Lu Xun Complete Works/ja/Shuxin
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shuxin (shuxin)
魯��� (ルーシュン, 1881-1936)
中国語からの日本語翻訳。
第1節
【第三回 バビカン松明を掲げて諸市を巡る 天文台より書簡を寄せて天文を論ず】
さて社長は聴衆の間に座り、目を見開いて彼らが狂喜乱叫するのを見つめ、再び話そうとして立ち上がったが、人々はもはや取り合おうとしなかった。呼び鈴を打ち鳴らして大衆を鎮めようとする者もあったが、大衆の歓声は鈴の音の数倍も高く、まったく聞こえず、かえって壇上に駆け上がり、社長を取り囲んで称賛讃美し、止むことがなかった。そこでアメリカの慣例に従い、社員は隊列を組み、松明を点して各街路を巡行した。メリーランドに住む外国人たちも口々に称賛し、叫び続け、ワシントンを除けばバビカンこそ第一だという有様であった。折しも天も味方して、長空は碧く澄み渡り、星辰は燦然と輝き、中天に一輪の明月が懸かり、光輝閃々として社長を照らし、ひときわ明るく映し出した。人々は仰ぎ見るこの燦爛たる満月に、ますます精神百倍となり、にわかに望遠鏡を買い求める者は数知れなかった。フォール街の望遠鏡店はこのために巨利を得たという。夜半になっても依然として賑やかで、騒然として街の人々を引きつけ、学者であれ、大商人であれ、学生であれ、車夫や担ぎ手に至るまで、皆が万分に沸き立ち、この古今を揺るがす事業を讃嘆した。岸に住む者は埠頭に、船に住む者は船渠に集まり、杯を挙げて歓飲し、空き缶は山のように積まれた。その歓笑の声は、まるで四面楚歌のごとく喧しく鳴り止まなかった。社長は狂気のような大衆の中で、引っ張られ、押され、担がれ、起き上がり小法師のごとく、讃嘆の声に合わせて四方に転がされた。二時になってようやく次第に静まり、遠方から来た外国人も汽車に乗って各々散じた。社長は一晩忙しかったが、歓喜の中にあって疲れも覚えず、帰宅した。翌日、人々の議論はますます紛々として一様ではなかったが、もともとアメリカ人の気質は最も堅固であり、バビカンの報告を聞いて、驚く者は一人もなく、皆が確実無疑、必ず成功するだろうと言った。かつてナポレオンは言った、「辞書に『不可能』の三字があるがゆえに人は皆欺かれるが、実のところ地球上に不可能な事などどこにあろうか!」と。アメリカ人は皆この言葉を崇拝しているので、何事であれ、アメリカ国民は決して大騒ぎしないのである。報告が広まると、自然と皆が喜んだ。五百種の新聞雑誌がこぞって論評し、形態から説く者、気象学を主とする者、政治から議論する者、政治から文明開化に帰着させる者もあった。「月界は果たして我が地球と同じく完備しているのか?地球と似た大気があるのか?発見後は移住すべきか?」と言う者もあり、「月界がすべてアメリカに属すれば、ヨーロッパの国権が均衡を保てず、紛争を招くことを恐れる」と言う者も少なくなかった。惜しむらくは本書にはそれらの名言偉論をすべて載せられず、やむなく割愛した。その他、ボストンの博物学会、オールバニーの学術会、ニューヨークの地理学会、フィラデルフィアの理学会、ワシントンのスミソニアン協会が続々と祝賀の書簡を送り、銃砲会社の大事業を祝した。金資を出し合って費用を補助する者も数知れなかった。社長の名誉はまさに旭日の昇るがごとく、皆がこぞって賛美崇拝した。五六日後、ボルティモアの英国商人の劇場で風刺を含んだ芝居を作ったが、大衆は社長を毀損するものだと言い、劇場を壊さんばかりにした。英国商人はやむなく演目を変え、お世辞に転じると、かえって大利を得た。これは些事であるから述べない。……さて社長が帰宅してからは、食も喉を通らず、寝ても安らかならず、昼夜を問わず月界旅行の事業を計画していた。何度も社員を招集して議論を重ね、多くの疑問を解明した。天文上の関係が明らかになり、次いで機械を決定すれば、この大実験はまったく欠陥がないことになる。そこで皆が合意し、連夜書簡をしたため、天文上の疑問を記してマサチューセッツ州のケンブリッジ天文台に送り、解決の助力を求めた。この州は連邦合衆国第一の地であり、最も名高く、優れた天文学者が多くいた。ボンド氏が彗星の星雲を確定し、クラークが海王星の衛星を発見して大名声を博し、彼らの精巧微妙な望遠鏡もすべてこの天文台で製造されたものである。書簡を受け取ると皆が喜び、全力で賛成した。三日も経たぬうちにバビカンの家に返信が届き、一切の疑問が解明された。返信にはこう記されていた。
本月六日、貴社の書簡を拝受し、即日同人を招集し、互いに討論し、衆言を折衷して答議とし、要旨を摘んで約言五則を作り、書簡末尾に附して採択を待つ次第です。我がケンブリッジ天文台同人は、天文理論上の関係をすでに分析し、アメリカ国民のためにこの偉業を祝します!
