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热风

熱風 (Hot Wind)

中文(原文) 日本語(翻訳)

【热风】




【题记】




现在有谁经过西长安街一带的,总可以看见几个衣履破碎的穷苦孩子叫卖报纸。记得三四年前,在他们身上偶而还剩有制服模样的残余;再早,就更体面,简直是童子军的拟态。


那是中华民国八年,即西历一九一九年,五月四日北京学生对于山东问题的示威运动以后,因为当时散传单的是童子军,不知怎的竟惹了投机家的注意,童子军式的卖报孩子就出现了。其年十二月,日本公使小幡酉吉抗议排日运动,情形和今年大致相同;只是我们的卖报孩子却穿破了第一身新衣以后,便不再做,只见得年不如年地显出穷苦。


我在《新青年》的《随感录》中做些短评,还在这前一年,因为所评论的多是小问题,所以无可道,原因也大都忘却了。但就现在的文字看起来,除几条泛论之外,有的是对于扶乩、静坐、打拳而发的;有的是对于所谓“保存国粹”而发的;有的是对于那时旧官僚的以经验自豪而发的;有的是对于上海《时报》的讽刺画而发的。记得当时的《新青年》是正在四面受敌之中,我所对付的不过一小部分;其他大事,则本志具在,无须我多言。


五四运动之后,我没有写什么文字,现在已经说不清是不做,还是散失消灭的了。但那时革新运动,表面上却颇有些成功,于是主张革新的也就蓬蓬勃勃,而且有许多还就是在先讥笑,嘲骂《新青年》的人们,但他们却是另起了一个冠冕堂皇的名目:新文化运动。这也就是后来又将这名目反套在《新青年》身上,而又加以嘲骂讥笑的,正如笑骂白话文的人,往往自称最得风气之先,早经主张过白话文一样。


再后,更无可道了。只记得一九二一年中的一篇是对于所谓“虚无哲学”而发的;更后一年则大抵对于上海之所谓“国学家”而发,不知怎的那时忽而有许多人都自命为国学家了。


自《新青年》出版以来,一切应之而嘲骂改革,后来又赞成改革,后来又嘲骂改革者,现在拟态的制服早已破碎,显出自身的本相来了,真所谓“事实胜于雄辩”,又何待于纸笔喉舌的批评。所以我的应时的浅薄的文字,也应该置之不顾,一任其消灭的;但几个朋友却以为现状和那时并没有大两样,也还可以存留,给我编辑起来了。这正是我所悲哀的。我以为凡对于时弊的攻击,文字须与时弊同时灭亡,因为这正如白血轮之酿成疮疖一般,倘非自身也被排除,则当它的生命的存留中,也即证明着病菌尚在。


但如果凡我所写,的确都是冷的呢?则它的生命原来就没有,更谈不到中国的病证究竟如何。然而,无情的冷嘲和有情的讽刺相去本不及一张纸,对于周围的感受和反应,又大概是所谓“如鱼饮水冷暖自知”的;我却觉得周围的空气太寒冽了,我自说我的话,所以反而称之曰《热风》。


一九二五年十一月三日之夜,鲁迅。

【华盖集】




【题记】



在一年的尽头的深夜中,整理了这一年所写的杂感,竟比收在《热风》里的整四年中所写的还要多。意见大部分还是那样,而态度却没有那么质直了,措辞也时常弯弯曲曲,议论又往往执滞在几件小事情上,很足以贻笑于大方之家。然而那又有什么法子呢。我今年偏遇到这些小事情,而偏有执滞于小事情的脾气。


我知道伟大的人物能洞见三世,观照一切,历大苦恼,尝大欢喜,发大慈悲。但我又知道这必须深入山林,坐古树下,静观默想,得天眼通,离人间愈远遥,而知人间也愈深,愈广;于是凡有言说,也愈高,愈大;于是而为天人师。我幼时虽曾梦想飞空,但至今还在地上,救小创伤尚且来不及,那有余暇使心开意豁。立论都公允妥洽,平正通达,像“正人君子”一般;正如沾水小蜂,只在泥土上爬来爬去,万不敢比附洋楼中的通人,但也自有悲苦愤激,决非洋楼中的通人所能领会。


这病痛的根柢就在我活在人间,又是一个常人,能够交着“华盖运”。


我平生没有学过算命,不过听老年人说,人是有时要交“华盖运”的。这“华盖”在他们口头上大概已经讹作“镬盖”了,现在加以订正。所以,这运,在和尚是好运:顶有华盖,自然是成佛作祖之兆。但俗人可不行,华盖在上,就要给罩住了,只好碰钉子。我今年开手作杂感时,就碰了两个大钉子:一是为了《咬文嚼字》,一是为了《青年必读书》。署名和匿名的豪杰之士的骂信,收了一大捆,至今还塞在书架下。此后又突然遇见了一些所谓学者、文士、正人、君子等等,据说都是讲公话,谈公理,而且深不以“党同伐异”为然的。可惜我和他们太不同了,所以也就被他们伐了几下,——但这自然是为“公理”之故,和我的“党同伐异”不同。这样,一直到现下还没有完结,只好“以待来年”。


也有人劝我不要做这样的短评。那好意,我是很感激的,而且也并非不知道创作之可贵。然而要做这样的东西的时候,恐怕也还要做这样的东西,我以为如果艺术之宫里有这么麻烦的禁令,倒不如不进去;还是站在沙漠上,看看飞沙走石,乐则大笑,悲则大叫,愤则大骂,即使被沙砾打得遍身粗糙,头破血流,而时时抚摩自己的凝血,觉得若有花纹,也未必不及跟着中国的文士们去陪莎士比亚吃黄油面包之有趣。


然而只恨我的眼界小,单是中国,这一年的大事件也可以算是很多的了。我竟往往没有论及,似乎无所感触。我早就很希望中国的青年站出来,对于中国的社会,文明,都毫无忌惮地加以批评,因此曾编印《莽原周刊》,作为发言之地,可惜来说话的竟很少。在别的刊物上,倒大抵是对于反抗者的打击,这实在是使我怕敢想下去的。


现在是一年的尽头的深夜,深得这夜将尽了,我的生命,至少是一部分的生命,已经耗费在写这些无聊的东西中,而我所获得的,乃是我自己的灵魂的荒凉和粗糙。但是我并不惧惮这些,也不想遮盖这些,而且实在有些爱他们了,因为这是我转辗而生活于风沙中的瘢痕。凡有自己也觉得在风沙中转辗而生活着的,会知道这意思。


我编《热风》时,除遗漏的之外,又删去了好几篇。这一回却小有不同了,一时的杂感一类的东西,几乎都在这里面。


一九二五年十二月三十一日之夜,记于绿林书屋东壁下。

【二心集】




【序言】



这里是一九三○年与三一年两年间的杂文的结集。


当三○年的时候,期刊已渐渐的少见,有些是不能按期出版了,大约是受了逐日加紧的压迫。《语丝》和《奔流》,则常遭邮局的扣留,地方的禁止,到底也还是敷延不下去。那时我能投稿的,就只剩了一个《萌芽》,而出到五期,也被禁止了,接着是出了一本《新地》。所以在这一年内,我只做了收在集内的不到十篇的短评。


此外还曾经在学校里演讲过两三回,那时无人记录,讲了些什么,此刻连自己也记不清楚了。只记得在有一个大学里演讲的题目,是《象牙塔和蜗牛庐》。大意是说,象牙塔里的文艺,将来决不会出现于中国,因为环境并不相同,这里是连摆这“象牙之塔”的处所也已经没有了;不久可以出现的,恐怕至多只有几个“蜗牛庐”。蜗牛庐者,是三国时所谓“隐逸”的焦先曾经居住的那样的草窠,大约和现在江北穷人手搭的草棚相仿,不过还要小,光光的伏在那里面,少出、少动、无衣、无食、无言。因为那时是军阀混战,任意杀掠的时候,心里不以为然的人,只有这样才可以苟延他的残喘。但蜗牛界里那里会有文艺呢,所以这样下去,中国的没有文艺,是一定的。这样的话,真可谓已经大有蜗牛气味的了,不料不久就有一位勇敢的青年在政府机关的上海《民国日报》上给我批评,说我的那些话使他非常看不起,因为我没有敢讲共产党的话的勇气。谨案在“清党”以后的党国里,讲共产主义是算犯大罪的,捕杀的网罗,张遍了全中国,而不讲,却又为党国的忠勇青年所鄙视。这实在只好变了真的蜗牛,才有“庶几得免于罪戾”的幸福了。


而这时左翼作家拿着苏联的卢布之说,在所谓“大报”和小报上,一面又纷纷的宣传起来,新月社的批评家也从旁很卖了些力气。有些报纸,还拾了先前的创造社派的几个人的投稿于小报上的话,讥笑我为“投降”,有一种报则载起《文坛贰臣传》来,第一个就是我,——但后来好象并不再做下去了。


卢布之谣,我是听惯了的。大约六七年前,《语丝》在北京说了几句涉及陈源教授和别的“正人君子”们的话的时候,上海的《晶报》上就发表过“现代评论社主角”唐有壬先生的信札,说是我们的言动,都由于墨斯科的命令,这又正是祖传的老谱,宋末有所谓“通虏”,清初又有所谓“通海”,向来就用了这类的口实,害过许多人们的。所以含血喷人,已成了中国士君子的常经,实在不单是他们的识见,只能够见到世上一切都靠金钱的势力。至于“贰臣”之说,却是很有些意思的,我试一反省,觉得对于时事,即使未尝动笔,有时也不免于腹诽,“臣罪当诛兮天皇圣明”,腹诽就决不是忠臣的行径。但御用文学家的给了我这个徽号,也可见他们的“文坛”上是有皇帝的了。


去年偶然看见了几篇梅林格(Franz Mehring)的论文,大意说,在坏了下去的旧社会里,倘有人怀一点不同的意见,有一点携贰的心思,是一定要大吃其苦的。而攻击陷害得最凶的,则是这人的同阶级的人物。他们以为这是最可恶的叛逆,比异阶级的奴隶造反还可恶,所以一定要除掉他。我才知道中外古今,无不如此,真是读书可以养气,竟没有先前那样“不满于现状”了,并且仿《三闲集》之例而变其意,拾来做了这一本书的名目。然而这并非在证明我是无产者。一阶级里,临末也常常会自己互相闹起来的,就是《诗经》里说过的那“兄弟阋于墙”,——但后来却未必“外御其侮”。例如同是军阀,就总在整年的大家相打,难道有一面是无产阶级么?而且我时时说些自己的事情,怎样地在“碰壁”,怎样地在做蜗牛,好象全世界的苦恼,萃于一身,在替大众受罪似的,也正是中产的智识阶级分子的坏脾气。只是原先是憎恶这熟识的本阶级,毫不可惜它的溃灭,后来又由于事实的教训,以为惟新兴的无产者才有将来,却是的确的。


自从一九三一年二月起,我写了较上年更多的文章,但因为揭载的刊物有些不同,文字必得和它们相称,就很少做《热风》那样简短的东西了;而且看看对于我的批评文字,得了一种经验,好象评论做得太简括,是极容易招得无意的误解,或有意的曲解似的。又,此后也不想再编《坟》那样的论文集,和《壁下译丛》那样的译文集,这回就连较长的东西也收在这里面,译文则选了一篇《现代电影与有产阶级》附在末尾,因为电影之在中国,虽然早已风行,但这样扼要的论文却还少见,留心世事的人们,实在很有一读的必要的。还有通信,如果只有一面,读者也往往很不容易了然,所以将紧要一点的几封来信,也擅自一并编进去了。


一九三二年四月三十日之夜,编讫并记。

【鲁迅先生年谱 许寿裳  】




【凡例】




一 先生自民国元年五月抵京之日始,即写日记,从无间断,凡天气之变化如阴、晴、风雨,人事之交际如友朋过从,信札往来,书籍购入,均详载无遗,他日付印,足供参考。故年谱之编,力求简短,仅举荦荦大端而已。


二 先生著作既多,译文亦富,另有著译书目,按年排比,故本谱于此二项,仅记大略,未及详写。


三 先生著译之外,复勤于纂辑古书,钞录古碑,书写均极精美,谱中亦不备举。


四 先生工作毕生不倦,如编辑各种刊物,以及为人校订稿件之类,必忠必信,贡献亦多,谱中亦从略不述。


五 本谱材料,有奉询于先生母太夫人者,亦有得于夫人许广平及令弟作人建人者,合并声明。




二十六年五月 日 许寿裳记




民国前三十一年  (清光绪七年辛巳西历 


         一八八一年)      先生一岁


八月初三日,生于浙江绍兴城内东昌坊口。姓周,名树人,字豫才,小名樟寿,至三十八岁,始用鲁迅为笔名。


前二十六年  (十二年丙戌 


       一八八六年)  六岁


是年入塾,从从叔祖玉田先生初诵《鉴略》。


前二十四年  十四岁戊子 


       一八八八年  八岁


十一月,以妹端生十月即夭,当其病笃时,先生在屋隅暗泣,母太夫人询其何故,答曰:


“为妹妹啦。”

【熱風】




【題記】




今、西長安街あたりを通る者は、必ず数人の衣服も靴もぼろぼろの貧しい子供たちが新聞を売り歩いているのを目にするだろう。三四年前には、彼らの身にはまだ制服の名残りがいくらか残っていた記憶がある。さらに遡れば、もっと立派で、まさにボーイスカウトの擬態であった。


あれは中華民国八年、すなわち西暦一九一九年、五月四日に北京の学生が山東問題に対して示威運動を行った後のことである。当時ビラを配っていたのがボーイスカウトだったため、どういうわけか投機家の注意を引き、ボーイスカウト風の新聞売りの子供が出現した。その年の十二月、日本公使小幡酉吉が排日運動に抗議した。情勢は今年とおおむね同じだったが、ただ我々の新聞売りの子供たちは最初の新しい服を着潰した後は二度と新調せず、年を追うごとに貧しさが露わになるばかりだった。


私が『新青年』の『随感録』で短評を書いていたのは、これよりさらに一年前のことである。論評したのは大半が些事であったから、特に述べるまでもなく、理由もおおかた忘れてしまった。しかし現在の文章を見返すと、いくつかの汎論のほかに、扶乩・静坐・拳法に対して発したもの、いわゆる「国粋保存」に対して発したもの、当時の旧官僚が経験を誇りとすることに対して発したもの、上海『時報』の風刺画に対して発したものなどがある。当時の『新青年』は四面楚歌の中にあり、私が応じたのはその一小部分に過ぎなかったことを覚えている。その他の大事は、本誌自体に載っており、私が多言する必要はない。


五四運動の後、私は何も書かなかった。今となっては書かなかったのか、散逸してしまったのか、もはや判然としない。しかし当時の革新運動は、表面上はかなりの成功を収めていたので、革新を主張する者も勢いづいた。しかも以前『新青年』を嘲笑し罵倒していた人々が少なからずその中にいたのだが、彼らは別の仰々しい名目を掲げた——新文化運動と。これが後にまたその名目を逆に『新青年』に被せて嘲笑罵倒することになったのは、白話文を罵る者が往々にして自分こそ最も先に風気を得て、とうの昔に白話文を主張していたと自称するのと同じである。


その後は、さらに述べるべきことがない。ただ一九二一年中の一篇はいわゆる「虚無哲学」に対して発したものであったこと、さらにその翌年は大体において上海のいわゆる「国学家」に対して発したものであったことを覚えている。どういうわけかその頃、突然多くの人々が自ら国学家を任じたのだ。


『新青年』出版以来、それに応じて改革を嘲罵し、後に改革を賛成し、さらに後に改革者を嘲罵してきた一切の者たちは、今や擬態の制服はとうに破れ果て、自らの本相を露わにしている。まさに「事実は雄弁に勝る」であり、紙筆と喉舌による批評を待つまでもない。だから私の時局に応じた浅薄な文章も、顧みることなく、消滅に任せるべきであった。しかし数人の友人は現状と当時とで大して変わりはないと考え、まだ残しておいてよいと言って、編集してくれた。これこそ私の悲しむところである。およそ時弊への攻撃は、文章は時弊と共に滅ぶべきものだと私は思う。それはちょうど白血球が腫れ物を化膿させるようなもので、もし白血球自身も排除されなければ、それが生存し続ける限り、病菌がまだ存在していることを証明しているからだ。


しかし、もし私の書いたものがすべて本当に冷たいものであるなら? そうであれば、それはもともと生命を持たず、中国の病状がいかなるものかを論じるまでもない。しかしながら、無情の冷嘲と有情の諷刺との距離は本来紙一重であり、周囲への感受と反応もまた、いわゆる「如魚飲水、冷暖自知」であろう。私は周囲の空気があまりにも寒冽だと感じ、自ら自分の言葉を語った。それゆえかえってこれを『熱風』と名づけたのだ。


一九二五年十一月三日の夜、魯迅。

【華蓋集】




【題記】



一年の終わりの深夜に、この一年に書いた雑感を整理してみると、『熱風』に収められた丸四年間に書いたものよりもなお多かった。意見は大部分まだ同じだが、態度はあの頃ほど率直ではなくなり、措辞もしばしば回りくどくなり、議論もまた往々にしていくつかの些事に執着して、大方の嗤笑を買うに十分である。しかしそれも仕方がない。私は今年たまたまこうした些事に出くわし、しかも些事に執着する性分を持ち合わせているのだ。


偉大な人物は三世を洞見し、一切を観照し、大いなる苦悩を経て、大いなる歓喜を嘗め、大いなる慈悲を発するものだと私は知っている。しかしまた、それには深く山林に入り、古木の下に坐し、静観黙想して天眼通を得なければならず、人間から遠ざかるほど人間を深く広く知り、よってあらゆる言説もまた高く大きくなり、かくして天人の師となるのだと知っている。私は幼い頃、空を飛ぶ夢を見たが、今なお地上にいて、小さな傷の手当てさえ間に合わない有様で、心を開き意を豁達にする余裕などあろうはずがない。立論はすべて公允妥当、平正通達で、「正人君子」のようだというわけにもいかない。それはちょうど水に落ちた小蜂が泥の上を這い回るばかりで、決して洋館の中の通人に比肩する気はないが、それでも悲苦と憤激はあり、洋館の中の通人には到底理解できないものなのだ。


この病痛の根底は、私が人間世界に生き、しかも凡人であり、「華蓋運」に巡り合うことができるということにある。


私は生まれてこのかた占いを学んだことはないが、年長者の話では、人には時として「華蓋運」に当たることがあるという。この「華蓋」は彼らの口頭では「鑊蓋」(鍋蓋)に訛っているようだが、ここで訂正しておく。この運は、僧侶にとっては吉運である。頭上に華蓋を頂くのは、当然ながら成仏立祖の兆しだ。しかし俗人はそうはいかない。華蓋が上にあれば覆い被されてしまい、釘に頭をぶつけるほかない。私は今年、雑感を書き始めた時に、大きな釘を二本ぶつけた。一つは『咬文嚼字』のため、もう一つは『青年必読書』のためだった。署名と匿名の豪傑の罵りの手紙を一大束受け取り、今なお本棚の下に押し込んである。その後また突然、いわゆる学者・文士・正人・君子等々に遭遇した。彼らはみな公言公理を語り、しかも「党同伐異」を深く是としないのだそうだ。残念ながら私は彼らとあまりにも異なっていたので、彼らに伐たれもした——しかしこれは当然「公理」のためであり、私の「党同伐異」とは異なるのだ。このまま今日に至ってもまだ終わっておらず、「来年を待つ」ほかない。


短評を書くなと忠告する人もいた。その好意には大いに感謝するし、創作の貴さを知らぬわけでもない。しかしこのようなものを書きたい時には、やはりこのようなものを書かざるを得ないのだ。もし芸術の殿堂にそれほど面倒な禁令があるなら、いっそ入らぬ方がよい。それよりも砂漠に立ち、飛砂走石を眺め、楽しければ大いに笑い、悲しければ大いに叫び、怒れば大いに罵り、たとえ砂礫に打たれて全身粗く、頭は血だらけになっても、時折自分の凝血を撫でて、何か紋様があるように思えるならば、中国の文士たちに付き従ってシェイクスピアと一緒にバター付きパンを食べるよりも、必ずしも面白くないとは限らないだろう。


しかし恨むらくは私の眼界の狭さ。中国だけでも、この一年の大事件はかなり多かったと言えるのに、私は往々にして論及せず、何の感慨もないかのようだった。私は早くから中国の青年が立ち上がって、中国の社会と文明に対して忌憚なく批評を加えることを望んでいた。そのために『莽原週刊』を編集・刊行して発言の場としたが、残念ながら発言する者はきわめて少なかった。他の刊行物では、反抗者への打撃がほとんどだった。これは実に私に考え続ける勇気を失わせるものだ。


今は一年の果ての深夜、夜はもう明けようとしている。私の生命、少なくともその一部は、これらのつまらないものを書くことに費やされ、私が得たのは自分自身の魂の荒涼と粗野である。しかし私はこれを恐れもせず、覆い隠そうとも思わず、むしろ実のところいくぶん愛おしく感じている。なぜならこれは私が風沙の中を転々として生きてきた瘢痕だからだ。自らも風沙の中を転々として生きていると感じる者には、この意味がわかるだろう。


私は『熱風』を編集した時、遺漏のほかに、さらに数篇を削除した。今回はやや異なり、折々の雑感の類いは、ほとんどすべてこの中に収めた。


一九二五年十二月三十一日の夜、緑林書屋東壁の下にて記す。

【二心集】




【序言】



ここに収めたのは一九三〇年と三一年の二年間の雑文の集成である。


三〇年の頃には、定期刊行物は次第に少なくなり、定期通りに出版できなくなったものもあった。おそらく日増しに強まる弾圧を受けたためだろう。『語絲』と『奔流』は郵便局にしばしば押収され、地方で禁止され、ついに続けられなくなった。その頃、私が投稿できたのは『萌芽』一つだけだったが、五号まで出たところで禁止され、続いて『新地』が一冊出た。だからこの一年間に、私が書いたのは集中に収められた十篇に満たない短評のみだった。


このほかに学校で二三度講演したことがあったが、当時記録する者がおらず、何を話したか今では自分でも覚えていない。ただある大学で講演した題目が「象牙の塔と蝸牛の庵」だったことだけは覚えている。大意は、象牙の塔の中の文芸は中国には将来決して出現しないだろう、なぜなら環境が異なり、ここではその「象牙の塔」を置く場所さえもうないからだ、やがて出現しうるのは、せいぜい「蝸牛の庵」がいくつかだろうということだった。蝸牛の庵とは、三国時代にいわゆる「隠逸」の焦先がかつて住んでいたような草の巣で、おそらく今の江北の貧しい人々が手で作る草の小屋に似ているが、さらに小さく、裸でその中に伏し、出ず、動かず、衣なく、食なく、言葉もない。なぜなら当時は軍閥混戦の世で、勝手に殺戮・掠奪が行われ、心中これを是としない者はこうするよりほかに残喘を延ばす術がなかったからだ。しかし蝸牛の世界に文芸などあろうはずがないから、このまま行けば中国に文芸がなくなるのは必定である。こうした話はまさに蝸牛の気味を帯びていたが、まもなく一人の勇敢な青年が政府機関の上海『民国日報』に批評を書き、私のあの話を甚だ軽蔑すると言った。なぜなら私には共産党の言葉を語る勇気がないからだと。思うに「清党」以後の党国において共産主義を語ることは大罪であり、捕殺の網は全中国に張り巡らされていた。しかし語らなければ、党国の忠勇なる青年に軽蔑される。これではまさに本物の蝸牛になって、ようやく「罪を免れる」幸福を得られるというものだ。


そしてこの頃、左翼作家がソ連のルーブルを受け取っているという説が、いわゆる「大新聞」と小新聞に次々と宣伝され、新月社の批評家も傍らから大いに力を添えた。ある新聞は、以前の創造社派の数人が小新聞に投稿した言葉を拾い上げて、私を「投降」と嘲笑した。またある新聞は「文壇弐臣伝」を連載し始め、その第一号が私だった——しかし後に続きは書かれなかったようだ。


ルーブルの噂には私は聞き慣れていた。おそらく六七年前、『語絲』が北京で陳源教授やその他の「正人君子」たちに触れる発言をした時、上海の『晶報』に「現代評論社の主役」唐有壬氏の書簡が発表され、我々の言動はすべてモスクワの命令によるものだと述べた。これはまさに祖伝の古い手口で、宋末には「通虜」(敵国への内通)、清初には「通海」(海外勢力への内通)と称し、昔からこうした口実を用いて多くの人々を害してきた。だから含血噴人(血を含んで人に吹きかける=讒言)は中国の士君子の常套手段となっており、彼らの識見がこの世のすべてが金銭の力に依ると見るに止まるというだけのことではない。「弐臣」の説はなかなか興味深い。自ら省みると、時事に対して、たとえ筆を執らなくとも、時には腹誹せずにはいられない。「臣の罪は誅に当たり、天皇は聖明なり」——腹誹は断じて忠臣の行いではない。しかし御用文学者が私にこの称号を与えたことは、彼らの「文壇」に皇帝がいることを示している。


