Lu Xun Complete Works/zh-ja/Shuxin
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shuxin / shuxin
魯迅 (鲁迅, ルーシュン, 1881-1936)
中日対照翻訳。
第1節
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【第三回 巴比堪列炬游诸市 观象台寄简论天文】 |
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却说社长坐在听众之间,睁着眼看他们狂呼乱叫,再想说话,站起身来,众人那里还理会得。也有打击呼钟,想镇定大众;无如大众呼声,却高过钟声几倍,竟全然不觉,反跑上来,围着社长,称誉赞美,不胜其烦。当下依美国通例,社员列成行伍,点着松明,到各街市巡行了一遍。住在麦烈兰的外国人,都交口称誉,叫喊不止,直有除却华盛顿,便算巴比堪的样子。加之天又凑趣,长空一碧,星斗灿然,当中悬着一轮明月,光辉闪闪,照着社长,格外分明。众人仰看这灿烂圆满的月华,愈觉精神百倍,那临时抱佛脚,买望远镜的,更不知其数。听说福尔街远镜店,就因此获了巨利的。到了半夜,仍是十分热闹,扰扰攘攘,引动了街市人民,不论是学者,是巨商,是学生;下至车夫担夫,个个踊跃万分,赞叹这震铄古今的事业。凡是住在岸上的,则在埠头;住在船上的,则在船坞;都举杯欢饮,空罐如山。那欢笑声音,宛如四面楚歌,嚣嚣不歇。社长在如疯如狂的大众里面,拉的,推的,抬的,像不倒翁一般,和着赞叹声音,四处乱转。到两点钟,才觉渐渐平静,远处来的外国人,也坐着火车各自散去。社长忙了一夜,然正在欢喜,也不觉得辛苦,归家去了。到第二日,众人议论,愈加纷纷不一,原来美国人的性质,最是坚定,听了巴比堪的报告,不但没一人惊怪,却都说确实无疑,必可成功的。当初拿坡仑道:“因字典中有‘不能成’三字,人都受欺,其实地球上那里有不能成的事呢!”美国人人佩服这话,所以不论什么事,亚美利加人民,是从不大惊小怪的。报告传将开去,自然是个个欢喜。五百种新闻杂志,都执笔批评,也有据形体上立说的,也有以气象学为主的,也有从政治上发议的,也有从政治上立论归到开化的,有的道:“月界竟同我地球一般,样样完全吗?有同地球相似的空气吗?发见月界之后,就该移住吗?”并说:“月界统属美国,则欧洲国权,不能平均,恐肇事端”的,亦复不少。可惜这本书里,载不尽那些名言伟论,没奈何只好割爱了。此外有薄斯东的博物学社,亚尔白尼的学术社,纽约的地理国志社,飞拉特非亚的理学社,华盛顿的斯密敦社,都从邮局纷纷寄信,祝贺枪炮会社的大事业。还有醵合金资,补助一切费用的,也不知多少。社长的名誉,真如旭日初升一般,竟个个赞美崇拜起来。五六日之后,拔尔祛摩有座英商开的戏园,造一本戏,暗中含着讥刺的意思。大众说他毁损社长,几乎把戏园打得落花流水。英商没奈何,谢过众人,改了关目,却奉承起来,倒获了大利。这是细事,按下不表。……却说社长归家之后,真是食不下咽,寝不安席,没昼没夜,总是计画着月界旅行一件事业。屡次招集同盟社员,议了又议,解释了许多疑问。若是天文上的关系,商酌清楚;然后再把器械决定,这大试验,就算毫无缺陷了。当下大家议妥,连夜修书,把关着天文上的疑问,写在里面,寄到沫设克谁夫府的侃勃烈其天象台,求他帮助解决。这府是从前联邦合众的第一处,最有名的,而且好本领的天文家,多在此处。庞多氏决定彗星的星云,克拉克发见雪留星的卫星,曾得了大名誉,他们所用至精极微的望远镜,也都是这天文台制造的。接到枪炮会社书信之后,自然是大家欢喜,极力赞成。不到三日,巴比堪家中,就接得回函,一切疑问,都解释了。回函道: |
【第三回 バビカン松明を掲げて諸市を巡る 天文台より書簡を寄せて天文を論ず】 さて社長は聴衆の間に座り、目を見開いて彼らが狂喜乱叫するのを見つめ、再び話そうとして立ち上がったが、人々はもはや取り合おうとしなかった。呼び鈴を打ち鳴らして大衆を鎮めようとする者もあったが、大衆の歓声は鈴の音の数倍も高く、まったく聞こえず、かえって壇上に駆け上がり、社長を取り囲んで称賛讃美し、止むことがなかった。そこでアメリカの慣例に従い、社員は隊列を組み、松明を点して各街路を巡行した。メリーランドに住む外国人たちも口々に称賛し、叫び続け、ワシントンを除けばバビカンこそ第一だという有様であった。折しも天も味方して、長空は碧く澄み渡り、星辰は燦然と輝き、中天に一輪の明月が懸かり、光輝閃々として社長を照らし、ひときわ明るく映し出した。人々は仰ぎ見るこの燦爛たる満月に、ますます精神百倍となり、にわかに望遠鏡を買い求める者は数知れなかった。フォール街の望遠鏡店はこのために巨利を得たという。夜半になっても依然として賑やかで、騒然として街の人々を引きつけ、学者であれ、大商人であれ、学生であれ、車夫や担ぎ手に至るまで、皆が万分に沸き立ち、この古今を揺るがす事業を讃嘆した。岸に住む者は埠頭に、船に住む者は船渠に集まり、杯を挙げて歓飲し、空き缶は山のように積まれた。その歓笑の声は、まるで四面楚歌のごとく喧しく鳴り止まなかった。社長は狂気のような大衆の中で、引っ張られ、押され、担がれ、起き上がり小法師のごとく、讃嘆の声に合わせて四方に転がされた。二時になってようやく次第に静まり、遠方から来た外国人も汽車に乗って各々散じた。社長は一晩忙しかったが、歓喜の中にあって疲れも覚えず、帰宅した。翌日、人々の議論はますます紛々として一様ではなかったが、もともとアメリカ人の気質は最も堅固であり、バビカンの報告を聞いて、驚く者は一人もなく、皆が確実無疑、必ず成功するだろうと言った。かつてナポレオンは言った、「辞書に『不可能』の三字があるがゆえに人は皆欺かれるが、実のところ地球上に不可能な事などどこにあろうか!」と。アメリカ人は皆この言葉を崇拝しているので、何事であれ、アメリカ国民は決して大騒ぎしないのである。報告が広まると、自然と皆が喜んだ。五百種の新聞雑誌がこぞって論評し、形態から説く者、気象学を主とする者、政治から議論する者、政治から文明開化に帰着させる者もあった。「月界は果たして我が地球と同じく完備しているのか?地球と似た大気があるのか?発見後は移住すべきか?」と言う者もあり、「月界がすべてアメリカに属すれば、ヨーロッパの国権が均衡を保てず、紛争を招くことを恐れる」と言う者も少なくなかった。惜しむらくは本書にはそれらの名言偉論をすべて載せられず、やむなく割愛した。その他、ボストンの博物学会、オールバニーの学術会、ニューヨークの地理学会、フィラデルフィアの理学会、ワシントンのスミソニアン協会が続々と祝賀の書簡を送り、銃砲会社の大事業を祝した。金資を出し合って費用を補助する者も数知れなかった。社長の名誉はまさに旭日の昇るがごとく、皆がこぞって賛美崇拝した。五六日後、ボルティモアの英国商人の劇場で風刺を含んだ芝居を作ったが、大衆は社長を毀損するものだと言い、劇場を壊さんばかりにした。英国商人はやむなく演目を変え、お世辞に転じると、かえって大利を得た。これは些事であるから述べない。……さて社長が帰宅してからは、食も喉を通らず、寝ても安らかならず、昼夜を問わず月界旅行の事業を計画していた。何度も社員を招集して議論を重ね、多くの疑問を解明した。天文上の関係が明らかになり、次いで機械を決定すれば、この大実験はまったく欠陥がないことになる。そこで皆が合意し、連夜書簡をしたため、天文上の疑問を記してマサチューセッツ州のケンブリッジ天文台に送り、解決の助力を求めた。この州は連邦合衆国第一の地であり、最も名高く、優れた天文学者が多くいた。ボンド氏が彗星の星雲を確定し、クラークが海王星の衛星を発見して大名声を博し、彼らの精巧微妙な望遠鏡もすべてこの天文台で製造されたものである。書簡を受け取ると皆が喜び、全力で賛成した。三日も経たぬうちにバビカンの家に返信が届き、一切の疑問が解明された。返信にはこう記されていた。 本月六日、貴社の書簡を拝受し、即日同人を招集し、互いに討論し、衆言を折衷して答議とし、要旨を摘んで約言五則を作り、書簡末尾に附して採択を待つ次第です。我がケンブリッジ天文台同人は、天文理論上の関係をすでに分析し、アメリカ国民のためにこの偉業を祝します! 第一問:砲弾を月界に送ることは可能か?答議:砲弾に毎秒一万二千ヤードの初速を与えれば、必ず目的を達し得る。地上から上昇すれば引力は漸減し、距離の二乗に反比例する。距離三尺なれば一尺時と比べ引力は九倍減少する。ゆえに砲弾の重量も軽くなる。月と地球の引力が均衡する零点は飛行路の五十二分の四十七の地点である。砲弾はすべての重量を失い、零点を越えれば月の引力のみを受け落下する。理論上は成功疑いないが、機械力にも関わる。 |
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本月六日,获贵社来书,辱询一切,即日招集同人,互相讨论,折衷众言,拟为答议,并撮其要旨,作约言五则,附诸简末,以俟采择。我侃勃烈其天象台同人,于天文理论上之关系,既经剖析,并为美国人民,祝此伟业! |
第二問:月と地球の正確な距離はいかほどか?答議:月の軌道は楕円であり、地球は中心に位置する。月の距離は遠近一定でない。近地点と遠地点の差はきわめて大きく、精算によれば最遠二十四万七千五百五十二英里、最近二十一万八千六百五十七英里、差は二万八千八百九十五英里、全距離の九分の一を超える。 |
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第一问曰:弹丸能否送入月界?答议曰:若令弹丸每秒具一万二千码之第一速力,则必能达其目的,盖离地上升,则吸力递减,与距离成逆比例。——即距离三尺,则较一尺时,其吸力必减少九倍。故弹丸重量,亦因之减轻。迨月球与地球之吸力两相平均,则成零点。其处即弹丸飞路之五十二分中之四十七分也。是时弹丸全失其重量,既越零点,则仅受月界吸力,必向月界而下堕矣。由理论观之,自必成功无疑,既如上述;然亦不能不关于所用之机械力。 |
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第二问曰:月与地球之精密距离凡几何?答议曰:月之环行我地球也,其轨道非真圆而椭圆,地适居椭圆轨道之中,故太阴周回地球,其距离远近不相等。天文家有谓“胚利其”(意即月球运行时与地球最近之处)或“爱薄其”(意即月球运行时与地球最远之处)者即此。其最远最近两距离差之浩大,有为思虑所难及者,据近来确算:月地距离,最远则二十四万七千五百五十二英里;最近则二十一万八千六百五十七英里,两距离之差,凡二万八千八百九十五英里,即多于全距离之九分之一也。故应以最近最远,为计算之根。 |
第三問:砲弾が月界に達するにはどれほどの時間を要するか?答議:毎秒一万二千ヤードの恒速なら九時間で月界に達するが、初速は減少するので、均衡点に達するには八十三時間二十分、さらに月界に直達するには十三時間五十三分二十秒を要する。狙い定めた一点への発射は、月到達の九十七時間十三分二十秒前に行うべきである。 |
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第三问曰:具第一速力之弹丸,令达月界,需几何时?又应何时放射,则可达月界之一点?答议曰:若令弹丸一杪时恒具一万二千码之第一速力,则惟九小时,即达月界。然第一速力,必至减小,故达月与地两吸力之平均点,需时三十万杪,即八十三时二十分。再由此点直达月界,需时五万杪,即十三时五十三分二十杪也。故若对瞄定之一点,放射弹丸,应于太阴未到前之九十七时十三分二十杪。 |
第四問:砲弾到達に最も適した位置に月球が至るのはいつか?答議:月と地球の距離が最も近く、かつ天頂を通過する時刻を選ぶことが最も重要である。幸い来年十二月四日夜半、月球はまさに近地点にあり、かつ天頂を通過する。 |
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第四问曰:月球行至最适于弹丸到达处,应在何时?答议曰:解答第三疑问外,有尤要者,即择月与地距离最近之时刻,及经过天心之时刻是也。届是时,其距离可减去等于地球半径长率(即三千九百十九英里)弹丸直达月界之飞路,仅余二十一万四千九百七十六英里而已。然月至地球最近处,虽月必一次,而又同时适经天心则甚鲜,非历多年,不能遇之,是事当以选同时适遇右二事为第一义。所幸者机会适至,来年十二月四日夜半,月球正为“胚利其”,即至地球最近处而又同时适经天心。 |
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第五问曰:放射弹丸时所用大炮,应瞄准天之何一点?答议曰:来年适遇良机,既如上述,则大炮自应瞄准其处之天心。故若置大炮,令成垂线,则临放射时弹丸可速离地球吸力之感触点,然因月球到达发炮处之天心,故其处以在超过月球倾斜之纬度为良,即零度及北纬或南纬二十八度间是也。否则弹丸必须斜射,为起业一大妨害。 |
第五問:砲弾発射時に大砲はいずれの天の一点を狙うべきか?答議:大砲は天頂を狙い、零度から北緯または南緯二十八度の間に設置すべきである。 |
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第六问曰:弹丸发射时,月悬天之何处?答议曰:当弹丸飞行天际时,月亦每日进行十三度十分三十五杪,故与天心相距,凡四倍于每日进行之度数,共五十二度四十分二十杪,是即弹丸达月,及月球进行相等之时刻也。然因地球运转,而弹丸进路,遂不得不复生差异,其差由地球十六半径即月之轨道推之,凡十一度,此十一度中,应加右之五十二度四十分二十杪。(令分杪数进位,则几近六十四度。)故弹丸放射时,发炮处之垂线,应令与月球半径成六十四度角。 |
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约言:(一)置炮地应在零度及北纬或南纬二十八度间。(二)大炮发射时,应以天心为目的,而瞄准之。(三)放射弹丸,应令每杪具一万二千码之第一速力。(四)放射弹丸,应在来年十二月朔日午后十时四十四杪。(五)弹丸发射后四日,当达月界,即十二月四日夜半,恰经天心之时也。 |
第六問:砲弾発射時、月は天のいずれの位置にあるか?答議:砲弾飛行中、月も毎日十三度十分三十五秒進行する。地球の回転を含め、発射地の垂線は月球半径と六十四度の角をなすべきである。 |
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拔尔祛摩枪炮会社社长巴比堪君阁下: |
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天象台职员总代理侃勃烈其天象台司长培儿斐斯顿首。 |
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众人读过来书,于天文上的疑问,都不觉涣然冰释,自然是称誉不迭的。各种学术杂志上,也登载殆遍,并加上许多批评议论的话,引动了世人注目,又都纷纷赞美起来。正是: |
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天人决战,人定胜天。人鉴不远,天将何言! |
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天文上的疑问,都已解释;那器械却如何商量呢?下回再说。 |
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【游戏论】 |
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——为国民美术展览会的机关杂志制作而作 |
約言:(一)砲台は零度から南北緯二十八度間。(二)天頂を狙う。(三)初速毎秒一万二千ヤード。(四)来年十二月朔日午後十時四十四秒に発射。(五)発射後四日で月界到達、すなわち十二月四日夜半。 |
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【一】 |
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从《制作》的初号起,连续译载着德国希勒垒尔(Fr. von Schiller)的《论美底教育的书信》(Briefe über die Aesthetische Erziehung des Mens-chen),我因此想到,要对于这游戏的问题,来陈述一些管见。 |
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我们当投身于实际生活之间,从物质和精神这两方面受着拘束,常置身于两者的争斗中。但在我们,是有生命力的余裕(Das überflüssig Leben)的,总想凭了这力,寻求那更其完全的调和的自由的天地;就是官能和理性,义务和意向,都调和得极适宜的别天地。这便是游戏。艺术者,即从这游戏冲动而发生,而游戏则便是超越了实生活的假象的世界。这样的境地,即称之为“美的精神”(Schöne Seele)。以上那些话,记得就是希勒垒尔在那《书信》的第十四和十五里所述的要旨似的。 |
ボルティモア銃砲会社社長バビカン君閣下 |
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康德(I. Kant)也这样想,听说在或一种断片录中,曾有与劳动相对,将艺术作游戏观之说,然而我不大知道。可是一直到后来,将这希勒垒尔的游戏说更加科学底地来说明的,是斯宾塞(H. Spencer)的《心理学》(第九篇第九章《审美感情》。) |
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无论是人,是动物,精力一有余剩,就要照着自己的意思,将这发泄到外面去。这便成为模拟底行为(stimulated action),而游戏遂起。因为我们是素来将精力用惯于必要的事务的,所以苟有余力,则虽是些微的刺戟,也即应之而要将那精力来动作。这样时候的动作,则并非实际底行为,却是行为的模拟了。就是“并不自然地使力动作之际,也要以模拟的行为来替代了真的行为(real action)而发泄其力,这么的人为底的力的动作,就是游戏。”斯宾塞说。 |
天文台職員総代理ケンブリッジ天文台台長ベルフェストン首。 |
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在人类,将自己的生命力,适宜地向外放射,是最为愉快的;正反对,毫不将力外泄,不使用,却是最大的苦痛。最重的刑罚,所以就是将人监禁在暗室里,去掉一切刺戟,使生命力绝对地不用,置之于裴伦(G. G. Byron)在《勖滃的囚人》(The Prisoner of Chillon)里所描写的那样状态中。做苦工的,反要舒适得多。长期航海的船的舱面上,满嘴胡子的大汉闹着孩子也不做的顽意儿,此外,墙壁上的涂抹,雅人的收拾庭院,也都可以这样地加以说明的。 |
