Lu Xun Complete Works/ja/gudu zhe

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孤独者

孤独者

作者: 魯迅(鲁迅)


【準風月談】

【前記】

 中華民国建国二十二年五月二十五日、『自由談』の編者が「海内の文豪に請い願うに、爾後多く風月を談ぜよ」との啓事を掲載して以来、古参の風月文豪たちは首を振り脳を揺すって大いに悦んだ。冷や水を浴びせる者もおり、洒落を言う者もおり、「文探」をするしか能のないパグ犬どもも尊い尻尾を高々と立てた。しかし面白いことに、風雲を語る者は風月も語れるのだ。風月を語れというなら風月を語ろう——もっとも、やはり御意の通りにはなるまいが。

 一つの題目で作家を束縛しようとしても、実はできないことだ。もし「学而時習之」という試題を出して、遺少と車夫に八股文を書かせたなら、書き方はまるで違うだろう。もちろん車夫の文章は不通だ、出鱈目だと言える。しかしその不通や出鱈目が、遺少たちの一統天下を打ち破るのだ。古い言葉にもある——柳下恵は飴を見て「老を養うべし」と言い、盗跖は見て「門閂を粘着するに使える」と言った。彼らは兄弟で、見たのは同じ物だが、思い浮かべた用途にはこれほどの天地の差がある。「月白く風清し、此の如き良夜を何ぞや」——結構、風雅の至り、挙手して賛成する。しかし同じく風月に関わる「月黒くして人を殺す夜、風高くして火を放つ天」はどうか——これも立派な古詩の一聯ではないか。

 私の風月談もついに騒動を引き起こした。しかし「殺人放火」を主張したためではない。実は「多く風月を談ぜよ」を「国事を談ずるなかれ」の意だと取るのは誤解だ。「漫りに国事を談ず」ること自体は差し支えない。ただ「漫」でなければならない——放った矢石が或る人物の鼻梁にぴたりと命中してはならないのだ。なぜならそれは彼の武器であり、また看板でもあるからだ。

 六月からの投稿には、種々の筆名を用いた。一面では手間を省くためであり、一面では、文章を見ずに署名だけ見る読者を責める声を避けるためでもある。ところがこうしたところ、文章を視覚ではなくもっぱら嗅覚で読む「文学家」たちに疑心暗鬼を起こさせてしまい、しかも彼らの嗅覚は全身と共には進化していなかったため、新しい作家の名を見ると私の変名ではないかと疑い、私に向かってうーうーと唸り立て、時には読者すらわけがわからなくなった。今ここに当時使った筆名をそのまま各篇の下に残し、負うべき責任を負うこととする。

 もう一つ、以前の編集方法と異なるのは、掲載時に削除・改変された文字をおおむね補い、かつ傍らに黒点を付けて目を清らかにしたことだ。この削除・改変が編者あるいは総編集者によるものか、官派の検査員によるものかは、今となっては判別し難い。しかし推測するに、多少の文章を直し、忌諱を除きながらも文章がなおつながる箇所は恐らく編者の手になるものであり、無茶に削除し、文気のつながりも語意の完不完も構わぬものは、欽定の文章であろう。

 日本の刊行物にも禁忌はあるが、削除された箇所は空白のまま残すか、あるいは破線を引いて読者にわかるようにしている。中国の検査官は空白を残すことを許さず、必ずつなげねばならない。こうして読者は検査による削除の痕跡を見ることができず、一切の含糊と恍惚とが作者の責に帰せられる。この方法は日本よりも大いに進歩しており、私がここに提起するのは、中国文網史上極めて価値ある故実を存するためである。

 去年の丸半年、折に触れて少しずつ書いたものが、いつの間にかまた一冊になった。もちろん、これは雑然たる文章の寄せ集めに過ぎず、「文学家」の語るに足りないものだ。しかしこのような文字は今日ではかえって多くはなく、しかも「拾荒」の人々もまだこの中から何かを拾い出すことができよう。私はこの故にこの書の当面の生存を信じ、かつ集印の理由とするのである。

 一九三四年三月十日、上海にて記す。

【夜を頌す               游光】

 夜を愛する者は、ひとり孤独な者、閑暇な者、戦えぬ者、光明を恐れる者だけではない。

 人の言行は、白昼と深夜、日差しの下と灯火の前とでは、しばしば二つの顔を見せる。夜は造化の織りなす幽玄の天衣であり、あまねく一切の人を覆い、暖め、安心させ、知らず知らずのうちに人造の仮面と衣裳を脱がせ、赤裸々なまま、この際限のない黒い綿のような大塊に包み込む。

 夜といえども明暗がある。微かな明かり、薄暗がり、掌も見えぬ闇、真っ暗闇。夜を愛する者には夜を聴く耳と夜を見る目がなければならない。暗がりの中に在って、一切の暗を見る。紳士たちは電灯の下から暗室に入り、怠惰な腰を伸ばす。恋人たちは月光の下から木蔭に入り、たちまち目の色を変える。夜の来臨は、文人学士が白日の下、眩い白紙の上に書いた超然、混然、恍然、勃然、粲然の文章をことごとく抹殺し、ただ哀願、追従、虚言、詐欺、大言壮語、奸策の夜気だけを残す。それが燦爛たる黄金の光輪を形成し、仏画に見るがごとく、学識凡ならぬ頭上に架かる。

 夜を愛する者は、かくして夜の与える光明を享受する。

 ハイヒールのモダンガールが路傍の電灯の下を、かつかつと足取り軽く歩いてゆく。しかし鼻先にも一点の脂汗が光り、覚えたてのおしゃれであることを証明している。もし始終煌々と照らされていたなら、彼女は「没落」の運命に出くわすだろう。ずらりと並んだ閉まった店舗の薄暗さが彼女を助け、全開のエンジンを緩め、ひと息つかせる——この時初めて沁み入るような夜のそよ風の心地よさを覚える。

 夜を愛する者とモダンガールは、かくして同時に夜の与える恩恵を享受する。

 一夜が明け、人々はまた恐る恐る起き上がり、外に出る。夫婦でさえ、五、六時間前とは顔つきがまるで違う。ここからは喧騒、雑踏。しかし高い壁の向こう、大廈の間、深閨の中、暗黒の獄中、客間の中、秘密機関の中では、依然として驚くべき、本当の大暗黒が瀰漫している。

 今の白日の下の往来と喧騒は、この暗黒の装飾であり、人肉の醤缸の上の金蓋であり、鬼の面の上のクリームに過ぎない。ただ夜だけがまだしも誠実だ。私は夜を愛す。夜に在りて「夜を頌す」を作る。

 (六月八日。)

【推す               丰之余】

 二、三ヶ月前、新聞にこんな記事が載ったように思う。新聞売りの子供が電車の踏み段に上がって代金を受け取ろうとし、降りる客の裾を踏んでしまった。その男は激怒し、力まかせに押した。子供は車の下に転げ落ち、電車がちょうど動き出したところで止まりきれず、子供を轢き殺してしまった。

 子供を突き落とした男は、もうとうに行方知れずだ。しかし裾を踏まれるからには長衫を着ていたのであり、「高等華人」でなくとも、上等の部類に属するはずだ。

 我々が上海の街を歩くと、始終二種類の人間に出くわす。向かいや前方の通行人に対して少しも道を譲らず、横行闘歩する者たちだ。一種は両手を使わず、長い脚をまっすぐに、人のいない野原を歩くように踏み出してくる。避けなければ腹か肩を踏まれる。これは西洋の大人で、皆「高等」であり、華人のような上下の区別がない。もう一種は両腕を曲げ、掌を外に向けて蠍の鋏のように一路押しのけてゆく。押された者が泥沼に落ちようと火の穴に落ちようと構わない。これこそ我々の同胞で、しかも「上等」だ。電車に乗れば二等を改造した三等に乗り、新聞を読めば暴露記事専門の小報を読み、坐って唾を飲み込みながら読むが、一歩動けばまた「推す」。

 乗車、入門、切符購入、郵便——彼は推す。退出、下車、災難回避、避難——彼はまた推す。女子供をよろめかせ、倒れれば生きた人の上を踏み越え、死ねば死体の上を踏み越えて外に出、舌で自分の分厚い唇を舐めて、何も感じない。旧暦端午の節句、ある劇場で火事だという噂の一言で、またしても「推す」。力の足りない少年十余名が踏み殺された。死体が空地に並べられると、見物に来た者がまた万余人。人山人海、またしても「推す」。

 推した結果は、口を開いてこう言う——「おや、面白いね」。

 上海に住んで「推す」と「踏む」に遭わずに済む道理はない。しかもこの「推す」と「踏む」はさらに拡大されてゆく。一切の下等華人の中の幼弱なる者を突き倒し、一切の下等華人を踏み倒す。その時に残るのは高等華人だけであり、彼らはこう祝い唱える——

 「おや、実に面白い。文化保全のためには、いかなる物質を犠牲にしても惜しむべきではない——そんな物質に何の重要性があろうか」。

 (六月八日。)

【二の丑の芸術               丰之余】

 浙東のある地方の劇団に「二花臉」という役柄がある。雅に訳せば「二の丑」だ。小丑との違いは、横行無人の道楽息子は演じず、ただ権勢を笠に着る宰相家の下男も演じないことで、彼が演ずるのは公子を護る拳法家か、公子に媚びる食客である。つまり——身分は小丑より高く、性格は小丑より悪い。

 義僕は老生が演じ、まず諫め、最後は主君に殉ずる。悪僕は小丑が演じ、ただ悪事を為して結局は滅ぶ。しかし二の丑の本領は違う。彼はいささか上等人の風貌を持ち、琴棋書画もいくらかたしなみ、酒令や謎かけもこなすが、頼みとするのは権門であり、蔑むのは百姓だ。誰かが圧迫されると冷笑を浮かべて溜飲を下げ、誰かが陥れられると脅しつけて怒鳴り散らす。しかし彼の態度は常にそうというわけではなく、おおむね一方ではまた顔を客席に向け、公子の欠点を指差し、首を振って鬼面を作りながら言う——「この野郎を見ろ、今度は痛い目に遭うぞ」。

 この最後の一手こそ、二の丑の特色である。なぜなら彼には義僕の愚直さもなく、悪僕の単純さもない。彼は知識階級なのだ。自分の頼みとするものが氷山で長くは持たぬことを承知しており、いずれまた別の家に食客として行かねばならないから、飼われて余炎に与っている間も、この貴公子とは仲間ではないふりをしておかねばならない。

 二の丑たちが書いた脚本には、もちろんこの役柄は出てこない——自分から出すはずがない。小丑、すなわち道楽息子たちが書いた脚本にも出てこない——彼らは一面しか見えず、思いつかないからだ。この二花臉は、庶民がこの種の人間を見抜き、精華を抽出して定めた役柄なのだ。

 世にただ権門があれば、必ず悪勢力があり、悪勢力があれば必ず二花臉がおり、しかも二花臉の芸術がある。ただ一種の刊行物を取り、一週間読んでみれば、たちまち発見するだろう——或る時は春を恨み、或る時は戦争を讃え、或る時はバーナード・ショーの演説を訳し、或る時は婚姻問題を論じ、しかしその間に必ず慷慨激昂して国事への不満を示すことがある。これこそ最後の一手を繰り出しているのだ。

 この最後の一手は、一面では自分が食客ではないと取り繕うものだが、庶民は見抜いている。とうに彼の類型を舞台の上に登場させているのだ。

 (六月十五日。)

【偶成           苇索】

 治国平天下に長けた人物は、まことにどこにでも治国平天下の方法を見出すことができるものだ。四川では長衣が布地を浪費するとして、兵を派遣して裁ち落としている最中だが、上海ではまた名士が茶館を整頓しようとしている。聞くところによると整頓の要点はおよそ三つ。一に衛生への配慮、二に時間の制定、三に教育の施行。

 第一条はもちろん結構だ。第二条は、入館も退館もいちいち鈴を鳴らし、まるで学校の授業のようで、いささか面倒だが、茶を飲みたければ仕方がなく、悪くはない。

 最も難しいのは第三条だ。「愚民」が茶館に来るのは、新聞を聞き、心の内を雑談するほか、『包公案』の類を聴くためでもある。時代は遠く、真偽は明らかにし難い。あちらが妄言し、こちらは妄聴する。だから坐っていられるのだ。今もし「某公案」に替えたなら、恐らく信じもせず聞きたがりもすまい。専ら敵の秘史・暗幕を語ろうとしても、こちら側の所謂「敵」は彼らの敵とは限らないから、やはり聴く気が起きまい。結果は茶館の主人が災いを被り、商売が閑散となる。

 前清光緒の初め、我が郷里に「群玉班」という劇団があった。しかし名実が伴わず、芝居があまりに下手で、ついに誰も見に来なくなった。郷民の才能は大文豪に劣らず、彼のために歌を一つ編んだ——

 「舞台に群玉班、  客席はみな散り散り。  急いで廟の門を閉めれば、  両側の壁も崩れ落ち、  急いで支えてみれば、  残ったのは馄飩売りの天秤ひとつ。」

 見物客の取捨は強制できない。見たくなければ引っ張って来ても無駄だ。例えば幾つかの刊行物は、金も権力もあり、天下に風靡できそうなのに、見る者は少なく、投稿すら寥々として、二ヶ月に一度しか出せない始末だ。諷刺はすでに前世紀の老人の夢のうわ言となり、非諷刺の好い文芸もまた、後世紀の青年の産物となるらしい。

 (六月十五日。)

【蝙蝠を論ず                     游光】

 人間は夜に出てくる動物に対して、どうしてもいくらか嫌悪を覚えるものだ。恐らく自分と違って眠らないからであり、また薄暗い夜の眠りや「微行」の最中に、何か秘密を覗かれはしまいかと恐れるからだろう。

 蝙蝠もまた夜に飛ぶ動物だが、中国での評判はまだしも良い方だ。これは蚊や虻を捕食して人に益があるからではなく、大半はその名が「福」の字と同音だからだ。この面構えで画に描かれ得るのは、ひとえに名前の付け方が良かったおかげだ。さらにもう一つ、中国人はもともと自分も飛びたいと思い、他のものも皆飛べると想像してきた。道士は羽化を望み、皇帝は飛昇を夢見、情ある者は比翼の鳥となることを願い、苦しむ者は翼をつけて飛び去りたいと恨む。虎に翼が生えると思えばぞっとするが、銭(青蚨)が飛んでくれば嬉しくなる。墨子の飛鳶がついに失伝し、飛行機は募金して外国に買いに行くしかないのは、精神文明を重んじすぎた故であり、勢いの至る所、理のもとより然る所、少しも怪しむに足りない。しかし実行できずとも想像はできるので、鼠のような生き物に翼が生えていても別に驚かず、有名な文人はこれを詩の題材に拾い上げ、「黄昏に寺に至れば蝙蝠飛ぶ」などという佳句をひねり出す。

 西洋人にはそのような雅量がない。蝙蝠を好まないのだ。禍の根源を辿れば、恐らくイソップに帰すべきだろう。彼の寓話に、鳥獣がそれぞれ大会を開いた時、蝙蝠が獣の側に行くと翼があるので拒まれ、鳥の側に行くと四足だからと拒まれ、居場所がなくなったという話がある。かくして皆が日和見の象徴たる蝙蝠を嫌うようになった。

 中国でも近頃、少しばかり西洋の古典を拾って蝙蝠を揶揄することがある。しかしこの寓言がイソップから出たのは喜ばしい。彼の時代には動物学がまだ幼稚だったからだ。今は違う。鯨がどの類に属し、蝙蝠がどの類に属するかは、小学生でも知っている。もしなおギリシャの古典を拾ってきて真面目に語るなら、その知識はまだイソップの時代と同じ、各々大会を開いた二類の紳士淑女と変わらないことを示すだけだ。

 大学教授梁実秋氏はゴム靴を草鞋と革靴の中間のものだと考えているそうだが、その知識もまた同様だ。もしギリシャに生まれていたなら、その地位はイソップ以下だったかもしれない。今となっては実に惜しい——少し遅く生まれすぎたのだ。

 (六月十六日。)

【「靶子を抄る」                    旅隼】

 中国はまことに文明最古の地であり、また素より人道を重んずる国だ。人に対しては昔から非常に重視してきた。偶に凌辱や誅戮があるのは、それらの者が人ではないからだ。皇帝が誅するのは「逆賊」であり、官軍が討伐するのは「匪賊」であり、刽子手が殺すのは「犯罪人」だ。満洲人が「中華に入主」した後も、間もなくこの淳風に染まった。雍正帝が兄弟を除こうとした時、まず御賜で名を「阿其那」「塞思黒」と改めさせた。私は満洲語がわからないので正確に訳せないが、おそらく「豚」と「犬」だろう。黄巣が反乱を起こし人を食糧としたが、もし人を食べたと言えば間違いで、彼が食べた物は「両脚羊」と呼ばれた。

 時は二十世紀、場所は上海。骨の髄は永遠に「素より人道を重んず」だが、表面にはもちろん多少の違いがある。中国の一部の「人」ではない生物に対して、西洋の大人がどんな諡号を贈っているか私は知らない。ただ西洋の大人の部下たちが与えた名称だけは知っている。

 租界の路上を歩いていると、時々制服を着た同胞数人と一人の異邦人(いないことも多い)に出くわし、拳銃を突きつけられて全身と所持品を検査される。白人なら突きつけられない。黄色人種でも、突きつけられた者が日本人だと言えば拳銃を下ろして通してもらえる。ただ文明最古の黄帝の子孫だけは「免れ得ず」だ。これを香港では「搜身」と呼び、まだそれほど体面を失ってはいないが、上海ではなんと「抄靶子」——的を抄(探)ると言う。

 「抄」は探ること。「靶子」は銃で撃つべきもの。私は一昨年の九月以来、この名称の確かさを知った。四億の靶子が皆、文明最古の地に並べられ、心中密かに僥倖を祈るのは、まだ撃たれていないというだけのことだ。西洋の大人の部下たちは、実に同胞に絶好の名称をつけてくれたものだ。

 しかし我々「靶子」同士が、互いに推戴する時にはまだしも丁寧だ。私は「古参の上海っ子」ではないので、上海灘で昔、互いにどんな諡号を贈り合っていたかは知らない。しかし記録を見ると、「曲辮子」「阿木林」に過ぎない。「寿頭碼子」はすでに「豚」の隠語だが、所詮は隠語で、「雅」を取って「達」を捨てる高い義理を含んでいる。しかるに今日では、自分に対して恭順でないと思えば、赤い血筋の浮いた両眼を見開き、喉を尖らせ、口角の白い泡と同時に二文字を噴き出す——「豚野郎」と。

 (六月十六日。)

【「白相飯を食う」                  旅隼】

 上海の所謂「白相」を普通語に訳せば「遊ぶ」となるしかない。「白相飯を食う」に至っては、恐らく文言で「正業に就かず遊蕩して生を立つ」と訳した方が、余所者にはいくらかわかりやすいだろう。

 遊蕩して生を立てるとは、奇妙な話だ。しかし上海で男の職業を、あるいは女にその夫の職業を尋ねると、時にきわめて率直な答えが返ってくる——「白相飯を食っている」と。

 聞く方も別に怪しまない。「教師をしている」「工場で働いている」と同じように聞く。もし「特にこれといった職業はない」と言えば、かえっていくらか不安を覚えるだろう。

 「白相飯を食う」は、上海ではこのように堂々たる職業なのだ。

 我々が上海の新聞紙上で見るものは、ほとんど常にこの人々の功績だ。彼らがいなければ、本市ニュースは決して賑わうまい。しかし功績は多くとも、帰納すれば三段に過ぎない。ただ必ずしもすべてを一件の事に用いるわけではないから、五花八門に見えるだけだ。

 第一段は欺瞞。貪欲な者には利で誘い、孤憤の者には同情を装い、不運な者には気前よさを装う。しかし気前のいい者に対しては逆に悲惨を装い、結果は相手のものをすべて巻き上げる。

 第二段は威圧。欺瞞が効かなかったり見破られたりすると、一転して威嚇に出る。相手が無礼だと言い、あるいは不品行だと誣い、あるいは金を借りていると言いがかりをつけ、あるいは何の理由も言わない。これも「道理を説く」と称され、結果はやはり相手のものをすべて巻き上げる。

 第三段は逃走。右の一段または二段を併用して成功すれば、一目散に逃げ去り、二度と足跡が見つからない。失敗しても一目散に逃げ去り、二度と足跡が見つからない。事が大きくなれば本埠を離れ、ほとぼりが冷めてから再び姿を現す。

 このような職業が明明白白と存在する。しかし人々は怪しまない。

 「白相」で飯が食え、労働する者がかえって腹を空かすのも明明白白だが、人々はやはり怪しまない。

 しかし「白相飯」の連中には、むしろ敬すべきところがある。なぜなら彼は率直に人に告げる——「白相飯を食っているのさ」と。

 (六月二十六日。)

【華独保粋優劣論                   孺牛】

 ヒトラー氏はドイツ国内に他の党派の存在を許さず、屈服した国権党すら難を免れ得ない。これはどうやら我々の或る英雄たちをいたく感動させたようで、すでにその「大刀闊斧」ぶりを称讃している。しかし実はこれは彼の一面に過ぎない。もう一面では、彼らもまた極めて細針密縷なのだ。歌を以て証する——

 蚤が大官になった、  取り巻きを連れてあちこち歩く。  皇后も宮嬪も怖がるが、  誰も手を出せない。  噛まれて痒くなっても、  潰そうにもどうにもならぬ。  ああはは、ああはは、ははは、ああはは。

 これは皆が知っている世界的名曲「蚤の歌」の一節だが、ドイツではすでに禁じられている。もちろん蚤を尊重するためではなく、大官を諷刺しているからだ。しかし諷刺が「前世紀の老人の寝言」だからでもなく、この歌曲が「非ドイツ的」だからだ。華独の大小の英雄たちには、どうしても時に隔靴搔痒の趣がある。

 中華もまた細針密縷の人物を産む土地であり、時にまことに微に入り細を穿つことができる。例えば今年、北平の社会局が市政府に対して女性が雄犬を飼うことの禁止を上申した文にいわく——

 「……査するに、雌の女と雄の犬が共に処するは、健康を害するのみならず、更に無恥なる醜聞を生じやすし。我が国礼義の邦に揆りても、また習俗の許さざるところなり。謹みて通令をもって厳禁し、門犬・猟犬を除くほか、凡そ婦女の飼養する雄犬は、斬りて赦さず、以て取り締まりと為す。」

 両国の立脚点はともに「国粋」にあるが、中華の気魄の方がはるかに雄大だ。なぜならドイツでは皆があの歌を歌えなくなるだけだが、中華では「雌の女」が犬を飼えないだけでなく、「雄の犬」もまた首を刎ねられるからだ。この影響はパグ犬にとって甚大だ。自己保存の本能と時勢の需要に応じて、彼らは必ずや「門犬・猟犬」の姿に変じなければならない。

 (六月二十六日。)

【華独焚書異同論                   孺牛】

 ドイツのヒトラー氏一行が書物を焼くと、中国でも日本でも論者たちはこれを秦の始皇帝に比した。しかし始皇帝は実に冤罪も甚だしい。彼の不運は二世にして亡びたことにある。食客たちは皆、新しい主のために始皇帝の悪口を言ったのだ。

 たしかに始皇帝は書を焼いた。焚書は思想統一のためだった。しかし農書と医書は焼かなかった。多くの他国の「客卿」を招聘し、もっぱら「秦の思想」を重んじたのではなく、むしろ各種の思想を博く採り入れた。秦人は小児を重んじた。始皇帝の母は趙の女であり、趙は婦人を重んじた。だから「劇秦」の遺文の中にも、女性を軽賤する痕跡は見られない。

 ヒトラー氏一行は違う。彼がまず焼いたのは「非ドイツ思想」の書であり、客卿を容れる器量がない。次いで性に関する書を焼いた。これは科学によって性道徳の解放を研究することの壊滅であり、その結果は必ずや婦人と小児を往古の地位に沈め、光明を見せなくすることだ。しかるに始皇帝の車同軌・書同文に比し得る大事業は、彼らには何一つできない。

 アラビア人がアレクサンドリアを攻略した時、かの地の図書館を焼いた。その理論はこうだ——もしあの書物に書かれた道理がコーランと同じなら、すでにコーランがあるから残す必要がない。もし異なるなら異端であるから残すべきでない。これこそヒトラー氏一行の嫡派の祖師だ——アラビア人もまた「非ドイツ的」ではあるが——秦の焚書とは比較にならない。

 しかし結果は往々にして英雄たちの予想と異なる。始皇帝は皇帝の位が万世に伝わることを望んだが、あいにく二世にして亡び、農書と医書は赦免したのに、秦以前のこの類の書は今では一冊も残っていない。ヒトラー氏が権力の座に就くや、焚書し、ユダヤ人を迫害し、天下に肩を並べる者なしと豪語した。ここの黄色い顔の乾児たちすら、聞いて得意満面だった。圧迫されている者を嘲笑し、諷刺の文字に向かって諷刺の冷矢を放ち——しかし結局は冷静に問いただす——「お前たちは一体自由が欲しいのか欲しくないのか。自由なくんば寧ろ死を。ならばなぜ今、死を賭して戦わないのか」と。

 今回は二世を待たず、わずか半年にして、ヒトラー氏の門弟たちはオーストリアで禁止されるや、党章すら三色の薔薇に改め、最も面白いのは口号を叫ぶことが禁じられたため、皆が手で口を覆い「掩口式」を用いたことだ。

 これはまことに大いなる諷刺だ。誰を刺しているかは問うまでもないが、諷刺はまだ「寝言」ではないことがわかる。黄色い顔の乾児たちに質すに、いかが思われるだろうか。

 (六月二十八日。)

【「堕民」を語る                  越客】

 六月二十九日の『自由談』で、唐弢先生が浙東の堕民について語り、『堕民猥談』の説に拠って、宋の将軍焦光瓚の部下が金に降ったために時人の蔑むところとなり、明の太祖がその門に「丐戸」と榜示してから後、彼らは悲惨と蔑視の環境の下で暮らし続けたのだとされた。

 私は紹興に生まれた。堕民は幼い頃からよく見かけた人々であり、父老の口からも、彼らが堕民となった同様の由来を聞いていた。しかし後に私は疑いを持った。明の太祖は元朝に対してすら放縦にしなかったのだから、一王朝隔てた金に降った宋の武将など管轄するはずがない。しかも彼らの職業を見れば、明らかに「教坊」や「楽戸」の余痕がある。だから彼らの祖先は、むしろ明初に洪武帝や永楽帝に反抗した忠臣義士だったかもしれないのだ。もう一つ、善人の子孫が苦しみ、売国者の子孫が堕民にはならないという事情もある。最も身近な例を挙げれば、岳飛の後裔はまだ杭州で岳王墓を守っているが、極めて貧しく悲惨な暮らしをしている。しかるに秦檜、厳嵩……の後人はどうか。

 しかし今ここでこのような古い帳簿をひっくり返す気はない。ただ紹興の堕民は、すでに解放された奴隷の一種であると言いたいだけだ。この解放は雍正年間だったかもしれない。だから彼らはすでに他の職業——もちろん賤業だが——に就いている。男は古物の回収、鶏毛の売買、蛙取り、芝居。女は正月や祝日ごとに、自分が主人と認める家に祝いに行き、慶弔事には手伝いに行く。ここにまだ奴隷の名残が留まっているが、事が済めば去り、しかもかなりの祝儀を受け取る。かつて解放されたことの証だ。

 各堕民が通う主人の家は決まっており、勝手に変えられない。姑が死ねば嫁に行かせ、後代に伝える。まるで遺産のように。非常に貧しくなって通う権利を他人に売って初めて、旧主人と絶縁できる。もしあなたが理由もなく「もう来なくていい」と言えば、それは重大な侮辱を与えることに等しい。私は民国革命の後、母がある堕民の女に「これからは皆同じだから、もう来なくていいよ」と言ったのを覚えている。ところが彼女は勃然と色を変え、憤然と答えた——「何ということをおっしゃるのですか。……私どもは千年万代、通い続けるのです」。

 わずかばかりの祝儀のために、奴隷であることに安んずるだけでなく、さらに広範な奴隷になろうとし、しかも奴隷になる権利を金で買わねばならない。これは堕民以外の自由人には万々思い及ばぬことだろう。

 (七月三日。)

【序の解放                   桃椎】

 一個の人間が一部の書を著し、「之を名山に蔵し、其の人に伝う」というのは封建時代の話で、とうに過ぎ去った。今は二十世紀を三十三年過ぎ、場所は上海の租界の上。買弁になれば直ちに栄華を享け、文学家になってすぐに名利を求めないでどうする。かくして術が生まれた。

 その術とは、まず自分で自分を文学家と決め、しかもいくらかの遺産か手当がある。次いで自分で書店を開き、自分で雑誌を出し、自分で文章を載せ、自分で広告を打ち、自分でニュースを流し、自分で趣向を凝らす……しかしうまくいかない。詩の解放はすでに先人がおり、詞の解放は鳥を騙すだけ。かくして「序の解放」が起こった。

 序はもともと古来よりあるもので、他人が書くものも、自分で書くものもある。しかしこれではいかにも迂遠で、「新時代」の「文学家」の胃袋には合わない。自序では自慢しにくく、他人に書いてもらっても必ずしも阿諛追従になるとは限らない。だから解放するしかない——すなわち自分で他人になりすまして自分のものに序を書く。術語では「来信の摘録」という。まるで錦上に花を添えるかのようだ。「好評一束」はまだ末尾に付すだけだが、代序は巻頭を開いた途端に大いなる讃辞が目に入り、名優が舞台に上がるや満場が「好」と大喝采するようなものだ。何と愉快ではないか。もし俳優なら、まず多くの蓄音器を買い、自分で「好」と叫び込んでおいて、舞台に上がる時に一斉にかけることだ。

 しかしこのような手口が暴かれたらどうするか。これにも術がある。直ちに「可哀想な」顔をして、自分には党派もなく主義も借りておらず、徒党もなく、「これまで狂妄なことは敢えてしなかった」と言い、「座談」の時の得意忘形の気配はまるでない。まるで他の者こそ反動派であり、殺人放火主義であり、青幇紅幇であって、この文弱にして天才ある公子哥児をいじめに来たかのようだ。

 さらに効果的なのは、攻撃されたのは実は「能力薄弱にして朋友の要求を満足させることあたわず」と言うことだ。もしこの「文学家」の性別を知らなければ、党派や徒党を持つ多くの人々が彼に何度も金を借りに来たか、あるいは彼女に懸命に求婚かなにかをして、「満足させ得ず」に冤罪の報復を受けたのではないかと疑いたくなるだろう。

 しかし私の言葉がなおも「新時代」の「文学家」に無害であることを望み、「好評」の一条を「摘」み出して「代跋」としよう——

 「『之を名山に蔵し、其の人に伝う』はとうに過ぎ去れり。二十世紀、術存焉。詞の解放、解放解放、錦上花を添え、何ぞ有趣ならざらんや。しかるに他人は乃ち反動派にして、来たりてこの文弱にして天才ある公子を虐ぐ。実は乃ち『能力薄弱にして朋友の要求を満足させるに法なければ』なり。遂に冤罪の報復を受く。『新時代』の『文学家』に無損なり。」

 (七月五日。)

【もう一人の火を盗む者                丁萌】

 火の由来について、ギリシャ人はプロメテウスが天から盗んだものだと考えた。そのために大神ゼウスの怒りに触れ、高山に鎖で繋がれ、一羽の大鷲に毎日肉を啄ばまれることとなった。

