Lu Xun Complete Works/ja/Xingfu jiating

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幸福な家庭 (幸福的家庭)

魯��� (ルーシュン, 1881-1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

【ノラが去った後はどうなるか

――一九二三年十二月二十六日、北京女子高等師範学校

文芸会における講演】

今日私が話そうとするのは「ノラが去った後はどうなるか?」ということだ。

イプセンは十九世紀後半のノルウェーの文人である。その著作は、数十首の詩を除けば、すべて戯曲だ。これらの戯曲の中で、ある時期のものはおおむね社会問題を含んでおり、世間では「社会劇」とも呼ばれた。その中の一篇が『ノラ』である。

『ノラ』はもとの名を Ein Puppenheim といい、中国では『傀儡家庭』と訳された。だが Puppe は糸で操る傀儡だけでなく、子供が抱いて遊ぶ人形でもある。敷衍すれば、他人の指図のままに動く人間もそうだ。ノラは初め、いわゆる幸福な家庭の中で満足して暮らしていたが、ついに覚醒した。自分は夫の傀儡であり、子供たちはまた自分の傀儡なのだと。そこで彼女は去った。聞こえるのは扉の閉まる音、続いて幕が下りる。これはみな知っていることだろうから、細かく述べる必要はない。

ノラはどうすれば去らずに済んだのか? あるいはイプセン自身が解答を持っていたとすれば、それは(Die Frau vom Meer)『海の女』であり、中国では『海上夫人』と訳した者もいる。この女は既に結婚していたが、かつての恋人が海の向こう岸におり、ある日突然やって来て、一緒に行こうと呼びかけた。彼女は夫に告げ、その外来の男に会いたいと言った。最後に、夫はこう言った。「今、お前を完全に自由にする。(行くも行かぬも)お前が自分で選べ、しかも自分で責任を負え」。すると万事が変わり、彼女は行かなかった。こう見ると、ノラもこのような自由を得れば、あるいは安住できたかもしれない。

だがノラは結局去った。去った後はどうなるか? イプセンには解答がなかった。しかも彼はすでに死んでいる。死んでいなくとも、解答の責任を負うつもりはなかったろう。なぜならイプセンは詩を作っているのであって、社会に問題を提起してその解答を代行しているのではないからだ。黄鶯と同じで、自分が歌いたいから歌うのであって、人々に聞いて面白がらせ、有益にしようとして歌うのではない。イプセンは甚だ世間知らずで、伝えるところでは、多くの婦人たちが一同に彼をもてなす宴席で、代表者が立って『傀儡家庭』を書いたことに感謝し、女性の自覚や解放について人心に新たな啓示を与えたと述べた時、彼はこう答えた。「私はあの作品をそういうつもりで書いたのではない。ただ詩を作っただけだ」

ノラが去った後はどうなるか?――他の人も意見を発表している。あるイギリス人が戯曲を書いて、新式の女が家庭を出たが、もはや行く道がなく、ついに堕落して娼家に入ったとした。もう一人の中国人――何と呼ぼうか? 上海の文学者とでもしておこう――は、自分が見た『ノラ』は現行の訳本と違い、ノラは結局帰ってきたと言った。このような本は残念ながら他に見た者がいない。イプセンが彼に直接送ったのでもない限り。だが道理から推して考えれば、ノラには実のところ二つの道しかない。堕落するか、戻るかだ。もし一羽の小鳥であれば、籠の中はもちろん不自由だが、籠の扉を出れば外には鷹がおり、猫がおり、その他のものがいる。すでに閉じ込められて翼が麻痺し、飛ぶことを忘れたならば、まことに行くべき道がない。もう一つ、餓死という道があるが、餓死はもはや生活を離れたものであり、問題とも言えないから、やはり道ではない。

人生で最も苦痛なのは、夢から覚めて行くべき道がないことだ。夢を見ている人は幸福だ。もし行くべき道が見えないならば、最も肝要なのは彼を起こさないことだ。ごらん、唐の詩人李賀は一生困窮しなかったか? だが臨終に母にこう言った。「お母さん、上帝が白玉楼を造り、私に落成の文章を書けと呼んでいるのです」。これは明らかに嘘であり、夢ではないか? だが小さい者と老いた者、死んだ者と生きている者、死んだ者は喜んで死に、生きている者は安心して生きる。嘘をつくことと夢を見ること、こういう時にこそ偉大に見える。だから私は思う、もし道が見つからないならば、我々が求めるべきはまさに夢だ。

だが、決して将来の夢を見てはならない。アルツィバーシェフはかつて自らの小説を借りて、将来の黄金世界を夢想する理想家に問いただした。その世界を造るために、まず多くの人々を呼び起こして苦しめるのだから。彼は言った。「お前たちはこの人々の子孫に黄金世界の出現を予約した。だがこの人々自身には何を与えるのだ?」。与えるものはある。将来の希望だ。だが代価もまた大きすぎる。この希望のために、人の感覚を鋭敏にして自らの苦痛をより深く感じさせ、魂を呼び覚まして自らの腐った屍を目の当たりにさせねばならない。ただ嘘をつくことと夢を見ること、こういう時にこそ偉大に見える。だから私は思う、もし道が見つからないならば、我々が求めるべきは夢だ。だが将来の夢ではなく、ただ目前の夢を。

