Difference between revisions of "Lu Xun Complete Works/ja/Wuchang"

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(Update JA translation for 無常)
(Lu Xun JA translation page)
 
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= 無常 (无常) =
 
= 無常 (无常) =
  
'''魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)'''
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'''魯��� (ルーシュン, 1881-1936)'''
  
 
中国語からの日本語翻訳。
 
中国語からの日本語翻訳。
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【一九一八年】
 
【一九一八年】
 
 
  
 
【夢】
 
【夢】
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(『新青年』第四巻第五号。)
 
(『新青年』第四巻第五号。)
 
 
  
 
【愛の神】
 
【愛の神】
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(『新青年』第四巻第五号。)
 
(『新青年』第四巻第五号。)
 
 
  
 
【桃花】
 
【桃花】
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(『新青年』第四巻第五号。)
 
(『新青年』第四巻第五号。)
 
 
  
 
【彼らの花園】
 
【彼らの花園】
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(『新青年』第五巻第一号。)
 
(『新青年』第五巻第一号。)
 
 
  
 
【人と時】
 
【人と時】
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(『新青年』第五巻第一号。)
 
(『新青年』第五巻第一号。)
 
 
  
 
【渡河と道案内】
 
【渡河と道案内】
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【第五巻】
 
【第五巻】
 
 
  
 
【声は哀楽なきの論】
 
【声は哀楽なきの論】
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秦の客難じて曰く、「八方の異俗にして、歌哭万殊なるも、然れども其の哀楽の情は、見ざるを得ざるなり。それ心は中に動き、声は心より出ず。之を他音に託し、之を余声に寄すと雖も、善く聴き察する者は、要ず自ら之を覚りて過ぐることを得しめざるなり。昔、伯牙琴を理め、而して鍾子其の至る所を知り、隷人磬を撃ちて、子産其の心の哀しきを識り、魯人晨に哭して、顔淵其の生離なるを察す。それ数子なる者は、豈に復た智を常音に仮り、験を曲度に借らんや?心戚しき者は則ち形之が為に動き、情悲しき者は則ち声之が為に哀し。此れ自然に相応じ、逃るるを得べからず。唯だ神明なる者のみ能く之を精しくするのみ。それ能ある者は声の衆きを以て難しとせず、能なき者は声の寡きを以て易しとせず。今、未だ善聴に遇わざるを以て声に察すべき理なしと謂うべからず、方俗の多変なるを見て声音に哀楽なしと謂うべからざるなり。又た云う、賢は宜しく愛と言うべからず、愚は宜しく憎と言うべからず、と。然らば則ち賢あって後に愛生じ、愚あって後に憎起こるも、但だ其の共の名に当たらざるのみ。哀楽の作も亦た由ありて然り。此れ声の我を哀しましめ、音の我を楽しましむるなり。苟しくも哀楽声に由れば、更に実あり。何ぞ名実俱に去るを得んや?又た云う、季札は詩を采り礼を観て以て風雅を別ち、仲尼は韶音の一致を嘆じて是を以て咨嗟す、と。是れ何の言ぞや?且つ師襄操を奏し、而して仲尼文王の容を睹る。師涓曲を進め、而して子野亡国の音を識る。寧ろ復た詩を講じて後に言を下し、礼を習いて然る後に評を立てんや?斯れ皆な神妙独見にして、留聞積日を待たずして、已に其の吉凶を綜ぶるなり。是を以て前史以て美談と為す。今、子、区区たる近知を以て、見る所を斉しくして限りと為す。乃ち前賢の識微を誣い、夫子の妙察に負くこと無きかな?」
 
秦の客難じて曰く、「八方の異俗にして、歌哭万殊なるも、然れども其の哀楽の情は、見ざるを得ざるなり。それ心は中に動き、声は心より出ず。之を他音に託し、之を余声に寄すと雖も、善く聴き察する者は、要ず自ら之を覚りて過ぐることを得しめざるなり。昔、伯牙琴を理め、而して鍾子其の至る所を知り、隷人磬を撃ちて、子産其の心の哀しきを識り、魯人晨に哭して、顔淵其の生離なるを察す。それ数子なる者は、豈に復た智を常音に仮り、験を曲度に借らんや?心戚しき者は則ち形之が為に動き、情悲しき者は則ち声之が為に哀し。此れ自然に相応じ、逃るるを得べからず。唯だ神明なる者のみ能く之を精しくするのみ。それ能ある者は声の衆きを以て難しとせず、能なき者は声の寡きを以て易しとせず。今、未だ善聴に遇わざるを以て声に察すべき理なしと謂うべからず、方俗の多変なるを見て声音に哀楽なしと謂うべからざるなり。又た云う、賢は宜しく愛と言うべからず、愚は宜しく憎と言うべからず、と。然らば則ち賢あって後に愛生じ、愚あって後に憎起こるも、但だ其の共の名に当たらざるのみ。哀楽の作も亦た由ありて然り。此れ声の我を哀しましめ、音の我を楽しましむるなり。苟しくも哀楽声に由れば、更に実あり。何ぞ名実俱に去るを得んや?又た云う、季札は詩を采り礼を観て以て風雅を別ち、仲尼は韶音の一致を嘆じて是を以て咨嗟す、と。是れ何の言ぞや?且つ師襄操を奏し、而して仲尼文王の容を睹る。師涓曲を進め、而して子野亡国の音を識る。寧ろ復た詩を講じて後に言を下し、礼を習いて然る後に評を立てんや?斯れ皆な神妙独見にして、留聞積日を待たずして、已に其の吉凶を綜ぶるなり。是を以て前史以て美談と為す。今、子、区区たる近知を以て、見る所を斉しくして限りと為す。乃ち前賢の識微を誣い、夫子の妙察に負くこと無きかな?」
 
  
 
=== 第2節 ===
 
=== 第2節 ===
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秦客難じて曰く、「それ気を観、色を采るは、天下の通用なり。心は内に変じて色は外に応ず。較然として見るべし。ゆえに吾子は疑わず。それ声音は気の激する者なり。心は感に応じて動き、声は変に従いて発す。心に盛衰あらば、声にもまた降〔張燮本は隆に作る。答文中の降殺の字をここに放つ〕殺あり。同じく一身に役せらるるに、何ぞ独り声に於いてすなわち疑うべけんや。それ喜怒は□診〔各本は色診に作る。旧校同じ〕に章かなり。哀楽もまた声音に形るべし。声音に自ずから哀楽あるべきも、ただ暗き者はこれを識ること能わざるのみ。鍾子の徒に至りては、常なき〔程本は当に訛る〕の声に遭うといえども、穎然として独り見るなり。今、蒙して瞽にして墻に面す」
 
秦客難じて曰く、「それ気を観、色を采るは、天下の通用なり。心は内に変じて色は外に応ず。較然として見るべし。ゆえに吾子は疑わず。それ声音は気の激する者なり。心は感に応じて動き、声は変に従いて発す。心に盛衰あらば、声にもまた降〔張燮本は隆に作る。答文中の降殺の字をここに放つ〕殺あり。同じく一身に役せらるるに、何ぞ独り声に於いてすなわち疑うべけんや。それ喜怒は□診〔各本は色診に作る。旧校同じ〕に章かなり。哀楽もまた声音に形るべし。声音に自ずから哀楽あるべきも、ただ暗き者はこれを識ること能わざるのみ。鍾子の徒に至りては、常なき〔程本は当に訛る〕の声に遭うといえども、穎然として独り見るなり。今、蒙して瞽にして墻に面す」
 
  
 
=== 第3節 ===
 
=== 第3節 ===
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【第六篇 六朝の鬼神志怪書(下)】
 
【第六篇 六朝の鬼神志怪書(下)】
 
 
  
 
釈氏の教えを輔くるの書は、『隋志』に九家を著録し、子部および史部に在り、今はただ顔之推の『冤魂志』のみ存す。経史を引きて報応を証し、すでに儒釈混合の端を開きたり。而してその余はすべて佚す。遺文の考え見るべきものには、宋の劉義慶の『宣験記』、斉の王琰の『冥祥記』、隋の顔之推の『集霊記』、侯白の『旌異記』の四種あり、大抵は経像の顕効を記し、応験の実に有ることを明らかにし、以て世俗を震耸し、敬信の心を生ぜしめんとす。顧みれば後世にはあるいは小説と視せり。王琰は太原の人、幼くして交阯に在り、五戒を受け、宋の大明および建元(五世紀中)年に、二たび金像の異に感じ、因りて記を作り、像の事を撰集し、経塔を以て継ぎ、凡そ十巻、これを『冥祥』と謂う。自らその事を序すること甚だ悉し(『法苑珠林』巻十七に見ゆ)。『冥祥記』は『珠林』および『太平広記』中に存するもの最も多く、その叙述もまた最も委曲詳尽なり。今略ぼ三事を引きて、以てその余を概す。
 
釈氏の教えを輔くるの書は、『隋志』に九家を著録し、子部および史部に在り、今はただ顔之推の『冤魂志』のみ存す。経史を引きて報応を証し、すでに儒釈混合の端を開きたり。而してその余はすべて佚す。遺文の考え見るべきものには、宋の劉義慶の『宣験記』、斉の王琰の『冥祥記』、隋の顔之推の『集霊記』、侯白の『旌異記』の四種あり、大抵は経像の顕効を記し、応験の実に有ることを明らかにし、以て世俗を震耸し、敬信の心を生ぜしめんとす。顧みれば後世にはあるいは小説と視せり。王琰は太原の人、幼くして交阯に在り、五戒を受け、宋の大明および建元(五世紀中)年に、二たび金像の異に感じ、因りて記を作り、像の事を撰集し、経塔を以て継ぎ、凡そ十巻、これを『冥祥』と謂う。自らその事を序すること甚だ悉し(『法苑珠林』巻十七に見ゆ)。『冥祥記』は『珠林』および『太平広記』中に存するもの最も多く、その叙述もまた最も委曲詳尽なり。今略ぼ三事を引きて、以てその余を概す。
 
 
  
 
漢の明帝、夢に神人を見る。形は二丈に垂んとし、身は黄金色、項に日光を佩ぶ。以て群臣に問うに、あるいは対えて曰く、「西方に神あり、その号は仏と曰う。形は陛下の夢に見たまいしがごとし、これにあらずや。」ここにおいて使者を天竺に発し、経像を写し致す。これを中夏に表し、天子王侯より、ことごとく敬い事え、人の死して精神滅びざるを聞きて、惧然として自失せざるはなし。初め、使者蔡愔、西域の沙門迦葉摩騰らを将いて、優填王の画ける釈迦仏像を齎す。帝これを重んじ、夢に見しがごとくなれば、すなわち画工を遣わしてこれを数本図かしめ、南宮の清涼台および高陽門の顕節寿陵の上に供養す。また白馬寺に千乗万騎塔を繞ること三匝の像を壁画す。諸伝に備さに載するがごとし。(『珠林』十三)
 
漢の明帝、夢に神人を見る。形は二丈に垂んとし、身は黄金色、項に日光を佩ぶ。以て群臣に問うに、あるいは対えて曰く、「西方に神あり、その号は仏と曰う。形は陛下の夢に見たまいしがごとし、これにあらずや。」ここにおいて使者を天竺に発し、経像を写し致す。これを中夏に表し、天子王侯より、ことごとく敬い事え、人の死して精神滅びざるを聞きて、惧然として自失せざるはなし。初め、使者蔡愔、西域の沙門迦葉摩騰らを将いて、優填王の画ける釈迦仏像を齎す。帝これを重んじ、夢に見しがごとくなれば、すなわち画工を遣わしてこれを数本図かしめ、南宮の清涼台および高陽門の顕節寿陵の上に供養す。また白馬寺に千乗万騎塔を繞ること三匝の像を壁画す。諸伝に備さに載するがごとし。(『珠林』十三)
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晋の趙泰、字は文和、清河貝丘の人なり。……年三十五の時、かつて卒かに心痛し、須臾にして死す。尸を地に下すも、心は暖かきこと已まず、屈伸人に随う。尸を留むること十日、平旦に喉中に声ありて雨のごとし。俄にして蘇りて活く。初め死する時を説くに、夢に一人来たりて心下に近づき、また二人黄馬に乗り、従者二人ありて、泰の腋を扶けて径ちに東行に将いゆくこと、幾里ばかりか知らず、一大城に至る。崔巍として高峻、城の色は青黒なり。泰を将いて城門より入り、二重の門を経るに、瓦屋数千間ばかりあり、男女大小また数千人、行列して立つ。吏は皂衣を著し、五六人あり、姓字を条疏して、「まさに科を以て府君に呈すべし」と云う。泰の名は三十に在り。須臾にして泰と数千人の男女を将いて一時にともに進む。府君は西向きに坐し、名簿を簡視し訖りて、また泰を遣わして南に黒門より入らしむ。人の絳衣を著して大屋の下に坐するあり、次を以て名を呼び、問う、「生時の所事は何ぞ。何の孽罪を作せるか。何の福善を行えるか。汝等の辞を諦かにし、実を以て言え。ここには恒に六部の使者を遣わして常に人間に在らしめ、善悪を疏記し、具さに条状あり、虚を得べからず。」泰答う、「父兄は仕宦し、皆二千石なり。我少くして家に在り、修学するのみ、事とするところなく、また悪を犯さず。」すなわち泰を遣わして水官の将作と為す。……後に泰を転じて水官都督とし諸獄の事を知らしめ、泰に兵馬を給し、地獄を案行せしむ。至るところの諸獄、楚毒おのおの殊なり。あるいは針もてその舌を貫き、血を流すこと体に竟り、あるいは頭を被き髪を露し、裸形徒跣にて相牽きて行き、大杖を持する者あり、後より催促す。鉄床銅柱、これを焼くこと洞然たり、この人を駆迫してその上に抱き臥さしむれば、赴けばすなわち焦爛し、尋いでまた還りて生ず。……あるいは剣樹あり高く広く、限量を知らず、根茎枝葉、皆剣もてこれを為す。人衆相訾り、自ら登り自ら攀じ、欣び競うあるがごとくして、身首割截せられ、尺寸離断す。泰、祖父母および二弟のこの獄中に在るを見て、相見て涕泣す。泰、獄門を出づるに、二人の文書を齎す者あり、来たりて獄吏に語る。三人あり、その家その為に塔寺中に幡を懸け香を焼きて、その罪を救解し、福舎に出づべしと言う。俄にして三人獄より出づるを見るに、すでに自然の衣服あり、完整にして身に在り。南に一門に詣る、名を開光大舎と云う。……泰案行し畢りて、水官のところに還る。……主者曰く、「卿は罪過なし、故に相使して水官都督と為す。しからずんば、地獄中の人と以て異なることなきなり。」泰、主者に問いて曰く、「人はいかなる行あれば、死して楽報を得るか。」主者ただ言う、「奉法の弟子、精進して持戒すれば、楽報を得て、謫罰あることなきなり。」泰また問いて曰く、「人いまだ法に事えざる時に行いし罪過は、法に事えし後に、以て除くを得るや否や。」答えて曰く、「皆除かるるなり。」語り畢りて、主者は縢箧を開きて泰の年紀を検するに、なお余算三十年在り、すなわち泰を遣わして還らしむ。……時に晋の太始五年七月十三日なり。……(『珠林』七。『広記』三百七十七)
 
