Lu Xun Complete Works/ja/Huagaiji xubian
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華蓋集続編 (华盖集续编)
魯��� (ルーシュン, 1881-1936)
中国語からの日本語翻訳。
第1節
まだ丸一年にもならぬのに、書いた雑感の分量はすでに昨年一年分ほどになった。秋になって海辺に住み、目の前にはただ雲と水を見るばかり、耳に入るのは風と波の音ばかりで、ほとんど社会から隔絶されている。もし環境が変わらなければ、おそらく今年はもうこれ以上無駄口を叩くこともあるまい。灯の下、暇にまかせて旧稿を編集した。さらに印刷に付す用意もあり、私の雑感を読みたがる常連諸氏に供するためである。
ここに述べているのはやはり宇宙の奥義でも人生の真諦でもない。ただ、私が出会い、考え、言いたいと思ったことを、それがいかに浅薄であれ、いかに偏激であれ、時として筆に任せて書き留めたにすぎない。いささか自賛めいて言えば、悲喜の折の歌や哭のようなもので、その時はただこれによって憤りを発し情を抒べんとしただけのこと。今さら誰かと公理だの正義だのを奪い合おうとは思わない。お前がそうするなら、俺はこうする、ということはある。命令に従わない、叩頭しない、ということはある。荘厳高尚な仮面をちょいとめくってやる、ということはある。それ以外には何の大業もない。名実相応、「雑感」にすぎない。
一月以来のものは概ねすべて収めた。ただ一篇だけ削除した。その中に多くの人名を列挙しており、いまだ一人一人の同意を得ることもできず、得やすくもないため、勝手に発表するわけにはいかなかったのだ。
書名は? 年月は改まったが、ありさまは依然として同じだから、やはり『華蓋集』と名づける。
しかし年月は確かに改まった。ゆえにやむを得ず二文字を添えることにした——「続編」と。
一九二六年十月十四日、魯迅、廈門にて記す。
第2節
一
聞くところでは今年から、陳源(すなわち西瀅)教授は余計なことに口出しするのをやめるという。この予言は『現代評論』五十六期の「閑話」に見える。慚愧ながら私はこの号を拝読しておらず、したがって詳細も知らない。もしそれが本当なら、例のお決まりの社交辞令で「残念」と言うほかに、自分の愚かさにまことに驚くのである。これほどの年になりながら、陽暦の十二月三十一日と一月一日の境目が他人にはこのような大変動を引き起こしうることを知らなかったとは。私は近頃、年の瀬に対する神経がいささか鈍くなり、いっこうに何とも感じない。実のところ、感じようと思えば感じきれないほどのことがある。みなが五色旗を掲げ、大通りに彩りの門を幾つも立て、その真ん中に「普天同慶」の四文字を記し、これが正月だという。みなが門を閉め、門の神を貼り、爆竹をぱちぱちと鳴らして、これもまた正月だという。もし言行が正月のたびに転換するなら、転換が間に合わず、ついにはぐるぐる回ることになるだろう。ゆえに、神経が鈍いのは時代遅れの恐れがあるとはいえ、弊あれば利もあり、ささやかな得もあるのだ。
だが、なおいくつか私にはどうしてもわからないことがある。たとえば天下に余計なことがあり、余計なことに口を出す人がいる、というようなことだ。私は今、世の中には余計なことなどないように思う。誰かが口を出せば、すべて自分と多少の関係がある。人類を愛するにしても、自分が人間であるからだ。もし火星でいま張龍と趙虎が殴り合っていると知って、たちまち大いに事を起こし、酒を振る舞い集会を開き、張龍を支持したり趙虎を否認したりするなら、それはかなり余計なお世話に近い。しかし火星のことが「知りうる」以上は、少なくともすでに通信可能なのであり、関係も密接になっているから、余計なことではなくなるのだ。通信ができるなら、やがては交通もでき、彼らはいずれ我々の頭上で殴り合うことになる。我々の地球上においては、どこの出来事であれすべて我々と関係がある。にもかかわらず口出ししないのは、知らないからか、口出しできないからであって、その事が「余計」だからではない。
【以下、陳源教授の「閑話」をめぐる論争に言及する。留学生が海外の不祥事を引き合いに出す風潮、英国でのLiu Qianzhao事件への言及から、文学論文にアメリカ公使芮恩施の名が紛れ込んだ滑稽な自己訂正を挟む。さらに動物も人間と無関係ではないと論じ、青蠅・蜣蜋の喩えから「抱仏脚」(にわか仕込み)を揶揄する。そして『現代評論増刊』を一通り眺めれば、李仲揆教授、胡適教授、徐志摩氏、陶孟和教授など著名学者の名が五色に輝くが、読み進めると目に映るのは灰色ばかりだと締めくくる。ちょうど小学生の七色板が回転すると灰色になるように、名だたる学者の大著を集めた大新聞も、一回転すると灰色に見えるが、おそらくそれこそがその特色であろう、と。】
一月三日
第3節
北京は大砂漠のようだと言われるが、青年たちはやはりここに押し寄せてくる。老人たちもあまり去らず、他所へ行ってみても、じきに戻ってくる。あたかも北京にはまだ何か留まるに値するものがあるかのようだ。厭世詩人が人生を恨むのは、まことに「感慨之に繋がる」というべきであるが、彼はやはり生きている。釈迦牟尼に祖述したあの哲人ショーペンハウアーでさえ、ひそかにある種の薬を服んでいたという。おいそれとは「涅槃」に入ろうとしなかったのだ。俗に「悪く生きるのは上手に死ぬに如かず」と言うが、これはもちろん俗人の俗見にすぎまい。しかし文人学者のたぐいとて同じではないか。違うのはただ、彼らには常に正義面をした軍旗の一面があり、さらにいっそう大義名分を振りかざした退路の一条があるということだけだ。
まったく、もしそうでなければ、人生はまことに退屈至極で、語るべきこともなくなってしまう。
北京は日に日に万物が高騰してゆく。自分の「区々たる僉事」の職も、「みだりに主張あり」ということで、章士釗氏に免ぜられてしまった。これまで遭遇してきたものは、アンドレーエフの言葉を借りれば、「花もなく、詩もなく」、あるのは万物の高騰ばかりだ。しかしやはり「みだりに主張あり」で、引き返すわけにはいかない。もし一人の妹がいて、『晨報副刊』が褒めそやす「閑話先生」の家庭の事のように、「兄さん!」と呼びかけてくれ、その声が「幽谷に響く銀鈴のごとく」、「もうこれ以上文章を書いて人を怒らせないでくださいな」と頼んでくれるなら、私もこれ幸いと馬首をめぐらし、別荘に引き籠もって漢代の人が作った「四書」の注疏と理論の研究に耽ることもできよう。しかしあいにく、そのような優しい妹はいない。「女媭の嬋媛たる、申々として予を詈る。曰く、鯀は婞直にして身を亡ぼし、終にしてかくのごとく羽の野に殤す」——
屈霊均のような怖い姉がいるという幸福にさえ及ばない。私が結局「みだりに主張あり」であるのは、あるいはやむを得ざるがゆえかもしれぬ。しかしこの関係は尋常ではなく、将来災いを被るであろう。なぜなら私は知っている、人を怒らせれば報いがあることを。
【以下、釈迦の教えに基づく「人間界に生きるのは地獄より不安定」という議論を展開し、「孽」(業)と「報」(報い)の論理を検討する。現世に活を造れば来世の報いがあり、地獄に堕ちることこそ地獄を出る出発点であるという逆説を述べる。しかし北京の砂漠のような枯燥のなかにも五色繚乱の世態がある——芸術を創造する者あり、流言を製造する者あり、と。そして得罪した者への報復を論じ、「閻羅大王の尊厳と偉大」を認めるという迷信も「世道を挽き人心を正す」には無益ではないかもしれぬが、現代においてはこの古い手口はよほどのお人好しにしか通じない。得罪すれば報いがあるのは当たり前のことで、二十一世紀の解剖や戮屍を待つよりも、いっそ今すぐ一発殴ったほうがよいと結ぶ。】
一月十四日。
第4節
『京報副刊』で、『国魂』という雑誌に章士釗はむろん良くないが、章士釗に反対する「学匪」どもも打倒すべきだという文章があったことを知った。大意が私の記憶通りかどうかはわからないが、そんなことはどうでもよい。ただ私がひとつの題目を思いついたきっかけになったというだけのことで、あの原文とは無関係なのだ。つまり、中国の旧説では人には三魂六魄、あるいは七魄があるとされている。
国魂もそのようなものであろう。そしてこの三魂のうち、一つは「官の魂」、一つは「匪の魂」、残る一つは何であろうか。おそらく「民の魂」であろうが、私にははっきり決められない。また私の見聞がひどく偏狭であるため、中国社会全体を指すのは憚られ、縮めて「学界」とだけ言っておく。
中国人の官への執着はまことに根深い。漢代は孝廉を重んじて子を埋め木を刻む者が出、宋代は理学を重んじて高帽に破靴の者が出、清代は科挙の文体を重んじて「且つ夫れ」「然れば則ち」が横行した。要するに、その魂の在り処は官にある——官の勢いを振りかざし、官の口調を並べ、官の言葉を弄する。天子を傀儡として頂き、官を怒らせれば天子を怒らせたことになり、かくしてその者たちは「匪徒」の雅号を頂戴する。学界で官の口調が横行し始めたのは昨年からのことで、章士釗に反対する者はみな「土匪」「学匪」「学棍」の称号を得たが、誰の口から出たのかはやはり不明であり、つまるところやはり一種の「流言」にすぎない。
しかしこのことだけでも昨年の学界の堕落ぶりがわかる。未曾有の学匪が現れたのだ。もう少し大きな国事に喩えれば、太平の世には匪はいない。群盗が蜂起する時には、旧史を繙けば必ず外戚、宦官、奸臣、小人の輩が国を壟断しており、いくら官の口調で大言壮語しても結局は「嗚呼哀哉」に終わる。この「嗚呼哀哉」の前に、小民は互いに率いて盗となる。ゆえに私は源増氏の言葉を信じる——「表面上はただの土匪と強盗に見えるが、実は農民革命軍なのだ。」
【以下、社会の改善について論じ、農民は政権を奪取しないが、「三、五の熱心家が皇帝を倒して自分が皇帝の味を占める」と、匪が帝と称され、文人学者は恭しくこれを褒め、反対する者をまた匪と呼ぶ、という循環を指摘する。中国の国魂には官魂と匪魂が共存し、民衆は『雙官誥』も『四傑村』も好み、劉玄徳の偏安も李逵の山賊生活も応援する。自分は「公理維持会」すなわち「女大後援会」の人々と九校の「索薪」(給与請求)で再会し、「学官」も「学匪」もついには「学乞食」と化し、同じ席で未払い給与を催促するに至った、と結ぶ。「先は官の国、次は土匪の国、やがて乞食の国」というある西洋人の言を引き、学界もその軌道に乗りつつあるようだと嘆く。】
一月二十五日、東壁の灯下にて書す。
第5節
白話文を提唱した頃のことを思い出す。多くの讒謗を受けたが、白話がついに倒れなかった時になると、口を改めて言う者が出てきた——「しかし古書を読まなければ、白話は上手に書けない」と。我々はこれらの復古家の苦心を大目に見るべきであろうが、彼らのこの先祖伝来の手口を憫笑せずにはいられない。少しでも古書を読んだことのある者はみなこの古い手を使う。新しい思想は「異端」であり、殲滅せねばならない。しかしそれが奮闘の末に自力で立つと、その出自はもともと「聖教と同源」であったと見出してくる。外来の事物はすべて「夷をもって夏を変ずる」ものであり、排除せねばならない。しかしこの「夷」が中華の主となると、考証の結果、この「夷」もまた黄帝の子孫であったと判明する。これは意表を衝く話ではないか。何であれ、我々の「古」のなかに含まれていなかったものはないのだ!
