Lu Xun Complete Works/ja/Refeng
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熱風 (热风)
魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)
中国語からの日本語翻訳。
第1節
【熱風】
【題記】
今、西長安街あたりを通る者は、必ず数人の衣服も靴もぼろぼろの貧しい子供たちが新聞を売り歩いているのを目にするだろう。三四年前には、彼らの身にはまだ制服の名残りがいくらか残っていた記憶がある。さらに遡れば、もっと立派で、まさにボーイスカウトの擬態であった。
あれは中華民国八年、すなわち西暦一九一九年、五月四日に北京の学生が山東問題に対して示威運動を行った後のことである。当時ビラを配っていたのがボーイスカウトだったため、どういうわけか投機家の注意を引き、ボーイスカウト風の新聞売りの子供が出現した。その年の十二月、日本公使小幡酉吉が排日運動に抗議した。情勢は今年とおおむね同じだったが、ただ我々の新聞売りの子供たちは最初の新しい服を着潰した後は二度と新調せず、年を追うごとに貧しさが露わになるばかりだった。
私が『新青年』の『随感録』で短評を書いていたのは、これよりさらに一年前のことである。論評したのは大半が些事であったから、特に述べるまでもなく、理由もおおかた忘れてしまった。しかし現在の文章を見返すと、いくつかの汎論のほかに、扶乩・静坐・拳法に対して発したもの、いわゆる「国粋保存」に対して発したもの、当時の旧官僚が経験を誇りとすることに対して発したもの、上海『時報』の風刺画に対して発したものなどがある。当時の『新青年』は四面楚歌の中にあり、私が応じたのはその一小部分に過ぎなかったことを覚えている。その他の大事は、本誌自体に載っており、私が多言する必要はない。
五四運動の後、私は何も書かなかった。今となっては書かなかったのか、散逸してしまったのか、もはや判然としない。しかし当時の革新運動は、表面上はかなりの成功を収めていたので、革新を主張する者も勢いづいた。しかも以前『新青年』を嘲笑し罵倒していた人々が少なからずその中にいたのだが、彼らは別の仰々しい名目を掲げた——新文化運動と。これが後にまたその名目を逆に『新青年』に被せて嘲笑罵倒することになったのは、白話文を罵る者が往々にして自分こそ最も先に風気を得て、とうの昔に白話文を主張していたと自称するのと同じである。
その後は、さらに述べるべきことがない。ただ一九二一年中の一篇はいわゆる「虚無哲学」に対して発したものであったこと、さらにその翌年は大体において上海のいわゆる「国学家」に対して発したものであったことを覚えている。どういうわけかその頃、突然多くの人々が自ら国学家を任じたのだ。
『新青年』出版以来、それに応じて改革を嘲罵し、後に改革を賛成し、さらに後に改革者を嘲罵してきた一切の者たちは、今や擬態の制服はとうに破れ果て、自らの本相を露わにしている。まさに「事実は雄弁に勝る」であり、紙筆と喉舌による批評を待つまでもない。だから私の時局に応じた浅薄な文章も、顧みることなく、消滅に任せるべきであった。しかし数人の友人は現状と当時とで大して変わりはないと考え、まだ残しておいてよいと言って、編集してくれた。これこそ私の悲しむところである。およそ時弊への攻撃は、文章は時弊と共に滅ぶべきものだと私は思う。それはちょうど白血球が腫れ物を化膿させるようなもので、もし白血球自身も排除されなければ、それが生存し続ける限り、病菌がまだ存在していることを証明しているからだ。
しかし、もし私の書いたものがすべて本当に冷たいものであるなら? そうであれば、それはもともと生命を持たず、中国の病状がいかなるものかを論じるまでもない。しかしながら、無情の冷嘲と有情の諷刺との距離は本来紙一重であり、周囲への感受と反応もまた、いわゆる「如魚飲水、冷暖自知」であろう。私は周囲の空気があまりにも寒冽だと感じ、自ら自分の言葉を語った。それゆえかえってこれを『熱風』と名づけたのだ。
一九二五年十一月三日の夜、魯迅。
【華蓋集】
【題記】
一年の終わりの深夜に、この一年に書いた雑感を整理してみると、『熱風』に収められた丸四年間に書いたものよりもなお多かった。意見は大部分まだ同じだが、態度はあの頃ほど率直ではなくなり、措辞もしばしば回りくどくなり、議論もまた往々にしていくつかの些事に執着して、大方の嗤笑を買うに十分である。しかしそれも仕方がない。私は今年たまたまこうした些事に出くわし、しかも些事に執着する性分を持ち合わせているのだ。
偉大な人物は三世を洞見し、一切を観照し、大いなる苦悩を経て、大いなる歓喜を嘗め、大いなる慈悲を発するものだと私は知っている。しかしまた、それには深く山林に入り、古木の下に坐し、静観黙想して天眼通を得なければならず、人間から遠ざかるほど人間を深く広く知り、よってあらゆる言説もまた高く大きくなり、かくして天人の師となるのだと知っている。私は幼い頃、空を飛ぶ夢を見たが、今なお地上にいて、小さな傷の手当てさえ間に合わない有様で、心を開き意を豁達にする余裕などあろうはずがない。立論はすべて公允妥当、平正通達で、「正人君子」のようだというわけにもいかない。それはちょうど水に落ちた小蜂が泥の上を這い回るばかりで、決して洋館の中の通人に比肩する気はないが、それでも悲苦と憤激はあり、洋館の中の通人には到底理解できないものなのだ。
この病痛の根底は、私が人間世界に生き、しかも凡人であり、「華蓋運」に巡り合うことができるということにある。
私は生まれてこのかた占いを学んだことはないが、年長者の話では、人には時として「華蓋運」に当たることがあるという。この「華蓋」は彼らの口頭では「鑊蓋」(鍋蓋)に訛っているようだが、ここで訂正しておく。この運は、僧侶にとっては吉運である。頭上に華蓋を頂くのは、当然ながら成仏立祖の兆しだ。しかし俗人はそうはいかない。華蓋が上にあれば覆い被されてしまい、釘に頭をぶつけるほかない。私は今年、雑感を書き始めた時に、大きな釘を二本ぶつけた。一つは『咬文嚼字』のため、もう一つは『青年必読書』のためだった。署名と匿名の豪傑の罵りの手紙を一大束受け取り、今なお本棚の下に押し込んである。その後また突然、いわゆる学者・文士・正人・君子等々に遭遇した。彼らはみな公言公理を語り、しかも「党同伐異」を深く是としないのだそうだ。残念ながら私は彼らとあまりにも異なっていたので、彼らに伐たれもした——しかしこれは当然「公理」のためであり、私の「党同伐異」とは異なるのだ。このまま今日に至ってもまだ終わっておらず、「来年を待つ」ほかない。
短評を書くなと忠告する人もいた。その好意には大いに感謝するし、創作の貴さを知らぬわけでもない。しかしこのようなものを書きたい時には、やはりこのようなものを書かざるを得ないのだ。もし芸術の殿堂にそれほど面倒な禁令があるなら、いっそ入らぬ方がよい。それよりも砂漠に立ち、飛砂走石を眺め、楽しければ大いに笑い、悲しければ大いに叫び、怒れば大いに罵り、たとえ砂礫に打たれて全身粗く、頭は血だらけになっても、時折自分の凝血を撫でて、何か紋様があるように思えるならば、中国の文士たちに付き従ってシェイクスピアと一緒にバター付きパンを食べるよりも、必ずしも面白くないとは限らないだろう。
しかし恨むらくは私の眼界の狭さ。中国だけでも、この一年の大事件はかなり多かったと言えるのに、私は往々にして論及せず、何の感慨もないかのようだった。私は早くから中国の青年が立ち上がって、中国の社会と文明に対して忌憚なく批評を加えることを望んでいた。そのために『莽原週刊』を編集・刊行して発言の場としたが、残念ながら発言する者はきわめて少なかった。他の刊行物では、反抗者への打撃がほとんどだった。これは実に私に考え続ける勇気を失わせるものだ。
今は一年の果ての深夜、夜はもう明けようとしている。私の生命、少なくともその一部は、これらのつまらないものを書くことに費やされ、私が得たのは自分自身の魂の荒涼と粗野である。しかし私はこれを恐れもせず、覆い隠そうとも思わず、むしろ実のところいくぶん愛おしく感じている。なぜならこれは私が風沙の中を転々として生きてきた瘢痕だからだ。自らも風沙の中を転々として生きていると感じる者には、この意味がわかるだろう。
私は『熱風』を編集した時、遺漏のほかに、さらに数篇を削除した。今回はやや異なり、折々の雑感の類いは、ほとんどすべてこの中に収めた。
一九二五年十二月三十一日の夜、緑林書屋東壁の下にて記す。
【二心集】
【序言】
ここに収めたのは一九三〇年と三一年の二年間の雑文の集成である。
三〇年の頃には、定期刊行物は次第に少なくなり、定期通りに出版できなくなったものもあった。おそらく日増しに強まる弾圧を受けたためだろう。『語絲』と『奔流』は郵便局にしばしば押収され、地方で禁止され、ついに続けられなくなった。その頃、私が投稿できたのは『萌芽』一つだけだったが、五号まで出たところで禁止され、続いて『新地』が一冊出た。だからこの一年間に、私が書いたのは集中に収められた十篇に満たない短評のみだった。
このほかに学校で二三度講演したことがあったが、当時記録する者がおらず、何を話したか今では自分でも覚えていない。ただある大学で講演した題目が「象牙の塔と蝸牛の庵」だったことだけは覚えている。大意は、象牙の塔の中の文芸は中国には将来決して出現しないだろう、なぜなら環境が異なり、ここではその「象牙の塔」を置く場所さえもうないからだ、やがて出現しうるのは、せいぜい「蝸牛の庵」がいくつかだろうということだった。蝸牛の庵とは、三国時代にいわゆる「隠逸」の焦先がかつて住んでいたような草の巣で、おそらく今の江北の貧しい人々が手で作る草の小屋に似ているが、さらに小さく、裸でその中に伏し、出ず、動かず、衣なく、食なく、言葉もない。なぜなら当時は軍閥混戦の世で、勝手に殺戮・掠奪が行われ、心中これを是としない者はこうするよりほかに残喘を延ばす術がなかったからだ。しかし蝸牛の世界に文芸などあろうはずがないから、このまま行けば中国に文芸がなくなるのは必定である。こうした話はまさに蝸牛の気味を帯びていたが、まもなく一人の勇敢な青年が政府機関の上海『民国日報』に批評を書き、私のあの話を甚だ軽蔑すると言った。なぜなら私には共産党の言葉を語る勇気がないからだと。思うに「清党」以後の党国において共産主義を語ることは大罪であり、捕殺の網は全中国に張り巡らされていた。しかし語らなければ、党国の忠勇なる青年に軽蔑される。これではまさに本物の蝸牛になって、ようやく「罪を免れる」幸福を得られるというものだ。
そしてこの頃、左翼作家がソ連のルーブルを受け取っているという説が、いわゆる「大新聞」と小新聞に次々と宣伝され、新月社の批評家も傍らから大いに力を添えた。ある新聞は、以前の創造社派の数人が小新聞に投稿した言葉を拾い上げて、私を「投降」と嘲笑した。またある新聞は「文壇弐臣伝」を連載し始め、その第一号が私だった——しかし後に続きは書かれなかったようだ。
ルーブルの噂には私は聞き慣れていた。おそらく六七年前、『語絲』が北京で陳源教授やその他の「正人君子」たちに触れる発言をした時、上海の『晶報』に「現代評論社の主役」唐有壬氏の書簡が発表され、我々の言動はすべてモスクワの命令によるものだと述べた。これはまさに祖伝の古い手口で、宋末には「通虜」(敵国への内通)、清初には「通海」(海外勢力への内通)と称し、昔からこうした口実を用いて多くの人々を害してきた。だから含血噴人(血を含んで人に吹きかける=讒言)は中国の士君子の常套手段となっており、彼らの識見がこの世のすべてが金銭の力に依ると見るに止まるというだけのことではない。「弐臣」の説はなかなか興味深い。自ら省みると、時事に対して、たとえ筆を執らなくとも、時には腹誹せずにはいられない。「臣の罪は誅に当たり、天皇は聖明なり」——腹誹は断じて忠臣の行いではない。しかし御用文学者が私にこの称号を与えたことは、彼らの「文壇」に皇帝がいることを示している。
去年たまたまメーリング(Franz Mehring)の論文を数篇見たが、大意はこうだった。崩壊しつつある旧社会の中で、もし誰かが少しでも異なる意見を抱き、いささかの携弐の心を持てば、必ず大いに苦しめられる。そして最も激しく攻撃・陥害するのは、その人と同じ階級の人物である。彼らはこれを最も憎むべき叛逆と見なし、異なる階級の奴隷の反乱よりなお憎むべきものとして、必ず排除しようとする。こうして初めて古今東西を問わず皆同じだと知った。まさに読書は気を養うもので、以前ほど「現状に不満」でなくなり、『三閑集』の例に倣いつつその意を変えて、拾い上げてこの一冊の書名としたのだ。しかしこれは私が無産者であることを証明するものではない。一つの階級の中でも、末期にはしばしば内部で争いが起こるもので、それは『詩経』に言う「兄弟牆に鬩ぐ」である——しかしその後必ずしも「外その侮りを御ぐ」とは限らない。例えば同じ軍閥同士でも年中互いに戦っているが、一方が無産階級だとでも言うのだろうか。しかも私は始終自分のことを語り、いかに「壁にぶつかり」、いかに蝸牛をしているかを述べ、全世界の苦悩を一身に集め、大衆に代わって受難しているかのようだが、これもまた中産の知識階級分子の悪い癖である。ただ当初は馴染みのこの本階級を憎悪し、その潰滅を少しも惜しまなかったが、後に事実の教訓によって、新興の無産者にのみ将来があると知ったのは確かなことだ。
一九三一年二月以降、私は前年よりも多くの文章を書いたが、掲載する刊行物がいくつか異なっていたため、文章もそれに合わせねばならず、『熱風』のような簡潔短小なものはほとんど書かなくなった。しかも私に対する批評文を見て一つの経験を得た。どうやら評論があまりに簡潔だと、無意の誤解や故意の曲解を招きやすいようだ。また今後は『墳』のような論文集や『壁下訳叢』のような訳文集を編むつもりもないので、今回はやや長いものもここに収め、訳文は一篇「現代映画と有産階級」を末尾に附した。映画は中国でもとうに流行しているが、このように要を得た論文はまだ少なく、世事に関心を持つ人々にはまことに一読の必要があるからだ。また往復書簡も、片方だけでは読者に理解しにくいことが多いので、重要なものの来信数通も僭越ながら合わせて編入した。
一九三二年四月三十日の夜、編了し記す。
【魯迅先生年譜 許寿裳】
【凡例】
一 先生は民国元年五月に北京に到着した日より日記を書き始め、一日も欠かさなかった。天候の変化、陰晴風雨、人事の交際、友朋の往来、書簡の授受、書籍の購入に至るまで、すべて詳しく記載されている。他日印刷に付せば参考に足りよう。よって年譜の編纂にあたっては簡潔を旨とし、大要のみを挙げるに止めた。
