Lu Xun Complete Works/zh-ja/Wei ziyoushu
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False Liberty (伪自由书 / 偽自由書)
Lu Xun (鲁迅, Lǔ Xùn, 1881–1936)
| 中文(原文) | 日本語 |
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【花边文学】
【序言】
【未来的光荣 张承禄 】
【女人未必多说谎 赵令仪 】
【批评家的批评家 倪朔尔 】
【漫骂 倪朔尔 】
【“京派”与“海派” 栾廷石 】
【北人与南人 栾廷石 】
【“如此广州”读后感 越客 】
【过年 张承禄 】
【运命 倪朔尔 】
【大小骗 邓当世 】
【“小童挡驾” 宓子章 】
【古人并不纯厚 翁隼 】
【法会和歌剧 孟弧 】
【洋服的没落 韦士繇 】
【朋友 黄凯音 】
【清明时节 孟弧 】
【小品文的生机 崇巽 】
【刀“式”辩 黄棘 】
【化名新法 白道 】
【读几本书 邓当世 】
【一思而行 曼雪 】
【推己及人 梦文 】
【偶感 公汗 】
【论秦理斋夫人事 公汗 】
【“……”“□□□□”论补 曼雪 】
【谁在没落? 常庚 】
【倒提 公汗 】
【玩具 宓子章 】
【零食 莫朕 】
【“此生或彼生” 白道 】
【正是时候 张承禄 】
【论重译 史贲 】
【再论重译 史贲 】
【“澈底”的底子 公汗 】
【读书忌 焉于 】
近五六年来的外国电影,是先给我们看了一通洋侠客的勇敢,于是而野蛮人的陋劣,又于是而洋小姐的曲线美。但是,眼界是要大起来的,终于几条腿不够了,于是一大丛;又不够了,于是赤条条。这就是“裸体运动大写真”,虽然是正正堂堂的“人体美与健康美的表现”,然而又是“小童挡驾”的,他们不配看这些“美”。 为什么呢?宣传上有这样的文字—— “一个绝顶聪明的孩子说:她们怎不回过身子儿来呢?” “一位十足严正的爸爸说:怪不得戏院对孩子们要挡驾了!” 这当然只是文学家虚拟的妙文,因为这影片是一开始就标榜着“小童挡驾”的,他们无从看见。但假使真给他们去看了,他们就会这样的质问吗?我想,也许会的。然而这质问的意思,恐怕和张生唱的“咍,怎不回过脸儿来”完全两样,其实倒在电影中人的态度的不自然,使他觉得奇怪。中国的儿童也许比较的早熟,也许性感比较的敏,但总不至于比成年的他的“爸爸”,心地更不干净的。倘其如此,二十年后的中国社会,那可真真可怕了。但事实上大概决不至于此,所以那答话还不如改一下: “因为要使我过不了瘾,可恶极了!” 不过肯这样说的“爸爸”恐怕也未必有。他总要“以己之心,度人之心”,度了之后,便将这心硬塞在别人的腔子里,装作不是自己的,而说别人的心没有他的干净。裸体女人的都“不回过身子儿来”,其实是专为对付这一类人物的。她们难道是白痴,连“爸爸”的眼色,比他孩子的更不规矩都不知道吗? 但是,中国社会还是“爸爸”类的社会,所以做起戏来,是“妈妈”类献身,“儿子”类受谤。即使到了紧要关头,也还是什么“木兰从军”,“汪踦卫国”,要推出“女子与小人”去搪塞的。“吾国民其何以善其后欤?”
(四月五日。) 【古人并不纯厚 翁隼 】
老辈往往说:古人比今人纯厚,心好,寿长。我先前也有些相信,现在这信仰可是动摇了。达赖啦嘛总该比平常人心好,虽然“不幸短命死矣”,但广州开的耆英会,却明明收集过一大批寿翁寿媪,活了一百零六岁的老太太还能穿针,有照片为证。 古今的心的好坏,较为难以比较,只好求教于诗文。古之诗人,是有名的“温柔敦厚”的,而有的竟说:“时日曷丧,予及汝偕亡!”你看够多么恶毒?更奇怪的是孔子“校阅”之后,竟没有删,还说什么“诗三百,一言以蔽之,曰:思无邪”哩,好象圣人也并不以为可恶。 还有现存的最通行的《文选》,听说如果青年作家要丰富语汇,或描写建筑,是总得看它的,但我们倘一调查里面的作家,却至少有一半不得好死,当然,就因为心不好。经昭明太子一挑选,固然好象变成语汇祖师了,但在那时,恐怕还有个人的主张,偏激的文字。否则,这人是不传的,试翻唐以前的史上的文苑传,大抵是禀承意旨,草檄作颂的人,然而那些作者的文章,流传至今者偏偏少得很。 由此看来,翻印整部的古书,也就不无危险了。近来偶尔看见一部石印的《平斋文集》,作者,宋人也,不可谓之不古,但其诗就不可为训。如咏《狐鼠》云:“狐鼠擅一窟,虎蛇行九逵,不论天有眼,但管地无皮……。”又咏《荆公》云:“养就祸胎身始去,依然钟阜向人青。”那指斥当路的口气,就为今人所看不惯。“八大家”中的欧阳修,是不能算作偏激的文学家的罢,然而那《读李翱文》中却有云:“呜呼,在位而不肯自忧,又禁它人使皆不得忧,可叹也夫!”也就悻悻得很。 但是,经后人一番选择,却就纯厚起来了。后人能使古人纯厚,则比古人更为纯厚也可见。清朝曾有钦定的《唐宋文醇》和《唐宋诗醇》,便是由皇帝将古人做得纯厚的好标本,不久也许会有人翻印,以“挽狂澜于既倒”的。
(四月十五日。) 【法会和歌剧 孟弧 】
《时轮金刚法会募捐缘起》中有这样的句子:“古人一遇灾祲,上者罪己,下者修身……今则人心浸以衰矣,非仗佛力之加被,末由消除此浩劫。”恐怕现在也还有人记得的罢。这真说得令人觉得自己和别人都半文不值,治水除蝗,完全无益,倘要“或消自业,或淡他灾”,只好请班禅大师来求佛菩萨保佑了。 坚信的人们一定是有的,要不然,怎么能募集一笔巨款。 然而究竟好象是“人心浸以衰矣”了,中央社十七日杭州电云:“时轮金刚法会将于本月二十八日在杭州启建,并决定邀梅兰芳、徐来、胡蝶,在会期内表演歌剧五天。”梵呗圆音,竟将为轻歌曼舞所“加被”,岂不出于意表也哉! 盖闻昔者我佛说法,曾有天女散花,现在杭州启会,我佛大概未必亲临,则恭请梅郎权扮天女,自然尚无不可。但与摩登女郎们又有什么关系呢?莫非电影明星与标准美人唱起歌来,也可以“消除此浩劫”的么? 大约,人心快要“浸衰”之前,拜佛的人,就已经喜欢兼看玩艺的了,款项有限,法会不大的时候,和尚们便自己来飞钹,唱歌,给善男子,善女人们满足,但也很使道学先生们摇头。班禅大师只“印可”开会而不唱《毛毛雨》,原是很合佛旨的,可不料同时也唱起歌剧来了。 原人和现代人的心,也许很有些不同,倘相去不过几百年,那恐怕即使有些差异,也微乎其微的。赛会做戏文,香市看娇娇,正是“古已有之”的把戏。既积无量之福,又极视听之娱,现在未来,都有好处,这是向来兴行佛事的号召的力量。否则,黄胖和尚念经,参加者就未必踊跃,浩劫一定没有消除的希望了。 但这种安排,虽然出于婆心,却仍是“人心浸以衰矣”的征候。这能够令人怀疑:我们自己是不配“消除此浩劫”的了,但此后该靠班禅大师呢,还是梅兰芳博士,或是密斯徐来,密斯胡蝶呢?
(四月二十日。) 【洋服的没落 韦士繇 】
几十年来,我们常常恨着自己没有合意的衣服穿。清朝末年,带些革命色采的英雄不但恨辫子,也恨马褂和袍子,因为这是满洲服。一位老先生到日本去游历,看见那边的服装,高兴的了不得,做了一篇文章登在杂志上,叫作《不图今日重见汉官仪》。他是赞成恢复古装的。 然而革命之后,采用的却是洋装,这是因为大家要维新,要便捷,要腰骨笔挺。少年英俊之徒,不但自己必洋装,还厌恶别人穿袍子。那时听说竟有人去责问樊山老人,问他为什么要穿满洲的衣裳。樊山回问道:“你穿的是那里的服饰呢?”少年答道:“我穿的是外国服。”樊山道:“我穿的也是外国服。” 这故事颇为传诵一时,给袍褂党扬眉吐气。不过其中是带一点反对革命的意味的,和近日的因为卫生,因为经济的大两样。后来,洋服终于和华人渐渐的反目了,不但袁世凯朝,就定袍子马褂为常礼服,五四运动之后,北京大学要整饬校风,规定制服了,请学生们公议,那议决的也是:袍子和马褂! 这回的不取洋服的原因却正如林语堂先生所说,因其不合于卫生。造化赋给我们的腰和脖子,本是可以弯曲的,弯腰曲背,在中国是一种常态,逆来尚须顺受,顺来自然更当顺受了。所以我们是最能研究人体,顺其自然而用之的人民。脖子最细,发明了砍头;膝关节能弯,发明了下跪;臀部多肉,又不致命,就发明了打屁股。违反自然的洋服,于是便渐渐的自然而然的没落了。 这洋服的遗迹,现在已只残留在摩登男女的身上,恰如辫子小脚,不过偶然还见于顽固男女的身上一般。不料竟又来了一道催命符,是镪水悄悄从背后洒过来了。 这怎么办呢? 恢复古制罢,自黄帝以至宋明的衣裳,一时实难以明白;学戏台上的装束罢,蟒袍玉带,粉底皂靴,坐了摩托车吃番菜,实在也不免有些滑稽。所以改来改去,大约总还是袍子马褂牢稳。虽然也是外国服,但恐怕是不会脱下的了——这实在有些稀奇。
(四月二十一日。) 【朋友 黄凯音 】
我在小学的时候,看同学们变小戏法,“耳中听字”呀,“纸人出血”呀,很以为有趣。庙会时就有传授这些戏法的人,几枚铜元一件,学得来时,倒从此索然无味了。进中学是在城里,于是兴致勃勃的看大戏法,但后来有人告诉了我戏法的秘密,我就不再高兴走近圈子的旁边。去年到上海来,才又得到消遣无聊的处所,那便是看电影。 但不久就在书上看到一点电影片子的制造法,知道了看去好象千丈悬崖者,其实离地不过几尺,奇禽怪兽,无非是纸做的。这使我从此不很觉得电影的神奇,倒往往只留心它的破绽,自己也无聊起来, 第三回失掉了消遣无聊的处所。有时候,还自悔去看那一本书,甚至于恨到那作者不该写出制造法来了。 暴露者揭发种种隐秘,自以为有益于人们,然而无聊的人,为消遣无聊计,是甘于受欺,并且安于自欺的,否则就更无聊赖。因为这,所以使戏法长存于天地之间,也所以使暴露幽暗不但为欺人者所深恶,亦且为被欺者所深恶。 暴露者只在有为的人们中有益,在无聊的人们中便要灭亡。自救之道,只在虽知一切隐秘,却不动声色,帮同欺人,欺那自甘受欺的无聊的人们,任它无聊的戏法一套一套的,终于反反复复的变下去。周围是总有这些人会看的。 变戏法的时时拱手道:“……出家靠朋友!”有几分就是对着明白戏法的底细者而发的,为的是要他不来戳穿西洋镜。 “朋友,以义合者也”,但我们向来常常不作如此解。
(四月二十二日。) 【清明时节 孟弧 】
清明时节,是扫墓的时节,有的要进关内来祭祖,有的是到陕西去上坟,或则激论沸天,或则欢声动地,真好象上坟可以亡国,也可以救国似的。 坟有这么大关系,那么,掘坟当然是要不得的了。 元朝的国师八合思巴罢,他就深相信掘坟的利害。他掘开宋陵,要把人骨和猪狗骨同埋在一起,以使宋室倒楣。后来幸而给一位义士盗走了,没有达到目的,然而宋朝还是亡。曹操设了“摸金校尉”之类的职员,专门盗墓,他的儿子却做了皇帝,自己竟被谥为“武帝”,好不威风。这样看来,死人的安危,和生人的祸福,又仿佛没有关系似的。 相传曹操怕死后被人掘坟,造了七十二疑冢,令人无从下手。于是后之诗人曰:“遍掘七十二疑冢,必有一冢葬君尸。”于是后之论者又曰:阿瞒老奸巨猾,安知其尸实不在此七十二冢之内乎。真是没有法子想。 阿瞒虽是老奸巨猾,我想,疑冢之流倒未必安排的,不过古来的冢墓,却大抵被发掘者居多,冢中人的主名,的确者也很少,洛阳邙山,清末掘墓者极多,虽在名公巨卿的墓中,所得也大抵是一块志石和凌乱的陶器,大约并非原没有贵重的殉葬品,乃是早经有人掘过,拿走了,什么时候呢,无从知道。总之是葬后以至清末的偷掘那一天之间罢。 至于墓中人究竟是什么人,非掘后往往不知道。即使有相传的主名的,也大抵靠不住。中国人一向喜欢造些和大人物相关的名胜,石门有“子路止宿处”,泰山上有“孔子小天下处”;一个小山洞,是埋着大禹,几堆大土堆,便葬着文、武和周公。 如果扫墓的确可以救国,那么,扫就要扫得真确,要扫文、武、周公的陵,不要扫着别人的土包子,还得查考自己是否周朝的子孙。于是乎要有考古的工作,就是掘开坟来,看看有无葬着文王、武王、周公旦的证据,如果有遗骨,还可照《洗冤录》的方法来滴血。但是,这又和扫墓救国说相反,很伤孝子顺孙的心了。不得已,就只好闭了眼睛,硬着头皮,乱拜一阵。 “非其鬼而祭之,谄也!”单是扫墓救国术没有灵验,还不过是一个小笑话而已。
(四月二十六日。) 【小品文的生机 崇巽 】
去年是“幽默”大走鸿运的时候,《论语》以外,也是开口幽默,闭口幽默,这人是幽默家,那人也是幽默家。不料今年就大塌其台,这不对,那又不对,一切罪恶,全归幽默,甚至于比之文场的丑脚。骂幽默竟好象是洗澡,只要来一下,自己就会干净似的了。 倘若真的是“天地大戏场”,那么,文场上当然也一定有丑脚——然而也一定有黑头。丑脚唱着丑脚戏,是很平常的,黑头改唱了丑脚戏,那就怪得很,但大戏场上却有时真会有这等事。这就使直心眼人跟着歪心眼人嘲骂,热情人愤怒,脆情人心酸。为的是唱得不内行,不招人笑吗?并不是的,他比真的丑脚还可笑。 那愤怒和心酸,为的是黑头改唱了丑脚之后,事情还没有完。串戏总得有几个脚色:生,旦,末,丑,净,还有黑头。要不然,这戏也唱不久。为了一种原因,黑头只得改唱丑脚的时候,照成例,是一定丑脚倒来改唱黑头的。不但唱工,单是黑头涎脸扮丑脚,丑脚挺胸学黑头,戏场上只见白鼻子的和黑脸孔的丑脚多起来,也就滑天下之大稽。然而,滑稽而已,并非幽默。或人曰:“中国无幽默。”这正是一个注脚。 更可叹的是被谥为“幽默大师”的林先生,竟也在《自由谈》上引了古人之言,曰:“夫饮酒猖狂,或沉寂无闻,亦不过洁身自好耳。今世癞鳖,欲使洁身自好者负亡国之罪,若然则‘今日乌合,明日鸟散,今日倒戈,明日凭轼,今日为君子,明日为小人,今日为小人,明日复为君子’之辈可无罪。”虽引据仍不离乎小品,但去“幽默”或“闲适”之道远矣。这又是一个注脚。 但林先生以为新近各报上之攻击《人间世》,是系统的化名的把戏,却是错误的,证据是不同的论旨,不同的作风。其中固然有虽曾附骥,终未登龙的“名人”,或扮作黑头,而实是真正的丑脚的打诨,但也有热心人的谠论。世态是这么的纠纷,可见虽是小品,也正有待于分析和攻战的了,这或者倒是《人间世》的一线生机罢。
(四月二十六日。) 【刀“式”辩 黄棘 】
本月六日的《动向》上,登有一篇阿芷先生指明杨昌溪先生的大作《鸭绿江畔》,是和法捷耶夫的《毁灭》相像的文章,其中还举着例证。这恐怕不能说是“英雄所见略同”罢。因为生吞活剥的模样,实在太明显了。 但是,生吞活剥也要有本领,杨先生似乎还差一点。例如《毁灭》的译本,开头是——
“在阶石上锵锵地响着有了损伤的日本指挥刀,莱奋生走到后院去了,……
而《鸭绿江畔》的开头是——
“当金蕴声走进庭园的时候,他那损伤了的日本式的指挥刀在阶石上噼啪地响着。……”
人名不同了,那是当然的;响声不同了,也没有什么关系,最特别的是他在“日本”之下,加了一个“式”字。这或者也难怪,不是日本人,怎么会挂“日本指挥刀”呢?一定是照日本式样,自己打造的了。 但是,我们再来想一想:莱奋生所带的是袭击队,自然是袭击敌人,但也夺取武器。自己的军器是不完备的,一有所得,便用起来。所以他所挂的正是“日本的指挥刀”,并不是“日本式”。 文学家看小说,并且豫备抄袭的,可谓关系密切的了,而尚且如此粗心,岂不可叹也夫!
