Lu Xun Complete Works/zh-ja/Collections
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魯迅 (鲁迅, ルーシュン, 1881–1936)
中日対照翻訳。
第1節
| 中文 | 日本語 |
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【总目录】
鲁迅全集•第一卷
鲁迅全集•第二卷
鲁迅全集•第三卷
鲁迅全集•第四卷
鲁迅全集•第五卷
鲁迅全集•第六卷
鲁迅全集•第七卷
鲁迅全集•第八卷
鲁迅全集•第九卷
鲁迅全集•第十卷
鲁迅全集•第十一卷
鲁迅全集•第十二卷
鲁迅全集•第十三卷
鲁迅全集•第十四卷
鲁迅全集•第十五卷
鲁迅全集•第十六卷
鲁迅全集•第十七卷
鲁迅全集•第十八卷
鲁迅全集•第十九卷
鲁迅全集•第二十卷 【一九三○年】
【“硬译”与“文学的阶级性”】
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【総目録】 魯迅全集・第一巻 魯迅全集・第二巻 魯迅全集・第三巻 魯迅全集・第四巻 魯迅全集・第五巻 魯迅全集・第六巻 魯迅全集・第七巻 魯迅全集・第八巻 魯迅全集・第九巻 魯迅全集・第十巻 魯迅全集・第十一巻 魯迅全集・第十二巻 魯迅全集・第十三巻 魯迅全集・第十四巻 魯迅全集・第十五巻 魯迅全集・第十六巻 |
第2節
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例如就是那篇《文学是有阶级性的吗?》的高文,结论是并无阶级性。要抹杀阶级性,我以为最干净的是吴稚晖先生的“什么马克斯牛克斯”以及什么先生的“世界上并没有阶级这东西”的学说。那么,就万喙息响,天下太平。但梁先生却中了一些“什么马克斯”毒了,先承认了现在许多地方是资产制度,在这制度之下则有无产者。不过这“无产者本来并没有阶级的自觉。是几个过于富同情心而又态度偏激的领袖把这个阶级观念传授了给他们”,要促起他们的联合,激发他们争斗的欲念。不错,但我以为传授者应该并非由于同情,却因了改造世界的思想。况且“本无其物”的东西,是无从自觉,无从激发的,会自觉,能激发,足见那是原有的东西。原有的东西,就遮掩不久,即如格里莱阿说地体运动,达尔文说生物进化,当初何尝不或者几被宗教家烧死,或者大受保守者攻击呢,然而现在人们对于两说,并不为奇者,就因为地体终于在运动,生物确也在进化的缘故。承认其有而要掩饰为无,非有绝技是不行的。
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たとえばあの『文学には階級性があるか?』という高論であるが、結論は階級性はないというものだ。階級性を抹殺するには、呉稚暉氏の「何とかいうマルクスだの牛クスだの」、および某氏の「世界には階級などというものは存在しない」という学説が最も手っ取り早いと私は思う。そうすれば万口は沈黙し、天下太平である。だが梁氏は「何とかいうマルクス」の毒にいささか当てられていて、まず現在多くの国が資本制度であることを認め、この制度の下には無産者がいることを認めている。ただしこの「無産者はもともと階級の自覚などなかった。同情心がありすぎ、態度の偏激な数人の指導者が、この階級観念を彼らに吹き込んだ」のであり、彼らの連合を促し、闘争の欲望を煽り立てようとしたのだ、と。なるほど、だが私が思うに、吹き込んだ者は同情からではなく、世界改造の思想によるものだ。そもそも「もともと存在しない」ものなら、自覚しようがないし、煽り立てようもない。自覚でき、煽り立てることができるということは、それがもともと存在するものであることを示している。もともと存在するものは、長く隠しおおせるものではない。ガリレオが地動説を唱え、ダーウィンが生物進化を説いた時、前者は宗教家に焼き殺されかけ、後者は保守派に猛攻撃を受けたではないか。しかし今日、人々が両説を怪しまないのは、地球は確かに動いており、生物は確かに進化しているからにほかならない。存在を認めながら存在しないかのように見せかけるには、並外れた技を持たなければ不可能である。 だが梁氏には闘争を消し去る方法があり、ルソーの言う「財産は文明の基礎である」から、「ゆえに財産制度を攻撃することは、文明に反抗することである」、「一人の無産者がもし見込みのある者なら、辛辛苦苦、誠実に一生働きさえすれば、多少なりとも必ず得ることができる」と考える。 |
第3節
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从前年以来,对于我个人的攻击是多极了,每一种刊物上,大抵总要看见“鲁迅”的名字,而作者的口吻,则粗粗一看,大抵好象革命文学家。但我看了几篇,竟逐渐觉得废话太多了。解剖刀既不中腠理,子弹所击之处,也不是致命伤。例如我所属的阶级罢,就至今还未判定,忽说小资产阶级,忽说“布尔乔亚”,有时还升为“封建余孽”,而且又等于猩猩;(见《创造月刊》上的《东京通信》;)有一回则骂到牙齿的颜色。在这样的社会里,有封建余孽出风头,是十分可能的,但封建余孽就是猩猩,却在任何“唯物史观”上都没有说明,也找不出牙齿色黄,即有害于无产阶级革命的论据。我于是想,可供参考的这样的理论,是太少了,所以大家有些胡涂。对于敌人,解剖,咬嚼,现在是在所不免的,不过有一本解剖学,有一本烹饪法,依法办理,则构造味道,总还可以较为清楚,有味。人往往以神话中的Prometheus比革命者,以为窃火给人,虽遭天帝之虐待不悔,其博大坚忍正相同。但我从别国里窃得火来,本意却在煮自己的肉的,以为倘能味道较好,庶几在咬嚼者那一面也得到较多的好处,我也不枉费了身躯:出发点全是个人主义,并且还夹杂着小市民性的奢华,以及慢慢地摸出解剖刀来,反而刺进解剖者的心脏里去的“报复”。梁先生说“他们要报复!”其实岂只“他们”,这样的人在“封建余孽”中也很有的。然而,我也愿意于社会上有些用处,看客所见的结果仍是火和光。这样,首先开手的就是《文艺政策》,因为其中含有各派的议论。
【习惯与改革】
【非革命的急进革命论者】
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一昨年以来、私個人に対する攻撃は実に多くなった。どの刊行物を見ても、だいたい「魯迅」の名前が載っている。しかも筆者の口ぶりは、一見すると革命文学者のようだ。だが私はいくつか読んでみて、次第にくだらない言葉が多すぎると感じるようになった。解剖刀は急所に当たらず、弾丸の命中した所も致命傷ではない。たとえば私の属する階級だが、今に至るまでまだ判定されていない。ある時はプチブルジョアと言い、ある時は「ブルジョア」と言い、時には「封建の残滓」にまで昇格し、しかもまたチンパンジーに等しいとされる(『創造月刊』掲載の「東京通信」参照)。ある時は歯の色まで罵られた。このような社会において、封建の残滓が幅を利かせることは大いにありうることだが、封建の残滓がすなわちチンパンジーだとは、いかなる「唯物史観」にも説明されておらず、歯が黄色いことが無産階級革命に有害であるという論拠も見つからない。私は思った——参考になるこのような理論はあまりに少ないから、みな少し混乱しているのだ、と。敵に対して解剖し、噛み砕くことは、今や避けられないことだが、解剖学の教科書が一冊あり、料理法が一冊あれば、法にのっとって処理すれば、構造も味わいもまだいくらか明瞭で、味のあるものになるだろう。人はしばしば神話のプロメテウスを革命家に喩え、人に火を盗んで与え、天帝の虐待を受けても悔いない、その博大堅忍は確かに相通ずるものがある、と言う。だが私が他国から火を盗んできた本意は、自分の肉を料理するためであって、もし味がいくらかでもよくなれば、噛み砕く側にとっても多少の利益があるだろうし、私もこの体を無駄にしたことにはならないと思ったのだ——出発点はまったくの個人主義であり、しかもプチブルの贅沢が混じっている。そしてゆっくりと解剖刀を取り出して、かえって解剖者に突き刺すのだ。 |
第4節
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【张资平氏的“小说学”】
【对于左翼作家联盟的意见】
【我们要批评家】
【好政府主义】
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【張資平氏の「小説学」】 張資平氏は「最も進歩的な」「無産階級作家」だと言われている。諸君がまだ「萌芽」し、まだ「開拓」している時、彼はすでに収穫しているのだ。これが進歩というものだ。飛ぶように走り去り、追いつけない。しかし追跡して行ってみると、彼が走り込んだのは「楽群書店」の中だった。 張資平氏は以前は三角恋愛小説の作家であり、しかも女の性欲は男よりも耐え難く、自ら男を求めに来る、卑しい女め、痛い目に遭って当然だ、と書いた。これは当然、無産階級小説ではない。だが作者がひとたび方向を転ずれば、一人が道を得れば鶏犬も天に昇る、まして仙人の遺骸ではないか。『張資平全集』はやはり読むべきである。これが収穫というものだ、わかったか? さらに収穫はある。『申報』の報道によれば、今年の大夏の学生たちが、「青年に崇拝される張資平先生」をお招きして「小説学」を教えさせることになった。中国の旧例では、英語の先生はきっと外国史も教えることになり、国語の先生はきっと倫理学も教えることになる。まして小説の先生なら、当然その腹には小説学が詰まっているはずだ。でなければ、書けるはずがないではないか? ホメロスが「叙事詩作法」を持っていなかったとか、シェイクスピアが「戯劇学概論」を持っていなかったとか、誰が保証できようか? ああ、講義を聴く門弟は幸いである。これでどう三角にし、どう恋愛するかがわかるだろう。女が欲しいと思えば、意外にも女の性欲の衝動はあなたよりも強く、自分からやって来る。友よ、待っていなさい。だが最も気の毒なのは上海にいないために、遥かに「崇拝」するしかなく、門下に加わることのできない青年たちで、この偉大な「小説学」を拝聴できないのである。ここに私が『張資平全集』と「小説学」の精華を紹介しよう。 |
第5節
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这种心理,实在是应该责难的。但在实际上,我却还未曾见过这样的杂感,譬如说,同一作者,而以为三民主义者是违背了英美的自由,共产主义者又收受了俄国的卢布,国家主义太狭,无政府主义又太空……。所以梁先生的《零星》,是将他所见的杂感的罪状夸大了。
【“丧家的”“资本家的乏走狗”】
【“进化和退化”小引】
【做古文和做好人的秘诀】
【由聋而哑 洛文 】 |
この種の心理は、たしかに非難されるべきである。だが実際には、私はまだこのような雑感を見たことがない。たとえば同一の筆者が、三民主義者は英米の自由に背いていると言い、共産主義者はロシアのルーブルを受け取っていると言い、国家主義は狭すぎ、無政府主義はまた空虚すぎる……などと言うものだ。だから梁氏の『零星』は、彼が目にした雑感の罪状を誇張したものである。 実のところ、ある主義の理由の欠陥を指摘し、あるいはそこから生じた弊害を指摘することは、たとえその主義の信奉者でなくても、もともと差し支えないことである。たとえば搾取されて痛ければ、叫び声を上げるのは当然で、よりよい主義を考え出す前に歯を食いしばっている必要などない。だが当然、よりよい主張があれば、もっと様になる。 しかし梁氏が謙遜して末尾に置いた「善い政府主義」は、もっと謙遜に例外に置くべきだと私は思う。なぜなら三民主義から無政府主義に至るまで、その性質の寒暖がいかであれ、処方箋に書いてあるのはやはり薬の名前、たとえば石膏だの肉桂だのの類である——服用後の利害はまた別問題だ。ただ「善い政府主義」のこの「一服の薬」だけは、処方箋に書いてあるのは薬の名前ではなく、「良い薬材」という三文字と、くどくどしい名医気取りの「主張」である。なるほど、誰も病気の治療に悪い薬材を使うべきだとは言えまいが、この処方箋は、医者でなくても首を振るだろう。誰だって「貶しまくって一文の値打もなく」(「褒」は「称讃」の意であり、ここに使うのは「不通」であるのみならず、「褒」の字を知らないことも証明しているが、これは梁氏の原文なのでそのまま残す)するだろう。 もしこの医者が恥じ怒って |
第6節