二 先生の著作は多く、訳文もまた豊富であり、別に著訳書目を年次順に排列してあるため、本譜においてはこの二項については概略を記すに止め、詳述していない。
三 先生は著訳のほかに、古書の纂輯、古碑の抄録にも勤しみ、書写はいずれも極めて精美であるが、譜中にはこれも網羅していない。
四 先生は生涯倦むことなく仕事に励み、各種刊行物の編集や他人の原稿校訂の類いに至るまで、必ず忠実であり、貢献も多かったが、譜中にはこれも略して記していない。
五 本譜の資料には先生の母太夫人にお尋ねしたもの、また夫人の許広平および弟の作人・建人より得たものがある。合わせてここに明記する。
二十六年五月 日 許寿裳記
民国前三十一年 (清光緒七年辛巳 西暦
一八八一年) 先生一歳
八月三日、浙江紹興城内東昌坊口に生まれる。姓は周、名は樹人、字は豫才、幼名は樟寿。三十八歳にして初めて魯迅をペンネームとする。
前二十六年 (十二年丙戌
一八八六年) 六歳
この年塾に入り、従叔祖の玉田先生に従い『鑑略』を初誦する。
前二十四年 十四年戊子
一八八八年 八歳
十一月、妹の端が十月に夭折したことにより、その病が篤い時、先生は部屋の隅で密かに泣いていた。母太夫人がその理由を尋ねると、答えて曰く、
「妹のためです。」
第2節
この年のある日、本家の年長者たちが集まって牌九(パイゴウ)を打っていた。父の伯宜公もまた加わっていた。先生はかたわらで黙って見ていた。従伯の慰農先生がそこで尋ねた。「お前は誰が勝つのを望む?」先生はすかさず答えた。「みんなが勝つことを望みます。」五六歳の頃、宗党の者はみな先生を「胡羊尾巴」(子羊のしっぽ)と呼んだ。小さくてすばしこいことを褒めたのである。
前二十年 十八年壬辰
一八九二年 十二歳
正月、三味書屋に赴き、寿鏡吾先生懐鑑に師事して読書する。
塾中にあって暇を見ては絵を描くことを好み、図画を蒐集した。ただし二十四孝図のうち「老萊娯親」と「郭巨埋児」にだけは反感を覚えた。
先生の母方の実家は安橋頭の魯姓で、一族が集まり住んでいた。幼い頃、しばしば母太夫人に付き添って訪れ、農村で大自然と触れ合うことができた。その影響は甚大であった。「社戯」に描写されたものは、すべて安橋頭一帯の景色であり、時にまさに十一、二歳であった。母方の実家はのちに皇甫庄、小皋歩などへ移った。
十二月三十日、曾祖母の戴太君卒す。享年七十九。
前十九年 十九年癸巳 十三歳
一八九三年
三月、祖父の介孚公が丁憂(父母の喪に服すること)により北京から帰る。
秋、介孚公が事件により投獄される。父の伯宜公もまた重病を患い、家産は傾き、質屋と薬屋を出入りすること累年に及ぶ。
前十六年 二十二年丙申 十六歳
一八九六年
九月六日、父の伯宜公卒す。享年三十七。
父の死後、家境はますます困窮する。
前十四年 二十四年戊戌 十八歳
一八九八年
閏三月、南京に赴き、江南水師学堂に入学する。
前十三年 二十五年己亥 十九歳
一八九九年
正月、江南陸師学堂附設の路鉱学堂に転入する。功課は予習復習せずとも、試験のたびに常に上位に入った。
課余には訳本の新書を読むことを好み、とりわけ小説を好んだ。時には外出して馬に乗ることもあった。
前十一年 二十七年辛丑 二十一歳
一九〇一年
十二月、路鉱学堂を卒業する。
前十年 二十八年壬寅 二十二歳
一九〇二年
二月、江南督練公所より日本留学に派遣され、東京の弘文学院に入る。
課余には哲学と文芸の書を読むことを好み、とりわけ人性と国民性の問題に注意を払った。
前九年 二十九年癸卯 二十三歳
一九〇三年
この年、『浙江潮』誌のために文を撰す。
秋、『月界旅行』の翻訳を終える。
前八年 三十年甲辰 二十四歳
一九〇四年
六月一日、祖父の介孚公卒す。享年六十八。
八月、仙台に赴き、医学専門学校に入学する。
前六年 三十二年丙午 二十六歳
一九〇六年
六月、帰郷し、山陰の朱女史と結婚する。
同月、再び日本に赴き、東京にて文芸を研究し、医学を中止する。
前五年 三十三年丁未 二十七歳
一九〇七年
この年の夏、文芸雑誌の創刊を企て、「新生」と名づけたが、資金不足のため印刷に至らず、のちに「河南」誌のために文を撰す。
前四年 三十四年戊申 二十八歳
一九〇八年
この年、章太炎先生(炳麟)に師事し、「光復会」会員となる。また弟の作人と共に域外小説を翻訳する。
前三年 宣統元年己酉 二十九歳
一九〇九年
この年、『域外小説集』二冊を輯印する。
六月帰国し、浙江両級師範学堂の生理学・化学教員に就任する。
前二年 二年庚戌 三十歳
一九一〇年
四月五日、祖母の蒋太君卒す。享年六十九。
八月、紹興中学堂の教員兼監学に就任する。
前一年 三年辛亥 三十一歳
一九一一年
九月、紹興光復。紹興師範学校校長に就任する。
冬、初めての試作小説「懐旧」を書き上げる。翌々年になって初めて『小説月報』第四巻第一号に発表される。
注:以上の月日はすべて旧暦による。
民国元年 一九一二年 三十二歳
一月一日、臨時政府が南京に成立し、教育総長蔡元培の招きを受けて教育部部員に就任する。
五月、海路で北京に到着し、宣武門外南半截胡同の紹興会館藤花館に住む。教育部社会教育司第一科科長に就任する。八月、教育部僉事に任命される。
この月、公務の余暇に謝承『後漢書』を纂輯する。
二年 一九一三年 三十三歳
六月、休暇を請い、津浦路を経て帰省する。八月、海路で北京に戻る。
十月、公務の余暇に『嵆康集』を校訂する。
三年 一九一四年 三十四歳
この年、公務の余暇に仏典を研究する。
四年 一九一五年 三十五歳
一月、『会稽郡故書雑集』一冊を輯成し、弟の作人の名で刊行する。
同月、『百喻経』の刻印が完成する。
この年、公務の余暇に金石拓本の蒐集と研究を好む。
五年 一九一六年 三十六歳
五月、会館の補樹書屋に移居する。
十二月、休暇を請い、津浦路を経て帰省する。
この年もなお造像及び墓志拓本を蒐集・研究する。
六年 一九一七年 三十七歳
一月初旬、北京に戻る。
七月初旬、張勲の復辟の乱が起こり、憤って離職するも、同月乱が平定されるとすぐに教育部に復帰する。
この年もなお拓本を蒐集・研究する。
七年 一九一八年 三十八歳
四月に創作を開始して以来、筆は尽きることなく続いた。最初の小説「狂人日記」は魯迅のペンネームで『新青年』第四巻第五号に掲載された。家族制度と礼教の弊害を攻撃するもので、まさに文学革命・思想革命の急先鋒であった。
この年もなお拓本を蒐集・研究する。
八年 一九一九年 三十九歳
一月、愛情に関する意見を発表する。題して「随感録四十」、『新青年』第六巻第一号に掲載され、のちに雑感録『熱風』に収録される。
八月、八道湾の公用庫の家屋を購入する。十一月に修繕がほぼ完了し、弟の作人と共に移り住む。
十月、家庭の改革と子女の解放に関する意見を発表する。題して「我々は今いかにして父親たるべきか」、『新青年』第六巻第六号に掲載され、のちに論文集『墳』に収録される。
十二月、休暇を請い、津浦路を経て帰省し、母を奉じて三弟の建人と共に北京に来る。
この年もなお拓本を蒐集・研究する。
九年 一九二〇年 四十歳
一月、日本の武者小路実篤著の戯曲「一個の青年の夢」を訳了する。
十月、ロシアのアルツィバーシェフ著の小説「労働者シェヴィリョフ」を訳了する。
この年の秋季より、北京大学および北京高等師範学校の講師を兼任する。
この年もなお金石拓本を研究する。
十年 一九二一年 四十一歳
二月・三月に再び『嵆康集』を校訂する。
北京大学、北京高等師範学校の講師をなお兼任する。
十一年 一九二二年 四十二歳
二月・八月に再び『嵆康集』を校訂する。
五月、ロシアのエロシェンコ著の童話劇「桃色の雲」を訳了する。
北京大学、北京高等師範学校の講師をなお兼任する。
十二年 一九二三年 四十三歳
八月、磚塔胡同六十一号に移居する。
九月、小説第一集「吶喊」印成する。
十二月、阜成門内西三条胡同二十一号の家屋を購入する。
同月、「中国小説史略」上巻印成する。
この年の秋より、北京大学、北京師範大学、北京女子高等師範学校、および世界語専門学校の講師を兼任する。
十三年 一九二四年 四十四歳
五月、西三条胡同の新居に移る。
六月、「中国小説史略」下巻印成する。
同月、再び『嵆康集』を校訂し、「校正嵆康集序」を撰す。
七月、西安に赴き講演する。八月、北京に帰る。
十月、日本の厨川白村著論文「苦悶の象徴」を訳了する。
北京大学、北京師範大学、北京女子高等師範学校、および世界語専門学校の講師をなお兼任する。
この年の冬より『語絲』週刊のために文を撰す。
十四年 一九二五年 四十五歳
八月、教育総長章士釗が北京女子師範大学を不法に解散したことにより、先生は多数の教職員と共に校務維持会を組織したが、章士釗に違法に免職される。
十一月、雑感第一集「熱風」印成する。
十二月、日本の厨川白村著「象牙の塔を出て」を訳了する。
この年もなお『語絲』のために文を撰し、あわせて『国民新報』副刊および『莽原』誌を編集する。
この年の秋より、北京大学、北京女子師範大学、中国大学の講師、黎明中学の教員を兼任する。
十五年 一九二六年 四十六歳
一月、女子師範大学が復活し、新校長易培基が就任して、先生はようやく職責を解かれる。
同月、教育部僉事に復職し、部に出勤する。
三月、「三一八」惨殺事件の後、山本医院、ドイツ医院、フランス医院などに避難し、五月になってようやく寓居に戻る。
七月より、毎日中央公園に通い、斉宗頤と共に「小ヨハネス」を翻訳する。
八月末、北京を離れ厦門に向かい、厦門大学文科教授に就任する。
九月、「彷徨」印成する。
十二月、大学に不満を抱き辞職する。
十六年 一九二七年 四十七歳
一月、広州に至り、中山大学文学系主任兼教務主任に就任する。
二月、香港に赴き講演する。題は「声なき中国」、翌日の演題は「古い曲はもう歌い終わった!」
三月、黄花節に嶺南大学にて講演する。同日、白雲楼に移居する。
四月、黄埔政治学校にて講演する。
同月十五日、中山大学各主任の緊急会議に出席し、逮捕された学生の救出を図るも果たせず、辞職する。
七月、知用中学および市教育局主催の「学術講演会」にて講演する。題目は「読書雑談」、「魏晋の風度及び文章と薬と酒の関係」。
八月、「唐宋伝奇集」の編纂を開始する。
十月、上海に到着する。八日、景雲里二十三号に移り、番禺の許広平女史と同居する。
同月、「野草」印成する。
上海の学界は先生の到着を聞き、次々と講演を依頼した。労働大学、立達学園、復旦大学、暨南大学、大夏大学、中華大学、光華大学など。
十二月、大学院院長蔡元培の招聘に応じ、特約著作員に就任する。
同月、「唐宋伝奇集」上冊出版する。
十七年 一九二八年 四十八歳
二月、「小ヨハネス」印成する。
同月、「北新月刊」のために「近代美術史潮論」を翻訳し、『語絲』の編集を務める。
「唐宋伝奇集」下冊印成する。
五月、江湾実験中学にて講演する。題して「老いて死なざるの論」。
六月、「思想・山水・人物」訳本刊行。「奔流」創刊号出版。
十一月、短評集「而已集」印成する。
十八年 一九二九年 四十九歳
一月、王方仁、崔真吾、柔石らと合資して文芸書籍および木版画「芸苑朝花」を印刷する。略称「朝花社」。
五月、「壁下訳叢」印成する。
同月十三日、北上して帰省し、あわせて燕京大学、北京大学、第二師範学院、第一師範学院などで講演する。
六月五日、上海に帰着する。
同月、ルナチャルスキー著「芸術論」訳了出版する。
九月二十七日朝、男児を出産する。
十月一日、子に海嬰と名づける。
同月、柔石のために中編小説「二月」を校訂する。
同月、ルナチャルスキー著「文芸と批評」訳本印成する。
十二月、暨南大学にて講演する。
十九年 一九三〇年 五十歳
一月、朝花社終了する。
同月、友人と共同で「萌芽」月刊を編集出版する。「壊滅」の翻訳を開始する。
二月、「自由大同盟」成立大会を開く。
三月二日、「左翼作家連盟成立大会」に参加する。
この頃、浙江省党部が「反動文人魯迅」の逮捕を上申する。
「自由大同盟」が厳しく弾圧され、先生は寓居を離れて避難する。
同時に歯が腫れ痛み、全て抜歯して義歯に換える。
四月、寓居に戻る。神州国光社と契約を結び、「現代文芸叢書」の編訳を行う。
五月十二日、北四川路の楼上の寓居に移る。
八月、「夏期文芸講習会」にて講演する。
同月、ヤコヴレフの長編小説「十月」の翻訳を了える。
九月、賀非のために「静かなドン」の校訂を終える。過労で発熱する。
同月十七日、オランダ西洋料理店にて、数人の友人が発起した先生の五十歳記念会に出席する。
十月四、五両日、内山完造と共に北四川路「購買組合」第一店の二階で「版画展覧会」を開催する。
同月、「薬用植物」の翻訳を了える。
十一月、「中国小説史略」を修正する。
二十年 一九三一年 五十一歳
一月二十日、柔石が逮捕される。先生は寓居を離れて避難する。
二月、メフィールド「セメントの図」印成する。
同月二十八日、旧寓居に戻る。
三月、先生が「左聯」の機関誌「前哨」の出版を主宰する。
第3節
四月、同文書院にて講演する。題して「流氓と文学」。
六月、日本人「婦人之友会」にて講演する。
七月、増田渉のために「中国小説史略」全篇の講解を終える。
同月、「社会科学研究会」にて「上海文芸の一瞥」を講演する。
八月十七日、内山嘉吉氏を招いて学生に木版画の技法を教えてもらい、先生自ら通訳を務める。二十二日まで。二十四日、一八芸社木版画部にて講演する。
十一月、涵芬楼景印宋本により『嵆康集』を校訂する。
同月、「壊滅」製本完成する。
十二月、友人と共同で「十字街頭」旬刊を編集出版する。
二十一年 一九三二年 五十二歳
一月二十九日、戦事に遭い、火線の中にあった。翌日、内山書店に避難する。
二月六日、内山書店の友人に護送され、イギリス租界内の内山支店に一時避難する。
四月、一九二八年と二九年の短評を編集し、「三閑集」と名づける。一九三〇年から三一年の雑文を編集し、「二心集」と名づける。
五月、自ら訳著書目を録す。
九月、新ロシアの小説家二十人集の上冊の編訳を了える。「竪琴」と名づける。下冊の編集を了える。「一日の仕事」と名づける。
十月、「両地書」を排比する。
十一月九日、母の病により北平に赴く。
同月二十二日より、北京大学、輔仁大学、北平大学、女子文理学院、師範大学、中国大学などで講演する。
二十二年 一九三三年 五十三歳
一月四日、蔡元培より書簡にて「民権保障同盟会」への加入を招かれ、執行委員に選出される。
二月十七日、蔡元培より書簡にて宋慶齢邸に招かれ、バーナード・ショーを歓迎する。
三月、「魯迅自選集」天馬書店より出版する。
