Difference between revisions of "Lu Xun Complete Works/ja/Wuchang"

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=== 第1節 ===
 
=== 第1節 ===
  
This section contains parts of Ji Kang's philosophical treatise On Music Having No Grief or Joy as well as Lu Xun's early poems and literary scholarship from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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【一九一八年】
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【夢】
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多くの夢が、黄昏に乗じて騒ぎ立てる。
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前の夢が大前の夢を押しのけたばかりなのに、後の夢がまた前の夢を追い払った。
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去った前の夢は墨のように黒く、今の後の夢も墨のように黒い。
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去ったのも今のも、どちらも言うようだ、「私の色の美しさを見よ。」
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色は美しいかもしれぬが、暗がりの中では知れない。
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しかも知れない、話しているのが誰なのかも。
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○  ○  ○
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暗がりの中で知れず、体は熱く頭は痛む。
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来い、来い!明らかなる夢よ。
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(『新青年』第四巻第五号。)
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【愛の神】
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一人の小さな子供が、翼を広げて空中に、
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一手に矢をつがえ、一手に弓を引く。
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どうしたわけか、一矢が胸に射ささった。
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「小さなお方、でたらめなお導きに感謝いたします!
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しかしお教えください!私は誰を愛すべきでしょう?」
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子供は慌てて、首を振って言った。「ああ!
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あなたはまだ心胸のある人なのに、こんなことを言うとは。
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あなたが誰を愛すべきかなど、私にわかるはずがない。
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とにかく私の矢は放ったのだ!
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あなたが誰かを愛したいなら、命がけで愛しなさい。
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あなたが誰も愛さないなら、命がけで自分で死ぬがよい。」
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(『新青年』第四巻第五号。)
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【桃花】
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春雨が過ぎて、太陽がまたとても好い。ぶらぶらと庭に歩いて行った。
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桃の花は庭の西に咲き、李の花は庭の東に咲いている。
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私は言った。「素晴らしい!桃の花は紅く、李の花は白い。」
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(桃の花が李の花ほど白くないとは言わなかった。)
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ところが桃の花が怒ったらしく、顔中を「楊妃紅」に染め上げた。
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いい度胸だ!たいしたものだ!怒って顔を紅くするとは。
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私の言葉は別にお前に失礼をしたわけではない。どうして顔を赤くするのだ!
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ああ!花には花の道理がある。私にはわからぬ。
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(『新青年』第四巻第五号。)
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【彼らの花園】
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小さな子供、巻き毛で、
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銀黄色の顔にはまだほんのり紅みがある——見たところまさに生きようとしている。
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壊れた大門を出て、隣家を眺めると、
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彼らの大きな花園に、たくさんの美しい花がある。
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小さな知恵を絞って、百合の花を一輪手に入れた。
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白くて光り輝いて、降りたての雪のよう。
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大事に持ち帰り、顔に映すと、一段と血の色が増した。
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蠅が花の周りを飛び鳴き、部屋中に乱れ回る——
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「こんな不潔な花ばかり好むとは、馬鹿な子供だ!」
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急いで百合の花を見ると、もう蠅の糞が何点かついていた。
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見ていられない。捨てるに忍びない。
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目を見開いて空を仰ぎ、彼にはもう言うべき言葉がなかった。
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言葉が出ず、隣家のことを思い出す。
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彼らの大きな花園に、たくさんの美しい花がある。
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(『新青年』第五巻第一号。)
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【人と時】
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一人が言った。将来は現在に勝る。
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一人が言った。現在は昔に遠く及ばない。
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一人が言った。何だと?
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時が言った。お前たちはみな私の現在を侮辱している。
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昔が良いなら、自分で帰れ。
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将来が良いなら、私について前へ来い。
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この何だと言った者よ、
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お前が何を言っているのか、私にはわからぬ。
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(『新青年』第五巻第一号。)
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【渡河と道案内】
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玄同兄:
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二日前、『新青年』五巻二号の通信欄で、兄が唐俟もエスペラントに反対しないこと、合わせて議論してもよいという話を見ました。私はエスペラントにもとより反対しませんが、しかし議論したくもありません。というのも、私がエスペラントに賛成する理由はきわめて簡単で、まだ口を開いて議論するほどのものではないからです。
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賛成の理由を問われれば、ただこういうことです。私が見るところ、人類は将来きっと何かの共通の言語を持つべきである。だからエスペラントに賛成するのです。
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将来通用するのがエスペラントかどうかは、むろん断定できません。おそらくエスペラントを改良して、より完全なものにするか、あるいは別にもっと良いものが出現するか、まだわかりません。しかし現在これしかない以上、まずこのエスペラントを学ぶしかないのです。今はまだ草創の時代で、汽船がまだなければ丸木舟に乗るしかないのと同じです。もし将来汽船ができるはずだからといって、丸木舟を造らなかったり乗らなかったりすれば、汽船も発明されず、人類は水を渡ることができなくなるでしょう。
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しかし将来なぜ必ず人類共通の言語があるかと問われれば、確たる証拠は出せません。将来必ずありえないと言う者もまた同様です。だから議論の必要はまったくなく、各自が信じるところに従って行うだけです。
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しかし私にはもう一つ意見があります。エスペラントを学ぶのは一つのことであり、エスペラントの精神を学ぶのは、また別のことだと思うのです。——白話文学もまた同様です。——もし思想が旧態のままならば、やはり看板を変えて中身を変えないのと同じです。ようやく「四目蒼聖」の前から這い上がったかと思えば、また「柴明華先師」の足元に跪くのです。人類の進歩に反対する時、以前はnoと言い、今はneと言うだけ。以前は「咈哉」と書き、今は「不行」と書くだけのことです。だから私の意見では、正当な学術文芸を注入し、思想を改良するのが第一であり、エスペラントの議論はそれに次ぐもので、弁駁に至ってはまったく不要です。
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『新青年』の通信欄は、近頃だいぶ発達してきたようです。読者も好んで読みます。しかし私の個人的な意見では、もう少し減らしてもよいと思います。誠実で切実な議論だけを毎号掲載すればよい。その他の無責任な口先だけの批評や、常識のない問難には、せいぜい一度だけ答えればよく、それ以後は多くを語る必要はなく、紙とインクを節約して他に回すべきです。たとえば幽霊を見たとか、仙人を求めるとか、顔を打つとかいった類は、明々白々、まったく常識のないことなのに、『新青年』はなおも彼らと反復して論じ、「二五は十である」という道理を説いている。この手間は惜しくないか、この事業は哀れではないか。
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私の見るところ、『新青年』の内容は大略二類に出ない。一つは、空気が閉塞し汚濁していて、この空気を吸う人間はもうおしまいだと感じ、眉を顰めて「ああ」と一声嘆かずにはいられない。同感の人々がこれによって注意を払い、活路を切り開くことを望むのだ。もし誰かが、この顔色と声は、妓女の秋波のようには美しくなく、小唄のようには美しく聞こえないと言うなら、それはまったく正しい。我々は彼と弁論する必要はない。眉を顰めてため息をつくほうがもっと美しいなどと言えば、こちらが間違いだ。もう一つは、これまで歩んできた道がきわめて危険で、しかももう行き止まりに近いと感じ、良心に従って切実に探し求め、別の平坦で希望のある道を見つけたら、大声で「こちらに行くのがよい」と叫ぶことだ。同感の人々がこれによって身を翻し、危険を脱して進歩しやすくなることを望むのだ。もし誰かが別の方向に行こうとするなら、もう一度勧めるのも構わないが、それでも信じなければ、命がけで引き止める必要はなく、各自が自分の道を行けばよい。引き止めて喧嘩になっては、彼に益がないだけでなく、自分も同感の人々も時間を無駄にするのだから。
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イエスは言った。車が転覆しそうなのを見たら、支えてやれ。ニーチェは言った。車が転覆しそうなのを見たら、押してやれ。私はもちろんイエスの言葉に賛成する。しかし思うに、もし支えてもらいたくないなら、無理に支える必要はない。放っておけばよい。その後転覆しなければもちろん結構だし、もし結局ひっくり返ったなら、その時こそ切実に手を貸して起こしてやればよいのだ。
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兄よ、無理に支えるのは起こすよりも骨が折れ、効果も見えにくい。ひっくり返ってから起こすほうが、転覆しかけた時に支えるよりも、彼らにとってより有益なのだ。
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唐俟。十一月四日。
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(『新青年』第五巻第五号。)
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【】
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【第五巻】
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【声は哀楽なきの論】
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秦の客、東野の主人に問うて曰く、「之を前論に聞けば曰く、治世の音は安にして楽しく、亡国の音は哀にして思う、と。それ治乱は政にあり、而して音声之に応ず。故に哀思の情は金石に表れ、安楽の象は管弦に形る、と。又た仲尼、韶を聞き、虞舜の徳を識り、季札、弦を聴きて、衆国の風を識る。斯れ已然の事にして、先賢の疑わざる所なり。今、子独り以為えらく声に哀楽なしと。其の理は何くにか居る?若し嘉訊あらば、請う其の説を聞かん。」主人之に応じて曰く、「斯の義久しく滞りて、肯えて拯救する莫し。故に歴世をして名実に濫せしむ。今啓導を蒙り、将に其の一隅を言わんとす。それ天地徳を合わせ、万物生を資く。寒暑代わり往き、五行以て成る。章を五色と為し、発して五音と為す。音声の作、其れ猶お臭味の天地の間に在るがごとし。其の善と不善と、浊乱に遭うと雖も、其の体は自若にして変ずること無きなり。豈に愛憎を以て操を易え、哀楽もて度を改めんや?宮商の集比に及び、声音克く諧う。此れ人心の至願にして、情欲の鋳る所なり。古人、情の恣にすべからざるを知り、欲の極むべからざるを知る。故に其の用うる所に因りて毎に之が節を為す。哀をして傷に至らしめず、楽をして淫に至らしめず。事に因りて名を与え、物に其の号あり。哭、之を哀と謂い、歌、之を楽と謂う。斯れ其の大較なり。然れども楽と云い楽と云う、鍾鼓云うか哉?哀と云い哀と云う、哭泣云うか哉?兹に因りて言えば、玉帛は礼敬の実にあらず、歌舞は悲哀の主にあらざるなり。何を以て之を明らかにせん?それ殊方異俗にして、歌哭同じからず。錯りて之を用いしめば、或いは哭を聞きて歓び、或いは歌を聴きて戚しむ。然れども其の哀楽の懐は均しきなり。今均同の情を用いて、万殊の声を発す。斯れ音声の常なきにあらざらんや?然れども声音の和比は、人を感ぜしむるの最も深き者なり。労する者は其の事を歌い、楽しむ者は其の功を舞う。それ内に悲痛の心あれば、則ち激しく哀切の言を発す。言比して詩を成し、声比して音を成す。雑えて之を詠じ、聚めて之を聴く。心は和声に動き、情は苦言に感ず。嗟嘆未だ絶えざるに、泣涕流涟す。それ哀心は内に蔵し、和声に遇いて後に発す。和声に象なくして、哀心に主あり。それ主ある哀心を以て、象なき和声に因りて後に発すれば、其の覚悟する所は、唯だ哀のみ。豈に復た吹万の同じからざるを知りて、其をして自ら已ましめんや。風俗の流れ、遂に其の政を成す。是の故に国史は政教の得失を明らかにし、国風の盛衰を審らかにし、情性を吟詠して、以て其の上を諷す。故に曰く、亡国の音は哀にして思う、と。それ喜怒哀楽、愛憎慚懼、凡そ此の八者は、生民の以て物に接し情を伝うる所にして、区別に属あり、而して溢すべからざる者なり。それ味は甘苦を以て称と為す。今、甲の賢なるを以て心に愛し、乙の愚なるを以て情に憎む。則ち愛憎は宜しく我に属すべく、而して賢愚は宜しく彼に属すべきなり。我が愛を以て之を愛人と謂い、我が憎を以て之を憎人と謂うべけんや?喜ぶ所を以て之を喜味と謂い、怒る所を以て之を怒味と謂うべけんや?此に由りて之を言えば、則ち外内用を殊にし、彼我名を異にす。声音は自ら当に善悪を以て主と為すべく、則ち哀楽に関わり無し。哀楽は自ら当に情感ありて後に発すべく、則ち声音に系り無し。名実俱に去れば、則ち尽然として見るべし。且つ季子の魯に在りしは、詩を采り礼を観て、以て風雅を別ちしなり。豈に徒だ声に任せて以て臧否を決せんや?又た仲尼の韶を聞きしは、其の一致を嘆じしなり。是を以て咨嗟す。何ぞ必ずしも声に因りて虞舜の徳を知り、然る後に嘆美せんや?今粗ぼ其の一端を明らかにするも、亦た過半を思うべし。」
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秦の客難じて曰く、「八方の異俗にして、歌哭万殊なるも、然れども其の哀楽の情は、見ざるを得ざるなり。それ心は中に動き、声は心より出ず。之を他音に託し、之を余声に寄すと雖も、善く聴き察する者は、要ず自ら之を覚りて過ぐることを得しめざるなり。昔、伯牙琴を理め、而して鍾子其の至る所を知り、隷人磬を撃ちて、子産其の心の哀しきを識り、魯人晨に哭して、顔淵其の生離なるを察す。それ数子なる者は、豈に復た智を常音に仮り、験を曲度に借らんや?心戚しき者は則ち形之が為に動き、情悲しき者は則ち声之が為に哀し。此れ自然に相応じ、逃るるを得べからず。唯だ神明なる者のみ能く之を精しくするのみ。それ能ある者は声の衆きを以て難しとせず、能なき者は声の寡きを以て易しとせず。今、未だ善聴に遇わざるを以て声に察すべき理なしと謂うべからず、方俗の多変なるを見て声音に哀楽なしと謂うべからざるなり。又た云う、賢は宜しく愛と言うべからず、愚は宜しく憎と言うべからず、と。然らば則ち賢あって後に愛生じ、愚あって後に憎起こるも、但だ其の共の名に当たらざるのみ。哀楽の作も亦た由ありて然り。此れ声の我を哀しましめ、音の我を楽しましむるなり。苟しくも哀楽声に由れば、更に実あり。何ぞ名実俱に去るを得んや?又た云う、季札は詩を采り礼を観て以て風雅を別ち、仲尼は韶音の一致を嘆じて是を以て咨嗟す、と。是れ何の言ぞや?且つ師襄操を奏し、而して仲尼文王の容を睹る。師涓曲を進め、而して子野亡国の音を識る。寧ろ復た詩を講じて後に言を下し、礼を習いて然る後に評を立てんや?斯れ皆な神妙独見にして、留聞積日を待たずして、已に其の吉凶を綜ぶるなり。是を以て前史以て美談と為す。今、子、区区たる近知を以て、見る所を斉しくして限りと為す。乃ち前賢の識微を誣い、夫子の妙察に負くこと無きかな?」
  
Original text (excerpt): 【一九一八年】                  【梦】            很多的梦,趁黄昏起哄。      前梦才挤却大前梦时,后梦又赶走了前梦。      去的前梦黑如墨,在的后梦墨一般黑;      去的在的仿佛都说,“看我真好颜色;”      颜色许好,暗里不知;      而且不知道,说话的是谁?      ○  ○  ○      暗里不知,身热头痛。      你来你来!明白的梦。              (《新青年》第四卷第五号。)                    【爱之神】            一个小娃子,展开翅子在空中,      一手搭箭,一手张弓,      不知怎么一下,一箭射着前胸。       “小娃子先生,谢你胡乱栽培!       但得告诉我!我应该爱谁?”      娃子着慌,摇头说:“唉!       你
 
  
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=== 第2節 ===
 
=== 第2節 ===
  
This section contains parts of Ji Kang's philosophical treatise On Music Having No Grief or Joy as well as Lu Xun's early poems and literary scholarship from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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主人答えて曰く、「難じて云う、歌と哭は万殊なりといえども、善く聴き察する者はおのずからこれを覚り、智を常音に仮らず、験を曲度に借りず。鍾子の徒云々是なりと。これ心に哀しむ〔各本は悲に作る〕者は、談笑鼓舞すといえども、情に歓ぶ者は、膺を拊ち咨嗟すといえども、独り外形を御して自ら匿し、察者を疑似に誑すこと能わざるなり。爾は已にして就く〔四字は各本「以為就令」に作る。旧校同じ〕声音の常なきを為し、なお哀楽有るべしと謂えり。又曰く、季子は声を聴きて以て衆国の風を知り、師襄は操を奏して仲尼は文王の容を睹たりと。案ずるに云うところの如くんば、これ文王の功徳と風俗の盛衰と、皆これを声音に象るべきなり。声の軽重は後世に移すべく、襄涓の巧はまた〔各本この字を脱す〕これを将来に得ること能くべし。もし然らば、三皇五帝は今日に絶えざるべく、何ぞ独り数事のみならんや。もしこれ果たして然りとせば、文王の操に常度あり、韶武の音に定数あり、他の変を雑え、余声を以て操すべからざるなり。則ち向に謂うところの声音の常なきこと、鍾子の触類は、ここにおいて躓くなり。もし音声に常なく〔原鈔は之の字と常の字を脱す。黄汪本同じ。程二張本に拠りて加う〕、鍾子の〔黄汪本この字を脱す〕触類、その果たして然りとせば、仲尼の微を識ること、季札の善く聴くこと、固よりまた誣なり。これみな俗儒の妄記にして、その事を神にせんと欲して追いて為せるのみ。天下をして〔四字は旧校及び各本に従う〕声音の道に惑わしめんと欲し、理の自ずから尽くるを言わず。ここより推して〔張燮本は惟に作る〕、神妙にして知り難からしめ、奇聴に当時に遇わざるを恨み、古人を慕いて嘆息せしむ〔各本は自嘆に作る〕。これ〔二張本この字なし〕所以に大いに後生を罔すなり。それ類を推し物を辨ずるには、先ず自然の理に求むべし。理已に定まりて〔黄汪二張本は定に作る〕、然る後に古義を借りて以てこれを明らかにするのみ。今未だこれを心に得ずして、多く前言に恃みて以て談証と為す。此より以往、恐らくは巧暦も紀すること能わざらん〔各本この字を脱す〕。又難じて云う、哀楽の作は、なお愛憎の賢愚に由るが如く、これ声は我をして哀しましめ、音は我をして楽しましむるなり。いやしくも哀楽声に由らば、更に実あることとなる。それ五色に好醜あり、五声に善悪あり、これ物の自然なり。愛と不愛、喜と不喜に至りては〔原鈔は下三字を誤りて下文の物字の下に入る。今移して正す。各本は脱す。旧校もまた削る〕、人情の変にして物を統ぶるの理、ただここに止まるのみ。しかれども皆内に預かるなく、物を待ちて成るのみ。それ哀楽は自ら事の会する所を以て、先ず心に遘い、ただ和声に因りて自ら顕発するなり。ゆえに前論に已にその常なきを明らかにし、今また此の談を仮りて以てその名号を正すのみ。哀楽の声音に発するを謂うにあらず、愛憎の賢愚に生ずるが如きなり。しかれども和声の人心を感ぜしむるは、なお醞酒〔各本は酒醴に作る〕の人の性〔各本は情に作る〕を発するが如きなり。酒は甘苦を主とし、酔者は喜怒を用とす。歓戚の声に発するを見て、声に哀楽ありと謂うは、なお〔各本この字を脱す。旧校もまた削る〕喜怒の酒に使われるを見て、酒に喜怒の理ありと謂うべからざるが如きなり。」
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秦客難じて曰く、「それ気を観、色を采るは、天下の通用なり。心は内に変じて色は外に応ず。較然として見るべし。ゆえに吾子は疑わず。それ声音は気の激する者なり。心は感に応じて動き、声は変に従いて発す。心に盛衰あらば、声にもまた降〔張燮本は隆に作る。答文中の降殺の字をここに放つ〕殺あり。同じく一身に役せらるるに、何ぞ独り声に於いてすなわち疑うべけんや。それ喜怒は□診〔各本は色診に作る。旧校同じ〕に章かなり。哀楽もまた声音に形るべし。声音に自ずから哀楽あるべきも、ただ暗き者はこれを識ること能わざるのみ。鍾子の徒に至りては、常なき〔程本は当に訛る〕の声に遭うといえども、穎然として独り見るなり。今、蒙して瞽にして墻に面す」
  
Original text (excerpt): 主人答曰:“难云:虽歌哭殊万,善听察者要自觉之,不假智于常音,不借验于曲度。钟子之徒云云是也。此为心哀 各本作悲 者,虽谈笑鼓舞,情欢者,虽拊膺咨嗟,独不能御外形以自匿,诳察者于疑似也。尔为已就 四字各本作以为就令。旧校同 声音之无常,犹谓当有哀乐耳。又曰:季子听声,以知众国之风;师襄奏操,而仲尼睹文王之容。案如所云,此为文王之功德,与风俗之盛衰,皆可象之于声音。声之轻重,可移于后世,襄涓之巧,又 各本字夺 能得之于将来。若然者,三皇五帝,可不绝于今日,何独数事哉?若此果然也,则文王之操有常度,韶武之音有定数,不可杂以他变,操以余声也。则向所谓声音之无常,钟子之触类,于是乎踬矣。若音声之无常 原钞夺之字、常字。黄汪本同。据程二张本加 ,钟子之 黄汪本字夺 触类,其果然邪?则仲尼之识微,季札之善听,固亦诬矣。此皆俗儒妄记,欲神其事而追为耳。欲令天下 四字从旧校及各本 惑声音之道,不言理自。尽
 
