Lu Xun Complete Works/zh-ja/Huabian wenxue
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花边文学 / 花辺文学
魯迅 (鲁迅, ルーシュン, 1881–1936)
中日対照翻訳。
第1節
| 中文 | 日本語 |
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【且介亭杂文】
【序言】
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【且介亭雑文】
【序言】
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第2節
| 中文 | 日本語 |
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【序言】
近几年来,所谓“杂文”的产生,比先前多,也比先前更受着攻击。例如自称“诗人”邵洵美,前“第三种人”施蛰存和杜衡即苏汶,还不到一知半解程度的大学生林希隽之流,就都和杂文有切骨之仇,给了种种罪状的。然而没有效,作者多起来,读者也多起来了。 其实“杂文”也不是现在的新货色,是“古已有之”的,凡有文章,倘若分类,都有类可归,如果编年,那就只按作成的年月,不管文体,各种都夹在一处,于是成了“杂”。分类有益于揣摩文章,编年有利于明白时势,倘要知人论世,是非看编年的文集不可的,现在新作的古人年谱的流行,即证明着已经有许多人省悟了此中的消息。况且现在是多么切迫的时候,作者的任务,是在对于有害的事物,立刻给以反响或抗争,是感应的神经,是攻守的手足。潜心于他的鸿篇巨制,为未来的文化设想,固然是很好的,但为现在抗争,却也正是为现在和未来的战斗的作者,因为失掉了现在,也就没有了未来。 战斗一定有倾向。这就是邵、施、杜、林之流的大敌,其实他们所憎恶的是内容,虽然披了文艺的法衣,里面却包藏着“死之说教者”,和生存不能两立。 这一本集子和《花边文学》,是我在去年一年中,在官民的明明暗暗,软软硬硬的围剿“杂文”的笔和刀下的结集,凡是写下来的,全在这里面。当然不敢说是诗史,其中有着时代的眉目,也决不是英雄们的八宝箱,一朝打开,便见光辉灿烂。我只在深夜的街头摆着一个地摊,所有的无非几个小钉,几个瓦碟,但也希望,并且相信有些人会从中寻出合于他的用处的东西。 一九三五年十二月三十日,记于上海之且介亭。 |
【序言】
近年来、いわゆる「雑文」の生産は以前よりも多くなり、以前よりもさらに多くの攻撃を受けている。たとえば自称「詩人」の邵洵美、元「第三種人」の施蛰存と杜衡すなわち蘇汶、まだ一知半解にも達しない大学生の林希雋の輩は、いずれも雑文と骨に徹する仇があり、種々の罪状を与えた。しかし効き目はなく、書く者は増え、読む者も増えた。 実は「雑文」なるものは今日の新製品ではなく、「古より已に之あり」なのだ。およそ文章があれば、分類すればいずれも帰すべき類があるが、もし編年にすれば、作成の年月に従うのみで文体を問わず、各種が一所に交じり、かくして「雑」となる。分類は文章の揣摩に益あり、編年は時勢の理解に利あり、もし人を知り世を論ぜんとすれば、編年の文集を見るに如くはなく、今日新たに作られた古人の年譜が流行しているのは、既に多くの人がこの中の消息を省悟したことの証左である。しかも今はいかに切迫した時であることか、作者の任務は、有害な事物に対し直ちに反響あるいは抗争を与えることにある。感応の神経であり、攻守の手足だ。鴻篇巨制に潜心して未来の文化のために構想するのは固より結構だが、現在のために抗争するのもまさに現在と未来のための戦う作者なのだ。現在を失えば、未来もまたないからだ。 戦闘には必ず傾向がある。これこそ邵、施、杜、林の輩の大敵であり、実は彼らが憎悪するのは内容なのだ。文芸の法衣を纏いながら、その内に包蔵するのは「死の説教者」であり、生存とは両立し得ない。 この一冊と『花辺文学』は、私が昨年一年のうちに、官民の明に暗に、軟に硬に「雑文」を囲剿する筆と刀の下で結集したものであり、書いたものはすべてここにある。もとより詩史とは言い難いが、その中には時代の眉目があり、また決して英雄たちの八宝箱のように一朝開ければ光輝燦然とするものでもない。私はただ深夜の街頭に地べたの露店を出しているに過ぎず、並べてあるのは小さな釘と瓦の皿ばかりだが、それでも希望し、また信じている──その中から自分の用途に合うものを見つけ出す人がいることを。 一九三五年十二月三十日、上海の且介亭にて記す。 |
第3節
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【一九三四年】 |
【一九三四年】 |
第4節
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【关于中国的两三件事】 |
【中国に関する二、三の事】 |
第5節
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【一 关于中国的火】
希腊人所用的火,听说是在一直先前,普洛美修斯从天上偷来的,但中国的却和它不同,是燧人氏自家所发见——或者该说是发明罢。因为并非偷儿,所以拴在山上,给老雕去啄的灾难是免掉了,然而也没有普洛美修斯那样的被传扬,被崇拜。 中国也有火神的。但那可不是燧人氏,而是随意放火的莫名其妙的东西。 自从燧人氏发见,或者发明了火以来,能够很有味的吃火锅,点起灯来,夜里也可以工作了,但是,真如先哲之所谓“有一利必有一弊”罢,同时也开始了火灾,故意点上火,烧掉那有巢氏所发明的巢的了不起的人物也出现了。 和善的燧人氏是该被忘却的。即使伤了食,这回是属于神农氏的领域了,所以那神农氏,至今还被人们所记得。至于火灾,虽然不知道那发明家究竟是什么人,但祖师总归是有的,于是没有法,只好漫称之曰火神,而献以敬畏。看他的画像,是红面孔,红胡须,不过祭祀的时候,却须避去一切红色的东西,而代之以绿色。他大约像西班牙的牛一样,一看见红色,便会亢奋起来,做出一种可怕的行动的。 他因此受着崇祀。在中国,这样的恶神还很多。 然而,在人世间,倒似乎因了他们而热闹。赛会也只有火神的,燧人氏的却没有。倘有火灾,则被灾的和邻近的没有被灾的人们,都要祭火神,以表感谢之意。被了灾还要来表感谢之意,虽然未免有些出于意外,但若不祭,据说是 |
【一 中国の火について】
ギリシア人の用いた火は、聞くところによればはるか昔、プロメテウスが天から盗んできたものだが、中国のそれはこれとは異なり、燧人氏が自ら発見した──あるいは発明と言うべきであろう。盗っ人ではなかったから、山に繋がれて老鷲に啄まれる災難は免れたが、しかしプロメテウスほどに語り伝えられ、崇拝されることもなかった。 中国にも火の神はいる。しかしそれは燧人氏ではなく、勝手に放火する訳のわからぬ存在だ。 燧人氏が火を発見、あるいは発明してこのかた、美味なる火鍋を食し、灯を点して夜も仕事ができるようになった。しかし、まさに先哲のいわゆる「一利あれば必ず一弊あり」であろうか、同時に火災も始まり、故意に火を点けて、有巣氏の発明した巣を焼き払う了不起の人物も現れたのだ。 善良な燧人氏は忘れられるのが当然であった。食傷を起こしたとしても、今度は神農氏の領分になるわけで、ゆえにかの神農氏は今日なお人々に記憶されている。火災については、その発明者が結局何者であるかは知る由もないが、祖師は必ずいるはずであり、やむを得ずこれを漫然と火神と呼び、畏敬を捧げたのだ。その画像を見れば、赤い顔に赤い髭だが、祭祀の折にはすべての赤い物を避け、緑色で代えなければならない。彼はおそらくスペインの牛のように、赤い色を見ると興奮して恐ろしい行動を起こすのであろう。 かくして彼は崇祀を受けている。中国ではこのような悪神がなお多い。 しかし人の世では、彼らのおかげでかえって賑やかになっているようだ。祭礼も火神のものはあるが、燧人氏のものはない。もし火災があれば、被災者も近隣の被災していない者も、火神を祭り、感謝の意を表さねばならない。被災してなお感謝の意を表すとは、いささか意外ではあるが、祭らなければ |
第6節
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第二回还会烧,所以还是感谢了的安全。而且也不但对于火神,就是对于人,有时也一样的这么办,我想,大约也是礼仪的一种罢。 其实,放火,是很可怕的,然而比起烧饭来,却也许更有趣。外国的事情我不知道,若在中国,则无论查检怎样的历史,总寻不出烧饭和点灯的人们的列传来。在社会上,即使怎样的善于烧饭,善于点灯,也毫没有成为名人的希望。然而秦始皇一烧书,至今还俨然做着名人,至于引为希特拉烧书事件的先例。假使希特拉太太善于开电灯,烤面包罢,那么,要在历史上寻一点先例,恐怕可就难了。但是,幸而那样的事,是不会哄动一世的。 烧掉房子的事,据宋人的笔记说,是开始于蒙古人的。因为他们住着帐篷,不知道住房子,所以就一路的放火。然而,这是诳话。蒙古人中,懂得汉文的很少,所以不来更正的。其实,秦的末年就有着放火的名人项羽在,一烧阿房宫,便天下闻名,至今还会在戏台上出现,连在日本也很有名。然而,在未烧以前的阿房宫里每天点灯的人们,又有谁知道他们的名姓呢? 现在是爆裂弹呀,烧夷弹呀之类的东西已经做出,加以飞机也很进步,如果要做名人,就更加容易了。而且如果放火比先前放得大,那么,那人就也更加受尊敬,从远处看去,恰如救世主一样,而那火光,便令人以为是光明。 |
二度目もまた焼かれると言われるので、やはり感謝した方が安全なのだ。しかもこれは火神に対してのみならず、人に対しても時に同じようにするのであり、おそらくこれも一種の礼儀であろうと思う。 実のところ、放火はまことに恐ろしいが、飯を炊くことに比べれば、あるいはより面白いかもしれぬ。外国の事は知らぬが、中国においては、いかなる歴史を調べても、飯を炊き灯を点す人々の列伝は見つからない。社会においても、いかに飯を炊くのが上手でも、いかに灯を点けるのが上手でも、名人となる望みは毫もない。しかるに秦の始皇帝が一たび書を焼けば、今に至るまで厳然として名人であり、ヒトラーの焚書事件の先例として引かれるに至っている。仮にヒトラー夫人が電灯を点けたりパンを焼いたりするのが上手だったとして、歴史上に先例を求めようとしても、おそらく難しかろう。しかし幸いにも、そのようなことが世を騒がせることはないのだ。 家屋を焼く事は、宋人の筆記によれば、蒙古人に始まるという。彼らは天幕に住んでおり、家屋に住むことを知らなかったので、手当たり次第に放火した、と。しかしこれは嘘である。蒙古人の中で漢文を解する者は甚だ少なく、ゆえに訂正しに来ないだけだ。実は秦の末年に既に放火の名人項羽がおり、阿房宮を焼いて天下に名を馳せ、今日なお舞台に登場し、日本でもかなり有名だ。しかるにまだ焼かれる前の阿房宮で毎日灯を点していた人々は、誰がその名を知ろうか。 今日は爆裂弾だの焼夷弾だのの類が既に作られ、加えて飛行機もかなり進歩しているから、名人になろうとすれば一層たやすくなった。しかも以前よりも大きく放火すれば、その人はさらに一層尊敬を受け、遠くから見れば救世主のようであり、その火光は人に光明だと思わせるのだ。 |
第7節
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【二 关于中国的王道】
在前年,曾经拜读过中里介山氏的大作《给支那及支那国民的信》。只记得那里面说,周汉都有着侵略者的资质。而支那人都讴歌他,欢迎他了。连对于朔北的元和清,也加以讴歌了。只要那侵略,有着安定国家之力,保护民生之实,那便是支那人民所渴望的王道,于是对于支那人的执迷不悟之点,愤慨得非常。 那“信”,在满洲出版的杂志上,是被译载了的,但因为未曾输入中国,所以象是回信的东西,至今一篇也没有见。只在去年的上海报上所载的胡适博士的谈话里,有的说,“只有一个方法可以征服中国,即彻底停止侵略,反过来征服中国民族的心。”不消说,那不过是偶然的,但也有些令人觉得好象是对于那信的答复。 征服中国民族的心,这是胡适博士给中国之所谓王道所下的定义,然而我想,他自己恐怕也未必相信自己的话的罢。在中国,其实是彻底的未曾有过王道,“有历史癖和考据癖”的胡博士,该是不至于不知道的。 不错,中国也有过讴歌了元和清的人们,但那是感谢火神之类,并非连心也全被征服了的证据。如果给与一个暗示,说是倘不讴歌,便将更加虐待,那么,即使加以或一程度的虐待,也还可以使人们来讴歌。四五年前,我曾经加盟于一个要求自由的团体,而那时的上海教育局长陈德征氏勃然大怒道,在三民主义的统治之下,还觉得不满么?那可连现在所给与着的一点自由也要收起了。而且,真的是收起了的。每当感到比先前更不自由的时候,我一面佩服着陈氏的精通王道的学识,一面有时也不免想,真该是讴歌三民主义的。然而,现在是已经太晚了。 在中国的王道,看去虽然好象是和霸道对立的东西,其实却是兄弟,这之前和之后,一定要有霸道跑来的。人民之所讴歌,就为了希望霸道的减轻,或者不更加重的缘故。 汉的高祖,据历史家说,是龙种,但其实是无赖出身,说是侵略者,恐怕有些不对的。至于周的武王,则以征伐之名入中国,加以和殷似乎连民族也不同,用现代的话来说,那可是侵略者。然而那时的民众的声音,现在已经没有留存了。孔子和孟子确曾大大的宣传过那王道,但先生们不但是周朝的臣民而已,并且周游历国,有所活动,所以恐怕是为了想做官也难说。说得好看一点,就是因为要“行道”,倘做了官,于行道就较为便当,而要做官,则不如称赞周朝之为便当的。然而,看起别的记载来,却虽是那王道的祖师而且专家的周朝,当讨伐之初,也有伯夷和叔齐扣马而谏,非拖开不可;纣的军队也加反抗,非使他们的血流到漂杵不可。接着是殷民又造了反,虽然特别称之曰“顽民”,从王道天下的人民中除开,但总之,似乎究竟有了一种什么破绽似的。好个王道,只消一个顽民,便将它弄得毫无根据了。 儒士和方士,是中国特产的名物。方士的最高理想是仙道,儒士的便是王道。但可惜的是这两件在中国终于都没有。据长久的历史上的事实所证明,则倘说先前曾有真的王道者,是妄言,说现在还有者,是新药。孟子生于周季,所以以谈霸道为羞,倘使生于今日,则跟着人类的智识范围的展开,怕要羞谈王道的罢。 |
【二 中国の王道について】
一昨年、中里介山氏の大作『支那及び支那国民に贈る書』を拝読した。記憶するところでは、その中で周も漢もいずれも侵略者の資質を持ち、しかるに支那人はことごとくこれを讴歌し、歓迎した。北方の元と清に対してすら讴歌したという。ただその侵略に国家を安定させる力があり、民生を保護する実があれば、それこそ支那人民の渇望する王道であると。かくして支那人の執迷不悟に対し、非常に憤慨していた。 その「書」は満洲で出版された雑誌に訳載されたが、中国には輸入されなかったため、返信の類は今に至るまで一篇も見ていない。ただ去年の上海の新聞に載った胡適博士の談話の中に、「中国を征服するにはただ一つの方法がある。すなわち徹底的に侵略を停止し、翻って中国民族の心を征服することだ」とあった。無論それは偶然に過ぎぬが、あの書への返答のようにも感じられた。 中国民族の心を征服する──これは胡適博士が中国のいわゆる王道に下した定義だが、しかし私が思うに、彼自身おそらく自分の言葉を信じてはいまい。中国において、実は徹底して王道なるものは存在したことがなく、「歴史癖と考証癖を有する」胡博士がこれを知らぬはずはない。 なるほど、中国にも元と清を讴歌した者はいた。しかしそれは火神への感謝の類であり、心まで征服されたという証左ではない。もしある暗示を与え、讴歌しなければさらに虐待を加えると言えば、たとえある程度の虐待を加えても、なお人々に讴歌させることができる。四、五年前、私は自由を要求する団体に加盟したが、当時の上海教育局長陳徳征氏が勃然として怒り、三民主義の統治の下でなお不満なのか、それならば現在与えているわずかな自由も取り上げると言った。そして本当に取り上げたのだ。以前よりもさらに不自由を感ずるたびに、私は一方では陳氏の王道の学識に精通せることに感服し、他方では時としてやはり、三民主義を讴歌すべきだったと思わずにはいられない。しかし今はもう遅すぎる。 中国の王道は、見たところ覇道と対立するもののようだが、実は兄弟であり、その前と後には必ず覇道がやって来る。人民が讴歌するのは、覇道の軽減を、あるいはこれ以上の加重なきことを望むがゆえである。 漢の高祖は、歴史家によれば龍の血筋だが、実は無頼の出身であり、侵略者というのはいくらか当たらないであろう。周の武王に至っては、征伐の名をもって中国に入り、しかも殷とはおそらく民族さえ異なるから、現代の言葉で言えば侵略者である。しかし当時の民衆の声は、今はもう残っていない。孔子と孟子が確かに大いにかの王道を宣伝したが、先生方は周の臣民であるのみならず、歴国を周遊して活動したのだから、官職を得んがためであったかもしれぬ。聞こえの良い言い方をすれば「道を行わん」がためであり、もし官になれば道を行うに便利であり、官になるには周を称讃するに如くはなかったのだ。しかし別の記載を見れば、王道の祖師にしてかつ専門家たる周も、征伐の初めには伯夷と叔斉が馬を叩いて諫め、引き離さねばならず、紂の軍隊も抵抗し、その血をして杵を漂わしめずばやまなかった。続いて殷の民がまた反乱を起こし、特に「頑民」と称して王道天下の人民から除外したものの、結局のところやはり何らかの破綻があったようだ。よくぞ王道よ、ただ一人の頑民で根拠を失ってしまうとは。 儒士と方士は中国特産の名物である。方士の最高理想は仙道であり、儒士のそれは王道だ。しかし遺憾なことに、この二つは中国においてついぞ実在しなかった。長い歴史上の事実が証明するところに拠れば、かつて真の王道があったと言うのは妄言であり、今なおあると言うのは新薬だ。孟子は周の末に生まれたがゆえに覇道を語ることを恥としたが、もし今日に生まれたならば、人類の知識の範囲の拡大に伴い、王道を語ることを恥ずるであろう。 |
第8節
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【三 关于中国的监狱】
我想,人们是的确由事实而从新省悟,而事情又由此发生变化的。从宋朝到清朝的末年,许多年间,专以代圣贤立言的“制艺”这一种烦难的文章取士,到得和法国打了败仗,这才省悟了这方法的错误。于是派留学生到西洋,开设兵器制造局,作为那改正的手段。省悟到这还不够,是在和日本打了败仗之后,这回是竭力开起学校来。于是学生们年年大闹了。从清朝倒掉,国民党掌握政权的时候起,才又省悟了这错误,作为那改正的手段的,是除了大造监狱之外,什么也没有了。 在中国,国粹式的监狱,是早已各处都有的,到清末,就也造了一点西洋式,即所谓文明式的监狱。那是为了示给旅行到此的外国人而建造,应该与为了和外国人好互相应酬,特地派出去,学些文明人的礼节的留学生,属于同一种类的。托了这福,犯人的待遇也还好,给洗澡,也给一定分量的饭吃,所以倒是颇为幸福的地方。但是,就在两三礼拜前,政府因为要行仁政了,还发过一个不准克扣囚粮的命令。从此以后,可更加幸福了。 至于旧式的监狱,则因为好象是取法于佛教的地狱的,所以不但禁锢犯人,此外还有给他吃苦的职掌。挤取金钱,使犯人的家属穷到透顶的职掌,有时也会兼带的。但大家都以为应该。如果有谁反对罢,那就等于替犯人说话,便要受恶党的嫌疑。然而文明是出奇的进步了,所以去年也有了提倡每年该放犯人回家一趟,给以解决性欲的机会的,颇是人道主义气味之说的官吏。其实,他也并非对于犯人的性欲,特别表着同情,不过因为总不愁竟会实行的,所以也就高声嚷一下,以见自己的作为官吏的存在。然而舆论颇为沸腾了。有一位批评家,还以为这么一来,大家便要不怕牢监,高高兴兴的进去了,很为世道人心愤慨了一下。受了所谓圣贤之教那么久,竟还没有那位官吏的圆滑,固然也令人觉得诚实可靠,然而他的意见,是以为对于犯人,非加虐待不可,却也因此可见了。 从别一条路想,监狱确也并非没有不像以“安全第一”为标语的人们的理想乡的地方。火灾极少,偷儿不来,土匪也一定不来抢。即使打仗,也决没有以监狱为目标,施行轰炸的傻子;即使革命,有释放囚犯的例,而加以屠戮的是没有的。当福建独立之初,虽有说是释放犯人,而一到外面,和他们自己意见不同的人们倒反而失踪了的谣言,然而这样的例子,以前是未曾有过的。总而言之,似乎也并非很坏的处所。只要准带家眷,则即使不是现在似的大水、饥荒、战争、恐怖的时候,请求搬进去住的人们,也未必一定没有的。于是虐待就成为必不可少了。 牛兰夫妇,作为赤化宣传者而关在南京的监狱里,也绝食了三四回了,可是什么效力也没有。这是因为他不知道中国的监狱的精神的缘故。有一位官员诧异的说过:他自己不吃,和别人有什么关系呢?岂但和仁政并无关系而已呢,省些食料,倒是于监狱有益的。甘地的把戏,倘不挑选兴行场,就毫无成效了。 然而,在这样的近于完美的监狱里,却还剩着一种缺点。至今为止,对于思想上的事,都没有很留心。为要弥补这缺点,是在近来新发明的叫作“反省院”的特种监狱里,施着教育。我还没有到那里面去反省过,所以并不知道详情,但要而言之,好象是将三民主义时时讲给犯人听,使他反省着自己的错误。听人说,此外还得做排击共产主义的论文。如果不肯做,或者不能做,那自然,非终身反省不可了,而做得不够格,也还是非反省到死则不可。现在是进去的也有,出来的也有,因为听说还得添造反省院,可见还是进去的多了。考完放出的良民,偶尔也可以遇见,但仿佛大抵是萎靡不振,恐怕是在反省和毕业论文上,将力气使尽了罢。那前途,是在没有希望这一面的。 |
【三 中国の監獄について】
人々は確かに事実によって改めて覚醒し、事柄もまたそこから変化を生ずるものだと思う。宋朝から清朝末年までの多くの年月、もっぱら聖賢に代わって言を立てる「制芸」なるいかにも煩雑な文章をもって士を取ったが、フランスに敗れてようやくこの方法の誤りを覚った。そこで留学生を西洋に送り、兵器製造局を開設して、その改正の手段とした。これでもまだ足りぬと覚ったのは、日本に敗れた後のことで、今度は懸命に学校を開いた。するとこんどは学生が年々大騒ぎをした。清朝が倒れて国民党が政権を掌握してから、ようやくこの誤りを覚り、その改正の手段としたのは、監獄を大いに造ること以外には何もなかったのだ。 中国では、国粋式の監獄は早くからあらゆる所にあったが、清末にはいくらか西洋式、すなわちいわゆる文明式の監獄も造られた。これは旅行でやって来る外国人に見せるために建造されたもので、外国人とうまく交際するために特に派遣して文明人の礼節を学ばせた留学生と、同じ種類に属すべきものだ。この恩恵のおかげで、囚人の待遇もなかなか良く、入浴させてもらえ、一定量の食事も与えられるから、かなり幸福な場所であった。しかし、つい二、三週間前にも、政府は仁政を行うべくさらに一つの命令を出し、囚糧の横領を禁じた。今後はいっそう幸福になるだろう。 旧式の監獄に至っては、仏教の地獄をお手本にしたようなもので、囚人を禁錮するだけでなく、苦しめる職掌も兼ねていた。金銭を搾り取り、囚人の家族を窮乏の極みに追い込む職掌も、時に兼帯される。しかし誰もが当然と思っていた。もし反対する者がいれば、囚人の肩を持つことに等しく、悪党の嫌疑を受ける。しかし文明は驚くほど進歩したので、去年にはまた、毎年囚人を家に帰し、性欲解消の機会を与えるべしという、かなり人道主義の匂いのする説を唱える官吏も現れた。実は彼も囚人の性欲に特段の同情を寄せているわけではなく、どうせ実行されることはないとわかっているから、大声で一声叫んでおき、官吏としての自分の存在を示そうというだけだ。しかし世論はかなり沸騰した。ある批評家は、こうなれば皆が監獄を恐れなくなり、喜び勇んで入るだろうと、世道人心のために大いに憤慨した。いわゆる聖賢の教えをあれほど久しく受けながら、あの官吏ほどの円滑さも身につけていないのは、固より誠実で信頼に足るとも言えるが、しかし彼の見解は、囚人に対して虐待を加えざるべからずというものであったことも、これによってわかる。 別の道筋から考えれば、監獄も確かに「安全第一」を標語とする人々の理想郷と言えなくもない面がある。火災は極めて稀であり、泥棒は来ず、土匪もまず来て奪うことはあるまい。戦争が起きても、監獄を目標にして爆撃するような馬鹿はおらず、革命が起きても、囚人を釈放する例はあるが、虐殺する例はない。福建独立の際には、囚人を釈放したと言いつつ、外に出ると自分たちと意見の異なる者がかえって失踪したという噂もあったが、このような例は以前には無かった。つまるところ、さほど悪い場所でもないようだ。家族の同伴さえ許されれば、今のように大水、飢饉、戦争、恐怖の時代でなくとも、引っ越して住みたいと申し出る者が必ずしも一人もいないとは限るまい。かくして虐待は必要不可欠となるのだ。 牛蘭夫妻が赤化宣伝の罪で南京の監獄に繋がれ、既に三、四回ハンガーストライキをしたが、何の効果もない。これは彼が中国の監獄の精神を知らぬがゆえである。ある官吏が驚いてこう言った。彼が自分で食べないのと、他人に何の関係があるのか? 仁政と関係ないどころか、食料の節約になり、監獄にとってはむしろ有益だ。ガンジーの芝居も、興行の場所を選ばなければ、何の効果もないのだ。 しかし、このように完璧に近い監獄にも、なお一つの欠点が残されていた。今に至るまで、思想上の事には十分な注意が払われていなかったのだ。この欠点を補うため、近年新たに発明された「反省院」なる特殊監獄で、教育が施されている。私はまだそこに入って反省したことがないので詳しくは知らぬが、要するに三民主義を絶えず囚人に講じ聞かせ、自分の過ちを反省させるらしい。聞くところでは、さらに共産主義を排撃する論文を書かされるという。もし書くことを拒めば、あるいは書けなければ、むろん終身反省するしかなく、書いたものが及第点に達しなくとも、やはり死ぬまで反省するしかない。今は入る者も出る者もいるが、なお反省院を増設しなければならぬと聞けば、やはり入る者の方が多いのだ。試験に合格して放免された良民に偶々会うこともあるが、大抵萎靡不振の様子で、反省と卒業論文に力を使い果たしたのであろう。その前途は、希望なき方に属する。 |
第9節
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【答国际文学社问】
原问── 一、苏联的存在与成功,对于你怎样?(苏维埃建设的十月革命,对于你的思想的路径和创作的性质,有什么改变?) 二、你对于苏维埃文学的意见怎样? 三、在资本主义的各国,什么事件和种种文化上的进行,特别引起你的注意?
一、先前,旧社会的腐败,我是觉到了的,我希望着新的社会的起来,但不知道这“新的”该是什么,而且也不知道“新的”起来以后,是否一定就好。待到十月革命后,我才知道这“新的”社会的创造者是无产阶级,但因为资本主义各国的反宣传,对于十月革命还有些冷淡,并且怀疑。现在苏联的存在和成功,使我确切的相信无阶级社会一定要出现,不但完全扫除了怀疑,而且增加许多勇气了。但在创作上,则因为我不在革命的旋涡中心,而且久不能到各处去考察,所以我大约仍然只能暴露旧社会的坏处。 二、我只能看别国──德国、日本──的译本。我觉得现在的讲建设的,还是先前的讲战斗的──如《铁甲列车》、《毁灭》、《铁流》等──于我有兴趣,并且有益。我看苏维埃文学,是大半因为想绍介给中国,而对于中国,现在也还是战斗的作品更为紧要。 三、我在中国,看不见资本主义各国之所谓“文化”;我单知道他们和他们的奴才们,在中国正在用力学和化学的方法,还有电气机械,以拷问革命者,并且用飞机和炸弹以屠杀革命群众。 |
【国際文学社への回答】
原問── 一、ソ連の存在と成功は、あなたにとってどのようなものですか。(ソヴィエト建設の十月革命は、あなたの思想の道筋と創作の性質に、何か変化をもたらしましたか。) 二、ソヴィエト文学についてのご意見はいかがですか。 三、資本主義諸国において、何の事件やさまざまな文化上の進行が、とりわけあなたの注意を引きますか。
一、以前、旧社会の腐敗は私も感じていたし、新しい社会の出現を希望していたが、この「新しいもの」が何であるべきか知らず、しかも「新しいもの」が現れた後に必ず良くなるかどうかもわからなかった。十月革命の後になって初めて、この「新しい」社会の創造者が無産階級であることを知ったが、資本主義各国の反宣伝のために、十月革命に対してなおいくらか冷淡であり、しかも懐疑的であった。今やソ連の存在と成功は、無階級社会が必ず出現するとの私の確信を固め、懐疑を完全に払拭したのみならず、多くの勇気をも加えてくれた。ただし創作においては、私は革命の渦中にはおらず、しかも久しく各地を視察することもできぬゆえ、おそらくやはり旧社会の弊害を暴露することしかできぬであろう。 二、私は他国──ドイツ、日本──の訳本でしか読めない。現在の建設を語るものよりも、以前の戦闘を語るもの──たとえば『装甲列車』『壊滅』『鉄の流れ』等──の方が私には興味深く、かつ有益だと感じている。私がソヴィエト文学を読むのは、大半は中国に紹介するためであり、中国にとっては、現在もなお戦闘的な作品の方がより切要である。 三、私は中国にいて、資本主義各国のいわゆる「文化」なるものを見ることができない。ただ知っているのは、彼らとその奴僕たちが中国において力学と化学の方法、さらには電気機械を用いて革命者を拷問し、飛行機と爆弾をもって革命的民衆を虐殺していることだ。 |
第10節
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【“草鞋脚”英译中国短篇小说集 小引】
在中国,小说是向来不算文学的。在轻视的眼光下,自从十八世纪末的《红楼梦》以后,实在也没有产生什么较伟大的作品。小说家的侵入文坛,仅是开始“文学革命”运动,即一九一七年以来的事。自然,一方面是由于社会的要求的,一方面则是受了西洋文学的影响。 但这新的小说的生存,却总在不断的战斗中。最初,文学革命者的要求是人性的解放,他们以为只要扫荡了旧的成法,剩下来的便是原来的人,好的社会了,于是就遇到保守家们的迫压和陷害。大约十年之后,阶级意识觉醒了起来,前进的作家,就都成了革命文学者,而迫害也更加厉害,禁止出版,烧掉书籍,杀戮作家,有许多青年,竟至于在黑暗中,将生命殉了他的工作了。 这一本书,便是十五年来的,“文学革命”以后的短篇小说的选集。因为在我们还算是新的尝试,自然不免幼稚,但恐怕也可以看见它恰如压在大石下面的植物一般,虽然并不繁荣,它却在曲曲折折地生长。 至今为止,西洋人讲中国的著作,大约比中国人民讲自己的还要多。不过这些总不免只是西洋人的看法,中国有一句古谚,说:“肺腑而能语,医师面如土。”我想,假使肺腑真能说话,怕也未必一定完全可靠的罢,然而,也一定能有医师所诊察不到,出乎意外,而其实是十分真实的地方。 一九三四年三月二十三日,鲁迅记于上海。 |
【「草鞋脚」英訳中国短篇小説集 小引】
中国において、小説はもとから文学に数えられていなかった。軽蔑の目の下で、十八世紀末の『紅楼夢』以来、実にこれといった偉大な作品を産み出していない。小説家の文壇への侵入は、「文学革命」運動の開始、すなわち一九一七年以来のことに過ぎない。無論、一方では社会の要求によるものであり、他方では西洋文学の影響を受けたものだ。 しかしこの新しい小説の生存は、常に絶え間なき戦闘の中にあった。最初、文学革命者が求めたのは人間性の解放であり、古い成法を一掃しさえすれば、残るのは本来の人間であり、よき社会であると考え、かくして保守派の圧迫と陥害に遭った。約十年後、階級意識が覚醒し、前進的な作家はことごとく革命文学者となったが、迫害はさらに厳しくなり、出版禁止、書籍焚毀、作家殺戮──多くの青年が暗闇の中でその仕事に命を殉じたのだ。 この一冊は十五年来の、「文学革命」以後の短篇小説の選集である。我々にとってはまだ新しい試みであるがゆえ、自ずと幼稚を免れ得ないが、しかしおそらくそれが大石の下に圧し潰された植物のように、繁茂こそしないものの、曲がりくねりながらも成長しつつあることを見て取れよう。 今日に至るまで、西洋人が中国について書いた著作は、おそらく中国人自身が自分について語ったものよりも多い。しかしこれらは畢竟西洋人の見方に過ぎない。中国に古い諺がある。「肺腑にしてよく語らば、医師面土の如くならん。」思うに、仮に肺腑が本当に話せたとしても、必ずしも完全に信頼できるとは限るまいが、しかし医師が診察し得ぬ、意想外の、しかしながら十分に真実なところが必ずあろう。 一九三四年三月二十三日、魯迅、上海にて記す。 |
第11節
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【论“旧形式的采用”】
“旧形式的采用”的问题,如果平心静气的讨论起来,在现在,我想是很有意义的,但开首便遭到了耳耶先生的笔伐。“类乎投降”,“机会主义”,这是近十年来“新形式的探求”的结果,是克敌的咒文,至少先使你惹一身不干不净。但耳耶先生是正直的,因为他同时也在译《艺术底内容和形式》,一经登完,便会洗净他激烈的责罚;而且有几句话也正确的,是他说新形式的探求不能和旧形式的采用机械的地分开。 不过这几句话已经可以说是常识;就是说内容和形式不能机械的地分开,也已经是常识;还有,知道作品和大众不能机械的地分开,也当然是常识。旧形式为什么只是“采用”──但耳耶先生却指为“为整个(!)旧艺术捧场”──就是为了新形式的探求。采取若干,和“整个”捧来是不同的,前进的艺术家不能有这思想(内容)。然而他会想到采取旧艺术,因为他明白了作品和大众不能机械的地分开。以为艺术是艺术家的“灵感”的爆发,像鼻子发痒的人,只要打出喷嚏来就浑身舒服,一了百了的时候已经过去了,现在想到,而且关心了大众。这是一个新思想(内容),由此而在探求新形式,首先提出的是旧形式的采取,这采取的主张,正是新形式的发端,也就是旧形式的蜕变,在我看来,是既没有将内容和形式机械的地分开,更没有看得《姊妹花》叫座,于是也来学一套的投机主义的罪案的。 自然,旧形式的采取,或者必须说新形式的探求,都必须艺术学徒的努力的实践,但理论家或批评家是同有指导,评论,商量的责任的,不能只斥他交代未清之后,便可逍遥事外。我们有艺术史,而且生在中国,即必须翻开中国的艺术史来。采取什么呢?我想,唐以前的真迹,我们无从目睹了,但还能知道大抵以故事为题材,这是可以取法的;在唐,可取佛画的灿烂,线画的空实和明快,宋的院画,萎靡柔媚之处当舍,周密不苟之处是可取的,米点山水,则毫无用处。后来的写意画(文人画)有无用处,我此刻不敢确说,恐怕也许还有可用之点的罢。这些采取,并非断片的古董的杂陈,必须溶化于新作品中,那是不必赘说的事,恰如吃用牛羊,弃去蹄毛,留其精粹,以滋养及发达新的生体,决不因此就会“类乎”牛羊的。 只是上文所举的,亦即我们现在所能看见的,都是消费的艺术。它一向独得有力者的宠爱,所以还有许多存留。但既有消费者,必有生产者,所以一面有消费者的艺术,一面也有生产者的艺术。古代的东西,因为无人保护,除小说的插画以外,我们几乎什么也看不见了。至于现在,却还有市上新年的花纸,和猛克先生所指出的连环图画。这些虽未必是真正的生产者的艺术,但和高等有闲者的艺术对立,是无疑的。但虽然如此,它还是大受着消费者艺术的影响,例如在文学上,则民歌大抵脱不开七言的范围,在图画上,则题材多是士大夫的部事,然而已经加以提炼,成为明快,简捷的东西了。这也就是蜕变,一向则谓之“俗”。注意于大众的艺术家,来注意于这些东西,大约也未必错,至于仍要加以提炼,那也是无须赘说的。 但中国的两者的艺术,也有形似而实不同的地方,例如佛画的满幅云烟,是豪华的装璜,花纸也有一种硬填到几乎不见白纸的,却是惜纸的节俭;唐伯虎画的细腰纤手的美人,是他一类人们的欲得之物,花纸上也有这一种,在赏玩者却只以为世间有这一类人物,聊资博识,或满足好奇心而已。为大众的画家,都无须避忌。 至于谓连环图画不过图画的种类之一,与文学中之有诗歌,戏曲,小说相同,那自然是不错的。但这种类之别,也仍然与社会条件相关联,则我们只要看有时盛行诗歌,有时大出小说,有时独多短篇的史实便可以知道。因此,也可以知道即与内容相关联。现在社会上的流行连环图画,即因为它有流行的可能,且有流行的必要,着眼于此,因而加以导引,正是前进的艺术家的正确的任务;为了大众,力求易懂,也正是前进的艺术家正确的努力。旧形式是采取,必有所删除,既有删除,必有所增益,这结果是新形式的出现,也就是变革。而且,这工作是决不如旁观者所想的容易的。 但就是立有了新形式罢,当然不会就是很高的艺术。艺术的前进,还要别的文化工作的协助,某一文化部门,要某一专家唱独脚戏来提得特别高,是不妨空谈,却难做到的事,所以专责个人,那立论的偏颇和偏重环境的是一样的。
(五月二日。) |
【「旧形式の採用」を論ず】
「旧形式の採用」の問題は、もし平心静気に討論するならば、現在において甚だ意義があると思うが、冒頭から耳耶先生の筆伐に遭った。「投降に類す」「機会主義」──これは近十年来の「新形式の探求」の結果であり、敵を克する呪文であって、少なくともまず一身に不潔を被らせる。しかし耳耶先生は正直であり、なぜなら彼は同時に『芸術の内容と形式』を翻訳しており、ひとたび連載が終われば自らの激烈な責罰を洗い流すことになろう。しかも幾句かの話は正確であり、新形式の探求と旧形式の採用は機械的に分けられぬと言っていることだ。 しかしこの数句は既に常識と言える。内容と形式が機械的に分けられぬというのも既に常識であり、作品と大衆が機械的に分けられぬと知ることもまた当然常識だ。旧形式をなぜただ「採用」するに過ぎないか──しかし耳耶先生はこれを「旧芸術丸ごと(!)の賛美」と指す──それは新形式の探求のためだ。若干を採り取ることと「丸ごと」持ってくることは異なり、前進的な芸術家にこのような思想(内容)はあり得ない。しかし彼が旧芸術を採り取ることを思いつくのは、作品と大衆が機械的に分けられぬと理解したからだ。芸術は芸術家の「霊感」の爆発であり、鼻がむずむずする者が一つ嚔をすれば全身さっぱりし、それですべて片付くという時代は既に過ぎた。今は大衆のことを思い、しかも関心を持つに至った。これは一つの新思想(内容)であり、ここから新形式を探求し、まず提出されたのが旧形式の採取であり、この採取の主張はまさに新形式の端緒にして、旧形式の脱皮でもある。私の見るところ、内容と形式を機械的に分けたのでもなければ、『姉妹花』の客入りを見て自分も一手真似ようという投機主義の罪案でもない。 無論、旧形式の採取、あるいは新形式の探求と言うべきか、いずれにせよ芸術学徒の努力と実践が必要だが、理論家や批評家にも指導、評論、商量の責任が等しくあり、「まだ説明が足りぬ」と叱りつけただけで逍遥事外というわけにはいかない。我々には芸術史があり、しかも中国に生まれたからには、中国の芸術史を繙かねばならぬ。何を採取するか。思うに、唐以前の真蹟は目にする由もないが、大抵故事を題材としたことはなお知り得る。これは取法し得る。唐においては仏画の燦爛たること、線画の空実と明快さを取るべく、宋の院画は萎靡柔媚の処は捨て、周密不苟の処は取るべきだ。米点山水は全く無用。後の写意画(文人画)に用処があるか否かは今にわかに断言し難いが、おそらくなお可用の点があるかもしれぬ。これらの採取は断片的な古董の陳列ではなく、必ず新作品の中に溶化させねばならぬことは贅言を要せぬ。ちょうど牛羊を食して蹄と毛を棄て、精髄を留めて新しい生体を滋養し発達させるのであり、これをもって牛羊「に類する」ことには決してなるまい。 ただし以上に挙げたもの、すなわち我々が今見ることのできるものは、すべて消費の芸術だ。それは一貫して有力者の寵愛を独占してきたがゆえに、なお多くが存留している。しかし消費者があれば必ず生産者があり、ゆえに一方に消費者の芸術があれば他方に生産者の芸術がある。古代のものは保護する者がなかったため、小説の挿画以外、我々はほとんど何も見ることができない。現在においてはなお市中の正月の花紙があり、また猛克先生の指摘した連環図画がある。これらは必ずしも真の生産者の芸術とは言えぬが、上等有閑者の芸術と対立するものであることは疑いない。とはいえこれもまた大いに消費者の芸術の影響を受けており、たとえば文学において民歌が大抵七言の範囲を脱し得ず、図画において題材の多くが士大夫の物語であるのがそれだ。しかし既に精錬を加え、明快簡潔なものとなっている。これもまた脱皮であり、従来これを「俗」と謂う。大衆に注目する芸術家がこれらに注目するのもおそらく誤りではあるまい。なおも精錬を加えるべきことは贅言を要せぬ。 しかし中国の両者の芸術にも、形は似て実は異なるところがある。たとえば仏画の画面いっぱいの雲煙は豪華な装飾だが、花紙にも白紙がほとんど見えぬほど硬く詰め込んだ種類があり、これは紙を惜しむ節約だ。唐伯虎の描く細腰繊手の美人は、彼の同類の人々の欲するところだが、花紙にもこの種のものがあり、鑑賞者にとってはただ世間にこのような人物がいると知って博識を資し、あるいは好奇心を満たすに過ぎない。大衆のための画家はいずれも避忌するに及ばない。 連環図画は図画の種類の一つに過ぎず、文学における詩歌、戯曲、小説と同様であるというのは、無論正しい。しかしこの種類の別もまた社会条件と関連しており、時に詩歌が盛行し、時に小説が多出し、時に短篇のみが多い史実を見ればわかる。ここから、すなわち内容とも関連していることがわかる。現在社会に連環図画が流行しているのは、それに流行の可能性があり、かつ流行の必要性があるからであり、ここに着眼して導引するのはまさに前進的な芸術家の正しい任務であり、大衆のために努めてわかりやすくするのもまさに前進的な芸術家の正しい努力だ。旧形式は採取であり、必ず削除するところがあり、削除があれば必ず増益があり、その結果は新形式の出現であり、すなわち変革だ。しかもこの仕事は決して傍観者が想像するほど容易ではない。 しかし仮に新形式が確立されたとしても、もちろんそれだけで甚だ高い芸術とはなるまい。芸術の前進にはなお他の文化事業の協助が必要であり、ある文化部門を一人の専門家に独り芝居で特別に高めさせようとするのは、空論としては構わぬが実行は難しい。ゆえに個人のみを責めるのは、偏重環境と同様に論の偏頗なるものだ。
(五月二日。) |
第12節
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【连环图画琐谈】