第一問:砲弾を月界に送ることは可能か?答議:砲弾に毎秒一万二千ヤードの初速を与えれば、必ず目的を達し得る。地上から上昇すれば引力は漸減し、距離の二乗に反比例する。距離三尺なれば一尺時と比べ引力は九倍減少する。ゆえに砲弾の重量も軽くなる。月と地球の引力が均衡する零点は飛行路の五十二分の四十七の地点である。砲弾はすべての重量を失い、零点を越えれば月の引力のみを受け落下する。理論上は成功疑いないが、機械力にも関わる。
第二問:月と地球の正確な距離はいかほどか?答議:月の軌道は楕円であり、地球は中心に位置する。月の距離は遠近一定でない。近地点と遠地点の差はきわめて大きく、精算によれば最遠二十四万七千五百五十二英里、最近二十一万八千六百五十七英里、差は二万八千八百九十五英里、全距離の九分の一を超える。
第三問:砲弾が月界に達するにはどれほどの時間を要するか?答議:毎秒一万二千ヤードの恒速なら九時間で月界に達するが、初速は減少するので、均衡点に達するには八十三時間二十分、さらに月界に直達するには十三時間五十三分二十秒を要する。狙い定めた一点への発射は、月到達の九十七時間十三分二十秒前に行うべきである。
第四問:砲弾到達に最も適した位置に月球が至るのはいつか?答議:月と地球の距離が最も近く、かつ天頂を通過する時刻を選ぶことが最も重要である。幸い来年十二月四日夜半、月球はまさに近地点にあり、かつ天頂を通過する。
第五問:砲弾発射時に大砲はいずれの天の一点を狙うべきか?答議:大砲は天頂を狙い、零度から北緯または南緯二十八度の間に設置すべきである。
第六問:砲弾発射時、月は天のいずれの位置にあるか?答議:砲弾飛行中、月も毎日十三度十分三十五秒進行する。地球の回転を含め、発射地の垂線は月球半径と六十四度の角をなすべきである。
約言:(一)砲台は零度から南北緯二十八度間。(二)天頂を狙う。(三)初速毎秒一万二千ヤード。(四)来年十二月朔日午後十時四十四秒に発射。(五)発射後四日で月界到達、すなわち十二月四日夜半。
ボルティモア銃砲会社社長バビカン君閣下
天文台職員総代理ケンブリッジ天文台台長ベルフェストン首。
人々はこの書簡を読み終えると、天文上の疑問がすべて氷解し、称賛が止まなかった。各種学術雑誌にも掲載され、世人の注目を引いた。まさに——
天人の決戦、人定めて天に勝つ。人の鑑遠からず、天まさに何をか言わんや!