古い手を使う者はむろん進歩せず、今もなお「数百巻を読破した者でなければ」良い白話文は書けないと言い、呉稚暉氏を引き合いに出している。だが「肉麻きわまることを面白がる」者もいて、津津として語るのだから、天下の事はまこと千奇百怪である。実際、呉氏の「口語体をもって文を為す」方法は、その外見においても「黄口の小児」の書くものと同じであろうはずがない。「筆の赴くまま、すなわち万数千言」ではないか。
その中にはむろん古典があり、「黄口の小児」の知らないもの、さらには新典もあって、「束髪の小生」にも分からないものがある。清の光緒末年、私が初めて日本の東京に着いた頃、この呉稚暉氏はすでに公使蔡鈞と大いに戦っていた。その戦史がこれほど長いのだから、見聞の多さは現在の「黄口の小児」の企及しうるところではない。ゆえにその遣辞用典には、大小の故事に通じた人物でなければ了解しがたい箇所が多く、青年から見れば、第一に驚くのはその文辞の滂沛さであろう。これこそ名流学者たちが長所と認めるものかもしれないが、しかし、その生命はそこにはない。名流学者たちが引き寄せ恭しく褒めそやすものとはむしろ正反対で、自分では殊更に長所を見せびらかそうとせず、また名流学者たちのいわゆる長所を消し去ることもできない。ただその言行を、改革の道中の橋とするだけ、あるいはそもそも改革の道中の橋にしようとさえ考えていないのだ。
退屈で出来損ないの輩ほど、長生を望み、不朽を望み、自分の写真を多く撮りたがり、他人の心を占めたがり、威張り散らすのが巧みである。しかし、「無意識」の底では、自分の退屈さに気づいているのであろう。そこでまだ朽ちきっていない「古」に噛みつき、腸の中の寄生虫となって一緒に後世に伝わろうとする。あるいは白話文の中に少しばかりの古めかしさを見出して、逆に古董の栄えを添えようとする。もし「不朽の大業」がこの程度のものなら、あまりにも哀れではないか。そしてまた、二九二五年になっても「黄口の小児」たちがなお『甲寅』のたぐいを読まねばならないとすれば、あまりにも惨いことではないか。たとえ「孤桐先生退陣以来……漸く生気を帯びてきた」としても。
古書を蔑む者として、古書を読んだ者がもっとも有力であるのは確かだ。なぜなら弊害を洞察しており、「子の矛をもって子の盾を攻める」ことができるからだ。ちょうど阿片の害を説くには、阿片を吸った者がもっとも深く、もっとも痛切に知るようなものだ。しかし「束髪の小生」であっても、阿片を断つ文章を書くのに、まず数百両の阿片を吸い尽くさねばならぬなどと言うだろうか。
古文はすでに死んだ。白話文はなお改革の道中の橋であり、なぜなら人類はまだ進化しているからだ。文章にしても、万古不磨の定則があるとは限らない。アメリカのどこかではすでに進化論の講義が禁じられたそうだが、実際には、おそらく結局のところ効き目はあるまい。
一月二十五日。
第6節
私の故郷では羊肉を食べることはあまり流行っておらず、町中で毎日屠るのはせいぜい数匹の山羊にすぎなかった。北京はまことに人の海で、事情はまるで違い、羊肉屋だけでも目に触れるところ皆これである。真っ白な羊の群れが街を歩いているのもよく見かけるが、すべて胡羊、私たちのところで綿羊と呼ぶものだ。山羊はめったに見ない。聞くところでは北京ではかなり珍重されるそうで、胡羊より賢く、羊の群れを率いることができ、群れはすべてその進退に従う。ゆえに畜牧家はたまに数匹飼うが、ただ胡羊の先導として用いるだけで、殺しはしないのだ。
このような山羊を私は一度だけ見たことがある。なるほど胡羊の一群の先頭を歩いており、首には小さな鈴がひとつ掛けてあった。知識階級の徽章のように。通常、先導し追い立てるのは牧人で、胡羊たちは長い列を成し、ぎゅうぎゅうと押し合いながら、大群となり、柔順にすぎるその目つきで、牧人の後をせかせかとその前途を競い走ってゆく。私はこの真剣で慌ただしい光景を見るたびに、いつも口を開いて彼らに愚にもつかない一つの問いを発したくなる——
「どこへ行くのだ?!」
人間の群れにもこのような山羊がいて、群衆を率いて穏やかに安らかに歩いてゆくことができ、彼らが行くべき場所まで導く。袁世凱はこの理を少しは心得ていたが、あいにく使い方があまり巧みではなかった。おそらく彼はあまり読書をしなかったため、その奥義に習熟しにくかったのであろう。後に続く武人たちはさらに愚かで、ただ出鱈目に斬り殺すばかり。哀号の声が四方に満ちた結果、百姓への残虐に加えて、学問を軽んじ教育を荒廃させたという悪名まで得ることになった。しかし「一事を経れば一智を長ず」、二十世紀はすでに四分の一を過ぎ、首に小さな鈴を掛けた聡明な者たちは、いずれ必ず赤い運命を迎えるだろう。たとえ現在、表面上はまだ些かの挫折があるにしても。
その時、人々は、とりわけ青年たちは、みな規矩に循い、囂張もせず浮動もせず、一心に「正道」を前進するだろう。ただし、誰も問いかけなければの話だが——
「どこへ行くのだ?!」
君子いわく——「羊はしょせん羊だ。一列に並んで従順に歩く以外に何の方法があろうか。君は豚を見ないか。引きずられ、逃げ、叫び、突進し、結局はやはり捕まって行かねばならないところへ連れてゆかれる。あの暴動は、ただ力の空費にすぎないではないか。」
つまり、死ぬにしても羊のようにおとなしくすべきで、天下太平、互いに省力というわけだ。
この計画はもちろんまことに妥当で、大いに感服すべきものだ。しかし、君は野猪を見ないか。二本の牙で、老練な猟師すら退くのだ。この牙は、豚が豚飼いの作った豚小屋から脱け出し、山野に入れば、程なく生えてくるものだ。
ショーペンハウアー先生はかつて紳士たちを豪猪に喩えた。
【以下、ショーペンハウアーの豪猪の寓話を展開する。豪猪たちは寒い冬に暖を取ろうと互いに近寄るが、針が刺さり合って痛い。そこで最も安楽に過ごせる距離を見出す——それが「礼譲」と「上流の風習」だという。英国では距離を保たぬ者に「Keep your distance!」と言うが、これは豪猪同士の間でしか通用しない。もし豪猪の群れに針のない別の動物が混じっていれば、いくら叫んでも豪猪たちは押し寄せてくる。孔子曰く「礼は庶人に下さず」——つまり庶人が豪猪に近づけないのではなく、豪猪が勝手に庶人を刺して暖を取るのだ。刺されるのはお前に針がないからだと。孔子はまた「刑は大夫に上らず」と言った——紳士になりたがるのも無理はない。これらの豪猪は牙角や棍棒で撃退もできるが、少なくとも豪猪社会が定めた罪名「下流」あるいは「無礼」を背負う覚悟がいる、と結ぶ。】
一月二十五日。
第7節
ある友人がふいに『晨報副刊』を一部送ってきた。何か特別なことがあるなと感じた。彼は私がこの手のものを読むのを面倒がることを知っているからだ。しかしわざわざ送ってきた以上、まずは見出しでも見ようか——「下記の一束の書簡について読者諸君に告ぐ」。署名は志摩。はは、これは私をからかうために寄越したのだな、と思った。急いで裏返すと、数通の手紙があり、あちらがこちらに送り、こちらがあちらに送っている。数行読んでやっと、どうやらまだ例の「閑話……閑話」問題らしいと分かった。この問題について私が知っているのはほんの少しで、つまり新潮社で陳源教授すなわち西瀅氏の手紙を見たことがあり、そこに私が「捏造した事実、傳佈した『流言』は、もともと言い尽くせぬほどだ」と書いてあったのだ。思わず苦笑した。人間は自分の魂を挽き肉にできないのが辛いところで、ゆえに記憶を持ち、ゆえに感慨や滑稽を覚える。思い返せば、まず「流言」を根拠に楊蔭楡事件すなわち女師大騒動を断じたのは、まさにこの西瀅氏であった。あの大文は昨年五月三十日発行の『現代評論』に掲載された。私は「某籍」の出身で「某系」で教えているという不幸があったため、「裏で風波を煽る」者の列に入れられた。もっとも彼はまだ信じないと言い、ただ残念だと言ったのだが。ここで誤解のないよう一言しておく。「某系」というのはおそらく国文系のことで、研究系ではない。
当時私は「流言」の二字を見て大いに憤り、直ちに駁正したが、「十年読書し十年養気する修養」がないことを恥じた。ところが半年後、これらの「流言」は私が傳佈したものに変わっていた。自作の「流言」を自分で広める——これはまさに自分で穴を掘って自分を埋めるようなもので、聡明な人はもちろん、馬鹿でも筋が通らないと分かるだろう。もしこの度のいわゆる「流言」が「某籍某系」に関するものではなく、「流言」を信じない陳源教授自身に関するものだというなら、私はまことに陳教授にどのような捏造された事実や流言が社会に流布されているか知らないのだ。言うのも恥ずかしいことだが、私は宴会に出ず、交際も少なく、奔走もせず、文芸学術のどんな団体にも加わっていない。まことに事実の捏造と流言の傳佈の枢軸としてはもっとも不適任である。ただ筆墨を弄ぶのは免れがたいが、流言を根拠として故意にそれを広めるよう��ことはしない。「耳食の言」が時にあるにしても、おおむね大局に関わらぬこと。もし誤りがあれば、たとえ数年を経ても、追って訂正することを惜しまない。たとえば汪原放氏の「すでに故人となった」件のように、ほぼ二年も隔てて訂正した。——もっともこれは『熱風』を読んだ読者に対してのみ言えることだが。
【以下、この数日で自分の「捏造・流言」罪案は曇花一現のように消え、「一束の書簡」の主要部分は志摩(徐志摩)と陳源の間の問題に移っている、と述べる。志摩がこの問題に介入し、自分は巻き添えになっただけだと指摘する。詳細な論争の展開として、陳源教授が「顔」を攻撃したことへの反論、「閑話先生」の妹の話への言及、大学教授としての体面問題などが続く。陳源は帰国以来順風満帆であり、曹錕の贈賄選挙の時も教授のまま、「代表無恥」の彭允彝が総長の時も教授のまま、章士釗が来ても教授のまま——それは「適切な顔」を持ち、人を「吐き気を催させ」ないからだろうと皮肉る。自分には「八の字の髭」があり「官僚の風情」があるから嫌われるのだと。陳源の顔にはそのようなものがなく、もう少し色白で肥えていれば中国では稀有であろう。最後に、陳源が「もうこのような筆墨の官司はすまい」と大門を閉じたので、自分も門を叩くことはすまい、ちょうど「国立北京女子師範大学復校紀念会」の時刻になったのだから、これにて幕としよう、と結ぶ。】
二月一日。
第8節
一月三十日の『晨報副刊』は一面にあるものを満載しており、今では「攻周専号」と呼ぶ者もある。まことに興味深い代物で、紳士の本色を垣間見ることができる。どういうわけか、今日の『晨副』は突然この件を打ち切り、例によって書簡形式で、李四光教授が開幕の辞を述べ、徐志摩「詩哲」が後段を受け持ち、一唱一和して、「待て! 乱闘する双方に向かって一喝しよう、待て!」と締めくくった。さらに「本紙は今後、人身攻撃の文字を掲載しない」と声明した、とのこと。
彼らの「閑話……閑話」問題なるものは、もとより私とはいっさい関係がなく、「待て」でも結構、放免でも結構、取り込みでも結構、好きなように芝居をすればよい。だが、先日は「令兄」の関係で、私の「顔」まで攻撃されたではないか。私は「乱闘」に参加したのではなく、巻き添えを食ったのだ。今、私はまだろくに口を開いてもいないのに、どうして急に「待て」なのか。紳士方から見れば、これはただ「一言半句」私を「侵犯」したにすぎず、「半天空まで飛び上がる」には及ばないのだろうが、私はそもそも「半天空まで飛び上がって」などいない。ただ、あなた方が「待て」と言えば私も「待て」と、そのように指揮に従うわけにはいかないだけだ。
申し訳ないが、それらの文章は注意深くは読んでいない。「詩哲」の言わんとする要点は、おそらくこうだ——このまま騒ぎ続ければ、大学教授の体面を失い、「青年を指導する重責を負う先輩」の恥を晒し、学生に信用されず、青年に愛想を尽かされる。哀れなことだ、臭いものには蓋をしろ、と。「青年を指導する重責を負う先輩」たちは、そんなにも多くの恥を晒す恐れがあるのか、そんなにも多くの恥を晒すのを恐れているのか。紳士服で「恥」を幾重にも包み、よい顔をしていれば、それが教授で、青年の導師なのか。中国の青年は、シルクハットに毛皮の外套を着て気取った導師を必要としてはいない。偽りのない——
もしそれがなければ、せめて偽りの少ない導師を必要としている。もし仮面をかぶって導師を気取る者がいるなら、それを剥がさせるべきだ。さもなくば引き剥がしてやる。互いに引き剥がし合う。血みどろになるまで剥がし、威張り散らしの骨組みを粉々にしてから、初めてその先の話ができる。その時、たとえ半文の値打ちしかなくとも、それは真の値打ちだ。たとえ「吐き気を催す」ほど醜くとも、それは真の顔だ。ちょいとめくった途端にあわてて繻子の箱に仕舞い直せば、ダイヤモンドかとも疑われ、糞土かとも推測される。たとえ外側に名札をべたべた貼りつけ、アナトール・フランスだの、バーナード・ショーだの……何の役にも立たないのだ!
李四光教授はまず私に「十年読書し十年養気せよ」と勧めた。もう一言、紳士らしい言葉を返しておこう——ご厚意かたじけのうございます。書は読みました、十年どころではなく。気も養いました、十年には満ちませんが。しかし読んでもうまく読めず、養ってもうまく養えず、
【以下、「罵る」という語の使用について弁明する。私はどうしてもこの手段を使いたい、とりわけ麒麟の皮の下から馬脚を露わにするために、と。もしあの偽善者たちが少しでも痛みを感じ、いくらかの悟りを得て、技倆にも窮まる時があると知り、偽りの仮面を少しは減らすなら、それは陳源教授の言葉を借りれば「教訓」というものだ。真の値打ちを見せる者には、たとえ半文の値打ちでも、決して軽んじはしない。しかし芝居の手口で欺こうとするなら、それは通用しない、と。「詩哲」がロマン・ロランの言葉を引いて「人はみな己の身に鬼を宿すが、他人の鬼を打つことしか知らない」と述べたらしいが、それなら陳源教授にも鬼があり、李四光教授にも鬼があることを認めたことになる。「待て」をやりたければ容易なこと——芝居をやめ、威張り散らすのをやめ、教授の肩書きを忘れ、青年の指導者面をやめ、公理の旗を糞車に立て、紳士の衣装を便所に投げ捨て、仮面を脱ぎ、赤裸々に立ち出て、真実をいくつか言えばよいのだ!と結ぶ。】
二月三日。
第9節
遠くや近くから聞こえてくる爆竹の音を座って聴いていると、竈君(かまどの神)たちが続々と天に昇り、玉皇大帝にその家主の悪口を告げに行ったのだと知る。しかし彼はおそらく結局は何も言わなかったのだろう。さもなければ、中国人はきっと今よりもっと不幸なはずだから。
竈君が天に昇る日には、街でまだ一種の飴が売られていた。蜜柑ほどの大きさだが、我々の故郷ではそれは平たく、分厚い小さな焼き餅のようだった。それがいわゆる「膠牙餳」である。本来は竈君に食べさせて歯をくっつけ、玉帝の前で告げ口できないようにするためのものだ。我々中国人の心の中の神や鬼は、どうやら生きている人間よりも正直らしい。だから鬼神にはこのような強硬手段を用いるが、生きている人間に対してはただ食事に招くしかない。
今日の君子たちはしばしば食事の話を避け、とりわけ食事の招待を口にしたがらない。それはもちろん無理からぬことで、確かにあまり聞こえがよくない。ただ、北京の料理屋はあんなに多く、宴席もあんなに多いのに、まさか皆が蛤蜊を食べ風月を語り、「酒酣にして耳熱し歌はうう」としているだけだろうか?そうとも限らない。確かに多くの「公論」がこれらの場所から種を蒔かれているのだ。ただ公論と招待状の間に蛛糸馬跡が見えないため、議論は堂々たるものとなる。しかし私の見解では、やはり酒の後の公論の方が情がある。人は木石ではない、一向に理だけを説くことなどできようか。情面に引かれて偏ってしまうところにこそ、人間味がある。そもそも中国はもとより情面を重んじてきた。情面とは何か?明朝の人がすでに解説している。曰く「情面とは、面情のことなり」と。もちろん何を言っているのか分からないが、しかし何を言おうとしているかは分かる。今の世に偏りのない公論を求めるのは、もとより夢想にすぎない。たとえ食後の公評、酒後の宏議であっても、姑く妄りに聴くに値しないわけではない。しかし、もしそれが真正の正統な公論だと思えば、きっと痛い目に遭う——
だがこの罪を公論家だけに帰すわけにはいかない。社会全体に食事の招待が流行しながら食事の招待を口にしたがらないので、人々は虚偽にならざるを得ず、その咎は当然、分担すべきなのだ。
もう何年も前のことを覚えている。「兵諫」の後、銃を持つ階級が天津で好んで会議を開いていた頃、一人の青年が憤然として私に言った——あそこで会議なんかしてるものですか、酒席の上で、賭博台の上で、ついでに二三言言っただけで決めてしまうんです——と。彼はまさに「公論は酒飯から生まれるものではない」という嘘に騙された一人だったのだ。だから永遠に憤慨しているが、彼が理想とする光景は恐らく二九二五年になって初めて現れるだろう。あるいは三九二五年かもしれない。
