Lu Xun Complete Works/ja/nahan

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吶喊

呐喊

作者: 魯迅(鲁迅)


ニキーツキー門の戦闘


この際、スリヴェンがちょうど外庭から駆け込んできた。

「諸君、ただちに、散開して前進。用意!」

彼は迅速かつ明瞭に命令した。

「壁に沿って、一人ずつ行くのだ。」イワンは機械的に、独り言のように呟いた。

胸のあたりが冷えてきた。背筋と両手に神経性の戦慄が走った。自分イワン・ペトリャーエフなどが殺されるかもしれないということは、毛ほども考えたことがなく、すべてが依然として遊戯のように感じられた。

「では、前進だ、諸君!」スリヴェンが命令した。「行け、気をつけろ。」

士官候補生の第一隊が門を出て行った。続いて第二隊、その後に義勇兵が続き、イワンとガリスニェコフはその中にいた。

イワンにとって、市街はどこか以前と少し違って見えた。並木通りの樹木と見える灰色の家屋は平日と変わらず、青い看板を掛けていた。ただ一軒の店の正面全体に「小酒場」という看板が書いてあるのが少し異様だったが、並木通りはやはり晩祷前の蕭然とした静けさであった。

しかし確かに何かが違っていた。

「ウラー!」ガリスニェコフが突然大声で叫び、イワンに向かって言った。「ウラー、俺について来い!」

そして大通りの真ん中に飛び出し、銃を横に構え、狙いもつけずに撃ち、疾風のように向かいの角へ駆けていった……。

「ウラー!」他の者も鬨の声を上げた……。

みなまるで大風に巻かれたように、身を避けることも忘れ、まっすぐ向かいの街角に突進した。前方からの射撃は猛烈で、あたかも豆を炒るかのごとく、何かがイワンのすぐ傍を飛び過ぎ、風が彼の顔を打った。しかし彼はただ無我夢中で走り、力の限りに叫んだ。

「ウラー!ウラララー!」

ガリスニェコフが先頭を走り、士官候補生と義勇兵たちは、あたかも駆けっこをする子供のように、その後に続いた。前方を見ると、薄暗い通りと広場の周囲で、黒い影や灰色の人影が、すでに四方八方に逃げ散っていた。

「逃げているぞ。捕まえろ。殺せ!」傍で誰かが叫んだ。

「捕まえろ!殺せ!」

パパッ、パッ、パパパッ!……——鋭い銃声が起こった。

義勇兵と士官候補生たちはカカーリン家の邸宅まで来て、ようやく一軒の薬局の入口に身を隠し、足を止めた。今や並木通りの全体が見渡せた。ボリシェヴィキは両側の壁に沿って、ストラストノイ広場の方へ逃げていた。身を屈める者、這って行く者、立ち上がったかと思えばまた走り、また地面に伏す者。義勇兵たちは銃を肩窩に当て、ひっきりなしに閉鎖機を鳴らしながら、逃げる敵を射撃した。

イワンは狙いもつけず、ただ興に乗じて射撃していた。しかし一発の後、工人たちの黒い人影が歩道の上に倒れ、なお起き上がろうともがき、その体が独楽のように回転するのが見えた。

「ああ、当たった!」イワンは嫌悪の念を抱きつつ思い、再び狙いを定めて撃った。

心臓が激しく打ち、こめかみが鉄槌で打たれるようにガンガンと鳴った……。さらに前進して逃げる敵を追いたかった。しかしそこへ命令が聞こえた。

「退却!散開して退却!」

みな後方に退き、哨兵だけを残して、すぐ近くの横町にある酒場に入った。ここには暖房装置が備わっていて、しばらく休憩し、体を温めてから、また哨兵線に出るのだった。

暖かく濃密な空気が張り詰めた心情を和らげ、スリヴェンが一人の者と話し合った後、全隊をいくつかに分け、「交代で休んでよい、眠りたい者は眠ってもよい」と言った時、イワンはかなり嬉しかった。

義勇兵たちは喧しくしゃべりながら、直接床の上に寝て、とりとめのない話をした。イワンは窓際の一隅を占め、壁に凭れ、銃を抱えて眠りについた……。

彼は眠ってからまだ一秒も経っていないように思った時、すでに誰かが傍に立って、手を引いて話しかけていた。

「起きたまえ。よく眠ったな。起きたまえ。」

イワンは重々しく頭を上げたが、瞼はまだ閉じていた。

「うん?何だ?」

「起きたまえ。我々の番だ。」

あの鼻梁眼鏡のガリスニェコフが、微笑みながら目の前に立ち、銃を手にして、弾を装填しようとしているところだった。

「おいおい、よく眠るな。」彼は奇妙に首を振りながら、笑って言った。「十全大補の眠りだ。」

酒場の中は人の出入りで賑やかだったが、みな低い声で話していた。ただスリヴェンと、顎鬚を蓄えた中年のもう一人の将校だけが、大声で指揮していた。

「さあ、気合いを入れろ!第二班の番だ。早く用意しろ!」

外から義勇兵と士官候補生たちが入ってきたが、その顔は凍えて青白く、こわばっていた。彼らは銃を部屋の隅に置き、暖炉に近づいて、真っ赤になった両手とかじかんだ指先を温めた。彼らの体からは湿気と寒気が漂っていた。イワンは立ち上がり、ようやく痺れた両足が回復した。彼の外套は棒のように突っ張っていた……。

「急げ、急げ!」スリヴェンが催促した。

義勇兵たちは門の近くにひしめき合った。

「至る所に気を配れ、諸君。歩哨は眠ってはならない。眠れば自分が命を落とすだけでなく、全隊を危険に陥れるのだ。お前、ガラーセフ、この二人を監視しろ。」彼は厳しく、髭を蓄えた一人の士官候補生の方を向いて続けた。「お前が全責任を負うのだ、わかったか?よし、行け。」

こうして一人一人が暖かい酒場から外へ出ていった。

射撃はなお続いていた。空気には冷たい、骨の髄まで透るような霧が充満していた。

「ブルルルル、寒い!」ガラーセフが震えながら言った。

霧は湿った蜘蛛の巣のように人の顔を覆った。みな厳寒と、昂奮と、すぐにまた弾雨の中に飛び込まねばならぬ覚悟のために、神経的に震え、できるだけ体を縮めて、敵の目から逃れようとした。

二人は先導者に従って裏通りを回り、大きな二階建ての屋敷に入った。この建物は間道に面し、ちょうどバリシャーヤ・ニキーツカヤ通りとトヴェルスコイ並木通りに向かっていた。

先導者はイワンとガリスニェコフを、すでに弾丸で損壊した二階の一室に連れて行った。そこにはすでに二人の士官候補生がおり、大通りに面した壁の下にいた。この二人と交替するのだ。

微かな薄暗い光が、破壊された窓から部屋の中に差し込んでいた。明るいとも暗いともつかぬ闇の中で、一人の士官候補生がここでの任務について説明した。しかしそれは義務的な口調で、誠意がないかのようだった。後から補足して言った。

「ボリシェヴィキは向こうの角の向かいの建物にいる。屋根の上に機関銃を据えている。カカーリン邸のこちら側に突入しようとしているのだ。」彼はそう言いながら、並木通りの向こう側を指差した。「ここを射撃してくるから、十分に気をつけなければならない。見ろ、この建物は全部やられている。」

イワンが四方を見回すと、すべての窓が破壊されており、銃弾で落ちた壁土のせいで、埃の臭いがしていた。扉の右手の壁に沿って、書棚が横倒しになっており、その周囲には書冊が散乱して、泥靴に踏みにじられていた。

イワンは用心しながら窓に近づいた。

並木通り全体に街灯が灯っていた。それは戦闘前夜から灯されたもので、すでに三昼夜目だった。角の一つの灯が銃弾で撃ち砕かれ、松明のような大きな炎が風に乗って柱の上で燃えていた。その火光がかなり眩しいため、荒涼とした並木通りの樹木の梢や、凍りついた灰色の地面から突き出た根が、はっきりと見分けられた。あらゆる影が絶えず揺れ動き、緊張した瞳に映ると、すべてが生きて動いて警戒しているかのようだった。

士官候補生たちは去った。ガリスニェコフは一脚の柔らかい肘掛け椅子を倒れた窓の方に引き寄せて腰を下ろし、二つの窓の間の壁の下に身を隠して、静かに銃を置いた。

「いいぞ!」彼は笑って言った。「快適に戦うのはどうだ?」

イワンは答えなかった。黙って両足で書物を押しのけ、窓と書棚の間の隅に体を寄せた。彼は恐怖していた。銃弾で蜂の巣のようにされた窓のある破壊された建物、粉砕された家具、窓縁と床に散乱するガラスの破片が、彼に憂愁の念を呼び起こした。

パン!——向かいの建物で、突然銃声が響いた。

すると他の多くの建物からの銃声が、即座にこれに呼応した。

一秒のうちに、並木通りの向かい側全体が銃声に包まれ、電光が閃いた。弾丸が窓に当たり、パテに食い込み、窓の中に飛び込んできた。

「今は撃ってはいけない。」ガリスニェコフが言った。「見ろ、あいつらを、見えるか?……」

イワンは窓枠の横桟の下から闇の中を凝視すると、向かいの横町の点心屋の前に、何か黒いものが動いているのが見えた。ガリスニェコフはまさに鼠を狙う猫のように、忍び足で銃を構え、発射した。

イワンが見ると、あの店の前で何かが倒れた。

「えへへ。」彼は凄い笑いを浮かべて銃を取り上げ、同じように射撃した。

四方の空気が震動し、耳を聾するような音を発した。

しかし一分後——並木通りは静寂に変わり、どこか遠くの知れぬ所から、一斉射撃の銃声だけが伝わってきた。

イワンは火光が閃いた方角だけを狙い、やみくもに射撃した。ボリシェヴィキもすでに発砲の場所を知ったらしく、ガリスニェコフとイワンが隠れている窓を標的にして撃ち始めた。弾丸は背後の壁に当たるものもあれば、窓枠に残ったガラスを砕くものもあり、呻きのような声を発してレンガから跳ね返るものもあった。後方の扉の外に、時折誰かが現れ、すばやく言った。

「弾を節約しろ。命令だ。」

そしてまた隠れた。

「あれは誰だ?」イワンが訊いた。

「知るものか。たぶん連絡勤務兵とかいうやつだろう。まったく嫌になる。」

イワンは連絡勤務兵の性質を知らなかったが、厳しく命令を伝える人物が扉口に現れるのを見ると、何故か焦燥したり、あるいは沈静したりするのだった。思考はある時は混乱し、ある時は奔放になった。自分の家のこと、ボリシェヴィキのこと、連絡勤務兵のこと、踏みにじられた書物のこと……目は部屋の中の薄暗さに慣れ、壁に粉々になって掛かっている壁紙もはっきりと見えるようになった。

ガリスニェコフは黙って座り、終始窓の間から凝視していた……遠くで砲声がし、頭上の空中に低い轟きが聞こえた。

「ああ、これは我々を撃っているのだ。」ガリスニェコフが言った。「どこに落ちるのだろう?きっとクレムリンだ。」

彼は嘆息し、しばし考えてから、また静かに言った。

「今度こそ本当の戦闘が始まるのだ。モスクワ母さんは滅びた。しかし以前はどうだったか、以前は。ああ!『モスクワ……ロシア人にとって、この言葉には無限の意味が融け合っている。』そうだ。融け合っていた。今でもなお融け合っている。」

彼はまた沈黙し、何事かを回想した。

「そうだ。いずれにせよ、モスクワは惜しい。しかし同志、どう思う?『ロシアを守るために、モスクワは蛮族の大軍を迎えて幾度も兵火に遭い、またロシアを守るために、モスクワは圧迫と凌辱に耐えた。』こんな文は中学校で習ったものだ。」

彼は独り言のように、静かに、考えながら話し、イワンが聞いているかどうかも構わなかった。

沈黙を破って、また砲声が起こった。

「ほら、聞いたか、俺の言った通りだろう。」ガリスニェコフが言った。「俺の言った通りだ。」

この後、二人は沈黙に落ちた。交替の時間になると、彼らは裏庭を通って通りに出て、またあの暖かい酒場へと向かった。

小酒場では、士官候補生と大学生たちが足を長く伸ばして床に寝ており、何人かは食卓を囲んで缶詰と乾酪を食べていた。大きなテーブルの上に缶詰が山のように積まれ、義勇兵たちは笑いさざめきながら、銃剣で蓋をこじ開け、パンも使わずに缶の中身だけを食べていた……。イワンはすでに空腹を覚え、同じようにがつがつと食べ始めた。

私は後に中国の医薬書も見たが、ふと目を疑うような学説を発見した。曰く、歯は腎に属し、「牙損」の原因は「陰虚」だという。私はここでようやく、以前叱責された理由を悟った。なるほど、彼らはここでこうして私を誣いていたのだ。今に至るまで、たとえ誰かが漢方がいかに確かで、民間薬がいかによく効くと言おうと、私はやはり信じない。もちろんその大半は、彼らが父の病を手遅れにした恨みのためだろうが、おそらく切膚の痛みとしての私怨もいくらか帯びているに違いない。

事はまだまだ多い。もし私にヴィクトル・ユゴー先生の文才があれば、おそらくこれをもって『レ・ミゼラブル』の続編を書けたかもしれない。しかしそんな才はないどころか、災難に遭ったのは自分の歯なのだから、己の冤罪状を人に配り歩くのはいささか穏当でない。もっとも、あらゆる文章のうち十中八九は自分自身の密かな弁護なのだが。今はいっそ大股に跳んで、直接「門歯が確かに二本落ちた」話に移ろう——

袁世凱もすべての儒者と同様、もっとも尊孔を主張した。奇妙な古い衣冠を作り、祭孔が盛んに行われたのは、おおよそ皇帝になろうとする一、二年前のことだった。以来この慣行は廃れず受け継がれたが、政権者の交代に伴い、儀式の上で、とりわけ拝礼の作法にいくらか違いが生じた。おおむね、自ら維新者を以て任ずる者が出れば洋服でお辞儀をし、復古を尊ぶ者が興れば古装で叩頭する。私はかつて教育部の僉事であったが、「微官」ゆえにお辞儀や叩頭の列には入らなかった。だが春秋二度の祭祀の折にはやはり執事に派遣されることを免れなかった。執事とは、いわゆる「帛」や「爵」をお辞儀や叩頭の諸公に手渡す小間使いのことである。民国十一年の秋、私は「執事」を終えて車で宿舎に帰る途中だった。北京の秋の早朝ゆえ寒く、厚い外套を着て、手袋をした手をポケットに入れていた。あの車夫は、居眠りでぼんやりしていたのだと私は信じる。決して章士釗の一味ではない。だが彼は途中で「非常処分」を以て、「迅雷耳を掩うに及ばぬ手段」で、自ら転倒し、私を車から放り出した。手はポケットの中にあり、支えるのが間に合わず、結果は自然と大地の母と接吻するほかなく、門歯が犠牲となった。かくして門歯なしで半年間講義をし、十二年の夏に修復した。だから今、朋其君が一目見て安心し、ほっとして帰っていった二本の歯は、実は偽物なのだ。

孔二先生はこう言った。「たとえ周公の才と美を有すとも、驕りかつ吝ならば、その余は観るに足らざるのみ。」この言葉は確かに読んだことがあり、大いに感服もしている。だから門歯を二本打ち落とされたことで、いくらかの人々に傍から痛快な思いをさせてやれるなら、「痛快」もまったく惜しまない。だが如何せん、門歯はこの数本しかなく、しかもとうに脱落してしまっているではないか。だが前の事を今の事に引き付けるのも、あまり本意ではない。なぜなら或る事柄については真実を語りたいのであって、他人の「流言」を抹殺せざるを得ないからだ。もっともこれもたいてい自分に有利か、少なくとも無害な範囲に限ってのことだが。これに準じて、ついでに章士釗が後の事を前の事に引き付けた出鱈目な帳簿も暴露しておこう。

また章士釗だ。私がこの姓名に出くわすたびに首を振るのは、実に古い話なのだが、以前はそれでもまだ「公」のためであった。今は漢方医を嫌悪するのと同様、私怨もいくらか帯びているようだ。なぜなら彼が「無故に」私を免官したからで、だから先に述べた通り、私はただいま彼を相手に訴訟を起こしている。近ごろ彼の古文による答弁書を見たが、「無故」の弁明に甚だ拘泥しており、その中にこんな一節がある——

「……また該偽校務維持会は擅に該員を委員に推挙し、該員もまた否認を声明せず、明らかに故意に本部の行政を妨害するものにして、情理の容し難きところ、また法律の許さざるところなり。……やむを得ず八月十二日、執政に周樹人の免職を上呈し、十三日、執政の明令により照准せらる……」

そこで私もまた「之乎者也」式に彼を駁してやった——

「案ずるに、校務維持会が樹人を委員に公挙したのは八月十三日であり、しかるに該総長が免職を上呈したのは自称十二日なり。あに将来樹人が委員に推挙されることを予知して、先に免職の罪名を設けたるか?……」

実のところ、あの「答弁書」なるものは中国の出鱈目な牽強付会のお決まりの手法に過ぎず、章士釗が必ずしもそこまで愚鈍とは限らない。もし本当にただの愚鈍なら、まだ愚鈍な人間として通るかもしれないが、彼は文を弄び法を玩ぶ術を心得ている。彼自身こう言っている。「近来の政治、内に包むもの甚だ複雑なり。一端の起こるや、その真意は往々にして跡象に求め難し。法を執りて抗争するも、不過は跡象の間の事に過ぎず。……」だから事が自分に関わりなければ、彼の政法や論理学の話を聞くよりも、『太陽が尻を照らす賦』を読んだ方がよほどましだ。なぜなら人を欺く意図は、これらの賦にはないからだ。