(五月七日。) |
【花辺文学】
【序言】
私がしばしば短評を書くようになったのは、確かに『申報』の「自由談」に投稿したことに始まる。一九三三年の作を集めて、『偽自由書』と『準風月談』の二冊ができた。その後、編集者の黎烈文先生はまことに圧迫に苦しみ、翌年ついに押し出されてしまった。私も本来これを機に筆を擱くこともできたのだが、意地になって、やはり書き方を変え、筆名を替え、人に頼んで清書してもらい投稿した。新任の者には細かく見分けることができず、依然としてしばしば掲載された。一方でまた範囲を広げ、『中華日報』の副刊「動向」や小品文半月刊『太白』の類にも、折に触れて同様の文章を幾つか書いた。一九三四年に書いたこれらのものを集めたのが、この一冊の『花辺文学』である。 この名称は、私と同じ陣営にいる青年の戦友が、姓名を変えて暗箭に掛けて射てよこしたものだ。その意図は甚だ巧妙である。一に、この類の短評が新聞に掲載される際にしばしば花模様の縁飾り(花辺)で囲まれて重要さを示すため、私の戦友が見て頭が痛くなる。二に、「花辺」は銀貨の別名でもあるから、私のこれらの文章は原稿料のためであり、実は取るに足らぬという意味である。我々の意見の相違するところは、私は我々が外国人に鶏鴨より優遇されることを期待する必要はないと考えたのに対し、彼は我々を鶏鴨より優遇すべきだと考え、私が西洋人を弁護しているから「買弁」だというのである。その文章は「倒提」の下に附してあるので、ここでは多くは言うまい。このほかには特に記すべき事もない。ただ一篇の「冗談は冗談と思え」のために、文公直先生から手紙が来て、筆誅はいっそう厳しくなり、私を「漢奸」だと言った。今はその手紙と私の返信を本文の下に附してある。残りのこそこそと、びくびくとした攻撃は、上に挙げた二人にはまだまだ遠く及ばず、ここには転載しない。 「花辺文学」はまことに駄目であった。一九三四年は一九三五年とは違う。今年は「皇帝閑話」事件のために、官の書報検閲処が忽然と行方不明になり、さらに七名の検閲官が罷免され、日刊紙の削除された箇所も空白のまま残してよいらしくなった(業界用語で「天窓を開ける」という)。しかしあの頃はまことに厳しく、こう言っても駄目、ああ言っても通らず、しかも削除した箇所は空白を残すことも許されず、つなぎ合わせて、著者自身に口ごもって意味不明の責任を負わせなければならなかった。このような明誅暗殺の下で、かろうじて残喘を保ち読者の目に触れ得たものは、奴隷の文章でなくて何であろうか。 私はかつて数人の友人と雑談したことがある。一人の友人が言った。今の文章には骨気のあるものはなくなった。例えばある日刊紙の副刊に投稿すれば、副刊の編集者がまず骨を数本抜き、総編集がまた数本抜き、検閲官がまた数本抜く。残ったものに何があるか、と。私は言った。私は自分で先に骨を数本抜いておくのだ。さもなくば「残ったもの」すら残らぬ、と。ゆえに、あの頃発表された文字は、四度骨を抜かれた可能性がある──今日ある人々が懸命に文天祥や方孝孺を顕彰しているが、幸いにも彼らは宋・明の人であった。もし現代に生きていたならば、彼らの言行は誰も知ることができなかったであろう。 したがって、官に許された骨気ある文章のほかに、読者はただ骨気のない文章を見るしかない。私は清朝に生まれ、元来奴隷の出身で、生まれた時から中華民国の主人である二十五歳以下の青年とは同じではない。しかし彼らは世故を経ず、たまに「我を忘れ」れば、やはり大いに釘にぶつかる。私の投稿は発表を目的としたものであるから、もちろん骨気があるようには見せない。ゆえに「花辺」で飾られたものは、おそらく確かに青年作家の作品より多く、しかも奇妙なことに、削除された箇所はかえって少なかった。一年のうちでわずか三篇のみで、今回補完し、なお黒点で印とする。『論秦理斎夫人事』の末尾は申報館の総編集が削ったものと思われ、他の二篇は検閲官が削ったもの。ここに彼らの異なる心情が現れている。 今年一年の間に、私が投稿していた「自由談」と「動向」はともに停刊し、『太白』も出なくなった。私はかつてこう思ったことがある。およそ私が原稿を寄せる刊行物は、最初の一、二号に寄せるだけなら差し支えないが、もし途切れなく続けると、結局長くは生きられない。そこで今年からは、この類の短文はあまり書かなくなった。同人に対しては背後からの悶棍を避けるため、自分に対しては道を開ける馬鹿になりたくないため、刊行物に対してはできるだけ長命であることを望むためである。ゆえに人から投稿を求められても、殊更に引き延ばし、それは「架子を振る」のではなく、いくらかの好意──しかし時には悪意でもある──の「世故」である。これは原稿を求める方々にお許しを請わねばならない。 ようやく今年の下半期になって、新聞記者の「正当なる輿論の保護」の請願と知識階級の言論の自由の要求を見た。もうすぐ年が明けるが、結果がどうなるか分からぬ。しかし、たとえこれ以降文章がすべて民衆の喉舌となったとしても、その代価は大きすぎると言わざるを得ない──それは華北五省の自治である。これはまさに以前の「正当なる輿論の保護」を敢えて懇請せず、言論の自由を要求しなかった代価の大きさと同じである──すなわち東三省の喪失。ただし今回、それと引き換えに得たものは光明である。しかしもし万が一にも不幸にして、後にまた私が『花辺文学』を書いていたのと同じ時代に戻ったならば、皆でその代価が何であるか当ててみるがいい…… 一九三五年十二月二十九日夜、魯迅記す。
【未来の光栄 張承禄 】
今やほとんど毎年のように外国の文学者が中国にやって来るが、中国に来るたびに、いつも小さな騒ぎを引き起こす。先にバーナード・ショーがあり、後にデコブラがあった。ただファジェーエフだけは、皆が口にしたがらぬか、あるいは口にできなかったのだ。 デコブラは政治を語らず、元来は是非の輪の外に跳び出せると思われたのだが、不意にも食と色を褒め称えたために「外国の文盲」という悪名を勝ち取り、我が論客たちにここで議論紛々たらしめた。彼はおそらくそろそろ小説を書きに行くであろう。 鼻が平たく小さく、ヨーロッパ人のように高くそびえていないのは仕方がない。しかし懐に数角の銭があれば、同じように映画を観ることはできる。探偵映画には飽き、恋愛映画にはうんざりし、戦争映画には膩き、喜劇映画にはつまらなくなると、そこで『ターザン』があり、『獣林怪人』があり、『アフリカ探険』がある等々、野獣と野蛮人の登場を求めるのだ。しかし未開の地においてもなお、必ず蛮女の蛮なる曲線を少々差し挟まねばならぬ。もし我々もなお見たがるならば、いくら嘲笑されても、やはりいくらかの未練があることが分かるであろう。「色」は市井の商人にとって甚だ大切なものだ。 文学が西欧で壁にぶつかるのも映画と変わらない。いわゆる文学者なる者の中にも、奇異なるもの(グロテスク)、色情的なるもの(エロティック)を探し出して、その顧客を満足させねばならぬ者がいる。それゆえ探険式の旅行があるのであり、目的は決して地主のお辞儀や酒の招待にあるのではない。しかし愚問に遭えば笑い話で済ませる。彼も実はこれらのことは分からぬし、分かる必要もないのだ。デコブラはこれらの人々の中の一人に過ぎない。 しかし中国人は、この類の文学者の作品の中で、各種のいわゆる「土人」と共に登場することになる。新聞に掲載されたデコブラ先生の旅程表を見さえすれば分かる──中国、南洋、南米。英国やドイツの類ではあまりに平凡だ。我々は描写されることを自覚し、また描写される光栄がこれからますます増えていくことを自覚し、さらに将来このようなことがあるのを面白いと思う者が出てくることをも自覚せねばならぬ。
(一月八日。)
【女は必ずしも嘘が多いとは限らぬ 趙令儀 】
侍桁先生は「嘘について」の中で、嘘をつく原因の一つは弱さに起因するとし、その証左として「それゆえなぜ女は男より嘘が多いのか」と述べた。 あれは必ずしも嘘ではないが、しかし必ずしも事実でもない。我々は確かにしばしば男たちの口から、女は男より嘘が多いと聞かされるが、しかし実証もなければ統計もない。ショーペンハウアー先生は痛烈に女を罵ったが、彼の死後、その蔵書の中から梅毒の治療薬の処方箋が見つかった。もう一人、オーストリアの青年学者で、名前は忘れたが、大著を書いて女と嘘は分かちがたいと論じた。しかし彼は後に自殺した。恐らく彼自身にこそ精神の病があったのだろう。 私が思うに、「女は男より嘘が多い」と言うよりは、「女は『男より嘘が多い』と人に指摘される時の方が多い」と言った方がよかろう。もっとも、数字の統計は自ずとないのだが。 例えば楊貴妃について、安禄山の乱以後の文人はみな大嘘をついていた。玄宗は事の外に逍遥としていたのに、かえって多くの悪事はすべて彼女のせいだと言った。敢えて「夏殷の衰えるを聞かずや、みずから褒姒・妲己を誅す」と言う者が幾人いたか。妲己や褒姒もまた同じことではないか。女が自分と男のために罪を被ってきた歴史は、実に長い。 今年は「婦人国貨年」で、国貨振興も婦人から始まる。まもなく罵られるであろう。なぜなら国貨も必ずしもこのために好転するとは限らぬが、一たび提唱し、一たび叱責すれば、男たちの責任は果たされるからだ。 ある男士がある女士のために不平を詠んだ詩を覚えている。「君王城上に降旗を竪つ、妾は深宮にありてなんぞ知らん。二十万人斉しく甲を解き、さらに一人の男児たる無し!」痛快なるかな、痛快なるかな!
(一月八日。)
【批評家の批評家 倪朔爾 】
情勢の転変もまことに速く、昨年以前は批評家も非批評家もともに文学を批評していた。もちろん不満の方が多かったが、よいと言う者もいた。昨年以来、変わって文学者も非文学者もひっくり返り、転じて批評家を批評するようになった。 今度はよいと言う者はあまりなく、最も徹底しているのは、近来真の批評家はいないと認めぬことだ。たとえ認めても、大いに彼らの愚鈍を笑う。なぜか。彼らがしばしば一つの決まった枠を作品の上に嵌め、合えばよし、合わねば悪しとするからだ。 しかし、我々は文芸批評史の上で、決まった枠を持たぬ批評家を見たことがあるだろうか。誰もが持っている。あるいは美の枠、あるいは真実の枠、あるいは前進の枠である。決まった枠のない批評家こそ、奇人である。雑誌は決まった枠がないと称することができるが、実はそれこそが枠であり、目を隠す手品師のハンカチなのだ。例えば一人の編集者が唯美主義者であるとすれば、彼は自ら定見なしと言いながら、書評だけでたっぷり手品を弄することができる。もしそれがいわゆる「芸術のための芸術」の作品で、自分の私見に合致するものであれば、この主義を賛成する批評または感想文を一篇選んで掲載し、天まで持ち上げる。さもなければ、似非急進的な、いかにも革命的に見える批評家の文章を使って、地面にまで押し込める。読者はこれで目が眩む。しかし個人としては、もし少しでも記憶力があれば、このように両端に立つことはできず、決まった枠を持たねばならぬ。我々は彼に枠があることを責めるべきではない。ただその枠が正しいかどうかを批評すればよいのだ。 しかし批評家の批評家は、張献忠が秀才を選ぶ故事を引き出すであろう。まず二本の柱の間に縄を一本横に張り、受験者を歩かせる。背が高すぎれば殺し、低すぎても殺す。かくして蜀中の英才を殺し尽くした、と。このように喩えれば、定見のある批評家はすなわち張献忠に等しく、まこと読者をして心からの憎悪を抱かしめ得る。しかし文を評する枠が、すなわち人を量る縄であるか。文の合不合が、すなわち人の長短を量ることであるか。この例を引き出すのは誣陷であって、いかなる批評でもない。
(一月十七日。)
【漫罵 倪朔爾 】
批評家に対するもう一つの不満の批評がある。いわゆる批評家は「漫罵」を好むから、彼の文章は批評ではない、というものだ。 この「漫罵」を「嫚罵」と書く者もあり、「謩罵」と書く者もあるが、同じ意味かどうか私には分からない。しかしこれはひとまず措くとしよう。今問わんとするのは、いかなるものが「漫罵」であるかだ。 仮に一人の人を指して「これは娼婦だ」と言うとする。もし彼女が良家の女であれば、それは漫罵である。もし彼女がまことに笑いを売る稼業に就いているならば、これは漫罵ではなく、真実を述べたのだ。詩人には官職を買う金がなく、金持ちはただ勘定ばかりしている。事実がそうであるから、これは本当のことであり、たとえこれを漫罵と称しても、詩人にはやはり官職は買えぬ。これは幻想が現実にぶつかった小さな釘なのだ。 金があるからといって文才があるとは限らぬ。「子女が行列をなす」からといって必ずしも児童の性質を明らかにするとは限らぬこと以上に明白である。「子女が行列をなす」は、ただ夫婦が生むのが上手で、育てもできることを証明するだけで、児童について妄りに論ずる権利はない。論じようとすれば、それは恥知らずに過ぎない。これは漫罵のように聞こえるが、実はそうではない。もしそうだと言うなら、世界中の児童心理学者はみな最も子供を多く産む親だと認めねばならぬ。 子供がわずかな食べ物のために喧嘩すると言うのは、子供に冤罪を着せるものであり、実は漫罵である。子供の行動は天性に出るものであり、また環境によっても変わる。ゆえに孔融は梨を譲った。喧嘩するのは家庭の影響であり、大人でさえ家産を争い遺産を奪い合うではないか。子供はその真似をしたのだ。 漫罵は確かに多くの善人に冤罪を着せるが、曖昧模糊として「漫罵」を撲滅すれば、かえって一切の悪種を庇護することになる。
(一月十七日。)
【「京派」と「海派」 欒廷石 】
北平のある先生がある新聞で「京派」を揚げて「海派」を抑える発言をして以来、かなりの議論を引き起こした。最初は上海のある先生がある雑誌で不平を述べ、さらに別のある先生の旧説を引いて、作者の籍貫は作品とは無関係であると主張し、北平のある先生に一撃を加えようとした。 実のところ、これでは北平のある先生を心服させるに足りぬ。いわゆる「京派」と「海派」とは、元来作者の本籍を指すのではなく、一群の人々が集まる地域を指すのだ。ゆえに「京派」は皆北平人とは限らず、「海派」も皆上海人とは限らない。梅蘭芳博士は芝居における真の京派であるが、その本貫は呉下である。しかし、籍貫の都鄙がその人の功罪を定めることはできぬにせよ、居所の文野はやはり作家の神情に影響する。孟子曰く「居は気を移し、養は体を移す」と。これをこそ言うのだ。北京は明清の帝都、上海は各国の租界。帝都には官多く、租界には商多し。ゆえに京にある文人は官に近く、海に没する者は商に近い。官に近い者は官に名を得させ、商に近い者は商に利を得させ、自らもそれによって糊口する。要するに、「京派」は官の幇閑に過ぎず、「海派」は商の幇忙に過ぎぬ。しかし官から食を得る者はその情状が隠れ、外に向かってなお傲然たり得るが、商から食を得る者はその情状が露わで、どこにも隠しようがない。そこで我を忘れる者はこれに拠りて清濁の別ありとする。官が商を卑しむのは元来中国の旧習であるから、「海派」は「京派」の目にいっそう落ちぶれたのだ。 しかし北京の学界は、以前にはその光栄もあった。すなわち五四運動の策動である。今なお歴史上の光輝はあるが、当時の戦士は、「功成り名遂げ身退く」者あり、「身を安んずる」者あり、「身を昇す」者はなおさらあり。立派な悪戦も、ほとんど人をして「官になりたくば殺人放火をして招安を受けよ」の感を抱かしめる。「昔人已に黄鶴に乗りて去り、此の地空しく黄鶴楼を余す」。一昨年大難が頭上に迫った時、北平の学者たちが自らの楯としようとしたのは古文化であり、唯一の大事は古物の南遷であった。これは自ら徹底的に、北平にあるものが何であるかを説明してしまったのではないか。 しかし北平には畢竟まだ古物があり、また古書があり、また古都の人民がいる。北平の学者文人たちは、おおむね講師か教授の本業を持ち、道理からすれば、研究あるいは創作の環境は実に「海派」より優越している。私は学術上あるいは文芸上の大著作を見ることができるよう望んでいる。