“连环图画”的拥护者,看现在的议论,是“启蒙”之意居多的。 古人“左图右史”,现在只剩下一句话,看不见真相了,宋元小说,有的是每页上图下说,却至今还有存留,就是所谓“出相”;明、清以来,有卷头只画书中人物的,称为“绣像”。有画每回故事的,称为“全图”。那目的,大概是在诱引未读者的购读,增加阅读者的兴趣和理解。 但民间另有一种《智灯难字》或《日用杂字》,是一字一像,两相对照,虽可看图,主意却在帮助识字的东西,略加变通,便是现在的《看图识字》。文字较多的是《圣谕像解》,《二十四孝图》等,都是借图画以启蒙,又因中国文字太难,只得用图画来济文字之穷的产物。 “连环图画”便是取“出相”的格式,收《智灯难字》的功效的,倘要启蒙,实在也是一种利器。 但要启蒙,即必须能懂。懂的标准,当然不能俯就低能儿或白痴,但应该着眼于一般的大众,譬如罢,中国画是一向没有阴影的,我所遇见的农民,十之九不赞成西洋画及照相,他们说:人脸那有两边颜色不同的呢?西洋人的看画,是观者作为站在一定之处的,但中国的观者,却向不站在定点上,所以他说的话也是真实。那么,作“连环图画”而没有阴影,我以为是可以的;人物旁边写上名字,也可以的,甚至于表示做梦从人头上放出一道毫光来,也无所不可。观者懂得了内容之后,他就会自己删去帮助理解的记号。这也不能谓之失真,因为观者既经会得了内容,便是有了艺术上的真,倘必如实物之真,则人物只有二三寸,就不真了,而没有和地球一样大小的纸张,地球便无法绘画。 艾思奇先生说:“若能够触到大众真正的切身问题,那恐怕愈是新的,才愈能流行。”这话也并不错。不过要商量的是怎样才能够触到,触到之法,“懂”是最要紧的,而且能懂的图画,也可以仍然是艺术。
(五月九日。) |
【連環図画瑣談】
「連環図画」の擁護者は、今の議論を見ると、「啓蒙」の意が多いようだ。 古人の「左図右史」は今やただ一句の言葉だけが残り、実態を見ることはできぬが、宋元の小説には上に図、下に説の形式を持つものがあり、今日なお残存している。これがいわゆる「出相」だ。明清以来、巻頭に書中の人物のみを描くものがあり、「繡像」と称する。各回の物語を描くものがあり、「全図」と称する。その目的はおそらく、未読者を購読に誘い、既読者の興味と理解を増すためだ。 しかし民間にはまた別に『智燈難字』あるいは『日用雑字』があり、一字一像で両々対照し、図も見られるが、主意は識字を助けるものであり、いくらか変通を加えれば現在の『図を見て字を識る』になる。文字の較多いのは『聖諭像解』『二十四孝図』等で、いずれも図画を借りて啓蒙するものであり、また中国の文字があまりに難しいために図画をもって文字の窮を救う産物だ。 「連環図画」とは「出相」の格式を取り、『智燈難字』の功効を収めるもので、もし啓蒙せんとするなら、実にまた一種の利器である。 しかし啓蒙せんとするならば、理解できなければならぬ。理解の基準は、むろん低能児や白痴に合わせる必要はないが、一般の大衆に着眼すべきだ。たとえば、中国画にはもとから陰影がないが、私が出会った農民の十に九人までが西洋画や写真を良しとしなかった。彼らは言う、人の顔の両側が色が違うなんてことがあるか、と。西洋人の絵の見方は、観者が一定の位置に立つことを前提としているが、中国の観者は一定の位置に立たぬのが常であるから、彼の言うことも真実なのだ。ならば、「連環図画」を描いて陰影がなくとも構わぬと私は思う。人物の傍らに名前を書くのもよい。夢を見ることを表すのに人の頭上から一条の光芒を出すのすら、不可はない。観者が内容を理解すれば、理解を助ける記号は自ら削除するであろう。これを真実でないとは言えぬ。観者が既に内容を会得すれば、芸術上の真はあるのであり、もし実物の通りでなければならぬとすれば、人物はわずか二、三寸では真実でなくなるし、地球と同じ大きさの紙がなければ地球は描けぬことになる。 艾思奇先生は言う、「もし大衆の真の切身の問題に触れることができれば、おそらくより新しいものであればあるほど、より流行するであろう。」これもまた誤りではない。ただし相談すべきは、いかにすれば触れることができるかであり、触れる方法として「わかる」ことが最も肝要であり、しかもわかる図画はなおも芸術たり得るのだ。
(五月九日。) |
第13節
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【儒术】
元遗山在金、元之际,为文宗,为遗献,为愿修野史,保存旧章的有心人,明清以来颇为一部分人士所爱重。然而他生平有一宗疑案,就是为叛将崔立颂德者,是否确实与他无涉,或竟是出于他的手笔的文章。 金天兴元年(一二三二),蒙古兵围洛阳;次年,安平都尉京城西面元帅崔立杀二丞相,自立为郑王,降于元。惧或加以恶名,群小承旨,议立碑颂功德,于是在文臣间,遂发生了极大的惶恐,因为这与一生的名节相关,在个人是十分重要的。 当时的情状,《金史》《王若虚传》这样说──
“天兴元年,哀宗走归德。明年春,崔立变,群小附和,请为立建功德碑。翟奕以尚书省命,召若虚为文。时奕辈恃势作威,人或少忤,则谗搆立见屠灭。若虚自分必死,私谓左右司员外郎元好问曰,‘今召我作碑,不从则死,作之则名节扫地,不若死之为愈。虽然,我姑以理谕之。’……奕辈不能夺,乃召太学生刘祁麻革辈赴省,好问张信之喻以立碑事曰,‘众议属二君,且已白郑王矣!二君其无让。’祁等固辞而别。数日,促迫不已,祁即为草定,以付好问。好问意未惬,乃自为之,既成,以示若虚,乃共删定数字,然止直叙其事而已。后兵入城,不果立也。”
碑虽然“不果立”,但当时却已经发生了“名节”的问题,或谓元好问作,或谓刘祁作,文证具在清凌廷堪所辑的《元遗山先生年谱》中,兹不多录。经其推勘,已知前出的《王若虚传》文,上半据元好问《内翰王公墓表》,后半却全取刘祁自作的《归潜志》,被诬攀之说所蒙蔽了。凌氏辩之云,“夫当时立碑撰文,不过畏崔立之祸,非必取文辞之工,有京叔属草,已足塞立之请,何取更为之耶?”然则刘祁之未尝决死如王若虚,固为一生大玷,但不能更有所推诿,以致成为“塞责”之具,却也可以说是十分晦气的。 然而,元遗山生平还有一宗大事,见于《元史》《张德辉》传──
“世祖在潜邸,……访中国人材。德辉举魏璠、元裕、李冶等二十余人。……壬子,德辉与元裕北觐,请世祖为儒教大宗师,世祖悦而受之。因启:累朝有旨蠲儒户兵赋,乞令有司遵行。从之。”
以拓跋魏的后人与德辉,请蒙古小酋长为“汉儿”的“儒教大宗师”,在现在看来,未免有些滑稽,但当时却似乎并无訾议。盖蠲除兵赋,“儒户”均沾利益,清议操之于士,利益既沾,虽已将“儒教”呈献,也不想再来开口了。 由此士大夫便渐渐的进身,然终因不切实用,又渐渐的见弃。但仕路日塞,而南北之士的相争却也日甚了。余阙的《青阳先生文集》卷四《杨君显民诗集序》云──
“我国初有金宋,天下之人,惟才是用之,无所专主,然用儒者为居多也。自至元以下,始浸用吏,虽执政大臣,亦以吏为之,……而中州之士,见用者遂浸寡。况南方之地远,士多不能自至于京师,其抱才缊者,又往往不屑为吏,故其见用者尤寡也。及其久也,则南北之士亦自町畦以相訾,甚若晋之与秦,不可与同中国,故夫南方之士微矣。”
然在南方,士人其实亦并不冷落。同书《送范立中赴襄阳诗序》云——
“宋高宗南迁,合淝遂为边地,守臣多以武臣为之。……故民之豪杰者,皆去而为将校,累功多至节制。郡中衣冠之族,惟范氏,商氏,葛氏三家而已。……皇元受命,包裹兵革,……诸武臣之子弟,无所用其能,多伏匿而不出。春秋月朔,郡太守有事于学,衣深衣,戴乌角巾,执笾豆罍爵,唱赞道引者,皆三家之子孙也,故其材皆有所成就,至学校官,累累有焉。……虽天道忌满恶盈,而儒者之泽深且远,从古然也。”
这是“中国人才”们献教,卖经以来,“儒户”所食的佳果。虽不能为王者师,且次于吏者数等,而究亦胜于将门和平民者一等,“唱赞道引”,非“伏匿”者所敢望了。 中华民国二十三年五月二十日及次日,上海无线电播音由冯明权先生讲给我们一种奇书:《抱经堂勉学家训》(据《大美晚报》)。这是从未前闻的书,但看见下署“颜子推”,便可以悟出是颜之推《家训》中的《勉学篇》了。曰“抱经堂”者,当是因为曾被卢文弨印入《抱经堂丛书》中的缘故。所讲有这样的一段──
“有学艺者,触地而安。自荒乱已来,诸见俘虏,虽百世小人,知读《论语》、《孝经》者,尚为人师;虽千载冠冕,不晓书记者,莫不耕田养马。以此观之,汝可不自勉耶?若能常保数百卷书,千载终不为小人也。……谚曰,‘积财千万,不如薄伎在身。’伎之易习而可贵者,无过读书也。”
这说得很透彻:易习之伎,莫如读书,但知读《论语》、《孝经》,则虽被俘虏,犹能为人师,居一切别的俘虏之上。这种教训,是从当时的事实推断出来的,但施之于金元而准,按之于明清之际而亦准。现在忽由播音,以“训”听众,莫非选讲者已大有感于方来,遂绸缪于未雨么? “儒者之泽深且远”,即小见大,我们由此可以明白“儒术”,知道“儒效”了。
(五月二十七日。) |
【儒術】
元遺山は金、元の際にあって、文宗たり、遺献たり、野史を修め旧章を保存せんとする有心の人であり、明清以来かなりの人士に愛重されてきた。しかし彼の生涯には一つの疑案がある。すなわち叛将崔立のために功徳を頌えた者が、果たして彼と無関係であるか、あるいは彼の手筆に出る文章であるかということだ。 金の天興元年(一二三二年)、蒙古兵が洛陽を包囲し、翌年、安平都尉にして京城西面元帥の崔立が二丞相を殺し、自ら鄭王と立って元に降った。悪名を加えられることを恐れ、群小が意を承けて、碑を立てて功徳を頌えることを議した。かくして文臣の間に甚大な恐慌が生じた。これは一生の名節に関わり、個人にとっては十分に重大な事だったからだ。 当時の情況を、『金史』の「王若虚伝」はこう記している──
「天興元年、哀宗帰徳に走る。翌年の春、崔立変を起こし、群小これに附和して、立のために功徳碑を建てんことを請う。翟奕、尚書省の命をもって若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩、勢を恃みて威を作し、人もし少しく忤えば、讒構して立ちどころに屠滅せらる。若虚、自ら必ず死すと分かち、私に左右司員外郎元好問に謂いて曰く、『今、我を召して碑を作らしむ。従わざれば死す、之を作れば名節地を掃う。死するに若かず。然りと雖も、我、姑く理を以て之を諭さん。』……奕の輩奪う能わず、乃ち太学生劉祁、麻革の輩を召して省に赴かしむ。好問、張信之、碑を立つるの事を以て之に喻して曰く、『衆議二君に属す。且つ已に鄭王に白したり。二君其れ辞すること勿かれ。』と。祁等固辞して別る。数日、促迫已まず、祁即ち草定して好問に付す。好問意惬わず、乃ち自ら之を為す。成るに及び、以て若虚に示す。乃ち共に数字を削定す。然れども止だ直にその事を叙するのみ。後に兵城に入り、果たさず。」
碑は「果たさず」ではあったが、当時既に「名節」の問題が発生しており、あるいは元好問の作と言い、あるいは劉祁の作と言う。文証は清の凌廷堪が輯めた『元遺山先生年譜』中に具わっており、ここには多くは録さぬ。その推勘を経て、先に出した「王若虚伝」の文は、前半は元好問の『内翰王公墓表』に拠り、後半は劉祁自作の『帰潜志』を全く採っており、誣攀の説に蒙蔽されたことが判明している。凌氏はこれを弁じて曰く、「それ当時碑を立て文を撰するは、崔立の禍を畏るるに過ぎず、必ずしも文辞の工を取るにあらず。京叔の草を属するあらば、已に立の請を塞ぐに足る。何ぞ更に之を為す所を取らんや。」されば劉祁が王若虚の如く決死せざりしは、固より一生の大玷なれど、さらに他に推し委ねて「塞責」の具と成らしむるを能わざりしは、十分に不運であったとも言えよう。 しかし元遺山の生涯にはなお一つの大事がある。『元史』の「張徳輝伝」に見える──
「世祖潜邸にありし時、……中国の人材を訪ぬ。徳輝、魏璠、元裕、李冶等二十余人を挙ぐ。……壬子、徳輝元裕と北に覲え、世祖に儒教大宗師たらんことを請う。世祖悦びて之を受く。因りて啓す、累朝の旨にて儒戸の兵賦を蠲免すとあり、乞うらくは有司をして遵行せしめよ、と。之に従う。」
拓跋魏の後裔と徳輝とが、蒙古の小酋長に「漢児」の「儒教大宗師」たることを請うたのは、今から見れば些か滑稽であるが、当時は格別の非難もなかったようだ。蓋し兵賦の蠲免により「儒戸」は等しく利益を受け、清議は士の手中にあったものの、利益を受けてしまえば、既に「儒教」を献上したことについてもはや口を開く気にはなれなかったのだ。 これにより士大夫は漸次出世するようになったが、畢竟実用に適わぬため、また漸次見棄てられた。しかし仕途は日に塞がり、南北の士の相争うことはまた日に甚だしくなった。余闕の『青陽先生文集』巻四「楊君顕民詩集序」に曰く──
「我が国初め金宋を有するや、天下の人は才あるを用うるのみにして、専ら主する所なく、然れども儒者を用うる者居多なり。至元以下より始めて浸く吏を用い、執政大臣と雖も亦た吏を以て之を為す。……而して中州の士、見て用いらるる者遂に浸く寡し。況んや南方の地遠く、士多くは自ら京師に至る能わず、其の才を抱く蘊する者、又往々にして吏と為るを屑しとせず。故に其の見て用いらるる者尤も寡なり。其の久しきに及ぶや、南北の士亦た自ら町畦して以て相い訾り、甚だしきは晋の秦に於けるが若く、与に中国に同ずべからず。故に南方の士微なり。」
しかし南方において、士人は実は冷遇されていたわけでもなかった。同書「范立中を襄陽に赴くに送るの詩序」に曰く──
「宋の高宗南遷し、合肥遂に辺地と為る。守臣多く武臣を以て之に当つ。……故に民の豪傑なる者、皆去りて将校と為り、功を累ねて多く節制に至る。郡中衣冠の族は、惟だ范氏、商氏、葛氏三家のみ。……皇元命を受け、兵革を包裹し、……諸武臣の子弟、其の能を用うる所なく、多く伏匿して出でず。春秋月朔、郡太守、学に事有らば、深衣を衣、烏角巾を戴き、笾豆罍爵を執り、唱賛道引する者は、皆三家の子孫なり。故に其の材皆成就する所あり、学校の官に至る者累々として有り。……天道は満を忌み盈を悪むと雖も、儒者の沢は深く且つ遠く、古より然り。」
これが「中国の人材」たちが教を献じ、経を売ってこのかた、「儒戸」の食した佳果である。王者の師と為り得ずとも、しかも吏よりも数等下にありながら、やはり将門や平民よりは一等勝っており、「唱賛道引」は「伏匿」する者の望み得るところではなかったのだ。 中華民国二十三年五月二十日及び翌日、上海の無線放送にて馮明権先生が我々に一つの奇書を講じてくれた。『抱経堂勉学家訓』(『大美晩報』に拠る)。これは未だ嘗て耳にしたことのない書だが、下の署名に「顔子推」とあるのを見れば、顔之推の『家訓』中の「勉学篇」であることが悟られよう。「抱経堂」と曰うのは、かつて盧文弨の『抱経堂叢書』中に印入されたことに因るものであろう。その講義にこのような一節がある──
「学芸ある者は、地に触れて安んず。荒乱より以来、諸々俘虜と為るを見るに、百世の小人と雖も、『論語』『孝経』を読むを知る者は、尚お人の師と為り得、千載の冠冕と雖も、書記を暁らざる者は、田を耕し馬を養わざるはなし。此を以て之を観れば、汝自ら勉めざるべけんや。若し能く常に数百巻の書を保たば、千載終に小人と為らざるなり。……諺に曰く、『財を積むこと千万、薄伎の身に在るに如かず。』と。伎の習い易くして貴ぶべき者は、読書に過ぐるはなし。」
これは実に透徹している。習い易き伎は読書に如くはなく、ただ『論語』『孝経』を読むことを知るだけでも、たとえ俘虜となろうとなお人の師たり得、他のすべての俘虜の上に居るのだ。この種の教訓は当時の事実から推断されたものだが、金元に施して準じ、明清の際に按じてもまた準ずる。今にわかに放送をもって聴衆を「訓」ずるに至ったのは、あるいは選講者が既に来たるべきものに大いに感ずるところあり、未雨に綢繆するのであろうか。 「儒者の沢は深く且つ遠し」──小を即きて大を見れば、我々はここから「儒術」を明らかにし、「儒効」を知ることができるのだ。
(五月二十七日。) |
第14節
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【“看图识字”】
凡一个人,即使到了中年以至暮年,倘一和孩子接近,便会踏进久经忘却了的孩子世界的边疆去,想到月亮怎么会跟着人走,星星究竟是怎么嵌在天空中。但孩子在他的世界里,是好象鱼之在水,游泳自如,忘其所以的,成人却有如人的凫水一样,虽然也觉到水的柔滑和清凉,不过总不免吃力,为难,非上陆不可了。 月亮和星星的情形,一时怎么讲得清楚呢,家境还不算精穷,当然还不如给一点所谓教育,首先是识字。上海有各国的人们,有各国的书铺,也有各国的儿童用书。但我们是中国人,要看中国书,识中国字。这样的书也有,虽然纸张、图画、色彩、印订,都远不及别国,但有是也有的。我到市上去,给孩子买来的是民国二十一年十一月印行的“国难后第六版”的《看图识字》。 先是那色彩就多么恶浊,但这且也不管他。图画又多么死板,这且也不管他。出版处虽然是上海,然而奇怪,图上有蜡烛,有洋灯,却没有电灯;有朝靴,有三镶云头鞋,却没有皮鞋。跪着放枪的,一脚拖地;站着射箭的,两臂不平,他们将永远不能达到目的,更坏的是连钓竿、风车、布机之类,也和实物有些不同。 我轻轻的叹了一口气,记起幼小时候看过的《日用杂字》来。这是一本教育妇女婢仆,使她们能够记帐的书,虽然名物的种类并不多,图画也很粗劣,然而很活泼,也很像。为什么呢?就因为作画的人,是熟悉他所画的东西的,一个“萝卜”,一只鸡,在他的记忆里并不含胡,画起来当然就切实。现在我们只要看《看图识字》里所画的生活状态──洗脸,吃饭,读书──就知道这是作者意中的读者,也是作者自己的生活状态,是在租界上租一层屋,装了全家,既不阔绰,也非精穷的,埋头苦干一日,才得维持生活一日的人,孩子得上学校,自己须穿长衫,用尽心神,撑住场面,又那有余力去买参考书,观察事物,修炼本领呢?况且,那书的末叶上还有一行道:“戊申年七月初版”。查年表,才知道那就是清朝光绪三十四年,即西历一九○八年,虽是前年新印,书却成于二十七年前,已是一部古籍了,其奄奄无生气,正也不足为奇的。 孩子是可以敬服的,他常常想到星月以上的境界,想到地面下的情形,想到花卉的用处,想到昆虫的言语;他想飞上天空,他想潜入蚁穴……所以给儿童看的图书就必须十分慎重,做起来也十分烦难。即如《看图识字》这两本小书,就天文、地理、人事、物情,无所不有。其实是,倘不是对于上至宇宙之大,下至苍蝇之微,都有些切实的知识的画家,决难胜任的。 然而我们是忘却了自己曾为孩子时候的情形了,将他们看作一个蠢才,什么都不放在眼里。即使因为时势所趋,只得施一点所谓教育,也以为只要付给蠢才去教就足够。于是他们长大起来,就真的成了蠢才,和我们一样了。 然而我们这些蠢才,却还在变本加厉的愚弄孩子。只要看近两三年的出版界,给“小学生”、“小朋友”看的刊物,特别的多就知道。中国突然出了这许多“儿童文学家”了么?我想:是并不然的。
(五月三十日。) |
【「絵を見て字を覚える」】
およそ人は、たとえ中年になり、あるいは晩年に至ろうとも、ひとたび子供に近づけば、久しく忘れ去っていた子供の世界の辺境に踏み入り、月はなぜ人についてくるのか、星はいったいどうやって空に嵌め込まれているのかと思い至る。しかし子供は自分の世界の中で、あたかも水中の魚のように自在に泳ぎ、そのことを忘れているのに対し、大人はまるで人が水を掻くように、水の柔らかさや冷たさは感じるものの、やはり骨が折れ、難儀し、陸に上がらねばならぬのだ。 月と星のことは、すぐには説明しきれない。家が極貧というほどでもなければ、当然まずは所謂教育を施し、文字を覚えさせるべきだろう。上海には各国の人々がおり、各国の書店があり、各国の児童書もある。しかし我々は中国人であるから、中国の本を見、中国の字を覚えなければならない。そうした本もある。紙質も、挿絵も、色彩も、印刷製本も他国に遠く及ばないが、あるにはあるのだ。私は街へ出て、子供のために民国二十一年十一月刊行の「国難後第六版」なる『看図識字』を買ってきた。 まず色彩がなんと濁っていることか、だがこれもさておく。絵がなんと死板であることか、これもさておく。出版地は上海なのに、奇妙なことに、絵にはろうそくがあり、ランプがあるのに電灯がない。朝靴があり、三縁雲頭靴があるのに革靴がない。跪いて銃を撃つ者は片足を地に引きずり、立って弓を射る者は両腕が平らでなく、彼らは永遠に的を射ることができまい。さらに悪いことに、釣竿や風車や機織り機の類まで実物と少々異なっている。 私はそっと溜め息をつき、幼い頃に見た『日用雑字』を思い出した。これは婦女や下女に帳簿をつけさせるための教育書で、物の種類は多くなく、絵も粗末ではあったが、とても生き生きとしていて、よく似ていた。なぜか。作画した人が描く対象をよく知っていたからだ。一本の「大根」、一羽の鶏が、記憶の中で曖昧でなければ、描けば当然的確になる。今の『看図識字』に描かれた生活の様子――顔を洗い、飯を食い、読書する――を見れば、これが作者の念頭にある読者であり、作者自身の生活状態でもあることがわかる。租界の一階を借りて一家で住み、裕福でもなく極貧でもなく、一日頭を低くして懸命に働いてようやく一日の暮らしを維持する人々である。子供は学校に通わねばならず、自分は長衫を着、心身を尽くして体面を保つのに、参考書を買い、事物を観察し、腕を磨く余力などどこにあろうか。しかも、その本の最終頁には一行「戊申年七月初版」とある。年表を調べてみると、清朝光緒三十四年、即ち西暦一九〇八年のこと。一昨年新しく刷ったとはいえ、書物は二十七年前に成ったもので、既に一冊の古典であり、その生気のなさは怪しむに足りぬのだ。 子供は敬服に値する。彼はしばしば星月の彼方の境地を思い、地面の下の有様を思い、花卉の用途を思い、昆虫の言葉を思う。空へ飛び立ちたいと思い、蟻の巣に潜り込みたいと思う……。だから児童に見せる図書は十分に慎重でなければならず、作るのも十分に困難である。『看図識字』のようなささやかな本ですら、天文・地理・人事・物情を網羅している。実のところ、上は宇宙の大から下は蒼蠅の微に至るまで、いささかなりとも確かな知識を持つ画家でなければ、到底その任に堪えぬのだ。 しかし我々は、自分がかつて子供であった時の有様を忘れ去り、彼らを愚か者扱いして何も眼中に置かない。たとえ時勢に押されてやむなくいくらかの所謂教育を施すにしても、愚か者に任せておけば十分だと考える。かくして彼らは成長し、本当に愚か者となり、我々と同じになるのだ。 しかし我々愚か者どもは、さらに輪をかけて子供を愚弄し続けている。近二、三年の出版界を見るだけで、「小学生」「小朋友」向けの刊行物が特別に多いことがわかる。中国は突然これほど多くの「児童文学家」を輩出したのか。思うに、そうではあるまい。
(五月三十日。) |
第15節
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【拿来主义】
中国一向是所谓“闭关主义”,自己不去,别人也不许来。自从给枪炮打破了大门之后,又碰了一串钉子,到现在,成了什么都是“送去主义”了。别的且不说罢,单是学艺上的东西,近来就先送一批古董到巴黎去展览,但终“不知后事如何”;还有几位“大师”们捧着几张古画和新画,在欧洲各国一路的挂过去,叫作“发扬国光”。听说不远还要送梅兰芳博士到苏联去,以催进“象征主义”,此后是顺便到欧洲传道。我在这里不想讨论梅博士演艺和象征主义的关系,总之,活人替代了古董,我敢说,也可以算得显出一点进步了。 但我们没有人根据了“礼尚往来”的仪节,说道:拿来! 当然,能够只是送出去,也不算坏事情,一者见得丰富,二者见得大度。尼采就自诩过他是太阳,光热无穷,只是给与,不想取得。然而尼采究竟不是太阳,他发了疯。中国也不是,虽然有人说,掘起地下的煤来,就足够全世界几百年之用。但是,几百年之后呢?几百年之后,我们当然是化为魂灵,或上天堂,或落了地狱,但我们的子孙是在的,所以还应该给他们留下一点礼品。要不然,则当佳节大典之际,他们拿不出东西来,只好磕头贺喜,讨一点残羹冷炙做奖赏。 这种奖赏,不要误解为“抛来”的东西,这是“抛给”的,说得冠冕些,可以称之为“送来”,我在这里不想举出实例。 我在这里也并不想对于“送去”再说什么,否则太不“摩登”了。我只想鼓吹我们再吝啬一点,“送去”之外,还得“拿来”,是为“拿来主义”。 但我们被“送来”的东西吓怕了。先有英国的鸦片,德国的废枪炮,后有法国的香粉,美国的电影,日本的印着“完全国货”的各种小东西。于是连清醒的青年们,也对于洋货发生了恐怖。其实,这正是因为那是“送来”的,而不是“拿来”的缘故。 所以我们要运用脑髓,放出眼光,自己来拿! 譬如罢,我们之中的一个穷青年,因为祖上的阴功(姑且让我这么说说罢),得了一所大宅子,且不问他是骗来的,抢来的,或合法继承的,或是做了女婿换来的。那么,怎么办呢?我想,首先是不管三七二十一,“拿来”!但是,如果反对这宅子的旧主人,怕给他的东西染污了,徘徊不敢走进门,是孱头;勃然大怒,放一把火烧光,算是保存自己的清白,则是昏蛋。不过因为原是羡慕这宅子的旧主人的,而这回接受一切,欣欣然的蹩进卧室,大吸剩下的鸦片,那当然更是废物。“拿来主义”者是全不这样的。 他占有,挑选。看见鱼翅,并不就抛在路上以显其“平民化”,只要有养料,也和朋友们像萝卜白菜一样的吃掉,只不用它来宴大宾;看见鸦片,也不当众摔在毛厕里,以见其彻底革命,只送到药房里去,以供治病之用,却不弄“出售存膏,售完即止”的玄虚。只有烟枪和烟灯,虽然形式和印度,波斯,阿剌伯的烟具都不同,确可以算是一种国粹,倘使背着周游世界,一定会有人看,但我想,除了送一点进博物馆之外,其余的是大可以毁掉的了。还有一群姨太太,也大以请她们各自走散为是,要不然,“拿来主义”怕未免有些危机。 总之,我们要拿来。我们要或使用,或存放,或毁灭。那么,主人是新主人,宅子也就会成为新宅子。然而首先要这人沉着,勇猛,有辨别,不自私。没有拿来的,人不能自成为新人,没有拿来的,文艺不能自成为新文艺。
(六月四日。) |
【拿来主義】
中国はずっと所謂「鎖国主義」であった。自分からは出て行かず、他人にも来させない。砲火に門を打ち破られてからは、また一連の釘を踏み、今では何でもかんでも「送り出し主義」となった。他はさておき、学芸の分野だけでも、近頃まず古董の一団をパリに送って展覧に供したが、結局「その後いかになりしか知れず」。さらに数人の「大家」たちが古画と新画を数枚ずつ捧げ持ち、ヨーロッパ各国を巡って掛け並べ、「国光を発揚す」と称した。聞くところでは、遠からず梅蘭芳博士もソ連に送られ、「象徴主義」を促進するとか、その後はついでにヨーロッパで布教するそうだ。梅博士の演芸と象徴主義の関係はここでは論じたくないが、要するに、生きた人間が古董に取って代わったのだから、いくらかの進歩を見せたと言えるだろう。 だが我々の中には「礼尚往来」の礼節に基づいて「取って来い!」と言う者がいない。 もちろん、ただ送り出すだけでも悪いことではない。豊かさの表れでもあり、寛大さの表れでもある。ニーチェは自らを太陽と誇り、光と熱は無尽で、ただ与えるのみ、取ることは求めぬと言った。しかしニーチェは結局太陽ではなく、発狂した。中国もそうではない。地下の石炭を掘り出せば全世界が数百年使えるという者もあるが、数百年後はどうなるのか。数百年後、我々は当然魂となって天国に昇るか地獄に落ちるかだが、子孫はまだいるのだから、いくらかの贈り物を残してやるべきだ。さもなければ佳節大典の際、彼らは差し出すものがなく、ただ叩頭して祝賀し、残り物のおこぼれを褒美としてもらうしかない。 この種の褒美を「投げてよこした」ものと誤解してはならない。これは「投げ与えた」ものであり、体裁よく言えば「送ってきた」ものと称しうるが、ここでは実例を挙げたくない。 ここではまた「送り出し」についてもこれ以上述べたくない。でなければあまりに「モダン」でなくなる。私はただ、もう少し吝嗇にして、「送り出し」のほかに「取ってくる」ことを鼓吹したいのだ。これを「拿来主義」と称す。 だが我々は「送られてきた」もので脅かされてしまった。まず英国の阿片、ドイツの廃銃砲、続いてフランスの香粉、アメリカの映画、日本の「完全国貨」と刷り込まれた各種小物。かくして覚醒した青年たちでさえ洋貨に恐怖を抱くに至った。実はこれこそ、それが「送られてきた」のであって「取ってきた」のではないという理由による。 だから我々は頭脳を働かせ、眼光を放ち、自ら取りに行かねばならぬ! たとえばだ、我々の中の一人の貧しい青年が、先祖の陰徳によって(仮にこう言わせてもらうが)一つの大邸宅を得たとしよう。それが騙し取ったものか、奪い取ったものか、合法的に相続したものか、婿入りして得たものかは問わない。さて、どうするか。まずは七の二十一もかまわず「取ってくる」のだ! だが、もしこの邸宅の旧主人に反対して、その物に汚されるのを恐れ、門の前をうろうろして入る勇気がないなら、それは臆病者だ。激昂して火を放ち焼き尽くし、自分の潔白を守ろうとするなら、それは愚か者だ。ただし元来この邸宅の旧主人に憧れていて、今回一切を受け入れ、嬉々として寝室に入り込み、残りの阿片を大いに吸うなら、それはもちろん廃人だ。「拿来主義」者は全くこうではない。 彼は占有し、選別する。フカヒレを見ても路上に捨てて「庶民化」を誇示したりせず、栄養があるなら友人たちと大根や白菜のように食べてしまう。ただ宴会の接待には使わない。阿片を見ても衆人の前で便所に叩きつけて徹底した革命を見せつけたりせず、薬局に送って治療に供する。ただし「在庫一掃、売り切れ次第終了」などという見え透いた手は使わない。煙管と煙灯だけは、形式はインド、ペルシャ、アラビアの煙具とはすべて異なり、確かに一種の国粋と言える。背負って世界一周すれば見物人もいようが、博物館に少し送る以外は、残りは大いに壊してしまってよかろう。それから妾の一群も、それぞれ散り散りに去ってもらうのがよい。さもなくば「拿来主義」にはいささか危機が伴う。 要するに、我々は取ってこなければならない。使うか、保存するか、あるいは壊滅させるか。そうすれば主人は新しい主人となり、邸宅もまた新しい邸宅となるだろう。しかしまず、この人が沈着で、勇猛で、弁別力があり、利己的でないことが必要だ。取ってくることなくして、人は自ら新しい人間にはなれず、取ってくることなくして、文芸は自ら新しい文芸にはなれないのだ。
(六月四日。) |
第16節
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【隔膜】
清朝初年的文字之狱,到清朝末年才被从新提起。最起劲的是“南社”里的有几个人,为被害者辑印遗集;还有些留学生,也争从日本搬回文证来。待到孟森的《心史丛刊》出,我们这才明白了较详细的状况,大家向来的意见,总以为文字之祸,是起于笑骂了清朝。然而,其实是不尽然的。 这一两年来,故宫博物院的故事似乎不大能够令人敬服,但它却印给了我们一种好书,曰《清代文字狱档》,去年已经出到八辑。其中的案件,真是五花八门,而最有趣的,则莫如乾隆四十八年二月“冯起炎注解易诗二经欲行投呈案”。 冯起炎是山西临汾县的生员,闻乾隆将谒泰陵,便身怀著作,在路上徘徊,意图呈进,不料先以“形迹可疑”被捕了。那著作,是以《易》解《诗》,实则信口开河,在这里犯不上抄录,惟结尾有“自传”似的文章一大段,却是十分特别的──
“又,臣之来也,不愿如何如何,亦别无愿求之事,惟有一事未决,请对陛下一叙其缘由。臣……名曰冯起炎,字是南州,尝到臣张三姨母家,见一女,可娶,而恨力不足以办此。此女名曰小女,年十七岁,方当待字之年,而正在未字之时,乃原籍东关春牛厂长兴号张守忭之次女也。又到臣杜五姨母家,见一女,可娶,而恨力不足以办此。此女名小凤,年十三岁,虽非必字之年,而已在可字之时,乃本京东城闹市口瑞生号杜月之次女也。若以陛下之力,差干员一人,选快马一匹,克日长驱到临邑,问彼临邑之地方官:‘其东关春牛厂长兴号中果有张守忭一人否?’诚如是也,则此事谐矣。再问:‘东城闹市口瑞生号中果有杜月一人否?’诚如是也,则此事谐矣。二事谐,则臣之愿毕矣。然臣之来也,方不知陛下纳臣之言耶否耶,而必以此等事相强乎?特进言之际,一叙及之。”
这何尝有丝毫恶意?不过着了当时通行的才子佳人小说的迷,想一举成名,天子做媒,表妹入抱而已。不料事实结局却不大好,署直隶总督袁守侗拟奏罪名是“阅其呈首,胆敢于圣主之前,混讲经书,而呈尾措词,尤属狂妄。核其情罪,较冲突仪仗为更重。冯起炎一犯,应从重发往黑龙江等处,给披甲人为奴。俟部复到日,照例解部刺字发遣。”这位才子,后来大约终于单身出关做西崽去了。 此外的案情,虽然没有这么风雅,但并非反动的还不少。有的是卤莽;有的是发疯;有的是乡曲迂儒,真的不识讳忌;有的则是草野愚民,实在关心皇家。而运命大概很悲惨,不是凌迟,灭族,便是立刻杀头,或者“斩监候”,也仍然活不出。 凡这等事,粗略的一看,先使我们觉得清朝的凶虐,其次,是死者的可怜。但再来一想,事情是并不这么简单的。这些惨案的来由,都只为了“隔膜”。 满洲人自己,就严分着主奴,大臣奏事,必称“奴才”,而汉人却称“臣”就好。这并非因为是“炎黄之胄”,特地优待,锡以嘉名的,其实是所以别于满人的“奴才”,其地位还下于“奴才”数等。奴隶只能奉行,不许言议;评论固然不可,妄自颂扬也不可,这就是“思不出其位”。譬如说:主子,您这袍角有些儿破了,拖下去怕更要破烂,还是补一补好。进言者方自以为在尽忠,而其实却犯了罪,因为另有准其讲这样的话的人在,不是谁都可说的。一乱说,便是“越俎代谋”,当然“罪有应得”。倘自以为是“忠而获咎”,那不过是自己的胡涂。 但是,清朝的开国之君是十分聪明的,他们虽然打定了这样的主意,嘴里却并不照样说,用的是中国的古训:“爱民如子”,“一视同仁”。一部分的大臣,士大夫,是明白这奥妙的,并不敢相信。但有一些简单愚蠢的人们却上了当,真以为“陛下”是自己的老子,亲亲热热的撒娇讨好去了。他那里要这被征服者做儿子呢?于是乎杀掉。不久,儿子们吓得不再开口了,计划居然成功;直到光绪时康有为们的上书,才又冲破了“祖宗的成法”。然而这奥妙,好象至今还没有人来说明。 施蛰存先生在《文艺风景》创刊号里,很为“忠而获咎”者不平,就因为还不免有些“隔膜”的缘故。这是《颜氏家训》或《庄子》、《文选》里所没有的。
(六月十日。) |
【隔膜】
清朝初年の文字の獄は、清朝末年になってようやく改めて取り上げられた。最も熱心だったのは「南社」の数人で、被害者のために遺集を編纂印刷した。また留学生たちも競って日本から文証を持ち帰った。孟森の『心史叢刊』が出て、我々はようやくやや詳しい状況を知った。皆の従来の意見は、文字の禍は清朝を嘲笑し罵ったことに起因するというものであった。しかし実はそうとばかりも言えないのだ。 この一、二年、故宮博物院の話はあまり人を感服させられるものではないようだが、一つの良書を我々に印刷してくれた。『清代文字獄档』といい、昨年すでに八輯まで出た。その中の事件は実に千差万別であるが、最も興味深いのは乾隆四十八年二月の「馮起炎が易詩二経に注解を施し呈進せんとした案」である。 馮起炎は山西臨汾県の生員で、乾隆が泰陵に詣でると聞き、著作を懐に忍ばせて道中を徘徊し、呈進を企てたが、先に「挙動不審」で捕縛された。その著作は『易』をもって『詩』を解くもので、実は出鱈目であり、ここに書き写す値打ちもないが、末尾に「自伝」めいた一大段があり、これがまことに特別である――
「また、臣が参りましたのは、かくかくを願うのでなく、また別に願い求めることもございませぬが、ただ一事未決のことがあり、陛下の御前にてその経緯を申し述べたく存じます。臣……名は馮起炎、字は南州と申します。かつて臣の張三なる叔母の家に参りましたところ、一人の女子を見、娶るに足ると思いましたが、力及ばざるを恨みました。この女子の名は小女、年十七歳、まさに嫁ぐべき年にしてまさに未だ嫁がざる時であり、原籍東関春牛廠長興号の張守忭の次女でございます。また臣の杜五なる叔母の家に参りましたところ、一人の女子を見、娶るに足ると思いましたが、力及ばざるを恨みました。この女子の名は小鳳、年十三歳、必ずしも嫁ぐべき年ではございませぬが、すでに嫁ぎ得る時にあり、本京東城闹市口瑞生号の杜月の次女でございます。もし陛下のお力をもって、幹員一名を差し遣わし、駿馬一頭を選び、日を期して臨邑に馳せ向かい、かの臨邑の地方官にお尋ねくだされば、『その東関春牛廠長興号に果たして張守忭なる者がおるや否や』と。まことにしかりとならば、この事は成就いたします。さらにお尋ねくだされば、『東城闹市口瑞生号に果たして杜月なる者がおるや否や』と。まことにしかりとならば、この事は成就いたします。二事成就すれば、臣の願いは果たされます。しかしながら臣の参上は、まだ陛下が臣の言を納れ給うや否やも存ぜぬうちに、必ずやかかることを強いるのかとお思いでしょうが、ただ進言の際、一度申し述べたまでのことにございます。」
これのどこに微塵でも悪意があろうか。ただ当時流行の才子佳人小説に迷い、一挙に名を成し、天子に媒酌をしてもらい、従妹を抱こうとしただけである。ところが結末は思わしくなく、署直隷総督袁守侗の擬した罪名は「その呈の首を閲するに、敢えて聖主の御前にて妄りに経書を講じ、呈の末の措辞に至ってはさらに狂妄の極み。その情罪を核するに、儀仗衝突よりもなお重し。馮起炎一犯、重きに従い黒龍江等処に発遣し、披甲人の奴とすべし」というものであった。この才子は、後に恐らく独り身のまま関外へ出てボーイにさせられたのであろう。 このほかの案件は、これほど風雅ではないにせよ、反逆的でないものは少なくない。あるものは粗忽、あるものは発狂、あるものは田舎の迂儒で真に忌諱を知らず、あるものは草莽の愚民で真に皇室を案じたのだ。だがその運命は概して悲惨で、凌遅か族滅か、さもなくば即刻斬首、あるいは「斬監候」とされても、やはり生きて出ることはなかった。 こうした事件を一通り見ると、まず清朝の残虐さを感じ、次に死者の哀れさを覚える。だがもう一度考えてみると、事はそう単純ではない。これらの惨劇の原因は、すべてただ「隔膜」のためなのだ。 満洲人自身は主と奴を厳しく分け、大臣が奏上する際、必ず「奴才」と称したが、漢人は「臣」と称すれば足りた。これは「炎黄の裔」であるがゆえに特別に優遇し、佳名を賜ったのではない。実は満人の「奴才」と区別するためであり、その地位はなお「奴才」より数等下なのだ。奴隷はただ奉行するのみ、意見を述べることは許されない。評論はもちろん不可、妄りに讃えることも不可。これがすなわち「思いその位を出でず」である。たとえば「ご主人さま、この袍の裾が少々破れております。引きずっておけばさらに破れましょうから、繕った方がよろしゅうございます」と。進言した者は忠義を尽くしているつもりだが、実は罪を犯しているのだ。なぜなら、そのように言うことを許された別の者がいるのであって、誰でも言えるわけではない。みだりに言えば「越俎代謀」であり、当然「罪を得るべし」。もし「忠にして咎を得た」と自任するなら、それは自分の愚鈍に過ぎない。 しかし清朝の開国の君主は十分に聡明であった。彼らはこうした方針を定めながらも、口ではそのようには言わず、中国の古訓を用いた。「民を愛すること子の如し」「一視同仁」と。一部の大臣や士大夫はこの奥妙を弁えていたから、敢えて信じなかった。だが一部の単純で愚鈍な人々は騙され、本気で「陛下」を自分の父親だと思い、馴れ馴れしく甘えすり寄った。あの方が被征服者を子にしたがるものか。かくして彼らは殺された。やがて子供たちは怯えてもう口を開かなくなり、計画は見事に成功した。光緒の時代の康有為らの上書に至って、ようやく「祖宗の成法」が再び打ち破られたのである。しかしこの奥妙は、今に至るまで誰も説明していないようだ。 施蛰存氏は『文芸風景』創刊号で、大いに「忠にして咎を得た」者のために不平を唱えたが、それもまたいくらか「隔膜」があるがゆえのことだ。これは『顔氏家訓』や『荘子』『文選』には載っていないことなのである。
(六月十日。) |
第17節
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【“木刻纪程”小引】
中国木刻图画,从唐到明,曾经有过很体面的历史。但现在的新的木刻,却和这历史不相干。新的木刻,是受了欧洲的创作木刻的影响的。创作木刻的绍介,始于朝花社,那出版的《艺苑朝华》四本,虽然选择印造,并不精工,且为艺术名家所不齿,却颇引起了青年学徒的注意。到一九三一年夏,在上海遂有了中国最初的木刻讲习会。又由是蔓衍而有木铃社,曾印《木铃木刻集》两本。又有野穗社,曾印《木刻画》一辑。有无名木刻社,曾印《木刻集》。但木铃社早被毁灭,后两社也未有继续或发展的消息。前些时在上海还剩有M.K.木刻研究社,是一个历史较长的小团体,曾经屡次展览作品,并且将出《木刻画选集》的,可惜今夏又被私怨者告密。社员多遭捕逐,木版也为工部局所没收了。 据我们所知道,现在似乎已经没有一个研究木刻的团体了。但尚有研究木刻的个人。如罗清桢,已出《清桢木刻集》二辑;如又村,最近已印有《廖坤玉故事》的连环图。这是都值得特记的。 而且仗着作者历来的努力和作品的日见其优良,现在不但已得中国读者的同情,并且也渐渐的到了跨出世界上去的第一步。虽然还未坚实,但总之,是要跨出去了。不过,同时也到了停顿的危机。因为倘没有鼓励和切磋,恐怕也很容易陷于自足。本集即愿做一个木刻的路程碑,将自去年以来,认为应该流布的作品,陆续辑印,以为读者的综观,作者的借镜之助。但自然,只以收集所及者为限,中国的优秀之作,是决非尽在于此的。 别的出版者,一方面还正在绍介欧美的新作,一方面则在复印中国的古刻,这也都是中国的新木刻的羽翼。采用外国的良规,加以发挥,使我们的作品更加丰满是一条路;择取中国的遗产,融合新机,使将来的作品别开生面也是一条路。如果作者都不断的奋发,使本集能一程一程的向前走,那就会知道上文所说,实在不仅是一种奢望的了。 一九三四年六月中,铁木艺术社记。 |
【「木刻紀程」小引】
中国の木刻版画は、唐から明にかけて、かなり立派な歴史を持っていた。しかし現在の新しい木刻は、この歴史とは無関係である。新しい木刻は、ヨーロッパの創作木刻の影響を受けたものだ。創作木刻の紹介は朝花社に始まり、そこで出版された『芸苑朝華』四冊は、選択も印刷も精巧とは言えず、また芸術の名家には歯牙にもかけられなかったが、若い学徒の注目をかなり引いた。一九三一年夏、上海でついに中国最初の木刻講習会が開かれた。そこからさらに木鈴社が派生し、『木鈴木刻集』二冊を刊行した。また野穗社があり、『木刻画』一輯を刊行した。無名木刻社があり、『木刻集』を刊行した。だが木鈴社はとうに壊滅させられ、後の二社も継続や発展の消息はない。少し前まで上海にはM.K.木刻研究社が残っていた。歴史の比較的長い小団体で、何度も作品展を開き、『木刻画選集』を出す予定だったが、残念ながらこの夏また私怨を持つ者に密告された。社員の多くは逮捕・追放され、木版も工部局に没収されてしまった。 我々の知る限り、今はもう木刻を研究する団体は一つもないようだ。しかし木刻を研究する個人はまだいる。羅清楨はすでに『清楨木刻集』二輯を出し、又村は最近『廖坤玉物語』の連環画を刊行した。これらはいずれも特筆に値する。 しかも作者たちの長年の努力と作品の日増しの向上のおかげで、今や中国の読者の共感を得ただけでなく、世界へ踏み出す第一歩にも漸く至った。まだ確固たるものではないが、ともかく踏み出そうとしている。ただし同時に停滞の危機にも至っている。激励と切磋がなければ、自足に陥りやすいからだ。本集はここに木刻の里程標たらんとし、昨年以来、流布すべきと思われる作品を陸続と輯め、読者の概覧、作者の参考の助けとする。ただし当然、収集の及んだものに限られ、中国の優秀な作は決してこれに尽きるものではない。 他の出版者たちは、一方ではなお欧米の新作を紹介し、一方では中国の古刻を復刻している。これらもまた中国の新木刻の翼である。外国の良き規範を採用し発揮して、我々の作品をさらに豊かにするのが一つの道であり、中国の遺産を択び取り新しい機運と融合させて、将来の作品に新生面を開くのもまた一つの道である。もし作者たちが不断に奮い立ち、本集を一程また一程と前進させることができるならば、上に述べたことが決して奢望にとどまらぬと知るであろう。 一九三四年六月中、鉄木芸術社記。 |
