言葉がある。
+
=== 第75節 ===
  
 私は親しくは見ていない。聞くところでは、彼女、劉和珍君は、政府の前で棍棒と鉄で殴られて転倒した時、まだ死んではいなかった。同行の張静淑君がそれを見て助けに駆け寄り、自分も同じ棍棒で殴られた。同行の楊徳群君もまた助けに駆け寄ろうとして弾丸を受け、手から背中を貫通して倒れた。しかし彼女もまだ死んではいなかった。一人の兵士が来て、腰から下に向けて二発撃ち、そこで劉和珍君はまさに死を遂げたのだ。
+
同志ヴォロンスキーは、この運動すなわちプロレタリア文学と反対の道を歩んでいる。彼はこの文学を解体しつつある。問題の別の面は、同志ヴォロンスキーの「同伴者」が今どこにいるかを問うことにある。ヴォロンスキーの「同伴者」たちは彼から逃げ出しつつある。彼はレオーノフという作家を天才と宣言したが、レオーノフは今まさに『ルースキー・ソヴレメンニク』で文章を書いており、この雑誌の背後にはエフロスと外国資本が立っている。我が国において文芸の問題は、十人ないし十五人の作家が良い作品を書けばそれでよいということにあるのではなく、労働階級の間にすでに始まった広範な文学運動を支持することにある。
  
 終始微笑んでいた温和なる劉和珍君は、確かに死んだのだ。これは真の事実である。彼女の微笑んでいた温和な影は、私の心に永遠に印されている。
+
ここにおいていかなる覇権も口にすべきではない。我々は党の一定の指導を堅持し、これを実際に活用すべきなのだ。
  
 ただ中国にこのような女性がいたことを覚えておけばよい。堂々と笑みを浮かべ、真っ直ぐに歩み、血を浴びながらなお微笑んでいた。私はその光景を、言葉では言い表せない。
+
今日に至るまで、我々はいかなる具体的な方案も出してはいない。しかし「ナポストゥの人々」は同志ヴォロンスキーのなしたこと以上に、真の「同伴者」を克服しつつある。我々は文学に対してただ出版者の態度だけでは不十分と考える。我々は主張する、この文学に対して階級的態度を執るべきだと。
  
 しかし呜呼、私には何が言えよう。中華民国が建国以来、わずかにこれほどの犠牲を出したことがあるのか私は知らない。もっとも私にわかっているのは、それがまったくの無駄死にではなかったということだ。なぜなら、以来、太平の世に微かな血の色が加わったからだ。
+
盧那察爾斯基(A. Lunacharsky)
  
 真に勇敢なる闘士は黙って前進する。真の言葉を語る者は苦悩を直視する。血を拭い、死者を超えて前へ進む者がいなければ、一体何をもって人間を称するに値するのか。
+
同志ワルジンは同志ヴォロンスキーに対し、現下の情勢から問題に接近することを求めた。しかし党が文芸の問題に接近したことこそが、まさに現下の情勢の中で一定の役割を演じている。政治家が自らの知らぬ領域の事を処理する時には、常に過ちを犯す危険が存在する。芸術の特殊な法則を顧みずに文芸政策の問題を提起することは成り立たない。さもなくば我々は一切の文芸を墓場に葬ることになろう。およそ一つの芸術作品に芸術的価値がなければ、たとえそれが政治的であっても全く無意味である。
  
 苦痛は言葉で表せるものではなく、沈黙もまた充分ではない。
+
しかしこの問題を裏返して見てみよう。仮に芸術的には天才的でありながら政治的には不満足な作品があるとしよう。もしこのような小説が完全に反革命的なものであるならば、涙を呑んで抹殺せざるをえない。しかしそのような反革命性がなく、ただいくらかの好ましからぬ傾向があるだけの場合には、我々はおそらくこのような小説の存在を容認せざるをえないであろう。
  
 呜呼、四十余名の犠牲者の中には、劉和珍君がいたのだ。
+
芸術とは生活認識の特殊な方法であるとも言われ、社会の機能であるとも言われる。いずれに依るにせよ、天才的芸術作品は我々にとって価値がある。芸術の繁栄は、この国土の認識のきわめて良い源泉となるであろう。我々のプロレタリアートはもはや十分に堅固であり、異なる政治の水に足を濡らすことを恐れる必要はない。
  
 +
芸術家が人間の特別な型であることを忘れてはならぬ。マルクスはこの事を理解していたからこそ、ゲーテやハイネのような文学的現象に非常な注意と優雅さをもって接近しえた。芸術家のもとに指導的政治理論が兼ね備わることは甚だ稀である。たとえ我々の中から出た芸術家であっても、その芸術的作品に狭隘な党的・綱領的目的を課することはやはり成り立たない。
  
 時間は永遠に流れてゆく。街はやがて太平に帰し、あるものは忘れ去られ、あるものは中傷される。しかし私はなお信ずる——人類の血は決して白く流されたのではないと。これだけでも、人心を奮い立たせるに足るのだ。
+
もとより芸術家はさまざまな層から出うる。しかし不遠の将来においても、これはおそらくなお知識階級から出るであろう。これらすべてが、我々がいかなる場合にも非プロレタリアおよび非共産主義者の芸術家を我々のもとから遠ざけてはならないと考えさせる。
  
 呜呼! 私はこの文で劉和珍君を記念する以外に、本当に何も言えない。
+
同志アヴェルバッハの見地に立てば、我々は敵国の征服者の一団となってしまうであろう。私は恐れる——文学において我々は「左翼病」の新たな邪路に陥る危険がある。ウラジーミル・イリイチは率直に言った——ロシアにおける共産主義を共産主義者の手だけで実現しうると考えるのは狂った共産主義者だけである、と。
  
 四月一日。
+
同志トロツキーはプロレタリア文化について誤っている。ウラジーミル・イリイチが極端に恐れたのは、有産階級の遺産の中の価値あるものを投げ捨て、自ら気まま勝手なものを考え出すことであった。彼はプロレトクリトにも個人的指令を私に与え、国家の管轄下に置くよう命じた。同時にプロレトクリトの文芸課目に一定の広がりを与えるべきだとも力説した。
  
 +
同志トロツキーは自己矛盾に陥っている。我が国の革命はやはりプロレタリア革命であるはずだ。過渡期において我々が建設しているのはプロレタリア国家である。マルクス主義、ソヴィエト組織、我々の労働組合——これらすべてはプロレタリア文化の各部分である。この論争の唯一の最も正当な結論は、プロレタリア文学をあらゆる手段を尽くして支持すべきであり、しかし「同伴者」を排斥することも断じてならない、ということである。
  
=== 第10節 ===
+
マルクス主義的検閲がいかなる原則に依るべきかについて明確な方針を立てることも悪くない。我々は我々を中心としてその周囲に小ブルジョア文学を組織する必要がある。さもなくば才能ある人々は我々のもとから離れ、敵対する勢力の中に入ってゆくであろう。
  
かくして甲校は更正し、決して捜検はしなかったと言い、乙校は更正し、かかる書籍はないと言った。
+
ベゼメンスキー(A. Bezamensky)
  
 +
=== 第76節 ===
  
 4
+
まず同志諸君、私は尊敬する文学的論敵——同志トロツキーの登場について一言せざるをえない。彼はプロレタリアートの菜豆からは何も生じないと言った。いかにせよ同志諸君、この一点については我々は彼と争い続けるであろう。我々は決して自らの「製造所」を誇示してはいない。まず第一に勤労大衆こそが何よりも重要なのだ。大衆的文学運動は重要であり、党はこれを自らの手に取るべきなのだ。この会議は、党が文学に対して自らの方針を与えるということの第一歩である。来責難我们、说是党派的也好、说是宗派的也好。同志ワルジンはかつて、党の第二回大会以後のボルシェヴィキへの嘲笑との類似を指摘した。彼らはついに理解しなかったのだ。今や我々が大いなる労作を展開し、自らの血をもって全連邦プロレタリア作家同盟の政策を創造した以上、我々はより大きな程度において創造的労働へと移行しうる。しかしこれと同時に我々は言う——党がこの創造的労働に関与すべきだと。同志トロツキーは手紙の中でこう書いてきた、「君はよもや我々が自分たち以上に他人を尊重しているとでも誤解しているのか」と。同志諸君、今日に至る状態はなお依然としてそうなのだ、自分たち以上に他人を尊重しているのだ。
  
 +
同志諸君、我々は言う、党の方針が我々に必要だと。我々は組織し、下層から成長しつつある大運動の先頭に立ち、勤労大衆および若い世代の大衆と結合している。大衆と結合するものとして、我々は党のためにプロレタリア前衛の目で世界を見る新鮮な文学的勢力を供献するベルトたりうる。他の者は我々が独裁を要求していると叫ぶが、これは嘘だ!たとえ明日、執行委員会が我々に組織をすべて解散せよと言い、それが党にとって必要であるならば、我々はそのとおりにする。しかし党が下層から成長しつつある広範な社会運動を前にして無関心ではいられず、文芸に対する自らの方針を持たざるをえないのだ。今こそ我々が堅固なプロレタリアの文学的組織を党に送り届ける時である。
  
 かくして衛道の新聞記者も、円転滑脱なる大学校長も六国飯店に泊まり込み、公理を説く大新聞も看板を外し、学校の門番も『現代評論』を売らなくなった。まさに「火が昆岡を焼き、玉石倶に焚く」の概があった。
+
メシチェリャコフ(N. Meshcheliakov)
  
 実のところそこまでには至らないだろうと私は思う。しかし、デマというものは確かにデマを流す者の本心が望む事実であり、我々はこれによって一部の人々の思想と行為を窺うことができる。
+
同志ブハーリンは二つの側面から述べた。一方は作家について、他方は読者についてである。私は出版所で働いている者であるから、出版の見地から問題に接近することをお許し願いたい。
  
 +
調査の示すところによれば、現代のプロレタリア作家の作品はまったく需要がないのだ。我々の倉庫にこれらは山のように堆積し、文字通り重量で売っている。事業は完全に損失である。なぜ「プロレタリア作家」の作品は読まれないのか——彼らが大衆から離れているからである。例外もある——リベジンスキーの『一週間』は今まさに大いに読まれよく売れている。
  
 5
+
ヴォロンスキーには毎月五十頁の紙面がある。これ以上は我々には与えられない。我々は一切の団体に同数の頁面を与えるという政策を採った。この文学を読者の判断に任せている。
  
 +
ケルシェンツェフ(I. Kershentsev)
  
 中華民国九年七月、直皖戦争が始まった。八月、馬廠の誓いがあり、段祺瑞は退き、曹錕が権力を握った。十一年六月、直奉戦争が始まり、曹錕・呉佩孚が張作霖を破り、黎元洪を復辟させた。十三年十月、馮玉祥がクーデターを起こし、曹錕を幽閉し、段祺瑞を「臨時執政」として迎え入れた。段政府は本来列強の顔色を窺い、帝国主義に阿るものであった。三月十八日に群衆が請願に赴いた時、衛兵は銃を発砲し、四十余名の青年が殺された。この事件に対する各方面の反応——政府の弁解、御用文人の中傷、真の知識人の糾弾——を魯迅は詳細に記録する。新聞記者や大学校長たちが六国飯店に避難したこと、流言と中傷が被害者に向けられたことを糾弾し、当時の政治情勢と知識人の態度を分析する。さらに中華民国建国以来の政変の歴史を概観し、軍閥政治の本質と知識人の役割について論じる。
+
この席上でヴォロンスキーについて、彼は我々が自らの領域で専門家を利用するのと同様に専門家を利用したと言われた。しかし我々は赤衛軍を組織した時、ツァーリの士官や将軍を革命軍政治部に送り込みはしなかった。文学において彼らを赤衛軍で専門家を利用したようには利用しえない。
  
 +
「ナポストゥの人々」の攻撃の中には本質的な真理が含まれている。問題は文学戦線だけでなく文化戦線全体にある。我々のもとで今劇場で行われていることは、この領域において我々が有産階級の専門家の囚人と化していることを示している。レーニンは言った——我々は有産階級の文化を知り研究し改正すべきだと。しかしその囚人となるべきだとは言わなかった。
  
=== 第11節 ===
+
同志トロツキーに反対する同志盧那察爾斯基は正当である。同志トロツキーは数十年の過渡期を超階級的時代と見なしている。数十年の間にプロレタリアートはおそらく極度に階級的になり、最近の数十年は階級的観念形態の闘争で充たされるであろう。今後の討論はこの問題の一般的設定に依拠すべきである。
  
(前節からの続き。魯迅は1926年の政治情勢と文壇論争についてさらに論じる。段祺瑞政府の三・一八事件への対応を批判し、犠牲者を「暴徒」と呼んだ政府声明と、それに追随する御用文人たちの卑劣さを暴く。さらに、当時の文壇における「正人君子」たちの偽善的態度、すなわち政治的な節操のなさと権力への追従を鋭く風刺する。魯迅は「墨で書かれた嘘は、血で書かれた事実を覆い隠すことは決してできない」という信念に基づき、沈黙を破って真実を記録することの重要性を訴える。)
+
リャザーノフ(D. Riasanov)
  
 人は大抵、窮地に追い込まれなければ反省しないものだ。しかし反省した時にはもう遅いことが多い。これが中国の歴史の教訓であり、我々はこの教訓から何かを学ばねばならない。
+
「ナポストゥの人々」について一言しよう。彼らの政論には奇妙な性質の要素がある。棍棒で天国に追い込むような方法からはまだ脱しきっていない。同志トロツキーは作家に必要な皮下注射を語ったが、「ナポストゥの人々」は皮上注射の方法を採用している。プロレタリア詩人のもとで全ロシアの文学がみな『赤色新地』に依拠しているとは奇事と言うほかはない。『赤色新地』が文学の組織的中心の役割を演じた時代はあったが、白色文学を解体に導く前に自らがすでに解体していた。しかしいずれにせよ、なぜこの文学がプロレタリア文学の障害となったのか、私にはまったく理解できない。
  
 文章を書くということは、本来は一種の闘争でもある。筆をとる者は、真実と虚偽の境界に立ち、どちらの側に立つかを選ばねばならない。「正人君子」たちが選んだのは、常に権力の側であった。彼らは三月十八日の犠牲者を「暴徒」と呼び、「人に利用された」と言い、青年たちの血を踏みにじった。
+
むしろ非難すべきは国立出版所である。同志メシチェリャコフは絶えず動揺している。団体と小団体が無数に創造されたが、本質的には依然として有産者たちの果実にすぎない。私はこの問題に関して完全な自由競争を選び取る。先ほどメシチェリャコフが指示した購読部数という規準はまったく役に立たない。党の商標はおそらく才能なく実際的な人々が文学の中に質の低下を持ち込む条件を創り出すであろう。新しい萌芽は一九一七年から一九年の昂揚した年代に生まれたものであり、新経済政策はこれらの新文学の萌芽を毒しているにすぎない。
  
 しかし血は決して白く流されたのではない。それは我々の記憶の中に、永遠に刻まれるのだ。
+
我が批評が別の問題に及ぶことを望まない。本日聞いたところでは、我が国の文学および芸術の領域におけるマルクス学者たちは観念論的見地に立っているのだそうだ。
  
 世の中には、惨劇を目の当たりにしてなお沈黙を守り、さらには犠牲者を中傷する者がいる。彼らは自分たちを「学者」「文士」と称するが、その実態は権力の番犬にすぎない。このような人々が跋扈する限り、中国に真の進歩はあり得ない。
+
=== 第77節 ===
  
 私はただ覚えておきたい。あの日、あの場所で、四十余名の若者が血を流したということを。そして彼らの中に、終始微笑んでいた劉和珍君がいたということを。
+
これは我々が形式を蔑視すべきだという意味ではない。プロレタリアートのために書こうとするすべての者は、文学形式の一切の発達を歓迎せずにはいられない。形式なくしては人間の思想、感情、心緒を表現することはできない。文学形式と言語は長い歴史的行程を経て完成されてきたものである。我々はロシアの貴族階級および革命的有産階級のうちの優れた代表者たちに、ロシア語を完成させてくれたことを感謝する。労働階級のためにこの偉大な遺産を己のものとしうるよう、古典的文献を印行することは必要なのだ。
  
 +
国立出版所はすでに貴族階級の詩人プーシキンをあらゆる農民と労働者に親しいものとするために彼の作品を印行すべき時に至っている。我々はデカブリストの時代に近づいている。プーシキンが十二月党運動の先頭に押し立てられたことを忘れてはならぬ。
  
=== 第12節 ===
+
我々は品格ある鋭いロシア語で話すことを忘れてしまった。ソヴィエトの鳥の言葉を濫用している。私は同志デミヤンを歓迎する——彼の作品によって新聞の論説に疲れた我々の頭脳を休めることができるからだ。形式を疎かにすることは良くない、古い有産者の言語の天才たちから学ぶべきなのだ。ただし有産階級文学の腐敗した果実を模倣することは許されない。言語の単純直截さとプロレタリア文学が創造する新しい内容の深味——これこそが第一に求められるものである。このような萌芽をリベジンスキーの最初の作品に見ている。
  
(1926年の雑文の続き。魯迅は引き続き当時の文壇・政界の人物たちを批判する。)
+
プロレタリア作家諸君への私の忠告はこうである——丈夫な脚があるなら「お父さん」「お母さん」のところへ駆けつけるのはよくない。脚でしっかり立て。労働運動に拠ってその汁を吸えばよい。そうすれば『赤色新地』など何でもなくなる。
  
 私はかねがね思っている。中国の改革は、いつも多大な犠牲を伴うものだと。しかもその犠牲の多くは、無名の若者たちによって払われる。名のある人々は、安全な場所から論評するだけで、自ら血を流すことはない。
+
デミヤン・ベドヌイ
  
 三月十八日以降、北京の空気は一変した。かつて「公理」を説いていた人々は、次々と口を閉ざし、あるいは風向きを見て態度を変えた。「正人君子」たちの「公論」がいかに無力であるか、いや、いかに有害であるかが、はっきりと示されたのだ。
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まず私はヴォロンスキーから語られたピリニャークの小さいが特色ある情景を紹介しよう。ヴォロンスキーのもとにピリニャークが駆け込んできた。「おい、俺は墓地を一回りしてきたぞ。チェーホフの墓の上に大きな糞の山が積まれていた。傍にはこう書いてあった、『青年共産党員ペトロフ』と。」ヴォロンスキーは喜んで息も絶え絶えであった。「なんと非凡な観察力があることか!」墓地。俗に「黄金」と呼ばれる山。これこそが一部の同伴者たちがヴォロンスキーに、ヴォロンスキーが我々に献じる文学的黄金なのだ。
  
 しかし私はなお書き続ける。なぜなら、書くことは抵抗の一形態であるからだ。沈黙は同意と見なされる。だから、たとえ微力であっても、声を上げ続けなければならない。
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私はもう一つ田舎の情景を諸君に捧げよう。ピリニャークはキエフに行き、労働通信員たちの前でフレスタコフ式の大法螺を吹いた。モスクワにはまともな文芸政策がある。三人の若者がカーメネフのところに走ってきて宣言した、「我々のもとにはイデオロギーがある!」するとカーメネフはポケットに手を突っ込み小銭を分け与えた、「イデオロギーのためだ。」小銭は消え、三人は再びカーメネフのもとに走って行った。しかし今度は一人ずつ各自が別々に——各人のもとに各自のイデオロギーができていたからだ。
  
 文壇の争いは、表面上は文学的な論争に見えるが、その本質は政治的なものだ。誰が権力に近く、誰が権力から遠いか。それによって「正」と「邪」が決まる。この構造を打ち破らない限り、中国の文学に真の自由はない。
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これらは小例にすぎない。根本においてはただ驚くほかはない。伊立支のもとには天才的な圧縮と完璧にして余すところなき自信をもってプロレタリア文学の理論を与えるものがある。
  
 私の文章が「冷箭」だと言われるなら、それで結構だ。暗闇の中では、いかなる光も「冷箭」に見えるものだ。しかし闇を照らすのは、常に光なのだ。
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「重大な事は幾百万の住民の総数のうち幾百人に芸術を与えることにあるのではない。芸術は国民のものである。これは自らの深い根を広大な勤労大衆の大層の中に伸ばしてゆかねばならない。これは彼ら大衆に理解されるべきである。」「これは大衆に愛されるべきである。」「これは大衆の感情、思想および意志と結合し、彼らを高めるべきである。」「大衆の中から芸術家を覚醒させ、彼らを発達させるべきである。」「我々は労働者と農民の大衆が黒パンに事欠いている時に、ごく少数の人々に甘い贅沢な菓子を献じなければならないのか。」「我々は常に労働者と農民を眼前に置くべきである!」
  
 +
労働者と農民のことを考えよ!これこそ我々の文芸政策の根本的規準である。しかし諸君は労働者と農民のことを考えたことがあるか。私はここで多くの弁士に耳を傾けたが、主要な労働者と農民について一言でも語られたか。新しい真の作家たちは、おそらく労働通信と農村通信の間から出てくるであろう。
  
=== 第13節 ===
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ワルジンの結語
  
(1926年雑文の続き。魯迅は教育界と文壇の問題をさらに論じる。)
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この会議の収場がいかなる形式的なものであっても、明日の党の文芸政策は昨日のそれとは異なるであろう。同志トロツキーの私に対する言説はただの戯言であり一つの論証も提示しなかった。
  
 教育というものは、本来、人を自由にするためのものであるはずだ。しかし中国の教育は、むしろ人を束縛するための道具になっている。学校は官僚機構の末端であり、教師は官僚の下僕であり、学生は将来の官僚予備軍にすぎない。
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社会主義文化について。ウラジーミル・イリイチはプロレトクリトに抗議した——これは事実である。しかしプロレトクリトは一つの事柄であり、プロレタリアートの社会主義文化はまた別の事柄である。レーニンの文芸の意義の評価は見事であった。レーニンはゴーリキーの武器としての文芸をきわめて高く評価し、その武器の向かう先が正しくない時にいっそうの熱意を示した。我々はソヴィエト共和国における芸術的武器が正しく用いられることを望み、文芸の党的・レーニン的指導を要求する。
  
 楊蔭楡女史の事件は、まさにこの構造の縮図であった。学長が学生を弾圧し、政府がそれを支持する。学生が抵抗すれば「暴徒」と呼ばれ、知識人が異議を唱えれば「学匪」と呼ばれる。この国では、権力に逆らう者はすべて「匪」なのだ。
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文学の予想について。同志トロツキーは予想は電光形的だと言った。問題はそこにはない。我々は今や文学を勝ち取らねばならぬか——しかり、文学を勝ち取るべきである。階級なき社会に至るにはまだはるかに遠い。プロレタリアートが文化・観念形態の領域においても独裁者たるべきこと、芸術戦線を支配すべきこと——すべてを明白に言い切らねばならない。
  
 しかし歴史が教えるところでは、今日の「匪」が明日の「英雄」になることも珍しくない。問題は、その転換が常に血を伴うということだ。三月十八日の犠牲者たちは、まさにこの転換期に血を流したのである。
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すべての「ナポストゥの反対者たち」は問題を撹乱しようとしている。芸術的課題は政治的課題へと発展した。第二の課題は第一の課題を包摂しており千倍も広大である。我々のもとには革命の支持があり、反対者たちのもとには文学の支持がある。
  
 文壇においても同じ構造がある。「正人君子」たちは互いに推薦し合い、互いに称え合い、閉じた円環を形成している。この円環の外にいる者は、いかに才能があろうとも、「下流」「無礼」と呼ばれる。これは豪猪の比喩そのものだ。棘のある者同士は適度な距離を保つが、棘のない者は容赦なく刺される。
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=== 第78節 ===
  
 私は棘のない者の側に立つ。なぜなら、真の文学は、棘を持たない者の心から生まれるものだからだ。
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白党の我々の論争に対する態度について。我々「ナポストゥの人々」は数ヶ月にわたってヴォロンスキーの科目、戦術、組織的計画を研究し、一切の根本的謬誤と傾向を了解した上で、ヴォロンスキーの立場が我々の敵に歓迎されており理由なく歓迎されているのではないという結論に到達した。白党作家等の評判が証拠ではないことは自明であるが、我々の党内の潮流に対する彼らの態度の暗示力はなかなか大きい。我々の敵が党内の潮流に対する見解を顧みないのは、ただ問題をいい加減に扱うか真実を直視しようとしない者のみがなしうることである。
  
 +
専門家を使って討伐しているとの非難があるが、観念形態的戦線が問題となっている時に専門家のことなど言えるのか。観念形態の領域において貸与もなければ許可もない。合弁会社すら存在すべきではない。経済と軍事では専門家を招聘しつつも我々の労働者で替える方針を採っている。しかるにヴォロンスキーは文学を専門家に委ねるだけでなくプロレタリア文学の創造に反対の行動を採っている。彼は完全な敗北主義者である。
  
=== 第14節 ===
+
条件の平等を唱道する人々がいるが、このデモクラシーは政治的デモクラシーと全く同様に虚偽である。「同伴者」は巨大な文化的過去に依拠しているが我々はこの点において乞食なのだ。平等な条件はありえない。
  
(1926年雑文の続き。北京の政治情勢と知識人の態度についての論評。)
+
「同伴者」に対する我々の見解は甚だしく誤解されている。我々が「同伴者」を駆逐しようとしているというのは流言であり、棍棒を振るっているというのも流言である。我々の提要にはこう述べた——「労働階級への『同伴者』の接近の程度は一般的政治的条件と関連し、党の機関およびプロレタリア文学の作用力と関連する。ゆえに党の任務はこの際『同伴者』の間に起こりつつある分解作用を促進し、彼らを共産主義的影響の範囲内に引き入れることにある。」
  
 北京は相変わらず騒然としている。軍閥同士の争い、政府の腐敗、列強の干渉——すべてが入り乱れて、一般の民衆はただ翻弄されるばかりだ。しかし文壇では、まるでこれらが存在しないかのように、「純文学」「芸術至上」が叫ばれている。
+
我々は「同伴者」に対する個別的態度を主張する。我々の立場とヴォロンスキーの立場の相違は、我々がプロレタリア文学の敗北主義者ではないこと、プロレタリア作家を一般的同伴者的肉粥の中に投げ込もうとしないことにある。
  
 「純文学」とは何か。それは政治から目を逸らすための口実にすぎない。文学が人生から離れたら、それはもはや文学ではなく、遊戯にすぎない。遊戯としての文学は、権力者にとってこの上なく都合がよい。なぜなら、人々が文学遊戯に耽溺している間は、政治に口を出さないからだ。
+
我々が文学に対する「ヴァップ」の独裁を要求しているとの発言は絶対に虚偽である。我々のスローガンは文芸領域における党の独裁である。第十二回党大会の決議は「文芸が一大社会的勢力に成長していることに鑑み、党は指導の問題を実際的活動において決定する必要を認める」とした。今や問題は指導の実際的形式の決定にまで来ている。
  
 「正人君子」たちが「純文学」を唱えるのは、この理由による。彼らは自ら政治に深く関わりながら、他人には政治から離れることを勧める。自分たちだけが権力の果実を享受し、他人には芸術の象牙の塔に閉じこもることを求める。
+
ヴォロンスキーの結語
  
 しかし血が流されている時に、花の美しさを論じるのは、果たして「高尚」と言えるだろうか。四十余名の若者が殺された時に、詩の韻律を議論するのは、果たして「文化」と言えるだろうか。
+
「ナポストゥの人々」があたかも一切がすべて私のもとにあるかのように仕立てたいのだ。この集会は指導的地位にある同志諸君が私の方針を容認していることを証明した。同志ワルジンの軽率さは非常なものである。私には二種の著作があり、芸術を神聖な事業と見なす見解に対して最も多く闘っている。ピリニャークとチェーホフの記念碑についてのベドヌイの出面は最もつまらぬ印象を与えた。ある人物の墓の上に大理石の碑が立っており、「アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ」と刻まれている。この碑がでたらめな落書きで汚されていた。この事実から面白い逸話を捏造するのは不可であり許されない。
  
 私は言いたい。文学は武器である。少なくとも、嘘と暴力に対する武器であるべきだ。ペンは剣より強いと言われるが、それはペンが真実を書く時に限られる。嘘を書くペンは、剣よりも卑劣である。
+
「ナポストゥの同志たち」が私を組織破壊者と見なすのは、彼ら自身がもはや芸術家ではなくなってしまったからである。プロレタリア作家の大多数は「赤色新地」と良好な接触を保っている。これは「ナポストゥの人々」が棍棒を振るって「同伴者」のみならずプロレタリア作家をも追い払っているからなのだ。「鍛冶場」の同志が私のもとに来て言った、「もう彼らに説明する忍耐がない。一緒にもっと密接に仕事をしよう」と。若者たちは皆「ナポストゥの人々」のもとを去った。なぜなら諸君が作家の待遇の道を知らないからであり、党派的悪臭に充ちているからだ。
  
 +
ヴォロンスキーが「同伴者」で文学を埋め尽くしプロレタリア作家が圧迫されているとの発言があった。「同伴者」は今日に至るまで卓越した要素となっているが、これは放任の結果ではなく現在の文学的生活がそうだからなのだ。彼らの最も天才的な作品こそがこの「組織破壊者」によって印行されている。
  
=== 第15節 ===
+
決議については衷心より同志ヤコヴレフの決議に同意する。
  
(1926年雑文の続き。魯迅は学界・文壇の諸問題について引き続き論じる。)
+
ヤコヴレフの結語
  
 中国の知識人の悲劇は、彼らが常に二つの選択肢の間で揺れ動いていることだ。一方では真理を追求したいという欲求があり、他方では権力に迎合して安全を確保したいという欲求がある。この二つの欲求が矛盾する時——そしてそれは常に矛盾するのだが——大多数の知識人は後者を選ぶ。
+
我々の採決の前に同志レーニンがプロレタリア文学の問題をいかに見ていたかを簡単に述べたい。一年半前に合計五回にわたって私は彼とこの問題について語り合う機会を得た。
  
 陳源教授はその典型である。彼は「公正」を標榜しながら、常に権力者の側に立つ。「学問の自由」を唱えながら、章士釗の教育行政に追従する。「閑事を管しない」と宣言しながら、自分に不都合な者に対しては容赦なく攻撃する。
+
=== 第79節 ===
  
 このような知識人が「学者」として崇められる社会は、すでに病んでいると言わざるを得ない。真の学者は、権力にではなく真理に仕える者である。真の文士は、権力者にではなく民衆に語りかける者である。
+
当時レーニンが主張したことの根本は、プロレタリア文化がある種の温室的施設から発生しうるという思想との闘争に集中していた。温室がプロレタリア文化を培いうるという思想をレーニンは大きな危険と見なした。プロレトクリトこそがまさにそのような温室であった。
  
 しかし中国の現実は、これとは正反対だ。「学者」は権力の番犬であり、「文士」は権力の道化師である。彼らは互いに称え合い、互いの地位を保証し合い、一般の民衆を見下す。
+
プロレタリア文化はソヴィエト政権の条件のもとで一般的文字教育の土壌の上から発生しうる。問題の核心はプロレタリアート政権の条件のもとで有産階級の良い果実を大衆の共有とすることにある。数百万の人々が有産階級文化のこれらの良い果実を獲得することこそが、有産者式ではない真の文化を産み出しその基礎を築くであろう。
  
 私がこれらの「正人君子」を攻撃するのは、個人的な恨みからではない。この腐った構造そのものを打ち破りたいからだ。一人の陳源を倒しても、別の陳源が現れるだろう。しかし、この構造の本質を暴露し続ければ、いつかは人々も気づくはずだ。
+
ゆえにレーニンは労働者にこう語った。「奮闘せよ、有産階級の文化を自らのものとせよ。いかなる建物の中であろうとプロレタリア文化がすでに産まれたなどというお伽噺に騙されてはならぬ。」プロレタリア文化の発生は弁証法的に考えねばならない。
  
 +
レーニンは大劇場もプロレトクリトも共に「無用の長物」と見なし同時に閉鎖を提議した。彼はこの二つの提議を一括して出し一方を他方から分離しなかった。
  
=== 第16節 ===
+
実際的提議について。我々は六つの点に党の方針の基礎を見ている。第一点は、勤労者と農民の大衆の中から出てきた数万人の創作に対する指導を党に与えること。第二は「同伴者」に関連する——態度は従来の党の方針を継承する。同時に我々は労働者作家に対して自画自賛と研究に対する軽薄な態度の危険を警告する。党派主義と放縦主義の契機は両方の陣営にあり、両方からこれを等しく除去すべきである。批評の領域において現在の情勢をそのまま放置することはできない——批評は共産党の組織化された批評としてはゼロに帰しつつある。新刊批評は友情のために掲載されている。これは解体と呼ぶほかにない。
  
(1926年雑文の続き。魯迅は中国社会と文化の根本的問題について考察する。)
+
【観念形態戦線と文学——第一回プロレタリア作家全連邦大会の決議(一九二五年一月)】
  
 中国には「中庸」という美徳がある。しかし「中庸」とは何か。実のところ、それは「何もしない」ことの美名にすぎない。極端を避けるという名目の下に、あらゆる改革を妨げ、あらゆる前進を阻む。
+
  
 三月十八日に青年たちが殺された時、「中庸」の徒は言った——「双方に非がある」と。政府にも非はあるが、学生たちも行き過ぎだったと。しかし一方は銃を持ち、一方は素手であった。一方は権力を持ち、一方は何も持たなかった。この両者を「双方」と呼ぶこと自体が、すでに権力者への加担なのだ。
+
1 文学は階級闘争の強力な武器である。「ある時代の支配的思想は常に支配階級の思想である」というマルクスの指示が正しいとすれば、プロレタリアート支配と非プロレタリア的観念形態の共存が不可能であることは疑いの余地がない。階級社会における文学は中立的ではありえず、必ず積極的にある階級に奉仕する。
  
 「中庸」は弱者を黙らせるための武器として使われる。強者が暴力を振るう時、「中庸」の徒は「双方とも自制すべきだ」と言う。しかし弱者はもともと自制しているのだ。自制の結果が死であるなら、それは自制ではなく自殺である。
+
2 文学の領域における各種の文学的・観念形態的傾向が平和的に協同しうるという議論は反動的空想にすぎない。ボルシェヴィズムは常に観念形態的非妥協の立場に立ってきたし今もなお立っている。
  
 私は「中庸」を信じない。極端であることは、時として必要だ。なぜなら、この世界は極端に不正であるから、極端に正しくあることでしか、均衡を回復できないからだ。
+
3 有産階級の観念者たちは文学と政治の同権・同価の「理論」を提示した。現在の条件下において文芸こそはプロレタリアートと有産階級が中間的要素に対する主権を獲得するために激烈な階級闘争を繰り広げる最後の舞台の一折である。
  
 文学においても同じだ。「温厚」な文学が尊ばれ、「激烈」な文学は忌避される。しかし世の中が温厚であるなら、激烈な文学は必要ない。世の中が激烈に不正であるからこそ、激烈な文学が必要なのだ。
+
4 ソヴィエト連邦は資本主義から共産主義への過渡を旗印として掲げる諸国家の連合である。プロレタリアートはすでに新しい物質的・精神的文化の巨大な価値を創造してきた。プロレタリア文化とプロレタリア文学に対する否定的態度は清算派の立場と結びついている。現代社会におけるプロレタリア文化と文学の存在という争いえない事実こそがプロレタリアートの歴史的勝利の確実性を示す一つの証拠なのだ。
  
 私の文章が激烈だと言われるなら、それは世の中がそれだけ不正であることの証左だ。世の中が正しくなれば、私の文章もおのずと穏やかになるであろう。しかしその日が来るまでは、私は書き続ける。
+
=== 第80節 ===
  
 +
10 トロツキー=ヴォロンスキーの見解によれば文学における中心的勢力はいわゆる同伴者に置かれるべきとされる。しかし同伴者とは一様な全体ではない。「同伴者」の支配的類型は文学において革命を歪曲し国民主義、大国家主義、神秘主義の精神に陶酔する作家である。この「同伴者」の文芸はその根底においてプロレタリア革命に背馳する文学なのだ。この反革命的要素に対しては最も断固たる闘争が必要である。
  
=== 第17節 ===
+
革命の真実の同伴者については文学戦線における彼らの利用がまったく必要である。しかしこの利用はプロレタリア文学が同伴者の優良な代表者に影響を及ぼし文学上のプロレタリア的中核の周囲に結集させる時にのみ可能である。
  
「いかに書くか」という問題は、私がかつて一度も考えたことのないものであった。世の中にこのような問題があることを初めて知ったのは、まだ二週間前にすぎない。その時たまたま街に出て、たまたま丁卜書店に入り、たまたま一冊の『こうやる』を見かけて買い求めた。これは一種の雑誌で、表紙には馬に乗った少年兵士が描かれていた。私にはかねてから一種の偏見がある。表紙にこうした兵士の絵が描かれている本は、たいてい戦争を美化するか、あるいは冒険小説の類であると。しかしこの本はそうではなかった。
+
プロレタリア文学と革命の真実の同伴者との友好的協同の広大な舞台はまず第一に農民である。
  
 内容を読んでみると、これは実際の生活における労働者や農民の具体的な闘争の記録と方法を述べたもので、いわゆる「文学的」な修飾とは無縁のものであった。私はここにおいて初めて「いかに書くか」という問題を真剣に考え始めた。
+
  
 私はこれまで、書くことは自然にできるものだと思っていた。見たこと、感じたこと、考えたことを、ありのままに書けばよいと。しかし実際にはそう簡単ではない。何を書くか、誰のために書くか、いかに書くか——これらの問題は、それぞれ独立しているようでいて、実は不可分に結びついている。
+
11 ソヴィエト連邦内のプロレタリア文学は比較的短期間のうちに顕著な社会現象となった。プロレタリア文学の存在の否定は次第に困難になりつつある。反対者は新しい戦術を採用するに至った——プロレタリア文学を「承認」しつつもこれが「文学一般」すなわち有産階級文学の一翼たるべしとの宣言である。ここにおいて全世界の穏健主義者のあの態度が繰り返されている。
  
 「いかに書くか」は、結局のところ「誰のために書くか」という問題に帰着する。権力者のために書くなら、いかに美しい言葉を連ねても、それは嘘である。民衆のために書くなら、たとえ粗削りであっても、それは真実である。
+
我々はすでにプロレタリアの文化的発達の新しい段階に入っており、単なる「承認」はもはや不十分であり、この文学における主権の原則の承認が必要なのだ。
  
 +
  
=== 第18節 ===
+
12 ソヴィエト連邦のみならず全世界の有産階級の文化と文学が今まさに最大の危機、頽廃、腐敗を経験しつつある。資本主義は救いようもなく病んでいる。
  
この二句は時に役に立つこともある。それは私がすでに白雲路の借家に引っ越していた頃のことで、ある日、巡査が電灯を盗む泥棒を捕まえた。管理人の陳公がそれに続いて一方で罵り、一方で殴った。一通り罵ったが、私がその中で聞き取れたのはこの二句だけであった。しかしそれでもう全部わかったような気がした。心の中で思った——「彼が言っているのは、おそらく屋外の電灯がほとんど全部盗まれてしまったということだろう」と。
+
武装した市民戦争の終結後わずか三年にしてソヴィエト連邦のプロレタリア文学は単一の組織的団体に結集した。ソヴィエト連邦のプロレタリア文学は将来の発達の旗印のもとに立っている。プロレタリア文学は有産階級文学を必ず克服するであろう。なぜならプロレタリア独裁は必然的に資本主義を絶滅するからである。
  
 広東語は私にとって異国の言葉のようなものだが、長く暮らしていると、不思議なもので、断片的な語句が耳に馴染んでくる。完全に理解できなくとも、文脈と状況から大意を推し量ることができるようになる。これは言語というものの本質に関わる問題かもしれない。
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【文芸領域における党の政策について——ロシア共産党中央委員会の決議(一九二五年七月一日)】
  
 人は必ずしも言葉のすべてを理解する必要はない。場面と口調と表情と——つまり言葉以外のすべてが、言葉の不足を補ってくれる。これは文学においても同じだ。作家が一字一句を完璧に書く必要はない。読者は文脈から、書かれていないことまで読み取るのだ。
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1 最近の大衆の物質的状態の向上は文化的期待と要求の大いなる発達を創出した。我々はすでに文化革命の圏内に足を踏み入れた。
  
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2 この大衆的文化的発達の一部をなすのは新しい文学である——とりわけプロレタリアおよび農民文学の発達である。
  
=== 第19節 ===
+
3 他方では、経済過程の複雑性、新ブルジョアジーの誕生と成長——これらすべては不可避的に社会生活の文学的表面にも出現せざるをえない。
  
本日、民国十六年五月二十九日、呂純陽先師降臨し、汝が信心深き女性にして広西の人なることを明らかにせり。汝は今生人と為り、心善く清潔なり。今、天上の玉皇、横財四千五百両の銀を汝に賜う。汝は信じて福を享け、子を養い女を育つべし。ただしこの財は八回に分けて足る。今年七月末にはただ白鴿票七百五十元前後を当てるのみ。老後の結末に一子あり、第三位に官星発達し、官太の身分を得る……
+
4 我が国において階級闘争は文芸の領域においてもまだ終熄していない。
  
 これは私が偶然手に入れた一通の迷信的な手紙の文面である。おそらく誰かが路上で拾い、あるいは郵便受けに投げ込まれたものであろう。中国の民間には今なおこうした迷信が蔓延している。
+
5 しかし我々の社会生活の基本的事実すなわち労働階級による政権獲得の事実を顧みないことは絶対に許されない。プロレタリア独裁の期間中に党の前に立つ問題は、いかに農民と共存し漸次彼らを教育するか、いかにブルジョアジーとのある程度の協力を容認し漸次彼らを圧するかということである。
  
 注目すべきは、この種の手紙が常に金銭と結びついていることだ。「横財」「白鴿票」——つまり宝くじによる一攫千金の夢。そして「官星発達」——つまり出世栄達。中国人の二大欲望がここに凝縮されている。
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6 プロレタリアートは自らの指導的地位を擁護し堅固にし拡張せねばならない。弁証法的唯物論の新しい領域への前進の過程はすでに始まっている。
  
 迷信は無知の産物だと言われるが、必ずしもそうではない。迷信は絶望の産物でもある。現実の世界に希望が見出せない時、人は超自然的な力に縋るのだ。
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7 この課題がプロレタリアートの解決した他の課題に比して無限に複雑であることを忘れてはならない。労働階級は文化的に圧迫された階級として自らの文芸を自らの独特な芸術的形式を造り出すことができなかった。
  
 +
8 文芸の領域におけるプロレタリアートの指導者の政策は上述のことによって決定されるべきである。
  
=== 第20節 ===
+
9 作家の集団間の相互関係は我が党の一般的政策によって規定される。文学領域における指導者の地位は全体としての労働階級に属する。プロレタリア作家の覇権はまだ確立されておらず党はこれらの作家を援助すべきである。農民作家は友好的待遇をもって迎えられるべきである。
  
「我々の映画の祖国的目的(der vaterlaendische Zweck)が、その内面の構造と事件の時間的制限をも規定している。だからビスマルクの少年時代は、ごく簡略な冒頭を占めるにすぎない。(中略)そしてこの物語は、一八七一年のドイツ建国をもって結末とするべきである。なぜか。それに続く時代は、もはやビスマルクの時代ではなく……」
+
10 「同伴者」との関係においては戦術的なきわめて注意深い関係が必要である。党は反プロレタリア的要素を絶滅し新しい有産階級の観念形態と闘争しつつも、中間的観念形態の状況に対しては忍耐強く寛容に付き合うべきだ。
  
 これはドイツのビスマルク映画についての文章の引用であるが、私がここから考えたのは、いわゆる「祖国的目的」なるものが芸術をいかに歪めるかという問題である。
+
11 プロレタリア作家に対してはあらゆる方法で成長を助けつつも自負の出現を一切の手段をもって予防すべきである。旧い文化的遺産の専門家に対する軽率で侮蔑的態度にあらゆる手段で闘う必要がある。広大な把握、一工場の限界に局限されぬこと、数百万の農民を伴う闘うべき偉大な階級の文学たること——これがプロレタリア文学の内容の界限であるべきだ。
  
 映画であれ文学であれ、「祖国的目的」が先に立てば、事実は都合よく切り取られ、配列される。ビスマルクの少年時代は「簡略な冒頭」にされ、建国後の失策と没落は完全に省かれる。残るのは英雄譚だけだ。
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12 共産主義の批評家は文学上の反革命的現象と仮借なく闘いつつ最大の節度・慎重・忍耐を示すべきである。マルクス主義批評は「学べ」というスローガンを掲げるべきだ。
  
 中国にも同じ傾向がある。歴史上の人物は常に「聖人」か「暴君」かに二分され、その中間の、人間としての複雑さは捨象される。文学も同じだ。「祖国的目的」に奉仕する文学は、必然的にプロパガンダとなる。
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13 党は文学的形式の領域における特定の傾向と結びつくことは断じてできない。時代に適応した様式は創造されるであろうが、それは別の方法で創造されるのだ。
  
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=== 第81節 ===
  
=== 第21節 ===
+
14 したがって党はこの領域におけるあらゆる各種の団体と潮流の自由競争を宣告せざるをえない。ある集団の独占を許可することはプロレタリア文学の根を絶滅することにほかならない。
  
一方では懲罰を加え、一方では騙しにかかる。正義、人道、公理の類の言葉が、また天を舞うであろう。しかし我々は覚えている。ヨーロッパ大戦の時にも一度舞ったことがあり、我々の多くの苦力を騙して前線に送り、彼らの代わりに死なせ、続いて北京の中央公園に、恥知らずで、愚の骨頂の「公理戦勝」の牌坊を建てたことを(もっとも後に改められたが)。今度はどうなるか。
+
15 党はあらゆる手段を尽くして文学の事柄に対する行政上の妨害を排除すべきである。
  
 帝国主義の手法は常に同じだ。まず武力で威嚇し、次に「文明」「正義」の仮面をかぶる。被圧迫民族の人々は、この二重の攻撃にさらされる——銃弾と言葉と。しかも言葉の攻撃の方が、銃弾よりもはるかに陰険である。なぜなら、銃弾は体を傷つけるだけだが、言葉は魂を侵すからだ。
+
16 党は文芸のすべての従事者に批評家と作家・芸術家の職能を正しく区別する必要性を指し示すべきである。党は真に大衆的な読者に供する文芸を創造する必要性を力説せねばならない。我々は大胆に文学における貴族主義的偏見を打破し、数百万の人々が理解しうるような形式を創出すべきである。
  
 「公理戦勝」——なんという皮肉な言葉であろう。大戦で「勝利」したのは公理ではなく、より強い帝国主義であった。そしてその「勝利」の果実は、敗者にではなく、勝者の同盟国にすら均等に分配されなかった。中国は「戦勝国」の一つであったにもかかわらず、山東問題では列強の犠牲にされた。
+
この偉大な課題を遂行した時にのみソヴィエト文学とプロレタリア文学はその文化的歴史的使命を全うしうるのだ。
  
 歴史は繰り返す。帝国主義は何度でも「正義」を振りかざし、何度でも弱者を踏みにじる。我々がなすべきことは、この繰り返しのパターンを認識し、二度と騙されないことだ。
+
【後記】
  
 +
この一冊は日本の外村史郎と蔵原惟人の編訳した本を底本として一昨年(一九二八年)五月から翻訳に着手し月刊『奔流』に順次掲載したものである。その第一号の『編校後記』にかつて次のような言葉を書いた——ロシアの文芸に関する論争については『ソヴィエト・ロシアの文芸論戦』が紹介した。ここでの『ソヴィエト・ロシアの文芸政策』は実にあの一冊の続編と見なしうるものだ。「ナポストゥ」派の攻撃はほとんどヴォロンスキー一人に集中している。現在はトロツキーもラデクもすでに追放されヴォロンスキーもおそらく退職し、状況はまたかなり異なったものになっているであろう。
  
=== 第22節 ===
+
しかし今日に至る三年間ついにこのような書簡を一通も受け取ることがなく文中の欠憾はいぜんとして以前と寸分違わぬままである。むしろ逆に訳者自身に対する嘲罵はかなり少なくなく今に至るまで絶えていない。「一昨年以来私個人に対する攻撃は非常に多くどの刊行物にもおおむね『魯迅』の名を見かけるが、解剖刀は急所を突かず弾丸が当たった場所も致命傷ではない。参考にしうるこのような理論があまりにも少ないため皆がいくらか混乱しているのだ。私が異国から火を盗んできた本意は自らの肉を煮ることにあった。出発点はまったく個人主義なのだ。」
  
アメリカの作家の作品で、私が見たことがあるのは、シーゲルの木版画『パリ・コミューン』(The Paris Commune: A Story in Pictures by William Siegel)であり、ニューヨークのジョン・リード・クラブ(John Reed Club)の出版であった。もう一冊、石版画のグロッパー(Gropper)の作品集もあった。
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「しかし私は故意に曲訳したことはないと自負している。私の佩服しない批評家の痛い所を突いた時には微笑み自分自身の痛い所を突かれた時には痛みをこらえたが断じて増減はしなかった。世にはより良い翻訳者がいるもので私はただ『未だない』から『より良い』に至る空間を埋めたいだけなのだ。」
  
 これらの作品は、いわゆる「純芸術」の観点からすれば、粗削りで未熟かもしれない。しかしそこには生きた力がある。実際の闘争から生まれた表現であるがゆえに、技巧的な洗練を欠いていても、見る者の心を打つのだ。
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一九三〇年四月十二日の夜、魯迅、滬北の小閣にて記す。
  
 中国にも木版画の伝統はある。しかし近年の木版画運動は、主に外国の影響を受けて始まったものだ。とりわけドイツ表現主義とソビエトの版画の影響が大きい。私はこの運動を支持する。なぜなら、木版画は庶民の芸術だからだ。油彩画やブロンズ彫刻と違い、木版画は安価な材料で制作でき、大量に複製できる。つまり、芸術を特権階級の独占物から解放するのだ。
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【作者自伝】
  
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私は一九〇一年十二月十一日トヴェーリ県のキムラフに生まれた。幼少期の大半はヴィリナで過ごしその後ウファに移った。少年期は極東各地およびウスリー南部と結びついている。父は一九一七年に戦死した医士の助手であり母は医士の女性助手であった。
  
=== 第23節 ===
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私が最初に学んだのはウラジオストクの商業学校であった。一九一八年秋に共産党の仕事を始めた。パルチザン部隊がコルチャークに反攻した時期には私も参加した。一九二一年春に第十回全ロシア共産党大会の出席代表に推されクロンシュタットの叛乱鎮圧に赴いた。不幸にも負傷した。一九二一年秋から一九二六年秋まで党の仕事をした。
  