 アフリカの土人ワヤンアンティ族もすでに火を使っていたが、ギリシャ人から伝授されたのではない。彼らには別の火の窃取者がいた。

 この火の窃取者の名前は知ることができない。あるいはとうに忘れ去られたのだろう。彼が天から火を盗んでワヤンアンティ族の祖先に伝えたために大神ダラスの怒りに触れた——ここまではギリシャの古伝と似ている。しかしダラスのやり方は違った。彼を山頂に鎖すのではなく、密かに暗黒の地下室に閉じ込め、誰にも知らせなかった。派遣されたのも大鷲ではなく、蚊、蚤、南京虫であり、一方で彼の血を吸いながら、一方で皮膚を腫れ上がらせた。この時さらに蝿どもがいた——傷を嗅ぎつける名手で、ぶんぶんと鳴り、命がけで吸いつき、同時に彼の皮膚の上に大量の蝿の糞を残し、彼がいかに不潔な存在であるかを証明した。

 しかしワヤンアンティ族の人々はこの話を知らない。彼らはただ、火は酋長の祖先が発明し、酋長が異端を焼き殺したり家屋を焼いたりするために使うものだと知っているだけだ。

 幸い今日は交通が発達し、アフリカの蝿も幾匹か中国に飛んで来ている。私はその羽音の中から、このわずかなことを聞き取ったのだ。

 (七月八日。)

【知識過剰                  虞明】

 世界は生産過剰のために経済恐慌に陥っている。同時に三千万以上の労働者が飢えているにもかかわらず、食糧過剰はやはり「客観的現実」であって、さもなければアメリカが我々に小麦粉を掛け売りするはずもなく、我々も「豊作で災い」になるはずがない。

 しかし知識もまた過剰になり得る。知識が過剰になると、恐慌はさらに大きくなる。聞くところによると、中国の現行教育は農村で普及すればするほど、農村の破産が加速するという。これはおそらく知識の豊作による災いだろう。アメリカは綿花が安いので綿畑を潰している。中国は知識を潰すべきだ。これは西洋から伝来した妙法である。

 西洋人は有能だ。五、六年前、ドイツではすでに大学生が多すぎると騒ぎ、政治家や教育者が声を大にして青年に大学に行くなと勧告した。今やドイツでは勧告にとどまらず、知識の除去を実行している。例えば書物を焼き、作家に原稿を自分で呑み込めと命じ、さらに大学生の群れを兵営に閉じ込めて苦役に就かせる。これを「失業問題の解決」と称する。中国でも文法系の大学生が過剰だと騒いでいないか。実は文法系だけではない。中学生すら多すぎるのだ。「厳格な」会考制度を、鉄の箒のように——ざっ、ざっ、ざっと、大多数の知識青年を「民間」に掃き戻そうとしている。

 知識過剰がなぜ恐慌を引き起こすのか。中国はまだ八、九割の人が字を知らないではないか。しかし知識過剰はやはり「客観的現実」であり、そこから生じる恐慌もまた「客観的現実」だ。知識が多すぎると、心が活発になるか、心が軟らかくなるかのどちらかだ。心が活発だとあれこれ余計なことを考え、心が軟らかだと辣腕を振るえない。結果は、自分自身が鎮静でなくなるか、他人の鎮静を妨げるかだ。かくして災禍が来る。だから知識は除去せねばならない。

 しかし除去だけでは足りない。実用に適した教育を施さねばならない。第一は命理学——楽天知命でなければならない。命はたとえ苦くとも、やはり楽しむべきだ。第二は識相学——「空気を読め」、近代兵器の威力を知れ。少なくとも、この二つの実用的学問は急いで提唱すべきだ。提唱の方法は簡単だ——昔ある哲学者が唯心論に反駁して言った。もしこの碗の麦飯の物質が存在するか疑うなら、食べてみよ、腹が膨れるかどうか。今たとえば、人に電気学を理解させたければ、感電させてみよ、痛いかどうか。飛行機などの効用を知らしめたければ、頭上に飛行機を飛ばし爆弾を落としてみよ、死ぬかどうか……。

 このような実用教育があれば、知識は過剰でなくなる。アーメン。

 (七月十二日。)

【詩と予言                  虞明】

 予言は常に詩であり、詩人の大半は予言者だ。しかし予言は詩に過ぎず、詩はしばしば予言よりも霊験がある。

 例えば辛亥革命の折、突然発見されたのは——

 「手に鋼刀を執ること九十九、胡児を殺し尽くしてようやく手を止めん。」

 この数句の『推背図』の予言は、要するに「詩」に過ぎない。あの時、どうして鋼刀が九十九本だけだっただろうか。洋銃大砲の方がはるかに威力があった。洋銃大砲を持つ側がやがて上風を占め、鋼刀しか持たぬ者は苦杯を嘗めた。しかも当時の「胡児」は「殺し尽くされた」どころか、優遇すら受け、今なお「偽」溥儀が世に出る日がある。だから予言として見れば、この数句の歌訣は実際には的中していない。——こうした予言を杓子定規に実行しようとすると、往々にして壁にぶつかる。少し前にもわざわざ九十九本の鋼刀を鍛えて前線の将兵に送った人がいたが、結果は古北口等で血を流すだけで、国難の抗し得ないことを証明しただけだった。——むしろこの種の予言歌訣を「詩」として読む方が、まだ「意を以て志に逆き、自ら之を得たりと謂う」ことができよう。

 詩の中にはたしかに極めて深い予言が含まれている。予言を探すなら、『推背図』を読むより、詩人の詩集を読む方がよい。この時代もまた何かを発見すべき時であるらしく、はたしてこんな数句が見つかった——

 「此の輩、狼を封じ瘈狗に従わしめ、  生平人を猟ること獣を猟るが如し。  万人一たび怒れば回すべからず、  会ず看ん太白その首を懸くるを。」

 (汪精衛著『双照楼詩詞稿』——ユゴーの「共和二年の戦士」の訳)

 これをどうして「拍案叫絶」せずにいられようか。ここで「狼を封じ瘈狗に従わしむ」——自分が明々白々に畜生でありながら、かえって人を畜生扱いする。畜生が猟をし、人がかえって猟られる。「万人」の怒りはたしかに挽回し得ない。ユゴーのこの詩は一七九三年(フランス第一共和二年)の帝政派を詠んだものだが、百四十年後にまだこのような験があるとは思いもよらなかっただろう。

 汪氏がこの数首の詩を訳した時、二、三十年後の中国がすでに白話の世界になっているとは思いもよらなかったろう。今、こうした文言詩のわかる人はますます少なくなった。惜しいことだ。しかし予言の妙味は、わかるようなわからないような間にこそあり、事が完全に的中してから初めて「なるほど」と悟らせるものだ。いわゆる「天機は漏らすべからず」である。

 (七月二十日。)

【「推す」余談                  丰之余】

 「第三種人の『推す』」を読んで感ずるところがあった。たしかに今、「推す」仕事は強化され、範囲も拡大されている。三十年前、私もよく長江の汽船の統舖に乗ったが、あの頃はまだこれほど力を入れて「推し」てはいなかった。

 当時も船票はもちろん買わねばならなかったが、いわゆる「寝台を買う」ということはなかった。買うこともあったが、それは別の話だ。寝台が取れないかと心配なら、早くから荷物を持って船に降りればよい。統舖はすべて空きで、三、五人しかいない。しかし荷物を空き寝台に置こうとすると、難渋する。ここに天秤棒、あそこに縄、こちらにぼろ莚、あちらに下着——そして人々の中から一人が走り出てきて、この場所は自分が占有したのだと言う。しかしあの頃はまだ交渉の余地があり、平和的に買い取ることができた。最高値でもたいてい八角だった。もしあなたが勇敢な戦士なら、もっと簡単だ。黙って近くに坐り、銅鑼が鳴って船が出ようとする時を待てばよい。この地盤主義者たちは天秤棒やぼろ莚を掴んで一目散に岸へ逃げ、売れ残った空き寝台を放り出す。あなたは悠然と荷物を置いて寝ることができた。もし人が寝台に収まりきらなければ、寝台の脇や船尾に寝たが、「第三種人」が「推す」ことはなかった。ただ船室の戸口に泊まった人々は、船員が切符を検める時に統舖へ避難しなければならなかった。

 切符を持たない者は、間違いなく「推される」。手続きは——所持品を没収した後、マストか何かの柱に吊り下げて打つふりをするが、私の目撃した限りでは、本当に打つことは極めて稀だった。そうして最寄りの埠頭に着くと「推し」上げる。船員の話では、貨物室に「推し」込んで乗船した元の場所に送り返すこともできるが、彼らはそうする気はない。最寄りの埠頭に「推し」上げれば、ともかく一駅分は進んだわけで、一つ一つ「推し」てゆけば、苦労はしても、やがて目的地に着くからだ。

 昔の「第三種人」は、今のよりもいくらか仁善であったようだ。

 生活の圧迫は人を憤らせ、朦朧として仇が誰かわからず、家族や通行人が行く手を塞いでいると思い込み、「推す」。これは自己保存のみならず、他人への憎悪でもある。この類の人物がひとたび羽振りがよくなれば、外出する時には「道を清める」のだ。

 私は過去を懐かしんでいるのではない。ただ今、「推す」仕事は強化され、範囲も拡大されたと言っているだけだ。願わくば将来の権力者が、私を「反動」の埠頭に「推し」上げることのないよう——さすれば幸甚である。

 (七月二十四日。)

【旧帳簿を繰る                 旅隼】

 この数日、聴涛社が『肉食者言』という本を出した。現在の権力者が、かつて野にあった時の言論を集め、皆に「其の言を聴きて其の行を観」させ、前後にどのような違いがあるかを知らしめるものだ。同社刊行の週刊『涛声』にも、同じ趣旨の文章がしばしば載っている。

 これは旧帳簿を繰り、帳面を開いて算盤を弾き、決算を出し、前後の不一致をどう説明するのかと問い詰めるもので、たしかに切実明瞭にして、最も遁辞を許さぬ方法だ。しかし今日にあっては、いささか「古風」に過ぎるかもしれない。

 昔の人はこの種の旧帳簿を繰られることを恐れた。蜀の韋庄は不遇の時に、慷慨激昂として比較的通俗な『秦婦吟』を作り、大いに伝誦された。しかし顕達した後は、詩集に収めないだけでなく、他人の写本すら方法を講じて消滅させようとした。当時の成果は不明だが、清朝末年に敦煌の洞窟からこの詩の写本が発掘されたことを見れば、苦心は無駄だったのだ。しかしその苦心はなおも偲ばれる。

 ただしこれは昔の名士の話だ。常人は違う。旧帳簿を抹殺するには、首を斬り落として生まれ変わらねばならない。斬首の罪人が刑場に引かれる時に叫ぶ——「二十年経てば、また一人の好漢だ」。やり直して人間になるには二十年を経ねばならず、実に面倒な話だ。

 ただしこれは古今の常人の話だ。今の名士はまた違う。旧帳簿を抹殺し新たに人となるのは、常人の方法に比べれば、郵便と電報ほどの速さの違いがある。いくらか悠長でよければ、一度洋行し、寺を建て、一度病気になり、数日山を遊覧すればよい。急ぐなら、一度会議を開き、経を一巻唱え、一通り演説し、声明を発すればよい。あるいは一晩眠るか詩を一首作るだけでもよい。もっと急ぐなら、自分で頬を二つ打ち、涙を数滴流せば、同様に別人と化し、「以前の我」とは絶えて関係がなくなる。浄壇将軍が身を一振りして鯽に化け、女妖の太腿の間を潜り回る——作者は自分では神妙に書いたつもりかもしれないが、今から見れば、新奇な気配すらない。

 もしこうした変身法もまだ面倒なら、白い目を剥いて逆に問い返す——「これは私の帳簿ですか」。まだ面倒なら、目も剥かず問いもしない。今日流行しているのは大抵この後者の方法だ。

 「古風」がどうして今の世に再び行われ得ようか。まだ読経を主張する者がいるとは、一体何を考えているのか。しかし一夜明ければ、明日は皆兵隊に行けと言い出すかもしれない。だから私は今のところ経も買わず、明日兵隊にも行くまいと思っている。

 (七月二十五日。)

【晨涼漫記                 孺牛】

 張献忠にまつわる伝説は中国各地にあり、皆が彼を奇特な人物と見なしていることがわかる。私もかつてはそう見なす人々の一人だった。

 幼い頃、『無双譜』という本を見たことがある。清初の人の作で、歴史上極めて特異にして二つとない人物を選び、各々一つの肖像を描き、一方に詩を題するのだが、悪人はいなかったようだ。そこで後に私は、歴代の極めて特異でありながら実は中国人の性質の一面を代表する人物を選んで、中国の「人史」を作ることを考えた。英国カーライルの『英雄と英雄崇拝』、米国エマソンの『偉人論』のようなものだ。ただし善悪ともに揃え、雪を噛んで苦節を守った蘇武、身を捨てて法を求めた玄奘、「鞠躬尽瘁、死して後已む」の孔明を入れ、しかしまた古法を愚直に信じて「死して後已んだ」王莽、半ば本気で半ば茶化した変法の王安石も入れる。張献忠もむろん含まれる。しかし今はまるで筆を執る気はなくなった。

 『蜀碧』の類の書は張献忠の殺人を詳しく記しているが、かなり散漫でもあり、読む者にはまるで「芸術のための芸術」のように、もっぱら「殺人のための殺人」をしているかのように映る。しかし実は別の目的があった。最初は彼もそれほど殺さなかった。彼とて皇帝になりたかったのだ。後に李自成が北京に入り、続いて清兵が関に入り、自分に残されたのは没落の一途だけだと知った時、殺し始めた——殺し、殺し……。彼は明らかに感じていた。天下にもはや自分のものはない。今は他人のものを壊しているのだと。これは末代の風雅な皇帝が死ぬ前に、祖先や自分が蒐集した書籍・骨董・宝物の類を焼き尽くすのと、まったく同じ心理だ。彼にはまだ兵があり、骨董の類はなかった。だから殺した——殺し、殺し、人を殺し、殺し……。

 しかし彼はなお兵を維持しなければならなかった。これは実のところ殺戮の維持に過ぎない。平民を殺し尽くすと、比較的腹心の者を多数兵士の中に送り込んで密かに聴き取らせ、いささかの怨言あらば直ちに跳び出して捕え、その一家を戮した(彼の兵にはどうやら家族がいたらしい。掠ってきた婦女だったかもしれない)。殺戮で兵を治め、兵で殺す。自分はすでに終わっているが、こうして共倒れの末路を遂げようとしたのだ。我々も他人の、あるいは公共のものを、あまり大切にしないではないか。

 だから張献忠の振る舞いは、一見奇異に見えるが、実は極めて平凡なのだ。奇異なのはむしろ殺された人々の方で、なぜ常に束手して頸を伸ばし、彼の殺すに任せたのか。清朝の粛王が来て射殺してくれるのを待って初めて、奴隷として救われたのだ。しかもこれは天命であるとして、所謂「笛を吹くに竹を用いず、一矢胸を貫く」だと言う。しかし私はこの予言詩は後人の作だと思う。当時の人々が本当は何を考えていたのか、我々には知る由もない。

 (七月二十八日。)

【中国の奇想                  游光】

 外国人は中国を知らず、中国人は専ら実際を重んずると言う。実はそうではない。我々中国人は最も奇想に富む民族だ。

 古今を問わず誰でも知っている。一人の男が多くの女を持ち、ひたすら縦欲すれば、やがて毎日三鞭酒を飲んでも効かなくなり、まさしく「寿(?)終正寝」するしかない。しかし我々の古人には一つの大奇想があった——「御女」の術によって、かえって仙人になれるというのだ。例えば彭祖は多くの女を持ちながら数百歳まで生きたという。この方法は錬金術と共に流行し、古代の書目にはまだ各種の書名が残っている。しかし実際にはやはり結局うまくいかなかったのだろう。今ではもう誰も信じる者はいないようで、漁色を好む英雄にとっては実に不幸なことだ。

 しかしまだ一つの小奇想がある。ふんと一声唸れば鼻孔から白い光が放たれ、道の遠近を問わず、仇人や敵を殺してしまう。白光はまた戻ってくる。誰が殺したか手がかりもない。人を殺しておいて面倒もなし。何と快適自在なことか。この種の本領は、一昨年にもまだ武当山に求めに行こうとした者がおり、去年になってようやく大刀隊がこの奇想の位置に取って代わった。今では大刀隊の名声すら寂しくなった。愛国の英雄にとっても甚だ不幸なことだ。

 しかし我々は近頃また一つの大奇想を持った。一方で国を救い、一方でまた金を儲けられるというものだ。もっとも各種の宝くじは賭博に近く、儲けもただの「希望」に過ぎないが。しかしこの二つがすでに関連付けられたのは事実だ。たしかに世界にも賭博の上前で維持されるモナコ王国があるが、常理から言えば、賭博は小さくは身代の破滅、大きくは国の滅亡だ。救国となれば、いくらかの犠牲は免れず、少なくとも金儲けの道とは遥かに離れている。しかしその一致点を発見したのが我々今の中国なのだ——まだ試験の途上ではあるが。

 そしてまた一つの小奇想がある。今度は白い光ではなく、数回の声明、数通の匿名の手紙、数篇の変名の文章で仇敵の首を落とし、しかも血痕は一滴も自分の洋館や洋服に飛び散らないようにする。しかもその余波で自己の名声と利益を得る。これもまだ試験の途上だが、結果がどうなるかはわからない。しかし手元の文芸史を繙いてみても、こうした人物は半人たりとも見当たらない。恐らくやはり徒労であろう。

 賭博で国を救い、縦欲で仙人になり、手を拱いて敵を殺し、謡言で田を買う。もし『龍文鞭影』の続きを編む人がいるなら、この四句を添えてもよかろうと思う。

 (八月四日。)

【豪語の割引                                                        葦索  】


 豪語の割引とは、実は文学上の割引でもある。およそ作者の自述は、往々にして一割ほど差し引いて聞かねばならず、自らの惨めさや無能を告白する場合でさえ「正価販売」ではないのだから、まして豪語においてをや。

 仙才・李太白が豪語を好んだことは、いまさら言うまでもない。爪を長く伸ばし、骨と皮ばかりに痩せ細った鬼才・李長吉でさえ、「若耶渓の水剣を買い、明朝帰りて猿公に事えん」と言い出す始末で、まったく己を量らず、刺客を志そうというのだ。これはゼロに割り引くべきで、その証拠に彼は結局行かなかった。南宋の頃、国運が傾いていた時代、陸放翁もまた慷慨党の一員であり、あるとき「老子なお大漠を絶つに堪えたり、諸君何ぞ新亭に泣くに至らんや」と言った。彼も実際には行けなかったのだから、やはりゼロに割り引くべきである。――ただし手元に書物がなく、引用した詩に誤りがあるかもしれないので、ここにもあらかじめ割引をつけておく。

 実のところ、この豪語を弄する気質は、ひとり文人に限ったことではなく、庶民や商人の間でも大いに発達している。市井で甲と乙が喧嘩をし、負けた方はたいてい「お前のことは覚えておくぞ!」と言う。これはすなわち伍子胥のごとく必ず復讐するという意味である。しかし実際に来る者はほとんどおらず、知識人であれば別の陰謀を用いるかもしれないが、粗野な者の場合、往々にしてこれが闘争の結末となる。言う方は口先だけ、聞く方も気にも留めず、いつしか喧嘩の幕引きの一種の儀式となったのだ。

 旧小説家もとうにこの事情を見抜いている。彼は私娼が他人と争い、お定まりのように相手の密通を攻撃した後、自ら名乗って「あたしは指の上に人が立てる、腕の上に馬が走れる女だよ……」と言わせる。その先はどうか? 彼は読者に勝手に割り引かせる。読者がそう愚かではなく、十割信じるはずもないと知りながら、やはりそう言わねばならぬのは、あたかも偽薬を売る者が包み紙に必ず「欺世の心あらば、雷に撃たれ火に焼かれん」と刷り込むのと同じで、一種の儀式となったのだ。

 だが時勢の違いによって、即座に自ら割り引く者もいる。たとえば広告の中で、時折「私は座っても名を改めず、歩いても姓を変えぬ人間だ」と自称するのを見かけ、まさに『七侠五義』の人物に出会ったかのような敬意が湧きかけるが、続けて「たとえ時に他の筆名を用いることがあっても、発表した文章にはすべて自ら責任を負う」とあり、身を翻して土行孫のように消えてしまう。予あに「他の筆名を用いる」ことを好まんや。予やむを得ざるなり。上海はもとより中国の一部であり、当然孔子の教化を受けている。商家にしても、カウンターの内側の「正価販売」の金文字の看板が、屋外の「大安売り」の大旗と常に輝き合っているが、いつも理由がある――国産品の奨励か、開店記念かのいずれかだ。

 だから、自ら割り引いても、まだ十分には引ききれていないのであって、「老上海」たる者は、さらにもう一度引かねばならない。


 (八月四日。)

【蹴る                                                           丰之余  】


 二ヶ月前、かつて「突く」について述べたが、今度はまた「蹴る」が出てきた。

 今月九日の『申報』は六日夜のことを載せている。ペンキ職人の劉明山、楊阿坤、顧洪生の三人がフランス租界の黄浦灘・太古碼頭で涼をとっていたところ、たまたま付近で数人が賭博をしており、巡回警察が駆逐に来た。ところが劉と顧の二人はロシア人巡捕によって水中に落とされ、劉明山はそのまま溺死したのである。ロシア人巡捕に言わせれば、当然「自ら足を踏み外して落水した」のだ。だが顧洪生の供述によれば、「私と劉、楊の三人で太古碼頭に涼みに行き、劉は鉄の腰掛けの下の板の上に座り、……私は傍らに立っていた。……ロシア人巡捕が来てまず劉を一蹴りし、劉がすでに立ち上がって避けようとしたところ、もう一蹴りされて、浦中に転落した。私が引き上げようとしたがすでに間に合わず、振り向いてロシア人巡捕を掴んだが、手で一押しされ、私も浦中に落ち、人に救い上げられた」とのことだ。推事が「なぜ蹴ったのか?」と問うと、「分かりません」との答えだった。

 「突く」にはまだ手を上げる必要があるが、下等な人間を相手にするにはそこまで手間をかけるに及ばぬ、そこで「蹴る」が登場する。上海にはまことに「蹴る」の専門家がいる。インド人巡捕、安南人巡捕、そして今や白系ロシア人巡捕まで加わり、彼らは帝政時代にユダヤ人に対して用いた手段を、わが国で振るっているのだ。われわれもまことに「辱めに耐え重荷を負う」ことに長けた人民であり、「浦に落ちる」さえしなければ、たいてい滑稽な一言で「外国のハムを食らった」と笑い飛ばして終わりだ。

 苗族が大敗した後、みな山へ逃げた。これはわれわれの先帝・軒轅氏が追い立てたのだ。南宋の敗残の末には海辺へ逃げたが、これもまたわれわれの先帝・成吉思汗が追い立てたと言い、追い詰められた挙げ句、陸秀夫が幼帝を背負って海に飛び込んだ。われわれ中国人は、もとより古来「自ら足を踏み外して落水」してきたのだ。

 慷慨家の中には、世界で水と空気だけは貧乏人にも与えられていると言う者がいる。この説は実は正しくない。貧乏人が実際に、他の人々と同じ水や空気を得られるはずがない。碼頭で涼をとっているだけでも、いわれなく「蹴られ」て命を落とすのだ――落浦。友を救おうと、あるいは凶漢を捕まえようとすれば、「また手で一押し」――これも落浦。もしみなが助けに来れば、「反帝」の嫌疑がかかる。「反帝」はもとより中国で禁じられてはいないが、「反動分子が機に乗じて騒擾する」のを予防せねばならぬから、結局やはり「蹴る」と「突く」は免れず、つまるところ落浦である。

 時代は進歩し、汽船も飛行機もどこにでもある。もし南宋の末代の皇帝が今日に生まれていたなら、海に落ちることは決してなく、外国へ逃げられたであろう。そして小民百姓が「落浦」をもってその代わりを務めるのだ。

 この理屈は単純ではあるが、また複雑でもある。ゆえにペンキ職人の顧洪生は言った、「分かりません」と。


 (八月十日。)

【「中国文壇の悲観」                                       旅隼  】

 

 風雅な書生の中にも、まことに涙を流すのが得意な人物がいるもので、近頃の中国文壇の混乱は軍閥割拠のようだと言って、たまらず「嗚呼」と嘆き出す。だがとりわけ痛心するのは誣陷だという。

 実のところ、文章を「名山に蔵する」時代が去り、ひとたび「壇」があれば、闘争を免れず、さらには罵倒、誣陷にまで至るものだ。明末は遠すぎるから措くとして、清朝の章実斎と袁子才、李蓴客と趙叔は水火の如く相容れず、さらに近くは『民報』と『新民叢報』の争い、『新青年』派とある派との争いも、いずれも甚だ激烈であった。当初もまた局外の人を首をかしげ嘆息させたことであろうが、勝敗が明らかになり時代が遠ざかると、戦いの血は雨露に洗い流されてきれいさっぱりとなり、後人はかつての文壇は太平であったと思い込む。外国でも同じで、われわれは今日たいていユゴーやハウプトマンが卓越した文人であることしか知らないが、当時彼らの戯曲が上演された際には、劇場内で人を捕え、乱闘が起き、詳しい文学史にはまだ乱闘の類の挿絵が載っている。

 だから、古今東西を問わず、文壇にはいつも多少の混乱があり、風雅な書生をして「悲観」せしめるものだ。しかしまた結局は、いわゆる文人や文章なるものの多くは必ず滅び、存在するに値するものだけが存続し、文壇はやはり清浄な場所であることを証明する。混乱を増すのはむしろ一部の悲観論者であって、調べもせず、批評もせず、ただ「彼もまた一つの是非、此もまた一つの是非」という論調で、あらゆる作者を「同じ穴の狢」と貶める。こうしては、混乱は永遠に収まりはしない。だが世間はすべてがこうではなく、必ず明々白々たる是非の別があるのだ。試みに考えてみよ、林琴南が文学革命を攻撃した小説は、時を経ずして今やどこへ消えたか。

 ただ近頃の誣陷だけは、なかなか見事な手口のように見えるが、実は古の手法よりも厳しいわけではなく、その証拠は清初に文字の獄を大いに興した遺聞である。況んやこのような悪戯を弄する者は、実のところ文人ばかりではなく、十中八九は看板を掲げながら商品がなく、やむなく闇の宿に化けて人肉饅頭を売る小盗にすぎない。たとえその中にかつて筆墨を弄した者がいたとしても、この時はまさに正体を露わにし、己の没落を告白しているのであって、文壇はこのために混乱するどころか、かえっていっそう明瞭に、いっそう鮮明になるのだ。

 歴史は決して後退しない。文壇に悲観する必要はないのである。悲観の由来は、事に身を置かずして是非を弁ぜず、それでいて文壇に関心を寄せることにあり、あるいはいっそ自ら没落の陣営に座っているためなのだ。

 

 (八月十日。)

【秋夜紀遊                                                游光  】

 

 秋はすでに来たが、暑さは夏に劣らない。電灯が太陽に代わった頃、私はなおも大通りをそぞろ歩いている。

 危険か? 危険は人を緊張させ、緊張は己の生命力を感じさせる。危険の中を漫遊するのは、まことによいことだ。

 租界にもまだ悠閑な場所がある。住宅区だ。しかし中等華人の巣窟は灼熱であり、屋台、胡弓、麻雀、蓄音機、塵箱、裸の体と脚。ふさわしいのは高等華人あるいは無等洋人の住まいの門前だ。広い大通り、碧緑の木々、淡い色の窓掛け、涼風、月光、――しかし犬もまた吠える。

 私は農村に育ち、犬の吠え声を聞くのが好きだ。深夜の遠吠え、それを聞けば心が安らぐ。古人のいわゆる「犬声豹の如し」とはこれである。もし偶然見知らぬ村外れを通りかかり、一声の狂吠とともに巨大な獒犬が躍り出れば、これもまた一種の緊張を与え、戦闘に臨むかのごとく、まことに面白い。

 だが惜しむらくは、ここで聞こえるのはちん犬の声だ。おずおずと隠れながら、甲高い声で吠える――ワンワン!