第18節
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【难行和不信】
中国的“愚民”──没有学问的下等人,向来就怕人注意他。如果你无端的问他多少年纪,什么意见,兄弟几个,家景如何,他总是支吾一通之后,躲了开去。有学识的大人物,很不高兴他们这样的脾气。然而这脾气总不容易改,因为他们也实在从经验而来的。 假如你被谁注意了,一不小心,至少就不免上一点小当,譬如罢,中国是改革过的了,孩子们当然早已从“孟宗哭竹”“王祥卧冰”的教训里蜕出,然而不料又来了一个崭新的“儿童年”,爱国之士,因此又想起了“小朋友”,或者用笔,或者用舌,不怕劳苦的来给他们教训。一个说要用功,古时候曾有“囊萤照读”“凿壁偷光”的志士;一个说要爱国,古时候曾有十几岁突围请援,十四岁上阵杀敌的奇童。这些故事,作为闲谈来听听是不算很坏的,但万一有谁相信了,照办了,那就会成为乳臭未干的吉诃德。你想,每天要捉一袋照得见四号铅字的萤火虫,那岂是一件容易事?但这还只是不容易罢了,倘去凿壁,事情就更糟,无论在哪里,至少是挨一顿骂之后,立刻由爸爸妈妈赔礼,雇人去修好。 请援,杀敌,更加是大事情,在外国,都是三四十岁的人们所做的。他们那里的儿童,着重的是吃,玩,认字,听些极普通,极紧要的常识。中国的儿童给大家特别看得起,那当然也很好,然而出来的题目就因此常常是难题,仍如飞剑一样,非上武当山寻师学道之后,决计没法办。到了二十世纪,古人空想中的潜水艇,飞行机,是实地上成功了,但《龙文鞭影》或《幼学琼林》里的模范故事,却还有些难学。我想,便是说教的人,恐怕自己也未必相信罢。 所以听的人也不相信。我们听了千多年的剑仙侠客,去年到武当山去的只有三个人,只占全人口的五百兆分之一,就可见。古时候也许还要多,现在是有了经验,不大相信了,于是照办的人也少了。──但这是我个人的推测。 不负责任的,不能照办的教训多,则相信的人少;利己损人的教训多,则相信的人更其少。“不相信”就是“愚民”的远害的堑壕,也是使他们成为散沙的毒素。然而有这脾气的也不但是“愚民”,虽是说教的士大夫,相信自己和别人的,现在也未必有多少。例如既尊孔子,又拜活佛者,也就是恰如将他的钱试买各种股票,分存许多银行一样,其实是那一面都不相信的。
(七月一日。) |
【難行と不信】
中国の「愚民」――学問のない下層の者たちは、昔から人に注目されることを恐れてきた。もし無闇に年齢はいくつか、どんな意見を持っているか、兄弟は何人か、家の暮らし向きはどうかと尋ねると、彼はしどろもどろに答えた後、逃げ去ってしまう。学識ある大人物たちは、こうした気質を大いに不愉快に思う。しかしこの気質はなかなか変わらない。彼らにも経験に基づく理由があるからだ。 もし誰かに目をつけられたら、油断すれば少なくともちょっとした損をする。たとえば中国はすでに改革されたのだから、子供たちは当然とうに「孟宗哭竹」「王祥臥冰」の教訓から脱却しているはずだが、意外にもまた新たな「児童年」が来て、愛国の士がこれに乗じて「小朋友」を思い出し、筆あるいは舌で、労を厭わず教訓を垂れる。ある者は勉強せよと言い、昔は「蛍を嚢に入れて読書した」「壁に穴を穿って光を偸んだ」志士がいたと。ある者は愛国せよと言い、昔は十数歳で包囲を突破して援軍を請い、十四歳で陣に臨んで敵を斃した奇童がいたと。これらの話は閑談として聞く分には悪くもないが、万一誰かが信じて実行したら、乳臭未だ乾かぬドン・キホーテになってしまう。毎日四号活字が見えるほどの蛍火虫を一袋捕まえるのが容易なことか。だがこれはまだ容易でないだけのこと、壁に穴を穿つとなれば事はさらに面倒で、どこでも少なくとも一頓の叱責を受けた後、父母が謝罪し、人を雇って修繕することになる。 援軍を請い、敵を斃すのはさらに大事であり、外国では三四十歳の人々がすることだ。彼の国の児童は、食べること、遊ぶこと、文字を覚えること、ごく普通でごく肝要な常識を聞くことを重んじる。中国の児童が皆に特別に尊ばれるのは、もちろん結構なことだが、それゆえ出される課題がしばしば難題となり、飛剣のごとく、武当山に登って師について修行しなければ到底手の施しようがない。二十世紀になって、古人が空想した潜水艇や飛行機は現実に成功したが、『龍文鞭影』や『幼学瓊林』の模範物語はまだいささか学びがたい。思うに、説教する当人ですら、自分でも信じてはいまい。 だから聞く方も信じない。千年余り剣仙俠客の話を聞かされて、去年武当山に行ったのはたった三人、全人口の五百兆分の一に過ぎないのを見ればわかる。昔はもう少し多かったかもしれないが、今は経験を積んで、あまり信じなくなったのだ。かくして実行する者も少なくなった。――ただしこれは私個人の推測である。 無責任な、実行しようのない教訓が多ければ、信じる者は少なく、利己損人の教訓が多ければ、信じる者はさらに少ない。「信じない」ということは「愚民」が禍を遠ざける塹壕であり、同時に彼らを砂のように散らばらせる毒素でもある。しかしこの気質を持つのは「愚民」に限らない。説教する士大夫とて、自分と他人を信じる者は今どれほどいようか。たとえば孔子を尊びながら活仏を拝む者は、ちょうど金を各種の株に分散して多くの銀行に預けるようなもので、実はどちらも信じていないのだ。
(七月一日。) |
第19節
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【买“小学大全”记】
线装书真是买不起了。乾隆时候的刻本的价钱,几乎等于那时的宋本。明版小说,是五四运动以后飞涨的;从今年起,洪运怕要轮到小品文身上去了。至于清朝禁书,则民元革命后就是宝贝,即使并无足观的著作,也常要百余元至数十元。我向来也走走旧书坊,但对于这类宝书,却从不敢作非分之想。端午节前,在四马路一带闲逛,竟无意之间买到了一种,曰《小学大全》,共五本,价七角,看这名目,是不大有人会欢迎的,然而,却是清朝的禁书。 这书的编纂者尹嘉铨,博野人;他父亲尹会一,是有名的孝子,乾隆皇帝曾经给过褒扬的诗。他本身也是孝子,又是道学家,官又做到大理寺卿稽察觉罗学。还请令旗籍子弟也讲读朱子的《小学》,而“荷蒙朱批:所奏是。钦此。”这部书便成于两年之后的,加疏的《小学》六卷,《考证》和《释文》、《或问》各一卷,《后编》二卷,合成一函,是为《大全》。也曾进呈,终于在乾隆四十二年九月十七日奉旨:“好!知道了。钦此。”那明明是得了皇帝的嘉许的。 到乾隆四十六年,他已经致仕回家了,但真所谓“及其老也,戒之在得”罢,虽然欲得的乃是“名”,也还是一样的招了大祸。这年三月,乾隆行经保定,尹嘉铨便使儿子送了一本奏章,为他的父亲请,朱批是“与乃国家定典,岂可妄求。此奏本当交部治罪,念汝为父私情,姑免之。若再不安分家居,汝罪不可逭矣!钦此。”不过他豫先料不到会碰这样的大钉子,所以接着还有一本,是请许“我朝”名臣汤斌范文程李光地顾八代张伯行等从祀孔庙,“至于臣父尹会一,既蒙御制诗章褒嘉称孝,已在德行之科,自可从祀,非臣所敢请也。”这回可真出了大岔子,三月十八日的朱批是:“竟大肆狂吠,不可恕矣!钦此。” 乾隆时代的一定办法,是凡以文字获罪者,一面拿办,一面就查抄,这并非着重他的家产,乃在查看藏书和另外的文字,如果别有“狂吠”,便可以一并治罪。因为乾隆的意见,是以为既敢“狂吠”,必不止于一两声,非彻底根究不可的。尹嘉铨当然逃不出例外,和自己的被捕同时,他那博野的老家和北京的寓所,都被查抄了。藏书和别项著作,实在不少,但其实也并无什么干碍之作。不过那时是决不能这样就算的,经大学士三宝等再三审讯之后,定为“相应请旨将尹嘉铨照大逆律凌迟处死”,幸而结果很宽大:“尹嘉铨著加恩免其凌迟之罪,改为处绞立决,其家属一并加恩免其缘坐”就完结了。 这也还是名儒兼孝子的尹嘉铨所不及料的。 这一回的文字狱,只绞杀了一个人,比起别的案子来,决不能算是大狱,但乾隆皇帝却颇费心机,发表了几篇文字。从这些文字和奏章(均见《清代文字狱档》第六辑)看来,这回的祸机虽然发于他的“不安分”,但大原因,却在既以名儒自居,又请将名臣从祀:这都是大“不可恕”的地方。清朝虽然尊崇朱子,但止于“尊崇”,却不许“学样”,因为一学样,就要讲学,于是而有学说,于是而有门徒,于是而有门户,于是而有门户之争,这就足为“太平盛世”之累。况且以这样的“名儒”而做官,便不免以“名臣”自居,“妄自尊大”。乾隆是不承认清朝会有“名臣”的,他自己是“英主”,是“明君”,所以在他的统治之下,不能有奸臣,既没有特别坏的奸臣,也就没有特别好的名臣,一律都是不好不坏,无所谓好坏的奴子。 特别攻击道学先生,所以是那时的一种潮流,也就是“圣意”。我们所常见的,是纪昀总纂的《四库全书总目提要》和自著的《阅微草堂笔记》里的时时的排击。这就是迎合着这种潮流的,倘以为他秉性平易近人,所以憎恨了道学先生的谿刻,那是一种误解。大学士三宝们也很明白这潮流,当会审尹嘉铨时,曾奏道:“查该犯如此狂悖不法,若即行定罪正法,尚不足以泄公愤而快人心。该犯曾任三品大员,相应遵例奏明,将该犯严加夹讯,多受刑法,问其究属何心,录取供词,具奏,再请旨立正典刑,方足以昭炯戒。”后来究竟用了夹棍没有,未曾查考,但看所录供词,却于用他的“丑行”来打倒他的道学的策略,是做得非常起劲的。现在抄三条在下面──
“问:尹嘉铨!你所书李孝女暮年不字事一篇,说‘年逾五十,依然待字,吾妻李恭人闻而贤之,欲求淑女以相助,仲女固辞不就’等语。这处女既立志不嫁,已年过五旬,你为何叫你女人遣媒说合,要他做妾?这样没廉耻的事,难道是讲正经人干的么?据供:我说的李孝女年逾五十,依然待字,原因素日间知道雄县有个姓李的女子,守贞不字。吾女人要聘他为妾,我那时在京候补,并不知道;后来我女人告诉我,才知道的,所以替他做了这篇文字,要表扬他,实在我并没有见过他的面。但他年过五十,我还将要他做妾的话,做在文字内,这就是我廉耻丧尽,还有何辩。 “问:你当时在皇上跟前讨赏翎子,说是没有翎子,就回去见不得你妻小。你这假道学怕老婆,到底皇上没有给你翎子,你如何回去的呢?据供:我当初在家时,曾向我妻子说过,要见皇上讨翎子,所以我彼时不辞冒昧,就妄求恩典,原想得了翎子回家,可以夸耀。后来皇上没有赏我,我回到家里,实在觉得害羞,难见妻子。这都是我假道学,怕老婆,是实。 “问:你女人平日妒悍,所以替你娶妾,也要娶这五十岁女人给你,知道这女人断不肯嫁,他又得了不妒之名。总是你这假道学居常做惯这欺世盗名之事,你女人也学了你欺世盗名。你难道不知道么?供:我女人要替我讨妾,这五十岁李氏女子既已立志不嫁,断不肯做我的妾,我女人是明知的,所以借此要得不妒之名。总是我平日所做的事,俱系欺世盗名,所以我女人也学做此欺世盗名之事,难逃皇上洞鉴。”
还有一件要紧事是销毁和他有关的书。他的著述也真太多,计应“销毁”者有书籍八十六种,石刻七种,都是著作;应“撤毁”者有书籍六种,都是古书,而有他的序跋。《小学大全》虽不过“疏辑”,然而是在“销毁”之列的。 但我所得的《小学大全》,却是光绪二十二年开雕,二十五年刊竣,而“宣统丁巳”(实是中华民国六年)重校的遗老本,有张锡恭跋云:“世风不古若矣,愿读是书者,有以转移之。……”又有刘安涛跋云:“晚近凌夷,益加甚焉,异言喧豗,显与是书相悖,一唱百和,……驯致家与国均蒙其害,唐虞三代以来先圣先贤蒙以养正之遗意,扫地尽矣。剥极必复,天地之心见焉。……”为了文字狱,使士子不敢治史,尤不敢言近代事,但一面却也使昧于掌故,乾隆朝所竭力“销毁”的书,虽遗老也不复明白,不到一百三十年,又从新奉为宝典了。这莫非也是“剥极必复”么?恐怕是遗老们的乾隆皇帝所不及料的罢。 但是,清的康熙雍正和乾隆三个,尤其是后两个皇帝,对于“文艺政策”或说得较大一点的“文化统制”,却真尽了很大的努力的。文字狱不过是消极的一方面,积极的一面,则如钦定四库全书,于汉人的著作,无不加以取舍,所取的书,凡有涉及金元之处者,又大抵加以修改,作为定本。此外,对于《七经》,《二十四史》,《通鉴》,文士的诗文,和尚的语录,也都不肯放过,不是鉴定,便是评选,文苑中实在没有不被蹂躏的处所了。而且他们是深通汉文的异族的君主,以胜者的看法,来批评被征服的汉族的文化和人情,也鄙夷,但也恐惧,有苛论,但也有确评,文字狱只是由此而来的辣手的一种,那成果,由满洲这方面言,是的确不能说它没有效的。 现在这影响好象是淡下去了,遗老们的重刻《小学大全》,就是一个证据,但也可见被愚弄了的性灵,又终于并不清醒过来。近来明人小品,清代禁书,市价之高,决非穷读书人所敢窥,但《东华录》、《御批通鉴辑览》、《上谕八旗》、《雍正朱批谕旨》……等,却好象无人过问,其低廉为别的一切大部书所不及。倘有有心人加以收集,一一钩稽,将其中的关于驾御汉人,批评文化,利用文艺之处,分别排比,辑成一书,我想,我们不但可以看见那策略的博大和恶辣,并且还能够明白我们怎样受异族主子的驯扰,以及遗留至今的奴性的由来的罢。 自然,这决不及赏玩性灵文字的有趣,然而借此知道一点演成了现在的所谓性灵的历史,却也十分有益的。
(七月十日。) |
【「小学大全」を買った記】
線装本は本当に買えなくなった。乾隆時代の刻本の値段は、ほとんど当時の宋本に等しい。明版小説は五四運動以後に暴騰した。今年からは、その幸運がおそらく小品文に回ってくるだろう。清朝の禁書となると、民元革命後にはすでに宝物で、さして見るべきところのない著作でも、しばしば百余元から数十元を要した。私も昔から古書店を回っているが、この種の宝書に対しては分不相応な望みを抱いたことがなかった。端午節の前、四馬路あたりを散策していて、思いがけず一種を買い求めた。『小学大全』といい、全五冊、七角であった。この名を見れば、あまり歓迎する者はいまいが、実は清朝の禁書なのだ。 この書の編纂者は尹嘉銓、博野の人である。その父の尹会一は有名な孝子で、乾隆帝がかつて褒賞の詩を与えたことがある。尹嘉銓自身も孝子にして道学者であり、官は大理寺卿稽察覚羅学にまで至った。さらに旗籍の子弟にも朱子の『小学』を講読させることを請い、「朱批を蒙る。奏する所は是なり。欽此。」とあった。この書はその二年後に成り、疏を付した『小学』六巻、『考証』と『釈文』『或問』各一巻、『後編』二巻、合わせて一函となったのが『大全』である。進呈もされ、ついに乾隆四十二年九月十七日に奉旨「好し。知りたり。欽此。」となり、明らかに皇帝の嘉許を得たのである。 乾隆四十六年、彼はすでに致仕して家にあったが、まさに「その老いるに及びては之を得るを戒めよ」というべきか――欲しかったのは「名」ではあったが――やはり同じように大禍を招いた。この年三月、乾隆が保定を通過した際、尹嘉銓は息子に奏章を持たせて送り、父のために諡を請うた。朱批は「諡は国家の定典にして、妄りに求むべからず。この奏は本来部に交して罪を治すべきなれど、汝が父を思う私情を念じ、姑く之を免ず。もし再び安分に家居せざれば、汝の罪逭るべからず。欽此。」であった。しかし彼は先にこれほどの大釘を踏むとは予想していなかったので、続いてもう一本を送り、「我が朝」の名臣である湯斌・范文程・李光地・顧八代・張伯行らの孔子廟従祀を請うた。「臣の父尹会一に至りては、すでに御製詩章にて褒嘉し孝と称し給えば、すでに徳行の科にあり、自ら従祀すべきことは臣の敢えて請う所にあらず。」と。この度は本当に大事件となり、三月十八日の朱批は「竟に大いに狂吠す、恕すべからず。欽此。」であった。 乾隆時代の決まったやり方として、文字で罪を得た者は、一方で取り調べ、一方ですぐに家宅捜索する。これは財産を重んじるのではなく、蔵書と他の文字を調べるためで、もし別に「狂吠」があれば併せて罪に問うことができる。乾隆の考えでは、「狂吠」する以上は一度や二度にとどまるはずがなく、徹底的に追究せねばならぬというのだ。尹嘉銓も当然例外ではなく、自身の逮捕と同時に、博野の本宅も北京の寓所も家宅捜索された。蔵書や他の著作は実に多かったが、実のところ何ら差し障りのある作は無かった。しかし当時はそれで済ませるわけにはいかず、大学士三宝らの再三の審訊の後、「尹嘉銓を大逆律に照らし凌遅処死に処すべし」と定められた。幸い結局は寛大で、「尹嘉銓は恩を加えて凌遅の罪を免じ、改めて絞立決とし、その家属も併せて恩を加えて縁坐を免ず」で決着した。 これもまた名儒にして孝子たる尹嘉銓の予想の及ばぬところであった。 この度の文字の獄は一人を絞殺したのみで、他の事件に比べれば決して大獄とは言えない。だが乾隆帝はかなり心を砕き、いくつかの文章を発表した。これらの文章と奏章(いずれも『清代文字獄档』第六輯に見える)から見ると、今回の禍機は「安分ならず」に発したとはいえ、大きな原因は名儒を自任し、かつ名臣の従祀を請うたことにある。これこそ大いに「恕すべからず」なのだ。清朝は朱子を尊崇したが、「尊崇」にとどめ、「見習う」ことは許さなかった。見習えば講学し、講学すれば学説が生まれ、学説があれば門徒が集まり、門徒がいれば門戸が立ち、門戸があれば門戸の争いが起こる。これは「太平の聖世」の累となるに十分だ。しかもこのような「名儒」でありながら官となれば、「名臣」を自任せずにはおれず、「妄りに自ら尊大」となる。乾隆は清朝に「名臣」がいることを認めなかった。自身は「英主」であり「明君」であるから、その統治の下には奸臣はおらず、特別に悪い奸臣がいなければ特別に良い名臣もおらず、一律にどうということもない、良いとも悪いとも言えぬ奴僕であるべきなのだ。 道学先生を特に攻撃するのは、当時の一つの潮流であり、すなわち「聖意」であった。我々がよく見るのは、紀昀が総纂した『四庫全書総目提要』と自著の『閲微草堂筆記』の中の絶えざる排撃である。これはこの潮流に迎合したものであって、彼が生来気さくで親しみやすかったがゆえに道学先生の峻厳さを憎んだのだと思うなら、それは誤解である。大学士三宝らもこの潮流をよくわきまえており、尹嘉銓を合同審問した際にこう奏上した。「該犯かくの如く狂悖不法なれば、直ちに罪を定め正法に処すとも、なお公憤を泄らし人心を快くするに足らず。該犯はかつて三品の大官を務めたれば、例に遵い奏明し、該犯を厳しく挟訊し、多く刑法を受けしめ、いかなる心なりしかを問い、供詞を録取し具奏し、再び旨を請うて正典の刑に処して、はじめて炯戒を昭らかにするに足る」と。後に実際に挟棍を用いたかどうかは未確認だが、録された供詞を見ると、彼の「醜行」をもってその道学を打倒する策略は実に力を入れて行われている。今、三条を下に抜き書きする――
「問う。尹嘉銓、汝の書いた李孝女晩年不字の事の一篇に、『年五十を過ぎ、依然として嫁がず、吾妻李恭人聞きてこれを賢しとし、淑女を求めて相助けんと欲す、仲女固辞して就かず』等の語がある。この処女は志を立てて嫁がず、すでに五旬を過ぎているのに、汝はなぜ汝の妻に媒を遣わせて、彼女を妾にしようとしたのか。このような廉恥のないこと、まさか正道を講ずる者のなすことか。供に曰く、私が李孝女年五十を過ぎ依然として嫁がずと言いましたのは、もとより日頃雄県にある姓李の女子が貞を守って嫁がないことを知っていたからでございます。妻が彼女を妾に迎えようとしたのは、私が当時京で候補しておりまして、全く知りませんでした。後に妻が私に告げましたので、初めて知り、それゆえ彼女のためにこの文章を作り、表彰しようとしたのでございます。実に彼女に会ったことはございません。しかし年五十を過ぎた彼女を妾にしようとした話を文章に書いたのは、まさしく廉恥を喪い尽くしたのであり、申し開きの余地もございません。 問う。汝は当時皇上の御前で翎子の賜りを求め、翎子がなければ帰って妻に顔向けができぬと申した。汝ら似非道学者は女房を恐れるのか、結局皇上は翎子を賜らなかったが、汝はどう帰ったのか。供に曰く、私は以前家にいた時、妻に向かって皇上にお目通りして翎子を頂くと申しておりましたので、その時分別もなく妄りに恩典を求めたのでございます。もとより翎子を得て帰宅し、誇示しようと思ったのです。結局皇上はお与えくださらず、家に帰りましたところ、実に恥ずかしく、妻に顔を合わせ難うございました。これは皆、私が似非道学者で女房を恐れたがゆえのこと、相違ございません。 問う。汝の妻は日頃嫉妬深いから、汝のために妾を娶るにもこの五十歳の女を選んだのだ。この女が絶対に嫁がぬことを知っていて、妻は嫉妬しないという名を得ようとしたのだ。つまりは汝ら似非道学者が日頃よりこうした世を欺き名を盗む事をしているから、汝の妻も汝に倣って世を欺き名を盗んだのだ。汝はまさか知らなかったとは言うまいな。供に曰く、妻が私のために妾を娶ろうとしましたが、この五十歳の李氏の女子はすでに志を立てて嫁がず、決して私の妾にはなりますまい。妻はそれを承知しておりましたゆえ、これを借りて嫉妬せぬの名を得ようとしたのでございます。つまりは私が日頃なすことが皆世を欺き名を盗むことばかりでございますゆえ、妻もまたこの世を欺き名を盗む事を学んだのでございまして、皇上の洞察を逃れることはできませぬ。」
もう一つの肝要なことは、彼に関わる書物の焼却である。彼の著述は実に多すぎ、「銷毀」すべきものは書籍八十六種、石刻七種、すべて著作であった。「撤毀」すべきものは書籍六種、すべて古書で彼の序跋が付いていた。『小学大全』は「疏輯」に過ぎないが、「銷毀」の列に入っていた。 だが私が入手した『小学大全』は、光緒二十二年に開彫し二十五年に刊行が完了し、「宣統丁巳」(実は中華民国六年)に重校した遺老本であり、張錫恭の跋に「世風不古なること若し、願わくは是の書を読む者、以て之を転移せんことを……」とある。また劉安濤の跋に「晩近凌夷し、益々甚だしく、異言喧豗して、顕に是の書と相悖り、一唱百和し……ついに家と国と均しく其の害を蒙り、唐虞三代以来先聖先賢の養正の遺意、掃地尽きたり。剥極まりて必ず復す、天地の心ここに見る……」とある。文字の獄のために士子は歴史を治めることを恐れ、特に近代の事を語ることを恐れたが、一方でまた故事に暗くなり、乾隆朝が力を尽くして「銷毀」した書を、遺老でさえもはや弁えず、百三十年も経たぬうちにまた新たに宝典として奉じたのだ。これもまた「剥極まりて必ず復す」なのか。恐らくは遺老たちの乾隆帝も予想し得なかったことであろう。 しかし清の康煕・雍正・乾隆の三帝、とりわけ後の二帝は、「文芸政策」あるいはやや大きく言えば「文化統制」に実に大いなる努力を傾けた。文字の獄は消極的な一面に過ぎず、積極的な面としては欽定四庫全書があり、漢人の著作はことごとく取捨を加え、採った書の中でも金元に言及する箇所はおおむね改竄して定本とした。さらに『七経』『二十四史』『通鑑』、文人の詩文、僧侶の語録に至るまで見逃さず、鑑定でなければ評選であり、文苑の中に蹂躙されなかった場所は実に無かったのである。しかも彼らは漢文に深く通じた異族の君主であり、勝者の視座から被征服民族たる漢族の文化と人情を批評した。蔑視しつつも恐れ、苛論もあったが確評もあり、文字の獄はそこから来た辣腕の一つに過ぎない。その成果は、満洲の側から言えば、効果がなかったとは確かに言えぬのだ。 今ではその影響は薄れたように見え、遺老たちの『小学大全』重刻がその一つの証拠であるが、同時に愚弄された性霊がついに目覚めなかったことも見て取れる。近来、明人小品や清代禁書の市価の高さは、貧しい読書人の窺い知るところではないが、『東華録』『御批通鑑輯覧』『上諭八旗』『雍正朱批諭旨』……等は人の問うところとならず、その安さは他のすべての大部の書に及ばない。もし心ある人がこれらを収集し、一一鉤稽して、漢人を御する策、文化を批評する策、文芸を利用する策を分別して排比し、一書に編めば、我々はその策略の広大にして悪辣なることを見るばかりでなく、我々がいかに異族の主人に馴致されたか、そして今に遺る奴性の由来をも明らかにすることができるだろう。 もちろんこれは性霊文字を玩賞するほどの趣はない。しかしこれによって今日の所謂性霊が如何にして成り立ったかの歴史をいくらか知ることは、十分に有益なことなのである。
(七月十日。) |
第20節
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【韦素园墓记】
韦君素园之墓。 君以一九又二年六月十八日生,一九三二年八月一日卒。呜呼,宏才远志,厄于短年。文苑失英,明者永悼。弟丛芜,友静农,霁野立表;鲁迅书。 |
【韋素園墓記】
韋君素園の墓。 君は一九〇二年六月十八日に生まれ、一九三二年八月一日に歿す。嗚呼、宏才遠志、短年に厄せらる。文苑に英を失い、知者は永く悼む。弟叢蕪、友静農、霽野、表を立つ。魯迅書す。 |
第21節
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【忆韦素园君】
我也还有记忆的,但是,零落得很。我自己觉得我的记忆好象被刀刮过了的鱼鳞,有些还留在身体上,有些是掉在水里了,将水一搅,有几片还会翻腾,闪烁,然而中间混着血丝,连我自己也怕得因此污了赏鉴家的眼目。 现在有几个朋友要纪念韦素园君,我也须说几句话。是的,我是有这义务的。我只好连身外的水也搅一下,看看泛起怎样的东西来。 ○ ○ ○ ○ 怕是十多年之前了罢,我在北京大学做讲师,有一天,在教师豫备室里遇见了一个头发和胡子统统长得要命的青年,这就是李霁野。我的认识素园,大约就是霁野绍介的罢,然而我忘记了那时的情景。现在留在记忆里的。是他已经坐在客店的一间小房子里计画出版了。 这一间小房子,就是未名社。 ○ ○ ○ ○ 那时我正在编印两种小丛书,一种是《乌合丛书》,专收创作,一种是《未名丛刊》,专收翻译,都由北新书局出版。出版者和读者的不喜欢翻译书,那时和现在也并不两样,所以《未名丛刊》是特别冷落的。恰巧,素园他们愿意绍介外国文学到中国来,便和李小峰商量,要将《未名丛刊》移出,由几个同人自办。小峰一口答应了,于是这一种丛书便和北新书局脱离。稿子是我们自己的,另筹了一笔印费,就算开始。因这丛书的名目,连社名也就叫了“未名”──但并非“没有名目”的意思,是“还没有名目”的意思,恰如孩子的“还未成丁”似的。 未名社的同人,实在并没有什么雄心和大志,但是,愿意切切实实的,点点滴滴的做下去的意志,却是大家一致的。而其中的骨干就是素园。 ○ ○ ○ ○ 于是他坐在一间破小屋子,就是未名社里办事了,不过小半好象也因为他生着病,不能上学校去读书,因此便天然的轮着他守寨。 我最初的记忆是在这破寨里看见了素园,一个瘦小,精明,正经的青年,窗前的几排破旧外国书,在证明他穷着也还是钉住着文学。然而,我同时又有了一种坏印象,觉得和他是很难交往的,因为他笑影少。“笑影少”原是未名社同人的一种特色,不过素园显得最分明,一下子就能够令人感得。但到后来,我知道我的判断是错误了,和他也并不难于交往。他的不很笑,大约是因为年龄的不同,对我的一种特别态度罢,可惜我不能化为青年,使大家忘掉彼我,得到确证了。这真相,我想,霁野他们是知道的。 但待到我明白了我的误解之后,却同时又发见了一个他的致命伤:他太认真;虽然似乎沉静,然而他激烈。认真会是人的致命伤的么?至少,在那时以至现在,可以是的。一认真,便容易趋于激烈,发扬则送掉自己的命,沉静着,又啮碎了自己的心。 ○ ○ ○ ○ 这里有一点小例子。──我们是只有小例子的。 那时候,因为段祺瑞总理和他的帮闲们的迫压,我已经逃到厦门,但北京的狐虎之威还正是无穷无尽。段派的女子师范大学校长林素园,带兵接收学校去了,演过全副武行之后,还指留着的几个教员为“共产党”。这个名词,一向就给有些人以“办事”上的便利,而且这方法,也是一种老谱,本来并不希罕的。但素园却好象激烈起来了,从此以后,他给我的信上,有好一晌竟憎恶“素园”两字而不用,改称为“漱园”。同时社内也发生了冲突,高长虹从上海寄信来,说素园压下了向培良的稿子,叫我讲一句话。我一声也不响。于是在《狂飙》上骂起来了,先骂素园,后是我。素园在北京压下了培良的稿子,却由上海的高长虹来抱不平,要在厦门的我去下判断,我颇觉得是出色的滑稽,而且一个团体,虽是小小的文学团体罢,每当光景艰难时,内部是一定有人起来捣乱的,这也并不希罕。然而素园却很认真,他不但写信给我,叙述着详情,还作文登在杂志上剖白。在“天才”们的法庭上,别人剖白得清楚的么?──我不禁长长的叹了一口气,想到他只是一个文人,又生着病,却这么拚命的对付着内忧外患,又怎么能够持久呢。自然,这仅仅是小忧患,但在认真而激烈的个人,却也相当的大的。 不久,未名社就被封,几个人还被捕。也许素园已经咯血,进了病院了罢,他不在内。但后来,被捕的释放,未名社也启封了,忽封忽启,忽捕忽放,我至今还不明白这是怎么的一个玩意。 ○ ○ ○ ○ 我到广州,是第二年── 一九二七年的秋初,仍旧陆续的接到他几封信,是在西山病院里,伏在枕头上写就的,因为医生不允许他起坐。他措辞更明显,思想也更清楚,更广大了,但也更使我担心他的病。有一天,我忽然接到一本书,是布面装订的素园翻译的《外套》。我一看明白,就打了一个寒噤:这明明是他送给我的一个纪念品,莫非他已经自觉了生命的期限了么? 我不忍再翻阅这一本书,然而我没有法。 我因此记起,素园的一个好朋友也咯过血,一天竟对着素园咯起来,他慌张失措,用了爱和忧急的声音命令道:“你不许再吐了!”我那时却记起了伊孛生的《勃兰特》。他不是命令过去的人,从新起来,却并无这神力,只将自己埋在崩雪下面的么?…… 我在空中看见了勃兰特和素园,但是我没有话。 ○ ○ ○ ○ 一九二九年五月末,我最以为侥幸的是自己到西山病院去,和素园谈了天。他为了日光浴,皮肤被晒得很黑了,精神却并不萎顿。我们和几个朋友都很高兴。但我在高兴中,又时时夹着悲哀:忽而想到他的爱人,已由他同意之后,和别人订了婚;忽而想到他竟连绍介外国文学给中国的一点志愿,也怕难于达到;忽而想到他在这里静卧着,不知道他自以为是在等候全愈,还是等候灭亡;忽而想到他为什么要寄给我一本精装的《外套》?…… 壁上还有一幅陀思妥也夫斯基的大画像。对于这先生,我是尊敬,佩服的,但我又恨他残酷到了冷静的文章。他布置了精神上的苦刑,一个个拉了不幸的人来,拷问给我们看。现在他用沉郁的眼光,凝视着素园和他的卧榻,好象在告诉我:这也是可以收在作品里的不幸的人。 自然,这不过是小不幸,但在素园个人,是相当的大的。 ○ ○ ○ ○ 一九三二年八月一日晨五时半,素园终于病殁在北平同仁医院里了,一切计画,一切希望,也同归于尽。我所抱憾的是因为避祸,烧去了他的信札,我只能将一本《外套》当作唯一的纪念,永远放在自己的身边。 ○ ○ ○ ○ 自素园病殁之后,转眼已是两年了,这其间,对于他,文坛上并没有人开口。这也不能算是希罕的,他既非天才,也非豪杰,活的时候,既不过在默默中生存,死了之后,当然也只好在默默中泯没。但对于我们,却是值得记念的青年,因为他在默默中支持了未名社。 未名社现在是几乎消灭了,那存在期,也并不长久。然而自素园经营以来,绍介了果戈理(N. Gogol),陀思妥也夫斯基(F. Dostoevsky),安特列夫(L. Andreev),绍介了望·蔼覃(F. van Eeden),绍介了爱伦堡(I. Ehrenburg)的《烟袋》和拉夫列涅夫(B. Lavrenev)的《四十一》。还印行了《未名新集》,其中有丛芜的《君山》,静农的《地之子》和《建塔者》,我的《朝华夕拾》,在那时候,也都还算是相当可看的作品。事实不为轻薄阴险小儿留情,曾几何年,他们就都已烟消火灭,然而未名社的译作,在文苑里却至今没有枯死的。 是的,但素园却并非天才,也非豪杰,当然更不是高楼的尖顶,或名园的美花,然而他是楼下的一块石材,园中的一撮泥土,在中国第一要它多。他不入于观赏者的眼中,只有建筑者和栽植者,决不会将他置之度外。 ○ ○ ○ ○ 文人的遭殃,不在生前的被攻击和被冷落,一瞑之后,言行两亡,于是无聊之徒,谬托知己,是非蜂起,既以自衒,又以卖钱,连死尸也成了他们的沽名获利之具,这倒是值得悲哀的。现在我以这几千字纪念我所熟识的素园,但愿还没有营私肥己的处所,此外也别无话说了。 我不知道以后是否还有记念的时候,倘止于这一次,那么,素园,从此别了! 一九三四年七月十六之夜,鲁迅记。 |
【韋素園君を憶う】
私にも記憶はある。しかし散りぢりで甚だ心許ない。自分の記憶は刃で削がれた魚の鱗のようなもので、いくらかは体に残り、いくらかは水に落ちた。水をかき回せば数枚がなお翻り、閃くけれども、血糸が混じっており、自分でも鑑賞家の目を汚しはしないかと恐れるのだ。 今、何人かの友が韋素園君を記念しようとしている。私もまた言葉を述べねばなるまい。そう、私にはその義務がある。身の外の水も一つかき混ぜて、どんなものが浮かび上がるか見るほかない。 ○ ○ ○ ○ もう十余年前のことだろうか、私は北京大学で講師をしていた。ある日、教員控室で、髪も髭もすべてやたらに伸ばした青年に出会った。それが李霽野である。私が素園を知ったのは、おそらく霽野の紹介であろうが、その時の情景は忘れてしまった。今、記憶に残っているのは、彼がすでに旅館の小部屋に座って出版を計画していたことだ。 この一間の小部屋が、すなわち未名社であった。 ○ ○ ○ ○ 当時、私は二種の小叢書を編んでいた。一つは『烏合叢書』で創作を専ら収め、一つは『未名叢刊』で翻訳を専ら収め、いずれも北新書局から出版していた。出版者も読者も翻訳書を嫌うのは、あの頃も今も変わらず、だから『未名叢刊』は格別に冷遇された。折よく素園たちが外国文学を中国に紹介したいと望み、李小峰と相談して『未名叢刊』を引き取り、同人で自主運営することにした。小峰は二つ返事で承諾し、かくしてこの叢書は北新書局から離れた。原稿は我々自身のもの、別途印刷費を工面して事業を始めた。この叢書の名にちなみ、社名も「未名」と呼んだ――ただし「名前がない」の意ではなく「まだ名前がない」の意で、あたかも子供の「まだ成人していない」ようなものだ。 未名社の同人には、実のところ何ら雄大な志があったわけではない。しかし着実に、一滴一滴と続けていこうという意志は、皆に共通であった。そしてその中の骨幹が素園であった。 ○ ○ ○ ○ かくして彼はこの破れた小部屋、すなわち未名社に座って仕事を始めた。もっとも半分は病を患っていて学校に通えなかったためでもあり、おのずと彼が番をすることになったのだ。 最初の記憶は、この破れた砦で素園に会ったこと。痩せて小柄で、聡明で、真面目な青年であった。窓辺に並ぶ数列の破れた洋書が、貧しくともなお文学に食らいついていることを証していた。しかし同時に悪い印象も受けた。彼とは交際しにくいと感じたのだ。笑顔が少なかったからだ。「笑顔が少ない」のは元来未名社同人の特色の一つだったが、素園が最も顕著で、一目で感じ取れた。しかし後になって、私の判断は誤りだったと知った。交際が難しいわけではなかった。笑わないのは、おそらく年齢の差によって私に対してとった一種の特別な態度であろう。残念ながら私は青年に化けてお互いの隔てを忘れさせ、確証を得ることはできなかった。この真相は、霽野たちなら知っているだろう。 だが、私が自分の誤解を悟った時、同時にまた彼の致命的な弱点を発見した。彼はあまりに真面目すぎるのだ。沈着に見えながら、その実激烈であった。真面目であることが人の致命傷になりうるのか。少なくとも、あの頃から今に至るまで、なりうるのだ。真面目であれば激烈に傾きやすく、それを発揚すれば命を落とし、沈黙していればまた自分の心を噛み砕くのである。 ○ ○ ○ ○ ここに一つの小さな例がある。――我々には小さな例しかないのだ。 あの頃、段祺瑞総理とその取り巻きの圧迫のために、私はすでに厦門に逃れていたが、北京の虎の威を借る狐どもの猛威は依然として尽きなかった。段派の女子師範大学校長林素園が兵を率いて学校を接収し、武芸を一通り演じた後、留任の数名の教員を「共産党」と指さした。この呼び名は以前からある種の人々に「事を運ぶ」便宜を与えてきたものであり、この方法もまた古い手口で、本来珍しくもない。しかし素園は激昂したようで、これ以降、彼が私に寄こす手紙には、しばらくの間「素園」の二字を嫌い、「漱園」と改めて名乗っていた。同時に社内にも衝突が起こり、高長虹が上海から手紙を寄こして、素園が向培良の原稿を握りつぶしたと言い、私に一言してくれと求めた。私は黙っていた。すると『狂飆』で罵り始め、まず素園を、次いで私を罵った。素園が北京で培良の原稿を握りつぶしたのを、上海の高長虹が義憤を抱いて、厦門にいる私に裁定を下せと言う。これはなかなか見事な滑稽ではないかと思った。しかもどんな団体でも、たとえ小さな文学団体であっても、苦境に立つと内部で必ず誰かが騒ぎ出す。これも珍しいことではない。しかし素園は真面目に受け止め、私に手紙を書いて詳しい事情を述べただけでなく、雑誌に文章まで発表して弁明した。「天才」たちの法廷で、弁明が通るものか――私は長い溜息をつかずにおれなかった。彼はただの文人で、しかも病を患っているのに、こうも命がけで内憂外患に対処していては、どうして長続きしようか。もちろんこれはほんの小さな憂患に過ぎないが、真面目で激烈な個人にとっては、それなりに大きなものなのだ。 間もなく未名社は封鎖され、数人は逮捕もされた。おそらく素園はすでに喀血して病院に入っていたのだろう、彼はその中にいなかった。だが後に、逮捕された者は釈放され、未名社も封鎖が解かれた。封じたり解いたり、捕えたり放したり、私は今もってこれがどういう手品なのかわからない。 ○ ○ ○ ○ 私が広州に着いたのは翌年――一九二七年の秋の初めで、相変わらず彼から数通の手紙を受け取った。西山病院で枕に伏して書いたもので、医者が起き上がることを許さなかったからだ。措辞はさらに明晰で、思考もさらに明瞭に、さらに広大になっていたが、それだけに彼の病がいっそう心配になった。ある日、突然一冊の本が届いた。布装丁の素園訳『外套』であった。一目見て理解した途端、寒気がした。これは明らかに彼が私に送った記念品ではないか、まさか彼はすでに自分の命の期限を悟ったのではあるまいか。 私はもうこの本を開く気にはなれなかった。しかしどうしようもなかった。 これによって思い出したのだが、素園の親しい友人の一人もかつて喀血したことがあった。ある日、素園の目の前で喀血し始め、彼は慌てふためき、愛と憂いと焦りの込もった声で命じた。「もう吐くな!」 その時、私はイプセンの『ブラント』を思い出した。彼は過ぎ去った者に命じて甦らせようとしたが、その力はなく、ただ自分が雪崩の下に埋もれたのではなかったか……。 私は虚空にブラントと素園を見た。しかし私には言葉がなかった。 ○ ○ ○ ○ 一九二九年五月末、最も幸いだったのは自ら西山病院に赴いて素園と語らったことだ。彼は日光浴のために肌がかなり黒く焼けていたが、気力は衰えていなかった。我々と数人の友は皆とても喜んだ。だが喜びの中に、私は時折悲しみが混じるのを覚えた。ふと彼の恋人が、彼の同意を得た上で、別の人と婚約したことを思い出す。ふと彼が、外国文学を中国に紹介するというささやかな志すら、おそらく果たし難いことを思い出す。ふとここに横たわる彼が、自分では全快を待っているつもりなのか、それとも滅亡を待っているのかと思い出す。ふと彼がなぜ私に精装の『外套』を送ってきたのかと思い出す……。 壁にはなおドストエフスキーの大きな肖像画がかかっていた。この先生に対して、私は尊敬し、敬服している。だが同時に、冷徹に至るまで残酷な文章を恨みもする。彼は精神の拷問を仕組み、不幸な人を一人一人引き出して、我々の目の前で問い詰めて見せた。今、彼は沈鬱な眼差しで素園とその病床を凝視し、まるで私に告げているようであった。これもまた作品に収めうる不幸な人間なのだと。 もちろんこれはほんの小さな不幸に過ぎない。だが素園個人にとっては、それなりに大きかったのだ。 ○ ○ ○ ○ 一九三二年八月一日、朝五時半、素園はついに北平同仁医院で病没した。一切の計画、一切の希望も、共に帰した。私が憾みに思うのは、禍を避けるために彼の書簡を焼いてしまったことで、私はただ一冊の『外套』を唯一の記念として、永く手元に置くしかないのだ。 ○ ○ ○ ○ 素園の病没から、瞬く間にもう二年が過ぎた。この間、文壇では彼について誰も口を開かなかった。これも珍しいこととは言えない。彼は天才でもなく豪傑でもなく、生きている時もただ黙々と生存していたのだから、死んでからも当然、黙々と埋もれるしかない。だが我々にとっては、記念に値する青年なのだ。彼が黙々として未名社を支えたのだから。 未名社は今やほとんど消滅し、その存在期間も長くはなかった。しかし素園が経営して以来、ゴーゴリ(N. Gogol)を、ドストエフスキー(F. Dostoevsky)を、アンドレーエフ(L. Andreev)を紹介し、ヴァン・エーデン(F. van Eeden)を紹介し、エレンブルグ(I. Ehrenburg)の『煙管』とラヴレニョーフ(B. Lavrenev)の『四十一』を紹介した。また『未名新集』を刊行し、その中には叢蕪の『君山』、静農の『地の子』と『塔を建つる者』、私の『朝花夕拾』があり、当時としてはそれなりに読むに足る作品であった。事実は軽薄陰険な小人に容赦せず、いくばくもなく彼らは皆煙消火滅したが、未名社の訳業は文苑においてなお枯れていないのだ。 然り、素園は天才でもなく、豪傑でもなく、まして高楼の尖頂や名園の美花でもなかった。しかし彼は楼下の一塊の礎石であり、園中の一掬の泥土であった。中国に最も必要なのはこうした存在である。鑑賞者の目には入らぬが、建築者と栽培者は決して彼を度外に置くことはない。 ○ ○ ○ ○ 文人の災難は、生前の攻撃や冷遇にあるのではない。瞑目の後、言行ともに亡び、そこに無聊の徒が知己を僭称して是非紛々と起こし、自らを衒い、かつ金を稼ぎ、死骸までもが彼らの名を売り利を得る道具となる。これこそ悲しむべきことだ。今、私はこの数千字で親しく知った素園を記念するが、願わくばなお私利私欲の混じる箇所のなからんことを。他に言うべきこともない。 この後なお記念の時があるかどうかわからない。もしこの一度きりなら、素園よ、これにてお別れだ。 一九三四年七月十六日の夜、魯迅記す。 |
第22節
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【忆刘半农君】