晋の趙泰、字は文和、清河貝丘の人なり。……年三十五の時、かつて卒かに心痛し、須臾にして死す。尸を地に下すも、心は暖かきこと已まず、屈伸人に随う。尸を留むること十日、平旦に喉中に声ありて雨のごとし。俄にして蘇りて活く。初め死する時を説くに、夢に一人来たりて心下に近づき、また二人黄馬に乗り、従者二人ありて、泰の腋を扶けて径ちに東行に将いゆくこと、幾里ばかりか知らず、一大城に至る。崔巍として高峻、城の色は青黒なり。泰を将いて城門より入り、二重の門を経るに、瓦屋数千間ばかりあり、男女大小また数千人、行列して立つ。吏は皂衣を著し、五六人あり、姓字を条疏して、「まさに科を以て府君に呈すべし」と云う。泰の名は三十に在り。須臾にして泰と数千人の男女を将いて一時にともに進む。府君は西向きに坐し、名簿を簡視し訖りて、また泰を遣わして南に黒門より入らしむ。人の絳衣を著して大屋の下に坐するあり、次を以て名を呼び、問う、「生時の所事は何ぞ。何の孽罪を作せるか。何の福善を行えるか。汝等の辞を諦かにし、実を以て言え。ここには恒に六部の使者を遣わして常に人間に在らしめ、善悪を疏記し、具さに条状あり、虚を得べからず。」泰答う、「父兄は仕宦し、皆二千石なり。我少くして家に在り、修学するのみ、事とするところなく、また悪を犯さず。」すなわち泰を遣わして水官の将作と為す。……後に泰を転じて水官都督とし諸獄の事を知らしめ、泰に兵馬を給し、地獄を案行せしむ。至るところの諸獄、楚毒おのおの殊なり。あるいは針もてその舌を貫き、血を流すこと体に竟り、あるいは頭を被き髪を露し、裸形徒跣にて相牽きて行き、大杖を持する者あり、後より催促す。鉄床銅柱、これを焼くこと洞然たり、この人を駆迫してその上に抱き臥さしむれば、赴けばすなわち焦爛し、尋いでまた還りて生ず。……あるいは剣樹あり高く広く、限量を知らず、根茎枝葉、皆剣もてこれを為す。人衆相訾り、自ら登り自ら攀じ、欣び競うあるがごとくして、身首割截せられ、尺寸離断す。泰、祖父母および二弟のこの獄中に在るを見て、相見て涕泣す。泰、獄門を出づるに、二人の文書を齎す者あり、来たりて獄吏に語る。三人あり、その家その為に塔寺中に幡を懸け香を焼きて、その罪を救解し、福舎に出づべしと言う。俄にして三人獄より出づるを見るに、すでに自然の衣服あり、完整にして身に在り。南に一門に詣る、名を開光大舎と云う。……泰案行し畢りて、水官のところに還る。……主者曰く、「卿は罪過なし、故に相使して水官都督と為す。しからずんば、地獄中の人と以て異なることなきなり。」泰、主者に問いて曰く、「人はいかなる行あれば、死して楽報を得るか。」主者ただ言う、「奉法の弟子、精進して持戒すれば、楽報を得て、謫罰あることなきなり。」泰また問いて曰く、「人いまだ法に事えざる時に行いし罪過は、法に事えし後に、以て除くを得るや否や。」答えて曰く、「皆除かるるなり。」語り畢りて、主者は縢箧を開きて泰の年紀を検するに、なお余算三十年在り、すなわち泰を遣わして還らしむ。……時に晋の太始五年七月十三日なり。……(『珠林』七。『広記』三百七十七)
 
 
  
 
仏教すでに漸く流播し、経論日に多く、雑説もまた日に出づ。聞く者はあるいは無常を悟りて帰依するも、またあるいは無常を怖れて却走す。この反動として、方士もまた自ら偽経を造り、多く異記を作り、長生久視の道を以て、天下の苦空を逃るる者を網羅す。今存するところの漢の小説は、一二の文人の著述を除くほかは、その余は蓋しみなこれなり。方士の書を撰するは、大抵古人に託名す。故に晋宋の人の作と称するもの多くはなし。ただ類書の間に『神異記』を引くものあり、すなわち道士王浮の作なり。浮は晋の人にして、浅妄の称あり。すなわち恵帝の時(三世紀末より四世紀初)帛選と抗論して屡々屈し、遂に『西域伝』を改換して老子の『明威化胡経』を造りし者なり(唐の釈法琳の『弁正論』六に見ゆ)。その記もまた神仙鬼神を言うこと、『洞冥』・『列異』の類のごとし。
 
仏教すでに漸く流播し、経論日に多く、雑説もまた日に出づ。聞く者はあるいは無常を悟りて帰依するも、またあるいは無常を怖れて却走す。この反動として、方士もまた自ら偽経を造り、多く異記を作り、長生久視の道を以て、天下の苦空を逃るる者を網羅す。今存するところの漢の小説は、一二の文人の著述を除くほかは、その余は蓋しみなこれなり。方士の書を撰するは、大抵古人に託名す。故に晋宋の人の作と称するもの多くはなし。ただ類書の間に『神異記』を引くものあり、すなわち道士王浮の作なり。浮は晋の人にして、浅妄の称あり。すなわち恵帝の時(三世紀末より四世紀初)帛選と抗論して屡々屈し、遂に『西域伝』を改換して老子の『明威化胡経』を造りし者なり(唐の釈法琳の『弁正論』六に見ゆ)。その記もまた神仙鬼神を言うこと、『洞冥』・『列異』の類のごとし。
 
 
  
 
陳敏、孫皓の世に江夏太守と為り、建業より職に赴く。宮亭廟の験あるを聞き、過ぎて任に在りて安穏ならんことを乞い、まさに銀杖一枚を上ぐべしとす。年限すでに満ち、杖を作りて以て廟に還さんと擬し、鉄を捶ちて以て干と為し、銀を以てこれに塗る。尋いで散騎常侍に徵され、宮亭に往き、杖を廟中に送り訖りて、すなわち路に進む。日晩に、降神の巫宣教して曰く、「陳敏我に銀杖を許すも、今塗杖を以て与えらる。すなわち水中に投じ、まさに以てこれを還すべし。欺蔑の罪は容すべからざるなり。」ここにおいて銀杖を取りてこれを看るに、剖きて中を視れば鉄の干を見る。すなわちこれを湖中に置く。杖は水上に浮き、その疾きこと飛ぶがごとく、遥かに敏の舫の前に到り、敏の舟遂に覆る。(『太平御覧』七百十)
 
陳敏、孫皓の世に江夏太守と為り、建業より職に赴く。宮亭廟の験あるを聞き、過ぎて任に在りて安穏ならんことを乞い、まさに銀杖一枚を上ぐべしとす。年限すでに満ち、杖を作りて以て廟に還さんと擬し、鉄を捶ちて以て干と為し、銀を以てこれに塗る。尋いで散騎常侍に徵され、宮亭に往き、杖を廟中に送り訖りて、すなわち路に進む。日晩に、降神の巫宣教して曰く、「陳敏我に銀杖を許すも、今塗杖を以て与えらる。すなわち水中に投じ、まさに以てこれを還すべし。欺蔑の罪は容すべからざるなり。」ここにおいて銀杖を取りてこれを看るに、剖きて中を視れば鉄の干を見る。すなわちこれを湖中に置く。杖は水上に浮き、その疾きこと飛ぶがごとく、遥かに敏の舫の前に到り、敏の舟遂に覆る。(『太平御覧』七百十)
  
 
丹丘は大茗を生じ、これを服すれば羽翼を生ず。(『事類賦注』十六)
 
丹丘は大茗を生じ、これを服すれば羽翼を生ず。(『事類賦注』十六)
 
 
  
 
『拾遺記』十巻、晋の隴西の王嘉の撰と題し、梁の蕭綺録す。『晋書・芸術列伝』中に王嘉あり、略ぼ云う。嘉、字は子年、隴西安陽の人。初め東陽谷に隠れ、後に長安に入る。苻堅累ねて徵すれども起たず。よく未然の事を言い、辞は讖記のごとく、当時よくこれを暁る者鮮し。姚萇長安に入り、嘉を逼りて自ら随わしむ。後に答問の萇の意に失するを以て、萇の殺すところと為る(約三九〇年)。嘉かつて『牽三歌讖』を造り、また『拾遺録』十巻を著す。その事多く詭怪にして、今世に行わる。伝に云う『拾遺録』なる者は、蓋しすなわち今の記なり。前に蕭綺の序あり、言う、書は本十九巻、二百二十篇、苻秦の季に当たりて、典章散滅し、この書もまた多く亡ぶることあり。綺さらに繁を削り実を存し、合して一部と為す。凡そ十巻なり。今の書の前九巻は庖犧に起こりて東晋に迄り、末の一巻は崑崙等の九仙山を記す。序に謂うところの「事は西晋の末に訖る」とはやや同じからず。その文筆は頗る靡麗にして、事はみな誕漫にして実なし。蕭綺の録もまた附会にして、胡応麟(『筆叢』三十二)以て「蓋しすなわち綺の撰にして王嘉に託せるなり」と為す。
 
『拾遺記』十巻、晋の隴西の王嘉の撰と題し、梁の蕭綺録す。『晋書・芸術列伝』中に王嘉あり、略ぼ云う。嘉、字は子年、隴西安陽の人。初め東陽谷に隠れ、後に長安に入る。苻堅累ねて徵すれども起たず。よく未然の事を言い、辞は讖記のごとく、当時よくこれを暁る者鮮し。姚萇長安に入り、嘉を逼りて自ら随わしむ。後に答問の萇の意に失するを以て、萇の殺すところと為る(約三九〇年)。嘉かつて『牽三歌讖』を造り、また『拾遺録』十巻を著す。その事多く詭怪にして、今世に行わる。伝に云う『拾遺録』なる者は、蓋しすなわち今の記なり。前に蕭綺の序あり、言う、書は本十九巻、二百二十篇、苻秦の季に当たりて、典章散滅し、この書もまた多く亡ぶることあり。綺さらに繁を削り実を存し、合して一部と為す。凡そ十巻なり。今の書の前九巻は庖犧に起こりて東晋に迄り、末の一巻は崑崙等の九仙山を記す。序に謂うところの「事は西晋の末に訖る」とはやや同じからず。その文筆は頗る靡麗にして、事はみな誕漫にして実なし。蕭綺の録もまた附会にして、胡応麟(『筆叢』三十二)以て「蓋しすなわち綺の撰にして王嘉に託せるなり」と為す。
 
 
  
 
少昊は金徳を以て王たり。母は皇娥と曰い、璇宮に処りて夜に織り、あるいは桴木に乗じて昼に遊び、窮桑滄茫の浦を経歴す。時に神童あり、容貌俗を絶し、白帝の子と称す。すなわち太白の精にして、水際に降り、皇娥と宴戲し、便娟の楽を奏し、游漾して帰るを忘る。窮桑なる者は西海の浜にして、孤桑の樹あり、直上すること千尋、葉は紅く椹は紫にして、万歳に一たび実を結び、これを食すれば天に後れて老ゆ。……帝子と皇娥と並び坐し、桐峰の梓瑟を撫す。皇娥瑟に倚りて清歌して曰く、「天清く地曠くして浩として茫茫たり、万象回薄して化すること方なし、浛天蕩蕩として滄滄を望み、桴に乗じて軽く漾いて日の傍に著く、まさにいずくにか至りて窮桑に至らん、心は和楽を知りて悦びていまだ央きず。」俗に遊楽の処を桑中と謂うなり。『詩・衛風』に「我を桑中に期す」と云うは、蓋しこれに類するなり。……皇娥少昊を生むに及び、号して窮桑氏と曰い、また桑丘氏と曰う。六国の時に至りて、桑丘子陰陽の書を著す。すなわちその余裔なり。……(巻一)
 
少昊は金徳を以て王たり。母は皇娥と曰い、璇宮に処りて夜に織り、あるいは桴木に乗じて昼に遊び、窮桑滄茫の浦を経歴す。時に神童あり、容貌俗を絶し、白帝の子と称す。すなわち太白の精にして、水際に降り、皇娥と宴戲し、便娟の楽を奏し、游漾して帰るを忘る。窮桑なる者は西海の浜にして、孤桑の樹あり、直上すること千尋、葉は紅く椹は紫にして、万歳に一たび実を結び、これを食すれば天に後れて老ゆ。……帝子と皇娥と並び坐し、桐峰の梓瑟を撫す。皇娥瑟に倚りて清歌して曰く、「天清く地曠くして浩として茫茫たり、万象回薄して化すること方なし、浛天蕩蕩として滄滄を望み、桴に乗じて軽く漾いて日の傍に著く、まさにいずくにか至りて窮桑に至らん、心は和楽を知りて悦びていまだ央きず。」俗に遊楽の処を桑中と謂うなり。『詩・衛風』に「我を桑中に期す」と云うは、蓋しこれに類するなり。……皇娥少昊を生むに及び、号して窮桑氏と曰い、また桑丘氏と曰う。六国の時に至りて、桑丘子陰陽の書を著す。すなわちその余裔なり。……(巻一)
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【第二十四篇 清の人情小説】
 
【第二十四篇 清の人情小説】
 
 
  
 
乾隆中(一七六五年頃)、小説に『石頭記』なるものあり、忽ち北京に出づ。五六年を歴て盛行す。然れどもみな写本にして、数十金を以て廟市に鬻ぐ。その本はただ八十回にて、開篇にすなわち本書の由来を叙す。女媧天を補うに、ひとり一石を留めて用いず。石甚だ自ら悼嘆す。俄にして一僧一道を見るに、以て「形体はまずは一個の宝物なり。まだただ実在の好いところがない。すべからくさらに数字を鐫りつけ、人をして一見してすなわち奇物なるを知らしむるのが妙であろう。然る後に好くも汝を隆盛昌明の邦、詩礼簪纓の族、花柳繁華の地、温柔富貴の郷に携え、安身立業せしめん」と為す。ここにおいてこれを袖にして去る。さらに幾劫を歴たるを知らず、空空道人あり、この大石を見るに、上に文詞を鐫る。石の請いに従い、鈔して以て世に問う。道人もまた「空に因りて色を見、色に由りて情を生じ、情を伝えて色に入り、色より空を悟り、遂に名を情僧と易え、『石頭記』を改めて『情僧録』と為す。東魯の孔梅渓はすなわち『風月宝鑑』と題す。後に曹雪芹の悼紅軒中にて披閲すること十載、増刪すること五次、目録を纂成し、章回を分出するに因り、すなわち『金陵十二釵』と題し、並びに一絶を題して云う、『満紙荒唐の言、一把辛酸の涙。都な作者の痴と云うも、誰かその中の味を解せん。』」(戚蓼生の序する八十回本の第一回)
 
乾隆中(一七六五年頃)、小説に『石頭記』なるものあり、忽ち北京に出づ。五六年を歴て盛行す。然れどもみな写本にして、数十金を以て廟市に鬻ぐ。その本はただ八十回にて、開篇にすなわち本書の由来を叙す。女媧天を補うに、ひとり一石を留めて用いず。石甚だ自ら悼嘆す。俄にして一僧一道を見るに、以て「形体はまずは一個の宝物なり。まだただ実在の好いところがない。すべからくさらに数字を鐫りつけ、人をして一見してすなわち奇物なるを知らしむるのが妙であろう。然る後に好くも汝を隆盛昌明の邦、詩礼簪纓の族、花柳繁華の地、温柔富貴の郷に携え、安身立業せしめん」と為す。ここにおいてこれを袖にして去る。さらに幾劫を歴たるを知らず、空空道人あり、この大石を見るに、上に文詞を鐫る。石の請いに従い、鈔して以て世に問う。道人もまた「空に因りて色を見、色に由りて情を生じ、情を伝えて色に入り、色より空を悟り、遂に名を情僧と易え、『石頭記』を改めて『情僧録』と為す。東魯の孔梅渓はすなわち『風月宝鑑』と題す。後に曹雪芹の悼紅軒中にて披閲すること十載、増刪すること五次、目録を纂成し、章回を分出するに因り、すなわち『金陵十二釵』と題し、並びに一絶を題して云う、『満紙荒唐の言、一把辛酸の涙。都な作者の痴と云うも、誰かその中の味を解せん。』」(戚蓼生の序する八十回本の第一回)
 
  
 
=== 第4節 ===
 
=== 第4節 ===
  
 
本文の叙事するところは石頭城(すなわち金陵にあらず)の賈府にあり、寧国・栄国二公の後なり。寧公の長孫を敷と曰い、早く死す。次の敬は爵を襲うも、性は道を好み、また爵を子の珍に譲り、家を棄てて仙を学ぶ。珍遂に縦恣し、子の蓉あり、秦可卿を娶る。栄公の長孫を赦と曰い、子の璉あり、王熙鳳を娶る。次を政と曰う。女を敏と曰い、林海に適ぎ、中年にして亡じ、僅かに一女を遺す、黛玉と曰う。賈政は王氏を娶り、子の珠を生むも、早く卒す。次に女を生み元春と曰い、後に選ばれて妃と為る。次にまた子を得るに、すなわち玉を銜みて生まる。玉にまた字あり、因りて宝玉と名づく。人みな以て「来歴小さからず」と為す。而して政の母の史太君はことに鍾愛す。宝玉すでに七八歳、聡明人に絶するも、性は女子を愛し、常に言う、「女の子は水で出来た骨肉で、男は泥で出来た骨肉だ。」人ここにおいてまた以て将来は「色鬼」と為らんと為す。賈政もまたあまり愛惜せず、これを御すること極めて厳なり。蓋し「この人の来歴を知らざるに縁る。……もし多く書を読み字を識り、致知格物の功を加え、悟道参玄の力ある者にあらざれば、知ることあたわざるなり」(戚本第二回賈雨村云う)に因る。而して賈氏には実にまた「閨閣の中歴歴として人あり」、主従のほかに、姻連もまた衆し。黛玉・宝釵のごときは、皆来たりて寄寓し、史湘雲もまた時に至り、尼の妙玉はすなわち後園に習静す。右すなわち賈氏の譜の大要にして、虚線を用うるはその姻連、×を著すは夫婦、*を著すは「金陵十二釵」の数に在る者なり。
 
