Lu Xun Complete Works/ja/Nanqiang beidiaoji

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南腔北調集 (南腔北调集)

魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

【魯迅全集・第五巻】


 南腔北調集


 題記


 ——一九三二年——





 「計る所に非ざるなり」


 林克多「ソ連見聞録」序


 我々はもう騙されない


第2節

【題記】


 一二年前、上海にある文学者がいた。今はここにいないようだが、その頃はしばしば他人を素材にして、いわゆる「素描」を書いていた。私も赦免されなかった。聞くところによると、私は講演が大好きだが、話す時は吃音だそうだ。用語については「南腔北調」(南の調子に北の調子が混じっている)だという。


第3節

【一九三二年】


第4節

【「計る所に非ざるなり」】


 新年


第5節

元旦の『申報』(一月七日付)が「要電」で我々に知らせた。「聞くところによれば、陳(外交総長陳友仁)と芳澤は友誼甚だ深く、外交界の観察では、芳澤が帰国して日本の外務大臣に就任すれば、東省の交渉は陳の個人的感情により、やや良い解決を得られる見込みだという。」

 中国の外交界は中国で何を見慣れてきたのか。


第6節

【林克多『ソヴィエト見聞録』序】


 おおよそ十年ほど前のことであったろうか、病を得て、ある外国の病院に診察を求めに行った折、その待合室に置かれていたドイツの『週刊報』(Die Woche)という雑誌に、ロシア十月革命に関する風刺画が一枚載っているのを見た。そこには裁判官、教師、さらには医師や看護婦までもが、目を怒らせ、拳銃を握りしめている姿が描かれていた。これが私が初めて目にした十月革命に関する風刺画であったが、心の中でただ、こんなに凶暴なものかと、おかしく思っただけであった。その後、数人の西洋人の旅行記を読んだが、あるものは良いと言い、あるものはまた悪いと言い、これでわけが分からなくなった。しかし結局は自分で断定した——この革命はおそらく貧しい人々には良いことがあったのであろう、ならば金持ちにとっては悪いに決まっている。旅行者の中には貧しい人々のために考える者もおり、だから良いと思うのだが、もし金持ちのために算段するなら、当然すべてが悪いことになるのだ、と。

 しかしその後また一枚の風刺画を見た。英語のもので、ボール紙を切り抜いて作った工場、学校、保育院などが道路の両側に立ち並び、見学者が自動車に乗ってその間を走り抜ける図であった。これはソヴィエトの良い点を述べた旅行記の著者たちに向けて発せられたもので、見学の際に彼らの欺瞞を受けたのだと言いたいのである。政治や経済のことは私は門外漢であるが、昨年ソヴィエトの石油や小麦の輸出が、資本主義文明国の人々をあれほど恐怖させた事実を見ると、私の長年の疑念は氷解した。体面を取り繕うだけの国と人殺しばかりする人民が、これほど巨大な生産力を持つはずがない。してみれば、あの風刺画こそ恥知らずな欺瞞であったのだ。

 しかし我々中国人には、実に少々困った癖がある。他国の良い点をあまり聞きたがらないのだ。とりわけ清党以後は、日々建設が進むソヴィエトのことを口にすれば、宣伝目的だとか、ルーブルを貰ったのだとか言われる始末である。しかも「宣伝」という二文字は、中国では実にひどく汚されてしまった。人々は金持ちの通電だの、会議の宣言だの、名士の談話だのを見慣れている。発表されたが最後、たちまち跡形もなく消え、屁の臭いほども長続きしない。かくて次第に、遠方や将来の利点を述べる文章はすべて人を欺く戯言であり、いわゆる宣伝とは、私利のために天を覆うほどの嘘をつく雅称に過ぎぬと思うようになったのである。

 無論、現在の中国にはこの類のものがいくらでもある。勅定あるいは官許の力を頼み、至る所で売り込みが行われているが、しかし読む者は多くない。なぜなら宣伝というものは、現在あるいは将来において事実が証明されてこそ、初めて宣伝と呼べるからだ。ところが中国で現在行われているいわゆる宣伝は、後になってこの「宣伝」がまさしく嘘であったという事実が証明されるだけでなく、もう一つの悪い結果をもたらしている。すなわち人々があらゆる記述の文章に対して次第に疑いの目を向けるようになり、しまいには読まないことにしてしまうのだ。私自身もこの影響を受けており、新聞に載る新旧三都の偉観だの、南北両京の新しい気風だのは、見出しを見ただけで気持ちが悪くなるし、外国の紀行文すら、もはやあまりめくる気がしなくなった。

 しかしこの一年の間に、用心する必要もなく、読み通してしまった本が二冊あった。一冊は胡愈之先生の『モスクワ印象記』で、もう一冊がこの『ソヴィエト見聞録』である。私は草書を判読する力が乏しいため、読み進めるのに骨が折れたが、自ら「飯を食うために、やむを得ず働きに行った」と言う労働者の著者の見聞を見たいと思い、どうにか読み通した。途中、統計表の解説のような箇所に出くわすと、私自身としてはいささか退屈を感じないでもなかったが、幸いにして多くはなく、やはり読み通した。その理由は、著者が友人と雑談するかのように、美しい言葉も巧みな技法も用いず、淡々と語り続けているところにある。著者は平凡な人であり、文章は平凡な文章であり、見聞したソヴィエトはごく平凡な土地であり、その人民はごく平凡な人々であり、行われていることはまさに人情にかなったものであり、暮らしも人間らしくなっただけで、何の奇もない。そこから艶を猟り奇を求めようとすれば、失望は免れまいが、白粉を塗らぬ真相を知ろうとするなら、まことに良い本である。

 しかもこれによって、世界の資本主義文明国がなぜソヴィエトを攻撃しようとするのかも、いささか理解できる。労働者も農民も人間らしくなっては、資本家や地主にとって極めて不利であるから、まずこの労農大衆の模範を殲滅せねばならぬのだ。ソヴィエトが平凡であればあるほど、彼らはますます恐れる。五、六年前、北京では広東の裸体行進が盛んに噂され、後には南京や上海で漢口の裸体行進が盛んに噂された。これは敵方の「平凡でない」ことを願う証拠にほかならない。この本の記述によれば、ソヴィエトは実に彼らを失望させたのだ。なぜか。共妻、殺父、裸体行進といった「平凡でない事」が確かになかったというだけでなく、極めて平凡な事実が数多くあったからだ。すなわち「宗教、家庭、財産、祖国、礼教……あらゆる神聖にして侵すべからざる」ものを糞のように投げ捨て、まったく新しい、真に空前の社会制度が地獄の底から湧き出し、幾億の大衆が自ら己の運命を支配する者となったのである。この極めて平凡なことは、「匪賊」のみがなし得ることなのだ。殺すべきは「匪賊」なり、と。

 だが著者がソヴィエトに赴いたのは十月革命の十年後であるから、彼らの「よく苦難に堪え、勤勉であり、勇敢にして自己犠牲を厭わぬ」ことを我々に伝えてはいるものの、いかに苦闘してようやく今日の成果を得たか、その物語はあまり語られていない。これは当然、別の著作の任務であり、著者にすべてを負わせるわけにはいかないが、読者は決してこの一点を見落としてはならない。さもなくば、インドの『譬喩経』にあるように、高楼を建てようとしながら地上に柱を立てることに反対し、自分が建てたいのは地面から離れた高楼なのだと言うに等しい。

 私がこの本を警戒心なく読み終えたのは、まさに上述の理由による。そして私がこの本に述べられたソヴィエトの良い点を信じるのには、もう一つの理由がある。それは十数年前にソヴィエトはどうにもならぬ、望みはないと言っていたいわゆる文明国の人々が、昨年すでにソヴィエトの石油と小麦の前に震えていたということだ。しかも私は確かな事実を目にしている——彼らは中国の膏血を吸い、中国の土地を奪い、中国の人民を殺しているのだ。彼らは大嘘つきである。彼らがソヴィエトを悪いと言い、ソヴィエトを攻撃しようとするならば、ソヴィエトは良いに決まっている。この一冊は、まさに逆に私の意見の実証となっている。

 一九三二年四月二十日、魯迅、上海閘北の寓楼にて記す。


第7節

【我々はもう騙されない】


 帝国主義は必ずソヴィエトを攻撃する。ソヴィエトがうまくいけばいくほど、彼らはますます急いで攻撃しようとする。なぜなら彼ら自身がますます滅亡に向かうからだ。

 我々は帝国主義とその従僕たちに、実に長いこと騙されてきた。十月革命の後、彼らはいつもソヴィエトがいかに貧しくなっているか、いかに凶悪であるか、いかに文化を破壊しているかと言い続けた。しかし今の事実はどうか。小麦と石油の輸出は、世界を驚かせたではないか。正面の敵たる実業党の首領たちも、わずか十年の禁固刑に処されただけではないか。レニングラードやモスクワの図書館と博物館は、爆破されてはいないではないか。文学者のセラフィモーヴィチ、ファジェーエフ、グラトコフ、セーフリナ、ショーロホフらは、西欧にも東亜にも、その作品を賞賛しない者はないではないか。芸術に関しては私はあまり知らぬが、ウマンスキー(K.Umansky)によれば、一九一九年中にモスクワだけで展覧会が二十回、レニングラードで二回あったという("Neue Kunst in Russland")。それならば現在の隆盛ぶりは推して知るべしだ。

 しかし流言を弄する者は極めて厚顔にして巧妙である。事実が彼の言葉を嘘と証明した途端、彼は姿を隠し、また別の一群が現れる。

 つい先頃、私は一冊の小冊子を見た。アメリカの財政には復興の見込みがあるという内容で、序文にはソヴィエト国内で物品を購入するには長い行列を作らねばならず、今も昔と変わらないと書いてあり、あたかも行列を作る人々のために不平を鳴らし、慈悲を垂れているかのようであった。

 この一事は私も信じる。なぜならソヴィエトの内は建設の途上にあり、外からは帝国主義の圧迫を受けているのだから、多くの物品が充分でないのは当然のことだ。しかし我々はまた他国の失業者たちが、長い列を作って飢寒に向かっていることも聞いている。中国の人民は、内戦の中、外侮の中、水害の中、搾取の大網の下で、長い列を作って死に向かって進んでいるのだ。

 それなのに帝国主義とその奴僕たちは、なおも我々にソヴィエトがいかに良くないかを説く。まるでソヴィエトが一夜にして天国と化し、人々がみな幸福になることを願っているかのようだ。今やこのありさまとなり、失望し、不愉快になった。──これはまさに悪鬼の涙というものだ。

 一たび目を開けば、悪鬼の正体が露わになる──それは懲罰に赴こうとしている。

 一方で懲罰に赴き、一方で誑かしに来る。正義だの、人道だの、公理だのという言葉が、再び天に舞い飛ぶことだろう。しかし我々は覚えている。欧州大戦の時にも一度舞い飛んだのだ。我々の多くの苦力を騙して前線で彼らの代わりに死なせ、その後は北京の中央公園に恥知らずな、愚の骨頂の「公理は勝てり」という牌坊を立てたのだ(もっとも後に改められたが)。今はどうか。「公理」はどこにあるのか。この事はまだ十六年にしかならぬ。我々は覚えている。

 帝国主義と我々の間は、その奴僕を除けば、どの一つの利害が我々と正反対でないというのか。我々の腫れ物は彼らの宝であり、ならば彼らの敵は当然我々の友なのだ。彼ら自身はまさに崩壊しつつあり、支えきれず、己の末運を挽回するために、ソヴィエトの発展を憎む。流言、呪詛、怨恨、ありとあらゆることをしても効き目がなく、ついにはやむを得ず武力を以て叩く準備をし、必ずやそれを滅ぼさねば安眠できぬのだ。だが我々はどうするのか。我々はまた騙されるのか。

 「ソヴィエトは無産階級の独裁であり、知識階級は餓死するのだ」──ある高名な記者がかつて私にこう警告した。なるほど、これは私をもいささか眠れなくさせるかもしれぬ。しかし無産階級の独裁は、将来の無階級社会のためではないか。それを害しようとさえしなければ、成功も自ずと早まり、階級の消滅も早まり、その時には誰も「餓死」しなくなるのだ。言うまでもなく、長い行列はしばらくは免れ得まいが、やがては速くなるであろう。

 帝国主義の奴僕たちが叩きに行こうというなら、自分で(!)その主人について叩きに行けばよい。我々人民と彼らとは利害がまったく正反対なのだ。我々はソヴィエトへの攻撃に反対する。我々はこそソヴィエトを攻撃する悪鬼を打倒すべきなのだ。それがどんなに甘い言葉を弄し、どんなに公正な面を装おうとも。

 これこそ我々自身の生きる道でもある!


 (五月六日。)


第8節

【「第三種の人間」について】


 この三年来、文芸上の論争は沈黙している。指揮刀の庇護の下に「左翼」の看板を掲げ、マルクス主義の中に文芸自由論を発見し、レーニン主義の中に「共匪」を皆殺しにせよという説を見出した論客の「理論」のほかには、ほとんど誰も口を開くことができなかった。ところが「文芸のための文芸」であれば、それでも「自由」なのだ。なぜなら、ルーブルを受け取った嫌疑が絶対にないからである。だが「第三種の人間」、すなわち「文学にしがみついて離さない人間」には、一種の苦痛の予感が免れ得ない――左翼文壇に「ブルジョアジーの走狗」と言われるのではないか、と。

 この「第三種の人間」を代表して不平を訴えたのが、『現代』誌の第三号と第六号に載った蘇汶氏の文章である。(ここでまず断っておかねばならないが、私は便宜上「代表」「第三種の人間」という語を暫く用いたに過ぎない。蘇汶氏の「作家の群れ」は、「あるいは」「多少」「影響」といった不確定な語を拒否するのと同様に、固定した名称を欲しないのだと承知している。名称が固定されれば、自由もなくなるからだ。)彼によれば、左翼の批評家は、ことあるごとに作家を「ブルジョアジーの走狗」と呼び、中立者をすら非中立と認定し、一たび非中立とされれば「ブルジョアジーの走狗」と見なされる可能性がある。「左翼作家」を称する者が「左にして作らず」、「第三種の人間」は作ろうとしても作る勇気がなく、かくして文壇には何もなくなったというのだ。しかも文芸は、少なくともその一部は階級闘争の外にある、将来のための、すなわち「第三種の人間」が抱きしめる真の、永久の文芸であるという。——だが惜しむらくは、左翼の理論家に脅かされて書けなくなったのだと。なぜなら作家は書く前から、罵られるという予感を抱いているからだ。

 この種の予感があり得ることは、私も信じる。「第三種の人間」をもって自任する作家は、なおさら抱きやすいであろう。また作者の言うように、理論を理解しながらも感情が変わりにくい作家が現に少なからずいることも信じる。しかし感情が変わらなければ、理論を理解する度合いも、感情がすでに変わった者やいくらか変わった者とはいささか異なることを免れず、したがって見方も異なってくる。蘇汶氏の見方は、私から見れば、正しくはない。

 無論、左翼文壇が生まれて以来、理論家は誤りを犯してきた。作家の中にも、蘇汶氏の言う「左にして作らず」の者がいただけでなく、左から右へ、さらには民族主義文学の兵卒や、書肆の番頭、敵党のスパイに転じた者までいる。しかし左翼文壇を嫌って去ったこれらの文学者が残していった左翼文壇は、依然として存在しているのだ。存在しているだけでなく、発展し、自らの欠点を克服しながら、文芸という神聖な地へ向けて進軍している。蘇汶氏は問うたことがある——三年も克服して、まだ克服できないのかと。答えはこうだ——そうだ、さらに克服し続ける、三十年かかるかもしれない。しかし一方で克服しながら、一方で進軍しているのであって、克服が完了してから行進するなどという愚かなことはしない。ところで蘇汶氏はかつて「冗談」を言った——左翼作家は資本家から原稿料を受け取っている、と。今度は私が一つ真実を言おう。左翼作家は封建的な資本主義社会の法律による弾圧、禁錮、殺戮を受け続けているのだ。ゆえに左翼の刊行物はすべて壊滅させられ、今では極めて少なく、たまに発表されても作品を批評する者はごく稀であり、たまに批評する者がいても、ことあるごとに作家を「ブルジョアジーの走狗」と指すようなことはなく、「同路人」を拒否してもいない。左翼作家は天から降ってきた神兵でも、国外から攻め込んできた仇敵でもない。共に幾歩か歩む「同路人」を必要とするだけでなく、道端に立って眺めている見物人をも一緒に前進させようとしているのだ。

 だが今、問わねばならない——左翼文壇は現在弾圧を受けて多くの批評を発表できないが、もし一旦発表の可能性が生じた暁には、ことあるごとに「第三種の人間」を「ブルジョアジーの走狗」と指すことはないのか、と。思うに、もし左翼の批評家が言わないと誓っておらず、また悪い方にばかり考えるならば、その可能性はある。これよりさらに悪いことも想像し得る。しかし私はこの種の予測は、地球がいつか砕けるかもしれぬと思って先に自殺するようなもので、まったく不要だと考える。

 ところが蘇汶氏の「第三種の人間」は、この未来の恐怖のために「筆を擱いた」という。まだ身をもって経験してもおらず、ただ心に生じた幻影のために筆を擱くとは、「文学にしがみついて離さない」作者の抱擁力の、何と弱きことか。二人の恋人が、将来の社会からの非難を予防するために抱擁を躊躇するなどということがあろうか。

 実のところ、この「第三種の人間」の「擱筆」の原因は、左翼の批評の厳しさにあるのではない。真の原因は、このような「第三種の人間」になれないことにある。このような人間になれなければ、第三種の筆もなく、擱くか擱かないかは問題にもならぬ。

 階級のある社会に生まれながら超階級の作家たらんとし、戦いの時代に生まれながら戦いを離れて独立せんとし、現在に生まれながら将来に捧げる作品を書こうとする——このような人間は、実は心が作り出した幻影にすぎず、現実の世界には存在しない。このような人間になろうとするのは、ちょうど自分の手で自分の髪をつかんで引っ張り、地球を離れようとするようなもので、離れられず、焦燥するのであるが、しかしそれは誰かが首を振って彼を引き止めたから引っ張る勇気がなくなったのではない。

 ゆえに「第三種の人間」であっても、やはり必ず階級を超越できないのである。蘇汶氏はまず階級的批評を予測しているではないか。作品の中でどうして階級の利害を免れ得よう。また必ず戦いから離れられないのだ。蘇汶氏はまず「第三種の人間」の名をもって抗争を提起しているではないか。もっとも「抗争」の名は氏の望むところではないが。しかも現在を飛び越えることもできない。超階級の、将来のための作品を創る前に、まず左翼の批評に注目しているではないか。

 これはたしかに一種の苦境である。しかしこの苦境は、幻影が実在になり得ないことに起因する。たとえ左翼文壇が邪魔をしなくとも、この「第三種の人間」は存在し得ないのだ。まして作品をや。だが蘇汶氏はまた心に横暴な左翼文壇の幻影を作り上げ、「第三種の人間」という幻影が現れ得ないこと、ひいては将来の文芸が生まれ得ないことの罪を、すべてそれに押しつけたのである。

 左翼作家が高尚でないことは確かだ。連環画や唄本にすぎない。しかし蘇汶氏が断じるほど見込みがないわけではない。左翼もトルストイやフロベールを求める。しかし「将来のために(なぜなら彼らは現在は必要としないのだから)何かを創り出す努力をする」トルストイやフロベールは求めない。二人とも現在のために書いたのだ。将来とは現在の将来であり、現在において意味があってこそ、将来においても意味を持つのだ。とりわけトルストイは、農民に読ませるための小話を書きもし、「第三種の人間」を自称することもなく、当時のブルジョアジーのいかなる攻撃にも、ついに「擱筆」させられることはなかった。左翼は、蘇汶氏の言うように、「連環画からはトルストイもフロベールも生まれない」ことを知らぬほど愚かではないが、ミケランジェロやダ・ヴィンチのような偉大な画家は生み出し得ると考えている。しかも私は、唄本や講談からトルストイやフロベールを生み出すことも可能だと信じる。今日ミケランジェロらの絵について、誰も異議を唱えぬが、実際にはそれは宗教の宣伝画、『旧約聖書』の連環画ではないか。しかも当時の「現在」のためのものだったのだ。

 総括して言えば、蘇汶氏は「第三種の人間」に対して、欺瞞や偽物を作るくらいなら、むしろ努力して創作せよと主張している。これは至極もっともである。

 「自信の勇気があってこそ、仕事の勇気が生まれる!」——これはとりわけ正しい。

 ところが蘇汶氏はまた言う。大小さまざまな「第三種の人間」たちが、不吉の予兆——左翼理論家の批評——を予感したために「擱筆」してしまったと!

 「どうすればよいのか」?


 (十月十日。)


第9節

【「連環画」の弁護】


 私自身にかつてこのような小さな経験があった。ある日、宴席の場で、私はふと言った——活動写真を使って学生を教えれば、教師の講義より良いに決まっている。将来はそうなるだろう、と。話がまだ終わらぬうちに、どっと笑い声に埋もれてしまった。

 もちろんこの話の中には、多くの問題が潜んでいる。例えばまず第一に、どのような映画を使うかであって、もしアメリカ式の金儲けと結婚の物語の映画であれば、当然いけない。しかし私自身は確かに、映画を採用した細菌学の講義を聞いたことがあり、全編写真で数行の説明しかない植物学の書物を見たこともある。だから私は、生物学のみならず、歴史や地理もこのようにできると深く信じている。

 しかし多くの人の何気ない哄笑は、一本の白い チョークのようなもので、相手の鼻に白粉を塗りつけ、その言葉を道化師の戯れ言のようにしてしまう。

 数日前、私は『現代』で蘇汶氏の文章を読んだ。彼は中立的な文芸論者の立場から、「連環画」を一筆で抹殺した。もちろんそれは何気なく触れただけで、絵画を論じる専門的な文章ではなかったが、若い芸術の徒の心中では、おそらく重要な問題であろう。ゆえに私はもう少し述べておこう。

 我々は絵画史の挿図に「連環画」がないのを見慣れ、名家の作品の展覧会には「ローマの夕照」だの「西湖の夕涼み」だのしかないのを見慣れて、連環画は下等なもの、「大雅の堂」に上る資格がないと思い込んでいる。しかしイタリアの教皇宮に入ってみれば——私にはイタリアを旅する幸福はないから、入ったのはもちろん紙の上の教皇宮にすぎないが——偉大な壁画のほとんどすべてが、『旧約聖書』『イエス伝』『聖者伝』の連環画であることがわかる。美術史家がその中の一場面を切り取って書物に載せ、「アダムの創造」「最後の晩餐」と題すれば、読者はこれを下等とも宣伝とも感じないが、その原画はまぎれもなく宣伝の連環画なのだ。

 東洋でも同じである。インドのアジャンター石窟は、英国人が壁画を模写して印刷した後、美術史上に光を放った。中国の『孔子聖蹟図』も、明版であれば、とうに収集家の珍蔵するところとなっている。この二つは、一つは仏陀の本生譚、一つは孔子の事蹟で、明らかに連環画であり、しかも宣伝なのだ。

 書物の挿画はもともと書物を飾り、読者の興味を増すためのものであるが、その力は文字の及ばぬところを補い得るから、一種の宣伝画でもある。この種の画の枚数が極めて多くなると、図像だけで文字の内容を悟ることができるようになり、文字から切り離されると、独立した連環画となる。最も顕著な例はフランスのドレ(Gustave Dore)で、彼は挿図版画の名家であり、最も有名なのは『神曲』『失楽園』『ドン・キホーテ』、さらに『十字軍記』の挿画である。ドイツにはすべて単独の印刷本があり(前二者は日本にも印本がある)、簡単な説明だけで原書の梗概がわかる。しかし誰がドレを芸術家でないと言うだろうか。

 宋人の『唐風図』と『耕織図』は、今なお印本や石刻を見つけることができる。仇英の『飛燕外伝図』と『会真記図』に至っては、翻印本が文明書局で売られている。これらもすべて、当時も今も芸術品なのだ。

 十九世紀後半以降、版画が復興し、多くの作家がしばしば数枚の画を一帖にまとめた「連作」(Blattfolge)を好んで刻印するようになった。これらの連作の中には、一つの事件でないものもある。今、若い芸術の徒のために、版画史上すでに地位を得ている作家と、連続した事実を持つ作品をいくつか書き記しておこう。

 まず挙げるべきはドイツのケーテ・コルヴィッツ(Kathe Kollwitz)夫人である。彼女はハウプトマンの『織工』(Die Weber)のために刻んだ六枚の版画のほかに、三つの連作がある。題名はあるが説明はない——

 一、『農民戦争』(Bauernkrieg)、銅版七枚。  二、『戦争』(Der Krieg)、木版七枚。  三、『プロレタリアート』(Proletariat)、木版三枚。

 『セメント』の版画で中国に知られるメフェルト(Carl Meffert)は、新進の若い作家で、ドイツ語訳のフィグネル著『ツァーリ狩り』(Die Jagd nach Zaren von Wera Figner)のために木版画を五枚刻んだほか、二つの連作がある——

 一、『お前の姉妹』(Deine Schwester)、木版七枚、詩一枚。  二、『養護の門徒』(原名不詳)、木版十三枚。

 ベルギーにはマゼレール(Frans Masereel)がいる。欧州大戦の時、ロマン・ロランと同じく、反戦のために外国に逃れた人物だ。彼の作品は最も多く、すべて一冊の本で、書名のみで小見出しすらない。現在ドイツで普及版(Bei Kurt Wolff, Munchen)が出ており、一冊三マルク半で容易に入手できる。私が見たことのあるものは以下の通り——

 一、『理想』(Die Idee)、木版八十三枚。  二、『我が祈り』(Mein Stundenbuch)、木版百六十五枚。  三、『文字のない物語』(Geschichte ohne Worte)、木版六十枚。  四、『太陽』(Die Sonne)、木版六十三枚。  五、『仕事』(Das Werk)、木版、枚数失記。  六、『一人の人間の受難』(Die Passion eines Menschen)、木版二十五枚。

 アメリカの作家の作品では、シーゲルの木版による『パリ・コミューン』(The Paris Commune, A Story in Pictures by William Siegel)を見たことがある。ニューヨークのジョン・リード・クラブ(John Reed Club)の出版である。もう一冊石版のグロッパー(W.Gropper)の描いた本があり、趙景深教授によれば『サーカスの物語』だという。別の訳し方をすれば「信にして順ならず」の恐れがあるから、原名をそのまま書き写しておく——

 "Alay-Oop" (Life and Love among the Acrobats.)

 英国の作家はあまり知らない。作品の定価が高いからだ。しかしかつて小さな本が一冊あり、木版わずか十五枚と二百字に満たない説明で、作者は有名なギビングズ(Robert Gibbings)、限定五百部であった。英国の紳士は死んでも重版しないから、今はおそらく絶版に近く、一冊数十元はするだろう。その本は——

 『第七の男』(The 7th Man)。

 以上、私の意図は事実を挙げて、連環画が芸術になり得るだけでなく、すでに「芸術の宮殿」の中に座していることを証明したつもりである。これが他の文芸と同様に、良い内容と技術を要することは言うまでもない。

 私は若い芸術の徒に大幅の油絵や水彩画を軽んぜよと勧めるのではない。しかし連環画や書報の挿図を同じように重んじ、努力してほしいと願う。もちろんヨーロッパの名家の作品を研究すべきだが、中国の古書の挿絵や画本、正月の一枚刷りの年画にもさらに注意を向けてほしい。これらの研究とそこから生まれる創作は、今日のいわゆる大作家のように一部の人々から決まりきった賞賛を受けることはないだろうが、私はあえて信じる——これに対して、大衆は見たいのだ、大衆は感謝するのだ、と!