しかしノラはすでに覚醒したからには、夢境に戻ることは甚だ難しく、やむなく去らねばならなかった。だが去った後、時には堕落や帰還を免れぬこともある。さもなくば、こう問わねばならない。覚醒した心のほかに、彼女は何を持って行ったのか? もし諸君と同じような紫紅のビロードの紐のマフラーが一本あるだけならば、幅が二尺であろうと三尺であろうと、まったく役に立たない。彼女にはもっと豊かなものが要る。鞄の中に用意が要る。端的に言えば、金が要るのだ。

夢はよいものだ。さもなくば、金が肝要だ。

金という字は聞こえが悪く、あるいは高尚な君子方に嗤笑されるかもしれないが、人々の議論は昨日と今日だけでなく、飯前と飯後でもしばしば違いがあるように私には思える。飯を買うには金が要ると認めながら、金の話をするのは卑しいと言う者がいたら、その胃を一押ししてみるがよい。中にはおそらくまだ魚肉が消化しきれずに残っているだろう。一日飢えさせた後で、改めて議論を聞こうではないか。

だからノラのためを思えば、金――上品に言えば経済――が最も肝要なのだ。自由はもちろん金で買えるものではないが、金のために売り渡すことはできる。人類には一つの大きな欠点がある。常に飢えるということだ。この欠点を補うため、傀儡にならぬ用意のため、現下の社会にあっては経済権が最も重要に見える。第一に、家庭において男女平等の分配をまず獲得すべきであり、第二に、社会において男女対等の勢力を獲得すべきだ。惜しむらくは私にはこの権限をいかに取得するか分からず、ただやはり戦わねばならないことだけは知っている。あるいは参政権の要求よりもさらに激しい戦いが必要かもしれない。

経済権の要求はもちろん平凡な事だが、高尚な参政権や博大な女子解放の類の要求よりも煩難かもしれない。天下には小さな為すべき事が大きな為すべき事より煩難なことはいくらでもある。たとえば今のような冬に、我々にはこの一着の綿入れしかないが、凍え死にかけている貧しい人を助けねばならぬとする。さもなくば菩提樹の下に座って全人類を普く救う方法を瞑想せねばならぬ。全人類を救うことと一人を救うこと、大小の隔たりは実に甚大だが、もし選べと言われたら、私はたちまち菩提樹の下に座りに行くだろう。唯一の綿入れを脱いで自分が凍え死ぬことを免れるために。だから家庭の中で参政権を求めると言えば、さほど大きな反対には遭うまいが、経済の均等分配と言い出せば、たちまち目の前に敵が現れかねず、当然激しい戦いが必要となる。

戦いはよいことではないし、人人に戦士たれと求めることもできない。であれば、平和な方法もまた貴い。すなわち将来、親権を利用して自分の子女を解放することだ。中国の親権は無上のものであるから、その時には財産を子女に平等に分配し、彼らが平和に衝突なく等しい経済権を得るようにする。その後は読書に行くもよし、金を殖やすもよし、自分で享楽するもよし、社会のために働くもよし、使い果たすもよし、勝手にしてくれ、自分で責任を負え。これもなお遠い夢ではあるが、黄金世界の夢よりはだいぶ近い。だが第一に記憶力が必要だ。記憶力が悪いのは、自分には有益だが子孫には有害だ。人は忘れることができるがゆえに、自ら受けた苦痛から次第に脱することができ、また忘れることができるがゆえに、しばしば前人と同じ過ちを繰り返す。虐待された嫁が姑になると、やはり嫁を虐待する。学生を嫌う官吏は、かつて官吏を痛罵した学生であることが多い。今子女を圧迫している者が、十年前の家庭革命家であることもある。これはおそらく年齢と地位にも関係があろうが、記憶力の悪さもまた大きな原因だ。救済法は、各自が一冊のノートブックを買い、現在の思想や行動を記録して、将来年齢も地位も変わった後の参考とすることだ。もし子供が公園に行きたがるのを嫌う時に、取り出してめくれば、そこに「私は中央公園に行きたい」とあるのが見える。たちまち心穏やかになるだろう。他のことも同じだ。

世間には一種の無頼の精神がある。その要義は粘り強さだ。聞くところでは「拳匪」の乱の後、天津の青皮、いわゆるならず者は甚だ横暴で、たとえば荷物を一つ運ぶのに二元を要求する。荷物が小さいと言っても二元、道が近いと言っても二元、運ばなくてよいと言っても、やはり二元。青皮はもちろん手本にはできないが、あの粘り強さは大いに敬服に値する。経済権の要求も同じで、ある人がこの事は陳腐だと言えば、経済権を求める、と答える。卑しいと言えば、経済権を求める、と答える。経済制度はもうすぐ変わるから心配する必要はないと言われても、やはり経済権を求める、と答える。

実のところ、今のところ、一人のノラが出て行っても、さほどの困難は感じないかもしれない。なぜならこの人物は特別であり、行動も新鮮で、いくらかの人々の同情を得て、生活の助けになるからだ。人の同情の下に生きることは、すでに不自由だが、百人のノラが出て行けば同情も減り、千人、万人が出て行けば、嫌悪されるようになる。自ら経済権を握っている方がよほど頼りになる。