天文上の疑問はすべて解明された。では機械はいかに商量したか?次回に述べる。
第2節
職業、労働、実際生活などと呼ばれるもの以上に、我々にはすべて生命力の余裕をもって営む生活がある。老人や成人に比べて、青年や小児は旺盛で溌剌とした生気に富み、生気が豊かであればこの力の余裕もまた大きくなる。我々がその余裕をもって、現在よりも自由な、より調和のとれた、より美しい、より良い生活を創造しようとする時、それは向上であり進歩である。独り芸術のみならず、凡そ思想的生活は、大概すべてこの意味における厳粛な遊戯である。これはグロースのいわゆる「実生活の準備的段階」と見なすこともできる。
労働と遊戯との間には、もともと本質的な差異はない。たとえば同じく絵を描き、ピアノを弾くことも、その人の環境と態度とによって、遊戯となり、あるいは職業的労働となる。汗を流して花木を栽培することは、植木屋にとっては労働であるが、裕福な老紳士にとっては極めて良い遊戯なのである。
労働と遊戯との差は、シラーの言葉を借りれば、前者は労作者の意向と義務が妥当に調和しておらず、後者はその二つが適宜に一致を得ているという点にのみある。換言すれば、前者は自分の内から発する要求のために労作するのではなく、後者は自分のために生命力を活動させ、満足を得るのである。だから遊戯とは、自分の内心の要求に駆り立てられて自分を外に表現しようとする労作であると言えよう。人が自由に自分を表現し、適宜に生命力を外に発散すれば、そこには無限の快感が伴う。さもなければ苦痛があり、もはや遊戯とは称せなくなる。この遊戯のある所には、創造的・創作的な生活が出現する。
たとえ原始時代においてすら、職業的労働と遊戯的労作との間にはこれほど厳然とした区別はなかった。皆が自分から発する内的要求のために喜んで事を為し、忠実に、真率に、誠実に、厳粛な遊戯の心情をもって事を為すことができた。祭壇の前で神託を受け祭政一致の「祀事」を行う時、彼らは「神戯」を行った。音楽を奏で、仮面をかぶって踊り、美しい歌辞を捧げた。今日のいわゆる政治家や職業的僧侶の行うことを、彼らは「戯」として興じていたのである。
要するに、遊戯とは純一不雑の自己の内心の要求から発する活動であり、周囲の羈絆に煩わされず、金銭や義務や道徳等の社会的関係からくる強制と束縛を超越して、純真なる自我の生活を建設し創造するものである。シラーは『書簡』第十五で「人は完全なる意味において人である時にのみ遊戯し、遊戯する時にのみ完全なる人である」と言った。この有名な言葉の真意はまさにこの点にある。この意味において、世にいわゆる遊戯や道楽の類ほど高貴なものは他にないと思う。
人生の一切の現象は生命力の顕現であり、最も多く最も烈しく自己の生命力を表現しているのは芸術上の制作である。外界からの一切の要求を超脱して純然たる自己表現を行っている時、それこそは命懸けの最も厳粛な遊戯である。このような芸術家にはグロースが説く幼少さもあり、大いなる未来もある。芸術家が世間の批評を気にし金銭の問題を考えながら制作に従事する時、もはや「厳粛な遊戯」ではなく職人の仕事と化す。絹素に向かい彩筆を揮って自然と人生を躍動させようとした画家は、染物屋の職工、左官の雇われ人と変わってしまう。
簡括して遊戯と言っても、その範囲と種類は実に多い。気軽な遊戯、すなわち「娯楽」の類は、スペンサーが説く単なる模擬的行為と見なせよう。しかし真の自己表現としての厳粛な遊戯は、芸術的であれ実業的であれ政治的であれ学芸的であれ、すでに「道楽」の域に入っており、個人にとっても人類にとっても、未来があり向上がある。これをグロースのように準備的行為と見なせば、前述の二つの遊戯説は必ずしも両立しないとする理由はないであろう。
第3節
しかしユーモアは悲哀から生まれた「理性的逃避」の結果であるがゆえに、しばしば人をしてさらに進んで人間を冷嘲させるに至る。一切の憤慨すべき事に対して率直に怒りを発するのではなく、煙草を銜えて嘲笑するだけになるのはきわめて容易なことである。ジョン・ミルの言葉に「専制政治は人々を冷嘲家に変える」という一句がある。専制治下にある時、率直で敏感な人々は大概怒りながら生きていられない。率直な人は殉教者となって殺害される。率直でない人は人生を弄びユーモアの中に逃れ、冷冷と笑いながら暮らすのである。