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医生告诉我们:有许多哑子,是并非喉舌不能说话的,只因为从小就耳朵聋,听不见大人的言语,无可师法,就以为谁也不过张着口呜呜哑哑,他自然也只好呜呜哑哑了。所以勃兰兑斯叹丹麦文学的衰微时,曾经说:文学的创作,几乎完全死灭了。人间的或社会的无论怎样的问题,都不能提起感兴,或则除在新闻和杂志之外,绝不能惹起一点论争。我们看不见强烈的独创的创作。加以对于获得外国的精神生活的事,现在几乎绝对的不加顾及。于是精神上的“聋”,那结果,就也招致了“哑”来。(《十九世纪文学的主潮》第一卷自序)
【新秋杂识(二) 旅隼 】
【男人的进化 虞明 】
【同意和解释 虞明 】
【文床秋梦 游光 】 |
医者はわれわれに教えてくれる——唖者の多くは、喉や舌が話せないのではなく、ただ幼い頃から耳が聞こえないために、大人の言葉を聞くことができず、手本にしようがなく、誰もが口を開いてウウアアと言っているだけだと思い込んでいるから、自分も当然ウウアアとするしかないのだ、と。ゆえにブランデスがデンマーク文学の衰微を嘆いた時、かつてこう言った——文学の創作はほとんど完全に死滅した。人間の、あるいは社会のいかなる問題も、興味を惹くことができず、新聞や雑誌以外では、少しの論争も引き起こすことがない。われわれは強烈で独創的な創作を見ることができない。加えて外国の精神生活を取り入れることに、今やほとんど絶対的に顧みない。かくして精神上の「聾」は、その結果、「唖」をも招来したのだ。(『十九世紀文学の主潮』第一巻自序) これらの言葉は、そのまま中国の文芸界を批評するのにも使える。この現象は、すべてを圧迫者の圧迫のせいにすることはできない。五四運動時代の啓蒙運動者もその後の反対者も、ともに責任を分担すべきである。前者は功を急ぐあまり、ついに何ら価値ある書籍を翻訳しなかった。後者は故意に怒りの矛先を転じ、翻訳者を仲人と罵るに至った。一部の青年はさらに波に乗じ、一時は人名地名に原語の注をつけて読者の参考に資するだけでも、「衒学」と誹られたものだ。 して今はどうか? 三間口の書店は四馬路にはまだ少なくないが、その中の棚一杯に薄い小冊子が並び、もし大部の書を探そうとすれば、まさに砂を篩って金を拾うような難しさである。もちろん、背が高く太っているからといって偉人とは限らず、分量が多く複雑だからといって名著とは限らない。まして「剪り貼り」もある。しかし、小さな一冊の「何とか |
第7節
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春梦是颠颠倒倒的。“夏夜梦”呢?看沙士比亚的剧本,也还是颠颠倒倒。中国的秋梦,照例却应该“肃杀”,民国以前的死囚,就都是“秋后处决”的,这是顺天时。天教人这么着,人就不能不这么着。所谓“文人”当然也不至于例外,吃得饱饱的睡在床上,食物不能消化完,就做梦;而现在又是秋天,天就教他的梦威严起来了。
【电影的教训 孺牛 】
【关于翻译(上) 洛文 】
【关于翻译(下) 洛文 】
【新秋杂识(三) 旅隼 】
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春の夢は支離滅裂なものだ。「夏の夜の夢」はどうか? シェイクスピアの戯曲を見ても、やはり支離滅裂だ。中国の秋の夢は、慣例によれば「粛殺」であるべきで、民国以前の死刑囚はすべて「秋後処決」であった。これは天の時に従うものだ。天がそうしろと言えば、人はそうせざるを得ない。いわゆる「文人」もまた例外とはならず、たらふく食べてベッドで眠り、食べ物が消化しきれなければ夢を見る。しかも今は秋だから、天が彼の夢を威厳あるものにしたのだ。 二巻三十一期(八月十二日発行)の『濤声』に、「林丁」と自称する人物の編集者宛の手紙があり、その中にこんな一節がある—— 「……の争い、いずれが是でいずれが非か、外部の者にはとうてい詳しくはわからない。しかし互いに傷つけ合うのは、傍観者から見れば、文壇全体の不幸と言わざるを得ない。……私の考えでは、各人ともまず尻を百叩きにして戒めとし、余事は一切不問に付すべきだ。……」 二日前、ある小さな新聞の無署名の社説にも、少し前の余・趙の剽窃問題の論争についてたいそう憤慨して、こう書いてあった—— 「……もし私がひとたび大権を握ったなら、必ずこの手合いを捕らえてきて、苦役に処し、十年間読書させてやる。中国の文壇にも、清浄な日が来るかもしれない。」 張献忠は自らが没落しつつあった時、その行動は「いずれが是でいずれが非か」を問わず、ただ殺すだけであった。清朝の役人が、原告被告の双方に、青紅を問わず、尻を百叩きあるいは五十叩きにすることは、たしかに時としてあったが、これは満洲がまだ奴隷を欲しがっていて、搾取の対象にしたかったからであり、つまりは「林丁」氏の旧い夢なのだ。 |
第8節
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记得幼小时,有父母爱护着我的时候,最有趣的是生点小毛病,大病却生不得,既痛苦,又危险的。生了小病,懒懒的躺在床上,有些悲凉,又有些娇气,小苦而微甜,实在好象秋的诗境。呜呼哀哉,自从流落江湖以来,灵感卷逃,连小病也不生了。偶然看看文学家的名文,说是秋花为之惨容,大海为之沉默云云,只是愈加感到自己的麻木。我就从来没有见过秋花为了我在悲哀,忽然变了颜色;只要有风,大海是总在呼啸的,不管我爱闹还是爱静。
【礼 苇索 】
【打听印象 桃椎 】
【吃教 丰之余 】
【喝茶 丰之余 】
【禁用和自造 孺牛 】
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幼い頃、両親に愛護されていた時分を思い出すと、最も面白かったのはちょっとした病気をすることで、大病は駄目だ、苦しいし危険だから。ちょっとした病気にかかり、だるだると寝床に横になり、いささかの悲哀と、いささかの甘えとがあり、小さな苦しみにほのかな甘さが混じり、実に秋の詩境のようであった。ああ悲しいかな、江湖に流落して以来、霊感は逃げ去り、小さな病気すらしなくなった。たまに文学者の名文を見て、秋の花がために顔色を変え、大海がために沈黙する云々と書いてあっても、ただ自分の感覚の麻痺をいよいよ感じるばかりだ。私はかつて秋の花が私のために悲しみ、突然色を変えたのを見たことがない。風さえあれば、大海は常に咆哮しているのであって、私が騒ぐのが好きか静かなのが好きかなど、お構いなしだ。 氷瑩女史の佳作によれば、「晨は科学を学ぶ者だが、この一瞬、自分の志趣を完全に忘れ、彼の脳裏にあるのはただ存分に自然の美景を享受しようという目的のみであった。……」これもまた一つの幸福だ。科学は私が学んだのはごく浅く、生物学の教科書を一冊読んだだけだが、花は植物の生殖器官だとか、虫の鳴き声や鳥のさえずりは求愛だとかいった教えは、まったく忘れることができなかった。昨夜、荒れ地をぶらついていて、蟋蟀が野菊の下で鳴くのを聞き、美しい景色のように感じた。詩興がむくむくと湧き起こり、新体詩を二行作った—— 野菊の生殖器の下で、 蟋蟀が色目を使っている。 書いてみて一目見ると、粗野な者たちの歌う俚歌よりはいくらか上品ではあるが、新詩人が「インスピレーション」から得た詩に比べれば、やはり「見劣り」する。あまりに科学的に、あまりに真実に書くと雅でなくなる。旧体詩に改作すれば、あるいはこれほどではないかもしれない。生殖器官だの、 |
第9節
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我们也不说写大字,画国画的名人,单来说真实的办事者。在这类人,毛笔却是很不便当的。砚和墨可以不带,改用墨汁罢,墨汁也何尝有国货。而且据我的经验,墨汁也并非可以常用的东西,写过几千字,毛笔便被胶得不能施展。倘若安砚磨墨,展纸舔笔,则即以学生的抄讲义而论,速度恐怕总要比用墨水笔减少三分之一,他只好不抄,或者要教员讲得慢,也就是大家的时间,被白费了三分之一了。
【看变戏法 游光 】
【双十怀古 史癖 】
【重三感旧 丰之余 】
【“感旧”以后(上) 丰之余 】
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大きな字を書いたり国画を描いたりする名人のことは言うまい。ただ実際に事務を処理する者についてだけ言おう。こうした人々にとって、毛筆は甚だ不便である。硯と墨は持ち歩かなくても、墨汁に替えればよいが、墨汁にも国産のものがないではない。しかも私の経験では、墨汁も常用できるものではない。数千字も書けば、毛筆は膠で固まって自由がきかなくなる。もし硯を据えて墨を磨り、紙を展べて筆を舐めるとすれば、たとえば学生の講義ノートの筆記だけを取っても、速度はおそらくインクペンに比べて三分の一は減るだろう。彼はノートを取らないか、教師に遅く話してもらうしかなく、つまりみんなの時間が三分の一無駄になるのだ。 いわゆる「便利」とは、怠けることではなく、同じ時間内にこれによってより多くの事を成し遂げられるということだ。これはすなわち時間の節約であり、すなわち人の有限なる生命をより有効にすることであり、またすなわち人の生命を延長するに等しい。古人は「人が墨を磨るのではなく、墨が人を磨る」と言ったが、人生が紙と墨の中に消耗されることを悲憤したのであり、インクペンの発明はまさにこの欠憾を補うことができるのだ。 だがその存在は、時間を貴び生命を貴ぶ場所においてこそ必要とされる。中国はそうではない。だから当然、国産品にはなりえない。輸出入の品物には、中国にはすでに帳簿がある。だが人民の数にはまだ一冊の帳簿もない。一人の人間の養育教育に、親がどれほどの物力と労力を費やすことか。しかし青年男女はしばしば行方知れずとなり、誰も注意を払わない。わずかな時間のことなど、当然なおさら問題にならない。生きて毛筆をいじっていられるのは、あるいは幸福と言えるかもしれない。 われわれ中国と同じく、もともと毛筆を使っていた国がもう一つある。日本だ。しかし日本では毛筆はほとんど絶滅し、代わりに鉛筆とインクペンが |
第10節
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现在看了施先生自己的解释,(一)才知道他当时的情形,是因为稿纸太小了,“倘再宽阔一点的话”,他“是想多写几部书进去的”;(二)才知道他先前的履历,是“从国文教员转到编杂志”,觉得“青年人的文章太拙直,字汇太少”了,所以推举了这两部古书,使他们去学文法,寻字汇,“虽然其中有许多字是已死了的”,然而也只好去寻觅。我想,假如庄子生在今日,则被劈棺之后,恐怕要劝一切有志于结婚的女子,都去看《烈女传》的罢。
【“感旧”以后(下) 丰之余 】
【黄祸 尤刚 】
【冲 旅隼 】
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施氏自身の解釈を今見て、(一)ようやく彼の当時の事情がわかった——原稿用紙が小さすぎたのだ。「もう少し広ければ」、「もっと何冊か書名を書き入れたかった」のだと。(二)ようやく彼のそれ以前の経歴がわかった——「国語の教師から雑誌の編集に転じ」、「青年の文章があまりに拙直で、語彙が少なすぎる」と感じたため、この二つの古書を推挙して、そこから文法を学び、語彙を探させようとしたのだ、「その中には多くの死語があるけれども」。思うに、もし荘子が今日に生きていたなら、棺を叩き割られた後には、おそらく結婚の志ある女子すべてに『列女伝』を読むよう勧めるだろう。 もう一つ、別の話がある—— |
第11節
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十龄上下的孩子会造反,本来也难免觉得滑稽的。但我们中国是常出神童的地方,一岁能画,两岁能诗,七龄童做戏,十龄童从军,十几龄童做委员,原是常有的事实;连七八岁的女孩也会被凌辱,从别人看来,是等于“年方花信”的了。
【“滑稽”例解 苇索 】
【外国也有 符灵 】
【扑空 丰之余 】
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春の夢は支離滅裂だ。「夏の夜の夢」も、シェイクスピアの劇を見れば、やはり支離滅裂だ。だが中国の秋の夢は、慣例では「粛殺」たるべきであり、民国以前の死刑囚はみな「秋後処決」であった——天の時に順うのだ。天がそうせよと命じれば、人はそうせずにはいられない。いわゆる「文人」も当然例外ではなく、たらふく食べて寝床に入り、食べ物が消化しきれなければ夢を見る。今は秋だから、天が彼の夢に威厳を与えたのだ。文壇の論争についての批判は、しばしば「是非を問わず」に行われるが、それこそが最も問題であろう。人々は安易に「双方とも悪い」と裁断しがちだが、実際には事の本質を見極めようとしないだけのことだ。 ある種の人々は、権力さえあれば問題を解決できると考えている。「もし一朝大権を握ったなら」という夢を語る者がいるが、これは張献忠の精神に通ずるものがある。張献忠は没落しつつあった時、是非を問わず、ただ殺すのみであった。清朝の役人が原告被告に等しく罰を下すのも、真実を追究する気がないからにほかならない。 文壇において必要なのは、公正な批評であり、すべてを一括して罰する粗暴な態度ではない。しかし今日の中国では、このような理性的な批評はなかなか育たない。なぜなら批評そのものが危険な行為とみなされ、批評者はしばしば報復を受けるからだ。かくして文壇は沈黙に陥り、劣悪な作品が跋扈するのを許してしまう。 われわれに必要なのは、恐れずに真実を語る勇気と、是非を弁える能力である。張献忠式の粗暴でも、清朝式の事なかれ主義でもなく、理性をもって事物に向かう態度こそが、文壇の未来を切り開くのだ。 |
