Difference between revisions of "Lu Xun Complete Works/ja/Yao"

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(Update JA translation for 薬)
 
(Lu Xun JA translation page)
 
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= 薬 (药) =
 
= 薬 (药) =
  
'''魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)'''
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'''魯��� (ルーシュン, 1881-1936)'''
  
 
中国語からの日本語翻訳。
 
中国語からの日本語翻訳。
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「ああ、神様!」群衆の中で誰かが鋭い声を発すると、皆が指揮を受けたかのように、一斉に駆け出した。最前面では長身のエスパリスが走り、後ろでまた数発の銃声が響いた。兵士たちは大声で叫び、逃げる群衆を止めようとしたが、群衆はそれでも行ってしまった。機織女工は嘆息し、息を切らしながら、華西理と一直線に動物園まで駆けた。
 
「ああ、神様!」群衆の中で誰かが鋭い声を発すると、皆が指揮を受けたかのように、一斉に駆け出した。最前面では長身のエスパリスが走り、後ろでまた数発の銃声が響いた。兵士たちは大声で叫び、逃げる群衆を止めようとしたが、群衆はそれでも行ってしまった。機織女工は嘆息し、息を切らしながら、華西理と一直線に動物園まで駆けた。
 
  
 
=== 第2節 ===
 
=== 第2節 ===
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中国が既に自尊大をもって天下に昭聞し、善く誹る者は、或いはこれを頑固と謂い、且つ将に残闕を抱守して、以って滅亡に底らんとすと言う。近世の人士は、稍々新学の語を耳にすれば、則ちまたこれを以って愧となし、翻然として変を思い、言は西方の理に同じきに非ざれば道わず、事は西方の術に合わざれば行わず、旧物を掊撃し、力を尽くさざることを恐れ、曰く将に以って前の謬を革めて富強を図らんとするなり。間嘗てこれを論ず。昔者帝軒轅氏の蚩尤を戡って華土に定居するや、典章文物、これを以って権輿となし、苗裔の繁衍すること兹に於いてあれば、則ち更に改張皇して、益々美大に臻る。その四方に蠢蠢たる者は、胥に蕞爾たる小蛮夷のみ、厥の種の創成する所、一として中国の法と為すに足る無く、是の故に化成発達、咸く己に出でて人に取る無し。周秦に降り及んで、西方に希臘羅馬起こり、芸文思理、燦然として観るべきも、道路の艱、波涛の悪を以って、交通梗塞し、未だその善なる者を択んで以って師資と為すこと能わず。元明の時に洎んで、一二の景教父師ありといえども、教理および暦算質学を以って中国に干するも、而してその道盛んならず。故に海禁既に開き、晰人踵いで至るの頃に迄んで、中国の天下に在る、夫れ四夷の上国に則效し、革面して来賓する者あることを見る。或いは野心怒発し、狡えんして逞しくせんと思う者あり。その文化昭明にして、誠に以って相上下するに足る者の如きは、蓋し未だ之れ有らざるなり。屹然として中央に出でて校讐無く、則ちその益々自尊大し、自ら有るを宝として万物を傲睨するは、固より人情の宜しく然るべき所にして、また甚だしく理極に背くに非ざる者なり。然りといえども、ただ校讐無き故に、則ち宴安日久しく、苓落以って胎し、迫拶来らず、上征もまた辍み、人をして、人をして屯ならしめ、その極は善を見ても式るを思わざるに至る。新国林として西に起こり、その殊異の方術を以って来向し、一たび吹拂を施せば、塊然として踣僵し、人心始めて自ら危く、而して辁才小慧の徒、ここに於いて競いて武事を言う。後に殊域に学ぶ者あり、近くは中国の情を知らず、遠く復た欧美の実を察せず、拾う所の塵芥を以って、人前に羅列し、鈎爪鋸牙を謂いて、国家の首事と為し、また文明の語を引きて、用いて自ら文とし、印度波蘭を徴して、之を前鑑と作す。夫れ力を以って盈縮を角すは、文野においてまた何の関わりあらん。遠くは則ちローマの東西ゴートに於ける、近くは則ち中国の蒙古女真に於ける、この程度の離距は何如なるか、之を決するに智者を待たず。然るにその勝負の数は、果して奈何せん。