Difference between revisions of "Lu Xun Complete Works/zh-ja/Achang"
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'''Lu Xun (鲁迅, Lǔ Xùn, 1881–1936)''' | '''Lu Xun (鲁迅, Lǔ Xùn, 1881–1936)''' | ||
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A Chang and the Book of Mountains and Seas (阿长与山海经 / 阿長と山海経)
Lu Xun (鲁迅, Lǔ Xùn, 1881–1936)
| 中文(原文) | 日本語 |
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長媽媽,已經說過,是一個一向帶領著我的女工,說得闊氣一點,就是我的保姆。我的母親和許多別的人都這樣稱呼她,似乎略帶些客氣的意思。只有祖母叫她阿長。我平時叫她“阿媽”,連“長”字也不帶;但到憎惡她的時候,——例如知道了謀死我那隱鼠的卻是她的時候,就叫她阿長。 我們那裡沒有姓長的;她生得黃胖而矮,“長”也不是形容詞。又不是她的名字,記得她自己說過,她的名字是叫作什麼姑娘的。什麼姑娘,我現在已經忘卻了,總之不是長姑娘;也終於不知道她姓什麼。記得她也曾告訴過我這個名稱的來歷:先前的先前,我家有一個女工,身材生得很高大,這就是真阿長。後來她回去了,我那什麼姑娘才來補她的缺,然而大家因為叫慣了,沒有再改口,於是她從此也就成為長媽媽了。 雖然背地裡說人長短不是好事情,但倘使要我說句真心話,我可只得說:我實在不大佩服她。最討厭的是常喜歡切切察察,向人們低聲絮說些什麼事,還豎起第二個手指,在空中上下搖動,或者點著對手或自己的鼻尖。我的家裡一有些小風波,不知怎的我總疑心和這“切切察察”有些關係。又不許我走動,拔一株草,翻一塊石頭,就說我頑皮,要告訴我的母親去了。一到夏天,睡覺時她又伸開兩腳兩手,在床中間擺成一個“大”字,擠得我沒有餘地翻身,久睡在一角的席子上,又已經烤得那麼熱。推她呢,不動;叫她呢,也不聞。 “長媽媽生得那麼胖,一定很怕熱罷?晚上的睡相,怕不見得很好罷?……” 母親聽到我多回訴苦之後,曾經這樣地問過她。我也知道這意思是要她多給我一些空席。她不開口。但到夜裡,我熱得醒來的時候,卻仍然看見滿床擺著一個“大”字,一條臂膊還擱在我的頸子上。我想,這實在是無法可想了。 但是她懂得許多規矩;這些規矩,也大概是我所不耐煩的。一年中最高興的時節,自然要數除夕了。辭歲之後,從長輩得到壓歲錢,紅紙包著,放在枕邊,只要過一宵,便可以隨意使用。睡在枕上,看著紅包,想到明天買來的小鼓、刀槍、泥人、糖菩薩……。然而她進來,又將一個福橘放在床頭了。 “哥兒,你牢牢記住!”她極其鄭重地說。“明天是正月初一,清早一睜開眼睛,第一句話就得對我說:‘阿媽,恭喜恭喜!’記得麼?你要記著,這是一年的運氣的事情。不許說別的話!說過之後,還得吃一點福橘。”她又拿起那橘子來在我的眼前搖了兩搖,“那麼,一年到頭,順順流流……。” 夢裡也記得元旦的,第二天醒得特別早,一醒,就要坐起來。她卻立刻伸出臂膊,一把將我按住。我驚異地看她時,只見她惶急地看著我。 她又有所要求似的,搖著我的肩。我忽而記得了—— “阿媽,恭喜……。” “恭喜恭喜!大家恭喜!真聰明!恭喜恭喜!”她於是十分歡喜似的,笑將起來,同時將一點冰冷的東西,塞在我的嘴裡。我大吃一驚之後,也就忽而記得,這就是所謂福橘,元旦辟頭的磨難,總算已經受完,可以下床玩耍去了。 她教給我的道理還很多,例如說人死了,不該說死掉,必須說“老掉了”;死了人,生了孩子的屋子裡,不應該走進去;飯粒落在地上,必須揀起來,最好是吃下去;曬褲子用的竹竿底下,是萬不可鑽過去的……。