Lu Xun Complete Works/ja/Collections
言語: ZH · EN · DE · FR · ES · IT · RU · AR · HI · JA
対訳: ZH-EN · ZH-DE · ZH-FR · ZH-ES · ZH-IT · ZH-RU · ZH-AR · ZH-HI · ZH-JA · ← 目次
collections (collections)
魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)
中国語からの日本語翻訳。
第1節
【総目録】
魯迅全集・第一巻
魯迅全集・第二巻
魯迅全集・第三巻
魯迅全集・第四巻
魯迅全集・第五巻
魯迅全集・第六巻
魯迅全集・第七巻
魯迅全集・第八巻
魯迅全集・第九巻
魯迅全集・第十巻
魯迅全集・第十一巻
魯迅全集・第十二巻
魯迅全集・第十三巻
魯迅全集・第十四巻
魯迅全集・第十五巻
魯迅全集・第十六巻
第2節
たとえばあの『文学には階級性があるか?』という高論であるが、結論は階級性はないというものだ。階級性を抹殺するには、呉稚暉氏の「何とかいうマルクスだの牛クスだの」、および某氏の「世界には階級などというものは存在しない」という学説が最も手っ取り早いと私は思う。そうすれば万口は沈黙し、天下太平である。だが梁氏は「何とかいうマルクス」の毒にいささか当てられていて、まず現在多くの国が資本制度であることを認め、この制度の下には無産者がいることを認めている。ただしこの「無産者はもともと階級の自覚などなかった。同情心がありすぎ、態度の偏激な数人の指導者が、この階級観念を彼らに吹き込んだ」のであり、彼らの連合を促し、闘争の欲望を煽り立てようとしたのだ、と。なるほど、だが私が思うに、吹き込んだ者は同情からではなく、世界改造の思想によるものだ。そもそも「もともと存在しない」ものなら、自覚しようがないし、煽り立てようもない。自覚でき、煽り立てることができるということは、それがもともと存在するものであることを示している。もともと存在するものは、長く隠しおおせるものではない。ガリレオが地動説を唱え、ダーウィンが生物進化を説いた時、前者は宗教家に焼き殺されかけ、後者は保守派に猛攻撃を受けたではないか。しかし今日、人々が両説を怪しまないのは、地球は確かに動いており、生物は確かに進化しているからにほかならない。存在を認めながら存在しないかのように見せかけるには、並外れた技を持たなければ不可能である。
だが梁氏には闘争を消し去る方法があり、ルソーの言う「財産は文明の基礎である」から、「ゆえに財産制度を攻撃することは、文明に反抗することである」、「一人の無産者がもし見込みのある者なら、辛辛苦苦、誠実に一生働きさえすれば、多少なりとも必ず得ることができる」と考える。
第3節
一昨年以来、私個人に対する攻撃は実に多くなった。どの刊行物を見ても、だいたい「魯迅」の名前が載っている。しかも筆者の口ぶりは、一見すると革命文学者のようだ。だが私はいくつか読んでみて、次第にくだらない言葉が多すぎると感じるようになった。解剖刀は急所に当たらず、弾丸の命中した所も致命傷ではない。たとえば私の属する階級だが、今に至るまでまだ判定されていない。ある時はプチブルジョアと言い、ある時は「ブルジョア」と言い、時には「封建の残滓」にまで昇格し、しかもまたチンパンジーに等しいとされる(『創造月刊』掲載の「東京通信」参照)。ある時は歯の色まで罵られた。このような社会において、封建の残滓が幅を利かせることは大いにありうることだが、封建の残滓がすなわちチンパンジーだとは、いかなる「唯物史観」にも説明されておらず、歯が黄色いことが無産階級革命に有害であるという論拠も見つからない。私は思った——参考になるこのような理論はあまりに少ないから、みな少し混乱しているのだ、と。