 私はこの種の吠え声を好まない。

 私はそぞろ歩きながら冷笑を漏らした。黙らせる方法が分かったからだ。その飼い主の門番に二言三言話しかけるか、犬に肉つきの骨を一本投げてやればよい。この二つは私にもできるが、しかし私はしない。

 あの犬は相変わらずワンワンと吠え続ける。

 私はこの種の吠え声を好まない。

 私はそぞろ歩きながら、今度は悪意の笑いを漏らした。手に小石を一つ握っていたからだ。悪笑が収まるやいなや、手を上げて投げつけると、見事にその鼻面に命中した。

 キャンと一声、犬は消えた。私はそぞろ歩いた、そぞろ歩いた、稀に見る静寂の中を。

 秋はすでに来た。私はなおもそぞろ歩いている。吠え声は、やはり聞こえる。しかしいっそうおずおずと隠れ、声も前とは違い、距離も遠ざかり、鼻先さえ見えない。

 私はもう冷笑もしないし、悪笑もしない。私はそぞろ歩きながら、心地よくその甲高い声に耳を傾けている。

 

 (八月十四日。)

【「揩油(かいゆ)」                                                 苇索  】


 「揩油」――これは奴僕の品性のすべてを言い表す言葉である。

 これは「リベートを取る」でも「手数料を取る」でもない。なぜならこれは一つの秘密だからだ。しかし窃盗でもない。なぜなら原則として、取るものはまことに微々たるものだからだ。したがって「分け前に与る」とも言えない。せいぜい「不正」と呼べるかもしれない。しかしこれは堂々たる「不正」なのだ。なぜなら取るのは豪家、富翁、金持ち、洋商のものであり、しかも取るのはほんの少しだけ、あたかも油の滴り満ちた場所からひと拭いするようなもので、相手に損はなく、拭う者には益があり、しかも富を損じて貧を救う正道と言えなくもない。女に言い寄って冗談を言ったり、隙に乗じてひと触れすることも「揩油」と言うが、これは金銭に対するほど名正言順ではないにせよ、揩られる側に大きな損がないという点では同じだ。

 最も顕著に表れるのは電車の車掌だ。熟練すると、彼は一方で揩れる客に目を配り、一方で突然来る検札に目を配り、その目つきは鼠と鷲の混合物のように鍛え上げられる。金を受け取って切符を渡さない。客は当然請求すべきだが、請求しにくいし、請求する人もめったにいない。なぜなら彼が揩っているのは洋商の油であり、同じ中国人なら当然助ける義務があるのであって、請求すれば洋商を助けることになるからだ。この時、車掌が憎悪の目で見るだけでなく、同乗の客もまた、お前は時勢が分かっていないという顔つきを見せることが少なくない。

 しかし時が変われば事情も変わる。もし三等車の客がたまたま銅銭一枚足りなければ、目的地の手前で降りるしかない。この時、彼は融通を利かせようとはせず、洋商の忠僕に変貌するのだ。

 上海で巡捕や門番やボーイの類と世間話をすれば、彼らはたいてい洋鬼子を憎んでおり、多くは愛国主義者だ。しかし彼らもまた洋鬼子同様に中国人を見下し、棍棒も拳も蔑みの目も、もっぱら中国人に向けられる。

 「揩油」の暮らしは幸いなるかな。この手段はさらに広がり、この品格は高尚と見なされ、この行為は正当と認められ、これが国民の本領であり帝国主義への復讐であると算えられるようになるだろう。天窓を開けてはっきり言えば、実のところいわゆる「高等華人」なる者も、この型から逃れ出てはいないのだ。

 しかし、「白相飯(ただ飯食い)」の連中と同じく、車掌にもまた彼なりの道徳がある。もし検札に、金を受け取って切符を渡していないことを見つけられたなら、彼は黙って罰を受け、決して金を受け取っていないとは言わず、罪を客に転嫁することはないのだ。


 (八月十四日。)

【われわれはいかに児童を教育してきたか?                        旅隼  】


 『孔乙己』の話を見て、中国がこれまでいかに児童を教育してきたかを思い出した。

 現在はもちろん様々な教科書があるが、村塾ではなお『三字経』や『百家姓』が使われている。清朝末年、ある者は「天子英豪を重んじ、文章爾曹に教う、万般皆下品、ただ読書のみ高し」という『神童詩』を読み、「読書人」の栄光を誇った。ある者は「混沌初めて開け、乾坤始めて定まり、軽清なる者は上浮して天となり、重濁なる者は下凝して地となる」という『幼学瓊林』を読み、古文の決まり文句を教わった。それ以前のことは私には分からないが、聞くところによれば、唐末から宋初にかけては『太公家教』が使われていたが久しく失伝し、後に敦煌の石窟から発見された。漢朝では『急就篇』の類を読んでいたという。

 いわゆる「教科書」にしても、この三十年の間にいったい幾度変わったことか。あるときはこう言い、あるときはああ言い、今日はこういう方針、明日はまたあういう主張で、「教育」しなければまだしも、ひとたび「教育」すれば、学校から矛盾に満ちた人間が大量に作り出され、しかも旧い社会関係のために、一面ではなお「混沌初めて開け、乾坤始めて定まる」式の古めかしいものが残っている。

 中国には作家が必要であり、「文豪」が必要だが、真の学究もまた必要だ。もし誰かが一冊の歴史書を著し、中国歴代の児童教育の方法と使用された書物の明確な記録を作り、われわれの先人からわれわれ自身に至るまでいかに薫陶されてきたかを明らかにしたならば、その功徳は禹(たとえ彼がただの虫にすぎなかったとしても)に劣るまい。

 『自由談』の投稿者の中には博古通今の人も少なくなく、この仕事に勝任する者は必ずいると思う。こころざす者はいないだろうか。ここにこの問題を提起するも、知るは易く行うは難く、ただ空口に白話を言うのみにて、開墾の労は健者に望むほかないのである。


 (八月十四日。)

【翻訳のための弁護                                       洛文  】

 

 今年は翻訳が包囲討伐される年だ。

 あるいは「硬訳」だと言い、あるいは「乱訳」だと言い、あるいは「聞くところによれば近頃多くの翻訳家がいるそうだが……第一行を開いたらそのまま訳し始め、原作の理解などはそもそも論外だ」と言い、だから読んでも「何を言っているか分からない」のだと。

 こうした現象は翻訳界に確かに少なくなく、その病根は「先を争う」ことにある。中国人はもともと「先を争う」のが好きな民族で、電車の乗り降り、汽車の切符買い、書留郵便の投函、いずれも着くや否や一番でありたがる。翻訳者も当然この例外ではない。しかも書店や読者には、同一の原本に対する二種の訳本を受け容れるだけの度量も財力もない。すでに一種の訳稿があれば、別の訳本を受け付けてくれる書店はなくなる。すでにあるから、もう買う者はいないだろうと言うのだ。

 ここに一例を挙げよう。今やすでに古典となったダーウィンの『種の起原』は、日本に二種の翻訳本があり、先に出た方は誤りが多く、後に出た方はよいものだ。中国には馬君武博士の翻訳が一種あるのみだが、彼が依拠したのは日本の悪い訳本であり、まことに別の翻訳が必要だ。しかしどこに出版してくれる書店があろうか。訳者が同時に富豪でもない限り、自費で印刷するほかない。だがもし富豪であれば、彼はそろばんを弾きに行って、翻訳などにはもう手を出すまい。

 さらにもう一つ、中国での流行は、まことに過ぎ去るのが速すぎる。一つの学問や文芸が中国に紹介されても、多ければ一年、少なければ半年で、たいてい煙のように消え失せる。翻訳を生業とする翻訳家が、もし精魂を傾けて推敲すれば、脱稿した頃には社会はとうに誰も問わなくなっている。中国はトルストイを大いに叫び、ツルゲーネフを大いに叫び、後にはまたシンクレアを大いに叫んだが、彼らの選集は一部も出ていない。去年はなお郭沫若先生の盛名をもって、幸いにして『戦争と平和』が出版されたが、それでも読書界と出版界の惰気を挽回するには足りず、ついには読者も倦み、訳者も倦み、出版者も倦み、結局完結しないことになるのだろう。

 翻訳が振るわぬのは、大半の責任はもちろん翻訳家にあるが、読書界と出版界、とりわけ批評家もまた若干の責任を分かち負うべきだ。この衰運を救うには、正確な批評があって、悪いものを指摘し、よいものを奨励しなければならない。もしなければ、比較的よいものでもよい。しかしそれがどうしてできようか。悪い翻訳を指摘するのは、拳も勇もない訳者に対しては問題ないが、もし別の来歴を持つ人物の機嫌を損じれば、赤い帽子を被せられ、文字通り命を狙われかねない。この現象が、批評家をも曖昧にせざるを得なくしているのだ。

 その他、今最もよくある翻訳への不満は、何十行読んでも分からないということだ。しかしこれは区別すべきだ。もしカントの『純粋理性批判』のような書物であれば、ドイツ人が原文を読んでも、専門家でなければやはりすぐには理解できまい。もちろん、「第一行を開いたらそのまま訳す」訳者は無責任に過ぎるが、何の区別もなく、いかなる訳本でも第一行を開いたらすぐ分かることを求める読者もまた、無責任に過ぎるのではないか。

 

 (八月十四日。)

【這い上がることとぶつかること                          荀継  】

 

 かつて梁実秋教授がこう言ったことがある。貧乏人はいつも這い上がろうとする、上へ上へと這い上がり、富豪の地位に達しようとする。貧乏人ばかりではない、奴隷もまた這い上がろうとし、這い上がれる機会があれば、奴隷でさえ自分を神仙と感じ、天下は自ずと太平になるのだと。

 這い上がれる者はごくわずかだが、誰もがそれは自分だと思っている。こうして皆は分に安んじて田を耕し、地を耕し、糞を拾い、あるいは冷や飯を食い、勤勉倹約に、苦しい運命を背負って自然と戦い、懸命に這い、這い、這い上がる。しかし這う者があまりに多く、道は一本しかなく、甚だ混雑している。規則通りにまじめに這っていては、たいてい上がれない。利口な者は押すのだ。他人を押しのけ、押し倒し、足の下に踏みつけ、肩と頭を踏みつけて這い上がる。大多数の者はなおも這うばかりで、自分の仇は上にはいないと信じ、ただ傍に――一緒に這っている者たちにだけいると思っている。彼らはたいてい一切を忍耐し、両手両足を地につけ、一歩一歩上がってはまた押し下ろされ、押し下ろされてはまた上がり、休むことがない。

 しかし這う者があまりに多く、上がれる者があまりに少なく、失望もまた次第に善良な人心を蝕んでゆく。少なくとも、跪いたままの革命は起こるだろう。そこで這うことのほかに、さらに「ぶつかる」ことが発明された。

 これは、あなたがあまりに辛くて地面から立ち上がりたいと思っているのを承知の上で、背後から突然声をかける――ぶつかれ、と。しびれた足をまだ震わせながら、ぶつかってゆく。これは這うよりずっと楽だ。手も力を入れる必要がなく、膝も動かす必要がなく、ただ体を横にして一揺れすれば、ぶつかってゆける。うまくぶつかれば五十万元の大洋、妻も財も子も禄もすべて手に入る。うまくゆかなくても、せいぜい転ぶだけで、地面に倒れるだけだ。それがどうしたというのか――もともと地に伏していたのだ、そのまままた這えばよい。まして、ただの遊びでぶつかっている者もいて、転ぶことなど初めから恐れてはいない。

 這うことは古来よりある。たとえば童生から状元まで、小瘪三から買弁まで。ぶつかることは近代の発明のようだ。考証すれば、古の「お嬢様の綵球投げ」だけがいささか人にぶつからせる方法に似ているだろう。お嬢様の綵球がまさに投げ下ろされようとする時――白鳥の肉を食いたい男たちが顔を上げ、口を開け、涎を何尺も垂らしている……惜しむらくは、古人はやはり愚直で、この男たちに元手を出させようとは思わなかった。さもなくば、必ず数億万は集められたはずだ。

 這い上がれる機会が少なくなればなるほど、ぶつかりたがる人は増える。とうの昔に上に這い上がった者たちは、日々あなた方のためにぶつかる機会を製造し、少しの元手を出させて、あなた方に名利双収の神仙生活を予約させる。だからうまくぶつかれる機会は、這い上がれるよりもさらに少ないにもかかわらず、誰もが試してみたがるのだ。こうして、這ってはぶつかり、ぶつかりそこなってはまた這い……鞠躬尽力、死して後已む。

 

 (八月十六日。)

【各種の捐班                                            洛文  】

 

 清朝の中葉、官になるには金で買えた。いわゆる「捐班」とはこの連中のことだ。財主の若旦那が油ぎった丸々とした顔で、いきなり数日忙しくしたかと思えば、頭に水晶の頂珠が載り、時にはさらに藍翎まで添え、口いっぱいの官話で「今日は天気がよろしうございます」と言い出す。

 民国に至り、官には捐班はないことになっているが、しかし捐班への道は実際にはかえって広がった。「学士文人」でさえこの方法で頂戴を手に入れられるのだ。開宗明義

第一章、まず金がなければならない。金さえあれば、何でも容易に事が運ぶ。たとえば学者に捐りたければ、古董を一揃い買い集め、清客を何人か抱え、さらに職人を何人か雇って、古董の上の文様や文字を拓本にし、ガラス版で一冊の書物に印刷して「何々集古録」だの「何々考古録」だのと名づける。李富孫がかつて『金石学録』を作ったが、これは金石を研究する人物ばかりを載せたもので、しかしかえって「先例」となってしまい、清客たちが続々と続編を出し、さらに拡大して、古董を蒐集し売買する若旦那や商人まで一緒くたに入れてしまった。これが「金石家」と呼ばれるものだ。

 「文学家」に捐るにも、別に新手を使う必要はない。書店を一つ開き、作家を何人か引き込み、太鼓持ちを何人か雇い、小さな新聞を一つ出し、「今日は天気がよろしうございます」ぐらいは言えなければならぬから、それを書いて印刷し、新聞売りに渡せば、一年半載もたたぬうちに成功は間違いない。ただし、古董の文様や文字の拓本はもう使えない。代わりに映画スターとモダンガールの写真を用いるべきだ。これこそ新時代の美術なのだから。「美を愛する」人物は中国にはまだ大勢おり、こうして「文学家」や「芸術家」が生まれてくるのだ。

 官に捐れば地皮を刮ぐ望みがあるが、学者文人に捐っても損はしない。印刷物はもちろん現金で売れるし、古董もいずれ洋鬼子が大金を出してくれる。

 これがまた「名利双収」と呼ばれるものだ。ただし先に「投資」できなければならぬから、平凡な人には手が出ず、さもなくば文人学士もさほど値打ちがなくなるだろう。

 だが今なお値打ちがあるから、人名辞典を作り、文芸史を編み、作家論を出し、自伝を編むのに忙しい者がいる。思うに、もし歴史の著作をするのであれば、文人をロマン派、古典派と分けるように、別に「捐班派」を立てるべきだろう。歴史は「真」でなければならぬ。いささかの憎まれ口を招いても堪え忍ぶほかあるまい。そうではないか。

 

 (八月二十四日。)

【四庫全書珍本                                         丰之余  】

 

 現在、兵争や政争の類のほかに、もう一つ、閑人でなければさほど注意しない、影印『四庫全書』中の「珍本」をめぐる争いがある。官商は原式どおりに早急に印刷したいと言い、学界は庫本には削除や改竄があり誤りもあるから、別本が得られるなら別の「善本」で代えるべきだと主張する。

 しかし、学界の主張が通ることはなく、結局は『欽定四庫全書』に従わざるを得ない。その理由は明白で、急がねばならぬからだ。四省は見えなくなり、九島は手放され、言うまい。黄河の暴走だけでも岌々として日を終えられぬ思いにさせるに十分で、商売をするなら急がねばならない。況んや「欽定」の二字は、今なおいささかの威光を放つ。「御医」「貢緞」は衆とは異なるの意だ。とうに共和国となったフランスでさえ、ナポレオンの蔵書は競売で庶民の蔵書より高値がつく。ヨーロッパの著名な「支那学者」の中には、中国を論じるのに『欽定図書集成』を引用する者がいるが、これは中国の考証学者が手を出さぬ代物だ。しかし、「欽定」と印された「珍本」が外国では「善本」より商売がよいことは見て取れる。

 たとえ中国にあっても、商売はおそらくなお「珍本」の方がよいだろう。なぜならこれは飾りになるが、「善本」は実用に適するにすぎないからだ。このような書を買える者は貧書生であるはずもなく、買った後は必ず客間に供えるであろうことも想像に難くない。この類の買い手は、商周の古鼎を買って飾るだろう。やむを得なければ偽の古鼎でも買って飾るだろう。しかし砂鍋や鉄鍋を買って紫檀の机の上に飾ることは決してしない。なぜなら彼の目的は「珍」にあって「善」にはなく、まして実用に適するか否かにはないからだ。

 明末の人は名を好み、古書を刻むのも一つの風潮であったが、往々にして自分で読めず、誤字と思って手当たり次第に改めた。改めなければまだしも、改めると、かえって改め損じとなり、後の考証学者を首を振って嘆息させた。いわく「明人は古書を刻むを好みて古書亡ぶ」と。今回の『四庫全書』中の「珍本」は影印であるから、改め損じの弊は決してない。しかし原本にはもともと過失の誤字があり、故意の削除改竄があり、しかも新本の流布によっていっそう善本を埋没させてゆく。将来の真摯な読者がもしこのような本を偶然手にしたならば、おそらく首を振って嘆息することは免れまい

もう一度。

 しかし結局は『欽定四庫全書』に従わざるを得ないのだ。なぜなら「将来」のことは、今の官商には関わりがないからだ。

 

 (八月二十四日。)

【新秋雑識                                              旅隼  】

 

 門の外のわずかな泥地の上で、二隊の蟻が戦っている。

 童話作家エロシェンコの名は、今やすでに読者の記憶から薄れつつあるが、この時私は彼のある奇異な憂愁を思い出した。彼が北京にいた頃、真剣に私にこう語ったことがある。「私は恐ろしいのです。将来、何かの方法が発明されて、ちょっとやるだけで人々をみな戦争機械にできるようになるのではないかと。」

 実のところ、その方法はとうに発明されている。ただ比較的煩雑で、「ちょっとやる」だけでは済まないのだ。われわれはただ、外国で子供のために作られた書籍や玩具が、しばしば武器の教授を大宗とするのを見れば、これこそが戦争機械を製造する設備であり、製造は必ず天真爛漫な子供たちから着手しなければならないのだと知るだろう。

 人間ばかりではない、昆虫さえも知っている。蟻の一種にサムライアリという武士蟻がいる。自ら巣を作らず食を求めず、一生の事業は専ら別種の蟻を攻撃し、幼虫を掠奪して奴隷とし、己に服役させることだ。しかし奇妙なことに、彼らは決して成虫を掠取しない。すでに教化しがたいからだ。彼らが掠取するのはもっぱら幼虫と蛹に限り、盗窟の中で成長させ、以前のことは何も覚えさせず、永遠に愚忠なる奴隷として、服役するだけでなく、武士蟻が劫掠に出る際にはついて行き、侵略された同族の幼虫や蛹を運ぶのを手伝うのだ。

 だが人間にあっては、このように画一的に作り上げることはできない。これが人の「万物の霊」たる所以だ。

 しかし製造者もまた手を緩めはしない。子供が成長して天真を失うだけでなくぼんやりと愚鈍になるのはわれわれが常に目にするところだ。経済の疲弊により出版界は大部の学術文芸書籍を出そうとせず、教科書でなければ児童書ばかりで、黄河の決壊のように子供たちに押し寄せている。だがその中で語られているのは何か。われわれの子供たちを何に作り上げようとしているのか。戦闘的な批評家が論じたのをまだ見かけず、将来のことを気にかける者はもうあまりいないようだ。

 反戦会議の報道は日刊紙であまり見かけない。これは戦争もまた中国人の嗜好であり、それを冷遇するのはわれわれの嗜好に反している証拠だろう。もちろん戦いはすべきだ。武士蟻について行って敗者の幼虫を運ぶのも一種の奴隷の勝利と言えなくはない。しかし人は「万物の霊」なのだ。それだけでは到底足りぬ。戦いはすべきだ。戦争機械を製造する蟻塚を打ち壊し、幼児を毒す薬餌を打ち壊し、未来を陥没させる陰謀を打ち壊す――これこそが人間の戦士の任務なのだ。

 

 (八月二十八日。)

【幇閑の法を発く                                        桃椎  】

 

 キェルケゴールはデンマークの憂鬱な人で、その作品はいつも悲憤を帯びている。しかしその中にもまことに趣味深いものがあり、私はこのような数句を見た――

 

 「劇場で火事が起きた。道化師が舞台の前に立ち観客に知らせた。皆はこれを道化の冗談だと思い喝采した。道化師は再び火事だと知らせた。しかし皆はいよいよ大笑いし喝采した。思うに人の世は冗談と受け取って喜ぶ人々の盛大な歓迎のうちに終わるのだろう。」

 

 しかし私が面白いと感じたのは本文そのものだけではなくここから幇閑たちの手口を思い浮かべたからだ。幇閑とは忙しい時には助勢でありもし主人が凶悪な行いに忙しければ当然それは幇凶でもある。しかしその助け方は血の事件の中にあって血痕もなく血の臭いもないのだ。

 たとえばある事件がある。重大なことで皆もまた重大と感じている。すると彼は道化の身分で登場しこの事件を滑稽に変えあるいはとりわけ重要でない点を大げさに取り上げて人々の注意を逸らす。これがいわゆる「おどけ」だ。もし殺人であれば彼は現場の状況や探偵の努力を語る。死んだのが女であればなおのことよく「艶屍」と名づけあるいはその日記を紹介する。もし暗殺であれば彼は死者の生前の物語を語る――恋愛だの遺聞だの……。人々の熱情はもとより永遠に弛まぬわけではないが冷や水をあるいは美しく清茶と名づけたものを注げば自ずと冷めるのはいっそう速まりそしてこのおどけ役はいつしか文学者に変身するのだ。

 もし一人の人間が真剣に警告を発していれば凶手にとっては当然有害だ。ただし皆がまだ硬直していなければの話だが。しかしこの時彼はまた道化の身分で登場しやはりおどけを用い傍から鬼面を作って見せ警告者を皆の目に道化と映らせその警告を皆の耳に冗談と化す。肩をすくめて貧を装い相手の裕福さを際立たせ卑下して嘆息し相手の傲慢を暗示する。皆に「この警告者もやはり虚偽なのだ」と思わせる。幸い幇閑たちはまだ多くは男だ。さもなくば警告者にかつてどのようにからかわれたかを告げ衆前に猥語を並べ立て恥を明かすために自殺するふりまでしかねない。周囲で策を弄されればいかに厳粛な言論も力を減じざるを得ず凶手に不利な事態はこの疑惑と笑声の中で片づけられてしまう。では彼はどうなるか。今度は道徳家に変身するのだ。

 このような事件のない時は七日に一報十日に一談、廃材を収集して読者の脳に詰め込む。一年半載も読めば脳の中は某金持ちがどのように麻雀を打ったか某スターがどのようにくしゃみをしたかの逸話で一杯になる。楽しいことは確かに楽しい。しかし人の世はこの開心を歓迎する開心な人々の中で終わるのだろう。

 

 (八月二十八日。)

【登龍術拾遺                                           苇索  】

 

 章克標先生がかつて『文壇登龍術』を著したが、予約であったのに自分がいつもぼんやりしていたために拝読の幸運を逸し、ただ『論語』誌上で広告、解題、後記を見ただけだ。しかしこれはまったくどこから来た「インスピレーション」なのか、解題の冒頭第一段にすでに絶妙な名文があった――

 

 「登龍は乗龍と解することもでき、すると登龍術は龍に乗る技術となり、馬に乗り車を駆るのに類似のものとなる。しかし通常乗龍とはすなわち婿の意であり、文壇は女性ではなく婿を募るはずもないから、このような解釈はいささか誤解を招く危険があるようだ。」……

 

 なるほど広告の目次を見ても「婿入り」の項目はない。しかしこれは「智者の千慮」の一失と言わざるを得ず、いささか補遺を加えるべきであろう。なぜなら文壇は「婿を募るはずもない」が、婿の方は文壇に上ろうとするからだ。

 その術に曰く――文壇に登らんと欲せば金持ちの奥方が必要、遺産は必須、訴訟を恐るるなかれ。貧乏人が文壇に這い上がろうとすれば時に僥倖にも恵まれるが結局は甚だ骨が折れる。随筆や茶話の類を書けばいくばくかの金は稼げるかもしれないが結局は人の顔色を窺うことになる。最善は金持ちの舅家があり裕福な奥方がいて持参金を文学の資本とし笑罵は随意、悪作は自ら印す。「作品」がひとたび出れば肩書は自ずと来る。入り婿は婦家に軽んじられることもあるがひとたび文壇に登れば声価十倍、奥方も喜び独りで麻雀を打ちながら目の端も動かさぬということはなくなる。これが「相互利用」だ。だがその文人たるや必ず唯美派でなければならない。試みにオスカー・ワイルドの遺影を見よ。螺旋のボタン、象牙の杖、何と粋であることか。人見て惜しむ、まして令閨をや。惜しむらくは彼の妻が力足らず悪童と淫交し異国に窮死した。もし金があればどうしてそこまで落ちぶれようか。ゆえに登龍を欲せば乗龍もまた必要だ。「書中自ずから黄金の屋あり」はとうに古い話で今は「金中自ずから文学家あり」が時めくのだ。

 だが文壇から婿入りすることもできる。その術は常に目を配り家にいくらか金があって自ら「ああわたし悲しいわ」の類を書ける女性を探し文章を書いて新聞に載せ「女詩人」と尊称する。彼女に「知己の感」が生まれたと見れば映画のように片膝をつき「わが生命よ、ああわたしは悲しい!」と言えば――登龍より乗龍へ、さらに乗龍よりさらなる登龍へ、まことに円満だ。しかし金持ちの女詩人が必ずしも貧乏な男の文士を愛するとは限らぬから確実とは言い難い。この一法はここでは『登龍術拾遺』の附録に留め軽々しく用いぬよう幸甚である。

 

 (八月二十八日。)

【聾より唖へ                                           洛文  】

 

 医師がわれわれに教えてくれる。多くの唖者は喉や舌が話せないのではなくただ幼い頃から耳が聞こえず大人の言葉を聞けなかったために手本がなく、誰もが口を開けてウーウーアーアー言っているだけだと思い自分もまたウーウーアーアーするしかなくなったのだと。だからブランデスがデンマーク文学の衰微を嘆いた時こう言った。「文学の創作はほとんど完全に死滅した。人間のあるいは社会のいかなる問題も感興を呼び起こすことができない。あるいは新聞や雑誌の外ではいささかの論争をも惹起し得ない。われわれは強烈な独創的創作を見ることがない。加うるに外国の精神生活を摂取することに対して現在ほとんど絶対的に顧慮が払われていない。かくて精神上の『聾』はその結果として『唖』をも招来したのだ。」(『十九世紀文学の主潮流』第一巻自序)

 この数句はそのまま中国の文芸界の批評にも移し用いることができる。この現象はすべてを圧迫者の圧迫のせいにすることはできず五四運動時代の啓蒙運動者もその後の反対者もともに責任を分かち負うべきだ。前者は事功を急ぐあまりついに価値ある書籍をほとんど訳出せず後者は故意に八つ当たりし翻訳者を仲人呼ばわりした。一部の青年はさらに波を推し助け一時期は人名地名に原語を注記して読者の参照に便宜を図ることさえ「学をひけらかす」と貶されたほどだ。

 今はどうか。三間口の書店は四馬路にまだ少なくないがその中の棚には薄い小冊子ばかりが並び大部の書を求めようとすれば砂を篩って金を拾うほどに難しい。もちろん背が高くて太っているだけでは偉人ではなく多く長く書いたからといって名著ではない。ましてや「切り貼り」もある。だが小さな一冊の「何々ABC」に一切の学術文芸を包含することもまた決してできないのだ。一筋の濁流は確かに一杯の清水ほど清らかでも澄んでもいないが濁流の一部を蒸留すれば多くの杯の浄水が得られる。

 多年の空売り空買いの結果、文界は荒涼たるものとなった。文章の形式はいくらか整ってきたが戦闘の精神は以前より退いて進まない。文人は捐班や互いの持ち上げによって瞬く間に名を成すが大げさに吹くために外殻が大きくなり中身はかえっていっそう空洞に見える。そしてこの空虚を寂寞と勘違いしもっともらしく読者に語る。甚だしきに至っては己の心の腐爛を並べ立て一種の内面の宝とする。散文は文苑の中では成功した部類だが今年の選集を試みに見れば上位三編でさえ「貂足らず狗尾続く」の感を禁じ得ない。秕穀で青年を養えば決して壮大にはならず将来の成果はさらに矮小でその様はニーチェの描いた「末人」に見ることができる。

 しかし外国の思潮を紹介し世界の名作を翻訳する精神の糧食を運ぶ航路は今やほとんどすべて聾唖の製造者たちに塞がれてしまった。洋人の走狗、富家の入り婿までもがフンフンと冷笑する始末だ。彼らは青年の耳を塞ぎ聾より唖へ枯渇し矮小にさせ「末人」にしようとしている。甘んじて泥土となる作者と訳者の奮闘はすでに一刻の猶予もならぬ時に至っている。なすべきは切実な精神の糧食を力の限り運び青年の周囲に置き一方であの聾唖の製造者たちを暗闇と朱門の中へ送り返すことだ。

 

 (八月二十九日。)

【新秋雑識(二)                                       旅隼  】

 

 八月三十日の夜、遠近いたるところで突然パチパチと鳴り出し、咄嗟に考える暇もなく「抵抗」がまた始まったかと思ったが、やがてそれは爆竹だと分かり安心した。続けて思った。おそらくまた何かの節気だろうと……。翌日新聞を見て初めて昨夜が月食で、あのパチパチはわれわれの同胞・異胞が威嚇射撃をして月を天狗の口から救い出そうとしたのだと知った。

 さらに数日前の夜もまた賑やかだった。街頭巷尾いたるところに卓子が並び上には麺食や西瓜。西瓜の上には蠅や青虫や蚊の類がとまっている。さらに僧侶の卓子が一つあり口の中で念仏を唱えている――「回猪猡普米呀吽!唵呀吽!吽!!」これは施餓鬼法要で餓鬼を供養しているのだ。盂蘭盆節が来たのだ。餓鬼も餓鬼ならざる者もみな陰間から出てきて上海のこの大世界を見物する。善男善女たちはこの時に地主の誼を尽くし僧侶に託して白米の粒を数粒弾き出させみな腹いっぱい食べてくださいと招待するのだ。

 私は俗人でもとより天上や陰間のことにはあまり注意を払わないのだがこのような時になると人間界にいるわれわれの同胞・異胞の思慮の高遠さと行き届いた配慮を感じずにはいられない。他のことは言うまい。このわずか二年足らずの間に大は四省小は九島すでに旗の色が変わった。遠からずさらに八島も。救うに救いきれぬばかりか救おうとして口を開けば自分が危うくなりかねない。だから最も穏当なのは月を救うことだ。爆竹をいくら天に轟かせても天狗は決して噛みつきに来ないし月の中の酋長も出てきて禁止し反動的と見なすことはない。人を救うのも同じで兵災旱災蝗災水災……被災民は数え切れない。幸いにして一時災厄を免れた小民にいったいどんな救い方ができよう。それならば魂を救う方がよほど手間がかからず功徳が大きい。これがいわゆる「人遠き慮りなければ必ず近き憂いあり」であり「君子はその大なるもの遠きものに務む」とはまさにこのことだ。

 そのうえ「庖人庖を治めずとも尸祝は尊俎を越えてこれに代わらず」もまた古の聖賢の明訓であって国事は国を治める者がいるのだから小民が騒ぎ立てるには及ばない。しかし歴代の聖帝明王は小民を卑しむことなくかえってより高遠なる自由と権利を与えてきた。すなわち宇宙と魂を救うことに専念させたのだ。これが太平の基であり古来今に至るまで連綿と廃されず将来もまたおそらく廃されることはあるまい。思えばあれは去年のことだった。滬戦が停まったばかりで日本兵が次第に軍艦に乗り兵営に退いてゆく頃ある夜もこのようにパチパチと鳴り出した。時はまだ「長期抵抗」の最中であり日本人はわが国粋を理解せずまた第何路軍かが失地回復に来たかと思いたちまち哨を立て出兵し……騒然たること一しきり、ようやくわれわれが月を救っているのだと知り彼らは幽霊を見たのだ。「おお!ナルホド!」驚嘆と感服の余りここに平和の原状を回復した。今年は哨すら立てなかった。おそらくすでに中国の精神文明に感化されたのであろう。

 現在の侵略者と圧制者はまだ古代の暴君のように奴隷たちが取り乱したり夢を見たりすることすら許さないというのか……

 

 (八月三十一日。)

【男の進化                                              虞明  】

 

 禽獣の交合を恋愛と言うのは冒瀆の嫌いがある。しかし禽獣にも性生活があることは否定できない。春情発動期に雌と雄が出会えばどうしても「あなたあなた」といちゃつき合うことになる。雌の方が時として気取って数歩逃げてはまた振り返りいくつか鳴き声を上げ「同棲の愛」を実行するまで続ける。禽獣の種類は多くその「恋愛」の方式は複雑であるが一つだけ疑いのないことがある。雄に特別の特権があるわけではないということだ。

 人は万物の霊たり。まず男の本領が大きい。最初はまあまあやっていたが「母を知りて父を知らず」のために女たちがかつて一時期「統治」していたことがあり当時の女族長はおそらく後の族長よりも威風堂々であった。その後どういうわけか女は不運に見舞われた。首にも手にも足にも鎖が巻きつけられ輪や環がはめられた。もっとも数千年を経てこれらの輪や環はおおむね金銀に変わり真珠や宝石が嵌め込まれたがしかしこれらの首飾り腕輪指輪などは今なお女奴隷の象徴なのだ。女が奴隷となった以上男はもはやその同意を求めて「愛する」必要はなくなった。古代の部族間の戦争では捕虜は奴隷となり女の捕虜は強姦された。その頃にはおそらく春情発動期はとうに「廃止」されておりいつでもどこでも男の主人は女の捕虜女の奴隷を犯すことができた。現代の強盗悪漢の類が女を人として扱わないのは実のところ酋長式武士道の遺風を大いに受け継いでいるのだ。

 しかし強姦の技は人が禽獣より「進化」した一歩ではあるがなお半開化にすぎない。考えてみよ女が泣き叫び手足を捻じ曲げるのにどれほどの趣があろう。金銭という宝が出現してより男の進化はまことに大したものになった。天下万物はすべて売買でき性欲もまた例外ではない。男は小金を出すだけで女の身体から得たいものが得られる。しかも彼女にこう言える。「俺はお前を犯しているのではないこれはお前の自由意思だ。お前がいくらかの金を受け取りたいなら言われた通りに何でも従え。われわれは公平な取引だ!」蹂躙した上に「ありがとうございます旦那様」と言わせる。これが禽獣にできることか。だから娼婦買いは男の進化のかなり高い段階なのだ。

 同時に父母の命媒酌の言による旧式の婚姻は娼婦買いよりさらに巧妙だ。この制度の下では男は永久の終身の活ける財産を得る。新婦が人に担がれて新郎の床に載せられた時彼女には義務しかなく値段を交渉する自由さえない。まして恋愛など。愛そうが愛すまいが周公・孔聖人の名のもとに一人に従い生涯を終え貞操を守らねばならない。男はいつでも彼女を使えるが彼女は聖賢の礼教を遵守し「心の中で悪い念を起こしただけでも姦淫を犯したことになる」のだ。もし雄犬が雌犬にこれほど巧みで厳格な手段を用いたならば雌は急いて「壁を跳び越える」だろう。しかし人は井戸に身を投げ節婦貞女烈女となるだけだ。礼教婚姻の進化的意義は推して知るべしだ。

 男が「最も科学的な」学説を用いて女に礼教がなくとも心甘んじて一人に従い生涯を終えさせしかも性欲は「獣欲」であり恋愛の基本条件とすべきではないと深く信じさせかくして「科学的貞操」を発明するに至っては――これこそ文明進化の頂点であろう。

 ああ、人――男――が禽獣と異なる所以のものよ!