だからユーモアは火のごとく水のごとく、適切に用いれば人生を豊饒にし世界を幸福にするが、度を過ぎれば家を焼き身を滅ぼし社会の前進を妨害する。
【九】
ユーモアを冷嘲に堕させない最大の要因は純真な同情であろう。同情は一切の事柄の礎石である。フランスは天才の礎石は同情だと言い、トルストイも同情を真の天才の要件とした。
ユーモアは多くても構わない。ただ同情が少ないことを恐れるのみ。人生を児戯として笑いながら日を過ごすのは冷嘲である。人生の尊さを深く味わい、深い人類愛の心情を失わずして笑うのがユーモアであろう。
それならばユーモアとは、人類の発達の一つの助因として尊重すべき心の動きであると言わざるを得ない。
古代ローマの詩聖ホラティウスはかつてこう謳った——
「笑いながら真理を語ることに何のさしつかえがあろうか?」
嫣然たる笑みの美徳によって、我々の蕭条たる人生にもいささかの温情が流露するものだと言えよう。
(一九二四年七月三日。)
humorの字を音訳して「幽默」としたのは語堂が最初に始めたことである。あの二字はあたかも意味を含むかのように見え、「静默」「幽静」等と誤解されやすいため、私はあまり賛成せずこれまで踏襲しなかった。しかし何度か考えてみたが結局代わる適当な字も思いつかず、既成のものをそのまま用いて事を済ませることにした。
一九二六年、一二、七。訳者、厦門にて識す。
第4節
【最近のゴーリキー 昇曙夢】
【一】
今年三月二十九日は革命文豪ゴーリキーの誕生六十年と文壇生活三十五周年に当たるため、ロシアではこの日から一週間にわたり全国で盛大な祝賀会が催された。これに先立ち各方面の代表者を網羅して祝賀委員会が組織され、ソ連人民委員会議長ルイコフは人民委員会の名において訓令を発し、ゴーリキーが労働階級とソヴィエト連邦のために尽力した大功を声明し、全国民にこの祝賀会の意義を宣布した。祝賀の当日には連邦内のあらゆる新聞雑誌がゴーリキーに紙面を捧げ、特別記念号を発刊し記事を満載した。モスクワを始め全国の公会堂やクラブ等で講演が行われ、夜には各劇場がゴーリキーの戯曲を上演した。文学者がその生前に国家からかくも盛大な典礼で祝賀された例はかつてない。惜しむべきはゴーリキー本人が五年前に病を患って出国し、今なおイタリアのソレントで静養中で出席できなかったことである。しかし各人民委員長を始め文壇および各団体の祝電は山のようにソレントの書斎を飾り、ヨーロッパ文壇の代表者たちの祝賀もこの日の内外の日報に掲載された。その中にはロマン・ロラン、ツヴァイク、シュニッツラー、ヴァッサーマン、パケ、ジッド、フランク、ハインリッヒ・マン、ホリチャー、ウーリッツ、キッシュらの名が見られた。ゴーリキーの名声は国際的であり、祝賀会もまた国際的であった。最も熱烈な祝意を表したのは、この革命文豪が六十年の生涯と三十巻一万ページ以上の作品を労農のロシアに捧げたその国においてであった。
【二】
ロシア文学の一時代はゴーリキーの名と結びついており、彼の芸術はその時代の偉大な社会的意義を反映している。ゴーリキーが文壇に出現した時はロシアの経済的転換の時代にあたり、資本主義的要素が封建地主的社会制度に勝利し、労働階級が初めて社会歴史的舞台に登場した。この時からゴーリキーの革命的呼号は暴風雨のごとく拡大する革命運動の時代にあって朗然と響き渡り、帝政末期の反動の時代にも声を絶やさなかった。帝国主義戦争の際にも愛国的熱狂に反対し非戦論を忘れなかった。ロシアの労働階級が資本家と地主の政権を顛覆し新生活の建設を開始した時、彼は多少の動揺があったが最終的には労農民衆と結合した。現在は旧病の静養のためイタリアに住んでいるが、毫も忌憚なく公然と全世界にブルジョアジーの罪悪を鳴らし、労働階級の勝利と成功に対する満足と歓喜を表明し、労働階級独裁の革命的建設的事業と協同提携する必要を力説している。
ゴーリキーは革命以前のロシアにおいて革命作家として世界的名声を博した唯一の文豪であり、労働階級革命の深刻な体験を遍く嘗めた。過去の革命運動と関係を持った天才的芸術家は少なくなかった。アンドレーエフ、クプリン、チリコフ等がそうである。しかし彼らは今どこにいるか?徒に外国に住み、祖国の革命の成功を呪い、亡命生活の中に自分の時代を葬り去っているではないか。ただゴーリキーのみが革命の炎の中で試練に耐え得たのである。