人々はこの書簡を読み終えると、天文上の疑問がすべて氷解し、称賛が止まなかった。各種学術雑誌にも掲載され、世人の注目を引いた。まさに—— |
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【二】 |
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然而和以上的游戏说异趣,下了更新的解释者,则是前世纪末瑞士的巴拾尔大学的格罗斯(K. Groos)教授公表的所说。 |
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教授在《动物的游戏》(Spiele der Tiere)和《人类的游戏》(Spiele der Menschen)两书中所述之说,是下文似的解释,和以前者全然两样的。 |
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游戏并非起于实际底活动之后的反响,倒是起于那以前的准备。就是,较之历来的意见,是将游戏看作在生活上有着更重大的,必要的,严肃的一要素的。人和动物,当幼小时,所以作各样的游戏者,是本能底地,做着将来所必要的肉体上精神上的活动。不只是自己先前所做过的活动的温习,却是作为将来的活动的准备,而做着那实习和训练。这即使谁也没有发命令,而人和动物的本能就要这样。有如女孩子将傀儡子或抱或负者,如斯宾塞这些人所说一样,决不是习惯底的模拟行为;乃是从几百代的母亲一直传下来的本能性,作为将来育儿的豫备行为,而使如此。小猫弄球,小孩一有机会便争闹,也无非都是未来的生存竞争的准备。所以使格罗斯说起来,则无论是人,是动物,并非因为幼小,所以游戏,乃是因为游戏,所以幼小的。因为这里有“未来”在。 |
天人の決戦、人定めて天に勝つ。人の鑑遠からず、天まさに何をか言わんや! |
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譬如原始时代的人和野蛮人之类,聚集了许多人,歌且跳,跳且歌。后者的解释,即以为那决不是单从游戏冲动而发的,却是和敌人战争时候的团体运动的操练,是豫备底实习。 |
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【三】 |
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关于游戏的以上的两说,将这从和艺术的关系上来观察,就有各种的问题暗示给我们。也和艺术所给与的快感,即游戏的快乐,或者艺术的实用底功利底方面相关联,成为极有兴味的问题。 |
天文上の疑問はすべて解明された。では機械はいかに商量したか?次回に述べる。 |
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在现今,大抵以为希勒垒尔的游戏说,是被后来的格罗斯教授的所说打破了。然而我从艺术在人类生活上的意义着想,却竟以为上述的两说,不但可以两立而已,而且似乎须是并用了这两说,这才可以说明那作为游戏的艺术的真意义。 |
第2節
| 中文 | 日本語 |
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在称为职业、劳动、实际生活等类的事情以上,在我们,都还有以生命力的余裕所营的生活。和老人、成人相比较,青年和小儿就富于旺盛而泼剌的生气,生气怎么富,这力的余裕也就怎样大。我们想用了那余裕,来创造比现在更自由的,更得到调和的,更美的,更好的生活的时候,就是向上,也就是有进步。不独艺术,凡有思想生活,大概都是在这一种意义上的严肃的游戏。这也可以当作格罗斯的所谓“实生活的准备底阶段”观。 |
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劳动和游戏之间,本来原没有本质上的差异的。譬如同是作画,弹钢琴,常因了做的人的环境和其人的态度,而或则成为游戏,或则成为职业劳动。流了汗栽培花木,在花儿匠是劳动,是事务罢,但在有钱的封翁,却是极好的游戏了。 |
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那么,劳动和游戏之差,倘借了希勒垒尔的话来说,则所以不同者,只在前者是那劳作者的意向(Neigung)和义务(Pflicht)没有妥当地调和,而在后者,则那两事都适宜地得了一致。换了话说,便是前者是并非为了从自己本身所发的要求而劳作的,而在后者,却是为了自己,使自己的生命力活动,由此得到满足。所以,我以为游戏云者,可以说,是被自己内心的要求所驱遣,要将自己表现于外的劳作罢。人若自由地表现出自己,适宜地将自己的生命力发放于外,是带着无限的快感的;否则,一定有苦痛,这就成为不能称作游戏的事了。这游戏所在的地方,即有创造创作的生活出现。 |
職業、労働、実際生活などと呼ばれるもの以上に、我々にはすべて生命力の余裕をもって営む生活がある。老人や成人に比べて、青年や小児は旺盛で溌剌とした生気に富み、生気が豊かであればこの力の余裕もまた大きくなる。我々がその余裕をもって、現在よりも自由な、より調和のとれた、より美しい、より良い生活を創造しようとする時、それは向上であり進歩である。独り芸術のみならず、凡そ思想的生活は、大概すべてこの意味における厳粛な遊戯である。これはグロースのいわゆる「実生活の準備的段階」と見なすこともできる。 |
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纵使并不在生活问题可以简单地解决,社会问题也不如今日一般复杂的原始时代,即在古代,职业底劳动和游戏底劳作之间,是并没有这么俨然的区别的。都能够为了自己所发的内底要求,高兴地做事;为了满足自己,而忠实地,真率地,诚恳地,以严肃的游戏底心情做事的。当跪在祭坛前受神托,举行祭政一致的“祀事”的时候,他们就做那称为“神戏”的事:奏乐,戴了假面跳舞,献上美的歌辞。现在的所谓政治家和职业底僧徒所做的事,在他们是作为“戏”而兴办的。 |
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要而言之,游戏者,是从纯一不杂的自己内心的要求所发的活动;是不为周围和外界的羁绊所烦扰,超越了那些从什么金钱呀、义务呀、道德呀等类的社会底关系而来的强制和束缚,建设创造起纯真的自我的生活来。希勒垒尔在那《书信》的第十五里说,“人惟在言语的完全的意义上的人的时候才游戏,也惟在游戏的时候才是完全的人。”这有名的话的真意义,就可以看作在这一点。我以为在这意义上,世间就再没有能比所谓游戏呀、道乐呀之类更其高贵的事了。 |
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人生的一切现象,是生命力的显现,就中,最多最烈,表现着自己这个人的生命力的,是艺术上的制作。超脱了从外界逼来的别的一切要求,——什么义理、道德、法则、因袭之类的外底要求,当真行着纯然的自己表现的时候,这就是拚命地做着的最严肃的游戏。在这样的艺术家,则有着格罗斯所说那般的幼少,也有着大的未来。艺术家一到顾忌世间的批评,想着金钱的问题,从事制作的时候,这就已经不是“严肃的游戏”,而成为匠人的做事了;这时候,对绢素,挥彩毫,要在那里使自然人生都活跃起来的画家,已变了染店的细工人,泥水匠的佣工了。 |
労働と遊戯との間には、もともと本質的な差異はない。たとえば同じく絵を描き、ピアノを弾くことも、その人の環境と態度とによって、遊戯となり、あるいは職業的労働となる。汗を流して花木を栽培することは、植木屋にとっては労働であるが、裕福な老紳士にとっては極めて良い遊戯なのである。 |
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虽然简括地说是游戏,其范围和种类却很多。随便玩玩的游戏,就是俗所谓“娱乐”一类的事,这就可以看作前述的斯宾塞所说的单是模拟底行为,起于实际底活动之后的反响的罢。但是,真的自己表现的那严肃的游戏,则不问其为艺术的,实业的,政治的,学艺的,乃是已经入了所谓“道乐”之域,因此,以个人而言,以人类而言,皆是也有未来,也有向上,有进转。将这象格罗斯那样的来解释,看作豫备的行为,则我以为前述的两种游戏说,也未必有认为两不相容的冲突之说的理由罢。 |
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【说幽默】 |
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【一】 |
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幽默(humor)在政治上的地位,——将有如这样的题目,我久已就想研究它一番。幽默者,正如在文学上占着重要的地位一般,在政治上,也做着颇要紧的脚色的事,就可以看见。有幽默的政治家和没有幽默的政治家之间,那生前不消说,便在死后,我以为也似乎很有不同的。英国的格兰斯敦这人,自然是伟人无疑,但我总不觉得可亲近。这理由,长久没有明白。在往轻井泽的汽车中,遇到一个英国女人的时候,那女人突然说:—— |
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“格兰斯敦是不懂得幽默的人。” |
労働と遊戯との差は、シラーの言葉を借りれば、前者は労作者の意向と義務が妥当に調和しておらず、後者はその二つが適宜に一致を得ているという点にのみある。換言すれば、前者は自分の内から発する要求のために労作するのではなく、後者は自分のために生命力を活動させ、満足を得るのである。だから遊戯とは、自分の内心の要求に駆り立てられて自分を外に表現しようとする労作であると言えよう。人が自由に自分を表現し、適宜に生命力を外に発散すれば、そこには無限の快感が伴う。さもなければ苦痛があり、もはや遊戯とは称せなくなる。この遊戯のある所には、創造的・創作的な生活が出現する。 |
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我就恍然象眼睛上落了鳞片似的。自己觉得,从年青时候以来,对于格兰斯敦不感到亲昵,而于林肯却感到亲昵者,原来就为此。对于克林威尔这人,不知怎的,我也不喜欢。这大概也就因为他是不懂得幽默的人的缘故罢。 |
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【二】 |
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缺少幽默者,至少,是这人对于人生的一方面——对于重要的一方面——全不懂得的证据。这和所谓什么有人味呀,有情呀之类不同;而关系于更其本质底的人的性格。 |
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嘉勒尔说过:不会真笑的人,不是好人。但是,笑和幽默,是各别的。 |
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倘问:那么,幽默是什么呢?我可也有些难于回答。使心理学家说起来,该有相当的解释罢;在哲学家,在文学家,也该都有一番解释。然而似乎也无须下这么麻烦的定义,一下定义,便会成为毫不为奇的事的罢。 |
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倘问:幽默者,日本话是甚么?那可也为难。说是滑稽呢,太下品;说是发笑罢,流于轻薄;若说是谐谑,又太板。这些文字,大约各在封建时代成了带着别的联想的文字,所以显不出真的意思来了。于是我们在暂时之间,不得已,就索性用着外国话的罢。 |
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【三】 |
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倘说,那么,幽默是怎么一回事呢?要举例,是容易的。不过以幽默而论,那一个是上等,却因着各人的鉴赏而不同,所以在幽默,因此也就有了种种的阶级和种类了。 |
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熊本地方的传说里,有着不肯认错的人的例子。那是两个男人,指着一株大树,说道那究竟是甚么树呢,争论着。这一个说,那是槲树;那一个便说,不,那是榎树,不肯服。这个说,但是,那树上不是现生着槲树子么?那对手却道:—— |
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“不。即使生着槲树子,树还是榎树。” |
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我以为在这“即使生着槲树子,树还是榎树”的一句里,是很有幽默的。遇见这一流人的时候,我们的一伙便常常说:“那人是即使生着槲树子,树还是榎树呵。” |
たとえ原始時代においてすら、職業的労働と遊戯的労作との間にはこれほど厳然とした区別はなかった。皆が自分から発する内的要求のために喜んで事を為し、忠実に、真率に、誠実に、厳粛な遊戯の心情をもって事を為すことができた。祭壇の前で神託を受け祭政一致の「祀事」を行う時、彼らは「神戯」を行った。音楽を奏で、仮面をかぶって踊り、美しい歌辞を捧げた。今日のいわゆる政治家や職業的僧侶の行うことを、彼らは「戯」として興じていたのである。 |
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这话,是从友人岩本裕吉君那里听来的。在一个集会上,讲起这事,柳田国男君也在座,便说,还有和这异曲同工的呢。那讲出来的,是:—— |
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“即使爬着,也是黑豆。” |
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也是两个人争论着:掉在那里的,是黑豆。不,是黑的虫。正在争持不下的时候,那黑东西,蠕蠕地爬动起来了。于是一个说,你看,岂不是虫么?那不肯认错的对手却道:—— |
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“不。即使爬着,也是黑豆。” |
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这一个似乎要比“即使生着槲树子,树还是榎树”高超些。在黑豆蠕蠕地爬着这一点上,是使人发笑的。 |
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【四】 |
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于是,柳田国男君便进一步,讲了“纳狸于函,纳鲤于笼”的事。这些事都很平常;但惟其平常,愈想却愈可笑。虽是颇通文墨的人,这样的字的错误是常有的。而那人是生着胡子的颇知分别的老人似的人,所以就更发笑。 |
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三河国之南的海边,有一个村;这村里,人家只有两户。有一天,旅客经过这地方,一个老人惘惘然无聊似的坐在石头上。旅客问他在做什么事。老人便答道: |
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“今天是村子的集会呵。” |
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这是无须说明的,这村子只有两家,有着到村会的资格的,是只有这老人一个。 |
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然而,这话的发笑,是在“村的集会”这句里,比说“正开着一个人的村会议”更有趣。说到这里,就发生关于幽默的议论了。例如,将这话翻成外国语,还能留下多少发笑的分子。 |
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【五】 |
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前年,和从英国来的司各得氏夫妇谈起幽默,便听到西洋人所常说的话:在日本人,究竟可有幽默么?我说,有是有的,但不容易翻译。这样说着各样的话的时候,司各得君突然说: |
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“日本人富于机智(wit),是可以承认的;究竟可富于幽默却是一个疑问。” |
要するに、遊戯とは純一不雑の自己の内心の要求から発する活動であり、周囲の羈絆に煩わされず、金銭や義務や道徳等の社会的関係からくる強制と束縛を超越して、純真なる自我の生活を建設し創造するものである。シラーは『書簡』第十五で「人は完全なる意味において人である時にのみ遊戯し、遊戯する時にのみ完全なる人である」と言った。この有名な言葉の真意はまさにこの点にある。この意味において、世にいわゆる遊戯や道楽の類ほど高貴なものは他にないと思う。 |
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于是便成了机智和幽默的区别,究竟如何的问题。经过种种思索之后,他便定义为:—— |
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“机智者,是地方底的,而幽默,则普遍底也。”作为收束了。总而言之,所谓机智者,是只在一国或一地方觉得有趣,倘译作别国的言语,即毫不奇特;而幽默,则无论翻成那一国的话,都是发笑的。 |
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其次,司各得君又说了这样的话:—— |
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“日本人所喜欢的笑话,大抵是我们的所谓沙士比亚时代的笑话。譬如说,一个人滑落在土坑里了,这很可笑。就是这样的东西。” |