去年たまたまメーリング(Franz Mehring)の論文を数篇見たが、大意はこうだった。崩壊しつつある旧社会の中で、もし誰かが少しでも異なる意見を抱き、いささかの携弐の心を持てば、必ず大いに苦しめられる。そして最も激しく攻撃・陥害するのは、その人と同じ階級の人物である。彼らはこれを最も憎むべき叛逆と見なし、異なる階級の奴隷の反乱よりなお憎むべきものとして、必ず排除しようとする。こうして初めて古今東西を問わず皆同じだと知った。まさに読書は気を養うもので、以前ほど「現状に不満」でなくなり、『三閑集』の例に倣いつつその意を変えて、拾い上げてこの一冊の書名としたのだ。しかしこれは私が無産者であることを証明するものではない。一つの階級の中でも、末期にはしばしば内部で争いが起こるもので、それは『詩経』に言う「兄弟牆に鬩ぐ」である——しかしその後必ずしも「外その侮りを御ぐ」とは限らない。例えば同じ軍閥同士でも年中互いに戦っているが、一方が無産階級だとでも言うのだろうか。しかも私は始終自分のことを語り、いかに「壁にぶつかり」、いかに蝸牛をしているかを述べ、全世界の苦悩を一身に集め、大衆に代わって受難しているかのようだが、これもまた中産の知識階級分子の悪い癖である。ただ当初は馴染みのこの本階級を憎悪し、その潰滅を少しも惜しまなかったが、後に事実の教訓によって、新興の無産者にのみ将来があると知ったのは確かなことだ。


一九三一年二月以降、私は前年よりも多くの文章を書いたが、掲載する刊行物がいくつか異なっていたため、文章もそれに合わせねばならず、『熱風』のような簡潔短小なものはほとんど書かなくなった。しかも私に対する批評文を見て一つの経験を得た。どうやら評論があまりに簡潔だと、無意の誤解や故意の曲解を招きやすいようだ。また今後は『墳』のような論文集や『壁下訳叢』のような訳文集を編むつもりもないので、今回はやや長いものもここに収め、訳文は一篇「現代映画と有産階級」を末尾に附した。映画は中国でもとうに流行しているが、このように要を得た論文はまだ少なく、世事に関心を持つ人々にはまことに一読の必要があるからだ。また往復書簡も、片方だけでは読者に理解しにくいことが多いので、重要なものの来信数通も僭越ながら合わせて編入した。


一九三二年四月三十日の夜、編了し記す。

【魯迅先生年譜 許寿裳】




【凡例】




 一 先生は民国元年五月に北京に到着した日より日記を書き始め、一日も欠かさなかった。天候の変化、陰晴風雨、人事の交際、友朋の往来、書簡の授受、書籍の購入に至るまで、すべて詳しく記載されている。他日印刷に付せば参考に足りよう。よって年譜の編纂にあたっては簡潔を旨とし、大要のみを挙げるに止めた。


 二 先生の著作は多く、訳文もまた豊富であり、別に著訳書目を年次順に排列してあるため、本譜においてはこの二項については概略を記すに止め、詳述していない。


 三 先生は著訳のほかに、古書の纂輯、古碑の抄録にも勤しみ、書写はいずれも極めて精美であるが、譜中にはこれも網羅していない。


 四 先生は生涯倦むことなく仕事に励み、各種刊行物の編集や他人の原稿校訂の類いに至るまで、必ず忠実であり、貢献も多かったが、譜中にはこれも略して記していない。


 五 本譜の資料には先生の母太夫人にお尋ねしたもの、また夫人の許広平および弟の作人・建人より得たものがある。合わせてここに明記する。




 二十六年五月 日 許寿裳記




 民国前三十一年  (清光緒七年辛巳 西暦


         一八八一年)      先生一歳


 八月三日、浙江紹興城内東昌坊口に生まれる。姓は周、名は樹人、字は豫才、幼名は樟寿。三十八歳にして初めて魯迅をペンネームとする。


 前二十六年  (十二年丙戌


       一八八六年)  六歳


 この年塾に入り、従叔祖の玉田先生に従い『鑑略』を初誦する。


 前二十四年  十四年戊子


       一八八八年  八歳


 十一月、妹の端が十月に夭折したことにより、その病が篤い時、先生は部屋の隅で密かに泣いていた。母太夫人がその理由を尋ねると、答えて曰く、


 「妹のためです。」

是岁一日,本家长辈相聚推牌九,父伯宜公亦与焉。先生在旁默视,从伯慰农先生因询之曰:“汝愿何人得赢?”先生立即对曰:“愿大家均赢。”其五六岁时,宗党皆呼之曰“胡羊尾巴”。誉其小而灵活也。


前二十年  十八年壬辰


      一八九二年  十二岁


正月,往三味书屋从寿镜吾先生怀鉴读。


在塾中,喜乘闲描画,并搜集图画,而对于二十四孝图之“老莱娱亲”、“郭巨埋儿”独生反感。


先生外家为安桥头鲁姓,聚族而居,幼时常随母太夫人前往,得在乡村与大自然相接触,影响甚大。《社戏》中所描写者,皆安桥头一带之景色,时正十一二岁也。外家后迁皇甫庄,小皋步等处。


十二月三十日曾祖母戴太君卒,年七十九。


前十九年  十九年癸巳  十三岁


      一八九三年


三月祖父介孚公丁忧,自北京归。


秋,介孚公因事下狱,父伯宜公又抱重病,家产中落,出入于质铺及药店者累年。


前十六年  廿二年丙申  十六岁


      一八九六年


九月初六日父伯宜公卒,年三十七。


父卒后,家境益艰。


前十四年  廿四年戊戌  十八岁


      一八九八年


闰三月,往南京考入江南水师学堂。


前十三年  廿五年己亥  十九岁


      一八九九年


正月,改入江南陆师学堂附设路矿学堂,对于功课并不温习,而每逢考试辄列前茅。


课余辄读译本新书,尤好小说,时或外出骑马。


前十一年  廿七年辛丑  二十一岁


      一九〇一年


十二月,路矿学堂毕业。


前十年   廿八年壬寅  二十二岁


      一九〇二年


二月,由江南督练公所派赴日本留学,入东京弘文学院。


课余喜读哲学与文艺之书,尤注意于人性及国民性问题。


前九年   廿九年癸卯  二十三岁


      一九○三年


是年为《浙江潮》杂志撰文。


秋,译《月界旅行》毕。


前八年   三十年甲辰  二十四岁


      一九〇四年


六月初一日,祖父介孚公卒,年六十八。


八月,往仙台入医学专门学校肄业。


前六年   三十二年丙年  二十六岁


      一九〇六年


六月回家,与山阴朱女士结婚。


同月,复赴日本,在东京研究文艺,中止学医。


前五年   三十三年丁末  二十七岁


      一九〇七年


是年夏,拟创办文艺杂志,名曰《新生》,以费绌未印,后为《河南》杂志撰文。


前四年   三十四年戊申  二十八岁


      一九〇八年   


是年从章太炎先生炳麟学,为“光复会”会员,并与二弟作人译域外小说。


前三年   宣统元年己酉  二十九岁


      一九○九年


是年辑印《域外小说集》二册。


六月归国,任浙江两级师范学堂生理学化学教员。


前二年   二年庚戌  三十岁


      一九一〇年


四月初五日祖母蒋太君卒,年六十九。


八月,任绍兴中学堂教员兼监学。


前一年   三年辛亥  三十一岁


      一九一一年


九月绍兴光复,任绍兴师范学校校长。


冬,写成第一篇试作小说《怀旧》,阅二年始发表于《小说月报》第四卷第一号。


注:以上月分均系阴历。


民国元年  一九一二年  三十二岁


一月一日,临时政府成立于南京,膺教育总长蔡元培之招,任教育部部员。


五月,航海抵北京,住宣武门外南半截胡同绍兴会馆藤花馆,任教育部社会教育司第一科科长。八月任命为教育部佥事。


是月公余纂辑谢承《后汉书》。


二年  一九一三年  三十三岁


六月,请假由津浦路回家省亲,八月由海道返京。


十月,公余校《嵇康集》。


三年  一九一四年  三十四岁


是年公余研究佛经。


四年  一九一五年  三十五岁


一月辑成《会稽郡故书杂集》一册,用二弟作人名印行。


同月刻《百喻经》成。


是年公余喜搜集并研究金石拓本。


五年  一九一六年  三十六岁


五月,移居会馆补树书屋。


十二月,请假由津浦路归省。


是年仍搜集研究造象及墓志拓本。


六年  一九一七年  三十七岁


一月初,返北京。


七月初,因张勋复辟乱作,愤而离职,同月乱平即返部。


是年仍搜集研究拓本。


七年  一九一八年  三十八岁


自四月开始创作以后,源源不绝,其第一篇小说《狂人日记》,以鲁迅为笔名,载在《新青年》第四卷第五号,掊击家族制度与礼教之弊害,实为文学革命思想革命之急先锋。


是年仍搜罗研究拓本。


八年  一九一九年  三十九岁


一月发表关于爱情之意见,题曰《随感录四十》,载在《新青年》第六卷第一号,后收入杂感录《热风》。


八月买公用库八道湾屋成,十一月修缮之事略备,与二弟作人俱移入。


十月发表关于改革家庭与解放子女之意见,题曰《我们现在怎样做父亲》,载《新青年》第六卷第六号,后收入论文集《坟》。


十二月请假经津浦路归省,奉母偕三弟建人来京。


是年仍搜罗研究拓本。


九年  一九二〇年  四十岁


一月,译成日本武者小路实笃著戏曲《一个青年的梦》。


十月译成俄国阿尔志跋绥夫著小说《工人绥惠略夫》。


是年秋季起,兼任北京大学及北京高等师范学校讲师。


是年仍研究金石拓本。


十年  一九二一年  四十一岁


二三两月又校《嵇康集》。


仍兼任北京大学,北京高等师范学校讲师。


十一年  一九二二年  四十二岁


二月八月又校《嵇康集》。


五月译成俄国爱罗先珂著童话剧《桃色的云》。


仍兼任北京大学,北京高等师范学校讲师。


十二年  一九二三年  四十三岁


八月迁居砖塔胡同六十一号。


九月小说第一集《呐喊》印成。


十二月买阜成门内西三条胡同二十一号屋。


同月,《中国小说史略》上卷印成。


是年秋起,兼任北京大学,北京师范大学,北京女子高等师范学校及世界语专门学校讲师。


十三年  一九二四年  四十四岁


五月,移居西三条胡同新屋。


六月,《中国小说史略》下卷印成。


同月又校《嵇康集》,并撰校正《嵇康集》序。


七月往西安讲演,八月返京。


十月译成日本厨川白村著论文《苦闷的象征》。


仍兼任北京大学,北京师范大学,北京女子高等师范学校及世界语专门学校讲师。


是年冬起为《语丝》周刊撰文。


十四年  一九二五年  四十五岁


八月,因教育总长章士钊非法解散北京女子师范大学,先生与多数教职员有校务维持会之组织,被章士钊违法免职。


十一月杂感第一集《热风》印成。


十二月译成日本厨川白村著《出了象牙之塔》。


是年仍为《语丝》撰文,并编辑《国民新报》副刊及《莽原》杂志。


是年秋起,兼任北京大学,北京女子师范大学,中国大学讲师,黎明中学教员。


十五年  一九二六年  四十六岁


一月女子师范大学恢复,新校长易培基就职,先生始卸却职责。


同月教育部佥事恢复,到部任事。


三月,“三一八”惨杀案后,避难入山本医院,德国医院,法国医院等,至五月始回寓。


七月起,逐日往中央公园,与齐宗颐同译《小约翰》。


八月底,离北京向厦门,任厦门大学文科教授。


九月《彷徨》印成。


十二月因不满于学校,辞职。


十六年  一九二七年  四十七岁


一月至广州,任中山大学文学系主任兼教务主任。


二月往香港演说,题为:《无声的中国》,次日演题:《老调子已经唱完!》


三月黄花节,往岭南大学讲演。同日移居白云楼。


四月至黄埔政治学校讲演。


同月十五日,赴中山大学各主任紧急会议,营救被捕学生,无效,辞职。


七月演讲于知用中学,及市教育局主持之“学术讲演会”,题目为《读书杂谈》,《魏晋风度及文章与药及酒之关系》。


八月开始编纂《唐宋传奇集》。


十月抵上海。八日,移寓景云里二十三号,与番禺许广平女士同居。


同月《野草》印成。


沪上学界,闻先生至,纷纷请往讲演,如劳动大学,立达学园,复旦大学,暨南大学,大夏大学,中华大学,光华大学等。


十二月应大学院院长蔡元培之聘,任特约著作员。


同月《唐宋传奇集》上册出版。


十七年  一九二八年  四十八岁


二月《小约翰》印成。


同月为《北新月刊》译《近代美术史潮论》,及《语丝》编辑。


《唐宋传奇集》下册印成。


五月往江湾实验中学讲演,题曰:《老而不死论》。


六月《思想·山水·人物》译本出。《奔流》创刊号出版。


十一月短评《而已集》印成。


十八年  一九二九年  四十九岁


一月与王方仁,崔真吾,柔石等合资印刷文艺书籍及木刻《艺苑朝花》,简称朝花社。


五月《壁下译丛》印成。


同月十三,北上省亲并应燕京大学,北京大学,第二师范学院,第一师范学院等校讲演。


六月五日回抵沪上。


同月卢那卡尔斯基作《艺术论》译成出版。


九月二十七日晨,生一男。


十月一日名孩子曰海婴。


同月为柔石校订中篇小说《二月》。


同月卢那卡尔斯基作《文艺与批评》译本印成。


十二月往暨南大学讲演。


十九年  一九三〇年  五十岁


一月朝花社告终。


同月与友人合编《萌芽》月刊出版。开始译《毁灭》。


二月“自由大同盟”开成立会。


三月二日参加“左翼作家联盟成立会”。


此时浙江省党部呈请通缉“反动文人鲁迅”。


“自由大同盟”被严压,先生离寓避难。


同时牙齿肿痛,全行拔去,易以义齿。


四月回寓。与神州国光社订约编译《现代文艺丛书》。


五月十二日迁入北四川路楼寓。


八月往“夏期文艺讲习会”讲演。


同月译雅各武莱夫长篇小说《十月》讫。


九月为贺非校订《静静的顿河》毕,过劳发热。


同月十七日,在荷兰西菜室,赴数友发起之先生五十岁纪念会。


十月四五两日,与内山完造同开“版画展览会”于北四川路“购买组合”第一店楼上。


同月译《药用植物》讫。


十一月修正《中国小说史略》。


二十年  一九三一年  五十一岁


一月二十日柔石被逮,先生离寓避难。


二月梅斐尔德《士敏土之图》印成。


同月二十八日回旧寓。


三月,先生主持“左联”机关杂志《前哨》出版。

この年のある日、本家の年長者たちが集まって牌九(パイゴウ)を打っていた。父の伯宜公もまた加わっていた。先生はかたわらで黙って見ていた。従伯の慰農先生がそこで尋ねた。「お前は誰が勝つのを望む?」先生はすかさず答えた。「みんなが勝つことを望みます。」五六歳の頃、宗党の者はみな先生を「胡羊尾巴」(子羊のしっぽ)と呼んだ。小さくてすばしこいことを褒めたのである。


 前二十年  十八年壬辰


      一八九二年  十二歳


 正月、三味書屋に赴き、寿鏡吾先生懐鑑に師事して読書する。


 塾中にあって暇を見ては絵を描くことを好み、図画を蒐集した。ただし二十四孝図のうち「老萊娯親」と「郭巨埋児」にだけは反感を覚えた。


 先生の母方の実家は安橋頭の魯姓で、一族が集まり住んでいた。幼い頃、しばしば母太夫人に付き添って訪れ、農村で大自然と触れ合うことができた。その影響は甚大であった。「社戯」に描写されたものは、すべて安橋頭一帯の景色であり、時にまさに十一、二歳であった。母方の実家はのちに皇甫庄、小皋歩などへ移った。


 十二月三十日、曾祖母の戴太君卒す。享年七十九。


 前十九年  十九年癸巳  十三歳


      一八九三年


 三月、祖父の介孚公が丁憂(父母の喪に服すること)により北京から帰る。


 秋、介孚公が事件により投獄される。父の伯宜公もまた重病を患い、家産は傾き、質屋と薬屋を出入りすること累年に及ぶ。


 前十六年  二十二年丙申  十六歳


      一八九六年


 九月六日、父の伯宜公卒す。享年三十七。


 父の死後、家境はますます困窮する。


 前十四年  二十四年戊戌  十八歳


      一八九八年


 閏三月、南京に赴き、江南水師学堂に入学する。


 前十三年  二十五年己亥  十九歳


      一八九九年


 正月、江南陸師学堂附設の路鉱学堂に転入する。功課は予習復習せずとも、試験のたびに常に上位に入った。


 課余には訳本の新書を読むことを好み、とりわけ小説を好んだ。時には外出して馬に乗ることもあった。


 前十一年  二十七年辛丑  二十一歳


      一九〇一年


 十二月、路鉱学堂を卒業する。


 前十年  二十八年壬寅  二十二歳


      一九〇二年


 二月、江南督練公所より日本留学に派遣され、東京の弘文学院に入る。


 課余には哲学と文芸の書を読むことを好み、とりわけ人性と国民性の問題に注意を払った。


 前九年  二十九年癸卯  二十三歳


      一九〇三年


 この年、『浙江潮』誌のために文を撰す。


 秋、『月界旅行』の翻訳を終える。


 前八年  三十年甲辰  二十四歳


      一九〇四年


 六月一日、祖父の介孚公卒す。享年六十八。


 八月、仙台に赴き、医学専門学校に入学する。


 前六年  三十二年丙午  二十六歳


      一九〇六年


 六月、帰郷し、山陰の朱女史と結婚する。


 同月、再び日本に赴き、東京にて文芸を研究し、医学を中止する。


 前五年  三十三年丁未  二十七歳


      一九〇七年


 この年の夏、文芸雑誌の創刊を企て、「新生」と名づけたが、資金不足のため印刷に至らず、のちに「河南」誌のために文を撰す。


 前四年  三十四年戊申  二十八歳


      一九〇八年


 この年、章太炎先生(炳麟)に師事し、「光復会」会員となる。また弟の作人と共に域外小説を翻訳する。


 前三年  宣統元年己酉  二十九歳


      一九〇九年


 この年、『域外小説集』二冊を輯印する。


 六月帰国し、浙江両級師範学堂の生理学・化学教員に就任する。


 前二年  二年庚戌  三十歳


      一九一〇年


 四月五日、祖母の蒋太君卒す。享年六十九。


 八月、紹興中学堂の教員兼監学に就任する。


 前一年  三年辛亥  三十一歳


      一九一一年


 九月、紹興光復。紹興師範学校校長に就任する。


 冬、初めての試作小説「懐旧」を書き上げる。翌々年になって初めて『小説月報』第四巻第一号に発表される。


 注:以上の月日はすべて旧暦による。


 民国元年  一九一二年  三十二歳


 一月一日、臨時政府が南京に成立し、教育総長蔡元培の招きを受けて教育部部員に就任する。


 五月、海路で北京に到着し、宣武門外南半截胡同の紹興会館藤花館に住む。教育部社会教育司第一科科長に就任する。八月、教育部僉事に任命される。


 この月、公務の余暇に謝承『後漢書』を纂輯する。


 二年  一九一三年  三十三歳


 六月、休暇を請い、津浦路を経て帰省する。八月、海路で北京に戻る。


 十月、公務の余暇に『嵆康集』を校訂する。


 三年  一九一四年  三十四歳


 この年、公務の余暇に仏典を研究する。


 四年  一九一五年  三十五歳


 一月、『会稽郡故書雑集』一冊を輯成し、弟の作人の名で刊行する。


 同月、『百喻経』の刻印が完成する。


 この年、公務の余暇に金石拓本の蒐集と研究を好む。


 五年  一九一六年  三十六歳


 五月、会館の補樹書屋に移居する。


 十二月、休暇を請い、津浦路を経て帰省する。


 この年もなお造像及び墓志拓本を蒐集・研究する。


 六年  一九一七年  三十七歳


 一月初旬、北京に戻る。


 七月初旬、張勲の復辟の乱が起こり、憤って離職するも、同月乱が平定されるとすぐに教育部に復帰する。


 この年もなお拓本を蒐集・研究する。


 七年  一九一八年  三十八歳


 四月に創作を開始して以来、筆は尽きることなく続いた。最初の小説「狂人日記」は魯迅のペンネームで『新青年』第四巻第五号に掲載された。家族制度と礼教の弊害を攻撃するもので、まさに文学革命・思想革命の急先鋒であった。


 この年もなお拓本を蒐集・研究する。


 八年  一九一九年  三十九歳


 一月、愛情に関する意見を発表する。題して「随感録四十」、『新青年』第六巻第一号に掲載され、のちに雑感録『熱風』に収録される。


 八月、八道湾の公用庫の家屋を購入する。十一月に修繕がほぼ完了し、弟の作人と共に移り住む。


 十月、家庭の改革と子女の解放に関する意見を発表する。題して「我々は今いかにして父親たるべきか」、『新青年』第六巻第六号に掲載され、のちに論文集『墳』に収録される。