話が脱線して遠くなりすぎた。これは私の身体の一部ではない。ここで切り上げ、続きをどこまで語るかは、民国十五年秋のこととしよう。

(一九二五年十月三十日。)

【吶喊】

【自序】

私は若い頃にも多くの夢を見たが、後にその大半を忘れてしまった。しかし自分でも惜しいとは思わない。いわゆる回想というものは、人を喜ばせることもあるが、時に寂寞に陥れることもある。精神の糸がなお過ぎ去った寂寞な時間に繋がっているとて、何の意味があろう。それなのに私はすっかり忘れることができずに苦しみ、この忘れきれぬ一部分が、今や『吶喊』の由来となったのである。

四年余り、私はしばしば——ほとんど毎日——質屋と薬屋を出入りしていた。年齢は忘れたが、とにかく薬屋のカウンターは私と同じ高さで、質屋のそれは私の倍の高さだった。倍の高さのカウンター越しに衣服や装身具を差し出し、侮蔑の中で金を受け取り、また同じ高さのカウンターで長患いの父のために薬を買った。家に帰ればまた別の用事で忙しかった。処方を書く医者が最も名高い者であったから、用いる薬引もまた奇特であった。冬の蘆の根、霜を経ること三年の甘蔗、蟋蟀は番いのまま、実を結んだ平地木……いずれも容易に手に入るものではなかった。しかし父はとうとう日一日と重くなり、亡くなった。

小康の家から困窮に陥った者があろうか。私が思うに、この道中でおおよそ世人の真の姿を見ることができるのだ。私はNへ行きK学堂に入ろうとした。あたかも異なる道を歩み、異なる地に逃れ、別様の人々を探し求めるかのように。母は仕方なく八元の旅費を工面し、お前の好きにしなさいと言った。だが母は泣いた。これは当然のことだ。当時、読書して科挙を受けるのが正道であり、いわゆる洋務を学ぶ者は、行き場を失った人間が魂を鬼子に売ったと見なされ、倍の嘲りと排斥を受けたのだから。まして母はもう息子に会えなくなるのだ。しかし私もこれらのことに構っていられず、ついにNに赴きK学堂に入った。この学堂で初めて、世に格致・算学・地理・歴史・図画・体操というものがあることを知った。生理学は教えなかったが、木版の『全体新論』や『化学衛生論』の類は目にした。以前の医者の議論と処方を思い出し、今知ったことと比べてみると、次第に漢方医とは意図的あるいは無意識的な詐欺師に過ぎぬと悟り、同時に騙された病人とその家族への同情が強く湧いた。しかも翻訳された歴史から、日本の維新が大半は西洋医学に端を発した事実も知ったのだ。

これらの幼稚な知識のゆえに、後に私の学籍は日本のある田舎の医学専門学校に置かれることになった。夢は美しかった。卒業して帰国し、父のように誤診された病人の苦しみを救い、戦時には軍医になり、あわせて国人の維新への信頼を促進しようと。微生物学の教授法が今どのように進歩したかは知らないが、当時は映画を用いて微生物の形態を示していた。そのため講義の一段落が終わっても時間が余ることがあり、教師は風景や時事の画片を学生に見せて、余った時間を消化した。折しも日露戦争の最中で、戦事に関する画片も自然と多くなり、私はこの講堂で、しばしば同級生たちの拍手と喝采に付き合わされた。ある時、私は画片の中にふと、久しく会わなかった多くの中国人を見た。一人は真ん中に縛られ、大勢が左右に立っている。同じく頑健な体格でありながら、麻痺した表情を浮かべていた。解説によれば、縛られているのはロシアのために軍事スパイをした者で、まさに日本軍に首を斬られて見せしめにされようとしているところであり、取り囲んでいるのはこの見せしめの盛事を鑑賞しに来た人々だという。

この学年が終わらぬうちに、私はもう東京にいた。あの一件以来、医学は決して肝要な事ではないと感じたからだ。愚かで弱い国民は、たとえ体格がいかに健全で頑健であっても、無意味な見せしめの材料と見物人にしかなれず、病死の多少は不幸と思うに及ばない。だから我々の第一の急務は彼らの精神を変えることであり、精神を変えるに長けたものは、当時の私は当然文芸だと考え、文芸運動を提唱しようと思い立った。東京の留学生には法政・理化・さらに警察・工業を学ぶ者は多かったが、文学と美術を修める者はいなかった。しかし冷淡な空気の中にも、幸いにして何人かの同志を見つけ、さらに必要な数人を集め、相談の末、第一歩はもちろん雑誌の発行であった。名前は「新しい生命」の意味から取ったが、我々は当時いくらか復古の傾向を帯びていたので、ただ『新生』と名付けた。

『新生』の出版の期が近づいたが、まず何人かの文章担当者が姿を消し、次いで資金も逃げ去り、結果は一文無しの三人だけが残った。始めた時からすでに時流に背いていたのだから、失敗した時に当然語るべき相手もなかった。その後はこの三人すらそれぞれの運命に駆り立てられ、一所に集まって将来の美しい夢を語ることもできなくなった。これが、我々のついに生まれることのなかった『新生』の結末である。

かつて経験したことのない退屈を感じたのは、それ以後のことだ。当初はその理由が分からなかった。後に考えた。およそ一人の主張が賛同を得れば前進を促され、反対を得れば奮闘を促される。ただ生ける人々の中で叫んで、生ける人々が何の反応も示さず、賛同もなく反対もない、果てしない荒野に身を置いて手の施しようもないのと同じだとすれば、これはなんという悲哀であろうか。私はこの感じたものを寂寞と名付けた。

この寂寞は日一日と大きくなり、大きな毒蛇のように私の魂に絡みついた。

しかし私は根拠のない悲哀を抱きながらも、憤りはしなかった。この経験が私に反省をもたらし、自分自身が見えたからだ——つまり私は決して、腕を振り上げれば賛同者が雲集するような英雄ではないのだ。

ただ、自分の寂寞だけは追い払わねばならなかった。あまりに苦しかったからだ。そこで私はさまざまな方法で自分の魂を麻痺させ、国民の中に沈潜し、古代に遡った。後にはさらに寂寞で悲哀な出来事をいくつか、自ら経験し、あるいは傍観したが、いずれも回想したくないもので、甘んじてそれらを私の脳と共に泥土の中に消滅させたい。だが私の麻痺法は効を奏したらしく、もはや青年時代の慷慨激昂の気持ちはなくなった。

S会館に三間の部屋があり、伝え聞くところでは昔、庭のエンジュの木で女が首を括ったという。今やそのエンジュは高くて登れなくなっていたが、この部屋にはまだ誰も住んでいなかった。長い年月、私はこの部屋に寓して古碑を写していた。客は滅多に来ず、古碑の中にも問題や主義は見当たらず、私の生命はひそかに消えていった。これこそが私の唯一の願いだった。夏の夜、蚊が多くなると、蒲の扇を扇ぎながらエンジュの木の下に座り、密な葉の隙間から青空を一点一点と眺めた。遅くに出てくるエンジュの毛虫がしばしば冷たく首筋に落ちてきた。

その頃、たまに訪ねてくるのは旧友の金心異で、手提げの大きな革鞄を壊れた机の上に置き、長衫を脱いで向かいに座った。犬が怖いので、心臓がまだどきどきしているようだった。

「こんなものを写して何の役に立つんだ?」ある夜、彼は私の古碑の写本をめくりながら、研究者のように問いかけた。

「何の役にも立たない。」

「では、これを写すのにどういう意味があるんだ?」

「何の意味もない。」

「君は少し文章を書いたらどうだ……」

私は彼の意図を理解した。彼らはちょうど『新青年』を主宰していた。だが当時は賛同する者がいないばかりか、反対する者すらいないようだった。彼らも寂寞を感じているのだろうと思ったが、私はこう言った。

「もし一つの鉄の部屋があって、窓は一つもなく壊すことも万難であり、中に多くの人々が熟睡していて、やがてみな窒息死するとしよう。しかし昏睡から死滅に入るのだから、死の悲哀を感じることはない。今あなたが大声で叫んで、比較的覚醒している何人かを驚かせ、この不幸な少数者に救いようのない臨終の苦痛を受けさせるとすれば、あなたは彼らに対して申し訳ないとは思わないか?」

「しかし何人かがすでに起き上がった以上、この鉄の部屋を壊す望みが絶対にないとは言えまい。」

そうだ。私には私なりの確信があるが、しかし希望について言えば、それを抹殺することはできない。希望は将来にあるのであって、私の「必ず無い」という証明をもって、彼の「有り得る」という主張を論破することは決してできないからだ。かくして私はついに彼の頼みに応じて文章も書くことにした。これが最初の一篇『狂人日記』である。それ以後は筆が止まらなくなり、小説めいた文章をいくつか書いて友人たちの依頼をしのぎ、積もって十余篇となった。

自分としては、今やもはや切迫して黙っていられぬ人間ではないと思っていたが、あるいはまだ当時の寂寞な悲哀を忘れきれていなかったのかもしれない。だから時折やはり幾声か吶喊し、寂寞の中を奔走する猛士をいくらかでも慰め、前駆を恐れさせぬようにした。私の叫びが勇猛か悲哀か、憎むべきか笑うべきかなどは、顧みる暇がなかった。だが吶喊である以上、当然将令に従わねばならず、だから私はしばしば厭わず曲筆を用い、『薬』の瑜児の墓の上に何もないところから花輪を一つ添え、『明天』でも単四嫂子がとうとう息子に会う夢を見なかったとは書かなかった。なぜなら当時の主将は消極を主張しなかったからだ。自分としても、自ら苦しいと思う寂寞を、私の若い頃のように今まさに美しい夢を見ている青年たちに感染させたくはなかった。

こう言えば、私の小説と芸術との距離が遠いことは想像に難くなかろう。しかし今日なお小説の名を冠され、あまつさえ集められる機会を得たのは、いかにも僥倖と言うほかない。僥倖は私の心を落ち着かなくさせるが、この世に当分はまだ読者がいるだろうと推測すれば、やはり嬉しくないわけにはいかない。

だから私はとうとう短篇小説を集め、印刷に付した。そして上述の理由から、これを『吶喊』と名付けたのである。

一九二二年十二月三日、魯迅、北京にて記す。

【故事新編】

【序言】

このごく小さな集子は、書き始めから編み上がるまでに経た日数は、実に長いと言ってよい。まる十三年である。

第一篇『補天』——もとの題は『不周山』——は一九二二年の冬に書き上げたものだ。当時の考えは、古代と現代の両方から題材を取って短篇小説を書こうというもので、『不周山』は「女媧が石を煉りて天を補う」神話を取り上げた最初の試作であった。最初はいたって真面目であった。もっともフロイト説を借りて創造——人間と文学の——の起源を解釈したに過ぎないが。どうしたわけか途中で筆を止め、日刊紙を見に行ったところ、不幸にも誰か——今は名前を忘れた——の汪静之君の『蕙の風』に対する批評が目に入った。涙ながらに嘆願するから、どうか青年はもうこんな文章を書かないでくれ、というのだ。この哀れな陰険さが滑稽に思え、再び小説を書く時、どうしても古い衣冠の小男が女媧の両脚の間に現れるのを止められなかった。これが真面目さから油滑に陥った始まりだ。油滑は創作の大敵であり、私は自分に甚だ不満であった。

もうこのような小説は書くまいと決心し、『吶喊』を編む際にこれを巻末に付し、一つの始まりであると同時に一つの幕引きとした。

【〔其の二〕】

一 墳三〇〇 吶喊二五〇

二 彷徨二五〇 野草一〇〇 朝花夕拾一四〇 故事新編一三〇

三 熱風二〇 華蓋集一九〇 華蓋集続編二六〇

四 而已集二一五 三閑集二一〇 二心集三〇四

五 南腔北調集二五〇 偽自由書二一八 準風月談二六五

六 花辺文学 且介亭雑文 且介亭雑文二集

七 両地書 集外集 集外集拾遺

八 中国小説史略四〇〇 小説旧聞鈔一六〇

九 古小説鉤沈

十 起信三書 唐宋伝奇集

右の各書名の下の数字は書の頁数を示す。第一の書目の各行下の数字は字数を示す。前の書目では、まだ『集外集拾遺』を書物として予算に入れておらず、『且介亭雑文』の書名も未だ定まっていなかった。後の書目は、おおよそ一九三五年以後に修正されたもので、比較的完備している。

思い起こせば先生は大病の前に、こう語られたことがあった。一九〇六年、二十六歳で医学を中止して東京で文芸に従事して以来、ちょうど三十年になる。著述の面だけでも、すでに二百五十余万言に達し、直近までのものを十大冊に纏め、記念としたい。名づけて「三十年集」と。当時、出版界はこの知らせを聞いて大いに喜び、競って発行を請うた。もし先生が病まず死なずんば、必ず自ら整理し、美善を極めたであろう。やむを得ず願いと事は違い、先生はついに病み、かつ死んだ。死後まさに二年を経て、ようやく全集を印行するに至った。遺著を捧げ読み、往昔を偲べば、悲痛の極みである。

先生は一書を出すごとに、編校ともに極めて厳密であった。広平が左右に助力し、多くの指導を承った。疑難があって教えを請えば、片言にして立ちどころに決した。今や全集が出版されるにあたり、彷徨し疑うところがあっても、指引を仰ぐすべがない。あらゆる過誤は、追悔しても及ばない。幸いにして文化界の同人が熱心に協力し、ついに完成に至った。経過について略述する。

遡れば先生の逝去後、挙世哀悼した。世論の趨く所、全集の出版はほぼ一致した要求となった。手紙が次々と届き、啓迪を蒙り、その要点を挙げれば、第一に早期出版を望むこと、第二に収集の完備を希うこと、第三に売価の低廉を冀うこと。思うに先生の著述のうち、すでに印行されたものは整理が比較的容易である。しかし未印行のもの、たとえば『六朝造像目録』、『六朝墓誌目録』、『漢碑帖』、『漢画像』等は、専門家でなければ手の付けようもなく、整理が最も困難であった。幸い先生の旧友である許寿裳・画室の両先生は、逝者を記念し遺族を援助することに労苦を辞さなかった。全集の進行についても不断に書信で指示を寄せ、終始多くの貴重な助力を与えてくださった。一九三七年春、台静農先生が親しく弔問に来られ、全集を大まかに整理してくださった。併せて許寿裳先生と相談の上、蔡元培・馬裕藻・沈兼士・茅盾・周作人の諸先生に全集編集委員の任を引き受けていただくことに同意を得た。その頃、広平は上海で先に整理を始めるつもりであり、蔡元培・茅盾両先生の指示を得た後、去年の夏休みを利して北平に赴き、馬・許・沈・周の諸先生ならびに台静農・魏建功・曹靖華・李霽野の諸君子に教えを請い、衆知を集めて完善を期し、しかる後に上海に持ち帰り印行の手立てを講じようとした。ところが「七七」盧溝橋事件が勃発し、一切の計画は頓挫してしまった。昨秋、先生の一周年逝去記念会の席上、上海の文化界がまた全集の出版を督促した。敵は我を滅ぼさんとして、まず文化を狙う。開戦以来、国内の文化機関、図籍古物の破壊されたものは数知れない。先生の全集を出版し、祖国の文化を護ることは、まさに一刻の猶予も許されない急務である。しかし家も墓も廃墟となり、死を救うにも暇がなく、百業は凋敝し、生計は日に拙くなる。志は高くとも善策がない。しかし先生が一生の心血を注いだ民族解放の業績を、どうして長く擱置し、模範を失することに忍びようか。諺に曰く、紙は金石よりも寿命が長い、と。自分には力が及ばぬと思いつつも、一度思い及ぶたびに心が痛んだ。幸い胡愈之先生が、かねてからの文化事業への熱意をもって、全集出版の計画を積極的に進め、幾多の困難を経て大体の規模を整えた。しかもその手で創った復社をもってこの責を担おうとし、広平も欣然として承諾した。復社の諸君子は、みな上海の著名な士であり、その事に当たるのは胡愈之・張宗麟・黄幼雄・胡仲持・鄭振鐸・王任叔の諸先生である。編集の責任は魯迅先生記念委員会に帰し、復社は出版を主持し、発行を代理する約定となった。ただし記念委員会の同人は四方に散在しており、集中して編集することは勢い困難であった。書信のやりとりで多くの指示はあったものの、実際の責任は少数の人に集中せざるを得なかった。幸い復社の同人は措置が適切で、仕事はすべて秩序立って進み、進行も極めて順調であった。六百余万字の全集が三ヶ月という短期間で完成し得たことは、実に中国出版界の奇跡と言うべきである。各部門の作業概況は、大略以下の通りである。