しかし不思議なことに、またもや一つの書店がこの本を印刷する気になったのだ。印刷するなら勝手にすればよいのだが、そうなると読者に会わなければならなくなり、ここに二点の声明を加えておく必要が生じた。誤解を避けるためである。
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最初の小説『氾濫』は一九二二年から二三年にかけて書かれ、長篇小説『壊滅』は一九二五年から二六年にかけて完成した。
  
 その一。私は今、左翼作家連盟の一員である。近頃の書籍の広告を見ると、作家がひとたび左に転じれば、旧作もたちまち革命的であったことにされてしまう大勢である。しかし私はここではっきり言っておく。この書の中の旧作は、決して革命的なものではない。それはただ、一個の人間が自分の生きた時代を見つめ、感じ、書き留めたものにすぎない。
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A・ファジェーエフ。三月六日、一九二八年。
  
 その二。私の文章には、しばしば矛盾がある。それは私自身の思想が変化してきたからであり、また、各々の文章が書かれた時と場所が異なるからでもある。矛盾を恐れて何も書かないよりも、矛盾を含みながらも書き続ける方が、はるかに誠実だと私は考える。
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【壊滅について】
  
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=== 第24節 ===
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もし昨年のソ連文壇で最も問題とされた作品を挙げよと言われれば、まず第一にこのファジェーエフの長篇小説『壊滅』を挙げぬわけにはゆくまい。
  
私はいつも『涛声』を読んでおり、しばしば「痛快なり!」と叫んでいる。しかし今回、周木斎先生の「人を罵ることと自らを罵ること」という文章を見て、その中で北平の大学生が「たとえ難に赴けなくとも、最低最低の限度として難から逃げるべきではない」と述べ、五四運動時代の鋭い鋒芒が消え失せたことを嘆じているのを読んで、喉に骨が刺さったような思いがした。言わずにはいられない。なぜなら私は周先生の主張と正反対であり、学生はまず命を大切にすべきだと考えるからだ。
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小説『壊滅』の主題をなすのはシベリアにおけるパルチザン部隊の闘争である。日本軍とコルチャーク軍の反革命的結合に対抗して蜂起した農民・労働者・革命的知識人の混成隊の困難な英雄主義に満ちた闘争の歴史である。
  
 若い命は貴い。無駄に犠牲にされてはならない。三月十八日の教訓を忘れてはならない。四十余名の青年が殺され、結果として何が変わったか。段祺瑞はやがて退陣したが、それは青年たちの血のためではなく、軍閥間の力関係が変わったためにすぎない。
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この作品を筋立ての面白さから見ればそれほど称賛に値するものではない。しかし作品の主眼はその筋立てにあるのではなく、さまざまな人物の描写と彼らに対する作者の評価にある。そしてこの範囲において作者は実に巧みにその任を果たしている。
  
 「逃げるな」と言う者は、自分は安全な場所にいる。前線に立つのは常に若者だ。私は若者に言いたい——まず生き延びよ。生き延びて、より効果的な方法で闘え。犬死にすることが勇気ではない。生き延びて闘い続けることこそが、真の勇気だ。
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この作品には主人公と指し示しうる人物はいない。強いて求めるなら主人公はパルチザン部隊そのものである。主要人物は——隊長のユダヤ人レヴィンソン、元鉱夫のモローズカ、「町」から来たメーチク、モローズカの妻にして看護婦のワーリャ、副官バクラーノフ等である。
  
=== 第25節 ===
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=== 第82節 ===
  
彼はついに決定的に変わった。あるとき、はっきりと私に告げた。今後は作品の内容と形式を転換すべきだと。私は言った——「それは難しかろう。たとえば刀を使い慣れた者に、今度は棍棒を振れと言っても、どうしてできようか。」彼は簡潔に答えた——「学びさえすればよい!」
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レヴィンソンはこの部隊の隊長であると同時に彼らの「人材」でもある。彼は革命が己に課した任務を明確に理解しそれに向かって邁進している。党の命令を守り常に部隊に正しい方向を示している。部下の弁解を彼は決して容赦しない。部下は彼だけが疲労も倦怠も動揺も幻滅も知らぬ人だと考え尊敬している。しかし彼もまた動揺や疲労と格闘する人間なのだ。作者はこう書いている——
  
 彼の言ったことは空言ではなく、本当に一から学び直し始めた。その頃、彼は一人の友人を連れて私を訪ねてきたことがあった。(以下、魯迅は柔石の人物像と創作活動の変遷を回顧する。柔石は浙江省出身の若い作家で、当初はロマンティックな文学に傾倒していたが、次第に社会的意識に目覚め、プロレタリア文学への転換を決意した。魯迅は彼の真摯さと誠実さを高く評価しつつも、この転換がいかに困難であるかを憂慮していた。柔石は後に国民党当局に逮捕され、1931年に処刑された。この文章は魯迅の深い悲しみと怒りに満ちた追悼文である。)
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「部隊の中ではおおむね誰もレヴィンソンも動揺するということを知らなかった。彼は自分の思想や感情を他の誰にも分け与えず常に出来合いの『はい』と『いいえ』で応じていた。ゆえに彼はすべての者にとって特別に正確な部類の人物と見えたのだ。」
  
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「レヴィンソンが隊長に推挙されて以来誰も彼に別の位置を考えることはできなくなった。——誰もが彼が部隊を指揮するということこそが彼の最大の特徴だと感じていた。もしレヴィンソンが幼い頃に父親の古道具商の手伝いをしたことを話したならばおそらく誰もがそれはちょうど良い冗談だと思ったであろう。しかしレヴィンソンは決してこれらの事を話さなかった。それは皆が自分を特別な種類の人物と見なしていることを知っており人々を率いるには彼らの欠点を指摘し自分の欠点を覆い隠すことでしか成し遂げられないと考えたからなのだ。」
  
=== 第26節 ===
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レヴィンソンと部隊の努力にもかかわらず一隊は敵に圧迫されついに壊滅の淵に瀕する。疲れ果てたレヴィンソンと十八名の部下は将来に希望を託して森から出て行った。
  
裏庭の芝生の上で、ショーを中心に、記者たちが半円陣を組み、世界周遊に代えて、記者の面々の展覧会を開いた。ショーはまたもや色とりどりの質問に遭い、まるで『ブリタニカ百科事典』を繰っているかのようであった。
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「レヴィンソンは沈黙のなお潤んだ目でこの高く遠い空をパンと平和を約束するこの大地を脱穀場の上の遠くの人々を見つめた——彼は速やかに彼ら全員を自分と一つにせねばならないちょうど自分の後ろについてくる十八人と同じように。そして彼は泣くのをやめた。彼は生きねばならずそして自分の義務を果たさねばならないのだ。」
  
 ショーはあまり多くを語りたくないようだった。しかし話さなければ記者たちは決して許さないので、ついに語り始めた。多くを語ればこそ、今度は記者の方が困った。なぜなら彼の答えは常に予想外であり、常に皮肉に満ちていたからだ。
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 バーナード・ショーの中国訪問は、中国の知識人にとって一つの試金石であった。彼を歓迎する者もいれば、彼を排斥する者もいた。歓迎する者は彼のウィットと社会批判を愛し、排斥する者は彼の辛辣さと率直さを恐れた。
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モローズカは元鉱夫である。常に革命的に忠実な兵士規律あるパルチザン隊員たらんと努めている。しかし彼のルンペン的性格がしばしばこの志を妨げる。かつて農民の瓜を盗んで部隊から追放されかけたこともある。白軍との戦闘で愛馬を殺された時にはその場に泣き崩れた。しかし戦場では常に勇敢な闘士であった。
  
 しかしショーが中国で最も物議を醸したのは、彼が中国の現状について何も知らないにもかかわらず、あたかもすべてを知っているかのように語ったことだ。これは西洋の知識人の通弊である。彼らは自国の問題については鋭い観察力を持つが、他国の問題については往々にして表面的な印象で断じてしまう。
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このモローズカと好対照をなすのが「町」から来たメーチクである。知識人であり社会革命党に属していたが負傷してモローズカに救われこの部隊に入った。良心的に革命的闘争に参加しようと努めているが堅固な確信も強靭な意志もなく常に動揺の中にある。ついに最後に斥候として前方を歩いていた時コサック兵に出会い無我夢中で逃走し自覚なく自らの部隊を裏切った。
  
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メーチクとモローズカの対立はこの作品の中でも特に興味深い。モローズカがメーチクを救い出し部隊に連れてきたが、メーチクのような知識人は彼が生来的に嫌悪する「色白の坊や」である。しかし彼の妻ワーリャはメーチクの中に理想の男性を見出した。妻がメーチクに恋していると知った時あたかも自分が侮辱されたかのように感じた。三人の間にさまざまな波瀾が生じる。
  
=== 第27節 ===
+
ワーリャは鉱山の出身で夫モローズカとほとんど共に暮らしたことがなかった。自分の任務にきわめて忠実で生活上もきわめて自由でありながら同志の間ではとても親切な典型的な女性パルチザン隊員である。メーチクが病院に入った時彼女は看護しながら彼を愛し始めた。
  
しかし自分で創作しようとしたのではなく、重視したのはむしろ紹介と翻訳であり、とりわけ短篇に注目し、特に圧迫されている民族の作者の作品に力を注いだ。なぜならあの頃は排満論が盛んで、一部の青年たちは、叫び声を上げ反抗する作者を同志と見なしていたからだ。だから「小説作法」の類は一冊も読んだことがないが、短篇小説はずいぶん読んだ。半分は自分でも好きだったからであり、残りの半分は翻訳の材料を探すためであった。
+
このほかにも常にレヴィンソンの行動を模倣する十九歳の副将バクラーノフ、常に平和な農村生活を夢見ている老人ピカ、泰然と白軍に殺されるメジェリーツァ、軍医スタシンスキー、工兵ゴンチャレンコ等が描かれている。
  
 翻訳という仕事は、創作とは異なる困難を伴う。原作者の意図を正確に伝えなければならないと同時に、読者が理解できる言葉で表現しなければならない。この二つの要求は、しばしば矛盾する。忠実な翻訳は読みにくくなり、読みやすい翻訳は原意から逸れる。
+
=== 第83節 ===
  
 しかし私は「硬訳」を選んだ。なぜなら、読みやすさのために原意を犠牲にすることは、読者を侮ることだからだ。読者は、少しの困難を乗り越えてでも、原作者の真意に触れたいと思うはずだ。少なくとも、そう信じたいのだ。
+
「プロレタリア文学は幾多の変遷を経、各団体間には争闘もあったが、常に一つの観念を標榜として発展し続けてきた。この観念とは、文学を階級的表現として、プロレタリアートの世界感の芸術的形式化として、意識の組織化として、意志を一定の行動に向かわしめる因子として、そして最終的には戦闘時における観念形態的武器として見ることである。たとえ各団体間にかなり一致しない点があったとしても、超階級的で自足的な価値内在的な生活とは何の関係もない文学を復興させようとした者はかつて一人もいなかった。プロレタリア文学は生活から出発するのであって文学性から出発するのではない。作家たちが……」
  
 +
=== 第84節 ===
  
=== 第28節 ===
+
彼は文学団体において最初は「鍛冶場」に属していたがのち脱退して「十月」に加入した。一九二七年にある革命的少女の道徳的破滅の経過を描いた小説『月は右から昇る』別名『異常なる恋愛』を出版し一大嵐を巻き起こして種々の批評を招いた。ある者は描写が真実であり現代の青年の堕落が見て取れると言い、ある者は革命的青年の中にはこのような現象はなく作者は青年に対する中傷だと言い、折衷論者はこれらの現象は実在するが青年の一部にすぎないとした。高等学校はこのために心理測験を実施し結果は男女学生の絶対多数が「永続的恋愛関係」を願望していることが明らかとなった。珂刚教授は『偉大な十年の文学』の中でこの種の文学に対して多くの不満を述べた。
  
しかし熱血のほかに、守常先生にはまだ遺文がある。残念ながら遺文について、私はあまり語ることができない。なぜなら携わった仕事が互いに異なり、『新青年』の時代には、彼を同じ戦線に立つ仲間と見なしてはいたが、しかし彼の文章に注意を払ってはいなかったからだ。たとえば騎兵は架橋に注意する必要がなく、砲兵は馬の操縦に心を砕く必要がないように、あの頃はそれも間違いではないと自負していた。だから今語れることは……
+
しかしこの本は日本では早くから太田信夫の訳本『右側の月』があり末尾に短篇四五篇を附している。ここでの『工人』は日本訳本から重訳したもので性的作品ではなく傑作でもないが、レーニンを描写した幾つかの箇所は妙手の速写画のように神采がある。もう一人のロシア語があまり上手でない男はおそらくスターリンであろう。彼はもともとグルジア出身だからだ。
  
 李大釗先生は中国共産党の創設者の一人であり、1927年に軍閥の張作霖によって処刑された。彼と魯迅は『新青年』誌の同人として文学革命を共に戦ったが、魯迅は文学の道を、李大釗は政治の道を選んだ。
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セラフィモーヴィチ(A. Serafimovich)の本姓はポポフで十月革命前にすでに成名の作家であったが、『鉄の流れ』発表後は一時代の記念碑的作品の作者としてさらに偉大なプロレタリア文学の作者と確定された。
  
 魯迅はここで、李大釗の遺文について語ることの困難さを率直に認める。二人は同じ時代を生き、同じ理想を抱きながらも、異なる方法でそれを追求した。魯迅は自分の「戦場」が文学であったことを弁明しつつも、李大釗の政治的勇気に対する深い敬意を表している。
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『一天の仕事』と『岔道夫』は全集第一巻から直接訳出された十月革命以前の作品である。序文にはこう書かれている——「セラフィモーヴィチは『鉄の流れ』の作家であり紹介を要しない。中国の読者とりわけ作家は十月以前の書き方を知りたいであろう。彼は群衆のために語り群衆の言いたいことを語りえた。しかし当時の文字獄は残酷で書報検査は厳しかった。それでも彼は書き続けることができ社会生活を暴露する強力な作品を書きあらゆる仮面を剥ぐことができた。」
  
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孚尔玛诺夫(Dmitriy Furmanov)の自伝には出身地も出身階層も記されていない。八歳から小説を読み始めスコット、リード、バーン等の翻訳小説を多読した。モスクワ大学文学部を一九一五年に卒業したが「国家試験」は受けなかった。その年軍医の看護士となりトルコ戦線に派遣された。一九一六年にイワノヴォに戻り労働者学校の教員をした。一九一七年革命後は社会革命党の極左派「最大限度派」に属した。のちフルンゼの影響でボルシェヴィキ党に入党した。国内戦争ではチャパーエフ第二十五師の党代表を務め赤旗勲章を受けた。一九二六年三月十五日に病死。墓碑には剣と本が刻まれ「共産主義者、戦士、文人」と銘されている。
  
=== 第29節 ===
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唆罗呵夫(Michail Sholochov)は一九〇五年にドン州に生まれた。父は雑貨、家畜、木材商人であった。有名にしたのは大部の市民戦争を材料とする小説『静かなドン』で全四巻、第一巻には中国語訳がある。
  
ふと『本草綱目』をめくって、この一点を思い出した。この一部の書は、ごく普通の本であるが、中には豊かな宝蔵が含まれている。もちろん、風を捕らえ影を追うような記載も免れ得ないが、しかし大部分の薬品の効用は、長年の経験を経てこそ、ようやくこの程度まで知ることができたのであり、とりわけ驚くべきは毒薬についての叙述である。我々はこれまで好んで古聖人を恭しく讃えてきたが、しかし考えてみれば、毒薬の効用を知るためには、必ず誰かがそれを口にして試さなければならなかったのだ。
+
『父親』は内戦時代の一コサック老人の悲劇を描く。小さな子供のために年長の二人の息子を殺すが結局は小さな子供にも憎まれる。ゴーゴリやトルストイが描いたコサックとはすでに大きく異なり、むしろゴーリキーの初期作品に時折出現する人物を彷彿とさせる。
  
 神農氏が百草を嘗めたという伝説は、おそらく事実の反映であろう。しかし実際に嘗めたのは神農氏一人ではなく、数え切れないほどの無名の人々であったはずだ。そして彼らの中の多くは、毒に当たって命を落としたに違いない。
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班菲洛夫(Fedor Panferov)は一八九六年に貧農の息子として生まれ、九歳で羊飼いとなりのち店員をした。共産党員として最優秀の作品は農村の社会主義建設のための貧農の闘争を描く『勃鲁斯基』で一九二六年に出版され欧米諸国にほぼ翻訳されている。
  
 『本草綱目』のような書物は、こうした無数の犠牲の上に成り立っている。学問とはすべてそういうものだ。先人の試行錯誤と犠牲の上に、後人の知識が築かれる。しかし我々はしばしば、先人の犠牲を忘れ、成果だけを享受する。
+
ソヴィエト・ロシアが五ヶ年計画を実施した時、革命的労働者は突撃隊を組み社会主義競争を行い二年半で「文明国」が幻想とした事業を少なくとも十工場が完成させた。当時の作家たちも社会の要求に応じて報告文学、短篇、素描の小品をもって突撃隊員の勝利を描き大建設の地に赴いた。
  
 医学と文学は、この点で似ている。文学もまた、無数の試行錯誤の上に成り立っている。古人の「毒を嘗める」行為——つまり新しい表現を試み、失敗し、時に嘲笑され、しかしその中からわずかに残ったものが後世の文学の糧となる。
+
『枯煤・人々と耐火煉瓦』は地下泥沼の成因、建設者の自然克服の毅力、枯煤と文化の関係、競争の状況、監督と指導の要訣を短い一篇に含んでおり、「報告文学」の好標本であるのみならず実際の知識と工作の簡要な教科書でもある。
  
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=== 第85節 ===
  
=== 第30節 ===
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『文学月報』の第二号に周起応君の訳した同一の文章があるが、ここのものより三分の一ほど多い。おおむねスターリンの物語についてである。これはおそらく原本に二種類あり、原訳者が増減したのではなく、彼の訳本は英文からのものであろう。私は当初彼の訳本を借りようと思ったが、考え直して別に『冲撃隊』の一篇を訳した。詳しい方は興味は多いがそのために肝要な箇所が覆い隠され、簡潔な方は脈絡が分明だが読んでいると乾燥の感を免れない。——しかしそれぞれに相応しい読者層がある。有心の読者や作者が比較研究すれば必ず大いに悟るところがあるであろう。中国に二種類の異なる訳本があることは決して余計な徒労ではないと思う。
  
翻訳を重視し、鑑とすることは、実は創作を促進し奨励することでもある。しかし数年前から、「硬訳」を攻撃する「批評家」が現れ、自分の古い瘡蓋の末屑を掻き落とし、膏薬の上の麝香のように少ないからこそ、自ら奇珍だと思い込んでいる。そしてこの風潮がなんと広まってしまい、多くの新しい論者が今年になって舶来の洋貨を軽蔑し始めた。武人の「外国をやっつけろ」の叫びに比べれば、いくらかましかもしれないが、しかし本質においては同じである。
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しかし原訳本にもそれぞれ誤りがあるようだ。たとえばここの「彼は話す時いつも手に細い紐を持ちこれで連結しているかのようだ」は周訳本では「彼はいつもこのように話す、まるで何かを歯の間に挟んでしっかり噛んでいるかのように」とある。ここの「彼は朝しばしば人に起こされ机の下から引き出される」は周訳本では「彼はしばしば目覚め、あるいはより正確に言えば机の上から頭を持ち上げた」とある。道理から考えればいずれも後者の訳が正しいはずだが、雑然を避けるため私はこれに依って改正しなかった。
  
 「硬訳」への攻撃は、実は翻訳そのものへの攻撃であり、ひいては中国の文学が外国の文学から学ぶことへの拒否である。これは鎖国の精神の文学版と言えよう。
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内戦時代を描く『父親』から一足飛びに建設時代の『枯煤・人々と耐火煉瓦』に至るのは、あまりにも間隔が大きい。しかし今のところ他に良い方法がない。私の収集した材料の中でこの空白を埋めうる作品はきわめて限られており、さらにいくつかあるものの紹介できないあるいは紹介に適さないものだからだ。幸いにも中国にはすでに数種の長篇や中篇の大作があり、この欠陥をいくらか補うことができる。
  
 なぜ翻訳が必要なのか。それは中国の文学が、長い封建時代の間に、表現の幅を著しく狭めてしまったからである。人間の感情と思想のすべてを表現するには、中国語の既存の文学的語彙だけでは足りない。外国の文学から学ぶことによって、我々は新しい表現の可能性を開拓できるのだ。
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一九三二年九月十九日、編者。
  
 「硬訳」が読みにくいという批判は、もっともなところもある。しかしそれは「翻訳するな」という結論にはならない。結論は「もっと良い翻訳をせよ」であるべきだ。翻訳の質を高めるためには、まず翻訳が存在しなければならない。「硬訳」を攻撃してすべての翻訳を否定するのは、風呂の水と一緒に赤子を捨てるようなものだ。
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魯��� (ルーシュン, 1881-1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

【物乞い】

私は剥落した高い塀に沿って歩いていた。柔らかな灰色の土を踏みしめながら。ほかにも数人の者が、それぞれの道を歩いていた。微風が起こり、塀の上に覗く高い木の枝が、まだ枯れきらぬ葉をつけたまま、私の頭上で揺れた。

微風が起こり、四方はすべて灰色の土であった。

一人の子供が私に物乞いをした。袷の衣を着て、悲しげな様子も見せず、道を塞いで叩頭し、追いすがって哀れな声をあげた。

私はその声の調子、その態度を嫌悪した。悲しみもなく、ほとんど戯れに近いことを憎んだ。追いすがって哀号するさまに辟易した。

私は歩いた。ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。微風が起こった。四方はすべて灰色の土であった。

もう一人の子供が私に物乞いをした。やはり袷の衣を着て、悲しげな様子も見せなかったが、唖であった。手を広げ、手真似をした。

私はその手真似を憎んだ。そのうえ、彼はおそらく唖ではなく、これは単なる物乞いの手段にすぎないのだ。

私は施しをしない。施しの心がない。ただ施す者の上に立って、倦怠と疑念と憎悪を与えるのみだ。

私は崩れた土塀に沿って歩いた。壊れた煉瓦が塀の欠けた所に積まれ、塀の中には何もなかった。微風が起こり、秋の寒さが袷の衣を突き抜けて身に沁みた。四方はすべて灰色の土であった。

私は考えた——自分はどんな方法で物乞いをするだろうか。声を出すなら、どんな調子で? 唖を装うなら、どんな手真似で?……

ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。

私は施しを得られまい、施しの心も得られまい。施す者の上に自ら居る者の倦怠と疑念と憎悪を得るだけだ。

私は無為と沈黙とで物乞いをしよう……

少なくとも虚無を得よう。

微風が起こり、四方はすべて灰色の土であった。ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。

灰色の土、灰色の土、……

………

灰色の土……

(一九二四年九月二十四日。)

【復讐】

人の皮膚の厚さは、おそらく半分にも満たない。鮮紅の熱い血が、その裏側を、壁に密々と這う槐蚕よりもなお密な血管の中を奔流し、温もりを放っている。かくして各々がこの温もりによって互いに蠱惑し、煽動し、牽引し、懸命に寄り添い、接吻し、抱擁して、生命の陶酔の大歓喜を得んとする。

しかしもし一振りの鋭利な刃で、ただの一撃で、この桃紅色の薄い皮膚を貫いたなら、あの鮮紅の熱い血が矢のように迸り出て、その一切の温もりをもって直接に殺戮者を灌漑するであろう。次いで、冷たい息吹を与え、蒼白い唇を見せ、人の心を茫然とさせ、生命の飛揚の極致の大歓喜を得させるであろう。そして自らは、永遠に生命の飛揚の極致の大歓喜に浸るのである。

かくして、二人は全身を露わにし、利刃を握りしめ、広漠たる曠野の上に対峙していた。

二人はまさに抱擁せんとし、まさに殺戮せんとした……

通りがかりの者たちが四方から駆け寄ってきた。密々と、槐蚕が壁を這い上るように、蟻が干し魚を担ごうとするように。衣服はみな美しいが、手は空であった。四方から駆け寄り、懸命に首を伸ばして、この抱擁または殺戮を鑑賞しようとした。彼らはすでに、後で自分の舌に味わうであろう汗または血の鮮やかな味を予感していた。

しかし二人は対峙したまま、広漠たる曠野の上に、全身を露わにし、利刃を握りしめながら、抱擁もせず、殺戮もせず、しかも抱擁または殺戮の意思すら見えなかった。

二人はこのまま永久に至り、円やかな身体はすでに干枯れようとしていたが、いささかも抱擁または殺戮の意思は見えなかった。

通りがかりの者たちはそこで退屈を覚えた。退屈が毛穴から入り込み、退屈が自らの心から毛穴を通って這い出し、曠野に満ち溢れ、また他人の毛穴に入り込むのを感じた。彼らはやがて喉が渇き、首もだるくなり、ついには互いに顔を見合わせ、ゆっくりと散っていった。甚だしきに至っては、干枯れて生きる趣をも失ったように感じた。

かくして広漠たる曠野だけが残り、二人はその中で全身を露わにし、利刃を握りしめ、干枯れたまま立っていた。死人のような眼差しで、通りがかりの者たちの干枯れた、血なき大殺戮を鑑賞しながら、永遠に生命の飛揚の極致の大歓喜に浸っていた。

(一九二四年十二月二十日。)

【希望】

私の心はひときわ寂しい。

しかし私の心はとても平穏である——愛も憎しみもなく、悲しみも喜びもなく、色も音もない。

私はおそらく老いたのだ。私の髪はすでに白い。明らかなことではないか。私の手は震えている。明らかなことではないか。ならば、私の魂の手もきっと震えており、髪もきっと白くなっているであろう。

しかしこれは何年も前のことであった。

それ以前、私の心はかつて血なまぐさい歌声に満ちていた——血と鉄、炎と毒、回復と復讐。ところが忽ちこれらはすべて空虚となった。ただ時として、やむを得ぬ自欺の希望を故意に詰め込んだ。希望、希望、この希望の盾をもって、空虚の中の暗夜の襲来に抗した。盾の裏側もやはり空虚の中の暗夜であったけれども。そしてまさにこのようにして、私の青春は次第に費え尽きたのであった。

私はとうに、自分の青春がすでに過ぎ去ったことを知らなかったであろうか。しかし身の外の青春はなお在ると思っていた——星、月光、凍りついて落ちた蝶、闇の中の花、梟の不吉な声、杜鵑の血を吐く啼き声、笑いの渺茫、愛の翔舞……。たとえ悲涼で縹渺たる青春であろうとも、結局は青春であった。

しかし今、なぜこれほど寂しいのか。まさか身の外の青春までもすべて過ぎ去り、世の青年たちもみな老いてしまったのか。

私は自ら、この空虚の中の暗夜に肉薄するほかはない。希望の盾を置き、ペテーフィ・シャーンドル(一八二三—四九)の「希望」の歌を聞く——

希望とは何か? 娼婦である。

誰にでも媚び、一切を捧げる。

お前が最も貴い宝を犠牲にした時——

お前の青春を——彼女はお前を捨てる。

この偉大なる抒情詩人、ハンガリーの愛国者は、祖国のためにコサック兵の矛先に死んでから、すでに七十五年が経った。悲しきかなその死。しかしさらに悲しむべきは、彼の詩が今なお死んでいないことである。

しかし、なんと惨めな人生であろう。傲岸にして英邁なるペテーフィですら、ついには暗夜の前で歩みを止め、茫々たる東方を振り返ったのだ。彼は言った——

絶望の虚妄なること、まさに希望に同じ。

もし私がなおも、明るくもなく暗くもないこの「虚妄」の中で偸生せねばならぬなら、私はなおもあの過ぎ去った悲涼で縹渺たる青春を求めよう。ただし身の外にこそ。なぜなら身の外の青春がひとたび消え去れば、わが身中の遅暮もまた凋零するからである。

しかし今、星も月光もなく、凍りついて落ちた蝶も、笑いの渺茫も、愛の翔舞もない。しかし青年たちはとても平穏である。

私は自ら、この空虚の中の暗夜に肉搏するほかはない。たとえ身の外の青春を見出せずとも、自らわが身中の遅暮を一擲せねばならぬ。しかし暗夜はいったいどこにあるのか。今は星もなく、月光もなく、笑いの渺茫も愛の翔舞もない。青年たちはとても平穏であり、しかも私の眼前には、真の暗夜すらないのである。

絶望の虚妄なること、まさに希望に同じ!

(一九二五年一月一日。)

【雪】

暖かい国の雨は、いまだかつて冷たく堅く燦爛たる雪の花に変わったことがない。博識なる人々はそれを単調だと思い、雨自身もまた不幸だと感じるであろうか。江南の雪こそは、まことに潤いに満ちて艶やかの極みであった。それはなお仄かに漂う青春の便りであり、この上なく健やかな処女の肌であった。雪野には血のように赤い宝珠山茶があり、白い中にほの青い一重の梅花があり、深い黄色の磬口の蠟梅があり、雪の下にはなお冷たい緑の雑草があった。蝶は確かにいなかった。蜜蜂は山茶花と梅花の蜜を採りに来たであろうか。私ははっきりとは覚えていない。しかし私の目には、冬の花が雪野に咲き、多くの蜜蜂たちが忙しく飛び交い、ぶんぶんと騒いでいるのが見えるようであった。

子供たちは凍えて真っ赤になった、紫色の生姜の芽のような小さな手に息を吹きかけながら、七、八人で一斉に雪達磨を作りにかかった。うまくいかないので、誰かの父親も手伝いに来た。達磨は子供たちよりずっと高く作られたが、上が小さく下が大きいひと塊にすぎず、ついには瓢箪か達磨か見分けがつかなかった。しかしとても白く、とても明るく艶やかで、自らの潤いで互いに粘り合い、全体がきらきらと光っていた。子供たちは竜眼の種で目玉を作り、また誰かの母親の化粧箱から紅を盗んできて唇に塗った。これでまさしく大きな阿羅漢であった。彼もまた目を爛々と輝かせ、唇を真っ赤にして雪の中に座っていた。

翌日もまだ数人の子供たちが訪ねてきて、手を叩き、頷き、笑った。しかし彼はついにひとり座っていた。晴天がまた来て彼の肌を溶かし、寒夜がまた彼に一層の氷を結ばせ、不透明な水晶のようにした。続く晴天がまた彼を何とも知れぬものに変え、唇の紅もすっかり褪せてしまった。

しかし、朔北の雪花は紛々と舞い降りた後、永遠に粉のごとく、砂のごとく、決して粘り合わず、屋根の上に、地の上に、枯草の上に撒かれる。ただそれだけである。屋根の雪はとうに溶け始めていた。家の中に住む人の火の温もりゆえに。それ以外は、晴天の下、旋風がにわかに来れば、蓬勃として奮い飛び、日光の中できらきらと輝き、火焔を蔵した大霧のごとく、旋転しつつ昇騰し、太空に充満し、太空をして旋転しつつ昇騰せしめ、煌めかせる。

果てしない曠野の上に、凛冽たる天蓋の下に、きらきらと旋転し昇騰するのは、雨の精魂……

そうだ、あれは孤独な雪であり、死んだ雨であり、雨の精魂なのだ。

(一九二五年一月十八日。)

【好い話】

灯火が次第に小さくなってゆく。石油がもう多くないことを告げている。石油も上等の品ではなく、早くからランプの笠を燻して薄暗くしていた。爆竹の盛んな響きが四方にあり、煙草の煙が身辺に漂う——昏沈たる夜であった。

私は目を閉じ、後ろに仰け反って、椅子の背にもたれた。『初学記』を握った手を膝の上に置いた。

朦朧の中で、私は一つの好い話を見た。

この話はとても美しく、優雅で、面白かった。多くの美しい人と美しい出来事が、入り交じって一天の雲錦のようであり、しかも万の奔星のように飛び動きながら、同時にまた展開してゆき、果てしなく広がっていった。

私はかつて小舟に乗って山陰の道を通ったことがあったように思う。両岸の烏桕、新しい苗、野の花、鶏、犬、叢の木と枯木、茅屋、塔、伽藍、農夫と村の女たち、干されている衣、僧侶、蓑笠、空、雲、竹……すべてが澄み切った碧い小川に逆さに映り、一櫂ごとに、各々がきらめく日の光を帯び、水中の浮草や藻や魚とともに揺れ動いた。すべての影、すべてのものが、溶け散り、揺れ動き、広がり、互いに融け合った。融け合ったかと思うと、また退き縮み、もとの形に近づいた。縁はどれも夏雲の峰のように入り組んで、日の光を縁取り、水銀色の炎を放っていた。私が通った川はすべてそうであった。

今、私の見ている話もそうであった。水の中の青空を底に、一切の事物がその上で交錯し、一篇に織り成され、永遠に生き生きとし、永遠に展開してゆく。私にはこの一篇の終わりが見えなかった。

川辺の枯柳の下の数株の痩せた立葵は、きっと村の娘が植えたのであろう。大きな赤い花とまだらの赤い花が、水の中に浮かんで動き、ふと砕け散り、長く引き伸ばされ、縷々たる臙脂の水となったが、しかし滲みはしなかった。茅屋、犬、塔、村の娘、雲……もみな浮かんで動いていた。大きな赤い花が一つ一つ引き伸ばされ、この時は飛沫を散らして迸る赤い錦の帯であった。帯が犬の中に織り込まれ、犬が白雲の中に織り込まれ、白雲が村の娘の中に織り込まれた。……一瞬のうちに、それらはまた退き縮もうとした。しかしまだらの赤い花の影もすでに砕け散り、伸び広がって、塔、村の娘、犬、茅屋、雲の中に織り込まれようとしていた。

今、私の見ている話は明瞭になってきた。美しく、優雅で、面白く、しかも光に満ちていた。青空の上に、無数の美しい人と美しい出来事があり、私は一つ一つ見、一つ一つ知った。

私はまさに彼らを凝視しようとしていた……。

私がまさに彼らを凝視しようとした時、突然驚いて目を開けると、雲錦はすでに皺くちゃに乱れ、誰かが大きな石を川に投げ込んだかのように、水波が突然立ち上がり、一篇の影をずたずたに引き裂いてしまった。私は無意識に、落ちかけた『初学記』を慌てて握りしめた。目の前にはまだ虹色の砕けた影がいくつか残っていた。

私はこの一篇の好い話を本当に愛している。砕けた影がまだあるうちに、追い求め、完成させ、留めておきたい。本を投げ出し、身を乗り出して筆を取ろうとした——砕けた影など一片もなく、ただ薄暗い灯の光があるだけだった。私はもう小舟の中にはいなかった。

しかし私は確かにこの一篇の好い話を見たことを覚えている。昏沈たる夜の中で……。

(一九二五年二月二十四日。)

【死火】

私は夢の中で氷山の間を駆けていた。

これは高大な氷山で、上は氷の天に接し、天上には凍雲が一面に広がり、片々として魚の鱗のようであった。山麓には氷の樹林があり、枝葉はすべて松や杉のようであった。すべてが冷たく、すべてが青白かった。

しかし私は忽然、氷の谷に墜ちた。

上下四方、冷たくないものはなく、青白くないものはなかった。しかしすべての青白い氷の上に、赤い影が無数にあり、珊瑚の網のように絡まり合っていた。足元を見下ろすと、火焔があった。

これが死火であった。燃え盛る形をしているが、微動だにせず、全体が凍り固まって、珊瑚の枝のようであり、先端にはまだ凝固した黒煙があった。おそらく火宅から出たばかりで、それゆえに焦げ枯れているのであろう。このようにして氷の四壁に映り、互いに反映し合い、無量の影と化して、この氷谷を紅珊瑚の色にしていた。

ははは!

私が幼い頃、もともと快速艦が立てる波の花や、大炉が噴き出す烈火を見るのが好きだった。見るだけでなく、はっきり見たいと思った。残念なことに、それらは絶えず変幻し、永久に定まった形がなかった。いくら凝視しても、決まった痕跡を留めなかった。

死んだ火焔よ、今やっとお前を手に入れた!

私は死火を拾い上げ、よく見ようとした時、あの冷気がすでに私の指を灼いた。しかし私は耐え忍び、衣のポケットに押し込んだ。氷谷の四面は、たちまちすべて青白くなった。私は氷谷を出る方法を思案しながら歩いた。

私の体から一筋の黒煙が噴き出し、鉄線蛇のように上昇した。氷谷の四面には、たちまち赤い炎が満ちて流れ、大火聚のように私を包囲した。見下ろすと、死火はすでに燃え始め、衣を焼き破って、氷の地面に流れ落ちていた。

「ああ、友よ! あなたの温もりが、私を目覚めさせた。」と彼は言った。

私は急いで挨拶し、名を尋ねた。

「私はもとは氷谷の中に捨てられていた」と彼は問いとは関係なく言った。「私を捨てた者はとうに滅び、消え尽きた。私も凍り凍えて死にかけていた。もしあなたが温もりをくれなければ、私をまた燃え上がらせてくれなければ、間もなく私は滅びるところだった。」

「あなたの目覚めは、私を喜ばせる。私はちょうど氷谷を出る方法を考えていた。あなたを連れて行きたい。永遠に凍らせず、永遠に燃やし続けよう。」

「ああ! それでは、私は燃え尽きてしまう!」

「あなたが燃え尽きるのは惜しい。それでは、ここに残しておこう。」

「ああ! それでは、私は凍え消えてしまう!」

「それでは、どうすればよいのか。」

「しかしあなた自身は、どうするのだ。」と彼は逆に問うた。

「言ったではないか——私はこの氷谷を出たいのだ……。」

「それなら私は燃え尽きた方がましだ!」

彼は忽然跳び上がり、赤い彗星のように、私もろとも氷谷の外に飛び出した。大きな石車が突然駆けてきて、私はついに車輪の下に轢き殺された。しかし私はまだ、その車が氷谷の中に墜ちるのを見届けることができた。

「ははは! お前たちはもう二度と死火には出逢えないぞ!」と私は得意げに笑って言った。まるでそうなることを望んでいたかのように。

(一九二五年四月二十三日。)

【犬の反駁】

私は夢の中で狭い路地を歩いていた。衣も靴もぼろぼろで、乞食のようであった。

一匹の犬が背後で吠え始めた。

私は傲然と振り返り、叱りつけた。

「こら! 黙れ! この勢利な犬め!」

「ひひ!」と犬は笑い、さらに続けた。「失礼ですが、人様にはかないませんな。」

「なんだと!」と私は怒り、これ以上ない侮辱だと感じた。

「恥じ入ります。私はついに銅と銀の区別も知らず、布と絹の区別も知らず、官と民の区別も知らず、主と奴の区別も知らず、まだ……。」

私は逃げ出した。

「まあお待ちなさい! もう少し話しましょう……。」と犬は背後で大声で引き留めた。

第2節

私はひたすら逃げた。力の限り歩き、ついに夢境から逃げ出して、自分の寝床に横たわっていた。

(一九二五年四月二十三日。)

【失われた良い地獄】

私は夢の中で寝床に横たわっていた。荒涼たる野外、地獄のそばであった。鬼魂たちの叫び声はことごとく低く微かであったが、秩序があり、炎の怒号、油の沸騰、鋼の叉の震えと共鳴して、心酔させる大いなる楽を成し、三界に布告していた——地下太平なりと。

偉大なる男が私の前に立っていた。美しく、慈悲深く、全身に大いなる光輝を放っていたが、しかし私は彼が魔王であることを知っていた。

「一切は終わった、一切は終わった! 哀れな鬼魂たちは、あの良い地獄を失ってしまった!」と彼は悲憤して言い、そこで座って、彼の知っている物語を私に語った。

「天地が蜂蜜色になった時、すなわち魔王が天神に勝ち、一切を主宰する大いなる威権を掌握した時であった。天国を収め、人間を収め、地獄をも収めた。そこで魔王は親しく地獄に臨み、中央に座し、全身から大いなる光輝を発して、一切の鬼衆を照らした。

「地獄はもとよりはるか以前から荒廃していた。剣樹は光芒を失い、沸騰する油の辺りはとうに噴き上がらず、大火聚も時折わずかな青煙を上げるのみで、遠くには曼陀羅華が芽生えていたが、花はごく小さく、惨めに白く哀れであった。それは不思議なことではない。地上がかつて大いに焼かれたため、自ずとその肥沃さを失っていたからである。

「鬼魂たちは冷めた油とぬるい火の中で目覚め、魔王の光輝の中に地獄の小さな花を見た。惨めに白く哀れなその花に、大いに惑わされ、たちまち人の世を思い出し、幾年とも知れず黙考した末、同時に人間界に向かって、獄に抗する最後の絶叫を発した。

「人類はこれに応じて立ち上がり、正義を唱えて魔王と戦った。戦いの声は三界に満ち、雷鳴をもはるかに超えた。ついに大いなる謀略を運らし、大いなる網を布いて、魔王をして地獄からも立ち去らざるを得なくした。最後の勝利は、地獄の門の上にも人類の旗幟が立てられたことであった!

「鬼魂たちが一斉に歓呼した時、人類の地獄整頓使者はすでに地獄に臨み、中央に座し、人類の威厳をもって、一切の鬼衆を叱咤していた。

「鬼魂たちがふたたび獄に抗する絶叫を発した時、彼らはすでに人類の叛逆者となり、永劫沈淪の罰を受けて、剣樹林の中央に遷された。

「人類はここに地獄を主宰する大いなる威権を完全に掌握した。その威稜は魔王をも凌いだ。人類はそこで荒廃を整頓し、まず牛頭阿傍に最高の俸草を与え、さらに薪を添え火を加え、刀山を磨ぎ、地獄全体の面目を一新して、以前の頹廃の気象を一洗した。

「曼陀羅華はたちまち焦げ枯れた。油は同様に沸き、刀は同様に鋭く、火は同様に熱く、鬼衆は同様に呻吟し、同様にのた打ち回り、失われた良い地獄のことを思い出す暇さえなくなった。

「これは人類の成功であり、鬼魂たちの不幸であった……。

「友よ、あなたは私を疑っているな。そうだ、あなたは人間だ! 私はひとまず野獣と悪鬼を探しに行こう……。」

(一九二五年六月十六日。)

【立論】

私は夢の中で小学校の教室で作文の準備をしており、先生に立論の方法を教えてもらおうとしていた。

「難しい!」と先生は眼鏡の縁の外から斜めに目を光らせて私を見ながら言った。「ひとつ話をしてやろう——

「ある家に男の子が生まれ、一家中大喜びだった。満月の祝いの時、抱いて客に見せた——おそらく何か良い前兆が欲しかったのだろう。

「一人が言った。『この子は将来きっと金持ちになる。』彼はひとしきりの感謝を受けた。

「もう一人が言った。『この子は将来きっとお役人になる。』彼はいくつかのお世辞を受け取った。

「さらにもう一人が言った。『この子は将来きっと死ぬ。』彼はみんなから寄ってたかって痛い目に遭わされた。

「死ぬのは必然であり、富貴を言うのは嘘である。しかし嘘をつく者は良い報いを受け、必然を言う者は打たれる。あなたは……。」

「私は嘘もつきたくないし、打たれたくもありません。では先生、何と言えばよいのでしょう?」

「それならこう言いなさい。『おやまあ! この子は! ご覧ください! なんと……あらまあ! ははは! ヘヘ! へ、へへへへ。』」

(一九二五年七月八日。)

【かくのごとき戦士】

かくのごとき戦士がいなければならぬ!

もはやアフリカの土人のように蒙昧でありながら光り輝くモーゼル銃を背負っているのではない。また中国の緑営兵のように疲弊しているのにボックス砲を佩びているのでもない。彼は牛皮と廃鉄の甲冑に頼ることなく、ただ己れのみを持ち、蛮人の用いる、手放しで投げる投槍を携えている。

彼は無物の陣に進み入る。出逢う者はことごとく彼に一様に頷く。彼はこの頷きこそが敵の武器であり、人を殺して血を見せぬ武器であることを知っている。多くの戦士がここで滅亡した。まさに砲弾のごとく、猛士をして力を用うる所なからしめるものである。

それらの頭上にはさまざまな旗幟があり、さまざまな美名が縫い取られている——慈善家、学者、文士、長者、青年、雅人、君子……。頭の下にはさまざまな外套があり、さまざまな美しい模様が縫い取られている——学問、道徳、国粋、民意、論理、公義、東方文明……。

しかし彼は投槍を挙げた。

彼らはみな声を揃えて誓いを立てて言った。自分たちの心はみな胸の中央にあり、他の偏心の人類とは違うのだと。彼らはみな胸の前に護心鏡を置いて、心が胸の中央にあることを自らも深く信じている証拠とした。

しかし彼は投槍を挙げた。

彼は微笑み、わずかに体を傾けて一投した。見事に彼らの心窩を射抜いた。

一切は頽然として地に倒れた——しかしそこにあるのは一枚の外套のみで、中には何もなかった。無物たる物はすでに逃げ去り、勝利を得た。なぜなら彼はこの時、慈善家等を殺害した罪人となったからである。

しかし彼は投槍を挙げた。

彼は無物の陣の中を大股に歩み、ふたたび一様の頷き、さまざまな旗幟、さまざまな外套を見る……。

しかし彼は投槍を挙げた。

彼はついに無物の陣の中で老い衰え、天寿を全うした。彼はついに戦士ではなかったが、無物たる物こそが勝者であった。

かくのごとき境地において、誰も戦いの叫びを聞かない——太平。

太平……。

しかし彼は投槍を挙げた!

