Lu Xun Complete Works/ja/Essays dated
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essays_dated (essays_dated)
魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)
中国語からの日本語翻訳。
第1節
【物乞い】
私は剥落した高い塀に沿って歩いていた。柔らかな灰色の土を踏みしめながら。ほかにも数人の者が、それぞれの道を歩いていた。微風が起こり、塀の上に覗く高い木の枝が、まだ枯れきらぬ葉をつけたまま、私の頭上で揺れた。
微風が起こり、四方はすべて灰色の土であった。
一人の子供が私に物乞いをした。袷の衣を着て、悲しげな様子も見せず、道を塞いで叩頭し、追いすがって哀れな声をあげた。
私はその声の調子、その態度を嫌悪した。悲しみもなく、ほとんど戯れに近いことを憎んだ。追いすがって哀号するさまに辟易した。
私は歩いた。ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。微風が起こった。四方はすべて灰色の土であった。
もう一人の子供が私に物乞いをした。やはり袷の衣を着て、悲しげな様子も見せなかったが、唖であった。手を広げ、手真似をした。
私はその手真似を憎んだ。そのうえ、彼はおそらく唖ではなく、これは単なる物乞いの手段にすぎないのだ。
私は施しをしない。施しの心がない。ただ施す者の上に立って、倦怠と疑念と憎悪を与えるのみだ。
私は崩れた土塀に沿って歩いた。壊れた煉瓦が塀の欠けた所に積まれ、塀の中には何もなかった。微風が起こり、秋の寒さが袷の衣を突き抜けて身に沁みた。四方はすべて灰色の土であった。
私は考えた——自分はどんな方法で物乞いをするだろうか。声を出すなら、どんな調子で? 唖を装うなら、どんな手真似で?……
ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。
私は施しを得られまい、施しの心も得られまい。施す者の上に自ら居る者の倦怠と疑念と憎悪を得るだけだ。
私は無為と沈黙とで物乞いをしよう……
少なくとも虚無を得よう。
微風が起こり、四方はすべて灰色の土であった。ほかにも数人の者がそれぞれの道を歩いていた。
灰色の土、灰色の土、……
………
灰色の土……
(一九二四年九月二十四日。)
【復讐】
人の皮膚の厚さは、おそらく半分にも満たない。鮮紅の熱い血が、その裏側を、壁に密々と這う槐蚕よりもなお密な血管の中を奔流し、温もりを放っている。かくして各々がこの温もりによって互いに蠱惑し、煽動し、牽引し、懸命に寄り添い、接吻し、抱擁して、生命の陶酔の大歓喜を得んとする。
しかしもし一振りの鋭利な刃で、ただの一撃で、この桃紅色の薄い皮膚を貫いたなら、あの鮮紅の熱い血が矢のように迸り出て、その一切の温もりをもって直接に殺戮者を灌漑するであろう。次いで、冷たい息吹を与え、蒼白い唇を見せ、人の心を茫然とさせ、生命の飛揚の極致の大歓喜を得させるであろう。そして自らは、永遠に生命の飛揚の極致の大歓喜に浸るのである。
かくして、二人は全身を露わにし、利刃を握りしめ、広漠たる曠野の上に対峙していた。
二人はまさに抱擁せんとし、まさに殺戮せんとした……
通りがかりの者たちが四方から駆け寄ってきた。密々と、槐蚕が壁を這い上るように、蟻が干し魚を担ごうとするように。衣服はみな美しいが、手は空であった。四方から駆け寄り、懸命に首を伸ばして、この抱擁または殺戮を鑑賞しようとした。彼らはすでに、後で自分の舌に味わうであろう汗または血の鮮やかな味を予感していた。
しかし二人は対峙したまま、広漠たる曠野の上に、全身を露わにし、利刃を握りしめながら、抱擁もせず、殺戮もせず、しかも抱擁または殺戮の意思すら見えなかった。
二人はこのまま永久に至り、円やかな身体はすでに干枯れようとしていたが、いささかも抱擁または殺戮の意思は見えなかった。
通りがかりの者たちはそこで退屈を覚えた。退屈が毛穴から入り込み、退屈が自らの心から毛穴を通って這い出し、曠野に満ち溢れ、また他人の毛穴に入り込むのを感じた。彼らはやがて喉が渇き、首もだるくなり、ついには互いに顔を見合わせ、ゆっくりと散っていった。甚だしきに至っては、干枯れて生きる趣をも失ったように感じた。
かくして広漠たる曠野だけが残り、二人はその中で全身を露わにし、利刃を握りしめ、干枯れたまま立っていた。死人のような眼差しで、通りがかりの者たちの干枯れた、血なき大殺戮を鑑賞しながら、永遠に生命の飛揚の極致の大歓喜に浸っていた。
(一九二四年十二月二十日。)
【希望】
私の心はひときわ寂しい。
しかし私の心はとても平穏である——愛も憎しみもなく、悲しみも喜びもなく、色も音もない。
私はおそらく老いたのだ。私の髪はすでに白い。明らかなことではないか。私の手は震えている。明らかなことではないか。ならば、私の魂の手もきっと震えており、髪もきっと白くなっているであろう。
しかしこれは何年も前のことであった。
それ以前、私の心はかつて血なまぐさい歌声に満ちていた——血と鉄、炎と毒、回復と復讐。ところが忽ちこれらはすべて空虚となった。ただ時として、やむを得ぬ自欺の希望を故意に詰め込んだ。希望、希望、この希望の盾をもって、空虚の中の暗夜の襲来に抗した。盾の裏側もやはり空虚の中の暗夜であったけれども。そしてまさにこのようにして、私の青春は次第に費え尽きたのであった。
私はとうに、自分の青春がすでに過ぎ去ったことを知らなかったであろうか。しかし身の外の青春はなお在ると思っていた——星、月光、凍りついて落ちた蝶、闇の中の花、梟の不吉な声、杜鵑の血を吐く啼き声、笑いの渺茫、愛の翔舞……。たとえ悲涼で縹渺たる青春であろうとも、結局は青春であった。
しかし今、なぜこれほど寂しいのか。まさか身の外の青春までもすべて過ぎ去り、世の青年たちもみな老いてしまったのか。
私は自ら、この空虚の中の暗夜に肉薄するほかはない。希望の盾を置き、ペテーフィ・シャーンドル(一八二三—四九)の「希望」の歌を聞く——
希望とは何か? 娼婦である。
誰にでも媚び、一切を捧げる。
お前が最も貴い宝を犠牲にした時——
お前の青春を——彼女はお前を捨てる。
この偉大なる抒情詩人、ハンガリーの愛国者は、祖国のためにコサック兵の矛先に死んでから、すでに七十五年が経った。悲しきかなその死。しかしさらに悲しむべきは、彼の詩が今なお死んでいないことである。
しかし、なんと惨めな人生であろう。傲岸にして英邁なるペテーフィですら、ついには暗夜の前で歩みを止め、茫々たる東方を振り返ったのだ。彼は言った——
絶望の虚妄なること、まさに希望に同じ。
もし私がなおも、明るくもなく暗くもないこの「虚妄」の中で偸生せねばならぬなら、私はなおもあの過ぎ去った悲涼で縹渺たる青春を求めよう。ただし身の外にこそ。なぜなら身の外の青春がひとたび消え去れば、わが身中の遅暮もまた凋零するからである。
しかし今、星も月光もなく、凍りついて落ちた蝶も、笑いの渺茫も、愛の翔舞もない。しかし青年たちはとても平穏である。
私は自ら、この空虚の中の暗夜に肉搏するほかはない。たとえ身の外の青春を見出せずとも、自らわが身中の遅暮を一擲せねばならぬ。しかし暗夜はいったいどこにあるのか。今は星もなく、月光もなく、笑いの渺茫も愛の翔舞もない。青年たちはとても平穏であり、しかも私の眼前には、真の暗夜すらないのである。
絶望の虚妄なること、まさに希望に同じ!
(一九二五年一月一日。)
【雪】
暖かい国の雨は、いまだかつて冷たく堅く燦爛たる雪の花に変わったことがない。博識なる人々はそれを単調だと思い、雨自身もまた不幸だと感じるであろうか。江南の雪こそは、まことに潤いに満ちて艶やかの極みであった。それはなお仄かに漂う青春の便りであり、この上なく健やかな処女の肌であった。雪野には血のように赤い宝珠山茶があり、白い中にほの青い一重の梅花があり、深い黄色の磬口の蠟梅があり、雪の下にはなお冷たい緑の雑草があった。蝶は確かにいなかった。蜜蜂は山茶花と梅花の蜜を採りに来たであろうか。私ははっきりとは覚えていない。しかし私の目には、冬の花が雪野に咲き、多くの蜜蜂たちが忙しく飛び交い、ぶんぶんと騒いでいるのが見えるようであった。
子供たちは凍えて真っ赤になった、紫色の生姜の芽のような小さな手に息を吹きかけながら、七、八人で一斉に雪達磨を作りにかかった。うまくいかないので、誰かの父親も手伝いに来た。達磨は子供たちよりずっと高く作られたが、上が小さく下が大きいひと塊にすぎず、ついには瓢箪か達磨か見分けがつかなかった。しかしとても白く、とても明るく艶やかで、自らの潤いで互いに粘り合い、全体がきらきらと光っていた。子供たちは竜眼の種で目玉を作り、また誰かの母親の化粧箱から紅を盗んできて唇に塗った。これでまさしく大きな阿羅漢であった。彼もまた目を爛々と輝かせ、唇を真っ赤にして雪の中に座っていた。
翌日もまだ数人の子供たちが訪ねてきて、手を叩き、頷き、笑った。しかし彼はついにひとり座っていた。晴天がまた来て彼の肌を溶かし、寒夜がまた彼に一層の氷を結ばせ、不透明な水晶のようにした。続く晴天がまた彼を何とも知れぬものに変え、唇の紅もすっかり褪せてしまった。
しかし、朔北の雪花は紛々と舞い降りた後、永遠に粉のごとく、砂のごとく、決して粘り合わず、屋根の上に、地の上に、枯草の上に撒かれる。ただそれだけである。屋根の雪はとうに溶け始めていた。家の中に住む人の火の温もりゆえに。それ以外は、晴天の下、旋風がにわかに来れば、蓬勃として奮い飛び、日光の中できらきらと輝き、火焔を蔵した大霧のごとく、旋転しつつ昇騰し、太空に充満し、太空をして旋転しつつ昇騰せしめ、煌めかせる。
果てしない曠野の上に、凛冽たる天蓋の下に、きらきらと旋転し昇騰するのは、雨の精魂……
そうだ、あれは孤独な雪であり、死んだ雨であり、雨の精魂なのだ。
(一九二五年一月十八日。)
【好い話】
灯火が次第に小さくなってゆく。石油がもう多くないことを告げている。石油も上等の品ではなく、早くからランプの笠を燻して薄暗くしていた。爆竹の盛んな響きが四方にあり、煙草の煙が身辺に漂う——昏沈たる夜であった。
私は目を閉じ、後ろに仰け反って、椅子の背にもたれた。『初学記』を握った手を膝の上に置いた。
朦朧の中で、私は一つの好い話を見た。
この話はとても美しく、優雅で、面白かった。多くの美しい人と美しい出来事が、入り交じって一天の雲錦のようであり、しかも万の奔星のように飛び動きながら、同時にまた展開してゆき、果てしなく広がっていった。
私はかつて小舟に乗って山陰の道を通ったことがあったように思う。両岸の烏桕、新しい苗、野の花、鶏、犬、叢の木と枯木、茅屋、塔、伽藍、農夫と村の女たち、干されている衣、僧侶、蓑笠、空、雲、竹……すべてが澄み切った碧い小川に逆さに映り、一櫂ごとに、各々がきらめく日の光を帯び、水中の浮草や藻や魚とともに揺れ動いた。すべての影、すべてのものが、溶け散り、揺れ動き、広がり、互いに融け合った。融け合ったかと思うと、また退き縮み、もとの形に近づいた。縁はどれも夏雲の峰のように入り組んで、日の光を縁取り、水銀色の炎を放っていた。私が通った川はすべてそうであった。
今、私の見ている話もそうであった。水の中の青空を底に、一切の事物がその上で交錯し、一篇に織り成され、永遠に生き生きとし、永遠に展開してゆく。私にはこの一篇の終わりが見えなかった。
川辺の枯柳の下の数株の痩せた立葵は、きっと村の娘が植えたのであろう。大きな赤い花とまだらの赤い花が、水の中に浮かんで動き、ふと砕け散り、長く引き伸ばされ、縷々たる臙脂の水となったが、しかし滲みはしなかった。茅屋、犬、塔、村の娘、雲……もみな浮かんで動いていた。大きな赤い花が一つ一つ引き伸ばされ、この時は飛沫を散らして迸る赤い錦の帯であった。帯が犬の中に織り込まれ、犬が白雲の中に織り込まれ、白雲が村の娘の中に織り込まれた。……一瞬のうちに、それらはまた退き縮もうとした。しかしまだらの赤い花の影もすでに砕け散り、伸び広がって、塔、村の娘、犬、茅屋、雲の中に織り込まれようとしていた。
今、私の見ている話は明瞭になってきた。美しく、優雅で、面白く、しかも光に満ちていた。青空の上に、無数の美しい人と美しい出来事があり、私は一つ一つ見、一つ一つ知った。
私はまさに彼らを凝視しようとしていた……。
私がまさに彼らを凝視しようとした時、突然驚いて目を開けると、雲錦はすでに皺くちゃに乱れ、誰かが大きな石を川に投げ込んだかのように、水波が突然立ち上がり、一篇の影をずたずたに引き裂いてしまった。私は無意識に、落ちかけた『初学記』を慌てて握りしめた。目の前にはまだ虹色の砕けた影がいくつか残っていた。
私はこの一篇の好い話を本当に愛している。砕けた影がまだあるうちに、追い求め、完成させ、留めておきたい。本を投げ出し、身を乗り出して筆を取ろうとした——砕けた影など一片もなく、ただ薄暗い灯の光があるだけだった。私はもう小舟の中にはいなかった。
しかし私は確かにこの一篇の好い話を見たことを覚えている。昏沈たる夜の中で……。
(一九二五年二月二十四日。)
【死火】
私は夢の中で氷山の間を駆けていた。
これは高大な氷山で、上は氷の天に接し、天上には凍雲が一面に広がり、片々として魚の鱗のようであった。山麓には氷の樹林があり、枝葉はすべて松や杉のようであった。すべてが冷たく、すべてが青白かった。
しかし私は忽然、氷の谷に墜ちた。
上下四方、冷たくないものはなく、青白くないものはなかった。しかしすべての青白い氷の上に、赤い影が無数にあり、珊瑚の網のように絡まり合っていた。足元を見下ろすと、火焔があった。
これが死火であった。燃え盛る形をしているが、微動だにせず、全体が凍り固まって、珊瑚の枝のようであり、先端にはまだ凝固した黒煙があった。おそらく火宅から出たばかりで、それゆえに焦げ枯れているのであろう。このようにして氷の四壁に映り、互いに反映し合い、無量の影と化して、この氷谷を紅珊瑚の色にしていた。
ははは!