第12節
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我在贵报向青年推荐了两部旧书,不幸引起了丰之余先生的训诲,把我派做“遗少中的一肢一节”。自从读了他老人家的《感旧以后》(上)一文后,我就不想再写什么,因为据我想起来,劝新青年看新书自然比劝他们看旧书能够多获得一些群众。丰之余先生毕竟是老当益壮,足为青年人的领导者。至于我呢,虽然不敢自认为遗少,但的确已消失了少年的活力,在这万象皆秋的环境中,即使丰之余先生那样的新精神,亦已不够振拔我的中年之感了。所以,我想借贵报一角篇幅,将我在九月二十九日贵报上发表的推荐给青年的书目改一下:我想把《庄子》与《文选》改为鲁迅先生的《华盖集》正续编及《伪自由书》。我想,鲁迅先生为当代“文坛老将”,他的著作里是有着很广大的活字汇的,而且据丰之余先生告诉我,鲁迅先生文章里的确也有一些从《庄子》与《文选》里出来的字眼,譬如“之乎者也”之类。这样,我想对于青年人的效果也是一样的。本来我还想推荐一二部丰之余先生的著作,可惜坊间只有丰子恺先生的书,而没有丰之余先生的书,说不定他是像鲁迅先生印珂罗版木刻图一样的是私人精印本,属于罕见书之列,我很惭愧我的孤陋寡闻,未能推荐矣。
【答“兼示” 丰之余 】
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文学が階級性を持つか否かという問題は、実際には問い方自体が間違っている。なぜなら文学は人間の産物であり、人間が社会の中で特定の階級的立場に立っている以上、その文学もまた階級的刻印を免れないからだ。たとえ作者自身が意識しなくとも、彼の思想、感情、趣味は階級によって規定されている。 梁氏のいわゆる「善い政府主義」は、結局のところ何ら具体的内容を持たない空語にすぎない。「善い政府」を欲しない者など一人もいないが、何をもって「善い」とするかは、まさに階級によって異なるのだ。資本家にとっての「善い政府」と、労働者にとっての「善い政府」とは、まったく別物である。この根本的な相違を無視して、ただ「善い政府」を唱えるのは、結局のところ現状維持の別名にすぎない。 同様に、文学における「人間性」や「普遍性」の強調も、しばしば階級的矛盾を覆い隠す機能を果たしている。「愛」や「美」は普遍的だと言われるが、「愛」の形態も「美」の基準も、時代と階級によって大きく異なる。封建領主の「美」と農民の「美」とは同じではなく、搾取者の「愛」と被搾取者の「愛」とも同じではない。 だからこそ、文学を論ずるにあたって階級の視点を排除しようとする試みは、必ず失敗する。それは現実を直視しない態度であり、結局は支配階級の利益に奉仕することになるのだ。 しかし、これは文学を政治の道具にせよということではない。文学は文学としての独自の法則を持ち、芸術的完成度は政治的正しさとは別の次元の問題である。ただ、文学がその存在する社会の階級構造から完全に自由であるかのように振る舞うのは、自己欺瞞にほかならない。 |
第13節
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(二)丰先生说不懂我劝青年看《庄子》与《文选》与“做了考官以词取士”有何分界,这其实是明明有着分界的。前者是以一己的意见供献给青年,接受不接受原在青年的自由;后者却是代表了整个阶级(注:做官的阶级也),几乎是强迫青年全体去填词了。(除非这青年不想做官。)
【中国文与中国人 余铭 】
【野兽训练法 余铭 】
【反刍 元艮 】
【归厚 罗怃 】
【难得糊涂 子明 】
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翻訳の問題は、実のところ中国の知識界全体の問題でもある。良い翻訳がなければ、外国の思想も文学も正しく伝わらない。しかし中国では、翻訳者は常に軽蔑されてきた。創作者こそが尊ばれ、翻訳者は「仲人」にすぎないとされた。 だが考えてみれば、われわれの知識の大半は翻訳を通じて得たものではないか。仏教の経典も、西洋の科学も、みな翻訳によって中国に入ってきたのだ。翻訳なくして、今日の中国の知的水準はありえない。 問題は翻訳の質にある。良い翻訳は、原文の意味を正確に伝えるだけでなく、原文の文体や精神をも伝えるものでなければならない。これは容易なことではなく、深い学識と優れた文才の両方を必要とする。しかし中国ではこのような翻訳者は極めて少ない。 一方で、悪い翻訳は害をなす。原文の意味を歪め、読者を誤導するだけでなく、翻訳そのものへの不信感を生み、ひいては外国文化全般への偏見を助長することになる。 私が翻訳を重視するのは、それが文化交流の根幹であるからだ。閉ざされた文化は必ず衰退する。外からの刺激を取り入れ、自らの文化を豊かにしてこそ、発展がある。翻訳はまさにその窓口なのだ。 だが今日の中国では、書店の棚に並ぶのは薄い小冊子ばかりで、本格的な翻訳書は見つけにくい。出版者は売れ筋ばかりを追い、地味だが重要な学術書の翻訳には手を出さない。読者もまた安易に手に取れるものを好み、骨のある書物を敬遠する。かくして中国の知的水準は、なかなか向上しないのである。 |
第14節
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然而风格和情绪,倾向之类,不但因人而异,而且因事而异,因时而异。郑板桥说“难得糊涂”,其实他还能够糊涂的。现在,到了“求仕不获无足悲,求隐而不得其地以窜者,毋亦天下之至哀欤”的时代,却实在求糊涂而不可得了。
【古书中寻活字汇 罗怃 】
【“商定”文豪 白在宣 】
【青年与老子 敬一尊 】
【后记】
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中国において、文芸批評が健全に発展しない原因は多々ある。第一に、批評する側に十分な学識がないことが多い。外国文学にも中国の古典にも通じていなければ、批評の基準を立てることができない。第二に、批評が往々にして個人的恩怨に左右されることだ。友人の作品は褒め、敵の作品は貶す——これでは批評ではなく、ただの党派争いである。 第三に、そしてこれが最も根本的な問題だが、中国の社会には批評を受け入れる土壌がないことだ。批評された作家は、それを学びの機会とするのではなく、侮辱と受け取る。そして報復に出る。かくして批評者は沈黙を強いられ、文壇には阿諛追従の言葉だけが満ちることになる。 西洋では批評が一つの独立した文学的ジャンルとして確立されている。ブランデス、サント・ブーヴ、マシュー・アーノルドの批評は、それ自体が文学作品として読まれている。中国にはこのような伝統がない。批評はせいぜい「読後感」の域を出ず、体系的な方法論に基づくものではない。 だが批評なくして文学の進歩はありえない。作家は自分の作品の欠点を知らなければ、改善のしようがない。読者もまた、良い批評によって鑑賞眼を養い、優れた作品と劣った作品を区別する力を身につけるのだ。 われわれに必要なのは、公正で、学識に裏打ちされ、しかも恐れを知らない批評家である。そのような批評家が現れた時、中国の文学は初めて真の発展を遂げるだろう。しかし現在の状況では、そのような批評家が生まれにくいことも事実である。なぜなら、真実を語ることにはあまりにも大きな代価が伴うからだ。 |
第15節
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女婿问题 如是
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女婿問題(如是)——最近の『自由談』に女婿に関する二篇の文章が載った。苇索先生は「文壇は婿を招かぬが、婿は文壇に上がる」と論じた。これに対し魯迅は、富家の婿であることは罪でなく、妻の持参金で文学資本にすることも非難に値しないと反論する。続いて聖閑の「『女婿』の蔓延」も引用。邵家の鷹犬が日本の『改造』誌掲載の魯迅論文を利用して攻撃した事件を詳述。「井上」なる偽訳者と編者注の陰険さを暴露。「托庇於外人威権之下」という殺気を含んだ言葉、「軍事裁判」への言及。魯迅は「鉄証」として『十日談』の『晶報』への謝罪広告を引用し、金で骨髄を作っても背筋は伸びないと断じ、話題を「『荘子』と『文選』」事件に転じる。 |
第16節
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听说,现在是连用古典有时也要被检查官禁止了,例如提起秦始皇,但去年还不妨,不过用新典总要闹些小乱子。我那最末的《青年与老子》,就因为碰着了杨邨人先生(虽然刊出的时候,那名字已给编辑先生删掉了),后来在《申报》本埠增刊的《谈言》(十一月二十四日)上引得一篇妙文的。不过颇难解,好象是在说我以孝子自居,却攻击他做孝子,既“投井”,又“下石”了。因为这是一篇我们的“改悔的革命家”的标本作品,弃之可惜,谨录全文,一面以见杨先生倒是现代“语录体”作家的先驱,也算是我的《后记》里的一点余兴罢──
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(前篇の続き)新典の使用による弊害。楊邨人先生への言及が引き起こした反応を述べ、杨の「聡明之道」全文を録す。世故老人との問答形式で滑頭学を論じ、「順水行舟」と「投井下石」の二項を挙げる。 次に「全武行」——暴力事件を記録。艺華映画公司が「映画界鏟共同志会」に破壊された事件(十一月十三日)。各新聞からの切り抜き:映画館への警告状、良友図書公司の襲撃、中国論壇印刷所の破壊、神州国光社の襲撃。鋼筆版藍色印刷の警告文原文を録す。魯迅を含む「赤色作家」の作品の刊行・発行禁止を要求する内容。この警告により魯迅は筆を置き、十一月七日以降の雑文執筆を中止した。 |
第17節
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杂感 洲
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「雑感」(洲、『中央日報』十月三十一日)——魯迅を村の醜い老女に譬え、一日中人の短所を言いふらすだけで、本当の主張を持たないと批判。 「文壇と擂台」(鳴春、『中央日報』十一月十六日)——魯迅を擂台の覇者に譬え、『阿Q正伝』以後の時間を筆戦に浪費していると批判。シェイクスピア、トルストイ、ゲーテを引き合いに出し、偉大な著作を書くべきだと勧告。 魯迅はこれら二篇について、一人は醜い老女に、一人は偉大な著作を望むが、目的は同じだと評す。「中国の大衆の魂」は今や自分の雑文に映されていると述べる。 続いて『時事新報』の「告密略論」と「暗箭略論」(陳代)を引用。陳代を討伐軍中最も低能と評す。『大晩報』の「銭基博の魯迅論」(戚施)を引用——銭基博が魯迅を右傾と断じたことを「独具隻眼」と評す。 |
第18節
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钱氏之言曰,有摹仿欧文而谥之曰欧化的国语文学者,始倡于浙江周树人之译西洋小说,以顺文直译之为尚,斥意译之不忠实,而摹欧文以国语,比鹦鹉之学舌,托于象胥,斯为作俑。效颦者乃至造述抒志,亦竞欧化,《小说月报》,盛扬其焰。然而诘屈聱牙,过于周诰,学士费解,何论民众?上海曹慕管笑之曰,吾侪生愿读欧文,不愿见此妙文也!比于时装妇人着高底西女式鞋,而跬步倾跌,益增丑态矣!崇效古人,斥曰奴性,摹仿外国,独非奴性耶。反唇之讥,或谑近虐!然始之创白话文以期言文一致,家喻户晓者,不以欧化的国语文学之兴而荒其志耶?斯则矛盾之说,无以自圆者矣,此于鲁迅之直译外国文学,及其文坛之影响,而加以訾謷者也。平心论之,鲁迅之译品,诚有难读之处,直译当否是一问题,欧化的国语文学又是一问题,借曰二者胥有未当,谁尸其咎,亦难言之也。钱先生而谓,鄙言为不然耶?