(一月三十日。)
【北人と南人 欒廷石 】
これは「京派」と「海派」の議論を見た後に、連想したものである── 北人が南人を卑しむのは、すでに一つの伝統である。これは風俗習慣の相違のためでもなく、思うにその大きな原因は、歴来の侵入者が多く北方から来て、まず中国の北部を征服し、さらに北人を率いて南征したことにある。ゆえに南人は北人の目には被征服者でもあるのだ。 二陸が晋に入った時、北方の人士は歓喜の中にあきらかに軽薄を帯びていた。証拠を挙げれば煩雑になるので、ひとまず論じないでおこう。分かりやすいのは、羊衒之の『洛陽伽藍記』の中で常に南人を誹り、同類と見なしていないことだ。元に至っては、人民を截然と四等に分けた。一にモンゴル人、二に色目人、三に漢人すなわち北人、第四等がようやく南人で、それは彼らが最後に降伏した一群だったからだ。最後に降伏したとは、こちらから言えば矢尽き援絶えてようやく戦いを止めた南方の強さであり、あちらから言えば順逆をわきまえず久しく王師に抗した賊である。生き残りは当然降伏したのだが、しかし奴隷としての資格はこのため最も浅く、浅いがゆえに班次も最も低く、誰もが憚りなく卑しめたのだ。清朝に至ってこの帳簿がまた整理し直され、今なお余波が流れている。もしこの後の歴史がもう繰り返されぬならば、それはまことに南人のみならざる天の福というべきだ。 もちろん、南人には欠点がある。権貴が南遷すれば、腐敗頹廃の気風を持ち込み、北方の方がかえって清浄である。性情もまた異なり、欠点もあれば特長もある。ちょうど北人が両方を兼ね備えるのと同じだ。私の見るところ、北人の長所は重厚であり、南人の長所は機敏である。しかし重厚の弊は愚鈍に、機敏の弊は狡猾になる。ゆえにある先生がかつてこう欠点を指摘した。北方の人は「終日飽食して心を用うるところなし」、南方の人は「終日群居して言、義に及ばず」と。有閑階級について言えば、おおむね確かにそうであろうと私は思う。 欠点は改めることができ、長所は互いに師とすることができる。人相書に一条ある。北人にして南相なる者、南人にして北相なる者は貴し、と。これは妄語ではないと思う。北人にして南相なる者は重厚にしてかつ機敏であり、南人にして北相なる者は言うまでもなく機敏にしてかつ重厚なり。昔の人のいわゆる「貴」とは、当時の成功に過ぎず、現在にあっては、有益な事業を成し遂げることだ。これは中国人のささやかな自新の道である。 ただし文章を書くのは南人が多く、北方もその影響を受けた。北京の新聞に、口先ばかりで、もごもごと、自分の影に見惚れるような文字は六七年前より増えたではないか。これがもし北方固有の「おしゃべり」と結婚すれば、生まれてくるのは必ず一種の不祥な新たな劣種であろう。
(一月三十日。)
【「かくの如き広州」読後感 越客 】
先日、「自由談」に「かくの如き広州」という一篇があり、かの地の新聞を引いて、商店が玄壇と李逵の大きな像を作り、目に電球を嵌めて向かいの虎の看板を鎮圧しようとしたことを記しており、まことに声色ともに備わっていた。もちろんその目的は広州人の迷信を嘲笑することにあった。 広東人の迷信は確かにかなりのもので、上海の五方雑処の路地を歩けば、パチパチと爆竹を鳴らし、大門の外の地面に線香と蝋燭を灯しているのは、十中九まで広東人であり、これは新党を嘆息させるに足る。しかし広東人の迷信は迷信ながらも真剣で、気魄がある。あの玄壇と李逵の大像にしても、百元以上かけねばできぬであろう。漢は明珠を求め、呉は大象を徴す。中原の人は歴来広東に宝物を掻き集めに行ったが、今に至るもまだ掻き尽くされていないらしく、偽の虎に対処するためにもこれだけの力を出せるのだ。さもなくば、それは命懸けということで、ここにまたあの迷信の真剣さが見えるのだ。 実は中国人に迷信のない者がいるだろうか。ただその迷信が不甲斐なく迷っているから、かえって人が注意しないだけだ。例えば向かいに虎の看板が出たら、大抵の店主は落ち着かないものだ。しかし江浙であれば、おそらくこのように死力を尽くして闘おうとはしまい。一文銭で赤い紙を一枚買い、「姜太公此処に在り、百の禁忌なし」とか「泰山石敢当」と書いて、こっそり貼り付け、それでもって安身立命とするであろう。迷信は依然として迷信だが、いかにも小家の相で気概もなく、奄々一息であり、「自由談」の材料にさえしてくれないのだ。 迷信するにしても、曖昧よりは真剣な方がよい。もし鬼にもなお金が要ると信じるならば、いっそ北宋の人のように銅銭を地中に埋めた方がましだ。今のようにわずかな紙銭を焼くだけでは、他人を騙し自分を騙すのみならず、端的に鬼をも騙しているのだ。中国には空名と偽物だけが残った事柄が多いが、それは真剣でないためなのだ。 広州人の迷信は手本とするに足りぬが、その真剣さは手本とするに足り、敬服に値する。
(二月四日。)
【年越し 張承禄 】
今年の上海の旧正月は、去年より賑やかであった。 文字上の呼称と口頭の呼称にはしばしばいくらかの違いがある。「廃暦」と呼ぶ者は、これを軽んじるのであり、「古暦」と呼ぶ者は、これを愛するのである。しかしこの「暦」に対する待遇は同じである。帳簿の精算、神への祭祀、祖先の祭り、爆竹、麻雀、年始回り、「恭喜発財!」 年を越しながらも休刊しない新聞には、すでに感慨が載っている。しかし感慨に過ぎず、畢竟事実には勝てない。ある英雄的な作家も、人に年中奮発し、悲憤し、記念せよと叫んだ。しかし叫ぶだけのことで、やはり事実には勝てない。中国の哀しむべき記念日はあまりに多く、これは慣例として少なくとも沈黙すべきである。喜ぶべき記念日も少なくはないが、しかし「反動分子がこれに乗じて騒ぎを起こす」ことを恐れるので、皆の喜びも発揚できない。幾度も防遏され、幾度も淘汰され、あらゆる佳節が絞め殺されると、この辛うじて残喘を保つ「廃暦」あるいは「古暦」だけが自分のものだと感じ、いっそう愛おしくなる。そこでことさらに祝う──これは「封建の余意」の一言で軽々しく片付けられるものではない。 人に年中悲憤し労作せよと呼びかける英雄たちは、きっと自分自身は悲憤も労作も毫も知らぬ人物であろう。実際には、悲憤する者と労作する者は、時として休息と歓びを必要とするのだ。古代エジプトの奴隷たちも、時に冷然と微笑することがあった。これは一切を蔑視する笑いである。この笑いの意味が分からぬ者は、ただ主人と、奴隷の生活に安んじ、労作が少なく、しかも悲憤を失った奴僕のみである。 私は旧暦の正月を祝わなくなって二十三年になるが、今回は三夜続けて花火を上げ、隣の外国人にも「シーッ」と言わしめた。これは花火もろとも、私のこの一年でたった一つの喜びとなった。
(二月十五日。)
【運命 倪朔爾 】
映画「『姉妹花』の中で貧しい老婆が貧しい娘に言う。『貧乏人は結局貧乏人だ。お前は我慢しなさい!』」宗漢先生は慨然としてこれを指摘し、「貧乏人の哲学」と名付けた(『大晩報』参照)。 もちろんこれは安貧を教えるものであり、その根拠は「運命」である。古今の聖賢でこの説を主張した者はすでに少なくないが、しかし安貧ならざる貧乏人も「結局は」甚だ少なくない。「智者千慮に必ず一失あり」──ここでいう「失」は、蓋棺の後でなければ一人の人間の運命は「結局」知り得ぬということにある。 運命を予言する者もいないわけではない。人相見、八字を排する者、至る所にいる。しかし彼らが顧客に対して、底の底まで貧乏だと断定することは甚だ少なく、たとえあっても、皆の学説は一致できず、甲は貧しかるべしと言い、乙は富むべしと言う。これでは貧乏人は自分の将来の確実な運命を信ずることができぬ。 運命を信じなければ「分を安んずる」ことができず、貧乏人が宝くじを買うのは一種の「分を超えた考え」である。しかしこれは国家にとって、今日では無益とは言えぬ。ただし「一利あれば必ず一弊あり」で、運命が知り得ぬものならば、貧乏人がまた皇帝になろうと思ったとて何の差し支えがあろう。これが中国に『推背図』を出現させたのだ。宋人によれば、五代の頃、多くの人がこの図を見て自分の息子に名をつけ、将来の吉兆に当たることを望んだが、宋の太宗(?)が百本の順序をかき乱して別本と一緒に流通させ、読者は順序が大抵異なるのを見てどれが正しいか分からなくなり、ようやく珍蔵しなくなった。しかし九一八の頃、上海ではまだ『推背図』の新印本が盛んに売られていた。 「安貧」は確かに天下太平の要道ではあるが、もし究極の運命を指定することができねば、人を心底から諦めさせることはできぬ。今日の優生学は科学的であると言えるもので、中国にもこれを提唱する者がいて、運命説の窮まるところを救おうとしているが、歴史はまたあいにく面目がない。漢の高祖の父は皇帝ではなかったし、李白の息子も詩人ではなかった。さらに立志伝があり、くどくどと西洋の誰それが冒険で成功し、誰それがまた素手で富を得たと人に説いている。 運命説が治国平天下に全く足りぬことは、明々白々たる履歴がある。もしなおこれを道具として使おうとするならば、中国の運命こそまことに「窮」極無聊となるであろう。
(二月二十三日。)
【大詐欺と小詐欺 鄧当世 】
「文壇」の醜事は、この二年来まことに少なからず暴露された。切り貼り、丸写し、転売、偽装。しかし究明し得ぬ事もまだあり、ただ我々が見慣れたために、もう気に留めないだけだ。 名人の題字は、字が必ずしもうまいとは限らぬが、ただこの本の著者あるいは出版者が名人を知っていることを示すだけで内容とは無関係であるから、詐欺とは言えぬ。疑わしいのは「校閲」である。校閲の役は、当然名人・学者・教授だ。しかしこれらの先生方自身には、この学問に関する著作がない。ゆえに本当に校閲したかどうかが一つの問題であり、たとえ本当に校閲したとしても、その校閲が本当に信頼できるかどうかがもう一つの問題である。しかし再び校閲を加えて批評した文章を我々はほとんど見ない。 さらに一種の「編集」がある。この編集者もおおむね名人であり、その名によって読者はその本の信頼性を感じる。しかしこれもまた甚だ疑わしい。もしその本に序跋があれば、その文章や思想から、本当にこの人が編集したかどうかを判断できるが、市場に並ぶ本には、開けばいきなり目次で、手がかりが全くないものがしばしばある。これをどうして信頼できよう。至って大部の各門類の刊行物のいわゆる「主編」に至っては、この名人は天空から地底まで通暁せざるものなく、「為す無くして為さざる無し」であり、かえって我々には推測の余地もない。 さらに一種の「特約寄稿」がある。刊行物の初号には広告にしばしば特約寄稿の名人を一大批並べ、時にはさらに凸版で著者自筆の署名を印刷し、その真実を示す。これは疑わしくない。しかし一年半載を過ぎると、次第にほころびが出てきて、多くのいわゆる特約寄稿者のものが一字も見えなくなる。約束していなかったのか、約束したが来なかったのか、我々には知る由もないが、それらのいわゆる自筆署名も、あるいは他所から切り抜いたものか、あるいは端的に偽造であることが分かる。もし投稿から取ったのであれば、なぜ署名は見えて原稿は見えぬのか。 これらの名人は自分の「名」を売っているのだが、果たして「空給」を受け取っているのであろうか。もし受け取っているならば、もちろん同意の上での自売であり、さもなくば「盗売」と言える。「世を欺き名を盗む」者もあり、名を盗売して世を欺く者もあり、世の中もまことに千差万別である。しかし損害を被るのは読者だけなのだ。
(三月七日。)
【「お子様お断り」 宓子章 】
この五六年来の外国映画は、まず我々に一通り洋風侠客の勇敢さを見せ、次いで野蛮人の陋劣を、さらに洋風令嬢の曲線美を見せた。しかし目の肥えは広がるもので、ついに何本かの脚では足りなくなり、一大群となる。またぞ足りず、丸裸となる。これが「裸体運動大写真」であり、正々堂々たる「人体美と健康美の表現」ではあるが、しかし「お子様お断り」で、子供はこれらの「美」を見る資格がないのだ。 なぜか。宣伝にこのような文句がある── 「一人のこの上なく聡明な子供が言った。『あの人たちはどうして体の向きを変えてくれないの?』」 「一人の十分に厳格な父親が言った。『どうりで劇場は子供を断るわけだ!』」 これはもちろん文学者の虚構の妙文に過ぎない。なぜならこの映画は最初から「お子様お断り」を掲げているのだから、子供は見ようがないのだ。しかしもし本当に見せたとして、彼らはこのような質問をするだろうか。おそらくそうかもしれない。しかしこの質問の意味は、恐らく張生が唱う「ああ、どうして顔を向けてくれないのだ」とは全く異なり、実は映画中の人物の態度の不自然さが不思議に思われただけであろう。中国の子供は比較的早熟かもしれず、性的感覚が比較的鋭いかもしれぬが、成人した「父親」よりも心が不浄であるとまではゆくまい。もしそうであるなら、二十年後の中国社会はまことに恐ろしいものだ。しかし事実上はおそらく決してそうはならぬゆえ、あの答えはこう改めた方がよい。 「わしが満足できぬようにするためだ。全くけしからん!」 ただしこう言う「父親」もおそらくいまい。彼はいつも「己の心をもって人の心を度る」のであり、度った後にこの心を無理に他人の胸中に押し込め、自分のものではないふりをして、他人の心は自分ほど清浄ではないと言う。裸体の女性が皆「体の向きを変えない」のは、実はまさにこの類の人物に対処するためなのだ。彼女たちはまさか白痴ではあるまい。「父親」の目つきが、その子供よりもさらに不真面目であることすら知らぬわけがあろうか。 しかし中国社会はやはり「父親」類の社会であるから、芝居を演じれば「母親」類が身を献じ、「息子」類が謗りを受ける。たとえ危急の関頭に至っても、やはり何かと「木蘭従軍」「汪踦衛国」で、「女子と小人」を押し出して防ぎとするのだ。「我が国民はいかにしてその後を善くするや。」 古今の心の善し悪しは、比較するのがなかなか難しく、詩文に教えを求めるしかない。古の詩人は名高き「温柔敦厚」であるが、中にはなんと「時日いずくんぞ喪びん、予汝とともに亡びん!」と言う者もいた。なんと悪辣なことか。さらに奇妙なのは、孔子が「校閲」した後も、これを削らず、なお「詩三百、一言もってこれを蔽う。曰く、思い邪なし」と言っていること。聖人もまた可悪とは思わなかったらしい。 さらに現存の最も通行する『文選』があるが、聞くところによれば、もし青年作家が語彙を豊かにし、あるいは建築を描写しようとすれば、必ずこれを見なければならぬという。しかし我々がもし中の作家を調査すれば、少なくとも半分は非業の死を遂げている。もちろん心が悪かったからだ。昭明太子の選択を経て、確かに語彙の祖師のようになったが、当時はおそらくまだ個人の主張も偏激な文字もあったのだ。さもなくばその人は伝えられなかったはずで、唐以前の史書の文苑伝を繰ってみれば、おおむね旨意を承けて檄を草し頌を作る人であるが、しかしそれら著者の文章で今日まで伝わるものはかえって甚だ少ない。 こう見てくると、古書をまるごと翻印するのも危険がないとは言えぬ。近頃たまたま石印の『平斎文集』を見かけたが、著者は宋人であり、古くないとは言えぬが、しかしその詩は規範とし難い。例えば「狐鼠」を詠じて曰く、「狐鼠一窟を擅にし、虎蛇九逵を行く。天に眼あるを論ぜず、ただ地に皮なきを管ぜよ……。」また「荊公」を詠じて曰く、「禍胎を養い成して身始めて去り、依然として鐘阜人に向かいて青し。」かの当路を指斥する口吻は、今人の見慣れぬところだ。「八大家」の欧陽修は、偏激な文学者とは言えまいが、しかしあの『李翱の文を読む』の中にはこうある。「ああ、位に在りて自ら憂うることを肯ぜず、また他人を禁じて皆憂うることを得ざらしむ、嘆ずべきかな!」これもまた甚だ憤懣としている。 しかし後人の一番の選択を経ると、たちまち純厚になるのだ。後人が古人を純厚にすることができるならば、後人が古人より更に純厚なのは明らかである。清朝にはかつて勅定の『唐宋文醇』と『唐宋詩醇』があった。これは皇帝が古人を純厚に仕立てた好い標本であり、まもなくこれを翻印して「狂瀾を既倒に挽かん」とする者が出るかもしれぬ。