苟くも曰く是れはただ往古のみ然りとし、今は則ち機械その先なり、力を以って取るに非ず、故に勝負の判ずる所、即ち文野の由って分かるる所なりと。則ち何ぞ人の智を啓いて其の性霊を開発し、罟獲戈矛を知らしめ、ただ以って豺虎を御するのみにして、喋々として白人の肉攫の心を誉めて、以って世界の文明を極むる者と為すこと又何ぞや。且つその言の如くならしめるも、而して挙国なお孱にして、之に巨兵を授けるとも、奚んぞ能く勝任し、仍って僵死あるのみ。嗟夫、夫子は蓋し兵事を習うを以って生と為すが故に、根本の図をせず、而してただ学ぶ所を提げて以って天下に干す。兜牟深くその面を隠し、威武として陵すべからざるが若きも、而して干禄の色は、固より灼然として外に現わる。其の次を計るは、乃ち復た製造商估立憲国会の説あり。前の二者は素より中国青年間に重んぜられ見ゆ、主張せざるも、之を治むる者もまた缕数すべからざるに将たん。蓋し国もし一日存すれば、固より以って力を仮りて富強を図るの名を仮り、志士の誉を博するに足り、即ち不幸ありとも、宗社墟と為るも、而して広く金資あり、大いに能く温饱し、即ち怙恃既に失うも、或いは虐殺を被ること猶太遺黎の如きも、然るに善く自ら退蔵し、或いは身に受くるに至らず。縦い大禍及ばんとするも、而して幸免する者人無きに非ず、其の人又適々己と為せば、則ち能く温飽を得ること又故の如し。夫の後の二の若きは、論ずるに足らず。中の比較的善なる者は、或いは誠に外侮の迭来を痛み、終日たり得ずして、自ら既に荒陋なれば、則ち已むを得ずして、姑く他人の緒余を拾い、大群を鳩めて以って抗御せんと思うも、而して又其の性を飛揚し、善く能く攘擾し、異己の者の興るを見れば、必ず衆を借りて以って寡を陵ぎ、衆治と託言し、圧制乃ち尤も暴君より烈し。此れは独り理に至って悖るのみならず、即ち救国を縁として図し、個人を以って供献と為すことを惜しまざるも、而して考索未だ精ならず、思慮粗疏にして、茫として未だ其の然る所以を識らず、輒ち衆志に皈依するは、蓋し痼疾の人が、薬石摂衛の道を講ぜず去りて、而して不知の力に霊を乞い、祝由の門に拝祷稽首する者と無殊なり。尤も下にして多数に居る者に至りては、乃ち是の空名を假るに過ぎず、其の私欲を遂げ、実事に見わるるを顧みず、事権言議を将て、悉く奔走干進の徒に帰し、或いは至愚屯の富人に至り、否らざれば亦善く壟断する市侩なり、特に自ら営搰を長ぜしめんが為に、当に其の班に列すべく、況んや復た自利の悪名を掩い、群を福するの令誉を以ってし、捷径目に在り、斯に竭蹶して以って之を求むることを憚らざるのみ。嗚呼、古の民に臨む者は、一独夫なり。今の道に由れば、且つ頓変して千万無頼の尤と為らん、民命に堪えず、興国において究んぞ何の与あらん。若くの如き人の者の、其の号召張皇に当たりて、蔑として近世文明を托して後盾と為さざるは弗く、其の説に佛戾する者起これば、輒ち之を謚して野人と曰い、謂いて辱国害群、罪当に流放より甚だしかるべしと為す。第だ知らず彼の謂う所の文明なる者は、将に已に準則を立て、慎んで施取し、善美を指して中国に行う可きの文明を為すか、抑々成事旧章、咸く棄捐して顧みず、独り西方文化を指して言を為すか。物質なり、衆数なり、十九世紀末葉文明の一面或いは茲に在るも、而して論者以って当有りと為さず。蓋し今の成就する所、一として前時の遺跡を縄せざるは無く、則ち文明は必ず日々其の遷流あり、又或いは往代の大潮に抗すれば、則ち文明も亦た偏至なきこと能わず。誠に今の為に計を立つるが若くば、当に既往を稽求し、方来を相度し、物質を掊ちて霊明を張り、個人に任じて衆数を排すべし。人既に発揚踔厲すれば、則ち邦国も亦た以って興起す。奚んぞ事ありて枝を抱き葉を拾い、徒らに金鉄国会立憲の云うを為さん。夫れ勢利の念中に昌狂すれば、則ち是非の弁之が為に昧く、措置張主、輒ち其の宜を失う、況んや志行汚下にして、将に新文明の名を借りて、以って大いに其の私欲を遂げんとする者をや。是の故に今謂う所の時を識るの彦は、其の実を按ずれば、則ち多数は常に盲子と為り、赤菽を宝として以って玄珠と為し、少数は乃ち巨奸と為り、微餌を垂れて以って鯨鯢を冀う。即ち是の若くならざるも、中心皆中正にして瑕玷無しとするも、是に於いて拮据辛苦し、其の雄才を展べ、漸く乃ち志遂げ事成り、終に彼の謂う所の新文明なる者を致し、挙げて之を中国に納るるも、而して此の遷流偏至の物、已に殊方に陳旧なる者を、馨香頂礼す、吾れ又何為れぞ是の若く其れ芒芒たる。是れ何ぞや。曰く物質なり、衆数なり、其の道偏至す。史実に根ざして西方に見ゆる者は已むを得ざるも、横取して之を中国に施すは則ち非なり。借りに非と曰わんか。請う其の本に循え——
 