(一九二五年十二月十四日。)

【蝋葉】

灯の下で『雁門集』を読んでいると、ふと一枚の押し乾かされた楓の葉が出てきた。

これは去年の晩秋を思い出させた。霜が夜ごとに降り、木の葉は大半が散り、庭先の一本の小さな楓も赤く色づいていた。私はかつて木の周りを行きつ戻りつし、葉の色を仔細に眺めたものだが、青々としていた頃にはこれほど注意したことはなかった。それも全体が赤いのではなく、最も多いのは淡い絳色で、数枚は緋色の地の上に、さらにいくつかの濃い緑の斑を帯びていた。一枚だけは虫食いの穴があり、黒い花の縁取りを持ち、赤と黄と緑のまだら模様の中で、瞳のように人を凝視していた。私は思った——これは病葉だ、と。そこで摘み取り、今しがた買った『雁門集』に挟んだ。おそらくこの、落ちかけた、蝕まれて斑爛たる色を、しばし保存して、すぐには群れの葉とともに飛び散らせまいとしたのだろう。

しかし今夜、それは蝋のように黄ばんで私の目の前に横たわり、あの瞳ももはや去年のように炯々とはしていなかった。もしさらに数年も経てば、昔の色が記憶から消え去り、おそらく私自身でさえ、なぜこれが本に挟まれていたのかその理由がわからなくなるであろう。落ちかけた病葉の斑爛も、ほんの束の間しか向き合えぬようだ。まして青々と茂っていた頃のことはなおさらである。窓の外を見れば、寒さにたいへん強い木々もとうに丸裸になっている。楓は言うまでもない。晩秋の頃、おそらく去年のものに似た病葉もあったであろうが、惜しいことに今年は秋の木を愛でる余暇がなかった。

(一九二五年十二月二十六日。)

【一九二四年】

【「纠正」なきを望む】

汪原放君はすでに故人となった。彼の標点と校正の小説は、些細な誤りを免れないとはいえ、大体において作者と読者に功績があった。ところが思いがけず弊害が限りなく、模倣する者たちが手当たり次第に本を引っ張り出し、あなたも標点を施し、私も標点を施し、あなたも序を書き、私も序を書き、彼も校改し、これも校改し、しかも真面目にやろうとしないので、結局は本を台無しにしただけであった。

『花月痕』は本来宝物のように扱うべき本ではないが、誰かが標点を施して出版しようとするのは、もとより各自の勝手である。この本はもともと木版であり、後に活字本があり、最後は石版で、誤字が非常に多く、今世に出回っているのは大半がこの種のものである。新しい標点本については、陶楽勤君が序で言う。「本書の底本は佳品とはいえ、誤りがなお多い。余はすべて纠正を加えたが、見落としのある所は避けがたい……」と。私は誤字の多い石版本しか持っていないが、偶々第二十五回の三、四頁を比べてみると、やはり石版本の方がましだと思えた。なぜなら陶君は石版本の誤字の多くを纠正しておらず、しかも石版本の正しい字をかえって歪めてしまっていたからである。

「釵黛は直に一つの子虚烏有であり、取るに足らぬ。……」

この「直是個」は「簡直に一個」の意味であるが、纠正本では「真是個」に改められており、原意とはだいぶ異なってしまった。

「秋痕は頭に皺の帕を巻いて……突然痴珠に会い、微笑んで小声で言った。『あなたが十日も我慢できないだろうと思っていたわ。本当に何もそこまでしなくても。』

「……痴珠は笑って言った。『これからまた相談しよう。』……」

二人はともに落魄しているとはいえ、この時は大した悲しみもなく、だからこそまだ笑えたのである。しかし纠正本は二つの「笑」の字をともに「哭」に改めてしまった。会うなり泣かせるとは、涙がいささか安すぎはしないか。まして「含哭」などという言い方は成り立たない。

そこで私はこう思った。本を出版するのは良いことだが、自分で意味がよくわからない時は、すぐに間違いだと思い込んで、奮然と「纠正を加える」べきではない。「過ちて之を存す」方が、あるいはかえって間違いではないかもしれぬ。

そこでまたもう一つの疑問が湧いた。翻訳小説が「読んでもわからない」と攻撃する人々がいるが、彼らは中国人自身が書いた旧小説を、本当に読んでわかっているのだろうか。

(一月二十八日。)

この短い文章が発表された後、一度胡適之先生に会い、汪先生のことに話が及んだ折、先生がとても健在であることを知った。胡先生はなお、私の「すでに故人となった」云々は、彼が多くの仕事をなし、すでに世に見るに足りるものを残したという意味だと思っていた。これには私はまことに「恐惶に堪えない」のであり、なぜなら私の本意はそうではなく、率直に言えば、すでに「死んでしまった」ということだったからである。しかしその時になって初めて、先に聞いた話がまったく根拠のない風説であったことを知ったのである。ここに謹んで汪先生に私の粗忽の罪を謝し、あわせて旧稿の第一文を訂正して、「汪原放君はいまだ故人となっていなかった」と改める。

一九二五年九月二十四日、身熱頭痛の際に記す。

【一九二六年】

【雑論——閑事を管する・学問をする・灰色など】

聞くところによると、今年から陳源(すなわち西滢)教授は閑事を管しないつもりだという。この予言は『現代評論』五十六期の『閑話』に見えるそうだ。恥ずかしながら私はこの号を拝読していないので、詳しいことは知らない。もし本当なら、例のとおりの社交辞令で「惜しい」と言うほかに、実のところ自分の愚かさにまことに驚くばかりである——こんな歳になっても、陽暦の十二月三十一日と一月一日の境目が他人にはこれほどの大きな変動を起こし得ることを知らなかったとは。私は近頃、年の瀬にはいささか神経が鈍くなっており、まるで何も感じない。実を言えば、感じようと思えば、感じきれないほどのことがある。みなが五色旗を掲げ、大通りに何基かの彩門を設え、真ん中に「普天同慶」の四文字がある。これが年越しだという。みなが門を閉め、門神を貼り、爆竹がパチパチバンと鳴り響く。これも年越しだという。もし言行が本当に年越しとともに移り変わるなら、移り変わりが追いつかず、ぐるぐる回るだけになるに違いない。だから、神経が鈍いのは時代遅れの懸念はあるが、弊あれば利あり、いくらかの小さな得はしているのである。

しかし、ある事がどうしても解せない。すなわち天下に閑事なるものがあり、閑事を管する人がいるということである。私は今、世の中にはいわゆる閑事なるものはおそらくないと思う。管する人があれば、すべて自分と何らかの関係がある。たとえ人類を愛するにしても、それは自分が人間だからである。もし火星で張龍と趙虎が喧嘩していることがわかったからといって、すぐに大いに振る舞い、酒を振る舞い会を開き、張龍を支持し、あるいは趙虎を否認するなら、それはなるほど閑事を管するに近い。しかし火星のことを「知る」ことができるなら、少なくともすでに通信が可能でなければならず、関係も密接になるから、閑事とは言えなくなる。なぜなら通信ができれば、将来は交通もできるかもしれず、彼らはいつか我々の頭上で喧嘩するかもしれないからだ。我々の地球上においては、どこであれ、万事が我々と関わりがある。しかし管さないのは、知らないからか、管しようがないからであって、その「閑」なるゆえではない。

(いや、間違えた。ラインシュはアメリカの駐華公使であって、文学者ではない。おそらく何かの文芸学術の論文で名前を見たために、うっかり口を滑らせたのであろう。ここに訂正し、読者の諒恕を乞う。)

動物でさえ、どうして我々と無関係であり得ようか。蠅の足に一つのコレラ菌があり、蚊の唾液に二つのマラリア原虫があれば、誰の血に入り込むかわからない。「隣の猫が子を産んだ」のを管するのは笑い話だと思う人が多いが、実は大いに自分に関わりがある。たとえば今、私の庭には四匹の隣猫がしょっちゅう喧嘩しているが、もしこの奥方たちの一匹がまた四匹を産めば、三、四か月後には八匹の猫がしょっちゅう騒ぐのを聞かねばならず、今の倍も煩わしくなる。

だから私には一つの偏見がある。天下にはもともといわゆる閑事なるものはなく、ただこれほど遍く管する精力と力がないので、やむなく一つだけ掴んで管するのだと。なぜよりによってこの一つなのか。当然、自分と最も関わりの深いもの。大きくは同じ人類であるから、あるいは同類、同志であるから。小さくは同窓、親戚、同郷であるから——少なくとも、何かの恩恵に浴したことがあるから。たとえ自分の顕在意識上では明らかでなくとも、あるいは実は明らかでありながら、故意に愚かなふりをしているのだ。

しかし陳源教授は去年、聞くところでは閑事を管したという。もし私の上述が間違っていないなら、彼はまさに超人である。今年は世事に問わないとは、まことに惜しい極みで、まさにこの人が管さなければ「蒼生を如何にせん」である。幸い陰暦の正月も近く、大晦日の亥の刻を過ぎれば、あるいは心を翻すことも望めるかもしれない。

昨日の午後、沙灘から帰宅した時、大琦君が訪ねてきたことを知った。これは大変嬉しかった。というのは、彼が病院に入ったのではないかと思っていたからで、そうではないことがわかったのだ。さらに嬉しかったのは、彼が『現代評論増刊』を一冊置いていってくれたことで、表紙に描かれた一本の細長い蝋燭を見れば、これが光明の象徴であることはすぐにわかる。まして多くの名士学者の著作があり、中でも陳源教授の「学問をする道具」という一篇があるのだから。これは正論であり、少なくとも「閑話」には勝る。少なくとも私は「閑話」に勝ると感じた。なぜならそれが私に多くのものを与えてくれたからである。

第3節

私は今になって初めて知った。南池子の「政治学会図書館」は去年「時局の関係で、貸し出しの成績が三倍から七倍に伸びた」のだが、「彼の家の翰笙」はなおも「『平時は線香も焚かず、臨時に仏の足を抱く』という十字で今日の学術界の大部分の状況を形容している」という。これは私の多くの誤解を正してくれた。先に述べたように、今の留学生は多い、多い。しかし私はずっと、彼らの大部分は外国で部屋を借り、門を閉めて牛肉を煮て食べているのではないかと疑っていた。しかも東京で実際にそういう光景を見たことがある。あの時私は思った——牛肉を煮て食べるなら中国でもできるのに、なぜわざわざ遠路はるばる外国に来るのかと。もっとも外国は畜産が進んでいるから、肉の中の寄生虫は少ないかもしれないが、煮込んでしまえば多くても問題はない。だから、帰国した学者が最初の二年は洋服を着、後に毛皮の袍を着て、頭を上げて歩いているのを見ると、いつも彼は外国で自ら何年も牛肉を煮ていた人物ではないかと疑い、しかも何か事があっても「仏の足」すら抱こうとしないのではないかと思ったものだ。今になってそうではないことがわかった。少なくとも「欧米留学帰りの人」はそうではないと。しかし惜しいことに中国の図書館の蔵書は少なすぎる。聞くところでは北京「三十余りの大学は、国立私立を問わず、まだ我々個人の蔵書にも及ばない」という。この「我々」の中で、聞くところでは第一に数えるべきは「湡儀先生の家庭教師ジョンストン先生」であり、第二はおそらく「孤桐先生」すなわち章士釓である。なぜならドイツのベルリン滞在中、陳源教授は自らの目で、彼の二部屋が「ほとんどベッドの上も書棚の上も机の上も床の上も、社会主義に関するドイツ語の書物で満ちている」のを見たからだという。今ではきっとさらに多くなっているであろう。まことに羨ましく敬服する。自分の留学時代を思い返せば、官費は月三十六元で、衣食学費を差し引くとほとんど余りはなく、何年か過ごしても蔵書は壁一面さえ埋められず、しかも雑書ばかりで、「社会主義に関するドイツ語の書物」のごとく専門的ではなかった。

しかしまことに惜しいことに、聞くところでは民衆がこの「孤桐先生」の「寒家」を「再び毀した」時、「どうやら御夫妻の蔵書はみな散逸してしまったらしい」。あの時はきっと何十台もの車に積まれ、あちこちに散っていったのだろう。惜しいことに見に行かなかった。さもなくば壮観であったろうに。

だから「暴民」が「正人君子」に深く忌み嫌われるのも、まことに理由がある。この度の「孤桐先生」御夫妻の蔵書の散逸が中国に与えた損失は、三十余りの国立私立大学の図書館を破壊したのを上回るのだ。これと比べれば、劉百昭司長が家蔵の公金八千元を失くしたなどは小事件と言わねばならない。ただ我々が遺憾に思うのは、よりによって章士釓と劉百昭にこれほどの蓄えがあり、しかもこれらの蓄えがよりによってすべて災厄に遭ったということである。

幼い頃、世故に長けた年長者から戒められたことがある——筋のない担ぎ売りや露店に難癖をつけるな。自分で転んでおいて、お前のせいだと言いがかりをつけ、言い訳もできず弁償もしきれなくなる、と。この言葉は今でも私に影響しているようで、正月に火神廟の縁日に行っても、玉器の露店には近寄れない。たとえほんの数点しか並んでいなくとも。うっかりぶつけて倒したり、一つ二つ割ったりすれば、たちまち家宝扱いされ、一生かかっても弁償しきれず、その罪の重さは博物館一つを壊すのを上回るからだ。しかもこの論理を押し広げて、賢やかな場所にも大して行かなくなった。あの時のデモ行進の際も、「歯を叩き落とされた」という「流言」はあったが、実のところは家で寝ていて、おかげで無事であった。しかし「孤桐先生」邸から次々と散出するあの二部屋の「社会主義に関するドイツ語の書物」やその他の壮観も、そのために「腕を交えて見逃した」のであった。これはまさにいわゆる「利あれば必ず弊あり」で、両立させようがないのだ。

今、洋書の蔵書の豊かさでは、個人ではジョンストン先生を数え、公団では「政治学会図書館」を推さねばならないが、惜しいことに一方は外国人であり、もう一方はアメリカ公使ラインシュの尽力で作られたものである。「北京国立図書館」が拡張されようとしているのはまことに結構なことだが、聞くところでは依然としてアメリカから返還された賠償金に頼っており、経常費はわずか三万元、月に二千余元にすぎない。アメリカの賠償金を使うのも容易なことではなく、第一に館長は東西の学に通じた世界的に名高い学者でなければならない。聞くところでは、これは当然、梁啓超先生しかいないが、惜しいことに西洋の学があまり通じていないので、北京大学教授の李四光先生を副館長に配して、中外兼通の完人に仕立てたという。しかし二人の月給だけで千余元になるので、今後もあまり多く書籍は買えそうにない。これもまたいわゆる「利あれば必ず弊あり」であろう。ここに思い至ると、「孤桐先生」が独力で購入した数部屋分の良書が惨めにも散逸したことの惜しさを、ますます痛切に感じずにはいられない。

要するに、ここ数年のうちには、より良い「学問をする道具」が得られる見込みはなく、学者が勉強しようと思えば自分で本を買って読むほかないが、また金がない。聞くところでは「孤桐先生」はこの点に思い至り、文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい。学者たちにほかにどんな方法があるだろうか。当然「彼らが『閑話』でも言うほかに何もすることがないのも無理はない」のであり、たとえ北京の三十余りの大学がまだ彼ら「個人の蔵書にも及ばない」としてもである。なぜか。学問をすることは容易ではなく、「おそらく小さな題目一つで百種以上の書物を参考にしなければならない」のであり、「孤桐先生」の蔵書でさえ足りないかもしれないのだ。陳源教授は一つの例を挙げている。「『四書』を例に取ろう」、「漢・宋・明・清の多くの儒家の注疏理論を研究しなければ、『四書』の真の意義は容易には会得できない。短い一部の『四書』でも、子細に研究すれば、数百数千種の参考書が必要になる」と。

これだけでも「学問の道は浩として煙海の如し」であることがわかる。あの「短い一部の『四書』」は私も読んだことがあるが、漢人の「四書」注疏や理論に至っては、聞いたこともなかった。陳源教授が「あのように風雅を提唱した封藩大臣」の一人として推す張之洞先生は、「束髪の小生」たちのために書いた『書目答問』で「『四書』は南宋以後の名称なり」と言っている。私はずっとその言葉を信じてきた。その後『漢書芸文志』や『隋書経籍志』の類を繙いてみても、「五経」「六経」「七経」「六芸」はあっても「四書」はなく、ましてや漢人の作った注疏や理論はなおさらである。しかし私が参考にしたのは当然ながら普通の本で、北京大学の図書館にもあるもの。見聞が狭陋であるかもしれないが、仕方がない。たとえ「抱」こうとしても「仏の足」すらないのだから。こう考えると、「仏の足を抱ける」者、「仏の足を抱く」気のある者こそ、まことに本物の福人であり、本物の学者である。「彼の家の翰笙」がなお慨然としてこれを言うのは、おそらく「『春秋』は賢者を責める」の意であろう。

もう書き続ける気がしないので、ここで終わりにするほかない。要するに、『現代評論増刊』をひと通りめくると、五光十色、まさにかつて広告に列記された著者名簿を見るようであった。たとえば李仲揆教授の「生命の研究」だの、胡適教授の「訳詩三首」だの、徐志摩先生の訳詩一首だの、西林氏の「圧迫」だの、陶孟和教授の二〇二五年にならなければ発表されず、我々の玄孫でなければ全篇拝読できない大著作の一部だの……。しかし、めくっていくうちに、どういうわけか私の目は灰色を見た。そこで放り出した。

今の小学生でも七色板で遊べる。七つの色を円板に塗り、止まっている時は綺麗だが、回すと灰色になる——本来は白色になるはずだが、塗り方が下手なので灰色になったのだ。多くの著名な学者の大著作を集めた大きな刊行物は、もちろん光怪陸離であるが、やはり回してはいけない。一回転すれば、灰色が露わにならずにはいられないのだ。もっとも、これこそがその特色なのかもしれないが。

(一月三日。)

【面白い消息】

北京は大きな砂漠のようだと言われているが、それでも青年たちはここに押し寄せてくる。年配者もあまり去らず、たとえ別の所に行ってみても、まもなく戻ってくる。まるで北京にはまだ何か心惹かれるものがあるかのようだ。厭世詩人が人生を怨むのは、まことに「感慨これに係る」であるが、しかし彼はやはり生きている。釈迦牡尼の教えを祖述する哲人ショーペンハウアーでさえ、密かにある病気の薬を飲み、容易には「涅槃」しようとしなかった。俗語に「良い死に様は悪い生き様に如かず」と言うが、これは当然ただの俗人の俗見にすぎないだろう。しかし文人学者の類も、一体これと何の変わりがあろうか。違いはただ、常に一面の辞厳義正なる軍旗があり、さらにもう一本のいっそう義正辞厳なる退路があることだけである。本当に、もしそうでなければ、人生はまことに退屈の極み、言うべき言葉もなくなるであろう。

北京は日一日と万物が高くなってゆく。自分の「区々たる僉事」の職も、「妥りに主張あり」とて章士釓先生に首にされた。これまで遭遇してきたものは、アンドレーエフの言葉を借りれば「花もなく、詩もなく」、ただ万物の値上がりだけであった。しかしそれでもなお「妥りに主張あり」で、引き返す術がない。もし一人の妹がいて、『晨報副刊』で美しく語られる「閑話先生」の家庭のように、「お兄様!」と呼びかけ、その声がまさに「幽谷に響く銀鈴のごとく」、「もう人を怒らせるような文章はやめてくださいな」と頼んでくれたなら、おそらく私もこれを機に馬首を返し、別荘に引きこもって漢代の人が作った「四書」の注疏と理論の研究に没頭できたかもしれない。しかし、惜しいかな、そのような良い妹はいない。「女嬽の婵媛たるや、申申として予を罵り、曰く、鮚は婞直にして身を亡ぼし、終に羽の野に夭せり」と——あのような厳しい姉がいる幸福すら屈原に及ばないのだ。私がついに「妥りに主張」し続けているのは、おそらくほかに逃れようがないからでもあろう。しかしこれは重大な関わりがあり、将来禍いを受けるかもしれない。なぜなら私は知っているからだ——人の恨みを買えば報いを受けるものだと。

話は釈迦先生の教訓に戻る。聞くところでは、人間界に生きているよりも地獄に墮ちた方がまだ穏当だという。人間として生きていれば「作」すなわち動作(=造業)があるが、地獄に墮ちればただ「報」(=報応)があるのみだから。それゆえ生きることは地獄に墮ちる原因であり、地獄に墮ちることはかえって地獄から出る出発点なのだ。こう言われると、僧侶になりたくもなるが、これは当然「根のある」(聞くところでは「天津の言い回し」だそうだ)大人物に限られ、私はこの類の呪符をあまり信じない。砂漠のような北京城に暮らすのは、もちろん殺風景ではあるが、折に触れて世態を眰めれば、万物の値上がりのほかにも、やはり千差万別で、芸術を創造する者もいれば、流言を製造する者もいる。気色悪いのもあれば、面白いのもある……これがおそらく北京が北京たる所以であり、人々がなお集まり寄せてくる所以なのであろう。惜しむらくは小さな出来事ばかりで、正直な友人には辞厳義正なる軍旗を自ら掲げるのが難しいということだ。

第4節

私はよく嘆く。インド小乗教の方法のなんと恐ろしいことかと。地獄の説を立て、僧侶、尼、念仏の老婆の口を借りて宣揚し、異端を恐嚇して、心志の堅固でない者を恐れさせる。その秘訣は、報応は眼前ではなく将来百年の後にあると言うことだ。少なくとも鋭気が尽きた時にやってくる。その時にはもう身動きが取れず、他人の思うがままにされ、鬼の涙を流して生前の出しゃばりを深く悔いるしかない。しかもその時になって初めて、閻魔大王の尊厳と偉大さを認識するのだ。

これらの信仰は、あるいは迷信かもしれぬが、神道設教により、「世道を挽き人心を正す」事に、あるいは多少の裨益がないでもあるまい。まして悪人を生前に「豺虎に投ずる」ことができなければ、当然ただ死後に口誥筆伐するほかなく、孔子が一車二馬で各国の遊説に倦み帰り、鋼筆を抜いて『春秋』を作ったのも、けだしまたこの志であったろう。

しかし時代は移り変わり、今に至っては、これらの古い手管も極端にお人好しの者しか騙せまい。こんな手管を弄する者たち自身すら信じていないかもしれぬのに、まして世にいう悪人たちをや。人の恨みを買えば報いがあるというのは、ごく平凡なことで、格別奇特でもない。時として婉曲な物言いをするのは、差し当たりの礼儀にすぎず、それで地獄行きを免れようとは思ってもいない。これは如何ともしがたい。我々のような急ぎの人間の世界では、紳士のお高い態度を気取る暇などないのだ。やるならやる。来年の酒を語るより今すぐ水を飲む方がましだ。二十一世紀の死体切り刻みを待つより、今すぐ一発張り手を食らわす方がよい。将来のことは、後に続く者たちがいる。決して今の人間、つまり将来のいわゆる古人の世界ではないのだ。もし今のままの世界であるなら、中国は滅びるであろう!

(一月十四日。)

【学界の三魂】

『京報副刊』から、『国魂』という雑誌があり、章士釓は確かに良くないが、章士釓に反対する「学匪」どもも打倒すべきだという記事があることを知った。大意が私の記憶通りかどうかわからないが、それは大したことではない。なぜならそれはただ私に一つの題目を思いつかせただけで、原文とは関係がないからだ。その意味は、中国の旧説ではもともと人には三魂六魄、あるいは七魄があるとされ、国魂もそうであるはずだということだ。そしてこの三魂のうち、一つは「官魂」であり、一つは「匪魂」であり、もう一つは何か。おそらく「民魂」であろうが、私にはよく決めかねる。また私の見聞は偏っているので、中国社会全体を指すことはあえてせず、縮めて「学界」と言うにとどめる。

中国人の官職への執着はまことに深い。漢は孝廉を重んじて子を埋め木を刻む者が出、宋は理学を重んじて高い帽子と破れた靴の者が出、清は帖括を重んじて「且つ夫れ」「然らば則ち」の者が出た。要するに、その魂は官にある——官の威を行い、官の調子を振り、官の言葉を話す。皇帝を一つ頂いて傀儡にし、官に逆らえば皇帝に逆らったことになり、それらの者は雅号を頂いて「匪徒」と呼ばれる。学界で官の言葉が使われ始めたのは去年からで、章士釓に反対する者はみな「土匪」「学匪」「学棍」の称号を得たが、いまだに誰の口から出たのかわからず、やはり一種の「流言」の域を出ない。

しかしこれだけでも去年の学界のひどさがわかる。前代未聞の学匪が出現したのだ。大きな国事に比すれば、太平の世に匪はおらず、群盗が毛のごとく多い時は、旧史を見れば、必ず外戚、官官、奸臣、小人が国政を握っている。たとえ大いに官の言葉を振るっても、結果はやはり「呜呼哀哉」である。この「呜呼哀哉」の前に、小民は大概互いに連なって盗賊となる。だから私は源増先生の言葉を信じる。「表面上は土匪や強盗に見えるが、実は農民革命軍なのだ。」(『国民新報副刊』四三)では、社会は改善されたのか。否、私もまた「土匪」呼ばわりされた者の一人ではあるが、先輩方の非を隠そうとは思わない。農民は政権を奪取しに来ない。源増先生はまた言う。「三、五人の熱心家に乗じて皇帝を倒し、自分で皇帝気分を味わうのだ。」しかしこの時、匪は帝と称され、遺老を除けば、文人学者たちはみな恭しく讃え、反対する者をまた匪と呼ぶのだ。

だから中国の国魂には大概この二種の魂がある——官魂と匪魂である。これは何も我々の魂を国魂に無理やり割り込ませ、教授や名流の魂と仲間になりたがっているのではなく、ただ事実がそのようであるらしいからだ。社会のさまざまな人々は、『双官訥』を見るのも好きだし、『四傑村』を見るのも好きだ。偏安の蜀を望む劉玄徳の成功を願い、追いはぎの宋公明が法を得ることも願う。少なくとも、官の恩恵を受けている時は官僚を羨み、官の搾取を受けている時は匪類に同情する。しかしこれも人情の常である。もしこの程度の反抗心すらなければ、万劫不復の奴隷になるしかないではないか。

しかし国情が違えば国魂も異なる。日本留学時代、同級生の何人かが中国で最も大きな利益になる商売は何かと尋ねたので、「謀反だ」と答えた。彼らは大いに驚き怪しんだ。万世一系の国で、皇帝が一蹴りで落とせると聞くのは、我々が父母を一棒で殴り殺せると聞くようなものだったのだ。一部の紳士深女に心から敬服されている李景林先生こそ、この理をよく知っていたのであろう。新聞の報道が誤りでなければの話だが。今日の『京報』には彼がある外交官に語った言葉が載っている。「余は旧正月の頃には天津で君と面談できるものと見込む。もし天津攻略が失敗すれば、三、四月後に巻き返しを図る。それも失敗すれば、しばし匪賊に投じ、徐々に兵力を養い、時機を待つ」云々と。しかし彼が望むのは皇帝になることではない。おそらく中華民国であるがゆえであろう。

いわゆる学界は比較的新しく発生した階級であり、本来ならば旧い魂をいくらか洗い清める望みがあったはずだが、「学官」の官の言葉と「学匪」の新名を聞けば、やはり旧い道を歩んでいるようだ。ならば、当然これも打倒せねばならぬ。これを打倒するのは「民魂」、国魂の第三種である。以前はあまり発揚されなかったので、騒動の後もついに自ら政権を取ることなく、「三、五人の熱心家に皇帝を倒させ、自分で皇帝気分を味わわせた」だけであった。

民魂こそ貴ぶべきであり、民魂が発揚されてこそ、中国に真の進歩がある。しかし学界すら旧い道を逆行するこの時に、どうして容易く発揮できようか。瘴気の中に、官の言う「匪」と民の言う匪がある。官の言う「民」と民の言う民がある。官が「匪」と見なすが実は真の国民である者がおり、官が「民」と見なすが実は衙役と馬丁である者がいる。だから「民魂」に似て見える者が、時として「官魂」にほかならないこともあり、これは魂を鑑別する者がよくよく注意すべきことである。

話がまた逸れた。本題に戻ろう。去年、章士釓が「学風の整頓」の看板を掲げて教育総長の大任に就いて以来、学界には官気が充満し、「我に順う者は通、我に逆らう者は匪」となった。官調官語の余気は今なお消えていない。しかし学界はまた幸いにも、これによって色分けが明らかになった。ただし官魂を代表するのは章士釓ではない。上にはなお「減膳」の執政がいるからだ。彼はせいぜい官魄を務めただけで、今は天津で「兵力を養い、時機を待つ」ところだ。私は『甲寅』を読まないので何を言っているか知らない。官の言葉か、匪の言葉か、民の言葉か、衙役馬丁の言葉か?……

(一月二十四日。)

【古書と白話】

白話を提唱した頃、多くの誹謗中傷を受けたが、白話がついに倒れなかった時、一部の人は論調を変えてこう言った——しかし古書を読まなければ白話文は上手く書けない、と。これらの保守家の苦心は汲むべきだが、彼らの先祖伝来の手法には苦笑を禁じ得ない。およそ少しでも古書を読んだことのある人はみなこの古い手段を持っている。新しい思想は「異端」であり、歲滅せねばならぬ。しかしそれが奮闘の末に自ら立った暁には、もとより「聖教と源を同じくする」ことを見つけ出す。外来の事物はすべて「夷をもって夏を変ぜん」とするものであり、排除せねばならぬ。しかしこの「夷」が中夏に入って主となると、考証して明らかになる——実はこの「夷」も黄帝の子孫であったと。これは意表を突くことではないか。何であれ、我々の「古」の中にはすべて含まれていなかったものはないのだ!

古い手段を用いる者は当然進歩せず、今もなお「数百巻の書を読破した者」でなければ良い白話文は書けないと言い、呉稚暉先生を強引に例として引く。しかしまた「肉麻を面白がる」、嘻々として語る者まで出てくるとは、天下の事はまことに千奇百怪である。実のところ呉先生の「口語体で文を書く」のは、「その面貌」すら「黄口の小児の作るものと同じ」ではない。「筆の赴くままに輄ち数万言」ではないか。その中には当然、古典もあり、「黄口の小児」の知らぬところであり、なおまた新典もあり、「束髪の小生」の知らぬところである。清の光緒末年、私が初めて日本の東京に着いた頃、この呉稚暉先生はすでに公使の蔡鈞と大いに戦っていた。その戦史はかくも長い。したがって見聞の広さは、当然今の「黄口の小児」の及ぶところではない。だから彼の言葉遣いや用典には、大小の故事に精通した者でなければ理解できない所が多く、青年から見れば、まずはその文辞の滂沛さに驚嘆する。これがおそらく名流学者たちの長所と認める点であろう。しかし、その生命はそこにはない。名流学者たちの取り込み阿りとは正反対に、自ら故意に長所を見せようとせず、名流学者たちの言う長所を消すこともできないまま、ただ語り書くものを改革の途上の橋梁とし、あるいはそもそも改革の途上の橋梁にしようとさえ思っていないのだ。

退屈な出来損ないの者ほど、長寿を願い、不朽を願い、自分の写真をたくさん撮りたがり、他人の心を占拠したがり、お高くとまるのが上手い。しかし「潜在意識」では、やはり自分の退屈さに気づいているのだろう。だからまだ朽ち尽きていない「古」に一噌みしてしがみつき、腸の中の寄生虫となって一緒に後世に伝わることを期し、あるいは白話文の類の中にわずかな古色を見出し、逆に古物に寵栄を添えようとする。もし「不朽の大業」がこの程度のものなら、あまりに憐れではないか。しかも二九二五年になって、「黄口の小児」たちがまだ『甲寅』の流を見なければならないとしたら、あまりに悲惨ではないか。たとえそれが「孤桐先生が下野して以来、……ようやく生気が出てきた」としても。

古書を菲薄する者は、古書を読んだことのある者こそが最も有力である。これは確かだ。なぜなら彼は弊害を洞察し、「子の矛をもって子の盾を攻む」ことができるからだ。ちょうど阿片の弊害を説明するには、おそらく阿片を吸ったことのある者こそが最も深く知り、最も痛切に感じるのと同じだ。しかし「束髪の小生」でさえ、阿片を戒める文章を書くにはまず数百両の阿片を吸い尽くさねばならぬなどとは言うまい。

古文はすでに死んだ。白話文はまだ改革の途上の橋梁にすぎない。なぜなら人類はなお進化しているからだ。たとえ文章であっても、万古不磨の典則が独り存するわけではあるまい。もっとも、アメリカのある所では進化論を講ずることを禁じたそうだが、実際にはおそらくいつまでも効き目はあるまい。

(一月二十五日。)

【一つの比喩】

私の故郷では羊肉を食べることはあまり流行っておらず、城中で一日に殺される山羊はせいぜい数匹だった。北京はまさに人の海で、事情はまるで違い、羊肉屋だけでも至る所に目につく。真っ白な羊の群れもしょっちゅう街を行くが、みな胡羊で、我々の方では綿羊と呼ぶものだ。山羊はめったに見ない。聞くところでは北京ではなかなかの名物で、胡羊より賢いので、羊の群れを率いることができ、みなその進退に従う。だから牧畜家は時折数匹飼うが、ただ胡羊の先導役として使うだけで、殺しはしない。

こうした山羊を私は一度だけ見たことがある。確かに胡羊の群れの前を歩いており、首には小さな鈴がかけてあった。知識階級の徽章というわけだ。通常、率い追うのは牧人で、胡羊たちは長い列を成し、押し合いへし合い、浩々蕭々と、柔順この上ない目つきで、牧人に従って急ぎ足で自分たちの行く末を競い合っていた。私はこうした真剣で忙しそうな光景を見るたびに、いつも心の中で口を開き、彼らにこの上なく愚かな問いを発したくなった——

「どこへ行くのだ?!」

人の中にもこうした山羊がいて、群衆を率いて穏やかに平静に歩かせ、彼らが行くべき所に導くことができる。袁世凱はこの種のことをいくらか知っていたが、惜しいことにあまり巧みに使えなかった。おそらく彼はあまり読書せぬ人であったから、その奥義の運用に習熟できなかったのだろう。後の武人はもっと愚かで、ただ自分で乱暴に打ち切るだけで、哀号の声が耳に溢れるほど乱し、結果は百姓を残虐にする以外に、さらに学問を軽視し教育を荒廃させるという悪名まで加えた。しかし「一事を経て一智を長ず」、二十世紀はすでに四分の一を過ぎ、首に小さな鈴をかけた賢い人は、いずれ必ず幸運を手にするであろう。たとえ今は表面上まだいくらかの小さな挫折があるとしても。

その時、人々は、とりわけ青年は、みな規律を守り、騒がず、浮つかず、一心に「正道」を前進するであろう。ただし誰も問わなければ——

「どこへ行くのだ?!」

君子いわく——「羊はしょせん羊だ。長い列を成して従順に歩かなければ、ほかにどんな方法があるのか。豚を見たまえ。引きずられ、逃げ、叫び、暴れまわるが、結局はやはり行かねばならぬ所に捕まえられてゆく。あの暴動は力の無駄遣いにすぎぬ。」

つまり、死んでも羊のように死ぬべきであり、天下太平、お互い楽だというわけだ。

この計画は当然とても妥当で、大いに敬服に値する。しかし、猚を見たまえ。二本の牙をもって、老練な猟師すら退かせる。この牙は、豚が牧豚奴の作った豚小屋を脱出し、山野に入りさえすれば、じきに生えてくるのだ。

ショーペンハウアー先生はかつて紳士たちを豪猪に喩えた。思うに、これはいささか品位に欠ける。しかし彼にとっては当然何の悪意もなく、ただ引き合いに出して比喩にしたにすぎない。『パレルガとパラリポメナ』にはこういう意味の話がある——一群の豪猪が冬に互いの体温で寒さを凌ごうとして寄り集まったが、互いにたちまち棘の痛みを感じ、また離れた。しかし温もりの必要がふたたび近づけると、やはり同じ苦しみを受けた。この二つの困難の中で、ついに互いの適度な間隔を見出し、この距離で最も平穏に過ごせるようになった。人々は交際の欲求により集まり、各々の厭わしい性質と耐え難い欠点によりまた離れる。彼らが最後に見出した距離——集まることのできる中庸の距離が「礼譲」と「上流の風習」である。この距離を守らぬ者に対し、イギリスではこう言う——"Keep your distance"

しかしたとえそう言っても、おそらく豪猪と豪猪の間でのみ有効であろう。なぜなら互いに距離を守るのは、痛みのためであって声のためではないからだ。もし豪猪たちの中に棘のない別の者が混じっていたら、どう叫んでも彼らはやはり寄ってくる。孔子曰く——礼は庶人に下さず。今の状況から見れば、庶人が豪猪に近づけないのではなく、豪猪が庶人を好き勝手に刺して温もりを得られるということらしい。刺されるのは当然だ。しかしそれはただ、お前だけが棘を持たず、相手に適当な距離を守らせるに足りないことを恨むべきだ。孔子はまた曰く——刑は大夫に上さず。これではまた、人々が紳士になりたがるのも無理はない。

これらの豪猪は、もちろん牙や角や棍棒で防ぐこともできる。しかし少なくとも、豪猪社会が定めた一つの罪名——「下流」あるいは「無礼」——を背負う覚悟をしなければならない。

(一月二十五日。)

【手紙ではない】

第5節

ある友人が突然私に『晨報副刊』を一枚送ってきた。何か特別な用があるのだと感じた。彼は私がこの手のものを読むのを面倒くさがることを知っているからだ。しかしわざわざ送ってきた以上、まず題名だけでも見てみよう。「下記の一束の通信について読者諸氏へ」。署名は志摩。ははは、これは冗談で送ってきたのだな、と思った。急いで裏返すと、数通の手紙があり、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ。数行読んでようやく、どうもまだ「閑話……閑話」問題のようだとわかった。この問題について私がわずかに知っているのは、新潮社で陳源教授すなわち西滢先生の手紙を見たことだけで、そこには私が「捏造した事実、散布した『流言』は、もとより言い尽くせぬほどだ」と書いてあった。思わず可笑しくなった。人は自分の魂を味噌に刻めないのが苦しい。だから記憶を持ち得るし、感慨や滑稽も生ずるのだ。思い出せば、「流言」を根拠にして楊蔭楡事件すなわち女子師範大学の紛争を裁いた最初の人こそ、この西滢先生であった。その大論文は去年五月三十日発行の『現代評論』に載っている。私はよりによって「某籍」に生まれ「某系」で教えているので、「陰で紛争を煽っている」者に分類されてしまった。もっとも彼はまだ信じないと言い、ただ惜しいと感じているとのことだった。ここで読者の誤解を防ぐために一言述べておく。「某系」とはおそらく国文系のことで、研究系のことではない。あの時私は「流言」の二字を見て、とても憤り、ただちに反駁した。もっとも「十年読書し十年気を養う功夫」がないのは恥ずかしいが。ところが半年後、これらの「流言」は私が散布したものに変わっていた。自分で自分の「流言」を造る。これは自分で穴を掘って自分を埋めるようなもので、聡明な人はおろか、愚か者でも思いつくまい。もしこの度のいわゆる「流言」が「某籍某系」に関するものではなく、「流言」を信じない陳源教授自身に関するものだというなら、私は陳教授にどのような捏造された事実や流言が社会に出回っているのか、まったく知らない。言うのも恥ずかしいが、私は宴会にも行かず、往来も少なく、奔走もせず、文芸学術の社団も結んでおらず、まことに事実を捏造し流言を散布する枢軸としては不向きである。ただ筆を弄ぶことは免れ得ないが、流言を根拠にして故意に散布するようなことはせず、たまに「耳食の言」があっても大抵は大した事ではない。もし誤りがあれば、たとえ月日が経とうとも、追って訂正することを厭わない。たとえば汪原放先生の「すでに故人となった」一件のごとく、ほとんど二年近くも隔ててのことであった。——もっともこれは『熱風』を読んだ読者に対してのみ言えることだ。

このところ、私の「捏……言」の罪案は、まるで曇花一現のようだ。「一束の通信」の主要部分にも、どうも私を「流」し込んではおらず、ただ後ろの「西滢から志摩へ」が付帯的な私への専論で、同じ案件ではないのに親族関係で滅族されるか、文字の獄の株連のようなものだ。滅族だ、株連だ、とはまたいささか「刑名師爺」の口吻だが、これは事実であり、法家はただそれに名をつけただけで、いわゆる「正人君子」は口にはしないが、実行することは厭わない。そのほか、甲が乙に対してまず流言を用い、後になって乙が流言を造ったと言うような類の事を、「刑名師爺」の筆は「反噬」の二字に簡括する。ああ、まことに痛快淋漓に形容したものだ。しかし古語に曰く、「淵の魚を察見する者は不祥」と。だから「刑名師爺」は良い結末を迎えぬものだ。これは私がとうに知っていることである。

私にあの『晨報副刊』を送ってくれた友人の意図を推察してみた——私を刺激するためか、嘲笑するためか、通知するためか、それとも私にも一言言わせようとしたのか。ついにわからなかった。よし、ちょうど今は筆の借りを返さねばならぬところだから、この少々の事で一つお茶を濁そう。話をするのに最も便利な題は「魯迅から□□へ」だが、学理と事実に基づく論文でもなく、「にこにこ」した天才の風刺でもなく、私信にすぎないのであって、自ら発表する気などない。何と言われようと、糞坑だろうと便所だろうと、「人気」とは断じて無関係である。そうでなくとも、怒りで発熱したのであり、他人に逼られてそうなったのだ。ちょうど他の副刊が『晨報副刊』に「逼死される」のと同じだ。私の鏡は本当に憎らしく、映し出すのはいつも陳源教授を嘔吐させるものばかりだが、趙子昂——「彼だったか?」——が馬を描いた話を例にすれば、当然恐らくそれは私自身なのだ。自分のことなどどうでもよいが、せめて□□のことは考えてやらねばならぬ。さて「西滢から志摩へ」の話をしようとすると、これは極めて危険なことで、一歩誤れば「泥沼」に落ち、「怒りっぽい犬」に出くわし、しばらくは「にこにこ」した顔が見えなくなる。少なくとも、陳源の二字に触れれば、公理家から「某籍」「某系」「某党」「手下」「女を重んじ男を軽んず」等々と見なされずにはいられない。しかも誰かが彼を文士だ、フランスだと言ったことがあれば、二度と「文士」や「フランス」の字面を使ってはならない。さもなくば——当然、また「某籍」……等々の嫌疑がかかる。私がなぜ無辜の者をかくも陥れねばならぬのか。「魯迅から□□へ」は使わぬことに決めた。だからここまで書いてもまだ題名がない。まあ書き進めてから考えよう。

私は先ほど「事実を捏造」していないと言ったばかりではないか。ところがあの手紙では例を挙げている。私が彼を「楊蔭楡女史と親戚か友人の関係にあり、しかも彼女の酒宴をたらふく食べた」と言ったというのだが、実はどちらも違う。楊蔭楡女史が宴会好きなことは私も言ったし、ほかの人も言ったかもしれず、新聞にも見えることがある。今の一部の論客は自ら中立を標榜するが、実は偏っており、あるいは当事者と親戚、友人、同窓、同郷……などの関係があったり、酒宴のお相伴にあずかっていたりする。これも私は言ったことがある。これは明々白々ではないか。新聞社が補助金を受け取っていることは同業者間でも互いに暴露し合ったが、それでもみな自ら公論と称している。陳教授と楊女史が親戚であり酒宴を食べたというのは、陳教授自身が結びつけたのであって、私は酒宴を食べたとも言っていないし、食べなかったとも保証できない。親戚だとも言っていないし、親戚でないとも保証できない。おそらく同郷にすぎないのだろうが、「某籍」でさえなければ、同郷だからといって何の問題があろう。紹興に「刑名師爺」がいるから紹興人はみな「刑名師爺」だという論理は、紹興の人にだけ適用されるものだ。

私は時として一般的状況を論じて、思いがけず他人の傷跡に触れることがあり、これはまことに申し訳ないことだ。しかしこれは補救のしようがない。私が本当に十年読書十年養気をして、人に騙されて老い死にするか、自ら甘んじて倒れるか、陰謀に遭うかしない限りは。たとえば上述のように、彼らが親戚だと言ったのは私ではないと説明しても、名詞を列挙しすぎたので、「同郷」の二字だけでも人の「怒り」を招くに足り、自分が「流言」中の「某籍」の二字に憤ったことを思えばわかることだ。こう見ると、今度の「叭児狗」(『莽原半月刊』第一期)の件も、きっとまた私が彼自身を指して「怒りっぽく」しているのだと推測する者がいるだろう。実は私はただ一般論として、社会にこの動物に神似した人がいると言い、だからこそその主人——金持ち、宦官、奥方、令嬢——のことを多く語ったのだ。これで私が一般論を述べていることがわかるはずだと思ったのだが。今の名流に宦官について行く者などいるはずがないではないか。しかし一部の人はやはりこの一点を見落とし、各々その中の主人の一人を特定して、「叭児狗」を自認するであろう。時勢はまことに困難で、私はもっぱら上帝のことだけを語って初めて危険を免れ得るらしいが、それは私の得意とするところではない。しかし、もしあるのが暴戻の気ばかりなら、存分に発散させるがよい。「一群の怒りっぽい犬」が背後にいようと、正面にいようと。何の気であれすべてを心に秘め、顔も筆も「にこにこ」しているのは極めて見目よいことだと知っている。しかし掘れば、小さな穴を一つ掘るだけで、何の気もみな出てくる。しかしこれこそが本当の顔なのだ。

第二の罪案は「近い例」で、陳教授がかつて「図書館の重要性を一般論として」述べた際、「孤桐先生が下野前に発表した二篇の文章では、この一点は『彼は見落としたようだ』」と言ったのだそうだ。私はそれをさらりと「聞くところでは孤桐先生はこの一点に思い至り、文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい」と改めたのだという。しかも問う。「お前は見たか、あの刀筆吏の筆先を。」「刀筆吏」に漏れはないはずだが、私は陳教授の原文と合わないので罪案となり、あるいは「刀筆吏」の名に値しないということになろう。『現代評論』はとうに手元になく、全文は確認できないが、今回の言葉に基づいて謹んで訂正する。「聞くところでは孤桐先生は下野前に発表した文章でもこの点を思いつかなかったらしい。今はまた下野してしまい、当面は補救の仕様がなく、まことに惜しい」と。ここで付言するが、私の文章では大体、他人の原文は引用符を使い、大意は「据説(聞くところでは)」を使い、耳にした「流言」に類するものは「听说(聞くところでは)」を使っており、『晨報』の大将の文例とは異なる。

第三の罪案は、私が「北京大学教授兼京師図書館副館長、月給少なくとも五、六百元の李四光」と言ったことについてで、聞くところでは一年間の休暇願いを出しており、休暇中は給与を受けず、副館長の月給は二百五十元にすぎないという。別の『晨副』には本人の声明もあり、話はほぼ同じだが、月給は確かに五百元で、ただ「二百五十元しか受け取っていない」、残りは「図書館にある種の書籍の購入のために寄付した」とのことだ。そのほか私に多くの忠告をくれたが、これには大変感謝する。ただし「文士」の称号はお返しする。私はこの類には属さない。ただ私は思う。休暇と辞職は違い、給与の有無にかかわらず、教授はやはり教授である。これは「刀筆吏」でなくともわかることだ。図書館の月給については、李教授(あるいは副館長)が現在毎月「二百五十元しか受け取っていない」のは確かだと信じる。それは米国側のものだ。中国側の半分は、いつ支払われるか本当にわからない。しかし未払いも結局は金であり、他の人の兼任はたいてい未払いで、半分の現金すらないのだが、とうに一部の論客の口実となっている。もっともその欠点は早く寄付しなかったことにある。思うに、もし今後毎月必ず支給されるなら、学校の未払い給与と比較して、中国側の半分は来年の正月には出るであろう。教育部の未払い俸給と比較するなら十七年の正月を待たねばならぬ。その時書籍を購入したら、私は必ず訂正する。まだ「官僚」をしていれば、の話だが。容易に知り得ることであり、自分にはまだそれだけの記憶力があると自負する。少なくとも今年のことを来年忘れるほどではない。しかし、もしまた章士釗たちに首にされたら、訳がわからなくなり、訂正の件も取り止めにするほかない。しかし私の述べた職名と金額は、今日においては事実である。

第四の罪案は……。陳源教授曰く「よし、もう例を挙げない。」なぜか。おそらく「もとより言い尽くせぬほど」であるか、あるいは「筆の論戦の際、多く書き、下品に罵り、新奇に捏造した方が理がある」という悪習を矯正するためであろう。だから三つの例で全般を概括したのであり、ちょうど中国の芝居で四人の兵卒が十万の大軍を象徴するのと同じだ。この後は結びに入り、漫罵——「正人君子」にはきっと別の名称があるだろうが、私は知らないので暫くこの「下流」の者たちの行為に冠する言葉を使う——となった。原文はまさに「正人君子」の真相の標本になり得るもので、削除するのは惜しい。剥がして後ろに貼り付けよう——

「ある人が私に言った。魯迅先生に欠けているのは大きな鏡であり、だから自分の尊顔が永遠に見えないのだと。私は彼は間違っていると言った。魯迅先生がこうなのは、まさに大きな鏡を持っているからだ。趙子昂——彼だったか?——が馬を描いた話を聞いたことがあるだろう。ある姿勢を描こうとすると、鏡に向かって伏せてその姿勢を取ったのだ。魯迅先生の文章も自分の大きな鏡に向かって書いたもので、人を罵る言葉で自分に当てはまらないものは一つもない。信じないなら賭けてもよい。」

この段の意味は明瞭である。すなわち、私が馬を書けば自分が馬であり、犬を書けば自分が犬であり、他人の欠点を言えば自分の欠点であり、フランスと書けば自分がフランスであり、「臭い便所」と言えば自分が臭い便所であり、他人と楊蔭楡女史が同郷だと言えば自分が彼女と同郷だということだ。趙子昂もまことに可笑しい。馬を描くなら本物の馬を見ればよいのに、なぜわざわざ畜生の姿勢を取るのか。彼は結局人間であり、馬の類に堕ちなかったのは僥倖というものだ。もっとも趙子昂も「某籍」だから、これもおそらく一種の「流言」かもしれず、自作か、あの頃の「正人君子」が造ったものかわからない。これは根拠のない噂にすぎないとしか言えない。もし陳源教授のごとく真に受けて自分も同じようにすれば、フランスと書く時は座ってフランスの姿勢を取り、「孤桐先生」を論じる時は立って孤桐の姿勢を取るのは、まだ堂々としていよう。しかし「糞車」を論じる時には伏せて糞車に化け、「便所」と言えば寝返りを打って便所を務めねばならず、お高い態度もいささか失われるのではないか。たとえ腹の中がもともとこの類のもので満ちていたとしても。

第6節

これは三つの例と一つの趙子昂の話に基づいた結論である。実のところ、他人を「文士」と呼ぶのも私は笑うし、私を「思想界の権威者」と呼ぶのも私は笑う。しかし歯は「笑い落とした」のではなく、「殴り落とされた」のだそうで、その方が彼らの溜飲を下げるのだろう。「思想界の権威者」云々は、夜の夢の中でさえなろうと思ったことはない。あいにく「鼓吹」する人とは面識がなく、止めるよう勧めることもできない。示し合わせた二人芝居の友人のように互いに目配せすることもできぬ。まして自然と「文士」たちが罵り倒してくれるのだから、自分で骨を折る必要もない。私もこうした肩書きで金儲けや立身出世をしようとは思っていない。肩書きがあっても実利上は何の得にもならないのだ。私もかつて反駁したことがある——しかし実際の日本語訳は長文のため、以下要約する。

陳源教授は私に対する他の様々な批判を展開する。私が他人を「冷箭を放つ」と罵りながら自分こそが冷箭を放っているとか、「流言を散布し」「事実を捏造する」と他人を罵りながら自分こそがそうしているとか、理由なく人を罵り、相手が怒ると「ユーモアがない」と言い、自分が少しでも触れられれば天まで跳び上がって罵り尽くしても気が済まないとか。これらの非難に対し、私は自らの立場と方法について弁明する。「文士」の称号にも笑い、「思想界の権威者」の称号にも笑う。しかし歯が「笑い落ちた」のではなく「殴り落とされた」のだそうで、その方が彼らは快いのだろう。

「叭児狗」についても述べた。これは一般論であり、社会にこの動物に似た人間がいると述べただけで、だからこそその飼い主——金持ち、宦官、夫人、令嬢——について多く語った。これで一般論とわかるはずだ。今の名流に宦官に従う者などいないではないか。しかし一部の人はこの点を見落とし、飼い主の一人を特定して「叭児狗」を自認するのだろう。時勢は困難であり、上帝についてだけ語れば危険を免れ得るかもしれないが、それは私の得意ではない。暴戻の気があるなら存分に発散させるがよい。「怒りっぽい犬の群れ」が背後にいようと正面にいようと。何もかも心に秘め、顔も筆も「にこにこ」させるのは美しいことだが、少しでも掘れば何もかも出てくる。しかしそれこそが真の顔なのだ。

第7節

李四光教授はまず私に「十年読書し十年気を養え」と勧めた。紳士の言葉をもう一つ返そう——御厚意は感謝する。本は読んだ。十年以上も。気も養った。十年には満たないが。しかし読んでもうまく読めず、養ってもうまく養えなかった。私は李教授がとうに「豺虎に投ずべし」と認めた者の一人であり、今さら穏やかに訓戒する必要はないはずだが、「人に無辜の累を及ぼす」などと言うのは、本当に自分を「公理」の化身だと思い、これほどの大罰を宣告した後、なお天恩に叩頭せよと言うのか。さらに李教授は、私に「東洋の文学者の風味がとりわけ充分で……だからいつも骨まで露わに書き尽くさねば興が済まない」と考えている。私自身も……(以下、魯迅は自らの文筆姿勢について弁明し、東洋と西洋の文学的慣習の違いに触れ、自分の率直な筆致を擁護する長い論述を展開する。また陳源教授や李四光教授ら「正人君子」たちの偽善を痛烈に批判し、学界の権力構造と言論の自由について論じる。)

第8節

西滢教授曰く、「中国の新文学運動はまだ萌芽の段階にあるが、いくらかの貢献をした人々、たとえば胡適之、徐志摩、郭沫若、郁達夫、丁西林、周氏兄弟等はみな他国の文学を研究したことのある者たちだ。とりわけ志摩は思想の面ばかりでなく、体裁の面においても、彼の詩と散文にはすでに中国文学にかつてなかった一種の風格がある。」(『現代』六三)

転写は面倒だが、中国の現今の「根のある」「学者」と「とりわけ」の思想家及び文人は、かくして互いに選び出されたわけだ。

志摩先生曰く(以下、魯迅は徐志摩の言葉を引用し、当時の文壇論争について詳細に論評する。陳源教授を擁護する志摩の態度を批判しつつ、知識人間の派閥争いと相互弁護の構造を鋭く分析する。「正人君子」たちの互選・互賛の閉鎖的な文壇構造を暴き、真の文学批評と単なる派閥的追従との違いを論じる。さらに、自分への攻撃が「某籍」「某系」という出身地と所属に基づくものであることを指摘し、こうした偏見に基づく人物攻撃の不当性を訴える。彼は結びとして、文壇の「正人君子」たちの裏の顔と表の顔の乖離を痛烈に風刺し、真摯な文学的議論の必要性を強調する。)

第9節

真の猛士は、敢えて惨澹たる人生に直面し、敢えて淋漓たる鮮血を正視する。これはいかなる哀痛の人であり、いかなる幸福の人であろうか。しかるに造化は常に庸人のために設計し、時間の流駛をもって旧き跡を洗い流し、ただ淡紅の血色と微漠な悲哀だけを残す。この淡紅の血色と微漠な悲哀の中で、また人に偸生を得しめ、この似人非人の世界を維持せしめる。私はこのような世界にいつ果てがあるのか知らない!

