Difference between revisions of "Lu Xun Complete Works/ja/Huabian wenxue"

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(New: 13/61 sections of Huabian Wenxue translated to Japanese)
 
(Update JA translation for 花辺文学)
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= 花辺文学 =
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= 花辺文学 (花边文学) =
= 花边文学 =
 
  
'''魯迅''' (1934)
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'''魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)'''
  
13/61 節翻訳済み
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中国語からの日本語翻訳。
  
 
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=== 第1節 ===
== 第1節 ==
 
  
 
【且介亭雑文】
 
【且介亭雑文】
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== 第2節 ==
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=== 第2節 ===
  
 
【序言】
 
【序言】
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== 第3節 ==
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=== 第3節 ===
  
 
【一九三四年】
 
【一九三四年】
  
  
== 第4節 ==
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=== 第4節 ===
  
 
【中国に関する二、三の事】
 
【中国に関する二、三の事】
  
  
== 第5節 ==
+
=== 第5節 ===
  
 
【一 中国の火について】
 
【一 中国の火について】
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== 第6節 ==
+
=== 第6節 ===
  
 
二度目もまた焼かれると言われるので、やはり感謝した方が安全なのだ。しかもこれは火神に対してのみならず、人に対しても時に同じようにするのであり、おそらくこれも一種の礼儀であろうと思う。
 
二度目もまた焼かれると言われるので、やはり感謝した方が安全なのだ。しかもこれは火神に対してのみならず、人に対しても時に同じようにするのであり、おそらくこれも一種の礼儀であろうと思う。
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== 第7節 ==
+
=== 第7節 ===
  
 
【二 中国の王道について】
 
【二 中国の王道について】
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== 第8節 ==
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=== 第8節 ===
  
 
【三 中国の監獄について】
 
【三 中国の監獄について】
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== 第9節 ==
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=== 第9節 ===
  
 
【国際文学社への回答】
 
【国際文学社への回答】
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== 第10節 ==
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=== 第10節 ===
  
 
【「草鞋脚」英訳中国短篇小説集 小引】
 
【「草鞋脚」英訳中国短篇小説集 小引】
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== 第11節 ==
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=== 第11節 ===
  
 
【「旧形式の採用」を論ず】
 
【「旧形式の採用」を論ず】
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== 第12節 ==
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=== 第12節 ===
  
 
【連環図画瑣談】
 
【連環図画瑣談】
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== 第13節 ==
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=== 第13節 ===
  