同月二十七日、書籍をディスウェイ路に運び、家屋を借りて保管する。
四月十一日、大陸新村九号に移居する。
五月十三日、ドイツ領事館にて「ファシスト」の暴行に対する抗議書を提出する。
六月二十日、楊銓が刺殺され、万国殯儀館に赴いて入棺を見送る。その時、先生もまた免れぬであろうとの噂があり、あるいはその行動を阻止する者もあったが、先生は顧みず、外出に鍵を持たず、決然たる意志を示した。
七月、「文学」月刊出版。先生はその同人の一人であった。
十月、先生が編集・序文を付した「一個人の受難」木版画連環図、印成する。
同月、「木版画展覧会」を千愛里にて開催する。
また短評集「偽自由書」印成する。
二十三年 一九三四年 五十四歳
一月、「北平箋譜」出版する。
五月、雑文集「南腔北調集」を校訂し、同月印成する。
五月、先生が編集・序文を付した木版画集「引玉集」出版する。
八月、「訳文」創刊号を編集する。
同月二十三日、知人が逮捕されたため、寓居を離れて避難する。
十月、「木版画紀程」印成する。
十二月十四日夜、脊部の筋肉が痛み、盗汗が出る。病後、大いに痩せ、義歯が歯茎に合わなくなる。
同月、短評集「准風月談」出版する。
二十四年 一九三五年 五十五歳
一月、ソ連のパンテレーエフの童話「時計」の翻訳を終える。
二月、ゴーゴリ「死せる魂」の翻訳を開始する。
四月、「十竹斎箋譜」第一冊、印成する。
六月、「新文学大系」小説二集を編選し、序文を書き終える。印成する。
九月、ゴーリキー著「ロシアの童話」訳本、印成する。
十月、瞿秋白の遺著「海上述林」上巻を編集する。
十一月、「故事新編」の執筆を続ける。
十二月、「死せる魂百図」木版画本を整理し、序を作る。
二十五年 一九三六年 五十六歳
一月、肩および脇腹に激しい痛みが生じる。
同月二十日、友人と共同で主催する「海燕」半月刊が出版される。
また「故事新編」の校訂を終え、ただちに刊行する。
二月、「死せる魂」第二部の翻訳を再開する。
三月二日午後、突然喘息の発作に襲われる。
四月七日、良友公司に赴き、「ソ連版画」を選定する。
同月、「海上述林」下巻を編集する。
五月十五日、再び発病する。医師は胃疾と診断する。以後、発熱が治まらず、三十一日、スメドレー女史がアメリカ人のダン医師を連れてきて診断する。病状は甚だ危険であった。
六月、衰弱の中から徐々に回復し、やや坐起して読書できるようになる。わずかに数十字を書くことができた。
同月、病中、訪問者O·Vに答えて「現在の我々の文学運動について」を口述する。
また「花辺文学」印成する。
七月、先生が編集・印刷した「ケーテ・コルヴィッツ版画選集」出版する。
八月、痰に血が混じる。
「中流」創刊号のために小文を作る。
十月、体重八十八ポンド。八月一日に比べ約二ポンド増加する。
チェーホフ著「悪い子供と他の奇聞」訳本、印成する。
時折外出して映画を見たり、友人を訪ねてしばし座することができた。
同月八日、青年会にて第二回「全国木版画流動展覧会」を観覧する。
十七日、鹿地亘および内山完造を訪問する。
十八日未明に発作が起こり、喘息が止まず、翌十九日午前五時二十五分に逝去する。
第4節
【「硬訳」と「文学の階級性」】
一
聞くところによると、『新月』月刊の同人たちの間では、今や売れ行きが良くなったと言っているそうだ。これはおそらく本当だろう。私のような交際の極めて少ない人間でも、二人の若い友人の手で第二巻第六・七号合本を見たことがある。ざっと目を通すと、「言論の自由」を争う文章と小説が多い。末尾近くには梁実秋氏の一篇「魯迅先生の『硬訳』について」があり、「死訳に近い」とし、「死訳の風潮は決して助長してはならない」として、私の三段の訳文と、『文芸と批評』の後記に述べた言葉——「しかし訳者の力量不足と中国語そのものの欠点のため、訳し終えてみると、晦渋で、甚だしきに至っては難解な箇所も実に多い。仂句を分解すれば、また原文の語気を失ってしまう。私にとっては、このように硬訳するほかに、手をこまねくという一本の道しかなく、残された唯一の希望は、読者がなお辛抱強く読み続けてくださることだけだ」——を引用し、丁寧に字の傍らに丸印を付け、さらに「硬訳」の二字の傍らには二重丸を付けた上で、「厳正」に「批評」を下した。曰く、「我々は『辛抱強く読み続けた』が、何も得るところがなかった。『硬訳』と『死訳』にいったいどんな違いがあるのか?」
新月社の声明では組織はないと言い、論文の中でも無産階級式の「組織」や「集団」という言葉を痛く嫌悪しているようだが、実は組織がある。少なくとも政治に関する論文は、この号の中で互いに「呼応」している。文芸に関しては、この一篇は先に掲載された同じ批評家の「文学に階級性はあるか?」の余波である。その中の一段にはこう書かれている。「……しかし不幸にも、この類いの本で私に読めたものは一冊もない。……最も困難に感じたのは文章で、……まさに読もうとすると天書よりも難しい。……今のところまだ一人の中国人も、中国人が読んで理解できる文章で、無産文学の理論が結局どういうものかを教えてくれる論文を書いていない。」字の傍らにも丸印が付いているが、印刷の手間を考えてここでは省く。要するに梁氏は自らをすべての中国人の代表と自認し、これらの本は自分に理解できない以上、すべての中国人にも理解できないものであり、中国においてその生命を断つべきだとして、掲示して曰く「この風潮は決して助長してはならない」と。
他の「天書」翻訳者の意見を私は代弁できないが、私個人から見れば、事はそう簡単ではない。第一に、梁氏は自ら「辛抱強く読んだ」と称しているが、実際に辛抱強かったかどうか、それが可能だったかどうかは、まだ疑問である。辛抱強いと自称しながら、実はその柔らかさは綿の如しというのは、まさに新月社の一つの特色だ。第二に、梁氏は自らすべての中国人を代表しているが、果たして全国中の最も優秀な者かどうかも疑問である。この問題は「文学に階級性はあるか?」という論文の中から解明できる。Proletaryという語は音訳する必要はなく、意訳すればよいというのは道理がある。しかしこの批評家は言う。「実は辞書を引いてみると、この語の含意は決して体裁の良いものではない。『ウェブスター大辞典』によれば、Proletaryの意味はA citizen of the lowest class who served the state not with property, but only by having children.……プロレタリアートとは国家において子供を産むことしかしない階級だ!(少なくともローマ時代にはそうだった)」実のところ、この「体裁」を争う必要はない。おおよそ常識のある者なら、現在をローマ時代と見なし、現在の無産者をすべてローマ人と見ることはあるまい。これはChemieを「舎密学」と訳しても、読者が必ずエジプトの「錬金術」と混同しないのと同じだし、「梁」氏の書いた文章を読んでも語源を考証して、丸木の小橋が筆を執ったと誤解することは決してないのと同じだ。「辞書を引いて」(『ウェブスター大辞典』を!)もなお「何も得るところがない」とは、すべての中国人がそうだとは限るまい。
二
しかし私にとって最も興味深いのは、前節に引いた梁氏の文章の中に、二箇所とも「我々」という語が使われ、いささか「多数」と「集団」の気味があることだ。もちろん筆を執るのは一人でも、気脈を通じる者は決して一人ではないから、「我々」と言うのは間違いではなく、見た目にも力があるし、一人で両肩に責任を負わずに済む。しかし「思想が統一できない」時、「言論は自由であるべき」時、梁氏の資本制度批判と同じく、一種の「弊害」がある。すなわち「我々」がある以上、我々の外に「彼ら」がいるわけで、新月社の「我々」が私の「死訳の風潮は決して助長すべきではない」と考えても、読んで「何も得るところがなかった」のではない読者が別に存在し、私の「硬訳」はまだ「彼ら」の間に生存していて、「死訳」とはまだいくらかの区別があるのだ。
私もまた新月社の「彼ら」の一人である。なぜなら私の訳業は梁氏の求める条件とはすべて異なるからだ。
あの「硬訳について」の冒頭で、誤訳は死訳に勝るとして曰く、「一冊の本が完全に曲訳されることはありえない……部分的な曲訳は、たとえ誤りであっても、やはり一つの誤りを与えてくれる。この誤りは人を害すること計り知れないかもしれないが、読む時にはやはり爽快さが残る。」後の二文には傍圈を付けてよいが、私はこのような行為をする気はさらさらない。私の翻訳は、もとより読者の「爽快さ」を求めるものではなく、しばしば不快を与え、甚だしきに至っては息苦しさ、嫌悪、憤怒を感じさせるものだ。読んで「爽快さが残る」ものなら、新月社の人々の訳著がある。徐志摩氏の詩、沈従文・凌叔華氏の小説、陳西瀅(陳源)氏の閑話、梁実秋氏の批評、潘光旦氏の優生学、さらにバビット氏のヒューマニズムがある。
だから梁氏が後段で「このような本は地図を見るように指を伸ばして文法の脈絡の位置を探さねばならない」と述べたのも、私にとってはむだ口に過ぎず、言っても言わなくても同じことだ。そうだ、私に言わせれば、「このような本」を見るのは地図を見るのと同じで、指を伸ばして「文法の脈絡の位置」を探さねばならないのだ。地図を見るのは「楊貴妃出浴図」や「歳寒三友図」を見るほど「爽快」ではなく、甚だしきに至っては指を伸ばさねばならない(しかしこれは梁氏自身がそうなのだろう。地図を見慣れた人は目だけで足りる)が、地図は死んだ図ではない。だから「硬訳」にたとえ同じ労苦があっても、道理の上で「死訳」とは「何かの区別」がある。ABCDを知っている者が新学者と自負しても、化学方程式とは無縁であり、算盤を弾ける者が数学者と自負しても、筆算の演算を見ればやはり何も得られない。この世の中、学者になったからといって万事に通じるわけではないのだ。
しかし梁氏には実例がある。私の三段の訳文を引用し、「前後の文脈がないので意味が十分明らかでないかもしれない」と自ら知りつつ。「文学に階級性はあるか?」という論文でも同様の手法を用い、二首の訳詩を引いて総評した。「おそらく偉大な無産文学はまだ出現していないのだろう。ならば私は待とう、待とう、待とう。」これらの方法はまことに「爽快」だが、私はこの同じ『新月』月刊の中の創作——創作だぞ!——「引越し」の第八頁から一段の文章を引用することができる——
「ひよこに耳はあるの?」
「ひよこに耳が生えてるのは見たことないわ。」
「じゃあどうやって私が呼ぶのが聞こえるの?」彼女は一昨日、四ばあさんが教えてくれたことを思い出した。耳は音を聞くもの、目はものを見るもの。
「この卵は白い鶏のなの、黒い鶏のなの?」枝児は四ばあさんが答えないのを見て、立ち上がって卵を触りながらまた聞いた。
「今はわからないよ、ひよこが孵ってからわかるのさ。」
「婉児姉さんはひよこが大きな鶏になるって言ったけど、このひよこたちも大きくなるの?」
「ちゃんと餌をやれば大きくなるよ。この鶏だって買った時はこんなに大きくなかったろう?」
もう十分だ。「文字」は理解できるし、指を伸ばして脈絡を探す必要もないが、私はもう「待った」りしない。この一段を見る限り、「爽快」でもなく、しかも創作しないのとほとんど区別がないと思うからだ。
末尾に梁氏はもう一つ詰問を残している。「中国語と外国語は異なる。……翻訳の難しさはここにある。もし二つの言語の文法・構文・語法がまったく同じなら、翻訳はまだ仕事と言えるだろうか?……構文を少し変えて読者が理解できるようにすることを第一義とすべきだ。なぜなら『辛抱強く』というのは愉快なことではなく、しかも『硬訳』で必ずしも『もとの精悍な語気』を保存できるわけではないからだ。もし『硬訳』で『もとの精悍な語気』を保存できるなら、それこそ奇跡であり、中国語に『欠点』があるなどと言えるだろうか?」私はそれほど愚かではない。中国語と同じ外国語を求めたり、「二つの言語の文法・構文・語法がまったく同じ」であることを望んだりはしない。ただ文法の複雑な国語の方が外国語の翻訳に適しており、語系の近い言語同士も翻訳しやすく、そしてそれもまた一つの仕事だと考える。オランダ語からドイツ語へ、ロシア語からポーランド語への翻訳は、仕事ではないと言えるだろうか?日本語とヨーロッパの言語は大いに「異なる」が、彼らは新しい構文を次第に加えていき、古文に比べてより翻訳に適し原文の精悍な語気を失わなくなった。当初は「文法の脈絡の位置を探す」必要があり、少なからぬ人々に不「愉快」を与えたが、探索と習慣を経て、今やすでに同化し自分のものとなった。中国語の文法は日本の古文よりもさらに不完全だが、やはり変遷を経てきた。例えば『史記』『漢書』は『書経』と異なり、現在の白話文はまた『史記』『漢書』と異なる。新造もある。唐代の仏経翻訳、元代の詔勅翻訳では、当時の「文法・構文・語法」にはかなりの造語があったが、一旦常用されれば指を伸ばすまでもなく理解されるようになった。今また「外国語」が来て、多くの文が新たに作られねばならない——悪く言えば、硬造である。私の経験では、このように訳す方が、いくつかの文に分解するよりも原文の精悍な語気をよく保存できる。しかし新造を必要とするがゆえに、もとの中国語には欠点があるのだ。何の「奇跡」か、何の「だろうか」か?ただし「指を伸ばし」「辛抱強く」する必要があり、ある人々にとっては「愉快なことではない」。しかし私はもとより「爽快」や「愉快」をあの御仁方に献上する気はなく、まだいくらかの読者が何か得るところがあるなら、梁実秋氏「ら」の苦楽および無所得は、まことに「我に於いて浮雲の如し」である。
しかし梁氏にはさらに無産文学理論に助けを求めるまでもなく、それでもなおよくわかっていない箇所がある。例えば彼は言う。「魯迅先生は数年前に翻訳した文学、例えば厨川白村の『苦悶の象徴』は、まだ読んで理解できないものではなかったが、最近翻訳した本はどうも作風が変わったようだ。」少しでも常識のある人なら知っている。「中国語と外国語は異なる」が、同じ一種の外国語でも、著者それぞれの書き方によって「作風」も「文法の脈絡の位置」もかなり異なりうるのだ。文は繁にも簡にもでき、名詞は普通にも専門的にもなりうるのであって、一種の外国語だからといって理解の容易さがすべて同じになるはずがない。私が『苦悶の象徴』を訳したのも今と同じく、逐句、甚だしきに至っては逐字に硬訳したのだが、梁実秋氏がまだ読めたと思えたのは、原文がもともと理解しやすかったからであり、梁実秋氏が中国の新しい批評家だからでもあり、その中で硬造された構文が比較的見慣れたものだったからでもある。もし三家村で『古文観止』だけを読む学者たちが見れば、「天書」よりも難しいと思わぬはずがあろうか?