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这在不懂日本话的司各得君,自然是无足怪的,但也很有切中的处所。 |
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前年,梅毗博士作为交换教授来到日本的时候,讲演之际,说了种种发笑的话。然而听众并不笑;于是无法可施,说道,“从此不再讲笑话”,悲观了。这并不只是语学程度之不足;是因为日本的听众,对于幽默没有美国听众那样的敏感。例如,倘将先前所说的“即使爬着,也是黑豆”那样的话,用在演说里,千人的听众中,怕只有两三人会笑罢。 |
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【六】 |
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说话稍稍进了岔路了,这缺少幽默的事,我以为也是日本人被外国人所误解的一个原因。支那人是被称为有幽默的。这就是说,还是支那人有人味。然而,这也并非日本人生来就缺少幽默,从明治到大正的日本人,太忙于生活,没有使日本人固有的幽默显于表面的余地了,我想。 |
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在德川时代的末期那样,平稳的时代,日本特有的幽默曾经很发达,是周知的事实。大概一到王政维新,日清、日俄战争似的窘促的时代,便没有闲空,来赏味这样宽裕的幽默之类了。 |
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【七】 |
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但是,从一方面想,也可以说,懂得幽默,是由于深的修养而来的。这是因为倘若目不转睛地正视着人生的诸相,我们便觉得倘没有幽默,即被赶到仿佛不能生活的苦楚的感觉里去。悲哀的人,是大抵喜欢幽默的。这是寂寞的内心的安全瓣。 |
人生の一切の現象は生命力の顕現であり、最も多く最も烈しく自己の生命力を表現しているのは芸術上の制作である。外界からの一切の要求を超脱して純然たる自己表現を行っている時、それこそは命懸けの最も厳粛な遊戯である。このような芸術家にはグロースが説く幼少さもあり、大いなる未来もある。芸術家が世間の批評を気にし金銭の問題を考えながら制作に従事する時、もはや「厳粛な遊戯」ではなく職人の仕事と化す。絹素に向かい彩筆を揮って自然と人生を躍動させようとした画家は、染物屋の職工、左官の雇われ人と変わってしまう。 |
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以历史上的人物而论,林肯是极其寂寞的人。他对于人生,正视了,凝视了,而且为寂寞不堪之感所充满了。不必读他的传记,只要注视他的肖像,便可见这自然人的心中,充满着寂寞。而他,是爱幽默的。 |
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他的逸事中,充满着发笑的话。他的演说,他的书信中,也有笑话散在。寂寞的他,不笑,是苦得无法可想了。 |
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先几时死掉的威尔逊氏,也是喜欢幽默的人。这也象林肯一般,似乎是想要逃避那寂寥之感的安全瓣。新渡户稻造先生也喜欢幽默,据我想,那原因也就从同一的处所涌出来的。 |
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现今英国的劳动党内阁的首相麦唐纳氏,也是富于幽默的人。那心情,也还是体验了人生的悲哀的他,要作为多泪的内心的安全瓣,所以便不识不知,爱上了幽默,修练着幽默的罢。 |
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泪和笑只隔一张纸。恐怕只有尝过了泪的深味的人,这才懂得人生的笑的心情。 |
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【八】 |
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然而在这样幽默癖之中,有一种不可疏忽的危险。 |
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幽默者,和十八岁的姑娘看见筷子跌倒,便笑成一团的不同。那可笑味,是从理智底的事发生的。较之鼻尖上沾着墨,所以可笑之类,应该有更其洗炼的可笑味。 |
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幽默既然是诉于我们的理性的可笑味,则在那可笑味所由来之处,必有理由在。那是大抵从“理性底倒错感”而生的。 |
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在或一种非论理底的事象中,我们之所以觉到幽默,就在于没有幽默的人要怒的事,而我们倒反笑。有时候,我们对于人生的悲哀,也用了笑来代哭。还有,也或以笑代怒,以笑代妒。这也可以说是一种倒错感。 |
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但是,故意地笑,并不是幽默,只在真可笑的时候,才是幽默。 |
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在这里,我所视为危险者,就是幽默的本性,和冷嘲(cynic)只隔一张纸。幽默常常容易变成冷嘲,就因为这缘故。 |
簡括して遊戯と言っても、その範囲と種類は実に多い。気軽な遊戯、すなわち「娯楽」の類は、スペンサーが説く単なる模擬的行為と見なせよう。しかし真の自己表現としての厳粛な遊戯は、芸術的であれ実業的であれ政治的であれ学芸的であれ、すでに「道楽」の域に入っており、個人にとっても人類にとっても、未来があり向上がある。これをグロースのように準備的行為と見なせば、前述の二つの遊戯説は必ずしも両立しないとする理由はないであろう。 |
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从全无幽默的人看来,毫不可笑的事,却被大张着嘴笑,不能不有些吃惊,然而那幽默一转而落到冷嘲的时候,对手便红了脸发怒。 |
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睁开了心眼,正视起来,则我们所住的世界,乃是不能住的悲惨的世界。倘若二六时中,都意识着这悲惨,我们便到底不能生活了。于是我们就寻出了一条活路,而以笑了之。这心中一点的余裕,变愤为笑,化泪为笑,所以,从以这余裕为轻薄的人看来,如幽默者,是不认真,在人生是不应该有的。但是从真爱幽默的人们看来,则倘无幽默,这世间便是只好愤死的不合理的悲惨的世界。所以虽无幽默,也能生活的人,倒并非认真的人,而是还没有真觉到人生的悲哀的老实人,或者是虽然知道,却故作不知的伪善者。 |
第3節
| 中文 | 日本語 |
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然而,因为幽默是从悲哀而生的“理性底逃避”的结果,所以这常使人更进而冷嘲人间。对于一切气愤的事,并不直率地发怒,却变成衔着香烟,只有嘲笑,是很容易的。约翰穆勒的话里,曾有“专制政治使人们变成冷嘲”的句子。这是因为在专制治下的时候,直率的敏感的人们,大概是愤怒着,活不下去的。于是直率的人,便成为殉教者而被杀害了。不直率的人,就玩弄人生,避在幽默中,冷冷地笑着过活。 |
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所以幽默是如火,如水,用得适当,可以使人生丰饶,使世界幸福,但倘一过度,便要焚屋,灭身,妨害社会的前进的。 |
しかしユーモアは悲哀から生まれた「理性的逃避」の結果であるがゆえに、しばしば人をしてさらに進んで人間を冷嘲させるに至る。一切の憤慨すべき事に対して率直に怒りを発するのではなく、煙草を銜えて嘲笑するだけになるのはきわめて容易なことである。ジョン・ミルの言葉に「専制政治は人々を冷嘲家に変える」という一句がある。専制治下にある時、率直で敏感な人々は大概怒りながら生きていられない。率直な人は殉教者となって殺害される。率直でない人は人生を弄びユーモアの中に逃れ、冷冷と笑いながら暮らすのである。 |
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【九】 |
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使幽默不堕于冷嘲,那最大的因子,是在纯真的同情罢。同情是一切事情的础石。法兰斯曾说,天才的础石是同情;托尔斯泰也以同情为真的天才的要件。 |
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幽默不怕多,只怕同情少。以人生为儿戏,笑着过日子的,是冷嘲。深味着人生的尊贵,不失却深的人类爱的心情,而笑着的,是幽默罢。 |
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那么,就不得不说,幽默者,作为人类发达的一个助因,是可以尊重的心的动作。 |
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古罗马的诗圣呵累条斯曾经讴歌道:—— |
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“含笑谈真理,又有何妨呢?” |
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可以说,靠着嫣然的笑的美德,在我们萧条的人生上,这才也有一点温情流露出来。 |
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(一九二四年七月三日。) |
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将humor这字,音译为“幽默”,是语堂开首的。因为那两字似乎含有意义,容易被误解为“静默”、“幽静”等,所以我不大赞成,一向没有沿用。但想了几回,终于也想不出别的什么适当的字来,便还是用现成的完事。 |
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一九二六,一二,七。译者识于厦门。 |
だからユーモアは火のごとく水のごとく、適切に用いれば人生を豊饒にし世界を幸福にするが、度を過ぎれば家を焼き身を滅ぼし社会の前進を妨害する。 |
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【东西之自然诗观 厨川白村 】 |
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【一】 |
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揭了这个大大的问题,来仔细地讲说,是并非二十张或三十张的稿子纸所能完事的。便是自己,也还没有很立了头绪来研究过,所以单将平素的所感,不必一定顺着理路,想到什么便写出什么,用以塞责罢。 |
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宇宙人生的一切现象,若映在诗人眼里,那不消说,是一切都可以成为文艺的题材的。为考察的便宜起见,我姑且将这广泛的题材,分为(1)人事,(2)自然,(3)超自然的三种,再来想。第一的人事,用不着别的说明;第二的自然,就是通常所谓天地,山川,花鸟,风月的意思的自然;那第三的超自然,则宗教上的神佛不待言,也包含着见于俗说街谈中的一切妖怪灵异的现象。这三种题材,怎样地被诗人所运用呢,那相互的关系,又是怎样的?将这些一想,在研究诗文的人,是最重要,也是饶有兴味的问题。我现在取了第二种,来述说东西诗观的比较的时候,也就是将这便宜上的分类作为基础的。 |
【九】 |
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【二】 |
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先将那十八世纪以前的事想一想。 |
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为欧洲文化的源泉的希腊的思想,是人间本位。揭在亚波罗祠堂上面的“尔其知己”的话,从各种的解释看去,是这思潮的根柢。所以虽是对于自然,那态度也是人间本位,将自然和人间分离的倾向,很显著。或者可以姑且称为“主我底”罢。象那历来的东洋人这样,进了无我,忘我的心境,将自己没入自然中,融合于其怀抱之风,几乎看不见。东洋人的是全然离了自我感情,自然和人间合而为一,由此生成的文学。希腊的却从头到底是人间本位,将自然放在附属的地位上。虽然从荷马(Homeros)的大诗篇起,那里面就已经有了古今独绝的雄丽的自然描写,但上文所说这一端,我以为有着显明的差异。 |
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欧洲思想的别一个大源泉是希伯来思想,但这又是神明本位,将超自然看得最重,以为自然者,不过是神意的显现罢了。将人间的一切,奉献于神明,拒斥快乐美感的禁欲主义的修士,当旅行瑞士时,据说是不看自然的风景的。后来,进了文艺复兴期,象那通晓古文学,极有教养的蔼拉士谟斯(Erasmus)那样的人,要知道他登阿尔普斯山时,有什么看见,有什么惹心呢,却还说道那不过是悒郁的客店的恶臭,酸味的葡萄酒之类,写在书信里。从瑞士出意大利之际,负着万古的雪的山岳美,是毫没有打动了他的心的。这样的心情,几乎为我们东洋人所不能理解,较之特地到远离人烟的山上,结草庵,友风月的西行和芭蕉的心境,竟不妨说,是几乎在正反对的极端了。为近代思想的渊源的那文艺复兴期,从诗文的题材上说,也不过是“超自然”的兴味转移为对于“人间”的兴味而已。欧洲人真如东洋人一样,觉醒于自然美,那是自此一直后来的时代的事。 |
ユーモアを冷嘲に堕させない最大の要因は純真な同情であろう。同情は一切の事柄の礎石である。フランスは天才の礎石は同情だと言い、トルストイも同情を真の天才の要件とした。 |
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【三】 |
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西洋的诗人真如我们一样,看重了自然,那是新近十八世纪罗曼主义勃兴以后的事情。看作仅仅最近百五十年间的事,就是了。在这以前的文学里,也有着对于自然的兴味,那当然不消说;但大抵不过是目录式的叙述或说明。是observation和description,而还未入于reflection或interpretation之域的。或者以人事或超自然为主题,而单将这作为其背景或象征之用。便是描写田园的自然美的古来的牧歌体,或者沙士比亚的戏曲呀,但丁的《神曲》呀,弥耳敦的《失掉的乐园》似的大著作,和东洋的诗文来一比较,在运用自然的态度上,就很有疏远之处,深度是浅浅的。总使人、神、恶魔那些东西,和自然对立,或则使自然为那些的从属的倾向,较之和、汉的抒情诗人等,其趣致是根本底地不同。 |
ユーモアは多くても構わない。ただ同情が少ないことを恐れるのみ。人生を児戯として笑いながら日を過ごすのは冷嘲である。人生の尊さを深く味わい、深い人類愛の心情を失わずして笑うのがユーモアであろう。 |
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离了都会生活的人工美,而真是企慕田园的自然美的心情,有力地发生于西洋人的心中者,大概是很受卢梭的“归于自然”说的影响的罢;近世罗曼主义之对于这方面特有显著的贡献的,则是英国文学。英吉利人,尤其是苏格兰人,对于自然美,向来就比大陆的人们远有着锐敏的感觉;即以庭园而论,与那用几何学上的线所作成的法兰西式相对,称为英吉利式者,也就如支那、日本那样,近于摹写天然的山水照样之美的。在文学方面,则大抵以十八世纪时妥穆生(James Thomson)从古代牧歌体换骨脱胎,歌咏四时景色的《四季》(The Seasons)这一篇,为这思想倾向的渊源。不独英吉利,便在法国和德国的罗曼派,也受了这篇著作的影响和感化;至于近代的欧洲文学,则和东洋趣味相象的Love of nature for its own sake起得很盛大了。后来出了科尔律支(S. T. Coleridge)、渥特渥思(W.Wordsworth)以后的事,那已经无须在这里再来叙述了罢。 |
それならばユーモアとは、人類の発達の一つの助因として尊重すべき心の動きであると言わざるを得ない。 |
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有如勃兰兑斯(G. Brandes)《十九世纪文学的主潮》第四卷所说那样,赞美自然的文学渐渐地发达,而这遂产生了在今日二十世纪的法国,崇奉为欧洲最大的自然诗人如祥谟(Francis Jammes)那样的人物之间,我以为西洋人的自然诗观,是逐渐变迁,和我们东洋人的渐相接近起来了。 |
古代ローマの詩聖ホラティウスはかつてこう謳った—— |
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倘照西洋人所常说的那样,以文艺复兴期为发见了“人间”的时代,则十八世纪的罗曼主义的勃兴,在其一面,也可以说,确是发见了“自然”的罢。 |
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这在绘画上也一样。真的山水画,风景画之出于欧洲,也是这十八世纪以后的事。便是文艺复兴期的天才,最是透视了自然的莱阿那陀(Leonardo da Vinei),风景也不过是他的大作的背景。拉斐罗(Raphaelo)的许多圣母像上,山水也还是点缀。荷兰派的画家,也都这样。这到十八世纪,遂为英国的威勒生(Wilson),为侃士波罗(Gainsborough)。待到康士泰勃(J. Constable)和泰那(Turner)出,这才有和东洋的山水画一样意义的风景画。人物为宾,自然为主的许多作品,进了十九世纪,遂占了欧洲绘画的最重要的位置。于是生了法兰西的科罗(Corot),为芳丁勃罗派;从密莱(Millet)而入印象主义的外光派,攫捉纯然的自然美的艺术,遂至近代而大成。 |