敵に対して解剖し、噛み砕くことは、今や避けられないことだが、解剖学の教科書が一冊あり、料理法が一冊あれば、法にのっとって処理すれば、構造も味わいもまだいくらか明瞭で、味のあるものになるだろう。人はしばしば神話のプロメテウスを革命家に喩え、人に火を盗んで与え、天帝の虐待を受けても悔いない、その博大堅忍は確かに相通ずるものがある、と言う。だが私が他国から火を盗んできた本意は、自分の肉を料理するためであって、もし味がいくらかでもよくなれば、噛み砕く側にとっても多少の利益があるだろうし、私もこの体を無駄にしたことにはならないと思ったのだ——出発点はまったくの個人主義であり、しかもプチブルの贅沢が混じっている。そしてゆっくりと解剖刀を取り出して、かえって解剖者に突き刺すのだ。
第4節
【張資平氏の「小説学」】
張資平氏は「最も進歩的な」「無産階級作家」だと言われている。諸君がまだ「萌芽」し、まだ「開拓」している時、彼はすでに収穫しているのだ。これが進歩というものだ。飛ぶように走り去り、追いつけない。しかし追跡して行ってみると、彼が走り込んだのは「楽群書店」の中だった。
張資平氏は以前は三角恋愛小説の作家であり、しかも女の性欲は男よりも耐え難く、自ら男を求めに来る、卑しい女め、痛い目に遭って当然だ、と書いた。これは当然、無産階級小説ではない。だが作者がひとたび方向を転ずれば、一人が道を得れば鶏犬も天に昇る、まして仙人の遺骸ではないか。『張資平全集』はやはり読むべきである。これが収穫というものだ、わかったか?
さらに収穫はある。『申報』の報道によれば、今年の大夏の学生たちが、「青年に崇拝される張資平先生」をお招きして「小説学」を教えさせることになった。中国の旧例では、英語の先生はきっと外国史も教えることになり、国語の先生はきっと倫理学も教えることになる。まして小説の先生なら、当然その腹には小説学が詰まっているはずだ。でなければ、書けるはずがないではないか? ホメロスが「叙事詩作法」を持っていなかったとか、シェイクスピアが「戯劇学概論」を持っていなかったとか、誰が保証できようか?
ああ、講義を聴く門弟は幸いである。これでどう三角にし、どう恋愛するかがわかるだろう。女が欲しいと思えば、意外にも女の性欲の衝動はあなたよりも強く、自分からやって来る。友よ、待っていなさい。だが最も気の毒なのは上海にいないために、遥かに「崇拝」するしかなく、門下に加わることのできない青年たちで、この偉大な「小説学」を拝聴できないのである。ここに私が『張資平全集』と「小説学」の精華を紹介しよう。
第5節
この種の心理は、たしかに非難されるべきである。だが実際には、私はまだこのような雑感を見たことがない。たとえば同一の筆者が、三民主義者は英米の自由に背いていると言い、共産主義者はロシアのルーブルを受け取っていると言い、国家主義は狭すぎ、無政府主義はまた空虚すぎる……などと言うものだ。だから梁氏の『零星』は、彼が目にした雑感の罪状を誇張したものである。
実のところ、ある主義の理由の欠陥を指摘し、あるいはそこから生じた弊害を指摘することは、たとえその主義の信奉者でなくても、もともと差し支えないことである。たとえば搾取されて痛ければ、叫び声を上げるのは当然で、よりよい主義を考え出す前に歯を食いしばっている必要などない。だが当然、よりよい主張があれば、もっと様になる。