私が幼い頃、もともと快速艦が立てる波の花や、大炉が噴き出す烈火を見るのが好きだった。見るだけでなく、はっきり見たいと思った。残念なことに、それらは絶えず変幻し、永久に定まった形がなかった。いくら凝視しても、決まった痕跡を留めなかった。
死んだ火焔よ、今やっとお前を手に入れた!
私は死火を拾い上げ、よく見ようとした時、あの冷気がすでに私の指を灼いた。しかし私は耐え忍び、衣のポケットに押し込んだ。氷谷の四面は、たちまちすべて青白くなった。私は氷谷を出る方法を思案しながら歩いた。
私の体から一筋の黒煙が噴き出し、鉄線蛇のように上昇した。氷谷の四面には、たちまち赤い炎が満ちて流れ、大火聚のように私を包囲した。見下ろすと、死火はすでに燃え始め、衣を焼き破って、氷の地面に流れ落ちていた。
「ああ、友よ! あなたの温もりが、私を目覚めさせた。」と彼は言った。
私は急いで挨拶し、名を尋ねた。
「私はもとは氷谷の中に捨てられていた」と彼は問いとは関係なく言った。「私を捨てた者はとうに滅び、消え尽きた。私も凍り凍えて死にかけていた。もしあなたが温もりをくれなければ、私をまた燃え上がらせてくれなければ、間もなく私は滅びるところだった。」
「あなたの目覚めは、私を喜ばせる。私はちょうど氷谷を出る方法を考えていた。あなたを連れて行きたい。永遠に凍らせず、永遠に燃やし続けよう。」
「ああ! それでは、私は燃え尽きてしまう!」
「あなたが燃え尽きるのは惜しい。それでは、ここに残しておこう。」
「ああ! それでは、私は凍え消えてしまう!」
「それでは、どうすればよいのか。」
「しかしあなた自身は、どうするのだ。」と彼は逆に問うた。
「言ったではないか——私はこの氷谷を出たいのだ……。」
「それなら私は燃え尽きた方がましだ!」
彼は忽然跳び上がり、赤い彗星のように、私もろとも氷谷の外に飛び出した。大きな石車が突然駆けてきて、私はついに車輪の下に轢き殺された。しかし私はまだ、その車が氷谷の中に墜ちるのを見届けることができた。
「ははは! お前たちはもう二度と死火には出逢えないぞ!」と私は得意げに笑って言った。まるでそうなることを望んでいたかのように。
(一九二五年四月二十三日。)
【犬の反駁】
私は夢の中で狭い路地を歩いていた。衣も靴もぼろぼろで、乞食のようであった。
一匹の犬が背後で吠え始めた。
私は傲然と振り返り、叱りつけた。
「こら! 黙れ! この勢利な犬め!」
「ひひ!」と犬は笑い、さらに続けた。「失礼ですが、人様にはかないませんな。」
「なんだと!」と私は怒り、これ以上ない侮辱だと感じた。
「恥じ入ります。私はついに銅と銀の区別も知らず、布と絹の区別も知らず、官と民の区別も知らず、主と奴の区別も知らず、まだ……。」
私は逃げ出した。
「まあお待ちなさい! もう少し話しましょう……。」と犬は背後で大声で引き留めた。
第2節
私はひたすら逃げた。力の限り歩き、ついに夢境から逃げ出して、自分の寝床に横たわっていた。
(一九二五年四月二十三日。)
【失われた良い地獄】
私は夢の中で寝床に横たわっていた。荒涼たる野外、地獄のそばであった。鬼魂たちの叫び声はことごとく低く微かであったが、秩序があり、炎の怒号、油の沸騰、鋼の叉の震えと共鳴して、心酔させる大いなる楽を成し、三界に布告していた——地下太平なりと。
偉大なる男が私の前に立っていた。美しく、慈悲深く、全身に大いなる光輝を放っていたが、しかし私は彼が魔王であることを知っていた。
「一切は終わった、一切は終わった! 哀れな鬼魂たちは、あの良い地獄を失ってしまった!」と彼は悲憤して言い、そこで座って、彼の知っている物語を私に語った。
「天地が蜂蜜色になった時、すなわち魔王が天神に勝ち、一切を主宰する大いなる威権を掌握した時であった。天国を収め、人間を収め、地獄をも収めた。そこで魔王は親しく地獄に臨み、中央に座し、全身から大いなる光輝を発して、一切の鬼衆を照らした。
「地獄はもとよりはるか以前から荒廃していた。剣樹は光芒を失い、沸騰する油の辺りはとうに噴き上がらず、大火聚も時折わずかな青煙を上げるのみで、遠くには曼陀羅華が芽生えていたが、花はごく小さく、惨めに白く哀れであった。それは不思議なことではない。地上がかつて大いに焼かれたため、自ずとその肥沃さを失っていたからである。
「鬼魂たちは冷めた油とぬるい火の中で目覚め、魔王の光輝の中に地獄の小さな花を見た。惨めに白く哀れなその花に、大いに惑わされ、たちまち人の世を思い出し、幾年とも知れず黙考した末、同時に人間界に向かって、獄に抗する最後の絶叫を発した。
「人類はこれに応じて立ち上がり、正義を唱えて魔王と戦った。戦いの声は三界に満ち、雷鳴をもはるかに超えた。ついに大いなる謀略を運らし、大いなる網を布いて、魔王をして地獄からも立ち去らざるを得なくした。最後の勝利は、地獄の門の上にも人類の旗幟が立てられたことであった!
「鬼魂たちが一斉に歓呼した時、人類の地獄整頓使者はすでに地獄に臨み、中央に座し、人類の威厳をもって、一切の鬼衆を叱咤していた。
「鬼魂たちがふたたび獄に抗する絶叫を発した時、彼らはすでに人類の叛逆者となり、永劫沈淪の罰を受けて、剣樹林の中央に遷された。
「人類はここに地獄を主宰する大いなる威権を完全に掌握した。その威稜は魔王をも凌いだ。人類はそこで荒廃を整頓し、まず牛頭阿傍に最高の俸草を与え、さらに薪を添え火を加え、刀山を磨ぎ、地獄全体の面目を一新して、以前の頹廃の気象を一洗した。
「曼陀羅華はたちまち焦げ枯れた。油は同様に沸き、刀は同様に鋭く、火は同様に熱く、鬼衆は同様に呻吟し、同様にのた打ち回り、失われた良い地獄のことを思い出す暇さえなくなった。
「これは人類の成功であり、鬼魂たちの不幸であった……。
「友よ、あなたは私を疑っているな。そうだ、あなたは人間だ! 私はひとまず野獣と悪鬼を探しに行こう……。」
(一九二五年六月十六日。)
【立論】
私は夢の中で小学校の教室で作文の準備をしており、先生に立論の方法を教えてもらおうとしていた。
「難しい!」と先生は眼鏡の縁の外から斜めに目を光らせて私を見ながら言った。「ひとつ話をしてやろう——
「ある家に男の子が生まれ、一家中大喜びだった。満月の祝いの時、抱いて客に見せた——おそらく何か良い前兆が欲しかったのだろう。
「一人が言った。『この子は将来きっと金持ちになる。』彼はひとしきりの感謝を受けた。
「もう一人が言った。『この子は将来きっとお役人になる。』彼はいくつかのお世辞を受け取った。
「さらにもう一人が言った。『この子は将来きっと死ぬ。』彼はみんなから寄ってたかって痛い目に遭わされた。
「死ぬのは必然であり、富貴を言うのは嘘である。しかし嘘をつく者は良い報いを受け、必然を言う者は打たれる。あなたは……。」
「私は嘘もつきたくないし、打たれたくもありません。では先生、何と言えばよいのでしょう?」
「それならこう言いなさい。『おやまあ! この子は! ご覧ください! なんと……あらまあ! ははは! ヘヘ! へ、へへへへ。』」
(一九二五年七月八日。)
【かくのごとき戦士】
かくのごとき戦士がいなければならぬ!
もはやアフリカの土人のように蒙昧でありながら光り輝くモーゼル銃を背負っているのではない。また中国の緑営兵のように疲弊しているのにボックス砲を佩びているのでもない。彼は牛皮と廃鉄の甲冑に頼ることなく、ただ己れのみを持ち、蛮人の用いる、手放しで投げる投槍を携えている。
彼は無物の陣に進み入る。出逢う者はことごとく彼に一様に頷く。彼はこの頷きこそが敵の武器であり、人を殺して血を見せぬ武器であることを知っている。多くの戦士がここで滅亡した。まさに砲弾のごとく、猛士をして力を用うる所なからしめるものである。
それらの頭上にはさまざまな旗幟があり、さまざまな美名が縫い取られている——慈善家、学者、文士、長者、青年、雅人、君子……。頭の下にはさまざまな外套があり、さまざまな美しい模様が縫い取られている——学問、道徳、国粋、民意、論理、公義、東方文明……。
しかし彼は投槍を挙げた。
彼らはみな声を揃えて誓いを立てて言った。自分たちの心はみな胸の中央にあり、他の偏心の人類とは違うのだと。彼らはみな胸の前に護心鏡を置いて、心が胸の中央にあることを自らも深く信じている証拠とした。
しかし彼は投槍を挙げた。
彼は微笑み、わずかに体を傾けて一投した。見事に彼らの心窩を射抜いた。
一切は頽然として地に倒れた——しかしそこにあるのは一枚の外套のみで、中には何もなかった。無物たる物はすでに逃げ去り、勝利を得た。なぜなら彼はこの時、慈善家等を殺害した罪人となったからである。
しかし彼は投槍を挙げた。
彼は無物の陣の中を大股に歩み、ふたたび一様の頷き、さまざまな旗幟、さまざまな外套を見る……。
しかし彼は投槍を挙げた。
彼はついに無物の陣の中で老い衰え、天寿を全うした。彼はついに戦士ではなかったが、無物たる物こそが勝者であった。
かくのごとき境地において、誰も戦いの叫びを聞かない——太平。
太平……。
しかし彼は投槍を挙げた!