  
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=== 第3節 ===
 
=== 第3節 ===
  
This section contains parts of Ji Kang's philosophical treatise On Music Having No Grief or Joy as well as Lu Xun's early poems and literary scholarship from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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主人答えて曰く、「人情は哀楽に感ずといえども、哀楽にはおのおの多少あり。また哀楽の極は、必ずしも同じく致るにあらざるなり。それ小哀なれば容は壊れ、甚だ悲しければ泣く。哀の方なり。小歓なれば顔は悦び、至楽なれば笑う。楽の理なり。何を以てこれを言うか。それ至親安豫なれば、すなわち怡然として自若たり、猖狂するところなり。危急に在りて、僅かにして後に済するに及べば、すなわち抃して舞うに及ばず。これに由りてこれを言えば、舞の先の自得に若かざること、豈に然らざらんや。それ笑噱に至りては、歓情より出づといえども、然れども自ら理を以て成る。また自然に声に応ずるの具にあらざるなり。これ楽の声に応ずるは、自得を以て主と為し、哀の感に応ずるは、垂涕を以て故と為す。垂涕すれば形動きて覚るべく、自得すれば神合して変なし。ここを以てその異を観て、その同を識らず。その外を別ちて、未だその内を察せざるのみ。然れども笑噱の声音に顕れざること、豈にひとり斉楚の曲のみならんや。今楽を自得の域に求めずして、笑噱なきを以て斉楚は哀を体すと謂う、豈に哀を知りて楽を識らざるにあらずや。」
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秦客問いて曰く、「仲尼に言あり、風を移し俗を易うるは、楽より善きはなし、と。すなわち論ずるところのごとく、およそ百の哀楽、皆声に在らずとせば、すなわち風を移し俗を易うるは、果たして何物を以てするや。また古人は靡靡の風を慎み、耳を慆すの声を抑う。故に曰く、鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ、と。然らば鄭衛の音、鳴球を撃ちて以て神人を協わす。敢えて問う、鄭雅の体、隆弊の極まるところ、風俗の移り易わること、何に由りて済さんや。願わくは重ねてこれを聞き、以て疑うところを悟らん。」
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主人これに応えて曰く、「それ風を移し俗を易うると言う者は、必ず衰弊の後を承くるなり。古の王者は、天を承けて物を理め、必ず簡易の教えを崇び、無為の治を御す。君は上に静かに、臣は下に順う。玄化潜かに通じ、天人交わりて泰し。枯槁の類も、霊液に浸育せられ、六合の内、鴻流に沐浴して、塵垢を蕩滌す。群生安逸にして、自ら多福を求む。黙然として道に従い、忠を懐き義を抱きて、その然る所以を覚えざるなり。和心は内に足り、和気は外に見る。故に歌いて以て志を叙べ、舞いて以て情を宣ぶ。然る後にこれに文うるに采章を以てし、これを照らすに風雅を以てし、これを播くに八音を以てし、これに感ぜしむるに太和を以てす。その神気を導き、養いてこれを就す。その情性を迎え、致してこれを明らかにす。心と理とをして相順ぜしめ、気と声とをして相応ぜしむ。会通に合して、以てその美を済す。故に凱楽の情は金石に見れ、含弘光大は音声に顕る。もし以往なれば万国風を同じくし、芳栄済々として茂り、馥しきこと秋蘭のごとし。期せずして信あり、謀らずして成り、穆然として相愛す。なお錦を舒べ彩を布くがごとく、燦炳として観るべきなり。大道の隆んなること、これより盛んなるはなく、太平の業、これより顕かなるはなし。故に曰く、風を移し俗を易うるは、楽より善きはなし、と。然れども楽の体たるや、心を以て主と為す。故に無声の楽は、民の父母なり。八音会して諧い、人の悦ぶところに至りては、また総じてこれを楽と謂う。然れども風俗の移易は、本よりここに在らざるなり。それ音声の和して比するは、人情の已むあたわざるところなり。ここを以て古人は情の放つべからざるを知る、故にその遁ぐるところを抑う。欲の絶つべからざるを知る、故に自ら以て致すところとなす。故に奉ずべきの礼を為し、導くべきの楽を制す。口は味を尽くさず、楽は音を極めず。終始の宜しきを揆り、賢愚の中を度り、これが検則を為して、遠近をして風を同じくせしめ、用いて竭きず、また忠信を結び、不遷を著すゆえんなり。故に郷校庠塾も亦これに随う。絲竹をして俎豆と並び存し、羽毛をして揖譲と倶に用いらしめ、正言をして和声と同に発せしむ。この声を聴かんとすれば、必ずこの言を聞き、この容を観んとすれば、必ずこの礼を崇ぶ。礼はなお賓主の升降のごとく、然る後に酬酢行わる。ここにおいて言語の節、声音の度、揖譲の儀、動止の数、進退相須ちて、共に一体を為す。君臣はこれを朝に用い、庶士はこれを家に用う。少くしてこれを習い、長じて怠らず、心安んじ志固く、善に従いて日に遷る。然る後にこれに臨むに敬を以てし、これを持するに久しくして変ぜず、然る後に化成る。これまた先王の楽を用うるの意なり。故に朝宴聘享に嘉楽必ず存す。ここを以て国史は風俗の盛衰を采り、これを楽工に寄せ、これを管弦に宣べ、言う者をして罪なからしめ、聞く者をして以て自ら戒むるに足らしむ。これまた先王の楽を用うるの意なり。もし鄭声に至りては、これ音声の至妙なり。妙音の人を感ぜしむること、なお美色の志を惑わすがごとく、盤に耽り酒に荒れ、以て業を喪いやすし。至人にあらざれば、孰かよくこれを御せん。先王は天下の流れて反らざるを恐る、故にその八音を具え、その声を瀆さず、その大和を絶ち、その変を窮めず。窈窕の声を捐て、楽しみて淫せざらしむ。なお大羹の和せずして、勺薬の味を極めざるがごとし。もし浅近に流浴すれば、声は悦ぶに足らず、また歓ぶところにあらざるなり。もし上その道を失い、国その紀を喪い、男女奔随して、淫荒度なければ、風はこれを以て変じ、俗は好みを以て成る。その志をしきものは、群もよくこれを肆にし、その習いを楽しむものは、何を以てこれを誅せんや。和声に託し、配してこれを長じ、誠は言に動き、心は和に感じ、風俗ひとたび成れば、因りてこれを名づく。然れどもその名づくるところの声、淫邪に甚だしきものなきなり。淫と正とは心に同じ、雅鄭の体もまた以て観るに足る。」
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【第六篇 六朝の鬼神志怪書(下)】
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釈氏の教えを輔くるの書は、『隋志』に九家を著録し、子部および史部に在り、今はただ顔之推の『冤魂志』のみ存す。経史を引きて報応を証し、すでに儒釈混合の端を開きたり。而してその余はすべて佚す。遺文の考え見るべきものには、宋の劉義慶の『宣験記』、斉の王琰の『冥祥記』、隋の顔之推の『集霊記』、侯白の『旌異記』の四種あり、大抵は経像の顕効を記し、応験の実に有ることを明らかにし、以て世俗を震耸し、敬信の心を生ぜしめんとす。顧みれば後世にはあるいは小説と視せり。王琰は太原の人、幼くして交阯に在り、五戒を受け、宋の大明および建元(五世紀中)年に、二たび金像の異に感じ、因りて記を作り、像の事を撰集し、経塔を以て継ぎ、凡そ十巻、これを『冥祥』と謂う。自らその事を序すること甚だ悉し(『法苑珠林』巻十七に見ゆ)。『冥祥記』は『珠林』および『太平広記』中に存するもの最も多く、その叙述もまた最も委曲詳尽なり。今略ぼ三事を引きて、以てその余を概す。
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漢の明帝、夢に神人を見る。形は二丈に垂んとし、身は黄金色、項に日光を佩ぶ。以て群臣に問うに、あるいは対えて曰く、「西方に神あり、その号は仏と曰う。形は陛下の夢に見たまいしがごとし、これにあらずや。」ここにおいて使者を天竺に発し、経像を写し致す。これを中夏に表し、天子王侯より、ことごとく敬い事え、人の死して精神滅びざるを聞きて、惧然として自失せざるはなし。初め、使者蔡愔、西域の沙門迦葉摩騰らを将いて、優填王の画ける釈迦仏像を齎す。帝これを重んじ、夢に見しがごとくなれば、すなわち画工を遣わしてこれを数本図かしめ、南宮の清涼台および高陽門の顕節寿陵の上に供養す。また白馬寺に千乗万騎塔を繞ること三匝の像を壁画す。諸伝に備さに載するがごとし。(『珠林』十三)
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晋の謝敷、字は慶緒、会稽山陰の人なり。……少くして高操あり、東山に隠れ、大法を篤信し、精勤して倦まず、手ずから『首楞厳経』を写す。まさに都の白馬寺中に在りしとき、寺は災火の延ぶるところとなり、什物余経、並びに煨燼と成る。而してこの経はただ紙の頭の界の外を焼くのみにて、文字はことごとく存し、毀失するところなし。敷の死せる時、友人その得道せるを疑い、この経のことを聞くに及びて、いよいよまた驚異す。……(『珠林』十八)
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晋の趙泰、字は文和、清河貝丘の人なり。……年三十五の時、かつて卒かに心痛し、須臾にして死す。尸を地に下すも、心は暖かきこと已まず、屈伸人に随う。尸を留むること十日、平旦に喉中に声ありて雨のごとし。俄にして蘇りて活く。初め死する時を説くに、夢に一人来たりて心下に近づき、また二人黄馬に乗り、従者二人ありて、泰の腋を扶けて径ちに東行に将いゆくこと、幾里ばかりか知らず、一大城に至る。崔巍として高峻、城の色は青黒なり。泰を将いて城門より入り、二重の門を経るに、瓦屋数千間ばかりあり、男女大小また数千人、行列して立つ。吏は皂衣を著し、五六人あり、姓字を条疏して、「まさに科を以て府君に呈すべし」と云う。泰の名は三十に在り。須臾にして泰と数千人の男女を将いて一時にともに進む。府君は西向きに坐し、名簿を簡視し訖りて、また泰を遣わして南に黒門より入らしむ。人の絳衣を著して大屋の下に坐するあり、次を以て名を呼び、問う、「生時の所事は何ぞ。何の孽罪を作せるか。何の福善を行えるか。汝等の辞を諦かにし、実を以て言え。ここには恒に六部の使者を遣わして常に人間に在らしめ、善悪を疏記し、具さに条状あり、虚を得べからず。」泰答う、「父兄は仕宦し、皆二千石なり。我少くして家に在り、修学するのみ、事とするところなく、また悪を犯さず。」すなわち泰を遣わして水官の将作と為す。……後に泰を転じて水官都督とし諸獄の事を知らしめ、泰に兵馬を給し、地獄を案行せしむ。至るところの諸獄、楚毒おのおの殊なり。あるいは針もてその舌を貫き、血を流すこと体に竟り、あるいは頭を被き髪を露し、裸形徒跣にて相牽きて行き、大杖を持する者あり、後より催促す。鉄床銅柱、これを焼くこと洞然たり、この人を駆迫してその上に抱き臥さしむれば、赴けばすなわち焦爛し、尋いでまた還りて生ず。……あるいは剣樹あり高く広く、限量を知らず、根茎枝葉、皆剣もてこれを為す。人衆相訾り、自ら登り自ら攀じ、欣び競うあるがごとくして、身首割截せられ、尺寸離断す。泰、祖父母および二弟のこの獄中に在るを見て、相見て涕泣す。泰、獄門を出づるに、二人の文書を齎す者あり、来たりて獄吏に語る。三人あり、その家その為に塔寺中に幡を懸け香を焼きて、その罪を救解し、福舎に出づべしと言う。俄にして三人獄より出づるを見るに、すでに自然の衣服あり、完整にして身に在り。南に一門に詣る、名を開光大舎と云う。……泰案行し畢りて、水官のところに還る。……主者曰く、「卿は罪過なし、故に相使して水官都督と為す。しからずんば、地獄中の人と以て異なることなきなり。」泰、主者に問いて曰く、「人はいかなる行あれば、死して楽報を得るか。」主者ただ言う、「奉法の弟子、精進して持戒すれば、楽報を得て、謫罰あることなきなり。」泰また問いて曰く、「人いまだ法に事えざる時に行いし罪過は、法に事えし後に、以て除くを得るや否や。」答えて曰く、「皆除かるるなり。」語り畢りて、主者は縢箧を開きて泰の年紀を検するに、なお余算三十年在り、すなわち泰を遣わして還らしむ。……時に晋の太始五年七月十三日なり。……(『珠林』七。『広記』三百七十七)
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仏教すでに漸く流播し、経論日に多く、雑説もまた日に出づ。聞く者はあるいは無常を悟りて帰依するも、またあるいは無常を怖れて却走す。この反動として、方士もまた自ら偽経を造り、多く異記を作り、長生久視の道を以て、天下の苦空を逃るる者を網羅す。今存するところの漢の小説は、一二の文人の著述を除くほかは、その余は蓋しみなこれなり。方士の書を撰するは、大抵古人に託名す。故に晋宋の人の作と称するもの多くはなし。ただ類書の間に『神異記』を引くものあり、すなわち道士王浮の作なり。浮は晋の人にして、浅妄の称あり。すなわち恵帝の時(三世紀末より四世紀初)帛選と抗論して屡々屈し、遂に『西域伝』を改換して老子の『明威化胡経』を造りし者なり(唐の釈法琳の『弁正論』六に見ゆ)。その記もまた神仙鬼神を言うこと、『洞冥』・『列異』の類のごとし。
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陳敏、孫皓の世に江夏太守と為り、建業より職に赴く。宮亭廟の験あるを聞き、過ぎて任に在りて安穏ならんことを乞い、まさに銀杖一枚を上ぐべしとす。年限すでに満ち、杖を作りて以て廟に還さんと擬し、鉄を捶ちて以て干と為し、銀を以てこれに塗る。尋いで散騎常侍に徵され、宮亭に往き、杖を廟中に送り訖りて、すなわち路に進む。日晩に、降神の巫宣教して曰く、「陳敏我に銀杖を許すも、今塗杖を以て与えらる。すなわち水中に投じ、まさに以てこれを還すべし。欺蔑の罪は容すべからざるなり。」ここにおいて銀杖を取りてこれを看るに、剖きて中を視れば鉄の干を見る。すなわちこれを湖中に置く。杖は水上に浮き、その疾きこと飛ぶがごとく、遥かに敏の舫の前に到り、敏の舟遂に覆る。(『太平御覧』七百十)
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丹丘は大茗を生じ、これを服すれば羽翼を生ず。(『事類賦注』十六)
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『拾遺記』十巻、晋の隴西の王嘉の撰と題し、梁の蕭綺録す。『晋書・芸術列伝』中に王嘉あり、略ぼ云う。嘉、字は子年、隴西安陽の人。初め東陽谷に隠れ、後に長安に入る。苻堅累ねて徵すれども起たず。よく未然の事を言い、辞は讖記のごとく、当時よくこれを暁る者鮮し。姚萇長安に入り、嘉を逼りて自ら随わしむ。後に答問の萇の意に失するを以て、萇の殺すところと為る(約三九〇年)。嘉かつて『牽三歌讖』を造り、また『拾遺録』十巻を著す。その事多く詭怪にして、今世に行わる。伝に云う『拾遺録』なる者は、蓋しすなわち今の記なり。前に蕭綺の序あり、言う、書は本十九巻、二百二十篇、苻秦の季に当たりて、典章散滅し、この書もまた多く亡ぶることあり。綺さらに繁を削り実を存し、合して一部と為す。凡そ十巻なり。今の書の前九巻は庖犧に起こりて東晋に迄り、末の一巻は崑崙等の九仙山を記す。序に謂うところの「事は西晋の末に訖る」とはやや同じからず。その文筆は頗る靡麗にして、事はみな誕漫にして実なし。蕭綺の録もまた附会にして、胡応麟(『筆叢』三十二)以て「蓋しすなわち綺の撰にして王嘉に託せるなり」と為す。
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少昊は金徳を以て王たり。母は皇娥と曰い、璇宮に処りて夜に織り、あるいは桴木に乗じて昼に遊び、窮桑滄茫の浦を経歴す。時に神童あり、容貌俗を絶し、白帝の子と称す。すなわち太白の精にして、水際に降り、皇娥と宴戲し、便娟の楽を奏し、游漾して帰るを忘る。窮桑なる者は西海の浜にして、孤桑の樹あり、直上すること千尋、葉は紅く椹は紫にして、万歳に一たび実を結び、これを食すれば天に後れて老ゆ。……帝子と皇娥と並び坐し、桐峰の梓瑟を撫す。皇娥瑟に倚りて清歌して曰く、「天清く地曠くして浩として茫茫たり、万象回薄して化すること方なし、浛天蕩蕩として滄滄を望み、桴に乗じて軽く漾いて日の傍に著く、まさにいずくにか至りて窮桑に至らん、心は和楽を知りて悦びていまだ央きず。」俗に遊楽の処を桑中と謂うなり。『詩・衛風』に「我を桑中に期す」と云うは、蓋しこれに類するなり。……皇娥少昊を生むに及び、号して窮桑氏と曰い、また桑丘氏と曰う。六国の時に至りて、桑丘子陰陽の書を著す。すなわちその余裔なり。……(巻一)
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劉向、成帝の末に天禄閣に書を校す。専精覃思す。夜に老人ありて黄衣を著し、青藜の杖を植え、閣に登りて進む。向の暗中に独り坐して書を誦するを見て、老父すなわち杖の端を吹くに、煙燃え、因りて以て向に見え、開闢以前を説く。向、因りて五行洪範の文を受く。辞説の繁広にしてこれを忘れんことを恐れ、すなわち帛および紳を裂きて、以てその言を記す。曙に至りて去る。向、姓名を請い問うに、云う、「我はこれ太一の精なり。天帝卯金の子に博学の者あるを聞き、下りて観るなり。」すなわち懐中の竹牒を出すに、天文地図の書あり、「余略ぼ子に授けん。」向の子歆に至り、向より其の術を授かる。向もまたこの人を悟らざるなり。(巻六)
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洞庭山は水上に浮かぶ。その下に金堂数百間あり、玉女これに居す。四時金石絲竹の声を聞くこと、山頂に徹す。楚の懐王の時、群才を挙げて水湄に詩を賦す。……後に懐王奸雄を進むるを好み、群賢逃越す。屈原は忠を以て斥けられ、沅湘に隠れ、蓁を披き草を茹り、禽獣に混同して、世務に交わらず、柏実を采りて桂膏を和し、以て心神を養う。王に逼迫せられて、すなわち清泠の水に赴く。楚人思慕し、これを水仙と謂う。その神は天河に遊び、精霊時に湘浦に降る。楚人これが為に祠を立つ。漢末なお在り。(巻十)
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【第二十四篇 清の人情小説】
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乾隆中(一七六五年頃)、小説に『石頭記』なるものあり、忽ち北京に出づ。五六年を歴て盛行す。然れどもみな写本にして、数十金を以て廟市に鬻ぐ。その本はただ八十回にて、開篇にすなわち本書の由来を叙す。女媧天を補うに、ひとり一石を留めて用いず。石甚だ自ら悼嘆す。俄にして一僧一道を見るに、以て「形体はまずは一個の宝物なり。まだただ実在の好いところがない。すべからくさらに数字を鐫りつけ、人をして一見してすなわち奇物なるを知らしむるのが妙であろう。然る後に好くも汝を隆盛昌明の邦、詩礼簪纓の族、花柳繁華の地、温柔富貴の郷に携え、安身立業せしめん」と為す。ここにおいてこれを袖にして去る。さらに幾劫を歴たるを知らず、空空道人あり、この大石を見るに、上に文詞を鐫る。石の請いに従い、鈔して以て世に問う。道人もまた「空に因りて色を見、色に由りて情を生じ、情を伝えて色に入り、色より空を悟り、遂に名を情僧と易え、『石頭記』を改めて『情僧録』と為す。東魯の孔梅渓はすなわち『風月宝鑑』と題す。後に曹雪芹の悼紅軒中にて披閲すること十載、増刪すること五次、目録を纂成し、章回を分出するに因り、すなわち『金陵十二釵』と題し、並びに一絶を題して云う、『満紙荒唐の言、一把辛酸の涙。都な作者の痴と云うも、誰かその中の味を解せん。』」(戚蓼生の序する八十回本の第一回)
  
Original text (excerpt): 主人答曰:“虽人情感 黄本讹慼 于哀乐,哀乐各有多少。又哀乐之极,不必同致也。夫小哀容 程本讹密 坏,甚悲而泣;哀之方也。小欢颜悦,至乐而笑 各本作心愉 ;乐之理也。何以言 各本作明 之?夫至亲安豫,则怡然自若 各本作恬若自然 ,所猖狂 各本作自得 也。及在危急,仅然后济,则抃不及儛。由此言之,儛之不若向之自得,岂不然哉?至夫笑噱,虽出于欢情,然自以理成;又非 各本六字夺。旧校亦删 自然应声之具也。此为乐之应声,以自得为主;哀之应感,以垂涕为故。垂涕则形动而可觉,自得则神合而无变 各本作忧 。是以观其异,而不识其同 原钞四字夺。依各本及旧校加 ;别其外,而未察其内耳。然笑噱之不显于声音,岂独齐楚之曲邪?今不求乐于自得之域,而以无笑噱谓齐楚体哀,岂不知哀而不识乐乎?”    秦客问曰:“仲尼有言:移风易俗,莫善于乐。即如所论,凡百哀乐,皆不在声,则 各本作即 移风易俗,果以何物邪?又古人慎靡
 