しかし酒飯を重んじない正直な人も確かにいる。さもなければ、中国はもっと悪くなっていたはずだ。ある会議では午後二時から問題を討論し規約を研究し、質問と反論が風起雲湧し、七八時まで続くと、皆がわけもなく焦燥を覚え、気性はますます荒くなり、議論はますます紛糾し、規約はますます遥かになる。「討論が終わってから散会しよう」と言いつつ、結局はどっと散会し、結果なし。これこそ食事を軽視した報いである。六七時頃の焦燥こそ、腹が本身と他者に対して発した警告なのだが、食事と公理の議論は無関係だという妖言を信じて一向に省みないため、腹は演説も冴えなくし、声明も——草稿さえないのだ。
しかし私は、少しでも用事があれば太平湖飯店だの擷英洋食館だのの大宴会に行けと言っているのではない。あれらの店に株を持っているわけでもなく、客を呼ぶ義理もないし、誰もがそんなに金を持っているわけでもない。ただ、議論と食事の招待には今でも関係があると言っているだけだ。食事の招待は議論にとって今でも益があると。もっとも、これも人情の常であり、深く怪しむに足りない。
ついでに、熱心で正直な青年たちに一つ忠告を進めておく。酒も飯もない会議では、時間をあまり長く引かないこと。もし時間が遅くなったなら、焼き餅を何個か買って食べてから話すこと。こうすれば、空腹での討論より結果が出やすく、収まりやすい。
膠牙餳の強硬なやり方を竈君に使う分にはどうでもよいが、生きている人間に使うのはよろしくない。もし相手が生きている人間なら、一度酔い飽きさせて自ら口を開かなくするのが妙だ。歯を糊で固めるのではなく。中国人の人に対する手段はなかなか巧みだが、鬼神に対してはいつも特殊で、二十三夜の竈君への悪戯はその一例だ。しかし不思議なことに、竈君は今に至るまでまだ悟っていないようだ。
道士たちの「三屍神」への対処法は、さらに厳しい。私は道士をしたことがないので詳しくは知らないが、「耳食の言」によれば、道士たちは人体の中に三屍神がおり、ある日になると人が熟睡している隙に、こっそり天に昇って本人の過失を奏上するという。これはまさに人体内部の間諜である。『封神演義』でよく言う「三屍神暴走し、七竅より煙を生ず」の三屍神とは、これのことだ。
しかし、これに対抗するのは難しくないそうだ。彼が天に昇る日は決まっており、その日だけ眠らなければ隙をつかれず、過失を全部腹に収めたまま、翌年の機会を窺うしかなくなる。膠牙餳すら食べさせてもらえない彼は、竈君よりも不幸であり、同情に値する。
三屍神は天に昇れず、罪状はすべて腹の中。竈君は天に昇っても満口の飴で、玉皇大帝の前で曖昧に何やら言って、また下ってくる。下界の事情について、玉皇大帝は一つも聞き取れず、一つも知らない。かくして我々は今年も当然、すべて従前通り、天下太平なのだ。
我々中国人は鬼神に対してもこのような手段を持っている。
我々中国人は鬼神を敬い信じてはいるが、鬼神は人間より愚かだと思っているので、特別な方法で処置する。人間に対しては当然異なるが、やはり特別な方法で処置する。ただそれを口にしない。口にすれば、相手を軽蔑したことになるという。確かに、見透かしたつもりの言葉は、時として逆に浅薄に陥ることもある。
二月五日。
第10節
中国人の鬼神への対処法は、凶悪なものには奉る——疫病神や火の神の類がそれだ——正直なものには苛める——たとえば土地神や竈君に対して。皇帝への待遇にも似たようなところがある。君主と民はもとは同じ民族であり、乱世には「成れば王、敗れれば賊」、平時には一人が例によって皇帝となり、多くの者が例によって平民となる。両者の思想に本来大した差はない。だから皇帝と大臣には「愚民政策」があり、庶民にもまたその「愚君政策」がある。
昔の私の家に、一人の老女中がいて、彼女が知っていて、しかも信じていた皇帝への対処法を教えてくれた。彼女は言った——
「皇帝は大変恐ろしい方です。龍の座に座って、少しでも不機嫌になれば人を殺します。扱いにくいのです。ですから食べ物もむやみに出せません。手に入りにくいものを食べて気に入ると、またほしがる。すぐ用意できなければ——たとえば冬に瓜がほしい、秋に桃がほしいと——用意できなければ怒って人を殺します。そこで今は一年中ホウレンソウを食べさせるのです。要求されればすぐ出せて、少しも困りません。しかしホウレンソウだと言えば、また怒ります。安物ですから。そこで皆はホウレンソウとは呼ばず、別の名前をつけて『紅嘴緑鸚哥(赤い嘴の緑のオウム)』と呼ぶのです。」
私の故郷では、一年中ホウレンソウがある。根は真っ赤で、ちょうどオウムの嘴のようだ。
このように、愚かな女の目から見ても言いようもないほど間抜けな皇帝は、もういらないように思えるだろう。しかしそうではない。彼女は必要だと考え、しかも思うがままに威を振るわせるべきだと思っていた。その用途は、自分より強い他者を鎮圧するために彼を頼りにすることらしく、だからこそ勝手に人を殺すのは備えるべき要件なのだ。しかしもし自分が遭遇し、仕えなければならないとなると、いささか危険を感じ、そこで仕方なく彼を馬鹿に仕立て上げ、年中辛抱強く「紅嘴緑鸚哥」ばかり食べさせるのだ。
実は、彼の名と地位を利用して「天子を挟んで諸侯に令す」る者たちと、私のあの老女中の考えも方法も同じで、一方では弱くあってほしく、一方では愚かであってほしいのだ。儒家が「聖君」に頼って道を行おうとするのもこれと同じ手口で、「頼り」にするから威厳と高い地位がほしく、操りやすいように正直で言うことをきいてほしいのだ。
皇帝が自らの無上の威権を自覚すると、これは厄介になる。「普天の下、王土にあらざるはなし」となれば、好き放題にやらかし、「我より之を得、我より之を失う、我また何ぞ恨まん」と言い出す。そこで聖人の徒も「紅嘴緑鸚哥」を食べさせるしかなくなる。これがいわゆる「天」である。天子の行いはすべて天意に則るべきで、好き勝手はならないとされるが、この「天意」なるものを知っているのは、よりによって儒者たちだけなのだ。
かくして決まった——皇帝たらんとすれば、彼らに教えを請わねばならない。
ところが分をわきまえぬ皇帝がまた好き放題をやらかす。「天」を説いても、「我が生まれは命、天にあるにあらずや!」と言い返す。天意を体するどころか逆天・背天・「射天」し、国家をめちゃくちゃにし、天に頼って食う聖賢君子たちを泣くにも笑うにも笑えなくさせる。
かくして彼らは著書立説するしかなく、皇帝を一通り罵倒し、百年後、つまり死後に大いに世に行われることを期して、これで大したものだと自負する。
しかしそれらの書物に記されているのは、せいぜい「愚民政策」と「愚君政策」がともに成功しなかったということだけだ。
二月十七日。
第11節
一
またもショーペンハウアー先生の言葉——「棘のない薔薇はない。——しかし薔薇のない棘はたくさんある。」題を少し変えて、いくらか見栄えがよくなった。「花のない薔薇」もまた見栄えを好む。
二
去年、どういうわけかこのショーペンハウエル先生が突然我が国の紳士たちの嗜好に合い、彼の『女性論』の一端を引っ張り出した。私もごちゃまぜにかなり何度も引用したが、残念ながらすべて棘ばかりで、薔薇を失い、まことに興趣を殺ぎ、紳士方には申し訳なかった。幼い頃に一つの芝居を観たことを覚えている。題名は忘れたが、ある家がまさに結婚式を挙げているところに、魂を引く無常鬼がやって来て、婚儀に交じり、一緒に拝堂し、一緒に部屋に入り、一緒に床に座る……まことに興趣を殺ぐ。私がまだそこまでではないことを願う。
三
「冷たい矢を放つ者」だと言う人がいる。「冷たい矢を放つ」ということの私の解釈は、彼ら一流とはかなり異なる。つまり、人が傷を受けたが、矢がどこから飛んできたか分からないということだ。いわゆる「流言」に近い。しかし私は、ここに明々白々と立っている。ただし私は、時に射っても的が誰かを明示しないことがある。それは初めから「衆と共にこれを棄てん」という気がなく、当の的だけが知ればよい、穴が開いたと知って面の皮を緊張させるのをやめれば、私の仕事は終わりだからだ。
四
蔡孑民先生が上海に着くやいなや、『晨報』は国聞社の電報を根拠に彼の談話を鄭重に掲載し、按語を加えて「長年の潜心研究と冷眼観察の結果と見るべきで、大いに国人に示し、かつ知識階級の注意するところとなるべきである」とした。あれは胡適之先生の談話で、国聞社の電信符号にいくらか間違いがあったのではないかと、私は大いに疑っている。
五
予言者、すなわち先覚は、往々にして故国に容れられず、同時代の人々の迫害を受ける。大人物もしばしばそうだ。人々の恭しい讃嘆を得るためには、死ぬか、沈黙するか、その場にいないことが必要だ。要するに、第一に実証が困難でなければならない。もし孔丘、釈迦、イエス・キリストがまだ生きていたら、あの信者たちは恐慌を来すに違いない。彼らの行状に対して、教主先生がどう嘆くか、まったく見当もつかない。だから、もし生きていれば、迫害するしかない。偉大な人物が化石となり、人々がこぞって偉人と称える時には、彼はすでに傀儡と化している。ある種の人々のいわゆる偉大と渺小は、自分に利用できる効果の大小を指して言うのだ。
六
フランスのロマン・ロラン先生は今年六十歳を迎えた。晨報社がこのために徴文し、徐志摩先生は紹介に加えて感慨を述べて言う——「……しかしもし誰かが時流の標語を、打倒帝国主義などを、あるいは分裂と猜疑の現象を、ロラン先生に報告してこれが新中国だと言ったなら、私にはもはや彼の感想を予測できない。」(『晨副』一二九九)ロラン先生は遠くに住んでいるから、すぐには実証できない。まさか「詩哲」の目から見ると、ロラン先生の意見は新中国が帝国主義を歓迎すべきだということなのか?「詩哲」はまた西湖に梅を見に行ってしまい、すぐには実証できない。孤山の古梅は花を咲かせただろうか。あそこでも中国人の「打倒帝国主義」に反対しているのだろうか?
七
志摩先生曰く——「私はめったに人を褒めない。しかし西瀅は法郎士の文章に学んだ点で言えば、もう天津の言葉で『根っこがある』と言って差し支えない。」さらに「西瀅のような人こそ、私に言わせれば『学者』の名に値する。」(『晨副』一四二三)西瀅教授曰く——「中国の新文学運動はまだ萌芽期だが、いくらか貢献のある人々、たとえば胡適之、徐志摩、郭沫若、郁達夫、丁西林、周氏兄弟などは皆かつて外国文学を研究した人だ。とりわけ志摩は思想面だけでなく体裁面でも、詩も散文も、すでに中国文学にかつてなかった風格を持っている。」(『現代』六三)書き写すのは面倒だが、中国の現今の「根っこのある」「学者」と「とりわけ」の思想家にして文人は、ついに互いに選出し終えた。
八
志摩先生曰く——「魯迅先生の作品は、大変失礼ながら、拝読したものはごく少なく、『吶喊』の中の二三の小説と、最近誰かが彼を中国のニーチェと崇めているので『熱風』の中の数ページだけ。普段のばらばらの文章は、たとえ読んでも読まなかったのと同じで、読み入ることができないか読み解けない。」(『晨副』一四三三)西瀅教授曰く——「魯迅先生は筆を執るやいなや人の罪状を構陥する。……しかし彼の文章は、読み終えてから然るべき場所に入れた——本音を言えば、そこから出てくるべきではなかった——手元にはない。」(同上)書き写すのは面倒だが、私はついに中国の現今の「根っこのある」「学者」と「とりわけ」の思想家にして文人の協力によって踏み倒された。
九
しかし私は「かつて外国文学を研究した」という栄えある名を謹んでお返しする。「周氏兄弟」の一人とは、きっとまた私のことだろう。私がいつ何かを研究したというのか。学生時代に外国の小説や文人の伝記を何冊か読んだだけで「外国文学を研究した」ことになるのか?かの教授は——失礼ながら一言「官話」を述べるが——以前、私が人々が彼らを「文士」と呼ぶのを笑って、「某報が毎日鼓吹」する私が「思想界の権威者」であるのを笑わないと言った。今は違う。笑うどころか、唾棄する。
十
実のところ、毀められれば報い、誉められれば黙するのは、人情の常だ。左頬に恋人の接吻を受けて声を上げなかったからといって、それを先例にして右頬を仇に噛まれても黙っていなければならないと誰が言えようか?今回、あの西瀅教授が褒め称えた脇役の栄名を辞退するのは、「本音を言えば」やむを得ないのだ。私の同郷には「刑名師爺」がいたではないか。彼らは皆知っている——ある種のものは、害する時の公正さを示すために、関係のないところで二三褒め、賞罰があるかのように見せて、他人から見ると公平無私に見えるように……。「待て!」また「人の罪状を構陥」しそうだ。ただこの一点だけで、もう「読んでも読まなかったのと同じ」か「読み終えてから然るべき場所に入れる」に十分だ。
二月二十七日。
第12節
一
英国のバーゲン貴族曰く——「中国の学生は英字新聞を読むことしか知らず、孔子の教えを忘れている。英国の大敵とは、帝国を力の限り呪い、他人の不幸を喜ぶこの種の学生である。……中国は過激派の最良の活動場である……。」(一九二五年六月三十日ロンドン・ロイター電。)南京通信に曰く——「キリスト教の城中の教会堂で金陵大学教授某神学博士が講演し、その中で孔子はイエスの信徒であると述べた。孔子は食事の時も睡眠の時も上帝に祈ったからだと。聴衆の中から……何を根拠にそう言うのかと質問した者があり、博士は言葉に詰まった。すると教徒数人が突然大門を閉じ、『質問した者はソ連のルーブルで買収された者だ』と声を上げた。警察を呼んで逮捕しようとした。……」(三月十一日『国民公報』。)ソ連の神通力はまことに広大で、叔梁紇まで買収してイエスより前に孔子を生ませたとは。ならば「孔子の教えを忘れた」者も「何を根拠に」と質問した者も、当然ルーブルの駆使を受けていることは疑いない。
二
西瀅教授曰く——「聞くところでは『聯合戦線』において、私に関する流言が特に多く、しかも私一人で毎月三千元を受け取れるそうだ。『流言』は口の上を流れるもので、紙の上にはあまり見えない。」(『現代』六十五。)この教授は去年は他人に関する流言だけを聞いていたが、それを自分で紙上に発表した。今年は自分に関する流言を聞いたそうで、これもまた紙上に発表した。「一人で毎月三千元を受け取れる」とは実に荒唐無稽で、自分に関する「流言」は信じるに足りないことが分かる。しかし私は、他人に関するものは逆に理に近いものが多いように思う。
三
聞くところでは「孤桐先生」が下野してから、あの『甲寅』がようやく少しずつ活気を帯びてきたそうだ。官職は就くべきでないことが分かる。しかし彼はまた臨時執政府秘書長になった。『甲寅』はまだ活気があるだろうか?もしまだあるなら、官職も就けるということに……。
四
もはや「花のない薔薇」を書いている時ではなくなった。棘ばかり書いているとはいえ、いくらかは平和な心も必要だ。今、聞くところでは北京城内ではすでに大殺戮が行われたという。私がこれらの退屈な文字を書いていた時、まさに多くの青年が弾丸を受け刃に倒れていた時だったのだ。ああ、人と人の魂は通じ合わないのだ。
五
中華民国十五年三月十八日、段祺瑞政府は衛兵をして歩銃と大刀を用い、国務院門前で徒手請願の、外交援助を意図する青年男女を包囲虐殺し、数百人に及んだ。さらに命令を下し、彼らを誣いて「暴徒」と称した!かくも残虐陰険な行為は、禽獣の間にすら見られず、人類の間にもきわめて稀で、ロシア皇帝ニコライ二世がコサック兵に民衆を撃殺させた事件にわずかに似ているだけだ。
六
中国はただ虎狼の侵食に任せるばかりで、誰も構わない。構うのは数人の若い学生だけで、彼らは本来安心して勉強すべきなのに、時局が動揺して安心できないのだ。もし当局者にいささかでも良心があれば、いかに自ら省み、一片の天良を奮い起こすべきか?しかるに彼らを虐殺したのだ!
七
もしこのような青年を殺しさえすれば済むと思うなら、屠殺者もまた決して勝利者ではないことを知るべきだ。中国は愛国者の滅亡とともに滅亡する。屠殺者は金を蓄えているゆえに比較的長く子孫を養えるだろうが、必至の結果はきっと来る。「子孫繩繩」とて何の喜びがあろう?滅亡は遅れるだろうが、彼らは最も住みにくい不毛の地に住み、最も深い坑道で坑夫をし、最も卑しい生業を営まねばならない……。
八
もし中国がまだ滅亡に至らないなら、過去の史実が教えてくれるように、将来の事は屠殺者の予想を大きく超えるものとなるだろう——これは一つの事件の終わりではない、一つの事件の始まりだ。墨で書いた嘘は、血で書いた事実を決して覆い隠せない。血の借りは同じものでしか返せない。滞納が長びくほど、より大きな利子を払わねばならない!