(四月十五日。)
【法会と歌劇 孟弧 】
『時輪金剛法会募金趣意書』にこのような一節がある。「古人ひとたび災厄に遭えば、上は己を罪し、下は身を修む……今や人心漸く衰えり、仏力の加被に頼らずんば、この浩劫を消除する由なし。」恐らく今もまだ覚えている人がいるだろう。これを読むとまことに自分も他人も半文の値打ちもなく、治水も除蝗も全く無益で、「あるいは自業を消し、あるいは他の災いを免れん」と思えば、パンチェン大師にお出まし願って仏菩薩の加護を祈るしかないという気にさせられる。 堅く信じている人々は必ずいる。さもなくば、どうして巨額の寄付を募れようか。 しかし畢竟「人心漸く衰え」たらしく、中央社十七日杭州電に曰く、「時輪金剛法会は本月二十八日に杭州にて啓建せらるるが、併せて梅蘭芳、徐来、胡蝶を招き、会期中五日間歌劇を上演することに決せり。」梵唄の円音が、軽歌曼舞に「加被」せらるるとは、意表に出ずるにあらずや。 かつて我が仏が説法したまいし折、天女の散花ありと聞く。今、杭州にて会が啓かるるに、我が仏がおそらく親しく臨みたまうまじきとすれば、梅郎に権りに天女に扮することを恭請するのも、むろん不可ではあるまい。しかしモダンガールたちと何の関係があろうか。まさか映画スターや標準美人が歌を唱えば、「この浩劫を消除」できるというのか。 おおよそ、人心が「漸く衰え」んとする前に、仏を拝む人はすでに余興を兼ねて見たがるようになっていた。寄付に限りがあり法会が大きくない時には、坊主たち自らが飛鉢を演じ、歌を唱って善男善女を満足させたが、これはまた道学先生たちをも首を振らせた。パンチェン大師は開会を「印可」するのみにして『毛毛雨』を歌わぬのは、まことに仏旨に適っているが、不意にも同時に歌劇まで上演されるとは。 原始人と現代人の心は、おそらくかなり異なるものがあろうが、もし隔たりがわずか数百年であれば、たとえ若干の差異はあっても、微々たるものであろう。祭りで芝居を演じ、香市で美女を見るのは、まさに「古よりこれあり」の芸当である。無量の福を積み、かつ視聴の娯楽を極め、現在も未来もよいことがある──これが古来仏事を興行する呼び声の力なのだ。さもなくば、黄色く太った坊主がお経を唱えるだけでは、参加者は必ずしも踊躍せず、浩劫は消除の望みがないであろう。 しかしこの手配は、婆心より出たりとはいえ、やはり「人心漸く衰えり」の徴候である。我々に疑いを抱かせる。我々自身はこの浩劫を消除する資格がないとして、この後はパンチェン大師に頼るべきか、それとも梅蘭芳博士か、ミス徐来か、ミス胡蝶か。
【洋服の没落 韋士繇 】
数十年来、我々はいつも自分に合った服がないことを恨んできた。清朝末年、革命の色彩を帯びた英雄たちは辮髪を恨むのみならず、馬褂や袍子も恨んだ。それは満洲の服だったからだ。ある老先生が日本に遊歴し、あちらの服装を見て大いに喜び、雑誌に文章を載せて「図らずも今日再び漢官の儀を見る」と題した。彼は古装の復活に賛成したのだ。 しかし革命の後に採用されたのは洋装であった。皆が維新を志し、便捷を求め、腰骨をまっすぐにしたかったからだ。少年英俊の輩は自ら洋装であるのみならず、他人が袍子を着るのを嫌悪した。当時聞くところによれば、樊山老人のもとへ行って、なぜ満洲の衣裳を着るのかと詰問した者もいたそうだ。樊山は問い返して曰く、「君の着ているのはどこの服かね。」少年は答えて曰く、「私が着ているのは外国の服です。」樊山曰く、「わしが着ているのも外国の服だ。」 この話はかなり一時に伝誦され、袍褂党を眉を揚げさせた。ただしその中にはいくらか革命に反対する意味が含まれており、近日の衛生のため、経済のためとは大いに異なる。その後、洋服はついに華人と次第に仲たがいし、袁世凱の御代に袍子馬褂を常礼服と定めたのみならず、五四運動の後、北京大学が校風を整飭するため制服を規定しようとして学生に公議させたところ、その議決もまた袍子と馬褂であった。 今回洋服が採用されなかった理由は、まさに林語堂先生の言うように衛生に合わないからだ。造化が我々に賜うた腰と首は本来屈曲できるもので、腰を曲げ背を屈めるのは中国では常態である。逆のものすら甘んじて受けるのだから、順のものはなおさら甘んじて受けるべきだ。ゆえに我々は最も人体を研究し、その自然に順じてこれを用いる人民なのだ。首が最も細いので斬首を発明し、膝関節が曲がるので跪拝を発明し、臀部は肉が多くかつ致命的でないので尻叩きを発明した。自然に反する洋服は、かくして次第に自然と没落していったのだ。 この洋服の遺跡は、今やモダンな男女の身にのみ残留しているに過ぎず、あたかも辮髪や纏足が頑固な男女の身にたまに見られるのと同じだ。ところが思いもかけず、また一通の催命符がやって来た。硫酸がこっそり背後から撒かれたのだ。 これをどうすればよいのか。 古制に復そうにも、黄帝から宋明に至る衣裳は一時にはとても分からぬ。舞台の扮装に倣おうにも、蟒袍に玉帯、白底に黒靴で、自動車に乗って西洋料理を食べるのは、やはりいささか滑稽を免れまい。ゆえに変えに変えて、おおよそやはり袍子馬褂が安定であろう。外国の服ではあるが、恐らく脱ぐことはあるまい──これはまことにいささか不思議である。
(四月二十一日。)
【友人 黄凱音 】
私は小学校の頃、同級生たちの手品を見て──「耳で字を聞く」だの「紙人形が血を流す」だの──甚だ面白いと思った。廟の縁日にはこれらの手品を伝授する人がいて、銅貨数枚で一つ覚えられたが、覚えてしまうとたちまち興醒めした。中学に入ったのは城内で、意気揚々と大きな手品を見たが、後に誰かが手品の秘密を教えてくれ、それから輪の傍に近づく気がしなくなった。昨年上海に来て、ようやくまた退屈を紛らわす場所を得た。映画を見ることだ。 しかしまもなく本の中で映画フィルムの製造法を少し読み、見たところ千丈の断崖のようなものが実は地面から数尺に過ぎず、奇鳥怪獣もすべて紙製であると知った。これにより映画の神秘を感じなくなり、かえって往々その破綻ばかり気にするようになって、自分も退屈になった。三度目にして退屈を紛らわす場所を失ったのだ。時には、あの本を読んだことを後悔し、著者が製造法を書くべきでなかったと恨むことさえあった。 暴露する者は種々の秘密を暴き、人のためになると思っている。しかし退屈な人間は、退屈を紛らわすために、欺かれることに甘んじ、自ら欺くことに安んじている。さもなくばもっと退屈になるからだ。このために手品は天地の間に長く存続し、このために幽暗を暴露することは欺く者に深く悪まれるのみならず、欺かれる者にも深く悪まれるのだ。 暴露する者は有為の人々の中でのみ益があり、無聊の人々の中では滅びるしかない。自救の道はただ、一切の秘密を知りつつも顔色を変えず、欺くことに加担し、欺かれることに甘んずる無聊の人々を欺き、無聊な手品が次から次へと、結局は反復して続くままにしておくことだ。周囲には必ずこれを見る人がいるのだ。 手品師は絶えず拱手して言う、「……一歩家を出れば朋友が頼り!」と。これにはいくらか手品の種を知る者に向けて発せられた意味がある。西洋の種明かしをされぬようにするためだ。 「朋友とは義をもって合するものなり」──しかし我々は古来しばしばこのようには解さなかった。
(四月二十二日。)
【清明の頃 孟弧 】
清明の頃は墓参りの季節で、ある者は関内に入って祖先を祭ろうとし、ある者は陝西に墓参りに行く。激論は天を沸かせ、歓声は地を揺るがし、まるで墓参りで国が滅びも、国が救われもするかのようだ。 墓にこれほど大きな関係があるとすれば、墓を掘ることはもちろん許されまい。 元朝の国師パクパは、墓を掘ることの利害を深く信じていた。彼は宋陵を掘り開き、人骨を豚犬の骨と一緒に埋めて宋室を不運にしようとした。後に幸いにも一人の義士に盗まれ、目的は達せられなかったが、しかし宋朝はやはり滅んだ。曹操は「摸金校尉」の類の職員を設けて専ら盗墓に当たらせたが、彼の息子は皇帝になり、自分は「武帝」と諡された。いかに威風堂々たることか。こう見ると、死者の安危と生者の禍福とは、やはり関係がないようでもある。 伝えるところによれば、曹操は死後に墓を掘られることを恐れ、七十二の疑冢を造り、人を手出しできなくした。そこで後の詩人が曰く、「あまねく七十二の疑冢を掘れば、必ず一冢に君の屍を葬れるあらん。」そこで後の論者がまた曰く、「阿瞞は老獪至極、その屍が実にこの七十二冢の内にあらざることを安んぞ知らんや。」まことに手の施しようがない。 阿瞞はまさに老獪至極ではあるが、思うに疑冢の類は必ずしも手配しなかったであろう。ただ古来の冢墓は大抵発掘された者が多く、冢中の人の主名が確かなものも甚だ少ない。洛陽の邙山では清末に墓を掘る者が甚だ多く、名公巨卿の墓の中でさえ、得られるものは大抵一枚の墓誌石と散乱した陶器であった。元来貴重な殉葬品がなかったのではなく、すでに誰かが掘って持ち去ったのだ。いつのことかは知る由もない。とにかく葬った後から清末の盗掘のその日までの間であろう。 墓中の人が畢竟いかなる人であるかは、掘った後でなければ往々分からぬ。たとえ伝承の主名があっても、大抵当てにならぬ。中国人は古来、大人物に関係のある名勝を造るのが好きだ。石門には「子路止宿の処」あり、泰山の上には「孔子天下を小とする処」あり。一つの小さな洞穴には大禹が埋められ、幾つかの大きな土饅頭には文王・武王・周公が葬られているという。 もし墓参りが確かに国を救えるのであれば、参るなら正確に参らねばならず、文王・武王・周公の陵を参って、他人の土饅頭を参ってはならず、さらに自分が周朝の子孫であるかどうかも調べねばならぬ。そこで考古の作業が必要になる。すなわち墓を掘り開いて、文王・武王・周公旦が葬られている証拠があるかどうかを見、もし遺骨があれば『洗冤録』の方法で血を滴らすこともできる。しかしこれはまた墓参り救国説と矛盾し、孝子順孫の心を大いに傷つける。やむなく、ただ目を閉じ頭を強くしてでたらめに拝むしかない。 「其の鬼にあらずしてこれを祭るは、諂なり!」ただ墓参り救国術に霊験がないのは、まだ小さな笑い話に過ぎない。
(四月二十六日。)
【小品文の生機 崇巽 】
昨年は「ユーモア」が大いに運の開けた時で、『論語』のほかにも、開口一番ユーモア、口を閉じてもユーモア、この人もユーモリスト、あの人もユーモリストであった。ところが今年はたちまち大いに面目を失い、これも駄目、あれも駄目、一切の罪悪はすべてユーモアに帰せられ、ひいては文壇の道化役に比せられるに至った。ユーモアを罵ることは入浴のようなもので、一度やりさえすれば自分は清浄になれるかのようだ。 もし真に「天地は大戯場」であるならば、文壇にもちろん道化役は必ずいる──しかしまた必ず黒頭(悪役)もいる。道化役が道化芝居を演じるのはごく当たり前だが、黒頭が道化芝居に転じるとなると甚だ奇妙だ。しかし大戯場では時にまことにこういうことがある。これが正直な人を歪んだ心の人に従って嘲罵させ、情熱の人を憤らせ、感じやすい人の心を酸くするのだ。唱い方が素人で人を笑わせないからか。いや、彼は本物の道化よりもさらに可笑しいのだ。 あの怒りと心酸は、黒頭が道化に転じた後、事がまだ終わっていないからだ。芝居には何人かの役柄が必要で、生、旦、末、丑、浄、そして黒頭。さもなくばその芝居も長くは続かぬ。ある原因のために黒頭が道化に転じざるを得ぬ時は、慣例としてかならず道化がかわりに黒頭を演じるのだ。唱工のみならず、黒頭が厚かましく道化に扮し、道化が胸を張って黒頭を学ぶ。戯場には白鼻の道化と黒面の道化ばかりが増え、天下の大いなる滑稽となる。しかし滑稽であるのみで、ユーモアではない。ある人曰く、「中国にユーモアなし」と。これがまさにその注脚だ。 更に嘆かわしいのは、「ユーモアの大家」と諡された林先生が、なんと「自由談」で古人の言葉を引いたことだ。曰く、「夫れ飲酒猖狂なるも、あるいは沈寂として聞こえざるも、またただ身を潔くし自ら好しとするのみ。今の世の癩鼈、身を潔くし自ら好しとする者に亡国の罪を負わしめんと欲す。もししからば『今日烏合し明日鳥散し、今日戈を倒し明日軾に馮り、今日君子たり明日小人たり、今日小人たり明日また君子たる』の輩は罪なかるべし」と。引用はなお小品の域を出ぬとはいえ、「ユーモア」あるいは「閑適」の道からは遠い。これもまた一つの注脚だ。 しかし林先生が、近頃各紙の『人間世』への攻撃は系統だった変名の手品だと考えたのは誤りで、その証拠は異なる論旨と異なる作風だ。中には確かに、かつて驥尾に附しながらも遂に竜門に登れなかった「名人」や、黒頭に扮してはいるが実は真正の道化の茶々もあるが、しかしまた熱心な人の正論もある。世態はかくの如く紛糾しており、たとえ小品といえども、まさに分析と攻戦が必要であることが分かる。これこそがあるいは『人間世』の一縷の生機であろう。
(四月二十六日。)
【刀「式」弁 黄棘 】 しかし丸呑みにも技量がいるのであり、楊先生はいささか足りないようだ。例えば『壊滅』の訳本の冒頭は──
「石段の上でがちゃがちゃと傷のついた日本の指揮刀が鳴り、レーヴィンソンは裏庭へ行った。……」
そして『鴨緑江畔』の冒頭は──
「金蘊声が庭園に入った時、彼のあの傷のついた日本式の指揮刀が石段の上でパチパチと鳴っていた。……」
人名が違うのは当然のこと。音が違うのも大したことではない。最も特異なのは、彼が「日本」の下に「式」の一字を加えたことだ。これもあるいは無理もない。日本人でないのに、どうして「日本の指揮刀」を佩くのか。きっと日本の式に倣って自分で鍛造したのだろう。 しかし我々がもう一度考えてみよう。レーヴィンソンが率いていたのは襲撃隊であり、もちろん敵を襲撃するが、武器も鹵獲する。自軍の軍器は不完全であり、何か手に入ればすぐに使う。ゆえに彼が佩いていたのはまさに「日本の指揮刀」であり、「日本式」ではないのだ。 文学者が小説を読み、しかも剽窃の準備をしているとすれば、関係は密接であると言えよう。それでいてなおこれほど粗忽であるとは、嘆かわしいではないか。
(五月七日。)
【変名新法 白道 】
杜衡と蘇汶先生は今年、文壇の二つの秘密を暴いた。それはまた悪い風潮でもある。一つは批評家の枠であり、もう一つは文人の変名だ。 しかし彼はまだ言わずに保留している秘密がある── 枠の中にはさらに一種、書店の編集者が使うゴムの枠がある。大きくも小さくもなり、四角にも丸くもなる。この書店の出版物でさえあれば、こちらに一套、「よし」、あちらに一套、これも「よし」。 変名はただ別人になれるのみならず、一つの「社」に化けることもできる。この「社」はさらに文を選び、論を作り、某の作品のみが「よし」、某の創作も「よし」と言える。 例えば「中国文芸年鑑社」の編んだ『中国文芸年鑑』の冒頭にある「鳥瞰」。その「瞰」法によれば、蘇汶先生の議論は「よし」、杜衡先生の創作も「よし」である。 しかし実際にこの「社」はどこを探しても見つからない。 この「年鑑」の総発行所を調べると、現代書局。『現代』雑誌の最終頁の編集者を見ると、施蟄存、杜衡。 おお! 孫悟空は神通広大にして、鳥獣虫魚に化けるのみならず、廟宇にも化ける。目は窓に、口は廟門になるが、ただ尻尾だけは置き場がなく、旗竿に化けて廟の裏に立てた。しかし旗竿が一本だけ立っている廟があるだろうか。二郎神に見破られた破綻はここにあった。 「万やむを得ざるのほかは」、「私は望む」、文人もまた「社」に化けぬことを。もしただ自画自賛のためだけならば、それはまことに「すぐ近くにいささか卑劣なところがある」のだ。