【三】
ゴーリキーの過去六十年のうち三十五年は文学的活動に捧げられた。彼の生涯ほど色彩と事件に富んだものは多くの文学者の中に類を見ない。多くの作品は自伝的であり、その作品中の多くのページが読者の心を惹くのは偶然ではない。ゴーリキーの芸術を通じて流れる社会的現象の複雑さは、彼の作品と生涯の中にその活きた反響を見出すことができる。彼はその文学的経歴を浮浪者の作者として、社会的罪悪と資本家の権力に粗暴に反抗する強い個性の讃美者として開始し、発達の過程で労働運動と結合し、個人主義から労働階級の集団主義へと転じようとした。彼は文芸上の偉大な巨匠であるばかりでなく労働運動史上の偉大な戦士でもある。故人レーニンの言葉を引用しよう。一九〇九年、ブルジョア新聞がゴーリキーは社会民主党を除名されたと流言した時、レーニンは『プロレタリー』紙上で述べた。「ブルジョア新聞は悪口を言っているが、同志ゴーリキーは彼らを侮蔑するかのように、あの偉大な芸術作品によってロシアおよび全世界の労働運動と余りにも強固に結合している。」
長い年月にわたるゴーリキーの生活歴程の中には動揺と疑惑の時代もあり、旁道に迷い入った瞬間もあった。しかしそれは彼が革命の理論家でも指導者でもなく、感情をもって生活を受容する最も敏感な芸術家であったからである。そうした瞬間には党の根本運動から離れ、各種の思想や事件を明了にし難くなった。しかしレーニンは彼と革命的労働運動との有機的結合を毫も疑わなかった。ソ連の労働階級はこの偉大な文豪の過去の疑惑の瞬間をまったく意に介していない。この度の記念会においてはゴーリキーの労働階級の革命的事業に対する偉大な援助を記憶し、満心の感謝を表しているのである。
第5節
【四】
この度の祝賀会はゴーリキーの過去の功績と勝利を記念するだけではない。過去の輝かしい革命的事業の他に偉大な現在と未来が約束されているからである。ゴーリキーの最近の作品は新たな創造的達成と芸術的技巧の偉大な円熟を示している。彼は今、晩年の大作三部作『四十年』の成就に没頭しており、第一部『クリム・サムギンの生涯』が異常な期待のもとに出版されたばかりである。この作品は革命以前から革命後レーニンのロシア入国までの近代ロシアの複雑な姿態を描写している。彼はまもなく新ロシアに関する創作にも着手する予定で、最近の書簡でこう書いている——「五月初めにロシアに帰り、かつて足跡を残した場所を見て回るつもりだ。工場、クラブ、農村、酒場、建築、青年共産党員等を微行して見なければならない。きわめて重要な仕事だ。」遠くイタリアに寓居しながら、ゴーリキーは終始祖国に対する燃え上がるような興味の中に生きているのである。
【五】
十月革命十周年記念節に発表された『私の祝辞』の中で彼はこう書いている——「ソヴィエト政権は確立した。新世界の基礎を建設する事業は事実上すでに成就している。いわゆる基礎とは奴隷化された意志を実生活に向けて解放したことである。生活とは行動だからである。これまで人類の自由な労働は至る所で資本家の搾取によって汚され圧迫されてきた。しかしソヴィエト連邦では人々は労働の国家的意義を意識し、労働が自由と文化への直接の捷径であることを自覚しながら労働している。ロシアの労働者はもはやわずかな糧を稼ぐのではなく、自分のために国家を稼ぎ取っているのだ。」彼はまた言う、「ロシアの労働者はレーニンの遺訓を記し、自らの国家を統治することを学んでいる。」
ゴーリキーはまた別の論文『十年』でこう結んでいる。「人々は私にこれは誇張した賛美だと言う。そうだ確かに賛美だ。私は一生涯、愛し得る人々、働き得る人々、その目的が人類の一切の力を解放し地上を美化することにある人々を真の英雄と見てきた。しかるにボリシェヴィキはすべての正直な人々が疑わない成功と精力をもってこの目的に邁進している。全世界の労働階級はすでにこの事業の価値を理解している。」
【六】
現代のソヴィエト文学と若い作家たちに対するゴーリキーの同情と興味もきわめて熾烈である。「現今ロシアでは優れた文学が発達し繁栄している。」「必要なのは若い文学者に対する大いなる注意と深い用心である。」