   自注:この文章は護道の文章である。

 

 (九月三日。)

【同意と解釈                                          虞明  】

 

 上司の行動は下僚の同意を求める必要がない。これは天経地義だ。しかし時として上司は下僚に解釈を施す。

 新進の世界的名士が言う。「原人時代にはすでに威権があった。たとえば人は動物に対し必ずそれらに人の意志への服従を強い自由な生活を放棄させた。動物の同意を求める必要はなかったのだ。」この言葉は透徹している。さもなくばわれわれはどこで牛肉を食い馬に乗れよう。人と人の間でも同じだ。

 日本の耶蘇教会の主教が最近宣言した。日本は聖書に言う天使であると。「神は日本を用いてこれまでユダヤ人を屠殺してきた白人を征服せんとす……武力をもってユダヤ人を解放し『旧約』の預言を実現する」と。これもまた明らかに白人の同意を求めてはいない。ちょうどユダヤ人を虐殺した白人がユダヤ人の同意を求めなかったのと同じだ。日本の大人方が中国で「国難」を造り出すのも中国人民の同意を求めてはいない。もっとも一部の地方の紳董が日本の大人方の同意を求めに行き地方の治安を維持してもらうのはまた別の話だが。つまるところ自由自在に牛肉を食い馬に乗るためには自らを上司と宣言し他人を下僚としなければならない。あるいは人を動物に喩えあるいは己を天使とするのだ。

 しかしここで最も肝要なのは「武力」であって理論ではない。社会学であれ基督教の理論であれいかなる威権をも生み出すことはできない。原人が動物に対して持った威権は弓矢の類の発明から生まれたのだ。理論に至っては後から考え出された解釈にすぎない。この種の解釈の効用は己の威権の宗教上哲学上科学上世界潮流上の根拠を作り出し奴隷と牛馬にこの世の公律を悟らせ一切の翻案の夢想を放棄させることにある。

 上司が下僚に解釈を施す時下僚たる者は断じてこれを同意を求められているのだと誤解してはならない。なぜならたとえ絶対に同意しなくても彼はやはり己のすることをするからだ。彼には彼の夢想があり金銀財宝と飛行機大砲の力が彼の手中にある限り彼の夢想は実現する。そして君の夢想は終に夢想にとどまり――万一実現したとしても彼は君が彼の動物主義の古い論文を剽窃したと言うだろう。

 聞くところによれば現在の世界潮流は巨大なる権力の政府の出現でありこれは十九世紀の人士の夢想だにしなかったことだという。イタリアとドイツは言うまでもなく英国の国民政府でさえ「その実権は完全に保守党一党に属する」のだ。「アメリカの新大統領が獲得した経済復興措置の権力は戦争や戒厳時期よりもはるかに大きい」。みなが動物となり上司が同意を求める必要もなくなる。これこそが世界の潮流だ。嗚呼盛んなるかなこのよき手本、学ばずにいられようか。

 ただし私のこの解釈にはいささか美中の不足がある。中国自身の秦の始皇帝が焚書坑儒を行い中国自身の韓退之らが「民、米粟麻絲を出だして以てその上に事えずんば則ち誅す」と言った。これはもとより国産品である。何もわざわざ民族主義に背いて外国の学説や事実を引用し――他人の威を借りて自らの志気を殺ぐことはあるまいに。

 

 (九月三日。)

【文人の秋の夢                                          游光  】

 

 春の夢は支離滅裂だ。「夏の夜の夢」はどうか。シェイクスピアの劇を見てもやはり支離滅裂だ。中国の秋の夢は慣例として「粛殺」であるべきで民国以前の死刑囚はみな「秋後に処決」されたがこれは天の時に順うからだ。天がそうせよと言えば人はそうするしかない。いわゆる「文人」もまた当然例外ではなく腹いっぱい食べて寝床に横になり食べ物が消化しきれなければ夢を見る。しかも今は秋だから天が彼の夢に威厳を帯びさせたのだ。

 二巻三十一期の『濤声』に「林丁」と名乗る人物から編者への手紙がありその中にこのような一段がある――

 

 「……の争いはいずれが是いずれが非か外部の者にはとうてい詳らかにし難い。しかし互いに相潰す有様は傍観者から見れば文壇全体の不幸と認めざるを得ない。……思うに各人はまず尻を百叩きにして見せしめとし余事は一切不問に付すべきだ。……」

 

 数日前にも某小新聞の署名なしの社談があった。先日の余と趙の剽窃問題をめぐる争いに対して非常に憤慨し――

 

 「……もし一朝大権を握れば私は必ずこの連中を捕えてきて苦役に服させ十年間読書させてやろう。中国文壇にもなお清浄な日が来ようというものだ。」

 

 張献忠は自ら没落しようとした時その行動は「いずれが是非か」を問わずただ殺した。清朝の官吏が原告被告の双方に対し青も赤も白も問わず各々尻を百叩きあるいは五十叩きにしたことは確かに稀にはあった。これは満州族がなお奴隷を欲し搾取するためでつまりは「林丁」先生の古い夢である。某小新聞の無名子先生はまだしもいくらか文明的で少なくとも上海工部局が下等華人を「処罰」する方法は知っているようだ。

 しかし第一の問題はどうすれば「一朝大権を握れる」かにある。文弱書生の死にかけた姿でどうして権臣になれようか。かつてならまだ駙馬に招かれて一躍飛黄騰達する望みもあったが今や皇帝はおらずたとえ顔中にクリームを塗っても永遠に公主のお目に留まることはない。せいぜい金持ちの婿入りを望めるだけだ。しかも官を買う方法もとうに廃止されており「大権」に対してはちょうど狐が高い所の葡萄に出会ったように白い鼻面を上げて見上げるしかない。文壇の完全さと清浄さはおそらくまことに望み薄であろう。

 五四の頃出版界に「文丐」が発見され続いて「文氓」も発見された。しかしこのような威風凛々たる人物は私がこの秋に上海で新たに見出したもので名づけようもないからひとまず「文官」と呼んでおく。文学史を見れば文壇にも完全で清浄な時があるが誰がこの類の「文官」たちと文壇の澄清がいささかでも関係あるのを見たことがあろうか。

 ただし夢はいつでも見られるもので幸い何の関わりもなく書いて出すのも面白い。どうぞお休みなさい、候補の若旦那方よ!

 

 (九月五日。)

【映画の教訓                                           孺牛  】

 

 私が故郷の村で中国の旧劇を見ていた頃はまだ「読書人」に教育される前の時で小さな友人はたいてい農民だった。好んで見たのはとんぼ返り虎跳び一筋の煙が上がると妖怪が現れるところで筋書きについてはあまり自分たちに関係があるようには思えなかった。隈取りの大将と老生の城の奪い合い小生と正旦の離合悲歓はすべて彼らの話であり鋤の柄を握る家の子供は自分が壇に登って将軍に任ぜられたり都に上って科挙を受けたりすることは決してないと知っていた。だが一つ感動を与えた芝居を覚えている。たしか『斬木誠』とかいう演目である高官が冤罪を着せられ殺されねばならなくなった時その家に容貌がそっくりの老家来がおり身代わりに「伏法」しに行くのだ。その悲壮な所作と歌声はまことに観客の心を打ち己の立派な手本を見出させた。なぜなら私の故郷の農民は農繁期が過ぎると大家に手伝いに行く者がいたからだ。本物らしく演じるために処刑の際に主人の奥方が例によって「抱きつき大泣き」するのだが彼に蹴り退けられる。このような時でさえ名分は厳守せねばならぬ。これが忠僕であり義士であり善人なのだ。

 しかし上海で映画を見る頃にはとうに「下等華人」になっていた。階上には白人と金持ちが座り階下には中等と下等の「華胄」が並ぶ。銀幕には白い兵士が戦い白い旦那が財を成し白い令嬢が結婚し白い英雄が冒険する。観客をして佩服させ羨望させ恐怖させ自分にはできないと思わせる。だが白い英雄がアフリカを冒険する時にはしばしば黒い忠僕が現れて道を開き奉公し命を賭け身代わりに死に主人を無事に帰宅させる。彼が第二の冒険を準備する時忠僕はもう得られずすると死者を思い出し顔を曇らせると銀幕に彼の記憶の中の黒い顔が映し出される。黄色い顔の観客もたいてい薄明かりの中で顔を曇らせる。彼らは感動したのだ。

 幸い国産映画もまた苦闘して立ち上がろうとしておりひと跳びで高壁に上り手を上げて飛剣を投げる。もっともこれも十九路軍とともに上海を退き今は正にツルゲーネフの『春の水』と茅盾の『春蚕』の上映を準備しているところだ。もちろんこれは進歩だ。しかしこの時まず大宣伝を伴って来たのは『瑶山艶史』一篇であった。

 この映画のテーマは「瑶民の開化」鍵は「駙馬招き」であり『四郎探母』や『双陽公主追狄』といった戯本を思い起こさせる。中国の精神文明が全世界を支配するという偉論は近頃あまり聞かれなくなった。開化に行こうと思えば自ずと苗・瑶の類の中に退くしかなくしかもこの大事業を成し遂げるにはまず「縁組」をしなければならない。黄帝の子孫は黒人と同じく欧亜大国の公主と縁組みすることができずだから精神文明を伝播できないのだ。これは誰もがここから理解できるだろう。

 

 (九月七日。)

【翻訳について(上)                                     洛文  】

 

 私の一篇の短文が契機となって穆木天先生の「『翻訳のための弁護』から楼訳『二十世紀のヨーロッパ文学』を論ず」が引き出された。これは私にとってまことに光栄なことでありしかもその指摘はおそらくすべて実際の誤りであろうと思う。だがその筆者の按語からもう一つ気軽に論じてもおそらく無意味ではない問題を思い出した。それはこのような一段だ――

 

 「百九十九頁に『この種の小説の中で最近学術院の選んだルイ・ベルトランの不朽の諸作が最も優秀である』とある。思うにここにいうAcademiaとはフランス翰林院を指すのであろう。ソ連は学芸発達の邦とはいえ帝国主義作家のために選集を作りはしまい。楼先生がなぜあのように注解を濫発するのか理解に苦しむ。」

 

 果たしてどの国のAcademiaなのか。私には分からない。もちろんフランスの翰林院と見るのは千万に理にかなっている。だがソ連の大学院が「帝国主義作家のために選集を作りはしない」と断定することもまたできない。十年前であれば確かにそうだった。これは物力に限りがあったためだけでなく革命の嬰児を守るためでもあり滋養のあるもの無益なもの有害なものを区別なく乱雑にその前に置くわけにはいかなかったのだ。今はもうよい。嬰児はすでに成長ししかも強壮で聡明になったからたとえ阿片や嗎啡を見せても大した危険はない。ただし一方で先覚者が指示して吸えば中毒し中毒すれば廃人となりさらには社会の害虫にもなると教えなければならないが。

 事実として私はソ連のAcademiaが新訳新印したアラビアの『千一夜物語』イタリアの『デカメロン』さらにスペインの『ドン・キホーテ』英国の『ロビンソン漂流記』を見たことがある。新聞報道ではトルストイの選集を印刷中でありゲーテの全集――より完全な全集を編纂中だと記載されていた。ベルトランはカトリックの宣伝者であるだけでなく王朝主義の代弁者でもあるが十九世紀初頭のドイツ・ブルジョワジーの文豪ゲーテと比べればその作品がより有害ということにはなるまい。だから私はソ連が彼のために選集を出すことは実に十分ありうると思う。ただしこれらの書籍の前には必ず詳しい序文があり仔細な分析と正確な批評が加えられているはずだ。

 およそ作者と読者の因縁が遠いほどその作品は読者にとって無害となる。古典的な反動的な観念形態がすでに大いに異なる作品はたいてい新しい青年の心を打つことができない(ただしもちろん正確な指示も必要だが)。かえってその中から描写の技巧作者の努力を学ぶことができる。あたかも大きな塊の砒素を鑑賞した後に得られるのはその殺人の力と結晶の姿――薬物学と鉱物学上の知識であるようなものだ。恐ろしいのはむしろ有限の砒素を食物に混ぜて青年に知らず知らず呑ませることでたとえば似て非なるいわゆる「革命文学」やことさら激烈を装ういわゆる「唯物史観的批評」がこの類だ。これこそ防備すべきものだ。

 私は青年もまた「帝国主義者」の作品を見てよいと主張する。これが古語のいわゆる「己を知り彼を知る」ということだ。青年が虎狼を見ようとして素手で深山に入るのは愚かだが虎狼が恐ろしいからといって鉄柵で囲った動物園にさえ行こうとしないのは笑うべき愚者と言わざるを得ない。有害な文学の鉄柵とは何か。批評家がそれだ。

 

 (九月十一日。)

 

 補記:この一篇は掲載されなかった。

 (九月十五日。)

【翻訳について(下)                                     洛文  】

 

 しかし私があの「翻訳のための弁護」で批評家に望んだのは実は三点である。一、悪いものを指摘すること。二、よいものを奨励すること。三、もしなければ比較的よいものでもよい。そして穆木天先生が実際に行ったのは第一点だ。その後別の批評家が次の仕事をするかどうかは考えてみればまことに大いなる疑問だ。

 だから私はさらに補足したい。もし比較的よいものもなければ悪い訳本を指摘した後でさらにその中のどの部分がなお読者に益するかを指し示すべきだ。

 今後の翻訳界はおそらくなお退歩してゆくだろう。民窮まり財尽きるのは措くとしても面積と人口を見れば四省は日本に取られ一帯は水に浸かり一帯は旱に見舞われ一帯は戦場となっている。ちょっと考えただけでも読者は大幅に減ったと知れる。売れ行きが少ないから出版界はいっそう投機的になり欺瞞を弄し筆を持つ者もそのためにいっそう投機的になり欺瞞を弄するしかなくなる。たとえ欺きたくない者がいても生計に圧迫されてどうしても以前にはなかった欠点を増す粗製乱造に走らざるを得ない。租界の住宅区近くの大通りを歩けば三間口の果物店がありガラス窓の中には鮮やかな赤の林檎真っ黄色のバナナさらに名も知らぬ熱帯の果物が並ぶ。だがしばらく立っていれば分かる――この場所に中国人はほとんど入らない。買えないのだ。われわれはたいてい同胞の出す果物の屋台に行き数銭出して腐った林檎を一つ買うしかない。

 林檎は一つ腐れば他の果物より一段とまずくなる。だが買う者はいるのだ。ところがわれわれには逆の気質もある。装身具は「純金」でなければならず人物は「完人」でなければならない。一つでも欠点があれば時に全部を要らなくなる。恋人の身体にいくつか腫れ物ができても弁護士を雇って離婚するには至るまいが作者作品訳品に対してはやはり比較的厳しい。バーナード・ショーが大きな船に乗ったからよくない。バルビュスは第一流の作家ではないからよくない。訳者は「大学教授下級官吏」だからなおのことよくない。よいものは出てこない。どうしたらよいか。私は思うやはり批評家に腐った林檎を食べる方法で急場を救ってもらうしかあるまい。

 われわれの従来の批評法はこの林檎には腐った傷があるからだめだと言って一度に捨てるものだった。しかし買い手の金は限られているのにこれでは大きな冤罪ではないか。しかも今後はさらに貧しくなるのだ。だから今後は芯まで腐っていなければこう言い添えるのがよかろう――この林檎には腐った傷があるがしかしこの部分は腐っていないまだ食べられると。こうすれば訳品の良し悪しは明白になり読者の損失もいくらか小さくて済む。

 だがこの類の批評は中国にはまだあまりない。『自由談』掲載の批評を例にとれば『二十世紀のヨーロッパ文学』に対してはもっぱら腐った傷を指摘するばかりだった。以前鄒韜奮先生編の『ゴーリキー』を批評する短文もあったと記憶するがいくつかの欠点を指摘した他には何の言葉もなかった。前者は私自身読んでいないから他に何か取るべきところがあるかは言えないが後者はかつて一通り目を通したことがあり批評者が指摘した欠点のほかに作者の勇敢な奮闘や官吏の卑劣な陰謀について多くの記述があり青年作家に大いに有益だと感じた。だが腐った傷があるために籠の外に放り出されてしまったのだ。

 だから私はさらに刻苦な批評家に腐った林檎を剜る仕事をしてほしいと望む。これは「屑拾い」のように甚だ辛い仕事だがしかし必要でありしかも万人に益するのだ。

 

 (九月十一日)。

【新秋雑識(三)                                       旅隼  】

 

 「秋が来た!」

 秋はまことに来た。晴れた日中はまだよいが夜に木綿の洋服を着ているとひんやりする。紙面は「秋」にまつわる大小の文章で溢れている――迎秋悲秋哀秋責秋……等々。時流に乗ろうと私もそのようなものを書こうとしたがどうしても書けない。思うに「悲秋」の類をしたいと思うにもおそらく福分というものが要るのだ。まことに羨ましい限りだ。

 幼い頃父母の愛護を受けていた時のことを思い出す。最も楽しかったのはちょっとした病気をすることだった。大病はいけない。痛くもあり危険でもあるから。ちょっとした病気にかかって物憂げに寝床に横になりいくらか物悲しくいくらか甘えがあり小さな苦しみと微かな甘さ、まことに秋の詩境のようだ。嗚呼江湖に流浪するようになってからは霊感も逃げ去りちょっとした病気さえしなくなった。たまに文学者の名文を眺め秋花がために顔色を変え大海がために沈黙するなどと書いてあるのを見ても自分の麻痺をいっそう感じるばかりだ。私は生まれてこのかた秋花が私のために悲しんで色を変えたのを見たことがない。風さえあれば大海はいつも唸っている。私が騒がしいのが好きか静かなのが好きかなど構わずに。

 氷瑩女史の佳作がわれわれに告げている。「晨は理科を学んでいるがこの一刹那その志向を完全に忘れ頭の中にあるのはただ自然の美景を思い切り享受するという目的だけだった。……」これもまた一種の福だ。理科は私はごく浅く学んだだけで生物学の教科書を一冊読んだにすぎない。だが花は植物の生殖器官だとか虫の鳴き声や鳥のさえずりは求愛だとかいう教えはまったく忘れられない。昨夜荒れ地を散歩して野菊の下で蟋蟀が鳴いているのを聞いた。美しい景色のように感じて詩興が湧き新詩を二行作った――

 

 野菊の生殖器の下で、

  蟋蟀がナンパしている。

 

 書いて見ると粗野な者の歌う俗歌よりはいくらか高雅であるが新詩人がインスピレーションから生み出す詩に比べればやはり「形を見て劣る」。あまりに科学的にあまりに真実に書くと雅でなくなるのだ。旧詩に改めればあるいはこれほどひどくはないかもしれない。生殖器官は厳復先生の訳法を用いれば「性官」と呼べる。「ナンパ」は私自身その語源を知らないが上海に長い者に聞けば西洋人の男女が腕を組んで歩くところから来たのだそうで異性を誘惑あるいは追求するという意味に転じた。吊とは掛けることすなわち互いに腕を抱えること。ならば私の詩は旧詩に訳せる――

 

 野菊の性官の下、

 鳴蛩は肘を懸く。

 

 かなり難解だがしかしずっと雅に見える。すなわちずっと良い。人々が分からないからこそ雅でありすなわち良いのだ。今もなお文豪になるための秘訣である。「新詩人」の邵洵美先生の類に質すにいかがと思し召されるか。

 

 (九月十四日。)

【礼                                                   苇索  】

 

 新聞を読むのは有益なことだが時として沈悶を覚える。たとえば中国は世界で国恥記念日の最も多い国でありその日になると紙面にはお決まりのように記事がいくつか論説がいくつか載る。だがこの事はまことに重なり合いすぎ長く続きすぎて千篇一律になりやすい。今回使えるものは次回も使え去年使ったものは来年もまた使えるかもしれない。新しいことがなければの話だが。あったとしても文章にすればおそらくやはり使えるだろう。どうせ言えるのはこの数句だけなのだから。だから物忘れしない人にとっては沈悶を覚え新たな啓示を見出し難い。

 しかし私はやはり読む。今日たまたま北京の抗日英雄・鄧文を追悼する記事を見た。最初は報告次に演説最後に「礼成り楽を奏して散会す」。

 ここに私は新たな啓示を得た――およそ紀念とは「礼」あるのみ。

 中国はもとより「礼義の邦」であり礼に関する書は三大部もあって外国にまで翻訳された。私は特に『儀礼』の翻訳者を敬服する。君に事えることは今さら論じなくてよいが親に事えることは当然孝を尽くさねばならない。だが没後の扱いは祭礼の中に組み入れられおのおの儀式がある。すなわち今日の忌日参り陰寿祝いの類だ。新しい忌日が加わると古い忌日は薄くなる。「新しき鬼は大にして故き鬼は小なり」だ。われわれの記念日も古い方の数件は比較的気が乗らず新しい方の数件が淡泊に帰するのは将来を待つしかない。人様の忌日参りと同じことだ。中国の国家は家族を基礎とすると言った人がいるがまことに見識のある言だ。

 中国はまた「礼讓をもって国を治む」の国であり礼あらばこそ讓りあえるのであり讓れば讓るほど礼もまた煩雑になる。つまるところこの一節は語らぬが上策だ。

 古は黄老をもって天下を治めあるいは孝をもって天下を治めた。今はおそらく礼をもって天下を治める時期に入ったのだろう。これを了解すれば民衆の記念日への淡泊を咎めるのは誤りだと知れる。『礼』に曰く「礼は庶人に下さず」と。物質的な何かを惜しむのも誤りだ。孔子は云わずや「賜よ汝はその羊を愛す我はその礼を愛す」と。

 「礼に非ざれば視るなかれ礼に非ざれば聴くなかれ礼に非ざれば言うなかれ礼に非ざれば動くなかれ」、静かに他人の「不義多く行えば必ず自ら斃れん」を待つ。これもまた礼なり。

 

 (九月二十日。)

【印象を訊く                                                         桃椎  】


 五四運動以降、中国人にはどうやら一種の新しい癖が生じたらしい。すなわち、外国の名士や金持ちが新たに訪れると、彼の中国に対する印象を訊きたがるのである。

 ラッセルが中国に来て講義をした折、急進的な青年たちが歓迎の宴を催し、印象を訊いた。ラッセルは言った、「諸君がこんなに良くしてくださるのだから、悪口を言おうにも言えませんよ。」急進的な青年たちは憤然として、彼を狡猾だと見なした。

 バーナード・ショーが中国を周遊した際、上海の記者たちが群れをなして訪問し、また印象を訊いた。ショーは言った、「私がどんな意見を持っていようと、諸君には関係のないことだ。もし私が武人で、十万の人命を殺していれば、諸君は私の意見を尊重するだろうがね。」革命家も非革命家も憤然として、彼を辛辣だと見なした。

 今度はスウェーデンのカール親王が上海にやって来た。記者諸氏は彼の印象をも発表した――「……足跡の及ぶところ、いずれも現地の官民より懇切なるもてなしを受け、感激の余り、異常に愉快であり、今回の遊覧にて得たる観感は、貴国の政府及び国民に対し、極めて良好なる印象を抱き、永遠に消えざるものなり。」これが最も穏当であり、何の是非も招くまいと私は思う。

 実のところ、ラッセルもショーも、まだ狡猾とも辛辣とも言えない方で、もしこんな外国人がいて、印象を問われた際にまず逆に問い返して、「あなた自身の中国に対する印象はいかがですか?」と言ったとすれば、それこそ筆の下ろしようのない文章であろう。

 我々は中国に生まれ育った者であるから、何か感ずるところがあっても、当然「印象」とは呼べまい。だが意見でもよいとして、その意見をどう言えばよいのか。我々は濁り水の中の魚のように、訳も分からず糊塗に生きている、と言えば意見らしくない。中国は結構なものだ、と言えば、恐らくそれも難しい。これこそ愛国者が悲痛のうちに言う所謂「国民の自信を失った」ということであるが、実際にも失われたようであって、あちこちで印象を訊くのは、まさにおみくじを引き卜いを問うに等しく、自分の心の中にまず疑念を抱いているからに他ならない。

 我々の中にも、意見を発表する者はもちろんいるが、よく見かけるのは拳もなく勇もなく、「十万の人命を殺し」たこともない、むしろ自ら「小市民」と称する者であるから、その意見も誰にも「尊重」されず、つまりみなと「関係がない」のである。地位も勢力もある大人物はといえば、在野の時にはあるいは甚だ急進的であったかもしれないが、今はどうかというと、一声も発せず、中国は「こんなに良くしてくださるのだから、悪口を言おうにも言えない」のである。当時ラッセルを歓迎しつつ、彼のあの答えに憤然とした新潮社出身の諸公の今日の姿を見れば、実にラッセルは狡猾ではなく、むしろ先見の諷刺家であって、十年後の心理をあらかじめ言い当てていたのだと感ぜざるを得ない。

 これが私の印象であり、一篇の擬答案でもあるが、外国人の口から書き写したものである。


 (九月二十日。)

【教を食う                                                         豊之余  】


 達一先生は『文統の夢』の中で、劉勰が夢に孔子に随いてはじめて文を論じたと自ら言いながら、後に僧侶となったことを嘲り、「往聖に恥をかかせた」と非難した。しかし実のところ、中国は南北朝以来、文人学士であれ道士であれ僧侶であれ、おおむね「特操なし」を特色としてきた。晋以来の名流は、一人ひとり必ず三種の小道具を持っていた。一は『論語』と『孝経』、二は『老子』、三は『維摩詰経』であり、談話の資としただけでなく、しばしば注解をも施した。唐代には三教論争があったが、やがて皆の戯談となった。所謂名儒が伽藍の碑文を幾つか書いたところで大したことではなかった。宋の儒者は道貌岸然としながら、禅師の語録を盗んだ。清はといえば、今からそう遠くないから、儒者が『太上感応篇』と『文昌帝君陰隲文』を信じ、さらには僧侶を家に招いて拝懺させたことも知り得る。

 キリスト教が中国に伝わった時、教徒は自ら信教と称したが、教外の小市民は皆彼らを「教を食う」者と呼んだ。この二字は、まさに教徒の「精神」を言い当てており、大多数の儒仏道教の信者をも包括し得るし、多くの「革命飯を食う」老英雄にも当てはまる。

 清朝の人は八股文を「敲門磚」と呼んだ。功名を得れば、門が開いたも同然で、煉瓦はもう用がないからである。近年では雑誌における所謂「主張」がこれにあたる。『現代評論』の店じまいは弾圧のためではなく、むしろこの一派の著者たちの飛躍のためであった。『新月』の凋落は、古参の社員たちが皆「這い上がって」、月と距離が遠くなったからである。この種のものを、我々は「敲門磚」と区別して、「天に昇る梯子」と呼ぶことにしよう。

 中国における「教」がこの通りでないことがあろうか。革命を説くのも一時のこと、忠孝を説くのも一時のこと、ダライラマの周りで輪を描くのも一時のこと、塔を造って主義を蔵するのも一時のこと。専ら一つだけ食うのに適した時代には、帰趨を一尊に定めるべきであり、合わせて食うのに適した時代には、諸教もまた本来異なるところはなく、一皿は丸ごとの鶏鴨、一皿は寄せ物に過ぎない。劉勰もまた然り、ただ「薑食を撤せず」から菜食に変えただけで、胃の中の分量に本来の差はなく、まして僧侶として『論語』『孝経』や『老子』に注を施しても、やはり一種の「天経地義」たるを失わないではないか。


 (九月二十七日。)

【茶を飲む                                                         豊之余  】


 某会社がまた安売りをしていたので、上等の茶葉を二両買った。一両あたり洋銀二角である。まず一壺淹れ、冷めるのが早いのを恐れて綿入れで包んだが、いざ大仰に飲もうとすると、味はいつも飲んでいる番茶と大して変わらず、色も濃く濁っていた。

 これは自分の過ちだと気づいた。良い茶は蓋碗で飲むべきなのだ。そこで蓋碗を用いた。果たして、淹れてみると、色は澄み味は甘く、微かな香りに仄かな苦みがあり、確かに良い茶葉であった。だがこれは静坐無為の折でなければならず、『教を食う』を書いている最中に引き寄せて一口飲むと、その良い味はいつしか滑り過ぎてしまい、番茶を飲んでいるのと変わらなかった。

 良い茶があり、良い茶の飲み方を知る。これは一種の「清福」である。しかしこの「清福」を享受するには、まず暇がなければならず、次に修練によって培われた特別の感覚が必要である。このごく些細な経験から思うに、もし筋力を使う労働者が喉も裂けんばかりに渇いている時であれば、龍井芽茶や珠蘭の燻片を差し出しても、白湯と何の大した違いがあるか分かるまい。所謂「秋思」なるものも実はこれと同じで、騒人墨客は「悲しきかな秋の気たるや」と感じ、風雨陰晴のいずれにも刺激を受けるが、それも一面では一種の「清福」であって、老農にとっては、毎年この時季になれば稲を刈るべし、ということを知るのみである。

 そこである人は、この繊細鋭敏な感覚は当然粗野な者には属さず、上等の人間の証だと考える。しかし私はむしろ、この証こそまさに倒産の前兆であろうかと恐れる。我々には痛覚がある。一方では苦しめられるが、他方では自衛を可能にする。もしそれがなければ、背中を刺されても何も感じず、血が尽きて倒れるまで、なぜ倒れたのか自分でも分からぬだろう。だがこの痛覚がもし繊細鋭敏になりすぎれば、衣服の小さな棘はおろか、縫い目、結び目、布の毛羽まで感じるようになり、「無縫の天衣」を着なければ、終日芒刺を背に負うがごとく、生きていけなくなる。ただし鋭敏を装う者は、もちろんこの限りではない。

 感覚の繊細鋭敏は、麻痺に比べれば当然進歩といえるが、生命の進化に資する限りにおいてである。もし関係がなく、あまつさえ妨げになるならば、それは進化の中の病態であり、やがて終幕を迎える。清福を享受し秋心を抱く雅人と、破れ衣に粗食の粗人とを比較してみれば、結局どちらが生き延びるかは明らかであろう。茶を飲み終え、秋の空を眺めて、私はこう思った――良い茶を知らず、秋思もなくとも、それはそれでよいのではあるまいか。


 (九月三十日。)

【使用禁止と自力製造                                                    孺牛  】


 新聞によれば、鉛筆と万年筆の輸入があまりに多いため、一部の地方では既に使用を禁止し、毛筆に改めたという。

 飛行機や大砲、アメリカ綿やアメリカ小麦が皆国産品ではないなどという迂遠な話はさておき、紙と筆に絞って話そう。

 また大字を書いたり国画を描いたりする名人の話もさておき、実際に事務をこなす者について言おう。こうした人にとって、毛筆はまことに不便である。硯と墨は携帯せずに墨汁に替えるとしても、墨汁とて国産品があるわけではない。しかも私の経験では、墨汁も常用できるものではなく、数千字も書けば毛筆は膠で固まって自在に動かせなくなる。もし硯を据え墨を磨り、紙を広げ筆を舐めるとすれば、例えば学生の講義ノート筆記だけを取っても、速度はおそらく万年筆の三分の一は減るだろう。彼は書き写すのを止めるか、教員にゆっくり講義してくれと頼むしかなく、つまり皆の時間が三分の一無駄になるのである。

 所謂「便利」とは怠惰ではない。同じ時間内により多くの仕事を成し遂げられるということである。すなわち時間の節約であり、一個の人間の有限な生命をより有効にすることであり、つまりは人の命を延ばすに等しい。古人は「人が墨を磨るにあらず、墨が人を磨るなり」と言ったが、これは人生が紙墨に消耗されることへの悲憤であり、万年筆の発明はまさにこの欠陥を補い得るものである。