(五月十日。)
【本を幾冊か読め 鄧当世 】
死んだ本を読むと本の虫になり、甚だしくは本棚になると、かねて反対する人がいた。時は絶えず進み、読書反対の思潮もいよいよ徹底し、ついにはあらゆる本を読むことに反対する人が現れた。その根拠はショーペンハウアーの古い言葉で、もし他人の著作を読むのであれば、自分の脳の中で著者に馬を走らせるだけだ、という。 死んだ本を読む人々に対しては、確かに一撃の当頭棒だが、探究するよりダンスの方がましだとか、あるいはただ空しく苛立ち、むやみに不平を鳴らす天才のためには、紹介に値する金言でもある。ただし知るべきは、この金言にしがみつく天才の脳こそ、まさにショーペンハウアーに一走りされて、滅茶苦茶に踏み荒らされているのだ。 今は批評家が不平を鳴らしている。よい作品がないからだ。創作家も不平を鳴らしている。正しい批評がないからだ。張三が李四の作品は象徴主義だと言えば、李四も自分を象徴主義だと思い、読者もちろんますます象徴主義だと思う。しかし象徴主義とはいかなるものか、元来はっきりさせたことがなく、李四の作品をもって証とするしかない。ゆえに中国のいわゆる象徴主義は、他国のいわゆるサンボリスムとは同じではない。前者は実は後者の訳語であるにもかかわらず、メーテルリンクは象徴派の作家だと聞くから、李四は中国のメーテルリンクになるのだ。このほか中国のアナトール・フランス、中国のバビット、中国のジルポタン、中国のゴーリキー……まだまだ多い。しかし本物のアナトール・フランスらの作品の訳本は、中国では甚だ少ない。まさか「国産品」が揃ったからではあるまい。 中国の文壇では、何人かの国産文人の寿命もまことに長すぎる。一方、洋物文人のそれは短すぎ、名前をようやく覚えた頃には、もう過去の人だと言われる。イプセンは全集を出す気配があったが、今に至るまで第三冊が見えない。チェーホフとモーパッサンの選集も、竜頭蛇尾の運を辿ったようだ。しかし我々が深く悪み痛む日本では、『ドン・キホーテ』と『千一夜』には全訳があり、シェイクスピア、ゲーテ……にはみな全集があり、トルストイには三種、ドストエフスキーには二種ある。 死んだ本を読むのは自らを害し、口を開けば人を害する。しかし本を読まないのもまた必ずしもよいとは言えぬ。少なくとも、例えばトルストイを批評しようとするなら、彼の作品は幾冊か見なければならぬ。もちろん今は国難の時期であり、どこにこれらの本を訳し読む暇があるかと言われよう。しかし私が提言するのはただ苛立って不平ばかりの大人物に向けてであり、まさに国難に赴かんとしあるいは「薪に臥し胆を嘗め」ている英雄に対してではない。なぜならある種の人物は、たとえ本を読まなくとも、ただ遊んでいるだけで、国難に赴くわけではないからだ。
(五月十四日。)
【一考してから行動せよ 曼雪 】
国政の解決や戦争の布置にこれを頼りとするのでない限り、友人の間で幾句かのユーモアを言い合い、互いに莞爾として笑うのは、大勢に関わらぬことだと私は思う。革命の専門家でも、時には手を後ろに組んで散歩するものだし、理学の先生にも必ず子女がいて、日夜永遠に道貌岸然というわけにはいかぬことを証明している。小品文もおそらく将来なお文壇に存在し得よう。ただし「閑適」を主とするだけでは、やや足りぬ嫌いがある。 人の世の事、坊主を恨めば袈裟まで恨む。ユーモアと小品の始まりの頃、人々に異論はなかった。しかしどっと一声、天下ユーモアと小品でないものはなくなり、ユーモアにそんなに多くあるはずもなく、するとユーモアは滑稽となり、滑稽は笑い話となり、笑い話は諷刺となり、諷刺は漫罵となる。軽薄な調子はユーモアなり、「天朗らかにして気清し」は小品なり。鄭板橋の『道情』を一遍読めばユーモアを十日語り、袁中郎の尺牘を半冊買えば小品一巻を作る。これをもって身を立てようとする者がいれば、これに反することで名を成そうとする者も必ず出る。そこでどっと一声、天下またユーモアと小品を罵らぬものはなくなる。実のところ、列に従って騒ぐ輩は、今年も昨年と同様、数において少なくない。 手に黒漆の提灯を持ち、互いに何が何やら分からぬ。つまり一つの名詞が中国に帰化すると、まもなく一団の混乱となるのだ。偉人はかつてはよい呼び名だったが、今や受ける者は罵られたに等しい。学者と教授は二三年前にはまだ清浄な名称であった。自ら持する者が文学者の称を聞いて逃げ出すのは、今年すでに第一歩を踏み出している。しかし、世界には本物の偉人、本物の学者と教授、本物の文学者はいないのか。そんなことはない。ただ中国だけが例外なのだ。 仮にある人が道端で唾を一つ吐き、自分でしゃがんで見ていれば、まもなくかならず人だかりができる。また仮に別のある人がいわれなく大声を一つ上げ、駆け出せば、同時にかならず皆が逃げ散る。まことに「何を聞きて来り、何を見て去る」か分からぬが、しかも心中不満を抱き、自分の訳の分からぬ対象を罵って「畜生!」と言う。しかしかの唾を吐いた者と大声を上げた者こそ、結局は大人物なのだ。もちろん沈着で着実な人々はいる。ただし偉人等々の名が尊ばれたり蔑まれたりするのは、大抵いつも唾の代替品としてに過ぎぬ。 社会がこれによっていくらか賑やかになるのは、感謝に値する。しかし烏合する前に一考し、雲散する前にも一考すれば、社会は必ずしも冷静にはなるまいが、それでももう少しましにはなるであろう。
(五月十四日。)
【己を推して人に及ぼす 夢文 】
何年前のことか忘れたが、ある詩人が私に教えてくれたことがある。愚かな大衆の世論は天才を罵り殺すことができると。例えばイギリスのキーツがそうだ、と。私は信じた。昨年、数人の名作家の文章を見た。批評家の漫罵は好い作品を罵り縮ませて、文壇を荒涼冷落にするという。もちろん私もこれを信じた。 私もまた作家になりたい人間であり、しかも自分は確かに作家だと思っている。しかしまだ罵られる資格を得ていない。なぜなら創作を書いたことがないからだ。縮んで引っ込んだのではなく、まだ鑽り出ていないのだ。この鑽り出られぬ原因は、きっと私の妻と二人の子供の騒がしさのせいだと思う。彼女たちも漫罵の批評家と同様、真の天才を滅ぼし、よい作品を脅し退ける職務を負っているのだ。 幸いなことに今年の正月、義母が娘に会いたがり、三人とも田舎に帰った。私はまことに耳目清浄、ああ快適、偉大な作品を生む時代が到来した。しかし不幸なことに、今はもう旧暦四月初め、まるまる三ヶ月静かにしたのに、やはり何一つ書けない。もし友人が私の成果を尋ねたら、何と答えよう。まだ彼女たちの騒がしさのせいにできようか。 そこで私の信念はいくらか動揺した。 私はもともとよい作品など書けぬのではないかと疑い、彼女たちの騒ぎとは関係がないのではないかと。さらにいわゆる名作家にもよい作品などなかったのではないか、批評家の漫罵とは無関係なのではないかとも疑った。 ただし、もし誰かが騒ぎ、誰かが漫罵すれば、作家に作品がないことの恥を覆い隠してくれる。元来あるはずだったが、今彼らに台無しにされたのだと言える。そうすれば落魄した若衆のように、たとえ作品がなくとも、見物客から一掬また一掬の同情の涙を勝ち取れるのだ。 もし世に真の天才があるとすれば、漫罵の批評はこれに損害を与え、その作品を罵り退けて作家たらしめぬ。しかしいわゆる漫罵の批評は、凡才には有益であり、その作家としての地位を保たせる。ただし彼の作品は脅し退けられたそうだが。 この三ヶ月余りの間に、私が得た唯一のインスピレーションは、ロラン夫人の調子を借りたものだ。「批評よ批評よ、世の中にいかほどの作家が、汝の罵りを頼りて存するか!」
(五月十四日。)
【偶感 公汗 】
東三省の喪失と上海での戦闘の頃、砲声は聞こえるが砲弾の心配はない街路の至る所で『推背図』が売られていたのを覚えている。これを見れば人々がとうに敗因を宿命に帰そうとしていたことが分かる。三年後、華北・華南がともに危急に瀕しているのに、上海には「碟仙(テーブルターニング)」が現れた。前者が気にかけていたのはまだ国運であったが、後者はただ試験問題、宝くじ、亡魂を尋ねるだけだ。着眼点の大小は既に全く異なるが、名目はさらに立派になった。なぜならこの「霊乩」は中国の「留独学生白同君の発明」で、「科学」に合致しているからだ。 「科学で国を救え」と叫ばれてすでに十年近く、誰もがこれは正しいと知っている。「ダンスで国を救え」「念仏で国を救え」の類ではない。青年が外国に行って科学を学ぶ者あり、博士が科学を学んで帰国する者あり。ところが中国には畢竟その文明があり、日本とは異なるのだ。科学は中国文化の不足を補うに足りぬどころか、かえって中国文化の高深を更に証明したのである。風水は地理学に合致し、門閥は優生学に合致し、錬丹は化学に合致し、凧揚げは衛生学に合致する。「霊乩」が「科学」に合致するのも、その一つに過ぎない。 五四の時代に陳大斉先生がかつて論文で扶乩の人を欺すことを暴露したが、十六年を隔てて、白同先生は皿で扶乩の合理性を証明した。まことにどこから話を始めてよいやら。 しかも科学は中国文化の高深を更に証明したのみならず、中国文化の宣揚をも助けた。麻雀卓の傍では電灯が蝋燭に替わり、法会の壇上ではマグネシウム光がラマ僧を照らし出し、無線放送が日々伝えるのは、しばしば『狸猫換太子』、『玉堂春』、『謝謝毛毛雨』ではないか。 老子曰く、「これがために斗斛を作りてこれを量れば、すなわち斗斛とともにこれを窃む。」ロラン夫人曰く、「自由よ自由よ、いかほどの罪悪、汝の名を借りて行わるるか!」新しい制度、新しい学術、新しい名詞が中国に伝わるたびに、黒い染瓶に落ちたがごとく、たちまち真っ黒一団となり、私利を済し焰を助ける道具と化す。科学もまたその一つに過ぎない。 この弊が去らざれば、中国に薬なし。
(五月二十日。)
【秦理斎夫人の事を論ず 公汗 】
この数年来、新聞にはしばしば経済的圧迫や礼教の制裁のために自殺した記事が見えるが、これらのために口を開き筆を執る者は甚だ少ない。ただ最近、秦理斎夫人とその子女一家四人の自殺だけはかなりの反響を呼び、後にはこの事件の新聞記事を懐に忍ばせた自殺者まで出て、その影響の大きさがいっそう分かった。思うにこれは人数が多かったためだ。単独の自殺では、もはや皆の青睐を招くに足りぬ。 あらゆる反響の中で、この自殺の主謀者──秦夫人に対しては、恕辞も加えられはしたが、結論はやはり誅伐に帰した。なぜなら──評論家が言うには──社会がいかに暗黒であろうと、人生の第一の責任は生存であり、自殺すれば職務怠慢である。第二の責任は苦を受けることであり、自殺すれば安逸を貪るのだ、と。進歩的な評論家は、人生は戦闘であり、自殺者は逃兵である、死んでもその罪を蔽うに足りぬと言う。これももっともではあるが、しかしいささか大雑把に過ぎる。 人の世には犯罪学者がいて、一派は環境によると言い、一派は個人によると言う。今盛んなのは後の説だ。なぜなら前の説を信ずれば、犯罪者を根絶するには環境を改造せねばならず、事が厄介で恐ろしくなるからだ。秦夫人の自殺の批判者も、大抵はこの後の一派に属する。 確かに、自殺した以上、これは彼女が弱者であることを証明した。しかし、どうして弱くなったのか。肝心なのは、彼女の舅の手紙を見るべきだということだ。彼女を呼び戻すために、両家の名声をちらつかせ、亡くなった夫の乩(こっくり)の言葉で心を動かそうとした。さらに彼女の弟の挽聯を見るべきだ。「妻は夫に殉じ、子は母に殉ず……」これを千古の美談と見なす意がありありとしているではないか。かくの如き家庭に生まれ育ち陶冶された人が、どうして弱者にならずにいられよう。我々はもちろん奮闘を求めてよいが、暗黒の呑噬する力はしばしば孤軍に勝る。しかも自殺の批判者が必ずしも戦闘の応援者であるとは限らず、他人が奮闘し、もがき、敗れる時には、かえって鴉雀の声もないのかもしれぬ。窮郷僻壤や都会の中で、孤児寡婦、貧女労人が運命に従って死に、あるいは運命に抗いながらも遂に死なざるを得ぬ者がどれほどいるか。しかし誰の口に上り、誰の心を動かしたか。まことに「自ら溝渠に縊れて之を知る者なし」なのだ。 人はもちろん生存すべきだが、それは進化のため。苦しんでもよいが、それは将来の一切の苦を解除するため。さらに戦うべきだが、それは改革のためだ。他人の自殺を責める者は、一方で人を責めつつ、一方ではまさに人を自殺の道に駆り立てる環境に挑戦し、進撃すべきなのだ。もし暗黒の主力に対して一辞も置かず一矢も発せず、ただ「弱者」にくどくど言い続けるだけならば、たとえ彼がいかに義憤を色に表そうとも、私は言わざるを得ない──私もまことに堪えきれなくなった──彼は実は殺人者の幇凶に過ぎぬのだと。
(五月二十四日。)
【「……」「□□□□」論補遺 曼雪 】
徐先生が『人間世』に、このような題目の論を発表された。この道については、私はそれほど深く造詣していないが、「愚者千慮に必ず一得あり」ゆえ、いささか補いたいと思う。もちろん浅薄さは遙かに浅薄であるが。 「……」は舶来品で、五四運動の後にようやく輸入されたものだ。以前、林琴南先生が小説を訳した際、「此の語未だ完らず」と夾注していたのが、まさにこれの翻訳だ。洋書では普通六点を用い、吝嗇な者は三点しか用いない。しかし中国は「地大物博」であるから、同化の際に次第に長くなり、九点、十二点、ついには数十点に及ぶ。ある種の大作家に至っては、少なくとも三四行は点を打ち、その中の奥義が無窮無尽にして、まことに言語では形容し得ぬことを示す。読者もおおむねそう思い、もしその中の奥義が感じ取れぬと言う者があれば、それは低能児なのだ。 しかし帰するところ、やはりアンデルセン童話の「皇帝の新しい衣」のようで、実は何もない。ただし子供でなければ、ありのままに大声で言い出す者はいない。子供は文学者の「創作」を読まぬから、中国では誰も種明かしをしない。しかし天気は寒くなるもので、裸のまま一年中路上を歩けるわけもなく、結局は宮殿に隠れるしかない。数行の点を打つ妙文も、近頃はあまり見かけなくなった。 「□□」は国産品で、『穆天子伝』にすでにこの代物がある。先生が教えてくれたのは、闕文(欠字)だということだ。この闕文も騒ぎを起こしたことがあり、「口は垢を生じ、口は口を戕す」の三つの口字も闕文だと言った者がいて、また誰かに大いに罵られた。ただし以前は古人の著作にしか見えず、補いようがなかったが、今は今人の著作に見え、補おうとしても補えない。現在に至って、次第に「××」で代える傾向がある。これは日本から輸入されたものだ。これが多ければ、その著作の内容について我々は激烈なものを予感する。しかし実はそうでもない場合がある。でたらめに何行か×を付けて印刷すれば、読者に作家の激烈さを敬服させ、検閲官の峻厳さを恨ませることができるが、検閲に回す際には、検閲官に自分の従順さを好ましく思わせ、多くのことを敢えて言わず、ただこれほど熱心に×を打っただけだと示せる。一挙両得であり、何行かの点を打つよりもさらに巧妙だ。中国はまさに排日の最中であるから、この錦嚢の妙計はあるいは模倣されることはあるまい。 今は何でも金を出して買わねばならず、もちろん何でも金に換えて売ることもできる。しかし「何もないもの」までも金に換えて売れるとは、いささか意表を出る。ただし、このことを知った後には、造謡を生業とするのは、今なお「品質保証、老若を欺かず」の暮らしであることが分かる。