昨年の夏ソヴィエト国立美術院院長コーガン教授がソレントにゴーリキーを訪問した際の印象記——「ゴーリキーはロシアで行われている一切の事をきわめて注意深く研究している。三部から成る厖大な小説を書いている。彼は決してロシアの敵ではない。ソ連について多くの事を長く楽しく語った。彼は言った、『ここは退屈だがロシアには生活と動きがある。』彼はソヴィエト文学に異常な喜びを感じこれをヨーロッパ文学の上位に置いている。第一流のみならず第二流の作家の作品も渉猟していない者は一人もない……彼は今息子と嫁と二歳の孫娘だけで暮らしている。可愛い孫娘に対する彼の婉々たる愛情はかつて彼が言った『子供は地上の花である』という言葉を思い起こさせた。」
最近モスクワで「ゴーリキーは我々と共にあるか」という討論会が開かれた。セラフィモーヴィチはこう述べた——「反動の暗黒時代にゴーリキーはロシア国民を戦いに呼びかけた。革命に先立つ時代に作家たちを下層社会から蹶起させることに偉大な職務を果たした。今イタリアにいるが常に貪欲なまでの興味をもってソ連で起こる一切の事を把握している。ソヴィエトの報章をくまなく読み通し、若い作家たちと長い書簡を交わし、原稿を受け取って創作を指導し、ソヴィエト青年の生活に非常な興味を持っている。勇敢にブルジョア新聞のソ連に対する讒誣を叱責している。こうして彼は常に我々と共にあるのだ。」
【七】
現代ソヴィエト文学におけるゴーリキーの偉大な価値を見積もることは容易ではない。第一に彼は労働階級芸術の開山の祖師であり最も偉大な代表者である。レーニンは言った、「ゴーリキーは絶対に労働階級芸術の最も偉大な代表者である。すでに多くの事を成し遂げたがさらに大きな事を成し遂げ得る。」セラフィモーヴィチが述べたように、ゴーリキーは長年にわたり新進の作家や大衆出身の文学者たちと長い書簡を交わし返信を書かなかったことは一度もない。彼らの相談を酌量し常に適切な助言を与えた。この広範な観察と深厚な用心の中から無産階級芸術の将来の勝利への確信を生み出したのである。
第6節
かくのごとくガルシンは他人の煩悶苦痛に同情を寄せ、それゆえに生じた自己の苦悩を短篇小説の中に描写した。だから彼の単純で節約された小説の中には人の心を激動させる情熱的な号泣が聞こえてくる。
彼の創作『赤い花』の主人公は彼自身である。彼は狂気を発しながら病院の庭で世界のあらゆる罪悪を集めた赤い花を摘んだ。
『四日間』の戦場に横たわる兵士の苦痛を苦痛として体験したのもまた彼であった。
アファナーシエフに宛てた手紙の中で彼は一字ごとに一滴の血をもって創作していると語った。
ある教養ある婦人がガルシンが娼婦の生活を描写した時の情景をパヴロフスキーに話した。ある日ガルシンが知人の女子学生を訪ね、彼女が試験準備をしていると「どうぞ勉強を。私はものを書きましょう」と言った。しばらくして女学生が突然すすり泣きの声に驚いた。ガルシンが小説の主人公の煩悶を書きながら泣き出したのであった。
凡そガルシンの作品を読む者はこの涙、この血、この苦悩の号泣に心打たれ、彼とともに悲しみ、彼とともに罪悪を憎み、彼とともに他人を助けたいという希望に燃え上がり、彼とともにどうしようもないことに苦しむ。
ガルシンの才能は読者の心に非常な感動を与え、無関心な者にも情熱を燃え上がらせる所にある。
チェーホフはガルシンの作品を深く愛し、ガルシンもまたチェーホフの『草原』を愛読した。チェーホフの描写短篇『プリパトク』中の学生ヴァシリエフはガルシンをモデルにしたものである——
「文筆の天才、舞台の天才、芸術の天才など各種あるが、ヴァシリエフが具えている特別の才能は人性の天才であった。他人の苦痛を直覚する非常な敏感性があり、巧みな俳優がそのまま他人の動作と声を演じるように、ヴァシリエフは他人の苦痛をそのまま自分の心の中に反映させるのであった。」
しかしガルシンは芸術上の天才と人性の天才を兼ね備えていたが、この稀有な天才を粗野で残酷な国土に委ねてしまった。
敏感なガルシンは技師クトリャフツェフや芸術家デドフらを描き出し市民気質を示した。クトリャフツェフは旧友に向かって言った——「私だけが、円滑に言えばいわゆる獲得するのではない。四方の人々は空気さえも皆自分の方に引き寄せようとしている……」「感傷的な思想はもう止める時だ。」「金は一切の力だ。やろうと思えば何でもできる。」