 十二月、休暇を請い、津浦路を経て帰省し、母を奉じて三弟の建人と共に北京に来る。


 この年もなお拓本を蒐集・研究する。


 九年  一九二〇年  四十歳


 一月、日本の武者小路実篤著の戯曲「一個の青年の夢」を訳了する。


 十月、ロシアのアルツィバーシェフ著の小説「労働者シェヴィリョフ」を訳了する。


 この年の秋季より、北京大学および北京高等師範学校の講師を兼任する。


 この年もなお金石拓本を研究する。


 十年  一九二一年  四十一歳


 二月・三月に再び『嵆康集』を校訂する。


 北京大学、北京高等師範学校の講師をなお兼任する。


 十一年  一九二二年  四十二歳


 二月・八月に再び『嵆康集』を校訂する。


 五月、ロシアのエロシェンコ著の童話劇「桃色の雲」を訳了する。


 北京大学、北京高等師範学校の講師をなお兼任する。


 十二年  一九二三年  四十三歳


 八月、磚塔胡同六十一号に移居する。


 九月、小説第一集「吶喊」印成する。


 十二月、阜成門内西三条胡同二十一号の家屋を購入する。


 同月、「中国小説史略」上巻印成する。


 この年の秋より、北京大学、北京師範大学、北京女子高等師範学校、および世界語専門学校の講師を兼任する。


 十三年  一九二四年  四十四歳


 五月、西三条胡同の新居に移る。


 六月、「中国小説史略」下巻印成する。


 同月、再び『嵆康集』を校訂し、「校正嵆康集序」を撰す。


 七月、西安に赴き講演する。八月、北京に帰る。


 十月、日本の厨川白村著論文「苦悶の象徴」を訳了する。


 北京大学、北京師範大学、北京女子高等師範学校、および世界語専門学校の講師をなお兼任する。


 この年の冬より『語絲』週刊のために文を撰す。


 十四年  一九二五年  四十五歳


 八月、教育総長章士釗が北京女子師範大学を不法に解散したことにより、先生は多数の教職員と共に校務維持会を組織したが、章士釗に違法に免職される。


 十一月、雑感第一集「熱風」印成する。


 十二月、日本の厨川白村著「象牙の塔を出て」を訳了する。


 この年もなお『語絲』のために文を撰し、あわせて『国民新報』副刊および『莽原』誌を編集する。


 この年の秋より、北京大学、北京女子師範大学、中国大学の講師、黎明中学の教員を兼任する。


 十五年  一九二六年  四十六歳


 一月、女子師範大学が復活し、新校長易培基が就任して、先生はようやく職責を解かれる。


 同月、教育部僉事に復職し、部に出勤する。


 三月、「三一八」惨殺事件の後、山本医院、ドイツ医院、フランス医院などに避難し、五月になってようやく寓居に戻る。


 七月より、毎日中央公園に通い、斉宗頤と共に「小ヨハネス」を翻訳する。


 八月末、北京を離れ厦門に向かい、厦門大学文科教授に就任する。


 九月、「彷徨」印成する。


 十二月、大学に不満を抱き辞職する。


 十六年  一九二七年  四十七歳


 一月、広州に至り、中山大学文学系主任兼教務主任に就任する。


 二月、香港に赴き講演する。題は「声なき中国」、翌日の演題は「古い曲はもう歌い終わった!」


 三月、黄花節に嶺南大学にて講演する。同日、白雲楼に移居する。


 四月、黄埔政治学校にて講演する。


 同月十五日、中山大学各主任の緊急会議に出席し、逮捕された学生の救出を図るも果たせず、辞職する。


 七月、知用中学および市教育局主催の「学術講演会」にて講演する。題目は「読書雑談」、「魏晋の風度及び文章と薬と酒の関係」。


 八月、「唐宋伝奇集」の編纂を開始する。


 十月、上海に到着する。八日、景雲里二十三号に移り、番禺の許広平女史と同居する。


 同月、「野草」印成する。


 上海の学界は先生の到着を聞き、次々と講演を依頼した。労働大学、立達学園、復旦大学、暨南大学、大夏大学、中華大学、光華大学など。


 十二月、大学院院長蔡元培の招聘に応じ、特約著作員に就任する。


 同月、「唐宋伝奇集」上冊出版する。


 十七年  一九二八年  四十八歳


 二月、「小ヨハネス」印成する。


 同月、「北新月刊」のために「近代美術史潮論」を翻訳し、『語絲』の編集を務める。


 「唐宋伝奇集」下冊印成する。


 五月、江湾実験中学にて講演する。題して「老いて死なざるの論」。


 六月、「思想・山水・人物」訳本刊行。「奔流」創刊号出版。


 十一月、短評集「而已集」印成する。


 十八年  一九二九年  四十九歳


 一月、王方仁、崔真吾、柔石らと合資して文芸書籍および木版画「芸苑朝花」を印刷する。略称「朝花社」。


 五月、「壁下訳叢」印成する。


 同月十三日、北上して帰省し、あわせて燕京大学、北京大学、第二師範学院、第一師範学院などで講演する。


 六月五日、上海に帰着する。


 同月、ルナチャルスキー著「芸術論」訳了出版する。


 九月二十七日朝、男児を出産する。


 十月一日、子に海嬰と名づける。


 同月、柔石のために中編小説「二月」を校訂する。


 同月、ルナチャルスキー著「文芸と批評」訳本印成する。


 十二月、暨南大学にて講演する。


 十九年  一九三〇年  五十歳


 一月、朝花社終了する。


 同月、友人と共同で「萌芽」月刊を編集出版する。「壊滅」の翻訳を開始する。


 二月、「自由大同盟」成立大会を開く。


 三月二日、「左翼作家連盟成立大会」に参加する。


 この頃、浙江省党部が「反動文人魯迅」の逮捕を上申する。


 「自由大同盟」が厳しく弾圧され、先生は寓居を離れて避難する。


 同時に歯が腫れ痛み、全て抜歯して義歯に換える。


 四月、寓居に戻る。神州国光社と契約を結び、「現代文芸叢書」の編訳を行う。


 五月十二日、北四川路の楼上の寓居に移る。


 八月、「夏期文芸講習会」にて講演する。


 同月、ヤコヴレフの長編小説「十月」の翻訳を了える。


 九月、賀非のために「静かなドン」の校訂を終える。過労で発熱する。


 同月十七日、オランダ西洋料理店にて、数人の友人が発起した先生の五十歳記念会に出席する。


 十月四、五両日、内山完造と共に北四川路「購買組合」第一店の二階で「版画展覧会」を開催する。


 同月、「薬用植物」の翻訳を了える。


 十一月、「中国小説史略」を修正する。


 二十年  一九三一年  五十一歳


 一月二十日、柔石が逮捕される。先生は寓居を離れて避難する。


 二月、メフィールド「セメントの図」印成する。


 同月二十八日、旧寓居に戻る。


 三月、先生が「左聯」の機関誌「前哨」の出版を主宰する。

四月往同文书院讲演,题为:《流氓与文学》。


六月往日人“妇女之友会”讲演。


七月为增田涉讲解《中国小说史略》全部毕。


同月往“社会科学研究会”演讲《上海文艺之一瞥》。


八月十七日请内山嘉吉君教学生木刻术,先生亲为翻译,至二十二日毕。二十四日为一八艺社木刻部讲演。


十一月校《嵇康集》以涵芬楼景印宋本。


同月《毁灭》制本成。


十二月与友人合编《十字街头》旬刊出版。


二十一年  一九三二年  五十二岁


一月二十九日遇战事,在火线中。次日避居内山书店。


二月六日,由内山店友护送至英租界内山支店暂避。


四月编一九二八及二九年短评,名曰:《三闲集》。编一九三〇至三一年杂文,名曰:《二心集》。


五月自录译著书目。


九月编译新俄小说家二十人集上册讫,名曰:《竖琴》。编下册讫,名曰:《一天的工作》。


十月排比《两地书》。


十一月九日,因母病赴平。


同月二十二日起,在北京大学,辅仁大学,北平大学,女子文理学院,师范大学,中国大学等校讲演。


二十二年  一九三三年  五十三岁


一月四日蔡元培函邀加入“民权保障同盟会”,被举为执行委员。


二月十七日蔡元培函邀赴宋庆龄宅,欢迎萧伯纳。


三月《鲁迅自选集》出版于天马书店。


同月二十七日移书籍于狄思威路,税屋存放。


四月十一日迁居大陆新村九号。


五月十三日至德国领事馆为“法西斯蒂”暴行递抗议书。


六月二十日杨铨被刺,往万国殡仪馆送殓。时有先生亦将不免之说,或阻其行,先生不顾,出不带门匙,以示决绝。


七月,《文学》月刊出版,先生为同人之一。


十月,先生编序之《一个人的受难》木刻连环图印成。


同月“木刻展览会”假千爱里开会。


又短评集《伪自由书》印成。


二十三年  一九三四年  五十四岁


一月《北平笺谱》出版。


五月校杂文《南腔北调集》,同月印成。


五月,先生编序之木刻《引玉集》出版。


八月编《译文》创刊号。


同月二十三日,因熟识者被逮,离寓避难。


十月《木刻纪程》印成。


十二月十四夜脊肉作痛,盗汗。病后大瘦,义齿与齿龈不合。


同月短评集《准风月谈》出版。


二十四年  一九三五年  五十五岁


一月译苏联班台莱夫童话《表》毕。


二月开始译果戈理《死魂灵》。


四月《十竹斋笺谱》第一册印成。


六月编选《新文学大系》小说二集并作导言毕,印成。


九月高尔基作《俄罗斯的童话》译本印成。


十月编瞿秋白遗著《海上述林》上卷。


十一月续写《故事新编》。


十二月整理《死魂灵百图》木刻本,并作序。


二十五年  一九三六年  五十六岁


一月肩及胁均大痛。


同月二十日与友协办之《海燕》半月刊出版。


又校《故事新编》毕,即出书。


二月开始续译《死魂灵》第二部。


三月二日下午骤患气喘。


四月七日往良友公司,为之选定《苏联版画》。


同月编《海上述林》下卷。


五月十五日再起病,医云胃疾,自后发热未愈,三十一日,史沫特黎女士引美国邓医生来诊断,病甚危。


六月,从委顿中渐愈,稍能坐立诵读。可略作数十字。


同月,病中答访问者O·V.《论现在我们的文学运动》


又《花边文学》印成。


七月,先生编印之《凯绥·珂勒惠支版画选集》出版。


八月,痰中见血。


为《中流》创刊号作小文。


十月,称体重八十八磅,较八月一日增约二磅。


契诃夫作《坏孩子和别的奇闻》译本印成。


能偶出看电影及访友小坐。


同月八日往青年会观第二回“全国木刻流动展览会”。


十七日出访鹿地亘及内山完造。


十八日未明前疾作,气喘不止,延至十九日上午五时二十五分逝世。

四月、同文書院にて講演する。題して「流氓と文学」。


 六月、日本人「婦人之友会」にて講演する。


 七月、増田渉のために「中国小説史略」全篇の講解を終える。


 同月、「社会科学研究会」にて「上海文芸の一瞥」を講演する。


 八月十七日、内山嘉吉氏を招いて学生に木版画の技法を教えてもらい、先生自ら通訳を務める。二十二日まで。二十四日、一八芸社木版画部にて講演する。


 十一月、涵芬楼景印宋本により『嵆康集』を校訂する。


 同月、「壊滅」製本完成する。


 十二月、友人と共同で「十字街頭」旬刊を編集出版する。


 二十一年  一九三二年  五十二歳


 一月二十九日、戦事に遭い、火線の中にあった。翌日、内山書店に避難する。


 二月六日、内山書店の友人に護送され、イギリス租界内の内山支店に一時避難する。


 四月、一九二八年と二九年の短評を編集し、「三閑集」と名づける。一九三〇年から三一年の雑文を編集し、「二心集」と名づける。


 五月、自ら訳著書目を録す。


 九月、新ロシアの小説家二十人集の上冊の編訳を了える。「竪琴」と名づける。下冊の編集を了える。「一日の仕事」と名づける。


 十月、「両地書」を排比する。


 十一月九日、母の病により北平に赴く。


 同月二十二日より、北京大学、輔仁大学、北平大学、女子文理学院、師範大学、中国大学などで講演する。


 二十二年  一九三三年  五十三歳


 一月四日、蔡元培より書簡にて「民権保障同盟会」への加入を招かれ、執行委員に選出される。


 二月十七日、蔡元培より書簡にて宋慶齢邸に招かれ、バーナード・ショーを歓迎する。


 三月、「魯迅自選集」天馬書店より出版する。


 同月二十七日、書籍をディスウェイ路に運び、家屋を借りて保管する。


 四月十一日、大陸新村九号に移居する。


 五月十三日、ドイツ領事館にて「ファシスト」の暴行に対する抗議書を提出する。


 六月二十日、楊銓が刺殺され、万国殯儀館に赴いて入棺を見送る。その時、先生もまた免れぬであろうとの噂があり、あるいはその行動を阻止する者もあったが、先生は顧みず、外出に鍵を持たず、決然たる意志を示した。


 七月、「文学」月刊出版。先生はその同人の一人であった。


 十月、先生が編集・序文を付した「一個人の受難」木版画連環図、印成する。


 同月、「木版画展覧会」を千愛里にて開催する。


 また短評集「偽自由書」印成する。


 二十三年  一九三四年  五十四歳


 一月、「北平箋譜」出版する。


 五月、雑文集「南腔北調集」を校訂し、同月印成する。


 五月、先生が編集・序文を付した木版画集「引玉集」出版する。


 八月、「訳文」創刊号を編集する。


 同月二十三日、知人が逮捕されたため、寓居を離れて避難する。


 十月、「木版画紀程」印成する。


 十二月十四日夜、脊部の筋肉が痛み、盗汗が出る。病後、大いに痩せ、義歯が歯茎に合わなくなる。


 同月、短評集「准風月談」出版する。


 二十四年  一九三五年  五十五歳


 一月、ソ連のパンテレーエフの童話「時計」の翻訳を終える。


 二月、ゴーゴリ「死せる魂」の翻訳を開始する。


 四月、「十竹斎箋譜」第一冊、印成する。


 六月、「新文学大系」小説二集を編選し、序文を書き終える。印成する。


 九月、ゴーリキー著「ロシアの童話」訳本、印成する。


 十月、瞿秋白の遺著「海上述林」上巻を編集する。


 十一月、「故事新編」の執筆を続ける。


 十二月、「死せる魂百図」木版画本を整理し、序を作る。


 二十五年  一九三六年  五十六歳


 一月、肩および脇腹に激しい痛みが生じる。


 同月二十日、友人と共同で主催する「海燕」半月刊が出版される。


 また「故事新編」の校訂を終え、ただちに刊行する。


 二月、「死せる魂」第二部の翻訳を再開する。


 三月二日午後、突然喘息の発作に襲われる。


 四月七日、良友公司に赴き、「ソ連版画」を選定する。


 同月、「海上述林」下巻を編集する。


 五月十五日、再び発病する。医師は胃疾と診断する。以後、発熱が治まらず、三十一日、スメドレー女史がアメリカ人のダン医師を連れてきて診断する。病状は甚だ危険であった。


 六月、衰弱の中から徐々に回復し、やや坐起して読書できるようになる。わずかに数十字を書くことができた。


 同月、病中、訪問者O·Vに答えて「現在の我々の文学運動について」を口述する。


 また「花辺文学」印成する。


 七月、先生が編集・印刷した「ケーテ・コルヴィッツ版画選集」出版する。


 八月、痰に血が混じる。


 「中流」創刊号のために小文を作る。


 十月、体重八十八ポンド。八月一日に比べ約二ポンド増加する。


 チェーホフ著「悪い子供と他の奇聞」訳本、印成する。


 時折外出して映画を見たり、友人を訪ねてしばし座することができた。


 同月八日、青年会にて第二回「全国木版画流動展覧会」を観覧する。


 十七日、鹿地亘および内山完造を訪問する。


 十八日未明に発作が起こり、喘息が止まず、翌十九日午前五時二十五分に逝去する。

【“硬译”与“文学的阶级性”】



 听说《新月》月刊团体里的人们在说,现在销路好起来了。这大概是真的,以我似的交际极少的人,也在两个年青朋友的手里见过第二卷第六、七号的合本。顺便一翻,是争“言论自由”的文字和小说居多。近尾巴处,则有梁实秋先生的一篇《论鲁迅先生的“硬译”》,以为“近于死译”。而“死译之风也断不可长”,就引了我的三段译文,以及在《文艺与批评》的后记里所说:“但因为译者的能力不够,和中国文本来的缺点,译完一看,晦涩,甚而至于难解之处也真多;倘将仂句拆下来呢,又失了原来的语气,在我,是除了还是这样的硬译之外,只有束手这一条路了,所余的惟一的希望,只在读者还肯硬着头皮看下去而已”这些话,细心地在字旁加上圆圈,还在“硬译”两字旁边加上套圈,于是“严正”地下了“批评”道:“我们‘硬着头皮看下去’了,但是无所得。‘硬译’和‘死译’有什么分别呢?”
 新月社的声明中,虽说并无什么组织,在论文里,也似乎痛恶无产阶级式的“组织”、“集团”这些话,但其实是有组织的,至少,关于政治的论文,这一本里都互相“照应”;关于文艺,则这一篇是登在上面的同一批评家所作的《文学是有阶级性的吗?》的余波。在那一篇里有一段说:“……但是不幸得很,没有一本这类的书能被我看懂。……最使我感得困难的是文字,……简直读起来比天书还难。……现在还没有一个中国人,用中国人所能看得懂的文字,写一篇文章告诉我们无产文学的理论究竟是怎么一回事。”字旁也有圆圈,怕排印麻烦,恕不照画了。总之,梁先生自认是一切中国人的代表,这些书既为自己所不懂,也就是为一切中国人所不懂,应该在中国断绝其生命,于是出示曰:“此风断不可长”云。
 别的“天书”译著者的意见我不能代表,从我个人来看,则事情是不会这样简单的。第一、梁先生自以为“硬着头皮看下去”了,但究竟硬了没有,是否能够,还是一个问题。以硬自居了,而实则其软如棉,正是新月社的一种特色。第二、梁先生虽自来代表一切中国人了,但究竟是否全国中的最优秀者,也是一个问题。这问题从《文学是有阶级性的吗?》这篇文章里,便可以解释。Proletary这字不必译音,大可译义,是有理可说的。但这位批评家却道:“其实翻翻字典,这个字的涵义并不见得体面,据《韦白斯特大字典》,Proletary的意思就是:A citizen of the lowest class who served the state not with property,but only by having children.……普罗列塔利亚是国家里只会生孩子的阶级!(至少在罗马时代是如此)”其实正无须来争这“体面”,大约略有常识者,总不至于以现在为罗马时代,将现在的无产者都看作罗马人的。这正如将Chemie译作“舍密学”,读者必不和埃及的“炼金术”混同,对于“梁”先生所作的文章,也决不会去考查语源,误解为“独木小桥”竟会动笔一样。连“翻翻字典”(《韦白斯特大字典》!)也还是“无所得”,一切中国人未必全是如此的罢。



 但于我最觉得有兴味的,是上节所引的梁先生的文字里,有两处都用着一个“我们”,颇有些“多数”和“集团”气味了。自然,作者虽然单独执笔,气类则决不只一人,用“我们”来说话,是不错的,也令人看起来较有力量,又不至于一人双肩负责。然而,当“思想不能统一”时,“言论应该自由”时,正如梁先生的批评资本制度一般,也有一种“弊病”。就是,既有“我们”便有我们以外的“他们”,于是新月社的“我们”虽以为我的“死译之风断不可长”了,却另有读了并不“无所得”的读者存在,而我的“硬译”,就还在“他们”之间生存,和“死译”还有一些区别。
 我也就是新月社的“他们”之一,因为我的译作和梁先生所需的条件,是全都不一样的。
 那一篇《论硬译》的开头论误译胜于死译说:“一部书断断不会完全曲译……部分的曲译即使是错误,究竟也还给你一个错误,这个错误也许真是害人无穷的,而你读的时候究竟还落个爽快。”末两句大可以加上夹圈,但我却从来不干这样的勾当。我的译作,本不在博读者的“爽快”,却往往给以不舒服,甚而至于使人气闷,憎恶,愤恨。读了会“落个爽快”的东西,自有新月社的人们的译著在:徐志摩先生的诗,沈从文、凌叔华先生的小说,陈西滢(即陈源)先生的闲话,梁实秋先生的批评,潘光旦先生的优生学,还有白璧德先生的人文主义。
 所以,梁先生后文说:“这样的书,就如同看地图一般,要伸着手指来寻找句法的线索位置”这些话,在我也就觉得是废话,虽说犹如不说了。是的,由我说来,要看“这样的书”就如同看地图一样,要伸着手指来找寻“句法的线索位置”的。看地图虽然没有看《杨妃出浴图》或《岁寒三友图》那么“爽快”,甚而至于还须伸着手指(其实这恐怕梁先生自己如此罢了,看惯地图的人,是只用眼睛就可以的),但地图并不是死图;所以“硬译”即使有同一之劳,照例子也就和“死译”有了些“什么区别”。识得ABCD者自以为新学家,仍旧和化学方程式无关,会打算盘的自以为数学家,看起笔算的演草来还是无所得。现在的世间,原不是一为学者,便与一切事都会有缘的。
 然而梁先生有实例在,举了我三段的译文,虽然明知道“也许因为没有上下文的缘故,意思不能十分明了”。在《文学是有阶级性的吗?》这篇文章中,也用了类似手段,举出两首译诗来,总评道:“也许伟大的无产文学还没有出现,那么我愿意等着,等着,等着。”这些方法,诚然是很“爽快”的,但我可以就在这一本《新月》月刊里的创作──是创作
 呀!──《搬家》第八页上,举出一段文字来──


 “小鸡有耳朵没有?”
 “我没看见过小鸡长耳朵的。”
 “它怎样听见我叫它呢?”她想到前天四婆告诉她的耳朵是管听东西,眼是管看东西的。
 “这个蛋是白鸡黑鸡?”枝儿见四婆没答她,站起来摸着蛋子又问。
 “现在看不出来,等孵出小鸡才知道。”
 “婉儿姊说小鸡会变大鸡,这些小鸡也会变大鸡么?”
 “好好的喂它就会长大了,像这个鸡买来时还没有这样大吧?”


 也够了,“文字”是懂得的,也无须伸出手指来寻线索,但我不“等着”了,以为就这一段看,是既不“爽快”,而且和不创作是很少区别的。
 临末,梁先生还有一个诘问:“中国文和外国文是不同的,……翻译之难即在这个地方。假如两种文中的文法句法词法完全一样,那么翻译还成为一件工作吗?……我们不妨把句法变换一下,以使读者能懂为第一要义,因为‘硬着头皮’不是一件愉快的事,并且‘硬译’也不见得能保存,‘原来的精悍的语气’。假如‘硬译’而还能保存‘原来的精悍的语气’,那真是一件奇迹,还能说中国文是有‘缺点’吗?”我倒不见得如此之愚,要寻求和中国文相同的外国文,或者希望“两种文中的文法句法词法完全一样”。我但以为文法繁复的国语,较易于翻译外国文,语系相近的,也较易于翻译,而且也是一种工作。荷兰翻德国,俄国翻波兰,能说这和并不工作没有什么区别么?日本语和欧美很“不同”,但他们逐渐添加了新句法,比起古文来,更宜于翻译而不失原来的精悍的语气,开初自然是须“找寻句法的线索位置”,很给了一些人不“愉快”的,但经找寻和习惯,现在已经同化,成为己有了。中国的文法,比日本的古文还要不完备,然而也曾有些变迁,例如《史》、《汉》不同于《书经》,现在的白话文又不同于《史》、《汉》;有添造,例如唐译佛经,元译上谕,当时很有些“文法句法词法”是生造的,一经习用,便不必伸出手指,就懂得了。现在又来了“外国文”,许多句子,即也须新造,──说得坏点,就是硬造。据我的经验,这样译来,较之化为几句,更能保存原来的精悍的语气,但因为有待于新造,所以原先的中国文是有缺点的。有什么“奇迹”,干什么“吗”呢?但有待于“伸出手指”,“硬着头皮”,于有些人自然“不是一件愉快的事”。不过我是本不想将“爽快”或“愉快”来献给那些诸公的,只要还有若干的读者能够有所得,梁实秋先生“们”的苦乐以及无所得,实在“于我如浮云”。
 但梁先生又有本不必求助于无产文学理论,而仍然很不了了的地方,例如他说,“鲁迅先生前些年翻译的文学,例如厨川白村的《苦闷的象征》,还不是令人看不懂的东西,但是最近翻译的书似乎改变风格了。”只要有些常识的人就知道:“中国文和外国文是不同的”,但同是一种外国文,因为作者各人的做法,而“风格”和“句法的线索位置”也可以很不同。句子可繁可简,名词可常可专,决不会一种外国文,易解的程度就都一式。我的译《苦闷的象征》,也和现在一样,是按板规逐句,甚而至于逐字译的,然而梁实秋先生居然以为还能看懂者,乃是原文原是易解的缘故,也因为梁实秋先生是中国新的批评家了的缘故,也因为其中硬造的句法,是比较地看惯了的缘故。若在三家村里,专读《古文观止》的学者们,看起来又何尝不比“天书”还难呢?



 但是,这回的“比天书还难”的无产文学理论的译本们,却给了梁先生不小的影响。看不懂了,会有影响,虽然好象滑稽,然而是真的,这位批评家在《文学是有阶级性的吗?》里说:“我现在批评所谓无产文学理论,也只能根据我所能了解的一点材料而已。”这就是说:因此而对于这理论的知识,极不完全了。
 但对于这罪过,我们(包含一切“天书”译者在内,故曰“们”)也只能负一部分的责任,一部分是要作者自己的胡涂或懒惰来负的。“什么卢那卡尔斯基、蒲力汗诺夫”的书我不知道,若夫“婆格达诺夫之类”的三篇论文和托罗兹基的半部《文学与革命》,则确有英文译本的了。英国没有“鲁迅先生”,译文定该非常易解。梁先生对于伟大的无产文学的产生,曾经显示其“等着,等着,等着”的耐心和勇气,这回对于理论,何不也等一下子,寻来看了再说呢。不知其有而不求曰胡涂,知其有而不求曰懒惰,如果单是默坐,这样也许是“爽快”的。然而开起口来,却很容易咽进冷气去了。
 例如就是那篇《文学是有阶级性的吗?》的高文,结论是并无阶级性。要抹杀阶级性,我以为最干净的是吴稚晖先生的“什么马克斯牛克斯”以及什么先生的“世界上并没有阶级这东西”的学说。那么,就万喙息响,天下太平。但梁先生却中了一些“什么马克斯”毒了,先承认了现在许多地方是资产制度,在这制度之下则有无产者。不过这“无产者本来并没有阶级的自觉。是几个过于富同情心而又态度偏激的领袖把这个阶级观念传授了给他们”,要促起他们的联合,激发他们争斗的欲念。不错,但我以为传授者应该并非由于同情,却因了改造世界的思想。况且“本无其物”的东西,是无从自觉,无从激发的,会自觉,能激发,足见那是原有的东西。原有的东西,就遮掩不久,即如格里莱阿说地体运动,达尔文说生物进化,当初何尝不或者几被宗教家烧死,或者大受保守者攻击呢,然而现在人们对于两说,并不为奇者,就因为地体终于在运动,生物确也在进化的缘故。承认其有而要掩饰为无,非有绝技是不行的。
 但梁先生自有消除斗争的办法,以为如卢梭所说:“资产是文明的基础”,“所以攻击资产制度,即是反抗文明”,“一个无产者假如他是有出息的,只消辛辛苦苦诚诚实实的工作一生,多少必定可以得到相当的资产。这才是正当的生活斗争的手段。”我想,卢梭去今虽已百五十年,但当不至于以为过去未来的文明,都以资产为基础。(但倘说以经济关系为基础,那自然是对的。)希腊、印度,都有文明,而繁盛时俱非在资产社会,他大概是知道的;倘不知道,那也是他的错误。至于无产者应该“辛辛苦苦”爬上有产阶级去的“正当”的方法,则是中国有钱的老太爷高兴时候,教导穷工人的古训,在实际上,现今正在“辛辛苦苦诚诚实实”想爬上一级去的“无产者”也还多。然而这是还没有人“把这个阶级观念传授了给他们”的时候。一经传授,他们可就不肯一个一个的来爬了,诚如梁先生所说,“他们是一个阶级了,他们要有组织了,他们是一个集团了,于是他们便不循常轨的一跃而夺取政权财权,一跃而为统治阶级。”但可还有想“辛辛苦苦诚诚实实工作一生,多少必定可以得到相当的资产”的“无产者”呢?自然还有的。然而他要算是“尚未发财的有产者”了。梁先生的忠告,将为无产者所呕吐了,将只好和老太爷去互相赞赏而已了。

【「硬訳」と「文学の階級性」】


 一


 聞くところによると、『新月』月刊の同人たちの間では、今や売れ行きが良くなったと言っているそうだ。これはおそらく本当だろう。私のような交際の極めて少ない人間でも、二人の若い友人の手で第二巻第六・七号合本を見たことがある。ざっと目を通すと、「言論の自由」を争う文章と小説が多い。末尾近くには梁実秋氏の一篇「魯迅先生の『硬訳』について」があり、「死訳に近い」とし、「死訳の風潮は決して助長してはならない」として、私の三段の訳文と、『文芸と批評』の後記に述べた言葉——「しかし訳者の力量不足と中国語そのものの欠点のため、訳し終えてみると、晦渋で、甚だしきに至っては難解な箇所も実に多い。仂句を分解すれば、また原文の語気を失ってしまう。私にとっては、このように硬訳するほかに、手をこまねくという一本の道しかなく、残された唯一の希望は、読者がなお辛抱強く読み続けてくださることだけだ」——を引用し、丁寧に字の傍らに丸印を付け、さらに「硬訳」の二字の傍らには二重丸を付けた上で、「厳正」に「批評」を下した。曰く、「我々は『辛抱強く読み続けた』が、何も得るところがなかった。『硬訳』と『死訳』にいったいどんな違いがあるのか?」