経済面で自由を得れば、もう傀儡ではないのか? やはり傀儡だ。ただ他人に操られることが減り、自分が操れる傀儡が増えるだけだ。なぜなら現在の社会では、女が男の傀儡になるだけでなく、男と男、女と女も互いに傀儡となり、男もしばしば女の傀儡となるからで、これは数人の女が経済権を取得するだけでは救えない。だが人は飢えたまま理想世界の到来を静かに待つわけにはいかず、少なくとも残りの息を留めておかねばならない。干上がった轍の鮒がさしあたり升斗の水を求めるように、この比較的身近な経済権を求め、一方でまた別の方法を考えるのだ。

もし経済制度がすっかり改革されたならば、上に述べたことはもちろんすべて無駄話だ。

だが上に述べたことは、ノラを一人の普通の人物として語ったものだ。もし彼女が特別な人物で、自ら進んで犠牲となることを望むならば、それはまた別の話だ。我々には人に犠牲になれと勧める権利もなければ、犠牲になるのを止める権利もない。まして世の中には犠牲を喜び、苦しみを喜ぶ人物もいる。ヨーロッパにこんな伝説がある。イエスが十字架にかけられに行く途中、アハスフェロスの軒下で休もうとしたが、アハスフェロスは許さなかった。そこで呪いをかけられ、最後の審判の日まで永遠に休むことができなくなった。アハスフェロスはそれ以来休めず、ただ歩き続け、今もなお歩いている。歩くのは苦しく、安息は楽しい。なぜ彼は安息しないのか? 呪いを背負っているとはいえ、おそらく歩く方が安息より心地よいと感じているからこそ、始終狂ったように歩いているのだろう。

ただ、この犠牲の心地よさは自分自身に属するものであり、志士たちのいわゆる社会のためとは関係がない。群衆――とりわけ中国の群衆――は永遠に芝居の見物人だ。犠牲者が舞台に上がり、慷慨な様子を見せれば悲壮劇を見たことになり、うろたえた様子を見せれば滑稽劇を見たことになる。北京の羊肉屋の前には常に数人が口を開けて羊の皮を剥ぐのを見ている。なかなか愉快そうだ。人の犠牲が彼らに与え得る利益も、せいぜいこの程度だ。しかも事後数歩も歩けば、この少しの愉快さえも忘れてしまう。

このような群衆に対しては方法がなく、ただ見物する芝居をなくしてやるのが療治であり、一時を震撼する犠牲など要らぬ。深沈な粘り強い戦いの方がよい。

惜しむらくは中国はあまりにも変わりにくい。机一つ動かすにも、暖炉一つ改装するにも、ほとんど血が要る。しかも血があっても、必ず動かせ、改装できるとは限らない。よほど大きな鞭が背中に打ち据えられなければ、中国は自ら動こうとしない。この鞭はいずれ来るだろうと私は思う。良いか悪いかは別の問題だが、打たれることだけは間違いない。だがどこから来るのか、どのように来るのか、私にも確かには分からない。

この講演はこれで終わりとする。

【一九二五年】

【詩歌の敵】

一昨々日、「詩の子」に十度目の会見をし、話の中で、私が『文学週刊』に何か投稿してもよいと言った。ひそかに思うに、文芸の上に詩歌・小説・評論など偉大な尊号がついていなければ、多少とも体裁を繕って尊号に相応しくせねばならぬが、気ままに書く雑感の類なら、さぞ容易だろうと、すぐさま承諾した。その後二日遊んで、粟を食っただけで、今晩になってようやく机に向かって書く用意をしたが、題目すら思い浮かばない。筆を執って四方を見やると、右に一つの本棚、左に一つの衣装箱、前は壁、後ろも壁で、いずれも私にわずかの霊感をも与えてくれる気がない。ここに至って私は悟った。大難がすでに頭上に迫っていることを。

幸い「詩の子」から連想して詩に辿り着いたが、不幸にも私は詩にはまるで門外漢であり、「義法」の類を講じようものなら、「魯班の門前で大斧を振るう」ことになるではないか。かつてある留学生に会ったのを覚えている。大いに学問があるとのことだった。彼は我々には好んで洋語を話し、私には何のことやら分からなかったが、洋人を見ると中国語で話すのだった。この記憶がふと一つの啓示を与えてくれた。『文学週刊』で拳闘について論じようかと思った。詩については? 将来拳闘師に会った時に話すことにしよう。だがいささか躊躇している時に、もう少し穏当なものを連想した。かつて『学灯』――上海出版の『学灯』ではなく――に載っていた春日一郎の文章である。そこで彼の題目をそのまま写し取った。『詩歌の敵』と。

この文章の冒頭にはこうある。いつの時代にも「反詩歌党」はいるものだ。この一党を構成する分子は、第一に、もっぱら想像力に訴える、あるいはある種の芸術の魅力を感じるには、最も肝要なのは精神の熾烈な拡大であるのに、すでにまったく拡大できなくなった頑固な知性主義者。第二に、自ら媚態をもって芸術の女神に奉献したが、ついに成功せず、一転して詩人を攻撃し、報復を図る著作者。第三に、詩歌の熱烈な感情の奔出が社会の道徳と平和を危うくすると考える、宗教的精神を懐く人々。だがこれはもちろんもっぱら西洋について言ったものだ。