中国が既に自尊大をもって天下に昭聞し、善く誹る者は、或いはこれを頑固と謂い、且つ将に残闕を抱守して、以って滅亡に底らんとすと言う。近世の人士は、稍々新学の語を耳にすれば、則ちまたこれを以って愧となし、翻然として変を思い、言は西方の理に同じきに非ざれば道わず、事は西方の術に合わざれば行わず、旧物を掊撃し、力を尽くさざることを恐れ、曰く将に以って前の謬を革めて富強を図らんとするなり。間嘗てこれを論ず。昔者帝軒轅氏の蚩尤を戡って華土に定居するや、典章文物、これを以って権輿となし、苗裔の繁衍すること兹に於いてあれば、則ち更に改張皇して、益々美大に臻る。その四方に蠢蠢たる者は、胥に蕞爾たる小蛮夷のみ、厥の種の創成する所、一として中国の法と為すに足る無く、是の故に化成発達、咸く己に出でて人に取る無し。周秦に降り及んで、西方に希臘羅馬起こり、芸文思理、燦然として観るべきも、道路の艱、波涛の悪を以って、交通梗塞し、未だその善なる者を択んで以って師資と為すこと能わず。元明の時に洎んで、一二の景教父師ありといえども、教理および暦算質学を以って中国に干するも、而してその道盛んならず。故に海禁既に開き、晰人踵いで至るの頃に迄んで、中国の天下に在る、夫れ四夷の上国に則效し、革面して来賓する者あることを見る。或いは野心怒発し、狡えんして逞しくせんと思う者あり。その文化昭明にして、誠に以って相上下するに足る者の如きは、蓋し未だ之れ有らざるなり。屹然として中央に出でて校讐無く、則ちその益々自尊大し、自ら有るを宝として万物を傲睨するは、固より人情の宜しく然るべき所にして、また甚だしく理極に背くに非ざる者なり。然りといえども、ただ校讐無き故に、則ち宴安日久しく、苓落以って胎し、迫拶来らず、上征もまた辍み、人をして、人をして屯ならしめ、その極は善を見ても式るを思わざるに至る。新国林として西に起こり、その殊異の方術を以って来向し、一たび吹拂を施せば、塊然として踣僵し、人心始めて自ら危く、而して辁才小慧の徒、ここに於いて競いて武事を言う。後に殊域に学ぶ者あり、近くは中国の情を知らず、遠く復た欧美の実を察せず、拾う所の塵芥を以って、人前に羅列し、鈎爪鋸牙を謂いて、国家の首事と為し、また文明の語を引きて、用いて自ら文とし、印度波蘭を徴して、之を前鑑と作す。夫れ力を以って盈縮を角すは、文野においてまた何の関わりあらん。遠くは則ちローマの東西ゴートに於ける、近くは則ち中国の蒙古女真に於ける、この程度の離距は何如なるか、之を決するに智者を待たず。然るにその勝負の数は、果して奈何せん。苟くも曰く是れはただ往古のみ然りとし、今は則ち機械その先なり、力を以って取るに非ず、故に勝負の判ずる所、即ち文野の由って分かるる所なりと。則ち何ぞ人の智を啓いて其の性霊を開発し、罟獲戈矛を知らしめ、ただ以って豺虎を御するのみにして、喋々として白人の肉攫の心を誉めて、以って世界の文明を極むる者と為すこと又何ぞや。且つその言の如くならしめるも、而して挙国なお孱にして、之に巨兵を授けるとも、奚んぞ能く勝任し、仍って僵死あるのみ。嗟夫、夫子は蓋し兵事を習うを以って生と為すが故に、根本の図をせず、而してただ学ぶ所を提げて以って天下に干す。兜牟深くその面を隠し、威武として陵すべからざるが若きも、而して干禄の色は、固より灼然として外に現わる。其の次を計るは、乃ち復た製造商估立憲国会の説あり。前の二者は素より中国青年間に重んぜられ見ゆ、主張せざるも、之を治むる者もまた缕数すべからざるに将たん。