【鲁迅全集•第八卷】
会稽郡故书杂集
序
谢承会稽先贤传
虞预会稽典录
钟离岫会稽后贤传记
贺氏会稽先贤像赞
朱育会稽土地记
贺循会稽记
孔灵符会稽记
夏侯曾先会稽地志
古小说钩沉
青史子
语林
郭子
笑林
俗说
小说
水饰
列异传
古异传
戴祚甄异传
述异记
荀氏灵鬼志
祖台之志怪
孔氏志怪
神怪录
刘之遴神录
齐谐记
幽明录
谢氏鬼神列传
殖氏志怪记
集灵记
汉武故事
妒记
异闻记
玄中记
陆氏异林
曹毗志怪
郭季产集异记
王浮神异记
续异记
录异传
杂鬼神志怪
详异记
宣验记
冥祥记
旌异记 【第二卷】
【琴赋 有序○《文选》作并序 】
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(前篇の続き)銭基博の魯迅評詳細:魯迅の直訳を「鸚鵡の舌を学ぶが如し」と批判。魯迅の創作を「頽廃にして奮闘に適せず」「過去の回憶のみ」と評す。魯迅を右傾と断じた「独具隻眼」ぶり。 最後に『大美晩報』の「罵人と自供」(王平陵)。聖書のイエスの言葉を引き、魯迅を「己の心を以て人の心を度る」と批判。魯迅は王平陵が映画検査会の委員であることに触れ、「小民の規矩を謹守すべき」と皮肉る。 後記を締めくくり、時が過ぎ事件も忘れ去られるが、雑感を並べれば時事を照らし出すと述べる。「世に英雄なく、遂に竪子をして名を成さしむ」と悲憤。 【魯迅全集・第八巻】 会稽郡故書雑集(序、謝承会稽先賢伝、虞預会稽典録、等) 古小説鉤沈(青史子、語林、郭子、笑林、等三十余種) 【第二巻】 琴の賦(嵆康)——序と本文。音楽の本質、琴の徳を讃える長大な賦。 |
第19節
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惟椅梧之所生兮,托峻岳 《北堂书钞》百九《艺文类聚》四十四引并作岳 之崇冈。披重壤以诞载兮,参辰极而高骧。含 五臣本《文选》作合 天地之醇和兮,吸日月之休光。郁纷纭以独茂兮,飞英蕤于昊苍。夕纳景于虞渊兮,旦晞干 五臣本作榦 于九阳。经千载以待价兮,寂神跱而永康。且其山川形势,则盘纡隐深,磪嵬岑嵓。互 六臣注《文选》作玄 岭岩,岞崿 五臣本作硌 岖崯。丹崖崄巇,青壁万寻。若乃重巇增起,偃蹇云覆。邈隆崇以极壮,崛巍巍 五臣本作嵬嵬 而特秀。蒸灵液以播云,据神渊 五臣本作泉 而吐溜。尔乃颠波奔突,狂赴争流。触岩抵隈,郁怒彪休。汹涌滕 各本作腾,《文选》同 薄,奋沫扬涛。汨澎湃,蟺相纠。放肆大川,济乎中州。安回 《文选》作迴 徐迈,寂尔长浮。淡乎洋洋,萦抱山丘。详观其区土之所产毓,奥宇之所宝殖。珍怪琅玕,瑶瑾翕赩。丛集累积,奂 五臣本作涣 衍于其侧。若乃春兰被其东,沙棠殖 五臣本作植 其西。涓子宅其阳,玉醴涌其前。玄云荫其上,翔鸾集其巅。清露 《文选》李善本作雾 润其肤,惠风流其间。竦肃肃以静谧,密微微其清闲。夫所以经营其左右者,固以自然神丽,而足思愿爱乐矣。于是遁世 五臣本作俗 之士,荣期绮季之俦 黄本、二张本作畴,《文选》及《书钞》二百九引同 ,乃相与登飞梁,越幽壑;援琼枝,陟峻崿;以游乎其下。周旋永望,邈若凌 五臣本作淩 飞。邪睨昆仑,俯瞰海湄。指苍梧之迢递,临回江之威夷。悟时俗之多累,仰箕山之余辉。羡斯岳之弘敞,心慷慨 《文选考异》云当作恺慷,善引《尔雅》恺慷乐也,慷即康字,是其本作恺慷甚明 以忘归。情舒放而远览,接轩辕之遗音。慕老童于 五臣本作隗 隅,钦泰容之高吟。顾兹梧 五臣本作桐 而兴虑,思假物以托心。乃斫 《书钞》二百九引作断 孙枝,准量所任;至人摅思,制为雅琴。乃使离子督墨,匠石奋斤;夔襄荐法,般 《文选》李善本作班 倕骋神。锼会裛厕,朗密调均。华绘雕琢 五臣本作瑑 ,布藻垂文。错以犀象,藉以翠绿。弦以园客之丝,徽以钟山之玉。爰有龙凤之象,古人之形,伯牙挥手,钟期听声。华容灼爚 张燮本作烁,《文选》五臣本及《艺文类聚》四十四引同 ,发采扬明。何其丽也。伶伦比律,田连操张。进御君子,新声嘐 黄本作熮,二张本作憀,《文选》同,程本作嘹,《类聚》引同 亮。何其伟也。及其初调,则角羽俱起,宫徵相证。参发并趣,上下累应。踸踔磥 各本作,惟张溥本作磥,《文选》同 硌,美声将兴。固以和昶而足耽矣。尔乃理正声,奏妙曲;扬白雪 《书钞》作日 ,发清角。纷淋浪以流离,奂 五臣本作涣 淫衍而优渥。粲奕奕而高逝,驰岌岌以相属。沛腾遌而竞趣,翕 晔 五臣本作烨 而繁缛。状若崇山,又象流波。浩兮汤汤,郁兮峨峨 《书钞》两兮字皆作乎 。怫烦冤,纡余婆娑。陵 五臣本作淩 纵播逸,霍濩纷葩。检容授节,应变合度,竞名擅业,安轨徐步。洋洋习习,声烈遐布。含 五臣本《文选》作合 显媚以送终,流 黄本作飘,《文选》同 余响于 黄汪程本作乎,李善本《文选》同二张本与此合 泰索。若乃高轩飞观,广厦闲房,冬夜 《书钞》作夜色 肃清,朗 《书钞》作明 月垂光。新衣翠粲,缨徽流芳。于是器冷 《文选》李善本作泠。《书钞》引同 弦调,心闲手敏。触如志,唯意所拟。初涉渌 五臣本作绿 水,中奏清徵。雅昶唐尧,终咏微子。宽明弘润,优游躇跱。拊 《文选》李善本作持 弦安歌,新声代起。歌曰:凌 五臣本作陵 扶摇兮憩瀛洲,要列子兮为好仇。餐沆瀣兮带朝霞,眇翩翩兮薄天游。齐万物兮超自得,委性命兮任去留。激清响以赴会,何弦歌之绸缪。于是曲引向阑,众音将歇。改韵易调,奇弄乃发。扬和颜,攘皓腕:飞纤指以驰骛,纷 《书钞》讹掍 譶以流漫。或徘徊顾慕,拥郁抑按;盘桓毓养,从容秘玩。闼尔奋逸,风骇云乱,牢落凌厉,布濩半散。丰融披离,斐奂 五臣本作 涣 烂;英声发越,采采粲粲。或间声错糅,状若诡赴;双美并进,骈驰翼驱。初若将乖,后卒同趣。或曲而不屈 张燮本屈下有或字。五臣本《文选》同 ,直而不倨。或相凌而不乱,或相离而不殊。时 张燮本仍作或 劫掎以慷慨,或怨 五臣本作沮 而踌躇。忽飘摇 各本作飘飘。《文选》同 以轻迈,乍留联而扶疏。或参谭繁促,复迭攒仄;从横骆驿,奔遁相逼。拊嗟累赞,间不容息。瑰艳奇伟,殚不可识。若乃闲舒都雅,洪纤有宜。清和条昶,案衍陆离。穆温柔以怡怿,婉顺叙而委蛇。或乘险投会,邀隙趋危。 《文选》作嘤 若离鹍鸣清池,翼若浮 二张本作游,《文选》同 鸿翔层 黄汪二张本作曾,《文选》同,《类聚》作增 崖。纷文斐尾,慊 张燮本作,五臣本《文选》同 离。微风余音,靡靡猗猗。或搂捋 黄汪程本搂并从木,《文选》作栎 ,缥缭潎洌。轻行浮弹,明婳慧 《文选》作惠 。疾 张燮本作集 而不速,留而不滞。翩绵飘邈,微音迅逝。远而听之,若鸾凤和鸣戏云中;迫而察之,若众葩敷荣曜春风。既丰赡以多姿,又善始而令终。嗟姣妙以弘丽,何变态之无穷。若夫三春之初,丽服以时,乃携友生,以遨以嬉。涉兰圃,登重基;背长林,翳华芝;临清流,赋新诗。嘉鱼龙之逸豫,乐百卉之荣滋。理重华之遗操,慨远慕而常 各本作长,《文选》同 思。若乃华堂曲宴,密友近宾,兰肴兼御,旨酒清醇。进南荆,发西秦,绍陵阳,度巴人。变用杂而并起,竦众听而骇神。料殊功而比操,岂笙籥之能伦。若次其曲引所宜,则广陵止息,东武太山;飞龙鹿鸣,鹍鸡游弦。更唱迭奏 《书钞》作和 ,声若自然。流楚窈窕,惩躁雪烦。下逮谣俗,蔡氏五曲。王昭楚妃,千里别鹤。犹 《书钞》百九两引皆作乃 有一切,承间簉乏,亦有可观者焉。然非夫旷远者 《文选考异》云茶陵本无夫字,下非夫至精者同今。案:各本并有惟张燮本放达者上无夫字 ,不能与之嬉游。非夫渊静者,不能与之闲止。非夫 《文选》字无 放达者,不能与之无。非夫 《文选》字无 至精者,不能与之析理也。若论其体势,详其风声;器和故响逸,张急故声清;间辽故音庳 各本作痹,《文选》同。《类聚》作埤 ,弦长故徽鸣。性洁 黄本汪本作絜,《文选》《类聚》同 静以端理,含至德之和平。诚可以感荡心志,而发泄幽 《书钞》作机 情矣。是故怀慼 李善本作戚,《书钞》作感 者闻之,则 黄汪二张本字无,《文选》同 莫不憯懔 《书钞》作慄 惨凄,愀怆伤心。含哀懊咿,不能自禁。其康乐者闻之,则欨愉欢释,抃舞踊溢。留连澜漫,嗢噱 黄本讹 终日。若和平者听之,则怡养悦愉 《文选》作悆,程本作,误 ,淑穆玄真。恬虚乐古,弃事遗身。是以伯夷以之廉,颜回以之仁,比干以之忠,尾生以之信,惠施以之辩给,万石以之讷慎。其余触类而长 五臣本《文选》长下有之字 ,所致非一;同归殊途,或文或质。总 李善本作揔 中和以统物,咸日用而不失。其感人动物,盖亦弘矣。于时也 此三字《书钞》作于是 ,金石寝声,匏竹屏气。王豹辍讴,狄牙丧味。天吴踊跃于重渊,王乔披云而下坠。舞于庭阶,游女飘焉而来萃。感天地以致和,况蚑行之众类。嘉斯器之懿茂,咏兹文以自慰。永服御而不厌,信古今之所贵。乱曰:愔愔琴德不可测兮,体清心远邈难极兮,良质美手遇今世兮,纷纶翕响冠众艺兮。识音者希孰 二张本作谁,五臣本《文选》同 能珍兮,能尽雅琴惟至人兮!