 (十月二十五日。)


第10節

【罵倒と脅迫は断じて戦いではない】

 ——『文学月報』編集者への手紙


 起応兄:

 先日『文学月報』第四号を受け取り、ざっと目を通した。私が物足りなく感じたのは、他の雑誌のような多種多様さに及ばぬからではなく、以前よりも充実したものになりきれていないからだ。しかし今回、何人かの新しい作家を送り出したことは、まことに良い。作品の良し悪しはさておき、近年の刊行物では、かつて名前が活字になったことのある作家でなければ掲載されにくいという傾向があり、このままでは新しい書き手が作品を発表する機会を失ってしまう。今回この局面を打破したことは、一種の月刊の一号にすぎないとはいえ、やはりいくらかの沈滞を払拭したのだから、良いことだと思う。しかし芸生氏の詩には、私は非常に失望した。

 この詩は一目瞭然、前号のベドヌイの風刺詩を読んで作ったものだ。しかし比べてみよう。ベドヌイの詩は自ら「毒辣」と認めているが、その中で最もひどいものでも嘲笑の域を出ない。この詩はどうか。罵倒があり、脅迫があり、さらに無益な攻撃がある。実のところ、書く必要のまったくなかった作品だ。

 例えば冒頭から姓をからかっている。作者が自ら選んだ筆名であれば、そこからその思想を窺うことは自然であり、「鉄血」や「病鵑」の類ならば、ちょっとした冗談を言っても差し支えない。しかし姓氏や出身地は本人の功罪を決定できない。なぜならそれは先祖から伝わったもので、本人が選べるものではないからだ。私がこのことを言ったのはもう四年も前のことで、当時ある人が私を「封建の遺物」と評したが、実はこのような題材をつかんで得意になっている者こそ、はなはだ「封建的」なのだ。もっともこの種の風潮は近年ではあまり見かけなくなっていたのに、今またよみがえったとは、まことに退歩と言わざるを得ない。

 さらに堪え難いのは末尾の罵倒である。近頃の作品の中には、必要でもないのに対話に罵り言葉をたくさん書き込むものがあり、あたかもそうしなければ無産者の作品ではなく、罵れば罵るほど無産者の作品であるかのようだ。実際には、善良な工農の中に、口癖のように罵る者はむしろ少なく、作者は上海のごろつきの行為を彼らに塗りつけるべきではない。たとえ罵り好きな無産者がいたとしても、それはただの悪い癖にすぎず、作者は文芸によってこれを正すべきであって、断じてこれをさらに広め、将来の無階級社会で一言合わなければ祖先三代にわたって喧嘩が収まらなくなるようなことがあってはならない。まして筆戦である以上、他の兵戦や拳闘と同様に、隙を窺い虚に乗じ、一撃をもって敵を仕留めるべきなのだ。もしただ騒ぎ立てるだけなら、すでに『三国志演義』式の戦法であり、親の悪口を一言吐いて悠然と立ち去り、なお勝利と思うに至っては、それはもう「阿Q」式の戦法にほかならない。

 続いて「西瓜を割る」云々の脅迫があるが、これもまことに不当だ。思うに無産者の革命は自己の解放と階級の消滅のためであって、人を殺すためではない。たとえ正面の敵であっても、戦場で死ぬのでなければ、大衆の裁きがある。断じて一人の詩人が筆をもって生死を判定できるものではない。今はなるほど「殺人放火」の噂が飛び交っているが、これはただの誣陥である。中国の新聞からは実情は読み取れないが、他国の例を見ればたちどころに明らかだ。ドイツの無産階級革命(成功はしなかったが)では乱殺はなかった。ロシアでは皇帝の宮殿すら焼かれなかったではないか。それなのに我々の作者は、革命の工農を筆で恐ろしい鬼の顔に塗り上げている。私に言わせれば、まことに軽率の極みである。

 もちろん中国の文壇では昔から、誣陥、流言、脅迫、罵倒がよく見られ、大部の歴史書をめくれば、この種の文章にしばしば出くわす。今日に至ってもなお用いられ、しかもいっそう激しくなっている。しかし思うに、この遺産はすべてポチ犬文芸家に相続させるべきであって、我々の作者がこれを力の限り捨て去らなければ、彼らと「同じ穴の狢」になってしまうだろう。

 ただし私は、敵にへつらい笑いを浮かべて三度お辞儀をせよと主張しているのではない。私はただ、戦闘する作者は「論争」に力を注ぐべきだと言っているのだ。詩人であれば、情が抑えきれず憤り、嘲笑するのも、もちろん構わない。しかし嘲笑に止まり、激しい罵りに止まり、しかも「喜笑怒罵、みな文章を成す」ものでなければならない。敵をこれによって傷つけ、あるいは死に至らしめ、しかも自らには卑劣な行為がなく、見る者も汚らわしいとは思わない——これこそ戦闘する作者の本領なのだ。

 ちょうど以上のことを思いついたので、書き記してお送りする。あるいは編集の参考になるかもしれない。つまるところ、今後の『文学月報』にあのような作品が載らぬことを、私は切に願う。

 以上申し上げ、あわせて

 ご健勝を祈る。


 魯迅。十二月十日。


第11節

【『自選集』自序】


 私が小説を書き始めたのは、一九一八年、『新青年』誌上で「文学革命」が提唱された時のことである。この運動は、今日ではもちろん文学史上の遺物となっているが、当時は疑いなく一つの革命的な運動であった。

 私の作品は『新青年』の上で、歩調はおおむね皆と一致していたから、これらは当時の「革命文学」と見なして差し支えあるまい。

 しかし私は当時「文学革命」に対して、実のところさしたる熱情を持っていなかった。辛亥革命を見、二次革命を見、袁世凱の帝政を見、張勲の復辟を見て、見れば見るほど疑わしくなり、ついに失望し、ひどく頽唐した。民族主義の文学者が今年のある小さな新聞で「魯迅は多疑だ」と言ったのは、その通りだ。私はまさに、この連中も真の民族主義文学者ではあるまいと疑っているところで、変化はまだまだ計り知れないのだ。ただし私はまた自分の失望をも疑った。なぜなら私が見てきた人々や事件は、ごく限られたものだったからだ。この思いが、私に筆を執る力を与えたのである。

 「絶望の虚妄なることは、まさに希望に同じ。」

 「文学革命」に対する直接の熱情でもないのに、なぜ筆を執ったのか。思い返せば、大半は熱情ある人々への共感のためであった。これらの戦士たちは、寂寞の中にあっても、考え方は間違っていない。ならば私も幾声か助勢の声を上げようではないか。まずもって、そのためであった。もちろんその間には、旧社会の病根を曝け出し、人々に注意を促し、手を打って治療してもらいたいという希望も混じっていた。しかしこの希望を達するためには、先駆者たちと同じ歩調を取る必要がある。そこで私はいくらか暗黒を削り、いくらか明るい表情を付け加え、作品にいくらかの明るい色合いを持たせた。それが後にまとめた『吶喊』で、全十四篇である。

 これらはまた、「奉命文学」と言うこともできよう。ただし私が奉じたのは、当時の革命の先駆者たちの命令であり、また私自身が進んで奉じたいと願った命令であって、断じて皇帝の聖旨でもなければ、金元や真の指揮刀でもない。

 その後『新青年』の仲間は散り散りになった。出世した者もあり、隠遁した者もあり、前進した者もある。私はまた、同じ陣営の仲間がこのように変わるものだということを経験し、しかも「作家」という肩書きだけを背負って、依然として砂漠の中をさまよい続けた。ただし今やばらばらの刊行物に文章を書くことを免れず、随便談談と称するほかなくなった。ちょっとした感慨が湧けば短文を書き、大袈裟に言えば散文詩であり、後に一冊にまとめて『野草』と名づけた。まとまった題材が得られた時にはやはり短篇小説を書いたが、ただ遊兵と化してしまい、陣を布くことができなくなったため、技術は以前よりいくらか進歩し、思路もいくぶん自由になったように思われるが、戦意はかなり冷めていた。新しい戦友はどこにいるのか。これは甚だよくない、と思った。そこでこの時期の十一篇をまとめて『彷徨』と名づけ、今後はこのようなありさまでなくなることを願った。

 「路漫漫として其れ修遠なり、吾まさに上下して求索せん。」

 ところがこの大言はたちまち影も形もなくなった。北京を逃れ、廈門に隠れ、ただ大きな建物の上で数篇の『故事新編』と十篇の『朝花夕拾』を書いただけであった。前者は神話、伝説、史実の演義であり、後者はただの回想の記事にすぎない。

 この後は何一つ書かず、「空空如也」であった。

 かろうじて創作と呼べるものは、私にはこの五種しかなく、たちまち読了できるはずのものだが、出版者が自選集を編むよう求めてきた。推測するに、おそらくこうすれば、第一に読者の費用を節約でき、第二に著者の自選ならば他人より格別によく分かるだろうと思ったのであろう。第一については異議はない。第二については、やはり難しいと感じる。なぜなら私にはかつて格別に力を入れた作品も格別に手を抜いた作品もなく、したがって自ら特別に優れていて引き抜くに値すると思える作品もないからだ。仕方なく、題材や手法がいくらか異なり、読者の参考になりそうなものを二十二篇選び出して一冊にまとめたが、読者に「重圧感」を与える作品は、特に力を尽くして抜き去った。これは現在の私なりの考えがあってのことだ——

 「自ら苦しいと思う寂寞を、あの私の若い時分と同じように、まさに美しい夢を見ている青年たちに、再び感染させたくはないのだ。」

 しかしこれは『吶喊』を書いていた頃のような故意の隠蔽ではない。なぜなら今の私は、現在と将来の青年にこのような心境はないだろうと信じているからだ。

 一九三二年十二月十四日、魯迅、上海の寓居にて記す。


第12節

【『両地書』序言】


 この一冊の本は、次のようにして編まれたものである。

 一九三二年八月五日、私は霽野、静農、叢蕪の三人の連名の手紙を受け取った。漱園が八月一日朝五時半、北平の同仁医院で病没したという。皆で遺稿を集め、記念冊を出したいが、私の手元にまだ彼の手紙があるかとの問い合わせであった。これはまことに私の心を突然締めつけた。なぜなら、まず第一に、私は彼の全快を願っていた——おそらく駄目だろうとは分かっていたけれども。次に、おそらく駄目だろうとは分かっていながらも、時にはまったく思い至らず、彼の手紙をすっかり捨ててしまったかもしれないということだ。枕に伏して一字一字書き綴ったあの手紙を。

 私の習慣では、普通の手紙は返事を出したらすぐ捨てるが、その中にいくらか議論や逸話があれば、取っておくこともある。ただこの三年ほどの間に、大量に焼き捨てたことが二度あった。

 五年前、国民党の清党の時、私は広州にいて、甲が捕まり、甲の許から乙の手紙が見つかって乙が捕まり、乙の家から丙の手紙が押収されて丙まで捕まった、という話をしきりに耳にした。いずれも行方知れずであった。昔にも芋蔓式に連座する「瓜蔓抄」があったことは知っていたが、それは昔の話だと思っていた。事実が教訓を与えてくれてはじめて、今の人であることも昔の人であること同様に難しいとはっきり悟ったのだ。それでも私はなお無頓着で、のんびりしていた。一九三〇年に自由大同盟に署名し、浙江省党部が中央に「堕落文人魯迅ら」の逮捕を上申した時、私は家を捨てて逃げる前に、ふと思い立って友人たちからの手紙をすべて焼いた。これは「不軌を謀った」痕跡を消すためではなく、通信のせいで他人に累を及ぼすのは無意味だと思ったからだ。まして中国の役所は、誰でも知っている通り、一たび関わればどれほど恐ろしいことか。その後この難を逃れ、住まいを移し、手紙がまた溜まると、私はまたのんびりしてしまった。ところが一九三一年一月、柔石が逮捕され、そのポケットから私の名前の入ったものが見つかり、私を捜しているという。当然、また家を捨てて逃げなければならなかったが、今度は事態がさらに明白で、当然まずすべての手紙を完全に焼き捨てた。

 このようなことが二度あったから、北平からの手紙を受け取ると直ちに心配になった。おそらくないだろうと思いながらも、箱をひっくり返して探してみたが、案の定跡形もなかった。友人の手紙は一通もない。しかし我々自身の手紙は見つかった。これは自分のものを宝物のように大事にしたからではなく、あの時は時間が限られていたし、自分の手紙はせいぜい自分に累が及ぶだけだから、そのまま置いておいたのだ。その後これらの手紙は砲火の交叉する中に二、三十日横たわっていたが、少しの損傷もなかった。いくつか欠けているものはあるが、おそらく当時自分が注意を払わず、とうに紛失していたのであって、何か官災や兵火のためではあるまい。

 人は一生に横禍に遭わなければ、誰も特別視しないが、もし牢獄に入り、戦場に赴いたことがあれば、たとえ万分の凡人であっても、人々はやはり特別な目で見るものだ。我々がこれらの手紙に対するのも、まさにそうである。以前は箱の底に敷きっぱなしにしていたのに、今やかつて訴訟沙汰になりかけ、砲火にさらされたことを思い出すと、何やら特別な、いとおしいもののように感じられるのだ。夏の夜は蚊が多く、静かに字を書けないので、我々はおおよそ年月順に編纂し、場所によって三集に分け、総じて『両地書』と名づけた。

 つまりこの一冊の本は、我々自身にとっては、ひとまず意味のあるものだが、他の人にとってはそうではない。その中には死だの生だのという熱情もなければ、花だの月だのという佳句もない。文章はといえば、我々はいずれも『尺牘精華』や『書信作法』を研究したことがなく、ただ筆に任せて書いたものだから、文法に背き、「文章病院」入りすべきものが大半だ。語られている内容も、学校の騒動、身辺の事情、食事の良し悪し、天気の晴曇にすぎない。そして最も悪いことに、我々は当時暗い幕の中に暮らし、明暗の区別もつかなかった。自分のことを語る分にはさしたることもないが、一たび天下の大勢を推測しようとすると、たちまち頓珍漢になり、喜びに沸いた言葉も、今から見れば、大方は寝言と化した。もしこの一冊の特色をどうしても褒めよと言うなら、おそらくはその平凡さであろう。こんなに平凡なものは、他の人にはおそらくなく、あっても保存してはいまいが、我々はそうではなかった。これもまた一種の特色と言うほかない。

 しかし奇なことに、この本を印刷しようという書店が現れたのだ。印刷するならすればよい。これは相変わらずのんびりしていて構わないのだが、これによって読者と相まみえることになるから、二点の声明を付け加えて誤解を防がねばならない。その一つ——私は今、左翼作家連盟の一員である。近頃の書籍広告を見ると、作家がひとたび左に傾けば旧作までもが飛翔し、子供の頃の泣き声までが革命文学に合致するという大いなる風潮があるが、我々のこの本はそうではない。革命的な気概はない。その二つ——よく聞く話では、書簡は最も取り繕わず、最も真の姿を示す文章だという。しかし私もそうではない。誰に手紙を書くにしても、最初はいつもうわべだけの、口先だけのものだ。この本の中でも、やや重要なところに来ると、後になってもやはりわざとぼかして書いていることが少なくない。なぜなら我々が暮らしていたのは、「当地の長官」も、郵便局も、校長も……すべてが気ままに信書を検閲できる国だからだ。もちろん、明白な言葉も少なくはないが。

 もう一点、手紙の中の人名について、いくつか改めたものがある。意図は善いものもあれば悪いものもあり、一律ではない。他でもない、ある人は我々の手紙に名が出ることでいくらか不都合があるのを恐れてであり、ある人はただ自分のために、また何やら「審理を待て」などという厄介を省くためにすぎない。

 振り返ってみれば、六、七年来、我々を取り巻く波乱はまことに少なくなかった。絶え間ない苦闘の中で、助けてくれた者もあり、追い打ちをかけた者もあり、嘲笑し誹謗した者もあったが、我々は歯を食いしばり、どうにか六、七年を生き抜いてきた。その間、陰に矢を射る者はみな次第に自ら一層暗い場所に沈んでいったが、好意の友人のうち二人はすでにこの世にいない。漱園と柔石である。我々はこの一冊をもって自らの記念とし、あわせて好意の友人に感謝し、また我々の子供に遺し贈る。将来、我々が経験した真相を知ってもらうためだ。実のところ、おおよそこのようなものであったのだ。

 一九三二年十二月十六日、魯迅。


第13節

【中露の文字の交わりを祝す】


 十五年前、西欧のいわゆる文明国の人々から半開と見なされていたロシアの文学は、世界の文壇において勝利を収めていた。十五年このかた、帝国主義者から悪魔と見なされているソヴィエトの文学は、世界の文壇において勝利を収めている。ここでいう「勝利」とは、その内容と技術の卓越さによって広範な読者を獲得し、しかも読者に多くの有益なものを与えた、という意味である。

 中国においても、この例外ではなかった。

 我々はかつて梁啓超が主宰する『時務報』で、『シャーロック・ホームズ探偵譚』の変幻を読み、また『新小説』で、ジュール・ヴェルヌのいわゆる科学小説『海底旅行』の類の新奇を読んだ。やがて林琴南が盛んにイギリスのハガード(H. Rider Haggard)の小説を訳し始めると、我々はロンドンの令嬢の纏綿とアフリカの蛮人の奇異とを見た。ロシア文学に至っては、まったく何も知らなかった——ただし何人かの、自分の胸中では分かっていながら我々に教えてくれなかった「先覚」の先生方は、もちろん例外だ。しかし別の方面では、すでに感応があった。当時のやや革命的な青年で、ロシアの青年が革命の、暗殺の名手であることを知らぬ者があったろうか。とりわけ忘れ得ぬのはソフィアで、もっとも大半は彼女が美しい娘であったからでもある。今日の国産の作品にも「蘇菲」の類の名前がよく見られるが、その淵源はここにある。

 当時——十九世紀末——のロシア文学、とりわけドストエフスキーとトルストイの作品は、すでにドイツ文学に大きな影響を与えていたが、これは中国とは無関係であった。なぜなら当時ドイツ語を学ぶ者は極めて少なかったからだ。最も関係が深かったのは英米の帝国主義者であり、彼らは一方でドストエフスキー、ツルゲーネフ、トルストイ、チェーホフの選集を翻訳し、他方ではインド人向けに作った読本をもって我々の青年にラーマとクリシュナ(Rama and Krishna)の対話を教えた。しかしこのおかげで、あれらの選集を読む可能性も携えてきたのだ。探偵物語、冒険家、イギリスの令嬢、アフリカの蛮人の物語は、飽食の後に膨れた体を掻く程度のものにすぎない。しかし我々の一部の青年はすでに圧迫を感じ、ただ痛みだけがあった。彼は足掻きたかった。くすぐるような撫で方は要らず、ただ切実な指針を求めていたのだ。

 その時、ロシア文学が目に入った。

 その時、ロシア文学が我々の導師であり友であることを知ったのだ。なぜならそこに、被圧迫者の善良なる魂を、その辛酸を、その足掻きを見たからだ。四〇年代の作品と共に希望を燃やし、六〇年代の作品と共に悲哀を感じた。大ロシア帝国もまさに中国を侵略していることを我々が知らなかったわけではない。しかし文学を通じて一つの大事を理解したのだ——世界には二種類の人間がいる、圧迫する者と圧迫される者と!

 今から見れば、これは誰にでも分かる、言うに足りぬことだが、当時は一大発見であって、古人が火で暗夜を照らし物を煮ることができると発見したのに勝るとも劣らなかった。

 ロシアの作品は次第に中国に紹介されてきた。同時に一部の読者の共鳴を得て、広まっていった。散発的な訳業はさておこう。大部のものとしては、『ロシア戯曲集』十種と『小説月報』増刊の『ロシア文学研究』一大冊があり、さらに『被圧迫民族文学号』二冊がある。これはロシア文学に触発されて、範囲をすべての弱小民族に拡大し、しかも明確に「被圧迫」の文字を掲げたものであった。

 すると文人学士の討伐を蒙った。ある者は文学の「崇高」を主張して、下層民を描くのは卑俗な所業だと言い、ある者は創作を処女に喩え、翻訳は仲人にすぎず、重訳に至っては嫌悪の極みだと言った。たしかに、『ロシア戯曲集』を除けば、当時のロシア作品のほとんどすべてが重訳であった。

 しかしロシア文学はただ紹介され続け、広まり続けた。

 知られる作家の名はさらに増えた。我々はアンドレーエフ(L.Andreev)の作品から恐怖に出会い、アルツィバーシェフ(M.Artsybashev)の作品から絶望と荒唐を見たが、一方でコロレンコ(V.Korolenko)からは寛容を学び、ゴーリキー(Maxim Gorky)からは反抗を感受した。読者大衆の共鳴と愛情は、とうに数人の論客の利己的な曲説で覆い隠せるものではなく、この偉大な力がついには、かつてマンスフィールド(Katherine Mansfield)を崇拝していた紳士にもツルゲーネフの『父と子』を重訳させ、「仲人」を排斥していた作家にもトルストイの『戦争と平和』を重訳させたのだ。

 この間にも、文人学士と流氓スパイの連合軍の討伐を蒙った。紹介者に対して、ルーブルのためだと言う者あり、投降するつもりだと言う者あり、「破鑼」と嘲る者あり、共産党と指す者あり。書籍の禁止や没収は、秘密裏に行われたものが多いため、列挙のしようがない。

 しかしロシア文学はただ紹介され続け、広まり続けた。

 ある人々は『ムッソリーニ伝』も訳し、『ヒトラー伝』も訳した。しかし彼らは現代イタリアやドイツの白色の大作品を一冊も紹介できなかった。『戦後』はヒトラーの旗の下には属さず、『死の勝利』はただ「死」をもって誇るほかない。しかしソヴィエト文学については、我々にはすでにリベジンスキーの『一週間』、グラトコフの『セメント』、ファジェーエフの『壊滅』、セラフィモーヴィチの『鉄の流れ』があった。そのほか中篇短篇も数多い。これらすべてが、御用文人の明暗の矢の中を、大股で読者大衆の懐に飛び込んでいき、一つ一つ変革と戦闘と建設の辛苦と成功を知らしめたのだ。

 だが一ヶ月前、ソヴィエトに対する「世論」が、たちまち一変した。昨夜の悪魔が今朝の良友となり、多くの新聞がソヴィエトの良い点に言及するようになり、時には文芸にも触れる——「復交」ゆえに、と。しかし祝すべきはそこにはない。利己者は水に溺れ、まさに頭まで沈もうとする時、つかめるものなら「破鑼」であろうと破太鼓であろうとつかむのであり、いわゆる「潔癖」など断じてない。しかし結局溺死しようと幸いにして岸に上がろうと、終始一貫して利己者であることに変わりはない。手近な例を一つ挙げよう。上海で「大紙」と称される『申報』は、一方で甘い言葉で「ソヴィエト視察団の組織」を主張し(三二年十二月二十八日社説)、他方では林克多の『ソヴィエト見聞録』を「反動書籍」と呼んでいる(同二十七日ニュース)ではないか。

 祝すべきは、中露の文字の交わりにおいて、始まりこそ中英・中仏より遅かったものの、近十年の間、両国が断交しようと復交しようと、我々の読者大衆はそれによって進退せず、訳本が放任されようと禁圧されようと、我々の読者はそれによって盛衰しなかったということだ。変わらぬだけでなく、拡大した。断交と禁圧にもかかわらず変わらぬだけでなく、断交と禁圧にもかかわらずさらに拡大したのだ。このことは、我々の読者大衆が一貫して、利己的な「勢利眼」でロシア文学を見ていないことを示している。我々の読者大衆は、朦朧たる中に、この偉大にして肥沃な「黒土」から何が生え出るかを早くから知っていた。そしてこの「黒土」もたしかに実を結び、我々の目に見せてくれたのだ——忍耐、呻吟、足掻き、反抗、戦闘、変革、戦闘、建設、戦闘、成功。

 今日、イギリスのショウも、フランスのロランも、いずれもソヴィエトの友となった。これもまた、我々中国とソヴィエトが歴来絶えぬ「文字の交わり」の途上にあって、拡大して世界と真の「文字の交わり」を結ぶ始まりなのだ。

 これこそ我々が祝すべきことである。


 (十二月三十日。)


第14節

【一九三三年】


第15節

【夢を聴き語る】


 夢を見るのは自由だが、夢を語るとなると自由ではなくなる。夢を見るのは本当の夢を見るのだが、夢を語ると嘘を免れ難い。

 元旦早々、『東方雑誌』の新年特大号が一冊届いた。末尾に『新年の夢想』があり、問いは「夢想する未来の中国」と「個人の生活」で、答えたのは百四十余人。記者の苦心は私にも分かる。思うに言論が不自由であるから、夢を語る方がましだろう。しかもいわゆる真話の偽りを語るよりは、夢話の真を語り合う方がよいと考えたのだろう。私は喜んでめくってみたが、記者先生は見事に失敗していたのだった。

 この特大号を手にする前に、ある投稿者に出会っていた。彼は私より先に刷り上がりを見ており、自分の回答は資本家に削除・改竄されたと言った。自分が語った夢は実はあのようなものではないのだと。ここから分かるのは、資本家は人々の夢見ることはまだ禁じられないが、語りに出せば、権力の及ぶ限り干渉するのであり、決して自由にはさせないということだ。この一点だけでも、すでに記者の大失敗である。

 だがこの夢の改竄事件はさておき、書かれた夢境だけを見てみよう。記者の言う通り、回答者のほぼ全員がインテリである。まず、誰もが生活の不安定を感じている。次に、多くの人が将来のよい社会を夢見ている。「各人能力に応じて」だの「大同世界」だのと、かなり「逸脱した」気配がある(最後の三句は私が付け加えたもので、記者はそうは言っていない)。

 だが彼はその後いささか「痴」じみてきた。どこからか拾ってきた学説を使い、百余の夢を二大類に分け、よい社会を夢見るものはすべて「載道」の夢であり「異端」だとし、正統の夢は「言志」であるべきだとして、「志」をむりやり空虚なものにしてしまった。しかし孔子が「盍ぞ各々爾の志を言わざる」と言いながら、結局は曾点を賞賛したのは、その「志」が孔子の「道」に合っていたからにほかならないのだ。

 実のところ記者のいう「載道」の夢の中には、それに該当するものはごく少ない。文章は目覚めている時に書かれたものであり、問題も「心理テスト」めいたものであるから、回答者は自分の現在の職業、地位、身分にそれぞれふさわしい夢を作り出さざるを得なかったのだ(削除・改竄された者はもちろんこの例ではない)。たとえいかに「載道」に見えようとも、将来のよい社会のための「宣伝」の意図はない。ゆえに「皆が飯を食える」ことを夢見る者もあり、「無階級社会」を夢見る者もあり、「大同世界」を夢見る者もあるが、こうした社会の建設に先立つ階級闘争、白色テロ、爆撃、虐殺、鼻に唐辛子水を注ぐ拷問、電気拷問……を夢見る者はごく少ないのだ。これらを夢見なければ、よい社会はやって来ない。いかに明るく書こうとも、結局は夢にすぎず、空手形の夢にすぎず、語ったところで、人々をみなこの空手形の夢境に入れるだけだ。

 しかしこの「夢」境を実現しようとする人々はいる。彼らは語るのではなく行う。将来を夢見つつ、その将来に到達するための現在に力を尽くすのだ。この事実があるからこそ、多くのインテリが「載道」めいた夢を語らずにいられないのだが、実は「載道」ではなく「道」に載せられたのであり、簡潔に言えば「道載」と呼ぶべきだろう。

 なぜ「道に載せられた」のか。曰く——目下および将来の飯の問題のためだ。

 我々はまだ旧思想に束縛されており、食のことを口にすると卑俗に近いと感じる。だが私は回答者諸公を軽視する気は毛頭ない。『東方雑誌』の記者も「読後感」の中でフロイトの見解を引き、「正統」の夢は「各人の心底の秘密を表し、社会的作用を帯びないもの」だと述べた。しかしフロイトは抑圧を夢の根底としている——人はなぜ抑圧されるのか。これは社会制度や習慣と結びつく。夢を見るだけなら構わないが、語り、問い、分析すれば、たちまち具合が悪くなる。記者はここに思い至らず、資本家の朱筆にぶつかったわけだ。しかし「抑圧説」による解夢を引くことには、もう皆さん異議はあるまい。

 もっともフロイトにはいくらか金があり、腹一杯食べていたのであろう。だから食の難しさを感じず、性欲にばかり注目したのだ。同じ境遇にある多くの人々も、それで喝采を送った。なるほど彼は、娘は父を愛し息子は母を愛すと教えた。異性ゆえである、と。しかし嬰児は生まれて間もなく、男女を問わず、唇を尖らせて首をあちこちに向ける。まさか異性に接吻したいのではあるまい。いな、誰でも知っている——食べ物を欲しがっているのだ!

 食欲の根底は、実は性欲よりもさらに深い。今日、口を開けば恋人、口を閉じれば恋文と、少しも気恥ずかしいとは思われぬ時代であるから、我々も飯を食いたいと言って一向に差し支えない。目覚めてみる夢だから、いくらかは嘘が混じるのは免れないが、題目がそもそも「夢想」であり、しかも記者先生の言う通り、我々は「精神の追求より物質の必要がはるかに大きい」のだ。そこで検閲官(Censors)(これもフロイトの用語を借りた)の監視が解かれたように見える折に、一部を公開したのだ。実のところやはり「夢の中でビラを貼り、スローガンを叫ぶ」のと同じだが、ただ積極的ではないというだけで、中には表面の「スローガン」とまったく正反対のものもあるかもしれない。

 時代はこのように変化し、飯の種はこのように困難であるから、今と将来を思えば、ある人々はこのように夢を語るほかないのだ。同じ小ブルジョアジーとして(「封建の遺物」だの「土着ブルジョアジー」だのと定める人もいるが、私はさしあたり自分をこの階級に属するとしておく)、互いに心を通じ合えるのであり、秘して語らずにおく必要もないのだ。

 隠士を夢見、漁樵を夢見、本来の姿とまるで違う名士たちに至っては、実は飯碗の脆さを予感しつつ、食い扶持の範囲を広げようとしているのだ。朝廷から園林へ、洋場から山沢へ。上に述べた者たちよりはるかに志が大きいが、ここでは多くは言うまい。


 (一月一日。)


第16節

【「難に赴く」と「難を逃れる」について】

 ——『涛声』編集者への手紙


 編集先生:

 私はいつも『涛声』を読み、しばしば「快なるかな」と叫んでいる。しかし今回、周木斋氏のあの『罵ることと自ら罵ること』を読み、その中で北平の大学生について「たとえ難に赴くことができぬとも、最低の最低の線として難を逃れるべきでない」と述べ、五四運動時代の鋒芒の消え失せたことを嘆いているのを見て、喉に骨が刺さったようで、一言せずにはいられなくなった。なぜなら私は周氏の主張とまさに正反対であり、「もし難に赴くことができぬなら、難を逃れるべきだ」と考える「逃難党」に属するからだ。

 周氏は文章の末尾で「北京が北平に改称された報いではないか」と疑っているが、半分は当たっていると思う。当時の北京はまだ「共和」の仮面をかぶっており、学生が騒いでもさしたることはなかった。当時の執政は、先日上海で十八団体が「上海各界段公芝老歓迎大会」を催した段祺瑞先生であり、彼は武人ではあったが、まだ『ムッソリーニ伝』を読んではいなかった。ところがどうだ。ある時、請願の学生に向かってパチパチと発砲し、兵士たちが最も好んで狙ったのは女子学生であった。これは精神分析学で説明がつく。とりわけ断髪の女子学生である。これは風紀粛正の学説で説明がつく。要するに幾人かの「学徒」が死んだ。しかしまだ追悼会は開けた。まだ執政府の門前を行進して「段祺瑞を打倒せよ」と叫ぶことができた。なぜか。まだ「共和」の仮面をかぶっていたからだ。ところがどうだ、また来た。今は党国の大教授たる陳源氏が、『現代評論』で死んだ学生を悼み、数ルーブルのために命を落として惜しいと言い、『語糸』が反論すると、今は党国の要人たる唐有壬氏が『晶報』に書簡を発表し、これらの言動はモスクワの命令によるものだと言った。これにはすでに北平の匂いがあった。

 その後、北伐が成功し、北京は党国に属し、学生たちは研究室に入る時代となり、五四式は正しくないとされた。なぜか。「反動派」に利用されやすいからだという。この悪い癖を矯正するために、我々の政府、軍人、学者、文豪、警察、探偵は、実に少なからぬ苦心を払った。詔勅で、刀槍で、書報で、鍛練で、逮捕で、拷問で。ついに昨年、請願に行った者の死は皆「自ら足を踏み外して水に落ちた」ことになり、追悼会すら開かれなくなった時、ようやく新教育の効果が現れたのである。

 もし日本がこれ以上山海関を攻めなければ、天下は太平であったろう。「まず内を安んじて然る後に外を攘う」べきなのだ。しかし恨めしいことに、外患の来るのがいささか早すぎ、いささか多すぎたのだ。日本人が中国の諸公のために考えてくれなさすぎたのだ。そしてこのためにまた周氏の非難を招いたのである。

 周氏の主張によれば、最善は「難に赴く」ことらしい。しかしこれは難しい。もし以前から組織があり、訓練を経て、前線の軍人が力戦の後に人員が不足し、副司令が召集令を下したなら、当然行くべきだ。しかし残念ながら昨年の事実によれば、汽車すらただでは乗れず、まして平素学んだのは債権論、トルコ文学史、最小公倍数の類である。日本と戦っても、到底勝てまい。大学生たちはかつて中国の兵警と喧嘩をしたことがあるが、「自ら足を踏み外して水に落ちた」のだ。今、中国の兵警すら不抵抗であるのに、大学生に抵抗できるだろうか。なるほど我々は慷慨激昂の詩を見てきた。死体で敵の砲口を塞ぐだの、熱血で倭奴の刀槍を固めるだの。しかし先生、これは「詩」なのだ。事実はそうではない。蟻よりもみじめに死に、砲口も塞げず、刀槍も固められない。孔子曰く「教えざる民を以て戦わしむ、之を棄つと謂う」。私は孔老先生をすべて崇拝するわけではないが、この言葉は正しいと思う。私もまた大学生が「難に赴く」ことに反対する一人なのだ。