詩歌は哲学と知性に頼って認識できるものではない。だから感情がすでに氷結した思想家は、詩人に対してしばしば誤った判断や隔たった揶揄をする。最も顕著な例はロックで、彼は詩を作ることを球を蹴ることと同一視した。科学の方面で偉大な天才を発揮したパスカルも、詩の美はまるで分からず、かつて幾何学者の口吻でこう断じた。「詩とは、少しの安定もなきものなり」。科学的な人々にはこうした者が少なくない。一点の限られた視野を精緻に研鑽するがゆえに、決して博大な詩人の全人間界を感得し、同時に天国の至楽と地獄の大苦悩の精神に通じることができないからだ。近年の科学者は文芸にいくらか重きを置くようになったが、イタリアのロンブローゾの一流は大芸術の中に狂気を発見しようとし、オーストリアのフロイトの一流はもっぱらメスで文芸を分割し、冷静にして迷い込むに至り、自らの過度の穿鑿附会に気づかぬ者も、やはりこの類に属する。中国のある種の学者について、科学の深浅をみだりに測ることはできないが、あるいは今の青年がなぜ被圧迫民族の文学を紹介するのか訝っていたり、あるいは算盤で新詩の楽観か悲観かを算定して中国の将来の運命を決めようとしているのを見ると、パスカルへの冷笑ではないかと疑わしくなる。なぜならこの時、彼の言葉を改竄して言えるからだ。「学者とは、少しの安定もなきものなり」。

第2節

しかし反詩歌党の大将と言えばやはりプラトンを挙げねばならない。彼は芸術否定論者であり悲劇にも喜劇にも攻撃を加え、それらは我々の魂の崇高な理性を滅ぼし劣等な情緒を鼓舞するものだと主張した。あらゆる芸術はすべて模倣の模倣であり「実在」とはなお三層も隔たっている。またこれと同じ理由をもってホメロスをも排斥した。彼の『理想国』において詩歌には民心を煽動する傾向があるため詩人を理想の国から追放すべきだとしたのは良く知られたことである。

プラトンの芸術論は根本的に認識論に基づいている。彼のいわゆるイデアの世界こそが真の実在であり我々が感覚で知覚する物質世界はイデアの影に過ぎない。芸術はその影をさらに模倣するものであるから真の実在からは二重に隔たっている。したがって芸術は人を真理から遠ざけるものであり排斥されるべきだというのが彼の主張であった。

しかしこの議論には異論もある。アリストテレスはプラトンの弟子でありながら師の芸術否定論に反対した。彼は『詩学』において悲劇はカタルシス——すなわち感情の浄化——の効果を持つと論じた。悲劇を観ることによって観客は恐怖と憐憫の感情を経験しそれによって心が浄化されるのだと。

この二つの立場——プラトンの芸術否定論とアリストテレスの芸術肯定論——は、その後二千年以上にわたって西洋の美学思想の二大潮流となった。中国においても類似の議論がある。孔子は詩を重んじ「詩は以て興すべし、以て観るべし、以て群すべし、以て怨みすべし」と述べた。しかし墨子は音楽を非難し「非楽」を唱えた。音楽は民の労力と財を浪費させるだけで何の実益もないと主張した。

第3節

私のあの短い手紙はもともと私的な通信であり公表する必要はなかったはずである。しかし先生が公開の価値ありと認めそれを発表された。しかしそのためにあの手紙はまた無聊な通信に変わってしまった。無聊であるばかりか、おそらく多くの無聊な是非を引き起こすことにもなろう。この是非を挑発した責任は記者が負うべきであろう!だからもし相手方の反駁がなければそれまでだが、もしあるならば、私は相手にするつもりはない。私は元来さほど論争を好む者ではない。しかし相手を持たないというのは、あの人のことが問題にならないということではなくただ私自身のこの一文を問題にしたくないだけなのだ。

事の発端はこうであった。私はある友人に宛てて当今の文壇の状況について感想を書いた。そこには率直な批評も含まれていた。ある作家の新作について私は「技巧はあるが魂がない」と書いた。また別の作家について「大胆ではあるが粗雑である」と書いた。

友人はこの手紙を雑誌の編集者に見せ編集者はそれを掲載した。私の許可なく。

手紙が掲載されると案の定物議を醸した。私は弁解しようとは思わない。書いたことは書いたことだ。しかし私的な手紙と公開の批評とではその性質が異なる。私的な手紙における率直さは公開の場では無遠慮になる。友人同士の忌憚のない意見交換が一旦公になれば攻撃と受け取られる。

この一件から私が学んだことは文字にしたものはいつかは公になる可能性があるということだ。しかし同時にこうも思う。もし私信においてさえ率直な意見を述べることができないならば文学批評というものは成り立たなくなる。

第4節

(一九二五年二月四日、『京報副刊』所載。)

【「陶元慶氏西洋絵画展覧会目録」序】

陶璇卿君は二十余年潜心して研究してきた画家であり、芸術上の修養のために昨年ようやくこの暗い赭色の北京に来た。彼の人柄については私は久しくその名を聞いていた。彼の作品のいくつかはすでに見たこともある。たとえば私の友人の著書の装幀がそうである。彼のために描いてくれた装幀画はいずれも見事なものであった。

今回の展覧会には陶君の近作が数十点出品されるという。私はそのすべてを見たわけではないが数点は見せてもらった。それらはいずれも西洋の技法を用いながら中国の精神を表現しようとする試みであった。