「笑いながら真理を語ることに何のさしつかえがあろうか?」 |
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日本的文学中,并无使用“超自然”的宗教文学的大作,也没有描写“人间,”达了极致的沙士比亚剧似的大戏曲。这也就是日本文学之所以出了抓得“自然”的真髓,而深味其美的许多和歌俳句的抒情诗人的原因罢。 |
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【四】 |
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从外国输入儒佛思想以前的日本人,是也如希腊人一样,有着以人间味为中心的文学的。上古更不俟言,《万叶集》的诸诗人中,歌咏人事的人就不少。有如山上忆良一样,不以花鸟风月为诗材,而以可以说是现在之所谓社会问题似的《贫穷问答歌》那样,为得意之作的人就不少。但是,一到以后的《古今集》,则即使从歌的数量上看,也就是《四季》六卷,《恋》五卷,自然已经成了最重要的题材。其原因之一部分,也许是日本原也如希腊一般,气候好,是风光明媚之国,和自然美亲近惯了,所以也就不很动心了之故罢。有人说,但是自从受了常常赞美自然的支那文学的感化以后,对于在先是比较底冷淡的自然之美,这才真是觉醒了。我以为此说是也有一理的。 |
嫣然たる笑みの美徳によって、我々の蕭条たる人生にもいささかの温情が流露するものだと言えよう。 |
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自从“万叶”以后的日本诗人被支那文学所刺戟,所启发,而歌咏自然美以来,在文学上,即也如见于支那的文人画中那样。渔夫呀,仙人呀,总是用作山水的点缀一般,成了自然为主,人物为宾的样子了。然而日本的自然,并没有支那似的大陆底的雄大的瑰奇,倒是温雅而潇洒,明朗的可爱,可亲的。使人恐怖,使人阴郁的景色极其少。尤其是平安朝文学,因为是宫廷台阁的贵公子——所谓“戴着樱花,今天又过去了”的大官人的文学,所以很宽心,没有悲痛深刻之调,对于自然,惟神往于其美,而加以赞叹讴歌的倾向为独盛。此后,又成为支那传来的仙人趣味,入了仓时代,则加上宗教底的禅味的分子,于是将西洋人所几乎不能懂得的诗情,即所谓雅趣、俳味、风流之类,在山川、草木、花鸟、风月的世界里发见了。现代的杀风景,没趣味的日本人,至今日竟还能出人意外地懂得赏雪酒,苔封的庭石,月下的虫声之类,为西洋人的鉴赏之力所不及的exquisite的自然味者,我想,是只得以由于上文所说似的历史底关系来作解释的。 |
(一九二四年七月三日。) |
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【五】 |
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西洋人这一流人,是虽然对着自然,而行住坐卧,造次颠沛,总是忘不掉“人间”的人种。他们无论辟园,无论种树,倘不硬显人工,现出“人间”这东西来,是不肯干休的。倘不用几何上的线分划了道路、草地、花圃,理发匠剃孩子的头发一般在树木上加工,就以为是不行的。较之虽然矫枝刈叶,也特地隐藏了“人间”,忠实地学着自然的姿态的东洋风,是全然正反对的办法。将日本的插花和西洋的花束一比较,也有相同之感。 |
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东洋人和自然相对的时候,以太有人间味者为“俗”,而加以拒斥。从带着仙骨的支那诗人中,寻出白乐天来,评其诗为俗者,是东洋的批评家。往年身侍小泉八云(Lafcadio Hearn)先生的英文学讲筵时,先生曾引用了阿尔特律支(Thomas Bailey Aldrich)之作,题曰《红叶》的四行诗—— |
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October turned my maple’s leaves to gold. |
humorの字を音訳して「幽默」としたのは語堂が最初に始めたことである。あの二字はあたかも意味を含むかのように見え、「静默」「幽静」等と誤解されやすいため、私はあまり賛成せずこれまで踏襲しなかった。しかし何度か考えてみたが結局代わる適当な字も思いつかず、既成のものをそのまま用いて事を済ませることにした。 |
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The most are gone now, here and there one lingers: |
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Soon these will slip from out the twig’s weak hold, |
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Like coins between a dying mister’s fingers. |
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而激赏这技巧。然而无论如何,我总不佩服。将落剩在枝梢的一片叶,说是好象临死的老爷的指间捏着钱的这句,以表现法而论,诚然是巧妙的。但是,在我们东洋人眼中,却觉得这四行诗是不成其为诗的俗物。这就因为东洋人是觉得离人间愈远,入自然中愈深,却在那里觅得真的“诗”的缘故。 |
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东洋的厌生诗人虽弃人间,却不弃自然。即使进了宗教生活,和超自然相亲,也决不否定对于自然之爱。岂但不否定呢?那爱且更加深。西洋中世的修士特意不看瑞士的绝景而走过去的例,在东洋是绝没有的。这竟可以说,厌离“人间”,而抱于“自然”之怀中;于此再加上宗教味,而东洋的自然趣味乃成立。在西洋,则憎恶人间之极,遂怀自然的裴伦 |
一九二六年、一二、七。訳者、厦門にて識す。 |
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(G. Byron)那样厌生诗人之出世,不也是罗曼主义勃兴以后的事,不过最近约一百年的例子么?虽然厌世间,舍妻子,而西行法师却还是爱自然,与风月为友,歌道“在花下,洒家死去罢”的。 |
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(译自《走向十字街头》。) |
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【最近的戈理基 昇曙梦 】 |
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【一】 |
第4節
| 中文 | 日本語 |
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今年三月二十九日,正值革命文豪戈理基(Maxim Gorky)诞生六十岁和他的文坛生活三十五周年,所以在俄罗斯,从这一日起,亘一星期,全国举行热闹的祝贺会,呈了空前的盛况。这之先,是网罗了各方面的代表者,组织起祝贺委员会来,苏联人民委员会议长廖珂夫(Rykov)以人民委员会之名,特发训令,声明戈理基为劳动阶级,劳动阶级革命,以及苏维埃联邦尽力的大功,向全国民宣布了这祝贺会的意义。祝贺的那天,则联邦内所有一切新闻杂志,都将全纸奉献戈理基,或发刊特别纪念号,或满载着关于戈理基的记事。又从墨斯科起,凡全国的公会堂,劳动者俱乐部,图书馆等,俱有关于戈理基的名人们的演讲;夜里,是各剧场都开演戈理基的戏曲。文学者在他生前,从国家用那样盛典来祝贺的例,是未曾前有的。所惜者是祝贺会的主角戈理基本身,五年前以患病出国,即未尝归来,至今尚静养于意太利的梭连多,不能到会罢了。但从各人民委员长起,以至文坛及各团体的贺电,则带了在祖国的热诚洋溢的祝意,当这一日,山似的饰满了梭连多的书斋;一面又有欧洲文坛代表者们的竭诚的祝贺,也登在这一天的内外各日报上,使在意太利的新 Yasnaya Poliyana(译者按:L. Tolstoi隐居之地)的主人诧异了。那里面,看见罗曼罗兰(Romain Rolland),宰格(Stepfan Zweig),勖尼兹莱尔(Arthur Schnitzler),滑舍尔曼(Jacob Wassermann),巴开(Alphonse Paquet),纪特(AndréGide),弗兰克(Leonard Frank),显理克曼(Henrik Mann),荷力契尔(Arthur Holitscher),乌理支(Arnold Ulitz),吉锡(Erwin Kisch),这些人们的姓名。戈理基的名声是国际底,所以那祝贺会也是国际底的。然而最表现了热烈的祝意者,那自然是在这革命文豪将六十年的贵重的生涯和三十卷一万页以上的作品,奉献于自由解放了的劳农的俄国。 |
【最近のゴーリキー 昇曙夢】 【一】 |
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【二】 |
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俄国文学的一时代,确是和戈理基之名连系着,他的艺术,是反映着那时代的伟大的社会底意义的。当戈理基在文坛出现时,正值俄国的经济底转换的时代,资本主义底要素,战胜了封建地主底社会制度,新的阶级,劳动阶级初登那社会历史底舞台。从这时候起,戈理基的火一般的革命底呼号,便在暴风雨似的扩大的革命运动的时代中,朗然发响,虽在帝制临终的反动时代,也未尝无声。当帝国主义战争时,他也反对着爱国底热狂,没有忘却了非战论。此后,俄国的劳动阶级颠覆了资本家和地主的政权,开始建设起新生活来的时候,他虽然不免有些游移,但终于将进路和劳农民众结合了。现在虽然因为静养旧病,住在棒喝主义者的国度中,但他却毫无忌惮,公然向全世界鸣资产阶级的罪恶,并且表明以真心的满足和欢喜,对于劳动阶级的胜利和成功,一面又竭力主张着和劳动阶级独裁的革命底建设底事业相协同提携的必要。 |
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戈理基是在革命以前的俄国,作为革命作家而博得世界底名声的唯一的文豪,他一生中,是遍尝了劳动阶级革命的深刻的体验的。自然,和过去的革命运动有些关系的天才底艺术家,向来也不少。例如安特来夫,库普林,契理罗夫等,就都是的。然而他们现在在那里了?他们不是徒然住在外国(译者按:安特来夫是十月革命那年死的),一面诅咒着祖国的革命的成功,一面将在那暗中人似的亡命生活中,葬送掉自己的时代么?独有一个戈理基,在革命的火焰里面,禁得起试练罢了。 |
今年三月二十九日は革命文豪ゴーリキーの誕生六十年と文壇生活三十五周年に当たるため、ロシアではこの日から一週間にわたり全国で盛大な祝賀会が催された。これに先立ち各方面の代表者を網羅して祝賀委員会が組織され、ソ連人民委員会議長ルイコフは人民委員会の名において訓令を発し、ゴーリキーが労働階級とソヴィエト連邦のために尽力した大功を声明し、全国民にこの祝賀会の意義を宣布した。祝賀の当日には連邦内のあらゆる新聞雑誌がゴーリキーに紙面を捧げ、特別記念号を発刊し記事を満載した。モスクワを始め全国の公会堂やクラブ等で講演が行われ、夜には各劇場がゴーリキーの戯曲を上演した。文学者がその生前に国家からかくも盛大な典礼で祝賀された例はかつてない。惜しむべきはゴーリキー本人が五年前に病を患って出国し、今なおイタリアのソレントで静養中で出席できなかったことである。しかし各人民委員長を始め文壇および各団体の祝電は山のようにソレントの書斎を飾り、ヨーロッパ文壇の代表者たちの祝賀もこの日の内外の日報に掲載された。その中にはロマン・ロラン、ツヴァイク、シュニッツラー、ヴァッサーマン、パケ、ジッド、フランク、ハインリッヒ・マン、ホリチャー、ウーリッツ、キッシュらの名が見られた。ゴーリキーの名声は国際的であり、祝賀会もまた国際的であった。最も熱烈な祝意を表したのは、この革命文豪が六十年の生涯と三十巻一万ページ以上の作品を労農のロシアに捧げたその国においてであった。 |
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【三】 |
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戈理基的过去六十年的生涯中,三十五年是献给了文学底活动的。象戈理基的生涯那样,富于色彩和事件的,为许多文学家中所未有。他的许多作品,是自叙传底,他的作品中的许多页,很惹读者的心,都决非偶然的事。由戈理基的艺术而流走着的社会底现象的复杂和纷繁,大抵可以在他的作品和生涯中,发见那活的反响。戈理基的文学和传记,是将他的个性和创作力的不绝的成长,示给我们的。他将那文学底经历,从作为浮浪汉(Lumpen Proletariat)的作者,作为对于社会底罪恶和资本家的权力,粗暴地反抗着的强的个性的赞美者开端,在发达历程中,则一面和劳动运动相结合,一面又永是努力,要从个人主义转到劳动阶级集团主义去。他不但是文艺上的伟大的巨匠,还是劳动运动史上的伟大的战士。我们不必再来复述谁都知道的戈理基在本国和外国的革命底活动了,倒不如引用他的旧友,又将他估计极高的故人列宁的话在这里罢。一九○九年时,资产阶级的报纸造了一种谣言,说戈理基被社会民主党除名,和革命运动断绝关系了。那时列宁在《无产者》报上这样说:“资产阶级报纸虽然说着坏话,但同志戈理基却宛如侮蔑他们一般,由那伟大的艺术品,和俄罗斯以及全世界的劳动运动结合得太强固。”列宁是这样地,以用了艺术的武器,为革命底事业战斗着的强有力的同人,看待戈理基的。 |
【二】 |
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在长久时光的戈理基的生活历程中,自然也有过动摇和疑惑的时代;也曾有误入旁途的瞬间。但这是因为他并非革命的理论家,也非指导者,而是用感情来容受生活的最为敏感的艺术家的缘故。在这样的瞬间,戈理基便从党的根本运动离开,难于明了各种思想和事件了。但虽然有了这样的错误,列宁却毫不疑心他和革命劳动运动的有机底结合。苏联的劳动阶级,现在对于这伟大的文豪的过去的疑惑的瞬间,也绝不介意。岂但如此,在这回的记念会,倒是记忆着戈理基对于劳动阶级革命事业的伟大的援助,向他表示满心的感谢的。 |
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【四】 |
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这回的祝贺会,也不独记念戈理基的过去的功绩和胜利。因为在他那过去的辉煌的革命底事业之外,还约束着伟大的现在和未来。戈理基最近的作品,是显示着他新的创造底达成和那艺术底技巧的伟大的圆满的。他现在正埋头于晚年的大作,三部作《四十年》的成就,那第一部《克林撒谟庚的生活》,刚在异常的期待之下出版了。这作品涉及非常广泛的范围,描写着从革命以前起,到革命后列宁入俄为止的近代俄国的复杂的姿态。他不远还要开手做关于新俄罗斯的创作,正在准备了。在最近的书信之一里,他这样地写着—— |
ロシア文学の一時代はゴーリキーの名と結びついており、彼の芸術はその時代の偉大な社会的意義を反映している。ゴーリキーが文壇に出現した時はロシアの経済的転換の時代にあたり、資本主義的要素が封建地主的社会制度に勝利し、労働階級が初めて社会歴史的舞台に登場した。この時からゴーリキーの革命的呼号は暴風雨のごとく拡大する革命運動の時代にあって朗然と響き渡り、帝政末期の反動の時代にも声を絶やさなかった。帝国主義戦争の際にも愛国的熱狂に反対し非戦論を忘れなかった。ロシアの労働階級が資本家と地主の政権を顛覆し新生活の建設を開始した時、彼は多少の動揺があったが最終的には労農民衆と結合した。現在は旧病の静養のためイタリアに住んでいるが、毫も忌憚なく公然と全世界にブルジョアジーの罪悪を鳴らし、労働階級の勝利と成功に対する満足と歓喜を表明し、労働階級独裁の革命的建設的事業と協同提携する必要を力説している。 |
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“我想于五月初回俄罗斯,全夏天,到我曾经留过足迹的地方去看看。这已经是决定了的。旅行的目的,就在要看一看在我的生涯中的这五年之间,这些地方所做的一切事。我还想试做关于新俄罗斯的著述。为了这事,我早经搜集了许多很有兴味的材料了。但我还必须(微行着)去看看工厂,俱乐部,农村,酒场,建筑,青年共产党员,专门学校学生,小学校的授课,不良少年殖民地,劳动通信员,农村通信员,妇女代表委员,回教妇人,及别的各处。这是极重要的事务。每想到这,我的头发便为了动摇而发抖。况且又因为从全国的边鄙地方,参与着新生活的建设的样样的渺小的人们,也写给我许多极可感动的,有着可惊的兴味的信件。” |
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虽然寓居远方的意太利,戈理基是始终活在对于祖国的燃烧似的兴味里的。而于正在发达,复兴的苏俄,有什么发生这一事,也有非常的注意。 |
ゴーリキーは革命以前のロシアにおいて革命作家として世界的名声を博した唯一の文豪であり、労働階級革命の深刻な体験を遍く嘗めた。過去の革命運動と関係を持った天才的芸術家は少なくなかった。アンドレーエフ、クプリン、チリコフ等がそうである。しかし彼らは今どこにいるか?徒に外国に住み、祖国の革命の成功を呪い、亡命生活の中に自分の時代を葬り去っているではないか。ただゴーリキーのみが革命の炎の中で試練に耐え得たのである。 |
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【五】 |
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在十月革命的十周年纪念节,发表出来的《我的祝词》这一篇文章里,他这样地写着—— |