九
以上はすべて空言だ。筆で書いたものに何の関わりがあるか?実弾が撃ち出したのは青年の血だ。血は墨で書いた虚言に覆われず、墨で書いた挽歌に酔わず、威力にも圧し潰されない。なぜならそれはもう騙されず、打ち殺されないからだ。
三月十八日、民国以来最も暗黒の一日に記す。
第13節
一般の人々、とりわけ長く異民族とその奴僕鷹犬に蹂躙されてきた中国人から見れば、殺す者は常に勝利者であり、殺される者は常に劣敗者だ。そして眼前の事実もまさにそうなのだ。
三月十八日に段政府が徒手請願の市民と学生を惨殺した事件は、本来言語道断で、ただ我々の住むところが人間界ではないと感じさせるばかりだ。しかし北京のいわゆる言論界にはまだ評論があった。もっとも紙筆喉舌では、府前に注がれた青年の熱血を体内に逆流させ蘇生させることはできず、空しい叫びにすぎず、殺された事実とともに次第に冷えていく。
だが各種の評論の中で、刀槍よりも驚心動魄なものがあると私は感じた。それは数人の論客が、学生たちは自ら死地に赴いて死を送るべきではなかったとしたことだ。もし徒手の請願が死を送ることであり、自国の政府の門前が死地であるなら、中国人はまさに死んで葬る場所もないことになる。心から甘んじて奴隷となり「歯なくして怨言なし」というのでない限り。ただ私は中国の大多数の人の意見が果たしてどうなのか知らない。もし同様であれば、執政府前どころか、全中国、どこであろうと死地でないところはなくなる。
人々の苦痛は通じ合いにくい。通じ合いにくいがゆえに、殺す者は殺すことを唯一の要道とし、快楽とさえする。しかしまた通じ合いにくいがゆえに、殺す者が示す「死の恐怖」は後世を戒めることができず、人民を永遠に牛馬に変えることもできない。歴史に記された改革の事跡は、常に先に倒れた者に後に続く者がある。大部分は当然公義によるものだが、人々がまだ「死の恐怖」を経験していないがゆえに「死の恐怖」に懾されにくいということも、一つの大きな原因だと私は思う。
しかし私は切に願う——「請願」は、これを以て終わりにしてほしい。もしこれほどの血を以て、このような覚悟と決意を得ることができ、しかも永遠に記念するならば、さほど大きな損失とは言えまい。
世界の進歩は、もちろんおおむね流血から得られる。しかしこれは血の量とは関係がない。世の中には流血が多くとも民族がかえって滅亡に向かう先例もあるからだ。今回のように、これほどの生命の損失をもって「自ら死地に赴いた」という批判しか得られないとすれば、それだけで一部の人心の機微を我々に示している。中国における死地がいかに広大であるかを。
今ちょうどロマン・ロランの『愛と死の戯れ』が手元にある。その中でこう言っている——カルは人類の進歩のためにいくらかの汚点があってもよく、万やむを得なければ少しの罪悪があってもよいと主張した。しかし彼らはクールバジーを殺すことを望まなかった。共和国はその屍を腕に抱くことを好まないからだ。あまりに重すぎるから。
屍の重さを感じ、抱くことを望まない民族では、先烈の「死」は後人の「生」の唯一の霊薬である。しかしもはや重さを感じない民族では、それはただ一緒に沈没させる重荷にすぎない。
中国の改革を志す青年は、屍の重さを知っている。だから常に「請願」する。しかし屍の重さを感じない人々が別にいることを知らず、しかも「屍の重さを知る」心ごと殺してしまうのだ。
死地はまさに眼前にある。中国のために、覚醒した青年はもはや軽々しく死を選ぶべきではなかろう。
三月二十五日。
第14節
三月十八日の惨殺事件は、事後に見れば、明らかに政府が仕掛けた罠であり、純潔な青年たちが不幸にも陥り、死傷者は三百余人に及んだ。この罠が仕掛けられた鍵は、すべて「流言」が功を奏したことにある。
これは中国の古い慣例だ。読書人の心にはおおむね殺意が潜んでおり、異論者に対しては常に死に至る道筋を用意する。私の目にしたところでは、およそ陰謀家が他派を攻撃するのに、光緒年間には「康党」、宣統年間には「革党」、民国二年以降は「乱党」を用い、今は当然「共産党」を用いるのだ。
実は、去年「正人君子」たちが他人を「学棍」「学匪」と呼んだ時から殺意は潜んでいた。「棍」「匪」の字の中に死に至る道筋が潜んでいるからだ。これはあるいは「刀筆吏」式の深文周納かもしれないが。
去年は「学風粛正」のために学風がいかに不良か、学匪がいかに憎むべきかという流言を大いに流布し、見事に効を奏した。今年は「学風粛正」のために共産党がいかに活動し、いかに憎むべきかという流言を大いに流布し、また見事に効を奏した。かくして請願者を共産党と断じ、三百余人が死傷した。もし一人でもいわゆる共産党の首領が死んでいれば、この請願が「暴動」であった証拠となるのだ。
残念ながら一人もいなかった。これなら共産党ではなかろう。しかし聞くところによればやはり共産党だが、全員逃げたのだそうで、だからなおさら憎むべきだと。そしてこの請願もまた暴動であり、証拠には一本の木の棒と二挺の拳銃と三瓶の石油がある。これらが群衆の持ち物かどうかはさておき、たとえ本当にそうだとして、三百余人の死傷者が携えた武器がたったこれだけとは——何とも哀れな暴動ではないか!
しかし翌日、徐謙、李大釗、李煜瀛、易培基、顧兆熊の通緝令が発表された。彼らが「群衆を嘯聚した」ために——去年、女子師範大学の学生が「男子学生を嘯聚した」のと同様に——一本の木の棒と二挺の拳銃と三瓶の石油を携えた群衆を「嘯聚」したのだ。この程度の群衆で政府を転覆しようとすれば、当然三百余人の死傷者が出る。そして徐謙らが人命をこれほど児戯に等しく扱ったからには、当然殺人の罪を負うべきだ。まして自分は場に行かず、あるいは全員逃亡したのだから。
以上は政治上の事で、私は実はよく分からない。しかし別の面から見れば、いわゆる「厳拿」とは追い払うことであり、いわゆる暴徒を「厳拿」とは、北京中法大学校長兼清室善後委員会委員長(李)、中露大学校長(徐)、北京大学教授(李大釗)、北京大学教務長(顧)、女子師範大学校長(易)を追い払うことにすぎない。その中の三人はまた露款委員会委員でもあり、合わせて九つの「麗しき要職」が空くのだ。
同日にまた一つの噂が起こった——さらに五十余人を通緝するという。しかしその姓名の一部が『京報』に掲載されたのは今日になってからだ。この種の計画は、現在の段祺瑞政府の秘書長章士釗の輩の頭の中には確かにあり得る。国事犯が五十余人とは中華民国の一つの壮観だ。しかもおそらく教員が多いだろう。もし一斉に五十余の「麗しき要職」を放棄して北京を逃れ、別の場所で一つの学校を開けば、中華民国の一つの趣事となるだろう。
その学校の名称は「嘯聚」学校と呼ぶべきだろう。
三月二十六日。
第15節
一
中華民国十五年三月二十五日、すなわち国立北京女子師範大学が十八日に段祺瑞執政府前で遇害した劉和珍・楊徳群両君の追悼会を開いた日、私は一人で講堂の外を徘徊していた。程君に出会い、彼女が来て私に尋ねた。「先生は劉和珍のために何かお書きになりましたか?」「いいえ」と私は言った。すると彼女は私に正告した。「先生、やはり何か書いてください。劉和珍は生前、先生の文章をとても好んで読んでいました。」
これは私の知るところだ。およそ私の編集した刊行物は、おそらくしばしば有始無終であるせいか、売行きはいつもはなはだ寂しかった。しかしこのような生活困難の中にあって、毅然として『莽原』の年間予約をしたのが彼女だった。私もとうに何か書く必要を感じていた。これは死者には何の関わりもないが、生きている者にとっては、おおむねこうするしかないのだ。もし私が「在天の霊」なるものを信じることができるならば、もっと大きな慰めを得られようが——しかし、今は、ただこうするしかないのだ。
だが私には実に言葉がない。ただ住んでいるところが人間界ではないと感じるだけだ。四十余人の青年の血が私の周囲に溢れ、呼吸も視聴もままならない。どこに言葉があろうか。長歌は哭に当たる——それは痛みが定まった後でなければならない。そしてその後の数人のいわゆる学者文人の陰険な論調は、なおさら悲哀を感じさせた。私はすでに憤怒を超えた。私はこの非人間界の濃黒の悲涼を深く味わおう。私の最大の哀痛を非人間界に示し、彼らに私の苦痛を喜ばせ、これを後に死す者の菲薄な祭品として、逝きし者の霊前に捧げる。
二
真の猛者は、敢えて惨憺たる人生に正面し、敢えて淋漓たる鮮血を正視する。これはいかなる哀痛者にして幸福者であろうか。しかるに造化はまた常に庸人のために計らい、時の流れをもって旧跡を洗い、ただ淡い血の色と微かな悲哀を残すのみ。この淡い血の色と微かな悲哀の中で、また人々に暫し偸生させ、この似人非人の世界を維持する。この世界にいつ終わりが来るのか、私には分からない!
我々はまだこのような世の中に生きている。私もとうに何か書く必要を感じていた。三月十八日からすでに二週間、忘却の救い主がまもなく降臨するだろう。今こそ何か書く必要がある。
三
四十余人の被害青年の中で、劉和珍君は私の学生だった。学生という——私は以前からそう思い、そう言ってきたが、今はいささか躊躇を覚える。彼女に対して私は悲哀と尊敬を捧げるべきだ。彼女は「苟も今日まで生きながらえた私」の学生ではなく、中国のために死んだ中国の青年だ。
彼女の名を初めて目にしたのは、去年の夏の初め、楊蔭楡女史が女子師範大学校長として学生自治会の役員六名を除名した時だった。その一人が彼女だったが、面識はなかった。後になって、ある人が一人の学生を指して「これが劉和珍です」と教えてくれた。その時初めて名前と実体を結びつけることができたが、心中ひそかに驚いた。私はふだん、権勢に屈せず校長に反抗する学生は、いくらか桀驁鋒利であろうと思っていたが、彼女はいつも微笑んで態度がとても穏やかだった。宗帽衚衕に落ち着き、部屋を借りて授業を行うようになってから、彼女は私の講義を聴きに来るようになり、会う回数も増えたが、やはり始終微笑んで態度がとても穏やかだった。学校が旧観に復し、以前の教職員が相次いで退く準備を始めた時、私は初めて彼女が母校の前途を慮り、黯然として涙を流すのを見た。その後は会うことがなくなったようだ。つまり、私の記憶では、あの時が永遠の別れだったのだ。
四
私が十八日の朝、午前中に群衆が執政府に請願するということを知ったのは、その朝になってからだった。午後には凶報が届き、衛隊がなんと発砲し、死傷者が数百人に及び、劉和珍君もその中にいるという。しかし私はこの噂をかなり疑った。私はいつも最悪の悪意をもって中国人を推測してきたが、それでもこれほど下劣凶残とは思いもせず、信じもしなかった。まして始終微笑んでいた温和な劉和珍君が、わけもなく府門前で血を流すなど、あり得ようか?
しかるに即日、事実であることが証明された。証拠は彼女自身の遺骸だった。もう一体は楊徳群君のものだった。しかもこれはただの殺害ではなく、虐殺であることが証明された。遺体には棍棒の傷痕があったからだ。
しかし段政府は令を出して、彼女たちを「暴徒」と言った! そしてすぐに流言が続き、彼女たちは人に利用されたのだと。
惨状は、もはや目を向けることもできない。流言は、なおさら耳を傾けることもできない。私にまだ何の言葉があろうか。衰亡する民族がなぜ声もなく沈黙するのか、その訳が分かった。沈黙よ、沈黙よ! 沈黙の中で爆発するのでなければ、沈黙の中で滅亡するのだ。
五
しかし、私にはまだ言いたいことがある。
私は親しく見てはいない。聞くところでは、彼女——劉和珍君は——その時、欣然として赴いたのだという。もちろん、請願にすぎない。いささかでも人心ある者なら、誰がこのような罠を予想しよう。しかし執政府前で被弾した。背部から入り、心肺を斜めに貫く致命傷だったが、すぐには死ななかった。同行の張静淑君が彼女を起こそうとして四発被弾し、その一つは拳銃で、即座に倒れた。同行の楊徳群君もまた起こそうとして撃たれ、弾は左肩から入り胸を貫いて右に出て、これも即座に倒れた。しかし彼女はまだ起き上がることができた。一人の兵が頭部と胸部を棍棒で猛打し、かくして死んだ。
始終微笑んでいた温和な劉和珍君は確かに死んだ。これは真実で、自身の遺骸がその証だ。沈勇にして友愛に満ちた楊徳群君もまた死んだ。自身の遺骸がその証だ。ただ同じく沈勇にして友愛に満ちた張静淑君はまだ病院で呻いている。三人の女性が従容として、文明人の発明した銃弾の集中射撃の中に身を転じた時——これはいかなる驚心動魄の偉大さであろうか! 中国軍人の婦嬰虐殺の偉績も、八国連合軍の学生懲罰の武功も、不幸にしてこれらの数条の血痕にすべて抹殺された。
しかし中外の殺人者はなおも昂然と顔を上げ、めいめいの顔に血の汚れがあることを知らない……。
六
時は永遠に流れ、街は依然として太平で、限りある数人の命は中国では物の数ではない。せいぜい、悪意のない閑人の食後の話題か、悪意ある閑人の「流言」の種を提供するにすぎない。それ以上の深い意味は、私にはまことに寥々と感じられる。これはまさに徒手の請願にすぎないのだから。人類の血戦前進の歴史は、ちょうど石炭の生成のようで、当時は大量の木材を用い、結果はわずか一塊にすぎない。しかし請願はその中にはなく、まして徒手のものなど。
しかし血の跡ができた以上、当然拡がらずにはいられない。少なくとも親族、師友、愛する人の心を浸し、たとえ時が流れて緋色に薄れても、微かな悲哀の中に永遠に微笑の温和な面影を留めるだろう。陶潜は言った——「親戚は或いは余悲あるも、他人はまた已に歌う。死して何の道くところぞ、体を山阿に託す」と。もしそうなれるなら、これで十分だ。
七
私はすでに言った——私はいつも最悪の悪意をもって中国人を推測してきたと。しかし今回はいくつか予想外のことがあった。一つは当局者がこれほど凶残であったこと、一つは流言家がこれほど下劣であったこと、一つは中国の女性が難に臨んでこれほど従容としていたことだ。
私が中国の女性の事に当たる姿を目にしたのは去年からで、少数ではあったが、その幹練堅決、百折不撓の気概にはしばしば感嘆した。この度の弾雨の中で互いに救助し、身を殞ぼすことを辞さなかった事実は、中国の女性の勇毅が、陰謀秘計によって数千年抑圧されながらもついに消滅しなかったことの明証だ。今回の死傷者が将来に対して持つ意義を求めるなら、意義はまさにここにある。
苟も生きる者は淡い血の色の中に、おぼろに微かな希望を見るだろう。真の猛者は、なおいっそう奮然として前進するだろう。
ああ、私は言葉を失う。ただこれをもって劉和珍君を記念する!
第16節
一
請願については、私はかねてから賛成しなかった。しかし三月十八日のような惨殺を恐れたからではない。あのような惨殺は、私にはまったく夢想もできなかった。私はいつも「刀筆吏」の心をもって我々中国人を窺い知ろうとしてきたが。彼らが麻痺して良心がなく、語るに足りないことは知っていた。まして請願、まして徒手の請願。しかしこれほどの陰毒と凶残は予想できなかった。予測できたのはおそらく段祺瑞、賈徳耀、章士釗とその同類だけだろう。四十七人の男女青年の命は、完全に騙し取られたものであり、端的に誘殺だ。
ある種のもの——何と呼べばよいか、私には思いつかない——が言う:群衆の指導者は道義上の責任を負うべきだと。これらのものはまるで、徒手の群衆に対して発砲するのは当然であり、執政府前はもとより「死地」であり、死者は自ら罠に飛び込んだかのようだ。
群衆の指導者は段祺瑞らと心心相印でもなく、互いに通じ合ってもいないのに、どうしてこの陰険な辣手を予測できようか。このような辣手は、いささかでも人間味のある者には万に一つも想像できないものだ。
私が思うに、群衆の指導者の過ちを鍛えるとすれば、二点しかない。一つは請願をまだ有効と考えたこと。二つは相手を良く見すぎたことだ。
二
しかし以上もやはり事後の言だ。この事実が起こる前には、おそらく誰もこのような惨劇が演じられるとは予想しなかったろう。せいぜい例の通りの徒労に終わるくらいのことだ。学問のある聡明な人だけが、およそ請願は死を送ることだと先に知り得る。
陳源教授の『閒話』に言う——「我々が女志士たちに、今後群衆運動への参加を控えるよう勧告すれば、彼女たちはきっと我々が軽視していると言うだろうから、我々も口を挟む気にはなれない。しかし未成年の男女の児童については、今後いかなる運動にも参加しないよう望まずにはいられない。」(『現代評論』六十八)なぜか?各種運動に参加すれば、今回のように「銃林弾雨の険を冒し、踏みつけられて死傷する苦しみを受ける」からだ。
今回、四十七の命を代償にして、一つの見識だけを購った——自国の執政府前は「銃林弾雨」の場所であり、死にに行くなら成年になって自発的にのみそうすべきだということを。
私は思うに、「女志士」や「未成年の男女の児童」が学校の運動会に参加するのは、おそらくそれほど大きな危険はないだろう。「銃林弾雨」の中の請願に至っては、成年の男の志士たちでさえ、しっかり心に刻んで今後やめるべきだ!