  
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=== 第4節 ===
 
=== 第4節 ===
  
This section discusses the novel Dream of the Red Chamber from Lu Xun's A Brief History of Chinese Fiction from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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本文の叙事するところは石頭城(すなわち金陵にあらず)の賈府にあり、寧国・栄国二公の後なり。寧公の長孫を敷と曰い、早く死す。次の敬は爵を襲うも、性は道を好み、また爵を子の珍に譲り、家を棄てて仙を学ぶ。珍遂に縦恣し、子の蓉あり、秦可卿を娶る。栄公の長孫を赦と曰い、子の璉あり、王熙鳳を娶る。次を政と曰う。女を敏と曰い、林海に適ぎ、中年にして亡じ、僅かに一女を遺す、黛玉と曰う。賈政は王氏を娶り、子の珠を生むも、早く卒す。次に女を生み元春と曰い、後に選ばれて妃と為る。次にまた子を得るに、すなわち玉を銜みて生まる。玉にまた字あり、因りて宝玉と名づく。人みな以て「来歴小さからず」と為す。而して政の母の史太君はことに鍾愛す。宝玉すでに七八歳、聡明人に絶するも、性は女子を愛し、常に言う、「女の子は水で出来た骨肉で、男は泥で出来た骨肉だ。」人ここにおいてまた以て将来は「色鬼」と為らんと為す。賈政もまたあまり愛惜せず、これを御すること極めて厳なり。蓋し「この人の来歴を知らざるに縁る。……もし多く書を読み字を識り、致知格物の功を加え、悟道参玄の力ある者にあらざれば、知ることあたわざるなり」(戚本第二回賈雨村云う)に因る。而して賈氏には実にまた「閨閣の中歴歴として人あり」、主従のほかに、姻連もまた衆し。黛玉・宝釵のごときは、皆来たりて寄寓し、史湘雲もまた時に至り、尼の妙玉はすなわち後園に習静す。右すなわち賈氏の譜の大要にして、虚線を用うるはその姻連、×を著すは夫婦、*を著すは「金陵十二釵」の数に在る者なり。
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事すなわち林夫人(賈敏)の死に始まる。黛玉は恃を失い、またよく病み、遂に来たりて外家に依る。時に宝玉と同年にして、十一歳なり。すでにして王夫人の女弟の生める女もまた至る。すなわち薛宝釵にして、一年年長にして、頗る端麗を極む。宝玉は純朴にして、並びに二人を愛し偏心なし。宝釵は渾然として覚えず、而して黛玉はやや恚る。一日、宝玉倦みて秦可卿の室に臥す。遽に夢みて太虚境に入り、警幻仙に遇い、『金陵十二釵正冊』および『副冊』を閲す。図あり詩あり、然れども解せず。警幻は新制の『紅楼夢』十二支を奏ぜしむ。その末闋を『飛鳥各投林』と為し、詞に云う、
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「官と為りし者は、家業凋零す。富貴なりし者は、金銀散じ尽く。恩ありし者は、死裏に逃生す。無情なる者は、分明に報応す。命を欠きし者は命すでに還り、涙を欠きし者は涙すでに尽きぬ。……破り看たる者は、空門に遁入し、痴迷せる者は、枉に性命を送れり。好く一つ似たり、食い尽くして鳥林に投ずるに。落ちたるは片の白茫茫たる大地、真に干浄なり。」(戚本第五回)
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然れども宝玉またも解せず、さらに他の夢を歴て寤む。元春の選ばれて妃と為るに逮びて、栄公府はいよいよ貴盛し、その帰省に及びて、大観園を辟きて以てこれを宴す。情親ことごとく至り、天倫の楽を極む。宝玉もまた漸く長じ、外にては秦鍾・蒋玉函に昵み、帰りてはすなわち姉妹中表および侍児の襲人・晴雯・平児・紫鵑の輩の間に周旋す。昵みてこれを敬い、その意に拂うを恐れ、愛は博くして心は労し、而して憂患もまた日に甚だしくなれり。
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この日、宝玉は湘雲の漸く癒ゆるを見て、然る後に黛玉を看に往く。まさに黛玉の昼寝を終えたばかりの時に当たり、宝玉は驚かすを敢えてせず。紫鵑がまさに回廊の上にて手に針仕事をしているのを見て、すなわち上がりて問う、「昨夜の咳は少しはましか。」紫鵑道う、「ましになりました。」宝玉道う、「阿弥陀仏、どうか良くなりますように。」紫鵑笑いて道う、「あなたも念仏するようになって、本当にニュースですこと。」宝玉笑いて道う、「いわゆる『病篤くして医を乱投す』というやつさ。」一面に言いつつ、彼女が弾墨綾子の薄綿袄を着て、外にはただ青緞子の挟背心だけを着ているのを見て、宝玉はすなわち手を伸ばして彼女の身の上を一撫でして言う——
  
Original text (excerpt): 本文所叙事则在石头城 非即金陵 之贾府,为宁国、荣国二公后。宁公长孙曰敷,早死;次敬袭爵,而性好道,又让爵于子珍,弃家学仙;珍遂纵恣,有子蓉,娶秦可卿。荣公长孙曰赦,子琏,娶王熙凤;次曰政;女曰敏,适林海,中年而亡,仅遗一女曰黛玉。贾政娶于王,生子珠,早卒;次生女曰元春,后选为妃;次复得子,则衔玉而生,玉又有字,因名宝玉,人皆以为“来历不小”,而政母史太君尤钟爱之。宝玉既七八岁,聪明绝人,然性爱女子,常说:“女儿是水作的骨肉,男人是泥作的骨肉。”人于是又以为将来且为“色鬼”;贾政亦不甚爱惜,驭之极严,盖缘“不知道这人来历。……若非多读书识字,加以致知格物之功,悟道参玄之力者,不能知也” 戚本第二回贾雨村云 。而贾氏实亦“闺阁中历历有人”,主从之外,姻连亦众,如黛玉、宝钗,皆来寄寓,史湘云亦时至,尼妙玉则习静于后园。右即贾氏谱大要,用虚线者其姻连,著×者夫妇,著*者在“金陵十二钗”之数者也。
 
  
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=== 第5節 ===
 
=== 第5節 ===
  
This section discusses the novel Dream of the Red Chamber from Lu Xun's A Brief History of Chinese Fiction from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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しかれども『紅楼夢』は作者の自叙なりと謂い、本書の開篇と契合するものは、その説の出づること実に最も先にして、確定するは反って最も後なり。嘉慶の初め、袁枚(『随園詩話』二)すでに云う、「康熙中、曹練亭は江寧織造と為り、……その子雪芹は『紅楼夢』一書を撰し、備さに風月繁華の盛んなるを記す。中にいわゆる大観園なる者は、すなわち余が随園なり。」末の二語は蓋し誇りなり。余もまたいささかの小誤あり(楝を練と為し、孫を子と為すがごとし)。しかれどもすでに明らかに雪芹の書は、その聞見するところを記すと言えり。而して世間これを信ずる者は特に少なし。王国維(『静庵文集』)はまた難詰して、以て「いわゆる『親しく見親しく聞く』とは、また傍観者の口より言うことを得べし、必ずしも躬ら劇中の人物と為るにあらず」と為す。胡適の考証を作すに逮びて、すなわちいよいよ彰明にして、曹雪芹は実に栄華に生まれ、苓落に終わり、半生の経歴は「石頭」に絶似し、西郊に書を著すも、就らずして没す。晩に出づる全書は、すなわち高鶚の続成したるものなりと知る。
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雪芹の名は霑、字は芹渓、一字は芹圃、正白旗漢軍なり。祖の寅、字は子清、号は楝亭、康熙中に江寧織造と為る。清の世祖南巡の時、五次織造署を以て行宮と為す。後の四次は皆寅の在任中なり。しかれどもすこぶる風雅を嗜み、かつて古書十余種を刻し、時の称するところとなる。また能く文し、著すところに『楝亭詩鈔』五巻『詞鈔』一巻あり(『四庫書目』)、伝奇二種あり(『在園雑志』)。寅の子、すなわち雪芹の父もまた江寧織造と為る。故に雪芹は南京に生まる。時は蓋し康熙の末なり。雍正六年、任を卸し、雪芹もまた北京に帰る。時に約十歳なり。しかるに何の因によるか知らず、これより後、曹氏は巨変に遭いしごとく、家は頓に落ち、雪芹は中年に至りて、すなわち貧にして西郊に居し、粥を啜り、しかもなお傲兀にして、時にまた酒を縦にして詩を賦す。『石頭記』を作るは蓋しまたこの際なり。乾隆二十七年、子殤じ、雪芹傷感して疾を成し、除夕に至りて卒す。年四十余(一七一九?——一七六三)。その『石頭記』はなお就らず、今伝わるところはただ八十回のみなり(詳しくは『胡適文選』を見よ)。
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後の四十回を高鶚の作と言う者は、俞樾(『小浮梅閑話』)の云う、「『船山詩草』に『高蘭墅鶚同年に贈る』一首あり、『艶情人自ら紅楼を説く』と云う。注に云う、『紅楼夢は八十回以後、すべて蘭墅の補うところなり。』然らばこの書は一手より出でたるにあらず。按ずるに郷会試に五言八韻の詩を増すは、乾隆朝に始まる。而して書中に科場の事を叙するにすでに詩あれば、その高君の補いしところなるを証すべし。」と。しかれども鶚の作りし序には、ただ「友人程子小泉、余を過り、その購うところの全書を以て示し、かつ曰く、『これ僕の数年銖積寸累の辛心なり。まさに剞劂に付して、同好に公にせんとす。子は閑にしてかつ惫れたり、盍ぞこれを分担せざるや。』余以てこの書は……なお名教に背かず……遂にその役を襄く。」と言うのみ。蓋し己より出づるを明言するを欲せざるも、而して僚友にはすこぶるこれを知る者あり。鶚はすなわち字を蘭墅と曰い、鑲黄旗漢軍にして、乾隆戊申の挙人、乙卯の進士、旋いで翰林に入り、侍読に官す。またかつて嘉慶辛酉の順天郷試の同考官と為る。その『紅楼夢』を補うは、まさに乾隆辛亥の時に当たり、いまだ進士と成らず、「閑にしてかつ惫れたり」なれば、雪芹の蕭条の感に偶々あるいは相通ず。しかれども心志いまだ灰ならざれば、いわゆる「暮年の人、貧病交々攻め、漸く下世の光景を露出す」(戚本第一回)という者とはまた絶えて異なる。ここを以て続書もまた悲涼なりといえども、賈氏は終に「蘭桂斉しく芳し」くして、家業復興し、殊に茫茫たる白地、真に干浄と成るがごときものには類せざるなり。
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続『紅楼夢』は八——
  
Original text (excerpt): 然谓《红楼梦》乃作者自叙,与本书开篇契合者,其说之出实最先,而确定反最后。嘉庆初,袁枚 《随园诗话》二 已云:“康熙中,曹练亭为江宁织造,……其子雪芹撰《红楼梦》一书,备记风月繁华之盛。中有所谓大观园者,即余之随园也。”末二语盖夸,余亦有小误 如以楝为练,以孙为子 ,但已明言雪芹之书,所记者其闻见矣。而世间信者特少,王国维 《静庵文集》 且诘难此类,以为“所谓‘亲见亲闻’者,亦可自旁观者之口言之,未必躬为剧中之人物”也,迨胡适作考证,乃较然彰明,知曹雪芹实生于荣华,终于苓落,半生经历,绝似“石头”,著书西郊,未就而没;晚出全书,乃高鄂续成之者矣。      雪芹名霑,字芹溪,一字芹圃,正白旗汉军。祖寅,字子清,号楝亭,康熙中为江宁织造。清世祖南巡时,五次以织造署为行宫,后四次皆寅在任。然颇嗜风雅,尝刻古书十余种,为时所称;亦能文,所著有《楝亭诗钞》五卷《词钞》一卷 《四库书目》 ,传奇二
 
  
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=== 第6節 ===
 
=== 第6節 ===
  
This section contains Ji Kang's philosophical treatise on dwellings and living, along with a rebuttal from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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第八巻
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宅に吉凶なき摂生論 上を難ず
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それ善く寿強を求むる者は、必ず先ず夭疾の自ら来たるところを知り、然る後にその至るを防ぐべきなり。禍はここに起こりて、防ぐはかしこに為す。すなわち禍は自ら瘳ゆるなし。世に安宅・葬埋・陰陽・度数・刑徳の忌あり、これ何より生ずるか。性命を見ず、禍福を知らざるなり。見ざる故に妄りに求め、知らざる故に幸を干す。ここを以て善く生を執る者は、性命の宜しきところを見、禍福の来たるところを知る。故にこれを実に求め、これを信に防ぐ。それ多く飲みて走れば、すなわち澹支と為り、しばしば行きて風に当たれば、すなわち痒毒と為り、久しく湿に居れば、すなわち要疾偏枯し、内を好みて怠らざれば、すなわち昏喪して女疾す。かくのごときの類は、災の来たるゆえんにして、寿の去るゆえんなり。而して墓を掘り室を築き、日を費やし身を苦しめて以てこれを求む。疾は形に生じて、治は土木に加う。これ疾の瘳ゆる道なし。詩に云う、「恺悌の君子、福を求めて回らず」とは、謗議を避けて義然たるにあらざるなり。蓋し回は福を求むるところにあらざるを知ればなり。故に寿強なり。気を専らにして柔を致し、私を少なくして欲を寡くし、直ちに情性の宜しきところを行いて、養生の正度に合す。これを懐抱の内に求めて、これを得たり。かつて蚕を知らざる者あり、口を出だし手を動かすに、みな忌祟と為す。蚕を得ること滋ますます甚だしからず、忌祟のためにますます多し。なおみずから犯すと以為えるなり。蚕を知る者あり、これに教えて、蚕はもっぱら桑と火と寒暑燥湿にあるを知らしむれば、ここにおいて百忌おのずから息み、利すること十倍なり。何となれば、先ず然る所以を知らざれば、故に忌祟の情繁く、後に然る所以を知る者は、故にこれを求むるの術正し。故に忌祟は常に不知より生ず。性命を知ることなお蚕を知るがごとくならしめば、忌祟は立つところなし。多く食して消さざれば、黄丸を含みて筮祝し谴祟を祓い、あるいは胡に従いて福を求むる者は、およそ人の笑うところなり。何となれば、智もてその禍なきを達するを以てなり。忌祟のことごとく不知より生ずること、知る者よりこれを言えば、みな胡に乞うがごとし。設けて三公の宅と為し、愚民をしてこれに居らしめば、必ずしも三公と為らず。知るべきなり。それ寿夭の求むべからざること、貴賤よりも甚だし。然らば百年の宮を択びて殤子の寿を望み、魁罡を孤逆して彭祖の夭を速めんとすること、必ず幾からず。あるいは曰く、愚民は必ずしも久しく公侯の宅に居るを得ず、と。然らば果たして宅なきなり。これ性命は自然にして求むべからず。賊の方に至らんとするに、疾く逃げずして、独り須臾を安んぜば、遂に虜するところとなる。然らば禍を避け福に趣くは、理に縁るに過ぐるはなし。賊を避くるの理は、速く逃ぐるにしくはなし。すなわちこれ善なり。養生の道は、先ず知るにしくはなし。すなわち尽くすを為す。それ賊を避くるは速やかなるべきこと章々として然り。故に中人も睹るを難しとせず。禍を避くるの理は冥々として然り。故に明者も見ること易からず。その理に動くにおいては、妄りに求むべからず、一なり。孔子疾あり、医——
  
Original text (excerpt): 第八卷            宅无吉凶摄生论 难上 各本无此二字。旧校亦删         夫善求寿强者,必先知夭 各本作灾。旧校同。案:夭疾与寿强为对文。原钞于义为长 疾之所自来,然后其至可防也。祸起于此,为防于彼;则祸无自瘳矣。世有安宅,葬埋,阴阳,度 原作步。据各本及旧校改 数,刑德之忌,是何所生乎?不见性命,不知祸福也。不见故妄求,不知故干 程本讹于 幸。是以善执生者,见性命之所宜,知祸福之所来。故求之实,而防之信,夫多饮而走,则为澹支;数行而风,则为养 各本作痒 毒;久居于湿,则要疾偏枯;好内不怠,则昏丧女疾 各本讹文房 。若此之类,灾之所以来,寿之所以去也。而掘墓 各本作基 筑室 各本作宅 ,费日苦身以求之,疾生于形,而治加于土木,是疾无道瘳矣 各本字无 。诗云 各本作曰 :恺悌君子,求福不回者,匪避谤议而为义然也;盖知回匪所求福也;故寿强。专 程本讹传 气致柔,少私寡欲,直行
 
  
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=== 第7節 ===
 
=== 第7節 ===
  
This section discusses Tang Dynasty Chuanqi literature from Lu Xun's A Brief History of Chinese Fiction from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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第五篇の大旨はすべて同じく、すなわちこの篇の典拠となったものである。明の湯顕祖の『邯鄲記』は、またこの篇に基づいている。既済の文筆は簡練で、かつ規誡の意が多く、故事は荒唐ではあるが、当時なお推重されて韓愈の『毛穎伝』に比せられた。たまに諧謔を病む者もあったが、それは作者がかつて史官であったため、史法をもってこれを律し、小説の本意を失ったのである。既済にはまた『任氏伝』(『広記』四百五十二に見える)一篇があり、妖狐の幻化を語り、ついに志を守って人に殉じ、「今の婦人にも及ばぬ者がある」と述べた、やはり世を諷する作である。
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「呉興の才人」(李賀の語)沈亜之は字を下賢といい、元和十年に進士に及第し、太和の初めに徳州行営使の柏耆の判官となったが、耆が罪を得て貶せられ、亜之もまた南康尉に左遷され、郢州の掾に終わった(およそ八世紀末から九世紀中頃)。集は十二巻、今も存する。亜之は文名があり、自ら「窈窕の思いを創り得る」と称した。今の集中に伝奇文が三篇あり(『沈下賢集』巻二・巻四、また『広記』二百八十二および二百九十八に見える)、いずれも華艶なる筆をもって恍惚たる情を叙し、仙鬼の復死を好んで語るところは、同時の文人と殊に趣を異にしている。『湘中怨』は鄭生がたまたま孤女に出会い、相依ること数年、ある日別れ去って、自ら「蛟宮の妹」と称し、謫限はすでに満ちたと言い、十余年後にまた遠くこれを画舫の中に見かけ、悲しげに歌うのを聞いたが、「風涛崩怒」して、ついにその所在を見失った。『異夢録』は邢鳳が夢に美人に見え、「弓弯」の舞を示されたこと、および王炎が夢に呉王に久しく仕え、にわかに笳鼓を聞けば西施の葬礼で、教えに従って挽歌を作ると、王がこれを嘉賞したことを記す。『秦夢記』は自ら長安を経て橐泉の邸舎に宿り、夢に秦の官となって功あり、時に弄玉の婿の蕭史がまず死んでいたため、公主を娶り、その居所を翠微宮と自ら題したことを述べる。穆公の亜之への待遇もまた甚だ厚かったが、ある日公主が突然無病にして卒し、穆公はもう亜之に会おうとせず、帰国させた。
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去るに臨み、公は酒宴を大いに設け、秦の音を奏し、秦の舞を舞わせた。舞う者は膊を打ち髀を撫でて嗚嗚と声を発するも、音に快からぬものがあり、声は甚だ怨みがましかった。……やがて再拝して辞し去り、公はまた翠微宮に至って公主の侍人と別れよと命じた。殿内に再び入った時、珠翠の欠片が青い階の下に散乱し、窓紗の檀点は依然としてあり、宮人は亜之に向かって泣いた。亜之は感じ入って長く咽び、やがて宮門に詩を題して曰く、「君王多感にして東帰を放ち、此より秦宮また期すべからず、春景自ら秦の主を喪いしを傷み、落花雨の如く泪は胭脂なり」と。ついに別れ去り、……邸舎に覚めた。翌日、亜之は友人の崔九万にこの経緯を詳しく語った。九万は博陵の人で古事に通じており、余に謂って曰く、「『皇覧』に云う、『秦の穆公は雍の橐泉の祈年宮の下に葬る』と。その神霊の憑依したるにあらずや」と。亜之はさらに秦代の地誌を求め得たが、九万の言うとおりであった。ああ、弄玉はすでに仙人となったのに、どうしてまた死ぬことがあろうか。
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陳鴻の文章は辞意慷慨にして、弔古を長じ、往事を追懐して情に勝えざるが如くであった。鴻は少くして史を学び、貞元二十一年に太常第に登り、初め閑居して志を遂げ、『大統紀』三十巻を修して七年にしてようやく成った(『唐文粋』九十五)。長安にあった時、かつて白居易と友となり、『長恨歌』のために伝を作った(『広記』四百八十六に見える)。『新唐志』小説家類に陳鴻『開元升平源』一巻があり、注に「字は大亮、貞元の主客郎中」とあるのは、あるいはまたこの人であろう(およそ八世紀後半から九世紀中葉)。その作にはまた『東城老父伝』(『広記』四百八十五に見える)があり、賈昌が兵火の後、太平の盛事を追憶し、栄華の零落を両相対照する、その語は甚だ悲しい。『長恨歌伝』は元和の初めに作られ、やはり開元中の楊妃の入宮から蜀に死するまでの顛末を追述し、法は『賈昌伝』に類する。楊妃の故事は唐人のもともと好んで語るところであるが、条理秩然としてこの伝のごとき者は稀であり、また白居易の歌を得たがゆえに、とりわけ世に知られることとなった。清の洪昇が『長生殿伝奇』を撰したのは、すなわちこの伝と歌の意に基づいたものである。伝には今いくつかの版本があり、『広記』と『文苑英華』(七百九十四)所録のものは字句にすでに異同が多いが、明人が『文苑英華』の後に付載した『麗情集』および『京本大曲』から出たものは殊に異なる。けだし後人(『麗情集』の撰者張君房か)がさらに増損したのであろう。
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天宝の末、兄の国忠が丞相の位を僭し、国柄を愚弄し、安禄山が兵を率いて闕に向かい、楊氏を討つことを口実とした。潼関は守れず、翠華は南に幸し、咸陽を出て、道すがら馬嵬亭に次いだ。六軍は徘徊し、戟を持して進まず、従官郎吏は上の馬前に伏して、晁錯を誅して天下に謝せんと請うた。国忠は氂纓盤水を奉じて道の周に死した。左右の意はなお快からず、上がこれを問えば、当時敢えて言う者は貴妃をもって天下の怨みを塞がんと請うた。上は免れ得ぬことを知りながら、なおその死を見るに忍びず、袂を翻して面を掩い、牽いて去らしめた。倉皇として展転し、ついに尺組の下に死を就いた。(『文苑英華』所載)
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天宝の末、兄の国忠が丞相の位を僭し、ひそかに国柄を弄し、羯胡が燕に乱を起こし、二京は連なって陥り、翠華は南に幸した。駕は都の西門を出ること百余里、六師は徘徊して戟を擁して行かず、従官郎吏は上の馬前に伏して、錯を誅してこれに謝せんと請うた。国忠は氂纓盤水を奉じて道の周に死した。左右の意はなお快からず、当時敢えて言う者は貴妃をもって天下の怒りを塞がんと請うた。上は惨容にしてただ心にその死を見るに忍びず、袂を翻して面を掩い、牽いて去らしめた。上の前に拝し、眸を回せば血の下り、金釵翠羽を地に墜とした。上はみずからこれを拾った。ああ、蕙心紈質、天王の愛なるも、やむを得ず尺組の下に死す。叔向の母は云う「甚だ美なれば必ず甚だ悪し」と、李延年は歌って曰う「国を傾け城を傾く」と、これの謂いなり。(『麗情集』および『大曲』所載)
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白行簡は字を知退といい、その先はけだし太原の人で、後に韓城に家し、また下邽に移り、居易の弟である。貞元の末に進士に及第し、累遷して司門員外郎・主客郎中に至り、宝暦二年(八二六)冬に病没、年はおよそ五十余。両『唐書』いずれも『居易伝』に附見されている。集二十巻があったが今は存せず、しかし『広記』(四百八十四)にその伝奇文一篇を収めて『李娃伝』と曰う。滎陽の巨族の子が長安の娼女李娃に溺れ、貧病に困頓し、挽郎に身を落とすまでに至ったが、また李娃に救われ、学に励まされて、ついに科挙に及第し、成都府の参軍となったことを語る。行簡はもともと文筆に長じ、李娃の事もまた人情に近くして聳聞であるから、纏綿として見るに堪える。元人はすでにその事を本として『曲江池』と為し、明の薛近兖はこれをもって『繡襦記』を作った。行簡にはまた『三夢記』一篇(原本『説郛』四に見える)があり、「かの者が夢に往くところありてこの者がこれに遇う者、あるいはこの者が為すところありてかの者がこれを夢見る者、あるいは二人が相い夢に通ずる者」の三事を挙げ、いずれも叙述は簡質であるが事は殊に瑰奇で、その第一事がもっとも勝れている。
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天后の時、劉幽求は朝邑の丞であったが、かつて使いを奉じて夜帰る折、家に至るまであと十余里というところで、たまたま仏寺があり、路がその傍を過ぎていた。寺中に歌笑の歓洽する声を聞いた。寺垣は低く欠けて、中の様子がすべて見えた。劉は身を俯せてこれを窺い、十数人の男女が雑坐し、盤饌を羅列してこれを環繞して共に食すのを見た。その妻が座中にあって語笑するのが見えた。劉は初め愕然として、そのゆえを測りかねたが、しばらくして、妻がこの場所に来るはずがないと思い返しつつも、なお棄て去ることができなかった。さらに容姿言笑を熟視するに、まったく異なるところがなく、近づいて確かめようとしたが、寺門は閉ざされて入れなかった。劉は瓦を投げてこれを撃つと、その酒器に当たって破散し、人々は走り散って忽ち見えなくなった。劉は垣を越えてまっすぐに入り、従者とともに殿廡を見て回ったが、すべて人はなく、寺は元のまま閉ざされていた。劉はいよいよ怪しみ、馬を飛ばして帰った。家に着くと、妻はまさに寝ているところで、劉が着いたと聞いて寒暄を叙し終えると、妻は笑って曰く、「先ほど夢の中で十数人とある寺を遊んだのですが、みな知らない人ばかりでした。殿庭で会食していると、外から瓦礫を投げ込む者があり、杯盤は狼藉として、それで目が覚めたのです」と。劉もまたその見たことを詳しく述べた。けだしいわゆる「かの者が夢に往くところありてこの者がこれに遇う」ということであった。
  