 
【儒術】
 
【儒術】
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[[Category:Lu Xun]][[Category:Lu Xun Complete Works]][[Category:Japanese Translation]]
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=== 第14節 ===
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【「絵を見て字を覚える」】
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  およそ人は、たとえ中年になり、あるいは晩年に至ろうとも、ひとたび子供に近づけば、久しく忘れ去っていた子供の世界の辺境に踏み入り、月はなぜ人についてくるのか、星はいったいどうやって空に嵌め込まれているのかと思い至る。しかし子供は自分の世界の中で、あたかも水中の魚のように自在に泳ぎ、そのことを忘れているのに対し、大人はまるで人が水を掻くように、水の柔らかさや冷たさは感じるものの、やはり骨が折れ、難儀し、陸に上がらねばならぬのだ。
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  月と星のことは、すぐには説明しきれない。家が極貧というほどでもなければ、当然まずは所謂教育を施し、文字を覚えさせるべきだろう。上海には各国の人々がおり、各国の書店があり、各国の児童書もある。しかし我々は中国人であるから、中国の本を見、中国の字を覚えなければならない。そうした本もある。紙質も、挿絵も、色彩も、印刷製本も他国に遠く及ばないが、あるにはあるのだ。私は街へ出て、子供のために民国二十一年十一月刊行の「国難後第六版」なる『看図識字』を買ってきた。
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  まず色彩がなんと濁っていることか、だがこれもさておく。絵がなんと死板であることか、これもさておく。出版地は上海なのに、奇妙なことに、絵にはろうそくがあり、ランプがあるのに電灯がない。朝靴があり、三縁雲頭靴があるのに革靴がない。跪いて銃を撃つ者は片足を地に引きずり、立って弓を射る者は両腕が平らでなく、彼らは永遠に的を射ることができまい。さらに悪いことに、釣竿や風車や機織り機の類まで実物と少々異なっている。
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  私はそっと溜め息をつき、幼い頃に見た『日用雑字』を思い出した。これは婦女や下女に帳簿をつけさせるための教育書で、物の種類は多くなく、絵も粗末ではあったが、とても生き生きとしていて、よく似ていた。なぜか。作画した人が描く対象をよく知っていたからだ。一本の「大根」、一羽の鶏が、記憶の中で曖昧でなければ、描けば当然的確になる。今の『看図識字』に描かれた生活の様子――顔を洗い、飯を食い、読書する――を見れば、これが作者の念頭にある読者であり、作者自身の生活状態でもあることがわかる。租界の一階を借りて一家で住み、裕福でもなく極貧でもなく、一日頭を低くして懸命に働いてようやく一日の暮らしを維持する人々である。子供は学校に通わねばならず、自分は長衫を着、心身を尽くして体面を保つのに、参考書を買い、事物を観察し、腕を磨く余力などどこにあろうか。しかも、その本の最終頁には一行「戊申年七月初版」とある。年表を調べてみると、清朝光緒三十四年、即ち西暦一九〇八年のこと。一昨年新しく刷ったとはいえ、書物は二十七年前に成ったもので、既に一冊の古典であり、その生気のなさは怪しむに足りぬのだ。
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  子供は敬服に値する。彼はしばしば星月の彼方の境地を思い、地面の下の有様を思い、花卉の用途を思い、昆虫の言葉を思う。空へ飛び立ちたいと思い、蟻の巣に潜り込みたいと思う……。だから児童に見せる図書は十分に慎重でなければならず、作るのも十分に困難である。『看図識字』のようなささやかな本ですら、天文・地理・人事・物情を網羅している。実のところ、上は宇宙の大から下は蒼蠅の微に至るまで、いささかなりとも確かな知識を持つ画家でなければ、到底その任に堪えぬのだ。
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  しかし我々は、自分がかつて子供であった時の有様を忘れ去り、彼らを愚か者扱いして何も眼中に置かない。たとえ時勢に押されてやむなくいくらかの所謂教育を施すにしても、愚か者に任せておけば十分だと考える。かくして彼らは成長し、本当に愚か者となり、我々と同じになるのだ。
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  しかし我々愚か者どもは、さらに輪をかけて子供を愚弄し続けている。近二、三年の出版界を見るだけで、「小学生」「小朋友」向けの刊行物が特別に多いことがわかる。中国は突然これほど多くの「児童文学家」を輩出したのか。思うに、そうではあるまい。
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  (五月三十日。)
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=== 第15節 ===
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【拿来主義】
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  中国はずっと所謂「鎖国主義」であった。自分からは出て行かず、他人にも来させない。砲火に門を打ち破られてからは、また一連の釘を踏み、今では何でもかんでも「送り出し主義」となった。他はさておき、学芸の分野だけでも、近頃まず古董の一団をパリに送って展覧に供したが、結局「その後いかになりしか知れず」。さらに数人の「大家」たちが古画と新画を数枚ずつ捧げ持ち、ヨーロッパ各国を巡って掛け並べ、「国光を発揚す」と称した。聞くところでは、遠からず梅蘭芳博士もソ連に送られ、「象徴主義」を促進するとか、その後はついでにヨーロッパで布教するそうだ。梅博士の演芸と象徴主義の関係はここでは論じたくないが、要するに、生きた人間が古董に取って代わったのだから、いくらかの進歩を見せたと言えるだろう。
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  だが我々の中には「礼尚往来」の礼節に基づいて「取って来い!」と言う者がいない。
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  もちろん、ただ送り出すだけでも悪いことではない。豊かさの表れでもあり、寛大さの表れでもある。ニーチェは自らを太陽と誇り、光と熱は無尽で、ただ与えるのみ、取ることは求めぬと言った。しかしニーチェは結局太陽ではなく、発狂した。中国もそうではない。地下の石炭を掘り出せば全世界が数百年使えるという者もあるが、数百年後はどうなるのか。数百年後、我々は当然魂となって天国に昇るか地獄に落ちるかだが、子孫はまだいるのだから、いくらかの贈り物を残してやるべきだ。さもなければ佳節大典の際、彼らは差し出すものがなく、ただ叩頭して祝賀し、残り物のおこぼれを褒美としてもらうしかない。
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  この種の褒美を「投げてよこした」ものと誤解してはならない。これは「投げ与えた」ものであり、体裁よく言えば「送ってきた」ものと称しうるが、ここでは実例を挙げたくない。
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  ここではまた「送り出し」についてもこれ以上述べたくない。でなければあまりに「モダン」でなくなる。私はただ、もう少し吝嗇にして、「送り出し」のほかに「取ってくる」ことを鼓吹したいのだ。これを「拿来主義」と称す。
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  だが我々は「送られてきた」もので脅かされてしまった。まず英国の阿片、ドイツの廃銃砲、続いてフランスの香粉、アメリカの映画、日本の「完全国貨」と刷り込まれた各種小物。かくして覚醒した青年たちでさえ洋貨に恐怖を抱くに至った。実はこれこそ、それが「送られてきた」のであって「取ってきた」のではないという理由による。
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  だから我々は頭脳を働かせ、眼光を放ち、自ら取りに行かねばならぬ!
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  たとえばだ、我々の中の一人の貧しい青年が、先祖の陰徳によって(仮にこう言わせてもらうが)一つの大邸宅を得たとしよう。それが騙し取ったものか、奪い取ったものか、合法的に相続したものか、婿入りして得たものかは問わない。さて、どうするか。まずは七の二十一もかまわず「取ってくる」のだ! だが、もしこの邸宅の旧主人に反対して、その物に汚されるのを恐れ、門の前をうろうろして入る勇気がないなら、それは臆病者だ。激昂して火を放ち焼き尽くし、自分の潔白を守ろうとするなら、それは愚か者だ。ただし元来この邸宅の旧主人に憧れていて、今回一切を受け入れ、嬉々として寝室に入り込み、残りの阿片を大いに吸うなら、それはもちろん廃人だ。「拿来主義」者は全くこうではない。
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  彼は占有し、選別する。フカヒレを見ても路上に捨てて「庶民化」を誇示したりせず、栄養があるなら友人たちと大根や白菜のように食べてしまう。ただ宴会の接待には使わない。阿片を見ても衆人の前で便所に叩きつけて徹底した革命を見せつけたりせず、薬局に送って治療に供する。ただし「在庫一掃、売り切れ次第終了」などという見え透いた手は使わない。煙管と煙灯だけは、形式はインド、ペルシャ、アラビアの煙具とはすべて異なり、確かに一種の国粋と言える。背負って世界一周すれば見物人もいようが、博物館に少し送る以外は、残りは大いに壊してしまってよかろう。それから妾の一群も、それぞれ散り散りに去ってもらうのがよい。さもなくば「拿来主義」にはいささか危機が伴う。
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  要するに、我々は取ってこなければならない。使うか、保存するか、あるいは壊滅させるか。そうすれば主人は新しい主人となり、邸宅もまた新しい邸宅となるだろう。しかしまず、この人が沈着で、勇猛で、弁別力があり、利己的でないことが必要だ。取ってくることなくして、人は自ら新しい人間にはなれず、取ってくることなくして、文芸は自ら新しい文芸にはなれないのだ。
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  (六月四日。)
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=== 第16節 ===
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【隔膜】
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  清朝初年の文字の獄は、清朝末年になってようやく改めて取り上げられた。最も熱心だったのは「南社」の数人で、被害者のために遺集を編纂印刷した。また留学生たちも競って日本から文証を持ち帰った。孟森の『心史叢刊』が出て、我々はようやくやや詳しい状況を知った。皆の従来の意見は、文字の禍は清朝を嘲笑し罵ったことに起因するというものであった。しかし実はそうとばかりも言えないのだ。
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  この一、二年、故宮博物院の話はあまり人を感服させられるものではないようだが、一つの良書を我々に印刷してくれた。『清代文字獄档』といい、昨年すでに八輯まで出た。その中の事件は実に千差万別であるが、最も興味深いのは乾隆四十八年二月の「馮起炎が易詩二経に注解を施し呈進せんとした案」である。
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  馮起炎は山西臨汾県の生員で、乾隆が泰陵に詣でると聞き、著作を懐に忍ばせて道中を徘徊し、呈進を企てたが、先に「挙動不審」で捕縛された。その著作は『易』をもって『詩』を解くもので、実は出鱈目であり、ここに書き写す値打ちもないが、末尾に「自伝」めいた一大段があり、これがまことに特別である――
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  「また、臣が参りましたのは、かくかくを願うのでなく、また別に願い求めることもございませぬが、ただ一事未決のことがあり、陛下の御前にてその経緯を申し述べたく存じます。臣……名は馮起炎、字は南州と申します。かつて臣の張三なる叔母の家に参りましたところ、一人の女子を見、娶るに足ると思いましたが、力及ばざるを恨みました。この女子の名は小女、年十七歳、まさに嫁ぐべき年にしてまさに未だ嫁がざる時であり、原籍東関春牛廠長興号の張守忭の次女でございます。また臣の杜五なる叔母の家に参りましたところ、一人の女子を見、娶るに足ると思いましたが、力及ばざるを恨みました。この女子の名は小鳳、年十三歳、必ずしも嫁ぐべき年ではございませぬが、すでに嫁ぎ得る時にあり、本京東城闹市口瑞生号の杜月の次女でございます。もし陛下のお力をもって、幹員一名を差し遣わし、駿馬一頭を選び、日を期して臨邑に馳せ向かい、かの臨邑の地方官にお尋ねくだされば、『その東関春牛廠長興号に果たして張守忭なる者がおるや否や』と。まことにしかりとならば、この事は成就いたします。さらにお尋ねくだされば、『東城闹市口瑞生号に果たして杜月なる者がおるや否や』と。まことにしかりとならば、この事は成就いたします。二事成就すれば、臣の願いは果たされます。しかしながら臣の参上は、まだ陛下が臣の言を納れ給うや否やも存ぜぬうちに、必ずやかかることを強いるのかとお思いでしょうが、ただ進言の際、一度申し述べたまでのことにございます。」
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  これのどこに微塵でも悪意があろうか。ただ当時流行の才子佳人小説に迷い、一挙に名を成し、天子に媒酌をしてもらい、従妹を抱こうとしただけである。ところが結末は思わしくなく、署直隷総督袁守侗の擬した罪名は「その呈の首を閲するに、敢えて聖主の御前にて妄りに経書を講じ、呈の末の措辞に至ってはさらに狂妄の極み。その情罪を核するに、儀仗衝突よりもなお重し。馮起炎一犯、重きに従い黒龍江等処に発遣し、披甲人の奴とすべし」というものであった。この才子は、後に恐らく独り身のまま関外へ出てボーイにさせられたのであろう。
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  このほかの案件は、これほど風雅ではないにせよ、反逆的でないものは少なくない。あるものは粗忽、あるものは発狂、あるものは田舎の迂儒で真に忌諱を知らず、あるものは草莽の愚民で真に皇室を案じたのだ。だがその運命は概して悲惨で、凌遅か族滅か、さもなくば即刻斬首、あるいは「斬監候」とされても、やはり生きて出ることはなかった。
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  こうした事件を一通り見ると、まず清朝の残虐さを感じ、次に死者の哀れさを覚える。だがもう一度考えてみると、事はそう単純ではない。これらの惨劇の原因は、すべてただ「隔膜」のためなのだ。
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  満洲人自身は主と奴を厳しく分け、大臣が奏上する際、必ず「奴才」と称したが、漢人は「臣」と称すれば足りた。これは「炎黄の裔」であるがゆえに特別に優遇し、佳名を賜ったのではない。実は満人の「奴才」と区別するためであり、その地位はなお「奴才」より数等下なのだ。奴隷はただ奉行するのみ、意見を述べることは許されない。評論はもちろん不可、妄りに讃えることも不可。これがすなわち「思いその位を出でず」である。たとえば「ご主人さま、この袍の裾が少々破れております。引きずっておけばさらに破れましょうから、繕った方がよろしゅうございます」と。進言した者は忠義を尽くしているつもりだが、実は罪を犯しているのだ。なぜなら、そのように言うことを許された別の者がいるのであって、誰でも言えるわけではない。みだりに言えば「越俎代謀」であり、当然「罪を得るべし」。もし「忠にして咎を得た」と自任するなら、それは自分の愚鈍に過ぎない。
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  しかし清朝の開国の君主は十分に聡明であった。彼らはこうした方針を定めながらも、口ではそのようには言わず、中国の古訓を用いた。「民を愛すること子の如し」「一視同仁」と。一部の大臣や士大夫はこの奥妙を弁えていたから、敢えて信じなかった。だが一部の単純で愚鈍な人々は騙され、本気で「陛下」を自分の父親だと思い、馴れ馴れしく甘えすり寄った。あの方が被征服者を子にしたがるものか。かくして彼らは殺された。やがて子供たちは怯えてもう口を開かなくなり、計画は見事に成功した。光緒の時代の康有為らの上書に至って、ようやく「祖宗の成法」が再び打ち破られたのである。しかしこの奥妙は、今に至るまで誰も説明していないようだ。
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  施蛰存氏は『文芸風景』創刊号で、大いに「忠にして咎を得た」者のために不平を唱えたが、それもまたいくらか「隔膜」があるがゆえのことだ。これは『顔氏家訓』や『荘子』『文選』には載っていないことなのである。
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  (六月十日。)
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=== 第17節 ===
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【「木刻紀程」小引】
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  中国の木刻版画は、唐から明にかけて、かなり立派な歴史を持っていた。しかし現在の新しい木刻は、この歴史とは無関係である。新しい木刻は、ヨーロッパの創作木刻の影響を受けたものだ。創作木刻の紹介は朝花社に始まり、そこで出版された『芸苑朝華』四冊は、選択も印刷も精巧とは言えず、また芸術の名家には歯牙にもかけられなかったが、若い学徒の注目をかなり引いた。一九三一年夏、上海でついに中国最初の木刻講習会が開かれた。そこからさらに木鈴社が派生し、『木鈴木刻集』二冊を刊行した。また野穗社があり、『木刻画』一輯を刊行した。無名木刻社があり、『木刻集』を刊行した。だが木鈴社はとうに壊滅させられ、後の二社も継続や発展の消息はない。少し前まで上海にはM.K.木刻研究社が残っていた。歴史の比較的長い小団体で、何度も作品展を開き、『木刻画選集』を出す予定だったが、残念ながらこの夏また私怨を持つ者に密告された。社員の多くは逮捕・追放され、木版も工部局に没収されてしまった。
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  我々の知る限り、今はもう木刻を研究する団体は一つもないようだ。しかし木刻を研究する個人はまだいる。羅清楨はすでに『清楨木刻集』二輯を出し、又村は最近『廖坤玉物語』の連環画を刊行した。これらはいずれも特筆に値する。
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  しかも作者たちの長年の努力と作品の日増しの向上のおかげで、今や中国の読者の共感を得ただけでなく、世界へ踏み出す第一歩にも漸く至った。まだ確固たるものではないが、ともかく踏み出そうとしている。ただし同時に停滞の危機にも至っている。激励と切磋がなければ、自足に陥りやすいからだ。本集はここに木刻の里程標たらんとし、昨年以来、流布すべきと思われる作品を陸続と輯め、読者の概覧、作者の参考の助けとする。ただし当然、収集の及んだものに限られ、中国の優秀な作は決してこれに尽きるものではない。
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  他の出版者たちは、一方ではなお欧米の新作を紹介し、一方では中国の古刻を復刻している。これらもまた中国の新木刻の翼である。外国の良き規範を採用し発揮して、我々の作品をさらに豊かにするのが一つの道であり、中国の遺産を択び取り新しい機運と融合させて、将来の作品に新生面を開くのもまた一つの道である。もし作者たちが不断に奮い立ち、本集を一程また一程と前進させることができるならば、上に述べたことが決して奢望にとどまらぬと知るであろう。
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  一九三四年六月中、鉄木芸術社記。
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=== 第18節 ===
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【難行と不信】
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  中国の「愚民」――学問のない下層の者たちは、昔から人に注目されることを恐れてきた。もし無闇に年齢はいくつか、どんな意見を持っているか、兄弟は何人か、家の暮らし向きはどうかと尋ねると、彼はしどろもどろに答えた後、逃げ去ってしまう。学識ある大人物たちは、こうした気質を大いに不愉快に思う。しかしこの気質はなかなか変わらない。彼らにも経験に基づく理由があるからだ。
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  もし誰かに目をつけられたら、油断すれば少なくともちょっとした損をする。たとえば中国はすでに改革されたのだから、子供たちは当然とうに「孟宗哭竹」「王祥臥冰」の教訓から脱却しているはずだが、意外にもまた新たな「児童年」が来て、愛国の士がこれに乗じて「小朋友」を思い出し、筆あるいは舌で、労を厭わず教訓を垂れる。ある者は勉強せよと言い、昔は「蛍を嚢に入れて読書した」「壁に穴を穿って光を偸んだ」志士がいたと。ある者は愛国せよと言い、昔は十数歳で包囲を突破して援軍を請い、十四歳で陣に臨んで敵を斃した奇童がいたと。これらの話は閑談として聞く分には悪くもないが、万一誰かが信じて実行したら、乳臭未だ乾かぬドン・キホーテになってしまう。毎日四号活字が見えるほどの蛍火虫を一袋捕まえるのが容易なことか。だがこれはまだ容易でないだけのこと、壁に穴を穿つとなれば事はさらに面倒で、どこでも少なくとも一頓の叱責を受けた後、父母が謝罪し、人を雇って修繕することになる。
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  援軍を請い、敵を斃すのはさらに大事であり、外国では三四十歳の人々がすることだ。彼の国の児童は、食べること、遊ぶこと、文字を覚えること、ごく普通でごく肝要な常識を聞くことを重んじる。中国の児童が皆に特別に尊ばれるのは、もちろん結構なことだが、それゆえ出される課題がしばしば難題となり、飛剣のごとく、武当山に登って師について修行しなければ到底手の施しようがない。二十世紀になって、古人が空想した潜水艇や飛行機は現実に成功したが、『龍文鞭影』や『幼学瓊林』の模範物語はまだいささか学びがたい。思うに、説教する当人ですら、自分でも信じてはいまい。
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  だから聞く方も信じない。千年余り剣仙俠客の話を聞かされて、去年武当山に行ったのはたった三人、全人口の五百兆分の一に過ぎないのを見ればわかる。昔はもう少し多かったかもしれないが、今は経験を積んで、あまり信じなくなったのだ。かくして実行する者も少なくなった。――ただしこれは私個人の推測である。
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  無責任な、実行しようのない教訓が多ければ、信じる者は少なく、利己損人の教訓が多ければ、信じる者はさらに少ない。「信じない」ということは「愚民」が禍を遠ざける塹壕であり、同時に彼らを砂のように散らばらせる毒素でもある。しかしこの気質を持つのは「愚民」に限らない。説教する士大夫とて、自分と他人を信じる者は今どれほどいようか。たとえば孔子を尊びながら活仏を拝む者は、ちょうど金を各種の株に分散して多くの銀行に預けるようなもので、実はどちらも信じていないのだ。
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  (七月一日。)
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=== 第19節 ===
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【「小学大全」を買った記】
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  線装本は本当に買えなくなった。乾隆時代の刻本の値段は、ほとんど当時の宋本に等しい。明版小説は五四運動以後に暴騰した。今年からは、その幸運がおそらく小品文に回ってくるだろう。清朝の禁書となると、民元革命後にはすでに宝物で、さして見るべきところのない著作でも、しばしば百余元から数十元を要した。私も昔から古書店を回っているが、この種の宝書に対しては分不相応な望みを抱いたことがなかった。端午節の前、四馬路あたりを散策していて、思いがけず一種を買い求めた。『小学大全』といい、全五冊、七角であった。この名を見れば、あまり歓迎する者はいまいが、実は清朝の禁書なのだ。
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  この書の編纂者は尹嘉銓、博野の人である。その父の尹会一は有名な孝子で、乾隆帝がかつて褒賞の詩を与えたことがある。尹嘉銓自身も孝子にして道学者であり、官は大理寺卿稽察覚羅学にまで至った。さらに旗籍の子弟にも朱子の『小学』を講読させることを請い、「朱批を蒙る。奏する所は是なり。欽此。」とあった。この書はその二年後に成り、疏を付した『小学』六巻、『考証』と『釈文』『或問』各一巻、『後編』二巻、合わせて一函となったのが『大全』である。進呈もされ、ついに乾隆四十二年九月十七日に奉旨「好し。知りたり。欽此。」となり、明らかに皇帝の嘉許を得たのである。
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  乾隆四十六年、彼はすでに致仕して家にあったが、まさに「その老いるに及びては之を得るを戒めよ」というべきか――欲しかったのは「名」ではあったが――やはり同じように大禍を招いた。この年三月、乾隆が保定を通過した際、尹嘉銓は息子に奏章を持たせて送り、父のために諡を請うた。朱批は「諡は国家の定典にして、妄りに求むべからず。この奏は本来部に交して罪を治すべきなれど、汝が父を思う私情を念じ、姑く之を免ず。もし再び安分に家居せざれば、汝の罪逭るべからず。欽此。」であった。しかし彼は先にこれほどの大釘を踏むとは予想していなかったので、続いてもう一本を送り、「我が朝」の名臣である湯斌・范文程・李光地・顧八代・張伯行らの孔子廟従祀を請うた。「臣の父尹会一に至りては、すでに御製詩章にて褒嘉し孝と称し給えば、すでに徳行の科にあり、自ら従祀すべきことは臣の敢えて請う所にあらず。」と。この度は本当に大事件となり、三月十八日の朱批は「竟に大いに狂吠す、恕すべからず。欽此。」であった。
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  乾隆時代の決まったやり方として、文字で罪を得た者は、一方で取り調べ、一方ですぐに家宅捜索する。これは財産を重んじるのではなく、蔵書と他の文字を調べるためで、もし別に「狂吠」があれば併せて罪に問うことができる。乾隆の考えでは、「狂吠」する以上は一度や二度にとどまるはずがなく、徹底的に追究せねばならぬというのだ。尹嘉銓も当然例外ではなく、自身の逮捕と同時に、博野の本宅も北京の寓所も家宅捜索された。蔵書や他の著作は実に多かったが、実のところ何ら差し障りのある作は無かった。しかし当時はそれで済ませるわけにはいかず、大学士三宝らの再三の審訊の後、「尹嘉銓を大逆律に照らし凌遅処死に処すべし」と定められた。幸い結局は寛大で、「尹嘉銓は恩を加えて凌遅の罪を免じ、改めて絞立決とし、その家属も併せて恩を加えて縁坐を免ず」で決着した。
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  これもまた名儒にして孝子たる尹嘉銓の予想の及ばぬところであった。
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  この度の文字の獄は一人を絞殺したのみで、他の事件に比べれば決して大獄とは言えない。だが乾隆帝はかなり心を砕き、いくつかの文章を発表した。これらの文章と奏章(いずれも『清代文字獄档』第六輯に見える)から見ると、今回の禍機は「安分ならず」に発したとはいえ、大きな原因は名儒を自任し、かつ名臣の従祀を請うたことにある。これこそ大いに「恕すべからず」なのだ。清朝は朱子を尊崇したが、「尊崇」にとどめ、「見習う」ことは許さなかった。見習えば講学し、講学すれば学説が生まれ、学説があれば門徒が集まり、門徒がいれば門戸が立ち、門戸があれば門戸の争いが起こる。これは「太平の聖世」の累となるに十分だ。しかもこのような「名儒」でありながら官となれば、「名臣」を自任せずにはおれず、「妄りに自ら尊大」となる。乾隆は清朝に「名臣」がいることを認めなかった。自身は「英主」であり「明君」であるから、その統治の下には奸臣はおらず、特別に悪い奸臣がいなければ特別に良い名臣もおらず、一律にどうということもない、良いとも悪いとも言えぬ奴僕であるべきなのだ。
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  道学先生を特に攻撃するのは、当時の一つの潮流であり、すなわち「聖意」であった。我々がよく見るのは、紀昀が総纂した『四庫全書総目提要』と自著の『閲微草堂筆記』の中の絶えざる排撃である。これはこの潮流に迎合したものであって、彼が生来気さくで親しみやすかったがゆえに道学先生の峻厳さを憎んだのだと思うなら、それは誤解である。大学士三宝らもこの潮流をよくわきまえており、尹嘉銓を合同審問した際にこう奏上した。「該犯かくの如く狂悖不法なれば、直ちに罪を定め正法に処すとも、なお公憤を泄らし人心を快くするに足らず。該犯はかつて三品の大官を務めたれば、例に遵い奏明し、該犯を厳しく挟訊し、多く刑法を受けしめ、いかなる心なりしかを問い、供詞を録取し具奏し、再び旨を請うて正典の刑に処して、はじめて炯戒を昭らかにするに足る」と。後に実際に挟棍を用いたかどうかは未確認だが、録された供詞を見ると、彼の「醜行」をもってその道学を打倒する策略は実に力を入れて行われている。今、三条を下に抜き書きする――
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  「問う。尹嘉銓、汝の書いた李孝女晩年不字の事の一篇に、『年五十を過ぎ、依然として嫁がず、吾妻李恭人聞きてこれを賢しとし、淑女を求めて相助けんと欲す、仲女固辞して就かず』等の語がある。この処女は志を立てて嫁がず、すでに五旬を過ぎているのに、汝はなぜ汝の妻に媒を遣わせて、彼女を妾にしようとしたのか。このような廉恥のないこと、まさか正道を講ずる者のなすことか。供に曰く、私が李孝女年五十を過ぎ依然として嫁がずと言いましたのは、もとより日頃雄県にある姓李の女子が貞を守って嫁がないことを知っていたからでございます。妻が彼女を妾に迎えようとしたのは、私が当時京で候補しておりまして、全く知りませんでした。後に妻が私に告げましたので、初めて知り、それゆえ彼女のためにこの文章を作り、表彰しようとしたのでございます。実に彼女に会ったことはございません。しかし年五十を過ぎた彼女を妾にしようとした話を文章に書いたのは、まさしく廉恥を喪い尽くしたのであり、申し開きの余地もございません。
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  問う。汝は当時皇上の御前で翎子の賜りを求め、翎子がなければ帰って妻に顔向けができぬと申した。汝ら似非道学者は女房を恐れるのか、結局皇上は翎子を賜らなかったが、汝はどう帰ったのか。供に曰く、私は以前家にいた時、妻に向かって皇上にお目通りして翎子を頂くと申しておりましたので、その時分別もなく妄りに恩典を求めたのでございます。もとより翎子を得て帰宅し、誇示しようと思ったのです。結局皇上はお与えくださらず、家に帰りましたところ、実に恥ずかしく、妻に顔を合わせ難うございました。これは皆、私が似非道学者で女房を恐れたがゆえのこと、相違ございません。
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  問う。汝の妻は日頃嫉妬深いから、汝のために妾を娶るにもこの五十歳の女を選んだのだ。この女が絶対に嫁がぬことを知っていて、妻は嫉妬しないという名を得ようとしたのだ。つまりは汝ら似非道学者が日頃よりこうした世を欺き名を盗む事をしているから、汝の妻も汝に倣って世を欺き名を盗んだのだ。汝はまさか知らなかったとは言うまいな。供に曰く、妻が私のために妾を娶ろうとしましたが、この五十歳の李氏の女子はすでに志を立てて嫁がず、決して私の妾にはなりますまい。妻はそれを承知しておりましたゆえ、これを借りて嫉妬せぬの名を得ようとしたのでございます。つまりは私が日頃なすことが皆世を欺き名を盗むことばかりでございますゆえ、妻もまたこの世を欺き名を盗む事を学んだのでございまして、皇上の洞察を逃れることはできませぬ。」
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  もう一つの肝要なことは、彼に関わる書物の焼却である。彼の著述は実に多すぎ、「銷毀」すべきものは書籍八十六種、石刻七種、すべて著作であった。「撤毀」すべきものは書籍六種、すべて古書で彼の序跋が付いていた。『小学大全』は「疏輯」に過ぎないが、「銷毀」の列に入っていた。
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  だが私が入手した『小学大全』は、光緒二十二年に開彫し二十五年に刊行が完了し、「宣統丁巳」(実は中華民国六年)に重校した遺老本であり、張錫恭の跋に「世風不古なること若し、願わくは是の書を読む者、以て之を転移せんことを……」とある。また劉安濤の跋に「晩近凌夷し、益々甚だしく、異言喧豗して、顕に是の書と相悖り、一唱百和し……ついに家と国と均しく其の害を蒙り、唐虞三代以来先聖先賢の養正の遺意、掃地尽きたり。剥極まりて必ず復す、天地の心ここに見る……」とある。文字の獄のために士子は歴史を治めることを恐れ、特に近代の事を語ることを恐れたが、一方でまた故事に暗くなり、乾隆朝が力を尽くして「銷毀」した書を、遺老でさえもはや弁えず、百三十年も経たぬうちにまた新たに宝典として奉じたのだ。これもまた「剥極まりて必ず復す」なのか。恐らくは遺老たちの乾隆帝も予想し得なかったことであろう。
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  しかし清の康煕・雍正・乾隆の三帝、とりわけ後の二帝は、「文芸政策」あるいはやや大きく言えば「文化統制」に実に大いなる努力を傾けた。文字の獄は消極的な一面に過ぎず、積極的な面としては欽定四庫全書があり、漢人の著作はことごとく取捨を加え、採った書の中でも金元に言及する箇所はおおむね改竄して定本とした。さらに『七経』『二十四史』『通鑑』、文人の詩文、僧侶の語録に至るまで見逃さず、鑑定でなければ評選であり、文苑の中に蹂躙されなかった場所は実に無かったのである。しかも彼らは漢文に深く通じた異族の君主であり、勝者の視座から被征服民族たる漢族の文化と人情を批評した。蔑視しつつも恐れ、苛論もあったが確評もあり、文字の獄はそこから来た辣腕の一つに過ぎない。その成果は、満洲の側から言えば、効果がなかったとは確かに言えぬのだ。
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  今ではその影響は薄れたように見え、遺老たちの『小学大全』重刻がその一つの証拠であるが、同時に愚弄された性霊がついに目覚めなかったことも見て取れる。近来、明人小品や清代禁書の市価の高さは、貧しい読書人の窺い知るところではないが、『東華録』『御批通鑑輯覧』『上諭八旗』『雍正朱批諭旨』……等は人の問うところとならず、その安さは他のすべての大部の書に及ばない。もし心ある人がこれらを収集し、一一鉤稽して、漢人を御する策、文化を批評する策、文芸を利用する策を分別して排比し、一書に編めば、我々はその策略の広大にして悪辣なることを見るばかりでなく、我々がいかに異族の主人に馴致されたか、そして今に遺る奴性の由来をも明らかにすることができるだろう。
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  もちろんこれは性霊文字を玩賞するほどの趣はない。しかしこれによって今日の所謂性霊が如何にして成り立ったかの歴史をいくらか知ることは、十分に有益なことなのである。
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  (七月十日。)
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=== 第20節 ===
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【韋素園墓記】
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  韋君素園の墓。
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  君は一九〇二年六月十八日に生まれ、一九三二年八月一日に歿す。嗚呼、宏才遠志、短年に厄せらる。文苑に英を失い、知者は永く悼む。弟叢蕪、友静農、霽野、表を立つ。魯迅書す。
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=== 第21節 ===
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【韋素園君を憶う】
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  私にも記憶はある。しかし散りぢりで甚だ心許ない。自分の記憶は刃で削がれた魚の鱗のようなもので、いくらかは体に残り、いくらかは水に落ちた。水をかき回せば数枚がなお翻り、閃くけれども、血糸が混じっており、自分でも鑑賞家の目を汚しはしないかと恐れるのだ。
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  今、何人かの友が韋素園君を記念しようとしている。私もまた言葉を述べねばなるまい。そう、私にはその義務がある。身の外の水も一つかき混ぜて、どんなものが浮かび上がるか見るほかない。
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  もう十余年前のことだろうか、私は北京大学で講師をしていた。ある日、教員控室で、髪も髭もすべてやたらに伸ばした青年に出会った。それが李霽野である。私が素園を知ったのは、おそらく霽野の紹介であろうが、その時の情景は忘れてしまった。今、記憶に残っているのは、彼がすでに旅館の小部屋に座って出版を計画していたことだ。
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  この一間の小部屋が、すなわち未名社であった。
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  当時、私は二種の小叢書を編んでいた。一つは『烏合叢書』で創作を専ら収め、一つは『未名叢刊』で翻訳を専ら収め、いずれも北新書局から出版していた。出版者も読者も翻訳書を嫌うのは、あの頃も今も変わらず、だから『未名叢刊』は格別に冷遇された。折よく素園たちが外国文学を中国に紹介したいと望み、李小峰と相談して『未名叢刊』を引き取り、同人で自主運営することにした。小峰は二つ返事で承諾し、かくしてこの叢書は北新書局から離れた。原稿は我々自身のもの、別途印刷費を工面して事業を始めた。この叢書の名にちなみ、社名も「未名」と呼んだ――ただし「名前がない」の意ではなく「まだ名前がない」の意で、あたかも子供の「まだ成人していない」ようなものだ。
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  未名社の同人には、実のところ何ら雄大な志があったわけではない。しかし着実に、一滴一滴と続けていこうという意志は、皆に共通であった。そしてその中の骨幹が素園であった。
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  かくして彼はこの破れた小部屋、すなわち未名社に座って仕事を始めた。もっとも半分は病を患っていて学校に通えなかったためでもあり、おのずと彼が番をすることになったのだ。
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  最初の記憶は、この破れた砦で素園に会ったこと。痩せて小柄で、聡明で、真面目な青年であった。窓辺に並ぶ数列の破れた洋書が、貧しくともなお文学に食らいついていることを証していた。しかし同時に悪い印象も受けた。彼とは交際しにくいと感じたのだ。笑顔が少なかったからだ。「笑顔が少ない」のは元来未名社同人の特色の一つだったが、素園が最も顕著で、一目で感じ取れた。しかし後になって、私の判断は誤りだったと知った。交際が難しいわけではなかった。笑わないのは、おそらく年齢の差によって私に対してとった一種の特別な態度であろう。残念ながら私は青年に化けてお互いの隔てを忘れさせ、確証を得ることはできなかった。この真相は、霽野たちなら知っているだろう。
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  だが、私が自分の誤解を悟った時、同時にまた彼の致命的な弱点を発見した。彼はあまりに真面目すぎるのだ。沈着に見えながら、その実激烈であった。真面目であることが人の致命傷になりうるのか。少なくとも、あの頃から今に至るまで、なりうるのだ。真面目であれば激烈に傾きやすく、それを発揚すれば命を落とし、沈黙していればまた自分の心を噛み砕くのである。
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  ここに一つの小さな例がある。――我々には小さな例しかないのだ。
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  あの頃、段祺瑞総理とその取り巻きの圧迫のために、私はすでに厦門に逃れていたが、北京の虎の威を借る狐どもの猛威は依然として尽きなかった。段派の女子師範大学校長林素園が兵を率いて学校を接収し、武芸を一通り演じた後、留任の数名の教員を「共産党」と指さした。この呼び名は以前からある種の人々に「事を運ぶ」便宜を与えてきたものであり、この方法もまた古い手口で、本来珍しくもない。しかし素園は激昂したようで、これ以降、彼が私に寄こす手紙には、しばらくの間「素園」の二字を嫌い、「漱園」と改めて名乗っていた。同時に社内にも衝突が起こり、高長虹が上海から手紙を寄こして、素園が向培良の原稿を握りつぶしたと言い、私に一言してくれと求めた。私は黙っていた。すると『狂飆』で罵り始め、まず素園を、次いで私を罵った。素園が北京で培良の原稿を握りつぶしたのを、上海の高長虹が義憤を抱いて、厦門にいる私に裁定を下せと言う。これはなかなか見事な滑稽ではないかと思った。しかもどんな団体でも、たとえ小さな文学団体であっても、苦境に立つと内部で必ず誰かが騒ぎ出す。これも珍しいことではない。しかし素園は真面目に受け止め、私に手紙を書いて詳しい事情を述べただけでなく、雑誌に文章まで発表して弁明した。「天才」たちの法廷で、弁明が通るものか――私は長い溜息をつかずにおれなかった。彼はただの文人で、しかも病を患っているのに、こうも命がけで内憂外患に対処していては、どうして長続きしようか。もちろんこれはほんの小さな憂患に過ぎないが、真面目で激烈な個人にとっては、それなりに大きなものなのだ。
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  間もなく未名社は封鎖され、数人は逮捕もされた。おそらく素園はすでに喀血して病院に入っていたのだろう、彼はその中にいなかった。だが後に、逮捕された者は釈放され、未名社も封鎖が解かれた。封じたり解いたり、捕えたり放したり、私は今もってこれがどういう手品なのかわからない。
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  私が広州に着いたのは翌年――一九二七年の秋の初めで、相変わらず彼から数通の手紙を受け取った。西山病院で枕に伏して書いたもので、医者が起き上がることを許さなかったからだ。措辞はさらに明晰で、思考もさらに明瞭に、さらに広大になっていたが、それだけに彼の病がいっそう心配になった。ある日、突然一冊の本が届いた。布装丁の素園訳『外套』であった。一目見て理解した途端、寒気がした。これは明らかに彼が私に送った記念品ではないか、まさか彼はすでに自分の命の期限を悟ったのではあるまいか。
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  私はもうこの本を開く気にはなれなかった。しかしどうしようもなかった。
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  これによって思い出したのだが、素園の親しい友人の一人もかつて喀血したことがあった。ある日、素園の目の前で喀血し始め、彼は慌てふためき、愛と憂いと焦りの込もった声で命じた。「もう吐くな!」 その時、私はイプセンの『ブラント』を思い出した。彼は過ぎ去った者に命じて甦らせようとしたが、その力はなく、ただ自分が雪崩の下に埋もれたのではなかったか……。
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  私は虚空にブラントと素園を見た。しかし私には言葉がなかった。
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  一九二九年五月末、最も幸いだったのは自ら西山病院に赴いて素園と語らったことだ。彼は日光浴のために肌がかなり黒く焼けていたが、気力は衰えていなかった。我々と数人の友は皆とても喜んだ。だが喜びの中に、私は時折悲しみが混じるのを覚えた。ふと彼の恋人が、彼の同意を得た上で、別の人と婚約したことを思い出す。ふと彼が、外国文学を中国に紹介するというささやかな志すら、おそらく果たし難いことを思い出す。ふとここに横たわる彼が、自分では全快を待っているつもりなのか、それとも滅亡を待っているのかと思い出す。ふと彼がなぜ私に精装の『外套』を送ってきたのかと思い出す……。
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  壁にはなおドストエフスキーの大きな肖像画がかかっていた。この先生に対して、私は尊敬し、敬服している。だが同時に、冷徹に至るまで残酷な文章を恨みもする。彼は精神の拷問を仕組み、不幸な人を一人一人引き出して、我々の目の前で問い詰めて見せた。今、彼は沈鬱な眼差しで素園とその病床を凝視し、まるで私に告げているようであった。これもまた作品に収めうる不幸な人間なのだと。
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  もちろんこれはほんの小さな不幸に過ぎない。だが素園個人にとっては、それなりに大きかったのだ。
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  一九三二年八月一日、朝五時半、素園はついに北平同仁医院で病没した。一切の計画、一切の希望も、共に帰した。私が憾みに思うのは、禍を避けるために彼の書簡を焼いてしまったことで、私はただ一冊の『外套』を唯一の記念として、永く手元に置くしかないのだ。
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  素園の病没から、瞬く間にもう二年が過ぎた。この間、文壇では彼について誰も口を開かなかった。これも珍しいこととは言えない。彼は天才でもなく豪傑でもなく、生きている時もただ黙々と生存していたのだから、死んでからも当然、黙々と埋もれるしかない。だが我々にとっては、記念に値する青年なのだ。彼が黙々として未名社を支えたのだから。
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  未名社は今やほとんど消滅し、その存在期間も長くはなかった。しかし素園が経営して以来、ゴーゴリ(N. Gogol)を、ドストエフスキー(F. Dostoevsky)を、アンドレーエフ(L. Andreev)を紹介し、ヴァン・エーデン(F. van Eeden)を紹介し、エレンブルグ(I. Ehrenburg)の『煙管』とラヴレニョーフ(B. Lavrenev)の『四十一』を紹介した。また『未名新集』を刊行し、その中には叢蕪の『君山』、静農の『地の子』と『塔を建つる者』、私の『朝花夕拾』があり、当時としてはそれなりに読むに足る作品であった。事実は軽薄陰険な小人に容赦せず、いくばくもなく彼らは皆煙消火滅したが、未名社の訳業は文苑においてなお枯れていないのだ。
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  然り、素園は天才でもなく、豪傑でもなく、まして高楼の尖頂や名園の美花でもなかった。しかし彼は楼下の一塊の礎石であり、園中の一掬の泥土であった。中国に最も必要なのはこうした存在である。鑑賞者の目には入らぬが、建築者と栽培者は決して彼を度外に置くことはない。
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  文人の災難は、生前の攻撃や冷遇にあるのではない。瞑目の後、言行ともに亡び、そこに無聊の徒が知己を僭称して是非紛々と起こし、自らを衒い、かつ金を稼ぎ、死骸までもが彼らの名を売り利を得る道具となる。これこそ悲しむべきことだ。今、私はこの数千字で親しく知った素園を記念するが、願わくばなお私利私欲の混じる箇所のなからんことを。他に言うべきこともない。
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  この後なお記念の時があるかどうかわからない。もしこの一度きりなら、素園よ、これにてお別れだ。
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  一九三四年七月十六日の夜、魯迅記す。
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=== 第22節 ===
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【劉半農君を憶う】
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  これは小峰が私に出した題目である。
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  この題目は過分ではない。半農の逝去に際し、私は哀悼すべきであろう。彼もまた私の旧い友人だったからだ。しかし、それは十年余り前のことであり、今はと言えば、何とも言い難い。
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  彼と最初にどう会ったか、また彼がどうやって北京に来たのか、すでに忘れてしまった。彼が北京に来たのは、おそらく『新青年』に投稿した後、蔡孑民先生か陳独秀先生に招かれたのだろう。着いてからは当然『新青年』の戦士の一人となった。彼は活発で勇敢で、何度かの大戦を戦った。たとえば王敬軒への双方書簡、「她」(彼女)と「牠」(それ)の字の創造がそうだ。この二件は今見れば確かに些末なことだが、あれは十数年前、ただ新式句読点を提唱しただけで大勢が「若喪考妣」の如く嘆き、「食肉寝皮」を望まんばかりだった時代のことだから、確かに「大戦」であったのだ。今の二十歳前後の青年には、三十年前、ただ辮髪を切るだけで投獄されたり斬首されたりしたことを知る者はほとんどあるまい。しかしこれはかつての事実であった。
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  ただ半農の活発さは時に粗雑に近く、勇敢さにも無謀に失するところがあった。しかし敵を襲う相談をする時には、彼はやはり良い仲間であり、事の進行中に口と心が一致せず、あるいは陰で刺すようなことは決してしなかった。もし計略が外れたなら、それは計算が甘かったからにすぎない。
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  『新青年』は一号出すたびに編集会議を開き、次号の原稿を決めた。その時最も私の注意を引いたのは陳独秀と胡適之であった。仮に韜略を一つの倉庫に喩えるなら、独秀先生のそれは外に大旗を立て、大書して曰く「中はすべて武器、来る者注意せよ!」。しかし扉は開いており、中に何挺かの銃、何振りかの刀があるのが一目瞭然で、警戒の必要もない。適之先生のそれは扉を堅く閉ざし、扉に小さな紙切れを貼って曰く「中に武器なし、ご安心あれ。」。これはもちろん本当かもしれないが、一部の人々――少なくとも私のような人間は――時に首を傾げて考えずにはおれない。半農は「武庫」を感じさせない人であった。だから私は陳・胡を敬服したが、半農にはより親しみを覚えた。
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  親しいとは、雑談が増えるということで、雑談が増えれば欠点も露わになる。ほぼ一年余り、彼は上海から持ってきた「才子には必ず紅袖添香の夜読書あり」という艶福の思想を拭い去れなかったが、ようやく我々に叱り飛ばされて捨てた。しかし彼はどこでもこんな調子で言いふらしていたようで、ある種の「学者」を顰蹙させた。時には『新青年』への投稿さえ排斥された。彼は投稿に熱心だったが、旧い新聞を見れば、彼の載っていない号がかなりある。人々が彼の人柄を評して言ったのは、「浅い」ということであった。
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  その通り、半農は確かに浅い。だが彼の浅さは一条の清い渓流のごとく、澄み切って底まで見える。たとえいくらかの沈殿や腐った草があっても、全体の清さを損なうことはない。もし泥水が満ちていたなら、深さはすぐにはわからぬだろう。もし泥の深淵であるなら、浅い方がまだましではないか。
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  しかしこうした陰での批評は、おそらく半農の心をかなり傷つけたのだろう。彼がフランスに留学したのは、大半はこれが原因ではないかと私は疑う。私は最も通信を怠る質で、それ以来我々は疎遠になった。帰国した時、彼が外国で古書を筆写していたことを初めて知り、後に『何典』に句読をつけようともした。私はまだ旧友のつもりで序文にいくつか率直なことを書いたが、事後に半農がかなり不快に思っていると知った。「駟も舌に及ばず」で、どうしようもなかった。他にもう一度、『語糸』をめぐって心中お互いにわかっている不愉快があった。五、六年前、上海の宴席で一度顔を合わせたが、その時にはもうほとんど話すことがなくなっていた。
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  近年、半農は次第に要職に就き、私もまた次第に彼を忘れがちになった。だが新聞で「ミス」の呼称を禁じた類のことを見ると、かなり反感を覚えた。こうしたことは半農がすべきではないと思ったのだ。昨年からまた、彼が絶えず打油詩を作り、腐った古文をいじっているのを見て、かつての交情を思い返せば、長い溜息をつかずにはいられなかった。思うに、もし会って私がなお旧友のつもりで「今日はいい天気で……ハハハ」で済ませなければ、あるいは衝突にまで至ったかもしれない。
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  だが、半農の忠厚さはなお私を感動させた。一昨年私が北平に行った折、後で聞いたところによれば、半農は私を訪ねようとしていたが、誰かに一つ脅かされて来なかったという。これには私もまことに恥じ入った。私は北平に着いてから、実のところ半農を訪ねようという気持ちを持ったことがなかったのだから。
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  今、彼はこの世を去った。彼に対する私の感情は、生前と変わらない。私は十年前の半農を愛し、近年の彼を憎む。この憎しみは友の憎しみである。彼がいつまでも十年前の半農であってほしかったからだ。戦士としての彼は、たとえ「浅く」とも、中国にとってはるかに有益であった。私は憤怒の炎をもって彼の戦績を照らし出し、一群の流砂の鬼どもが彼の先年の光栄と死骸をともに泥の深淵に引きずり込むのを防ぎたいのだ。
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  (八月一日。)
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=== 第23節 ===
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【曹聚仁先生への返信】
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  聚仁先生、
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  大衆語の問題は、提起されてからずいぶん長くなりましたが、私は研究していないので、これまで口を開いたことがありません。しかし昨今の文章には「高論」が少なくないように思われます。文章としては立派だが、言えても行えず、たちまち消えてしまい、問題は依然そのままです。
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  ここに私の簡単な意見を記します。
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  一、漢字と大衆とは、両立しえない。
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  二、したがって大衆語文を推進するには、ローマ字拼音(すなわちラテン化。今これを二つの事柄に分ける人がいるが、私にはよくわからない)を用いねばならず、しかもいくつかの区域に分け、各区域をさらに小区域に分ける(たとえば紹興一つとっても少なくとも四小区域に分けねばならない)。書き始めは純粋にその地の方言を用いるが、人間は前進するものだから、やがて在来の方言だけでは足りなくなり、白話や外来語、さらには語法まで採り入れるほかなくなる。しかし交通の盛んな言語混交の地には、比較的普通の語文がすでに存在し、新しい語彙をすでに採り入れている。これが「大衆語」の雛形であり、その語彙と語法を窮郷僻壤にも輸入しうるだろう。中国人はいずれにせよ将来、数種の中国語に通じざるをえない運命にあり、教育と交通によって実現できるのだ。
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  三、ラテン化の普及は、大衆が自ら教育を掌握する時にこそ可能となる。今我々にできることは、(甲)ラテン化法の研究、(乙)広東語のような読者の比較的多い言語で試作し世に問うこと、(丙)白話をできる限り平易明快に書いて理解者を増やすこと。ただし精密な所謂「欧化」語文は引き続き支持すべきである。話を精密にしようとすれば中国固有の語法では足りず、中国の大衆語文も永遠に曖昧のままではないからだ。たとえば欧化反対者の言う「欧化」という語自体が中国固有の語ではなく、ある種の新語・新語法にはどうしても使わざるをえない時が来るのだ。
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  四、窮郷僻壤での啓蒙の大衆語は、もちろん方言を純粋に用いるべきだが、同時に改良も必要だ。たとえば「媽的」の一語は、田舎ではいくつもの意味を持ち、時に罵り、時に感心し、時に嘆くが、他に言い方を知らないからだ。先駆者の任務は、彼らに多くの言葉を与え、より明確な意思を表現でき、同時により精確な意味を理解できるようにすることだ。もし同じように「この畜生の天気はまったく畜生で、畜生にもこれ以上やれば全部畜生だ」と書くなら、大衆に何の益があるか。
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  五、すでに大衆語の雛形がある地方では、これを基礎にして改良すべきであり、あまりに僻地の土語を用いる必要はないと思う。たとえば上海で「打つ」を「吃生活」と言うのは上海人の会話には使えるが、作者の叙事に特に用いる必要はない。「打つ」と言っても労働者は同様に理解できるからだ。「像煞有介事」のような表現がすでに通用していると言う者もいるが、それは不正確で、北方の人がこの句に抱く感覚は江蘇の人とは異なり、「儼乎其然」より切実とは言えない。
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  語文と口語は完全には一致しえない。話す時には「あの」「この」のような無意味な言葉がいくらでも挟まるが、書く段になれば、時間と紙の節約のため、意味の明晰のために、取捨選択して削除せねばならない。だから文章は口語より簡潔であるべきであり、しかも明瞭であるべきだ。多少の違いは文章の欠点ではないのである。
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  そこで今実行できることは、(一)ローマ字拼音の制定(趙元任のものは繁雑すぎて使いこなせない)、(二)より平易な白話文を書き、比較的普通の方言を採用し、さしあたり大衆語への作品と見なすこと。思想は言うまでもなく「進歩的」であるべきだ。(三)欧化文法はなお後備として堅持すべきである。
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  もう一つ、文言の擁護者で今や大衆語の旗を掲げている者がいることだ。彼らは一方で極めて高尚な議論を唱えて大衆語を宙に浮かせ実行不能にし、他方でこれに乗じて当面の大敵たる白話を攻撃する。この点も注意すべきであり、さもなくば我々は自ら武器を返上することになる。以上をもって返信に代え、
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  時節柄ご自愛を。
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  迅、上。八月二日。
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=== 第24節 ===
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【子供の写真から話を始める】
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  長らく子供がいなかったので、これは私の行いが悪い報いで、断種するのだと言う者がいた。大家の女将が私を嫌っている時は、自分の子供たちを私のところに遊びに来させず、「あいつを寂しくさせてやれ、寂しさで死なせてやれ」と言ったものだ。しかし今はもう一人子供ができた。無事に育てられるかどうかも甚だ心許ないが、目下のところはかなりものを言い、自分の意見を表明できるようになった。もっとも、まだ話せないうちは良かったが、話せるようになると、彼もまた私の敵のように感じられるのだ。
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  彼は時に私に大いに不満で、ある時は面と向かって「僕がパパになったら、もっと上手くやるよ……」と言い、さらにはかなり「反動的」で、かつて私に厳しい批評を下した。「こんなパパ、何がパパだ!」
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  私は彼の言葉を信じない。息子の時に将来の良き父を自任しても、自分に息子ができた時には先の宣言などとうに忘れている。しかも私は自分でもそう悪い父親ではないと思っている。時には叱り、さらには叩くこともあるが、実は愛しているのだ。だから彼は健康で、活発で、腕白で、少しも萎縮していない。もし本当に「何がパパ」なら、面と向かってこんな反動的宣言をする勇気があるだろうか。
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  だがその健康と活発さが、時に彼に損をさせることもある。九一八事変の後、同胞に日本の子供と間違えられ、何度も罵られ、一度は殴られさえした――もちろん大したことはなかったが。ここでさらに一言、言う方も聞く方もあまり気持ちの良くないことを付け加えておく。最近一年余り、こうしたことは一度もなくなった。
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  中国と日本の子供は、ともに洋服を着ていれば、普通は見分けがたい。だがここの一部の人々は、一種の誤った速断法を持っている。おとなしくて笑いも動きも少ないのは中国の子供、壮健で活発で人見知りせず大声で叫んだり跳ねたりするのは日本の子供、と。
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  ところが不思議なことに、私はかつて日本の写真館で彼を撮ったことがあるが、満面の腕白さで、確かに日本の子供のように見えた。後に中国の写真館でも一枚撮ったが、同じような服装なのに顔つきはとても窮屈で従順で、道地の中国の子供であった。
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  このことについて、私は少し考えてみた。
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  この違いの大きな原因は写真師にある。彼が指示する立ち方や座り方の姿勢からして、両国の写真師は異なり、姿勢が決まると、彼は目を見開いて、最も良いと思う一瞬の表情を撮る。子供はカメラの前に据えられると、表情は絶えず変化する。活発な時もあれば腕白な時も、従順な時も窮屈な時も、退屈な時も恐れる時も、臆さぬ時も疲れた時もある……。従順で窮屈な一瞬を撮れば中国の子供の写真となり、活発や腕白な一瞬を撮れば日本の子供の写真に見えるのだ。
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  従順の類は悪い徳目ではない。だがそれが発展して、あらゆる事に従順というのでは決して美徳ではなく、むしろ不甲斐ないと言うべきだろう。「パパ」や先輩の言葉も、もちろん聞くべきだが、道理に適っていなければならない。もし一人の子供が、万事人に劣ると自認し鞠躬して退くか、あるいは満面の笑みの裏で実は陰謀暗箭を弄するなら、私はむしろ面と向かって「何者だ」と罵る痛快さの方を好む。そして彼自身が一個の「何者か」であることを望む。
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  だが中国の一般的趨勢は、ただ従順の類――「静」の方面へと発展するばかりだ。眉を伏せ目を垂れ、唯々諾々として初めて良い子とされ、「面白い」と称される。活発で、健康で、頑強で、胸を張って顔を上げる……およそ「動」に属するものは、首を振る者が出てき、甚だしくは「洋風」と呼ばれる。さらに長年侵略を受けてきたので、この「洋風」を仇と見做し、ことさらに「洋風」の逆を行く。彼らが活動すれば、私は偏に静坐する。彼らが科学を講じれば、私は偏に扶乩する。彼らが短衣を着れば、私は偏に長衫を着る。彼らが衛生を重んじれば、私は偏に蝿を食う。彼らが壮健なら、私は偏に病む……。これこそ中国固有の文化を守ることであり、これこそ愛国であり、これこそ奴隷根性ではないのだと。
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  実のところ私の見るかぎり、所謂「洋風」の中には優れた点が少なくなく、それは中国人の性質に元来備わっていたものでもあるが、歴代の抑圧によってすでに萎縮してしまい、今では自分でも訳がわからなくなって、一括りに洋人に差し上げてしまったのだ。これは取り戻さねばならない――回復させねばならない――もちろん慎重な選択を加えた上でだ。
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  たとえ中国に固有でないものであっても、優れた点であるなら学ぶべきだ。たとえその教師が我々の仇敵であっても、学ぶべきだ。ここで今皆があまり口にしたがらない日本を持ち出したい。彼の国の模倣が得意で創造が少ないことは、中国の多くの論者に軽蔑されているが、その出版物と工業製品を見さえすれば、とうに中国の及ぶところではなく、「模倣が得意」は決して劣った点ではないとわかる。我々はまさにこの「模倣が得意」を学ぶべきなのだ。「模倣が得意」な上にさらに創造力が加わるならば、それこそ素晴らしいではないか。さもなくば「恨み恨みて死ぬ」だけのことだ。
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  ここに蛇足のような声明を付け加えておく。私は自分の主張が「帝国主義者の指図を受けて」中国人を奴隷にしようとするものでは断じてないと確信している。そして愛国を満口に国粋を満身にまとっても、実際に奴隷となることには何ら妨げがないのだ。
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  (八月七日。)
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=== 第25節 ===
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【門外文談】
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=== 第26節 ===
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【一 はじめに】
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  聞くところでは、今年の上海の暑さは六十年来未曾有だという。昼は飯の種を稼ぎに出て、夜うなだれて帰れば家の中はまだ暑く、しかも蚊がいる。こんな時、門の外だけが天国だ。海辺のせいか、いくらかの風があり、扇を振るにも及ばない。互いに多少の面識はあるが、ふだんあまり顔を合わせない、近所の三階の間借りや屋根裏に住む人々も皆出てくる。ある者は店員、ある者は出版社の校正係、ある者は製図工の腕利きだ。皆すでにくたくたに疲れ果て、苦しみを嘆くが、今はまだいくらか暇なので、雑談もする。
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  雑談の範囲も狭くはない。旱魃のこと、雨乞いのこと、女をくどくこと、三寸の怪人の話、外米のこと、露出した脚のこと、古文のこと、白話のこと、大衆語のこと。私がいくらか白話文を書いたことがあるので、古文の類については特に私の話を聞きたがり、私も特に多く話さざるをえなかった。こうして二、三晩が過ぎ、ようやく他の話題にそれて、一応は話し終えた。ところが数日後、何人かがまた書いてくれと言い出した。
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  彼らの中には、私が古書を多少読んでいるから信じるという者もおり、洋書を多少見ているから信じるという者もおり、古書も洋書も見ているからこそという者もいた。だが数人は逆にそれゆえ信じないと言い、私を蝙蝠だと言った。私が古文の話をすると、笑って言う。「あなたは唐宋八大家じゃないのに、信じられるか。」私が大衆語の話をすると、また笑う。「あなたは苦労する大衆でもないのに、何をほら吹いているんだ。」
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  それもその通りだ。旱魃の話をした時、ある役人が田舎に災害調査に行って、あるところは元来災害にならなくても済んだのに、農民が怠けて水を汲まないから災害になったのだと言った話をした。ところがある新聞には、六十歳の老人が息子に水汲みの疲労で死なれ、災害の様は変わらず、もはや行く道もなく自殺したと記してあった。役人と田舎の人間の意見はかくも違うのだ。してみれば、私の夜話も結局は門外の閑人の空言に過ぎまい。
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  颶風が過ぎて天気もいくらか涼しくなったが、私は結局、書いてくれと望む何人かの望みどおりに書き上げた。口語よりずっと簡潔だが、大意は同じであり、我々のような読者向けに写したものである。当時は記憶だけを頼りにでたらめに古書を引いた。話は耳から耳へ、少々間違っても大したことはないが、紙に書くとなると躊躇される。しかし自分に原典がないのだから、読者の随時のご指正を乞うほかない。
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  一九三四年、八月十六日夜、書き終えて記す。
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=== 第27節 ===
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【二 文字は誰が造ったか】
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  文字は誰が造ったか。
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  我々は一つの物が昔の聖賢によって造られたという話を聞き慣れているから、文字についても当然この問いが出る。だがすぐさま出所を忘れた答えが返ってくる。字は倉頡が造ったのだと。
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  これは一般の学者の主張であり、彼には当然典拠がある。私はかつてこの倉頡の画像も見たことがあるが、四つの目を持つ老爺だった。文字を造るにはまず容貌が並外れていなければならず、我々のような目が二つしかない者は、能力が足りないどころか容貌すら不相応なのだ。
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  しかし『易経』の作者(誰かは知らないが)は比較的聡明で、こう言った。「上古は結縄にて治む。後世の聖人、これに易うるに書契をもってす。」彼は倉頡とは言わず、ただ「後世の聖人」と言い、創造とは言わず、ただ取り替えたと言う。実に慎重である。あるいは彼は無意識のうちに、古代に一人で多くの文字を造り出した人間がいるとは信じていなかったのかもしれず、だからこんなふうに曖昧に一言述べたのだ。
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  では、書契をもって結縄に替えた人はどんな人物か。文学者か。なるほど、今の所謂文学者が最も文字を弄び、筆を奪われたら何もできない事実から見れば、確かにまず彼を思い浮かべる。彼もまた自分の商売道具のために少しは力を出すべきだ。だが実はそうではない。有史以前の人々は、労働する時にも歌い、恋する時にも歌ったが、草稿を起こしたり原稿を残したりはしなかった。夢にも詩稿を売ったり全集を編んだりすることは思い浮かばず、しかも当時の社会には新聞社も書店もなく、文字は何の役にも立たなかったのだ。ある学者たちの話によれば、文字に一番の骨を折ったのは、おそらく史官であったろう。
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  原始社会には初め巫しかおらず、次第に進化して事が繁雑になり、祭祀、狩猟、戦争……の類に記憶の必要が生じると、巫は本職の「降神」のほかに、一方で記録の方法を考え出さねばならなかった。これが「史」の始まりである。しかも「天に昇って奉ず」にあたり、本職上も酋長とその治下の大事を記した冊子を焼いて天帝にお見せせねばならず、このためにやはり文章を書かねばならなかった――もっともこれはおそらく後のことだろう。さらに後に職掌がもっと明確に分かれると、専ら記録を司る史官が現れた。文字はすなわち史官に不可欠の道具であり、古人の言う「倉頡は黄帝の史なり」は、前半は信じがたいが、史と文字の関係を指摘した点はまことに意味深い。後の「文学家」がこれを用いて「ああ、わが愛よ、私は死にそうだ!」等の名句を書くに至っては、出来合いのものを享受しているに過ぎず、「何ぞ道うに足らんや」である。
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=== 第28節 ===
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【三 文字はどうやって生まれたか】
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  『易経』によれば、書契の前には明らかに結縄があった。我々の故郷の田舎の人も、明日肝心なことをしなければならず忘れそうな時、よく「褌の紐に結び目を一つ作っておけ」と言う。では我々の古聖人も、一本の長い縄に一つ事があるたびに結び目を作ったのだろうか。おそらくそうもいくまい。数個の結び目ならまだ覚えられるが、多くなるとまずいことになる。あるいはそれこそ伏羲皇帝の「八卦」の類で、三本の縄を一組にして全部結ばないのが「乾」、中程をそれぞれ結ぶのが「坤」か。それもおそらく違う。八組ならまだしも、六十四組となると覚え難く、まして五百十二組ともなれば。ただペルーにはまだ「結縄文字」(Quippus)が残存していて、一本の横縄に多くの縦縄を掛け、あちこち引いて結び合わせ、網とも網ならぬ形になるが、かなり多くの意味を表し得るようだ。我々の上古の結縄も、おそらくこうしたものだったろう。だがそれは書契に取って代わられ、しかも書契の祖先でもないのだから、ひとまず措くとしよう。
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  夏の禹王の「岣嶁碑」は道士たちの偽作である。今我々が実物で見ることのできる最古の文字は、商朝の甲骨文と鐘鼎文だけだ。だがこれらはすでにかなり進歩しており、原始の形態はほとんど見出せない。ただ銅器の上に時折写実的な図形――鹿や象――が見え、この図形から文字と関連する手がかりも発見できる。中国文字の基礎は「象形」なのだ。
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  スペインのアルタミラ洞窟に描かれた野牛は、有名な原始人の遺跡であり、多くの芸術史家は、これがまさに「芸術のための芸術」であり、原始人が遊びで描いたものだと言う。だがこの解釈はいささか「モダン」に過ぎる。原始人には十九世紀の文芸家ほどの暇はなく、一頭の牛を描いたのには理由がある。野牛に関すること、あるいは野牛を狩ること、野牛に呪いをかけることのためだ。今、上海の壁に貼られた煙草や映画の広告画でさえ、口を開けて眺める人がしばしばいるのだから、珍しいものを見て驚く原始社会で、こうした奇跡があれば一時の大評判になったことは想像に難くない。彼らは一方で見て、野牛というものが線で別の平面に移せることを知り、同時に「牛」という字を認識したようなものであり、一方でこの作者の才能にも感服した。だが誰も彼に自伝を書かせて金を稼がせはしなかったので、姓名は埋もれてしまった。しかし社会の中で倉頡は一人ではなく、ある者は刀の柄に少し図を刻み、ある者は門戸に少し絵を描き、以心伝心、口から口へと伝わって文字は増えていった。史官がそれを集めれば、記録に事足りたのだ。中国文字の由来も、おそらくこの例から逃れまい。
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  もちろん後にはなお不断の増補があったはずで、これは史官自身の手でできたことだ。新しい字を見慣れた字に混ぜれば、しかも象形であるから、他の者も容易にその字の意味を推測できた。今に至るまで中国は新しい字を生み出し続けている。だが、無理に新倉頡になろうとしても失敗する。呉の朱育、唐の武則天はいずれも奇怪な字を造ったが、皆徒労であった。今最も字を造るのが得意なのは中国の化学者で、多くの元素や化合物の名称は読むことすら難しい。正直に言って、私は見ただけで頭が痛くなり、万国共通のラテン名をそのまま使った方がよほどすっきりすると感じる。もし二十余りのアルファベットさえ覚えられないなら、失礼ながら率直に申せば、化学もおおよそ学べまい。
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=== 第29節 ===
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【四 字を書くとは絵を描くことだ】
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  『周礼』と『説文解字』にはいずれも文字の構成法が六種あると記されているが、ここでは論じない。「象形」に関わることだけを述べよう。
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  象形とは「近くは身に取り、遠くは物に取る」であり、目を一つ描けば「目」、丸を一つ描いて光線を何本か添えれば「日」で、もちろん明白で便利だ。だが時には壁にぶつかる。たとえば刃先を描きたい時はどうするか。刀の背を描かなければ刃先も現せない。そこで苦肉の策で、刃先に短い棒を一本加え、「ここだぞ」という印にして「刃」を造った。これはもうかなり難儀な様相だが、まして形のない事柄はさらに「象事」、すなわち「会意」に頼るほかない。片手を木に載せれば「采」、心を家と飯碗の間に置けば「寍」、食と住があって安寧だ。だが「寜可」の寜を書くには碗の下にさらに線を一本引いて、これは「寍」の音を借りただけだという印にせねばならない。「会意」は「象形」よりさらに面倒で、少なくとも二つの物を描く必要がある。「寶」の字に至っては屋根一つ、玉の串一つ、缶一つ、貝一つ、計四つを描く。「缶」はさらに杵と臼の二形から成るとすれば、合わせて五つだ。寶の一字のためだけにかなりの手間がかかる。
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  それでもなお行き詰まる。描けない事物もあれば、描きようのない事物もあるからだ。たとえば松と柏は葉の形が異なるから区別できるはずだが、字を書くのは結局絵画ではなく精巧には描けないから、やはり持ちこたえられない。この膠着を打開したのが「諧声」で、意味と形象が関係を離れた。これはすでに「音の記録」であり、中国文字の進歩だと言う者もいる。その通り、進歩とも言えようが、その基礎はやはり絵描きだ。たとえば「菜」は「草に従い、采の声」で、草むら一つ、爪一つ、木一本の三つを描く。「海」は「水に従い、毎の声」で、川一本、帽子を被った御婦人一人、やはり三つ。要するに、字を書こうとすれば永遠に絵を描き続けねばならないのだ。
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  だが古人は愚かではなく、早くから形象を簡略化し、写実からは遠ざかった。篆書は丸みを帯びた折れ方に絵画の余韻を残すが、隷書から現在の楷書に至っては形象とは天地の差だ。しかし基礎は変わらず、天地の差の後は象形でない象形字となり、書くのは比較的簡単になったものの、覚えるのは極めて困難で、一つ一つ暗記するほかなくなった。しかもある字は今でも簡単ではなく、たとえば「鸞」や「鑿」は子供に書かせれば半年も練習しなければ半寸四方の升目に収まらぬだろう。
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  もう一つ、「諧声」字も古今の字音の変遷により、「声」とあまり「諧」しなくなったものが少なくない。今どき「滑」を「骨」と読み、「海」を「毎」と読む者がどこにいようか。
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  古人が文字を我々に伝えてくれたのは、もとより重大な遺産であり、感謝すべきだ。だが象形でない象形字、必ずしも諧声でない諧声字となった今日、この感謝もいささか逡巡せざるをえないのである。
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=== 第30節 ===
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【五 昔、言文は一致していたか】
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  ここで、昔の言文が一致していたかどうかを推測してみたい。
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  この問題について、今の学者たちは明確な結論を下していないが、口ぶりからすると、概ね一致していたと考えているようで、古ければ古いほど一致していたと。しかし私にはかなりの疑念がある。文字が書きやすければ書きやすいほど口語と一致しやすいが、中国はあれほど描きにくい象形字なのだから、我々の古人はもとから重要でない語を削り取っていたのかもしれない。
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  『書経』があれほど読みにくいのは、口語をそのまま写した証拠のようにも見えるが、商周の人々の確かな口語はまだ研究されておらず、さらに繁雑であったとも言えぬではない。周秦の古書に至っては、著者が多少のお国言葉を用いていても、文字は大体において似ており、たとえ口語に近かったとしても、それは周秦の白話であって周秦の大衆語ではない。漢朝はなおさらで、たとえ『書経』の難解な字句を今の字に置き換えた司馬遷でさえ、特別な場合に多少の俗語を採用した程度だ。たとえば陳渉の旧友が彼の王たるを見て驚いて曰く「夥頤、渉の王たることの沈沈たるや」。しかもその中の「渉之為王」の四字は、太史公が手を加えたのではないかと私は疑っている。