 新月社の声明では組織はないと言い、論文の中でも無産階級式の「組織」や「集団」という言葉を痛く嫌悪しているようだが、実は組織がある。少なくとも政治に関する論文は、この号の中で互いに「呼応」している。文芸に関しては、この一篇は先に掲載された同じ批評家の「文学に階級性はあるか?」の余波である。その中の一段にはこう書かれている。「……しかし不幸にも、この類いの本で私に読めたものは一冊もない。……最も困難に感じたのは文章で、……まさに読もうとすると天書よりも難しい。……今のところまだ一人の中国人も、中国人が読んで理解できる文章で、無産文学の理論が結局どういうものかを教えてくれる論文を書いていない。」字の傍らにも丸印が付いているが、印刷の手間を考えてここでは省く。要するに梁氏は自らをすべての中国人の代表と自認し、これらの本は自分に理解できない以上、すべての中国人にも理解できないものであり、中国においてその生命を断つべきだとして、掲示して曰く「この風潮は決して助長してはならない」と。

 他の「天書」翻訳者の意見を私は代弁できないが、私個人から見れば、事はそう簡単ではない。第一に、梁氏は自ら「辛抱強く読んだ」と称しているが、実際に辛抱強かったかどうか、それが可能だったかどうかは、まだ疑問である。辛抱強いと自称しながら、実はその柔らかさは綿の如しというのは、まさに新月社の一つの特色だ。第二に、梁氏は自らすべての中国人を代表しているが、果たして全国中の最も優秀な者かどうかも疑問である。この問題は「文学に階級性はあるか?」という論文の中から解明できる。Proletaryという語は音訳する必要はなく、意訳すればよいというのは道理がある。しかしこの批評家は言う。「実は辞書を引いてみると、この語の含意は決して体裁の良いものではない。『ウェブスター大辞典』によれば、Proletaryの意味はA citizen of the lowest class who served the state not with property, but only by having children.……プロレタリアートとは国家において子供を産むことしかしない階級だ!(少なくともローマ時代にはそうだった)」実のところ、この「体裁」を争う必要はない。おおよそ常識のある者なら、現在をローマ時代と見なし、現在の無産者をすべてローマ人と見ることはあるまい。これはChemieを「舎密学」と訳しても、読者が必ずエジプトの「錬金術」と混同しないのと同じだし、「梁」氏の書いた文章を読んでも語源を考証して、丸木の小橋が筆を執ったと誤解することは決してないのと同じだ。「辞書を引いて」(『ウェブスター大辞典』を!)もなお「何も得るところがない」とは、すべての中国人がそうだとは限るまい。


 二


 しかし私にとって最も興味深いのは、前節に引いた梁氏の文章の中に、二箇所とも「我々」という語が使われ、いささか「多数」と「集団」の気味があることだ。もちろん筆を執るのは一人でも、気脈を通じる者は決して一人ではないから、「我々」と言うのは間違いではなく、見た目にも力があるし、一人で両肩に責任を負わずに済む。しかし「思想が統一できない」時、「言論は自由であるべき」時、梁氏の資本制度批判と同じく、一種の「弊害」がある。すなわち「我々」がある以上、我々の外に「彼ら」がいるわけで、新月社の「我々」が私の「死訳の風潮は決して助長すべきではない」と考えても、読んで「何も得るところがなかった」のではない読者が別に存在し、私の「硬訳」はまだ「彼ら」の間に生存していて、「死訳」とはまだいくらかの区別があるのだ。

 私もまた新月社の「彼ら」の一人である。なぜなら私の訳業は梁氏の求める条件とはすべて異なるからだ。

 あの「硬訳について」の冒頭で、誤訳は死訳に勝るとして曰く、「一冊の本が完全に曲訳されることはありえない……部分的な曲訳は、たとえ誤りであっても、やはり一つの誤りを与えてくれる。この誤りは人を害すること計り知れないかもしれないが、読む時にはやはり爽快さが残る。」後の二文には傍圈を付けてよいが、私はこのような行為をする気はさらさらない。私の翻訳は、もとより読者の「爽快さ」を求めるものではなく、しばしば不快を与え、甚だしきに至っては息苦しさ、嫌悪、憤怒を感じさせるものだ。読んで「爽快さが残る」ものなら、新月社の人々の訳著がある。徐志摩氏の詩、沈従文・凌叔華氏の小説、陳西瀅(陳源)氏の閑話、梁実秋氏の批評、潘光旦氏の優生学、さらにバビット氏のヒューマニズムがある。

 だから梁氏が後段で「このような本は地図を見るように指を伸ばして文法の脈絡の位置を探さねばならない」と述べたのも、私にとってはむだ口に過ぎず、言っても言わなくても同じことだ。そうだ、私に言わせれば、「このような本」を見るのは地図を見るのと同じで、指を伸ばして「文法の脈絡の位置」を探さねばならないのだ。地図を見るのは「楊貴妃出浴図」や「歳寒三友図」を見るほど「爽快」ではなく、甚だしきに至っては指を伸ばさねばならない(しかしこれは梁氏自身がそうなのだろう。地図を見慣れた人は目だけで足りる)が、地図は死んだ図ではない。だから「硬訳」にたとえ同じ労苦があっても、道理の上で「死訳」とは「何かの区別」がある。ABCDを知っている者が新学者と自負しても、化学方程式とは無縁であり、算盤を弾ける者が数学者と自負しても、筆算の演算を見ればやはり何も得られない。この世の中、学者になったからといって万事に通じるわけではないのだ。

 しかし梁氏には実例がある。私の三段の訳文を引用し、「前後の文脈がないので意味が十分明らかでないかもしれない」と自ら知りつつ。「文学に階級性はあるか?」という論文でも同様の手法を用い、二首の訳詩を引いて総評した。「おそらく偉大な無産文学はまだ出現していないのだろう。ならば私は待とう、待とう、待とう。」これらの方法はまことに「爽快」だが、私はこの同じ『新月』月刊の中の創作——創作だぞ!——「引越し」の第八頁から一段の文章を引用することができる——


 「ひよこに耳はあるの?」

 「ひよこに耳が生えてるのは見たことないわ。」

 「じゃあどうやって私が呼ぶのが聞こえるの?」彼女は一昨日、四ばあさんが教えてくれたことを思い出した。耳は音を聞くもの、目はものを見るもの。

 「この卵は白い鶏のなの、黒い鶏のなの?」枝児は四ばあさんが答えないのを見て、立ち上がって卵を触りながらまた聞いた。

 「今はわからないよ、ひよこが孵ってからわかるのさ。」

 「婉児姉さんはひよこが大きな鶏になるって言ったけど、このひよこたちも大きくなるの?」

 「ちゃんと餌をやれば大きくなるよ。この鶏だって買った時はこんなに大きくなかったろう?」


 もう十分だ。「文字」は理解できるし、指を伸ばして脈絡を探す必要もないが、私はもう「待った」りしない。この一段を見る限り、「爽快」でもなく、しかも創作しないのとほとんど区別がないと思うからだ。

 末尾に梁氏はもう一つ詰問を残している。「中国語と外国語は異なる。……翻訳の難しさはここにある。もし二つの言語の文法・構文・語法がまったく同じなら、翻訳はまだ仕事と言えるだろうか?……構文を少し変えて読者が理解できるようにすることを第一義とすべきだ。なぜなら『辛抱強く』というのは愉快なことではなく、しかも『硬訳』で必ずしも『もとの精悍な語気』を保存できるわけではないからだ。もし『硬訳』で『もとの精悍な語気』を保存できるなら、それこそ奇跡であり、中国語に『欠点』があるなどと言えるだろうか?」私はそれほど愚かではない。中国語と同じ外国語を求めたり、「二つの言語の文法・構文・語法がまったく同じ」であることを望んだりはしない。ただ文法の複雑な国語の方が外国語の翻訳に適しており、語系の近い言語同士も翻訳しやすく、そしてそれもまた一つの仕事だと考える。オランダ語からドイツ語へ、ロシア語からポーランド語への翻訳は、仕事ではないと言えるだろうか?日本語とヨーロッパの言語は大いに「異なる」が、彼らは新しい構文を次第に加えていき、古文に比べてより翻訳に適し原文の精悍な語気を失わなくなった。当初は「文法の脈絡の位置を探す」必要があり、少なからぬ人々に不「愉快」を与えたが、探索と習慣を経て、今やすでに同化し自分のものとなった。中国語の文法は日本の古文よりもさらに不完全だが、やはり変遷を経てきた。例えば『史記』『漢書』は『書経』と異なり、現在の白話文はまた『史記』『漢書』と異なる。新造もある。唐代の仏経翻訳、元代の詔勅翻訳では、当時の「文法・構文・語法」にはかなりの造語があったが、一旦常用されれば指を伸ばすまでもなく理解されるようになった。今また「外国語」が来て、多くの文が新たに作られねばならない——悪く言えば、硬造である。私の経験では、このように訳す方が、いくつかの文に分解するよりも原文の精悍な語気をよく保存できる。しかし新造を必要とするがゆえに、もとの中国語には欠点があるのだ。何の「奇跡」か、何の「だろうか」か?ただし「指を伸ばし」「辛抱強く」する必要があり、ある人々にとっては「愉快なことではない」。しかし私はもとより「爽快」や「愉快」をあの御仁方に献上する気はなく、まだいくらかの読者が何か得るところがあるなら、梁実秋氏「ら」の苦楽および無所得は、まことに「我に於いて浮雲の如し」である。

 しかし梁氏にはさらに無産文学理論に助けを求めるまでもなく、それでもなおよくわかっていない箇所がある。例えば彼は言う。「魯迅先生は数年前に翻訳した文学、例えば厨川白村の『苦悶の象徴』は、まだ読んで理解できないものではなかったが、最近翻訳した本はどうも作風が変わったようだ。」少しでも常識のある人なら知っている。「中国語と外国語は異なる」が、同じ一種の外国語でも、著者それぞれの書き方によって「作風」も「文法の脈絡の位置」もかなり異なりうるのだ。文は繁にも簡にもでき、名詞は普通にも専門的にもなりうるのであって、一種の外国語だからといって理解の容易さがすべて同じになるはずがない。私が『苦悶の象徴』を訳したのも今と同じく、逐句、甚だしきに至っては逐字に硬訳したのだが、梁実秋氏がまだ読めたと思えたのは、原文がもともと理解しやすかったからであり、梁実秋氏が中国の新しい批評家だからでもあり、その中で硬造された構文が比較的見慣れたものだったからでもある。もし三家村で『古文観止』だけを読む学者たちが見れば、「天書」よりも難しいと思わぬはずがあろうか?


 三


 しかし今回の「天書よりも難しい」無産文学理論の翻訳は、梁氏に少なからぬ影響を与えた。読めなくて影響があるとは、滑稽のようだが、真実なのだ。この批評家は「文学に階級性はあるか?」の中で言う。「私が今、いわゆる無産文学理論を批評するにも、私が理解しうるわずかな資料に基づくしかない。」これはつまり、そのためにこの理論についての知識が極めて不完全だということだ。

 しかしこの罪については、我々(すべての「天書」翻訳者を含む。ゆえに「我々」と言う)も一部の責任しか負えず、一部は著者自身の愚鈍または怠惰に帰せられるべきだ。「ルナチャルスキーだのプレハーノフだの」の本は私にはわからないが、「ボグダーノフの類い」の三篇の論文とトロツキーの半部の『文学と革命』には、確かに英語の翻訳がある。イギリスには「魯迅先生」はいないから、訳文は当然はるかに理解しやすいはずだ。梁氏は偉大な無産文学の出現に対して「待とう、待とう、待とう」の忍耐と勇気を示したが、今回は理論に対しても少し待って、探して読んでから論じてはどうか。あると知らぬのは愚鈍、あると知って求めぬのは怠惰である。黙って座っているだけなら「爽快」かもしれないが、口を開けば冷気を吸い込みやすいものだ。

 例えばまさにあの「文学に階級性はあるか?」の高文。結論は階級性はないという。階級性を抹殺するのなら、最も徹底しているのは呉稚暉氏の「マルクスだの牛クスだの」、そして某氏の「世の中に階級なるものは存在しない」という学説だろう。そうすれば万口が沈黙し、天下太平だ。しかし梁氏はいくらか「マルクスなにがし」の毒にやられて、まず現在多くの場所が資本制度下にあり、その制度の下に無産者がいることを認めた。ただしこの「無産者にはもともと階級の自覚がなかった。過度に同情心の豊かな、しかも態度の偏激な少数の指導者が、この階級観念を彼らに伝授したのだ」と言い、彼らの団結を促し、闘争の欲念を激発させようとした。確かにそうだが、伝授者は同情からではなく、世界を改造する思想によるものだと私は思う。しかも「もともと存在しない」ものは自覚のしようがなく、激発のしようもないのであって、自覚でき、激発できるのは、もともとあったことの証拠だ。もともとあるものを長く隠し通すことはできない。ガリレオが地動説を唱え、ダーウィンが生物進化を唱えた時、最初は宗教家に焼き殺されかけたり、保守者から猛攻撃を受けたりした。しかし今日、人々がこの二つの説を不思議としないのは、地球が確かに動き、生物が確かに進化しているからだ。あると認めながら無いと覆い隠そうとするのは、絶技がなければ不可能だ。

 しかし梁氏には闘争を消滅させる方法がある。ルソーが言ったように「財産は文明の基礎」であり、「資産制度を攻撃することは文明に反抗することだ」とし、「一人の無産者がもし見込みのある人間なら、ただ辛苦して誠実に一生働けば、多かれ少なかれ相当の財産を得られるはずだ。これこそ正当な生活闘争の手段である。」思うに、ルソーは今から百五十年前の人だが、過去未来の文明がすべて資産を基礎とすると考えたはずはない。(しかし経済関係を基礎とすると言うなら、それは正しい。)ギリシャもインドも文明を持ったが、繁栄期にはいずれも資本主義社会ではなかった。彼はこれを知っていたはずだ。知らなければ、それは彼の誤りだ。無産者が「辛苦して」有産階級に這い上がるべきだという「正当な」方法は、中国の金持ちの旦那が機嫌のよい時に貧しい労働者に説く古訓であり、実際に今もなお「辛苦して誠実に」一段上へ這い上がろうとしている「無産者」は多い。しかしこれはまだ誰も「この階級観念を彼らに伝授」していない時の話だ。一旦伝授されれば、彼らは一人一人這い上がろうとはしなくなる。梁氏の言う通り、「彼らは一つの階級になり、組織を持ち、一つの集団になり、そして常軌を逸して一躍して政権と財権を奪取し、一躍して統治階級となる。」しかしまだ「辛苦して誠実に一生働いて、多少なりとも相当の財産を得たい」と思っている「無産者」はいるだろうか?もちろんまだいる。しかし彼は「まだ発財していない有産者」に数えられることになる。梁氏の忠告は無産者に嘔吐されるであろうし、旦那方と互いに賞讃し合うほかなくなるだろう。

那么,此后如何呢?梁先生以为是不足虑的。因为“这种革命的现象不能是永久的,经过自然进化之后,优胜劣败的定律又要证明了,还是聪明才力过人的人占优越的地位,无产的仍是无产者”。但无产阶级大概也知道“反文明的势力早晚要被文明的势力所征服”,所以“要建立所谓‘无产阶级文化’,……这里面包括文艺学术”。

 自此以后,这才入了文艺批评的本题。



 梁先生首先以为无产者文学理论的错误,是“在把阶级的束缚加在文学上面,”因为一个资本家和一个劳动者,有不同的地方,但还有相同的地方,“他们的人性(这两字原本有套圈)并没有两样”,例如都有喜怒哀乐,都有恋爱(但所“说的是恋爱的本身,不是恋爱的方式”),“文学就是表现这最基本的人性的艺术”。这些话是矛盾而空虚的。既然文明以资产为基础,穷人以竭力爬上去为“有出息”,那么,爬上是人生的要谛,富翁乃人类的至尊,文学也只要表现资产阶级就够了,又何必如此“过于富同情心”。一并包括“劣败”的无产者?况且“人性”的“本身”,又怎样表现的呢?譬如原质或杂质的化学底性质,有化合力,物理学底性质有硬度,要显示这力和度数,是须用两种物质来表现的,倘说要不用物质而显示化合力和硬度的单单“本身”,无此妙法;但一用物质,这现象即又因物质而不同。文学不藉人,也无以表示“性”,一用人,而且还在阶级社会里,即断不能免掉所属的阶级性,无需加以“束缚”,实乃出于必然。自然,“喜怒哀乐,人之情也”,然而穷人决无开交易所折本的懊恼,煤油大王那会知道北京检煤渣老婆子身受的酸辛,饥区的灾民,大约总不去种兰花,像阔人的老太爷一样,贾府上的焦大,也不爱林妹妹的。“汽笛呀!列宁呀!”固然并不就是无产文学,然而“一切东西呀!”“一切人呀!”“可喜的事来了,人喜了呀!”也不是表现“人性”的“本身”的文学。倘以表现最普通的人性的文学为至高,则表现最普遍的动物性──营养,呼吸,运动,生殖──的文学,或者除去“运动”,表现生物性的文学,必当更在其上。倘说,因为我们是人,所以以表现人性为限,那么,无产者就因为是无产阶级,所以要做无产文学。
 其次,梁先生说作者的阶级,和作品无关。托尔斯泰出身贵族,而同情于贫民,然而并不主张阶级斗争;马克斯并非无产阶级中的人物;终身穷苦的约翰孙博士,志行吐属,过于贵族。所以估量文学,当看作品本身,不能连累到作者的阶级和身分。这些例子,也全不足以证明文学的无阶级性的。托尔斯泰正因为出身贵族,旧性荡涤不尽,所以只同情于贫民而不主张阶级斗争。马克斯原先诚非无产阶级中的人物,但也并无文学作品,我们不能悬拟他如果动笔,所表现的一定是不用方式的恋爱本身。至于约翰孙博士终身穷苦,而志行吐属,过于王侯者,我却实在不明白那缘故,因为我不知道英国文学和他的传记。也许,他原想“辛辛苦苦诚诚实实的工作一生,多少必定可以得到相当的资产”,然后再爬上贵族阶级去,不料终于“劣败”,连相当的资产也积不起来,所以只落得摆空架子,“爽快”了罢。
 其次,梁先生说,“好的作品永远是少数人的专利品,大多数永远是蠢的,永远是和文学无缘”,但鉴赏力之有无却和阶级无干,因为“鉴赏文学也是天生的一种福气”,就是,虽在无产阶级里,也会有这“天生的一种福气”的人。由我推论起来,则只要有这一种“福气”的人,虽穷得不能受教育,至于一字不识,也可以赏鉴《新月》月刊,来作“人性”和文艺“本身”,原无阶级性的证据。但梁先生也知道天生这一种福气的无产者一定不多,所以另定一种东西(文艺?)来给他们看,“例如什么通俗的戏剧、电影、侦探小说之类”,因为“一般劳工劳农需要娱乐,也许需要少量的艺术的娱乐”的缘故。这样看来,好象文学确因阶级而不同了,但这是因鉴赏力之高低而定的,这种力量的修养和经济无关,乃是上帝之所赐──“福气”。所以文学家要自由创造,既不该为皇室贵族所雇用,也不该受无产阶级所威胁,去做讴功颂德的文章。这是不错的,但在我们所见的无产文学理论中,也并未见过有谁说或一阶级的文学家,不该受皇室贵族的雇用,却该受无产阶级的威胁,去做讴功颂德的文章,不过说,文学有阶级性,在阶级社会中,文学家虽自以为“自由”,自以为超了阶级,而无意识底地,也终受本阶级的阶级意识所支配,那些创作,并非别阶级的文化罢了。例如梁先生的这篇文章,原意是在取消文学上的阶级性,张扬真理的。但以资产为文明的祖宗,指穷人为劣败的渣滓,只要一瞥,就知道是资产家的斗争的“武器”,──不,“文章”了。无产文学理论家以主张“全人类”“超阶级”的文学理论为帮助有产阶级的东西,这里就给了一个极分明的例证。至于成仿吾先生似的“他们一定胜利的,所以我们去指导安慰他们去”,说出“去了”之后,便来“打发”自己们以外的“他们”那样的无产文学家,那不消说,是也和梁先生一样地对于无产文学的理论,未免有“以意为之”的错误的。
 又其次,梁先生最痛恨的是无产文学理论家以文艺为斗争的武器,就是当作宣传品。他“不反对任何人利用文学来达到另外的目的”,但“不能承认宣传式的文字便是文学”。我以为这是自扰之谈。据我所看过的那些理论,都不过说凡文艺必有所宣传,并没有谁主张只要宣传式的文字便是文学。诚然,前年以来,中国确曾有许多诗歌小说,填进口号和标语去,自以为就是无产文学。但那是因为内容和形式,都没有无产气,不用口号和标语,便无从表示其“新兴”的缘故,实际上也并非无产文学。今年,有名的“无产文学底批评家”钱杏邨先生在《拓荒者》上还在引卢那卡尔斯基的话,以为他推重大众能解的文学,足见用口号标语之未可厚非,来给那些“革命文学”辩护。但我觉得那也和梁实秋先生一样,是有意的或无意的曲解。卢那卡尔斯基所谓大众能解的东西,当是指托尔斯泰做了分给农民的小本子那样的文体,工农一看便会了然的语法,歌调,诙谐。只要看台明·培特尼(Demian Bednii)曾因诗歌得到赤旗章,而他的诗中并不用标语和口号,便可明白了。
 最后梁先生要看货色。这不错的,是最切实的办法;但抄两首译诗算是在示众,是不对的。《新月》上就曾有《论翻译之难》,何况所译的文是诗。就我所见的而论,卢那卡尔斯基的《被解放的堂·吉诃德》,法兑耶夫的《溃灭》,格拉特珂夫的《水门汀》,在中国这十一年中,就并无可以和这些相比的作品。这是指“新月社”一流的蒙资产文明的余荫,而且衷心在拥护它的作家而言。于号称无产作家的作品中,我也举不出相当的成绩。但钱杏邨先生也曾辩护,说新兴阶级,于文学的本领当然幼稚而单纯,向他们立刻要求好作品,是“布尔乔亚”的恶意。这话为农工而说,是极不错的。这样的无理要求,恰如使他们冻饿了好久,倒怪他们为什么没有富翁那么肥胖一样。但中国的作者,现在却实在并无刚刚放下锄斧柄子的人,大多数都是进过学校的智识者,有些还是早已有名的文人,莫非克服了自己的小资产阶级意识之后,就连先前的文学本领也随着消失了么?不会的。俄国的老作家亚历舍·托尔斯泰和威垒赛耶夫、普理希文,至今都还有好作品。中国的有口号而无随同的实证者,我想,那病根并不在“以文艺为阶级斗争的武器”,而在“借阶级斗争为文艺的武器”,在“无产者文学”这旗帜之下,聚集了不少的忽翻筋斗的人,试看去年的新书广告,几乎没有一本不是革命文学,批评家又但将辩护当作“清算”,就是,请文学坐在“阶级斗争”的掩护之下,于是文学自己倒不必着力,因而于文学和斗争两方面都少关系了。
 但中国目前的一时现象,当然毫不足作无产文学之新兴的反证的。梁先生也知道,所以他临末让步说,“假如无产阶级革命家一定要把他的宣传文学唤做无产文学,那总算是一种新兴文学,总算是文学国土里的新收获,用不着高呼打倒资产的文学来争夺文学的领域,因为文学的领域太大了,新的东西总有它的位置的。”但这好象“中日亲善,同存共荣”之说,从羽毛未丰的无产者看来,是一种欺骗。愿意这样的“无产文学者”现在恐怕实在也有的罢,不过这是梁先生所谓“有出息”的要爬上资产阶级去的“无产者”一流,他的作品是穷秀才未中状元时候的牢骚,从开手到爬上以及以后,都决不是无产文学。无产者文学是为了以自己们之力,来解放本阶级并及一切阶级而斗争的一翼,所要的是全般,不是一角的地位。就拿文艺批评界来比方罢,假如在“人性”的“艺术之宫”(这须从成仿吾先生处租来暂用)里,向南面摆两把虎皮交椅,请梁实秋、钱杏邨两位先生并排坐下,一个右执“新月”,一个左执“太阳”,那情形可真是“劳资”媲美了。