 では「難を逃れない」のはどうか。これにも私はまったく反対だ。なるほど今は「敵は未だ至らず」であるが、万一来た時、大学生たちは素手で賊を罵って死ぬのか、それとも家に隠れて幸いを図るのか。前者の方が堂々としており、将来烈士伝の一冊にもなろう。しかし大局にはやはり何の補いにもならない。一人であれ十万人であれ、せいぜいまた「国際連盟」に報告するだけのことだ。昨年十九路軍のなにがし英雄がいかに敵を殺したか、皆が得意になって語り、そのために全線百里の撤退という大事を忘れてしまった。しかし中国は実はやはり負けたのだ。まして大学生には武器すらない。今、中国の新聞は「満洲国」の暴政を大々的に報じ、武器の私蔵を許さないと言うが、我々大中華民国の人民が身を守るものを一つ隠してみよ。家が滅び人が亡ぶ——先生、これは甚だ「反動派に利用されやすい」のだ。

 獅子や虎の教育を施せば、彼らは爪牙を使える。牛や羊の教育を施せば、万が一の時にはまだ哀れな角を使える。しかし我々が施したのは何式の教育か。小さな角すら持てず、大難が頭上に迫れば、兎のように逃げるほかない。もちろん逃げても安全とは限らない。どこが安全かは誰にも分からない。至る所に猟犬が繁殖しているのだ。詩に曰く「趯趯たる毚兔、犬に遇いて之を獲る」。これこそ三十六計、やはり「走」を上計とする所以なのだ。

 要するに私の意見はこうだ——大学生を買いかぶりすぎてはならず、責めすぎてもならない。中国は大学生だけに頼ることはできない。大学生は逃げた後で、今後いかにすればただ逃げるだけで終わらずに済むか、詩境を脱して実地に足を踏み入れるべきかを考えるべきだ。

 先生のお考えはいかがであろうか。『涛声』に掲載し、一説に備えていただけるだろうか。ご裁択を仰ぎ、あわせて

 文安を祈る。

 羅怃頓首。

 一月二十八日夜。


 追伸:十日ほど前、北平で学生五十余名が集会のかどで逮捕されたと聞く。逃げていない者もまだいたことが分かるが、罪名は「抗日を口実にし、反動を企図す」であった。「敵は未だ至らず」とも、やはり大いに「難を逃れる」べきだということか。

 二十九日追記。


第17節

【学生と玉仏】


 一月二十八日『申報』号外に二十七日の北平特電が載っていた。曰く「故宮の古物はまもなく搬出される。北寧・平漢両鉄路はすでに車輌の用意を命ぜられ、団城の白玉仏も南方に運ばれる見込み。」

 二十九日の号外にはまた二十八日の中央社電による教育部から北平各大学への電報が載っていた。略して曰く「各報によれば、山海関の戦況緊迫の折、北平各大学に試験放棄および繰り上げ休暇の風潮ありとの由、調査の結果事実と確認す。大学生は国民の中堅たる分子にして、みだりに驚き騒ぎ、校規を乱すことは断じて容認し難し。学校当局は今に至るも報告を怠り、寛縦に近きは、また是とせず。各校は速やかに学生の試験放棄および繰り上げ休暇の状況を詳報し、処分を仰ぐべし。あわせて次学期の授業開始日を報告すべし。」

 三十日、「堕落文人」周動軒先生これを見て、嘆じて詩に曰く——


  寂寞たる空城に在り、蒼皇として古董を遷す。   頭目は大口を誇り、面子は中堅に頼る。   驚擾は豈に妄ならんや、奔逃は只自ら憐れむ。   嗟ずるところは玉仏に非ずして、一文銭にも値せざるを。


第18節

【忘却のための記念】


 一


 私はとうの昔に、何人かの若い作家を記念する文章を書こうと思っていた。これは他でもない、二年来、悲憤が絶えず私の心を襲い、今なお止まないからだ。私はこの機会に身を一振りして悲哀を振り落とし、自分を少し楽にしたい。正直に言えば、私はむしろ彼らを忘却してしまいたいのだ。

 二年前の今頃、すなわち一九三一年の二月七日の夜か八日の朝、我々の五人の若い作家が同時に害された。当時上海の新聞はいずれもこの事件を報じる勇気がなく、あるいは報じたくなかったのか、報じる価値がないと思ったのか、ただ『文芸新聞』にいくらか曖昧な記事があるだけだった。その第十一号(五月二十五日)に、林莽氏の『白莽印象記』という一篇があり、その中にこうあった——


 「彼は多くの詩を作り、またハンガリーの詩人ペテーフィの詩を数篇訳した。当時の『奔流』の編集者魯迅は彼の投稿を受け取ると、手紙を寄こして会いたいと言ったが、彼は名士に会いたがらない性分で、結局は魯迅の方から彼を訪ねていき、しきりに文学の仕事をするよう励ましたが、彼はついに屋根裏部屋に座って書くことはできず、またその道を走りに出かけた。間もなく、彼はまた一度逮捕された。……」


 ここに書かれた我々の間のことは、実は正確ではない。白莽はそれほど高慢ではなく、私の住まいに来たことがある。しかしそれは私が会いたいと求めたからでもない。私もそれほど高慢ではなく、面識のない投稿者に軽率に手紙を書いて呼びつけたりはしない。我々が会った理由はごく平凡で、当時彼の投稿はドイツ語から訳した『ペテーフィ伝』であり、私は手紙を出して原文を求めた。原文は詩集の前に載っていて郵送に不便であったから、彼が自ら持参したのだ。二十歳余りの青年で、顔立ちは端正、肌の色は黒かった。当時の会話は忘れたが、自ら姓は徐、象山の人だと言ったことだけは覚えている。なぜ彼宛ての手紙を受け取る女性がそんな奇妙な名前なのかと尋ねると(どう奇妙だったかは今は忘れた)、彼女はそういう変な名前をつけるのが好きで、ロマンティックなのだ、自分もいささか彼女とは合わなくなったと言った。残っているのはこれだけだ。

 夜になって、訳文と原文を大まかに照合してみると、数箇所の誤訳のほかに、一つの故意の曲訳があることがわかった。彼は「国民詩人」という語が気に入らないらしく、すべて「民衆詩人」に改めていたのだ。翌日また手紙を受け取った。会ったことをとても後悔していると書いてあった。自分は話が多く、私は話が少なく、しかも冷たくて、何か威圧を受けたようだったと。私は返信を書いて弁解した。初対面で話が少ないのも人の常であると。そして自分の好悪によって原文を改変すべきでないと告げた。彼の原書は私の手元に残っていたので、私の蔵書の二冊を彼に贈り、さらに数篇の詩を訳して読者の参考に供してもらえないかと尋ねた。彼は果たして数篇を訳し、自ら持参した。我々は


第19節

前回よりいくらか多く語り合った。この伝記と詩は、後に『奔流』第二巻第五号、すなわち最終号に掲載された。

 我々の三度目の会見は、ある暑い日だったと記憶している。誰かが戸を叩いた。開けてみると、来たのは白莽であったが、厚い綿入れの袍を着て、汗みずくであった。互いに思わず笑った。この時はじめて彼は自分が革命家であることを告げた。逮捕されて釈放されたばかりで、衣服も書物も没収され、私が贈ったあの二冊もなくなった。身にまとっている袍は友人から借りたもので、袷の衫がないが、長衣を着ねばならぬから、こうして汗をかくほかないのだと。これがおそらく林莽氏の言う「また一度逮捕された」あの時であろう。

 私は彼の釈放を大いに喜び、急いで原稿料を渡して袷の衫を買えるようにしたが、一方であの二冊の本のことが惜しくてならなかった——捕物方の手に落ちるとは、まさに明珠暗に投ずだ。あの二冊は、もともと極めて平凡なもので、一冊は散文、一冊は詩集であった。ドイツ語の訳者によれば、ハンガリー本国にもこれほど完全な本はまだないとのことだが、レクラム万有文庫(Reclam's Universal-Bibliothek)に入っており、ドイツであれば至る所で手に入り、一元にも満たない。しかし私にとっては宝であった。なぜならこれは三十年前、まさに私がペテーフィに熱中していた頃、わざわざ丸善書店に頼んでドイツから取り寄せたもので、本が安すぎて店員が取り次いでくれまいかと、口にする時は甚だ不安であった。その後はだいたい身辺に置いていたが、ただ情は事と共に移り、もはや翻訳の意はなくなっていた。今回はこの、私のかつてと同様にペテーフィの詩を愛する青年に贈り、良い行き先を見つけたつもりであった。だからこそ鄭重に、柔石に頼んで手ずから届けさせたのだ。それが「三道頭」の類の手に落ちようとは、何という冤枉であろうか!


 二


 私が投稿者と会おうとしないのは、実は謙虚のためばかりではなく、面倒を省く意味も少なくない。長年の経験から、青年たち、とりわけ文学青年の十中八九は感覚が鋭敏で自尊心が旺盛であり、少しでも油断すれば誤解を招きかねないことを知っている。だから故意に避けることの方がむしろ多いのだ。会うことすら怖いのだから、何かを託すなどはなおさらだ。しかし当時上海で、気兼ねなく談笑できるだけでなく、私事を頼むことすらできた唯一の人がいた。それが白莽に本を届けてくれた柔石である。

 柔石と最初に会ったのがいつ、どこであったか、覚えていない。彼はたしか、北京で私の講義を聴いたことがあると言っていたから、八、九年前のことだったろう。上海で付き合いが始まったいきさつも忘れたが、とにかく彼は当時景雲里に住んでおり、私の住まいからわずか四、五軒隔てただけで、いつの間にか行き来するようになった。おそらく最初の時に、姓は趙、名は平復だと教えてくれた。しかし彼はまた故郷の豪紳の威勢について語ったことがある。ある紳士が彼の名が良いので息子に使いたいから、この名を使うなと言ったという。だから私は彼の本名は「平福」ではなかったかと疑っている。「平穏にして福あり」であれば郷紳の意に適うが、「復」の字にはそれほど熱心にはなるまい。彼の故郷は台州の寧海で、彼のあの台州式の頑固さを見れば一目瞭然だが、いくらか朴訥でもあり、時として方孝孺を思い出させ、あのような風貌でもあったかと感じることがあった。

 彼は住まいに籠もって文学に励み、創作もすれば翻訳もした。我々は長く行き来するうちに意気投合し、別に数人の同意した青年を誘い、朝花社を設立した。目的は東欧・北欧の文学を紹介し、外国の版画を輸入することで、我々はいずれも剛健で質朴な文芸を少しでも育てるべきだと考えていたからだ。続いて『朝花旬刊』を印刷し、『近代世界短篇小説集』を印刷し、『芸苑朝華』を印刷した。すべてこの路線に沿ったものだが、その中の一冊『蕗谷虹児画選』だけは、上海灘の「芸術家」を掃蕩すること、すなわち葉霊鳳という張子の虎の正体を暴くために印刷したものだ。

 しかし柔石自身に金はなく、二百余元を借りて印刷費に充てた。紙の購入を除けば、原稿の大部分と雑務はすべて彼の仕事であった。印刷所への走りから製図、校正まで。しかし往々にして思うようにいかず、話すたびに眉をひそめていた。彼の旧作を読むと、いずれも悲観的な気分が漂っているが、実際の彼はそうではなく、人々は善良であると信じていた。私が時折、人はどのように人を騙し、どのように友を売り、どのように血を啜るかを話すと、彼は額をきらきらと光らせ、驚いたように近眼の目を丸く見開いて抗議した。「そんなことがあるものですか——そこまではないでしょう……」

 しかし朝花社は間もなく倒産した。その原因をここで明らかにするつもりはないが、要するに柔石の理想の頭がまず大きな釘にぶつかったのだ。力は無駄になっただけでなく、さらに百元を借りて紙代を払わねばならなかった。その後、彼は私の「人心惟危」説に対する疑いをいくらか減らし、時には嘆息した。「本当にそうなのでしょうか……」しかしそれでも彼は、人々は善良であると信じ続けた。

 彼はそこで一方では朝花社の残った本のうち自分の取り分を明日書店と光華書局に送り、いくらかでも金を回収したいと願い、他方では懸命に翻訳をして借金を返す準備をした。これが商務印書館に売った『デンマーク短篇小説集』とゴーリキーの長篇小説『アルタモーノフ家の事業』である。しかし思うに、これらの訳稿はおそらく昨年の兵火で焼けてしまったであろう。

 彼の朴訥さは次第に変わっていき、ついには女性の同郷人や友人と一緒に歩くことも敢えてするようになった。ただしその距離は、少なくとも三、四尺は常にあった。この方法は甚だよくない。時々路上で彼に出くわすと、三、四尺の前後左右に若くて綺麗な女性がいれば、彼の友人ではないかと疑ったものだ。しかし彼が私と一緒に歩く時は、ぴったりと寄り添い、まったく私を支えるようにした。自動車や電車に轢かれるのを恐れてのことだ。私の方も彼が近眼でしかも他人を気遣うのが心配で、二人とも慌てふためいて道中ずっと気を揉んだ。だからやむを得ない場合を除いて、私はあまり彼と一緒には外出しなかった。彼が骨を折っているのを見ると、私もまた疲れるのだった。

 旧道徳であれ新道徳であれ、自己を犠牲にして人を利するものであれば、彼はそれを選び取り、自ら背負うのだった。

 彼はついに決然と変わった。ある時、はっきりと私に告げた。今後は作品の内容と形式を転換すべきだと。私は言った。それは難しかろう。例えば刀を使い慣れた者に、今度は棍を振れと言っても、できるものか。彼は簡潔に答えた。「学べばよい!」

 彼の言葉は空言ではなく、本当に一から学び始めていた。その頃、彼は一人の友人を連れて私を訪ねた。それが馮鏗女史であった。しばらく話したが、私は結局彼女に対してよそよそしさを覚えた。彼女はいくらかロマンティックで、功を急ぎすぎるのではないかと疑った。また柔石が近頃大部の小説を書こうとしているのは、彼女の主張に発するのではないかとも疑った。しかし一方で自分自身をも疑った。もしや柔石の先ほどの断固たる答えが、実は私の怠惰な主張の痛いところを突いたので、無意識のうちに彼女に八つ当たりしているのではないかと。——私は実のところ、自分が会うのを恐れる神経過敏で自尊心の強い文学青年よりも高明なわけではない。

 彼女の体質は弱く、容貌も美しくはなかった。


第20節


 左翼作家連盟が成立してはじめて、私は自分の知っていた白莽が、『拓荒者』で詩を書いている殷夫であることを知った。ある大会の時、私はドイツ語訳の、あるアメリカのジャーナリストが書いた中国旅行記を一冊持参して彼に贈ろうとした。ドイツ語の練習になるだろうと思っただけで、他に深い意はなかった。しかし彼は来なかった。やむを得ずまた柔石に託した。

 だがまもなく、二人は共に逮捕され、私のあの本もまた没収されて「三道頭」の類の手に落ちたのだ。


 四


 明日書店が雑誌を出すことになり、柔石に編集を頼んだ。彼は引き受けた。書店はまた私の訳著を出したいと考え、彼に版税の方法を尋ねさせた。私は北新書局と結んだ契約を一部写して渡すと、彼はポケットにぐいと押し込み、慌ただしく去った。時は一九三一年一月十六日の夜であった。まさかこれが彼との最後の対面になるとは、まさかこれが永訣になるとは。

 翌日、彼はある集会の場で逮捕された。ポケットにはまだ私の印刷契約が入っていた。聞くところでは、官憲はこのため私を捜しているという。印刷の契約は明明白白のものだが、あの不明不白な場所に弁解に行きたくはない。たしか『説岳全伝』に、ある高僧が追捕の差役が寺門に到着する直前に「坐化」した話があった。「何立は東より来たり、我は西方に向かう」という偈すら残している。これは奴隷が幻想する苦海からの脱出の唯一の好方法であり、「剣侠」は望めず、最も自在なるはただこれのみだ。私は高僧ではないから、涅槃の自由はない。しかし生への未練はある。そこで私は逃げた。

 その夜、友人たちの古い手紙を焼き、妻と子を抱えてある旅館に駆け込んだ。数日もしないうちに、外では私が逮捕されたとか殺されたとか盛んに噂されたが、柔石の消息はごく少なかった。巡査に連れられて明日書店に行き、編集者かどうか問われたという者もあり、巡査に連れられて北新書局に行き、柔石かどうか問われたという者もあった。手に手錠がかけられていたというから、事件は重大であることが分かる。しかしどのような事件かは、誰にも分からなかった。

 彼が獄中にいた間、同郷人に宛てた手紙を二通見た。


第21節

第一通はこうであった——


 「私は三十五人の同囚(うち女七人)と共に昨日龍華に移されました。昨夜足枷をつけられ、政治犯に足枷をつけた前例のない記録を作りました。この事件は巻き添えが大きすぎ、しばらくは出獄できそうにありません。書店のことはどうか兄が代わって処理してください。今のところは元気で、殷夫兄からドイツ語を習っています。このことは周先生にお伝えください。周先生にはご心配なきよう、我々は拷問を受けていません。捕物方と公安局が何度か周先生の住所を聞きましたが、私が知るはずがありません。皆様、ご心配なく。ご健勝を祈ります!

 趙少雄   一月二十四日。」

 以上表面。


 「ブリキの飯碗、二、三個ほしい

 もし面会できなければ、品物を

 趙少雄に転送してください」


 以上裏面。

 彼の心境は変わっておらず、ドイツ語を学びたがり、さらに努力していた。また依然として私のことを気にかけてくれていた。路上を歩いている時と同じように。しかし手紙にはいくつか誤りがある。政治犯に足枷をつけたのは、彼らから始まったのではない。だが彼はもともと官界を高く見すぎていて、文明が今日に至り、彼らにして初めて過酷が始まったと思ったのだ。実はそうではない。果たして、二通目の手紙はまるで違い、措辞は極めて悲惨で、馮女史の顔はむくんでいるとも書いてあった。惜しいことにこの手紙は写し取らなかった。その頃、噂はさらに錯綜した。身請けできるという者もあれば、南京に送られたという者もあり、確かな知らせは一つもなかった。手紙や電報で私の消息を尋ねてくる者も増え、北京にいる母も心配のあまり病に倒れた。私は一つ一つ手紙を出して訂正するほかなかった。こうしたことがおよそ二十日続いた。

 天気はますます寒くなった。柔石はあの場所に布団があるのだろうか。我々にはある。ブリキの碗は届いたのだろうか……しかし突然、確かな知らせが入った。柔石とほかの二十三人は、二月七日の夜か八日の朝、龍華の警備司令部で銃殺された。彼の体には十発の弾が撃ち込まれていた。

 そうだったのか……

 ある深夜、私は旅館の中庭に立っていた。周囲にはがらくたが積まれていた。人々はみな眠っていた。私の妻も子も。私は重く感じた。私は非常に良い友人を失った。中国は非常に良い青年を失ったのだ。私は悲憤の中で静まっていった。しかし積年の癖が静寂の中から頭をもたげ、次のような数句を綴った——


 「長き夜を春に過ごすに慣れて、妻を携え幼きを将いて鬢に糸あり。夢裡依稀たり慈母の涙、城頭に変幻す大王の旗。忍びて朋輩の新鬼と成るを看、怒りて刀叢に小詩を覓む。吟じ畢わりて眉を低れて写す処無し、月光水の如く緇衣を照らす。」


 しかし末二句は、後に正確ではなくなった。私はついにこれを一人の日本の歌人に書き送ったからだ。

 だが中国では、当時は確かに書く場所がなかった。罐詰よりも厳密に封じ込められていた。柔石は年末に故郷に帰り、だいぶ長く滞在してから上海に戻ったので、友人たちにひどく叱られたことを覚えている。彼は悲憤して私に言った。母は両眼がすでに失明しているのに、もう少しいてくれと言うのだ。どうしてすぐに発てるだろうかと。私はこの失明した母の切々たる心と、柔石の拳々たる心を知っている。『北斗』が創刊された時、私は柔石について何か書きたいと思ったが、書けなかった。やむを得ずコルヴィッツ(Kathe Kollwitz)夫人の木版画を一枚選んだ。『犠牲』と題するもので、母が悲しみをもってその子を捧げる図である。私一人の心の中だけで知る、柔石への記念とした。

 同時に難に遭った四人の若い文学者のうち、李偉森には会ったことがない。胡也頻とは上海で一度だけ会い、少し話をしただけだ。比較的よく知っていたのは白莽、すなわち殷夫である。彼とは手紙を交わし、原稿のやり取りもしたが、今探してみると何一つ見つからない。おそらくあの十七日の夜にすべて焼いてしまったのだろう。その時はまだ逮捕された者の中に白莽がいることを知らなかったのだ。しかしあの『ペテーフィ詩集』はあった。一遍めくってみたが、何もない。ただ一篇の『Wahlspruch』(格言)の傍らに、鋼筆で四行の訳文が書かれていた——


 「生命は誠に貴けれど、  愛情の価はなお高し。  もし自由のためならば、  この二つともに抛つべし!」


第22節

また二頁目に「徐培根」と三字書いてあった。これが彼の本名ではないかと思う。


 五


 一昨年の今日、私は旅館に隠れていた。彼らは刑場に向かっていた。昨年の今日、私は砲声の中を英租界に逃げ込んでいた。彼らはとうに、どこかも分からぬ地の下に埋められていた。今年の今日、ようやく旧居に座っている。人々はみな眠っている。私の妻も子も。私はまた重く感じた。私は非常に良い友人を失った。中国は非常に良い青年を失ったのだ。私は悲憤の中で静まっていったが、思いがけず積年の癖がまた静寂の中から頭をもたげ、以上の文字を書き下ろした。

 書き続けたいが、中国の現在では、やはり書く場所がないのだ。若い頃、向子期の『思旧の賦』を読み、なぜわずか数行しかなく、書き出したかと思えばすぐに終わっているのかと不思議に思った。しかし今、私には分かった。

 若者が老人のために記念を書くのではなく、この三十年の間に、私は多くの青年の血を目の当たりにしてきた。層々と淀み積もり、私を埋めて息もできぬほどになった。私はただこのような筆墨をもって数句の文章を書き、泥土の中に小さな穴を穿って、自ら辛うじて息をつぐのだ。これはいかなる世界であろうか。夜はまさに長く、道もまた長い。私はむしろ忘却し、語らぬがよかろう。しかし知っている。たとえ私でなくとも、将来必ず彼らを思い出し、再び彼らのことを語る時が来ることを。……


 (二月七—八日。)


第23節

【『ショーバーナード・ショウ上海にて』序】


 今日のいわゆる「人間」は、体の外側に何かを纏わねばならない。絹でも、毛織物でも、紗でも葛でも構わない。乞食にまで落ちぶれても、少なくとも破れた褌一つは要る。いわゆる未開人でさえ、下腹の前後に草の葉を一列並べていることが多い。大庭広衆の前でこれを自ら脱ぐか、あるいは人に剥がされれば、人間の体をなさぬということになる。

 見苦しくはあるが、見たがる者はいる。立ち止まって見る者もあり、ついて行って見る者もある。紳士淑女は一斉に目を覆うが、指の隙間からちらりと覗く者もいる。要するに他人の赤裸々を見たがりながら、自分の衣服はきちんと整えておくのだ。

 人の話も、大抵は絹から草の葉に至るまでの何かに包まれている。もしこれを剥ぎ取れば、人々はそれを聞きたがりもし、恐れもする。聞きたがるから群がり、恐れるから特別にそれに名をつけ、自分たちに対する威力を減じようとする。「諷刺」と名づけ、この種の話をする人を「諷刺家」と呼ぶのだ。

 バーナード・ショウが上海に着くや、タゴールの時よりもさらに大騒ぎになった。ピリニャーク(Boris Pilniak)やモーラン(Paul Morand)は言うに及ばない。その原因はここにあると私は思う。

 もう一つには、「専制は人々を冷笑家にする」のだが、これはイギリスの話であって、古来「道路以て目す」しかできなかった人々には、そうする度胸がない。しかし時代もやはり変わってきて、ひとまず西洋の諷刺家に「ユーモア」を一回披露してもらい、みんなでハハハと笑おうというわけだ。

 さらにもう一つの理由があるが、ここでは触れないでおく。

 だがまず自分の衣服に気をつけねばならない。かくして各人の期待は食い違ってくる。足の悪い者は松葉杖を勧めてほしいし、禿頭は帽子を推奨してほしいし、化粧した者は素顔の女を諷刺してほしいし、民族主義文学者は彼の力で日本軍を圧倒したい。だが結果はどうか。小言が多いのを見れば、十分な満足が得られなかったことは察しがつく。

 ショウの偉大さはまさにここにある。英系新聞も、日系新聞も、白系ロシア新聞も、いくらか流言を流しはしたが、結局すべてが攻撃に回った。彼が帝国主義に利用されることは断じてないと分かるのだ。一部の中国の新聞については多くを言う必要はない。もともと西洋の旦那の丁稚だからだ。この追従もずいぶん長く続いたが、「不抵抗」あるいは「戦略上の理由」の場合だけは、彼らの軍隊の先を行くのだ。

 ショウが上海にいたのはまる一日にも満たなかったが、話はこんなにも多い。他の文人であれば、おそらくこうはなるまい。これは小さなことではないから、この一冊はたしかに重要な文献である。最初の三つの部分に、文人、政客、軍閥、流氓、ポチ犬の各種の面貌が、一枚の平面鏡に映し出されている。ショウは凹凸鏡だという説もあるが、私はそうとは思わない。

 余波は北平にまで及び、大英国の記者に一つ教訓を与えた——彼は中国人に歓迎されるのが不愉快だったのだ。二十日のロイター電によれば、北平の新聞がショウに関する記事を多く掲載しているのは、「中国人が伝統的に苦痛を感じない性質の証拠だ」という。胡適博士はとりわけ超脱して、歓迎しないことこそ最も高尚な歓迎だと言った。

 「打つは打たず、打たぬは打つ!」

 これはまことに大きな鏡である。大きな鏡のように感じさせる大きな鏡である。照りに行く者も照りに行かぬ者も、みな取り繕って隠していた正体を露呈してしまう。上海での一部分は、筆と舌の巧みさにおいて北平の外国記者や中国の学者にはまだ及ばないが、すでに少なからぬ趣向がある。古来の隈取りの種類にも限りがあり、未収録のものや後から発表されたものがあるにせよ、おおむねこの譜の中に収まるであろう。

 一九三三年二月二十八日灯下、魯迅。


第24節

【中国女人の足より中国人の非中庸を推定す】


第25節

【さらにこれより孔夫子に胃病ありしことを推定す】

 (「学匪」派考古学の一)


 いにしえの儒者は女人のことを語るのを好まなかったが、時に女人のことに触れたがる。例えば「纏足」であるが、明朝から清朝にかけてのいくらか考証じみた著作の中には、しばしばこの起源の早い遅いに関する文章がある。なぜこのような下等なことを調べるのか、今は言うまい。とにかく二大派に分けられる。起源が早いという派と、遅いという派だ。早いという派は、その語気からして纏足に賛成しており、何事も古いほど良いのだから、孟子の母も小足の婦人であった証拠を見つけ出さずにはいられない。遅いという派はその逆で、あまり纏足を褒めず、早くとも宋朝の末年以降だという。

 実のところ、宋末でもすでに相当古い。しかし纏めない足の形はさらに古い。学者たる者「古を貴び今を賤しむ」べきであるから、纏足を斥けるのは古を愛すればこそだ。だが先に纏足反対の先入観を抱いて証拠を捏造した者もいる。例えば明の才子楊升庵先生は、漢代の人のために『雑事秘辛』まで偽作して、当時の足は「底平らかにして趾斂まる」と証明した。

 するとまたこれを纏足の起源の古さの材料に使う者が現れ、「趾斂まる」というからには纏めたのだと言う。しかしこれは自ら低能を認めるたぐいの論であるから、ここでは評論しない。

 私の意見では、以上の二大派の言うことは、いずれも間違いでもあり、正しくもある。今は古い遺物が多く出土するようになり、漢・唐の絵画だけでなく、晋・唐の古墳から発掘された泥人形も見られる。それらに表された女人の足には、丸い先の履もあり、四角い先の履もある。纏足はしていなかったのだ。古人は今人より賢い。纏足をして大きな靴を履き、中に綿を詰めて一歩ごとによろめくようなことは、決してすまい。

 だが漢朝にはすでに一種の「利屣」があった。先の尖った履である。普段はおそらく履かなかったが、舞の時はこれでなければならなかった。歩くのに軽快であるだけでなく、「潭腿」式に蹴り出す際にも裳裾に妨げられず、裳裾を蹴り脱ぐことすらできた。当時、貴婦人方も舞わなかったわけではないが、舞ったのは大半が芸妓であったから、芸妓はおおむね「利屣」を履いていた。長く履いているうちに「趾斂まる」ことも免れまい。しかし芸妓の装いは、良家の娘の大成至聖先師である。これは今日でもそうだ。常に利屣を履くのは、今日のハイヒールを履くに等しく、堂々たる前漢の「モダンガール」に列なることができる。かくして名門淑女といえども爪先が尖ってこざるを得ない。まず芸妓が尖り、次にモダンガールが尖り、さらに大家の令嬢が尖り、最後に「小家の碧玉」が一斉に尖る。これらの「碧玉」たちが祖母になった時、利屣制度が足の天下を統一する時代に入るのだ。

 民国初年、「不佞」が北京を見物した折、人の言うには、北京の女人が男を品定めする時(按ずるに今日のいわゆる「モダン」であろう)は、足から上に向かって頭まで見るのだという。だから男の靴下にも気を配らねばならず、足の形はなおさらで、もちろんきちんと整えておかねばならない。これが天下に「脚巻き布」の存在する所以である。倉頡が文字を作ったことは知られているが、この布を誰が作ったかはまだ研究されていない。しかし少なくとも「古よりすでにこれあり」で、唐の張作の『朝野僉載』には、武后の朝にある男性が足を細く巻いていたところ、人々が笑ったとある。盛唐の世にすでにこの種の道楽があったことが分かるが、まだあまり極端ではなかったか、あるいはまだ広く普及してはいなかったのだ。しかしやがて普及したようだ。宋から清へ、綿々と絶えることなく、民国革命以後も革まったかどうか、私は知らない。私は「考古」学を専攻しているからだ。

 ところが奇妙なことに、どういうわけか(按ずるにここはやや学者らしからぬか)、女性たちは足について、尖っているだけでは飽き足らず、さらに「小さく」し始めたのだ。最高の規範は三寸を限度とするに至った。こうなれば利屣と角頭の履の二種を買い分ける必要がなくなり、経済的見地からすれば悪くないが、衛生的見地からすれば、いささか「やりすぎ」であり、言い換えれば「極端に走った」のである。