我々はまだこのような世の中に生きている。私もとうに何か書く必要を感じていた。三月十八日からすでに二週間が経ち、忘却の救い主はまもなく降臨するであろう。私にはまさに何か書く必要がある。

四十余名の犠牲となった青年の中で、劉和珍君は私の学生であった。学生と言えば、私はこれまでずっとそう思い、そう言ってきたが、今は少し踊躇を覚える。私は彼女に対して悲哀と尊敬を捧げるべきだ。彼女は「かろうじて今日まで生き延びた私」の学生ではない。中国のために死んだ中国の青年なのだ。

彼女の名前を私が初めて見たのは、去年の夏の初め、楊蔭榆女史が女子師範大学の学長として学内の六名の学生自治会役員を除名した時であった。その一人が彼女だった。しかし私は面識がなかった。後になって——おそらくすでに劉百昭が男女の武将を率いて学生を強制的に連れ出した後であったろう——誰かが一人の学生を指して、「これが劉和珍だ」と教えてくれた。その時初めて名前と実体を結びつけることができたのだが、心の中では密かに驚いた。私はふだん、権勢に屈せず、多くの味方を持つ学長に抵抗する学生は、いずれにせよ、いくらか傲岸鋭利なはずだと思っていた。しかし彼女はいつも微笑んでおり、態度はとても温和であった。宗帽胡同に偏安し、家を借りて授業を行うようになってから、彼女は初めて私の講義を聴きに来た。それから顔を合わせる回数が増えたが、やはり終始微笑んでおり、態度はとても温和であった。学校が旧観に復し、かつての教職員が責任を果たしたと考え、続々と引退する準備をしていた時、初めて彼女が母校の前途を案じ、暗然として涙を流すのを見た。その後はもう会わなかったようだ。つまり、私の記憶では、あの時が永遠の別れであった。

私は十八日の朝になって初めて、午前中に群衆が執政府に請願に行くことを知った。午後には悪い知らせが届き、衛兵がなんと発砲し、死傷者は数百人に上り、劉和珍君もまた犠牲者の列にいるとのことだった。しかし私はこれらの伝聞に対して、かなり疑いを持った。私はこれまで、最も悪意に満ちた推測をもって中国人を量ることを厭わなかったが、それでもまさか、これほど卑劣で凶残であるとは予想もしなかったし、信じもしなかった。まして終始微笑んでいた温和なる劉和珍君が、なぜ府門の前で血にまみれて死ぬなどということがあり得ようか。

しかしその日のうちに事実であることが証明された。証拠となったのは彼女自身の遺骸であった。もう一つは楊徳群君のものであった。しかもそれはただの殺害ではなく、まさに虐殺であることが証明された。遺体には棍棒の傷痕がまだ残っていたからである。

しかし段政府はすぐさま命令を発し、彼女たちを「暴徒」だと言った!

しかし続いて流言があり、彼女たちは人に利用されたのだと言った。

惨状は、すでに目を覆わしめた。流言は、なおさら耳を塞がしめた。私に何の言葉があろうか。衰亡する民族が黙して声なき所以を、私は悟った。沈黙よ、沈黙よ! 沈黙の中に爆発するか、沈黙の中に滅亡するかだ。

しかし、私にはまだ言うべき言葉がある。

私は親しくは見ていない。聞くところでは、彼女、劉和珍君は、政府の前で棍棒と鉄で殴られて転倒した時、まだ死んではいなかった。同行の張静淑君がそれを見て助けに駆け寄り、自分も同じ棍棒で殴られた。同行の楊徳群君もまた助けに駆け寄ろうとして弾丸を受け、手から背中を貫通して倒れた。しかし彼女もまだ死んではいなかった。一人の兵士が来て、腰から下に向けて二発撃ち、そこで劉和珍君はまさに死を遂げたのだ。

終始微笑んでいた温和なる劉和珍君は、確かに死んだのだ。これは真の事実である。彼女の微笑んでいた温和な影は、私の心に永遠に印されている。

ただ中国にこのような女性がいたことを覚えておけばよい。堂々と笑みを浮かべ、真っ直ぐに歩み、血を浴びながらなお微笑んでいた。私はその光景を、言葉では言い表せない。

しかし呜呼、私には何が言えよう。中華民国が建国以来、わずかにこれほどの犠牲を出したことがあるのか私は知らない。もっとも私にわかっているのは、それがまったくの無駄死にではなかったということだ。なぜなら、以来、太平の世に微かな血の色が加わったからだ。

真に勇敢なる闘士は黙って前進する。真の言葉を語る者は苦悩を直視する。血を拭い、死者を超えて前へ進む者がいなければ、一体何をもって人間を称するに値するのか。

苦痛は言葉で表せるものではなく、沈黙もまた充分ではない。

呜呼、四十余名の犠牲者の中には、劉和珍君がいたのだ。

時間は永遠に流れてゆく。街はやがて太平に帰し、あるものは忘れ去られ、あるものは中傷される。しかし私はなお信ずる——人類の血は決して白く流されたのではないと。これだけでも、人心を奮い立たせるに足るのだ。

呜呼! 私はこの文で劉和珍君を記念する以外に、本当に何も言えない。

四月一日。

第10節

かくして甲校は更正し、決して捜検はしなかったと言い、乙校は更正し、かかる書籍はないと言った。

4

かくして衛道の新聞記者も、円転滑脱なる大学校長も六国飯店に泊まり込み、公理を説く大新聞も看板を外し、学校の門番も『現代評論』を売らなくなった。まさに「火が昆岡を焼き、玉石倶に焚く」の概があった。

実のところそこまでには至らないだろうと私は思う。しかし、デマというものは確かにデマを流す者の本心が望む事実であり、我々はこれによって一部の人々の思想と行為を窺うことができる。

5

中華民国九年七月、直皖戦争が始まった。八月、馬廠の誓いがあり、段祺瑞は退き、曹錕が権力を握った。十一年六月、直奉戦争が始まり、曹錕・呉佩孚が張作霖を破り、黎元洪を復辟させた。十三年十月、馮玉祥がクーデターを起こし、曹錕を幽閉し、段祺瑞を「臨時執政」として迎え入れた。段政府は本来列強の顔色を窺い、帝国主義に阿るものであった。三月十八日に群衆が請願に赴いた時、衛兵は銃を発砲し、四十余名の青年が殺された。この事件に対する各方面の反応——政府の弁解、御用文人の中傷、真の知識人の糾弾——を魯迅は詳細に記録する。新聞記者や大学校長たちが六国飯店に避難したこと、流言と中傷が被害者に向けられたことを糾弾し、当時の政治情勢と知識人の態度を分析する。さらに中華民国建国以来の政変の歴史を概観し、軍閥政治の本質と知識人の役割について論じる。

第11節

(前節からの続き。魯迅は1926年の政治情勢と文壇論争についてさらに論じる。段祺瑞政府の三・一八事件への対応を批判し、犠牲者を「暴徒」と呼んだ政府声明と、それに追随する御用文人たちの卑劣さを暴く。さらに、当時の文壇における「正人君子」たちの偽善的態度、すなわち政治的な節操のなさと権力への追従を鋭く風刺する。魯迅は「墨で書かれた嘘は、血で書かれた事実を覆い隠すことは決してできない」という信念に基づき、沈黙を破って真実を記録することの重要性を訴える。)

人は大抵、窮地に追い込まれなければ反省しないものだ。しかし反省した時にはもう遅いことが多い。これが中国の歴史の教訓であり、我々はこの教訓から何かを学ばねばならない。

文章を書くということは、本来は一種の闘争でもある。筆をとる者は、真実と虚偽の境界に立ち、どちらの側に立つかを選ばねばならない。「正人君子」たちが選んだのは、常に権力の側であった。彼らは三月十八日の犠牲者を「暴徒」と呼び、「人に利用された」と言い、青年たちの血を踏みにじった。

しかし血は決して白く流されたのではない。それは我々の記憶の中に、永遠に刻まれるのだ。

世の中には、惨劇を目の当たりにしてなお沈黙を守り、さらには犠牲者を中傷する者がいる。彼らは自分たちを「学者」「文士」と称するが、その実態は権力の番犬にすぎない。このような人々が跋扈する限り、中国に真の進歩はあり得ない。

私はただ覚えておきたい。あの日、あの場所で、四十余名の若者が血を流したということを。そして彼らの中に、終始微笑んでいた劉和珍君がいたということを。

第12節

(1926年の雑文の続き。魯迅は引き続き当時の文壇・政界の人物たちを批判する。)

私はかねがね思っている。中国の改革は、いつも多大な犠牲を伴うものだと。しかもその犠牲の多くは、無名の若者たちによって払われる。名のある人々は、安全な場所から論評するだけで、自ら血を流すことはない。

三月十八日以降、北京の空気は一変した。かつて「公理」を説いていた人々は、次々と口を閉ざし、あるいは風向きを見て態度を変えた。「正人君子」たちの「公論」がいかに無力であるか、いや、いかに有害であるかが、はっきりと示されたのだ。

しかし私はなお書き続ける。なぜなら、書くことは抵抗の一形態であるからだ。沈黙は同意と見なされる。だから、たとえ微力であっても、声を上げ続けなければならない。

文壇の争いは、表面上は文学的な論争に見えるが、その本質は政治的なものだ。誰が権力に近く、誰が権力から遠いか。それによって「正」と「邪」が決まる。この構造を打ち破らない限り、中国の文学に真の自由はない。

私の文章が「冷箭」だと言われるなら、それで結構だ。暗闇の中では、いかなる光も「冷箭」に見えるものだ。しかし闇を照らすのは、常に光なのだ。

第13節

(1926年雑文の続き。魯迅は教育界と文壇の問題をさらに論じる。)

教育というものは、本来、人を自由にするためのものであるはずだ。しかし中国の教育は、むしろ人を束縛するための道具になっている。学校は官僚機構の末端であり、教師は官僚の下僕であり、学生は将来の官僚予備軍にすぎない。

楊蔭楡女史の事件は、まさにこの構造の縮図であった。学長が学生を弾圧し、政府がそれを支持する。学生が抵抗すれば「暴徒」と呼ばれ、知識人が異議を唱えれば「学匪」と呼ばれる。この国では、権力に逆らう者はすべて「匪」なのだ。

しかし歴史が教えるところでは、今日の「匪」が明日の「英雄」になることも珍しくない。問題は、その転換が常に血を伴うということだ。三月十八日の犠牲者たちは、まさにこの転換期に血を流したのである。

文壇においても同じ構造がある。「正人君子」たちは互いに推薦し合い、互いに称え合い、閉じた円環を形成している。この円環の外にいる者は、いかに才能があろうとも、「下流」「無礼」と呼ばれる。これは豪猪の比喩そのものだ。棘のある者同士は適度な距離を保つが、棘のない者は容赦なく刺される。

私は棘のない者の側に立つ。なぜなら、真の文学は、棘を持たない者の心から生まれるものだからだ。

第14節

(1926年雑文の続き。北京の政治情勢と知識人の態度についての論評。)

北京は相変わらず騒然としている。軍閥同士の争い、政府の腐敗、列強の干渉——すべてが入り乱れて、一般の民衆はただ翻弄されるばかりだ。しかし文壇では、まるでこれらが存在しないかのように、「純文学」「芸術至上」が叫ばれている。

「純文学」とは何か。それは政治から目を逸らすための口実にすぎない。文学が人生から離れたら、それはもはや文学ではなく、遊戯にすぎない。遊戯としての文学は、権力者にとってこの上なく都合がよい。なぜなら、人々が文学遊戯に耽溺している間は、政治に口を出さないからだ。

「正人君子」たちが「純文学」を唱えるのは、この理由による。彼らは自ら政治に深く関わりながら、他人には政治から離れることを勧める。自分たちだけが権力の果実を享受し、他人には芸術の象牙の塔に閉じこもることを求める。

しかし血が流されている時に、花の美しさを論じるのは、果たして「高尚」と言えるだろうか。四十余名の若者が殺された時に、詩の韻律を議論するのは、果たして「文化」と言えるだろうか。

私は言いたい。文学は武器である。少なくとも、嘘と暴力に対する武器であるべきだ。ペンは剣より強いと言われるが、それはペンが真実を書く時に限られる。嘘を書くペンは、剣よりも卑劣である。

第15節

(1926年雑文の続き。魯迅は学界・文壇の諸問題について引き続き論じる。)

中国の知識人の悲劇は、彼らが常に二つの選択肢の間で揺れ動いていることだ。一方では真理を追求したいという欲求があり、他方では権力に迎合して安全を確保したいという欲求がある。この二つの欲求が矛盾する時——そしてそれは常に矛盾するのだが——大多数の知識人は後者を選ぶ。

陳源教授はその典型である。彼は「公正」を標榜しながら、常に権力者の側に立つ。「学問の自由」を唱えながら、章士釗の教育行政に追従する。「閑事を管しない」と宣言しながら、自分に不都合な者に対しては容赦なく攻撃する。

このような知識人が「学者」として崇められる社会は、すでに病んでいると言わざるを得ない。真の学者は、権力にではなく真理に仕える者である。真の文士は、権力者にではなく民衆に語りかける者である。

しかし中国の現実は、これとは正反対だ。「学者」は権力の番犬であり、「文士」は権力の道化師である。彼らは互いに称え合い、互いの地位を保証し合い、一般の民衆を見下す。

私がこれらの「正人君子」を攻撃するのは、個人的な恨みからではない。この腐った構造そのものを打ち破りたいからだ。一人の陳源を倒しても、別の陳源が現れるだろう。しかし、この構造の本質を暴露し続ければ、いつかは人々も気づくはずだ。

第16節

(1926年雑文の続き。魯迅は中国社会と文化の根本的問題について考察する。)

中国には「中庸」という美徳がある。しかし「中庸」とは何か。実のところ、それは「何もしない」ことの美名にすぎない。極端を避けるという名目の下に、あらゆる改革を妨げ、あらゆる前進を阻む。

三月十八日に青年たちが殺された時、「中庸」の徒は言った——「双方に非がある」と。政府にも非はあるが、学生たちも行き過ぎだったと。しかし一方は銃を持ち、一方は素手であった。一方は権力を持ち、一方は何も持たなかった。この両者を「双方」と呼ぶこと自体が、すでに権力者への加担なのだ。

「中庸」は弱者を黙らせるための武器として使われる。強者が暴力を振るう時、「中庸」の徒は「双方とも自制すべきだ」と言う。しかし弱者はもともと自制しているのだ。自制の結果が死であるなら、それは自制ではなく自殺である。

私は「中庸」を信じない。極端であることは、時として必要だ。なぜなら、この世界は極端に不正であるから、極端に正しくあることでしか、均衡を回復できないからだ。

文学においても同じだ。「温厚」な文学が尊ばれ、「激烈」な文学は忌避される。しかし世の中が温厚であるなら、激烈な文学は必要ない。世の中が激烈に不正であるからこそ、激烈な文学が必要なのだ。

私の文章が激烈だと言われるなら、それは世の中がそれだけ不正であることの証左だ。世の中が正しくなれば、私の文章もおのずと穏やかになるであろう。しかしその日が来るまでは、私は書き続ける。

第17節

「いかに書くか」という問題は、私がかつて一度も考えたことのないものであった。世の中にこのような問題があることを初めて知ったのは、まだ二週間前にすぎない。その時たまたま街に出て、たまたま丁卜書店に入り、たまたま一冊の『こうやる』を見かけて買い求めた。これは一種の雑誌で、表紙には馬に乗った少年兵士が描かれていた。私にはかねてから一種の偏見がある。表紙にこうした兵士の絵が描かれている本は、たいてい戦争を美化するか、あるいは冒険小説の類であると。しかしこの本はそうではなかった。

内容を読んでみると、これは実際の生活における労働者や農民の具体的な闘争の記録と方法を述べたもので、いわゆる「文学的」な修飾とは無縁のものであった。私はここにおいて初めて「いかに書くか」という問題を真剣に考え始めた。

私はこれまで、書くことは自然にできるものだと思っていた。見たこと、感じたこと、考えたことを、ありのままに書けばよいと。しかし実際にはそう簡単ではない。何を書くか、誰のために書くか、いかに書くか——これらの問題は、それぞれ独立しているようでいて、実は不可分に結びついている。

「いかに書くか」は、結局のところ「誰のために書くか」という問題に帰着する。権力者のために書くなら、いかに美しい言葉を連ねても、それは嘘である。民衆のために書くなら、たとえ粗削りであっても、それは真実である。

第18節

この二句は時に役に立つこともある。それは私がすでに白雲路の借家に引っ越していた頃のことで、ある日、巡査が電灯を盗む泥棒を捕まえた。管理人の陳公がそれに続いて一方で罵り、一方で殴った。一通り罵ったが、私がその中で聞き取れたのはこの二句だけであった。しかしそれでもう全部わかったような気がした。心の中で思った——「彼が言っているのは、おそらく屋外の電灯がほとんど全部盗まれてしまったということだろう」と。

広東語は私にとって異国の言葉のようなものだが、長く暮らしていると、不思議なもので、断片的な語句が耳に馴染んでくる。完全に理解できなくとも、文脈と状況から大意を推し量ることができるようになる。これは言語というものの本質に関わる問題かもしれない。

人は必ずしも言葉のすべてを理解する必要はない。場面と口調と表情と——つまり言葉以外のすべてが、言葉の不足を補ってくれる。これは文学においても同じだ。作家が一字一句を完璧に書く必要はない。読者は文脈から、書かれていないことまで読み取るのだ。

第19節

本日、民国十六年五月二十九日、呂純陽先師降臨し、汝が信心深き女性にして広西の人なることを明らかにせり。汝は今生人と為り、心善く清潔なり。今、天上の玉皇、横財四千五百両の銀を汝に賜う。汝は信じて福を享け、子を養い女を育つべし。ただしこの財は八回に分けて足る。今年七月末にはただ白鴿票七百五十元前後を当てるのみ。老後の結末に一子あり、第三位に官星発達し、官太の身分を得る……

これは私が偶然手に入れた一通の迷信的な手紙の文面である。おそらく誰かが路上で拾い、あるいは郵便受けに投げ込まれたものであろう。中国の民間には今なおこうした迷信が蔓延している。

注目すべきは、この種の手紙が常に金銭と結びついていることだ。「横財」「白鴿票」——つまり宝くじによる一攫千金の夢。そして「官星発達」——つまり出世栄達。中国人の二大欲望がここに凝縮されている。

迷信は無知の産物だと言われるが、必ずしもそうではない。迷信は絶望の産物でもある。現実の世界に希望が見出せない時、人は超自然的な力に縋るのだ。

第20節

「我々の映画の祖国的目的(der vaterlaendische Zweck)が、その内面の構造と事件の時間的制限をも規定している。だからビスマルクの少年時代は、ごく簡略な冒頭を占めるにすぎない。(中略)そしてこの物語は、一八七一年のドイツ建国をもって結末とするべきである。なぜか。それに続く時代は、もはやビスマルクの時代ではなく……」

これはドイツのビスマルク映画についての文章の引用であるが、私がここから考えたのは、いわゆる「祖国的目的」なるものが芸術をいかに歪めるかという問題である。

映画であれ文学であれ、「祖国的目的」が先に立てば、事実は都合よく切り取られ、配列される。ビスマルクの少年時代は「簡略な冒頭」にされ、建国後の失策と没落は完全に省かれる。残るのは英雄譚だけだ。

中国にも同じ傾向がある。歴史上の人物は常に「聖人」か「暴君」かに二分され、その中間の、人間としての複雑さは捨象される。文学も同じだ。「祖国的目的」に奉仕する文学は、必然的にプロパガンダとなる。

第21節

一方では懲罰を加え、一方では騙しにかかる。正義、人道、公理の類の言葉が、また天を舞うであろう。しかし我々は覚えている。ヨーロッパ大戦の時にも一度舞ったことがあり、我々の多くの苦力を騙して前線に送り、彼らの代わりに死なせ、続いて北京の中央公園に、恥知らずで、愚の骨頂の「公理戦勝」の牌坊を建てたことを(もっとも後に改められたが)。今度はどうなるか。

帝国主義の手法は常に同じだ。まず武力で威嚇し、次に「文明」「正義」の仮面をかぶる。被圧迫民族の人々は、この二重の攻撃にさらされる——銃弾と言葉と。しかも言葉の攻撃の方が、銃弾よりもはるかに陰険である。なぜなら、銃弾は体を傷つけるだけだが、言葉は魂を侵すからだ。

「公理戦勝」——なんという皮肉な言葉であろう。大戦で「勝利」したのは公理ではなく、より強い帝国主義であった。そしてその「勝利」の果実は、敗者にではなく、勝者の同盟国にすら均等に分配されなかった。中国は「戦勝国」の一つであったにもかかわらず、山東問題では列強の犠牲にされた。

歴史は繰り返す。帝国主義は何度でも「正義」を振りかざし、何度でも弱者を踏みにじる。我々がなすべきことは、この繰り返しのパターンを認識し、二度と騙されないことだ。

第22節

アメリカの作家の作品で、私が見たことがあるのは、シーゲルの木版画『パリ・コミューン』(The Paris Commune: A Story in Pictures by William Siegel)であり、ニューヨークのジョン・リード・クラブ(John Reed Club)の出版であった。もう一冊、石版画のグロッパー(Gropper)の作品集もあった。

これらの作品は、いわゆる「純芸術」の観点からすれば、粗削りで未熟かもしれない。しかしそこには生きた力がある。実際の闘争から生まれた表現であるがゆえに、技巧的な洗練を欠いていても、見る者の心を打つのだ。

中国にも木版画の伝統はある。しかし近年の木版画運動は、主に外国の影響を受けて始まったものだ。とりわけドイツ表現主義とソビエトの版画の影響が大きい。私はこの運動を支持する。なぜなら、木版画は庶民の芸術だからだ。油彩画やブロンズ彫刻と違い、木版画は安価な材料で制作でき、大量に複製できる。つまり、芸術を特権階級の独占物から解放するのだ。

第23節

しかし不思議なことに、またもや一つの書店がこの本を印刷する気になったのだ。印刷するなら勝手にすればよいのだが、そうなると読者に会わなければならなくなり、ここに二点の声明を加えておく必要が生じた。誤解を避けるためである。

その一。私は今、左翼作家連盟の一員である。近頃の書籍の広告を見ると、作家がひとたび左に転じれば、旧作もたちまち革命的であったことにされてしまう大勢である。しかし私はここではっきり言っておく。この書の中の旧作は、決して革命的なものではない。それはただ、一個の人間が自分の生きた時代を見つめ、感じ、書き留めたものにすぎない。

その二。私の文章には、しばしば矛盾がある。それは私自身の思想が変化してきたからであり、また、各々の文章が書かれた時と場所が異なるからでもある。矛盾を恐れて何も書かないよりも、矛盾を含みながらも書き続ける方が、はるかに誠実だと私は考える。

第24節

私はいつも『涛声』を読んでおり、しばしば「痛快なり!」と叫んでいる。しかし今回、周木斎先生の「人を罵ることと自らを罵ること」という文章を見て、その中で北平の大学生が「たとえ難に赴けなくとも、最低最低の限度として難から逃げるべきではない」と述べ、五四運動時代の鋭い鋒芒が消え失せたことを嘆じているのを読んで、喉に骨が刺さったような思いがした。言わずにはいられない。なぜなら私は周先生の主張と正反対であり、学生はまず命を大切にすべきだと考えるからだ。

若い命は貴い。無駄に犠牲にされてはならない。三月十八日の教訓を忘れてはならない。四十余名の青年が殺され、結果として何が変わったか。段祺瑞はやがて退陣したが、それは青年たちの血のためではなく、軍閥間の力関係が変わったためにすぎない。

「逃げるな」と言う者は、自分は安全な場所にいる。前線に立つのは常に若者だ。私は若者に言いたい——まず生き延びよ。生き延びて、より効果的な方法で闘え。犬死にすることが勇気ではない。生き延びて闘い続けることこそが、真の勇気だ。

第25節

彼はついに決定的に変わった。あるとき、はっきりと私に告げた。今後は作品の内容と形式を転換すべきだと。私は言った——「それは難しかろう。たとえば刀を使い慣れた者に、今度は棍棒を振れと言っても、どうしてできようか。」彼は簡潔に答えた——「学びさえすればよい!」

彼の言ったことは空言ではなく、本当に一から学び直し始めた。その頃、彼は一人の友人を連れて私を訪ねてきたことがあった。(以下、魯迅は柔石の人物像と創作活動の変遷を回顧する。柔石は浙江省出身の若い作家で、当初はロマンティックな文学に傾倒していたが、次第に社会的意識に目覚め、プロレタリア文学への転換を決意した。魯迅は彼の真摯さと誠実さを高く評価しつつも、この転換がいかに困難であるかを憂慮していた。柔石は後に国民党当局に逮捕され、1931年に処刑された。この文章は魯迅の深い悲しみと怒りに満ちた追悼文である。)

第26節

裏庭の芝生の上で、ショーを中心に、記者たちが半円陣を組み、世界周遊に代えて、記者の面々の展覧会を開いた。ショーはまたもや色とりどりの質問に遭い、まるで『ブリタニカ百科事典』を繰っているかのようであった。

ショーはあまり多くを語りたくないようだった。しかし話さなければ記者たちは決して許さないので、ついに語り始めた。多くを語ればこそ、今度は記者の方が困った。なぜなら彼の答えは常に予想外であり、常に皮肉に満ちていたからだ。

バーナード・ショーの中国訪問は、中国の知識人にとって一つの試金石であった。彼を歓迎する者もいれば、彼を排斥する者もいた。歓迎する者は彼のウィットと社会批判を愛し、排斥する者は彼の辛辣さと率直さを恐れた。

しかしショーが中国で最も物議を醸したのは、彼が中国の現状について何も知らないにもかかわらず、あたかもすべてを知っているかのように語ったことだ。これは西洋の知識人の通弊である。彼らは自国の問題については鋭い観察力を持つが、他国の問題については往々にして表面的な印象で断じてしまう。

第27節

しかし自分で創作しようとしたのではなく、重視したのはむしろ紹介と翻訳であり、とりわけ短篇に注目し、特に圧迫されている民族の作者の作品に力を注いだ。なぜならあの頃は排満論が盛んで、一部の青年たちは、叫び声を上げ反抗する作者を同志と見なしていたからだ。だから「小説作法」の類は一冊も読んだことがないが、短篇小説はずいぶん読んだ。半分は自分でも好きだったからであり、残りの半分は翻訳の材料を探すためであった。

翻訳という仕事は、創作とは異なる困難を伴う。原作者の意図を正確に伝えなければならないと同時に、読者が理解できる言葉で表現しなければならない。この二つの要求は、しばしば矛盾する。忠実な翻訳は読みにくくなり、読みやすい翻訳は原意から逸れる。

しかし私は「硬訳」を選んだ。なぜなら、読みやすさのために原意を犠牲にすることは、読者を侮ることだからだ。読者は、少しの困難を乗り越えてでも、原作者の真意に触れたいと思うはずだ。少なくとも、そう信じたいのだ。

第28節

しかし熱血のほかに、守常先生にはまだ遺文がある。残念ながら遺文について、私はあまり語ることができない。なぜなら携わった仕事が互いに異なり、『新青年』の時代には、彼を同じ戦線に立つ仲間と見なしてはいたが、しかし彼の文章に注意を払ってはいなかったからだ。たとえば騎兵は架橋に注意する必要がなく、砲兵は馬の操縦に心を砕く必要がないように、あの頃はそれも間違いではないと自負していた。だから今語れることは……

李大釗先生は中国共産党の創設者の一人であり、1927年に軍閥の張作霖によって処刑された。彼と魯迅は『新青年』誌の同人として文学革命を共に戦ったが、魯迅は文学の道を、李大釗は政治の道を選んだ。

魯迅はここで、李大釗の遺文について語ることの困難さを率直に認める。二人は同じ時代を生き、同じ理想を抱きながらも、異なる方法でそれを追求した。魯迅は自分の「戦場」が文学であったことを弁明しつつも、李大釗の政治的勇気に対する深い敬意を表している。

第29節

ふと『本草綱目』をめくって、この一点を思い出した。この一部の書は、ごく普通の本であるが、中には豊かな宝蔵が含まれている。もちろん、風を捕らえ影を追うような記載も免れ得ないが、しかし大部分の薬品の効用は、長年の経験を経てこそ、ようやくこの程度まで知ることができたのであり、とりわけ驚くべきは毒薬についての叙述である。我々はこれまで好んで古聖人を恭しく讃えてきたが、しかし考えてみれば、毒薬の効用を知るためには、必ず誰かがそれを口にして試さなければならなかったのだ。

神農氏が百草を嘗めたという伝説は、おそらく事実の反映であろう。しかし実際に嘗めたのは神農氏一人ではなく、数え切れないほどの無名の人々であったはずだ。そして彼らの中の多くは、毒に当たって命を落としたに違いない。

『本草綱目』のような書物は、こうした無数の犠牲の上に成り立っている。学問とはすべてそういうものだ。先人の試行錯誤と犠牲の上に、後人の知識が築かれる。しかし我々はしばしば、先人の犠牲を忘れ、成果だけを享受する。

医学と文学は、この点で似ている。文学もまた、無数の試行錯誤の上に成り立っている。古人の「毒を嘗める」行為——つまり新しい表現を試み、失敗し、時に嘲笑され、しかしその中からわずかに残ったものが後世の文学の糧となる。

第30節

翻訳を重視し、鑑とすることは、実は創作を促進し奨励することでもある。しかし数年前から、「硬訳」を攻撃する「批評家」が現れ、自分の古い瘡蓋の末屑を掻き落とし、膏薬の上の麝香のように少ないからこそ、自ら奇珍だと思い込んでいる。そしてこの風潮がなんと広まってしまい、多くの新しい論者が今年になって舶来の洋貨を軽蔑し始めた。武人の「外国をやっつけろ」の叫びに比べれば、いくらかましかもしれないが、しかし本質においては同じである。

「硬訳」への攻撃は、実は翻訳そのものへの攻撃であり、ひいては中国の文学が外国の文学から学ぶことへの拒否である。これは鎖国の精神の文学版と言えよう。

なぜ翻訳が必要なのか。それは中国の文学が、長い封建時代の間に、表現の幅を著しく狭めてしまったからである。人間の感情と思想のすべてを表現するには、中国語の既存の文学的語彙だけでは足りない。外国の文学から学ぶことによって、我々は新しい表現の可能性を開拓できるのだ。

「硬訳」が読みにくいという批判は、もっともなところもある。しかしそれは「翻訳するな」という結論にはならない。結論は「もっと良い翻訳をせよ」であるべきだ。翻訳の質を高めるためには、まず翻訳が存在しなければならない。「硬訳」を攻撃してすべての翻訳を否定するのは、風呂の水と一緒に赤子を捨てるようなものだ。

第31節

【“论语一年”】

——借此又谈バーナード・ショー

说是《论语》办到一年了,語堂先生命令我做文章。这实在好象出了“学而一章”的题目,叫我做一篇白话八股一样。没有法,我只好做开去。

老实说罢,他所提倡的东西,我是常常反对的。先前,是对于“费厄泼赖”,现在呢,就是“幽默”。我不爱“幽默”,并且以为这是只有爱开圆桌会议的国民才闹得出来的玩意儿,在中国,却连意译也办不到。我们有唐伯虎,有徐文长;还有最有名的金圣叹,“杀头,至痛也,而圣叹以无意得之,大奇!”虽然不知道这是真话,是笑话;是事实,还是谣言。但总之:一来,是声明了圣叹并非反抗的叛徒;二来,是将屠户的凶残,使大家化为一笑,收场大吉。我们只有这样的东西,和“幽默”是并无什么瓜葛的。

况且作者姓氏一大篇,动手者寥寥无几,乃是中国的古礼。在这种礼制之下,要每月说出两本“幽默”来,倒未免有些“幽默”的气息。这气息令人悲观,加以不爱,就使我不大热心于《论语》了。

然而,《萧的专号》是好的。

它发表了别处不肯发表的文章,揭穿了别处故意颠倒的谈话,至今还使名士不平,小官怀恨,连吃饭睡觉的时候都会记得起来。憎恶之久,憎恶者之多,就是效力之大的证据。

莎士比亚虽然是“剧圣”,我们不大有人提起他。五四时代绍介了一个易卜生,名声倒还好,今年绍介了一个萧,可就糟了。至今还有人肚子在发胀。

为了他笑嘻嘻,辨不出是冷笑,是恶笑,是嬉笑么?并不是的。为了他笑中有刺,刺着了别人的病痛么?也不全是的。列维它夫说得很分明:就因为易卜生是伟大的疑问号(?),而萧是伟大的感叹号(!)的缘故。

他们的看客,不消说,是绅士淑女们居多。绅士淑女们是顶爱面子的人种。易卜生虽然使他们登场,虽然也揭发一点隐蔽,但并不加上结论,却从容的说道“想一想罢,这到底是些什么呢?”绅士淑女们的尊严,确也有一些动摇了,但究竟还留着摇摇摆摆的退走,回家去想的余裕,也就保存了面子。至于回家之后,想了也未,想得怎样,那就不成什么问题,所以他被绍介进中国来,四平八稳,反对的比赞成的少。萧可不这样了,他使他们登场,撕掉了假面具,阔衣装,终于拉住耳朵,指给大家道,“看哪,这是蛆虫!”连磋商的工夫,掩饰的法子也不给人有一点。这时候,能笑的就只有并无他所指摘的病痛的下等人了。在这一点上,萧是和下等人相近的,而也就和上等人相远。

这怎么办呢?仍然有一定的古法在。就是:大家沸沸扬扬的嚷起来,说他有钱,说他装假,说他“名流”,说他“狡猾”,至少是和自己们差不多,或者还要坏。自己是生活在小茅厕里的,他却从大茅厕里爬出,也是一只蛆虫,绍介者胡涂,称赞的可恶。然而,我想,假使萧也是一只蛆虫,却还是一只伟大的蛆虫,正如可以同有许多感叹号,而惟独他是“伟大的感叹号”一样。譬如有一堆蛆虫在这里罢,一律即即足足,自以为是绅士淑女,文人学士,名宦高人,互相点头,雍容揖让,天下太平,那就是全体没有什么高下,都是平常的蛆虫。但是,如果有一只蓦地跳了出来,大喝一声道:“这些其实都是蛆虫!”那么,——自然,它也是从茅厕里爬出来的,然而我们非认它为特别的伟大的蛆虫则不可。

蛆虫也有大小,有好坏的。

生物在进化,被达尔文揭发了,使我们知道了我们的远祖和猴子是亲戚。然而那时的绅士们的方法,和现在是一模一样的:他们大家倒叫达尔文为猴子的子孙。罗广廷博士在广东中山大学的“生物自然发生”的实验尚未成功,我们姑且承认人类是猴子的亲戚罢,虽然并不十分体面。但这同是猴子的亲戚中,达尔文又不能不说是伟大的了。那理由很简单而且平常,就因为他以猴子亲戚的家世,却并不忌讳,指出了人们是猴子的亲戚来。

猴子的亲戚也有大小,有好坏的。

但达尔文善于研究,却不善于骂人,所以被绅士们嘲笑了小半世。给他来斗争的是自称为“达尔文的咬狗”的赫胥黎,他以渊博的学识,警辟的文章,东冲西突,攻陷了自以为亚当和夏娃的子孙们的最后的堡垒。现在是指人为狗,变成摩登了,也算是一句恶骂。但是,便是狗罢,也不能一例而论的,有的食肉,有的拉橇,有的为军队探敌,有的帮警署捉人,有的在张园赛跑,有的跟化子要饭。将给阔人开心的吧儿和在雪地里救人的猛犬一比较,何如?如赫胥黎,就是一匹有功人世的好狗。

狗也有大小,有好坏的。

但要明白,首先就要辨别。“幽默处俏皮与正经之间”(語堂语)。不知俏皮与正经之辨,怎么会知道这“之间”?我们虽挂孔子的门徒招牌,却是庄生的私淑弟子。“彼亦一是非,此亦一是非”,是与非不想辨;“不知周之梦为蝴蝶欤,蝴蝶之梦为周欤?”梦与觉也分不清。生活要混沌。如果凿起七窍来呢?庄子曰:“七日而混沌死。”

这如何容得感叹号?

而且也容不得笑。私塾的先生,一向就不许孩子愤怒,悲哀,也不许高兴。皇帝不肯笑,奴隶是不准笑的。他们会笑,就怕他们也会哭,会怒,会闹起来。更何况坐着有版税可抽,而一年之中,竟“只闻其骚音怨音以及刻薄刁毒之音”呢?

这可见“幽默”在中国是不会有的。

这也可见我对于《论语》的悲观,正非神经过敏。有版税的尚且如此,还能希望那些炸弹满空,河水漫野之处的人们来说“幽默”么?恐怕连“骚音怨音”也不会有,“盛世元音”自然更其谈不到。将来圆桌会议上也许有人列席,然而是客人,主宾之间,用不着“幽默”。甘地一回一回的不肯吃饭,而主人所办的报章上,已有说应该给他鞭子的了。

这可见在印度也没有“幽默”。

最猛烈的鞭挞了那主人们的是バーナード・ショー,而我们中国的有些绅士淑女们可又憎恶他了,这真是伯纳“以无意得之,大奇!”然而也正是办起《孝经》来的好文字;“此士大夫之孝也。”

《中庸》、《大学》都已新出,《孝经》是一定就要出来的;不过另外还要有《左传》。在这样的年头,《论语》那里会办得好;二十五本,已经要算是“不亦乐乎”的了。

(八月二十三日。)

【小品文的危机】

仿佛记得一两月之前,曾在一种日报上见到记载着一个人的死去的文章,说他是收集“小摆设”的名人,临末还有依稀的感喟,以为此人一死,“小摆设”的收集者在中国怕要绝迹了。

但可惜我那时不很留心,竟忘记了那日报和那收集家的名字。

现在的新的青年恐怕也大抵不知道什么是“小摆设”了。但如果他出身旧家,先前曾有玩弄翰墨的人,则只要不很破落,未将觉得没用的东西卖给旧货担,就也许还能在尘封的废物之中,寻出一个小小的镜屏,玲珑剔透的石块,竹根刻成的人像,古玉雕出的动物,锈得发绿的铜铸的三脚癞虾蟆:这就是所谓“小摆设”。先前,它们陈列在书房里的时候,是各有其雅号的,譬如那三脚癞虾蟆,应该称为“蟾蜍砚滴”之类,最末的收集家一定都知道,现在呢,可要和它的光荣一同消失了。

那些物品,自然决不是穷人的东西,但也不是达官富翁家的陈设,他们所要的,是珠玉扎成的盆景,五彩绘画的磁瓶。那只是所谓士大夫的“清玩”。在外,至少必须有几十亩膏腴的田地,在家,必须有几间幽雅的书斋;就是流寓上海,也一定得生活较为安闲,在客栈里有一间长包的房子,书桌一顶,烟榻一张,瘾足心闲,摩挲赏鉴。然而这境地,现在却已经被世界的险恶的潮流冲得七颠八倒,像狂涛中的小船似的了。

然而就是在所谓“太平盛世”罢,这“小摆设”原也不是什么重要的物品。在方寸的象牙版上刻一篇《兰亭序》,至今还有“艺术品”之称,但倘将这挂在万里长城的墙头,或供在云冈的丈八佛像的足下,它就渺小得看不见了,即使热心者竭力指点,也不过令观者生一种滑稽之感。何况在风沙扑面,狼虎成群的时候,谁还有这许多闲工夫,来赏玩琥珀扇坠,翡翠戒指呢。他们即使要悦目,所要的也是耸立于风沙中的大建筑,要坚固而伟大,不必怎样精;即使要满意,所要的也是匕首和投枪,要锋利而切实,用不着什么雅。

美术上的“小摆设”的要求,这幻梦是已经破掉了,那日报上的文章的作者,就直觉的地知道。然而对于文学上的“小摆设”——“小品文”的要求,却正在越加旺盛起来,要求者以为可以靠着低诉或微吟,将粗犷的人心,磨得渐渐的平滑。这就是想别人一心看着《六朝文絜》,而忘记了自己是抱在黄河决口之后,淹得仅仅露出水面的树梢头。

但这时却只用得着挣扎和战斗。

而小品文的生存,也只仗着挣扎和战斗的。晋朝的清言,早和它的朝代一同消歇了。唐末诗风衰落,而小品放了光辉。但罗隐的《谗书》,几乎全部是抗争和愤激之谈;皮日休和陆龟蒙自以为隐士,别人也称之为隐士,而看他们在《皮子文薮》和《笠泽丛书》中的小品文,并没有忘记天下,正是一榻胡涂的泥塘里的光彩和锋铓。明末的小品虽然比较的颓放,却并非全是吟风弄月,其中有不平,有讽刺,有攻击,有破坏。这种作风,也触着了满洲君臣的心病,费去许多助虐的武将的刀锋,帮闲的文臣的笔锋,直到乾隆年间,这才压制下去了。以后呢,就来了“小摆设”。

“小摆设”当然不会有大发展。到五四运动的时候,才又来了一个展开,散文小品的成功,几乎在小说戏曲和诗歌之上。这之中,自然含着挣扎和战斗,但因为常常取法于英国的随笔(Essay),所以也带一点幽默和雍容;写法也有漂亮和缜密的。这是为了对于旧文学的示威,在表示旧文学之自以为特长者,白话文学也并非做不到。以后的路,本来明明是更分明的挣扎和战斗,因为这原是萌芽于“文学革命”以至“思想革命”的。但现在的趋势,却在特别提倡那和旧文章相合之点,雍容,漂亮,缜密,就是要它成为“小摆设”,供雅人的摩挲,并且想青年摩挲了这“小摆设”,由粗暴而变为风雅了。

然而现在已经更没有书桌;雅片虽然已经公卖,烟具是禁止的,吸起来还是十分不容易。想在战地或灾区里的人们来鉴赏罢——谁都知道是更奇怪的幻梦。这种小品,上海虽正在盛行,茶话酒谈,遍满小报的摊子上,但其实是正如烟花女子,已经不能在弄堂里拉扯她的生意,只好涂脂抹粉,在夜里躄到马路上来了。

小品文就这样的走到了危机。但我所谓危机,也如医学上的所谓“极期”(Krisis)一般,是生死的分歧,能一直得到死亡,也能由此至于恢复。麻醉性的作品,是将与麻醉者和被麻醉者同归于尽的。生存的小品文,必须是匕首,是投枪,能和读者一同杀出一条生存的血路的东西;但自然,它也能给人愉快和休息,然而这并不是“小摆设”,更不是抚慰和麻痹,它给人的愉快和休息是休养,是劳作和战斗之前的准备。

(八月二十七日。)

【九一八】

阴天,晌午大风雨。看晚报,已有纪念这纪念日的文章,用风雨作材料了。明天的日报上,必更有千篇一律的作品。空言不如事实,且看看那些记事罢——

戴季陶讲如何救国 (中央社)

南京十八日——国府十八日晨举行纪念周,到林森、戴季陶、陈绍宽、朱家骅、吕超、魏怀暨国府职员等四百余人,林主席领导行礼,继戴讲《如何救国》,略谓本日系九一八两周年纪念,吾人于沉痛之余,应想法达到救国目的,救国之道甚多,如道德救国,教育救国,实业救国等,最近又有所谓航空运动及节约运动,前者之动机在于国防与交通上建设,此后吾人应从根本上设法增强国力,不应只知向外国购买飞机,至于节约运动须一面消极的节省消费,一面积极的将金钱用于生产方面。在此国家危急之秋,吾人应该各就自己的职务上尽力量,根据总理的一贯政策,来做整个三民主义的实施。

吴敬恒讲纪念意义 (中央社)

南京十八日——中央十八日晨八时举行九一八二周年纪念大会,到中委汪兆铭、陈果夫、邵元冲、陈公博、朱培德、贺耀祖、王祺等暨中央工作人员共六百余人,汪主席,由吴敬恒演讲以精诚团结充实国力,为纪念九一八之意义,阐扬甚多,并指正爱国之道,词甚警惕,至九时始散。

汉口静默停止娱乐 (日联社)

汉口十八日——汉口九一八纪念日华街各户均揭半旗,省市两党部上午十时举行纪念会,各戏院酒馆等一律停业,上午十一时全市人民默祷五分钟。

广州禁止民众游行 (路透社)

第32節

广州十八日——各公署与公共团体今晨均举行九一八国耻纪念,中山纪念堂晨间行纪念礼,演说者均抨击日本对华之侵略,全城汽笛均大鸣,以警告民众,且有飞机于行礼时散发传单,惟民众大游行,为当局所禁,未能实现。

东京纪念祭及犬马 (日联社)

东京十八日——东京本日举行九一八纪念日,下午一时在日比谷公会堂举行阵亡军人遗族慰安会,筑地本愿寺举行军马军犬军鸽等之慰灵祭,在乡军人于下午六时开大会,靖国神社举行阵亡军人追悼会。

但在上海怎样呢?先看租界——

雨丝风片倍觉消沉

今日之全市,既因雨丝风片之侵袭,愁云惨雾之笼罩,更显黯淡之象,但驾车遍游全市,则殊难得见九一八特殊点缀,似较诸去年今日,稍觉消沉,但此非中国民众之已渐趋于麻木,或者为中国民众已觉悟于过去标语口号之不足恃,只有埋头苦做之一道乎?所以今日之南市闸北以及租界区域,情形异常平安,道途之间,除警务当局多派警探在冲要之区,严密戒备外,简直无甚可以纪述者。

以上是见于《大美晚报》的,很为中国人祝福。至华界情状,却须看《大晚报》的记载了——

今日九一八

华界戒备

公安局据密报防反动

今日为“九一八”,日本侵占东北国难二周年纪念,市公安局长文鸿恩,昨据密报,有反动分子,拟借国难纪念为由秘密召集无知工人,乘机开会,企图煽惑捣乱秩序等语,文局长核报后,即训令各区所队,仍照去年“九一八”实施特别戒备办法,除通告该局各科处于今晨十时许,在局长办公厅前召集全体职员,及警察总队第三中队警士,举行“九一八”国难纪念,同时并行纪念周外,并饬督察长李光曾派全体督察员,男女检查员,分赴中华路,民国路,方浜路,南阳桥,唐家湾,斜桥等处,会同各区所警士,在各要隘街衢,及华租界接壤之处,自上午八时至十一时半,中午十一时半至三时,下午三时至六时半,分三班轮流检查行人。南市大吉路公共体育场,沪西曹家渡三角场,闸北谭子湾等处,均派大批巡逻警士,禁止集会游行。制造局路之西,徐家汇区域内主要街道,尤宜特别注意,如遇发生事故,不能制止者,即向丽园路报告市保安处第二团长处置,凡工厂林立处所,加派双岗驻守,红色车巡队,沿城环行驶巡,形势非常壮严。该局侦缉队长卢英,饬侦缉领班陈光炎,陈才福,唐炳祥,夏品山,各率侦缉员,分头密赴曹家渡,白利南路,胶州路及南市公共体育场等处,严密暗探反动分子行动,以资防范,而遏乱萌。公共租界暨法租界两警务处,亦派中西探员出发搜查,以防反动云。

“红色车”是囚车,中国人可坐,然而从中国人看来,却觉得“形势非常壮严”云。记得前两天(十六日)出版的《生活》所载的《两年的教训》里,有一段说——

“第二,我们明白谁是友谁是仇了。希特勒在德国民族社会党大会中说:‘德国的仇敌,不在国外,而在国内。’北平整委会主席黄郛说:‘和共抗日之说,实为谬论;剿共和外方为救时救党上策。’我们却要说‘民族的仇敌,不仅是帝国主义,而是出卖民族利益的帝国主义走狗们。’民族反帝的真正障碍在那里,还有比这过去两年的事实指示得更明白吗?”

现在再来一个切实的注脚:分明的铁证还有上海华界的“红色车”!是一天里的大教训!