三
しかし今回の「天書よりも難しい」無産文学理論の翻訳は、梁氏に少なからぬ影響を与えた。読めなくて影響があるとは、滑稽のようだが、真実なのだ。この批評家は「文学に階級性はあるか?」の中で言う。「私が今、いわゆる無産文学理論を批評するにも、私が理解しうるわずかな資料に基づくしかない。」これはつまり、そのためにこの理論についての知識が極めて不完全だということだ。
しかしこの罪については、我々(すべての「天書」翻訳者を含む。ゆえに「我々」と言う)も一部の責任しか負えず、一部は著者自身の愚鈍または怠惰に帰せられるべきだ。「ルナチャルスキーだのプレハーノフだの」の本は私にはわからないが、「ボグダーノフの類い」の三篇の論文とトロツキーの半部の『文学と革命』には、確かに英語の翻訳がある。イギリスには「魯迅先生」はいないから、訳文は当然はるかに理解しやすいはずだ。梁氏は偉大な無産文学の出現に対して「待とう、待とう、待とう」の忍耐と勇気を示したが、今回は理論に対しても少し待って、探して読んでから論じてはどうか。あると知らぬのは愚鈍、あると知って求めぬのは怠惰である。黙って座っているだけなら「爽快」かもしれないが、口を開けば冷気を吸い込みやすいものだ。
例えばまさにあの「文学に階級性はあるか?」の高文。結論は階級性はないという。階級性を抹殺するのなら、最も徹底しているのは呉稚暉氏の「マルクスだの牛クスだの」、そして某氏の「世の中に階級なるものは存在しない」という学説だろう。そうすれば万口が沈黙し、天下太平だ。しかし梁氏はいくらか「マルクスなにがし」の毒にやられて、まず現在多くの場所が資本制度下にあり、その制度の下に無産者がいることを認めた。ただしこの「無産者にはもともと階級の自覚がなかった。過度に同情心の豊かな、しかも態度の偏激な少数の指導者が、この階級観念を彼らに伝授したのだ」と言い、彼らの団結を促し、闘争の欲念を激発させようとした。確かにそうだが、伝授者は同情からではなく、世界を改造する思想によるものだと私は思う。しかも「もともと存在しない」ものは自覚のしようがなく、激発のしようもないのであって、自覚でき、激発できるのは、もともとあったことの証拠だ。もともとあるものを長く隠し通すことはできない。ガリレオが地動説を唱え、ダーウィンが生物進化を唱えた時、最初は宗教家に焼き殺されかけたり、保守者から猛攻撃を受けたりした。しかし今日、人々がこの二つの説を不思議としないのは、地球が確かに動き、生物が確かに進化しているからだ。あると認めながら無いと覆い隠そうとするのは、絶技がなければ不可能だ。
しかし梁氏には闘争を消滅させる方法がある。ルソーが言ったように「財産は文明の基礎」であり、「資産制度を攻撃することは文明に反抗することだ」とし、「一人の無産者がもし見込みのある人間なら、ただ辛苦して誠実に一生働けば、多かれ少なかれ相当の財産を得られるはずだ。これこそ正当な生活闘争の手段である。」思うに、ルソーは今から百五十年前の人だが、過去未来の文明がすべて資産を基礎とすると考えたはずはない。(しかし経済関係を基礎とすると言うなら、それは正しい。)ギリシャもインドも文明を持ったが、繁栄期にはいずれも資本主義社会ではなかった。彼はこれを知っていたはずだ。知らなければ、それは彼の誤りだ。無産者が「辛苦して」有産階級に這い上がるべきだという「正当な」方法は、中国の金持ちの旦那が機嫌のよい時に貧しい労働者に説く古訓であり、実際に今もなお「辛苦して誠実に」一段上へ這い上がろうとしている「無産者」は多い。しかしこれはまだ誰も「この階級観念を彼らに伝授」していない時の話だ。一旦伝授されれば、彼らは一人一人這い上がろうとはしなくなる。梁氏の言う通り、「彼らは一つの階級になり、組織を持ち、一つの集団になり、そして常軌を逸して一躍して政権と財権を奪取し、一躍して統治階級となる。」しかしまだ「辛苦して誠実に一生働いて、多少なりとも相当の財産を得たい」と思っている「無産者」はいるだろうか?もちろんまだいる。しかし彼は「まだ発財していない有産者」に数えられることになる。梁氏の忠告は無産者に嘔吐されるであろうし、旦那方と互いに賞讃し合うほかなくなるだろう。
第5節
それでは今後はどうか。梁氏はさして心配する必要はないと考える。なぜなら「この種の革命の現象は永続しえず、自然の進化を経た後には、優勝劣敗の法則が再び証明され、やはり聡明にして才力の人に優る者が優越の地位を占め、無産者は依然として無産者だ」からである。しかし無産階級もおそらく「反文明の勢力はいずれ文明の勢力に征服される」ことを知っているから、「いわゆる『無産階級文化』を建設しようとし、……そこには文芸学術が含まれる」のだ。
これ以後、ようやく文芸批評の本題に入る。
四
梁氏はまず、無産者文学理論の誤りは「階級の束縛を文学の上に加えたこと」にあるとする。なぜなら一人の資本家と一人の労働者には異なる点があるが、同じ点もある。「彼らの人性(原文ではこの二字に二重丸)に違いはない」。例えばどちらも喜怒哀楽があり、恋愛がある(ただし「言っているのは恋愛そのものであって、恋愛の方式ではない」)。「文学とはこの最も基本的な人性を表現する芸術だ」。これらの言葉は矛盾し、空虚である。文明の基礎が資産であり、貧者が必死に這い上がるのが「見込みがある」ことなら、這い上がることが人生の要諦であり、富豪こそ人類の至尊であり、文学も資産階級を表現するだけで十分なはずだ。なぜそれほど「同情心過多」で「劣敗」の無産者まで含めるのか?しかも「人性」の「それ自体」はどのように表現されるのだろうか?例えば元素や化合物の化学的性質には化合力があり、物理的性質には硬度がある。この力や度数を示すには二つの物質を用いなければならない。物質を使わずに化合力や硬度の「それ自体」だけを示そうにも、そんな妙法はない。しかし物質を使えば、その現象は物質によって異なる。文学も人間を借りなければ「性」を示せず、人間を用いれば、しかもまだ階級社会の中にある以上、所属する階級性を免れることは断じてできない。「束縛」を加える必要はなく、実は必然なのだ。もちろん、「喜怒哀楽は人の情なり」。しかし貧者には取引所で損をした懊悩は絶対になく、石油王が北京で石炭殻を拾う老婆の身に受ける辛酸を知るはずもなく、飢饉の被災民はおそらく金持ちの旦那のように蘭の花を育てはしないだろうし、賈府の焦大も林妹妹を愛しはしなかった。「汽笛よ!レーニンよ!」がそのまま無産文学でないのは確かだが、「すべてのものよ!」「すべての人よ!」「嬉しいことが来た、人は喜んだよ!」もまた「人性」の「それ自体」を表現する文学ではない。最も普遍的な人性を表現する文学を最高とするなら、最も普遍的な動物性——栄養、呼吸、運動、生殖——を表現する文学の方がさらに上であるはずだし、「運動」を除いて生物性を表現する文学ならなおさらだろう。我々は人間だから人性の表現を限度とするというなら、無産者は無産階級だから無産文学を作るのだ。
次に梁氏は、作者の階級は作品と無関係だと言う。トルストイは貴族の出身だが貧民に同情した。しかし階級闘争は主張しなかった。マルクスは無産階級の出身ではない。終身貧窮だったジョンソン博士は志行と言葉遣いが貴族に勝った。だから文学を評価するには作品自体を見るべきで、作者の階級や身分に累を及ぼすべきではない。これらの例は文学の無階級性を証明するには全く不十分だ。トルストイはまさに貴族の出身だったからこそ、旧来の性格を洗い去りきれず、だから貧民に同情するだけで階級闘争は主張しなかったのだ。マルクスはもともと無産階級出身ではなく、文学作品もないから、彼がもし筆を執ったらその表現が方式を用いない恋愛そのものだったろうなどと臆断はできない。ジョンソン博士が終身貧窮でありながら志行と言葉遣いが王侯に勝っていた理由は、英国文学と彼の伝記を知らないので私にはわからない。おそらく「辛苦して誠実に一生働いて、多少なりとも相当の財産を得よう」として有産階級に這い上がろうとしたが、ついに「劣敗」し、相当の財産も積めなかったので、空威張りをして「爽快」にしていたのだろう。
次に梁氏は言う。「良い作品は永遠に少数の人の専有物であり、大多数は永遠に愚かで、永遠に文学と無縁だ。」しかし鑑賞力の有無は階級と無関係だ。なぜなら「文学を鑑賞することも天から授かった一種の福分」だからだ。すなわち無産階級の中にもこの「天から授かった一種の福分」を持つ者はいるのだ。私の推論によれば、この一種の「福分」さえあれば、貧しくて教育を受けられず一字も読めなくても、『新月』月刊を鑑賞でき、「人性」と文芸の「それ自体」にはもとから階級性がないことの証拠となりうる。しかし梁氏もこの天賦の福分を持つ無産者が多くはないことを知っているから、彼らのために別種のもの(文芸?)を定めて見せようとする。「例えば通俗的な演劇、映画、探偵小説の類い」であり、「一般の労働者・農民は娯楽を必要とし、おそらくわずかな芸術的娯楽も必要とする」からだ。こう見ると、文学は確かに階級によって異なるようだが、これは鑑賞力の高低によるものであり、この力の涵養は経済と無関係で、神の賜物——「福分」なのだ。だから文学者は自由に創造すべきであり、皇室貴族に雇われるべきでもなく、無産階級に脅されるべきでもなく、讃美の文章を書くべきではない。これは正しい。しかし我々が見た無産文学理論の中に、ある階級の文学者は皇室貴族に雇われるべきではないが無産階級に脅されて讃美の文章を書くべきだなどと言ったものを見たことはない。ただ文学には階級性があり、階級社会の中で文学者は自ら「自由」だと思い、階級を超越したと思っていても、無意識のうちに自己の階級の階級意識に支配され、それらの創作は他の階級の文化ではないと言っているに過ぎない。例えば梁氏のこの文章は、本来は文学上の階級性を消去し真理を宣揚しようとするものだ。しかし資産を文明の祖先とし、貧者を劣敗の滓と指さすのを一瞥すれば、資産家の闘争の「武器」——いや「文章」であることがわかる。無産文学理論家が「全人類」「超階級」の文学理論を有産階級を助けるものと見なすのは、ここにまことに明瞭な実例を与えている。成仿吾氏のように「彼らは必ず勝利する。だから我々は彼らを指導し慰めに行こう」と言い、「行った」後は自分たち以外の「彼ら」を「あしらう」ような無産文学者もまた、梁氏と同様に無産文学理論について「意を以て之を為す」誤りを免れてはいない。
さらに梁氏が最も痛恨するのは、無産文学理論家が文芸を闘争の武器、すなわち宣伝品とすることだ。彼は「何人であれ文学を利用して別の目的を達することに反対しない」が、「宣伝式の文章が文学であるとは認められない」。これは自ら騒ぎを起こす言だと思う。私が読んだ理論は、すべてただ凡そ文芸には必ず何らかの宣伝があると言っているだけで、宣伝式の文章がそのまま文学だと主張した者はいない。確かに一昨年以来、中国ではスローガンや標語を詰め込んだ詩歌小説が数多く現れ、それが無産文学だと自任した。しかしそれは内容も形式も無産の気がなく、スローガンと標語を使わなければ「新興」を示す術がなかったからであり、実際には無産文学ではなかった。今年、名高い「無産文学の批評家」銭杏邨氏が『拓荒者』でなおルナチャルスキーの言葉を引き、彼が大衆に理解できる文学を推重していることは、スローガンや標語の使用を非難すべきでないことの証だとして、あれらの「革命文学」を弁護した。しかしそれも梁実秋氏と同じく、故意あるいは無意識の曲解だと私は思う。ルナチャルスキーのいう大衆に理解できるものとは、トルストイが農民に配るために書いた小冊子のような文体、労農が一見して了解できる語法・歌調・諧謔を指すはずだ。デミアン・ベドヌイ(Demian Bednii)が詩歌で赤旗章を受け、その詩中にスローガンも標語も使っていないことを見れば明白だ。