 我が中華民族はしばしば「中庸」を愛し「中庸」を行う人民を自任しているが、実はかなり過激を免れない。例えば敵に対して、時には打ち負かすだけでは足りず「悪を除くには根を尽くせ」と言い、殺すだけでは足りず「肉を食い皮に寝ん」と言う。しかし時には、「侵略者が入ってきたら入らせよ。十万の中国人を殺すかもしれぬ。構わぬ。中国人はいくらでもいる。また次の者が前に出ればよい」と謙虚になる。これはまことに本当の痴か偽りの呆かと迷うところだ。そして女人の足はとりわけ鉄の証拠であり、小さくするなら徹底して三寸を求め、歩けなくなってもゆらゆら揺れる。辮子が粛清されて以来、纏足もともに解放されたのは確かで、旧い新党の母親たちは、自分が革靴に綿を詰める面倒さに鑑み、一時は確かに娘に天足を残した。しかし我が中華民族はやはりいくらか「極端」なのだ。間もなく旧い病が再発し、一部の淑女たちは別の趣向を凝らし始め、細い黒い柱一本で踵を支え、地面から離そうとしている。彼女はどうしても足に曲芸をさせずにはいられないのだ。過去をもって将来を測れば、四代の後(もし依然として王朝があるならばの話だが)、全国の女人の足指がすべて脛と一直線になるのは、八、九割の確度で予言できよう。

 然らば聖人はなぜ「中庸」を大いに唱えるのか。曰く——みんなが中庸でないからこそだ。人は必ず欠けるところがあり、それゆえに必要なものを思うのだ。貧乏教師が女房を養えなくなって初めて、女子の自活論の合理性を感じ、ついでに男女同権論にも頷く。金持ちが太りすぎて喘息を起こしそうになって初めて、ゴルフに行き、以後は運動の重要性を主張する。我々は普段、自分に頭があり腹があって優待すべきだとは決して思い出さないが、頭痛や腹下しになると初めて思い出し、しきりに休養が大事だの、飲食に気をつけよだのと議論する。この議論を聞いて、この議論者を衛生家と即断すれば、十丈の差、億里の誤りとなる。

 むしろ正反対で、彼は不衛生家であり、衛生を論じるのはまさに彼の日頃の不衛生の結果の表れなのだ。孔子曰く「中行を得て之を与にせず、必ずや狂狷か。狂者は進取し、狷者は為さざる所あり」。孔子ほどの広い交友をもってしても、実際にはやむを得ず狂者と狷者を友とするほかなかった。これこそ彼が理想においては「中庸、中庸」と呟いていた所以なのだ。

 以上の推定に誤りがなければ、さらに進んで、孔子は晩年に胃病を患っていたと推定できる。「正しく割らざれば食わず」は彼の古風な規矩だが、「食は精を厭わず、膾は細を厭わず」という条令はいささか奇妙である。彼は百万長者でも版税をたくさん稼ぐ文学者でもない。これほど贅沢なはずがなく、ただ衛生のため、消化を容易にするという以外に解釈の余地がない。しかも「生姜を撤せず食す」に至っては、まさに胃腸薬が手放せなかったのだ。なぜこれほど胃を優遇し、念頭から離さなかったのか。曰く、胃病があったからである。

 座って動かない人間は胃病になりやすいと言うが、孔子は諸国を周遊し、王公に運動を説いたから、病気にはならなかったはずだと言うなら、それは今を知って古を知らぬ誤りを犯している。蓋し当時は外国の白い小麦粉はまだ輸入されておらず、土臼で挽いた麦粉には灰砂が多く含まれ、今の小麦粉より分量が重かった。国道はまだ整備されておらず、泥道は凸凹が多かった。孔子が歩くなら大したことはなかったが、残念なことに彼には一台の車と二頭の馬があった。胃の中に重い麺食を詰め込み、車に乗ってでこぼこ道を行く。ガタンガタンと揺れ、持ち上げられては落とされる。胃は引き延ばされて大きくなり、消化力は減退し、しきりに痛む。毎食「生姜」を食べずにはいられなくなったのだ。だからその病名は「胃拡張」。その時期は「晩年」で、おおよそ周の敬王十年以後であろう。

 以上の推定は、簡略ではあるが、いずれも「読書得間」の成果である。ただし目先の成果を急ぎ、みだりに憶測すれば、たちまち「多疑」の謬りに陥る。例えば二月十四日の『申報』に南京特電がある。「中執委は各級党部および人民団体に命じて『忠孝仁愛信義和平』の扁額を制し、礼堂中央に掲げて啓発に資すべし。」これを読んで、各要人が世間を「忘八(亀=不義理者)」と嘲っていると推定してはならない。三月一日の『大晩報』にニュースがある。「孫総理夫人宋慶齢女史は帰国して上海に寓居して以来、政治方面は不問に付し、社会団体の組織にのみ甚だ熱心なり。本紙記者の得たる報告によれば、先日ある者が郵便局を通じて宋女史に恐喝状を送りたるところ、当局が郵便局に派遣した検査員がこれを発見、恐喝状を押収して市政府に転報せり。」これを読んで、総理夫人宋女史宛ての信書までもが、郵便局で当局派遣の係員に検査されていると推定してもならない。

 蓋し「学匪派考古学」といえども、「学」を離るべからず、「考古」を限りとすべきなり。


 (三月四日夜。)


第26節

【私はいかにして小説を書き始めたか】


 私はいかにして小説を書き始めたか——この由来については、すでに『吶喊』の序文でおおよそ述べた。ここで補足すべきは、私が文学に関心を寄せていた頃の事情が現在とは大いに異なっていたということだ。中国では小説は文学とは見なされず、小説を書く者は断じて文学者とは呼ばれなかった。だから誰もこの道で身を立てようとは思わなかったのだ。私にも小説を「文苑」の中に引き入れるつもりはなく、ただその力を借りて社会を改良したいと考えただけであった。

 しかし自分で創作しようというのでもなく、重きを置いたのはむしろ紹介と翻訳であり、とりわけ短篇に、特に被圧迫民族の作者の作品に注力した。当時は排満論が盛んで、一部の青年たちは叫びと反抗の作者を同調者と見なしていたからだ。だから「小説作法」の類は一冊も読んだことがないが、短篇小説はかなり読んだ。小半分は自分でも好きだったからだが、大半は紹介の材料を探すためであった。文学史や批評も読んだが、これは作者の人となりと思想を知り、中国に紹介すべきかどうかを判断するためであった。学問の類とは、まったく無縁であった。

 求める作品が叫びと反抗であるから、おのずと東欧に傾き、ロシア、ポーランド、バルカン諸小国の作家のものを特に多く読んだ。インドやエジプトの作品も熱心に探し求めたが、手に入らなかった。覚えている限り、当時最も好んで読んだ作家はロシアのゴーゴリ(N. Gogol)とポーランドのシェンキェヴィチ(H. Sienkiewicz)。日本のでは夏目漱石と森鷗外であった。

 帰国後は学校の経営に従事し、小説を読む暇もなくなった。こうして五、六年が過ぎた。なぜまた始めたのか——これもすでに『吶喊』の序文に書いたから、繰り返すまい。しかし私が小説を書き始めたのは、自分に小説を書く才能があると思ったからではない。ただ当時北京の会館に住んでおり、論文を書こうにも参考書がなく、翻訳しようにも底本がなく、やむを得ず小説めいたものを書いてお茶を濁したのだ。それが『狂人日記』である。頼みとしたのは、すべて以前に読んだ百篇ほどの外国作品と、いくらかの医学知識だけで、それ以外の準備は一切なかった。

 しかし『新青年』の編集者が何度も催促に来た。催促されるたびに一篇書いた。ここで私は陳独秀先生を記念せずにはいられない。彼は私に小説を書くよう最も力を入れて催促した人だ。

 もちろん、小説を書き始めると、自分なりの見識がないわけにはいかない。例えば「なぜ」小説を書くのかと言えば、私は依然として十数年前の「啓蒙主義」を抱き、必ず「人生のため」であり、しかもこの人生を改良するためでなければならないと考えていた。私は以前から小説を「閑書」と呼ぶことを深く嫌い、「芸術のための芸術」は「暇つぶし」の新式の別称にすぎないと見なしていた。だから私の題材は、多く病める社会の不幸な人々の中から取った。病苦を曝け出し、治療への注意を喚起する意図である。だから文章をくどくすることは力めて避け、意味が伝わったと感じれば、どんな付け足しも省いた。中国の旧劇には背景がなく、正月に子供に売る年画にも主要な人物しか描かれていない(もっとも今の年画には背景のあるものも多いが)。私の目的にはこの方法が適していると深く信じていたから、風月を描くことはせず、会話も決して長々と書かなかった。

 書き終えた後はいつも二度読み返し、自分で読んで引っかかる箇所があれば数字を増減して、必ず滑らかに読めるようにした。適当な白話がなければ、むしろ古語を引いて、いつか誰かが分かってくれることを期待した。自分だけが分かる、あるいは自分でも分からない生造語は、めったに使わなかった。この一点を、多くの批評家の中でただ一人だけ見抜いた者がいるが、彼は私をStylistと呼んだ。

 書いた事柄は、大抵いくらか見聞した根拠があるが、その事実をそのまま使うことは決してない。一端を取り上げて改変し、あるいは発展させ、ほぼ完全に自分の意図を表現できるまで続ける。人物のモデルも同様で、一人の人間だけを使ったことはない。往々にして口は浙江、顔は北京、服は山西の、寄せ集めのキャラクターなのだ。私のあの一篇は誰を罵ったものだ、あの一篇はまた誰を罵ったものだと言う人がいるが、まったくのでたらめである。

 ただしこのような書き方には一つの困難がある。なかなか筆を置けないのだ。一気に書き進めれば、人物は次第に生き生きと動き出し、任務を果たしてくれる。しかしもし気を散らすことがあって、しばらく置いてから再び書き始めると、性格が変わってしまい、情景も先に想定したものと違ってくることがある。例えば私の書いた『不周山』は、もともと性の発動と創造、そして衰亡を描くつもりであったが、途中で新聞を見、ある道学者の批評家が恋愛詩を攻撃する文章に出くわして、心中甚だ不愉快になった。すると小説の中に小さな人物が女媧の両脚の間に走り込んできてしまった。なくて済むものであるだけでなく、構想の壮大さを壊してしまった。しかしこうした箇所は、自分以外にはおそらく誰も気づくまい。我々の批評大家たる成彷吾先生は、この一篇が最も出色だと言ったほどだ。

 もし一人の人間を骨格に据えて書けば、この弊害はなかろうと思うが、自分では試みたことがない。

 誰の言葉だったか忘れたが、とにかく、最も倹約して人の特徴を描き出すには、その目を描くのが一番よいという。この言葉は至極正しいと思う。もし頭髪の全体を描いたなら、たとえ真に迫っていても何の意味もない。私はいつもこの方法を学ぼうとしているが、惜しいことにうまくいかない。

 省ける所は決して無理に付け足さず、書けない時は決して無理に書かなかった。ただしこれは当時私に別の収入があり、文章を売って暮らす必要がなかったからで、通例とすることはできない。

 もう一つ、私は書く時にはいつも、あらゆる批評を一切無視した。なぜなら当時中国の創作界は幼稚であったが、批評界はさらに幼稚で、天にまで持ち上げるか地に叩き落とすかのどちらかだったからだ。もしこれらを気にすれば、うぬぼれるか、さもなくば自殺して天下に詫びるほかなくなる。批評は悪い所を悪いと言い、良い所を良いと言ってこそ、作者の益になるのだ。

 ただし外国の批評文章は常に読んだ。私に対する恩怨嫉恨がないから、評されているのは他人の作品であっても、大いに鏡とすべきところがあった。ただしもちろん、同時にその批評家の流派にも注意を払った。

 以上は十年前のことで、その後は何も書いておらず、進歩もない。編集者が私にこの類の文章を書けと言うが、どうしてできようか。乱雑に書き連ねたが、このようなものにすぎない。


 (三月五日灯下。)


第27節

【女人について】


 国難の時期、女人はどうやら特に災難を受けるらしい。一部の正人君子は、女人が贅沢を好み、国産品を買わぬと責める。ダンスや肉感など、およそ女性に関わるものがすべて罪状となった。まるで男がみな苦行僧になり、女がみな修道院に入れば、国難が救われるかのようだ。

 実はそれは女人の罪状ではなく、まさに彼女の哀れさなのだ。この社会制度が彼女をさまざまな奴隷に押し込め、その上にさまざまな罪名を被せる。前漢の末年、女人の「堕馬の髻」や「愁眉啼粧」も亡国の兆しだと言われた。実は漢を亡ぼしたのは女人ではない。ただ、誰かが出てきて嘆息しながら女人の装いに不満を漏らすのを見れば、当時の支配階級の状況がおおよそ芳しくないことが分かるだけだ。

 奢侈と淫靡は社会の崩壊と腐敗の現象にすぎず、決してその原因ではない。私有制度の社会はもともと女人をも私有財産として、商品として扱う。あらゆる国家、あらゆる宗教に、女人を不吉な動物と見なす珍奇な規定があり、彼女を威嚇して奴隷のごとく服従させる。同時にまた上流階級の玩具にもする。ちょうど今日の正人君子のように、一方で女人の贅沢を罵り、顔をしかめて風紀を維持しながら、他方ではこっそりと肉感的な太腿文化を鑑賞しているのだ。

 アラビアのある古い詩人が言った。「地上の天国は、聖賢の経典の上に、馬の背の上に、女人の胸の上にある。」この言葉は正直な供述と言えよう。

 もちろん、さまざまな売春には必ず女人が加わっている。しかし売買は双方のことだ。買淫する客がいなければ、売淫する娼婦もいない。だから問題はやはり買淫の社会的根源にある。この根源が存在する限り、すなわち能動的な買い手が存在する限り、いわゆる女人の淫靡と奢侈は一日たりとも消滅しない。男が私有主であった時、女人自身も男の所有物にすぎなかった。おそらくそのゆえに、彼女の家財を惜しむ心はいくらか薄く、しばしば「敗家の精」となった。まして現在は買淫の機会がこんなにも多く、家庭の中の女人は自分の地位の危うさを直感的に感じている。民国初年に聞いたところでは、上海の流行は三等遊女から妾の類に伝わり、妾の類からさらに奥方、令嬢に伝わるという。これらの「家の人」の大多数は、無自覚に娼妓と競い合っているのだ。当然、彼女たちは懸命に自分の体を飾り立て、男の心を引き留められるところまで飾り立てる。この装飾の代価は高く、しかも日一日と高くなる。物質的にだけでなく、精神的にも。

 アメリカのある百万長者が言った。「我々は共産主義者(原文に匪の字なし、謹んで功令に従い改訳す)を恐れない。我々の妻や娘が我々を破産させるだろう。労働者の出番を待つまでもない。」中国ではおそらく労働者が「間に合う」のを恐れているのだろう。だから上流中国人の男女がこれほど急いで浪費し、享楽し、快楽を尽くしているのであって、国産品であるかどうか、風紀であるかどうかなど構っていられるものか。しかし口先では風紀を維持し節約を唱えねばならぬ。


 (四月十一日。)


第28節

【真贋のドン・キホーテ】


 西洋の武士道の没落が、ドン・キホーテのような愚直者を生み出した。彼は実のところ十分に正直な書生であった。暗夜に宝剣を振りかざして風車と戦う姿は、いかにも滑稽で、笑うべくも憐れむべくもある。

 しかしこれは本物のキホーテである。中国の江湖のペテン師やごろつきの類は、キホーテ式の正直者を愚弄しておきながら、自らはドン・キホーテの姿を装うのだ。『儒林外史』の何人かの公子が遊侠や剣仙に憧れた結果、この偽キホーテに数百両の銀を騙し取られ、もらったのは血だらけの豚の頭一つであった——その豚こそ侠客の「君父の仇」だというのだ。

 本物のキホーテが滑稽な真似をするのは自身の愚かさゆえだが、偽キホーテはわざと滑稽な真似をして人に見せ、他人の愚かさを搾取しようとするのだ。

 だが中国の庶民は、必ずしもこの程度の手口すら見抜けぬほど愚かではない。

 中国の今日の偽キホーテたちが、大刀では国を救えないことを知らぬはずがない。しかし彼らはわざとそれを振り回し、毎日「敵を数百数千殺した」と喚き散らし、さらに「特製の鋼刀九十九本を前線の将兵に贈る」者まで現れる。ところが豚を殺すためには飛行機献金を出し惜しみし、かくて「武器不精良」の宣伝は、一方では節節後退あるいは「敵を深く誘い入れる」の弁解に使われ、他方ではこれを口実に豚殺しの経費を搾り取る。惜しいことに先には西太后があり、後には袁世凱がある。清末の海軍復興献金は頤和園の建設に使われた。民国四年の「反日」愛国貯金は、当時の革命軍を討伐する軍需費に充てられた。さもなくば、今になって新発明を見つけたと言えたものを。

 彼らが「国貨運動」では何の民族工業も振興できないことを知らぬはずがない。国際的な財神が中国の喉を締めつけ、息すらできず、いかなる「国貨」も財神の掌から飛び出せない。しかし「国貨年」は宣言され、「国貨商場」は設立された。もっともらしく、まるで抗日救国がすべて仮面をかぶった買弁の儲けにかかっているかのようだ。この金はやはり豚犬牛馬の身から搾り取ったものだ。「生産力を増加せよ」「労資協力して共に国難に赴け」という呼び声が聞こえないか。もとより庶民を人間扱いしていないのに、庶民は豚犬牛馬になってもなお「救国の責任」を負わねばならない。結果、豚肉は偽キホーテが食い、豚の頭はやはり切り落として掲げ、「後方を撹乱する者」への見せしめとするのだ。

 彼らが「中国固有の文化」では帝国主義を呪い殺せないことを知らぬはずがない。「不仁不義」を何千万遍唱えようと、金光明呪を唱えようと、日本に地震を起こして海に沈めることはできない。しかし彼らは故意に「民族精神の回復」を声高に唱え、まるで何か先祖伝来の秘策を得たかのようだ。意図は実のところ明白で、庶民に黙って心を修め、修身教科書をもっと読ませたいのだ。この固有文化の中身には何の疑いもない——岳飛式の勅命に従う不抵抗の忠、国際連盟の爺様の言いつけに従う孝、豚の頭を切り豚肉を食いながら厨房には近づかぬ仁愛、身売り証文に従う信義、「敵を深く誘い入れる」和平。しかも「固有文化」のほかに「学術救国」を唱え、西哲フィヒテの言を引くなどの魂胆も、すべて同じことだ。

 偽キホーテのこれらの滑稽な仕草は、まったく泣くに泣けず笑うに笑えぬ。偽の痴れ者、偽の呆け者を本物の痴れ者、呆け者と思い込み、本当に滑稽で哀れだと思うなら、それこそ救いようのない愚か者だ。


 (四月十一日。)


第29節

【『守常全集』題記】


 私が初めて守常先生にお会いしたのは、独秀先生が招いた『新青年』の進め方を相談する集まりの席上であった。こうして知り合ったわけだ。その時すでに共産主義者であったかどうかは分からない。とにかく印象は非常に良かった——誠実で、謙虚で、寡黙であった。『新青年』の同人の中には、明争暗闘を好み、自分の勢力を扶植する者も少なくなかったが、彼はその後に至るまで、絶対にそういう人ではなかった。

 彼の容貌は形容し難い。いくらか文雅で、いくらか朴質で、いくらか凡俗でもあった。だから文士のようでもあり、官吏のようでもあり、商人のようでもあった。このような商人は南方では見たことがないが、北京にはいた。古書店や箋紙店の番頭である。一九二六年三月十八日、段祺瑞らが徒手請願の学生に発砲した折、彼も群衆の中にいて兵士に捕まり、何者かと問われた。「商売をしている者です」と答えた。兵士は「なら、ここに何の用だ。失せろ!」と突き飛ばし、彼はどうにか命拾いした。

 もし教員だと言っていたら、死んでいたかもしれない。

 しかし翌年、彼はついに張作霖らに殺されたのだ。


 段将軍の虐殺では四十二人が死んだ。そのうち何人かは私の教え子であり、私は確かにいくばくかの痛みを感じた。張将軍の虐殺での死者は十数人だったようだが、手元に記録がなく、正確には言えない。しかし私の知人はただ一人、守常先生だけだ。厦門でこの報せを知った後、楕円形の顔、細い目と髭、藍の布の袍、黒い馬褂が、しきりに眼前に浮かんだ。その間に、絞首台がおぼろげに見えた。痛みもいくらかはあったが、以前より淡くなっていた。これは私のかねてからの偏見で、同輩の死には、若者の死ほどの悲しみを覚えないのだ。


 この度、北平で公然と葬儀が挙行されたと聞く。数えてみれば、害されてからすでに七年になる。これはまことに当然のことだ。当時将軍たちが彼に着せた罪状は知らないが、おおかた「民国を危うくする」といったところであろう。しかしこのわずか七年の間に、事実が鉄のごとく証明したのだ——四省を断送したのは李大釗ではなく、彼を殺した将軍であったことを!

 ならば公然と葬る寛典は、得られてしかるべきだ。しかし私は新聞で、北平当局が路祭を禁じ、会葬者を逮捕したというニュースを見た。理由は分からないが、今度はおそらく「治安妨害」であろう。もしそうだとすれば、鉄のごとき反証はさらに神速に来ている——見よ、北平の治安を妨害したのは日本軍か、それとも人民か!


 しかし革命の先駆者の血は、今やさして珍しくもなくなった。自分だけのことを言えば、七年前には数人のために少なからぬ激昂の空論を吐いたが、その後、電気拷問、銃殺、斬首、暗殺の話を聞き慣れて、神経は次第に麻痺し、驚きもせず、言葉もなくなった。思うに、新聞に報じられる「人の山、人の海」をなして梟首示衆の首を見に行く人々も、おそらく花灯籠見物ほどの興奮すら覚えまい。血は流れすぎたのだ。

 しかし熱血のほかに、守常先生にはまだ遺文がある。残念ながら遺文については、私は多くを語り難い。なぜなら専門が異なり、『新青年』時代には彼を同一の戦線に立つ仲間と見なしてはいたものの、彼の文章に注意を払ったことがなかったからだ。たとえば騎兵は架橋に注意する必要がなく、砲兵は馭馬に心を砕く必要がない。当時は自分の判断で過ちではないと思っていた。だから今言えることも、次の二点にすぎない。一、彼の理論は今日から見れば、当然必ずしも精当ではないこと。二、それにもかかわらず、彼の遺文は永く留まるであろうこと。なぜならこれは先駆者の遺産であり、革命史上の豊碑だからだ。すべての死せる、あるいは生ける詐欺師たちの山積みの著作集が、すでに崩れ落ちつつあり、商人すら「血本を顧みず」二、三割引でしか売れなくなっているではないか。

 過去と現在の鉄のごとき事実をもって将来を測れば、洞若観火!


 一九三三年五月二十九日夜、魯迅謹記。


 この一篇はT氏に頼まれて書いたものだ。あの全集がT氏と関わりのあるG書局から出版される予定だったからだ。私は義理として断れず、この程度のものを書いた。間もなく『涛声』に発表された。しかし後に聞いたところでは、あの遺稿集の権利を持つ者が別にC書局に委託して印刷させたとのことで、今に至るも出版されていない。おそらくしばらくは出版されまい。軽率に題記を書いたことを大いに後悔しているが、それでも自分の集子の中には残しておき、この一件の顛末を記録しておこうと思う。

 十二月三十一日夜、附識。


第30節

【金聖嘆を語る】


 清朝の文字の獄を語る時、金聖嘆を引き合いに出す人もいるが、実はまったくふさわしくない。彼の「哭廟」事件は、近事に比せば、一昨年の『新月』に三民主義を引いて自己弁護したのと変わらない。しかし教授の椅子も得られず、かえって首を刎ねられたのは、彼がとうに官紳たちに悪党と目されていたからだ。事の是非だけで言えば、冤枉である。

 清朝中葉以降の彼の名声にも、冤枉なところがある。彼が小説や戯曲を持ち上げて『左伝』『杜詩』と並列させたのは、実は袁宏道らの余唾を拾ったにすぎない。しかも彼の批評を経ると、原作の誠実な箇所が往々にして笑い話に変わり、構成も文体もすべて八股文の作法に無理やり引きずり込まれてしまう。この余蔭が、一群の人々を『紅楼夢』の類に対して伏線を探り、破綻を穿鑿する泥沼に陥れたのだ。

 古本を入手したと自称して勝手に『西廂記』の字句を改竄した件はさておき、ただ『水滸伝』の後半を切り落とし、夢の中に「嵆叔夜」が現れて宋江らを皆殺しにすることを空想したのは、まことに昏庸の極みと言わざるを得ない。流賊を痛恨するがゆえだと言うが、彼はやはり官紳に近い人物であったから、庶民が流賊に対して痛恨するのは半分だけであることに、ついに思い至らなかったのだ。痛恨するのは「寇」にではなく「流」にである。

 庶民はなるほど流寇を恐れるが、「流官」もまた大いに恐れる。思い出すのは民国革命の後、故郷にいた頃、なぜか県知事がしきりに交代した。交代するたびに、農民たちは憂い顔で互いにこう言い合った。「どうしたものか。また腹の空いた鴨が一羽やって来た。」彼らは「欲壑は填め難し」という古訓を今に至るまで知らないが、「成れば王となり、敗れば賊となる」という諺はよく知っている。賊とは流れ歩く王のことであり、王とは流れ歩かぬ賊のこと、すなわち「坐寇」なのだ。中国の庶民は昔から自らを「蟻民」と称してきたが、今は譬えの便宜上、牛に昇格させておこう。鉄騎が一度通過すれば、毛を食い血を飲み、蹄骨が散乱する。避けられるなら当然避けたい。しかしもし自分たちで野草を齧り、辛うじて命をつなぎ、乳を搾ってこれら「坐寇」を腹一杯にしてやり、やがて多少とも狼の貪りを改めてくれるなら、それを天の恵みと思うのだ。区別するのは「流」と「坐」だけであって、「寇」と「王」の間ではない。明末の野史を繙けば、北京の民心の不安は、李自成が入京した時よりも、出京した時の方がはるかに激しかったことが分かる。

 宋江は山寨を据え、家を襲い財を奪いはしたが、富者から奪って貧者を救った。金聖嘆は、童貫や高俅の手先の前で一人一人首を垂れて縛につくべきだと言った。庶民には理解できない。だから『水滸伝』が尻尾の切れた蜻蛉になっても、田舎の人々はなお『武松独手で方臘を擒う』のような芝居を見たがるのだ。

 しかしこれはまだ昔のことだ。今はどうやら新たな経験を得たらしい。聞くところでは四川にこんな民謡がある。大意は「賊が来れば櫛のごとく、兵が来れば篦のごとく、官が来れば剃刀のごとし」というものだ。自動車や飛行機は大名駕籠や馬車よりはるかに値が張り、租界や外国銀行も海通以来の新しい代物で、毛髪を剃り尽くすだけでなく、筋肉まで削り取っても永遠に満たされない。庶民が「坐寇」の恐ろしさを「流寇」の上に置くのも、まことに無理からぬことである。

 事実がこのように教えてくれた以上、残された道が、おのずと彼らに自分自身の力を思い至らせるのだ。


 (五月三十一日。)


第31節

【「第三種人」再論】


 戴望舒氏が遥かフランスから我々に一通の書簡を送ってきた。フランスのA.E.A.R.(革命文芸家協会)がジッドの参加を得て、三月二十一日に大会を招集し、ドイツ・ファシズムに猛烈に抵抗した状況を叙述し、併せてジッドの演説を紹介して、六月号の『現代』に発表したのである。フランスの文芸家がこのように義を唱えて声を上げることは珍しくない。遠くはゾラがドレフュス事件で不正に抗議し、アナトール・フランスがゾラの改葬の際に演説したこと、近くはロマン・ロランの反戦運動がある。しかし今回は殊更に真の歓喜を感じた。なぜなら問題は目前の問題であり、私もまたファシズムを憎悪する一人だからである。ただし戴氏はこの事実を報告すると同時に、中国左翼作家の「愚昧」と軍閥のような横暴を併せて指摘しているので、私もいくつか述べておきたい。ただし誤解しないでいただきたい。弁解のためではなく、中国でもいわゆる「第三種人」からドイツの被抑圧者に対するのと同様の声援を得ようとしているわけでもない——そうではない。中国での書報の焚禁、書店の封鎖、作家の投獄殺害は、実にドイツの白色テロよりも遥かに以前からあり、しかも世界の革命的文芸家の抗議を受けてもいたのだ。私が今述べたいのは、あの書簡の中で指摘すべきいくつかの点にすぎない。

 あの書簡はジッドの反抗運動への参加を叙述した後、こう述べている——


 「フランス文壇において、我々はジッドを『第三種人』と言うことができる。……一八九一年以来……今日に至るまで、彼は終始自らの芸術に忠実な人であった。しかしながら、自らの芸術に忠実な作家が、必ずしもブルジョアジーの『太鼓持ち』であるとは限らない。フランスの革命作家にはこのような愚昧な見解(むしろ巧妙な策略と言うべきか)はない。かくして熱烈な歓迎の中、ジッドは群衆の間で発言したのである。」


 つまりこういうことだ。「自らの芸術に忠実な作家」がすなわち「第三種人」であり、中国の革命作家はこのような人々をすべて「ブルジョアジーの太鼓持ち」と指す「愚昧」さであったが、今やジッドによって「必ずしもそうではない」ことが証明されたと。

 ここには二つの問題があり、答えるべきである。

 第一に、中国の左翼理論家は果たして「自らの芸術に忠実な作家」をすべて「ブルジョアジーの太鼓持ち」と見なしたのか。私の知る限り、決してそうではない。左翼理論家がいかに「愚昧」であろうとも、「芸術のための芸術」がその発生時において一種の社会的成規への革命であったことを理解しないほどではない。ただし新興の戦闘的芸術が出現した際に、なお古い看板を掲げて明に暗にその発展を妨害するなら、それは反動となり、単なる「ブルジョアジーの太鼓持ち」にとどまらない。「自らの芸術に忠実な作家」については、一律に同視してはいない。なぜならいかなる階級の作家にも「自己」があり、この「自己」はすなわちその階級の一員であって、自らの芸術に忠実な者は、すなわちその階級に忠実な作家なのだ。ブルジョアジーにおいてもプロレタリアートにおいても同様である。これは極めて明白な事実であり、左翼理論家がこれを理解しないはずがない。しかるにこの戴氏は「自らの芸術に忠実」と「芸術のための芸術」をすり替えてしまい、左翼理論家が救いようもなく「愚昧」であるかのように見せかけたのである。

 第二に、ジッドは果たして中国のいわゆる「第三種人」なのか。私はジッドの著書を読んだことがないので、作品について批評する資格はない。しかし信ずるに、創作と演説は形式こそ異なれ、そこに含まれる思想は決して異なるものではない。戴氏が紹介した演説の中から二段を引用しよう——


 「『ソヴィエトでも同様だ』と言う者があろう。それはあり得ることだ。しかし目的は全く異なるのであり、しかも新社会を建設するために、従来抑圧されてきた、発言権を持たなかった人々に発言権を与えるために、やむを得ない矯枉過正は避けられないことなのだ。

 「私がなぜ、またいかにして、あちらで反対していることをここで賛同するのか。それはすなわち、ドイツの恐怖政策の中に最も嘆かわしく憎むべき過去の再演を見、ソヴィエトの社会建設の中に未来の無限の約束を見るからである。」


 これは明白この上ない。同じ手段であっても、目的の違いによって賛成か反対かを分けているのだ。ソヴィエト十月革命後、芸術を重んじた「セラピオン兄弟」という団体も「同伴者」と呼ばれたが、彼らにはこれほどの積極性はなかった。中国の「第三種人」に関する文章は、今年すでに専門書一冊にまとめられている。調べてみればよい。自ら「第三種人」を名乗る者の言論に、このような意見に少しでも近いものがあるだろうか。もしないなら、私は断言する。「ジッドを『第三種人』と言うことはできない」と。

 しかし私がジッドは中国の「第三種人」に似ていないと述べるのと同様に、戴望舒氏もまた中国の左翼作家とフランスのそれとでは賢愚の差が大きいと感じたのである。大会に参加し、ドイツの左翼芸術家のために共に義憤を述べた後、中国の左翼作家の愚かで横暴な行為を思い起こしたのだ。そこで最後に感慨を禁じ得ず——


 「我が国がドイツ・ファシズムの暴行に対して何らかの意思表示をしたかどうか、私は知らない。我々の軍閥と同様に、我々の文芸家もまた内戦には勇敢なのだ。フランスの革命作家たちがジッドと手を携えている時、我々の左翼作家はきっとまだいわゆる『第三種人』を唯一の敵として扱っているのだろう!」


 ここには答える必要がない。事実が示している通りだ。我々のところでも多少の意思表示はあったが、フランスとは事情が異なるので状況も違う。刊行物にも長らくいわゆる「『第三種人』を唯一の敵として扱う」類の文章は見当たらず、もはや内戦もなく、軍閥的な臭いもない。戴氏の予想は外れたのだ。

 しかし中国の左翼作家は、これで戴氏の思い描くフランスの左翼作家と同じように賢明になったのだろうか。私はそうではないと思うし、そうあるべきでもないと思う。もし声がまだ完全に消されていないなら、「第三種人」についての議論はなお改めて提起し展開する必要がある。戴氏はフランスの革命作家たちの本意を見抜き、この危急の時に「第三種人」と手を携えることはおそらく「巧妙な策略」だと感じたのだろう。しかし私は「策略」だけに頼っても無駄だと思う。真の見識があってこそ明敏な行動がある。ジッドの講演を見れば分かるが、彼は決して政治の外に超然としているのではなく、むやみに「第三種人」と称して歓迎することなどできない。別に何らかの隠された意図があるわけではないのだ。ただし中国のいわゆる「第三種人」は、なお複雑きわまりない。

 いわゆる「第三種人」の本来の意味は、甲乙の対立もしくは闘争の外に立つ人ということにすぎない。しかし実際にはそのような人はあり得ない。人体には太った人と痩せた人がおり、理論上は太ってもいず痩せてもいない第三種の人がいるはずだが、事実上はそんな人はおらず、比較すれば必ず太い方か痩せた方に近い。文芸における「第三種人」も同じで、たとえ偏らないように見えても、実際には必ず多少の偏りがあり、平時は意識的にか無意識的にか覆い隠しているが、切迫した事態に遭遇すれば、はっきりと現れるのだ。ジッドの場合、彼は左への傾斜を見せた。他の人々も、いくつかの言葉から明瞭にそれが見て取れる。したがってこの混在する一群の中には、革命と共に前進し共鳴できる者もおれば、機に乗じて革命を中傷し、軟化させ、曲解する者もいる。左翼理論家にはこれを分析する任務がある。

 もしこれが「軍閥」の内戦に等しいとするなら、左翼理論家はますますこの内戦を続け、陣営を明確にし、背後から射られる毒矢を抜き去らねばならない!