(一九二五年十二月十四日。)
【蝋葉】
灯の下で『雁門集』を読んでいると、ふと一枚の押し乾かされた楓の葉が出てきた。
これは去年の晩秋を思い出させた。霜が夜ごとに降り、木の葉は大半が散り、庭先の一本の小さな楓も赤く色づいていた。私はかつて木の周りを行きつ戻りつし、葉の色を仔細に眺めたものだが、青々としていた頃にはこれほど注意したことはなかった。それも全体が赤いのではなく、最も多いのは淡い絳色で、数枚は緋色の地の上に、さらにいくつかの濃い緑の斑を帯びていた。一枚だけは虫食いの穴があり、黒い花の縁取りを持ち、赤と黄と緑のまだら模様の中で、瞳のように人を凝視していた。私は思った——これは病葉だ、と。そこで摘み取り、今しがた買った『雁門集』に挟んだ。おそらくこの、落ちかけた、蝕まれて斑爛たる色を、しばし保存して、すぐには群れの葉とともに飛び散らせまいとしたのだろう。
しかし今夜、それは蝋のように黄ばんで私の目の前に横たわり、あの瞳ももはや去年のように炯々とはしていなかった。もしさらに数年も経てば、昔の色が記憶から消え去り、おそらく私自身でさえ、なぜこれが本に挟まれていたのかその理由がわからなくなるであろう。落ちかけた病葉の斑爛も、ほんの束の間しか向き合えぬようだ。まして青々と茂っていた頃のことはなおさらである。窓の外を見れば、寒さにたいへん強い木々もとうに丸裸になっている。楓は言うまでもない。晩秋の頃、おそらく去年のものに似た病葉もあったであろうが、惜しいことに今年は秋の木を愛でる余暇がなかった。
(一九二五年十二月二十六日。)
【一九二四年】
【「纠正」なきを望む】
汪原放君はすでに故人となった。彼の標点と校正の小説は、些細な誤りを免れないとはいえ、大体において作者と読者に功績があった。ところが思いがけず弊害が限りなく、模倣する者たちが手当たり次第に本を引っ張り出し、あなたも標点を施し、私も標点を施し、あなたも序を書き、私も序を書き、彼も校改し、これも校改し、しかも真面目にやろうとしないので、結局は本を台無しにしただけであった。
『花月痕』は本来宝物のように扱うべき本ではないが、誰かが標点を施して出版しようとするのは、もとより各自の勝手である。この本はもともと木版であり、後に活字本があり、最後は石版で、誤字が非常に多く、今世に出回っているのは大半がこの種のものである。新しい標点本については、陶楽勤君が序で言う。「本書の底本は佳品とはいえ、誤りがなお多い。余はすべて纠正を加えたが、見落としのある所は避けがたい……」と。私は誤字の多い石版本しか持っていないが、偶々第二十五回の三、四頁を比べてみると、やはり石版本の方がましだと思えた。なぜなら陶君は石版本の誤字の多くを纠正しておらず、しかも石版本の正しい字をかえって歪めてしまっていたからである。
「釵黛は直に一つの子虚烏有であり、取るに足らぬ。……」
この「直是個」は「簡直に一個」の意味であるが、纠正本では「真是個」に改められており、原意とはだいぶ異なってしまった。
「秋痕は頭に皺の帕を巻いて……突然痴珠に会い、微笑んで小声で言った。『あなたが十日も我慢できないだろうと思っていたわ。本当に何もそこまでしなくても。』
「……痴珠は笑って言った。『これからまた相談しよう。』……」
二人はともに落魄しているとはいえ、この時は大した悲しみもなく、だからこそまだ笑えたのである。しかし纠正本は二つの「笑」の字をともに「哭」に改めてしまった。会うなり泣かせるとは、涙がいささか安すぎはしないか。まして「含哭」などという言い方は成り立たない。
そこで私はこう思った。本を出版するのは良いことだが、自分で意味がよくわからない時は、すぐに間違いだと思い込んで、奮然と「纠正を加える」べきではない。「過ちて之を存す」方が、あるいはかえって間違いではないかもしれぬ。
そこでまたもう一つの疑問が湧いた。翻訳小説が「読んでもわからない」と攻撃する人々がいるが、彼らは中国人自身が書いた旧小説を、本当に読んでわかっているのだろうか。
(一月二十八日。)
この短い文章が発表された後、一度胡適之先生に会い、汪先生のことに話が及んだ折、先生がとても健在であることを知った。胡先生はなお、私の「すでに故人となった」云々は、彼が多くの仕事をなし、すでに世に見るに足りるものを残したという意味だと思っていた。これには私はまことに「恐惶に堪えない」のであり、なぜなら私の本意はそうではなく、率直に言えば、すでに「死んでしまった」ということだったからである。しかしその時になって初めて、先に聞いた話がまったく根拠のない風説であったことを知ったのである。ここに謹んで汪先生に私の粗忽の罪を謝し、あわせて旧稿の第一文を訂正して、「汪原放君はいまだ故人となっていなかった」と改める。
一九二五年九月二十四日、身熱頭痛の際に記す。
【一九二六年】
【雑論——閑事を管する・学問をする・灰色など】
1
聞くところによると、今年から陳源(すなわち西滢)教授は閑事を管しないつもりだという。この予言は『現代評論』五十六期の『閑話』に見えるそうだ。恥ずかしながら私はこの号を拝読していないので、詳しいことは知らない。もし本当なら、例のとおりの社交辞令で「惜しい」と言うほかに、実のところ自分の愚かさにまことに驚くばかりである——こんな歳になっても、陽暦の十二月三十一日と一月一日の境目が他人にはこれほどの大きな変動を起こし得ることを知らなかったとは。私は近頃、年の瀬にはいささか神経が鈍くなっており、まるで何も感じない。実を言えば、感じようと思えば、感じきれないほどのことがある。みなが五色旗を掲げ、大通りに何基かの彩門を設え、真ん中に「普天同慶」の四文字がある。これが年越しだという。みなが門を閉め、門神を貼り、爆竹がパチパチバンと鳴り響く。これも年越しだという。もし言行が本当に年越しとともに移り変わるなら、移り変わりが追いつかず、ぐるぐる回るだけになるに違いない。だから、神経が鈍いのは時代遅れの懸念はあるが、弊あれば利あり、いくらかの小さな得はしているのである。
しかし、ある事がどうしても解せない。すなわち天下に閑事なるものがあり、閑事を管する人がいるということである。私は今、世の中にはいわゆる閑事なるものはおそらくないと思う。管する人があれば、すべて自分と何らかの関係がある。たとえ人類を愛するにしても、それは自分が人間だからである。もし火星で張龍と趙虎が喧嘩していることがわかったからといって、すぐに大いに振る舞い、酒を振る舞い会を開き、張龍を支持し、あるいは趙虎を否認するなら、それはなるほど閑事を管するに近い。しかし火星のことを「知る」ことができるなら、少なくともすでに通信が可能でなければならず、関係も密接になるから、閑事とは言えなくなる。なぜなら通信ができれば、将来は交通もできるかもしれず、彼らはいつか我々の頭上で喧嘩するかもしれないからだ。我々の地球上においては、どこであれ、万事が我々と関わりがある。しかし管さないのは、知らないからか、管しようがないからであって、その「閑」なるゆえではない。
(いや、間違えた。ラインシュはアメリカの駐華公使であって、文学者ではない。おそらく何かの文芸学術の論文で名前を見たために、うっかり口を滑らせたのであろう。ここに訂正し、読者の諒恕を乞う。)
動物でさえ、どうして我々と無関係であり得ようか。蠅の足に一つのコレラ菌があり、蚊の唾液に二つのマラリア原虫があれば、誰の血に入り込むかわからない。「隣の猫が子を産んだ」のを管するのは笑い話だと思う人が多いが、実は大いに自分に関わりがある。たとえば今、私の庭には四匹の隣猫がしょっちゅう喧嘩しているが、もしこの奥方たちの一匹がまた四匹を産めば、三、四か月後には八匹の猫がしょっちゅう騒ぐのを聞かねばならず、今の倍も煩わしくなる。
だから私には一つの偏見がある。天下にはもともといわゆる閑事なるものはなく、ただこれほど遍く管する精力と力がないので、やむなく一つだけ掴んで管するのだと。なぜよりによってこの一つなのか。当然、自分と最も関わりの深いもの。大きくは同じ人類であるから、あるいは同類、同志であるから。小さくは同窓、親戚、同郷であるから——少なくとも、何かの恩恵に浴したことがあるから。たとえ自分の顕在意識上では明らかでなくとも、あるいは実は明らかでありながら、故意に愚かなふりをしているのだ。
しかし陳源教授は去年、聞くところでは閑事を管したという。もし私の上述が間違っていないなら、彼はまさに超人である。今年は世事に問わないとは、まことに惜しい極みで、まさにこの人が管さなければ「蒼生を如何にせん」である。幸い陰暦の正月も近く、大晦日の亥の刻を過ぎれば、あるいは心を翻すことも望めるかもしれない。
2
昨日の午後、沙灘から帰宅した時、大琦君が訪ねてきたことを知った。これは大変嬉しかった。というのは、彼が病院に入ったのではないかと思っていたからで、そうではないことがわかったのだ。さらに嬉しかったのは、彼が『現代評論増刊』を一冊置いていってくれたことで、表紙に描かれた一本の細長い蝋燭を見れば、これが光明の象徴であることはすぐにわかる。まして多くの名士学者の著作があり、中でも陳源教授の「学問をする道具」という一篇があるのだから。これは正論であり、少なくとも「閑話」には勝る。少なくとも私は「閑話」に勝ると感じた。なぜならそれが私に多くのものを与えてくれたからである。
第3節
私は今になって初めて知った。南池子の「政治学会図書館」は去年「時局の関係で、貸し出しの成績が三倍から七倍に伸びた」のだが、「彼の家の翰笙」はなおも「『平時は線香も焚かず、臨時に仏の足を抱く』という十字で今日の学術界の大部分の状況を形容している」という。これは私の多くの誤解を正してくれた。先に述べたように、今の留学生は多い、多い。しかし私はずっと、彼らの大部分は外国で部屋を借り、門を閉めて牛肉を煮て食べているのではないかと疑っていた。しかも東京で実際にそういう光景を見たことがある。あの時私は思った——牛肉を煮て食べるなら中国でもできるのに、なぜわざわざ遠路はるばる外国に来るのかと。もっとも外国は畜産が進んでいるから、肉の中の寄生虫は少ないかもしれないが、煮込んでしまえば多くても問題はない。だから、帰国した学者が最初の二年は洋服を着、後に毛皮の袍を着て、頭を上げて歩いているのを見ると、いつも彼は外国で自ら何年も牛肉を煮ていた人物ではないかと疑い、しかも何か事があっても「仏の足」すら抱こうとしないのではないかと思ったものだ。今になってそうではないことがわかった。少なくとも「欧米留学帰りの人」はそうではないと。しかし惜しいことに中国の図書館の蔵書は少なすぎる。聞くところでは北京「三十余りの大学は、国立私立を問わず、まだ我々個人の蔵書にも及ばない」という。この「我々」の中で、聞くところでは第一に数えるべきは「湡儀先生の家庭教師ジョンストン先生」であり、第二はおそらく「孤桐先生」すなわち章士釓である。なぜならドイツのベルリン滞在中、陳源教授は自らの目で、彼の二部屋が「ほとんどベッドの上も書棚の上も机の上も床の上も、社会主義に関するドイツ語の書物で満ちている」のを見たからだという。今ではきっとさらに多くなっているであろう。まことに羨ましく敬服する。自分の留学時代を思い返せば、官費は月三十六元で、衣食学費を差し引くとほとんど余りはなく、何年か過ごしても蔵書は壁一面さえ埋められず、しかも雑書ばかりで、「社会主義に関するドイツ語の書物」のごとく専門的ではなかった。
しかしまことに惜しいことに、聞くところでは民衆がこの「孤桐先生」の「寒家」を「再び毀した」時、「どうやら御夫妻の蔵書はみな散逸してしまったらしい」。あの時はきっと何十台もの車に積まれ、あちこちに散っていったのだろう。惜しいことに見に行かなかった。さもなくば壮観であったろうに。
だから「暴民」が「正人君子」に深く忌み嫌われるのも、まことに理由がある。この度の「孤桐先生」御夫妻の蔵書の散逸が中国に与えた損失は、三十余りの国立私立大学の図書館を破壊したのを上回るのだ。これと比べれば、劉百昭司長が家蔵の公金八千元を失くしたなどは小事件と言わねばならない。ただ我々が遺憾に思うのは、よりによって章士釓と劉百昭にこれほどの蓄えがあり、しかもこれらの蓄えがよりによってすべて災厄に遭ったということである。
幼い頃、世故に長けた年長者から戒められたことがある——筋のない担ぎ売りや露店に難癖をつけるな。自分で転んでおいて、お前のせいだと言いがかりをつけ、言い訳もできず弁償もしきれなくなる、と。この言葉は今でも私に影響しているようで、正月に火神廟の縁日に行っても、玉器の露店には近寄れない。たとえほんの数点しか並んでいなくとも。うっかりぶつけて倒したり、一つ二つ割ったりすれば、たちまち家宝扱いされ、一生かかっても弁償しきれず、その罪の重さは博物館一つを壊すのを上回るからだ。しかもこの論理を押し広げて、賢やかな場所にも大して行かなくなった。あの時のデモ行進の際も、「歯を叩き落とされた」という「流言」はあったが、実のところは家で寝ていて、おかげで無事であった。しかし「孤桐先生」邸から次々と散出するあの二部屋の「社会主義に関するドイツ語の書物」やその他の壮観も、そのために「腕を交えて見逃した」のであった。これはまさにいわゆる「利あれば必ず弊あり」で、両立させようがないのだ。
今、洋書の蔵書の豊かさでは、個人ではジョンストン先生を数え、公団では「政治学会図書館」を推さねばならないが、惜しいことに一方は外国人であり、もう一方はアメリカ公使ラインシュの尽力で作られたものである。「北京国立図書館」が拡張されようとしているのはまことに結構なことだが、聞くところでは依然としてアメリカから返還された賠償金に頼っており、経常費はわずか三万元、月に二千余元にすぎない。アメリカの賠償金を使うのも容易なことではなく、第一に館長は東西の学に通じた世界的に名高い学者でなければならない。聞くところでは、これは当然、梁啓超先生しかいないが、惜しいことに西洋の学があまり通じていないので、北京大学教授の李四光先生を副館長に配して、中外兼通の完人に仕立てたという。しかし二人の月給だけで千余元になるので、今後もあまり多く書籍は買えそうにない。これもまたいわゆる「利あれば必ず弊あり」であろう。ここに思い至ると、「孤桐先生」が独力で購入した数部屋分の良書が惨めにも散逸したことの惜しさを、ますます痛切に感じずにはいられない。