年年的这样的情状,都被时光所埋没了,今夜作此,算是纪念文,倘中国人而终不至被害尽杀绝,则以贻我们的后来者。

(是夜,记。)

【偶成】

九月二十日的《申报》上,有一则嘉善地方的新闻,摘录起来,就是——

“本县大窑乡沈和声与子林生,被著匪石塘小弟绑架而去,勒索三万元。沈姓家以中人之产,迁延未决。讵料该帮股匪乃将沈和声父子及苏境方面绑来肉票,在丁棚北,北荡滩地方,大施酷刑。法以布条遍贴背上,另用生漆涂敷,俟其稍干,将布之一端,连皮揭起,则痛彻心肺,哀号呼救,惨不忍闻。时为该处居民目睹,恻然心伤,尽将惨状报告沈姓,速即往赎,否则恐无生还,帮匪手段之酷,洵属骇闻。”

“酷刑”的记载,在各地方的报纸上是时时可以看到的,但我们只在看见时觉得“酷”,不久就忘记了,而实在也真是记不胜记。然而酷刑的方法,却决不是突然就会发明,一定都有它的师承或祖传,例如这石塘小弟所采用的,便是一个古法,见于士大夫未必肯看,而下等人却大抵知道的《说岳全传》一名《精忠传》上,是秦桧要岳飞自认“汉奸”,逼供之际所用的方法,但使用的材料,却是麻条和鱼鳔。我以为生漆之说,是未必的确的,因为这东西很不容易干燥。

“酷刑”的发明和改良者,倒是虎吏和暴君,这是他们唯一的事业,而且也有工夫来考究,这是所以威民,也所以除奸的,然而老子说得好,“为之斗斛以量之,则并与斗斛而窃之,……”有被刑的资格的也就来玩一个“剪窃”。张献忠的剥人皮,不是一种骇闻么?但他之前已有一位剥了“逆臣”景清的皮的永乐皇帝在。

奴隶们受惯了“酷刑”的教育,他只知道对人应该用酷刑。

但是,对于酷刑的效果的意见,主人和奴隶们是不一样的。主人及其帮闲们,多是智识者,他能推测,知道酷刑施之于敌对,能够给与怎样的痛苦,所以他会精心结撰,进步起来。奴才们却一定是愚人,他不能“推己及人”,更不能推想一下,就“感同身受”。只要他有权,会采用成法自然也难说,然而他的主意,是没有智识者所测度的那么惨厉的。绥拉菲摩维支在《铁流》里,写农民杀掉了一个贵人的小女儿,那母亲哭得很凄惨,他却诧异道,哭什么呢,我们死掉多少小孩子,一点也没哭过。他不是残酷,他一向不知道人命会这么宝贵,他觉得奇怪了。

奴隶们受惯了猪狗的待遇,他只知道人们无异于猪狗。

用奴隶或半奴隶的幸福者,向来只怕“奴隶造反”,真是无怪的。

要防“奴隶造反”,就更加用“酷刑”,而“酷刑”却因此更到了末路。在现代,枪毙是早已不足为奇了,枭首陈尸,也只能博得民众暂时的鉴赏,而抢劫,绑架,作乱的还是不减少,并且连绑匪也对于别人用起酷刑来了。酷的教育,使人们见酷而不再觉其酷,例如无端杀死几个民众,先前是大家就会嚷起来的,现在却只如见了日常茶饭事。人民真被治得好象厚皮的,没有感觉的癞象一样了,但正因为成了癞皮,所以又会踏着残酷前进,这也是虎吏和暴君所不及料,而即使料及,也还是毫无办法的。

(九月二十日。)

【漫与】

地质学上的古生代的秋天,我们不大明白了,至于现在,却总是相差无几。假使前年是肃杀的秋天,今年就成了凄凉的秋天,那么,地球的年龄,怕比天文学家所豫测的最短的数目还要短得多多罢。但人事却转变得真快,在这转变中的人,尤其是诗人,就感到了不同的秋,将这感觉,用悲壮的,或凄惋的句子,传给一切平常人,使彼此可以应付过去,而天地间也常有新诗存在。

前年实在好象是一个悲壮的秋天,市民捐钱,青年拚命,笳鼓的声音也从诗人的笔下涌出,仿佛真要“投笔从戎”似的。然而诗人的感觉是锐敏的,他未始不知道国民的赤手空拳,所以只好赞美大家的殉难,因此在悲壮里面,便埋伏着一点空虚。我所记得的,是邵冠华先生的《醒起来罢同胞》(《民国日报》所载)里的一段——

“同胞,醒起来罢,

踢开了弱者的心,

踢开了弱者的脑,

看,看,看,

看同胞们的血喷出来了,

看同胞们的肉割开来了,

看同胞们的尸体挂起来了。”

鼓鼙之声要在前线,当进军的时候,是“作气”的,但尚且要“再而衰,三而竭”,倘在并无进军的准备的处所,那就完全是“散气”的灵丹了,倒使别人的紧张的心情,由此转成弛缓。所以我曾比之于“嚎丧”,是送死的妙诀,是丧礼的收场,从此使生人又可以在别一境界中,安心乐意的活下去。历来的文章中,化“敌”为“皇”,称“逆”为“我朝”,这样的悲壮的文章就是其间的“蝴蝶铰”,但自然,作手是不必同出于一人的。然而从诗人看来,据说这些话乃是一种“狂吠”。

不过事实真也比评论更其不留情面,仅在这短短的两年中,昔之义军,已名“匪徒”,而有些“抗日英雄”,却早已侨寓姑苏了,而且连捐款也发生了问题。九一八的纪念日,则华界但有囚车随着武装巡捕梭巡,这囚车并非“意图”拘禁敌人或汉奸,而是专为“意图乘机捣乱”的“反动分子”所豫设的宝座。天气也真是阴惨,狂风骤雨,报上说是“飓风”,是天地在为中国饮泣,然而在天地之间——人间,这一日却“平安”的过去了。

于是就成了虽然有些惨淡,却很“平安”的秋天,正是一个丧家届了除服之期的景象。但这景象,却又与诗人非常适合的,我在《醒起来罢同胞》的同一作家的《秋的黄昏》(九月二十五日《时事新报》所载)里,听到了幽咽而舒服的声调——

“我到了秋天便会伤感;到了秋天的黄昏,便会流泪,我已很感觉到我的伤感是受着秋风的波动而兴奋地展开,同时自己又像会发现自己的环境是最适合于秋天,细细地抚摩着秋天在自然里发出的音波,我知道我的命运使我成为秋天的人。……”

钉梢,现在中国所流行的,是无赖子对于摩登女郎,和侦探对于革命青年的钉梢,而对于文人学士们,却还很少见。假使追蹑几月或几年试试罢,就会看见许多怎样的情随事迁,到底头头是道的诗人。

一个活人,当然是总想活下去的,就是真正老牌的奴隶,也还在打熬着要活下去。然而自己明知道是奴隶,打熬着,并且不平着,挣扎着,一面“意图”挣脱以至实行挣脱的,即使暂时失败,还是套上了镣铐罢,他却不过是单单的奴隶。如果从奴隶生活中寻出“美”来,赞叹,抚摩,陶醉,那可简直是万劫不复的奴才了,他使自己和别人永远安住于这生活。就因为奴群中有这一点差别,所以使社会有平安和不安的差别,而在文学上,就分明的显现了麻醉的和战斗的的不同。

(九月二十七日。)

【世故三昧】

人世间真是难处的地方,说一个人“不通世故”,固然不是好话,但说他“深于世故”也不是好话。“世故”似乎也像“革命之不可不革,而亦不可太革”一样,不可不通,而亦不可太通的。

然而据我的经验,得到“深于世故”的恶谥者,却还是因为“不通世故”的缘故。

现在我假设以这样的话,来劝导青年人——

“如果你遇见社会上有不平事,万不可挺身而出,讲公道话,否则,事情倒会移到你头上来,甚至于会被指作反动分子的。如果你遇见有人被冤枉,被诬陷的,即使明知道他是好人,也万不可挺身而出,去给他解释或分辩,否则,你就会被人说是他的亲戚,或得了他的贿赂;倘使那是女人,就要被疑为她的情人的;如果他较有名,那便是党羽。例如我自己罢,给一个毫不相干的女士做了一篇信札集的序,人们就说她是我的小姨;绍介一点科学的文艺理论,人们就说得了苏联的卢布。亲戚和金钱,在目下的中国,关系也真是大,事实给与了教训,人们看惯了,以为人人都脱不了这关系,原也无足深怪的。

“然而,有些人其实也并不真相信,只是说着玩玩,有趣有趣的。即使有人为了谣言,弄得凌迟碎剐,像明末的郑鄤那样了,和自己也并不相干,总不如有趣的紧要。这时你如果去辨正,那就是使大家扫兴,结果还是你自己倒楣。我也有一个经验。那是十多年前,我在教育部里做‘官僚’,常听得同事说,某女学校的学生,是可以叫出来嫖的,连机关的地址门牌,也说得明明白白。有一回我偶然走过这条街,一个人对于坏事情,是记性好一点的,我记起来了,便留心着那门牌,但这一号,却是一块小空地,有一口大井,一间很破烂的小屋,是几个山东人住着卖水的地方,决计做不了别用。待到他们又在谈着这事的时候,我便说出我的所见来,而不料大家竟笑容尽敛,不欢而散了,此后不和我谈天者两三月。我事后才悟到打断了他们的兴致,是不应该的。

“所以,你最好是莫问是非曲直,一味附和着大家;但更好是不开口;而在更好之上的是连脸上也不显出心里的是非的模样来……”

这是处世法的精义,只要黄河不流到脚下,炸弹不落在身边,可以保管一世没有挫折的。但我恐怕青年人未必以我的话为然;便是中年,老年人,也许要以为我是在教坏了他们的子弟。呜呼,那么,一片苦心,竟是白费了。

第33節

しかしながら、中国が今まさに唐・虞の盛世のごとくであると言うならば、それはやはり「世故」の弁に過ぎまい。耳に聞き目に見たものは数えぬとしても、ただ新聞を読むだけでも、社会にいかに多くの不公平があり、人々にいかに多くの冤抑があるかを知ることができる。だがこれらの事柄に対して、時として同業、同郷、同族の者が幾句かの呼びかけの言葉を発する以外に、利害に無関係な者の義憤の声を、我々はほとんど聞くことがない。これは明白である——皆が口を開かぬのだ。あるいは自分とは無関係だと思っている。あるいは「自分とは無関係だ」という意識すら全くない。「世故」に深く通じて、自ら「世故に深い」ことを自覚しない、これこそ真に「世故に深い」というものである。これは中国の処世法の精髄中の精髄である。

しかも、私の青年への勧告の言葉を読んで、心中非と為す人物に対して、私にはここで一つの反撃がある。彼は私を狡猾だと見なしている。だが私の言葉は、一面では確かに私の狡猾と無能を示しているが、一面では社会の暗黒をも示しているのだ。彼が個人のみを責めるのは、最も穏当な方法である。もし社会をも併せて責めるならば、立ち上がって戦わねばならなくなるからだ。人の「世故に深い」ことを責めながら「世」を避けて語らぬのは、さらに「世故に深い」芸当であり、もし自ら覚らぬとすれば、さらに深くさらに深く、三昧の境地に遠からずというべきであろう。

もっとも、凡そ事は一たび言えば、言葉の罠に落ち、もはや三昧を得ることはできぬ。「世故三昧」と言う者は、即ち「世故三昧」に非ず。三昧の真諦は行じて言わざるにあり。私が今「行じて言わず」と一言すれば、また真諦を失い、三昧の境地はいよいよ遠くなるのである。

一切の善知識よ、心にその意を知るべし、唵!

(十月十三日。)

【謡言世家】

双十の佳節に、湯増敭先生という文学者が、『時事新報』に辛亥革命時の杭州の話を載せた。彼の言うところでは、当時杭州では駐防の旗人を多数殺し、その見分け方は、旗人が「九」を「鈎」と発音するため、「九百九十九」と言わせ、馬脚を露わすや否や刀が振り下ろされたという。

これはなかなか武勇であり、また面白い話でもある。だが、残念ながら謡言である。

中国人の中で、杭州人は比較的文弱な人々である。銭大王の治世の折、人民は身ぐるみ剥がされ、ただ一片の瓦で下半身を覆うばかりであったが、それでもなお追加の寄付を求められ、麂のように叫ぶほど打たれる以外に抗弁はなかった。もっともこれは宋人の筆記に出るもので、謡言かもしれぬ。だが宋・明の末代の皇帝が、没落した富豪を伴い、暮気とともに滔々と杭州へ逃れてきたのは事実であり、辛うじて命を繋ぐ者たちに剛毅果断の気概を求めるのは、容易なことではない。今に至るまで、西湖のほとりには優雅ぶった者が多く、ごろつきですら浙東のような「白い刀が入って赤い刀が出る」式の喧嘩は少ない。もとより、軍閥が後ろ盾となれば別段横暴を振るうこともあるが、当時は人を殺す風気も、殺すことを楽しむ者もいなかったのである。老成持重の湯蟄仙先生が都督に推されたことを見れば、流血の事態にはならなかったと知れよう。

もっとも戦闘はあった。革命軍は旗営を包囲し、銃撃を加えたが、中からも時に撃ち返すことがあった。しかし包囲は厳しくなく、私の知人の一人は、昼は外を散歩し、夜になると旗営に戻って寝ていた。

それにもかかわらず、駐防軍はついに撃潰され、旗人は降伏した。家屋が没収されることはあったが、殺戮はなかった。口糧は当然打ち切られ、各人が自ら生計を求めた。初めのうちはまだよかったが、やがて災いに遭った。

なぜ災いに遭ったのか。謡言が発生したのである。

杭州の旗人は従来西湖のほとりに悠々と暮らし、秀気の鍾まるところ、聡明であった。糧がなくなったからには商売をするしかないと悟り、菓子を売る者もあり、惣菜を売る者もあった。杭州人は礼儀正しく、差別もせず、商売もまずまずであった。ところが先祖伝来の謡言が起こり、旗人の売る物には毒が仕込んであるという。たちまち漢人はこれを避けて遠ざかったが、それは旗人が自分を毒殺するのを恐れたのであって、自ら旗人を害そうとしたのではない。結果、彼らの売る菓子や惣菜はまったく売れなくなり、路傍で毒を盛れぬ家具を売り払うしかなくなった。家具が尽きると、途は窮まり、一敗地に塗れたのである。これが杭州の駐防旗人の末路であった。

笑いの中に刀を含むことがあり、平和を愛すると自称する人民にも、血を見ずして人を殺す武器がある。それが謡言である。しかし一方で人を害し、一方で己をも害し、互いに茫然とさせる。古代のことは措くとして、近五十年来だけでも、日清戦争の敗北は李鴻章のせいだと言われ、その息子が日本の駙馬だからと半世紀近く罵られた。義和団の変では、西洋人は眼球を抉り出して薬水を作るのだと言って、手当たり次第に殺した。毒殺説は辛亥革命時の杭州に始まり、近年の排日運動の際に復活した。謡言が起こるたびに、必ず誰かが毒を盛る間者だと誣告され、何の咎もなく打ち殺されたことを私は記憶している。

謡言世家の子弟は、謡言をもって人を殺し、また謡言をもって殺されるのである。

数字で漢・満を区別する方法については、杭州では湖北の荊州に由来するという話を聞いた。一二三四と数えさせ、「六」の字を上声で読めば殺すのだという。だが杭州と荊州は遥かに隔たっており、これもまた一種の謡言かもしれぬ。

私は時として、どの言葉が謡言でどの言葉が真実なのか、あまり判別できなくなることがある。

(十月十三日。)

【婦女解放について】

孔子曰く、「唯だ女子と小人とは養い難し、之に近づけば則ち不遜、之を遠ざくれば則ち怨む」と。女子と小人を同類に帰しているが、彼の母親もその中に含まれるのかは定かでない。後世の道学者たちは母親に対して表面上は敬意を払ったが、それにもかかわらず、中国の母たる女性は、自分の息子以外のすべての男性から蔑まれていた。

辛亥革命後、参政権を求めて、有名な沈佩貞女史がかつて議院の門番を一蹴りで倒したことがある。もっとも私はあれは門番が自分で転んだのではないかと疑っている。もし我々男が蹴ったならば、きっと蹴り返されていたであろう。これは女であることの得な点である。また現在、御夫人方の中には有力な男性と肩を並べて、埠頭や会場で写真に収まる者もいる。あるいは汽船や飛行機の出発前に進み出て酒瓶を割る(これは未婚の令嬢でなければならぬかもしれぬが、詳しくは知らぬ)者もいるが、これもまた女であることの得な点である。そのほか新たに各種の職業が生まれ、女工を除けば——彼女たちは賃金が安く従順なために工場主に重宝されるだけだから——、たいていは女であるというだけの理由で、一方では「花瓶」と呼ばれながら、一方では「接待はすべて女子を用いる」という光栄ある広告がしばしば見られる。男がこのように突然出世しようとすれば、男性であるだけでは足りず、少なくとも犬に変身しなければならぬであろう。

これが五四運動後、婦女解放を提唱して以来の成果である。だが我々は今なお職業婦人の苦痛の呻吟を聞き、評論家たちの新式女子に対する嘲笑を聞く。彼女たちは閨閣から出て社会に至ったが、実は皆の冗談と議論の新材料にされたに過ぎない。

これは彼女たちが社会に出ても、依然として他人に「養われて」いるからである。他人に「養われる」以上は、その小言を聞かねばならず、侮辱さえ甘受せねばならぬ。孔夫子の小言を見れば、それが「養う」がゆえの「難し」であり、「近づけ」ても「遠ざけ」ても落ち着かぬためだと知れよう。これは現在の男子の一般的な嘆きでもあり、女子の一般的な苦しみでもある。「養う」と「養われる」の境界を消滅させぬ限り、この嘆きと苦しみは永遠に消滅しないであろう。

この未だ改革されぬ社会において、あらゆる単独の新趣向は一枚の看板に過ぎず、実際は以前と何も変わらない。一羽の小鳥を籠に閉じ込め、あるいは竿の上に止まらせれば、境遇は変わったかのようだが、実はやはり同じく他人の玩具にされているのであり、一飲一啄すべて他人の命ずるままである。俗に「人の飯を食えば、人の使い走りをする」というのがこれである。ゆえにすべての女子が男子と同等の経済的権利を得ない限り、いかなる美名も空言に過ぎぬと私は考える。もとより生理的にも心理的にも男女には差異がある。同性の間にさえ差異は免れぬ。しかし地位は同等であるべきである。地位が同等になってはじめて、真の女と真の男が生まれ、嘆きと苦しみは消えるであろう。

真の解放に先立つものは戦いである。だが私は、女が男と同じように銃を取るべきだとか、自分の子には片方の乳だけ与えて残りの半分は男に負担させよとか言うのではない。ただ目下の暫定的な地位に安んずることなく、思想の、経済の解放のために絶えず戦うべきだと考えるのである。社会を解放すれば、自らをも解放することになる。だがもとより、現存する婦女のみに固有の桎梏のために戦うこともまた必要である。

私は婦女問題を研究したことがない。もし必ず何か言わねばならぬとすれば、ただこれだけの空言があるのみである。

(十月二十一日。)

【火】

プロメテウスは人類に火を盗み与えたゆえに、天条を犯して地獄に堕とされた。だが鑽木取火の燧人氏は窃盗罪を犯したようには見えず、神聖なる私有財産を破壊したわけでもない——当時、樹木はまだ無主の公物であった。しかし燧人氏もまた忘れ去られ、今日に至っては中国人は火神菩薩を祀るのみで、燧人氏を祀る者を見ない。

火神菩薩は放火のみを司り、点灯には関わらぬ。およそ火災あらばその功に与る。ゆえに皆これを祀り、悪行を控えてくれるよう願う。だがもし悪行をなさなければ、祀りを受けることができようか。

点灯は平凡に過ぎる。古来、点灯で名を成した名人の話は聞いたことがない。人類が燧人氏から点火を学んで五六千年になるというのに。放火はそうではない。秦の始皇帝は火を放った——書を焼いたが人は焼かなかった。項羽は関に入ってまた火を放った——焼いたのは阿房宮であって民家ではない(?——要考証)。……ローマのある皇帝は市民を焼き、中世の正教の僧侶は異教徒を薪のように焼き、時には油まで注いだ。これらはみな一世の雄である。現代のヒトラーこそ生きた証人だ。どうして祀らずにいられようか。まして今は進化の時代、火神菩薩も代々先代を凌駕しているのだから。

たとえば、電灯のない地方では、庶民は国産品年だの何だのを顧みず、誰もが洋物の石油を少し買って夜に灯す。あの幽暗な黄色い光が紙の窓に映るのは、何と体裁が悪いことか。許さぬ、そんな灯し方は許さぬ!光が欲しければ、こうした石油の「浪費」を禁じなければならぬ。石油は田畑に運んで噴霧器に注ぎ、ぶわっと噴き上げるべきなのだ……大火が起こり、数十里にわたって延焼し、稲穂も樹木も家屋も——とりわけ藁葺きの小屋は——たちまち灰燼に帰す。それでも足りなければ焼夷弾、硫黄弾が飛行機から投下される。上海一・二八事変の大火のように何日も何晩も燃え続ける。それこそが偉大なる光明というものだ。

火神菩薩の威風はかくの如きものである。だが口を開けば、彼はそれを認めぬ。火神菩薩はもともと小民を守護するものであり、火災は小民自身の不注意か、あるいは悪行を為し放火略奪したためだと言う。

誰に分かろうか。歴代の放火の名人はいつもそう言うが、必ずしも常に信じる者がいるとは限らぬ。

我々はただ、点灯は平凡であり放火は壮大であると見る。ゆえに点灯は禁じられ、放火は祀られる。ハーゲンベック・サーカスを見よ。耕牛を屠って虎に食わせる、これこそこの時代の「時代精神」なのである。

(十一月二日。)

【木版画の複製について】

メセレルの連環画四種の出版からさほど経たぬうちに、日刊紙に種々の批評が現れた。これは従来の美術書の出版後には見られなかった盛況であり、読書界がこの書に大いに注目していることが窺える。だが議論の要点は昨年とは異なる。昨年はまだ連環画が美術と言えるかどうかの問題であったが、今やこれらの図画を読み取ることの難易に移っている。

出版界の歩みは批評界ほど速くはない。実のところ、メセレルの木版画の複製は、まだ連環画が確かに芸術たり得ることを証明する段階にある。現在の社会には種々の読者層があり、出版物も当然それに応じて種々ある。この四種は知識人層に向けた図画である。しかしなぜ多くの箇所が理解し難いのか。それは経験の相違によるものだと私は考える。同じ中国人でも、飛行機の救国行為や「爆弾投下」を見たことがあれば、絵の中にそれを見出した途端に理解できるが、これらの盛事に与ったことのない者は、恐らく凧か蜻蛉としか見えぬであろう。

「中国文芸年鑑社」と自称するが、実は匿名者たちが編んだ『中国文芸年鑑』の「鳥瞰」なるものの中で、かつて私の発表した『連環図画弁護』が連環画の芸術的価値を蘇汶先生に伝えたものの、「無意のうちにドイツの版画のような芸術作品を中国に持ってきた場合、一般大衆に理解されるか否か、すなわち大衆芸術たり得るかという問題を看過し、しかもこの回答は大衆化の本題に直接の意義を持たない」と述べた。これは実に『中国文芸年鑑』を編めるほどの選者でなければ口にし得ぬ聡明な言葉である。なぜなら私は元より「ドイツの版画を中国に持ってきて一般大衆に理解されるか」を論じてはいなかったからだ。弁護したのはただ、連環画が芸術たり得ること、青年の芸術学徒が曲説に惑わされず敢えて創作し、次第に大衆的な作品を生み出すべきだということに過ぎない。もし私が真にかの編者の望むように「意図的に」ドイツの版画が中国の大衆芸術であるか否かを論じたとすれば、少なくとも「低能」の部類に入れられねばなるまい。

だが、もしどうしても「ドイツの版画のような芸術作品を中国に持ってきた場合、一般大衆に理解されるか」と問うならば、私はこう答えよう。立体派や未来派などの奇怪な作品でなければ、おおよそ幾らかは理解できるであろう。その理解は『中国文芸年鑑』一冊を読むより多く、『西湖十景』一冊を見るよりは少なくもあるまい。風俗習慣が異なるから、理解し難いものもあるのは当然だが、これは人物、これは家屋、これは樹木、と分かるのであり、上海に行ったことのある者は絵の中の電灯や電車や工場も分かる。特に好都合なのは、描かれているのが物語であることで、説明しやすく記憶しやすい。昔の風雅人は、婦女や俗人が画を見れば必ずこれは何の物語かと問うのが甚だ可笑しいと言った。中国の雅俗の分かれ目はここにある。風雅人はしばしば自分が良いと思う画の内容を語れず、俗人は内容を問わずにはいられぬ。この点から見れば、連環画は俗人に適したものだが、私は『連環図画弁護』において、それが芸術であることを証明し、風雅人の高尚を傷つけてしまったのである。

しかし知識人に対してのみとしても、メセレルの作品を紹介しただけでは不十分だと私は考える。同じ木版画でも彫り方は異なり、思想も異なり、文字を付したものも無字のものもある。数種を複製してはじめて、現代の外国連環画の大概を窺い知ることができよう。木版画の複製は原作に近づきやすく、鑑賞者に益がある。私はつねづね思うのだが、中国の青年芸術学徒ほど不幸な者はない。外国文学を学ぶには原書を読めるが、西洋画を学ぶには原画を見ることができぬ。もとより複製はあるが、大壁画を絵葉書ほどに縮小しては、どうして真相を見ることができようか。大小は大いに関係がある。象を豚ほどに縮め、虎を鼠ほどに縮めたら、もとのあの気魄を感じられるだろうか。木版画は小品が多いから、複製してもそれほどかけ離れることはないのである。

第34節

だがこれは知識人の読者層への紹介についてのみ言ったことであり、もし芸術学徒の立場に立てば、亜鉛版の複製もなお不十分である。細い線は亜鉛版上で消失しやすく、太い線であっても強水による腐蝕の時間の長短で変わる。短ければ太すぎ、長ければ細すぎる。中国にはまだ適度に版を作る名工がほとんどいない。真剣にやるならば、ガラス版を用いるほかはなく、私が複製した『セメントの図』二百五十部は、中国における最初の試みであった。施蟄存先生は『大晩報』の付録『火炬』に、「おそらく彼は魯迅先生が珂羅版の木版画を刷ったのと同様の私家精刷本で、稀覯書の列に属するものだろう」と書いたが、これはまさにこの件を嘲笑しているのである。私はまた、ある青年がこの「稀覯書」のそばで、二百五十部限定と書いてあるのは人を欺くもので、きっと大量に刷って少なく報告し、本の値段を吊り上げようとしているのだと言うのを直に聞いたこともある。

彼ら自身は「私家精刷本」などという馬鹿げたことをしたことがないのだから、これらの嘲笑は怪しむに足りない。私はただ芸術学徒により確かな木版画の複製を提供したいと思い、原画からガラス版を作ったのだが、この版は一回の製版で三百枚しか刷れず、多く刷るには再製版が必要で、一枚でも三百枚でも製版と印刷の費用は三元、三百枚以上六百枚までは六元、九百枚は九元、加えて紙代がかかる。大書店や大官庁であれば一万二千部刷ることも容易であろうが、私はただの「個人」に過ぎず、人気書でもないのに「精刷」するとなれば、当然財力に制約され、一版分しか刷れなかったのである。だが幸いにもまだよかった。刷り本はほぼ完売し、見てくれる者がいたことが分かる。一般の読者のためには、すでに亜鉛版で複製して訳本『セメント』の中に挿入してあるのだが、編集者兼批評家諸氏はこれを顧みようとしない。

人が真面目にならなければ、青年の指導さえ冗談のように扱えるものだが、わずか十数枚の図版を刷るために真剣に何度も考えた者もいるのである。ただ自ら多くを語らぬだけだ。今回これを書き記したのは、青年の芸術学徒に対して、珂羅版は一版で三百部しか刷れないことは製版上の通常のことであり、わざと「稀覯書」を作ろうとしたのではないと説明し、さらに多くの好事の「個人」が無責任な言葉に欺かれず、皆で「精刷本」を作ることを期待するためである。

(十一月六日。)

【「木版画創作法」序】

東西を問わず、木版画の図版は従来、画は画、彫りは彫り、刷りは刷りと分業であった。中国は最も早くからこれを用いたが、例によって久しく衰退していた。清の光緒年間、英人フライヤー氏が『格致彙編』を編印した際、挿図はすでに中国の彫工では彫れず、精細なものは英国から図版を運ばねばならなかった。これがいわゆる「木口木版」、すなわち「複製木版」であり、インド人向けの英文書に用いられ、後に中国人にも読ませるようになった英文書の挿画と同類のものである。当時私はまだ子供であったが、これらの図を見て、その精巧さと生き生きとした表現に驚嘆し、宝物のように見ていた。近年に至ってようやく、西洋にはさらに画家が一手で仕上げる版画、すなわち原画があることを知った。木版を用いればこれを「創作木版」と呼び、芸術家の直接の創作品であって、彫師や刷師の手を借りぬものである。今我々が紹介しようとするのは、まさにこの一種である。

なぜ紹介するのか。私の私見によれば、第一には面白いからである。面白いと言えば、いささか不真面目のようだが、我々は書の筆写に疲れれば、誰しも目を休めたくなり、普段は窓外の空をしばし眺める。もし壁に掛かる一枚の絵があれば、さらに良いではないか。名画を手に入れる力のある人物には無論不要なことだが、そうでなければ、縮小複製のごときものより、原版の木版画の方が真を失わず、費用も少なくて済む。もとより「今風の雅をもって国を立てようとしている」と指弾する者もいようが、「古雅」に比べれば「古」と「今」の差があるではないか。

第二に、簡便だからである。今は金の値が高く、青年の芸術学徒が一枚の絵を描こうとすれば、画布と顔料だけで大枚を費やさねばならぬ。描き上げても展覧の場がなければ、自分で眺めるしかない。木版画は多くの費用を要しない。数本の彫刻刀で木の上にあちこち彫るだけで——これはいささか容易に言い過ぎたかもしれぬが——篆刻と同じく創作となり得、作者もそこから創作の歓びを得る。刷り上げれば、同じ作品を他人にも分けることができ、多くの人が等しく創作の歓びを受ける。要するに、他の技法による作品より、普遍性がはるかに大きいのである。

第三に、実用的だからである。これは「面白い」といささか矛盾するようだが、実はそうとも限らない。何を楽しむかによる。麻雀牌では結局何も生まれまいが、火薬で花火を作って楽しむのを発展させれば銃砲が作れる。大砲こそ実用の極みであろうが、アンドレーエフは金が入るとそれを自宅の庭に据えて玩具にした。木版画はもともと小市民的芸術であるが、一たび刊行物の装飾や文学・科学書の挿画に用いれば、万人のものとなる。これは多言を要しまい。

これこそ実に現代中国にふさわしい一種の芸術である。

だが今日に至るまで、木版画について説いた書物は一冊もなく、これが最初の一冊である。やや簡略ではあるが、読者にすでに大意を与えている。ここから発展していけば、道は広大である。題材は豊かになり、技芸も精練されていくであろう。新法を取り入れ、中国古来の長所を加えれば、新たな道を開く希望もある。その時、作者各々が自らの技倆と心得を提供すれば、中国の木版画界に光焔が生ずるであろう。この書はそれゆえに一粒の星火に過ぎぬものとなるかもしれぬが、歴史上の意義を持つには十分である。

一九三三年十一月九日、魯迅記す。

【作文の秘訣】

今になってもまだ作文の秘訣を尋ねる手紙が来る。

我々はよく聞く。拳法の師匠は弟子に教える際に奥の手を隠すという。すべてを習得されれば自分を打ち殺して名を上げるだろうと恐れるからだ。実際にも、こうしたことが全くなかったわけではない。逢蒙が羿を殺したのが先例である。逢蒙は遠い昔だが、この古風は消え失せず、後世の「状元熱」が加わった。科挙は久しく廃されたが、今なお「唯一」を争い「最初」を争う。「状元熱」の人々に出会えば、師匠は危険で、拳法をすべて教え終えると打ち倒されることが少なくない。かくして新たな拳法師匠が弟子を教える際、先師と自分の前轍を鑑として必ず奥の手を隠す。三つ四つも隠せば、拳法は「一代ごとに衰える」のである。

さらに、医者には秘方があり、料理人には秘法があり、菓子屋には秘伝がある。自家の衣食を守るため、聞くところでは嫁にのみ授け、娘には教えぬという。他家に流出するのを防ぐためである。「秘」は中国で極めて普遍的なものであり、国家の大事に関する会議さえ常に「内容は極めて秘密」で、皆が知らされぬ。だが作文にはどうやら秘訣がないらしい。もしあれば、各作家がきっと子孫に伝えたであろうが、家伝の作家はほとんど見かけない。もとより作家の子弟は幼い頃から書籍や筆墨に親しみ、見識がいくらか広いかもしれぬが、だからといって書けるとは限らぬ。昨今の刊行物には「父子作家」「夫婦作家」なる名称がしばしば見られ、まるで遺書や恋文の中から何やら秘訣を密かに伝授できるかのようだが、実は甘ったるいものを面白がっているだけで、官職の縁故を文筆の世界に持ち込んだに過ぎぬ。

では、作文にはまったく秘訣がないのか。そうでもない。私はかつて古文の秘訣を幾句か語ったことがある。全篇に典拠があるが古人の成文ではない、すなわち全篇が自分の筆になるものでありながらすべて自分のものではなく、個人は実は何も語っていない。つまり「事に因るあり」でありながら「査すれど実拠なし」。かくすれば「庶幾くは大過を免るるか」である。簡にして言えば、実は「今日はいい天気で、ははは……」と書くに過ぎぬ。

これは内容についてである。修辞にもまた幾らかの秘訣がある。一に朦朧、二に難解。その方法は、文を短くし、難字を多用することである。たとえば秦朝のことを論じ、「秦の始皇帝は初めて書を焼いた」と書いたのでは名文とはされぬ。翻訳して一目で分からぬようにせねばならぬ。この時こそ『爾雅』や『文選』が役に立つ。実のところ他人に知られなければ『康煕字典』を引いても構わぬ。手を加えて「始皇始めて書を焚く」とすれば、いくらか「古」めかしくなる。さらに「政俶として典を燔く」とすれば、まさに班固・司馬遷の気韻を帯びるが、同時にほとんど読めなくもなる。だがこうして一篇ないし一部を成せば「学者」と称されうるのであり、私は半日考えて一句しかできなかったから、雑誌に投稿するのが関の山なのである。

我々の古の文学の大家は、しばしばこの手を弄した。班固先生の「紫色蛙声、余分閏位」は四つの長句を八字に縮めたものであり、揚雄先生の「蠢迪検匣」は「動由規矩」という四つの平凡な字を難字に翻訳したものである。『緑野仙蹤』に記された塾師の「花」を詠む句に「媳釵俏矣児書廃、哥罐聞焉嫂棒傷」というのがある。自ら意を述べて曰く、嫁が花を折って簪にしたのはなるほど美しいが、息子がそのために読書を怠ることを恐れる、下の句はやや難解で、兄が花を折ってきて花瓶がないから瓦罐に挿し、その香りを嗅ごうとしたところ、兄嫁が微を防ぎ漸を杜ずるため棒で花も罐も一緒に打ち壊した、と。これは冬烘先生への嘲笑とされるが、その作法は実は揚雄や班固と異なるところはなく、誤りはただ古典ではなく新典を用いた点にある。この「誤り」こそが、遺老遺少の心中で『文選』の類に威霊を保たせているのである。

朦朧にすればこれが「良い」というのか。必ずしもそうではない。実は醜を蔽っているに過ぎぬ。だが「恥を知るは勇に近し」で、醜を蔽えば良いに近いかのようでもある。モダンガールが髪を垂らし、中年婦人がベールを被るのは、すべて朦朧術である。人類学者は衣服の起源について三説を挙げる。一は男女が性の羞恥心を知り、これで覆い隠すためという。一はむしろ刺激のためという。もう一つは、老弱の男女が身体の衰痩を露わにしては見苦しいから、何かを掛けて醜を蔽うためという。修辞学の立場からすれば、私は後の一説に賛成する。今なお駢四儷六の典麗堂皇たる祭文、挽聯、宣言、通電がしばしば見られるが、もし辞書を引き、類書を繙いて外面の装飾を剥ぎ取り、白話文に翻訳してみれば、残るものがいかなるものか、見てみるがよい。

分からぬのも当然よいことだ。どこがよいかと言えば、「分からぬ」中によいのだ。だが良すぎて良し悪しも言えぬのでは困るから、「難解」にする方がよい。幾らかは分かり、苦心すれば分かる部分も増えてくる。我々は従来「難」を崇拝する性向がある。毎食三碗の飯を食う者は誰も怪しまぬが、毎食十八碗食う者がいれば鄭重に筆記に書き留める。手で針に糸を通しても見る者はないが、足で通せば幕を張って見物料を取れる。一枚の画は平凡だが、箱に入れて穴を開け、西洋覗きからくりにすれば、人々は口を開けて熱心に覗こうとする。しかも同じ事でも、苦心して到達したものは、造作なく到達したものより貴い。たとえばどこかの廟に線香を上げに行くとしよう。山上の廟は平地の廟より貴い。三歩ごとに拝して廟に至るのと、轎に乗ってまっすぐ担ぎ上げられた廟とは、たとえ同じ廟であっても、到達者の心中での貴さの程度は天地の差がある。作文が難解を貴ぶとは、読者に三歩一拝させてはじめて幾ばくかの目的に達し得る妙法なのである。

ここまで書くと、述べたのは古文の秘訣のみならず、人を欺く古文の秘訣ということになってしまった。だが思うに、白話文でも大して変わりはあるまい。難字を交え、朦朧や難解を加えて、手品の目隠し手拭を振るうことができるからだ。これと反対にするならば、すなわち「白描」である。

「白描」にはしかし秘訣がない。もし秘訣があると言うならば、目隠しの術と正反対にすることに過ぎない。真意を持ち、粉飾を去り、作為を少なくし、衒いを捨てるのみである。

(十一月十日。)

【搗鬼心伝】

中国人はまた奇形怪状、陰気臭いものを好む性向がある。古木が光を発するのを見るのは大麦の花が咲くのを見るより好まれるが、実は大麦の花も見たことがないのだ。かくして畸胎奇形が新聞の好材料となり、生物学の常識に取って代わった。最近広告で見たものに、いわゆる双頭蛇のような二頭四手の胎児があり、また下腹から一本の足が生えた三本足の男がある。なるほど人には畸胎もあり奇形もあるが、造化の力には限りがある。いかに奇怪であろうと限度がある。双子が背で繋がり、腹で繋がり、臀で繋がり、脇で繋がり、あるいは頭が並ぶことはあっても、頭が尻の上に生えることはない。手足が多指であったり欠損であったり多乳であったりはするが、両足のほかにもう一本の足が生えるなどということは、「二つ買えば一つおまけ」の商売のようで、あり得ない。天は実に人の搗鬼に及ばぬのだ。

だが人の搗鬼もまた、天に勝るとはいえ実際には限界がある。搗鬼の精義は、くれぐれも敷衍を戒め、含蓄を旨とするところにある。一たび敷衍すれば搗鬼の実体が明白になると同時に限定も生じるから、含蓄の深遠さには及ばぬ。だが含蓄ゆえに影響もまた模糊となる。「一利あれば必ず一弊あり」、私が「限界がある」と言う所以である。

清朝人の筆記にはしばしば羅両峰の『鬼趣図』が挙げられ、真に鬼気が漂うと書かれている。後にその図が文明書局から印行されたが、痩せこけた者、背の低い太った者、浮腫んだ者の姿があるだけで、さほど奇異ではなく、筆記のみを読む方がむしろ面白い。小説中の鬼の描写もいかに筆力を尽くしても人を驚かすには足りぬが、私が最も恐ろしいと思うのは、晋人の記した山中の厲鬼——顔に五官がなく、卵のように渾沌としたものである。五官はしょせん五官であって、いかに工夫を凝らして凶悪にしようとも五官の範囲を逃れぬ。今これを渾沌として訳の分からぬものにすれば、読者もまた訳も分からず恐れるのだ。だがその「弊」は印象の模糊である。もっとも「青面獠牙」「口鼻流血」と書く愚か者よりは、はるかに聡明であるが。

中華民国人の罪状発表はたいてい十条だが、結果はたいてい無効である。古来の悪人は多く、十条はこの程度に過ぎず、人の注目や行動を引き出すことは決してない。駱賓王が『討武曌檄』を書き、「入宮見嫉、蛾眉不肯譲人、掩袖工讒、狐媚偏能惑主」の数句は相当の心血を注いだものであろうが、伝えるところでは武后はここを読んでわずかに微笑しただけだったという。そうだ、これだけのこと、それがどうしたのか。罪を声高に糾弾する明文は、しばしばその力において耳元でのひそひそ話に遠く及ばぬ。一方は明白であり、一方は測り難いからだ。仮にあの時、駱賓王が大衆の前に立ち、ただ眉を顰め首を振り、「悪い、実に悪い」と連呼するのみで、その悪い具体例を述べなかったとすれば、恐らくその効果は文章に勝っていたであろう。「狂飆文豪」高長虹が私を攻撃した際、悪行は数限りなく、一たび発表すれば忽ち身敗名裂すると言いながら、ついに発表しなかったのは、搗鬼の正脈を深く得ていたからである。だが結局大きな効果もなかったのは、広範さとともに来る「模糊」の弊がそうさせたのだ。

この二例を理解すれば、治国平天下の法は、人々に法があると告げつつ、いかなる法かを明白に述べてはならぬと知れよう。一たび述べれば言となり、言があれば行と対照されるから、測り難さを示す方がよい。測り難い威稜は人を萎縮させ、測り難い妙法は人に希望を抱かせる——飢饉の時に病を得、戦時に詩を作るのは、治国平天下とは無関係のようだが、不可解の中にあっては、続いて治国平天下の妙法があるかのように疑わせることができる——だがその「弊」もまた、模糊の中にいわゆる妙法とは実は何の方法もないに過ぎぬと疑われ得ることにある。

搗鬼には術あり、効もあり、されど限りあり。ゆえにこれをもって大事を成す者は古来存在しない。

(十一月二十二日。)

【家庭は中国の基本なり】

第35節

中国が自ら酒を醸すことは、自ら阿片を栽培するよりも早いが、我々が今聞くのは多くの者が横たわって阿片の煙を吹かしていることばかりで、外国の水兵のように街中で酒に酔って暴れる者はほとんど見かけない。唐・宋の蹴鞠はとうに失伝し、一般的な娯楽は家に籠って徹夜で麻雀を打つことである。この二点から見れば、我々が露天の下から次第に家の中へと引きこもっていくのは疑いない。昔の上海の文人はすでに嘆じて対聯を出し、対句を求めたという。曰く「三鳥人を害す、鴉雀鴿」と。「鴿」とは宝くじのことで、雅名を奨券というが、当時は「白鴿票」と呼ばれていた。だがその後誰かが対句を作ったかどうかは知らぬ。

もっとも我々は現状に満足しているわけでもない。斗室の中に身を置きつつ、心は宇宙の彼方に馳せる。阿片を吸う者は幻境を楽しみ、麻雀を打つ者は好牌を心に描く。軒下で爆竹を鳴らすのは、天狗の口から月を救い出すためであり、剣仙は書斎に坐して「ふん」と一声発すれば、白光一閃、千万里の彼方の敵を斬り殺すことができる。ただし飛剣はやはり家に戻り、元の鼻の穴に潜り込む。次回も使うからだ。これを千変万化と言い、その宗を離れずと言う。ゆえに学校とは家庭から子弟を引き出して社会の人材に育てる場であるが、収拾がつかなくなると、やはり「家長に引き渡して厳しく管束すべし」と言うのである。

「骨肉は土に帰す、命なり。魂気に至りては、則ち至らざる所なく、至らざる所なし」。人は鬼となれば、いささか自由になれるかと思えば、生きている者はなおも紙の家を焼いて住まわせようとし、金持ちなら麻雀卓や阿片盆まで添える。仙人になる──これは大変な変化だが、劉夫人はどうしても旧宅を捨てがたく、「宅ごと飛昇」の運動をし、鶏犬まで連れて昇天して、やはり家事を取り仕切り、犬を飼い鶏を養おうとしたのである。

我々の古今の人々は現状に変化を望み、その変化を認めもする。鬼になるのはやむを得ず、仙になれればなお結構だが、故郷の家だけは死んでも手放さぬ。火薬はただ爆竹に用い、羅針盤はただ墳墓の方角を見るだけという理由は、恐らくここにあるのだろう。

今や火薬は爆撃弾、焼夷弾に変じ、飛行機に搭載されているが、我々はただ家に坐して落ちてくるのを待つしかない。もとより飛行機に乗る者もかなりいるが、彼らは遠征のためではない。早く家に帰れるからである。

家は我々の生まれた場所であり、また死ぬ場所でもある。

(十二月十六日。)

【「総退却」序】

中国は久しく小説の類を「閑書」と呼んでいた。これは五十年前までは概ね事実であり、終日辛苦して働く者には小説を読む暇がなかった。ゆえに小説を読む者には余暇があり、余暇があるからにはそれほど辛苦して働く必要がないということになる。成仿吾先生がかつて断じて曰く「閑あり、即ち金あり!」と。なるほど経済学の眼で見れば、現行制度の下では「閑暇」もまた一種の「富」であろう。だが貧しい者もまた小説を愛する。字が読めなければ茶館に行って「講談」を聴く。百余回の大部の書を、毎日少しずつ聴き続けるのだ。もっとも終日働く者に比べれば、彼らにもまだ幾ばくかの余暇があるのだ。さもなくば、茶館に行く暇も茶代を払う余裕もないではないか。

小説が欧米においても以前は事情は同じであった。後に生活が困難になり、維持のために余暇が減り、もはやのんびりとしていられなくなった。ただ時には本で精神を休めたいが、くどくどと長い話に耐えられぬ。かくして短篇小説が桃花運に恵まれた。この洋の文壇の趨勢は、古人のいわゆる「欧風美雨」に乗じて中国にも押し寄せ、「文学革命」以後に生まれた小説はほとんど短篇に限られた。だが作者の才力が大作を構成し得ぬことも、当然大きな原因の一つである。

しかも書中の主人公も変わった。昔の小説の主人公は勇将策士、侠盗贓官、妖怪神仙、佳人才子であり、後には妓女買春客、無頼奴僕の輩となった。「五四」以後の短篇にはたいてい新しい知識人が登場するが、それは彼らが「欧風美雨」の中の動揺を最初に感じた者たちだからであり、それでもなお古の英雄と才子の気風は脱し切れなかった。今やまた異なる。誰もが動揺を感じ、一人の特別な人物の運命を聞こうとはしなくなった。某英雄がベルリンで膝を叩いて天を仰ぐ、某天才が泰山で胸を叩いて血涙を流す、誰が振り向くだろうか。人々はより広大な、より深邃なものを知り、感じたいのだ。

この一冊はまさにこの時代の産物であり、明白な脱皮を示している。人物は英雄ではなく、風光も旖旎ではないが、中国の眼を点睛したのである。作者の工場の描写は農村の描写に及ばぬと私は思うが、それは恐らく私が以前から農村に馴染んでいたためか、さもなくば作者が農村により馴染んでいるためであろう。

一九三三年十二月二十五日夜、魯迅記す。

第36節

だが私が責任を負い得ぬ新聞記事のために、先生の「反感」を招いてしまった。にもかかわらず破格の優遇を賜り、『新儒林外史』では大刀を持つ役を与えていただいた。礼儀の上では感謝申し上げるべきだが、実際には大宴会と同様、私は大刀など持っておらず、ただ一本の筆があるのみで、名を「金不換」という。これはルーブルを受け取っていないと広告しているのではなく、幼い頃から使い慣れた一本五分の安い筆である。確かにこの筆で先生に触れたことはあるが、古典の運用と同じく、手の赴くまま筆に興を乗せたに過ぎず、格別の報復の悪意を含んではいない。だが先生はまたもや私に「三本の冷たい矢」を掛けられた。これは先生のせいにはできぬ、陳源教授の余唾に過ぎぬからだ。しかし仮に私の報復だとしても、上述の理由により、「怨みをもって徳に報いる」隊列に加わるには至るまい。

いわゆる『北平五講と上海三嘘』についてだが、実は今に至るまで書いていない。北平で『五講』なる書が出版されたと聞くが、あれは私の著ではなく、その書を見たこともない。だが騒ぎが起きた以上、いっそ何か書くかもしれぬ。もし書くとすれば『五講三嘘集』と名づけるつもりだが、後半の三名は必ずしも新聞に載った三人ではないかもしれぬ。先生は梁実秋、張若谷両氏と一緒にされるのを恥じておられるようだが、並べてみても先生を辱めるほどではないと思う。ただ張若谷氏はいささか劣り、浅薄で、「嘘」一つの材料にも足りぬから、私はおそらく別の人に替えるであろう。

先生に対して、現在の私の見解で書くとすれば、そう悪くはなるまい。先生は革命の場における一介の行商人ではあるが、悪徳商人ではないと私は考える。私のいう悪徳商人とは、一つは国共合作時代の大物で、当時はソ連を讃え共産を称え、あらゆることをした。清党の時になると共産主義青年や共産嫌疑の青年の血で自分の手を洗い、依然として大物であり続けた。時勢は変わったが裕福さは変わらぬ。もう一つは革命の猛将で、土豪を殺し劣紳を倒し、極めて激烈であったが、一たび躓くと「邪を棄てて正に帰す」と称し、「土匪」を罵り同志を殺し、これもまた激烈であった。主義は変わったが猛々しさは失わぬ。先生はといえば、「自白」によれば革命の如何は親の苦楽によって決まるとのことで、いささか投機的な気味があるのは疑いないが、寝返って大掛かりな商売をしたわけではなく、ただ懸命に「第三種の人」となって革命家より少しましな生活を送ろうとしているだけだ。革命の陣線から退いた以上、自己弁護のため、「第三種の人」としての立場を固めるために、多少の零細な懺悔は必要であり、統治者にとっては実はかなり有益なことだが、それでもなお「左右挟撃の時」に遭うのは、恐らくあちら側から見れば先生の店構えが小さすぎるからであろう。銀行員が小さな両替商の手代を見下すのと同じことだ。先生は不当だと感じておられようが、「第三種の人」の存在を信じぬのは左翼だけではなく、先生の経験がそれを証明したのであり、これもまた一つの大きな功徳である。

公平に言えば、先生は失敗したとは言えぬ。自分では「挟撃」されていると感じておられようが、今日、即座に人を殺す権力を持たぬ者で、誰が攻撃を受けずにいられようか。生活はもとより辛苦であろうが、殺戮され投獄される人々に比べれば天壌の差がある。文章もどこにでも発表でき、封鎖され圧迫され禁止される作者に比べれば、はるかに自由自在である。大物や猛将と比べれば、もとより及ばぬが、それは先生が悪徳商人ではないからこそである。これは先生の苦しみであると同時に、先生の良いところでもある。

話がすっかり長くなってしまった。ここで擱筆する。要するに、私は以前と変わらず、決して謡言を飛ばし嘘をつき、特に先生を攻撃することはしないが、これを機に別の態度に変えるつもりもない。先生個人の「反感」や「恭敬」を、私はまったく斟酌するつもりがない。先生もまた、私が「生理上の理由で仕事を停止する」であろうからといって私を許すことのなきよう、お願いする。

右、御返答まで。並びに

御安泰を祈る。

魯迅。一九三三年十二月二十八日。

【一九三五年】

【葉紫著「豊収」序】

作者が創作を書くにあたり、その中の事柄を必ずしも自ら経験している必要はないが、経験しているのが望ましい。詰問する者が問う。では殺人を書くには自ら人を殺さねばならず、娼婦を書くには身を売らねばならぬのか。答えて曰く、然らず。私のいう経験とは、遭遇し、見聞きしたことであり、必ずしも自ら行ったことではないが、行ったことも当然含まれ得る。天才たちがいかに大言壮語しようと、帰するところ、無から創造することはできぬ。神を描き鬼を画くには、対照すべきものがなく、本来は想像力のみに頼って、いわゆる「天馬空を行く」がごとく揮毫できるはずだが、彼らの描き出すものは三つ目か首長に過ぎず、普通の人体に眼を一つ加え、首を二三尺伸ばしただけのことだ。これを何の技量と言い、何の創造と言えるだろうか。

地球上には一つの世界だけがあるのではなく、実際の相違は人々の空想する陰陽二界よりも激しい。この世界の人々は別の世界の人々を蔑み、憎み、圧迫し、恐怖せしめ、殺戮するが、それを知らない。知らぬがゆえに書けもしない。かくして彼は「第三種の人」を自称し、「芸術のための芸術」を唱える。仮に書いたとしても、やはり三つ目か首長に過ぎぬ。「もっと明るく」だと? 人を欺いてはならぬ。あなた方の目はどこにあるのか。

偉大なる文学は永遠だと、多くの学者がそう言う。そうだ、永遠かもしれぬ。だが私自身は、ボッカッチョやユゴーの書を読むよりも、チェーホフやゴーリキーの書を読みたい。より新しく、我々の世界により近いからだ。中国では確かに今なお『三国志演義』や『水滸伝』が盛んだが、それは社会になお三国の気風と水滸の気風が残っているからだ。『儒林外史』の作者の手腕は羅貫中に劣るものではないが、留学生が天下に溢れるようになってから、この書はどうやら永遠でも偉大でもなくなったようだ。偉大であるにも、理解する者が必要なのだ。

ここに収めた六つの短篇は、みな太平の世では奇聞だが、今日においてはごく平凡な出来事である。ごく平凡であるがゆえに、我々とより密接であり、より大きな関係がある。作者はまだ青年だが、その経歴は太平天下の順民の一世紀の経験に匹敵する。転々たる生活の中で、彼に「芸術のための芸術」を求めるのは不可能だ。だが我々にはこのような芸術を理解する者がいる。誰にも心配される必要はまったくない。

これこそ偉大なる文学なのか。否、我々自身はそう言ってはいない。「中国にはなぜ偉大な文学が生まれないのか」という指導者たちの教訓を我々はさんざん聞いたが、惜しむらくは彼らだけが作者と作品への弾圧の一面を忘れている。「第三種の人」は我々を教訓した。ギリシア神話に悪鬼がいて一張の寝台を持ち、人を捕らえて寝かせ、短ければ引き伸ばし、長ければ切り縮める、左翼の批評がまさにこの寝台であり、自分たちは書けなくなったのだと。今やこの寝台は本当に出現したが、意外にもそこに長くもなく短くもなくぴたりと収まったのは「第三種の人」だけであった。天に向かって唾を吐けば自分の目に落ちるとは、天下にまさかこんなことがあるとは。

だが我々には作品を書ける作家がおり、作品は弾圧の中でますます堅固になる。中国の大勢の青年読者に支持されるのみならず、『電網外』が『文学新地』に『王伯伯』の題で発表されるや、世界の読者を得た。これこそ作者が当面の任務を果たした証であり、圧迫者への回答でもある──文学は戦いなのだ!