蓋し国もし一日存すれば、固より以って力を仮りて富強を図るの名を仮り、志士の誉を博するに足り、即ち不幸ありとも、宗社墟と為るも、而して広く金資あり、大いに能く温饱し、即ち怙恃既に失うも、或いは虐殺を被ること猶太遺黎の如きも、然るに善く自ら退蔵し、或いは身に受くるに至らず。縦い大禍及ばんとするも、而して幸免する者人無きに非ず、其の人又適々己と為せば、則ち能く温飽を得ること又故の如し。夫の後の二の若きは、論ずるに足らず。中の比較的善なる者は、或いは誠に外侮の迭来を痛み、終日たり得ずして、自ら既に荒陋なれば、則ち已むを得ずして、姑く他人の緒余を拾い、大群を鳩めて以って抗御せんと思うも、而して又其の性を飛揚し、善く能く攘擾し、異己の者の興るを見れば、必ず衆を借りて以って寡を陵ぎ、衆治と託言し、圧制乃ち尤も暴君より烈し。此れは独り理に至って悖るのみならず、即ち救国を縁として図し、個人を以って供献と為すことを惜しまざるも、而して考索未だ精ならず、思慮粗疏にして、茫として未だ其の然る所以を識らず、輒ち衆志に皈依するは、蓋し痼疾の人が、薬石摂衛の道を講ぜず去りて、而して不知の力に霊を乞い、祝由の門に拝祷稽首する者と無殊なり。尤も下にして多数に居る者に至りては、乃ち是の空名を假るに過ぎず、其の私欲を遂げ、実事に見わるるを顧みず、事権言議を将て、悉く奔走干進の徒に帰し、或いは至愚屯の富人に至り、否らざれば亦善く壟断する市侩なり、特に自ら営搰を長ぜしめんが為に、当に其の班に列すべく、況んや復た自利の悪名を掩い、群を福するの令誉を以ってし、捷径目に在り、斯に竭蹶して以って之を求むることを憚らざるのみ。嗚呼、古の民に臨む者は、一独夫なり。今の道に由れば、且つ頓変して千万無頼の尤と為らん、民命に堪えず、興国において究んぞ何の与あらん。若くの如き人の者の、其の号召張皇に当たりて、蔑として近世文明を托して後盾と為さざるは弗く、其の説に佛戾する者起これば、輒ち之を謚して野人と曰い、謂いて辱国害群、罪当に流放より甚だしかるべしと為す。第だ知らず彼の謂う所の文明なる者は、将に已に準則を立て、慎んで施取し、善美を指して中国に行う可きの文明を為すか、抑々成事旧章、咸く棄捐して顧みず、独り西方文化を指して言を為すか。物質なり、衆数なり、十九世紀末葉文明の一面或いは茲に在るも、而して論者以って当有りと為さず。蓋し今の成就する所、一として前時の遺跡を縄せざるは無く、則ち文明は必ず日々其の遷流あり、又或いは往代の大潮に抗すれば、則ち文明も亦た偏至なきこと能わず。誠に今の為に計を立つるが若くば、当に既往を稽求し、方来を相度し、物質を掊ちて霊明を張り、個人に任じて衆数を排すべし。人既に発揚踔厲すれば、則ち邦国も亦た以って興起す。奚んぞ事ありて枝を抱き葉を拾い、徒らに金鉄国会立憲の云うを為さん。夫れ勢利の念中に昌狂すれば、則ち是非の弁之が為に昧く、措置張主、輒ち其の宜を失う、況んや志行汚下にして、将に新文明の名を借りて、以って大いに其の私欲を遂げんとする者をや。是の故に今謂う所の時を識るの彦は、其の実を按ずれば、則ち多数は常に盲子と為り、赤菽を宝として以って玄珠と為し、少数は乃ち巨奸と為り、微餌を垂れて以って鯨鯢を冀う。即ち是の若くならざるも、中心皆中正にして瑕玷無しとするも、是に於いて拮据辛苦し、其の雄才を展べ、漸く乃ち志遂げ事成り、終に彼の謂う所の新文明なる者を致し、挙げて之を中国に納るるも、而して此の遷流偏至の物、已に殊方に陳旧なる者を、馨香頂礼す、吾れ又何為れぞ是の若く其れ芒芒たる。是れ何ぞや。曰く物質なり、衆数なり、其の道偏至す。史実に根ざして西方に見ゆる者は已むを得ざるも、横取して之を中国に施すは則ち非なり。借りに非と曰わんか。請う其の本に循え——
 