西洋画の技法を学ぶことは今日の中国の画家にとって必要なことである。遠近法、明暗法、色彩の理論——これらは中国の伝統的な画法にはなかったものであり学ぶべき価値がある。しかし技法を学ぶことと精神まで西洋化することとは別のことである。

陶君の絵には西洋の技法の上に中国の魂が宿っている。それは模倣ではなく創造である。西洋画の形式を借りて中国人としての感情を表現しているのだ。

私は文学者であって画家ではないから絵画の技術的な批評をする資格はない。しかし一人の鑑賞者として言えば陶君の絵には人を引きつける力がある。それは技巧の巧みさだけではなく作品の背後にある真摯な精神によるものだと思う。

陶君の芸術がさらに発展することを私は心から願っている。

第5節

中国の書物には世に出ることを勧める言葉もあるが、その多くは死者の楽観に過ぎない。外国の書物は頽廃的で厭世的であっても、それは生きた人間の頽廃であり厭世である。

外国の書物が頽廃的で厭世的であっても、それが生きた人間の頽廃であり厭世であることは認める。しかし魯先生、中国の書物もまた頽廃的で厭世的であっても、それは生きた人間の頽廃であり厭世であることをご存じないのか。生きた人間がいなければ、どうして書物があろうか。書物がある以上、その中の頽廃と厭世は当然、生きた人間の頽廃と厭世である。まさか外国の書物は生きた人間の書物で、中国の書物は死人の書物だとでも言うのか。死人が著書できるものか。魯先生!道理が通るか。そもそも中国には神仙を語る数種の書物を除けば、価値ある書物で入世的でないものはない。ただ各人の入世の道が異なるから、各人の言葉が異なるだけだ。魯先生が平素どんな書物を読んで、世に出ることを勧める言葉があっても死者の楽観に過ぎないと感じるのか、私には分からない。葛洪の『抱朴子』のような類の書物を除けば、儒家に関する書物には、一冊として、一文として入世的でないものはないと思う。墨家は言うまでもなく、積極的入世の精神はいっそう明らかである。道家の学説は老子の『道徳経』と『荘子』を主とするが、この二つの書にはさらに積極的で入世的な精神がある。惜しいことに後人が誤って学び、魯先生の言う頽廃と厭世になってしまった。しかし誤って学んだ者でさえ、死人の頽廃と厭世ではあるまい。楊朱の学説は魯先生の言う「世に出ることを勧める言葉があっても死者の楽観に過ぎない」に似ている。だが楊朱の精神を真に味わえば、それが積極的で入世的であることが分かる。ただ積極の方向が異なり、入世の道が異なるだけだ。これ以上引証するのは控える。ただ魯先生にお尋ねしたい。先生が読まれたのはどの類の中国書で、それらがすべて死者の楽観であり、死人の頽廃と厭世だというのか。

魯先生の度胸には感服する!魯先生の独断には感服する!魯先生は公然とこう独断する度胸がある——私は中国書を少なく——あるいはまったく——読まず、外国書を多く読むべきだと思う。

魯先生がこのように独断する勇気の理由は——中国書を少なく読んだ結果は、作文ができなくなるだけだ。しかし現在の青年にとって最も肝要なのは「行動」であって、「言葉」ではない……

魯先生、青年にとって最も肝要なのは行動だとご存じだが、行動にも学問の補助が必要だとご存じか。古人にも「不学無術」という譏りがある。だが古人が事をなすとき家庭と社会の伝統的思想の導きがあり、書物から学ばずとも過ちは少なかった。今日に至り、世界は大きく変わった。魯先生は中国書を一蹴し、行動さえあればよく読書は要らないと言う。はっきり言えば無茶か横暴であろう。青年にこのような弊害が出ているのに、魯先生は青年の前に立つ人として救済もせず推波助瀾する。青年を誤らせるこのような言葉は控えていただきたい。

魯先生は青年に中国書を読むなと教えつつも、外国書を読めとは教えている。だが各国にはそれぞれの国情と歴史がある。中国人であり中国のために事をなそうとするならば、中国の書物はやはり読んでいただきたい。文学者になろうとするならば中国の文学者に、世界の文学者になろうとしても中国の世界的文学者になっていただきたい。五胡の人々は中国書を読み中国化し、回紇人も中国書を読み中国化した。満洲人は漢文を読み漢人と化した。日本は朝鮮人に日本語を読ませ、イギリスはインド人に英語を読ませた。今や外国人はみな中国を滅ぼそうとしている。そこへ魯迅先生が中国青年よ中国書を読むな外国書を多く読めと大声疾呼する。数年もすれば全ての青年は外国の字しか読めず外国の書しか読めなくなる。これは光栄ではないか、弱国の民をやめて強国の民になるのだから!