しかし梁氏が謙遜して末尾に置いた「善い政府主義」は、もっと謙遜に例外に置くべきだと私は思う。なぜなら三民主義から無政府主義に至るまで、その性質の寒暖がいかであれ、処方箋に書いてあるのはやはり薬の名前、たとえば石膏だの肉桂だのの類である——服用後の利害はまた別問題だ。ただ「善い政府主義」のこの「一服の薬」だけは、処方箋に書いてあるのは薬の名前ではなく、「良い薬材」という三文字と、くどくどしい名医気取りの「主張」である。なるほど、誰も病気の治療に悪い薬材を使うべきだとは言えまいが、この処方箋は、医者でなくても首を振るだろう。誰だって「貶しまくって一文の値打もなく」(「褒」は「称讃」の意であり、ここに使うのは「不通」であるのみならず、「褒」の字を知らないことも証明しているが、これは梁氏の原文なのでそのまま残す)するだろう。
もしこの医者が恥じ怒って
第6節
医者はわれわれに教えてくれる——唖者の多くは、喉や舌が話せないのではなく、ただ幼い頃から耳が聞こえないために、大人の言葉を聞くことができず、手本にしようがなく、誰もが口を開いてウウアアと言っているだけだと思い込んでいるから、自分も当然ウウアアとするしかないのだ、と。ゆえにブランデスがデンマーク文学の衰微を嘆いた時、かつてこう言った——文学の創作はほとんど完全に死滅した。人間の、あるいは社会のいかなる問題も、興味を惹くことができず、新聞や雑誌以外では、少しの論争も引き起こすことがない。われわれは強烈で独創的な創作を見ることができない。加えて外国の精神生活を取り入れることに、今やほとんど絶対的に顧みない。かくして精神上の「聾」は、その結果、「唖」をも招来したのだ。(『十九世紀文学の主潮』第一巻自序)
これらの言葉は、そのまま中国の文芸界を批評するのにも使える。この現象は、すべてを圧迫者の圧迫のせいにすることはできない。五四運動時代の啓蒙運動者もその後の反対者も、ともに責任を分担すべきである。前者は功を急ぐあまり、ついに何ら価値ある書籍を翻訳しなかった。後者は故意に怒りの矛先を転じ、翻訳者を仲人と罵るに至った。一部の青年はさらに波に乗じ、一時は人名地名に原語の注をつけて読者の参考に資するだけでも、「衒学」と誹られたものだ。
して今はどうか? 三間口の書店は四馬路にはまだ少なくないが、その中の棚一杯に薄い小冊子が並び、もし大部の書を探そうとすれば、まさに砂を篩って金を拾うような難しさである。もちろん、背が高く太っているからといって偉人とは限らず、分量が多く複雑だからといって名著とは限らない。まして「剪り貼り」もある。しかし、小さな一冊の「何とか
第7節
春の夢は支離滅裂なものだ。「夏の夜の夢」はどうか? シェイクスピアの戯曲を見ても、やはり支離滅裂だ。中国の秋の夢は、慣例によれば「粛殺」であるべきで、民国以前の死刑囚はすべて「秋後処決」であった。これは天の時に従うものだ。天がそうしろと言えば、人はそうせざるを得ない。いわゆる「文人」もまた例外とはならず、たらふく食べてベッドで眠り、食べ物が消化しきれなければ夢を見る。しかも今は秋だから、天が彼の夢を威厳あるものにしたのだ。
二巻三十一期(八月十二日発行)の『濤声』に、「林丁」と自称する人物の編集者宛の手紙があり、その中にこんな一節がある——
「……の争い、いずれが是でいずれが非か、外部の者にはとうてい詳しくはわからない。しかし互いに傷つけ合うのは、傍観者から見れば、文壇全体の不幸と言わざるを得ない。……私の考えでは、各人ともまず尻を百叩きにして戒めとし、余事は一切不問に付すべきだ。……」
二日前、ある小さな新聞の無署名の社説にも、少し前の余・趙の剽窃問題の論争についてたいそう憤慨して、こう書いてあった——
「……もし私がひとたび大権を握ったなら、必ずこの手合いを捕らえてきて、苦役に処し、十年間読書させてやる。中国の文壇にも、清浄な日が来るかもしれない。」
張献忠は自らが没落しつつあった時、その行動は「いずれが是でいずれが非か」を問わず、ただ殺すだけであった。清朝の役人が、原告被告の双方に、青紅を問わず、尻を百叩きあるいは五十叩きにすることは、たしかに時としてあったが、これは満洲がまだ奴隷を欲しがっていて、搾取の対象にしたかったからであり、つまりは「林丁」氏の旧い夢なのだ。