Original text (excerpt): 第五篇 ,大旨悉同,当即此篇所本。明人汤显祖之《邯郸记》,则又本之此篇。既济文笔简炼,又多规诲之意,故事虽不经,尚为当时推重,比之韩愈《毛颖传》;间亦有病其俳谐者,则以作者尝为史官,因而绳以史法,失小说之意矣。既济又有《任氏传》 见《广记》四百五十二 一篇,言妖狐幻化,终于守志殉人,“虽今之妇人有不如者”,亦讽世之作也。                  “吴兴才人” 李贺语 沈亚之字下贤,元和十年进士第,太和初为德州行营使者柏耆判官,耆以罪贬,亚之亦谪南康尉,终郢州掾 约八世纪末至九世纪中 ,集十二卷,今存。亚之有文名,自谓“能创窈窕之思”,今集中有传奇文三篇 《沈下贤集》卷二卷四,亦见《广记》二百八十二及二百九十八 ,皆以华艳之笔,叙恍忽之情,而好言仙鬼复死,尤与同时文人异趣。《湘中怨》记郑生偶遇孤女,相依数年,一旦别去,自云“蛟宫之娣”,谪限已满矣,十余年后,又遥见之画舻中,含悲歌,
 
  
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=== 第8節 ===
 
=== 第8節 ===
  
This is a typographical remnant fragment, a single opening bracket, belonging to the beginning of a chapter heading in Lu Xun's 'A Brief History of Chinese Fiction' and separated from the main text through the division into sections.
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=== 第9節 ===
 
=== 第9節 ===
  
This section discusses Tang Dynasty Chuanqi literature from Lu Xun's A Brief History of Chinese Fiction from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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第九篇 唐の伝奇文(下)】
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しかるに伝奇の諸作者の中に、特に関係ある者が二人いる。その一は、作品は多くないが影響が甚だ大きく、名もまた甚だ高い者、元稹である。その二は、著作が多く影響もまた甚だ大きいが、名はそれほど顕著でない者、李公佐である。
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元稹は字を微之といい、河南河内の人である。明経に挙げられて校書郎に補せられ、元和の初めに制策に応じて第一となり、左拾遺に除せられ、監察御史を歴任し、事に坐して江陵に貶せられ、また虢州長史より召し入れられ、漸く遷って中書舍人承旨学士に至り、工部侍郎同平章事に進んだが、まもなく罷相となり、同州刺史に出され、また越州に改められて浙東観察使を兼ねた。太和の初め、入って尚書左丞検校戸部尚書に至り、鄂州刺史兼武昌軍節度使となったが、五年七月に暴疾にかかり、一日にして鎮に卒した。時に年五十三(七七九——八三一)。両『唐書』にいずれも伝がある。稹は少くより白居易と唱和し、当時詩を論ずる者は元白と称し、「元和体」と号した。しかし伝わる小説は『鶯鶯伝』(『広記』四百八十八に見える)一篇のみである。
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『鶯鶯伝』とは、すなわち崔張の故事を叙したもので、また『会真記』とも名づけられる。略述すれば、貞元中、張生なる者あり、性は温美にして容貌端正、礼にあらざれば動かず、年二十三にしていまだ女色に近づいたことがなかった。時に生は蒲に遊び、普救寺に寓した。たまたま崔氏の寡婦が長安に帰ろうとして蒲を過ぎ、やはりこの寺に寓した。その親戚を辿れば、張にとっては異派の従母にあたる。折しも渾瑊が薨じ、軍人が喪に乗じて蒲の人々を大いに騒擾した。崔氏は甚だ恐れたが、生は蒲の将の党と親しかったため、これを護ることができ、十余日の後、廉使の杜確が来て軍を治め、軍はすなわち戢まった。崔氏はこれにより張生に甚だ感謝し、宴に招いた。その娘の鶯鶯に会うと、生は惑い、崔の婢の紅娘に託して『春詞』二首をもって意を通じた。その夕、彩箋を得て、その篇に題して『明月三五夜』と曰う。辞に云く、「月を待つ西廂の下、風を迎えて戸は半ば開く、隔壁の花影動き、疑うらくは玉人の来たるかと」。張は喜びかつ驚いたが、やがて崔が至ると、端服厳容にしてその非礼を責め、ついに去り、張は放心すること久しかった。数夕の後、崔がまた至り、暁になって去ったが、終夕一言もなかった。
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……張生は色を弁じて起き、自ら疑って曰く「あに夢か」と。明くるに及び、化粧が臂にあり、香が衣にあり、涙光が瑩々として茵席に瑩いているのを睹た。これより後また十余日、杳として復た知れず。張生は『会真詩』三十韻を賦したが、未だ畢らざるに紅娘がたまたま至り、これを授けて崔氏に贈らしめた。これより復た容れられ、朝に隠れて出で、暮に隠れて入り、いわゆる西廂において安んずることほとんど一月であった。張生がつねに鄭氏の情を問えば、曰く「我はいかんともし難し」と。よってこれを成就しようとした。まもなく張生が長安に赴こうとし、まずその情を諭すと、崔氏は婉然として難色なく、しかし愁怨の容は人を動かした。出発の夕、もはや会うことが叶わず、張生はついに西に下った。……
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翌年、科挙に失敗し、張生はやむなく京に留まり、崔氏に書を贈った。崔はこれに返書した。しかし生はその書を知己に示したため、時の人の語り草となった。楊巨源はこのために『崔娘詩』を賦し、元稹もまた生の『会真詩』三十韻を続けた。張の友人でこれを聞いた者はみな驚き怪しんだが、張の志もまたすでに絶えていた。元稹は張と厚く、その話を問うと、張は曰く——
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「およそ天の命ずるところの尤物は、その身を妖せざれば、必ず人を妖す。もし崔氏の子が富貴に遇合し、嬌寵を恃めば、雲となり雨とならざれば、蛟となり螭となるであろう。吾はその変化を知らず。昔、殷の辛、周の幽は万乗の国に拠り、その勢は甚だ厚かった。しかるに一人の女子がこれを敗り、その衆を潰し、その身を屠り、今に至るまで天下の笑い者となっている。予の徳は妖孽に勝つに足らず、ゆえに情を忍ぶのだ。」
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一年余りを過ぎて、崔はすでに他に嫁ぎ、張もまた別に妻を娶った。たまたまその住むところを過ぎ、外兄として面会を請うたが、崔はついに出なかった。後日、張生が去ろうとした時、崔は詩一章を賦して訣別の辞を送った。「棄置して今何ぞ道わん、当時はまた自ら親しめり、なお旧き意をもって取り来たり、眼前の人を憐れめ」と。これより遂に復た消息を知らなかった。時の人は多く張を善く過ちを補う者と称したという。
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元稹は張生に自らを託し、その親しく経験した境を述べている。文章はなお上乗とは言えないが、時に情致があり、もとより見るに堪える。ただ篇末に文をもって非を飾り、遂に悪趣に堕した。しかし李紳・楊巨源の輩がおのおの詩を賦してこれを助け、稹もまた早くから詩名があり、後に節鉞を秉ったため、世人はなお多くこれを好んで語った。宋の趙徳麟はすでにその事を取って『商調蝶恋花』十闋を作り(『侯鯖録』に見える)、金には董解元の『弦索西廂』があり、元には王実甫の『西廂記』、関漢卿の『続西廂記』があり、明には李日華の『南西廂記』、陸采の『南西廂記』等がある。その他「竟」「翻」「後」「続」と題するものはさらに繁多で、今に至るまでなおその事を称道する者がいる。唐人の伝奇は遺存するもの少なくないが、後世これほど煊赫たるは、ただこの篇と李朝威の『柳毅伝』のみである。
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李公佐は字を颛蒙といい、隴西の人である。かつて進士に挙げられ、元和中に江淮の従事となり、後に罷めて長安に帰った(所作の『謝小娥伝』中に見える)。会昌の初め、またも楊府の録事となり、大中二年に累に坐して二任の官を削られた(『唐書・宣宗紀』に見える)。けだし代宗の時に生まれ、宣宗の初めになお在世していた(およそ七七〇——八五〇)。余事は未詳。『新唐書・宗室世系表』にある千牛備身公佐は、別人である。その著作は今四篇存し、『南柯太守伝』(『広記』四百七十五に見え、『淳于棼』と題する。今は『唐語林』に拠って改正する)が最も有名である。伝に言う、東平の淳于棼は家が広陵郡の東十里にあり、宅の南に大槐が一株あった。貞元七年九月、沈酔により疾を致し、二人の友が生を扶けて家に帰らせ、東廡の下に臥せしめた。生は枕に就くと昏然として夢のごとく、二人の紫衣の使者が王命をもって招くのを見た。門を出て車に乗り、古い槐の穴を指して入っていった。使者は車を駆って穴に入ると、忽ち山川が見え、ついに一大城に入った。城楼の上に金書で「大槐安国」と題されていた。生は至って駙馬を拝し、復た南柯太守に出された。郡を守ること三十年、「風化は広く及び、百姓は歌謡し、功徳碑を建て、生祠を立てた」。王は甚だこれを重んじ、次々と大位に遷した。生に五男二女があったが、後に兵を率いて檀蘿国と戦い、敗績した。公主もまた薨じた。生は郡を罷められたが、威福は日に盛んで、王は疑い憚り、遂に生の遊従を禁じ、私第に処した。やがて送り帰された。覚めてみれば、「家の童僕が庭で箒を揮っており、二客は榻で足を濯い、斜日はまだ西垣に隠れず、余樽はなお東牖に湛えていた。夢中の忽忽は、一生を過ごしたかのようであった」。その立意は『枕中記』と同じだが、描写はいっそう尽くされている。明の湯顕祖もまたこれに基づいて伝奇『南柯記』を作った。篇末に穴を掘って根源を究めたところ、蟻が群がっており、すべて前の夢に符合したと記す。実証をもって幻を証したもので、余韻悠然、物情を尽くしたとは言えないが、すでに『枕中記』の及ぶところではない。
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……大きな穴があり、根の洞は明朗として一榻を容れるに足りた。上に積土壌をもって城郭殿台の状を為し、蟻が数斛も隠れ集まっていた。中に小さな台があり、その色は丹の如く、二匹の大蟻がそこにおり、素翼朱首、長さ三寸ばかり、左右に大蟻数十匹がこれを輔け、諸蟻は敢えて近づかなかった。これがその王であり、すなわち槐安国の都である。さらに一穴を極めると、まっすぐに南枝を上ること四丈ばかり、宛転として方形の中にやはり土城小楼があり、蟻の群れもまたそこに住んでいた。すなわち生が領した南柯郡である。……前事を追想し、感嘆の懐いを抱き、……二客にこれを壊させたくなく、にわかに掩塞して旧に復せしめた。……さらに檀蘿征伐のことを念じ、また二客にその跡を外に訪ねてもらうと、宅の東一里に古い涸れた澗があり、側に大きな檀の木が一株あって、藤蘿が擁織し、上に日を見ず、傍らに小さな穴があり、やはり蟻の群れが隠れ集まっていた。檀蘿の国とは、これではなかろうか。ああ、蟻の霊異すらなお窮め尽くせないのだ、まして山に潜み木に隠れた大いなるものの変化においておや。……
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『謝小娥伝』(『広記』四百九十一に見える)は、小娥が姓は謝、豫章の人で、八歳にして母を喪い、後に歴陽の侠士段居貞に嫁いだことを語る。夫婦と父はいずれも商いを習い、江湖を往来する間に盗賊に殺され、小娥もまた足を折って水に堕ちたが、他の船に救い上げられた。初め、小娥はかつて夢に父が仇人は「車中猴東門草」と告げるのを見、また夢に夫が仇人は「禾中走一日夫」と告げるのを見た。広く智者を求めたが、みな解けなかった。公佐に至ってようやくこれを弁じて曰く、「車中猴とは、車の字の上下各一画を去れば申の字であり、草の下に門があり門の中に東がある、これは蘭の字である。また禾中走は田を穿って過ぎることで、やはり申の字である。一日夫とは、夫の上にさらに一画あり下に日がある、これは春の字だ。汝の父を殺したのは申蘭、汝の夫を殺したのは申春である」と。小娥はそこで男装して傭保となり、果たして潯陽で二賊に遭い、これを刺殺し、さらに官に告げてその一党を捕えた。謎解きによって賊を捕えるという筋は、甚だ理致に乏しいが、当時もまた盛んに伝えられた。
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残る二篇のうち、その一つは原題が未詳で、『広記』では『廬江馮媼』と題する。事は甚だ簡素で、ゆえに文もまた華やかではない。もう一つは『古岳瀆経』(『広記』四百六十七に見える)という。李湯なる者が、永泰の時の楚州刺史で、漁人が亀山の水中に大鉄鎖を見たと聞き、人と牛でこれを引き出した。風涛はにわかに起こり、「一獣、状は猿の如く、白首長鬐、雪牙金爪」が岸に上がった。後に公佐は古の東呉を訪ね、石穴の間に『古岳瀆経』第八巻を得て、禹が水を治めんとして桐柏山に至り、ついに淮渦の水神、無支祁を獲えた故事を知った。宋元以来、この説が流伝して絶えず、民間に広まった。ただ後に次第に禹を僧伽あるいは泗洲大聖と誤り、明の呉承恩が『西遊記』を演ずるにあたって、その神変奮迅の状を孫悟空に移したため、禹が無支祁を伏した故事は遂に埋没するに至った。
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伝奇の文は、このほかなお多い。著名なものとしては、李朝威の『柳毅伝』(『広記』四百十九に見える)がある。毅が科挙に落第して湘浜に帰ろうとする途中、龍女に出会い、手紙を洞庭君に届けた話である。また蒋防の『霍小玉伝』(『広記』四百八十七に見える)、許堯佐の『柳氏伝』(『広記』四百八十五に見える)等もまたみな造作がある。しかし杜光庭の『虬髯客伝』(『広記』一百九十三に見える)は、流伝がとりわけ広い。楊素の妓人にして紅拂を執る者が李靖を布衣の時に見出し、虬髯客と出会い、三侠と称されるに至った故事を記す。後世この故事を好み、画図まで作った。
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以上に挙げたもののほか、なお作者不明の『李衛公別伝』『李林甫外伝』、郭湜の『高力士外伝』、姚汝能の『安禄山事迹』等がある。著述の本意は幽隠を顕揚するにあり、伝奇のためではないが、文の枝蔓なること、事の瑣屑なることにより、後人もまたしばしば小説と見なしたのである。
  
Original text (excerpt): 第九篇 唐之传奇文(下)】                              然传奇诸作者中,有特有关系者二人:其一,所作不多而影响甚大,名亦甚盛者曰元稹;其二,多所著作,影响亦甚大而名不甚彰者曰李公佐。                  元稹字微之,河南河内人,举明经,补校书郎,元和初应制策第一,除左拾遗,历监察御史,坐事贬江陵,又自虢州长史征入,渐迁至中书舍人承旨学士,进工部侍郎同平章事,未几罢相,出为同州刺史,又改越州,兼浙东观察使。太和初,入为尚书左丞检校户部尚书,兼鄂州刺史武昌军节度使,五年七月暴疾,一日而卒于镇,时年五十三 七七九——八三一 ,两《唐书》皆有传。稹自少与白居易唱和,当时言诗者称元白,号为“元和体”,然所传小说,止《莺莺传》 见《广记》四百八十八 一篇。                  《莺莺传》者,即叙崔张故事,亦名《会真记》者也。略谓贞元中,有张生
 
  
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=== 第10節 ===
 
=== 第10節 ===
  
This is a typographical remnant fragment, a single opening bracket, belonging to the beginning of the heading of the tenth chapter in Lu Xun's 'A Brief History of Chinese Fiction,' isolated through the division of the text into sections.
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=== 第11節 ===
 