最後に魯先生に一つお尋ねしたい。「これまで留意したことがない」と言いながら、なぜこのように断定的な言葉を発することができるのか。先生が平素読んでいる中国書を明示して世に公開し、結局中国書が先生を害したのか先生が中国書に冤罪を着せたのかを論じてもらえないか。

十四年二月二十一日、北京にて。(一九二五年三月八日、『京報副刊』所載。)

【これはこういう意味だ】

趙雪陽氏の通信から、私の「青年必読書」の回答に対してある学者が「中国書を非常に多く読んでいるのにわざと人に読ませない、これはどういう意味か」と意見を述べたことを知った。私は確かに中国書を少しは読んだが「非常に多く」はない。読みたい者がいればもちろん自由だ。ただ私の意見を問われれば、中国書を少なくあるいはまったく読まず外国書を多く読むべきだということだ。

これはこういう意味だ——私はもともと酒を飲まなかったが数年前に飲み始めた。酒量が増すにつれ食事量は減り、酒精が腸胃を害していることを知った。今は時に断ち時にまた飲む。中国書をまだ繙くのと同じだ。だが青年と飲食を語れば私はいつも言う——酒を飲むな、と。聞く者はみな私の意味を理解する。たとえ自分が天然痘に罹ったとしても種痘に反対しない。たとえ棺桶屋を開いても疫病を謳歌しない。これはそういう意味だ。

もう一つついでの声明がある。『晨報副刊』に『玉君評』の文章があり私の『戦士と蠅』に触れているという。私の本意は現在の文壇を言ったのではない。戦士とは中山先生および殉国しながら嘲笑された先烈を指し、蠅とは奴隷どもを指す。

(一九二五年四月三日、『京報副刊』所載。)

【備考】:青年必読書

伏園先生:青年必読十部書の募集に先生は苦心して指針を求められた。魯迅先生が白紙で提出したのは十部の書を選ぶよりも得るものが多い。ある学者の言葉を以下に記す——「彼ら兄弟は中国書を非常に多く読んでいる。今彼らはわざと人に読ませず自分たちはあれほど多く読んでいる。これはどういう意味か!」

まさにどういう意味なのか!試みて通れない道を告知したのに、なお罪があるというのか。魯迅先生の革命精神はこの数言で撲滅できるものではない。この数年来各種の反動的思想が青年に及ぼす影響は想像を絶する。

趙雪陽。三月二十七日。(一九二五年三月三十一日、『京報副刊』所載。)

【「ソビエト・ロシアの文芸論戦」前記】

ロシアは一九一七年十月の革命を経て戦時共産主義の時代に入った。当時の急務は鉄と血であり文芸はまさに麻痺状態にあった。だがイマジニスト(想像派)やフューチャリスト(未来派)が活動を試み一時は文壇の牛耳を執った。一九二一年に至ると形勢は一変し、最も隆盛だったのは左翼未来派で、後に機関誌『レフ』を有しコンストラクティヴィズムの芸術と革命的内容の文学を猛烈に宣伝した。

だが『レフ』の発生にも多くの波瀾があった。一九〇五年の第一次革命の反動は政府と商工階級の弾圧であり象徴主義、神秘主義、変態性欲主義が出現した。四五年を経て印象派が表に出て三年間戦い末に未来派となった。旧社会はあらゆる手段で罵詈と誣謗を与えた。未来派は奮闘を続け二月革命後に左右に分かれた。左翼は十月革命時にボリシェヴィキ芸術の洗礼を受け左翼隊を編成した。正式な幕開けは一九二三年二月一日。

中国は今日に至るまでソビエト・ロシアの新文化を了解しない。任国楨君がロシアの雑誌から文論三篇を選訳し文壇上の論争の大略を知らしめた。一九二五年四月十二日の夜、魯迅記す。

【通信】高歌兄——来信は受け取った。「自分が人のものを奪うのは良いが自分のものを奪われると不快だ」、これは善でも悪でもなくごく平凡なことだ。多くの中国人を見よ、人のものを奪うことに反対し自分は施しをすると言いながら家の中には他人のものが山ほどある。迅。四月二十三日。(一九二五年五月六日、『豫報副刊』所載。)

【通信】蘊儒兄——来信を受け取った。開封で多くの罵声の口が開かれることを喜ぶ。罵ることは中国では普通だが、なぜ罵るべきか誰を罵るべきかを知らないからうまくいかない。罵るべき道理を指し示しさらに罵りを以て続けねばならない。迅。(一九二五年五月六日、『豫報副刊』所載。)

【通信】培良兄——河南には本当にもう少し新しい日刊紙があるべきだと思う。我々の『莽原』は明日出版される。全稿を通覧するといささか満足に至らない。

第6節

「琴心」の疑惑の案件が暴露された。この人物は欧陽蘭であった。このような手段で自己を弁護するとは実に卑劣である。しかも「雪紋の文章も彼が書いたという話だ」。孫伏園が当時赤い封筒と緑の便箋に目がくらみ「新しく現れた女性作家」に違いないと固く信じていたことを思い出し思わず大笑いした。

『莽原』第一期に『檳榔集』を二篇載せた。第三篇の朱湘を斥けるものは削除し第四篇を第三に移してよいと思う。朱湘もすでに落ちぶれ誰も名を挙げなくなった——「中国のキーツ」ではあるが。迅。(一九二五年五月六日、『豫報副刊』所載。)

【来信】伏園兄——今日向培良兄の手紙を受け取った。いくつか公表を望む段落がある。「私は開封に来て開封の学生の知識が時代にあまり相応しくなく風気も閉塞的であることを感じ力を尽くしたいと思った。ところが『晨報』が流言を撒き散らし女子学生を侮辱するニュースを作っているとは!」「『晨報』の二十日の開封の軍人が鉄塔で女子学生を暴行したという件は全くの虚偽であることを二点で証明できる。一、鉄塔は城北に位置し僻地ではない。軍人が婦女を暴行するのはわが国では常事だが平時に城中のさほど僻でない場所では絶対にできない。二、『晨報』は軍人が銃剣で衣服を切り裂いたと載せているが外出する兵士は公務でなければ銃剣を携帯できない。」