 (六月四日。)


第32節

【「蜜蜂」と「蜜」】


 陳思先生:

 『濤声』に掲載された『蜜蜂』批評の文章を読み、二つの意見が生じましたので、書き記して専門家の判定を仰ぎたいと思います。ただし私はこれ以上論争するつもりはありません。『濤声』はそのような裁判をする場ではないからです。

 村人が蜂の群れを焼くのには別の理由があり、階級闘争の表れではないという点は、その通りかもしれないと思います。しかし蜜蜂が虫媒花に害を及ぼしたり、風媒花を荒らしたりすることも、あり得るのではないでしょうか。

 昆虫が虫媒花の受粉を助けるのは害がないどころか有益であり、最も簡略な生物学書にもそう書かれています。確かにその通りです。しかしこれは通常の状態の場合の話です。もし蜂が多く花が少なければ、事情は異なってきます。蜜蜂は花粉を集めたり飢えを凌いだりするために、一つの花に数匹、十数匹も一斉に群がることがあり、争いによって花弁を傷つけ、飢えのために花芯を噛みちぎってしまう。日本の果樹園ではこうした被害に遭ったものがあると聞きます。風媒花に行くのも、やはり空腹のためです。この時、蜜を醸すことは二の次となり、彼らは花粉を食べに行くのです。

 従って、花の量が蜜蜂の需要を満たすのに十分であれば天下太平だが、そうでなければ「反動」となると私は考えます。例えば蟻は蚜虫を世話するものですが、両者を一緒に閉じ込めて他に食物を与えなければ、蟻は蚜虫を食べてしまいます。人間は米や麦を食べるものですが、飢饉に遭えば草の根や木の皮を食べるのです。

 中国でも昔から養蜂はしてきたのに、なぜこのような弊害がなかったのか。答えは至って簡単で、数が少なかったからです。近年、養蜂を財を成す大道として、この仕事に手を出す者がますます増えています。しかし中国の蜂蜜の価格は欧米に遠く及ばず、蜜を売るよりも蜂を売る方が割が良い。また新聞の鼓吹により、養蜂で利益を得ようとする者が続出し、蜂の購入者は蜜の購入者より多い。この理由から、養蜂者の目的は蜜を醸させることではなく、繁殖させることになりました。しかし植栽業はこれに伴って進歩せず、ついに蜂多く花少なき現象を呈し、上述の騒ぎを引き起こしたのです。

 要するに、中国が蜂蜜の用途を拡張し、同時に果樹園や農場の類を開拓する方法を講じないで、ひたすら蜂の種を売って目先の利を図るばかりでは、養蜂事業は間もなく行き詰まるでしょう。この書簡の掲載を切に望み、心ある方々のご注意を乞う次第です。敬具


 羅憮。 六月十一日。


第33節

【経験】


 古人が伝えてきた経験には、実に貴重なものがある。多くの犠牲を払い、後世に大きな恩恵を残したからである。

 たまたま『本草綱目』をめくっていて、ふとこのことを思い出した。この書は極めて普通の書であるが、中には豊かな宝蔵が含まれている。無論、風聞をそのまま記した部分も免れないが、大部分の薬品の効能は長年の経験を経てこそ、この程度まで知り得たのであり、とりわけ驚嘆すべきは毒薬に関する記述である。我々は古来、古の聖人を崇めるのが好きで、薬物は神農皇帝が一人で嘗め出したもので、一日に七十二の毒に遭遇したが、すべて解毒法があって死なずに済んだとされている。この種の伝説は今や人心を支配し得ず、一切の文物は歴代の無名の人々が徐々に作り上げたものだと大抵は知られている。建築、料理、漁猟、耕作、いずれも然り。医薬もまた然りである。そう考えると、この事柄はまことに大きなものになる。おそらく古人は病気になると、最初はあれこれ少しずつ嘗めてみるしかなく、毒のあるものを食べれば死に、関係のないものを食べれば無効で、たまたま症状に合ったものに当たれば快復する。こうしてこれが某病に対する薬だと知る。このように蓄積していき、やがて草創の記録が生まれ、後には『本草綱目』のような膨大な書物となったのだ。しかもこの書に記されたものは中国のものだけでなく、アラビア人の経験、インド人の経験もあり、それ以前に払われた犠牲の大きさは推して知るべしである。

 しかしながら、多くの人の経験を経た結果、かえって後世に悪影響を与えたものもある。俗語に「各人自ら門前の雪を掃け、他家の瓦の上の霜を構うな」というのがその一つである。救急扶傷の際、少しでも不注意があれば、昔から非常に誣告されやすく、さらに悪しき経験の結果としての歌訣に「役所の門は八の字に開く、理あれど金なくば入るな」というものがあって、人々は自分に関係なければ遠くに離れているのが一番だということになった。私が思うに、人々は社会の中で最初はこのように互いに無関心ではなかったのだが、豺狼が道を塞ぐ中、実際にこのために多くの犠牲が出て、後には自然とこの道に進んでしまったのだ。だから中国では、とりわけ都市部では、路上で急病で倒れたり、車にはねられて怪我をした人がいても、見物する者や喜ぶ者すらいるのに、手を差し伸べて助けようとする者は極めて少ない。これこそ犠牲と引き換えに得た害悪である。

 つまるところ、経験から得た結果は善かれ悪しかれ、すべて大きな犠牲を要し、たとえ小さなことでも驚くべき代価を払わねばならない。例えば近頃、新聞を読む人の中には、いかなる宣言、通電、講演、談話の類であれ、どれほど四六駢儷の美文で高邁な議論であろうとも、注目しなくなった者がおり、さらには注目しないどころか、読んでもただ嘲笑の種にするだけという者もいる。これは「初めて文字を制し、すなわち衣裳を服す」ほどの重大事ではないが、しかしこの些細な結果は、広大な土地と多くの人々の生命財産と引き換えに得たものなのだ。生命とは、もちろん他人の生命のことで、自分自身であればこの経験は得られない。だからすべての経験は生きている人だけが持てるのであり、私が決して他人に死を恐れると嘲られて自殺したり命を懸けたりする罠にかからず、必ずこの一点を書き記すのは、このためである。しかもこれもまたささやかな経験の結果なのだ。


 (六月十二日。)


第34節

【諺語】


 大雑把に考えると、諺語はいかにも一時代一国民の意思の結晶のように見えるが、実はそれは一部の人々の意思にすぎない。今ここで「各人自ら門前の雪を掃け、他家の瓦の上の霜を構うな」を例に取ろう。これは被抑圧者たちの格言であり、公に奉仕し、納税し、寄付し、分を守り、怠慢であってはならず、不平であってはならず、とりわけ余計なことに首を突っ込むなと教えるものである。しかし抑圧者はその中に含まれていない。

 専制者の裏面はすなわち奴隷であり、権力を持てば何でもし放題、失勢すれば奴隷根性丸出しとなる。孫皓は極めつけの暴君であったが、晋に降伏した後はまるで太鼓持ちのようになった。宋の徽宗は在位中、天下に並ぶ者なしの勢いであったが、捕虜となるや忍辱して恥を忍んだ。主人たる時は一切の他人を奴隷と見なし、主人を得れば必ず自ら奴隷を以て任じる——これは天経地義、揺るがすべからざることである。

 ゆえに抑圧されている時には「各人自ら門前の雪を掃け、他家の瓦の上の霜を構うな」の格言を奉じていた人物が、一旦勢いを得て人を凌ぐことができるようになると、その行いは截然と異なり、「各人門前の雪を掃わず、もっぱら他家の瓦の上の霜を管理する」に変わるのだ。

 この二十年来、我々がしばしば目にしてきたのは以下の通りである。武将は本来兵を練り戦うものであり、その兵が安内のためか攘夷のためかはさておき、要するに彼の「門前の雪」は軍務である。しかるに彼は教育に干渉し、道徳を主宰しにかかる。教育者は本来学務を司るもので、その成績はどうあれ、彼の「門前の雪」は学事である。しかるに彼は「活仏」を礼拝し、国医を紹介しにかかる。庶民は軍に従って苦役に駆り出され、少年団は戸別に募金に回る。上では頭目が勝手放題をし、下では蟻のような民がのたうち回り、結果は各人の門前は惨憺たる有様、各家の瓦の上も滅茶苦茶である。

 女性が腕や脛を露出したのが、どうやら賢人方の心を乱したようで、かつて多くの人々がくどくどと禁止を主張し、後に実際に明文で禁止されたことを覚えている。ところが今年になると、「衣服は身体を覆えば足りる。なぜ前に引きずり後ろになびかせて布地を消耗するのか。……時艱を顧み、後患いかばかりぞ」ときた。四川の営山県長はかくして公安局に隊を派遣させ、通行人の長衣の裾を一々切り落とさせた。長衣はもとより煩わしいものだが、長衣を着なかったり、裾を切り落としたりすれば「時艱」に益すると考えるのは、一種特別な経済学である。『漢書』に「口に天憲を含む」という一句があるが、まさにこのことを言うのだ。

 ある種の人間には、必ずその種の人間の思想と眼光しかなく、自らの階級の外に出ることはできない。こう言うと、何やら禁忌に触れる階級を唱道しているようだが、事実はその通りなのだ。諺語が全国民の意思ではないのは、まさにこの理由による。古の秀才は何でも知っていると自負し、そこから「秀才は門を出ずして天下の事を知る」という自惚れの大嘘が生まれ、庶民がそれを真に受け、次第に諺語となって広まった。実のところ、「秀才は門を出でても天下の事を知らず」なのだ。秀才には秀才の頭脳と秀才の目しかなく、天下の事など明瞭に見えるはずも、明晰に考えられるはずもない。清末、「維新」を志して「人材」を外国に派遣して視察させることがしばしばあった。今、彼らの筆記を読んでみよう。彼らが最も奇異と感じたのは、某館の蝋人形が生きた人間と向かい合って将棋を指せることだった。南海の聖人康有為は俊秀中の俊秀であるが、十一カ国を周遊し、バルカンにまで至って、ようやく外国でしばしば「弑君」が起こる理由を悟った。曰く、宮殿の壁が低すぎるからだ、と。


 (六月十三日。)


第35節

【皆一段階下がって試してみよう】


 『文学』第一号の「『図書評論』の文学書評部分の清算」は、まことに興味深く、意義ある一篇の決算報告である。この『図書評論』は「我々の唯一の批評誌」であるだけでなく、我々の教授や学者たちが構成する唯一の連合軍でもある。ところが文学部門では、翻訳・注釈本の批評が大半を占めている。これは当該「清算」で指摘された諸々の理由の他に、実はもう一つ切実な原因がある。すなわち我が学術界・文芸界で仕事をする人々は、大抵みなその実力を超えて一段階高い位置に飛び上がっているということだ。

 校正者は一方では組版の様式に通じ、一方では多くの字を識別せねばならない。しかし現在の出版物を見れば、「己」と「巳」、「戮」と「戳」、「剌」と「刺」は、多くの人の目には区別がない。版式はもとより植字工の仕事だが、彼が構わないので校正者の肩に圧し掛かり、校正者もまた構わなければ、誰の関知するところでもなくなる。文章を書く人もまず字を知らねばならないが、文中にしばしば「戦慓」を「戦慄」とし、「已竟」を「已経」とする。「非常に頑艶」は嫉妬による殺人の情景を言い、「年已に鼎盛」の意味は、その人がすでに六十歳を超えたということだ。翻訳・注釈書に至っては、当然、「硬訳」でなければ「誤訳」であり、叱責と訂正のために、九冊の『図書評論』中の文学部門の書籍数の半分を占めたことは、動かし難い証拠である。

 これらの誤りだらけの書物が現れるのは、もちろん大方は社会の需要を見込んで慌ただしく投機したためだが、一方では実際に、これを十全にこなせる人材が自ら身分を落として、労多くして利少ないこの仕事をしようとしないためでもある。さもなくば、これらの翻訳・注釈者はただ大学に埋没して、教授の指示を謹聴しているのがふさわしいはずだ。能力ある人々が身を潔くして去ったために出版界が空っぽになり、小兵が大将の印璽を掲げて翻訳の天下を辱めることとなったのだ。

 しかし、十分な力量を持つ翻訳・注釈家はどこに行ったのか。言うまでもなく、彼もまた一段階飛び上がり、教授になり学者になったのだ。「世に英雄なく、ついに小僧をして名を成さしむ」——かくして学生の素質しかない者が、空虚に乗じ庇護を得て翻訳・注釈者に化けた。そして同じ理屈で、翻訳・注釈者の素質しかない者が高座に踞り、昂然と説法するのだ。デューイ教授には彼の実験主義があり、バビット教授には彼の人文主義がある。彼らのところから断片的に仕入れてきたものをもって、中国の八紘を叱咤する学者に変身する——これもまた動かし難い証拠ではないか。

 中国の翻訳界を澄清するには、皆が一段階下がるのが最善であろう。もっとも、その時に本当に皆がその任に堪え得るかどうかもまた、確かではない問題だが。


 (七月七日。)


第36節

【砂】


 近頃の読書人は、しきりに中国人は一盤の散砂のようだ、どうにもならぬと嘆き、不運の責任を皆に帰している。実はこれは大部分の中国人に対する冤罪なのだ。庶民は学がなく、事態の見通しも暗いかもしれないが、自らの利害に関わることとなれば、団結しないはずがない。昔は跪香、民変、謀反があった。今でも請願の類はある。彼らが砂のようになったのは、統治者に「治」められた結果であり、文語で言えばすなわち「治績」なのだ。

 では中国に砂はないのか。あるにはあるが、庶民ではなく、大小の統治者である。

 人々はまたよく言う。「出世して金持ちになる」と。実はこの二つは並列ではない。出世しようとするのはひとえに金を得んがためであり、出世とは金を得るための一手段にすぎない。だから官僚は朝廷に依存しながら朝廷に忠実ではなく、下役は役所に依存しながら役所を愛護しない。頭目が清廉の命令を下しても、手下は決して聞かず、対処法として「朦蔽」がある。彼らはみな私利私欲の砂であり、私腹を肥やせる時には私腹を肥やし、しかも一粒一粒が皇帝であり、威張れる場所では威張る。ロシア皇帝を「ツァーリ」(砂皇)と訳す者がいるが、この輩に贈るに、まことにふさわしい尊号である。財はどこから来るか。庶民の身体から搾り取ったものだ。庶民がもし団結すれば金儲けが難しくなる。ならば当然、あらゆる方法を講じて彼らを散砂に変えるのがよい。砂皇をもって庶民を治め、かくして全中国が「一盤の散砂」と化したのだ。

 しかし砂漠の外にはなお団結した人々がおり、彼らは「無人の境に入るがごとく」歩み入ってきた。

 これが砂漠における一大変事である。このような時、古人にはまことに的確な二つの比喩がある。すなわち「君子は猿鶴と為り、小人は虫砂と為る」と。かの君子たちは、白鶴のように空に舞い上がるか、猿のように木に登るかして、「木倒れて猿散ず」だが、別に木はある。彼らが苦しむことは決してない。地上に残されるのは庶民たる螻蟻と泥砂であり、踏みにじり殺戮し放題だ。彼らは砂皇にすら敵わないのだから、砂皇の征服者にどうして敵えようか。

 しかるにこのような時に限って、筆を振り舌を鳴らして庶民に向かい、厳重な質問を突きつける者がいる。「国民は如何に自らを処すべきか」と、「国民は如何にして善く其の後を処すべきか」と。突如として「国民」を思い出し、他のことは何も言わず、ただまた彼らに赤字を埋めさせようとする。これは手足を縛られた人に向かって盗賊を捕えよと要求するに等しいではないか。

 しかしこれこそまさに砂皇の治績の後盾であり、猿の叫び鶴の鳴く尾声であり、威張り私腹を肥やした末に、必然到来する最後の一手なのだ。


 (七月十二日。)


第37節

【「文学社」への手紙】

 編集者殿:

 『文学』第二号に掲載された伍実氏の「ヒューズ中国にて」の冒頭に、次のような一段がある——

 「……ショウは名士であるから、当然我々の名士が接待する。しかも名士が名士を接待するからこそ、魯迅先生と梅蘭芳博士が千載一遇の機会を得て一堂に会することができたのだ。ヒューズはと言えば、我々の名士の目に映るような名士ではないばかりか、さらに肌の色への顧慮が加わるのだ!」

 確かに、ショウに会ったのは私一人ではない。しかし私が一度ショウに会っただけで、大小の文豪から今に至るまでずっと嘲笑され罵倒されている。最も最近のものがこの、それゆえに私と梅蘭芳を一緒くたに論じた名文である。しかるにあの時は招待者が私を招いたのだ。今回のヒューズの接待について、私は通知を受けていない。時間も場所も全く知らなかった。どうやって行けるというのか。仮に招かれて行かなかったとしても、別の理由があるかもしれず、口誅筆伐の前に、いささか調査すべきではないか。今は知らせもせずに私が行かなかったと責め、行かなかったがゆえに黒人を見下していると断定する。著者は信じているのだろう、読者も事実を知らなければおそらく信じるだろう。しかし私自身は、自分がこれほど打算的で卑劣な人間だとはまだ信じていない!

 誣蔑と侮辱を受けるのは日常のことだ。私も別に不思議とは思わない。慣れたものだ。しかしそれは小新聞であり、敵がいるからだ。多少の見識のある者は一目で分かる。しかし『文学』は堂々たる看板を掲げた刊行物であり、私もまた同人の一人である。なぜ根も葉もなく事実を捏造し、大いに嘲弄し、ここまでに至るのか。打算的で卑劣な老人が一人必要で、文学の舞台の上で踊らせ、観客に笑いを提供し、嘔吐を催させようというのか。私は自分がそのような役柄であるとは信じない。私にはまだ、この恐るべき舞台から飛び降りることができる。その時にはいかなる誣蔑嘲罵も、お互いに矛盾がなくなろう。

 伍実氏は実は偽名であろうが、彼もまた名士に違いない。ヒューズの接待にしても、名士でなければ席に着けなかったろう。ただし彼が上海のいわゆる文壇上の狐鼠の類と異なるならば、人身攻撃を行う際には、いささか責任を負って、自らの本身に関わる姓名を公表し、私に真の面目を見せるべきだろう。これは政局とは無関係であり、何の危険もない。しかも我々はもともと知己であり、会えばいかにも丁重に振る舞うかもしれないのだから。

 最後に、この手紙を『文学』第三号にそのまま掲載されることを要求する。

 魯迅。七月二十九日。


第38節

【翻訳について】

 今年は「国貨年」であり、「アメリカ小麦」を除けば、洋風の匂いのあるものは何でも打倒されそうな勢いだ。四川では通行人の長衣の裾を切り落とす命令が出されているさなか、上海のある慷慨家は洋服が気に入らないがために袍と馬褂を思い出した。翻訳も災難に見舞われ、「硬訳」と「乱訳」という十把一絡げの肩書きを頂戴した。しかし私の見るところ、これらの「批評家」の中で、一方で「良い翻訳」を要求している者は一人もいない。

 創作は自国の人間にとって、確かに翻訳より切実であり理解しやすい。しかし油断すると「硬作」「乱作」の弊病も生じやすく、この弊病は翻訳よりもずっと悪質なのだ。我々の文化が遅れていることは否むべくもなく、創作力も当然、外国人に及ばず、作品が比較的薄弱なのは勢いの然らしむるところであり、しかも絶えず外国に学ばざるを得ない。だから翻訳と創作は共に提唱すべきであって、一方を圧し潰して創作を一時の寵児とし、かえって甘やかして脆弱にしてしまってはならない。以前、国産品奨励の年があったのを覚えている。国産品業者が外国の歯磨き粉を仕入れ、二瓶を振り緩めて三瓶に詰め替え、商標を貼って国産品としたが、購入者は三分の一を余分に損した。また痱子の薬液があり、見た目は洋物と全く同じで値段は半額だったが、一つ大きな欠点があり、塗っても何の効果もなかった。購入者は完全に損をしたのだ。

 翻訳を重視して鑑とすることは、実は創作をも促進し鼓舞することなのだ。しかし数年前にはすでに「硬訳」を攻撃する「批評家」が現れ、古い瘡蓋の上の屑を掻き落とし、膏薬の上の麝香のように少なく、少ないからこそ自ら珍品だと思い込んでいた。そしてこの風潮が広まり、今年は多くの新進の論者たちが、輸入された洋物を軽蔑し始めた。軍人の大量の飛行機購入、市民の必死の献金と比べると、いわゆる「文人」なる者は、何とも愚昧な人物であることか。

 私は中国に多くの優れた翻訳家が生まれることを望む。それが無理なら、「硬訳」を支持する。理由はなお、中国には多くの読者層があり、全てが人を欺くものでないものもあって、おそらく常に誰かが多少は吸収し、空の皿よりは多少の益があるからだ。しかも私自身は従来から翻訳に感謝している。例えばショウの毀誉の問題や、今まさに取り上げられている題材の積極性の問題について、洋物の中にはとうに明確な解答があったのだ。前者についてはドイツのウィットフォーゲル(Karl Wittvogel)が「ショウは道化か」の中でこう述べている——

 「ショウ氏が果たしてプロレタリア革命を意図しているかどうかは、重要な問題ではない。十八世紀のフランスの大哲学者たちも、フランス大革命を望んでいたわけではない。しかしながら彼らはみな、必至の社会変革へと導く精神的崩壊の重要な力であった。」(劉大傑訳、『ショウ上海にて』所収。)

 後者については、エンゲルスがミンナ・カウツキー(Minna Kautsky、現存のカウツキーの母)への書簡の中で、極めて明確な指示を与えており、現在の中国にとっても大きな意義がある——

 「なお、今日のような条件の下では、小説は大体においてブルジョア層の読者を対象とするものであるから、私の見るところ、現実の相互関係を正直に叙述し、その上に被せてある偽りの幻影を打ち壊し、ブルジョア的世界の楽観主義を動揺させ、現存秩序の永久的支配に疑念を抱かせるならば、社会主義的傾向の文学はその使命を十分に果たしたと言えよう——たとえ作者がこの時に何ら特定の解決を提示していなくとも、また時には作者がどちらの側に立つかさえ明らかでなくとも。」(日本・上田進原訳、『思想』百三十四号所収。)

 (八月二日。)


第39節

【「一人の受難」序】

 「連環図画」という名称は今やかなり使い慣れたもので、変更する必要はないが、実は「連続図画」と称すべきものである。なぜなら「環の如く端なし」ではなく、起こりと終わりのある画本だからだ。中国古来のいわゆる「長巻」、例えば『長江無尽図巻』や『帰去来辞図巻』もこの一類であり、ただ一幅に連ねたにすぎない。

 この種の画法の起源は実に古い。エジプトの石壁に彫られた名君の功績、『死者の書』に描かれた冥界の情景は、すでに連環図画である。他の民族にも古今を通じてあるが、細かく述べる必要はなかろう。これは観る者にとって大いに有益である。一目で当時の諸々の情景がおおよそ分かるのであり、文辞のように精通していなければ理解できないというものではないからだ。十九世紀末に至り、西欧の画家たちの中に、好んでこの種の絵を描く者が多くなった。一つの主題を立てて画帖を制作するが、必ずしも連貫しているわけではない。図画をもって物語を叙すのはさらに後の起こりであり、最も多作であったのがマセレールである。私が思うに、これは映画と極めて深い因縁がある。一方では図画をもって文字の物語に代え、同時に連続をもって活動する映画に代えているのだ。

 マセレール(Frans Masereel)は欧州大戦に反対した一人である。彼自身の言によれば、一八九九年七月三十一日にフランドルのブランケンベルヘに生まれ、幼少時は大変に幸福だった。遊ぶことが多く学ぶことが少なかったからである。修学時代はヘントで過ごし、そこの芸術学院で半年足らず学んだ。その後、ドイツ、イギリス、スイス、フランスを漫遊し、最も愛したのはパリで、これを「人生の学校」と呼んだ。スイス滞在中、日刊紙にしばしば画稿を投じて社会の隠れた病弊を暴き、ロマン・ロランは彼をドーミエやゴヤに比した。しかし最も多く制作したのは木版の書籍の挿画と、全て図画で表現した物語であった。彼はパリを深く愛したため、作品はしばしばロマンティックで奇矯、人情を超えたものとなり、驚異と滑稽の効果を収めた。ただしこの『一人の受難』(Die Passion eines Menschen)のみは写実の作であり、他の図画物語とは全く異なる。

 この物語二十五葉の中にも、一字の説明もない。しかし我々は一目で分かる。テーブルと椅子の他に何もない部屋で、一人の女が身籠もっている(一)。出産後、たちまち他人に追い出される(二)。やむなく路上をさまよい(三)、ついに別の男について行く。先の子供は不良少年の群れに入り、街頭で暴れ回る(四)。少し大きくなると大工の修業に出されるが、あれほど重い仕事を幼い子供にはこなせない(五)。結局、野良犬を追い払うように蹴り出される(六)。飢えに迫られてパンを盗み(七)、たちまち巡査に捕えられ(八)、監獄に入れられる(九)。刑期を終えて釈放されるが(十)、今度は賑やかな通りをさまようのは彼の番だ(十一)。しかし幸いにも道路工事の仕事が見つかる(十二)。ただし終日つるはしを振るうのは疲労するものだ(十三)。この時、隙に乗じて入り込むのが悪友である(十四)。彼は誘惑に負け、娼婦に会いに行き(十五)、ダンスに興じる(十六)。しかし帰り道で悔恨が込み上げ(十七)、工場で働くことを決意し、早朝から読書自習する(十八)。この環境の中で初めて、真に愛し合える同志に出会う(十九)。しかし労使双方が衝突し、彼は高みに立って叫び、労働者を結集して資本家と戦う(二十)。すると密偵が前方で窺い(二十一)、兵警が後方から弾圧し(二十二)、密偵がさらに離間工作を行い、彼は捕えられる(二十三)。受難の「神の子」イエスの像の前で、この「人の子」は裁かれる(二十四)。当然、死刑である。彼は立ち、兵士たちの発砲を待つ(二十五)。

 イエスは言った。富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るよりも難しいと。しかしそう語った本人は、その時まさに受難したのだ。現在では欧米の一切の富豪がほぼ皆イエスの信奉者であり、受難するのは貧者の番となった。

 これこそ『一人の受難』が叙述するところである。

 一九三三年八月六日、魯迅記す。


第40節

【「濤声」を祝す】

 『濤声』の寿命がこれほど長いとは、考えてみると実に不思議な気がする。

 一昨年、昨年、いわゆる作家なるものにはまだ何々会とか何々文学とかを標榜するものがあったが、昨年にはもう漠然たるものとなり、今年は大抵が偽名で小新聞を営み、消息を売っている。消息がそれほど多くあるはずもなく、そこで流言を捏造する。先の作家はまだ暗黒小説を合作する力があったが、今はその合作すらできず、零細な断片を読者の脳に押し込み、消息や秘聞の類をもって彼らの全学問とさせる。この功績への褒賞は原稿料の他に消息報酬であり、「羊頭を掲げて狗肉を売る」のはもう過去のこととなり、今は「人肉を売る」段階だ。

 かくして「人肉を売らない」刊行物とその著者たちは、売られる商品と化した。これもまた怪しむに足りない。中国は農業国であるのに小麦をアメリカから購入せねばならず、子供を売るだけは一斤わずか数百銭で済む。古文明国の文芸家が血を売るしかないのは当然で、ニーチェも「我は血で書かれた書を愛す」と言ったではないか。

 しかるに『濤声』はなお存続している。これこそ私が「不思議に思う」と言った所以である。

 これは一種の幸運であり、同時に一つの欠点でもある。現今の状況を見ると、勅許あるいは黙許されて存続しているものは、往々にして一部の人々から首を振られる。ある人が私を批評してこう言った——魯迅が今なお生きているのを見るだけで、大した人物ではないと分かると。これは本当のことで、民国革命以来、善き人々がどれほど殺害されたか知れない。しかし誰も正確な記録を残していない。この事実がまた私を悪く教育した。なぜなら私は知っているのだ——たとえ死んだとしても、彼らに消息を売られ流言を捏造されて、殺されたのは実は金か女の関係だと言われるだけだと。だから殺すべき者の列に名を連ねるのは構わないが、首を吊ったり毒を飲んだりすることはしない。

 『濤声』には常に裸で戦い、死に物狂いの文章が載っている。この気性は私とは正反対であり、長命の原因ではない。幸運にしてかつ欠点でもあるのは、常に古典を引いて今を証そうとする学究気があるところだ。中国人は「四千余年の古き古国」を自慢するが、極めて物忘れが激しく、民族主義文学家すらジンギスカンを先祖と認めるほどだから、古を語るにふさわしくないのは明らかだ。上海の商人たちにはなおさら不要で、彼らが興味を持つのはただ今日の当選番号、隣家の色恋沙汰にすぎない。高尚なのは学界の雑聞、文壇の消息を読むこと。要するに、生命をすでに細切れにしてしまっている。

 これは『濤声』の売上が芳しくない理由であるが、一方で『濤声』を長命にしてもいる。文人学士は清高を旨とし、今ではさらに賢くなって、主人を褒め称えるという露骨なことはしなくなった。ただ暗箭を構え、糞帚を持ち、俯伏すべき奴隷どもを監視して、誰かが頭を上げれば射かけ、振りかけ、結果としてその人物を拉致あるいは暗殺に至らしめ、民国の国民を一律「平等」にする。『濤声』は売上で目立たないがゆえに、一時的に命拾いしたが、安心はできない。「測り知れぬ威」は古来あるものだ。

 私は『濤声』を好んで読んでおり、このままでよいと思っている。しかし近頃を見ると、政治を語るなとか、やはり政治を語るとか、ますます穏やかでなくなってきたようで、私のあの忠告も「烏鴉を記として」の刊行物には、おそらく効き目がないだろう。

 ならば「祝す」も結局「空祝い」であり、私もまた一号読んでは一号と算えるしかない。古人の詩に曰く、「喪乱は死に多門あり」と。まことにその通りだ!