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  では古書に採録された童謡や諺、民歌は、当時の正真正銘の俗語だろうか。これも甚だ心許ない。中国の文学者は、他人の文章を手直しする癖がかなりある。最も明らかな例は漢代民間の『淮南王歌』で、同じ地方の同じ歌が、『漢書』と『前漢紀』では異なっている。
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  一方は――
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  一尺の布、なお縫うべし。
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  一斗の粟、なお舂くべし。
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  兄弟二人、相容れざるとは。
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  他方は――
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  一尺の布、暖かきこと童童。
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  一斗の粟、飽くること蓬蓬。
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  兄弟二人相容れず。
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  比較すると、後者が本来の面目のようだが、すでにいくらか削除されているかもしれない。ただの梗概にすぎないのだ。後の宋人の語録や話本、元人の雑劇や伝奇の科白も、皆梗概であり、ただ用字がやや平易で、削った文字が少ないので「話のごとく明白」と感じさせるのである。
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  私の臆測では、中国の言文はもともと一致していなかったのだと思う。大きな原因は字が書きにくく、省かざるをえなかったからだ。当時の口語の梗概が古人の文であり、古代の口語の梗概が後人の古文である。だから我々が古文を書くとは、もはや象形でない象形字、必ずしも諧声でない諧声字を用いて、紙の上に、今日誰も話さず理解する者も多くない古人の口語の梗概を描き出すことなのだ。思えばこれは難しくないだろうか。
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=== 第31節 ===
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【六 かくして文章は奇貨となった】
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  文字は人民の間に萌芽したが、後には必ず特権者に収攬された。『易経』の作者の推測するところ、「上古は結縄にて治む」であるから、結縄ですらすでに治める者の道具であった。巫史の手に落ちた時にはなおさらで、彼らは皆、酋長の下にして万民の上の人間だ。社会が変わるにつれて文字を学ぶ者の範囲も広がったが、おおむね特権者に限られていた。平民はといえば文盲であり、学費が足りないからではなく、資格がなく、身分不相応だったのだ。しかも書籍も見ることができなかった。中国は版木印刷がまだ発達していなかった頃、一冊の良書があればしばしば「秘閣に蔵し、三館に副う」であり、士子となってもなお何が書いてあるか知れなかった。
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  文字は特権者の所有物であるから、尊厳性を帯び、同時に神秘性をも帯びた。中国の字は今でもなお尊厳で、壁に「敬惜字紙」と書かれた篭が掛かっているのをよく見かける。符の邪を祓い病を治す力に至っては、その神秘性に頼るのだ。文字に尊厳性が備わっていれば、文字を知る者もまた連帯して尊厳になる。新たな尊厳者が続々と現れるのは旧い尊厳者にとって不利であるし、文字を知る者が増えれば神秘性も損なわれる。符の威力は、字のようなものでありながら道士以外には誰にも読めないがゆえなのだ。だから文字を彼らは必ず独占しようとする。
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  ヨーロッパの中世では、文章学問はすべて修道院にあった。クロアティアに至っては十九世紀になっても字を読めるのは聖職者だけで、人民の口語は退歩して旧来の生活に辛うじて間に合う程度であった。革新に際して、外国から多くの新語を借りてくるほかなかった。
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  我々の中国の文字は、大衆に対して、身分や経済の制限のほかに、さらにもう一つの高い敷居を加える。すなわち難しさである。この敷居一つでも、十年の歳月を費やさねば容易に越えられない。越えた者は士大夫となり、この士大夫たちはさらに力を尽くして文字をより一層難しくしようとする。そうすれば格別に尊厳となり、他の一切の普通の士大夫の上に立てるからだ。漢の楊雄が奇字を好んだのはこの病弊であり、劉歆がその『方言』の原稿を借りようとすると、彼は身投げせんばかりだった。唐代では、樊宗師の文章は他人が句読を打てぬほどに書かれ、李賀の詩は他人が読んでもわからぬほどに作られたが、これも皆同じ理由による。もう一つの方法は字を他人が読めないように書くことで、下手な者は『康煕字典』から古い字を引っぱり出して文章に挟み込み、上手な者は錢坫のように篆書で劉熙の『釈名』を書くとか、最近では錢玄同先生が『説文』の字体で太炎先生のために『小学答問』を筆写するとかだ。
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  文字が難しく、文章が難しく、これだけでも元来のものだが、その上にさらに士大夫が故意に特製した難しさを加えて、なお大衆と縁があることを望むのは、どうして叶おうか。しかし士大夫はまさにそれを望むのだ。もし文字が読みやすく皆が覚えれば、文字は尊厳でなくなり、彼もまたそれに伴って尊厳でなくなる。白話は文言に如かずと言う者の出発点はここにあり、今、大衆語を論じて、大衆には「千字課」だけ教えれば十分だと言う者の意の根底もまたここにある。
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=== 第32節 ===
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【七 文字を知らぬ作家】
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  あれほど難しい文字で書き記された古語の梗概を、我々は以前「文」と呼び、今少し新しく呼べば「文学」という。これは「文学子游子夏」から切り取ったものではなく、日本から輸入されたもの、彼らの英語 Literature の訳語だ。こうした「文」を書ける者は、今では白話でも書けるわけで、「文学家」あるいは「作家」と呼ばれる。
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  文学の存在条件としてまず字が書けなければならないのだから、文盲の群れの中に文学家はいるはずがない。しかし作家ならばいる。まだ笑わないでいただきたい、話の続きがある。思うに、人類は文字のない以前から創作をしていた。惜しいことに誰も記録せず、記録する術もなかった。我々の祖先の原始人はもともと言葉さえ話せなかったが、共同作業のために意見を交わす必要が生じ、次第に複雑な音声を練り上げた。もしその時、皆で丸太を担いでいて、力が尽きたと感じても表現できずにいたところ、その中の一人が「ヨイトマケ、ヨイトマケ」と叫んだなら――これが創作である。皆も感心して使い始めれば、これが出版に等しい。もし何かの記号で残されたなら、これが文学であり、彼は当然作家にして文学家、「ヨイトマケ派」の始祖だ。笑うまい、この作品は確かに幼稚だが、古人が今人に及ばぬところは多く、これがまさにその一つだ。周朝の「関関たる雎鳩、河の洲にあり、窈窕たる淑女、君子の好逑」にしても、『詩経』の巻頭にあるゆえに恐れ入って叩頭するしかないが、もし以前にこうした詩がなく、今の新詩人がこの意で白話詩を作ってどこかの副刊に投稿してみれば、十中八九は編集者に紙屑篭に入れられるだろう。「綺麗なお嬢さんは、若旦那の良いお相手!」何を言っているのか。
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  『詩経』の『国風』にしても、良いものの多くは字を知らぬ無名氏の作品であり、比較的優れていたために皆が口づてに伝えた。王官たちが行政の参考になると判断して記録したもので、それ以外に消滅したものは数知れない。ギリシャのホメロス――仮にそういう人がいたとして――の二大叙事詩もまた口誦で、現存するものは他人の記録だ。東晋から斉・陳にかけての『子夜歌』や『読曲歌』の類、唐の『竹枝詞』や『柳枝詞』の類も、もとは無名氏の創作であり、文人が採録し潤色した後に伝わったものだ。この潤色のおかげで伝わりはしたが、惜しいことに本来の姿はかなり失われている。今でも至る所に民謡、山歌、漁歌等があり、これがすなわち文字を知らぬ詩人の作品である。また童話や物語が伝えられており、これがすなわち文字を知らぬ小説家の作品である。彼らがすなわち文字を知らぬ作家なのだ。
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  しかし作品を記録する手段がないために消滅しやすく、流布の範囲も広くならず、知る者も少ない。たまたま文人の目に触れると、かえって驚いて自分の作品に吸い取り、新たな養分とする。旧文学が衰退した時に、民間文学や外国文学を摂取して新たな転換を遂げる。こうした例は文学史上よく見られるのだ。文字を知らぬ作家は文人の細やかさには及ばないが、剛健で清新である。
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  こうした作品が皆の共有となるには、まず作家自身が字を書けるようにならねばならず、同時に読者も字を読め、ひいては字を書けるようにならねばならない。一言で言えば、文字をすべての人に渡すことだ。
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=== 第33節 ===
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【八 どう引き渡すか】
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  文字を大衆に引き渡した事実は、清朝末年からすでにあった。
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  「太鼓を叩くな、銅鑼を鳴らすな、私の太平歌を聴け……」は欽定頒布の大衆教育用俗歌であり、そのほか士大夫も白話新聞をいくつか発行したが、その趣旨は皆が聞いてわかればよく、必ずしも書けなくてもよいというものであった。『平民千字課』にはいくらか書ける可能性が含まれていたが、帳簿をつけ手紙を書く程度で足りるだけだった。心に思うことを書き出そうとすれば、限定された字数では足りない。たとえば牢獄は確かに人に一区画の地を与えるが、制限があり、この囲いの中でのみ立ち歩き座り臥すことができ、鉄格子の外に出ることは決して許されないのだ。
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  労乃宣と王照の両氏はそれぞれ簡字を持っていて、かなり進歩しており、音に従って字を書くことができた。民国初年、教育部が字母を制定しようとした際、二人とも委員であった。労先生は代理を一名派遣し、王先生は自ら出席して、入声の存廃問題で呉稚暉先生と大論戦を繰り広げ、呉先生は腹が凹み、綿袴まで落ちてきたほどだった。だが結局いくらかの検討を経て、「注音字母」なるものが制定された。当時はこれで漢字に取って代われると思う者もいたが、実際にはやはり駄目で、結局は簡略化された方塊字に過ぎず、ちょうど日本の「仮名」のように、いくつか混ぜたり漢字の傍に振ったりするには使えるが、大将に据えるには力不足なのだ。書けば混乱し、読めば目がちらつく。当時の委員たちがこれを「注音字母」と名づけたのは、その能力の範囲をよく心得ていたからだ。日本を見ても、漢字削減を主張する者、ラテン拼音を主張する者はいるが、仮名だけを使おうと主張する者はいない。
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  もう少しましなのはローマ字拼音法で、最も精密に研究したのは趙元任先生だろうが、私にはよくわからない。世界共通のローマ字で綴る――今やトルコさえ採用した――一語一連で実に明瞭、これは良い。だが私のような門外漢に言わせれば、あの拼法はまだ繁雑すぎるように思える。精密を期すれば当然繁雑にならざるをえないが、繁雑に過ぎるとまた「難しく」なり、普及の妨げとなるのだ。もっと簡にして陋ならざるものが望ましい。
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  ここで新しい「ラテン化」法を検討してみよう。『毎日国際文選』に一冊の『中国語書法のラテン化』があり、『世界』第二年第六七号合刊の付録『言語科学』もこれを紹介している。値段は安く、関心のある方は買って見るとよい。字母はわずか二十八、拼法も覚えやすい。「人」は Rhen、「家」は Fangz、「私は果物を食べる」は Wo ch goz、「彼は労働者だ」は Tau sh gungrhen。今、華僑の間で実験して成果が見られたのはまだ北方話だけだ。だが中国はやはり北方話――北京話ではなく――を話す人が最も多いのだから、もし将来本当にどこでも通用する大衆語ができるなら、その主力はおそらくやはり北方話だろう。今のところは多少の増減を施して各地特有の音に合わせれば、どんな窮郷僻壤でも使えるようになる。
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  とすれば、二十八の字母を覚え、拼法と書法をいくらか学べば、怠け者と低能を除けば誰でも書けて誰でも読める。しかもさらに一つの利点がある。書くのが速いのだ。アメリカ人は時は金なりと言う。だが私は思う、時は命なのだ。人の時間を無駄に浪費するのは、実は財産を奪い命を害するに等しい。もっとも、我々のようにぼんやり涼んで雑談している人間は例外だが。
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=== 第34節 ===
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【九 特殊化か、普遍化か】
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  ここまで来ると、また一つの大問題にぶつかる。中国の言語は各地で大いに異なり、大雑把に区別しても、北方話、江浙話、両湖川貴話、福建話、広東話の五種があり、この五種の中にもさらに小区別がある。今、ラテン字で書くとして、普通話を書くのか、それとも土話を書くのか。普通話を書こうにも人々は話せず、土話を書けば他所の人にはわからず、かえって隔てが生じて、全国共通の漢字にも及ばなくなる。これは大きな弊害だ。
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  私の考えはこうだ。最初の啓蒙の時期には、各地がそれぞれの土話を書けばよく、他所と意思が通じるかどうか顧みる必要はない。ラテン化以前に、我々の文盲の人々がもともと漢字で互いに意思疎通していたわけではないのだから、新たな弊害は一つもない。むしろ新たな益がある。少なくとも同じ言語の地域内では、意見を交換し知識を吸収できるようになるのだ――もちろん同時に有益な書物を誰かが書かねばならないが。問題はむしろ、各地のこの大衆語文を、将来は特殊化させるのか、それとも普遍化させるのか、ということだ。
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  方言土語の中には含蓄の深い言い回しが少なくなく、我々の故郷では「練話」と呼ぶ。使えばなかなか趣があり、文言における古典の引用に似て、聞く者も興味津々だ。各地がそれぞれの方言の語法と語彙をさらに錬磨し、発達させていくのが特殊化だ。これは文学にとって大いに益がある。漠然とした言い回しだけの文章よりも含蓄ある作品ができる。しかし特殊化には特殊化の危険がある。言語学はわからないが、生物を見ると、あまりに特殊化すると往々にして絶滅する。人類以前の多くの動植物は、特殊化しすぎて可変性を失い、環境が変わると対応できず、絶滅するしかなかった。――幸い我々人間はまだ特殊化した動物ではないから、心配には及ばない。大衆は文学を持ち、文学を求めるが、文学のために犠牲になるべきでは断じてない。さもなくば、漢字を保存するために中国人の八割を文盲として殉難させようとする生きた聖人とさして変わらぬ愚行だ。だから、啓蒙の時期は方言を使い、一方で普通の語法と語彙を漸次加えていくべきだと思う。既存のものを使うのは一地方の語文の大衆化であり、新しいものを加えるのは全国の語文の大衆化だ。
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  書斎の中で数人の読書人が話し合って出した方案は、大抵うまくいかないが、一切を自然のなりゆきに任せるのも良策ではない。今、埠頭で、公共機関で、大学校で、確かに一種の普通話めいたものがある。皆が話すのは「国語」でもなく北京語でもなく、それぞれお国訛りを帯びているが方言でもなく、たとえ話すのも聞くのも骨が折れるにせよ、ともかく通じる。これを整理し発達を助ければ、大衆語の一支流となり、ゆくゆくはむしろ主力となるかもしれない。私が方言に「新しいものを加える」と言った、その「新しいもの」の出所がここにある。この自然に発生し人為を加えた話が普及すれば、我々の大衆語文は大体において統一されたことになる。
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  その後も当然まだやるべきことはある。年月を経て、語文がさらに一致し、「練話」と同じくらい良く、「古典」よりなお活きた言い回しも次第に形成されれば、文学はさらに精彩を放つだろう。たちまちには実現できない。考えてもみよ、国粋家が宝としている漢字は、三四千年の歳月をかけて、こうした奇妙な成果を積み上げたのだから。
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  では最初に誰がやるのかという問題だが、それは言うまでもなく覚醒した読書人だ。「大衆のことは大衆自身がやるべきだ!」と言う者がいる。もちろん間違いではないが、それを言っている者がどんな人物かを見なければならない。大衆が言っているのなら、自分でやるべきだという点は正しいが、助力を退けるのは誤りだ。もし読書人が言っているのなら、話はまるで違ってくる。彼は美辞麗句で文字を独占し、自分の尊厳を守っているのだ。
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=== 第35節 ===
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【十 恐慌するには及ばない】
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  だが実行するまでもなく、言い出しただけで、また別の一群を恐慌させてしまう。
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  まず言われるのは、大衆語文を提唱しているのは「宋陽の如き文芸の政治宣伝員」であり、本意は造反にあるということだ。色眼鏡の帽子をかぶせるのは極めて簡単な反対法だ。だが同時に、自分の太平のためなら中国に八割の文盲がいても構わぬと言っているのと同じだ。では口頭宣伝の場合はどうか、中国人の八割を聾者にすべきだということになる。だがこれは「文談」の範囲には属さないから、ここで多く述べる必要もない。
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  もっぱら文学を心配する者が、今のところ二種見受けられる。一つは、大衆が皆読み書きできるようになれば、皆が文学家になってしまうという恐れだ。これは天が落ちてくるのを心配する善人だ。前に述べた通り、文盲の大衆の中にもとより作家はいた。私は久しく田舎に行っていないが、以前は農民に少しの余暇があると、たとえば夕涼みの時に物語をする者がいた。ただしこの語り手は大抵決まった人物で、比較的見聞が広く話が巧みで、人に聞かせ、わからせ、面白がらせることができた。これがすなわち作家であり、彼の話を書き取れば作品だ。もし話に味がなく、饒舌好きの者がいれば、皆聞こうとせず、冷やかしの言葉を浴びせる――つまり諷刺だ。我々は数千年の文言と十数年の白話をいじくり回してきたが、書ける者が全員文学家になったことがあったか。たとえ皆が文学家になったところで、軍閥でも匪賊でもないのだから、大衆には何の害もなく、互いに作品を読み合うだけのことだ。
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  もう一つは文学の低落を恐れる者だ。大衆には旧文学の素養がないから、士大夫文学の細やかさに比べれば「低落」と見えるかもしれないが、旧文学の痼疾にも染まっていないゆえに剛健で清新だ。『子夜歌』の類の無名氏文学が旧文学に新しい力を与えたことは先に述べた。今も民歌や物語が多く紹介されている。さらに演劇もある。たとえば『朝花夕拾』が引く『目連救母』の中の無常鬼の自白、ある亡霊に同情して半日だけ生き返らせてやったら閻羅に罰されてしまい、以来もう容赦はしないという――
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  「たとえ銅壁鉄壁であろうとも!
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  たとえ皇族外戚であろうとも!……」
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  何と人情味があり、何と過ちを知り、何と法を守り、しかも何と毅然としていることか。我々の文学家にこれが書けるだろうか。
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  これは真の農民と手工業者の作品であり、暇に任せて演じられるものだ。目連の巡行を貫く多くの物語は、『小尼姑下山』を除けば、刊本の『目連救母記』とはまるで異なる。その中の『武松打虎』は甲乙二人、一人は強く一人は弱く、戯れに演じる。まず甲が武松、乙が虎を演じるが、甲にさんざん殴られて乙が文句を言うと、甲は「お前は虎だ。殴らなければこっちが噛み殺されるじゃないか」。乙は仕方なく交代を申し出るが、今度は甲に噛まれてまた文句を言うと、甲曰く「お前は武松だ。噛まなければこっちが殴り殺されるじゃないか」。思うに、ギリシャのイソップ、ロシアのソログーブの寓話と比べても、些かも遜色がない。
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  もし全国各地で蒐集すれば、この類の作品はまだ実に多いだろう。だがもちろん欠点もある。難しい文字、難しい文章に封鎖され続け、現代思潮と隔絶していることだ。だから中国の文化を共に向上させようとするなら、大衆語・大衆文を提唱し、しかも書法はラテン化すべきなのだ。
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=== 第36節 ===
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【十一 大衆は読書人が思うほど愚かではない】
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  だが今回は、大衆語文が提起されるや否や、たちまち猛将がここぞとばかりに現れた。出所はまちまちだが、皆一様に白話、翻訳、欧化語法、新語に攻撃を加える。皆「大衆」の旗を掲げ、これらは大衆にわからないから駄目だと言う。中には元来の文言の残党で、これに乗じてまず当面の白話と翻訳を叩こうとする者がいる。先祖伝来の「遠交近攻」の古い術だ。また怠惰な分子で、努力もせず、大衆語が未完成のうちに白話を先に倒し、その空き地で大口を叩こうとする者もいるが、実は文言文の良い友人なのだ。これらについてはここで多くは述べない。今述べたいのは、善意ではあるが誤っている人々のことだ。彼らは大衆を見くびるか、さもなくば自分を見くびって、やはり昔の読書人の古い癖を犯しているのだ。
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  読書人は往々にして他人を見くびり、やや新しく、やや難しい語句でも自分にはわかるが大衆にはわかるまいと思い、大衆のためには徹底的に掃滅すべきだと考える。話も文章も、俗であればあるほどよいと。この意見を推し進めれば、彼は知らず知らずのうちに新国粋派になる。あるいは大衆語文を大衆の間に速やかに広めようとして、何でも大衆の口に合わせるべきだと主張し、甚だしくは「大衆に迎合」すべきだと言い、わざと多めに罵って大衆の歓心を買おうとする。これにはもちろん彼なりの苦心があるが、こうしていけば大衆の新しい太鼓持ちになってしまう。
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  大衆と言えば、その範囲は実に広く、各種各様の人が含まれる。だが「目に丁字を識らず」の文盲ですら、私の見るところ、読書人が想像するほど愚かではない。彼らは知識を求め、新しい知識を求め、学び、摂取する能力がある。もちろん新語法や新名詞を満口にすれば何もわからないだろう。だが必要なものを徐々に注ぎ入れていけば、彼らは受け入れる。その消化力は、先入観のより多い読書人よりむしろ勝っているかもしれない。生まれたばかりの赤子は皆文盲だが、二歳になれば多くの言葉を理解し、多くの言葉を話せるようになる。その全部が彼にとっては新名詞・新語法だ。『馬氏文通』や『辞源』で調べたのか。教師が説明したのでもない。何度か聞いて、比較の上から意味を悟ったのだ。大衆が新語彙と語法を摂取するのも同じことで、彼らはこうして前進する。だから新国粋派の主張は、大衆のためを思うように見えて、実は引き留める役目を果たしているのだ。ただし大衆の自然に任せきりにもできない。ある種の見識では彼らはやはり覚醒した読書人には及ばず、随時選別してやらなければ、無益な、さらには有害なものを誤って手にするかもしれないからだ。だから「大衆に迎合する」新しい太鼓持ちは、絶対にいけないのだ。
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  歴史の示すところによれば、およそ改革は最初、覚醒した知識人の任務である。だがこれらの知識人は、研究があり、思索でき、決断力があり、しかも毅力がなければならない。彼もまた権を用いるが、人を欺くのではない。彼は利導するが、迎合するのではない。彼は自分を見くびって皆の道化だとは思わず、他人を見くびって自分の子分だとも思わない。彼はただ大衆の中の一人なのだ。これこそが大衆の事業をなしうる者だと、私は思う。
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=== 第37節 ===
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【十二 結び】
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  話はもうずいぶんした。要するに、話だけでは駄目で、肝要なのは実行だ。多くの人が実行すること――大衆と先駆者が。各種の人が実行すること――教育家、文学家、言語学者……。これはすでに緊急の必要に迫られている。たとえ目下はまだ多少逆風の中の舟漕ぎであっても、綱を引くしかない。順風ならもちろん結構だが、それでも舵取りは欠かせない。
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  この綱引きや舵取りの良い方法は、口でも語れるが、大部分は実験から得られるものであり、どのように風を読み水を読んでも、目指すところはただ一つ、前へ進むことだ。
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  各人それぞれにいくらかの意見があるだろう。さあ今度は諸君の高論を聞かせてもらおう。
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=== 第38節 ===
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【肉の味を知らずと水の味を知らず】
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  今年の尊孔は、民国以来二度目の盛典であり、繰り出せるものはほぼすべて繰り出された。上海の華界は夷場(彝場とも書く)に近いとはいえ、当年孔子が聴いて「三月肉の味を知らず」となった「韶楽」を聴くことができた。八月三十日の『申報』は我々にこう報じた――
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  「二十七日、本市各界は文廟にて孔誕紀念会を挙行。党政機関及び各界代表千余名が参列。大同楽会が中和韶楽二章を演奏。使用楽器は音量拡大のため、古今を問わず、凡そ国楽器はすべて配入し、合計四十種。その譜は旧来のままにて変動なし。その節奏を聴けば、荘厳粛穆にして凡響に同じからず、悠然として敬を起こさしめ、三代以上の承平雅頌に親しむ心地あり。すなわち我が国民族性の酷く和平を愛するの表示なり。……」
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  楽器は古今を問わず一律に配入したのだから、周朝の韶楽とはかなり違うはずだ。だが「音量拡大のため」にはこうするしかなく、しかも今日の尊孔の精神ともよく調和しているようだ。「孔子は聖の時なる者なり」「すなわち聖のモダンなる者なり」、三月のあいだフカヒレや燕の巣の味を忘れるには、楽器は「合計四十種」でなければなるまい。しかもあの時代、中国にはすでに外患はあったが、まだ夷場はなかった。
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  しかしこれによって時勢がやはり多少異なることもわかる。たとえ「音量を拡大」しても、結局は田舎までは届かない。同日の『中華日報』には「承平雅頌、すなわち我が国民族性の酷く和平を愛するの表示」の体面をかなり損なう記事が載っており、最も間の悪いことに事件もまた二十七日のことであった――
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  「(寧波通信)余姚は入夏以来、天候の旱魃により河水が涸渇し、住民の飲料水は大半が河畔に土井を掘って汲み取るものなれば、しばしば先後を争いて衝突を起こす。二十七日午前、姚城より四十里の朗霞鎮後方屋地方にて、住民の楊厚坤と姚士蓮が、また井戸水を争い衝突を生じ、互いに殴り合う。姚士蓮は煙管の頭で楊の頭部を猛打し、楊は即座に昏倒。続いて姚はさらに木棒と石で楊の急所を打ち、ついに殴打により死亡。隣人が異変を聞きつけ駆けつけた時には楊はすでに息絶えていた。姚士蓮は事の重大を見て取り、免れ難きを悟り、即座に逃走……」
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  韶楽を聴くのは一つの世界であり、喉が渇くのは一つの世界だ。肉を食べてその味を知らぬのは一つの世界であり、喉が渇いて水を争うのはまた一つの世界だ。もちろんこの間に君子と小人の区別は大いにあるが、「小人なくんば君子を養う能わず」であり、彼らが互いに殴り殺し、渇き死にするのに任せるわけにもいくまい。
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  聞くところでは、アラビアのある地方では水がすでに宝物で、水を飲むために血と引き換えにするという。「我が国民族性」は「酷く和平を愛する」のだから、おそらくそこまでにはなるまい。だが余姚の実例はいささか恐ろしく、我々は肉食者が聴いて肉の味を知らなくなる「韶楽」のほかに、水の味を知らぬ者が聴いて水を飲みたいとも思わなくなる「韶楽」をも必要とするのだ。
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  (八月二十九日。)
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=== 第39節 ===
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【中国語文の新生】
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 中国の現在のいわゆる中国字と中国文は、もはや中国の万人のものではなくなっている。
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 古は、いずれの国であれ、文字を操り得るのは少数者に限られていた。しかし今日では教育が普及し、およそ文明国と称される国では、文字はすでに万人の共有するところとなっている。ところがわが中国では、識字者はおおむね全人口の十分の二にすぎず、文章を書き得る者はさらに少ない。これでなお文字がわれわれ万人と関係があると言えようか。
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 あるいは、この十分の二の特別な国民が中国文化を抱持し、中国大衆を代表しているのだと言う者もあろう。私はこの言葉は正しくないと思う。このような少数は中国人を代表するに足りない。中国人の中に燕の巣やふかひれを食う者があり、紅丸を売る者があり、賄賂を取る者があるが、これをもってすべての中国人が燕の巣やふかひれを食い、紅丸を売り、賄賂を取っていると言えないのと同じである。さもなければ、鄭孝胥ひとりが「王道」の一切を満洲に担いで行けることになってしまう。
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 われわれはむしろ最大多数を根拠として、中国は現在、文字を持たないに等しいと言うべきである。
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 このような文字すら持たない国は、日一日と衰えて行きつつある。例を挙げるまでもなかろうと思う。
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 文字がないというこの一点だけでも、知識人はとうの昔から漠然たる不安を感じていた。清末の白話報の刊行も、五四の「文学革命」の叫びも、みなこのためである。しかしまだ文章が難しいことを知っただけで、中国には文字がないに等しいということに気づいていなかった。今年の文言文復興の提唱もこのためであるが、今日の機関銃が利器であることを知りながら、従来の怠慢のゆえに奮起しえず、窮地に臨んでなお僥倖を望み、ただ大刀隊で事を成さんと夢想するのと同じである。
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 大刀隊の失敗はすでに明らかで、わずか二年で九十九本の鋼刀を打って軍に送る者はいなくなった。しかし文言隊の役立たずが露呈するのは極めて緩やかで、極めて隠微であり、まだ命脈を保っている。
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 文言文提唱の時代逆行に対して、今日の大衆語文の提唱がある。しかしこれもまだ根本の問題に触れていない──中国には文字がないに等しいということに。ラテン化の提案が現れるに至って、問題解決の急所がようやく捉えられたのである。
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 反対は当然、大いにあるだろう。特権的人物の因習は動かし難い。ガリレイが地動説を唱え、ダーウィンが進化論を説いて宗教と道徳の基礎を揺るがし、攻撃を受けたのは少しも怪しむに足りない。しかしハーヴェイが血液の人体における循環を発見したのは、一切の社会制度とどんな関係があるのか。それでも一世にわたって攻撃を受けた。しかし結果はどうか。結果は──血液は人体の中を循環しているのだ!
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 中国人がこの世界で生存しようとするならば、《十三経》の名目を暗記する学者も、「灯紅」に「酒緑」と対句を作る文人も無用であり、ひとえに万人の切実な知力に頼るほかないことは明白である。ならば、生存しようと欲するならば、まず知力の伝播を阻害する結核を除去しなければならない。すなわち非語文と方塊字である。万人に旧文字の犠牲になってもらいたくなければ、旧文字を犠牲にするしかない。どちらの道を行くか──これは冷笑家が指摘するように、ただラテン化提唱者の成否に関わるのではなく、中国大衆の存亡に関わるのである。実証を得るのに、さほど長く待つ必要もあるまい。
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 ラテン化についてのより詳しい意見は、おおむね《自由談》に連載された華圉の《門外文談》に近いので、ここでは多く述べない。冷笑家がみな嘲る大衆語の前途の困難には、私も同感である。しかし困難であっても、なおやらねばならない。困難であればあるほど、なおさらやらねばならない。改革は昔からかつて順風満帆であったためしはなく、冷笑家が賛成するのは成果を見た後のことなのだ。信じないなら、白話文を提唱したときのことを見るがよい。
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 (九月二十四日。)
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=== 第40節 ===
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【中国人は自信力を失ったか】
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 公開の文章から見ると──二年前にはわれわれはしきりに「地大物博」と自慢していた。これは事実である。まもなく自慢しなくなり、ただ国際連盟に望みを託すようになった。これも事実である。今ではもう自らを誇ることもなく、国際連盟を信じることもなく、ひたすら神仏に祈り、懐古傷今するばかりとなった──これもまた事実である。
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 そこである者が嘆じて曰く、中国人は自信力を失った、と。
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 もしこの一点の現象だけで論ずるなら、自信は実はとうの昔に失われていたのだ。以前は「地」を信じ、「物」を信じ、後には「国際連盟」を信じた。いずれも「自分」を信じたことはない。もしこれも一種の「信」だと言うなら、中国人がかつて持っていたのは「他信力」とでも言うべきもので、国際連盟に失望して以来、この他信力をも失ったにすぎない。
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 他信力を失えば疑いが生じ、ひとたび身を翻せば、あるいは自分だけを信じ得たかもしれない。それこそ新たな活路であったろう。しかし不幸にも次第に玄虚に向かってしまった。「地」や「物」を信じていたころは、まだ切実なものだった。国際連盟は渺茫たるものだが、それでもやがてそれに依拠する不確かさに気づかせるくらいのことはできた。ひとたび神仏に祈るに至っては、もう玄虚の極みであり、有益か有害か、一時には明らかな結果を見出しがたく、人をより長く自己麻酔させ得るのである。
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 中国人が今発展させつつあるのは「自欺力」である。
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 「自欺」もまた今日始まったものではなく、今はただ日に日にその明白さを増し、一切を覆い尽くしたにすぎない。しかしこの覆いの下に、自信力を失わない中国人がいる。
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 われわれは古来、黙々と骨身を惜しまず働く人があり、命を賭して力を尽くす人があり、民のために命を請う人があり、身を捨てて法を求める人があった。……帝王将相のための家系図にも等しいいわゆる「正史」ですら、彼らの光輝を覆い隠すことはできなかった。これこそ中国の脊梁である。
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 このような人々が今日少ないなどということがあろうか。彼らには確信があり、自欺しない。彼らは前仆後継の戦いの中にあるが、ただ一方では常に摧残され、抹殺され、暗黒の中に消え、世に知られないだけのことである。中国人が自信力を失ったと言うのは、一部の人を指すならまだしも、もし全体に加えるならば、それはまさに誣蔑である。
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 中国人を論じようとするなら、表面に塗られた自欺欺人の脂粉に騙されてはならない。その筋骨と脊梁を見なければならない。自信力の有無は、状元宰相の文章をもって証とするに足りず、自ら地の底を見に行くべきなのだ。
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 (九月二十五日。)
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=== 第41節 ===
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【「目には目を」】
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 杜衡氏は「最近、『新しい本を読むよりはむしろ古い本を読んだ方がよい』という気持ちから」、シェイクスピアの《ジュリアス・シーザー》を読み返した。この再読はなかなか意味深いもので、おかげでわれわれは、古い本を読んで得た氏の新しい文章、すなわち《シェイクスピア劇ジュリアス・シーザーに表現された群衆》(《文芸風景》創刊号所収)を拝読することができた。この戯曲を杜衡氏は「二箷月の時間をかけて翻訳したことがある」というのだから、非常に精読したことがわかる。氏の教えるところによれば、「この劇で、シェイクスピアは二人の英雄を描いた──シーザーと……ブルータス。」しかし最後の勝利はアントニーに帰し、「明らかに、アントニーの勝利は群衆の力に依ったものであり」、「群衆こそこの劇の目に見えぬ主脳であると言っても、言い過ぎとはならぬ」のである。杜衡氏は叙述と引用の後に結びを加えた。「これらの数多くの箇所において、シェイクスピアは群衆を一つの力として表現することを忘れない。ただし、この力はただ一種の盲目な暴力にすぎない。彼らには理性がなく、明確な利害観念がない。」これもまた必ずしも正確な見解ではないが、同じく《ジュリアス・シーザー》から群衆を見ていながら、結果は杜衡氏とこれほどの差がある。杜衡氏はシェイクスピアのために愁う必要など毛頭ない。(九月三十日。)
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=== 第42節 ===
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【「面子」を論ず】
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 「面子」はわれわれの会話の中でしばしば耳にするものであり、一聞してわかるように思われるから、じっくり考える者はおそらく多くない。しかし近ごろ外国人の口からも、時にこの二音を聞くようになった。彼らは研究しているらしい。この一事はなかなか理解しがたいが、中国精神の綱領であり、これさえ掌めば、二十四年前に辮子を掌んだのと同じく、全身がそれについて動く、と彼らは考えている。中国人が「面子」を欲するのは良いことだが、残念なのはこの「面子」が「円機活法」であり、変化に巧みなことで、こうして「恥知らず」と混ざり合ってしまうのだ。長谷川如是閑が「盗泉」について言っている。「古の君子は、その名を悪みて飲まず。今の君子は、その名を改めて飲む。」(十月四日。)
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=== 第43節 ===
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【運命】
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 ある日、私は内山書店で雑談していた。そこで初めて知ったのだが、日本の丙午年生まれ、今年二十九歳の女性は、まことに不幸な一群だという。丙午年生まれの女は夫を剋すと広く信じられており、結婚が非常に困難なのである。私は尋ねた。この宿命を解除する方法はあるのか。答えは──ない。すると私はすぐに中国のことを思い浮かべた。中国人は確かに運命を信じている。だがこの運命には転じさせる方法があるのだ。運命は中国人にとって事前の指針ではなく、事後の一つの解釈にすぎない。今後もし科学をもってこの迷信に替え得るならば、定命論の思想もまた中国人を離れるであろう。(十月二十三日。)
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=== 第44節 ===
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【臉譜についての臆測】
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 演劇について、私はまったくの門外漢である。しかし中国演劇を研究する文章に出会えば、時には目を通すこともある。伯鴻氏は《戲》週刊第十一期で臉譜に触れ、中国劇に時に象徴的手法が用いられることを認めた。「白は『奸詐』、赤は『忠勇』、黒は『威猛』を表す」などは西洋の色の象徴と異ならない、と。この「臉譜」こそ、俳優と観客が共同で次第に議定した分類図であると私は思う。臉譜にはもちろんそれ自体の意義がある。しかし私はやはり象徴的手法ではないと感じており、今日ではもはや贅瘤にすぎないと思う。(十月三十一日。)
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=== 第45節 ===
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【気ままな拾い読み】
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 私が消閑として行う読書──気ままな拾い読みについて少し話したい。だが下手をすると害を受けないとも限らないのである。最初に読書した場所は私塾で、最初の本は《鑑略》だった。しかしやがて少しずつ字を覚え、家にあった二、三箱のぼろぼろの本をあれこれ繰っては、もっぱら図画を探して見、後には文字も読むようになった。こうして習慣となり、手元に本があればそれが何であれ、手に取ってめくらずにはいられない。今に至るまでそうである。「気ままな拾い読み」は、さまざまな鉱石で比較する方法であり、真の金鉱で比べるほど明瞭でも簡単でもない。私自身は、少し日本語ができるおかげで、日本語訳の《世界史教程》と新刊の《中国社会史》でしのいでいる。(十一月二日。)
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=== 第46節 ===
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【ナポレオンとジェンナー】
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 私の知るある医者は、忙しい人だが、患者からの攻撃もしばしば受ける。あるとき自嘲して嘆息した──称賛を得たければ、人を殺すに如くはない。ナポレオンとジェンナー(Edward Jenner, 1749-1823)を比べてごらんなさい……思うにこれは本当である。ナポレオンの戦績はわれわれと何の関係があるのか、それでもわれわれは常にその英雄を敬服する。しかしわれわれの腕を見れば、おおむね幾つかの痕がある。これは種痘の跡であり、われわれを天然痘の危険から救ったものだ。殺人者は世界を毀損し、救命者はそれを修繕する。しかし砲弾の餌の資格を持つ諸公は、つねに殺人者を礼賛するのだ。この見方が変わらない限り、世界はなお毀損され続けるだろうと、私は思う。(十一月六日。)
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=== 第47節 ===
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【《戯》週刊編集者への返信】
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 魯迅先生閣下──《阿Q》の第一幕はすでに掲載を終えました。舞台上演の試みはすぐには実現できませんが、準備作業は間もなく着手する予定です。先生にまずご意見をいただければと存じます。これは編集者の願いであり、作者、読者、そして上演に携わる同志たちの願いでもあります。ご健康を祈ります! 編集者
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 編集先生──《戯》週刊に寄せられた公開書簡は早くに拝見しました。演劇について私は何の研究もなく、最も確実な返答は一言も発しないことです。しかし先生と読者諸氏が、私がただの門外漢の気ままな話にすぎないとご了解くださるなら、個人的な意見を少し述べてもよかろうと思います。
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 《阿Q》は毎号の掲載量が多くなく、各号の間に六日の隔たりがあるので、断続的に読み、また断続的に忘れてしまいました。覚えているのは、その編排──《吶喊》の他の人物も挿入して未荘あるいは魯鎮の全貌を示す方法が、なかなかよいということだけです。しかし阿Qの話す紹興語は、私にも多くの箇所が理解できませんでした。
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 今、自分から言いたいことが二点ある──
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 一、未荘はどこにあるか。《阿Q》の編者はすでに決定した──紹興に、と。私は紹興人であり、書く背景も紹興が多いから、この決定にはおそらく誰もが同意するだろう。しかし私の小説の中で、どこそこと明示しているものはきわめて少ない。あの時私は思った──もし暴露小説を一篇書いて、場所を指定すれば、当地の人は恨み、他所の人は無関心となる。互いに反省せず、作品の意義も作用も失われる。私の方法は、読者に自分以外の誰について書いているのかわからなくさせ、しかし自分のことのようでもあり万人のことのようでもあるとの疑いを持たせ、反省の道を開くことにある。
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 二、阿Qは何語を話すべきか。阿Qの生涯が紹興で過ぎたのなら、当然紹興語を話すべきである。しかし第三の疑問が続く──
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 三、《阿Q》はどこの人々に見せるのか。もし紹興の人に見せるなら、紹興語でなければならない。しかし他所の人に見せるとなれば、この脚本の作用は減殺される。
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 私の意見は以上である。一言で総括すれば、この脚本は特殊化しすぎず、皆が活用できるようにするのが最もよい。
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 最後にもう一つ。数箇月前、ある友人の大衆語に関する質問に答えたことがあり、この手紙は後に《社会月報》に掲載された。末尾には楊邨人氏の一篇が置かれていた。紹伯氏が《火炬》で、私がすでに楊邨人氏と和解したと述べた。ここで付言する。同一の刊行物上のいかなる著者に対しても、和解の意を表す気持ちはない。ただし同一陣営の者が変装して背後から私に一刀を加えるならば、私のその者への憎悪と蔑視は、明白な敵以上のものである。
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 魯迅。十一月十四日。
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=== 第48節 ===
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【《戯》週刊編集者への書簡】
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 編集先生──本日《戯》週刊第十四期を見ました。《独白》に私の返信が届かないことへの「遺憾」が述べられていましたが、この手紙はおととい送り出したはずで、しかも病中に書いたものですから、なかなか精を出したつもりでおります。
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 この週刊で幾つかの阿Q像を見ましたが、いずれもあまりに特殊で風変わりに思われます。私の意見では、阿Qは三十歳前後、姿は平凡で、農民的な質朴と愚鈍を持ちつつも、遊び人の狡猾さも少々帯びているはずです。上海では人力車夫の中にその影を見出せるかもしれませんが、流氓めいてもちんぴらめいてもいない。頭に瓜皮小帽を被せただけで、阿Qではなくなります。私が彼に被せたのは氈帽だったと記憶しています。黒い半球形のもので、帽子の縁を一寸余り折り返して頭に被る。上海の近郊では今でも被っている人がいるだろう。
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 新聞に図画が欲しいとありましたが、手元に十枚あります。陳鉄耕君の木版画で、ここにお送りします。彼は広東人なので、背景の多くはおそらく広東でしょう。
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 なお、本日の《阿Q正伝》に「小Dはおそらく小董だろう」とありますが、そうではありません。彼の名は「小同」で、大きくなれば阿Qと同じです。
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 魯迅拝。十一月十八日。
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=== 第49節 ===
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【中国文壇の鬼魅】
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 一
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 国民党が共産党に対する態度を合作から殲滅に転じた後、ある者は言った──国民党はもとより彼らを利用したにすぎず、殲滅は予定の計画だったのだ、と。しかし私はこの説が真実だとは思わない。国民党の中には共産を望む有力者がかなりいた。彼らが子女をソ連に送り学ばせたのがその証拠である。ただ有力者たちには錯誤した考えがあったようで、共産しても自分たちの権力と財産はさらに増えるはずだと考えていた。しかし後の事態は、共産主義にはそのような融通が利かないことを証明した。そこで殲滅の決意が下されたのだ。
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 かくして多くの青年たちが自らの血をもって自らの過ちと有力者たちの過ちを洗った。
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 二
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 共産主義者は中国で該殺の罪人となった。しかもこの罪人は別人に無窮の便利を与えた。彼らは商品となり、金になった。「民族主義文学」が武器として出現し、「第三種人」が左右いずれにも属さぬと称した。
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 三
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 しかし革命文学は動揺せず、さらに発達した。書店への圧迫が最良の戦略となった。中央宣伝委員会は一四九種の書を禁じた。出版家を困らせ、検査制度が始まった。「第三種人」も検査官の椅子に座った。
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 四
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 しかし実際には文学界の陣線はさらに分明となった。欺瞞は長続きしない。続くのはまた一場の血腥い戦闘である。
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 (十一月二十一日。)
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=== 第50節 ===
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【新文字について】
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──答問──
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 比較は最もよいことである。拼音字を知る前には、象形字の難しさに思い至ることはない。ラテン化の新文字を見る前には、以前の注音字母やローマ字綴りも煩雑で実用に適さないと明確に断じ難い。
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 方塊漢字はまさに愚民政策の利器である。労苦大衆が学ぶ可能性がないのみならず、特権階級でさえ学び得ない者がまことに多い。
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 ゆえに漢字もまた中国の労苦大衆の身体に潜む一つの結核であり、これをまず除去しなければ、結果は自らの死あるのみ。今回の新文字ははるかに簡易で、実生活に根ざしており、学びやすく実用的である。これこそ労苦大衆自身のものであり、第一の唯一の活路である。
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 現在中国で試験されている新文字は、南方の人が読むとすべてを理解することはできない。各地方の言語に応じて別々に綴り、将来の疎通を図るしかない。しかし彼らは新文字が労苦大衆に利することを深くわきまえている。だから白色テロが蔓延する地では、この新文字が摧残されるのは必定である。
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 (十二月九日。)
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=== 第51節 ===
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【病後雑談】
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 一
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 少し病にかかるのは、確かに一種の福というものである。ただし二つの必要条件がある。一つは病が軽いこと。もう一つは手元にいくらかの現金があること。この二つのうち一つでも欠ければ、病の雅趣を語るに足りない。
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 私はもとからめったに病にかからないが、先月は少々患った。最初は毎晩発熱し、力が出ず、食欲がなく、一週間経っても治らない。医者は流行性感冒だと言った。しかし解熱すべき時期を過ぎても熱は引かなかった。検査の結果、死病はないことは明白で、ただ毎晩の発熱と脱力と食欲不振があるだけ。これはまさに「半口の血を吐く」に等しく、病の福を大いに享受し得る。
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 光は胡思乱想も仕方がない。精神を使わずに読める本でも見る方がよい。こういう時には、私は中国の紙の線装本に賛成する。寝ころんで読めば、軽くてまるで力が要らず、魏晋人の豪放瀟洒な風姿が眼前に浮かぶ。
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 「雅」には地位が要り、金も要る。古今異ならない。しかし古代の雅の値段は今より安かった。方法もまた異ならず、本は書架に飾り、酒杯は卓上に置く。しかし算盤は引き出しにしまうか、最もよいのは腹の中に収めておくことである。これすなわち「空霊」と言う。
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 二
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 所以我恐怕只好自己承認「俗」。《世説新語》をひと通りめくった後、「養病」から「養病費」のことに考え及んでしまい、がばと起き上がって版税の請求と稿料の催促の手紙を書いた。本を替え、明末清初の野史を手に取った。最初に手にしたのは《蜀碧》であった。
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 翻って巻三に「剥皮者、頭より臀に至り、一筋にこれを裂き、前に張る」の一条を見つけた。医術と酷刑とは、いずれも解剖学の知識を要する。中国は奇怪なことに、固有の医書の人体五臓図はまことに粗略だが、酷刑の方法は古人が現代の科学をすでに心得ていたかのようである。
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 三
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 清朝には族滅あり、凌遅あり、しかし剥皮の刑はなかった。後に膾炙された虐政は文字の獄である。清朝が多くの古人の著作の字句を削改し、多くの明清人の書を禁じたことは、われわれが今なお直接にその流毒を被っている。
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 四
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 病中にこれらの書を読み、つまるところ気が滅入る。しかし聡明な士大夫は血の海の中から閑適を見出す。序文の後に「古穆にして魏晋間の人の筆意あり」の批語を見出した。これはまさに天下の大技量である。
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 (十二月十一日。)
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=== 第52節 ===
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ある事は言い方を変えるとあまり具合がよくない。だから君子は俗人の「道破」を憎む。実際「君子は庖厨を遠ざくるなり」は自欺欺人の方法である。君子は牛肉を食わねばならないが、牛の臨死の觳觫を見るに忍びず、立ち去って、ビーフステーキに焼き上がってからゆっくりと咀嚼する。こうして心安理得、天趣盎然となるのだ。
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 撒一点小谎可以解無聊。永楽帝が無理やり皇帝になったことに、一部の士大夫はよろしくないと思っていた。鉄鉉の二人の娘は教坊に送られ娼妓にさせられた。しかしある者が言った──後に二女は詩を献じて赦免され、士人に嫁いだ、と。まさに「曲終わりて雅を奏す」、天皇はやはり聖明であり善人もついに救われたと感じる。
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 しかし「浮光掠影」はここで止めておかねばならず、先を考えてはならない。永楽帝の上諭には凶残猥褻なものがあり、教坊では彼女たちを「転営」──各兵営を数日ずつ巡らせ、多数の男に凌辱させた。いわゆる「守節」は「良民」にのみ許された特典だったのだ。
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 私は杭世駿の《訂訛類編》で、この佳話の欺瞞を確かに知った。鉄長女の詩は実は呉人范昌期の《老妓の巻に題す》の作であった。
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 中国のある種の士大夫は、つねに無中生有、移花接木して物語を作り上げる。彼らは昇平を歌頌するのみならず、暗黒をも粉飾する。
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 私が死んだ後、決して追悼会を開いたり記念冊を出したりしないでほしい。あの紙や墨を買う金があるなら、むしろ明人、清人の野史や筆記を数冊選んで印刷した方が、皆にとってはるかに益がある。ただし句読点を間違えぬようにしてほしい。
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 (十二月十一日。)
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=== 第53節 ===
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【病後雑談の余──「憤懣を舒ぶ」について】
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 一
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 私がいつも明の永楽帝の凶残は張献忠を遥かに上回ると言うのは、宋端儀の《立斎閑録》の影響を受けてのことである。その時、私はまだ満洲治下の辮子を垂らした十四、五歳の少年だったが、すでに《蜀碧》を読んで「流賊」の凶残を痛恨していた。後に《立斎閑録》の中に永楽帝の上諭を見た。そこから私の憎悪は永楽帝に移った。
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 昨日《安徽叢書》第三集で清の兪正燮の《癸巳類稿》改定本を見つけ、永楽帝の上諭が引いてあった。摘録する──
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 「永楽十一年正月十一日、教坊司奏す。斉泰の姉及び黄子澄の妹、四人の婦人あり。毎日二十余人の男が看守す。年少の者はみな身籠もりたり。生まれし子は小亀子となさしむ。聖旨を奉ず──由他。大きくなったら淫賤の材児ではないか、と。」
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 「鉄鉉の妻楊氏、年三十五、教坊司に送る。茅大芳の妻張氏、年五十六、教坊司に送る。張氏病死す。聖旨を奉ず──上元県に申しつけて門外に担ぎ出し、犬に食わせよ!欽此!」
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 有史以来、中国人は同族にも異族にも屠殺され、奴隷にされてきた。兪正燮は清朝の楽戸解放を記した後、結語として「本朝ことごとくその籍を去り、天地のためにこれを廓清せり。漢儒の朝廷の功徳を歌頌し、自ら『憤懣を舒ぶ』と云う」と書いた。
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 二
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 しかし兪正燮の歌頌清朝功徳は当然の事だった。文字獄の血迹はすでに消失し、愚民政策は集大成されていた。清朝の削改した古書の内容こそ最も陰険であった。乾隆朝の《四庫全書》纂修は盛業と頌されるが、古人の文章を修改し、骨気ある作者がいたことを永久にわからなくした。
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 《四部叢刊続編》の影旧抄本《嵩山文集》には、四庫本との対比がある。「金賊」は「金人」に、「犬羊」は削除され、「夷狄」は忌避され、「中国」の二字すら許されない。清朝の考据家は「明人好刻古書而古書亡」と言ったが、清人は《四庫全書》纂修で古書を亡ぼし、今人は標点で古書を亡ぼした。これは水火兵虫以外の三大厄である。
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 三
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 清朝への憤懣の再発は光緒中に始まる。太炎先生は文章をもって排満の驍将として知られた。日本留学の学生の一部は図書館で革命を鼓吹し得る明末清初の文献を探した。
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 私の辮子は日本に残した。上海に着くとまず付け辮子を装着した。しかし一箇月余りで考えた──路上で落ちれば初めからないよりなお見苦しい。いっそやめよう。しかし真実の代価は安くなかった。路上では冷笑、罵倒。小さくは間男と言われ、大きくは「裏通外国」と指弾された。
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 「不亦快哉!」──千九百十一年の双十、革命が来た。革命が私にくれた最大の恩恵は、以来頭を上げて堂々と街を歩けるようになったことだ。
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 四
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 辮子にはもう一つの小風波があった。張勲の「復辟」である。幸い数日で失敗した。今では辮子も日に日に稀少となった。私の「憤懣を舒ぶ」は、おそらく他の人々にも伝えがたいだろう。
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 (十二月十七日。)
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 一週間前、鉄氏二女の詩に触れた。本日《四部叢刊続編》の《茗斎集》に鉄氏長女の詩があった。作偽者は一句を改め、各句ごとに一、二字を変えたにすぎない。もし鉄鉉に娘がいなかった、あるいは自殺したのだとすれば、この虚構の物語からも社会心理の一斑を窺い得る。
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 (二十三日の夜、附記。)
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=== 第54節 ===
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馬上に縛り去り、帳中に侍せしむ。     その籍を棄てて去り、焚掠の余り、
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遠近胆落ち、寒心する暇なし。       遠近胆落ち、寒心する暇なし。
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 この数条を見るだけでも、「賊」「虜」「犬羊」は忌避されていることがわかる。金人の淫掠を言うのも忌避される。「夷狄」はもちろん、「中国」の二字すら見ることを許されない。なぜなら「夷狄」と対立する語であり、種族思想を容易に惹起するからだ。しかしこの《嵩山文集》の写す者は自ら改めず、読む者も自ら改めず、旧文を存している。今の世にあっても「憤懣を大いに舒ぶ」と言い得よう。
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 清朝の考証家に言った者がいる。「明人は古書を好んで刻すが故に古書亡ぶ」と。私はこれに続けて言う──清人は《四庫全書》を纂修して古書亡ぶ。旧式を変乱し原文を削改したからだ。今人は古書に標点を施して古書亡ぶ。出鱈目に点を打つからだ。これは古書の水火兵虫以外の三大厄である。
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=== 第55節 ===
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【河南盧氏曹先生教沢碑文】
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 それ激蕩の世に当たりては、時に乗ずるに利あり。勁風盤空すれば軽蓬も翮を振るう。故に豪傑を以て一時に称せらるる者は多し。されど品節卓異の士は蓋し一を得難し。盧氏の曹植甫先生、名は培元。幼にして義方を承け、長じて大願を懐く。秉性寛厚にして立行貞明なり。躬ら山曲に居し、校を設けて徒に授く。専心一志、後進を啓迪し、或いは未だ諦かならざるあれば、循循としてこれを誘う。歴久にして渝らず、恵みは遐邇に流る。又た古に泥まず、学を為すこと日に新たにして、時世の前駆と作り、童冠と俱に邁む。ここに旧郷をして丕変せしめ、日に昭明を見る。君子は自ら強めて、永く意必なし。しかも光を韜めて里巷に処し、これに処ること怡然たり。此れ豈に辁才小慧の徒の能く至るところならんや。中華民国二十有三年の秋、年七十に届き、和を含み素を守り、篤行初めの如し。門人敬仰し、心を同じくして表を立つ。潜徳を彰かにし、亦た師恩に報いんと冀うのみ。銘に曰く──
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 華土奥衍、代ごとに英賢を生ず。或いは居し或いは作す。歴ること四千年。文物赫々として中天に峙つ。海涛外に薄り、黄神徙倚す。巧黠時に因りて槍鵲起つ。然れども猶お飄風の如く、終朝にして已む。卓なるかな先生、栄を遺て実を崇ぶ。新流を開拓し、文術を恢弘す。人を誨えて倦まず、惟精惟一。介立は或いはあり、恒久は則ち難し。教を敷き化を翊け、実に邦の翰たり。敢えて貞石に契し、以て後昆を励まさん。
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 会稽の後学 魯迅 謹みて撰す。
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=== 第56節 ===
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【阿金】
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 近ごろ私が最も厭なのは阿金である。
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 彼女は女中──上海では娘姨と呼び、外国人はアマと呼ぶ──で、主人もまた外国人である。彼女には女友達が大勢いて、日が暮れると続々と窓の下に来ては「阿金、阿金!」と大声で呼ぶ。これが深夜まで続くのだ。彼女にはまたいく人かの情夫がいるらしい。裏口で自説を公言した──情夫もこさえずに上海に来て何をする、と……
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 不幸なのは彼女の主人の家の裏口が私の家の表門と斜めに向き合っていることで、彼女の声が始まると文章が書けなくなる。さらに不幸なのは、出入りが彼女の家の物干し台の下を通らねばならず、竹竿や板が上から直に投げ落とされることだ。
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 ある夜三時半、翻訳をしていると路上で誰かを低い声で呼ぶのが聞こえた。窓を開けて見ると、一人の男が阿金の窓を見上げて立っていた。斜め向かいの窓が開いて阿金の上半身が現れ、たちまち私を見つけ、男に何か言って手を振ると、男は走り去った。私はひどく居心地が悪かった。
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 阿金と道路向かいの老婆との論戦。阿金の返答──「この老×、誰にも相手にされないくせに!あたしは相手にしてもらえるのよ!」洋巡捕が来て「君もなかなか弱くはないね!」と微笑した。
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 数日後、阿金は見かけなくなった。おそらく主人に暇を出されたのだろう。後任は穏やかな娘姨で、二十日余り静かだった。
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 阿金の容貌はきわめて平凡である。しかし私はまだ彼女が厭で、「阿金」の二字を思い浮かべるだけで厭になる。私が彼女を厭うのは、数日もしないうちに、私の三十年来の信念と主張を揺るがしたからである。
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 私は従来、昭君の出塞が漢を安んじたとも、妲己が殷を亡ぼしたとも信じなかった。男権社会において、女にこれほど大きな力があるはずがないと考えていた。ところが阿金は一介の娘姨でありながら、一箇月とかからぬうちに私の目の前で四分の一里をかき乱した。もし彼女が女王か皇太后であったなら、その影響は推して知るべし。
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 願わくば阿金もまた中国女性の標本とは言えぬことを。
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 (十二月二十一日。)
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=== 第57節 ===
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【俗人は雅人を避くべしを論ず】
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 雑誌をいくらか読んで、ふと思いついたことである──
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 濁世には「雅人」は少なく、「韻事」も稀である。しかし濁りが徹底しない間は、雅人もまったくいないわけではない。ただ「雅を傷つける」人間が多いので、彼らの「雅」も徹底しなくなるのだ。
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 道学先生は「仁恕」を躬行するが、不仁不恕の者に出会えばやはり仁恕ではいられない。朱子は大賢でありながら、官にあっては無辜の官妓に板を食らわせた。林語堂氏は「フェアプレー」を称えるが、「口にソ連の煙草をくわえた」青年に出会うと面目は一変する。
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 いわゆる「雅人」は朝から晩まで雅であるわけではない。しかし時に忽然として「雅」たり得ることが秀でたところだ。もしこの謎の底を暴けば「殺風景」──すなわち俗人であり、雅人にまで累を及ぼす。
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 たとえば、ここに二人の知県がいるとしよう。その一人が時に梅花を見に行けるなら、彼は雅な役人と見なされるべきである。古い「ユーモア」本に、知県殿が梅を訪ねるのを詠んだ「軽薄子」の七絶がある──
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 赤帽はうなり黒帽は呵す、風流太守は梅花を見る。
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 梅花頭を垂れて言葉を開き曰く、小人めの梅花、お殿様にご挨拶。
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 これはまことに悪戯で、韻事を台無しにしてしまった。
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 慎重な人は、仁人君子や雅人学者に出会った時、幇閑のまねができなければ、遠く避けるに如くはない。大家都知道「賢者避世」。我以為現在の俗人は雅を避くべきである。これもまた一種の「明哲保身」なのである。
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 (十二月二十六日。)
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=== 第58節 ===
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【附記】
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=== 第59節 ===
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第一篇《中国に関する二、三の事》は、日本の改造社の依頼で書いたもので、もとは日本語であり、同年三月に《改造》に掲載され、題名は《火、王道、監獄》と改められた。中国北方ではかつて、ある雑誌がこの三篇を訳載したことがあるが、南方では林語堂、邵洵美、章克標の三氏が主編する雑誌《人言》のみが、これを著者攻撃の道具として用いた。詳しくは《准風月談》の後記に見えるので、ここでは贅言しない。
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 《草鞋脚》は現代中国作家の短篇小説集で、イロソン(H. Isaacs)氏の依頼により、私と茅盾氏が選び出し、氏がさらに選択して英訳したものである。しかし今に至るまで出版されていないようだ。
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 《曹聚仁氏への返信》はもともと私信であったが、《社会月報》に掲載されてしまい、私は「楊邨人氏のために開場の銅鑼を打つ者」にされてしまった。《大晩報》副刊《火炬》に紹伯氏の文章がその証拠である。この一件について、私は十一月の《《戯》週刊編集者への返信》の中でようやく数句の返答をした。
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 《門外文談》は「華圉」の筆名で《自由談》に投稿したもので、毎日一節ずつ掲載された。しかし理由はわからないが、
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=== 第60節 ===
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第一節は末尾の一行が削除された。
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=== 第61節 ===
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第十節の冒頭もまた二百余字が削除されたが、ここに補足し、黒点をもって印とする。
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 《肉の味を知らずと水の味を知らず》は《太白》に寄せたものだが、掲載された時には後半がすべてなくなっていた。これは「中央宣伝部書報検査委員会」の業績であろう。ここに補足し、黒点をもって印とする。
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 《中国人は自信力を失ったか》もまた《太白》に寄せたものである。神仏に祈ることへのいささかの不敬はすべて削除された。当時のわれわれの「上峰」がまさに神仏祈願を主張していたことがわかる。ここに補足し、黒点をもって印とする。
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 《臉譜についての臆測》は《生生月刊》に寄せたものだが、官命により掲載不許可。「第三種人」のお歴々のご機嫌を損ねたためとわかった。
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 《《戯》週刊編集者への返信》の末尾は、紹伯氏のかの《調和》に対する返答である。聞くところによると、われわれの仲間に沈姓の「戦友」がこれを読んで笑って曰く「この爺さんがまた愚痴を言っとるわ!」と。しかし私自身は本気なのだ。
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 《中国文壇の鬼魅》は《現代中国》(China To-day)に寄せたもので、英訳で第一巻第五期に掲載された。
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 《病後雑談》は《文学》への投稿で、全五段であったが、掲載された時には第一段だけが残っていた。後にある作家がこの一段に基づいて評した──魯迅は病気になることに賛成している、と。彼は検査官の削除にまったく思い至らなかったのだ。
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 《阿金》は《漫画生活》に寄せたものだが、掲載不許可のみならず、南京の中央宣伝会にまで送られた。原稿を取り戻すと「抽去」(抜き取れ)の印があった。
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 われわれはこのような場所に生きている。われわれはこのような時代に生きている。
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 一九三五年十二月三十日、編了に記す。