最後に梁氏は実物を見たいという。それは正しい。最も切実な方法だ。しかし二首の訳詩を抜き出してさらし者にするのは間違っている。『新月』にも「翻訳の難しさについて」が載ったことがあるではないか。まして訳されたのは詩なのだ。私が見た範囲で言えば、ルナチャルスキーの「解放されたドン・キホーテ」、ファジェーエフの「壊滅」、グラトコフの「セメント」は、中国のこの十一年間に比肩しうる作品がない。これは「新月社」一派の資産文明の余蔭を蒙り、しかも衷心からそれを擁護する作家についてのことだ。無産作家を自称する者の作品にも、相当の成果を挙げることはできない。しかし銭杏邨氏も弁護した。新興階級は文学の手腕が当然幼稚で単純であり、直ちに良い作品を要求するのは「ブルジョワ」の悪意だと。この言葉は労農のために言えば、まったく正しい。この種の無理な要求は、彼らを長く凍え飢えさせておきながら、なぜ富豪のように肥えていないのかと責めるようなものだ。しかし中国の作者は現に鋤や斧の柄を置いたばかりの者は実際にはおらず、大多数は学校を出た知識人であり、中には早くから有名な文人もいる。まさか自らの小ブルジョワ意識を克服した後は、以前の文学的手腕も消え失せたとでもいうのだろうか?そんなことはない。ロシアの老作家アレクセイ・トルストイやヴェレサーエフ、プリーシヴィンは今でもなお良い作品を書いている。中国にスローガンばかりで実証の伴わない者が多いのは、その病根が「文芸を階級闘争の武器とする」ことにあるのではなく、「階級闘争を文芸の武器として借りる」ことにある。「無産者文学」の旗の下に少なからぬ宙返りする者が集まり、去年の新刊広告を見れば、革命文学でない本はほとんど一冊もなかった。批評家はまた弁護をもって「清算」に代え、すなわち文学を「階級闘争」の庇護の下に座らせ、こうして文学自体は力を入れる必要がなくなり、よって文学と闘争の両方にほとんど無関係となったのだ。
しかし中国の目下の一時的現象は、無産文学の新興に対する反証にはまったくならない。梁氏もそれを知っているから、末尾で譲歩して言う。「もし無産階級の革命家がどうしても彼の宣伝文学を無産文学と呼ぶなら、それは一種の新興文学であり、文学の国土における新しい収穫であるから、声高に資産の文学打倒を叫んで文学の領域を争奪する必要はない。なぜなら文学の領域は広大で、新しいものには常にその位置があるからだ。」しかしこれは「日中親善、共存共栄」の説のようなもので、まだ羽毛も生え揃わない無産者から見れば、一種の欺瞞だ。このような「無産文学者」でよいとする者は今でもおそらくいるだろうが、それは梁氏のいう「見込みのある」、有産階級に這い上がろうとする「無産者」の類いであり、その作品は貧しい書生がまだ状元に及第していない時の不平であって、始めから這い上がり、そしてその後も、決して無産文学ではない。無産者文学は、自分たちの力で自己の階級および一切の階級を解放するために闘争する一翼であり、求めるのは全体であって、一角の地位ではない。文芸批評界を例に取れば、もし「人性」の「芸術の宮殿」(これは成仿吾氏から借用する)の中に南向きに虎皮の椅子を二脚並べ、梁実秋・銭杏邨の両氏をそろって座らせ、一人は右手に「新月」を、一人は左手に「太陽」を掲げたなら、その光景はまさに「労資」が肩を並べたことになるだろう。
五
ここでまた私の「硬訳」に話を戻せる。
推察するに、これは当然次に起こるべき問題だ。無産文学が宣伝を重んじるなら、宣伝は多数が理解できなければならない。それなら「硬訳」で難解なこれらの理論の「天書」は、結局何のために訳したのか?訳さなかったのと同じではないのか?
私の答えはこうだ。自分自身のため、無産文学批評家を自認する何人かのため、そして「爽快」を求めず、困難を恐れず、多少なりともこの理論を理解したいと思う一部の読者のためだ。
一昨年以来、私個人への攻撃は甚だ多く、どの刊行物にもたいてい「魯迅」の名を見かけたが、著者の口吻は、粗く見れば概して革命文学者のようであった。しかし数篇読んでみると、次第に無駄な言葉が多すぎると感じた。解剖刀は腠理に当たらず、弾丸の命中した箇所も致命傷ではない。例えば私の属する階級にしても、今なお確定していない。小ブルジョワと言ったかと思えば「ブルジョワ」と言い、時には「封建の遺物」にまで昇進し、しかもオランウータンとも等しいとされた。(『創造月刊』掲載の「東京通信」を見よ。)また一度は歯の色を罵ったこともある。このような社会で封建の遺物が幅を利かせることは十分ありうるが、封建の遺物がすなわちオランウータンだとはいかなる「唯物史観」にも説明がなく、歯が黄色ければ無産階級革命に害があるという論拠も見つからない。そこで私は考えた。参考になるこの種の理論が少なすぎるから、みんないささか混乱しているのだと。敵に対して、解剖し、咀嚼するのは今のところ避けられないが、一冊の解剖学、一冊の料理法があって、それに従って処理すれば、構造も味もなおいくらかは明瞭で味わい深くなるだろう。人はしばしば神話のプロメテウスを革命者に喩え、人に火を盗み与え、天帝の虐待を受けても悔いないその博大堅忍は同じだと考える。しかし私が他国から火を盗んできた本意は、自分の肉を焼くためであり、もし味がいくらかよければ、咀嚼する側にもより多くの利益があるだろうし、私も体を無駄にしたことにはなるまいと考えた。出発点は全くの個人主義であり、しかも小市民的な贅沢さが混じり、さらにはゆっくりと解剖刀を取り出して、逆に解剖者の心臓に突き刺す「報復」でもある。梁氏は「彼らは報復したいのだ!」と言う。しかし「彼ら」だけではない。「封建の遺物」の中にもこのような者はいるのだ。しかし私もまた社会にいくらか役に立ちたいと願っており、見物人に見える結果は火と光なのだ。こうして、まず手をつけたのが「文芸政策」であった。各派の議論が含まれているからだ。
鄭伯奇氏は今では書店を開いてハウプトマンやグレゴリー夫人の戯曲を印刷しているが、当時はまだ革命文学者であり、編集していた「文芸生活」で、私がこの本を翻訳したのは没落に甘んじないためだが、残念なことに他人に先を越されたと嘲笑した。一冊の本を翻訳すれば浮かび上がれるのなら、革命文学者になるのはあまりに容易だ。私はそうは思わない。ある小新聞は私の「芸術論」の翻訳を「投降」だと言った。確かに投降は世に常にあることだ。しかしその頃、成仿吾元帥はとうに日本の温泉から這い出し、パリのホテルに入っていた。ここで一体誰に忠誠を誓うというのか。今年になるとまた言い方が変わり、「拓荒者」と「現代小説」で「方向転換」だと言った。日本のある雑誌で、この四文字が以前の新感覚派の片岡鉄兵に付けられたのを見たことがあり、良い言葉ではある。しかし実のところ、これらの紛々たる議論も、名目だけを見て、考えようともしない旧弊に過ぎない。無産文学に関する一冊の本を訳したことは方向を証明するに足りず、もし曲訳があれば、かえって害をなすに足る。私の訳書はまた、これらの速断な無産文学批評家にも捧げたい。なぜなら彼らには「爽快」を貪らず、辛苦してこれらの理論を研究する義務があるからだ。
しかし私は故意の曲訳をしていないと自信している。私の敬服していない批評家の急所を突いた時は笑い、私の急所を突かれた時は痛みを堪えるが、決して増減を加えようとはしない。これもまた終始「硬訳」を続ける一つの理由だ。もちろん、世の中にはより良い翻訳者がいて、曲がりも「硬さ」も「死」もない文章に訳すことができるだろう。その時、私の訳本は当然淘汰される。私はただ「無」から「より良い」までの空間を埋めたいだけだ。
第6節
しかしながら世間には紙がまだ多く、各文学結社の人数は少ない。志は大きくとも力は薄く、すべての紙を書き尽くすことができない。そこで結社内で敵を打ち負かし味方を助け、異類を掃討する役を担う批評家が、他の者が紙に書き始めるのを見ると、嘆息してしきりに首を振り足を踏み鳴らして苦しむのである。上海の『申報』に至っては、社会科学の翻訳者を「犬猫の輩」と呼んで、その憤慨たるやかくの如しである。「中国新興文学の地位は、つとに読者の知るところである」という蒋光Z先生は、かつて日本の東京に療養に赴き、蔵原惟人に会った。日本には劣悪な翻訳が多く、原文よりも読みにくいほどだと話すと……彼は笑い出してこう言った。「……それなら中国の翻訳界はもっと訳が分からないですよ。近頃中国では多くの書籍が日本語から訳されていますが、もし日本人がヨーロッパのある国の作品にいくらかの誤りや削除・改変を加えて、日本語から中国語に訳されたら、その作品は半ば面目を変えてしまうのではありませんか……」(『拓荒者』参照)これもまた翻訳、とりわけ重訳に対する深い不満の表明である。ただし梁先生はまだ書名と欠点を具体的に挙げているが、蒋先生は莞爾として一笑するだけで一切を掃討しており、その範囲の広さたるや遥かに及ぶものである。蔵原惟人はロシア語から直接多くの文芸理論や小説を訳した人で、私個人にとっても大いに裨益があった。中国にもこのような誠実なロシア語翻訳者が一人二人いて、次々と良書を訳してくれることを望む。自分で「馬鹿者」と一声罵るだけで革命文学家の責任を果たしたとするのではなく。
しかし今はどうか。これらのものを、梁実秋先生は訳さない。人を「犬猫の輩」と呼ぶ偉人も訳さない。ロシア語を学んだ蒋先生こそ最も適任のはずだが、惜しいことに療養の後は『一週間』を一冊出しただけで、日本ではとうに二種の訳本が出ている。中国ではかつてダーウィンを盛んに論じ、ニーチェを盛んに論じたが、欧州大戦のときにはさんざん彼らを罵倒した。しかしダーウィンの著作の翻訳は今に至るまでたった一種、ニーチェに至ってはわずか半分しかない。英語やドイツ語を学んだ学者や文豪たちは、暇がないか顧みるに足りないとして、そのままにしてしまった。だからしばらくの間は、おそらく人に笑われ罵られながらも、なお日本語からの重訳を続けるか、あるいは原文を一冊取って日本語訳と照合しながら直訳するほかあるまい。私はまだこのようにするつもりであり、そしてさらに多くの人がこのようにして、徹底した高談の中の空虚を少しでも埋めてくれることを望んでいる。なぜなら我々は蒋先生のように「笑い出す」ことはできないし、梁先生のように「待とう、待とう、待とう」としていてもいけないのだから。
六
私は冒頭で「硬いと自任しながら、実はその柔らかさは綿の如く、これこそ新月社の一つの特色である」と述べたが、ここで簡単に補足を加え、本篇の締めくくりとしたい。
『新月』は世に出るや、「厳正な態度」を主張したが、人を罵る者は罵り、人を嘲る者は嘲った。これは間違いではなく、まさに「その人の道を以て、その人の身に還す」ということで、一種の「報復」ではあるが、自分のためではない。第二巻第六・七号合本の広告にはまだこう書かれている。「我々はみな『寛容』の態度を保っている(ただし『不寛容』の態度だけは我々の容認しえないところである)、我々はみな穏健で理性に適った学説を好む」と。上の二句もまた正しく、「目には目を、歯には歯を」で、当初と依然として一貫している。しかしこの大道をそのまま進めば、必ず「暴力を以て暴力に抗する」に至るのであり、これは新月社の諸氏が好む「穏健」とは相容れなくなる。
今回、新月社の「言論の自由」は弾圧を受けた。旧来のやり方からすれば、弾圧者に対しても弾圧を加えねばならないはずだが、『新月』に現れた反応は、一篇の「言論の自由を弾圧する者に告ぐ」であった。まず相手方の党義を引き、次に外国の法律を引き、最後に東西の歴史的事例を引いて、およそ自由を弾圧する者はしばしば滅亡に至ることを示す——これは相手方のために考えてやった警告なのである。
それゆえ、新月社の「厳正な態度」、「目には目を」の法は、つまるところ、力量の相似た者か、あるいは力量のより小さい者にのみ専ら施されるものであって、もし力ある者に目を腫らされたなら、例外を設けて、ただ手を挙げて自分の顔を覆い、「自分の目に気をつけろ!」と一声叫ぶだけなのである。
第7節
【習慣と改革】
体質も精神もすでに硬直してしまった人民は、極めて小さな改革に対してさえ、ことごとく妨害を加える。表面上はあたかも自分にとって不便であることを恐れるかのようだが、実際には自分にとって不利になることを恐れているのである。しかし設ける口実は、往々にしてきわめて公正かつ堂々としたものに見える。
今年の陰暦使用禁止は、もとより些細な、大勢に関わりのないことであるが、商家はもちろん苦痛の声を上げた。それだけではない。上海の無職の遊民や会社の雇員までが、しきりに慨然と長嘆するのである。ある者はこれが農家の耕作に不便であると言い、ある者はこれが船舶の潮待ちに不便であると言う。彼らはこのことによって、久しく縁のなかった田舎の農夫や海上の舟子のことまで思い出すのである。これはまことに博愛の如く見える。
陰暦の十二月二十三日になると、爆竹があちこちでパチパチと鳴り始める。私はある店の店員に尋ねた。「今年はまだ旧暦の正月を祝えるが、来年は必ず新暦の正月を祝うのか。」その答えはこうだった。「来年はまた来年のこと、来年になってから考えますよ。」彼は来年に旧暦の正月を祝わないわけにはいかないとは信じていなかった。しかし日めくりには、確かに陰暦は削除され、節気だけが残されていた。ところが一方、新聞紙上には『百二十年陰陽合暦』の広告が現れたのである。よろしい、彼らは曾孫や玄孫の時代の陰暦まですでに準備万端整えたのだ、百二十年分も!