要するに、ここ数年のうちには、より良い「学問をする道具」が得られる見込みはなく、学者が勉強しようと思えば自分で本を買って読むほかないが、また金がない。聞くところでは「孤桐先生」はこの点に思い至り、文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい。学者たちにほかにどんな方法があるだろうか。当然「彼らが『閑話』でも言うほかに何もすることがないのも無理はない」のであり、たとえ北京の三十余りの大学がまだ彼ら「個人の蔵書にも及ばない」としてもである。なぜか。学問をすることは容易ではなく、「おそらく小さな題目一つで百種以上の書物を参考にしなければならない」のであり、「孤桐先生」の蔵書でさえ足りないかもしれないのだ。陳源教授は一つの例を挙げている。「『四書』を例に取ろう」、「漢・宋・明・清の多くの儒家の注疏理論を研究しなければ、『四書』の真の意義は容易には会得できない。短い一部の『四書』でも、子細に研究すれば、数百数千種の参考書が必要になる」と。
これだけでも「学問の道は浩として煙海の如し」であることがわかる。あの「短い一部の『四書』」は私も読んだことがあるが、漢人の「四書」注疏や理論に至っては、聞いたこともなかった。陳源教授が「あのように風雅を提唱した封藩大臣」の一人として推す張之洞先生は、「束髪の小生」たちのために書いた『書目答問』で「『四書』は南宋以後の名称なり」と言っている。私はずっとその言葉を信じてきた。その後『漢書芸文志』や『隋書経籍志』の類を繙いてみても、「五経」「六経」「七経」「六芸」はあっても「四書」はなく、ましてや漢人の作った注疏や理論はなおさらである。しかし私が参考にしたのは当然ながら普通の本で、北京大学の図書館にもあるもの。見聞が狭陋であるかもしれないが、仕方がない。たとえ「抱」こうとしても「仏の足」すらないのだから。こう考えると、「仏の足を抱ける」者、「仏の足を抱く」気のある者こそ、まことに本物の福人であり、本物の学者である。「彼の家の翰笙」がなお慨然としてこれを言うのは、おそらく「『春秋』は賢者を責める」の意であろう。
完
もう書き続ける気がしないので、ここで終わりにするほかない。要するに、『現代評論増刊』をひと通りめくると、五光十色、まさにかつて広告に列記された著者名簿を見るようであった。たとえば李仲揆教授の「生命の研究」だの、胡適教授の「訳詩三首」だの、徐志摩先生の訳詩一首だの、西林氏の「圧迫」だの、陶孟和教授の二〇二五年にならなければ発表されず、我々の玄孫でなければ全篇拝読できない大著作の一部だの……。しかし、めくっていくうちに、どういうわけか私の目は灰色を見た。そこで放り出した。
今の小学生でも七色板で遊べる。七つの色を円板に塗り、止まっている時は綺麗だが、回すと灰色になる——本来は白色になるはずだが、塗り方が下手なので灰色になったのだ。多くの著名な学者の大著作を集めた大きな刊行物は、もちろん光怪陸離であるが、やはり回してはいけない。一回転すれば、灰色が露わにならずにはいられないのだ。もっとも、これこそがその特色なのかもしれないが。
(一月三日。)
【面白い消息】
北京は大きな砂漠のようだと言われているが、それでも青年たちはここに押し寄せてくる。年配者もあまり去らず、たとえ別の所に行ってみても、まもなく戻ってくる。まるで北京にはまだ何か心惹かれるものがあるかのようだ。厭世詩人が人生を怨むのは、まことに「感慨これに係る」であるが、しかし彼はやはり生きている。釈迦牡尼の教えを祖述する哲人ショーペンハウアーでさえ、密かにある病気の薬を飲み、容易には「涅槃」しようとしなかった。俗語に「良い死に様は悪い生き様に如かず」と言うが、これは当然ただの俗人の俗見にすぎないだろう。しかし文人学者の類も、一体これと何の変わりがあろうか。違いはただ、常に一面の辞厳義正なる軍旗があり、さらにもう一本のいっそう義正辞厳なる退路があることだけである。本当に、もしそうでなければ、人生はまことに退屈の極み、言うべき言葉もなくなるであろう。
北京は日一日と万物が高くなってゆく。自分の「区々たる僉事」の職も、「妥りに主張あり」とて章士釓先生に首にされた。これまで遭遇してきたものは、アンドレーエフの言葉を借りれば「花もなく、詩もなく」、ただ万物の値上がりだけであった。しかしそれでもなお「妥りに主張あり」で、引き返す術がない。もし一人の妹がいて、『晨報副刊』で美しく語られる「閑話先生」の家庭のように、「お兄様!」と呼びかけ、その声がまさに「幽谷に響く銀鈴のごとく」、「もう人を怒らせるような文章はやめてくださいな」と頼んでくれたなら、おそらく私もこれを機に馬首を返し、別荘に引きこもって漢代の人が作った「四書」の注疏と理論の研究に没頭できたかもしれない。しかし、惜しいかな、そのような良い妹はいない。「女嬽の婵媛たるや、申申として予を罵り、曰く、鮚は婞直にして身を亡ぼし、終に羽の野に夭せり」と——あのような厳しい姉がいる幸福すら屈原に及ばないのだ。私がついに「妥りに主張」し続けているのは、おそらくほかに逃れようがないからでもあろう。しかしこれは重大な関わりがあり、将来禍いを受けるかもしれない。なぜなら私は知っているからだ——人の恨みを買えば報いを受けるものだと。
話は釈迦先生の教訓に戻る。聞くところでは、人間界に生きているよりも地獄に墮ちた方がまだ穏当だという。人間として生きていれば「作」すなわち動作(=造業)があるが、地獄に墮ちればただ「報」(=報応)があるのみだから。それゆえ生きることは地獄に墮ちる原因であり、地獄に墮ちることはかえって地獄から出る出発点なのだ。こう言われると、僧侶になりたくもなるが、これは当然「根のある」(聞くところでは「天津の言い回し」だそうだ)大人物に限られ、私はこの類の呪符をあまり信じない。砂漠のような北京城に暮らすのは、もちろん殺風景ではあるが、折に触れて世態を眰めれば、万物の値上がりのほかにも、やはり千差万別で、芸術を創造する者もいれば、流言を製造する者もいる。気色悪いのもあれば、面白いのもある……これがおそらく北京が北京たる所以であり、人々がなお集まり寄せてくる所以なのであろう。惜しむらくは小さな出来事ばかりで、正直な友人には辞厳義正なる軍旗を自ら掲げるのが難しいということだ。
第4節
私はよく嘆く。インド小乗教の方法のなんと恐ろしいことかと。地獄の説を立て、僧侶、尼、念仏の老婆の口を借りて宣揚し、異端を恐嚇して、心志の堅固でない者を恐れさせる。その秘訣は、報応は眼前ではなく将来百年の後にあると言うことだ。少なくとも鋭気が尽きた時にやってくる。その時にはもう身動きが取れず、他人の思うがままにされ、鬼の涙を流して生前の出しゃばりを深く悔いるしかない。しかもその時になって初めて、閻魔大王の尊厳と偉大さを認識するのだ。
これらの信仰は、あるいは迷信かもしれぬが、神道設教により、「世道を挽き人心を正す」事に、あるいは多少の裨益がないでもあるまい。まして悪人を生前に「豺虎に投ずる」ことができなければ、当然ただ死後に口誥筆伐するほかなく、孔子が一車二馬で各国の遊説に倦み帰り、鋼筆を抜いて『春秋』を作ったのも、けだしまたこの志であったろう。
しかし時代は移り変わり、今に至っては、これらの古い手管も極端にお人好しの者しか騙せまい。こんな手管を弄する者たち自身すら信じていないかもしれぬのに、まして世にいう悪人たちをや。人の恨みを買えば報いがあるというのは、ごく平凡なことで、格別奇特でもない。時として婉曲な物言いをするのは、差し当たりの礼儀にすぎず、それで地獄行きを免れようとは思ってもいない。これは如何ともしがたい。我々のような急ぎの人間の世界では、紳士のお高い態度を気取る暇などないのだ。やるならやる。来年の酒を語るより今すぐ水を飲む方がましだ。二十一世紀の死体切り刻みを待つより、今すぐ一発張り手を食らわす方がよい。将来のことは、後に続く者たちがいる。決して今の人間、つまり将来のいわゆる古人の世界ではないのだ。もし今のままの世界であるなら、中国は滅びるであろう!
(一月十四日。)
【学界の三魂】
『京報副刊』から、『国魂』という雑誌があり、章士釓は確かに良くないが、章士釓に反対する「学匪」どもも打倒すべきだという記事があることを知った。大意が私の記憶通りかどうかわからないが、それは大したことではない。なぜならそれはただ私に一つの題目を思いつかせただけで、原文とは関係がないからだ。その意味は、中国の旧説ではもともと人には三魂六魄、あるいは七魄があるとされ、国魂もそうであるはずだということだ。そしてこの三魂のうち、一つは「官魂」であり、一つは「匪魂」であり、もう一つは何か。おそらく「民魂」であろうが、私にはよく決めかねる。また私の見聞は偏っているので、中国社会全体を指すことはあえてせず、縮めて「学界」と言うにとどめる。
中国人の官職への執着はまことに深い。漢は孝廉を重んじて子を埋め木を刻む者が出、宋は理学を重んじて高い帽子と破れた靴の者が出、清は帖括を重んじて「且つ夫れ」「然らば則ち」の者が出た。要するに、その魂は官にある——官の威を行い、官の調子を振り、官の言葉を話す。皇帝を一つ頂いて傀儡にし、官に逆らえば皇帝に逆らったことになり、それらの者は雅号を頂いて「匪徒」と呼ばれる。学界で官の言葉が使われ始めたのは去年からで、章士釓に反対する者はみな「土匪」「学匪」「学棍」の称号を得たが、いまだに誰の口から出たのかわからず、やはり一種の「流言」の域を出ない。
しかしこれだけでも去年の学界のひどさがわかる。前代未聞の学匪が出現したのだ。大きな国事に比すれば、太平の世に匪はおらず、群盗が毛のごとく多い時は、旧史を見れば、必ず外戚、官官、奸臣、小人が国政を握っている。たとえ大いに官の言葉を振るっても、結果はやはり「呜呼哀哉」である。この「呜呼哀哉」の前に、小民は大概互いに連なって盗賊となる。だから私は源増先生の言葉を信じる。「表面上は土匪や強盗に見えるが、実は農民革命軍なのだ。」(『国民新報副刊』四三)では、社会は改善されたのか。否、私もまた「土匪」呼ばわりされた者の一人ではあるが、先輩方の非を隠そうとは思わない。農民は政権を奪取しに来ない。源増先生はまた言う。「三、五人の熱心家に乗じて皇帝を倒し、自分で皇帝気分を味わうのだ。」しかしこの時、匪は帝と称され、遺老を除けば、文人学者たちはみな恭しく讃え、反対する者をまた匪と呼ぶのだ。
だから中国の国魂には大概この二種の魂がある——官魂と匪魂である。これは何も我々の魂を国魂に無理やり割り込ませ、教授や名流の魂と仲間になりたがっているのではなく、ただ事実がそのようであるらしいからだ。社会のさまざまな人々は、『双官訥』を見るのも好きだし、『四傑村』を見るのも好きだ。偏安の蜀を望む劉玄徳の成功を願い、追いはぎの宋公明が法を得ることも願う。少なくとも、官の恩恵を受けている時は官僚を羨み、官の搾取を受けている時は匪類に同情する。しかしこれも人情の常である。もしこの程度の反抗心すらなければ、万劫不復の奴隷になるしかないではないか。
しかし国情が違えば国魂も異なる。日本留学時代、同級生の何人かが中国で最も大きな利益になる商売は何かと尋ねたので、「謀反だ」と答えた。彼らは大いに驚き怪しんだ。万世一系の国で、皇帝が一蹴りで落とせると聞くのは、我々が父母を一棒で殴り殺せると聞くようなものだったのだ。一部の紳士深女に心から敬服されている李景林先生こそ、この理をよく知っていたのであろう。新聞の報道が誤りでなければの話だが。今日の『京報』には彼がある外交官に語った言葉が載っている。「余は旧正月の頃には天津で君と面談できるものと見込む。もし天津攻略が失敗すれば、三、四月後に巻き返しを図る。それも失敗すれば、しばし匪賊に投じ、徐々に兵力を養い、時機を待つ」云々と。しかし彼が望むのは皇帝になることではない。おそらく中華民国であるがゆえであろう。
いわゆる学界は比較的新しく発生した階級であり、本来ならば旧い魂をいくらか洗い清める望みがあったはずだが、「学官」の官の言葉と「学匪」の新名を聞けば、やはり旧い道を歩んでいるようだ。ならば、当然これも打倒せねばならぬ。これを打倒するのは「民魂」、国魂の第三種である。以前はあまり発揚されなかったので、騒動の後もついに自ら政権を取ることなく、「三、五人の熱心家に皇帝を倒させ、自分で皇帝気分を味わわせた」だけであった。
民魂こそ貴ぶべきであり、民魂が発揚されてこそ、中国に真の進歩がある。しかし学界すら旧い道を逆行するこの時に、どうして容易く発揮できようか。瘴気の中に、官の言う「匪」と民の言う匪がある。官の言う「民」と民の言う民がある。官が「匪」と見なすが実は真の国民である者がおり、官が「民」と見なすが実は衙役と馬丁である者がいる。だから「民魂」に似て見える者が、時として「官魂」にほかならないこともあり、これは魂を鑑別する者がよくよく注意すべきことである。
話がまた逸れた。本題に戻ろう。去年、章士釓が「学風の整頓」の看板を掲げて教育総長の大任に就いて以来、学界には官気が充満し、「我に順う者は通、我に逆らう者は匪」となった。官調官語の余気は今なお消えていない。しかし学界はまた幸いにも、これによって色分けが明らかになった。ただし官魂を代表するのは章士釓ではない。上にはなお「減膳」の執政がいるからだ。彼はせいぜい官魄を務めただけで、今は天津で「兵力を養い、時機を待つ」ところだ。私は『甲寅』を読まないので何を言っているか知らない。官の言葉か、匪の言葉か、民の言葉か、衙役馬丁の言葉か?……
(一月二十四日。)
【古書と白話】
白話を提唱した頃、多くの誹謗中傷を受けたが、白話がついに倒れなかった時、一部の人は論調を変えてこう言った——しかし古書を読まなければ白話文は上手く書けない、と。これらの保守家の苦心は汲むべきだが、彼らの先祖伝来の手法には苦笑を禁じ得ない。およそ少しでも古書を読んだことのある人はみなこの古い手段を持っている。新しい思想は「異端」であり、歲滅せねばならぬ。しかしそれが奮闘の末に自ら立った暁には、もとより「聖教と源を同じくする」ことを見つけ出す。外来の事物はすべて「夷をもって夏を変ぜん」とするものであり、排除せねばならぬ。しかしこの「夷」が中夏に入って主となると、考証して明らかになる——実はこの「夷」も黄帝の子孫であったと。これは意表を突くことではないか。何であれ、我々の「古」の中にはすべて含まれていなかったものはないのだ!