第8節
幼い頃、両親に愛護されていた時分を思い出すと、最も面白かったのはちょっとした病気をすることで、大病は駄目だ、苦しいし危険だから。ちょっとした病気にかかり、だるだると寝床に横になり、いささかの悲哀と、いささかの甘えとがあり、小さな苦しみにほのかな甘さが混じり、実に秋の詩境のようであった。ああ悲しいかな、江湖に流落して以来、霊感は逃げ去り、小さな病気すらしなくなった。たまに文学者の名文を見て、秋の花がために顔色を変え、大海がために沈黙する云々と書いてあっても、ただ自分の感覚の麻痺をいよいよ感じるばかりだ。私はかつて秋の花が私のために悲しみ、突然色を変えたのを見たことがない。風さえあれば、大海は常に咆哮しているのであって、私が騒ぐのが好きか静かなのが好きかなど、お構いなしだ。
氷瑩女史の佳作によれば、「晨は科学を学ぶ者だが、この一瞬、自分の志趣を完全に忘れ、彼の脳裏にあるのはただ存分に自然の美景を享受しようという目的のみであった。……」これもまた一つの幸福だ。科学は私が学んだのはごく浅く、生物学の教科書を一冊読んだだけだが、花は植物の生殖器官だとか、虫の鳴き声や鳥のさえずりは求愛だとかいった教えは、まったく忘れることができなかった。昨夜、荒れ地をぶらついていて、蟋蟀が野菊の下で鳴くのを聞き、美しい景色のように感じた。詩興がむくむくと湧き起こり、新体詩を二行作った——
野菊の生殖器の下で、 蟋蟀が色目を使っている。
書いてみて一目見ると、粗野な者たちの歌う俚歌よりはいくらか上品ではあるが、新詩人が「インスピレーション」から得た詩に比べれば、やはり「見劣り」する。あまりに科学的に、あまりに真実に書くと雅でなくなる。旧体詩に改作すれば、あるいはこれほどではないかもしれない。生殖器官だの、
第9節
大きな字を書いたり国画を描いたりする名人のことは言うまい。ただ実際に事務を処理する者についてだけ言おう。こうした人々にとって、毛筆は甚だ不便である。硯と墨は持ち歩かなくても、墨汁に替えればよいが、墨汁にも国産のものがないではない。しかも私の経験では、墨汁も常用できるものではない。数千字も書けば、毛筆は膠で固まって自由がきかなくなる。もし硯を据えて墨を磨り、紙を展べて筆を舐めるとすれば、たとえば学生の講義ノートの筆記だけを取っても、速度はおそらくインクペンに比べて三分の一は減るだろう。彼はノートを取らないか、教師に遅く話してもらうしかなく、つまりみんなの時間が三分の一無駄になるのだ。
いわゆる「便利」とは、怠けることではなく、同じ時間内にこれによってより多くの事を成し遂げられるということだ。これはすなわち時間の節約であり、すなわち人の有限なる生命をより有効にすることであり、またすなわち人の生命を延長するに等しい。古人は「人が墨を磨るのではなく、墨が人を磨る」と言ったが、人生が紙と墨の中に消耗されることを悲憤したのであり、インクペンの発明はまさにこの欠憾を補うことができるのだ。
だがその存在は、時間を貴び生命を貴ぶ場所においてこそ必要とされる。中国はそうではない。だから当然、国産品にはなりえない。輸出入の品物には、中国にはすでに帳簿がある。だが人民の数にはまだ一冊の帳簿もない。一人の人間の養育教育に、親がどれほどの物力と労力を費やすことか。しかし青年男女はしばしば行方知れずとなり、誰も注意を払わない。わずかな時間のことなど、当然なおさら問題にならない。生きて毛筆をいじっていられるのは、あるいは幸福と言えるかもしれない。
われわれ中国と同じく、もともと毛筆を使っていた国がもう一つある。日本だ。しかし日本では毛筆はほとんど絶滅し、代わりに鉛筆とインクペンが
第10節