梁実秋先生たちは多数を甚だ嫌うけれども、多数の力は偉大であり、肝要である。改革を志す者がもし民衆の心を深く知り、利に導き、改善する方法を講じなければ、いかなる高論宏議であれ、ロマン主義であれ古典主義であれ、すべて彼らとは無関係で、ただ数人が書斎の中で互いに嘆賞し合い、自己満足を得るに止まる。仮にもし「善人政府」が出現して改革の命令を出したとしても、間もなく彼らに旧い道へ引き戻されてしまうだろう。
真の革命家には独自の見識がある。例えばウリヤノフ氏は、「風俗」と「習慣」をともに「文化」の範疇に含め、しかもこれらの改革は甚だ困難であると考えた。私が思うに、もしこれらを改革しなければ、その革命は無に等しく、砂上に塔を建てるが如く、たちまち倒壊するであろう。中国最初の排満革命が容易に賛同を得たのは、そのスローガンが「旧物の光復」、すなわち「復古」であり、保守的な人民の同意を得やすかったためである。しかしその後、歴史上の定例である開国当初の盛世は遂に訪れず、ただ一本の辮髪をいたずらに失っただけで、大いに不満を買うこととなった。
その後のより新しい改革は、ことごとく失敗した。一二の改革をすれば、十倍の反動が起こる。例えば前述の如く、一年の日めくりに陰暦の記載を禁じたところ、百二十年分の陰陽合暦が出現したのである。
この種の合暦を歓迎する人々は必ず多い。なぜなら風俗と習慣が擁護するところであり、したがって風俗と習慣の後援があるからである。他のことも同様で、もし民衆の大きな層の中に深く入り込み、彼らの風俗習慣を研究し、解剖し、善悪を分別し、存廃の基準を立て、存続するにも廃止するにも慎重に実施の方法を選ばなければ、いかなる改革も習慣という岩石に押し潰されるか、あるいはただ表面に漂うだけで終わるであろう。
今やもはや書斎の中で書物を捧げて、宗教、法律、文芸、美術……等々を高論する時ではない。たとえこれらを論じようとするにしても、まず習慣と風俗を知らねばならず、しかもこれらの暗黒面を直視する勇猛さと毅力がなければならない。なぜなら見定めなければ、改革のしようがないからである。ただ未来の光明を叫ぶだけでは、実のところ怠慢な自分自身と怠慢な聴衆を欺いているに過ぎないのだ。
第8節
【非革命的な急進革命論者】
もし、およそ大部隊の革命軍ならば、すべての戦士の意識が十分に正確かつ明瞭でなければ、これこそ真の革命軍であるとは言えず、さもなくば一笑に値しないと言うならば。この議論は、一見確かに正当で徹底しているように見えるが、しかしこれは実現不可能な難題であり、空虚な高論であり、革命を害する甘い毒薬である。
たとえば帝国主義の支配の下では、大衆を一人一人訓練して皆が「人類愛」を持ち、それからにこにこと拱手して「大同世界」に変わることなど決して許されないのと同様に、革命家たちが抗う勢力の下でも、言論や行動によって大多数の人々に一様に正確な意識を持たせることは断じて許されない。それゆえ各革命部隊の蜂起において、戦士たちの思いはおおむね現状への反抗というこの一点でほぼ一致しているに過ぎず、究極の目的はきわめて相異なるものである。ある者は社会のために、ある者は小集団のために、ある者は一人の愛人のために、ある者は自分のために、あるいはただ自殺のために。しかし革命軍はなお前進し得る。なぜなら進軍の途上、敵に対して、個人主義者の放つ弾丸も集団主義者の放つ弾丸も、等しく敵を斃し得るからであり、いかなる戦士が死傷しようとも軍中の戦闘力が減ずることは、両者において等しいからである。しかし当然ながら、究極の目的が異なるゆえに、行軍の途中で時として脱落する者があり、落伍する者があり、頽唐する者があり、裏切る者がある。しかし進行に支障がない限り、後になればなるほど、この隊列はますます純粋で精鋭な隊列となるのである。
私はかつて葉永蓁君の『小さな十年』に序文を書き、すでに社会のためにいくらかの力を尽くしたと考えたが、それはこの意味においてである。書中の主人公は、ともかくも前線に赴き、哨兵を務めた(たとえ銃の撃ち方さえ教えられなかったにしても)。膝を抱えて哀歌を詠じ、筆を握って憤然と嘆くだけの文豪たちに比べれば、実に遥かに切実である。もし今の戦士がすべて意識正確にして鋼鉄の如く堅固な戦士でなければならないとするならば、それはユートピアの空想であるのみならず、情理の外の苛求でもある。
しかし後になって『申報』で、さらに厳しく、さらに徹底した批評を見かけた。書中の主人公の従軍の動機が自己のためであるから、深い不満を加えたというのである。『申報』は最も平和を求め、最も革命を煽動しない新聞であるから、一見甚だ不釣り合いのようにも見えるが、ここで私が指摘したいのは、一見徹底した革命家に見えながら、実はきわめて非革命的であるか、あるいは革命に有害な個人主義的論客のことであり、その批評の魂と新聞の身体とがまさに相応しいことである。
その一は頽廃者である。自分に確たる理想も能力もないため、堕落して刹那の享楽を求める。一定の享楽はまた彼に倦怠を催させ、そこで常に新しい刺激を求めるが、その刺激はさらに強烈でなければ痛快を感じない。革命もまた頽廃者にとっての新しい刺激の一つなのであり、ちょうど美食家が肥甘を食べ飽きて味に倦み胃が弱り、唐辛子や辛子の類を食べて額にうっすらと汗を滲ませなければ飯を半碗も咽に通せないのと同様である。彼は革命文芸に対しても、徹底的で完全な革命文芸を求め、少しでも時代の欠陥の反映があれば眉をひそめ、一笑にも値しないと考える。事実から離れていても構わない、ただ痛快であればよい。フランスのボードレールは、誰もが知る頽廃の詩人であるが、彼は革命を歓迎した。しかし革命が彼の頽廃的生活を妨げようとしたとき、彼は革命を憎悪したのである。だから革命前夜の紙上の革命家、しかも極めて徹底し極めて激烈な革命家は、いざ革命に臨むと、かつての仮面を——無自覚の仮面を引き剥がすことができるのだ。この種の歴史的事例は、少しの釘に当たっただけで、少しの地位(あるいは少しの金)を得ただけで、東に東京へ逃げ、西にパリへ走る成仿吾のような「革命文学家」にも献じるべきものである。
その二は、私にはまだその名目を定めかねるものである。要するに、毫も定見なく、そのため世の中に一つとして正しいものはなく、自分には一つとして間違いはないと感じ、つまるところ現状が最もよいとする人々である。彼が批評家として物を言うとき、手当たり次第に何かを掴んで相反するものを駁撃する。互助説を駁するときは競争説を用い、競争説を駁するときは互助説を用いる。平和論に反対するときは階級闘争説を唱え、闘争に反対するときは人類愛を主張する。論敵が唯心論者であれば、彼の立場は唯物論であるが、唯物論者と論争するとなると、彼はまた唯心論者に変じるのである。要するに、英尺でロシア里を測り、また仏尺でメートルを測って、一つとして合致しないことを発見する人である。他の一切が何一つ合致しないがゆえに、永遠に自分こそ「中庸を允に執る」と感じ、永遠に自己満足を得るのである。これらの人々の批評の示すところに従えば、完全でなく欠陥があれば、それだけで駄目なのである。しかし今の人、今の事に、十分に完全で欠陥のないものなどどこにあろうか。万全を期するならば、一切動かないに如くはない。しかしこの一切動かないということも、やはり一つの大きな過ちなのである。つまり、人として生きる道はまことに煩わしく困難であり、革命家たることに至っては、もちろんなおさら言うまでもない。
『申報』の批評家は『小さな十年』に対して徹底的な革命の主人公を求めたが、社会科学の翻訳に対しては辛辣な冷笑を加えた。だからその魂は後の一流であり、いくぶん頽廃者の人生に対する退屈から、唐辛子を食べて少し胃を開こうとする気配を帯びているのである。
第9節
【張資平氏の「小説学」】
張資平氏は「最も進歩的」な「プロレタリア作家」だそうである。諸君がまだ「萌芽」し、まだ「開拓」しているときに、彼はすでに収穫しているのだ。これこそ進歩であり、一足飛びに駆け出し、後塵を拝するほかない。しかしもし追いかけて行ったならば、彼が「楽群書店」の中に駆け込むのが見えるであろう。
張資平氏は以前は三角恋愛小説の作家であり、しかも女の性欲は男よりもなお堪えがたく、女のほうから男を求めてくると描いた。卑しい者よ卑しい者よ、苦しみを受けるがよい、と。これはもちろんプロレタリア小説ではない。しかし作者が一たび方向を転じれば、一人道を得れば鶏犬もともに天に昇るというもの。まして神仙の遺した殻ならなおさらのこと、『張資平全集』はやはり読むべきなのだ。これが収穫というものだ、お分かりか。
さらに収穫がある。『申報』の報じるところによれば、今年の大夏の学生たちは、恭しく「青年の崇拝する張資平先生」を招いて「小説学」を教えていただくことになった。中国の旧例では、英語の先生は必ず外国史を教えるし、国語の先生は必ず倫理学を教えるものだ。まして小説の先生なのだから、当然腹の中は小説学で一杯であろう。さもなければ、どうして小説を書けようか。ホメロスに「叙事詩作法」がなかったとか、シェイクスピアに「戯曲学概論」がなかったとか、我々に断言できるだろうか。
ああ、聴講の門弟は幸いなるかな。これより三角関係の仕方、恋愛の仕方を知るであろう。女が欲しいって? 思いがけないことに、女の性的衝動は君よりもなお強く、向こうから走ってくるのだ。友よ、待っているがよい。しかし最も哀れなのは、上海にいないために、遥かに「崇拝」するしかなく、門下に列する術のない青年たちが、この偉大なる「小説学」を拝聴できないことである。いま私は『張資平全集』と「小説学」の精華を以下に抽出して、遥かにこれらの崇拝者に献ずることにする。いわゆる「梅を望んで渇きを止む」というやつである。
それはすなわち──
(二月二十二日。)
第10節
【左翼作家連盟に対する意見】
──三月二日、左翼作家連盟成立大会にて講演
多くのことについては、すでに他の方が詳しく述べられたので、私がもう一度繰り返す必要はない。私が思うに、現在、「左翼」作家はきわめて容易に「右翼」作家に転じ得るのである。なぜか。第一に、もし実際の社会闘争に接触せず、ただガラス窓の中に閉じこもって文章を書き、問題を研究するだけならば、いかに激烈であろうと、いかに「左」であろうと、容易にできることである。しかし一たび現実に触れれば、たちまち砕け散る。部屋に閉じこもっていれば、最も容易に徹底した主義を高論できるが、しかし最も容易に「右傾」もするのである。西洋でいう「サロン社会主義者」とは、まさにこれを指す。「サロン」とは客間のことで、客間に座って社会主義を談ずるのは高雅であり、瀟洒であるが、しかし実行しようとは毛頭思わないのだ。この種の社会主義者は、毫も頼りにならない。しかも現在、広義の社会主義思想を少しも帯びない作家や芸術家、すなわち労農大衆は奴隷であるべきだ、虐殺されるべきだ、搾取されるべきだという作家や芸術家は、ほとんどいなくなった。ムッソリーニを除いては。だがムッソリーニは文芸作品を書いたことがない。(もちろん、このような作家が全くいないとも言えない。例えば中国の新月派の諸文学家、及びムッソリーニが寵愛したというダヌンツィオなどがそうである。)
第二に、もし革命の実際の状況を明らかにしなければ、やはり容易に「右翼」に転じ得る。革命は苦痛であり、その中には必ず汚濁と血が混じっている。決して詩人が想像するほど面白くも完全でもない。革命はとりわけ現実の事であり、様々な卑しい、煩雑な仕事を必要とする。決して詩人が想像するほどロマンチックではない。革命にはもちろん破壊があるが、さらに建設を必要とする。破壊は痛快であるが、建設は煩わしい事である。だから革命に対してロマンティックな幻想を抱く者は、一たび革命に近づき、一たび革命が進行すると、容易に失望する。聞くところによれば、ロシアの詩人エセーニンも当初は十月革命を大いに歓迎し、その時こう叫んだという。「万歳、天上と地上の革命!」また「私はボリシェヴィキだ!」と言った。しかし革命後の実際の状況は、彼の想像したものとはまったく別のものであり、ついに失望し、頽廃した。エセーニンは後に自殺したが、聞くところではこの失望が自殺の原因の一つだという。またピリニャークやエレンブルグもまた同様の例である。我々の辛亥革命のときにも同様の例があった。あの時多くの文人、例えば「南社」に属する人々は、当初おおむね大いに革命的であったが、彼らは一種の幻想を抱いていた。満洲人を追い出しさえすれば、一切が「漢官の威儀」に復し、人々は大袖の衣を着て、高い冠に幅広い帯を締め、大股で街を歩くのだと。ところが清朝の皇帝を追い出した後、民国が成立してみると、事情はまったく異なっていた。だから彼らは失望し、後には新しい運動の反動者にさえなった者もいた。しかし、もし我々も革命の実際の状況を明らかにしなければ、彼らと同じになりやすいのである。
さらに、詩人や文学者が万人の上にあり、その仕事が一切の仕事よりも高貴だと考えるのも、正しくない観念である。例えば、かつてハイネは詩人が最も高貴であり、神は最も公平で、詩人は死後、神のもとに行き、神の周りに座り、神が砂糖菓子をご馳走してくれると考えた。今日では、神が砂糖菓子をご馳走するなどということは、もちろん誰も信じない。しかし詩人や文学者が、いま労働大衆のために革命し、将来革命が成功すれば、労働階級が必ず豊かに報い、特別に優遇し、特等車に座らせ、特等の食事を出してくれるとか、あるいは労働者がバター付きパンを捧げて献上し、「我らの詩人よ、どうぞお召し上がりください!」と言うだろうとか、これもまた正しくない。なぜなら実際にはそのようなことは決してなく、おそらくその時は今よりもなお苦しく、バター付きパンどころか黒パンさえないかもしれないのだ。ロシア革命後の一二年の状況がその例である。もしこの事情を明らかにしなければ、やはり容易に「右翼」に転じ得る。実際のところ、労働者大衆は、梁実秋の言う「見込みのある」者でない限り、知識階級を特別に重んじることは決してない。私が翻訳した『壊滅』の中のメチク(知識階級出身)のように、かえって常に鉱山労働者たちに嘲笑されるのだ。言うまでもなく、知識階級には知識階級のなすべき事があり、特別に軽視すべきではないが、しかし労働階級には特別に例外的に詩人や文学者を優遇する義務は決してないのである。