Revision as of 14:16, 24 April 2026

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花辺文学 (花边文学)

魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

【且介亭雑文】




【序言】




近年来、いわゆる「雑文」の生産は以前よりも多くなり、以前よりもさらに多くの攻撃を受けている。たとえば自称「詩人」の邵洵美、元「第三種人」の施蛰存と杜衡すなわち蘇汶、まだ一知半解にも達しない大学生の林希雋の輩は、いずれも雑文と骨に徹する仇があり、種々の罪状を与えた。しかし効き目はなく、書く者は増え、読む者も増えた。


実は「雑文」なるものは今日の新製品ではなく、「古より已に之あり」なのだ。およそ文章があれば、分類すればいずれも帰すべき類があるが、もし編年にすれば、作成の年月に従うのみで文体を問わず、各種が一所に交じり、かくして「雑」となる。分類は文章の揣摩に益あり、編年は時勢の理解に利あり、もし人を知り世を論ぜんとすれば、編年の文集を見るに如くはなく、今日新たに作られた古人の年譜が流行しているのは、既に多くの人がこの中の消息を省悟したことの証左である。しかも今はいかに切迫した時であることか、作者の任務は、有害な事物に対し直ちに反響あるいは抗争を与えることにある。感応の神経であり、攻守の手足だ。鴻篇巨制に潜心して未来の文化のために構想するのは固より結構だが、現在のために抗争するのもまさに現在と未来のための戦う作者なのだ。現在を失えば、未来もまたないからだ。


戦闘には必ず傾向がある。これこそ邵、施、杜、林の輩の大敵であり、実は彼らが憎悪するのは内容なのだ。文芸の法衣を纏いながら、その内に包蔵するのは「死の説教者」であり、生存とは両立し得ない。


この一冊と『花辺文学』は、私が昨年一年のうちに、官民の明に暗に、軟に硬に「雑文」を囲剿する筆と刀の下で結集したものであり、書いたものはすべてここにある。もとより詩史とは言い難いが、その中には時代の眉目があり、また決して英雄たちの八宝箱のように一朝開ければ光輝燦然とするものでもない。私はただ深夜の街頭に地べたの露店を出しているに過ぎず、並べてあるのは小さな釘と瓦の皿ばかりだが、それでも希望し、また信じている──その中から自分の用途に合うものを見つけ出す人がいることを。


一九三五年十二月三十日、上海の且介亭にて記す。


第2節

【序言】



 近年来、いわゆる「雑文」の生産は以前よりも多くなり、以前よりもさらに多くの攻撃を受けている。たとえば自称「詩人」の邵洵美、元「第三種人」の施蛰存と杜衡すなわち蘇汶、まだ一知半解にも達しない大学生の林希雋の輩は、いずれも雑文と骨に徹する仇があり、種々の罪状を与えた。しかし効き目はなく、書く者は増え、読む者も増えた。

 実は「雑文」なるものは今日の新製品ではなく、「古より已に之あり」なのだ。およそ文章があれば、分類すればいずれも帰すべき類があるが、もし編年にすれば、作成の年月に従うのみで文体を問わず、各種が一所に交じり、かくして「雑」となる。分類は文章の揣摩に益あり、編年は時勢の理解に利あり、もし人を知り世を論ぜんとすれば、編年の文集を見るに如くはなく、今日新たに作られた古人の年譜が流行しているのは、既に多くの人がこの中の消息を省悟したことの証左である。しかも今はいかに切迫した時であることか、作者の任務は、有害な事物に対し直ちに反響あるいは抗争を与えることにある。感応の神経であり、攻守の手足だ。鴻篇巨制に潜心して未来の文化のために構想するのは固より結構だが、現在のために抗争するのもまさに現在と未来のための戦う作者なのだ。現在を失えば、未来もまたないからだ。

 戦闘には必ず傾向がある。これこそ邵、施、杜、林の輩の大敵であり、実は彼らが憎悪するのは内容なのだ。文芸の法衣を纏いながら、その内に包蔵するのは「死の説教者」であり、生存とは両立し得ない。

 この一冊と『花辺文学』は、私が昨年一年のうちに、官民の明に暗に、軟に硬に「雑文」を囲剿する筆と刀の下で結集したものであり、書いたものはすべてここにある。もとより詩史とは言い難いが、その中には時代の眉目があり、また決して英雄たちの八宝箱のように一朝開ければ光輝燦然とするものでもない。私はただ深夜の街頭に地べたの露店を出しているに過ぎず、並べてあるのは小さな釘と瓦の皿ばかりだが、それでも希望し、また信じている──その中から自分の用途に合うものを見つけ出す人がいることを。

 一九三五年十二月三十日、上海の且介亭にて記す。


第3節

【一九三四年】


第4節

【中国に関する二、三の事】


第5節

【一 中国の火について】


 ギリシア人の用いた火は、聞くところによればはるか昔、プロメテウスが天から盗んできたものだが、中国のそれはこれとは異なり、燧人氏が自ら発見した──あるいは発明と言うべきであろう。盗っ人ではなかったから、山に繋がれて老鷲に啄まれる災難は免れたが、しかしプロメテウスほどに語り伝えられ、崇拝されることもなかった。

 中国にも火の神はいる。しかしそれは燧人氏ではなく、勝手に放火する訳のわからぬ存在だ。

 燧人氏が火を発見、あるいは発明してこのかた、美味なる火鍋を食し、灯を点して夜も仕事ができるようになった。しかし、まさに先哲のいわゆる「一利あれば必ず一弊あり」であろうか、同時に火災も始まり、故意に火を点けて、有巣氏の発明した巣を焼き払う了不起の人物も現れたのだ。

 善良な燧人氏は忘れられるのが当然であった。食傷を起こしたとしても、今度は神農氏の領分になるわけで、ゆえにかの神農氏は今日なお人々に記憶されている。火災については、その発明者が結局何者であるかは知る由もないが、祖師は必ずいるはずであり、やむを得ずこれを漫然と火神と呼び、畏敬を捧げたのだ。その画像を見れば、赤い顔に赤い髭だが、祭祀の折にはすべての赤い物を避け、緑色で代えなければならない。彼はおそらくスペインの牛のように、赤い色を見ると興奮して恐ろしい行動を起こすのであろう。

 かくして彼は崇祀を受けている。中国ではこのような悪神がなお多い。

 しかし人の世では、彼らのおかげでかえって賑やかになっているようだ。祭礼も火神のものはあるが、燧人氏のものはない。もし火災があれば、被災者も近隣の被災していない者も、火神を祭り、感謝の意を表さねばならない。被災してなお感謝の意を表すとは、いささか意外ではあるが、祭らなければ


第6節

二度目もまた焼かれると言われるので、やはり感謝した方が安全なのだ。しかもこれは火神に対してのみならず、人に対しても時に同じようにするのであり、おそらくこれも一種の礼儀であろうと思う。

 実のところ、放火はまことに恐ろしいが、飯を炊くことに比べれば、あるいはより面白いかもしれぬ。外国の事は知らぬが、中国においては、いかなる歴史を調べても、飯を炊き灯を点す人々の列伝は見つからない。社会においても、いかに飯を炊くのが上手でも、いかに灯を点けるのが上手でも、名人となる望みは毫もない。しかるに秦の始皇帝が一たび書を焼けば、今に至るまで厳然として名人であり、ヒトラーの焚書事件の先例として引かれるに至っている。仮にヒトラー夫人が電灯を点けたりパンを焼いたりするのが上手だったとして、歴史上に先例を求めようとしても、おそらく難しかろう。しかし幸いにも、そのようなことが世を騒がせることはないのだ。

 家屋を焼く事は、宋人の筆記によれば、蒙古人に始まるという。彼らは天幕に住んでおり、家屋に住むことを知らなかったので、手当たり次第に放火した、と。しかしこれは嘘である。蒙古人の中で漢文を解する者は甚だ少なく、ゆえに訂正しに来ないだけだ。実は秦の末年に既に放火の名人項羽がおり、阿房宮を焼いて天下に名を馳せ、今日なお舞台に登場し、日本でもかなり有名だ。しかるにまだ焼かれる前の阿房宮で毎日灯を点していた人々は、誰がその名を知ろうか。

 今日は爆裂弾だの焼夷弾だのの類が既に作られ、加えて飛行機もかなり進歩しているから、名人になろうとすれば一層たやすくなった。しかも以前よりも大きく放火すれば、その人はさらに一層尊敬を受け、遠くから見れば救世主のようであり、その火光は人に光明だと思わせるのだ。


第7節

【二 中国の王道について】


 一昨年、中里介山氏の大作『支那及び支那国民に贈る書』を拝読した。記憶するところでは、その中で周も漢もいずれも侵略者の資質を持ち、しかるに支那人はことごとくこれを讴歌し、歓迎した。北方の元と清に対してすら讴歌したという。ただその侵略に国家を安定させる力があり、民生を保護する実があれば、それこそ支那人民の渇望する王道であると。かくして支那人の執迷不悟に対し、非常に憤慨していた。

 その「書」は満洲で出版された雑誌に訳載されたが、中国には輸入されなかったため、返信の類は今に至るまで一篇も見ていない。ただ去年の上海の新聞に載った胡適博士の談話の中に、「中国を征服するにはただ一つの方法がある。すなわち徹底的に侵略を停止し、翻って中国民族の心を征服することだ」とあった。無論それは偶然に過ぎぬが、あの書への返答のようにも感じられた。

 中国民族の心を征服する──これは胡適博士が中国のいわゆる王道に下した定義だが、しかし私が思うに、彼自身おそらく自分の言葉を信じてはいまい。中国において、実は徹底して王道なるものは存在したことがなく、「歴史癖と考証癖を有する」胡博士がこれを知らぬはずはない。

 なるほど、中国にも元と清を讴歌した者はいた。しかしそれは火神への感謝の類であり、心まで征服されたという証左ではない。もしある暗示を与え、讴歌しなければさらに虐待を加えると言えば、たとえある程度の虐待を加えても、なお人々に讴歌させることができる。四、五年前、私は自由を要求する団体に加盟したが、当時の上海教育局長陳徳征氏が勃然として怒り、三民主義の統治の下でなお不満なのか、それならば現在与えているわずかな自由も取り上げると言った。そして本当に取り上げたのだ。以前よりもさらに不自由を感ずるたびに、私は一方では陳氏の王道の学識に精通せることに感服し、他方では時としてやはり、三民主義を讴歌すべきだったと思わずにはいられない。しかし今はもう遅すぎる。

 中国の王道は、見たところ覇道と対立するもののようだが、実は兄弟であり、その前と後には必ず覇道がやって来る。人民が讴歌するのは、覇道の軽減を、あるいはこれ以上の加重なきことを望むがゆえである。

 漢の高祖は、歴史家によれば龍の血筋だが、実は無頼の出身であり、侵略者というのはいくらか当たらないであろう。周の武王に至っては、征伐の名をもって中国に入り、しかも殷とはおそらく民族さえ異なるから、現代の言葉で言えば侵略者である。しかし当時の民衆の声は、今はもう残っていない。孔子と孟子が確かに大いにかの王道を宣伝したが、先生方は周の臣民であるのみならず、歴国を周遊して活動したのだから、官職を得んがためであったかもしれぬ。聞こえの良い言い方をすれば「道を行わん」がためであり、もし官になれば道を行うに便利であり、官になるには周を称讃するに如くはなかったのだ。しかし別の記載を見れば、王道の祖師にしてかつ専門家たる周も、征伐の初めには伯夷と叔斉が馬を叩いて諫め、引き離さねばならず、紂の軍隊も抵抗し、その血をして杵を漂わしめずばやまなかった。続いて殷の民がまた反乱を起こし、特に「頑民」と称して王道天下の人民から除外したものの、結局のところやはり何らかの破綻があったようだ。よくぞ王道よ、ただ一人の頑民で根拠を失ってしまうとは。

 儒士と方士は中国特産の名物である。方士の最高理想は仙道であり、儒士のそれは王道だ。しかし遺憾なことに、この二つは中国においてついぞ実在しなかった。長い歴史上の事実が証明するところに拠れば、かつて真の王道があったと言うのは妄言であり、今なおあると言うのは新薬だ。孟子は周の末に生まれたがゆえに覇道を語ることを恥としたが、もし今日に生まれたならば、人類の知識の範囲の拡大に伴い、王道を語ることを恥ずるであろう。


第8節

【三 中国の監獄について】


 人々は確かに事実によって改めて覚醒し、事柄もまたそこから変化を生ずるものだと思う。宋朝から清朝末年までの多くの年月、もっぱら聖賢に代わって言を立てる「制芸」なるいかにも煩雑な文章をもって士を取ったが、フランスに敗れてようやくこの方法の誤りを覚った。そこで留学生を西洋に送り、兵器製造局を開設して、その改正の手段とした。これでもまだ足りぬと覚ったのは、日本に敗れた後のことで、今度は懸命に学校を開いた。するとこんどは学生が年々大騒ぎをした。清朝が倒れて国民党が政権を掌握してから、ようやくこの誤りを覚り、その改正の手段としたのは、監獄を大いに造ること以外には何もなかったのだ。

 中国では、国粋式の監獄は早くからあらゆる所にあったが、清末にはいくらか西洋式、すなわちいわゆる文明式の監獄も造られた。これは旅行でやって来る外国人に見せるために建造されたもので、外国人とうまく交際するために特に派遣して文明人の礼節を学ばせた留学生と、同じ種類に属すべきものだ。この恩恵のおかげで、囚人の待遇もなかなか良く、入浴させてもらえ、一定量の食事も与えられるから、かなり幸福な場所であった。しかし、つい二、三週間前にも、政府は仁政を行うべくさらに一つの命令を出し、囚糧の横領を禁じた。今後はいっそう幸福になるだろう。

 旧式の監獄に至っては、仏教の地獄をお手本にしたようなもので、囚人を禁錮するだけでなく、苦しめる職掌も兼ねていた。金銭を搾り取り、囚人の家族を窮乏の極みに追い込む職掌も、時に兼帯される。しかし誰もが当然と思っていた。もし反対する者がいれば、囚人の肩を持つことに等しく、悪党の嫌疑を受ける。しかし文明は驚くほど進歩したので、去年にはまた、毎年囚人を家に帰し、性欲解消の機会を与えるべしという、かなり人道主義の匂いのする説を唱える官吏も現れた。実は彼も囚人の性欲に特段の同情を寄せているわけではなく、どうせ実行されることはないとわかっているから、大声で一声叫んでおき、官吏としての自分の存在を示そうというだけだ。しかし世論はかなり沸騰した。ある批評家は、こうなれば皆が監獄を恐れなくなり、喜び勇んで入るだろうと、世道人心のために大いに憤慨した。いわゆる聖賢の教えをあれほど久しく受けながら、あの官吏ほどの円滑さも身につけていないのは、固より誠実で信頼に足るとも言えるが、しかし彼の見解は、囚人に対して虐待を加えざるべからずというものであったことも、これによってわかる。

 別の道筋から考えれば、監獄も確かに「安全第一」を標語とする人々の理想郷と言えなくもない面がある。火災は極めて稀であり、泥棒は来ず、土匪もまず来て奪うことはあるまい。戦争が起きても、監獄を目標にして爆撃するような馬鹿はおらず、革命が起きても、囚人を釈放する例はあるが、虐殺する例はない。福建独立の際には、囚人を釈放したと言いつつ、外に出ると自分たちと意見の異なる者がかえって失踪したという噂もあったが、このような例は以前には無かった。つまるところ、さほど悪い場所でもないようだ。家族の同伴さえ許されれば、今のように大水、飢饉、戦争、恐怖の時代でなくとも、引っ越して住みたいと申し出る者が必ずしも一人もいないとは限るまい。かくして虐待は必要不可欠となるのだ。

 牛蘭夫妻が赤化宣伝の罪で南京の監獄に繋がれ、既に三、四回ハンガーストライキをしたが、何の効果もない。これは彼が中国の監獄の精神を知らぬがゆえである。ある官吏が驚いてこう言った。彼が自分で食べないのと、他人に何の関係があるのか? 仁政と関係ないどころか、食料の節約になり、監獄にとってはむしろ有益だ。ガンジーの芝居も、興行の場所を選ばなければ、何の効果もないのだ。