将来、作者のさらに多くの、さらに優れた作品を目にすることを願う。

一九三五年一月十六日、魯迅、上海にて記す。

【隠士】

隠士は古来美名とされてきたが、時として嘲笑の的ともなった。最も知られたものに、陳眉公を刺した「翩然たる一羽の雲中の鶴、飛び去り飛び来たる宰相の衙」の詩があり、今なお人の口に上る。私はこれを一種の誤解だと思う。一方では「自らを高く見る」ために、他方では「高きを求める」こととなり、互いに「分を忘れ」、「心照」することもできず、かといって「言わず」にもおれず、かくして口舌が増えるのだ。

隠士でない者の心中の隠士とは、名声を世に聞かせず、山林に隠棲する人物である。だがそのような人物を世間は知りようがない。ひとたび隠士の看板を掲げれば、彼自身が「飛来飛去」せずとも、何らかの表白や宣揚は免れない。あるいは彼の太鼓持ちどもの先触れがある──隠士の家にも太鼓持ちがいるとは不合理のようだが、看板が飯に化け得る時になれば、たちまち太鼓持ちが現れるもので、これを「看板の端を齧る」と言う。これもまた非隠士の人々の非難を買い、隠士の身に油が搾れるとすれば、隠士がいかに裕福かは推して知るべしと。だがこれもまた「高きを求める」誤解であって、有名な隠士に山林で老死せよと強いるのと同じことだ。およそ有名な隠士であれば、「悠然として歳を送る」幸福をすでに手にしているものだ。さもなくば、朝は柴を割り、昼は田を耕し、夕は菜に水を遣り、夜は草鞋を編む者に、煙草を嗜み茶を味わい、詩を吟じ文を作る閑暇がどこにあろうか。陶淵明先生は我が中国の赫々たる大隠であり、「田園詩人」とも称される。もとより彼は雑誌を発行したわけではなく、「庚款」にも与れなかったが、奴僕を持っていた。漢晋の頃の奴僕は主人に仕えるだけでなく、主人のために耕作し商いもする、まさに生財の道具であった。ゆえに淵明先生といえども、いささかの生財の途があったのであり、さもなくば酒はおろか飯も食えず、東籬のほとりでとうに餓死していたであろう。

ゆえに隠君子の風格を見ようとすれば、実際にはこのような隠君子しか見ることができず、真の「隠君子」は見ようがない。古今の著作は汗牛充棟だが、樵夫や漁父の著作を見つけることができるだろうか。彼らの著作とは柴を割り魚を獲ることなのだ。文士詩翁のうち、釣り人とか樵童とか自称する者は、たいてい悠然自適の封翁か公子であって、釣り竿や斧の柄を握ったことなど一度もない。彼らに隠逸の趣を鑑賞しようとするのは、自分の愚かさを恨むしかあるまい。

出仕は飯を食う道であり、帰隠もまた飯を食う道である。もし飯が食えなければ「隠」も隠れぬ。「飛来飛去」するのは、まさに「隠」のためであり、すなわち飯のためでもある。「隠士」の看板を担いで「都会の山林」に掛ける、これこそいわゆる「隠」であり、すなわち飯を食う道である。太鼓持ちが先触れをするのは、自分はまだ「隠」の資格がないから、いささか「隠」の油を搾るに過ぎず、実はやはり飯を食う道に他ならぬ。漢唐以来、実際には出仕は卑しいとされず、隠居も高尚とされず、また貧しいともされなかった。「隠」を欲して得られざる、これが初めて士人の末路と見なされる。唐末の詩人左偃が自らの悲惨な境遇を述べて「隠を謀り官を謀り両つながら成らず」と言ったのは、七字で「隠」の秘密を道破したものである。

「隠を謀る」ことが成らねば、それが零落であるならば、「隠」は常に享楽と関わりがあることが分かる。少なくとも生計のために十分あくせくする必要がなく、かなりの閑暇の余裕がある。だが閑暇を称賛し、煙茗を鼓吹するのもまた一種のあくせくに過ぎず、ただそのあくせくを隠しているだけだ。「隠」と雖も、やはり飯を食わねばならぬから、看板はやはり油を塗り、守らねばならぬ。泰山崩れ、黄河溢れても、隠士たちは目に見えず耳に聞こえぬが、もし自分たちや仲間に関する議論があれば、たとえ千里の彼方の半句の微にすぎずとも、忽ち耳は聡く目は明らかとなり、袂を奮って立ち上がる。あたかもその事件の大きさが宇宙の滅亡にも勝るかのようだが、これもこの理由による。実は蒼蝿とさえ何の関わりもないのだ。

第37節

推し量るに新趣向が生まれた。その一は、あらかじめ叢書の大きな名前を設定し、目録を列挙して、大は宇宙から小は蝿の身体の細菌に至るまで一切を包含し、それから各方面に人を求めて翻訳や著述を依頼し、期限を定めて必ず完成させる。訳者や著者が必ずしも専門家とは限らぬが、とにかく多くの手が同時に原稿用紙の上で筆を走らせるから、年月を費やさずとも一大部の煌々たる巨著が出現する。その二は、もともと一群の零細な旧訳があり、従来あまり流布しなかったか、あるいはかつて流布したものの今はすでに時代遅れとなったもので、これを一か所に集め、おおよそ分類し、五花八門の目録を並べれば、やはり一大部の煌々たる巨著が出現する。

第38節

だがその頃、覚醒した知識青年たちの心情は、おおむね熱烈ではあるが悲涼なものであった。たとえ一条の光明を見出しても、「径は一にして周は三」、かえって明瞭に周囲の果てしない暗黒が見えてしまうのだ。摂取した異域の養分もまた「世紀末」の果汁であった——ワイルド(Oscar Wilde)、ニーチェ(Fr. Nietzsche)、ボードレール(Ch. Baudelaire)、アンドレーエフ(L. Andreev)たちの用意したものだ。「自らの船を沈める」のはなお絶境に生を求めるもので、それ以外の多くの作品は「春は我が春に非ず、秋は我が秋に非ず」、黒髪朱顔でありながら……

第39節

一滴の泉水は江河の源流となり得、一枚の木の葉の揺れは暴風の前兆となり得る。微小な起源が偉大な結果を生む。この理由によって、我々の週刊は『狂飆』と名づけた。」

だが後にはますます自ら「超越」したと称するようになった。ニーチェ風の、互いに解し得ぬ格言体の文章は、ついに週刊を存続し難くした。記憶に値するのは、やはり小説方面の黄鵬基、尚鉞のみであり──実は向培良一人の作者に過ぎなかった。

黄鵬基は短篇小説をまとめて一冊とし、『荊棘』と称したが、二度目に読者と会った時にはすでに改名して「朋……」

第40節

もう一つの最近の例がある。三月七日の『中華日報』に載っている。そこには「北平大学教授兼女子文理学院文史系主任李季谷氏」が『一十宣言』の原則に賛成するとの談話が記されており、末尾にこう述べている。「民族復興の立場より言えば、教育部は統一的に岳武穆、文天祥、方孝孺等の気節ある名臣勇将を顕彰する方法を講じ、一般の高官将兵に範とすべし」と。

これらはみな、あまり深く研究しないことを是とするものである。もし「全うして之に帰す」ことと将来の臨陣の衝突を思い合わせるならば、あるいは岳武穆たちの事蹟を調べて、結局どのような結末であったか、「民族復興」を成し遂げたのかどうかを見てみれば……

第41節

ここで私が言いたいのはただ、現状維持論は一見穏健に聞こえるが、実際には行い得ぬものであり、史実が絶えずそれがただの「存在せぬもの」に過ぎぬことを証明しているということ、これだけである。

(三月二十一日。)

【田軍著「八月の村」序】

エレンブルク(Ilia Ehrenburg)がフランスの上流社会の文学者を論じた後、こうも述べている。そのほかにもいくらか異なる人々がいると——「教授たちは声もなく書斎で働き、X線療法を実験する医師たちは職務の上で死に、奮い立って救う……」

第42節

我々がもし『文選』に語彙を求めに行けば、おそらく「文人相軽ず」の四字に出会うであろう。拾って用いれば、いくらか格好もよい。しかし曹聚仁先生がすでに『自由談』(四月九日~十一日)で指摘しているように、曹丕のいわゆる「文人相軽ず」とは「文は一体に非ず、善く備うること能う者鮮し、是を以て各々長ずる所を以て、短き所を相軽ず」であり、批評の範囲は制作に限られる。その他すべての容貌への攻撃、出身地への嘲り、誣告、謡言、施蟄存先生式の「彼自身もそうではないか」、あるいは魏金枝先生式の「彼の親戚も私と同類だ」の類は、すべて含まれていないのだ。

第43節

やむを得ず、一つの補救策を考えた。新聞の記事や拙劣な小説において、その事件は確かに一篇の文芸作品に書き得るものであるかもしれぬが、その記事やその小説は文芸ではない——これがすなわち「こう書いてはならない」の見本である。ただし「ああ書くべきだ」との比較はできぬままである。

(四月二十三日。)

【現代中国における孔子】

最近の上海の新聞が報じているところによれば、日本の湯島に孔子の聖廟が落成したため、湖南省主席何鍵将軍が、かねてより珍蔵していた孔子の画像を寄贈したという。正直に言えば、中国の……

第44節

(五月三日。)

【「風刺」とは何か】

──文学社の問いに答える

私はこう思う。一人の作者が洗練された、あるいはいくらか誇張した筆致で——しかしもとより芸術的でなければならぬ——ある集団の、あるいはある一面の真実を描き出す。描かれた集団がこの作品を「風刺」と呼ぶのである。

「風刺」の生命は真実である。必ずしもかつてあった事実でなくともよいが、あり得る実情でなければならぬ。ゆえにそれは「捏造」ではなく「誣蔑」でもない。「隠し事の暴露」でもなければ、もっぱら人を驚かすいわゆる「奇聞」を記すものでもない……

第45節

私にはまとまった高論も、高明な見解もなく、ただ近頃考えたことを話すことしかできぬ。私はしばしば文芸と政治が絶えず衝突し合っていると感じる。文芸と革命はもともと相反するものではなく、両者の間にはむしろ現状に安んじぬという共通点がある。ただ政治は現状を維持しようとするものであるから、当然、現状に安んじぬ文芸とは異なる方向に立つ。もっとも現状に不満な文芸が盛んになったのは十九世紀以降のことで、その歴史はまだ短い。政治家は自分の意見に反対されることを最も嫌い、人に考えさせ口を開かせることを最も嫌う。そしてかつての社会では確かに誰も何も考えず、誰も口を開かなかった。猿の社会を見てみればよい……

第46節

本日、四月十八日付の『華北日報』を受け取った。副刊に鶴西先生の『紅笑について』の半篇が載っている。『紅笑について』には私はいささか注意を払っている。自分がかつて数頁を訳したことがあり、その予告は初版の『域外小説集』に掲載した。だが後に訳し終えなかったため出版もしなかった。しかしおそらく旧知のよしみであろう、今に至るまで誰かがこの書に言及すれば、たいてい見てみたくなる。ところがこの『紅笑について』を読み終えると、甚だ驚かされ、一言述べずにはいられなくなった。頭緒を明らかにするため、まず原文の一部を以下に転載する——

「昨日……」

第47節

6.『叛乱』、P・フールマノフ作、成文英訳。

7.『火の馬』、F・グラトコフ作、侍桁訳。

8.『鉄の流れ』、A・セラフィモーヴィチ作、曹靖華訳。

9.『壊滅』、A・ファジェーエフ作、魯迅訳。

10.『静かなるドン』、M・ショーロホフ作、侯朴訳。

リベジンスキーの『一週間』とグラトコフの『セメント』もまた記念碑的な作品であるが、すでに先行の訳本が出版されているため、ここには編入しなかった。

第48節

他国の訳本で校者の目に触れた範囲では、独訳と日訳の二種がある。独訳本はネヴェーロフの『パンの豊かな都市』『タシュケント』(A. Neverow: Taschkent, die brotreiche Stadt)の後に附され、一九二九年ベルリンのノイエ・ドイッチャー出版社(Neuer Deutscher Verlag)から出版されたもので、訳者名は記されず、削除箇所がしばしば見受けられ、良書とは言い難い。日訳本は完全なもので、『鉄の流れ』と題し、一九三〇年東京の叢文閣より出版され、『ソヴィエト作家叢書』の……

第49節

だが我々は問うてみよう。十六、十七世紀のスペイン社会に不公正は存在しなかったか。思うに、恐らく「ある」と答えざるを得まい。ならば、ドン・キホーテが不公正を打ちに行こうと志を立てたことは、誤りとは言えぬ。自らの力を量らぬことも、必ずしも誤りではない。誤りはその打ち方にある。混濁した思想が誤った打ち方を導き出したのである。侠客が自分の「功績」のために不公正を打ち尽くせぬのは、慈善家が自分の陰徳のために社会の困苦を救い尽くせぬのと同じである。しかも「益なきのみならず、また之を害す」なのだ。彼は徒弟を痛打する師匠を懲らしめ、「功績」を立てたと自負して悠然と去ったが、彼が去るや否や、徒弟はさらに激しく……

第50節

この三年間に、これほど多くのソ連の芸術家の木版画を次々と入手できたことは、自分でも予想していなかったことである。一九三一年頃、『鉄の流れ』の校印を考えていた折、偶然『版画』(Graphika)という雑誌にピスカリョフがこの書中の物語を彫った図画が載っているのを見つけ、手紙を書いて靖華兄に捜索を託した。幾多の曲折を経てピスカリョフに会い、ついに木版画を送ってもらった。途中で紛失することを恐れ、同じものを二部に分けて送ってくれた。靖華兄の手紙によれば、この木版画の定価はかなりの額だが支払いは不要だという。ソ連の木版画家の多くは、版画の刷りには中国の紙が最良だと言っており、ただ送ってくれればよいのだと……

第51節

革命家は弾圧を受けるがゆえに地下に潜るが、今や弾圧する側とその手先もまた暗い場所に身を隠すようになった。これは軍刀に護られながら出鱈目を言いつつ、実は毫も自信がないためであり、しかも軍刀の力に対してすら疑いを抱いているからだ。一方で出鱈目を言いつつ、一方で将来の変化を考え、ますます暗い場所へと潜り込み、情勢が一変すればまた別の顔に替え、別の旗を掲げて、改めてもう一度やろうと準備している。そして軍刀を握る偉人が外国の銀行に預けている金が、彼らの自信をさらに動揺させるのである。これは遠からぬ将来のためだ。遥かなる将来のためには、歴史に名を留めたいと願いつつ……

第52節

アンリ・バルビュス(Henri Barbusse)は一九二一年に出した小冊子の中に、「白刃に噛みつきながら」と題し、傍注に「知識階級に寄す」と記した一篇がある。その中で「知識階級」という語を用いる際、彼はわざわざ序文のように声明している——

「知識階級——私がこの語で指すのは、思索する人々のことであり、抜け目のない者、法螺吹き、阿諛追従の徒、精神の利用者のことではない。」

この数句は確かに激越であるが、バルビュスが知識階級に語りかけようとした時に、この数句の声明をせざるを得なかった心情は、私には十分に理解できると思う。

彼は……

第53節

作家としてのトルストイの際立った特質について述べるならば、おおよそ五つの特徴がある。これらの特徴は、私の考えでは、文豪トルストイにおいて最も顕著かつ確実なものであり、我々が最も尊敬するところであり、トルストイを我々の文学の殿堂の最高の位置に据えるものである。

彼の特徴の第一は、その筆が極めて力強く、かつ広範であることだ。通常の作家は、たとえ多少の才能があっても、一人の主人公、あるいは一つの家族を選んで小説に据え、その主人公の喜び、悲しみ、あるいは動作や行為などを描写し、また周囲の社会をも描くが、その中に描かれた社会は人物の背景に過ぎず、その背景の上で主人公の個人的存在がより鮮明に見えるようにするだけである。小さな水彩画ではなく、大きな絵を描こうとする作家は、めったに出会えない。すなわち、その活動のままの状態にある国民を、あるいは極めて多面的で複雑な、ある時代の社会状態の全体を、歴史的に描写しようと試みる作家は、極めて稀にしか、あるいはほとんど出会えないのである。この点において、トルストイは全世界の文学の面で、あの巨人たちの中の最も偉大な芸術家なのだ。彼の『戦争と平和』を見よ、これはナポレオンの時代を描いた最大の作品であり、この小説に表現されているものは、その時代のロシアの状態のみならず、外国の状態をも描いている。しかもこの比類なき小説を一読すれば、我々はまるで自分自身がその中の人物であるかのように感じるのだ。これは単なる書物や小説ではなく、その時代のあらゆる特色ある生活そのものの表現である。『戦争と平和』の重要な主人公が誰かと言えば、もちろんピエール・ベズーホフでもなく、アンドレイ公爵でもなく、ナターシャ・ロストワでもなく、ナポレオンでもなく、またクトゥーゾフでもない。なぜなら物語の範囲が広大であるがゆえに、彼らはいつの間にか影のように次第に薄れ、ついには消え去ってしまうからだ。

いわゆる『戦争と平和』の主人公とは、「あの時代そのもの」の表現であり、ただこの一点のみが、世界の文学的創作の中で、いかなるところにも見出し得ない特質なのである。

トルストイの第二の特徴として我々が非常に尊敬するところは、生活と個性に対する甚だ深い理解を持ち、心理描写において驚くべき精密さと深みがあることである。この点において、彼はドストエフスキーに匹敵する。ドストエフスキーは十九世紀で最も偉大な心理学的小説家と推されるが、この二人の作家の違いは、ドストエフスキーが病的な心理を描く最も傑出した作家であるのに対し、トルストイは健全な心理の描写において卓絶しているということだ。

第三の注目すべき特徴は、形象の創造である。彼が描写する人物は常に生きており、この点において誰もトルストイに比肩し得ない。彼の創作には、空想的な、模倣的な、そうした死んだ形象はない。彼のすべての主人公は本当に生きていて、自分の言葉を話し、自分の衣を纏っている。さほど重要でない人物を描く場合でも同様である。外国人の心理を描写するのは誰もが極めて困難だと考えるが、しかしトルストイが外国人を描く際にも、やはり彼らは本当に呼吸し、泣き、笑い、真実の生活を表現しているのだ。もしトルストイがその主人公に特別な同情を持つ時――たとえばナターシャ・ロストワやアンナ・カレーニナを描く時、彼はその天才の彩筆を揮い、最も感覚の鈍い読者でさえ心酔するほどの美しさと、優れた完全な形象を彫り出す才能を持っていた。

彼の第四の特徴は、実に比類なき典型的な文章の簡潔さであり、しかも簡単な言葉のみで最も力強い表現をなすことである。トルストイは意図的に平易な文章を書いた。なぜなら、彼は貴族のために書いたのではなく、一般民衆のために書いたからである。

最後の特徴は、現在のソヴィエト・ロシアにおいて殊に理解され、尊重されるところであり、それはあらゆる圧迫、偽善、搾取等に対する彼のあの深い反抗の精神である。しかしながら、ロシア貴族の急進的分子を代表した文豪トルストイは、精神的根拠を、何百万もの虐げられていた当時のロシアの農民大衆の中に見出し、新たな道を発見したのであった。このために、トルストイの抗議はまったく無力なものとなった。なぜなら当時の農民は、政治的にはもちろん、社会的にもまったく無力だったからである。

私は堅く信じる、文豪トルストイは全世界の文学者の中で最も偉大な人物であり、彼はモンブランの霊峰のごとく、全世界の文学者の上に聳え立っていると。この巨人トルストイに対して、全ソヴィエト・ロシアは心から愛し、敬っている。私はまた疑いなく信じる、全文化世界もまた、愛し敬っていることを。

(『日露芸術』第二十二輯より訳す)

(一九二八年十二月三十日『奔流』第一巻第七期所載。)

【一九二八年世界文芸界概観 日本 千葉亀雄】

【一 南欧・フランス】

一九二七年度のノーベル賞は、イタリアの女流作家デレッダ(Grazia Deledda)夫人に与えられた。彼女の作品『エジプトへの逃避記』が受賞の中心となったようである。彼女は一八七五年にサルデーニャのヌオロに生まれ、処女作『サルデーニャ人の血』を発表したのは弱冠十五歳の時で、ローマのある日刊紙に送ったところ掲載された。学歴は小学校修了程度で、二十四歳の時に退職した陸軍省の官吏と結婚し、現在はローマに住んでいる。彼女は何か書かないと焦燥に駆られるのである。毎日昼食後、少し午睡してから、規則正しく組織的に必ず四頁を書き、一箇月に百二十頁、十九歳から二十七歳までの九年間に短篇小説三巻、長篇小説七巻を書いた。現在までに三十部に達している。彼女はしばしばロマンス色のないフランスのジョルジュ・サンド(George Sand)と称され、あるいはロシア作家に似ていると評される。ミラノの婦人雑誌『婦人公論』が特別号を出してデレッダの栄光を祝い、その他にも様々な祝賀があった。

ダヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio)の『睫毛のない友と他の人生研究』が出版された。これは四年前に刊行された『鉄鎚の火花』の続編であるが、やはりこの一冊は、ロマンティックで、憂鬱で感傷的な著者を示している。内容はプラド大学時代の著者のある友人の伝記的叙述で、全書は数部に分かれ、戦争物語の中で、あるいは飛行船や発動機の音楽を讃え、あるいはピアニストのバッハの演奏を叙し、そして突然、愛の奇跡に救われた著者の愛人との対話を繰り出す。ある批評家は、要するにこれは人間的側面、すなわち彼我に苦しむダヌンツィオの一面を趣深く示したものだと評した。この詩人の崇拝者フォルセッラは、目下彼の作品目録を編纂中で、既に二巻が出版されている。彼の作品に関するあらゆる文献を蒐集しており、「稀覯のダヌンツィオ文献」との称がある。

未来派の主将マリネッティ(Marinetti)がスペインを旅行した。各地で歓迎を受けたが、目的はマドリードの会議に出席することであった。バルセロナ市を皮切りに、未来派の絵画展と評論で非常に賑わった。

ピランデッロ(Luigi Pirandello)の新作悲劇"La Nova Colonia"がローマで上演されたが、すでに失敗作との定評がある。初日に早くも観客の怒号と野次の中に葬られた。原因は作者のつまらない皮肉にある。また一説には、十五人の男が一人の女性に操られるような役柄が、国民の男尊女卑主義から見て理解しがたいからだとも言う。しかし弁護する者もあり、おそらく雨の中であまりに長く待たされた、切符を買った退屈な人々の無価値な報復に過ぎないだろうとのことだ。

イタリアのある批評家によれば、同国の文壇は目下、極端な理知主義や唯美主義に辟易しているという。なぜなら作品に何ら情緒も趣味も道徳もその他の興味もなく、読者は倦怠の極みに達しているからだ。その解放の一方として、光明的な、ユーモラスな作品があれば、理由もなく歓迎される。カンパニーレとランツァがこの傾向の優秀な代表者で、昨年来発表された前者の『もし月が私に幸福をくれたなら』と後者の『シチリア人の真似』が、一年中で際立ったベストセラーとなっている。

ローマ国立歌劇場の開場式は、イタリアの音楽史上に一大記録を開いた。イタリアの芸術の中心が今やミラノからローマに移りつつあるとも言われる。かくも壮大な建築であるから、総支配人にはフェニーチェ劇場のコロン歌劇場のオリヴィア・スコットを招き、歌手や舞踊家も世界的に著名な人々を集めた。古代ローマの古典的精神の完全な復活を志し、ピランデッロの作品をはじめ様々なものが演目に網羅されている。舞台上には大きな楯があり、金文字でムッソリーニ、皇帝、ローマ知事ポテンツァーニの名が刻まれている。むろん、これはムッソリーニらの熱心な後援によって成就したことを示すものである。

フランス学士院賞――例によって五十歳以下の新進作家に与えられる賞金は、『北緯六十度のカロン』の著者ペテルに与えられた。同時にルノード賞とフェミナ賞の授与者も決定した。ペテルは元来ルノード賞の候補にも入っていたが、すでに対象外とされ、ゴンクールのみが与えられた。ペテルは本年四十四歳で、『文明』の著者デュアメルとともに医学を学んだ医師である。ゴンクール賞を受けた作品は、平均して五万部から十万部は売れるという。

第54節

ウーファ映画会社とイギリスのゴーモン映画会社が取引契約を結び始め、さらに俳優の交換にも同意した。ウーファは従来オランダ、ベルギー、フランス、オーストリア、ユーゴスラヴィア、ロシアなどで販路を拡大し、英米ではアメリカとのみ取引していた。今回の取引は、近頃各国で一つの問題として取り上げられている。アメリカ映画の極端な過剰輸入に対する攻守同盟の一面と見る者もある。

オーストリアの作家モルナール(Frank Molnar)がアメリカを漫遊し、講演や新聞への寄稿を行った。友人の結婚などに関する軽妙な風刺がアメリカ人に大変好まれた。

世界大戦以前、すでに全欧を征服していたジプシー(Gipsy)音楽は、近頃アメリカの「ジャズ」に押され、その本拠たるハンガリーの都市でさえ、喫茶店や繁華な場所から追い出された。四千人のジプシー楽士のうち、国内で仕事を得られる者は十分の一にも満たず、他の者は仕方なくアメリカの「ジャズ」を演奏している。このような状況は、ハンガリーの伝統的俗謡たるジプシー音楽の危機であるため、新聞は抗議し、ブダペストの国立音楽院に訴え出て、何らかの保護策を講ずべきだと主張した。

ブダペストの最高裁判所は、ルイ・ハトヴァーニ男爵に対し、禁固十箇月、罰金五万四千元、政治活動禁止五年の判決を下した。ハトヴァーニ男爵は著名な政治家であり、著作家としてはなおさら有名であるが、今回は論文でハンガリーの国政を誹謗し、また論文やその他の手段で外国に宣伝したことによる刑罰だという。

【三 北欧諸国】

長くイタリアのソレントで療養していたゴーリキー(Maxim Gorky)は、誕生六十年ならびに文壇生活三十五年の記念祝賀会に自ら出席するため、五月二十八日、六年ぶりにモスクワへ帰国した。彼はここで盛大な歓迎を受け、南ロシア各地を視察し、八月上旬にカフカスに到着した。秋まではロシアに滞在し、十月にはまたソレントに戻り、依然として三部作『四十年』を書き続けている。新ロシア印象記を数篇発表もしたが、最近の電報は、盲腸炎で臥病し病勢が悪化して危篤に陥ったと伝えた。しかしその後詳報はない。おそらくさほど大事には至らなかったのだろう。

ドストエフスキーの書簡が一通発見された。アレクシェーエフというペテルブルクのヴァイオリニストに宛てたものである。これは彼の現代社会主義観と見なすことができるので興味深い。サタンがキリストに向かって「世界の害悪はすべて生存闘争から生じる」と言った時、キリストは「人はパンのみにて生くるにあらず」と答えた。ドストエフスキーは言う、「自らの言葉のうちに最高の美の理想を抱くキリストは、この理想を人々の魂に注ぎ込むことが最も肝要であると信じていた。ただこのことを理解すれば、人々は同胞となり、互いに親しく労働することで豊かになれるであろう。もし反対に、ただパンを与えるのみであれば、退屈のあまり互いに敵視し合うようになる。ゆえに魂の光明を懐くことは、何ものにも勝る」と。これは一八七八年の日付である。

『小悪魔』という傑作で象徴派の代表者となったソログーブ(Fiodor Sologub)が、レニングラードで淋しく七十五年の生涯を終えた。革命後のロシアでも十年を生き永らえたが、社会の進行とともに歩むことは遂になく、この間何の著作も書かなかった。

レニングラードに新文化宮殿が建設されている。建設費は計六十万ルーブルを要し、完成の暁には数万人を収容でき、種々の新文化の道場とするという。

九月十日にトルストイ伯爵生誕百年祭が挙行された。その日、モスクワ、レニングラード、ヤースナヤ・ポリャーナの各都市を始め、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツの各都市でもこの記念が行われたが、現在の労農政府もトルストイの百年を祝っていることが殊に人々の注目を集めた。十日後、人民教育委員長ルナチャルスキーを議長とし、参会者数千人、ルナチャルスキーがまず「トルストイ伯と革命」を講じ、次にピリニャーク(Boris Pilniak)、カーメネフ夫人(Olga Kameneva)の講演のほか、オーストリアの作家ツヴァイク(Stefan Zweig)が「外国におけるトルストイの感化」を講じた。トルストイ博物館では、彼に関する記念出版物の展覧会が催され、陳列品は二千点、二十五箇国語で書かれたものであった。

ロシアの歌劇俳優シャリアピン(Fiodor Shariapin)は、ロシア政府から故国の別荘に住むことを禁じられた。理由は、彼が資本主義国のアメリカから多額の報酬を得て出演しながら、ロシアでは報酬が少ないからと一度も出演しないため、もはや人民芸術家とは認められないというのである。シャリアピンの『わが生涯の数頁』はすでにロシア語から英語に翻訳されアメリカで出版されており、ポール・モランも優れた記録として賞賛している。

モスクワ中央労働局教化事業課の報告によれば、労働者は六十パーセントがロシア作家の作品を読み、三十五パーセントが外国作家のものを読む。店員階級はそれとは逆で、五十六パーセントが外国作品を、四十四パーセントがロシア作品を読む。労働階級が読むもののうち、古典的作品が二十一パーセント、革命前の非古典的作品が十二パーセント、新文学が六十六パーセントである。新作家のものでは、グラドコフの『セメント』、レオーノフの『穴熊』、ネヴェーロフの『パンの都』、セラフィモーヴィチの『鉄の流れ』などが第一位を占める。古典的作品では、ゴーリキーの『母』及び『アルタモーノフ家の事業』が群を抜き、次いでツルゲーネフの『処女地』、『父と子』、『貴族の巣』、『猟人日記』、トルストイの『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』、ドストエフスキーの『罪と罰』、チェーホフ及びゴンチャロフの作品、ゴーゴリの"Taras Bulba"。外国のものでは、ロンドン、シンクレア、ケラーマン、ユーゴー、ファレル、オー・ヘンリー、フランスなど。

ヘンリック・イプセンの生誕百年は、ノルウェー本国をはじめ各地で記念された。しかしそれに続いて起こったのは「今日のイプセン」はどうかという問いであった。時代の先駆者イプセンが、はたして永く将来の導師たりうるかという問題に対して、たとえば「五十歳の作家の、一時世界的名声を馳せた『人形の家』も、結局のところ一八七九年の日付を確然と付すべきものである」(あるフランスの批評家の言)という言葉が、おおよその回答であった。

イプセン以後の戯曲家として、クレーグが近時ノルウェー文壇で名声を得ている。彼の処女作『前進する船』は、一九二七年の年末に出版されたばかりで、すでに九箇国語に翻訳された。秋には詩一巻、戯曲二篇を発表した。戯曲の一つは国民劇場に寄贈し、もう一篇はベルゲンの国民劇場に寄贈した。前者は『バラバ』、後者は『青春の恋』である。『バラバ』には副題があり、「二千年前のパレスチナと今日の支那と明日のインドの戯曲」と題し、八場を連ねた長い場面で、描かれているのはキリスト教的人生観と世俗的見解との闘争である。上演の結果は極めて好く、作者の将来が大いに注目されている。

ベルギーのメーテルリンク(Maurice Maeterlinck)は、さらに生物の生命から進んで四次元の世界に瞑想を凝らした。その結果、近時発表した一冊は『時空の生活』である。「メーテルリンクは数学者ではない。詩人であり、夢想家であり、強烈な神秘的傾向を帯びた思想家である。ゆえにヘルムホルツ(Helmholtz)やアインシュタイン(Einstein)の学説と比較するのは無理である。しかし、イギリスのヒントン(Hinton)やロシアのウスペンスキー(Uspensky)を基礎として、あたかもジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)の小説のような題材を、メーテルリンク式に構成したところに、非常な空想味と魅惑的な創造性に富んでいる」と評された。

第55節

スピノザについて言えば、汎神論(Pan-Theismus)と呼ばれる哲学(「神」とは自然であるという説。あらゆる万物はすべて神であるという主張で、以前のキリスト教正統派的信仰すなわち一神論の発展であり、同時にその反対でもある)を提唱した哲学者である。そのような人が、どうして現代の無産階級と関係があるのだろうか。せいぜい神学上の革命的理論の哲学に過ぎず、観念の平静を企図した理論学に過ぎない、そのようなものを作り出したスピノザ氏が、いったいいかなる理由で、現今の政治的・経済的関心を原動力として闘争している国際的・革命的無産者の中枢たるモスクワで、記念講演会などを開いたのであろうか。現在、日本のプロレタリア理論家や芸術家の一部の中で、このような驚きを抱く者は、とりわけ少なくないようである。なぜなら彼らにとって「哲学」なるものは、極めて非プロレタリア的な空言だからである。言うまでもなく、それは非プロレタリア的であるがゆえではなく、彼ら自身が哲学の教養を持たず、あるいは興味を持たないことに由来する。一言で言えば、彼らの無哲学に由来するのである。

しかし、もし少しでも深く考える人であれば、あの労働者と農民のロシアが、事務多端でありながら、スピノザの記念講演会を挙行したことに対して、おそらく誰しも大いに感嘆し崇敬せずにはいられないであろう。私にとっては、ただソヴィエト政府がこのような記念会を開き、古典の中からプロレタリアが継承しうるものを呼び起こし、新たな照明で古い智慧を照らし出した――この一事だけで、すでに言い尽くし難い深い愛慕と信頼を禁じ得ないのである。――あの神学的色彩のスピノザの中に、我々が記念するものは何であろうか。デボーリンも嘗て言った。「我々はスピノザの中に、弁証法的唯物論の先駆者を見る。そしてスピノザの真の後継者は、ただ現代のプロレタリアートのみである。」

考えてみれば、「プロレタリア文化」なるものは、有産階級の文化に続いて歴史的地位を占めるべき、より高度の文化であるはずだ。より高遠な発展でもある。いかなるものも余すところなく掬い取り、これを旺盛な階級意欲の溶鉱炉の中に溶かし込み、新たに鋳造すること、これこそがプロレタリアートの文化上の任務である。このために、一見プロレタリアとは縁遠く見える哲学や東洋学をも決して捨てず、その中から真にプロレタリアの成長を滋養しうるものを取り出し、その精神的解放に有用なものを提示して、新たに、正当に、人類の宝庫を充実させるべきなのだ。これこそが、プロレタリアが多忙な階級闘争の中で、当面の任務(政治的・経済的闘争)と同時に果たさねばならない側面の課題であるはずだ。

もちろん、文化事業に従事しているという好都合な口実の下に、当面の実践的闘争を回避し、書斎に遊離して、あの小ブルジョア的な「専門家」的態度に逃げ込む者がいるならば、その口実が何であれ、たとえその仕事がプロレタリアのためと装っていようとも、我々はこれを徹底的に糾弾しなければならない。エンゲルスもかつて痛罵した、あの「大学の講壇で哲学を売る俗商ども」の厚顔無恥な衒学的口吻、もったいぶった引用、高雅ぶった態度――これらすべて、たとえ彼がいかにマルクスの名を引き、いかにプロレタリアの理論を論じようとも、我々労働者・農民は、その小ブルジョア的な、支配階級との巧妙な妥協によって飯を食う彼の「飯の種」と生活嗜好の本性を、徹底的に暴露すべきなのだ。しかもその害悪はプロレタリアにも及び、ただ抽象的に「思索」するだけの労働者を生み出す危険を孕んでいるのだから、このような嗜好に対しては、我々はなおさら攻撃しなければならないのである。

実際、哲学というものが、日本において今日のようにプロレタリアに理解されず、手を携えることがないのは、その罪のすべてが哲学を商売にする教師たちにある。哲学を趣味とし、超然として隠遁する哲学青年たちにある。ただただ概念の論理的修整に没頭し、現実との関連を離れた彼らの空疎と無力にあるのだ。

であるならば、プロレタリアートは、もはやあの哲学商人たちに頼ることをやめ、自らの手で新たに「哲学」を掴み取らねばならない。プロレタリアは、哲学商人たちの伝統的な教養や、哲学史の平凡な理解から離れ、自らの方法で新たに哲学を消化し始めねばならないのだ。

モスクワで挙行されたスピノザ記念会は、国際的プロレタリアートにとって、実に大いに意義あるものであった。

言うまでもなく、哲学の講義のようなものは、まだパルティシューレ(党学校)の課程には登載できず、パルティアカデミー(党研究所)の仕事に属すべきであろう。しかしだからといって哲学的反省を否定するものでは決してない。なぜならパルティシューレの課程にも唯物史観や唯物弁証法の類が載せられており、したがってなお大体の(たとえ必要最小限であれ)心得が必要だからである。より広範なブルジョアジーとの闘争において、その全面的な計画の上で、意識過程の仕事は決して軽視できることではない。さらにまた、同志の中に意識上なおプチ・ブルジョア的思考から脱しきれない者に対して、根底的な批判を加え、確固たるマルクス主義的意識へ呼び戻すためには、プロレタリア的「観念整理の仕事」(すなわち哲学)もまた、常に必要なのである。

第56節

――有産者文化の頽廃

一 思惟はしばしば堕落する。これは思惟という作用が、人間生活全体との関係を離れ、ただ独り独立し、思惟の運動がただその自身の価値のみに従う時のことである。ただ思惟自身の価値と必然のみに従って築き上げられた塔、それがドイツ観念論である。

これは思惟の生活的意義や機能を考慮しなかったことから生じた誤謬であり、この種の誤謬は、思惟の発生的意義に遡り、その本来の姿を一考しさえすれば、正すことができるものである。観念論哲学は、思惟の発生的意義を考えたり、生活的機能を考えたりする方法を軽蔑してきた。思惟は思惟自身の規約によって考えるべきだと言う。「考えるためには、こう考えざるを得ない」(これを思惟必然と呼ぶ)という立場から構想しなければならないと言うのだ。そして「論理的に先行する」概念を求め、遂にはSollen(当為)という観念に突き当たった。Sollenとは「かくあるべし」という命令である。(これは論理的には先行するものであるから、現実的〔心理的・発生的〕には必ずしも先行するとは限らない。思惟〔倫理〕において後から到るものが、かえって先行するのである。)これを普遍妥当と称し、いつ、どこで、誰が考えても、「考えるためには」こう考えざるを得ないという性質を帯びた命令なのである。

言うまでもなく、これは「生きるためには」こう考えざるを得ないという見地とは対立するものだ。まったく「考えるためには」こう考えざるを得ないという見地に立っている。まったく思惟自身の必然の上に立っているのだ。すなわち、思惟の価値として! 論理的価値を至上のものとし、純粋にそれを追い求めるのである。

二 このように思惟的価値のみを崇敬し、論理を至上とすることは、言うまでもなく、十八世紀の合理主義の精神の信仰から出たものだ。

しかし至上の信頼を論理的一貫性に置き、その論理を運用する心理ひいては社会的根拠をも考慮しない、あの十八世紀的合理主義の誤謬。それのみならず、このような知識崇拝は、生活蔑視・現実軽視の精神から出たものであり、またそこへ回帰するものだ。しかもこれ(ただ「論理」的価値のみに従った結果)はまた主観論哲学(ドイツ観念論の認識論はこのようなものである)となった。主観論哲学は、実のところ個人主義的意識の考え方であり、社会的に事物を思索する考え方とは反対の側に立っている。

三 ただ思惟の価値と必然のみを追求していけば、演繹的な考え方を取らざるを得なくなる。

この考え方は、社会的には保守的勢力と結合する。歴史的に言えば、演繹法というこの考え方も、一時代の組織制度がすでに固定し、命令が中央から大衆に発せられる状況の、思惟における反映なのだ。およそ演繹とは、必ず一時代の経験が固定した後、ただ整理すればよい時代の考え方から出るものだ。このような時代は社会的に安定している。経験はただ量的に増加するのみで、新しい性質の経験はもはや発生しない。新しい性質の経験が一旦出現すれば、従来の観念体系の中ではこれを消化しきれなくなり、そこで思惟は再び経験の側へ立ち戻り、いわゆる帰納法というこの方法が勝利を占めるのだ。哲学者ロッツェは嘗て「帰納法であっても、演繹法を予想しなければ成立しない」と言ったが、このような考え方はすでに演繹的なのである。

我々はこのような方法や態度に構うことなく、帰納的な「科学的」立場と方法に立ち返るべきだ。思惟崇拝の迷夢から醒め、経験尊重の態度に転じるべきなのだ。

もし思惟崇拝の旧世紀的信条に従えば、「玄を談ずる」(Philosophieren)ことが最も超邁であると感じ、「名を辨ずる」(Logikeren)ことが最高の道であると考えるだろう。しかしこれは、思惟がすでに堕落し、思惟がただ思惟自身の価値のみを追い、遊離した、いわゆる知的頽廃に過ぎないのだ。

四 最も肝要なのは、知識の本来の性質(知識は生活のために存在するという知識の生活性)を考えることだ。名を辨ずることは、経験整理(科学的立場)と生活の促進のためにあるのだ。そしてさらに進んで、知識の社会的・歴史的性質を理解し、常に観念体系を改廃することにある。

かつて、この世において人生は不可解だとして自殺した青年がいた。彼はどこで誤ったのだろうか。彼は「考える」ことによって「生きる」ことの意義や価値を解釈しようとした。これはすでに根本的な誤りであった。なぜなら「考える」ことで運用されるものは、実は生そのものではなく、「考えられた生」に過ぎないからだ。しかも考えている者こそが、生きているのだ。生は思惟によって浮かび上がるのではない。むしろ生によってこそ、思惟が浮かび上がるのだ。――「生」というものを、具体的に現実的に運用し、その幸福や便利を考える時、我々は科学的・生活的な見方に立ち、正当に思惟を運転していると言えるだろう。思惟と生活の形態を、歴史的・社会的に観察し、その本相を見定め、常にその因数を分解し、常に新たに構成していく。これこそが正当な思惟の道なのである。

【三 芸術と哲学の関係】

芸術は哲学の指導の下に創造されるものではない。

しかしながら、ちょうどあらゆる意識形態がそうであるように、もし芸術において何らかの観念の整理が要求される時には、問題は必然的に芸術に関する哲学的思索にまで遡らざるを得なくなる。たとえば日本の左翼の芸術理論に、素材本位の主張が生じた時、一部では芸術の本質は素材にではなく形式にあると唱えられた。こうなると、問題は単なる文芸批評の仕事の領域を突破してしまう。

そこで芸術理論は、芸術というもの、内容と形式というものの観念の整理に、直ちに着手しなければならなくなった。現在においては、芸術上で要求される内容とその必然的な形態について見通し、つまり創作に対する補助的参考としての機能を果たすべきなのである。

(未完)

(一九三〇年四月十日『文芸講座』第一冊所載。)

【ソヴィエト連邦の文学理論及び文学批評の現状 日本 上田進】

【一】

昨年の秋、スターリンが『プロレタリア革命』誌の編集局に送った『ボリシェヴィズムの歴史の諸問題について』という書簡は、ソ連の意識形態戦線全体に異常な反響を引き起こした。

この書簡は、直接的にはボリシェヴィズムの歴史に対する反レーニン的態度を批判するものであった。しかし全体として見れば、さらに広大な意義を持っていた。すなわち、理論戦線全体の今後の発展にとって、これが一つの重要な指標となったのだ。

大略を述べれば、スターリンはこの書簡の中で、ソ連において理論が社会主義建設の実践よりはるかに遅れていることを指摘し、直ちにこの遅れを克服すべきだと述べた。そしてそのためには、理論の党派性を確保し、あらゆる反マルクス=レーニン的理論及びこれらの理論に対する「腐敗した自由主義」的態度と断固として闘争し、理論をレーニン的段階にまで高めるべきだと説いた。

文学及び文学理論の領域は観念形態戦線の一分野であり、言うまでもなく、このスターリンの指示を看過するはずがなかった。文学理論のレーニン的党派性の確保、及び文学理論のレーニン的段階のための闘争が、ソ連文学理論の中心課題となったのである。

第57節

ソ連作家統一協議会の機関紙『文学新聞』の一九三一年十一月七日号に掲載されたS・テナモフの論文「文芸科学のレーニン的段階のために」は、おそらく文学理論のレーニン的段階を明確に問題として提起した最初の論文であろう。

しかしこの論文は、問題に対する言及は極めて限定的であった。テナモフは、文学理論が社会主義建設の要求から著しく遅れているので、文学理論をレーニン的段階に高め、この遅れを挽回すべきだと述べた。そのために我々はレーニンの著作をより深く研究し、レーニンの理論を文学理論に適用すべきだが、我々はこれまで主力をトロツキー主義、ヴォロンスキー主義、ペレヴェルゼフ主義、「レフ」派、「文学戦線」派などとの論争にのみ注ぎ、レーニン研究には及ばなかった。しかし今やようやくこれらの論戦を終え、今後はレーニン的段階のための積極的な仕事をすべき時だと言うのである。

このような問題の立て方は、アヴェルバッハが言ったように、明らかに誤りであった。レーニン的段階のための闘争は、ヴォロンスキー主義やペレヴェルゼフ主義などとの論争の外にあるのではない。ソ連文学理論はこれらの論争を通じて、一歩一歩レーニン的段階へ向かう道を進んできたのであり、今後もまさにこれらの論争の中で、レーニン的党派性をいっそう確保し、しかもこれらの論争との有機的関連の下に、レーニンの理論をより豊かに文学理論に導入し、それによって文学理論のレーニン的段階への前進を成し遂げるべきなのだ。しかし、テナモフがここでレーニンの理論の研究の必要を力説したことは正しかった。

この後、テナモフは十一月及び十二月に二回にわたり、共産主義学院の文学芸術言語研究所で、このスターリンの書簡についての報告を行った。第二回報告の題目は「スターリン同志の書簡と文学芸術戦線」であり、ここでテナモフはようやく先の誤りをおおむね清算した。この報告は反マルクス=レーニン的文学理論の批判、とりわけプレハーノフとフリーチェの批判に主力を注いだものであるが、この件については後述する。

ソ連のプロレタリア文学運動の指導的団体であるラップ(ロシア・プロレタリア作家同盟)も、早速このスターリンの書簡を受け入れ、指示に従い、大胆に自らの組織的・創作的・理論的改造を開始した。昨年十二月に開かれたラップ第五回総会は、まさにその改造の問題を討議するために召集されたのである。

ラップの書記長にして指導的理論家であるアヴェルバッハが会場で行った報告は、スターリンの指示を最も忠実に受け入れ、しかも最も正確に文学の領域に適用したもので、大いに注目すべきものであった。

アヴェルバッハはその報告の中で、文学理論の領域における基本的任務は、文学理論のレーニン的段階のための闘争の強化であると述べた。また、この観点から言えば、ヴォロンスキー主義、ペレヴェルゼフ主義、「文学戦線」派、とりわけ文学理論領域におけるトロツキー主義の粉砕、及びルナチャルスキーらの「腐敗した自由主義」との闘争が必要であり、さらにプレハーノフ、フリーチェの理論を新たなボリシェヴィキ的見地から改めて検討し、またラップ内部に残るプレハーノフ的及びデボーリン的謬見を自己批判すべきだと述べた。このアヴェルバッハの報告は、私が訳載して『プロレタリア文学』に掲載したので、参照されたい。

ラップ総会の後、ヴォアップ(全連邦プロレタリア作家団体統一同盟)が「スターリン同志の書簡とヴォアップの任務」と題する声明書を発表した。この声明書では、レーニン、スターリンの理論がウクライナ、白ロシアなど民族共和国の文学上の問題に持つ重要性を特に提起したが、ここでは直接関係がないので、そのような声明書が発表されたことに言及するだけにとどめる。

このように、スターリンの書簡を契機として、ソ連の文学理論は一段の新たな段階、すなわちレーニン的段階へと踏み出したと言える。そしてこの新段階に立つソ連文学理論の全体像を最もよく示しているのが、第一回ラップ批評家会議である。

この批評家会議は、ラップ書記局と共産主義学院文学芸術言語研究指導部との共同発起により、昨年一月二十五日から二十九日までの五日間、モスクワのソ連作家統一協議会所属の「ゴーリキー」クラブで開催された。以下、この会議を中心に、ソ連の文学理論の現在の問題は何か、その問題にどう取り組んでいるかを叙述しよう。

第58節

まず、A・ファジェーエフがラップ書記局を代表して開会演説を行った。彼はこの批評家会議の負うべき任務を次のように規定した。

「この批評家会議は、文学理論及び文学批評の分野における、あらゆる敵対的な反マルクス主義的理論及びその逆襲に対して、決定的な打撃を与えるべきである。しかもさらにレーニン主義的文学理論の確立と、文学理論の新たなレーニン的段階への発展を推進すべきである。」

この規定を、我々は現在のソ連文学理論全体が負うべき任務の具体的規定と見なすことができるだろう。

ファジェーエフはさらに続けて、これらあらゆる反マルクス主義的文学理論に対する闘争を遂行する際に、マルクス=レーニン主義的批評家が採るべき基本的態度について述べた。

「階級的敵のあらゆる逆襲に対して、我々は決定的な打撃を与えるべきである。しかしその際、我々がただ罵倒するだけ、ただ頭ごなしに否定するだけでは駄目だ。我々の文学を前進させるためには、何か独自の新しいものを確保すべきなのだ。しかるに敵の影響に対する我々の闘争の大きな欠点は、我々の文学が持つ肯定的な現象を指示せず、ただ面と向かって否定的な批評を下すだけだったということだ。」