施氏自身の解釈を今見て、(一)ようやく彼の当時の事情がわかった——原稿用紙が小さすぎたのだ。「もう少し広ければ」、「もっと何冊か書名を書き入れたかった」のだと。(二)ようやく彼のそれ以前の経歴がわかった——「国語の教師から雑誌の編集に転じ」、「青年の文章があまりに拙直で、語彙が少なすぎる」と感じたため、この二つの古書を推挙して、そこから文法を学び、語彙を探させようとしたのだ、「その中には多くの死語があるけれども」。思うに、もし荘子が今日に生きていたなら、棺を叩き割られた後には、おそらく結婚の志ある女子すべてに『列女伝』を読むよう勧めるだろう。
もう一つ、別の話がある——
第11節
春の夢は支離滅裂だ。「夏の夜の夢」も、シェイクスピアの劇を見れば、やはり支離滅裂だ。だが中国の秋の夢は、慣例では「粛殺」たるべきであり、民国以前の死刑囚はみな「秋後処決」であった——天の時に順うのだ。天がそうせよと命じれば、人はそうせずにはいられない。いわゆる「文人」も当然例外ではなく、たらふく食べて寝床に入り、食べ物が消化しきれなければ夢を見る。今は秋だから、天が彼の夢に威厳を与えたのだ。文壇の論争についての批判は、しばしば「是非を問わず」に行われるが、それこそが最も問題であろう。人々は安易に「双方とも悪い」と裁断しがちだが、実際には事の本質を見極めようとしないだけのことだ。
ある種の人々は、権力さえあれば問題を解決できると考えている。「もし一朝大権を握ったなら」という夢を語る者がいるが、これは張献忠の精神に通ずるものがある。張献忠は没落しつつあった時、是非を問わず、ただ殺すのみであった。清朝の役人が原告被告に等しく罰を下すのも、真実を追究する気がないからにほかならない。
文壇において必要なのは、公正な批評であり、すべてを一括して罰する粗暴な態度ではない。しかし今日の中国では、このような理性的な批評はなかなか育たない。なぜなら批評そのものが危険な行為とみなされ、批評者はしばしば報復を受けるからだ。かくして文壇は沈黙に陥り、劣悪な作品が跋扈するのを許してしまう。
われわれに必要なのは、恐れずに真実を語る勇気と、是非を弁える能力である。張献忠式の粗暴でも、清朝式の事なかれ主義でもなく、理性をもって事物に向かう態度こそが、文壇の未来を切り開くのだ。
第12節
文学が階級性を持つか否かという問題は、実際には問い方自体が間違っている。なぜなら文学は人間の産物であり、人間が社会の中で特定の階級的立場に立っている以上、その文学もまた階級的刻印を免れないからだ。たとえ作者自身が意識しなくとも、彼の思想、感情、趣味は階級によって規定されている。
梁氏のいわゆる「善い政府主義」は、結局のところ何ら具体的内容を持たない空語にすぎない。「善い政府」を欲しない者など一人もいないが、何をもって「善い」とするかは、まさに階級によって異なるのだ。資本家にとっての「善い政府」と、労働者にとっての「善い政府」とは、まったく別物である。この根本的な相違を無視して、ただ「善い政府」を唱えるのは、結局のところ現状維持の別名にすぎない。
同様に、文学における「人間性」や「普遍性」の強調も、しばしば階級的矛盾を覆い隠す機能を果たしている。「愛」や「美」は普遍的だと言われるが、「愛」の形態も「美」の基準も、時代と階級によって大きく異なる。封建領主の「美」と農民の「美」とは同じではなく、搾取者の「愛」と被搾取者の「愛」とも同じではない。
だからこそ、文学を論ずるにあたって階級の視点を排除しようとする試みは、必ず失敗する。それは現実を直視しない態度であり、結局は支配階級の利益に奉仕することになるのだ。
しかし、これは文学を政治の道具にせよということではない。文学は文学としての独自の法則を持ち、芸術的完成度は政治的正しさとは別の次元の問題である。ただ、文学がその存在する社会の階級構造から完全に自由であるかのように振る舞うのは、自己欺瞞にほかならない。
第13節