此外,現在大抵忘卻了,只有元旦的古怪儀式記得最清楚。總之:都是些煩瑣之至,至今想起來還覺得非常麻煩的事情。 然而我有一時也對她發生過空前的敬意。她常常對我講“長毛”。她之所謂“長毛”者,不但洪秀全軍,似乎連後來一切土匪強盜都在內,但除卻革命黨,因為那時還沒有。她說得長毛非常可怕,他們的話就聽不懂。她說先前長毛進城的時候,我家全都逃到海邊去了,只留一個門房和年老的煮飯老媽子看家。後來長毛果然進門來了,那老媽子便叫他們“大王”,——據說對長毛就應該這樣叫,——訴說自己的飢餓。長毛笑道:“那麼,這東西就給你吃了罷!”將一個圓圓的東西擲了過來,還帶著一條小辮子,正是那門房的頭。煮飯老媽子從此就駭破了膽,後來一提起,還是立刻面如土色,自己輕輕地拍著胸脯道:“阿呀,駭死我了,駭死我了……。” 我那時似乎倒並不怕,因為我覺得這些事和我毫不相干的,我不是一個門房。但她大概也即覺到了,說道:“像你似的小孩子,長毛也要擄的,擄去做小長毛。還有好看的姑娘,也要擄。” “那麼,你是不要緊的。”我以為她一定最安全了,既不做門房,又不是小孩子,也生得不好看,況且頸子上還有許多炙瘡疤。 “那裡的話?!”她嚴肅地說。“我們就沒有用麼?我們也要被擄去。城外有兵來攻的時候,長毛就叫我們脫下褲子,一排一排地站在城牆上,外面的大炮就放不出來;再要放,就炸了!” 這實在是出於我意想之外的,不能不驚異。我一向只以為她滿肚子是麻煩的禮節罷了,卻不料她還有這樣偉大的神力。從此對於她就有了特別的敬意,似乎實在深不可測;夜間的伸開手腳,佔領全床,那當然是情有可原的了,倒應該我退讓。 這種敬意,雖然也逐漸淡薄起來,但完全消失,大概是在知道她謀害了我的隱鼠之後。那時就極嚴重地詰問,而且當面叫她阿長。我想我又不真做小長毛,不去攻城,也不放炮,更不怕炮炸,我懼憚她什麼呢! 但當我哀悼隱鼠,給它復仇的時候,一面又在渴慕著繪圖的《山海經》了。這渴慕是從一個遠房的叔祖惹起來的。他是一個胖胖的,和藹的老人,愛種一點花木,如珠蘭、茉莉之類,還有極其少見的,據說從北邊帶回去的馬纓花。他的太太卻正相反,什麼也莫名其妙,曾將曬衣服的竹竿擱在珠蘭的枝條上,枝折了,還要憤憤地咒罵道:“死屍!”這老人是個寂寞者,因為無人可談,就很愛和孩子們往來,有時簡直稱我們為“小友”。在我們聚族而居的宅子裡,只有他書多,而且特別。制藝和試帖詩,自然也是有的;但我卻只在他的書齋裡,看見過陸璣的《毛詩草木鳥獸蟲魚疏》,還有許多名目很生的書籍。我那時最愛看的是《花鏡》,上面有許多圖。他說給我聽,曾經有過一部繪圖的《山海經》,畫著人面的獸,九頭的蛇,三腳的鳥,生著翅膀的人,沒有頭而以兩乳當作眼睛的怪物,……可惜現在不知道放在那裏了。 我很願意看看這樣的圖畫,但不好意思力逼他去尋找,他是很疏懶的。問別人呢,誰也不肯真實地回答我。壓歲錢還有幾百文,買罷,又沒有好機會。有書買的大街離我家遠得很,我一年中只能在正月間去玩一趟,那時候,兩家書店都緊緊地關著門。 玩的時候倒是沒有什麼的,但一坐下,我就記得繪圖的《山海經》。 大概是太過於念念不忘了,連阿長也來問《山海經》是怎麼一回事。這是我向來沒有和她說過的,我知道她並非學者,說了也無益;但既然來問,也就都對她說了。 過了十多天,或者一個月罷,我還記得,是她告假回家以後的四五天,她穿著新的藍布衫回來了,一見面,就將一包書遞給我,高興地說道: “哥兒,有畫兒的‘三哼經’,我給你買來了!” 我似乎遇著了一個霹靂,全體都震悚起來;趕緊去接過來,打開紙包,是四本小小的書,略略一翻,人面的獸,九頭的蛇,……果然都在內。 這又使我發生新的敬意了,別人不肯做,或不能做的事,她卻能夠做成功。她確有偉大的神力。謀害隱鼠的怨恨,從此完全消滅了。 這四本書,乃是我最初得到,最為心愛的寶書。 書的模樣,到現在還在眼前。可是從還在眼前的模樣來說,卻是一部刻印都十分粗拙的本子。紙張很黃;圖像也很壞,甚至於幾乎全用直線湊合,連動物的眼睛也都是長方形的。