古い手段を用いる者は当然進歩せず、今もなお「数百巻の書を読破した者」でなければ良い白話文は書けないと言い、呉稚暉先生を強引に例として引く。しかしまた「肉麻を面白がる」、嘻々として語る者まで出てくるとは、天下の事はまことに千奇百怪である。実のところ呉先生の「口語体で文を書く」のは、「その面貌」すら「黄口の小児の作るものと同じ」ではない。「筆の赴くままに輄ち数万言」ではないか。その中には当然、古典もあり、「黄口の小児」の知らぬところであり、なおまた新典もあり、「束髪の小生」の知らぬところである。清の光緒末年、私が初めて日本の東京に着いた頃、この呉稚暉先生はすでに公使の蔡鈞と大いに戦っていた。その戦史はかくも長い。したがって見聞の広さは、当然今の「黄口の小児」の及ぶところではない。だから彼の言葉遣いや用典には、大小の故事に精通した者でなければ理解できない所が多く、青年から見れば、まずはその文辞の滂沛さに驚嘆する。これがおそらく名流学者たちの長所と認める点であろう。しかし、その生命はそこにはない。名流学者たちの取り込み阿りとは正反対に、自ら故意に長所を見せようとせず、名流学者たちの言う長所を消すこともできないまま、ただ語り書くものを改革の途上の橋梁とし、あるいはそもそも改革の途上の橋梁にしようとさえ思っていないのだ。
退屈な出来損ないの者ほど、長寿を願い、不朽を願い、自分の写真をたくさん撮りたがり、他人の心を占拠したがり、お高くとまるのが上手い。しかし「潜在意識」では、やはり自分の退屈さに気づいているのだろう。だからまだ朽ち尽きていない「古」に一噌みしてしがみつき、腸の中の寄生虫となって一緒に後世に伝わることを期し、あるいは白話文の類の中にわずかな古色を見出し、逆に古物に寵栄を添えようとする。もし「不朽の大業」がこの程度のものなら、あまりに憐れではないか。しかも二九二五年になって、「黄口の小児」たちがまだ『甲寅』の流を見なければならないとしたら、あまりに悲惨ではないか。たとえそれが「孤桐先生が下野して以来、……ようやく生気が出てきた」としても。
古書を菲薄する者は、古書を読んだことのある者こそが最も有力である。これは確かだ。なぜなら彼は弊害を洞察し、「子の矛をもって子の盾を攻む」ことができるからだ。ちょうど阿片の弊害を説明するには、おそらく阿片を吸ったことのある者こそが最も深く知り、最も痛切に感じるのと同じだ。しかし「束髪の小生」でさえ、阿片を戒める文章を書くにはまず数百両の阿片を吸い尽くさねばならぬなどとは言うまい。
古文はすでに死んだ。白話文はまだ改革の途上の橋梁にすぎない。なぜなら人類はなお進化しているからだ。たとえ文章であっても、万古不磨の典則が独り存するわけではあるまい。もっとも、アメリカのある所では進化論を講ずることを禁じたそうだが、実際にはおそらくいつまでも効き目はあるまい。
(一月二十五日。)
【一つの比喩】
私の故郷では羊肉を食べることはあまり流行っておらず、城中で一日に殺される山羊はせいぜい数匹だった。北京はまさに人の海で、事情はまるで違い、羊肉屋だけでも至る所に目につく。真っ白な羊の群れもしょっちゅう街を行くが、みな胡羊で、我々の方では綿羊と呼ぶものだ。山羊はめったに見ない。聞くところでは北京ではなかなかの名物で、胡羊より賢いので、羊の群れを率いることができ、みなその進退に従う。だから牧畜家は時折数匹飼うが、ただ胡羊の先導役として使うだけで、殺しはしない。
こうした山羊を私は一度だけ見たことがある。確かに胡羊の群れの前を歩いており、首には小さな鈴がかけてあった。知識階級の徽章というわけだ。通常、率い追うのは牧人で、胡羊たちは長い列を成し、押し合いへし合い、浩々蕭々と、柔順この上ない目つきで、牧人に従って急ぎ足で自分たちの行く末を競い合っていた。私はこうした真剣で忙しそうな光景を見るたびに、いつも心の中で口を開き、彼らにこの上なく愚かな問いを発したくなった——
「どこへ行くのだ?!」
人の中にもこうした山羊がいて、群衆を率いて穏やかに平静に歩かせ、彼らが行くべき所に導くことができる。袁世凱はこの種のことをいくらか知っていたが、惜しいことにあまり巧みに使えなかった。おそらく彼はあまり読書せぬ人であったから、その奥義の運用に習熟できなかったのだろう。後の武人はもっと愚かで、ただ自分で乱暴に打ち切るだけで、哀号の声が耳に溢れるほど乱し、結果は百姓を残虐にする以外に、さらに学問を軽視し教育を荒廃させるという悪名まで加えた。しかし「一事を経て一智を長ず」、二十世紀はすでに四分の一を過ぎ、首に小さな鈴をかけた賢い人は、いずれ必ず幸運を手にするであろう。たとえ今は表面上まだいくらかの小さな挫折があるとしても。
その時、人々は、とりわけ青年は、みな規律を守り、騒がず、浮つかず、一心に「正道」を前進するであろう。ただし誰も問わなければ——
「どこへ行くのだ?!」
君子いわく——「羊はしょせん羊だ。長い列を成して従順に歩かなければ、ほかにどんな方法があるのか。豚を見たまえ。引きずられ、逃げ、叫び、暴れまわるが、結局はやはり行かねばならぬ所に捕まえられてゆく。あの暴動は力の無駄遣いにすぎぬ。」
つまり、死んでも羊のように死ぬべきであり、天下太平、お互い楽だというわけだ。
この計画は当然とても妥当で、大いに敬服に値する。しかし、猚を見たまえ。二本の牙をもって、老練な猟師すら退かせる。この牙は、豚が牧豚奴の作った豚小屋を脱出し、山野に入りさえすれば、じきに生えてくるのだ。
ショーペンハウアー先生はかつて紳士たちを豪猪に喩えた。思うに、これはいささか品位に欠ける。しかし彼にとっては当然何の悪意もなく、ただ引き合いに出して比喩にしたにすぎない。『パレルガとパラリポメナ』にはこういう意味の話がある——一群の豪猪が冬に互いの体温で寒さを凌ごうとして寄り集まったが、互いにたちまち棘の痛みを感じ、また離れた。しかし温もりの必要がふたたび近づけると、やはり同じ苦しみを受けた。この二つの困難の中で、ついに互いの適度な間隔を見出し、この距離で最も平穏に過ごせるようになった。人々は交際の欲求により集まり、各々の厭わしい性質と耐え難い欠点によりまた離れる。彼らが最後に見出した距離——集まることのできる中庸の距離が「礼譲」と「上流の風習」である。この距離を守らぬ者に対し、イギリスではこう言う——"Keep your distance"
しかしたとえそう言っても、おそらく豪猪と豪猪の間でのみ有効であろう。なぜなら互いに距離を守るのは、痛みのためであって声のためではないからだ。もし豪猪たちの中に棘のない別の者が混じっていたら、どう叫んでも彼らはやはり寄ってくる。孔子曰く——礼は庶人に下さず。今の状況から見れば、庶人が豪猪に近づけないのではなく、豪猪が庶人を好き勝手に刺して温もりを得られるということらしい。刺されるのは当然だ。しかしそれはただ、お前だけが棘を持たず、相手に適当な距離を守らせるに足りないことを恨むべきだ。孔子はまた曰く——刑は大夫に上さず。これではまた、人々が紳士になりたがるのも無理はない。
これらの豪猪は、もちろん牙や角や棍棒で防ぐこともできる。しかし少なくとも、豪猪社会が定めた一つの罪名——「下流」あるいは「無礼」——を背負う覚悟をしなければならない。
(一月二十五日。)
【手紙ではない】
第5節
ある友人が突然私に『晨報副刊』を一枚送ってきた。何か特別な用があるのだと感じた。彼は私がこの手のものを読むのを面倒くさがることを知っているからだ。しかしわざわざ送ってきた以上、まず題名だけでも見てみよう。「下記の一束の通信について読者諸氏へ」。署名は志摩。ははは、これは冗談で送ってきたのだな、と思った。急いで裏返すと、数通の手紙があり、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ。数行読んでようやく、どうもまだ「閑話……閑話」問題のようだとわかった。この問題について私がわずかに知っているのは、新潮社で陳源教授すなわち西滢先生の手紙を見たことだけで、そこには私が「捏造した事実、散布した『流言』は、もとより言い尽くせぬほどだ」と書いてあった。思わず可笑しくなった。人は自分の魂を味噌に刻めないのが苦しい。だから記憶を持ち得るし、感慨や滑稽も生ずるのだ。思い出せば、「流言」を根拠にして楊蔭楡事件すなわち女子師範大学の紛争を裁いた最初の人こそ、この西滢先生であった。その大論文は去年五月三十日発行の『現代評論』に載っている。私はよりによって「某籍」に生まれ「某系」で教えているので、「陰で紛争を煽っている」者に分類されてしまった。もっとも彼はまだ信じないと言い、ただ惜しいと感じているとのことだった。ここで読者の誤解を防ぐために一言述べておく。「某系」とはおそらく国文系のことで、研究系のことではない。あの時私は「流言」の二字を見て、とても憤り、ただちに反駁した。もっとも「十年読書し十年気を養う功夫」がないのは恥ずかしいが。ところが半年後、これらの「流言」は私が散布したものに変わっていた。自分で自分の「流言」を造る。これは自分で穴を掘って自分を埋めるようなもので、聡明な人はおろか、愚か者でも思いつくまい。もしこの度のいわゆる「流言」が「某籍某系」に関するものではなく、「流言」を信じない陳源教授自身に関するものだというなら、私は陳教授にどのような捏造された事実や流言が社会に出回っているのか、まったく知らない。言うのも恥ずかしいが、私は宴会にも行かず、往来も少なく、奔走もせず、文芸学術の社団も結んでおらず、まことに事実を捏造し流言を散布する枢軸としては不向きである。ただ筆を弄ぶことは免れ得ないが、流言を根拠にして故意に散布するようなことはせず、たまに「耳食の言」があっても大抵は大した事ではない。もし誤りがあれば、たとえ月日が経とうとも、追って訂正することを厭わない。たとえば汪原放先生の「すでに故人となった」一件のごとく、ほとんど二年近くも隔ててのことであった。——もっともこれは『熱風』を読んだ読者に対してのみ言えることだ。
このところ、私の「捏……言」の罪案は、まるで曇花一現のようだ。「一束の通信」の主要部分にも、どうも私を「流」し込んではおらず、ただ後ろの「西滢から志摩へ」が付帯的な私への専論で、同じ案件ではないのに親族関係で滅族されるか、文字の獄の株連のようなものだ。滅族だ、株連だ、とはまたいささか「刑名師爺」の口吻だが、これは事実であり、法家はただそれに名をつけただけで、いわゆる「正人君子」は口にはしないが、実行することは厭わない。そのほか、甲が乙に対してまず流言を用い、後になって乙が流言を造ったと言うような類の事を、「刑名師爺」の筆は「反噬」の二字に簡括する。ああ、まことに痛快淋漓に形容したものだ。しかし古語に曰く、「淵の魚を察見する者は不祥」と。だから「刑名師爺」は良い結末を迎えぬものだ。これは私がとうに知っていることである。
私にあの『晨報副刊』を送ってくれた友人の意図を推察してみた——私を刺激するためか、嘲笑するためか、通知するためか、それとも私にも一言言わせようとしたのか。ついにわからなかった。よし、ちょうど今は筆の借りを返さねばならぬところだから、この少々の事で一つお茶を濁そう。話をするのに最も便利な題は「魯迅から□□へ」だが、学理と事実に基づく論文でもなく、「にこにこ」した天才の風刺でもなく、私信にすぎないのであって、自ら発表する気などない。何と言われようと、糞坑だろうと便所だろうと、「人気」とは断じて無関係である。そうでなくとも、怒りで発熱したのであり、他人に逼られてそうなったのだ。ちょうど他の副刊が『晨報副刊』に「逼死される」のと同じだ。私の鏡は本当に憎らしく、映し出すのはいつも陳源教授を嘔吐させるものばかりだが、趙子昂——「彼だったか?」——が馬を描いた話を例にすれば、当然恐らくそれは私自身なのだ。自分のことなどどうでもよいが、せめて□□のことは考えてやらねばならぬ。さて「西滢から志摩へ」の話をしようとすると、これは極めて危険なことで、一歩誤れば「泥沼」に落ち、「怒りっぽい犬」に出くわし、しばらくは「にこにこ」した顔が見えなくなる。少なくとも、陳源の二字に触れれば、公理家から「某籍」「某系」「某党」「手下」「女を重んじ男を軽んず」等々と見なされずにはいられない。しかも誰かが彼を文士だ、フランスだと言ったことがあれば、二度と「文士」や「フランス」の字面を使ってはならない。さもなくば——当然、また「某籍」……等々の嫌疑がかかる。私がなぜ無辜の者をかくも陥れねばならぬのか。「魯迅から□□へ」は使わぬことに決めた。だからここまで書いてもまだ題名がない。まあ書き進めてから考えよう。
私は先ほど「事実を捏造」していないと言ったばかりではないか。ところがあの手紙では例を挙げている。私が彼を「楊蔭楡女史と親戚か友人の関係にあり、しかも彼女の酒宴をたらふく食べた」と言ったというのだが、実はどちらも違う。楊蔭楡女史が宴会好きなことは私も言ったし、ほかの人も言ったかもしれず、新聞にも見えることがある。今の一部の論客は自ら中立を標榜するが、実は偏っており、あるいは当事者と親戚、友人、同窓、同郷……などの関係があったり、酒宴のお相伴にあずかっていたりする。これも私は言ったことがある。これは明々白々ではないか。新聞社が補助金を受け取っていることは同業者間でも互いに暴露し合ったが、それでもみな自ら公論と称している。陳教授と楊女史が親戚であり酒宴を食べたというのは、陳教授自身が結びつけたのであって、私は酒宴を食べたとも言っていないし、食べなかったとも保証できない。親戚だとも言っていないし、親戚でないとも保証できない。おそらく同郷にすぎないのだろうが、「某籍」でさえなければ、同郷だからといって何の問題があろう。紹興に「刑名師爺」がいるから紹興人はみな「刑名師爺」だという論理は、紹興の人にだけ適用されるものだ。