 (八月六日。)

 十一月二十五日の『濤声』に、果たして「休刊の辞」が出た。冒頭に曰く、「十一月二十日午後、本刊は命により登記証を返還した。『民亦た労す、汔んど小康なるべし。』我々は暫く休息する用意がある。」……これはまことに康有為の言ったような「不幸にして吾が言当たる」であり、奇にして奇ならずや。十二月三十一日夜、追記。


第41節

【上海の少女】

 上海で暮らすには、流行の服装をする方が野暮ったいよりも割安である。もし古着姿であれば、公共電車の車掌は言われた通りに停車せず、公園の守衛は殊更に入園券を厳しく検査し、大邸宅や大旅館の門番は正門を通らせてくれない。だから斗室に住み、南京虫に食わせようとも、一本の洋服のズボンは毎晩必ず枕の下に敷いて、両脚の折り目に毎日稜角を付けねばならないのだ。

 しかしもっと割安なのは流行の女性である。これは商店で最もよく見て取れる。選び終わらず、決断がつかなくても、店員はなかなかよく辛抱する。ただし時間が長すぎると、一つの必要な条件が要る。少々の媚態を帯び、二言三言のからかいを受け入れられることだ。さもなければ、やはり最後には普通の白い目を引き出してしまう。

 上海の暮らしに慣れた女性は、とうの昔にこうした自らの持つ栄光を自覚し、同時にこの栄光に含まれる危険も心得ている。ゆえに流行の女性が見せる気配は、誘いかけると同時に守り、引き寄せると同時に拒み、一切の異性の親しき者のようでもあり、一切の異性の敵のようでもあり、喜んでいると同時に怒っているのだ。この気配は未成年の少女にも伝染し、我々は時折、彼女たちが店先で品物を買う様子を目にする——首を傾け、わざと拗ねた怒りの表情で、大敵に臨むかのごとく。当然、店員は成年の女性に対するのと同様にからかうことができるし、彼女もまたそのからかいの意味を早くから心得ている。つまるところ、彼女たちは大抵、早熟なのだ。

 しかし一方で、日刊紙には少女の誘拐、さらには少女への凌辱の記事が確かにしばしば見られる。

 『西遊記』の魔王が人を食う際に童男童女でなければならないのはさておき、人間の中でも富豪の家では、古来より童女を侍奉、放蕩、高潔の気取り、仙道探求、精力吸取の材料としてきた。ちょうど普通の美食に飽きて乳豚や芽茶を求めるようなものだ。今やこの現象は商人や労働者の間にまで見られるが、これは人々の生活が順調でない結果であり、飢えた民が草の根や木の皮を掘って食べるのに比すべきであって、富豪の放縦な変態と同日に論じるべきではない。

 しかし、要するに、中国では少女までもが危険の中に入り込んでいるのだ。

 この危険がさらに彼女たちを早熟にし、精神はすでに大人であるのに、肉体はまだ子供である。ロシアの作家ソログープはかつてこの類型の少女を描いた。まだ子供なのに、目だけはもう大人になっていると。しかし我々中国の作家には、別の称賛の仕方がある。いわゆる「嬌小玲瓏」というのがそれだ。

 (八月十二日。)


第42節

【上海の児童】

 上海の租界外に築かれた北四川路の一帯は、戦争のために昨年は半年ほど閑散としていたが、今年はやはり賑わいを取り戻した。店舗はフランス租界から戻り、映画館はとうに開業し、公園の近くにも手を取り合って歩く恋人たちの姿がしばしば見られる。これは去年の夏にはなかったことだ。

 もし住宅の路地裏に入ってみれば、便器、食べ物の屋台、蠅の大群、隊を組んで騒ぐ子供たち、激しい悪戯、発達した罵詈雑言——まさに混沌とした小世界である。しかし大通りに出ると、目に映るのは颯爽として活発に遊び歩く外国の子供たちばかりで、中国の子供はほとんど見えない。しかしいないわけではなく、ただ衣服はだらしなく、精神は萎えて、他人に影のように押しつぶされ、目立てないだけなのだ。

 中国の中流家庭の子供の教育には、大抵二つの方法しかない。その一つは、跋扈するに任せ、一切管理しない。人を罵るも可、人を打つも不可ならず。門内あるいは門前では暴君、覇王であるが、外に出れば網を失った蜘蛛のようにたちまち無能力となる。その二は、終日冷遇あるいは叱責し、さらには打擲に至り、畏縮退縮させ、まるで奴隷か操り人形のようにする。しかし父母はこれを美名を冠して「聞き分けが良い」と呼び、教育の成功と自負する。外に出せば、籠から暫し出された小鳥のごとく、飛び鳴くこともなく、跳ね回ることもない。

 今やどうにか中国にも児童向けの絵本が出るようになった。しかし描かれる人物は、横暴冥頑の気味を帯びたいたずら小僧か、さもなくば猫背でうつむき、死んだような顔つきのいわゆる「良い子」かのどちらかだ。これは画家の力量不足によるところもあるが、また児童を範本としているのであり、これがまた児童が模倣する範本として供されるのだ。他国の児童画を見てみよう。イギリスは沈着、ドイツは粗豪、ロシアは雄厚、フランスは瀟洒、日本は聡明——いずれにも中国のような衰弊の気象は一点もない。民風を観るには詩文によるのみならず、図画によることもでき、しかも人々に軽んじられている児童画によることもできるのだ。

 頑劣も鈍滞も、いずれも人を没落させ滅亡させる。幼年の様相は、やがて来る運命である。我々の新しい人物たちは恋愛を語り、小家庭を語り、自立を語り、享楽を語るが、子供のために家庭教育の問題、学校教育の問題、社会改革の問題を提起する者はごく少ない。昔の人は「児孫のために牛馬となる」ことしか知らなかった。それは確かに誤りだが、ただ現在だけを顧みて将来を考えず、「児孫を牛馬たらしめるに任す」のは、さらに大きな誤りと言わざるを得ない。

 (八月十二日。)


第43節

【「論語一年」】  ——ついでにまたショーのことを語る

 『論語』が一年を迎えたとのことで、語堂先生が私に文章を書くよう命じた。これはまるで「学而第一章」という題を出して、白話の八股文を書けと言われるようなものだ。仕方がない、書き始めるとしよう。

 正直に言えば、彼の提唱するものに私は常々反対してきた。以前は「フェアプレイ」に対して、今は「ユーモア」に対してである。私は「ユーモア」を愛さない。しかもこれは円卓会議を好む国民にしか生み出せない代物であり、中国では意訳すらできないと考える。我々には唐伯虎がおり、徐文長がいる。さらに最も有名な金聖歎がいて、「斬首は至痛なり、しかるに聖歎は無意に之を得たり、大いに奇なり!」と言った。これが本音なのか冗談なのか、事実なのか流言なのか分からないが、ともかく、第一に聖歎は反抗の叛徒ではなかったと声明し、第二に屠殺者の残虐さを一笑に化して大団円とした。我々にはこのようなものしかなく、「ユーモア」とは何の関係もない。

 その上、著者の姓名は大層な名簿だが、実際に筆を執る者はごく僅かというのは、中国の古い礼法である。このような礼制の下で、毎月二冊の「ユーモア」を出そうとすれば、かえっていささか「ユーモア」の気味がある。この気味は人を悲観させ、私を『論語』にあまり熱心にさせなかったのだ。

 しかしながら、『ショウ特集号』は良かった。

 他で発表を拒否された文章を発表し、他で故意に顛倒された談話を明かした。今なお名士を不快にし、小役人を恨ませ、食事の時も眠る時も思い出すほどだ。憎悪の久しさ、憎悪者の多さは、すなわち効力の大きさの証拠である。

 シェイクスピアは「劇聖」であるが、我々はあまり彼に言及しない。五四の時代にイプセンが紹介され、評判はまだ良かった。今年ショウが紹介されると、事態は悪化した。今なお腹を膨らませている者がいる。

 彼が笑いながら、それが冷笑か悪笑か嘻笑か見分けがつかないからか。違う。笑いの中に棘があり、他人の病痛を刺したからか。それだけでもない。レヴィタフは極めて明瞭に言っている——イプセンは偉大なる疑問符(?)であり、ショウは偉大なる感嘆符(!)だからだと。

 彼らの観客は言うまでもなく紳士淑女が多い。紳士淑女は何より面子を重んじる人種だ。イプセンは彼らを登場させ、いくらか隠蔽を暴くが、結論は付けず、悠然と言う。「考えてみたまえ、これは一体何なのか」と。紳士淑女の尊厳は確かに多少動揺するが、結局はまだ揺れながらも退却して帰宅し、考える余裕が残されている。面子は保たれる。帰宅後、考えたかどうかは問題にならない。だから中国に紹介された時、反対者は賛成者より少なかった。ショウはそうではない。彼らを登場させ、仮面を剥がし、立派な衣装を剥ぎ取り、ついには耳をつかんで皆に指し示す。「見よ、これは蛆虫だ!」と。協議の暇も糊塗する術も一切与えない。この時、笑えるのは彼が指摘する病痛を持たない下等人だけだ。この一点において、ショウは下等人に近く、上等人から遠い。

 どうしたものか。やはり古来の常套手段がある。皆が沸き返って叫ぶのだ——彼は金持ちだ、偽善だ、「名士」だ、「狡猾」だ、少なくとも自分たちと大差ないか、もっと悪いと。自分は小さな厠に暮らしているが、彼は大きな厠から這い出てきた一匹の蛆虫であり、紹介者は愚か、称賛する者は怪しからんと。しかし、思うに、仮にショウも一匹の蛆虫だとしても、彼はなお一匹の偉大なる蛆虫である。多くの感嘆符がありながら、ただ彼のみが「偉大なる感嘆符」であるのと同じことだ。蛆虫の一群がいるとしよう。皆一律に動き回り、自らを紳士淑女と思い込み、互いに頷き合い、天下泰平。それでは全体に何の高下もない。しかし一匹が突如飛び出して大喝する——「こいつらは皆蛆虫だ!」と。当然、それも厠から這い出てきたのだが、我々はこれを特別に偉大なる蛆虫と認めないわけにはいかない。

 蛆虫にも大小があり、善し悪しがある。

 生物の進化はダーウィンによって暴かれ、我々の遠い祖先が猿の親戚であることが分かった。しかしその時の紳士たちの手法は今と全く同じで、皆してダーウィンを猿の子孫と呼んだ。我々はさしあたり人類が猿の親戚であることを認めよう。体面は良くないが。しかしこの同じ猿の親戚の中で、ダーウィンはやはり偉大だと言わざるを得ない。猿の親戚という家系でありながら、少しも忌憚せず、人間が猿の親戚であることを指摘したからだ。

 猿の親戚にも大小があり、善し悪しがある。

 しかしダーウィンは研究には長けていたが、罵倒には長けていなかったため、紳士たちに半世紀も嘲笑された。彼のために戦ったのは自ら「ダーウィンの番犬」と称したハクスリーである。彼は淵博な学識と鋭利な文章をもって東に西に突き進み、自らをアダムとイヴの子孫と任じる者たちの最後の砦を攻略した。今日では人を犬と呼ぶのは悪罵の一つとされる。しかし犬でさえ一律に論じられない。肉を食らうもの、橇を引くもの、軍隊のために敵を探るもの、警察のために人を捕えるもの、張園で競走するもの、乞食について物乞いするもの。金持ちを楽しませるパグ犬と、雪中に人を救う猛犬と比べれば、いかがであろう。ハクスリーのごときは、まさに人類に功績ある良犬なのだ。

 犬にも大小があり、善し悪しがある。

 しかし識別するには、まず弁別しなければならない。「ユーモアは戯れと真面目の間に処す」(語堂語)。戯れと真面目の弁別を知らずして、どうしてこの「間」を知り得ようか。我々は孔子の門徒の看板を掲げながら、実は荘子の私淑弟子なのだ。「彼も亦た一の是非、此も亦た一の是非」——是と非を弁別しようとしない。「周の夢みて蝴蝶たるか、蝴蝶の夢みて周たるかを知らず」——夢と覚醒も区別できない。生活を混沌のままにしておきたいのだ。もし七つの穴を穿てば。荘子曰く、「七日にして混沌死す」と。

 これでどうして感嘆符を容れられようか。

 しかも笑いすら容れられない。私塾の先生は昔から子供に怒ることも悲しむことも喜ぶことも許さなかった。皇帝が笑おうとしなければ、奴隷は笑ってはならない。彼らが笑えるなら、泣くことも怒ることも騒ぐこともできると恐れる。まして座って版税を収入しながら、一年の間「ただ騒音怨音および刻薄刁毒の音を聞くのみ」とあっては。

 中国に「ユーモア」は存在し得ない。

 私の『論語』への悲観は決して神経過敏ではない。版税のある者すらかくの如し。爆弾が空を飛び、河水が野を覆う場所の人々に「ユーモア」を語れと期待できようか。おそらく「騒音怨音」すらなく、「盛世の元音」は当然論外だ。将来、円卓会議に列席する者があるかもしれないが、客人として主客の間に「ユーモア」は不要だ。ガンジーは何度も断食し、主人側の新聞にはすでに鞭を与えるべしとの声がある。

 インドにも「ユーモア」はない。

 最も痛烈にあの主人たちを鞭打ったのがショウであり、我々中国の一部の紳士淑女たちが彼を憎悪するのは、まことにショウにとって「無意に之を得たり、大いに奇なり!」である。しかしこれはまた『孝経』の好い文章ともなろう。「此れ士大夫の孝なり」と。

 『中庸』も『大学』もすでに新たに出版された。『孝経』は必ず出るだろう。しかし他に『左伝』も要る。このような世の中で、『論語』がうまく行くはずがない。二十五号まで、これですでに「亦た楽しからずや」であろう。

 (八月二十三日。)


第44節

【小品文の危機】

 確か一、二ヶ月前、ある日刊紙に、ある人物の死去を記した文章が載っていたのを覚えている。彼は「小擺設」(小さな置物)の蒐集で名を馳せた人物で、末尾にはおぼろげな嘆息があり、この人が亡くなれば「小擺設」の蒐集家は中国で絶えてしまうのではないかと案じていた。

 しかし残念ながら当時はあまり注意を払わず、その日刊紙の名前もその蒐集家の名前も忘れてしまった。

 今の新しい青年も大抵は「小擺設」が何であるか知るまい。しかしもし旧家の出で、かつて文墨を弄んだ者がいたならば、あまり落ちぶれていない限り、埃をかぶった廃物の中から、小さな鏡屏、玲瓏透き通った石、竹の根を刻んだ人像、古玉で彫った動物、錆びて緑青を吹いた銅鋳の三脚の蝦蟇を見つけ出すことができよう。これがいわゆる「小擺設」である。かつて書斎に陳列されていた頃には、それぞれ雅号があった。例えばあの三脚の蝦蟇は「蟾蜍硯滴」の類と称すべきものであり、最後の蒐集家なら必ず知っていたが、今やその光栄と共に消え去ろうとしている。

 これらの品は、もとより貧者のものではないが、高官富豪の調度でもない。彼らが欲するのは珠玉で飾った盆景、五彩絵付けの磁瓶だ。これはただ士大夫の「清玩」にすぎない。外には少なくとも数十畝の肥沃な田地があり、家には数間の幽雅な書斎がなければならない。上海に仮寓しても、必ず比較的安閑とした生活で、旅館に一室の定宿を持ち、書机一つ、煙草盆一つ、阿片の渇きを満たして心閑かに撫でまわし賞翫する。しかるにこの境遇は、今や世界の険悪な潮流に七転八倒し、狂濤の中の小舟のようになってしまった。

 しかしいわゆる「太平盛世」にあっても、この「小擺設」はもとより重要な物品ではなかった。方寸の象牙板に『蘭亭序』一篇を刻んだものは、今なお「芸術品」と称されるが、もしこれを万里の長城の壁頭に掛け、あるいは雲岡の丈八の仏像の足下に供えたなら、渺小にして見えず、たとえ熱心な者が懸命に指差しても、観る者に滑稽の感を生じさせるだけだろう。まして風沙が顔を打ち、狼虎が群れをなす時に、誰が琥珀の扇墜、翡翠の指輪を賞玩する暇があろうか。たとえ目を楽しませたくとも、求めるのは風沙の中にそびえ立つ大建築であり、堅固にして偉大なれば、精緻である必要はない。たとえ満足を得たくとも、求めるのは匕首と投槍であり、鋭利にして切実なれば、雅趣は不要なのだ。

 美術における「小擺設」への要求、この幻夢はすでに砕かれた。あの日刊紙の文章の著者も直感的にそれを知っていた。しかし文学における「小擺設」——「小品文」への要求は、かえってますます旺盛になりつつある。要求者は低い囁きや微かな吟詠によって、粗野な人心を次第に平滑に磨き上げられると考えている。これはつまり、人々に『六朝文絜』をひたすら眺めさせ、自分が黄河の堤防決壊の後、かろうじて水面に露出した梢にしがみついていることを忘れさせようというのだ。

 しかしこの時に必要なのは、ただ藻掻きと戦闘である。

 そして小品文の生存もまた、ただ藻掻きと戦闘に依っている。晋朝の清談は、とうにその王朝と共に消え去った。唐末、詩風が衰退し、小品文が光を放った。しかし羅隠の『讒書』は、ほぼ全篇が抗争と憤激の論である。皮日休と陸亀蒙は自ら隠者と称し、他人も隠者と呼んだが、『皮子文薮』と『笠沢叢書』の小品文を見れば、天下を忘れてはいない。まさに一面の泥沼の中の光彩と鋒芒なのだ。明末の小品は比較的頽放ではあるが、必ずしも全てが風月を弄ぶものではなく、その中には不平があり、風刺があり、攻撃があり、破壊がある。この種の作風は満洲の君臣の心病にも触れ、助虐の武将の刀鋒、幇閑の文臣の筆鋒を費やし、乾隆年間に至ってようやく圧制された。その後に来たのが「小擺設」だ。

 「小擺設」は当然大きな発展を遂げ得ない。五四運動の時に至って、再び一つの展開が訪れた。散文小品の成功は、ほとんど小説・戯曲・詩歌を上回った。この中には当然、藻掻きと戦闘が含まれていたが、しばしばイギリスの随筆(Essay)を範としたため、いくらかのユーモアと雍容をも帯びていた。筆法にも瀟洒と緻密のあるものがあった。これは旧文学に対する示威のためであり、旧文学が特長と自負するものは、白話文学にもできないことはないと示すためだった。その後の道は、本来明白に、より一層の藻掻きと戦闘であるはずだった。なぜならこれは「文学革命」ひいては「思想革命」から萌芽したものだからだ。しかし現在の趨勢は、旧文章と合致する点——雍容、瀟洒、緻密——を特に提唱し、それを「小擺設」にして雅人の撫でまわす対象とし、しかも青年がこの「小擺設」を撫でまわして粗暴から風雅に変わることを望んでいる。

 しかし今やもはや書机もない。阿片は公売されたものの、煙具は禁止されており、吸うのはなかなか容易ではない。戦地や被災地の人々に鑑賞させようと思えば——誰もがさらに奇怪な幻夢だと知っている。この種の小品は、上海ではまさに盛行し、茶話酒談が小新聞の露店に溢れているが、実はちょうど娼婦のようなもので、もはや路地裏で客引きできなくなったため、化粧を施して夜の大通りに出てきたのだ。

 小品文はかくして危機に至った。しかし私の言う危機とは、医学における「クリーゼ」(Krisis)と同様、生死の分岐点であり、そのまま死に至ることもあれば、これを経て快復することもある。麻酔性の作品は、麻酔する者と麻酔される者と共に滅びるであろう。生存する小品文は、必ずや匕首であり、投槍であり、読者と共に生存の血路を切り開くものでなければならない。しかし当然、それもまた人に愉快と休息を与えることができる。ただしそれは「小擺設」ではなく、ましてや慰撫や麻痺ではない。それが与える愉快と休息は休養であり、労働と戦闘に先立つ準備なのだ。

 (八月二十七日。)


第45節

【九一八】

 曇天、正午に大暴風雨。夕刊を見ると、すでにこの記念日を記念する文章があり、暴風雨を素材にしている。明日の朝刊には、必ずやさらに千篇一律の作品が並ぶだろう。空言は事実に如かず。さてあの記事を見てみよう——

 戴季陶、救国の方法を講ず (中央社)

 南京十八日——国府は十八日朝、記念週を挙行した。林森、戴季陶、陳紹寛、朱家驊、呂超、魏懐ら国府職員四百余名が出席し、林主席が礼を率い、次いで戴が「如何にして救国するか」を講じた。略して謂く、本日は九一八二周年記念日であり、沈痛の余り、救国の目的達成を図るべきである。救国の道は多く、道徳救国、教育救国、実業救国等がある。最近また航空運動及び節約運動がある。前者の動機は国防と交通の建設にあり、今後は根本的に国力増強を図るべきであって、外国から飛行機を購入することのみを知るべきではない。節約運動は一面消極的に消費を節し、一面積極的に金銭を生産に用いるべきである。国家危急の秋に当たり、各自がその職務上で力を尽くし、総理の一貫政策に基づいて三民主義全体の実施をなすべきである。

 呉敬恒、記念の意義を講ず (中央社)

 南京十八日——中央は十八日朝八時、九一八二周年記念大会を挙行した。中央委員の汪兆銘、陳果夫、邵元冲、陳公博、朱培徳、賀耀祖、王祺ら中央工作人員六百余名が出席し、汪が主席を務め、呉敬恒が精誠団結・国力充実をもって九一八を記念する意義として講演し、愛国の道を指し示し、言辞は警策に満ち、九時に散会した。

 漢口、黙祷・娯楽停止 (日聯社)

 漢口十八日——漢口の九一八記念日、華人街の各戸は半旗を掲げ、省市両党部は午前十時に記念会を挙行した。各劇場・酒館はすべて休業し、午前十一時に全市民が五分間の黙祷を捧げた。

 広州、民衆のデモ行進を禁止 (ロイター社)

 広州十八日——各官署と公共団体は今朝いずれも九一八国恥記念を挙行した。中山記念堂では朝に記念礼を行い、演説者はいずれも日本の対中侵略を非難した。全市の汽笛が一斉に鳴り、民衆に警告を発し、式典中には飛行機がビラを散布した。ただし民衆の大行進は当局に禁止され、実現しなかった。

 東京、記念祭及び犬馬 (日聯社)

 東京十八日——東京は本日、九一八記念日を挙行した。午後一時に日比谷公会堂にて戦没軍人遺族慰安会を開催。築地本願寺にて軍馬・軍犬・軍鳩等の慰霊祭を挙行。在郷軍人は午後六時に大会を開催。靖国神社にて戦没軍人追悼会を挙行した。

 しかし上海ではどうか。まず租界を見よう——

 雨糸風片、いよいよ消沈の感

 本日の全市は、雨糸風片の侵襲、愁雲惨霧の籠罩により、いよいよ黯淡の象を呈している。しかし車を駆って全市を巡っても、九一八の特殊な点綴を見出すのは困難であり、昨年の今日に比べていくらか消沈の感がある。しかしこれは中国民衆が次第に麻木に趨いたのではなく、あるいは中国民衆が過去の標語口号の恃むに足りぬことを覚悟し、ただ頭を埋めて懸命に働く一途しかないと悟ったのかもしれない。かくして本日の南市・閘北および租界区域は、異常に平安であり、道途の間には警務当局が要衝の区に多く警探を配して厳密に警戒する以外、格別に記述すべきものはなかった。

 以上は『大美晩報』に見えるもので、中国人のために大いに祝福している。華界の状況は『大晩報』の記載を見ねばならない——

 本日九一八   華界戒備    公安局、密報に基づき反動を防ぐ

 本日は「九一八」、日本による東北占領の国難二周年記念日である。市公安局長の文鴻恩は、昨日密報を得た。反動分子が国難記念に名を借りて秘密裏に無知の工人を召集し、集会を開いて煽動し秩序を撹乱しようと企図している由。文局長は報告を精査の上、各区所隊に訓令を発し、昨年の「九一八」同様の特別戒備を実施させた。(中略)南市大吉路公共体育場、滬西曹家渡三角場、閘北潭子湾等にはいずれも大量の巡邏警士を配し、集会デモを禁止した。(中略)紅色車(囚人護送車)巡回隊が城壁沿いに巡行し、形勢は甚だ壮厳であった。偵察隊長の盧英は偵察班長の陳光炎、陳才福、唐炳祥、夏品山に各偵察員を率いて曹家渡、白利南路、膠州路および南市公共体育場等に密かに赴き、反動分子の行動を厳密に探索させ、防範し乱の萌芽を遏止させた。公共租界およびフランス租界の両警務処もまた中西の探員を派遣して捜査し、反動を防いだ由。

 「紅色車」は囚人護送車であり、中国人は乗せられるが、しかし中国人の目から見れば、確かに「形勢甚だ壮厳」の感がある。思い返せば二日前(十六日)発行の『生活』に載った「二年の教訓」に、こんな一節があった——

 「第二に、我々は誰が友で誰が敵かが分かった。ヒトラーはドイツ民族社会党大会でこう言った。『ドイツの仇敵は国外にあらず、国内にあり。』北平整理委員会主席の黄郛はこう言った。『和共抗日の説は実に謬論なり。剿共と和外こそ時を救い党を救う上策なり。』我々はこう言いたい。『民族の仇敵は帝国主義だけではない。民族の利益を売り渡す帝国主義の走狗どもだ。』民族の反帝の真の障碍がどこにあるか、この二年の事実以上に明白に示すものがあろうか。」

 今ここにもう一つ切実な脚注を加えよう。明白なる鉄証として、上海華界の「紅色車」がある! これは一日の間の大いなる教訓だ!