但那是我最為心愛的寶書,看起來,確是人面的獸;九頭的蛇;一腳的牛;袋子似的帝江;沒有頭而“以乳為目,以臍為口”,還要“執干戚而舞”的刑天。 此後我就更其蒐集繪圖的書,於是有了石印的《爾雅音圖》和《毛詩品物圖考》,又有了《點石齋叢畫》和《詩畫舫》。《山海經》也另買了一部石印的,每卷都有圖贊,綠色的畫,字是紅的,比那木刻的精緻得多了。這一部直到前年還在,是縮印的郝懿行疏。木刻的卻已經記不清是什麼時候失掉了。 我的保姆,長媽媽即阿長,辭了這人世,大概也有了三十年了罷。我終於不知道她的姓名,她的經歷;僅知道有一個過繼的兒子,她大約是青年守寡的孤孀。 仁厚黑暗的地母呵,願在你懷裏永安她的魂靈! 三月十日。 |
長媽媽は先にも述べたように、ずっと私の世話をしていた女中で、気取った言い方をすれば、私の乳母である。母や他の多くの人もそう呼んでいて、いくらか丁寧な意味合いがあるようだった。祖母だけは彼女を阿長と呼んだ。私は普段「阿媽」と呼び、「長」の字すらつけなかった。しかし彼女を憎む時には——例えば隠鼠を殺したのが実は彼女だと知った時には——阿長と呼んだ。 私たちの土地に長という姓はなかった。色が黄ばんだ太った背の低い女で、「長」は形容詞でもなかった。また彼女の名前でもなく、何とか姑娘と言ったのを本人が話していたのを覚えている。何姑娘だったかは今はもう忘れてしまったが、長姑娘でないことは確かで、姓もついに知らなかった。この名称の由来も彼女から聞いた覚えがある。以前のそのまた以前、うちに一人の女中がいて、とても背が高くて大柄だった。それが本物の阿長だった。後に彼女が辞めて、私の何とか姑娘が代わりに来たのだが、みな呼び慣れていたので改めず、こうして彼女もそれからずっと長媽媽になったのだ。 陰で人のことを言うのはよいことではないが、もし正直な気持ちを言えと言われたら、こう言うしかない。実のところ私はあまり感心していなかった。最も嫌だったのは、ひそひそと耳打ちすることが好きで、人にこそこそと何かを囁き、さらに人差し指を立てて空中で上下に振ったり、相手や自分の鼻先を指したりすることだった。うちにちょっとした波風が立つと、どうしても私はこの「ひそひそ」と関係がありそうな気がした。また私が動き回ることも許さず、草を一本抜いただけ、石をひとつひっくり返しただけで、いたずらだと言い、母に言いつけると言うのだった。夏になると、寝る時に両手両足を広げ、ベッドの真ん中に「大」の字を描いて、私が寝返りを打つ余地もなくなる。隅に追いやられた畳はもう焼けるように熱くなっていた。押してもびくともしない。呼んでも聞こえない。 「長媽媽はあんなに太っているから、きっと暑がりでしょう?寝相もよくないんじゃないかしら?……」 母は私の再三の訴えを聞いた後、彼女にこう聞いたことがあった。少しは場所を空けてくれという意味だったのだろう。彼女は口を開かなかった。だが夜中に暑さで目が覚めると、ベッドいっぱいに「大」の字が寝ており、片腕が私の首の上に載っていた。もうどうしようもないと思った。 しかし彼女は多くのしきたりを知っていた。このしきたりが、おおかた私には我慢のならないものだった。一年で最も嬉しい時と言えば、もちろん大晦日だ。年越しの挨拶が終わり、年長者からお年玉を赤い紙に包んでもらい、枕元に置く。一晩過ぎれば自由に使える。枕に頭を載せ、赤い包みを見つめながら、明日買う小太鼓、刀や槍、泥人形、砂糖菩薩のことを思い浮かべる。ところが彼女が入ってきて、また福橘をベッドの上に置いたのだ。 「坊ちゃん、よく覚えておいてね!」彼女はこの上なく真剣に言った。「明日は正月元日よ。朝早く目が覚めたら、一番最初にわたしに言うんだよ、『阿媽、おめでとうございます!』って。覚えた?忘れちゃだめよ。これは一年の運勢にかかわることなの。他のことを言っちゃだめ!それから福橘も少し食べなきゃね。」彼女はまた橘子を取り上げて私の目の前で二度振った。