这是小峰出给我的一个题目。 这题目并不出得过分。半农去世,我是应该哀悼的,因为他也是我的老朋友。但是,这是十来年前的话了,现在呢,可难说得很。 我已经忘记了怎么和他初次会面,以及他怎么能到了北京。他到北京,恐怕是在《新青年》投稿之后,由蔡孑民先生或陈独秀先生去请来的,到了之后,当然更是《新青年》里的一个战士。他活泼,勇敢,很打了几次大仗。譬如罢,答王敬轩的双信,“她”字和“牠”字的创造,就都是的。这两件,现在看起来,自然是琐屑得很,但那是十多年前,单是提倡新式标点,就会有一大群人“若丧考妣”,恨不得“食肉寝皮”的时候,所以的确是“大仗”。现在的二十左右的青年,大约很少有人知道三十年前,单是剪下辫子就会坐牢或杀头的了。然而这曾经是事实。 但半农的活泼,有时颇近于草率,勇敢也有失之无谋的地方。但是,要商量袭击敌人的时候,他还是好伙伴,进行之际,心口并不相应,或者暗暗的给你一刀,他是决不会的。倘若失了算,那是因为没有算好的缘故。 《新青年》每出一期,就开一次编辑会,商定下一期的稿件。其时最惹我注意的是陈独秀和胡适之。假如将韬略比作一间仓库罢。独秀先生的是外面竖一面大旗,大书道:“内皆武器,来者小心!”但那门却开着的,里面有几枝枪,几把刀,一目了然,用不着提防。适之先生的是紧紧的关着门,门上粘一条小纸条道:“内无武器,请勿疑虑。”这自然可以是真的,但有些人──至少是我这样的人──有时总不免要侧着头想一想。半农却是令人不觉其有“武库”的一个人,所以我佩服陈、胡,却亲近半农。 所谓亲近,不过是多谈闲天,一多谈,就露出了缺点。几乎有一年多,他没有消失掉从上海带来的才子必有“红袖添香夜读书”的艳福的思想,好容易才给我们骂掉了。但他好象到处都这么的乱说,使有些“学者”皱眉。有时候,连到《新青年》投稿都被排斥。他很勇于写稿,但试去看旧报去,很有几期是没有他的。那些人们批评他的为人,是:浅。 不错,半农确是浅。但他的浅,却如一条清溪,澄澈见底,纵有多少沉渣和腐草,也不掩其大体的清。倘使装的是烂泥,一时就看不出它的深浅来了。如果是烂泥的深渊呢,那就更不如浅一点的好。 但这些背后的批评,大约是很伤了半农的心的,他的到法国留学,我疑心大半就为此。我最懒于通信,从此我们就疏远起来了。他回来时,我才知道他在外国钞古书,后来也要标点《何典》,我那时还以老朋友自居,在序文上说了几句老实话,事后,才知道半农颇不高兴了,“驷不及舌”,也没有法子。另外还有一回关于《语丝》的彼此心照的不快活。五六年前,曾在上海的宴会上见过一回面,那时候,我们几乎已经无话可谈了。 近几年,半农渐渐的据了要津,我也渐渐的更将他忘却;但从报章上看见他禁称“蜜斯”之类,却很起了反感:我以为这些事情是不必半农来做的。从去年来,又看见他不断的做打油诗,弄烂古文,回想先前的交情,也往往不免长叹。我想,假如见面,而我还以老朋友自居,不给一个“今天天气……哈哈哈”完事,那就也许会弄到冲突罢。 不过,半农的忠厚,是还使我感动的。我前年曾到北平,后来有人通知我,半农是要来看我的,有谁恐吓了他一下,不敢来了。这使我很惭愧,因为我到北平后,实在未曾有过访问半农的心思。 现在他死去了,我对于他的感情,和他生时也并无变化。我爱十年前的半农,而憎恶他的近几年。这憎恶是朋友的憎恶,因为我希望他常是十年前的半农,他的为战士,即使“浅”罢,却于中国更为有益。我愿以愤火照出他的战绩,免使一群陷沙鬼将他先前的光荣和死尸一同拖入烂泥的深渊。
(八月一日。) |
【劉半農君を憶う】
これは小峰が私に出した題目である。 この題目は過分ではない。半農の逝去に際し、私は哀悼すべきであろう。彼もまた私の旧い友人だったからだ。しかし、それは十年余り前のことであり、今はと言えば、何とも言い難い。 彼と最初にどう会ったか、また彼がどうやって北京に来たのか、すでに忘れてしまった。彼が北京に来たのは、おそらく『新青年』に投稿した後、蔡孑民先生か陳独秀先生に招かれたのだろう。着いてからは当然『新青年』の戦士の一人となった。彼は活発で勇敢で、何度かの大戦を戦った。たとえば王敬軒への双方書簡、「她」(彼女)と「牠」(それ)の字の創造がそうだ。この二件は今見れば確かに些末なことだが、あれは十数年前、ただ新式句読点を提唱しただけで大勢が「若喪考妣」の如く嘆き、「食肉寝皮」を望まんばかりだった時代のことだから、確かに「大戦」であったのだ。今の二十歳前後の青年には、三十年前、ただ辮髪を切るだけで投獄されたり斬首されたりしたことを知る者はほとんどあるまい。しかしこれはかつての事実であった。 ただ半農の活発さは時に粗雑に近く、勇敢さにも無謀に失するところがあった。しかし敵を襲う相談をする時には、彼はやはり良い仲間であり、事の進行中に口と心が一致せず、あるいは陰で刺すようなことは決してしなかった。もし計略が外れたなら、それは計算が甘かったからにすぎない。 『新青年』は一号出すたびに編集会議を開き、次号の原稿を決めた。その時最も私の注意を引いたのは陳独秀と胡適之であった。仮に韜略を一つの倉庫に喩えるなら、独秀先生のそれは外に大旗を立て、大書して曰く「中はすべて武器、来る者注意せよ!」。しかし扉は開いており、中に何挺かの銃、何振りかの刀があるのが一目瞭然で、警戒の必要もない。適之先生のそれは扉を堅く閉ざし、扉に小さな紙切れを貼って曰く「中に武器なし、ご安心あれ。」。これはもちろん本当かもしれないが、一部の人々――少なくとも私のような人間は――時に首を傾げて考えずにはおれない。半農は「武庫」を感じさせない人であった。だから私は陳・胡を敬服したが、半農にはより親しみを覚えた。 親しいとは、雑談が増えるということで、雑談が増えれば欠点も露わになる。ほぼ一年余り、彼は上海から持ってきた「才子には必ず紅袖添香の夜読書あり」という艶福の思想を拭い去れなかったが、ようやく我々に叱り飛ばされて捨てた。しかし彼はどこでもこんな調子で言いふらしていたようで、ある種の「学者」を顰蹙させた。時には『新青年』への投稿さえ排斥された。彼は投稿に熱心だったが、旧い新聞を見れば、彼の載っていない号がかなりある。人々が彼の人柄を評して言ったのは、「浅い」ということであった。 その通り、半農は確かに浅い。だが彼の浅さは一条の清い渓流のごとく、澄み切って底まで見える。たとえいくらかの沈殿や腐った草があっても、全体の清さを損なうことはない。もし泥水が満ちていたなら、深さはすぐにはわからぬだろう。もし泥の深淵であるなら、浅い方がまだましではないか。 しかしこうした陰での批評は、おそらく半農の心をかなり傷つけたのだろう。彼がフランスに留学したのは、大半はこれが原因ではないかと私は疑う。私は最も通信を怠る質で、それ以来我々は疎遠になった。帰国した時、彼が外国で古書を筆写していたことを初めて知り、後に『何典』に句読をつけようともした。私はまだ旧友のつもりで序文にいくつか率直なことを書いたが、事後に半農がかなり不快に思っていると知った。「駟も舌に及ばず」で、どうしようもなかった。他にもう一度、『語糸』をめぐって心中お互いにわかっている不愉快があった。五、六年前、上海の宴席で一度顔を合わせたが、その時にはもうほとんど話すことがなくなっていた。 近年、半農は次第に要職に就き、私もまた次第に彼を忘れがちになった。だが新聞で「ミス」の呼称を禁じた類のことを見ると、かなり反感を覚えた。こうしたことは半農がすべきではないと思ったのだ。昨年からまた、彼が絶えず打油詩を作り、腐った古文をいじっているのを見て、かつての交情を思い返せば、長い溜息をつかずにはいられなかった。思うに、もし会って私がなお旧友のつもりで「今日はいい天気で……ハハハ」で済ませなければ、あるいは衝突にまで至ったかもしれない。 だが、半農の忠厚さはなお私を感動させた。一昨年私が北平に行った折、後で聞いたところによれば、半農は私を訪ねようとしていたが、誰かに一つ脅かされて来なかったという。これには私もまことに恥じ入った。私は北平に着いてから、実のところ半農を訪ねようという気持ちを持ったことがなかったのだから。 今、彼はこの世を去った。彼に対する私の感情は、生前と変わらない。私は十年前の半農を愛し、近年の彼を憎む。この憎しみは友の憎しみである。彼がいつまでも十年前の半農であってほしかったからだ。戦士としての彼は、たとえ「浅く」とも、中国にとってはるかに有益であった。私は憤怒の炎をもって彼の戦績を照らし出し、一群の流砂の鬼どもが彼の先年の光栄と死骸をともに泥の深淵に引きずり込むのを防ぎたいのだ。
(八月一日。) |
第23節
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【答曹聚仁先生信】
聚仁先生: 关于大众语的问题,提出得真是长久了,我是没有研究的,所以一向没有开过口。但是现在的有些文章觉得不少是“高论”,文章虽好,能说而不能行,一下子就消灭,而问题却依然如故。 现在写一点我的简单的意见在这里: 一、汉字和大众,是势不两立的。 二、所以,要推行大众语文,必须用罗马字拼音(即拉丁化,现在有人分为两件事,我不懂是怎么一回事),而且要分为多少区,每区又分为小区(譬如绍兴一个地方,至少也得分为四小区),写作之初,纯用其地的方言,但是,人们是要前进的,那时原有方言一定不够,就只好采用白话,欧字,甚而至于语法。但,在交通繁盛,言语混杂的地方,又有一种语文,是比较普通的东西,它已经采用着新字汇,我想,这就是“大众语”的雏形,它的字汇和语法,即可以输进穷乡僻壤去。中国人是无论如何,在将来必有非通几种中国语不可的运命的,这事情,由教育与交通,可以办得到。 三、普及拉丁化,要在大众自掌教育的时候。现在我们所办得到的是:(甲)研究拉丁化法;(乙)试用广东话之类,读者较多的言语,做出东西来看;(丙)竭力将白话做得浅豁,使能懂的人增多,但精密的所谓“欧化”语文,仍应支持,因为讲话倘要精密,中国原有的语法是不够的,而中国的大众语文,也决不会永久含胡下去。譬如罢,反对欧化者所说的欧化,就不是中国固有字,有些新字眼,新语法,是会有非用不可的时候的。 四、在乡僻处启蒙的大众语,固然应该纯用方言,但一面仍然要改进。譬如“妈的”一句话罢,乡下是有许多意义的,有时骂骂,有时佩服,有时赞叹,因为他说不出别样的话来。先驱者的任务,是在给他们许多话,可以发表更明确的意思,同时也可以明白更精确的意义。如果也照样的写着“这妈的天气真是妈的,妈的再这样,什么都要妈的了。”那么于大众有什么益处呢? 五、至于已有大众语雏形的地方,我以为大可以依此为根据而加以改进,太僻的土语,是不必用的。例如上海叫“打”为“吃生活”,可以用于上海人的对话,却不必特用于作者的叙事中,因为说“打”,工人也一样的能够懂。有些人以为如“像煞有介事”之类,已经通行,也是不确的话,北方人对于这句话的理解,和江苏人是不一样的,那感觉并不比“俨乎其然”切实。 语文和口语不能完全相同;讲话的时候,可以夹许多“这个这个”“那个那个”之类,其实并无意义,到写作时,为了时间、纸张的经济,意思的分明,就要分别删去的,所以文章一定应该比口语简洁,然而明了,有些不同,并非文章的坏处。 所以现在能够实行的,我以为是(一)制定罗马字拼音(赵元任的太繁,用不来的);(二)做更浅显的白话文,采用较普通的方言,姑且算是向大众语去的作品,至于思想,那不消说,该是“进步”的;(三)仍要支持欧化文法,当作一种后备。 还有一层,是文言的保护者,现在也有打了大众语的旗子的了,他一方面,是立论极高,使大众语悬空,做不得;别一方面,借此攻击他当面的大敌──白话。这一点也须注意的。要不然,我们就会自己缴了自己的械。专此布复,即颂 时绥。
迅上。八月二日。 |
【曹聚仁先生への返信】
聚仁先生、 大衆語の問題は、提起されてからずいぶん長くなりましたが、私は研究していないので、これまで口を開いたことがありません。しかし昨今の文章には「高論」が少なくないように思われます。文章としては立派だが、言えても行えず、たちまち消えてしまい、問題は依然そのままです。 ここに私の簡単な意見を記します。 一、漢字と大衆とは、両立しえない。 二、したがって大衆語文を推進するには、ローマ字拼音(すなわちラテン化。今これを二つの事柄に分ける人がいるが、私にはよくわからない)を用いねばならず、しかもいくつかの区域に分け、各区域をさらに小区域に分ける(たとえば紹興一つとっても少なくとも四小区域に分けねばならない)。書き始めは純粋にその地の方言を用いるが、人間は前進するものだから、やがて在来の方言だけでは足りなくなり、白話や外来語、さらには語法まで採り入れるほかなくなる。しかし交通の盛んな言語混交の地には、比較的普通の語文がすでに存在し、新しい語彙をすでに採り入れている。これが「大衆語」の雛形であり、その語彙と語法を窮郷僻壤にも輸入しうるだろう。中国人はいずれにせよ将来、数種の中国語に通じざるをえない運命にあり、教育と交通によって実現できるのだ。 三、ラテン化の普及は、大衆が自ら教育を掌握する時にこそ可能となる。今我々にできることは、(甲)ラテン化法の研究、(乙)広東語のような読者の比較的多い言語で試作し世に問うこと、(丙)白話をできる限り平易明快に書いて理解者を増やすこと。ただし精密な所謂「欧化」語文は引き続き支持すべきである。話を精密にしようとすれば中国固有の語法では足りず、中国の大衆語文も永遠に曖昧のままではないからだ。たとえば欧化反対者の言う「欧化」という語自体が中国固有の語ではなく、ある種の新語・新語法にはどうしても使わざるをえない時が来るのだ。 四、窮郷僻壤での啓蒙の大衆語は、もちろん方言を純粋に用いるべきだが、同時に改良も必要だ。たとえば「媽的」の一語は、田舎ではいくつもの意味を持ち、時に罵り、時に感心し、時に嘆くが、他に言い方を知らないからだ。先駆者の任務は、彼らに多くの言葉を与え、より明確な意思を表現でき、同時により精確な意味を理解できるようにすることだ。もし同じように「この畜生の天気はまったく畜生で、畜生にもこれ以上やれば全部畜生だ」と書くなら、大衆に何の益があるか。 五、すでに大衆語の雛形がある地方では、これを基礎にして改良すべきであり、あまりに僻地の土語を用いる必要はないと思う。たとえば上海で「打つ」を「吃生活」と言うのは上海人の会話には使えるが、作者の叙事に特に用いる必要はない。「打つ」と言っても労働者は同様に理解できるからだ。「像煞有介事」のような表現がすでに通用していると言う者もいるが、それは不正確で、北方の人がこの句に抱く感覚は江蘇の人とは異なり、「儼乎其然」より切実とは言えない。 語文と口語は完全には一致しえない。話す時には「あの」「この」のような無意味な言葉がいくらでも挟まるが、書く段になれば、時間と紙の節約のため、意味の明晰のために、取捨選択して削除せねばならない。だから文章は口語より簡潔であるべきであり、しかも明瞭であるべきだ。多少の違いは文章の欠点ではないのである。 そこで今実行できることは、(一)ローマ字拼音の制定(趙元任のものは繁雑すぎて使いこなせない)、(二)より平易な白話文を書き、比較的普通の方言を採用し、さしあたり大衆語への作品と見なすこと。思想は言うまでもなく「進歩的」であるべきだ。(三)欧化文法はなお後備として堅持すべきである。 もう一つ、文言の擁護者で今や大衆語の旗を掲げている者がいることだ。彼らは一方で極めて高尚な議論を唱えて大衆語を宙に浮かせ実行不能にし、他方でこれに乗じて当面の大敵たる白話を攻撃する。この点も注意すべきであり、さもなくば我々は自ら武器を返上することになる。以上をもって返信に代え、 時節柄ご自愛を。
迅、上。八月二日。 |
第24節
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【从孩子的照相说起】
因为长久没有小孩子,曾有人说,这是我做人不好的报应,要绝种的。房东太太讨厌我的时候,就不准她的孩子们到我这里玩,叫作“给他冷清冷清,冷清得他要死!”但是,现在却有了一个孩子,虽然能不能养大也很难说,然而目下总算已经颇能说些话,发表他自己的意见了。不过不会说还好,一会说,就使我觉得他仿佛也是我的敌人。 他有时对于我很不满,有一回,当面对我说:“我做起爸爸来,还要好……”甚而至于颇近于“反动”,曾经给我一个严厉的批评道:“这种爸爸,什么爸爸!?” 我不相信他的话。做儿子时,以将来的好父亲自命,待到自己有了儿子的时候,先前的宣言早已忘得一干二净了。况且我自以为也不算怎么坏的父亲,虽然有时也要骂,甚至于打,其实是爱他的。所以他健康,活泼,顽皮,毫没有被压迫得瘟头瘟脑。如果真的是一个“什么爸爸”,他还敢当面发这样反动的宣言么? 但那健康和活泼,有时却也使他吃亏,九一八事件后,就被同胞误认为日本孩子,骂了好几回,还挨过一次打──自然是并不重的。这里还要加一句说的听的,都不十分舒服的话:近一年多以来,这样的事情可是一次也没有了。 中国和日本的小孩子,穿的如果都是洋服,普通实在是很难分辨的。但我们这里的有些人,都有一种错误的速断法:温文尔雅,不大言笑,不大动弹的,是中国孩子;健壮活泼,不怕生人,大叫大跳的,是日本孩子。 然而奇怪,我曾在日本的照相馆里给他照过一张相,满脸顽皮,也真像日本孩子;后来又在中国的照相馆里照了一张相,相类的衣服,然而面貌很拘谨,驯良,是一个道地的中国孩子了。 为了这事,我曾经想了一想。 这不同的大原因,是在照相师的。他所指示的站或坐的姿势,两国的照相师先就不相同,站定之后,他就瞪了眼睛,机摄取他以为最好的一刹那的相貌。孩子被摆在照相机的镜头之下,表情是总在变化的,时而活泼,时而顽皮,时而驯良,时而拘谨,时而烦厌,时而疑惧,时而无畏,时而疲劳……。照住了驯良和拘谨的一刹那的,是中国孩子相;照住了活泼或顽皮的一刹那的,就好象日本孩子相。 驯良之类并不是恶德。但发展开去,对一切事无不驯良,却决不是美德,也许简直倒是没出息。“爸爸”和前辈的话,固然也要听的,但也须说得有道理。假使有一个孩子,自以为事事都不如人,鞠躬倒退;或者满脸笑容,实际上却总是阴谋暗箭,我实在宁可听到当面骂我“什么东西”的爽快,而且希望他自己是一个东西。 但中国一般的趋势,却只在向驯良之类──“静”的一方面发展,低眉顺眼,唯唯诺诺,才算一个好孩子,名之曰“有趣”。活泼,健康,顽强,挺胸仰面……凡是属于“动”的,那就未免有人摇头了,甚至于称之为“洋气”。又因为多年受着侵略,就和这“洋气”为仇;更进一步,则故意和这“洋气”反一调:他们活动,我偏静坐;他们讲科学,我偏扶乩;他们穿短衣,我偏着长衫;他们重卫生,我偏吃苍蝇;他们壮健,我偏生病……这才是保存中国固有文化,这才是爱国,这才不是奴隶性。 其实,由我看来,所谓“洋气”之中,有不少是优点,也是中国人性质中所本有的,但因了历朝的压抑,已经萎缩了下去,现在就连自己也莫名其妙,统统送给洋人了。这是必须拿它回来──恢复过来的──自然还得加一番慎重的选择。 即使并非中国所固有的罢,只要是优点,我们也应该学习。即使那老师是我们的仇敌罢,我们也应该向他学习。我在这里要提出现在大家所不高兴说的日本来,他的会摹仿,少创造,是为中国的许多论者所鄙薄的,但是,只要看看他们的出版物和工业品,早非中国所及,就知道“会摹仿”决不是劣点,我们正应该学习这“会摹仿”的。“会摹仿”又加以有创造,不是更好么?否则,只不过是一个“恨恨而死”而已。 我在这里还要附加一句象是多余的声明:我相信自己的主张,决不是“受了帝国主义者的指使”,要诱中国人做奴才;而满口爱国,满身国粹,也于实际上的做奴才并无妨碍。
(八月七日。) |
【子供の写真から話を始める】
長らく子供がいなかったので、これは私の行いが悪い報いで、断種するのだと言う者がいた。大家の女将が私を嫌っている時は、自分の子供たちを私のところに遊びに来させず、「あいつを寂しくさせてやれ、寂しさで死なせてやれ」と言ったものだ。しかし今はもう一人子供ができた。無事に育てられるかどうかも甚だ心許ないが、目下のところはかなりものを言い、自分の意見を表明できるようになった。もっとも、まだ話せないうちは良かったが、話せるようになると、彼もまた私の敵のように感じられるのだ。 彼は時に私に大いに不満で、ある時は面と向かって「僕がパパになったら、もっと上手くやるよ……」と言い、さらにはかなり「反動的」で、かつて私に厳しい批評を下した。「こんなパパ、何がパパだ!」 私は彼の言葉を信じない。息子の時に将来の良き父を自任しても、自分に息子ができた時には先の宣言などとうに忘れている。しかも私は自分でもそう悪い父親ではないと思っている。時には叱り、さらには叩くこともあるが、実は愛しているのだ。だから彼は健康で、活発で、腕白で、少しも萎縮していない。もし本当に「何がパパ」なら、面と向かってこんな反動的宣言をする勇気があるだろうか。 だがその健康と活発さが、時に彼に損をさせることもある。九一八事変の後、同胞に日本の子供と間違えられ、何度も罵られ、一度は殴られさえした――もちろん大したことはなかったが。ここでさらに一言、言う方も聞く方もあまり気持ちの良くないことを付け加えておく。最近一年余り、こうしたことは一度もなくなった。 中国と日本の子供は、ともに洋服を着ていれば、普通は見分けがたい。だがここの一部の人々は、一種の誤った速断法を持っている。おとなしくて笑いも動きも少ないのは中国の子供、壮健で活発で人見知りせず大声で叫んだり跳ねたりするのは日本の子供、と。 ところが不思議なことに、私はかつて日本の写真館で彼を撮ったことがあるが、満面の腕白さで、確かに日本の子供のように見えた。後に中国の写真館でも一枚撮ったが、同じような服装なのに顔つきはとても窮屈で従順で、道地の中国の子供であった。 このことについて、私は少し考えてみた。 この違いの大きな原因は写真師にある。彼が指示する立ち方や座り方の姿勢からして、両国の写真師は異なり、姿勢が決まると、彼は目を見開いて、最も良いと思う一瞬の表情を撮る。子供はカメラの前に据えられると、表情は絶えず変化する。活発な時もあれば腕白な時も、従順な時も窮屈な時も、退屈な時も恐れる時も、臆さぬ時も疲れた時もある……。従順で窮屈な一瞬を撮れば中国の子供の写真となり、活発や腕白な一瞬を撮れば日本の子供の写真に見えるのだ。 従順の類は悪い徳目ではない。だがそれが発展して、あらゆる事に従順というのでは決して美徳ではなく、むしろ不甲斐ないと言うべきだろう。「パパ」や先輩の言葉も、もちろん聞くべきだが、道理に適っていなければならない。もし一人の子供が、万事人に劣ると自認し鞠躬して退くか、あるいは満面の笑みの裏で実は陰謀暗箭を弄するなら、私はむしろ面と向かって「何者だ」と罵る痛快さの方を好む。そして彼自身が一個の「何者か」であることを望む。 だが中国の一般的趨勢は、ただ従順の類――「静」の方面へと発展するばかりだ。眉を伏せ目を垂れ、唯々諾々として初めて良い子とされ、「面白い」と称される。活発で、健康で、頑強で、胸を張って顔を上げる……およそ「動」に属するものは、首を振る者が出てき、甚だしくは「洋風」と呼ばれる。さらに長年侵略を受けてきたので、この「洋風」を仇と見做し、ことさらに「洋風」の逆を行く。彼らが活動すれば、私は偏に静坐する。彼らが科学を講じれば、私は偏に扶乩する。彼らが短衣を着れば、私は偏に長衫を着る。彼らが衛生を重んじれば、私は偏に蝿を食う。彼らが壮健なら、私は偏に病む……。これこそ中国固有の文化を守ることであり、これこそ愛国であり、これこそ奴隷根性ではないのだと。 実のところ私の見るかぎり、所謂「洋風」の中には優れた点が少なくなく、それは中国人の性質に元来備わっていたものでもあるが、歴代の抑圧によってすでに萎縮してしまい、今では自分でも訳がわからなくなって、一括りに洋人に差し上げてしまったのだ。これは取り戻さねばならない――回復させねばならない――もちろん慎重な選択を加えた上でだ。 たとえ中国に固有でないものであっても、優れた点であるなら学ぶべきだ。たとえその教師が我々の仇敵であっても、学ぶべきだ。ここで今皆があまり口にしたがらない日本を持ち出したい。彼の国の模倣が得意で創造が少ないことは、中国の多くの論者に軽蔑されているが、その出版物と工業製品を見さえすれば、とうに中国の及ぶところではなく、「模倣が得意」は決して劣った点ではないとわかる。我々はまさにこの「模倣が得意」を学ぶべきなのだ。「模倣が得意」な上にさらに創造力が加わるならば、それこそ素晴らしいではないか。さもなくば「恨み恨みて死ぬ」だけのことだ。 ここに蛇足のような声明を付け加えておく。私は自分の主張が「帝国主義者の指図を受けて」中国人を奴隷にしようとするものでは断じてないと確信している。そして愛国を満口に国粋を満身にまとっても、実際に奴隷となることには何ら妨げがないのだ。
(八月七日。) |
第25節
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【门外文谈】 |
【門外文談】 |
第26節
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【一 开头】
听说今年上海的热,是六十年来所未有的。白天出去混饭,晚上低头回家,屋子里还是热,并且加上蚊子,这时候,只有门外是天堂。因为海边的缘故罢,总有些风,用不着挥扇。虽然彼此有些认识,却不常见面的寓在四近的亭子间或搁楼里的邻人也都坐出来了,他们有的是店员,有的是书局里的校对员,有的是制图工人的好手。大家都已经做得筋疲力尽,叹着苦,但这时总还算有闲的,所以也谈闲天。 闲天的范围也并不小:谈旱灾,谈求雨,谈吊膀子,谈三寸怪人干,谈洋米,谈裸腿,也谈古文,谈白话,谈大众语。因为我写过几篇白话文,所以关于古文之类他们特别要听我的话,我也只好特别说的多。这样的过了两三夜,才给别的话岔开,也总算谈完了。不料过了几天之后,有几个还要我写出来。 他们里面,有的是因为我看过几本古书,所以相信我的,有的是因为我看过一点洋书,有的又因为我看古书也看洋书;但有几位却因此反不相信我,说我是蝙蝠。我说到古文,他就笑道,你不是唐、宋八大家,能信么?我谈到大众语,他又笑道:你又不是劳苦大众,讲什么海话呢? 这也是真的。我们讲旱灾的时候,就讲到一位老爷下乡查灾,说有些地方是本可以不成灾的,现在成灾,是因为农民懒,不戽水。但一种报上,却记着一个六十老翁,因儿子戽水乏力而死,灾象如故,无路可走,自杀了。老爷和乡下人,意见是真有这么的不同的。那么,我的夜谈,恐怕也终不过是一个门外闲人的空话罢了。 飓风过后,天气也凉爽了一些,但我终于照着希望我写的几个人的希望,写出来了,比口语简单得多,大致却无异,算是抄给我们一流人看的。当时只凭记忆,乱引古书,说话是耳边风,错点不打紧,写在纸上,却使我很踌躇,但自己又苦于没有原书可对,这只好请读者随时指正了。 一九三四年,八月十六夜,写完并记。 |
【一 はじめに】
聞くところでは、今年の上海の暑さは六十年来未曾有だという。昼は飯の種を稼ぎに出て、夜うなだれて帰れば家の中はまだ暑く、しかも蚊がいる。こんな時、門の外だけが天国だ。海辺のせいか、いくらかの風があり、扇を振るにも及ばない。互いに多少の面識はあるが、ふだんあまり顔を合わせない、近所の三階の間借りや屋根裏に住む人々も皆出てくる。ある者は店員、ある者は出版社の校正係、ある者は製図工の腕利きだ。皆すでにくたくたに疲れ果て、苦しみを嘆くが、今はまだいくらか暇なので、雑談もする。 雑談の範囲も狭くはない。旱魃のこと、雨乞いのこと、女をくどくこと、三寸の怪人の話、外米のこと、露出した脚のこと、古文のこと、白話のこと、大衆語のこと。私がいくらか白話文を書いたことがあるので、古文の類については特に私の話を聞きたがり、私も特に多く話さざるをえなかった。こうして二、三晩が過ぎ、ようやく他の話題にそれて、一応は話し終えた。ところが数日後、何人かがまた書いてくれと言い出した。 彼らの中には、私が古書を多少読んでいるから信じるという者もおり、洋書を多少見ているから信じるという者もおり、古書も洋書も見ているからこそという者もいた。だが数人は逆にそれゆえ信じないと言い、私を蝙蝠だと言った。私が古文の話をすると、笑って言う。「あなたは唐宋八大家じゃないのに、信じられるか。」私が大衆語の話をすると、また笑う。「あなたは苦労する大衆でもないのに、何をほら吹いているんだ。」 それもその通りだ。旱魃の話をした時、ある役人が田舎に災害調査に行って、あるところは元来災害にならなくても済んだのに、農民が怠けて水を汲まないから災害になったのだと言った話をした。ところがある新聞には、六十歳の老人が息子に水汲みの疲労で死なれ、災害の様は変わらず、もはや行く道もなく自殺したと記してあった。役人と田舎の人間の意見はかくも違うのだ。してみれば、私の夜話も結局は門外の閑人の空言に過ぎまい。 颶風が過ぎて天気もいくらか涼しくなったが、私は結局、書いてくれと望む何人かの望みどおりに書き上げた。口語よりずっと簡潔だが、大意は同じであり、我々のような読者向けに写したものである。当時は記憶だけを頼りにでたらめに古書を引いた。話は耳から耳へ、少々間違っても大したことはないが、紙に書くとなると躊躇される。しかし自分に原典がないのだから、読者の随時のご指正を乞うほかない。 一九三四年、八月十六日夜、書き終えて記す。 |
第27節
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【二 字是什么人造的?】
字是什么人造的? 我们听惯了一件东西,总是古时候一位圣贤所造的故事,对于文字,也当然要有这质问。但立刻就有忘记了来源的答话:字是仓颉造的。 这是一般的学者的主张,他自然有他的出典。我还见过一幅这位仓颉的画像,是生着四只眼睛的老头陀。可见要造文字,相貌先得出奇,我们这种只有两只眼睛的人,是不但本领不够,连相貌也不配的。 然而做《易经》的人(我不知道是谁),却比较的聪明,他说:“上古结绳而治,后世圣人易之以书契。”他不说仓颉,只说“后世圣人”,不说创造,只说掉换,真是谨慎得很;也许他无意中就不相信古代会有一个独自造出许多文字来的人的了,所以就只是这么含含胡胡的来一句。 但是,用书契来代结绳的人,又是什么脚色呢?文学家?不错,从现在的所谓文学家的最要卖弄文字,夺掉笔杆便一无所能的事实看起来,的确首先就要想到他;他也的确应该给自己的吃饭家伙出点力。然而并不是的。有史以前的人们,虽然劳动也唱歌,求爱也唱歌,他却并不起草,或者留稿子,因为他做梦也想不到卖诗稿,编全集,而且那时的社会里,也没有报馆和书铺子,文字毫无用处。据有些学者告诉我们的话来看,这在文字上用了一番工夫的,想来该是史官了。 原始社会里,大约先前只有巫,待到渐次进化,事情繁复了,有些事情,如祭祀,狩猎,战争……之类,渐有记住的必要,巫就只好在他那本职的“降神”之外,一面也想法子来记事,这就是“史”的开头。况且“升中于天”,他在本职上,也得将记载酋长和他的治下的大事的册子,烧给上帝看,因此一样的要做文章──虽然这大约是后起的事。再后来,职掌分得更清楚了,于是就有专门记事的史官。文字就是史官必要的工具,古人说:“仓颉,黄帝史。”第一句未可信,但指出了史和文字的关系,却是很有意思的。至于后来的“文学家”用它来写“阿呀呀,我的爱哟,我要死了!”那些佳句,那不过是享享现成的罢了,“何足道哉”! |
【二 文字は誰が造ったか】
文字は誰が造ったか。 我々は一つの物が昔の聖賢によって造られたという話を聞き慣れているから、文字についても当然この問いが出る。だがすぐさま出所を忘れた答えが返ってくる。字は倉頡が造ったのだと。 これは一般の学者の主張であり、彼には当然典拠がある。私はかつてこの倉頡の画像も見たことがあるが、四つの目を持つ老爺だった。文字を造るにはまず容貌が並外れていなければならず、我々のような目が二つしかない者は、能力が足りないどころか容貌すら不相応なのだ。 しかし『易経』の作者(誰かは知らないが)は比較的聡明で、こう言った。「上古は結縄にて治む。後世の聖人、これに易うるに書契をもってす。」彼は倉頡とは言わず、ただ「後世の聖人」と言い、創造とは言わず、ただ取り替えたと言う。実に慎重である。あるいは彼は無意識のうちに、古代に一人で多くの文字を造り出した人間がいるとは信じていなかったのかもしれず、だからこんなふうに曖昧に一言述べたのだ。 では、書契をもって結縄に替えた人はどんな人物か。文学者か。なるほど、今の所謂文学者が最も文字を弄び、筆を奪われたら何もできない事実から見れば、確かにまず彼を思い浮かべる。彼もまた自分の商売道具のために少しは力を出すべきだ。だが実はそうではない。有史以前の人々は、労働する時にも歌い、恋する時にも歌ったが、草稿を起こしたり原稿を残したりはしなかった。夢にも詩稿を売ったり全集を編んだりすることは思い浮かばず、しかも当時の社会には新聞社も書店もなく、文字は何の役にも立たなかったのだ。ある学者たちの話によれば、文字に一番の骨を折ったのは、おそらく史官であったろう。 原始社会には初め巫しかおらず、次第に進化して事が繁雑になり、祭祀、狩猟、戦争……の類に記憶の必要が生じると、巫は本職の「降神」のほかに、一方で記録の方法を考え出さねばならなかった。これが「史」の始まりである。しかも「天に昇って奉ず」にあたり、本職上も酋長とその治下の大事を記した冊子を焼いて天帝にお見せせねばならず、このためにやはり文章を書かねばならなかった――もっともこれはおそらく後のことだろう。さらに後に職掌がもっと明確に分かれると、専ら記録を司る史官が現れた。文字はすなわち史官に不可欠の道具であり、古人の言う「倉頡は黄帝の史なり」は、前半は信じがたいが、史と文字の関係を指摘した点はまことに意味深い。後の「文学家」がこれを用いて「ああ、わが愛よ、私は死にそうだ!」等の名句を書くに至っては、出来合いのものを享受しているに過ぎず、「何ぞ道うに足らんや」である。 |
第28節
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【三 字是怎么来的?】
照《易经》说,书契之前明明是结绳;我们那里的乡下人,碰到明天要做一件紧要事,怕得忘记时,也常常说:“裤带上打一个结!”那么,我们的古圣人,是否也用一条长绳,有一件事就打一个结呢?恐怕是不行的。只有几个结还记得,一多可就糟了。或者那正是伏羲皇上的“八封”之流,三条绳一组,都不打结是“乾”,中间各打一结是“坤”罢?恐怕也不对。八组尚可,六十四组就难记,何况还会有五百十二组呢。只有在秘鲁还有存留的“打结字”(Quippus),用一条横绳,挂上许多直绳,拉来拉去的结起来,网不像网,倒似乎还可以表现较多的意思。我们上古的结绳,恐怕也是如此的罢。但它既然被书契掉换,又不是书契的祖宗,我们也不妨暂且不去管它了。 夏禹的“岣嵝碑”,是道士们假造的;现在我们能在实物上看见的最古的文字,只有商朝的甲骨和钟鼎文。但这些,都已经很进步了,几乎找不出一个原始形态。只在铜器上,有时还可以看见一点写实的图形,如鹿,如象,而从这图形上,又能发见和文字相关的线索:中国文字的基础是“象形”。 画在西班牙的亚勒泰米拉(Altamira)洞里的野牛,是有名的原始人的遗迹,许多艺术史家说,这正是“为艺术的艺术”,原始人画着玩玩的。但这解释未免过于“摩登”,因为原始人没有十九世纪的文艺家那么有闲,他的画一只牛,是有缘故的,为的是关于野牛,或者是猎取野牛,禁咒野牛的事。现在上海墙壁上的香烟和电影的广告画,尚且常有人张着嘴巴看,在少见多怪的原始社会里,有了这么一个奇迹,那轰动一时,就可想而知了。他们一面看,知道了野牛这东西,原来可以用线条移在别的平面上,同时仿佛也认识了一个“牛”字,一面也佩服这作者的才能,但没有人请他作自传赚钱,所以姓氏也就湮没了。但在社会里,仓颉也不止一个,有的在刀柄上刻一点图,有的在门户上画一些画,心心相印,口口相传,文字就多起来,史官一采集,便可以敷衍记事了。中国文字的由来,恐怕也逃不出这例子的。 自然,后来还该有不断的增补,这是史官自己可以办到的,新字夹在熟字中,又是象形,别人也容易推测到那字的意义。直到现在,中国还在生出新字来。但是,硬做新仓颉,却要失败的,吴的朱育,唐的武则天,都曾经造过古怪字,也都白费力。现在最会造字的是中国化学家,许多原质和化合物的名目,很不容易认得,连音也难以读出来了。老实说,我是一看见就头痛的,觉得远不如就用万国通用的拉丁名来得爽快,如果二十来个字母都认不得,请恕我直说:那么,化学也大抵学不好的。 |
【三 文字はどうやって生まれたか】
『易経』によれば、書契の前には明らかに結縄があった。我々の故郷の田舎の人も、明日肝心なことをしなければならず忘れそうな時、よく「褌の紐に結び目を一つ作っておけ」と言う。では我々の古聖人も、一本の長い縄に一つ事があるたびに結び目を作ったのだろうか。おそらくそうもいくまい。数個の結び目ならまだ覚えられるが、多くなるとまずいことになる。あるいはそれこそ伏羲皇帝の「八卦」の類で、三本の縄を一組にして全部結ばないのが「乾」、中程をそれぞれ結ぶのが「坤」か。それもおそらく違う。八組ならまだしも、六十四組となると覚え難く、まして五百十二組ともなれば。ただペルーにはまだ「結縄文字」(Quippus)が残存していて、一本の横縄に多くの縦縄を掛け、あちこち引いて結び合わせ、網とも網ならぬ形になるが、かなり多くの意味を表し得るようだ。我々の上古の結縄も、おそらくこうしたものだったろう。だがそれは書契に取って代わられ、しかも書契の祖先でもないのだから、ひとまず措くとしよう。 夏の禹王の「岣嶁碑」は道士たちの偽作である。今我々が実物で見ることのできる最古の文字は、商朝の甲骨文と鐘鼎文だけだ。だがこれらはすでにかなり進歩しており、原始の形態はほとんど見出せない。ただ銅器の上に時折写実的な図形――鹿や象――が見え、この図形から文字と関連する手がかりも発見できる。中国文字の基礎は「象形」なのだ。 スペインのアルタミラ洞窟に描かれた野牛は、有名な原始人の遺跡であり、多くの芸術史家は、これがまさに「芸術のための芸術」であり、原始人が遊びで描いたものだと言う。だがこの解釈はいささか「モダン」に過ぎる。原始人には十九世紀の文芸家ほどの暇はなく、一頭の牛を描いたのには理由がある。野牛に関すること、あるいは野牛を狩ること、野牛に呪いをかけることのためだ。今、上海の壁に貼られた煙草や映画の広告画でさえ、口を開けて眺める人がしばしばいるのだから、珍しいものを見て驚く原始社会で、こうした奇跡があれば一時の大評判になったことは想像に難くない。彼らは一方で見て、野牛というものが線で別の平面に移せることを知り、同時に「牛」という字を認識したようなものであり、一方でこの作者の才能にも感服した。だが誰も彼に自伝を書かせて金を稼がせはしなかったので、姓名は埋もれてしまった。しかし社会の中で倉頡は一人ではなく、ある者は刀の柄に少し図を刻み、ある者は門戸に少し絵を描き、以心伝心、口から口へと伝わって文字は増えていった。史官がそれを集めれば、記録に事足りたのだ。中国文字の由来も、おそらくこの例から逃れまい。 もちろん後にはなお不断の増補があったはずで、これは史官自身の手でできたことだ。新しい字を見慣れた字に混ぜれば、しかも象形であるから、他の者も容易にその字の意味を推測できた。今に至るまで中国は新しい字を生み出し続けている。だが、無理に新倉頡になろうとしても失敗する。呉の朱育、唐の武則天はいずれも奇怪な字を造ったが、皆徒労であった。今最も字を造るのが得意なのは中国の化学者で、多くの元素や化合物の名称は読むことすら難しい。正直に言って、私は見ただけで頭が痛くなり、万国共通のラテン名をそのまま使った方がよほどすっきりすると感じる。もし二十余りのアルファベットさえ覚えられないなら、失礼ながら率直に申せば、化学もおおよそ学べまい。 |
第29節
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【四 写字就是画画】
《周礼》和《说文解字》上都说文字的构成法有六种,这里且不谈罢,只说些和“象形”有关的东西。 象形,“近取诸身,远取诸物”,就是画一只眼睛是“目”,画一个圆圈,放几条毫光是“日”,那自然很明白,便当的。但有时要碰壁,譬如要画刀口,怎么办呢?不画刀背,也显不出刀口来,这时就只好别出心裁,在刀口上加一条短棍,算是指明“这个地方”的意思,造了“刃”。这已经颇有些办事棘手的模样了,何况还有无形可象的事件,于是只得来“象事”,也叫作“会意”。一只手放在树上是“采”,一颗心放在屋子和饭碗之间是“寍”,有吃有住,安寍了。但要写“寜可”的寜,却又得在碗下面放一条线,表明这不过是用了“寍”的声音的意思。“会意”比“象形”更麻烦,它至少要画两样。如“寶”字,则要画一个屋顶,一串玉,一个缶,一个貝,计四样;我看“缶”字还是杵臼两形合成的,那么一共有五样。单单为了寶这一个字,就很要破费些工夫。 不过还是走不通,因为有些事物是画不出,有些事物是画不来,譬如松柏,叶样不同,原是可以分出来的,但写字究竟是写字,不能像绘画那样精工,到底还是硬挺不下去。来打开这僵局的是“谐声”,意义和形象离开了关系。这已经是“记音”了,所以有人说,这是中国文字的进步。不错,也可以说是进步,然而那基础也还是画画儿。例如“菜,从草,采声”,画一窠草,一个爪,一株树:三样;“海,从水,每声”,画一条河,一位戴帽(?)的太太,也三样。总之:如果要写字,就非永远画画不成。 但古人是并不愚蠢的,他们早就将形象改得简单,远离了写实。篆字圆折,还有图画的余痕,从隶书到现在的楷书,和形象就天差地远。不过那基础并未改变,天差地远之后,就成为不象形的象形字,写起来虽然比较的简单,认起来却非常困难了,要凭空一个一个的记住。而且有些字,也至今并不简单,例如“鸞”或“鑿”,去叫孩子写,非练习半年六月,是很难写在半寸见方的格子里面的。 还有一层,是“谐声”字也因为古今字音的变迁,很有些和“声”不大“谐”的了。现在还有谁读“滑”为“骨”,读“海”为“每”呢? 古人传文字给我们,原是一份重大的遗产,应该感谢的。但在成了不象形的象形字,不十分谐声的谐声字的现在,这感谢却只好踌蹰一下了。 |
【四 字を書くとは絵を描くことだ】