翻訳の問題は、実のところ中国の知識界全体の問題でもある。良い翻訳がなければ、外国の思想も文学も正しく伝わらない。しかし中国では、翻訳者は常に軽蔑されてきた。創作者こそが尊ばれ、翻訳者は「仲人」にすぎないとされた。
だが考えてみれば、われわれの知識の大半は翻訳を通じて得たものではないか。仏教の経典も、西洋の科学も、みな翻訳によって中国に入ってきたのだ。翻訳なくして、今日の中国の知的水準はありえない。
問題は翻訳の質にある。良い翻訳は、原文の意味を正確に伝えるだけでなく、原文の文体や精神をも伝えるものでなければならない。これは容易なことではなく、深い学識と優れた文才の両方を必要とする。しかし中国ではこのような翻訳者は極めて少ない。
一方で、悪い翻訳は害をなす。原文の意味を歪め、読者を誤導するだけでなく、翻訳そのものへの不信感を生み、ひいては外国文化全般への偏見を助長することになる。
私が翻訳を重視するのは、それが文化交流の根幹であるからだ。閉ざされた文化は必ず衰退する。外からの刺激を取り入れ、自らの文化を豊かにしてこそ、発展がある。翻訳はまさにその窓口なのだ。
だが今日の中国では、書店の棚に並ぶのは薄い小冊子ばかりで、本格的な翻訳書は見つけにくい。出版者は売れ筋ばかりを追い、地味だが重要な学術書の翻訳には手を出さない。読者もまた安易に手に取れるものを好み、骨のある書物を敬遠する。かくして中国の知的水準は、なかなか向上しないのである。
第14節
中国において、文芸批評が健全に発展しない原因は多々ある。第一に、批評する側に十分な学識がないことが多い。外国文学にも中国の古典にも通じていなければ、批評の基準を立てることができない。第二に、批評が往々にして個人的恩怨に左右されることだ。友人の作品は褒め、敵の作品は貶す——これでは批評ではなく、ただの党派争いである。
第三に、そしてこれが最も根本的な問題だが、中国の社会には批評を受け入れる土壌がないことだ。批評された作家は、それを学びの機会とするのではなく、侮辱と受け取る。そして報復に出る。かくして批評者は沈黙を強いられ、文壇には阿諛追従の言葉だけが満ちることになる。
西洋では批評が一つの独立した文学的ジャンルとして確立されている。ブランデス、サント・ブーヴ、マシュー・アーノルドの批評は、それ自体が文学作品として読まれている。中国にはこのような伝統がない。批評はせいぜい「読後感」の域を出ず、体系的な方法論に基づくものではない。
だが批評なくして文学の進歩はありえない。作家は自分の作品の欠点を知らなければ、改善のしようがない。読者もまた、良い批評によって鑑賞眼を養い、優れた作品と劣った作品を区別する力を身につけるのだ。
われわれに必要なのは、公正で、学識に裏打ちされ、しかも恐れを知らない批評家である。そのような批評家が現れた時、中国の文学は初めて真の発展を遂げるだろう。しかし現在の状況では、そのような批評家が生まれにくいことも事実である。なぜなら、真実を語ることにはあまりにも大きな代価が伴うからだ。
第15節
女婿問題(如是)——最近の『自由談』に女婿に関する二篇の文章が載った。苇索先生は「文壇は婿を招かぬが、婿は文壇に上がる」と論じた。これに対し魯迅は、富家の婿であることは罪でなく、妻の持参金で文学資本にすることも非難に値しないと反論する。続いて聖閑の「『女婿』の蔓延」も引用。邵家の鷹犬が日本の『改造』誌掲載の魯迅論文を利用して攻撃した事件を詳述。「井上」なる偽訳者と編者注の陰険さを暴露。「托庇於外人威権之下」という殺気を含んだ言葉、「軍事裁判」への言及。魯迅は「鉄証」として『十日談』の『晶報』への謝罪広告を引用し、金で骨髄を作っても背筋は伸びないと断じ、話題を「『荘子』と『文選』」事件に転じる。
第16節
(前篇の続き)新典の使用による弊害。楊邨人先生への言及が引き起こした反応を述べ、杨の「聡明之道」全文を録す。世故老人との問答形式で滑頭学を論じ、「順水行舟」と「投井下石」の二項を挙げる。