「そうすれば一年中、万事順調……。」 夢の中でも元旦を覚えていた。翌朝はいつもより早く目が覚め、起き上がろうとした。ところが彼女はすかさず腕を伸ばし、ぐいと私を押さえつけた。驚いて見ると、彼女は慌てふためいた目で私を見つめていた。 彼女はまた何か求めるように私の肩を揺すった。ふと思い出した—— 「阿媽、おめでと……。」 「おめでとうございます!みなさんおめでとう!おりこうさん!おめでとうおめでとう!」彼女はたいそう嬉しそうに笑い出し、同時に冷たいものを私の口に押し込んだ。ぎょっとした後、ふと思い出した。これがいわゆる福橘だ。元旦冒頭の試練をどうにか切り抜け、やっとベッドから降りて遊べるのだった。 彼女が教えてくれた道理はまだたくさんあった。例えば人が死んだら「死んだ」と言ってはならず、「お隠れになった」と言わねばならない。死人が出たり子どもが生まれた部屋には入ってはならない。飯粒を地面に落としたら拾わねばならず、食べてしまうのが一番よい。ズボンを干した竹竿の下は絶対にくぐってはならない……。その他は今では大方忘れてしまったが、元旦の奇妙な儀式だけは最もはっきり覚えている。つまるところ煩わしいことこの上なく、今思い出しても非常に面倒なことばかりだった。 しかしある時、私は彼女に対して前代未聞の敬意を抱いたことがある。彼女はしょっちゅう「長毛」の話をしてくれた。彼女の言う「長毛」とは、洪秀全の軍隊だけでなく、それ以後のあらゆる盗賊強盗も含まれるようだったが、革命党は除く。まだ存在しなかったからだ。彼女は長毛が非常に恐ろしかったと言い、彼らの言葉は聞き取れなかったという。昔、長毛が城に攻め込んできた時、うちはみんな海辺に逃げ、門番と年老いた飯炊きの婆やだけが留守番をしたそうだ。やがて長毛が本当に入ってきて、その婆やは彼らを「大王様」と呼び——長毛にはそう呼ぶべきだと聞いていたのだ——空腹を訴えた。長毛は笑って言った。「それなら、これを食え!」丸いものを投げ寄こした。小さな辮子がついていた。門番の首だった。飯炊きの婆やはそれ以来すっかり肝を潰してしまい、後で話が出るたびにすぐ顔が土色になり、自分で胸をそっと叩きながら言った。「ああ、怖かったこと、怖かったこと……。」 あの頃の私は怖くなかったようだ。これらのことは自分とは無関係だと思っていたから。私は門番ではない。しかし彼女もすぐにそれに気づいたらしく、言った。「おまえみたいな子どもだって、長毛はさらっていくんだよ。さらって小長毛にするの。それから綺麗な娘もさらうんだ。」 「じゃあ、あなたは大丈夫ですね。」私は彼女ならきっと一番安全だと思った。門番でもなく、子どもでもなく、見た目もよくない。おまけに首には灸の痕がたくさんあった。 「何を言うの?!」彼女は厳粛に言った。「わたしたちが役に立たないとでも?わたしたちだってさらわれるんだよ。城外から兵が攻めてくると、長毛はわたしたちにズボンを脱がせて、一列に並ばせて城壁の上に立たせたの。すると外の大砲が撃てなくなるの。それでも撃てば、爆発するんだよ!」 これは実に私の予想の外で、驚かずにはいられなかった。私はずっと彼女は面倒なしきたりばかり詰まった人だとしか思っていなかったが、こんな偉大な神通力まであったとは思いもよらなかった。それ以来彼女に特別な敬意を抱くようになり、まるで底知れぬ深さがあるように思えた。夜に手足を広げてベッドを占領するのも、もちろん情状酌量の余地があり、むしろ私の方が譲るべきなのだった。 この敬意はだんだん薄れていったが、完全に消えたのは、彼女が隠鼠を殺したことを知った後だろう。その時は厳しく問い詰め、しかも面と向かって阿長と呼んだ。私は別に本当に小長毛になって城を攻めるわけでも砲を放つわけでもなく、砲の爆発も怖くない。何を彼女から恐れることがあろうか! しかし隠鼠を悼み復讐を遂げようとする一方で、私は絵入りの『山海経』にも憧れていた。