『周礼』と『説文解字』にはいずれも文字の構成法が六種あると記されているが、ここでは論じない。「象形」に関わることだけを述べよう。 象形とは「近くは身に取り、遠くは物に取る」であり、目を一つ描けば「目」、丸を一つ描いて光線を何本か添えれば「日」で、もちろん明白で便利だ。だが時には壁にぶつかる。たとえば刃先を描きたい時はどうするか。刀の背を描かなければ刃先も現せない。そこで苦肉の策で、刃先に短い棒を一本加え、「ここだぞ」という印にして「刃」を造った。これはもうかなり難儀な様相だが、まして形のない事柄はさらに「象事」、すなわち「会意」に頼るほかない。片手を木に載せれば「采」、心を家と飯碗の間に置けば「寍」、食と住があって安寧だ。だが「寜可」の寜を書くには碗の下にさらに線を一本引いて、これは「寍」の音を借りただけだという印にせねばならない。「会意」は「象形」よりさらに面倒で、少なくとも二つの物を描く必要がある。「寶」の字に至っては屋根一つ、玉の串一つ、缶一つ、貝一つ、計四つを描く。「缶」はさらに杵と臼の二形から成るとすれば、合わせて五つだ。寶の一字のためだけにかなりの手間がかかる。 それでもなお行き詰まる。描けない事物もあれば、描きようのない事物もあるからだ。たとえば松と柏は葉の形が異なるから区別できるはずだが、字を書くのは結局絵画ではなく精巧には描けないから、やはり持ちこたえられない。この膠着を打開したのが「諧声」で、意味と形象が関係を離れた。これはすでに「音の記録」であり、中国文字の進歩だと言う者もいる。その通り、進歩とも言えようが、その基礎はやはり絵描きだ。たとえば「菜」は「草に従い、采の声」で、草むら一つ、爪一つ、木一本の三つを描く。「海」は「水に従い、毎の声」で、川一本、帽子を被った御婦人一人、やはり三つ。要するに、字を書こうとすれば永遠に絵を描き続けねばならないのだ。 だが古人は愚かではなく、早くから形象を簡略化し、写実からは遠ざかった。篆書は丸みを帯びた折れ方に絵画の余韻を残すが、隷書から現在の楷書に至っては形象とは天地の差だ。しかし基礎は変わらず、天地の差の後は象形でない象形字となり、書くのは比較的簡単になったものの、覚えるのは極めて困難で、一つ一つ暗記するほかなくなった。しかもある字は今でも簡単ではなく、たとえば「鸞」や「鑿」は子供に書かせれば半年も練習しなければ半寸四方の升目に収まらぬだろう。 もう一つ、「諧声」字も古今の字音の変遷により、「声」とあまり「諧」しなくなったものが少なくない。今どき「滑」を「骨」と読み、「海」を「毎」と読む者がどこにいようか。 古人が文字を我々に伝えてくれたのは、もとより重大な遺産であり、感謝すべきだ。だが象形でない象形字、必ずしも諧声でない諧声字となった今日、この感謝もいささか逡巡せざるをえないのである。 |
第30節
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【五 古时候言文一致么?】 到这里,我想来猜一下古时候言文是否一致的问题。 对于这问题,现在的学者们虽然并没有分明的结论,但听他口气,好象大概是以为一致的;越古,就越一致。不过我却很有些怀疑,因为文字愈容易写,就愈容易写得和口语一致,但中国却是那么难画的象形字,也许我们的古人,向来就将不关重要的词摘去了的。 《书经》有那么难读,似乎正可作照写口语的证据,但商周人的的确的口语,现在还没有研究出,还要繁也说不定的。至于周秦古书,虽然作者也用一点他本地的方言,而文字大致相类,即使和口语还相近罢,用的也是周秦白话,并非周秦大众语。汉朝更不必说了,虽是肯将《书经》里难懂的字眼,翻成今字的司马迁,也不过在特别情况之下,采用一点俗语,例如陈涉的老朋友看见他为王,惊异道:“夥颐,涉之为王沈沈者”,而其中的“涉之为王”四个字,我还疑心太史公加过修剪的。 那么,古书里采录的童谣,谚语,民歌,该是那时的老牌俗语罢。我看也很难说。中国的文学家,是颇有爱改别人文章的脾气的。最明显的例子是汉民间的《淮南王歌》,同一地方的同一首歌,《汉书》和《前汉纪》记的就两样。 一面是──
一尺布,尚可缝; 一斗粟,尚可舂。 兄弟二人,不能相容。
一面却是──
一尺布,暖童童; 一斗粟,饱蓬蓬。 兄弟二人不相容。
比较起来,好象后者是本来面目,但已经删掉了一些也说不定的:只是一个提要。后来宋人的语录,话本,元人的杂剧和传奇里的科白,也都是提要,只是它用字较为平常,删去的文字较少,就令人觉得“明白如话”了。 我的臆测,是以为中国的言文,一向就并不一致的,大原因便是字难写,只好节省些。当时的口语的摘要,是古人的文;古代的口语的摘要,是后人的古文。所以我们的做古文,是在用了已经并不象形的象形字,未必一定谐声的谐声字,在纸上描出今人谁也不说,懂的也不多的,古人的口语的摘要来。你想,这难不难呢? |
【五 昔、言文は一致していたか】
ここで、昔の言文が一致していたかどうかを推測してみたい。 この問題について、今の学者たちは明確な結論を下していないが、口ぶりからすると、概ね一致していたと考えているようで、古ければ古いほど一致していたと。しかし私にはかなりの疑念がある。文字が書きやすければ書きやすいほど口語と一致しやすいが、中国はあれほど描きにくい象形字なのだから、我々の古人はもとから重要でない語を削り取っていたのかもしれない。 『書経』があれほど読みにくいのは、口語をそのまま写した証拠のようにも見えるが、商周の人々の確かな口語はまだ研究されておらず、さらに繁雑であったとも言えぬではない。周秦の古書に至っては、著者が多少のお国言葉を用いていても、文字は大体において似ており、たとえ口語に近かったとしても、それは周秦の白話であって周秦の大衆語ではない。漢朝はなおさらで、たとえ『書経』の難解な字句を今の字に置き換えた司馬遷でさえ、特別な場合に多少の俗語を採用した程度だ。たとえば陳渉の旧友が彼の王たるを見て驚いて曰く「夥頤、渉の王たることの沈沈たるや」。しかもその中の「渉之為王」の四字は、太史公が手を加えたのではないかと私は疑っている。 では古書に採録された童謡や諺、民歌は、当時の正真正銘の俗語だろうか。これも甚だ心許ない。中国の文学者は、他人の文章を手直しする癖がかなりある。最も明らかな例は漢代民間の『淮南王歌』で、同じ地方の同じ歌が、『漢書』と『前漢紀』では異なっている。 一方は――
一尺の布、なお縫うべし。 一斗の粟、なお舂くべし。 兄弟二人、相容れざるとは。
他方は――
一尺の布、暖かきこと童童。 一斗の粟、飽くること蓬蓬。 兄弟二人相容れず。
比較すると、後者が本来の面目のようだが、すでにいくらか削除されているかもしれない。ただの梗概にすぎないのだ。後の宋人の語録や話本、元人の雑劇や伝奇の科白も、皆梗概であり、ただ用字がやや平易で、削った文字が少ないので「話のごとく明白」と感じさせるのである。 私の臆測では、中国の言文はもともと一致していなかったのだと思う。大きな原因は字が書きにくく、省かざるをえなかったからだ。当時の口語の梗概が古人の文であり、古代の口語の梗概が後人の古文である。だから我々が古文を書くとは、もはや象形でない象形字、必ずしも諧声でない諧声字を用いて、紙の上に、今日誰も話さず理解する者も多くない古人の口語の梗概を描き出すことなのだ。思えばこれは難しくないだろうか。 |
第31節
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【六 于是文章成为奇货了】
文字在人民间萌芽,后来却一定为特权者所收揽。据《易经》的作者所推测,“上古结绳而治”,则连结绳就已是治人者的东西。待到落在巫史的手里的时候,更不必说了,他们都是酋长之下,万民之上的人。社会改变下去,学习文字的人们的范围也扩大起来,但大抵限于特权者。至于平民,那是不识字的,并非缺少学费,只因为限于资格,他不配。而且连书籍也看不见。中国在刻版还未发达的时候,有一部好书,往往是“藏之秘阁,副在三馆”,连做了士子,也还是不知道写着什么的。 因为文字是特权者的东西,所以它就有了尊严性,并且有了神秘性。中国的字,到现在还很尊严,我们在墙壁上,就常常看见挂着写上“敬惜字纸”的篓子;至于符的驱邪治病,那就靠了它的神秘性的。文字既然含着尊严性,那么,知道文字,这人也就连带的尊严起来了。新的尊严者日出不穷,对于旧的尊严者就不利,而且知道文字的人们一多,也会损伤神秘性的。符的威力,就因为这好象是字的东西,除道士以外,谁也不认识的缘故。所以,对于文字,他们一定要把持。 欧洲中世,文章学问,都在道院里;克罗蒂亚(Kroatia),是到了十九世纪,识字的还只有教士的,人民的口语,退步到对于旧生活刚够用。他们革新的时候,就只好从外国借进许多新语来。 我们中国的文字,对于大众,除了身分,经济这些限制之外,却还要加上一条高门槛:难。单是这条门槛,倘不费他十来年工夫,就不容易跨过。跨过了的,就是士大夫,而这些士大夫,又竭力的要使文字更加难起来,因为这可以使他特别的尊严,超出别的一切平常的士大夫之上。汉朝的杨雄的喜欢奇字,就有这毛病的,刘歆想借他的《方言》稿子,他几乎要跳黄浦。唐朝呢,樊宗师的文章做到别人点不断,李贺的诗做到别人看不懂,也都为了这缘故。还有一种方法是将字写得别人不认识,下焉者,是从《康熙字典》上查出几个古字来,夹进文章里面去;上焉者是钱坫的用篆字来写刘熙的《释名》,最近还有钱玄同先生的照《说文》字样给太炎先生抄《小学答问》。 文字难,文章难,这还都是原来的;这些上面,又加以士大夫故意特制的难,却还想它和大众有缘,怎么办得到。但士大夫们也正愿其如此,如果文字易识,大家都会,文字就不尊严,他也跟着不尊严了。说白话不如文言的人,就从这里出发的;现在论大众语,说大众只要教给“千字课”就够的人,那意思的根柢也还是在这里。 |
【六 かくして文章は奇貨となった】
文字は人民の間に萌芽したが、後には必ず特権者に収攬された。『易経』の作者の推測するところ、「上古は結縄にて治む」であるから、結縄ですらすでに治める者の道具であった。巫史の手に落ちた時にはなおさらで、彼らは皆、酋長の下にして万民の上の人間だ。社会が変わるにつれて文字を学ぶ者の範囲も広がったが、おおむね特権者に限られていた。平民はといえば文盲であり、学費が足りないからではなく、資格がなく、身分不相応だったのだ。しかも書籍も見ることができなかった。中国は版木印刷がまだ発達していなかった頃、一冊の良書があればしばしば「秘閣に蔵し、三館に副う」であり、士子となってもなお何が書いてあるか知れなかった。 文字は特権者の所有物であるから、尊厳性を帯び、同時に神秘性をも帯びた。中国の字は今でもなお尊厳で、壁に「敬惜字紙」と書かれた篭が掛かっているのをよく見かける。符の邪を祓い病を治す力に至っては、その神秘性に頼るのだ。文字に尊厳性が備わっていれば、文字を知る者もまた連帯して尊厳になる。新たな尊厳者が続々と現れるのは旧い尊厳者にとって不利であるし、文字を知る者が増えれば神秘性も損なわれる。符の威力は、字のようなものでありながら道士以外には誰にも読めないがゆえなのだ。だから文字を彼らは必ず独占しようとする。 ヨーロッパの中世では、文章学問はすべて修道院にあった。クロアティアに至っては十九世紀になっても字を読めるのは聖職者だけで、人民の口語は退歩して旧来の生活に辛うじて間に合う程度であった。革新に際して、外国から多くの新語を借りてくるほかなかった。 我々の中国の文字は、大衆に対して、身分や経済の制限のほかに、さらにもう一つの高い敷居を加える。すなわち難しさである。この敷居一つでも、十年の歳月を費やさねば容易に越えられない。越えた者は士大夫となり、この士大夫たちはさらに力を尽くして文字をより一層難しくしようとする。そうすれば格別に尊厳となり、他の一切の普通の士大夫の上に立てるからだ。漢の楊雄が奇字を好んだのはこの病弊であり、劉歆がその『方言』の原稿を借りようとすると、彼は身投げせんばかりだった。唐代では、樊宗師の文章は他人が句読を打てぬほどに書かれ、李賀の詩は他人が読んでもわからぬほどに作られたが、これも皆同じ理由による。もう一つの方法は字を他人が読めないように書くことで、下手な者は『康煕字典』から古い字を引っぱり出して文章に挟み込み、上手な者は錢坫のように篆書で劉熙の『釈名』を書くとか、最近では錢玄同先生が『説文』の字体で太炎先生のために『小学答問』を筆写するとかだ。 文字が難しく、文章が難しく、これだけでも元来のものだが、その上にさらに士大夫が故意に特製した難しさを加えて、なお大衆と縁があることを望むのは、どうして叶おうか。しかし士大夫はまさにそれを望むのだ。もし文字が読みやすく皆が覚えれば、文字は尊厳でなくなり、彼もまたそれに伴って尊厳でなくなる。白話は文言に如かずと言う者の出発点はここにあり、今、大衆語を論じて、大衆には「千字課」だけ教えれば十分だと言う者の意の根底もまたここにある。 |
第32節
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【七 不识字的作家】
用那么艰难的文字写出来的古语摘要,我们先前也叫“文”,现在新派一点的叫“文学”,这不是从“文学子游子夏”上割下来的,是从日本输入,他们的对于英文 Literature 的译名。会写写这样的“文”的,现在是写白话也可以了,就叫作“文学家”,或者叫“作家”。 文学的存在条件首先要会写字,那么,不识字的文盲群里,当然不会有文学家的了。然而作家却有的。你们不要太早的笑我,我还有话说。我想,人类是在未有文字之前,就有了创作的,可惜没有人记下,也没有法子记下。我们的祖先的原始人,原是连话也不会说的,为了共同劳作,必需发表意见,才渐渐的练出复杂的声音来,假如那时大家抬木头,都觉得吃力了,却想不到发表,其中有一个叫道“杭育杭育”,那么,这就是创作;大家也要佩服,应用的,这就等于出版;倘若用什么记号留存了下来,这就是文学;他当然就是作家,也是文学家,是“杭育杭育派”。不要笑,这作品确也幼稚得很,但古人不及今人的地方是很多的,这正是其一。就是周朝的什么“关关雎鸠,在河之洲,窈窕淑女,君子好逑”罢,它是《诗经》里的头一篇,所以吓得我们只好磕头佩服,假如先前未曾有过这样的一篇诗,现在的新诗人用这意思做一首白话诗,到无论什么副刊上去投稿试试罢,我看十分之九是要被编辑者塞进字纸篓去的。“漂亮的好小姐呀,是少爷的好一对儿!”什么话呢? 就是《诗经》的《国风》里的东西,好许多也是不识字的无名氏作品,因为比较的优秀,大家口口相传的。王官们检出它可作行政上参考的记录了下来,此外消灭的正不知有多少。希腊人荷马──我们姑且当作有这样一个人──的两大史诗,也原是口吟,现存的是别人的记录。东晋到齐、陈的《子夜歌》和《读曲歌》之类,唐朝的《竹枝词》和《柳枝词》之类,原都是无名氏的创作,经文人的采录和润色之后,留传下来的。这一润色,留传固然留传了,但可惜的是一定失去了许多本来面目。到现在,到处还有民谣,山歌,渔歌等,这就是不识字的诗人的作品;也传述着童话和故事,这就是不识字的小说家的作品;他们,就都是不识字的作家。 但是,因为没有记录作品的东西,又很容易消灭,流布的范围也不能很广大,知道的人们也就很少了。偶有一点为文人所见,往往倒吃惊,吸入自己的作品中,作为新的养料。旧文学衰颓时,因为摄取民间文学或外国文学而起一个新的转变,这例子是常见于文学史上的。不识字的作家虽然不及文人的细腻,但他却刚健,清新。 要这样的作品为大家所共有,首先也就是要这作家能写字,同时也还要读者们能识字以至能写字,一句话:将文字交给一切人。 |
【七 文字を知らぬ作家】
あれほど難しい文字で書き記された古語の梗概を、我々は以前「文」と呼び、今少し新しく呼べば「文学」という。これは「文学子游子夏」から切り取ったものではなく、日本から輸入されたもの、彼らの英語 Literature の訳語だ。こうした「文」を書ける者は、今では白話でも書けるわけで、「文学家」あるいは「作家」と呼ばれる。 文学の存在条件としてまず字が書けなければならないのだから、文盲の群れの中に文学家はいるはずがない。しかし作家ならばいる。まだ笑わないでいただきたい、話の続きがある。思うに、人類は文字のない以前から創作をしていた。惜しいことに誰も記録せず、記録する術もなかった。我々の祖先の原始人はもともと言葉さえ話せなかったが、共同作業のために意見を交わす必要が生じ、次第に複雑な音声を練り上げた。もしその時、皆で丸太を担いでいて、力が尽きたと感じても表現できずにいたところ、その中の一人が「ヨイトマケ、ヨイトマケ」と叫んだなら――これが創作である。皆も感心して使い始めれば、これが出版に等しい。もし何かの記号で残されたなら、これが文学であり、彼は当然作家にして文学家、「ヨイトマケ派」の始祖だ。笑うまい、この作品は確かに幼稚だが、古人が今人に及ばぬところは多く、これがまさにその一つだ。周朝の「関関たる雎鳩、河の洲にあり、窈窕たる淑女、君子の好逑」にしても、『詩経』の巻頭にあるゆえに恐れ入って叩頭するしかないが、もし以前にこうした詩がなく、今の新詩人がこの意で白話詩を作ってどこかの副刊に投稿してみれば、十中八九は編集者に紙屑篭に入れられるだろう。「綺麗なお嬢さんは、若旦那の良いお相手!」何を言っているのか。 『詩経』の『国風』にしても、良いものの多くは字を知らぬ無名氏の作品であり、比較的優れていたために皆が口づてに伝えた。王官たちが行政の参考になると判断して記録したもので、それ以外に消滅したものは数知れない。ギリシャのホメロス――仮にそういう人がいたとして――の二大叙事詩もまた口誦で、現存するものは他人の記録だ。東晋から斉・陳にかけての『子夜歌』や『読曲歌』の類、唐の『竹枝詞』や『柳枝詞』の類も、もとは無名氏の創作であり、文人が採録し潤色した後に伝わったものだ。この潤色のおかげで伝わりはしたが、惜しいことに本来の姿はかなり失われている。今でも至る所に民謡、山歌、漁歌等があり、これがすなわち文字を知らぬ詩人の作品である。また童話や物語が伝えられており、これがすなわち文字を知らぬ小説家の作品である。彼らがすなわち文字を知らぬ作家なのだ。 しかし作品を記録する手段がないために消滅しやすく、流布の範囲も広くならず、知る者も少ない。たまたま文人の目に触れると、かえって驚いて自分の作品に吸い取り、新たな養分とする。旧文学が衰退した時に、民間文学や外国文学を摂取して新たな転換を遂げる。こうした例は文学史上よく見られるのだ。文字を知らぬ作家は文人の細やかさには及ばないが、剛健で清新である。 こうした作品が皆の共有となるには、まず作家自身が字を書けるようにならねばならず、同時に読者も字を読め、ひいては字を書けるようにならねばならない。一言で言えば、文字をすべての人に渡すことだ。 |
第33節
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【八 怎么交代?】 将文字交给大众的事实,从清朝末年就已经有了的。 “莫打鼓,莫打锣,听我唱个太平歌……”是钦颁的教育大众的俗歌;此外,士大夫也办过一些白话报,但那主意,是只要大家听得懂,不必一定写得出。《平民千字课》就带了一点写得出的可能,但也只够记账,写信。倘要写出心里所想的东西,它那限定的字数是不够的。譬如牢监,的确是给了人一块地,不过它有限制,只能在这圈子里行立坐卧,断不能跑出设定了的铁栅外面去。 劳乃宣和王照他两位都有简字,进步得很,可以照音写字了。民国初年,教育部要制字母,他们俩都是会员,劳先生派了一位代表,王先生是亲到的,为了入声存废问题,曾和吴稚晖先生大战,战得吴先生肚子一凹,棉裤也落了下来。但结果总算几经斟酌,制成了一种东西,叫作“注音字母”。那时很有些人,以为可以替代汉字了,但实际上还是不行,因为它究竟不过简单的方块字,恰如日本的“假名”一样,夹上几个,或者注在汉字的旁边还可以,要它拜帅,能力就不够了。写起来会混杂,看起来要眼花。那时的会员们称它为“注音字母”,是深知道它的能力范围的。再看日本,他们有主张减少汉字的,有主张拉丁拼音的,但主张只用“假名”的却没有。 再好一点的是用罗马字拼法,研究得最精的是赵元任先生罢,我不大明白。用世界通用的罗马字拼起来──现在是连土耳其也采用了── 一词一串,非常清晰,是好的。但教我似的门外汉来说,好象那拼法还太繁。要精密,当然不得不繁,但繁得很,就又变了“难”,有些妨碍普及了。最好是另有一种简而不陋的东西。 这里我们可以研究一下新的“拉丁化”法,《每日国际文选》里有一小本《中国语书法之拉丁化》,《世界》第二年第六七号合刊附录的一份《言语科学》,就都是绍介这东西的。价钱便宜,有心的人可以买来看。它只有二十八个字母,拼法也容易学。“人”就是 Rhen,“房子”就是 Fangz,“我吃果子”是 Wo ch goz,“他是工人”是 Tau sh gungrhen 。现在在华侨里实验,见了成绩的,还只是北方话。但我想,中国究竟还是讲北方话──不是北京话──的人们多,将来如果真有一种到处通行的大众语,那主力也恐怕还是北方话罢。为今之计,只要酌量增减一点,使它合于各该地方所特有的音,也就可以用到无论什么穷乡僻壤去了。 那么,只要认识二十八个字母,学一点拼法和写法,除懒虫和低能外,就谁都能够写得出,看得懂了。况且它还有一个好处,是写得快。美国人说,时间就是金钱;但我想:时间就是性命。无端的空耗别人的时间,其实是无异于谋财害命的。不过像我们这样坐着乘风凉,谈闲天的人们,可又是例外。 |
【八 どう引き渡すか】
文字を大衆に引き渡した事実は、清朝末年からすでにあった。 「太鼓を叩くな、銅鑼を鳴らすな、私の太平歌を聴け……」は欽定頒布の大衆教育用俗歌であり、そのほか士大夫も白話新聞をいくつか発行したが、その趣旨は皆が聞いてわかればよく、必ずしも書けなくてもよいというものであった。『平民千字課』にはいくらか書ける可能性が含まれていたが、帳簿をつけ手紙を書く程度で足りるだけだった。心に思うことを書き出そうとすれば、限定された字数では足りない。たとえば牢獄は確かに人に一区画の地を与えるが、制限があり、この囲いの中でのみ立ち歩き座り臥すことができ、鉄格子の外に出ることは決して許されないのだ。 労乃宣と王照の両氏はそれぞれ簡字を持っていて、かなり進歩しており、音に従って字を書くことができた。民国初年、教育部が字母を制定しようとした際、二人とも委員であった。労先生は代理を一名派遣し、王先生は自ら出席して、入声の存廃問題で呉稚暉先生と大論戦を繰り広げ、呉先生は腹が凹み、綿袴まで落ちてきたほどだった。だが結局いくらかの検討を経て、「注音字母」なるものが制定された。当時はこれで漢字に取って代われると思う者もいたが、実際にはやはり駄目で、結局は簡略化された方塊字に過ぎず、ちょうど日本の「仮名」のように、いくつか混ぜたり漢字の傍に振ったりするには使えるが、大将に据えるには力不足なのだ。書けば混乱し、読めば目がちらつく。当時の委員たちがこれを「注音字母」と名づけたのは、その能力の範囲をよく心得ていたからだ。日本を見ても、漢字削減を主張する者、ラテン拼音を主張する者はいるが、仮名だけを使おうと主張する者はいない。 もう少しましなのはローマ字拼音法で、最も精密に研究したのは趙元任先生だろうが、私にはよくわからない。世界共通のローマ字で綴る――今やトルコさえ採用した――一語一連で実に明瞭、これは良い。だが私のような門外漢に言わせれば、あの拼法はまだ繁雑すぎるように思える。精密を期すれば当然繁雑にならざるをえないが、繁雑に過ぎるとまた「難しく」なり、普及の妨げとなるのだ。もっと簡にして陋ならざるものが望ましい。 ここで新しい「ラテン化」法を検討してみよう。『毎日国際文選』に一冊の『中国語書法のラテン化』があり、『世界』第二年第六七号合刊の付録『言語科学』もこれを紹介している。値段は安く、関心のある方は買って見るとよい。字母はわずか二十八、拼法も覚えやすい。「人」は Rhen、「家」は Fangz、「私は果物を食べる」は Wo ch goz、「彼は労働者だ」は Tau sh gungrhen。今、華僑の間で実験して成果が見られたのはまだ北方話だけだ。だが中国はやはり北方話――北京話ではなく――を話す人が最も多いのだから、もし将来本当にどこでも通用する大衆語ができるなら、その主力はおそらくやはり北方話だろう。今のところは多少の増減を施して各地特有の音に合わせれば、どんな窮郷僻壤でも使えるようになる。 とすれば、二十八の字母を覚え、拼法と書法をいくらか学べば、怠け者と低能を除けば誰でも書けて誰でも読める。しかもさらに一つの利点がある。書くのが速いのだ。アメリカ人は時は金なりと言う。だが私は思う、時は命なのだ。人の時間を無駄に浪費するのは、実は財産を奪い命を害するに等しい。もっとも、我々のようにぼんやり涼んで雑談している人間は例外だが。 |
第34節
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【九 专化呢,普遍化呢?】 到了这里,就又碰着了一个大问题:中国的言语,各处很不同,单给一个粗枝大叶的区别,就有北方话,江浙话,两湖川贵话,福建话,广东话这五种,而这五种中,还有小区别。现在用拉丁字来写,写普通话,还是写土话呢?要写普通话,人们不会;倘写土话,别处的人们就看不懂,反而隔阂起来,不及全国通行的汉字了。这是一个大弊病! 我的意思是:在开首的启蒙时期,各地方各写它的土话,用不着顾到和别地方意思不相通。当未用拉丁写法之前,我们的不识字的人们,原没有用汉字互通着声气,所以新添的坏处是一点也没有的。倒有新的益处,至少是在同一语言的区域里,可以彼此交换意见,吸收智识了──那当然,一面也得有人写些有益的书。问题倒在这各处的大众语文,将来究竟要它专化呢,还是普通化? 方言土语里,很有些意味深长的话,我们那里叫“炼话”,用起来是很有意思的,恰如文言的用古典,听者也觉得趣味津津。各就各处的方言,将语法和词汇,更加提炼,使他们发达上去的,就是专化。这于文学,是很有益处的,它可以做得比仅用泛泛的话头的文章更加有意思。但专化又有专化的危险。言语学我不知道,看生物,是一到专化,往往要灭亡的。未有人类以前的许多动植物,就因为太专化了,失其可变性,环境一改,无法应付,只好灭亡。──幸而我们人类还不算专化的动物,请你们不要愁。大众,是有文学,要文学的,但决不该为文学做牺牲,要不然,他的荒谬和为了保存汉字,要十分之八的中国人做文盲来殉难的活圣贤就并不两样。所以,我想,启蒙时候用方言,但一面又要渐渐的加入普通的语法和词汇去。先用固有的,是一地方的语文的大众化,加入新的去,是全国的语文的大众化。 几个读书人在书房里商量出来的方案,固然大抵行不通,但一切都听其自然,却也不是好办法。现在在码头上,公共机关中,大学校里,确已有着一种好象普通话模样的东西,大家说话,既非“国语”,又不是京话,各各带着乡音,乡调,却又不是方言,即使说的吃力,听的也吃力,然而总归说得出,听得懂。如果加以整理,帮它发达,也是大众语中的一支,说不定将来还简直是主力。我说要在方言里“加入新的去”,那“新的”的来源就在这地方。待到这一种出于自然,又加人工的话一普遍,我们的大众语文就算大致统一了。 此后当然还要做。年深月久之后,语文更加一致,和“炼话”一样好,比“古典”还要活的东西,也渐渐的形成,文学就更加精采了。马上是办不到的。你们想,国粹家当作宝贝的汉字,不是化了三四千年工夫,这才有这么一堆古怪成绩么? 至于开手要谁来做的问题,那不消说:是觉悟的读书人。有人说:“大众的事情,要大众自己来做!”那当然不错的,不过得看看说的是什么脚色。如果说的是大众,那有一点是对的,对的是要自己来,错的是推开了帮手。倘使说的是读书人呢,那可全不同了:他在用漂亮话把持文字,保护自己的尊荣。 |
【九 特殊化か、普遍化か】
ここまで来ると、また一つの大問題にぶつかる。中国の言語は各地で大いに異なり、大雑把に区別しても、北方話、江浙話、両湖川貴話、福建話、広東話の五種があり、この五種の中にもさらに小区別がある。今、ラテン字で書くとして、普通話を書くのか、それとも土話を書くのか。普通話を書こうにも人々は話せず、土話を書けば他所の人にはわからず、かえって隔てが生じて、全国共通の漢字にも及ばなくなる。これは大きな弊害だ。 私の考えはこうだ。最初の啓蒙の時期には、各地がそれぞれの土話を書けばよく、他所と意思が通じるかどうか顧みる必要はない。ラテン化以前に、我々の文盲の人々がもともと漢字で互いに意思疎通していたわけではないのだから、新たな弊害は一つもない。むしろ新たな益がある。少なくとも同じ言語の地域内では、意見を交換し知識を吸収できるようになるのだ――もちろん同時に有益な書物を誰かが書かねばならないが。問題はむしろ、各地のこの大衆語文を、将来は特殊化させるのか、それとも普遍化させるのか、ということだ。 方言土語の中には含蓄の深い言い回しが少なくなく、我々の故郷では「練話」と呼ぶ。使えばなかなか趣があり、文言における古典の引用に似て、聞く者も興味津々だ。各地がそれぞれの方言の語法と語彙をさらに錬磨し、発達させていくのが特殊化だ。これは文学にとって大いに益がある。漠然とした言い回しだけの文章よりも含蓄ある作品ができる。しかし特殊化には特殊化の危険がある。言語学はわからないが、生物を見ると、あまりに特殊化すると往々にして絶滅する。人類以前の多くの動植物は、特殊化しすぎて可変性を失い、環境が変わると対応できず、絶滅するしかなかった。――幸い我々人間はまだ特殊化した動物ではないから、心配には及ばない。大衆は文学を持ち、文学を求めるが、文学のために犠牲になるべきでは断じてない。さもなくば、漢字を保存するために中国人の八割を文盲として殉難させようとする生きた聖人とさして変わらぬ愚行だ。だから、啓蒙の時期は方言を使い、一方で普通の語法と語彙を漸次加えていくべきだと思う。既存のものを使うのは一地方の語文の大衆化であり、新しいものを加えるのは全国の語文の大衆化だ。 書斎の中で数人の読書人が話し合って出した方案は、大抵うまくいかないが、一切を自然のなりゆきに任せるのも良策ではない。今、埠頭で、公共機関で、大学校で、確かに一種の普通話めいたものがある。皆が話すのは「国語」でもなく北京語でもなく、それぞれお国訛りを帯びているが方言でもなく、たとえ話すのも聞くのも骨が折れるにせよ、ともかく通じる。これを整理し発達を助ければ、大衆語の一支流となり、ゆくゆくはむしろ主力となるかもしれない。私が方言に「新しいものを加える」と言った、その「新しいもの」の出所がここにある。この自然に発生し人為を加えた話が普及すれば、我々の大衆語文は大体において統一されたことになる。 その後も当然まだやるべきことはある。年月を経て、語文がさらに一致し、「練話」と同じくらい良く、「古典」よりなお活きた言い回しも次第に形成されれば、文学はさらに精彩を放つだろう。たちまちには実現できない。考えてもみよ、国粋家が宝としている漢字は、三四千年の歳月をかけて、こうした奇妙な成果を積み上げたのだから。 では最初に誰がやるのかという問題だが、それは言うまでもなく覚醒した読書人だ。「大衆のことは大衆自身がやるべきだ!」と言う者がいる。もちろん間違いではないが、それを言っている者がどんな人物かを見なければならない。大衆が言っているのなら、自分でやるべきだという点は正しいが、助力を退けるのは誤りだ。もし読書人が言っているのなら、話はまるで違ってくる。彼は美辞麗句で文字を独占し、自分の尊厳を守っているのだ。 |
第35節
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【十 不必恐慌】
但是,这还不必实做,只要一说,就又使另一些人发生恐慌了。 首先是说提倡大众语文的,乃是“文艺的政治宣传员如宋阳之流”,本意在于造反。给带上一顶有色帽,是极简单的反对法。不过一面也就是说,为了自己的太平,宁可中国有百分之八十的文盲。那么,倘使口头宣传呢,就应该使中国有百分之八十的聋子了。但这不属于“谈文”的范围,这里也无须多说。 专为着文学发愁的,我现在看见有两种。一种是怕大众如果都会读,写,就大家都变成文学家了。这真是怕天掉下来的好人。上次说过,在不识字的大众里,是一向就有作家的。我久不到乡下去了,先前是,农民们还有一点余闲,譬如乘凉,就有人讲故事。不过这讲手,大抵是特定的人,他比较的见识多,说话巧,能够使人听下去,懂明白,并且觉得有趣。这就是作家,抄出他的话来,也就是作品。倘有语言无味,偏爱多嘴的人,大家是不要听的,还要送给他许多冷话──讥刺。我们弄了几千年文言,十来年白话,凡是能写的人,何尝个个是文学家呢?即使都变成文学家,又不是军阀或土匪,于大众也并无害处的,不过彼此互看作品而已。 还有一种是怕文学的低落。大众并无旧文学的修养,比起士大夫文学的细致来,或者会显得所谓“低落”的,但也未染旧文学的痼疾,所以它又刚健,清新。无名氏文学如《子夜歌》之流,会给旧文学一种新力量,我先前已经说过了;现在也有人绍介了许多民歌和故事。还有戏剧,例如《朝花夕拾》所引《目连救母》里的无常鬼的自传,说是因为同情一个鬼魂,暂放还阳半日,不料被阎罗责罚,从此不再宽纵了──
“那怕你铜墙铁壁! 那怕你皇亲国戚!……”
何等有人情,又何等知过,何等守法,又何等果决,我们的文学家做得出来么? 这是真的农民和手业工人的作品,由他们闲中扮演。借目连的巡行来贯串许多故事,除《小尼姑下山》外,和刻本的《目莲救母记》是完全不同的。其中有一段《武松打虎》,是甲乙两人,一强一弱,扮着戏玩。先是甲扮武松,乙扮老虎;被甲打得要命,乙埋怨他了,甲道:“你是老虎,不打,不是给你咬死了?”乙只得要求互换,却又被甲咬得要命,一说怨话,甲便道:“你是武松,不咬,不是给你打死了?”我想:比起希腊的伊索,俄国的梭罗古勃的寓言来,这是毫无逊色的。 如果到全国的各处去收集,这一类的作品恐怕还很多。但自然,缺点是有的。是一向受着难文字,难文章的封锁,和现代思潮隔绝。所以,倘要中国的文化一同向上,就必须提倡大众语,大众文,而且书法更必须拉丁化。 |
【十 恐慌するには及ばない】
だが実行するまでもなく、言い出しただけで、また別の一群を恐慌させてしまう。 まず言われるのは、大衆語文を提唱しているのは「宋陽の如き文芸の政治宣伝員」であり、本意は造反にあるということだ。色眼鏡の帽子をかぶせるのは極めて簡単な反対法だ。だが同時に、自分の太平のためなら中国に八割の文盲がいても構わぬと言っているのと同じだ。では口頭宣伝の場合はどうか、中国人の八割を聾者にすべきだということになる。だがこれは「文談」の範囲には属さないから、ここで多く述べる必要もない。 もっぱら文学を心配する者が、今のところ二種見受けられる。一つは、大衆が皆読み書きできるようになれば、皆が文学家になってしまうという恐れだ。これは天が落ちてくるのを心配する善人だ。前に述べた通り、文盲の大衆の中にもとより作家はいた。私は久しく田舎に行っていないが、以前は農民に少しの余暇があると、たとえば夕涼みの時に物語をする者がいた。ただしこの語り手は大抵決まった人物で、比較的見聞が広く話が巧みで、人に聞かせ、わからせ、面白がらせることができた。これがすなわち作家であり、彼の話を書き取れば作品だ。もし話に味がなく、饒舌好きの者がいれば、皆聞こうとせず、冷やかしの言葉を浴びせる――つまり諷刺だ。我々は数千年の文言と十数年の白話をいじくり回してきたが、書ける者が全員文学家になったことがあったか。たとえ皆が文学家になったところで、軍閥でも匪賊でもないのだから、大衆には何の害もなく、互いに作品を読み合うだけのことだ。 もう一つは文学の低落を恐れる者だ。大衆には旧文学の素養がないから、士大夫文学の細やかさに比べれば「低落」と見えるかもしれないが、旧文学の痼疾にも染まっていないゆえに剛健で清新だ。『子夜歌』の類の無名氏文学が旧文学に新しい力を与えたことは先に述べた。今も民歌や物語が多く紹介されている。さらに演劇もある。たとえば『朝花夕拾』が引く『目連救母』の中の無常鬼の自白、ある亡霊に同情して半日だけ生き返らせてやったら閻羅に罰されてしまい、以来もう容赦はしないという――
「たとえ銅壁鉄壁であろうとも! たとえ皇族外戚であろうとも!……」
何と人情味があり、何と過ちを知り、何と法を守り、しかも何と毅然としていることか。我々の文学家にこれが書けるだろうか。 これは真の農民と手工業者の作品であり、暇に任せて演じられるものだ。目連の巡行を貫く多くの物語は、『小尼姑下山』を除けば、刊本の『目連救母記』とはまるで異なる。その中の『武松打虎』は甲乙二人、一人は強く一人は弱く、戯れに演じる。まず甲が武松、乙が虎を演じるが、甲にさんざん殴られて乙が文句を言うと、甲は「お前は虎だ。殴らなければこっちが噛み殺されるじゃないか」。乙は仕方なく交代を申し出るが、今度は甲に噛まれてまた文句を言うと、甲曰く「お前は武松だ。噛まなければこっちが殴り殺されるじゃないか」。思うに、ギリシャのイソップ、ロシアのソログーブの寓話と比べても、些かも遜色がない。 もし全国各地で蒐集すれば、この類の作品はまだ実に多いだろう。だがもちろん欠点もある。難しい文字、難しい文章に封鎖され続け、現代思潮と隔絶していることだ。だから中国の文化を共に向上させようとするなら、大衆語・大衆文を提唱し、しかも書法はラテン化すべきなのだ。 |
第36節
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【十一 大众并不如读书人所想像的愚蠢】
但是,这一回,大众语文刚一提出,就有些猛将趁势出现了,来路是并不一样的,可是都向白话,翻译,欧化语法,新字眼进攻。他们都打着“大众”的旗,说这些东西,都为大众所不懂,所以要不得。其中有的是原是文言余孽,借此先来打击当面的白话和翻译的,就是祖传的“远交近攻”的老法术;有的是本是懒惰分子,未尝用功,要大众语未成,白话先倒,让他在这空场上夸海口的,其实也还是文言文的好朋友,我都不想在这里多谈。现在要说的只是那些好意的,然而错误的人,因为他们不是看轻了大众,就是看轻了自己,仍旧犯着古之读书人的老毛病。 读书人常常看轻别人,以为较新,较难的字句,自己能懂,大众却不能懂,所以为大众计,是必须彻底扫荡的;说话作文,越俗,就越好。这意见发展开来,他就要不自觉的成为新国粹派。或则希图大众语文在大众中推行得快,主张什么都要配大众的胃口,甚至于说要“迎合大众”,故意多骂几句,以博大众的欢心。这当然自有他的苦心孤诣,但这样下去,可要成为大众的新帮闲的。 说起大众来,界限宽泛得很,其中包括着各式各样的人,但即使“目不识丁”的文盲,由我看来,其实也并不如读书人所推想的那么愚蠢。他们是要智识,要新的智识,要学习,能摄取的。当然,如果满口新语法,新名词,他们是什么也不懂;但逐渐的检必要的灌输进去,他们却会接受;那消化的力量,也许还赛过成见更多的读书人。初生的孩子,都是文盲,但到两岁,就懂许多话,能说许多话了,这在他,全部是新名词,新语法。他哪里是从《马氏文通》或《辞源》里查来的呢,也没有教师给他解释,他是听过几回之后,从比较而明白了意义的。大众的会摄取新词汇和语法,也就是这样子,他们会这样的前进。所以,新国粹派的主张,虽然好象为大众设想,实际上倒尽了拖住的任务。不过也不能听大众的自然,因为有些见识,他们究竟还在觉悟的读书人之下,如果不给他们随时拣选,也许会误拿了无益的,甚而至于有害的东西。所以,“迎合大众”的新帮闲,是绝对的要不得的。 由历史所指示,凡有改革,最初,总是觉悟的智识者的任务。但这些智识者,却必须有研究,能思索,有决断,而且有毅力。他也用权,却不是骗人,他利导,却并非迎合。他不看轻自己,以为是大家的戏子,也不看轻别人,当作自己的喽罗。他只是大众中的一个人,我想,这才可以做大众的事业。 |
【十一 大衆は読書人が思うほど愚かではない】
だが今回は、大衆語文が提起されるや否や、たちまち猛将がここぞとばかりに現れた。出所はまちまちだが、皆一様に白話、翻訳、欧化語法、新語に攻撃を加える。皆「大衆」の旗を掲げ、これらは大衆にわからないから駄目だと言う。中には元来の文言の残党で、これに乗じてまず当面の白話と翻訳を叩こうとする者がいる。先祖伝来の「遠交近攻」の古い術だ。また怠惰な分子で、努力もせず、大衆語が未完成のうちに白話を先に倒し、その空き地で大口を叩こうとする者もいるが、実は文言文の良い友人なのだ。これらについてはここで多くは述べない。今述べたいのは、善意ではあるが誤っている人々のことだ。彼らは大衆を見くびるか、さもなくば自分を見くびって、やはり昔の読書人の古い癖を犯しているのだ。 読書人は往々にして他人を見くびり、やや新しく、やや難しい語句でも自分にはわかるが大衆にはわかるまいと思い、大衆のためには徹底的に掃滅すべきだと考える。話も文章も、俗であればあるほどよいと。この意見を推し進めれば、彼は知らず知らずのうちに新国粋派になる。あるいは大衆語文を大衆の間に速やかに広めようとして、何でも大衆の口に合わせるべきだと主張し、甚だしくは「大衆に迎合」すべきだと言い、わざと多めに罵って大衆の歓心を買おうとする。これにはもちろん彼なりの苦心があるが、こうしていけば大衆の新しい太鼓持ちになってしまう。 大衆と言えば、その範囲は実に広く、各種各様の人が含まれる。だが「目に丁字を識らず」の文盲ですら、私の見るところ、読書人が想像するほど愚かではない。彼らは知識を求め、新しい知識を求め、学び、摂取する能力がある。もちろん新語法や新名詞を満口にすれば何もわからないだろう。だが必要なものを徐々に注ぎ入れていけば、彼らは受け入れる。その消化力は、先入観のより多い読書人よりむしろ勝っているかもしれない。生まれたばかりの赤子は皆文盲だが、二歳になれば多くの言葉を理解し、多くの言葉を話せるようになる。その全部が彼にとっては新名詞・新語法だ。『馬氏文通』や『辞源』で調べたのか。教師が説明したのでもない。何度か聞いて、比較の上から意味を悟ったのだ。大衆が新語彙と語法を摂取するのも同じことで、彼らはこうして前進する。だから新国粋派の主張は、大衆のためを思うように見えて、実は引き留める役目を果たしているのだ。ただし大衆の自然に任せきりにもできない。ある種の見識では彼らはやはり覚醒した読書人には及ばず、随時選別してやらなければ、無益な、さらには有害なものを誤って手にするかもしれないからだ。だから「大衆に迎合する」新しい太鼓持ちは、絶対にいけないのだ。 歴史の示すところによれば、およそ改革は最初、覚醒した知識人の任務である。だがこれらの知識人は、研究があり、思索でき、決断力があり、しかも毅力がなければならない。彼もまた権を用いるが、人を欺くのではない。彼は利導するが、迎合するのではない。彼は自分を見くびって皆の道化だとは思わず、他人を見くびって自分の子分だとも思わない。彼はただ大衆の中の一人なのだ。これこそが大衆の事業をなしうる者だと、私は思う。 |
第37節
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【十二 煞尾】 话已经说得不少了。总之,单是话不行,要紧的是做。要许多人做:大众和先驱;要各式的人做:教育家,文学家,言语学家……。这已经迫于必要了,即使目下还有点逆水行舟,也只好拉纤;顺水固然好得很,然而还是少不得把舵的。 这拉纤或把舵的好方法,虽然也可以口谈,但大抵得益于实验,无论怎么看风看水,目的只是一个:向前。 各人大概都有些自己的意见,现在还是给我听听你们诸位的高论罢。 |
【十二 結び】