 年々このような状況が歳月に埋没していく。今夜これを記して記念文とする。もし中国人が遂に害し尽くされ殺し尽くされることがないならば、もって我々の後来者に遺すものである。

 (当夜、記す。)


第46節

【偶成】

 九月二十日の『申報』に嘉善地方の記事があり、摘録すると以下の通りだ——

 「本県大窯郷の沈和声と子の林生は、著名な匪賊・石塘小弟に拉致され、三万元の身代金を要求された。沈家は中産の家柄であり、決断を遷延した。すると当該匪賊の一味は、沈和声父子および蘇境方面から拉致してきた人質に対し、丁棚北、北蕩灘の地にて大いに酷刑を加えた。その方法は布条を背中一面に貼り付け、別に生漆を塗り、やや乾いたところで布の一端から皮ごと剥がすというもので、痛みは心肺を貫き、哀号して救いを求める声は悽惨にして聞くに堪えない。時にこれを目撃した附近の住民は惻然として心を痛め、惨状を沈家に報告し、速やかに身請けに行かねば生還は覚束ないと告げた。匪賊の手段の酷さは、実に前代未聞である。」

 「酷刑」の記載は各地方の新聞に常に見られるが、我々はただ見た時に「酷い」と感じるだけで、すぐに忘れてしまう。実際、記しきれないのだ。しかし酷刑の方法は、突然発明されるものでは決してなく、必ずその師承あるいは祖伝がある。例えばこの石塘小弟が採用したのは古法であり、士大夫は見向きもしないが下等人は大抵知っている『説岳全伝』(別名『精忠伝』)に見える。秦檜が岳飛に「漢奸」の自白を迫る際に用いた方法であるが、使用した材料は麻条と魚膠だった。私は生漆というのは確かではないと思う。この物質は乾きにくいからだ。

 「酷刑」の発明と改良者はむしろ虎吏と暴君であり、これは彼らの唯一の事業であって、研究する暇もある。これは民を威嚇するためであり、また奸を除くためでもあるが、老子が適切に言っている。「これがために斗斛を作りて以てこれを量れば、則ち斗斛と並びにこれを窃む……」。刑を受ける資格のある者もまた「剪窃」の真似をするのだ。張献忠の人皮剥ぎは駭聞ではないか。しかし彼以前に、すでに「逆臣」景清の皮を剥いだ永楽帝がいるのだ。

 奴隷たちは「酷刑」の教育を受け慣れ、人に対しては酷刑を用いるべきだとしか知らない。

 しかし酷刑の効果についての見解は、主人と奴隷とでは異なる。主人とその幇間は多くが知識人であり、推測ができ、酷刑を敵に施した場合にどれほどの苦痛を与えるか知っている。だから精巧に案出し、進歩する。奴隷たちは必ず愚者であり、「己を推して人に及ぼす」ことができず、まして推測して「身に受けるがごとく感じる」こともできない。もし彼に権力があれば、成法を採用することも難くはなかろうが、その主意は知識人が推し量るほどには惨烈ではない。セラフィモーヴィチは『鉄の流れ』の中で、農民が貴族の幼い娘を殺した場面を描いている。母親が非常に悲しんで泣くと、彼は怪訝に言う——何を泣くのだ、俺たちは子供が何人死んでも一度も泣いたことがないのに。彼は残酷なのではない。人命がこれほど貴重なものだとは知らなかったのだ。不思議に思ったのだ。

 奴隷たちは豚犬のごとき待遇を受け慣れ、人間も豚犬と異ならないと知るのみだ。

 奴隷あるいは半奴隷の上に安んじる幸福者が、古来より「奴隷の反乱」を恐れるのは、まことに怪しむに足りない。

 「奴隷の反乱」を防ぐために、さらに「酷刑」を用いるが、「酷刑」はそれゆえにかえって末路に至る。現代では銃殺はとうに珍しくなく、梟首の上で遺体を晒しても、民衆の一時的な見物の種にしかならず、強盗、拉致、騒乱は一向に減らない。しかも拉致犯までもが他人に酷刑を用い始めた。酷の教育は、人々をして酷を見ても酷と感じなくさせた。例えば何の理由もなく民衆数人を殺しても、以前は皆が騒ぎ立てたものだが、今ではただの日常茶飯事と見なす。人民はまことに厚い皮を持ち、感覚を失った癩象のように治められてしまった。しかしまさに癩皮となったがゆえに、残酷を踏み越えて前進する。これは虎吏と暴君の料らざるところであり、たとえ料ったとしても、なお毫も術のないところなのだ。

 (九月二十日。)


第47節

【漫与】

 地質学上の古生代の秋はもはやよく分からないが、現在の秋は概ね大差ない。もし一昨年が粛殺の秋であり、今年が凄涼の秋に変わったとすれば、地球の年齢は天文学者が予測する最短の数字よりもさらに遥かに短くなるだろう。しかし人事は実に急速に変転し、この変転の中にある人間、とりわけ詩人は、異なる秋を感じ、この感覚を悲壮な、あるいは凄婉な句をもって一般の人々に伝え、互いにやり過ごすことができるようにする。かくして天地の間にも常に新しい詩が存在するのだ。

 一昨年は実に悲壮な秋のようだった。市民は金を献じ、青年は命を懸け、軍鼓の音も詩人の筆から湧き出し、あたかも真に「筆を投じて軍に従う」かのようだった。しかし詩人の感覚は鋭敏であり、国民が赤手空拳であることを知らないわけではない。だからただ皆の殉難を讃美するしかなく、悲壮の中には一抹の空虚が潜んでいた。私が覚えているのは、邵冠華氏の「起て同胞よ」(『民国日報』所載)の一節だ——

 「同胞よ、起きよ、  弱者の心を蹴り飛ばせ、  弱者の脳を蹴り飛ばせ、  見よ、見よ、見よ、  見よ、同胞の血が噴き出す、  見よ、同胞の肉が裂かれる、  見よ、同胞の屍が吊るされる。」

 鼙鼓の音は前線にあるべきもので、進軍の際には「気を作す」ものだが、それでも「再びすれば衰え、三たびすれば竭く」。進軍の準備もない場所でなら、それは完全に「気を散らす」霊丹であり、かえって他人の緊張した心を弛緩させる。だから私はこれを「号泣」に喩えた。死者を送る妙法であり、葬儀の終幕であり、これによって生きている者は再び別の境界の中で安心して楽しく生きていける。歴来の文章で、「敵」を「皇」に化し、「逆」を「我が朝」と称するのは、この種の悲壮な文章がその間の「蝶番」なのだが、もちろん作り手が一人である必要はない。しかし詩人から見れば、これらの話は「狂吠」に過ぎないと言う。

 しかし事実は評論よりもさらに情け容赦がない。わずかこの短い二年の間に、かつての義軍はすでに「匪徒」と名づけられ、一部の「抗日英雄」はとうに蘇州に僑居している。しかも献金にも問題が生じた。九一八の記念日には、華界にはただ囚人護送車が武装巡査に従って巡回するのみ。この囚人護送車は敵や漢奸を拘禁する「意図」ではなく、「乗じて騒乱を企図する」「反動分子」のために予め用意された宝座なのだ。天気もまことに陰惨で、狂風暴雨、新聞は「颶風」と言い、天地が中国のために泣いているかのようだが、しかし天地の間——人間界において、この一日は「平安」に過ぎたのだ。

 かくしていくらか惨淡ではあるが、なかなか「平安」な秋となった。まさに喪家が除服の期に至った景象である。しかしこの景象は、詩人には非常にふさわしいのであり、私は「起て同胞よ」と同じ作家の「秋の黄昏」(九月二十五日『時事新報』所載)に、幽咽にして安らかな調べを聴いた——

 「私は秋になると感傷する。秋の黄昏になると涙が流れる。私の感傷が秋風の波動に揺さぶられて興奮して広がるのをすでに感じている。同時にまた、自分の環境が秋にこそ最もふさわしいことを発見するかのようだ。秋が自然の中に発する音波を細やかに撫でながら、私は自分の運命が私を秋の人にしたのだと知る。……」

 尾行——今の中国で流行しているのは、ならず者のモダンガールに対する尾行と、探偵の革命青年に対する尾行であるが、文人学士に対してはまだあまり見られない。もし数ヶ月あるいは数年追跡してみたなら、多くの、いかに情は事と共に移ろい、しかもどこまでも筋道が通っている詩人を目にするであろう。

 生きている人間は、もちろん常に生き続けたいと思うものであり、真正の由緒正しい奴隷ですら、なお堪え忍んで生き続けようとしている。しかし自ら奴隷であると知りながら、堪え忍びつつ、なお不平を抱き、藻掻き、一方では束縛を脱しようと「企図」し、実際に脱しようとする者は、たとえ一時失敗し、再び鎖に繋がれようとも、彼はただの単純な奴隷にすぎない。しかしもし奴隷生活の中に「美」を見出し、讃嘆し、撫でまわし、陶酔するなら、それはまことに万劫不復の奴才であり、自分と他人を永遠にこの生活に安住させるものだ。奴隷の群れの中にこの一点の差異があるがゆえに、社会に平安と不安の差異が生じ、文学の上にも麻酔的なものと戦闘的なものの違いが明瞭に現れるのだ。

 (九月二十七日。)


第48節

【世故三昧】

 人の世は実に処し難い場所であり、ある人を「世故に通じない」と言うのは確かに褒め言葉ではないが、「世故に深い」と言うのもまた褒め言葉ではない。「世故」はどうやら「革命は革せざるべからず、しかしまた革し過ぎるべからず」と同様に、通じないわけにはいかないが、通じ過ぎてもいけないものらしい。

 しかし私の経験によれば、「世故に深い」という悪評を得る者は、実はなお「世故に通じない」がゆえなのだ。

 今、仮に私が次のような言葉で青年を訓導するとしよう——

 「もし社会に不公正な事に出くわしても、決して身を挺して出て行き、公正なことを言ってはいけない。さもなければ、事態はかえってあなたの身に降りかかり、反動分子と指されることにもなりかねない。もし誰かが冤罪を被り、誣告されているのに出くわしても、たとえ彼が善人だと明白に知っていても、決して身を挺して出て行き、彼のために説明したり弁護したりしてはいけない。さもなければ、あなたは彼の親戚だと言われるか、彼から賄賂をもらったと言われる。もしその人が女性であれば、彼女の情夫だと疑われる。もし彼がいくらか有名であれば、党羽ということになる。例えば私自身のことだが、何の関係もない女性のために書簡集の序文を書いただけで、人々は彼女が私の義妹だと言い、いくらか科学的な文芸理論を紹介しただけで、ソヴィエトからルーブルをもらったと言われた。親戚と金銭は、現在の中国では確かに関係が大きく、事実が教訓を与え、人々はこれに慣れて、誰もがこの関係から逃れられないと考えるのも、別に深く怪しむには足りない。

 「しかし、ある人々は実のところ本当に信じているわけではなく、ただ面白半分に言っているだけなのだ。たとえ誰かが流言のせいで凌遲碎剐の目に遭い、明末の鄭鄤のようになっても、自分とは関係なく、面白がる方が大事なのだ。この時にあなたが正そうとすれば、それは皆を白けさせることであり、結局あなた自身が災難に遭う。私にも一つ経験がある。あれは十数年前、私が教育部で『官僚』をしていた頃のことで、同僚からしばしば聞かされた。某女学校の学生は呼び出して買春できると。機関の住所番地まで具体的に述べていた。ある時たまたまその通りを歩いた。人間は悪いことには記憶が良いもので、思い出したのだ。門牌に注意して見ると、その番号は空き地一枚で、大きな井戸が一つ、非常にぼろぼろの小屋が一間あり、数人の山東人が住み着いて水売りをしていた。とても他の用途には使えない。彼らがまたこの話をしている時に、私は自分の見たことを述べた。すると意外にも皆の笑顔はたちまち消え、不快の中で散会した。その後二、三ヶ月は誰も私と雑談しなかった。私は後から、彼らの興を削いだのがいけなかったのだと悟った。

 「だから、あなたは最善なのは是非曲直を問わず、ひたすら大勢に附和すること。しかしもっと良いのは口を開かないこと。そしてさらに良いのは、顔にすら心中の是非の模様を現さないことだ……」

 これが処世法の精髄であり、黄河が足元に流れてこない限り、爆弾が身辺に落ちない限り、一生挫折なしと保証できる。しかし恐らく青年は私の言葉を然りとはしまい。中年、老年の人々すら、私が彼らの子弟を悪い方に教えていると思うかもしれない。嗚呼、ならば、一片の苦心はまるで無駄だったのだ。

 しかしながら中国が今や唐虞の盛世だと言えば、それこそ「世故」の言となるだろう。耳に聞き目に見るものはさておき、ただ新聞を見るだけでも、社会にいかに多くの不公正があり、人々がいかに多くの冤抑を受けているかが分かる。しかしこれらの事に対して、時に同業、同郷、同族の者が何か呼びかけの声を発する以外、利害無関係の人の義憤の声を我々はほとんど聞かない。これは明らかだ。皆が口を開かないのだ。あるいは自分には関係ないと思っているか、あるいは「自分には関係ないと思う」という意識すらない。「世故」が深くて自らその「世故に深い」ことを自覚しない——これこそ真に「世故に深い」ということだ。これが中国の処世法の精髄中の精髄である。

 しかも、私の青年訓導の言葉を読んで心中然らずと思う人物に対して、私にはなお一つの反撃がある。彼は私を狡猾と見ているのだ。しかし私の言葉は、一面では確かに私の狡猾さと無能さを示しているが、一面では社会の暗黒をも示している。彼が個人だけを責めるのは最も穏当な方法であり、もし社会をも併せて責めるなら、出て行って戦わねばならないからだ。人の「世故に深い」ことを責めながら「世」を避けて語らぬのは、さらに「世故に深い」芸当であり、もし自覚がなければ、さらに深くさらに深く、三昧の境からそう遠くはあるまい。

 ただし凡そ事は一たび語れば、すなわち言筌に落ちて、もはや三昧は得られない。「世故三昧」を語る者は、すなわち「世故三昧」に非ず。三昧の真諦は行じて言わざるにあり。しかし私が今「行じて言わず」と一たび語れば、またしても真諦を失い、三昧の境からはますます遠くなるのだ。

 一切の善知識よ、心に其の意を知れば可なり。唵!

 (十月十三日。)


第49節

【流言の名家】

 双十佳節に、湯増揚という文学家が『時事新報』で我々に光復時代の杭州の話を聞かせてくれた。彼によれば、当時の杭州では駐防の旗人を多数殺害し、その弁別法は旗人が「九」を「鈎」と発音するからで、「九百九十九」と言わせ、馬脚が露われれば刀が斬り下ろされたという。

 これはなかなか勇ましくもあり、面白くもある。しかし残念ながら流言である。

 中国人の中で、杭州人は比較的文弱な人々だ。銭大王が治めていた頃、人民は衣服もズボンも剥ぎ取られるほど搾取され、ただ瓦一枚で下半身を覆うだけだったのに、なお追加の寄付を求められ、鹿のような叫び声を上げて打たれる以外に二言はなかった。もっとも、これは宋人の筆記に出るもので、流言かもしれない。しかし宋・明の末代の皇帝が没落した権門を連れ、暮気とともに滔々と杭州に逃げてきたのは事実であり、苟且に命を繋いでいたのだから、皆に剛毅な気概を持てと言っても、難しいだろう。今日でも西湖のほとりには揺れ歩く風流人が多く、流氓ですら浙東のような「白い刃が入って赤い刃が出る」喧嘩は滅多にない。もちろん軍閥が後ろ盾にいれば格別の横暴を働くだろうが、当時は実際に人を殺す気風もなく、喜んで人を殺す人々もいなかった。穏健の代表たる湯蟄仙先生を都督に推挙したことを見れば、流血がなかったと分かるのだ。

 ただし戦闘はあった。革命軍が旗営を包囲し、銃撃した。中から撃ち返すこともあった。しかし包囲は厳重ではなく、私の知人の一人は、昼間は外で遊び歩き、夜は旗営に戻って寝ていた。

 それでも駐防軍はついに撃ち破られ、旗人は降伏した。家屋が没収されることはあったが、殺戮はなかった。食糧は当然打ち切られ、各自が生計を立てた。最初はまだ良かったが、後に災難に見舞われた。

 なぜ災難に遭ったのか。流言が生じたのだ。

 杭州の旗人は古来、西湖のほとりで優游自適に暮らし、秀気に恵まれて聡明であった。食糧がなくなれば商売をするしかないと心得て、餅を売る者、惣菜を売る者が出た。杭州人は礼儀正しく、差別もせず、商売もまずまずだった。しかし祖先伝来の流言が起こった。旗人の売るものの中にはみな毒薬が仕込まれていると。たちまち漢人は遠ざかり恐れをなしたが、これは旗人が自分たちを毒殺しようとしていると怖がったのであって、自分たちが旗人を害そうとしたのではない。結果、旗人の売る餅や惣菜は全く売れなくなり、路傍で毒の仕込みようのない家具を売るしかなくなった。家具もなくなれば、窮途の果てにとうとう完全に没落した。これが杭州駐防旗人の末路である。

 笑いの中にも刀を含み、自ら平和を愛すると称する人民にも、殺人をして血を見せない武器がある。それが流言の捏造だ。しかし一方で人を害し、一方で自らも害し、互いに朦朧となる。古の時代はさておき、この五十年だけでも、甲午の敗戦では李鴻章のせいだと言われた。彼の息子が日本の駙馬だからと、半生罵られた。庚子の拳匪の乱では、外国人は目を抉ると言われた。薬水を作るためだと、大勢を無差別に殺した。毒薬学説は辛亥光復の際の杭州に起こり、最近の排日の時期に復活した。流言が出るたびに、必ず誰かが毒を盛った奸細だと誣告され、何の罪もないのに殴り殺されたのを私は覚えている。

 流言の名家の子弟は、流言をもって人を殺し、また流言をもって殺される。

 数字によって漢・満を弁別する方法は、杭州では湖北の荊州の出だと聞いた。一二三四と数えさせ、「六」を上声で読めば殺すというのだ。しかし杭州は荊州から遠すぎるので、これもまた一種の流言かもしれない。

 私は時々、どの言葉が流言でどの言葉が真実か、あまりよく区別できなくなる。

 (十月十三日。)


第50節

【婦人解放について】

 孔子曰く、「唯だ女子と小人とは養い難し、これを近づくれば則ち不遜、これを遠ざくれば則ち怨む」と。女子と小人を一類に帰しているが、自分の母親も含まれているのか知らない。後世の道学の先生たちは、母親に対しては表面上は敬意を払うようになった。しかしながら、中国の母たる女性は、なお自分の息子以外の一切の男性から軽蔑を受けている。

 辛亥革命後、参政権のために、有名な沈佩貞女史がかつて議院の門口の守衛を一蹴して倒したことがある。もっとも私は彼が自分で転んだのではないかと疑っている。もし我々男子が蹴ったなら、彼は必ず蹴り返してくるだろう。これは女子であることの得な点だ。さらに今は、一部の夫人たちが金持ちの男性と肩を並べて、埠頭や会場で記念撮影をしたり、あるいは汽船や飛行機の出発前に、前に出て酒瓶を割ったり(これは未婚の女性でなければならないのかもしれない、詳しくは知らない)できるようになった。これもまた女子の得な点である。その他にも様々な職業が新たに生まれたが、女工を除く——彼女たちは賃金が安く、従順なので工場主に好まれるのだが——ほとんどは、女性であるがゆえに一方では「花瓶」と呼ばれながら、もう一方では「一切の接待はすべて女子を用いる」という栄光ある広告がしばしばある。男子がこのように突然の出世を望むなら、元来の男性だけでは足りず、少なくとも犬に変身する必要がある。

 これが五四運動後、婦人解放を提唱して以来の成果だ。しかし我々はなおしばしば職業婦人の苦痛の呻吟を耳にし、評論家の新式の女性に対する嘲笑を聞く。彼女たちは閨閣から出て社会に入ったが、実はまたもや皆に冗談を言われ、議論の新しい素材にされているのだ。

 これは彼女たちが社会に出ても、なお他人に「養って」もらっているからだ。他人に「養って」もらうからには、他人の小言を聞かねばならず、さらには侮辱をも受けねばならない。孔夫子の小言を見てみよう。彼が「養い」「難い」と嘆いたのは、「近づけ」ても「遠ざけ」てもどちらもあまりしっくり来なかったからだと分かる。これは現在の男子漢大丈夫の一般的な嘆きであり、また女子の一般的な苦痛でもある。「養う」と「養われる」の境界が消滅しない限り、この嘆きと苦痛は永遠に消滅しない。

 この未だ改革されていない社会の中では、一切の単独の新趣向は全てただの看板にすぎず、実際には以前と何ら変わりない。一羽の小鳥を籠に入れるか、竿の上に止まらせるか、位置は変わったように見えるが、実はやはり他人の玩具にされているだけで、一飲一啄、すべて他人の命に従う。俗語に「人の一飯を受くれば、人の使いに応ず」と言うが、まさにこれだ。だからすべての女性が、男性と同等の経済権を得ない限り、あらゆる美名はただの空言だと私は考える。もちろん、生理的にも心理的にも男女には差異がある。同性の中にも互いにいくらかの差異は免れないが、しかし地位は同等であるべきだ。地位が同等になって初めて、真の女性と男性が生まれ、嘆きと苦痛が消え去るのだ。

 真の解放の前には、戦闘がある。しかし私は女性が男性と同じように銃を取るべきだと言っているのでもなく、自分の子供に片方の乳だけ与えて残り半分を男性に負わせるべきだと言っているのでもない。ただ目前の一時的な地位に安住すべきではなく、思想・経済等の解放のために不断に戦うべきだと考えるだけだ。社会を解放すれば、自らをも解放できる。しかしもちろん、現存の婦人にのみ固有の桎梏のためだけに闘うことも、やはり必要である。

 私は婦人問題を研究したことがない。もし必ず何か言えと言うなら、ただこの空言があるだけだ。

 (十月二十一日。)


第51節

【火】

 プロメテウスは人類に火を盗み与えて天の掟を犯し、地獄に堕とされた。しかし鑽木取火の燧人氏は窃盗罪を犯したようには見えず、神聖な私有財産を破壊したわけでもない——あの時代、樹木はまだ主のいない公共物だった。しかし燧人氏もまた忘れ去られた。今日に至るまで中国人は火神菩薩を祀るばかりで、燧人氏を祀る者を見ない。

 火神菩薩は放火を管轄するのみで、点灯は管轄しない。火が起きれば必ず彼の領分だ。かくして皆が彼を供養し、悪事を控えてくれるよう望む。しかし彼が悪事をしなければ、供養を受ける資格があるだろうか。

 点灯はあまりに平凡だ。古来、点灯で名を馳せた名人を聞いたことがない。燧人氏から点火を学んで五、六千年も経つのに。放火はそうではない。秦の始皇帝が一把の火を放った——書を焼いたが人は焼かなかった。項羽が関中に入ってまた一把の火を放った——焼いたのは阿房宮で民家ではない(?——要考証)。……ローマのある皇帝は百姓に火を放った。中世の正教の僧侶は異教徒を薪のように燃やし、時には油を注いだ。これらはみな一世の雄傑だ。現代のヒトラーが生きた証人である。供養しないわけにはいかない。しかも今は進化の時代、火神菩薩も代を追うごとに先代を凌いでいる。

 例えばこうだ。電灯のない場所では、庶民は国貨年など構わず、誰もが洋物の灯油を少し買って、夜に灯す。紙窓に映る薄暗い黄色い光の何と不体裁なこと! ならぬ、こんな灯油の「浪費」は許さぬ! 光明が欲しければ、灯油を田畑に担ぎ出し、噴霧器に注いで、ごうごうと吹きかけねばならぬ。……大火一場、数十里を延焼して、稲穀、樹木、家屋——とりわけ草葺き——たちまち飛灰と化す。それでも足りなければ、焼夷弾、硫黄弾が飛行機から投下される。上海の一二八の大火のように、数日数晩も燃え続ける。それこそが偉大なる光明なのだ。

 火神菩薩の威風はかくの如し。しかし言えば、彼はまた認めない。火神菩薩はもとより庶民を護るものだと言い、火災については庶民の不注意のせいだとか、悪事を働いて放火略奪したのだと非難する。

 知る者ぞ知る。歴代の放火の名人は常にこう言ったが、必ずしも常に人が信じたわけではない。

 我々はただ見ている——点灯は平凡で、放火は雄壮だと。だから点灯は禁止され、放火は供養を受ける。ハーゲンベック・サーカスを見よ——耕牛を殺して虎に与える。これこそこの御時世の「時代精神」なのだ。

 (十一月二日。)


第52節

【木版画の翻刻について】

 マセレールの連環図画四種の出版からまだ間もないが、日刊紙にはすでに種々の批評が出ている。これは従来の美術書の出版後には見られなかった盛況であり、読書界がこの本に非常な注目を寄せていることが分かる。しかし議論の要点は昨年とは異なり、昨年はまだ連環図画が美術と言えるかどうかの問題だったが、今やこれらの図画を理解することの難易に移っている。

 出版界の歩みは評論界ほど速くない。実のところ、マセレールの木版画の翻刻は、なお連環図画が確かに芸術たり得ることを証明している段階にある。今の社会には様々な読者層があり、出版物も当然様々で、この四種は知識人層に供するための図画だ。しかしなぜ多くの箇所が分かりにくいのか。私が思うに、これは経験の違いによる。同じ中国人でも、かつて飛行機の救国あるいは「産卵」を目にしたことがあれば、図の中にこの物体を見て即座に分かるが、これまでそうした盛典に遭遇したことのない者は、おそらく凧か蜻蛉としか見えまい。

 「中国文芸年鑑社」と自称する、実は匿名者たちの編纂する『中国文芸年鑑』のいわゆる「鳥瞰」の中で、私の発表した「連環図画弁護」は蘇汶氏に連環図画の芸術的価値を告げはしたものの、「ドイツの板画のような芸術作品を中国に持ち込んで、一般大衆に理解されるかどうか、すなわち大衆芸術たり得るかの問題を無意識に看過してしまった。しかもこのような解答は大衆化の本題に直接の意義がない」と述べている。これはまことに『中国文芸年鑑』を編纂できるような選者でなければ口にしないであろう聡明な言葉だ。なぜなら私は元々「ドイツの板画を中国に持ち込んで一般大衆に理解されるか」を「議論していない」のだから。弁護したのはただ連環図画が芸術たり得ることであり、青年芸術学徒を曲説に迷わせず、敢えて創作し、やがて大衆化の作品を生み出させようとしたにすぎない。もし私が真にあの編者の望む通り、「意図的に」ドイツの板画がすなわち中国の大衆芸術だと述べたなら、それは少なくとも「低能」の部類に入れねばなるまい。

 しかし、もし必ず問うなら——「ドイツの板画のような芸術作品を中国に持ち込んで、一般大衆に理解されるか」と。ならば私も答えよう。立体派、未来派等の奇怪な作品でなければ、おそらくいくらかは理解できるはずだ。『中国文芸年鑑』一冊を見るよりは多く理解でき、『西湖十景』一冊を見るほどには少なくないだろう。風俗習慣が異なるため、理解し難いものもあろうが、これは人物、これは家屋、これは樹木と分かる。上海に行ったことがある者なら、絵の中の電灯、電車、工場も分かる。とりわけ適切なのは、描かれているのが物語であり、説明しやすく、覚えやすいことだ。昔の風流人は、婦人や俗人が画を見て必ずこれは何の物語かと問うのを大いに笑った。中国の雅と俗の分かれ目はここにある。雅人はしばしば良いと思う画の内容を言えない。俗人は必ず内容を問う。この点から見れば、連環図画は俗人にふさわしいのだが、私は「連環図画弁護」の中で、それが芸術であることをすでに証明し、雅人の高踏を傷つけてしまったのだ。

 しかし知識人向けとはいえ、マセレールの作品を紹介するだけでは足りない。同じ木版画でも刻法が異なり、思想が異なり、文字を添えたもの、文字のないものがあり、数種を翻刻してこそ現代外国の連環図画の大要を窺うことができる。しかも木版画の翻刻は原画に近づきやすく、観る者に有益だ。私はしばしば思う——最も不幸なのは中国の青年芸術学徒だと。外国文学は原書が読めるが、西洋画はいつまでも原画が見られない。もちろん複製はあるが、大壁画を絵葉書ほどに縮小して、どうして真の姿が見えよう。大小は大いに関係がある。もし象を豚ほどに縮め、虎を鼠ほどに縮めたら、どうして元の気魄を感じられようか。木版画は小品が多いので、翻刻してもさほどかけ離れない。

 しかしこれはなお一般知識人の読者層への紹介に限った話であり、もし芸術学徒のために考えるなら、亜鉛版の翻刻ではなお足りない。太い細い線も亜鉛版では消えやすく、粗線でも強水の浸蝕時間で異なる。中国にはまだ適切な製版の名工が少ない。真剣を期すなら、ガラス版(コロタイプ)を使うしかない。私が翻刻した『セメントの図』二百五十部は、中国で最初の試みである。施蟄存氏は『大晩報』附録の『火炬』で「おそらく魯迅先生がコロタイプ版の木版画集を印刷するのと同じく、私家精印本であり、稀覯書の類に属する」と言ったが、これはまさにこの事業への嘲笑である。私はまた、ある青年がこの「稀覯書」の前で、二百五十部限定というのは嘘で、きっとたくさん刷って少なく報告し、書価を吊り上げようとしているのだと言うのを直接聞いたこともある。

 彼ら自身は「私家精印本」という可笑しなことをしたことがないのだから、これらの嘲罵は怪しむに足りない。私はただ芸術学徒に比較的信頼できる木版翻刻本を供するために、原画からガラス版を制作したのだが、この版は一回の製版で三百枚しか刷れず、それ以上は別に版を作らねばならない。もし大書局や大官庁であれば一万二千部でも容易だが、私は一介の「私人」にすぎず、売れ筋でもないのに「精印」するのだから、当然資力に限られ、一版だけ刷るしかなかった。しかし幸い印本はほぼ品切れで、見る人がいたことが分かる。一般読者向けには、とうに亜鉛版で複製して翻訳本『セメント』に挿入してあるのだが、編集者兼批評家は歯牙にもかけない。

 人が真面目にならなければ、青年の指導すら冗談に等しくなるが、わずか十数葉の図を真剣に何度も考えた人もいるのだ。ただ自ら多くは語らないだけである。今回これを書いたのは、青年芸術学徒に対してコロタイプ版一版でわずか三百部しか刷れないのは製版上ごく普通のことであり、故意に「稀覯書」を作ろうとしたのではないと説明するためであり、さらに多くの好事家たる「私人」が、無責任な言葉に欺かれることなく、皆が「精印本」を制作されることを望むためである。

 (十一月六日。)


第53節

【「木版画創作法」序】

 東西を問わず、凡そ木版の図版は、従来、画は画、刻は刻、刷は刷と分業であった。中国が最も早く用いたが、例によってとうに衰退した。清の光緒年間、英人フライヤー氏が『格致匯編』を編纂した際、挿図はすでに中国の刻工には刻めず、精細なものは英国から図版を輸送する必要があった。それがいわゆる「木口木版」、すなわち「複製木版」であり、インド人向けに編纂された英語教科書、後に中国人にも読ませた英語教科書の挿画と同類のものだ。当時私はまだ児童で、これらの図を見て精巧生き生きとしていることに驚嘆し、宝物のように見ていた。近年になってようやく、西洋にはさらに画家自身が一手に仕上げる版画があることを知った。それがすなわち原画であり、木版を用いるなら「創作木版」と呼ばれ、芸術家が直接に制作した作品であって、刻者や刷者の手を一切借りないものである。今我々が紹介しようとするのは、まさにこの一種である。

 なぜ紹介するのか。私個人の私見によれば、第一に面白いからだ。遊びと言えばいささか不真面目に聞こえるが、我々は筆写や読書が長すぎると、誰でも目を休めたくなり、普段は暫く窓の外の空を眺める。もし壁に掛かった一枚の絵があれば、もっと良いではないか。名画を手に入れる力のある人物なら当然これには及ばないが、さもなくば複製縮小の代物は、実に原版の木版画には遠く及ばない。真を失わず、しかも出費も少ない。もちろん「今の雅をもって国を立てる」つもりかと指されるかもしれないが、「古雅」と比べれば「古」と「今」の違いはすでにあるのだから。

 第二に、簡便だからだ。今は金の値段が高く、青年芸術学徒が一枚の絵を描こうとすれば、画布も絵具も大枚を要する。描けても展覧の場がなければ、自分で眺めるしかない。木版画は多くの金を必要とせず、数本の刀で木の上を削るだけ——これはいささか簡単に言い過ぎたかもしれないが——ちょうど篆刻のように、創作となり得る。刷ればそのまま同じ作品を他人に分け与え、多くの人に同じ創作の喜びを受けさせることができる。つまり他の技法の作品よりも、普遍性がはるかに大きいのだ。

 第三に、有用だからだ。これは「面白い」といくらか矛盾するようだが、実は必ずしもそうではない。何で遊ぶかによる。麻雀は結局どうにもならないだろうが、火薬で花火を作って遊ぶのは、広げれば銃砲を造ることになる。大砲はこの上なく実用的だが、アンドレーエフは金を得ると、自分の庭園に飾って玩具にした。木版画はもともと小金持ちの芸術だが、しかし一旦、刊行物の装飾、文学書や科学書の挿画に用いれば、皆のものとなるのは言うまでもない。