さて、今後我々が注意すべきいくつかの点を述べよう。
第一に、旧社会と旧勢力に対する闘争は、断固として、持久不断でなければならず、しかも実力を重視しなければならない。旧社会の根底はもとよりきわめて堅固であり、新しい運動はそれよりも大きな力がなければ、何も動かすことができない。しかも旧社会には新勢力を妥協させる巧みな方法があるが、旧社会自身は決して妥協しないのだ。中国でもすでに多くの新しい運動があったが、毎回新しい側が旧い側に敵わなかった。その原因はおおむね、新しい側に断固とした広大な目的がなく、要求がきわめて小さく、容易に満足してしまうことにある。たとえば白話文運動では、当初旧社会は死力を尽くして抵抗したが、間もなく白話文の存在を許容し、わずかな地位を与えた。新聞の片隅などに白話で書かれた文章が見られるようになったのである。これは旧社会から見れば、新しいものは大したことではなく、恐れるに足りないから存在させておこうということであり、新しい側もまた満足して、白話文はすでに存在権を得たと思い込んだのだ。また一二年来のプロレタリア文学運動もほぼ同様で、旧社会もプロレタリア文学を許容した。なぜならプロレタリア文学は恐るべきものではなく、かえって彼らもプロレタリア文学をやって装飾に用い、あたかも客間に多くの古董磁器を並べた上に、労働者が使う粗い碗を一つ置くのもなかなか風変わりでよいというようなものだからである。一方プロレタリア文学者のほうは、すでに文壇に小さな地位を得、原稿が売れるようになったので、もう闘争する必要はなく、批評家もまた凱旋の歌を唱える。「プロレタリア文学の勝利!」と。しかし個人の勝利を除いて、プロレタリア文学として見ればいったいどれだけ勝利したのか。しかもプロレタリア文学はプロレタリア階級の解放闘争の一翼であり、プロレタリア階級の社会的勢力の成長とともに成長するものである。プロレタリア階級の社会的地位がきわめて低い時にプロレタリア文学の文壇的地位がかえって高いとすれば、それはプロレタリア文学者がプロレタリア階級から離れて旧社会に戻ったことを証明するに過ぎない。
第二に、私は戦線を拡大すべきだと思う。一昨年と昨年、文学上の戦争はあったが、その範囲は実に狭く、一切の旧文学・旧思想は新派の人々の注意するところとならず、かえって片隅で新文学者と新文学者の闘争になってしまい、旧派の人々はのんびりと傍観できたのである。
第三に、我々は大群の新しい戦士を育成すべきである。なぜなら現在人手があまりにも少ないからだ。たとえば我々にはいくつかの雑誌があり、単行本も少なからず出版しているが、文章を書くのはいつも同じ数人であり、だから内容が薄くならざるを得ない。一人が専門を持たず、あれこれ少しずつ手を出し、翻訳もし、小説も書き、批評もし、さらに詩も書く。これでどうしてうまくいこうか。これはすべて人が少なすぎるためで、もし人が多ければ、翻訳する者は翻訳に専念し、創作する者は創作に専念し、批評する者は批評に専念できる。敵に応戦するにも軍勢が厚く、容易に克服できよう。この点に関して、ついでに一つのことを述べよう。一昨年、創造社と太陽社が私を攻撃したとき、その力量は実に薄弱で、後には私でさえ少々退屈になり、反撃する気も失せた。なぜなら後になって敵軍が「空城の計」を演じているのが分かったからである。あの時、私の敵軍は吹聴に専念するばかりで、兵を募り将を鍛えることをしなかった。私を攻撃する文章はもちろん多かったが、一目見れば皆偽名だと分かり、罵り合っても結局同じ数句の繰り返しだった。私はその時、マルクス主義批評の銃法を操れる者が現れて私を狙撃するのを待っていたが、ついに現れなかった。私のほうはかねてから新しい青年戦士の養成に注意を払い、いくつかの文学団体を主宰したが、効果もまたきわめて小さかった。しかし今後は必ずこの点に注意しなければならない。
我々は急いで大群の新しい戦士を育成しなければならないが、同時に、文学戦線上の人間はさらに「粘り強く」なければならない。いわゆる粘り強さとは、清朝の八股文における「敲門磚」(門を叩く煉瓦)のようなやり方であってはならないということだ。清朝の八股文はもともと「進学」して官になるための道具であり、「起承転合」ができさえすれば、それによって「秀才」や「挙人」になれれば、八股文は捨てることができ、一生のうち二度と使う必要がなかった。だから「敲門磚」と呼ばれた。煉瓦で門を叩き、門が開けば煉瓦は投げ捨てればよく、身に帯びている必要はないのだ。この種のやり方は今日に至ってもなお多くの人が用いており、しばしば詩集や小説集を一二冊出した後、永久に姿を消す人を見かける。どこへ行ったのか。一冊か二冊の本を出し、少しばかりの名声を得て、教授か何かの地位を得、功成り名遂げて、もう詩や小説を書く必要がなくなったので、永久に姿を消したのだ。だから中国では文学にせよ科学にせよ何もないのである。しかし我々には何かがなければならない。なぜなら我々にとって有用だからだ。(ルナチャルスキーはロシアの農民美術さえ保存すべきだと主張した。なぜなら作って外国人に売れば経済的に助けになるからだ。もし我々が文化的に何か外に出して人に示せるものがあれば、帝国主義の圧迫からの解放の政治運動にさえ助けになると私は思う。)しかし文化的に成果を上げるには、粘り強くなければならないのだ。
最後に、私は統一戦線には共通の目的があることが必要条件であると思う。かつてこういう言葉を聞いたことがある。「反動派はすでに統一戦線を持っているのに、我々はまだ団結していない!」と。実際には彼らにも意識的な統一戦線があったわけではなく、ただ彼らの目的が同じであるために行動が一致し、我々から見ると統一戦線のように見えただけである。そして我々の戦線が統一できないのは、まさに我々の目的が一致できないことを証明しているのだ。小集団のためだけであったり、あるいは実は個人のためだけであったりする。もし目的がすべて労農大衆にあるならば、当然戦線もまた統一されるのである。
第11節
【我々は批評家を求む】
大体の状況を見ると(我々のところでは確実な統計を得られないのだが)、昨年以来、「革命的」の看板を掲げた創作小説の読者はすでに減少し、出版界の趨勢は社会科学へと転じつつある。これは好ましい現象と言わざるを得ない。当初、若い読者は広告的批評の呪文に迷い、「革命的」創作を読めば活路が開け、自分も社会も救われると思い、手当たり次第に取っては大口で呑み込んだ。ところが多くのものは滋養品ではなく、新しい袋に入った酸っぱい酒であり、赤い紙に包まれた腐った肉であった。その結果、胸の辺りがむずむずして、嘔吐しそうになるのである。
この苦い教訓を得た後、転じて根本的で切実な社会科学に救いを求めるのは、当然ながら正当な前進である。
しかしながら、大部分は市場の需要のために、社会科学の翻訳・著作がまたしても蜂起するかの如く溢れ出し、比較的見るべきものと甚だしく取るに足りないものとが書店の棚に雑然と並び、正確な知識を求め始めた読者たちはすでに当惑している。しかし新しい批評家は口を開かず、批評家もどきの輩が機に乗じて一筆に抹殺する。「犬猫の輩」と。
ここに至って、我々が必要とするのは、やはり数人の堅実で明晰な、真に社会科学とその文芸理論を理解した批評家に他ならないのである。
批評家の登場は中国ではすでに久しい。各文学団体の中には、おおむね一揃いの文学的人物がいる。少なくとも一人の詩人、一人の小説家、そしてもう一人、自団体の光栄と功績を宣伝する任に当たる批評家である。これらの団体はいずれも改革を志し、旧い堡塁に攻勢をかけると称するが、まだ途中で、旧い堡塁の下で互いにつかみ合いの喧嘩を始め、皆が疲れ果ててからようやく手を離す。「つかみ合い」に過ぎないから大怪我はなく、ただ息を切らしているだけだ。息を切らしながら、各自勝利したと思い込み、凱歌を唱える。旧い堡塁の上にはそもそも守兵すら要らず、ただ手を袖に入れて俯いて、これら新しい敵が自ら演じる喜劇を見物していれば足りるのだ。彼は無言であるが、彼は勝利したのである。
この二年間、極めて秀でた創作はなかったとはいえ、しかし私の見たところ、刊行されたものでは、李守章の『跋渉する人々』、台静農の『地の子』、葉永蓁の『小さな十年』の前半部、柔石の『二月』及び『旧時代の死』、魏金枝の『七通の手紙の自伝』、劉一夢の『失業以後』などは、なお優秀な作である。惜しむらくは、名高い批評家の梁実秋先生がまだ陳西瀅と呼応し合っていること(これはここでは措いてよい)。成仿吾先生は創造社の過去の栄光を懐かしんだ後、身を変じて「石厚生」となり、続いて流星のように消え去った。銭杏邨先生は近頃また『拓荒者』の上で、蔵原惟人を頼りにしながら、一節また一節と茅盾ともつれ合っている。各文学団体以外の作品は、このように多忙であったり閑散であったりする戦場で、ことごとく「片付けられ」るか黙殺されてしまった。
今回の読書界の社会科学への転向は、よい正当な転機であり、他の面に有益であるのみならず、文芸に対しても正確な前進の道へと促すことができる。しかし産出の乱雑さと傍観者の冷笑の中では、きわめて容易に凋落しかねない。だから現在まず必要なのは、やはり——
数人の堅実で明晰な、真に社会科学とその文芸理論を理解した批評家なのである。
第12節
【好い政府主義】
梁実秋先生は今回『新月』の『零星』の中で、やはり「現状への不満」に賛成したが、しかし彼は「今日知識のある人間(とりわけつとに『先駆者』、『権威』、『先進』の称号を持つ人間)の責任は、冷笑と皮肉を込めて少々の『現状に不満』の雑感を発表するだけではなく、さらに一歩進んで誠心誠意『現状』を積極的に治療する処方を求めるべきである」と考えた。
なぜか。病があれば薬を出さねばならないからで、「三民主義は一つの薬であり、——梁先生は言う——共産主義もまた一つの薬であり、国家主義もまた一つの薬であり、無政府主義もまた一つの薬であり、好い政府主義もまた一つの薬である」。今あなたが「すべての処方を貶してはひと文の価値もないとし、皮肉を言い尽くして余地を残さない……これはいったいどういう心理なのか」と。
この種の心理は、確かに責められるべきものである。しかし実際には、私はまだこのような雑感を見たことがない。たとえば、同一の著者が三民主義者は英米の自由に背いていると考え、共産主義者はロシアのルーブルを受け取っているとし、国家主義は狭すぎ、無政府主義はまた空疎すぎる……というようなものを。だから梁先生の『零星』は、彼が見た雑感の罪状を誇大にしたのである。
実は、ある主義の論拠の欠点や、それに起因する弊害を指摘することは、たとえその主義の信奉者でなくとも、もとより差し支えないことである。搾取に苦しめば叫び声を上げるのは当然で、もっと良い主義を思いつく前から歯を食いしばっていなければならないという道理はない。しかし当然ながら、もっと良い主張があれば、なおさら見栄えがするであろう。
ただし、梁先生が謙遜して末尾に置いた「好い政府主義」は、さらに謙遜して例外に置くべきだと私は思う。なぜなら三民主義から無政府主義に至るまで、その性質が寒であれ温であれ、処方に書かれているのはともかくも薬名であり、石膏とか肉桂とかの類である——服用後の利害はまた別の問題だ。しかし「好い政府主義」というこの「一つの薬」だけは、処方に書かれているのは薬名ではなく、「良い薬材」の三大文字と、それにくどくどとした名医ぶった「主張」である。なるほど、病を治すのに悪い薬材を使うべきだとは誰にも言えない。しかしこの処方には、医者でなくても首を振るし、誰でも「貶してひと文の価値もない」とするであろう(「褒貶」の「褒」は「称賛」の意であり、ここに用いるのは「不通」であるのみならず、「褒」の字を知らないことの証明でもある。しかしこれは梁先生の原文であるから、ひとまず旧のままにしておく)。
もしこの医者が恥じ怒り、「お前が私の良薬材主義を嘲笑するなら、お前の処方を出してみろ!」と叱ったならば、それこそまたいっそう笑うべき「現状」の一つであって、何の主義に基づかなくとも、雑感が生まれてくるだろう。雑感が尽きることなく生まれるのは、まさにこのような「現状」があまりにも多いからに他ならない。
(一九三〇年四月十七日。)
第13節
【「飼い主を失った」「資本家の痩せた走狗」】
梁実秋先生は『拓荒者』で「資本家の走狗」と呼ばれたために、自ら『私は怒らない』と題する文章を書いた。まず『拓荒者』第二期六七二頁の定義に拠り、「自分もどうやらプロレタリア階級の一人のようだ」と述べた後、さらに「走狗」の定義を下して、「およそ走狗たる者は皆、主人の歓心を買い、それによって少しばかりの恩恵を得ようとするものだ」とし、そこからまた疑問を呈して曰く——