本文の叙事するところは石頭城(すなわち金陵にあらず)の賈府にあり、寧国・栄国二公の後なり。寧公の長孫を敷と曰い、早く死す。次の敬は爵を襲うも、性は道を好み、また爵を子の珍に譲り、家を棄てて仙を学ぶ。珍遂に縦恣し、子の蓉あり、秦可卿を娶る。栄公の長孫を赦と曰い、子の璉あり、王熙鳳を娶る。次を政と曰う。女を敏と曰い、林海に適ぎ、中年にして亡じ、僅かに一女を遺す、黛玉と曰う。賈政は王氏を娶り、子の珠を生むも、早く卒す。次に女を生み元春と曰い、後に選ばれて妃と為る。次にまた子を得るに、すなわち玉を銜みて生まる。玉にまた字あり、因りて宝玉と名づく。人みな以て「来歴小さからず」と為す。而して政の母の史太君はことに鍾愛す。宝玉すでに七八歳、聡明人に絶するも、性は女子を愛し、常に言う、「女の子は水で出来た骨肉で、男は泥で出来た骨肉だ。」人ここにおいてまた以て将来は「色鬼」と為らんと為す。賈政もまたあまり愛惜せず、これを御すること極めて厳なり。蓋し「この人の来歴を知らざるに縁る。……もし多く書を読み字を識り、致知格物の功を加え、悟道参玄の力ある者にあらざれば、知ることあたわざるなり」(戚本第二回賈雨村云う)に因る。而して賈氏には実にまた「閨閣の中歴歴として人あり」、主従のほかに、姻連もまた衆し。黛玉・宝釵のごときは、皆来たりて寄寓し、史湘雲もまた時に至り、尼の妙玉はすなわち後園に習静す。右すなわち賈氏の譜の大要にして、虚線を用うるはその姻連、×を著すは夫婦、*を著すは「金陵十二釵」の数に在る者なり。
 
 
  
 
事すなわち林夫人(賈敏)の死に始まる。黛玉は恃を失い、またよく病み、遂に来たりて外家に依る。時に宝玉と同年にして、十一歳なり。すでにして王夫人の女弟の生める女もまた至る。すなわち薛宝釵にして、一年年長にして、頗る端麗を極む。宝玉は純朴にして、並びに二人を愛し偏心なし。宝釵は渾然として覚えず、而して黛玉はやや恚る。一日、宝玉倦みて秦可卿の室に臥す。遽に夢みて太虚境に入り、警幻仙に遇い、『金陵十二釵正冊』および『副冊』を閲す。図あり詩あり、然れども解せず。警幻は新制の『紅楼夢』十二支を奏ぜしむ。その末闋を『飛鳥各投林』と為し、詞に云う、
 
事すなわち林夫人(賈敏)の死に始まる。黛玉は恃を失い、またよく病み、遂に来たりて外家に依る。時に宝玉と同年にして、十一歳なり。すでにして王夫人の女弟の生める女もまた至る。すなわち薛宝釵にして、一年年長にして、頗る端麗を極む。宝玉は純朴にして、並びに二人を愛し偏心なし。宝釵は渾然として覚えず、而して黛玉はやや恚る。一日、宝玉倦みて秦可卿の室に臥す。遽に夢みて太虚境に入り、警幻仙に遇い、『金陵十二釵正冊』および『副冊』を閲す。図あり詩あり、然れども解せず。警幻は新制の『紅楼夢』十二支を奏ぜしむ。その末闋を『飛鳥各投林』と為し、詞に云う、
  
 
「官と為りし者は、家業凋零す。富貴なりし者は、金銀散じ尽く。恩ありし者は、死裏に逃生す。無情なる者は、分明に報応す。命を欠きし者は命すでに還り、涙を欠きし者は涙すでに尽きぬ。……破り看たる者は、空門に遁入し、痴迷せる者は、枉に性命を送れり。好く一つ似たり、食い尽くして鳥林に投ずるに。落ちたるは片の白茫茫たる大地、真に干浄なり。」(戚本第五回)
 
「官と為りし者は、家業凋零す。富貴なりし者は、金銀散じ尽く。恩ありし者は、死裏に逃生す。無情なる者は、分明に報応す。命を欠きし者は命すでに還り、涙を欠きし者は涙すでに尽きぬ。……破り看たる者は、空門に遁入し、痴迷せる者は、枉に性命を送れり。好く一つ似たり、食い尽くして鳥林に投ずるに。落ちたるは片の白茫茫たる大地、真に干浄なり。」(戚本第五回)
 
 
  
 
然れども宝玉またも解せず、さらに他の夢を歴て寤む。元春の選ばれて妃と為るに逮びて、栄公府はいよいよ貴盛し、その帰省に及びて、大観園を辟きて以てこれを宴す。情親ことごとく至り、天倫の楽を極む。宝玉もまた漸く長じ、外にては秦鍾・蒋玉函に昵み、帰りてはすなわち姉妹中表および侍児の襲人・晴雯・平児・紫鵑の輩の間に周旋す。昵みてこれを敬い、その意に拂うを恐れ、愛は博くして心は労し、而して憂患もまた日に甚だしくなれり。
 
然れども宝玉またも解せず、さらに他の夢を歴て寤む。元春の選ばれて妃と為るに逮びて、栄公府はいよいよ貴盛し、その帰省に及びて、大観園を辟きて以てこれを宴す。情親ことごとく至り、天倫の楽を極む。宝玉もまた漸く長じ、外にては秦鍾・蒋玉函に昵み、帰りてはすなわち姉妹中表および侍児の襲人・晴雯・平児・紫鵑の輩の間に周旋す。昵みてこれを敬い、その意に拂うを恐れ、愛は博くして心は労し、而して憂患もまた日に甚だしくなれり。
  
 
この日、宝玉は湘雲の漸く癒ゆるを見て、然る後に黛玉を看に往く。まさに黛玉の昼寝を終えたばかりの時に当たり、宝玉は驚かすを敢えてせず。紫鵑がまさに回廊の上にて手に針仕事をしているのを見て、すなわち上がりて問う、「昨夜の咳は少しはましか。」紫鵑道う、「ましになりました。」宝玉道う、「阿弥陀仏、どうか良くなりますように。」紫鵑笑いて道う、「あなたも念仏するようになって、本当にニュースですこと。」宝玉笑いて道う、「いわゆる『病篤くして医を乱投す』というやつさ。」一面に言いつつ、彼女が弾墨綾子の薄綿袄を着て、外にはただ青緞子の挟背心だけを着ているのを見て、宝玉はすなわち手を伸ばして彼女の身の上を一撫でして言う——
 
この日、宝玉は湘雲の漸く癒ゆるを見て、然る後に黛玉を看に往く。まさに黛玉の昼寝を終えたばかりの時に当たり、宝玉は驚かすを敢えてせず。紫鵑がまさに回廊の上にて手に針仕事をしているのを見て、すなわち上がりて問う、「昨夜の咳は少しはましか。」紫鵑道う、「ましになりました。」宝玉道う、「阿弥陀仏、どうか良くなりますように。」紫鵑笑いて道う、「あなたも念仏するようになって、本当にニュースですこと。」宝玉笑いて道う、「いわゆる『病篤くして医を乱投す』というやつさ。」一面に言いつつ、彼女が弾墨綾子の薄綿袄を着て、外にはただ青緞子の挟背心だけを着ているのを見て、宝玉はすなわち手を伸ばして彼女の身の上を一撫でして言う——
 
  
 
=== 第5節 ===
 
=== 第5節 ===
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続『紅楼夢』は八——
 
続『紅楼夢』は八——
 
  
 
=== 第6節 ===
 
=== 第6節 ===
  
 
第八巻
 
第八巻
 
 
  
 
宅に吉凶なき摂生論 上を難ず
 
宅に吉凶なき摂生論 上を難ず
 
 
  
 
それ善く寿強を求むる者は、必ず先ず夭疾の自ら来たるところを知り、然る後にその至るを防ぐべきなり。禍はここに起こりて、防ぐはかしこに為す。すなわち禍は自ら瘳ゆるなし。世に安宅・葬埋・陰陽・度数・刑徳の忌あり、これ何より生ずるか。性命を見ず、禍福を知らざるなり。見ざる故に妄りに求め、知らざる故に幸を干す。ここを以て善く生を執る者は、性命の宜しきところを見、禍福の来たるところを知る。故にこれを実に求め、これを信に防ぐ。それ多く飲みて走れば、すなわち澹支と為り、しばしば行きて風に当たれば、すなわち痒毒と為り、久しく湿に居れば、すなわち要疾偏枯し、内を好みて怠らざれば、すなわち昏喪して女疾す。かくのごときの類は、災の来たるゆえんにして、寿の去るゆえんなり。而して墓を掘り室を築き、日を費やし身を苦しめて以てこれを求む。疾は形に生じて、治は土木に加う。これ疾の瘳ゆる道なし。詩に云う、「恺悌の君子、福を求めて回らず」とは、謗議を避けて義然たるにあらざるなり。蓋し回は福を求むるところにあらざるを知ればなり。故に寿強なり。気を専らにして柔を致し、私を少なくして欲を寡くし、直ちに情性の宜しきところを行いて、養生の正度に合す。これを懐抱の内に求めて、これを得たり。かつて蚕を知らざる者あり、口を出だし手を動かすに、みな忌祟と為す。蚕を得ること滋ますます甚だしからず、忌祟のためにますます多し。なおみずから犯すと以為えるなり。蚕を知る者あり、これに教えて、蚕はもっぱら桑と火と寒暑燥湿にあるを知らしむれば、ここにおいて百忌おのずから息み、利すること十倍なり。何となれば、先ず然る所以を知らざれば、故に忌祟の情繁く、後に然る所以を知る者は、故にこれを求むるの術正し。故に忌祟は常に不知より生ず。性命を知ることなお蚕を知るがごとくならしめば、忌祟は立つところなし。多く食して消さざれば、黄丸を含みて筮祝し谴祟を祓い、あるいは胡に従いて福を求むる者は、およそ人の笑うところなり。何となれば、智もてその禍なきを達するを以てなり。忌祟のことごとく不知より生ずること、知る者よりこれを言えば、みな胡に乞うがごとし。設けて三公の宅と為し、愚民をしてこれに居らしめば、必ずしも三公と為らず。知るべきなり。それ寿夭の求むべからざること、貴賤よりも甚だし。然らば百年の宮を択びて殤子の寿を望み、魁罡を孤逆して彭祖の夭を速めんとすること、必ず幾からず。あるいは曰く、愚民は必ずしも久しく公侯の宅に居るを得ず、と。然らば果たして宅なきなり。これ性命は自然にして求むべからず。賊の方に至らんとするに、疾く逃げずして、独り須臾を安んぜば、遂に虜するところとなる。然らば禍を避け福に趣くは、理に縁るに過ぐるはなし。賊を避くるの理は、速く逃ぐるにしくはなし。すなわちこれ善なり。養生の道は、先ず知るにしくはなし。すなわち尽くすを為す。それ賊を避くるは速やかなるべきこと章々として然り。故に中人も睹るを難しとせず。禍を避くるの理は冥々として然り。故に明者も見ること易からず。その理に動くにおいては、妄りに求むべからず、一なり。孔子疾あり、医——
 
それ善く寿強を求むる者は、必ず先ず夭疾の自ら来たるところを知り、然る後にその至るを防ぐべきなり。禍はここに起こりて、防ぐはかしこに為す。すなわち禍は自ら瘳ゆるなし。世に安宅・葬埋・陰陽・度数・刑徳の忌あり、これ何より生ずるか。性命を見ず、禍福を知らざるなり。見ざる故に妄りに求め、知らざる故に幸を干す。ここを以て善く生を執る者は、性命の宜しきところを見、禍福の来たるところを知る。故にこれを実に求め、これを信に防ぐ。それ多く飲みて走れば、すなわち澹支と為り、しばしば行きて風に当たれば、すなわち痒毒と為り、久しく湿に居れば、すなわち要疾偏枯し、内を好みて怠らざれば、すなわち昏喪して女疾す。かくのごときの類は、災の来たるゆえんにして、寿の去るゆえんなり。而して墓を掘り室を築き、日を費やし身を苦しめて以てこれを求む。疾は形に生じて、治は土木に加う。これ疾の瘳ゆる道なし。詩に云う、「恺悌の君子、福を求めて回らず」とは、謗議を避けて義然たるにあらざるなり。蓋し回は福を求むるところにあらざるを知ればなり。故に寿強なり。気を専らにして柔を致し、私を少なくして欲を寡くし、直ちに情性の宜しきところを行いて、養生の正度に合す。これを懐抱の内に求めて、これを得たり。かつて蚕を知らざる者あり、口を出だし手を動かすに、みな忌祟と為す。蚕を得ること滋ますます甚だしからず、忌祟のためにますます多し。なおみずから犯すと以為えるなり。蚕を知る者あり、これに教えて、蚕はもっぱら桑と火と寒暑燥湿にあるを知らしむれば、ここにおいて百忌おのずから息み、利すること十倍なり。何となれば、先ず然る所以を知らざれば、故に忌祟の情繁く、後に然る所以を知る者は、故にこれを求むるの術正し。故に忌祟は常に不知より生ず。性命を知ることなお蚕を知るがごとくならしめば、忌祟は立つところなし。多く食して消さざれば、黄丸を含みて筮祝し谴祟を祓い、あるいは胡に従いて福を求むる者は、およそ人の笑うところなり。何となれば、智もてその禍なきを達するを以てなり。忌祟のことごとく不知より生ずること、知る者よりこれを言えば、みな胡に乞うがごとし。設けて三公の宅と為し、愚民をしてこれに居らしめば、必ずしも三公と為らず。知るべきなり。それ寿夭の求むべからざること、貴賤よりも甚だし。然らば百年の宮を択びて殤子の寿を望み、魁罡を孤逆して彭祖の夭を速めんとすること、必ず幾からず。あるいは曰く、愚民は必ずしも久しく公侯の宅に居るを得ず、と。然らば果たして宅なきなり。これ性命は自然にして求むべからず。賊の方に至らんとするに、疾く逃げずして、独り須臾を安んぜば、遂に虜するところとなる。然らば禍を避け福に趣くは、理に縁るに過ぐるはなし。賊を避くるの理は、速く逃ぐるにしくはなし。すなわちこれ善なり。養生の道は、先ず知るにしくはなし。すなわち尽くすを為す。それ賊を避くるは速やかなるべきこと章々として然り。故に中人も睹るを難しとせず。禍を避くるの理は冥々として然り。故に明者も見ること易からず。その理に動くにおいては、妄りに求むべからず、一なり。孔子疾あり、医——
 
  
 
=== 第7節 ===
 
=== 第7節 ===
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天后の時、劉幽求は朝邑の丞であったが、かつて使いを奉じて夜帰る折、家に至るまであと十余里というところで、たまたま仏寺があり、路がその傍を過ぎていた。寺中に歌笑の歓洽する声を聞いた。寺垣は低く欠けて、中の様子がすべて見えた。劉は身を俯せてこれを窺い、十数人の男女が雑坐し、盤饌を羅列してこれを環繞して共に食すのを見た。その妻が座中にあって語笑するのが見えた。劉は初め愕然として、そのゆえを測りかねたが、しばらくして、妻がこの場所に来るはずがないと思い返しつつも、なお棄て去ることができなかった。さらに容姿言笑を熟視するに、まったく異なるところがなく、近づいて確かめようとしたが、寺門は閉ざされて入れなかった。劉は瓦を投げてこれを撃つと、その酒器に当たって破散し、人々は走り散って忽ち見えなくなった。劉は垣を越えてまっすぐに入り、従者とともに殿廡を見て回ったが、すべて人はなく、寺は元のまま閉ざされていた。劉はいよいよ怪しみ、馬を飛ばして帰った。家に着くと、妻はまさに寝ているところで、劉が着いたと聞いて寒暄を叙し終えると、妻は笑って曰く、「先ほど夢の中で十数人とある寺を遊んだのですが、みな知らない人ばかりでした。殿庭で会食していると、外から瓦礫を投げ込む者があり、杯盤は狼藉として、それで目が覚めたのです」と。劉もまたその見たことを詳しく述べた。けだしいわゆる「かの者が夢に往くところありてこの者がこれに遇う」ということであった。
 