「実のところわが国では満城の人民を殺し数十の村を焼いても大したことではない。だが名のある新聞がこのように無風作浪してはならない。」「開封の女子学生もあまりにも不届きだ。深窓の閨にいるべきで学校に通うだけでも奔放なのにさらに校外散歩に出るとは。」

中国はもともと嘘つきの国とデマの国の連邦であり驚くに当たらない。銃剣で彼らの魂魄を切り裂き浄水でよくよく洗わなければこの病症は治らない。

魯迅。四月二十七日、灰棚にて。(一九二五年五月四日、『京報副刊』所載。)

【備考】:『晨報』の捏造にあらず 素昧——前述のニュースは無責任な偽名投稿であり同時に二通の手紙を出したものだ。私は不審に思い屑籠に送った。『晨報』が掲載したのは一字の違いもなくこの代物である。(一九二五年五月四日、『京報副刊』所載。)

【ある「罪人」の自述】『民衆文芸』は民衆文芸と称するが真の民衆の作品はない。民衆は文字を知らない者が多くどうして作品があろうか。一生の喜怒哀楽をすべて黄泉へ持って行く。だが私はこの種の得がたい文芸を紹介する光栄に浴した。捕まった「強盗犯」が書いたもので彼の姓名を言う必要はない。文章の冒頭は文字を知らない苦しみを述べ次に社会がいかに彼を虐げ生計を失敗させたかを述べる。強盗に関しては一字も触れていない。

わしら字が読めねえもんだ。ずいぶん苦労した。光緒二十九年八月十二日。わしは都に出て来た。豚を売りに。平則門の外を歩いた。みんなわしを見て笑った。馬鹿野郎だと言った。わしは知らなかった。上に清真礼拝寺と書いてあった。殴ったり罵ったりされた。豚を打って西城の郭九の豚屋で百八十大洋元くれると言われたが売らなかった。都で売ると言って結局百四十元で売った。義母が百五十大洋元くれた。土地を十一畝買った。六畝の土地を失った。また二百大洋くれた。小商いをしようと百大洋で麦を十石買った。饂飩を売って千四百三十七斤食われたが五十二元七角にしかならなかった。年の暮れには一銭もなくなった。娘が言った、おまえは金を全部なくした字も一つも読めないと。息子は九歳で学校に通っているがわしと同じだ。

(一九二五年五月五日、『民衆文芸』所載。)

【啓事】私は向君の手紙を受け取った後手紙を書いて『京副』に送った。翌日二人のC君が訪ねて来てこれはあるいは流言ではないと言った。五月二日にY君が来て確かに事実だと知らせた。聞くところが異なる以上ひとまず存疑とする。だが手紙を引き戻しに行った時にはすでに印刷に回されていた。ここに矛盾する情報を声明し読者の参考に供する。魯迅。五月四日。(一九二五年五月六日、『京報副刊』所載。)

【備考】:あの数人の女子学生は本当に死に値する 蔭棠——開封の女子師範の学生が暴行され致死した事件は各紙に掲載されたが教育界は何の表明もない。校長の規則では平日は校門を一歩も出てはならない。彼女たちは人跡まれな鉄塔に行った。「餓死は小事、失節は大事」、彼女たちは死に値する。兵士の凌辱に遭い頭頂に「死に値する」の印を押された。環境に押され唯一死あるのみと縄を首に巻き付け命を絶った。社会の群衆は拍手喝采した——「巾幗の丈夫だ!」

校長先生よ!死者の恥辱を雪ぐ勇気があるか。河南の兵権を握る者に問いたい。事件が起きて十余日、一兵も斬り一卒も殺したとは聞かない。

(一九二五年五月六日、『京報』附設の『婦女週刊』所載。)

謡言の魔力——「……冷静に考えれば、あの校長がどうして三人の人命を秘して公表しないことができようか。被害学生の家族がどうして忍べようか。あの校長の胆がどれほど大きくとも一手で天を覆い隠せるものか……」河南女子師範にこのようなことが起きなかったのは千真万確である。各花園でさえもう女子学生の姿は見えなくなった。二つの説がある——一つは軍部を恨む者から生じたという説、もう一つはある者が飯碗争いのために校長と確執があって作ったという説だ。

第7節

しかし在京の同郷やその他河南の女子教育界に関心を持つ人々は依然として半信半疑の態度であった。なお事件があったと強弁する者もいた。この類の謡言が各地で発生するのは珍しくもない。最後に至りいかに虚偽が証明されようと一部の人は依然としてそれを信じる。その魔力は実に小さくない!人々に真相を理解させるため急いでこの手紙を草した。弟趙蔭棠拝。(一九二五年五月十三日、『京報』附設の『婦女週刊』所載。)

鉄塔強姦事件に関する来信S.M.——事件発生後直ちに女子師範の校長にこの事件の有無を問いただしたところ断じてないと力弁した。地理教員・王欽斎先生もないと言った。上海大学の代表も来たが校長はまたも力弁した。私は各方面から調査したところ確実に事実であり万に一つも疑いない。