話はもうずいぶんした。要するに、話だけでは駄目で、肝要なのは実行だ。多くの人が実行すること――大衆と先駆者が。各種の人が実行すること――教育家、文学家、言語学者……。これはすでに緊急の必要に迫られている。たとえ目下はまだ多少逆風の中の舟漕ぎであっても、綱を引くしかない。順風ならもちろん結構だが、それでも舵取りは欠かせない。 この綱引きや舵取りの良い方法は、口でも語れるが、大部分は実験から得られるものであり、どのように風を読み水を読んでも、目指すところはただ一つ、前へ進むことだ。 各人それぞれにいくらかの意見があるだろう。さあ今度は諸君の高論を聞かせてもらおう。 |
第38節
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【不知肉味和不知水味】
今年的尊孔,是民国以来第二次的盛典,凡是可以施展出来的,几乎全都施展出来了。上海的华界虽然接近夷(亦作彝)场,也听到了当年孔子听得“三月不知肉味”的“韶乐”。八月三十日的《申报》报告我们说──
“廿七日本市各界在文庙举行孔诞纪念会,到党政机关,及各界代表一千余人。有大同乐会演奏中和韶乐二章,所用乐器因欲扩大音量起见,不分古今,凡属国乐器,一律配入,共四十种。其谱一仍旧贯,并未变动。聆其节奏,庄严肃穆,不同凡响,令人悠然起敬,如亲三代以上之承平雅颂,亦即我国民族性酷爱和平之表示也。……”
乐器不分古今,一律配入,盖和周朝的韶乐,该已很有不同。但为“扩大音量起见”,也只能这么办,而且和现在的尊孔的精神,也似乎十分合拍的。“孔子,圣之时者也”,“亦即圣之摩登者也”,要三月不知鱼翅燕窝味,乐器大约决非“共四十种”不可;况且那时候,中国虽然已有外患,却还没有夷场。 不过因此也可见时势究竟有些不同了,纵使“扩大音量”,终于还扩不到乡间,同日的《中华日报》上,就记着一则颇伤“承平雅颂,亦即我国民族性酷爱和平之表示”的体面的新闻,最不凑巧的是事情也出在二十七──
“(宁波通讯)余姚入夏以来,因天时亢旱,河水干涸,住民饮料,大半均在河畔开凿土井,借以汲取,故往往因争先后,而起冲突。廿七日上午,距姚城四十里之朗霞镇后方屋地方,居民杨厚坤与姚士莲,又因争井水,发生冲突,互相加殴。姚士莲以烟筒头猛击杨头部,杨当即昏倒在地。继姚又以木棍石块击杨中要害,竟遭殴毙。迨邻近闻声施救,杨早已气绝。而姚士莲见已闯祸,知必不能免,即乘机逃避……”
闻韶,是一个世界,口渴,是一个世界。食肉而不知味,是一个世界,口渴而争水,又是一个世界。自然,这中间大有君子小人之分,但“非小人无以养君子”,到底还不可任凭他们互相打死,渴死的。 听说在阿拉伯,有些地方,水已经是宝贝,为了喝水,要用血去换。“我国民族性”是“酷爱和平”的,想必不至于如此。但余姚的实例却未免有点怕人,所以我们除食肉者听了而不知肉味的“韶乐”之外,还要不知水味者听了而不想水喝的“韶乐”。
(八月二十九日。) |
【肉の味を知らずと水の味を知らず】
今年の尊孔は、民国以来二度目の盛典であり、繰り出せるものはほぼすべて繰り出された。上海の華界は夷場(彝場とも書く)に近いとはいえ、当年孔子が聴いて「三月肉の味を知らず」となった「韶楽」を聴くことができた。八月三十日の『申報』は我々にこう報じた――
「二十七日、本市各界は文廟にて孔誕紀念会を挙行。党政機関及び各界代表千余名が参列。大同楽会が中和韶楽二章を演奏。使用楽器は音量拡大のため、古今を問わず、凡そ国楽器はすべて配入し、合計四十種。その譜は旧来のままにて変動なし。その節奏を聴けば、荘厳粛穆にして凡響に同じからず、悠然として敬を起こさしめ、三代以上の承平雅頌に親しむ心地あり。すなわち我が国民族性の酷く和平を愛するの表示なり。……」
楽器は古今を問わず一律に配入したのだから、周朝の韶楽とはかなり違うはずだ。だが「音量拡大のため」にはこうするしかなく、しかも今日の尊孔の精神ともよく調和しているようだ。「孔子は聖の時なる者なり」「すなわち聖のモダンなる者なり」、三月のあいだフカヒレや燕の巣の味を忘れるには、楽器は「合計四十種」でなければなるまい。しかもあの時代、中国にはすでに外患はあったが、まだ夷場はなかった。 しかしこれによって時勢がやはり多少異なることもわかる。たとえ「音量を拡大」しても、結局は田舎までは届かない。同日の『中華日報』には「承平雅頌、すなわち我が国民族性の酷く和平を愛するの表示」の体面をかなり損なう記事が載っており、最も間の悪いことに事件もまた二十七日のことであった――
「(寧波通信)余姚は入夏以来、天候の旱魃により河水が涸渇し、住民の飲料水は大半が河畔に土井を掘って汲み取るものなれば、しばしば先後を争いて衝突を起こす。二十七日午前、姚城より四十里の朗霞鎮後方屋地方にて、住民の楊厚坤と姚士蓮が、また井戸水を争い衝突を生じ、互いに殴り合う。姚士蓮は煙管の頭で楊の頭部を猛打し、楊は即座に昏倒。続いて姚はさらに木棒と石で楊の急所を打ち、ついに殴打により死亡。隣人が異変を聞きつけ駆けつけた時には楊はすでに息絶えていた。姚士蓮は事の重大を見て取り、免れ難きを悟り、即座に逃走……」
韶楽を聴くのは一つの世界であり、喉が渇くのは一つの世界だ。肉を食べてその味を知らぬのは一つの世界であり、喉が渇いて水を争うのはまた一つの世界だ。もちろんこの間に君子と小人の区別は大いにあるが、「小人なくんば君子を養う能わず」であり、彼らが互いに殴り殺し、渇き死にするのに任せるわけにもいくまい。 聞くところでは、アラビアのある地方では水がすでに宝物で、水を飲むために血と引き換えにするという。「我が国民族性」は「酷く和平を愛する」のだから、おそらくそこまでにはなるまい。だが余姚の実例はいささか恐ろしく、我々は肉食者が聴いて肉の味を知らなくなる「韶楽」のほかに、水の味を知らぬ者が聴いて水を飲みたいとも思わなくなる「韶楽」をも必要とするのだ。
(八月二十九日。) |
第39節
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【中国语文的新生】
中国现在的所谓中国字和中国文,已经不是中国大家的东西了。 古时候,无论那一国,能用文字的原是只有少数的人的,但到现在,教育普及起来,凡是称为文明国者,文字已为大家所公有。但我们中国,识字的却大概只占全人口的十分之二,能作文的当然还要少。这还能说文字和我们大家有关系么? 也许有人要说,这十分之二的特别国民,是怀抱着中国文化,代表着中国大众的。我觉得这话并不对。这样的少数,并不足以代表中国人。正如中国人中,有吃燕窝鱼翅的人,有卖红丸的人,有拿回扣的人,但不能因此就说一切中国人,都在吃燕窝鱼翅,卖红丸,拿回扣一样。要不然,一个郑孝胥,真可以把全副“王道”挑到满洲去。 我们倒应该以最大多数为根据,说中国现在等于并没有文字。 这样的一个连文字也没有的国度,是在一天一天的坏下去了。我想,这可以无须我举例。 单在没有文字这一点上,智识者是早就感到模胡的不安的。清末的办白话报,五四时候的叫“文学革命”,就为此。但还只知道了文章难,没有悟出中国等于并没有文字。今年的提倡复兴文言文,也为此,他明知道现在的机关枪是利器,却因历来偷懒,未曾振作,临危又想侥幸,就只好梦想大刀队成事了。 大刀队的失败已经显然,只有两年,已没有谁来打九十九把钢刀去送给军队。但文言队的显出不中用来,是很慢,很隐的,它还有寿命。 和提倡文言文的开倒车相反,是目前的大众语文的提倡,但也还没有碰到根本的问题:中国等于并没有文字。待到拉丁化的提议出现,这才抓住了解决问题的紧要关键。 反对,当然大大的要有的,特殊人物的成规,动他不得。格理莱倡地动说,达尔文说进化论,摇动了宗教,道德的基础,被攻击原是毫不足怪的;但哈飞发见了血液在人身中环流,这和一切社会制度有什么关系呢,却也被攻击了一世。然而结果怎样?结果是:血液在人身中环流! 中国人要在这世界上生存,那些识得《十三经》的名目的学者,“灯红”会对“酒绿”的文人,并无用处,却全靠大家的切实的智力,是明明白白的。那么,倘要生存,首先就必须除去阻碍传布智力的结核:非语文和方块字。如果不想大家来给旧文字做牺牲,就得牺牲掉旧文字。走那一面呢,这并非如冷笑家所指摘,只是拉丁化提倡者的成败,乃是关于中国大众的存亡的。要得实证,我看也不必等候怎么久。 至于拉丁化的较详的意见,我是大体和《自由谈》连载的华圉作《门外文谈》相近的,这里不多说。我也同意于一切冷笑家所冷嘲的大众语的前途的艰难;但以为即使艰难,也还要做;愈艰难,就愈要做。改革,是向来没有一帆风顺的,冷笑家的赞成,是在见了成效之后,如果不信,可看提倡白话文的当时。
(九月二十四日。) |
【中国語文の新生】 中国の現在のいわゆる中国字と中国文は、もはや中国の万人のものではなくなっている。 古は、いずれの国であれ、文字を操り得るのは少数者に限られていた。しかし今日では教育が普及し、およそ文明国と称される国では、文字はすでに万人の共有するところとなっている。ところがわが中国では、識字者はおおむね全人口の十分の二にすぎず、文章を書き得る者はさらに少ない。これでなお文字がわれわれ万人と関係があると言えようか。 あるいは、この十分の二の特別な国民が中国文化を抱持し、中国大衆を代表しているのだと言う者もあろう。私はこの言葉は正しくないと思う。このような少数は中国人を代表するに足りない。中国人の中に燕の巣やふかひれを食う者があり、紅丸を売る者があり、賄賂を取る者があるが、これをもってすべての中国人が燕の巣やふかひれを食い、紅丸を売り、賄賂を取っていると言えないのと同じである。さもなければ、鄭孝胥ひとりが「王道」の一切を満洲に担いで行けることになってしまう。 われわれはむしろ最大多数を根拠として、中国は現在、文字を持たないに等しいと言うべきである。 このような文字すら持たない国は、日一日と衰えて行きつつある。例を挙げるまでもなかろうと思う。 文字がないというこの一点だけでも、知識人はとうの昔から漠然たる不安を感じていた。清末の白話報の刊行も、五四の「文学革命」の叫びも、みなこのためである。しかしまだ文章が難しいことを知っただけで、中国には文字がないに等しいということに気づいていなかった。今年の文言文復興の提唱もこのためであるが、今日の機関銃が利器であることを知りながら、従来の怠慢のゆえに奮起しえず、窮地に臨んでなお僥倖を望み、ただ大刀隊で事を成さんと夢想するのと同じである。 大刀隊の失敗はすでに明らかで、わずか二年で九十九本の鋼刀を打って軍に送る者はいなくなった。しかし文言隊の役立たずが露呈するのは極めて緩やかで、極めて隠微であり、まだ命脈を保っている。 文言文提唱の時代逆行に対して、今日の大衆語文の提唱がある。しかしこれもまだ根本の問題に触れていない──中国には文字がないに等しいということに。ラテン化の提案が現れるに至って、問題解決の急所がようやく捉えられたのである。 反対は当然、大いにあるだろう。特権的人物の因習は動かし難い。ガリレイが地動説を唱え、ダーウィンが進化論を説いて宗教と道徳の基礎を揺るがし、攻撃を受けたのは少しも怪しむに足りない。しかしハーヴェイが血液の人体における循環を発見したのは、一切の社会制度とどんな関係があるのか。それでも一世にわたって攻撃を受けた。しかし結果はどうか。結果は──血液は人体の中を循環しているのだ! 中国人がこの世界で生存しようとするならば、《十三経》の名目を暗記する学者も、「灯紅」に「酒緑」と対句を作る文人も無用であり、ひとえに万人の切実な知力に頼るほかないことは明白である。ならば、生存しようと欲するならば、まず知力の伝播を阻害する結核を除去しなければならない。すなわち非語文と方塊字である。万人に旧文字の犠牲になってもらいたくなければ、旧文字を犠牲にするしかない。どちらの道を行くか──これは冷笑家が指摘するように、ただラテン化提唱者の成否に関わるのではなく、中国大衆の存亡に関わるのである。実証を得るのに、さほど長く待つ必要もあるまい。 ラテン化についてのより詳しい意見は、おおむね《自由談》に連載された華圉の《門外文談》に近いので、ここでは多く述べない。冷笑家がみな嘲る大衆語の前途の困難には、私も同感である。しかし困難であっても、なおやらねばならない。困難であればあるほど、なおさらやらねばならない。改革は昔からかつて順風満帆であったためしはなく、冷笑家が賛成するのは成果を見た後のことなのだ。信じないなら、白話文を提唱したときのことを見るがよい。 (九月二十四日。) |
第40節
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【中国人失掉自信力了吗】
从公开的文字上看起来:两年以前,我们总自夸着“地大物博”,是事实;不久就不再自夸了,只希望着国联,也是事实;现在是既不夸自己,也不信国联,改为一味求神拜佛,怀古伤今了──却也是事实。 于是有人慨叹曰:中国人失掉自信力了。 如果单据这一点现象而论,自信其实是早就失掉了的。先前信“地”,信“物”,后来信“国联”,都没有相信过“自己”。假使这也算一种“信”,那也只能说中国人曾经有过“他信力”,自从对国联失望之后,便把这他信力都失掉了。 失掉了他信力,就会疑,一个转身,也许能够只相信了自己,倒是一条新生路,但不幸的是逐渐玄虚起来了。信“地”和“物”,还是切实的东西,国联就渺茫,不过这还可以令人不久就省悟到依赖它的不可靠。一到求神拜佛,可就玄虚之至了,有益或是有害,一时就找不出分明的结果来,它可以令人更长久的麻醉着自己。 中国人现在是在发展着“自欺力”。 “自欺”也并非现在的新东西,现在只不过日见其明显,笼罩了一切罢了。然而,在这笼罩之下,我们有并不失掉自信力的中国人在。 我们从古以来,就有埋头苦干的人,有拚命硬干的人,有为民请命的人,有舍身求法的人,……虽是等于为帝王将相作家谱的所谓“正史”,也往往掩不住他们的光耀,这就是中国的脊梁。 这一类的人们,就是现在也何尝少呢?他们有确信,不自欺;他们在前仆后继的战斗,不过一面总在被摧残,被抹杀,消灭于黑暗中,不能为大家所知道罢了。说中国人失掉了自信力,用以指一部分人则可,倘若加于全体,那简直是诬蔑。 要论中国人,必须不被搽在表面的自欺欺人的脂粉所诓骗,却看看他的筋骨和脊梁。自信力的有无,状元宰相的文章是不足为据的,要自己去看地底下。
(九月二十五日。) |
【中国人は自信力を失ったか】 公開の文章から見ると──二年前にはわれわれはしきりに「地大物博」と自慢していた。これは事実である。まもなく自慢しなくなり、ただ国際連盟に望みを託すようになった。これも事実である。今ではもう自らを誇ることもなく、国際連盟を信じることもなく、ひたすら神仏に祈り、懐古傷今するばかりとなった──これもまた事実である。 そこである者が嘆じて曰く、中国人は自信力を失った、と。 もしこの一点の現象だけで論ずるなら、自信は実はとうの昔に失われていたのだ。以前は「地」を信じ、「物」を信じ、後には「国際連盟」を信じた。いずれも「自分」を信じたことはない。もしこれも一種の「信」だと言うなら、中国人がかつて持っていたのは「他信力」とでも言うべきもので、国際連盟に失望して以来、この他信力をも失ったにすぎない。 他信力を失えば疑いが生じ、ひとたび身を翻せば、あるいは自分だけを信じ得たかもしれない。それこそ新たな活路であったろう。しかし不幸にも次第に玄虚に向かってしまった。「地」や「物」を信じていたころは、まだ切実なものだった。国際連盟は渺茫たるものだが、それでもやがてそれに依拠する不確かさに気づかせるくらいのことはできた。ひとたび神仏に祈るに至っては、もう玄虚の極みであり、有益か有害か、一時には明らかな結果を見出しがたく、人をより長く自己麻酔させ得るのである。 中国人が今発展させつつあるのは「自欺力」である。 「自欺」もまた今日始まったものではなく、今はただ日に日にその明白さを増し、一切を覆い尽くしたにすぎない。しかしこの覆いの下に、自信力を失わない中国人がいる。 われわれは古来、黙々と骨身を惜しまず働く人があり、命を賭して力を尽くす人があり、民のために命を請う人があり、身を捨てて法を求める人があった。……帝王将相のための家系図にも等しいいわゆる「正史」ですら、彼らの光輝を覆い隠すことはできなかった。これこそ中国の脊梁である。 このような人々が今日少ないなどということがあろうか。彼らには確信があり、自欺しない。彼らは前仆後継の戦いの中にあるが、ただ一方では常に摧残され、抹殺され、暗黒の中に消え、世に知られないだけのことである。中国人が自信力を失ったと言うのは、一部の人を指すならまだしも、もし全体に加えるならば、それはまさに誣蔑である。 中国人を論じようとするなら、表面に塗られた自欺欺人の脂粉に騙されてはならない。その筋骨と脊梁を見なければならない。自信力の有無は、状元宰相の文章をもって証とするに足りず、自ら地の底を見に行くべきなのだ。 (九月二十五日。) |
第41節
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【“以眼还眼”】
杜衡先生在“最近,出于‘与其看一部新的书,还不如看一部旧的书’的心情”,重读了莎士比亚的《凯撒传》。这一读是颇有关系的,结果使我们能够拜读他从读旧书而来的新文章:《莎剧凯撒传里所表现的群众》(见《文艺风景》创刊号)。 这个剧本,杜衡先生是“曾经用两个月的时间把它翻译出来过”的,就可见读得非常子细。他告诉我们:“在这个剧里,莎氏描写了两个英雄──凯撒,和……勃鲁都斯。……还进一步创造了两位政治家(煽动家)──阴险而卑鄙的卡西乌斯,和表面上显得那么麻木而糊涂的安东尼。”但最后的胜利却属于安东尼,而“很明显地,安东尼底胜利是凭借了群众底力量”,于是更明显地,即使“甚至说,群众是这个剧底无形的主脑,也不嫌太过”了。 然而这“无形的主脑”是怎样的东西呢?杜衡先生在叙事和引文之后,加以结束──决不是结论,这是作者所不愿意说的──道──
“在这许多地方,莎氏是永不忘记把群众表现为一个力量的;不过,这力量只是一种盲目的暴力。他们没有理性,他们没有明确的利害观念;他们底感情是完全被几个煽动家所控制着,所操纵着。……自然,我们不能贸然地肯定这是群众底本质,但是我们倘若说,这位伟大的剧作者是把群众这样看法的,大概不会有什么错误吧。这看法,我知道将使作者大大地开罪于许多把群众底理性和感情用另一种方式来估计的朋友们。至于我,说实话,我以为对这些问题的判断,是至今还超乎我底能力之上,我不敢妄置一词。……”
杜衡先生是文学家,所以这文章做得极好,很谦虚。假如说,“妈的群众是瞎了眼睛的!”即使根据的是“理性”,也容易因了表现的粗暴而招致反感;现在是“这位伟大的剧作者”莎士比亚老前辈“把群众这样看法的”,您以为怎么样呢?“巽语之言,能无说乎”,至少也得客客气气的搔一搔头皮,如果你没有翻译或细读过莎剧《凯撒传》的话──只得说,这判断,更是“超乎我底能力之上”了。 于是我们都不负责任,单是讲莎剧。莎剧的确是伟大的,仅就杜衡先生所绍介的几点来看,它实在已经打破了文艺和政治无关的高论了。群众是一个力量,但“这力量只是一种盲目的暴力。他们没有理性,他们没有明确的利害观念”,据莎氏的表现,至少,他们就将“民治”的金字招牌踏得粉碎,何况其他?即在目前,也使杜衡先生对于这些问题不能判断了。一本《凯撒传》,就是作政论看,也是极有力量的。 然而杜衡先生却又因此替作者捏了一把汗,怕“将使作者大大地开罪于许多把群众底理性和感情用另一种方式来估计的朋友们”。自然,在杜衡先生,这是一定要想到的,他应该爱惜这一位以《凯撒传》给他智慧的作者。然而肯定的判断了那一种“朋友们”,却未免太不顾事实了。现在不但施蛰存先生已经看见了苏联将要排演莎剧的“丑态”(见《现代》九月号),便是《资本论》里,不也常常引用莎氏的名言,未尝说他有罪么?将来呢,恐怕也如未必有人引《哈孟雷特》来证明有鬼,更未必有人因《哈孟雷特》而责莎士比亚的迷信一样,会特地“吊民伐罪”,和杜衡先生一般见识的。 况且杜衡先生的文章,是写给心情和他两样的人们来读的,因为会看见《文艺风景》这一本新书的,当然决不是怀着“与其看一部新的书,还不如看一部旧的书”的心情的朋友。但是,一看新书,可也就不至于只看一本《文艺风景》了,讲莎剧的书又很多,涉猎一点,心情就不会这么抖抖索索,怕被“政治家”(煽动家)所煽动。那些“朋友们”除注意作者的时代和环境而外,还会知道《凯撒传》的材料是从布鲁特奇的《英雄传》里取来的,而且是莎士比亚从作喜剧转入悲剧的第一部;作者这时是失意了。为什么事呢,还不大明白。但总之,当判断的时候,是都要想到的,又未必有杜衡先生所豫言的痛快,简单。 单是对于“莎剧《凯撒传》里所表现的群众”的看法,和杜衡先生的眼睛两样的就有的是。现在只抄一位痛恨十月革命,逃入法国的显斯妥夫(Lev Shestov)先生的见解,而且是结论在这里罢──
“在《攸里乌斯·凯撒》中活动的人,以上之外,还有一个。那是复合底人物。那便是人民,或说‘群众’。莎士比亚之被称为写实家,并不是无意义的。无论在那一点,他决不阿谀群众,做出凡俗的性格来。他们轻薄,胡乱,残酷。今天跟在彭贝的战车之后,明天喊着凯撒之名,但过了几天,却被他的叛徒勃鲁都斯的辩才所惑,其次又赞成安东尼的攻击,要求着刚才的红人勃鲁都斯的头了。人往往愤慨着群众之不可靠。但其实,岂不是正有适用着‘以眼还眼,以牙还牙’的古来的正义的法则的事在这里吗?劈开底来看,群众原是轻蔑着彭贝、凯撒、安东尼、辛那之辈的,他们那一面,也轻蔑着群众。今天凯撒握着权力,凯撒万岁。明天轮到安东尼了,那就跟在他后面罢。只要他们给饭吃,给戏看,就好。他们的功绩之类,是用不着想到的。他们那一面也很明白,施与些像个王者的宽容,借此给自己收得报答。在拥挤着这些满是虚荣心的人们的连串里,间或夹杂着勃鲁都斯那样的廉直之士,是事实。然而谁有从山积的沙中,找出一粒珠子来的闲工夫呢?群众,是英雄的大炮的食料,而英雄,从群众看来,不过是余兴。在其间,正义就占了胜利,而幕也垂下来了。”(《莎士比亚〔剧〕中的伦理的问题》)
这当然也未必是正确的见解,显斯妥夫就不很有人说他是哲学家或文学家。不过便是这一点点,就很可以看见虽然同是从《凯撒传》来看它所表现的群众,结果却已经和杜衡先生有这么的差别。而且也很可以推见,正不会如杜衡先生所豫料,“将使作者大大地开罪于许多把群众底理性和感情用另一方式来估计的朋友们”了。 所以,杜衡先生大可以不必替莎士比亚发愁。彼此其实都很明白:“阴险而卑鄙的卡西乌斯,和表面上显得那么麻木而糊涂的安东尼”,就是在那时候的群众,也“不过是余兴”而已。
(九月三十日。) |
【「目には目を」】 杜衡氏は「最近、『新しい本を読むよりはむしろ古い本を読んだ方がよい』という気持ちから」、シェイクスピアの《ジュリアス・シーザー》を読み返した。この再読はなかなか意味深いもので、おかげでわれわれは、古い本を読んで得た氏の新しい文章、すなわち《シェイクスピア劇ジュリアス・シーザーに表現された群衆》(《文芸風景》創刊号所収)を拝読することができた。この戯曲を杜衡氏は「二箷月の時間をかけて翻訳したことがある」というのだから、非常に精読したことがわかる。氏の教えるところによれば、「この劇で、シェイクスピアは二人の英雄を描いた──シーザーと……ブルータス。」しかし最後の勝利はアントニーに帰し、「明らかに、アントニーの勝利は群衆の力に依ったものであり」、「群衆こそこの劇の目に見えぬ主脳であると言っても、言い過ぎとはならぬ」のである。杜衡氏は叙述と引用の後に結びを加えた。「これらの数多くの箇所において、シェイクスピアは群衆を一つの力として表現することを忘れない。ただし、この力はただ一種の盲目な暴力にすぎない。彼らには理性がなく、明確な利害観念がない。」これもまた必ずしも正確な見解ではないが、同じく《ジュリアス・シーザー》から群衆を見ていながら、結果は杜衡氏とこれほどの差がある。杜衡氏はシェイクスピアのために愁う必要など毛頭ない。(九月三十日。) |
第42節
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【说“面子”】
“面子”,是我们在谈话里常常听到的,因为好象一听就懂,所以细想的人大约不很多。 但近来从外国人的嘴里,有时也听到这两个音,他们似乎在研究。他们以为这一件事情,很不容易懂,然而是中国精神的纲领,只要抓住这个,就像二十四年前的拔住了辫子一样,全身都跟着走动了。相传前清时候,洋人到总理衙门去要求利益,一通威吓,吓得大官们满口答应,但临走时,却被从边门送出去。不给他走正门,就是他没有面子;他既然没有面子,自然就是中国有了面子,也就是占了上风了。这是不是事实,我断不定,但这故事,“中外人士”中是颇有些人知道的。 因此,我颇疑心他们想专将“面子”给我们。 但“面子”究竟是怎么一回事呢?不想还好,一想可就觉得胡涂。它象是很有好几种的,每一种身份,就有一种“面子”,也就是所谓“脸”。这“脸”有一条界线,如果落到这线的下面去了,即失了面子,也叫作“丢脸”。不怕“丢脸”,便是“不要脸”。但倘使做了超出这线以上的事,就“有面子”,或曰“露脸”。而“丢脸”之道,则因人而不同,例如车夫坐在路边赤膊捉虱子,并不算什么,富家姑爷坐在路边赤膊捉虱子,才成为“丢脸”。但车夫也并非没有“脸”,不过这时不算“丢”,要给老婆踢了一脚,就躺倒哭起来,这才成为他的“丢脸”。这一条“丢脸”律,是也适用于上等人的。这样看来,“丢脸”的机会,似乎上等人比较的多,但也不一定,例如车夫偷一个钱袋,被人发见,是失了面子的,而上等人大捞一批金珠珍玩,却仿佛也不见得怎样“丢脸”,况且还有“出洋考察”,是改头换面的良方。
谁都要“面子”,当然也可以说是好事情,但“面子”这东西,却实在有些怪。九月三十日的《申报》就告诉我们一条新闻:沪西有业木匠大包作头之罗立鸿,为其母出殡,邀开“贳器店之王树宝夫妇帮忙,因来宾众多,所备白衣,不敷分配,其时适有名王道才,绰号三喜子,亦到来送殡,争穿白衣不遂,以为有失体面,心中怀恨,……邀集徒党数十人,各执铁棍,据说尚有持手枪者多人,将王树宝家人乱打,一时双方有剧烈之战争,头破血流,多人受有重伤。……”白衣是亲族有服者所穿的,现在必须“争穿”而又“不遂”,足见并非亲族,但竟以为“有失体面”,演成这样的大战了。这时候,好象要和普通有些不同便是“有面子”,而自己成了什么,却可以完全不管。这类脾气,是“绅商”也不免发露的:袁世凯将要称帝的时候,有人以列名于劝进表中为“有面子”;有一国从青岛撤兵的时候,有人以列名于万民伞上为“有面子”。 所以,要“面子”也可以说并不一定是好事情──但我并非说,人应该“不要脸”。现在说话难,如果主张“非孝”,就有人会说你在煽动打父母,主张男女平等,就有人会说你在提倡乱交──这声明是万不可少的。 况且,“要面子”和“不要脸”实在也可以有很难分辨的时候。不是有一个笑话么?一个绅士有钱有势,我假定他叫四大人罢,人们都以能够和他扳谈为荣。有一个专爱夸耀的小瘪三,一天高兴的告诉别人道:“四大人和我讲过话了!”人问他“说什么呢?”答道:“我站在他门口,四大人出来了,对我说:滚开去!”当然,这是笑话,是形容这人的“不要脸”,但在他本人,是以为“有面子”的,如此的人一多,也就真成为“有面子”了。别的许多人,不是四大人连“滚开去”也不对他说么? 在上海,“吃外国火腿”虽然还不是“有面子”,却也不算怎么“丢脸”了,然而比起被一个本国的下等人所踢来,又仿佛近于“有面子”。 中国人要“面子”,是好的,可惜的是这“面子”是“圆机活法”,善于变化,于是就和“不要脸”混起来了。长谷川如是闲说“盗泉”云:“古之君子,恶其名而不饮,今之君子,改其名而饮之。”也说穿了“今之君子”的“面子”的秘密。
(十月四日。) |
【「面子」を論ず】 「面子」はわれわれの会話の中でしばしば耳にするものであり、一聞してわかるように思われるから、じっくり考える者はおそらく多くない。しかし近ごろ外国人の口からも、時にこの二音を聞くようになった。彼らは研究しているらしい。この一事はなかなか理解しがたいが、中国精神の綱領であり、これさえ掌めば、二十四年前に辮子を掌んだのと同じく、全身がそれについて動く、と彼らは考えている。中国人が「面子」を欲するのは良いことだが、残念なのはこの「面子」が「円機活法」であり、変化に巧みなことで、こうして「恥知らず」と混ざり合ってしまうのだ。長谷川如是閑が「盗泉」について言っている。「古の君子は、その名を悪みて飲まず。今の君子は、その名を改めて飲む。」(十月四日。) |
第43節
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【运命】
有一天,我坐在内山书店里闲谈──我是常到内山书店去闲谈的,我的可怜的敌对的“文学家”,还曾经借此竭力给我一个“汉奸”的称号,可惜现在他们又不坚持了──才知道日本的丙午年生,今年二十九岁的女性,是一群十分不幸的人。大家相信丙午年生的女人要克夫,即使再嫁,也还要克,而且可以多至五六个,所以想结婚是很困难的。这自然是一种迷信,但日本社会上的迷信也还是真不少。 我问:可有方法解除这夙命呢?回答是:没有。 接着我就想到了中国。 许多外国的中国研究家,都说中国人是定命论者,命中注定,无可奈何;就是中国的论者,现在也有些人这样说。但据我所知道,中国女性就没有这样无法解除的命运。“命凶”或“命硬”,是有的,但总有法子想,就是所谓“禳解”;或者和不怕相克的命的男子结婚,制住她的“凶”或“硬”。假如有一种命,说是要连克五六个丈夫的罢,那就早有道士之类出场,自称知道妙法,用桃木刻成五六个男人,画上符咒,和这命的女人一同行“结俪之礼”后,烧掉或埋掉,于是真来订婚的丈夫,就算是第七个,毫无危险了。 中国人的确相信运命,但这运命是有方法转移的。所谓“没有法子”,有时也就是一种另想道路──转移运命的方法。等到确信这是“运命”,真真“没有法子”的时候,那是在事实上已经十足碰壁,或者恰要灭亡之际了。运命并不是中国人的事前的指导,乃是事后的一种不费心思的解释。 中国人自然有迷信,也有“信”,但好象很少“坚信”。我们先前最尊皇帝,但一面想玩弄他,也尊后妃,但一面又有些想吊她的膀子;畏神明,而又烧纸钱作贿赂,佩服豪杰,却不肯为他作牺牲。崇孔的名儒,一面拜佛,信甲的战士,明天信丁。宗教战争是向来没有的,从北魏到唐末的佛道二教的此仆彼起,是只靠几个人在皇帝耳朵边的甘言蜜语。风水,符咒,拜祷……偌大的“运命”,只要化一批钱或磕几个头,就改换得和注定的一笔大不相同了──就是并不注定。 我们的先哲,也有知道“定命”有这么的不定,是不足以定人心的,于是他说,这用种种方法之后所得的结果,就是真的“定命”,而且连必须用种种方法,也是命中注定的。但看起一般的人们来,却似乎并不这样想。 人而没有“坚信”,狐狐疑疑,也许并不是好事情,因为这也就是所谓“无特操”。但我以为信运命的中国人而又相信运命可以转移,却是值得乐观的。不过现在为止,是在用迷信来转移别的迷信,所以归根结蒂,并无不同,以后倘能用正当的道理和实行──科学来替换了这迷信,那么,定命论的思想,也就和中国人离开了。 假如真有这一日,则和尚、道士、巫师、星相家、风水先生……的宝座,就都让给了科学家,我们也不必整年的见神见鬼了。
(十月二十三日。) |
【運命】 ある日、私は内山書店で雑談していた。そこで初めて知ったのだが、日本の丙午年生まれ、今年二十九歳の女性は、まことに不幸な一群だという。丙午年生まれの女は夫を剋すと広く信じられており、結婚が非常に困難なのである。私は尋ねた。この宿命を解除する方法はあるのか。答えは──ない。すると私はすぐに中国のことを思い浮かべた。中国人は確かに運命を信じている。だがこの運命には転じさせる方法があるのだ。運命は中国人にとって事前の指針ではなく、事後の一つの解釈にすぎない。今後もし科学をもってこの迷信に替え得るならば、定命論の思想もまた中国人を離れるであろう。(十月二十三日。) |
第44節
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【脸谱臆测】
对于戏剧,我完全是外行。但遇到研究中国戏剧的文章,有时也看一看。近来的中国戏是否象征主义,或中国戏里有无象征手法的问题,我是觉得很有趣味的。 伯鸿先生在《戏》周刊十一期(《中华日报》副刊)上,说起脸谱,承认了中国戏有时用象征的手法,“比如白表‘奸诈’,红表‘忠勇’,黑表‘威猛’,蓝表‘妖异’,金表‘神灵’之类,实与西洋的白表‘纯洁清净’,黑表‘悲哀’,红表‘热烈’,黄金色表‘光荣’和‘努力’”并无不同,这就是“色的象征”,虽然比较的单纯,低级。 这似乎也很不错,但再一想,却又生了疑问,因为白表奸诈,红表忠勇之类,是只以在脸上为限,一到别的地方,白就并不象征奸诈,红也不表示忠勇了。 对于中国戏剧史,我又是完全的外行。我只知道古时候(南北朝)的扮演故事,是带假面的,这假面上,大约一定得表示出这角色的特征,一面也是这角色的脸相的规定。古代的假面和现在的打脸的关系,好象还没有人研究过,假使有些关系,那么,“白表奸诈”之类,就恐怕只是人物的分类,却并非象征手法了。 中国古来就喜欢讲“相人术”,但自然和现在的“相面”不同,并非从气色上看出祸福来,而是所谓“诚于中,必形于外”,要从脸相上辨别这人的好坏的方法。一般的人们,也有这一种意见的,我们在现在,还常听到“看他样子就不是好人”这一类话。这“样子”的具体的表现,就是戏剧上的“脸谱”。富贵人全无心肝,只知道自私自利,吃得白白胖胖,什么都做得出,于是白就表了奸诈。红表忠勇,是从关云长的“面如重枣”来的。“重枣”是怎样的枣子,我不知道,要之,总是红色的罢。在实际上,忠勇的人思想较为简单,不会神经衰弱,面皮也容易发红,倘使他要永远中立,自称“第三种人”,精神上就不免时时痛苦,脸上一块青,一块白,终于显出白鼻子来了。黑表威猛,更是极平常的事,整年在战场上驰驱,脸孔怎会不黑,擦着雪花膏的公子,是一定不肯自己出面去战斗的。 士君子常在一门一门的将人们分类,平民也在分类,我想,这“脸谱”,便是优伶和看客公同逐渐议定的分类图。不过平民的辨别,感受的力量,是没有士君子那么细腻的。况且我们古时候戏台的搭法,又和罗马不同,使看客非常散漫,表现倘不加重,他们就觉不到,看不清。这么一来,各类人物的脸谱,就不能不夸大化,漫画化,甚而至于到得后来,弄得希奇古怪,和实际离得很远,好象象征手法了。 脸谱,当然自有它本身的意义的,但我总觉得并非象征手法,而且在舞台的构造和看客的程度和古代不同的时候,它更不过是一种赘疣,无须扶持它的存在了。然而用在别一种有意义的玩艺上,在现在,我却以为还是很有兴趣的。
(十月三十一日。) |
【臉譜についての臆測】 演劇について、私はまったくの門外漢である。しかし中国演劇を研究する文章に出会えば、時には目を通すこともある。伯鴻氏は《戲》週刊第十一期で臉譜に触れ、中国劇に時に象徴的手法が用いられることを認めた。「白は『奸詐』、赤は『忠勇』、黒は『威猛』を表す」などは西洋の色の象徴と異ならない、と。この「臉譜」こそ、俳優と観客が共同で次第に議定した分類図であると私は思う。臉譜にはもちろんそれ自体の意義がある。しかし私はやはり象徴的手法ではないと感じており、今日ではもはや贅瘤にすぎないと思う。(十月三十一日。) |
第45節
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【随便翻翻】
我想讲一点我的当作消闲的读书──随便翻翻。但如果弄得不好,会受害也说不定的。 我最初去读书的地方是私塾,第一本读的是《鉴略》,桌上除了这一本书和习字的描红格,对字(这是做诗的准备)的课本之外,不许有别的书。但后来竟也慢慢的认识字了,一认识字,对于书就发生了兴趣,家里原有两三箱破烂书,于是翻来翻去,大目的是找图画看,后来也看看文字。这样就成了习惯,书在手头,不管它是什么,总要拿来翻一下,或者看一遍序目,或者读几叶内容,到得现在,还是如此,不用心,不费力,往往在作文或看非看不可的书籍之后,觉得疲劳的时候,也拿这玩意来作消遣了,而且它也的确能够恢复疲劳。 倘要骗人,这方法很可以冒充博雅。现在有一些老实人,和我闲谈之后,常说我书是看得很多的,略谈一下,我也的确好象书看得很多,殊不知就为了常常随手翻翻的缘故,却并没有本本细看。还有一种很容易到手的秘本,是《四库书目提要》,倘还怕繁,那么,《简明目录》也可以,这可要细看,它能做成你好象看过许多书。不过我也曾用过正经工夫,如什么“国学”之类,请过先生指教,留心过学者所开的参考书目。结果都不满意。有些书目开得太多,要十来年才能看完,我还疑心他自己就没有看;只开几部的较好,可是这须看这位开书目的先生了,如果他是一位胡涂虫,那么,开出来的几部一定也是极顶胡涂书,不看还好,一看就胡涂。 我并不是说,天下没有指导后学看书的先生,有是有的,不过很难得。 这里只说我消闲的看书──有些正经人是反对的,以为这么一来,就“杂”!“杂”,现在又算是很坏的形容词。但我以为也有好处。譬如我们看一家的陈年账簿,每天写着“豆付三文,青菜十文,鱼五十文,酱油一文”,就知先前这几个钱就可买一天的小菜,吃够一家;看一本旧历本,写着“不宜出行,不宜沐浴,不宜上梁”,就知道先前是有这么多的禁忌。看见了宋人笔记里的“食菜事魔”,明人笔记里的“十彪五虎”,就知道“哦呵,原来‘古已有之’。”但看完一部书,都是些那时的名人轶事,某将军每餐要吃三十八碗饭,某先生体重一百七十五斤半;或是奇闻怪事,某村雷劈蜈蚣精,某妇产生人面蛇,毫无益处的也有。这时可得自己有主意了,知道这是帮闲文士所做的书。凡帮闲,他能令人消闲消得最坏,他用的是最坏的方法。倘不小心,被他诱过去,那就坠入陷阱,后来满脑子是某将军的饭量,某先生的体重,蜈蚣精和人面蛇了。 讲扶乩的书,讲婊子的书,倘有机会遇见,不要皱起眉头,显示憎厌之状,也可以翻一翻;明知道和自己意见相反的书,已经过时的书,也用一样的办法。例如杨先生的《不得已》是清初的著作,但看起来,他的思想是活着的,现在意见和他相近的人们正多得很。这也有一点危险,也就是怕被它诱过去。治法是多翻,翻来翻去,一多翻,就有比较,比较是医治受骗的好方子。乡下人常常误认一种硫化铜为金矿,空口是和他说不明白的,或者他还会赶紧藏起来,疑心你要白骗他的宝贝。但如果遇到一点真的金矿,只要用手掂一掂轻重,他就死心塌地:明白了。 “随便翻翻”是用各种别的矿石来比的方法,很费事,没有用真的金矿来比的明白,简单。我看现在青年的常在问人该读什么书,就是要看一看真金,免得受硫化铜的欺骗。而且一识得真金,一面也就真的识得了硫化铜,一举两得了。 但这样的好东西,在中国现有的书里,却不容易得到。我回忆自己的得到一点知识,真是苦得可怜。幼小时候,我知道中国在“盘古氏开辟天地”之后,有三皇五帝、……宋朝,元朝,明朝,“我大清”。到二十岁,又听说“我们”的成吉思汗征服欧洲,是“我们”最阔气的时代。到二十五岁,才知道所谓这“我们”最阔气的时代,其实是蒙古人征服了中国,我们做了奴才。直到今年八月里,因为要查一点故事,翻了三部蒙古史,这才明白蒙古人的征服“斡罗思”,侵入匈奥,还在征服全中国之前,那时的成吉思还不是我们的汗,倒是俄人被奴的资格比我们老,应该他们说“我们的成吉思汗征服中国,是我们最阔气的时代”的。 我久不看现行的历史教科书了,不知道里面怎么说;但在报章杂志上,却有时还看见以成吉思汗自豪的文章。事情早已过去了,原没有什么大关系,但也许正有着大关系,而且无论如何,总是说些真实的好。所以我想,无论是学文学的,学科学的,他应该先看一部关于历史的简明而可靠的书。但如果他专讲天王星,或海王星,虾蟆的神经细胞,或只咏梅花,叫妹妹,不发关于社会的议论,那么,自然,不看也可以的。 我自己,是因为懂一点日本文,在用日译本《世界史教程》和新出的《中国社会史》应应急的,都比我历来所见的历史书类说得明确。前一种中国曾有译本,但只有一本,后五本不译了,译得怎样,因为没有见过,不知道,后一种中国倒先有译本,叫作《中国社会发展史》,不过据日译者说,是多错误,有删节,靠不住的。 我还在希望中国有这两部书。又希望不要一哄而来,一哄而散,要译,就译他完;也不要删节,要删节,就得声明,但最好还是译得小心,完全,替作者和读者想一想。
(十一月二日。) |
【気ままな拾い読み】 私が消閑として行う読書──気ままな拾い読みについて少し話したい。だが下手をすると害を受けないとも限らないのである。最初に読書した場所は私塾で、最初の本は《鑑略》だった。しかしやがて少しずつ字を覚え、家にあった二、三箱のぼろぼろの本をあれこれ繰っては、もっぱら図画を探して見、後には文字も読むようになった。こうして習慣となり、手元に本があればそれが何であれ、手に取ってめくらずにはいられない。今に至るまでそうである。「気ままな拾い読み」は、さまざまな鉱石で比較する方法であり、真の金鉱で比べるほど明瞭でも簡単でもない。私自身は、少し日本語ができるおかげで、日本語訳の《世界史教程》と新刊の《中国社会史》でしのいでいる。(十一月二日。) |
第46節
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【拿破仑与隋那】
我认识一个医生,忙的,但也常受病家的攻击,有一回,自解自叹道:要得称赞,最好是杀人,你把拿破仑和隋那(Edward Jenner,1749─1823)去比比看…… 我想,这是真的。拿破仑的战绩,和我们什么相干呢,我们却总敬服他的英雄。甚而至于自己的祖宗做了蒙古人的奴隶,我们却还恭维成吉思;从现在的卐字眼睛看来,黄人已经是劣种了,我们却还夸耀希特拉。 因为他们三个,都是杀人不眨眼的大灾星。 但我们看看自己的臂膊,大抵总有几个疤,这就是种过牛痘的痕迹,是使我们脱离了天花的危症的。自从有这种牛痘法以来,在世界上真不知救活了多少孩子,──虽然有些人大起来也还是去给英雄们做炮灰,但我们有谁记得这发明者隋那的名字呢? 杀人者在毁坏世界,救人者在修补它,而炮灰资格的诸公,却总在恭维杀人者。 这看法倘不改变,我想,世界是还要毁坏,人们也还要吃苦的。
(十一月六日。) |
【ナポレオンとジェンナー】 私の知るある医者は、忙しい人だが、患者からの攻撃もしばしば受ける。あるとき自嘲して嘆息した──称賛を得たければ、人を殺すに如くはない。ナポレオンとジェンナー(Edward Jenner, 1749-1823)を比べてごらんなさい……思うにこれは本当である。ナポレオンの戦績はわれわれと何の関係があるのか、それでもわれわれは常にその英雄を敬服する。しかしわれわれの腕を見れば、おおむね幾つかの痕がある。これは種痘の跡であり、われわれを天然痘の危険から救ったものだ。殺人者は世界を毀損し、救命者はそれを修繕する。しかし砲弾の餌の資格を持つ諸公は、つねに殺人者を礼賛するのだ。この見方が変わらない限り、世界はなお毀損され続けるだろうと、私は思う。(十一月六日。) |
第47節
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【答“戏”周刊编者信】
鲁迅先生鉴: 《阿Q》的第一幕已经登完了,搬上舞台实验虽还不是马上可以做到,但我们的准备工作是就要开始发动了。我们希望你能在第一幕刚登完的时候先发表一点意见,一方面对于我们的公演准备或者也有些帮助,另方面本刊的丛书计划一实现也可以把你的意见和《阿Q》剧本同时付印当作一篇序。这是编者的要求,也是作者,读者和演出的同志们的要求。祝健!