=== 第11節 ===
  
This section discusses Tang Dynasty Chuanqi literature from Lu Xun's A Brief History of Chinese Fiction from the years 1925-1927. Lu Xun was not only a writer but also an outstanding literary scholar. His A Brief History of Chinese Fiction and his edition of Ji Kang's works attest to his profound erudition.
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第十篇 唐の伝奇集および雑俎】
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伝奇の文を造り、一集に会萃した者は、唐代に多くあったが、煊赫たること牛僧孺の『玄怪録』に及ぶものはない。僧孺は字を思黯といい、もと隴西狄道の人で、宛葉の間に居した。元和の初めに賢良方正の対策で第一となり、失政を条指して鯁諤して宰相すら避けなかったため、考官はみな調去され、僧孺もまた伊闕尉に調せられた。穆宗が即位すると漸く御史中丞に至り、後に戸部侍郎同中書門下平章事となったが、武宗の時に累貶されて循州長史となった。宣宗が立つと召し還されて太子少師となり、大中二年に卒し、太尉を贈られた。年六十九(七八〇——八四八)。文簡と諡され、両『唐書』に伝がある。僧孺の性は堅僻にしてかなり志怪を嗜み、撰した『玄怪録』十巻は今はすでに散逸しているが、『太平広記』に引くところなお三十一篇あり、大概を考見することができる。その文は他の伝奇と大きな違いはないが、時々に造作から出たことを示して信を求めない。けだし李公佐・李朝威の輩は筆妙を顕揚するのに急であったため、なお事状の虚なることを言おうとしなかったが、僧孺に至っては構想の幻をもってみずから見えんと欲し、ゆえにことさらにその詭設の跡を示したのである。『元無有』はその一例である——
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宝応中、元無有なる者あり、常に仲春の末に独り維揚の郊野を行く。日暮に遇い、風雨大いに至った。時に兵荒の後で、人家は多く逃げ去っていたため、路傍の空き家に入った。しばらくして雨が止み、斜月がまさに出たところ、無有は北窓に座していると、忽ち西廊に人の歩く音が聞こえた。まもなく月光の中に四人が見えた。衣冠はみな異様で、互いに談笑吟詠すること甚だ暢達であった。……吟詠は朗々として、無有はこれを聴くに具さに悉った。その一の詩は「斉の紈魯の縞、霜雪の如し」、その二は「煌煌たる灯燭は我よく持つ」、その三は「清冷の泉、朝の汲みを候つ」、その四は「爨薪泉を貯えて相い煎熬す」と。四人は暁近くなってようやく元の場所に戻った。無有がこれを探ると、堂中にあるのは古い杵と灯台と水桶と壊れた鉄鍋のみであった。すなわち四人はこれらの物が化けたものだったのである。(『広記』三百六十九)
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牛僧孺は朝廷にあって李徳裕と互いに門戸を立てて党争をなした。その小説好きのゆえに、李の門客韋瓘がそこで僧孺の名を騙って『周秦行紀』を撰し、これを誣した。德裕はこのために論を作り、僧孺の姓は図讖に応じ、『玄怪録』にまた多く隠語を造っており、民を惑わさんとする意があるとし、「須らく太牢をもって少長ともに法に置くべし」と述べた。古来、小説を仮りて人を排陷するは、これをもって最も怪となす。しかし当時その説は行われなかった。ただ僧孺にはすでに才名があり、また高位を歴たため、その著作は世に盛んに伝えられた。模倣者もまた少なくなく、李復言に『続玄怪録』十巻があり、薛漁思に『河東記』三巻があった。
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ほかに蘇鶚に『杜陽雑編』、高彦休に『唐闕史』がある。康駢の『劇談録』に至っては漸く世務が多くなり、孫棨の『北里志』は専ら狭邪を叙し、范摅の『雲渓友議』は特に歌詠を重んじている。裴鉶に至って書を著し、直に『伝奇』と称したが、神仙の怪譎なる事を盛んに述べ、多く崇飾して観る者を惑わそうとした。聶隠娘が妙手空空児に勝つ事はまさにこの書から出たもので、明人がこれを取って偽作の段成式『剣侠伝』に入れたため、流伝がことに広まった。
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段成式は字を柯古といい、斉州臨淄の人で、宰相文昌の子である。成式の家には奇篇秘籍が多く、博学強記にして仏書に殊に深かった。その小説『酉陽雑俎』二十巻は全三十篇で今も具さに存し、さらに『続集』十巻がある。秘書を録し、異事を叙し、仙仏人鬼から動植に至るまで載せないものはなく、類をもって相い聚め、類書の如きものがある。各篇にはそれぞれ題目があるが、隠僻で、道術を記すものは『壺史』と曰い、怪異を志すものは『諾皋記』と曰い、抉択記叙もまた多く古艶穎異にして、その目に副うものである。
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夏の啓は東明公、文王は西明公、邵公は南明公、季札は北明公となり、四時は四方の鬼を主る。至忠至孝の人は、命終わればみな地下の主者となる。(巻二『玉格』)
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初めて天に生まれた者に五相あり、一に光が身を覆うも衣なし、二に物を見て希有の心を生ず、三に顔色弱く、四に疑い、五に怖る。(巻三『貝編』)
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天翁は姓を張、名を堅、字を刺渇といい、漁陽の人である。少くして不羈にして拘忌するところなし。常に羅を張って一羽の白雀を得、愛してこれを養った。夢に劉天翁が怒りを責め、しばしばこれを殺さんと欲したが、白雀はそのたびに堅に報せた。天翁は遂に自ら下って来て観たが、堅はひそかに天翁の車に騎り、白龍に乗って天に登った。天翁は追ったが及ばなかった。堅は玄宮に至ると百官を易え、北門を杜塞し、白雀を上卿侯に封じた。劉翁は治を失い、五岳を徘徊して災いを作した。堅はこれを患い、劉翁を太山太守として生死の籍を主らしめた。(巻十四『諾皋記』)
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また文身の事を集めたものは『黥』と曰い、鷹の養い方を述べたものは『肉攫部』と曰う。渉るところ既に広ければ、珍異も多く、世に愛玩されて伝奇と並び駆けて先を争った。
  
Original text (excerpt): 第十篇 唐之传奇集及杂俎】                              造传奇之文,会萃为一集者,在唐代多有,而煊赫莫如牛僧孺之《玄怪录》。僧孺字思黯,本陇西狄道人,居宛叶间,元和初以贤良方正对策第一,条指失政,鲠讦不避宰相,至考官皆调去,僧孺则调伊阙尉,穆宗即位,渐至御史中丞,后以户部侍郎同中书门下平章事,武宗时累贬循州长史,宣宗立,乃召还为太子少师,大中二年卒,赠太尉,年六十九 七八○——八四八 ,曰文简,有传在两《唐书》。僧孺性坚僻,而颇嗜志怪,所撰《玄怪录》十卷,今已佚,然《太平广记》所引尚三十一篇,可以考见大概。其文虽与他传奇无甚异,而时时示人以出于造作,不求见信;盖李公佐李朝威辈,仅在显扬笔妙,故尚不肯言事状之虚,至僧孺乃并欲以构想之幻自见,因故示其诡设之迹矣。《元无有》即其一例:                                    宝应中,有
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成式は詩をよくし、幽渋繁縟であった。時に温庭筠・李商隠もまた同様で互いに誇り、「三十六体」と号した。温庭筠にも小説三巻『乾巛子』があるが、簡率にして見るべきものなし。李には『義山雑纂』一巻があり、俚俗の常談鄙事を集めたもので、瑣綴に止まるとはいえ、世務の幽隠を穿つものがある。
  
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殺風景
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松の下で喝道する 花を看て涙を下す 苔の上に蓆を敷く 垂柳を斫る 花の下に褌を晒す
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遊春に重載する 石筍に馬を繋ぐ 月の下に松明を持つ 歩行の将軍 山に背いて楼を起てる
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果樹園に菜を植える 花棚の下に鶏鴨を養う
  
[[Category:Lu Xun]]
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悪模様
[[Category:Japanese Translations]]
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客となって人と口喧嘩する …… 客として台や卓をひっくり返す …… 舅姑の前で艶曲を歌う
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噛み残した魚肉を皿に戻す 衆人の前で横になる 箸を椀の上に横たえる

Revision as of 14:16, 24 April 2026

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無常 (无常)

魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

【一九一八年】


【夢】

多くの夢が、黄昏に乗じて騒ぎ立てる。

前の夢が大前の夢を押しのけたばかりなのに、後の夢がまた前の夢を追い払った。

去った前の夢は墨のように黒く、今の後の夢も墨のように黒い。

去ったのも今のも、どちらも言うようだ、「私の色の美しさを見よ。」

色は美しいかもしれぬが、暗がりの中では知れない。

しかも知れない、話しているのが誰なのかも。

○  ○  ○

暗がりの中で知れず、体は熱く頭は痛む。

来い、来い!明らかなる夢よ。

(『新青年』第四巻第五号。)


【愛の神】

一人の小さな子供が、翼を広げて空中に、

一手に矢をつがえ、一手に弓を引く。

どうしたわけか、一矢が胸に射ささった。

「小さなお方、でたらめなお導きに感謝いたします!

しかしお教えください!私は誰を愛すべきでしょう?」

子供は慌てて、首を振って言った。「ああ!

あなたはまだ心胸のある人なのに、こんなことを言うとは。

あなたが誰を愛すべきかなど、私にわかるはずがない。

とにかく私の矢は放ったのだ!

あなたが誰かを愛したいなら、命がけで愛しなさい。

あなたが誰も愛さないなら、命がけで自分で死ぬがよい。」

(『新青年』第四巻第五号。)


【桃花】

春雨が過ぎて、太陽がまたとても好い。ぶらぶらと庭に歩いて行った。

桃の花は庭の西に咲き、李の花は庭の東に咲いている。

私は言った。「素晴らしい!桃の花は紅く、李の花は白い。」

(桃の花が李の花ほど白くないとは言わなかった。)

ところが桃の花が怒ったらしく、顔中を「楊妃紅」に染め上げた。

いい度胸だ!たいしたものだ!怒って顔を紅くするとは。

私の言葉は別にお前に失礼をしたわけではない。どうして顔を赤くするのだ!

ああ!花には花の道理がある。私にはわからぬ。

(『新青年』第四巻第五号。)


【彼らの花園】

小さな子供、巻き毛で、

銀黄色の顔にはまだほんのり紅みがある——見たところまさに生きようとしている。

壊れた大門を出て、隣家を眺めると、

彼らの大きな花園に、たくさんの美しい花がある。

小さな知恵を絞って、百合の花を一輪手に入れた。

白くて光り輝いて、降りたての雪のよう。

大事に持ち帰り、顔に映すと、一段と血の色が増した。

蠅が花の周りを飛び鳴き、部屋中に乱れ回る——

「こんな不潔な花ばかり好むとは、馬鹿な子供だ!」

急いで百合の花を見ると、もう蠅の糞が何点かついていた。

見ていられない。捨てるに忍びない。

目を見開いて空を仰ぎ、彼にはもう言うべき言葉がなかった。

言葉が出ず、隣家のことを思い出す。

彼らの大きな花園に、たくさんの美しい花がある。

(『新青年』第五巻第一号。)


【人と時】

一人が言った。将来は現在に勝る。

一人が言った。現在は昔に遠く及ばない。

一人が言った。何だと?

時が言った。お前たちはみな私の現在を侮辱している。

昔が良いなら、自分で帰れ。

将来が良いなら、私について前へ来い。

この何だと言った者よ、

お前が何を言っているのか、私にはわからぬ。

(『新青年』第五巻第一号。)


【渡河と道案内】

玄同兄:

二日前、『新青年』五巻二号の通信欄で、兄が唐俟もエスペラントに反対しないこと、合わせて議論してもよいという話を見ました。私はエスペラントにもとより反対しませんが、しかし議論したくもありません。というのも、私がエスペラントに賛成する理由はきわめて簡単で、まだ口を開いて議論するほどのものではないからです。

賛成の理由を問われれば、ただこういうことです。私が見るところ、人類は将来きっと何かの共通の言語を持つべきである。だからエスペラントに賛成するのです。

将来通用するのがエスペラントかどうかは、むろん断定できません。おそらくエスペラントを改良して、より完全なものにするか、あるいは別にもっと良いものが出現するか、まだわかりません。しかし現在これしかない以上、まずこのエスペラントを学ぶしかないのです。今はまだ草創の時代で、汽船がまだなければ丸木舟に乗るしかないのと同じです。もし将来汽船ができるはずだからといって、丸木舟を造らなかったり乗らなかったりすれば、汽船も発明されず、人類は水を渡ることができなくなるでしょう。

しかし将来なぜ必ず人類共通の言語があるかと問われれば、確たる証拠は出せません。将来必ずありえないと言う者もまた同様です。だから議論の必要はまったくなく、各自が信じるところに従って行うだけです。

しかし私にはもう一つ意見があります。エスペラントを学ぶのは一つのことであり、エスペラントの精神を学ぶのは、また別のことだと思うのです。——白話文学もまた同様です。——もし思想が旧態のままならば、やはり看板を変えて中身を変えないのと同じです。ようやく「四目蒼聖」の前から這い上がったかと思えば、また「柴明華先師」の足元に跪くのです。人類の進歩に反対する時、以前はnoと言い、今はneと言うだけ。以前は「咈哉」と書き、今は「不行」と書くだけのことです。だから私の意見では、正当な学術文芸を注入し、思想を改良するのが第一であり、エスペラントの議論はそれに次ぐもので、弁駁に至ってはまったく不要です。

『新青年』の通信欄は、近頃だいぶ発達してきたようです。読者も好んで読みます。しかし私の個人的な意見では、もう少し減らしてもよいと思います。誠実で切実な議論だけを毎号掲載すればよい。その他の無責任な口先だけの批評や、常識のない問難には、せいぜい一度だけ答えればよく、それ以後は多くを語る必要はなく、紙とインクを節約して他に回すべきです。たとえば幽霊を見たとか、仙人を求めるとか、顔を打つとかいった類は、明々白々、まったく常識のないことなのに、『新青年』はなおも彼らと反復して論じ、「二五は十である」という道理を説いている。この手間は惜しくないか、この事業は哀れではないか。

私の見るところ、『新青年』の内容は大略二類に出ない。一つは、空気が閉塞し汚濁していて、この空気を吸う人間はもうおしまいだと感じ、眉を顰めて「ああ」と一声嘆かずにはいられない。同感の人々がこれによって注意を払い、活路を切り開くことを望むのだ。もし誰かが、この顔色と声は、妓女の秋波のようには美しくなく、小唄のようには美しく聞こえないと言うなら、それはまったく正しい。我々は彼と弁論する必要はない。眉を顰めてため息をつくほうがもっと美しいなどと言えば、こちらが間違いだ。もう一つは、これまで歩んできた道がきわめて危険で、しかももう行き止まりに近いと感じ、良心に従って切実に探し求め、別の平坦で希望のある道を見つけたら、大声で「こちらに行くのがよい」と叫ぶことだ。同感の人々がこれによって身を翻し、危険を脱して進歩しやすくなることを望むのだ。もし誰かが別の方向に行こうとするなら、もう一度勧めるのも構わないが、それでも信じなければ、命がけで引き止める必要はなく、各自が自分の道を行けばよい。引き止めて喧嘩になっては、彼に益がないだけでなく、自分も同感の人々も時間を無駄にするのだから。

イエスは言った。車が転覆しそうなのを見たら、支えてやれ。ニーチェは言った。車が転覆しそうなのを見たら、押してやれ。私はもちろんイエスの言葉に賛成する。しかし思うに、もし支えてもらいたくないなら、無理に支える必要はない。放っておけばよい。その後転覆しなければもちろん結構だし、もし結局ひっくり返ったなら、その時こそ切実に手を貸して起こしてやればよいのだ。

兄よ、無理に支えるのは起こすよりも骨が折れ、効果も見えにくい。ひっくり返ってから起こすほうが、転覆しかけた時に支えるよりも、彼らにとってより有益なのだ。

唐俟。十一月四日。

(『新青年』第五巻第五号。)

【】

【第五巻】


【声は哀楽なきの論】

秦の客、東野の主人に問うて曰く、「之を前論に聞けば曰く、治世の音は安にして楽しく、亡国の音は哀にして思う、と。それ治乱は政にあり、而して音声之に応ず。故に哀思の情は金石に表れ、安楽の象は管弦に形る、と。又た仲尼、韶を聞き、虞舜の徳を識り、季札、弦を聴きて、衆国の風を識る。斯れ已然の事にして、先賢の疑わざる所なり。今、子独り以為えらく声に哀楽なしと。其の理は何くにか居る?若し嘉訊あらば、請う其の説を聞かん。」主人之に応じて曰く、「斯の義久しく滞りて、肯えて拯救する莫し。故に歴世をして名実に濫せしむ。今啓導を蒙り、将に其の一隅を言わんとす。それ天地徳を合わせ、万物生を資く。寒暑代わり往き、五行以て成る。章を五色と為し、発して五音と為す。音声の作、其れ猶お臭味の天地の間に在るがごとし。其の善と不善と、浊乱に遭うと雖も、其の体は自若にして変ずること無きなり。豈に愛憎を以て操を易え、哀楽もて度を改めんや?宮商の集比に及び、声音克く諧う。此れ人心の至願にして、情欲の鋳る所なり。古人、情の恣にすべからざるを知り、欲の極むべからざるを知る。故に其の用うる所に因りて毎に之が節を為す。哀をして傷に至らしめず、楽をして淫に至らしめず。事に因りて名を与え、物に其の号あり。哭、之を哀と謂い、歌、之を楽と謂う。斯れ其の大較なり。然れども楽と云い楽と云う、鍾鼓云うか哉?哀と云い哀と云う、哭泣云うか哉?兹に因りて言えば、玉帛は礼敬の実にあらず、歌舞は悲哀の主にあらざるなり。何を以て之を明らかにせん?それ殊方異俗にして、歌哭同じからず。錯りて之を用いしめば、或いは哭を聞きて歓び、或いは歌を聴きて戚しむ。然れども其の哀楽の懐は均しきなり。今均同の情を用いて、万殊の声を発す。斯れ音声の常なきにあらざらんや?然れども声音の和比は、人を感ぜしむるの最も深き者なり。労する者は其の事を歌い、楽しむ者は其の功を舞う。それ内に悲痛の心あれば、則ち激しく哀切の言を発す。言比して詩を成し、声比して音を成す。雑えて之を詠じ、聚めて之を聴く。心は和声に動き、情は苦言に感ず。嗟嘆未だ絶えざるに、泣涕流涟す。それ哀心は内に蔵し、和声に遇いて後に発す。和声に象なくして、哀心に主あり。それ主ある哀心を以て、象なき和声に因りて後に発すれば、其の覚悟する所は、唯だ哀のみ。豈に復た吹万の同じからざるを知りて、其をして自ら已ましめんや。風俗の流れ、遂に其の政を成す。是の故に国史は政教の得失を明らかにし、国風の盛衰を審らかにし、情性を吟詠して、以て其の上を諷す。故に曰く、亡国の音は哀にして思う、と。それ喜怒哀楽、愛憎慚懼、凡そ此の八者は、生民の以て物に接し情を伝うる所にして、区別に属あり、而して溢すべからざる者なり。それ味は甘苦を以て称と為す。今、甲の賢なるを以て心に愛し、乙の愚なるを以て情に憎む。則ち愛憎は宜しく我に属すべく、而して賢愚は宜しく彼に属すべきなり。我が愛を以て之を愛人と謂い、我が憎を以て之を憎人と謂うべけんや?喜ぶ所を以て之を喜味と謂い、怒る所を以て之を怒味と謂うべけんや?此に由りて之を言えば、則ち外内用を殊にし、彼我名を異にす。声音は自ら当に善悪を以て主と為すべく、則ち哀楽に関わり無し。哀楽は自ら当に情感ありて後に発すべく、則ち声音に系り無し。名実俱に去れば、則ち尽然として見るべし。且つ季子の魯に在りしは、詩を采り礼を観て、以て風雅を別ちしなり。豈に徒だ声に任せて以て臧否を決せんや?又た仲尼の韶を聞きしは、其の一致を嘆じしなり。是を以て咨嗟す。何ぞ必ずしも声に因りて虞舜の徳を知り、然る後に嘆美せんや?今粗ぼ其の一端を明らかにするも、亦た過半を思うべし。」

秦の客難じて曰く、「八方の異俗にして、歌哭万殊なるも、然れども其の哀楽の情は、見ざるを得ざるなり。それ心は中に動き、声は心より出ず。之を他音に託し、之を余声に寄すと雖も、善く聴き察する者は、要ず自ら之を覚りて過ぐることを得しめざるなり。昔、伯牙琴を理め、而して鍾子其の至る所を知り、隷人磬を撃ちて、子産其の心の哀しきを識り、魯人晨に哭して、顔淵其の生離なるを察す。それ数子なる者は、豈に復た智を常音に仮り、験を曲度に借らんや?心戚しき者は則ち形之が為に動き、情悲しき者は則ち声之が為に哀し。此れ自然に相応じ、逃るるを得べからず。唯だ神明なる者のみ能く之を精しくするのみ。それ能ある者は声の衆きを以て難しとせず、能なき者は声の寡きを以て易しとせず。今、未だ善聴に遇わざるを以て声に察すべき理なしと謂うべからず、方俗の多変なるを見て声音に哀楽なしと謂うべからざるなり。又た云う、賢は宜しく愛と言うべからず、愚は宜しく憎と言うべからず、と。然らば則ち賢あって後に愛生じ、愚あって後に憎起こるも、但だ其の共の名に当たらざるのみ。哀楽の作も亦た由ありて然り。此れ声の我を哀しましめ、音の我を楽しましむるなり。苟しくも哀楽声に由れば、更に実あり。何ぞ名実俱に去るを得んや?又た云う、季札は詩を采り礼を観て以て風雅を別ち、仲尼は韶音の一致を嘆じて是を以て咨嗟す、と。是れ何の言ぞや?且つ師襄操を奏し、而して仲尼文王の容を睹る。師涓曲を進め、而して子野亡国の音を識る。寧ろ復た詩を講じて後に言を下し、礼を習いて然る後に評を立てんや?斯れ皆な神妙独見にして、留聞積日を待たずして、已に其の吉凶を綜ぶるなり。是を以て前史以て美談と為す。今、子、区区たる近知を以て、見る所を斉しくして限りと為す。乃ち前賢の識微を誣い、夫子の妙察に負くこと無きかな?」