天后の時、劉幽求は朝邑の丞であったが、かつて使いを奉じて夜帰る折、家に至るまであと十余里というところで、たまたま仏寺があり、路がその傍を過ぎていた。寺中に歌笑の歓洽する声を聞いた。寺垣は低く欠けて、中の様子がすべて見えた。劉は身を俯せてこれを窺い、十数人の男女が雑坐し、盤饌を羅列してこれを環繞して共に食すのを見た。その妻が座中にあって語笑するのが見えた。劉は初め愕然として、そのゆえを測りかねたが、しばらくして、妻がこの場所に来るはずがないと思い返しつつも、なお棄て去ることができなかった。さらに容姿言笑を熟視するに、まったく異なるところがなく、近づいて確かめようとしたが、寺門は閉ざされて入れなかった。劉は瓦を投げてこれを撃つと、その酒器に当たって破散し、人々は走り散って忽ち見えなくなった。劉は垣を越えてまっすぐに入り、従者とともに殿廡を見て回ったが、すべて人はなく、寺は元のまま閉ざされていた。劉はいよいよ怪しみ、馬を飛ばして帰った。家に着くと、妻はまさに寝ているところで、劉が着いたと聞いて寒暄を叙し終えると、妻は笑って曰く、「先ほど夢の中で十数人とある寺を遊んだのですが、みな知らない人ばかりでした。殿庭で会食していると、外から瓦礫を投げ込む者があり、杯盤は狼藉として、それで目が覚めたのです」と。劉もまたその見たことを詳しく述べた。けだしいわゆる「かの者が夢に往くところありてこの者がこれに遇う」ということであった。
 
  
 
=== 第8節 ===
 
=== 第8節 ===
  
 
 
 
  
 
=== 第9節 ===
 
=== 第9節 ===
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以上に挙げたもののほか、なお作者不明の『李衛公別伝』『李林甫外伝』、郭湜の『高力士外伝』、姚汝能の『安禄山事迹』等がある。著述の本意は幽隠を顕揚するにあり、伝奇のためではないが、文の枝蔓なること、事の瑣屑なることにより、後人もまたしばしば小説と見なしたのである。
 
以上に挙げたもののほか、なお作者不明の『李衛公別伝』『李林甫外伝』、郭湜の『高力士外伝』、姚汝能の『安禄山事迹』等がある。著述の本意は幽隠を顕揚するにあり、伝奇のためではないが、文の枝蔓なること、事の瑣屑なることにより、後人もまたしばしば小説と見なしたのである。
 
  
 
=== 第10節 ===
 
=== 第10節 ===
  
 
 
 
  
 
=== 第11節 ===
 
=== 第11節 ===
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殺風景
 
殺風景
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松の下で喝道する 花を看て涙を下す 苔の上に蓆を敷く 垂柳を斫る 花の下に褌を晒す
 
松の下で喝道する 花を看て涙を下す 苔の上に蓆を敷く 垂柳を斫る 花の下に褌を晒す
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遊春に重載する 石筍に馬を繋ぐ 月の下に松明を持つ 歩行の将軍 山に背いて楼を起てる
 
遊春に重載する 石筍に馬を繋ぐ 月の下に松明を持つ 歩行の将軍 山に背いて楼を起てる
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果樹園に菜を植える 花棚の下に鶏鴨を養う
 
果樹園に菜を植える 花棚の下に鶏鴨を養う
  
 
悪模様
 
悪模様
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客となって人と口喧嘩する …… 客として台や卓をひっくり返す …… 舅姑の前で艶曲を歌う
 
客となって人と口喧嘩する …… 客として台や卓をひっくり返す …… 舅姑の前で艶曲を歌う
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噛み残した魚肉を皿に戻す 衆人の前で横になる 箸を椀の上に横たえる
 
噛み残した魚肉を皿に戻す 衆人の前で横になる 箸を椀の上に横たえる
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Latest revision as of 14:00, 26 April 2026

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無常 (无常)

魯��� (ルーシュン, 1881-1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

【一九一八年】

【夢】

多くの夢が、黄昏に乗じて騒ぎ立てる。

前の夢が大前の夢を押しのけたばかりなのに、後の夢がまた前の夢を追い払った。

去った前の夢は墨のように黒く、今の後の夢も墨のように黒い。

去ったのも今のも、どちらも言うようだ、「私の色の美しさを見よ。」

色は美しいかもしれぬが、暗がりの中では知れない。

しかも知れない、話しているのが誰なのかも。

○  ○  ○

暗がりの中で知れず、体は熱く頭は痛む。

来い、来い!明らかなる夢よ。

(『新青年』第四巻第五号。)

【愛の神】

一人の小さな子供が、翼を広げて空中に、

一手に矢をつがえ、一手に弓を引く。

どうしたわけか、一矢が胸に射ささった。

「小さなお方、でたらめなお導きに感謝いたします!

しかしお教えください!私は誰を愛すべきでしょう?」

子供は慌てて、首を振って言った。「ああ!

あなたはまだ心胸のある人なのに、こんなことを言うとは。

あなたが誰を愛すべきかなど、私にわかるはずがない。

とにかく私の矢は放ったのだ!

あなたが誰かを愛したいなら、命がけで愛しなさい。

あなたが誰も愛さないなら、命がけで自分で死ぬがよい。」

(『新青年』第四巻第五号。)

【桃花】

春雨が過ぎて、太陽がまたとても好い。ぶらぶらと庭に歩いて行った。

桃の花は庭の西に咲き、李の花は庭の東に咲いている。

私は言った。「素晴らしい!桃の花は紅く、李の花は白い。」

(桃の花が李の花ほど白くないとは言わなかった。)

ところが桃の花が怒ったらしく、顔中を「楊妃紅」に染め上げた。

いい度胸だ!たいしたものだ!怒って顔を紅くするとは。

私の言葉は別にお前に失礼をしたわけではない。どうして顔を赤くするのだ!

ああ!花には花の道理がある。私にはわからぬ。

(『新青年』第四巻第五号。)

【彼らの花園】

小さな子供、巻き毛で、

銀黄色の顔にはまだほんのり紅みがある——見たところまさに生きようとしている。

壊れた大門を出て、隣家を眺めると、

彼らの大きな花園に、たくさんの美しい花がある。

小さな知恵を絞って、百合の花を一輪手に入れた。

白くて光り輝いて、降りたての雪のよう。

大事に持ち帰り、顔に映すと、一段と血の色が増した。

蠅が花の周りを飛び鳴き、部屋中に乱れ回る——

「こんな不潔な花ばかり好むとは、馬鹿な子供だ!」

急いで百合の花を見ると、もう蠅の糞が何点かついていた。

見ていられない。捨てるに忍びない。

目を見開いて空を仰ぎ、彼にはもう言うべき言葉がなかった。

言葉が出ず、隣家のことを思い出す。

彼らの大きな花園に、たくさんの美しい花がある。

(『新青年』第五巻第一号。)

【人と時】

一人が言った。将来は現在に勝る。

一人が言った。現在は昔に遠く及ばない。

一人が言った。何だと?

時が言った。お前たちはみな私の現在を侮辱している。

昔が良いなら、自分で帰れ。

将来が良いなら、私について前へ来い。

この何だと言った者よ、

お前が何を言っているのか、私にはわからぬ。

(『新青年』第五巻第一号。)

【渡河と道案内】

玄同兄:

二日前、『新青年』五巻二号の通信欄で、兄が唐俟もエスペラントに反対しないこと、合わせて議論してもよいという話を見ました。私はエスペラントにもとより反対しませんが、しかし議論したくもありません。というのも、私がエスペラントに賛成する理由はきわめて簡単で、まだ口を開いて議論するほどのものではないからです。

賛成の理由を問われれば、ただこういうことです。私が見るところ、人類は将来きっと何かの共通の言語を持つべきである。だからエスペラントに賛成するのです。

将来通用するのがエスペラントかどうかは、むろん断定できません。おそらくエスペラントを改良して、より完全なものにするか、あるいは別にもっと良いものが出現するか、まだわかりません。しかし現在これしかない以上、まずこのエスペラントを学ぶしかないのです。今はまだ草創の時代で、汽船がまだなければ丸木舟に乗るしかないのと同じです。もし将来汽船ができるはずだからといって、丸木舟を造らなかったり乗らなかったりすれば、汽船も発明されず、人類は水を渡ることができなくなるでしょう。

しかし将来なぜ必ず人類共通の言語があるかと問われれば、確たる証拠は出せません。将来必ずありえないと言う者もまた同様です。だから議論の必要はまったくなく、各自が信じるところに従って行うだけです。

しかし私にはもう一つ意見があります。エスペラントを学ぶのは一つのことであり、エスペラントの精神を学ぶのは、また別のことだと思うのです。——白話文学もまた同様です。——もし思想が旧態のままならば、やはり看板を変えて中身を変えないのと同じです。ようやく「四目蒼聖」の前から這い上がったかと思えば、また「柴明華先師」の足元に跪くのです。人類の進歩に反対する時、以前はnoと言い、今はneと言うだけ。以前は「咈哉」と書き、今は「不行」と書くだけのことです。だから私の意見では、正当な学術文芸を注入し、思想を改良するのが第一であり、エスペラントの議論はそれに次ぐもので、弁駁に至ってはまったく不要です。

『新青年』の通信欄は、近頃だいぶ発達してきたようです。読者も好んで読みます。しかし私の個人的な意見では、もう少し減らしてもよいと思います。誠実で切実な議論だけを毎号掲載すればよい。その他の無責任な口先だけの批評や、常識のない問難には、せいぜい一度だけ答えればよく、それ以後は多くを語る必要はなく、紙とインクを節約して他に回すべきです。たとえば幽霊を見たとか、仙人を求めるとか、顔を打つとかいった類は、明々白々、まったく常識のないことなのに、『新青年』はなおも彼らと反復して論じ、「二五は十である」という道理を説いている。この手間は惜しくないか、この事業は哀れではないか。

私の見るところ、『新青年』の内容は大略二類に出ない。一つは、空気が閉塞し汚濁していて、この空気を吸う人間はもうおしまいだと感じ、眉を顰めて「ああ」と一声嘆かずにはいられない。同感の人々がこれによって注意を払い、活路を切り開くことを望むのだ。もし誰かが、この顔色と声は、妓女の秋波のようには美しくなく、小唄のようには美しく聞こえないと言うなら、それはまったく正しい。我々は彼と弁論する必要はない。眉を顰めてため息をつくほうがもっと美しいなどと言えば、こちらが間違いだ。もう一つは、これまで歩んできた道がきわめて危険で、しかももう行き止まりに近いと感じ、良心に従って切実に探し求め、別の平坦で希望のある道を見つけたら、大声で「こちらに行くのがよい」と叫ぶことだ。同感の人々がこれによって身を翻し、危険を脱して進歩しやすくなることを望むのだ。もし誰かが別の方向に行こうとするなら、もう一度勧めるのも構わないが、それでも信じなければ、命がけで引き止める必要はなく、各自が自分の道を行けばよい。引き止めて喧嘩になっては、彼に益がないだけでなく、自分も同感の人々も時間を無駄にするのだから。

イエスは言った。車が転覆しそうなのを見たら、支えてやれ。ニーチェは言った。車が転覆しそうなのを見たら、押してやれ。私はもちろんイエスの言葉に賛成する。しかし思うに、もし支えてもらいたくないなら、無理に支える必要はない。放っておけばよい。その後転覆しなければもちろん結構だし、もし結局ひっくり返ったなら、その時こそ切実に手を貸して起こしてやればよいのだ。

兄よ、無理に支えるのは起こすよりも骨が折れ、効果も見えにくい。ひっくり返ってから起こすほうが、転覆しかけた時に支えるよりも、彼らにとってより有益なのだ。

唐俟。十一月四日。

(『新青年』第五巻第五号。)

【】

【第五巻】

【声は哀楽なきの論】

秦の客、東野の主人に問うて曰く、「之を前論に聞けば曰く、治世の音は安にして楽しく、亡国の音は哀にして思う、と。それ治乱は政にあり、而して音声之に応ず。故に哀思の情は金石に表れ、安楽の象は管弦に形る、と。又た仲尼、韶を聞き、虞舜の徳を識り、季札、弦を聴きて、衆国の風を識る。斯れ已然の事にして、先賢の疑わざる所なり。今、子独り以為えらく声に哀楽なしと。其の理は何くにか居る?若し嘉訊あらば、請う其の説を聞かん。」主人之に応じて曰く、「斯の義久しく滞りて、肯えて拯救する莫し。故に歴世をして名実に濫せしむ。今啓導を蒙り、将に其の一隅を言わんとす。それ天地徳を合わせ、万物生を資く。寒暑代わり往き、五行以て成る。章を五色と為し、発して五音と為す。音声の作、其れ猶お臭味の天地の間に在るがごとし。其の善と不善と、浊乱に遭うと雖も、其の体は自若にして変ずること無きなり。豈に愛憎を以て操を易え、哀楽もて度を改めんや?宮商の集比に及び、声音克く諧う。此れ人心の至願にして、情欲の鋳る所なり。古人、情の恣にすべからざるを知り、欲の極むべからざるを知る。故に其の用うる所に因りて毎に之が節を為す。哀をして傷に至らしめず、楽をして淫に至らしめず。事に因りて名を与え、物に其の号あり。哭、之を哀と謂い、歌、之を楽と謂う。斯れ其の大較なり。然れども楽と云い楽と云う、鍾鼓云うか哉?哀と云い哀と云う、哭泣云うか哉?兹に因りて言えば、玉帛は礼敬の実にあらず、歌舞は悲哀の主にあらざるなり。何を以て之を明らかにせん?それ殊方異俗にして、歌哭同じからず。錯りて之を用いしめば、或いは哭を聞きて歓び、或いは歌を聴きて戚しむ。然れども其の哀楽の懐は均しきなり。今均同の情を用いて、万殊の声を発す。斯れ音声の常なきにあらざらんや?然れども声音の和比は、人を感ぜしむるの最も深き者なり。労する者は其の事を歌い、楽しむ者は其の功を舞う。それ内に悲痛の心あれば、則ち激しく哀切の言を発す。言比して詩を成し、声比して音を成す。雑えて之を詠じ、聚めて之を聴く。心は和声に動き、情は苦言に感ず。嗟嘆未だ絶えざるに、泣涕流涟す。それ哀心は内に蔵し、和声に遇いて後に発す。和声に象なくして、哀心に主あり。それ主ある哀心を以て、象なき和声に因りて後に発すれば、其の覚悟する所は、唯だ哀のみ。豈に復た吹万の同じからざるを知りて、其をして自ら已ましめんや。風俗の流れ、遂に其の政を成す。是の故に国史は政教の得失を明らかにし、国風の盛衰を審らかにし、情性を吟詠して、以て其の上を諷す。故に曰く、亡国の音は哀にして思う、と。それ喜怒哀楽、愛憎慚懼、凡そ此の八者は、生民の以て物に接し情を伝うる所にして、区別に属あり、而して溢すべからざる者なり。それ味は甘苦を以て称と為す。今、甲の賢なるを以て心に愛し、乙の愚なるを以て情に憎む。則ち愛憎は宜しく我に属すべく、而して賢愚は宜しく彼に属すべきなり。我が愛を以て之を愛人と謂い、我が憎を以て之を憎人と謂うべけんや?喜ぶ所を以て之を喜味と謂い、怒る所を以て之を怒味と謂うべけんや?此に由りて之を言えば、則ち外内用を殊にし、彼我名を異にす。声音は自ら当に善悪を以て主と為すべく、則ち哀楽に関わり無し。哀楽は自ら当に情感ありて後に発すべく、則ち声音に系り無し。名実俱に去れば、則ち尽然として見るべし。且つ季子の魯に在りしは、詩を采り礼を観て、以て風雅を別ちしなり。豈に徒だ声に任せて以て臧否を決せんや?又た仲尼の韶を聞きしは、其の一致を嘆じしなり。是を以て咨嗟す。何ぞ必ずしも声に因りて虞舜の徳を知り、然る後に嘆美せんや?今粗ぼ其の一端を明らかにするも、亦た過半を思うべし。」

秦の客難じて曰く、「八方の異俗にして、歌哭万殊なるも、然れども其の哀楽の情は、見ざるを得ざるなり。それ心は中に動き、声は心より出ず。之を他音に託し、之を余声に寄すと雖も、善く聴き察する者は、要ず自ら之を覚りて過ぐることを得しめざるなり。昔、伯牙琴を理め、而して鍾子其の至る所を知り、隷人磬を撃ちて、子産其の心の哀しきを識り、魯人晨に哭して、顔淵其の生離なるを察す。それ数子なる者は、豈に復た智を常音に仮り、験を曲度に借らんや?心戚しき者は則ち形之が為に動き、情悲しき者は則ち声之が為に哀し。此れ自然に相応じ、逃るるを得べからず。唯だ神明なる者のみ能く之を精しくするのみ。それ能ある者は声の衆きを以て難しとせず、能なき者は声の寡きを以て易しとせず。今、未だ善聴に遇わざるを以て声に察すべき理なしと謂うべからず、方俗の多変なるを見て声音に哀楽なしと謂うべからざるなり。又た云う、賢は宜しく愛と言うべからず、愚は宜しく憎と言うべからず、と。然らば則ち賢あって後に愛生じ、愚あって後に憎起こるも、但だ其の共の名に当たらざるのみ。哀楽の作も亦た由ありて然り。此れ声の我を哀しましめ、音の我を楽しましむるなり。苟しくも哀楽声に由れば、更に実あり。何ぞ名実俱に去るを得んや?又た云う、季札は詩を采り礼を観て以て風雅を別ち、仲尼は韶音の一致を嘆じて是を以て咨嗟す、と。是れ何の言ぞや?且つ師襄操を奏し、而して仲尼文王の容を睹る。師涓曲を進め、而して子野亡国の音を識る。寧ろ復た詩を講じて後に言を下し、礼を習いて然る後に評を立てんや?斯れ皆な神妙独見にして、留聞積日を待たずして、已に其の吉凶を綜ぶるなり。是を以て前史以て美談と為す。今、子、区区たる近知を以て、見る所を斉しくして限りと為す。乃ち前賢の識微を誣い、夫子の妙察に負くこと無きかな?」