この憧れは遠縁の大叔父から引き起こされたものだった。彼は太った、温和な老人で、珠蘭や茉莉の類を少し育てるのが好きで、さらに極めて珍しい、北方から持ち帰ったという馬纓花もあった。しかし奥方は正反対で、何がなにやらわかっておらず、洗濯物干しの竹竿を珠蘭の枝に載せて枝を折り、まだ怒って「死に損ない!」と罵る始末だった。この老人は孤独な人で、話し相手がいないから子どもたちとよく付き合い、時にはまるで「小友」と呼んでくれたりした。一族の集まった屋敷の中で、彼だけが本をたくさん持ち、しかも変わった本ばかりだった。八股文や試帖詩ももちろんあったが、私は彼の書斎でしか陸璣の『毛詩草木鳥獣虫魚疏』や、その他名前もなじみのない多くの書物を見たことがなかった。あの頃最も好きだったのは『花鏡』で、挿絵がたくさんあった。彼は聞かせてくれた。かつて絵入りの『山海経』があり、人面の獣、九つの首の蛇、三本足の鳥、翼のある人間、頭がなく両乳を目とする怪物……が描いてあったが、惜しいことに今はどこに置いたかわからないと。 ぜひそんな絵を見たいと思ったが、無理に探させるのは気が引けた。彼はとても無精な人だったから。他の人に聞いても、誰も本当のことを答えてくれない。お年玉がまだ何百文かあったから買えば買えたが、機会がなかった。本屋のある大通りは家から遠く、一年に正月の間に一度しか遊びに行けない。その時には二軒の本屋はどちらもぴったりと門を閉めていた。 遊んでいる時は何も感じないが、座ると、絵入りの『山海経』のことを思い出すのだった。 あまりに忘れられなかったらしく、阿長までも『山海経』とは何だと聞いてきた。これは今まで彼女に話したことがなかった。学者でないことはわかっていたから、話しても無駄だと思ったのだ。しかし聞いてきたからには、全部話してやった。 十日余り、あるいは一か月ほど過ぎただろうか。覚えているのは、彼女が休暇で里に帰ってから四、五日後のことだった。彼女は新しい藍色の上着を着て戻ってきて、会うなり一包みの本を差し出し、嬉しそうに言った。 「坊ちゃん、絵のある『三ぼんぎょう』、買ってきたよ!」 私はまるで青天の霹靂に打たれたように、全身がぞくりとした。急いで受け取り、紙包みを開けると、四冊の小さな本で、ぱらぱらとめくると、人面の獣、九つの首の蛇……果たしてみんな入っていた。 これで私にはまた新たな敬意が生まれた。他の人がやろうとしなかった、あるいはできなかったことを、彼女はやり遂げたのだ。確かに偉大な神通力を持っていた。隠鼠を殺した恨みは、これですっかり消えてしまった。 この四冊の本こそ、私が最初に手にした、最も心から愛した宝の書であった。 本の様子は、今でも目に浮かぶ。だが目に浮かぶその様子から言えば、版も刷りもひどく粗末な本であった。紙は黄ばんでおり、挿絵もひどく、ほとんど直線ばかりで描いてあり、動物の目までも長方形だった。しかしそれは私の最も心から愛した宝の書で、見れば確かに人面の獣、九つの首の蛇、一本足の牛、袋のような帝江、頭がなく「乳を目とし、臍を口とし」、しかも「干戚を執りて舞う」という刑天がいた。 その後、私はますます絵入りの本を集めるようになり、石印の『爾雅音図』と『毛詩品物図考』を手に入れ、また『点石斎叢画』と『詩画舫』も手に入れた。『山海経』も石印のものを別に一部買い、各巻に図と賛があり、緑色の絵に赤い字で、あの木版本よりずっと精巧だった。この一部は一昨年までまだあったもので、縮刷の郝懿行疏本であった。木版の方はいつなくしたか、もう覚えていない。 私の乳母、長媽媽すなわち阿長がこの世を去ってから、おそらくもう三十年にもなるだろう。私はついに彼女の姓名も、身の上も知らなかった。ただ養子が一人いたことだけは知っている。おそらく若くして寡婦となった孤独な女であった。 慈悲深く暗き大地の母よ、願わくはあなたの懐に彼女の魂を永遠に安らかに憩わせたまえ! 三月十日。 |