今の有様を見よ。ただ幾篇かの詩文が増え、いくらかの話の種が増えただけだ。数人の名士と何やらの当局者が葬地について折衝し、大請願は小請願に改まった。埋葬はもちろん最も穏当な幕引きだ。しかし奇妙なことに、まるでこの四十七人の死者が老後の墓地がないことを恐れ、わざわざ官有地を一片得るために来たかのようだ。万生園はあんなに近いのに、四烈士の墳前にはまだ三つの墓碑に一字も刻まれていない。まして遥かなる円明園をや。
死者がもし生者の心の中に葬られなければ、それこそ本当に死んでしまうのだ。
三
改革には当然しばしば流血が伴う。しかし流血がすなわち改革とは限らない。血の使い方は金銭と同じで、倹約は確かにいけないが、浪費もまた大いに損だ。
私はこの度の犠牲者に対して、非常な哀しみを覚える。
このような請願は、これを以て終わりにしてくれるとよい。
請願はどの国にもある常事で、死ぬほどのことではない。しかし中国は例外だと我々はすでに知った——「銃林弾雨」を除去できない限り。正規の戦法もまた、相手が英雄であって初めて通用する。漢末はまだ人心が古かった時代だろうが、失礼ながら小説の故事を引く——許褚が裸で陣に上がると、かなりの数の矢を受けた。金聖嘆は笑って言った——「誰が裸になれと言った?」今日のように多くの火器が発明された時代には、交戦はすべて塹壕戦を用いる。これは生命を惜しむのではなく、生命を空しく捨てないということだ。戦士の命は貴重だから。戦士が少ない場所では、その命はなおさら貴重だ。貴重とは「家に珍蔵する」のではなく、小さな元手で極大の利息を得ること、少なくとも売買が釣り合うことだ。血の洪流で一人の敵を溺れさせ、同胞の屍で一つの欠陥を埋めるとは、もはや陳腐な話だ。最新の戦術の眼から見れば、これはいかに大きな損失か。
今回の死者が後世に遺した功徳は、多くの人の人相を剥ぎ取り、予想外の陰毒の心を露わにし、継続して戦う者に別の方法の戦いを教えたことだ。
四月二日。
第17節
京津間の数多くの大小の戦争で、何人戦死したか知れない。「討赤」のためだ。執政府前で二列の銃声を放ち、請願者四十七人を射殺し百余人を負傷させ、「暴徒を率いた」徐謙ら五人を通緝した。「討赤」のためだ。奉天の飛行機が三度北京の上空に臨み、爆弾を投下して二人の婦人を殺し、一匹の小さな黄色い犬を傷つけた。「討赤」のためだ。
京津間で戦死した兵士と、北京で爆死した二人の婦人と、爆傷した一匹の小さな黄色い犬が、すなわち「赤」であるかどうかは、まだ「明令」がなく、下民には知り得ない。府前で銃殺された四十七人については、第一の「明令」ですでに「誤傷」があったと言い、京師地方検察庁の公文にも「今般の集会請願の趣旨はなお正当であり、不正の行為もなかった」と言い、国務院会議ではまた「優遇して恤を擬する」ことになった。ならば徐謙らが率いた「暴徒」はどこへ行ったのか?彼らには皆お札があって銃砲を避けられるのか?
要するに——「討」は「討」じたが、「赤」はどこにある?
「赤」がどこにあるかは、しばらく措く。帰するところ、「烈士」は葬られ、徐謙らは逃亡し、二つの露款委員会の委員に欠員が出た。六日の『京報』に曰く——もう一つニュースがあった。題は「五私大も露款委員会に注目」と。
四十七人の死は「中国教育界」にとって功績浅からず。「優遇して恤を擬する」、誰がこれを不当と言おうか!?
今後はもはや「中国教育界」において、異論者を「ルーブル党」と称することはなくなるであろうか?
四月六日。
第18節
一
天津に滞積した紙が北京に運べず、書籍の印刷も戦争の影響をかなり受けている。私の旧雑感の集成『華蓋集』は付印して二ヶ月になるが、組版校正はまだ半分にも満たない。
惜しくも先に予告を掲載したため、陳源教授の「反広告」を引き出してしまった——「私は魯迅先生の人格を尊敬しないからといって彼の小説を良いと言わないわけにはいかないし、彼の小説を賞賛するからといってその他の文章まで褒めるわけにもいかない。彼の雑感は、『熱風』の中の二三篇を除いて、実に一読の価値もないと思う。」(『現代評論』七十一、『閒話』。)
何と公平なことか!私もまた「今は昔に如かず」となったのだ。『華蓋集』の売行きは『熱風』に比べてかなり悲観的になるだろう。しかも、私が小説を書くのは「人格」と無関係だったとは。「非人格」的な文章が教授を「賞賛」させるとは、中国はますます奇怪を呈するようだ。ならば「実に一読の価値もない」雑感もまだ存在し続けるだろう。
二
かの有名な小説『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテス先生は、貧しかったのは確かだが、乞食のようだったというのは中国の学者間に特に流行する流言にすぎない。彼が書いたのは、ドン・キホーテが遊侠小説を読み耽って気が狂い、自ら侠客となって不平を討つ話だ。彼の親族が書物のせいだと知り、隣の理髪師を呼んで検査させた。理髪師は良書を選んで残し、残りはすべて焼いた。それらの「良書」の作者たちは、当時この小説の書目を見て、顔を赤くして苦笑せずにはいられなかっただろう。
中国はますます奇怪を呈するようだが、しかし、ああ!我々は「苦笑」すら得られない。
三
外省から速達で、私の安否を尋ねてきた人がいる。北京の事情に疎く、流言に騙されたのだ。
北京の流言報は、袁世凱の帝制、張勲の復辟、章士釗の「学風粛正」以来、一脈相承、歴来こうなのだ。今もまた然り。
第一歩——某方面が某校を閉鎖し、某某を逮捕するそうだ。これは某校某人に見せて脅すためのもの。第二歩——某校はすでに空虚、某人はすでに逃走したそうだ。これは某方面に見せて煽動するためのもの。さらに一歩——某方面はすでに甲校を捜索し、次は乙校を捜索するそうだ。これは乙校を脅し、某方面を煽動するためのもの。
「平生やましいことをしなければ、夜中に戸を叩かれても驚かない。」乙校は自ら心にやましくなければ、なぜ脅されるのか?しかし、まあ落ち着くがよい。もう一歩ある——乙校は昨夜徹宵、赤化書籍を完全に焼却したそうだ。
かくして甲校は訂正し、捜索はなかったと言い、乙校も訂正し、そのような書籍はないと言う。
四
かくして衛道的な新聞記者も、円満な大学校長も六国飯店に逃げ込み、公理を説く大新聞も看板を外し、学校の門番も『現代評論』を売らなくなる——まさに「火は崑崗を焚き、玉石ともに焼く」の有様だ。
実際にはそこまでにはなるまい、と私は思う。ただし、謡言なるものは、確かに造謡者の心中に望む事実なのであり、これを通じて一部の人々の思想と行動を見ることができる。
五
中華民国九年七月、直皖戦争が始まり、八月、皖軍は潰滅し、徐樹錚ら九人が日本公使館に逃げ込んだ。この時さらにちょっとした余興があった。一部の正人君子——今の正人君子ではなく——が直派の武人に遊説し、改革論者を殺戮するよう請うたのだ。結局は結果なく、この事もとうに人々の記憶から消えた。しかしあの年の八月の『北京日報』を繙けば、大きな広告が見つかる。大英雄が勝利の後は邪説を一掃し異端を誅戮すべしといった古色蒼然たる名言が並んでいる。
あの広告には署名があり、ここで名を挙げる必要もない。しかし、今のように暗中にのみ潜む流言家に比べれば、「今は昔に如かず」の感を禁じ得ない。
私が思うに、百年前は今より良く、千年前は百年前より良く、万年前は千年前より良く……特に中国においてはおそらく確かだろう。
六
新聞の片隅で、青年たちへの諄々たる訓戒をよく見かける。字紙を敬い惜しめだの、国学に留意せよだの、イプセンはこう、ロマン・ロランはああだの。時代も文字も変わったが、その含意は私にはとても聞き覚えがある。ちょうど幼い頃に聞いた長老の訓戒と同じだ。
これはまるで「今は昔に如かず」の反証のようだ。しかし世事には例外がある。前節で述べたことに対して、これもまた一つの例外としておこう。
五月六日。
第19節
——しかしやはり花はない
『語絲』が形式を中本に改めるので、私も古い題名はやめて、型破りに奮起し、「新しい薔薇」を書こうと思った。——今度こそ花が咲くのか?——ブンブン、——おそらく咲くまい。
私はとうに少し分かっていた。私はおおむね自分を中心にしている。語る道理は「私の思う」道理であり、記す情景は私の見た情景だ。聞くところでは一月前に杏の花と碧桃が咲いたそうだ。私は見なかった。見なかったから、杏の花も碧桃もあったとは思わない。——しかしそれらは存在する。——学者たちは恐らくそう言うだろう。——結構!なら、放っておけばよい。——これが私が学者たちに謹んで答える言葉だ。
「公理」を語るある者たちは、私の雑感に一読の価値もないと言う。それは当然だ。実のところ、彼が私の雑感を読みに来た時点で、すでに自ら魂を失っている——もし魂があればの話だが。私の言葉がもし「公理」を語る者たちの口に合えば、私も「公理維持会」の会員になっていたではないか?公理は一つしかない。しかし聞くところでは、とうに彼らに取られてしまったそうで、だから私にはもう何もない。
今回「北京城内の外国旗」は、おそらく特に多かったのだろう。学者が憤慨するほどに——「……東交民巷の境界線の外では、中国人も外国人も、外国の国旗を挿して生命財産の護符とすることはできない。」これは確かだ。「生命財産の護符」は、我々には「法律」がある。もし安心できなければ、もっと安全な旗を使えばよい——紅卍字旗だ。中外の間に位置し、「恥知らず」と恥を知るの外に超然とし——確かに良い旗だ!
清末以来、「国事を論ずるなかれ」の張り紙が酒楼飯館に貼られ、今なお辮子とともに廃されていない。だからある時には、筆を持つ者を困らせる。しかしこの時には一つの面白いものが見られる。それは——他人が文字で災いを被ることを望む者の書いた文字だ。
聡明な人々の言葉遣いもますます聡明になった。三月十八日に被害した学生は同情に値すると言うが、それは彼女が本来行きたくなかったのに教職員に唆されたからだと。「直接または間接にソ連の金を使う者たち」は情状酌量の余地があると言うが、それは「本人は飢えても構わないが、妻子は食べないわけにいかない!」からだと。甲を押しのけて乙を陥れ、情を許して罪を実証する。とりわけ彼らの行動と主張が一文の値打ちもないとされてしまう。
しかし趙子昂の描く馬は、鏡に映った自分自身の姿だったそうだ。「妻子は食べないわけにいかない」から、当然「産児制限問題」が生じる。しかし先頃サンガー夫人が来華した時には、「ある志士たち」が大いに不満を鳴らし、中国人を滅種させようとしていると言った。独身主義は現今なお多くの反対を受け、産児制限も行き通らない。赤貧の紳士のためには、目下最良の方法は、金持ちの女を妻にすることだと私は思う。いっそこの秘訣を残らず伝授しよう——口では必ず「愛のため」と言わねばならない。
「ソ連の金」十万元が、教育部と教育界の紛争を引き起こしたのは、皆がいくらか欲しいからだ。これもやはり「妻子」のせいだろう。しかしこのルーブルとあのルーブルは違う。これは返還された庚子賠償金であり、義和団が「清を扶け洋を滅ぼす」と唱え、各国連合軍が入京した余沢なのだ。二十六年後に我々が「間接的に」義和団の金を使って「妻子」に飯を食わせているとは。もし大師兄に霊があれば、さぞや呆然として失うところがあるだろう。
なお、各国が中国での「文化事業」に使っているのも、この同じ金なのだ……。
五月二十三日。
第20節
去年『熱風』を編纂した時にはまだ紳士たちのいわゆる「温厚の心」があり、数篇をかなり削った。しかし一篇だけは収めるつもりだったが、原稿を紛失したため欠かざるを得なかった。今になって見つかった。『熱風』再版の際にこの篇を加え、広告を出して、私の文字を信奉する読者にもう一冊買わせれば、利益がないでもない。しかし、やめよう、実にあまり面白くない。もう一度掲載して、将来雑感第三集に収め、補遺とすることにしよう。
これは章士釗先生に関するものだ——「二つの桃が三人の読書人を殺した」。章行厳先生が上海で彼のいわゆる「新文化」を批評し、「二桃三士を殺す」がいかに良いか、「二つの桃が三人の読書人を殺した」がいかに悪いかを述べ、新文化の「亦た以て已む可からずや」と結んだ。「二桃三士を殺す」は僻典ではなく、旧文化の書物によく見える。しかし「誰か能くこの謀を為す?相国斉の晏子」なのだから、『晏子春秋』を見てみよう。
[『晏子春秋』巻二の故事が引用される。公孫接・田開疆・古冶子の三勇士が景公に仕え、晏子が二つの桃を贈って功績を競わせた結果、三人とも恥じて自殺する。]
書き写しは甚だ面倒だ。要するに、後にかの二士は古冶子に功が及ばぬことを恥じて自殺し、古冶子も独り生きることを望まず自殺した。かくして「二桃三士を殺す」となった。
この三士に旧文化の素養があったかどうかは知らないが、書物に「勇力を以て聞こゆ」とある以上、「読書人」とは言えない。もし『梁父吟』に「二桃三勇士を殺す」とあればもっと明瞭だが、五言詩では字を増やせないから「二桃三士を殺す」としたまでだ。そのせいで章行厳先生を「二つの桃が三人の読書人を殺した」と誤解させてしまった。
旧文化はまことに難解で、古典はまことに覚えにくく、あの二つの古い桃もいたずらが過ぎる。当時三人の読書人を死なせただけでなく、今なお一人の読書人に恥をかかせている。「亦た以て已む可からずや」!
去年「毎下愈況」問題のために、自称公平な青年たちからずいぶん説教を受けた。彼の「簽事」を罷免したからあんなに嘲弄するのだと。ここに特に声明しておく——これは一九二三年九月の作で、『晨報副刊』に掲載したものだ。当時の『晨報副刊』の編集者はまだタゴールを陪った「詩哲」ではなく、他人を追い詰め自らを絞め殺す使命も負っておらず、時には私のような俗人の文章も載せた。そして当時、私とこの後に「孤桐先生」と称される人物との間には「睚眦の怨」もなかった。
その「動機」はおそらく、白話の普及を少し手伝おうというだけのものだった。このような「禍は口より出づ」の秋、自分の弁護も周到にしておこう。
あるいは曰く、今回補遺として出すのは「水に落ちた犬を打つ」嫌いがあり「動機が不純」だと。しかし私はそうは思わない。私の見るところ、彼は実は水に落ちてなどいない。租界に「安住」しているだけだ。北京では相変わらず彼が養った者どもが牙を剥き爪を振るい、彼と結託した新聞社が是非を顛倒させ、彼が育てた女子校が風波を起こしている——依然として彼の世界なのだ。
「桃」の上でちょっと打っただけで、どうして「水に落ちた犬を打つ」のと同日の論にし得ようか!