【与山巨源绝交书】 |
嵆康「琴の賦」本文——椅梧の木が峻岳に生じ、天地の精気を含む描写から始まり、山川の壮大な形勢、遁世の士が琴を制作する過程、演奏の妙技と変化、琴音が人の感情に及ぼす影響を詳述。「怀戚の者は之を聞けば憯懔惨凄」「康楽の者は之を聞けば欣愉歓釈」「和平の者は之を聴けば怡養悦愉」。最後に「愔愔たる琴の徳、測るべからず。音を識る者は希なり。能く雅琴を尽くすは惟だ至人のみ」と結ぶ。 (各本の異同注記を含む学術的テキスト。五臣本『文選』、李善本、唐写本、『類聚』、『書鈔』、『晋書』等との校異を詳細に記す。) |
第20節
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康白 二张本无此二字 :足下昔称吾于颍川,吾常 五臣本《文选》作尝 谓之知言。然经怪此意,尚未熟悉于足下,何从便得之也。前年从河东还,显宗阿都说足下议以吾自代,事虽不行,知足下故 五臣本《文选》字无 不知之 《晋书》康传引之下有也字 。足下傍通,多可而少怪。吾直性狭中,多所不堪,偶与足下相知耳。间闻足下迁,惕然不喜。恐足下羞庖人之独割,引尸祝以自助;手荐鸾 五臣本《文选》作銮 刀,谩 各本作漫,《文选》同 之羶腥。故具为足下陈其可否。吾昔读书,得并介之人;或谓无之,今乃信其真有耳。性有所不堪,真不可强。今空语同知有达人而 黄本字无,《文选》同 无所不堪,外不殊俗,而内不失正;与一世同其波流,而悔不生耳。老子庄周,吾之师也,亲居贱职。柳下惠东方朔,达人也,安乎卑位,吾岂敢短之哉。又仲尼兼爱,不羞执鞭;子文无欲卿相,而三登 《晋书》作为 令尹;是乃君子思济物之意也。所谓达 五臣本《文选》达下有人字 则 各本作能,《晋书》《文选》同 兼善而不渝;穷则自得而无闷。以此观之,故 各本故下有知字 尧舜之君 各本作居,《晋书》同 世,许由之岩棲 五臣本《文选》作栖 ,子房之佐汉,接舆之行歌,其揆一也。仰瞻数君,可谓能遂其志者也。故君子百行,殊途而同致。循性而动,各附所安。故有处朝廷而不出,入山林而不返 《文选》作反 之论。且延陵高子臧之风,长卿慕相如之节。志气所托 《晋书》作意气所托,注云一作先,《文选》及《类聚》二十一引与此合 ,亦 各本字无,《文选》同《晋书》有 不可夺也。吾 五臣本《文选》无吾字 每读尚子平台孝威传,慨然慕之,想其为人。加少 各本作少加,《文选》同《晋书》及《御览》四百九十引皆作加少 孤露,母兄见骄 《海录碎事》卷九上引作见。《晋书》作骄恣 ,不涉经学。性复疏懒,筋驽肉缓。头面常一月十五日不洗 《御览》作浣 。不 《御览》作非 大闷痒,不能沐 《御览》作梳 也。每常 《御览》作当 小便而忍不起,令胞中略转乃起耳。又纵逸来久,情意 《御览》作志 傲散,简与礼相背,懒与慢相成。而为侪类见宽,不攻其过。又读庄老 《晋书》作老庄,《御览》同 ,重增其放,故使荣进之心日颓,任实 《晋书》作逸,《类聚》《御览》引皆作实 之情转笃。此犹 各本作由。《文选》《类聚》同 禽鹿少见驯育,则服从教制;长而见羁,则狂顾顿缨,赴蹈汤火。虽饰以金镳 黄本作 ,飨以嘉肴,愈 各本作逾。李善本《文选》同。唐写本《文选集注》残本中存此篇作愈,《类聚》引亦作愈 思长林,而志在丰草也。阮嗣宗口不论人过,吾每师之,而未能及。至性过人,与物无伤,唯饮 《海录碎事》卷七下引无饮字 酒过 《海录碎事》引无过字。唐本《文选》亦无注云。五家本有 差耳。至为礼法之士所绳,疾之如 《晋书》如下有仇字 雠,幸赖大将军保持之耳 唐本《文选》注云:案钞陆善经本无赖字,又无耳字 。吾 李善本《文选》字无 以 各本无以字。五臣本《文选》同。唐本《文选》有 不如嗣宗之贤 《晋书》作资唐本《文选》同。今本亦误贤 ,而有慢驰之阙。又不识人 《晋书》作物 情, 五臣本《文选》作暗 于机宜,无万石之慎,而有好尽之累。久与事接,疵衅日兴。虽欲无患,其可得乎。又人伦有礼 唐本《文选》注云:案钞陆善经本礼为体 ,朝廷有法;自惟 唐本《文选》注云:案钞惟为省 至熟,有必不堪者七,甚不可者二。卧喜 唐本《文选》作憙 晚起,而当关呼之不置;一不堪也。抱琴行吟,弋钓草野,而吏卒守之,不得妄动;二不堪也。危坐一时,痹不得摇,性复多虱 《类聚》作风 ,把搔 《类聚》作搔虱 无已;而当裹以章服 唐本《文选》无而字,注云:案钞章服为服章也 ,揖拜上官;三不堪也。素不便书,又不喜作书 五字原夺,旧校所加《文选考异》云袁本茶陵本无又字,案:旧校殆即据尤袤本加也。六臣注本亦无又字,唐本同。喜作熹,《类聚》引无又字及作字 ,而人间多事,堆 唐本《文选》作推,注云:案钞推为堆也 案盈机 汪程张燮本作几 。不相酬答,则犯教伤义;欲自勉强,则不能之 各本作久。《文选》同《类聚》二十一引作及又五十八引作久堪 。四不堪也。不喜 唐本《文选》作憙 吊丧,而人道以此为重。已为未见,恕者 旧校改皆 所怨,至欲见中伤者。虽惧 各本作瞿,《文选》唐本及五臣本皆作惧。《类聚》同 然自责,然性不可化。欲降心顺俗,则诡故不情,亦终不能获无咎。无誉如此;五不堪也。不喜 唐本《文选》作憙 俗人,而 唐本《文选》注云:案钞而为所 当与之共事。或宾客盈坐,鸣声 原作琴,依各本及《文选》《类聚》改 聒耳。嚣尘臭处,千变百伎 原作万数。依各本及《类聚》改。《文选》五臣本伎为技。唐本《文选》伎为妓 ,在人目前。六不堪也。心不耐烦,而官事鞅掌。万机 《文选》作机务,《类聚》同。唐本作万机,注云:五家本为机务 缠其心,世故烦 尤袤本《文选》作繁,《类聚》同唐本作烦 其虑。七不堪也。又每非汤武,而薄周孔;在人间不止此事,会显世教所不容;此甚不可一也。刚肠嫉恶,轻肆直言,遇事便发;此甚不可二也。以促中小心之性,统此九患;不有外难,当有内病。宁可久处人间邪?又闻道士遗言,饵术黄精,令人久 《类聚》作益 寿。意甚信之。游山泽,观鱼鸟,心甚乐之。一行作吏,此事便废。安能舍 五臣本《文选》作捨 其所乐,而从其所惧哉?夫人之相知,贵识其天性,因而 唐本《文选》字无 济之。禹不迫 黄程二张本作偪,尤袤本文选同汪本作逼《晋书》及唐本《文选》同 伯 唐本《文选》作柏 成子,高全其节 《晋书》作长 也。仲尼不假盖于 唐本《文选》字无 子夏,护其短也。近诸葛孔明,不逼 二张本作迫,《晋书》同。他本皆作偪。尤袤本《文选》同。惟唐本作逼 元直以入蜀,华子鱼不强幼安以卿相,此可谓能相终始,真相知 各本知下有者字,《晋书》及李善本《文选》同。旧校亦加 也。足下见直木 黄汪程本下有必字,五臣本《文选》同 不可 唐本《文选》字无 以为轮,曲木 各本作者,《类聚》及五臣本《文选》同。者下亦有必字,李善本无 不可 唐本《文选》字无 以为桷;盖不欲 二张本欲下有以字,《类聚》及《文选》同 枉其天才,令得其所也。故四民有业,各以得 五臣本《文选》得下有其字 志为乐。唯达者为能通之。此似 各本字无。李善本《文选》同。唐本作以。注云:陆善经本似下有在字,则本为似传写讹也。五臣本亦有 足下度内耳。不可自见好章甫,强越人以文冕也。自以 二字各本作已。李善本《文选》同。唐本五臣本作自以 嗜臭腐,养鸳以死鼠也。吾顷 唐本《文选》注云:案钞顷为比 学养生之术,方外荣华,去滋味,游 唐本《文选》作逝 心于寂寞 张燮本作漠,《文选》同 ,以无为为贵。纵无九患,尚不顾足下所好者;又有心闷疾,顷转增笃。私意自试,必 各本字无。李善本《文选》同。五臣及唐本有 不能堪其 唐本《文选》字无注云。五家本堪下有甚字 所不乐,自卜已审。若道尽途穷 《晋书》作殚 ,斯 《晋书》《文选》作则 已耳。足下无事冤之,令转于沟壑也 唐本《文选》字无注云:案钞转下有死字 。吾新失母兄之欢,意常冤 各本作凄,《晋书》及《文选》同 切。女年十三,男儿 各本作年,《晋书》及《文选》同。惟唐本与此合 八岁,未及成人;况复多病 《晋书》作疾 。顾此悢悢,如何可言。今但愿 《晋书》作欲 守陋巷,教养 《类聚》字无 子孙 旧校灭此字各本及《晋书》《文选》并有 ,时 五臣本《文选》重有时字 与亲旧叙离 黄汪程本字无,《类聚》同,《晋书》及五臣本《文选》有 阔,陈说平生。浊酒一杯 《文选》作盃 ,弹琴一曲,志愿 《晋书》作意 毕矣。足下若嬲之不置,不过欲为官得人,以益时用耳。足下旧知吾潦倒粗疏,不切事情,自惟亦皆不如今日之贤能也。若以俗人皆喜 唐本《文选》作熹 荣华,独能离之以 各本以下有此字,《文选》同 为快,此最近之可得 五臣本《文选》得下有而字 言耳 唐本《文选》注云:案钞耳为尔 ,然后 唐本《文选》字无,注云:五家本有 使长才广度,无所不淹,而能不营,乃可贵耳。若吾多病,因 《文选》作困 欲离事自全,以保余年,此真所乏耳;岂可见黄门而称 唐本《文选》作偁 贞哉。若趣欲共登王途,期于相致,共 《晋书》作时《文选》同 为欢 张燮本作懽,李善本《文选》同 益,一旦迫之,必发 各本发下有其字,唐本《文选》亦有,《晋书》无 狂疾。自非重怨 《晋书》作仇 ,不至 《文选》至下有于字,《晋书》无 此也。野人有快炙背 各本背下有而字,唐本《文选》无 美芹子者,欲献之至尊,虽有区区之意,亦已疏矣。愿足下勿似之。其意如此,既以解足下,并以为别。嵇康白。
【与吕长悌绝交书】
【第六卷】
【释张溥本作无私论】 |
嵆康「山巨源に与うる絶交書」——山濤(巨源)が嵆康を自分の後任に推薦しようとしたことへの拒絶の手紙。「足下は吾を知ると称したが、なぜそれが可能なのか」と問う。老子・荘周を師とし、柳下恵・東方朔の達人ぶりを引き、志の異なる者は強いるべきでないと説く。自ら「必ず堪えざる者七つ、甚だ可ならざる者二つ」を挙げる:晩起きを好む、琴を抱き行吟す、危坐に堪えず、書を作るを喜ばず、弔喪を嫌う、俗人を嫌う、官事に堪えず。阮嗣宗の清廉さに及ばぬ自己を認め、官界との絶縁を宣言する。 (各本の校異注記を含む。五臣本『文選』、李善本、唐本、『晋書』、『類聚』、『御覧』、『海録碎事』等との異同。) 【魯迅全集・第十五巻】 近代美術史潮論(序言、一~八章の目次) |
第21節