编者。
编辑先生── 在《戏》周刊上给我的公开信,我早看见了;后来又收到邮寄的一张周刊,我知道这大约是在催促我的答复。对于戏剧,我是毫无研究的,我的最可靠的答复,是一声也不响。但如果先生和读者们都肯豫先了解我不过是一个外行人的随便谈谈,那么,我自然也不妨说一点我个人的意见。 《阿Q》在每一期里,登得不多,每期相隔又有六天,断断续续的看过,也陆陆续续的忘记了。现在回忆起来,只记得那编排,将《呐喊》中的另外的人物也插进去,以显示未庄或鲁镇的全貌的方法,是很好的。但阿Q所说的绍兴话,我却有许多地方看不懂。 现在我自己想说几句的,有两点── 一,未庄在那里?《阿Q》的编者已经决定:在绍兴。我是绍兴人,所写的背景又是绍兴的居多,对于这决定,大概是谁都同意的。但是,我的一切小说中,指明着某处的却少得很。中国人几乎都是爱护故乡,奚落别处的大英雄,阿Q也很有这脾气。那时我想,假如写一篇暴露小说,指定事情是出在某处的罢,那么,某处人恨得不共戴天,非某处人却无异隔岸观火,彼此都不反省,一班人咬牙切齿,一班人却飘飘然,不但作品的意义和作用完全失掉了,还要由此生出无聊的枝节来,大家争一通闲气──《闲话扬州》是最近的例子。为了医病,方子上开人参,吃法不好,倒落得满身浮肿,用萝卜子来解,这才恢复了先前一样的瘦,人参白买了,还空空的折贴了萝卜子。人名也一样,古今文坛消息家,往往以为有些小说的根本是在报私仇,所以一定要穿凿书上的谁,就是实际上的谁。为免除这些才子学者们的白费心思,另生枝节起见,我就用“赵太爷”,“钱大爷”,是《百家姓》上最初的两个字;至于阿Q的姓呢,谁也不十分了然。但是,那时还是发生了谣言。还有排行,因为我是长男,下有两个兄弟,为豫防谣言家的毒舌起见,我的作品中的坏脚色,是没有一个不是老大,或老四,老五的。 上面所说那样的苦心,并非我怕得罪人,目的是在消灭各种无聊的副作用,使作品的力量较能集中,发挥得更强烈。果戈理作《巡按使》,使演员直接对看客道:“你们笑自己!”(奇怪的是中国的译本,却将这极要紧的一句删去了。)我的方法是在使读者摸不着在写自己以外的谁,一下子就推诿掉,变成旁观者,而疑心到象是写自己,又象是写一切人,由此开出反省的道路。但我看历来的批评家,是没有一个注意到这一点的。这回编者的对于主角阿Q所说的绍兴话,取了这样随手胡调的态度,我看他的眼睛也是为俗尘所蔽的。 但是,指定了绍兴也好。于是跟着起来的是第二个问题── 二,阿Q该说什么话?这似乎无须问,阿Q一生的事情既然出在绍兴,他当然该说绍兴话。但是第三个疑问接着又来了── 三,《阿Q》是演给那里的人们看的?倘是演给绍兴人看的,他得说绍兴话无疑。绍兴戏文中,一向是官员秀才用官话,堂倌狱卒用土话的,也就是生,旦,净大抵用官话,丑用土话。我想,这也并非全为了用这来区别人的上下,雅俗,好坏,还有一个大原因,是警句或炼话,讥刺和滑稽,十之九是出于下等人之口的,所以他必用土话,使本地的看客们能够彻底的了解。那么,这关系之重大,也就可想而知了。其实,倘使演给绍兴的人们看,别的脚色也大可以用绍兴话,因为同是绍兴话,所谓上等人和下等人说的也并不同,大抵前者句子简,语助词和感叹词少,后者句子长,语助词和感叹词多,同一意思的一句话,可以冗长到一倍。但如演给别处的人们看,这剧本的作用却减弱,或者简直完全消失了。据我所留心观察,凡有自以为深通绍兴话的外县人,他大抵是像目前标点明人小品的名人一样,并不怎么懂得的;至于北方或闽粤人,我恐怕他听了之后,不会比听外国马戏里的打诨更有所得。 我想,普遍,永久,完全,这三件宝贝,自然是了不得的,不过也是作家的棺材钉,会将他钉死。譬如现在的中国,要编一本随时随地,无不可用的剧本,其实是不可能的,要这样编,结果就是编不成。所以我以为现在的办法,只好编一种对话都是比较的容易了解的剧本,倘在学校之类这些地方扮演,可以无须改动,如果到某一省县,某一乡村里面去,那么,这本子就算是一个底本,将其中的说白都改为当地的土话,不但语言,就是背景,人名,也都可变换,使看客觉得更加切实。譬如罢,如果这演剧之处并非水村,那么,航船可以化为大车,七斤也可以叫作“小辫儿”的。 我的意见说完了,总括一句,不过是说,这剧本最好是不要专化,却使大家可以活用。 临末还有一点尾巴,当然决没有叭儿君的尾巴的有趣。这是我十分抱歉的,不过还是非说不可。记得几个月之前,曾经回答过一个朋友的关于大众语的质问,这信后来被发表在《社会月报》上了,末了是杨邨人先生的一篇文章。一位绍伯先生就在《火炬》上说我已经和杨邨人先生调和,并且深深的感慨了一番中国人之富于调和性。这一回,我的这一封信,大约也要发表的罢,但我记得《戏》周刊上已曾发表过曾今可叶灵凤两位先生的文章;叶先生还画了一幅阿Q像,好象我那一本《呐喊》还没有在上茅厕时候用尽,倘不是多年便秘,那一定是又买了一本新的了。如果我被绍伯先生的判决所震慑,这回是应该不敢再写什么的,但我想,也不必如此。只是在这里要顺便声明:我并无此种权力,可以禁止别人将我的信件在刊物上发表,而且另外还有谁的文章,更无从豫先知道,所以对于同一刊物上的任何作者,都没有表示调和与否的意思;但倘有同一营垒中人,化了装从背后给我一刀,则我的对于他的憎恶和鄙视,是在明显的敌人之上的。 这倒并非个人的事情,因为现在又到了绍伯先生可以施展老手段的时候,我若不声明,则我所说过的各节,纵非买办意识,也是调和论了,还有什么意思呢? 专此布复,即请 文安。
鲁迅。十一月十四日。 |
【《戯》週刊編集者への返信】 魯迅先生閣下──《阿Q》の第一幕はすでに掲載を終えました。舞台上演の試みはすぐには実現できませんが、準備作業は間もなく着手する予定です。先生にまずご意見をいただければと存じます。これは編集者の願いであり、作者、読者、そして上演に携わる同志たちの願いでもあります。ご健康を祈ります! 編集者 編集先生──《戯》週刊に寄せられた公開書簡は早くに拝見しました。演劇について私は何の研究もなく、最も確実な返答は一言も発しないことです。しかし先生と読者諸氏が、私がただの門外漢の気ままな話にすぎないとご了解くださるなら、個人的な意見を少し述べてもよかろうと思います。 《阿Q》は毎号の掲載量が多くなく、各号の間に六日の隔たりがあるので、断続的に読み、また断続的に忘れてしまいました。覚えているのは、その編排──《吶喊》の他の人物も挿入して未荘あるいは魯鎮の全貌を示す方法が、なかなかよいということだけです。しかし阿Qの話す紹興語は、私にも多くの箇所が理解できませんでした。 今、自分から言いたいことが二点ある── 一、未荘はどこにあるか。《阿Q》の編者はすでに決定した──紹興に、と。私は紹興人であり、書く背景も紹興が多いから、この決定にはおそらく誰もが同意するだろう。しかし私の小説の中で、どこそこと明示しているものはきわめて少ない。あの時私は思った──もし暴露小説を一篇書いて、場所を指定すれば、当地の人は恨み、他所の人は無関心となる。互いに反省せず、作品の意義も作用も失われる。私の方法は、読者に自分以外の誰について書いているのかわからなくさせ、しかし自分のことのようでもあり万人のことのようでもあるとの疑いを持たせ、反省の道を開くことにある。 二、阿Qは何語を話すべきか。阿Qの生涯が紹興で過ぎたのなら、当然紹興語を話すべきである。しかし第三の疑問が続く── 三、《阿Q》はどこの人々に見せるのか。もし紹興の人に見せるなら、紹興語でなければならない。しかし他所の人に見せるとなれば、この脚本の作用は減殺される。 私の意見は以上である。一言で総括すれば、この脚本は特殊化しすぎず、皆が活用できるようにするのが最もよい。 最後にもう一つ。数箇月前、ある友人の大衆語に関する質問に答えたことがあり、この手紙は後に《社会月報》に掲載された。末尾には楊邨人氏の一篇が置かれていた。紹伯氏が《火炬》で、私がすでに楊邨人氏と和解したと述べた。ここで付言する。同一の刊行物上のいかなる著者に対しても、和解の意を表す気持ちはない。ただし同一陣営の者が変装して背後から私に一刀を加えるならば、私のその者への憎悪と蔑視は、明白な敵以上のものである。 魯迅。十一月十四日。 |
第48節
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【寄“戏”周刊编者信】
编辑先生: 今天看《戏》周刊第十四期,《独白》上“抱憾”于不得我的回信,但记得这信已于前天送出了,还是病中写的,自以为巴结得很,现在特地声明,算是讨好之意。 在这周刊上,看了几个阿Q像,我觉得都太特别,有点古里古怪。我的意见,以为阿Q该是三十岁左右,样子平平常常,有农民式的质朴,愚蠢,但也很沾了些游手之徒的狡猾。在上海,从洋车夫和小车夫里面,恐怕可以找出他的影子来的,不过没有流氓样,也不像瘪三样。只要在头上戴上一顶瓜皮小帽,就失去了阿Q,我记得我给他戴的是毡帽。这是一种黑色的,半圆形的东西,将那帽边翻起一寸多,戴在头上的;上海的乡下,恐怕也还有人戴。 报上说要图画,我这里有十张,是陈铁耕君刻的,今寄上,如不要,仍请寄回。他是广东人,所用的背景有许多大约是广东。第二,第三之二,第五,第七这四幅,比较刻的好;第三之一和本文不符;第九更远于事实,那时那里有摩托车给阿Q坐呢?该是大车,有些地方叫板车,是一种马拉的四轮的车,平时是载货物的。但绍兴也并没有这种车,我用的是那时的北京的情形,我在绍兴,其实并未见过这样的盛典。 又,今天的《阿Q正传》上说:“小D大约是小董罢?”并不是的。他叫“小同”,大起来,和阿Q一样。 专此布达,并请 撰安。
鲁迅上。十一月十八日。 |
【《戯》週刊編集者への書簡】 編集先生──本日《戯》週刊第十四期を見ました。《独白》に私の返信が届かないことへの「遺憾」が述べられていましたが、この手紙はおととい送り出したはずで、しかも病中に書いたものですから、なかなか精を出したつもりでおります。 この週刊で幾つかの阿Q像を見ましたが、いずれもあまりに特殊で風変わりに思われます。私の意見では、阿Qは三十歳前後、姿は平凡で、農民的な質朴と愚鈍を持ちつつも、遊び人の狡猾さも少々帯びているはずです。上海では人力車夫の中にその影を見出せるかもしれませんが、流氓めいてもちんぴらめいてもいない。頭に瓜皮小帽を被せただけで、阿Qではなくなります。私が彼に被せたのは氈帽だったと記憶しています。黒い半球形のもので、帽子の縁を一寸余り折り返して頭に被る。上海の近郊では今でも被っている人がいるだろう。 新聞に図画が欲しいとありましたが、手元に十枚あります。陳鉄耕君の木版画で、ここにお送りします。彼は広東人なので、背景の多くはおそらく広東でしょう。 なお、本日の《阿Q正伝》に「小Dはおそらく小董だろう」とありますが、そうではありません。彼の名は「小同」で、大きくなれば阿Qと同じです。 魯迅拝。十一月十八日。 |
第49節
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【中国文坛上的鬼魅】
一
当国民党对于共产党从合作改为剿灭之后,有人说,国民党先前原不过利用他们的,北伐将成的时候,要施行剿灭是豫定的计划。但我以为这说的并不是真实。国民党中很有些有权力者,是愿意共产的,他们那时争先恐后的将自己的子女送到苏联去学习,便是一个证据,因为中国的父母,孩子是他们第一等宝贵的人,他们决不至于使他们去练习做剿灭的材料。不过权力者们好象有一种错误的思想,他们以为中国只管共产,但他们自己的权力却可以更大,财产和姨太太也更多;至少,也总不会比不共产还要坏。 我们有一个传说。大约二千年之前,有一个刘先生,积了许多苦功,修成神仙,可以和他的夫人一同飞上天去了,然而他的太太不愿意。为什么呢?她舍不得住着的老房子,养着的鸡和狗。刘先生只好去恳求上帝,设法连老房子、鸡、狗,和他们俩全都弄到天上去,这才做成了神仙。也就是大大的变化了,其实却等于并没有变化。假使共产主义国里可以毫不改动那些权力者的老样,或者还要阔,他们是一定赞成的。然而后来的情形证明了共产主义没有上帝那样的可以通融办理,于是才下了剿灭的决心。孩子自然是第一等宝贵的人,但自己究竟更宝贵。 于是许多青年们,共产主义者及其嫌疑者,左倾者及其嫌疑者,以及这些嫌疑者的朋友们,就到处用自己的血来洗自己的错误,以及那些权力者们的错误。权力者们的先前的错误,是受了他们的欺骗的,所以必得用他们的血来洗干净。然而另有许多青年们,却还不知底细,在苏联学毕,骑着骆驼高高兴兴的由蒙古回来了。我记得有一个外国旅行者还曾经看得酸心,她说,他们竟不知道现在在祖国等候他们的,却已经是绞架。 不错,是绞架。但绞架还不算坏,简简单单的只用绞索套住了颈子,这是属于优待的。而且也并非个个走上了绞架,他们之中的一些人,还有一条路,是使劲的拉住了那颈子套上了绞索的朋友的脚。这就是用事实来证明他内心的忏悔,能忏悔的人,精神是极其崇高的。
二
从此而不知忏悔的共产主义者,在中国就成了该杀的罪人。而且这罪人,却又给了别人无穷的便利;他们成为商品,可以卖钱,给人添出职业来了。而且学校的风潮,恋爱的纠纷,也总有一面被指为共产党,就是罪人,因此极容易的得到解决。如果有谁和有钱的诗人辩论,那诗人的最后的结论是:共产党反对资产阶级,我有钱,他反对我,所以他是共产党。于是诗神就坐了金的坦克车,凯旋了。 但是,革命青年的血,却浇灌了革命文学的萌芽,在文学方面,倒比先前更其增加了革命性。政府里很有些从外国学来,或在本国学得的富于智识的青年,他们自然是觉得的,最先用的是极普通的手段:禁止书报,压迫作者,终于是杀戮作者,五个左翼青年作家就做了这示威的牺牲。然而这事件又并没有公表,他们很知道,这事是可以做,却不可以说的。古人也早经说过,“以马上得天下,不能以马上治之。”所以要剿灭革命文学,还得用文学的武器。 作为这武器而出现的,是所谓“民族文学”。他们研究了世界上各人种的脸色,决定了脸色一致的人种,就得取同一的行为,所以黄色的无产阶级,不该和黄色的有产阶级斗争,却该和白色的无产阶级斗争。他们还想到了成吉思汗,作为理想的标本,描写他的孙子拔都汗,怎样率领了许多黄色的民族,侵入斡罗斯,将他们的文化摧残,贵族和平民都做了奴隶。 中国人跟了蒙古的可汗去打仗,其实是不能算中国民族的光荣的,但为了扑灭斡罗斯,他们不能不这样做,因为我们的权力者,现在已经明白了古之斡罗斯,即今之苏联,他们的主义,是决不能增加自己的权力,财富和姨太太的了。然而,现在的拔都汗是谁呢? 一九三一年九月,日本占据了东三省,这确是中国人将要跟着别人去毁坏苏联的序曲,民族主义文学家们可以满足的了。但一般的民众却以为目前的失去东三省,比将来的毁坏苏联还紧要,他们激昂了起来。于是民族主义文学家也只好顺风转舵,改为对于这事件的啼哭,叫喊了。许多热心的青年们往南京去请愿,要求出兵;然而这须经过极辛苦的试验,火车不准坐,露宿了几日,才给他们坐到南京,有许多是只好用自己的脚走。到得南京,却不料就遇到一大队曾经训练过的“民众”,手里是棍子,皮鞭,手枪,迎头一顿打,使他们只好脸上或身上肿起几块,当作结果,垂头丧气的回家,有些人还从此找不到,有的是在水里淹死了,据报上说,那是他们自己掉下去的。 民族主义文学家们的啼哭也从此收了场,他们的影子也看不见了,他们已经完成了送丧的任务。这正和上海的葬式行列是一样的,出去的时候,有杂乱的乐队,有唱歌似的哭声,但那目的是在将悲哀埋掉,不再记忆起来;目的一达,大家走散,再也不会成什么行列的了。
三
但是,革命文学是没有动摇的,还发达起来,读者们也更加相信了。 于是别一方面,就出现了所谓“第三种人”,是当然决非左翼,但又不是右翼,超然于左右之外的人物。他们以为文学是永久的,政治的现象是暂时的,所以文学不能和政治相关,一相关,就失去它的永久性,中国将从此没有伟大的作品。不过他们,忠实于文学的“第三种人”,也写不出伟大的作品。为什么呢?是因为左翼批评家不懂得文学,为邪说所迷,对于他们的好作品,都加以严酷而不正确的批评,打击得他们写不出来了。所以左翼批评家,是中国文学的刽子手。 至于对于政府的禁止刊物,杀戮作家呢,他们不谈,因为这是属于政治的,一谈,就失去他们的作品的永久性了;况且禁压,或杀戮“中国文学的刽子手”之流,倒正是“第三种人”的永久的文学,伟大的作品的保护者。 这一种微弱的假惺惺的哭诉,虽然也是一种武器,但那力量自然是很小的,革命文学并不为它所击退。“民族主义文学”已经自灭,“第三种文学”又站不起来,这时候,只好又来一次真的武器了。 一九三三年十一月,上海的艺华影片公司突然被一群人们所袭击,捣毁得一塌胡涂了。他们是极有组织的,吹一声哨,动手,又一声哨,停止,又一声哨,散开。临时还留下了传单,说他们的所以征伐,是为了这公司为共产党所利用。而且所征伐的还不止影片公司,又蔓延到书店方面去,大则一群人闯进去捣毁一切,小则不知从那里飞来一块石子,敲碎了值洋二百的窗玻璃。那理由,自然也是因为这书店为共产党所利用。高价的窗玻璃的不安全,是使书店主人非常心痛的。几天之后,就有“文学家”将自己的“好作品”来卖给他了,他知道印出来是没有人看的,但得买下,因为价钱不过和一块窗玻璃相当,而可以免去第二块石子,省了修理窗门的工作。
四
压迫书店,真成为最好的战略了。 但是,几块石子是还嫌不够的。中央宣传委员会也查禁了一大批书,计一百四十九种,凡是销行较多的,几乎都包括在里面。中国左翼作家的作品,自然大抵是被禁止的,而且又禁到译本。要举出几个作者来,那就是高尔基(Gorky),卢那卡尔斯基(Lunacharsky),斐定(Fedin),法捷耶夫(Fadeev),绥拉斐摩维支(Serafimovich),辛克莱(Upton Sinclair),甚而至于梅迪林克(Maeterlinck),梭罗古勃(Sologub),斯忒林培克(Strindberg)。 这真使出版家很为难,他们有的是立刻将书缴出,烧毁了,有的却还想补救,和官厅去商量,结果是免除了一部分。为减少将来的出版的困难起见,官员和出版家还开了一个会议。在这会议上,有几个“第三种人”因为要保护好的文学和出版家的资本,便以杂志编辑者的资格提议,请采用日本的办法,在付印之前,先将原稿审查,加以删改,以免别人也被左翼作家的作品所连累而禁止,或印出后始行禁止而使出版家受亏。这提议很为各方面所满足,当即被采用了,虽然并不是光荣的拔都汗的老方法。 而且也即开始了实行,今年七月,在上海就设立了书籍杂志检查处,许多“文学家”的失业问题消失了,还有些改悔的革命作家们,反对文学和政治相关的“第三种人”们,也都坐上了检查官的椅子。他们是很熟悉文坛情形的;头脑没有纯粹官僚的胡涂,一点讽刺,一句反语,他们都比较的懂得所含的意义,而且用文学的笔来涂抹,无论如何总没有创作的烦难,于是那成绩,听说是非常之好了。 但是,他们的引日本为榜样,是错误的。日本固然不准谈阶级斗争,却并不说世界上并无阶级斗争,而中国则说世界上其实无所谓阶级斗争,都是马克斯捏造出来的,所以这不准谈,为的是守护真理。日本固然也禁止,删削书籍杂志,但在被删削之处,是可以留下空白的,使读者一看就明白这地方是受了删削,而中国却不准留空白,必须连起来,在读者眼前好象还是一篇完整的文章,只是作者在说着意思不明的昏话。这种在现在的中国读者面前说昏话,是弗理契(Friche),卢那卡尔斯基他们也在所不免的。 于是出版家的资本安全了,“第三种人”的旗子不见了,他们也在暗地里使劲的拉那上了绞架的同业的脚,而没有一种刊物可以描出他们的原形,因为他们正握着涂抹的笔尖,生杀的权力。在读者,只看见刊物消沉,作品的衰落,和外国一向有名的前进的作家,今年也大抵忽然变了低能者而已。 然而在实际上,文学界的阵线却更加分明了。蒙蔽是不能长久的,接着起来的又将是一场血腥的战斗。
(十一月二十一日。) |
【中国文壇の鬼魅】 一 国民党が共産党に対する態度を合作から殲滅に転じた後、ある者は言った──国民党はもとより彼らを利用したにすぎず、殲滅は予定の計画だったのだ、と。しかし私はこの説が真実だとは思わない。国民党の中には共産を望む有力者がかなりいた。彼らが子女をソ連に送り学ばせたのがその証拠である。ただ有力者たちには錯誤した考えがあったようで、共産しても自分たちの権力と財産はさらに増えるはずだと考えていた。しかし後の事態は、共産主義にはそのような融通が利かないことを証明した。そこで殲滅の決意が下されたのだ。 かくして多くの青年たちが自らの血をもって自らの過ちと有力者たちの過ちを洗った。 二 共産主義者は中国で該殺の罪人となった。しかもこの罪人は別人に無窮の便利を与えた。彼らは商品となり、金になった。「民族主義文学」が武器として出現し、「第三種人」が左右いずれにも属さぬと称した。 三 しかし革命文学は動揺せず、さらに発達した。書店への圧迫が最良の戦略となった。中央宣伝委員会は一四九種の書を禁じた。出版家を困らせ、検査制度が始まった。「第三種人」も検査官の椅子に座った。 四 しかし実際には文学界の陣線はさらに分明となった。欺瞞は長続きしない。続くのはまた一場の血腥い戦闘である。 (十一月二十一日。) |
第50節
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【关于新文字】 ──答问
比较,是最好的事情。当没有知道拼音字之前,就不会想到象形字的难;当没有看见拉丁化的新文字之前,就很难明确的断定以前的注音字母和罗马字拼法,也还是麻烦的,不合实用,也没有前途的文字。 方块汉字真是愚民政策的利器,不但劳苦大众没有学习和学会的可能,就是有钱有势的特权阶级,费时一二十年,终于学不会的也多得很。最近,宣传古文的好处的教授,竟将古文的句子也点错了,就是一个证据──他自己也没有懂。不过他们可以装作懂得的样子,来胡说八道,欺骗不明真相的人。 所以,汉字也是中国劳苦大众身上的一个结核,病菌都潜伏在里面,倘不首先除去它,结果只有自己死。先前也曾有过学者,想出拼音字来,要大家容易学,也就是更容易教训,并且延长他们服役的生命,但那些字都还很繁琐,因为学者总忘不了官话,四声,以及这是学者创造出来的字,必需有学者的气息。这回的新文字却简易得远了,又是根据于实生活的,容易学,有用,可以用这对大家说话,听大家的话,明白道理,学得技艺,这才是劳苦大众自己的东西,首先的唯一的活路。 现在正在中国试验的新文字,给南方人读起来,是不能全懂的。现在的中国,本来还不是一种语言所能统一,所以必须另照各地方的言语来拼,待将来再图沟通。反对拉丁化文字的人,往往将这当作一个大缺点,以为反而使中国的文字不统一了,但他却抹杀了方块汉字本为大多数中国人所不识,有些知识阶级也并不真识的事实。 然而他们却深知道新文字对于劳苦大众有利,所以在弥漫着白色恐怖的地方,这新文字是一定要受摧残的。现在连并非新文字,而只是更接近口语的“大众语”,也在受着苛酷的压迫和摧残。中国的劳苦大众虽然并不识字,但特权阶级却还嫌他们太聪明了,正竭力的弄麻木他们的思索机关呢,例如用飞机掷下炸弹去,用机关枪送过子弹去,用刀斧将他们的颈子砍断,就都是的。
(十二月九日。) |
【新文字について】 ──答問── 比較は最もよいことである。拼音字を知る前には、象形字の難しさに思い至ることはない。ラテン化の新文字を見る前には、以前の注音字母やローマ字綴りも煩雑で実用に適さないと明確に断じ難い。 方塊漢字はまさに愚民政策の利器である。労苦大衆が学ぶ可能性がないのみならず、特権階級でさえ学び得ない者がまことに多い。 ゆえに漢字もまた中国の労苦大衆の身体に潜む一つの結核であり、これをまず除去しなければ、結果は自らの死あるのみ。今回の新文字ははるかに簡易で、実生活に根ざしており、学びやすく実用的である。これこそ労苦大衆自身のものであり、第一の唯一の活路である。 現在中国で試験されている新文字は、南方の人が読むとすべてを理解することはできない。各地方の言語に応じて別々に綴り、将来の疎通を図るしかない。しかし彼らは新文字が労苦大衆に利することを深くわきまえている。だから白色テロが蔓延する地では、この新文字が摧残されるのは必定である。 (十二月九日。) |
第51節
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【病后杂谈】
一
生一点病,的确也是一种福气。不过这里有两个必要条件:一要病是小病,并非什么霍乱吐泻,黑死病,或脑膜炎之类;二要至少手头有一点现款,不至于躺一天,就饿一天。这二者缺一,便是俗人,不足与言生病之雅趣的。 我曾经爱管闲事,知道过许多人,这些人物,都怀着一个大愿。大愿,原是每个人都有的,不过有些人却模模胡胡,自己抓不住,说不出。他们中最特别的有两位:一位是愿天下的人都死掉,只剩下他自己和一个好看的姑娘,还有一个卖大饼的;另一位是愿秋天薄暮,吐半口血,两个侍儿扶着,恹恹的到阶前去看秋海棠。这种志向,一看好象离奇,其实却照顾得很周到。第一位姑且不谈他罢,第二位的“吐半口血”,就有很大的道理。才子本来多病,但要“多”,就不能重,假使一吐就是一碗或几升,一个人的血,能有几回好吐呢?过不几天,就雅不下去了。 我一向很少生病,上月却生了一点点。开初是每晚发热,没有力,不想吃东西,一礼拜不肯好,只得看医生。医生说是流行性感冒。好罢,就是流行性感冒。但过了流行性感冒一定退热的时期,我的热却还不退。医生从他那大皮包里取出玻璃管来,要取我的血液,我知道他在疑心我生伤寒病了,自己也有些发愁。然而他第二天对我说,血里没有一粒伤寒菌;于是注意的听肺,平常;听心,上等。这似乎很使他为难。我说,也许是疲劳罢;他也不甚反对,只是沉吟着说,但是疲劳的发热,还应该低一点。…… 好几回检查了全体,没有死症,不至于呜呼哀哉是明明白白的,不过是每晚发热,没有力,不想吃东西而已,这真无异于“吐半口血”,大可享生病之福了。因为既不必写遗嘱,又没有大痛苦,然而可以不看正经书,不管柴米账,玩他几天,名称又好听,叫作“养病”。从这一天起,我就自己觉得好象有点儿“雅”了;那一位愿吐半口血的才子,也就是那时躺着无事,忽然记了起来的。 光是胡思乱想也不是事,不如看点不劳精神的书,要不然,也不成其为“养病”。像这样的时候,我赞成中国纸的线装书,这也就是有点儿“雅”起来了的证据。洋装书便于插架,便于保存,现在不但有洋装二十五六史,连《四部备要》也硬领而皮靴了,──原是不为无见的。但看洋装书要年富力强,正襟危坐,有严肃的态度。假使你躺着看,那就好象两只手捧着一块大砖头,不多工夫,就两臂酸麻,只好叹一口气,将它放下。所以,我在叹气之后,就去寻线装书。 一寻,寻到了久不见面的《世说新语》之类一大堆,躺着来看,轻飘飘的毫不费力了,魏晋人的豪放潇洒的风姿,也仿佛在眼前浮动。由此想到阮嗣宗的听到步兵厨善于酿酒,就求为步兵校尉;陶渊明的做了彭泽令,就教官田都种秫,以便做酒,因了太太的抗议,这才种了一点秔。这真是天趣盎然,决非现在的“站在云端里呐喊”者们所能望其项背。但是,“雅”要想到适可而止,再想便不行。例如阮嗣宗可以求做步兵校尉,陶渊明补了彭泽令,他们的地位,就不是一个平常人,要“雅”,也还是要地位。“采菊东篱下,悠然见南山”是渊明的好句,但我们在上海学起来可就难了。没有南山,我们还可以改作“悠然见洋房”或“悠然见烟囱”的,然而要租一所院子里有点竹篱,可以种菊的房子,租钱就每月总得一百两,水电在外;巡捕捐按房租百分之十四,每月十四两。单是这两项,每月就是一百十四两,每两作一元四角算,等于一百五十九元六。近来的文稿又不值钱,每千字最低的只有四五角,因为是学陶渊明的雅人的稿子,现在算他每千字三大元罢,但标点,洋文,空白除外。那么,单单为了采菊,他就得每月译作净五万三千二百字。吃饭呢?要另外想法子生发,否则,他只好“饥来驱我去,不知竟何之”了。 “雅”要地位,也要钱,古今并不两样的,但古代的买雅,自然比现在便宜;办法也并不两样,书要摆在书架上,或者抛几本在地板上,酒杯要摆在桌子上,但算盘却要收在抽屉里,或者最好是在肚子里。 此之谓“空灵”。
二
为了“雅”,本来不想说这些话的。后来一想,这于“雅”并无伤,不过是在证明我自己的“俗”。王夷甫口不言钱,还是一个不干不净人物,雅人打算盘,当然也无损其为雅人。不过他应该有时收起算盘,或者最妙是暂时忘却算盘,那么,那时的一言一笑,就都是灵机天成的一言一笑,如果念念不忘世间的利害,那可就成为“杭育杭育派”了。这关键,只在一者能够忽而放开,一者却是永远执着,因此也就大有了雅俗和高下之分。我想,这和时而“敦伦”者不失为圣贤,连白天也在想女人的就被称为“登徒子”的道理,大概是一样的。 所以我恐怕只好自己承认“俗”,因为随手翻了一通《世说新语》,看过“娵隅跃清池”的时候,千不该万不该的竟从“养病”想到“养病费”上去了,于是一骨碌爬起来,写信讨版税,催稿费。写完之后,觉得和魏晋人有点隔膜,自己想,假使此刻有阮嗣宗或陶渊明在面前出现,我们也一定谈不来的。于是另换了几本书,大抵是明末清初的野史,时代较近,看起来也许较有趣味。第一本拿在手里的是《蜀碧》。 这是蜀宾从成都带来送我的,还有一部《蜀龟鉴》,都是讲张献忠祸蜀的书,其实是不但四川人,而是凡有中国人都该翻一下的著作,可惜刻的太坏,错字颇不少。翻了一遍,在卷三里看见了这样的一条──
“又,剥皮者,从头至尻,一缕裂之,张于前,如鸟展翅,率逾日始绝。有即毙者,行刑之人坐死。”
也还是为了自己生病的缘故罢,这时就想到了人体解剖。医术和虐刑,是都要生理学和解剖学智识的。中国却怪得很,固有的医书上的人身五脏图,真是草率错误到见不得人,但虐刑的方法,则往往好象古人早懂得了现代的科学。例如罢,谁都知道从周到汉,有一种施于男子的“宫刑”,也叫“腐刑”,次于“大辟”一等。对于女性就叫“幽闭”,向来不大有人提起那方法,但总之,是决非将她关起来,或者将它缝起来。近时好象被我查出一点大概来了,那办法的凶恶,妥当,而又合乎解剖学,真使我不得不吃惊。但妇科的医书呢?几乎都不明白女性下半身的解剖学的构造,他们只将肚子看作一个大口袋,里面装着莫名其妙的东西。 单说剥皮法,中国就有种种。上面所抄的是张献忠式;还有孙可望式,见于屈大均的《安龙逸史》,也是这回在病中翻到的。其时是永历六年,即清顺治九年,永历帝已经躲在安隆(那时改为安龙),秦王孙可望杀了陈邦传父子,御史李如月就弹劾他“擅杀勋将,无人臣礼”,皇帝反打了如月四十板。可是事情还不能完,又给孙党张应科知道了,就去报告了孙可望。
“可望得应科报,即令应科杀如月,剥皮示众。俄缚如月至朝门,有负石灰一筐,稻草一捆,置于其前。如月问,‘如何用此?’其人曰,‘是揎你的草!’,如月叱曰,‘瞎奴!此株株是文章,节节是忠肠也!’既而应科立右角门阶,捧可望令旨,喝如月跪。如月叱曰,‘我是朝廷命官,岂跪贼令!?’乃步至中门,向阙再拜。……应科促令仆地,剖脊,及臀,如月大呼曰:‘死得快活,浑身清凉!’又呼可望名,大骂不绝。及断至手足,转前胸,犹微声恨骂;至颈绝而死。随以灰渍之,纫以线,后乃入草,移北城门通衢阁上,悬之。……”
张献忠的自然是“流贼”式;孙可望虽然也是流贼出身,但这时已是保明拒清的柱石,封为秦王,后来降了满洲,还是封为义王,所以他所用的其实是官式。明初,永乐皇帝剥了那忠于建文帝的景清的皮,也就是用这方法的。大明一朝,以剥皮始,以剥皮终,可谓始终不变;至今在绍兴戏文里和乡下人的嘴上,还偶然可以听到“剥皮揎草”的话,那皇泽之长也就可想而知了。 真也无怪有些慈悲心肠人不愿意看野史,听故事;有些事情,真也不像人世,要令人毛骨悚然,心里受伤,永不全愈的。残酷的事实尽有,最好莫如不闻,这才可以保全性灵,也是“是以君子远庖厨也”的意思。比灭亡略早的晚明名家的潇洒小品在现在的盛行,实在也不能说是无缘无故。不过这一种心地晶莹的雅致,又必须有一种好境遇,李如月仆地“剖脊”,脸孔向下,原是一个看书的好姿势,但如果这时给他看袁中郎的《广庄》,我想他是一定不要看的。这时他的性灵有些儿不对,不懂得真文艺了。 然而,中国的士大夫是到底有点雅气的,例如李如月说的“株株是文章,节节是忠肠”,就很富于诗趣。临死做诗的,古今来也不知道有多少。直到近代,谭嗣同在临刑之前就做一绝“闭门投辖思张俭”,秋瑾女士也有一句“秋雨秋风愁杀人”,然而还雅得不够格,所以各种诗选里都不载,也不能卖钱。
三
清朝有灭族,有凌迟,却没有剥皮之刑,这是汉人应该惭愧的,但后来脍炙人口的虐政是文字狱。虽说文字狱,其实还含着许多复杂的原因,在这里不能细说;我们现在还直接受到流毒的,是他删改了许多古人的著作的字句,禁了许多明清人的书。 《安龙逸史》大约也是一种禁书,我所得的是吴兴刘氏嘉业堂的新刻本。他刻的前清禁书还不止这一种,屈大均的又有《翁山文外》;还有蔡显的《闲渔闲闲录》,是作者因此“斩立决”,还累及门生的,但我细看了一遍,却又寻不出什么忌讳。对于这种刻书家,我是很感激的,因为他传授给我许多知识──虽然从雅人看来,只是些庸俗不堪的知识。但是到嘉业堂去买书,可真难。我还记得,今年春天的一个下午,好容易在爱文义路找着了,两扇大铁门,叩了几下,门上开了一个小方洞,里面有中国门房,中国巡捕,白俄镖师各一位。巡捕问我来干什么的。我说买书。他说账房出去了,没有人管,明天再来罢。我告诉他我住得远,可能给我等一会呢?他说,不成!同时也堵住了那个小方洞。过了两天,我又去了,改作上午,以为此时账房也许不至于出去。但这回所得回答却更其绝望,巡捕曰:“书都没有了!卖完了!不卖了!” 我就没有第三次再去买,因为实在回复的斩钉截铁。现在所有的几种,是托朋友去辗转买来的,好象必须是熟人或走熟的书店,这才买得到。 每种书的末尾,都有嘉业堂主人刘承干先生的跋文,他对于明季的遗老很有同情,对于清初的文祸也颇不满。但奇怪的是他自己的文章却满是前清遗老的口风;书是民国刻的,“儀”还缺着末笔。我想,试看明朝遗老的著作,反抗清朝的主旨,是在异族的入主中夏的,改换朝代,倒还在其次。所以要顶礼明末的遗民,必须接受他的民族思想,这才可以心心相印。现在以明遗老之仇的满清的遗老自居,却又引明遗老为同调,只着重在“遗老”两个字,而毫不问遗于何族,遗在何时,这真可以说是“为遗老而遗老”,和现在文坛上的“为艺术而艺术”,成为一副绝好的对子了。 倘以为这是因为“食古不化”的缘故,那可也并不然。中国的士大夫,该化的时候,就未必决不化。就如上面说过的《蜀龟鉴》,原是一部笔法都仿《春秋》的书,但写到“圣祖仁皇帝康熙元年春正月”,就有“赞”道:“……明季之乱甚矣!风终豳,雅终《召旻》,托乱极思治之隐忧而无其实事,孰若臣祖亲见之,臣身亲被之乎?是编以元年正月终者,非徒谓体元表正,蔑以加兹;生逢 盛世,荡荡难名,一以寄没世不忘之恩,一以见太平之业所由始耳!” 《春秋》上是没有这种笔法的。满洲的肃王的一箭,不但射死了张献忠,也感化了许多读书人,而且改变了“春秋笔法”了。
四
病中来看这些书,归根结蒂,也还是令人气闷。但又开始知道了有些聪明的士大夫,依然会从血泊里寻出闲适来。例如《蜀碧》,总可以说是够惨的书了,然而序文后面却刻着一位乐斋先生的批语道:“古穆有魏晋间人笔意。” 这真是天大的本领!那死似的镇静,又将我的气闷打破了。 我放下书,合了眼睛,躺着想想学这本领的方法,以为这和“君子远庖厨也”的法子是大两样的,因为这时是君子自己也亲到了庖厨里。瞑想的结果,拟定了两手太极拳。一,是对于世事要“浮光掠影”,随时忘却,不甚了然,仿佛有些关心,却又并不恳切;二,是对于现实要“蔽聪塞明”,麻木冷静,不受感触,先由努力,后成自然。第一种的名称不大好听,第二种却也是却病延年的要诀,连古之儒者也并不讳言的。这都是大道。还有一种轻捷的小道,是:彼此说谎,自欺欺人。 |
【病後雑談】 一 少し病にかかるのは、確かに一種の福というものである。ただし二つの必要条件がある。一つは病が軽いこと。もう一つは手元にいくらかの現金があること。この二つのうち一つでも欠ければ、病の雅趣を語るに足りない。 私はもとからめったに病にかからないが、先月は少々患った。最初は毎晩発熱し、力が出ず、食欲がなく、一週間経っても治らない。医者は流行性感冒だと言った。しかし解熱すべき時期を過ぎても熱は引かなかった。検査の結果、死病はないことは明白で、ただ毎晩の発熱と脱力と食欲不振があるだけ。これはまさに「半口の血を吐く」に等しく、病の福を大いに享受し得る。 光は胡思乱想も仕方がない。精神を使わずに読める本でも見る方がよい。こういう時には、私は中国の紙の線装本に賛成する。寝ころんで読めば、軽くてまるで力が要らず、魏晋人の豪放瀟洒な風姿が眼前に浮かぶ。 「雅」には地位が要り、金も要る。古今異ならない。しかし古代の雅の値段は今より安かった。方法もまた異ならず、本は書架に飾り、酒杯は卓上に置く。しかし算盤は引き出しにしまうか、最もよいのは腹の中に収めておくことである。これすなわち「空霊」と言う。 二 所以我恐怕只好自己承認「俗」。《世説新語》をひと通りめくった後、「養病」から「養病費」のことに考え及んでしまい、がばと起き上がって版税の請求と稿料の催促の手紙を書いた。本を替え、明末清初の野史を手に取った。最初に手にしたのは《蜀碧》であった。 翻って巻三に「剥皮者、頭より臀に至り、一筋にこれを裂き、前に張る」の一条を見つけた。医術と酷刑とは、いずれも解剖学の知識を要する。中国は奇怪なことに、固有の医書の人体五臓図はまことに粗略だが、酷刑の方法は古人が現代の科学をすでに心得ていたかのようである。 三 清朝には族滅あり、凌遅あり、しかし剥皮の刑はなかった。後に膾炙された虐政は文字の獄である。清朝が多くの古人の著作の字句を削改し、多くの明清人の書を禁じたことは、われわれが今なお直接にその流毒を被っている。 四 病中にこれらの書を読み、つまるところ気が滅入る。しかし聡明な士大夫は血の海の中から閑適を見出す。序文の後に「古穆にして魏晋間の人の筆意あり」の批語を見出した。これはまさに天下の大技量である。 (十二月十一日。) |
第52節
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有些事情,换一句话说就不大合式,所以君子憎恶俗人的“道破”。其实,“君子远庖厨也”就是自欺欺人的办法:君子非吃牛肉不可,然而他慈悲,不忍见牛的临死的觳觫,于是走开,等到烧成牛排,然后慢慢的来咀嚼。牛排是决不会“觳觫”的了,也就和慈悲不再有冲突,于是他心安理得,天趣盎然,剔剔牙齿,摸摸肚子,“万物皆备于我矣”了。彼此说谎也决不是伤雅的事情,东坡先生在黄州,有客来,就要客谈鬼,客说没有,东坡道:“姑妄言之!”至今还算是一件韵事。 撒一点小谎,可以解无聊,也可以消闷气;到后来,忘却了真,相信了谎。也就心安理得,天趣盎然了起来。永乐的硬做皇帝,一部分士大夫是颇以为不大好的。尤其是对于他的惨杀建文的忠臣。和景清一同被杀的还有铁铉,景清剥皮,铁铉油炸,他的两个女儿则发付了教坊,叫她们做婊子。这更使士大夫不舒服,但有人说,后来二女献诗于原问官,被永乐所知,赦出,嫁给士人了。 这真是“曲终奏雅”,令人如释重负,觉得天皇毕竟圣明,好人也终于得救。她虽然做过官妓,然而究竟是一位能诗的才女,她父亲又是大忠臣,为夫的士人,当然也不算辱没。但是,必须“浮光掠影”到这里为止,想不得下去。一想,就要想到永乐的上谕,有些是凶残猥亵,将张献忠祭梓潼神的“咱老子姓张,你也姓张,咱老子和你联了宗罢。尚飨!”的名文,和他的比起来,真是高华典雅,配登西洋的上等杂志,那就会觉得永乐皇帝决不像一位爱才怜弱的明君。况且那时的教坊是怎样的处所?罪人的妻女在那里是并非静候嫖客的,据永乐定法,还要她们“转营”,这就是每座兵营里都去几天,目的是在使她们为多数男性所凌辱,生出“小龟子”和“淫贱材儿”来!所以,现在成了问题的“守节”,在那时,其实是只准“良民”专利的特典。在这样的治下,这样的地狱里,做一首诗就能超生的么? 我这回从杭世骏的《订讹类编》(续补卷上)里,这才确切的知道了这佳话的欺骗。他说:
“……考铁长女诗,乃吴人范昌期《题老妓卷》作也。诗云:‘教坊落籍洗铅华,一片春心对落花。旧曲听来空有恨,故园归去却无家。云鬟半临青镜,雨泪频弹湿绛纱。安得江州司马在,尊前重为赋琵琶。’昌期,字鸣凤;诗见张士瀹《国朝文纂》。同时杜琼用嘉亦有次韵诗,题曰《无题》,则其非铁氏作明矣。次女诗所谓‘春来雨露深如海,嫁得刘郎胜阮郎’,其论尤为不伦。宗正睦论革除事,谓建文流落西南诸诗,皆好事伪作,则铁女之诗可知。……”
《国朝文纂》我没有见过,铁氏次女的诗,杭世骏也并未寻出根底,但我以为他的话是可信的,──虽然他败坏了口口相传的韵事。况且一则他也是一个认真的考证学者,二则我觉得凡是得到大杀风景的结果的考证,往往比表面说得好听,玩得有趣的东西近真。 首先将范昌期的诗嫁给铁氏长女,聊以自欺欺人的是谁呢?我也不知道。但“浮光掠影”的一看,倒也罢了,一经杭世骏道破,再去看时,就很明白的知道了确是咏老妓之作,那第一句就不像现任官妓的口吻。不过中国的有一些士大夫,总爱无中生有,移花接木的造出故事来,他们不但歌颂升平,还粉饰黑暗。关于铁氏二女的撒谎,尚其小焉者耳,大至胡元杀掠,满清焚屠之际,也还会有人单单捧出什么烈女绝命,难妇题壁的诗词来,这个艳传,那个步韵,比对于华屋丘墟,生民涂炭之惨的大事情还起劲。到底是刻了一本集,连自己们都附进去,而韵事也就完结了。 我在写着这些的时候,病是要算已经好了的了,用不着写遗书。但我想在这里趁便拜托我的相识的朋友,将来我死掉之后,即使在中国还有追悼的可能,也千万不要给我开追悼会或者出什么记念册。因为这不过是活人的讲演或挽联的斗法场,为了造语惊人,对仗工稳起见,有些文豪们是简直不恤于胡说八道的。结果至多也不过印成一本书,即使有谁看了,于我死人,于读者活人,都无益处,就是对于作者,其实也并无益处,挽联做得好,也不过挽联做得好而已。 现在的意见,我以为倘有购买那些纸墨白布的闲钱,还不如选几部明人,清人或今人的野史或笔记来印印,倒是于大家很有益处的。但是要认真,用点工夫,标点不要错。
(十二月十一日。) |
ある事は言い方を変えるとあまり具合がよくない。だから君子は俗人の「道破」を憎む。実際「君子は庖厨を遠ざくるなり」は自欺欺人の方法である。君子は牛肉を食わねばならないが、牛の臨死の觳觫を見るに忍びず、立ち去って、ビーフステーキに焼き上がってからゆっくりと咀嚼する。こうして心安理得、天趣盎然となるのだ。 撒一点小谎可以解無聊。永楽帝が無理やり皇帝になったことに、一部の士大夫はよろしくないと思っていた。鉄鉉の二人の娘は教坊に送られ娼妓にさせられた。しかしある者が言った──後に二女は詩を献じて赦免され、士人に嫁いだ、と。まさに「曲終わりて雅を奏す」、天皇はやはり聖明であり善人もついに救われたと感じる。 しかし「浮光掠影」はここで止めておかねばならず、先を考えてはならない。永楽帝の上諭には凶残猥褻なものがあり、教坊では彼女たちを「転営」──各兵営を数日ずつ巡らせ、多数の男に凌辱させた。いわゆる「守節」は「良民」にのみ許された特典だったのだ。 私は杭世駿の《訂訛類編》で、この佳話の欺瞞を確かに知った。鉄長女の詩は実は呉人范昌期の《老妓の巻に題す》の作であった。 中国のある種の士大夫は、つねに無中生有、移花接木して物語を作り上げる。彼らは昇平を歌頌するのみならず、暗黒をも粉飾する。 私が死んだ後、決して追悼会を開いたり記念冊を出したりしないでほしい。あの紙や墨を買う金があるなら、むしろ明人、清人の野史や筆記を数冊選んで印刷した方が、皆にとってはるかに益がある。ただし句読点を間違えぬようにしてほしい。 (十二月十一日。) |
第53節
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【病后杂谈之余】 ──关于“舒愤懑”
一
我常说明朝永乐皇帝的凶残,远在张献忠之上,是受了宋端仪的《立斋闲录》的影响的。那时我还是满洲治下的一个拖着辫子的十四五岁的少年,但已经看过记载张献忠怎样屠杀蜀人的《蜀碧》,痛恨着这“流贼”的凶残。后来又偶然在破书堆里发见了一本不全的《立斋闲录》,还是明抄本,我就在那书上看见了永乐的上谕,于是我的憎恨就移到永乐身上去了。 那时我毫无什么历史知识,这憎恨转移的原因是极简单的,只以为流贼尚可,皇帝却不该,还是“礼不下庶人”的传统思想。至于《立斋闲录》,好象是一部少见的书,作者是明人,而明朝已有抄本,那刻本之少就可想。记得《汇刻书目》说是在明代的一部什么丛书中,但这丛书我至今没有见;清《四库全书总目提要》将它放在“存目”里,那么,《四库全书》里也是没有的,我家并不是藏书家,我真不解怎么会有这明抄本。这书我一直保存着,直到十多年前,因为肚子饿得慌了,才和别的两本明抄和一部明刻的《宫闺秘典》去卖给以藏书家和学者出名的傅某,他使我跑了三四趟之后,才说一总给我八块钱,我赌气不卖,抱回来了,又藏在北平的寓里;但久已没有人照管,不知道现在究竟怎样了。 那一本书,还是四十年前看的,对于永乐的憎恨虽然还在,书的内容却早已模模胡胡,所以在前几天写《病后杂谈》时,举不出一句永乐上谕的实例。我也很想看一看《永乐实录》,但在上海又如何能够;来青阁有残本在寄售,十本,实价却是一百六十元,也决不是我辈书架上的书。又是一个偶然:昨天在《安徽丛书》第三集中看见了清俞正燮(1775─1840)《癸巳类稿》的改定本,那《除乐户丐户籍及女乐考附古事》里,却引有永乐皇帝的上谕,是根据王世贞《弇州史料》中的《南京法司所记》的,虽然不多,又未必是精粹,但也足够“略见一斑”,和献忠流贼的作品相比较了。摘录于下──
“永乐十一年正月十一日,教坊司于右顺门口奏:齐泰姊及外甥媳妇,又黄子澄妹四个妇人,每一日一夜,二十余条汉子看守着,年少的都有身孕,除生子令做小龟子,又有三岁女子,奏请圣旨。奉钦依:由他。不的到长大便是个淫贱材儿?” “铁铉妻杨氏年三十五,送教坊司;茅大芳妻张氏年五十六,送教坊司。张氏病故,教坊司安政于奉天门奏。奉圣旨:分付上元县抬出门去,着狗吃了!钦此!”