一、編集部の作業:集稿、筆写、編集、校正の各項目に分かれる。

a.集稿 先生の著訳で、すでに専書として世に行われているものは固より多いが、散逸したものも少なくない。すでに書物として印行されながら久しく絶版となっているものに、『月界旅行』、『地底旅行』、『域外小説集』、『芸術論』二種、『現代新興文学の諸問題』、『文芸と批評』、『文芸政策』、『会稽郡故書雑集』等がある。『月界旅行』は楊霽雲先生のご好意で借用した。『地底旅行』も楊先生が『浙江潮』第十期から筆写して送ってくださったが、冒頭の二章のみであった。阿英先生は全集の組版が始まったと聞くや、蔵書の中から全書を探し出して貸してくださり、完璧となった。『域外小説集』は、初版の上冊一冊が元からあったが、表紙がすでに破損しており、編印に供し得るのはただ中華の新出版本のみであった。幸い蒯斯暄先生が編校に参加するよう招かれた折、自宅に『域外小説集』下冊の初版本があることを知り、即座に恵贈してくださった。表紙は新品同様で、淡い青色に「或外小説亼」の篆字と「会稽周氏兄弟纂訳」等の字が記されていた。毛辺精装で、綴じの針金はすでに錆びていたが、書式はなお極めて美しかった。この一書を得て、校正の際に多くの啓発を受けた。『芸術論』二種、『現代新興文学の諸問題』、『文芸と批評』、『文芸政策』等は、早くに周文・胡愈之の両先生が苦心して探し出されていた。『会稽郡故書雑集』は元来木版で印行されていたが、手写本は作人先生のもとに存し、魏建功先生に頼んで借り受け、自ら北平から運び出して昆明に保管されていた。この度の全集出版に際し、魏先生がこれを航空便で香港に送り、茅盾先生に頼んで人に持たせて上海に届けた。全集の編目の当初から、この書は収録予定であった。しかし書がどこにあるか分からなかった。方々に電報で問い合わせ、一ヶ月余りを経てなお消息がなく、心中甚だ不安であった。ようやく稿本を一目見た時は、至宝を得たような歓喜の情は言葉では言い表せなかった。魏先生の来書にこうある。「先師の手沢が無事にお手元に届き、私の胸のつかえも解けました。昨年十一月に梱包して発送して以来、香港で浮沈すること五ヶ月、散失しかかること幾度か、心中穏やかではありませんでした。今やついに願い通り全集に刻入できること、幸甚幸甚。」これをもってしても一書の成るがいかに容易でないかが分かる。その他、未印行で先生が編定・輯録したものに『古小説鉤沈』、『嵆康集』、『山民牧唱』および『集外集拾遺』がある。広平が散逸した訳文を集録して一書としたものに『訳叢補』がある。『古小説鉤沈』、『嵆康集』、『山民牧唱』の写本は完全で、改めて筆写して付印すればよかった。『集外集拾遺』は一部が先生自ら編定し、一部を広平が続編した。その中の多くの序文や後記は、王冶秋先生が編纂した『魯迅序跋文集』の稿本に助けられたものが少なくない。『城と年 挿図本小引』は先生が一九三六年三月十日に病を押して記したもので、もともとこの書を印行し、「読者の鑑賞に供し、自分の責任を果たし、我々のニコライ・アレクセーエフ君の記念とする」つもりであった。しかし先生の計画は実現せずに「亡故」した。我々の「悲哀」の「記念」は、先生のニコライ・アレクセーエフに対するそれを超えるものだ。すでに大体の計画を立て、『引玉集』と同じく精美に印刷するつもりであったが、これまた「八一三」の砲火に粉砕されてしまい、語るも悲憤に堪えない。今はまず『小引』を『集外集拾遺』に収めて注意を促し、いつの日か先生の遺志を完成させたい。『訳叢補』一書については、謝澹如先生の助力が最も大きかった。謝先生はかつて先生の翻訳逸文の全部を分類して目録に筆写し、非常に勤勉であった。全集の集稿の際にも『前哨』、『萌芽』、『十字街頭』、『砂漠の上で』、『奇剣及其他』、『朝花週刊』等の書を貸してくださった。しかし蒐録の後、謝先生が編んだ訳文目録と照合すると、なお少なからず欠けていた。謝先生は先生の訳文をもともとすべて保存していたが、家が南市にあったため旧蔵はことごとく火に焼かれ、補足する術がなかった。幸い文化界の同人が知らせを聞いて、みな所蔵の書を貸してくださった。先後に少なからぬ便宜を与えてくださったのは、柳亜子・阿英・徐川・唐弢・席滌塵・蒯斯暄の諸先生である。この間の因縁については『訳叢補編後記』で多少触れたので、ここでは繰り返さない。

最後に集稿について、なお触れねばならないのは、周建人先生が『薬用植物』を自ら日本語から校正を一通りされ、原書も恵贈してくださったことで、これにより図版がさらに鮮明になった。また鄭振鐸先生が美術専門学校から『近代美術史潮論』の原書を借りて製版してくださった。原書は日本ですでに絶版となり、購入できなかったのだ。北新の中訳本は、挿図の多くが不鮮明で翻印できなかった。この原書を得て製版できたことで、全集はさらに燦然と輝くものとなった。心中の感激は、もはや筆墨では形容できない。

b.筆写 この作業は比較的細々としている。原書は借りた孤本であるか、先生の直筆であるかのいずれかで、いずれも汚損は許されない。『集外集拾遺』、『月界旅行』、『山民牧唱』等は、早くに王賢楨先生が筆写した。『古小説鉤沈』は元来十冊に分綴されており、王賢楨・単亜廬・周玉蘭・呉観周・王廠青の諸先生が分担して筆写した。『嵆康集』は先生の旧友邵文鎔先生の長女景淵が筆写した。『地底旅行』の全部と『訳叢補』の大部分もまた邵先生の次女景濂、三女景洛、四女景渭らが協力して筆写した。輯録書籍の標点については、同人の中に採用すべきでないとする者もあれば、標点を加えるべきだとする者もあった。書例を統一し、また初学者にも分かりやすくするため、特に馮都良先生に『嵆康集』と『古小説鉤沈』の標点をお願いし、鄭振鐸・呉文祺の両先生に『会稽郡故書雑集』の標点をお願いした。馮・鄭・呉の三先生は国学に極めて造詣が深く、過誤を多少なりとも免れ得るものと思う。

c.編集 この作業が最も煩難であった。著作年代を顧慮しつつ、各冊の字数も適切にせねばならない。厚すぎれば製本が難しく、薄すぎれば書式が揃わない。苦心に苦心を重ねて今日の配列となったが、それでもあまり満足はしていない。例えば『薬用植物』は翻訳の時期が後であるが、第十八巻の字数が多すぎるため第十四巻に移した。第八・第九・第十の各巻は著作年代が比較的早いが、その性質が類似しているため、先生の「三十年集」の当初の編排に倣い、著述之部の最後に置いた。この作業では鄭振鐸・王任叔の両先生の尽力が最も大きかった。字数については当初合計約五百万字の見込みだったが、次々と蒐集するうち、『集外集拾遺』は先生の予定より約三分の二超過した。また『地底旅行』も全書として補完された。『竪琴』と『一日の仕事』は、当初は先生翻訳の部分のみを収録する予定であったが、いざ編排に取りかかると、序文と各篇が互いに関連し合っており、『一日の仕事』の一篇はもともと先生の翻訳ではないが、篇名をそのまま書名としている以上、削除するのはさらに不適当である。考えてみれば両書とも先生が無数の心血を注ぎ自ら編定したものであり、割裂を避けるため当然ながら一併して附入すべきである。『訳叢補』については、見本の予告には含まれていなかった。これほど斉備に蒐集できるとは思わず、他の書の後に附すれば足りると考えていたからだ。今回、文化界の同人の助力を得て、卓然たる巨帙として成った。全集の字数はついに六百万字を超えた。

最後に編集について、なお記すべきことがある。先生の文章は、単行本として世に出たものに、重出するものがしばしばある。例えばプレハーノフ『芸術論』の序文は、原書にも載り、『二心集』にも収められている。編集にあたりこの種の困難に遭遇した場合は、当該文を原書に保存し、もう一方の書の目録に篇名を載せ、その下に「文は某某巻本書に略見す」と注記して識別に供した。これは創例ではあるが、頁幅を節約し重出を避けるため、やむを得ぬ措置であった。

d.校正 この作業もまた極めて困難であった。先生の著訳は発行者が一社に限らず、しかも時間の先後により体裁がかなり不統一であった。全集として出す以上、できる限り統一を図りたい。そこで出版の全責を負う黄幼雄先生が事前に「魯迅全集排式」を以下の通り擬定した。

(一)毎面十三行、毎行三十五字。 (二)篇名は上隅、頁番号は下隅。 (三)題目は五行を占め、著者名を含めて六行。 (四)題目は三号倣宋、空き鉛で分け、上に五格空ける。 (五)題目下の著者名は四号長倣宋。 (六)題目下の名前は下に三格空け、名前が二字なら中に一格空け、名前の下は三格空ける。 (七)訳者名は四号長倣宋。 (八)節目は二行を占め、四号倣宋。 (九)節目の上は六格空ける。 (十)両面装:人名・書名の線は左側に、圏点は右側に排す。 (十一)人名・地名は——(左方に)を用いる。 (十二)書名は〔傍線〕を用いる。 (十三)各段の起行は二格空ける。 (十四)引用符号は二重鉤括弧を用い、単・二重を併用する時は外が二重、内が単。 (十五)引用文の題目は七格空ける。 (十六)引用文の各段の起行は五格空け、二行目以降は四格空ける。 (十七)一字が単独で一行となる場合は、上行から一字移し、上行に空き鉛を入れて分ける。

火勢はさほど旺んではなかった。蘆の柴はまだ乾き切っていなかったのだ。だが、やがてごうごうと音を立て、長い長い時間を経てとうとう無数の火焔の舌を伸ばし、伸びたり縮んだりしながら上に舐め、さらにしばらくして火焔の八重咲きの花に合わさり、やがて火焔の柱となって、赫々と崑崙山上の赤光を圧倒した。突如として大風が起こり、火柱は旋回しながら唸りを上げ、青い石も斑な石もすべて一色に真っ赤になり、飴のように裂け目の間を流れ広がって、消えることのない稲妻のようであった。

風と火勢が女媧の髪を四方に散らし旋回させ、汗は瀑布のように奔流した。大いなる光焔が女媧の身体を煌々と照らし出し、宇宙に最後の肉紅色を現出させた。

火柱は次第に上昇し、後に残ったのはひと山の蘆灰だけだった。女媧は天が一面の青碧に戻るのを待って、手を伸ばして触ってみたが、指先にはまだいくらか凸凹が感じられた。

「力を養ってからまたやろう……」女媧は自ら思った。

女媧はかがんで蘆灰をすくい上げ、一すくいまた一すくいと地上の大水に入れていった。蘆灰はまだ冷め切っておらず、水を蒸して澌々と沸騰させ、灰水は女媧の全身にはね散った。大風はなおもやまず、灰を巻き上げて吹きつけ、女媧を灰土の色に変えた。

「ふう……」女媧は最後の息を吐き出した。

天辺の血紅の雲の中に、光芒を四方に放つ太陽が一つ、洪荒の溶岩に包まれた流動する金の球のように浮かんでいた。反対側には、鋳鉄のように冷たく白い月があった。だがどちらが沈みどちらが昇るのかは分からなかった。この時、女媧は自らの一切を使い果たした躯殻をもって、その間に横たわり、もう呼吸しなかった。

上下四方は、死滅を超えた静寂であった。

ある日、天気はひどく寒かったが、喧騒が聞こえた。禁軍がとうとう殺到したのだ。火光も煙塵も見えなくなるのを待っていたので遅くなったのだ。左手に黄色い斧、右手に黒い斧、後ろには極めて大きく極めて古い大纛を携え、こそこそと女媧の死骸の傍に攻め寄せたが、何の動きもなかった。彼らは死骸の腹の上に陣営を張った。ここが最も膏腴だったからで、こういうことを選り分けるのは彼らはなかなか巧みだった。しかし彼らは突然口調を変え、自分たちこそ女媧の嫡流だと称し、同時に大纛旗上の蝌蚪文字も書き換えて、「女媧氏之腸」と記した。

海岸に落ちた老道士も無数の代を伝えてきた。臨終の際にようやく、仙山が巨鰲に背負われて海上に出たという一大ニュースを弟子に授け、弟子はまた孫弟子に伝え、後に一人の方士が取り入ろうとして秦始皇に奏聞し、秦始皇は方士に探しに行かせた。

方士は仙山を見つけられず、秦始皇はとうとう死んだ。漢の武帝がまた探させたが、やはり影もなかった。

おそらく巨鰲たちは女媧の言葉を理解していなかったのだ。あの時はたまたま偶然に頷いただけだった。曖昧模糊として一程背負った後、みな散り散りに眠りに行ってしまい、仙山もそのまま沈んでしまった。だから今に至るまで、誰一人として半座の神仙山を見た者はなく、せいぜいいくつかの蛮島を発見したに過ぎない。

(一九二二年十一月作。)


【奔月】

賢い家畜は確かに人の心を知る。宅の門が見えるや否や、馬はたちまち足を緩め、背の上の主人と同時に頭を垂れ、一歩一歩、臼を搗くように歩いた。

夕靄が大邸宅を包み、隣家の屋根からは濃い黒い炊煙が立ち昇り、もう晩飯の時刻だった。家来たちは馬蹄の音を聞きつけ、とうに迎えに出て、宅門の外で手を垂れ、まっすぐに立っていた。羿はゴミの山のそばで気だるく馬を降り、家来たちが手綱と鞭を受け取った。大門をくぐろうとして、腰に下げた矢筒いっぱいの真新しい矢と、網の中の三羽の烏と一羽の撃ち砕かれた小雀を見下ろすと、心は甚だ躊躇した。だが結局、思い切って大股に中に入った。矢が矢筒の中でがらがらと鳴った。

内院に着くと、嫦娥が丸窓からちらりと顔を覗かせたのが見えた。彼女は目ざとく、きっとあの数羽の烏をとうに見ていただろうと思うと、思わずぎくりとして足が止まった——だが進むほかなかった。侍女たちが皆迎えに出て、弓と矢を外し、網兜を解いてくれた。彼女たちが皆苦笑しているように感じた。

「奥様……」手と顔を拭いてから奥の部屋に入り、声をかけた。

嫦娥は丸窓の外の夕暮れの空を眺めていたが、ゆっくりと振り向き、気のない様子で彼をちらりと見やっただけで、返事をしなかった。

この光景には、羿はとうに慣れていた。少なくとも一年以上は。彼はそれでも近づいて行き、向かいの毛の抜けた古い豹皮を敷いた木の寝台に腰を下ろし、頭を掻きながら、しどろもどろに言った——

「今日の運もやっぱりよくなくて、またしても烏ばかりで……」

「ふん!」嫦娥は柳眉をきっと上げ、突然立ち上がると風のように外へ歩き出し、口の中でぶつぶつ言った。「またカラスの炸醤麺、またカラスの炸醤麺!聞いてきてちょうだい、いったい誰の家が年がら年中カラスの肉の炸醤麺ばかり食べてるっていうの?私は本当にどんな運命でここに嫁いで来たのかしら、年中カラスの炸醤麺ばかり!」

「奥様」羿は慌てて立ち上がり、後ろについて行き、小声で言った。「でも今日はまだましで、別に雀を一羽射ったんだ。お前のおかずにできるよ。女辛!」大声で侍女を呼んだ。「あの雀を持ってきて奥様に見せてくれ!」

獲物はすでに厨房に持って行かれていたので、女辛が走って行って選り出し、両手で捧げて嫦娥の目の前に差し出した。

「ふん!」嫦娥はちらりと見て、ゆっくり手を伸ばしてつまみ、不機嫌そうに言った。「めちゃくちゃじゃない!全部粉々に砕けてるわ。肉はどこにあるの?」

「そうなんだ」羿は甚だ恐縮して言った。「撃ち砕いてしまった。弓が強すぎて、矢じりが大きすぎたんだ。」

「もっと小さな矢じりを使えないの?」

「小さいのがないんだ。封豕長蛇を射た時以来……」

「これが封豕長蛇だとでも?」嫦娥はそう言いながら、女辛の方に振り返って「スープを一碗つけて」と言い、また部屋に引っ込んだ。

羿だけがぼんやりと広間に残り、壁にもたれて座り、厨房で薪が爆ぜる音を聞いていた。あの頃の封豕がどれほど大きかったか思い出した。遠くから見ればまるで小さな土の丘のようだった。あの時射殺しないで今まで残しておけば、半年は食べられたものを。毎日おかずの心配などする必要もなかったのに。長蛇だって、羹にして飲めたのに……。

女乙が灯をつけに来ると、向かいの壁に掛かった赤い弓、赤い矢、黒い弓、黒い矢、弩機、長剣、短剣が、薄暗い灯りの中に浮かび上がった。羿は一目見てから頭を垂れ、溜息をついた。女辛が夕食を運んできて、真ん中の案の上に置いた。左に白麺の大碗が五つ、右に大碗が二つとスープが一碗、中央にはカラスの肉で作った炸醤の大碗が一つ。

羿は炸醤麺を食べながら、確かに美味くないと自分でも思った。嫦娥をそっと窺うと、炸醤は見もせず、ただスープで麺を浸して半碗食べ、また箸を置いた。顔色がいつもより黄色く痩せているようで、病気にでもなったのではと心配になった。

二更になると、嫦娥はいくらか穏やかになったようで、黙って寝台の縁に座り水を飲んでいた。羿は隣の木の寝台に座り、毛の抜けた古い豹皮を手で撫でていた。

「ああ」彼は穏やかに言った。「この西山の文豹は、結婚前に射ったものだ。あの頃はなんと美しかったか、全身が黄金に光って。」そして当時の食べ物を回想した。熊は四つの掌だけを食べ、駱駝は峰を残し、残りは侍女や家来たちに下げ渡した。後に大きな動物を射り尽くすと、猪、兎、山鶏を食べたが、射術は巧みで、欲しいだけ手に入った。「ああ」思わず溜息をついた。「私の弓の腕が巧みすぎて、地上のものを射り尽くしてしまった。あの頃、カラスしかおかずがなくなるとは誰が思っただろう……」

「ふん。」嫦娥は微かに笑った。

「今日はまだ運がいい方だ」羿も上機嫌になった。「なんとか雀を一羽仕留められた。三十里も遠回りしてようやく見つけたんだ。」

「もっと遠くまで行けないの?!」

「そうだ。奥様。私もそう思う。明日はもっと早起きしよう。もしお前が先に目覚めたら、私を起こしてくれ。さらに五十里先まで行って、獐やら兎やらがいないか見てみるつもりだ。……だが、難しいかもしれない。封豕長蛇を射た頃は、野獣がどれほど多かったか。お前も覚えているだろう、義母の門前にもよく黒熊が通りかかって、何度も射りに行ったものだ……」