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夫 原钞字无。据各本及《晋书》本传引加 称君子者:心无 《晋书》作不 措 原钞作惜。据各本及《晋书》改。下诸措字放此 乎是非,而行不违乎 原钞字无。据各本加。《晋书》引亦有 道者也。何以言之?夫气静神虚者,心不存乎 各本作于。《晋书》同 矜尚;体亮心达者,情不系于所欲。矜尚不存乎心,故能越名教而任自然;情不系于所欲,故能审贵贱而通物情。物情顺通,故大道无违;越名任心,故是非无措也。是故言君子,则以无措为主 张燮本作衷 ,以通物为美。言小人,则以匿情为非,以违道为阙。何者?匿情矜,小人之至恶;虚心无措,君子之笃行也。是以大道言,及吾无身。吾有 各本作又 何患,无以 当作以无 生为贵者,是贤于贵者 各本讹生。旧校亦改 也。由斯而言:夫至人之用心,固不存于 黄本字无 有措矣。是故伊尹不惜 各本讹借。旧校亦改 贤于殷汤,故世济而名显。周旦不顾嫌 各本讹贤 而隐行,故假摄而化隆。夷吾不匿善 各本作情 于齐桓,故国霸而主尊。其用心,岂为身而系乎私哉?故管子 《晋书》无此二字 曰:君子行其 各本字无,《晋书》同 道,忘其为身。斯言是矣。君子之行贤也,不察于有庆 各本作度,《晋书》同。后诸庆字放此 而后行也。任 各本讹仁 心无穷 各本作邪。《晋书》同 ,不识 各本作议,《晋书》同 于善而后正也。显情无措,不论于是而后为也。是故傲然忘贤,而贤与庆会;忽然任心,而心与善遇;傥然无措,而事与是俱也。故论公私者,虽云 各本云下有一作终于事与是俱而已十字。案:当是注文在前而事与是俱也句下 志道存善,心 黄汪张燮本字阙,张溥本作内,程本作而 无凶邪,无所怀而不匿者,不可谓无私。虽欲之伐善,情之违道,无所抱而不显者,不可谓不公。今执必公之理,以绳不公之情,使夫虽性 各本作为 善者,不 原钞字夺。据各本及旧校加 离于有私;虽欲之伐善,不陷于不公,重其名而贵其心,则是非之情,不得不显矣。夫是非必显,有善者无匿情之不是,有非者不加不公之大非,无不是则善莫不得,无大非则莫过其非,乃所以救其非也。非徒尽善,亦所以厉不善也。夫善以尽善,非以救非;而况乎以是非之至者。故善之与不善,物之至者也。若处二物之间,所往者,必以公成而私败。同用一器,而有成有败。夫公私者,成败之途,而吉凶之门也 各本作乎 。故物至而不移者寡,不至而在用者众。若质乎中人之体 各本作性 ,运乎在用之质,而栖心古烈,拟足公途;值心而言,则言无不是;触情而行,则事无不吉。于是乎同 疑当作情 之所措者,乃非所措也。欲 各本讹俗 之所私者,乃非所私也。言不计乎得失而遇善,行不准乎是非而遇吉,岂公成私败之数乎?夫如是也,又何措之有哉?故里凫显盗,晋文恺悌,勃 程本讹功 鞮号罪,忠立身存;缪贤吐衅,言纳名称;渐离告诚,一堂流涕;然斯数子,皆以投命之祸,临不测之机,表露心识,犹 各本讹独 以安全;况乎君子无彼人之罪,而有其善乎?措善之情,亦甚其所病也 各本亦甚二字夺。旧校乙甚字于所字下,非 。唯病病,是以不病;病而能疗,亦贤于病 各本讹疗 矣。然事亦有似非而非非,类是而非是者;不可不察也。故变通之机,或有矜以至让,贪以致廉,愚以成智,忍以济仁;然矜吝之时,不可谓无廉;猜 各本作情。注云一作猜 忍之形,不可谓无仁;此似非而非非者也。或谗言似信 四字原钞夺。据各本及旧校加 ,不可谓有诚;激盗似忠,不可谓无私;此类是而非是也。故乃论其用心,定其所趣,执其辞以 各本作而 准其理 各本讹礼 ,察其情以寻其变;肆乎所始,名其所终;则夫行私之情,不得因乎似非而容其非;淑亮之心,不得蹈乎似是而负其是。故实是以暂非而后显,实非以暂是而后明。公私交显,则行私者无所冀,而淑亮者无所负矣。行私者无所冀,则思改其非;立公 原钞讹功。各本同,依旧校改 者无所忌,则行之无疑;此大治之道也。故主妾覆醴,以罪受戮;王陵庭争,而陈平顺旨。于是观之:非似非非 案:非下当更有一非字 者乎?明君子之笃行,显公私之所在,阖堂盈阶,莫不寓目,而曰:善人也。然背颜退讥 各本字无 议而含 原钞作舍。依各本改 私者,不复 各本复下有同字 耳。抱至 程本作怨。张溥本作隐。他本俱空阙 而匿情不改也 各本字无 者,诚 原作议。据各本及旧校改 神以丧于所感 各本作惑 ,而体以溺于常名。心已 各本作以 制于所慑,而情有所系 各本作情有系于所欲。旧校同。案:疑当作情有□□所系。原钞于有下夺二字 。容管颙缵 四字当误。各本俱无,旧校亦删 ,咸自以为有是,而莫贤乎己。未有攻肌 各本作功期 之惨,骇心之祸,遂莫能收情以自反,弃名以任实。乃心有是焉,匿之以私;志有善焉,措之为恶,不措所措,而措所不措。不求所以不措之理,而求所以为措之道;故明 各本讹时 为措,而暗于措,是以不措为拙,以致 各本二字夺 措为工。唯惧隐之不微,唯患匿之不密;故有矜忤之容,以观常人;矫饰之言,以要俗誉。谓永年良规,莫盛于兹;终日驰思,莫窥其外;故能成其私之体,而丧其自然之质也。于是隐匿之情,必存乎心;伪怠之机,必形乎事。若是,则是非之议既明,赏罚之实又笃;不知冒阴 各本作廕 之可以无景,而患景之不匿。不知无措 《类聚》二十二引作惜。与原钞合,《御览》四百二十九引作情 之可以无患,而恨措 《类聚》引作惜。《御览》仍作情 之不以 《类聚》作巧。张燮本同 ,岂不哀哉!是以申侯苟顺,取弃楚恭 各本讹泰 ;宰嚭耽私,卒享其祸。由是言之,未有抱隐 各本作伪,《类聚》《御览》同 顾私 二字原钞无。据各本及旧校补,《御览》亦无。《类聚》作怀奸。张燮本同 ,而身立清世;匿非 二字《御览》引无 藏情,而信著明名 张燮本作君 者也。是以 各本二字夺 君子既有其质,又睹其鉴;贵夫亮达,布 《类聚》《御览》作希 而存之,恶夫矜吝,弃而远 《御览》作违 之。所措一非,而内愧乎神;贱隐一阙,而外惭其形。言无苟讳,而行无 《御览》作不 苟隐。不以爱之而苟善,不以恶之而苟非。心无所矜,而情无所系,体清神正 《御览》作立 ,而是非允当。忠感明 《类聚》明下有于字,二张本同。《御览》无。案:明即于之讹衍 天子,而信笃乎万民。寄胸怀于八荒,垂坦荡以永日。斯非贤人君子,高行之美异 黄汪程张溥本讹冀。《御览》字无 者乎?或问曰:第五伦有私乎哉?曰:昔吾兄子有疾,吾一夕十往省而反,必 各本字夺 寐。自 各本自下有安字 吾子有疾,终朝不往视,而通夜不得眠。若是可谓私乎?非私也?答曰:是非 程本作公,误 也,非私也。夫私以不言为名,公以尽言为称,善以无 各本作名 为体,非以有措为负。今第五 各本第五下有伦字。后放此 显情,是非 案:非字当衍 无私也;矜往不眠,是有非也。无私而有非者,无措之志也。夫言无措者,不齐于必 原作不,据各本改 尽也;言多吝者,不具于不言而已也 各本字无 。故多吝有非,无措有是。然无措之所以有是,以志无所尚,心无所欲,达乎大道之情,动以自然,则无道以至非也。抱一而无措,则无私。无非兼有二 程本讹三 义,乃为绝美耳。若非而能言者,是贤于不言之私,非无情以非之大者也。今第五有非而能显,不可谓不公也。所显是非,不可谓有措也。有非而谓私,不可谓不惑;公私之理也。
【管蔡论】
【明胆论】
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一 漫画に対する蒙昧について/二 漫画式の表現/三 芸術史上の漫画/四 現代の漫画/五 漫画の鑑賞 現代文学の主潮(一~二) 芸術から社会改造へ(モリスの日本における位置、象牙の塔を離れるまで、社会観と芸術観、詩人としてのモリス、研究書目)/後記 思想・山水・人物(題記、序言、断想一~二十七、専門以外の仕事一~十一、徒然の篤学、人生の転向、自以為是一~八、書斎生活とその危険一~三、読書の方法一~十、事務処理法、訪問の心一~十、指導的地位の自然化一~六、読む文章と聴く文字一~三、所謂懐疑主義者一~三、閑談、善政と悪政、幽黙について一~九、自由主義について一~十一、旧遊の地一~七、北京の魅力一~六、旅行について一~四、ニューヨークの美術村) 【魯迅全集・第十五巻】近代美術史潮論(序言、一 民族と芸術意欲、二 フランス大革命直前の美術界、三 古典主義の主導的作家、四 ロマンティーク思潮と絵画) |
第22節
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“夫论理情性 各本作性情 ,折 程本作析 引异同,固当 各本字夺 寻所受之终始,推气分之所由。顺端极末,乃不悖耳。今子欲弃置浑元,捃摭所见,此为好理纲 案:当作网。旧校改节,非 目,而恶持纲领也。本论二气不同,明不生胆,欲极论之,当令一人播无刺讽 二字依旧校。各本同 之胆,而有见事之明。故当有不果之害。非中人血气,无之而复,资之以明,二气存一体,则明能运胆,贾谊是也。贾谊明胆,自足相经,故能济事。谁言殊无胆,独任明以行事者乎?子独自作此言,以合其论也。忌暗惑,明所不周,何害于胆乎 各本乎下有明字。旧校亦加 ?既已 各本作以 见物,胆能行之耳。明所不见,胆当何断?进退相扶,何谓盈缩?就如此言,贾生陈策,明所见也;忌作赋,暗所惑也。尔为明彻于前,而暗惑于后?明 各本字夺。旧校亦删 有盈缩也;苟明有进退,胆亦何为不可偏乎?子 黄本讹孑 然霍光有沉勇,而战于废王,此勇 各本二字夺 有所挠也。而子言一人胆,岂有盈缩,此则是也。贾生暗,明有所塞也。光惧废立,勇有所挠也。夫唯至明能无所惑,至胆 已上七字各本夺 能无所亏尔 各本作耳 。自非若此,谁无弊损乎?但当总有无之大略,而致论之耳。夫物以实见为主,延年奋发,勇义凌云,此则胆也。而云夙无武称,此为信宿称而疑成事也。延年处议,明所见也。壮气腾厉,勇之决也。此足以观矣。又子言 各本作子又曰 :明无胆 各本重有无胆二字 能偏守。案子之言,此则有专胆之人,亦为胆,特自一气明 各本字无 矣。夫 各本字无 五才存体,各有所生。明以阳曜,胆以阴凝。岂可谓有阳而生阴,可无阳邪?虽相须以合德,要自异气也。凡余杂说,于期陵母暴虎云云,万言一致 各本作致一 ,欲以何明邪?幸更详思,不为辞费而已 各本有矣字 。” 【第七卷】
【自然好学论张叔辽作 附 此四字原钞灭尽。今从旧校。各本张辽叔在自字上。无作字 】
【难自然好学论】
【第十卷】
【太师箴】
【家诫】 |
五 写実主義の系統と新ロマンティーク/六 印象主義とその周辺/七 新印象主義と後期印象主義/八 世紀末芸術と表現主義 壁下訳叢(前記) イリイン著『十万はなぜ』(抄訳) チェホフ短篇集(前記、序、苦悩、ネヴァスタ) ルナチャルスキー著『芸術論』(前記) ゴーリキー著『ロシアの昔話』(前記) バーデリ著『女の決闘』(前記、附記) |
第23節