第2節

主人答えて曰く、「難じて云う、歌と哭は万殊なりといえども、善く聴き察する者はおのずからこれを覚り、智を常音に仮らず、験を曲度に借りず。鍾子の徒云々是なりと。これ心に哀しむ〔各本は悲に作る〕者は、談笑鼓舞すといえども、情に歓ぶ者は、膺を拊ち咨嗟すといえども、独り外形を御して自ら匿し、察者を疑似に誑すこと能わざるなり。爾は已にして就く〔四字は各本「以為就令」に作る。旧校同じ〕声音の常なきを為し、なお哀楽有るべしと謂えり。又曰く、季子は声を聴きて以て衆国の風を知り、師襄は操を奏して仲尼は文王の容を睹たりと。案ずるに云うところの如くんば、これ文王の功徳と風俗の盛衰と、皆これを声音に象るべきなり。声の軽重は後世に移すべく、襄涓の巧はまた〔各本この字を脱す〕これを将来に得ること能くべし。もし然らば、三皇五帝は今日に絶えざるべく、何ぞ独り数事のみならんや。もしこれ果たして然りとせば、文王の操に常度あり、韶武の音に定数あり、他の変を雑え、余声を以て操すべからざるなり。則ち向に謂うところの声音の常なきこと、鍾子の触類は、ここにおいて躓くなり。もし音声に常なく〔原鈔は之の字と常の字を脱す。黄汪本同じ。程二張本に拠りて加う〕、鍾子の〔黄汪本この字を脱す〕触類、その果たして然りとせば、仲尼の微を識ること、季札の善く聴くこと、固よりまた誣なり。これみな俗儒の妄記にして、その事を神にせんと欲して追いて為せるのみ。天下をして〔四字は旧校及び各本に従う〕声音の道に惑わしめんと欲し、理の自ずから尽くるを言わず。ここより推して〔張燮本は惟に作る〕、神妙にして知り難からしめ、奇聴に当時に遇わざるを恨み、古人を慕いて嘆息せしむ〔各本は自嘆に作る〕。これ〔二張本この字なし〕所以に大いに後生を罔すなり。それ類を推し物を辨ずるには、先ず自然の理に求むべし。理已に定まりて〔黄汪二張本は定に作る〕、然る後に古義を借りて以てこれを明らかにするのみ。今未だこれを心に得ずして、多く前言に恃みて以て談証と為す。此より以往、恐らくは巧暦も紀すること能わざらん〔各本この字を脱す〕。又難じて云う、哀楽の作は、なお愛憎の賢愚に由るが如く、これ声は我をして哀しましめ、音は我をして楽しましむるなり。いやしくも哀楽声に由らば、更に実あることとなる。それ五色に好醜あり、五声に善悪あり、これ物の自然なり。愛と不愛、喜と不喜に至りては〔原鈔は下三字を誤りて下文の物字の下に入る。今移して正す。各本は脱す。旧校もまた削る〕、人情の変にして物を統ぶるの理、ただここに止まるのみ。しかれども皆内に預かるなく、物を待ちて成るのみ。それ哀楽は自ら事の会する所を以て、先ず心に遘い、ただ和声に因りて自ら顕発するなり。ゆえに前論に已にその常なきを明らかにし、今また此の談を仮りて以てその名号を正すのみ。哀楽の声音に発するを謂うにあらず、愛憎の賢愚に生ずるが如きなり。しかれども和声の人心を感ぜしむるは、なお醞酒〔各本は酒醴に作る〕の人の性〔各本は情に作る〕を発するが如きなり。酒は甘苦を主とし、酔者は喜怒を用とす。歓戚の声に発するを見て、声に哀楽ありと謂うは、なお〔各本この字を脱す。旧校もまた削る〕喜怒の酒に使われるを見て、酒に喜怒の理ありと謂うべからざるが如きなり。」

秦客難じて曰く、「それ気を観、色を采るは、天下の通用なり。心は内に変じて色は外に応ず。較然として見るべし。ゆえに吾子は疑わず。それ声音は気の激する者なり。心は感に応じて動き、声は変に従いて発す。心に盛衰あらば、声にもまた降〔張燮本は隆に作る。答文中の降殺の字をここに放つ〕殺あり。同じく一身に役せらるるに、何ぞ独り声に於いてすなわち疑うべけんや。それ喜怒は□診〔各本は色診に作る。旧校同じ〕に章かなり。哀楽もまた声音に形るべし。声音に自ずから哀楽あるべきも、ただ暗き者はこれを識ること能わざるのみ。鍾子の徒に至りては、常なき〔程本は当に訛る〕の声に遭うといえども、穎然として独り見るなり。今、蒙して瞽にして墻に面す」


第3節

主人答えて曰く、「人情は哀楽に感ずといえども、哀楽にはおのおの多少あり。また哀楽の極は、必ずしも同じく致るにあらざるなり。それ小哀なれば容は壊れ、甚だ悲しければ泣く。哀の方なり。小歓なれば顔は悦び、至楽なれば笑う。楽の理なり。何を以てこれを言うか。それ至親安豫なれば、すなわち怡然として自若たり、猖狂するところなり。危急に在りて、僅かにして後に済するに及べば、すなわち抃して舞うに及ばず。これに由りてこれを言えば、舞の先の自得に若かざること、豈に然らざらんや。それ笑噱に至りては、歓情より出づといえども、然れども自ら理を以て成る。また自然に声に応ずるの具にあらざるなり。これ楽の声に応ずるは、自得を以て主と為し、哀の感に応ずるは、垂涕を以て故と為す。垂涕すれば形動きて覚るべく、自得すれば神合して変なし。ここを以てその異を観て、その同を識らず。その外を別ちて、未だその内を察せざるのみ。然れども笑噱の声音に顕れざること、豈にひとり斉楚の曲のみならんや。今楽を自得の域に求めずして、笑噱なきを以て斉楚は哀を体すと謂う、豈に哀を知りて楽を識らざるにあらずや。」

秦客問いて曰く、「仲尼に言あり、風を移し俗を易うるは、楽より善きはなし、と。すなわち論ずるところのごとく、およそ百の哀楽、皆声に在らずとせば、すなわち風を移し俗を易うるは、果たして何物を以てするや。また古人は靡靡の風を慎み、耳を慆すの声を抑う。故に曰く、鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ、と。然らば鄭衛の音、鳴球を撃ちて以て神人を協わす。敢えて問う、鄭雅の体、隆弊の極まるところ、風俗の移り易わること、何に由りて済さんや。願わくは重ねてこれを聞き、以て疑うところを悟らん。」

主人これに応えて曰く、「それ風を移し俗を易うると言う者は、必ず衰弊の後を承くるなり。古の王者は、天を承けて物を理め、必ず簡易の教えを崇び、無為の治を御す。君は上に静かに、臣は下に順う。玄化潜かに通じ、天人交わりて泰し。枯槁の類も、霊液に浸育せられ、六合の内、鴻流に沐浴して、塵垢を蕩滌す。群生安逸にして、自ら多福を求む。黙然として道に従い、忠を懐き義を抱きて、その然る所以を覚えざるなり。和心は内に足り、和気は外に見る。故に歌いて以て志を叙べ、舞いて以て情を宣ぶ。然る後にこれに文うるに采章を以てし、これを照らすに風雅を以てし、これを播くに八音を以てし、これに感ぜしむるに太和を以てす。その神気を導き、養いてこれを就す。その情性を迎え、致してこれを明らかにす。心と理とをして相順ぜしめ、気と声とをして相応ぜしむ。会通に合して、以てその美を済す。故に凱楽の情は金石に見れ、含弘光大は音声に顕る。もし以往なれば万国風を同じくし、芳栄済々として茂り、馥しきこと秋蘭のごとし。期せずして信あり、謀らずして成り、穆然として相愛す。なお錦を舒べ彩を布くがごとく、燦炳として観るべきなり。大道の隆んなること、これより盛んなるはなく、太平の業、これより顕かなるはなし。故に曰く、風を移し俗を易うるは、楽より善きはなし、と。然れども楽の体たるや、心を以て主と為す。故に無声の楽は、民の父母なり。八音会して諧い、人の悦ぶところに至りては、また総じてこれを楽と謂う。然れども風俗の移易は、本よりここに在らざるなり。それ音声の和して比するは、人情の已むあたわざるところなり。ここを以て古人は情の放つべからざるを知る、故にその遁ぐるところを抑う。欲の絶つべからざるを知る、故に自ら以て致すところとなす。故に奉ずべきの礼を為し、導くべきの楽を制す。口は味を尽くさず、楽は音を極めず。終始の宜しきを揆り、賢愚の中を度り、これが検則を為して、遠近をして風を同じくせしめ、用いて竭きず、また忠信を結び、不遷を著すゆえんなり。故に郷校庠塾も亦これに随う。絲竹をして俎豆と並び存し、羽毛をして揖譲と倶に用いらしめ、正言をして和声と同に発せしむ。この声を聴かんとすれば、必ずこの言を聞き、この容を観んとすれば、必ずこの礼を崇ぶ。礼はなお賓主の升降のごとく、然る後に酬酢行わる。ここにおいて言語の節、声音の度、揖譲の儀、動止の数、進退相須ちて、共に一体を為す。君臣はこれを朝に用い、庶士はこれを家に用う。少くしてこれを習い、長じて怠らず、心安んじ志固く、善に従いて日に遷る。然る後にこれに臨むに敬を以てし、これを持するに久しくして変ぜず、然る後に化成る。これまた先王の楽を用うるの意なり。故に朝宴聘享に嘉楽必ず存す。ここを以て国史は風俗の盛衰を采り、これを楽工に寄せ、これを管弦に宣べ、言う者をして罪なからしめ、聞く者をして以て自ら戒むるに足らしむ。これまた先王の楽を用うるの意なり。もし鄭声に至りては、これ音声の至妙なり。妙音の人を感ぜしむること、なお美色の志を惑わすがごとく、盤に耽り酒に荒れ、以て業を喪いやすし。至人にあらざれば、孰かよくこれを御せん。先王は天下の流れて反らざるを恐る、故にその八音を具え、その声を瀆さず、その大和を絶ち、その変を窮めず。窈窕の声を捐て、楽しみて淫せざらしむ。なお大羹の和せずして、勺薬の味を極めざるがごとし。もし浅近に流浴すれば、声は悦ぶに足らず、また歓ぶところにあらざるなり。もし上その道を失い、国その紀を喪い、男女奔随して、淫荒度なければ、風はこれを以て変じ、俗は好みを以て成る。その志をしきものは、群もよくこれを肆にし、その習いを楽しむものは、何を以てこれを誅せんや。和声に託し、配してこれを長じ、誠は言に動き、心は和に感じ、風俗ひとたび成れば、因りてこれを名づく。然れどもその名づくるところの声、淫邪に甚だしきものなきなり。淫と正とは心に同じ、雅鄭の体もまた以て観るに足る。」

【第六篇 六朝の鬼神志怪書(下)】


釈氏の教えを輔くるの書は、『隋志』に九家を著録し、子部および史部に在り、今はただ顔之推の『冤魂志』のみ存す。経史を引きて報応を証し、すでに儒釈混合の端を開きたり。而してその余はすべて佚す。遺文の考え見るべきものには、宋の劉義慶の『宣験記』、斉の王琰の『冥祥記』、隋の顔之推の『集霊記』、侯白の『旌異記』の四種あり、大抵は経像の顕効を記し、応験の実に有ることを明らかにし、以て世俗を震耸し、敬信の心を生ぜしめんとす。顧みれば後世にはあるいは小説と視せり。王琰は太原の人、幼くして交阯に在り、五戒を受け、宋の大明および建元(五世紀中)年に、二たび金像の異に感じ、因りて記を作り、像の事を撰集し、経塔を以て継ぎ、凡そ十巻、これを『冥祥』と謂う。自らその事を序すること甚だ悉し(『法苑珠林』巻十七に見ゆ)。『冥祥記』は『珠林』および『太平広記』中に存するもの最も多く、その叙述もまた最も委曲詳尽なり。今略ぼ三事を引きて、以てその余を概す。


漢の明帝、夢に神人を見る。形は二丈に垂んとし、身は黄金色、項に日光を佩ぶ。以て群臣に問うに、あるいは対えて曰く、「西方に神あり、その号は仏と曰う。形は陛下の夢に見たまいしがごとし、これにあらずや。」ここにおいて使者を天竺に発し、経像を写し致す。これを中夏に表し、天子王侯より、ことごとく敬い事え、人の死して精神滅びざるを聞きて、惧然として自失せざるはなし。初め、使者蔡愔、西域の沙門迦葉摩騰らを将いて、優填王の画ける釈迦仏像を齎す。帝これを重んじ、夢に見しがごとくなれば、すなわち画工を遣わしてこれを数本図かしめ、南宮の清涼台および高陽門の顕節寿陵の上に供養す。また白馬寺に千乗万騎塔を繞ること三匝の像を壁画す。諸伝に備さに載するがごとし。(『珠林』十三)

晋の謝敷、字は慶緒、会稽山陰の人なり。……少くして高操あり、東山に隠れ、大法を篤信し、精勤して倦まず、手ずから『首楞厳経』を写す。まさに都の白馬寺中に在りしとき、寺は災火の延ぶるところとなり、什物余経、並びに煨燼と成る。而してこの経はただ紙の頭の界の外を焼くのみにて、文字はことごとく存し、毀失するところなし。敷の死せる時、友人その得道せるを疑い、この経のことを聞くに及びて、いよいよまた驚異す。……(『珠林』十八)

晋の趙泰、字は文和、清河貝丘の人なり。……年三十五の時、かつて卒かに心痛し、須臾にして死す。尸を地に下すも、心は暖かきこと已まず、屈伸人に随う。尸を留むること十日、平旦に喉中に声ありて雨のごとし。俄にして蘇りて活く。初め死する時を説くに、夢に一人来たりて心下に近づき、また二人黄馬に乗り、従者二人ありて、泰の腋を扶けて径ちに東行に将いゆくこと、幾里ばかりか知らず、一大城に至る。崔巍として高峻、城の色は青黒なり。泰を将いて城門より入り、二重の門を経るに、瓦屋数千間ばかりあり、男女大小また数千人、行列して立つ。吏は皂衣を著し、五六人あり、姓字を条疏して、「まさに科を以て府君に呈すべし」と云う。泰の名は三十に在り。須臾にして泰と数千人の男女を将いて一時にともに進む。府君は西向きに坐し、名簿を簡視し訖りて、また泰を遣わして南に黒門より入らしむ。人の絳衣を著して大屋の下に坐するあり、次を以て名を呼び、問う、「生時の所事は何ぞ。何の孽罪を作せるか。何の福善を行えるか。汝等の辞を諦かにし、実を以て言え。ここには恒に六部の使者を遣わして常に人間に在らしめ、善悪を疏記し、具さに条状あり、虚を得べからず。」泰答う、「父兄は仕宦し、皆二千石なり。我少くして家に在り、修学するのみ、事とするところなく、また悪を犯さず。」すなわち泰を遣わして水官の将作と為す。……後に泰を転じて水官都督とし諸獄の事を知らしめ、泰に兵馬を給し、地獄を案行せしむ。至るところの諸獄、楚毒おのおの殊なり。あるいは針もてその舌を貫き、血を流すこと体に竟り、あるいは頭を被き髪を露し、裸形徒跣にて相牽きて行き、大杖を持する者あり、後より催促す。鉄床銅柱、これを焼くこと洞然たり、この人を駆迫してその上に抱き臥さしむれば、赴けばすなわち焦爛し、尋いでまた還りて生ず。……あるいは剣樹あり高く広く、限量を知らず、根茎枝葉、皆剣もてこれを為す。人衆相訾り、自ら登り自ら攀じ、欣び競うあるがごとくして、身首割截せられ、尺寸離断す。泰、祖父母および二弟のこの獄中に在るを見て、相見て涕泣す。泰、獄門を出づるに、二人の文書を齎す者あり、来たりて獄吏に語る。三人あり、その家その為に塔寺中に幡を懸け香を焼きて、その罪を救解し、福舎に出づべしと言う。俄にして三人獄より出づるを見るに、すでに自然の衣服あり、完整にして身に在り。南に一門に詣る、名を開光大舎と云う。……泰案行し畢りて、水官のところに還る。……主者曰く、「卿は罪過なし、故に相使して水官都督と為す。しからずんば、地獄中の人と以て異なることなきなり。」泰、主者に問いて曰く、「人はいかなる行あれば、死して楽報を得るか。」主者ただ言う、「奉法の弟子、精進して持戒すれば、楽報を得て、謫罰あることなきなり。」泰また問いて曰く、「人いまだ法に事えざる時に行いし罪過は、法に事えし後に、以て除くを得るや否や。」答えて曰く、「皆除かるるなり。」語り畢りて、主者は縢箧を開きて泰の年紀を検するに、なお余算三十年在り、すなわち泰を遣わして還らしむ。……時に晋の太始五年七月十三日なり。……(『珠林』七。『広記』三百七十七)


仏教すでに漸く流播し、経論日に多く、雑説もまた日に出づ。聞く者はあるいは無常を悟りて帰依するも、またあるいは無常を怖れて却走す。この反動として、方士もまた自ら偽経を造り、多く異記を作り、長生久視の道を以て、天下の苦空を逃るる者を網羅す。今存するところの漢の小説は、一二の文人の著述を除くほかは、その余は蓋しみなこれなり。方士の書を撰するは、大抵古人に託名す。故に晋宋の人の作と称するもの多くはなし。ただ類書の間に『神異記』を引くものあり、すなわち道士王浮の作なり。浮は晋の人にして、浅妄の称あり。すなわち恵帝の時(三世紀末より四世紀初)帛選と抗論して屡々屈し、遂に『西域伝』を改換して老子の『明威化胡経』を造りし者なり(唐の釈法琳の『弁正論』六に見ゆ)。その記もまた神仙鬼神を言うこと、『洞冥』・『列異』の類のごとし。


陳敏、孫皓の世に江夏太守と為り、建業より職に赴く。宮亭廟の験あるを聞き、過ぎて任に在りて安穏ならんことを乞い、まさに銀杖一枚を上ぐべしとす。年限すでに満ち、杖を作りて以て廟に還さんと擬し、鉄を捶ちて以て干と為し、銀を以てこれに塗る。尋いで散騎常侍に徵され、宮亭に往き、杖を廟中に送り訖りて、すなわち路に進む。日晩に、降神の巫宣教して曰く、「陳敏我に銀杖を許すも、今塗杖を以て与えらる。すなわち水中に投じ、まさに以てこれを還すべし。欺蔑の罪は容すべからざるなり。」ここにおいて銀杖を取りてこれを看るに、剖きて中を視れば鉄の干を見る。すなわちこれを湖中に置く。杖は水上に浮き、その疾きこと飛ぶがごとく、遥かに敏の舫の前に到り、敏の舟遂に覆る。(『太平御覧』七百十)

丹丘は大茗を生じ、これを服すれば羽翼を生ず。(『事類賦注』十六)


『拾遺記』十巻、晋の隴西の王嘉の撰と題し、梁の蕭綺録す。『晋書・芸術列伝』中に王嘉あり、略ぼ云う。嘉、字は子年、隴西安陽の人。初め東陽谷に隠れ、後に長安に入る。苻堅累ねて徵すれども起たず。よく未然の事を言い、辞は讖記のごとく、当時よくこれを暁る者鮮し。姚萇長安に入り、嘉を逼りて自ら随わしむ。後に答問の萇の意に失するを以て、萇の殺すところと為る(約三九〇年)。嘉かつて『牽三歌讖』を造り、また『拾遺録』十巻を著す。その事多く詭怪にして、今世に行わる。伝に云う『拾遺録』なる者は、蓋しすなわち今の記なり。前に蕭綺の序あり、言う、書は本十九巻、二百二十篇、苻秦の季に当たりて、典章散滅し、この書もまた多く亡ぶることあり。綺さらに繁を削り実を存し、合して一部と為す。凡そ十巻なり。今の書の前九巻は庖犧に起こりて東晋に迄り、末の一巻は崑崙等の九仙山を記す。序に謂うところの「事は西晋の末に訖る」とはやや同じからず。その文筆は頗る靡麗にして、事はみな誕漫にして実なし。蕭綺の録もまた附会にして、胡応麟(『筆叢』三十二)以て「蓋しすなわち綺の撰にして王嘉に託せるなり」と為す。


少昊は金徳を以て王たり。母は皇娥と曰い、璇宮に処りて夜に織り、あるいは桴木に乗じて昼に遊び、窮桑滄茫の浦を経歴す。時に神童あり、容貌俗を絶し、白帝の子と称す。すなわち太白の精にして、水際に降り、皇娥と宴戲し、便娟の楽を奏し、游漾して帰るを忘る。窮桑なる者は西海の浜にして、孤桑の樹あり、直上すること千尋、葉は紅く椹は紫にして、万歳に一たび実を結び、これを食すれば天に後れて老ゆ。……帝子と皇娥と並び坐し、桐峰の梓瑟を撫す。皇娥瑟に倚りて清歌して曰く、「天清く地曠くして浩として茫茫たり、万象回薄して化すること方なし、浛天蕩蕩として滄滄を望み、桴に乗じて軽く漾いて日の傍に著く、まさにいずくにか至りて窮桑に至らん、心は和楽を知りて悦びていまだ央きず。」俗に遊楽の処を桑中と謂うなり。『詩・衛風』に「我を桑中に期す」と云うは、蓋しこれに類するなり。……皇娥少昊を生むに及び、号して窮桑氏と曰い、また桑丘氏と曰う。六国の時に至りて、桑丘子陰陽の書を著す。すなわちその余裔なり。……(巻一)

劉向、成帝の末に天禄閣に書を校す。専精覃思す。夜に老人ありて黄衣を著し、青藜の杖を植え、閣に登りて進む。向の暗中に独り坐して書を誦するを見て、老父すなわち杖の端を吹くに、煙燃え、因りて以て向に見え、開闢以前を説く。向、因りて五行洪範の文を受く。辞説の繁広にしてこれを忘れんことを恐れ、すなわち帛および紳を裂きて、以てその言を記す。曙に至りて去る。向、姓名を請い問うに、云う、「我はこれ太一の精なり。天帝卯金の子に博学の者あるを聞き、下りて観るなり。」すなわち懐中の竹牒を出すに、天文地図の書あり、「余略ぼ子に授けん。」向の子歆に至り、向より其の術を授かる。向もまたこの人を悟らざるなり。(巻六)