第2節

主人答えて曰く、「難じて云う、歌と哭は万殊なりといえども、善く聴き察する者はおのずからこれを覚り、智を常音に仮らず、験を曲度に借りず。鍾子の徒云々是なりと。これ心に哀しむ〔各本は悲に作る〕者は、談笑鼓舞すといえども、情に歓ぶ者は、膺を拊ち咨嗟すといえども、独り外形を御して自ら匿し、察者を疑似に誑すこと能わざるなり。爾は已にして就く〔四字は各本「以為就令」に作る。旧校同じ〕声音の常なきを為し、なお哀楽有るべしと謂えり。又曰く、季子は声を聴きて以て衆国の風を知り、師襄は操を奏して仲尼は文王の容を睹たりと。案ずるに云うところの如くんば、これ文王の功徳と風俗の盛衰と、皆これを声音に象るべきなり。声の軽重は後世に移すべく、襄涓の巧はまた〔各本この字を脱す〕これを将来に得ること能くべし。もし然らば、三皇五帝は今日に絶えざるべく、何ぞ独り数事のみならんや。もしこれ果たして然りとせば、文王の操に常度あり、韶武の音に定数あり、他の変を雑え、余声を以て操すべからざるなり。則ち向に謂うところの声音の常なきこと、鍾子の触類は、ここにおいて躓くなり。もし音声に常なく〔原鈔は之の字と常の字を脱す。黄汪本同じ。程二張本に拠りて加う〕、鍾子の〔黄汪本この字を脱す〕触類、その果たして然りとせば、仲尼の微を識ること、季札の善く聴くこと、固よりまた誣なり。これみな俗儒の妄記にして、その事を神にせんと欲して追いて為せるのみ。天下をして〔四字は旧校及び各本に従う〕声音の道に惑わしめんと欲し、理の自ずから尽くるを言わず。ここより推して〔張燮本は惟に作る〕、神妙にして知り難からしめ、奇聴に当時に遇わざるを恨み、古人を慕いて嘆息せしむ〔各本は自嘆に作る〕。これ〔二張本この字なし〕所以に大いに後生を罔すなり。それ類を推し物を辨ずるには、先ず自然の理に求むべし。理已に定まりて〔黄汪二張本は定に作る〕、然る後に古義を借りて以てこれを明らかにするのみ。今未だこれを心に得ずして、多く前言に恃みて以て談証と為す。此より以往、恐らくは巧暦も紀すること能わざらん〔各本この字を脱す〕。又難じて云う、哀楽の作は、なお愛憎の賢愚に由るが如く、これ声は我をして哀しましめ、音は我をして楽しましむるなり。いやしくも哀楽声に由らば、更に実あることとなる。それ五色に好醜あり、五声に善悪あり、これ物の自然なり。愛と不愛、喜と不喜に至りては〔原鈔は下三字を誤りて下文の物字の下に入る。今移して正す。各本は脱す。旧校もまた削る〕、人情の変にして物を統ぶるの理、ただここに止まるのみ。しかれども皆内に預かるなく、物を待ちて成るのみ。それ哀楽は自ら事の会する所を以て、先ず心に遘い、ただ和声に因りて自ら顕発するなり。ゆえに前論に已にその常なきを明らかにし、今また此の談を仮りて以てその名号を正すのみ。哀楽の声音に発するを謂うにあらず、愛憎の賢愚に生ずるが如きなり。しかれども和声の人心を感ぜしむるは、なお醞酒〔各本は酒醴に作る〕の人の性〔各本は情に作る〕を発するが如きなり。酒は甘苦を主とし、酔者は喜怒を用とす。歓戚の声に発するを見て、声に哀楽ありと謂うは、なお〔各本この字を脱す。旧校もまた削る〕喜怒の酒に使われるを見て、酒に喜怒の理ありと謂うべからざるが如きなり。」

秦客難じて曰く、「それ気を観、色を采るは、天下の通用なり。心は内に変じて色は外に応ず。較然として見るべし。ゆえに吾子は疑わず。それ声音は気の激する者なり。心は感に応じて動き、声は変に従いて発す。心に盛衰あらば、声にもまた降〔張燮本は隆に作る。答文中の降殺の字をここに放つ〕殺あり。同じく一身に役せらるるに、何ぞ独り声に於いてすなわち疑うべけんや。それ喜怒は□診〔各本は色診に作る。旧校同じ〕に章かなり。哀楽もまた声音に形るべし。声音に自ずから哀楽あるべきも、ただ暗き者はこれを識ること能わざるのみ。鍾子の徒に至りては、常なき〔程本は当に訛る〕の声に遭うといえども、穎然として独り見るなり。今、蒙して瞽にして墻に面す」

第3節

主人答えて曰く、「人情は哀楽に感ずといえども、哀楽にはおのおの多少あり。また哀楽の極は、必ずしも同じく致るにあらざるなり。それ小哀なれば容は壊れ、甚だ悲しければ泣く。哀の方なり。小歓なれば顔は悦び、至楽なれば笑う。楽の理なり。何を以てこれを言うか。それ至親安豫なれば、すなわち怡然として自若たり、猖狂するところなり。危急に在りて、僅かにして後に済するに及べば、すなわち抃して舞うに及ばず。これに由りてこれを言えば、舞の先の自得に若かざること、豈に然らざらんや。それ笑噱に至りては、歓情より出づといえども、然れども自ら理を以て成る。また自然に声に応ずるの具にあらざるなり。これ楽の声に応ずるは、自得を以て主と為し、哀の感に応ずるは、垂涕を以て故と為す。垂涕すれば形動きて覚るべく、自得すれば神合して変なし。ここを以てその異を観て、その同を識らず。その外を別ちて、未だその内を察せざるのみ。然れども笑噱の声音に顕れざること、豈にひとり斉楚の曲のみならんや。今楽を自得の域に求めずして、笑噱なきを以て斉楚は哀を体すと謂う、豈に哀を知りて楽を識らざるにあらずや。」

秦客問いて曰く、「仲尼に言あり、風を移し俗を易うるは、楽より善きはなし、と。すなわち論ずるところのごとく、およそ百の哀楽、皆声に在らずとせば、すなわち風を移し俗を易うるは、果たして何物を以てするや。また古人は靡靡の風を慎み、耳を慆すの声を抑う。故に曰く、鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ、と。然らば鄭衛の音、鳴球を撃ちて以て神人を協わす。敢えて問う、鄭雅の体、隆弊の極まるところ、風俗の移り易わること、何に由りて済さんや。願わくは重ねてこれを聞き、以て疑うところを悟らん。」

主人これに応えて曰く、「それ風を移し俗を易うると言う者は、必ず衰弊の後を承くるなり。古の王者は、天を承けて物を理め、必ず簡易の教えを崇び、無為の治を御す。君は上に静かに、臣は下に順う。玄化潜かに通じ、天人交わりて泰し。枯槁の類も、霊液に浸育せられ、六合の内、鴻流に沐浴して、塵垢を蕩滌す。群生安逸にして、自ら多福を求む。黙然として道に従い、忠を懐き義を抱きて、その然る所以を覚えざるなり。和心は内に足り、和気は外に見る。故に歌いて以て志を叙べ、舞いて以て情を宣ぶ。然る後にこれに文うるに采章を以てし、これを照らすに風雅を以てし、これを播くに八音を以てし、これに感ぜしむるに太和を以てす。その神気を導き、養いてこれを就す。その情性を迎え、致してこれを明らかにす。心と理とをして相順ぜしめ、気と声とをして相応ぜしむ。会通に合して、以てその美を済す。故に凱楽の情は金石に見れ、含弘光大は音声に顕る。もし以往なれば万国風を同じくし、芳栄済々として茂り、馥しきこと秋蘭のごとし。期せずして信あり、謀らずして成り、穆然として相愛す。なお錦を舒べ彩を布くがごとく、燦炳として観るべきなり。大道の隆んなること、これより盛んなるはなく、太平の業、これより顕かなるはなし。故に曰く、風を移し俗を易うるは、楽より善きはなし、と。然れども楽の体たるや、心を以て主と為す。故に無声の楽は、民の父母なり。八音会して諧い、人の悦ぶところに至りては、また総じてこれを楽と謂う。然れども風俗の移易は、本よりここに在らざるなり。それ音声の和して比するは、人情の已むあたわざるところなり。ここを以て古人は情の放つべからざるを知る、故にその遁ぐるところを抑う。欲の絶つべからざるを知る、故に自ら以て致すところとなす。故に奉ずべきの礼を為し、導くべきの楽を制す。口は味を尽くさず、楽は音を極めず。終始の宜しきを揆り、賢愚の中を度り、これが検則を為して、遠近をして風を同じくせしめ、用いて竭きず、また忠信を結び、不遷を著すゆえんなり。故に郷校庠塾も亦これに随う。絲竹をして俎豆と並び存し、羽毛をして揖譲と倶に用いらしめ、正言をして和声と同に発せしむ。この声を聴かんとすれば、必ずこの言を聞き、この容を観んとすれば、必ずこの礼を崇ぶ。礼はなお賓主の升降のごとく、然る後に酬酢行わる。ここにおいて言語の節、声音の度、揖譲の儀、動止の数、進退相須ちて、共に一体を為す。君臣はこれを朝に用い、庶士はこれを家に用う。少くしてこれを習い、長じて怠らず、心安んじ志固く、善に従いて日に遷る。然る後にこれに臨むに敬を以てし、これを持するに久しくして変ぜず、然る後に化成る。これまた先王の楽を用うるの意なり。故に朝宴聘享に嘉楽必ず存す。ここを以て国史は風俗の盛衰を采り、これを楽工に寄せ、これを管弦に宣べ、言う者をして罪なからしめ、聞く者をして以て自ら戒むるに足らしむ。これまた先王の楽を用うるの意なり。もし鄭声に至りては、これ音声の至妙なり。妙音の人を感ぜしむること、なお美色の志を惑わすがごとく、盤に耽り酒に荒れ、以て業を喪いやすし。至人にあらざれば、孰かよくこれを御せん。先王は天下の流れて反らざるを恐る、故にその八音を具え、その声を瀆さず、その大和を絶ち、その変を窮めず。窈窕の声を捐て、楽しみて淫せざらしむ。なお大羹の和せずして、勺薬の味を極めざるがごとし。もし浅近に流浴すれば、声は悦ぶに足らず、また歓ぶところにあらざるなり。もし上その道を失い、国その紀を喪い、男女奔随して、淫荒度なければ、風はこれを以て変じ、俗は好みを以て成る。その志をしきものは、群もよくこれを肆にし、その習いを楽しむものは、何を以てこれを誅せんや。和声に託し、配してこれを長じ、誠は言に動き、心は和に感じ、風俗ひとたび成れば、因りてこれを名づく。然れどもその名づくるところの声、淫邪に甚だしきものなきなり。淫と正とは心に同じ、雅鄭の体もまた以て観るに足る。」

【第六篇 六朝の鬼神志怪書(下)】

釈氏の教えを輔くるの書は、『隋志』に九家を著録し、子部および史部に在り、今はただ顔之推の『冤魂志』のみ存す。経史を引きて報応を証し、すでに儒釈混合の端を開きたり。而してその余はすべて佚す。遺文の考え見るべきものには、宋の劉義慶の『宣験記』、斉の王琰の『冥祥記』、隋の顔之推の『集霊記』、侯白の『旌異記』の四種あり、大抵は経像の顕効を記し、応験の実に有ることを明らかにし、以て世俗を震耸し、敬信の心を生ぜしめんとす。顧みれば後世にはあるいは小説と視せり。王琰は太原の人、幼くして交阯に在り、五戒を受け、宋の大明および建元(五世紀中)年に、二たび金像の異に感じ、因りて記を作り、像の事を撰集し、経塔を以て継ぎ、凡そ十巻、これを『冥祥』と謂う。自らその事を序すること甚だ悉し(『法苑珠林』巻十七に見ゆ)。『冥祥記』は『珠林』および『太平広記』中に存するもの最も多く、その叙述もまた最も委曲詳尽なり。今略ぼ三事を引きて、以てその余を概す。

漢の明帝、夢に神人を見る。形は二丈に垂んとし、身は黄金色、項に日光を佩ぶ。以て群臣に問うに、あるいは対えて曰く、「西方に神あり、その号は仏と曰う。形は陛下の夢に見たまいしがごとし、これにあらずや。」ここにおいて使者を天竺に発し、経像を写し致す。これを中夏に表し、天子王侯より、ことごとく敬い事え、人の死して精神滅びざるを聞きて、惧然として自失せざるはなし。初め、使者蔡愔、西域の沙門迦葉摩騰らを将いて、優填王の画ける釈迦仏像を齎す。帝これを重んじ、夢に見しがごとくなれば、すなわち画工を遣わしてこれを数本図かしめ、南宮の清涼台および高陽門の顕節寿陵の上に供養す。また白馬寺に千乗万騎塔を繞ること三匝の像を壁画す。諸伝に備さに載するがごとし。(『珠林』十三)

晋の謝敷、字は慶緒、会稽山陰の人なり。……少くして高操あり、東山に隠れ、大法を篤信し、精勤して倦まず、手ずから『首楞厳経』を写す。まさに都の白馬寺中に在りしとき、寺は災火の延ぶるところとなり、什物余経、並びに煨燼と成る。而してこの経はただ紙の頭の界の外を焼くのみにて、文字はことごとく存し、毀失するところなし。敷の死せる時、友人その得道せるを疑い、この経のことを聞くに及びて、いよいよまた驚異す。……(『珠林』十八)

晋の趙泰、字は文和、清河貝丘の人なり。……年三十五の時、かつて卒かに心痛し、須臾にして死す。尸を地に下すも、心は暖かきこと已まず、屈伸人に随う。尸を留むること十日、平旦に喉中に声ありて雨のごとし。俄にして蘇りて活く。初め死する時を説くに、夢に一人来たりて心下に近づき、また二人黄馬に乗り、従者二人ありて、泰の腋を扶けて径ちに東行に将いゆくこと、幾里ばかりか知らず、一大城に至る。崔巍として高峻、城の色は青黒なり。泰を将いて城門より入り、二重の門を経るに、瓦屋数千間ばかりあり、男女大小また数千人、行列して立つ。吏は皂衣を著し、五六人あり、姓字を条疏して、「まさに科を以て府君に呈すべし」と云う。泰の名は三十に在り。須臾にして泰と数千人の男女を将いて一時にともに進む。府君は西向きに坐し、名簿を簡視し訖りて、また泰を遣わして南に黒門より入らしむ。人の絳衣を著して大屋の下に坐するあり、次を以て名を呼び、問う、「生時の所事は何ぞ。何の孽罪を作せるか。何の福善を行えるか。汝等の辞を諦かにし、実を以て言え。ここには恒に六部の使者を遣わして常に人間に在らしめ、善悪を疏記し、具さに条状あり、虚を得べからず。」泰答う、「父兄は仕宦し、皆二千石なり。我少くして家に在り、修学するのみ、事とするところなく、また悪を犯さず。」すなわち泰を遣わして水官の将作と為す。……後に泰を転じて水官都督とし諸獄の事を知らしめ、泰に兵馬を給し、地獄を案行せしむ。至るところの諸獄、楚毒おのおの殊なり。あるいは針もてその舌を貫き、血を流すこと体に竟り、あるいは頭を被き髪を露し、裸形徒跣にて相牽きて行き、大杖を持する者あり、後より催促す。鉄床銅柱、これを焼くこと洞然たり、この人を駆迫してその上に抱き臥さしむれば、赴けばすなわち焦爛し、尋いでまた還りて生ず。……あるいは剣樹あり高く広く、限量を知らず、根茎枝葉、皆剣もてこれを為す。人衆相訾り、自ら登り自ら攀じ、欣び競うあるがごとくして、身首割截せられ、尺寸離断す。泰、祖父母および二弟のこの獄中に在るを見て、相見て涕泣す。泰、獄門を出づるに、二人の文書を齎す者あり、来たりて獄吏に語る。三人あり、その家その為に塔寺中に幡を懸け香を焼きて、その罪を救解し、福舎に出づべしと言う。俄にして三人獄より出づるを見るに、すでに自然の衣服あり、完整にして身に在り。南に一門に詣る、名を開光大舎と云う。……泰案行し畢りて、水官のところに還る。……主者曰く、「卿は罪過なし、故に相使して水官都督と為す。しからずんば、地獄中の人と以て異なることなきなり。」泰、主者に問いて曰く、「人はいかなる行あれば、死して楽報を得るか。」主者ただ言う、「奉法の弟子、精進して持戒すれば、楽報を得て、謫罰あることなきなり。」泰また問いて曰く、「人いまだ法に事えざる時に行いし罪過は、法に事えし後に、以て除くを得るや否や。」答えて曰く、「皆除かるるなり。」語り畢りて、主者は縢箧を開きて泰の年紀を検するに、なお余算三十年在り、すなわち泰を遣わして還らしむ。……時に晋の太始五年七月十三日なり。……(『珠林』七。『広記』三百七十七)