 だがその存在は、時間を貴び生命を貴ぶ所でなければ成り立たない。中国はそうではない。だから当然国産品にはならない。輸出入には中国にも帳簿があるが、人民の数にはまだ一冊の帳簿もない。一人の人間を生み育て教育するのに、父母がどれほどの物力と気力を費やすことか。しかるに青年男女はしばしば行方知れずとなり、誰も注意を払わない。些細な時間など、なおさら問題にもならない。生きて毛筆をいじっていられる者は、むしろ幸福かもしれない。

 我々中国と同様に毛筆を使ってきた国がもう一つある。日本である。しかし日本では毛筆はほぼ姿を消し、代わりに鉛筆と万年筆が用いられ、これらの筆で習字する帖すら数多く出ている。なぜか。便利で時間が節約できるからである。では彼らは「漏卮」を恐れないのか。否、自ら製造し、しかも中国にまで輸出しているのである。

 優良なれど国産品にあらざる時、中国は使用を禁じ、日本は模倣して製造する。これが両国の截然たる相違である。


 (九月三十日。)

【手品を見る                                                         遊光  】


 私は「手品」を見るのが好きだ。

 彼らは旅芸人であるから、どこでも手品は同じである。銭を集めるために、必ず二種の必需品がある。一頭の黒熊と、一人の子供である。

 黒熊は飢えて痩せ細り、動く力すらほとんど残っていない。むろん丈夫にさせるわけにはいかない。丈夫になれば御しきれないからだ。今は半死半生だが、それでも鉄の環を鼻に通し、綱で繋いで芸をさせる。時に何か食べさせることもあるが、それは水で膨らませた饅頭の皮の小片一つで、しかも匙を高く掲げ、立ち上がらせ、首を伸ばし口を開かせ、さんざん手間をかけてやっと腹に入る。手品師はこうして幾らかの銭を集めるのである。

 この熊の出所について、中国では誰も言及したことがない。西洋人の調査によれば、幼い時に山から捕らえてきたものだという。大きいものは使えない。大きくなれば野性が抜けないからだ。だが幼いものとて「訓練」を要し、その「訓練」の方法とは「殴打」と「飢餓」であり、やがては虐待によって死に至る。この話は確かだと私は思う。まだ生きて芸をさせられている時でさえ、熊の気概すら失せるほどに痩せ衰え、ある地方では「犬熊」と呼ばれている。これほどまでに蔑まれているのだ。

 子供も舞台で苦しまねばならない。大人が腹の上に乗ったり、両手をねじ上げたりすると、子供はひどく苦しげに、ひどく困った、ひどく重そうな表情を見せ、見物人に助けを求める。六文、五文、さらに四文、三文……こうして手品師はまた幾らかの銭を集める。

 むろん彼も訓練を受けており、この苦痛は演技であって、大人との共謀なのだが、金儲けの妨げにはならない。

 午後に銅鑼を打って開場し、このようにして夜まで演じ、閉幕となり、見物人は散る。金を使った者もいれば、ついに一文も使わなかった者もいる。

 閉幕のたびに、私は歩きながら考える――二種の金儲けの道具のうち、一方は虐待されて死に至り、また幼いものを探してくる。もう一方は大きくなった後、別の子供と別の小熊を見つけ、やはり同じ手品を演じ続けるのだ。

 事は実に簡単で、少し考えれば興醒めするようだ。しかし私はやはりしばしば見に行く。他に何を見ろと言うのだ、諸君。


 (十月一日。)

【双十懐古                                                         史癖  】

 ――民国二二年、十九年の秋を見る


 小引


 「双十」の恒例の文章を書くには、まず材料を探さねばならない。探し方は二つ、頭の中からか、書物の中からか。私が用いたのは後者である。だが「描写辞典」を繙き終えても中にはなく、「文章作法」を探し尽くしてもその中にもなかった。幸いにして「吉人自ずから天の相あり」で、ついに反故の山の中から一巻の物を掘り出した。中華民国十九年十月三日から十日までの上海の各種の大小新聞の抜粋である。今からちょうど満三年前のものだが、切り抜いて何に使うつもりだったか、もう自分でも覚えていない。今日の材料のためだったのだろうか、きっとそうではあるまい。だが「廃物利用」――せっかく見つけたのだから、いくらか目録をここに書き写そう。ただし紙幅節約のため、広告・記事・電報の区別は記さず、新聞の名も省く。それらの記事は大抵どの新聞にも載っていたからである。

 見て何になるか。それも何とも言えない。もしどうしても言えと言うなら、たとえば自分の三年前の写真を見るようなものだ、とでも言っておこう。


 十月三日


 江湾競馬。

 中国赤十字社、湖南・遼西各省の急救募金を行う。

 中央軍、陳留を克復す。

 遼寧方面、副司令部の組織を準備す。

 礼県の土匪、城を屠る。

 六歳の女児、妊娠す。

 シンプソン、重傷。

 汪精衛、太原に到る。

 盧興邦、投誠の交渉を行う。

 師旅を増派して贛に入り共産党を剿滅す。

 厘金廃止、来年一月に延期。

 メキシコ、華僑を拒否。五十六名帰国。

 ムッソリーニ、芸術を提唱す。

 譚延闓逸事。

 戦士社、社員に代わりて縁談を募集す。


 十月四日


 斉天大舞台、劃期的新作『西遊記』の積極的改良を創始し、中秋節に開幕準備す。

 前進的、民族主義的、唯一の文芸刊物『前鋒月刊』創刊号、双十節に出版準備す。

 空軍、再び邕を爆撃せんとす。

 匪賊討伐の声の中の一奇譚。


 十月五日


 蒋主席、国府に電報して政治犯の大赦を請う。

 程艶秋の登場、盛況を呈す。

 衛楽園の保証金。


 十月六日


 ファン・ディーヴェンの講演小記。

 諸君、ここまでお読みなされたら、どうか虔しく南無阿弥陀仏を唱えられよ……

 皆さまお間違いです。中秋は本月六日でございます。

 趙戴文の財産差し押さえ問題。

 鄂省党部、許昌・汴梁克復を祝賀す。

 民間における党旗・国旗の濫用を取り締まる。


 十月七日


 政府の廉潔運動に呼応す。

 津浦線全線、間もなく開通の見込み。

 平津党部、まもなく恢復の見込み。

 法輪号にて倉庫番を殴殺、交渉を行う。

 王士珍の葬送記。

 馮玉祥・閻錫山配下、全面瓦解す。

 湖北来鳳の苗、双穂を結ぶ。

 冤魂祟りをなし、婚約者の命を奪う。

 鬼、人の背を打つ。


 十月八日


 閩省の戦況、なお激烈。

 八路軍、柳州の交通を封鎖す。

 アンドリュース考古隊、蒙古より北平に帰還す。

 国産品ファッション展覧会。

 南洋を揺るがした蕭信庵事件。

 学校は国文を重視すべしとの論。

 鄭州飛行機強奪事件の追記。

 譚宅の弔辞、選りすぐりを録す。

 汪精衛、突如失踪す。


 十月九日


 西北軍、すでに瓦解す。

 外交部、英国の庚子賠償金返還に関する交換公文を発表す。

 京衛戍部、犯人を銃殺す。

 シンプソン、漸く快方に向かう。

 国産品ファッション展覧会。

 上海空前未曾有のダンス遊芸大会。


 十月十日


 挙国歓騰して双十を慶祝す。

 叛逆平定、全国国慶を歓祝す。蒋主席、昨日凱旋して盛典に参与す。

 津浦路、しばらくなお分割運行を続く。

 首都にて共産犯九名を銃殺す。

 林埭、匪賊に洗劫さる。

 老陳圩の匪禍、惨酷を極む。

 海賊、豊利を騒擾す。

 程艶秋、国慶を慶祝す。

 蒋麗霞、双十を忘れず。

 南昌市、裸足を取り締まる。

 傷兵、孫祖基を怒斥す。

 今年の双十節、欣ぶべく賀すべきこと、従前にもまして甚だし。


 結語


 私もまた「今年の双十節、欣ぶべく賀すべきこと、従前にもまして甚だし」と言っておこう。


 (十月一日。)


 附記:この一篇は掲載されなかった。おそらく誰かに抜き取られたのであろう。双十の盛典に際し、「今を傷む」は固より難く、「古を懐う」のもまた容易ならざることであった。


 (十月十三日。)

【重三、旧を懐う                                                    豊之余  】

 ――一九三三年、光緒朝末を憶う


 私は過去の人々を幾らか褒めたいと思う。これはおそらく「骸骨への迷恋」ではあるまい。

 所謂過去の人々とは、光緒末年の所謂「新党」のことで、民国初年にはもう「老新党」と呼ばれていた。日清戦争の敗北により、彼らは自ら覚醒したと信じ、「維新」を図った。三四十歳の中年でさえ『学算筆談』を読み、『化学鑑原』を読んだ。さらに英語を学び、日本語を学び、舌をこわばらせて奇妙な声で朗読したが、人に対して少しも恥じるところがなかった。その目的は「洋書」を読むことであり、洋書を読む理由は中国に「富強」を図るためであった。今の古書店にもまだ時折『富強叢書』が出ることがあるが、それは今日の「描写辞典」や「ベーシック英語」と同様、あの時代の機に乗じて生まれたものである。八股出身の張之洞でさえ、繆荃孫に代作させた『書目答問』に、各種の翻訳本を精力的に加えたのだから、この「維新」の風潮のいかに激しかったかが窺える。

 しかし今は全く別の様相である。新青年の中には、境遇が「老新党」と正反対で、八股の毒は微塵も受けておらず、出身は学校であり、国学の専門家でもないのに、篆書を習い始め、詞を填め始め、人に『荘子』や『文選』を読めと勧め、封筒には自刻の印判を押し、新詩も四角い字に書く。新詩を作る嗜好を除けば、まるで光緒初年の風雅人と変わらず、異なるのは辮髪がないことと、時に洋服を着ることだけである。

 近頃よく言われる言葉に、「古い瓶に新しい酒は入れられない」というのがある。しかしこれは実は正しくない。古い瓶に新しい酒を入れることもでき、新しい瓶に古い酒を入れることもできる。信じないなら、五加皮の瓶とブランデーの瓶を入れ替えてみればよい。五加皮はブランデーの瓶に入っても五加皮のままである。この簡単な実験は、「五更調」や「攢十字」の格調にも新しい内容を盛り込み得ることを明示するのみならず、新式の青年の身体の中に「桐城の謬種」や「選学の妖孽」の手下を潜ませ得ることをも証明している。

 「老新党」の見識はいかに浅陋であったにせよ、一つの目的があった――富強を図ること。だから彼らは堅固で、切実であった。洋語の発音はいかに奇妙であったにせよ、一つの目的があった――富強の術を求めること。だから彼らは真剣で、熱心であった。やがて排満の学説が広まると、多くの者は革命党となったが、やはり中国に富強を図るためであり、この事は必ず排満から始めねばならないと考えたからである。

 排満はとうに成功し、五四はとうに過ぎ去った。そこで篆書、詞、『荘子』、『文選』、古風な封筒、四角い新詩――今やまた新たな企図を持って、「古雅」をもって天地の間に立とうとしているのだ。もし本当に立てるならば、「生存競争」に一つの新しい事例を加えることになろう。


 (十月一日。)

【「旧を懐いて」以後(上)                                             豊之余  】


 また不注意で、ちょっと旧を懐いてしまったところ、施蟄存氏の一篇『「荘子」と「文選」』を引き出すことになった。私のあの文章は自分のために書かれたものだと思いつつも、そうでないことを望んでいるらしい。

 幾つか弁明しておきたい。あの『懐旧』は施氏のために書いたものではない。しかし施氏をその中に含み得る。

 もし特定の個人に対して発言するのなら、今の流行の文体に従えば、相手の出身地や経歴や容貌、果ては故郷の産物や父親がどんな店をやっていたかまで調べて、それとなく当てこすって然るべきであろう。私のあの一篇にはそういったものは一切ない。指しているのは遺少群全体の風気であり、誰と誰を名指ししているのではない。だが指しているのが一群であるがゆえに、触れられる者も当然少なくはなく、全体でなくとも、その一肢一節であり、永遠にあの一隊に属さないにしても、時にはあの一隊に属しているのである。今、施氏自ら青年に『荘子』と『文選』を読むよう勧めたことがあると言っている以上、当然私の指摘と多少の関わりがあるが、この文が彼のために書かれたと思うのは、まことに「神経過敏」であって、私にはそうした意図は全くなかった。

 ただしこれは施氏がまだ意見を表明する前の話であり、今となってはこの「関わり」すらいささか疎遠になった。なぜなら私が指摘しているのは、もう少し頑固な遺少の群れであり、基準はもう少し高いのだから。

 今、施氏自身の解釈を見て、(一)初めて当時の事情が分かった。用紙が小さすぎたのであり、「もう少し幅があれば」もっと多くの書名を書き入れたかったとのこと。(二)初めて氏の経歴が分かった。「国語教師から雑誌編集へ」転じ、「青年の文章があまりに拙直で語彙が乏しい」と感じたため、この二冊の古書を推薦して文法を学ばせ語彙を探させたのだという、「たとえその中に既に死んだ字が多くあるとしても。」思うに、もし荘子が今日に生きていたなら、棺を割られた後には、結婚の志ある女子に皆『烈女伝』を読めと勧めたことであろう。

 もう一つ別の話を――

 (一)施氏は私が瓶と酒で「文学修養」を比喩したのは不適切だと言うが、私はそのような比喩はしていない。新しい青年に旧い思想があり得ること、旧い形式に新しい内容を盛り得ることを言ったのである。「新文学」と「旧文学」の間に截然たる分界線を引けないことは私も認めるが、しかし脱皮があり、比較的な偏向がある。そしてまさに「何をもって分界とするか」を定め得ないがゆえに、「第三種の人」の立場もまた存在しないのである。

 (二)施氏は篆書を書くことなどは個人の事であり、他人に同じことを強要しなければよいと言う。これは一見もっともに聞こえる。しかし中学生や投稿者は、自分たちの文章が拙直で語彙が乏しいのであって、他人にも語彙の乏しい拙直な文章を書けと強要しているわけではない。施氏はなぜそれに大いに感ずるところがあって、「文学を志す青年」に『荘子』と『文選』を読めと勧めるに至ったのか。科挙の試験官となって詞で士を取ることには、施氏は反対だというが、教師や編集者になるや否や『荘子』と『文選』を青年に勧める――この間にどのような分界があるのか、私には全く分からない。

 (三)施氏はさらに「魯迅先生」を持ち出して、あたかも魯迅が荘子の道統を受け継ぎ、すべての文章が『荘子』と『文選』を読んで生まれたかのように言う。「これもいささか独断ではないかと思う。」確かにその文章中には『荘子』や『文選』にもある字が多いが、たとえば「之乎者也」の類であって、これらの字は他の書物にもないわけではあるまい。もっと露骨に言えば、こうした書物から活きた語彙を探そうというのは全くの糊塗虫であって、施氏自身もおそらくそうはしていまい。


 (十月十二日。)

【備考】:


「荘子」と「文選」                                                  施蟄存


 先月、『大晩報』の編集者が表の印刷された葉書を寄こして、二項目の記入を求めた――(一)今読んでいる本、(二)青年に紹介したい本。

 第二項に私は『荘子』『文選』と書き、さらに一行注を付けた――「青年の文学修養の助として。」

 今日、『自由談』に豊之余氏の『懐旧』なる一文を見て、いささか神経過敏の気味を覚え、豊氏のこの文章は私のために書かれたのではないかと思った。

 しかし今、私は豊氏に対して何か反駁しようとは思わない。ただこの機会に自分のための弁明をしておきたいだけである。

 第一に、なぜ青年に『荘子』と『文選』を読むことを望むのかを説明すべきだろう。近年の私の生活は、国語教師から雑誌編集へと転じ、青年の文章に接する機会が実に多すぎた。つねづね感じるのは、これらの青年の文章があまりに拙直で語彙が乏しすぎるということであり、そこで『大晩報』の編集部から届いた狭い行間にこの二冊を推薦したのである。この二冊から文章の作り方を参悟し、同時にいくらか語彙を広げられると思った(たとえその中に既に死んだ字が多くあるとしても)。しかし当然、青年に皆『荘子』や『文選』のような「古文」を書いてほしいとは思っていない。

 第二に、文学を志す青年にこの二冊を読んでほしいと望んでいるに過ぎないことを説明すべきだろう。すべての文学者は必ず先行の文学に依拠するところがなければならず、「新文学」と「旧文学」の間に何をもって分界とするかが分からない。文学において「古い瓶に新しい酒」「新しい瓶に古い酒」という比喩は不適切だと思う。もし人の文学修養を酒に喩えるならば、こう言えよう――瓶の新旧は関係ない。だがその酒は醸造されたものでなければならない。

 私が文学青年に『荘子』と『文選』を勧めるのは、「醸造」を望むからであり、もし『大晩報』の編集部から届いた表がもう少し広ければ、もっと多くの書名を書き入れたかった。

 ここで魯迅先生を例に引こう。魯迅先生ほどの新文学者なら、十分に新しい瓶と言えよう。だがその酒はどうか。純粋なブランデーか。私にはそうは信じられない。古典文学の修養なくして、魯迅先生の新しい文章が今日のように見事に書けたはずがない。だから敢えて言う――魯迅先生のような瓶の中にも、五加皮や紹興老酒の成分が少なからず含まれているに違いない。

 豊之余氏が、篆書を書き、詞を填め、自刻印の封筒を使うのは、学校出身でない者や国学専門家の所業だと見なすのは、いささか独断ではないかと思う。これらは実は個人の事であり、篆書を書く者がそれで手紙を書かず、詞を填める者が官になって詞で士を取らず、自刻印の封筒を使う者が他人にも刻れと強要しないなら、豊氏が筆誅口伐して「謬種」だの「妖孽」だのと断ずるには及ぶまい。

 新文学者の中にも、木刻に凝り、版本を研究し、蔵書票を蒐集し、白話の書簡に駢体で序を書き、さらには書斎に小さな飾り物を並べる者もいる。豊氏の意見に従えば、彼らは「『今の雅』をもって天地の間に立とう」としているとでも言うのか。彼らにそのような企図があるとは思えない。

 最後に、豊氏のあの文章が私のために書かれたものでないことを望む。


 (十月八日、『自由談』。)

【「旧を懐いて」以後(下)                                             豊之余  】


 もう少し書きたい。ただし先に断っておくが、これは施蟄存氏の言葉に触発されたものではあるが、氏のために書くものではない。個人に対しては、私の原稿ではたいてい名前を挙げるが、印刷されると往々にして「某」の字に化け、あるいはあらゆる権力者の姓名、危険な語句、生殖器の俗語の共通符号「××」となってしまう。この一篇中の幾つかの字がそのように変えられないことを願う。誤解を避けるために。

 私が今言いたいのはこうである。物を言うは難く、言わざるもまた易からず。筆を弄ぶ者たちは文章を書かずにはおれず、文章を書けば災禍を免れ難い。黄河の水が脆弱な堤に攻め寄せるように、かくして腕を露わにした女と字を間違えた青年が嘲笑の的となる。彼らもまた拳も勇もなく、ただ堪え忍ぶしかない。ちょうど田舎者が上海の租界に来て、「阿木林」と呼ばれることを覚悟する以外に手がないのと同様である。

 しかしその中には冤罪もある。手近な例を一つ挙げれば、『論語』第二十六号に掲載された劉半農氏の「自注自批」の『桐花芝豆堂詩集』という打油詩である。北京大学の入試で採点官を務めた彼は、国文の答案から一つの可笑しい誤字を見つけ、それで詩を作った。あの、卒業したばかりの中学生たちは、穴があったら入りたいほどに揶揄されたのだ。むろん彼は教授であるから、指摘はすべて間違ってはいまいが、なお議論の余地があるものもあると私は思う。集中の一つの「自注」にこうある――

 「『倡明文化』と書いた者あり。余いわく、倡はすなわち『娼』の字なり。凡そ文化発達の地には娼妓必ず多し。文化は娼妓によって明らかになると謂うも、また言の理を成すなり。」

 娼妓の「娼」を今は「倡」とは書かないが、昔は二字が通用していた。劉氏の引拠は古書であろう。ただし古書を引くなら、『詩経』に「倡予和女」の一句があったと記憶するが、今に至るまで「自らも娼婦となって他人に応和する」と解した者はいないように思う。だからあの誤字は、誤りは誤りとして、可笑しくも卑しむべきものでもないのである。もう一句――

 「幸いにして『科学思想の芽を萌す』。」

 「萌」と「芽」の字の脇にはいずれも丸印が付されており、おそらく可笑しいのはここだと指し示しているのだろう。だが「萌芽」「萌蘖」は確かに名詞であるが、「萌動」「萌発」となれば動詞であり、「萌」を動詞として用いることに誤りはないように思う。

 五四運動の折、白話を提唱した人々が字を幾つか間違え、典故を幾つか誤用したとしても、怪しむに足りない。ただ一部の反対者が、白話を提唱する者は皆古書も知らず出鱈目を言う輩だと言ったために、しばしば古文も幾句か書いて彼らの口を塞いだのである。だがむろん、旧陣営から来た者は積習が深く、一朝にしては脱し切れず、古文の気息を帯びた作者がいないとは言えない。

 当時の白話運動は勝利した。戦士の中には、そのおかげで這い上がった者もいたが、這い上がったがために、もはや白話のために戦わぬどころか、それを足下に踏みつけ、古い字を持ち出して後進の青年を嘲笑するようになった。古書や古い字で人を笑うのを見て、一部の青年は古書を読むことをまた欠かせぬ功夫と思い、しばしば文語を用いる作者を模倣すべき様式と見なし、もはや新しい道から発展を図り、新しい局面を切り開こうとはしなくなった。

 今ここに二人がいる。一人は中学生で、文中に「留学生」を「流学生」と書き、一字間違えた。もう一人は大学教授で、得意満面で詩を作った。曰く――「先生は弥天の罪を犯したり、罰として西天に学を流さるべし。九流に一等を加うるに応ず、面筋を煮尽くして鍋一杯の油。」さあ見てみよう、可笑しいのはどちらの側だろうか。


 (十月十二日。)

【黄禍                                                           尤剛  】


 今日の所謂「黄禍」は、我々自身は黄河の決壊を指しているが、三十年前はそうではなかった。

 当時は黄色人種がヨーロッパを席巻せんとする意味に解されていたのであり、一部の英雄はこの言葉を耳にするや、白人から「眠れる獅子」と称えられるのを聞くのと同様に得意になり、ヨーロッパの主人になる準備を幾年も続けていた。

 ところが「黄禍」なる物語の出所は、我々の空想とは異なり、ドイツ皇帝ヴィルヘルムに由来する。彼はさらに一枚の絵を描いた。ローマ装束の武人が東方から西に来る一人の人物を防ぎ止めているが、その人物は孔子ではなく、仏陀であった。中国人は実に空喜びしたのである。だから我々が一方で「黄禍」の夢を見ている間に、ドイツ統治下の青島で目撃された現実は、一人の貧しい子供が電柱を汚したために白人の巡査に足を掴まれ、中国人が鶏鴨をそうするように逆さに吊るされて連行されたのであった。

 今ヒトラーの非ゲルマン民族排斥の思想は、方法においてドイツ皇帝と同じである。

 ドイツ皇帝の所謂「黄禍」は、我々はもう夢想しなくなった。「眠れる獅子」すら口にしなくなり、「地大にして物産豊か、人口衆多」も文章にはあまり見かけなくなった。もし獅子であれば、いかに肥大かを自慢しても差し支えないが、もし一頭の豚や一匹の羊であれば、肥大は良い兆しではない。今の我々は自分が何に似ていると思っているのだろうか。

 我々はもう考えることもなく、何の「象徴」も見出せないようだ。我々はハーゲンベックの猛獣ショーを見物し、獅子や虎が牛肉を食うのを鑑賞し、毎日一頭の牛を食うという話を聞いている。我々は国際連盟の日本制裁を賞賛し、また国際連盟が日本を制裁できないことを見下している。我々は軍縮の「平和擁護」に賛成し、またヒトラーの軍縮脱退を賞賛している。我々は他国が中国を戦場にすることを恐れ、また反戦大会を憎んでいる。我々はいまだに「眠れる獅子」のようである。

 「黄禍」は一転して「福」となり得る。目覚めた獅子も芸をするのだ。欧州大戦の時、我々には他人のために命を賭ける労働者がいた。青島が占領された時、我々には逆さに吊るされ得る子供がいた。

 だが二十世紀の舞台に我々の出番がないとすれば、それは道理に合わない。


 (十月十七日。)

【突撃                                                           旅隼  】


 「押す」と「蹴る」では一人二人しか死傷させられないが、多数を求めるなら「突撃」しかない。

 十三日の『新声』に載った貴陽通信によれば、九・一八記念日に各校の学生が集合して行進した際、教育庁長の譚星閣は事に臨んで慌てふためき、兵を派遣して各街角に配置し、さらに自動車数台を行列に向けて突っ込ませた。かくして惨劇が発生し、学生二名が死亡、四十余名が負傷した。その中で最も多かったのは正誼小学校の児童で、年齢はわずか十歳前後であった……

 私は以前、武将というものはたいてい文にも通じており、「戈を枕にして旦を待つ」時には駢体の電報を書くものだと知っていたが、今回初めて、文官であっても韜略に深く通じている者がいることを悟った。田単はかつて火牛の計を用いたが、今はそれを自動車に替えたのも、確かに二十世紀にふさわしい。

 「突撃」は最も痛快な戦法である。一隊の自動車が縦横無尽に突進し、敵を車輪の下に死傷させる。なんと手際よいことか。「突撃」は最も威武な行為でもある。操作一つで疾風迅雷のごとく駆け、相手が避けようとしても間に合わない。なんと英雄的なことか。各国の兵警は放水で突撃するのを好み、ロシア皇帝はコサック騎兵で突撃させた。いずれも迅速な挙であった。各地の租界では時に外国兵の戦車が巡回するのを見ることがあるが、これこそ従順でなければ突撃してくる代物である。

 自動車は突撃の利器とは言えないが、幸いにして敵は小学生であった。一匹の疲れた驢馬も、真の戦場ではとうてい務まらないが、若草の上を疾駆する分には、騎士が上に跨って密かに叱咤を叫んでも、まだ十分に任に堪える。もっとも見る者によっては、滑稽を免れぬだろうが。

 十歳前後の子供が謀反するとは、本来滑稽を免れぬ話である。だが我が中国は昔から神童を輩出する土地柄で、一歳にして絵を描き、二歳にして詩を作り、七歳の童は芝居をし、十歳の童は従軍し、十幾歳の童は委員になる。もとよりよくあることだ。七八歳の女の子でさえ凌辱されることがあり、他人の目から見れば「ちょうど花盛り」に等しいのだ。

 まして「突撃」の時に、もし正面に多少の抵抗力のある者がいたならば、自動車も痛快でなくなり、突撃する者も英雄的でなくなる。だから敵はいつも軟弱な者を選ばねばならない。ゴロツキが田舎の老人を欺き、外国人が中国人を殴り、教育庁長が小学生に突撃する――いずれも敵に克つに長けた豪傑というものだ。

 「身、その衝に当たる」という言葉は、以前はただの空言のようであったが、今や現実となった。しかもそれは大人のみならず、子供にまで及んだのだ。「嬰児殺戮」を一種の罪悪と見なすのは既に過去のことで、乳児を空中に放り上げて銃剣の先で受け止めるのを一種の見世物と見なす日も、おそらくそう遠くはあるまい。


 (十月十七日。)

【「滑稽」例解                                                       葦索  】


 世界文学の研究者が教えてくれるところによると、フランス人は機知に長け、ロシア人は諷刺に長け、英米人はユーモアに長ける。これはおそらく確かなことで、いずれもその社会状態に制約されている。語堂大師が「ユーモア」を振興して以来、この名辞はたいへん流行したが、一旦普及すれば危機も潜む。武人が自ら仏弟子と称し、高官が突然数珠を掛けるや、仏法は涅槃に向かうのと同じである。もし油滑、軽薄、猥褻がいずれも「ユーモア」の号を冠するならば、「新劇」が「×世界」に入って必ず「文明戯」と化すのと何ら疑いはない。

 この危険は、中国にはもともとあまりユーモアがないことに起因する。滑稽はあるが、これとユーモアの間にはなお大きな隔たりがある。日本人はかつて「ユーモア」を「有情滑稽」と訳し、単なる「滑稽」と区別したが、まさにこのためである。では中国では滑稽文章しか見出せないのか。それもまた否である。中国の自称滑稽文章なるものも、やはり油滑、軽薄、猥褻の類であって、真の滑稽とは別物である。この「狸猫を太子にすり替える」からくりは、従来自ら正経と称する言論と事実の大半が実は滑稽なものが多く、人々が見慣れて次第に当たり前と思い、油滑の類を滑稽と誤認するようになったことにある。

 中国で滑稽を求めるには、所謂滑稽文を見てはならず、むしろ所謂正経事を見なければならない。ただし少し考えてみなければならない。

 こうした名文は俯いて拾えるほどにある。たとえば新聞の至って真面目な見出し、「日中交渉漸く佳境に入る」とか「中国はどこへ行く」とか、いずれもそうであって、噛みしめてみれば、まさにオリーブのように味わい深い。

 新聞の広告に見えるものも、いくらでもある。ある刊行物が自ら「言論界の新権威」と称し、「一般の人が言いたくて言えなかったことを言う」と言いながら、一方では別の刊行物に「誤解を声明し、遺憾の意を表す」としているが、また「双方ともに社会に声望ある刊行物であるから、互いに攻撃するはずがない」とも言う。「新権威」にして「誤解」を善くし、「誤解」したのに「声望あり」とし、「一般の人が言いたくて言えなかったこと」が誤解と謝罪であるとは――これに笑わずにいるには、思索しない能力が必要であろう。

 新聞の短評に見えるものも、いくらでもある。たとえば九月の『自由談』に載った『登龍術拾遺』が、金持ちの娘の婿になることを「登龍」の一術としたところ、間もなく反撃の文章が現れ、その冒頭にこうあった――「狐は葡萄が食べられないと、葡萄は酸っぱいと言う。自分が金持ちの妻を娶れないから、金持ちの舅を持つ者すべてに嫉妬を生じ、嫉妬の結果が攻撃である。」これもまた少し考えてみなければならない。少し「結果」のことを考えれば、この筆者が「金持ちの妻」の味は甘いと知っていることを表明しているのは明白である。

 この類の妙文は、冠冕堂皇たる公文の中にも時に見かける。しかもそれを漫画化したのではなく、それ自体がもとから漫画なのである。『論語』一年の中で、私が最も好んで読むのは『古香斎』の欄である。たとえば四川営山県長の長衫禁止令に曰く――「須く知るべし、衣服は身を蔽うに足れば十分なり。何ぞ前に曳き後ろに引きて布帛を消耗するを要せん。且つ国勢衰弱にして……時艱を顧念すれば、後患何ぞ想像に堪えんや。」また北平社会局の婦女の雄犬飼育禁止令に曰く――「査するに、雌女と雄犬の同居は、健康を害するのみならず、さらに無恥なる醜聞を生じやすし。我が国の礼義の邦たる所以に鑑みるも、また習俗の許さざる所なり。謹んで通令厳禁す……凡そ婦女の飼育する雄犬は、これを斬りて赦さず、以て取り締まりとなす。」これのどこが滑稽作家に憑空で書き得るものであろうか。

 ただし『古香斎』に収められた妙文は、往々にしてなお奇詭に偏する。滑稽はむしろ平淡に如かず、平淡なればこそ、一層滑稽なのである。この基準において、私は「甘い葡萄」説を推す。


 (十月十九日。)

【外国にもある                                                      符霊  】


 凡そ中国にあるものは、外国にもすべてある。

 外国人は中国に南京虫が多いと言うが、西洋にも南京虫はいる。日本人は中国人が文字遊びを好むと笑うが、日本人も同様に文字遊びをする。無抵抗のガンディーがいれば、外国人殴打禁止のヒトラーがいる。ド・クインシーは阿片を吸い、ドストエフスキーは博打に狂った。スウィフトは枷を嵌められ、マルクスは反動と呼ばれた。リンドバーグ大佐の息子は誘拐犯に攫われた。纏足とハイヒールも、差異はそれほど大きくはない。

 ただ外国人が我々は公益を顧みず私利のみを知り金を愛すると言うのには、まだ反論の術がなかった。民国以来、多くの大統領や高官がいたが、下野した後はいずれも丸々と太って、詩を詠んだり芝居を観たり念仏したりして、食うに困らない。いかにも批判者に証拠を与えるかのようであった。ところが今日、私はついに発見した――外国にもあるのだ!