 到这里,又可以谈到我的“硬译”去了。
 推想起来,这是很应该跟着发生的问题:无产文学既然重在宣传,宣传必须多数能懂,那么,你这些“硬译”而难懂的理论“天书”,究竟为什么而译的呢?不是等于不译么?
 我的回答,是:为了我自己,和几个以无产文学批评家自居的人,和一部分不图“爽快”,不怕艰难,多少要明白一些这理论的读者。
 从前年以来,对于我个人的攻击是多极了,每一种刊物上,大抵总要看见“鲁迅”的名字,而作者的口吻,则粗粗一看,大抵好象革命文学家。但我看了几篇,竟逐渐觉得废话太多了。解剖刀既不中腠理,子弹所击之处,也不是致命伤。例如我所属的阶级罢,就至今还未判定,忽说小资产阶级,忽说“布尔乔亚”,有时还升为“封建余孽”,而且又等于猩猩;(见《创造月刊》上的《东京通信》;)有一回则骂到牙齿的颜色。在这样的社会里,有封建余孽出风头,是十分可能的,但封建余孽就是猩猩,却在任何“唯物史观”上都没有说明,也找不出牙齿色黄,即有害于无产阶级革命的论据。我于是想,可供参考的这样的理论,是太少了,所以大家有些胡涂。对于敌人,解剖,咬嚼,现在是在所不免的,不过有一本解剖学,有一本烹饪法,依法办理,则构造味道,总还可以较为清楚,有味。人往往以神话中的Prometheus比革命者,以为窃火给人,虽遭天帝之虐待不悔,其博大坚忍正相同。但我从别国里窃得火来,本意却在煮自己的肉的,以为倘能味道较好,庶几在咬嚼者那一面也得到较多的好处,我也不枉费了身躯:出发点全是个人主义,并且还夹杂着小市民性的奢华,以及慢慢地摸出解剖刀来,反而刺进解剖者的心脏里去的“报复”。梁先生说“他们要报复!”其实岂只“他们”,这样的人在“封建余孽”中也很有的。然而,我也愿意于社会上有些用处,看客所见的结果仍是火和光。这样,首先开手的就是《文艺政策》,因为其中含有各派的议论。
 郑伯奇先生现在是开书铺,印Hauptmann和Gregory夫人的剧本了,那时他还是革命文学家,便在所编的《文艺生活》上,笑我的翻译这书,是不甘没落,而可惜被别人着了先鞭。翻一本书便会浮起,做革命文学家真太容易了,我并不这样想。有一种小报,则说我的译《艺术论》是“投降”。是的,投降的事,为世上所常有。但其时成仿吾元帅早已爬出日本的温泉,住进巴黎的旅馆了,在这里又向谁去输诚呢。今年,说法又两样了,在《拓荒者》和《现代小说》上,都说是“方向转换”。我看见日本的有些杂志中,曾将这四字加在先前的新感觉派片冈铁兵上,算是一个好名词。其实,这些纷纭之谈,也还是只看名目,连想也不肯想的老病。译一本关于无产文学的书,是不足以证明方向的,倘有曲译,倒反足以为害。我的译书,就也要献给这些速断的无产文学批评家,因为他们是有不贪“爽快”,耐苦来研究这些理论的义务的。
 但我自信并无故意的曲译,打着我所不佩服的批评家的伤处了的时候我就一笑,打着我的伤处了的时候我就忍疼,却决不肯有所增减,这也是始终“硬译”的一个原因。自然,世间总会有较好的翻译者,能够译成既不曲,也不“硬”或“死”的文章的,那时我的译本当然就被淘汰,我就只要来填这从“无有”到“较好”的空间罢了。

それでは今後はどうか。梁氏はさして心配する必要はないと考える。なぜなら「この種の革命の現象は永続しえず、自然の進化を経た後には、優勝劣敗の法則が再び証明され、やはり聡明にして才力の人に優る者が優越の地位を占め、無産者は依然として無産者だ」からである。しかし無産階級もおそらく「反文明の勢力はいずれ文明の勢力に征服される」ことを知っているから、「いわゆる『無産階級文化』を建設しようとし、……そこには文芸学術が含まれる」のだ。

 これ以後、ようやく文芸批評の本題に入る。


 四


 梁氏はまず、無産者文学理論の誤りは「階級の束縛を文学の上に加えたこと」にあるとする。なぜなら一人の資本家と一人の労働者には異なる点があるが、同じ点もある。「彼らの人性(原文ではこの二字に二重丸)に違いはない」。例えばどちらも喜怒哀楽があり、恋愛がある(ただし「言っているのは恋愛そのものであって、恋愛の方式ではない」)。「文学とはこの最も基本的な人性を表現する芸術だ」。これらの言葉は矛盾し、空虚である。文明の基礎が資産であり、貧者が必死に這い上がるのが「見込みがある」ことなら、這い上がることが人生の要諦であり、富豪こそ人類の至尊であり、文学も資産階級を表現するだけで十分なはずだ。なぜそれほど「同情心過多」で「劣敗」の無産者まで含めるのか?しかも「人性」の「それ自体」はどのように表現されるのだろうか?例えば元素や化合物の化学的性質には化合力があり、物理的性質には硬度がある。この力や度数を示すには二つの物質を用いなければならない。物質を使わずに化合力や硬度の「それ自体」だけを示そうにも、そんな妙法はない。しかし物質を使えば、その現象は物質によって異なる。文学も人間を借りなければ「性」を示せず、人間を用いれば、しかもまだ階級社会の中にある以上、所属する階級性を免れることは断じてできない。「束縛」を加える必要はなく、実は必然なのだ。もちろん、「喜怒哀楽は人の情なり」。しかし貧者には取引所で損をした懊悩は絶対になく、石油王が北京で石炭殻を拾う老婆の身に受ける辛酸を知るはずもなく、飢饉の被災民はおそらく金持ちの旦那のように蘭の花を育てはしないだろうし、賈府の焦大も林妹妹を愛しはしなかった。「汽笛よ!レーニンよ!」がそのまま無産文学でないのは確かだが、「すべてのものよ!」「すべての人よ!」「嬉しいことが来た、人は喜んだよ!」もまた「人性」の「それ自体」を表現する文学ではない。最も普遍的な人性を表現する文学を最高とするなら、最も普遍的な動物性——栄養、呼吸、運動、生殖——を表現する文学の方がさらに上であるはずだし、「運動」を除いて生物性を表現する文学ならなおさらだろう。我々は人間だから人性の表現を限度とするというなら、無産者は無産階級だから無産文学を作るのだ。

 次に梁氏は、作者の階級は作品と無関係だと言う。トルストイは貴族の出身だが貧民に同情した。しかし階級闘争は主張しなかった。マルクスは無産階級の出身ではない。終身貧窮だったジョンソン博士は志行と言葉遣いが貴族に勝った。だから文学を評価するには作品自体を見るべきで、作者の階級や身分に累を及ぼすべきではない。これらの例は文学の無階級性を証明するには全く不十分だ。トルストイはまさに貴族の出身だったからこそ、旧来の性格を洗い去りきれず、だから貧民に同情するだけで階級闘争は主張しなかったのだ。マルクスはもともと無産階級出身ではなく、文学作品もないから、彼がもし筆を執ったらその表現が方式を用いない恋愛そのものだったろうなどと臆断はできない。ジョンソン博士が終身貧窮でありながら志行と言葉遣いが王侯に勝っていた理由は、英国文学と彼の伝記を知らないので私にはわからない。おそらく「辛苦して誠実に一生働いて、多少なりとも相当の財産を得よう」として有産階級に這い上がろうとしたが、ついに「劣敗」し、相当の財産も積めなかったので、空威張りをして「爽快」にしていたのだろう。

 次に梁氏は言う。「良い作品は永遠に少数の人の専有物であり、大多数は永遠に愚かで、永遠に文学と無縁だ。」しかし鑑賞力の有無は階級と無関係だ。なぜなら「文学を鑑賞することも天から授かった一種の福分」だからだ。すなわち無産階級の中にもこの「天から授かった一種の福分」を持つ者はいるのだ。私の推論によれば、この一種の「福分」さえあれば、貧しくて教育を受けられず一字も読めなくても、『新月』月刊を鑑賞でき、「人性」と文芸の「それ自体」にはもとから階級性がないことの証拠となりうる。しかし梁氏もこの天賦の福分を持つ無産者が多くはないことを知っているから、彼らのために別種のもの(文芸?)を定めて見せようとする。「例えば通俗的な演劇、映画、探偵小説の類い」であり、「一般の労働者・農民は娯楽を必要とし、おそらくわずかな芸術的娯楽も必要とする」からだ。こう見ると、文学は確かに階級によって異なるようだが、これは鑑賞力の高低によるものであり、この力の涵養は経済と無関係で、神の賜物——「福分」なのだ。だから文学者は自由に創造すべきであり、皇室貴族に雇われるべきでもなく、無産階級に脅されるべきでもなく、讃美の文章を書くべきではない。これは正しい。しかし我々が見た無産文学理論の中に、ある階級の文学者は皇室貴族に雇われるべきではないが無産階級に脅されて讃美の文章を書くべきだなどと言ったものを見たことはない。ただ文学には階級性があり、階級社会の中で文学者は自ら「自由」だと思い、階級を超越したと思っていても、無意識のうちに自己の階級の階級意識に支配され、それらの創作は他の階級の文化ではないと言っているに過ぎない。例えば梁氏のこの文章は、本来は文学上の階級性を消去し真理を宣揚しようとするものだ。しかし資産を文明の祖先とし、貧者を劣敗の滓と指さすのを一瞥すれば、資産家の闘争の「武器」——いや「文章」であることがわかる。無産文学理論家が「全人類」「超階級」の文学理論を有産階級を助けるものと見なすのは、ここにまことに明瞭な実例を与えている。成仿吾氏のように「彼らは必ず勝利する。だから我々は彼らを指導し慰めに行こう」と言い、「行った」後は自分たち以外の「彼ら」を「あしらう」ような無産文学者もまた、梁氏と同様に無産文学理論について「意を以て之を為す」誤りを免れてはいない。

 さらに梁氏が最も痛恨するのは、無産文学理論家が文芸を闘争の武器、すなわち宣伝品とすることだ。彼は「何人であれ文学を利用して別の目的を達することに反対しない」が、「宣伝式の文章が文学であるとは認められない」。これは自ら騒ぎを起こす言だと思う。私が読んだ理論は、すべてただ凡そ文芸には必ず何らかの宣伝があると言っているだけで、宣伝式の文章がそのまま文学だと主張した者はいない。確かに一昨年以来、中国ではスローガンや標語を詰め込んだ詩歌小説が数多く現れ、それが無産文学だと自任した。しかしそれは内容も形式も無産の気がなく、スローガンと標語を使わなければ「新興」を示す術がなかったからであり、実際には無産文学ではなかった。今年、名高い「無産文学の批評家」銭杏邨氏が『拓荒者』でなおルナチャルスキーの言葉を引き、彼が大衆に理解できる文学を推重していることは、スローガンや標語の使用を非難すべきでないことの証だとして、あれらの「革命文学」を弁護した。しかしそれも梁実秋氏と同じく、故意あるいは無意識の曲解だと私は思う。ルナチャルスキーのいう大衆に理解できるものとは、トルストイが農民に配るために書いた小冊子のような文体、労農が一見して了解できる語法・歌調・諧謔を指すはずだ。デミアン・ベドヌイ(Demian Bednii)が詩歌で赤旗章を受け、その詩中にスローガンも標語も使っていないことを見れば明白だ。

 最後に梁氏は実物を見たいという。それは正しい。最も切実な方法だ。しかし二首の訳詩を抜き出してさらし者にするのは間違っている。『新月』にも「翻訳の難しさについて」が載ったことがあるではないか。まして訳されたのは詩なのだ。私が見た範囲で言えば、ルナチャルスキーの「解放されたドン・キホーテ」、ファジェーエフの「壊滅」、グラトコフの「セメント」は、中国のこの十一年間に比肩しうる作品がない。これは「新月社」一派の資産文明の余蔭を蒙り、しかも衷心からそれを擁護する作家についてのことだ。無産作家を自称する者の作品にも、相当の成果を挙げることはできない。しかし銭杏邨氏も弁護した。新興階級は文学の手腕が当然幼稚で単純であり、直ちに良い作品を要求するのは「ブルジョワ」の悪意だと。この言葉は労農のために言えば、まったく正しい。この種の無理な要求は、彼らを長く凍え飢えさせておきながら、なぜ富豪のように肥えていないのかと責めるようなものだ。しかし中国の作者は現に鋤や斧の柄を置いたばかりの者は実際にはおらず、大多数は学校を出た知識人であり、中には早くから有名な文人もいる。まさか自らの小ブルジョワ意識を克服した後は、以前の文学的手腕も消え失せたとでもいうのだろうか?そんなことはない。ロシアの老作家アレクセイ・トルストイやヴェレサーエフ、プリーシヴィンは今でもなお良い作品を書いている。中国にスローガンばかりで実証の伴わない者が多いのは、その病根が「文芸を階級闘争の武器とする」ことにあるのではなく、「階級闘争を文芸の武器として借りる」ことにある。「無産者文学」の旗の下に少なからぬ宙返りする者が集まり、去年の新刊広告を見れば、革命文学でない本はほとんど一冊もなかった。批評家はまた弁護をもって「清算」に代え、すなわち文学を「階級闘争」の庇護の下に座らせ、こうして文学自体は力を入れる必要がなくなり、よって文学と闘争の両方にほとんど無関係となったのだ。

 しかし中国の目下の一時的現象は、無産文学の新興に対する反証にはまったくならない。梁氏もそれを知っているから、末尾で譲歩して言う。「もし無産階級の革命家がどうしても彼の宣伝文学を無産文学と呼ぶなら、それは一種の新興文学であり、文学の国土における新しい収穫であるから、声高に資産の文学打倒を叫んで文学の領域を争奪する必要はない。なぜなら文学の領域は広大で、新しいものには常にその位置があるからだ。」しかしこれは「日中親善、共存共栄」の説のようなもので、まだ羽毛も生え揃わない無産者から見れば、一種の欺瞞だ。このような「無産文学者」でよいとする者は今でもおそらくいるだろうが、それは梁氏のいう「見込みのある」、有産階級に這い上がろうとする「無産者」の類いであり、その作品は貧しい書生がまだ状元に及第していない時の不平であって、始めから這い上がり、そしてその後も、決して無産文学ではない。無産者文学は、自分たちの力で自己の階級および一切の階級を解放するために闘争する一翼であり、求めるのは全体であって、一角の地位ではない。文芸批評界を例に取れば、もし「人性」の「芸術の宮殿」(これは成仿吾氏から借用する)の中に南向きに虎皮の椅子を二脚並べ、梁実秋・銭杏邨の両氏をそろって座らせ、一人は右手に「新月」を、一人は左手に「太陽」を掲げたなら、その光景はまさに「労資」が肩を並べたことになるだろう。



 五


 ここでまた私の「硬訳」に話を戻せる。

 推察するに、これは当然次に起こるべき問題だ。無産文学が宣伝を重んじるなら、宣伝は多数が理解できなければならない。それなら「硬訳」で難解なこれらの理論の「天書」は、結局何のために訳したのか?訳さなかったのと同じではないのか?

 私の答えはこうだ。自分自身のため、無産文学批評家を自認する何人かのため、そして「爽快」を求めず、困難を恐れず、多少なりともこの理論を理解したいと思う一部の読者のためだ。

 一昨年以来、私個人への攻撃は甚だ多く、どの刊行物にもたいてい「魯迅」の名を見かけたが、著者の口吻は、粗く見れば概して革命文学者のようであった。しかし数篇読んでみると、次第に無駄な言葉が多すぎると感じた。解剖刀は腠理に当たらず、弾丸の命中した箇所も致命傷ではない。例えば私の属する階級にしても、今なお確定していない。小ブルジョワと言ったかと思えば「ブルジョワ」と言い、時には「封建の遺物」にまで昇進し、しかもオランウータンとも等しいとされた。(『創造月刊』掲載の「東京通信」を見よ。)また一度は歯の色を罵ったこともある。このような社会で封建の遺物が幅を利かせることは十分ありうるが、封建の遺物がすなわちオランウータンだとはいかなる「唯物史観」にも説明がなく、歯が黄色ければ無産階級革命に害があるという論拠も見つからない。そこで私は考えた。参考になるこの種の理論が少なすぎるから、みんないささか混乱しているのだと。敵に対して、解剖し、咀嚼するのは今のところ避けられないが、一冊の解剖学、一冊の料理法があって、それに従って処理すれば、構造も味もなおいくらかは明瞭で味わい深くなるだろう。人はしばしば神話のプロメテウスを革命者に喩え、人に火を盗み与え、天帝の虐待を受けても悔いないその博大堅忍は同じだと考える。しかし私が他国から火を盗んできた本意は、自分の肉を焼くためであり、もし味がいくらかよければ、咀嚼する側にもより多くの利益があるだろうし、私も体を無駄にしたことにはなるまいと考えた。出発点は全くの個人主義であり、しかも小市民的な贅沢さが混じり、さらにはゆっくりと解剖刀を取り出して、逆に解剖者の心臓に突き刺す「報復」でもある。梁氏は「彼らは報復したいのだ!」と言う。しかし「彼ら」だけではない。「封建の遺物」の中にもこのような者はいるのだ。しかし私もまた社会にいくらか役に立ちたいと願っており、見物人に見える結果は火と光なのだ。こうして、まず手をつけたのが「文芸政策」であった。各派の議論が含まれているからだ。

 鄭伯奇氏は今では書店を開いてハウプトマンやグレゴリー夫人の戯曲を印刷しているが、当時はまだ革命文学者であり、編集していた「文芸生活」で、私がこの本を翻訳したのは没落に甘んじないためだが、残念なことに他人に先を越されたと嘲笑した。一冊の本を翻訳すれば浮かび上がれるのなら、革命文学者になるのはあまりに容易だ。私はそうは思わない。ある小新聞は私の「芸術論」の翻訳を「投降」だと言った。確かに投降は世に常にあることだ。しかしその頃、成仿吾元帥はとうに日本の温泉から這い出し、パリのホテルに入っていた。ここで一体誰に忠誠を誓うというのか。今年になるとまた言い方が変わり、「拓荒者」と「現代小説」で「方向転換」だと言った。日本のある雑誌で、この四文字が以前の新感覚派の片岡鉄兵に付けられたのを見たことがあり、良い言葉ではある。しかし実のところ、これらの紛々たる議論も、名目だけを見て、考えようともしない旧弊に過ぎない。無産文学に関する一冊の本を訳したことは方向を証明するに足りず、もし曲訳があれば、かえって害をなすに足る。私の訳書はまた、これらの速断な無産文学批評家にも捧げたい。なぜなら彼らには「爽快」を貪らず、辛苦してこれらの理論を研究する義務があるからだ。

 しかし私は故意の曲訳をしていないと自信している。私の敬服していない批評家の急所を突いた時は笑い、私の急所を突かれた時は痛みを堪えるが、決して増減を加えようとはしない。これもまた終始「硬訳」を続ける一つの理由だ。もちろん、世の中にはより良い翻訳者がいて、曲がりも「硬さ」も「死」もない文章に訳すことができるだろう。その時、私の訳本は当然淘汰される。私はただ「無」から「より良い」までの空間を埋めたいだけだ。

然而世间纸张还多,每一文社的人数却少,志大力薄,写不完所有的纸张,于是一社中的职司克敌助友,扫荡异类的批评家,看见别人来涂写纸张了,便喟然兴叹,不胜其摇头顿足之苦。上海的《申报》上,至于称社会科学的翻译者为“阿狗阿猫”,其愤愤有如此。在“中国新兴文学的地位,早为读者所共知”的蒋光Z先生,曾往日本东京养病,看见藏原惟人。谈到日本有许多翻译太坏,简直比原文还难读……他就笑了起来,说:“……那中国的翻译界更要莫名其妙了,近来中国有许多书籍都是译自日文的,如果日本人将欧洲人那一国的作品带点错误和删改,从日文译到中国去,试问这作品岂不是要变了一半相貌么?……”(见《拓荒者》)也就是深不满于翻译,尤其是重译的表示。不过梁先生还举出书名和坏处,蒋先生却只嫣然一笑,扫荡无余,真是普遍得远了。藏原惟人是从俄文直接译过许多文艺理论和小说的,于我个人就极有裨益。我希望中国也有一两个这样的诚实的俄文翻译者,陆续译出好书来,不仅自骂一声“混蛋”就算尽了革命文学家的责任。

 然而现在呢,这些东西,梁实秋先生是不译的,称人为“阿狗阿猫”的伟人也不译,学过俄文的蒋先生原是最为适宜的了,可惜养病之后,只出了一本《一周间》,而日本则早已有了两种的译本。中国曾经大谈达尔文,大谈尼采,到欧战时候,则大骂了他们一通,但达尔文的著作的译本,至今只有一种,尼采的则只有半部,学英、德文的学者及文豪都不暇顾及,或不屑顾及,拉倒了。所以暂时之间,恐怕还只好任人笑骂,仍从日文来重译,或者取一本原文,比照了日译本来直译罢。我还想这样做,并且希望更多有这样做的人,来填一填彻底的高谈中的空虚,因为我们不能像蒋先生那样的“好笑起来”,也不该如梁先生的“等着,等着,等着”了。



 我在开头曾有“以硬自居了,而实则其软如棉,正是新月社的一种特色”这些话,到这里还应该简短地补充几句,就作为本篇的收场。
 《新月》一出世,就主张“严正态度”,但于骂人者则骂之,讥人者则讥之。这并不错,正是“即以其人之道,还治其人之身”,虽然也是一种“报复”,而非为了自己。到二卷六、七号合本的广告上,还说“我们都保持‘容忍’的态度(除了‘不容忍’的态度是我们所不能容忍以外),我们都喜欢稳健的合乎理性的学说”。上两句也不错,“以眼还眼,以牙还牙”,和开初仍然一贯。然而从这条大路走下去,一定要遇到“以暴力抗暴力”,这和新月社诸君所喜欢的“稳健”也不能相容了。
 这一回,新月社的“自由言论”遭了压迫,照老办法,是必须对于压迫者,也加以压迫的,但《新月》上所显现的反应,却是一篇《告压迫言论自由者》,先引对方的党义,次引外国的法律,终引东西史例,以见凡压迫自由者,往往臻于灭亡:是一番替对方设想的警告。
 所以,新月社的“严正态度”,“以眼还眼”法,归根结蒂,是专施之力量相类,或力量较小的人的,倘给有力者打肿了眼,就要破例,只举手掩住自己的脸,叫一声“小心你自己的眼睛!”

しかしながら世間には紙がまだ多く、各文学結社の人数は少ない。志は大きくとも力は薄く、すべての紙を書き尽くすことができない。そこで結社内で敵を打ち負かし味方を助け、異類を掃討する役を担う批評家が、他の者が紙に書き始めるのを見ると、嘆息してしきりに首を振り足を踏み鳴らして苦しむのである。上海の『申報』に至っては、社会科学の翻訳者を「犬猫の輩」と呼んで、その憤慨たるやかくの如しである。「中国新興文学の地位は、つとに読者の知るところである」という蒋光Z先生は、かつて日本の東京に療養に赴き、蔵原惟人に会った。日本には劣悪な翻訳が多く、原文よりも読みにくいほどだと話すと……彼は笑い出してこう言った。「……それなら中国の翻訳界はもっと訳が分からないですよ。近頃中国では多くの書籍が日本語から訳されていますが、もし日本人がヨーロッパのある国の作品にいくらかの誤りや削除・改変を加えて、日本語から中国語に訳されたら、その作品は半ば面目を変えてしまうのではありませんか……」(『拓荒者』参照)これもまた翻訳、とりわけ重訳に対する深い不満の表明である。ただし梁先生はまだ書名と欠点を具体的に挙げているが、蒋先生は莞爾として一笑するだけで一切を掃討しており、その範囲の広さたるや遥かに及ぶものである。蔵原惟人はロシア語から直接多くの文芸理論や小説を訳した人で、私個人にとっても大いに裨益があった。中国にもこのような誠実なロシア語翻訳者が一人二人いて、次々と良書を訳してくれることを望む。自分で「馬鹿者」と一声罵るだけで革命文学家の責任を果たしたとするのではなく。

 しかし今はどうか。これらのものを、梁実秋先生は訳さない。人を「犬猫の輩」と呼ぶ偉人も訳さない。ロシア語を学んだ蒋先生こそ最も適任のはずだが、惜しいことに療養の後は『一週間』を一冊出しただけで、日本ではとうに二種の訳本が出ている。中国ではかつてダーウィンを盛んに論じ、ニーチェを盛んに論じたが、欧州大戦のときにはさんざん彼らを罵倒した。しかしダーウィンの著作の翻訳は今に至るまでたった一種、ニーチェに至ってはわずか半分しかない。英語やドイツ語を学んだ学者や文豪たちは、暇がないか顧みるに足りないとして、そのままにしてしまった。だからしばらくの間は、おそらく人に笑われ罵られながらも、なお日本語からの重訳を続けるか、あるいは原文を一冊取って日本語訳と照合しながら直訳するほかあるまい。私はまだこのようにするつもりであり、そしてさらに多くの人がこのようにして、徹底した高談の中の空虚を少しでも埋めてくれることを望んでいる。なぜなら我々は蒋先生のように「笑い出す」ことはできないし、梁先生のように「待とう、待とう、待とう」としていてもいけないのだから。


 六


 私は冒頭で「硬いと自任しながら、実はその柔らかさは綿の如く、これこそ新月社の一つの特色である」と述べたが、ここで簡単に補足を加え、本篇の締めくくりとしたい。

 『新月』は世に出るや、「厳正な態度」を主張したが、人を罵る者は罵り、人を嘲る者は嘲った。これは間違いではなく、まさに「その人の道を以て、その人の身に還す」ということで、一種の「報復」ではあるが、自分のためではない。第二巻第六・七号合本の広告にはまだこう書かれている。「我々はみな『寛容』の態度を保っている(ただし『不寛容』の態度だけは我々の容認しえないところである)、我々はみな穏健で理性に適った学説を好む」と。上の二句もまた正しく、「目には目を、歯には歯を」で、当初と依然として一貫している。しかしこの大道をそのまま進めば、必ず「暴力を以て暴力に抗する」に至るのであり、これは新月社の諸氏が好む「穏健」とは相容れなくなる。

 今回、新月社の「言論の自由」は弾圧を受けた。旧来のやり方からすれば、弾圧者に対しても弾圧を加えねばならないはずだが、『新月』に現れた反応は、一篇の「言論の自由を弾圧する者に告ぐ」であった。まず相手方の党義を引き、次に外国の法律を引き、最後に東西の歴史的事例を引いて、およそ自由を弾圧する者はしばしば滅亡に至ることを示す——これは相手方のために考えてやった警告なのである。