しかし不思議なことに、この「孤桐先生」は『甲寅』で弁解し始め、これは小事にすぎないと言った。確かにその通り、小事にすぎない。一つ間違えたところで何ほどのことがあろう?晏子を知らず、斉国を知らなくとも、中国に損はない。農民に『梁父吟』が分かる者がいようか。しかし農業でも救国はできる。ただ私は、白話を攻撃する壮挙もまた大いにやめてよいと思う。白話を文言に代えるのは、たとえ多少不都合があっても、所詮は小事にすぎない。
私は「孤桐先生」の門下に潜り込んだことはなく、机いっぱいの何やらドイツ語の書物を見る栄誉に浴していないが、たまたま彼の発表した「文言」を見れば、彼が法律の頼りにならぬこと、道徳習慣が不変でないこと、文字言語に変遷があることを、実はよく弁えていると分かる。弁えていてそのまま言えば改革者となり、弁えていて言わず、逆に利用して人を欺く者が「孤桐先生」及びその「類」となるのだ。文言を守るのも、内実はこれに過ぎない。
もし私の検証が正しければ、「孤桐先生」もまた『閒話』のいわゆる「ある志士たち」の通弊に染まり、「妻子」に累されたのだろう。今後は別のドイツ語の本を何冊か買って、「産児制限」を研究すべきだ。
五月二十四日。
第21節
二三年前のこと、偶然、光緒五年(1879年)刊の『申報館書目続集』で『何典』の題要を見つけた。こう書いてある——「『何典』十回。この書は通りすがりの人が編定し、纏夾二先生が評し、太平客人が序を作る。書中に引用する人物に、活鬼、窮鬼、活死人、臭花娘、畔房小姐と称する者あり。これを読んだだけで噴飯に堪える。まして記すところを読めば、三家村の俗語ならぬものなし。無中生有、忙裡偸閑。その言は鬼話であり、その人は鬼名であり、その事は鬼心を開き、鬼顔を装い、鬼火を釣り、鬼戯を演じ、鬼棚を立てることである。語に曰く『何の典に出づるか』と。今より以後、俗語を以て文と為す者あらば、曰く『何典に出づ』と。」
なかなか別致ではないかと疑い、注意して求めたが見つからない。常維鈞は古書店の人々に顔が広いので探索を頼んだが、やはり見つからない。今年、半農が厂甸の廟市で思いがけず入手し、校点して付印するという。聞いて大いに喜んだ。その後、半農が校正刷りを次々と送ってきて、短い序文を書いてほしいと言った。私がせいぜい短い序文しか書けないことを知っているからだ。しかし私はまだ躊躇した。多くの事は、その道に長けた人がやってこそうまくいく。たとえば句読点は汪原放、序文は胡適之、出版は亜東図書館に任せるべきで、劉半農も李小峰も私も適任ではない。しかし結局書くことに決めた。ただ結局書くことに決めたからだ。
まだ書き始めないうちに戦争に遭い、砲声と流言の中で落ち着かず、筆を持つ気になれなかった。その上、またぞろ文士の徒がどこかの新聞で半農を罵っていると知った。『何典』の広告がいかに高尚でないか、大学教授ともあろうものがこれほど堕落するとは、と。これにはかなり淒然とした。別の事を思い出し、しかも「大学教授ともあろうものがこれほど堕落するとは」という感を共にしたからだ。以後、『何典』を見るたびに苦痛を感じ、もう一言も言えなくなった。
そう、大学教授は堕落してゆく。高きも低きも、白きも黒きも灰色も。ただし他人が堕落と言うものを、私は困窮と言うものもある。私のいう困窮の一端は、身分を失うことだ。私はかつて『「他媽的!」論』を書き、すでに青年の道徳家に烏煙瘴気と歎かれたのに、まだ身分を言うのかと。しかしまだいくらか身分を気にする。仮面をかぶった紳士を「深く悪み痛く絶つ」が、「学匪」の家柄ではない。分け隔てなく見れば、大学教授が滑稽な広告を出して何の不思議があろう?しかし、私はやはり十九世紀に生まれ、数年官吏もし、「孤桐先生」と同じ役所にいた。官の気風はにわかに抜けず、だから時に教授には講壇が最もふさわしいとも思う。しかし十分な給料が必要で、兼務はまあよい。
半農はドイツとフランスで何年も音韻学を研究し、彼のフランス語の書は私には分からないが、とにかく書物は厳然と存在し、必ず誰かが理解する。だから彼の本業は、これらの曲線を学生に教えることだと私は思う。しかし北京大学はもうすぐ閉校しそうだし、兼務もない。ならば、彼が書物を印刷販売することに反対はできない。——ついでにここで自分の広告を出しておく。陳源はなぜ私にこのような逆広告を出したのか?私の『華蓋集』を読めば分かる。お客様、見よ!早く見よ!一冊大洋六角、北新書局発行。
思い起こせばもう二十年以上前のこと、革命を事とした陶煥卿は窮困の極み、上海で自ら会稽先生と称し、催眠術を教えて糊口していた。ある日彼が私に聞いた——一嗅ぎで人を眠らせる薬はないかと。二三ヶ月後、新聞に会稽先生は催眠術を解さず人を騙していると投書が現れた。清朝政府は彼を通緝した時、対句があった——「『中国権力史』を著し、日本催眠術を学ぶ。」
『何典』はまもなく出版される。短い序文も期限が迫っている。夜雨が蕭々と降る中、筆を取ると、ふと麻縄を腰帯にしていた困窮の陶煥卿を思い出し、さらに『何典』とは関係のない思いも混じる。しかし序文はもう期限が迫っているから、書き出すしかない。私は半農を「乱党」に比しているのではない——ただ、この時にあって、往時を回想し、数人の友を思い、自分の依然たる無力を感じるだけだ。
しかし短い序文はともかく書き上がった。物にはならないが、一つの事は片付いた。今の私の別の心境をも書き留め、発表して、『何典』の広告ともする。
五月二十五日の夜、東壁の下にて記す。
第22節
予序
日記にまだ一字も書かないうちに先に序文を作る、これを予序という。
私はもともと毎日日記を書いていた。自分で読むためのものだ。天下にこのような日記を書いている人は少なくあるまい。もし書いた人が名人となり、死後に印刷されれば、読む者も格別な面白みを感じる。書く時に空の構えを見せる必要がなく、かえって真の面目が見えるからだ。これこそ日記の正宗嫡派だと思う。
しかし私の日記はそうではない。書くのは手紙の往来、金銭の収支で、面目とも言えず、まして真偽もない。例えば——二月二日晴れ、Aより信あり。B来る。三月三日雨、C校の俸給X元を受く、Dに返信す。一行で満ちるが、まだ事がある。紙ももったいないので、後の事を前日の空白に書く。要するに、あまり当てにならない。しかし私の目的は、誰から手紙が来たかを記して返事の便にし、とりわけ学校の俸給が何年何月の何割何分まで受け取ったかを帳面に付けること。それ以外には何の野心もない。
[以下、鄉人の李慈銘が日記を著述とした話、半農が副刊の原稿を頼んできた経緯を述べ、「馬上日記」を書き始めた動機を語る。思いついたらすぐ書き、すぐ送る。ただし第三者に読まれる前提なので真の面目はないかもしれない。]
書けなくなったり書けない状態になったりしたら、即座に終了する。だからこの日記がどれほど長くなるかは、今のところまったく分からない。
一九二六年六月二十五日、東壁の下にて記す。
六月二十五日 晴れ。
病気。——十日前のことで、今はもう回復したと言ってよい。ただ余波はまだ終わらず、これを開宗明義の第一章としよう。端午の節句の前に原稿料をいくらか受け取り、食べ過ぎて消化不良になり、胃が痛くなったのだ。
[西洋医学と漢方への見解、梁啓超の腎臓手術の話題、知人の医師に処方箋をもらい薬局で薬を買うが、二瓶目の薬の味が違う騒動を経て、三瓶目でようやく正常に戻る顛末がユーモラスに語られる。第二瓶は一日分の薬に二日分の水を加えたものだった。]
[続いて、病が快方に向かい、引き出しの整理中に数年前に書き写した標点の誤りの面白い例をいくつか引用する。]
標点を古文に施すのは確かに小さな難事で、往々にして手のつけようがない。しかし上に列挙した数条は、それほど手がかりがないわけではない。
六月二十六日 晴れ。
午前、霽野から故郷の手紙が届く。家に病人がおり、他の者も皆いつ病に襲われるか分からぬ恐怖の中にあるとのこと。
午後、織芳が河南から来る。二つの包みを置いて「これは方糖だ」と。包みを開けると丸くて薄い小片、黄褐色。食べると冷たくて滑らかで、確かに美味。しかし織芳はなぜ「方糖」と呼ぶのか?景宋が言うには、河南のどこかの名産で、柿霜で作ったものだと。
惜しいことに、彼が説明した時には、私はもう大半を食べてしまっていた。急いで残りを仕舞い、将来口角に瘡ができた時に塗れるよう備えた。夜、また隠してあった柿霜糖を大半食べてしまった。口角に瘡ができる時はそう多くはないのだから、やはり今のうちに食べた方がよいと思ったのだ。食べ出すと、また大半を食べてしまった。
六月二十八日 晴れ、大風。
午前中に外出。目的は薬の購入。街は五色国旗が満ち、軍警が林立。豊盛胡同の中程で軍警に小路へ追い立てられる。しばらくするとモーターカーが次々と駆け過ぎ、金縁の帽子が見える。車の横には赤い絹を結んだ刀を背負う兵がぶら下がっている。
[薬局での瓶代五分をめぐる駆け引き、薬の味が酸っぱすぎる問題、帰路の軍警に道を阻まれ、L君の家では門前払い、C君の家でようやく昼食をご馳走になる。]
C君の客間の外に林檎の木があり、子供たちが落ちるのを待っている。拾った者のものになるという決まりがある。帰る時に見ると三人の子供がそれぞれ林檎を一つずつ手にしていた。
[夕刊で呉佩孚が占いで一日遅れて北京に入ったという記事を見て、自分も陶淵明の詩集で占ったが「意を一言の外に寄す、この契り誰か能く別たん」という句が出て、意味が分からなかった。]
第23節
先日、小峰に会い、半農の編集する副刊に原稿を投じようという話をした。題は『馬上日記』だと。小峰は憮然として言った——回想は『旧事重提』に入れ、目下の雑感はこの日記に書き込めばよい……と。言外の意味は——あなたは『語絲』で何をしているのか?——ということのようだ。
しかし私はひそかに思った——政党は支部を設け、銀行は支店を開く。私が支日記を書いてはならぬ道理があろうか?かくして支日記を作る。
六月二十九日 晴れ。
朝、一匹の小蝿に顔の上を這い回られて目が覚めた。追い払っても、また来る。叩いても死なず、方針を変えるしかなかった——自分が起きればよいのだ。
[二年前のS州の旅館での蝿の群れの思い出。街で蝿に悩まされない子供を見て、中国での生活にはこのような訓練が不可欠だと皮肉る。]
廃紙をめくると『水滸伝』に関する考証の抜き書きがいくつか見つかる——
[宋の洪邁『夷堅甲志』から舒州の民が四匹の虎を殺す話を引き、『水滸伝』の李逵が沂嶺で四虎を殺す場面との類似を指摘。また宋の荘季裕『鶏肋編』の鴨に関する俗説から『水滸伝』が旧本であり著者が浙江人であることを論証。さらに元の陳泰の宋江に妻がいて梁山泊に蓮を植えた記述を紹介。]
七月一日 晴れ。
午前、空六が来談。呉佩孚が宴席で蚩尤を赤化の始祖と考証した笑い話——「蚩」と「赤」が同音だから蚩尤は「赤尤」すなわち「赤化の尤」だという。満座「歓然」。
太陽が烈しく、鉢植えに水をやった。田媽が忠告する——花への水やりは毎日決まった時間でなければ害になると。しかし決まった時間に水をやる人もいないし、乱れた水やりでも枯れるよりはましだと思い、続けた。午後には葉がみな立ち上がり、害はなさそうで安心した。
[夜、新聞の銘品を回想。段祺瑞の『二感篇』、陳源の『閒話』、丁文江の演説など荒唐無稽な言論を列挙し、呉佩孚の赤化源流考にはとても及ばないと皮肉る。蚩尤が赤化の祖師であり、蚩尤はかつて炎帝と戦った。炎帝もまた「赤魁」だ。だから三・一八惨案は赤をもって赤を討つに等しく、どちらの側も赤化の名称から逃れられないのだ。日本の『読売新聞』に連載された黄帝=アブラハム説との比較で、呉の考証の奇天烈さを際立たせる。]
七月二日 晴れ。
午後、東亜公司で安岡秀夫著『小説から見た支那民族性』を買う。薄い本で、一元二角。
[安岡氏はSmithの『Chinese Characteristics』をよく引用し、中国人の最も重要な国民性は「体面(面子)」だと論じる。魯迅はこれを概ね認めつつ、中国の「体面的虚無主義」——何事も芝居と見なし、表と裏で異なる行動をとる人々——をロシアのニヒリストと対比する。]
中国人はかつてロシアの「虚無党」という三文字を聞いただけで肝を潰したものだが、それは今の「赤化」と変わらない。実際にはそんな「党」はなかった。ただ「虚無主義者」はいた。ツルゲーネフが作り出した名称で、神を信じず、一切の伝統と権威を否定する人物を指す。しかし中国の上等人を見れば——彼らの神、宗教、伝統の権威に対する態度は「信」と「従」ではなく「怖」と「利用」ではないか?変幻自在で節操がなく、何も信じないのに、内心とは異なる構えを見せる。この特殊な人物を「芝居をする虚無党」あるいは「体面の虚無党」と別称して区別しよう。
[安岡氏の「中国料理は壮陽と関係がある」説を批判。筍が「挺然翹然」だから性欲と関連があるという説に対し、故郷の紹興では安いから年中食べるが性的連想など一度もなかったと反論。中国の一大宴会の比喩で文明と蛮風の錯綜を論じる。]
正午、例の通り昼食。菜は——干菜、筍の干物、春雨、漬物。紹興について、陳源教授が憎むのは「師爺」と「刀筆吏の筆先」、私が憎むのは飯菜だ。
[紹興の干物文化への皮肉。]
七月三日 晴れ。
暑さの極み。午前中は遊び、午後は昼寝。夕涼みで万牲園の長身の門番が米国人に月給千元で雇われた話を聞き、『現代評論』が楊振聲の小説『玉君』を「長い」ことを理由に推薦したことと結びつけ、「長さ」には確かに価値があると皮肉る。
七月四日 晴れ。
朝、またも蝿に起こされる。安岡の本をきっかけに中国の料理文献を調べようとするが目当ての本が見つからない。
近年、本国人も外国人も中国料理を称讃して、世界一だ、宇宙一だと。しかし私には中国料理が何なのか実は分からない。ある地方では葱と蒜と雑穀の餅を噛み、ある地方では酢と唐辛子と漬物で飯を食い、多くの人は黒塩をなめるだけで、黒塩すらない者も多い。金持ちの料理だけをもって中国料理を一等に列するのは、去年「高等華人」が二三人出たからといって他の人々が依然「下等」であるのと同じことだ。
七月五日 晴れ。
朝、景宋が『小説旧聞鈔』の一部を整理して届けてくれた。
[夕方、暗がりで横になり、『小説旧聞鈔』で校正した強汝詢の小説蔑視論を回想。中国の国民の学問は大部分小説に依っているのに、と皮肉る。年画に描かれる忠孝節義の古人は皆、京劇の役柄そのものだ。]
七月六日 晴れ。
午後、前門外に薬を買いに行く。調剤の後、カウンターの前で一回分を飲む。ところが一人の客が奇妙に思ったらしい。
「あれは禁煙薬じゃないか?」店員にひそひそと。「違いますよ!」店員が名誉を守ってくれた。「阿片をやめる薬でしょう?」今度は直接私に聞いてきた。
この薬を「禁煙薬水」と認めなければ死んでも瞑目しないだろうと思った。私は頭を曖昧に揺らし、あの「両可に介する」妙答を繰り出した——「うむうむ……。」これなら店員の好意を傷つけず、彼の熱い期待をも慰められる。果たしてこれで万籟寂として天下太平、私は静かに瓶の栓をし、街に出た。
[中央公園で壽山と『小ヨハネス』の翻訳作業。二十年前に東京の古書店で買ったドイツ語の雑誌で知った本。夜は田媽が近所の嫁姑喧嘩の裁定を求めてきたが、事情が分からないので断ると沈黙が落ちる。]
私も無聊に立ち上がり、自分の部屋に入って灯をつけ、寝台に横になって夕刊を読んだ。数行で無聊になり、東壁の下に碰って日記を書いた。すなわちこの『馬上支日記』だ。
院子からまた次第に談笑の声、高論の声が聞こえてきた。
今日の運勢はどうも芳しくない。通行人に「禁煙薬水」を飲んでいると冤罪をかけられ、田媽にも……何を言われたかは知らない。願わくは明日からはこんなことがないように。
第24節
七月七日 晴。
毎日の晴曇を書くのは、いい加減自分でも煩わしくなってきた。これからは書くまいと思う。幸いにして北京の天気はおおむね晴れの日が多い。梅雨の時期であれば、午前は晴れ、午後は曇り、夕方にはどっと雨が降って、土壁の崩れ落ちる音が聞こえる。
書かなくとも構うまい。どのみち私のこの日記を、将来気象学者が参考資料として持ち出すことは断じてあるまいから。
午前、素園を訪ね、閑談する。彼の話では、ロシアの著名な文学者ピリニャーク(Boris Piliniak)が先月すでに北京を訪れたが、今はもう去ったとのこと。
私は彼が日本に行ったことは知っていたが、中国にも来たとは知らなかった。