次に「全武行」——暴力事件を記録。艺華映画公司が「映画界鏟共同志会」に破壊された事件(十一月十三日)。各新聞からの切り抜き:映画館への警告状、良友図書公司の襲撃、中国論壇印刷所の破壊、神州国光社の襲撃。鋼筆版藍色印刷の警告文原文を録す。魯迅を含む「赤色作家」の作品の刊行・発行禁止を要求する内容。この警告により魯迅は筆を置き、十一月七日以降の雑文執筆を中止した。
第17節
「雑感」(洲、『中央日報』十月三十一日)——魯迅を村の醜い老女に譬え、一日中人の短所を言いふらすだけで、本当の主張を持たないと批判。
「文壇と擂台」(鳴春、『中央日報』十一月十六日)——魯迅を擂台の覇者に譬え、『阿Q正伝』以後の時間を筆戦に浪費していると批判。シェイクスピア、トルストイ、ゲーテを引き合いに出し、偉大な著作を書くべきだと勧告。
魯迅はこれら二篇について、一人は醜い老女に、一人は偉大な著作を望むが、目的は同じだと評す。「中国の大衆の魂」は今や自分の雑文に映されていると述べる。
続いて『時事新報』の「告密略論」と「暗箭略論」(陳代)を引用。陳代を討伐軍中最も低能と評す。『大晩報』の「銭基博の魯迅論」(戚施)を引用——銭基博が魯迅を右傾と断じたことを「独具隻眼」と評す。
第18節
(前篇の続き)銭基博の魯迅評詳細:魯迅の直訳を「鸚鵡の舌を学ぶが如し」と批判。魯迅の創作を「頽廃にして奮闘に適せず」「過去の回憶のみ」と評す。魯迅を右傾と断じた「独具隻眼」ぶり。
最後に『大美晩報』の「罵人と自供」(王平陵)。聖書のイエスの言葉を引き、魯迅を「己の心を以て人の心を度る」と批判。魯迅は王平陵が映画検査会の委員であることに触れ、「小民の規矩を謹守すべき」と皮肉る。
後記を締めくくり、時が過ぎ事件も忘れ去られるが、雑感を並べれば時事を照らし出すと述べる。「世に英雄なく、遂に竪子をして名を成さしむ」と悲憤。
【魯迅全集・第八巻】 会稽郡故書雑集(序、謝承会稽先賢伝、虞預会稽典録、等) 古小説鉤沈(青史子、語林、郭子、笑林、等三十余種)
【第二巻】 琴の賦(嵆康)——序と本文。音楽の本質、琴の徳を讃える長大な賦。
第19節
嵆康「琴の賦」本文——椅梧の木が峻岳に生じ、天地の精気を含む描写から始まり、山川の壮大な形勢、遁世の士が琴を制作する過程、演奏の妙技と変化、琴音が人の感情に及ぼす影響を詳述。「怀戚の者は之を聞けば憯懔惨凄」「康楽の者は之を聞けば欣愉歓釈」「和平の者は之を聴けば怡養悦愉」。最後に「愔愔たる琴の徳、測るべからず。音を識る者は希なり。能く雅琴を尽くすは惟だ至人のみ」と結ぶ。
(各本の異同注記を含む学術的テキスト。五臣本『文選』、李善本、唐写本、『類聚』、『書鈔』、『晋書』等との校異を詳細に記す。)
第20節
嵆康「山巨源に与うる絶交書」——山濤(巨源)が嵆康を自分の後任に推薦しようとしたことへの拒絶の手紙。「足下は吾を知ると称したが、なぜそれが可能なのか」と問う。老子・荘周を師とし、柳下恵・東方朔の達人ぶりを引き、志の異なる者は強いるべきでないと説く。自ら「必ず堪えざる者七つ、甚だ可ならざる者二つ」を挙げる:晩起きを好む、琴を抱き行吟す、危坐に堪えず、書を作るを喜ばず、弔喪を嫌う、俗人を嫌う、官事に堪えず。阮嗣宗の清廉さに及ばぬ自己を認め、官界との絶縁を宣言する。
(各本の校異注記を含む。五臣本『文選』、李善本、唐本、『晋書』、『類聚』、『御覧』、『海録碎事』等との異同。)
【魯迅全集・第十五巻】 近代美術史潮論(序言、一~八章の目次)
第21節
一 漫画に対する蒙昧について/二 漫画式の表現/三 芸術史上の漫画/四 現代の漫画/五 漫画の鑑賞
現代文学の主潮(一~二) 芸術から社会改造へ(モリスの日本における位置、象牙の塔を離れるまで、社会観と芸術観、詩人としてのモリス、研究書目)/後記