仏教すでに漸く流播し、経論日に多く、雑説もまた日に出づ。聞く者はあるいは無常を悟りて帰依するも、またあるいは無常を怖れて却走す。この反動として、方士もまた自ら偽経を造り、多く異記を作り、長生久視の道を以て、天下の苦空を逃るる者を網羅す。今存するところの漢の小説は、一二の文人の著述を除くほかは、その余は蓋しみなこれなり。方士の書を撰するは、大抵古人に託名す。故に晋宋の人の作と称するもの多くはなし。ただ類書の間に『神異記』を引くものあり、すなわち道士王浮の作なり。浮は晋の人にして、浅妄の称あり。すなわち恵帝の時(三世紀末より四世紀初)帛選と抗論して屡々屈し、遂に『西域伝』を改換して老子の『明威化胡経』を造りし者なり(唐の釈法琳の『弁正論』六に見ゆ)。その記もまた神仙鬼神を言うこと、『洞冥』・『列異』の類のごとし。

陳敏、孫皓の世に江夏太守と為り、建業より職に赴く。宮亭廟の験あるを聞き、過ぎて任に在りて安穏ならんことを乞い、まさに銀杖一枚を上ぐべしとす。年限すでに満ち、杖を作りて以て廟に還さんと擬し、鉄を捶ちて以て干と為し、銀を以てこれに塗る。尋いで散騎常侍に徵され、宮亭に往き、杖を廟中に送り訖りて、すなわち路に進む。日晩に、降神の巫宣教して曰く、「陳敏我に銀杖を許すも、今塗杖を以て与えらる。すなわち水中に投じ、まさに以てこれを還すべし。欺蔑の罪は容すべからざるなり。」ここにおいて銀杖を取りてこれを看るに、剖きて中を視れば鉄の干を見る。すなわちこれを湖中に置く。杖は水上に浮き、その疾きこと飛ぶがごとく、遥かに敏の舫の前に到り、敏の舟遂に覆る。(『太平御覧』七百十)

丹丘は大茗を生じ、これを服すれば羽翼を生ず。(『事類賦注』十六)

『拾遺記』十巻、晋の隴西の王嘉の撰と題し、梁の蕭綺録す。『晋書・芸術列伝』中に王嘉あり、略ぼ云う。嘉、字は子年、隴西安陽の人。初め東陽谷に隠れ、後に長安に入る。苻堅累ねて徵すれども起たず。よく未然の事を言い、辞は讖記のごとく、当時よくこれを暁る者鮮し。姚萇長安に入り、嘉を逼りて自ら随わしむ。後に答問の萇の意に失するを以て、萇の殺すところと為る(約三九〇年)。嘉かつて『牽三歌讖』を造り、また『拾遺録』十巻を著す。その事多く詭怪にして、今世に行わる。伝に云う『拾遺録』なる者は、蓋しすなわち今の記なり。前に蕭綺の序あり、言う、書は本十九巻、二百二十篇、苻秦の季に当たりて、典章散滅し、この書もまた多く亡ぶることあり。綺さらに繁を削り実を存し、合して一部と為す。凡そ十巻なり。今の書の前九巻は庖犧に起こりて東晋に迄り、末の一巻は崑崙等の九仙山を記す。序に謂うところの「事は西晋の末に訖る」とはやや同じからず。その文筆は頗る靡麗にして、事はみな誕漫にして実なし。蕭綺の録もまた附会にして、胡応麟(『筆叢』三十二)以て「蓋しすなわち綺の撰にして王嘉に託せるなり」と為す。

少昊は金徳を以て王たり。母は皇娥と曰い、璇宮に処りて夜に織り、あるいは桴木に乗じて昼に遊び、窮桑滄茫の浦を経歴す。時に神童あり、容貌俗を絶し、白帝の子と称す。すなわち太白の精にして、水際に降り、皇娥と宴戲し、便娟の楽を奏し、游漾して帰るを忘る。窮桑なる者は西海の浜にして、孤桑の樹あり、直上すること千尋、葉は紅く椹は紫にして、万歳に一たび実を結び、これを食すれば天に後れて老ゆ。……帝子と皇娥と並び坐し、桐峰の梓瑟を撫す。皇娥瑟に倚りて清歌して曰く、「天清く地曠くして浩として茫茫たり、万象回薄して化すること方なし、浛天蕩蕩として滄滄を望み、桴に乗じて軽く漾いて日の傍に著く、まさにいずくにか至りて窮桑に至らん、心は和楽を知りて悦びていまだ央きず。」俗に遊楽の処を桑中と謂うなり。『詩・衛風』に「我を桑中に期す」と云うは、蓋しこれに類するなり。……皇娥少昊を生むに及び、号して窮桑氏と曰い、また桑丘氏と曰う。六国の時に至りて、桑丘子陰陽の書を著す。すなわちその余裔なり。……(巻一)

劉向、成帝の末に天禄閣に書を校す。専精覃思す。夜に老人ありて黄衣を著し、青藜の杖を植え、閣に登りて進む。向の暗中に独り坐して書を誦するを見て、老父すなわち杖の端を吹くに、煙燃え、因りて以て向に見え、開闢以前を説く。向、因りて五行洪範の文を受く。辞説の繁広にしてこれを忘れんことを恐れ、すなわち帛および紳を裂きて、以てその言を記す。曙に至りて去る。向、姓名を請い問うに、云う、「我はこれ太一の精なり。天帝卯金の子に博学の者あるを聞き、下りて観るなり。」すなわち懐中の竹牒を出すに、天文地図の書あり、「余略ぼ子に授けん。」向の子歆に至り、向より其の術を授かる。向もまたこの人を悟らざるなり。(巻六)

洞庭山は水上に浮かぶ。その下に金堂数百間あり、玉女これに居す。四時金石絲竹の声を聞くこと、山頂に徹す。楚の懐王の時、群才を挙げて水湄に詩を賦す。……後に懐王奸雄を進むるを好み、群賢逃越す。屈原は忠を以て斥けられ、沅湘に隠れ、蓁を披き草を茹り、禽獣に混同して、世務に交わらず、柏実を采りて桂膏を和し、以て心神を養う。王に逼迫せられて、すなわち清泠の水に赴く。楚人思慕し、これを水仙と謂う。その神は天河に遊び、精霊時に湘浦に降る。楚人これが為に祠を立つ。漢末なお在り。(巻十)

【第二十四篇 清の人情小説】

乾隆中(一七六五年頃)、小説に『石頭記』なるものあり、忽ち北京に出づ。五六年を歴て盛行す。然れどもみな写本にして、数十金を以て廟市に鬻ぐ。その本はただ八十回にて、開篇にすなわち本書の由来を叙す。女媧天を補うに、ひとり一石を留めて用いず。石甚だ自ら悼嘆す。俄にして一僧一道を見るに、以て「形体はまずは一個の宝物なり。まだただ実在の好いところがない。すべからくさらに数字を鐫りつけ、人をして一見してすなわち奇物なるを知らしむるのが妙であろう。然る後に好くも汝を隆盛昌明の邦、詩礼簪纓の族、花柳繁華の地、温柔富貴の郷に携え、安身立業せしめん」と為す。ここにおいてこれを袖にして去る。さらに幾劫を歴たるを知らず、空空道人あり、この大石を見るに、上に文詞を鐫る。石の請いに従い、鈔して以て世に問う。道人もまた「空に因りて色を見、色に由りて情を生じ、情を伝えて色に入り、色より空を悟り、遂に名を情僧と易え、『石頭記』を改めて『情僧録』と為す。東魯の孔梅渓はすなわち『風月宝鑑』と題す。後に曹雪芹の悼紅軒中にて披閲すること十載、増刪すること五次、目録を纂成し、章回を分出するに因り、すなわち『金陵十二釵』と題し、並びに一絶を題して云う、『満紙荒唐の言、一把辛酸の涙。都な作者の痴と云うも、誰かその中の味を解せん。』」(戚蓼生の序する八十回本の第一回)

第4節

本文の叙事するところは石頭城(すなわち金陵にあらず)の賈府にあり、寧国・栄国二公の後なり。寧公の長孫を敷と曰い、早く死す。次の敬は爵を襲うも、性は道を好み、また爵を子の珍に譲り、家を棄てて仙を学ぶ。珍遂に縦恣し、子の蓉あり、秦可卿を娶る。栄公の長孫を赦と曰い、子の璉あり、王熙鳳を娶る。次を政と曰う。女を敏と曰い、林海に適ぎ、中年にして亡じ、僅かに一女を遺す、黛玉と曰う。賈政は王氏を娶り、子の珠を生むも、早く卒す。次に女を生み元春と曰い、後に選ばれて妃と為る。次にまた子を得るに、すなわち玉を銜みて生まる。玉にまた字あり、因りて宝玉と名づく。人みな以て「来歴小さからず」と為す。而して政の母の史太君はことに鍾愛す。宝玉すでに七八歳、聡明人に絶するも、性は女子を愛し、常に言う、「女の子は水で出来た骨肉で、男は泥で出来た骨肉だ。」人ここにおいてまた以て将来は「色鬼」と為らんと為す。賈政もまたあまり愛惜せず、これを御すること極めて厳なり。蓋し「この人の来歴を知らざるに縁る。……もし多く書を読み字を識り、致知格物の功を加え、悟道参玄の力ある者にあらざれば、知ることあたわざるなり」(戚本第二回賈雨村云う)に因る。而して賈氏には実にまた「閨閣の中歴歴として人あり」、主従のほかに、姻連もまた衆し。黛玉・宝釵のごときは、皆来たりて寄寓し、史湘雲もまた時に至り、尼の妙玉はすなわち後園に習静す。右すなわち賈氏の譜の大要にして、虚線を用うるはその姻連、×を著すは夫婦、*を著すは「金陵十二釵」の数に在る者なり。

事すなわち林夫人(賈敏)の死に始まる。黛玉は恃を失い、またよく病み、遂に来たりて外家に依る。時に宝玉と同年にして、十一歳なり。すでにして王夫人の女弟の生める女もまた至る。すなわち薛宝釵にして、一年年長にして、頗る端麗を極む。宝玉は純朴にして、並びに二人を愛し偏心なし。宝釵は渾然として覚えず、而して黛玉はやや恚る。一日、宝玉倦みて秦可卿の室に臥す。遽に夢みて太虚境に入り、警幻仙に遇い、『金陵十二釵正冊』および『副冊』を閲す。図あり詩あり、然れども解せず。警幻は新制の『紅楼夢』十二支を奏ぜしむ。その末闋を『飛鳥各投林』と為し、詞に云う、

「官と為りし者は、家業凋零す。富貴なりし者は、金銀散じ尽く。恩ありし者は、死裏に逃生す。無情なる者は、分明に報応す。命を欠きし者は命すでに還り、涙を欠きし者は涙すでに尽きぬ。……破り看たる者は、空門に遁入し、痴迷せる者は、枉に性命を送れり。好く一つ似たり、食い尽くして鳥林に投ずるに。落ちたるは片の白茫茫たる大地、真に干浄なり。」(戚本第五回)

然れども宝玉またも解せず、さらに他の夢を歴て寤む。元春の選ばれて妃と為るに逮びて、栄公府はいよいよ貴盛し、その帰省に及びて、大観園を辟きて以てこれを宴す。情親ことごとく至り、天倫の楽を極む。宝玉もまた漸く長じ、外にては秦鍾・蒋玉函に昵み、帰りてはすなわち姉妹中表および侍児の襲人・晴雯・平児・紫鵑の輩の間に周旋す。昵みてこれを敬い、その意に拂うを恐れ、愛は博くして心は労し、而して憂患もまた日に甚だしくなれり。

この日、宝玉は湘雲の漸く癒ゆるを見て、然る後に黛玉を看に往く。まさに黛玉の昼寝を終えたばかりの時に当たり、宝玉は驚かすを敢えてせず。紫鵑がまさに回廊の上にて手に針仕事をしているのを見て、すなわち上がりて問う、「昨夜の咳は少しはましか。」紫鵑道う、「ましになりました。」宝玉道う、「阿弥陀仏、どうか良くなりますように。」紫鵑笑いて道う、「あなたも念仏するようになって、本当にニュースですこと。」宝玉笑いて道う、「いわゆる『病篤くして医を乱投す』というやつさ。」一面に言いつつ、彼女が弾墨綾子の薄綿袄を着て、外にはただ青緞子の挟背心だけを着ているのを見て、宝玉はすなわち手を伸ばして彼女の身の上を一撫でして言う——

第5節

しかれども『紅楼夢』は作者の自叙なりと謂い、本書の開篇と契合するものは、その説の出づること実に最も先にして、確定するは反って最も後なり。嘉慶の初め、袁枚(『随園詩話』二)すでに云う、「康熙中、曹練亭は江寧織造と為り、……その子雪芹は『紅楼夢』一書を撰し、備さに風月繁華の盛んなるを記す。中にいわゆる大観園なる者は、すなわち余が随園なり。」末の二語は蓋し誇りなり。余もまたいささかの小誤あり(楝を練と為し、孫を子と為すがごとし)。しかれどもすでに明らかに雪芹の書は、その聞見するところを記すと言えり。而して世間これを信ずる者は特に少なし。王国維(『静庵文集』)はまた難詰して、以て「いわゆる『親しく見親しく聞く』とは、また傍観者の口より言うことを得べし、必ずしも躬ら劇中の人物と為るにあらず」と為す。胡適の考証を作すに逮びて、すなわちいよいよ彰明にして、曹雪芹は実に栄華に生まれ、苓落に終わり、半生の経歴は「石頭」に絶似し、西郊に書を著すも、就らずして没す。晩に出づる全書は、すなわち高鶚の続成したるものなりと知る。

雪芹の名は霑、字は芹渓、一字は芹圃、正白旗漢軍なり。祖の寅、字は子清、号は楝亭、康熙中に江寧織造と為る。清の世祖南巡の時、五次織造署を以て行宮と為す。後の四次は皆寅の在任中なり。しかれどもすこぶる風雅を嗜み、かつて古書十余種を刻し、時の称するところとなる。また能く文し、著すところに『楝亭詩鈔』五巻『詞鈔』一巻あり(『四庫書目』)、伝奇二種あり(『在園雑志』)。寅の子、すなわち雪芹の父もまた江寧織造と為る。故に雪芹は南京に生まる。時は蓋し康熙の末なり。雍正六年、任を卸し、雪芹もまた北京に帰る。時に約十歳なり。しかるに何の因によるか知らず、これより後、曹氏は巨変に遭いしごとく、家は頓に落ち、雪芹は中年に至りて、すなわち貧にして西郊に居し、粥を啜り、しかもなお傲兀にして、時にまた酒を縦にして詩を賦す。『石頭記』を作るは蓋しまたこの際なり。乾隆二十七年、子殤じ、雪芹傷感して疾を成し、除夕に至りて卒す。年四十余(一七一九?——一七六三)。その『石頭記』はなお就らず、今伝わるところはただ八十回のみなり(詳しくは『胡適文選』を見よ)。

後の四十回を高鶚の作と言う者は、俞樾(『小浮梅閑話』)の云う、「『船山詩草』に『高蘭墅鶚同年に贈る』一首あり、『艶情人自ら紅楼を説く』と云う。注に云う、『紅楼夢は八十回以後、すべて蘭墅の補うところなり。』然らばこの書は一手より出でたるにあらず。按ずるに郷会試に五言八韻の詩を増すは、乾隆朝に始まる。而して書中に科場の事を叙するにすでに詩あれば、その高君の補いしところなるを証すべし。」と。しかれども鶚の作りし序には、ただ「友人程子小泉、余を過り、その購うところの全書を以て示し、かつ曰く、『これ僕の数年銖積寸累の辛心なり。まさに剞劂に付して、同好に公にせんとす。子は閑にしてかつ惫れたり、盍ぞこれを分担せざるや。』余以てこの書は……なお名教に背かず……遂にその役を襄く。」と言うのみ。蓋し己より出づるを明言するを欲せざるも、而して僚友にはすこぶるこれを知る者あり。鶚はすなわち字を蘭墅と曰い、鑲黄旗漢軍にして、乾隆戊申の挙人、乙卯の進士、旋いで翰林に入り、侍読に官す。またかつて嘉慶辛酉の順天郷試の同考官と為る。その『紅楼夢』を補うは、まさに乾隆辛亥の時に当たり、いまだ進士と成らず、「閑にしてかつ惫れたり」なれば、雪芹の蕭条の感に偶々あるいは相通ず。しかれども心志いまだ灰ならざれば、いわゆる「暮年の人、貧病交々攻め、漸く下世の光景を露出す」(戚本第一回)という者とはまた絶えて異なる。ここを以て続書もまた悲涼なりといえども、賈氏は終に「蘭桂斉しく芳し」くして、家業復興し、殊に茫茫たる白地、真に干浄と成るがごときものには類せざるなり。