「そうだったかしら?」嫦娥はあまり覚えていないようだった。

「まさか今になって何もかも射り尽くすとは思わなかった。考えてみると、これからどうやって暮らしていくのか分からない。私はいいんだ、あの道士がくれた金丹を飲めば飛昇できる。だがまずお前のことを考えねば……だから明日はもっと遠くまで行くことにする……」

「ふん。」嫦娥はもう水を飲み終え、ゆっくり横になり、目を閉じた。

残り少ない灯火が残り化粧を照らした。白粉はいくらか落ち、目の周りはうっすら黄ばみ、眉墨もどうやら左右同じではない。だが唇は相変わらず火のように赤く、笑ってはいないのに頬には浅い笑窪があった。

「ああ、こんな人に、私は年がら年中カラスの炸醤麺ばかり食べさせている……」羿はそう思うと恥ずかしくなり、両頬から耳の根まで熱くなった。

一晩明ければ翌日である。

羿がふと目を開けると、一筋の陽光が西の壁に斜めに差しており、もう遅い時刻だと知った。嫦娥を見ると、まだ手足を広げて熟睡していた。彼はそっと衣服を羽織り、豹皮の寝台から這い降り、広間に出て顔を洗いながら、女庚に王升に馬の用意を命じさせた。

忙しさのあまり朝食はとうに廃止していた。女乙が焼餅五つ、葱五本、辣醤一包みを網兜に入れ、弓矢と一緒に腰に結び付けた。帯をぎゅっと締め、静かに広間の外に出ながら、ちょうど向かいから入ってくる女庚にこう言いつけた——

「今日は遠くまで食べ物を探しに行くつもりだから、帰りが少し遅くなるかもしれない。奥様が目を覚まし、朝のお菓子を召し上がって、いくらか上機嫌な頃を見計らって、こう伝えてくれ。晩ご飯は少し待ってほしい、大変申し訳ないと。覚えたかい? お前はこう言うんだ。『大変申し訳ございません』と。」

足早に門を出て馬に跨り、立番の家来たちを後に残し、間もなく村を駆け出した。前方にはいつも通る高粱畑が広がっていたが、見向きもしなかった。何もないことはとうに分かっている。鞭を二度入れて一目散に駆け、一気に六十里ほど走ると、前方に一叢の繁った林が見えた。馬も息が荒くなり全身汗まみれで、自然と遅くなった。さらに十里余り行って、ようやく林に近づいたが、見渡す限りスズメバチ、紋白蝶、蟻、飛蝗ばかりで、禽獣の跡は微塵もなかった。この新しい場所を見た時には、少なくとも狐か兎の一匹二匹はいるだろうと思ったが、やはり夢想に過ぎなかった。仕方なく林を迂回して出ると、向こうにはまた碧緑の高粱畑が広がり、遠くに小さな土の家が点在していた。風は穏やかで日は暖かく、鴉も雀も声を立てなかった。

「ついてない!」精一杯大声で叫んで、鬱憤を晴らした。

だが十数歩進むと、たちまち心が花開いた。遠くの土屋の前の平地に確かに一羽の飛禽が止まっていて、一歩一歩啄んでいる。大きな鳩のようだった。慌てて弓を取り矢を番え、弦を引き絞って手を放すと、矢は流星のように飛んで行った。

こんな時に躊躇する必要はない。もとより百発百中なのだから、馬で矢の跡を追いかければ獲物を拾えるはずだった。ところが近づこうとすると、一人の老婆が矢の刺さった大きな鳩を抱えて大声で喚き、彼の馬の前に突進してきた。

「あんた誰だい?なんでうちの一番いい黒い雌鶏を射殺したんだ?手がそんなに暇なのかい?……」

羿はどきりとして、慌てて手綱を引いた。

「あっ!鶏ですか?ドバトだと思ったんですが。」彼は狼狽して言った。

「目が潰れてるのかい!見たところ四十過ぎだろう。」

「はい。お婆さん。去年で四十五になりました。」

「図体ばかり大きくて!雌鶏も分からなくてドバトと間違えるとは!あんたはいったい何者だい?」

「私は夷羿です。」そう言いながら自分の射た矢を見ると、雌鶏の心臓を貫通しており、もちろん死んでいた。最後の二文字はあまり大きな声にならなかった。馬から降りた。

「夷羿?……誰だい?知らないね。」老婆は彼の顔を見て言った。

「知っている人はすぐ分かるはずです。堯帝の御代に、野猪を何頭か、蛇を何匹か射殺したことがあります……」

「はは、嘘つきめ!あれは逢蒙さまが他の人と一緒に射殺したんだよ。あんたも混じってたかもしれないけど、自分一人でやったみたいに言うなんて、恥知らずだね!」

「ああ、お婆さん。逢蒙という男は、ここ数年よく私のところに来ていただけで、一緒にやったことなどなく、全く無関係です。」

「嘘だね。近頃しょっちゅう人がそう言ってて、月に四、五回は聞くよ。」

「それはまあいい。本題を話しましょう。この鶏をどうしましょう?」

「弁償おし。これはうちで一番の雌鶏で、毎日卵を産むんだ。鍬を二丁、紡錘を三つ弁償してもらうよ。」

「お婆さん、この格好を見てください。耕しも織りもしない者に、どこに鍬や紡錘があるでしょう。手持ちの金もなく、焼餅が五つあるだけです。白い麺で作ったやつですが、これで鶏の弁償にして、さらに葱を五本と甘辛い醤を一包み付けます。いかがでしょう?……」片手で網兜から焼餅を探り、もう一方の手を伸ばして鶏を取ろうとした。

老婆は白麺の焼餅を見て、いくらか承知しそうになったが、十五個よこせと言い張った。交渉の末、やっとのことで十個にまとまり、遅くとも明日の正午までに届ける約束で、鶏を射た矢を担保にした。羿はこれでようやく安心し、死んだ鶏を網兜に押し込み、鞍に跨って馬を返した。腹は空いていたが、心は嬉しかった。鶏のスープを飲まなくなってからもう一年以上経っていたのだ。

林を迂回して出た時はまだ午後だったので、急いで鞭を入れて家路を急いだ。だが馬の力は尽きており、いつもの高粱畑の近くに着いた時にはもう黄昏だった。向こうに人影がちらりと見え、続いて一本の矢が忽然と飛んできた。

羿は馬を止めず走らせたまま、同時に弓を取って矢を番え、一射すると、鋮と金属音がして矢じり同士がぶつかり、空中に火花を数点散らし、二本の矢は上に押し上げられて「人」の字を描き、くるりと返って地面に落ちた。一の矢が触れ合うや、両側から直ちに二の矢が来て、やはり鋮と音を立てて半空でぶつかった。このようにして九本の矢を射り、羿の矢はすべて尽きた。だがこの時すでに、向かいに逢蒙が得意げに立っているのが見え、なお一本の矢が弦に番えられ、彼の咽喉を狙っていた。

「はは、あいつはとうに海辺で魚でも獲りに行ったかと思えば、まだこの辺りでこんな真似をしていたのか。あの婆さんがああ言ったのも道理だ……」羿は思った。

その時は疾い。向こうは弓は満月の如く、矢は流星の如し。颯っと一声、まっすぐ羿の咽喉に飛んできた。狙いがほんの少しずれたのか、口に命中した。一回転して、矢を咥えたまま馬から落ちた。馬も立ち止まった。

逢蒙は羿が死んだと見て、ゆっくり歩み寄り、微笑しながらその死に顔を眺めた。勝利の白干酒を一杯飲むかのように。

じっと見つめた途端、羿が目を開け、突然がばりと起き上がった。

「百回以上も来て、まったく無駄だったな。」矢を吐き出して笑いながら言った。「俺の『齧鏃法』も知らないのか?それじゃだめだ。こんな小細工は通じない。盗んだ拳で本人は殺せないんだ。自分で練習しないとな。」

「すなわちその人の道を以て、その人の身に反す……」敗者は小声で言った。

「ははは!」大笑しながら立ち上がった。「また引経据典か。だがそんな言葉は婆さんを騙すのに使え。本人の前で何を企んでいる?俺はもともと狩りしかやらない。お前みたいな追い剥ぎまがいの真似はしたことがない……」そう言いながら、網兜の中の雌鶏を見ると、潰れてはいなかったので、馬に跨ってそのまま去った。

「……弔いの鐘を鳴らしてやったぞ!……」遠くからなお罵声が聞こえてきた。

「まさかこんなに意気地がないとは。若い身空で、呪いを覚えるとは、あの婆さんが彼を信じるのも無理はない。」羿はそう考えながら、思わず馬上で絶望的に首を振った。



まだ高粱畑を抜けきらぬうちに、空はすでに暗くなった。青い空に明星が現れ、宵の明星は西方でひときわ燦然と輝いていた。馬は白い畦道を頼りに歩くしかなく、しかもとうに疲労困憊して、当然ますます遅くなった。幸いにも月が地平線の際から次第に銀白色の清輝を吐き出してきた。

「いまいましい!」羿は自分の腹がぐるぐると鳴るのを聞いて、馬上で焦り始めた。「生活に忙殺されているときに限って、つまらぬ事にぶつかり、時間を無駄にする!」彼は両脚で馬の腹を蹴り、急がせようとしたが、馬は後ろ半身をひとひねりしただけで、相変わらずのろのろと歩いた。

「嫦娥はきっと怒っているだろう。こんなに遅くなって。」と彼は思った。「どんな顔を見せられることか。しかし幸いこの小さな雌鶏があるから、彼女を喜ばせることができよう。こう言えばいい——奥様、これは往復二百里も走ってやっと見つけてきたのですよ。いや、いかん、これでは自慢話になりすぎる。」

人家の灯が前方に見え、嬉しくなるともう考えるのをやめた。馬も鞭を待たず、自然と駆け出した。満月が前途を照らし、涼風が顔を吹く。大猟の帰りよりもなお愉快であった。

馬は自然とゴミ捨て場のそばで止まった。羿が見ると、何かいつもと違うようで、家の中がどうも乱雑に見えた。出迎えたのも趙富ひとりだけだった。

「どうした。王升はどこだ。」と彼は不思議そうに尋ねた。

「王升は姚の家へ奥様を探しに行きました。」

「何だと。奥様が姚の家に行ったのか。」羿はまだ馬上にぼんやり座ったまま尋ねた。

「はい……」と答えながら、手綱と鞭を受け取りに行った。

羿はようやく馬を下り、門をまたいで入り、ちょっと考えてから振り返って聞いた——

「待ちきれなくて、自分で食堂に行ったのではあるまいな。」

「はい。三軒の食堂に、小さいのが全部聞きに行きましたが、いらっしゃいませんでした。」

羿は頭を垂れて考えながら奥へ歩いた。三人の侍女がみな狼狽した様子で堂の前に集まっていた。彼はひどく怪訝に思い、大声で尋ねた——

「おまえたちは皆家にいるのか。姚の家へは、奥様一人ではいつも行かぬではないか。」

「災害はさほど深刻ではなく、食糧もまだ何とか持ちこたえられます、」と学者たちの代表である苗族言語学の専門家が言った。「パンは毎月空中から降ってまいります。魚も不足しておりません。いささか泥臭くはありますが、大変肥えております、大人。あの下民どもに至っては、楡の葉や海苔がいくらでもございます。彼らは『飽食終日、用心するところなし』——すなわち心を労さず、ただ食い——

禹が都に帰るという知らせは、以前から広まっていた。毎日必ず一群の人が関所に立ち、彼の儀仗の到来を見守っていた。来なかった。しかし知らせはますます切迫し、ますます本当らしくなっていった。ある半ば曇り半ば晴れの午前、彼はついに百姓たちの万頭攢動する中を、冀州の帝都に入った。前方には儀仗はなく、ただ乞食同然の随員の一大群があるのみであった。最後尾は粗末な——

「その後、紂王の二人の側室を探しに行った。ふん、とっくにみな首を吊って死んでいた。大王はまた三本の矢を射て、剣を抜いて一太刀浴びせ、それから黒い斧を取り出して首を斬り、小さな白旗に掛けた。こうなると……」

「その二人の妾は本当にきれいだったのかい。」門番が彼の話を遮った。

「よくわからない。旗竿が高いし、見物人も多くて——

叔斉は顔を上げ、慌てて愛想笑いをし、頷いた。

「これは何なの。」と彼女はまた尋ねた。

「薇です。」と伯夷が言った。

「どうしてこんなものを食べてるの。」

「我々は周の粟を食まぬゆえに……」

伯夷が言いかけると、叔斉が急いで目配せをしたが、あの女はなかなか賢いらしく、もうわかっていた——

突然、前方の人々は次々とひざまずいた。遠くから二頭の馬が並んで駆けてくる。その後ろには木の棒、戈、刀、弓、弩、旌旗を手にした武人たちが続き、道いっぱいに黄塵を巻き上げて進んでくる。さらに四頭立ての大きな車が現れ、その上には一隊の者が座り、鐘を打ち太鼓を叩く者、口に何という名の代物かも分からぬものを吹く者がいた。その後にもまた車が続き、中の人々はみな彩衣をまとい、老人でなければ太った小男で、誰もかも顔じゅう脂汗にまみれていた。続いて刀・槍・剣・戟を持った騎士の一隊が来る。ひざまずいていた人々はみな地に伏した。この時、眉間尺はちょうど黄色の蓋のついた大きな車が駆けてくるのを見た。真ん中に彩衣の太った男が座り、胡麻塩の髭、小さな頭。その腰のあたりに、自分の背に負うものと同じ青い剣が佩かれているのがかすかに見えた。

彼は思わず全身が冷たくなったが、たちまちまた灼熱し、猛火に焼かれるようだった。片手を肩に伸ばして剣の柄を握りしめ、片足を踏み出して、伏している人々の首の隙間を跨いで出ようとした。

だが五、六歩も行かぬうちに、真っ逆さまに転んでしまった。誰かが突然彼の片足を掴んだのだ。この転倒でちょうど痩せこけた顔の少年の上に倒れかかった。剣先で少年を傷つけはすまいかと驚いて起き上がろうとした時、脇腹にひどい拳を二発くらった。構っている暇もなく再び道を見やると、黄蓋の車はとうに過ぎ去り、護衛の騎士たちも大半が通り過ぎていた。

道端の人々もみな起き上がった。だが痩せこけた顔の少年は眉間尺の襟首をつかんで離さず、大切な丹田を押し潰されたから弁償しろ、もし八十歳にならぬうちに死んだら命で償えと言った。野次馬がたちまち取り囲み、ぼんやり眺めているが、誰も口を開かない。やがて誰かが横から笑いながら罵り始めたが、それはことごとく痩せこけた少年に同調するものだった。眉間尺はこのような敵に出くわし、怒ることもできず笑うこともできず、ただ無聊を覚えるばかりで、しかも逃れることもできなかった。粟を一鍋炊き上げるほどの時が過ぎ、眉間尺はとうに焦燥で全身が火を噴くようだったが、見物人は一向に減らず、依然として興味津々の体であった。

前方の人垣が揺れ、黒い人物が一人押し入ってきた。黒い髭、黒い眼、鉄のように痩せている。彼は何も言わず、ただ眉間尺に冷たく微笑みかけ、手を挙げて軽く痩せこけた少年の顎を弾き、その顔をじっと見つめた。少年もしばらく彼を見返していたが、知らず知らず手を緩め、するりと逃げ去った。その人物も姿を消し、見物人たちもつまらなそうに散っていった。ただ数人がまだ眉間尺に年齢や住所、家に姉がいるかなどと尋ねてきたが、眉間尺はいっさい相手にしなかった。

彼は南へ歩いていった。心の中で思った――城中はこれほど賑やかで、誤って人を傷つけかねない。いっそ南門の外で王の帰りを待ち伏せ、父の仇を討つ方がよい。あそこは地が広く人がまばらで、まことに剣を振るうに都合がよい。この時、城中では国王の遊山、儀仗、威厳のこと、みずから国王を拝した栄誉のこと、いかに低く平伏したか、国民の模範とすべきだなどと、蜜蜂の整列のように議論が喧しかった。南門に近づくにつれて、ようやく静けさが戻ってきた。

彼は城外に出て、大きな桑の木の下に座り、饅頭を二つ取り出して腹を満たした。食べている時にふと母のことを思い出し、思わず目頭と鼻の奥が熱くなったが、その後はどうということもなかった。あたりは一歩また一歩と静まっていき、ついには自分の呼吸がはっきり聞こえるほどになった。

空はますます暗くなり、彼もますます不安になった。目の限りを尽くして前方を見つめたが、国王が戻ってくる気配はまるでなかった。城に野菜を売りに来ていた村人たちが、一人また一人と空の天秤棒を担いで城門から出て家路についていった。

人の気配が途絶えてだいぶ経った後、突然城中からあの黒い人物が現れた。

「行くぞ、眉間尺! 国王がお前を捕らえようとしている!」彼は言った。その声はまるで木菟のようだった。

眉間尺は全身が震え、魔に魅入られたように、たちまち彼について歩き出した。やがて走り出した。立ち止まって長い間喘いでから、杉の林の端まで来たことにようやく気がついた。後方遠くに銀白の縞模様が見える。月がそちらから昇ったのだ。前方にはただ燐火のような二つの光点――あの黒い人物の眼光があるだけだった。

「どうして私をご存じなのです?……」彼はこの上なく恐れおののいて尋ねた。

「ははは! 私はずっと前からお前を知っている」その人物の声が言った。「お前が雄剣を背負い、父の仇を討とうとしていることも知っている。だが討てぬことも知っている。討てぬどころか、今日すでに密告した者がおり、お前の仇は東門から還宮して、お前の逮捕を命じた」