 しかし、このように完璧に近い監獄にも、なお一つの欠点が残されていた。今に至るまで、思想上の事には十分な注意が払われていなかったのだ。この欠点を補うため、近年新たに発明された「反省院」なる特殊監獄で、教育が施されている。私はまだそこに入って反省したことがないので詳しくは知らぬが、要するに三民主義を絶えず囚人に講じ聞かせ、自分の過ちを反省させるらしい。聞くところでは、さらに共産主義を排撃する論文を書かされるという。もし書くことを拒めば、あるいは書けなければ、むろん終身反省するしかなく、書いたものが及第点に達しなくとも、やはり死ぬまで反省するしかない。今は入る者も出る者もいるが、なお反省院を増設しなければならぬと聞けば、やはり入る者の方が多いのだ。試験に合格して放免された良民に偶々会うこともあるが、大抵萎靡不振の様子で、反省と卒業論文に力を使い果たしたのであろう。その前途は、希望なき方に属する。


第9節

【国際文学社への回答】


 原問──

 一、ソ連の存在と成功は、あなたにとってどのようなものですか。(ソヴィエト建設の十月革命は、あなたの思想の道筋と創作の性質に、何か変化をもたらしましたか。)

 二、ソヴィエト文学についてのご意見はいかがですか。

 三、資本主義諸国において、何の事件やさまざまな文化上の進行が、とりわけあなたの注意を引きますか。


 一、以前、旧社会の腐敗は私も感じていたし、新しい社会の出現を希望していたが、この「新しいもの」が何であるべきか知らず、しかも「新しいもの」が現れた後に必ず良くなるかどうかもわからなかった。十月革命の後になって初めて、この「新しい」社会の創造者が無産階級であることを知ったが、資本主義各国の反宣伝のために、十月革命に対してなおいくらか冷淡であり、しかも懐疑的であった。今やソ連の存在と成功は、無階級社会が必ず出現するとの私の確信を固め、懐疑を完全に払拭したのみならず、多くの勇気をも加えてくれた。ただし創作においては、私は革命の渦中にはおらず、しかも久しく各地を視察することもできぬゆえ、おそらくやはり旧社会の弊害を暴露することしかできぬであろう。

 二、私は他国──ドイツ、日本──の訳本でしか読めない。現在の建設を語るものよりも、以前の戦闘を語るもの──たとえば『装甲列車』『壊滅』『鉄の流れ』等──の方が私には興味深く、かつ有益だと感じている。私がソヴィエト文学を読むのは、大半は中国に紹介するためであり、中国にとっては、現在もなお戦闘的な作品の方がより切要である。

 三、私は中国にいて、資本主義各国のいわゆる「文化」なるものを見ることができない。ただ知っているのは、彼らとその奴僕たちが中国において力学と化学の方法、さらには電気機械を用いて革命者を拷問し、飛行機と爆弾をもって革命的民衆を虐殺していることだ。


第10節

【「草鞋脚」英訳中国短篇小説集 小引】


 中国において、小説はもとから文学に数えられていなかった。軽蔑の目の下で、十八世紀末の『紅楼夢』以来、実にこれといった偉大な作品を産み出していない。小説家の文壇への侵入は、「文学革命」運動の開始、すなわち一九一七年以来のことに過ぎない。無論、一方では社会の要求によるものであり、他方では西洋文学の影響を受けたものだ。

 しかしこの新しい小説の生存は、常に絶え間なき戦闘の中にあった。最初、文学革命者が求めたのは人間性の解放であり、古い成法を一掃しさえすれば、残るのは本来の人間であり、よき社会であると考え、かくして保守派の圧迫と陥害に遭った。約十年後、階級意識が覚醒し、前進的な作家はことごとく革命文学者となったが、迫害はさらに厳しくなり、出版禁止、書籍焚毀、作家殺戮──多くの青年が暗闇の中でその仕事に命を殉じたのだ。

 この一冊は十五年来の、「文学革命」以後の短篇小説の選集である。我々にとってはまだ新しい試みであるがゆえ、自ずと幼稚を免れ得ないが、しかしおそらくそれが大石の下に圧し潰された植物のように、繁茂こそしないものの、曲がりくねりながらも成長しつつあることを見て取れよう。

 今日に至るまで、西洋人が中国について書いた著作は、おそらく中国人自身が自分について語ったものよりも多い。しかしこれらは畢竟西洋人の見方に過ぎない。中国に古い諺がある。「肺腑にしてよく語らば、医師面土の如くならん。」思うに、仮に肺腑が本当に話せたとしても、必ずしも完全に信頼できるとは限るまいが、しかし医師が診察し得ぬ、意想外の、しかしながら十分に真実なところが必ずあろう。

 一九三四年三月二十三日、魯迅、上海にて記す。


第11節

【「旧形式の採用」を論ず】


 「旧形式の採用」の問題は、もし平心静気に討論するならば、現在において甚だ意義があると思うが、冒頭から耳耶先生の筆伐に遭った。「投降に類す」「機会主義」──これは近十年来の「新形式の探求」の結果であり、敵を克する呪文であって、少なくともまず一身に不潔を被らせる。しかし耳耶先生は正直であり、なぜなら彼は同時に『芸術の内容と形式』を翻訳しており、ひとたび連載が終われば自らの激烈な責罰を洗い流すことになろう。しかも幾句かの話は正確であり、新形式の探求と旧形式の採用は機械的に分けられぬと言っていることだ。

 しかしこの数句は既に常識と言える。内容と形式が機械的に分けられぬというのも既に常識であり、作品と大衆が機械的に分けられぬと知ることもまた当然常識だ。旧形式をなぜただ「採用」するに過ぎないか──しかし耳耶先生はこれを「旧芸術丸ごと(!)の賛美」と指す──それは新形式の探求のためだ。若干を採り取ることと「丸ごと」持ってくることは異なり、前進的な芸術家にこのような思想(内容)はあり得ない。しかし彼が旧芸術を採り取ることを思いつくのは、作品と大衆が機械的に分けられぬと理解したからだ。芸術は芸術家の「霊感」の爆発であり、鼻がむずむずする者が一つ嚔をすれば全身さっぱりし、それですべて片付くという時代は既に過ぎた。今は大衆のことを思い、しかも関心を持つに至った。これは一つの新思想(内容)であり、ここから新形式を探求し、まず提出されたのが旧形式の採取であり、この採取の主張はまさに新形式の端緒にして、旧形式の脱皮でもある。私の見るところ、内容と形式を機械的に分けたのでもなければ、『姉妹花』の客入りを見て自分も一手真似ようという投機主義の罪案でもない。

 無論、旧形式の採取、あるいは新形式の探求と言うべきか、いずれにせよ芸術学徒の努力と実践が必要だが、理論家や批評家にも指導、評論、商量の責任が等しくあり、「まだ説明が足りぬ」と叱りつけただけで逍遥事外というわけにはいかない。我々には芸術史があり、しかも中国に生まれたからには、中国の芸術史を繙かねばならぬ。何を採取するか。思うに、唐以前の真蹟は目にする由もないが、大抵故事を題材としたことはなお知り得る。これは取法し得る。唐においては仏画の燦爛たること、線画の空実と明快さを取るべく、宋の院画は萎靡柔媚の処は捨て、周密不苟の処は取るべきだ。米点山水は全く無用。後の写意画(文人画)に用処があるか否かは今にわかに断言し難いが、おそらくなお可用の点があるかもしれぬ。これらの採取は断片的な古董の陳列ではなく、必ず新作品の中に溶化させねばならぬことは贅言を要せぬ。ちょうど牛羊を食して蹄と毛を棄て、精髄を留めて新しい生体を滋養し発達させるのであり、これをもって牛羊「に類する」ことには決してなるまい。

 ただし以上に挙げたもの、すなわち我々が今見ることのできるものは、すべて消費の芸術だ。それは一貫して有力者の寵愛を独占してきたがゆえに、なお多くが存留している。しかし消費者があれば必ず生産者があり、ゆえに一方に消費者の芸術があれば他方に生産者の芸術がある。古代のものは保護する者がなかったため、小説の挿画以外、我々はほとんど何も見ることができない。現在においてはなお市中の正月の花紙があり、また猛克先生の指摘した連環図画がある。これらは必ずしも真の生産者の芸術とは言えぬが、上等有閑者の芸術と対立するものであることは疑いない。とはいえこれもまた大いに消費者の芸術の影響を受けており、たとえば文学において民歌が大抵七言の範囲を脱し得ず、図画において題材の多くが士大夫の物語であるのがそれだ。しかし既に精錬を加え、明快簡潔なものとなっている。これもまた脱皮であり、従来これを「俗」と謂う。大衆に注目する芸術家がこれらに注目するのもおそらく誤りではあるまい。なおも精錬を加えるべきことは贅言を要せぬ。

 しかし中国の両者の芸術にも、形は似て実は異なるところがある。たとえば仏画の画面いっぱいの雲煙は豪華な装飾だが、花紙にも白紙がほとんど見えぬほど硬く詰め込んだ種類があり、これは紙を惜しむ節約だ。唐伯虎の描く細腰繊手の美人は、彼の同類の人々の欲するところだが、花紙にもこの種のものがあり、鑑賞者にとってはただ世間にこのような人物がいると知って博識を資し、あるいは好奇心を満たすに過ぎない。大衆のための画家はいずれも避忌するに及ばない。

 連環図画は図画の種類の一つに過ぎず、文学における詩歌、戯曲、小説と同様であるというのは、無論正しい。しかしこの種類の別もまた社会条件と関連しており、時に詩歌が盛行し、時に小説が多出し、時に短篇のみが多い史実を見ればわかる。ここから、すなわち内容とも関連していることがわかる。現在社会に連環図画が流行しているのは、それに流行の可能性があり、かつ流行の必要性があるからであり、ここに着眼して導引するのはまさに前進的な芸術家の正しい任務であり、大衆のために努めてわかりやすくするのもまさに前進的な芸術家の正しい努力だ。旧形式は採取であり、必ず削除するところがあり、削除があれば必ず増益があり、その結果は新形式の出現であり、すなわち変革だ。しかもこの仕事は決して傍観者が想像するほど容易ではない。

 しかし仮に新形式が確立されたとしても、もちろんそれだけで甚だ高い芸術とはなるまい。芸術の前進にはなお他の文化事業の協助が必要であり、ある文化部門を一人の専門家に独り芝居で特別に高めさせようとするのは、空論としては構わぬが実行は難しい。ゆえに個人のみを責めるのは、偏重環境と同様に論の偏頗なるものだ。


 (五月二日。)


第12節

【連環図画瑣談】


 「連環図画」の擁護者は、今の議論を見ると、「啓蒙」の意が多いようだ。

 古人の「左図右史」は今やただ一句の言葉だけが残り、実態を見ることはできぬが、宋元の小説には上に図、下に説の形式を持つものがあり、今日なお残存している。これがいわゆる「出相」だ。明清以来、巻頭に書中の人物のみを描くものがあり、「繡像」と称する。各回の物語を描くものがあり、「全図」と称する。その目的はおそらく、未読者を購読に誘い、既読者の興味と理解を増すためだ。

 しかし民間にはまた別に『智燈難字』あるいは『日用雑字』があり、一字一像で両々対照し、図も見られるが、主意は識字を助けるものであり、いくらか変通を加えれば現在の『図を見て字を識る』になる。文字の較多いのは『聖諭像解』『二十四孝図』等で、いずれも図画を借りて啓蒙するものであり、また中国の文字があまりに難しいために図画をもって文字の窮を救う産物だ。

 「連環図画」とは「出相」の格式を取り、『智燈難字』の功効を収めるもので、もし啓蒙せんとするなら、実にまた一種の利器である。

 しかし啓蒙せんとするならば、理解できなければならぬ。理解の基準は、むろん低能児や白痴に合わせる必要はないが、一般の大衆に着眼すべきだ。たとえば、中国画にはもとから陰影がないが、私が出会った農民の十に九人までが西洋画や写真を良しとしなかった。彼らは言う、人の顔の両側が色が違うなんてことがあるか、と。西洋人の絵の見方は、観者が一定の位置に立つことを前提としているが、中国の観者は一定の位置に立たぬのが常であるから、彼の言うことも真実なのだ。ならば、「連環図画」を描いて陰影がなくとも構わぬと私は思う。人物の傍らに名前を書くのもよい。夢を見ることを表すのに人の頭上から一条の光芒を出すのすら、不可はない。観者が内容を理解すれば、理解を助ける記号は自ら削除するであろう。これを真実でないとは言えぬ。観者が既に内容を会得すれば、芸術上の真はあるのであり、もし実物の通りでなければならぬとすれば、人物はわずか二、三寸では真実でなくなるし、地球と同じ大きさの紙がなければ地球は描けぬことになる。

 艾思奇先生は言う、「もし大衆の真の切身の問題に触れることができれば、おそらくより新しいものであればあるほど、より流行するであろう。」これもまた誤りではない。ただし相談すべきは、いかにすれば触れることができるかであり、触れる方法として「わかる」ことが最も肝要であり、しかもわかる図画はなおも芸術たり得るのだ。


 (五月九日。)


第13節

【儒術】


 元遺山は金、元の際にあって、文宗たり、遺献たり、野史を修め旧章を保存せんとする有心の人であり、明清以来かなりの人士に愛重されてきた。しかし彼の生涯には一つの疑案がある。すなわち叛将崔立のために功徳を頌えた者が、果たして彼と無関係であるか、あるいは彼の手筆に出る文章であるかということだ。

 金の天興元年(一二三二年)、蒙古兵が洛陽を包囲し、翌年、安平都尉にして京城西面元帥の崔立が二丞相を殺し、自ら鄭王と立って元に降った。悪名を加えられることを恐れ、群小が意を承けて、碑を立てて功徳を頌えることを議した。かくして文臣の間に甚大な恐慌が生じた。これは一生の名節に関わり、個人にとっては十分に重大な事だったからだ。

 当時の情況を、『金史』の「王若虚伝」はこう記している──


 「天興元年、哀宗帰徳に走る。翌年の春、崔立変を起こし、群小これに附和して、立のために功徳碑を建てんことを請う。翟奕、尚書省の命をもって若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩、勢を恃みて威を作し、人もし少しく忤えば、讒構して立ちどころに屠滅せらる。若虚、自ら必ず死すと分かち、私に左右司員外郎元好問に謂いて曰く、『今、我を召して碑を作らしむ。従わざれば死す、之を作れば名節地を掃う。死するに若かず。然りと雖も、我、姑く理を以て之を諭さん。』……奕の輩奪う能わず、乃ち太学生劉祁、麻革の輩を召して省に赴かしむ。好問、張信之、碑を立つるの事を以て之に喻して曰く、『衆議二君に属す。且つ已に鄭王に白したり。二君其れ辞すること勿かれ。』と。祁等固辞して別る。数日、促迫已まず、祁即ち草定して好問に付す。好問意惬わず、乃ち自ら之を為す。成るに及び、以て若虚に示す。乃ち共に数字を削定す。然れども止だ直にその事を叙するのみ。後に兵城に入り、果たさず。」


 碑は「果たさず」ではあったが、当時既に「名節」の問題が発生しており、あるいは元好問の作と言い、あるいは劉祁の作と言う。文証は清の凌廷堪が輯めた『元遺山先生年譜』中に具わっており、ここには多くは録さぬ。その推勘を経て、先に出した「王若虚伝」の文は、前半は元好問の『内翰王公墓表』に拠り、後半は劉祁自作の『帰潜志』を全く採っており、誣攀の説に蒙蔽されたことが判明している。凌氏はこれを弁じて曰く、「それ当時碑を立て文を撰するは、崔立の禍を畏るるに過ぎず、必ずしも文辞の工を取るにあらず。京叔の草を属するあらば、已に立の請を塞ぐに足る。何ぞ更に之を為す所を取らんや。」されば劉祁が王若虚の如く決死せざりしは、固より一生の大玷なれど、さらに他に推し委ねて「塞責」の具と成らしむるを能わざりしは、十分に不運であったとも言えよう。

 しかし元遺山の生涯にはなお一つの大事がある。『元史』の「張徳輝伝」に見える──


 「世祖潜邸にありし時、……中国の人材を訪ぬ。徳輝、魏璠、元裕、李冶等二十余人を挙ぐ。……壬子、徳輝元裕と北に覲え、世祖に儒教大宗師たらんことを請う。世祖悦びて之を受く。因りて啓す、累朝の旨にて儒戸の兵賦を蠲免すとあり、乞うらくは有司をして遵行せしめよ、と。之に従う。」


 拓跋魏の後裔と徳輝とが、蒙古の小酋長に「漢児」の「儒教大宗師」たることを請うたのは、今から見れば些か滑稽であるが、当時は格別の非難もなかったようだ。蓋し兵賦の蠲免により「儒戸」は等しく利益を受け、清議は士の手中にあったものの、利益を受けてしまえば、既に「儒教」を献上したことについてもはや口を開く気にはなれなかったのだ。

 これにより士大夫は漸次出世するようになったが、畢竟実用に適わぬため、また漸次見棄てられた。しかし仕途は日に塞がり、南北の士の相争うことはまた日に甚だしくなった。余闕の『青陽先生文集』巻四「楊君顕民詩集序」に曰く──


 「我が国初め金宋を有するや、天下の人は才あるを用うるのみにして、専ら主する所なく、然れども儒者を用うる者居多なり。至元以下より始めて浸く吏を用い、執政大臣と雖も亦た吏を以て之を為す。……而して中州の士、見て用いらるる者遂に浸く寡し。況んや南方の地遠く、士多くは自ら京師に至る能わず、其の才を抱く蘊する者、又往々にして吏と為るを屑しとせず。故に其の見て用いらるる者尤も寡なり。其の久しきに及ぶや、南北の士亦た自ら町畦して以て相い訾り、甚だしきは晋の秦に於けるが若く、与に中国に同ずべからず。故に南方の士微なり。」


 しかし南方において、士人は実は冷遇されていたわけでもなかった。同書「范立中を襄陽に赴くに送るの詩序」に曰く──


 「宋の高宗南遷し、合肥遂に辺地と為る。守臣多く武臣を以て之に当つ。……故に民の豪傑なる者、皆去りて将校と為り、功を累ねて多く節制に至る。郡中衣冠の族は、惟だ范氏、商氏、葛氏三家のみ。……皇元命を受け、兵革を包裹し、……諸武臣の子弟、其の能を用うる所なく、多く伏匿して出でず。春秋月朔、郡太守、学に事有らば、深衣を衣、烏角巾を戴き、笾豆罍爵を執り、唱賛道引する者は、皆三家の子孫なり。故に其の材皆成就する所あり、学校の官に至る者累々として有り。……天道は満を忌み盈を悪むと雖も、儒者の沢は深く且つ遠く、古より然り。」


 これが「中国の人材」たちが教を献じ、経を売ってこのかた、「儒戸」の食した佳果である。王者の師と為り得ずとも、しかも吏よりも数等下にありながら、やはり将門や平民よりは一等勝っており、「唱賛道引」は「伏匿」する者の望み得るところではなかったのだ。

 中華民国二十三年五月二十日及び翌日、上海の無線放送にて馮明権先生が我々に一つの奇書を講じてくれた。『抱経堂勉学家訓』(『大美晩報』に拠る)。これは未だ嘗て耳にしたことのない書だが、下の署名に「顔子推」とあるのを見れば、顔之推の『家訓』中の「勉学篇」であることが悟られよう。「抱経堂」と曰うのは、かつて盧文弨の『抱経堂叢書』中に印入されたことに因るものであろう。その講義にこのような一節がある──


 「学芸ある者は、地に触れて安んず。荒乱より以来、諸々俘虜と為るを見るに、百世の小人と雖も、『論語』『孝経』を読むを知る者は、尚お人の師と為り得、千載の冠冕と雖も、書記を暁らざる者は、田を耕し馬を養わざるはなし。此を以て之を観れば、汝自ら勉めざるべけんや。若し能く常に数百巻の書を保たば、千載終に小人と為らざるなり。……諺に曰く、『財を積むこと千万、薄伎の身に在るに如かず。』と。伎の習い易くして貴ぶべき者は、読書に過ぐるはなし。」


 これは実に透徹している。習い易き伎は読書に如くはなく、ただ『論語』『孝経』を読むことを知るだけでも、たとえ俘虜となろうとなお人の師たり得、他のすべての俘虜の上に居るのだ。この種の教訓は当時の事実から推断されたものだが、金元に施して準じ、明清の際に按じてもまた準ずる。今にわかに放送をもって聴衆を「訓」ずるに至ったのは、あるいは選講者が既に来たるべきものに大いに感ずるところあり、未雨に綢繆するのであろうか。

 「儒者の沢は深く且つ遠し」──小を即きて大を見れば、我々はここから「儒術」を明らかにし、「儒効」を知ることができるのだ。


 (五月二十七日。)


第14節

【「絵を見て字を覚える」】


  およそ人は、たとえ中年になり、あるいは晩年に至ろうとも、ひとたび子供に近づけば、久しく忘れ去っていた子供の世界の辺境に踏み入り、月はなぜ人についてくるのか、星はいったいどうやって空に嵌め込まれているのかと思い至る。しかし子供は自分の世界の中で、あたかも水中の魚のように自在に泳ぎ、そのことを忘れているのに対し、大人はまるで人が水を掻くように、水の柔らかさや冷たさは感じるものの、やはり骨が折れ、難儀し、陸に上がらねばならぬのだ。

  月と星のことは、すぐには説明しきれない。家が極貧というほどでもなければ、当然まずは所謂教育を施し、文字を覚えさせるべきだろう。上海には各国の人々がおり、各国の書店があり、各国の児童書もある。しかし我々は中国人であるから、中国の本を見、中国の字を覚えなければならない。そうした本もある。紙質も、挿絵も、色彩も、印刷製本も他国に遠く及ばないが、あるにはあるのだ。私は街へ出て、子供のために民国二十一年十一月刊行の「国難後第六版」なる『看図識字』を買ってきた。

  まず色彩がなんと濁っていることか、だがこれもさておく。絵がなんと死板であることか、これもさておく。出版地は上海なのに、奇妙なことに、絵にはろうそくがあり、ランプがあるのに電灯がない。朝靴があり、三縁雲頭靴があるのに革靴がない。跪いて銃を撃つ者は片足を地に引きずり、立って弓を射る者は両腕が平らでなく、彼らは永遠に的を射ることができまい。さらに悪いことに、釣竿や風車や機織り機の類まで実物と少々異なっている。

  私はそっと溜め息をつき、幼い頃に見た『日用雑字』を思い出した。これは婦女や下女に帳簿をつけさせるための教育書で、物の種類は多くなく、絵も粗末ではあったが、とても生き生きとしていて、よく似ていた。なぜか。作画した人が描く対象をよく知っていたからだ。一本の「大根」、一羽の鶏が、記憶の中で曖昧でなければ、描けば当然的確になる。今の『看図識字』に描かれた生活の様子――顔を洗い、飯を食い、読書する――を見れば、これが作者の念頭にある読者であり、作者自身の生活状態でもあることがわかる。租界の一階を借りて一家で住み、裕福でもなく極貧でもなく、一日頭を低くして懸命に働いてようやく一日の暮らしを維持する人々である。子供は学校に通わねばならず、自分は長衫を着、心身を尽くして体面を保つのに、参考書を買い、事物を観察し、腕を磨く余力などどこにあろうか。しかも、その本の最終頁には一行「戊申年七月初版」とある。年表を調べてみると、清朝光緒三十四年、即ち西暦一九〇八年のこと。一昨年新しく刷ったとはいえ、書物は二十七年前に成ったもので、既に一冊の古典であり、その生気のなさは怪しむに足りぬのだ。

  子供は敬服に値する。彼はしばしば星月の彼方の境地を思い、地面の下の有様を思い、花卉の用途を思い、昆虫の言葉を思う。空へ飛び立ちたいと思い、蟻の巣に潜り込みたいと思う……。だから児童に見せる図書は十分に慎重でなければならず、作るのも十分に困難である。『看図識字』のようなささやかな本ですら、天文・地理・人事・物情を網羅している。実のところ、上は宇宙の大から下は蒼蠅の微に至るまで、いささかなりとも確かな知識を持つ画家でなければ、到底その任に堪えぬのだ。

  しかし我々は、自分がかつて子供であった時の有様を忘れ去り、彼らを愚か者扱いして何も眼中に置かない。たとえ時勢に押されてやむなくいくらかの所謂教育を施すにしても、愚か者に任せておけば十分だと考える。かくして彼らは成長し、本当に愚か者となり、我々と同じになるのだ。

  しかし我々愚か者どもは、さらに輪をかけて子供を愚弄し続けている。近二、三年の出版界を見るだけで、「小学生」「小朋友」向けの刊行物が特別に多いことがわかる。中国は突然これほど多くの「児童文学家」を輩出したのか。思うに、そうではあるまい。


  (五月三十日。)


第15節

【拿来主義】


  中国はずっと所謂「鎖国主義」であった。自分からは出て行かず、他人にも来させない。砲火に門を打ち破られてからは、また一連の釘を踏み、今では何でもかんでも「送り出し主義」となった。他はさておき、学芸の分野だけでも、近頃まず古董の一団をパリに送って展覧に供したが、結局「その後いかになりしか知れず」。さらに数人の「大家」たちが古画と新画を数枚ずつ捧げ持ち、ヨーロッパ各国を巡って掛け並べ、「国光を発揚す」と称した。聞くところでは、遠からず梅蘭芳博士もソ連に送られ、「象徴主義」を促進するとか、その後はついでにヨーロッパで布教するそうだ。梅博士の演芸と象徴主義の関係はここでは論じたくないが、要するに、生きた人間が古董に取って代わったのだから、いくらかの進歩を見せたと言えるだろう。

  だが我々の中には「礼尚往来」の礼節に基づいて「取って来い!」と言う者がいない。

  もちろん、ただ送り出すだけでも悪いことではない。豊かさの表れでもあり、寛大さの表れでもある。ニーチェは自らを太陽と誇り、光と熱は無尽で、ただ与えるのみ、取ることは求めぬと言った。しかしニーチェは結局太陽ではなく、発狂した。中国もそうではない。地下の石炭を掘り出せば全世界が数百年使えるという者もあるが、数百年後はどうなるのか。数百年後、我々は当然魂となって天国に昇るか地獄に落ちるかだが、子孫はまだいるのだから、いくらかの贈り物を残してやるべきだ。さもなければ佳節大典の際、彼らは差し出すものがなく、ただ叩頭して祝賀し、残り物のおこぼれを褒美としてもらうしかない。

  この種の褒美を「投げてよこした」ものと誤解してはならない。これは「投げ与えた」ものであり、体裁よく言えば「送ってきた」ものと称しうるが、ここでは実例を挙げたくない。

  ここではまた「送り出し」についてもこれ以上述べたくない。でなければあまりに「モダン」でなくなる。私はただ、もう少し吝嗇にして、「送り出し」のほかに「取ってくる」ことを鼓吹したいのだ。これを「拿来主義」と称す。

  だが我々は「送られてきた」もので脅かされてしまった。まず英国の阿片、ドイツの廃銃砲、続いてフランスの香粉、アメリカの映画、日本の「完全国貨」と刷り込まれた各種小物。かくして覚醒した青年たちでさえ洋貨に恐怖を抱くに至った。実はこれこそ、それが「送られてきた」のであって「取ってきた」のではないという理由による。

  だから我々は頭脳を働かせ、眼光を放ち、自ら取りに行かねばならぬ!

  たとえばだ、我々の中の一人の貧しい青年が、先祖の陰徳によって(仮にこう言わせてもらうが)一つの大邸宅を得たとしよう。それが騙し取ったものか、奪い取ったものか、合法的に相続したものか、婿入りして得たものかは問わない。さて、どうするか。まずは七の二十一もかまわず「取ってくる」のだ! だが、もしこの邸宅の旧主人に反対して、その物に汚されるのを恐れ、門の前をうろうろして入る勇気がないなら、それは臆病者だ。激昂して火を放ち焼き尽くし、自分の潔白を守ろうとするなら、それは愚か者だ。ただし元来この邸宅の旧主人に憧れていて、今回一切を受け入れ、嬉々として寝室に入り込み、残りの阿片を大いに吸うなら、それはもちろん廃人だ。「拿来主義」者は全くこうではない。

  彼は占有し、選別する。フカヒレを見ても路上に捨てて「庶民化」を誇示したりせず、栄養があるなら友人たちと大根や白菜のように食べてしまう。ただ宴会の接待には使わない。阿片を見ても衆人の前で便所に叩きつけて徹底した革命を見せつけたりせず、薬局に送って治療に供する。ただし「在庫一掃、売り切れ次第終了」などという見え透いた手は使わない。煙管と煙灯だけは、形式はインド、ペルシャ、アラビアの煙具とはすべて異なり、確かに一種の国粋と言える。背負って世界一周すれば見物人もいようが、博物館に少し送る以外は、残りは大いに壊してしまってよかろう。それから妾の一群も、それぞれ散り散りに去ってもらうのがよい。さもなくば「拿来主義」にはいささか危機が伴う。

  要するに、我々は取ってこなければならない。使うか、保存するか、あるいは壊滅させるか。そうすれば主人は新しい主人となり、邸宅もまた新しい邸宅となるだろう。しかしまず、この人が沈着で、勇猛で、弁別力があり、利己的でないことが必要だ。取ってくることなくして、人は自ら新しい人間にはなれず、取ってくることなくして、文芸は自ら新しい文芸にはなれないのだ。


  (六月四日。)


第16節

【隔膜】


  清朝初年の文字の獄は、清朝末年になってようやく改めて取り上げられた。最も熱心だったのは「南社」の数人で、被害者のために遺集を編纂印刷した。また留学生たちも競って日本から文証を持ち帰った。孟森の『心史叢刊』が出て、我々はようやくやや詳しい状況を知った。皆の従来の意見は、文字の禍は清朝を嘲笑し罵ったことに起因するというものであった。しかし実はそうとばかりも言えないのだ。

  この一、二年、故宮博物院の話はあまり人を感服させられるものではないようだが、一つの良書を我々に印刷してくれた。『清代文字獄档』といい、昨年すでに八輯まで出た。その中の事件は実に千差万別であるが、最も興味深いのは乾隆四十八年二月の「馮起炎が易詩二経に注解を施し呈進せんとした案」である。

  馮起炎は山西臨汾県の生員で、乾隆が泰陵に詣でると聞き、著作を懐に忍ばせて道中を徘徊し、呈進を企てたが、先に「挙動不審」で捕縛された。その著作は『易』をもって『詩』を解くもので、実は出鱈目であり、ここに書き写す値打ちもないが、末尾に「自伝」めいた一大段があり、これがまことに特別である――


  「また、臣が参りましたのは、かくかくを願うのでなく、また別に願い求めることもございませぬが、ただ一事未決のことがあり、陛下の御前にてその経緯を申し述べたく存じます。臣……名は馮起炎、字は南州と申します。かつて臣の張三なる叔母の家に参りましたところ、一人の女子を見、娶るに足ると思いましたが、力及ばざるを恨みました。この女子の名は小女、年十七歳、まさに嫁ぐべき年にしてまさに未だ嫁がざる時であり、原籍東関春牛廠長興号の張守忭の次女でございます。また臣の杜五なる叔母の家に参りましたところ、一人の女子を見、娶るに足ると思いましたが、力及ばざるを恨みました。この女子の名は小鳳、年十三歳、必ずしも嫁ぐべき年ではございませぬが、すでに嫁ぎ得る時にあり、本京東城闹市口瑞生号の杜月の次女でございます。もし陛下のお力をもって、幹員一名を差し遣わし、駿馬一頭を選び、日を期して臨邑に馳せ向かい、かの臨邑の地方官にお尋ねくだされば、『その東関春牛廠長興号に果たして張守忭なる者がおるや否や』と。まことにしかりとならば、この事は成就いたします。さらにお尋ねくだされば、『東城闹市口瑞生号に果たして杜月なる者がおるや否や』と。まことにしかりとならば、この事は成就いたします。二事成就すれば、臣の願いは果たされます。しかしながら臣の参上は、まだ陛下が臣の言を納れ給うや否やも存ぜぬうちに、必ずやかかることを強いるのかとお思いでしょうが、ただ進言の際、一度申し述べたまでのことにございます。」


  これのどこに微塵でも悪意があろうか。ただ当時流行の才子佳人小説に迷い、一挙に名を成し、天子に媒酌をしてもらい、従妹を抱こうとしただけである。ところが結末は思わしくなく、署直隷総督袁守侗の擬した罪名は「その呈の首を閲するに、敢えて聖主の御前にて妄りに経書を講じ、呈の末の措辞に至ってはさらに狂妄の極み。その情罪を核するに、儀仗衝突よりもなお重し。馮起炎一犯、重きに従い黒龍江等処に発遣し、披甲人の奴とすべし」というものであった。この才子は、後に恐らく独り身のまま関外へ出てボーイにさせられたのであろう。

  このほかの案件は、これほど風雅ではないにせよ、反逆的でないものは少なくない。あるものは粗忽、あるものは発狂、あるものは田舎の迂儒で真に忌諱を知らず、あるものは草莽の愚民で真に皇室を案じたのだ。だがその運命は概して悲惨で、凌遅か族滅か、さもなくば即刻斬首、あるいは「斬監候」とされても、やはり生きて出ることはなかった。

  こうした事件を一通り見ると、まず清朝の残虐さを感じ、次に死者の哀れさを覚える。だがもう一度考えてみると、事はそう単純ではない。これらの惨劇の原因は、すべてただ「隔膜」のためなのだ。

  満洲人自身は主と奴を厳しく分け、大臣が奏上する際、必ず「奴才」と称したが、漢人は「臣」と称すれば足りた。これは「炎黄の裔」であるがゆえに特別に優遇し、佳名を賜ったのではない。実は満人の「奴才」と区別するためであり、その地位はなお「奴才」より数等下なのだ。奴隷はただ奉行するのみ、意見を述べることは許されない。評論はもちろん不可、妄りに讃えることも不可。これがすなわち「思いその位を出でず」である。たとえば「ご主人さま、この袍の裾が少々破れております。引きずっておけばさらに破れましょうから、繕った方がよろしゅうございます」と。進言した者は忠義を尽くしているつもりだが、実は罪を犯しているのだ。なぜなら、そのように言うことを許された別の者がいるのであって、誰でも言えるわけではない。みだりに言えば「越俎代謀」であり、当然「罪を得るべし」。もし「忠にして咎を得た」と自任するなら、それは自分の愚鈍に過ぎない。

  しかし清朝の開国の君主は十分に聡明であった。彼らはこうした方針を定めながらも、口ではそのようには言わず、中国の古訓を用いた。「民を愛すること子の如し」「一視同仁」と。一部の大臣や士大夫はこの奥妙を弁えていたから、敢えて信じなかった。だが一部の単純で愚鈍な人々は騙され、本気で「陛下」を自分の父親だと思い、馴れ馴れしく甘えすり寄った。あの方が被征服者を子にしたがるものか。かくして彼らは殺された。やがて子供たちは怯えてもう口を開かなくなり、計画は見事に成功した。光緒の時代の康有為らの上書に至って、ようやく「祖宗の成法」が再び打ち破られたのである。しかしこの奥妙は、今に至るまで誰も説明していないようだ。

  施蛰存氏は『文芸風景』創刊号で、大いに「忠にして咎を得た」者のために不平を唱えたが、それもまたいくらか「隔膜」があるがゆえのことだ。これは『顔氏家訓』や『荘子』『文選』には載っていないことなのである。


  (六月十日。)


第17節

【「木刻紀程」小引】


  中国の木刻版画は、唐から明にかけて、かなり立派な歴史を持っていた。しかし現在の新しい木刻は、この歴史とは無関係である。新しい木刻は、ヨーロッパの創作木刻の影響を受けたものだ。創作木刻の紹介は朝花社に始まり、そこで出版された『芸苑朝華』四冊は、選択も印刷も精巧とは言えず、また芸術の名家には歯牙にもかけられなかったが、若い学徒の注目をかなり引いた。一九三一年夏、上海でついに中国最初の木刻講習会が開かれた。そこからさらに木鈴社が派生し、『木鈴木刻集』二冊を刊行した。また野穗社があり、『木刻画』一輯を刊行した。無名木刻社があり、『木刻集』を刊行した。だが木鈴社はとうに壊滅させられ、後の二社も継続や発展の消息はない。少し前まで上海にはM.K.木刻研究社が残っていた。歴史の比較的長い小団体で、何度も作品展を開き、『木刻画選集』を出す予定だったが、残念ながらこの夏また私怨を持つ者に密告された。社員の多くは逮捕・追放され、木版も工部局に没収されてしまった。

  我々の知る限り、今はもう木刻を研究する団体は一つもないようだ。しかし木刻を研究する個人はまだいる。羅清楨はすでに『清楨木刻集』二輯を出し、又村は最近『廖坤玉物語』の連環画を刊行した。これらはいずれも特筆に値する。

  しかも作者たちの長年の努力と作品の日増しの向上のおかげで、今や中国の読者の共感を得ただけでなく、世界へ踏み出す第一歩にも漸く至った。まだ確固たるものではないが、ともかく踏み出そうとしている。ただし同時に停滞の危機にも至っている。激励と切磋がなければ、自足に陥りやすいからだ。本集はここに木刻の里程標たらんとし、昨年以来、流布すべきと思われる作品を陸続と輯め、読者の概覧、作者の参考の助けとする。ただし当然、収集の及んだものに限られ、中国の優秀な作は決してこれに尽きるものではない。

  他の出版者たちは、一方ではなお欧米の新作を紹介し、一方では中国の古刻を復刻している。これらもまた中国の新木刻の翼である。外国の良き規範を採用し発揮して、我々の作品をさらに豊かにするのが一つの道であり、中国の遺産を択び取り新しい機運と融合させて、将来の作品に新生面を開くのもまた一つの道である。もし作者たちが不断に奮い立ち、本集を一程また一程と前進させることができるならば、上に述べたことが決して奢望にとどまらぬと知るであろう。

  一九三四年六月中、鉄木芸術社記。


第18節

【難行と不信】


  中国の「愚民」――学問のない下層の者たちは、昔から人に注目されることを恐れてきた。もし無闇に年齢はいくつか、どんな意見を持っているか、兄弟は何人か、家の暮らし向きはどうかと尋ねると、彼はしどろもどろに答えた後、逃げ去ってしまう。学識ある大人物たちは、こうした気質を大いに不愉快に思う。しかしこの気質はなかなか変わらない。彼らにも経験に基づく理由があるからだ。