 これはまさに現代の中国にふさわしい一種の芸術なのだ。

 しかし今に至るまで木版画を解説する書物は一冊もなく、これが最初の一冊である。いくらか簡略ではあるが、すでに読者に大要を与えている。ここから発展すれば、道は広大である。題材は豊富になり、技芸も精錬される。新法を採り入れ、中国の旧来の長所を加えれば、なお新しい道を切り開く希望がある。その時、作者たちがそれぞれ自らの技量と心得を献じれば、中国の木版画界に光焔が生じるだろう。この書はそれゆえに一粒の星火にすぎなくなるかもしれないが、歴史的意義を持つに十分なのだ。

 一九三三年十一月九日、魯迅記す。


第54節

【作文の秘訣】

 今になってなお、作文の秘訣を尋ねる手紙をよこす人がいる。

 我々はしばしば聞く。拳師が弟子に教える時には一手を留めると。弟子が全てを学べば師を打ち殺しかねず、覇を唱えさせるわけにはいかないからだ。実際にもこのようなことは全くないわけではなく、逢蒙が羿を殺したのが前例だ。逢蒙は遠い昔の話だが、この古い気風は消え去ってはおらず、さらに後世の「状元欲」が加わった。科挙はとうに廃止されたが、今なお「唯一」を争い「最初」を争う。「状元欲」の持ち主に出くわすと、教師をするのは危険で、拳棒を教え終えた途端にしばしば打ち倒されることを免れない。この新しい拳師が弟子を教える際には、先生と自分を前車の轍とし、必ず一手を留め、さらには三手、四手も留める。かくして拳術も「一代ごとに衰える」こととなった。

 さらに、医者には秘方があり、料理人には秘法があり、菓子屋には秘伝がある。自家の生計を守るためで、聞くところによればこれは嫁にだけ授け、娘には教えない。他家に流れていくのを防ぐためだ。「秘」は中国で非常に普遍的なもので、国家大事に関する会議でさえ、常に「内容は極めて秘密」で、皆知らない。しかし作文にだけは秘訣がないようで、もしあれば、作家は必ず子孫に伝えたはずだが、祖伝の作家は滅多に見ない。もちろん、作家の子供たちは幼い頃から書籍や筆墨に慣れ親しみ、いくらか目が肥えるかもしれないが、書けるとは限らない。現在の刊行物には「父子作家」「夫婦作家」の名称がしばしば見られ、あたかも遺言状や恋文の中から何かの秘訣を密授されたかのようだが、実は俗趣味を面白がっているだけで、官界の関係を妄りに作文に当てはめているのだ。

 では作文には本当に秘訣がないのか。実はそうでもない。私はかつて古文を書く秘訣を語ったことがある。全篇に出典があるが、古人の成文ではないこと。つまり全篇が自分の作であって、しかも全て自分の作ではなく、個人としては実は何も言っていないこと。つまり「事は因に出づ」が「査すれば実拠なし」。ここに至ればこそ「庶幾くは大過を免るるなり」だ。簡潔に言えば、「今日は天気が良くて、はっはっは……」を書ければよいだけのことだ。

 これは内容の話。修辞にもいくらか秘訣がある。第一に朦朧、第二に難解。その方法は、文を短くし、難字を多用すること。例えば秦朝の事を論じて「秦の始皇帝は乃ち始めて書を焼く」と書けば、良い文章とは言えない。翻訳して、一目では分かりにくくしなければならない。ここで『爾雅』『文選』の出番だが、実のところ他人に知られなければ『康熙字典』を引いても構わない。手を加えて「始皇始めて書を焚く」とすれば、いくらか「古」めかしくなる。さらに「政俶めて典を燔く」に変えれば、もう班固・司馬遷の気品があるが、同時にいささか読めなくもなる。しかしこのようにして一篇ないし一部を書き上げれば、「学者」と呼ばれ得る。私は半日考えて一句しか作れなかったから、雑誌に投稿するのが関の山なのだ。

 我々の古の文学大家もしばしばこの手を使った。班固先生の「紫色蛙声、余分閏位」は四つの長い文を八字に縮めたもの。揚雄先生の「蠢迪検柙」は「動由規矩」という四つの平凡な字を難字に翻訳したものだ。『緑野仙踪』に塾師が「花」を詠んで「媳釵俏矣児書廃、哥罐聞焉嫂棒傷」と詠む場面がある。自らの解説では、嫁が花を折って簪にしたのは美しいが、息子が読書を怠るのが心配だと。下の句はさらに分かりにくく、兄が花を折ってきたが花瓶がないので瓦の壺に挿し、花の香を嗅いだところ、義姉が防微杜漸のため棒で花もろとも壺を叩き壊したのだと。これは冬烘先生への嘲笑とされる。しかしその作法は実は揚雄・班固と何ら矛盾しない。間違いはただ古典ではなく新典を用いた点にある。この一つの「間違い」こそが、『文選』の類を遺老遺少たちの心眼に威霊として保たせているのだ。

 朦朧に書くことがすなわち「良い」のか。答えて曰く、必ずしもそうではない。実は醜さを覆っているにすぎない。しかし「恥を知るは勇に近し」で、醜さを覆えば、良さに近づいたかのようにも見える。モダンガールが髪を垂らし、中年婦人がヴェールを被るのは、いずれも朦朧術だ。人類学者は衣服の起源に三説を唱える。一つは男女が性的羞恥心を知って恥を覆ったとするもの。一つはかえってこれで刺激を与えたとするもの。もう一つは老弱の男女が肉体の衰痩を露出するのは見苦しいので、何かを被せて醜さを覆うためだとするもの。修辞学の立場から見れば、私は最後の説に賛成する。今なおしばしば四六駢儷、典麗堂皇たる祭文、挽聯、宣言、通電があるが、もし字典を引き、類書をめくり、外側の装飾を剥がして白話文に翻訳してみたら、残るものがどのようなものか見てみるがよい。

 分からないのももちろん良いことだ。何が良いか。すなわち「分からない」ことの中に良さがある。しかし懸念されるのは、良いとも醜いとも言えなくなることで、だからまだしも「難解」に作った方がよい。少しは分かり、苦功を費やした後には、分かる量もいくらか増える。我々は古来より「難」を崇拝する気質がある。毎食三杯の飯を食べても誰も不思議に思わないが、毎食十八杯食べる人がいれば、大いに真面目に筆記に書き留める。手で針に糸を通しても誰も見向きもしないが、足で通せば幕を張って見世物にできる。一枚の絵も平凡だが、箱に入れて穴を開ければ西洋覗き絵になり、人々は口を開けて熱心に見ようとする。しかも同じ事でも、苦功を費やして到達したものは、労せずして到達したものよりも貴い。例えば寺に参拝するにしても、山の上の寺は平地の寺より貴い。三歩ごとに一拝してようやく辿り着いた寺と、輿に乗って直接担ぎ込まれた寺とでは、たとえ同じ寺でも、到達者の心中の貴さの度合いは大いに高下がある。作文の難解を貴ぶのは、読者に三歩一拝させてこそ、ようやく少々の目的に達し得る妙法なのだ。

 ここまで書くと、語ったのは古文を書く秘訣のみならず、人を騙す古文を書く秘訣にもなってしまった。しかし白話文を書くのも大差ないと思う。なぜなら白話文にも僻字を挟み、朦朧あるいは難解を加えて、手品師の目隠しの手巾を振るうことができるからだ。もし逆を行くなら、それは「白描」である。

 「白描」には秘訣がない。もしあると言うなら、目隠しの術の逆をやるだけだ。真意があり、粉飾を去り、わざとらしさを減らし、ひけらかさないこと。それだけだ。

 (十一月十日。)


第55節

【悪巧みの心伝】

 中国人にはまた、奇形怪状やこそこそしたものを好む気質がある。大麦の花よりも古木が光るのを見たがるが、実際には大麦の花も見たことがないのだ。かくして奇胎畸形は新聞の好材料となり、生物学の常識の位置に取って代わった。最近広告に見えたものに、いわゆる両頭蛇のような二頭四腕の胎児や、下腹部から一本の脚が生えた三脚の男がある。確かに人には奇胎もあり畸形もあるが、造化の力には限りがある。いかに奇であり畸であろうとも、必ず限度がある。双子が背中で繋がったり、腹で繋がったり、臀部で繋がったり、脇で繋がったり、頭が並んだりすることはあっても、頭が尻の上に生えることはない。形が指を併せ、余分な指を生じ、四肢を欠き、乳房を増すことはあっても、二本の脚の他にもう一本の脚が生えることはない。まるで「二つ買えば一つおまけ」の商売のように。天は実に人の悪巧みには及ばない。

 しかし、人の悪巧みは天に勝るとはいえ、実際には能力に限りがある。なぜなら悪巧みの精義は、切に発揮を忌むこと、すなわち必ず含蓄を要することにあるからだ。一旦発揮すれば、その悪巧みの鬼が明らかになると同時に限界も生じるので、含蓄の深遠に及ばない。しかし影響もそのために曖昧になる。「一利あれば必ず一弊あり」、私の「限りがある」と言う所以はこれだ。

 清朝人の筆記にはしばしば羅両峰の『鬼趣図』の話が出てきて、まことに鬼気がそこはかとなく漂っていると言う。後にその図が文明書局から出版されたが、一人は奇怪に痩せ、一人は矮小にして肥え、一人は浮腫の様子に過ぎず、さほど不思議ではなかった。ただ筆記を読むだけの方がかえって面白い。小説に鬼の相を描写する際、いかに力を入れても人を驚かすには足りない。私が最も恐ろしいと思うのは、やはり晋人が記した五官のない、鶏卵のようにのっぺりした山中の厲鬼だ。なぜなら五官は所詮五官に過ぎず、いかに苦心惨憺しても凶悪にしようとしても五官の範囲を超えられない。今これをのっぺりと得体の知れないものにすれば、読者も得体の知れぬ恐怖を覚える。しかしその「弊」は印象の曖昧さだ。もっとも、「青面獠牙」「口鼻から血を流す」といった愚直な描写に比べれば、はるかに聡明ではある。

 中華民国人の罪状公布は大抵十箇条だが、結果は大抵無効である。古来悪人は多いが、十箇条は所詮この程度であり、人の注目を引き行動を起こさせることは決してない。駱賓王が「討武曌檄」を書き、「入宮して嫉まれ、蛾眉は人に譲らず、袖を掩いて讒に巧みなれば、狐媚偏に能く主を惑わす」の数句は、おそらくかなりの心血を費やしたものだろうが、伝えるところによれば武后はここを読んで微かに笑っただけだった。確かに、それがどうだというのか。罪を声高に討つ明文の力は、往々にして耳元でひそひそ囁く密語に遥かに及ばない。なぜなら前者は明白であり、後者は測り知れないからだ。仮にあの時、駱賓王が大衆の前に立ち、ただ眉を顰め首を振り、しきりに「悪い、実に悪い」と唱えるだけで、悪いという実例を挙げなければ、おそらく効力は文章以上であっただろう。「狂飆文豪」高長虹が私を攻撃した際、劣跡は数え切れないほどあり、一旦公表すれば身敗名裂と言いながら、ついに公表しなかった。これは悪巧みの正脈を深く得たものだ。しかし結局大した効果もなかったのは、広範と共に来る「曖昧」の弊がそうさせたのである。

 この二例を明らかにすれば、治国平天下の法は、皆に方法があると告げながら、明確具体にその方法を言い出してはならないことが分かる。なぜなら一旦言えば言葉となり、一旦言葉となれば行為と対照し得るから、測り知れぬ姿を示す方がましなのだ。測り知れぬ威稜は人を萎縮させ、測り知れぬ妙法は人を期待させる。飢饉の時に病気をし、戦争の時に詩を作るのは、一見、治国平天下とは無関係のようだが、その得体の知れなさの中に、きっと治国平天下の妙法が続くに違いないと疑わせることができる。しかしその「弊」は、やはり同様に曖昧の中で、いわゆる妙法は実は全く方法がないだけなのではないかと疑われ得ることだ。

 悪巧みには術があり、効もあるが、しかし限りがある。ゆえにこれをもって大事を成す者は、古来いまだかつてない。

 (十一月二十二日。)


第56節

【家庭は中国の基本なり】

 中国では自ら酒を醸すことができ、自ら阿片を栽培するよりも遥かに早かった。しかし今日では、多くの人が横になって阿片の煙を吐いているとは聞くが、外国の水兵のように街中で酔って暴れる者はほとんど見かけない。唐・宋の蹴鞠はとうに失伝し、一般の娯楽は家に籠もって徹夜で麻雀を打つことである。この二点から見れば、我々が戸外から次第に家の中へ引き籠もりつつあることは疑いない。かつての上海の文人は、すでに慨嘆してこう言い、対句を求めて一聯を出した——「三鳥人を害す、鴉・雀・鴿」。「鴿」とは宝くじのことで、雅称は奨券だが、当時は「白鴿票」と呼ばれていた。しかし後に誰かが対句を付けたかどうか、私は知らない。

 もっとも、我々は現状に満足しているわけではない。斗室の中に身を置きながら、精神は宇宙の彼方を馳せ、阿片を吸う者は幻境を楽しみ、麻雀を打つ者は好い牌に思いを寄せる。軒下で爆竹を鳴らすのは、月を天狗の口から救い出すためであり、剣仙は書斎に坐して、ふんと一声唸れば白光一閃、千万里の彼方の敵を殺すことができる。ただし飛剣はやはり家に戻り、元の鼻孔に潜り込む——次にまた使うからだ。これを千変万化すれども本を離れずという。だから学校は家庭から子弟を引き出して社会の人材に育てる場であるのに、収拾がつかなくなると、やはり「家長に引き渡し厳しく管束せよ」云々となるのだ。

 「骨肉は土に帰す、命なり。魂気に至りては、至らざる所なし、至らざる所なし」——人が鬼になれば、少しは自由になれそうなものだが、生きている者はやはり紙の家を焼いて鬼に住まわせ、贅沢な者は麻雀卓や阿片盆まで添える。仙人になるのは大変な変化だが、劉夫人はどうしても実家を捨てがたく、運動して「宅ごと飛升」を成し遂げ、鶏も犬も連れて昇ってから、相変わらず家事を切り盛りし、犬を飼い、鶏に餌をやる。

 我々の古今の人は、現状に対して実は変化を望み、その変化を認めてはいる——鬼になるのはやむを得ず、仙人になるのはなおよし。しかし実家に対しては、死んでも決して手放そうとしない。火薬がただ爆竹を作るだけに、羅針盤がただ墓地の風水を見るだけに使われたのは、恐らくその原因がここにあるのだと思う。

 今や火薬は爆撃弾、焼夷弾へと変じ、飛行機に搭載されるようになったが、我々はただ家に坐ってそれが落ちてくるのを待つばかりだ。もちろん飛行機に乗る人もかなり増えたが、彼らは遠征しているのではない——早く家に帰れるからこそ乗るのだ。

 家は我々の生まれる場所であり、また死ぬ場所でもある。

 (十二月十六日。)


第57節

【「総退却」序】

 中国では小説の類を古くから「閑書」と呼んできた。五十年前までは、これはおおむね事実であった。終日骨を折って働く人には、小説を読む暇がない。だから小説を読む者は余暇を持たねばならず、余暇があるということは、さほど苦労して働かなくてもよいということであり、成仿吾氏がかつて「暇あり、すなわち金あり」と断じたのもこの故である。たしかに経済学の眼で見れば、現行制度の下では「暇」もまた一種の「富」であろう。だが貧しい人々も小説を愛する。字が読めなければ茶館に行って「説書」を聞き、百回もある大部の書物を毎日少しずつ聞き続ける。とはいえ終日働く人々に比べれば、彼らもやはり幾分か余暇があるのだ。さもなければ、茶館に行く暇も、茶代を払う余裕もあるはずがない。

 欧米における小説も、かつては同様であった。やがて生活が困難になり、維持のために余暇が乏しくなり、もはやのんびりしていられなくなった。ただ時には書物で精神を休めたいとは思うが、くどくどとした長編には耐えられず、時間も惜しい。こうして短篇小説が脚光を浴びることとなった。この西洋文壇の趨勢もまた、古人の所謂「欧風美雨」に乗じて中国に押し寄せてきたので、「文学革命」以後に生まれた小説は、ほとんど短篇に限られている。しかし作者の才力が大作を構成し得ないことも、やはり大きな原因の一つである。

 しかも書中の主人公も入れ替わった。昔の小説の主人公は勇将・策士、侠盗・贓官、妖怪・神仙、佳人・才子であり、後には娼妓・遊客、無頼・奴才の類が現れた。「五四」以後の短篇では、おおむね新しい知識人が登場するようになった——彼らが「欧風美雨」の中で最初に動揺を感じた者たちだったからだ。しかしなお古の英雄や才子の気を脱していなかった。今はまた違う。誰もが動揺を感じ、もはや特定の一個人の運命を聞きたがらない。某英雄がベルリンで膝を叩いて天を仰いでいようと、某天才が泰山で胸を打って血涙を流していようと、誰が振り向くだろうか。人々はより広大に、より深邃に感じ取ることを求めているのだ。

 この一冊はまさにこの時代の産物であり、明瞭な脱皮を示している。登場人物は英雄ではなく、風景も華やかではない。しかし中国の眼に画竜点睛を施したのだ。私は作者が工場を書く力は農村を書くのに及ばないと思うが、それは私がかつて農村に馴染んでいたためか、あるいは作者の方が農村に馴染んでいるためかもしれない。

 一九三三年十二月二十五日夜、魯迅記す。


第58節

【楊邨人氏の公開状に答える公開状】

 『文化列車』が破格にも私の書斎の机の上に届いた。十二月十日発車の第三号である。おかげで近頃このような雑誌があることを知り、また楊邨人氏が私に宛てた公開状を見て、返答を求められていることも知った。この種の公開状に対しては、必ずしも返答する必要はない。公開である以上、その目的は実のところ皆に見せることにあり、私個人に対してはむしろ二の次だからだ。しかし、返答したければしてもよい。ただしその目的もやはり皆に見せることにある——さもなければ、直接個人に送ればそれで済むではないか。この故に、返答の前にまず原信を以下に転写しておくべきだろう——

 魯迅先生:

 李儵先生(李又燃先生か、あるいは曹聚仁先生の筆名かは存じませんが)の「『偽自由書』を読む」を読みました。末尾近くにこうあります:

 「魯迅の『偽自由書』を読むと、魯迅先生その人を思う。先日、魯迅先生が食事をしている姿を見た。咀嚼するたびに筋肉が動き、胸の肋骨まで引っ張られている——魯迅先生は老いた。私は思わず胸に酸味がこみ上げた。かつて父の老態を見た時と同じ感情を、今また魯迅先生の老態を見て追体験した。これは司馬懿の輩を喜ばせることだ。まして傍らにはとうに心変わりした魏延がいるのだから。」(この末尾の一句は原文の通り十字を一字も違えず写した。まことに妙文である。)


第59節

第一回』の作がある。だが『新儒林外史


第60節

第一回』の中では、先生が出陣して交戦する際に大刀を用いたという一語を以て反撃の諷刺としただけである。その中の引用文の情緒と態度はすべて先生を敬愛するものだ。文中の意図は、先生が私に対して「嘘」の襲撃を加えるのは、敵を見誤ったのではないかということに過ぎない。大著『両地書』を拝読した後の紹介文でも、筆致は極めて恭しく、半点の罵詈の言葉もなかった。ところが先生は「我が種痘」の中で、いささか誤解されたかのように、ついでに私に二、三本の冷たい矢を放った。とりわけ、私が先生の老いを攻撃したと仰るが、私は先生が老いたとは感じていなかったし、あの文章も先生の老いを攻撃してはいない。先生御自身が老いたと思われただけだ。バーナード・ショーは先生より年上で、鬢毛も先生以上に白いだろうが、ショーすらまだ老いていないのに、先生はなぜそう簡単に老いたと思われるのか。私はかつて先生が老いたと感じたことはなく、先生は青年のように感じられ、永遠に若くあってほしいと願っていた。しかし、李儵先生の文章を読んで、私は惶恐し、驚愕した——先生は本当に老いたのだ。李儵先生は先生の老態を見て「思わず酸味が胸にこみ上げた」と、あたかも令尊の老態を見た時の感情だという。私もしばしば年老いた父を思うが、人に攻撃されるように「孝子」になりたいとは思わず、ただ天性から時として感慨を催して思い出すだけだ。だから李儵先生の文章を読んでも、私の父を連想することはなかった。しかし先生は老いた。私は惶恐し驚愕する。惶恐し驚愕するのは、我々の敬愛する文壇の先輩が老いて、生理上の理由で仕事を中止せざるを得なくなるかもしれないからだ。この敬愛の心理と観念において、私は今年来の先生への反感を粉砕し、竭誠をもって先生の訓誨を請うものである。ただし先生には厳粛な態度で臨んでいただきたい。「嘘」とか冷矢放ちとかは慎重にされたい——相手を心服させるために。

 第二の感想は私を……しかしそれは李儵先生の事なので、ここでは清聴を煩わしたくない。

 もしこの手紙に先生が返答の価値ありとお認めになるならば、『文化列車』編者宛にお送りいただき発表されたい。さもなくば先生が文章にて厳正な批判をくだされても結構である。発表の場はどこでも歓迎されるものと思う。

 以上、竭誠にして恭しく御安好を問い、御健康をお祈り申し上げる。

 楊邨人謹啓。一九三三年十二月三日。

 末筆ながら一言申し添える。この手紙は至誠から出たものであり、「鬼の子」に罵られて先生と筆墨の訴訟をしたあげく小鬼となり、先生に和を求めて……「大鬼」を気取ろうという意味では決してない。邨人追伸。

 以下が私の返信である。書簡の形式であるから、冒頭は例の通り——

 邨人先生:

 先生のお手紙には返答の価値がない。私は先生に「心服」してもらうことを望みはしないし、先生も私の批判を必要としまい。なぜなら、この二年来の文章が、御自身の姿をすでに十分に明瞭に描き出しているからだ。もちろん、私は「鬼の子」たちの出鱈目を信じはしないが、先生のことも信じない。

 先生の言葉がパグ犬式の狺狺たる吠え声と同じだと言うのではない。恐らく先生は自分を永遠に誠実だとお考えだろう。だが急激な変転と苦心の回避のために、あちらを立てればこちらが立たず、自ら辻褄が合わせられなくなり、ついに空言と化した。だから聞く者の心中でもまた重みを失ったのだ。例えばこのお手紙も、いささかの自知の明があれば、実は書く必要のないものであった。

 先生はまず私に「なぜ諸葛亮なのか」と問うが、この問い自体が奇妙だ。李儵先生には会ったことがあり、曹聚仁先生ではない。李又燃先生かどうかは確言できない——又燃先生には前もって会ったことがないからだ。私が「なぜ諸葛亮なのか」?他人の議論を私は代わりに答えることはできないし、また答える必要もない。さもなければ一日中答案を作り続けねばなるまい。私を「人群の蟊賊」と言う者もいる。「なぜか」——私はすべて放っておく。しかし私の知る限り、魏延が心変わりしたのは諸葛亮の死後であり、私はまだ生きている以上、諸葛亮の肩書を私に被せることはできず、「無産階級大衆はいつ阿斗になったのか」という問いも空振りに終わる。あの空言は、もし『三国志演義』や呉稚暉先生の言葉を覚えていれば、口にするはずのないものだ。書物にも他人も、人民が阿斗だなどとは言っていない。どうぞ御安心を。しかし先生は「小資産階級文学革命」の旗の下に立ちながら、なおも「無産階級大衆」とは、御自身の目にこれらの字が映って、恥ずかしくも可笑しくもないのか。もうこれらの字を持ち出すのはやめてはいかがか。

 次に先生は私の老いに「驚心動魄」されたそうだが、これまた奇妙な「驚心動魄」だ。私は仙丹を修練してはいないから、自然の法則が必ず私を老いさせるのは少しも不思議ではない。先生にはもう少し落ち着いていただきたい。しかも私はこの先死にもする。これも自然の法則だ。予め申し上げておくが、どうか「驚心動魄」されませぬよう。さもなければ次第に神経衰弱に陥り、ますます空言ばかりになってしまう。私がたとえ老い、たとえ死んでも、地球を棺の中に持って行くことは決してない。地球はまだ若く、まだ存在し、希望は将来にある。目下もまだ先生の旗を立てることができる。この点は私が保証する。どうぞ安心して仕事をされたい。

 さて「三嘘」の問題に触れねばならない。これは事実あったが、新聞の報道とはいささか異なる。あの時はある料理屋で、皆が雑談し、何人かの文章の話になった折、私はたしかに「これらは一嘘に付すれば足りる、反駁するに値しない」と言った。その何人かの中に先生も含まれていた。私の意図はこうだ——先生はあの堂々たる「自白」の中で、農民の純朴さと小資産階級知識人の動揺と利己心とを明言しておきながら、また小資産階級革命文学の旗を立てようとする。これは自分で自分の頬を打つことだ。だが口には出さず、散会すればそれきりだった。ところが、転々と伝わったのか、それとも当時席に新聞記者がいたのか、間もなく誇大に脚色されて新聞に載り、読者に推測を促した。この五、六年来、私に関する記事は多く、毀誉を問わず、真偽を問わず、すべて放置してきた。弁護士を雇って頻繁に広告を出す巨額もなければ、あらゆる刊行物に目を通す暇もないからだ。しかも新聞記者が読者の気を引くために誇張の手段を弄することは皆が知っている。ひどい場合はまるごと捏造する。例えば先生がまだ「革命文学家」をしていた頃、「小記者」の筆名である新聞に、私が南京中央党部の文学賞金を受け取り、盛大な宴会を開いて子供の周年を祝ったと書き、それが郁達夫先生に亡児の記憶を呼び起こし、悲しませたという。まことに生き生きと書かれ、生まれて一年にもならない嬰児まで私と一緒に血污を浴びせられた。しかしこの事実がまったくの創作であることは、私も知っており、達夫先生も知っており、記者兼作者たる楊邨人先生も知らないはずがない。

 あの時私は何も言わなかった。なぜか。革命者は目的のためにいかなる手段も用い得るという言葉を、私は正しいと思うからだ。だから私の罪が深く、革命文学の第一歩として私を血祭りに上げねばならないとしても、私は歯を食いしばって耐える覚悟がある。殺せなければ野草の中に退き、傷口の血痕を自ら舐め尽くす。決して他人に薬を塗ってもらいはしない。しかし人は聖人ではない。煩わしさのために激昂することもある。私はたしかに先生「方」を諷刺したことがあり、これらの文章は後にすべて『三閑集』に収め、一字も削除していない。しかし先生「方」の造謡や攻撃文字の量と比べてみよ——十分の一にも満たないではないか。それだけではない。講演の中で時に葉霊鳳先生や先生を嘲笑したこともある。先生方が「前衛」の名を以て意気揚々と出陣した時、私は旗を祭る犠牲であった。ならば数合と戦わずして火線から這い退いた際、私が一笑を禁じ得なかったのも無理はあるまい。階級的立場からも個人的立場からも、私には一笑する権利がある。しかし私はかつて傲然と「良心」や「無産階級大衆」の名を借りて敵を威圧したことはない。その後に必ず「これは彼との間に個人的な私怨があるからだ」と明言した。先生、これでもまだ譲歩が足りないか。

 しかし私に責任のない新聞記事のために、先生の「反感」を引き起こしたという。それでもなお破格の優遇を賜り、『新儒林外史』では私に大刀を持たせてくださった。礼儀の上では感謝すべきだが、実際には大宴会の話と同じく、私に大刀はなく、一本の筆があるのみで、名を「金不換」という。これは決してルーブルを受け取っていないという広告ではなく、子供の頃から使い慣れた一本五分の安い筆だ。この筆で先生に触れたことはたしかにあるが、それも古典の運用と同じく、手の赴くまま筆の趣くまま、特に報復の悪意を含んだものではない。しかし先生はまた「三本の冷矢」を被せてくださった。これは先生を責めるべきではない。陳源教授の余唾に過ぎないからだ。しかしたとえ報復だとしても、上述の理由から、私は「恩を仇で返す」隊列に加わるほどには至るまい。

 いわゆる『北平五講と上海三嘘』だが、実は今に至るまで書いていない。北平に『五講』という本が出版されたと聞くが、あれは私の著ではなく、私もその本を見たことがない。しかし騒ぎになった以上、将来いっそ何か書くかもしれない。もし書くなら、『五講三嘘集』と名づけようと思うが、後半は必ずしも新聞に載った三名とは限らない。先生は梁実秋、張若谷の両氏と並べられるのを恥じておられるようだが、並べてみても先生の面目を辱めるほどではあるまい。ただ張若谷氏はやや劣り、浅陋の極みで、一「嘘」の材料にすら足りないから、恐らく別の人に替えるだろう。

 先生に対して、私の現在の意見では、書いたとしてもさほど酷くはなるまい。先生は革命の場における一人の小商人ではあるが、決して奸商ではないと思う。私の言う奸商とは、一つには国共合作時代の大物で、当時はソ連を讃え共産を称え、ありとあらゆる美辞を弄し、清党の時になると共産青年や共産嫌疑青年の血で己の手を洗い、依然として大物であり続け、時勢は変われどもその大物ぶりは変わらぬ者。もう一つは革命の猛将で、土豪を殺し劣紳を打倒し、激烈を極めるが、一度躓けば「邪を棄て正に帰す」と称し、「土匪」を罵り同志を殺し、これまた激烈を極め、主義は改まれどもその猛ぶりは変わらぬ者だ。先生はどうか。「自白」によれば、革命するか否かは身内の苦楽に左右され、いささか投機的な気味はあるが、翻って大口の商売をしたわけではなく、ただ懸命に「第三種人」となって、革命家より少しましな生活を送ろうとしているだけだ。革命の陣線から退いた以上、自己弁護のため、「第三種人」に落ち着くために、多少の零細な懺悔は必要で、統治者にとっては実はかなり有益なはずだが、それでも「左右の挟撃」に遭ったのは、恐らくあちら側にしてみれば先生の店構えが小さすぎたためだろう。銀行員が小さな両替屋の番頭を見下すのと同じだ。先生は屈辱を感じておられようが、「第三種人」の存在を信じないのは左翼だけではなく、先生の経験がそれを証明した。これもまた一つの大きな功徳である。

 公平に言えば、先生は失敗してはいない。自分では「挟撃」されていると感じておられようが、今日、即座に人を殺す権力を持たぬ者で、誰が攻撃を受けていないだろうか。生活はたしかに辛いだろうが、殺戮され、投獄されている人々に比べれば、天淵の差がある。文章もどこでも発表でき、封鎖され、圧迫され、禁止されている作家に比べれば、はるかに自由自在だ。大物や猛将に比べれば、もちろんまだ遠く及ばないが、それは先生が奸商ではないからこそだ。これは先生の苦しみであり、また先生の長所でもある。

 話がすでに長くなりすぎた。ここで終わりとする。つまり私はやはり以前と同じく、決して造謡や虚言を弄して特に先生を攻撃することはないが、これを機に態度を変えることもない。御本人の「反感」や「恭敬」は、私にとって毫も考慮の外だ。先生も私が「生理上の理由で仕事を中止する」からといって許してくださることのなきよう、お願いする。

 右、御返答申し上げ、併せて著安をお祈りする。

 魯迅。一九三三年十二月二十八日。