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“苏维埃政权确立了。在苏维埃联邦,建设新世界的基础,事实上也已经成就。所谓基础者,据我想,就是将受了奴隶化的意志,向实生活解放了的事。也就是对于行动的意志的解放。何以呢,因为生活是行动的缘故。至今为止,人类的自由的劳动,到处都被资本家的愚蠢而无意义的榨取所污秽,所暴压。而国家的资本主义底制度,则减少创造事物的快乐,将原是人类创造力的表现的那劳动,弄成可以咒诅的事了。这是谁都明白的。但在苏维埃联邦,却觉得人们都一面意识着劳动的国家底意义,又自觉着劳动是向自由和文化的直接的捷径,一面劳动着。这样子,俄国的劳动者,是已经不象先前那样,挣得一点可怜的仅少的粮,乃是为自己挣得国家了。”他又说:“俄国的劳动者,是记着指导者列宁的遗训,学习着统治自己的国家。这是无须夸张的分明的事实。” |
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戈理基又在别一篇论文《十年》里,以这样的话作结:“人们对我说,这是夸张的赞美。是的,这确是赞美。我一生中,是将能爱的人们,能工作的人们,以及他的目的,是在解放人类的所有力量,以图创造,图将地上美化,图在地上建设起不愧人类之名的生活形式来的人们,看作真的英雄的。然而波雪维克,却以一切正直的人所绝不置疑的成功和可惊的精力,向这目的迈进着。全世界的劳动阶级,已经懂得这事业的价值了。” |
【三】 |
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【六】 |
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对于现代苏维埃文学和年青的作者们,戈理基的同情和兴味,也很有炽烈之处的。我们在这里虽没有引用他寄给罗曼罗兰的信的全文的余裕,但其中有云,“现今在俄国,优美的文学是发达着,繁荣着的。”又,在最近的论文之一里,那结语是“所必需者,是对于青年文学者的大的注意和关于他们的深的用心。” |
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昨年之夏,苏维埃国立美术院院长珂干(P. Kogan)教授到意太利的梭连多,访问戈理基的时候,曾和教授谈了苏俄的事许多时。珂干教授在印象记《在梭连多作戈理基的宾客》中,传着当时的情况—— |
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“戈理基很注意的研究着俄国所行的一切事。他现正写着共有三部的庞大的小说(这就是上文说过的三部曲《四十年》),这至少是网罗着四十年间的俄国生活的雄篇。他决不如白党所言,是俄国之敌。关于苏俄,关于那达成,关于那科学,关于那文艺,他和我谈了许多事。谈得很长久,很高兴。他说,‘这里是无聊的,但俄国有生活和动弹。’他拿着铅笔,读着苏俄新出版的各种书。他从苏维埃文学,感到异常的喜欢,将这列在欧洲文学之上。第一流的作家不消说,便是第二流的作家,他没有涉猎其作品者,是一个也没有的……我因为要离开梭连多了,前去告别,到戈理基那里。他脸色苍白,似乎比平常冷淡。他说道,‘今天我不象往常,是气喘。因为这病并非心脏系统的病,不要紧的。就会好的罢。’他现在和儿子儿妇和两岁的孙女,就是仅仅这几个家族一同过活。他那对于可爱的孙女的婉婉的爱情,令人记起他说过的‘孩子是地上的花’这一句诗似的言语来。” |
ゴーリキーの過去六十年のうち三十五年は文学的活動に捧げられた。彼の生涯ほど色彩と事件に富んだものは多くの文学者の中に類を見ない。多くの作品は自伝的であり、その作品中の多くのページが読者の心を惹くのは偶然ではない。ゴーリキーの芸術を通じて流れる社会的現象の複雑さは、彼の作品と生涯の中にその活きた反響を見出すことができる。彼はその文学的経歴を浮浪者の作者として、社会的罪悪と資本家の権力に粗暴に反抗する強い個性の讃美者として開始し、発達の過程で労働運動と結合し、個人主義から労働階級の集団主義へと転じようとした。彼は文芸上の偉大な巨匠であるばかりでなく労働運動史上の偉大な戦士でもある。故人レーニンの言葉を引用しよう。一九〇九年、ブルジョア新聞がゴーリキーは社会民主党を除名されたと流言した時、レーニンは『プロレタリー』紙上で述べた。「ブルジョア新聞は悪口を言っているが、同志ゴーリキーは彼らを侮蔑するかのように、あの偉大な芸術作品によってロシアおよび全世界の労働運動と余りにも強固に結合している。」 |
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最近在墨斯科,文学者间,以“戈理基和我们在一起么”这一个论题之下,开了讨论会,但我不幸竟没有机会,得读当时反对戈理基的作家们的演说。我所见的仅有绥拉斐摩微支的话,他是这样说的—— |
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“在反动的黑暗时代,戈理基曾呼唤俄罗斯国民来战斗。在革命以先的时代,他于使我们的作家们从下层社会蹶起的事,也尽了伟大的职务。他现今虽在意太利,而常以贪婪一般的兴味,把握着苏俄所发生的一切的事情。他逐栏通读着苏维埃的报章;和年青的作家们通着很长的书信;并且收了他们的原稿,亲自指导其创作;对于苏维埃青年的生活,又有非常的兴味。不但这些,他还勇敢地呵斥着资产阶级报纸对于苏联的谗诬。这样,他是常和我们在一起的。” |
長い年月にわたるゴーリキーの生活歴程の中には動揺と疑惑の時代もあり、旁道に迷い入った瞬間もあった。しかしそれは彼が革命の理論家でも指導者でもなく、感情をもって生活を受容する最も敏感な芸術家であったからである。そうした瞬間には党の根本運動から離れ、各種の思想や事件を明了にし難くなった。しかしレーニンは彼と革命的労働運動との有機的結合を毫も疑わなかった。ソ連の労働階級はこの偉大な文豪の過去の疑惑の瞬間をまったく意に介していない。この度の記念会においてはゴーリキーの労働階級の革命的事業に対する偉大な援助を記憶し、満心の感謝を表しているのである。 |
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【七】 |
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在现代苏维埃文学上,要估计戈理基的伟大的价值,并不是容易事。第一,他先是劳动阶级艺术的开山祖师,最伟大的代表者。故人列宁曾为他确认了这光荣的称号,道,“戈理基绝对地是劳动阶级艺术的最伟大的代表者。他为这艺术,已经成就了许多事,但还能够成就更大的事的。”又,也如绥拉斐摩微支所说,戈理基是许多年间,和刚开手的作家以及大众出身的文学者等,通着很长的音信的,从未曾不给回信。酌量了他们的商榷,总给一个适当的助言。就从这样的广泛的观察和深厚的用心中,他产生了对于无产阶级艺术将来的胜利的确信。 |
第5節
| 中文 | 日本語 |
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据戈理基自己所证明,则从一九○六年到十年之间,由他看过的出于自修的作家之手的原稿,计有四百篇以上。“这些原稿的大多数——《契尔凯希》(Chelkash)的作者说——是才懂一点文学的人们所做的。这些原稿,大概是永久不会印行的罢,然而其中铭记着活的人们的灵魂,直接地响着大众的声音,可以知道害怕那长到半年的冬夜的俄罗斯人,在想着什么事。”对于“撒散在广大的土地的表面的各种人们,那思想往往暗合着”的事,戈理基是很感到兴味的。他所搜集的统计底材料,恐怕是为将来的文学史底研究指路的东西罢。传统底的科学,对于诗的真髓,一向只寻解说于天才的奇迹底出现中,或于不知所从来的前代天才的影响中,但这岂不是就由大众的思想的暗合,又几经试练而产生的么?戈理基的这统计,为理解诗的本质是大众底现象起见,是提出了贵重的材料,并且为在优秀的作品中,看见全阶级的集团底的创力的生产这一点,给与了可能性的。这些无学以至浅学的诗人们(其名曰Legion),是和现代苏维埃的杰出的劳动阶级作家们一同参加了自己们的诗和故事的创造了。劳动阶级诗,是对于艺术,指示着新的问题,同时在艺术批评之前也建立了新的目标,使研究家的注意,在不知不觉中,从文学底贵族主义,转向为一切艺术的唯一的源泉的那民众生活和社会底斗争的深处去了。 |
【四】 |
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“几乎回回如此——戈理基这样写着——每逢邮差送到那用了不惯拿笔的手,满写着字的两戈贝克纸的灰色本子来的时候,总附有一封信。那里面,是不大相识的人,相识的人,未曾见过面的人,接近的人,托我将作品‘给看一遍。’并且要我回答,‘我有才能没有,我有牵引人们的注意的权利没有?’——心为欣喜和悲哀所压榨,同时在他的内部,也炎上着大的希望;对于现今正在经验着非常辛苦的时代的祖国,怀着恐怖,因此心也很苦恼……。所谓为欣喜所压榨者,是因为不好的散文和拙稚的诗越发多起来,作者的声音越发勇敢地响起来。就是,在下层生活里,和世界连结了的人类的意识,是怎样地正在炎上着;在渺小的人物中,向着广大的生活的希求和对于自由的渴仰,是怎样地正在成长着;将自己的清新的思想发表出来,以鼓起疲乏了的亲近者的勇气,来爱抚悲凉的自己的大地的事,是怎样地正在热望着:凡这些,你是感到的罢。现在也这样,要站起来,使被压迫的民众挺直,勇敢,用了新鲜的力,开手来做创造新文化和新历史的全人类底事业这一个希望,是猛烈地得着势力的。” |
この度の祝賀会はゴーリキーの過去の功績と勝利を記念するだけではない。過去の輝かしい革命的事業の他に偉大な現在と未来が約束されているからである。ゴーリキーの最近の作品は新たな創造的達成と芸術的技巧の偉大な円熟を示している。彼は今、晩年の大作三部作『四十年』の成就に没頭しており、第一部『クリム・サムギンの生涯』が異常な期待のもとに出版されたばかりである。この作品は革命以前から革命後レーニンのロシア入国までの近代ロシアの複雑な姿態を描写している。彼はまもなく新ロシアに関する創作にも着手する予定で、最近の書簡でこう書いている——「五月初めにロシアに帰り、かつて足跡を残した場所を見て回るつもりだ。工場、クラブ、農村、酒場、建築、青年共産党員等を微行して見なければならない。きわめて重要な仕事だ。」遠くイタリアに寓居しながら、ゴーリキーは終始祖国に対する燃え上がるような興味の中に生きているのである。 |
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在别的处所,戈理基说,“我确信着,劳动阶级将能创造自己的艺术——费了伟大的苦心和很大的牺牲——正如曾经创刊了自己的日报一般。这我的信念,是从对于几百劳动者,职工,农民,要将自己的人生观,自己的观察和感情,试来硬写在纸上的努力,观察了多时之后,成长起来的。”……“倘历史向着全世界的劳动阶级——戈理基对《劳动阶级作家第一集》的作家们说——说出八年间的反动之间,你们经验了什么,做成了什么来,则劳动阶级将要惊异于你们的心眼的出色的工作和勇气,你们的英雄气概(Heroism)的罢。自己所做的事,你们大概是并未意识到,也并未想过的,然而俄罗斯劳动阶级和我们的地球的全劳动社会,为了建设新的世界底文化的战斗,却将毫无疑义,从你们的先例里,汲上伟大的力量来。” |
【五】 |
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【八】 |
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现代俄国许多知名的作家,那文坛底生活,很有靠着戈理基之处,是谁都公然证明的。又,于现代的读者,戈理基也有极大的感化力和意义。将这事实,比什么都说得更为雄辩的,是关于戈理基的作品的图书馆的阅览统计。据列宁格勒市立中央图书馆的统计,则所藏书籍的著者二千七百人中,多少总有一些读者的人,不过七百;其余的二千人,是全然在读者的注意的范围外的。而即此七百人之中,每日有人阅读的著者,又仅仅三十八人。这三十八人之中,见得有最大多数的需要者,是只有戈理基之作。在这图书馆里,昨年付与阅览人的书籍的统计,计戈理基的作品一千五百卷,托尔斯泰七百七十二卷,陀思妥夫斯基五百五十六卷。这数目字,即在说明他的作品,在一切读书阶级中,被爱读得最多。再将这戈理基的千五百卷的阅览人,加以种别,则学生九百九十六人,从业员二百三十二人,劳动者四百人。然而这是中央图书馆的统计,一到市外或街尾的劳动区域里,劳动者的数目就增加得很多了。再据列宁格勒的金属工人组合的文化部,特就六个文豪的调查的结果,则在金属工人之间,最被爱读的,也还是戈理基居第一位,其次是托尔斯泰。又从一千九十四个金属工人中,来征集戈理基作品中所最爱读的书名的回答,那结果,是《母亲》的爱读者五百三十四人,《幼年时代》四百三十七人,短篇集三百八十七人,《Artamonov家的事件》三百四十三人,《人间》三百十一人。“Foma Gordeev”三百一人,《Okurov街》二百二十二人。推想起来,对于英雄底的劳动诗的戈理基的伟大的热情,以及对于作为征服自然,改造世界的根原的那劳动的戈理基的信念,是使他的作品和读者大众密接地连系着的。对于人类的爱情,对于劳动和劳动的胜利的确信,将戈理基的艺术,充满了伟大的勇气和生活的欢欣。虽在阴暗沉闷的场面的描写,毫不宽假的批评的处所,关于人类的弱点的悲哀的时候,从戈理基的作品的每页里,是也常常勇敢地响着对于生活,对于战斗的呼声的。 |
十月革命十周年記念節に発表された『私の祝辞』の中で彼はこう書いている——「ソヴィエト政権は確立した。新世界の基礎を建設する事業は事実上すでに成就している。いわゆる基礎とは奴隷化された意志を実生活に向けて解放したことである。生活とは行動だからである。これまで人類の自由な労働は至る所で資本家の搾取によって汚され圧迫されてきた。しかしソヴィエト連邦では人々は労働の国家的意義を意識し、労働が自由と文化への直接の捷径であることを自覚しながら労働している。ロシアの労働者はもはやわずかな糧を稼ぐのではなく、自分のために国家を稼ぎ取っているのだ。」彼はまた言う、「ロシアの労働者はレーニンの遺訓を記し、自らの国家を統治することを学んでいる。」 ゴーリキーはまた別の論文『十年』でこう結んでいる。「人々は私にこれは誇張した賛美だと言う。そうだ確かに賛美だ。私は一生涯、愛し得る人々、働き得る人々、その目的が人類の一切の力を解放し地上を美化することにある人々を真の英雄と見てきた。しかるにボリシェヴィキはすべての正直な人々が疑わない成功と精力をもってこの目的に邁進している。全世界の労働階級はすでにこの事業の価値を理解している。」 |
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【九】 |
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关于作为艺术家的戈理基,似乎近来人们不大论及。但是,他的艺术底进化,决不是已经达了完成。较之十年乃至十五年前,还更强有力地施行着。作为艺术家的戈理基,是决未曾说完了最后的话,也没有将自己的创造之才,一直汲完到底的。 |
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戈理基的最近的作品,几乎全部是属于回忆录这一类。连登在杂志《赤色新地》的自叙传底作品的一部,此后在《我的大学》的标题之下,集成一卷,从柏林的俄国书肆克尼喀社出版。一看这样地汇成一本的短篇,我们便可以明白这是怎地伟大的文学底事件,也可以明白这在戈理基的创作底历程上,是怎地重大的阶级。在属于同类的此后的作品中,有《巫女》,《火灾》,“N. A. Bugrov”,《牧人》,《看守》,《法律通人》等,那大部分,是和《我的大学》一样,可以站在高的水平线上的。 |
【六】 |
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戈理基的回忆,和卢梭的《自白》,瞿提的《空想和事实》那样的古典式的回忆,这两样的,是两人的古典底的作品,虽各不同,但有一个共通之点。这便是想将作者本身的内面底发达的全径路,汲取净尽的欲求。无论是卢梭,是瞿提,态度是不同的,然而作为著作的中心者,是作者本身,是作者的个性,作者的生涯。但是,戈理基的作品,却并不如此。在那里面,作者的个性,降居第二位,占着主要地位的,是作者所曾经遇见的各种许多独特的人们的特色底相貌。有人说过,瞿提的自叙传,可以将书名改题为《天才在适当的事情之下,怎样地发达》。戈理基也一样,将内面底,精神底发达的历程,固然也描写了不少,但倘说那么,对于他的回忆录,可用《天才底作者在不利的情况中,怎样地发达》的书名,却是不能够的。戈理基的回忆录,是关于人们的书籍。“看哪,周围有着多么有味的人们呵!”仿佛作者象要说。“我切近地接触了几十,几百的人们了。他们是多么有色彩,独特,而且各不相似的人们呵。他们也烂醉,也放荡,也偷东西。并且也收贿赂,也凌虐女人和孩子,因为争夺住处而杀人,在暗中放火。然而他们是多么天才底的,充满着力和未曾汲完的潜力的人们呵!” |
現代のソヴィエト文学と若い作家たちに対するゴーリキーの同情と興味もきわめて熾烈である。「現今ロシアでは優れた文学が発達し繁栄している。」「必要なのは若い文学者に対する大いなる注意と深い用心である。」 |
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【十】 |
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在契呵夫的作品上,俄罗斯全部,是由“忧郁的人们”所构成的,在戈理基的作品上,则由独创底的人们所构成。契呵夫是不对的;或者戈理基也不对,但总之他近于真实。戈理基当作一种独特的现象,和各个人相接触,一面深邃地窥那内面底本质,竟能够将在那里的独特的东西发见了。契呵夫的世界,大抵是千八百八十年代至九十年代的有些混沌而无色采的智识阶级的世界,但戈理基的世界,则是那时的昏暗的,不为文化之光所照的世界,然而是平民的世界,富有色采,更多血气的。戈理基对于乐天主义的强烈的倾向,即出于此。契呵夫是平板单调的,戈理基却从极端跳到极端去。从对于音乐、歌、力、高扬的欢喜,急转而为对于无意义的人生的绝望的发作。有时也从对于劳动的紧张和欢喜的肉体底陶醉,一转而忽然沉在自杀的冲动中了。但虽然如此,要之,契呵夫之作是笼罩着忧愁,戈理基之作是弥漫着乐天主义的。 |
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读契呵夫时,我们便为一种疑惑所拘絷。在出了他的忧郁的人们,凡涅小爹,箱子里的男人之后,怎么会发生革命呢?从契呵夫的俄国,到一九○五年(第一次革命)的俄国的推移,是不可解的,不可能的。关于这一端,戈理基却比契呵夫答得好得远。我们在他的回忆底作品里,能够看见劳动者和农民之间的各样思想的底流,也可以看见革命前期的特色底的情绪,(老织匠普不佐夫对于资本家的憎恶,铁匠沙蒲希涅珂夫和神的否定,以民情派社会主义者罗玛希为中心的农民会,大学生的革命底团体等。)戈理基的回忆录,即使那艺术底价值,又作别论,而作为近代俄国的文化史料,尤其是作为加特色于一八九○年代的记录,是有很大的意义的。 |