  もし誰かに目をつけられたら、油断すれば少なくともちょっとした損をする。たとえば中国はすでに改革されたのだから、子供たちは当然とうに「孟宗哭竹」「王祥臥冰」の教訓から脱却しているはずだが、意外にもまた新たな「児童年」が来て、愛国の士がこれに乗じて「小朋友」を思い出し、筆あるいは舌で、労を厭わず教訓を垂れる。ある者は勉強せよと言い、昔は「蛍を嚢に入れて読書した」「壁に穴を穿って光を偸んだ」志士がいたと。ある者は愛国せよと言い、昔は十数歳で包囲を突破して援軍を請い、十四歳で陣に臨んで敵を斃した奇童がいたと。これらの話は閑談として聞く分には悪くもないが、万一誰かが信じて実行したら、乳臭未だ乾かぬドン・キホーテになってしまう。毎日四号活字が見えるほどの蛍火虫を一袋捕まえるのが容易なことか。だがこれはまだ容易でないだけのこと、壁に穴を穿つとなれば事はさらに面倒で、どこでも少なくとも一頓の叱責を受けた後、父母が謝罪し、人を雇って修繕することになる。

  援軍を請い、敵を斃すのはさらに大事であり、外国では三四十歳の人々がすることだ。彼の国の児童は、食べること、遊ぶこと、文字を覚えること、ごく普通でごく肝要な常識を聞くことを重んじる。中国の児童が皆に特別に尊ばれるのは、もちろん結構なことだが、それゆえ出される課題がしばしば難題となり、飛剣のごとく、武当山に登って師について修行しなければ到底手の施しようがない。二十世紀になって、古人が空想した潜水艇や飛行機は現実に成功したが、『龍文鞭影』や『幼学瓊林』の模範物語はまだいささか学びがたい。思うに、説教する当人ですら、自分でも信じてはいまい。

  だから聞く方も信じない。千年余り剣仙俠客の話を聞かされて、去年武当山に行ったのはたった三人、全人口の五百兆分の一に過ぎないのを見ればわかる。昔はもう少し多かったかもしれないが、今は経験を積んで、あまり信じなくなったのだ。かくして実行する者も少なくなった。――ただしこれは私個人の推測である。

  無責任な、実行しようのない教訓が多ければ、信じる者は少なく、利己損人の教訓が多ければ、信じる者はさらに少ない。「信じない」ということは「愚民」が禍を遠ざける塹壕であり、同時に彼らを砂のように散らばらせる毒素でもある。しかしこの気質を持つのは「愚民」に限らない。説教する士大夫とて、自分と他人を信じる者は今どれほどいようか。たとえば孔子を尊びながら活仏を拝む者は、ちょうど金を各種の株に分散して多くの銀行に預けるようなもので、実はどちらも信じていないのだ。


  (七月一日。)


第19節

【「小学大全」を買った記】


  線装本は本当に買えなくなった。乾隆時代の刻本の値段は、ほとんど当時の宋本に等しい。明版小説は五四運動以後に暴騰した。今年からは、その幸運がおそらく小品文に回ってくるだろう。清朝の禁書となると、民元革命後にはすでに宝物で、さして見るべきところのない著作でも、しばしば百余元から数十元を要した。私も昔から古書店を回っているが、この種の宝書に対しては分不相応な望みを抱いたことがなかった。端午節の前、四馬路あたりを散策していて、思いがけず一種を買い求めた。『小学大全』といい、全五冊、七角であった。この名を見れば、あまり歓迎する者はいまいが、実は清朝の禁書なのだ。

  この書の編纂者は尹嘉銓、博野の人である。その父の尹会一は有名な孝子で、乾隆帝がかつて褒賞の詩を与えたことがある。尹嘉銓自身も孝子にして道学者であり、官は大理寺卿稽察覚羅学にまで至った。さらに旗籍の子弟にも朱子の『小学』を講読させることを請い、「朱批を蒙る。奏する所は是なり。欽此。」とあった。この書はその二年後に成り、疏を付した『小学』六巻、『考証』と『釈文』『或問』各一巻、『後編』二巻、合わせて一函となったのが『大全』である。進呈もされ、ついに乾隆四十二年九月十七日に奉旨「好し。知りたり。欽此。」となり、明らかに皇帝の嘉許を得たのである。

  乾隆四十六年、彼はすでに致仕して家にあったが、まさに「その老いるに及びては之を得るを戒めよ」というべきか――欲しかったのは「名」ではあったが――やはり同じように大禍を招いた。この年三月、乾隆が保定を通過した際、尹嘉銓は息子に奏章を持たせて送り、父のために諡を請うた。朱批は「諡は国家の定典にして、妄りに求むべからず。この奏は本来部に交して罪を治すべきなれど、汝が父を思う私情を念じ、姑く之を免ず。もし再び安分に家居せざれば、汝の罪逭るべからず。欽此。」であった。しかし彼は先にこれほどの大釘を踏むとは予想していなかったので、続いてもう一本を送り、「我が朝」の名臣である湯斌・范文程・李光地・顧八代・張伯行らの孔子廟従祀を請うた。「臣の父尹会一に至りては、すでに御製詩章にて褒嘉し孝と称し給えば、すでに徳行の科にあり、自ら従祀すべきことは臣の敢えて請う所にあらず。」と。この度は本当に大事件となり、三月十八日の朱批は「竟に大いに狂吠す、恕すべからず。欽此。」であった。

  乾隆時代の決まったやり方として、文字で罪を得た者は、一方で取り調べ、一方ですぐに家宅捜索する。これは財産を重んじるのではなく、蔵書と他の文字を調べるためで、もし別に「狂吠」があれば併せて罪に問うことができる。乾隆の考えでは、「狂吠」する以上は一度や二度にとどまるはずがなく、徹底的に追究せねばならぬというのだ。尹嘉銓も当然例外ではなく、自身の逮捕と同時に、博野の本宅も北京の寓所も家宅捜索された。蔵書や他の著作は実に多かったが、実のところ何ら差し障りのある作は無かった。しかし当時はそれで済ませるわけにはいかず、大学士三宝らの再三の審訊の後、「尹嘉銓を大逆律に照らし凌遅処死に処すべし」と定められた。幸い結局は寛大で、「尹嘉銓は恩を加えて凌遅の罪を免じ、改めて絞立決とし、その家属も併せて恩を加えて縁坐を免ず」で決着した。

  これもまた名儒にして孝子たる尹嘉銓の予想の及ばぬところであった。

  この度の文字の獄は一人を絞殺したのみで、他の事件に比べれば決して大獄とは言えない。だが乾隆帝はかなり心を砕き、いくつかの文章を発表した。これらの文章と奏章(いずれも『清代文字獄档』第六輯に見える)から見ると、今回の禍機は「安分ならず」に発したとはいえ、大きな原因は名儒を自任し、かつ名臣の従祀を請うたことにある。これこそ大いに「恕すべからず」なのだ。清朝は朱子を尊崇したが、「尊崇」にとどめ、「見習う」ことは許さなかった。見習えば講学し、講学すれば学説が生まれ、学説があれば門徒が集まり、門徒がいれば門戸が立ち、門戸があれば門戸の争いが起こる。これは「太平の聖世」の累となるに十分だ。しかもこのような「名儒」でありながら官となれば、「名臣」を自任せずにはおれず、「妄りに自ら尊大」となる。乾隆は清朝に「名臣」がいることを認めなかった。自身は「英主」であり「明君」であるから、その統治の下には奸臣はおらず、特別に悪い奸臣がいなければ特別に良い名臣もおらず、一律にどうということもない、良いとも悪いとも言えぬ奴僕であるべきなのだ。

  道学先生を特に攻撃するのは、当時の一つの潮流であり、すなわち「聖意」であった。我々がよく見るのは、紀昀が総纂した『四庫全書総目提要』と自著の『閲微草堂筆記』の中の絶えざる排撃である。これはこの潮流に迎合したものであって、彼が生来気さくで親しみやすかったがゆえに道学先生の峻厳さを憎んだのだと思うなら、それは誤解である。大学士三宝らもこの潮流をよくわきまえており、尹嘉銓を合同審問した際にこう奏上した。「該犯かくの如く狂悖不法なれば、直ちに罪を定め正法に処すとも、なお公憤を泄らし人心を快くするに足らず。該犯はかつて三品の大官を務めたれば、例に遵い奏明し、該犯を厳しく挟訊し、多く刑法を受けしめ、いかなる心なりしかを問い、供詞を録取し具奏し、再び旨を請うて正典の刑に処して、はじめて炯戒を昭らかにするに足る」と。後に実際に挟棍を用いたかどうかは未確認だが、録された供詞を見ると、彼の「醜行」をもってその道学を打倒する策略は実に力を入れて行われている。今、三条を下に抜き書きする――


  「問う。尹嘉銓、汝の書いた李孝女晩年不字の事の一篇に、『年五十を過ぎ、依然として嫁がず、吾妻李恭人聞きてこれを賢しとし、淑女を求めて相助けんと欲す、仲女固辞して就かず』等の語がある。この処女は志を立てて嫁がず、すでに五旬を過ぎているのに、汝はなぜ汝の妻に媒を遣わせて、彼女を妾にしようとしたのか。このような廉恥のないこと、まさか正道を講ずる者のなすことか。供に曰く、私が李孝女年五十を過ぎ依然として嫁がずと言いましたのは、もとより日頃雄県にある姓李の女子が貞を守って嫁がないことを知っていたからでございます。妻が彼女を妾に迎えようとしたのは、私が当時京で候補しておりまして、全く知りませんでした。後に妻が私に告げましたので、初めて知り、それゆえ彼女のためにこの文章を作り、表彰しようとしたのでございます。実に彼女に会ったことはございません。しかし年五十を過ぎた彼女を妾にしようとした話を文章に書いたのは、まさしく廉恥を喪い尽くしたのであり、申し開きの余地もございません。

  問う。汝は当時皇上の御前で翎子の賜りを求め、翎子がなければ帰って妻に顔向けができぬと申した。汝ら似非道学者は女房を恐れるのか、結局皇上は翎子を賜らなかったが、汝はどう帰ったのか。供に曰く、私は以前家にいた時、妻に向かって皇上にお目通りして翎子を頂くと申しておりましたので、その時分別もなく妄りに恩典を求めたのでございます。もとより翎子を得て帰宅し、誇示しようと思ったのです。結局皇上はお与えくださらず、家に帰りましたところ、実に恥ずかしく、妻に顔を合わせ難うございました。これは皆、私が似非道学者で女房を恐れたがゆえのこと、相違ございません。

  問う。汝の妻は日頃嫉妬深いから、汝のために妾を娶るにもこの五十歳の女を選んだのだ。この女が絶対に嫁がぬことを知っていて、妻は嫉妬しないという名を得ようとしたのだ。つまりは汝ら似非道学者が日頃よりこうした世を欺き名を盗む事をしているから、汝の妻も汝に倣って世を欺き名を盗んだのだ。汝はまさか知らなかったとは言うまいな。供に曰く、妻が私のために妾を娶ろうとしましたが、この五十歳の李氏の女子はすでに志を立てて嫁がず、決して私の妾にはなりますまい。妻はそれを承知しておりましたゆえ、これを借りて嫉妬せぬの名を得ようとしたのでございます。つまりは私が日頃なすことが皆世を欺き名を盗むことばかりでございますゆえ、妻もまたこの世を欺き名を盗む事を学んだのでございまして、皇上の洞察を逃れることはできませぬ。」


  もう一つの肝要なことは、彼に関わる書物の焼却である。彼の著述は実に多すぎ、「銷毀」すべきものは書籍八十六種、石刻七種、すべて著作であった。「撤毀」すべきものは書籍六種、すべて古書で彼の序跋が付いていた。『小学大全』は「疏輯」に過ぎないが、「銷毀」の列に入っていた。

  だが私が入手した『小学大全』は、光緒二十二年に開彫し二十五年に刊行が完了し、「宣統丁巳」(実は中華民国六年)に重校した遺老本であり、張錫恭の跋に「世風不古なること若し、願わくは是の書を読む者、以て之を転移せんことを……」とある。また劉安濤の跋に「晩近凌夷し、益々甚だしく、異言喧豗して、顕に是の書と相悖り、一唱百和し……ついに家と国と均しく其の害を蒙り、唐虞三代以来先聖先賢の養正の遺意、掃地尽きたり。剥極まりて必ず復す、天地の心ここに見る……」とある。文字の獄のために士子は歴史を治めることを恐れ、特に近代の事を語ることを恐れたが、一方でまた故事に暗くなり、乾隆朝が力を尽くして「銷毀」した書を、遺老でさえもはや弁えず、百三十年も経たぬうちにまた新たに宝典として奉じたのだ。これもまた「剥極まりて必ず復す」なのか。恐らくは遺老たちの乾隆帝も予想し得なかったことであろう。

  しかし清の康煕・雍正・乾隆の三帝、とりわけ後の二帝は、「文芸政策」あるいはやや大きく言えば「文化統制」に実に大いなる努力を傾けた。文字の獄は消極的な一面に過ぎず、積極的な面としては欽定四庫全書があり、漢人の著作はことごとく取捨を加え、採った書の中でも金元に言及する箇所はおおむね改竄して定本とした。さらに『七経』『二十四史』『通鑑』、文人の詩文、僧侶の語録に至るまで見逃さず、鑑定でなければ評選であり、文苑の中に蹂躙されなかった場所は実に無かったのである。しかも彼らは漢文に深く通じた異族の君主であり、勝者の視座から被征服民族たる漢族の文化と人情を批評した。蔑視しつつも恐れ、苛論もあったが確評もあり、文字の獄はそこから来た辣腕の一つに過ぎない。その成果は、満洲の側から言えば、効果がなかったとは確かに言えぬのだ。

  今ではその影響は薄れたように見え、遺老たちの『小学大全』重刻がその一つの証拠であるが、同時に愚弄された性霊がついに目覚めなかったことも見て取れる。近来、明人小品や清代禁書の市価の高さは、貧しい読書人の窺い知るところではないが、『東華録』『御批通鑑輯覧』『上諭八旗』『雍正朱批諭旨』……等は人の問うところとならず、その安さは他のすべての大部の書に及ばない。もし心ある人がこれらを収集し、一一鉤稽して、漢人を御する策、文化を批評する策、文芸を利用する策を分別して排比し、一書に編めば、我々はその策略の広大にして悪辣なることを見るばかりでなく、我々がいかに異族の主人に馴致されたか、そして今に遺る奴性の由来をも明らかにすることができるだろう。

  もちろんこれは性霊文字を玩賞するほどの趣はない。しかしこれによって今日の所謂性霊が如何にして成り立ったかの歴史をいくらか知ることは、十分に有益なことなのである。


  (七月十日。)


第20節

【韋素園墓記】


  韋君素園の墓。

  君は一九〇二年六月十八日に生まれ、一九三二年八月一日に歿す。嗚呼、宏才遠志、短年に厄せらる。文苑に英を失い、知者は永く悼む。弟叢蕪、友静農、霽野、表を立つ。魯迅書す。


第21節

【韋素園君を憶う】


  私にも記憶はある。しかし散りぢりで甚だ心許ない。自分の記憶は刃で削がれた魚の鱗のようなもので、いくらかは体に残り、いくらかは水に落ちた。水をかき回せば数枚がなお翻り、閃くけれども、血糸が混じっており、自分でも鑑賞家の目を汚しはしないかと恐れるのだ。

  今、何人かの友が韋素園君を記念しようとしている。私もまた言葉を述べねばなるまい。そう、私にはその義務がある。身の外の水も一つかき混ぜて、どんなものが浮かび上がるか見るほかない。

  ○     ○     ○     ○

  もう十余年前のことだろうか、私は北京大学で講師をしていた。ある日、教員控室で、髪も髭もすべてやたらに伸ばした青年に出会った。それが李霽野である。私が素園を知ったのは、おそらく霽野の紹介であろうが、その時の情景は忘れてしまった。今、記憶に残っているのは、彼がすでに旅館の小部屋に座って出版を計画していたことだ。

  この一間の小部屋が、すなわち未名社であった。

  ○     ○     ○     ○

  当時、私は二種の小叢書を編んでいた。一つは『烏合叢書』で創作を専ら収め、一つは『未名叢刊』で翻訳を専ら収め、いずれも北新書局から出版していた。出版者も読者も翻訳書を嫌うのは、あの頃も今も変わらず、だから『未名叢刊』は格別に冷遇された。折よく素園たちが外国文学を中国に紹介したいと望み、李小峰と相談して『未名叢刊』を引き取り、同人で自主運営することにした。小峰は二つ返事で承諾し、かくしてこの叢書は北新書局から離れた。原稿は我々自身のもの、別途印刷費を工面して事業を始めた。この叢書の名にちなみ、社名も「未名」と呼んだ――ただし「名前がない」の意ではなく「まだ名前がない」の意で、あたかも子供の「まだ成人していない」ようなものだ。

  未名社の同人には、実のところ何ら雄大な志があったわけではない。しかし着実に、一滴一滴と続けていこうという意志は、皆に共通であった。そしてその中の骨幹が素園であった。

  ○     ○     ○     ○

  かくして彼はこの破れた小部屋、すなわち未名社に座って仕事を始めた。もっとも半分は病を患っていて学校に通えなかったためでもあり、おのずと彼が番をすることになったのだ。

  最初の記憶は、この破れた砦で素園に会ったこと。痩せて小柄で、聡明で、真面目な青年であった。窓辺に並ぶ数列の破れた洋書が、貧しくともなお文学に食らいついていることを証していた。しかし同時に悪い印象も受けた。彼とは交際しにくいと感じたのだ。笑顔が少なかったからだ。「笑顔が少ない」のは元来未名社同人の特色の一つだったが、素園が最も顕著で、一目で感じ取れた。しかし後になって、私の判断は誤りだったと知った。交際が難しいわけではなかった。笑わないのは、おそらく年齢の差によって私に対してとった一種の特別な態度であろう。残念ながら私は青年に化けてお互いの隔てを忘れさせ、確証を得ることはできなかった。この真相は、霽野たちなら知っているだろう。

  だが、私が自分の誤解を悟った時、同時にまた彼の致命的な弱点を発見した。彼はあまりに真面目すぎるのだ。沈着に見えながら、その実激烈であった。真面目であることが人の致命傷になりうるのか。少なくとも、あの頃から今に至るまで、なりうるのだ。真面目であれば激烈に傾きやすく、それを発揚すれば命を落とし、沈黙していればまた自分の心を噛み砕くのである。

  ○     ○     ○     ○

  ここに一つの小さな例がある。――我々には小さな例しかないのだ。

  あの頃、段祺瑞総理とその取り巻きの圧迫のために、私はすでに厦門に逃れていたが、北京の虎の威を借る狐どもの猛威は依然として尽きなかった。段派の女子師範大学校長林素園が兵を率いて学校を接収し、武芸を一通り演じた後、留任の数名の教員を「共産党」と指さした。この呼び名は以前からある種の人々に「事を運ぶ」便宜を与えてきたものであり、この方法もまた古い手口で、本来珍しくもない。しかし素園は激昂したようで、これ以降、彼が私に寄こす手紙には、しばらくの間「素園」の二字を嫌い、「漱園」と改めて名乗っていた。同時に社内にも衝突が起こり、高長虹が上海から手紙を寄こして、素園が向培良の原稿を握りつぶしたと言い、私に一言してくれと求めた。私は黙っていた。すると『狂飆』で罵り始め、まず素園を、次いで私を罵った。素園が北京で培良の原稿を握りつぶしたのを、上海の高長虹が義憤を抱いて、厦門にいる私に裁定を下せと言う。これはなかなか見事な滑稽ではないかと思った。しかもどんな団体でも、たとえ小さな文学団体であっても、苦境に立つと内部で必ず誰かが騒ぎ出す。これも珍しいことではない。しかし素園は真面目に受け止め、私に手紙を書いて詳しい事情を述べただけでなく、雑誌に文章まで発表して弁明した。「天才」たちの法廷で、弁明が通るものか――私は長い溜息をつかずにおれなかった。彼はただの文人で、しかも病を患っているのに、こうも命がけで内憂外患に対処していては、どうして長続きしようか。もちろんこれはほんの小さな憂患に過ぎないが、真面目で激烈な個人にとっては、それなりに大きなものなのだ。

  間もなく未名社は封鎖され、数人は逮捕もされた。おそらく素園はすでに喀血して病院に入っていたのだろう、彼はその中にいなかった。だが後に、逮捕された者は釈放され、未名社も封鎖が解かれた。封じたり解いたり、捕えたり放したり、私は今もってこれがどういう手品なのかわからない。

  ○     ○     ○     ○

  私が広州に着いたのは翌年――一九二七年の秋の初めで、相変わらず彼から数通の手紙を受け取った。西山病院で枕に伏して書いたもので、医者が起き上がることを許さなかったからだ。措辞はさらに明晰で、思考もさらに明瞭に、さらに広大になっていたが、それだけに彼の病がいっそう心配になった。ある日、突然一冊の本が届いた。布装丁の素園訳『外套』であった。一目見て理解した途端、寒気がした。これは明らかに彼が私に送った記念品ではないか、まさか彼はすでに自分の命の期限を悟ったのではあるまいか。

  私はもうこの本を開く気にはなれなかった。しかしどうしようもなかった。

  これによって思い出したのだが、素園の親しい友人の一人もかつて喀血したことがあった。ある日、素園の目の前で喀血し始め、彼は慌てふためき、愛と憂いと焦りの込もった声で命じた。「もう吐くな!」 その時、私はイプセンの『ブラント』を思い出した。彼は過ぎ去った者に命じて甦らせようとしたが、その力はなく、ただ自分が雪崩の下に埋もれたのではなかったか……。

  私は虚空にブラントと素園を見た。しかし私には言葉がなかった。

  ○     ○     ○     ○

  一九二九年五月末、最も幸いだったのは自ら西山病院に赴いて素園と語らったことだ。彼は日光浴のために肌がかなり黒く焼けていたが、気力は衰えていなかった。我々と数人の友は皆とても喜んだ。だが喜びの中に、私は時折悲しみが混じるのを覚えた。ふと彼の恋人が、彼の同意を得た上で、別の人と婚約したことを思い出す。ふと彼が、外国文学を中国に紹介するというささやかな志すら、おそらく果たし難いことを思い出す。ふとここに横たわる彼が、自分では全快を待っているつもりなのか、それとも滅亡を待っているのかと思い出す。ふと彼がなぜ私に精装の『外套』を送ってきたのかと思い出す……。

  壁にはなおドストエフスキーの大きな肖像画がかかっていた。この先生に対して、私は尊敬し、敬服している。だが同時に、冷徹に至るまで残酷な文章を恨みもする。彼は精神の拷問を仕組み、不幸な人を一人一人引き出して、我々の目の前で問い詰めて見せた。今、彼は沈鬱な眼差しで素園とその病床を凝視し、まるで私に告げているようであった。これもまた作品に収めうる不幸な人間なのだと。

  もちろんこれはほんの小さな不幸に過ぎない。だが素園個人にとっては、それなりに大きかったのだ。

  ○     ○     ○     ○

  一九三二年八月一日、朝五時半、素園はついに北平同仁医院で病没した。一切の計画、一切の希望も、共に帰した。私が憾みに思うのは、禍を避けるために彼の書簡を焼いてしまったことで、私はただ一冊の『外套』を唯一の記念として、永く手元に置くしかないのだ。

  ○     ○     ○     ○

  素園の病没から、瞬く間にもう二年が過ぎた。この間、文壇では彼について誰も口を開かなかった。これも珍しいこととは言えない。彼は天才でもなく豪傑でもなく、生きている時もただ黙々と生存していたのだから、死んでからも当然、黙々と埋もれるしかない。だが我々にとっては、記念に値する青年なのだ。彼が黙々として未名社を支えたのだから。

  未名社は今やほとんど消滅し、その存在期間も長くはなかった。しかし素園が経営して以来、ゴーゴリ(N. Gogol)を、ドストエフスキー(F. Dostoevsky)を、アンドレーエフ(L. Andreev)を紹介し、ヴァン・エーデン(F. van Eeden)を紹介し、エレンブルグ(I. Ehrenburg)の『煙管』とラヴレニョーフ(B. Lavrenev)の『四十一』を紹介した。また『未名新集』を刊行し、その中には叢蕪の『君山』、静農の『地の子』と『塔を建つる者』、私の『朝花夕拾』があり、当時としてはそれなりに読むに足る作品であった。事実は軽薄陰険な小人に容赦せず、いくばくもなく彼らは皆煙消火滅したが、未名社の訳業は文苑においてなお枯れていないのだ。

  然り、素園は天才でもなく、豪傑でもなく、まして高楼の尖頂や名園の美花でもなかった。しかし彼は楼下の一塊の礎石であり、園中の一掬の泥土であった。中国に最も必要なのはこうした存在である。鑑賞者の目には入らぬが、建築者と栽培者は決して彼を度外に置くことはない。

  ○     ○     ○     ○

  文人の災難は、生前の攻撃や冷遇にあるのではない。瞑目の後、言行ともに亡び、そこに無聊の徒が知己を僭称して是非紛々と起こし、自らを衒い、かつ金を稼ぎ、死骸までもが彼らの名を売り利を得る道具となる。これこそ悲しむべきことだ。今、私はこの数千字で親しく知った素園を記念するが、願わくばなお私利私欲の混じる箇所のなからんことを。他に言うべきこともない。

  この後なお記念の時があるかどうかわからない。もしこの一度きりなら、素園よ、これにてお別れだ。

  一九三四年七月十六日の夜、魯迅記す。


第22節

【劉半農君を憶う】


  これは小峰が私に出した題目である。

  この題目は過分ではない。半農の逝去に際し、私は哀悼すべきであろう。彼もまた私の旧い友人だったからだ。しかし、それは十年余り前のことであり、今はと言えば、何とも言い難い。

  彼と最初にどう会ったか、また彼がどうやって北京に来たのか、すでに忘れてしまった。彼が北京に来たのは、おそらく『新青年』に投稿した後、蔡孑民先生か陳独秀先生に招かれたのだろう。着いてからは当然『新青年』の戦士の一人となった。彼は活発で勇敢で、何度かの大戦を戦った。たとえば王敬軒への双方書簡、「她」(彼女)と「牠」(それ)の字の創造がそうだ。この二件は今見れば確かに些末なことだが、あれは十数年前、ただ新式句読点を提唱しただけで大勢が「若喪考妣」の如く嘆き、「食肉寝皮」を望まんばかりだった時代のことだから、確かに「大戦」であったのだ。今の二十歳前後の青年には、三十年前、ただ辮髪を切るだけで投獄されたり斬首されたりしたことを知る者はほとんどあるまい。しかしこれはかつての事実であった。

  ただ半農の活発さは時に粗雑に近く、勇敢さにも無謀に失するところがあった。しかし敵を襲う相談をする時には、彼はやはり良い仲間であり、事の進行中に口と心が一致せず、あるいは陰で刺すようなことは決してしなかった。もし計略が外れたなら、それは計算が甘かったからにすぎない。

  『新青年』は一号出すたびに編集会議を開き、次号の原稿を決めた。その時最も私の注意を引いたのは陳独秀と胡適之であった。仮に韜略を一つの倉庫に喩えるなら、独秀先生のそれは外に大旗を立て、大書して曰く「中はすべて武器、来る者注意せよ!」。しかし扉は開いており、中に何挺かの銃、何振りかの刀があるのが一目瞭然で、警戒の必要もない。適之先生のそれは扉を堅く閉ざし、扉に小さな紙切れを貼って曰く「中に武器なし、ご安心あれ。」。これはもちろん本当かもしれないが、一部の人々――少なくとも私のような人間は――時に首を傾げて考えずにはおれない。半農は「武庫」を感じさせない人であった。だから私は陳・胡を敬服したが、半農にはより親しみを覚えた。

  親しいとは、雑談が増えるということで、雑談が増えれば欠点も露わになる。ほぼ一年余り、彼は上海から持ってきた「才子には必ず紅袖添香の夜読書あり」という艶福の思想を拭い去れなかったが、ようやく我々に叱り飛ばされて捨てた。しかし彼はどこでもこんな調子で言いふらしていたようで、ある種の「学者」を顰蹙させた。時には『新青年』への投稿さえ排斥された。彼は投稿に熱心だったが、旧い新聞を見れば、彼の載っていない号がかなりある。人々が彼の人柄を評して言ったのは、「浅い」ということであった。

  その通り、半農は確かに浅い。だが彼の浅さは一条の清い渓流のごとく、澄み切って底まで見える。たとえいくらかの沈殿や腐った草があっても、全体の清さを損なうことはない。もし泥水が満ちていたなら、深さはすぐにはわからぬだろう。もし泥の深淵であるなら、浅い方がまだましではないか。

  しかしこうした陰での批評は、おそらく半農の心をかなり傷つけたのだろう。彼がフランスに留学したのは、大半はこれが原因ではないかと私は疑う。私は最も通信を怠る質で、それ以来我々は疎遠になった。帰国した時、彼が外国で古書を筆写していたことを初めて知り、後に『何典』に句読をつけようともした。私はまだ旧友のつもりで序文にいくつか率直なことを書いたが、事後に半農がかなり不快に思っていると知った。「駟も舌に及ばず」で、どうしようもなかった。他にもう一度、『語糸』をめぐって心中お互いにわかっている不愉快があった。五、六年前、上海の宴席で一度顔を合わせたが、その時にはもうほとんど話すことがなくなっていた。

  近年、半農は次第に要職に就き、私もまた次第に彼を忘れがちになった。だが新聞で「ミス」の呼称を禁じた類のことを見ると、かなり反感を覚えた。こうしたことは半農がすべきではないと思ったのだ。昨年からまた、彼が絶えず打油詩を作り、腐った古文をいじっているのを見て、かつての交情を思い返せば、長い溜息をつかずにはいられなかった。思うに、もし会って私がなお旧友のつもりで「今日はいい天気で……ハハハ」で済ませなければ、あるいは衝突にまで至ったかもしれない。

  だが、半農の忠厚さはなお私を感動させた。一昨年私が北平に行った折、後で聞いたところによれば、半農は私を訪ねようとしていたが、誰かに一つ脅かされて来なかったという。これには私もまことに恥じ入った。私は北平に着いてから、実のところ半農を訪ねようという気持ちを持ったことがなかったのだから。

  今、彼はこの世を去った。彼に対する私の感情は、生前と変わらない。私は十年前の半農を愛し、近年の彼を憎む。この憎しみは友の憎しみである。彼がいつまでも十年前の半農であってほしかったからだ。戦士としての彼は、たとえ「浅く」とも、中国にとってはるかに有益であった。私は憤怒の炎をもって彼の戦績を照らし出し、一群の流砂の鬼どもが彼の先年の光栄と死骸をともに泥の深淵に引きずり込むのを防ぎたいのだ。


  (八月一日。)


第23節

【曹聚仁先生への返信】


  聚仁先生、

  大衆語の問題は、提起されてからずいぶん長くなりましたが、私は研究していないので、これまで口を開いたことがありません。しかし昨今の文章には「高論」が少なくないように思われます。文章としては立派だが、言えても行えず、たちまち消えてしまい、問題は依然そのままです。

  ここに私の簡単な意見を記します。

  一、漢字と大衆とは、両立しえない。

  二、したがって大衆語文を推進するには、ローマ字拼音(すなわちラテン化。今これを二つの事柄に分ける人がいるが、私にはよくわからない)を用いねばならず、しかもいくつかの区域に分け、各区域をさらに小区域に分ける(たとえば紹興一つとっても少なくとも四小区域に分けねばならない)。書き始めは純粋にその地の方言を用いるが、人間は前進するものだから、やがて在来の方言だけでは足りなくなり、白話や外来語、さらには語法まで採り入れるほかなくなる。しかし交通の盛んな言語混交の地には、比較的普通の語文がすでに存在し、新しい語彙をすでに採り入れている。これが「大衆語」の雛形であり、その語彙と語法を窮郷僻壤にも輸入しうるだろう。中国人はいずれにせよ将来、数種の中国語に通じざるをえない運命にあり、教育と交通によって実現できるのだ。

  三、ラテン化の普及は、大衆が自ら教育を掌握する時にこそ可能となる。今我々にできることは、(甲)ラテン化法の研究、(乙)広東語のような読者の比較的多い言語で試作し世に問うこと、(丙)白話をできる限り平易明快に書いて理解者を増やすこと。ただし精密な所謂「欧化」語文は引き続き支持すべきである。話を精密にしようとすれば中国固有の語法では足りず、中国の大衆語文も永遠に曖昧のままではないからだ。たとえば欧化反対者の言う「欧化」という語自体が中国固有の語ではなく、ある種の新語・新語法にはどうしても使わざるをえない時が来るのだ。

  四、窮郷僻壤での啓蒙の大衆語は、もちろん方言を純粋に用いるべきだが、同時に改良も必要だ。たとえば「媽的」の一語は、田舎ではいくつもの意味を持ち、時に罵り、時に感心し、時に嘆くが、他に言い方を知らないからだ。先駆者の任務は、彼らに多くの言葉を与え、より明確な意思を表現でき、同時により精確な意味を理解できるようにすることだ。もし同じように「この畜生の天気はまったく畜生で、畜生にもこれ以上やれば全部畜生だ」と書くなら、大衆に何の益があるか。

  五、すでに大衆語の雛形がある地方では、これを基礎にして改良すべきであり、あまりに僻地の土語を用いる必要はないと思う。たとえば上海で「打つ」を「吃生活」と言うのは上海人の会話には使えるが、作者の叙事に特に用いる必要はない。「打つ」と言っても労働者は同様に理解できるからだ。「像煞有介事」のような表現がすでに通用していると言う者もいるが、それは不正確で、北方の人がこの句に抱く感覚は江蘇の人とは異なり、「儼乎其然」より切実とは言えない。

  語文と口語は完全には一致しえない。話す時には「あの」「この」のような無意味な言葉がいくらでも挟まるが、書く段になれば、時間と紙の節約のため、意味の明晰のために、取捨選択して削除せねばならない。だから文章は口語より簡潔であるべきであり、しかも明瞭であるべきだ。多少の違いは文章の欠点ではないのである。

  そこで今実行できることは、(一)ローマ字拼音の制定(趙元任のものは繁雑すぎて使いこなせない)、(二)より平易な白話文を書き、比較的普通の方言を採用し、さしあたり大衆語への作品と見なすこと。思想は言うまでもなく「進歩的」であるべきだ。(三)欧化文法はなお後備として堅持すべきである。

  もう一つ、文言の擁護者で今や大衆語の旗を掲げている者がいることだ。彼らは一方で極めて高尚な議論を唱えて大衆語を宙に浮かせ実行不能にし、他方でこれに乗じて当面の大敵たる白話を攻撃する。この点も注意すべきであり、さもなくば我々は自ら武器を返上することになる。以上をもって返信に代え、

  時節柄ご自愛を。


  迅、上。八月二日。


第24節

【子供の写真から話を始める】


  長らく子供がいなかったので、これは私の行いが悪い報いで、断種するのだと言う者がいた。大家の女将が私を嫌っている時は、自分の子供たちを私のところに遊びに来させず、「あいつを寂しくさせてやれ、寂しさで死なせてやれ」と言ったものだ。しかし今はもう一人子供ができた。無事に育てられるかどうかも甚だ心許ないが、目下のところはかなりものを言い、自分の意見を表明できるようになった。もっとも、まだ話せないうちは良かったが、話せるようになると、彼もまた私の敵のように感じられるのだ。

  彼は時に私に大いに不満で、ある時は面と向かって「僕がパパになったら、もっと上手くやるよ……」と言い、さらにはかなり「反動的」で、かつて私に厳しい批評を下した。「こんなパパ、何がパパだ!」

  私は彼の言葉を信じない。息子の時に将来の良き父を自任しても、自分に息子ができた時には先の宣言などとうに忘れている。しかも私は自分でもそう悪い父親ではないと思っている。時には叱り、さらには叩くこともあるが、実は愛しているのだ。だから彼は健康で、活発で、腕白で、少しも萎縮していない。もし本当に「何がパパ」なら、面と向かってこんな反動的宣言をする勇気があるだろうか。

  だがその健康と活発さが、時に彼に損をさせることもある。九一八事変の後、同胞に日本の子供と間違えられ、何度も罵られ、一度は殴られさえした――もちろん大したことはなかったが。ここでさらに一言、言う方も聞く方もあまり気持ちの良くないことを付け加えておく。最近一年余り、こうしたことは一度もなくなった。

  中国と日本の子供は、ともに洋服を着ていれば、普通は見分けがたい。だがここの一部の人々は、一種の誤った速断法を持っている。おとなしくて笑いも動きも少ないのは中国の子供、壮健で活発で人見知りせず大声で叫んだり跳ねたりするのは日本の子供、と。

  ところが不思議なことに、私はかつて日本の写真館で彼を撮ったことがあるが、満面の腕白さで、確かに日本の子供のように見えた。後に中国の写真館でも一枚撮ったが、同じような服装なのに顔つきはとても窮屈で従順で、道地の中国の子供であった。

  このことについて、私は少し考えてみた。

  この違いの大きな原因は写真師にある。彼が指示する立ち方や座り方の姿勢からして、両国の写真師は異なり、姿勢が決まると、彼は目を見開いて、最も良いと思う一瞬の表情を撮る。子供はカメラの前に据えられると、表情は絶えず変化する。活発な時もあれば腕白な時も、従順な時も窮屈な時も、退屈な時も恐れる時も、臆さぬ時も疲れた時もある……。従順で窮屈な一瞬を撮れば中国の子供の写真となり、活発や腕白な一瞬を撮れば日本の子供の写真に見えるのだ。

  従順の類は悪い徳目ではない。だがそれが発展して、あらゆる事に従順というのでは決して美徳ではなく、むしろ不甲斐ないと言うべきだろう。「パパ」や先輩の言葉も、もちろん聞くべきだが、道理に適っていなければならない。もし一人の子供が、万事人に劣ると自認し鞠躬して退くか、あるいは満面の笑みの裏で実は陰謀暗箭を弄するなら、私はむしろ面と向かって「何者だ」と罵る痛快さの方を好む。そして彼自身が一個の「何者か」であることを望む。

  だが中国の一般的趨勢は、ただ従順の類――「静」の方面へと発展するばかりだ。眉を伏せ目を垂れ、唯々諾々として初めて良い子とされ、「面白い」と称される。活発で、健康で、頑強で、胸を張って顔を上げる……およそ「動」に属するものは、首を振る者が出てき、甚だしくは「洋風」と呼ばれる。さらに長年侵略を受けてきたので、この「洋風」を仇と見做し、ことさらに「洋風」の逆を行く。彼らが活動すれば、私は偏に静坐する。彼らが科学を講じれば、私は偏に扶乩する。彼らが短衣を着れば、私は偏に長衫を着る。彼らが衛生を重んじれば、私は偏に蝿を食う。彼らが壮健なら、私は偏に病む……。これこそ中国固有の文化を守ることであり、これこそ愛国であり、これこそ奴隷根性ではないのだと。