(五月二十四日。)
【誰が没落しているのか 常庚 】
五月二十八日の『大晩報』が、文芸上の重要な新聞を一つ教えてくれた──
「我が国の美術家劉海粟、徐悲鴻らが、近頃ソ連モスクワにて中国書画展覧会を開催し、彼の国の人士の極力なる賞賛を得た。我が国の書画名作を揄揚し、ソ連で盛んに流行する象徴主義作品と切合するとの由。さてソ連の芸術界は従来写実と象徴の二派に分かれるが、今や写実主義は漸く没落し、象徴主義は朝野一致の提唱を経て、欣々向栄の概を呈しつつあり。彼の国の芸術家が我が国の書画作品の象徴派に深く合致するを見て、たちまち中国の演劇もまた必ず象徴主義を採用しているに違いないと想い起こし、中国の戯曲名家梅蘭芳らを招いて演芸させんと……。この件はすでにロシア側より中国駐露大使館と交渉中にして、同時にソ連駐華大使ボゴモロフも訓令を受け、中国側とこの件を協議中なり。……」
これは喜ばしい知らせであり、我々が喜ぶに値する。しかし「国光を発揚」したと喜んだ後には、少し沈静になって以下の事実を考えるべきだ── 一、中国画と印象主義に一脈相通ずるところがあると言うなら、まだ言えなくもないが、「ソ連で盛んに流行する象徴主義と切合する」とするのは、いささか夢物語に近い。紫藤の半枝、松の一株、虎一頭、雀数羽、中には確かに実物に似ていないものもあるが、それは似せて描けないからであって、いつ別の何かを「象徴」したことがあろうか。 二、ソ連における象徴主義の没落は十月革命の時であり、その後に構成主義が勃興し、さらにその後次第に写実主義に排斥された。ゆえに構成主義が漸く没落し、写実主義が「欣々向栄の概を呈している」と言うなら言えるが、そうでなければ夢物語だ。ソ連の文芸界に象徴主義の作品がいったい何があるか。 三、隈取りと手振りは代数であって、象徴ではない。白鼻が道化を表し、花面が豪傑を表し、鞭を執れば馬に乗ることを表し、手を押せば門を開けることを表す以外に、いったいどこに言い表し得ぬ深い意味があるか。 ヨーロッパは我々から実に遠く、あちらの文芸事情も実にあまりよく分からぬ。しかし今や二十世紀はすでに三分の一を過ぎ、粗浅なことは少しは知っている。このような新聞はかえって「象徴主義の作品」だと感じさせる。それは彼らの芸術の消亡を象徴しているのだ。
(五月三十日。)
【逆さ提げ 公汗 】
西洋の慈善家は動物を虐待するのを見るのを恐れるもので、鶏鴨を逆さに提げて租界を歩けば処罰される。いわゆる処罰とは罰金に過ぎず、金さえ惜しまなければ逆さに提げることもできるが、しかし畢竟処罰は受ける。そこで何人かの華人が大いに不平を鳴らし、西洋人は動物を優待し華人を虐待し、鶏鴨にも及ばぬと言った。 これは実は西洋人に対する誤解だ。彼らが我々を蔑視するのは確かだが、動物以下に置いたわけではない。もちろん鶏鴨というものは、いかにしても結局は厨房に送られて大菜になるだけで、順に提げようが逆に提げようが帰結する運命には何の補いにもならぬ。しかし言葉が話せず抵抗もできぬのに、何も無益な虐待を加えることもあるまい。西洋人は何事も有益であることを重んずるのだ。我々の古人も人民の「倒懸」の苦は思いついており、しかもまことに的確に形容してもいるが、鶏鴨の逆さ提げの災いまでは察知していなかった。しかし「生きたまま驢馬の肉を切る」「鵞鳥の掌を生きたまま焙る」といった無聊な残虐に対しては、とうに文章で攻撃していた。この心情は東西に共通するものだ。 しかし人に対する心情は、いくらか異なるようだ。人は組織でき、反抗でき、奴隷にもなり主人にもなれる。努力しなければもちろん永遠に下僕に沈むが、自由解放すれば互いの平等を勝ち取れる。その運命は必ずしも厨房に送られて大菜にされるとは限らぬ。卑しき者ほど主人の憐愛を受ける。ゆえに西崽(洋館のボーイ)が叭児(犬)を打てば西崽が叱られ、平人が西崽に逆らえば平人が咎められる。租界には華人の苛待を禁ずる規則がない。それはまさに我々が自ら力を持ち、自ら才覚を持つべきで、鶏鴨とは全く異なるからだ。 しかるに我々は古典の中から、仁人義士が倒懸を救いに来るという空言を聞き慣れてしまい、今に至るもなお天上かどこか高遠な所から恩典が降ってくることを想い続け、甚だしきに至っては「乱離の人と作ることなかれ、寧ろ太平の犬たれ」と、犬になることも厭わず、しかし群を成して改革することは肯んじない。租界の鶏鴨にも及ばぬと自嘆する者も、まさにこの気風なのだ。 この類の人物が多くなれば、かえって皆が倒懸にされるのであり、しかも厨房に送られる時にも一時的に救ってくれる者もいない。これはまさに我々が畢竟人間であるのに、不甲斐ない人間であるがためなのだ。
(六月三日。)
花辺文学を論ず 林黙
近頃一種の文章がある。四辺を花模様で囲み、幾つかの副刊に現れる。この文章は毎日一段、雍容として閑適、緻密にして整斉、外形は「雑感」に似ているが「格言」にも似て、内容は痛くも痒くもなく何の当てもない。小品か語録の類らしい。今日は一則の「偶感」、明日は一段の「……だそうだ」。著者から見れば、もちろん好い文章で、裏表をひっくり返してもすべて道理となり、八股文の能事を尽くしている。しかし読者から見ると、痛くも痒くもないようでいて、往々にして毒汁を滲ませ、妖言を撒布している。例えばガンジーが刺されると、たちまち一篇の「偶感」を書き、「マハトマ」を一しきり称揚し、暴徒の乱を罵倒し、聖雄のために気を吐き災いを祓い、ついでに読者にも「一切を見定める」「勇武平和」の不抵抗主義的説教を講じる類だ。この種の文章に名づけようがないが、ひとまず「花辺体」あるいは「花辺文学」と名づけておこう。 この花辺体の由来は、おおむね小品文が鳥道に入った後の変種だ。この種の小品文の擁護者に言わせれば、流伝していくものだという(『人間世』「小品文について」参照)。では彼らの流伝の道を見てみよう。六月二十八日『申報・自由談』にこのような文章が載った。題目は「逆さ提げ」。大意は西洋人が鶏鴨の逆さ提げを禁じており、華人がかなり不平を鳴らしたこと。西洋人は華人を虐待し鶏鴨にも及ばぬと。 そこでこの花辺文学家が議論した。彼は言う。「これは実は西洋人に対する誤解だ。彼らが我々を蔑視するのは確かだが、動物以下に置いたのではない。」 なぜ「置いたのではない」か。いわく「人は組織でき、反抗でき……自ら力と才覚を持ち、鶏鴨とは全く異なるから」だそうだ。ゆえに租界には華人の苛待を禁ずる規則がない。華人の虐待を禁じないのは、もちろん華人を鶏鴨より上に見ているからだ、と。 不平を鳴らしたいなら、なぜ反抗しないのか。 そしてこれらの不平の士は、花辺文学家が「古典」から得た証拠によれば、「犬になることも厭わぬ」不甲斐ない輩だと断じられる。 その意味は極めて明白だ。第一に、西洋人は華人を鶏鴨以下に置いてはおらず、鶏鴨にも及ばぬと嘆く者は西洋人を誤解している。第二に、西洋人のこの優遇を受けて、不平を鳴らすべきでない。第三に、彼は正面から人は反抗できるものだと認め、反抗せよと言ってはいるが、実は西洋人が華人を尊重するがゆえに、この虐待は欠かせず、しかも一歩進めてもよいと説明しているのだ。第四に、もし不平を言う者がいれば、彼は「古典」から華人の不甲斐なさを証明できるのだ。 上海の洋行には、洋人のために商売を営む華人がおり、通称「買弁」という。彼らが同胞と商売をする際、洋貨がいかに国貨より優れ、外国人がいかに礼節と信用を重んじ、中国人は豚で淘汰されるべきだと吹聴するほかに、もう一つの特徴がある。洋人を口にする時「うちの旦那」と称するのだ。この「逆さ提げ」の傑作は、その口振りからすると、おおむねこの手の人間がその旦那のために書いた手になるものであろう。なぜなら第一に、この手の人間は常に西洋人を理解していると自負し、西洋人も彼に甚だ丁寧である。第二に、彼らはしばしば西洋人(すなわちその旦那)が中国を統治し華人を虐待することに賛成する。中国人は豚だからだ。第三に、彼らは中国人が西洋人を恨むことに最も反対する。不平を抱くことは、彼らから見ればさらに危険思想なのだ。 この手の人間、あるいはこの手の人間への昇格を望む者の筆から生まれたのが、この篇の「花辺文学」の傑作である。しかし惜しむべきは、この種の文人やこの種の文字がいかに西洋人のために弁護し説教しても、中国人の不平は免れ得ぬということだ。なぜなら西洋人は確かに中国を鶏鴨以下に置いてはいないが、事実上鶏鴨以上に置いたとも言い難いからだ。香港の役人が中国の囚人を逆さに提げて二階から投げ落としたのは、すでに遠い昔のこと。近くは上海、昨年の高丫頭、今年の蔡洋其の輩、彼らの遭遇は鶏鴨に勝るものではなく、死傷の惨烈はむしろ過ぎたるものがあった。これらの事実を我ら華人は一つ一つ見ており、背を向ければ忘れるようなことではない。花辺文学家の口と筆でどうして朦昧にできようか。 不平を抱く華人は果たして花辺文学家の「古典」の証明するように、一律に不甲斐ないか。そうでもない。我々の古典には、九年前の五・三十運動、二年前の一・二八の戦争、今なお艱苦の中で持ちこたえている東北義勇軍があるではないか。これらが華人の不平の気が集積して成った勇敢な戦闘と反抗でないと誰が言えようか。 「花辺体」の文章が流伝に頼りとする長所はここにある。今は確かに流伝しており、ある人々に擁護されている。しかし遠からぬうちに、必ず唾棄する者が現れるだろう。今は「大衆語」文学を建設する時であり、「花辺文学」はその形式であれ内容であれ、大衆の目には流伝し得ぬ日が来るであろうと思う。 この文章はいくつもの所に投稿したが、すべて拒まれた。まさかこの文章がまた私怨を晴らすとの嫌疑をかけられたのではあるまい。しかしこの「指図」はなかったのだ。事に即して論じれば、吐き出す必要が確かにあると感じた。文中に行き過ぎた所があるかもしれぬが、私が全く間違っていると言われても、それは承服できない。もし得罪したのが先輩や友人であれば、この一点をご諒解願いたい。 しかし江北の人は玩具を作る天才だ。彼らは長さの異なる二つの竹筒を、赤と緑に染めて一列に連ね、筒の中にバネを仕込み、傍に取っ手を一つつけ、回せばガタガタと鳴る。これが機関銃だ。私の見た唯一の創作でもある。私は租界の端で一つ買い、子供と一緒に振りながら路を歩いた。文明の西洋人と勝利の日本人はこれを見て、大抵我々に蔑みか憐みかの苦笑を投げてよこした。 しかし我々は振りながら路を歩き、少しも恥じなかった。なぜならこれは創作だからだ。一昨年来、江北の人をかなり罵る者がいた。まるでそうしなければ自らの高潔さを示すに足りぬかのようだったが、今は沈黙し、その高潔さも渺然として茫然だ。ところが江北の人は粗笨な機関銃の玩具を創り出し、堅強な自信と質朴な才能をもって文明の玩具と争っている。彼らは、外国から最新式の兵器を買って帰った人物よりも、いっそう賛頌に値すると私は思う。もっともまた誰かが私に蔑みか憐みかの冷笑を投げるかもしれないが。
(六月十一日。)
【間食 莫朕 】
出版界の現状は、定期刊行物が多く専門書が少なく、心ある人を愁えさせ、小品が多く大作が少なく、またぞ心ある人を愁えさせる。人にして心あらば、まことに「日々愁城に坐す」であろう。 しかしこの状態は由来久しく、今はただいくらか変遷し、いっそう顕著になっただけだ。 上海の住民は元来間食が好きだ。もし注意して聞けば、屋外で間食の売り声を上げる者は、つねに「まことに数多し」だ。桂花白砂糖倫教糕、豚脂白砂糖蓮心粥、海老肉の雲呑麺、胡麻バナナ、南洋マンゴー、西路(シャム)蜜柑、瓜子大王、さらに蜜餞、橄欖等々。胃袋さえよければ、朝から真夜中まで食べ続けられるが、胃袋が悪くても構わぬ。なぜならこれは肥った魚や大きな肉とは違い、分量はもともと甚だ少ないからだ。その効能は、聞くところでは、閑を消ずる中に養生の益を得、しかも味がよいという。 数年前の出版物は、「養生の益」のある間食であった。あるいは「入門」と称し、あるいは「ABC」と称し、あるいは「概論」と称し、つまりは薄い一冊で、わずか数角の金と半時間の時間を費やすだけで、一種の科学、あるいは文学の全貌、あるいは一つの外国語が分かるというものだ。その意味は、五香瓜子を一包み食べさえすれば、その人を繁栄滋長させ、五年分の飯に匹敵するということだ。数年試みたが効果は顕著でなく、かなり灰心した。試してみて名ばかり実がなければ、灰心するのは避けがたい。例えば今やほとんど仙人修行や黄金練成をする者がおらず、温泉と宝くじに置き換わったのは、まさに試みて無効だった結果だ。そこで「養生」の方面は緩め、「味がよい」方面に偏っていった。もちろん、間食はやはり間食だ。上海の住民と間食とは、死んでも切り離せないのだ。 そこで小品が現れた。しかしこれもまた新しい芸当ではない。老九章の商売が隆盛だった頃にも、『筆記小説大観』の類があった。これは間食一大箱である。老九章が閉店した後は、もちろんそれに伴って一小撮になった。分量が少なくなったのに、なぜかえって騒々しく、満城風雨を引き起こしたのか。思うに、これは担ぎ台に篆書とローマ字母の合璧の年紅電灯の看板を掲げたからだ。 しかし依然として間食であるにもかかわらず、上海住民の感応力は以前より敏捷になった。さもなくばなぜ騒ぐだろう。しかしこれはあるいはまさに神経衰弱のためかもしれぬ。もしそうであれば、間食の前途はかえって憂うべきだ。
(六月十一日。)
【「此の生か彼の生か」 白道 】
「此の生か彼の生か。」 今この五文字を書き出して読者に問おう。どういう意味か。 もし『申報』で汪懋祖先生の文章を見たことがあれば──「……例えば『この学生かあの学生か』と言うところを、文言では『此の生か彼の生か』とするだけで明瞭であり、その省力たるやいかばかりか……」──であれば、これが「この学生かあの学生か」の意味だとおそらく思い当たれよう。 さもなくば、その答えは躊躇せざるを得まい。なぜならこの五文字は、少なくとも更に二つの解釈が可能だからだ。一、この秀才かあの秀才か(生員の生)。二、この世か来世の別の世か(生涯の生)。 文言は白話に比べて、時に確かに字数は少ない。しかしその意味もまた比較的曖昧だ。我々が文言文を読む時、往々にして我々の知識を増やすことができぬのみならず、我々がすでに持っている知識を頼りにして、それに注解し補足してやらねばならぬ。精密な白話に翻してはじめて、ようやく分かったと言えるのだ。もし最初から白話を用いれば、たとえ数文字多く書くことになっても、読者にとって「その省力たるやいかばかりか」。 私は文言を主張する汪懋祖先生自身が挙げた文言の例をもって、文言の使い物にならぬことを証明した。
(六月二十三日。)
【まさにその時 張承禄 】