 「十七日ハバナ電――カナダに亡命中のキューバ前大統領マチャド……キューバにおける資産は八百万ドルに上り、この資産の回収を保証してくれる者には、何人であれ援助を惜しまぬ意向。また別の情報によれば、キューバ政府はマチャド及びその旧僚属三十八名に逮捕令を発し、その資産を差し押さえた。総額は二千五百万ドルに達する。……」

 三十八人もいて、資産の合計がわずか二千五百万ドルとは、手腕は高いとは言えないが、いくらか蓄財したことは確かであり、これだけでも我々の「上官」の雪辱に足る。もっとも彼らが外国に土地を購入し、外国の銀行にも別途預金しておいてくれれば、我々が外国人と折衝する際に、一層振振として理を述べ得たのだが。

 もし世界にただ一軒の家だけに南京虫がいて、他人から指弾された時は、実のところあまり気分のよいものではなかろう。だが捕ろうとすれば実に手間がかかる。おまけに北京にはある学説がある。南京虫は捕れば捕るほど殖えるというのだ。たとえ全部捕り尽くしたところで、何の価値があろうか、消極的な方法に過ぎないと。一番よいのは他の家にも南京虫がいることを望み、しかもそれを発見できればなお良い。発見――これは積極的な事業である。コロンブスもエジソンも、発見あるいは発明をしたに過ぎないではないか。

 心身を労するよりは、ダンスでも踊り、コーヒーでも飲んでいた方がよい。外国にもあるのだ。パリにもダンスホールや喫茶店はたくさんある。

 たとえ中国そのものがなくなったとしても、何を大騒ぎすることがあろうか。カルデアやマケドニアを御存じないか。――外国にもあるのだ!


 (十月十九日。)

【空振り                                                          豊之余  】


 『自由談』に私の『懐旧』と施蟄存氏の『「荘子」と「文選」』が発表されて以後、『大晩報』の『火炬』欄がさっそく論議の展開を募集し始めた。最初に寄せられたのは施氏の一通の書簡で、題して曰く『推薦者の立場』。注に「『荘子』と『文選』の論争」とある。

 だが施氏はまた「論争」をする気はないとも言い、二人が戦うのはアーク灯の下のボクサーのようなもので、見物客を楽しませるだけだと考えている。これは実に聡明な見解であり、私はこの一肢一節に賛成する。しかしさらに聡明なのは、施氏が実は手を出していないわけではないことで、退場の挨拶を述べる前に、既に何発か拳を振るっていたのだ。振るった後で飄然と去る――これこそ最も超脱した拳法である。今や一人残ったのは私だが、正面に人がいなくとも構わない。私は「逍遥遊」を打っていることにしよう。

 施氏は冒頭から私が「訓戒」を加えたと言い、さらに彼を「遺少の一肢一節」に分類したと言う。前者は誣告であり、私の文章には彼個人に対する忠告は一切ない。「遺少の一肢一節」と指したことについては、確かにその意はあるが、「遺少」とて何らさほど悪い人物ではないと私は考えている。新文学と旧文学の間に截然たる分界がないことは施氏も認めるところで、辛亥革命から今日まではわずか二十二年、民国の人に遺少の気、遺老の気、さらには封建の気が多少残っていても、さほど奇怪なことではなく、まして施氏自身が言うように「遺少とは自認しないが、確かに少年の活力は失われた」のであれば、過去の余気があるのは当然である。ただ自分で知り、他人も知っていて、伝授を少なくすることができれば、それでよいのだ。

 私は先に声明した通り、先の文章は彼個人のために書いたものではなく、しかも『「荘子」と「文選」』を見た後は、この「一肢一節」すら疎遠になった。なぜか。青年への推薦書目の中に、もう一つ極めて興味深い問題を提出する書物があったからだ――『顔氏家訓』である。この『家訓』の著者は乱世に生き、斉から隋に入った人で、一貫して胡族の勢力が盛んな時代であった。彼はその書の中で古典を論じ文章を論じ、儒者の面持ちでありながら仏に帰依し、子弟に対しては鮮卑語を学び琵琶を弾くことを望んだ――貴人すなわち胡人に仕えるためである。これはまた庚子義和拳の敗北後の達官・富豪・巨商・士人の思想でもあった。自分は念仏し、子弟には「洋務」を学ばせ、将来人に仕えられるようにする――今日でもこうした思想を抱く者は少なくあるまい。この顔氏の処世法が施氏の心を打ち、さらに青年に推薦して「道徳修養」とするに至った。氏はまた自分が今読んでいる書物として、一冊の英語の本と一冊の仏典を挙げたが、これはまさに「鮮卑語」と『帰心篇』の写しである。ただし現代は変化が急速で、先人の悠閑はなく、新旧の争いもまた激烈であるから、にわかに見当がつかず、先の二代の「道徳」を一身に萃めるしかなかったのであろう。もし青年・中年・老年にこの顔氏式道徳の持ち主が多ければ、中国社会にとっては実に深刻な問題であり、洗浄の必要がある。むろんこれは書目から連想して提出したもので、問題は個人に限ったものではなく、時代思潮の一部である。だが連ねて提出すれば表面上ある一個人にあまりにも関わるように見えるため、論及は控えておく。彼と関わり得るのは「人に『荘子』『文選』を読めと勧めた」の八字のみであり、個人に対してはなお不敬とは言えまい。だが『「荘子」と「文選」』を読むに及んで、いささか不敬の念を生じた。彼の反駁が私の予想よりもなお空虚であったからだ。それでも正経に答えたのが、すなわち『「旧を懐いて」以後』(上)である。

 しかるに施氏が、『「旧を懐いて」以後』(上)を読んだ後に書いた書簡は、彼が私の所謂「遺少」とますます疎遠であることをさらに証明した。口では拳闘はしないと言いつつ、第一段は全く私個人に向けて発せられている。いくらかここに紹介し、注解を加えよう。

 施氏は言う、「思うに、青年に新しい本を読めと勧める方が、古い本を読めと勧めるよりも多くの群衆を獲得できるだろう。」――これは、青年に新しい本を読めと勧めるのは青年のためではなく、自分がより多くの群衆を得るためだ、ということである。

 施氏は言う、「貴紙の一隅を借りて……書目を改めたい。『荘子』と『文選』を魯迅先生の『華蓋集』正続編及び『偽自由書』に改めたい。魯迅先生は当代の『文壇老将』であり、その著作には極めて広大な活きた語彙があり、しかも豊之余先生の教示によれば、魯迅先生の文章には確かに『荘子』や『文選』から出た字もあるらしい。たとえば『之乎者也』の類。かくして青年への効果も同じであろう。」――この長い話は、私が『荘子』と『文選』の推薦に反対したのは、彼が『華蓋集』正続編と『偽自由書』を推薦しなかったことを恨んだためだ、という意味である。

 施氏は言う、「もともと豊之余先生の著書も一二冊推薦したかったのだが、残念ながら書店には豊子愷先生の本しかなく、豊之余先生の本はない。魯迅先生の珂羅版木刻画のように私家精印本で、稀覯書の列に属するのかもしれぬ。自分の孤陋寡聞を恥じるのみで、推薦できなかった。」――この一段の言葉はいささか語無倫次で、どうやらこう言いたいらしい。私が『荘子』と『文選』の推薦に反対したのは、彼が私の本を推薦しなかったことを恨んだためだが、しかし私にはそもそも本がない、しかし推薦しないことを恨んでいる、滑稽の至りだ、と。

 これが「国語教師から雑誌編集に転じ」、青年に『荘子』と『文選』、『論語』、『孟子』、『顔氏家訓』を読めと勧める施蟄存氏が、私の『「旧を懐いて」以後』(上)を読んで、「もう何も書くつもりはなかった」にもかかわらず、ついに書き出した文章であり、「拳闘手」を辞退しつつ、先に他人を殴打する拳法である。だが彼は『荘子』と『文選』を読むべきだという主張のより堅実な理由を一つも提示せず、私の『懐旧』と『「旧を懐いて」以後』(上)二篇の中の誤りを一つも指摘しなかった。彼にあるのはただ、根拠のない誣告、自分の臆測、甘え、そしてとぼけだけである。古書の名目を幾つか剥がせば、「遺少」の肢節もまたそれに従って渺渺茫茫となり、ついには本性が現れた――明明白白に「洋場の悪少」に変じたのである。


 (十月二十日。)

【備考】:


推薦者の立場 施蟄存

――「荘子」と「文選」の論争


万秋先生:

 貴紙にて青年に二冊の古書を推薦したところ、不幸にして豊之余先生の訓戒を招き、「遺少の一肢一節」に分類されました。先生の『「旧を懐いて」以後』(上)なる一文を拝読して以来、もう何も書くまいと思っていました。というのも、思い返すに、新青年に新しい本を読めと勧める方が、古い本を読めと勧めるよりも多くの群衆を獲得できるからです。豊之余先生はまことに老いてなお壮んであり、青年の指導者たるに十分です。私はといえば、遺少とは自認しませんが、確かに少年の活力は失われ、この万象皆秋の環境にあっては、豊之余先生のような新精神をもってしても、我が中年の感を奮い起こすには足りないのです。そこで、貴紙の一隅を借りて、九月二十九日付貴紙に発表した青年への推薦書目を改めたく存じます。『荘子』と『文選』を魯迅先生の『華蓋集』正続編及び『偽自由書』に改めたいのです。魯迅先生は当代の「文壇老将」であり、その著作には極めて広大な活きた語彙があり、しかも豊之余先生の教示によれば、魯迅先生の文章にも確かに『荘子』や『文選』から出た字がいくらかあるらしい、たとえば「之乎者也」の類です。かくして青年への効果も同じであろうと思います。もともと豊之余先生の著書も一二冊推薦したかったのですが、残念ながら書店には豊子愷先生の本しかなく、豊之余先生の本はありません。魯迅先生の珂羅版木刻画のように私家精印本で、稀覯書の列に属するのかもしれません。自分の孤陋寡聞が恥ずかしく、推薦に至りませんでした。

 なお、豊之余先生を貴紙にご紹介したく存じます。今後、貴紙にて意見募集の類の企画がありましたら、ぜひとも豊之余先生にも一通表を送ってください。きっと価値ある意見を提供してくれることでしょう。ただし、もしその募集が「遺少の一肢一節」に関係するものであれば、私宛にお送りくだされば結構です。

 昨日の貴紙を見て、この一件を読者の討論に付す計画があると知りました。この計画を取り消していただけるようお願いできないでしょうか。常々思うに、二人が新聞紙上で文字の戦いを繰り広げるさまは、まさにアーク灯の下のボクサーのようであり、新聞の編集者はあの駆け回る痩せた審判のようであり、読者は暗がりの中の無理性の見物客です。痩せた審判はいつもボクサーに一ラウンドまた一ラウンドと打ち続けさせたがり、ついにその一方が倒れ、ワン、ツー、スリー……立ち上がれなくなると、息を切らした勝者のそばに駆け寄り、革の大手袋を嵌めた腕を掲げて叫ぶのです、「Mr. X Win the Champion.」――想像してみてください、滑稽に過ぎはしませんか。今や、不幸にして自分がこの二人のボクサーの一方になってしまいましたが、痩せた審判と見物客のためにこの滑稽劇を演じ続ける気はありません。あなたにもあの痩せた審判にならないでほしいのです。今日の『自由談』の止水先生の文章にあの俗諺が引かれているのを御覧にならなかったのですか。「舌は扁平だが、言葉は丸い。」――読者の討論から真の是非が生まれると本気でお考えですか。


施蟄存 十月十八日。

(十月十九日、『大晩報・火炬』。)


『空振り』正誤                                                   豊之余


 先日『空振り』を書いた際、手元に本がなく、『顔氏家訓』に関する箇所は記憶に頼ったが、後に誤りがないかと恐れ、何とか原書を入手して調べたところ、顔之推に関する記述に誤りがあることを発見した。その『教子篇』に曰く――「斉朝に一士大夫あり、嘗て吾に謂いて曰く、我に一児あり、年すでに十七、やや書疏に暁く、これに鮮卑語を教え、及び琵琶を弾ぜしむるに、ようやく通解せんとす。これをもって公卿に伏事すれば、寵愛せられざるなし、亦た要事なりと。吾時に俛いて答えず。異なるかな此の人の子を教うるや。もし此の業に由りて、自ら卿相に致すとも、亦た汝曹のこれを為すを願わずと。」

 しからば斉の士の方法は、庚子以後の官商士紳の方法であり、施蟄存氏は斉の士と顔氏の二つの典型を一体に合わせた者で、それはまた現在の一部の人々の方法でもある。これを「北朝式道徳」と改称しても、やはり社会上の深刻な問題である。

 顔氏に対しては、まことに深くお詫びすべきだが、彼はとうに亡くなっているので、謝罪してもしなくても関係がない。ここでは施氏と読者に対して、私の誤りを訂正するにとどめる。


 (十月二十五日。)


突囲                                                           施蟄存


 (八)豊之余先生に対して、私は確かに「何発か殴った」ことがあり、これはおそらく生涯の遺憾となろう。だが豊先生の『空振り』は、実は「空振り」しておらず、やはり私を打っている。豊先生の側に立つ文章は毎日のように私を「討伐」しており、私はまさに「一個人の受難」の感を抱いている。

 しかし『空振り』の中に、豊先生の文章の論理を発見した。彼は「私は先に声明した通り、先の文章は彼個人のために書いたものではない」と言う。だが下文には「彼の反駁が私の予想よりもなお空虚であったから」とある。私のために書いたのではないが、私が反駁することを既に予想していた――これはどう解すべきか。

 人に「指摘」されたため、『荘子』と『文選』の二冊は確かに不適切な点があると感じ、『大晩報』の編集者への書簡の中で二冊の新文学書に改めることを許可してほしいと求めた。事実はまさにこうであった。豊先生がこの二冊の新文学書を推薦しなかったことを恨んで「『荘子』と『文選』に反対した」とは言っていない。豊先生こそ、私がそうした心算でいると言うのだが、これこそ「倫次のある」話とは言えまいに。

 豊先生はまた話題を『顔氏家訓』に結びつけ、さらに私自身が読んでいる二冊の本に結びつけて一つにし、『顔氏家訓』を推薦するのは青年に鮮卑語を学び琵琶を弾いて貴人に仕えよと教えることだと言い、しかも私が身をもって手本を示して洋書を読んでいると言う。顔之推は「儒者のようでありながら仏に帰依した」から、私も仏典を読んでいるのだと言う。豊先生の解釈に従えば、私自身も思わず失笑した。天下の事はこうも巧く合うものなのか!

 確かに記憶にあるが、『顔氏家訓』に鮮卑語を学び琵琶を学べと子弟に教える話があったことは間違いない。だがその下に「亦た汝曹のこれを為すを願わず」とあったことも覚えている。つまり顔之推は子弟に外国書を読めとは勧めていないのだ。今日、豊先生は「正誤」をされたが、この話を訂正した後で、「施蟄存氏は斉の士と顔氏の二つの典型を一体に合わせた者である」と言う。これは分からない。私は他にかの「斉の士」の著作を青年に紹介したことでもあるのか。もし豊先生のこの論理が「自分で外国書を読むことは即ち人に鮮卑語を学べと勧めることだ」に基づくなら、もはや申すことはない。

 豊先生はどうやら儒家のために正統を争おうとする人物のようだ。さもなくば、なぜ顔之推が仏教の影響を受けたことをかくも卑しむのか。なぜ私自身が一冊の『釈迦伝』を読むことにかくも不満なのか。ここで二点を挙げておきたい。(一)『顔氏家訓』一書の価値は『帰心篇』によって完全に抹殺し得るものか。しかも顔氏は仏教のために弁護したとはいえ、出世を鼓吹したわけでも現実を逃避したわけでもない。仏家と儒家の並行し得る点を列挙し、仏家の報応説をもって儒家の道徳教訓の不足を補ったに過ぎず、これは現代人が『聖書』や『コーラン』の言葉を引くのと同じとも言える。(二)私が一冊の『仏本行経』を読むことの意義は、一冊の『ムハンマド伝』や『キリスト伝』を読むのと同じであり、仏に帰依する心もなく、ましてや人に仏教を勧める行いもない。それを豊先生は私の「処世法」だと言う。妙なる哉その言や。手元にある某先生が金を捨てて上梓した『百喩経』を取って、同志と仰ぎたくなるではないか。

 以前、豊先生に対しては文章上いささか意気を闘わせすぎたきらいはあるが、確かに敬意は表していた。しかし『空振り』を見るに至り、彼は遂に私を「洋場の悪少」と罵った。切歯の声が聞こえんばかりである。私は「悪」であっても、相応の悪声をもって報いるほどには悪くなりたくはない。私は、既成の詩句を借りて言えば、「十年一覚文壇の夢、洋場悪少の名を贏ち得たり」であり、もとより軽重に足りない。だが豊先生にとっては、やがて後悔されるであろうと思う。今日、『「空振り」正誤』を読むに、豊先生の所謂「根拠のない誣告、自分の臆測、甘え、とぼけ」なる言葉が、そのまま自分自身の「写照」として残されたことに気づくのだ。

 (附注)『大晩報』のあの二つの見出しは私自身が付けたものではない。私には「立場」もなく、また私の故に『荘子』と『文選』の二書が喧嘩することを望まない。


右、豊之余先生に答う。(二十七日。)

(十月三十一日、十一月一日、『自由談』。)

【「兼ねて示す」に答う                                               豊之余  】


 先日『空振り』を書いてからは、『「荘子」と「文選」』の類についてはもう言うつもりはなかった。翌日、『自由談』に施蟄存氏の『黎烈文先生に致す書』が載っているのを見た。これも私への「兼示」であったから、もう少し述べておこう。施氏が私に反駁した三項は、いずれも的を射ていないと感じるからだ――

 (一)施氏は言う、「新青年にさえ旧い思想があり得、旧い形式にも新しい内容を盛り得る」のであれば、自分のような「遺少の群の一肢一節」の旧い思想も存して論ぜずに済むはずであり、しかも『荘子』のような古文を書いても差し支えない、と。むろん、そう書きたければ「差し支えない」とも言える。宇宙がそれで崩壊するわけではない。だが今の青年が、白話を措いて敢えて『荘子』を熟読し、その文法を学んで文章を書く必要はないと私は終始考える。存して論ぜずということもむろんできるが、論じたところで何の差し支えがあろうか。施氏は青年の文法が拙直で語彙が乏しいことや、私の『懐旧』を「存して論ぜず」にはしなかったではないか。

 (二)施氏は「詞をもって士を取る」ことと青年に『荘子』と『文選』を読めと勧めることには、「強制」と「献上」の区別があり、私の比喩は正しくないと言う。だが施氏は国語教師をしていた頃、学生の作文について、『荘子』の文法と『文選』の語彙に富むものを佳文としたかどうか、編集者になってからも、そうした作品を上選としたかどうか、知りたいものだ。もしそうであれば、「試験官」になった暁には、『荘子』と『文選』をもって士を取ることになろう。

 (三)施氏はさらに魯迅の言葉を引いて言う。魯迅はかつてこう言った――一、「中国の本を読まなければ、その結果は文章が書けなくなるだけのことだ。」これは、文章が書けるようになるには中国の本を多く読むべきだと認めたことになる。二、「……旧いものをやろうとするなら、さしあたり張之洞の『書目答問』によって門径を探るのがよかろう。」これで古書を読むことに反対していなかったと分かる、と。だが施氏は時と環境を無視している。彼が一を言った時は、まさに多くの人が白話文を書くにも古書を読まねばならぬと大声で叫んでいた時であり、あの数句はそうした人々に向けて発されたものだ。たとえ彼らの言う通りであっても、文章が書けなくなるだけで、古書を読みに行けばかえってそれ以上の害がある、という意味である。二についていえば、明らかに旧文学を研究する青年を指定しており、施氏の主張のように一般に及ぶものとは大いに異なる。もし中国の上古文学史をやろうとするなら、我々は『易経』や『書経』も読まねばならないではないか。

 実のところ、施氏があの書目を記入した時、私が推測するほど厳粛ではなかったという話は、むしろ本当だろうと思う。考えてみよう。もし本当にそのような青年後学がいて、命に従い一番苦労を重ねた末に、『荘子』の文法、『文選』の語彙を用いて、『論語』『孟子』と『顔氏家訓』の道徳を発揮する文章を書いたとすれば、「これは滑稽に過ぎはしまいか。」

 しかし私のあの『懐旧』は厳粛なものである。「群衆を多く獲るため」でもなく、施氏が『華蓋集』正続編及び『偽自由書』を推薦しなかったことを恨んだのでもない。ましてや別の「動機」があるわけでもない。たとえば学生時代に点数を少なく付けられたとか、投稿して原稿を没収されたとか、今ここで私怨を晴らそうなどということは断じてない。


 (十月二十一日。)

【備考】:


黎烈文先生に致す書             施蟄存

――兼ねて豊之余先生に示す


烈文兄:

 先日電車で束の間お会いしましたが、民九社の書店で目をつけていた本を買いに行きたかったので、王家沙で下車してしまいました。しかし結局その本は値段が合わず買えず、あなたともう少し話す機会を失っただけに終わり、甚だ残念です。

 『荘子』と『文選』の問題については、もう何も言うつもりはありません。そもそも当時、『大晩報』編集部から届いた表を記入した時は、豊先生の意見が読み取るほど厳粛なものではありませんでした。すべての青年が必ずこの二冊を読むべきだと言ったのでも、すべての青年がこの二冊だけを読めばよいと言ったのでも、この二冊だけを推薦したかったのでもありません。おそらく新聞副刊の編集者が新しい趣向を加えたかっただけで、記入する側もたいてい何か読んで損はない本を思いつくままに書いたに過ぎません。この一筆がこれほどの文字紛争を引き起こすと分かっていたなら、『大晩報』副刊の編者・崔万秋氏が土下座しても書かなかったでしょう。今日、『濤声』第四十号に曹聚仁氏の私宛の手紙を見ました。最後の一文は、「この二冊より青年に有益な本はないのですか。敢えて問う。」――この一問にはまったく笑うべきか泣くべきか分からなくなりました。(曹聚仁氏の手紙の態度は甚だ真摯であり、返信を差し上げるつもりです。おそらく氏が『濤声』に掲載されるでしょうから、御一読ください。)

 豊之余先生にはもうこれ以上冒涜する気はありませんが、『懐旧』(上)の中の三点の「別の話」についてはなお若干の意見があります――

 (一)豊先生は言う、「新青年にさえ旧い思想があり得、旧い形式にも新しい内容を盛り得る。」然り。新青年にさえ旧い思想があり得るなら、私のような「遺少の群の一肢一節」の旧い思想も存して論ぜずに済むはずだ。また旧い形式にも新しい内容を盛り得るなら、『荘子』のような古文を書いても差し支えあるまい。その内容如何を見ればよいだけのことだ。

 (二)豊先生は、私が青年に『荘子』と『文選』を読めと勧めることと「科挙の試験官が詞で士を取る」こととの間にどんな分界があるか分からないと言うが、実は明らかに分界がある。前者は一己の意見を青年に供するもので、受け入れるか否かは青年の自由に属する。後者は一つの階級全体を代表し、ほとんど青年全体に詞を填めることを強制するものである。

 (三)魯迅先生の文章が『荘子』と『文選』から出たと言ったのは、確かに滑稽であるが、私がそう言った覚えはない。私の文章で魯迅先生を例に挙げたのは、ただ、青年が古書から文学修養を得ることに反対しない魯迅先生に味方になってもらいたかっただけである。魯迅先生は一貫して青年に外国書を多く読めと勧めてきたが、それは外国書から思想鋭利な青年を訓練できると考えたからである。私のように文章作法の観点から青年のために考える場合には、魯迅先生は古書を読むことに反対していない。二つの証拠を挙げよう。一、「中国の本を少なく読めば、その結果は文章が書けなくなるだけのことだ。」(北新版『華蓋集』第四頁参照。)二、「旧いものをやろうとするなら、さしあたり張之洞の『書目答問』によって門径を探る方がよかろう。」(北新版『而已集』第四十五頁参照。)

 さて、ここで「帯住」とすべきでしょう。『大晩報』副刊の編者には一通の手紙を差し上げ、豊之余先生の好意を尊重して、推薦書を別の二冊に換えることを許していただきたいとお願いしました。曹聚仁氏にもう一通返信を書く以外は、この『荘子』と『文選』の問題について言うべきことはもうありません。私はかつて『自由談』紙上で何度か文字の争いを見ましたが、いつも争えば争うほど意気にかられ、本題からますます離れ、果ては参加者の動機すら疑わしくなることが常でした。自分が知らず知らず渦中に巻き込まれるのは御免です。だからもう何も言いません。昨夜、既成の偈語を借りて――


 此れも亦た一つの是非 彼れも亦た一つの是非

 唯だ是非の観なくんば 庶幾くは是非を免れん


 篆書の書ける方はいらっしゃいませんか。一筆お願いして、白壁に張りたいのですが。


施蟄存上。(十九日。)

(十月二十日、『申報・自由談』。)

【中国の文と中国人                                                   余銘  】


 最近、一冊の優れた翻訳書が出版された。カールグレン著『中国の言語と文字』である。カールグレン先生はスウェーデン人で、本姓はコロクルン(Karlgren)。なぜ「高」姓を名乗るのか。それは疑いなく中国化したからである。彼は確かに中国語文学に多大な貢献をしている。

 だが、彼は中国人についてはさらに研究があるらしく、そのため彼は文語を大いに崇拝し、中国の文字を崇拝して、中国人にとって不可欠のものだと考えている。

 彼は言う――「近頃――按ずるにカールグレンのこの本は一九二三年にロンドンで出版された――いくつかの新聞が白話の使用を試みたが、大した成功を収めなかった。しかもおそらく多数の定期購読者を怒らせもしたろう。あたかも彼らが文語の新聞を読めないとほのめかしているかのようだと思われたからだ。」

 「西洋各国には多くの役者がおり、芝居の最中にほとんどいつでも多くの『洒落』を挟み込める。また典故を乱引する著者も少なくない。だが皆これを低俗な趣味と認めている。中国ではまさに逆で、高妙にして文雅、絶技を示すところと認められている。」

 中国の文の「曖昧な箇所について、中国人は困難を感じないどころか、むしろそれを養成しようとしている。」

 だがカールグレン先生自身はそのために侮辱を十分に受けた――「本書の著者は、親愛なる中国人と話す際、相手が自分に言ってくれることは完全に理解できた。しかし彼らが互いに話す時は、ほとんど一句も分からなかった。」これはむろん、あの「親愛なる中国人」たちが、彼には上流社会の話が分からないとほのめかしたのである。なぜなら「外国人が中国に来て少し注意すれば気づくことができる――自分は普通人の言葉には通じたが、上流社会の談話に至っては依然として何のことか分からないのだと。」

 そこで彼は言った――「中国の文字は美しく愛らしい貴婦人のようであり、西洋の文字は有用だが美しくない下女のようだ。」

 美しく愛らしいが無用な貴婦人の「絶技」とは、「洒落」を挟む曖昧さにある。これによって西洋第一流の学者でさえ、せいぜい中国の普通人に匹敵する程度にとどまり、上流社会に這い上がることは到底できない。かくして我々は「精神的に勝利した」のだ。この勝利を保つには、高妙にして文雅な語彙がなければならず、しかも豊富でなければならない。五四白話運動の「大した成功を収めなかった」原因は、おそらく上流社会の人々が、文語が読めないとほのめかされることを恐れたためであろう。

 もっとも、「此れも亦た一つの是非、彼れも亦た一つの是非」――我々はやはり曖昧にしておくのがよかろう。さもなくば、かえって困難を感じることになるだろうから。


 (十月二十五日。)

【猛獣訓練法                                                       余銘  】


 最近、さらに極めて有益な講演があった。ハーゲンベック・サーカス団の支配人シュヴェートが中華学芸社の三階で「いかにして動物を訓練するか」を語ったのである。惜しいことに私は傍聴する幸運に恵まれず、新聞で筆記を少し見ただけだ。だがそこにはすでに十分に多くの警辟な言葉が含まれていた――

 「野獣は武力や拳骨で対処し圧迫すればよいと思う人がいるが、それは間違いである。それは昔の野蛮人が野獣を扱った方法であって、今の訓練法はそうではない。」

 「今我々が用いる方法は、愛の力によって動物から人間への信頼を勝ち取ることであり、愛の力、穏やかな心情をもって感化することである。……」

 これらの言葉は、日耳曼人の口から出たものとはいえ、我が聖賢の古訓とまことによく合致する。武力拳骨で対処するのは、所謂「覇道」である。しかし「力をもって人を服するは、心服にあらず」であるから、文明人は「王道」を用いて「信頼」を得なければならない。「民は信なくんば立たず」と。

 だが「信頼」を得た後は、猛獣は芸をやらされることになる――

 「訓練者が動物の信頼を得た後は、訓練に取りかかることができる。第一段階として、座る場所、立つ場所を覚えさせることができる。さらには溝を跳び越えさせ、立ち上がらせることもできる……」

 獣を馴らす法は民を治める法に通じるから、我が古人もまた民を治める大人物を「牧」と呼んだ。しかし「牧す」るものは牛羊であって、猛獣より臆病だから、「信頼」のみに頼る必要はなく、拳骨も併用して差し支えない。これが冠冕堂皇たる「威信」である。

 「威信」によって仕立てられた動物には、「溝を跳び、立ち上がる」程度では足りず、結局は毛角血肉を貢ぐしかない。少なくとも毎日乳を搾り出す――牛乳や羊乳の類を。

 しかしこれは古法であって、現代をも包括し得るとは、私には思えない。

 シュヴェートの講演の後、余興もあったと聞く。「東方大楽」や「毽子蹴り」などだそうだが、新聞の記述が粗略で詳しいことは分からなかった。さもなくば、私の思うに、おそらくこれもまた大いに意味があったことだろう。


 (十月二十七日。)

【反芻                                                           元艮  】


 『荘子』と『文選』に関する議論について、一部の刊行物では、もはや全員が研究すべきか否かという問題を直接取り上げず、別のことに話をすり替えている。彼らは、『文選』に反対する者が自ら古文を書き古書を読んだことを嘲笑しているのだ。

 これは実に鋭い。おそらく所謂「子の矛をもって子の盾を攻む」であろう――失礼、また「古書」の出番だ。

 牢獄に入ったことのない者にどうして牢獄の真相が分かろうか。権力者に従って、あるいは自ら権力者として、先に電話をかけてから参観に出かける者は、看守が非常に温和で、囚人が英語で自由に話しているのを見るだけだ。詳しく知ろうとすれば、その人は以前の看守か、釈放された囚人でなければならない。むろん彼にはまだ悪癖が残っているが、牢獄に入るなという忠告は、名士が模範刑務所の教育と衛生がいかに完備しており貧乏人の家よりよほどましだなどと言う話よりも、遥かに信ずるに足る。

 しかるに牢獄の匂いが自分に染みついていれば、牢獄が悪いとは言えないのだという。看守も囚人も悪人であり、悪人に良い言葉はあり得ない。良い人が牢獄を良いと言ってこそ、良い言葉なのだ。『文選』を読んで無用だと言うのは、『文選』を読まずして有用だと言うのに如かず。「反『文選』」に反対する諸君子はむろん大半が読んでいるが、読んでいない者もいる。一例を挙げよう――「『荘子』は四年前に読んだことはあるが、当時はまだ完全には読みこなせなかった……『文選』は全く見たことがない。」しかし結びにはこう言う、「浴槽の水が汚れたからといって、赤子まで一緒に捨てようとは、賛同しかねる。」(『火炬』参照。)彼は水中の「赤子」を守ろうとするが、「浴槽の水」を見たことがないのだ。