自分の村に建てた水族館では大きな魚が小さな魚を呑み込んでいた。技師は言った、「人間と違って彼らは率直だから良い。皆互いに呑み合い恥ずかしがらない。食べた後少しも不道徳だとは感じない。」
この水族館はまるで新社会を表しているかのようだ。貪欲な者は良心の苛責を受けず、清廉潔白な者を苦しめ犠牲にしている。
ガルシンはこの社会で得意になっている市民の欲望を感じ取り犠牲者の運命を哀しんだ。ヴェレシチャーギンの展覧会で傷兵の便衣や海岸の白砂を議論しながら絵に描かれた悲哀の精神をなおざりにする俗悪な市民たちを憎んだ。
彼は青年時代にすでにヴェレシチャーギンの絵の上に死を発見し虐殺された人々の号泣を聞いた。後に一八七七年に負傷し、野戦病院で『四日間』を完成した。彼のすべての創作を通じて顕著に表現されているのは集団・民衆・労働者たちとの共同生活の必要を主張する精神である。
採鉱冶金学校の学生であったガルシンは人類の相殺を憎悪した結果、試験も受けず戦場に赴いた。しかしそれは敵を殺すためではなく同胞に代わって自己を犠牲にし民衆と共に惨苦を嘗めるためであった。
彼の精神が安静になるのは公衆の悲哀を悲哀とし自らも公衆の窮乏を体験できた時であった。短篇『赤い花』の主人公は人類の闘士として負うべき義務を完成し他人のために自己を犠牲にする人物である。短篇『夜』の主人公は生活と人間を厭い自殺しようとしたが鐘の音に警められ、「自我」のためではなく共通の真理のために愛すべきであることを理解した。
ガルシンは十二歳の時南部の草原からペテルブルクに来た。草原でユゴーやストウを読み人を愛すべきことを学んだ。ペテルブルクで人世の哀楽を知り常に群集と融合し自ら群集の一人と称した。煩悶する集団と自己との密接な関係という観念がガルシンの最大の特色である。
一八七九年の短篇『芸術家』で無関心な読者を工場に導き入れ機械やボイラーや束縛された労働者の悲惨な境遇を示した。彼本身の不幸は元気が沮喪し抗議も戦いもできず煩悶するのみの八〇年代の民衆を目のあたりにしたことである。
ガルシンは特定の党派に属さず純然たる闘士ではなかったが、一切の人類の痛苦に同情し他人の煩悩を軽減し悪弊を除去するためなら死んでも悔いないという覚悟を持っていた。最上の意味における民主主義者の文人であった。
短篇『芸術家』の主角リャビーニンはボイラー室の工人を描き出し、画布の上の工人の苦悩の目に「号泣」の影を隠したが、この号泣の声は彼自身の心を引き裂いた。リャビーニンこそガルシンである。生活の重い鉄槌に打たれる人々の擁護者であった。「やめてくれ、なぜそんなことを?」——これは「人」と「芸術家」を一身に萃めたガルシンが墓に入るまで叫び続けた言葉である。
チェーホフに先んじてガルシンはいわゆる「雀の鼻よりも短い」短篇小説を創作した。しかしこの文体は予め計画して創造されたものではなく、都市の中で時に聞こえる心を揺さぶる短い号泣のように、ガルシンの心から自ずと生まれた文体であった。
ガルシンは屍山血河から題材を取ることなく簡素に傷兵イワーノフが四日間横たわった一小地点を描写したが、この一小地点は全部の戦争と全部の生活組織とに連結し、一人の苦悶がこの上ない感動を全体の読者に与えるのである。
ガルシンが人にさらに深い感動を与え戦争の惨苦を感じさせるのは戦場ではなく、脱疽で死にゆく大学生クシマの部屋の情景である。「しかしこれは多くの人々が経験する悲哀と苦痛の海の一滴にすぎない」とは死の床の友人の言葉である。
ガルシンの小説は人々に互助の観念を起こさせ虐げられた者を擁護する心を生じさせるものである。
真の人ガルシンは他の多くの芸術家よりも貴い人物である。大天才ではないがその姿は殉教者的情熱の不滅の火に照らされたかのように美しい。
ガルシンの作品の文学的評論はコロレンコによって『十九世紀の文学』の中に詳述されている。コロレンコの精神の美はガルシンに近いが彼は勇敢な侠客として社会に現れた。ガルシンが自らの生命を賭して社会悪と闘い反動の打撃のもとに死んだ者とすれば、コロレンコは常に実際的な成果を獲得した人であった。
Lvov–Rogachevskyの『ロシア文学史梗概』の書き方は各篇しばしば異なりこの一篇はまさにスケッチに過ぎないがきわめて簡明にして要を得ている。