  実のところ私の見るかぎり、所謂「洋風」の中には優れた点が少なくなく、それは中国人の性質に元来備わっていたものでもあるが、歴代の抑圧によってすでに萎縮してしまい、今では自分でも訳がわからなくなって、一括りに洋人に差し上げてしまったのだ。これは取り戻さねばならない――回復させねばならない――もちろん慎重な選択を加えた上でだ。

  たとえ中国に固有でないものであっても、優れた点であるなら学ぶべきだ。たとえその教師が我々の仇敵であっても、学ぶべきだ。ここで今皆があまり口にしたがらない日本を持ち出したい。彼の国の模倣が得意で創造が少ないことは、中国の多くの論者に軽蔑されているが、その出版物と工業製品を見さえすれば、とうに中国の及ぶところではなく、「模倣が得意」は決して劣った点ではないとわかる。我々はまさにこの「模倣が得意」を学ぶべきなのだ。「模倣が得意」な上にさらに創造力が加わるならば、それこそ素晴らしいではないか。さもなくば「恨み恨みて死ぬ」だけのことだ。

  ここに蛇足のような声明を付け加えておく。私は自分の主張が「帝国主義者の指図を受けて」中国人を奴隷にしようとするものでは断じてないと確信している。そして愛国を満口に国粋を満身にまとっても、実際に奴隷となることには何ら妨げがないのだ。


  (八月七日。)


第25節

【門外文談】


第26節

【一 はじめに】


  聞くところでは、今年の上海の暑さは六十年来未曾有だという。昼は飯の種を稼ぎに出て、夜うなだれて帰れば家の中はまだ暑く、しかも蚊がいる。こんな時、門の外だけが天国だ。海辺のせいか、いくらかの風があり、扇を振るにも及ばない。互いに多少の面識はあるが、ふだんあまり顔を合わせない、近所の三階の間借りや屋根裏に住む人々も皆出てくる。ある者は店員、ある者は出版社の校正係、ある者は製図工の腕利きだ。皆すでにくたくたに疲れ果て、苦しみを嘆くが、今はまだいくらか暇なので、雑談もする。

  雑談の範囲も狭くはない。旱魃のこと、雨乞いのこと、女をくどくこと、三寸の怪人の話、外米のこと、露出した脚のこと、古文のこと、白話のこと、大衆語のこと。私がいくらか白話文を書いたことがあるので、古文の類については特に私の話を聞きたがり、私も特に多く話さざるをえなかった。こうして二、三晩が過ぎ、ようやく他の話題にそれて、一応は話し終えた。ところが数日後、何人かがまた書いてくれと言い出した。

  彼らの中には、私が古書を多少読んでいるから信じるという者もおり、洋書を多少見ているから信じるという者もおり、古書も洋書も見ているからこそという者もいた。だが数人は逆にそれゆえ信じないと言い、私を蝙蝠だと言った。私が古文の話をすると、笑って言う。「あなたは唐宋八大家じゃないのに、信じられるか。」私が大衆語の話をすると、また笑う。「あなたは苦労する大衆でもないのに、何をほら吹いているんだ。」

  それもその通りだ。旱魃の話をした時、ある役人が田舎に災害調査に行って、あるところは元来災害にならなくても済んだのに、農民が怠けて水を汲まないから災害になったのだと言った話をした。ところがある新聞には、六十歳の老人が息子に水汲みの疲労で死なれ、災害の様は変わらず、もはや行く道もなく自殺したと記してあった。役人と田舎の人間の意見はかくも違うのだ。してみれば、私の夜話も結局は門外の閑人の空言に過ぎまい。

  颶風が過ぎて天気もいくらか涼しくなったが、私は結局、書いてくれと望む何人かの望みどおりに書き上げた。口語よりずっと簡潔だが、大意は同じであり、我々のような読者向けに写したものである。当時は記憶だけを頼りにでたらめに古書を引いた。話は耳から耳へ、少々間違っても大したことはないが、紙に書くとなると躊躇される。しかし自分に原典がないのだから、読者の随時のご指正を乞うほかない。

  一九三四年、八月十六日夜、書き終えて記す。


第27節

【二 文字は誰が造ったか】


  文字は誰が造ったか。

  我々は一つの物が昔の聖賢によって造られたという話を聞き慣れているから、文字についても当然この問いが出る。だがすぐさま出所を忘れた答えが返ってくる。字は倉頡が造ったのだと。

  これは一般の学者の主張であり、彼には当然典拠がある。私はかつてこの倉頡の画像も見たことがあるが、四つの目を持つ老爺だった。文字を造るにはまず容貌が並外れていなければならず、我々のような目が二つしかない者は、能力が足りないどころか容貌すら不相応なのだ。

  しかし『易経』の作者(誰かは知らないが)は比較的聡明で、こう言った。「上古は結縄にて治む。後世の聖人、これに易うるに書契をもってす。」彼は倉頡とは言わず、ただ「後世の聖人」と言い、創造とは言わず、ただ取り替えたと言う。実に慎重である。あるいは彼は無意識のうちに、古代に一人で多くの文字を造り出した人間がいるとは信じていなかったのかもしれず、だからこんなふうに曖昧に一言述べたのだ。

  では、書契をもって結縄に替えた人はどんな人物か。文学者か。なるほど、今の所謂文学者が最も文字を弄び、筆を奪われたら何もできない事実から見れば、確かにまず彼を思い浮かべる。彼もまた自分の商売道具のために少しは力を出すべきだ。だが実はそうではない。有史以前の人々は、労働する時にも歌い、恋する時にも歌ったが、草稿を起こしたり原稿を残したりはしなかった。夢にも詩稿を売ったり全集を編んだりすることは思い浮かばず、しかも当時の社会には新聞社も書店もなく、文字は何の役にも立たなかったのだ。ある学者たちの話によれば、文字に一番の骨を折ったのは、おそらく史官であったろう。

  原始社会には初め巫しかおらず、次第に進化して事が繁雑になり、祭祀、狩猟、戦争……の類に記憶の必要が生じると、巫は本職の「降神」のほかに、一方で記録の方法を考え出さねばならなかった。これが「史」の始まりである。しかも「天に昇って奉ず」にあたり、本職上も酋長とその治下の大事を記した冊子を焼いて天帝にお見せせねばならず、このためにやはり文章を書かねばならなかった――もっともこれはおそらく後のことだろう。さらに後に職掌がもっと明確に分かれると、専ら記録を司る史官が現れた。文字はすなわち史官に不可欠の道具であり、古人の言う「倉頡は黄帝の史なり」は、前半は信じがたいが、史と文字の関係を指摘した点はまことに意味深い。後の「文学家」がこれを用いて「ああ、わが愛よ、私は死にそうだ!」等の名句を書くに至っては、出来合いのものを享受しているに過ぎず、「何ぞ道うに足らんや」である。


第28節

【三 文字はどうやって生まれたか】


  『易経』によれば、書契の前には明らかに結縄があった。我々の故郷の田舎の人も、明日肝心なことをしなければならず忘れそうな時、よく「褌の紐に結び目を一つ作っておけ」と言う。では我々の古聖人も、一本の長い縄に一つ事があるたびに結び目を作ったのだろうか。おそらくそうもいくまい。数個の結び目ならまだ覚えられるが、多くなるとまずいことになる。あるいはそれこそ伏羲皇帝の「八卦」の類で、三本の縄を一組にして全部結ばないのが「乾」、中程をそれぞれ結ぶのが「坤」か。それもおそらく違う。八組ならまだしも、六十四組となると覚え難く、まして五百十二組ともなれば。ただペルーにはまだ「結縄文字」(Quippus)が残存していて、一本の横縄に多くの縦縄を掛け、あちこち引いて結び合わせ、網とも網ならぬ形になるが、かなり多くの意味を表し得るようだ。我々の上古の結縄も、おそらくこうしたものだったろう。だがそれは書契に取って代わられ、しかも書契の祖先でもないのだから、ひとまず措くとしよう。

  夏の禹王の「岣嶁碑」は道士たちの偽作である。今我々が実物で見ることのできる最古の文字は、商朝の甲骨文と鐘鼎文だけだ。だがこれらはすでにかなり進歩しており、原始の形態はほとんど見出せない。ただ銅器の上に時折写実的な図形――鹿や象――が見え、この図形から文字と関連する手がかりも発見できる。中国文字の基礎は「象形」なのだ。

  スペインのアルタミラ洞窟に描かれた野牛は、有名な原始人の遺跡であり、多くの芸術史家は、これがまさに「芸術のための芸術」であり、原始人が遊びで描いたものだと言う。だがこの解釈はいささか「モダン」に過ぎる。原始人には十九世紀の文芸家ほどの暇はなく、一頭の牛を描いたのには理由がある。野牛に関すること、あるいは野牛を狩ること、野牛に呪いをかけることのためだ。今、上海の壁に貼られた煙草や映画の広告画でさえ、口を開けて眺める人がしばしばいるのだから、珍しいものを見て驚く原始社会で、こうした奇跡があれば一時の大評判になったことは想像に難くない。彼らは一方で見て、野牛というものが線で別の平面に移せることを知り、同時に「牛」という字を認識したようなものであり、一方でこの作者の才能にも感服した。だが誰も彼に自伝を書かせて金を稼がせはしなかったので、姓名は埋もれてしまった。しかし社会の中で倉頡は一人ではなく、ある者は刀の柄に少し図を刻み、ある者は門戸に少し絵を描き、以心伝心、口から口へと伝わって文字は増えていった。史官がそれを集めれば、記録に事足りたのだ。中国文字の由来も、おそらくこの例から逃れまい。

  もちろん後にはなお不断の増補があったはずで、これは史官自身の手でできたことだ。新しい字を見慣れた字に混ぜれば、しかも象形であるから、他の者も容易にその字の意味を推測できた。今に至るまで中国は新しい字を生み出し続けている。だが、無理に新倉頡になろうとしても失敗する。呉の朱育、唐の武則天はいずれも奇怪な字を造ったが、皆徒労であった。今最も字を造るのが得意なのは中国の化学者で、多くの元素や化合物の名称は読むことすら難しい。正直に言って、私は見ただけで頭が痛くなり、万国共通のラテン名をそのまま使った方がよほどすっきりすると感じる。もし二十余りのアルファベットさえ覚えられないなら、失礼ながら率直に申せば、化学もおおよそ学べまい。


第29節

【四 字を書くとは絵を描くことだ】


  『周礼』と『説文解字』にはいずれも文字の構成法が六種あると記されているが、ここでは論じない。「象形」に関わることだけを述べよう。

  象形とは「近くは身に取り、遠くは物に取る」であり、目を一つ描けば「目」、丸を一つ描いて光線を何本か添えれば「日」で、もちろん明白で便利だ。だが時には壁にぶつかる。たとえば刃先を描きたい時はどうするか。刀の背を描かなければ刃先も現せない。そこで苦肉の策で、刃先に短い棒を一本加え、「ここだぞ」という印にして「刃」を造った。これはもうかなり難儀な様相だが、まして形のない事柄はさらに「象事」、すなわち「会意」に頼るほかない。片手を木に載せれば「采」、心を家と飯碗の間に置けば「寍」、食と住があって安寧だ。だが「寜可」の寜を書くには碗の下にさらに線を一本引いて、これは「寍」の音を借りただけだという印にせねばならない。「会意」は「象形」よりさらに面倒で、少なくとも二つの物を描く必要がある。「寶」の字に至っては屋根一つ、玉の串一つ、缶一つ、貝一つ、計四つを描く。「缶」はさらに杵と臼の二形から成るとすれば、合わせて五つだ。寶の一字のためだけにかなりの手間がかかる。

  それでもなお行き詰まる。描けない事物もあれば、描きようのない事物もあるからだ。たとえば松と柏は葉の形が異なるから区別できるはずだが、字を書くのは結局絵画ではなく精巧には描けないから、やはり持ちこたえられない。この膠着を打開したのが「諧声」で、意味と形象が関係を離れた。これはすでに「音の記録」であり、中国文字の進歩だと言う者もいる。その通り、進歩とも言えようが、その基礎はやはり絵描きだ。たとえば「菜」は「草に従い、采の声」で、草むら一つ、爪一つ、木一本の三つを描く。「海」は「水に従い、毎の声」で、川一本、帽子を被った御婦人一人、やはり三つ。要するに、字を書こうとすれば永遠に絵を描き続けねばならないのだ。

  だが古人は愚かではなく、早くから形象を簡略化し、写実からは遠ざかった。篆書は丸みを帯びた折れ方に絵画の余韻を残すが、隷書から現在の楷書に至っては形象とは天地の差だ。しかし基礎は変わらず、天地の差の後は象形でない象形字となり、書くのは比較的簡単になったものの、覚えるのは極めて困難で、一つ一つ暗記するほかなくなった。しかもある字は今でも簡単ではなく、たとえば「鸞」や「鑿」は子供に書かせれば半年も練習しなければ半寸四方の升目に収まらぬだろう。

  もう一つ、「諧声」字も古今の字音の変遷により、「声」とあまり「諧」しなくなったものが少なくない。今どき「滑」を「骨」と読み、「海」を「毎」と読む者がどこにいようか。

  古人が文字を我々に伝えてくれたのは、もとより重大な遺産であり、感謝すべきだ。だが象形でない象形字、必ずしも諧声でない諧声字となった今日、この感謝もいささか逡巡せざるをえないのである。


第30節

【五 昔、言文は一致していたか】


  ここで、昔の言文が一致していたかどうかを推測してみたい。

  この問題について、今の学者たちは明確な結論を下していないが、口ぶりからすると、概ね一致していたと考えているようで、古ければ古いほど一致していたと。しかし私にはかなりの疑念がある。文字が書きやすければ書きやすいほど口語と一致しやすいが、中国はあれほど描きにくい象形字なのだから、我々の古人はもとから重要でない語を削り取っていたのかもしれない。

  『書経』があれほど読みにくいのは、口語をそのまま写した証拠のようにも見えるが、商周の人々の確かな口語はまだ研究されておらず、さらに繁雑であったとも言えぬではない。周秦の古書に至っては、著者が多少のお国言葉を用いていても、文字は大体において似ており、たとえ口語に近かったとしても、それは周秦の白話であって周秦の大衆語ではない。漢朝はなおさらで、たとえ『書経』の難解な字句を今の字に置き換えた司馬遷でさえ、特別な場合に多少の俗語を採用した程度だ。たとえば陳渉の旧友が彼の王たるを見て驚いて曰く「夥頤、渉の王たることの沈沈たるや」。しかもその中の「渉之為王」の四字は、太史公が手を加えたのではないかと私は疑っている。

  では古書に採録された童謡や諺、民歌は、当時の正真正銘の俗語だろうか。これも甚だ心許ない。中国の文学者は、他人の文章を手直しする癖がかなりある。最も明らかな例は漢代民間の『淮南王歌』で、同じ地方の同じ歌が、『漢書』と『前漢紀』では異なっている。

  一方は――


  一尺の布、なお縫うべし。   一斗の粟、なお舂くべし。   兄弟二人、相容れざるとは。


  他方は――


  一尺の布、暖かきこと童童。   一斗の粟、飽くること蓬蓬。   兄弟二人相容れず。


  比較すると、後者が本来の面目のようだが、すでにいくらか削除されているかもしれない。ただの梗概にすぎないのだ。後の宋人の語録や話本、元人の雑劇や伝奇の科白も、皆梗概であり、ただ用字がやや平易で、削った文字が少ないので「話のごとく明白」と感じさせるのである。

  私の臆測では、中国の言文はもともと一致していなかったのだと思う。大きな原因は字が書きにくく、省かざるをえなかったからだ。当時の口語の梗概が古人の文であり、古代の口語の梗概が後人の古文である。だから我々が古文を書くとは、もはや象形でない象形字、必ずしも諧声でない諧声字を用いて、紙の上に、今日誰も話さず理解する者も多くない古人の口語の梗概を描き出すことなのだ。思えばこれは難しくないだろうか。


第31節

【六 かくして文章は奇貨となった】


  文字は人民の間に萌芽したが、後には必ず特権者に収攬された。『易経』の作者の推測するところ、「上古は結縄にて治む」であるから、結縄ですらすでに治める者の道具であった。巫史の手に落ちた時にはなおさらで、彼らは皆、酋長の下にして万民の上の人間だ。社会が変わるにつれて文字を学ぶ者の範囲も広がったが、おおむね特権者に限られていた。平民はといえば文盲であり、学費が足りないからではなく、資格がなく、身分不相応だったのだ。しかも書籍も見ることができなかった。中国は版木印刷がまだ発達していなかった頃、一冊の良書があればしばしば「秘閣に蔵し、三館に副う」であり、士子となってもなお何が書いてあるか知れなかった。

  文字は特権者の所有物であるから、尊厳性を帯び、同時に神秘性をも帯びた。中国の字は今でもなお尊厳で、壁に「敬惜字紙」と書かれた篭が掛かっているのをよく見かける。符の邪を祓い病を治す力に至っては、その神秘性に頼るのだ。文字に尊厳性が備わっていれば、文字を知る者もまた連帯して尊厳になる。新たな尊厳者が続々と現れるのは旧い尊厳者にとって不利であるし、文字を知る者が増えれば神秘性も損なわれる。符の威力は、字のようなものでありながら道士以外には誰にも読めないがゆえなのだ。だから文字を彼らは必ず独占しようとする。

  ヨーロッパの中世では、文章学問はすべて修道院にあった。クロアティアに至っては十九世紀になっても字を読めるのは聖職者だけで、人民の口語は退歩して旧来の生活に辛うじて間に合う程度であった。革新に際して、外国から多くの新語を借りてくるほかなかった。

  我々の中国の文字は、大衆に対して、身分や経済の制限のほかに、さらにもう一つの高い敷居を加える。すなわち難しさである。この敷居一つでも、十年の歳月を費やさねば容易に越えられない。越えた者は士大夫となり、この士大夫たちはさらに力を尽くして文字をより一層難しくしようとする。そうすれば格別に尊厳となり、他の一切の普通の士大夫の上に立てるからだ。漢の楊雄が奇字を好んだのはこの病弊であり、劉歆がその『方言』の原稿を借りようとすると、彼は身投げせんばかりだった。唐代では、樊宗師の文章は他人が句読を打てぬほどに書かれ、李賀の詩は他人が読んでもわからぬほどに作られたが、これも皆同じ理由による。もう一つの方法は字を他人が読めないように書くことで、下手な者は『康煕字典』から古い字を引っぱり出して文章に挟み込み、上手な者は錢坫のように篆書で劉熙の『釈名』を書くとか、最近では錢玄同先生が『説文』の字体で太炎先生のために『小学答問』を筆写するとかだ。

  文字が難しく、文章が難しく、これだけでも元来のものだが、その上にさらに士大夫が故意に特製した難しさを加えて、なお大衆と縁があることを望むのは、どうして叶おうか。しかし士大夫はまさにそれを望むのだ。もし文字が読みやすく皆が覚えれば、文字は尊厳でなくなり、彼もまたそれに伴って尊厳でなくなる。白話は文言に如かずと言う者の出発点はここにあり、今、大衆語を論じて、大衆には「千字課」だけ教えれば十分だと言う者の意の根底もまたここにある。


第32節

【七 文字を知らぬ作家】


  あれほど難しい文字で書き記された古語の梗概を、我々は以前「文」と呼び、今少し新しく呼べば「文学」という。これは「文学子游子夏」から切り取ったものではなく、日本から輸入されたもの、彼らの英語 Literature の訳語だ。こうした「文」を書ける者は、今では白話でも書けるわけで、「文学家」あるいは「作家」と呼ばれる。

  文学の存在条件としてまず字が書けなければならないのだから、文盲の群れの中に文学家はいるはずがない。しかし作家ならばいる。まだ笑わないでいただきたい、話の続きがある。思うに、人類は文字のない以前から創作をしていた。惜しいことに誰も記録せず、記録する術もなかった。我々の祖先の原始人はもともと言葉さえ話せなかったが、共同作業のために意見を交わす必要が生じ、次第に複雑な音声を練り上げた。もしその時、皆で丸太を担いでいて、力が尽きたと感じても表現できずにいたところ、その中の一人が「ヨイトマケ、ヨイトマケ」と叫んだなら――これが創作である。皆も感心して使い始めれば、これが出版に等しい。もし何かの記号で残されたなら、これが文学であり、彼は当然作家にして文学家、「ヨイトマケ派」の始祖だ。笑うまい、この作品は確かに幼稚だが、古人が今人に及ばぬところは多く、これがまさにその一つだ。周朝の「関関たる雎鳩、河の洲にあり、窈窕たる淑女、君子の好逑」にしても、『詩経』の巻頭にあるゆえに恐れ入って叩頭するしかないが、もし以前にこうした詩がなく、今の新詩人がこの意で白話詩を作ってどこかの副刊に投稿してみれば、十中八九は編集者に紙屑篭に入れられるだろう。「綺麗なお嬢さんは、若旦那の良いお相手!」何を言っているのか。

  『詩経』の『国風』にしても、良いものの多くは字を知らぬ無名氏の作品であり、比較的優れていたために皆が口づてに伝えた。王官たちが行政の参考になると判断して記録したもので、それ以外に消滅したものは数知れない。ギリシャのホメロス――仮にそういう人がいたとして――の二大叙事詩もまた口誦で、現存するものは他人の記録だ。東晋から斉・陳にかけての『子夜歌』や『読曲歌』の類、唐の『竹枝詞』や『柳枝詞』の類も、もとは無名氏の創作であり、文人が採録し潤色した後に伝わったものだ。この潤色のおかげで伝わりはしたが、惜しいことに本来の姿はかなり失われている。今でも至る所に民謡、山歌、漁歌等があり、これがすなわち文字を知らぬ詩人の作品である。また童話や物語が伝えられており、これがすなわち文字を知らぬ小説家の作品である。彼らがすなわち文字を知らぬ作家なのだ。

  しかし作品を記録する手段がないために消滅しやすく、流布の範囲も広くならず、知る者も少ない。たまたま文人の目に触れると、かえって驚いて自分の作品に吸い取り、新たな養分とする。旧文学が衰退した時に、民間文学や外国文学を摂取して新たな転換を遂げる。こうした例は文学史上よく見られるのだ。文字を知らぬ作家は文人の細やかさには及ばないが、剛健で清新である。

  こうした作品が皆の共有となるには、まず作家自身が字を書けるようにならねばならず、同時に読者も字を読め、ひいては字を書けるようにならねばならない。一言で言えば、文字をすべての人に渡すことだ。


第33節

【八 どう引き渡すか】


  文字を大衆に引き渡した事実は、清朝末年からすでにあった。

  「太鼓を叩くな、銅鑼を鳴らすな、私の太平歌を聴け……」は欽定頒布の大衆教育用俗歌であり、そのほか士大夫も白話新聞をいくつか発行したが、その趣旨は皆が聞いてわかればよく、必ずしも書けなくてもよいというものであった。『平民千字課』にはいくらか書ける可能性が含まれていたが、帳簿をつけ手紙を書く程度で足りるだけだった。心に思うことを書き出そうとすれば、限定された字数では足りない。たとえば牢獄は確かに人に一区画の地を与えるが、制限があり、この囲いの中でのみ立ち歩き座り臥すことができ、鉄格子の外に出ることは決して許されないのだ。

  労乃宣と王照の両氏はそれぞれ簡字を持っていて、かなり進歩しており、音に従って字を書くことができた。民国初年、教育部が字母を制定しようとした際、二人とも委員であった。労先生は代理を一名派遣し、王先生は自ら出席して、入声の存廃問題で呉稚暉先生と大論戦を繰り広げ、呉先生は腹が凹み、綿袴まで落ちてきたほどだった。だが結局いくらかの検討を経て、「注音字母」なるものが制定された。当時はこれで漢字に取って代われると思う者もいたが、実際にはやはり駄目で、結局は簡略化された方塊字に過ぎず、ちょうど日本の「仮名」のように、いくつか混ぜたり漢字の傍に振ったりするには使えるが、大将に据えるには力不足なのだ。書けば混乱し、読めば目がちらつく。当時の委員たちがこれを「注音字母」と名づけたのは、その能力の範囲をよく心得ていたからだ。日本を見ても、漢字削減を主張する者、ラテン拼音を主張する者はいるが、仮名だけを使おうと主張する者はいない。

  もう少しましなのはローマ字拼音法で、最も精密に研究したのは趙元任先生だろうが、私にはよくわからない。世界共通のローマ字で綴る――今やトルコさえ採用した――一語一連で実に明瞭、これは良い。だが私のような門外漢に言わせれば、あの拼法はまだ繁雑すぎるように思える。精密を期すれば当然繁雑にならざるをえないが、繁雑に過ぎるとまた「難しく」なり、普及の妨げとなるのだ。もっと簡にして陋ならざるものが望ましい。

  ここで新しい「ラテン化」法を検討してみよう。『毎日国際文選』に一冊の『中国語書法のラテン化』があり、『世界』第二年第六七号合刊の付録『言語科学』もこれを紹介している。値段は安く、関心のある方は買って見るとよい。字母はわずか二十八、拼法も覚えやすい。「人」は Rhen、「家」は Fangz、「私は果物を食べる」は Wo ch goz、「彼は労働者だ」は Tau sh gungrhen。今、華僑の間で実験して成果が見られたのはまだ北方話だけだ。だが中国はやはり北方話――北京話ではなく――を話す人が最も多いのだから、もし将来本当にどこでも通用する大衆語ができるなら、その主力はおそらくやはり北方話だろう。今のところは多少の増減を施して各地特有の音に合わせれば、どんな窮郷僻壤でも使えるようになる。

  とすれば、二十八の字母を覚え、拼法と書法をいくらか学べば、怠け者と低能を除けば誰でも書けて誰でも読める。しかもさらに一つの利点がある。書くのが速いのだ。アメリカ人は時は金なりと言う。だが私は思う、時は命なのだ。人の時間を無駄に浪費するのは、実は財産を奪い命を害するに等しい。もっとも、我々のようにぼんやり涼んで雑談している人間は例外だが。


第34節

【九 特殊化か、普遍化か】


  ここまで来ると、また一つの大問題にぶつかる。中国の言語は各地で大いに異なり、大雑把に区別しても、北方話、江浙話、両湖川貴話、福建話、広東話の五種があり、この五種の中にもさらに小区別がある。今、ラテン字で書くとして、普通話を書くのか、それとも土話を書くのか。普通話を書こうにも人々は話せず、土話を書けば他所の人にはわからず、かえって隔てが生じて、全国共通の漢字にも及ばなくなる。これは大きな弊害だ。

  私の考えはこうだ。最初の啓蒙の時期には、各地がそれぞれの土話を書けばよく、他所と意思が通じるかどうか顧みる必要はない。ラテン化以前に、我々の文盲の人々がもともと漢字で互いに意思疎通していたわけではないのだから、新たな弊害は一つもない。むしろ新たな益がある。少なくとも同じ言語の地域内では、意見を交換し知識を吸収できるようになるのだ――もちろん同時に有益な書物を誰かが書かねばならないが。問題はむしろ、各地のこの大衆語文を、将来は特殊化させるのか、それとも普遍化させるのか、ということだ。

  方言土語の中には含蓄の深い言い回しが少なくなく、我々の故郷では「練話」と呼ぶ。使えばなかなか趣があり、文言における古典の引用に似て、聞く者も興味津々だ。各地がそれぞれの方言の語法と語彙をさらに錬磨し、発達させていくのが特殊化だ。これは文学にとって大いに益がある。漠然とした言い回しだけの文章よりも含蓄ある作品ができる。しかし特殊化には特殊化の危険がある。言語学はわからないが、生物を見ると、あまりに特殊化すると往々にして絶滅する。人類以前の多くの動植物は、特殊化しすぎて可変性を失い、環境が変わると対応できず、絶滅するしかなかった。――幸い我々人間はまだ特殊化した動物ではないから、心配には及ばない。大衆は文学を持ち、文学を求めるが、文学のために犠牲になるべきでは断じてない。さもなくば、漢字を保存するために中国人の八割を文盲として殉難させようとする生きた聖人とさして変わらぬ愚行だ。だから、啓蒙の時期は方言を使い、一方で普通の語法と語彙を漸次加えていくべきだと思う。既存のものを使うのは一地方の語文の大衆化であり、新しいものを加えるのは全国の語文の大衆化だ。

  書斎の中で数人の読書人が話し合って出した方案は、大抵うまくいかないが、一切を自然のなりゆきに任せるのも良策ではない。今、埠頭で、公共機関で、大学校で、確かに一種の普通話めいたものがある。皆が話すのは「国語」でもなく北京語でもなく、それぞれお国訛りを帯びているが方言でもなく、たとえ話すのも聞くのも骨が折れるにせよ、ともかく通じる。これを整理し発達を助ければ、大衆語の一支流となり、ゆくゆくはむしろ主力となるかもしれない。私が方言に「新しいものを加える」と言った、その「新しいもの」の出所がここにある。この自然に発生し人為を加えた話が普及すれば、我々の大衆語文は大体において統一されたことになる。

  その後も当然まだやるべきことはある。年月を経て、語文がさらに一致し、「練話」と同じくらい良く、「古典」よりなお活きた言い回しも次第に形成されれば、文学はさらに精彩を放つだろう。たちまちには実現できない。考えてもみよ、国粋家が宝としている漢字は、三四千年の歳月をかけて、こうした奇妙な成果を積み上げたのだから。

  では最初に誰がやるのかという問題だが、それは言うまでもなく覚醒した読書人だ。「大衆のことは大衆自身がやるべきだ!」と言う者がいる。もちろん間違いではないが、それを言っている者がどんな人物かを見なければならない。大衆が言っているのなら、自分でやるべきだという点は正しいが、助力を退けるのは誤りだ。もし読書人が言っているのなら、話はまるで違ってくる。彼は美辞麗句で文字を独占し、自分の尊厳を守っているのだ。


第35節

【十 恐慌するには及ばない】


  だが実行するまでもなく、言い出しただけで、また別の一群を恐慌させてしまう。

  まず言われるのは、大衆語文を提唱しているのは「宋陽の如き文芸の政治宣伝員」であり、本意は造反にあるということだ。色眼鏡の帽子をかぶせるのは極めて簡単な反対法だ。だが同時に、自分の太平のためなら中国に八割の文盲がいても構わぬと言っているのと同じだ。では口頭宣伝の場合はどうか、中国人の八割を聾者にすべきだということになる。だがこれは「文談」の範囲には属さないから、ここで多く述べる必要もない。

  もっぱら文学を心配する者が、今のところ二種見受けられる。一つは、大衆が皆読み書きできるようになれば、皆が文学家になってしまうという恐れだ。これは天が落ちてくるのを心配する善人だ。前に述べた通り、文盲の大衆の中にもとより作家はいた。私は久しく田舎に行っていないが、以前は農民に少しの余暇があると、たとえば夕涼みの時に物語をする者がいた。ただしこの語り手は大抵決まった人物で、比較的見聞が広く話が巧みで、人に聞かせ、わからせ、面白がらせることができた。これがすなわち作家であり、彼の話を書き取れば作品だ。もし話に味がなく、饒舌好きの者がいれば、皆聞こうとせず、冷やかしの言葉を浴びせる――つまり諷刺だ。我々は数千年の文言と十数年の白話をいじくり回してきたが、書ける者が全員文学家になったことがあったか。たとえ皆が文学家になったところで、軍閥でも匪賊でもないのだから、大衆には何の害もなく、互いに作品を読み合うだけのことだ。

  もう一つは文学の低落を恐れる者だ。大衆には旧文学の素養がないから、士大夫文学の細やかさに比べれば「低落」と見えるかもしれないが、旧文学の痼疾にも染まっていないゆえに剛健で清新だ。『子夜歌』の類の無名氏文学が旧文学に新しい力を与えたことは先に述べた。今も民歌や物語が多く紹介されている。さらに演劇もある。たとえば『朝花夕拾』が引く『目連救母』の中の無常鬼の自白、ある亡霊に同情して半日だけ生き返らせてやったら閻羅に罰されてしまい、以来もう容赦はしないという――


  「たとえ銅壁鉄壁であろうとも!   たとえ皇族外戚であろうとも!……」


  何と人情味があり、何と過ちを知り、何と法を守り、しかも何と毅然としていることか。我々の文学家にこれが書けるだろうか。

  これは真の農民と手工業者の作品であり、暇に任せて演じられるものだ。目連の巡行を貫く多くの物語は、『小尼姑下山』を除けば、刊本の『目連救母記』とはまるで異なる。その中の『武松打虎』は甲乙二人、一人は強く一人は弱く、戯れに演じる。まず甲が武松、乙が虎を演じるが、甲にさんざん殴られて乙が文句を言うと、甲は「お前は虎だ。殴らなければこっちが噛み殺されるじゃないか」。乙は仕方なく交代を申し出るが、今度は甲に噛まれてまた文句を言うと、甲曰く「お前は武松だ。噛まなければこっちが殴り殺されるじゃないか」。思うに、ギリシャのイソップ、ロシアのソログーブの寓話と比べても、些かも遜色がない。

  もし全国各地で蒐集すれば、この類の作品はまだ実に多いだろう。だがもちろん欠点もある。難しい文字、難しい文章に封鎖され続け、現代思潮と隔絶していることだ。だから中国の文化を共に向上させようとするなら、大衆語・大衆文を提唱し、しかも書法はラテン化すべきなのだ。


第36節

【十一 大衆は読書人が思うほど愚かではない】


  だが今回は、大衆語文が提起されるや否や、たちまち猛将がここぞとばかりに現れた。出所はまちまちだが、皆一様に白話、翻訳、欧化語法、新語に攻撃を加える。皆「大衆」の旗を掲げ、これらは大衆にわからないから駄目だと言う。中には元来の文言の残党で、これに乗じてまず当面の白話と翻訳を叩こうとする者がいる。先祖伝来の「遠交近攻」の古い術だ。また怠惰な分子で、努力もせず、大衆語が未完成のうちに白話を先に倒し、その空き地で大口を叩こうとする者もいるが、実は文言文の良い友人なのだ。これらについてはここで多くは述べない。今述べたいのは、善意ではあるが誤っている人々のことだ。彼らは大衆を見くびるか、さもなくば自分を見くびって、やはり昔の読書人の古い癖を犯しているのだ。

  読書人は往々にして他人を見くびり、やや新しく、やや難しい語句でも自分にはわかるが大衆にはわかるまいと思い、大衆のためには徹底的に掃滅すべきだと考える。話も文章も、俗であればあるほどよいと。この意見を推し進めれば、彼は知らず知らずのうちに新国粋派になる。あるいは大衆語文を大衆の間に速やかに広めようとして、何でも大衆の口に合わせるべきだと主張し、甚だしくは「大衆に迎合」すべきだと言い、わざと多めに罵って大衆の歓心を買おうとする。これにはもちろん彼なりの苦心があるが、こうしていけば大衆の新しい太鼓持ちになってしまう。

  大衆と言えば、その範囲は実に広く、各種各様の人が含まれる。だが「目に丁字を識らず」の文盲ですら、私の見るところ、読書人が想像するほど愚かではない。彼らは知識を求め、新しい知識を求め、学び、摂取する能力がある。もちろん新語法や新名詞を満口にすれば何もわからないだろう。だが必要なものを徐々に注ぎ入れていけば、彼らは受け入れる。その消化力は、先入観のより多い読書人よりむしろ勝っているかもしれない。生まれたばかりの赤子は皆文盲だが、二歳になれば多くの言葉を理解し、多くの言葉を話せるようになる。その全部が彼にとっては新名詞・新語法だ。『馬氏文通』や『辞源』で調べたのか。教師が説明したのでもない。何度か聞いて、比較の上から意味を悟ったのだ。大衆が新語彙と語法を摂取するのも同じことで、彼らはこうして前進する。だから新国粋派の主張は、大衆のためを思うように見えて、実は引き留める役目を果たしているのだ。ただし大衆の自然に任せきりにもできない。ある種の見識では彼らはやはり覚醒した読書人には及ばず、随時選別してやらなければ、無益な、さらには有害なものを誤って手にするかもしれないからだ。だから「大衆に迎合する」新しい太鼓持ちは、絶対にいけないのだ。

  歴史の示すところによれば、およそ改革は最初、覚醒した知識人の任務である。だがこれらの知識人は、研究があり、思索でき、決断力があり、しかも毅力がなければならない。彼もまた権を用いるが、人を欺くのではない。彼は利導するが、迎合するのではない。彼は自分を見くびって皆の道化だとは思わず、他人を見くびって自分の子分だとも思わない。彼はただ大衆の中の一人なのだ。これこそが大衆の事業をなしうる者だと、私は思う。


第37節

【十二 結び】


  話はもうずいぶんした。要するに、話だけでは駄目で、肝要なのは実行だ。多くの人が実行すること――大衆と先駆者が。各種の人が実行すること――教育家、文学家、言語学者……。これはすでに緊急の必要に迫られている。たとえ目下はまだ多少逆風の中の舟漕ぎであっても、綱を引くしかない。順風ならもちろん結構だが、それでも舵取りは欠かせない。

  この綱引きや舵取りの良い方法は、口でも語れるが、大部分は実験から得られるものであり、どのように風を読み水を読んでも、目指すところはただ一つ、前へ進むことだ。

  各人それぞれにいくらかの意見があるだろう。さあ今度は諸君の高論を聞かせてもらおう。


第38節

【肉の味を知らずと水の味を知らず】


  今年の尊孔は、民国以来二度目の盛典であり、繰り出せるものはほぼすべて繰り出された。上海の華界は夷場(彝場とも書く)に近いとはいえ、当年孔子が聴いて「三月肉の味を知らず」となった「韶楽」を聴くことができた。八月三十日の『申報』は我々にこう報じた――


  「二十七日、本市各界は文廟にて孔誕紀念会を挙行。党政機関及び各界代表千余名が参列。大同楽会が中和韶楽二章を演奏。使用楽器は音量拡大のため、古今を問わず、凡そ国楽器はすべて配入し、合計四十種。その譜は旧来のままにて変動なし。その節奏を聴けば、荘厳粛穆にして凡響に同じからず、悠然として敬を起こさしめ、三代以上の承平雅頌に親しむ心地あり。すなわち我が国民族性の酷く和平を愛するの表示なり。……」


  楽器は古今を問わず一律に配入したのだから、周朝の韶楽とはかなり違うはずだ。だが「音量拡大のため」にはこうするしかなく、しかも今日の尊孔の精神ともよく調和しているようだ。「孔子は聖の時なる者なり」「すなわち聖のモダンなる者なり」、三月のあいだフカヒレや燕の巣の味を忘れるには、楽器は「合計四十種」でなければなるまい。しかもあの時代、中国にはすでに外患はあったが、まだ夷場はなかった。

  しかしこれによって時勢がやはり多少異なることもわかる。たとえ「音量を拡大」しても、結局は田舎までは届かない。同日の『中華日報』には「承平雅頌、すなわち我が国民族性の酷く和平を愛するの表示」の体面をかなり損なう記事が載っており、最も間の悪いことに事件もまた二十七日のことであった――


  「(寧波通信)余姚は入夏以来、天候の旱魃により河水が涸渇し、住民の飲料水は大半が河畔に土井を掘って汲み取るものなれば、しばしば先後を争いて衝突を起こす。二十七日午前、姚城より四十里の朗霞鎮後方屋地方にて、住民の楊厚坤と姚士蓮が、また井戸水を争い衝突を生じ、互いに殴り合う。姚士蓮は煙管の頭で楊の頭部を猛打し、楊は即座に昏倒。続いて姚はさらに木棒と石で楊の急所を打ち、ついに殴打により死亡。隣人が異変を聞きつけ駆けつけた時には楊はすでに息絶えていた。姚士蓮は事の重大を見て取り、免れ難きを悟り、即座に逃走……」


  韶楽を聴くのは一つの世界であり、喉が渇くのは一つの世界だ。肉を食べてその味を知らぬのは一つの世界であり、喉が渇いて水を争うのはまた一つの世界だ。もちろんこの間に君子と小人の区別は大いにあるが、「小人なくんば君子を養う能わず」であり、彼らが互いに殴り殺し、渇き死にするのに任せるわけにもいくまい。

  聞くところでは、アラビアのある地方では水がすでに宝物で、水を飲むために血と引き換えにするという。「我が国民族性」は「酷く和平を愛する」のだから、おそらくそこまでにはなるまい。だが余姚の実例はいささか恐ろしく、我々は肉食者が聴いて肉の味を知らなくなる「韶楽」のほかに、水の味を知らぬ者が聴いて水を飲みたいとも思わなくなる「韶楽」をも必要とするのだ。


  (八月二十九日。)


第39節

【中国語文の新生】

 中国の現在のいわゆる中国字と中国文は、もはや中国の万人のものではなくなっている。

 古は、いずれの国であれ、文字を操り得るのは少数者に限られていた。しかし今日では教育が普及し、およそ文明国と称される国では、文字はすでに万人の共有するところとなっている。ところがわが中国では、識字者はおおむね全人口の十分の二にすぎず、文章を書き得る者はさらに少ない。これでなお文字がわれわれ万人と関係があると言えようか。

 あるいは、この十分の二の特別な国民が中国文化を抱持し、中国大衆を代表しているのだと言う者もあろう。私はこの言葉は正しくないと思う。このような少数は中国人を代表するに足りない。中国人の中に燕の巣やふかひれを食う者があり、紅丸を売る者があり、賄賂を取る者があるが、これをもってすべての中国人が燕の巣やふかひれを食い、紅丸を売り、賄賂を取っていると言えないのと同じである。さもなければ、鄭孝胥ひとりが「王道」の一切を満洲に担いで行けることになってしまう。

 われわれはむしろ最大多数を根拠として、中国は現在、文字を持たないに等しいと言うべきである。

 このような文字すら持たない国は、日一日と衰えて行きつつある。例を挙げるまでもなかろうと思う。

 文字がないというこの一点だけでも、知識人はとうの昔から漠然たる不安を感じていた。清末の白話報の刊行も、五四の「文学革命」の叫びも、みなこのためである。しかしまだ文章が難しいことを知っただけで、中国には文字がないに等しいということに気づいていなかった。今年の文言文復興の提唱もこのためであるが、今日の機関銃が利器であることを知りながら、従来の怠慢のゆえに奮起しえず、窮地に臨んでなお僥倖を望み、ただ大刀隊で事を成さんと夢想するのと同じである。

 大刀隊の失敗はすでに明らかで、わずか二年で九十九本の鋼刀を打って軍に送る者はいなくなった。しかし文言隊の役立たずが露呈するのは極めて緩やかで、極めて隠微であり、まだ命脈を保っている。

 文言文提唱の時代逆行に対して、今日の大衆語文の提唱がある。しかしこれもまだ根本の問題に触れていない──中国には文字がないに等しいということに。ラテン化の提案が現れるに至って、問題解決の急所がようやく捉えられたのである。

 反対は当然、大いにあるだろう。特権的人物の因習は動かし難い。ガリレイが地動説を唱え、ダーウィンが進化論を説いて宗教と道徳の基礎を揺るがし、攻撃を受けたのは少しも怪しむに足りない。しかしハーヴェイが血液の人体における循環を発見したのは、一切の社会制度とどんな関係があるのか。それでも一世にわたって攻撃を受けた。しかし結果はどうか。結果は──血液は人体の中を循環しているのだ!