「山梁の雌雉、時なるかな時なるかな!」物事にはおのずとその時がある。 「聖書」「仏典」は、一部の人々の嘲笑を受けてすでに十余年。「今の是にして昨の非なるを覚る」──今こそが復興の時だ。関帝と岳飛は清朝で幾度も封贈を受けた神明であったが、民元の革命で閑却された。再び思い出されたのは袁世凱の晩年だが、また袁世凱とともに蓋棺となった。そして二度目に再び思い出されたのが、今なのだ。 この時節にはもちろん文言を重んじ、文袋を振り回し、雅致を掲げ、古書を読むことになる。 もし小家の子弟であれば、外でどんなに大嵐が吹こうとも、やはり勇往邁進し、命懸けで足掻かねばならぬ。安穏な古巣に帰る所がなく、前に進むしかないからだ。家を成し業を立てた後には、家譜を修め祠堂を造り、堂々と旧家の子弟を自任するかもしれぬが、それは畢竟後の話だ。もし旧家の子弟であれば、雄を誇り、珍しがり、時流に乗り、飯を食うために、もちろん外に出ないでもないが、しかしわずかな成功あるいはわずかな挫折だけで、たちまち退縮させられる。この縮みようがまた小さくなく、そのまま家に退き、さらに悪いことにその家は古い破れた大屋敷なのだ。 この大屋敷には蔵の古い品物があり、壁隅の埃があり、一時にはとても運び出せぬ。もし坐食の余暇があれば、東を探り西を漁り、古書を修め、古壺を磨き、家譜を読み、祖先の徳を偲んで歳月を消磨できる。もし窮極無聊であれば、なおさら古書を修め、古壺を磨き、家譜を読み、祖先の徳を偲び、ひいては汚い壁の根元をひっくり返し、空虚な引き出しを開け、自分でも何だか分からぬ宝物を発見して、この手の施しようのない貧窮を救おうとする。この二種の人、小康と窮乏は異なり、悠閑と急迫は異なり、ゆえに結末の緩急も異なるが、しかしこの時節には、ともにまさに古董の中で暮らしを立てている。ゆえにその主張と行為は異ならず、声勢も浩大に見えるのだ。 そこでまた一部の青年にも影響が及び、古董の中にまことに自分の救い主を見つけられると信じるようになる。小康者を見れば、こんなに閑適だ。急迫者を見れば、こんなに専精だ。これには道理がないはずがない。真似する者が出るのは当然だ。しかし時光もまた決して容赦せず、彼は遂に空虚を得るであろう。急迫者にとっては妄想であり、小康者にとっては冗談だ。主張者にもし特操も灼見もなければ、古董を香案の上に供えるべきだと言おうが厠に投げ込めと言おうが、実は皆ただ一時の自欺欺人の任務を果たしているだけで、先例を求めれば至る所にある。
(六月二十三日。)
【重訳を論ず 史賁 】
穆木天先生は二十一日の「火炬」で、作家が無聊な遊記の類を書くことに反対し、中国にギリシア・ローマから現代に至る文学の名作を紹介する方がましだとした。これは甚だ切実な忠告だと私は思う。しかし彼は十九日の「自由談」では間接翻訳に反対し、「一種のずるいやり方だ」と言った。もっとも恕すべき条件もいくつか付してはいたが。これは後の発言と矛盾しており、また誤解を招きやすいので、一言述べたいと思う。 重訳は確かに直接訳より容易だ。まず、原文が訳者をして我が力の及ばざるを恥じさせ、敢えて筆を執らせぬという長所の若干部分が、先に原訳者によって消去されている。訳文は大抵原文に及ばぬもので、中国の粤語を京語に、あるいは京語を滬語に訳すだけでも、なかなか適切にはいかぬ。重訳においては、原文の長所に対する躊躇が減ずる。次に、難解な箇所に忠実な訳者はしばしば注解を付しており、一目瞭然たりうるが、原書にはかえってないこともある。しかしこのため、直接訳が誤りで間接訳が正しいということも時にあるのだ。 ある国の言葉を解するならばその国の文学を訳すのが最善だという主張は、断じて誤りでない。しかしもしそうであれば、中国にギリシア・ローマから現代に至る文学名作の訳本は望み難くなる。中国人が解する外国語は、おそらく英語が最も多く、日本語がこれに次ぐ。もし重訳をせねば、我々は英米と日本の文学作品ばかりを見ることになり、イプセンもなく、イバーニエスもなく、極めて通行するアンデルセンの童話やセルバンテスの『ドン・キホーテ』すら見ることができぬ。何と哀れな視野であろうか。もちろん中国にデンマーク語、ノルウェー語、スペイン語に精通する人がいないわけではないが、しかし彼らは今に至るまで訳していない。我々が今持っているものはすべて英語からの重訳だ。ソ連の作品すら大抵は英仏語からの重訳なのだ。 ゆえに私は思う。翻訳に対しては、今はまだ厳峻な堡塁を必要としないようだ。最も肝心なのは訳文の良否を見ることで、直接訳か間接訳かは重んずるに及ばず、投機かどうかも詮索するに及ばない。原訳文に深く通じた時流に乗る者の重訳本は、時として原文をあまり解さぬ忠実者の直接訳本より優れることがある。日本の改造社訳の『ゴーリキー全集』は、かつて一部の革命家に投機だと斥けられたが、革命家の訳本が出ると、かえって前者の優良さが際立ったのだ。ただしもう一つ条件を付さねばならぬ。原訳文にあまり通じぬ時流に乗る者の速成訳本は、これはまことに恕し難い。 将来各種の名作に直接訳本が出れば、その時こそ重訳本が淘汰されるべき時だ。しかしその訳本は旧訳本より優れていなければならず、ただ「直接翻訳」を護身の盾にすることはできぬ。
(六月二十四日。)
【再び重訳を論ず 史賁 】
穆木天先生の「重訳その他を論ず」下篇の末尾を見て、私の誤解を解こうとしていることが初めて分かった。しかし特に誤解はなかったと思う。異なる点は、ただ軽重を逆にしたことで、私は先ず成果の良否を見るべきで、訳文が直接か間接か、また訳者の動機がいかなるものかは問わぬと主張するのだ。 木天先生は訳者に「自知」を求め、自分の長所を用いて「一労永逸」の書を訳せと言う。さもなくば手を出さぬ方がよい、と。つまり荊棘を植えるくらいなら白地を残しておき、別のよい庭師に永く鑑賞に堪える佳花を植えさせよということだ。しかし「一労永逸」という言葉はあるが、「一労永逸」の事は甚だ少なく、文字について言えば、中国のこの方塊字は決して「一労永逸」の符号ではない。しかも白地を永久に保つことは決してできず、空き地があれば荊棘か雀麦が生える。最も肝心なのは誰かが処理に来ることだ。培植するか、削除するかして、翻訳界をいくらか蕪雑から免れしめる。これが批評なのだ。 しかるに我々は古来翻訳を軽んじてきた。殊に重訳を。創作に対しては批評家がまだしも時々口を開くが、翻訳となると、数年前にはまだ誤訳を指摘する文章がたまにあったが、近頃は甚だ稀になった。重訳に対してはさらに少ない。しかし仕事の上では、翻訳の批評は創作の批評より難しい。原文を見るには訳者以上の功力が必要なだけでなく、作品にも訳者以上の理解が必要だ。木天先生の言うように、重訳には数種の訳本が参考にでき、これは訳者には甚だ便利だ。甲の訳本が疑わしい時に乙の訳本を参看できるからだ。直接訳はそうはいかず、分からぬ箇所があれば手の施しようがない。世にはわざわざ異なる文章を用いて、一句一句意味の同じ二つの作品を書く著者はいないのだから。重訳の書が多い理由の一つはこれかもしれぬ。怠惰と言ってもよいが、おおむねやはり語学力の不足のためであろう。各本を参酌して成った訳本に出会うと、批評はいっそう難しく、少なくとも各種の原訳本を読めなければならぬ。陳源訳の『父と子』、魯迅訳の『壊滅』などは、皆このたぐいに属する。 翻訳の道は広くし、批評の仕事を重視すべきだと私は思う。もしただ論を極めて厳しくし、訳者自身に慎重ならしめようとするだけなら、かえって逆の結果を得るだろう。良い者は慎重になるが、乱訳者は依然として乱訳し、この時悪い訳本はまだましな訳本より多くなるのだ。 最後にさほど重要でない数言を付す。木天先生は重訳を疑うあまり、ドイツ語訳本を見た後に、自分が訳した『タシケント』まで、フランス語原訳本は節本であると断じた。しかし実はそうではない。ドイツ語訳本は確かに厚いが、二つの小説が合冊されているからで、後半の大部分はセラフィモーヴィチの『鉄の流れ』なのだ。ゆえに我々が持っている漢訳『タシケント』も節本ではない。
(七月三日。)
【「徹底」の底 公汗 】
今や一人の人の立論に対して、もしそれを「高超」と言えば、論者の反感を招く恐れがあろう。しかしもしそれを「徹底」だ、「非常に前進的」だと言えば、まだ何の障りもないようだ。 今やまさに「徹底」で「非常に前進的」な議論が「高超」な議論に取って代わった時なのだ。 文芸には本来いずれも対象の界限がある。例えば文学は元来文字を解する読者を対象としており、文字を解する程度には差異があるから、文章に深浅があるのは当然だ。そして文字は平易に、文章は明白にすべきだという主張も、やはり作者の本分だ。しかるにこの時「徹底」論者が立ち上がって言う。中国には多くの文盲がいるが、それをどうするのかと。これはまことに文学者に対する当頭の一棒であり、たちまち悶死して見せるしかない。 ただしもう一隊の救兵を招くことはできる。すなわち弁解だ。なぜなら文盲はすでに文学の作用の範囲の外にあるのだから、この時は画家、演劇家、映画作家に出馬を請い、文字以外の形象的なものを見せるしかない。しかしこれでもまだ「徹底」論者の口を塞ぐには足りず、彼は文盲の中にはさらに色盲がおり、盲人がいる、どうするのかと言う。かくて芸術家たちも当頭の一棒を食らい、たちまち悶死して見せるしかない。 では最後のあがきとして、色盲・盲人の類には講演・歌唱・講談を用いると言おう。それはそれで言えなくもない。しかるに彼は問う。まさか中国にはさらに聾者がいることを忘れたわけではあるまい。 またぞ当頭の一棒。悶死。皆悶死だ。 かくて「徹底」論者は一つの結論を得た。今の一切の文芸はすべて無用であり、徹底的に改革せねばならぬ、と。 学者あるいは詩人の看板をもって一人の著者を批評あるいは紹介するのは、初めのうちは大いに傍人を欺くことができるが、傍人がこの著者の真相を見極めた時には、ただ自分の不誠実さ、あるいは学識の不足だけが残る。しかしもし傍人が真相を指摘しに来なければ、この作家はそのまま持ち上げて殺され、何年経ってから身を翻せるか分からない。
(十一月十九日。)
【読書の忌 焉于 】
中国の医書には「食忌」がしばしば記載されていたのを覚えている。すなわち、ある二種の食物を同時に食すると人体に害があり、あるいは人を殺し得るという。例えば葱と蜜、蟹と柿、落花生と胡瓜の類である。しかしそれが真実かどうかは知る由もない。実験した人を聞いたことがないからだ。 読書にも「忌」がある。ただし「食忌」とはやや異なる。ある種類の本は決してある種類の本と一緒に読んではならぬ。さもなくば両者の一方が必ず克ち殺され、あるいは少なくとも読者がかえって憤怒を生ずる。例えば今まさに盛んに提唱されている明人の小品、中にはまことに空霊なる篇もある。枕辺、厠上、車中、舟中、これはまことに極上の消遣の品だ。しかしまず読者の心が空空洞洞、混混茫茫でなければならぬ。もしかつて『明季稗史』や『痛史』、あるいは明末遺民の著作を読んだことがあれば、結果は全く異なってくる。この両者は必ず戦いを始め、一方を打ち殺さねば止まぬ。私はこれによって、かの明人小品を憎悪する論者たちの心情をよく理解したと自負している。 この数日、偶然に屈大均の『翁山文外』を見かけた。中に一篇、戊申(すなわち清の康煕七年)八月に書かれた「自ら代北より入京するの記」がある。彼の文筆は、袁中郎に劣るものであろうか。しかしいくつかの箇所は甚だ重みがある。数句をここに抄す──
「……河に沿いて行く。あるいは渡り、あるいは渡らず。しばしば西夷の氈帳を見る。高低一ならず。いわゆる穹廬連なり属して岡のごとく阜のごとし。男女みな蒙古語を話す。乾湿の酪を売る者あり、羊馬の者あり、犛皮の者あり、二頭の駱駝の間に臥す者あり、奚車に坐す者あり、鞍なくして騎する者あり、三両にして行き、戒衣を被る。あるいは赤あるいは黄。小さき鉄輪を持ちて『金剛穢呪』を念ずる者あり。その首に一つの柳筐を頂き、馬糞および木炭を盛る者は、すなわちみな中華の女子なり。みな頭を巻き跣足にて、垢面にして、毛の袄を反り被る。人と牛羊と相い枕藉し、腥臊の気、百余里絶えず。……」
思うに、もしこのような文章を読み、このような情景を想像し、しかも完全には忘れていなければ、たとえ中郎の『広荘』や『瓶史』であっても、積もった憤りを洗い清めることは断じてできず、しかもさらに憤怒を増すであろう。なぜならこれは実に中郎の時代の彼ら相互の標榜よりもさらに悪いからだ。彼らはまだ揚州十日、嘉定三屠を経験していなかったのだ。 明人の小品はよい。語録体も悪くない。しかし私は『明季稗史』の類と明末遺民の作品の方がまことに更によいと思う。今こそまさに句読を施し翻印すべき時だ。皆に少し目を覚まさせるために。
(十一月二十五日。) 【「お子様お断り」 宓子章 】
この五六年来の外国映画は、まず我々に一通り洋風侠客の勇敢さを見せ、次いで野蛮人の陋劣を、さらに洋風令嬢の曲線美を見せた。しかし目の肥えは広がるもので、ついに何本かの脚では足りなくなり、一大群となる。またぞ足りず、丸裸となる。これが「裸体運動大写真」であり、正々堂々たる「人体美と健康美の表現」ではあるが、しかし「お子様お断り」で、子供はこれらの「美」を見る資格がないのだ。 なぜか。宣伝にこのような文句がある── 「一人のこの上なく聡明な子供が言った。『あの人たちはどうして体の向きを変えてくれないの?』」 「一人の十分に厳格な父親が言った。『どうりで劇場は子供を断るわけだ!』」 これはもちろん文学者の虚構の妙文に過ぎない。なぜならこの映画は最初から「お子様お断り」を掲げているのだから、子供は見ようがないのだ。しかしもし本当に見せたとして、彼らはこのような質問をするだろうか。おそらくそうかもしれない。しかしこの質問の意味は、恐らく張生が唱う「ああ、どうして顔を向けてくれないのだ」とは全く異なり、実は映画中の人物の態度の不自然さが不思議に思われただけであろう。中国の子供は比較的早熟かもしれず、性的感覚が比較的鋭いかもしれぬが、成人した「父親」よりも心が不浄であるとまではゆくまい。もしそうであるなら、二十年後の中国社会はまことに恐ろしいものだ。しかし事実上はおそらく決してそうはならぬゆえ、あの答えはこう改めた方がよい。 「わしが満足できぬようにするためだ。全くけしからん!」 ただしこう言う「父親」もおそらくいまい。彼はいつも「己の心をもって人の心を度る」のであり、度った後にこの心を無理に他人の胸中に押し込め、自分のものではないふりをして、他人の心は自分ほど清浄ではないと言う。裸体の女性が皆「体の向きを変えない」のは、実はまさにこの類の人物に対処するためなのだ。彼女たちはまさか白痴ではあるまい。「父親」の目つきが、その子供よりもさらに不真面目であることすら知らぬわけがあろうか。 しかし中国社会はやはり「父親」類の社会であるから、芝居を演じれば「母親」類が身を献じ、「息子」類が謗りを受ける。たとえ危急の関頭に至っても、やはり何かと「木蘭従軍」「汪踦衛国」で、「女子と小人」を押し出して防ぎとするのだ。「我が国民はいかにしてその後を善くするや。」
(四月五日。) 【古人は必ずしも純厚ならず 翁隼 】