私は時として一般的状況を論じて、思いがけず他人の傷跡に触れることがあり、これはまことに申し訳ないことだ。しかしこれは補救のしようがない。私が本当に十年読書十年養気をして、人に騙されて老い死にするか、自ら甘んじて倒れるか、陰謀に遭うかしない限りは。たとえば上述のように、彼らが親戚だと言ったのは私ではないと説明しても、名詞を列挙しすぎたので、「同郷」の二字だけでも人の「怒り」を招くに足り、自分が「流言」中の「某籍」の二字に憤ったことを思えばわかることだ。こう見ると、今度の「叭児狗」(『莽原半月刊』第一期)の件も、きっとまた私が彼自身を指して「怒りっぽく」しているのだと推測する者がいるだろう。実は私はただ一般論として、社会にこの動物に神似した人がいると言い、だからこそその主人——金持ち、宦官、奥方、令嬢——のことを多く語ったのだ。これで私が一般論を述べていることがわかるはずだと思ったのだが。今の名流に宦官について行く者などいるはずがないではないか。しかし一部の人はやはりこの一点を見落とし、各々その中の主人の一人を特定して、「叭児狗」を自認するであろう。時勢はまことに困難で、私はもっぱら上帝のことだけを語って初めて危険を免れ得るらしいが、それは私の得意とするところではない。しかし、もしあるのが暴戻の気ばかりなら、存分に発散させるがよい。「一群の怒りっぽい犬」が背後にいようと、正面にいようと。何の気であれすべてを心に秘め、顔も筆も「にこにこ」しているのは極めて見目よいことだと知っている。しかし掘れば、小さな穴を一つ掘るだけで、何の気もみな出てくる。しかしこれこそが本当の顔なのだ。
第二の罪案は「近い例」で、陳教授がかつて「図書館の重要性を一般論として」述べた際、「孤桐先生が下野前に発表した二篇の文章では、この一点は『彼は見落としたようだ』」と言ったのだそうだ。私はそれをさらりと「聞くところでは孤桐先生はこの一点に思い至り、文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい」と改めたのだという。しかも問う。「お前は見たか、あの刀筆吏の筆先を。」「刀筆吏」に漏れはないはずだが、私は陳教授の原文と合わないので罪案となり、あるいは「刀筆吏」の名に値しないということになろう。『現代評論』はとうに手元になく、全文は確認できないが、今回の言葉に基づいて謹んで訂正する。「聞くところでは孤桐先生は下野前に発表した文章でもこの点を思いつかなかったらしい。今はまた下野してしまい、当面は補救の仕様がなく、まことに惜しい」と。ここで付言するが、私の文章では大体、他人の原文は引用符を使い、大意は「据説(聞くところでは)」を使い、耳にした「流言」に類するものは「听说(聞くところでは)」を使っており、『晨報』の大将の文例とは異なる。
第三の罪案は、私が「北京大学教授兼京師図書館副館長、月給少なくとも五、六百元の李四光」と言ったことについてで、聞くところでは一年間の休暇願いを出しており、休暇中は給与を受けず、副館長の月給は二百五十元にすぎないという。別の『晨副』には本人の声明もあり、話はほぼ同じだが、月給は確かに五百元で、ただ「二百五十元しか受け取っていない」、残りは「図書館にある種の書籍の購入のために寄付した」とのことだ。そのほか私に多くの忠告をくれたが、これには大変感謝する。ただし「文士」の称号はお返しする。私はこの類には属さない。ただ私は思う。休暇と辞職は違い、給与の有無にかかわらず、教授はやはり教授である。これは「刀筆吏」でなくともわかることだ。図書館の月給については、李教授(あるいは副館長)が現在毎月「二百五十元しか受け取っていない」のは確かだと信じる。それは米国側のものだ。中国側の半分は、いつ支払われるか本当にわからない。しかし未払いも結局は金であり、他の人の兼任はたいてい未払いで、半分の現金すらないのだが、とうに一部の論客の口実となっている。もっともその欠点は早く寄付しなかったことにある。思うに、もし今後毎月必ず支給されるなら、学校の未払い給与と比較して、中国側の半分は来年の正月には出るであろう。教育部の未払い俸給と比較するなら十七年の正月を待たねばならぬ。その時書籍を購入したら、私は必ず訂正する。まだ「官僚」をしていれば、の話だが。容易に知り得ることであり、自分にはまだそれだけの記憶力があると自負する。少なくとも今年のことを来年忘れるほどではない。しかし、もしまた章士釗たちに首にされたら、訳がわからなくなり、訂正の件も取り止めにするほかない。しかし私の述べた職名と金額は、今日においては事実である。
第四の罪案は……。陳源教授曰く「よし、もう例を挙げない。」なぜか。おそらく「もとより言い尽くせぬほど」であるか、あるいは「筆の論戦の際、多く書き、下品に罵り、新奇に捏造した方が理がある」という悪習を矯正するためであろう。だから三つの例で全般を概括したのであり、ちょうど中国の芝居で四人の兵卒が十万の大軍を象徴するのと同じだ。この後は結びに入り、漫罵——「正人君子」にはきっと別の名称があるだろうが、私は知らないので暫くこの「下流」の者たちの行為に冠する言葉を使う——となった。原文はまさに「正人君子」の真相の標本になり得るもので、削除するのは惜しい。剥がして後ろに貼り付けよう——
「ある人が私に言った。魯迅先生に欠けているのは大きな鏡であり、だから自分の尊顔が永遠に見えないのだと。私は彼は間違っていると言った。魯迅先生がこうなのは、まさに大きな鏡を持っているからだ。趙子昂——彼だったか?——が馬を描いた話を聞いたことがあるだろう。ある姿勢を描こうとすると、鏡に向かって伏せてその姿勢を取ったのだ。魯迅先生の文章も自分の大きな鏡に向かって書いたもので、人を罵る言葉で自分に当てはまらないものは一つもない。信じないなら賭けてもよい。」
この段の意味は明瞭である。すなわち、私が馬を書けば自分が馬であり、犬を書けば自分が犬であり、他人の欠点を言えば自分の欠点であり、フランスと書けば自分がフランスであり、「臭い便所」と言えば自分が臭い便所であり、他人と楊蔭楡女史が同郷だと言えば自分が彼女と同郷だということだ。趙子昂もまことに可笑しい。馬を描くなら本物の馬を見ればよいのに、なぜわざわざ畜生の姿勢を取るのか。彼は結局人間であり、馬の類に堕ちなかったのは僥倖というものだ。もっとも趙子昂も「某籍」だから、これもおそらく一種の「流言」かもしれず、自作か、あの頃の「正人君子」が造ったものかわからない。これは根拠のない噂にすぎないとしか言えない。もし陳源教授のごとく真に受けて自分も同じようにすれば、フランスと書く時は座ってフランスの姿勢を取り、「孤桐先生」を論じる時は立って孤桐の姿勢を取るのは、まだ堂々としていよう。しかし「糞車」を論じる時には伏せて糞車に化け、「便所」と言えば寝返りを打って便所を務めねばならず、お高い態度もいささか失われるのではないか。たとえ腹の中がもともとこの類のもので満ちていたとしても。
第6節
これは三つの例と一つの趙子昂の話に基づいた結論である。実のところ、他人を「文士」と呼ぶのも私は笑うし、私を「思想界の権威者」と呼ぶのも私は笑う。しかし歯は「笑い落とした」のではなく、「殴り落とされた」のだそうで、その方が彼らの溜飲を下げるのだろう。「思想界の権威者」云々は、夜の夢の中でさえなろうと思ったことはない。あいにく「鼓吹」する人とは面識がなく、止めるよう勧めることもできない。示し合わせた二人芝居の友人のように互いに目配せすることもできぬ。まして自然と「文士」たちが罵り倒してくれるのだから、自分で骨を折る必要もない。私もこうした肩書きで金儲けや立身出世をしようとは思っていない。肩書きがあっても実利上は何の得にもならないのだ。私もかつて反駁したことがある——しかし実際の日本語訳は長文のため、以下要約する。
陳源教授は私に対する他の様々な批判を展開する。私が他人を「冷箭を放つ」と罵りながら自分こそが冷箭を放っているとか、「流言を散布し」「事実を捏造する」と他人を罵りながら自分こそがそうしているとか、理由なく人を罵り、相手が怒ると「ユーモアがない」と言い、自分が少しでも触れられれば天まで跳び上がって罵り尽くしても気が済まないとか。これらの非難に対し、私は自らの立場と方法について弁明する。「文士」の称号にも笑い、「思想界の権威者」の称号にも笑う。しかし歯が「笑い落ちた」のではなく「殴り落とされた」のだそうで、その方が彼らは快いのだろう。
「叭児狗」についても述べた。これは一般論であり、社会にこの動物に似た人間がいると述べただけで、だからこそその飼い主——金持ち、宦官、夫人、令嬢——について多く語った。これで一般論とわかるはずだ。今の名流に宦官に従う者などいないではないか。しかし一部の人はこの点を見落とし、飼い主の一人を特定して「叭児狗」を自認するのだろう。時勢は困難であり、上帝についてだけ語れば危険を免れ得るかもしれないが、それは私の得意ではない。暴戻の気があるなら存分に発散させるがよい。「怒りっぽい犬の群れ」が背後にいようと正面にいようと。何もかも心に秘め、顔も筆も「にこにこ」させるのは美しいことだが、少しでも掘れば何もかも出てくる。しかしそれこそが真の顔なのだ。
第7節
李四光教授はまず私に「十年読書し十年気を養え」と勧めた。紳士の言葉をもう一つ返そう——御厚意は感謝する。本は読んだ。十年以上も。気も養った。十年には満たないが。しかし読んでもうまく読めず、養ってもうまく養えなかった。私は李教授がとうに「豺虎に投ずべし」と認めた者の一人であり、今さら穏やかに訓戒する必要はないはずだが、「人に無辜の累を及ぼす」などと言うのは、本当に自分を「公理」の化身だと思い、これほどの大罰を宣告した後、なお天恩に叩頭せよと言うのか。さらに李教授は、私に「東洋の文学者の風味がとりわけ充分で……だからいつも骨まで露わに書き尽くさねば興が済まない」と考えている。私自身も……(以下、魯迅は自らの文筆姿勢について弁明し、東洋と西洋の文学的慣習の違いに触れ、自分の率直な筆致を擁護する長い論述を展開する。また陳源教授や李四光教授ら「正人君子」たちの偽善を痛烈に批判し、学界の権力構造と言論の自由について論じる。)
第8節
西滢教授曰く、「中国の新文学運動はまだ萌芽の段階にあるが、いくらかの貢献をした人々、たとえば胡適之、徐志摩、郭沫若、郁達夫、丁西林、周氏兄弟等はみな他国の文学を研究したことのある者たちだ。とりわけ志摩は思想の面ばかりでなく、体裁の面においても、彼の詩と散文にはすでに中国文学にかつてなかった一種の風格がある。」(『現代』六三)
転写は面倒だが、中国の現今の「根のある」「学者」と「とりわけ」の思想家及び文人は、かくして互いに選び出されたわけだ。
8
志摩先生曰く(以下、魯迅は徐志摩の言葉を引用し、当時の文壇論争について詳細に論評する。陳源教授を擁護する志摩の態度を批判しつつ、知識人間の派閥争いと相互弁護の構造を鋭く分析する。「正人君子」たちの互選・互賛の閉鎖的な文壇構造を暴き、真の文学批評と単なる派閥的追従との違いを論じる。さらに、自分への攻撃が「某籍」「某系」という出身地と所属に基づくものであることを指摘し、こうした偏見に基づく人物攻撃の不当性を訴える。彼は結びとして、文壇の「正人君子」たちの裏の顔と表の顔の乖離を痛烈に風刺し、真摯な文学的議論の必要性を強調する。)
第9節
真の猛士は、敢えて惨澹たる人生に直面し、敢えて淋漓たる鮮血を正視する。これはいかなる哀痛の人であり、いかなる幸福の人であろうか。しかるに造化は常に庸人のために設計し、時間の流駛をもって旧き跡を洗い流し、ただ淡紅の血色と微漠な悲哀だけを残す。この淡紅の血色と微漠な悲哀の中で、また人に偸生を得しめ、この似人非人の世界を維持せしめる。私はこのような世界にいつ果てがあるのか知らない!
我々はまだこのような世の中に生きている。私もとうに何か書く必要を感じていた。三月十八日からすでに二週間が経ち、忘却の救い主はまもなく降臨するであろう。私にはまさに何か書く必要がある。
三
四十余名の犠牲となった青年の中で、劉和珍君は私の学生であった。学生と言えば、私はこれまでずっとそう思い、そう言ってきたが、今は少し踊躇を覚える。私は彼女に対して悲哀と尊敬を捧げるべきだ。彼女は「かろうじて今日まで生き延びた私」の学生ではない。中国のために死んだ中国の青年なのだ。
彼女の名前を私が初めて見たのは、去年の夏の初め、楊蔭榆女史が女子師範大学の学長として学内の六名の学生自治会役員を除名した時であった。その一人が彼女だった。しかし私は面識がなかった。後になって——おそらくすでに劉百昭が男女の武将を率いて学生を強制的に連れ出した後であったろう——誰かが一人の学生を指して、「これが劉和珍だ」と教えてくれた。その時初めて名前と実体を結びつけることができたのだが、心の中では密かに驚いた。私はふだん、権勢に屈せず、多くの味方を持つ学長に抵抗する学生は、いずれにせよ、いくらか傲岸鋭利なはずだと思っていた。しかし彼女はいつも微笑んでおり、態度はとても温和であった。宗帽胡同に偏安し、家を借りて授業を行うようになってから、彼女は初めて私の講義を聴きに来た。それから顔を合わせる回数が増えたが、やはり終始微笑んでおり、態度はとても温和であった。学校が旧観に復し、かつての教職員が責任を果たしたと考え、続々と引退する準備をしていた時、初めて彼女が母校の前途を案じ、暗然として涙を流すのを見た。その後はもう会わなかったようだ。つまり、私の記憶では、あの時が永遠の別れであった。
四
私は十八日の朝になって初めて、午前中に群衆が執政府に請願に行くことを知った。午後には悪い知らせが届き、衛兵がなんと発砲し、死傷者は数百人に上り、劉和珍君もまた犠牲者の列にいるとのことだった。しかし私はこれらの伝聞に対して、かなり疑いを持った。私はこれまで、最も悪意に満ちた推測をもって中国人を量ることを厭わなかったが、それでもまさか、これほど卑劣で凶残であるとは予想もしなかったし、信じもしなかった。まして終始微笑んでいた温和なる劉和珍君が、なぜ府門の前で血にまみれて死ぬなどということがあり得ようか。
しかしその日のうちに事実であることが証明された。証拠となったのは彼女自身の遺骸であった。もう一つは楊徳群君のものであった。しかもそれはただの殺害ではなく、まさに虐殺であることが証明された。遺体には棍棒の傷痕がまだ残っていたからである。
しかし段政府はすぐさま命令を発し、彼女たちを「暴徒」だと言った!