 五四運動の時、文語の擁護者は、白話文を書く者は皆文語文も書けるのだから、古文も読むべきだと言った。今、古書の擁護者は、古書に反対する者もまた古書を読み文語を書いているのだから――主張の滑稽さは明らかだ、と言う。永遠に反芻し、自らは嘔吐できない。おそらく本当に『荘子』を読み透したのであろう。


 (十一月四日。)

【厚きに帰す                                                       羅憮  】


 洋場において、一瓶の硝酸を憎い女にかけるという事は、とうに絶えた。穢物を憎い弁護士に浴びせるという風習は、二箇月続いただけだった。最も長く続いたのは、流言を捏造して憎い文人を中傷することで、これが何年も続いていると言えば、少なすぎることはあっても多すぎることはあるまい。

 洋場にはもとより暇人が少なくなく、「白食い」でさえ暮らしてゆけるのだから、まして時には麻雀を幾回か打てばなおさらだ。小婦人のひそひそ話も、暇潰しにならないはずがない。私も流言専門誌を常々読む一人であるが、読むのは流言そのものではなく、流言作家の手管である。どれほど奇抜な空想をし、どれほど風変わりな描写をし、どれほど険悪な陥穽を設け、どれほど巧みに正体を隠すか。流言を作るにも才能が要る。もし巧みに作るならば、たとえ私自身の流言であっても、その腕前を愛でるだろう。

 だが残念ながら大抵はこうした才能がなく、作者は流言文学の世界でもやはり「濫竽充数」である。これは私一人の私見ではない。文壇の裏話を語る小説は流行らず、某外史も続けられなくなったのが、人々が既に首を振っていることの証拠だ。来る日も来る日も同じ手口では、いかに記憶が悪くとも聞き飽きるものだ。続けたければ才能が必要であり、さもなくば客席は空になり、演目を替えて客を呼ばねばならない。

 たとえば、前に演じたのが『殺子報』であったなら、今度は『三娘教子』でなければなるまい。「老旦那さまよ、ああ、ああ、ああ!」

 文壇もまさに戯場のごとく、果たして次第に「民の徳、厚きに帰す」ようになった。自ら事務担当者の交替を声明し、以前は「作家秘史を掲載し、文壇の佳話なれども忠厚を傷つくる嫌いあり。今後当刊はこの種の原稿の掲載を中止す。……以前の言責は……一切これを負わず。」(『微言』参照。)「忠厚」のために「佳話」を犠牲にするのは、惜しいことだが、また敬すべきことでもある。

 とりわけ敬すべきは事務担当者の交替であろう。その「一切これを負わず」を敬するのではなく、その徹底ぶりを敬するのだ。昔も「屠刀を下ろして立地に成仏す」る者はいたが、「官印を下ろして立地に念仏し」、ついには「念珠を下ろして立地に官になる」者もいたから、この手の遊びではもはや天下に大信を示すには足りず、人に事を処理させるにはいささか難儀である。

 だが、さらに難儀なのは、忠厚文学は流言文学ほどには読者を号召し得ないことで、したがってより大きな才能の作家が必要だが、にわかに見つからなければ刊行物の色あせは免れない。思うに、いっそ以前ふざけていた二枚目の道化に長い髭をつけて老生役を演じさせた方が、しばらくの間はむしろ一風変わって面白かろう。


 (十一月四日。)


 附記:この一篇は発表できなかった。

 (翌年六月十九日記す。)

【糊塗なること難し                                                    子明  】


 篆書の話が出たので、鄭板橋が一つの印章を持っていたことを思い出した。「難得糊塗」の四字が刻んであった。あの四字の篆書は手足を広げたように刻まれ、いくらかの名士の牢騒を表していた。これで分かるように、印章を刻り篆書を書くことも、一定の風格を反映しているのであって、木刻に「遊ぶ」ことなどと同様、「ただの個人の事」では済まないのだ。「謬種」と「妖孽」は篆書を書いてさえ、いくばくかの「妖謬」を帯びるものである。

 しかし風格と情緒、傾向の類は、人によって異なるだけでなく、事によっても異なり、時によっても異なる。鄭板橋が「難得糊塗」と言った時、実のところ彼にはまだ糊塗であり得た。今や「仕官を求めて得られざるは悲しむに足らず、隠棲を求めて身を隠す地を得ざる者は、それ天下の至哀にあらずや」という時代に至っては、実に糊塗であろうとしても叶わなくなった。

 糊塗主義、是非の観なし云々――本来これは中国の高尚な道徳である。これを解脱とか達観とか言うのだろうか。必ずしもそうではない。彼は実のところ何かを固執し、何かを堅持している。たとえば道徳上の正統、文学上の正宗の類を。これはついに口に出された――道徳は孔孟に「仏家報応の説」を加え(老荘は別帳で計上)、他人が仏教の影響を「卑しむ」と言えば「儒家の正統を争おうとしている」と断ずる。元来、同善社の三教同源論が既に正統であったのだ。文学はと言えば、生渋な字、修辞、濃繊な作品を求める。しかも新文学の作品でありながら、「新文学と旧文学の分界を否認」する。大衆文学は「むろん賛成だが」、「文学の傍流の一つに過ぎない」と。正統と正宗は明白である。

 人生への倦怠は少しも糊塗ではない! 生きた生活がかくも「窮乏」していながら、青年に「仏家報応の説」の中に、『文選』、『荘子』、『論語』、『孟子』の中に修養を求めさせようとする。やがて修養は消え、ただ語彙だけが残った。「自然の風景、個人の感情、宮殿建築……の類は、まだ『文選』の類の書から探して使っても差し支えない。」昔、厳幾道はどこかの古書――おそらく『荘子』だろう――から「幺匿」の二字を見つけてUnitを訳した。古雅にして音義双関である。だが後に通用したのは「単位」であった。厳老先生のこの類の「語彙」は実に多いが、大半は復活させようがない。今や「漢以後の詞、秦以前の字、西方文化がもたらした字と詞を組み合わせて我々の光芒ある新文学を成し得る」と言う者がいる。この光芒がもし字と詞にのみあるなら、おそらく古墓の中の貴婦人のように、全身が珠の輝きに包まれていることだろう。だが人生は組み合わせにあるのではなく、創造にある。幾千万の生きた人間が創造しているのだ。恨めしいのは、人生がかくも騒然として忙しく、一部の人を「身を隠す地を得ず」に追いやり、字と詞の中に逃げ込んで「庶幾くは是非を免れん」としようとさせることだが、それもまた叶わない。本当に篆書を書いて印章を刻るしかなくなったのだ!


 (十一月六日。)

【古書に活きた語彙を探す                                              羅憮  】


 古書に活きた語彙を探すとは、口では言えても実行できない。彼がその古書の中に活きた語彙を一つでも探し出せるかどうか。

 仮に「『文選』を読むべき青年」がここにいるとして、つまり高校生の何人かだとしよう。彼が『文選』を開き、一心に活きた語彙を探す。もちろんその中に既に死んだ字があることは承知している。だがどうやって字の死活を区別するのか。おそらく自分が分かるか分からないかを基準にするしかない。だが六臣の注を見てから分かった字は算に入らない。これは元来死体であって、六臣が彼の脳に背負い込んだものにすぎず、算入するなら生きた人のものだが、「『文選』を読むべきでない青年」の目にはやはり死んだものである。だから彼は白文を見なければならない。

 確かに、注を見ずとも分かるものがあり、それこそ活きた語彙である。だがなぜ彼はそれを先に分かっていたのか。きっと以前に他の書で見たか、あるいは今なお使われている語彙だったからだ。それなら『文選』一冊から何が見つかったのか。

 ところが施氏は、宮殿の類を描写する時に役立つと言う。これはなるほど正しい。『文選』には宮殿について述べた賦が多く、ある殿の専門の賦さえある。もし青年が漢晋の歴史小説を書いて当時の宮殿を描写するなら、『文選』を繙くのは極めて当然であり、さらに『四史』や『晋書』の類も見なければならない。しかし僻字を取り出すのも死体を担ぎ出すにすぎず、神秘的に言えば「復活」と名づけるだけのことだ。もし描写するのが清の故宮であれば、『文選』との縁はきわめて薄い。

 もし清の故宮すら描写するつもりがなく、しかし準備の功夫はこれほど広範にするのなら、それは実に徒労でしかもなお足りない。なぜなら『易経』や『儀礼』もあり、その中の語彙は周代の卜筮や婚喪の大事を描写する時に役立つのだから、これも「文学修養の根基」としなければ、「文学青年」の体裁にならないのだ。


 (十一月六日。)

【「商談」で決まる文豪                                                白在宣  】


 筆先も尖っており、穿り込もうとする。言路の狭さは、今や生きる道と同様であるから(以上十五字、掲載時には「他に穿り込む所がない」とされた)、文芸雑誌の広告の誇大ぶりに向かって、一刺しするしかない。

 雑誌の広告を一瞥すれば、著者は一人残らず文豪であり、中国文壇もいかにも光芒万丈のように見えるが、一方では鼻の穴からフンフンという声も招いている。だが一生をかけて著述し、名山に蔵して考古隊の発掘を待つような作家は、今やとうにいなくなった。自ら著し自ら彫り、薄い一冊に綴じて友人に配る詩人にも、もうあまり出会わない。今は先週原稿を書き、次の週に新聞に載り、先月切り抜いて、翌月に本にする。大抵はただ原稿料のためだけである。作者が腹を空かせて社会に奉仕していると言えば、おそらく言うのも面映ゆかろう。原稿料を必要とする者を笑う高士ですら、その嘲笑の文章にも原稿料を受け取るのだ。もちろん別途給与のある者や、女の持参金で養われている文豪は、この類に属さない。

 おおむね言えば、根は金儲けであるから、上海の各種各様の文豪が「商談」によって決まるのは、「久しきかな、一日のことにあらず」である。

 商人がある種の原稿を印刷し終えると、もしその時封建が優勢なら、広告にはその著者を封建文豪と謳い、革命が流行なら革命文豪と謳う。かくして一群の文豪が封ぜられる。別の商人の本も出来上がり、別の広告が、あの著者は真の封建文豪でも真の革命文豪でもなく、こちらこそ本物だと言い、かくしてまた一群の文豪が封ぜられる。さらに別の商人が各種の広告の論戦を集めて印刷し、一人の著者が批評を加え、新たな文豪が一人誕生する。

 もう一つの方法は、一組の配役を組み合わせること。詩人を何人か、小説家を何人か、批評家を一人。相談の上で何々社を立ち上げ、広告を出し、あちらの文豪を打倒し、こちらの文豪を持ち上げれば、結果もまた一群の文豪が封ぜられる。これもまた一種の「商談」である。

 おおむね言えば、根は金儲けであるから、後になれば書の値段がおのずと文豪の真価値を指し示す。定価の二割引き、五角で一山、ということも珍しくない。ただし一つ例外がある。店が閉まり作品が叩き売りされても、文豪が末路を辿ったわけではないことがある。彼らは既に「這い上がって」、大学に入り衙門に入り、もうこの踏み台は要らなくなったのだ。


 (十一月七日。)

【青年と老子(おやじ)                                         敬一尊  】


 聞くところによると、「慨(なげ)かわしくも欧風東漸以来」、中国の道徳は悪くなったそうで、とりわけ近頃の青年は、往々にして老子(おやじ)を馬鹿にするという。これはおそらく実に大きな間違いで、私はいくつかの実例を見て、老子(おやじ)というものが青年にとって、時に確かに大いに役に立ち、大いに有益であって、単に「文学的修養」の助けとなるにとどまらないと感じた。

 ある古い文章——何の書に出ていたか忘れたが——に、かつて一人の道士がいて、不老長生の術を持ち、自ら百余歳と称し、見たところ「冠玉の如く美しく」、二十歳前後のようであったと書いてある。ある日、この活き仙人が盛大に客をもてなしていると、突然白髪白髯の老人がやって来て金をせびったので、彼はその老人を罵り追い出した。皆が驚き怪しんでいると、活き仙人は慨然として言った。「あれは私の倅です。私の言うことを聞かず、修道しようとしないので、ご覧の通り、六十にもならぬのに、あんなにみっともなく老けてしまったのです。」皆は自然と深く感動したが、後になって、あの人は実は道士の老子(おやじ)であったと分かった。

 さらに新しい文章——楊某の自白——がこう教えている。彼は志ある人物で、学説は極めて正しく、空論を述べるだけでなく実行もしたが、あちこちの老人たちがひどく苦しんでいるのを見ると自分の老子(おやじ)を思い出し、たとえ理想が実現しても父親を御大尽にはできず、やはり苦しみ続けねばならないと悟った。そこでより正しい学説を得て、もとの理想を捨て、孝行息子に転じたのだ。もし両親が早死にしていたら、学説があれほど円満で堂々たるものになっただろうか? これもまた老子(おやじ)が青年に与える恩恵ではないか?

 ならば、とうに老子(おやじ)を亡くした青年には手の打ちようがないのか? 私はそうは思わない、方法はある。やはり古い本を調べねばならない。別の文章——これも何の書に出ていたか忘れたが——が教えるところでは、ある老女が物乞いをしていると、突然大金持ちが現れ、彼女を久しく生き別れた母親だと言い、彼女も成り行きに任せて御母堂におさまった。後に息子が娘を嫁がせるにあたり、御母堂と一緒に宝石店に金細工を買いに行き、御母堂が気に入った品を自分で持って行って奥方に見せると言い、一方で御母堂にはまだ品選びを続けてもらい、——ところが、彼はそれきり姿を消した。

 もっとも、これはまだあの道士式の、現物が必要な時の手口で、もし単に自白の類をするだけなら、実のところ老子(おやじ)がいようがいまいが大した関係はない。以前「虚君共和」を提唱した者がいたが、今また「親なき孝子」があっても何の差し支えがあろう? 張宗昌は孔子を大いに崇めているが、おそらくお屋敷に『四書』や『五経』があるかどうかは怪しいだろう。


 (十一月七日。)

【後記】


 この六十余篇の雑文は、弾圧を受けた後、昨年六月から、さまざまな筆名を用い、編集者と検閲官の目を眩まして、『自由談』に陸続と発表したものである。間もなくまた、「霊感」に富むという「文学者」たちに吹聴され、隠し通せなくなる勢いであった。もっとも、彼らの嗅覚に基づく判断は、時に事実と合致しないこともあったが。しかし改悛の情に乏しい人間は、結局のところ身を隠しおおせるものではなく、半年と経たぬうちにさらに激しい弾圧を受け、十一月初めまでお茶を濁したものの、ついに筆を擱かざるを得なくなった。私の筆墨が、仮面を被り指揮刀の下から身を挺して現れる英雄たちには、とうてい敵わぬことが証明されたのだ。

 文章を書かなくなると旧稿の整理に取りかかり、年末には一冊の本に貼り合わせ、当時削除されたり発表できなかったものもすべて加えた。分量から見ると、以前の『偽自由書』よりやや多い。今年三月になって印刷に付そうと思い、序文を一篇書き、ゆっくりと組版し、校正し、気がつけばまた半年が過ぎ、筆を擱いてからすでに一年余りが経っていた。光陰は実に飛ぶように速いが、私が恐れるのは、私の雑文がまるで今のこと、いやさらには来年のことを語っているかのようであることだ。


 『偽自由書』が出版された時、『社会新聞』にかつて批評があり、私があの本を印行した本意は、まったく一本の尻尾――『後記』のためだと言っていた。これは実は誤解である。私の雑文が描くのは常に一つの鼻、一つの口、一本の毛であるが、合わせればほぼ一つの形象の全体となり、何も加えなくとも差し支えない。しかし尻尾を一本描き添えれば、一層完全に見える。だから私が後記を書こうとするのは、筆を弄する者としてどうしても筆を動かしたいという以外に、この一冊に描いた形象をより完全な一個の具象たらしめたいからであって、「まったく一本の尻尾のため」ではない。

 内容もやはり以前と同じく、社会の現象、とりわけ文壇の情況を批評している。筆名を頻繁に変えたので、当初は平穏無事であった。しかし「江山は改め易く、稟性は移し難し」で、自分がついに大人しくしていられないことは分かっていた。「序の解放」は曾今可に触れ、「豪語の値引き」は張資平の怒りを買い、その他知らず知らずのうちに何やら偉い方々の気に障ったらしいが、自分でも知らない。しかし「各種の官位売買」と「登竜術拾遺」を書いた後、この事件はにわかに大事になった。


 昨年八月頃、詩人邵洵美先生が経営する書店から『十日談』なる雑誌が出た。この詩人は第二号(二十日発行)で、得意然と「文人無行」を論じ始め、まず文人を五類に分け、次のように結論した――


 上述の五類のほかにも、もちろん多くの他の典型がある。しかし文人たる所以は、つまるところ飯が食えないか、食えても腹が満たぬからである。文人になるのは官吏や商人になるのとは違い、元手はさして要らない。筆一本、墨少々、原稿用紙数枚、これが用意すべきすべてである。元手なしの商売は誰もがやりたがり、だから文人が多いのだ。これこそ、職がないから文人になるという事実である。

 我々の文壇はこの種の文人によって組織されている。

 彼らは職がないから文人になったのであるから、目的はやはり職にあって文人にあるのではない。文芸宴会の名目で懸命に大物に取り入り、文芸雑誌や付録欄の地盤を使って懸命に自分の宣伝をし、ただ有名になることだけを求め、恥を顧みない。

 ところが、いったん文人となれば文人と目され、文人と目されれば、もはや他の職を得る望みはなく、この手合いは永遠に文壇で騒ぎ回ることになる。


 たしかに文人は貧しい者が多く、言論や創作が弾圧されて以来、飯が食えなくなった作家もいる。そして邵洵美先生はいわゆる「詩人」であり、有名な大富豪「盛宮保」の孫婿でもあるから、汚物を「この手合い」の頭上に浴びせるのは、もとより至極平凡なことだ。だが私が思うに、文人になることは「大葬式」とはいささか異なり、いくら大勢の太鼓持ちを雇って銅鑼を叩かせ道を開けさせても、過ぎ去れば空っぽの通りが残るだけで、「大葬式」には及ばない。大葬式なら数十年後でも、まだ何人かの俗物が語り伝えることがある。極貧では文は巧みになり得ない、しかし金銀もまた文章の苗ではなく、それはむしろ長江沿いの土地でも買うのが良い。ところが金持ちの子弟はえてして、金で鬼を使えるなら文もものにできると思い違いをする。鬼を使うのはおそらく確かで、神をも通じさせられるかもしれないが、文を通じさせることはできない。詩人邵洵美先生ご自身の詩がその証拠である。私のあの二篇のうちの一段は、官位は金で買えても文人は金で買えない、裙帯(コネ)の官吏はいても裙帯の文人はいないということを説明したものだ。

 しかし、たちまち加勢が現れた。しかも堂々たる『中央日報』(九月四日および六日)にである――


 女婿問題                                            如是


 最近の『自由談』に、二篇とも女婿に言及した文章がある。一篇は孫用の「満足と書けないこと」、もう一篇は葦索の「登竜術拾遺」。後者は九月一日掲載、前者は手元にないが、掲載は八月下旬頃だろう。

 葦索先生は言う。「文壇は女婿を募集しはしないだろうが、女婿は文壇に上がりたがるものだ。」後の句「女婿は文壇に上がりたがるものだ」は、立論がまことに堅固で、つけ入る隙がない。我々の祖父は人の女婿であり、我々の父も人の女婿であり、我々自身もやはり人の女婿である。たとえば今日文壇に「北面」して座す魯迅、茅盾の輩もみな人の女婿であるから、「女婿は文壇に上がりたがる」のは問題にならない。しかし前の句「文壇は女婿を募集しはしないだろう」、この言葉はまったく立ち行かない。私は文壇はいつでも女婿を募集していると思う。多くの中国の作家は今やロシアの女婿になってしまった。

 さらに言う。「富める岳家あり、金持ちの奥方あり、嫁入り持参金を以て文学資本と為す……」妻の持参金を文学資本にできるとは、この人は敬服すべきだ。妻の金で文学資本にするのは、妻の金で他のあらゆる不正なことをするよりはましだからだ。そもそも万事に元手は必要で、文学も例外ではなく、金がなければ印刷費も払えず、雑誌も単行本も出せない。だから書店を開き雑誌を出すには、みなが私財を出し合うのであり、妻の金も当然私財の一つだ。しかも富家の女婿であることは罪悪ではない。新聞社の社長の親戚であることが罪悪でないのと同じだ。もし新聞社の社長の親戚が、帰国後遊び暮らし、親戚の看板を頼んで付録欄を一つ奪って編集するなら、富家の女婿が趣味に近いところから妻の持参金を少々文学資本にしても、当然差し支えない。


 「女婿」の蔓延                                        聖閑


 狐が葡萄に手が届かず酸っぱいと言い、自分が金持ちの妻を娶れないとなると、富める岳家を持つ者すべてに嫉妬を抱き、嫉妬の結果は攻撃となる。

 仮に人の女婿となったとして、文人でいてはならぬのか? 答えは当然肯定で、先日如是先生が本欄の「女婿問題」で述べた通り、今日文壇で最も名声のある魯迅、茅盾の輩は、一方で文人であり、一方でやはり人の女婿である。ただし文人であると同時に人の女婿たり得るなら、その女婿は貧しい岳家に属すべきか、富める岳家に属すべきか? この点については、あの古参作家たちはまだ出て来て主張しておらず、結局「富傾」が正しいのか「貧傾」が正しいのか分からないが、『自由談』の類の寄稿者たちが富める岳家の女婿を攻撃する以上、我々には、少なくとも富める岳家の女婿はもう文壇に足を踏み入れるべきでないかのように感じられ、「富める岳家の女婿」と「文人」はあたかも両立しないもの、二者択一であるかのようだ。

 目下の中国文壇にはこのような現象があるらしい。文人その人が文壇上で努力した成果を検査するまでもなく、ひたすら斤斤として文人の家庭の瑣事を追及する。富い妻か貧しい妻かの類だ。もし今日書店を開いたとなれば、その元手が妻の持参金かどうか、一部の目敏い文人がわざわざ調査し聞き回り、それを攻撃や嘲笑の種にする。

 思うに将来の中国文壇は、きっとこんな状況にまで進歩するだろう。陳嘉庚のゴム靴を履く者のみ文壇に上がれ、革靴を履けば貴族階級に属し、攻撃される列に入る、と。

 現在、外国帰りの留学生で失業者は非常に多い。帰国後に付録欄を一つ編集するのも恥ずべきことではなく、その編集が親戚関係によるかどうかはなおさら問題にならない。親戚の効用は本来こういうところにある。文壇の掃除を己が任と自負する人々が、もし相手がたまたま自分の聞きたくない一言二言を口にしたからといって、徒党を組んで反攻するのは、まったく無用のことだ。常に他人を「狂吠」と罵る者は、自分こそ「狂吠」の列に堕ちぬよう気をつけるべきだ。


 この二人の筆者はいずれも富家の女婿崇拝者だが、如是先生は凡庸で、祖父、父親、魯迅、茅盾を引き合いに出した挙句、結局は「魯迅はルーブルを貰っている」という使い古しを繰り返しただけだ。おどけの名手は聖閑先生で、私がまったく思いもよらなかった詩人の奥方の話にまで持って行った。芝居の二枚目の太鼓持ちの手助けが、かえって色男の醜態を際立たせるのに使うのがまさにこの手法で、私は後に「滑稽例解」にも引用した。

 しかし殿様のお屋敷には辣腕の謀臣もいる。今年二月、私は日本の『改造』誌に三篇の短論を書いた。中国、日本、満洲を諷刺したものだ。邵家の軍勢は「今度こそ仕留めた」と思ったのだ。同じくこの甘い葡萄棚から生まれた『人言』(三月三日発行)誌上で、訳者と編者を演じて見せた。訳者はその中の一篇「監獄を談ず」だけを訳して『人言』に投稿し、しかも前に「附白」、後に「識」を付けた――


 監獄を談ず                                          魯迅


 (頃(このごろ)日文雑誌『改造』三月号を閲し、我が文壇の老将魯迅翁の雑文三篇の掲載を見る。翁が中国語にて発表せる短文に比し、一層精彩を見る。因って之を迻(うつ)し訳して『人言』に寄す。惜しむらくは訳者未だ迅翁の住所を知らず、内山書店主人丸造氏に問うも、亦(また)詳らかならずと言い、先ず訳稿を氏に正すこと能わざるを憾(うら)む。但し翁の署名のまま発表を請い、原作尊重の意を示す。――訳者井上附白。)

 人は確かに事実に啓発されて新たな覚醒を得、そしてまた物事はそれによって変革される。宋代から清朝末年まで、長い長い年月にわたり、もっぱら聖賢に代わって立言する「制芸」の文章で人材を選抜・登用していた。フランスとの戦に敗れて初めてこの方法の誤りを知り、留学生を西洋に派遣し、兵器製造局を設立して改善の手段とした。日本との戦にも敗れた後、これではまだ足りぬと知り、今度は大々的に新式の学校を設立した。すると学生たちが毎年大いに騒擾を起こした。清朝が覆り、国民党が政権を握った後、またもや誤りを悟り、その改善手段は――監獄の大量建造であった。

 国粋式の監獄は、我々には古来各地に早くからあり、清末にも多少の西洋式、いわゆる文明監獄を建てた。あれは特にわざわざ中国に旅行する外国人に見せるために造ったもので、外国人との交際のために礼儀作法を学ばせに派遣する留学生と同類と言うべきだ。囚人はその恩恵にあずかってやや良い待遇を受け、入浴もでき、一定量の食事も出るので、まことに幸福な場所だ。しかも二、三週間前、政府は仁政を行わんとして、囚人の口糧を切り詰めてはならぬとの命令を発した。以後はさらに幸福となるはずだ。

 旧式の監獄はといえば、仏教の地獄に範を取ったかのようで、単に犯人を拘禁するだけでなく、苦しめる責任をも持っている。時には犯人の親族から金を搾り取り、赤貧にする職務をも担う。しかも誰もがそれを当然と思っている。もしそうでないと考える者があれば、犯人を幇助したとして、犯罪の嫌疑をかけられずにはおかない。だが文明の程度は大いに進歩し、昨年ある官吏が提唱して、犯人を毎年一度帰宅させ、性欲解消の機会を与えるのは人道的だと言った。正直に言えば、彼は犯人の性欲に特に同情しているのではなく、決して実行される見込みがないからこそ殊更大声で言い、自分が官吏たることを示しているのだ。しかし輿論は大いに沸騰した。ある批評家は、そんなことをすれば皆が監獄を恐れなくなり、喜んで入ろうとするだろうと、世道人心のために大いに憤慨した。聖賢の教えをかくも久しく受けながら、なおあの官吏ほどには狡猾でないのは安心させられるが、犯人を虐待せざるべからずという信念だけは、これで明らかだ。

 別の面から考えると、監獄は確かに「安全第一」を標語とする人々の理想郷に幾分似ている。火災は少なく、泥棒は入って来ず、匪賊も決して略奪に来ない。戦争が起きても、監獄を目標に爆撃する馬鹿者はおらず、革命が起きれば、囚人を釈放した例はあっても殺戮した例はない。今回の福建独立の際には、囚人を外に釈放した後、意見の合わぬ者が行方不明になったという噂があったが、こうした例は前代未聞だ。とにかく、さほど悪い場所ではなさそうだ。家族の同伴さえ許されるなら、現在が水害、飢饉、戦争、恐怖の時代でなくとも、転居を願い出る者は決して皆無ではあるまい。だから虐待が必要なのであろう。

 牛蘭夫妻は赤化宣伝の罪で南京の監獄に収容され、三、四回のハンガーストライキを行ったが、何の効き目もなかった。中国の監獄精神を理解していなかったからだ。ある官吏は、本人が自ら食べたくないと言っているのに他人に何の関係があるかと、この事を甚だ怪しんだ。仁政に関係しないのみか、食費の節約となり、かえって監獄側に有利だ。ガンディーの芸当は、場所を選ばなければ失敗に帰する。

しかし、このようにほぼ完璧に近い監獄にも、まだ一つの欠点が残っている。以前は思想上のことにあまり注意を払わなかったのだ。この欠点を補うため、近頃新たに「反省院」なる特殊な監獄が発明され、教育が施されている。私はその中で反省したことがないので、内部の事情は詳しくないが、要するに犯人に常時三民主義を講授し、自らの過ちを反省させるのだ。しかも排共論文を書かねばならない。もし書こうとしないか書けなければ、当然、一生反省し続けなければならないが、出来が悪くても、やはり死ぬまで反省だ。目下、入る者もいれば出る者もいるが、反省院はなお新設されているから、入る者の方がやはり多い。試験を終えて出てきた良民にも稀に会うことがあるが、大抵は萎びて枯れ果てた様子で、おそらく反省と卒業論文に心力を使い果たしたのだろう。前途は絶望的だ。

 (この他に「王道」と「火」の二篇あり、もし編者先生が掲載に値するとお考えなら、改めて訳して寄せましょう。――訳者識。)


 姓こそ日本人を騙ったが、訳文はまことにお粗末で、学力は邵家の幇間専門家・章克標先生程度にすぎない。しかし文章はもとより真面目に訳す必要はなかったのだ。肝心なのは後ろに付いた編者名義の回答だからだ――


 編者注:魯迅先生の文章は、最近発禁処分の対象となっている。本稿は日文からの翻訳であり、軍事裁判を免れ得るであろう。しかし我々がこの稿を掲載する目的は、文章そのものの精美や議論の透徹のためというよりは、むしろ本国から迫逐されて外国人の威権の下に庇護を求める者の論調の一例を挙げんがためである。魯迅先生は本来文章が極めて巧みで、強弁しても筋が通ったように聞こえるが、この文を通覧すれば、意気が議論に勝り、捏造が実証に勝る。訳筆の誤りでなければ、この種の態度は到底我が取らざるところなり。この一篇を掲げ、文化統制治下の呼声の一斑を見る。「王道」と「火」の二篇は再び掲載せず、訳者に転言す、寄来するに及ばずと。


 この編者の「外国人の威権の下に庇護を求める」という言葉は、訳者の「内山書店主人丸造氏に問う」と呼応しており、しかも「軍事裁判」を持ち出すのも筆者の極めて高い手腕で、そこには甚だ深い殺意が含まれている。私はこの富家の子の鷹犬を見て、明末の権門に身を売り投じた輩がいかに陰険であったかをより深く知った。彼らの主公たる邵詩人は、アメリカの白人詩人を讃える文章の中で黒人詩人を貶め、「この種の詩は恐らくアメリカの外には出て行くまい。少なくとも英語圏の外には出て行くまい。」(『現代』五巻六号)と言った。私は中国の富貴人とその鷹犬の目には、黒人奴隷にも劣るかもしれないが、私の声は外に出て行ったのだ。これが最も憎むべき点だ。だが実際には、黒人の詩もまた「英語圏」の外に出て行った。アメリカの富豪もその女婿もその鷹犬も、どうすることもできないのだ。

 しかしこの種の鷹犬の、この面目は、「魯迅先生の文章は、最近発禁処分の対象」である私に向けた時にだけ見せるものであって、たちまち一つ頬を張ってやりさえすれば、彼らはパグ犬よりもなお従順になる。ここに、やはり「滑稽例解」でも触れた、昨年九月二十一日の『申報』に載った広告を引いておこう――


 『十日談』、『晶報』に対し誤解を声明し遺憾の意を表す


 敬啓者。十日談第二期短評に朱霽青亦将公布捐款の一文あり、後段に晶報に及ぶは誤解に属す。本刊措辞の善からざるがため、晶報をして邵洵美君に対し刑事自訴を提起せしめたるも、按ずるに双方とも社会に声誉ある刊物にして、互いに攻撃する理なし。茲に章士釗、江容平衡の諸君の詮釈を経て、すでに晶報の完全なる諒解を得たるをもって、晶報が自ら訴訟を撤回する外、特にここに登報声明して遺憾の意を表す。