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人无志,非人也。但君子用心,所 《类聚》二十三引作有所 欲准行。自当量其善者,必拟议而后动。若志 《类聚》作心 之所之,则口与心誓,守死无贰 各本作二 。耻躬不逮,期于必济。若心疲体解 张燮本作懈 ,或牵于外物,或累于内欲;不堪近患,不忍小情,则议于去就。议于去就,则二心交争。二心交争,则向所以 各本字无 见役之情胜矣。或有中道而废,或有不 《类聚》作未 成一匮 《类聚》二字无 而败之 张燮本字无,《类聚》同 。以之守则不固,以之攻则怯弱。与之誓则多违,与之谋则善泄。临乐则肆情,处逸则极意。故虽荣华熠耀 张燮本作熠。《类聚》同 ,无结秀之勋;终年之勤,无一旦之功。斯君子所以叹息也。若夫申胥之长吟,夷叔 各本作齐。旧校同。《类聚》与此合 之全洁,展季之执信,苏武之守节;可谓固矣。故以无心守之,安而体之,若自然也。乃是守志之盛者 各本者下有可字,盖衍,《类聚》引无 耳 《类聚》作也 。所居长吏,但宜敬之而已矣;不当极亲密,不宜数往;往 旧校作来意改 当有时。其有 各本字夺 众人,又不当独在后 各本六字夺。旧校亦删 ,又不当宿 各本宿下有留字。旧校亦加 。所以然者,长吏喜问外事,或时发举,则怨 各本怨下有或字,盖衍,旧校亦加 者谓人所说,无以自免也。若行寡言,慎备自守,则怨责之路解矣。其立身当清远。若有烦辱,欲人之尽命 已上十七字原钞夺。据各本及旧校加 ,托人之请求;则当谦言 各本字无 辞 黄汪张燮本辞下空一字。程本作揖。张溥本作逊 谢。其素不豫此辈事,当相亮耳。若有怨急,心所不忍,可外违拒,密为济之。所以然者,上远宜适之几;中绝常人淫辈之求,下全束修无累 各本作玷 之称;此又秉志之一隅也。凡行事先自审其可:若 各本作不差二字 于宜,宜行此事,而人欲易之,当说宜易之理。若使彼语殊佳者,勿羞折遂非也。若其理不足,而更以情求来守。人虽复云云,当坚执所守;此又秉志之一隅也。不须行小小束修之意气,若见穷乏,而有可以赈济者,便见义而作。若人从我有所求欲者,先自思省:若有所损废多,于今日所济之义少,则当权其轻重而距 各本作拒 之。虽复守辱不已,犹当绝之。然大率人之告求,皆彼无我有。故来求我,此为与之多也。自不如此,而为轻竭。不忍面言,强副小情。未为有志也。夫言语,君子之机,机动物应;则是非之形著矣。故不可不慎。若于意不善了,而本意欲言,则当惧有不了之失。且权忍之。已 各本字无 后视向不言此事,无他不可,则向言或有不可;然则能不言,全得其可矣。且俗人传吉迟,传 三字原夺。据各本及旧校加 凶疾,又好议人之过阙,此常人之议也。坐中 各本作言 所言,自非高议。但是动静消息,小小异同,但当高视,不足和答也。非义不言,详静敬道,岂非寡悔之谓?人有相与变争,未知得失所在,慎勿豫之 各本豫作预。无之字 也。且默以观之,其是 各本字夺 非行自可见。或有小是不足是,小非不足非;至竟可不言以待之。就有人问者,犹当辞以不解。近论议亦然。若会酒坐,见人争语,其形势似欲转盛,便当无何 二字各本作亟。《御览》四百九十六引无 舍去之 《御览》字无 。此将 《御览》字无 斗之兆也。坐视必见曲直,傥 各本作党 不能不有言,有言必是在一人;其不是者,方自谓为直,则谓曲我者有私于彼,便怨恶之情生矣;或便获悖辱之言。正坐视之,大 疑当作失 见是非,而争不了,则仁而无武,二 各本作于 义无可,故 黄汪二张本字无 当远之也。然大都 黄汪程张溥本二字到 争讼者,小人耳。正复有是非,共济汗漫,虽胜何足称哉?就不得远,取醉为佳。若意中偶有所讳,而彼必欲知者,若守 各本守下有大字 不已,或劫以鄙情,不可惮此小辈,而为所搀 黄本作挽 。引以尽其言。今正坚语,不知不识,方为有志耳。自非知旧邻比,庶几以下,欲请呼者,当辞以他故,勿往也。外荣华则少欲,自非至急,终无求欲;上美也。不须作小小卑恭,当大谦裕;不须作小小廉耻,当全大让。若临朝让官,临义让生,若孔文举求代兄死,此忠臣烈士之节。凡人自有公私;慎勿强知人知。彼知我知之,则有忌于我。今知而不言,则便是不道义正之。何者?君子不容伪薄之言故也。及 各本字无 一旦事败,便言某甲昔知吾事,是 黄汪二张本字夺 以宜备之深也。凡人私语,无所不有,宜预以为意,见之而走 各本走下有者何哉三字。旧校亦加 。或偶知其私事,与同则不可,不同则彼恐事泄,思害人以灭迹也。非意所钦重者,而来戏调蚩笑友 各本字无 人之阙者,但莫应,从小共转至于不共;亦勿大求 各本作冰 矜趋,以不言答之。势不得久 黄汪本讹人 ,行自止也,自非 各本非下有所字 监临相与,无他宜适。有壶榼之意,束修之好,此人道所通,不须逆也。过此以往,自非通穆。匹帛之馈,车服之赠,当深绝之。何者?人皆薄义而重利,今以自竭者,必有为而作,损 各本作鬻 货徼欢,施而求报,其俗人之所甘愿,而君子之所大恶也 此下黄二张本空七字。汪程本空十三字 。又慎 各本讹愦 不须离楼 各本讹搂 ,强劝人酒。不饮自已;若人来劝已辄当为持之,勿稍 各本作诮下,又有勿字 逆也。见醉熏熏 各本作薰薰 便止,慎不当至困醉,不能自裁也。
【嵇康集跋】
【乾隆戊子冬日得于吴门汪伯子家。张燕昌。】
【跋】
【嵇康集逸文考】
【嵇康集著录考】
|
パンテレイモン・ロマノフ短篇集(前記、裁判所にて、三対の絹靴下、消化不良、善良なる獣) アンドレーエフ短篇集(前記、書架、沈黙) 大鴉(前記) ファジェーエフ著『壊滅』(前記、一~十七章、附記) ゴーリキー著『裁判』(前記)、同『ロシア寓話』一~九、同『人を作ること』 ルナチャルスキー著『解放されたドン・キホーテ』(前記、序文代り、人物表、第一幕~第四幕) |
第24節
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|---|---|
|
《四库全书总目》:《嵇中散集》十卷 两江总督采进本 。旧本题晋嵇康撰。案:康为司马昭所害,时当涂之祚未终,则康当为魏人,不当为晋人,《晋书》立传,实房乔等之舛误。本集因而题之,非也。《隋书·经籍志》载康文集十五卷。新旧《唐书》并同。郑樵《通志略》所载卷数,尚合。至陈振孙《书录解题》,则已作十卷。且称康所作文论,六七万言。其存于世者,仅如此。则宋时已无全本矣。疑郑樵所载亦因仍旧史之文,未必真见十五卷之本也。王楙《野客丛书》 见卷八 注云:嵇康传曰,康喜谈名理,能属文,撰《高士传赞》,作《太师箴》,《声无哀乐论》,余 明刻本《野客丛书》作仆 得毘陵贺方回家所藏缮写《嵇康集》十卷,有诗六十八首,今《文选》所载 有康诗二字 ,才三数首。《选》惟载康《与山巨源绝交书》一首,不知又有《与吕长悌绝交》一书。《选》惟载《养生论》一篇,不知又有《与向子期论养生难答》一篇,四千余言,辨论甚悉。《集》又有《宅无吉凶摄生论难》上、中、下三篇,《难张辽》 辽下尚有一字已泐 。《自然好学论》一首,《管蔡论》、《释私论》、《明胆论》等文。其词旨玄远,率根于理,读之可想见当时之风致。 文下有此十九字 ,《崇文总目》谓:《嵇康集》十卷,正此本尔。唐《艺文志》谓:《嵇康集》十五卷,不知五卷谓何?观楙所言,则樵之妄载,确矣。此本凡诗四十七篇,赋一篇,杂著二篇,论九篇,箴一篇,家诫一篇,而杂著中《嵇荀录》一篇,有录无书,实共诗文六十二篇。又非宋本之旧,盖明乙酉吴县黄省曾所重辑也。杨慎《丹铅总录》尝辨阮籍卒于康后,而世传籍碑为康作,此本不载此碑,则其考核犹为精审矣。
【鲁迅全集•第十二卷】
一个青年的梦
与支那未知的友人
自 序
一个青年的梦(四幕)
序 幕
第一幕
第二幕
第三幕
第四幕 (戏棚。)
后记
爱罗先珂童话集
序
狭的笼
一
二
三
四
鱼的悲哀
一
二
三
四
五
池边
雕的心
一
二
三
四
五
春夜的梦
一
二
三
四
五
古怪的猫
两个小小的死
一
二
三
四
为人类
序
一
二
三
四
五
六
世界的火灾
一
二
三
爱字的疮
一
二
三
小鸡的悲剧
一
二
三
红的花
第一部曲
第二部曲
第三部曲
结末
时光老人
一
二
三
四
忆爱罗先珂华希理君 〔附〕
桃色的云
序
读了童话剧“桃色的云”
桃色的云(三幕)
第一幕
第一节
第二节
第三节
第四节
第五节
第六节
第七节
第八节
第九节
第二幕
第一节
第二节
第三节
第四节
第五节
第六节
第七节
第八节
第三幕
第一节
第二节
第三节
第五节
第六节
记剧中人物的译名 【序】
【鲁迅全集•第十三卷】
苦闷的象征
引言
第一 创作论
一 两种力
二 创造生活的欲求
三 强制压抑之力
四 精神分析学
五 人间苦与文艺
六 苦闷的象征
第二 鉴赏论
一 生命的共感
二 自己发见的欢喜
三 悲剧的净化作用
四 有限中的无限
五 文艺鉴赏的四阶段
六 共鸣底创作
第三 关于文艺的根本问题的考察
一 为豫言者的诗人
二 理想主义与现实主义
三 短篇项链
四 白日的梦
五 文艺与道德
六 酒与女人与歌
第四 文学的起源
一 祈祷与劳动
二 原人的梦
后记
附录
项链 法国 摩泊桑 著 常惠 译
出了象牙之塔
题卷端
出了象牙之塔
一 自己表现
二 Essay
三 Essay与新闻杂志
四 缺陷之美
五 诗人勃朗宁
六 近代的文艺
七 聪明人
八 呆子
九 现今的日本
十 俄罗斯
十一 村绅的日本呀
十二 生命力
十三 思想生活
十四 改造与国民性
十五 诗三篇
十六 尚早论
观照享乐的生活
一 社会新闻
二 观照云者
三 享乐主义
四 人生的享乐
五 艺术生活
从灵向肉和从肉向灵
一
二
三
四
五
艺术的表现
游戏论
一
二
三
描写劳动问题的文学
一 问题文艺
二 英吉利文学
三 近代文学,特是小说
四 描写同盟罢工的戏曲
为艺术的漫画 |
(前篇の続き)第二幕第七場~第十場、第三幕、第四幕 附記 死せる魂(前記、第一章~第十一章、附章) プレハーノフ著『芸術論』(前記、第一~第三書簡、附記) 同『無地址の手紙』(第一~第四書簡、附記) ヤコブレフ著『十月』(前記) ルナチャルスキー著『文芸と批評』(前記、一~四、附記) |
第25節
| 中文 | 日本語 |
|---|---|
|
一 对于艺术的蒙昧
二 漫画式的表现
三 艺术史上的漫画
四 现代的漫画
五 漫画的鉴赏
现代文学之主潮
一
二
从艺术到社会改造
一 摩理思之在日本
二 迄于离了象牙之塔
三 社会观与艺术观
四 为诗人的摩理思
五 研究书目
后记
思想·山水·人物
题记
序言
断想
一 落日
二 毕德
三 麦唐纳
四 迪式来黎
五 费厄泼赖
六 有幸的国度
七 古今千年
八 威尔逊之死
九 他的随笔
十 政治和幽默
十一 大亚美利加人历
十二 亚诺德
十三 穆来
十四 爽朗的南人
十五 他的女性观
十六 培约德论
十七 新时代的开幕
十八 拉孚烈德
十九 使英国伟大的力
二十 女王的盛世
二一 菲宾协会生
二二 惠勃
二三 萧
二四 威尔士
二五 吃着烙鸡子
二六 滔纳
二七 政治是从利权到服务
专门以外的工作
一
二
三
四
五
六
七
八
九
十
十一
徒然的笃学
一
二
人生的转向
自以为是
一
二
三
四
五
六
七
八
书斋生活与其危险
一
二
三
读书的方法
一
二
三
四
五
六
七
八
九
十
论办事法
往访的心
一 旅行上
二 旅行下
三 旅行的收获
四 达庚敦
五 拿破仑的房屋
六 威尔逊的秘书
七 雨的亚德兰多
八 拉孚烈德
九 新渡户先生上
十 新渡户先生下
指导底地位的自然化
一
二
三
四
五
六
读的文章和听的文字
一
二
三
所谓怀疑主义者
一
二
三
闲谈
善政和恶政
说幽默
一
二
三
四
五
六
七
八
九
说自由主义
一
二
三
四
五
六
七
八
九
十
十一
旧游之地
一 爱德华七世街上
二 爱德华七世街下
三 凯存街的老屋
四 蒙契且罗的山庄
五 司坦敦的二楼
六 滑铁卢的狮子
七 兑勒孚德的立像
北京的魅力
一 暴露在五百年的风雨中
二 皇宫的黄瓦在青天下
三 驴儿摇着长耳朵