 中国人がこの世界で生存しようとするならば、《十三経》の名目を暗記する学者も、「灯紅」に「酒緑」と対句を作る文人も無用であり、ひとえに万人の切実な知力に頼るほかないことは明白である。ならば、生存しようと欲するならば、まず知力の伝播を阻害する結核を除去しなければならない。すなわち非語文と方塊字である。万人に旧文字の犠牲になってもらいたくなければ、旧文字を犠牲にするしかない。どちらの道を行くか──これは冷笑家が指摘するように、ただラテン化提唱者の成否に関わるのではなく、中国大衆の存亡に関わるのである。実証を得るのに、さほど長く待つ必要もあるまい。

 ラテン化についてのより詳しい意見は、おおむね《自由談》に連載された華圉の《門外文談》に近いので、ここでは多く述べない。冷笑家がみな嘲る大衆語の前途の困難には、私も同感である。しかし困難であっても、なおやらねばならない。困難であればあるほど、なおさらやらねばならない。改革は昔からかつて順風満帆であったためしはなく、冷笑家が賛成するのは成果を見た後のことなのだ。信じないなら、白話文を提唱したときのことを見るがよい。

 (九月二十四日。)


第40節

【中国人は自信力を失ったか】

 公開の文章から見ると──二年前にはわれわれはしきりに「地大物博」と自慢していた。これは事実である。まもなく自慢しなくなり、ただ国際連盟に望みを託すようになった。これも事実である。今ではもう自らを誇ることもなく、国際連盟を信じることもなく、ひたすら神仏に祈り、懐古傷今するばかりとなった──これもまた事実である。

 そこである者が嘆じて曰く、中国人は自信力を失った、と。

 もしこの一点の現象だけで論ずるなら、自信は実はとうの昔に失われていたのだ。以前は「地」を信じ、「物」を信じ、後には「国際連盟」を信じた。いずれも「自分」を信じたことはない。もしこれも一種の「信」だと言うなら、中国人がかつて持っていたのは「他信力」とでも言うべきもので、国際連盟に失望して以来、この他信力をも失ったにすぎない。

 他信力を失えば疑いが生じ、ひとたび身を翻せば、あるいは自分だけを信じ得たかもしれない。それこそ新たな活路であったろう。しかし不幸にも次第に玄虚に向かってしまった。「地」や「物」を信じていたころは、まだ切実なものだった。国際連盟は渺茫たるものだが、それでもやがてそれに依拠する不確かさに気づかせるくらいのことはできた。ひとたび神仏に祈るに至っては、もう玄虚の極みであり、有益か有害か、一時には明らかな結果を見出しがたく、人をより長く自己麻酔させ得るのである。

 中国人が今発展させつつあるのは「自欺力」である。

 「自欺」もまた今日始まったものではなく、今はただ日に日にその明白さを増し、一切を覆い尽くしたにすぎない。しかしこの覆いの下に、自信力を失わない中国人がいる。

 われわれは古来、黙々と骨身を惜しまず働く人があり、命を賭して力を尽くす人があり、民のために命を請う人があり、身を捨てて法を求める人があった。……帝王将相のための家系図にも等しいいわゆる「正史」ですら、彼らの光輝を覆い隠すことはできなかった。これこそ中国の脊梁である。

 このような人々が今日少ないなどということがあろうか。彼らには確信があり、自欺しない。彼らは前仆後継の戦いの中にあるが、ただ一方では常に摧残され、抹殺され、暗黒の中に消え、世に知られないだけのことである。中国人が自信力を失ったと言うのは、一部の人を指すならまだしも、もし全体に加えるならば、それはまさに誣蔑である。

 中国人を論じようとするなら、表面に塗られた自欺欺人の脂粉に騙されてはならない。その筋骨と脊梁を見なければならない。自信力の有無は、状元宰相の文章をもって証とするに足りず、自ら地の底を見に行くべきなのだ。

 (九月二十五日。)


第41節

【「目には目を」】

 杜衡氏は「最近、『新しい本を読むよりはむしろ古い本を読んだ方がよい』という気持ちから」、シェイクスピアの《ジュリアス・シーザー》を読み返した。この再読はなかなか意味深いもので、おかげでわれわれは、古い本を読んで得た氏の新しい文章、すなわち《シェイクスピア劇ジュリアス・シーザーに表現された群衆》(《文芸風景》創刊号所収)を拝読することができた。この戯曲を杜衡氏は「二箷月の時間をかけて翻訳したことがある」というのだから、非常に精読したことがわかる。氏の教えるところによれば、「この劇で、シェイクスピアは二人の英雄を描いた──シーザーと……ブルータス。」しかし最後の勝利はアントニーに帰し、「明らかに、アントニーの勝利は群衆の力に依ったものであり」、「群衆こそこの劇の目に見えぬ主脳であると言っても、言い過ぎとはならぬ」のである。杜衡氏は叙述と引用の後に結びを加えた。「これらの数多くの箇所において、シェイクスピアは群衆を一つの力として表現することを忘れない。ただし、この力はただ一種の盲目な暴力にすぎない。彼らには理性がなく、明確な利害観念がない。」これもまた必ずしも正確な見解ではないが、同じく《ジュリアス・シーザー》から群衆を見ていながら、結果は杜衡氏とこれほどの差がある。杜衡氏はシェイクスピアのために愁う必要など毛頭ない。(九月三十日。)


第42節

【「面子」を論ず】

 「面子」はわれわれの会話の中でしばしば耳にするものであり、一聞してわかるように思われるから、じっくり考える者はおそらく多くない。しかし近ごろ外国人の口からも、時にこの二音を聞くようになった。彼らは研究しているらしい。この一事はなかなか理解しがたいが、中国精神の綱領であり、これさえ掌めば、二十四年前に辮子を掌んだのと同じく、全身がそれについて動く、と彼らは考えている。中国人が「面子」を欲するのは良いことだが、残念なのはこの「面子」が「円機活法」であり、変化に巧みなことで、こうして「恥知らず」と混ざり合ってしまうのだ。長谷川如是閑が「盗泉」について言っている。「古の君子は、その名を悪みて飲まず。今の君子は、その名を改めて飲む。」(十月四日。)


第43節

【運命】

 ある日、私は内山書店で雑談していた。そこで初めて知ったのだが、日本の丙午年生まれ、今年二十九歳の女性は、まことに不幸な一群だという。丙午年生まれの女は夫を剋すと広く信じられており、結婚が非常に困難なのである。私は尋ねた。この宿命を解除する方法はあるのか。答えは──ない。すると私はすぐに中国のことを思い浮かべた。中国人は確かに運命を信じている。だがこの運命には転じさせる方法があるのだ。運命は中国人にとって事前の指針ではなく、事後の一つの解釈にすぎない。今後もし科学をもってこの迷信に替え得るならば、定命論の思想もまた中国人を離れるであろう。(十月二十三日。)


第44節

【臉譜についての臆測】

 演劇について、私はまったくの門外漢である。しかし中国演劇を研究する文章に出会えば、時には目を通すこともある。伯鴻氏は《戲》週刊第十一期で臉譜に触れ、中国劇に時に象徴的手法が用いられることを認めた。「白は『奸詐』、赤は『忠勇』、黒は『威猛』を表す」などは西洋の色の象徴と異ならない、と。この「臉譜」こそ、俳優と観客が共同で次第に議定した分類図であると私は思う。臉譜にはもちろんそれ自体の意義がある。しかし私はやはり象徴的手法ではないと感じており、今日ではもはや贅瘤にすぎないと思う。(十月三十一日。)


第45節

【気ままな拾い読み】

 私が消閑として行う読書──気ままな拾い読みについて少し話したい。だが下手をすると害を受けないとも限らないのである。最初に読書した場所は私塾で、最初の本は《鑑略》だった。しかしやがて少しずつ字を覚え、家にあった二、三箱のぼろぼろの本をあれこれ繰っては、もっぱら図画を探して見、後には文字も読むようになった。こうして習慣となり、手元に本があればそれが何であれ、手に取ってめくらずにはいられない。今に至るまでそうである。「気ままな拾い読み」は、さまざまな鉱石で比較する方法であり、真の金鉱で比べるほど明瞭でも簡単でもない。私自身は、少し日本語ができるおかげで、日本語訳の《世界史教程》と新刊の《中国社会史》でしのいでいる。(十一月二日。)


第46節

【ナポレオンとジェンナー】

 私の知るある医者は、忙しい人だが、患者からの攻撃もしばしば受ける。あるとき自嘲して嘆息した──称賛を得たければ、人を殺すに如くはない。ナポレオンとジェンナー(Edward Jenner, 1749-1823)を比べてごらんなさい……思うにこれは本当である。ナポレオンの戦績はわれわれと何の関係があるのか、それでもわれわれは常にその英雄を敬服する。しかしわれわれの腕を見れば、おおむね幾つかの痕がある。これは種痘の跡であり、われわれを天然痘の危険から救ったものだ。殺人者は世界を毀損し、救命者はそれを修繕する。しかし砲弾の餌の資格を持つ諸公は、つねに殺人者を礼賛するのだ。この見方が変わらない限り、世界はなお毀損され続けるだろうと、私は思う。(十一月六日。)


第47節

【《戯》週刊編集者への返信】

 魯迅先生閣下──《阿Q》の第一幕はすでに掲載を終えました。舞台上演の試みはすぐには実現できませんが、準備作業は間もなく着手する予定です。先生にまずご意見をいただければと存じます。これは編集者の願いであり、作者、読者、そして上演に携わる同志たちの願いでもあります。ご健康を祈ります! 編集者

 編集先生──《戯》週刊に寄せられた公開書簡は早くに拝見しました。演劇について私は何の研究もなく、最も確実な返答は一言も発しないことです。しかし先生と読者諸氏が、私がただの門外漢の気ままな話にすぎないとご了解くださるなら、個人的な意見を少し述べてもよかろうと思います。

 《阿Q》は毎号の掲載量が多くなく、各号の間に六日の隔たりがあるので、断続的に読み、また断続的に忘れてしまいました。覚えているのは、その編排──《吶喊》の他の人物も挿入して未荘あるいは魯鎮の全貌を示す方法が、なかなかよいということだけです。しかし阿Qの話す紹興語は、私にも多くの箇所が理解できませんでした。

 今、自分から言いたいことが二点ある──

 一、未荘はどこにあるか。《阿Q》の編者はすでに決定した──紹興に、と。私は紹興人であり、書く背景も紹興が多いから、この決定にはおそらく誰もが同意するだろう。しかし私の小説の中で、どこそこと明示しているものはきわめて少ない。あの時私は思った──もし暴露小説を一篇書いて、場所を指定すれば、当地の人は恨み、他所の人は無関心となる。互いに反省せず、作品の意義も作用も失われる。私の方法は、読者に自分以外の誰について書いているのかわからなくさせ、しかし自分のことのようでもあり万人のことのようでもあるとの疑いを持たせ、反省の道を開くことにある。

 二、阿Qは何語を話すべきか。阿Qの生涯が紹興で過ぎたのなら、当然紹興語を話すべきである。しかし第三の疑問が続く──

 三、《阿Q》はどこの人々に見せるのか。もし紹興の人に見せるなら、紹興語でなければならない。しかし他所の人に見せるとなれば、この脚本の作用は減殺される。

 私の意見は以上である。一言で総括すれば、この脚本は特殊化しすぎず、皆が活用できるようにするのが最もよい。

 最後にもう一つ。数箇月前、ある友人の大衆語に関する質問に答えたことがあり、この手紙は後に《社会月報》に掲載された。末尾には楊邨人氏の一篇が置かれていた。紹伯氏が《火炬》で、私がすでに楊邨人氏と和解したと述べた。ここで付言する。同一の刊行物上のいかなる著者に対しても、和解の意を表す気持ちはない。ただし同一陣営の者が変装して背後から私に一刀を加えるならば、私のその者への憎悪と蔑視は、明白な敵以上のものである。

 魯迅。十一月十四日。


第48節

【《戯》週刊編集者への書簡】

 編集先生──本日《戯》週刊第十四期を見ました。《独白》に私の返信が届かないことへの「遺憾」が述べられていましたが、この手紙はおととい送り出したはずで、しかも病中に書いたものですから、なかなか精を出したつもりでおります。

 この週刊で幾つかの阿Q像を見ましたが、いずれもあまりに特殊で風変わりに思われます。私の意見では、阿Qは三十歳前後、姿は平凡で、農民的な質朴と愚鈍を持ちつつも、遊び人の狡猾さも少々帯びているはずです。上海では人力車夫の中にその影を見出せるかもしれませんが、流氓めいてもちんぴらめいてもいない。頭に瓜皮小帽を被せただけで、阿Qではなくなります。私が彼に被せたのは氈帽だったと記憶しています。黒い半球形のもので、帽子の縁を一寸余り折り返して頭に被る。上海の近郊では今でも被っている人がいるだろう。

 新聞に図画が欲しいとありましたが、手元に十枚あります。陳鉄耕君の木版画で、ここにお送りします。彼は広東人なので、背景の多くはおそらく広東でしょう。

 なお、本日の《阿Q正伝》に「小Dはおそらく小董だろう」とありますが、そうではありません。彼の名は「小同」で、大きくなれば阿Qと同じです。

 魯迅拝。十一月十八日。


第49節

【中国文壇の鬼魅】

 一

 国民党が共産党に対する態度を合作から殲滅に転じた後、ある者は言った──国民党はもとより彼らを利用したにすぎず、殲滅は予定の計画だったのだ、と。しかし私はこの説が真実だとは思わない。国民党の中には共産を望む有力者がかなりいた。彼らが子女をソ連に送り学ばせたのがその証拠である。ただ有力者たちには錯誤した考えがあったようで、共産しても自分たちの権力と財産はさらに増えるはずだと考えていた。しかし後の事態は、共産主義にはそのような融通が利かないことを証明した。そこで殲滅の決意が下されたのだ。

 かくして多くの青年たちが自らの血をもって自らの過ちと有力者たちの過ちを洗った。

 二

 共産主義者は中国で該殺の罪人となった。しかもこの罪人は別人に無窮の便利を与えた。彼らは商品となり、金になった。「民族主義文学」が武器として出現し、「第三種人」が左右いずれにも属さぬと称した。

 三

 しかし革命文学は動揺せず、さらに発達した。書店への圧迫が最良の戦略となった。中央宣伝委員会は一四九種の書を禁じた。出版家を困らせ、検査制度が始まった。「第三種人」も検査官の椅子に座った。

 四

 しかし実際には文学界の陣線はさらに分明となった。欺瞞は長続きしない。続くのはまた一場の血腥い戦闘である。

 (十一月二十一日。)


第50節

【新文字について】

──答問──

 比較は最もよいことである。拼音字を知る前には、象形字の難しさに思い至ることはない。ラテン化の新文字を見る前には、以前の注音字母やローマ字綴りも煩雑で実用に適さないと明確に断じ難い。

 方塊漢字はまさに愚民政策の利器である。労苦大衆が学ぶ可能性がないのみならず、特権階級でさえ学び得ない者がまことに多い。

 ゆえに漢字もまた中国の労苦大衆の身体に潜む一つの結核であり、これをまず除去しなければ、結果は自らの死あるのみ。今回の新文字ははるかに簡易で、実生活に根ざしており、学びやすく実用的である。これこそ労苦大衆自身のものであり、第一の唯一の活路である。

 現在中国で試験されている新文字は、南方の人が読むとすべてを理解することはできない。各地方の言語に応じて別々に綴り、将来の疎通を図るしかない。しかし彼らは新文字が労苦大衆に利することを深くわきまえている。だから白色テロが蔓延する地では、この新文字が摧残されるのは必定である。

 (十二月九日。)


第51節

【病後雑談】

 一

 少し病にかかるのは、確かに一種の福というものである。ただし二つの必要条件がある。一つは病が軽いこと。もう一つは手元にいくらかの現金があること。この二つのうち一つでも欠ければ、病の雅趣を語るに足りない。

 私はもとからめったに病にかからないが、先月は少々患った。最初は毎晩発熱し、力が出ず、食欲がなく、一週間経っても治らない。医者は流行性感冒だと言った。しかし解熱すべき時期を過ぎても熱は引かなかった。検査の結果、死病はないことは明白で、ただ毎晩の発熱と脱力と食欲不振があるだけ。これはまさに「半口の血を吐く」に等しく、病の福を大いに享受し得る。

 光は胡思乱想も仕方がない。精神を使わずに読める本でも見る方がよい。こういう時には、私は中国の紙の線装本に賛成する。寝ころんで読めば、軽くてまるで力が要らず、魏晋人の豪放瀟洒な風姿が眼前に浮かぶ。

 「雅」には地位が要り、金も要る。古今異ならない。しかし古代の雅の値段は今より安かった。方法もまた異ならず、本は書架に飾り、酒杯は卓上に置く。しかし算盤は引き出しにしまうか、最もよいのは腹の中に収めておくことである。これすなわち「空霊」と言う。

 二

 所以我恐怕只好自己承認「俗」。《世説新語》をひと通りめくった後、「養病」から「養病費」のことに考え及んでしまい、がばと起き上がって版税の請求と稿料の催促の手紙を書いた。本を替え、明末清初の野史を手に取った。最初に手にしたのは《蜀碧》であった。

 翻って巻三に「剥皮者、頭より臀に至り、一筋にこれを裂き、前に張る」の一条を見つけた。医術と酷刑とは、いずれも解剖学の知識を要する。中国は奇怪なことに、固有の医書の人体五臓図はまことに粗略だが、酷刑の方法は古人が現代の科学をすでに心得ていたかのようである。

 三

 清朝には族滅あり、凌遅あり、しかし剥皮の刑はなかった。後に膾炙された虐政は文字の獄である。清朝が多くの古人の著作の字句を削改し、多くの明清人の書を禁じたことは、われわれが今なお直接にその流毒を被っている。

 四

 病中にこれらの書を読み、つまるところ気が滅入る。しかし聡明な士大夫は血の海の中から閑適を見出す。序文の後に「古穆にして魏晋間の人の筆意あり」の批語を見出した。これはまさに天下の大技量である。

 (十二月十一日。)


第52節

ある事は言い方を変えるとあまり具合がよくない。だから君子は俗人の「道破」を憎む。実際「君子は庖厨を遠ざくるなり」は自欺欺人の方法である。君子は牛肉を食わねばならないが、牛の臨死の觳觫を見るに忍びず、立ち去って、ビーフステーキに焼き上がってからゆっくりと咀嚼する。こうして心安理得、天趣盎然となるのだ。

 撒一点小谎可以解無聊。永楽帝が無理やり皇帝になったことに、一部の士大夫はよろしくないと思っていた。鉄鉉の二人の娘は教坊に送られ娼妓にさせられた。しかしある者が言った──後に二女は詩を献じて赦免され、士人に嫁いだ、と。まさに「曲終わりて雅を奏す」、天皇はやはり聖明であり善人もついに救われたと感じる。

 しかし「浮光掠影」はここで止めておかねばならず、先を考えてはならない。永楽帝の上諭には凶残猥褻なものがあり、教坊では彼女たちを「転営」──各兵営を数日ずつ巡らせ、多数の男に凌辱させた。いわゆる「守節」は「良民」にのみ許された特典だったのだ。

 私は杭世駿の《訂訛類編》で、この佳話の欺瞞を確かに知った。鉄長女の詩は実は呉人范昌期の《老妓の巻に題す》の作であった。

 中国のある種の士大夫は、つねに無中生有、移花接木して物語を作り上げる。彼らは昇平を歌頌するのみならず、暗黒をも粉飾する。

 私が死んだ後、決して追悼会を開いたり記念冊を出したりしないでほしい。あの紙や墨を買う金があるなら、むしろ明人、清人の野史や筆記を数冊選んで印刷した方が、皆にとってはるかに益がある。ただし句読点を間違えぬようにしてほしい。

 (十二月十一日。)


第53節

【病後雑談の余──「憤懣を舒ぶ」について】

 一

 私がいつも明の永楽帝の凶残は張献忠を遥かに上回ると言うのは、宋端儀の《立斎閑録》の影響を受けてのことである。その時、私はまだ満洲治下の辮子を垂らした十四、五歳の少年だったが、すでに《蜀碧》を読んで「流賊」の凶残を痛恨していた。後に《立斎閑録》の中に永楽帝の上諭を見た。そこから私の憎悪は永楽帝に移った。

 昨日《安徽叢書》第三集で清の兪正燮の《癸巳類稿》改定本を見つけ、永楽帝の上諭が引いてあった。摘録する──

 「永楽十一年正月十一日、教坊司奏す。斉泰の姉及び黄子澄の妹、四人の婦人あり。毎日二十余人の男が看守す。年少の者はみな身籠もりたり。生まれし子は小亀子となさしむ。聖旨を奉ず──由他。大きくなったら淫賤の材児ではないか、と。」

 「鉄鉉の妻楊氏、年三十五、教坊司に送る。茅大芳の妻張氏、年五十六、教坊司に送る。張氏病死す。聖旨を奉ず──上元県に申しつけて門外に担ぎ出し、犬に食わせよ!欽此!」

 有史以来、中国人は同族にも異族にも屠殺され、奴隷にされてきた。兪正燮は清朝の楽戸解放を記した後、結語として「本朝ことごとくその籍を去り、天地のためにこれを廓清せり。漢儒の朝廷の功徳を歌頌し、自ら『憤懣を舒ぶ』と云う」と書いた。

 二

 しかし兪正燮の歌頌清朝功徳は当然の事だった。文字獄の血迹はすでに消失し、愚民政策は集大成されていた。清朝の削改した古書の内容こそ最も陰険であった。乾隆朝の《四庫全書》纂修は盛業と頌されるが、古人の文章を修改し、骨気ある作者がいたことを永久にわからなくした。

 《四部叢刊続編》の影旧抄本《嵩山文集》には、四庫本との対比がある。「金賊」は「金人」に、「犬羊」は削除され、「夷狄」は忌避され、「中国」の二字すら許されない。清朝の考据家は「明人好刻古書而古書亡」と言ったが、清人は《四庫全書》纂修で古書を亡ぼし、今人は標点で古書を亡ぼした。これは水火兵虫以外の三大厄である。

 三

 清朝への憤懣の再発は光緒中に始まる。太炎先生は文章をもって排満の驍将として知られた。日本留学の学生の一部は図書館で革命を鼓吹し得る明末清初の文献を探した。

 私の辮子は日本に残した。上海に着くとまず付け辮子を装着した。しかし一箇月余りで考えた──路上で落ちれば初めからないよりなお見苦しい。いっそやめよう。しかし真実の代価は安くなかった。路上では冷笑、罵倒。小さくは間男と言われ、大きくは「裏通外国」と指弾された。

 「不亦快哉!」──千九百十一年の双十、革命が来た。革命が私にくれた最大の恩恵は、以来頭を上げて堂々と街を歩けるようになったことだ。

 四

 辮子にはもう一つの小風波があった。張勲の「復辟」である。幸い数日で失敗した。今では辮子も日に日に稀少となった。私の「憤懣を舒ぶ」は、おそらく他の人々にも伝えがたいだろう。

 (十二月十七日。)

 一週間前、鉄氏二女の詩に触れた。本日《四部叢刊続編》の《茗斎集》に鉄氏長女の詩があった。作偽者は一句を改め、各句ごとに一、二字を変えたにすぎない。もし鉄鉉に娘がいなかった、あるいは自殺したのだとすれば、この虚構の物語からも社会心理の一斑を窺い得る。

 (二十三日の夜、附記。)


第54節

馬上に縛り去り、帳中に侍せしむ。     その籍を棄てて去り、焚掠の余り、 遠近胆落ち、寒心する暇なし。       遠近胆落ち、寒心する暇なし。

 この数条を見るだけでも、「賊」「虜」「犬羊」は忌避されていることがわかる。金人の淫掠を言うのも忌避される。「夷狄」はもちろん、「中国」の二字すら見ることを許されない。なぜなら「夷狄」と対立する語であり、種族思想を容易に惹起するからだ。しかしこの《嵩山文集》の写す者は自ら改めず、読む者も自ら改めず、旧文を存している。今の世にあっても「憤懣を大いに舒ぶ」と言い得よう。

 清朝の考証家に言った者がいる。「明人は古書を好んで刻すが故に古書亡ぶ」と。私はこれに続けて言う──清人は《四庫全書》を纂修して古書亡ぶ。旧式を変乱し原文を削改したからだ。今人は古書に標点を施して古書亡ぶ。出鱈目に点を打つからだ。これは古書の水火兵虫以外の三大厄である。


第55節

【河南盧氏曹先生教沢碑文】

 それ激蕩の世に当たりては、時に乗ずるに利あり。勁風盤空すれば軽蓬も翮を振るう。故に豪傑を以て一時に称せらるる者は多し。されど品節卓異の士は蓋し一を得難し。盧氏の曹植甫先生、名は培元。幼にして義方を承け、長じて大願を懐く。秉性寛厚にして立行貞明なり。躬ら山曲に居し、校を設けて徒に授く。専心一志、後進を啓迪し、或いは未だ諦かならざるあれば、循循としてこれを誘う。歴久にして渝らず、恵みは遐邇に流る。又た古に泥まず、学を為すこと日に新たにして、時世の前駆と作り、童冠と俱に邁む。ここに旧郷をして丕変せしめ、日に昭明を見る。君子は自ら強めて、永く意必なし。しかも光を韜めて里巷に処し、これに処ること怡然たり。此れ豈に辁才小慧の徒の能く至るところならんや。中華民国二十有三年の秋、年七十に届き、和を含み素を守り、篤行初めの如し。門人敬仰し、心を同じくして表を立つ。潜徳を彰かにし、亦た師恩に報いんと冀うのみ。銘に曰く──

 華土奥衍、代ごとに英賢を生ず。或いは居し或いは作す。歴ること四千年。文物赫々として中天に峙つ。海涛外に薄り、黄神徙倚す。巧黠時に因りて槍鵲起つ。然れども猶お飄風の如く、終朝にして已む。卓なるかな先生、栄を遺て実を崇ぶ。新流を開拓し、文術を恢弘す。人を誨えて倦まず、惟精惟一。介立は或いはあり、恒久は則ち難し。教を敷き化を翊け、実に邦の翰たり。敢えて貞石に契し、以て後昆を励まさん。

 会稽の後学 魯迅 謹みて撰す。


第56節

【阿金】

 近ごろ私が最も厭なのは阿金である。

 彼女は女中──上海では娘姨と呼び、外国人はアマと呼ぶ──で、主人もまた外国人である。彼女には女友達が大勢いて、日が暮れると続々と窓の下に来ては「阿金、阿金!」と大声で呼ぶ。これが深夜まで続くのだ。彼女にはまたいく人かの情夫がいるらしい。裏口で自説を公言した──情夫もこさえずに上海に来て何をする、と……

 不幸なのは彼女の主人の家の裏口が私の家の表門と斜めに向き合っていることで、彼女の声が始まると文章が書けなくなる。さらに不幸なのは、出入りが彼女の家の物干し台の下を通らねばならず、竹竿や板が上から直に投げ落とされることだ。

 ある夜三時半、翻訳をしていると路上で誰かを低い声で呼ぶのが聞こえた。窓を開けて見ると、一人の男が阿金の窓を見上げて立っていた。斜め向かいの窓が開いて阿金の上半身が現れ、たちまち私を見つけ、男に何か言って手を振ると、男は走り去った。私はひどく居心地が悪かった。

 阿金と道路向かいの老婆との論戦。阿金の返答──「この老×、誰にも相手にされないくせに!あたしは相手にしてもらえるのよ!」洋巡捕が来て「君もなかなか弱くはないね!」と微笑した。

 数日後、阿金は見かけなくなった。おそらく主人に暇を出されたのだろう。後任は穏やかな娘姨で、二十日余り静かだった。

 阿金の容貌はきわめて平凡である。しかし私はまだ彼女が厭で、「阿金」の二字を思い浮かべるだけで厭になる。私が彼女を厭うのは、数日もしないうちに、私の三十年来の信念と主張を揺るがしたからである。

 私は従来、昭君の出塞が漢を安んじたとも、妲己が殷を亡ぼしたとも信じなかった。男権社会において、女にこれほど大きな力があるはずがないと考えていた。ところが阿金は一介の娘姨でありながら、一箇月とかからぬうちに私の目の前で四分の一里をかき乱した。もし彼女が女王か皇太后であったなら、その影響は推して知るべし。

 願わくば阿金もまた中国女性の標本とは言えぬことを。

 (十二月二十一日。)


第57節

【俗人は雅人を避くべしを論ず】

 雑誌をいくらか読んで、ふと思いついたことである──

 濁世には「雅人」は少なく、「韻事」も稀である。しかし濁りが徹底しない間は、雅人もまったくいないわけではない。ただ「雅を傷つける」人間が多いので、彼らの「雅」も徹底しなくなるのだ。

 道学先生は「仁恕」を躬行するが、不仁不恕の者に出会えばやはり仁恕ではいられない。朱子は大賢でありながら、官にあっては無辜の官妓に板を食らわせた。林語堂氏は「フェアプレー」を称えるが、「口にソ連の煙草をくわえた」青年に出会うと面目は一変する。

 いわゆる「雅人」は朝から晩まで雅であるわけではない。しかし時に忽然として「雅」たり得ることが秀でたところだ。もしこの謎の底を暴けば「殺風景」──すなわち俗人であり、雅人にまで累を及ぼす。

 たとえば、ここに二人の知県がいるとしよう。その一人が時に梅花を見に行けるなら、彼は雅な役人と見なされるべきである。古い「ユーモア」本に、知県殿が梅を訪ねるのを詠んだ「軽薄子」の七絶がある──

 赤帽はうなり黒帽は呵す、風流太守は梅花を見る。  梅花頭を垂れて言葉を開き曰く、小人めの梅花、お殿様にご挨拶。

 これはまことに悪戯で、韻事を台無しにしてしまった。

 慎重な人は、仁人君子や雅人学者に出会った時、幇閑のまねができなければ、遠く避けるに如くはない。大家都知道「賢者避世」。我以為現在の俗人は雅を避くべきである。これもまた一種の「明哲保身」なのである。

 (十二月二十六日。)


第58節

【附記】


第59節

第一篇《中国に関する二、三の事》は、日本の改造社の依頼で書いたもので、もとは日本語であり、同年三月に《改造》に掲載され、題名は《火、王道、監獄》と改められた。中国北方ではかつて、ある雑誌がこの三篇を訳載したことがあるが、南方では林語堂、邵洵美、章克標の三氏が主編する雑誌《人言》のみが、これを著者攻撃の道具として用いた。詳しくは《准風月談》の後記に見えるので、ここでは贅言しない。

 《草鞋脚》は現代中国作家の短篇小説集で、イロソン(H. Isaacs)氏の依頼により、私と茅盾氏が選び出し、氏がさらに選択して英訳したものである。しかし今に至るまで出版されていないようだ。

 《曹聚仁氏への返信》はもともと私信であったが、《社会月報》に掲載されてしまい、私は「楊邨人氏のために開場の銅鑼を打つ者」にされてしまった。《大晩報》副刊《火炬》に紹伯氏の文章がその証拠である。この一件について、私は十一月の《《戯》週刊編集者への返信》の中でようやく数句の返答をした。

 《門外文談》は「華圉」の筆名で《自由談》に投稿したもので、毎日一節ずつ掲載された。しかし理由はわからないが、


第60節

第一節は末尾の一行が削除された。


第61節

第十節の冒頭もまた二百余字が削除されたが、ここに補足し、黒点をもって印とする。

 《肉の味を知らずと水の味を知らず》は《太白》に寄せたものだが、掲載された時には後半がすべてなくなっていた。これは「中央宣伝部書報検査委員会」の業績であろう。ここに補足し、黒点をもって印とする。

 《中国人は自信力を失ったか》もまた《太白》に寄せたものである。神仏に祈ることへのいささかの不敬はすべて削除された。当時のわれわれの「上峰」がまさに神仏祈願を主張していたことがわかる。ここに補足し、黒点をもって印とする。

 《臉譜についての臆測》は《生生月刊》に寄せたものだが、官命により掲載不許可。「第三種人」のお歴々のご機嫌を損ねたためとわかった。

 《《戯》週刊編集者への返信》の末尾は、紹伯氏のかの《調和》に対する返答である。聞くところによると、われわれの仲間に沈姓の「戦友」がこれを読んで笑って曰く「この爺さんがまた愚痴を言っとるわ!」と。しかし私自身は本気なのだ。

 《中国文壇の鬼魅》は《現代中国》(China To-day)に寄せたもので、英訳で第一巻第五期に掲載された。

 《病後雑談》は《文学》への投稿で、全五段であったが、掲載された時には第一段だけが残っていた。後にある作家がこの一段に基づいて評した──魯迅は病気になることに賛成している、と。彼は検査官の削除にまったく思い至らなかったのだ。

 《阿金》は《漫画生活》に寄せたものだが、掲載不許可のみならず、南京の中央宣伝会にまで送られた。原稿を取り戻すと「抽去」(抜き取れ)の印があった。

 われわれはこのような場所に生きている。われわれはこのような時代に生きている。

 一九三五年十二月三十日、編了に記す。