「『拓荒者』は私を資本家の走狗と言うが、どの資本家のか、それともすべての資本家のか。私はまだ自分の主人が誰か知らない。もし知っていれば、必ず雑誌を何冊か持って主人の前に行って功績を示し、あるいはまた金ポンドかルーブルかのご褒美にあずかれるかもしれないのだが。……私はただ絶え間なく労働すれば金を稼いで生計を維持できることだけを知っている。どうすれば資本家の帳場に行って金ポンドを受け取れるのか、どうすれば××党に行ってルーブルを受け取れるのか、この手管はどうして私に分かろうか。……」
これこそ「資本家の走狗」の活写真である。およそ走狗たる者は、たとえ一人の資本家に飼養されていようとも、実はすべての資本家に属するものであるから、すべての金持ちに出会えば馴順であり、すべての貧乏人に出会えば狂吠する。誰が主人か分からないというのは、まさにすべての金持ちに馴順である理由であり、すべての資本家に属している証拠でもある。たとえ誰にも飼われず、飢えて痩せ細り、野良犬になったとしても、やはりすべての金持ちには馴順で、すべての貧乏人には狂吠するのであり、ただこの時はいよいよ誰が主人か分からなくなるだけのことである。
梁先生は自ら己がいかに辛苦しているかを述べ、あたかも「プロレタリア階級」(すなわち梁先生がかつて言うところの「劣敗者」)のようであり、しかも「主人が誰か分からない」というのであるから、後の一類に属するのである。正確を期して、さらに数文字を加え、「飼い主を失った」「資本家の走狗」と称すべきであろう。
しかしながらこの呼び名にはまだいくらかの欠点がある。梁先生はさすがに知識ある教授であるから、普通のものとは異なる。彼はついに「文学には階級性があるか」を論じなくなったが、『魯迅先生に答う』の一篇では、巧みに電柱に「武装してソ連を守れ」と書いてあるとか、新聞社のガラスを割ったとかいう文句を挿入し、先に引いた一節ではまた「××党に行ってルーブルを受け取る」の文字を書き出した。あの故意に隠した二つの×は、たちどころに「共産」の二字だと悟らせるもので、およそ「文学に階級性あり」と主張して梁先生の機嫌を損ねた者はみな「ソ連擁護」か「ルーブル受領」の仕業をしているのだと指し示しているのである。段祺瑞の衛兵が学生を射殺したとき、『晨報』は学生が数ルーブルのために命を落としたと報じ、自由大同盟に私の名があると『革命日報』の通信は「金光燦然たるルーブルに買収された」と書いた——すべて同じ手口である。梁先生にとっては、主人のために匪類(「学匪」)を嗅ぎ出すのも一種の「批評」であろうが、しかしこの職業は「刽子手」(首斬り役人)に比べてもいっそう下賎である。
私はまだ覚えている。「国共合作」の時代には、通信や演説でソ連を称賛するのはまことに流行であったが、今はもう違う。新聞の報じるところでは、電柱に文字を書くことや「××党」を捕吏が実に精力的に取り締まっている。ならば、自分の論敵を「ソ連擁護」や「××党」と指し示すのも、当然時流に合った流行であり、あるいはまた主人の「少しばかりの恩恵」にあずかれるかもしれない。しかし梁先生が「恩恵」や「金ポンド」を得ようとしているなどと言えば、それは冤罪であり、決してそのようなことはない。ただこれを借りて一臂の力を添え、その「文芸批評」の窮乏を救おうとしているに過ぎない。だから「文芸批評」の側面から見れば、「走狗」の上にさらに形容の一字を加えるべきである。すなわち「乏しい」(痩せた)と。
(一九三〇年四月十九日。)
第14節
【「進化と退化」小引】
これは訳者がこの十年間に訳したおよそ百篇に近い文章の中から、あまり専門的でない、一般の人にも読める作品を選び出して一書に集め、より広く流布することを望んだものである。一つには最近の進化学説の状況を知らしめ、二つには中国人の将来の運命を示さんとするものである。
進化学説が中国に輸入されたのはかなり早く、遡れば厳復がハクスリーの『天演論』を訳述したときに始まる。しかし結局は一つの空漠たる名辞を残したに過ぎず、欧州大戦の時代にはまた大いに論客に誤解され、今に至っては名目さえも奄々として息絶えんとしている。その間、学説は幾度か変遷し、ド・フリースの突然変異説は興ってまた衰え、ラマルクの環境説は廃れてまた復興した。我々は自然の中に生息しながら、このような自然の大法の研究には、おおむね意を注いだことがなかった。本書の冒頭と末尾のそれぞれ二篇は、新ラマルク主義の立場から論じたもので、その大要を窺い知ることができ、いささか欠を補うものである。
しかし最も肝要なのは末尾の二篇である。砂漠が次第に南に移動しつつあること、栄養がすでに維持し難くなっていること、これらはいずれも中国人にとって極めて重要で、極めて切身の問題であり、もし解決しなければ、得られるのは滅亡という結末であろう。中国古代史の探索が困難な原因を解き明かし、中国人は最も耐苦に堪えるという謬説を打破できるのは、なお副次的な収穫に過ぎない。林木を伐り尽くし、水沢を埋め涸らしたなら、将来の一滴の水は血液と等価になるであろう。もしこのことが現在と将来の青年に記憶されるならば、この書の得る報酬はまことに大なるものである。
しかしながら自然科学の範囲内では、論じるのはここまでであり、与えられる解答も治水と造林に止まる。これは一見きわめて簡単で容易なことのようだが、実はそうではない。私はスメドレー女史の『中国農村生活の断片』の中の二つの段落を証拠として引くことができる——
「彼女(下女)は言った、明日南苑に行って獄吏に掛け合い、親族を釈放してもらうのだと。この人は、六十人の他の村人——男も女もいる——とともに、三ヶ月前に逮捕され投獄された。他の生活手段がすべてなくなった後に、彼らが木の枝を切ったり樹皮を剥いだりしたからである。彼らがこのようにしたのは、騒擾を起こすためではなく、木材を売って食糧を買うためであった。」……
「南苑の人民は、収穫もなく、食糧もなく、仕事もない。たとえ二畝の田があったとて何の役に立とうか。……少しでも混乱があれば、たちまち千単位の人々が被災民の列に投げ込まれる。……南苑はあの時(軍閥混戦の時)木以外には何もなかったが、村民が木に手をかけると、警察が彼らを捕らえて投獄した。」(『萌芽月刊』第五期一七七頁。)
だからこのような樹木保護法は、結果として樹皮を剥ぎ、草の根を掘る人民を増やし、かえって砂漠の出現を促進するのである。しかし本書は自然科学を範囲としているので、そこまでは顧慮していない。この自然科学が論じる事実に続いて、さらに一歩進んでそれを解決しようとするものとして、社会科学があるのである。
(一九三〇年五月五日)
第15節
【古文を書くことと善人であることの秘訣】
──夜記 その五
昨年来この一年半の間、およそ我々に対するいわゆる批評文の中で、最も息苦しく滑稽だと感じたのは、常燕生先生が『長夜』という月刊誌の上で、公正な顔つきを装い、私の作品には少なくとも十年の生命があると述べた言葉である。思い出すに数年前、『狂飆』が廃刊になったとき、同時にこの常燕生先生もまた文章を発表し、大意は『狂飆』が魯迅を攻撃したところ、今や書店が出版を嫌がった、それは魯迅が書店の主人を動かして迫害を加えたのではないかということ、そして続いて大いに北洋軍閥の度量の広大さを賞賛するものだった。私にはまだ記憶があるので、今回の公正な顔つきの上にも、かの鍛錬された文章がうっすらと刺青のように見え、一方では陳源教授の批評法を思い出す。まずいくつかの美点を挙げて公平さを示し、しかしそれに続くのは多くの大罪状——公平な衡量から得られた大罪状なのだ。功を以て罪を相殺しようとしても、つまるところ、結局は「学匪」であり、当然首を斬って「正人君子」の旗の下に晒すべしとなる。だから私の経験では、毀謗は構わないかもしれないが、褒誉こそ恐ろしく、時にはまことに「汲汲として殆うし」なのである。まして常燕生先生は全身に五色旗の気配を漂わせているのだから、たとえ真心から私の作品の不滅を認めたとしても、私にはあたかも宣統皇帝が突然龍心大悦し、私に死後「文忠」の諡号を御許可くださったかの如くである。胸の息苦しさの中の滑稽さの余りに、やはり恐懼謹んで特に帽子を脱ぎお辞儀をし、不敏を謝するしかないのである。
しかし同じ『長夜』の別の号に、劉大杰先生の文章が一篇ある——これらの文章は『中国の文芸論戦』には収録されていないようだが——私は感謝しつつ読み終えた。これはおそらく、著者の言う通り、私とは面識がなく、個人的な恩怨が介在しないからであろう。しかしなお一層有益に感じたのは、著者が私のために策を設け、このように四面から包囲殲滅される中では、刀筆を置いて暫く渡洋するがよかろうと勧め、さらに忠告して、一人の生活史に何枚かの白紙を残しても、別段大したことではないと言ったことである。一個人の生活史に白紙が数枚あろうと、あるいは全冊が白紙であろうと、あるいはまた全冊が黒く塗りつぶされようと、地球がそのために爆裂することは決してないと、私はとうに知っていた。今回思いがけず得た益は、三十年来、何かを悟ったかのようでありながらいまだ簡明な要領を言い出せなかった古文の書き方と善人のなり方の方法について、にわかにその手綱を掴んだことである。
その口訣に曰く——古文を書き、善人であろうとするならば、一通り書いた後も、依然として一枚の白紙に等しくなければならぬ。
かつて我々に作文を教えてくれた先生は、『馬氏文通』やら『文章作法』やらの類を伝授するのではなく、一日中ただ読み、書き、読み、書きであった。書けなければまた読み、また書く。しかし悪いところがどこにあるか、作文はどうすべきかとは決して言わなかった。一本の暗い路地を、自分で手探りするに任せ、通れるかどうかは天命に聴くのだった。しかし偶然のうちに——まことに「偶然のうちに」しかも「どういうわけか」——答案の文章が添削される箇所が少なくなり、残された部分、しかも密な丸印のつく箇所が多くなっていくのだった。そこで学生は心から喜び、この調子で——まことに自分でも訳が分からないが、ただ「この調子で」——書き続ける。年月を経た後、先生はもうあなたの文章を削ったり改めたりせず、篇末に「書あり筆あり、蔓ならず枝ならず」の類を批すだけとなる。この時をもって「通」と見なしてよい。——もちろん、高等批評家の梁実秋先生に言わせれば不通であろうが、私は世俗一般について言っているのであるから、ひとまず俗に従う。
この種の文章は、趣意が当然明瞭でなければならないが、どのような意見であるかは二の次である。たとえば『工其の事を善くせんと欲せば、必ず先ず其の器を利くせよ論』を書くとしよう。正面から「器利からざれば則ち工事善からず」と敷衍してもよいし、反面から、敢えて「工は技を以て先と為す、技純ならざれば、器利くとも事また善からず」と言っても差し支えない。皇帝に関することでさえ、「天皇聖明にして、臣の罪は誅に当たる」と言ってもよいし、皇帝が悪ければ一刀のもとに斬り捨てると言っても差し支えないのだ。なぜなら我々の孟夫子が先に言っている。「独夫紂を誅せりと聞く、未だ君を弑せりとは聞かず」と。今我ら聖人の徒もまさにこの意味なのである。しかしともかく、最初から最後まで一層一層と説き下して、明々白々にしなければならない。天皇聖明なのか、一刀のもとに斬るのか。あるいはいずれにも賛成しなければ、最後に声明してもよい。「淫虐の威を窮むると雖も、究めて君臣の分あり、君子已甚しきを為さず、窃かに以為へらく四裔に放つべきのみ」と。このようなやり方であれば、おおよそ先生も然らずとは思うまい。なぜなら「中庸」もまた我が古聖賢の教えだからだ。
しかしながら、以上は清朝末年の話であって、もし清朝初年であったなら、誰かが密告でもすれば、「族滅」されかねない。「四裔に放て」の主張さえ通らない。この時は孟子だの孔子だのと話し合ってはくれないのだ。今、革命がようやく成功したばかりで、状況はおおよそ清朝の開国の初めと似たようなものであろう。(未完)
これは『夜記』その五の半分に満たない部分である。『夜記』なるものは、私が一九二七年から折に触れての感想を灯下に記し、一集に留めようとしたもので、その年に二篇を発表した。上海に来てからは、屠戮の凶暴さに感じるところあって、さらに一篇半を書き、『虐殺』と題した。まず日本の幕府がキリスト教徒を磔にしたこと、ロシアの皇帝が革命党を酷遇したこと等を述べた。しかし間もなく人道主義を大いに罵る風潮に出会い、私もこれを借りて怠けてしまった。もう書き続けず、今では原稿も見当たらない。
一昨年になって、柔石がある書店で雑誌の編集をすることになり、私に気楽で読んで頭が痛くならないような文章を書いてくれと頼みに来た。その夜、私はまた『夜記』を書こうと思い立ち、この題目を定めた。大意は、中国の作文と処世は、いずれも古よりそうであったが、原文をそのまま丸写しするのではなく、あちこちから引っ張ってきて継ぎ合わせ、縫い目が見えないようにする、これこそ上上の大吉とされるのだ、と言いたかったのである。だから一大通を書いてもやはり書かなかったに等しく、批評家はそれを好い文章あるいは好い人と言う。社会の一切において何一つ進歩しない病根がここにあるのだ。その夜は書き終えず、眠りについた。翌日柔石が訪ねてきたので、書いたものを見せると、彼は少し眉をひそめ、くどいところがあり、また誌面を取りすぎることを懸念した。そこで私は彼に別の短い翻訳を約束し、これは措くことにした。
今、柔石の遇害から一年余りが過ぎ、偶然乱雑な紙の中からこの原稿を見つけ出し、まことに悲痛に堪えない。全文を補って完成させようとしたが、ついにできなかった。筆を執ろうとすると、たちまち別のことを考えてしまう。いわゆる「人琴俱に亡ぶ」とは、おおよそこのようなことであろう。いまはただこの半篇をここに附録として、柔石の記念としたい。
一九三二年四月二十六日の夜、記す。