洞庭山は水上に浮かぶ。その下に金堂数百間あり、玉女これに居す。四時金石絲竹の声を聞くこと、山頂に徹す。楚の懐王の時、群才を挙げて水湄に詩を賦す。……後に懐王奸雄を進むるを好み、群賢逃越す。屈原は忠を以て斥けられ、沅湘に隠れ、蓁を披き草を茹り、禽獣に混同して、世務に交わらず、柏実を采りて桂膏を和し、以て心神を養う。王に逼迫せられて、すなわち清泠の水に赴く。楚人思慕し、これを水仙と謂う。その神は天河に遊び、精霊時に湘浦に降る。楚人これが為に祠を立つ。漢末なお在り。(巻十)

【第二十四篇 清の人情小説】


乾隆中(一七六五年頃)、小説に『石頭記』なるものあり、忽ち北京に出づ。五六年を歴て盛行す。然れどもみな写本にして、数十金を以て廟市に鬻ぐ。その本はただ八十回にて、開篇にすなわち本書の由来を叙す。女媧天を補うに、ひとり一石を留めて用いず。石甚だ自ら悼嘆す。俄にして一僧一道を見るに、以て「形体はまずは一個の宝物なり。まだただ実在の好いところがない。すべからくさらに数字を鐫りつけ、人をして一見してすなわち奇物なるを知らしむるのが妙であろう。然る後に好くも汝を隆盛昌明の邦、詩礼簪纓の族、花柳繁華の地、温柔富貴の郷に携え、安身立業せしめん」と為す。ここにおいてこれを袖にして去る。さらに幾劫を歴たるを知らず、空空道人あり、この大石を見るに、上に文詞を鐫る。石の請いに従い、鈔して以て世に問う。道人もまた「空に因りて色を見、色に由りて情を生じ、情を伝えて色に入り、色より空を悟り、遂に名を情僧と易え、『石頭記』を改めて『情僧録』と為す。東魯の孔梅渓はすなわち『風月宝鑑』と題す。後に曹雪芹の悼紅軒中にて披閲すること十載、増刪すること五次、目録を纂成し、章回を分出するに因り、すなわち『金陵十二釵』と題し、並びに一絶を題して云う、『満紙荒唐の言、一把辛酸の涙。都な作者の痴と云うも、誰かその中の味を解せん。』」(戚蓼生の序する八十回本の第一回)


第4節

本文の叙事するところは石頭城(すなわち金陵にあらず)の賈府にあり、寧国・栄国二公の後なり。寧公の長孫を敷と曰い、早く死す。次の敬は爵を襲うも、性は道を好み、また爵を子の珍に譲り、家を棄てて仙を学ぶ。珍遂に縦恣し、子の蓉あり、秦可卿を娶る。栄公の長孫を赦と曰い、子の璉あり、王熙鳳を娶る。次を政と曰う。女を敏と曰い、林海に適ぎ、中年にして亡じ、僅かに一女を遺す、黛玉と曰う。賈政は王氏を娶り、子の珠を生むも、早く卒す。次に女を生み元春と曰い、後に選ばれて妃と為る。次にまた子を得るに、すなわち玉を銜みて生まる。玉にまた字あり、因りて宝玉と名づく。人みな以て「来歴小さからず」と為す。而して政の母の史太君はことに鍾愛す。宝玉すでに七八歳、聡明人に絶するも、性は女子を愛し、常に言う、「女の子は水で出来た骨肉で、男は泥で出来た骨肉だ。」人ここにおいてまた以て将来は「色鬼」と為らんと為す。賈政もまたあまり愛惜せず、これを御すること極めて厳なり。蓋し「この人の来歴を知らざるに縁る。……もし多く書を読み字を識り、致知格物の功を加え、悟道参玄の力ある者にあらざれば、知ることあたわざるなり」(戚本第二回賈雨村云う)に因る。而して賈氏には実にまた「閨閣の中歴歴として人あり」、主従のほかに、姻連もまた衆し。黛玉・宝釵のごときは、皆来たりて寄寓し、史湘雲もまた時に至り、尼の妙玉はすなわち後園に習静す。右すなわち賈氏の譜の大要にして、虚線を用うるはその姻連、×を著すは夫婦、*を著すは「金陵十二釵」の数に在る者なり。


事すなわち林夫人(賈敏)の死に始まる。黛玉は恃を失い、またよく病み、遂に来たりて外家に依る。時に宝玉と同年にして、十一歳なり。すでにして王夫人の女弟の生める女もまた至る。すなわち薛宝釵にして、一年年長にして、頗る端麗を極む。宝玉は純朴にして、並びに二人を愛し偏心なし。宝釵は渾然として覚えず、而して黛玉はやや恚る。一日、宝玉倦みて秦可卿の室に臥す。遽に夢みて太虚境に入り、警幻仙に遇い、『金陵十二釵正冊』および『副冊』を閲す。図あり詩あり、然れども解せず。警幻は新制の『紅楼夢』十二支を奏ぜしむ。その末闋を『飛鳥各投林』と為し、詞に云う、

「官と為りし者は、家業凋零す。富貴なりし者は、金銀散じ尽く。恩ありし者は、死裏に逃生す。無情なる者は、分明に報応す。命を欠きし者は命すでに還り、涙を欠きし者は涙すでに尽きぬ。……破り看たる者は、空門に遁入し、痴迷せる者は、枉に性命を送れり。好く一つ似たり、食い尽くして鳥林に投ずるに。落ちたるは片の白茫茫たる大地、真に干浄なり。」(戚本第五回)


然れども宝玉またも解せず、さらに他の夢を歴て寤む。元春の選ばれて妃と為るに逮びて、栄公府はいよいよ貴盛し、その帰省に及びて、大観園を辟きて以てこれを宴す。情親ことごとく至り、天倫の楽を極む。宝玉もまた漸く長じ、外にては秦鍾・蒋玉函に昵み、帰りてはすなわち姉妹中表および侍児の襲人・晴雯・平児・紫鵑の輩の間に周旋す。昵みてこれを敬い、その意に拂うを恐れ、愛は博くして心は労し、而して憂患もまた日に甚だしくなれり。

この日、宝玉は湘雲の漸く癒ゆるを見て、然る後に黛玉を看に往く。まさに黛玉の昼寝を終えたばかりの時に当たり、宝玉は驚かすを敢えてせず。紫鵑がまさに回廊の上にて手に針仕事をしているのを見て、すなわち上がりて問う、「昨夜の咳は少しはましか。」紫鵑道う、「ましになりました。」宝玉道う、「阿弥陀仏、どうか良くなりますように。」紫鵑笑いて道う、「あなたも念仏するようになって、本当にニュースですこと。」宝玉笑いて道う、「いわゆる『病篤くして医を乱投す』というやつさ。」一面に言いつつ、彼女が弾墨綾子の薄綿袄を着て、外にはただ青緞子の挟背心だけを着ているのを見て、宝玉はすなわち手を伸ばして彼女の身の上を一撫でして言う——


第5節

しかれども『紅楼夢』は作者の自叙なりと謂い、本書の開篇と契合するものは、その説の出づること実に最も先にして、確定するは反って最も後なり。嘉慶の初め、袁枚(『随園詩話』二)すでに云う、「康熙中、曹練亭は江寧織造と為り、……その子雪芹は『紅楼夢』一書を撰し、備さに風月繁華の盛んなるを記す。中にいわゆる大観園なる者は、すなわち余が随園なり。」末の二語は蓋し誇りなり。余もまたいささかの小誤あり(楝を練と為し、孫を子と為すがごとし)。しかれどもすでに明らかに雪芹の書は、その聞見するところを記すと言えり。而して世間これを信ずる者は特に少なし。王国維(『静庵文集』)はまた難詰して、以て「いわゆる『親しく見親しく聞く』とは、また傍観者の口より言うことを得べし、必ずしも躬ら劇中の人物と為るにあらず」と為す。胡適の考証を作すに逮びて、すなわちいよいよ彰明にして、曹雪芹は実に栄華に生まれ、苓落に終わり、半生の経歴は「石頭」に絶似し、西郊に書を著すも、就らずして没す。晩に出づる全書は、すなわち高鶚の続成したるものなりと知る。

雪芹の名は霑、字は芹渓、一字は芹圃、正白旗漢軍なり。祖の寅、字は子清、号は楝亭、康熙中に江寧織造と為る。清の世祖南巡の時、五次織造署を以て行宮と為す。後の四次は皆寅の在任中なり。しかれどもすこぶる風雅を嗜み、かつて古書十余種を刻し、時の称するところとなる。また能く文し、著すところに『楝亭詩鈔』五巻『詞鈔』一巻あり(『四庫書目』)、伝奇二種あり(『在園雑志』)。寅の子、すなわち雪芹の父もまた江寧織造と為る。故に雪芹は南京に生まる。時は蓋し康熙の末なり。雍正六年、任を卸し、雪芹もまた北京に帰る。時に約十歳なり。しかるに何の因によるか知らず、これより後、曹氏は巨変に遭いしごとく、家は頓に落ち、雪芹は中年に至りて、すなわち貧にして西郊に居し、粥を啜り、しかもなお傲兀にして、時にまた酒を縦にして詩を賦す。『石頭記』を作るは蓋しまたこの際なり。乾隆二十七年、子殤じ、雪芹傷感して疾を成し、除夕に至りて卒す。年四十余(一七一九?——一七六三)。その『石頭記』はなお就らず、今伝わるところはただ八十回のみなり(詳しくは『胡適文選』を見よ)。

後の四十回を高鶚の作と言う者は、俞樾(『小浮梅閑話』)の云う、「『船山詩草』に『高蘭墅鶚同年に贈る』一首あり、『艶情人自ら紅楼を説く』と云う。注に云う、『紅楼夢は八十回以後、すべて蘭墅の補うところなり。』然らばこの書は一手より出でたるにあらず。按ずるに郷会試に五言八韻の詩を増すは、乾隆朝に始まる。而して書中に科場の事を叙するにすでに詩あれば、その高君の補いしところなるを証すべし。」と。しかれども鶚の作りし序には、ただ「友人程子小泉、余を過り、その購うところの全書を以て示し、かつ曰く、『これ僕の数年銖積寸累の辛心なり。まさに剞劂に付して、同好に公にせんとす。子は閑にしてかつ惫れたり、盍ぞこれを分担せざるや。』余以てこの書は……なお名教に背かず……遂にその役を襄く。」と言うのみ。蓋し己より出づるを明言するを欲せざるも、而して僚友にはすこぶるこれを知る者あり。鶚はすなわち字を蘭墅と曰い、鑲黄旗漢軍にして、乾隆戊申の挙人、乙卯の進士、旋いで翰林に入り、侍読に官す。またかつて嘉慶辛酉の順天郷試の同考官と為る。その『紅楼夢』を補うは、まさに乾隆辛亥の時に当たり、いまだ進士と成らず、「閑にしてかつ惫れたり」なれば、雪芹の蕭条の感に偶々あるいは相通ず。しかれども心志いまだ灰ならざれば、いわゆる「暮年の人、貧病交々攻め、漸く下世の光景を露出す」(戚本第一回)という者とはまた絶えて異なる。ここを以て続書もまた悲涼なりといえども、賈氏は終に「蘭桂斉しく芳し」くして、家業復興し、殊に茫茫たる白地、真に干浄と成るがごときものには類せざるなり。

続『紅楼夢』は八——


第6節

第八巻


宅に吉凶なき摂生論 上を難ず


それ善く寿強を求むる者は、必ず先ず夭疾の自ら来たるところを知り、然る後にその至るを防ぐべきなり。禍はここに起こりて、防ぐはかしこに為す。すなわち禍は自ら瘳ゆるなし。世に安宅・葬埋・陰陽・度数・刑徳の忌あり、これ何より生ずるか。性命を見ず、禍福を知らざるなり。見ざる故に妄りに求め、知らざる故に幸を干す。ここを以て善く生を執る者は、性命の宜しきところを見、禍福の来たるところを知る。故にこれを実に求め、これを信に防ぐ。それ多く飲みて走れば、すなわち澹支と為り、しばしば行きて風に当たれば、すなわち痒毒と為り、久しく湿に居れば、すなわち要疾偏枯し、内を好みて怠らざれば、すなわち昏喪して女疾す。かくのごときの類は、災の来たるゆえんにして、寿の去るゆえんなり。而して墓を掘り室を築き、日を費やし身を苦しめて以てこれを求む。疾は形に生じて、治は土木に加う。これ疾の瘳ゆる道なし。詩に云う、「恺悌の君子、福を求めて回らず」とは、謗議を避けて義然たるにあらざるなり。蓋し回は福を求むるところにあらざるを知ればなり。故に寿強なり。気を専らにして柔を致し、私を少なくして欲を寡くし、直ちに情性の宜しきところを行いて、養生の正度に合す。これを懐抱の内に求めて、これを得たり。かつて蚕を知らざる者あり、口を出だし手を動かすに、みな忌祟と為す。蚕を得ること滋ますます甚だしからず、忌祟のためにますます多し。なおみずから犯すと以為えるなり。蚕を知る者あり、これに教えて、蚕はもっぱら桑と火と寒暑燥湿にあるを知らしむれば、ここにおいて百忌おのずから息み、利すること十倍なり。何となれば、先ず然る所以を知らざれば、故に忌祟の情繁く、後に然る所以を知る者は、故にこれを求むるの術正し。故に忌祟は常に不知より生ず。性命を知ることなお蚕を知るがごとくならしめば、忌祟は立つところなし。多く食して消さざれば、黄丸を含みて筮祝し谴祟を祓い、あるいは胡に従いて福を求むる者は、およそ人の笑うところなり。何となれば、智もてその禍なきを達するを以てなり。忌祟のことごとく不知より生ずること、知る者よりこれを言えば、みな胡に乞うがごとし。設けて三公の宅と為し、愚民をしてこれに居らしめば、必ずしも三公と為らず。知るべきなり。それ寿夭の求むべからざること、貴賤よりも甚だし。然らば百年の宮を択びて殤子の寿を望み、魁罡を孤逆して彭祖の夭を速めんとすること、必ず幾からず。あるいは曰く、愚民は必ずしも久しく公侯の宅に居るを得ず、と。然らば果たして宅なきなり。これ性命は自然にして求むべからず。賊の方に至らんとするに、疾く逃げずして、独り須臾を安んぜば、遂に虜するところとなる。然らば禍を避け福に趣くは、理に縁るに過ぐるはなし。賊を避くるの理は、速く逃ぐるにしくはなし。すなわちこれ善なり。養生の道は、先ず知るにしくはなし。すなわち尽くすを為す。それ賊を避くるは速やかなるべきこと章々として然り。故に中人も睹るを難しとせず。禍を避くるの理は冥々として然り。故に明者も見ること易からず。その理に動くにおいては、妄りに求むべからず、一なり。孔子疾あり、医——


第7節

第五篇の大旨はすべて同じく、すなわちこの篇の典拠となったものである。明の湯顕祖の『邯鄲記』は、またこの篇に基づいている。既済の文筆は簡練で、かつ規誡の意が多く、故事は荒唐ではあるが、当時なお推重されて韓愈の『毛穎伝』に比せられた。たまに諧謔を病む者もあったが、それは作者がかつて史官であったため、史法をもってこれを律し、小説の本意を失ったのである。既済にはまた『任氏伝』(『広記』四百五十二に見える)一篇があり、妖狐の幻化を語り、ついに志を守って人に殉じ、「今の婦人にも及ばぬ者がある」と述べた、やはり世を諷する作である。

「呉興の才人」(李賀の語)沈亜之は字を下賢といい、元和十年に進士に及第し、太和の初めに徳州行営使の柏耆の判官となったが、耆が罪を得て貶せられ、亜之もまた南康尉に左遷され、郢州の掾に終わった(およそ八世紀末から九世紀中頃)。集は十二巻、今も存する。亜之は文名があり、自ら「窈窕の思いを創り得る」と称した。今の集中に伝奇文が三篇あり(『沈下賢集』巻二・巻四、また『広記』二百八十二および二百九十八に見える)、いずれも華艶なる筆をもって恍惚たる情を叙し、仙鬼の復死を好んで語るところは、同時の文人と殊に趣を異にしている。『湘中怨』は鄭生がたまたま孤女に出会い、相依ること数年、ある日別れ去って、自ら「蛟宮の妹」と称し、謫限はすでに満ちたと言い、十余年後にまた遠くこれを画舫の中に見かけ、悲しげに歌うのを聞いたが、「風涛崩怒」して、ついにその所在を見失った。『異夢録』は邢鳳が夢に美人に見え、「弓弯」の舞を示されたこと、および王炎が夢に呉王に久しく仕え、にわかに笳鼓を聞けば西施の葬礼で、教えに従って挽歌を作ると、王がこれを嘉賞したことを記す。『秦夢記』は自ら長安を経て橐泉の邸舎に宿り、夢に秦の官となって功あり、時に弄玉の婿の蕭史がまず死んでいたため、公主を娶り、その居所を翠微宮と自ら題したことを述べる。穆公の亜之への待遇もまた甚だ厚かったが、ある日公主が突然無病にして卒し、穆公はもう亜之に会おうとせず、帰国させた。

去るに臨み、公は酒宴を大いに設け、秦の音を奏し、秦の舞を舞わせた。舞う者は膊を打ち髀を撫でて嗚嗚と声を発するも、音に快からぬものがあり、声は甚だ怨みがましかった。……やがて再拝して辞し去り、公はまた翠微宮に至って公主の侍人と別れよと命じた。殿内に再び入った時、珠翠の欠片が青い階の下に散乱し、窓紗の檀点は依然としてあり、宮人は亜之に向かって泣いた。亜之は感じ入って長く咽び、やがて宮門に詩を題して曰く、「君王多感にして東帰を放ち、此より秦宮また期すべからず、春景自ら秦の主を喪いしを傷み、落花雨の如く泪は胭脂なり」と。ついに別れ去り、……邸舎に覚めた。翌日、亜之は友人の崔九万にこの経緯を詳しく語った。九万は博陵の人で古事に通じており、余に謂って曰く、「『皇覧』に云う、『秦の穆公は雍の橐泉の祈年宮の下に葬る』と。その神霊の憑依したるにあらずや」と。亜之はさらに秦代の地誌を求め得たが、九万の言うとおりであった。ああ、弄玉はすでに仙人となったのに、どうしてまた死ぬことがあろうか。

陳鴻の文章は辞意慷慨にして、弔古を長じ、往事を追懐して情に勝えざるが如くであった。鴻は少くして史を学び、貞元二十一年に太常第に登り、初め閑居して志を遂げ、『大統紀』三十巻を修して七年にしてようやく成った(『唐文粋』九十五)。長安にあった時、かつて白居易と友となり、『長恨歌』のために伝を作った(『広記』四百八十六に見える)。『新唐志』小説家類に陳鴻『開元升平源』一巻があり、注に「字は大亮、貞元の主客郎中」とあるのは、あるいはまたこの人であろう(およそ八世紀後半から九世紀中葉)。その作にはまた『東城老父伝』(『広記』四百八十五に見える)があり、賈昌が兵火の後、太平の盛事を追憶し、栄華の零落を両相対照する、その語は甚だ悲しい。『長恨歌伝』は元和の初めに作られ、やはり開元中の楊妃の入宮から蜀に死するまでの顛末を追述し、法は『賈昌伝』に類する。楊妃の故事は唐人のもともと好んで語るところであるが、条理秩然としてこの伝のごとき者は稀であり、また白居易の歌を得たがゆえに、とりわけ世に知られることとなった。清の洪昇が『長生殿伝奇』を撰したのは、すなわちこの伝と歌の意に基づいたものである。伝には今いくつかの版本があり、『広記』と『文苑英華』(七百九十四)所録のものは字句にすでに異同が多いが、明人が『文苑英華』の後に付載した『麗情集』および『京本大曲』から出たものは殊に異なる。けだし後人(『麗情集』の撰者張君房か)がさらに増損したのであろう。

天宝の末、兄の国忠が丞相の位を僭し、国柄を愚弄し、安禄山が兵を率いて闕に向かい、楊氏を討つことを口実とした。潼関は守れず、翠華は南に幸し、咸陽を出て、道すがら馬嵬亭に次いだ。六軍は徘徊し、戟を持して進まず、従官郎吏は上の馬前に伏して、晁錯を誅して天下に謝せんと請うた。国忠は氂纓盤水を奉じて道の周に死した。左右の意はなお快からず、上がこれを問えば、当時敢えて言う者は貴妃をもって天下の怨みを塞がんと請うた。上は免れ得ぬことを知りながら、なおその死を見るに忍びず、袂を翻して面を掩い、牽いて去らしめた。倉皇として展転し、ついに尺組の下に死を就いた。(『文苑英華』所載)

天宝の末、兄の国忠が丞相の位を僭し、ひそかに国柄を弄し、羯胡が燕に乱を起こし、二京は連なって陥り、翠華は南に幸した。駕は都の西門を出ること百余里、六師は徘徊して戟を擁して行かず、従官郎吏は上の馬前に伏して、錯を誅してこれに謝せんと請うた。国忠は氂纓盤水を奉じて道の周に死した。左右の意はなお快からず、当時敢えて言う者は貴妃をもって天下の怒りを塞がんと請うた。上は惨容にしてただ心にその死を見るに忍びず、袂を翻して面を掩い、牽いて去らしめた。上の前に拝し、眸を回せば血の下り、金釵翠羽を地に墜とした。上はみずからこれを拾った。ああ、蕙心紈質、天王の愛なるも、やむを得ず尺組の下に死す。叔向の母は云う「甚だ美なれば必ず甚だ悪し」と、李延年は歌って曰う「国を傾け城を傾く」と、これの謂いなり。(『麗情集』および『大曲』所載)