年長の人々はしばしば言う。古人は今人より純厚で、心がよく、寿命が長いと。私も以前はいくらか信じていたが、今やその信仰は揺らいでいる。ダライ・ラマは普通の人より心がよいはずだが、「不幸にして短命にして死せり」とはいえ、広州で開かれた耆英会では確かに一群の長寿翁・長寿媼が集められ、百六歳の老婆がまだ針に糸を通せるのは写真で証明されていた。 古今の心の善し悪しは、比較するのがなかなか難しく、詩文に教えを求めるしかない。古の詩人は名高き「温柔敦厚」であるが、中にはなんと「時日いずくんぞ喪びん、予汝とともに亡びん!」と言う者もいた。なんと悪辣なことか。さらに奇妙なのは、孔子が「校閲」した後も、これを削らず、なお「詩三百、一言もってこれを蔽う。曰く、思い邪なし」と言っていること。聖人もまた可悪とは思わなかったらしい。 さらに現存の最も通行する『文選』があるが、聞くところによれば、もし青年作家が語彙を豊かにし、あるいは建築を描写しようとすれば、必ずこれを見なければならぬという。しかし我々がもし中の作家を調査すれば、少なくとも半分は非業の死を遂げている。もちろん心が悪かったからだ。昭明太子の選択を経て、確かに語彙の祖師のようになったが、当時はおそらくまだ個人の主張も偏激な文字もあったのだ。さもなくばその人は伝えられなかったはずで、唐以前の史書の文苑伝を繰ってみれば、おおむね旨意を承けて檄を草し頌を作る人であるが、しかしそれら著者の文章で今日まで伝わるものはかえって甚だ少ない。 こう見てくると、古書をまるごと翻印するのも危険がないとは言えぬ。近頃たまたま石印の『平斎文集』を見かけたが、著者は宋人であり、古くないとは言えぬが、しかしその詩は規範とし難い。例えば「狐鼠」を詠じて曰く、「狐鼠一窟を擅にし、虎蛇九逵を行く。天に眼あるを論ぜず、ただ地に皮なきを管ぜよ……。」また「荊公」を詠じて曰く、「禍胎を養い成して身始めて去り、依然として鐘阜人に向かいて青し。」かの当路を指斥する口吻は、今人の見慣れぬところだ。「八大家」の欧陽修は、偏激な文学者とは言えまいが、しかしあの『李翱の文を読む』の中にはこうある。「ああ、位に在りて自ら憂うることを肯ぜず、また他人を禁じて皆憂うることを得ざらしむ、嘆ずべきかな!」これもまた甚だ憤懣としている。 しかし後人の一番の選択を経ると、たちまち純厚になるのだ。後人が古人を純厚にすることができるならば、後人が古人より更に純厚なのは明らかである。清朝にはかつて勅定の『唐宋文醇』と『唐宋詩醇』があった。これは皇帝が古人を純厚に仕立てた好い標本であり、まもなくこれを翻印して「狂瀾を既倒に挽かん」とする者が出るかもしれぬ。
(四月十五日。) 【法会と歌劇 孟弧 】
『時輪金剛法会募金趣意書』にこのような一節がある。「古人ひとたび災厄に遭えば、上は己を罪し、下は身を修む……今や人心漸く衰えり、仏力の加被に頼らずんば、この浩劫を消除する由なし。」恐らく今もまだ覚えている人がいるだろう。これを読むとまことに自分も他人も半文の値打ちもなく、治水も除蝗も全く無益で、「あるいは自業を消し、あるいは他の災いを免れん」と思えば、パンチェン大師にお出まし願って仏菩薩の加護を祈るしかないという気にさせられる。 堅く信じている人々は必ずいる。さもなくば、どうして巨額の寄付を募れようか。 しかし畢竟「人心漸く衰え」たらしく、中央社十七日杭州電に曰く、「時輪金剛法会は本月二十八日に杭州にて啓建せらるるが、併せて梅蘭芳、徐来、胡蝶を招き、会期中五日間歌劇を上演することに決せり。」梵唄の円音が、軽歌曼舞に「加被」せらるるとは、意表に出ずるにあらずや。 かつて我が仏が説法したまいし折、天女の散花ありと聞く。今、杭州にて会が啓かるるに、我が仏がおそらく親しく臨みたまうまじきとすれば、梅郎に権りに天女に扮することを恭請するのも、むろん不可ではあるまい。しかしモダンガールたちと何の関係があろうか。まさか映画スターや標準美人が歌を唱えば、「この浩劫を消除」できるというのか。 おおよそ、人心が「漸く衰え」んとする前に、仏を拝む人はすでに余興を兼ねて見たがるようになっていた。寄付に限りがあり法会が大きくない時には、坊主たち自らが飛鉢を演じ、歌を唱って善男善女を満足させたが、これはまた道学先生たちをも首を振らせた。パンチェン大師は開会を「印可」するのみにして『毛毛雨』を歌わぬのは、まことに仏旨に適っているが、不意にも同時に歌劇まで上演されるとは。 原始人と現代人の心は、おそらくかなり異なるものがあろうが、もし隔たりがわずか数百年であれば、たとえ若干の差異はあっても、微々たるものであろう。祭りで芝居を演じ、香市で美女を見るのは、まさに「古よりこれあり」の芸当である。無量の福を積み、かつ視聴の娯楽を極め、現在も未来もよいことがある──これが古来仏事を興行する呼び声の力なのだ。さもなくば、黄色く太った坊主がお経を唱えるだけでは、参加者は必ずしも踊躍せず、浩劫は消除の望みがないであろう。 しかしこの手配は、婆心より出たりとはいえ、やはり「人心漸く衰えり」の徴候である。我々に疑いを抱かせる。我々自身はこの浩劫を消除する資格がないとして、この後はパンチェン大師に頼るべきか、それとも梅蘭芳博士か、ミス徐来か、ミス胡蝶か。
(四月二十日。) 【洋服の没落 韋士繇 】
数十年来、我々はいつも自分に合った服がないことを恨んできた。清朝末年、革命の色彩を帯びた英雄たちは辮髪を恨むのみならず、馬褂や袍子も恨んだ。それは満洲の服だったからだ。ある老先生が日本に遊歴し、あちらの服装を見て大いに喜び、雑誌に文章を載せて「図らずも今日再び漢官の儀を見る」と題した。彼は古装の復活に賛成したのだ。 しかし革命の後に採用されたのは洋装であった。皆が維新を志し、便捷を求め、腰骨をまっすぐにしたかったからだ。少年英俊の輩は自ら洋装であるのみならず、他人が袍子を着るのを嫌悪した。当時聞くところによれば、樊山老人のもとへ行って、なぜ満洲の衣裳を着るのかと詰問した者もいたそうだ。樊山は問い返して曰く、「君の着ているのはどこの服かね。」少年は答えて曰く、「私が着ているのは外国の服です。」樊山曰く、「わしが着ているのも外国の服だ。」 この話はかなり一時に伝誦され、袍褂党を眉を揚げさせた。ただしその中にはいくらか革命に反対する意味が含まれており、近日の衛生のため、経済のためとは大いに異なる。その後、洋服はついに華人と次第に仲たがいし、袁世凱の御代に袍子馬褂を常礼服と定めたのみならず、五四運動の後、北京大学が校風を整飭するため制服を規定しようとして学生に公議させたところ、その議決もまた袍子と馬褂であった。 今回洋服が採用されなかった理由は、まさに林語堂先生の言うように衛生に合わないからだ。造化が我々に賜うた腰と首は本来屈曲できるもので、腰を曲げ背を屈めるのは中国では常態である。逆のものすら甘んじて受けるのだから、順のものはなおさら甘んじて受けるべきだ。ゆえに我々は最も人体を研究し、その自然に順じてこれを用いる人民なのだ。首が最も細いので斬首を発明し、膝関節が曲がるので跪拝を発明し、臀部は肉が多くかつ致命的でないので尻叩きを発明した。自然に反する洋服は、かくして次第に自然と没落していったのだ。 この洋服の遺跡は、今やモダンな男女の身にのみ残留しているに過ぎず、あたかも辮髪や纏足が頑固な男女の身にたまに見られるのと同じだ。ところが思いもかけず、また一通の催命符がやって来た。硫酸がこっそり背後から撒かれたのだ。 これをどうすればよいのか。 古制に復そうにも、黄帝から宋明に至る衣裳は一時にはとても分からぬ。舞台の扮装に倣おうにも、蟒袍に玉帯、白底に黒靴で、自動車に乗って西洋料理を食べるのは、やはりいささか滑稽を免れまい。ゆえに変えに変えて、おおよそやはり袍子馬褂が安定であろう。外国の服ではあるが、恐らく脱ぐことはあるまい──これはまことにいささか不思議である。
(四月二十一日。) 【友人 黄凱音 】
私は小学校の頃、同級生たちの手品を見て──「耳で字を聞く」だの「紙人形が血を流す」だの──甚だ面白いと思った。廟の縁日にはこれらの手品を伝授する人がいて、銅貨数枚で一つ覚えられたが、覚えてしまうとたちまち興醒めした。中学に入ったのは城内で、意気揚々と大きな手品を見たが、後に誰かが手品の秘密を教えてくれ、それから輪の傍に近づく気がしなくなった。昨年上海に来て、ようやくまた退屈を紛らわす場所を得た。映画を見ることだ。 しかしまもなく本の中で映画フィルムの製造法を少し読み、見たところ千丈の断崖のようなものが実は地面から数尺に過ぎず、奇鳥怪獣もすべて紙製であると知った。これにより映画の神秘を感じなくなり、かえって往々その破綻ばかり気にするようになって、自分も退屈になった。 三度目にして退屈を紛らわす場所を失ったのだ。時には、あの本を読んだことを後悔し、著者が製造法を書くべきでなかったと恨むことさえあった。 暴露する者は種々の秘密を暴き、人のためになると思っている。しかし退屈な人間は、退屈を紛らわすために、欺かれることに甘んじ、自ら欺くことに安んじている。さもなくばもっと退屈になるからだ。このために手品は天地の間に長く存続し、このために幽暗を暴露することは欺く者に深く悪まれるのみならず、欺かれる者にも深く悪まれるのだ。 暴露する者は有為の人々の中でのみ益があり、無聊の人々の中では滅びるしかない。自救の道はただ、一切の秘密を知りつつも顔色を変えず、欺くことに加担し、欺かれることに甘んずる無聊の人々を欺き、無聊な手品が次から次へと、結局は反復して続くままにしておくことだ。周囲には必ずこれを見る人がいるのだ。 手品師は絶えず拱手して言う、「……一歩家を出れば朋友が頼り!」と。これにはいくらか手品の種を知る者に向けて発せられた意味がある。西洋の種明かしをされぬようにするためだ。 「朋友とは義をもって合するものなり」──しかし我々は古来しばしばこのようには解さなかった。
(四月二十二日。) 【清明の頃 孟弧 】
清明の頃は墓参りの季節で、ある者は関内に入って祖先を祭ろうとし、ある者は陝西に墓参りに行く。激論は天を沸かせ、歓声は地を揺るがし、まるで墓参りで国が滅びも、国が救われもするかのようだ。 墓にこれほど大きな関係があるとすれば、墓を掘ることはもちろん許されまい。 元朝の国師パクパは、墓を掘ることの利害を深く信じていた。彼は宋陵を掘り開き、人骨を豚犬の骨と一緒に埋めて宋室を不運にしようとした。後に幸いにも一人の義士に盗まれ、目的は達せられなかったが、しかし宋朝はやはり滅んだ。曹操は「摸金校尉」の類の職員を設けて専ら盗墓に当たらせたが、彼の息子は皇帝になり、自分は「武帝」と諡された。いかに威風堂々たることか。こう見ると、死者の安危と生者の禍福とは、やはり関係がないようでもある。 伝えるところによれば、曹操は死後に墓を掘られることを恐れ、七十二の疑冢を造り、人を手出しできなくした。そこで後の詩人が曰く、「あまねく七十二の疑冢を掘れば、必ず一冢に君の屍を葬れるあらん。」そこで後の論者がまた曰く、「阿瞞は老獪至極、その屍が実にこの七十二冢の内にあらざることを安んぞ知らんや。」まことに手の施しようがない。 阿瞞はまさに老獪至極ではあるが、思うに疑冢の類は必ずしも手配しなかったであろう。ただ古来の冢墓は大抵発掘された者が多く、冢中の人の主名が確かなものも甚だ少ない。洛陽の邙山では清末に墓を掘る者が甚だ多く、名公巨卿の墓の中でさえ、得られるものは大抵一枚の墓誌石と散乱した陶器であった。元来貴重な殉葬品がなかったのではなく、すでに誰かが掘って持ち去ったのだ。いつのことかは知る由もない。とにかく葬った後から清末の盗掘のその日までの間であろう。 墓中の人が畢竟いかなる人であるかは、掘った後でなければ往々分からぬ。たとえ伝承の主名があっても、大抵当てにならぬ。中国人は古来、大人物に関係のある名勝を造るのが好きだ。石門には「子路止宿の処」あり、泰山の上には「孔子天下を小とする処」あり。一つの小さな洞穴には大禹が埋められ、幾つかの大きな土饅頭には文王・武王・周公が葬られているという。 もし墓参りが確かに国を救えるのであれば、参るなら正確に参らねばならず、文王・武王・周公の陵を参って、他人の土饅頭を参ってはならず、さらに自分が周朝の子孫であるかどうかも調べねばならぬ。そこで考古の作業が必要になる。すなわち墓を掘り開いて、文王・武王・周公旦が葬られている証拠があるかどうかを見、もし遺骨があれば『洗冤録』の方法で血を滴らすこともできる。しかしこれはまた墓参り救国説と矛盾し、孝子順孫の心を大いに傷つける。やむなく、ただ目を閉じ頭を強くしてでたらめに拝むしかない。 「其の鬼にあらずしてこれを祭るは、諂なり!」ただ墓参り救国術に霊験がないのは、まだ小さな笑い話に過ぎない。
(四月二十六日。) 【小品文の生機 崇巽 】
昨年は「ユーモア」が大いに運の開けた時で、『論語』のほかにも、開口一番ユーモア、口を閉じてもユーモア、この人もユーモリスト、あの人もユーモリストであった。ところが今年はたちまち大いに面目を失い、これも駄目、あれも駄目、一切の罪悪はすべてユーモアに帰せられ、ひいては文壇の道化役に比せられるに至った。ユーモアを罵ることは入浴のようなもので、一度やりさえすれば自分は清浄になれるかのようだ。 もし真に「天地は大戯場」であるならば、文壇にもちろん道化役は必ずいる──しかしまた必ず黒頭もいる。道化役が道化芝居を演じるのはごく当たり前だが、黒頭が道化芝居に転じるとなると甚だ奇妙だ。しかし大戯場では時にまことにこういうことがある。これが正直な人を歪んだ心の人に従って嘲罵させ、情熱の人を憤らせ、感じやすい人の心を酸くするのだ。唱い方が素人で人を笑わせないからか。いや、彼は本物の道化よりもさらに可笑しいのだ。 あの怒りと心酸は、黒頭が道化に転じた後、事がまだ終わっていないからだ。芝居には何人かの役柄が必要で、生、旦、末、丑、浄、そして黒頭。さもなくばその芝居も長くは続かぬ。ある原因のために黒頭が道化に転じざるを得ぬ時は、慣例としてかならず道化がかわりに黒頭を演じるのだ。唱工のみならず、黒頭が厚かましく道化に扮し、道化が胸を張って黒頭を学ぶ。戯場には白鼻の道化と黒面の道化ばかりが増え、天下の大いなる滑稽となる。しかし滑稽であるのみで、ユーモアではない。ある人曰く、「中国にユーモアなし」と。これがまさにその注脚だ。 更に嘆かわしいのは、「ユーモアの大家」と諡された林先生が、なんと「自由談」で古人の言葉を引いたことだ。曰く、「夫れ飲酒猖狂なるも、あるいは沈寂として聞こえざるも、またただ身を潔くし自ら好しとするのみ。今の世の癩鼈、身を潔くし自ら好しとする者に亡国の罪を負わしめんと欲す。もししからば『今日烏合し明日鳥散し、今日戈を倒し明日軾に馮り、今日君子たり明日小人たり、今日小人たり明日また君子たる』の輩は罪なかるべし」と。引用はなお小品の域を出ぬとはいえ、「ユーモア」あるいは「閑適」の道からは遠い。これもまた一つの注脚だ。 しかし林先生が、近頃各紙の『人間世』への攻撃は系統だった変名の手品だと考えたのは誤りで、その証拠は異なる論旨と異なる作風だ。中には確かに、かつて驥尾に附しながらも遂に竜門に登れなかった「名人」や、黒頭に扮してはいるが実は真正の道化の茶々もあるが、しかしまた熱心な人の正論もある。世態はかくの如く紛糾しており、たとえ小品といえども、まさに分析と攻戦が必要であることが分かる。これこそがあるいは『人間世』の一縷の生機であろう。
(四月二十六日。) 【刀「式」弁 黄棘 】
今月六日の「動向」に、阿芷先生が楊昌渓先生の大作『鴨緑江畔』がファジェーエフの『壊滅』に酷似していることを指摘した文章が載っていた。その中には例証も挙げられていた。これを「英雄の所見略ぼ同じ」とは言えまい。なぜなら丸呑みの有様があまりにも明白だからだ。 しかし丸呑みにも技量がいるのであり、楊先生はいささか足りないようだ。例えば『壊滅』の訳本の冒頭は──
「石段の上でがちゃがちゃと傷のついた日本の指揮刀が鳴り、レーヴィンソンは裏庭へ行った。……」
そして『鴨緑江畔』の冒頭は──
「金蘊声が庭園に入った時、彼のあの傷のついた日本式の指揮刀が石段の上でパチパチと鳴っていた。……」
人名が違うのは当然のこと。音が違うのも大したことではない。最も特異なのは、彼が「日本」の下に「式」の一字を加えたことだ。これもあるいは無理もない。日本人でないのに、どうして「日本の指揮刀」を佩くのか。きっと日本の式に倣って自分で鍛造したのだろう。 しかし我々がもう一度考えてみよう。レーヴィンソンが率いていたのは襲撃隊であり、もちろん敵を襲撃するが、武器も鹵獲する。自軍の軍器は不完全であり、何か手に入ればすぐに使う。ゆえに彼が佩いていたのはまさに「日本の指揮刀」であり、「日本式」ではないのだ。 文学者が小説を読み、しかも剽窃の準備をしているとすれば、関係は密接であると言えよう。それでいてなおこれほど粗忽であるとは、嘆かわしいではないか。
(五月七日。) |