君臣之间的问答,竟是这等口吻,不见旧记,恐怕是万想不到的罢。但其实,这也仅仅是一时的一例。自有历史以来,中国人是一向被同族和异族屠戮,奴隶,敲掠,刑辱,压迫下来的,非人类所能忍受的楚毒,也都身受过,每一考查,真教人觉得不像活在人间。俞正燮看过野史,正是一个因此觉得义愤填膺的人,所以他在记载清朝的解放惰民丐户,罢教坊,停女乐的故事之后,作一结语道──
“自三代至明,惟宇文周武帝、唐高祖、后晋高祖,金,元及明景帝,于法宽假之,而尚存其旧。余皆视为固然。本朝尽去其籍,而天地为之廓清矣。汉儒歌颂朝廷功德,自云‘舒愤懑’,除乐户之事,诚可云舒愤懑者:故列古语琐事之实,有关因革者如此。”
这一段结语,有两事使我吃惊。第一事,是宽假奴隶的皇帝中,汉人居很少数。但我疑心俞正燮还是考之未详,例如金元,是并非厚待奴隶的,只因那时连中国的蓄奴的主人也成了奴隶,从征服者看来,并无高下,即所谓“一视同仁”,于是就好象对于先前的奴隶加以宽假了。第二事,就是这自有历史以来的虐政,竟必待满洲的清才来廓清,使考史的儒生,为之拍案称快,自比于汉儒的“舒愤懑”──就是明末清初的才子们之所谓“不亦快哉!”然而解放乐户却是真的,但又并未“廓清”,例如绍兴的惰民,直到民国革命之初,他们还是不与良民通婚,去给大户服役,不过已有报酬,这一点,恐怕是和解放之前大不相同的了。革命之后,我久不回到绍兴去了,不知道他们怎样,推想起来,大约和三十年前是不会有什么两样的。
二
但俞正燮的歌颂清朝功德,却不能不说是当然的事。他生于乾隆四十年,到他壮年以至晚年的时候,文字狱的血迹已经消失,满洲人的凶焰已经缓和,愚民政策早已集了大成,剩下的就只有“功德”了。那时的禁书,我想他都未必看见。现在不说别的,单看雍正乾隆两朝的对于中国人著作的手段,就足够令人惊心动魄。全毁,抽毁,剜去之类也且不说,最阴险的是删改了古书的内容。乾隆朝的纂修《四库全书》,是许多人颂为一代之盛业的,但他们却不但捣乱了古书的格式,还修改了古人的文章;不但藏之内廷,还颁之文风颇盛之处,使天下士子阅读,永不会觉得我们中国的作者里面,也曾经有过很有些骨气的人。(这两句,奉官命改为“永远看不出底细来。”) 嘉庆道光以来,珍重宋元版本的风气逐渐旺盛,也没有悟出乾隆皇帝的“圣虑”,影宋元本或校宋元本的书籍很有些出版了,这就使那时的阴谋露了马脚。最初启示了我的是《琳琅秘室丛书》里的两部《茅亭客话》,一是校宋本,一是四库本,同是一种书,而两本的文章却常有不同,而且一定是关于“华夷”的处所。这一定是四库本删改了的;现在连影宋本的《茅亭客话》也已出版,更足据为铁证,不过倘不和四库本对读,也无从知道那时的阴谋。《琳琅秘室丛书》我是在图书馆里看的,自己没有,现在去买起来又嫌太贵,因此也举不出实例来。但还有比较容易的法子在。 新近陆续出版的《四部丛刊续编》自然应该说是一部新的古董书,但其中却保存着满清暗杀中国著作的案卷。例如宋洪迈的《容斋随笔》至《五笔》是影宋刊本和明活字本,据张元济跋,其中有三条就为清代刻本中所没有。所删的是怎样内容的文章呢?为惜纸墨汁,现在只摘录一条《容斋三笔》卷三里的《北狄俘虏之苦》在这里──
“元魏破江陵,尽以所俘士民为奴,无分贵贱,盖北方夷俗皆然也。自靖康之后,陷于金虏者,帝子王孙,官门仕族之家,尽没为奴婢,使供作务。每人一月支稗子五斗,令自舂为米,得一斗八升,用为餱粮;岁支麻五把,令缉为裘。此外更无一钱一帛之入。男子不能缉者,则终岁裸体。虏或哀之,则使执爨,虽时负火得暖气,然才出外取柴归,再坐火边,皮肉即脱落,不日辄死。惟喜有手艺,如医人绣工之类,寻常只团坐地上,以败席或芦藉衬之,遇客至开筵,引能乐者使奏技,酒阑客散,各复其初,依旧环坐刺绣:任其生死,视如草芥。……”
清朝不惟自掩其凶残,还要替金人来掩饰他们的凶残。据此一条,可见俞正燮入金朝于仁君之列,是不确的了,他们不过是一扫宋朝的主奴之分,一律都作为奴隶,而自己则是主子。但是,这校勘,是用清朝的书坊刻本的,不知道四库本是否也如此。要更确凿,还有一部也是《四部丛刊续编》里的影旧抄本宋晁说之《嵩山文集》在这里,卷末就有单将《负薪对》一篇和四库本相对比,以见一斑的实证,现在摘录几条在下面,大抵非删则改,语意全非,仿佛宋臣晁说之,已在对金人战栗,嗫嚅不吐,深怕得罪似的了──
旧抄本 四库本 金贼以我疆埸之臣无 金人扰我疆埸之地, 状,斥堠不明,遂豕突河 边城斥堠不明,遂长驱河北, 北,蛇结河东。 盘结河东。 犯孔子春秋之大禁, 为上下臣民之大耻, 以百骑却虏枭将, 以百骑却辽枭将, 彼金贼虽非人类,而 彼金人虽甚强盛,而 犬豕亦有掉瓦怖恐之号, 赫然示之以威令之森严, 顾弗之惧哉! 顾弗之惧哉! 我取而歼焉可也。 我因而取之可也。 太宗时,女真困于 太宗时,女真困于契 契丹之三栅,控告乞援, 丹之三栅,控告乞援,亦 亦卑恭甚矣。不谓敢 和好甚矣。不谓竟酿患滋 睨中国之地于今日也。 祸一至于今日也。 忍弃上皇之子于胡 忍弃上皇之子于异 虏乎? 地乎? 何则:夷狄喜相吞 并斗争,是其犬羊狺吠 咋啮之性也。唯其富者 最先亡。古今夷狄族帐, 大小见于史册者百十, 今其存者一二,皆以其 财富而自底灭亡者也。 (无) 今此小丑不指日而灭亡, 是无天道也。 褫中国之衣冠,复 遂其报复之心,肆其 夷狄之态度。 凌侮之意。 取故相家孙女姊妹, 故相家皆携老襁幼, |
【病後雑談の余──「憤懣を舒ぶ」について】 一 私がいつも明の永楽帝の凶残は張献忠を遥かに上回ると言うのは、宋端儀の《立斎閑録》の影響を受けてのことである。その時、私はまだ満洲治下の辮子を垂らした十四、五歳の少年だったが、すでに《蜀碧》を読んで「流賊」の凶残を痛恨していた。後に《立斎閑録》の中に永楽帝の上諭を見た。そこから私の憎悪は永楽帝に移った。 昨日《安徽叢書》第三集で清の兪正燮の《癸巳類稿》改定本を見つけ、永楽帝の上諭が引いてあった。摘録する── 「永楽十一年正月十一日、教坊司奏す。斉泰の姉及び黄子澄の妹、四人の婦人あり。毎日二十余人の男が看守す。年少の者はみな身籠もりたり。生まれし子は小亀子となさしむ。聖旨を奉ず──由他。大きくなったら淫賤の材児ではないか、と。」 「鉄鉉の妻楊氏、年三十五、教坊司に送る。茅大芳の妻張氏、年五十六、教坊司に送る。張氏病死す。聖旨を奉ず──上元県に申しつけて門外に担ぎ出し、犬に食わせよ!欽此!」 有史以来、中国人は同族にも異族にも屠殺され、奴隷にされてきた。兪正燮は清朝の楽戸解放を記した後、結語として「本朝ことごとくその籍を去り、天地のためにこれを廓清せり。漢儒の朝廷の功徳を歌頌し、自ら『憤懣を舒ぶ』と云う」と書いた。 二 しかし兪正燮の歌頌清朝功徳は当然の事だった。文字獄の血迹はすでに消失し、愚民政策は集大成されていた。清朝の削改した古書の内容こそ最も陰険であった。乾隆朝の《四庫全書》纂修は盛業と頌されるが、古人の文章を修改し、骨気ある作者がいたことを永久にわからなくした。 《四部叢刊続編》の影旧抄本《嵩山文集》には、四庫本との対比がある。「金賊」は「金人」に、「犬羊」は削除され、「夷狄」は忌避され、「中国」の二字すら許されない。清朝の考据家は「明人好刻古書而古書亡」と言ったが、清人は《四庫全書》纂修で古書を亡ぼし、今人は標点で古書を亡ぼした。これは水火兵虫以外の三大厄である。 三 清朝への憤懣の再発は光緒中に始まる。太炎先生は文章をもって排満の驍将として知られた。日本留学の学生の一部は図書館で革命を鼓吹し得る明末清初の文献を探した。 私の辮子は日本に残した。上海に着くとまず付け辮子を装着した。しかし一箇月余りで考えた──路上で落ちれば初めからないよりなお見苦しい。いっそやめよう。しかし真実の代価は安くなかった。路上では冷笑、罵倒。小さくは間男と言われ、大きくは「裏通外国」と指弾された。 「不亦快哉!」──千九百十一年の双十、革命が来た。革命が私にくれた最大の恩恵は、以来頭を上げて堂々と街を歩けるようになったことだ。 四 辮子にはもう一つの小風波があった。張勲の「復辟」である。幸い数日で失敗した。今では辮子も日に日に稀少となった。私の「憤懣を舒ぶ」は、おそらく他の人々にも伝えがたいだろう。 (十二月十七日。) 一週間前、鉄氏二女の詩に触れた。本日《四部叢刊続編》の《茗斎集》に鉄氏長女の詩があった。作偽者は一句を改め、各句ごとに一、二字を変えたにすぎない。もし鉄鉉に娘がいなかった、あるいは自殺したのだとすれば、この虚構の物語からも社会心理の一斑を窺い得る。 (二十三日の夜、附記。) |
第54節
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缚马上而去,执侍帐中, 弃其籍而去,焚掠之余, 远近胆落,不暇寒心。 远近胆落,不暇寒心。
即此数条,已可见“贼”“虏”“犬羊”是讳的;说金人的淫掠是讳的;“夷狄”当然要讳,但也不许看见“中国”两个字,因为这是和“夷狄”对立的字眼,很容易引起种族思想来的。但是,这《嵩山文集》的抄者不自改,读者不自改,尚存旧文,使我们至今能够看见晁氏的真面目,在现在说起来,也可以算是令人大“舒愤懑”的了。 清朝的考据家有人说过,“明人好刻古书而古书亡”,因为他们妄行校改。我以为这之后,则清人纂修《四库全书》而古书亡,因为他们变乱旧式,删改原文;今人标点古书而古书亡,因为他们乱点一通,佛头着粪:这是古书的水火兵虫以外的三大厄。
三
对于清朝的愤懑的从新发作,大约始于光绪中,但在文学界上,我没有查过以谁为“祸首”。太炎先生是以文章排满的骁将著名的,然而在他那《訄书》的未改订本中,还承认满人可以主中国,称为“客帝”,比于嬴秦的“客卿”。但是,总之,到光绪末年,翻印的不利于清朝的古书,可是陆续出现了;太炎先生也自己改正了“客帝”说,在再版的《訄书》里,“删而存此篇”;后来这书又改名为《检论》,我却不知道是否还是这办法。留学日本的学生们中的有些人,也在图书馆里搜寻可以鼓吹革命的明末清初的文献。那时印成一大本的有《汉声》,是《湖北学生界》的增刊,面子上题着四句集《文选》句:“抒怀旧之积念,发思古之幽情”,第三句想不起来了,第四句是“振大汉之天声”。无古无今,这种文献,倒是总要在外国的图书馆里抄得的。 我生长在偏僻之区,毫不知道什么是满汉,只在饭店的招牌上看见过“满汉酒席”字样,也从不引起什么疑问来。听人讲“本朝”的故事是常有的,文字狱的事情却一向没有听到过,乾隆皇帝南巡的盛事也很少有人讲述了,最多的是“打长毛”。我家里有一个年老的女工,她说长毛时候,她已经十多岁,长毛故事要算她对我讲得最多,但她并无邪正之分,只说最可怕的东西有三种,一种自然是“长毛”,一种是“短毛”,还有一种是“花绿头”。到得后来,我才明白后两种其实是官兵,但在愚民的经验上,是和长毛并无区别的。给我指明长毛之可恶的倒是几位读书人;我家里有几部县志,偶然翻开来看,那时殉难的烈士烈女的名册就有一两卷,同族里的人也有几个被杀掉的,后来封了“世袭云骑尉”,我于是确切的认定了长毛之可恶。然而,真所谓“心事如波涛”罢,久而久之,由于自己的阅历,证以女工的讲述,我竟决不定那些烈士烈女的凶手,究竟是长毛呢,还是“短毛”和“花绿头”了。我真很羡慕“四十而不惑”的圣人的幸福。 对我最初提醒了满汉的界限的不是书,是辫子。这辫子,是砍了我们古人的许多头,这才种定了的,到得我有知识的时候,大家早忘却了血史,反以为全留乃是长毛,全剃好象和尚,必须剃一点,留一点,才可以算是一个正经人了。而且还要从辫子上玩出花样来:小丑挽一个结,插上一朵纸花打诨;开口跳将小辫子挂在铁杆上,慢慢的吸烟献本领;变把戏的不必动手,只消将头一摇,劈拍一声,辫子便自会跳起来盘在头顶上,他于是耍起关王刀来了。而且还切于实用:打架的时候可以拔住,挣脱极难;捉人的时候可以拉着,省得绳索,要是被捉的人多呢,只要捏住辫梢头,一个人就可以牵一大串。吴友如画的《申江胜景图》里,有一幅会审公堂,就有一个巡捕拉着犯人的辫子的形象,但是,这是已经算作“胜景”了。 住在偏僻之区还好,一到上海,可就不免有时会听到一句洋话:Pig–tail——猪尾巴。这一句话,现在是早不听见了,那意思,似乎也不过说人头上生着猪尾巴,和今日之上海,中国人自己一斗嘴,便彼此互骂为“猪猡”的,还要客气得远。不过那时的青年,好象涵养工夫没有现在的深,也还未懂得“幽默”,所以听起来实在觉得刺耳。而且对于拥有二百余年历史的辫子的模样,也渐渐的觉得并不雅观,既不全留,又不全剃,剃去一圈,留下一撮,又打起来拖在背后,真好象做着好给别人来拔着牵着的柄子。对于它终于怀了恶感,我看也正是人情之常,不必指为拿了什么地方的东西,迷了什么斯基的理论的。(这两句,奉官谕改为“不足怪的”。) 我的辫子留在日本,一半送给客店里的一位使女做了假发,一半给了理发匠,人是在宣统初年回到故乡来了。一到上海,首先得装假辫子。这时上海有一个专装假辫子的专家,定价每条大洋四元,不折不扣,他的大名,大约那时的留学生都知道。做也真做得巧妙,只要别人不留心,是很可以不出岔子的,但如果人知道你原是留学生,留心研究起来,那就漏洞百出。夏天不能戴帽,也不大行;人堆里要防挤掉或挤歪,也不行。装了一个多月,我想,如果在路上掉了下来或者被人拉下来,不是比原没有辫子更不好看么?索性不装了,贤人说过的:一个人做人要真实。 但这真实的代价真也不便宜,走出去时,在路上所受的待遇完全和先前两样了。我从前是只以为访友作客,才有待遇的,这时才明白路上也一样的一路有待遇。最好的是呆看,但大抵是冷笑,恶骂。小则说是偷了人家的女人,因为那时捉住奸夫,总是首先剪去他辫子的,我至今还不明白为什么;大则指为“里通外国”,就是现在之所谓“汉奸”。我想,如果一个没有鼻子的人在街上走,他还未必至于这么受苦,假使没有了影子,那么,他恐怕也要这样的受社会的责罚了。 我回中国的第一年在杭州做教员,还可以穿了洋服算是洋鬼子;第二年回到故乡绍兴中学去做学监,却连洋服也不行了,因为有许多人是认识我的,所以不管如何装束,总不失为“里通外国”的人,于是我所受的无辫之灾,以在故乡为第一。尤其应该小心的是满洲人的绍兴知府的眼睛,他每到学校来,总喜欢注视我的短头发,和我多说话。 学生们里面,忽然起了剪辫风潮了,很有许多人要剪掉。我连忙禁止。他们就举出代表来诘问道:究竟有辫子好呢,还是没有辫子好呢?我的不假思索的答覆是:没有辫子好,然而我劝你们不要剪。学生是向来没有一个说我“里通外国”的,但从这时起,却给了我一个“言行不一致”的结语,看不起了。“言行一致”,当然是很有价值的,现在之所谓文学家里,也还有人以这一点自豪,但他们却不知道他们一剪辫子,价值就会集中在脑袋上。轩亭口离绍兴中学并不远,就是秋瑾小姐就义之处,他们常走,然而忘却了。 “不亦快哉!”──到了一千九百十一年的双十,后来绍兴也挂起白旗来,算是革命了,我觉得革命给我的好处,最大,最不能忘的是我从此可以昂头露顶,慢慢的在街上走,再不听到什么嘲骂。几个也是没有辫子的老朋友从乡下来,一见面就摩着自己的光头,从心底里笑了出来道:哈哈,终于也有了这一天了。 假如有人要我颂革命功德,以“舒愤懑”,那么,我首先要说的就是剪辫子。
四
然而辫子还有一场小风波,那就是张勋的“复辟”,一不小心,辫子是又可以种起来的,我曾见他的辫子兵在北京城外布防,对于没辫子的人们真是气焰万丈。幸而不几天就失败了,使我们至今还可以剪短,分开,披落,烫卷…… 张勋的姓名已经暗淡,“复辟”的事件也逐渐遗忘,我曾在《风波》里提到它,别的作品上却似乎没有见,可见早就不受人注意。现在是,连辫子也日见稀少,将与周鼎商彝同列,渐有卖给外国人的资格了。 我也爱看绘画,尤其是人物。国画呢,方巾长袍,或短褐椎结,从没有见过一条我所记得的辫子;洋画呢,歪脸汉子,肥腿女人,也从没有见过一条我所记得的辫子。这回见了几幅钢笔画和木刻的阿Q像,这才算遇到了在艺术上的辫子,然而是没有一条生得合式的。想起来也难怪,现在的二十岁上下的青年,他生下来已是民国,就是三十岁的,在辫子时代也不过四五岁,当然不会深知道辫子的底细的了。 那么,我的“舒愤懑”,恐怕也很难传给别人,令人一样的愤激,感慨,欢喜,忧愁的罢。
(十二月十七日。)
一星期前,我在《病后杂谈》里说到铁氏二女的诗。据杭世骏说,钱谦益编的《列朝诗集》里是有的,但我没有这书,所以只引了《订讹类编》完事。今天《四部丛刊续编》的明遗民彭孙贻《茗斋集》出版了,后附《明诗钞》,却有铁氏长女诗在里面。现在就照抄在这里,并将范昌期原作,与所谓铁女诗不同之处,用括弧附注在下面,以便比较。照此看来,作伪者实不过改了一句,并每句各改易一二字而已──
教坊献诗 教坊脂粉(落籍)洗铅华,一片闲(春)心对落花。旧曲听来犹(空)有恨,故园归去已(却)无家。云鬟半挽()临妆(青)镜,雨泪空流(频弹)湿绛纱。今日相逢白司马(安得江州司马在),尊前重与诉(为赋)琵琶。 但俞正燮《癸巳类稿》又据茅大芳《希董集》,言“铁公妻女以死殉”;并记或一说云,“铁二子,无女。”那么,连铁铉有无女儿,也都成为疑案了。两个近视眼论扁额上字,辩论一通,其实连扁额也没有挂,原也是能有的事实。不过铁妻死殉之说,我以为是粉饰的。《弇州史料》所记,奏文与上谕具存,王世贞明人,决不敢捏造。 倘使铁铉真的并无女儿,或有而实已自杀,则由这虚构的故事,也可以窥见社会心理之一斑。就是:在受难者家族中,无女不如其有之有趣,自杀又不如其落教坊之有趣;但铁铉究竟是忠臣,使其女永沦教坊,终觉于心不安,所以还是和寻常女子不同,因献诗而配了士子。这和小生落难,下狱挨打,到底中了状元的公式,完全是一致的。
(二十三日之夜,附记。) |
馬上に縛り去り、帳中に侍せしむ。 その籍を棄てて去り、焚掠の余り、 遠近胆落ち、寒心する暇なし。 遠近胆落ち、寒心する暇なし。 この数条を見るだけでも、「賊」「虜」「犬羊」は忌避されていることがわかる。金人の淫掠を言うのも忌避される。「夷狄」はもちろん、「中国」の二字すら見ることを許されない。なぜなら「夷狄」と対立する語であり、種族思想を容易に惹起するからだ。しかしこの《嵩山文集》の写す者は自ら改めず、読む者も自ら改めず、旧文を存している。今の世にあっても「憤懣を大いに舒ぶ」と言い得よう。 清朝の考証家に言った者がいる。「明人は古書を好んで刻すが故に古書亡ぶ」と。私はこれに続けて言う──清人は《四庫全書》を纂修して古書亡ぶ。旧式を変乱し原文を削改したからだ。今人は古書に標点を施して古書亡ぶ。出鱈目に点を打つからだ。これは古書の水火兵虫以外の三大厄である。 |
第55節
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【河南卢氏曹先生教泽碑文】
夫激荡之会,利于乘时,劲风盘空,轻蓬振翮,故以豪杰称一时者多矣,而品节卓异之士,盖难得一。卢氏曹植甫先生名培元,幼承义方,长怀大愿,秉性宽厚,立行贞明。躬居山曲,设校授徒,专心一志,启迪后进,或有未谛,循循诱之,历久不渝,惠流遐迩。又不泥古,为学日新,作时世之前驱,与童冠而俱迈。爰使旧乡丕变,日见昭明,君子自强,永无意必。而韬光里巷,处之怡然。此岂辁才小慧之徒之所能至哉。中华民国二十有三年秋,年届七十,含和守素,笃行如初。门人敬仰,同心立表,冀彰潜德,亦报师恩云尔。铭曰: 华土奥衍,代生英贤,或居或作,历四千年,文物有赫,峙于中天。海涛外薄,黄神徙倚,巧黠因时,枪鹊起,然犹飘风,终朝而已。卓哉先生,遗荣崇实,开拓新流,恢弘文术,诲人不倦,惟精惟一。介立或有,恒久则难,敷教翊化,实邦之翰,敢契贞石,以励后昆。
会稽后学鲁迅谨撰。 |
【河南盧氏曹先生教沢碑文】 それ激蕩の世に当たりては、時に乗ずるに利あり。勁風盤空すれば軽蓬も翮を振るう。故に豪傑を以て一時に称せらるる者は多し。されど品節卓異の士は蓋し一を得難し。盧氏の曹植甫先生、名は培元。幼にして義方を承け、長じて大願を懐く。秉性寛厚にして立行貞明なり。躬ら山曲に居し、校を設けて徒に授く。専心一志、後進を啓迪し、或いは未だ諦かならざるあれば、循循としてこれを誘う。歴久にして渝らず、恵みは遐邇に流る。又た古に泥まず、学を為すこと日に新たにして、時世の前駆と作り、童冠と俱に邁む。ここに旧郷をして丕変せしめ、日に昭明を見る。君子は自ら強めて、永く意必なし。しかも光を韜めて里巷に処し、これに処ること怡然たり。此れ豈に辁才小慧の徒の能く至るところならんや。中華民国二十有三年の秋、年七十に届き、和を含み素を守り、篤行初めの如し。門人敬仰し、心を同じくして表を立つ。潜徳を彰かにし、亦た師恩に報いんと冀うのみ。銘に曰く── 華土奥衍、代ごとに英賢を生ず。或いは居し或いは作す。歴ること四千年。文物赫々として中天に峙つ。海涛外に薄り、黄神徙倚す。巧黠時に因りて槍鵲起つ。然れども猶お飄風の如く、終朝にして已む。卓なるかな先生、栄を遺て実を崇ぶ。新流を開拓し、文術を恢弘す。人を誨えて倦まず、惟精惟一。介立は或いはあり、恒久は則ち難し。教を敷き化を翊け、実に邦の翰たり。敢えて貞石に契し、以て後昆を励まさん。 会稽の後学 魯迅 謹みて撰す。 |
第56節
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【阿金】
近几时我最讨厌阿金。 她是一个女仆,上海叫娘姨,外国人叫阿妈,她的主人也正是外国人。 她有许多女朋友,天一晚,就陆续到她窗下来,“阿金,阿金!”的大声的叫,这样的一直到半夜。她又好象颇有几个姘头;她曾在后门口宣布她的主张:弗轧姘头,到上海来做啥呢?…… 不过这和我不相干。不幸的是她的主人家的后门,斜对着我的前门,所以“阿金,阿金!”的叫起来,我总受些影响,有时是文章做不下去了,有时竟会在稿子上写一个“金”字。更不幸的是我的进出,必须从她家的晒台下走过,而她大约是不喜欢走楼梯的,竹竿,木板,还有别的什么,常常从晒台上直摔下来,使我走过的时候,必须十分小心,先看一看这位阿金可在晒台上面,倘在,就得绕远些。自然,这是大半为了我的胆子小,看得自己的性命太值钱;但我们也得想一想她的主子是外国人,被打得头破血出,固然不成问题,即使死了,开同乡会,打电报也都没有用的,──况且我想,我也未必能够弄到开起同乡会。 半夜以后,是别一种世界,还剩着白天脾气是不行的。有一夜,已经三点半钟了,我在译一篇东西,还没有睡觉。忽然听得路上有人低声的在叫谁,虽然听不清楚,却并不是叫阿金,当然也不是叫我。我想:这么迟了,还有谁来叫谁呢?同时也站起来,推开楼窗去看去了,却看见一个男人,望着阿金的绣阁的窗,站着。他没有看见我。我自悔我的莽撞,正想关窗退回的时候,斜对面的小窗开处,已经现出阿金的上半身来,并且立刻看见了我,向那男人说了一句不知道什么话,用手向我一指,又一挥,那男人便开大步跑掉了。我很不舒服,好象是自己做了甚么错事似的,书译不下去了,心里想:以后总要少管闲事,要炼到泰山崩于前而色不变,炸弹落于侧而身不移!…… 但在阿金,却似乎毫不受什么影响,因为她仍然嘻嘻哈哈。不过这是晚快边才得到的结论,所以我真是负疚了小半夜和一整天。这时我很感激阿金的大度,但同时又讨厌了她的大声会议,嘻嘻哈哈了。自有阿金以来,四围的空气也变得扰动了,她就有这么大的力量。这种扰动,我的警告是毫无效验的,她们连看也不对我看一看。有一回,邻近的洋人说了几句洋话,她们也不理;但那洋人就奔出来了,用脚向各人乱踢,她们这才逃散,会议也收了场。这踢的效力,大约保存了五六夜。 此后是照常的嚷嚷;而且扰动又廓张了开去,阿金和马路对面一家烟纸店里的老女人开始奋斗了,还有男人相帮。她的声音原是响亮的,这回就更加响亮,我觉得一定可以使二十间门面以外的人们听见。不一会,就聚集了一大批人。论战的将近结束的时候当然要提到“偷汉”之类,那老女人的话我没有听清楚,阿金的答复是: “你这老×没有人要!我可有人要呀!” 这恐怕是实情,看客似乎大抵对她表同情,“没有人要”的老×战败了。这时踱来了一位洋巡捕,反背着两手,看了一会,就来把看客们赶开;阿金赶紧迎上去,对他讲了一连串的洋话。洋巡捕注意的听完之后,微笑的说道: “我看你也不弱呀!” 他并不去捉老×,又反背着手,慢慢的踱过去了。这一场巷战就算这样的结束。但是,人间世的纠纷又并不能解决得这么干脆,那老×大约是也有一点势力的。第二天早晨,那离阿金家不远的也是外国人家的西崽忽然向阿金家逃来。后面追着三个彪形大汉。西崽的小衫已被撕破,大约他被他们诱出外面,又给人堵住后门,退不回去,所以只好逃到他爱人这里来了。爱人的肘腋之下,原是可以安身立命的,伊孛生(H.Ibsen)戏剧里的彼尔·干德,就是失败之后,终于躲在爱人的裙边,听唱催眠歌的大人物。但我看阿金似乎比不上瑙威女子,她无情,也没有魄力。独有感觉是灵的,那男人刚要跑到的时候,她已经赶紧把后门关上了。那男人于是进了绝路,只得站住。这好象也颇出于彪形大汉们的意料之外,显得有些踌蹰;但终于一齐举起拳头,两个是在他背脊和胸脯上一共给了三拳,仿佛也并不怎么重,一个在他脸上打了一拳,却使它立刻红起来。这一场巷战很神速,又在早晨,所以观战者也不多,胜败两军,各自走散,世界又从此暂时和平了。然而我仍然不放心,因为我曾经听人说过:所谓“和平”,不过是两次战争之间的时日。 但是,过了几天,阿金就不再看见了,我猜想是被她自己的主人所回复。补了她的缺的是一个胖胖的,脸上很有些福相和雅气的娘姨,已经二十多天,还很安静,只叫了卖唱的两个穷人唱过一回“奇葛隆冬强”的《十八摸》之类,那是她用“自食其力”的余闲,享点清福,谁也没有话说的。只可惜那时又招集了一群男男女女,连阿金的爱人也在内,保不定什么时候又会发生巷战。但我却也叨光听到了男嗓子的上低音(barytone)的歌声,觉得很自然,比绞死猫儿似的《毛毛雨》要好得天差地远。 阿金的相貌是极其平凡的。所谓平凡,就是很普通,很难记住,不到一个月,我就说不出她究竟是怎么一副模样来了。但是我还讨厌她,想到“阿金”这两个字就讨厌;在邻近闹嚷一下当然不会成什么深仇重怨,我的讨厌她是因为不消几日,她就动摇了我三十年来的信念和主张。 我一向不相信昭君出塞会安汉,木兰从军就可以保隋;也不信妲己亡殷,西施沼吴,杨妃乱唐的那些古老话。我以为在男权社会里,女人是决不会有这种大力量的,兴亡的责任,都应该男的负。但向来的男性的作者,大抵将败亡的大罪,推在女性身上,这真是一钱不值的没有出息的男人。殊不料现在阿金却以一个貌不出众,才不惊人的娘姨,不用一个月,就在我眼前搅乱了四分之一里,假使她是一个女王,或者是皇后,皇太后,那么,其影响也就可以推见了:足够闹出大大的乱子来。 昔者孔子“五十而知天命”,我却为了区区一个阿金,连对于人事也从新疑惑起来了,虽然圣人和凡人不能相比,但也可见阿金的伟力,和我的满不行。我不想将我的文章的退步,归罪于阿金的嚷嚷,而且以上的一通议论,也很近于迁怒,但是,近几时我最讨厌阿金,仿佛她塞住了我的一条路,却是的确的。 愿阿金也不能算是中国女性的标本。
(十二月二十一日。) |
【阿金】 近ごろ私が最も厭なのは阿金である。 彼女は女中──上海では娘姨と呼び、外国人はアマと呼ぶ──で、主人もまた外国人である。彼女には女友達が大勢いて、日が暮れると続々と窓の下に来ては「阿金、阿金!」と大声で呼ぶ。これが深夜まで続くのだ。彼女にはまたいく人かの情夫がいるらしい。裏口で自説を公言した──情夫もこさえずに上海に来て何をする、と…… 不幸なのは彼女の主人の家の裏口が私の家の表門と斜めに向き合っていることで、彼女の声が始まると文章が書けなくなる。さらに不幸なのは、出入りが彼女の家の物干し台の下を通らねばならず、竹竿や板が上から直に投げ落とされることだ。 ある夜三時半、翻訳をしていると路上で誰かを低い声で呼ぶのが聞こえた。窓を開けて見ると、一人の男が阿金の窓を見上げて立っていた。斜め向かいの窓が開いて阿金の上半身が現れ、たちまち私を見つけ、男に何か言って手を振ると、男は走り去った。私はひどく居心地が悪かった。 阿金と道路向かいの老婆との論戦。阿金の返答──「この老×、誰にも相手にされないくせに!あたしは相手にしてもらえるのよ!」洋巡捕が来て「君もなかなか弱くはないね!」と微笑した。 数日後、阿金は見かけなくなった。おそらく主人に暇を出されたのだろう。後任は穏やかな娘姨で、二十日余り静かだった。 阿金の容貌はきわめて平凡である。しかし私はまだ彼女が厭で、「阿金」の二字を思い浮かべるだけで厭になる。私が彼女を厭うのは、数日もしないうちに、私の三十年来の信念と主張を揺るがしたからである。 私は従来、昭君の出塞が漢を安んじたとも、妲己が殷を亡ぼしたとも信じなかった。男権社会において、女にこれほど大きな力があるはずがないと考えていた。ところが阿金は一介の娘姨でありながら、一箇月とかからぬうちに私の目の前で四分の一里をかき乱した。もし彼女が女王か皇太后であったなら、その影響は推して知るべし。 願わくば阿金もまた中国女性の標本とは言えぬことを。 (十二月二十一日。) |
第57節
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【论俗人应避雅人】
这是看了些杂志,偶然想到的── 浊世少见“雅人”,少有“韵事”。但是,没有浊到彻底的时候,雅人却也并非全没有,不过因为“伤雅”的人们多,也累得他们“雅”不彻底了。 道学先生是躬行“仁恕”的,但遇见不仁不恕的人们,他就也不能仁恕。所以朱子是大贤,而做官的时候,不能不给无告的官妓吃板子。新月社的作家们是最憎恶骂人的,但遇见骂人的人,就害得他们不能不骂。林语堂先生是佩服“费厄泼赖”的,但在杭州赏菊,遇见“口里含一枝苏俄香烟,手里夹一本什么斯基的译本”的青年,他就不能不“假作无精打彩,愁眉不展,忧国忧家”(详见《论语》五十五期)的样子,面目全非了。 优良的人物,有时候是要靠别种人来比较,衬托的,例如上等与下等,好与坏,雅与俗,小器与大度之类。没有别人,即无以显出这一面之优,所谓“相反而实相成”者,就是这。但又须别人凑趣,至少是知趣,即使不能帮闲,也至少不可说破,逼得好人们再也好不下去。例如曹孟德是“尚通侻”的,但祢正平天天上门来骂他,他也只好生起气来,送给黄祖去“借刀杀人”了。祢正平真是“咎由自取”。 所谓“雅人”,原不是一天雅到晚的,即使睡的是珠罗帐,吃的是香稻米,但那根本的睡觉和吃饭,和俗人究竟也没有什么大不同;就是肚子里盘算些挣钱固位之法,自然也不能绝无其事。但他的出众之处,是在有时又忽然能够“雅”。倘使揭穿了这谜底,便是所谓“杀风景”,也就是俗人,而且带累了雅人,使他雅不下去,“未能免俗”了。若无此辈,何至于此呢?所以错处总归在俗人这方面。 譬如罢,有两位知县在这里,他们自然都是整天的办公事,审案子的,但如果其中之一,能够偶然的去看梅花,那就要算是一位雅官,应该加以恭维,天地之间这才会有雅人,会有韵事。如果你不恭维,还可以;一皱眉,就俗;敢开玩笑,那就把好事情都搅坏了。然而世间也偏有狂夫俗子;记得在一部中国的什么古“幽默”书里,有一首“轻薄子”咏知县老爷公余探梅的七绝──
红帽哼兮黑帽呵,风流太守看梅花。 梅花低首开言道:小底梅花接老爷。
这真是恶作剧,将韵事闹得一塌胡涂。而且他替梅花所说的话,也不合式,它这时应该一声不响的,一说,就“伤雅”,会累得“老爷”不便再雅,只好立刻还俗,赏吃板子,至少是给一种什么罪案的。为什么呢?就因为你俗,再不能以雅道相处了。 小心谨慎的人,偶然遇见仁人君子或雅人学者时,倘不会帮闲凑趣,就须远远避开,愈远愈妙。假如不然,即不免要碰着和他们口头大不相同的脸孔和手段。晦气的时候,还会弄到卢布学说的老套,大吃其亏。只给你“口里含一枝苏俄香烟,手里夹一本什么斯基的译本”,倒还不打紧,──然而险矣。 大家都知道“贤者避世”,我以为现在的俗人却要避雅,这也是一种“明哲保身”。
(十二月二十六日。) |
【俗人は雅人を避くべしを論ず】 雑誌をいくらか読んで、ふと思いついたことである── 濁世には「雅人」は少なく、「韻事」も稀である。しかし濁りが徹底しない間は、雅人もまったくいないわけではない。ただ「雅を傷つける」人間が多いので、彼らの「雅」も徹底しなくなるのだ。 道学先生は「仁恕」を躬行するが、不仁不恕の者に出会えばやはり仁恕ではいられない。朱子は大賢でありながら、官にあっては無辜の官妓に板を食らわせた。林語堂氏は「フェアプレー」を称えるが、「口にソ連の煙草をくわえた」青年に出会うと面目は一変する。 いわゆる「雅人」は朝から晩まで雅であるわけではない。しかし時に忽然として「雅」たり得ることが秀でたところだ。もしこの謎の底を暴けば「殺風景」──すなわち俗人であり、雅人にまで累を及ぼす。 たとえば、ここに二人の知県がいるとしよう。その一人が時に梅花を見に行けるなら、彼は雅な役人と見なされるべきである。古い「ユーモア」本に、知県殿が梅を訪ねるのを詠んだ「軽薄子」の七絶がある── 赤帽はうなり黒帽は呵す、風流太守は梅花を見る。 梅花頭を垂れて言葉を開き曰く、小人めの梅花、お殿様にご挨拶。 これはまことに悪戯で、韻事を台無しにしてしまった。 慎重な人は、仁人君子や雅人学者に出会った時、幇閑のまねができなければ、遠く避けるに如くはない。大家都知道「賢者避世」。我以為現在の俗人は雅を避くべきである。これもまた一種の「明哲保身」なのである。 (十二月二十六日。) |
第58節
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【附记】 |
【附記】 |
第59節
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第一篇《关于中国的两三件事》,是应日本的改造社之托而写的,原是日文,即于是年三月,登在《改造》上,改题为《火,王道,监狱》。记得中国北方,曾有一种期刊译载过这三篇,但在南方,却只有林语堂、邵洵美、章克标三位所主编的杂志《人言》上,曾用这为攻击作者之具,其详见于《准风月谈》的后记中,兹不赘。
《草鞋脚》是现代中国作家的短篇小说集,应伊罗生(H. Isaacs)先生之托,由我和茅盾先生选出,他更加选择,译成英文的。但至今好象还没有出版。
《答曹聚仁先生信》原是我们的私人通信,不料竟在《社会月报》上登出来了,这一登可是祸事非小,我就成为“替杨邨人氏打开场锣鼓,谁说鲁迅先生器量窄小呢”了。有八月三十一日《大晚报》副刊《火炬》上的文章为证──
调 和 绍伯
──读《社会月报》八月号
“中国人是善于调和的民族”──这话我从前还不大相信,因为那时我年纪还轻,阅历不到,我自己是不大肯调和的,我就以为别人也和我一样的不肯调和。 这观念后来也稍稍改正了。那是我有一个亲戚,在我故乡两个军阀的政权争夺战中做了牺牲,我那时对于某军阀虽无好感,却因亲戚之故也感着一种同仇敌忾,及至后来两军阀到了上海又很快的调和了,彼此过从颇密,我不觉为之呆然,觉得我们亲戚假使仅仅是为着他的“政友”而死,他真是白死了。 后来又听得广东A君告诉我在两广战争后战士们白骨在野碧血还腥的时候,两军主持的太太在香港寓楼时常一道打牌,亲昵逾常,这更使我大彻大悟。 现在,我们更明白了,这是当然的事,不单是军阀战争如此,帝国主义的分赃战争也作如是观。老百姓整千整万地做了炮灰,各国资本家却可以聚首一堂举着香槟相视而笑。什么“军阀主义”、“民主主义”都成了骗人的话。 然而这是指那些军阀资本家们“无原则的争斗”,若夫真理追求者的“有原则的争斗”应该不是这样! 最近这几年,青年们追随着思想界的领袖们之后做了许多惨淡的努力,有的为着这还牺牲了宝贵的生命。个人的生命是可宝贵的,但一代的真理更可宝贵,生命牺牲了而真理昭然于天下,这死是值得的,就是不可以太打浑了水,把人家弄得不明不白。 后者的例子可求之于《社会月报》。这月刊真可以说是当今最完备的“杂”志了。而最“杂”得有趣的是题为“大众语特辑”的八月号。读者试念念这一期的目录罢,第一位打开场锣鼓的是鲁迅先生(关于大众语的意见),而“压轴子”的是《赤区归来记》作者杨邨人氏。就是健忘的读者想也记得鲁迅先生和杨邨人氏有过不小的一点“原则上”的争执罢。鲁迅先生似乎还“嘘”过杨邨人氏,然而他却可以替杨邨人氏打开场锣鼓,谁说鲁迅先生器量窄小呢? 苦的只是读者,读了鲁迅先生的信,我们知道“汉字和大众不两立”,我们知道应把“交通繁盛言语混杂的地方”的“大众语”的雏形,它的“字汇和语法输进穷乡僻壤去”。我们知道“先驱者的任务”是在给大众许多话“发表更明确的意思”,同时“明白更精确的意义”;我们知道现在所能实行的是以“进步的”思想写“向大众语去的作品”。但读了最后杨邨人氏的文章,才知道向大众去根本是一条死路,那里在水灾与敌人围攻之下,破产无余,……“维持已经困难,建设更不要空谈。”还是“归”到都会里“来”扬起小资产阶级文学之旗更靠得住。 于是,我们所得的知识前后相销,昏昏沉沉,莫明其妙。 这恐怕也表示中国民族善于调和吧,但是太调和了,使人疑心思想上的争斗也渐渐没有原则了。变成“戟门坝上的儿戏”了。照这样的阵容看,有些人真死的不明不白。 关于开锣以后“压轴”以前的那些“中间作家”的文章特别是大众语问题的一些宏论,本想略抒鄙见,但这只好改日再谈了。
关于这一案,我到十一月《答〈戏〉周刊编者的信》里,这才回答了几句。
《门外文谈》是用了“华圉”的笔名,向《自由谈》投稿的,每天登一节。但不知道为什么, |
第一篇《中国に関する二、三の事》は、日本の改造社の依頼で書いたもので、もとは日本語であり、同年三月に《改造》に掲載され、題名は《火、王道、監獄》と改められた。中国北方ではかつて、ある雑誌がこの三篇を訳載したことがあるが、南方では林語堂、邵洵美、章克標の三氏が主編する雑誌《人言》のみが、これを著者攻撃の道具として用いた。詳しくは《准風月談》の後記に見えるので、ここでは贅言しない。 《草鞋脚》は現代中国作家の短篇小説集で、イロソン(H. Isaacs)氏の依頼により、私と茅盾氏が選び出し、氏がさらに選択して英訳したものである。しかし今に至るまで出版されていないようだ。 《曹聚仁氏への返信》はもともと私信であったが、《社会月報》に掲載されてしまい、私は「楊邨人氏のために開場の銅鑼を打つ者」にされてしまった。《大晩報》副刊《火炬》に紹伯氏の文章がその証拠である。この一件について、私は十一月の《《戯》週刊編集者への返信》の中でようやく数句の返答をした。 《門外文談》は「華圉」の筆名で《自由談》に投稿したもので、毎日一節ずつ掲載された。しかし理由はわからないが、 |
第60節
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第一节被删去了末一行, |
第一節は末尾の一行が削除された。 |
第61節
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第十节开头又被删去了二百余字,现仍补足,并用黑点为记。
《不知肉味和不知水味》是写给《太白》的,登出来时,后半篇都不见了,我看这是“中央宣传部书报检查委员会”的政绩。那时有人看了《太白》上的这一篇,当面问我道:“你在说什么呀?”现仍补足,并用黑点为记,使读者可以知道我其实是在说什么。
《中国人失掉自信力了吗》也是写给《太白》的。凡是对于求神拜佛,略有不敬之处,都被删除,可见这时我们的“上峰”正在主张求神拜佛。现仍补足,并用黑点为记,聊以存一时之风尚耳。
《脸谱臆测》是写给《生生月刊》的,奉官谕:不准发表。我当初很觉得奇怪,待到领回原稿,看见用红铅笔打着杠子的处所,才明白原来是因为得罪了“第三种人”老爷们了。现仍加上黑杠子,以代红杠子,且以警戒新作家。 《答〈戏〉周刊编者信》的末尾,是对于绍伯先生那篇《调和》的答复。听说当时我们有一位姓沈的“战友”看了就呵呵大笑道:“这老头子又发牢骚了!”“头子”而“老”,“牢骚”而“又”,恐怕真也滑稽得很。然而我自己,是认真的。 不过向《戏》周刊编者去“发牢骚”,别人也许会觉得奇怪。然而并不,因为编者之一是田汉同志,而田汉同志也就是绍伯先生。
《中国文坛上的鬼魅》是写给《现代中国》(China To-day)的,不知由何人所译,登在第一卷第五期,后来又由英文转译,载在德文和法文的《国际文学》上。
《病后杂谈》是向《文学》的投稿,共五段;待到四卷二号上登了出来时,只剩下第一段了。后有一位作家,根据了这一段评论我道:鲁迅是赞成生病的。他竟毫不想到检查官的删削。可见文艺上的暗杀政策,有时也还有一些效力的。
《病后杂谈之余》也是向《文学》的投稿,但不知道为什么,检查官这回却古里古怪了,不说不准登,也不说可登,也不动贵手删削,就是一个支支吾吾。发行人没有法,来找我自己删改了一些,然而听说还是不行,终于由发行人执笔,检查官动口,再删一通,这才能在四卷三号上登出。题目必须改为《病后余谈》,小注“关于舒愤懑”这一句也不准有;改动的两处,我都注在本文之下,删掉的五处,则仍以黑点为记,读者试一想这些讳忌,是会觉得很有趣的。只有不准说“言行一致”云云,也许莫明其妙,现在我应该指明,这是因为又触犯了“第三种人”了。
《阿金》是写给《漫画生活》的;然而不但不准登载,听说还送到南京中央宣传会里去了。这真是不过一篇漫谈,毫无深意,怎么会惹出这样大问题来的呢,自己总是参不透。后来索回原稿,先看见第一页上有两颗紫色印,一大一小,文曰“抽去”,大约小的是上海印,大的是首都印,然则必须“抽去”,已无疑义了。再看下去,就又发见了许多红杠子,现在改为黑杠,仍留在本文的旁边。 看了杠子,有几处是可以悟出道理来的。例如“主子是外国人”,“炸弹”,“巷战”之类,自然也以不提为是。但是我总不懂为什么不能说我死了“未必能够弄到开起同乡会”的缘由,莫非官意是以为我死了会开同乡会的么?
我们活在这样的地方,我们活在这样的时代。
一九三五年十二月三十日,编讫记。 |
第十節の冒頭もまた二百余字が削除されたが、ここに補足し、黒点をもって印とする。 《肉の味を知らずと水の味を知らず》は《太白》に寄せたものだが、掲載された時には後半がすべてなくなっていた。これは「中央宣伝部書報検査委員会」の業績であろう。ここに補足し、黒点をもって印とする。 《中国人は自信力を失ったか》もまた《太白》に寄せたものである。神仏に祈ることへのいささかの不敬はすべて削除された。当時のわれわれの「上峰」がまさに神仏祈願を主張していたことがわかる。ここに補足し、黒点をもって印とする。 《臉譜についての臆測》は《生生月刊》に寄せたものだが、官命により掲載不許可。「第三種人」のお歴々のご機嫌を損ねたためとわかった。 《《戯》週刊編集者への返信》の末尾は、紹伯氏のかの《調和》に対する返答である。聞くところによると、われわれの仲間に沈姓の「戦友」がこれを読んで笑って曰く「この爺さんがまた愚痴を言っとるわ!」と。しかし私自身は本気なのだ。 《中国文壇の鬼魅》は《現代中国》(China To-day)に寄せたもので、英訳で第一巻第五期に掲載された。 《病後雑談》は《文学》への投稿で、全五段であったが、掲載された時には第一段だけが残っていた。後にある作家がこの一段に基づいて評した──魯迅は病気になることに賛成している、と。彼は検査官の削除にまったく思い至らなかったのだ。 《阿金》は《漫画生活》に寄せたものだが、掲載不許可のみならず、南京の中央宣伝会にまで送られた。原稿を取り戻すと「抽去」(抜き取れ)の印があった。 われわれはこのような場所に生きている。われわれはこのような時代に生きている。 一九三五年十二月三十日、編了に記す。 |