昨年の夏ソヴィエト国立美術院院長コーガン教授がソレントにゴーリキーを訪問した際の印象記——「ゴーリキーはロシアで行われている一切の事をきわめて注意深く研究している。三部から成る厖大な小説を書いている。彼は決してロシアの敵ではない。ソ連について多くの事を長く楽しく語った。彼は言った、『ここは退屈だがロシアには生活と動きがある。』彼はソヴィエト文学に異常な喜びを感じこれをヨーロッパ文学の上位に置いている。第一流のみならず第二流の作家の作品も渉猟していない者は一人もない……彼は今息子と嫁と二歳の孫娘だけで暮らしている。可愛い孫娘に対する彼の婉々たる愛情はかつて彼が言った『子供は地上の花である』という言葉を思い起こさせた。」 |
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戈理基最近的作品,在作风上,令人记起他的《幼年时代》来。有些短篇,则几乎站在《幼年时代》的同列上。例如《看守》、《初恋》、《巫女》、《我的大学》等是。《看守》是有特殊之力的作品,在这里面,他将先前为他的根本底缺点之一的推理癖,完全脱去了。而且使作品中的人物,自己来说话。其结果,是能够创造了非常鲜明的Type和场面。《初恋》也是优秀的作品,写得极率直,极真实,而且鲜浓。《火灾》也是明朗的诗。《我的大学》和“N. A. Bugrov”是社会底的大画卷,在我们的眼前,从中展开一八九○年代的俄国乡间的情状来。 |
最近モスクワで「ゴーリキーは我々と共にあるか」という討論会が開かれた。セラフィモーヴィチはこう述べた——「反動の暗黒時代にゴーリキーはロシア国民を戦いに呼びかけた。革命に先立つ時代に作家たちを下層社会から蹶起させることに偉大な職務を果たした。今イタリアにいるが常に貪欲なまでの興味をもってソ連で起こる一切の事を把握している。ソヴィエトの報章をくまなく読み通し、若い作家たちと長い書簡を交わし、原稿を受け取って創作を指導し、ソヴィエト青年の生活に非常な興味を持っている。勇敢にブルジョア新聞のソ連に対する讒誣を叱責している。こうして彼は常に我々と共にあるのだ。」 |
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如上所述,戈理基是准备于近日回俄国去的,当苏俄将那力量和注意,都集中于解决社会文化底建设的伟大的问题的今日,则戈理基和敬慕他的劳农大众的邂逅,将成为有着伟大的文化史底意义的事件,是毫无疑义的罢。 |
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(一九二八年作。译自《改造》第十卷第六号。) |
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【人性的天才——迦尔洵 俄国Lvov–Rogachevski作 】 |
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—“近代俄国文学史梗概”之一篇 |
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我们里面,虽然未必有不看那在铁捷克画廊里的莱宾的有名的历史画《伊凡四世杀皇太子》的,然而将由父皇的铁棍,受了致命伤的皇太子的那惨伤的容颜,加以审视者却很少。这是画伯莱宾,临摹了迦尔洵 |
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(V. M. Garshin)的相貌的。 |
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遭了致命底伤害的驯鹿的柔顺的眼睛,是迦尔洵的眼睛。 |
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迦尔洵的心,就是温柔,但在这富于优婉的同情的心中,却跃动着对于人类的同情,愿意来分担人间苦的希望,为同胞牺牲自己的精神,而和这一同,无力和进退维谷的苦恼的观念,又压着他的胸口。 |
【七】 |
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他一生中,常常感到别人的苦痛,渴望将社会一切的恶德,即行扑灭,但竟寻不到解决之道而烦闷了。而沉郁的八十年代的氛围气,则惟徒然加深了他的烦闷。 |
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迦尔洵的柔顺的眼里,常是闪着同情,浮着对于人类的残酷性的羞耻之念。 |
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有着这样眼睛的人,是生活在我们俄国那样的残酷的风习的国度里了的。所以他就如温和的天使,从天界降到烈焰打着旋子的俄罗斯的社会里一样。而这残酷的乡土,则恰如伊凡四世,挥了铁棍,来打可怜的文人的露出的神经,又用沉重的铁锤,打他的胸口,毫不宽容地打而又打,终于使他昏厥了。 |
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迦尔洵在这沉重的铁锤之下,狂乱和失常了好几回。一八七二年,他进医院,一八八○年再进精神病疗养院,一八八八年三月十九日又觉着发狂的征候,走出楼上的寓居,正下楼梯之际,便投身于楼下了。对于“不痛么”之问,气息奄奄的他说,“比起这里的痛楚来,就毫不算什么”而指着自己的心脏。 |
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说迦尔洵的发狂,是遗传性,那是太简单而且不对的。死在精神病院里的格莱普·乌司班斯基在《迦尔洵之死》这篇文章中,曾经特地叙述,说文人迦尔洵的遗传底病患,是因了由实生活所受的感印,更加厉害起来。 |
現代ソヴィエト文学におけるゴーリキーの偉大な価値を見積もることは容易ではない。第一に彼は労働階級芸術の開山の祖師であり最も偉大な代表者である。レーニンは言った、「ゴーリキーは絶対に労働階級芸術の最も偉大な代表者である。すでに多くの事を成し遂げたがさらに大きな事を成し遂げ得る。」セラフィモーヴィチが述べたように、ゴーリキーは長年にわたり新進の作家や大衆出身の文学者たちと長い書簡を交わし返信を書かなかったことは一度もない。彼らの相談を酌量し常に適切な助言を与えた。この広範な観察と深厚な用心の中から無産階級芸術の将来の勝利への確信を生み出したのである。 |
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而这感印,是痛苦的。青年时代的迦尔洵,或则读俄土战争的新闻记事,知道了每日死伤者数目之多,慨然决计和民众同死而赴战场;或则在路上看见对于不幸的妓女的凌辱,愤然即往警署,为被虐者辩护;或则听到了一八八○年二月二十二日图谋暗杀罗里斯·美利珂夫的谟罗兑兹基已判死刑,要为他乞赦,待到知道不可能,情不能堪,竟发了狂病了。 |
第6節
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就如此,迦尔洵是对于别人的烦闷苦痛,寄以同情,而将因此而生的自己的苦恼,描写在短篇小说里的。所以在他的单纯而节省的小说中,会听到激动人心的热情人的号泣。 |
かくのごとくガルシンは他人の煩悶苦痛に同情を寄せ、それゆえに生じた自己の苦悩を短篇小説の中に描写した。だから彼の単純で節約された小説の中には人の心を激動させる情熱的な号泣が聞こえてくる。 |
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他的创作《红花》的主角,便是他自己。他发着狂,在病院的院子里,摘了聚集着世界一切罪恶的红花。 |
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将《四日》[12]之间,躺在战场上的兵丁的苦痛,作为苦痛而体验了的,也是他。 |
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在寄给亚芬那绥夫的信里,他说,是一字用一滴血来创作的。 |
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有一个有识的女子,曾将迦尔洵描写妓女生活的一节的时候的情形,讲给保罗夫斯基听,那是这样的。 |
彼の創作『赤い花』の主人公は彼自身である。彼は狂気を発しながら病院の庭で世界のあらゆる罪悪を集めた赤い花を摘んだ。 |
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有一天,迦尔洵去访一个相识的女学生,那女学生正在豫备着试验,迦尔洵便说:—— |
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“你请用功,我来写东西罢。” |
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女学生到邻室去了,迦尔洵就取出杂记簿,开手写起什么来。过了些时,正在专心于准备试验的女学生,忽然被啜泣的声音大吃一吓,那是迦尔洵一面在写小说的主人公的烦闷,一面哭起来了。 |
『四日間』の戦場に横たわる兵士の苦痛を苦痛として体験したのもまた彼であった。 |
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凡读迦尔洵的作品的人,即感于这泪,这血,这苦恼的号泣,和他一同伤心,和他一同憎恶罪恶,和他一同烧起愿意扶助别人的希望来,和他一同苦于无法可想。 |
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迦尔洵的才能,是在将非常的感动,给与读者的心;使无关心者,燃起了情热。 |
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契呵夫深爱迦尔洵的作品,迦尔洵也爱读契呵夫的《草原》。 |
アファナーシエフに宛てた手紙の中で彼は一字ごとに一滴の血をもって創作していると語った。 |
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契呵夫的描写短篇《普力派铎克》中的学生华西理耶夫,是作为迦尔洵的样子的,所以叙述华西理耶夫的下文那些话,毕竟便是叙述迦尔洵—— |
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“有文笔的天才,舞台上的天才,艺术上的天才等各色各样,但华西理耶夫所具的特别的才能,却是人性的天才。这人,有着直觉别人的苦痛的非常的敏感性,恰如巧妙的演员,照样演出别人的动作和声音一般,华西理耶夫将别人的苦痛,照样反映在自己的心里。” |
ある教養ある婦人がガルシンが娼婦の生活を描写した時の情景をパヴロフスキーに話した。ある日ガルシンが知人の女子学生を訪ね、彼女が試験準備をしていると「どうぞ勉強を。私はものを書きましょう」と言った。しばらくして女学生が突然すすり泣きの声に驚いた。ガルシンが小説の主人公の煩悶を書きながら泣き出したのであった。 |
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然而迦尔洵是兼备着艺术上的天才和人性的天才的,而他却将这稀有的天才,委弃在粗野的残酷的国土里了。 |
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敏感的迦尔洵描写出技师克陀略孚哲夫,艺术家台陀威和别的来,以显示市人气质,叙他们的物欲之旺盛。就是,使克陀略孚哲夫向着旧友华西理·彼得罗微支这样说—— |
凡そガルシンの作品を読む者はこの涙、この血、この苦悩の号泣に心打たれ、彼とともに悲しみ、彼とともに罪悪を憎み、彼とともに他人を助けたいという希望に燃え上がり、彼とともにどうしようもないことに苦しむ。 |
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“只有我,竭力圆滑地说起来,并不是所谓获得呵。四面的人们,连空气也大家都在想往自己那面拉过去……”“感伤底的思想,是停止的时候了。”“钱是一切的力。因为我有钱,想做,便什么都可以。倘要买你,就买过来给你看。” |
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以上,是在自己所有的村中,建筑了大的水族馆的技师的论法。 |
ガルシンの才能は読者の心に非常な感動を与え、無関心な者にも情熱を燃え上がらせる所にある。 |
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在那水族馆里,大的鱼吞食着小的,技师便说,“我就喜欢这样的东西。和人类不同,它们很坦白,所以好。大家互相吞噬,并不怕羞。”“吃了之后,毫不觉得不道德。我是好容易,现在总算和什么道德这无聊东西断绝关系了。” |
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这水族馆,恰如表示着新社会,在这社会里,贪婪者并不受良心的苛责,而在使清节之士和出色的人们吃苦,做牺牲。 |
チェーホフはガルシンの作品を深く愛し、ガルシンもまたチェーホフの『草原』を愛読した。チェーホフの描写短篇『プリパトク』中の学生ヴァシリエフはガルシンをモデルにしたものである—— |
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迦尔洵觉到了在这水族馆似的社会里得意的市人的欲望,为牺牲者的运命哀伤。他又憎恶那些在惠列希却庚(Veresichagin)的绘画展览会里,议论着伤兵所穿的便衣可曾画出,研究着海岸的白沙,云的延伫之类逼真的风景,而闲却了描在画上的悲哀的精神的,庸俗的利己底的自满自足的市人们。 |
「文筆の天才、舞台の天才、芸術の天才など各種あるが、ヴァシリエフが具えている特別の才能は人性の天才であった。他人の苦痛を直覚する非常な敏感性があり、巧みな俳優がそのまま他人の動作と声を演じるように、ヴァシリエフは他人の苦痛をそのまま自分の心の中に反映させるのであった。」 |
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他在青年时代,就已经在惠列希却庚的画上,发见死亡,听到被虐杀的人们的号泣,于一八七四年写了关于这的自己的感想了。 |
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后来,在一八七七年负伤了的他,在野战病院中,这才做好那拟在杂志上发表的《四日》,接着又想定了许多的短篇。而由他一切的创作,表现得特为显著者,是主张和集团、民众、劳动者们作共同生活之必要的精神。 |
しかしガルシンは芸術上の天才と人性の天才を兼ね備えていたが、この稀有な天才を粗野で残酷な国土に委ねてしまった。 |
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在做采矿冶金学校的学生的迦尔洵,因为憎恶人类的相杀,竭力反抗了战争的结果,竟不受试验,上战场去了。然而这并非为了杀敌,乃是代同胞而牺牲自己,和民众共尝惨苦,当必要之际,则干净地死亡。 |
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如据他的书信就明白,他的精神之成为安静状态,是以公众的悲哀为悲哀,自己也得体验了公众的窘乏艰难的时候。 |
敏感なガルシンは技師クトリャフツェフや芸術家デドフらを描き出し市民気質を示した。クトリャフツェフは旧友に向かって言った——「私だけが、円滑に言えばいわゆる獲得するのではない。四方の人々は空気さえも皆自分の方に引き寄せようとしている……」「感傷的な思想はもう止める時だ。」「金は一切の力だ。やろうと思えば何でもできる。」 |
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短篇小说《红花》,是进哈里珂夫的精神病院时候所写的,但他所描写出来的主人公,是将作为人类的斗士当然负担着的义务,给以完成,为了别人,而将自己来做牺牲的人物。 |
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短篇《夜》里的主角亚历舍·彼得罗微支,是厌弃了生活和人间,想自杀以脱掉自己的烦闷的,然而为冲破深夜的寂寞的钟声所警悟,记得人类世界了。就是,他想到了群集,记起了大集团和现实的生活,发见了自己应走的路和死而后已的处所,了解了非为“自我”,却应该为共通的真理而爱了。他又记得了后来所目睹的人类的悲哀和懊恼,但相信独自抱膝含愁,是无益的,应该进而将那悲哀的一头,分担在自己的肩上,当此之际,这才能将慰安送给自己的精神。这是迦尔洵的自己的省悟。 |
自分の村に建てた水族館では大きな魚が小さな魚を呑み込んでいた。技師は言った、「人間と違って彼らは率直だから良い。皆互いに呑み合い恥ずかしがらない。食べた後少しも不道徳だとは感じない。」 この水族館はまるで新社会を表しているかのようだ。貪欲な者は良心の苛責を受けず、清廉潔白な者を苦しめ犠牲にしている。 |
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迦尔洵于十二岁时候,从人烟稀少的南部草原,到了往来如织的繁华的彼得堡。在草原时,他已读雩俄的《不幸的人们》和斯土活的《黑奴吁天录》等,并且借杂志《现代》养成读书之力,学习了应该爱人。在彼得堡,他又知道人世的哀乐和俗事的纷繁,使心底经验愈加丰富,常嫌孤独生活,和群集相融合,自称群集之一人,在军事小说上,绘画论(关于苏里珂夫和波莱夫的作品)上,他都喜欢描出群集。 |
ガルシンはこの社会で得意になっている市民の欲望を感じ取り犠牲者の運命を哀しんだ。ヴェレシチャーギンの展覧会で傷兵の便衣や海岸の白砂を議論しながら絵に描かれた悲哀の精神をなおざりにする俗悪な市民たちを憎んだ。 |
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烦闷着的集团和自己,在密切的关系上这一种观念,是迦尔洵的最大特色。 |
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他于一八七九年作短篇小说《艺术家》,将无关心的读者,领进工厂中,示以机器,锅炉,被束缚着的劳动者的悲惨的境遇。 |