この二年の間、私の耳に入った限りでは、名のある文学者で中国を訪れた者は四人いる。第一はもちろん、かの最も有名なタゴール、すなわち「竺震旦」であるが、惜しいことにインドの帽子をかぶった震旦の人々にすっかりめちゃくちゃにされ、ついに訳もわからぬまま去ってしまった。後にイタリアで病に倒れ、なお電報を打って震旦の「詩哲」を招いたというが、「その後どうなったか」は知らぬ。今度はまたガンジーを中国に担ぎ込もうとする者がいるという。この堅忍不抜の偉人は、インドにおいてのみ生まれ、英国治下のインドにおいてのみ生き得る偉人であるが、またもや震旦の大地にその偉大な足跡を刻もうとしている。だが、その裸足の足がまだ華土を踏まぬうちに、おそらく暗雲はすでに湧き出ているであろう。
次にスペインのイバニェスがおり、中国でも早くから紹介した者がいたが、彼は欧州大戦のとき人類愛と世界主義を高唱していた。今年の全国教育連合会の議案から見れば、彼はまことに中国には不向きであり、もちろん誰も相手にしなかった。なぜなら我が教育者たちは民族主義を提唱しようとしていたからである。
あとの二人はいずれもロシア人で、一人はスキターレツ(Skitalez)、もう一人がピリニャークである。二人とも仮名である。スキターレツは亡命中の身で、ピリニャークはソ連の作家であるが、その自伝によれば、革命の第一年からパンの粉を買うために一年余り奔走したという。その後小説を書き、魚油も飲んだとのこと。この暮らしぶりは、中国では日がな一日貧を嘆く文学者でさえ夢にも想像し得まい。
彼の名前は、任国楨君が輯訳した『蘇俄の文芸論戦』に出てくるが、作品の翻訳は一つもない。日本には『イワンとマリア』(Ivan and Maria)が一冊あり、形式はきわめて特別で、ただこの一点だけでも中国人の目——中庸を旨とする目——には見慣れぬものであろう。文法がいくらか欧化しているだけで眼に硝子の粉が入ったかのように大騒ぎする者がいるのだから、まして体裁が欧化よりさらに奇異であれば尚更だ。ひっそりと来てひっそりと去ったのは、まことに天の配剤というべきである。
なお、中国では名前が『蘇俄の文芸論戦』に一度だけ見えるリベジンスキー(U. Libedinsky)も、日本ではすでに小説が翻訳されており、題して『一週間』という。彼の国の紹介の速さと多さにはまことに驚嘆するほかない。我が武人は彼の国の武人を祖師と仰ぐのに、我が文人は彼の国の文人の範に少しも学ぼうとしない。これでもって中国の将来が日本より太平であることは、あらかじめ知れるというものだ。
しかし『イワンとマリア』の訳者・尾瀬敬止氏によれば、作者の意図は「林檎の花は、古い屋敷の庭にも咲く。大地のある限り、つねに咲く」というものだという。とすれば、彼もやはり旧きを慕う心を免れぬのだ。しかし彼は革命を目の当たりにし、身をもって経験し、その中に破壊があり、流血があり、矛盾があることを知っているが、同時に創造がないわけではないことも知っている。ゆえに彼は断じて絶望の念を抱いていない。これこそ革命の時代に生きる人間の心なのだ。詩人ブローク(Alexander Block)もまた然り。彼らはむろんソ連の詩人であるが、純粋なマルクス主義の眼光をもって批評すれば、当然なお非難すべき点は多々あろう。ただし、トロツキー(Trotsky)の文芸批評はそこまで峻厳ではなかったように思う。
惜しいことに、私はまだ彼らの最新の作者の作品『一週間』を読んでいない。
革命の時代には必ず多くの文芸家が萎み、多くの文芸家が新しい山崩れのごとき大波に突き進んで行き、飲み込まれ、あるいは傷を負う。飲み込まれた者は消え去り、傷を負った者は生き続け、己の生を切り拓き、苦痛と歓びの歌を歌う。やがてこれらが過ぎ去った後、比較的新しい新時代が現れ、更に新しい文芸が生まれるのだ。
中国は辛亥革命以来、いわゆる文芸家で萎んだ者もなく、傷を負った者もなく、もちろん消え去った者もなく、苦痛と歓びの歌もない。これはつまり、新たな山崩れのごとき大波がなかったからであり、すなわち革命がなかったからに他ならない。
七月八日
午前、伊東医師の住居に歯の治療に行き、客間で待つうち、いささか退屈する。四方の壁にはただ一幅の織物の絵と二対の対聯がかかっているだけで、一対は江朝宗の、もう一対は王芝祥のものである。署名の下にはそれぞれ印が二つあり、一つは姓名、もう一つは肩書きで、江のは「迪威将軍」、王のは「仏門弟子」とある。
午後、ミス高が来訪。あいにく菓子の持ち合わせがまったくなく、やむなく秘蔵の——口角のただれに効く柿霜糖を皿に盛って出すほかなかった。私にはたいてい何がしかの茶菓子があり、客が来れば茶菓子をすすめるのだが、当初は「ミス」も「ミスター」も同等に扱っていた。ところがミスターは時としてまことに手強く、しばしば徹底的に食べ尽くし、一つも残さぬので、私のほうがかえって「向隅の嘆」を感じる始末。もし食べたくなればまた出て行って買ってこねばならぬ。かくして大いに警戒の念が生じ、やむを得ず方針を改め、万やむを得ぬ場合には落花生をもって代えることにした。
この一手はまことに効果覿面で、いつも少ししか食べない。あまり食べないとなると、今度は私が勧め始め、時には落花生を恐れること織芳の如き人物を、ためらいつつ逃げ出させるほどにまで勧めることもあった。
昨夏この落花生政策を発明して以来、今日に至るまでなお厳行を続けている。
しかしミスたちはこの限りではない。彼女らの胃は彼らより五分の四ほど小さく、消化力は十分の八ほど弱いかのようで、ごく小さな茶菓子でもたいてい半分を残し、飴一粒でも一角を残す。出して並べておいてしばらくすると、少し食べられはするが、私の損失は微々たるもの。「何ぞ改むるを必とせんや」。
ミス高はめったに来ない客なので、落花生政策を執行しかねる。あいにく他の茶菓子もなく、やむなく柿霜糖を出すほかなかった。これは遠路はるばる持ち帰った名菓であるから、もちろん重んじているところを示すに足る。
この飴は一般的でないから、まず出所と効能を説明すべきだろうと思った。ところがミス高はすでに一目瞭然であった。彼女は言った。これは河南の汜水県で産するもので、柿霜で作る。色は深い黄色が上等で、もし淡い黄色なら純粋な柿霜ではない。これはとても涼しく、もし口角などにただれができたとき、含んでおけば、柿霜が徐々に口角から流れ出て、ただれが治るのだと。
彼女は私が耳学問で知ったよりもはるかに詳しく知っていた。私はただ黙るほかなく、そしてこの時ようやく彼女が河南の人であることを思い出した。河南の人に柿霜糖を数片ふるまうとは、まさに私に一杯の紹興酒を飲ませるようなもので、まことに「その愚、及ぶべからず」と言うべきであろう。
茭白の芯に黒い点があるのは、我が郷里では灰茭と呼び、田舎の者ですら食べたがらないが、北京では大宴席に用いる。白菜の結球は北京では斤単位、車単位で売るが、南方に行けば根に紐を結んで果物屋の軒先に逆さ吊りにし、買うときは両単位、あるいは半株で、用途は豪勢な火鍋に入れるか、フカヒレの敷物にするかである。しかしもし誰かが北京でわざわざ灰茭を私にふるまったり、北京人が南方に来たとき煮た白菜をふるまうなら、「間抜け」と呼ばれぬまでも、いささか奇矯の感を免れまい。
だがミス高はさすがに一片を食べてくれた。主人の面子を少しばかり立ててくれたのかもしれぬ。
夜になって私が一人ぼんやり座って考えた。これは河南以外の他省の人にふるまうべきものだったのだ、と。考えながら食べ、食べながら考えているうちに、思いがけずすっかり食べ尽くしてしまった。
そもそも物は稀なるをもって貴しとする。たとえば欧米に留学するなら、卒業論文はなるべく李太白、楊朱、張三について論じるのがよい。バーナード・ショーやウェルズでは不適当であり、まして「ダンテ」の類は尚更だ。『ダンテ伝』の著者バトラー(A.J. Butler)も、ダンテに関する文献は読み切れぬほどだと言っている。帰国してからなら、ショーやウェルズ、さらにはシェイクスピアさえ語ることができる。何年何月に自分がマンスフィールドの墓前で号泣し、何月何日何時にどこでアナトール・フランスと会釈を交わし、彼は自分の肩を叩いて「君は将来少し私に似てくるだろう」と言った、などと。「四書」「五経」の類は、地元ではあまり口にせぬほうがよいようである。
「流言」が多少混じっていようと、「学理と事実」に必ずしも障りがあるとは限るまい。
第25節
午後、中央公園でC君と小仕事をしていたところ、突然ある好意の旧同僚から急報が入った。曰く、省で今日給料が出た、三割分だと。ただし本人が直接受け取りに行かねばならず、しかも三日以内でなければならないと。
さもなくば?
さもなくばどうなるか、彼は言わなかった。だがこれは「洞若観火」——火を見るより明らかで、さもなくば支給されない、ということだ。
銀銭が手の間を通りさえすれば、たとえ檀越の施しでなくとも、人はいつも少しは威風を振るいたがるもので、さもなくば己の退屈さ、卑小さを感じてしまうからだろう。品物を持って質に入れるだけなのに、質屋はあの尊大な顔と高い帳場をこしらえ、銀元を銅元に両替するだけなのに、両替屋は「現洋買い取り」と貼り紙をし、暗に「買い手」を気取る。紙幣は当然、責任ある場所で現金に換えられるべきだが、時に極めて短い期限が設けられ、さらに札を受け取り、列に並び、待ち、嫌な思いをさせられる。
軍警が監視し、手には国粋の革鞭を持っている。
言うことを聞かぬか? 金をもらえぬだけでなく、打たれるぞ!
私はかつて言ったことがある。中華民国の官吏はみな平民の出身であり、特別な種族ではないと。高尚な文人学士や新聞記者が彼らを異類と見なし、自分たちより格別に奇怪で卑しむべき可笑しむべき存在と思おうとも、私のこの数年の経験から見れば、まことに格別なところはなく、あらゆる気質は普通の同胞とさして変わらない。ゆえに銀銭を扱う段になれば、やはりこれを機に少しばかり威風を振るいたがる嗜好を見せるのである。
「親領」問題の歴史は、起源がかなり古く、中華民国十一年にはすでにこのことで方玄綽の不平を引き起こしたことがあり、私はそれを『端午節』として書いた。
だが歴史は螺旋のごとしと言っても、判で押したようなものではなく、今と昔にはやはり多少の違いがある。かつての盛世には「親領」を主張したのは「索薪会」——
ああ、これらの専門用語を一々説明する暇がない。紙ももったいない。——の猛者たちで、昼夜奔走し、国務院に号叫し、財政部に座り込んで請求し、ひとたび手に入れると、一緒に索薪に行かなかった者が労せずして受け取ることに心穏やかでなく、少々苦い思いをさせてやろうとするのであった。その意は——この金は我々が取り戻したもので、我々のものと同然だ。欲しければここに来て施しを受けよ。施衣や施粥の施主が、わざわざ受益者の家まで届けに行くのを見たことがあるか、と。
しかしそれは盛世の話。今はいくら「索」しても、とうの昔に一文もくれなくなっており、もし偶然「発薪」があれば、それは思いがけぬ上からの恩恵であって、「索」とは毛ほどの関係もない。ただ臨時に「親領」の命令を発する施主はまだおり、ただしもはや索薪に長けた猛者ではなく、毎日「出勤簿に署名」し、他に生計の道を求めなかった「不弐の臣」なのである。したがって、以前の「親領」は索薪に同行しなかった者への罰であったが、今の「親領」は腹を空かしたまま毎日役所に通えなかった者への罰なのである。
しかしこれは大意にすぎず、ほかの事は身をもって経験せねば説明しがたい。たとえば酸辣湯の一杯は、聞いたり話したりするだけでは、自分でひと口すするほどにはわからぬ。最近、企みある名士が何人か間接的に忠告してくるには、私が去年書いたものは専ら数人と意見を争うだけで、もはや文学芸術や天下国家を論じなくなったのは惜しいことだ、と。殊に知らぬことには、私は最近やっとわかったのだが、身をもって経験した小事でさえなお見透かせず説明できぬのに、ましてやかの高尚偉大にしてよく了解し得ぬ事業をや。私は今、比較的身近な私事しか語れぬ。「公理」などという冠冕堂皇たるものは、公理の専門家に暇つぶしを任せるとしよう。
つまるところ、今日の「親領」主張家はもはや昔日に及ばぬと私は思う。これすなわち「孤桐先生」の言うところの「毎況愈下」である。しかも方玄綽のごとき空しい不平を漏らす者さえ、すでにほとんどいなくなったようだ。
「行け!」私は警報を受けるや否や公園を出て、車に飛び乗り、まっすぐ役所へ駆けつけた。
一歩門を入ると、巡警が私に直立して挙手の敬礼をした。やはり多少なりとも偉い官吏をしていれば、長く離れていても覚えていてくれるものだ。中に入ると人影はまばらで、執務時間はすでに午前に変更されており、おそらく皆すでに親領して帰ったのだろう。給仕を一人見つけ出し、「親領」の規則を問い質した。まず会計科へ行って伝票を受け取り、その伝票を持って花庁で金を受け取るのだと。
会計科に行くと、ある部員が私の顔をひと目見て伝票を繰り出した。
彼は古参の部員で、同僚の顔に通じ、「本人確認」の重大な責任を負っているのだと承知していた。伝票を受け取った後、私はことさら余分に二度頭を下げ、別れと深い感謝の意を表した。
次は花庁である。まず脇の門を通ると、紙が貼ってあって「丙組」とあり、小さな注記に「百元未満」とある。自分の伝票を見ると九十九元と書いてあり、心中思った。「人生百に満たず、常に千歳の憂いを懐く……」と。同時にまっすぐ中に入って行った。私とほぼ同年輩の官吏がいて、この「百元未満」は全俸のことであり、私のはここではなく奥の間だと言った。
奥の間に行くと、大きな机が二つあり、机のそばに数人が座っている。旧知の同僚が私に声をかけてくれた。伝票を出し、署名し、紙幣に換えて、まずは順風満帆。この組の隣には大そう太った官吏が座っており、監督者らしい。なぜなら彼は敢えて官紗の——もしかすると紡綢かもしれぬ、こうしたものは私にはよくわからぬ——肌着のボタンを外し、太って畳のようになった胸腹を露わにし、汗の玉が悠々と畳を越えて流れ落ちるに任せていたからだ。
このとき、私はゆえなく感慨を覚えた。心中思った。みな今は「災官」「災官」と言うが、「心広ければ体胖かなり」な者も少なくないのだ。二、三年前、教員が索薪を騒いでいた頃でさえ、学校の教員控室にはまだ、食べ過ぎて「かっ」とげっぷし、胃の中のガスが口から反逆してくる者がいたのだ。
外の間に出ると、先ほどの同年輩の官吏がまだいたので、彼を捕まえて愚痴を言った。
「君たちはまたどうしてこんなことをやるんだ?」と私は言った。
「これは彼の意向でして……」と彼は温和に答え、にこにこしていた。
「病人はどうするんだ?戸板に載せて担いでくるのか?」
「彼が言うには、そういうのは別途処理するのだと……」
私は聞けばすぐにわかったが、「門——役所の門——外漢」にはわかりにくかろう。少し注釈を加えるのがよかろう。この「彼」とは総長あるいは次長を指す。ここでは指すところがいかにもぼんやりしているように見えるが、もう少し掘り下げれば特定できる。だがさらに掘り下げると、またぼんやりしてくるかもしれぬ。要するに、給料を手にしたからには、こうした事は「ほどほどにして貪欲であるなかれ」としたもので、さもなくば何がしかの危険を免れぬかもしれぬ。私がこれだけのことを話したことだって、実のところすでにあまり穏当ではないのだ。
かくして花庁を退出したが、旧同僚数人に出くわし、しばし閑談した。「戊組」がまだあることを知った。すでに亡くなった人の給料を支給する組で、この組はさすがに「親領」は不要であろう。またこの「親領」律を提出したのは、「彼」だけでなく「彼ら」もいるとのこと。「彼ら」とは、ざっと聞くと「索薪会」の頭目のようだが、実はそうでもない。なぜなら役所にはとうの昔に「索薪会」なるものはなく、ゆえにこの度のはもちろん別の新しい人物たちである。
我々が今回「親領」した給料は、中華民国十三年二月分のものであった。
このため事前に二つの学説が生じた。一つは十三年二月の給料としてそのまま支給するというもの。しかし新任の者や最近昇給した者には「向隅の嘆」が免れない。かくして第二の新学説が自然に生じた。以前のことは不問にして、ただ本年六月分の給料として支給するというもの。だがこの学説もあまり適当ではなく、ただ「以前のことは不問にする」の一句だけでも、かなりの疵がある。