 それゆえ、新月社の「厳正な態度」、「目には目を」の法は、つまるところ、力量の相似た者か、あるいは力量のより小さい者にのみ専ら施されるものであって、もし力ある者に目を腫らされたなら、例外を設けて、ただ手を挙げて自分の顔を覆い、「自分の目に気をつけろ!」と一声叫ぶだけなのである。

【习惯与改革】


 体质和精神都已硬化了的人民,对于极小的一点改革,也无不加以阻挠,表面上好象恐怕于自己不便,其实是恐怕于自己不利,但所设的口实,却往往见得极其公正而且堂皇。
 今年的禁用阴历,原也是琐碎的,无关大体的事,但商家当然叫苦连天了。不特此也,连上海的无业游民,公司雇员,竟也常常慨然长叹,或者说这很不便于农家的耕种,或者说这很不便于海船的候潮。他们居然因此念起久不相干的乡下的农夫,海上的舟子来。这真像煞有些博爱。
 一到阴历的十二月二十三,爆竹就到处毕毕剥剥。我问一家的店伙:“今年仍可以过旧历年,明年一准过新历年么?”那回答是:“明年又是明年,要明年再看了。”他并不信明年非过阳历年不可。但日历上,却诚然删掉了阴历,只存节气。然而一面在报章上,则出现了《一百二十年阴阳合历》的广告。好,他们连曾孙玄孙时代的阴历,也已经给准备妥当了,一百二十年!
 梁实秋先生们虽然很讨厌多数,但多数的力量是伟大,要紧的,有志于改革者倘不深知民众的心,设法利导,改进,则无论怎样的高文宏议,浪漫古典,都和他们无干,仅止于几个人在书房中互相叹赏,得些自己满足。假如竟有“好人政府”,出令改革乎,不多久,就早被他们拉回旧道上去了。
 真实的革命者,自有独到的见解,例如乌略诺夫先生,他是将“风俗”和“习惯”,都包括在“文化”之内的,并且以为改革这些,很为困难。我想,但倘不将这些改革,则这革命即等于无成,如沙上建塔,顷刻倒坏。中国最初的排满革命,所以易得响应者,因为口号是“光复旧物”,就是“复古”,易于取得保守的人民同意的缘故。但到后来,竟没有历史上定例的开国之初的盛世,只枉然失了一条辫子,就很为大家所不满了。
 以后较新的改革,就著著失败,改革一两,反动十斤,例如上述的一年日历上不准注阴历,却来了阴阳合历一百二十年。
 这种合历,欢迎的人们一定是很多的,因为这是风俗和习惯所拥护,所以也有风俗和习惯的后援。别的事也如此,倘不深入民众的大层中,于他们的风俗习惯,加以研究,解剖,分别好坏,立存废的标准,而于存于废,都慎选施行的方法,则无论怎样的改革,都将为习惯的岩石所压碎,或者只在表面上浮游一些时。
 现在已不是在书斋中,捧书本高谈宗教、法律、文艺、美术……等等的时候了,即使要谈论这些,也必须先知道习惯和风俗,而且有正视这些的黑暗面的勇猛和毅力。因为倘不看清,就无从改革。仅大叫未来的光明,其实是欺骗怠慢的自己和怠慢的听众的。

【習慣と改革】


 体質も精神もすでに硬直してしまった人民は、極めて小さな改革に対してさえ、ことごとく妨害を加える。表面上はあたかも自分にとって不便であることを恐れるかのようだが、実際には自分にとって不利になることを恐れているのである。しかし設ける口実は、往々にしてきわめて公正かつ堂々としたものに見える。

 今年の陰暦使用禁止は、もとより些細な、大勢に関わりのないことであるが、商家はもちろん苦痛の声を上げた。それだけではない。上海の無職の遊民や会社の雇員までが、しきりに慨然と長嘆するのである。ある者はこれが農家の耕作に不便であると言い、ある者はこれが船舶の潮待ちに不便であると言う。彼らはこのことによって、久しく縁のなかった田舎の農夫や海上の舟子のことまで思い出すのである。これはまことに博愛の如く見える。

 陰暦の十二月二十三日になると、爆竹があちこちでパチパチと鳴り始める。私はある店の店員に尋ねた。「今年はまだ旧暦の正月を祝えるが、来年は必ず新暦の正月を祝うのか。」その答えはこうだった。「来年はまた来年のこと、来年になってから考えますよ。」彼は来年に旧暦の正月を祝わないわけにはいかないとは信じていなかった。しかし日めくりには、確かに陰暦は削除され、節気だけが残されていた。ところが一方、新聞紙上には『百二十年陰陽合暦』の広告が現れたのである。よろしい、彼らは曾孫や玄孫の時代の陰暦まですでに準備万端整えたのだ、百二十年分も!

 梁実秋先生たちは多数を甚だ嫌うけれども、多数の力は偉大であり、肝要である。改革を志す者がもし民衆の心を深く知り、利に導き、改善する方法を講じなければ、いかなる高論宏議であれ、ロマン主義であれ古典主義であれ、すべて彼らとは無関係で、ただ数人が書斎の中で互いに嘆賞し合い、自己満足を得るに止まる。仮にもし「善人政府」が出現して改革の命令を出したとしても、間もなく彼らに旧い道へ引き戻されてしまうだろう。

 真の革命家には独自の見識がある。例えばウリヤノフ氏は、「風俗」と「習慣」をともに「文化」の範疇に含め、しかもこれらの改革は甚だ困難であると考えた。私が思うに、もしこれらを改革しなければ、その革命は無に等しく、砂上に塔を建てるが如く、たちまち倒壊するであろう。中国最初の排満革命が容易に賛同を得たのは、そのスローガンが「旧物の光復」、すなわち「復古」であり、保守的な人民の同意を得やすかったためである。しかしその後、歴史上の定例である開国当初の盛世は遂に訪れず、ただ一本の辮髪をいたずらに失っただけで、大いに不満を買うこととなった。

 その後のより新しい改革は、ことごとく失敗した。一二の改革をすれば、十倍の反動が起こる。例えば前述の如く、一年の日めくりに陰暦の記載を禁じたところ、百二十年分の陰陽合暦が出現したのである。

 この種の合暦を歓迎する人々は必ず多い。なぜなら風俗と習慣が擁護するところであり、したがって風俗と習慣の後援があるからである。他のことも同様で、もし民衆の大きな層の中に深く入り込み、彼らの風俗習慣を研究し、解剖し、善悪を分別し、存廃の基準を立て、存続するにも廃止するにも慎重に実施の方法を選ばなければ、いかなる改革も習慣という岩石に押し潰されるか、あるいはただ表面に漂うだけで終わるであろう。

 今やもはや書斎の中で書物を捧げて、宗教、法律、文芸、美術……等々を高論する時ではない。たとえこれらを論じようとするにしても、まず習慣と風俗を知らねばならず、しかもこれらの暗黒面を直視する勇猛さと毅力がなければならない。なぜなら見定めなければ、改革のしようがないからである。ただ未来の光明を叫ぶだけでは、実のところ怠慢な自分自身と怠慢な聴衆を欺いているに過ぎないのだ。

【非革命的急进革命论者】


 倘说,凡大队的革命军,必须一切战士的意识,都十分正确,分明,这才是真的革命军,否则不值一哂。这言论,初看固然是很正当,彻底似的,然而这是不可能的难题,是空洞的高谈,是毒害革命的甜药。
 譬如在帝国主义的主宰之下,必不容训练大众个个有了“人类之爱”,然后笑嘻嘻地拱手变为“大同世界”一样,在革命者们所反抗的势力之下,也决不容用言论或行动,使大多数人统得到正确的意识。所以每一革命部队的突起,战士大抵不过是反抗现状这一种意思,大略相同,终极目的是极为歧异的。或者为社会,或者为小集团,或者为一个爱人,或者为自己,或者简直为了自杀。然而革命军仍然能够前行。因为在进军的途中,对于敌人,个人主义者所发的子弹,和集团主义者所发的子弹是一样地能够制其死命;任何战士死伤之际,便要减少些军中的战斗力,也两者相等的。但自然,因为终极目的的不同,在行进时,也时时有人退伍,有人落荒,有人颓唐,有人叛变,然而只要无碍于进行,则愈到后来,这队伍也就愈成为纯粹,精锐的队伍了。
 我先前为叶永蓁君的《小小十年》作序,以为已经为社会尽了些力量,便是这意思。书中的主角,究竟上过前线,当过哨兵,(虽然连放枪的方法也未曾被教,)比起单是抱膝哀歌,握笔愤叹的文豪们来,实在也切实得远了。倘若要现在的战士都是意识正确,而且坚于钢铁之战士,不但是乌托邦的空想,也是出于情理之外的苛求。
 但后来在《申报》上,却看见了更严厉,更彻底的批评,因是书中的主角的从军,动机是为了自己,所以深加不满。《申报》是最求和平,最不鼓动革命的报纸,初看仿佛是很不相称似的,我在这里要指出貌似彻底的革命者,而其实是极不革命或有害革命的个人主义的论客来,使那批评的灵魂和报纸的躯壳正相适合。
 其一是颓废者,因为自己没有一定的理想和能力,便流落而求刹那的享乐;一定的享乐,又使他发生厌倦,则时时寻求新刺戟,而这刺戟又须厉害,这才感到畅快。革命便也是那颓废者的新刺戟之一,正如饕餮者餍足了肥甘,味厌了,胃弱了,便要吃胡椒和辣椒之类,使额上出一点小汗,才能送下半碗饭去一般。他于革命文艺,就要彻底的,完全的革命文艺,一有时代的缺陷的反映,就使他皱眉,以为不值一哂。和事实离开是不妨的,只要一个爽快。法国的波特莱尔,谁都知道是颓废的诗人,然而他欢迎革命,待到革命要妨害他的颓废生活的时候,他才憎恶革命了。所以革命前夜的纸张上的革命家,而且是极彻底,极激烈的革命家,临革命时,便能够撕掉他先前的假面,──不自觉的假面。这种史例,是也应该献给一碰小钉子,一有小地位(或小款子),便东窜东京,西走巴黎的成仿吾那样“革命文学家”的。
 其一,我还定不出他的名目。要之,是毫无定见,因而觉得世上没有一件对,自己没有一件不对,归根结蒂,还是现状最好的人们。他现为批评家而说话的时候,就随便捞到一种东西以驳诘相反的东西。要驳互助说时用争存说,驳争存说时用互助说;反对和平论时用阶级争斗说,反对斗争时就主张人类之爱。论敌是唯心论者呢,他的立场是唯物论,待到和唯物论者相辩难,他却又化为唯心论者了。要之,是用英尺来量俄里,又用法尺来量密达,而发见无一相合的人。因为别的一切,无一相合,于是永远觉得自己是“允执厥中”,永远得到自己满足。从这些人们的批评的指示,则只要不完全,有缺陷,就不行。但现在的人,的事,那里会有十分完全,并无缺陷的呢,为万全计,就只好毫不动弹。然而这毫不动弹,却也就是一个大错。总之,做人之道,是非常之烦难了,至于做革命家,那当然更不必说。
 《申报》的批评家对于《小小十年》虽然要求彻底的革命的主角,但于社会科学的翻译,是加以刻毒的冷嘲的,所以那灵魂是后一流,而略带一些颓废者的对于人生的无聊,想吃些辣椒来开开胃的气味。

【非革命的な急進革命論者】


 もし、およそ大部隊の革命軍ならば、すべての戦士の意識が十分に正確かつ明瞭でなければ、これこそ真の革命軍であるとは言えず、さもなくば一笑に値しないと言うならば。この議論は、一見確かに正当で徹底しているように見えるが、しかしこれは実現不可能な難題であり、空虚な高論であり、革命を害する甘い毒薬である。

 たとえば帝国主義の支配の下では、大衆を一人一人訓練して皆が「人類愛」を持ち、それからにこにこと拱手して「大同世界」に変わることなど決して許されないのと同様に、革命家たちが抗う勢力の下でも、言論や行動によって大多数の人々に一様に正確な意識を持たせることは断じて許されない。それゆえ各革命部隊の蜂起において、戦士たちの思いはおおむね現状への反抗というこの一点でほぼ一致しているに過ぎず、究極の目的はきわめて相異なるものである。ある者は社会のために、ある者は小集団のために、ある者は一人の愛人のために、ある者は自分のために、あるいはただ自殺のために。しかし革命軍はなお前進し得る。なぜなら進軍の途上、敵に対して、個人主義者の放つ弾丸も集団主義者の放つ弾丸も、等しく敵を斃し得るからであり、いかなる戦士が死傷しようとも軍中の戦闘力が減ずることは、両者において等しいからである。しかし当然ながら、究極の目的が異なるゆえに、行軍の途中で時として脱落する者があり、落伍する者があり、頽唐する者があり、裏切る者がある。しかし進行に支障がない限り、後になればなるほど、この隊列はますます純粋で精鋭な隊列となるのである。

 私はかつて葉永蓁君の『小さな十年』に序文を書き、すでに社会のためにいくらかの力を尽くしたと考えたが、それはこの意味においてである。書中の主人公は、ともかくも前線に赴き、哨兵を務めた(たとえ銃の撃ち方さえ教えられなかったにしても)。膝を抱えて哀歌を詠じ、筆を握って憤然と嘆くだけの文豪たちに比べれば、実に遥かに切実である。もし今の戦士がすべて意識正確にして鋼鉄の如く堅固な戦士でなければならないとするならば、それはユートピアの空想であるのみならず、情理の外の苛求でもある。

 しかし後になって『申報』で、さらに厳しく、さらに徹底した批評を見かけた。書中の主人公の従軍の動機が自己のためであるから、深い不満を加えたというのである。『申報』は最も平和を求め、最も革命を煽動しない新聞であるから、一見甚だ不釣り合いのようにも見えるが、ここで私が指摘したいのは、一見徹底した革命家に見えながら、実はきわめて非革命的であるか、あるいは革命に有害な個人主義的論客のことであり、その批評の魂と新聞の身体とがまさに相応しいことである。

 その一は頽廃者である。自分に確たる理想も能力もないため、堕落して刹那の享楽を求める。一定の享楽はまた彼に倦怠を催させ、そこで常に新しい刺激を求めるが、その刺激はさらに強烈でなければ痛快を感じない。革命もまた頽廃者にとっての新しい刺激の一つなのであり、ちょうど美食家が肥甘を食べ飽きて味に倦み胃が弱り、唐辛子や辛子の類を食べて額にうっすらと汗を滲ませなければ飯を半碗も咽に通せないのと同様である。彼は革命文芸に対しても、徹底的で完全な革命文芸を求め、少しでも時代の欠陥の反映があれば眉をひそめ、一笑にも値しないと考える。事実から離れていても構わない、ただ痛快であればよい。フランスのボードレールは、誰もが知る頽廃の詩人であるが、彼は革命を歓迎した。しかし革命が彼の頽廃的生活を妨げようとしたとき、彼は革命を憎悪したのである。だから革命前夜の紙上の革命家、しかも極めて徹底し極めて激烈な革命家は、いざ革命に臨むと、かつての仮面を——無自覚の仮面を引き剥がすことができるのだ。この種の歴史的事例は、少しの釘に当たっただけで、少しの地位(あるいは少しの金)を得ただけで、東に東京へ逃げ、西にパリへ走る成仿吾のような「革命文学家」にも献じるべきものである。

 その二は、私にはまだその名目を定めかねるものである。要するに、毫も定見なく、そのため世の中に一つとして正しいものはなく、自分には一つとして間違いはないと感じ、つまるところ現状が最もよいとする人々である。彼が批評家として物を言うとき、手当たり次第に何かを掴んで相反するものを駁撃する。互助説を駁するときは競争説を用い、競争説を駁するときは互助説を用いる。平和論に反対するときは階級闘争説を唱え、闘争に反対するときは人類愛を主張する。論敵が唯心論者であれば、彼の立場は唯物論であるが、唯物論者と論争するとなると、彼はまた唯心論者に変じるのである。要するに、英尺でロシア里を測り、また仏尺でメートルを測って、一つとして合致しないことを発見する人である。他の一切が何一つ合致しないがゆえに、永遠に自分こそ「中庸を允に執る」と感じ、永遠に自己満足を得るのである。これらの人々の批評の示すところに従えば、完全でなく欠陥があれば、それだけで駄目なのである。しかし今の人、今の事に、十分に完全で欠陥のないものなどどこにあろうか。万全を期するならば、一切動かないに如くはない。しかしこの一切動かないということも、やはり一つの大きな過ちなのである。つまり、人として生きる道はまことに煩わしく困難であり、革命家たることに至っては、もちろんなおさら言うまでもない。

 『申報』の批評家は『小さな十年』に対して徹底的な革命の主人公を求めたが、社会科学の翻訳に対しては辛辣な冷笑を加えた。だからその魂は後の一流であり、いくぶん頽廃者の人生に対する退屈から、唐辛子を食べて少し胃を開こうとする気配を帯びているのである。

【张资平氏的“小说学”】


 张资平氏据说是“最进步”的“无产阶级作家”,你们还在“萌芽”,还在“拓荒”,他却已在收获了。这就是进步,拔步飞跑,望尘莫及。然而你如果追踪而往呢,就看见他跑进“乐群书店”中。
 张资平氏先前是三角恋爱小说作家,并且看见女的性欲,比男人还要熬不住,她来找男人,贱人呀贱人,该吃苦。这自然不是无产阶级小说。但作者一转方向,则一人得道,鸡犬飞升,何况神仙的遗蜕呢,《张资平全集》还应该看的。这是收获呀,你明白了没有?
 还有收获哩。《申报》报告,今年的大夏学生,敬请“为青年所崇拜的张资平先生”去教“小说学”了。中国老例,英文先生是一定会教外国史的,国文先生是一定会教伦理学的,何况小说先生,当然满肚子小说学。要不然,他做得出来吗?我们能保得定荷马没有“史诗作法”,沙士比亚没有“戏剧学概论”吗?
 呜呼,听讲的门徒是有福了,从此会知道如何三角,如何恋爱,你想女人吗,不料女人的性欲冲动比你还要强,自己跑来了。朋友,等着罢。但最可怜的是不在上海,只好遥遥“崇拜”,难以身列门墙的青年,竟不能恭听这伟大的“小说学”。现在我将《张资平全集》和“小说学”的精华,提炼在下面,遥献这些崇拜家,算是“望梅止渴”云。
 那就是──


 (二月二十二日。)

【張資平氏の「小説学」】


 張資平氏は「最も進歩的」な「プロレタリア作家」だそうである。諸君がまだ「萌芽」し、まだ「開拓」しているときに、彼はすでに収穫しているのだ。これこそ進歩であり、一足飛びに駆け出し、後塵を拝するほかない。しかしもし追いかけて行ったならば、彼が「楽群書店」の中に駆け込むのが見えるであろう。

 張資平氏は以前は三角恋愛小説の作家であり、しかも女の性欲は男よりもなお堪えがたく、女のほうから男を求めてくると描いた。卑しい者よ卑しい者よ、苦しみを受けるがよい、と。これはもちろんプロレタリア小説ではない。しかし作者が一たび方向を転じれば、一人道を得れば鶏犬もともに天に昇るというもの。まして神仙の遺した殻ならなおさらのこと、『張資平全集』はやはり読むべきなのだ。これが収穫というものだ、お分かりか。

 さらに収穫がある。『申報』の報じるところによれば、今年の大夏の学生たちは、恭しく「青年の崇拝する張資平先生」を招いて「小説学」を教えていただくことになった。中国の旧例では、英語の先生は必ず外国史を教えるし、国語の先生は必ず倫理学を教えるものだ。まして小説の先生なのだから、当然腹の中は小説学で一杯であろう。さもなければ、どうして小説を書けようか。ホメロスに「叙事詩作法」がなかったとか、シェイクスピアに「戯曲学概論」がなかったとか、我々に断言できるだろうか。

 ああ、聴講の門弟は幸いなるかな。これより三角関係の仕方、恋愛の仕方を知るであろう。女が欲しいって? 思いがけないことに、女の性的衝動は君よりもなお強く、向こうから走ってくるのだ。友よ、待っているがよい。しかし最も哀れなのは、上海にいないために、遥かに「崇拝」するしかなく、門下に列する術のない青年たちが、この偉大なる「小説学」を拝聴できないことである。いま私は『張資平全集』と「小説学」の精華を以下に抽出して、遥かにこれらの崇拝者に献ずることにする。いわゆる「梅を望んで渇きを止む」というやつである。

 それはすなわち──


 (二月二十二日。)

【对于左翼作家联盟的意见】

 ──三月二日在左翼作家联盟成立大会讲


 有许多事情,有人在先已经讲得很详细了,我不必再说。我以为在现在,“左翼”作家是很容易成为“右翼”作家的。为什么呢?第一,倘若不和实际的社会斗争接触,单关在玻璃窗内做文章,研究问题,那是无论怎样的激烈,“左”,都是容易办到的;然而一碰到实际,便即刻要撞碎了。关在房子里,最容易高谈彻底的主义,然而也最容易“右倾”。西洋的叫做“Salon的社会主义者”,便是指这而言。“Salon”是客厅的意思,坐在客厅里谈谈社会主义,高雅得很,漂亮得很,然而并不想到实行的。这种社会主义者,毫不足靠。并且在现在,不带点广义的社会主义的思想的作家或艺术家,就是说工农大众应该做奴隶,应该被虐杀,被剥削的这样的作家或艺术家,是差不多没有了,除非墨索里尼,但墨索里尼并没有写过文艺作品。(当然,这样的作家,也还不能说完全没有,例如中国的新月派诸文学家,以及所说的墨索里尼所宠爱的邓南遮便是。)
 第二,倘不明白革命的实际情形,也容易变成“右翼”。革命是痛苦,其中也必然混有污秽和血,决不是如诗人所想像的那般有趣,那般完美;革命尤其是现实的事,需要各种卑贱的,麻烦的工作,决不如诗人所想像的那般浪漫;革命当然有破坏,然而更需要建设,破坏是痛快的,但建设却是麻烦的事。所以对于革命抱着浪漫谛克的幻想的人,一和革命接近,一到革命进行,便容易失望。听说俄国的诗人叶遂宁,当初也非常欢迎十月革命,当时他叫道:“万岁,天上和地上的革命!”又说“我是一个布尔塞维克了!”然而一到革命后,实际上的情形,完全不是他所想像的那么一回事,终于失望,颓废。叶遂宁后来是自杀了的,听说这失望是他的自杀的原因之一。又如毕力涅、爱伦堡,也都是例子。在我们辛亥革命时也有同样的例,那时有许多文人,例如属于“南社”的人们,开初大抵是很革命的,但他们抱着一种幻想,以为只要将满洲人赶出去,便一切都恢复了“汉官威仪”,人们都穿大袖的衣服,峨冠博带,大步地在街上走。谁知赶走满清皇帝以后,民国成立,情形却全不同,所以他们便失望,以后有些人甚至成为新的运动的反动者。但是,我们如果不明白革命的实际情形,也容易和他们一样的。
 还有,以为诗人或文学家高于一切人,他底工作比一切工作都高贵,也是不正确的观念。举例说,从前海涅以为诗人最高贵,而上帝最公平,诗人在死后,便到上帝那里去,围着上帝坐着,上帝请他吃糖果。在现在,上帝请吃糖果的事,是当然无人相信的了,但以为诗人或文学家,现在为劳动大众革命,将来革命成功,劳动阶级一定从丰报酬,特别优待,请他坐特等车,吃特等饭,或者劳动者捧着牛油面包来献他,说:“我们的诗人,请用吧!”这也是不正确的;因为实际上决不会有这种事,恐怕那时比现在还要苦,不但没有牛油面包,连黑面包都没有也说不定,俄国革命后一二年的情形便是例子。如果不明白这情形,也容易变成“右翼”。事实上,劳动者大众,只要不是梁实秋所说“有出息”者,也决不会特别看重知识阶级者的,如我所译的《溃灭》中的美谛克(知识阶级出身),反而常被矿工等所嘲笑。不待说,知识阶级有知识阶级的事要做,不应特别看轻,然而劳动阶级决无特别例外地优待诗人或文学家的义务。
 现在,我说一说我们今后应注意的几点。
 第一,对于旧社会和旧势力的斗争,必须坚决,持久不断,而且注重实力。旧社会的根柢原是非常坚固的,新运动非有更大的力不能动摇它什么。并且旧社会还有它使新势力妥协的好办法,但它自己是决不妥协的。在中国也有过许多新的运动了,却每次都是新的敌不过旧的,那原因大抵是在新的一面没有坚决的广大的目的,要求很小,容易满足。譬如白话文运动,当初旧社会是死力抵抗的,但不久便容许白话文底存在,给它一点可怜地位,在报纸的角头等地方可以看见用白话写的文章了,这是因为在旧社会看来,新的东西并没有什么,并不可怕,所以就让它存在,而新的一面也就满足,以为白话文已得到存在权了。又如一二年来的无产文学运动,也差不多一样,旧社会也容许无产文学,因为无产文学并不厉害,反而他们也来弄无产文学,拿去做装饰,仿佛在客厅里放着许多古董磁器以外,放一个工人用的粗碗,也很别致;而无产文学者呢,他已经在文坛上有个小地位,稿子已经卖得出去了,不必再斗争,批评家也唱着凯旋歌:“无产文学胜利!”但除了个人的胜利,即以无产文学而论,究竟胜利了多少?况且无产文学,是无产阶级解放斗争底一翼,它跟着无产阶级的社会的势力的成长而成长,在无产阶级的社会地位很低的时候,无产文学的文坛地位反而很高,这只是证明无产文学者离开了无产阶级,回到旧社会去罢了。
 第二,我以为战线应该扩大。在前年和去年,文学上的战争是有的,但那范围实在太小,一切旧文学旧思想都不为新派的人所注意,反而弄成了在一角里新文学者和新文学者的斗争,旧派的人倒能够闲舒地在旁边观战。
 第三,我们应当造出大群的新的战士。因为现在人手实在太少了,譬如我们有好几种杂志,单行本的书也出版得不少,但做文章的总同是这几个人,所以内容就不能不单薄。一个人做事不专,这样弄一点,那样弄一点,既要翻译,又要做小说,还要做批评,并且也要做诗,这怎么弄得好呢?这都因为人太少的缘故,如果人多了,则翻译的可以专翻译,创作的可以专创作,批评的专批评;对敌人应战,也军势雄厚,容易克服。关于这点,我可带便地说一件事。前年创造社和太阳社向我进攻的时候,那力量实在单薄,到后来连我都觉得有点无聊,没有意思反攻了,因为我后来看出了敌军在演“空城计”。那时候我的敌军是专事于吹擂,不务于招兵练将的;攻击我的文章当然很多,然而一看就知道都是化名,骂来骂去都是同样的几句话。我那时就等待有一个能操马克斯主义批评的枪法的人来狙击我的,然而他终于没有出现。在我倒是一向就注意新的青年战士底养成的,曾经弄过好几个文学团体,不过效果也很小。但我们今后却必须注意这点。
 我们急于要造出大群的新的战士,但同时,在文学战线上的人还要“韧”。所谓韧,就是不要像前清做八股文的“敲门砖”似的办法。前清的八股文,原是“进学”做官的工具,只要能做“起承转合”,藉以进了“秀才举人”,便可丢掉八股文,一生中再也用不到它了,所以叫做“敲门砖”,犹之用一块砖敲门,门一敲进,砖就可抛弃了,不必再将它带在身边。这种办法,直到现在,也还有许多人在使用,我们常常看见有些人出了一二本诗集或小说集以后,他们便永远不见了,到那里去了呢?是因为出了一本或二本书,有了一点小名或大名,得到了教授或别的什么位置,功成名遂,不必再写诗写小说了,所以永远不见了。这样,所以在中国无论文学或科学都没有东西,然而在我们是要有东西的,因为这于我们有用。(卢那卡尔斯基是甚至主张保存俄国的农民美术,因为可以造出来卖给外国人,在经济上有帮助。我以为如果我们文学或科学上有东西拿得出去给别人,则甚至于脱离帝国主义的压迫的政治运动上也有帮助。)但要在文化上有成绩,则非韧不可。
 最后,我以为联合战线是以有共同目的为必要条件的。我记得好象曾听到过这样一句话:“反动派且已经有联合战线了,而我们还没有团结起来!”其实他们也并未有有意的联合战线,只因为他们的目的相同,所以行动就一致,在我们看来就好象联合战线。而我们战线不能统一,就证明我们的目的不能一致,或者只为了小团体,或者还其实只为了个人,如果目的都在工农大众,那当然战线也就统一了。