眉間尺は思わず悲しみに打たれた。

「ああ、母の嘆きはもっともだった」彼は低い声で言った。

「だが彼女は半分しか知らない。私がお前のために仇を討とうとしていることを、彼女は知らないのだ」

「あなたが? あなたが私のために仇を討ってくださるのですか、義士よ?」

「ああ、そんな呼び方で私を貶めるな」

「では、私たち孤児寡婦に同情してくださるのですか?……」

「ああ、子供よ、もうそんな汚された名称を口にするな」彼は厳しく冷たく言った。「義侠だの、同情だの、そういったものは、かつては清らかだったが、今ではすべて高利貸しの元手になり果てた。お前の言うそんなものは、私の心には一切ない。私はただお前のために仇を討ちたいだけだ!」

「よろしい。ですが、どうやって仇を討つのです?」

「お前から二つのものをもらうだけでよい」燐火の下の声が言った。「その二つとは何か。聞け――一つはお前の剣、もう一つはお前の首だ!」

眉間尺は奇妙に思い、いささか狐疑の念を抱いたが、驚きはしなかった。しばらく口を開くことができなかった。

「私がお前の命と宝剣を騙し取ろうとしているなどと疑うな」闇の中の声がまた厳しく冷たく言った。「この事はすべてお前次第だ。私を信じるなら、私は行く。信じぬなら、私はここにとどまる」

「しかし、なぜ私のために仇を討とうとなさるのです? 私の父をご存じなのですか?」

「私はずっと前からお前の父を知っている。お前をずっと前から知っているのと同じだ。だが仇を討とうとするのは、そのためではない。聡明な子供よ、教えてやろう。まだ分からぬか、私がいかに復讐に長けているかを。お前のものは私のもの、あの男もまた私なのだ。私の魂には、他者と自己から加えられた傷がこれほど多く、私はすでに自分自身を憎悪している!」

闇の中の声が止むや否や、眉間尺は手を肩に伸ばし青い剣を抜き取り、そのまま後ろの項の窩から前へ一薙ぎにした。頭は地面の苔の上に落ち、剣を黒い人物に手渡した。

「おお!」彼は片手で剣を受け取り、片手で髪を掴んで眉間尺の首を持ち上げ、まだ熱い死んだ唇に二度接吻し、そして冷たく鋭い笑い声を上げた。

笑い声はたちまち杉の林に響き渡り、奥深くから燐火のような一群の眼光が明滅しながらたちまち近づき、ひゅうひゅうという飢えた狼の喘ぎが聞こえてきた。第一口で眉間尺の青衣を噛み裂き、第二口で体はすっかり見えなくなり、血痕もたちまち舐め尽くされ、かすかに骨を咀嚼する音だけが聞こえた。

先頭の大きな狼が黒い人物に飛びかかった。彼が青い剣をひと振りすると、狼の首は地面の苔の上に落ち、他の狼たちが第一口でその皮を噛み裂き、第二口で体はすっかり見えなくなり、血痕もたちまち舐め尽くされ、かすかに骨を咀嚼する音だけが聞こえた。

彼はすでに地面の青衣を拾い上げ、眉間尺の首を包み、青い剣とともに背に負い、身を翻して、闇の中を王城に向かって悠然と歩いていった。

狼たちは立ち止まり、肩をそびやかし、舌を出し、ひゅうひゅうと喘ぎながら、緑の眼光を放って彼が悠然と去るのを見送っていた。

彼は闇の中を王城に向かって悠然と歩きながら、鋭い声で歌を歌った――


ははは愛よ愛よ愛よ!

青き剣を愛す、一人の仇人みずから屠る。

いかに大いなるかな連翩として幾多の一夫。

一夫青き剣を愛す、ああ孤ならず。

首は首と換わりて二人の仇人みずから屠る。

一夫すなわち無し、愛よ嗚呼!

愛よ嗚呼、嗚呼ああ、

ああ嗚呼、嗚呼嗚呼!



遊山は国王を楽しませることができなかった。加えて途上に刺客がいるとの密報があり、なおさら興を殺がれて帰ってきた。その夜、彼はひどく機嫌が悪く、第九の妃の髪でさえ昨日ほど黒く美しくは見えないと言った。幸い彼女が甘えて御膝の上に座り、特別に七十回余りも身をくねらせたので、ようやく龍眉の間の皺が次第に解けていった。

午後、国王が起き上がると、またいくらか不機嫌で、昼食を済ませる頃にはあからさまに怒りの表情を見せた。

「ああ! 無聊だ!」大欠伸の後、彼は大声で言った。

王后から道化役に至るまで、この様子を見て、みな手足の置き所に困った。白髯の老臣の説教も、太った小人の冗談も、王はとうに聞き飽きていた。近頃では綱渡り、竿登り、球投げ、逆立ち、刀呑み、火吹きなどの奇妙な芸当も、すべて見飽きて何の興味もなかった。彼はしばしば怒り出した。怒り出すと青い剣を押さえ、何か些細な落ち度を見つけて数人を斬り殺そうとするのだった。

こっそり宮殿の外を遊んでいた二人の小宦官が、ちょうど戻ってきて、宮中のみなの憂苦の様子を見るなり、またいつもの禍が迫っていることを悟った。一人は土気色になって恐れおののいたが、もう一人はいかにも心当たりがあるように、慌てず騒がず、国王の前に走り寄り、ひれ伏して言った。

「奴めがただいま一人の異人を見つけました。たいそう不思議な術をもっており、大王のお心を晴らすことができましょう。それゆえ特に申し上げに参りました」

「何だと?!」王が言った。彼の言葉はいつも短かった。

「黒く痩せた、乞食のような男でございます。青い衣をまとい、背に丸い青い包みを負い、口で出鱈目な歌を歌っております。人が尋ねますと、自分は芸当が巧みで、空前絶後、天下無双、人がいまだ見たことのないものだと申します。一度見れば、たちまち憂いも悶えも解け、天下太平になると。しかし皆にやれと言われても、承知しません。まず第一に金の龍が要る、第二に金の鼎が要ると申しまして……」

「金の龍? 朕がそうだ。金の鼎? 朕が持っておる」

「奴めもまさにそのように存じまして……」

「連れて参れ!」

声が終わるか終わらぬかのうちに、四人の武士があの小宦官に従って急ぎ出て行った。王后から道化役に至るまで、みな喜色を浮かべた。この芸当が憂いを解き悶えを払い、天下太平になることを願った。たとえうまくいかなくとも、今度はあの乞食のような黒く痩せた男が禍を受ける番であり、彼らはただ連れて来られるまで持ちこたえればよかったのだ。

さほどの時もかからず、六人が金の階に向かって進んでくるのが見えた。先頭は宦官、後ろは四人の武士、その間に一人の黒い人物が挟まれていた。近づくと、その人物の衣は青く、髭も眉も髪もみな黒く、痩せて頬骨、眼窩の骨、眉の稜がいずれも高く突き出ていた。彼が恭しくひざまずいてひれ伏した時、果たしてその背に丸い小さな包みが見えた。青い布で、上に暗紅色の模様がいくつか描かれていた。

「申せ!」王が苛立たしげに言った。道具が簡素なのを見て、大した芸当はできまいと思ったのだ。

「臣の名は宴之敖者と申します。汶汶の郷に生まれ育ちました。若い頃は生業もなく、晩年に明師に巡り会い、芸当を教わりました。それは一人の子供の首でございます。この芸当は一人では演じられず、金の龍の前に金の鼎を据え、清水を満たし、獣炭で煮立てねばなりません。そこに子供の首を入れますと、湯が沸くや、首は波に乗って上下し、百様の舞を踊り、妙なる声を発して歓び歌います。この歌舞を一人が見れば憂悶は解け、万民が見れば天下太平となります」

「やれ!」王が大声で命じた。

さほどの時もかからず、牛をも煮られる大きな金の鼎が殿の外に据えられ、水を満たし、下に獣炭を積んで火がつけられた。あの黒い人物は傍らに立ち、炭火が赤くなるのを見ると、包みを解き、開いて、両手で子供の首を捧げ出し、高く掲げた。その首は秀でた眉に長い目、白い歯に紅い唇、顔に微笑みを湛え、髪は蓬松として、まるで青い煙がひとしきり立ち昇るようだった。黒い人物はそれを捧げて四方に一巡りし、手を伸ばして鼎の上に差し出し、唇を動かして何やら数語を呟き、すぐさま手を放すと、ぽちゃんと水中に落ちた。水しぶきが同時に五尺余りも高く跳ね上がり、その後はすべてが静かになった。

長い時が過ぎても、何の動きもなかった。国王がまず苛立ち始め、続いて王后も妃も、大臣も宦官もいくらか焦り出し、太った小人たちはすでに冷笑を始めていた。王は彼らの冷笑を見て、自分が愚弄されたと感じ、武士を振り返り、あの詐欺師の小人を牛の鼎に投げ込んで煮殺せと命じようとした。

だがその時、水の沸く音が聞こえた。炭火もまさに盛んで、その照り返しであの黒い人物は赤黒く、まるで鉄が微かに赤熱するかのように見えた。王がまた顔を向けた時、彼はすでに両手を天に差し伸べ、虚空を見つめ、舞い踊りながら、突然鋭い声で歌い始めた。


ははは愛よ愛よ愛よ!

愛よ血よ、いずれか独り血なきものぞ。

民は冥き中を行く、一夫は壺盧のごとし。

かれは百の首、千の首を用い、万の首をも用いん!

我は一つの首を用いて万夫なし。

一つの首を愛す、血よ嗚呼!

血よ嗚呼、嗚呼ああ、

ああ嗚呼、嗚呼嗚呼!


歌声に合わせて、水は鼎の口から湧き上がり、上は尖り下は広く、小山のようだったが、水の頂から鼎の底まで絶え間なく旋回運動していた。あの首は水に従って上下し、ぐるぐる回りながら、同時にくるくると自ら宙返りを打ち、人々は楽しげに舞い遊ぶその笑みをおぼろげに見ることができた。しばらくすると、突然逆流に泳ぐように変わり、旋回しながら縫うように走り、水しぶきを四方に飛ばして、庭いっぱいに熱い雨が降り注いだ。小人の一人が突然叫び声を上げ、手で自分の鼻を押さえた。不幸にも熱湯にやけどし、痛みに堪えかねて、ついに悲鳴を上げずにはいられなかったのだ。

黒い人物の歌声が止むと、あの首も水の真ん中で止まり、王殿に向き合い、表情は端正に変わった。このまま十余瞬ほども経ってから、ゆっくりと上下に震え始めた。震動は次第に加速して、波のような遊泳になったが、さほど速くはなく、態度はまことに雍容たるものだった。水際を高く低く三周してから、にわかに目を大きく見開き、漆黒の瞳は格別の精彩を放ち、同時に口を開いて歌い始めた。


王の恩沢流れて浩々たり。

怨敵を克服す、怨敵を克服す、赫々として強し!

宇宙に窮まりあれど万寿無疆。

幸い我来たる、青くその光!

青きその光、永く忘れまじ。

異なる処、異なる処、堂々たるかな!

堂々たるかな皇なるかな、ああああ、

ああ来たれ帰れ、ああ来たれ陪え、青きその光!


首はにわかに水の頂に浮き上がって止まった。数回宙返りを打った後、上下に昇降し始め、瞳を左右に流し目して、まことに秀麗で媚びやかであった。口はなおも歌い続けていた。


ああ嗚呼、嗚呼嗚呼、

愛よ嗚呼、嗚呼ああ!

血に染む一つの首、愛よ嗚呼。

我は一つの首を用いて万夫なし!

かれは百の首、千の首を……


ここまで歌うと沈む時であったが、もう浮き上がってこなかった。歌詞ももはや聞き取れない。湧き上がっていた水も、歌声の衰えとともに次第に低くなり、引き潮のように退いて、ついに鼎の口より下に沈み、遠くからは何も見えなくなった。

「どうした?」しばらく待って、王が苛立たしげに尋ねた。

「大王」あの黒い人物が片膝をついて言った。「首はただいま鼎の底で最も神妙なる円舞を舞っておりまして、間近に寄らねば見えませぬ。臣にも上に浮かばせる術はございません。円舞は鼎の底でなければ舞えぬものゆえ」

王は立ち上がり、金の階を降り、炎熱をものともせず鼎の傍らに立ち、首を伸ばして覗き込んだ。水面は鏡のように平らかで、あの首は仰向けに水の中程に浮かび、両の目がまっすぐ王の顔を見つめていた。王の視線がその顔に注がれた時、首はにっこりと微笑んだ。この微笑みに王はどこかで見覚えがあるような気がしたが、咄嗟に誰だか思い出せなかった。驚き怪しんでいるうちに、黒い人物はすでに背に負った青い剣を抜き放ち、ただ一閃、稲妻のように後ろの項の窩からまっすぐに斬り下ろした。ぽちゃんと、王の首は鼎の中に落ちた。

仇人相まみえれば、もとより格別に目が冴えるもの、ましてや狭路での出会いである。王の首が水面に落ちるや、眉間尺の首が迎え撃ち、猛然と耳朶に喰らいついた。鼎の湯はたちまち沸騰し、澎湃と音を立てた。二つの首は水中で死闘を繰り広げた。およそ二十合ほどの間に、王の首は五箇所の傷を負い、眉間尺の首は七箇所であった。王はまた狡猾で、常に敵の背後に回ろうとした。眉間尺がわずかに油断した隙に、ついに後ろの項の窩に噛みつかれ、振り向くことができなくなった。今度は王の首は噛みついたまま放さず、じりじりと蚕食を続けた。鼎の外にも、まるで子供が痛みに堪えかねて叫ぶ声が聞こえるかのようだった。

王后から道化役に至るまで、凝り固まっていた表情も声に応じて動き出し、暗黒の悲哀を感じたかのように、肌に一粒一粒と粟が立った。しかしそこには秘められた歓びも混じっており、目を見開いて、何かを待ち受けているようでもあった。

黒い人物もいささか狼狽した様子だったが、顔色は変えなかった。彼は従容として、見えない青い剣を握った腕を伸ばした。それは枯れ枝のようだった。首を長く伸ばし、鼎の底を見つめるかのようにした。腕がふいに曲がり、青い剣がいきなり後ろから斬り下ろされた。剣が届いて首が落ち、鼎の中に墜ちた。ぱしゃんと、真っ白な水しぶきが空中に四方へ飛び散った。

彼の首が水に入るや、たちまち王の首に突進し、王の鼻にがぶりと噛みついた。もう少しで噛み千切るところだった。王は堪えかねて「あいたっ」と叫び、口を開けた。その隙に眉間尺の首はもぎ離れ、くるりと向きを変えて王の下顎に死力を込めて噛みついた。二つの首はどちらも放さず、渾身の力を込めて上下に引き裂いたので、王の首はもはや口を閉じることができなくなった。すると二つの首は、飢えた鶏が米をついばむように一斉に噛みまくり、王の首は目が歪み鼻が潰れ、顔じゅう鱗のような傷だらけになった。初めのうちはまだ鼎の中をあちこち転がり回っていたが、やがて横たわって呻くだけになり、ついには声も出なくなり、息を吐くばかりで吸うことはなくなった。

黒い人物と眉間尺の首もゆっくりと噛むのを止め、王の首から離れ、鼎の壁に沿って一周泳ぎ、王が死んだふりなのか本当に死んだのかを確かめた。王の首がまことに息絶えたと分かると、四つの目が見つめ合い、かすかに微笑み、やがて目を閉じ、天を仰いで、水底に沈んでいった。



煙は消え火は滅び、水波は立たない。格別の静寂がかえって殿上殿下の人々を覚醒させた。その中の一人がまず叫び声を上げると、皆もたちまち次々と驚きの声を上げた。一人が足を踏み出して金の鼎に向かうと、皆も先を争って押し寄せた。後ろに押しやられた者は、人の首の隙間から中を覗くしかなかった。

熱気がまだ顔を焼くほどだった。鼎の中の水は一面の鏡のように平らかで、表面には一層の油が浮かび、多くの顔を映し出していた。王后、妃嬪、武士、老臣、小人、宦官……。

「ああ、なんということ! 大王さまのお首がまだ中にあるのに!」第六の妃が突然狂ったように泣き喚いた。

王后から道化役に至るまで、みなもはっと悟り、慌てふためいて散り、手足の置き所もなく、それぞれ四、五回その場でぐるぐる回った。最も策略に長けた老臣が独り再び進み出て、手を伸ばして鼎の縁に触れたが、全身がぶるりと震え、すぐさま手を引っ込め、二本の指を口元に当てて吹き続けた。

皆は気を取り直し、殿門の外で引き上げる方法を相談した。粟を三鍋炊き上げるほどの時間を費やして、ようやく一つの結論に達した。すなわち、大厨房から鉄の金網杓子を集め、武士に協力して掬い上げさせるというものだった。

道具はほどなく集まった。鉄の金網杓子、穴杓子、金の盆、布巾がすべて鼎の傍らに並べられた。武士たちは袖をまくり上げ、金網杓子を使う者、穴杓子を使う者、一斉に恭しく引き上げにかかった。杓子がぶつかり合う音、杓子が金の鼎を擦る音がした。水は杓子のかき回しに従って渦巻いていた。しばらくして、一人の武士の顔つきがにわかに厳粛になり、極めて慎重に両手でゆっくりと杓子を持ち上げた。水滴が杓子の穴から珠のように滴り落ち、杓子の中には真っ白な頭蓋骨が現れた。皆が驚きの声を上げ、武士は頭蓋骨を金の盆に移した。

「ああ! 大王さま!」王后、妃嬪、老臣、果ては宦官の類まで、みな声を上げて泣き出した。だが間もなく次々と泣き止んだ。武士がまたもう一つ同じような頭蓋骨を掬い上げたからである。