続『紅楼夢』は八——

第6節

第八巻

宅に吉凶なき摂生論 上を難ず

それ善く寿強を求むる者は、必ず先ず夭疾の自ら来たるところを知り、然る後にその至るを防ぐべきなり。禍はここに起こりて、防ぐはかしこに為す。すなわち禍は自ら瘳ゆるなし。世に安宅・葬埋・陰陽・度数・刑徳の忌あり、これ何より生ずるか。性命を見ず、禍福を知らざるなり。見ざる故に妄りに求め、知らざる故に幸を干す。ここを以て善く生を執る者は、性命の宜しきところを見、禍福の来たるところを知る。故にこれを実に求め、これを信に防ぐ。それ多く飲みて走れば、すなわち澹支と為り、しばしば行きて風に当たれば、すなわち痒毒と為り、久しく湿に居れば、すなわち要疾偏枯し、内を好みて怠らざれば、すなわち昏喪して女疾す。かくのごときの類は、災の来たるゆえんにして、寿の去るゆえんなり。而して墓を掘り室を築き、日を費やし身を苦しめて以てこれを求む。疾は形に生じて、治は土木に加う。これ疾の瘳ゆる道なし。詩に云う、「恺悌の君子、福を求めて回らず」とは、謗議を避けて義然たるにあらざるなり。蓋し回は福を求むるところにあらざるを知ればなり。故に寿強なり。気を専らにして柔を致し、私を少なくして欲を寡くし、直ちに情性の宜しきところを行いて、養生の正度に合す。これを懐抱の内に求めて、これを得たり。かつて蚕を知らざる者あり、口を出だし手を動かすに、みな忌祟と為す。蚕を得ること滋ますます甚だしからず、忌祟のためにますます多し。なおみずから犯すと以為えるなり。蚕を知る者あり、これに教えて、蚕はもっぱら桑と火と寒暑燥湿にあるを知らしむれば、ここにおいて百忌おのずから息み、利すること十倍なり。何となれば、先ず然る所以を知らざれば、故に忌祟の情繁く、後に然る所以を知る者は、故にこれを求むるの術正し。故に忌祟は常に不知より生ず。性命を知ることなお蚕を知るがごとくならしめば、忌祟は立つところなし。多く食して消さざれば、黄丸を含みて筮祝し谴祟を祓い、あるいは胡に従いて福を求むる者は、およそ人の笑うところなり。何となれば、智もてその禍なきを達するを以てなり。忌祟のことごとく不知より生ずること、知る者よりこれを言えば、みな胡に乞うがごとし。設けて三公の宅と為し、愚民をしてこれに居らしめば、必ずしも三公と為らず。知るべきなり。それ寿夭の求むべからざること、貴賤よりも甚だし。然らば百年の宮を択びて殤子の寿を望み、魁罡を孤逆して彭祖の夭を速めんとすること、必ず幾からず。あるいは曰く、愚民は必ずしも久しく公侯の宅に居るを得ず、と。然らば果たして宅なきなり。これ性命は自然にして求むべからず。賊の方に至らんとするに、疾く逃げずして、独り須臾を安んぜば、遂に虜するところとなる。然らば禍を避け福に趣くは、理に縁るに過ぐるはなし。賊を避くるの理は、速く逃ぐるにしくはなし。すなわちこれ善なり。養生の道は、先ず知るにしくはなし。すなわち尽くすを為す。それ賊を避くるは速やかなるべきこと章々として然り。故に中人も睹るを難しとせず。禍を避くるの理は冥々として然り。故に明者も見ること易からず。その理に動くにおいては、妄りに求むべからず、一なり。孔子疾あり、医——

第7節

第五篇の大旨はすべて同じく、すなわちこの篇の典拠となったものである。明の湯顕祖の『邯鄲記』は、またこの篇に基づいている。既済の文筆は簡練で、かつ規誡の意が多く、故事は荒唐ではあるが、当時なお推重されて韓愈の『毛穎伝』に比せられた。たまに諧謔を病む者もあったが、それは作者がかつて史官であったため、史法をもってこれを律し、小説の本意を失ったのである。既済にはまた『任氏伝』(『広記』四百五十二に見える)一篇があり、妖狐の幻化を語り、ついに志を守って人に殉じ、「今の婦人にも及ばぬ者がある」と述べた、やはり世を諷する作である。

「呉興の才人」(李賀の語)沈亜之は字を下賢といい、元和十年に進士に及第し、太和の初めに徳州行営使の柏耆の判官となったが、耆が罪を得て貶せられ、亜之もまた南康尉に左遷され、郢州の掾に終わった(およそ八世紀末から九世紀中頃)。集は十二巻、今も存する。亜之は文名があり、自ら「窈窕の思いを創り得る」と称した。今の集中に伝奇文が三篇あり(『沈下賢集』巻二・巻四、また『広記』二百八十二および二百九十八に見える)、いずれも華艶なる筆をもって恍惚たる情を叙し、仙鬼の復死を好んで語るところは、同時の文人と殊に趣を異にしている。『湘中怨』は鄭生がたまたま孤女に出会い、相依ること数年、ある日別れ去って、自ら「蛟宮の妹」と称し、謫限はすでに満ちたと言い、十余年後にまた遠くこれを画舫の中に見かけ、悲しげに歌うのを聞いたが、「風涛崩怒」して、ついにその所在を見失った。『異夢録』は邢鳳が夢に美人に見え、「弓弯」の舞を示されたこと、および王炎が夢に呉王に久しく仕え、にわかに笳鼓を聞けば西施の葬礼で、教えに従って挽歌を作ると、王がこれを嘉賞したことを記す。『秦夢記』は自ら長安を経て橐泉の邸舎に宿り、夢に秦の官となって功あり、時に弄玉の婿の蕭史がまず死んでいたため、公主を娶り、その居所を翠微宮と自ら題したことを述べる。穆公の亜之への待遇もまた甚だ厚かったが、ある日公主が突然無病にして卒し、穆公はもう亜之に会おうとせず、帰国させた。

去るに臨み、公は酒宴を大いに設け、秦の音を奏し、秦の舞を舞わせた。舞う者は膊を打ち髀を撫でて嗚嗚と声を発するも、音に快からぬものがあり、声は甚だ怨みがましかった。……やがて再拝して辞し去り、公はまた翠微宮に至って公主の侍人と別れよと命じた。殿内に再び入った時、珠翠の欠片が青い階の下に散乱し、窓紗の檀点は依然としてあり、宮人は亜之に向かって泣いた。亜之は感じ入って長く咽び、やがて宮門に詩を題して曰く、「君王多感にして東帰を放ち、此より秦宮また期すべからず、春景自ら秦の主を喪いしを傷み、落花雨の如く泪は胭脂なり」と。ついに別れ去り、……邸舎に覚めた。翌日、亜之は友人の崔九万にこの経緯を詳しく語った。九万は博陵の人で古事に通じており、余に謂って曰く、「『皇覧』に云う、『秦の穆公は雍の橐泉の祈年宮の下に葬る』と。その神霊の憑依したるにあらずや」と。亜之はさらに秦代の地誌を求め得たが、九万の言うとおりであった。ああ、弄玉はすでに仙人となったのに、どうしてまた死ぬことがあろうか。

陳鴻の文章は辞意慷慨にして、弔古を長じ、往事を追懐して情に勝えざるが如くであった。鴻は少くして史を学び、貞元二十一年に太常第に登り、初め閑居して志を遂げ、『大統紀』三十巻を修して七年にしてようやく成った(『唐文粋』九十五)。長安にあった時、かつて白居易と友となり、『長恨歌』のために伝を作った(『広記』四百八十六に見える)。『新唐志』小説家類に陳鴻『開元升平源』一巻があり、注に「字は大亮、貞元の主客郎中」とあるのは、あるいはまたこの人であろう(およそ八世紀後半から九世紀中葉)。その作にはまた『東城老父伝』(『広記』四百八十五に見える)があり、賈昌が兵火の後、太平の盛事を追憶し、栄華の零落を両相対照する、その語は甚だ悲しい。『長恨歌伝』は元和の初めに作られ、やはり開元中の楊妃の入宮から蜀に死するまでの顛末を追述し、法は『賈昌伝』に類する。楊妃の故事は唐人のもともと好んで語るところであるが、条理秩然としてこの伝のごとき者は稀であり、また白居易の歌を得たがゆえに、とりわけ世に知られることとなった。清の洪昇が『長生殿伝奇』を撰したのは、すなわちこの伝と歌の意に基づいたものである。伝には今いくつかの版本があり、『広記』と『文苑英華』(七百九十四)所録のものは字句にすでに異同が多いが、明人が『文苑英華』の後に付載した『麗情集』および『京本大曲』から出たものは殊に異なる。けだし後人(『麗情集』の撰者張君房か)がさらに増損したのであろう。

天宝の末、兄の国忠が丞相の位を僭し、国柄を愚弄し、安禄山が兵を率いて闕に向かい、楊氏を討つことを口実とした。潼関は守れず、翠華は南に幸し、咸陽を出て、道すがら馬嵬亭に次いだ。六軍は徘徊し、戟を持して進まず、従官郎吏は上の馬前に伏して、晁錯を誅して天下に謝せんと請うた。国忠は氂纓盤水を奉じて道の周に死した。左右の意はなお快からず、上がこれを問えば、当時敢えて言う者は貴妃をもって天下の怨みを塞がんと請うた。上は免れ得ぬことを知りながら、なおその死を見るに忍びず、袂を翻して面を掩い、牽いて去らしめた。倉皇として展転し、ついに尺組の下に死を就いた。(『文苑英華』所載)

天宝の末、兄の国忠が丞相の位を僭し、ひそかに国柄を弄し、羯胡が燕に乱を起こし、二京は連なって陥り、翠華は南に幸した。駕は都の西門を出ること百余里、六師は徘徊して戟を擁して行かず、従官郎吏は上の馬前に伏して、錯を誅してこれに謝せんと請うた。国忠は氂纓盤水を奉じて道の周に死した。左右の意はなお快からず、当時敢えて言う者は貴妃をもって天下の怒りを塞がんと請うた。上は惨容にしてただ心にその死を見るに忍びず、袂を翻して面を掩い、牽いて去らしめた。上の前に拝し、眸を回せば血の下り、金釵翠羽を地に墜とした。上はみずからこれを拾った。ああ、蕙心紈質、天王の愛なるも、やむを得ず尺組の下に死す。叔向の母は云う「甚だ美なれば必ず甚だ悪し」と、李延年は歌って曰う「国を傾け城を傾く」と、これの謂いなり。(『麗情集』および『大曲』所載)

白行簡は字を知退といい、その先はけだし太原の人で、後に韓城に家し、また下邽に移り、居易の弟である。貞元の末に進士に及第し、累遷して司門員外郎・主客郎中に至り、宝暦二年(八二六)冬に病没、年はおよそ五十余。両『唐書』いずれも『居易伝』に附見されている。集二十巻があったが今は存せず、しかし『広記』(四百八十四)にその伝奇文一篇を収めて『李娃伝』と曰う。滎陽の巨族の子が長安の娼女李娃に溺れ、貧病に困頓し、挽郎に身を落とすまでに至ったが、また李娃に救われ、学に励まされて、ついに科挙に及第し、成都府の参軍となったことを語る。行簡はもともと文筆に長じ、李娃の事もまた人情に近くして聳聞であるから、纏綿として見るに堪える。元人はすでにその事を本として『曲江池』と為し、明の薛近兖はこれをもって『繡襦記』を作った。行簡にはまた『三夢記』一篇(原本『説郛』四に見える)があり、「かの者が夢に往くところありてこの者がこれに遇う者、あるいはこの者が為すところありてかの者がこれを夢見る者、あるいは二人が相い夢に通ずる者」の三事を挙げ、いずれも叙述は簡質であるが事は殊に瑰奇で、その第一事がもっとも勝れている。

天后の時、劉幽求は朝邑の丞であったが、かつて使いを奉じて夜帰る折、家に至るまであと十余里というところで、たまたま仏寺があり、路がその傍を過ぎていた。寺中に歌笑の歓洽する声を聞いた。寺垣は低く欠けて、中の様子がすべて見えた。劉は身を俯せてこれを窺い、十数人の男女が雑坐し、盤饌を羅列してこれを環繞して共に食すのを見た。その妻が座中にあって語笑するのが見えた。劉は初め愕然として、そのゆえを測りかねたが、しばらくして、妻がこの場所に来るはずがないと思い返しつつも、なお棄て去ることができなかった。さらに容姿言笑を熟視するに、まったく異なるところがなく、近づいて確かめようとしたが、寺門は閉ざされて入れなかった。劉は瓦を投げてこれを撃つと、その酒器に当たって破散し、人々は走り散って忽ち見えなくなった。劉は垣を越えてまっすぐに入り、従者とともに殿廡を見て回ったが、すべて人はなく、寺は元のまま閉ざされていた。劉はいよいよ怪しみ、馬を飛ばして帰った。家に着くと、妻はまさに寝ているところで、劉が着いたと聞いて寒暄を叙し終えると、妻は笑って曰く、「先ほど夢の中で十数人とある寺を遊んだのですが、みな知らない人ばかりでした。殿庭で会食していると、外から瓦礫を投げ込む者があり、杯盤は狼藉として、それで目が覚めたのです」と。劉もまたその見たことを詳しく述べた。けだしいわゆる「かの者が夢に往くところありてこの者がこれに遇う」ということであった。

第8節

第9節

第九篇 唐の伝奇文(下)】

しかるに伝奇の諸作者の中に、特に関係ある者が二人いる。その一は、作品は多くないが影響が甚だ大きく、名もまた甚だ高い者、元稹である。その二は、著作が多く影響もまた甚だ大きいが、名はそれほど顕著でない者、李公佐である。

元稹は字を微之といい、河南河内の人である。明経に挙げられて校書郎に補せられ、元和の初めに制策に応じて第一となり、左拾遺に除せられ、監察御史を歴任し、事に坐して江陵に貶せられ、また虢州長史より召し入れられ、漸く遷って中書舍人承旨学士に至り、工部侍郎同平章事に進んだが、まもなく罷相となり、同州刺史に出され、また越州に改められて浙東観察使を兼ねた。太和の初め、入って尚書左丞検校戸部尚書に至り、鄂州刺史兼武昌軍節度使となったが、五年七月に暴疾にかかり、一日にして鎮に卒した。時に年五十三(七七九——八三一)。両『唐書』にいずれも伝がある。稹は少くより白居易と唱和し、当時詩を論ずる者は元白と称し、「元和体」と号した。しかし伝わる小説は『鶯鶯伝』(『広記』四百八十八に見える)一篇のみである。

『鶯鶯伝』とは、すなわち崔張の故事を叙したもので、また『会真記』とも名づけられる。略述すれば、貞元中、張生なる者あり、性は温美にして容貌端正、礼にあらざれば動かず、年二十三にしていまだ女色に近づいたことがなかった。時に生は蒲に遊び、普救寺に寓した。たまたま崔氏の寡婦が長安に帰ろうとして蒲を過ぎ、やはりこの寺に寓した。その親戚を辿れば、張にとっては異派の従母にあたる。折しも渾瑊が薨じ、軍人が喪に乗じて蒲の人々を大いに騒擾した。崔氏は甚だ恐れたが、生は蒲の将の党と親しかったため、これを護ることができ、十余日の後、廉使の杜確が来て軍を治め、軍はすなわち戢まった。崔氏はこれにより張生に甚だ感謝し、宴に招いた。その娘の鶯鶯に会うと、生は惑い、崔の婢の紅娘に託して『春詞』二首をもって意を通じた。その夕、彩箋を得て、その篇に題して『明月三五夜』と曰う。辞に云く、「月を待つ西廂の下、風を迎えて戸は半ば開く、隔壁の花影動き、疑うらくは玉人の来たるかと」。張は喜びかつ驚いたが、やがて崔が至ると、端服厳容にしてその非礼を責め、ついに去り、張は放心すること久しかった。数夕の後、崔がまた至り、暁になって去ったが、終夕一言もなかった。