(A)鉄塔封鎖の鉄証——鉄塔に行くと憲兵営の検問が非常に多く拳銃を携帯していた。「前日あの事件が起きたのを知らないのか。鉄塔の門がすでに封鎖されている」と。

(B)女子師範学生の自述——女子師範の学生W.T.Y.嬢に尋ねたところ二人死んだが病死だと言った。校長は学生の欠席はないと言い王女士は病死者が二人いると言う——自家撞着だ。

四月十二日(日曜日)、女子師範の学生四人が鉄塔を遊覧しに行ったところ六人の兵士に暴行された。銃剣で脅し輪姦しスカートを引き裂いて記念とした。女子師範校長がなぜ秘密を守ったか——一、校長の頑固な頭脳と弾圧手段。通信はすべて検閲し一字も漏らすことを禁じた。二、国民軍との密約。鉄塔下で四人が処刑されたという。

私の意見ではいかなる理由があろうと秘密を守るべきではない。女子学生が暴行されたことは何ら恥ずべきことではなく人格にも道徳にも損失はない。S.M.十四年五月九日、開封一中にて。(一九二五年五月二十一日、『旭光週刊』所載。)

鉄塔強姦事件における最も憎むべき者——S.M.君の手紙が発表された。何と哀れなことか!数人の女子学生は暴行された後忍気呑声して遂に死に至りその冤枉は一片も曝露されない!女子師範校長は武昌高等師範の卒業で高等国民の師表たる教育を受けながらこのような忍び難い弾圧手段をなし得る。彼の罪悪は六人の暴行兵士よりもなお重い!唯亭。十四年五月二十七日北京にて。(一九二五年五月三十一日、『京報副刊』所載。)

【編了後記】(原文は『集外集』に収録、略す。)按、この『編了後記』は全三段あり第一段と第三段はすでに『華蓋集』に収録された。『現代評論』は学者たちの喉舌であり章錫琛氏は確かにまもなく『婦女雑誌』の編集の椅子を失い商務印書館を去った。だが歳月を経てかえって開明書店の経営者となった。(一九三五年二月十五日朝、補記。)

【私が初めて知ったこと】しばしば訃報を見かけるが死者は「清封某大夫」か「清封某人」でないことはない。私は初めて知った——中華民国の国民は死ぬとまた清朝に降ったのだ。しばしば某翁某太夫人何十歳の征詩の告知を見かけるが息子は必ず権力者か留学生である。私は初めて知った——このような息子を持つと自分が詩作の題目になるのだ。(一九二五年六月九日、『民衆文芸』所載。)

【「田園思想」】(本文は『集外集』に収録、略す。)

【備考】来信——魯迅先生:先週五馬路の小さな薬局に従弟を訪ねた折亜東書館で数冊の『語糸』を買い読んだ。三冊中最も興味を引いたのは先生の小雑感であった。先生「君たちに多いのは生力だ。深い森に出会えば平地に拓くことができ曠野に出会えば樹木を植えることができる……何の導師を求めるのか!」まことに痛快の極みだ!私は真実の人生観を与えてくれる師を探しているのだ。

ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読み終えた。社会に圧迫され棄てられた人々になお実際の事をなし得ることを示している。トルストイの『アンナ・カレーニナ』のヴロンスキーの田園生活やハーディの『テス』も読んだ。前者は他事の失敗ゆえに田園に従事したのであり、ハーディは生来そう望んだ。結果は同じでも因は大いに異なる。白波、上海同文書院にて。(一九二五年六月十二日、『莽原週刊』所載。)

第8節

先日ある文章でゲーテの言葉が引用されているのを見た——「為すことは易く、考えることは難し!」と。すると以前のさまざまな妄想はたちまち消え去った。前者の田園への帰入はただ一種の「為すこと」に過ぎず「考えること」にはまったく及ばない。学問を研究する者が一たび挫折に遭えば自然に帰ろうとするのはわが国の昔の隠遁と大差なく極端な消極に陥っている。

先生はいわゆる「導師」を嫌悪されているが私は厨川白村に似た短文を書いて麻痺した中国人に反省を与えてほしいと望んでいる。白波、上海同文書院にて。(一九二五年六月十二日、『莽原週刊』所載。)

【女校長の男女の夢】事実がどうか私は知らないが小説で見る限り上海の悪辣な女衒が良家の婦女を脅迫するのには一定の手順がある——凍餓、吊打。楊蔭楡が反抗する女子師範大学の学生たちに対して取った手段はまず警察を率いて殴打し次いで飲食を断つというものだった。今日の新聞で楊氏が学生の保護者に書簡を送り再度入学願書を提出させ「提出しない者は再入学を望まないものとみなす」と記しているのを見てはたと大悟した。新しい女性はつまるところ古い女性であり新しい方法はつまるところ古い方法であった。

「品性」をめぐって六人の教員が声明を発し楊氏の誣罔を証明した。最も奇怪なのは楊蔭楡が警察署に警官の派遣を請う書簡で七月末にすでに「男子学生が女子学生を助けに来る」夢を見ておりこの夢話を公文書に叙している。自ら夢の境地を設けそれを以て人を誣するのは無意識ならば滑稽であり故意ならば卑劣である。

彼女が夢話だと言うのはなお忠厚な言い方だ。さもなくば楊蔭楡は一文の値打ちもない。(八月六日。一九二五年八月十日、『京報副刊』所載。)

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