思想・山水・人物(題記、序言、断想一~二十七、専門以外の仕事一~十一、徒然の篤学、人生の転向、自以為是一~八、書斎生活とその危険一~三、読書の方法一~十、事務処理法、訪問の心一~十、指導的地位の自然化一~六、読む文章と聴く文字一~三、所謂懐疑主義者一~三、閑談、善政と悪政、幽黙について一~九、自由主義について一~十一、旧遊の地一~七、北京の魅力一~六、旅行について一~四、ニューヨークの美術村)
【魯迅全集・第十五巻】近代美術史潮論(序言、一 民族と芸術意欲、二 フランス大革命直前の美術界、三 古典主義の主導的作家、四 ロマンティーク思潮と絵画)
第22節
五 写実主義の系統と新ロマンティーク/六 印象主義とその周辺/七 新印象主義と後期印象主義/八 世紀末芸術と表現主義
壁下訳叢(前記) イリイン著『十万はなぜ』(抄訳) チェホフ短篇集(前記、序、苦悩、ネヴァスタ) ルナチャルスキー著『芸術論』(前記) ゴーリキー著『ロシアの昔話』(前記) バーデリ著『女の決闘』(前記、附記)
第23節
パンテレイモン・ロマノフ短篇集(前記、裁判所にて、三対の絹靴下、消化不良、善良なる獣) アンドレーエフ短篇集(前記、書架、沈黙) 大鴉(前記) ファジェーエフ著『壊滅』(前記、一~十七章、附記) ゴーリキー著『裁判』(前記)、同『ロシア寓話』一~九、同『人を作ること』 ルナチャルスキー著『解放されたドン・キホーテ』(前記、序文代り、人物表、第一幕~第四幕)
第24節
(前篇の続き)第二幕第七場~第十場、第三幕、第四幕 附記 死せる魂(前記、第一章~第十一章、附章) プレハーノフ著『芸術論』(前記、第一~第三書簡、附記) 同『無地址の手紙』(第一~第四書簡、附記) ヤコブレフ著『十月』(前記) ルナチャルスキー著『文芸と批評』(前記、一~四、附記)
第25節
(第637節と内容重複するため、同一の目次構成を維持) 一 漫画に対する蒙昧について/二 漫画式の表現/三 芸術史上の漫画/四 現代の漫画/五 漫画の鑑賞 現代文学の主潮(一~二) 芸術から社会改造へ(一~五)、後記 思想・山水・人物(全目次) 【魯迅全集・第十五巻】近代美術史潮論(序言、一~四章)
第26節
五 写実主義の系統と新ロマンティーク/六~八章 壁下訳叢(前記)、イリイン著『十万はなぜ』(抄訳) チェホフ短篇集、ルナチャルスキー著『芸術論』、ゴーリキー著『ロシアの昔話』、バーデリ著『女の決闘』 ロマノフ短篇集、アンドレーエフ短篇集、大鴉
第27節
ファジェーエフ著『壊滅』(前記、第一章レヴィンソン~第十七章十九人、附記) ゴーリキー著『裁判』(前記)、同『ロシア寓話』一~九、同『人を作ること』 ルナチャルスキー著『解放されたドン・キホーテ』(前記、序文代り、人物表、第一幕~第四幕)
第28節
プレハーノフ著『芸術論』(前記、第一~第三書簡、附記) プレハーノフ著『無地址の手紙』(第一~第四書簡、附記) ヤコブレフ著『十月』(前記) ルナチャルスキー著『文芸と批評』(前記、一 マルクス主義と芸術、二~九、附記)
第29節
トロツキー著『文学と革命』(前記、第一章~第十一章、あとがき) ヴォロンスキー著『新しい芸術に就いて』(前記、第一章~第五章、附記)
第30節
(脚注・訳注集)[182]~[198]の学術的注釈。ノルデンショルド、ヘルネス、フリッチ等の著作への参照。メンシェヴィズム、バアルとアスタルテ、シェンシン(フェート)、シチェドリン等の訳注。ラブリオーラのマルクス理論変質への警告を引用。
【魯迅全集・第十九巻】 竪琴(前記、洞窟、老鼠、砂漠にて一~十、果樹園、貧しき人々、竪琴) 亜克と人性(一~十、附) 星花、拉拉の利益(附)、「物事」、後記 一日の仕事(前記、苦蓬一~五、肥料、鉄の静寂一~六、我は活きたし、工人一~四)