この方法は以前にも苦心して企てた者がいた。去年、章士釗が私を免職にした後、地位の上で打撃を与えたと自負し、文人学士の中にも喜んで小躍りする者が少なくなかった。しかし彼らもさすがに聡明人で、「机いっぱい卓いっぱい床いっぱい」のドイツ語の本を見たことがあり、たちまちまた悟った。私がただ官を失っただけでは敗北に至らない。なぜなら私にはまだ未払い給料を受け取る権利があり、北京で生活できるからだ。そこで彼らの司長・劉百昭が部務会議の席上、未払い給料を支給せず、何月に取りに来ようとその月の給料とする案を提出した。この方法が実行されれば、私の受ける打撃はかなり大きく、経済的圧迫を受けることになる。しかし結局通らなかった。致命傷は「以前のことは不問にする」の一点にあった。そして劉百昭らは自ら革命党を称して何もかも新しくやり直そうとはしなかったのだ。
そこで今も、政費が入るたびに支給されるのはやはり以前の金であり、たとえ今年北京にいない者でも、十三年二月にはいたのであれば、今いないからといって当時在籍していた事実まで無しにはしがたいのだ。しかし新学説が起こった以上、多少は取り入れねばならず、多少取り入れるとは多少調和するということである。かくして今回の我々の領収証には、年月は十三年二月で、金額は十五年六月のものとなった。
こうすれば「以前を不問にする」のでもなく、最近昇官または昇給した者も多少余分にもらえるわけで、まず比較的行き届いたと言えよう。私にとっては損も得もなく、ただ北京にいて「本人」を差し出せさえすればよい。
簡単な日記を繰ってみると、私は今年すでに四回俸給を受け取っている。第一回は三元、第二回は六元、第三回は八十二元五角すなわち二割五分で端午の夜に届いたもの、第四回は三割で九十九元、すなわち今回である。未払い給料を計算すると、まだおよそ九千二百四十元が残っており、七月分はまだ数えていない。
私はすでに精神上の富豪だと感じる。ただ惜しいことにこの「精神文明」はあまり頼りにならず、劉百昭が揺さぶりをかけたことがある。将来、理財に長けた人物が現れたら、きっと「欠薪整理会」なるものを設立し、中に数人の人物が座り、外に看板を一枚掲げて、未払い給料のある者は皆そこに行って交渉するよう仕向けるのではあるまいか。数日か数ヶ月後、人影は消え、続いて看板も消える。かくして精神上の富豪は物質上の貧乏人に変わるのだ。
しかし今のところは確かに九十九元を手にしたのであり、生活にいくらか安心できる。暇に乗じて少々議論を述べておこう。
七月二十一日。
第26節
魯迅先生はまもなく厦門へ発たれる。ご自身は気候のために長くはおれぬかもしれぬと仰るが、少なくとも半年か一年は北京を離れることになり、これは我々にとってまことに名残惜しいことだと思う。八月二十二日、女子師範大学学生会が毀校周年記念を催し、魯迅先生が出席されて演説をなさった。これが今回の在京中最後の公開講演ではないかと恐れ、そこで私はそれを書き留め、わずかばかりの記念の意を表すものである。人々は魯迅先生に言及すると、少し冷静に過ぎ、少し黙視し過ぎるかのように感じるかもしれないが、実は先生はつねに熱烈な希望に満ち、豊かな感情を発揮しておられるのだ。この度の談話にはそのご主張がとりわけ明らかに見て取れる。ならば、先生の出京の記念としてこの談話を記すことは、あるいはまったく重大な意義がないわけでもあるまい。私自身は、実直な方々にご心配をおかけせぬため、一言申し上げておく——その日の会には、一介の小さな事務員の資格で参加したのである。
(培良)
本文
私は昨晩、『工人綏恵略夫』を校正していた。もう一度刷り直したいと思ってのことだが、夜更かしし過ぎて、今もまだすっきり醒めていない。校正の最中、ふと幾つかの事が頭に浮かび、頭の中がひどく混乱し、今に至るまで混乱したままだ。ゆえに今日はあまり多くは話せまい。
私が『工人綏恵略夫』を翻訳した経緯を話すと、少々面白い。十二年前、欧州の大混戦が始まり、後に我が中国も参戦した。いわゆる「対独宣戦」である。多くの工人を欧州に送って手伝わせ、やがて勝利した。いわゆる「公理の勝利」である。中国も当然、戦利品の分け前にあずかるべきで——
戦利品の一種は、上海のドイツ人商人のクラブにあったドイツ語の書物で、総数はかなり多く、文学書が大半であった。午門の門楼に運び込まれた。教育部はこれらの書物を得て整理・分類しようとした——実は元々きちんと分類されていたのだが、ある人々が分類が悪いと考え、新たに分類し直そうとしたのだ。
当時多くの人が派遣され、私もその一人だった。その後、総長がそれらの書物がどんな本か見たいと言い出した。どうやって見るのか? 我々に中国語で書名を訳させるのだ。義訳できるものは義訳し、できないものは音訳する。カイザーだの、クレオパトラだの、ダマスカスだの……。一人毎月十元の車代が出て、私も百元余りもらった。当時はまだ多少の行政費があったからだ。こうしてごちゃごちゃやること一年余り、数千元を費やし、対独講和条約が成立した。後にドイツが返還を求め、点検担当の我々がそっくり引き渡した——おそらく数冊は減っていたかもしれぬが。「クレオパトラ」の類を総長が見たかどうか、私は知り得ない。
私の知る限りでは、「対独宣戦」の結果、中国には中央公園の「公理の勝利」の牌坊が一つ残り、私にはこの『工人綏恵略夫』の訳本が一篇残っただけである。なぜならあの底本は、あのとき整理していたドイツ語書の中から選び出したものだったからだ。
あの山のような本の中に文学書はたくさんあったのに、なぜあの時わざわざこの一篇を選んだのか? その理由は今となっては少しはっきりしない。おおよそ、民国以前も以後も、我々にも多くの改革者がおり、その境遇が綏恵略夫とよく似ていると感じたので、他人の杯を借りたのであろう。しかし昨晩見直してみれば、あの時のみならず、たとえばその中の改革者の迫害、代表者の苦難、それは現在もなお——将来もなお、何十年後もなお、多くの改革者の境遇が彼に似るであろうと思う。
だから私はこれをもう一度刷り直そうと思う……。
『工人綏恵略夫』の作者アルツィバーシェフはロシア人である。今やロシアといえば、人を震え上がらせるようだ。だが、そうした必要はまったくない。アルツィバーシェフは共産党員ではなく、彼の作品は今日のソ連でも歓迎されていない。聞くところでは彼はすでに失明し、ひどく苦しんでいるとか。それならば金のルーブルを私に送ってくるはずもない……。要するに、ソ連とはまったく無関係なのだ。しかし奇妙なことに、多くの事が中国とよく似ている。たとえば改革者や代表者の苦しみは言うまでもない。分相応にせよと説く婆さんでさえ、我が国の文人学士そっくりなのだ。ある教員が上司の罵倒を受け入れなかったために免職されると、婆さんは陰で彼を責め、「高慢」で憎むべきだと言い、「ほら、私も以前、主人に二度も頬を打たれたけれど、一言も言わずに我慢したよ。結局、私が冤罪だとわかって、主人は自ら百ルーブルをくれたんだ」と。むろん我が文人学士の言い回しがこれほど不器用なはずはなく、文章もずっと華麗であろう。
しかし綏恵略夫の最後の思想はあまりに恐ろしい。彼は初め社会のために働いたが、社会は彼を迫害し、殺害しようとさえした。そこで彼は一転して社会に復讐し始め、すべてが仇敵、すべてを破壊する。中国にこのようにすべてを破壊する人はまだ見当たらないし、おそらく現れもしまい。私もその出現を望まない。だが中国にはもとより別の種類の破壊者がいるため、我々が破壊しない者は常に破壊を受ける。我々は一方で破壊され、一方で修繕し、辛苦のうちにまた暮らしていく。ゆえに我々の生活は、一方で破壊を受け、一方で修繕し、一方で破壊を受け、一方で修繕する生活となったのだ。この学校もまた、楊蔭楡や章士釗らの破壊を受けた後、繕って整えて、また続けていくのである。
ロシアの婆さん式の文人学士はおそらく言うだろう、これは「高慢」で憎むべきだ、罰を受けて当然だと。しかし必ずしもそうとは限らない。私の家にはまだ田舎の女性が住んでいる。戦乱で家がなくなり、やむなく城内に逃げ込んできたのだ。彼女はまことに「高慢」ではなく、楊蔭楡に反対したこともない。それでも彼女の家はなくなった。破壊を受けたのだ。戦が終われば、彼女はきっと帰るだろう。たとえ家屋が破れ、器物が失われ、田畑が荒れていても、やはり生きていくのだ。
中国の文明とは、このように破壊されてはまた繕い、破壊されてはまた繕い続ける、疲弊し傷つき哀れなものなのだ。しかしそれを誇る者は少なくなく、破壊者自身さえそれを誇る。この学校を破壊した当の人物が、もし万国婦人の何とかいう会議に派遣されたなら、きっとこう言うだろう——「我が中国には国立北京女子師範大学がございます」と。
これはまことに千万残念なことで、我々中国人は自分のものでないもの、あるいはやがて自分のものでなくなるものに対して、いつも破壊してしまわねば気が済まない。楊蔭楡はこの校長の座を守れぬと悟るや、文は文士の「流言」をもってし、武は三河の女中をもってし、どうしても一群の「小娘」どもを駆逐し尽くさねばやまなかった。以前、張献忠が四川の民を虐殺した記録を読んだとき、彼が何を考えていたのか私にはどうしてもわからなかった。後に別の本を読んで、ようやくわかった。彼はもともと皇帝になろうとしていたが、李自成が先に北京に入って皇帝になってしまったので、李自成の帝位を破壊しようとしたのだ。民を殺し尽くせば、皇帝は誰もなれなくなる。民がいなければ皇帝もない。かくしてただ李自成一人が白い大地に恥をさらす。
我々はどこまでも中国人であり、中国の事に遭遇しないわけにはいかない。だが我々は中国式の破壊者ではないから、破壊されてはまた繕い、破壊されてはまた繕う生活を送っている。我々が自らを慰めることのできるもの、それはいわゆる将来への希望である。希望は存在に附随するものであり、存在があれば希望があり、希望があればすなわち光明である。もし歴史家の言葉が偽りでないなら、闇のゆえに長く存続したものの先例はまだこの世にない。闇はただ滅亡しゆくものにのみ附随し、滅亡すれば闇もまた共に滅亡する。しかし将来は永遠にあり続け、しかも必ず光明に向かう。ただ闇の附属物とならず、光明のために滅ぶのであれば、我々にはきっと悠久の将来があり、しかもそれはきっと光明の将来なのだ。
附記
私がこの会に出席した四日後に北京を離れた。上海で日刊紙を見て、女子師範大学がすでに女子学院の師範部に改組され、教育総長の任可澄が自ら院長となり、師範部の学長が林素園であることを知った。後に北京の九月五日の夕刊を見ると、こう報じていた。「本日午後一時半、任可澄は特に林氏を同道し、警察庁保安隊及び軍督察処の兵士合わせて約四十名を率いて女子師範大学に駆けつけ、武装接収した……」なんと、わずか一周年にしてまた兵を用いたのだ。今はひとまず培良君のこの一文をここに転録し、今年の記念としておこう。
一九二六年十月十四日、魯迅附記。
第27節
小峰兄、
別れた翌日、私は汽車に乗り、その晩天津に着いた。途中何事もなかったが、天津駅を出たとたん、制服を着た男——おそらく税吏の類であろう——が突然私の手提げ籠を掴み、「何だ?」と問うた。「身の回りの雑品です」と答えかけた時には、彼はすでに籠を二度揺さぶり、悠然と去って行った。幸い籠の中に朝鮮人参スープや搾菜スープやガラス器はなかったので、まったく損害なし。ご心配なく。
天津から浦口へは特別急行に乗ったので、騒々しくはなかったが、混んではいた。七年前に家族を北京に送って以来、この列車には乗っていなかったが、今では男女別席のようで、隣の室に一男三女の一家がいたが、男を追い出し、別の女性を招き入れた。浦口に近づくと、四人家族が茶房へのチップが少なすぎたため、大柄で堂々たる茶房が我々の車室に来て演説をぶった。要旨はこうである。金は当然受け取る。人は金のためでなければ何のために働くのか。しかし自分はまだ茶房をして少しばかりのチップを稼いでいるのは、良心がまだこの辺に行かずにいるからだ。自分にだって田畑を売り払って銃を買い、土匪を集めて頭目になることもできる。うまくやれば出世して金持ちにもなれる。だが良心がまだここにあるから、甘んじて茶房をし、子供に学問をさせたいのだ……。だが、あまりにも面目を潰されるなら、人のすることでないことでもやりかねぬぞ!——我々六人、誰も反論しなかった。後で聞いたところでは、結局一元を追加して決着したそうだ。
私は勇敢な文人学士の後塵を拝して、北京で発行される週刊誌で孫伝芳大帥を罵倒するつもりはない。ただ下関に着くと、ここが投壺の礼義の邦だったことを思い出し、いささか滑稽の感を禁じ得なかった。特急に間に合わず、夜行にするほかなく、旅館でしばし休んだ。駕籠かきも茶房も相変わらず実直で、板鴨、叉焼、油鶏の類も依然として安くて旨い。高粱酒を二両飲んだが、北京のよりも旨かった。わずかに生の高粱の香りがあり、飲んだ後に目を閉じると、雨上がりの野原にいるかのようなのだ。
野原にいるかのような気分に浸っていたところ、茶房が来て、外に出て話してほしいと言う人がいると言った。出てみると、数人の男と三、四人の兵士が銃を背負っている。その中の一人が荷物を見たいと言う。指定された麻布でくるんだ革のスーツケースの紐を解き、鍵を開け、蓋を開けてやると、彼はようやくしゃがみ込んで衣類の間を探り始めた。しばらく探った後、手がかりがなかったようで、立ち上がって手を一振りすると、兵士たちはみな「回れ右」をして外へ出て行った。指揮官は立ち去り際にまだ私に軽く頭を下げ、きわめて礼儀正しかった。私が現在の「有銃階級」と接触したのは、民国以来これが初めてだ。もし彼らが「無銃階級」を自称する者たちのように巧みに「流言」を捏造するなら、私は道を歩くことすらできなくなるだろう。
上海行きの夜行は十一時発、乗客はまばらで横になって眠れるのだが、惜しいことに椅子が短く、体を曲げねばならぬ。この列車の茶はまことに素晴らしく、ガラスのコップに入れてあり、色も香りも味もよい。このため二杯も飲み、窓の外の夜の江南を眺めて、ほとんど眠らなかった。
この列車で初めて、口いっぱいに英語を話す学生に出くわし、「無線電信」「海底電信」といった類の話を耳にした。またこの列車で初めて、か弱げな若旦那——絹の衫に先の尖った靴、口は南瓜の種を噛み、手には『消閑録』の類の小新聞を持ち、しかも永遠に読み終わらない——を見た。この手合いは江浙に特に多いようで、投壺の日々はまだまだ長く続きそうだ。
今は上海の旅館に泊まっている。早く発ちたい。数日歩いて、歩くのが楽しくなり、ずっとあちこち歩き回りたくなった。以前、欧州に「ジプシー」と呼ばれる流浪を好み定住を嫌う民族がいると聞き、ひそかに風変わりな気質だと思っていたが、今になってようやく彼らには彼らなりの道理があることがわかった。間抜けは私の方だったのだ。
ここは雨で、そう暑くはない。
魯迅。八月三十日、上海にて。
第28節
私が《自由談》に投稿した経緯は《前記》にすでに述べた。ここに至って本文は終わりとなるが、電灯はまだ明るく、蚊もしばし静まったので、鋏と筆を使い、《自由談》と私に関わって生じた瑣聞をいくらか保存しておくことにする。ちょっとした余興として。
一見すればわかることだが、私が短評を発表していた間、最も激しく攻撃してきたのは《大晩報》であった。これは前世からの因縁ではなく、私がその記事を引用したからである。だが私もまた前世の因縁でそうしたのではなく、私の読む新聞が《申報》と《大晩報》の二紙だけで、後者の記事がしばしば目新しく、引用して愁いを散じ悶えを解くに値したからにすぎない。
【以下、《大晩報》とその関連メディアによる魯迅批判の詳細な記録が続く。《大晩報》の「花果山」欄が魯迅を「何家幹」の筆名だと暴き、盛んに攻撃したこと、「塞上行」欄や「文人画」欄での風刺、芸術界人士の呼応などが時系列で克明に記録される。中盤では、各紙各誌の反応——《社会新聞》の報道、天津《大公報》の態度、署名記事と匿名攻撃の比較——が論じられ、当時の文壇における派閥抗争とジャーナリズムの堕落が浮き彫りにされる。また魯迅は、自身が筆名を用いた理由——白色テロ下では本名を使えば文章が掲載されぬ現実——を率直に述べ、匿名攻撃を行う側の卑怯さと対比させる。後半では、林語堂の雑誌《論語》との関係、「幽默」文学への批判、《申報・自由談》の編集者・黎烈文の立場、そして結びとして「瑣聞」すなわち雑報の類を剪り抜いて保存する意義が述べられる。時代の証言として、検閲と弾圧の下で文筆家がいかに戦い続けたかの記録である。】