彼らは涙で霞む目で四方を見回すと、武士たちは顔じゅう脂汗にまみれ、まだ引き上げ作業を続けていた。その後に掬い上げられたのは、白い髪と黒い髪が絡まり合ったかたまりだった。さらに数杓子の短いものがあり、白い髭と黒い髭のようだった。その後にまた一つ頭蓋骨が出てきた。その後は簪が三本。

鼎の中が澄んだ汁だけになって、ようやく手を止め、掬い上げたものを三つの金の盆に分けて盛った。一盆は頭蓋骨、一盆は髭と髪、一盆は簪。

「大王さまのお首は一つしかないのに。どちらが大王さまのなのでしょう?」第九の妃が焦れったそうに尋ねた。

「そうですな……」老臣たちは顔を見合わせるばかりだった。

「もし皮や肉が煮崩れていなければ、見分けるのは容易だったのですが」一人の小人がひざまずいて言った。

皆はやむなく心を落ち着け、頭蓋骨を仔細に見たが、黒さも白さも大きさも似たり寄ったりで、あの子供の首さえ区別がつかなかった。王后が言うには、王の右の額に傷痕がある、太子であった頃に転んで負った傷で、骨にも痕跡があるかもしれないと。果たして、小人の一人が一つの頭蓋骨にそれを見つけた。皆が喜んでいると、別の小人がもう一つの、やや黄色い頭蓋骨の右額にも似たような瘢痕を見出した。

「わたくしに名案がございます」第三の妃が得意げに言った。「大王さまの龍の御鼻はとても高うございますもの」

宦官たちはさっそく鼻骨の研究に取りかかった。一つは確かに幾分高いようでもあったが、差はほとんどなかった。最も残念なことに、右の額には転んだ傷痕がなかった。

「それに」老臣たちが宦官に言った。「大王の後頭部はこんなに尖っておいでだったかね?」

「奴めどもはかねてより大王さまの後頭部を注意して見たことがございませんで……」

王后と妃嬪たちもそれぞれ思い出そうとしたが、尖っていたと言う者もあれば、平らだったと言う者もあった。髪結いの宦官を呼んで尋ねたが、一言も発しなかった。

その夜、王公大臣の会議が開かれ、どれが王の首かを決めようとしたが、結果は昼間と変わらなかった。しかも髭や髪にも問題が生じた。白いものはもちろん王のものだが、胡麻塩であったから、黒いものも簡単には片づけられなかった。半夜ほど議論して、赤い髭を数本だけ選り分けたが、続いて第九の妃が抗議し、王には黄味がかった髭も数本あったのを確かに見たことがある、それなのに赤いのが一本もないとどうして断言できるのかと言い出した。そこでやむなく再び一緒に戻し、未決の案件とした。

夜半を過ぎてもなお結論は出なかった。みな欠伸をしながらも議論を続け、二番鶏が鳴くに及んで、ようやく最も慎重妥当な方法を決定した。すなわち、三つの頭蓋骨をすべて王の身体とともに金の棺に納めて埋葬するというものであった。

七日後が埋葬の日であり、城中は大変な賑わいだった。城内の民も遠方の民も、国王の「大出棺」を拝もうと駆けつけた。夜明けとともに道はすでに男女で溢れ返り、あちこちに祭壇が挟まっていた。午前になって、露払いの騎士がようやくゆるやかに馬を進めてきた。さらにしばらくして、旌旗、木棒、戈戟、弓弩、黄鉞の類の儀仗が見え、その後に四台の楽車が続いた。さらにその後に黄蓋が道の起伏に従って揺れながら次第に近づき、やがて霊車が現れた。上には金の棺が載せられ、棺の中には三つの首と一つの身体が納められていた。

庶民はみなひざまずき、祭壇が一列また一列と人波の中に現れた。数人の義民はまことに忠憤にかられ、涙を呑みながら、あの二人の大逆不道の逆賊の魂が、今この時も王とともに祭礼に与っているのではないかと恐れたが、いかんともしがたかった。

その後に王后と多くの妃嬪の車が続いた。庶民は彼女らを見、彼女らも庶民を見たが、泣いていた。その後は大臣、宦官、小人らの一行で、みな哀しげな顔を装っていた。ただ、庶民はもはや彼らを見ず、行列も押し合いへし合いでめちゃくちゃになり、体をなさなくなっていた。


(一九二六年十月作。)


【出関】


老子は身じろぎもせず座っていた。まるで一本の木偶のようだった。

「先生、孔丘がまた参りました!」弟子の庚桑楚が、うんざりした様子で入ってきて、小声で言った。

「通せ……」

「先生、ご機嫌いかがですか?」孔子はこの上なく恭しく礼をしながら言った。

「相変わらずだ」老子は答えた。「あなたはどうかね? ここの蔵書は、すべて読み終えたかな?」

「すべて読みました。ですが……」孔子はいささか焦燥の色を見せた。これは彼にかつてないことだった。「私は『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』の六経を研究し、十分に長い年月を費やし、十分に熟達したつもりでおりました。七十二人の君主にお目にかかりましたが、誰一人採用してくれません。人というものは本当に説き伏せがたいものです。それとも『道』が説き明かしがたいのでしょうか?」

「まだ運がいい方だよ」老子は言った。「有能な君主に出会わなかっただけだ。六経などというものは、先王の足跡に過ぎぬ。足跡を生み出したものはどこにある? あなたの言葉は、足跡と同じだ。足跡は靴が踏んでできたもの。だが足跡がすなわち靴だとでも言うのかね?」しばらく間を置いてから、また続けた。「白鳥はただ見つめ合うだけで、眼球を動かしもしないが、自然に孕む。虫は雄が風上で鳴き、雌が風下で応じて、自然に孕む。ある類のものは一身に雌雄を兼ね備え、自然に孕む。性は変えられぬ。命は換えられぬ。時は留められぬ。道は塞げぬ。道を得さえすれば万事うまくゆくが、失えば何もうまくゆかぬ」

孔子は頭を殴られたようで、魂の抜けた体で座っていた。まるで一本の木偶のようだった。

およそ八分ほどが過ぎ、彼は深く息を吸い込むと、立ち上がって辞去しようとし、いつものように丁重に老子の教えに謝した。

老子も引き留めはしなかった。立ち上がって杖にすがり、図書館の大門の外まで見送った。孔子がまさに車に乗ろうとした時、蓄音機のように言った。

「もうお帰りで? お茶を一杯召し上がっていきませんか?……」

孔子は「はい、はい」と答えて車に乗り、両手を拱いでこの上なく恭しく横木にもたれた。冉有が鞭を空中でひと振りし、口で「どう」と叫ぶと、車は動き出した。車が大門を十数歩離れてから、老子はようやく自分の部屋に戻っていった。

「先生は今日、ご機嫌がよろしいようで」庚桑楚は老子が席に着くのを見届けてから、傍らに立ち、手を垂れて言った。「お話がずいぶん多うございましたね……」

「その通りだ」老子はかすかに溜息をつき、いささか意気消沈した様子で答えた。「私の話は本当に多すぎた」彼はまたふと何かを思い出したようだった。「ああ、孔丘がくれた鵞鳥、干し鵞鳥にしたのではなかったか? 蒸して食べなさい。私は歯がないから、噛めない」

庚桑楚は出ていった。老子はまた静かになり、目を閉じた。図書館は寂として静かだった。竹竿が軒に当たる音だけが聞こえた。庚桑楚が軒下に吊るした干し鵞鳥を取っているのだった。


三ヶ月が過ぎた。老子は相変わらず身じろぎもせず座っていた。まるで一本の木偶のようだった。

「先生、孔丘が来ましたよ!」弟子の庚桑楚が、驚いた様子で入ってきて、小声で言った。「長いこと来なかったのに。今度はどういうわけでしょう?……」

「通せ……」老子はいつものようにこの一語だけ言った。

「先生、ご機嫌いかがですか?」孔子はこの上なく恭しく礼をしながら言った。

「相変わらずだ」老子は答えた。「長いこと見えなかったが、家に篭って勉学していたのだろう?」

「とんでもない」孔子は謙遜して言った。「出かけずに、考えておりました。少しばかり分かったことがあります。烏鵲は嘴を合わせ、魚は口で唾を塗り合い、細腰蜂は他のものを変化させ、弟を身ごもると兄は泣きます。私自身が久しく変化の中に身を投じておりませんでした。これでどうして他人を変化させることができましょう!……」

「その通り!」老子は言った。「分かったのだな!」

二人ともそれきり言葉がなく、二本の木偶のようだった。

およそ八分ほどが過ぎ、孔子はようやく深く息を吐き出すと、立ち上がって辞去しようとし、いつものように丁重に老子の教えに謝した。

老子も引き留めはしなかった。立ち上がって杖にすがり、図書館の大門の外まで見送った。孔子がまさに車に乗ろうとした時、蓄音機のように言った。

「もうお帰りで? お茶を一杯召し上がっていきませんか?……」

孔子は「はい、はい」と答えて車に乗り、両手を拱いでこの上なく恭しく横木にもたれた。冉有が鞭を空中でひと振りし、口で「どう」と叫ぶと、車は動き出した。車が大門を十数歩離れてから、老子はようやく自分の部屋に戻っていった。

「先生は今日、あまりご機嫌がよろしくないようで」庚桑楚は老子が席に着くのを見届けてから、傍らに立ち、手を垂れて言った。「お話がずいぶん少のうございましたね……」

「その通りだ」老子はかすかに溜息をつき、いささか意気消沈した様子で答えた。「だがお前には分かるまい。私はもう行かねばならぬようだ」

「なぜでございます?」庚桑楚は仰天した。晴天の霹靂に遭ったようだった。

「孔丘はもう私の考えを悟った。自分の底を見抜ける者は私しかいないと知って、きっと気が気でないだろう。私がここにいては、都合が悪いのだ……」

「それなら、まさに同じ道ではございませんか? なぜ去る必要がありましょう?」

「いや」老子は手を振った。「我々はやはり道が違う。たとえば同じ一足の靴でも、私のは流砂を行くため、彼のは朝廷に上がるためのものだ」

「しかし先生は彼の師ではございませんか!」

「お前は私のもとでこれほど長く学んでも、まだこんなに正直だな」老子は笑い出した。「まことに性は変えられず、命は換えられぬということだ。孔丘はお前とは違う。これから先、もう来ることはないし、私を先生と呼ぶこともない。ただ爺さんと呼び、陰では策を弄するようになるだろうよ」

「思いもよりませんでした。ですが先生の人を見る目は間違いますまい……」

「いや、最初はよく見誤ったものだ」

「では」庚桑楚はしばし考えてから言った。「彼と一戦交えましょうか……」

老子はまた笑い、庚桑楚に向かって口を開けて見せた。

「ほら、私に歯がまだあるかね?」と尋ねた。

「ございません」庚桑楚は答えた。

「舌はまだあるかね?」

「ございます」

「分かったかね?」

「先生のおっしゃりたいのは、硬いものは先に失せ、軟らかいものは残るということでございますか?」

「その通りだ。お前ももう荷物をまとめて、家に帰って女房の顔でも見てくるがよい。だがその前に、私の青牛を磨いてやり、鞍と鞍褥を干しておいてくれ。明朝一番に乗るからな」


老子は函谷関に着くと、関口へ通じる大道をまっすぐには行かず、青牛の手綱を引いて脇道に入り、城壁の根元をゆっくりと回った。城壁をよじ登ろうと思ったのだ。城壁はさほど高くはなく、牛の背に立って体を一つ伸ばせば、何とかよじ登れるだろう。だが青牛を城内に残したまま、城外に運び出す術がない。運ぼうとすれば起重機が要るが、あいにくこの時代には魯班も墨翟もまだ生まれておらず、老子自身もそんなものが存在しうるとは思いつかなかった。つまるところ、哲学の頭脳を絞り尽くしても、ただもう為す術がなかった。

ところが彼がなおさら予想もしなかったのは、脇道に曲がった時すでに探子に見つかり、直ちに関の役人に報告されていたことだった。そのため七、八丈も回らぬうちに、一群の人馬が後ろから追ってきた。あの探子が馬を飛ばして先頭に立ち、次に関の役人――関尹喜――が続き、さらに四人の巡警と二人の籤子手を連れていた。

「止まれ!」数人が大声で叫んだ。

老子は慌てて青牛を止め、自分は身じろぎもしなかった。まるで一本の木偶のようだった。

「おやまあ!」関の役人が前に駆け寄り、老子の顔を見ると驚いて声を上げ、たちまち鞍から転がり降り、拱手して言った。「誰かと思えば、老聃館長ではございませんか。まったく思いもよりませんでした」

老子も急いで牛の背から降り、目を細めてその人物を見やり、はっきりしない口調で言った。「私は物覚えが悪くて……」

「もちろん、もちろん、先生はお忘れになったのでしょう。私は関尹喜でございます。以前、図書館に『租税精義』を調べに参りました折、先生にお目にかかったことがございまして……」

この時、籤子手が青牛の上の鞍と鞍褥をひっくり返して調べ、さらに籤子で穴を一つ刺し、指を突っ込んで探った後、一言も言わず、口を尖らせて立ち去った。

「先生は城壁の周りを散歩ですかな?」関尹喜が尋ねた。

「いや、外に出て、新鮮な空気を吸おうと思ってな……」

「それは結構! 大変結構でございます! 今は誰もが衛生を重んじておりまして、衛生はまことに大事でございます。ですが得がたい機会でございますれば、先生に関の上にお泊まりいただき、数日間ご教示を賜りたく……」

老子がまだ返事をしないうちに、四人の巡警がどっと押し寄せ、彼を牛の背に担ぎ上げた。籤子手が籤子で牛の尻を突くと、牛は尾をくるりと巻き、足を速めて、一行揃って関口に向かって駆け出した。

こうして私の吶喊は完結した。しかし喊ぼうとする際、時として心が空しくなることを免れなかった。自分自身もまた彼等に伍して数えられるべき者であり、決して時局の外に身を置いて大いに感慨を発する資格はない。ただ自分の悲哀をなるべく消磨して人にも伝えまいとするだけだった。だから時々、自分でも不本意な曲筆を弄した。何人にも分らない技巧を施しもした。これは同志の前途のためを慮ったからだ。鉄の家に一人も起き上がる者がないとすれば、喚き起こしても何の仕方もない。

けれども幾人かが起き上がった以上は、その鉄の家を打ち壊す望みがないとは、敢えて言うまい。ここに至って私は命に遵うて、吶喊の声を発した。

私はこれまで小説の作法を研究したこともなければ、外国の小説もほんの少し読んだきりだ。書いたものに不自然な書き方があるのに気づかないでもなかったが、読み返す暇がなかった。発表した以上、もう訂正もできない。だからこの短い跋も、単に事情を述べたに過ぎない。

一九二二年十二月三日、北京にて。魯迅。

その頃の私は、もう長い間何もしないでいた。だが或る日、S会館に来ていた旧友の金心異が訪ねて来た。彼は『新青年』の同人で、原稿を求めに来た。私は答えた。

「仮に鉄の部屋があるとしよう。窓もなく、壊すこともできない。中に多くの人が熟睡している。このまま放っておけば、みな窒息して死ぬ。だが眠ったまま死ぬから苦しみは感じない。もしお前が大声で何人かを起こしたら、その不幸な少数者は、いかんともしがたい苦悶を味わうことになる。彼等に対して申し訳ないと思わないか」

「しかし、何人かが起き上がった以上は、その鉄の部屋を打ち壊す望みが全くないとは言えまい。」

この一言で私はもう反駁できなくなった。望みがある以上、それを消すわけにはいかない。こうして私は遂に小説を書くことになった。最初のものが『狂人日記』で、その後は止められなくなった。友人のために、自分のために。しかしまた幻滅の悲哀を紛らわすためでもあった。

これらの短篇は殆ど全部が『新青年』に発表し、後には他の刊行物にも載せた。集めてみると一冊の本になった。

私は若い頃、いくつもの夢を見た。後にはほとんど忘れたが、遺憾とも思わない。これらの記憶は時折楽しませるが、時として寂しくもさせる。精神的に荒涼とした世界に繋がれ、自分だけが過去の消滅に面して、忘れることもできない。このような人生は実に寂しい。

だがこの寂しさは日に日に増大し、大きな毒蛇のように魂に絡みつく。

不思議なのは、記憶にあるものとこの寂寞との間に因果関係が見出せないことだ。

ある晩遅くなって帰ると、暗い部屋の中から母の声がした。驚いて入ると、母と弟のほかにもう一人の影があった。

それから記憶は飛ぶ。断片的に、あの頃のことを思い出すだけだ。

それから何年か経った。ある日突然故郷を思い出した。あの小さな町と住人たちのことが霧のように浮かぶ。だが町の景色と人々の顔は今でもくっきり見える。

母は手紙で帰ってくるよう書いた。遠い北京から南方の小さな町まで何日もかかる。記憶の中の故郷はまた変貌して、期待するものとは違うのではないかと怖れた。

しかし帰ることにした。十二月初め、冬の寒風の中、河の蒸気船で故郷に向かった。空は灰黄色、冷たい風が吹き込む。蓬の隙間から外を覗くと、遠近の村落はみな蕭条として活気がなかった。

ああ、これが二十年来片時も忘れなかった故郷なのか。記憶の中の故郷はこんなではなかった。もっとずっとよかった。その美しさを描こうとしても影も形もない。ただこう自分に言い聞かせた——故郷はもともとこんなものだ。進歩もなく、感じるような寂寥もない。自分の気持ちが変わっただけだ。

今度帰るのは故郷に別れを告げるためだった。家は人手に渡ることが決まり、年末までに引き渡す。引っ越しの手筈をつけるために帰って来たのだ。

実のところ「大団円」は決して「気まま」に彼に与えたのではない。最初に書いた時に予想していたかどうかとなると、それは確かに一つの疑問ではある。おぼろげに記憶しているのは、予想していなかった、ということだ。しかしこれも致し方ない。誰が最初から人々の「大団円」を予想できようか。阿Qに対してだけではない、私自身の将来の「大団円」でさえ、結局どうなるのか見当もつかないのだ。最終的に「学者」か、「教授」か。それとも「学匪」か「学棍」か。「官僚」か、それとも「刀筆吏」か。「思想界の権威」か、はたまた「思想界の先駆者」か、はたまた「世故に長けた老人」か。「芸術家」か。「闘士」か。はたまた客を迎えて煩わしさを厭わぬ特別な「アラキーフ」か。か?か?か?か?か?