今回まずこの一篇を訳したのも別に深い意味はない。ただガルシンの作品は二十余年前や五六年前にすでに紹介したものがあり、読者はより容易に了解できるためである。しかしガルシンも文学史上の一環に過ぎず全局を観なければ十分に明白にはならない——この欠憾は将来改めて補うこととしよう。
一九二九年八月三十日、訳者附記。
(一九二九年九月十五日『春潮』月刊第一巻第九期所載。)
第7節
【七 レヴィンソン】
レヴィンソンの部隊はすでに何もせずに五週間駐屯していた——そのため予備の馬匹、輜重、さらに近隣の他の部隊からの破れかぶれのおとなしい脱走兵たちが身を隠していた大鍋類の財産が増えていった。人々は過度に眠り、立って歩哨をしている時ですら眠ってしまった。不穏な報告もこの巨体を動かせなかった——彼は軽率な移動を恐れていたのだ。——新たな事実は彼のこの危惧を証明したり嘲笑したりした。自らの過度な慎重さを彼自身も何度か笑った——とりわけ日本軍がクリロフカを放棄し、斥候が数百ヴェルスタにわたって敵の影を見なかったことが明白になった時には。
第8節
そこで彼は疲れた手足を伸ばし裏庭へ出て行った。厩の中では馬が蹄を踏み鳴らし新鮮な草を噛んでいた。夜番の衛兵は銃を抱きしめたまま天幕の下で眠っていた。レーヴィンソンは思った――「もし他の哨兵たちもこんなふうに眠っていたらどうなるのだ……」彼はしばらく立っていたがようやく眠気を抑え一頭の牡馬を厩から引き出した。馬具をつけた。衛兵はやはり目を覚まさなかった。「見ていろ、この犬め」――レーヴィンソンは思った。注意深く衛兵の帽子を取り乾草の中に隠すと鞍に飛び乗り哨兵の巡察に出た。
彼は灌木の茂みに沿って柵門の所まで来た。
「誰だ!」哨兵が荒々しく問い銃の遊底を鳴らした。
「仲間だ……」
「レーヴィンソンか?……なぜ夜中に歩き回る?」
「巡察員は来たか?」
「十五分前に一人来た。」
「新しい知らせはないか?」
「今のところ穏やかだ……煙草はあるか?……」
レーヴィンソンは満州煙草を少し分けてやり川の浅瀬を渡って野原に出た。
半ば盲いた月が照らし、蒼白で露に濡れた叢が薄闇に見えた。浅い川の波紋が一つ一つ礫に当たりはっきりと音を立てていた。前方の丘に四人の騎馬の影が跳ねていた。レーヴィンソンは叢の方に折れ身を隠した。音がだんだん近づき二人を見分けた――巡察だ。
「待ってくれ」と一人が言いながら馬を道へ向けると馬が鼻を鳴らし横に跳ねた。一頭がレーヴィンソンの牡馬を感じ静かにいなないた。
「驚かせたのではないか?」先頭の一人が興奮した勇壮な声で言った。「ちちちっ……畜生め!……」
「お前たちと一緒にいるのは誰だ?」レーヴィンソンは馬を近づけながら尋ねた。
「アソーギンの斥候だ……日本軍がマリエノフカに出現した……」
「マリエノフカに?」レーヴィンソンは驚いて言った。「アソーギンと部隊はどこだ?」
「クリーロフカだ」と斥候の一人が言った。「退却したのだ……戦闘は凄惨で持ちこたえられなかった。お前の方面と連絡を取るために派遣された。明日は朝鮮人の農場まで退く……」彼は重く鞍に身を傾けた――まるで自らの言葉の重荷に押されるように。「すべてが灰と化した。四十人が殺された。一夏の間こんな損害は一度もなかった。」
「クリーロフカを発ったのはいつだ?」レーヴィンソンが尋ねた。「引き返せ、一緒に行こう……」
太陽が出る頃、彼は疲弊し痩せ細り、充血した目と不眠のために重い頭を抱えて隊に戻ってきた。
アソーギンとの会見はレーヴィンソンの決心――身を潜め速やかにここを離れるという決心の正当さを決定的に証明した。それのみならずアソーギンの部隊の有様がこの事をさらに明白にした。あらゆる結束が腐り果てていた。あたかも錆びた釘と鉄の箍の樽が強力な大斧の一撃を受けたかのようだった。人々は指揮者の言葉を聞かず目的もなく裏庭を彷徨い多くの者が泥酔していた。一人の男が特に心に残った――巻き毛の痩せた男が路傍の広場に座り濁った目で地面を凝視し、盲目的な絶望の中で灰白色の朝霧に向かってぱんぱんと銃を撃っていた。
帰り着くとすぐレーヴィンソンは手紙を出し宛先人に渡した。しかし明晩この村を去ると既に決めていたことは誰にも知らせなかった。