彼は青年時代にすでにヴェレシチャーギンの絵の上に死を発見し虐殺された人々の号泣を聞いた。後に一八七七年に負傷し、野戦病院で『四日間』を完成した。彼のすべての創作を通じて顕著に表現されているのは集団・民衆・労働者たちとの共同生活の必要を主張する精神である。 |
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他本身的不幸,是目睹了元气沮丧,既不能抗议,也不能斗争,只在烦闷懊恼的八十年代的民众。他又在工厂里,看见了囚徒底劳动,看见了扩大的恶弊,但不能认知发达的创造力。 |
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迦尔洵不能属于或一党或一派,并非所谓纯然的斗士,然而同情于一切人类的痛苦,有着能为减轻别人的烦恼,除去一切的恶弊,则死而无憾的觉悟。他即以这样的心绪和感情,从事创作,观察文学,而且解释了艺术家的任务。 |
採鉱冶金学校の学生であったガルシンは人類の相殺を憎悪した結果、試験も受けず戦場に赴いた。しかしそれは敵を殺すためではなく同胞に代わって自己を犠牲にし民衆と共に惨苦を嘗めるためであった。 |
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从这样的见地来判断,他也是在最上的意义上的民主主义者的文人。 |
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有人向着迦尔洵的短篇《艺术家》的主角略比宁,讲了工厂里修缮锅炉的情形,第二天,略比宁便到工厂的锅炉房去,走进锅炉里,约半点钟,看着一个工人用钳子挟住铰钉,当着打下来的铁锤的力。他于是显着苍白脸色,以激昂的状态,爬出锅炉,默默地走向家里去,一进画室,便画起锅炉房的工人来,写出可怕的光景,将自己的神经自行搅乱了。略比宁所愿意的,是用自己的绘画,来打动人们的心。就是,他要观者同情于被虐的工人,工人则以自己的可怕的模样,来使身穿华服的公众吃惊,将仿佛喊道“我是疮痍的团块呀”一般之感,给与观者。 |
彼の精神が安静になるのは公衆の悲哀を悲哀とし自らも公衆の窮乏を体験できた時であった。短篇『赤い花』の主人公は人類の闘士として負うべき義務を完成し他人のために自己を犠牲にする人物である。短篇『夜』の主人公は生活と人間を厭い自殺しようとしたが鐘の音に警められ、「自我」のためではなく共通の真理のために愛すべきであることを理解した。 ガルシンは十二歳の時南部の草原からペテルブルクに来た。草原でユゴーやストウを読み人を愛すべきことを学んだ。ペテルブルクで人世の哀楽を知り常に群集と融合し自ら群集の一人と称した。煩悶する集団と自己との密接な関係という観念がガルシンの最大の特色である。 |
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略比宁在画布上的工人的苦恼的眼里,藏了“号泣”之影,而这号泣之声,却撕掉他自己的心了。 |
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略比宁于是不能堪,生了热病……。这不是绘画,是烂熟了的时代病的表现。略比宁自己化为工人,战缩于铁锤的每一击,病中至于说昏话道:“住手呀,为什么那样地?” |
一八七九年の短篇『芸術家』で無関心な読者を工場に導き入れ機械やボイラーや束縛された労働者の悲惨な境遇を示した。彼本身の不幸は元気が沮喪し抗議も戦いもできず煩悶するのみの八〇年代の民衆を目のあたりにしたことである。 |
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略比宁就是苻舍服罗特·密哈罗微支·迦尔洵。他是为生活的沉重的铁锤所击的人们的拥护者。他是在自己爱写的人物的眼中,描出略比宁式号泣的影,使各个人物向残酷的人们叫喊道,“住手呀,为什么那样地?”的。这叫喊,是将“人”和“艺术家”萃于一身的迦尔洵,一直叫到进了坟墓的言语。 |
ガルシンは特定の党派に属さず純然たる闘士ではなかったが、一切の人類の痛苦に同情し他人の煩悩を軽減し悪弊を除去するためなら死んでも悔いないという覚悟を持っていた。最上の意味における民主主義者の文人であった。 |
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十二岁的少年之际,看见叔父批了一个农夫的嘴巴,便哭起来的他,就使一短篇中的主角伊凡诺夫,按住了要打兵丁的温采理的手。于一八七五年抛弃一切,将代同胞而死于战场的他所描写的《四日》和《孱头》的主角们,就都是愿意代别人而将自己来做牺牲者。又在一八八○年,他面会了墨斯科警察总监凯司罗夫,诉说妓院的可怕的内情,且为被虐待被凌辱的不幸的妇女们辩护,而他的小说《邂逅》的主角伊凡·伊凡诺微支以及短篇《那及什陀·尼古拉夫那》中的人物罗派丁,也一样地成着不幸的妇女的拥护者。到最后,迦尔洵曾于暮夜潜入罗里斯·美利珂夫的邸宅,想为革命家谟罗兑兹基的死刑求免,而事不成,执行死刑了,于是他虽在病中,却巡行于土拉县者七星期,宣传共同底幸福之必要,怂恿和社会的恶弊相抗争,而《红花》的主角,也抱着相同的感慨,在关于被砍倒的棕榈的童话里,迦尔洵也写着这感情的。 |
短篇『芸術家』の主角リャビーニンはボイラー室の工人を描き出し、画布の上の工人の苦悩の目に「号泣」の影を隠したが、この号泣の声は彼自身の心を引き裂いた。リャビーニンこそガルシンである。生活の重い鉄槌に打たれる人々の擁護者であった。「やめてくれ、なぜそんなことを?」——これは「人」と「芸術家」を一身に萃めたガルシンが墓に入るまで叫び続けた言葉である。 チェーホフに先んじてガルシンはいわゆる「雀の鼻よりも短い」短篇小説を創作した。しかしこの文体は予め計画して創造されたものではなく、都市の中で時に聞こえる心を揺さぶる短い号泣のように、ガルシンの心から自ずと生まれた文体であった。 |
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先于契呵夫,迦尔洵创作了所谓“比麻雀鼻子还短的”短篇小说。然而这文体并非豫有计画,因而创造了的,乃是恰如在现代的喧嚣的都市中,有时听到惊心动魄的短短的号泣之声一般,从迦尔洵的心,无意中发生了的文体。 |
ガルシンは屍山血河から題材を取ることなく簡素に傷兵イワーノフが四日間横たわった一小地点を描写したが、この一小地点は全部の戦争と全部の生活組織とに連結し、一人の苦悶がこの上ない感動を全体の読者に与えるのである。 |
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迦尔洵有时也想做长篇,但终无成就,于是常竭力压榨内容,使色彩浓厚,载在来阿尼特·安特来夫(Leonid Andreev)的《红笑》上那样的许多人物出现的长篇,是决不做的,他不取材于尸山血河,极简素地描写了伤兵伊凡诺夫躺了四天的一小地点的光景,但这一小地点,则和全部战争和全部生活组织相连结,伊凡诺夫一人的苦闷,是将至大的感动,给与全体的读者的。 |
ガルシンが人にさらに深い感動を与え戦争の惨苦を感じさせるのは戦場ではなく、脱疽で死にゆく大学生クシマの部屋の情景である。「しかしこれは多くの人々が経験する悲哀と苦痛の海の一滴にすぎない」とは死の床の友人の言葉である。 |
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迦尔洵给人更深的感动,使觉得战争的惨苦的,不是战场,而是将因脱疽而死的大学生库什玛的房里的情形。“然而这不过是许多人们所经验的悲哀和苦痛之海的一滴”者,是躺在死床上的库什玛的好友所说的话。 |
ガルシンの小説は人々に互助の観念を起こさせ虐げられた者を擁護する心を生じさせるものである。 |
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迦尔洵就在满以号泣的凄惨的短篇里,显示出这一滴来。而他之表现号泣,则不用叫声,愈在想要呕血似的心中叫喊,他的钢笔便动得愈是踌躇不决。然而这踌躇不决的写法,却愈是深深地打动了读者的心。 |
真の人ガルシンは他の多くの芸術家よりも貴い人物である。大天才ではないがその姿は殉教者的情熱の不滅の火に照らされたかのように美しい。 |
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迦尔洵的小说,是使人们起互助的观念,发生拥护被虐者之心的。 |
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真的人迦尔洵,对于我们,是比别的许多艺术家更贵的人物。他并非大天才,但那丰姿,却美如为燃于殉教者底情热的不灭之火所照耀。他是可以自唱“十字架下我的坟,十字架上我的爱”的热情者的文人。 |
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迦尔洵的作品的文学底评论,由凯罗连珂(V. G. Korolenko)详述在《十九世纪的文学》这书本里。 |
ガルシンの作品の文学的評論はコロレンコによって『十九世紀の文学』の中に詳述されている。コロレンコの精神の美はガルシンに近いが彼は勇敢な侠客として社会に現れた。ガルシンが自らの生命を賭して社会悪と闘い反動の打撃のもとに死んだ者とすれば、コロレンコは常に実際的な成果を獲得した人であった。 |
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凯罗连珂者,其精神之美,是近于迦尔洵的,但他却作为勇敢的侠客,而出现于社会。倘若以迦尔洵为拚自己的生命,和社会恶相抗争,而终死于反动的打击之下者,则凯罗连珂乃是常常获得实际底结果的。 |
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Lvov–Rogachevski的《俄国文学史梗概》的写法,每篇常有些不同,如这一篇,真不过是一幅Sketch,然而非常简明扼要。 |
Lvov–Rogachevskyの『ロシア文学史梗概』の書き方は各篇しばしば異なりこの一篇はまさにスケッチに過ぎないがきわめて簡明にして要を得ている。 |
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这回先译这一篇,也并无深意。无非因为其中所提起的迦尔洵的作品,有些是廿余年前已经绍介(《四日》,《邂逅》),有的是五六年前已经绍介(《红花》),读者可以更易了然,不至于但有评论而无译出的作品以资参观,只在暗中摸索。 |
今回まずこの一篇を訳したのも別に深い意味はない。ただガルシンの作品は二十余年前や五六年前にすでに紹介したものがあり、読者はより容易に了解できるためである。しかしガルシンも文学史上の一環に過ぎず全局を観なければ十分に明白にはならない——この欠憾は将来改めて補うこととしよう。 |
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然而不消说,迦尔洵也只是文学史上一个环,不观全局,还是不能十分明白的,——这缺憾,是待将来再弥补罢。 |
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一九二九年八月三十日,译者附记。 |
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(一九二九年九月十五日《春潮》月刊第一卷第九期所载。) |
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【七 莱奋生】 |
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莱奋生的部队,已经什么事也不做,屯田了五星期,——所以预备的马匹,辎重,还有从那四近,别的部队的破破烂烂的驯良的逃兵们所曾经藏身的大锅之类的财产,就增多起来。人们睡得过度,连站着在做哨兵的时候,也睡着了。不安的报告,也不能使这庞然大物移一个位置,——他是怕了轻率的移动了。——新的事实,对于他的这危惧,或则加以证明,或则给以嘲笑。自己的过于慎重,他也自笑了好几回,——尤其是在日本军放弃了克理罗夫加,斥候在数百威尔斯忒[43]之间,不见敌人只影的事,明明白白了的时候。 |
一九二九年八月三十日、訳者附記。 (一九二九年九月十五日『春潮』月刊第一巻第九期所載。) |
第7節
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但除了式泰信斯基之外,却谁也不知道这莱奋生的动摇。部队里面,大抵是谁也不知道莱奋生也会动摇的。他不将自己的思想和感情,分给别一个人,只常常用现成的“是的”和“不是”来应付。所以,他在一切人们,——除掉知道他的真价值的图皤夫,式泰信斯基,刚卡连珂那些人之外的一切人们,就见得是特别正确一流的人物。一切袭击队员,尤其是什么都想学队长,连表面的样子也在模仿的年青的巴克拉诺夫,大体是这么想的:“我呢,自然,是孽障的人,有许多缺点,例如许多事情,我不懂得,自己之中的许多东西,也不能克服。我的家里,有着精细的温和的妻或是新娘,我恋爱她;我吃甘甜的瓜,喝加面包的牛奶,或者又因为要在那里的晚上引诱姑娘们,爱穿刷亮的长靴。然而莱奋生——他却是全然别样的人。不能疑心他做过这样的事,——他懂得一切事,做得都恰如其分。他并不巴克拉诺夫似的去跟姑娘们,也不木罗式加似的去偷瓜。他只知道一件事——工作。因此之故,这样的正确的人,是不得不信赖他,服从他的。” |
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从莱奋生被推举为队长的时候起,没有人能给他想一个别的位置了,——大家都觉得惟有他来指挥部队这件事,乃是他的最大的特征。假使莱奋生讲过他那幼时,帮着他的父亲卖旧货,以及他的父亲直到死去,在想发财,但一面却怕老鼠,弹着不高明的梵亚林的事,那么,大约谁都以为这只是恰好的笑话的罢。然而莱奋生决不讲这些事。这并非因为他是隐瞒事物的人,倒是因为他知道大家都以他为特别种类的人物,虽然自己也很明白本身的缺点和别人的缺点,但要率领人们,却觉得只有将他们的缺点,指给他们,而遮掩了自己的缺点,这才能办的缘故。对于模仿着他自己的事,他也决不愿意略略嘲笑那年青的巴克拉诺夫的。象他那样年纪之际,他也曾模仿过教导他的人们。而且那时候,在他看来,他们也都见得是正确的人物,恰如现在的他之于巴克拉诺夫一样。到后来,他知道他的教师们并不如此了,然而他对于那些人,仍然非常感激。现在,巴克拉诺夫岂不是不但将他的表面的样子,并且连他先前的生活的经验——斗争,工作,行动的习惯,也都在收为己有么?莱奋生知道这表面的样子,当随年月一同消亡,而由个人底经验所积蓄的这习惯,却会传给新的莱奋生,新的巴克拉诺夫,而这件事,也非常重要,非常必要的。 |
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……八月初的一个潮湿的夜半,骑兵的急使驰到部队里来了。这是袭击队各部队的本部长,年老的司荷威·珂夫敦所派遣的。老司荷威·珂夫敦写了信来,说袭击队的主力所集中的亚奴契诺村,被日本军前来袭击;说伊士伏忒加近旁的决死的战斗,苦得快死的有一百多人;说自己也中了九弹,躲在猎人的过冬的小屋里,还说自己的性命,恐怕也不会长久了。…… |
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败北的风闻,以不祥的速度,沿着溪谷展了开去。然而急使尚且追上它,走掉了。于是各个传令使,就直觉了那是自从运动开始以来,所派遣的最可怕的急使。人们的动摇,又传播到马匹去。毛鬣蓬松的袭击队的马,露着牙齿,顺了阴郁的湿的村路,从这村狂奔到那村——泼起着马蹄所激的泥水…… |
【七 レヴィンソン】 |
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莱奋生遇见急使,是夜里十二点半,过了半点钟,牧人美迭里札所率的骑兵小队,便越过了克理罗夫加村,循着希霍台·亚理尼的人所不知的鸟道,扇似的向三方面扩张开去,——并且将不安的通知,送给斯伐庚战斗区的诸部队去了。 |
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莱奋生汇集诸部队送来的零散的报告,已经有四天了。他的脑紧张着,直感地在动作,恰如正在倾听一般。但他却仍象先前,冷静地和人们交谈,着那与众不同的碧绿的眼,并且揶揄巴克拉诺夫的跟着“肮脏的玛沙”。有一回,由恐怖而胆子大了起来的企什,问他为什么不讲应付的方法的时候,莱奋生便温和地敲着他的前额,答道,“那不是小鸟儿[44]的脑袋所能知道的。”他好象在用那一切样子,示给人们,只有他分明地知道这一切何以发生,怎样趋向,其中并无什么异样的可怕的事,而且他莱奋生,早已有了适宜的万无一失的救济之策了。但实则他不但并无什么策略,倒象勒令一下子解答那含有许多未知数的许多题目的学生一样,连自己也觉得为难。那不安的急使的一星期之前,袭击队员凯农尼珂夫到一个市镇去了,他还在等候从那地方来的报告。 |
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这人在急使到后的第五天,弄得胡子蓬松,疲乏,饥饿,然而仍旧是出发以前照样的狡黠,红毛——只有这他毫没有改样——回来了。 |
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“市镇统统毁掉了,克拉什理曼是被关在牢里了……”用了打牌上做手脚的人一般的巧妙,从很大的袖子里的一个袋子里,取出几封书信来,凯农尼珂夫说,还用嘴唇微微地笑着,——他是毫没有什么高兴的,然而倘不微笑,他就不能说什么了。“在符拉迭尔罗·亚历山特罗夫斯基和阿里格——有日本的陆战队在……苏羌是全给弄糟了……这事简直象坏烟草!……哪,你也吸罢……”他便向莱奋生递过一枝金头的烟卷来。这“你也吸罢”是说烟卷的呢,还是说“象坏烟草”一样不好的事情的呢,竟有些不能辨别了。 |
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莱奋生望一望信面——于是将一封装进衣袋里,拆开另一封信来:那正证实着凯农尼珂夫的话。在充满着虚张声势的公文式的字里行间,那败北和无力的悲愤,却令人觉得过于明白。 |
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“不行么,唔?……”凯农尼珂夫同情地问。 |
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“可以……不算什么……但信是谁写的——绥图赫?” |