四 到死为止在北京
五 骆驼好象贵族
六 珠帘后流光的眸子
说旅行
一
二
三
四
纽约的美术村 【鲁迅全集•第十五卷】
近代美术史潮论
序言
一 民族与艺术意欲
一
二
三
二 法兰西大革命直前的美术界
三 古典主义的主导作家
a 大辟特的生涯与其事业
b 凯思典斯的生涯及其历史底使命
四 罗曼谛克思潮和绘画
a 藉里珂和陀拉克罗亚
b 德意志罗曼谛克和珂内留斯
c 异乡情调和故事
五 历史底兴味和艺术
a 历史画家
b 艺术上的新机运和雕刻
c 历史趣味和建筑
六 从罗曼谛克到印象派的风景画
a 风景画的理想化
b 穆纳和印象派
七 写实主义与平民趣味
a 果尔培和赉不勒
b 都人所画的风俗画和村人所画的风俗画
c 凯尔波和绵尼
八 理想主义与形式主义
a 罗丹的巴尔札克和克林该尔的贝多芬
b 沙樊和玛来斯
c 迈约尔和希勒兑勃兰特
九 最近的主导倾向
a 法兰西
b 北方系统的先驱者和德意志
c 意太利和俄罗斯
艺术论
小序
原序
一 艺术与社会主义
二 艺术与产业
三 艺术与阶级
四 美及其种类
一
二
五 艺术与生活
一
二
附
美学是什么? 【鲁迅全集•第十六卷】
壁下译丛
小引
思索的惰性 片山孤村
自然主义的理论及技巧 片山孤村
表现主义 片山孤村
小说的浏览和选择 拉斐勒·开培尔
上
下
东西之自然诗观 厨川白村
一
二
三
四
五
西班牙剧坛的将星 厨川白村
一 罗曼底
二 西班牙剧
三 培那文德
四 戏曲二篇
从浅草来 岛崎藤村
在卢梭“自白”中所发见的自己
青年的书
新生
密莱的话
单纯的心
一日
可怜者
言语
专门家
泪与汗
伊孛生的足迹
批评
秋之歌
Life
生活
爱憎
生的跳跃
历史
爱
思想
社会
静物的世界
自由
河
虚伪的快感
东坡的晚年
人生的精髓
生艺术的胎 有岛武郎
卢勃克和伊里纳的后来 有岛武郎
伊孛生的工作态度 有岛武郎
关于艺术的感想 有岛武郎
宣言一篇 有岛武郎
以生命写成的文章 有岛武郎
凡有艺术品 武者小路实笃
在一切艺术 武者小路实笃
文学者的一生 武者小路实笃
一
二
论诗 武者小路实笃
新时代与文艺 金子筑水
第一
第二
北欧文学的原理 片上伸
阶级艺术的问题 片上伸
一
二
三
四
五
六
七
八
“否定”的文学 片上伸
一
二
三
四
五
艺术的革命与革命的艺术 青野季吉
一
二
三
四
五
关于知识阶级 青野季吉
现代文学的十大缺陷 青野季吉
最近的戈理基 昇曙梦
一
二
三
四
五
六
七
八
九
十
译丛补
一篇很短的传奇 俄国 迦尔洵
罗曼罗兰的真勇主义 日本 中泽临川,生田长江
一 罗曼罗兰这人
二 “培多芬”
三 真实与爱
四 战斗的福音
五 “约翰克里斯托夫”
六 永久地战斗的自由意志
小儿的睡相 日本 有岛武郎
巴什庚之死 俄国 阿尔志跋绥夫
运用口语的填词 日本 铃木虎雄
更漏子 唐 温庭筠
卜算子 黄庭坚
少年心
沁园春
红窗迥 周邦彦
玉抱肚 杨旡咎
信州杂记 苏联 毕勒涅克
苏维埃联邦从Maxim Gorky期待着什么?
贵家妇女 苏联 淑雪兼珂
捕狮 法国 腓立普
食人人种的话 法国 腓立普
关于绥蒙诺夫及其代表作“饥饿”日本 黑田辰男
一
二
三
农夫 苏联 雅各武莱夫
坦波林之歌 日本 蕗谷虹儿
跳蚤 法国 亚波里耐尔
LEOV TOLSTOI 俄国 Lvov-Rogachevski
LEOV TOLSTOI
“雄鸡和杂馔”抄 法国 J.Cocteau
一九二八年世界文艺界概观 日本 千叶龟雄
一 南欧·法兰西
二 德意志·奥大利
三 北欧诸国
四 英吉利·亚美利加
新时代的豫感 日本 片上伸
一
二
三
四
五
波兰姑娘 苏联 淑雪兼珂
爱尔兰文学之回顾 日本 野口米次郎
表现主义的诸相 日本 山岸光宣
一
二
三
四
五
人性的天才——迦尔洵 俄国Lvov–Rogachevski作
VI.G.理定自传
青湖记游(遗稿) 俄国 尼古拉·确木努易
恶魔 苏联 高尔基
契诃夫与新文艺 俄国 Lvov–Rogachevski
艺术与哲学·伦理 日本 本庄可宗
序论
一 观念的整顿
二 思惟的堕落
三 艺术与哲学的关系
无产阶级革命文学论 匈牙利 Gábor Andor
中国起了火 奥国 翰斯·迈伊尔
一
二
苏联文学理论及文学批评的现状 日本 上田进
一
二
三
四
五
六
七
八
鼻子 俄国 果戈理
一
二
三
果戈理私观 日本 立野信之
艺术都会的巴黎 德国 G·格罗斯
饥馑(“某市的历史之一”) 俄国 萨尔蒂珂夫
描写自己 法国 纪德 |
(第637節と内容重複するため、同一の目次構成を維持) 一 漫画に対する蒙昧について/二 漫画式の表現/三 芸術史上の漫画/四 現代の漫画/五 漫画の鑑賞 現代文学の主潮(一~二) 芸術から社会改造へ(一~五)、後記 思想・山水・人物(全目次) 【魯迅全集・第十五巻】近代美術史潮論(序言、一~四章) |
第26節
| 中文 | 日本語 |
|---|---|
|
说述自己的纪德 日本 石川涌
恋歌 罗马尼亚 索陀威奴
一
二
三
村妇 保加利亚 伐佐夫
一
二
三
四
五
六 【跳蚤 法国 亚波里耐尔 】
【中国起了火 奥国 翰斯·迈伊尔 】
【一】
【二】
【说述自己的纪德 日本 石川涌 】
【鲁迅全集•第十七卷】
艺术论
序言
论艺术
原始民族的艺术
再论原始民族的艺术
论文集“二十年间”第三版序
现代新兴文学的诸问题
小 引
现代新兴文学的诸问题
文艺与批评
为批评家的卢那卡尔斯基 日本 尾濑敬止
艺术是怎样发生的
托尔斯泰之死与少年欧罗巴
托尔斯泰与马克斯
今日的艺术与明日的艺术
苏维埃国家与艺术
关于马克斯主义文艺批评之任务的提要
译者附记
文艺政策
序言
关于对文艺的党的政策
——关于文艺政策评议会的议事速记录
(一九二四年五月九日)
观念形态战线和文学
——第一回无产阶级作家全联邦大会的决议
(一九二五年一月)
关于文艺领域上的党的政策
——俄罗斯共产党中央委员会的决议
(一九二五年七月一日“真理报”所载)
附录
以理论为中心的俄国无产阶级
文学发达史 冈泽秀虎
后记 [1]托尔斯泰伯的著作集。最近的作品。墨斯科,一八九八年,七八页。
|
五 写実主義の系統と新ロマンティーク/六~八章 壁下訳叢(前記)、イリイン著『十万はなぜ』(抄訳) チェホフ短篇集、ルナチャルスキー著『芸術論』、ゴーリキー著『ロシアの昔話』、バーデリ著『女の決闘』 ロマノフ短篇集、アンドレーエフ短篇集、大鴉 |
第27節
| 中文 | 日本語 |
|---|---|
|
[33]塔尔特在一八九七年所印的L’ opposition universelle,essai d’une Théorie des Contraires这著作上,幸而遇到了可以研究这根原的心理作用的绝好的机会。但不知道为什么,他并不利用这机会,关于上述的根原,只述说了一些极少的意见。塔尔特说(二四五页),这书并非社会学底论策。于专门地供献给社会学的论策,只要他不抛掉自己的观念论底的立场,恐怕是什么也做不出来的罢。
|
ファジェーエフ著『壊滅』(前記、第一章レヴィンソン~第十七章十九人、附記) ゴーリキー著『裁判』(前記)、同『ロシア寓話』一~九、同『人を作ること』 ルナチャルスキー著『解放されたドン・キホーテ』(前記、序文代り、人物表、第一幕~第四幕) |
第28節
| 中文 | 日本語 |
|---|---|
|
[75]Lichtenstein, Reise im südlichen Afrika in den Jahren 1803,1804,1805, und 1806. zweiter Teil,S.74.
|
プレハーノフ著『芸術論』(前記、第一~第三書簡、附記) プレハーノフ著『無地址の手紙』(第一~第四書簡、附記) ヤコブレフ著『十月』(前記) ルナチャルスキー著『文芸と批評』(前記、一 マルクス主義と芸術、二~九、附記) |
第29節
| 中文 | 日本語 |
|---|---|
|
[127]经济底活动的特征,同样地在澳洲土人的或一种习惯之中,也可以看见。这也证明着他们也在想到未来。在他们那里,将那果实为他们所食的植物,连根拔取;蛋为他们所食的鸟巢,加以毁坏,是都被禁止的。Ratzel,Anthropo—Geographie,I,348.
|
トロツキー著『文学と革命』(前記、第一章~第十一章、あとがき) ヴォロンスキー著『新しい芸術に就いて』(前記、第一章~第五章、附記) |
第30節
| 中文 | 日本語 |
|---|---|
|
[182]可看Die Umsegelung Asiens und Europas auf der Vega von A.E.Nordenskiold, Lepzig 1880,B.I,S.463及B.Ⅱ,S.125,127,129,135,141,231.
【鲁迅全集•第十九卷】
竖琴
前记
洞窟
〔附〕
老耗子
在沙漠上
一
二
三
四
五
六
七
八
九
十
果树园
穷苦的人们
竖琴
亚克与人性
一 告示贴了出来
二 激昂的第一浪
三 大家逃走
四 办法是简单的
五 灰色堂的调查录
六 办公
七 亚克的疑惑
八 转机
九 告示贴了出来
十 生活归于平淡
附
星花
拉拉的利益
附
“物事”
后记
一天的工作
前记
苦蓬
一
二
三
四
五
肥料
铁的静寂
一
二
三
四
五
六
我要活
工人
一
二
三
四
〔附〕
一天的工作
一
二
三
四
五
六
七
八
岔道夫
一
二
三
四
五
六
革命的英雄们
父亲
枯煤·人们和耐火砖
后记 【鲁迅全集•第二十卷】
死魂灵
序言
一
二
三
四
五
六
七
第一部
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第八章
第九章
第十章
第十一章
附录(德国 沃多·培克 编)
一 “死魂灵”第一部第二版序文(一八四八年)
作者告读者
二 关于第一部的省察
三 第九章结末的改定稿
四之A 戈贝金大尉的故事(第一次的草稿)
四之B 戈贝金大尉的故事(被审查官所抹掉的原稿)
第二部(残稿未译完)
第一章
第二章
第三章
附录
自传
鲁迅先生年谱 许寿裳
凡例
鲁迅译著书目续编
鲁迅先生的名·号·笔名
鲁迅全集编校后记
〔其一〕
〔其二〕 |
(脚注・訳注集)[182]~[198]の学術的注釈。ノルデンショルド、ヘルネス、フリッチ等の著作への参照。メンシェヴィズム、バアルとアスタルテ、シェンシン(フェート)、シチェドリン等の訳注。ラブリオーラのマルクス理論変質への警告を引用。 【魯迅全集・第十九巻】 竪琴(前記、洞窟、老鼠、砂漠にて一~十、果樹園、貧しき人々、竪琴) 亜克と人性(一~十、附) 星花、拉拉の利益(附)、「物事」、後記 一日の仕事(前記、苦蓬一~五、肥料、鉄の静寂一~六、我は活きたし、工人一~四) |