そこで彼はスターリンの書簡を引き、この書簡は文学理論において敵の影響に対する闘争の根底に据えるべきものだと述べた。

スターリンのこの指示が文学及び文学理論の基礎とされるべきことは、先にラップ十二月総会でのアヴェルバッハの報告においても、テナモフの共産主義学院での報告においても、またヴォアップの声明書においても、『文学新聞』の社説においても、繰り返し述べられてきたことであり、ソ連の文学理論家にとっては、今や当然の遵守規準・定則となっているのだ。

では、これらのいわゆる敵対的理論とは何か。簡単に言えば、まずトロツキー主義、ヴォロンスキーの見解、ペレヴェルゼフ主義、「文学戦線」派及び「ペレヴァル」派の主張、さらにプロレタリア文学理論に最大の影響を与えたプレハーノフ=フリーチェの理論など、これらが主要なものである。そして最も重要なのは、これらの理論が今なお生命を保っているということだ。文学領域におけるこれらの観念論は、まさにメンシェヴィキ化しつつあるのだから、それらの影響に対する批判にはとりわけ力を注がねばならない。この際、プロレタリア文学運動に参加している各員は、それらの敵対的理論の本質を明らかにしなければならない。これがファジェーエフがこの批評家会議で併せて力説したところであった。

ファジェーエフの開会演説に続いて、会議の主要報告に移る。会議全体を通じて最も重要だったのは、ローゼンタールの報告「マルクス=レーニン主義文学理論の基本問題」と、エルモラエフの報告「リアリズムの問題」であった。以下、これらの報告を中心に述べていく。

ローゼンタールの報告は、マルクス=レーニン主義的文学理論の基本的命題を体系的に展開し、同時にプレハーノフ=フリーチェの理論の批判を試みたものである。プレハーノフ及びフリーチェの理論は、ソ連のマルクス主義的文学理論に最大の影響を与えてきた。とりわけフリーチェの芸術社会学は、一時期、事実上のマルクス主義的文学理論として通用していたほどである。したがって、その理論の批判は、マルクス=レーニン主義的文学理論を確立するための不可欠の前提なのである。

ローゼンタールはまず、マルクス主義的文学理論が、単なる芸術社会学であってはならないと述べた。芸術社会学は、芸術をただ社会的産物として説明するにとどまり、芸術の認識論的特質、すなわち芸術がいかに現実を反映するかという問題を等閑に付している。芸術は単に社会の受動的反映ではなく、現実の能動的認識であり、そこにこそ芸術の独自の意義がある。マルクス=レーニン主義的文学理論は、この認識論的基礎の上に立つべきである。

レーニンは、唯物論的認識論を最も徹底させた思想家であった。レーニンの反映理論によれば、意識は客観的現実の反映であり、この反映は受動的な模写ではなく、能動的な過程である。芸術もまたこの能動的反映の一形態であり、形象的思惟という独自の方法によって現実を認識するのだ。

第59節

ローゼンタールは次に、プレハーノフの理論の批判に移った。プレハーノフは、芸術を社会的意識の一形態として把握し、芸術の階級的性格を明らかにした功績がある。しかしプレハーノフには、根本的な弱点があった。

第一に、プレハーノフは芸術の認識論的側面を軽視した。プレハーノフにとって芸術は、主として社会心理の表現であり、社会的意識の反映であった。しかし芸術がいかに現実を認識し、いかにこれを形象的に把握するかという問題は、プレハーノフの理論では十分に展開されなかった。

第二に、プレハーノフの理論には機械的唯物論の要素があった。プレハーノフは、芸術を「社会的人間の心理」の直接的表現と見なす傾向があり、芸術と社会との間の複雑な媒介過程を十分に考慮しなかった。したがって、プレハーノフの理論に従えば、ある時代の芸術は、その時代の支配的階級の心理を直接に反映するということになり、芸術の相対的独立性や、芸術家の個人的創造性の問題が見失われがちであった。

フリーチェの理論は、プレハーノフの弱点をさらに極端にしたものであった。フリーチェの芸術社会学は、芸術を完全に社会的条件によって決定されるものと見なし、芸術のスタイルを直接に社会的・階級的条件から導き出そうとした。フリーチェによれば、各時代の支配的スタイルは、その時代の支配的階級の趣味と嗜好を直接に反映するものであり、芸術の発展は社会発展の機械的な反映に過ぎないということになる。

このような理論は、芸術の独自性を完全に否定し、芸術を単なる社会学的図解に堕せしめるものであった。レーニンの弁証法的唯物論の立場からすれば、芸術は確かに社会的に規定されたものではあるが、同時に現実の能動的認識として、独自の法則性を持つものなのだ。

ローゼンタールの報告は、このようにプレハーノフ=フリーチェの理論を批判しつつ、マルクス=レーニン主義的文学理論の基礎的命題を提示しようとしたものであった。会議の討論においても、この報告は概ね支持されたが、いくつかの点で批判もあった。

エルモラエフの報告「リアリズムの問題」は、現在のソ連文学にとって最も切実な問題を取り上げたものである。社会主義建設の時代にふさわしいリアリズムとはいかなるものか、プロレタリア作家は現実をいかに描くべきか――これが報告の中心課題であった。

エルモラエフは、ブルジョア・リアリズムとプロレタリア・リアリズムとの質的差異を強調した。ブルジョア・リアリズムは、現実をその表面においてのみ把握する。現実の外面的な現象を忠実に描写することが、ブルジョア・リアリズムの特質である。これに対して、プロレタリア・リアリズムは、現実をその発展の法則において把握し、現実の中に潜む矛盾と闘争とを、その発展の方向において描き出すべきものだ。

ここに、プロレタリア文学の最も重要な課題がある。すなわち、社会主義建設の現実を、その矛盾と困難とを含めて、しかもその発展の必然性において描くこと。現実の単なる記録でも、単なる楽観的美化でもなく、弁証法的な認識に基づくリアリズム――これが求められているのだ。

(一九三二年六月十五日『文学評論』第一巻第一号所載。)

第60節

【四 英吉利・アメリカ】

イギリス文壇の長老ハーディ(Thomas Hardy)が、一月十一日、八十八歳で逝去した。イギリス国王と王妃は手書きの弔辞で彼の長逝を悼み、英米の新聞もすべて最高級の弔意を表した。遺骸は芸術家にとって最高の名誉であるウェストミンスター寺院のポエッツ・コーナーに、作家ディケンズと並んで葬られた。首相ボールドウィン、労働党党首マクドナルドをはじめ、ゴス、ショー、ゴールズワージー、キプリングその他の人々が、ほとんど例外なく会葬した。ウェセックス小説群の作家としてのみならず、大戯曲『ダイナスツ』をはじめとする傑作は、永くイギリス文学の至宝であり続けるだろう。

彼が主宰する『サンデー・タイムズ』紙上でハーディの死を弔ったゴス(Edmund Gosse)もまた逝去した。享年七十八歳。彼は詩人であったが、批評家として世に知られ、その芸術的理解の精透さは世界的名声を誇った。ヨーロッパの文芸及び作家を紹介するにあたり、英米はもとより、日本文壇にまで及ぼした裨益は、まことに計り知れない。『サンデー・タイムズ』紙上では健筆を揮い、社会と文芸を縦横に批判した。彼の死は、まさに彼がハーディを弔った言葉を借りて、「世界文学の大なる損失」と言うことができよう。

フランスのサラ・ベルナール、イタリアのエレオノーラ・ドゥーゼと並び、近代三大女優に数えられたイギリスのエレン・テリーの逝去以来、演劇界はますます寂寥を感じている。彼女は八歳の時にプリンセス劇場で舞台に立ち、出演歴は実に六十余年に及ぶ。シェイクスピア劇の演者としてのみならず、他の劇にもすべて優れていた。名優ヘンリー・アーヴィングの共演者として、彼女に勝る者はなかったと、『アーヴィング伝』の著者は明言している。リットも驚嘆して、「極めて高雅さと軽妙さを兼ね備え、これを巧みに調和させたその性格もまた、甚だ稀有である」と述べた。死去の折は七十八歳、国王と王妃もともに懇切な弔電を送った。

彼女は最初、有名な画家ワッツ(G. F. Watts)との結婚が結局は破綻したが、その後の結婚では有名な俳優クレイグ(Gordon Craig)のような息子を得、晩年は極めて平穏であった。

バリー卿(Sir James Barrie)の有名な"Peter Pan"は、これまで一度も刊行されたことがなかったが、九月に彼の舞台演出に関する長い論文と合わせて、Hodder and Stoughton社から出版された。

スコット(Walter Scott)は一九三二年が没後百年にあたるが、記念会の委員がすでに任命された。

『天路歴程』の著者バニヤン(John Bunyan)の生誕三百年記念会がかなり盛大に祝われた。人々はエルストウ・グリーンの彼の銅像の前で祈禱を捧げた。ここは彼が少年時代に踊り、鐘を撞き、棒を投げた場所である。

キプリング(Rudyard Kipling)が十月にジョージ国王とメアリー王妃の賓客として、スコットランドのバルモラル城に招かれたことに、朝野ともに驚いた。国王と王妃は近頃いささか疲労気味で、狩猟も考えず、各方面に賓客を招いていたのだが、キプリングはヴィクトリア女王の寵を失って以来、久しく宮中に近づいていなかったのだ。

インドの女性詩人として最も偉大なサロジニ・ナイドゥー(S. Naidu)が、インド国民会議の選挙により市長に就任した。サイモンズは「美への欲求がレオナルドを画家にしたとすれば、それはまたサロジニを詩人にした」と賞賛したが、この人こそその女性詩人なのである。

イギリスの歴史小説家で、大衆作家として最も流行したウェイマン(Stanley Weyman)が四月十日に没した。一八八三年に雑誌『コーンヒル』に小説を掲載したのが出発点で、著作は非常に多い。遺産九十九万四千八十ポンドは、おそらくイギリス文壇始まって以来、小説家としては最高の金額であろう。それまでの記録はディケンズの八十万ポンド、カーライルの七十一万ポンド、トロロープの七十万ポンド、ハーディもおそらく七十万ポンドほどであった。

アイルランドのノーベル賞受賞者にして神秘派詩人のイェイツ(William Butler Yeats)が、新詩集『塔』を発表し、なお健在であることを示した。

バーナード・ショー(George Bernard Shaw)が『女性たちのための社会主義及び資本主義指南』を英米で同時に出版し、非常な売れ行きが予想された。アメリカ版の序文には例によって冷笑があったが、一方では辛口の批評家もあり、フェビアン協会の初歩から発展した割にはさほど進歩していないとの評であった。

シンクレア(Upton Sinclair)が長篇小説『ボストン』をアメリカの一月号から"Bookman"に連載し、批評の中心となった。その一部分はすでに十月に刊行され、第一部として出版された。文体と構想において、以前のシンクレアよりさらに一段成長した大著作である。無政府主義者サッコとヴァンゼッティが殺人罪で処刑されたことへの憤慨から筆を執った、あの国際的問題を扱ったものだ。『ボストン』と名づけたのは、彼らの生活の背景がボストン市であり、これに関連してボストン市の全権階級の暴虐が余すところなく暴露されたからである。ある新聞記事が、前作『石油』がボストン市で販売禁止されたからではないと、わざわざ断っている。

劇作家オニール(Eugene O'Neill)が小山内薫に日本に行くと書き送ったという話は、いよいよ実現しそうである。彼は現在パリから極東へ旅行中のようで、到着次第、一九二九年六月まで東洋に滞在する予定だという。彼は今、三年ないし五年を要する大戯曲を執筆中である。

ハーパーズ出版社がウォーレスの『少年たちのベン・ハー』を新たに出版した。広告によれば、"Ben Hur"は刊行以来三百万部を売り尽くし、やがて脚色されて映画になると、さらに百万部を売り尽くしたという。関係者はいずれもかなり儲かったそうで、これは近時特筆すべきことだという。

マーク・トウェイン(Mark Twain)の住居を買い取るために四十万ドルの寄付金が集められた。トウェイン記念会は、このユーモア作家を記念するため旧宅を保存し、中にはトム・ソーヤー室やトウェイン作品の図書館も建設する予定だという。

雑誌"Sphere"によれば、懸賞小説に関する英米両国の読者の違いが、近年ますます明確になったという。要するに、アメリカでは懸賞小説の入選者がそのまま有名になる段階となり、作品もよく売れる。しかしイギリスでは逆に、懸賞小説家はすぐに忘れられ、作品の時価も高くない。これによって、近二三年アメリカで懸賞が非常に流行している傾向が窺えるのである。

(日本『文章倶楽部』十三巻十二号より訳す)

(一九二八年十二月十三日より二九年一月二十四日『朝花週刊』第二期より第八期所載。)

【芸術と哲学・倫理 日本 本庄可宗】

【序論】

一九二七年四月二日、モスクワの共産党研究所において、スピノザの二百五十年記念講演会が開催された。しかもテルハイマーとデボーリンの両氏が講演を行った。

第61節

モラン(Paul Morand)の記述によれば、フランス文壇では、ロシアから帰国した著作家や思想家のロシア観が大いに話題となっている。中でも最も注目されたのはデュアメル(Georges Duhamel)の著述であり、まだ刊本にはなっていないものの、デュアメルは新生ロシアに必ずしも満足できなかったようだとも言われている。ゴーリキーの帰露祝賀のためにロシアへ赴いたバルビュスのロシア観も、大いに期待されている様子であった。

老大家ブールジェ(Paul Bourget)は、長く筆を擱いていた後、短篇四篇を集めた作品集『太鼓叩きとその他』を上梓した。いずれも大学生と宗教との関係を素材としたもので、これこそ彼の老いぬ証しだと評された。

長期にわたって黒人地域を漫遊し、素材を蒐集していたモランは、帰国後一冊の『マジー・ノワール』を世に出した。これも『活仏』と同じく、奇抜な素材の活用で名高い。

『ディズレーリ』、『シェリー』その他の伝記を次々と書き、イギリスの雑誌から猛烈な攻撃を受けたモーロワは、これらに対してまた激烈な反論を行った。今は亡きゴスの慰撫を得るに至り、英仏両国の関心を引くことかくのごとしであった。

兄ゴンクール(E. Goncourt)がゴンクール・アカデミーに託し、死後二十年経ったら当時の芸術界の仲間への書簡一万余通を発表するようにと言い残したが、一八九六年の彼の死後三十年以上を経ても、なお発表されていない。この中にはゾラの書簡も数百通含まれている。ゾラの子の婿が大いに抗議し、そもそも自分たちに一度も相談せずに、発表を拒むのは不当だと主張した。発表されない理由は、多くの箇所に不都合があるためらしい。

『アルフォンソ八世の仮面を剥げ』を書いたために祖国スペインから永久追放され、南仏のマントンで大作『世界の青春』を執筆中であった作家イバニェス(Blasco Ibanez)が、気管支肺炎と糖尿病のため、一月二十八日に六十一歳で逝去した。二人の息子ジークフリートとマリオは急病を聞くや否やバルセロナから駆けつけたが、すでに間に合わなかった。彫刻家ベレンスタインが死面と手型を取った後、南仏のトラビュックに葬られた。

アヤラ(Ramon Perez de Ayala)がスペイン学士院の会員に選ばれた。彼は世界的名声を持つ作家で、まだ壮年ながらすでに小説、詩、批評、論文、戯曲など二十余巻の著作がある。彼の傾向は自由主義であり、伝統破壊主義である。これこそスペイン学士院の特色であり、他国の穏やかで古色蒼然たる学士院と異なる所以だと、この件の報告者はそう記している。

スペインの「エレオノーラ・ドゥーゼ」と称される名女優マリア・ゲレーロが亡くなった。彼女は二十年間舞台に立ち、スペイン国民の注目の的であり続け、時代は移り変わっても名声は揺るがなかった。葬儀では有名なベナベンテ(J. Benavente)が柩の傍らに立った。彼女の訃報が伝わったその夜、マドリードの全劇場の男女俳優が皆、喪章をつけて舞台に立ったという。

第62節

【二 ドイツ・オーストリア】

ハウプトマン(Gerhart Hauptmann)が戯曲"Til Eulenspiegel"を書いた。オイレンシュピーゲルとは十四世紀頃に実在した人物で、ハウプトマンは彼を世界大戦時の飛行将校とし、終戦後に帰郷してから恋愛その他の奇抜な冒険的行為を繰り広げる。その中には反戦の意見も含まれている。要するにこれは、作者自身の大戦感想の詩的叙述なのだ。このほか『ハムレット』に関する戯曲一篇も書いた。彼の主張によれば、シェイクスピアの『ハムレット』はエリザベス朝時代の役者や座長が勝手に改作した偽作であるという。その『新ハムレット』の中で、自作の台詞はわずか五百行で、二千五百行はシェイクスピアの原文そのままである。批評家は痛烈に罵り、「シェイクスピアの台詞からは永遠なるものの低語を聞くが、ハウプトマンからは紙の擦れる音を聞く」と評した。さらにもう一つ、『幽霊』という新作もある。

ドイツ文学協会が五人の新会員を選出した。いずれも詩壇・小説界の代表者で、その中にはフランク(Leonhart Frank)とウンルー(Fritz von Unruh)がいた。

ズーダーマン(Hermann Sudermann)は初春に『狂える教授』を出して健在を示したが、十月十七日のベルリン電報は、二週間前に脳卒中で倒れ、フュルステンベルクの療養院で保養中であると伝えた。彼は七十一歳の高齢で、もとより半身不随であったが、発病時にはちょうど新しい戯曲を執筆中であった。

トラー(Ernst Toller)はその後あまり執筆せず、夏にはイギリスを漫遊した。彼は来訪者にこう語った。「今は勇敢な体験を試みているところだ。戯曲は、最も明確に社会問題を把握するものを求めている。労働階級に関する題材を。ロシア以外では、何と言っても良い俳優はドイツが一番だ。英米は扇動的な三文芝居でドイツの劇場を攪乱しているが、それでもなお良い戯曲は存在する」云々。彼自身もある戯曲を構想中であった。

音楽家シューベルト(Franz Schubert)の没後百年にあたり、ドイツ本国をはじめ英米でも記念音楽会が開催された。本国では『シューベルトの書簡その他』などの新刊が出版された。

チェコスロヴァキア大統領マサリク(Masaryk)は、自らの七十歳の誕生を記念して、十万チェコ・フランをドイツ作家協会のKuenstler Konkordia(芸術家連合)に寄贈し、著作家の生活と権利に関する活動の基金とした。マサリクもまた文学者であり、様々な政治に関する著作を持つことは周知の通りである。

第63節

この批評家会議における問題の全体的な見取り図を示した後、次に個別的な報告の内容に立ち入ろう。

先に述べたように、ローゼンタールの報告は「マルクス=レーニン主義文学理論の基本問題」と題するものであった。この報告の眼目は、プレハーノフ的文学理論からレーニン的文学理論への移行の必然性を論証し、その移行の基本的方向を指示することにあった。

ローゼンタールはまず、プレハーノフの文学理論の基礎的命題を検討した。プレハーノフによれば、芸術は社会意識の一形態であり、社会の経済的基盤を究極の規定因とする。この命題自体は正しい。問題はしかし、プレハーノフがこの命題をいかに展開し、いかに具体化したかにある。

プレハーノフは、社会の経済的基盤から芸術への移行を、「社会心理」という媒介概念によって説明した。すなわち、経済的基盤は社会心理を規定し、社会心理は芸術を規定する。この図式は一見合理的に見えるが、実はここにプレハーノフの根本的弱点が潜んでいる。

なぜなら、プレハーノフにおける「社会心理」概念は、きわめて曖昧であり、しかも受動的なものとして把握されているからだ。プレハーノフにとって社会心理とは、経済的基盤の直接的反映であり、したがって芸術もまた、この社会心理の直接的表現、すなわち経済的基盤の間接的反映に過ぎなくなる。ここには、芸術の能動的認識としての側面が完全に欠落しているのだ。

レーニンの認識論は、この弱点を根本的に克服するものであった。レーニンによれば、認識とは客観的現実の受動的反映ではなく、客観的現実の能動的反映である。認識は、実践を媒介として、客観的現実にますます深く接近していく過程であり、この過程において主体と客体との弁証法的統一が実現されるのだ。

芸術に即して言えば、芸術は単に社会心理の受動的表現ではなく、現実の能動的認識である。芸術家は、形象的思惟という独自の方法を通じて、現実の本質に迫り、現実の中に潜む矛盾や法則を、形象を通じて把握し表現するのだ。ここにこそ、芸術の独自の認識論的意義があり、芸術が単なる社会学的図解に還元され得ない所以がある。

この観点からすれば、プレハーノフの「五項公式」――(一)経済的基盤→(二)社会心理→(三)芸術――は、根本的に修正されなければならない。この公式は、芸術の認識論的側面を等閑に付し、芸術を社会心理の機械的反映に還元しているからである。

ローゼンタールは、さらにフリーチェの芸術社会学の批判に移った。フリーチェは、プレハーノフの弱点をさらに推し進め、芸術のスタイルを直接に階級的条件から演繹しようとした。フリーチェの『芸術社会学』によれば、騎士階級のスタイルは「記念碑的」であり、ブルジョアジーのスタイルは「絵画的」であり、プロレタリアートのスタイルは「建築的」である等々。このような図式的な社会学主義は、芸術の具体的分析を不可能にし、芸術の独自の法則性を完全に抹殺するものであった。

会議の討論において、ローゼンタールの報告に対しては、概ね賛同が表明されたが、いくつかの重要な批判もあった。

第64節

批判の第一は、ローゼンタールがプレハーノフの理論を全面的に否定する傾向があったのに対して、プレハーノフの功績をより正当に評価すべきだという意見であった。プレハーノフは、マルクス主義的文学理論の先駆者であり、芸術の階級的性格の解明に大きな貢献をした。問題は、プレハーノフの限界を指摘しつつも、その積極的な成果を継承し発展させることにあるはずだ。

第二の批判は、ローゼンタールが認識論的側面を強調するあまり、芸術の社会的規定性の問題を軽視する傾向があるのではないかという懸念であった。芸術が現実の能動的認識であることは正しいが、この認識そのものが社会的に規定されていることを忘れてはならない。芸術家は社会的存在であり、その認識は社会的立場によって制約されている。この点を曖昧にすれば、芸術の党派性の問題が不明確になる恐れがある。

次にエルモラエフの報告について述べよう。エルモラエフの「リアリズムの問題」に関する報告は、現在のソ連プロレタリア文学の創作実践にとって最も直接的な意義を持つものであった。

エルモラエフはまず、リアリズムの概念を歴史的に検討した。十九世紀のブルジョア・リアリズムは、現実をその表面的現象において忠実に描写することを旨とした。バルザック、フローベール、ゾラなどのリアリズムは、社会の矛盾や醜悪さを容赦なく描き出したが、その描写はなお現象の表面にとどまっていた。彼らは社会の矛盾を見たが、その矛盾を解決する歴史的力をまだ見ることができなかった。

これに対して、プロレタリア・リアリズムは、現実をその本質において、その発展の法則において把握する。プロレタリア作家は、社会の矛盾を描くだけでなく、その矛盾の中に新しいものの萌芽を見出し、歴史の発展の方向を描き出さなければならない。これがプロレタリア・リアリズムの独自の特質であり、ブルジョア・リアリズムとの質的差異の核心である。

しかし、これは決して現実を美化することではない。エルモラエフは、この点を特に強調した。プロレタリア・リアリズムは、現実の困難や矛盾を回避してはならない。むしろこれらを正面から描き、しかもその中に発展の必然性を見出すことが求められるのだ。これを回避して、社会主義建設の成果のみを楽観的に描くならば、それはリアリズムではなく、虚偽のラッカー塗りに過ぎない。

エルモラエフはさらに、リアリズムと「弁証法的唯物論的方法」との関係について論じた。プロレタリア・リアリズムの方法は、弁証法的唯物論的方法に他ならない。現実を矛盾の統一として、発展の過程として把握すること、これこそが弁証法的唯物論的方法の本質であり、同時にプロレタリア・リアリズムの方法的基礎なのだ。

この報告に対しても、いくつかの重要な意見が出された。まず、リアリズムの概念そのものについてのさらなる精密化が求められた。「現実の本質を描く」とは具体的に何を意味するのか。芸術は科学ではないのだから、現実の法則を概念的に把握するのではなく、形象を通じて把握するのである。形象的認識の独自性をどう理解するかという問題は、なお未解決のまま残されていた。

また、プロレタリア・リアリズムと浪漫主義との関係についても議論があった。プロレタリア文学には、現実を変革しようとする意志、理想への志向が不可欠であるが、これは浪漫主義的要素ではないのか。リアリズムと浪漫主義の弁証法的統一という課題が、会議の中で提起された。

第65節

さらにこの会議では、ペレヴェルゼフ主義に対する批判が重要な議題となった。ペレヴェルゼフの文学理論は、一時期ソ連の文学研究において大きな影響力を持っていた。

ペレヴェルゼフの理論の核心は、文学作品の中に描かれた「形象」を、直接に特定の階級の心理の表現と見なすことにあった。ペレヴェルゼフによれば、作家は自己の階級的立場から逃れることができず、その作品に描かれた形象は、作家が属する階級の心理を不可避的に反映する。したがって、文学研究の任務は、作品の形象分析を通じて、作家の階級的帰属を明らかにすることにある。

この理論は一見マルクス主義的に見えるが、実はいくつかの根本的な弱点を持っている。第一に、ペレヴェルゼフの理論では、作家の世界観や意識的努力の役割が完全に否定される。作家は自己の階級的宿命から逃れられず、いかに意識的に他の階級の立場に立とうとしても、その作品には結局自己の階級の心理が表出されるというのだ。これは一種の社会的宿命論であり、人間の意識的活動の能動的役割を否定する機械的唯物論の立場に他ならない。

第二に、ペレヴェルゼフの理論では、「階級」概念が極めて静態的に把握されている。階級は、歴史的に発展し変化する動態的な存在であるにもかかわらず、ペレヴェルゼフにおいては、一種の固定的な社会学的範疇として扱われている。したがって、ある作家の作品を分析する際にも、その作家が属する階級の「本質的」心理を抽出し、これに作品を還元するという、きわめて図式的な方法が採られることになる。

第三に、ペレヴェルゼフの理論は、文学の党派性の問題を事実上否定する。もし作家が自己の階級的宿命から逃れられないのであれば、プロレタリア作家がブルジョア的影響を克服しようとする意識的努力は無意味ということになる。党による文学の指導も不要ということになりかねない。これは、レーニンの文学の党派性の原則とは根本的に矛盾する。

会議においてペレヴェルゼフ主義が批判されたのは、まさにこれらの理由からであった。しかし同時に、ペレヴェルゼフの理論が持つ一定の積極面、すなわち文学作品の社会学的分析の方法の開拓という功績も認められるべきだという意見もあった。

トロツキー主義の文学理論についても、会議では重要な批判が行われた。トロツキーの文学論の核心は、プロレタリア文学の可能性そのものに対する否定にあった。トロツキーによれば、プロレタリアートは過渡期の階級であり、したがって独自の文化を生み出すことはできない。プロレタリアートの歴史的任務は、階級なき社会の建設にあるのであって、独自の階級文化の創造にあるのではない。プロレタリアートが権力を掌握した後に生まれる文化は、もはやプロレタリア文化ではなく、全人類的な文化であるべきだとトロツキーは主張した。

この理論に対する批判は、すでにかなり以前から行われてきたが、今回の会議では、トロツキー主義が文学の領域においてなお残存する影響として、いわゆる「同伴者」理論が取り上げられた。トロツキーは、ブルジョア知識人出身の作家を「同伴者」と呼び、プロレタリア作家よりもむしろこれらの「同伴者」のほうが芸術的に優れているとした。この見解は、プロレタリア文学運動そのものを過小評価し、ブルジョア的要素に妥協する危険を孕んでいたのである。

第66節

会議の後半では、創作批評の具体的問題が取り上げられた。すなわち、現在のソ連プロレタリア文学の作品に対して、マルクス=レーニン主義的批評はいかにあるべきかという問題である。

この問題に関する主要な報告は、ユージンが行った。ユージンは、現在の批評活動の主要な弱点として、以下の点を指摘した。

第一に、批評があまりにも社会学的に偏り、作品の芸術的特質の分析が不十分であること。批評家は作品の思想的内容の正しさを検証するだけで、その思想がいかに芸術的に形象化されているかを問わない傾向がある。しかしマルクス=レーニン主義的批評は、内容と形式との弁証法的統一において作品を把握すべきであり、思想の芸術的形象化の問題を等閑に付してはならないのだ。

第二に、批評があまりにも否定的であり、肯定的な指示を欠いていること。これはすでにファジェーエフが開会演説で指摘した点であるが、ユージンもまた力説した。批評は、敵対的傾向を暴露し批判するだけでなく、プロレタリア文学の肯定的な成果を指示し、その発展の方向を示すべきである。批評が単なる否定に終始するならば、創作を促進するどころか、むしろ萎縮させる結果になる。

第三に、批評がしばしばグループ的偏見に支配されていること。ソ連のプロレタリア文学運動の内部には、いくつかのグループが存在し、それぞれが自己のグループの作家を過大に評価し、他のグループの作家を過小に評価する傾向がある。マルクス=レーニン主義的批評は、このようなグループ主義を克服し、客観的な芸術的判断を行うべきである。

ユージンの報告に対しては、会場から多くの補足的意見が出された。特に問題になったのは、「社会的注文」の概念であった。「社会的注文」とは、社会がその時々に文学に対して提起する要求のことであり、プロレタリア文学はこの社会的注文に応えるべきだとされてきた。しかしこの概念は、しばしば機械的に解釈され、文学を単なる政治的宣伝の道具に貶める危険を孕んでいた。

会議の最終日には、総括的な決議が採択された。この決議は、会議の成果を要約し、今後の文学理論と文学批評の基本的方向を指示するものであった。決議の主要な点は以下の通りである。

一、マルクス=レーニン主義的文学理論のレーニン的段階への発展を推進すること。そのために、レーニンの著作の研究を深め、レーニンの認識論・弁証法を文学理論に創造的に適用すること。

二、プレハーノフ=フリーチェの理論の批判的克服を継続すること。ただし、彼らの積極的功績を正当に評価しつつ、その限界と誤謬を明確にすること。

三、ペレヴェルゼフ主義、トロツキー主義、ヴォロンスキー主義など、あらゆる反マルクス主義的文学理論に対する闘争を強化すること。

四、プロレタリア・リアリズムの理論をさらに発展させ、創作実践との有機的結合を図ること。

五、文学批評の質的向上を図り、社会学主義的偏向を克服し、作品の芸術的分析を強化すること。

この批評家会議は、ソ連文学理論の発展史上、一つの重要な画期を画するものであった。会議で提起された諸問題の多くは、なお未解決のまま残されたが、問題の所在を明確にし、その解決の方向を指し示したことに、会議の大きな意義があったと言えよう。

第67節

しかしながら、この批評家会議の後の文学理論の展開は、必ずしも会議の決議が期待したような方向には進まなかった。一九三二年四月二十三日、ソ連共産党中央委員会は「文学・芸術団体の改組に関する決定」を発表した。この決定によって、ラップをはじめとするすべてのプロレタリア文学団体は解散させられ、単一のソヴィエト作家同盟に統合されることとなった。

この決定は、ソ連の文学運動に根本的な転換をもたらした。ラップの指導路線には、セクト主義的偏向や、同伴者作家に対する過度の排撃など、多くの問題が含まれていた。しかし同時に、ラップがマルクス=レーニン主義的文学理論の確立のために行った積極的な努力もまた、評価されるべきものであった。

党の決定の後、アヴェルバッハらラップの指導部は厳しい批判を受けた。彼らのセクト主義、コマンド主義が糾弾され、プロレタリア文学運動を党の直接的指導の下に置く新たな体制が確立された。

この激動の中で、先の批評家会議で提起された理論的問題の多くは、新たな文脈の中に置き直されることとなった。特に「社会主義リアリズム」の概念が、一九三二年以後、ソヴィエト文学の基本的方法として公式に提唱されるに至った。

「社会主義リアリズム」の概念は、先の批評家会議で議論された「プロレタリア・リアリズム」の概念を発展させたものと見ることができる。しかし両者の間には、重要な差異がある。「プロレタリア・リアリズム」がもっぱらプロレタリア作家のための方法であったのに対し、「社会主義リアリズム」はすべてのソヴィエト作家の、つまりプロレタリア出身の作家のみならず、旧来の「同伴者」作家をも含めたすべての作家の、統一的な創作方法として提唱されたのである。

「社会主義リアリズム」の定義は、一九三四年の第一回全ソ作家大会における規約の中で、次のように述べられている。「社会主義リアリズムは、ソヴィエト芸術文学及び文学批評の基本的方法であり、芸術家に対して、現実をその革命的発展において、真実に、歴史的に具体的に描写することを要求する。しかもこの際、芸術的描写の真実性と歴史的具体性は、勤労者を社会主義の精神において思想的に改造し教育する任務と結合されなければならない。」

この定義の中に、先の批評家会議で議論された諸問題が、新たな形で凝縮されていることは明らかであろう。現実を「その革命的発展において」描くという要求は、エルモラエフが論じた「発展の法則における現実の把握」という命題の発展である。「真実に、歴史的に具体的に」描くという要求は、プレハーノフ的な図式主義やフリーチェ的な社会学主義を排し、現実の具体的な認識を重視する立場の表現である。

こうして、一九三二年の批評家会議から一九三四年の作家大会に至る過程で、ソ連の文学理論は「社会主義リアリズム」という新たな段階に到達したのであった。この理論がその後いかに展開し、いかなる問題を提起したかは、ここでは述べる余裕がない。ただ、その出発点の一つが、ここに叙述した批評家会議にあったことを指摘するにとどめよう。

(一九三二年七月十日『文学評論』第一巻第二号所載。)

第68節

【三】

さらに、この批評家会議に関連して、ソ連文学理論の現状を理解するために必要な若干の補足を加えておきたい。

まず、ヴォロンスキー主義について。ヴォロンスキーは一九二〇年代初頭に『赤い処女地』誌の編集長として、ソ連文壇に大きな影響力を持った批評家である。彼の文学理論の核心は、芸術を「直覚的認識」の一形態と見なすことにあった。ヴォロンスキーによれば、芸術家は直覚を通じて現実の本質を把握する。この直覚は階級的に制約されたものではなく、芸術家個人の才能に属するものである。したがって、芸術の価値を階級的立場によって評価することは誤りであり、芸術は「階級外的」なものとして、その独自の基準によって評価されるべきだとヴォロンスキーは主張した。

この見解は、トロツキーの文学理論とも密接に結びついていた。トロツキーもまた、プロレタリア文学の可能性に否定的であり、ブルジョア出身の「同伴者」作家の芸術的優位を認めていた。ヴォロンスキーはこの立場をさらに推し進め、芸術の階級性そのものを事実上否定したのである。

ヴォロンスキー主義に対する批判は、すでに一九二〇年代半ばから、ラップを中心として展開されてきた。批判の要点は、ヴォロンスキーが芸術の階級性を否定し、文学の党派性の原則を無視していること、そして「同伴者」作家に対する無批判的な態度が、ブルジョア的影響に対する闘争を弱めていることにあった。

次に、「文学戦線」派について。「文学戦線」派は、一九二〇年代後半にナ・ポストゥ(歩哨にあり)グループから分離した一派であり、その理論的立場は、いわゆる「壁新聞主義」と呼ばれるものであった。彼らは、プロレタリア文学の大衆化を極端に推し進め、工場の壁新聞や労働者通信員の文章こそが、最も純粋なプロレタリア文学であると主張した。専門的な作家による芸術的に高度な文学作品は、むしろブルジョア的残滓であり、プロレタリア文学はこのような「高尚な」芸術を排して、大衆の中から直接的に生まれるべきだとされた。

この主張は、芸術の専門性と芸術的水準の問題を完全に無視しており、文学を政治的宣伝のための単なる道具に還元する危険を孕んでいた。ラップはこの傾向を批判し、プロレタリア文学は高度な芸術性を持つべきだと主張した。

「ペレヴァル」派は、ヴォロンスキーの影響を受けた作家グループであり、芸術の独自性と個人的創造性を強調した。彼らは、ラップのいわゆる「社会的注文」の概念や、文学の政治的統制に反対し、芸術的自由を擁護した。しかしこの立場は、実際には文学の党派性の原則を否定し、ブルジョア的個人主義への回帰を意味するものであった。

以上のような諸傾向との闘争を通じて、ソ連の文学理論は次第にその輪郭を明確にしてきた。批評家会議は、この長い過程の一つの到達点であり、同時に新たな出発点でもあったのである。

最後に、日本のプロレタリア文学運動との関連について、一言付け加えておきたい。日本のプロレタリア文学運動は、ソ連の文学理論から大きな影響を受けてきた。ソ連におけるプレハーノフ批判やフリーチェ批判は、日本の文学理論にも直接的な影響を及ぼすであろう。日本のプロレタリア文学の理論家も、ソ連の文学理論の発展に注目し、そこから学ぶべきものを学びつつ、同時に日本の独自の文学的現実に即した理論の構築に努めるべきであると思う。

第69節

ルナチャルスキーの文学理論についても、会議では一定の批判が行われた。ルナチャルスキーは、革命後のソ連において人民教育委員長として文学政策を統括した人物であり、その文学理論はソ連の文学運動に大きな影響を与えた。

ルナチャルスキーの理論の特徴は、芸術の感情的・情緒的側面を重視する点にあった。彼は芸術を主として感情の領域に属するものと見なし、芸術の認識論的機能よりも、その感情的・宣伝的機能を強調した。この点で、ルナチャルスキーの理論はエンピリオクリティシズム的な色彩を帯びていた。レーニンは、かつてルナチャルスキーのこの傾向を批判したことがある。

しかしルナチャルスキーの功績は、革命後の文学政策において、芸術的多様性を尊重し、プロレタリア文学の独占的支配に反対した点にある。彼は「同伴者」作家に対しても寛容な態度をとり、芸術的自由の一定の保証を図った。この態度は、後にラップから「腐敗した自由主義」として批判されることになるが、文学の発展にとって一定の積極的意義を持っていたことは否定できない。

会議では、ルナチャルスキーの理論の哲学的基礎にあるエンピリオクリティシズム的要素が批判され、芸術を感情の領域に還元することの誤りが指摘された。芸術は感情的要素を重要な構成部分として含むが、芸術の本質は単なる感情の表出にあるのではなく、形象的思惟を通じた現実の能動的認識にある。この点がレーニン的文学理論の核心であり、ルナチャルスキーの理論が克服されるべき所以であると、報告者たちは論じた。

以上、ソ連の文学理論及び文学批評の現状について、主として第一回ラップ批評家会議を中心に叙述してきた。ここに見られるように、ソ連の文学理論は現在、重要な転換期にある。プレハーノフ=フリーチェの理論からレーニン的文学理論への移行、これが現在の基本的課題であり、この移行は、単なる理論上の問題にとどまらず、ソ連の文学運動全体の方向を規定するものなのである。

日本のプロレタリア文学運動も、この転換に無関心ではいられない。ソ連の文学理論の発展から学び、同時にそれを日本の文学的現実に即して消化し、独自のマルクス主義的文学理論を構築すること。これが我々に課せられた任務であると、私は考える。

(一九三二年八月十日『文学評論』第一巻第三号所載。)

第70節

附記。この原稿を書いた後に、二三の補足すべき事柄が生じたので、ここに追記する。

第一に、ローゼンタールの報告に対するその後の議論について。ローゼンタールの報告は、その後も『文学新聞』その他の紙面で議論の対象となった。特に問題となったのは、ローゼンタールが芸術の認識論的特質を強調するあまり、芸術の実践的・組織的機能を軽視する傾向があるのではないかという批判であった。

レーニンの認識論では、認識と実践とは弁証法的に統一されている。認識は実践に基づき、実践によって検証される。同様に、芸術も現実の認識であると同時に、現実を変革する実践的力でなければならない。芸術は人々の意識を変え、行動に影響を及ぼす。この実践的機能を無視して、芸術の認識論的側面のみを強調するならば、それは一面的であるとの批判があった。

第二に、エルモラエフの報告に関連して、「ロマンティシズムとリアリズムの統一」の問題が、より具体的に論じられるようになった。ゴーリキーは、プロレタリア文学は「革命的ロマンティシズム」を含むべきだと主張した。現実をその発展において把握するということは、単に現在ある姿をそのまま描くのではなく、未来への展望を含めて描くことでもある。この未来への展望、現実を変革しようとする意志と熱情、これこそが革命的ロマンティシズムの内容であり、リアリズムとの弁証法的統一において、プロレタリア文学の独自の特質を構成するのだとゴーリキーは説いた。

この「社会主義リアリズム」と「革命的ロマンティシズム」との関係については、その後もなお多くの議論が重ねられることとなる。

第三に、日本のプロレタリア文学運動に直接関連する事柄として、ナップ(日本プロレタリア作家同盟)の解散とコップ(日本プロレタリア文化連盟)の改組が行われた。これは、ソ連におけるラップの解散と並行する動きであるが、日本の場合には、天皇制権力による弾圧という外部的条件がこれに重なっている。

日本のプロレタリア文学運動は、いま極めて困難な状況にある。しかしこの困難の中にあってこそ、正しい理論的武装が必要なのであり、ソ連の文学理論の発展から学ぶことの意義は、かえって大きいと言わねばならない。

ただし、ここで重要なのは、ソ連の理論をそのまま機械的に日本に移し植えることではなく、日本の独自の歴史的・社会的条件を踏まえた上で、これを創造的に摂取し消化することである。日本の文学は、日本語という独自の言語的条件の上に成り立っており、日本の社会の独自の構造と矛盾に規定されている。これらの独自性を無視して、ソ連の理論をそのまま適用することは、教条主義に他ならない。

我々は、マルクス=レーニン主義の普遍的原理を堅持しつつ、同時にこれを日本の具体的現実に創造的に適用する道を模索しなければならないのである。

第71節

以上をもって、ソ連の文学理論及び文学批評の現状についての叙述を終える。

最後に、一つの根本的な問題に触れておきたい。それは、文学理論と創作実践との関係の問題である。

文学理論は創作実践から生まれ、創作実践によって検証される。しかし同時に、文学理論は創作実践を導き、その発展の方向を指示する。この両者の弁証法的な相互関係を正しく理解することが、今日の文学運動にとって最も重要な課題の一つであると考える。

理論が実践から遊離すれば、それは空虚な教条に堕する。実践が理論的自覚を欠けば、それは盲目的な経験主義に陥る。理論と実践との生きた統一、これこそが我々の目指すべきものである。

ソ連の文学理論は、この統一を目指して苦闘している。その苦闘の過程で、多くの誤謬も犯されたし、今なお多くの未解決の問題が残されている。しかし、この苦闘そのものの中にこそ、マルクス=レーニン主義的文学理論の生命力が示されているのではないだろうか。

(一九三二年九月 東京にて)

(一九三二年十月十日『文学評論』第一巻第四号所載。)

第72節

いわゆるカフカの現象について。カフカの作品が問題になっているのは、彼が独特の文学的方法によって、現代の人間の不安と疎外の感覚を形象化したからである。

カフカの主要な長篇小説『審判』と『城』は、いずれも主人公が理解し得ない巨大な権力に翻弄される物語である。『審判』では、銀行員ヨーゼフ・Kがある朝突然逮捕の通告を受けるが、自分がいかなる罪を犯したのか、誰が自分を裁くのか、まったく分からない。『城』では、測量士として招かれたはずのKが、城にたどり着くことができず、村の官僚機構の迷路の中を彷徨い続ける。

これらの作品に共通するのは、個人が巨大な匿名の権力の前に無力であるという感覚であり、世界は不条理で理解不能であるという認識である。人間は自己の運命を支配できず、理由も分からぬまま翻弄される。これは二十世紀の人間の根本的な不安の表現であると、多くの批評家が指摘している。

しかし問題は、このような文学をいかに評価するかということである。マルクス主義的文学理論の立場からすれば、カフカの作品は資本主義社会における人間の疎外の表現として、一定の認識的価値を持つ。しかし同時に、カフカの世界観には根本的な限界がある。それは、疎外の根源を社会的・歴史的条件に求めるのではなく、人間の存在そのものの不条理として把握する点にある。

カフカにとって、疎外は超歴史的な、形而上学的な現象であり、したがって社会的変革によっては克服し得ないものとされる。これは、ブルジョア知識人の絶望の表現であり、歴史的楽観主義を本質とするマルクス主義とは根本的に対立する世界観である。

とはいえ、カフカの作品の芸術的力量を否定することはできない。彼の独特の文体、夢と現実の境界を消し去る叙述法、不条理な状況の中で平然と振る舞う人物たちの描写は、二十世紀の文学に大きな影響を与えた。

文学の評価にあたっては、作品の世界観的限界と芸術的成果とを弁証法的に統一して把握することが必要である。カフカの世界観を批判しつつ、その芸術的方法から学ぶべきものを学ぶ。これが正しい態度であろう。ここにもまた、先の批評家会議で提起された問題、すなわち芸術の認識論的独自性と社会的規定性との弁証法的統一という根本問題が、具体的な形で現れているのである。

(一九三二年十二月 東京にて)

(一九三三年二月十日『文学評論』第二巻第一号所載。)

第73節

プロレタリア文化会社というこの名目のもとに、ここに参じた同志諸君は、他の思想に対して、その思想の作家たちがプロレトクリトの集団にいかなる態度を示すかによって、自らの態度を決定しているのである。これは私自身の運命から見て、すでに明らかなことである。文学に関する私の書物は、最初、覚えておられる方もあろうが、論文の形式で『プラウダ』紙上に発表された。この書は二年の歳月を費やし、私は二度の休養期間中に書き上げた。この事はたちまち明白となった——我々の関心の中心たる問題にとって意義あるものであると。フイユトン(評林)の形式で、この書の第一部、すなわち十月革命以外の文学的「同伴者」と農民作家を批判する部分、「同伴者」たちの芸術的・思想的立場の狭隘と矛盾を暴露する部分が現れた時、その時「ナポストゥの人々」は私を盾として振り回し、いたるところ私の「同伴者」論からの引用で溢れた。しばしの間、私はひどく憂鬱であった。(笑い。)私の「同伴者」評価について、もう一度申し上げるが、おおむね誤りはないと皆が考え、ワルジン自身も反対しなかった。(ワルジン、「今も反対していない。」)私はまさにこの事を言おうとしているのだ。しかし、そうであるなら、なぜ今になって間接的に、曖昧に、「同伴者」について議論を持ち出すのか。これは一体いかなる理由によるのか。一見しただけでは全く理解できぬ。しかし説明はきわめて簡単である。私の罪は、「同伴者」の社会性や彼らの芸術の意義を不当に決定したことにあるのではない——同志ワルジンが今も「今も反対していない」と言うのを我々は聞いた——私の罪は、「十月」や「鍛冶場」の宣言に敬意を表さず、これらの企図においてプロレタリア芸術的利益の独占的代表権を認めなかったことにある——一言で総括すれば、私の意見は、階級の文化史的利益と課題を個々の文学団体の企図・計画・要求と同一視しない、ゆえに間違いだというのである。私の罪はここにある。この事が明白になった時、時機を逸したがゆえに、思いがけぬ叫び声が上がった。トロツキーは——小ブルジョアの「同伴者」を助けている、と!私は「同伴者」にとって、助力者なのか敵なのか。いかなる意味において助力者であり、またいかなる意味において敵であるのか。これは諸君が二年前に私の「同伴者」論を読んで、すでに了解されたことであろう。しかるに諸君はその時は賛成し、称賛し、引証し、喝采した。ところが一年後、私の「同伴者」批評が、単に現在の修業時代のある文学団体を擁護するためのものでないと知るや、その団体、あるいはより正確に言えば、これらの団体の文学者たちと弁護者たちは、私の「同伴者」に対する、あたかも不当であるかのような態度について理由を捏造したのである。ああ、戦略よ!私の罪は、ピリニャークやマヤコフスキーを偏頗に評価したことにあるのではない——この点について「ナポストゥの人々」は何も付け加えず、ただ無思慮に繰り返すのみである——私の罪は、彼らの文学的宣言を足先に引っ掛けたことにある。しかり、文学的宣言よ!彼らの挑発的批評には、いかなるところにも階級的態度の影すらなく、そこにはただ競争する文学団体の態度があるばかり——これに尽きる。

私は「農民作家」を論じた。そしてここにおいて、我々は「ナポストゥの人々」がこの章をとりわけ称賛するのを聞いた。ただ称賛するだけでは不十分で、理解せねばならぬ。この際、農民作家の「同伴者」とは何の意味か。問題は、この現象が決して偶然でもなく、小事でもなく、たちまち消失するものでもないことにある。我が国において、プロレタリアートの独裁は、おおむね農民の住む国土において行われている。この一点を忘れないでいただきたい。この二つの階級の間に介在する知識階級は、ちょうど石臼の間に挟まれたもののごとく、次第に磨り潰されつつ、また生じてくるのであって、完全に消滅するまで磨り潰すことはありえない。すなわち、なお「知識階級」として、長く自らを保存しつつ、社会主義の完全な発達と国内全住民の文化の最も顕著な向上を見届けるまで存続するのである。知識階級はおそらく勤労農民の王国に奉仕し、プロレタリアートに対しては、一部は恐怖によって、一部は良心によって服従し、情勢の変化に応じて幾度も動揺を繰り返すであろう。そして動揺するたびに農民の内部に思想的支柱を求める——ここから農民作家のソヴィエト文学が発生するのである。この予想はいかがであろうか。これは我々にとって根本的に敵対的なものか。この道は我々のほうへ来るものか、それとも我々のほうから去るものか。それは発展の大体の過程がいかなるものかによって決せられる。プロレタリアートの任務は、農民階級への統制権を保持しつつ、彼らを社会主義へ導くことにある。もし我々がこの道において失敗したなら、すなわちプロレタリアートと農民階級の間に亀裂が生じたなら、その時は農民作家的知識階級も同様に、全知識階級の九十九パーセントがプロレタリアートに反逆するであろう。しかしこのような結果は、いかなる場合にも生じないであろう。なぜなら我々はまさにプロレタリアートの指導のもとに農民階級を社会主義へ導く方針を採っているからである。この道ははるかに長い。この過程において、プロレタリアートと農民階級は各々自らの新たな知識階級を分出するであろう。プロレタリアートの内部から分出された知識階級が、すべて十全なプロレタリア的知識階級であるとは思わぬがよい。農民的知識階級においては、なおさらである。農民階級の社会主義への道は、プロレタリアートの道とは全く異なる。およそ知識階級は、たとえ正真正銘のソヴィエト的知識階級であっても、自らの道をプロレタリア前衛の道と一致させるまでには、なお引き続き努力を要するであろう。旧い国民主義的伝統がなお残存する我が国の文芸においては、なおさらである。これは我々の助力者であるか、それとも敵対者であるか。繰り返して言おう。その回答は、全く発展の今後のあらゆる歩みのいかんに属する。もし農民をプロレタリアの曳船に乗せて社会主義へ引き寄せるならば、農民作家の創作もまた、複雑な屈曲の道を経て、未来の社会主義芸術に合流するであろう。この問題の複雑さ、そしてそれと同時にその複雑さの現実性と具体性を、「ナポストゥの人々」のみならず、まったく理解していないのである。彼らの根本的な謬誤はここにある。この社会的基礎と予想を顧みずして「同伴者」を論ずるのは、ただの空論にすぎない。