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凯农尼珂夫肯定地点头。 |
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“就象他——他是总要分了部门来写的……”莱奋生用指甲在“第四部:当面的任务”之处的下面抓了一条线,——嗅一嗅烟草。“坏烟草呵,是不是?给我一个火……但大家面前,你不要多话呵……关于陆战队和别的事……给我买了烟管没有呢?”他并不听凯农尼珂夫的为什么不买烟管的说明,又在注视纸上了。 |
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“当面的任务”这一部,是由五个条项所构成的。其中的四条,从莱奋生看来,仿佛是呆气的不能实行的事。(“唉,穆绥不在,真糟,”——他想,他这时才痛惜克拉什理曼的被捕。)第五条是这样地写着的: |
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“……目下,袭击队指挥者所要求的最重要的事,——排除任何的困难也须达成的事,——是即使不多,也须保持强固而有规律的战斗单位,他日在那周围……” |
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“叫巴克拉诺夫和经理部长来。”莱奋生迅速地说。 |
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他将信件塞进图囊中,于是在那战斗单位的周围,他日会形成什么呢,他也没有看到底……从许多的任务里,只描出了一件——“最重要的东西”。莱奋生抛掉熄了的烟卷,敲着桌子……“保持战斗单位”……这思想他总是不能消释,以化学铅笔写在便笺上的六个字的形象,留在他的眼前。他机械底地取出第二封信,望着信封,知道是妻子所寄的。“这可以且慢,”他想着,又藏进袋子去:——“保持战斗单位……” |
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经理部长和巴克拉诺夫到来的时候,莱奋生已经知道,他要做的是什么了,——他和在他指挥之下的人们:他们为要保持这部队,作为战斗单位起见,是来做凡有一切的事的。 |
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“我们应该立刻从这里出发。”莱奋生说。“我们的准备,都停当了么?……经理部长的发言……” |
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“是的,经理部长的发言。”巴克拉诺夫反响似的说,显着仿佛豫知了这一切的趋向一般的脸相,收紧了皮带。 |
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“要我——这个,没有办妥的工作,我是不做的。我准备着,什么时候都可以出发……不过那些燕麦又怎么办呢?那是……”于是经理部长将一大串湿的燕麦,破的货包,病的马匹“不能运送燕麦”的事,一句话,就是将表明他全未准备的事,他以为这移动是有损的计划的事的情形,冗长地说了一通。他竭力想不看队长,病底地颦着脸,着眼睛,而且咳嗽着,这是因为豫先确信着自己的失败了的。 |
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莱奋生抓住了他的衣扣,说: |
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“你说昏话……” |
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“不,这是真的,约瑟夫·亚伯拉弥支,我想,我们还是驻屯在这里好……” |
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“驻屯?……这里?!……”莱奋生恰如同情于经理部长之愚似的,摇一摇头。“头上已经就要出白头发了。你说,你究竟在用什么想的,用脑袋还是用卵袋的呀?……” |
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“我……” |
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“住口!”莱奋生含着许多意义地抓着他的扣子只一拉。“准备去,要什么时候都能走。懂了没有?……巴克拉诺夫,你监督着罢……”他放掉扣子。“羞人!……你的货包之类,毫没有什么要紧的……小事情!”他的眼睛冷下去了,在他的峻峭的视线之下,经理部长终于也确信了他在着忙的货包之类——真是小事情了。 |
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“是的,自然……那是明明白白的……问题并不在这里……”他喃喃地说,好象倘若队长认为必要,便连自己背着燕麦走路,也将赞成的一般。“那有什么烦难呀?还可以立刻的!即使是今天——即使是一转眼……” |
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“哪,就是呵……”莱奋生笑起来了。“这就是了,就是了,去罢!”他在他的背脊上轻轻一推。“你要给我什么时候都可以……” |
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“老狐狸,厉害的,”怀着恚怒和感叹,经理部长走出屋子去的时候,想。 |
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到傍晚,莱奋生召集了部队评议会和小队长。 |
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他们各执了不同的态度,接受莱奋生的报告。图皤夫是拈着浓厚的沉重地拖下着的髭须,默默地坐了一晚上。他分明是和莱奋生同意的。对于出发,最为反对的,是第二小队长苦勃拉克。他是这一群中的最旧,最有功劳,而且最不高明的队长。但没有一个帮衬他的人。苦勃拉克是克理罗夫加的本地人,他所主张的,是克理罗夫加的田地,而不是工作的利益,那是谁都知道的。 |
レヴィンソンの部隊はすでに何もせずに五週間駐屯していた——そのため予備の馬匹、輜重、さらに近隣の他の部隊からの破れかぶれのおとなしい脱走兵たちが身を隠していた大鍋類の財産が増えていった。人々は過度に眠り、立って歩哨をしている時ですら眠ってしまった。不穏な報告もこの巨体を動かせなかった——彼は軽率な移動を恐れていたのだ。——新たな事実は彼のこの危惧を証明したり嘲笑したりした。自らの過度な慎重さを彼自身も何度か笑った——とりわけ日本軍がクリロフカを放棄し、斥候が数百ヴェルスタにわたって敵の影を見なかったことが明白になった時には。 |
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“盖上盖子罢!得带住了……”牧人美迭里札打断他。“已经是忘掉老婆的裙子的时候了呀,苦勃拉克伯伯!”他照例地因了自己的话而激昂,用拳头敲着桌子。而且他的麻脸上,也即刻沁满了汗。“再在这里,人会将你们象小鸡一样——带住而且盖上的!……”他于是响着胡乱的脚步声,用鞭子敲着椅子,在屋子里走来走去。 |
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“不要这么拚命,朋友,不然,立刻会乏的。”莱奋生忠告他。但在心里,却佩服着软皮鞭似的紧紧地编成的柔软的身体的激烈的举动。这人连一分钟也不能镇静地坐定,全身是火和动,他的凶猛的眼睛里,燃烧着再来战斗的无厌的欲求。 |
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美迭里札将自己的退却的计划立定了。由此看来,显然是他的热烈的头,虽对于很大的广漠,也并无恐怖,而且未曾失掉了军事上的锐敏。 |
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“对的!……他的头很不错。”巴克拉诺夫感叹起来,但对于美迭里札的独立的思想的过于大胆的飞跃,又略有些歆羡。“前几时还在看马的,再过两年,一定会成为指挥我们的罢……” |
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“美迭里札么?……呵——阿……是的,是一个脚色呀!”莱奋生也共鸣了。“但是,小心些罢,——不要自负……” |
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然而利用了各人都以自己为比别人高强,不听别人的话的这热心的论争,莱奋生就将美迭里札的计划,用了更单纯,更慎重的自己的计划换了出来。但他做得很巧妙,很隐藏,他的新的提案,便当作美迭里札的提案而付了表决,并且为大家所采用了。 |
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在回答市镇和式泰信斯基的书信中,莱奋生通知几天之内,就要将部队移到伊罗罕札河的上流希比希村去,而于病院倘没有特别的命令,便还留在那地方。莱奋生是还住在那镇上的时候,就认识了式泰信斯基的。这回是他写给他的第二封告警的信了。 |
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他在深夜里才做完他的工作;洋灯里的油已经点尽了。从敞开的窗间,流来了湿气和烂叶的气味。蟑螂在火炉后面索索作响,隔壁的小屋里,有略勃支的打鼾声。莱奋生忽然,记起了他妻子的信,便将油添在洋灯里,看了起来。并没有什么新鲜的,高兴的事。仍象先前一样,找不到什么地方做事,能卖的东西已经全部卖掉,现在只好靠着“工人红十字”的款子糊口,孩子们是生着坏血病和贫血症了。而且每一行里,无不流露着对于他的无限的关切。莱奋生沉思地理着胡子,动手来写回信。开初,他是不愿意将头钻进和这方面的生活相连结的思想里去的,但他的心情渐被牵引过去,他的脸渐渐缓和,他用难认的小字,写了两张纸,而其中的许多话,是谁也不能想到,莱奋生竟会知道着这样的言语的。 |
第8節
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于是欠伸了疲倦的手脚,他到后院去了。马厩里面,马在踏蹄,啮着新鲜的草。守夜的卫兵紧抱着枪,睡在天幕下。莱奋生想:“倘若别的哨兵们也这样地睡着,可怎么呢?……”他站了一会,好容易克服了自己的渴睡的心情,将一匹雄马从马厩里牵出。他加了马具。那卫兵仍旧没有醒。“瞧罢,这狗养的。”——莱奋生想。他注意地拿了他的帽子,藏在干草里,便跳上鞍桥,去查卫兵去了。 |
そこで彼は疲れた手足を伸ばし裏庭へ出て行った。厩の中では馬が蹄を踏み鳴らし新鮮な草を噛んでいた。夜番の衛兵は銃を抱きしめたまま天幕の下で眠っていた。レーヴィンソンは思った――「もし他の哨兵たちもこんなふうに眠っていたらどうなるのだ……」彼はしばらく立っていたがようやく眠気を抑え一頭の牡馬を厩から引き出した。馬具をつけた。衛兵はやはり目を覚まさなかった。「見ていろ、この犬め」――レーヴィンソンは思った。注意深く衛兵の帽子を取り乾草の中に隠すと鞍に飛び乗り哨兵の巡察に出た。 |
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他沿着灌木丛子,到了栅门口。 |
彼は灌木の茂みに沿って柵門の所まで来た。 |
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“谁在这里?”哨兵粗暴地问,响着枪闩。 |
「誰だ!」哨兵が荒々しく問い銃の遊底を鳴らした。 |
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“伙伴……” |
「仲間だ……」 |
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“莱奋生?……为什么在夜里走动的?” |
「レーヴィンソンか?……なぜ夜中に歩き回る?」 |
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“巡察员来了没有?” |
「巡察員は来たか?」 |
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“十五分钟前来过了一个。” |
「十五分前に一人来た。」 |
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“没有新消息么?” |
「新しい知らせはないか?」 |
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“现下,是都平稳的……有烟草么?……” |
「今のところ穏やかだ……煙草はあるか?……」 |
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莱奋生分给他一点满洲尔加,于是涉了河的浅滩,到了田野。 |
レーヴィンソンは満州煙草を少し分けてやり川の浅瀬を渡って野原に出た。 |
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半瞎的月亮照临着,苍白的,满是露水的丛莽,显在昏暗中。浅河的每一个涟波,碰着砾石,都在分明地发响。前面的丘冈上,跳动着四个骑马的人。莱奋生转向丛莽那边去,躲了起来。声音逐渐近来了,莱奋生看清了两个人:是巡察。 |
半ば盲いた月が照らし、蒼白で露に濡れた叢が薄闇に見えた。浅い川の波紋が一つ一つ礫に当たりはっきりと音を立てていた。前方の丘に四人の騎馬の影が跳ねていた。レーヴィンソンは叢の方に折れ身を隠した。音がだんだん近づき二人を見分けた――巡察だ。 |
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“等一等,”一个一面说,一面勒马向路上去,马着鼻子,向旁边跳了起来。有一匹感到了莱奋生跨着的雄马,轻轻地嘶鸣了。 |
「待ってくれ」と一人が言いながら馬を道へ向けると馬が鼻を鳴らし横に跳ねた。一頭がレーヴィンソンの牡馬を感じ静かにいなないた。 |
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“不是吓了我们么?”前面的一个用了激动的勇壮的声音,说。“忒儿儿儿,……畜生!……” |
「驚かせたのではないか?」先頭の一人が興奮した勇壮な声で言った。「ちちちっ……畜生め!……」 |
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“同你们在一起的是谁呀?”莱奋生将马靠近去,一面问。 |
「お前たちと一緒にいるのは誰だ?」レーヴィンソンは馬を近づけながら尋ねた。 |
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“阿梭庚的斥候呵……日本军已在马理耶诺夫加出现了……” |
「アソーギンの斥候だ……日本軍がマリエノフカに出現した……」 |
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“在马理耶诺夫加?”莱奋生出了惊,说。“那么,阿梭庚和他的部队,在那里呢?” |
「マリエノフカに?」レーヴィンソンは驚いて言った。「アソーギンと部隊はどこだ?」 |
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“在克理罗夫加。”斥候的一个说。“我们是退却了的……这战斗打得很凶恶,我们不能支持了。现在是派来和你这面来连络的。明天我们要退到高丽人的农场去了……”他沉重地俯向鞍上,——恰如他自己的言语的厉害的重担,压着了他一般。“都成了灰了。我们给打死了四十个。一夏天里,这样的损害,我们是一回也未曾有过的。” |
「クリーロフカだ」と斥候の一人が言った。「退却したのだ……戦闘は凄惨で持ちこたえられなかった。お前の方面と連絡を取るために派遣された。明日は朝鮮人の農場まで退く……」彼は重く鞍に身を傾けた――まるで自らの言葉の重荷に押されるように。「すべてが灰と化した。四十人が殺された。一夏の間こんな損害は一度もなかった。」 |
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“你早就离开克理罗夫加了么?”莱奋生问。“回转罢,我和你一同去……” |
「クリーロフカを発ったのはいつだ?」レーヴィンソンが尋ねた。「引き返せ、一緒に行こう……」 |
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到了太阳快出的时候,他衰惫,瘦削,带着充血的眼和因为不眠而沉重的头,回到队里来了。 |
太陽が出る頃、彼は疲弊し痩せ細り、充血した目と不眠のために重い頭を抱えて隊に戻ってきた。 |
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和阿梭庚的会面,决定底证明了莱奋生所下的决心——销声匿迹,从速离开这里的决心之正当。不特此也,阿梭庚的部队的样子,还将这事显得很分明:所有联系,都在朽烂了,宛如锈的钉子和锈的铁箍的桶,却遭了强有力的大斧的一击。人们不听指挥者的话,无目的地在后园徘徊,而且许多人还喝得烂醉。有一个人特别留在莱奋生的心里:一个绻发的瘦削的人,坐在路旁的广场上,用浑浊的眼睛,凝视着地面,在盲目底的绝望中,向灰白的朝雾一弹一弹地放枪。 |
アソーギンとの会見はレーヴィンソンの決心――身を潜め速やかにここを離れるという決心の正当さを決定的に証明した。それのみならずアソーギンの部隊の有様がこの事をさらに明白にした。あらゆる結束が腐り果てていた。あたかも錆びた釘と鉄の箍の樽が強力な大斧の一撃を受けたかのようだった。人々は指揮者の言葉を聞かず目的もなく裏庭を彷徨い多くの者が泥酔していた。一人の男が特に心に残った――巻き毛の痩せた男が路傍の広場に座り濁った目で地面を凝視し、盲目的な絶望の中で灰白色の朝霧に向かってぱんぱんと銃を撃っていた。 |
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一回来,莱奋生便将自己的信发出,给与受信人。但他已经决定于明晚离开这村庄,却没有给一个人知道。 |
帰り着くとすぐレーヴィンソンは手紙を出し宛先人に渡した。しかし明晩この村を去ると既に決めていたことは誰にも知らせなかった。 |