……張生は色を弁じて起き、自ら疑って曰く「あに夢か」と。明くるに及び、化粧が臂にあり、香が衣にあり、涙光が瑩々として茵席に瑩いているのを睹た。これより後また十余日、杳として復た知れず。張生は『会真詩』三十韻を賦したが、未だ畢らざるに紅娘がたまたま至り、これを授けて崔氏に贈らしめた。これより復た容れられ、朝に隠れて出で、暮に隠れて入り、いわゆる西廂において安んずることほとんど一月であった。張生がつねに鄭氏の情を問えば、曰く「我はいかんともし難し」と。よってこれを成就しようとした。まもなく張生が長安に赴こうとし、まずその情を諭すと、崔氏は婉然として難色なく、しかし愁怨の容は人を動かした。出発の夕、もはや会うことが叶わず、張生はついに西に下った。……

翌年、科挙に失敗し、張生はやむなく京に留まり、崔氏に書を贈った。崔はこれに返書した。しかし生はその書を知己に示したため、時の人の語り草となった。楊巨源はこのために『崔娘詩』を賦し、元稹もまた生の『会真詩』三十韻を続けた。張の友人でこれを聞いた者はみな驚き怪しんだが、張の志もまたすでに絶えていた。元稹は張と厚く、その話を問うと、張は曰く——

「およそ天の命ずるところの尤物は、その身を妖せざれば、必ず人を妖す。もし崔氏の子が富貴に遇合し、嬌寵を恃めば、雲となり雨とならざれば、蛟となり螭となるであろう。吾はその変化を知らず。昔、殷の辛、周の幽は万乗の国に拠り、その勢は甚だ厚かった。しかるに一人の女子がこれを敗り、その衆を潰し、その身を屠り、今に至るまで天下の笑い者となっている。予の徳は妖孽に勝つに足らず、ゆえに情を忍ぶのだ。」

一年余りを過ぎて、崔はすでに他に嫁ぎ、張もまた別に妻を娶った。たまたまその住むところを過ぎ、外兄として面会を請うたが、崔はついに出なかった。後日、張生が去ろうとした時、崔は詩一章を賦して訣別の辞を送った。「棄置して今何ぞ道わん、当時はまた自ら親しめり、なお旧き意をもって取り来たり、眼前の人を憐れめ」と。これより遂に復た消息を知らなかった。時の人は多く張を善く過ちを補う者と称したという。

元稹は張生に自らを託し、その親しく経験した境を述べている。文章はなお上乗とは言えないが、時に情致があり、もとより見るに堪える。ただ篇末に文をもって非を飾り、遂に悪趣に堕した。しかし李紳・楊巨源の輩がおのおの詩を賦してこれを助け、稹もまた早くから詩名があり、後に節鉞を秉ったため、世人はなお多くこれを好んで語った。宋の趙徳麟はすでにその事を取って『商調蝶恋花』十闋を作り(『侯鯖録』に見える)、金には董解元の『弦索西廂』があり、元には王実甫の『西廂記』、関漢卿の『続西廂記』があり、明には李日華の『南西廂記』、陸采の『南西廂記』等がある。その他「竟」「翻」「後」「続」と題するものはさらに繁多で、今に至るまでなおその事を称道する者がいる。唐人の伝奇は遺存するもの少なくないが、後世これほど煊赫たるは、ただこの篇と李朝威の『柳毅伝』のみである。

李公佐は字を颛蒙といい、隴西の人である。かつて進士に挙げられ、元和中に江淮の従事となり、後に罷めて長安に帰った(所作の『謝小娥伝』中に見える)。会昌の初め、またも楊府の録事となり、大中二年に累に坐して二任の官を削られた(『唐書・宣宗紀』に見える)。けだし代宗の時に生まれ、宣宗の初めになお在世していた(およそ七七〇——八五〇)。余事は未詳。『新唐書・宗室世系表』にある千牛備身公佐は、別人である。その著作は今四篇存し、『南柯太守伝』(『広記』四百七十五に見え、『淳于棼』と題する。今は『唐語林』に拠って改正する)が最も有名である。伝に言う、東平の淳于棼は家が広陵郡の東十里にあり、宅の南に大槐が一株あった。貞元七年九月、沈酔により疾を致し、二人の友が生を扶けて家に帰らせ、東廡の下に臥せしめた。生は枕に就くと昏然として夢のごとく、二人の紫衣の使者が王命をもって招くのを見た。門を出て車に乗り、古い槐の穴を指して入っていった。使者は車を駆って穴に入ると、忽ち山川が見え、ついに一大城に入った。城楼の上に金書で「大槐安国」と題されていた。生は至って駙馬を拝し、復た南柯太守に出された。郡を守ること三十年、「風化は広く及び、百姓は歌謡し、功徳碑を建て、生祠を立てた」。王は甚だこれを重んじ、次々と大位に遷した。生に五男二女があったが、後に兵を率いて檀蘿国と戦い、敗績した。公主もまた薨じた。生は郡を罷められたが、威福は日に盛んで、王は疑い憚り、遂に生の遊従を禁じ、私第に処した。やがて送り帰された。覚めてみれば、「家の童僕が庭で箒を揮っており、二客は榻で足を濯い、斜日はまだ西垣に隠れず、余樽はなお東牖に湛えていた。夢中の忽忽は、一生を過ごしたかのようであった」。その立意は『枕中記』と同じだが、描写はいっそう尽くされている。明の湯顕祖もまたこれに基づいて伝奇『南柯記』を作った。篇末に穴を掘って根源を究めたところ、蟻が群がっており、すべて前の夢に符合したと記す。実証をもって幻を証したもので、余韻悠然、物情を尽くしたとは言えないが、すでに『枕中記』の及ぶところではない。

……大きな穴があり、根の洞は明朗として一榻を容れるに足りた。上に積土壌をもって城郭殿台の状を為し、蟻が数斛も隠れ集まっていた。中に小さな台があり、その色は丹の如く、二匹の大蟻がそこにおり、素翼朱首、長さ三寸ばかり、左右に大蟻数十匹がこれを輔け、諸蟻は敢えて近づかなかった。これがその王であり、すなわち槐安国の都である。さらに一穴を極めると、まっすぐに南枝を上ること四丈ばかり、宛転として方形の中にやはり土城小楼があり、蟻の群れもまたそこに住んでいた。すなわち生が領した南柯郡である。……前事を追想し、感嘆の懐いを抱き、……二客にこれを壊させたくなく、にわかに掩塞して旧に復せしめた。……さらに檀蘿征伐のことを念じ、また二客にその跡を外に訪ねてもらうと、宅の東一里に古い涸れた澗があり、側に大きな檀の木が一株あって、藤蘿が擁織し、上に日を見ず、傍らに小さな穴があり、やはり蟻の群れが隠れ集まっていた。檀蘿の国とは、これではなかろうか。ああ、蟻の霊異すらなお窮め尽くせないのだ、まして山に潜み木に隠れた大いなるものの変化においておや。……

『謝小娥伝』(『広記』四百九十一に見える)は、小娥が姓は謝、豫章の人で、八歳にして母を喪い、後に歴陽の侠士段居貞に嫁いだことを語る。夫婦と父はいずれも商いを習い、江湖を往来する間に盗賊に殺され、小娥もまた足を折って水に堕ちたが、他の船に救い上げられた。初め、小娥はかつて夢に父が仇人は「車中猴東門草」と告げるのを見、また夢に夫が仇人は「禾中走一日夫」と告げるのを見た。広く智者を求めたが、みな解けなかった。公佐に至ってようやくこれを弁じて曰く、「車中猴とは、車の字の上下各一画を去れば申の字であり、草の下に門があり門の中に東がある、これは蘭の字である。また禾中走は田を穿って過ぎることで、やはり申の字である。一日夫とは、夫の上にさらに一画あり下に日がある、これは春の字だ。汝の父を殺したのは申蘭、汝の夫を殺したのは申春である」と。小娥はそこで男装して傭保となり、果たして潯陽で二賊に遭い、これを刺殺し、さらに官に告げてその一党を捕えた。謎解きによって賊を捕えるという筋は、甚だ理致に乏しいが、当時もまた盛んに伝えられた。

残る二篇のうち、その一つは原題が未詳で、『広記』では『廬江馮媼』と題する。事は甚だ簡素で、ゆえに文もまた華やかではない。もう一つは『古岳瀆経』(『広記』四百六十七に見える)という。李湯なる者が、永泰の時の楚州刺史で、漁人が亀山の水中に大鉄鎖を見たと聞き、人と牛でこれを引き出した。風涛はにわかに起こり、「一獣、状は猿の如く、白首長鬐、雪牙金爪」が岸に上がった。後に公佐は古の東呉を訪ね、石穴の間に『古岳瀆経』第八巻を得て、禹が水を治めんとして桐柏山に至り、ついに淮渦の水神、無支祁を獲えた故事を知った。宋元以来、この説が流伝して絶えず、民間に広まった。ただ後に次第に禹を僧伽あるいは泗洲大聖と誤り、明の呉承恩が『西遊記』を演ずるにあたって、その神変奮迅の状を孫悟空に移したため、禹が無支祁を伏した故事は遂に埋没するに至った。

伝奇の文は、このほかなお多い。著名なものとしては、李朝威の『柳毅伝』(『広記』四百十九に見える)がある。毅が科挙に落第して湘浜に帰ろうとする途中、龍女に出会い、手紙を洞庭君に届けた話である。また蒋防の『霍小玉伝』(『広記』四百八十七に見える)、許堯佐の『柳氏伝』(『広記』四百八十五に見える)等もまたみな造作がある。しかし杜光庭の『虬髯客伝』(『広記』一百九十三に見える)は、流伝がとりわけ広い。楊素の妓人にして紅拂を執る者が李靖を布衣の時に見出し、虬髯客と出会い、三侠と称されるに至った故事を記す。後世この故事を好み、画図まで作った。

以上に挙げたもののほか、なお作者不明の『李衛公別伝』『李林甫外伝』、郭湜の『高力士外伝』、姚汝能の『安禄山事迹』等がある。著述の本意は幽隠を顕揚するにあり、伝奇のためではないが、文の枝蔓なること、事の瑣屑なることにより、後人もまたしばしば小説と見なしたのである。

第10節

第11節

第十篇 唐の伝奇集および雑俎】

伝奇の文を造り、一集に会萃した者は、唐代に多くあったが、煊赫たること牛僧孺の『玄怪録』に及ぶものはない。僧孺は字を思黯といい、もと隴西狄道の人で、宛葉の間に居した。元和の初めに賢良方正の対策で第一となり、失政を条指して鯁諤して宰相すら避けなかったため、考官はみな調去され、僧孺もまた伊闕尉に調せられた。穆宗が即位すると漸く御史中丞に至り、後に戸部侍郎同中書門下平章事となったが、武宗の時に累貶されて循州長史となった。宣宗が立つと召し還されて太子少師となり、大中二年に卒し、太尉を贈られた。年六十九(七八〇——八四八)。文簡と諡され、両『唐書』に伝がある。僧孺の性は堅僻にしてかなり志怪を嗜み、撰した『玄怪録』十巻は今はすでに散逸しているが、『太平広記』に引くところなお三十一篇あり、大概を考見することができる。その文は他の伝奇と大きな違いはないが、時々に造作から出たことを示して信を求めない。けだし李公佐・李朝威の輩は筆妙を顕揚するのに急であったため、なお事状の虚なることを言おうとしなかったが、僧孺に至っては構想の幻をもってみずから見えんと欲し、ゆえにことさらにその詭設の跡を示したのである。『元無有』はその一例である——

宝応中、元無有なる者あり、常に仲春の末に独り維揚の郊野を行く。日暮に遇い、風雨大いに至った。時に兵荒の後で、人家は多く逃げ去っていたため、路傍の空き家に入った。しばらくして雨が止み、斜月がまさに出たところ、無有は北窓に座していると、忽ち西廊に人の歩く音が聞こえた。まもなく月光の中に四人が見えた。衣冠はみな異様で、互いに談笑吟詠すること甚だ暢達であった。……吟詠は朗々として、無有はこれを聴くに具さに悉った。その一の詩は「斉の紈魯の縞、霜雪の如し」、その二は「煌煌たる灯燭は我よく持つ」、その三は「清冷の泉、朝の汲みを候つ」、その四は「爨薪泉を貯えて相い煎熬す」と。四人は暁近くなってようやく元の場所に戻った。無有がこれを探ると、堂中にあるのは古い杵と灯台と水桶と壊れた鉄鍋のみであった。すなわち四人はこれらの物が化けたものだったのである。(『広記』三百六十九)

牛僧孺は朝廷にあって李徳裕と互いに門戸を立てて党争をなした。その小説好きのゆえに、李の門客韋瓘がそこで僧孺の名を騙って『周秦行紀』を撰し、これを誣した。德裕はこのために論を作り、僧孺の姓は図讖に応じ、『玄怪録』にまた多く隠語を造っており、民を惑わさんとする意があるとし、「須らく太牢をもって少長ともに法に置くべし」と述べた。古来、小説を仮りて人を排陷するは、これをもって最も怪となす。しかし当時その説は行われなかった。ただ僧孺にはすでに才名があり、また高位を歴たため、その著作は世に盛んに伝えられた。模倣者もまた少なくなく、李復言に『続玄怪録』十巻があり、薛漁思に『河東記』三巻があった。

ほかに蘇鶚に『杜陽雑編』、高彦休に『唐闕史』がある。康駢の『劇談録』に至っては漸く世務が多くなり、孫棨の『北里志』は専ら狭邪を叙し、范摅の『雲渓友議』は特に歌詠を重んじている。裴鉶に至って書を著し、直に『伝奇』と称したが、神仙の怪譎なる事を盛んに述べ、多く崇飾して観る者を惑わそうとした。聶隠娘が妙手空空児に勝つ事はまさにこの書から出たもので、明人がこれを取って偽作の段成式『剣侠伝』に入れたため、流伝がことに広まった。

段成式は字を柯古といい、斉州臨淄の人で、宰相文昌の子である。成式の家には奇篇秘籍が多く、博学強記にして仏書に殊に深かった。その小説『酉陽雑俎』二十巻は全三十篇で今も具さに存し、さらに『続集』十巻がある。秘書を録し、異事を叙し、仙仏人鬼から動植に至るまで載せないものはなく、類をもって相い聚め、類書の如きものがある。各篇にはそれぞれ題目があるが、隠僻で、道術を記すものは『壺史』と曰い、怪異を志すものは『諾皋記』と曰い、抉択記叙もまた多く古艶穎異にして、その目に副うものである。

夏の啓は東明公、文王は西明公、邵公は南明公、季札は北明公となり、四時は四方の鬼を主る。至忠至孝の人は、命終わればみな地下の主者となる。(巻二『玉格』)

初めて天に生まれた者に五相あり、一に光が身を覆うも衣なし、二に物を見て希有の心を生ず、三に顔色弱く、四に疑い、五に怖る。(巻三『貝編』)

天翁は姓を張、名を堅、字を刺渇といい、漁陽の人である。少くして不羈にして拘忌するところなし。常に羅を張って一羽の白雀を得、愛してこれを養った。夢に劉天翁が怒りを責め、しばしばこれを殺さんと欲したが、白雀はそのたびに堅に報せた。天翁は遂に自ら下って来て観たが、堅はひそかに天翁の車に騎り、白龍に乗って天に登った。天翁は追ったが及ばなかった。堅は玄宮に至ると百官を易え、北門を杜塞し、白雀を上卿侯に封じた。劉翁は治を失い、五岳を徘徊して災いを作した。堅はこれを患い、劉翁を太山太守として生死の籍を主らしめた。(巻十四『諾皋記』)

また文身の事を集めたものは『黥』と曰い、鷹の養い方を述べたものは『肉攫部』と曰う。渉るところ既に広ければ、珍異も多く、世に愛玩されて伝奇と並び駆けて先を争った。

成式は詩をよくし、幽渋繁縟であった。時に温庭筠・李商隠もまた同様で互いに誇り、「三十六体」と号した。温庭筠にも小説三巻『乾巛子』があるが、簡率にして見るべきものなし。李には『義山雑纂』一巻があり、俚俗の常談鄙事を集めたもので、瑣綴に止まるとはいえ、世務の幽隠を穿つものがある。

殺風景

松の下で喝道する 花を看て涙を下す 苔の上に蓆を敷く 垂柳を斫る 花の下に褌を晒す

遊春に重載する 石筍に馬を繋ぐ 月の下に松明を持つ 歩行の将軍 山に背いて楼を起てる

果樹園に菜を植える 花棚の下に鶏鴨を養う

悪模様

客となって人と口喧嘩する …… 客として台や卓をひっくり返す …… 舅姑の前で艶曲を歌う

噛み残した魚肉を皿に戻す 衆人の前で横になる 箸を椀の上に横たえる

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