【左翼作家連盟に対する意見】

 ──三月二日、左翼作家連盟成立大会にて講演


 多くのことについては、すでに他の方が詳しく述べられたので、私がもう一度繰り返す必要はない。私が思うに、現在、「左翼」作家はきわめて容易に「右翼」作家に転じ得るのである。なぜか。第一に、もし実際の社会闘争に接触せず、ただガラス窓の中に閉じこもって文章を書き、問題を研究するだけならば、いかに激烈であろうと、いかに「左」であろうと、容易にできることである。しかし一たび現実に触れれば、たちまち砕け散る。部屋に閉じこもっていれば、最も容易に徹底した主義を高論できるが、しかし最も容易に「右傾」もするのである。西洋でいう「サロン社会主義者」とは、まさにこれを指す。「サロン」とは客間のことで、客間に座って社会主義を談ずるのは高雅であり、瀟洒であるが、しかし実行しようとは毛頭思わないのだ。この種の社会主義者は、毫も頼りにならない。しかも現在、広義の社会主義思想を少しも帯びない作家や芸術家、すなわち労農大衆は奴隷であるべきだ、虐殺されるべきだ、搾取されるべきだという作家や芸術家は、ほとんどいなくなった。ムッソリーニを除いては。だがムッソリーニは文芸作品を書いたことがない。(もちろん、このような作家が全くいないとも言えない。例えば中国の新月派の諸文学家、及びムッソリーニが寵愛したというダヌンツィオなどがそうである。)

 第二に、もし革命の実際の状況を明らかにしなければ、やはり容易に「右翼」に転じ得る。革命は苦痛であり、その中には必ず汚濁と血が混じっている。決して詩人が想像するほど面白くも完全でもない。革命はとりわけ現実の事であり、様々な卑しい、煩雑な仕事を必要とする。決して詩人が想像するほどロマンチックではない。革命にはもちろん破壊があるが、さらに建設を必要とする。破壊は痛快であるが、建設は煩わしい事である。だから革命に対してロマンティックな幻想を抱く者は、一たび革命に近づき、一たび革命が進行すると、容易に失望する。聞くところによれば、ロシアの詩人エセーニンも当初は十月革命を大いに歓迎し、その時こう叫んだという。「万歳、天上と地上の革命!」また「私はボリシェヴィキだ!」と言った。しかし革命後の実際の状況は、彼の想像したものとはまったく別のものであり、ついに失望し、頽廃した。エセーニンは後に自殺したが、聞くところではこの失望が自殺の原因の一つだという。またピリニャークやエレンブルグもまた同様の例である。我々の辛亥革命のときにも同様の例があった。あの時多くの文人、例えば「南社」に属する人々は、当初おおむね大いに革命的であったが、彼らは一種の幻想を抱いていた。満洲人を追い出しさえすれば、一切が「漢官の威儀」に復し、人々は大袖の衣を着て、高い冠に幅広い帯を締め、大股で街を歩くのだと。ところが清朝の皇帝を追い出した後、民国が成立してみると、事情はまったく異なっていた。だから彼らは失望し、後には新しい運動の反動者にさえなった者もいた。しかし、もし我々も革命の実際の状況を明らかにしなければ、彼らと同じになりやすいのである。

 さらに、詩人や文学者が万人の上にあり、その仕事が一切の仕事よりも高貴だと考えるのも、正しくない観念である。例えば、かつてハイネは詩人が最も高貴であり、神は最も公平で、詩人は死後、神のもとに行き、神の周りに座り、神が砂糖菓子をご馳走してくれると考えた。今日では、神が砂糖菓子をご馳走するなどということは、もちろん誰も信じない。しかし詩人や文学者が、いま労働大衆のために革命し、将来革命が成功すれば、労働階級が必ず豊かに報い、特別に優遇し、特等車に座らせ、特等の食事を出してくれるとか、あるいは労働者がバター付きパンを捧げて献上し、「我らの詩人よ、どうぞお召し上がりください!」と言うだろうとか、これもまた正しくない。なぜなら実際にはそのようなことは決してなく、おそらくその時は今よりもなお苦しく、バター付きパンどころか黒パンさえないかもしれないのだ。ロシア革命後の一二年の状況がその例である。もしこの事情を明らかにしなければ、やはり容易に「右翼」に転じ得る。実際のところ、労働者大衆は、梁実秋の言う「見込みのある」者でない限り、知識階級を特別に重んじることは決してない。私が翻訳した『壊滅』の中のメチク(知識階級出身)のように、かえって常に鉱山労働者たちに嘲笑されるのだ。言うまでもなく、知識階級には知識階級のなすべき事があり、特別に軽視すべきではないが、しかし労働階級には特別に例外的に詩人や文学者を優遇する義務は決してないのである。

 さて、今後我々が注意すべきいくつかの点を述べよう。

 第一に、旧社会と旧勢力に対する闘争は、断固として、持久不断でなければならず、しかも実力を重視しなければならない。旧社会の根底はもとよりきわめて堅固であり、新しい運動はそれよりも大きな力がなければ、何も動かすことができない。しかも旧社会には新勢力を妥協させる巧みな方法があるが、旧社会自身は決して妥協しないのだ。中国でもすでに多くの新しい運動があったが、毎回新しい側が旧い側に敵わなかった。その原因はおおむね、新しい側に断固とした広大な目的がなく、要求がきわめて小さく、容易に満足してしまうことにある。たとえば白話文運動では、当初旧社会は死力を尽くして抵抗したが、間もなく白話文の存在を許容し、わずかな地位を与えた。新聞の片隅などに白話で書かれた文章が見られるようになったのである。これは旧社会から見れば、新しいものは大したことではなく、恐れるに足りないから存在させておこうということであり、新しい側もまた満足して、白話文はすでに存在権を得たと思い込んだのだ。また一二年来のプロレタリア文学運動もほぼ同様で、旧社会もプロレタリア文学を許容した。なぜならプロレタリア文学は恐るべきものではなく、かえって彼らもプロレタリア文学をやって装飾に用い、あたかも客間に多くの古董磁器を並べた上に、労働者が使う粗い碗を一つ置くのもなかなか風変わりでよいというようなものだからである。一方プロレタリア文学者のほうは、すでに文壇に小さな地位を得、原稿が売れるようになったので、もう闘争する必要はなく、批評家もまた凱旋の歌を唱える。「プロレタリア文学の勝利!」と。しかし個人の勝利を除いて、プロレタリア文学として見ればいったいどれだけ勝利したのか。しかもプロレタリア文学はプロレタリア階級の解放闘争の一翼であり、プロレタリア階級の社会的勢力の成長とともに成長するものである。プロレタリア階級の社会的地位がきわめて低い時にプロレタリア文学の文壇的地位がかえって高いとすれば、それはプロレタリア文学者がプロレタリア階級から離れて旧社会に戻ったことを証明するに過ぎない。

 第二に、私は戦線を拡大すべきだと思う。一昨年と昨年、文学上の戦争はあったが、その範囲は実に狭く、一切の旧文学・旧思想は新派の人々の注意するところとならず、かえって片隅で新文学者と新文学者の闘争になってしまい、旧派の人々はのんびりと傍観できたのである。

 第三に、我々は大群の新しい戦士を育成すべきである。なぜなら現在人手があまりにも少ないからだ。たとえば我々にはいくつかの雑誌があり、単行本も少なからず出版しているが、文章を書くのはいつも同じ数人であり、だから内容が薄くならざるを得ない。一人が専門を持たず、あれこれ少しずつ手を出し、翻訳もし、小説も書き、批評もし、さらに詩も書く。これでどうしてうまくいこうか。これはすべて人が少なすぎるためで、もし人が多ければ、翻訳する者は翻訳に専念し、創作する者は創作に専念し、批評する者は批評に専念できる。敵に応戦するにも軍勢が厚く、容易に克服できよう。この点に関して、ついでに一つのことを述べよう。一昨年、創造社と太陽社が私を攻撃したとき、その力量は実に薄弱で、後には私でさえ少々退屈になり、反撃する気も失せた。なぜなら後になって敵軍が「空城の計」を演じているのが分かったからである。あの時、私の敵軍は吹聴に専念するばかりで、兵を募り将を鍛えることをしなかった。私を攻撃する文章はもちろん多かったが、一目見れば皆偽名だと分かり、罵り合っても結局同じ数句の繰り返しだった。私はその時、マルクス主義批評の銃法を操れる者が現れて私を狙撃するのを待っていたが、ついに現れなかった。私のほうはかねてから新しい青年戦士の養成に注意を払い、いくつかの文学団体を主宰したが、効果もまたきわめて小さかった。しかし今後は必ずこの点に注意しなければならない。

 我々は急いで大群の新しい戦士を育成しなければならないが、同時に、文学戦線上の人間はさらに「粘り強く」なければならない。いわゆる粘り強さとは、清朝の八股文における「敲門磚」(門を叩く煉瓦)のようなやり方であってはならないということだ。清朝の八股文はもともと「進学」して官になるための道具であり、「起承転合」ができさえすれば、それによって「秀才」や「挙人」になれれば、八股文は捨てることができ、一生のうち二度と使う必要がなかった。だから「敲門磚」と呼ばれた。煉瓦で門を叩き、門が開けば煉瓦は投げ捨てればよく、身に帯びている必要はないのだ。この種のやり方は今日に至ってもなお多くの人が用いており、しばしば詩集や小説集を一二冊出した後、永久に姿を消す人を見かける。どこへ行ったのか。一冊か二冊の本を出し、少しばかりの名声を得て、教授か何かの地位を得、功成り名遂げて、もう詩や小説を書く必要がなくなったので、永久に姿を消したのだ。だから中国では文学にせよ科学にせよ何もないのである。しかし我々には何かがなければならない。なぜなら我々にとって有用だからだ。(ルナチャルスキーはロシアの農民美術さえ保存すべきだと主張した。なぜなら作って外国人に売れば経済的に助けになるからだ。もし我々が文化的に何か外に出して人に示せるものがあれば、帝国主義の圧迫からの解放の政治運動にさえ助けになると私は思う。)しかし文化的に成果を上げるには、粘り強くなければならないのだ。

 最後に、私は統一戦線には共通の目的があることが必要条件であると思う。かつてこういう言葉を聞いたことがある。「反動派はすでに統一戦線を持っているのに、我々はまだ団結していない!」と。実際には彼らにも意識的な統一戦線があったわけではなく、ただ彼らの目的が同じであるために行動が一致し、我々から見ると統一戦線のように見えただけである。そして我々の戦線が統一できないのは、まさに我々の目的が一致できないことを証明しているのだ。小集団のためだけであったり、あるいは実は個人のためだけであったりする。もし目的がすべて労農大衆にあるならば、当然戦線もまた統一されるのである。

【我们要批评家】


 看大概的情形(我们这里得不到确凿的统计),从去年以来,挂着“革命的”的招牌的创作小说的读者已经减少,出版界的趋势,已在转向社会科学了。这不能不说是好现象。最初,青年的读者迷于广告式批评的符咒,以为读了“革命的”创作,便有出路,自己和社会,都可以得救,于是随手拈来,大口吞下,不料许多许多是并不是滋养品,是新袋子里的酸酒,红纸包里的烂肉,那结果,是吃得胸口痒痒的,好象要呕吐。
 得了这一种苦楚的教训之后,转而去求医于根本的,切实的社会科学,自然,是一个正当的前进。
 然而,大部分是因为市场的需要,社会科学的译著又蜂起云涌了,较为可看的和很要不得的都杂陈在书摊上,开始寻求正确的知识的读者们已经在惶惑。然而新的批评家不开口,类似批评家之流便趁势一笔抹杀:“阿狗阿猫”。
 到这里,我们所需要的,就只得还是几个坚实的,明白的,真懂得社会科学及其文艺理论的批评家。
 批评家的发生,在中国已经好久了,每一个文学团体中,大抵总有一套文学的人物。至少,是一个诗人,一个小说家,还有一个尽职于宣传本团体的光荣和功绩的批评家。这些团体,都说是志在改革,向旧的堡垒取攻势的,然而还在中途,就在旧的堡垒之下纷纷自己扭打起来,扭得大家乏力了,这才放开了手,因为不过是“扭”而已矣,所以大创是没有的,仅仅喘着气。一面喘着气,一面各自以为胜利,唱着凯歌。旧堡垒上简直无须守兵,只要袖手俯首,看这些新的敌人自己所唱的喜剧就够。他无声,但他胜利了。
 这两年中,虽然没有极出色的创作,然而据我所见,印成本子的,如李守章的《跋涉的人们》,台静农的《地之子》,叶永蓁的《小小十年》前半部,柔石的《二月》及《旧时代之死》,魏金枝的《七封信的自传》,刘一梦的《失业以后》,总还是优秀之作。可惜我们的有名的批评家,梁实秋先生还在和陈西滢相呼应,这里可以不提;成仿吾先生是怀念了创造社过去的光荣之后,摇身一变而成为“石厚生”,接着又流星似的消失了;钱杏邨先生近来又只在《拓荒者》上,搀着藏原惟人,一段又一段的,在和茅盾扭结。每一个文学团体以外的作品,在这样忙碌或萧闲的战场,便都被“打发”或默杀了。
 这回的读书界的趋向社会科学,是一个好的、正当的转机,不惟有益于别方面,即对于文艺,也可催促它向正确,前进的路。但在出品的杂乱和旁观者的冷笑中,是极容易凋谢的,所以现在所首先需要的,也还是——
 几个坚实的、明白的、真懂得社会科学及其文艺理论的批评家。

【我々は批評家を求む】


 大体の状況を見ると(我々のところでは確実な統計を得られないのだが)、昨年以来、「革命的」の看板を掲げた創作小説の読者はすでに減少し、出版界の趨勢は社会科学へと転じつつある。これは好ましい現象と言わざるを得ない。当初、若い読者は広告的批評の呪文に迷い、「革命的」創作を読めば活路が開け、自分も社会も救われると思い、手当たり次第に取っては大口で呑み込んだ。ところが多くのものは滋養品ではなく、新しい袋に入った酸っぱい酒であり、赤い紙に包まれた腐った肉であった。その結果、胸の辺りがむずむずして、嘔吐しそうになるのである。

 この苦い教訓を得た後、転じて根本的で切実な社会科学に救いを求めるのは、当然ながら正当な前進である。

 しかしながら、大部分は市場の需要のために、社会科学の翻訳・著作がまたしても蜂起するかの如く溢れ出し、比較的見るべきものと甚だしく取るに足りないものとが書店の棚に雑然と並び、正確な知識を求め始めた読者たちはすでに当惑している。しかし新しい批評家は口を開かず、批評家もどきの輩が機に乗じて一筆に抹殺する。「犬猫の輩」と。

 ここに至って、我々が必要とするのは、やはり数人の堅実で明晰な、真に社会科学とその文芸理論を理解した批評家に他ならないのである。

 批評家の登場は中国ではすでに久しい。各文学団体の中には、おおむね一揃いの文学的人物がいる。少なくとも一人の詩人、一人の小説家、そしてもう一人、自団体の光栄と功績を宣伝する任に当たる批評家である。これらの団体はいずれも改革を志し、旧い堡塁に攻勢をかけると称するが、まだ途中で、旧い堡塁の下で互いにつかみ合いの喧嘩を始め、皆が疲れ果ててからようやく手を離す。「つかみ合い」に過ぎないから大怪我はなく、ただ息を切らしているだけだ。息を切らしながら、各自勝利したと思い込み、凱歌を唱える。旧い堡塁の上にはそもそも守兵すら要らず、ただ手を袖に入れて俯いて、これら新しい敵が自ら演じる喜劇を見物していれば足りるのだ。彼は無言であるが、彼は勝利したのである。

 この二年間、極めて秀でた創作はなかったとはいえ、しかし私の見たところ、刊行されたものでは、李守章の『跋渉する人々』、台静農の『地の子』、葉永蓁の『小さな十年』の前半部、柔石の『二月』及び『旧時代の死』、魏金枝の『七通の手紙の自伝』、劉一夢の『失業以後』などは、なお優秀な作である。惜しむらくは、名高い批評家の梁実秋先生がまだ陳西瀅と呼応し合っていること(これはここでは措いてよい)。成仿吾先生は創造社の過去の栄光を懐かしんだ後、身を変じて「石厚生」となり、続いて流星のように消え去った。銭杏邨先生は近頃また『拓荒者』の上で、蔵原惟人を頼りにしながら、一節また一節と茅盾ともつれ合っている。各文学団体以外の作品は、このように多忙であったり閑散であったりする戦場で、ことごとく「片付けられ」るか黙殺されてしまった。

 今回の読書界の社会科学への転向は、よい正当な転機であり、他の面に有益であるのみならず、文芸に対しても正確な前進の道へと促すことができる。しかし産出の乱雑さと傍観者の冷笑の中では、きわめて容易に凋落しかねない。だから現在まず必要なのは、やはり——

 数人の堅実で明晰な、真に社会科学とその文芸理論を理解した批評家なのである。

【好政府主义】


 梁实秋先生这回在《新月》的《零星》上,也赞成“不满于现状”了,但他以为“现在有智识的人(尤其是夙来有‘前驱者’、‘权威’、‘先进’的徽号的人),他们的责任不仅仅是冷讥热嘲地发表一点‘不满于现状’的杂感而已,他们应该更进一步的诚诚恳恳地去求一个积极医治‘现状’的药方”。
 为什么呢?因为有病就须下药,“三民主义是一副药,──梁先生说,——共产主义也是一副药,国家主义也是一副药,无政府主义也是一副药,好政府主义也是一副药”,现在你“把所有的药方都褒贬得一文不值,都挖苦得不留余地,……这可是什么心理呢?”
 这种心理,实在是应该责难的。但在实际上,我却还未曾见过这样的杂感,譬如说,同一作者,而以为三民主义者是违背了英美的自由,共产主义者又收受了俄国的卢布,国家主义太狭,无政府主义又太空……。所以梁先生的《零星》,是将他所见的杂感的罪状夸大了。
 其实是,指摘一种主义的理由的缺点,或因此而生的弊病,虽是并非某一主义者,原也无所不可的。有如被压榨得痛了,就要叫喊,原不必在想出更好的主义之前,就定要咬住牙关。但自然,能有更好的主张,便更成一个样子。
 不过我以为梁先生所谦逊地放在末尾的“好政府主义”,却还得更谦逊地放在例外的,因为自三民主义以至无政府主义,无论它性质的寒温如何,所开的究竟还是药名,如石膏、肉桂之类,──至于服后的利弊,那是另一个问题。独有“好政府主义”这“一副药”,他在药方上所开的却不是药名,而是“好药料”三个大字,以及一些唠唠叨叨的名医架子的“主张”。不错,谁也不能说医病应该用坏药料,但这张药方,是不必医生才配摇头,谁也会将他“褒贬得一文不值”(“褒”是“称赞”之意,用在这里,不但“不通”,也证明了不识“褒”字,但这是梁先生的原文,所以姑仍其旧)的。
 倘这医生羞恼成怒,喝道:“你嘲笑我的好药料主义,就开出你的药方来!”那就更是大可笑的“现状”之一,即使并不根据什么主义,也会生出杂感来的。杂感之无穷无尽,正因为这样的“现状”太多的缘故。


 (一九三○年四月十七日。)

【好い政府主義】


 梁実秋先生は今回『新月』の『零星』の中で、やはり「現状への不満」に賛成したが、しかし彼は「今日知識のある人間(とりわけつとに『先駆者』、『権威』、『先進』の称号を持つ人間)の責任は、冷笑と皮肉を込めて少々の『現状に不満』の雑感を発表するだけではなく、さらに一歩進んで誠心誠意『現状』を積極的に治療する処方を求めるべきである」と考えた。

 なぜか。病があれば薬を出さねばならないからで、「三民主義は一つの薬であり、——梁先生は言う——共産主義もまた一つの薬であり、国家主義もまた一つの薬であり、無政府主義もまた一つの薬であり、好い政府主義もまた一つの薬である」。今あなたが「すべての処方を貶してはひと文の価値もないとし、皮肉を言い尽くして余地を残さない……これはいったいどういう心理なのか」と。

 この種の心理は、確かに責められるべきものである。しかし実際には、私はまだこのような雑感を見たことがない。たとえば、同一の著者が三民主義者は英米の自由に背いていると考え、共産主義者はロシアのルーブルを受け取っているとし、国家主義は狭すぎ、無政府主義はまた空疎すぎる……というようなものを。だから梁先生の『零星』は、彼が見た雑感の罪状を誇大にしたのである。

 実は、ある主義の論拠の欠点や、それに起因する弊害を指摘することは、たとえその主義の信奉者でなくとも、もとより差し支えないことである。搾取に苦しめば叫び声を上げるのは当然で、もっと良い主義を思いつく前から歯を食いしばっていなければならないという道理はない。しかし当然ながら、もっと良い主張があれば、なおさら見栄えがするであろう。

 ただし、梁先生が謙遜して末尾に置いた「好い政府主義」は、さらに謙遜して例外に置くべきだと私は思う。なぜなら三民主義から無政府主義に至るまで、その性質が寒であれ温であれ、処方に書かれているのはともかくも薬名であり、石膏とか肉桂とかの類である——服用後の利害はまた別の問題だ。しかし「好い政府主義」というこの「一つの薬」だけは、処方に書かれているのは薬名ではなく、「良い薬材」の三大文字と、それにくどくどとした名医ぶった「主張」である。なるほど、病を治すのに悪い薬材を使うべきだとは誰にも言えない。しかしこの処方には、医者でなくても首を振るし、誰でも「貶してひと文の価値もない」とするであろう(「褒貶」の「褒」は「称賛」の意であり、ここに用いるのは「不通」であるのみならず、「褒」の字を知らないことの証明でもある。しかしこれは梁先生の原文であるから、ひとまず旧のままにしておく)。

 もしこの医者が恥じ怒り、「お前が私の良薬材主義を嘲笑するなら、お前の処方を出してみろ!」と叱ったならば、それこそまたいっそう笑うべき「現状」の一つであって、何の主義に基づかなくとも、雑感が生まれてくるだろう。雑感が尽きることなく生まれるのは、まさにこのような「現状」があまりにも多いからに他ならない。


 (一九三〇年四月十七日。)

【“丧家的”“资本家的乏走狗”】


 梁实秋先生为了《拓荒者》上称他为“资本家的走狗”,就做了一篇自云《我不生气》的文章。先据《拓荒者》第二期第六七二页上的定义,“觉得我自己便有点象是无产阶级里的一个”之后,再下“走狗”的定义,为“大凡做走狗的都是想讨主子的欢心因而得到一点恩惠”,于是又因而发生疑问道──