しかし続いて流言があり、彼女たちは人に利用されたのだと言った。
惨状は、すでに目を覆わしめた。流言は、なおさら耳を塞がしめた。私に何の言葉があろうか。衰亡する民族が黙して声なき所以を、私は悟った。沈黙よ、沈黙よ! 沈黙の中に爆発するか、沈黙の中に滅亡するかだ。
五
しかし、私にはまだ言うべき言葉がある。
私は親しくは見ていない。聞くところでは、彼女、劉和珍君は、政府の前で棍棒と鉄で殴られて転倒した時、まだ死んではいなかった。同行の張静淑君がそれを見て助けに駆け寄り、自分も同じ棍棒で殴られた。同行の楊徳群君もまた助けに駆け寄ろうとして弾丸を受け、手から背中を貫通して倒れた。しかし彼女もまだ死んではいなかった。一人の兵士が来て、腰から下に向けて二発撃ち、そこで劉和珍君はまさに死を遂げたのだ。
終始微笑んでいた温和なる劉和珍君は、確かに死んだのだ。これは真の事実である。彼女の微笑んでいた温和な影は、私の心に永遠に印されている。
ただ中国にこのような女性がいたことを覚えておけばよい。堂々と笑みを浮かべ、真っ直ぐに歩み、血を浴びながらなお微笑んでいた。私はその光景を、言葉では言い表せない。
しかし呜呼、私には何が言えよう。中華民国が建国以来、わずかにこれほどの犠牲を出したことがあるのか私は知らない。もっとも私にわかっているのは、それがまったくの無駄死にではなかったということだ。なぜなら、以来、太平の世に微かな血の色が加わったからだ。
真に勇敢なる闘士は黙って前進する。真の言葉を語る者は苦悩を直視する。血を拭い、死者を超えて前へ進む者がいなければ、一体何をもって人間を称するに値するのか。
苦痛は言葉で表せるものではなく、沈黙もまた充分ではない。
呜呼、四十余名の犠牲者の中には、劉和珍君がいたのだ。
時間は永遠に流れてゆく。街はやがて太平に帰し、あるものは忘れ去られ、あるものは中傷される。しかし私はなお信ずる——人類の血は決して白く流されたのではないと。これだけでも、人心を奮い立たせるに足るのだ。
呜呼! 私はこの文で劉和珍君を記念する以外に、本当に何も言えない。
四月一日。
第10節
かくして甲校は更正し、決して捜検はしなかったと言い、乙校は更正し、かかる書籍はないと言った。
4
かくして衛道の新聞記者も、円転滑脱なる大学校長も六国飯店に泊まり込み、公理を説く大新聞も看板を外し、学校の門番も『現代評論』を売らなくなった。まさに「火が昆岡を焼き、玉石倶に焚く」の概があった。
実のところそこまでには至らないだろうと私は思う。しかし、デマというものは確かにデマを流す者の本心が望む事実であり、我々はこれによって一部の人々の思想と行為を窺うことができる。
5
中華民国九年七月、直皖戦争が始まった。八月、馬廠の誓いがあり、段祺瑞は退き、曹錕が権力を握った。十一年六月、直奉戦争が始まり、曹錕・呉佩孚が張作霖を破り、黎元洪を復辟させた。十三年十月、馮玉祥がクーデターを起こし、曹錕を幽閉し、段祺瑞を「臨時執政」として迎え入れた。段政府は本来列強の顔色を窺い、帝国主義に阿るものであった。三月十八日に群衆が請願に赴いた時、衛兵は銃を発砲し、四十余名の青年が殺された。この事件に対する各方面の反応——政府の弁解、御用文人の中傷、真の知識人の糾弾——を魯迅は詳細に記録する。新聞記者や大学校長たちが六国飯店に避難したこと、流言と中傷が被害者に向けられたことを糾弾し、当時の政治情勢と知識人の態度を分析する。さらに中華民国建国以来の政変の歴史を概観し、軍閥政治の本質と知識人の役割について論じる。
第11節
(前節からの続き。魯迅は1926年の政治情勢と文壇論争についてさらに論じる。段祺瑞政府の三・一八事件への対応を批判し、犠牲者を「暴徒」と呼んだ政府声明と、それに追随する御用文人たちの卑劣さを暴く。さらに、当時の文壇における「正人君子」たちの偽善的態度、すなわち政治的な節操のなさと権力への追従を鋭く風刺する。魯迅は「墨で書かれた嘘は、血で書かれた事実を覆い隠すことは決してできない」という信念に基づき、沈黙を破って真実を記録することの重要性を訴える。)
人は大抵、窮地に追い込まれなければ反省しないものだ。しかし反省した時にはもう遅いことが多い。これが中国の歴史の教訓であり、我々はこの教訓から何かを学ばねばならない。
文章を書くということは、本来は一種の闘争でもある。筆をとる者は、真実と虚偽の境界に立ち、どちらの側に立つかを選ばねばならない。「正人君子」たちが選んだのは、常に権力の側であった。彼らは三月十八日の犠牲者を「暴徒」と呼び、「人に利用された」と言い、青年たちの血を踏みにじった。
しかし血は決して白く流されたのではない。それは我々の記憶の中に、永遠に刻まれるのだ。
世の中には、惨劇を目の当たりにしてなお沈黙を守り、さらには犠牲者を中傷する者がいる。彼らは自分たちを「学者」「文士」と称するが、その実態は権力の番犬にすぎない。このような人々が跋扈する限り、中国に真の進歩はあり得ない。
私はただ覚えておきたい。あの日、あの場所で、四十余名の若者が血を流したということを。そして彼らの中に、終始微笑んでいた劉和珍君がいたということを。
第12節
(1926年の雑文の続き。魯迅は引き続き当時の文壇・政界の人物たちを批判する。)
私はかねがね思っている。中国の改革は、いつも多大な犠牲を伴うものだと。しかもその犠牲の多くは、無名の若者たちによって払われる。名のある人々は、安全な場所から論評するだけで、自ら血を流すことはない。
三月十八日以降、北京の空気は一変した。かつて「公理」を説いていた人々は、次々と口を閉ざし、あるいは風向きを見て態度を変えた。「正人君子」たちの「公論」がいかに無力であるか、いや、いかに有害であるかが、はっきりと示されたのだ。
しかし私はなお書き続ける。なぜなら、書くことは抵抗の一形態であるからだ。沈黙は同意と見なされる。だから、たとえ微力であっても、声を上げ続けなければならない。
文壇の争いは、表面上は文学的な論争に見えるが、その本質は政治的なものだ。誰が権力に近く、誰が権力から遠いか。それによって「正」と「邪」が決まる。この構造を打ち破らない限り、中国の文学に真の自由はない。
私の文章が「冷箭」だと言われるなら、それで結構だ。暗闇の中では、いかなる光も「冷箭」に見えるものだ。しかし闇を照らすのは、常に光なのだ。
第13節
(1926年雑文の続き。魯迅は教育界と文壇の問題をさらに論じる。)
教育というものは、本来、人を自由にするためのものであるはずだ。しかし中国の教育は、むしろ人を束縛するための道具になっている。学校は官僚機構の末端であり、教師は官僚の下僕であり、学生は将来の官僚予備軍にすぎない。
楊蔭楡女史の事件は、まさにこの構造の縮図であった。学長が学生を弾圧し、政府がそれを支持する。学生が抵抗すれば「暴徒」と呼ばれ、知識人が異議を唱えれば「学匪」と呼ばれる。この国では、権力に逆らう者はすべて「匪」なのだ。
しかし歴史が教えるところでは、今日の「匪」が明日の「英雄」になることも珍しくない。問題は、その転換が常に血を伴うということだ。三月十八日の犠牲者たちは、まさにこの転換期に血を流したのである。
文壇においても同じ構造がある。「正人君子」たちは互いに推薦し合い、互いに称え合い、閉じた円環を形成している。この円環の外にいる者は、いかに才能があろうとも、「下流」「無礼」と呼ばれる。これは豪猪の比喩そのものだ。棘のある者同士は適度な距離を保つが、棘のない者は容赦なく刺される。
私は棘のない者の側に立つ。なぜなら、真の文学は、棘を持たない者の心から生まれるものだからだ。
第14節
(1926年雑文の続き。北京の政治情勢と知識人の態度についての論評。)
北京は相変わらず騒然としている。軍閥同士の争い、政府の腐敗、列強の干渉——すべてが入り乱れて、一般の民衆はただ翻弄されるばかりだ。しかし文壇では、まるでこれらが存在しないかのように、「純文学」「芸術至上」が叫ばれている。
「純文学」とは何か。それは政治から目を逸らすための口実にすぎない。文学が人生から離れたら、それはもはや文学ではなく、遊戯にすぎない。遊戯としての文学は、権力者にとってこの上なく都合がよい。なぜなら、人々が文学遊戯に耽溺している間は、政治に口を出さないからだ。
「正人君子」たちが「純文学」を唱えるのは、この理由による。彼らは自ら政治に深く関わりながら、他人には政治から離れることを勧める。自分たちだけが権力の果実を享受し、他人には芸術の象牙の塔に閉じこもることを求める。
しかし血が流されている時に、花の美しさを論じるのは、果たして「高尚」と言えるだろうか。四十余名の若者が殺された時に、詩の韻律を議論するのは、果たして「文化」と言えるだろうか。
私は言いたい。文学は武器である。少なくとも、嘘と暴力に対する武器であるべきだ。ペンは剣より強いと言われるが、それはペンが真実を書く時に限られる。嘘を書くペンは、剣よりも卑劣である。
第15節
(1926年雑文の続き。魯迅は学界・文壇の諸問題について引き続き論じる。)
中国の知識人の悲劇は、彼らが常に二つの選択肢の間で揺れ動いていることだ。一方では真理を追求したいという欲求があり、他方では権力に迎合して安全を確保したいという欲求がある。この二つの欲求が矛盾する時——そしてそれは常に矛盾するのだが——大多数の知識人は後者を選ぶ。
陳源教授はその典型である。彼は「公正」を標榜しながら、常に権力者の側に立つ。「学問の自由」を唱えながら、章士釗の教育行政に追従する。「閑事を管しない」と宣言しながら、自分に不都合な者に対しては容赦なく攻撃する。
このような知識人が「学者」として崇められる社会は、すでに病んでいると言わざるを得ない。真の学者は、権力にではなく真理に仕える者である。真の文士は、権力者にではなく民衆に語りかける者である。
しかし中国の現実は、これとは正反対だ。「学者」は権力の番犬であり、「文士」は権力の道化師である。彼らは互いに称え合い、互いの地位を保証し合い、一般の民衆を見下す。
私がこれらの「正人君子」を攻撃するのは、個人的な恨みからではない。この腐った構造そのものを打ち破りたいからだ。一人の陳源を倒しても、別の陳源が現れるだろう。しかし、この構造の本質を暴露し続ければ、いつかは人々も気づくはずだ。
第16節
(1926年雑文の続き。魯迅は中国社会と文化の根本的問題について考察する。)
中国には「中庸」という美徳がある。しかし「中庸」とは何か。実のところ、それは「何もしない」ことの美名にすぎない。極端を避けるという名目の下に、あらゆる改革を妨げ、あらゆる前進を阻む。
三月十八日に青年たちが殺された時、「中庸」の徒は言った——「双方に非がある」と。政府にも非はあるが、学生たちも行き過ぎだったと。しかし一方は銃を持ち、一方は素手であった。一方は権力を持ち、一方は何も持たなかった。この両者を「双方」と呼ぶこと自体が、すでに権力者への加担なのだ。
「中庸」は弱者を黙らせるための武器として使われる。強者が暴力を振るう時、「中庸」の徒は「双方とも自制すべきだ」と言う。しかし弱者はもともと自制しているのだ。自制の結果が死であるなら、それは自制ではなく自殺である。
私は「中庸」を信じない。極端であることは、時として必要だ。なぜなら、この世界は極端に不正であるから、極端に正しくあることでしか、均衡を回復できないからだ。
文学においても同じだ。「温厚」な文学が尊ばれ、「激烈」な文学は忌避される。しかし世の中が温厚であるなら、激烈な文学は必要ない。世の中が激烈に不正であるからこそ、激烈な文学が必要なのだ。
私の文章が激烈だと言われるなら、それは世の中がそれだけ不正であることの証左だ。世の中が正しくなれば、私の文章もおのずと穏やかになるであろう。しかしその日が来るまでは、私は書き続ける。
第17節
「いかに書くか」という問題は、私がかつて一度も考えたことのないものであった。世の中にこのような問題があることを初めて知ったのは、まだ二週間前にすぎない。その時たまたま街に出て、たまたま丁卜書店に入り、たまたま一冊の『こうやる』を見かけて買い求めた。これは一種の雑誌で、表紙には馬に乗った少年兵士が描かれていた。私にはかねてから一種の偏見がある。表紙にこうした兵士の絵が描かれている本は、たいてい戦争を美化するか、あるいは冒険小説の類であると。しかしこの本はそうではなかった。
内容を読んでみると、これは実際の生活における労働者や農民の具体的な闘争の記録と方法を述べたもので、いわゆる「文学的」な修飾とは無縁のものであった。私はここにおいて初めて「いかに書くか」という問題を真剣に考え始めた。
私はこれまで、書くことは自然にできるものだと思っていた。見たこと、感じたこと、考えたことを、ありのままに書けばよいと。しかし実際にはそう簡単ではない。何を書くか、誰のために書くか、いかに書くか——これらの問題は、それぞれ独立しているようでいて、実は不可分に結びついている。
「いかに書くか」は、結局のところ「誰のために書くか」という問題に帰着する。権力者のために書くなら、いかに美しい言葉を連ねても、それは嘘である。民衆のために書くなら、たとえ粗削りであっても、それは真実である。
第18節
この二句は時に役に立つこともある。それは私がすでに白雲路の借家に引っ越していた頃のことで、ある日、巡査が電灯を盗む泥棒を捕まえた。管理人の陳公がそれに続いて一方で罵り、一方で殴った。一通り罵ったが、私がその中で聞き取れたのはこの二句だけであった。しかしそれでもう全部わかったような気がした。心の中で思った——「彼が言っているのは、おそらく屋外の電灯がほとんど全部盗まれてしまったということだろう」と。