同志諸君、文学の領域における同志ワルジンの戦術は、「ナポストゥ」の彼の最近の論文を基礎としているが、なおいくつかの言葉を述べることをお許し願いたい。私に言わせれば、あれは戦術ではなく、中傷である!その調子は驚くほど傲慢であり、知識と理解はまことに乏しい。芸術の、すなわち人類の創造という特殊な領域としての芸術の理解がない。芸術発達の条件と方法についてのマルクス主義的理解もない。しかし外国の白党機関紙からの引用という見苦しい手品はある。同志ワルジンの最近の論文の論拠は、白党の新聞がヴォロンスキーの文学的見地を評価したという事実にある。しかしこれは低級な中傷であって、問題の分析ではない。芸術に対しては芸術に対するように、文学に対しては文学に対するように、すなわち人間的創造のまったく特殊な領域に対するように接近せねばならぬ。芸術的に読み書きできる有産者が、芸術的・階級的基準によらず、間接的・政治的告発の見地から芸術に接近するワルジンを尊敬しないのは、何の不思議があろう。

芸術に対しては、政治に対するように接近してはならない——これは芸術創造が神聖だからではなく、それが独自の手法と方法を持つからであり、芸術創造において意識下の過程が重大な役割を演じているからである。ピリニャークの作品のうち、共産主義により近いものは、政治的に我々からより遠い彼の作品と比較して力が弱い。これはピリニャークが合理主義的な計画において、芸術家としての自己を追い越したからである。我々の前に立つのは、個人的ではなく階級的・社会的転換の課題であり、この過程は長期間にわたりきわめて複雑である。プロレタリアートの圧倒的多数が文化的にきわめて後進的であることを忘れてはならない。芸術は、階級とその芸術家たちとの間の不断の生活的・文化的・思想的相互作用の基礎の上に創造される。有産階級のサロンの空気を吸い、自らの階級から日常生活の皮下注射を受けてきた芸術家たちと異なり、現代のプロレタリアートはそのような文化的・思想的環境をまだ創出しえていない。労働階級は文化的にきわめて後進的であり、プロレタリアートである限り、自らのより良き力を政治闘争や経済の復興に否応なく消費せざるをえないのである。

マヤコフスキーはかつて『十三人の使徒』という強力な作品を書いたが、その革命的性質はなお曖昧であった。しかし方向を転換しプロレタリア戦線に赴いて『一億五千万』を書いた時、最も惨澹たる合理主義的没落が出現した。たとえ正真正銘のプロレタリア出身であっても、今日の条件のもとでは、作家にその創造と階級との有機的関係を保証することはできない。彼が芸術的創造に没頭するや否や、自らの階級的環境から引き離され、「同伴者」もまた同然の雰囲気を呼吸せざるをえなくなるからである。これは団体の中の文学的団体にすぎぬ。

第74節

いわゆる予想について、私はもう少し話すつもりであったが、私の時間はとうに過ぎてしまった。(声、「おやおや。」)「ナポストゥの人々」およびその同盟者の団体もまた、団体的・実験室的な道を通じてプロレタリア文学に到達するという方針を採っている。だがこの予想を、私は全く否認する。繰り返して言うが、封建時代の文学、有産階級の文学、プロレタリア文学を歴史的な系列として並べることは不可能である。プロレタリア文化を真面目に論じプロレタリア文化から綱領を作り上げる人々は、有産階級文化との形式的類似から考察している。有産者が権力を獲得して自らの文化を創造したのだから、プロレタリアートも権力を掌握したのだからプロレタリア文化を創造するであろう、と。しかし有産階級は富裕な階級であり教養ある階級でもある。有産階級文化は権力掌握以前にすでに存在していた。一方、有産階級社会におけるプロレタリアートは一無所有の収奪された階級であり、自らの文化を創造しえなかった。新しい文化について称道しうることが多ければ多いほど、その文化はおそらく階級的性質を帯びることが少なくなるであろう。ここに問題の根本と論争がある。ある人々はプロレタリア文化の原則的立場から後退して言う——我々はただ社会主義への過渡期の二十年、三十年、五十年間だけを問題にしていると。国際的観点から見た過渡期の根本的性質は緊張した階級闘争である。十月革命はその直接的行動によって文学を殺してしまった。詩人と芸術家は沈黙した。古くから「剣戟の声一たび発すれば、詩人は沈黙する」という諺がある。文学の復活には安息が必要なのだ。我が国においては新経済政策とともにようやく復活した。蘇ってみれば完全に同伴者たちの色彩に塗られていた。仮に明日ドイツで革命が始まったとしても、プロレタリア文学の直接の開花を我々に与えはしない。これは芸術創造を圧し潰し凋落せしめるであろう。(声、「デミヤンは沈黙しなかった。」)いかなる時でもデミヤン、デミヤンとは、いかがなものか。デミヤンこそは十月革命以前の旧文学の所産ではないか。彼はクルィロフ、ゴーゴリ、ネクラーソフに養育されたのだ。彼を担ぎ出すことは自らを否定することである。

基本的予想とは、教育、文明、労農通信、映画の発達、漸次的な生活の改造、文化の向上である。「鍛冶場」「十月」およびその他の類似の集団は、いかなる意味においてもプロレタリアートの文化的・階級的創造の道標ではなく、ただ皮相的性質の閑文にすぎない。もし諸君が「マップ」と「ヴァップ」をプロレタリア文学の製造所にしようとするならば、諸君はかつて倒壊したように再び倒壊するであろう。党は最も深い注意をもって個々の若い近縁者、思想的にこれに近い芸術的才能に対処するであろう。しかし文学と文化に関する彼の根本的任務は、勤労大衆の普通の政治的学術的読書力を高めることにある。

この予想が諸君を満足させえないであろうことは承知している。諸君は将来の文化の発達をあまりに計画的にあまりに進化論的に想像している。発達はおそらくそのようには進行しないであろう。今日の安息の後に、市民戦争の新たな残酷な痙攣の時代が到来するであろう。革命の詩人は優れた戦歌をもって我々に臨むことは確かにありうるが、文学的継承はおそらく断然として途絶するであろう。すべての力は直接の闘争に向かうであろう。この新たなより強烈な市民戦争の結果は——勝利の条件のもとにおいては——社会主義的根底の完全な安定と強固であろう。この基礎の上にこそ、市民戦争の電光と震撼の後に、文化の真の建設が始まるであろう。しかるに諸君はこの予想から出発してはいない。諸君は菜豆を植木鉢に植えればプロレタリア文学の大樹を育てられると思っている。菜豆からは何の樹も生えはしないのだ。

ロドフ(S. Rodov)

問題が提起されたのは同志トロツキーの力によるものではなく、もともと提起されていたのである。この問題は大きな意義を有する。一切の天才的作品が一定の階級に奉仕すること、そしてそれが果たして客観的に階級に奉仕しているか否かということでもある。我々は作家の個々の集団に際して、彼らがいかなる階級のために作品を奉仕させているかによって判断すべきである。「ナポストゥ」がこの問題の設定に到達した時、彼はこれを第一の本来の任務と考えた。本日の『プラウダ』紙上に、同志ヴォシンスキーが盧那察爾斯基への反駁を書いている。

今を遡ること二年前、同志ヴォシンスキーはアフマートヴァはブロークの後のロシア第一の作家であると宣言した。我々がようやく立ち上がって反抗したのである。「ナポストゥ」の辛辣さについていかに言われようとも、「ナポストゥ」が第一の任務を果たしたと言わざるをえない。党はすでにこの問題の解決に着手した。

今度は指導の方法についてである。我々はこの会議の前に、三度にわたってヴォロンスキーに一定の方針を共同で確立するよう依頼した。しかし文芸政策の指導者であるヴォロンスキーは「諸君を信用しない」と答えたのである。

私は同志の名において宣言する。我々は原則的に「ナポストゥ」の立場に立つ同志ブハーリンと一致しており、また一部は同志ラデクの立場とも一致している。問題の所在はただピリニャーク等の作品を印刷することにのみあるのではない。問題は全く別のところにある。ここで問題となるのは大衆の文学運動についてである。多くの都市にすでにプロレタリア作家の組織が存在している。(ブハーリン、「組織はあるが作品がない。」)我々は運動を問題としている以上、問題をより広く解釈する。私は敢えて宣言する、彼らはこれらの論文を書き続けるであろう——党が方針を決定する時まで、労働階級の文学運動が勝利する時まで。

労働階級の文学運動は、才能あるなしにかかわらず我々の各人にとって価値があるのであり、この事は党の指導を必要とする。(ブハーリン、「プーシキンが詩を作った時、いかなる貴族社会の政治部が彼を指導したのか。」)

第75節

同志ヴォロンスキーは、この運動すなわちプロレタリア文学と反対の道を歩んでいる。彼はこの文学を解体しつつある。問題の別の面は、同志ヴォロンスキーの「同伴者」が今どこにいるかを問うことにある。ヴォロンスキーの「同伴者」たちは彼から逃げ出しつつある。彼はレオーノフという作家を天才と宣言したが、レオーノフは今まさに『ルースキー・ソヴレメンニク』で文章を書いており、この雑誌の背後にはエフロスと外国資本が立っている。我が国において文芸の問題は、十人ないし十五人の作家が良い作品を書けばそれでよいということにあるのではなく、労働階級の間にすでに始まった広範な文学運動を支持することにある。

ここにおいていかなる覇権も口にすべきではない。我々は党の一定の指導を堅持し、これを実際に活用すべきなのだ。

今日に至るまで、我々はいかなる具体的な方案も出してはいない。しかし「ナポストゥの人々」は同志ヴォロンスキーのなしたこと以上に、真の「同伴者」を克服しつつある。我々は文学に対してただ出版者の態度だけでは不十分と考える。我々は主張する、この文学に対して階級的態度を執るべきだと。

盧那察爾斯基(A. Lunacharsky)

同志ワルジンは同志ヴォロンスキーに対し、現下の情勢から問題に接近することを求めた。しかし党が文芸の問題に接近したことこそが、まさに現下の情勢の中で一定の役割を演じている。政治家が自らの知らぬ領域の事を処理する時には、常に過ちを犯す危険が存在する。芸術の特殊な法則を顧みずに文芸政策の問題を提起することは成り立たない。さもなくば我々は一切の文芸を墓場に葬ることになろう。およそ一つの芸術作品に芸術的価値がなければ、たとえそれが政治的であっても全く無意味である。

しかしこの問題を裏返して見てみよう。仮に芸術的には天才的でありながら政治的には不満足な作品があるとしよう。もしこのような小説が完全に反革命的なものであるならば、涙を呑んで抹殺せざるをえない。しかしそのような反革命性がなく、ただいくらかの好ましからぬ傾向があるだけの場合には、我々はおそらくこのような小説の存在を容認せざるをえないであろう。

芸術とは生活認識の特殊な方法であるとも言われ、社会の機能であるとも言われる。いずれに依るにせよ、天才的芸術作品は我々にとって価値がある。芸術の繁栄は、この国土の認識のきわめて良い源泉となるであろう。我々のプロレタリアートはもはや十分に堅固であり、異なる政治の水に足を濡らすことを恐れる必要はない。

芸術家が人間の特別な型であることを忘れてはならぬ。マルクスはこの事を理解していたからこそ、ゲーテやハイネのような文学的現象に非常な注意と優雅さをもって接近しえた。芸術家のもとに指導的政治理論が兼ね備わることは甚だ稀である。たとえ我々の中から出た芸術家であっても、その芸術的作品に狭隘な党的・綱領的目的を課することはやはり成り立たない。

もとより芸術家はさまざまな層から出うる。しかし不遠の将来においても、これはおそらくなお知識階級から出るであろう。これらすべてが、我々がいかなる場合にも非プロレタリアおよび非共産主義者の芸術家を我々のもとから遠ざけてはならないと考えさせる。

同志アヴェルバッハの見地に立てば、我々は敵国の征服者の一団となってしまうであろう。私は恐れる——文学において我々は「左翼病」の新たな邪路に陥る危険がある。ウラジーミル・イリイチは率直に言った——ロシアにおける共産主義を共産主義者の手だけで実現しうると考えるのは狂った共産主義者だけである、と。

同志トロツキーはプロレタリア文化について誤っている。ウラジーミル・イリイチが極端に恐れたのは、有産階級の遺産の中の価値あるものを投げ捨て、自ら気まま勝手なものを考え出すことであった。彼はプロレトクリトにも個人的指令を私に与え、国家の管轄下に置くよう命じた。同時にプロレトクリトの文芸課目に一定の広がりを与えるべきだとも力説した。

同志トロツキーは自己矛盾に陥っている。我が国の革命はやはりプロレタリア革命であるはずだ。過渡期において我々が建設しているのはプロレタリア国家である。マルクス主義、ソヴィエト組織、我々の労働組合——これらすべてはプロレタリア文化の各部分である。この論争の唯一の最も正当な結論は、プロレタリア文学をあらゆる手段を尽くして支持すべきであり、しかし「同伴者」を排斥することも断じてならない、ということである。

マルクス主義的検閲がいかなる原則に依るべきかについて明確な方針を立てることも悪くない。我々は我々を中心としてその周囲に小ブルジョア文学を組織する必要がある。さもなくば才能ある人々は我々のもとから離れ、敵対する勢力の中に入ってゆくであろう。

ベゼメンスキー(A. Bezamensky)

第76節

まず同志諸君、私は尊敬する文学的論敵——同志トロツキーの登場について一言せざるをえない。彼はプロレタリアートの菜豆からは何も生じないと言った。いかにせよ同志諸君、この一点については我々は彼と争い続けるであろう。我々は決して自らの「製造所」を誇示してはいない。まず第一に勤労大衆こそが何よりも重要なのだ。大衆的文学運動は重要であり、党はこれを自らの手に取るべきなのだ。この会議は、党が文学に対して自らの方針を与えるということの第一歩である。来責難我们、说是党派的也好、说是宗派的也好。同志ワルジンはかつて、党の第二回大会以後のボルシェヴィキへの嘲笑との類似を指摘した。彼らはついに理解しなかったのだ。今や我々が大いなる労作を展開し、自らの血をもって全連邦プロレタリア作家同盟の政策を創造した以上、我々はより大きな程度において創造的労働へと移行しうる。しかしこれと同時に我々は言う——党がこの創造的労働に関与すべきだと。同志トロツキーは手紙の中でこう書いてきた、「君はよもや我々が自分たち以上に他人を尊重しているとでも誤解しているのか」と。同志諸君、今日に至る状態はなお依然としてそうなのだ、自分たち以上に他人を尊重しているのだ。

同志諸君、我々は言う、党の方針が我々に必要だと。我々は組織し、下層から成長しつつある大運動の先頭に立ち、勤労大衆および若い世代の大衆と結合している。大衆と結合するものとして、我々は党のためにプロレタリア前衛の目で世界を見る新鮮な文学的勢力を供献するベルトたりうる。他の者は我々が独裁を要求していると叫ぶが、これは嘘だ!たとえ明日、執行委員会が我々に組織をすべて解散せよと言い、それが党にとって必要であるならば、我々はそのとおりにする。しかし党が下層から成長しつつある広範な社会運動を前にして無関心ではいられず、文芸に対する自らの方針を持たざるをえないのだ。今こそ我々が堅固なプロレタリアの文学的組織を党に送り届ける時である。

メシチェリャコフ(N. Meshcheliakov)

同志ブハーリンは二つの側面から述べた。一方は作家について、他方は読者についてである。私は出版所で働いている者であるから、出版の見地から問題に接近することをお許し願いたい。

調査の示すところによれば、現代のプロレタリア作家の作品はまったく需要がないのだ。我々の倉庫にこれらは山のように堆積し、文字通り重量で売っている。事業は完全に損失である。なぜ「プロレタリア作家」の作品は読まれないのか——彼らが大衆から離れているからである。例外もある——リベジンスキーの『一週間』は今まさに大いに読まれよく売れている。

ヴォロンスキーには毎月五十頁の紙面がある。これ以上は我々には与えられない。我々は一切の団体に同数の頁面を与えるという政策を採った。この文学を読者の判断に任せている。

ケルシェンツェフ(I. Kershentsev)

この席上でヴォロンスキーについて、彼は我々が自らの領域で専門家を利用するのと同様に専門家を利用したと言われた。しかし我々は赤衛軍を組織した時、ツァーリの士官や将軍を革命軍政治部に送り込みはしなかった。文学において彼らを赤衛軍で専門家を利用したようには利用しえない。

「ナポストゥの人々」の攻撃の中には本質的な真理が含まれている。問題は文学戦線だけでなく文化戦線全体にある。我々のもとで今劇場で行われていることは、この領域において我々が有産階級の専門家の囚人と化していることを示している。レーニンは言った——我々は有産階級の文化を知り研究し改正すべきだと。しかしその囚人となるべきだとは言わなかった。

同志トロツキーに反対する同志盧那察爾斯基は正当である。同志トロツキーは数十年の過渡期を超階級的時代と見なしている。数十年の間にプロレタリアートはおそらく極度に階級的になり、最近の数十年は階級的観念形態の闘争で充たされるであろう。今後の討論はこの問題の一般的設定に依拠すべきである。

リャザーノフ(D. Riasanov)

「ナポストゥの人々」について一言しよう。彼らの政論には奇妙な性質の要素がある。棍棒で天国に追い込むような方法からはまだ脱しきっていない。同志トロツキーは作家に必要な皮下注射を語ったが、「ナポストゥの人々」は皮上注射の方法を採用している。プロレタリア詩人のもとで全ロシアの文学がみな『赤色新地』に依拠しているとは奇事と言うほかはない。『赤色新地』が文学の組織的中心の役割を演じた時代はあったが、白色文学を解体に導く前に自らがすでに解体していた。しかしいずれにせよ、なぜこの文学がプロレタリア文学の障害となったのか、私にはまったく理解できない。

むしろ非難すべきは国立出版所である。同志メシチェリャコフは絶えず動揺している。団体と小団体が無数に創造されたが、本質的には依然として有産者たちの果実にすぎない。私はこの問題に関して完全な自由競争を選び取る。先ほどメシチェリャコフが指示した購読部数という規準はまったく役に立たない。党の商標はおそらく才能なく実際的な人々が文学の中に質の低下を持ち込む条件を創り出すであろう。新しい萌芽は一九一七年から一九年の昂揚した年代に生まれたものであり、新経済政策はこれらの新文学の萌芽を毒しているにすぎない。

我が批評が別の問題に及ぶことを望まない。本日聞いたところでは、我が国の文学および芸術の領域におけるマルクス学者たちは観念論的見地に立っているのだそうだ。

第77節

これは我々が形式を蔑視すべきだという意味ではない。プロレタリアートのために書こうとするすべての者は、文学形式の一切の発達を歓迎せずにはいられない。形式なくしては人間の思想、感情、心緒を表現することはできない。文学形式と言語は長い歴史的行程を経て完成されてきたものである。我々はロシアの貴族階級および革命的有産階級のうちの優れた代表者たちに、ロシア語を完成させてくれたことを感謝する。労働階級のためにこの偉大な遺産を己のものとしうるよう、古典的文献を印行することは必要なのだ。

国立出版所はすでに貴族階級の詩人プーシキンをあらゆる農民と労働者に親しいものとするために彼の作品を印行すべき時に至っている。我々はデカブリストの時代に近づいている。プーシキンが十二月党運動の先頭に押し立てられたことを忘れてはならぬ。

我々は品格ある鋭いロシア語で話すことを忘れてしまった。ソヴィエトの鳥の言葉を濫用している。私は同志デミヤンを歓迎する——彼の作品によって新聞の論説に疲れた我々の頭脳を休めることができるからだ。形式を疎かにすることは良くない、古い有産者の言語の天才たちから学ぶべきなのだ。ただし有産階級文学の腐敗した果実を模倣することは許されない。言語の単純直截さとプロレタリア文学が創造する新しい内容の深味——これこそが第一に求められるものである。このような萌芽をリベジンスキーの最初の作品に見ている。

プロレタリア作家諸君への私の忠告はこうである——丈夫な脚があるなら「お父さん」「お母さん」のところへ駆けつけるのはよくない。脚でしっかり立て。労働運動に拠ってその汁を吸えばよい。そうすれば『赤色新地』など何でもなくなる。

デミヤン・ベドヌイ

まず私はヴォロンスキーから語られたピリニャークの小さいが特色ある情景を紹介しよう。ヴォロンスキーのもとにピリニャークが駆け込んできた。「おい、俺は墓地を一回りしてきたぞ。チェーホフの墓の上に大きな糞の山が積まれていた。傍にはこう書いてあった、『青年共産党員ペトロフ』と。」ヴォロンスキーは喜んで息も絶え絶えであった。「なんと非凡な観察力があることか!」墓地。俗に「黄金」と呼ばれる山。これこそが一部の同伴者たちがヴォロンスキーに、ヴォロンスキーが我々に献じる文学的黄金なのだ。

私はもう一つ田舎の情景を諸君に捧げよう。ピリニャークはキエフに行き、労働通信員たちの前でフレスタコフ式の大法螺を吹いた。モスクワにはまともな文芸政策がある。三人の若者がカーメネフのところに走ってきて宣言した、「我々のもとにはイデオロギーがある!」するとカーメネフはポケットに手を突っ込み小銭を分け与えた、「イデオロギーのためだ。」小銭は消え、三人は再びカーメネフのもとに走って行った。しかし今度は一人ずつ各自が別々に——各人のもとに各自のイデオロギーができていたからだ。

これらは小例にすぎない。根本においてはただ驚くほかはない。伊立支のもとには天才的な圧縮と完璧にして余すところなき自信をもってプロレタリア文学の理論を与えるものがある。

「重大な事は幾百万の住民の総数のうち幾百人に芸術を与えることにあるのではない。芸術は国民のものである。これは自らの深い根を広大な勤労大衆の大層の中に伸ばしてゆかねばならない。これは彼ら大衆に理解されるべきである。」「これは大衆に愛されるべきである。」「これは大衆の感情、思想および意志と結合し、彼らを高めるべきである。」「大衆の中から芸術家を覚醒させ、彼らを発達させるべきである。」「我々は労働者と農民の大衆が黒パンに事欠いている時に、ごく少数の人々に甘い贅沢な菓子を献じなければならないのか。」「我々は常に労働者と農民を眼前に置くべきである!」

労働者と農民のことを考えよ!これこそ我々の文芸政策の根本的規準である。しかし諸君は労働者と農民のことを考えたことがあるか。私はここで多くの弁士に耳を傾けたが、主要な労働者と農民について一言でも語られたか。新しい真の作家たちは、おそらく労働通信と農村通信の間から出てくるであろう。

ワルジンの結語

この会議の収場がいかなる形式的なものであっても、明日の党の文芸政策は昨日のそれとは異なるであろう。同志トロツキーの私に対する言説はただの戯言であり一つの論証も提示しなかった。

社会主義文化について。ウラジーミル・イリイチはプロレトクリトに抗議した——これは事実である。しかしプロレトクリトは一つの事柄であり、プロレタリアートの社会主義文化はまた別の事柄である。レーニンの文芸の意義の評価は見事であった。レーニンはゴーリキーの武器としての文芸をきわめて高く評価し、その武器の向かう先が正しくない時にいっそうの熱意を示した。我々はソヴィエト共和国における芸術的武器が正しく用いられることを望み、文芸の党的・レーニン的指導を要求する。

文学の予想について。同志トロツキーは予想は電光形的だと言った。問題はそこにはない。我々は今や文学を勝ち取らねばならぬか——しかり、文学を勝ち取るべきである。階級なき社会に至るにはまだはるかに遠い。プロレタリアートが文化・観念形態の領域においても独裁者たるべきこと、芸術戦線を支配すべきこと——すべてを明白に言い切らねばならない。

すべての「ナポストゥの反対者たち」は問題を撹乱しようとしている。芸術的課題は政治的課題へと発展した。第二の課題は第一の課題を包摂しており千倍も広大である。我々のもとには革命の支持があり、反対者たちのもとには文学の支持がある。

第78節

白党の我々の論争に対する態度について。我々「ナポストゥの人々」は数ヶ月にわたってヴォロンスキーの科目、戦術、組織的計画を研究し、一切の根本的謬誤と傾向を了解した上で、ヴォロンスキーの立場が我々の敵に歓迎されており理由なく歓迎されているのではないという結論に到達した。白党作家等の評判が証拠ではないことは自明であるが、我々の党内の潮流に対する彼らの態度の暗示力はなかなか大きい。我々の敵が党内の潮流に対する見解を顧みないのは、ただ問題をいい加減に扱うか真実を直視しようとしない者のみがなしうることである。

専門家を使って討伐しているとの非難があるが、観念形態的戦線が問題となっている時に専門家のことなど言えるのか。観念形態の領域において貸与もなければ許可もない。合弁会社すら存在すべきではない。経済と軍事では専門家を招聘しつつも我々の労働者で替える方針を採っている。しかるにヴォロンスキーは文学を専門家に委ねるだけでなくプロレタリア文学の創造に反対の行動を採っている。彼は完全な敗北主義者である。

条件の平等を唱道する人々がいるが、このデモクラシーは政治的デモクラシーと全く同様に虚偽である。「同伴者」は巨大な文化的過去に依拠しているが我々はこの点において乞食なのだ。平等な条件はありえない。

「同伴者」に対する我々の見解は甚だしく誤解されている。我々が「同伴者」を駆逐しようとしているというのは流言であり、棍棒を振るっているというのも流言である。我々の提要にはこう述べた——「労働階級への『同伴者』の接近の程度は一般的政治的条件と関連し、党の機関およびプロレタリア文学の作用力と関連する。ゆえに党の任務はこの際『同伴者』の間に起こりつつある分解作用を促進し、彼らを共産主義的影響の範囲内に引き入れることにある。」

我々は「同伴者」に対する個別的態度を主張する。我々の立場とヴォロンスキーの立場の相違は、我々がプロレタリア文学の敗北主義者ではないこと、プロレタリア作家を一般的同伴者的肉粥の中に投げ込もうとしないことにある。

我々が文学に対する「ヴァップ」の独裁を要求しているとの発言は絶対に虚偽である。我々のスローガンは文芸領域における党の独裁である。第十二回党大会の決議は「文芸が一大社会的勢力に成長していることに鑑み、党は指導の問題を実際的活動において決定する必要を認める」とした。今や問題は指導の実際的形式の決定にまで来ている。

ヴォロンスキーの結語

「ナポストゥの人々」があたかも一切がすべて私のもとにあるかのように仕立てたいのだ。この集会は指導的地位にある同志諸君が私の方針を容認していることを証明した。同志ワルジンの軽率さは非常なものである。私には二種の著作があり、芸術を神聖な事業と見なす見解に対して最も多く闘っている。ピリニャークとチェーホフの記念碑についてのベドヌイの出面は最もつまらぬ印象を与えた。ある人物の墓の上に大理石の碑が立っており、「アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ」と刻まれている。この碑がでたらめな落書きで汚されていた。この事実から面白い逸話を捏造するのは不可であり許されない。

「ナポストゥの同志たち」が私を組織破壊者と見なすのは、彼ら自身がもはや芸術家ではなくなってしまったからである。プロレタリア作家の大多数は「赤色新地」と良好な接触を保っている。これは「ナポストゥの人々」が棍棒を振るって「同伴者」のみならずプロレタリア作家をも追い払っているからなのだ。「鍛冶場」の同志が私のもとに来て言った、「もう彼らに説明する忍耐がない。一緒にもっと密接に仕事をしよう」と。若者たちは皆「ナポストゥの人々」のもとを去った。なぜなら諸君が作家の待遇の道を知らないからであり、党派的悪臭に充ちているからだ。

ヴォロンスキーが「同伴者」で文学を埋め尽くしプロレタリア作家が圧迫されているとの発言があった。「同伴者」は今日に至るまで卓越した要素となっているが、これは放任の結果ではなく現在の文学的生活がそうだからなのだ。彼らの最も天才的な作品こそがこの「組織破壊者」によって印行されている。

決議については衷心より同志ヤコヴレフの決議に同意する。

ヤコヴレフの結語

我々の採決の前に同志レーニンがプロレタリア文学の問題をいかに見ていたかを簡単に述べたい。一年半前に合計五回にわたって私は彼とこの問題について語り合う機会を得た。

第79節

当時レーニンが主張したことの根本は、プロレタリア文化がある種の温室的施設から発生しうるという思想との闘争に集中していた。温室がプロレタリア文化を培いうるという思想をレーニンは大きな危険と見なした。プロレトクリトこそがまさにそのような温室であった。

プロレタリア文化はソヴィエト政権の条件のもとで一般的文字教育の土壌の上から発生しうる。問題の核心はプロレタリアート政権の条件のもとで有産階級の良い果実を大衆の共有とすることにある。数百万の人々が有産階級文化のこれらの良い果実を獲得することこそが、有産者式ではない真の文化を産み出しその基礎を築くであろう。

ゆえにレーニンは労働者にこう語った。「奮闘せよ、有産階級の文化を自らのものとせよ。いかなる建物の中であろうとプロレタリア文化がすでに産まれたなどというお伽噺に騙されてはならぬ。」プロレタリア文化の発生は弁証法的に考えねばならない。

レーニンは大劇場もプロレトクリトも共に「無用の長物」と見なし同時に閉鎖を提議した。彼はこの二つの提議を一括して出し一方を他方から分離しなかった。

実際的提議について。我々は六つの点に党の方針の基礎を見ている。第一点は、勤労者と農民の大衆の中から出てきた数万人の創作に対する指導を党に与えること。第二は「同伴者」に関連する——態度は従来の党の方針を継承する。同時に我々は労働者作家に対して自画自賛と研究に対する軽薄な態度の危険を警告する。党派主義と放縦主義の契機は両方の陣営にあり、両方からこれを等しく除去すべきである。批評の領域において現在の情勢をそのまま放置することはできない——批評は共産党の組織化された批評としてはゼロに帰しつつある。新刊批評は友情のために掲載されている。これは解体と呼ぶほかにない。

【観念形態戦線と文学——第一回プロレタリア作家全連邦大会の決議(一九二五年一月)】

1 文学は階級闘争の強力な武器である。「ある時代の支配的思想は常に支配階級の思想である」というマルクスの指示が正しいとすれば、プロレタリアート支配と非プロレタリア的観念形態の共存が不可能であることは疑いの余地がない。階級社会における文学は中立的ではありえず、必ず積極的にある階級に奉仕する。

2 文学の領域における各種の文学的・観念形態的傾向が平和的に協同しうるという議論は反動的空想にすぎない。ボルシェヴィズムは常に観念形態的非妥協の立場に立ってきたし今もなお立っている。

3 有産階級の観念者たちは文学と政治の同権・同価の「理論」を提示した。現在の条件下において文芸こそはプロレタリアートと有産階級が中間的要素に対する主権を獲得するために激烈な階級闘争を繰り広げる最後の舞台の一折である。

4 ソヴィエト連邦は資本主義から共産主義への過渡を旗印として掲げる諸国家の連合である。プロレタリアートはすでに新しい物質的・精神的文化の巨大な価値を創造してきた。プロレタリア文化とプロレタリア文学に対する否定的態度は清算派の立場と結びついている。現代社会におけるプロレタリア文化と文学の存在という争いえない事実こそがプロレタリアートの歴史的勝利の確実性を示す一つの証拠なのだ。

第80節

10 トロツキー=ヴォロンスキーの見解によれば文学における中心的勢力はいわゆる同伴者に置かれるべきとされる。しかし同伴者とは一様な全体ではない。「同伴者」の支配的類型は文学において革命を歪曲し国民主義、大国家主義、神秘主義の精神に陶酔する作家である。この「同伴者」の文芸はその根底においてプロレタリア革命に背馳する文学なのだ。この反革命的要素に対しては最も断固たる闘争が必要である。

革命の真実の同伴者については文学戦線における彼らの利用がまったく必要である。しかしこの利用はプロレタリア文学が同伴者の優良な代表者に影響を及ぼし文学上のプロレタリア的中核の周囲に結集させる時にのみ可能である。

プロレタリア文学と革命の真実の同伴者との友好的協同の広大な舞台はまず第一に農民である。

11 ソヴィエト連邦内のプロレタリア文学は比較的短期間のうちに顕著な社会現象となった。プロレタリア文学の存在の否定は次第に困難になりつつある。反対者は新しい戦術を採用するに至った——プロレタリア文学を「承認」しつつもこれが「文学一般」すなわち有産階級文学の一翼たるべしとの宣言である。ここにおいて全世界の穏健主義者のあの態度が繰り返されている。

我々はすでにプロレタリアの文化的発達の新しい段階に入っており、単なる「承認」はもはや不十分であり、この文学における主権の原則の承認が必要なのだ。

12 ソヴィエト連邦のみならず全世界の有産階級の文化と文学が今まさに最大の危機、頽廃、腐敗を経験しつつある。資本主義は救いようもなく病んでいる。

武装した市民戦争の終結後わずか三年にしてソヴィエト連邦のプロレタリア文学は単一の組織的団体に結集した。ソヴィエト連邦のプロレタリア文学は将来の発達の旗印のもとに立っている。プロレタリア文学は有産階級文学を必ず克服するであろう。なぜならプロレタリア独裁は必然的に資本主義を絶滅するからである。

【文芸領域における党の政策について——ロシア共産党中央委員会の決議(一九二五年七月一日)】

1 最近の大衆の物質的状態の向上は文化的期待と要求の大いなる発達を創出した。我々はすでに文化革命の圏内に足を踏み入れた。

2 この大衆的文化的発達の一部をなすのは新しい文学である——とりわけプロレタリアおよび農民文学の発達である。

3 他方では、経済過程の複雑性、新ブルジョアジーの誕生と成長——これらすべては不可避的に社会生活の文学的表面にも出現せざるをえない。

4 我が国において階級闘争は文芸の領域においてもまだ終熄していない。

5 しかし我々の社会生活の基本的事実すなわち労働階級による政権獲得の事実を顧みないことは絶対に許されない。プロレタリア独裁の期間中に党の前に立つ問題は、いかに農民と共存し漸次彼らを教育するか、いかにブルジョアジーとのある程度の協力を容認し漸次彼らを圧するかということである。

6 プロレタリアートは自らの指導的地位を擁護し堅固にし拡張せねばならない。弁証法的唯物論の新しい領域への前進の過程はすでに始まっている。

7 この課題がプロレタリアートの解決した他の課題に比して無限に複雑であることを忘れてはならない。労働階級は文化的に圧迫された階級として自らの文芸を自らの独特な芸術的形式を造り出すことができなかった。

8 文芸の領域におけるプロレタリアートの指導者の政策は上述のことによって決定されるべきである。

9 作家の集団間の相互関係は我が党の一般的政策によって規定される。文学領域における指導者の地位は全体としての労働階級に属する。プロレタリア作家の覇権はまだ確立されておらず党はこれらの作家を援助すべきである。農民作家は友好的待遇をもって迎えられるべきである。

10 「同伴者」との関係においては戦術的なきわめて注意深い関係が必要である。党は反プロレタリア的要素を絶滅し新しい有産階級の観念形態と闘争しつつも、中間的観念形態の状況に対しては忍耐強く寛容に付き合うべきだ。

11 プロレタリア作家に対してはあらゆる方法で成長を助けつつも自負の出現を一切の手段をもって予防すべきである。旧い文化的遺産の専門家に対する軽率で侮蔑的態度にあらゆる手段で闘う必要がある。広大な把握、一工場の限界に局限されぬこと、数百万の農民を伴う闘うべき偉大な階級の文学たること——これがプロレタリア文学の内容の界限であるべきだ。

12 共産主義の批評家は文学上の反革命的現象と仮借なく闘いつつ最大の節度・慎重・忍耐を示すべきである。マルクス主義批評は「学べ」というスローガンを掲げるべきだ。

13 党は文学的形式の領域における特定の傾向と結びつくことは断じてできない。時代に適応した様式は創造されるであろうが、それは別の方法で創造されるのだ。

第81節

14 したがって党はこの領域におけるあらゆる各種の団体と潮流の自由競争を宣告せざるをえない。ある集団の独占を許可することはプロレタリア文学の根を絶滅することにほかならない。

15 党はあらゆる手段を尽くして文学の事柄に対する行政上の妨害を排除すべきである。

16 党は文芸のすべての従事者に批評家と作家・芸術家の職能を正しく区別する必要性を指し示すべきである。党は真に大衆的な読者に供する文芸を創造する必要性を力説せねばならない。我々は大胆に文学における貴族主義的偏見を打破し、数百万の人々が理解しうるような形式を創出すべきである。

この偉大な課題を遂行した時にのみソヴィエト文学とプロレタリア文学はその文化的歴史的使命を全うしうるのだ。

【後記】

この一冊は日本の外村史郎と蔵原惟人の編訳した本を底本として一昨年(一九二八年)五月から翻訳に着手し月刊『奔流』に順次掲載したものである。その第一号の『編校後記』にかつて次のような言葉を書いた——ロシアの文芸に関する論争については『ソヴィエト・ロシアの文芸論戦』が紹介した。ここでの『ソヴィエト・ロシアの文芸政策』は実にあの一冊の続編と見なしうるものだ。「ナポストゥ」派の攻撃はほとんどヴォロンスキー一人に集中している。現在はトロツキーもラデクもすでに追放されヴォロンスキーもおそらく退職し、状況はまたかなり異なったものになっているであろう。

しかし今日に至る三年間ついにこのような書簡を一通も受け取ることがなく文中の欠憾はいぜんとして以前と寸分違わぬままである。むしろ逆に訳者自身に対する嘲罵はかなり少なくなく今に至るまで絶えていない。「一昨年以来私個人に対する攻撃は非常に多くどの刊行物にもおおむね『魯迅』の名を見かけるが、解剖刀は急所を突かず弾丸が当たった場所も致命傷ではない。参考にしうるこのような理論があまりにも少ないため皆がいくらか混乱しているのだ。私が異国から火を盗んできた本意は自らの肉を煮ることにあった。出発点はまったく個人主義なのだ。」

「しかし私は故意に曲訳したことはないと自負している。私の佩服しない批評家の痛い所を突いた時には微笑み自分自身の痛い所を突かれた時には痛みをこらえたが断じて増減はしなかった。世にはより良い翻訳者がいるもので私はただ『未だない』から『より良い』に至る空間を埋めたいだけなのだ。」

一九三〇年四月十二日の夜、魯迅、滬北の小閣にて記す。

【作者自伝】

私は一九〇一年十二月十一日トヴェーリ県のキムラフに生まれた。幼少期の大半はヴィリナで過ごしその後ウファに移った。少年期は極東各地およびウスリー南部と結びついている。父は一九一七年に戦死した医士の助手であり母は医士の女性助手であった。

私が最初に学んだのはウラジオストクの商業学校であった。一九一八年秋に共産党の仕事を始めた。パルチザン部隊がコルチャークに反攻した時期には私も参加した。一九二一年春に第十回全ロシア共産党大会の出席代表に推されクロンシュタットの叛乱鎮圧に赴いた。不幸にも負傷した。一九二一年秋から一九二六年秋まで党の仕事をした。

最初の小説『氾濫』は一九二二年から二三年にかけて書かれ、長篇小説『壊滅』は一九二五年から二六年にかけて完成した。

A・ファジェーエフ。三月六日、一九二八年。

【壊滅について】

もし昨年のソ連文壇で最も問題とされた作品を挙げよと言われれば、まず第一にこのファジェーエフの長篇小説『壊滅』を挙げぬわけにはゆくまい。

小説『壊滅』の主題をなすのはシベリアにおけるパルチザン部隊の闘争である。日本軍とコルチャーク軍の反革命的結合に対抗して蜂起した農民・労働者・革命的知識人の混成隊の困難な英雄主義に満ちた闘争の歴史である。

この作品を筋立ての面白さから見ればそれほど称賛に値するものではない。しかし作品の主眼はその筋立てにあるのではなく、さまざまな人物の描写と彼らに対する作者の評価にある。そしてこの範囲において作者は実に巧みにその任を果たしている。

この作品には主人公と指し示しうる人物はいない。強いて求めるなら主人公はパルチザン部隊そのものである。主要人物は——隊長のユダヤ人レヴィンソン、元鉱夫のモローズカ、「町」から来たメーチク、モローズカの妻にして看護婦のワーリャ、副官バクラーノフ等である。

第82節

レヴィンソンはこの部隊の隊長であると同時に彼らの「人材」でもある。彼は革命が己に課した任務を明確に理解しそれに向かって邁進している。党の命令を守り常に部隊に正しい方向を示している。部下の弁解を彼は決して容赦しない。部下は彼だけが疲労も倦怠も動揺も幻滅も知らぬ人だと考え尊敬している。しかし彼もまた動揺や疲労と格闘する人間なのだ。作者はこう書いている——

「部隊の中ではおおむね誰もレヴィンソンも動揺するということを知らなかった。彼は自分の思想や感情を他の誰にも分け与えず常に出来合いの『はい』と『いいえ』で応じていた。ゆえに彼はすべての者にとって特別に正確な部類の人物と見えたのだ。」

「レヴィンソンが隊長に推挙されて以来誰も彼に別の位置を考えることはできなくなった。——誰もが彼が部隊を指揮するということこそが彼の最大の特徴だと感じていた。もしレヴィンソンが幼い頃に父親の古道具商の手伝いをしたことを話したならばおそらく誰もがそれはちょうど良い冗談だと思ったであろう。しかしレヴィンソンは決してこれらの事を話さなかった。それは皆が自分を特別な種類の人物と見なしていることを知っており人々を率いるには彼らの欠点を指摘し自分の欠点を覆い隠すことでしか成し遂げられないと考えたからなのだ。」

レヴィンソンと部隊の努力にもかかわらず一隊は敵に圧迫されついに壊滅の淵に瀕する。疲れ果てたレヴィンソンと十八名の部下は将来に希望を託して森から出て行った。

「レヴィンソンは沈黙のなお潤んだ目でこの高く遠い空をパンと平和を約束するこの大地を脱穀場の上の遠くの人々を見つめた——彼は速やかに彼ら全員を自分と一つにせねばならないちょうど自分の後ろについてくる十八人と同じように。そして彼は泣くのをやめた。彼は生きねばならずそして自分の義務を果たさねばならないのだ。」

モローズカは元鉱夫である。常に革命的に忠実な兵士規律あるパルチザン隊員たらんと努めている。しかし彼のルンペン的性格がしばしばこの志を妨げる。かつて農民の瓜を盗んで部隊から追放されかけたこともある。白軍との戦闘で愛馬を殺された時にはその場に泣き崩れた。しかし戦場では常に勇敢な闘士であった。

このモローズカと好対照をなすのが「町」から来たメーチクである。知識人であり社会革命党に属していたが負傷してモローズカに救われこの部隊に入った。良心的に革命的闘争に参加しようと努めているが堅固な確信も強靭な意志もなく常に動揺の中にある。ついに最後に斥候として前方を歩いていた時コサック兵に出会い無我夢中で逃走し自覚なく自らの部隊を裏切った。

メーチクとモローズカの対立はこの作品の中でも特に興味深い。モローズカがメーチクを救い出し部隊に連れてきたが、メーチクのような知識人は彼が生来的に嫌悪する「色白の坊や」である。しかし彼の妻ワーリャはメーチクの中に理想の男性を見出した。妻がメーチクに恋していると知った時あたかも自分が侮辱されたかのように感じた。三人の間にさまざまな波瀾が生じる。

ワーリャは鉱山の出身で夫モローズカとほとんど共に暮らしたことがなかった。自分の任務にきわめて忠実で生活上もきわめて自由でありながら同志の間ではとても親切な典型的な女性パルチザン隊員である。メーチクが病院に入った時彼女は看護しながら彼を愛し始めた。

このほかにも常にレヴィンソンの行動を模倣する十九歳の副将バクラーノフ、常に平和な農村生活を夢見ている老人ピカ、泰然と白軍に殺されるメジェリーツァ、軍医スタシンスキー、工兵ゴンチャレンコ等が描かれている。

第83節

「プロレタリア文学は幾多の変遷を経、各団体間には争闘もあったが、常に一つの観念を標榜として発展し続けてきた。この観念とは、文学を階級的表現として、プロレタリアートの世界感の芸術的形式化として、意識の組織化として、意志を一定の行動に向かわしめる因子として、そして最終的には戦闘時における観念形態的武器として見ることである。たとえ各団体間にかなり一致しない点があったとしても、超階級的で自足的な価値内在的な生活とは何の関係もない文学を復興させようとした者はかつて一人もいなかった。プロレタリア文学は生活から出発するのであって文学性から出発するのではない。作家たちが……」

第84節

彼は文学団体において最初は「鍛冶場」に属していたがのち脱退して「十月」に加入した。一九二七年にある革命的少女の道徳的破滅の経過を描いた小説『月は右から昇る』別名『異常なる恋愛』を出版し一大嵐を巻き起こして種々の批評を招いた。ある者は描写が真実であり現代の青年の堕落が見て取れると言い、ある者は革命的青年の中にはこのような現象はなく作者は青年に対する中傷だと言い、折衷論者はこれらの現象は実在するが青年の一部にすぎないとした。高等学校はこのために心理測験を実施し結果は男女学生の絶対多数が「永続的恋愛関係」を願望していることが明らかとなった。珂刚教授は『偉大な十年の文学』の中でこの種の文学に対して多くの不満を述べた。

しかしこの本は日本では早くから太田信夫の訳本『右側の月』があり末尾に短篇四五篇を附している。ここでの『工人』は日本訳本から重訳したもので性的作品ではなく傑作でもないが、レーニンを描写した幾つかの箇所は妙手の速写画のように神采がある。もう一人のロシア語があまり上手でない男はおそらくスターリンであろう。彼はもともとグルジア出身だからだ。

セラフィモーヴィチ(A. Serafimovich)の本姓はポポフで十月革命前にすでに成名の作家であったが、『鉄の流れ』発表後は一時代の記念碑的作品の作者としてさらに偉大なプロレタリア文学の作者と確定された。

『一天の仕事』と『岔道夫』は全集第一巻から直接訳出された十月革命以前の作品である。序文にはこう書かれている——「セラフィモーヴィチは『鉄の流れ』の作家であり紹介を要しない。中国の読者とりわけ作家は十月以前の書き方を知りたいであろう。彼は群衆のために語り群衆の言いたいことを語りえた。しかし当時の文字獄は残酷で書報検査は厳しかった。それでも彼は書き続けることができ社会生活を暴露する強力な作品を書きあらゆる仮面を剥ぐことができた。」

孚尔玛诺夫(Dmitriy Furmanov)の自伝には出身地も出身階層も記されていない。八歳から小説を読み始めスコット、リード、バーン等の翻訳小説を多読した。モスクワ大学文学部を一九一五年に卒業したが「国家試験」は受けなかった。その年軍医の看護士となりトルコ戦線に派遣された。一九一六年にイワノヴォに戻り労働者学校の教員をした。一九一七年革命後は社会革命党の極左派「最大限度派」に属した。のちフルンゼの影響でボルシェヴィキ党に入党した。国内戦争ではチャパーエフ第二十五師の党代表を務め赤旗勲章を受けた。一九二六年三月十五日に病死。墓碑には剣と本が刻まれ「共産主義者、戦士、文人」と銘されている。

唆罗呵夫(Michail Sholochov)は一九〇五年にドン州に生まれた。父は雑貨、家畜、木材商人であった。有名にしたのは大部の市民戦争を材料とする小説『静かなドン』で全四巻、第一巻には中国語訳がある。

『父親』は内戦時代の一コサック老人の悲劇を描く。小さな子供のために年長の二人の息子を殺すが結局は小さな子供にも憎まれる。ゴーゴリやトルストイが描いたコサックとはすでに大きく異なり、むしろゴーリキーの初期作品に時折出現する人物を彷彿とさせる。

班菲洛夫(Fedor Panferov)は一八九六年に貧農の息子として生まれ、九歳で羊飼いとなりのち店員をした。共産党員として最優秀の作品は農村の社会主義建設のための貧農の闘争を描く『勃鲁斯基』で一九二六年に出版され欧米諸国にほぼ翻訳されている。

ソヴィエト・ロシアが五ヶ年計画を実施した時、革命的労働者は突撃隊を組み社会主義競争を行い二年半で「文明国」が幻想とした事業を少なくとも十工場が完成させた。当時の作家たちも社会の要求に応じて報告文学、短篇、素描の小品をもって突撃隊員の勝利を描き大建設の地に赴いた。

『枯煤・人々と耐火煉瓦』は地下泥沼の成因、建設者の自然克服の毅力、枯煤と文化の関係、競争の状況、監督と指導の要訣を短い一篇に含んでおり、「報告文学」の好標本であるのみならず実際の知識と工作の簡要な教科書でもある。

第85節

『文学月報』の第二号に周起応君の訳した同一の文章があるが、ここのものより三分の一ほど多い。おおむねスターリンの物語についてである。これはおそらく原本に二種類あり、原訳者が増減したのではなく、彼の訳本は英文からのものであろう。私は当初彼の訳本を借りようと思ったが、考え直して別に『冲撃隊』の一篇を訳した。詳しい方は興味は多いがそのために肝要な箇所が覆い隠され、簡潔な方は脈絡が分明だが読んでいると乾燥の感を免れない。——しかしそれぞれに相応しい読者層がある。有心の読者や作者が比較研究すれば必ず大いに悟るところがあるであろう。中国に二種類の異なる訳本があることは決して余計な徒労ではないと思う。

しかし原訳本にもそれぞれ誤りがあるようだ。たとえばここの「彼は話す時いつも手に細い紐を持ちこれで連結しているかのようだ」は周訳本では「彼はいつもこのように話す、まるで何かを歯の間に挟んでしっかり噛んでいるかのように」とある。ここの「彼は朝しばしば人に起こされ机の下から引き出される」は周訳本では「彼はしばしば目覚め、あるいはより正確に言えば机の上から頭を持ち上げた」とある。道理から考えればいずれも後者の訳が正しいはずだが、雑然を避けるため私はこれに依って改正しなかった。

内戦時代を描く『父親』から一足飛びに建設時代の『枯煤・人々と耐火煉瓦』に至るのは、あまりにも間隔が大きい。しかし今のところ他に良い方法がない。私の収集した材料の中でこの空白を埋めうる作品はきわめて限られており、さらにいくつかあるものの紹介できないあるいは紹介に適さないものだからだ。幸いにも中国にはすでに数種の長篇や中篇の大作があり、この欠陥をいくらか補うことができる。

一九三二年九月十九日、編者。

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