  しかし阿Qには当然さまざまな別の結末もあり得たのだが、それは私の知るところではない。

  以前は、書き過ぎた箇所がかなりあると感じていたが、近頃はそう思わなくなった。中国の今の出来事は、たとえ事実のままに描写したところで、他国の人々、あるいは将来の良き中国の人々が見れば、きっとグロテスクだと感じるだろう。私はしばしば一つの事を仮想して、自分でもあまりに奇妙すぎると思うのだが、類似の事実に出会うと、往々にしてそれよりさらに奇妙なのだ。その事実が起こる前には、浅学非才の私には万万想像もつかなかったことだ。

  およそ一月余り前、ここで強盗が一人銃殺された。短い上着を着た二人の男がそれぞれ拳銃を持ち、合計七発撃った。撃っても死ななかったのか、それとも死んでもなお撃ったのか、だからこんなに多く撃たねばならなかったのかは分からない。その時私はちょうど一群の若い学友たちに感慨を漏らして言った――これは民国初年に銃殺を始めて使った頃のやり方だ。今や十余年も経ったのだから、少しは進歩して、死者にこれほどの苦痛を与えずともよいはずだ、と。北京ではそうではない。囚人が刑場に着く前に、刑吏が後頭部に一発、命を終わらせるので、本人はまだ自分が死んだことも知らないうちに死ぬ。だから北京はやはり「首善の区」であって、死刑でさえ地方のものよりはるかに良いのだ。

  しかし数日前、十一月二十三日の北京『世界日報』を見て、私の話が正しくなかったと知った。その第六版に一つのニュースがあり、題名は『杜小拴子、刀鍘にて死す』、全五節、ここにその一節を抄録する――

  ▲杜小拴子は刀鍘、余の者は銃殺 先に衛戍司令部は毅軍各兵士の請願を聞き入れ、「梟首刑」に処することを決定した。よって杜らが到着する前に、刑場にはすでに藁切り用の大刀が一振り用意されていた。刀は長形で、下は木の台、中央の溝に厚くて大きく鋭利な刃が一枚嵌められ、刃の下端に穴があり、横に木に嵌め込まれて上下に動くようになっていた。杜ら四人が刑場に入った後、付き添いの兵士が杜らを刑車から降ろし、顔を北に向け、すでに用意された刑台の前に立たせた。……杜は跪かなかった。外右五区のある巡査が杜に「人に押さえてもらうか」と尋ねた。杜は笑って答えず、やがて自ら刃の前に走り寄り、自ら刃の上に伏し、仰向けに刑を受けた。先に刑執行の兵はすでに刃を持ち上げており、杜が適当な位置に頭を置くと、刑執行の兵は目を閉じて力一杯鍘を落とし、杜の首と胴はもはや一つの場所にはなかった。血は夥しく噴き出した。傍らで跪いて銃殺を待っていた宋振山ら三人も、それぞれ盗み見し、そのうち趙振という者は体が震え出した。後にある排長が拳銃を手に宋らの後ろに立ち、まず宋振山を、次に李有三、趙振を撃ち、各人いずれも一発で絶命した。……先に、被害者・程歩墀の二人の息子、忠智と忠信が現場で見物していたが、声を上げて大泣きし、各人の処刑が終わると大声で叫んだ――「父さん!母さん!あなたの仇は討ったぞ!僕たちはどうすればいいんだ!」聞いた者はみな堪え難い思いであった。後に親族に導かれて帰って行った。

  仮にある天才がいて、真にこの時代の鼓動を感じ取り、十一月二十二日にこのような情景を記述した小説を発表したとしたら、多くの読者はきっと包龍図様の時代――西暦十一世紀、我々とおよそ九百年の隔たりがある――の話だと思うだろう。

  これは本当にどうしたらよい……。

  『阿Q正伝』の翻訳については、私はまだ二種類しか見ていない。フランス語訳は八月号の『エウロパ』に載っており、まだ三分の一で、削除がある。英語訳は大変誠実に訳されているようだが、私は英語が分からないので何とも言えない。ただ偶然、まだ商榷の余地がある二箇所を見つけた。一つは「三百大銭九二串」は「三百大銭、九十二文を百として数える」という意味に訳すべきだということ。二つ目は「柿油党」は音訳する方がよい。もとは「自由党」であるが、田舎の者には分からず、自分たちに分かる「柿油党」に訛ったのだから。

  (十二月三日、厦門にて記す。)

【「三蔵取経記」等について】

  長年ご無沙汰していたSF君から、突然日本の東京より一通の手紙が届いた。転送を重ねて私の手に届いた時には、発信の日からすでに二十日が経っていた。しかし私にとってこれは、まさに空谷に跫然たる足音を聞くが如きものであった。封筒の中にはなお、十一月十四日の東京『国民新聞』の記事の切り抜きが同封されており、徳富蘇峰氏が私の『小説史略』の謬りを糺正するものであった。

  およそ一書の著者にとって、外部からの糺正は、然りと思えば従い、非なりと思えば沈黙するのが本分であり、一々下筆の意図や取捨選択の理由を説明する必要はない。しかし蘇峰氏は日本における「支那」に深く通じた耆宿であり、『三蔵取経記』の収蔵者であって、その措辞もまた洒脱であるから、ここに数言を述べたいと思う。

  まず彼の原文を引用する――

  魯迅氏の『中国小説史略』 蘇峰生

  頃日魯迅氏の『中国小説史略』を読むに、曰く――

  『大唐三蔵法師取経記』三巻、旧本は日本にあり。又一小本あり、『大唐三蔵取経詩話』と曰う。内容は悉く同じ。巻尾の一行に「中瓦子張家印」と云う。張家は宋時の臨安の書舗なり。世人これを以て宋刊と為すも、元朝に逮びてもなお張家は恙なきやも知れず。然らばこの書は或いは元人の撰になるやも知れず。……

  これには聊か弁正を加える必要がなくもない。

  『大唐三蔵取経記』なるものは、実は我が成篑堂の架蔵の一冊であり、『取経詩話』の袖珍本は故三浦観樹将軍の珍蔵である。この二書はいずれも明恵上人と紅葉とにより広く世に知られたもので、京都栂尾高山寺より散出したものである。書中の高山寺の印記を見、また高山寺蔵書目録を見れば、いずれもこの事を証明している。

  これは宋椠の稀本としてのみならず、宋代に著された説話本(日本のいわゆる言文一致体)としても最も珍重すべきものであろう。しかるに魯迅氏は軽々しく断定して曰く「この書は或いは元人の撰、未だ知るべからず」と。あまりにも早計に過ぎる。

  魯迅氏はこの二書の原板を未だ見ていないので究竟を知らないのであり、もし一度見れば、宋椠たることは断じて疑うべくもない。その紙質、その墨色、その字体、いずれもみなしかり。張家が宋時の臨安の書舗であるからだけではない。

  加えて、成篑堂の『取経記』については、宋版の特色と言うべき闕字がある。さすがは羅振玉氏、とうにこの点に気づいておられた。

  皆(三浦本、成篑堂本)高山寺の旧蔵なり。而してこの本(成篑堂蔵『取経記』)は刊刻殊に精なり。書中の字は作となし、敬の字は末筆を缺く。けだしまた宋椠なり。(『雪堂校刊群書叙録』)思うに魯迅氏は羅氏のこの文を読んでいないので、或いは元人の作かと疑ったのであろう。たとえ世間に不可思議な事が多いとはいえ、元人の著作の宋刻というものは存在し得る道理がない。

  羅振玉氏はこれについてこう述べている。宋代の平話は、旧ただ『宣和遺事』あるのみ。近年『五代平話』『京本小説』の如き、漸く重刊本が出ている。宋人の平話にして人間に伝わるものは、ここに遂に四種を得た。斯学界にかくも重要な書籍であるからこそ、その真相を明らかにすることは、必ずしも無用の業ではあるまい。

  つまり蘇峰氏の趣旨は、『三蔵取経記』等が宋椠であることの証明に他ならない。その論拠は三つ――

  一、紙墨字体が宋のものであること。   二、宋の避諱による闕筆があること。   三、羅振玉氏が宋刻と言っていること。

  言うのも恥ずかしいことだが、私は曲がりなりにも一冊の『小説史略』を編んだとはいえ、家に蔵書なく、旧刻を見ることも稀で、資料として用いたものはほとんどが翻刻本、新印本、甚だしくは石印本であり、序跋や撰人名が往々にして欠落しているため、漏れや誤りは必ず多いに違いない。しかし『三蔵法師取経記』と『詩話』の二種については、見たのは羅氏の影印本であり、紙墨こそ新しいが、字体と闕筆は見て取れた。その後ろに羅氏の跋があるのだから、わざわざ『雪堂校刊群書叙録』に求めるまでもない。私のいわゆる「世人これを以て宋刊と為す」とは、まさに羅氏の跋を指して言ったのだ。今、蘇峰氏の挙げる三つの証拠のうち、紙墨については確かにまだ実物を見ていないので肯否を論じ得ないが、残りの二事については、あの当時すでに私を信服させるに足りなかったのであり、そこで「疑い」を抱かずにはいられなかったのだ。

  某朝の避諱闕筆があれば某朝の刻本であるというのは、蔵書家が版本を考定する初歩の秘訣であり、少しでも旧書を見たことのある者なら大抵知っている。まして闕筆の字がいかに目につくことか。しかし私はこれだけでは宋本と確定するには足りないと考えている。前朝の闕筆字は、故意あるいは習慣によって後の朝にも引き継がれ得る。例えば我が民国は既に十五年になるが、遺老たちの刻した書物では儀の字をなお「敬みて末筆を缺く」ままにしている。遺老でない者の刻した書物でも、寧の字、玄の字がしばしば闕筆のままであったり、寧を甯に、玄を元に代えたりしている。これはいずれも民国にあって清朝を避諱しているのであり、清朝刻本の証拠とはなし得ない。京師図書館所蔵の『易林注』残本(影印本が『四部叢刊』に収められている)は、恒の字も構の字も闕筆で、紙質、墨色、字体はいずれも宋に似ており、しかも蝶装であるから、繆荃孫氏はこれを宋本と断定した。しかし内容を子細に見れば、陰時夫の『韻府群玉』を引用しており、陰時夫は正真正銘の元人である。だから私は闕筆の字だけをもって某朝の刻と確定することはできないと考えている。殊に当時取るに足らぬものと見なされていた小説や戯曲の類においてはなおさらだ。

  羅氏の論断は、日本ではあるいは大いに典拠として引かれているかもしれないが、私は必ずしもすべてを信奉してはいない。書跋のみならず、書画金石の題跋についてもすべて同様である。たとえば羅氏が挙げる宋代平話四種のうち、『宣和遺事』についても私は元人の作と断定しているが、これは私の軽々しい断定ではなく、明人の胡応麟氏の説に基づいている。しかもあの書物は抄撮して成ったもので、文言も白話もあり、すべてが「平話」というわけでもない。

  私が書物を見る見方は、蔵書家とは少々異なり、闕筆や擡頭、そして羅氏の題跋を悉く信じるわけではない。だからあの時疑いを抱いたのだ。ただ疑いに過ぎないからこそ「或いは」と言い、「未だ知るべからず」と言った。私は宋椠や収蔵者に失礼を働くつもりなど毛頭なく、その冒昧をいかに拡大したところで、軽い疑いに過ぎまい。「軽々しく断定した」とまでは、恐らくまだ至っていないだろう。

  しかしより確かな証明がなされるまでは、私の「疑い」は存在する。証明がなされた暁には、事はこうなるだろう――魯迅は元刻と疑い、元人の作と考えた。今、確かに宋椠であるから、ゆえに宋人の作である、と。いずれにせよ、蘇峰氏が予想した「元人の著作の宋版」という滑稽劇は、上演されるには至るまい。

  しかし考弁の文章に少しの滑稽軽薄な調子を混ぜると、一般の読者を往々にして眩惑し、冷静さを失わせて術中に陥れやすい。だから私はこれを訳出し、以上のように略々説明を加えた次第である。

  (十二月二十日。)

【いわゆる「思想界の先駆者」魯迅の声明】

  『新女性』八月号に「狂飆社広告」が載り、曰く「狂飆運動の開始は遥か二年前に遡る……昨年春、本社同人は思想界の先駆者・魯迅および少数の最も進歩的な青年文学者と共に『莽原』を合弁で刊行した……茲に我々の事業を大規模に推進するため、北京刊行の『烏合』『未名』『莽原』『弦上』の四種出版物の他に、特に上海にて『狂飆叢書』及び一つの紙幅のより大きな刊行物を準備中」云々と。私は北京にて『莽原』『烏合叢書』『未名叢刊』の三種の出版物を編集しているが、使用した原稿はすべて個人の名義で送られたものであり、狂飆運動なるものについては、一体どのような運動で何を運動しているのか、さっぱり知らない。今にわかに「合弁」と混称されたのは全く予想外であり、人の功績を横取りする気はないので、ここに声明する。また、以前より真相を知らぬ者、あるいは虚名を借用する者が私に紙の冠を被せたことは一度や二度ではなく、すでに先に陳源が『現代評論』で、近くは長虹が『狂飆』で、次々と嘲罵を加えている。そのうえ狂飆社がまたもう一つ第三の「紙製の偽冠」を下さるとは、まことに頭少なくして帽多し、人を欺き己を害するもの。たとえ「世故の老人」とても、身心交々に病むものである。改めてここに声明する――私はまた「思想界の先駆者」すなわち英語 Forerunner の訳語でもない。かかる名号は他人が密かに付けたもので、別に魂胆があり、本人は事前に知らず、事後にも喜んだことはない。もし読者がこれによって欺かれたとしても、一切本人の関知するところではない。

【厦門通信(三)】

  小峰兄

  二十七日に原稿二篇を送ったが、届いたことと思う。実のところこの手のものは、もともと書いても書かなくてもよいのだが、一つにはここに何人かの若者が私に一芸を披露してくれとせがむからであり、二つにはちょうど書くものがなくて困っていたからで、そこで数枚書いて送った次第だ。地元にも厦門批評の文章を少し書いてくれという人がいるが、今に至るまで一句も書いていない。言葉が通じず、諸々の事情も分からないのだから、何をどう言えばよいのか。例えばここの新聞では、先ごろ連日「黄仲訓が公有地を不法占拠」という筆墨沙汰が騒がれていたが、私は終に黄仲訓が何者で、いきさつがどうなっているのかも分からずじまいだ。もしいきなり批評などしたら、本物の批評家の腹を抱えて笑わせるだけではないか。しかし他人が批評するのは、私は妨げない。私が他人の批評を許さないとする者は、誣いである。私にそれほどの権力があろうか。ただし私に編集をさせるなら、自分が駄目だと思うものは載せない。わけの分からない何かの運動の傀儡にだけはなりたくないのだ。

  数日前、卓治が目を見開いて私に言った。他人が好き勝手にあなたを罵っているのだから、あなたも罵り返すべきだ。あなたの文章を読みたい人が大勢いるのに、黙りこくって彼らを惑わせるべきではない。あなたはもはやあなた自身のものではないのだ、と。これを聞いて私はまたぞろぞっとした。かつて誰かが「青年は私を見習って古文を多く読むべきだ」と言うのを聞いた時と同じだ。ああ、紙の冠を一つ被せられるや、たちまち公共物と化し、「手助け」の義務を負い、罵り返す必要に迫られる。ならばいっそ早々に失脚して自由を取り戻す方が得策ではないか。ご高覧に供し、しかるべしや否やを問う。

  今日もまたぞっとする出来事に遭った。厦門大学の職務は、私はすでにすべて病と称して辞去した。百事為すべきなく、溜之大吉である。しかし何人かの学生が私に訴えてきた。自分たちは厦門大学革新の知らせを見て来たのに、半年も経たぬうちに今日はあの人が去り、明日はこの人が去り、一体どうすればよいのかと。これには実に背筋が冷たくなり、言葉を失った。思いも寄らなかった。「思想界の権威者」あるいは「思想界の先駆者」というあの「紙製の偽冠」が、かくも子弟を誤らせるとは。幾度かの広告(もっとも私が出したのではないが)が彼らを他の学校から騙し出して、結局は自分が逃げ出してしまったのだから、本当に万分申し訳ない。北京で早くから暴露記事を書いて学生たちを引き止める人がいなかったのが惜しまれる。「会えば語り合い、会わねば一戦」という哲学は、時として大いに子弟を誤らせるもののようだ。