白行簡は字を知退といい、その先はけだし太原の人で、後に韓城に家し、また下邽に移り、居易の弟である。貞元の末に進士に及第し、累遷して司門員外郎・主客郎中に至り、宝暦二年(八二六)冬に病没、年はおよそ五十余。両『唐書』いずれも『居易伝』に附見されている。集二十巻があったが今は存せず、しかし『広記』(四百八十四)にその伝奇文一篇を収めて『李娃伝』と曰う。滎陽の巨族の子が長安の娼女李娃に溺れ、貧病に困頓し、挽郎に身を落とすまでに至ったが、また李娃に救われ、学に励まされて、ついに科挙に及第し、成都府の参軍となったことを語る。行簡はもともと文筆に長じ、李娃の事もまた人情に近くして聳聞であるから、纏綿として見るに堪える。元人はすでにその事を本として『曲江池』と為し、明の薛近兖はこれをもって『繡襦記』を作った。行簡にはまた『三夢記』一篇(原本『説郛』四に見える)があり、「かの者が夢に往くところありてこの者がこれに遇う者、あるいはこの者が為すところありてかの者がこれを夢見る者、あるいは二人が相い夢に通ずる者」の三事を挙げ、いずれも叙述は簡質であるが事は殊に瑰奇で、その第一事がもっとも勝れている。

天后の時、劉幽求は朝邑の丞であったが、かつて使いを奉じて夜帰る折、家に至るまであと十余里というところで、たまたま仏寺があり、路がその傍を過ぎていた。寺中に歌笑の歓洽する声を聞いた。寺垣は低く欠けて、中の様子がすべて見えた。劉は身を俯せてこれを窺い、十数人の男女が雑坐し、盤饌を羅列してこれを環繞して共に食すのを見た。その妻が座中にあって語笑するのが見えた。劉は初め愕然として、そのゆえを測りかねたが、しばらくして、妻がこの場所に来るはずがないと思い返しつつも、なお棄て去ることができなかった。さらに容姿言笑を熟視するに、まったく異なるところがなく、近づいて確かめようとしたが、寺門は閉ざされて入れなかった。劉は瓦を投げてこれを撃つと、その酒器に当たって破散し、人々は走り散って忽ち見えなくなった。劉は垣を越えてまっすぐに入り、従者とともに殿廡を見て回ったが、すべて人はなく、寺は元のまま閉ざされていた。劉はいよいよ怪しみ、馬を飛ばして帰った。家に着くと、妻はまさに寝ているところで、劉が着いたと聞いて寒暄を叙し終えると、妻は笑って曰く、「先ほど夢の中で十数人とある寺を遊んだのですが、みな知らない人ばかりでした。殿庭で会食していると、外から瓦礫を投げ込む者があり、杯盤は狼藉として、それで目が覚めたのです」と。劉もまたその見たことを詳しく述べた。けだしいわゆる「かの者が夢に往くところありてこの者がこれに遇う」ということであった。


第8節


第9節

第九篇 唐の伝奇文(下)】

しかるに伝奇の諸作者の中に、特に関係ある者が二人いる。その一は、作品は多くないが影響が甚だ大きく、名もまた甚だ高い者、元稹である。その二は、著作が多く影響もまた甚だ大きいが、名はそれほど顕著でない者、李公佐である。

元稹は字を微之といい、河南河内の人である。明経に挙げられて校書郎に補せられ、元和の初めに制策に応じて第一となり、左拾遺に除せられ、監察御史を歴任し、事に坐して江陵に貶せられ、また虢州長史より召し入れられ、漸く遷って中書舍人承旨学士に至り、工部侍郎同平章事に進んだが、まもなく罷相となり、同州刺史に出され、また越州に改められて浙東観察使を兼ねた。太和の初め、入って尚書左丞検校戸部尚書に至り、鄂州刺史兼武昌軍節度使となったが、五年七月に暴疾にかかり、一日にして鎮に卒した。時に年五十三(七七九——八三一)。両『唐書』にいずれも伝がある。稹は少くより白居易と唱和し、当時詩を論ずる者は元白と称し、「元和体」と号した。しかし伝わる小説は『鶯鶯伝』(『広記』四百八十八に見える)一篇のみである。

『鶯鶯伝』とは、すなわち崔張の故事を叙したもので、また『会真記』とも名づけられる。略述すれば、貞元中、張生なる者あり、性は温美にして容貌端正、礼にあらざれば動かず、年二十三にしていまだ女色に近づいたことがなかった。時に生は蒲に遊び、普救寺に寓した。たまたま崔氏の寡婦が長安に帰ろうとして蒲を過ぎ、やはりこの寺に寓した。その親戚を辿れば、張にとっては異派の従母にあたる。折しも渾瑊が薨じ、軍人が喪に乗じて蒲の人々を大いに騒擾した。崔氏は甚だ恐れたが、生は蒲の将の党と親しかったため、これを護ることができ、十余日の後、廉使の杜確が来て軍を治め、軍はすなわち戢まった。崔氏はこれにより張生に甚だ感謝し、宴に招いた。その娘の鶯鶯に会うと、生は惑い、崔の婢の紅娘に託して『春詞』二首をもって意を通じた。その夕、彩箋を得て、その篇に題して『明月三五夜』と曰う。辞に云く、「月を待つ西廂の下、風を迎えて戸は半ば開く、隔壁の花影動き、疑うらくは玉人の来たるかと」。張は喜びかつ驚いたが、やがて崔が至ると、端服厳容にしてその非礼を責め、ついに去り、張は放心すること久しかった。数夕の後、崔がまた至り、暁になって去ったが、終夕一言もなかった。

……張生は色を弁じて起き、自ら疑って曰く「あに夢か」と。明くるに及び、化粧が臂にあり、香が衣にあり、涙光が瑩々として茵席に瑩いているのを睹た。これより後また十余日、杳として復た知れず。張生は『会真詩』三十韻を賦したが、未だ畢らざるに紅娘がたまたま至り、これを授けて崔氏に贈らしめた。これより復た容れられ、朝に隠れて出で、暮に隠れて入り、いわゆる西廂において安んずることほとんど一月であった。張生がつねに鄭氏の情を問えば、曰く「我はいかんともし難し」と。よってこれを成就しようとした。まもなく張生が長安に赴こうとし、まずその情を諭すと、崔氏は婉然として難色なく、しかし愁怨の容は人を動かした。出発の夕、もはや会うことが叶わず、張生はついに西に下った。……

翌年、科挙に失敗し、張生はやむなく京に留まり、崔氏に書を贈った。崔はこれに返書した。しかし生はその書を知己に示したため、時の人の語り草となった。楊巨源はこのために『崔娘詩』を賦し、元稹もまた生の『会真詩』三十韻を続けた。張の友人でこれを聞いた者はみな驚き怪しんだが、張の志もまたすでに絶えていた。元稹は張と厚く、その話を問うと、張は曰く——

「およそ天の命ずるところの尤物は、その身を妖せざれば、必ず人を妖す。もし崔氏の子が富貴に遇合し、嬌寵を恃めば、雲となり雨とならざれば、蛟となり螭となるであろう。吾はその変化を知らず。昔、殷の辛、周の幽は万乗の国に拠り、その勢は甚だ厚かった。しかるに一人の女子がこれを敗り、その衆を潰し、その身を屠り、今に至るまで天下の笑い者となっている。予の徳は妖孽に勝つに足らず、ゆえに情を忍ぶのだ。」

一年余りを過ぎて、崔はすでに他に嫁ぎ、張もまた別に妻を娶った。たまたまその住むところを過ぎ、外兄として面会を請うたが、崔はついに出なかった。後日、張生が去ろうとした時、崔は詩一章を賦して訣別の辞を送った。「棄置して今何ぞ道わん、当時はまた自ら親しめり、なお旧き意をもって取り来たり、眼前の人を憐れめ」と。これより遂に復た消息を知らなかった。時の人は多く張を善く過ちを補う者と称したという。

元稹は張生に自らを託し、その親しく経験した境を述べている。文章はなお上乗とは言えないが、時に情致があり、もとより見るに堪える。ただ篇末に文をもって非を飾り、遂に悪趣に堕した。しかし李紳・楊巨源の輩がおのおの詩を賦してこれを助け、稹もまた早くから詩名があり、後に節鉞を秉ったため、世人はなお多くこれを好んで語った。宋の趙徳麟はすでにその事を取って『商調蝶恋花』十闋を作り(『侯鯖録』に見える)、金には董解元の『弦索西廂』があり、元には王実甫の『西廂記』、関漢卿の『続西廂記』があり、明には李日華の『南西廂記』、陸采の『南西廂記』等がある。その他「竟」「翻」「後」「続」と題するものはさらに繁多で、今に至るまでなおその事を称道する者がいる。唐人の伝奇は遺存するもの少なくないが、後世これほど煊赫たるは、ただこの篇と李朝威の『柳毅伝』のみである。

李公佐は字を颛蒙といい、隴西の人である。かつて進士に挙げられ、元和中に江淮の従事となり、後に罷めて長安に帰った(所作の『謝小娥伝』中に見える)。会昌の初め、またも楊府の録事となり、大中二年に累に坐して二任の官を削られた(『唐書・宣宗紀』に見える)。けだし代宗の時に生まれ、宣宗の初めになお在世していた(およそ七七〇——八五〇)。余事は未詳。『新唐書・宗室世系表』にある千牛備身公佐は、別人である。その著作は今四篇存し、『南柯太守伝』(『広記』四百七十五に見え、『淳于棼』と題する。今は『唐語林』に拠って改正する)が最も有名である。伝に言う、東平の淳于棼は家が広陵郡の東十里にあり、宅の南に大槐が一株あった。貞元七年九月、沈酔により疾を致し、二人の友が生を扶けて家に帰らせ、東廡の下に臥せしめた。生は枕に就くと昏然として夢のごとく、二人の紫衣の使者が王命をもって招くのを見た。門を出て車に乗り、古い槐の穴を指して入っていった。使者は車を駆って穴に入ると、忽ち山川が見え、ついに一大城に入った。城楼の上に金書で「大槐安国」と題されていた。生は至って駙馬を拝し、復た南柯太守に出された。郡を守ること三十年、「風化は広く及び、百姓は歌謡し、功徳碑を建て、生祠を立てた」。王は甚だこれを重んじ、次々と大位に遷した。生に五男二女があったが、後に兵を率いて檀蘿国と戦い、敗績した。公主もまた薨じた。生は郡を罷められたが、威福は日に盛んで、王は疑い憚り、遂に生の遊従を禁じ、私第に処した。やがて送り帰された。覚めてみれば、「家の童僕が庭で箒を揮っており、二客は榻で足を濯い、斜日はまだ西垣に隠れず、余樽はなお東牖に湛えていた。夢中の忽忽は、一生を過ごしたかのようであった」。その立意は『枕中記』と同じだが、描写はいっそう尽くされている。明の湯顕祖もまたこれに基づいて伝奇『南柯記』を作った。篇末に穴を掘って根源を究めたところ、蟻が群がっており、すべて前の夢に符合したと記す。実証をもって幻を証したもので、余韻悠然、物情を尽くしたとは言えないが、すでに『枕中記』の及ぶところではない。

……大きな穴があり、根の洞は明朗として一榻を容れるに足りた。上に積土壌をもって城郭殿台の状を為し、蟻が数斛も隠れ集まっていた。中に小さな台があり、その色は丹の如く、二匹の大蟻がそこにおり、素翼朱首、長さ三寸ばかり、左右に大蟻数十匹がこれを輔け、諸蟻は敢えて近づかなかった。これがその王であり、すなわち槐安国の都である。さらに一穴を極めると、まっすぐに南枝を上ること四丈ばかり、宛転として方形の中にやはり土城小楼があり、蟻の群れもまたそこに住んでいた。すなわち生が領した南柯郡である。……前事を追想し、感嘆の懐いを抱き、……二客にこれを壊させたくなく、にわかに掩塞して旧に復せしめた。……さらに檀蘿征伐のことを念じ、また二客にその跡を外に訪ねてもらうと、宅の東一里に古い涸れた澗があり、側に大きな檀の木が一株あって、藤蘿が擁織し、上に日を見ず、傍らに小さな穴があり、やはり蟻の群れが隠れ集まっていた。檀蘿の国とは、これではなかろうか。ああ、蟻の霊異すらなお窮め尽くせないのだ、まして山に潜み木に隠れた大いなるものの変化においておや。……

『謝小娥伝』(『広記』四百九十一に見える)は、小娥が姓は謝、豫章の人で、八歳にして母を喪い、後に歴陽の侠士段居貞に嫁いだことを語る。夫婦と父はいずれも商いを習い、江湖を往来する間に盗賊に殺され、小娥もまた足を折って水に堕ちたが、他の船に救い上げられた。初め、小娥はかつて夢に父が仇人は「車中猴東門草」と告げるのを見、また夢に夫が仇人は「禾中走一日夫」と告げるのを見た。広く智者を求めたが、みな解けなかった。公佐に至ってようやくこれを弁じて曰く、「車中猴とは、車の字の上下各一画を去れば申の字であり、草の下に門があり門の中に東がある、これは蘭の字である。また禾中走は田を穿って過ぎることで、やはり申の字である。一日夫とは、夫の上にさらに一画あり下に日がある、これは春の字だ。汝の父を殺したのは申蘭、汝の夫を殺したのは申春である」と。小娥はそこで男装して傭保となり、果たして潯陽で二賊に遭い、これを刺殺し、さらに官に告げてその一党を捕えた。謎解きによって賊を捕えるという筋は、甚だ理致に乏しいが、当時もまた盛んに伝えられた。

残る二篇のうち、その一つは原題が未詳で、『広記』では『廬江馮媼』と題する。事は甚だ簡素で、ゆえに文もまた華やかではない。もう一つは『古岳瀆経』(『広記』四百六十七に見える)という。李湯なる者が、永泰の時の楚州刺史で、漁人が亀山の水中に大鉄鎖を見たと聞き、人と牛でこれを引き出した。風涛はにわかに起こり、「一獣、状は猿の如く、白首長鬐、雪牙金爪」が岸に上がった。後に公佐は古の東呉を訪ね、石穴の間に『古岳瀆経』第八巻を得て、禹が水を治めんとして桐柏山に至り、ついに淮渦の水神、無支祁を獲えた故事を知った。宋元以来、この説が流伝して絶えず、民間に広まった。ただ後に次第に禹を僧伽あるいは泗洲大聖と誤り、明の呉承恩が『西遊記』を演ずるにあたって、その神変奮迅の状を孫悟空に移したため、禹が無支祁を伏した故事は遂に埋没するに至った。

伝奇の文は、このほかなお多い。著名なものとしては、李朝威の『柳毅伝』(『広記』四百十九に見える)がある。毅が科挙に落第して湘浜に帰ろうとする途中、龍女に出会い、手紙を洞庭君に届けた話である。また蒋防の『霍小玉伝』(『広記』四百八十七に見える)、許堯佐の『柳氏伝』(『広記』四百八十五に見える)等もまたみな造作がある。しかし杜光庭の『虬髯客伝』(『広記』一百九十三に見える)は、流伝がとりわけ広い。楊素の妓人にして紅拂を執る者が李靖を布衣の時に見出し、虬髯客と出会い、三侠と称されるに至った故事を記す。後世この故事を好み、画図まで作った。

以上に挙げたもののほか、なお作者不明の『李衛公別伝』『李林甫外伝』、郭湜の『高力士外伝』、姚汝能の『安禄山事迹』等がある。著述の本意は幽隠を顕揚するにあり、伝奇のためではないが、文の枝蔓なること、事の瑣屑なることにより、後人もまたしばしば小説と見なしたのである。


第10節


第11節

第十篇 唐の伝奇集および雑俎】

伝奇の文を造り、一集に会萃した者は、唐代に多くあったが、煊赫たること牛僧孺の『玄怪録』に及ぶものはない。僧孺は字を思黯といい、もと隴西狄道の人で、宛葉の間に居した。元和の初めに賢良方正の対策で第一となり、失政を条指して鯁諤して宰相すら避けなかったため、考官はみな調去され、僧孺もまた伊闕尉に調せられた。穆宗が即位すると漸く御史中丞に至り、後に戸部侍郎同中書門下平章事となったが、武宗の時に累貶されて循州長史となった。宣宗が立つと召し還されて太子少師となり、大中二年に卒し、太尉を贈られた。年六十九(七八〇——八四八)。文簡と諡され、両『唐書』に伝がある。僧孺の性は堅僻にしてかなり志怪を嗜み、撰した『玄怪録』十巻は今はすでに散逸しているが、『太平広記』に引くところなお三十一篇あり、大概を考見することができる。その文は他の伝奇と大きな違いはないが、時々に造作から出たことを示して信を求めない。けだし李公佐・李朝威の輩は筆妙を顕揚するのに急であったため、なお事状の虚なることを言おうとしなかったが、僧孺に至っては構想の幻をもってみずから見えんと欲し、ゆえにことさらにその詭設の跡を示したのである。『元無有』はその一例である——

宝応中、元無有なる者あり、常に仲春の末に独り維揚の郊野を行く。日暮に遇い、風雨大いに至った。時に兵荒の後で、人家は多く逃げ去っていたため、路傍の空き家に入った。しばらくして雨が止み、斜月がまさに出たところ、無有は北窓に座していると、忽ち西廊に人の歩く音が聞こえた。まもなく月光の中に四人が見えた。衣冠はみな異様で、互いに談笑吟詠すること甚だ暢達であった。……吟詠は朗々として、無有はこれを聴くに具さに悉った。その一の詩は「斉の紈魯の縞、霜雪の如し」、その二は「煌煌たる灯燭は我よく持つ」、その三は「清冷の泉、朝の汲みを候つ」、その四は「爨薪泉を貯えて相い煎熬す」と。四人は暁近くなってようやく元の場所に戻った。無有がこれを探ると、堂中にあるのは古い杵と灯台と水桶と壊れた鉄鍋のみであった。すなわち四人はこれらの物が化けたものだったのである。(『広記』三百六十九)

牛僧孺は朝廷にあって李徳裕と互いに門戸を立てて党争をなした。その小説好きのゆえに、李の門客韋瓘がそこで僧孺の名を騙って『周秦行紀』を撰し、これを誣した。德裕はこのために論を作り、僧孺の姓は図讖に応じ、『玄怪録』にまた多く隠語を造っており、民を惑わさんとする意があるとし、「須らく太牢をもって少長ともに法に置くべし」と述べた。古来、小説を仮りて人を排陷するは、これをもって最も怪となす。しかし当時その説は行われなかった。ただ僧孺にはすでに才名があり、また高位を歴たため、その著作は世に盛んに伝えられた。模倣者もまた少なくなく、李復言に『続玄怪録』十巻があり、薛漁思に『河東記』三巻があった。

ほかに蘇鶚に『杜陽雑編』、高彦休に『唐闕史』がある。康駢の『劇談録』に至っては漸く世務が多くなり、孫棨の『北里志』は専ら狭邪を叙し、范摅の『雲渓友議』は特に歌詠を重んじている。裴鉶に至って書を著し、直に『伝奇』と称したが、神仙の怪譎なる事を盛んに述べ、多く崇飾して観る者を惑わそうとした。聶隠娘が妙手空空児に勝つ事はまさにこの書から出たもので、明人がこれを取って偽作の段成式『剣侠伝』に入れたため、流伝がことに広まった。

段成式は字を柯古といい、斉州臨淄の人で、宰相文昌の子である。成式の家には奇篇秘籍が多く、博学強記にして仏書に殊に深かった。その小説『酉陽雑俎』二十巻は全三十篇で今も具さに存し、さらに『続集』十巻がある。秘書を録し、異事を叙し、仙仏人鬼から動植に至るまで載せないものはなく、類をもって相い聚め、類書の如きものがある。各篇にはそれぞれ題目があるが、隠僻で、道術を記すものは『壺史』と曰い、怪異を志すものは『諾皋記』と曰い、抉択記叙もまた多く古艶穎異にして、その目に副うものである。

夏の啓は東明公、文王は西明公、邵公は南明公、季札は北明公となり、四時は四方の鬼を主る。至忠至孝の人は、命終わればみな地下の主者となる。(巻二『玉格』)

初めて天に生まれた者に五相あり、一に光が身を覆うも衣なし、二に物を見て希有の心を生ず、三に顔色弱く、四に疑い、五に怖る。(巻三『貝編』)

天翁は姓を張、名を堅、字を刺渇といい、漁陽の人である。少くして不羈にして拘忌するところなし。常に羅を張って一羽の白雀を得、愛してこれを養った。夢に劉天翁が怒りを責め、しばしばこれを殺さんと欲したが、白雀はそのたびに堅に報せた。天翁は遂に自ら下って来て観たが、堅はひそかに天翁の車に騎り、白龍に乗って天に登った。天翁は追ったが及ばなかった。堅は玄宮に至ると百官を易え、北門を杜塞し、白雀を上卿侯に封じた。劉翁は治を失い、五岳を徘徊して災いを作した。堅はこれを患い、劉翁を太山太守として生死の籍を主らしめた。(巻十四『諾皋記』)

また文身の事を集めたものは『黥』と曰い、鷹の養い方を述べたものは『肉攫部』と曰う。渉るところ既に広ければ、珍異も多く、世に愛玩されて伝奇と並び駆けて先を争った。

成式は詩をよくし、幽渋繁縟であった。時に温庭筠・李商隠もまた同様で互いに誇り、「三十六体」と号した。温庭筠にも小説三巻『乾巛子』があるが、簡率にして見るべきものなし。李には『義山雑纂』一巻があり、俚俗の常談鄙事を集めたもので、瑣綴に止まるとはいえ、世務の幽隠を穿つものがある。

殺風景 松の下で喝道する 花を看て涙を下す 苔の上に蓆を敷く 垂柳を斫る 花の下に褌を晒す 遊春に重載する 石筍に馬を繋ぐ 月の下に松明を持つ 歩行の将軍 山に背いて楼を起てる 果樹園に菜を植える 花棚の下に鶏鴨を養う

悪模様 客となって人と口喧嘩する …… 客として台や卓をひっくり返す …… 舅姑の前で艶曲を歌う 噛み残した魚肉を皿に戻す 衆人の前で横になる 箸を椀の上に横たえる