 「双方とも社会に声誉ある刊物にして、互いに攻撃する理なし」、この「理」はまことに奇妙で、おそらく攻撃すべきは「最近発禁処分の対象」の刊物ということなのだろう。金を骨髄にしても、やはり背筋は伸ばせないのだと、ここに鉄の証拠を見た。


 「女婿問題」に紙面を使いすぎたので、別の一件に跳ぶ。すなわち「『荘子』と『文選』」である。

 この事件のやり取りの文字はすでに本文に収めたので、これ以上多くは語らない。他人の議論も紙面節約のため、すべて切り貼りを省いた。当時『十日談』も大いに腕を振るい、漫画家まで出馬し、陳静生先生の一幅「魯迅翁之笛」のために、『涛声』で曹聚仁先生とちょっとした論争の小波が立った。しかし論争が終わらぬうちに『涛声』はすでに発禁になった。福のある人にはいつまでも福の星が照らすものだ……

 しかし時光は容赦しない。いわゆる「第三種人」、とりわけ施蛰存と杜衡こと蘇汶は、今年になるとそれぞれ本来の面目を現した。

 今度は最後の一篇に触れよう。弊害は新しい典故を用いたことに起因する。

 聞くところでは、今では古典を引用しても検閲官に禁じられることがあるそうで、例えば秦の始皇帝に言及するだけで駄目だという。だが昨年はまだ差し支えなかった。ただし新典を用いると小さな騒ぎが起きやすい。私の最後の「青年と老子(おやじ)」は、楊邨人先生に触れたため(掲載時にはその名前はすでに編集者に削除されていたが)、後に『申報』本埠増刊の『談言』(十一月二十四日)に妙な文章を一篇引き出すこととなった。かなり難解で、どうやら私が孝子を自任しながら彼が孝子であることを攻撃し、「井に落とし」かつ「石を投げた」ということらしい。これは我々の「改悛せる革命家」の模範的作品ゆえ、捨てるには惜しく、謹んで全文を録する。あわせて楊先生が実は現代の「語録体」作家の先駆であることを示し、私の『後記』のささやかな余興としよう――


 聡明の道                                           邨人


 昨夜、世故老人をその廬に訪ぬ。廬は三層の楼にして、街に面して立つ。電車がちんちんがたがた、自動車がぶうぶうと、市井の喧騒人を煩わせど覚えず、儼然として隠者の如く、居処晏如として、道を悟ること深し。老人曰く、「汝来りて何事ぞ?」対えて曰く、「敢えて聡明の道を問う。」話に主題あり、遂に問答を成す。

 「難(かた)きかな、聡明の道や! 孔門の賢人顔回の如きは、一隅を挙ぐれば三隅をもって反す。孔子はその聡明の人に過ぐるを称えたり。今の世にありて一隅を挙ぐれば三隅をもって反す者、なお聡明の人に非ず。汝聡明の道を問うは、意(こころ)ありて余が老耄(ろうもう)を難ぜんとするか?」

 「いえいえ、老先生は私の問いの意味を誤解されました! 私は思弁の術を教えていただきたいのではありません。生来の愚直で処世の術を知らず、いつも壁にぶつかるので、処世の聡明の道を伺いたいのです。」

 「ああ、汝は誠に愚直なるかな、また処世の道を問うとは! そもそも今の世は、智者は智を見、仁者は仁を見、階級同じからず、思想各(おのおの)異なり、父子兄弟夫婦姉妹は思想の異なるにより、一家の内にて各々主張あり各々偏見あり、骨肉至親といえども乖離衝突し、背馳す。古の所謂英雄豪傑は各々その君に仕えて仇敵となり、今の所謂志士革命家は各々階級のために反目し無情にして、甚だしきは立場の相違のみにて骨肉至親を格殺して容赦なし。投機取巧は一時の勝利を得るも、ついに世に立つこと難し。聡明の道は実にすでに窮まれり。且つただ愚にして魯なる者のみ福を享けること無辺なるかな……」

 「老先生は頭の下がるほど道理を説かれ、理由も十分ですが、本当に聡明の道はもうないのですか?」

 「然らば唯だ投機取巧の道あるのみ。試みに汝のために之を言わん。それ投機取巧の道は滑頭(ずるさ)に在り、而して滑頭はすでに専門の学問と成れり。西欧の学理は分門別類して所謂科学、哲学あり、滑頭の学問は実に滑頭学と称すべし。滑頭学を大学教授の講義編纂に依るならば、大いに数章に分つべく、毎章は数節に分ち、毎節は数項に分ち、古を引き今に拠り、中西合璧し、その理論の深奥なること哲学よりも甚だしく、その引証の広大なること中外の歴史、物理化学、芸術文学、商売取引の値、誘惑欺騙の術をことごとく必ず列し、包羅万象たり。大学予科より大学四年まで此の一講義は僅かにその千分の一を講じ得るのみにて、大学卒業にて各科及第するも、此の滑頭学は如何なる聡明絶頂の学生も及第すること能わず、且つ大学教授自身も恐らくその然るを知りてその所以然を知らざるべし。その学び難きや推して知るべし。余は処世数十年、頭頂すでに禿げ、鬚髪すでに白く、閲歴広からざるにあらず、教訓多からざるにあらず、然るに余が滑頭学講義の編集に着手して、僅かにその

第一章の

第一節、

第一節の第一項なり。此れ

第一章の

第一節、

第一節の第一項、その綱目は「順水行舟」なり。すなわち人の云うところに従い云うこと、すなわち人の喜ぶ者を喜び、人の悪む者を悪むことなり。一例を挙げて言えば、例えば人の悪む者が孝子なりとせば、いわゆる封建宗法社会の礼教の遺孽の一つなれば、汝たとえかつて父のために湯を侍り薬を服ませ、医を問い卜を求め、天性より出でて親人に事えしことありとも、世を論ずるに天性より出でて親人に事える者をば「孝子」の名を引きて責難し、ひたすら青年の鼓掌喝采を求め、本心の見解および自己の行動のいかなるかを顧みざるなり。責難せらるる者は時勢潮流の下に処りて、百辞すれども弁ずるあたわず、弁ずれば反動なりとますます証実せらる。これより青年は鳴鼓して攻め、体に完膚なし。汝の勝利はすでに左券を操るのみならず、かつ青年に奉ぜられて至聖大賢となり、小品の集にこの一篇あらば、海内に風行し洛陽紙を貴ぶ。かくて名利双収、富貴は限りなし。その

第一章の

第一節、

第一節の第二項は「井に落ちた者に石を投ずる」なり。余も本よりその一二を知るところなれど、ふと井に落ちた者に石を投ずる人を思い起こせば、甚だ頭が痛み、実に編む心なきなり。しかれども処世術は聡明の道に属すとはいえ、実は左道旁門にして、汝まことに学ぶに足らざるなり。」

 「老先生の仰せも大いに道理がおありでしょう。今の社会でこの学問を踏み台にして飯の種にしている人は実に少なくなく、彼らもまことに至る所で如意を得、名利双収でございますが、しかし私は拙直愚鈍な人間で、恐らく学ぼうとしても学べぬでしょう?」

 「ああ、汝は聡明の道を求めながら、これを学ばず。取るに足るとはいえ、壁にぶつかるのも当然であろう!」

 この夕べ、世故に通じた老人に道を問い、帰りて来ればやはり依然として元の我なり。ああ嗚呼!

 

 しかしわれわれもただひたすら「ああ嗚呼」を賞玩するには及ばぬ。なぜならその前に、各所で「立ち回り」が演じられていたからだ。

 やはり新聞の切り抜きがよかろう。ここに最も簡潔に記されたものを少々切り抜く──

 

 芸華影片公司、「映画界赤匪掃討同志会」に搗毀さる

 

 昨朝九時頃、芸華公司の滬西コンノート路金司徒廟付近に新築された撮影所内に、忽然行動突兀たる青年三人来たりて、同社の門番に来客と偽り、一人がまさに筆を持ちて署名せんとする際、別の一人が大声にて叫ぶや、あらかじめ外に潜伏していた暴徒七八名、一様に藍色の布の短衫袴を身に纏い、門に殺到して突入し、各事務室に分かれて机、窓ガラス、椅子、腰掛けなどの器具を手当たり次第に搗毀し、その後さらに室外に出で、自家用車二台、フィルム現像機一台、撮影機一台を打ち壊し、白紙に印刷された小さなビラを撒いた。そこには「民衆よ起ち上がれ、一致して共産党を殲滅せよ」「民衆を売り渡す共産党を打倒せよ」「殺人放火の共産党を撲滅せよ」等々の文字が書かれ、同時にまた一種の謄写版の宣言文を撒き、末尾に「中国映画界赤匪掃討同志会」と署名していた。約七分を過ぎた頃、一人が狂おしく警笛を一声吹き鳴らすと、暴徒たちはたちまち集合して隊列を組み去った。管轄の第六区が警報を聞き警官や捜査員を派遣し駆けつけた時には、皆すでに遠く飛び去って影もなかった。同会はさらに、昨朝の行動は同社に一つの警告を与えたに過ぎず、もし同社および他社が方針を改めぬならば、今後はより激烈な手段で対処する用意があり、聯華、明星、天一等の会社についてもすでに綿密な調査を行っていると宣言した云々。

 各紙に掲載された同宣言の内容によれば、芸華公司は共産党の宣伝機関であり、プロレタリア文化同盟が映画界の赤化を実現するために同社を大本営としているという。例えば『民族生存』等の作品を製作し、その内容は階級闘争を描写するものでありながら、南京の検閲委員会に賄賂を贈ったため審査を通過し発行されたという。さらに、同会は現在教育部、内政部、中央党部および本市政府に対し呈文を送り、当局が同社に対し、すでに撮影済みの各作品を直ちに廃棄し、自ら会社を改組して全ての赤色分子を一掃し、さらに収賄した映画検閲委員会の責任者を処罰するよう命ずることを要求した等々。

 事後、同社は実際には強盗に襲われたのだと強く主張し、曹家渡第六区公安局に通報済みであるとした。記者が一報を受けて赴き調査した際にも、ただ同社内部の設備が徹底的に破壊され、机や椅子が東に倒れ西に傾き、雑然として見るに堪えぬ有様であった。内幕は畢竟いかなるものか、思うに遠からず水落ちて石現るであろう。

 

 (十一月十三日、『大美晩報』。)

 

 映画界赤匪掃討会   映画館に警戒   田漢らの映画の上映拒否

 

 芸華公司が襲撃されて以来、上海映画界にはたちまち一つの新たな波紋が生じ、製作者からすでに映画館にまで波及した。昨日、本埠の大小の映画館はいずれも、上海映画界赤匪掃討同志会と署名された警告書簡を受け取り、田漢らが編制・監督・主演した作品の上映を拒むよう求められた。その原文は云う──

 

 弊会は民族国家を愛護するの念に駆られ、映画界が共産党に利用さるるに忍びず、赤色映画の大本営たる芸華影片公司に対する警告の行動を起こしたり。貴院が日頃映画事業に格別の熱意をお持ちなるを承知の上、ここに厳重なる警告を発す。田漢(陳瑜)、沈端先(すなわち蔡叔声、丁謙之)、卜万蒼、胡萍、金焰等が監督・編制・主演するところの、階級闘争を鼓吹し貧富対立を煽る反動映画は、一律に上映を許さず。もし従わざれば、必ず暴力手段をもって対処し、芸華公司と同様、断じて容赦せざるものなり。ここに告ぐ。上海映画界赤匪掃討同志会。十一月十三日。

 

 (十一月十六日、『大美晩報』。)

 

 しかし「赤匪掃討」はまた「映画界」に限られたものではなく、出版界もまた同時に覆面の英雄たちの襲撃を被ったのである。また切り抜き──

 

 今朝良友図書公司に   突如怪客一名現る   鉄槌を手にガラス窓を砕き   悠然と立ち去る 巡捕房捜査中   ……光華書局は保護を要請

 

 滬西コンノート路の芸華影片公司は、昨朝九時頃、労働者風の数十名の者に撮影所内に押し入られ、各種のビラを大量に撒かれた。署名は「中国映画界赤匪掃討同志会」等の字句であり、事後悠然と立ち去った。一波いまだ平らかならざるに、一波またぞ起こる。本日午前十一時頃、北四川路八五一号の良友図書印刷公司に、忽然一名の男が鉄槌を手にして同社の門口に至り、鉄槌を店頭の大ガラス窓に打ち込み、一つの穴を穿った。男は目的を達したと見るや、直ちに逃走した。管轄の虹口巡捕房は通報を受け、直ちに係員を派遣して調査に赴いた。良友公司が各種の左翼思想の書籍を販売していることが判明し、芸華公司搗毀事件と無関係ではないとされた。本日午前、四馬路の光華書局はこの報を聞き、甚だしく驚愕し、管轄の中央巡捕房に自ら赴いて保護を求め、不測の事態を免れんとしたが、記者の截稿時までに不測の事が発生したとは聞かなかった云々。

 

 (十一月十三日、『大晩報』。)  

 

  中国論壇報搗毀さる   印刷所はすでに搗毀   編集室は損害を免る  米国人イッサクス編集の『中国論壇報』を承印するルヴォール印刷所は虹口天潼路にあるが、昨夜暴徒が潜入し、印刷室を搗毀した。編集室は損害を受けなかった。

 

 (十一月十五日、『大美晩報』。)  

 

 神州国光社を襲撃   昨夕七時四人が総発行所に突入   鉄槌を振るいショーウインドウを砕く 損害は大ならず

 

 河南路五馬路角の神州国光社総発行所にて、昨夕七時、まさに店を閉めんとする折、突如長衫を着た客が一人入り来たり、書籍を購わんとする風情であった。ところが、この客がまさに入りたる後、背後から三人がつけて入ってきた。長衫の客は振り返って三人が入るのを見るや、直ちに進み出で同書局の左側廊下の壁に掛けてあった電話機をもぎ取って断った。同時に三人の短衣の者が搗毀を実行し、鉄槌を乱振した。長衫の者もまた加わって手を下し、同店の左側ショーウインドウを打ち砕いた。四人は悠然と逃げ去った。同店には当時三四名の店員と徒弟がいたが、驚愕して声も出せなかった。しかし長衫の者は門を出で、わずか数十歩先の泗涇路の角で、立哨中の巡捕に拘束された。蓋しこの長衫の客はショーウインドウを打った際にガラスが落ちて自らの顔面を傷つけ、出血止まらず、痛みのために速く歩けなかったのである。

中国語に精通したロシアの文人B.A.ワシーリエフが、魯迅先生の『阿Q正伝』に対してかつてこのような批評を下したことを私は覚えている。「魯迅は中国大衆の魂を映し出す作家であり、そのユーモアの風格は人をして涙を流さしめるものである。ゆえに魯迅はただ中国の作家であるのみならず、同時に世界の一員でもある。」魯迅先生よ、あなたもいまや老境に入られた。往日の栄光を思い起こし、今こそあなたが最も閲歴を積み、観察が最も深く、生活の経験が最も豊かなる時であるからには、なおさら奮起して『阿Q正伝』よりも更に偉大なる著作を幾つも書くべきではないか。偉大な著作は、千年不朽と伝えることは出来ぬにせよ、筆戦の文章ならば一週間後にはもう人に忘れられてしまうであろう。青年が一人の偉大な文学者を敬服するのは、実に擂台の上の覇者を敬服するに勝るのである。我々が読むのはシェイクスピア、トルストイ、ゲーテのような人々の文章であり、彼らの「罵倒文選」を見たことはないのだ。

 

 (十一月十六日、『中央日報』の「中央公園」。)

 

 この二人、一人は私を醜い老女に喩え、一人は私に「偉大な著作」を望んでいるが、言い方は違えど目的は一致している。つまり私が「これに対してまた感想があり、あれに対してまた感想がある」のを厭い、それゆえ絶えず「雑文」があることを嫌がっているのだ。これは確かに人を嫌がらせるものだが、しかしそれゆえにこそまたいっそうその重要さが分かるのだ。なぜなら「中国の大衆の魂」は、今や私の雑文に映し出されているのだから。

 洲先生は私が彼らに鮮明な主張を与えぬと責めているが、その意図は私も分かっている。しかし鳴春先生がシェイクスピアの類をずらずらと引用したのにはいささか驚いた。なぜか知らぬが、この一年ほど、しきりに私にトルストイに学べと誘う人がいる。おそらくは「彼らの『罵倒文選』を見たことはない」ゆえに、私に良き手本を与えようとしてのことであろう。しかし私は、欧州大戦の際に彼が皇帝を罵った手紙を見たことがあるが、中国ではあれも「今日の文壇におけるかくの如き浮躁、下品、粗暴等々の悪習慣を養成した」罪名を受けるであろう。トルストイには学べぬし、学び得たとしても人としてやっていけぬ。彼が存命の折、ギリシア正教徒は年ごとに彼が地獄に落ちよと呪っていた。

 その間に『時事新報』の文章を二篇挟む──

 

 告密略論                                                                                      陳代  

 

 告密されることを最も恐れかつ最も憎んでいるのは、魯迅先生だと言えよう。『偽自由書』「一名:『不三不四集』」の「前記」と「後記」の中にも、彼がこの点を始終気にしているのが見て取れる。しかし魯迅先生の言う告密とは、誰かが彼の住所を、あるいはいつどこにいるかを巡捕房(あるいは彼の「秘密」を欲するその他何らかの機関?)に密告して逮捕させるという意味ではない。彼の意味するところは、「旧来の筆名が時として通用しなくなったので、題を変えた」何某であると誰かが言い出し、「何某がすなわち魯迅である」と人に知らしめることなのだ。

 「今回は」と魯迅先生は言う、「王平陵先生が先に告発し、周木斎先生が後に暴露した」と。しかし彼は、魯迅先生がまだ登場する以前に編者がすでに暗示していたことを言い忘れている。なぜなら、何家幹先生ともう一人の先生が登壇しようとしていた時、編者がまず紹介して、これから登場する二人は文壇の老将であると言ったのだ。そこで人々は精神を集中してかの二人の文壇の老将の登場を待った。もし場所が違えば、あるいは局面が変われば、魯迅先生はおそらく編者が暗箭を放っていたと言うであろう。

 ある見知らぬ名前がどこかの副刊に現れるのを見れば、その名は本名なのか、あるいは別の馴染みの名の新たな筆名なのかを知りたがるのも、人情の常であろう。魯迅先生について言えば、彼は王平陵先生の『「最も通の」文芸』を読み終えると、つい「この王平陵先生なるもの、本名か筆名か存ぜぬが?」と問わずにいられなかった。もし彼がそれが誰の筆名であるかを知ったならば、おそらくあれは誰々であると言うであろう。これはいかなる誣蔑でもあるまい。なぜなら彼自身知っているところのことについて、「柳糸は楊邨人先生の……筆名である」と実際に言い、己を欺けぬと示しているではないか。

 それに、もし告密しようとするならば、なぜわざわざ「公開の」形式によらねばならぬのか。秘密にした方が告密者にはより安全ではないか。もし本当にそのような告密者がいるとすれば、その聡明さをいささか疑わざるを得ない。

 そしてあれこれの筆名で散発的に発表した文章を、切り抜いて集にまとめる時、著者はこの多くの名前を一つに凝縮する。してみれば、著者自身が自分の最後の告密者のように見える。

 

 (十一月二十一日、『時事新報』の「青光」。)

 

 暗箭略論                                                                                      陳代  

 

 先日魯迅先生の『偽自由書』の「前記」と「後記」を読んで告密について略論したが、今度唐弢先生の『新臉譜』を読み、暗箭について略論せずにはいられなくなった。

 『新臉譜』において唐先生が攻撃する範囲は甚だ広く、その一方面は「暗箭」である。しかし唐先生の文章はほとんど全てが「暗箭」で織り成されている。もっとも多くの矢標ははっきりとは見えないのだが。

 「潮流の影響を受けたという触れ込みで、文の舞台の芝居は次々と替わった。役者は依然として同じだが、隈取りだけは真新しい。」──これが暗箭の第一条である。暗箭とはいえ、射て射中たっている。なぜなら今日確かに多くの文の役者が、見物人の喝采を博さんがため、演じ慣れた旧い芝居を捨てて新しい芝居を演じ、口では「潮流の影響を受けた」などと言って自分が時代に遅れていないことを示そうとしている。さらには、役者が同じどころか隈取りも別段新しくなく、ただ新しい題目を付け替えただけで演じているのは旧来の一套のまま、例えば『薛平貴西涼招親』を改題して『穆薛姻縁』としたようなもので、中身は一切そのままである。

 第二の矢は──いや、こうは書き続けられぬ。こう書き続けるには甚だ広博な見識が必要だからで、あの文章は一句一矢、あるいは一句にして数矢ですらあり、読む者の目を眩ませ頭を回らせ、つかまえようがなく、硬い翻訳を読むよりもずっと分かりにくい。

 しかし唐先生自身はこのような態度に必ずしも満足していないらしい。さもなければなぜ人を「奇声をあげて喚き、にゃあにゃあと挑戦する」と罵るのか。しかるに事実において、彼こそが「奇声をあげて喚き、にゃあにゃあと挑戦している」のだ。

 あるいはこう言おう。彼は挑戦しているのではなく、ただ暗箭を放っているだけなのだと。なぜなら「鏖戦」は、たとえ「引っ張り合い」であっても畢竟骨が折れるし、「敗れ」て「再び」来る時にはまた隈取りを「描き直さ」ねばならぬ。暗箭の方がどれほど手間が省けることか。暗がりに潜み、射れそうなものを見つければ、軽く弓弦を引けば矢は前方へ伸びやかに直に飛んでいく。しかし彼はまた暗箭を放つことを罵っている。

 自分がまず暗箭を放てねば、人が暗箭を放つことを罵る資格もないのだ。

 

 (十一月二十二日、『時事新報』の「青光」。)

 

 この陳氏は討伐軍中最も無能な一人で、自分の事後の弁明と他人の事前の暴露との区別すら分からぬ。もし私が謀殺されて終に死なず、後にようやく「天寿を全うし×寝に終わった」とすれば、彼は私自身こそが「最後の兇手」であったと言うであろう。

 彼はさらにこう問う。もし告密しようとするならば、なぜわざわざ「公開の」形式によらねばならぬのか、と。答えて曰く、これは確かにやや分かりにくいところだが、要するに「文学者」らしく告発しようとするからこそそうするのであって、さもなくば彼は廃業して、正々堂々と探偵の仲間入りをせねばならぬからだ。故意と無意の区別は、私は分かっている。私が告密というのは、犬どもを指しているのであり、この「陳代」先生はまさにその一匹であると思うのだ。考えてもみよ、情報が不明であれば、かえって不都合ではないか。

第二篇はおそらく彼自身にしか分かるまい。私に分かるのはただ一つ、今回彼は嗅ぎ間違えて、唐弢先生をすなわち私であると誤認したということだ。ここに採ったのは、ただ自ら私の論敵と任ずるものの標本の一種に充てるに過ぎない。

 次に切り抜くべきは『大晩報』の一篇である──

 銭基博の魯迅論                                                                                 戚施  

 

 近年、魯迅を批評する文字を蒐集して『魯迅論』なる一書を編んだ者あり。その中に収むるところは、おおむね皆魯迅を称賛する辞なり。しかし実のところ魯迅を論ずる文は、毀誉相い半ばし、毀誉相い見えてこそ、その真を得るなり。このたび銭基博氏の著す『現代中国文学史』を見るに、長さ三十万言に及びながら、白話文学を論ずること僅か一万余字、ただ胡適のみを入選とし、魯迅・徐志摩をこれに附するのみ。これらの人々に対し大いに訾謷を加えている。近来の旧作文家にして文字を品藻し人物を裁量するに、銭氏ほど大胆なる者はいまだなく、新人もいまだこれに注目したことがない。ここに特にその「魯迅論」を紹介するは、これもまた文壇の趣聞なり。

 銭氏の言に曰く、欧文を模倣してこれを欧化的国語文学と称するものあり。浙江の周樹人が西洋小説を翻訳するに順文直訳を尚しとし、意訳の不忠実なるを斥けしに始まる。欧文を模して国語とするは、鸚鵡の舌を学ぶに比し、通訳に託す。これぞ俑を作りし者なり。効顰する者に至りては、著述して志を抒ぶるにも、競って欧化し、『小説月報』はその焔を盛んに揚ぐ。しかれども詰屈聱牙にして、周誥よりも甚だしく、学士すら解し難し。いわんや民衆をや。上海の曹慕管これを笑いて曰く、吾輩はむしろ原文の欧文を読まんと欲す。かかる妙文を見んとは欲せず、と。時装の婦人がハイヒールの西洋式靴を履きて跬歩にして倾跌し、かえって醜態を増すに比せらる。古人を崇め効うを奴隷根性と斥けながら、外国を模倣するのは独り奴隷根性にあらずや。反唇の譏り、あるいは諧謔にして虐に近し。しかれども初めに白話文を創りて言文一致・家喻戸暁を期したるものが、欧化的国語文学の興によってその志を荒廃せしめたるにあらずや。これすなわち矛盾の説にして、自ら円うすること能わざるものなり、と。これは魯迅の直訳外国文学およびその文壇への影響に訾謷を加えたるものなり。平心に論ずれば、魯迅の訳品には確かに読み難きところあり。直訳の当否は一つの問題にして、欧化的国語文学はまた別の問題なり。仮にこの二者ともに妥当を欠くとしても、その咎を誰に帰すべきかは、また言い難きなり。銭先生、鄙言を然らずとせらるるや。

 銭先生また曰く、胡適之が白話文学を創めしより、天下に号令するところのものは、曰く平民文学なり、貴族文学にあらずと。一時に名を馳せてこれに景附せし者あり。周樹人は小説をもって著わる。樹人は頽廃にして、奮闘に適せず。樹人の著すところは、ただ過去の回想あるのみにして、将来の建設を知らず、ただ小己の憤慨を見るのみにして、民衆の福利を図らず。かくの如き人は、その心目にいずくんぞ民衆あらんや。銭先生はこれゆえに断じて曰く、周樹人・徐志摩は新文芸の右傾者なりと。これすなわち魯迅の創作にも訾謷を加え、あわせてその思想に及べるなり。魯迅を右傾と目するに至りては、これまた独具の隻眼、別有の鑑裁と謂うべきものなり。郭沫若・蔣光赤の左傾にも満足せず、魯迅・徐志摩の右傾にも満足せず、ひとり「清朝遺老」の流風余韻を慕い、低徊感喟して已むこと能わず。銭先生の志、皎然として見るべきなり。当今の世、左右に人となること難く、是非に定質なきは、また銭先生の魯迅論に見るべきなり。

 銭氏のこの書は本年九月に出版され、なお前年十二月の跋記ありと云う。

 

 (十二月二十九日、『大晩報』の「火炬」。)  

 

 この大文は、戚施先生の言葉を借りて「独具の隻眼」と賛するほかに、第二句のあるべくもない。真に「評」せられて、私自身もまたこれ以上何も言いたくなくなり、「頽廃」した。しかしこれは甚だ面白いと感じたので、特別に保存しておく。これもまた「魯迅論」の一格に備えるものなり。

 最後は『大美晩報』にして、登場するのはかつて文字上の交渉のあった王平陵先生である──

 

 罵倒と自供                                                                                 王平陵  

 

 学問の事は甚だ容易には言い難く、通才碩儒は往々にして後生小子と長短を論ずるを屑しとせず、述作するものあらば、いずれも「浅薄無聊」と譏るなり。同様に、やや修養ある若者が、かの通才碩儒たちが必ず蘇露に言及し文は必ずプロレタリアを宗とするのを見れば、やはりいささか青梅を噛むが如く歯の間に酸を堪え難きを覚ゆるなり。

 世の中にいかなる紛争も止む可能性はあるが、ただ人の思想の衝突のみは、多くは意気に近きがゆえに、決して終止する時がない。ある人々はあたかも他人を誹謗し、故意に他人の過ちを探すことを一種の職業とするが如くにして、一切を直接否定することをもって間接に自己を高める妙策とするなり。自分は畢竟いかなるものなるかは、ただ彼ら自身のみが知ることを許され、他人は過問するを許されぬ。実は時として、これらの人々が他人に向けて放つ陰険な暗示は、かえって的確ならず、まさに彼ら自身の一篇の自覚せざる供述書であるのだ。

 聖書にこのような伝説があったと思う。街頭の群衆が姦淫した女を捕らえ、皆が石で打ち殺そうとした。イエスは言った、「汝ら省みよ。罪を犯したことなき者のみが、この女を打ち殺す資格があるのだ。」群衆は皆恥じて立ち去った。今日の文壇は、まさにこの通りではないか。自ら間男をしておきながら、人を指して淫婦だという。魯迅先生が好んで使う刻毒なる評語の如く、人を「官方の代弁者」と罵る。先生こそは一体いかなる「方」を代表して話しておられるのか、私には分からぬ。

 もとより話したくない人には、話すことがないのであり、話したいことがある人は、誰も自分がいずれの方を代表しているかなど考えはしない。魯迅先生はしばしば「己の心をもって人の心を度る」のであり、「躬は自ら薄くして、人を責むること厚し」と言わざるを得まい。

 このような事情は文壇にはいくらでもある。魯迅先生に限った話ではない。

 

 (十二月三十日、『大美晩報』の「火樹」。)  

 

 思い出すに、『偽自由書』の中で私は王先生の高論を「官方」に属すると指摘したことがあり、今回の文はそれに対して発せられたものだが、意味はあまり明瞭でない。「自ら間男をしておきながら、人を指して淫婦だという」という言葉から見れば、私の方こそ「官方」であって、「話したいことがある人は誰もいずれの方を代表しているかなど思いつかない」のだ、と言いたいらしい。ゆえに、もし思いついたとすれば、人を反動と言う者、その人こそ反動であり、人を匪賊と言う者、その人こそ匪賊であり……いや待て、またぞ「刻毒な評語」になってしまう。イエスが「汝ら省みよ」と言ったではないか。──災いを免れんがために、もう一条の小さな尾を付け加える。この悪習慣は文壇に限ったことであり、官方とは無関係である。

 王平陵先生は映画検閲会の委員であり、私は小民の分際を謹んで守らねばならぬ。

 

 本当にここで止めよう。書いたものと切り抜いたもの、すなわち自分のものと他人のものとで、半夜を費やし、恐らくまた八九千字にもなったであろう。この尾もまたなかなか小さくはない。

 時は、一日一日と過ぎてゆき、大小の事件もまたそれに従って過ぎ去り、やがて我々の記憶から消え失せる。しかもすべてが散在しており、私自身について言えば、感じなかったこと、知らなかったことは実にどれほどあるか分からぬ。しかし、ここに書き留めたこの数十篇だけでも、これを排比し、さらに「後記」をもってそこから生じた紛糾を補叙すれば、おのずと時事をも照らし出す。格局は小さくとも、一つの形象を描き出してはいまいか──しかも今や、仰ぎ見るシェイクスピアやトルストイから尊顔を伏せて暗がりを見つめ、幾句かを書こうとする著者は甚だ少ない。このためにいっそう私は自分の雑感を保存しようと思うのであり、それもまたこのためにいっそうよく生き延びることができるのだ。もっともこのためにいっそう人の憎悪を招くのだが、またこのために包囲討伐の中でいっそう成長してきたのである。ああ、「世に英雄なく、遂に竪子をして名を成さしむ」──これは私自身のためにも、中国の文壇のためにも、悲憤すべきことである。

 文壇の事件はまだまだ多い。検閲の秘策を献じ、離間の奇策を施し、讒言を起こして権力のうちに中たり、真実を胸中に蔵し、降幡を往年に立て、旧交を今日に温む……しかしいずれもこの『準風月談』を書いていた時期の中の事ではなく、ここではひとまず言及せぬこととし、あるいは永久に言及せぬこととしよう。やはり本当にここで止めよう。書き続けて背中がいささか痛みを覚えるようになった時だ。

 一九三四年十月十六日夜、魯迅、上海にて記す。


魯迅全集 - Lu Xun Complete Works

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