広東語は私にとって異国の言葉のようなものだが、長く暮らしていると、不思議なもので、断片的な語句が耳に馴染んでくる。完全に理解できなくとも、文脈と状況から大意を推し量ることができるようになる。これは言語というものの本質に関わる問題かもしれない。
人は必ずしも言葉のすべてを理解する必要はない。場面と口調と表情と——つまり言葉以外のすべてが、言葉の不足を補ってくれる。これは文学においても同じだ。作家が一字一句を完璧に書く必要はない。読者は文脈から、書かれていないことまで読み取るのだ。
第19節
本日、民国十六年五月二十九日、呂純陽先師降臨し、汝が信心深き女性にして広西の人なることを明らかにせり。汝は今生人と為り、心善く清潔なり。今、天上の玉皇、横財四千五百両の銀を汝に賜う。汝は信じて福を享け、子を養い女を育つべし。ただしこの財は八回に分けて足る。今年七月末にはただ白鴿票七百五十元前後を当てるのみ。老後の結末に一子あり、第三位に官星発達し、官太の身分を得る……
これは私が偶然手に入れた一通の迷信的な手紙の文面である。おそらく誰かが路上で拾い、あるいは郵便受けに投げ込まれたものであろう。中国の民間には今なおこうした迷信が蔓延している。
注目すべきは、この種の手紙が常に金銭と結びついていることだ。「横財」「白鴿票」——つまり宝くじによる一攫千金の夢。そして「官星発達」——つまり出世栄達。中国人の二大欲望がここに凝縮されている。
迷信は無知の産物だと言われるが、必ずしもそうではない。迷信は絶望の産物でもある。現実の世界に希望が見出せない時、人は超自然的な力に縋るのだ。
第20節
「我々の映画の祖国的目的(der vaterlaendische Zweck)が、その内面の構造と事件の時間的制限をも規定している。だからビスマルクの少年時代は、ごく簡略な冒頭を占めるにすぎない。(中略)そしてこの物語は、一八七一年のドイツ建国をもって結末とするべきである。なぜか。それに続く時代は、もはやビスマルクの時代ではなく……」
これはドイツのビスマルク映画についての文章の引用であるが、私がここから考えたのは、いわゆる「祖国的目的」なるものが芸術をいかに歪めるかという問題である。
映画であれ文学であれ、「祖国的目的」が先に立てば、事実は都合よく切り取られ、配列される。ビスマルクの少年時代は「簡略な冒頭」にされ、建国後の失策と没落は完全に省かれる。残るのは英雄譚だけだ。
中国にも同じ傾向がある。歴史上の人物は常に「聖人」か「暴君」かに二分され、その中間の、人間としての複雑さは捨象される。文学も同じだ。「祖国的目的」に奉仕する文学は、必然的にプロパガンダとなる。
第21節
一方では懲罰を加え、一方では騙しにかかる。正義、人道、公理の類の言葉が、また天を舞うであろう。しかし我々は覚えている。ヨーロッパ大戦の時にも一度舞ったことがあり、我々の多くの苦力を騙して前線に送り、彼らの代わりに死なせ、続いて北京の中央公園に、恥知らずで、愚の骨頂の「公理戦勝」の牌坊を建てたことを(もっとも後に改められたが)。今度はどうなるか。
帝国主義の手法は常に同じだ。まず武力で威嚇し、次に「文明」「正義」の仮面をかぶる。被圧迫民族の人々は、この二重の攻撃にさらされる——銃弾と言葉と。しかも言葉の攻撃の方が、銃弾よりもはるかに陰険である。なぜなら、銃弾は体を傷つけるだけだが、言葉は魂を侵すからだ。
「公理戦勝」——なんという皮肉な言葉であろう。大戦で「勝利」したのは公理ではなく、より強い帝国主義であった。そしてその「勝利」の果実は、敗者にではなく、勝者の同盟国にすら均等に分配されなかった。中国は「戦勝国」の一つであったにもかかわらず、山東問題では列強の犠牲にされた。
歴史は繰り返す。帝国主義は何度でも「正義」を振りかざし、何度でも弱者を踏みにじる。我々がなすべきことは、この繰り返しのパターンを認識し、二度と騙されないことだ。
第22節
アメリカの作家の作品で、私が見たことがあるのは、シーゲルの木版画『パリ・コミューン』(The Paris Commune: A Story in Pictures by William Siegel)であり、ニューヨークのジョン・リード・クラブ(John Reed Club)の出版であった。もう一冊、石版画のグロッパー(Gropper)の作品集もあった。
これらの作品は、いわゆる「純芸術」の観点からすれば、粗削りで未熟かもしれない。しかしそこには生きた力がある。実際の闘争から生まれた表現であるがゆえに、技巧的な洗練を欠いていても、見る者の心を打つのだ。
中国にも木版画の伝統はある。しかし近年の木版画運動は、主に外国の影響を受けて始まったものだ。とりわけドイツ表現主義とソビエトの版画の影響が大きい。私はこの運動を支持する。なぜなら、木版画は庶民の芸術だからだ。油彩画やブロンズ彫刻と違い、木版画は安価な材料で制作でき、大量に複製できる。つまり、芸術を特権階級の独占物から解放するのだ。
第23節
しかし不思議なことに、またもや一つの書店がこの本を印刷する気になったのだ。印刷するなら勝手にすればよいのだが、そうなると読者に会わなければならなくなり、ここに二点の声明を加えておく必要が生じた。誤解を避けるためである。
その一。私は今、左翼作家連盟の一員である。近頃の書籍の広告を見ると、作家がひとたび左に転じれば、旧作もたちまち革命的であったことにされてしまう大勢である。しかし私はここではっきり言っておく。この書の中の旧作は、決して革命的なものではない。それはただ、一個の人間が自分の生きた時代を見つめ、感じ、書き留めたものにすぎない。
その二。私の文章には、しばしば矛盾がある。それは私自身の思想が変化してきたからであり、また、各々の文章が書かれた時と場所が異なるからでもある。矛盾を恐れて何も書かないよりも、矛盾を含みながらも書き続ける方が、はるかに誠実だと私は考える。
第24節
私はいつも『涛声』を読んでおり、しばしば「痛快なり!」と叫んでいる。しかし今回、周木斎先生の「人を罵ることと自らを罵ること」という文章を見て、その中で北平の大学生が「たとえ難に赴けなくとも、最低最低の限度として難から逃げるべきではない」と述べ、五四運動時代の鋭い鋒芒が消え失せたことを嘆じているのを読んで、喉に骨が刺さったような思いがした。言わずにはいられない。なぜなら私は周先生の主張と正反対であり、学生はまず命を大切にすべきだと考えるからだ。
若い命は貴い。無駄に犠牲にされてはならない。三月十八日の教訓を忘れてはならない。四十余名の青年が殺され、結果として何が変わったか。段祺瑞はやがて退陣したが、それは青年たちの血のためではなく、軍閥間の力関係が変わったためにすぎない。
「逃げるな」と言う者は、自分は安全な場所にいる。前線に立つのは常に若者だ。私は若者に言いたい——まず生き延びよ。生き延びて、より効果的な方法で闘え。犬死にすることが勇気ではない。生き延びて闘い続けることこそが、真の勇気だ。
第25節
彼はついに決定的に変わった。あるとき、はっきりと私に告げた。今後は作品の内容と形式を転換すべきだと。私は言った——「それは難しかろう。たとえば刀を使い慣れた者に、今度は棍棒を振れと言っても、どうしてできようか。」彼は簡潔に答えた——「学びさえすればよい!」
彼の言ったことは空言ではなく、本当に一から学び直し始めた。その頃、彼は一人の友人を連れて私を訪ねてきたことがあった。(以下、魯迅は柔石の人物像と創作活動の変遷を回顧する。柔石は浙江省出身の若い作家で、当初はロマンティックな文学に傾倒していたが、次第に社会的意識に目覚め、プロレタリア文学への転換を決意した。魯迅は彼の真摯さと誠実さを高く評価しつつも、この転換がいかに困難であるかを憂慮していた。柔石は後に国民党当局に逮捕され、1931年に処刑された。この文章は魯迅の深い悲しみと怒りに満ちた追悼文である。)
第26節
裏庭の芝生の上で、ショーを中心に、記者たちが半円陣を組み、世界周遊に代えて、記者の面々の展覧会を開いた。ショーはまたもや色とりどりの質問に遭い、まるで『ブリタニカ百科事典』を繰っているかのようであった。
ショーはあまり多くを語りたくないようだった。しかし話さなければ記者たちは決して許さないので、ついに語り始めた。多くを語ればこそ、今度は記者の方が困った。なぜなら彼の答えは常に予想外であり、常に皮肉に満ちていたからだ。
バーナード・ショーの中国訪問は、中国の知識人にとって一つの試金石であった。彼を歓迎する者もいれば、彼を排斥する者もいた。歓迎する者は彼のウィットと社会批判を愛し、排斥する者は彼の辛辣さと率直さを恐れた。
しかしショーが中国で最も物議を醸したのは、彼が中国の現状について何も知らないにもかかわらず、あたかもすべてを知っているかのように語ったことだ。これは西洋の知識人の通弊である。彼らは自国の問題については鋭い観察力を持つが、他国の問題については往々にして表面的な印象で断じてしまう。
第27節
しかし自分で創作しようとしたのではなく、重視したのはむしろ紹介と翻訳であり、とりわけ短篇に注目し、特に圧迫されている民族の作者の作品に力を注いだ。なぜならあの頃は排満論が盛んで、一部の青年たちは、叫び声を上げ反抗する作者を同志と見なしていたからだ。だから「小説作法」の類は一冊も読んだことがないが、短篇小説はずいぶん読んだ。半分は自分でも好きだったからであり、残りの半分は翻訳の材料を探すためであった。
翻訳という仕事は、創作とは異なる困難を伴う。原作者の意図を正確に伝えなければならないと同時に、読者が理解できる言葉で表現しなければならない。この二つの要求は、しばしば矛盾する。忠実な翻訳は読みにくくなり、読みやすい翻訳は原意から逸れる。
しかし私は「硬訳」を選んだ。なぜなら、読みやすさのために原意を犠牲にすることは、読者を侮ることだからだ。読者は、少しの困難を乗り越えてでも、原作者の真意に触れたいと思うはずだ。少なくとも、そう信じたいのだ。
第28節
しかし熱血のほかに、守常先生にはまだ遺文がある。残念ながら遺文について、私はあまり語ることができない。なぜなら携わった仕事が互いに異なり、『新青年』の時代には、彼を同じ戦線に立つ仲間と見なしてはいたが、しかし彼の文章に注意を払ってはいなかったからだ。たとえば騎兵は架橋に注意する必要がなく、砲兵は馬の操縦に心を砕く必要がないように、あの頃はそれも間違いではないと自負していた。だから今語れることは……
李大釗先生は中国共産党の創設者の一人であり、1927年に軍閥の張作霖によって処刑された。彼と魯迅は『新青年』誌の同人として文学革命を共に戦ったが、魯迅は文学の道を、李大釗は政治の道を選んだ。
魯迅はここで、李大釗の遺文について語ることの困難さを率直に認める。二人は同じ時代を生き、同じ理想を抱きながらも、異なる方法でそれを追求した。魯迅は自分の「戦場」が文学であったことを弁明しつつも、李大釗の政治的勇気に対する深い敬意を表している。
第29節
ふと『本草綱目』をめくって、この一点を思い出した。この一部の書は、ごく普通の本であるが、中には豊かな宝蔵が含まれている。もちろん、風を捕らえ影を追うような記載も免れ得ないが、しかし大部分の薬品の効用は、長年の経験を経てこそ、ようやくこの程度まで知ることができたのであり、とりわけ驚くべきは毒薬についての叙述である。我々はこれまで好んで古聖人を恭しく讃えてきたが、しかし考えてみれば、毒薬の効用を知るためには、必ず誰かがそれを口にして試さなければならなかったのだ。
神農氏が百草を嘗めたという伝説は、おそらく事実の反映であろう。しかし実際に嘗めたのは神農氏一人ではなく、数え切れないほどの無名の人々であったはずだ。そして彼らの中の多くは、毒に当たって命を落としたに違いない。
『本草綱目』のような書物は、こうした無数の犠牲の上に成り立っている。学問とはすべてそういうものだ。先人の試行錯誤と犠牲の上に、後人の知識が築かれる。しかし我々はしばしば、先人の犠牲を忘れ、成果だけを享受する。
医学と文学は、この点で似ている。文学もまた、無数の試行錯誤の上に成り立っている。古人の「毒を嘗める」行為——つまり新しい表現を試み、失敗し、時に嘲笑され、しかしその中からわずかに残ったものが後世の文学の糧となる。
第30節
翻訳を重視し、鑑とすることは、実は創作を促進し奨励することでもある。しかし数年前から、「硬訳」を攻撃する「批評家」が現れ、自分の古い瘡蓋の末屑を掻き落とし、膏薬の上の麝香のように少ないからこそ、自ら奇珍だと思い込んでいる。そしてこの風潮がなんと広まってしまい、多くの新しい論者が今年になって舶来の洋貨を軽蔑し始めた。武人の「外国をやっつけろ」の叫びに比べれば、いくらかましかもしれないが、しかし本質においては同じである。
「硬訳」への攻撃は、実は翻訳そのものへの攻撃であり、ひいては中国の文学が外国の文学から学ぶことへの拒否である。これは鎖国の精神の文学版と言えよう。
なぜ翻訳が必要なのか。それは中国の文学が、長い封建時代の間に、表現の幅を著しく狭めてしまったからである。人間の感情と思想のすべてを表現するには、中国語の既存の文学的語彙だけでは足りない。外国の文学から学ぶことによって、我々は新しい表現の可能性を開拓できるのだ。
「硬訳」が読みにくいという批判は、もっともなところもある。しかしそれは「翻訳するな」という結論にはならない。結論は「もっと良い翻訳をせよ」であるべきだ。翻訳の質を高めるためには、まず翻訳が存在しなければならない。「硬訳」を攻撃してすべての翻訳を否定するのは、風呂の水と一緒に赤子を捨てるようなものだ。