 “《拓荒者》说我是资本家的走狗,是那一个资本家,还是所有的资本家?我还不知道我的主子是谁,我若知道,我一定要带着几分杂志去到主子面前表功,或者还许得到几个金镑或卢布的赏赉呢。……我只知道不断的劳动下去,便可以赚到钱来维持生计,如何可以到资本家的帐房去领金镑,如何可以到××党去领卢布,这一套本领,我可怎么能知道呢?……”


 这正是“资本家的走狗”的活写真。凡走狗,虽或为一个资本家所豢养,其实是属于所有的资本家的,所以它遇见所有的阔人都驯良,遇见所有的穷人都狂吠。不知道谁是它的主子,正是它遇见所有阔人都驯良的原因,也就是属于所有的资本家的证据。即使无人豢养,饿的精瘦,变成野狗了,但还是遇见所有的阔人都驯良,遇见所有的穷人都狂吠的,不过这时它就愈不明白谁是主子了。
 梁先生既然自叙他怎样辛苦,好象“无产阶级”(即梁先生先前之所谓“劣败者”),又不知道“主子是谁”,那是属于后一类的了,为确当计,还得添几个字,称为“丧家的”“资本家的走狗”。
 然而这名目还有些缺点。梁先生究竟是有智识的教授,所以和平常的不同。他终于不讲“文学是有阶级性的吗?”了,在《答鲁迅先生》那一篇里,很巧妙地插进电杆上写“武装保护苏联”,敲碎报馆玻璃那些句子去,在上文所引的一段里又写出“到××党去领卢布”字样来,那故意暗藏的两个×,是令人立刻可以悟出的“共产”这两字,指示着凡主张“文学有阶级性”,得罪了梁先生的人,都是在做“拥护苏联”,或“去领卢布”的勾当,和段祺瑞的卫兵枪杀学生,《晨报》却道学生为了几个卢布送命,自由大同盟上有我的名字,《革命日报》的通信上便说为“金光灿烂的卢布所买收”,都是同一手段。在梁先生,也许以为给主子嗅出匪类(“学匪”),也就是一种“批评”,然而这职业,比起“刽子手”来,也就更加下贱了。
 我还记得,“国共合作”时代,通信和演说,称赞苏联,是极时髦的,现在可不同了,报章所载,则电杆上写字和“××党”,捕房正在捉得非常起劲,那么,为将自己的论敌指为“拥护苏联”或“××党”,自然也就髦得合时,或者还许会得到主子的“一点恩惠”了。但倘说梁先生意在要得“恩惠”或“金镑”,是冤枉的,决没有这回事,不过想借此助一臂之力,以济其“文艺批评”之穷罢了。所以从“文艺批评”方面看来,就还得在“走狗”之上,加上一个形容字:“乏”。


 (一九三○年四月十九日。)

【「飼い主を失った」「資本家の痩せた走狗」】


 梁実秋先生は『拓荒者』で「資本家の走狗」と呼ばれたために、自ら『私は怒らない』と題する文章を書いた。まず『拓荒者』第二期六七二頁の定義に拠り、「自分もどうやらプロレタリア階級の一人のようだ」と述べた後、さらに「走狗」の定義を下して、「およそ走狗たる者は皆、主人の歓心を買い、それによって少しばかりの恩恵を得ようとするものだ」とし、そこからまた疑問を呈して曰く——


 「『拓荒者』は私を資本家の走狗と言うが、どの資本家のか、それともすべての資本家のか。私はまだ自分の主人が誰か知らない。もし知っていれば、必ず雑誌を何冊か持って主人の前に行って功績を示し、あるいはまた金ポンドかルーブルかのご褒美にあずかれるかもしれないのだが。……私はただ絶え間なく労働すれば金を稼いで生計を維持できることだけを知っている。どうすれば資本家の帳場に行って金ポンドを受け取れるのか、どうすれば××党に行ってルーブルを受け取れるのか、この手管はどうして私に分かろうか。……」


 これこそ「資本家の走狗」の活写真である。およそ走狗たる者は、たとえ一人の資本家に飼養されていようとも、実はすべての資本家に属するものであるから、すべての金持ちに出会えば馴順であり、すべての貧乏人に出会えば狂吠する。誰が主人か分からないというのは、まさにすべての金持ちに馴順である理由であり、すべての資本家に属している証拠でもある。たとえ誰にも飼われず、飢えて痩せ細り、野良犬になったとしても、やはりすべての金持ちには馴順で、すべての貧乏人には狂吠するのであり、ただこの時はいよいよ誰が主人か分からなくなるだけのことである。

 梁先生は自ら己がいかに辛苦しているかを述べ、あたかも「プロレタリア階級」(すなわち梁先生がかつて言うところの「劣敗者」)のようであり、しかも「主人が誰か分からない」というのであるから、後の一類に属するのである。正確を期して、さらに数文字を加え、「飼い主を失った」「資本家の走狗」と称すべきであろう。

 しかしながらこの呼び名にはまだいくらかの欠点がある。梁先生はさすがに知識ある教授であるから、普通のものとは異なる。彼はついに「文学には階級性があるか」を論じなくなったが、『魯迅先生に答う』の一篇では、巧みに電柱に「武装してソ連を守れ」と書いてあるとか、新聞社のガラスを割ったとかいう文句を挿入し、先に引いた一節ではまた「××党に行ってルーブルを受け取る」の文字を書き出した。あの故意に隠した二つの×は、たちどころに「共産」の二字だと悟らせるもので、およそ「文学に階級性あり」と主張して梁先生の機嫌を損ねた者はみな「ソ連擁護」か「ルーブル受領」の仕業をしているのだと指し示しているのである。段祺瑞の衛兵が学生を射殺したとき、『晨報』は学生が数ルーブルのために命を落としたと報じ、自由大同盟に私の名があると『革命日報』の通信は「金光燦然たるルーブルに買収された」と書いた——すべて同じ手口である。梁先生にとっては、主人のために匪類(「学匪」)を嗅ぎ出すのも一種の「批評」であろうが、しかしこの職業は「刽子手」(首斬り役人)に比べてもいっそう下賎である。

 私はまだ覚えている。「国共合作」の時代には、通信や演説でソ連を称賛するのはまことに流行であったが、今はもう違う。新聞の報じるところでは、電柱に文字を書くことや「××党」を捕吏が実に精力的に取り締まっている。ならば、自分の論敵を「ソ連擁護」や「××党」と指し示すのも、当然時流に合った流行であり、あるいはまた主人の「少しばかりの恩恵」にあずかれるかもしれない。しかし梁先生が「恩恵」や「金ポンド」を得ようとしているなどと言えば、それは冤罪であり、決してそのようなことはない。ただこれを借りて一臂の力を添え、その「文芸批評」の窮乏を救おうとしているに過ぎない。だから「文芸批評」の側面から見れば、「走狗」の上にさらに形容の一字を加えるべきである。すなわち「乏しい」(痩せた)と。


 (一九三〇年四月十九日。)

【“进化和退化”小引】

 这是译者从十年来所译的将近百篇的文字中,选出不很专门,大家可看之作,集在一处,希望流传较广的本子。一以见最近的进化学说的情形,二以见中国人将来的运命。
 进化学说之于中国,输入是颇早的,远在严复的译述赫胥黎《天演论》。但终于也不过留下一个空泛的名词,欧洲大战时代,又大为论客所误解,到了现在,连名目也奄奄一息了。其间学说几经迁流,兑佛黎斯的突变说兴而又衰,兰麻克的环境说废而复振,我们生息于自然中,而于此等自然大法的研究,大抵未尝加意。此书首尾的各两篇,即由新兰麻克主义立论,可以窥见大概,略弥缺憾的。
 但最要紧的是末两篇。沙漠之逐渐南徙,营养之已难支持,都是中国人极重要,极切身的问题,倘不解决,所得的将是一个灭亡的结局。可以解中国古史难以探索的原因,可以破中国人最能耐苦的谬说,还不过是副次的收获罢了。林木伐尽,水泽湮枯,将来的一滴水,将和血液等价,倘这事能为现在和将来的青年所记忆,那么,这书所得的酬报,也就非常之大了。
 然而自然科学的范围,所说就到这里为止,那给与的解答,也只是治水和造林。这是一看好象极简单、容易的事,其实却并不如此的。我可以引史沫得列女士在《中国乡村生活断片》中的两段话作证──


 “她(使女)说,明天她要到南苑去运动狱吏释放她的亲属。这人,同六十个别的乡人,男女都有,在三月以前被捕和收监,因为当别的生活资料都没有了以后,他们曾经砍过树枝或剥过树皮。他们这样做,并非出于捣乱,因为他们可以卖掉木头来买粮食。”……
 “南苑的人民,没有收成,没有粮食,没有工做,就让有这两亩田又有什么用处?……一遇到些少的扰乱,就把整千的人投到灾民的队伍里去。……南苑在那时(军阀混战时)除了树木之外什么都没有了,当乡民一对着树木动手的时候,警察就把他们捉住并且监禁起来。”(《萌芽月刊》五期一七七页。)


 所以这样的树木保护法,结果是增加剥树皮,掘草根的人民,反而促进沙漠的出现。但这书以自然科学为范围,所以没有顾及了。接着这自然科学所论的事实之后,更进一步地来加以解决的,则有社会科学在。


 (一九三○年五月五日)

【「進化と退化」小引】

 これは訳者がこの十年間に訳したおよそ百篇に近い文章の中から、あまり専門的でない、一般の人にも読める作品を選び出して一書に集め、より広く流布することを望んだものである。一つには最近の進化学説の状況を知らしめ、二つには中国人の将来の運命を示さんとするものである。

 進化学説が中国に輸入されたのはかなり早く、遡れば厳復がハクスリーの『天演論』を訳述したときに始まる。しかし結局は一つの空漠たる名辞を残したに過ぎず、欧州大戦の時代にはまた大いに論客に誤解され、今に至っては名目さえも奄々として息絶えんとしている。その間、学説は幾度か変遷し、ド・フリースの突然変異説は興ってまた衰え、ラマルクの環境説は廃れてまた復興した。我々は自然の中に生息しながら、このような自然の大法の研究には、おおむね意を注いだことがなかった。本書の冒頭と末尾のそれぞれ二篇は、新ラマルク主義の立場から論じたもので、その大要を窺い知ることができ、いささか欠を補うものである。

 しかし最も肝要なのは末尾の二篇である。砂漠が次第に南に移動しつつあること、栄養がすでに維持し難くなっていること、これらはいずれも中国人にとって極めて重要で、極めて切身の問題であり、もし解決しなければ、得られるのは滅亡という結末であろう。中国古代史の探索が困難な原因を解き明かし、中国人は最も耐苦に堪えるという謬説を打破できるのは、なお副次的な収穫に過ぎない。林木を伐り尽くし、水沢を埋め涸らしたなら、将来の一滴の水は血液と等価になるであろう。もしこのことが現在と将来の青年に記憶されるならば、この書の得る報酬はまことに大なるものである。

 しかしながら自然科学の範囲内では、論じるのはここまでであり、与えられる解答も治水と造林に止まる。これは一見きわめて簡単で容易なことのようだが、実はそうではない。私はスメドレー女史の『中国農村生活の断片』の中の二つの段落を証拠として引くことができる——


 「彼女(下女)は言った、明日南苑に行って獄吏に掛け合い、親族を釈放してもらうのだと。この人は、六十人の他の村人——男も女もいる——とともに、三ヶ月前に逮捕され投獄された。他の生活手段がすべてなくなった後に、彼らが木の枝を切ったり樹皮を剥いだりしたからである。彼らがこのようにしたのは、騒擾を起こすためではなく、木材を売って食糧を買うためであった。」……

 「南苑の人民は、収穫もなく、食糧もなく、仕事もない。たとえ二畝の田があったとて何の役に立とうか。……少しでも混乱があれば、たちまち千単位の人々が被災民の列に投げ込まれる。……南苑はあの時(軍閥混戦の時)木以外には何もなかったが、村民が木に手をかけると、警察が彼らを捕らえて投獄した。」(『萌芽月刊』第五期一七七頁。)


 だからこのような樹木保護法は、結果として樹皮を剥ぎ、草の根を掘る人民を増やし、かえって砂漠の出現を促進するのである。しかし本書は自然科学を範囲としているので、そこまでは顧慮していない。この自然科学が論じる事実に続いて、さらに一歩進んでそれを解決しようとするものとして、社会科学があるのである。


 (一九三〇年五月五日)

【做古文和做好人的秘诀】

 ──夜记之五


 从去年以来一年半之间,凡有对于我们的所谓批评文字中,最使我觉得气闷的滑稽的,是常燕生先生在一种月刊叫作《长夜》的上面,摆出公正脸孔,说我的作品至少还有十年生命的话。记得前几年,《狂飚》停刊时,同时这位常燕生先生也曾有文章发表,大意说《狂飚》攻击鲁迅,现在书店不愿出版了,安知(!)不是鲁迅运动了书店老板,加以迫害?于是接着大大地颂扬北洋军阀度量之宽宏。我还有些记性,所以在这回的公正脸孔上,仍然隐隐看见刺着那一篇锻炼文字;一面又想起陈源教授的批评法:先举一些美点,以显示其公平,然而接着是许多大罪状──由公平的衡量而得的大罪状。将功折罪,归根结蒂,终于是“学匪”,理应枭首挂在“正人君子”的旗下示众。所以我的经验是:毁或无妨,誉倒可怕,有时候是极其“汲汲乎殆哉”的。更何况这位常燕生先生满身五色旗气味,即令真心许我以作品的不灭,在我也好象宣统皇帝忽然龙心大悦,钦许我死后谥为“文忠”一般。于满肚气闷中的滑稽之余,仍只好诚惶诚恐,特别脱帽鞠躬,敬谢不敏之至了。
 但在同是《长夜》的另一本上,有一篇刘大杰先生的文章──这些文章,似乎《中国的文艺论战》上都未收载──我却很感激的读毕了,这或者就因为正如作者所说,和我素不相知,并无私人恩怨,夹杂其间的缘故。然而尤使我觉得有益的,是作者替我设法,以为在这样四面围剿之中,不如放下刀笔,暂且出洋;并且给我忠告,说是在一个人的生活史上留下几张白纸,也并无什么紧要。在仅仅一个人的生活史上,有了几张白纸,或者全本都是白纸,或者竟全本涂成黑纸,地球也决不会因此炸裂,我是早知道的。这回意外地所得的益处,是三十年来,若有所悟,而还是说不出简明扼要的纲领的做古文和做好人的方法,因此恍然抓住了辔头了。
 其口诀曰:要做古文,做好人,必须做了一通,仍旧等于一张的白纸。
 从前教我们作文的先生,并不传授什么《马氏文通》、《文章作法》之流,一天到晚,只是读、做,读、做;做得不好,又读,又做。他却决不说坏处在那里,作文要怎样。一条暗胡同,一任你自己去摸索,走得通与否,大家听天由命。但偶然之间,也会不知怎么一来──真是“偶然之间”而且“不知怎么一来”,──卷子上的文章,居然被涂改的少下去,留下的,而且有密圈的处所多起来了。于是学生满心欢喜,就照这样──真是自己也莫名其妙,不过是“照这样”──做下去,年深月久之后,先生就不再删改你的文章了,只在篇末批些“有书有笔,不蔓不枝”之类,到这时候,即可以算作“通”。──自然,请高等批评家梁实秋先生来说,恐怕是不通的,但我是就世俗一般而言,所以也姑且从俗。
 这一类文章,立意当然要清楚的,什么意见,倒在其次。譬如说,做《工欲善其事,必先利其器论》罢,从正面说,发挥“其器不利,则工事不善”固可,即从反面说,偏以为“工以技为先,技不纯,则器虽利,而事亦不善”也无不可。就是关于皇帝的事,说“天皇圣明,臣罪当诛”固可,即说皇帝不好,一刀杀掉也无不可的,因为我们的孟夫子有言在先,“闻诛独夫纣矣,未闻弑君也”,现在我们圣人之徒,也正是这一个意思儿。但总之,要从头到底,一层一层说下去,弄得明明白白,还是天皇圣明呢,还是一刀杀掉,或者如果都不赞成,那也可以临末声明:“虽穷淫虐之威,而究有君臣之分,君子不为已甚,窃以为放诸四裔可矣”的,这样的做法,大概先生也未必不以为然,因为“中庸”也是我们古圣贤的教训。
 然而,以上是清朝末年的话,如果在清朝初年,倘有什么人去一告密,那可会“灭族”也说不定的,连主张“放诸四裔”也不行,这时他不和你来谈什么孟子孔子了。现在革命方才成功,情形大概也和清朝开国之初相仿。(不完)


 这是《夜记》之五的小半篇。《夜记》这东西,是我于一九二七年起,想将偶然的感想,在灯下记出,留为一集的,那年就发表了两篇。到得上海,有感于屠戮之凶,又做了一篇半,题为《虐杀》,先讲些日本幕府的磔杀耶教徒,俄国皇帝的酷待革命党之类的事。但不久就遇到了大骂人道主义的风潮,我也就借此偷懒。不再写下去,现在连稿子也不见了。
 到得前年,柔石要到一个书店去做杂志的编辑,来托我做点随随便便,看起来不大头痛的文章。这一夜我就又想到做《夜记》,立了这样的题目。大意是想说,中国的作文和做人,都要古已有之,但不可直钞整篇,而须东拉西扯,补缀得看不出缝,这才算是上上大吉。所以做了一大通,还是等于没有做,而批评者则谓之好文章或好人。社会上的一切,什么也没有进步的病根就在此。当夜没有做完,睡觉去了。第二天柔石来访,将写下来的给他看,他皱皱眉头,以为说得太噜苏一点,且怕过占了篇幅。于是我就约他另译一篇短文,将这放下了。
 现在去柔石的遇害,已经一年有余了,偶然从乱纸里检出这稿子来,真不胜其悲痛。我想将全文补完,而终于做不到,刚要下笔,又立刻想到别的事情上去了。所谓“人琴俱亡”者,大约也就是这模样的罢。现在只将这半篇附录在这里,以作柔石的记念。
 一九三二年四月二十六日之夜,记。

【古文を書くことと善人であることの秘訣】

 ──夜記 その五


 昨年来この一年半の間、およそ我々に対するいわゆる批評文の中で、最も息苦しく滑稽だと感じたのは、常燕生先生が『長夜』という月刊誌の上で、公正な顔つきを装い、私の作品には少なくとも十年の生命があると述べた言葉である。思い出すに数年前、『狂飆』が廃刊になったとき、同時にこの常燕生先生もまた文章を発表し、大意は『狂飆』が魯迅を攻撃したところ、今や書店が出版を嫌がった、それは魯迅が書店の主人を動かして迫害を加えたのではないかということ、そして続いて大いに北洋軍閥の度量の広大さを賞賛するものだった。私にはまだ記憶があるので、今回の公正な顔つきの上にも、かの鍛錬された文章がうっすらと刺青のように見え、一方では陳源教授の批評法を思い出す。まずいくつかの美点を挙げて公平さを示し、しかしそれに続くのは多くの大罪状——公平な衡量から得られた大罪状なのだ。功を以て罪を相殺しようとしても、つまるところ、結局は「学匪」であり、当然首を斬って「正人君子」の旗の下に晒すべしとなる。だから私の経験では、毀謗は構わないかもしれないが、褒誉こそ恐ろしく、時にはまことに「汲汲として殆うし」なのである。まして常燕生先生は全身に五色旗の気配を漂わせているのだから、たとえ真心から私の作品の不滅を認めたとしても、私にはあたかも宣統皇帝が突然龍心大悦し、私に死後「文忠」の諡号を御許可くださったかの如くである。胸の息苦しさの中の滑稽さの余りに、やはり恐懼謹んで特に帽子を脱ぎお辞儀をし、不敏を謝するしかないのである。

 しかし同じ『長夜』の別の号に、劉大杰先生の文章が一篇ある——これらの文章は『中国の文芸論戦』には収録されていないようだが——私は感謝しつつ読み終えた。これはおそらく、著者の言う通り、私とは面識がなく、個人的な恩怨が介在しないからであろう。しかしなお一層有益に感じたのは、著者が私のために策を設け、このように四面から包囲殲滅される中では、刀筆を置いて暫く渡洋するがよかろうと勧め、さらに忠告して、一人の生活史に何枚かの白紙を残しても、別段大したことではないと言ったことである。一個人の生活史に白紙が数枚あろうと、あるいは全冊が白紙であろうと、あるいはまた全冊が黒く塗りつぶされようと、地球がそのために爆裂することは決してないと、私はとうに知っていた。今回思いがけず得た益は、三十年来、何かを悟ったかのようでありながらいまだ簡明な要領を言い出せなかった古文の書き方と善人のなり方の方法について、にわかにその手綱を掴んだことである。

 その口訣に曰く——古文を書き、善人であろうとするならば、一通り書いた後も、依然として一枚の白紙に等しくなければならぬ。

 かつて我々に作文を教えてくれた先生は、『馬氏文通』やら『文章作法』やらの類を伝授するのではなく、一日中ただ読み、書き、読み、書きであった。書けなければまた読み、また書く。しかし悪いところがどこにあるか、作文はどうすべきかとは決して言わなかった。一本の暗い路地を、自分で手探りするに任せ、通れるかどうかは天命に聴くのだった。しかし偶然のうちに——まことに「偶然のうちに」しかも「どういうわけか」——答案の文章が添削される箇所が少なくなり、残された部分、しかも密な丸印のつく箇所が多くなっていくのだった。そこで学生は心から喜び、この調子で——まことに自分でも訳が分からないが、ただ「この調子で」——書き続ける。年月を経た後、先生はもうあなたの文章を削ったり改めたりせず、篇末に「書あり筆あり、蔓ならず枝ならず」の類を批すだけとなる。この時をもって「通」と見なしてよい。——もちろん、高等批評家の梁実秋先生に言わせれば不通であろうが、私は世俗一般について言っているのであるから、ひとまず俗に従う。

 この種の文章は、趣意が当然明瞭でなければならないが、どのような意見であるかは二の次である。たとえば『工其の事を善くせんと欲せば、必ず先ず其の器を利くせよ論』を書くとしよう。正面から「器利からざれば則ち工事善からず」と敷衍してもよいし、反面から、敢えて「工は技を以て先と為す、技純ならざれば、器利くとも事また善からず」と言っても差し支えない。皇帝に関することでさえ、「天皇聖明にして、臣の罪は誅に当たる」と言ってもよいし、皇帝が悪ければ一刀のもとに斬り捨てると言っても差し支えないのだ。なぜなら我々の孟夫子が先に言っている。「独夫紂を誅せりと聞く、未だ君を弑せりとは聞かず」と。今我ら聖人の徒もまさにこの意味なのである。しかしともかく、最初から最後まで一層一層と説き下して、明々白々にしなければならない。天皇聖明なのか、一刀のもとに斬るのか。あるいはいずれにも賛成しなければ、最後に声明してもよい。「淫虐の威を窮むると雖も、究めて君臣の分あり、君子已甚しきを為さず、窃かに以為へらく四裔に放つべきのみ」と。このようなやり方であれば、おおよそ先生も然らずとは思うまい。なぜなら「中庸」もまた我が古聖賢の教えだからだ。

 しかしながら、以上は清朝末年の話であって、もし清朝初年であったなら、誰かが密告でもすれば、「族滅」されかねない。「四裔に放て」の主張さえ通らない。この時は孟子だの孔子だのと話し合ってはくれないのだ。今、革命がようやく成功したばかりで、状況はおおよそ清朝の開国の初めと似たようなものであろう。(未完)


 これは『夜記』その五の半分に満たない部分である。『夜記』なるものは、私が一九二七年から折に触れての感想を灯下に記し、一集に留めようとしたもので、その年に二篇を発表した。上海に来てからは、屠戮の凶暴さに感じるところあって、さらに一篇半を書き、『虐殺』と題した。まず日本の幕府がキリスト教徒を磔にしたこと、ロシアの皇帝が革命党を酷遇したこと等を述べた。しかし間もなく人道主義を大いに罵る風潮に出会い、私もこれを借りて怠けてしまった。もう書き続けず、今では原稿も見当たらない。

 一昨年になって、柔石がある書店で雑誌の編集をすることになり、私に気楽で読んで頭が痛くならないような文章を書いてくれと頼みに来た。その夜、私はまた『夜記』を書こうと思い立ち、この題目を定めた。大意は、中国の作文と処世は、いずれも古よりそうであったが、原文をそのまま丸写しするのではなく、あちこちから引っ張ってきて継ぎ合わせ、縫い目が見えないようにする、これこそ上上の大吉とされるのだ、と言いたかったのである。だから一大通を書いてもやはり書かなかったに等しく、批評家はそれを好い文章あるいは好い人と言う。社会の一切において何一つ進歩しない病根がここにあるのだ。その夜は書き終えず、眠りについた。翌日柔石が訪ねてきたので、書いたものを見せると、彼は少し眉をひそめ、くどいところがあり、また誌面を取りすぎることを懸念した。そこで私は彼に別の短い翻訳を約束し、これは措くことにした。

 今、柔石の遇害から一年余りが過ぎ、偶然乱雑な紙の中からこの原稿を見つけ出し、まことに悲痛に堪えない。全文を補って完成させようとしたが、ついにできなかった。筆を執ろうとすると、たちまち別のことを考えてしまう。いわゆる「人琴俱に亡ぶ」とは、おおよそこのようなことであろう。いまはただこの半篇をここに附録として、柔石の記念としたい。

 一九三二年四月二十六日の夜、記す。