あなたはまだ詳しいことをご存知ないだろう。私の当初の考えでは、確かにここに二年いるつもりだった。教壇に立つ以外に、以前まとめた『漢画象考』と『古小説鉤沈』を印刷に付したいと思っていた。この二種の本は自分では刷れず、あなたに頼む勇気もなかった。読者がきわめて少ないに違いなく、赤字は必至で、資金のある学校だけが適していたからだ。ところがここに来て様子を見ると、『漢画象考』の印刷の望みはたちまち消え、期限も自ら一年に短縮した。実のところもう去ってよかったのだが、語堂の勤勉さと故郷のために尽くす熱意を見ていると、口に出しかねた。後に予算が反故にされ、語堂は力を尽くして争った。聞けば学長は「原稿さえ持ってくればすぐに印刷できる」と言ったという。そこで私は原稿を持ち出したが、せいぜい十分ほど置いただけで戻ってきて、その後は音沙汰なし。この結果は、私に確かに原稿があり欺いてはいないということを証明しただけだった。その時私は『古小説鉤沈』を印刷する考えも取りやめ、期限をさらに半年に短縮した。語堂は仕事と教壇の他に暗殺にも備えねばならず、関係のない事柄に精力と気力を使い果たしている姿を見ると、実に冤枉の極みだった。

  しかし厦門の学校のやり方は、私が北京でいつも見てきたものと大差ないことが分かった。一群の人々が一群の人々を排斥しているのだ。私は異郷の客であるから、外の事は相当にぼんやりしていたが、のちに漸く情勢を知った。この学校を改良するには、まず全国を改良しなければならない。全国に新しい空気がなければ、一隅だけ好くすることはできない。

  近頃ようやく少し事情が分かってきたので、暇があれば文章を書こうと思う。しかし私はやはり厦門のことを書くのではなく、雑文を書くのだ。私が書くのに慣れたものを書く。私は自分が変われないことを知っている。

  年始の後、語堂は辞職した。私も当然辞職する。あなたに原稿を送れなかったのはまことに申し訳ない。しかし今年はきっと補いたい。それでは、どうかお体を大切に。

  一月十六日、厦門にて。

私が創造社に感謝すべき一事がある。それは彼らが私を「煽って」幾つかの科学的文芸論を読ませたことで、かつての文学史家たちが延々と論じながらなお縺れ合ったままの疑問を明らかにしてくれた。そしてこのために、プレハーノフの『芸術論』を一冊翻訳して、私の――また私を通じて他の人々の――進化論のみを信じる偏りを正そうとした。しかし、私は『中国小説史略』を編む際に集めた材料を『小説旧聞鈔』として印刷し、青年の調査の労を省こうとしたところ、成仿吾がプロレタリアートの名において「有閑」と指弾し、しかもその「有閑」が三つもあるとまで言ったのは、今に至るもなお完全には忘れ得ない。私はプロレタリアートがこのような鍛錬周納の法を持つとは思わない。彼らは「刀筆」を学んだことがないのだから。これを編み終えて『三閑集』と名づけたのは、なお成仿吾を射るためである。

  この数年間、私は雑文というものを書いた。ある人には「こんなものは文学ではない」と言われたが、私もそう思う。しかし文学ではないと知りつつ、なお書かざるを得ないとすれば、それは一体何のためか。思うに人間は結局、周囲に対して物を言わずにはいられない生き物であり、ましてやこの暗黒で窒息しそうな時代にあっては、一言でも二言でも声を発しなければ、生きていることの証さえ立たないのだ。

  ここに収録した文章は一九二七年から一九二九年までのものだが、すでに削除したものもかなりある。一つには、実際に削除すべきものがあったからであり、一つには、あの頃の戦友のうち幾人かは後に変節し、あるいは消え去ってしまったからで、彼らに関わる文章は残しても仕方がなかった。

  一九三二年四月二十四日、魯迅、上海にて記す。

かくしてペロポネソス諸州の軍三千は退き、フォキス軍一千は退き、ロクリス軍六百は退いた。退かざる者はただテスピアイ人七百のみ。慷慨としてスパルタの武士と偕に、生死を共にし、苦戦を共にし、名誉を共にすると誓い、この危極・凄極・壮絶の旧塁に留まった。ただしテスピアイ人のうちの若干は、反覆常なき本国の質として、レオニダスにより留め置かれた。

  レオニダスは兵を三部に分かち、一は自ら率い、一はテスピアイ人に付し、一はテーバイ人に委ねた。隊伍が整い陣形が定まると、その堂々たる威風は、まさに堅城鉄壁の如くであった。ペルシア軍は蟻の如く群がり蜂の如く集まり、前列は仆れ後列はこれを踏み越え、屍山血河の中を進んだが、ギリシア軍の陣はびくともしなかった。クセルクセスは高楼に坐して遠望し、三度席を蹴って立ち上がったという。

  日が暮れて戦いは止まず、月が昇っても鼓声は絶えなかった。レオニダスは自ら剣を振るい先頭に立ち、殺すこと数十百人。遂にペルシアの矢に中って仆れた。ギリシアの兵士たちはその遺体を囲んで死守し、一歩も退かず、屍を重ねて丘となした。

  夜が明けて、生き残りし者は僅かに数十人。皆、傷を負い血に塗れ、もはや立つ力もなかった。しかしなお眼光は炯々として、降伏の二字は知らぬ如くであった。ペルシア軍は遠くからこれを射、矢は雨の如く注ぎ、遂に一人として生きる者なし。

  ああ、壮なるかな。三百のスパルタ人と七百のテスピアイ人、合わせて千の勇士、テルモピュライの関隘に拠りてペルシアの百万の軍を拒む。その魂魄は今なお岩壁の間に漂い、千載の後もなお人をして奮い立たしめる。後の人、碑を立ててこれを記す。曰く――

  旅人よ、ラケダイモンの人々に告げよ。我らはここに、彼らの命に従い伏すと。

  この十四字、千古に輝き、スパルタの名をして永く朽ちざらしめた。

  思うに国を立つるの道は、その民の精神にある。精神の在るところ、金石もこれを裂く能わず。精神の亡びるところ、億兆もまた塵芥に同じ。

塩類の水溶液に、アンモニアもしくは軽二硫化物もしくはアンモニア二硫化物を加えても沈殿を生ぜず。硫酸塩もしくは炭酸塩は水に溶解せず。その塩化物は水に溶けやすいが、強塩酸および酒精中には溶解しない。この性質を利用して、ウランの精製および不蘭残渣中より、この元素を分析し得る。しかし性質がバリウムに甚だ類似するため、バリウムが常にこれに混入する。

  ラジウムはこの新元素の名称である。千八百九十八年、キュリー夫人がピッチブレンド中に放射能がウラン自体のそれより著しく強いことに気づき、未知の放射性元素が存在するに違いないと推測した。数トンの鉱石残渣を処理し、幾千回もの結晶分別を繰り返し、遂にわずかなラジウム塩化物を得た。原子量の測定、スペクトル線の確認を経て、新元素たることが証明された。

  ラジウムの光は闇中に燦然と輝き、その放射線は金属板をも貫通し、写真乾板を感光させ、気体を電離する。医学においては腫瘍の治療に用いられ、効果は顕著である。

  思うに科学の発展とは、実に一歩一歩の地道な努力の積み重ねに他ならない。華やかな発見の蔭には、幾多の失敗と幾年もの忍耐がある。

二、原文に曰く、「她」の字については風刺したことがない、と。答えて曰く、あれは She を訳したものであって、理由もなく波風を立てたのではない。仮にそうでないとしても、私にはあらゆるものを風刺する責任はなく、また草冠や糸偏を風刺するには、まず「她」の字から始めねばならぬ道理も感じない。

  三、原文に曰く、「常に思う」というのは実に「伝統思想の束縛」であると。答えて曰く、この批評は大いに滑稽である。人が「常に思う」のは、即ち「伝統思想に束縛されている」のだという理屈は、おおよそ世間のいかなる理屈の中にも見当たらない。もし「常に思う」がそのまま「伝統思想の束縛」であるなら、「常に思わない」のはまた何であるか。恐らくは思想解放であろう。しかし思想を解放したからには、結局何も思わないのだから、解放された思想とは一体どこにあるのか。

  四、原文に曰く、阿Qの手法を以て女性問題を論ずるのは不真面目であると。答えて曰く、阿Qの手法とは何であるか。「阿Q」は我が小説中の人物であって、一つの「手法」ではない。もし特定の態度を意味するなら、私の文章のどこにその態度があるのか指し示していただきたい。漠然と「阿Qの手法」などと言うのは、結局何も言っていないに等しい。

  五、原文に曰く、「彼」の字を使うのは不適切だと。答えて曰く、現在の中国語文法では、第三人称の代名詞には「他」「她」「它」の区別があり、これは西洋語の影響による改良であって、言語の発展として自然なことだ。

ちょっと待て、また私が口を出すのだ。あるいは西滢先生方はまたぞろ多くの「流言」を聞くことになるかもしれない。しかしご安心あれ、私は確かに「某籍」の者で、国文系で一、二時間の教員もしたが、校長の座を狙ったり、教員を続けてまして時間数を増やそうなどとは思っていない。また子孫のために計って、彼女たちが女師大で誣いを受けたり罷免されたりするのを防ごうというのでもない。

  西滢先生は「流言」という語をよく使われる。しかし「流言」とは一体何であるか。根も葉もない噂のことである。しかるに私の述べたことは、いずれも事実に基づいており、根も葉もないどころか、幹さえある。もし私の言ったことが虚偽であるならば、堂々と反駁すればよい。「流言」の二字で片付けるのは、反駁できぬことの告白に他ならない。

  なお、女師大の事件について一言しておく。私はあの事件において、学生たちの側に立った。それは学生たちが正しかったからである。正しいものの側に立つのは当然のことであって、何ら弁解を要しない。

前回は大砲鋳造の盛況について述べたが、果たして成功するか否かは、多くの日数を経なければ確定し得なかった。社員らはそれぞれ己の見解を固持して将来を推測し、成功するという者あり、成功し得ぬという者あり、喧々囂々として連日止まなかった。しかし畢竟すべては空論であり、何の証拠もなかった。旬余を過ぎても煙焰は息まず、宛として極めて壮大な火山の噴火の如くであった。

  ある日の夜明け、突如として一声の轟音が響き渡り、大地は震動した。数里四方の窓という窓が砕け、人々は夢から覚めて飛び起きた。砲身は無事であった。鋳造は成功したのだ。歓声が市中を揺るがし、人々は互いに祝い合った。

  次に着手すべきは砲弾の製造であった。これは砲身よりもさらに精密を要する仕事であった。なぜなら、この砲弾こそが人を乗せて月に向かうべき飛翔体であり、その中に生命を維持する一切の装置を備えねばならなかったからだ。

  まず外殻はアルミニウムを以て造り、重量を軽減した。内壁には緩衝装置を施し、発射の衝撃に耐え得るよう設計した。空気の供給、食糧の貯蔵、温度の調節、すべてに周到な計算が施された。

ああ、我は戦に傷つけり。ただし創の軽重は如何。徐ろに手を伸ばして痛む処を撫でれば、右足は血汚にまみれること左足の如し。しかも手の触るるところ、痛みはいよいよ劇しく、その痛たるや――虫歯の如く、綿々として止む時なく、心の奥底にまで徹す。耳鳴り大いに起こり、頭もまた重く、両足ともに傷つきたるを知る。されど衆人の我をここに置きたるは何故ぞ。すでに敵に敗れたるを見たるか。

  あたりを見回せば、高い草が生い茂り、空は鉛色に曇っている。遠くに砲声が聞こえるが、それは次第に遠ざかってゆく。つまり我が軍は退却したのだ。そして私はここに、この草むらの中に、置き去りにされたのだ。

  のどが渇く。灼けつくような渇きだ。水筒にはまだ少し水が残っている。しかしこれを飲み干してしまえば、もう何もない。いつ救助が来るか分からない。

  痛みが周期的に襲ってくる。波のように寄せては引き、しかし引く時にも完全には消えない。常に底流のように痛みが流れている。その上に時折、鋭い痛みの波が打ち寄せる。

  私は星を見上げた。夜が来たのだ。星々は冷たく美しく、何事もなかったかのように輝いている。

酷暑は少しも減ぜず、面と手はいずれも灼かれんとす。すなわち残りの水を飲み尽くす。初めは苦しく、ただその一滴を飲まんと欲するのみであったが、思いがけず一気に飲み干してしまった。ああ、コサック兵が我が傍らを通り過ぎたのに、なぜ止めなかったのか。たとえトルコ兵であったとしても、この方がましだ。彼らが私を苦しめるのはせいぜい一、二時間のこと。今はのたうち回り呻吟して、幾日続くのか見当もつかない。ああ母よ、もし母に知れたなら。

  隣に横たわるもう一人の負傷兵の呻き声が聞こえる。彼もまた置き去りにされたのだ。互いに近づこうとするが、どちらも動く力がない。

  二日目の朝が来た。太陽は容赦なく照りつける。傷口が化膿し始めた。熱が出てきた。意識が朦朧とする。幻覚が現れては消える。故郷の風景、母の顔、幼い頃遊んだ小川、すべてが走馬灯のように回る。

  ふと気がつくと、顔のすぐそばに一輪の花が咲いている。真っ赤なケシの花だ。風に揺れている。この血に染まった大地から、なおもこのような美しいものが生まれ出るのか。

  三日目。もはや痛みの感覚すらも鈍くなってきた。遠くで声がする。人の声だ。担架兵だろうか。声は近づいてくる。「ここにもいるぞ!」

右衛門が高天神城に着いたのは、二日目の夕暮れであった。城将の天野刑部は、三年前に今川氏のもとで人質であった頃、右衛門がたびたび好意を示してくれた人物だった。あの頃、刑部は両手を地につけて、この恩は終生忘れませんと言ったものだ。右衛門はその言葉を信じて、はるばる高天神城に身を寄せたのだった。

  城に着くと、刑部は確かに丁重に迎え入れた。しかし数日が過ぎると、どこか様子がおかしくなった。家臣たちの目が、以前とは違う光を帯びるようになった。右衛門は不安を覚えたが、今さら他に行くあてもなかった。

  やがて知れたのは、右衛門の首に懸賞がかけられているということだった。主君を裏切った者として、多額の褒美が約束されていたのだ。刑部は右衛門の恩人であったが、恩義と利欲との間で揺れていた。

  ある夜、右衛門は月を眺めながら覚悟を決めた。明朝、自ら腹を切ろう。人に首を取られるよりは、自ら命を断つ方がましだ。右衛門は粛然として腹を切り、見事な最期を遂げた。

正午近く、郊外のどこかから砲撃が始まった。その音はモスクワの全市に響き渡り、まるで雷鳴のようであった。驚いた鴉の群れが鋭い叫び声を上げて修道院の屋根から一斉に飛び立ち、空には鳩が輪を描いて飛んでいた。市街は動揺し、兵士や武装した労働者を載せたトラックがいっそう猛烈な速度で疾駆し、赤軍の兵士たちは隊列を組んで前進した。

  街角には人だかりができていた。誰もが不安そうな顔で空を見上げ、砲声の方角を探ろうとしていた。女たちは子供の手を引いて建物の中へ急いだ。商店は次々とシャッターを下ろした。

  司令部に着くと、既に幹部たちが集まっていた。地図が広げられ、前線からの報告が次々と入ってきた。白軍がウラジオストク方面から南下してきたのだ。その数は予想以上に多く、装備も優れていた。

  「我々は撤退しなければならない」と旅団長が言った。「しかし秩序ある撤退でなければならぬ。パニックを起こしてはならない」

「なあ、聞いてくれ、俺の言った通りだろう」とカリスニェコフが言った。「俺の言った通りだ」

  この後、二人は黙り込んだ。交代の時間になると、彼らは裏庭を通り抜けて街路に出、またあの暖かい酒場に向かった。

  小さな酒場には、士官候補生や大学生たちが集まっていた。煙草の煙が濛々と立ち込め、酒の匂いが充満していた。片隅のテーブルに一人の老人が座っていた。白い髭をたくわえ、古びた外套を着て、黙々と杯を傾けていた。

  カリスニェコフは酒を二杯注文して、一杯を連れの前に置いた。「飲めよ」と彼は言った。「明日はどうなるか分からんのだから」

  連れは黙って杯を取り上げ、一気に飲み干した。彼の名はメチクと言った。大学で哲学を学んでいたが、革命が起こってからは銃を取った。しかし彼は本質的に兵士ではなかった。

  「お前はいつもぼんやりしている」とカリスニェコフが言った。「戦場でぼんやりする奴は死ぬぞ」

  「分かっている」とメチクは答えた。「しかし、なぜ我々は戦っているのか、時々分からなくなるんだ」

  カリスニェコフの顔が険しくなった。「そういうことを言う奴を、俺は何人も見てきた。そしてそういう奴はたいてい、最後には裏切り者になる」

b. 抄写 この作業は比較的煩瑣である。原書は借り受けた孤本であったり、先生の手書きの稿本であったりして、いずれも汚損は許されない。『集外集拾遺』『月界旅行』『山民牧唱』等の書は、早くに王賢楨氏が抄録した。『古小説鉤沈』は元来十冊に分綴され、王賢楨・単亜廬・周玉蘭・呉菊秋の諸氏が分担して抄写した。先生の手写本は往々にして字画が潦草であり、一般の人には判読し難く、何度も先生ご自身にお伺いを立てねばならなかった。

  c. 校勘 これは最も慎重を要する仕事であった。抄本は元より誤りが免れず、刊本にも脱落・衍字がある。校勘にあたっては、まず底本と他の版本とを対校し、異同を記録し、さらに先生の意図を推量して取捨を定めねばならなかった。

  d. 註釈 先生の文章には、当時の時事への言及や隠語が多く、後世の読者には分かりにくい箇所が少なくない。これらに註釈を加えるのは、浩瀚な資料の渉猟を要する仕事であった。

  以上のような作業を経て、ようやく全集の刊行に漕ぎ着けたのであるが、この間の困難は筆舌に尽くし難い。魯迅先生の文章は、近代中国の精神史そのものであり、一時代の思想と感情の記録である。これを完全な形で後世に伝えることは、我々の世代に課せられた責務であると信じている。


魯迅全集 - Lu Xun Complete Works

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