  
 
=== 第3節 ===
 
=== 第3節 ===
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個人という一語が、中國に入りて未だ三四年、号して時を識ると称する士は、多くこれを引いて大詬となし、もしその謚を被れば、民賊と同じである。意うに未だ深知明察に遑あらず、而して迷誤して人を害し己を利するの義となすか。その実を夷考するに、至ってしからずである。而して十九世紀末の個人を重んずるは、すなわち弔詭にして恒と殊なり、なおさら往者と比論することができない。試みに爾時の人性を案ずるに、みな絶えてその前と異なり、自識に入り、我執に趣き、剛愎主己にして、庸俗に顧忌するところがない。詩歌説部の記述するところのごとく、毎々驕蹇不遜なる者をもって全局の主人となす。これは操觚の士が、独り神思に憑って構架してしからしむるのではなく、社会思潮が、先にその朕を発し、すなわちこれを載籍に移すのみである。けだしフランス大革命以来、平等自由を、凡事の首となし、続いて普通教育及び国民教育は、みなこれを基として遍施せざるはない。久しく文化に浴すれば、すなわち漸く人類の尊厳を悟り、すでに自我を知れば、すなわち頓に個性の価値を識る。もって往の習慣の墜地し、崇信の蕩搖するに加われば、すなわちその自覚の精神は、自ら一転して極端の主我に之く。かつ社会民主の傾向も、勢いまた大いに張り、すべて個人なる者は、すなわち社会の一分子で、夷隆実陷がこれ指帰となり、天下の人人をして一致に帰らしめ、社会の内に、蕩として高卑なからしむ。これその理想たることは誠に美であるが、顧みれば個人殊特の性に於いては、これを視ること蔑如として、すでにこれに別分を加えず、かつこれを滅絶に致さんと欲している。さらに黮暗を挙ぐれば、すなわち流弊の至るところ、まさに文化の純粋なる者をして、精神ますます固陋に趨らせ、頽波日に逝き、纖屑も存せざらしめんとしている。けだしいわゆる社会を平らかにする者は、大都峻を夷らげて卑を湮めず、もし信じて程度大同に至らば、必ず前此の進歩水平以下にある。況や人群の内には、明哲は多からず、伧俗横行して、浩として御すべからず、風潮剥蝕して、全体もって凡庸に淪す。塵埃を超越し、人事を解脱するか、或いは愚屯罔識にして、ただ衆に是従する者でなければ、その能く緘口して無言なるか。物極に反すれば、すなわち先覚善斗の士出ず。ドイツ人シュティルナー(M.Stirner)すなわち先に極端の個人主義をもって世に現る。謂らく真の進歩は、己の足下にあり。人は必ず自性を発揮して、観念世界の執持を脱せよ。ただこの自性のみが、すなわち造物主である。ただこの我あるのみが、本属自由である。すでに本有であって、而して更に外求するは、これ矛盾と曰う。自由は力をもって得、而して力はすなわち個人にあり、また資財であり、また権利である。故にもし外力来被あれば、すなわち寡人より出づるを間わず、或いは衆庶より出づるも、みな専制である。国家は吾まさに国民とその意志を合すべしと謂うも、また一専制である。衆意は法律として表現し、吾すなわちその束縛を受く、たとい我がための輿台と曰うも、顧みれば同じくこれ輿台のみ。これを去るはいかん。曰く、義務を絶つにあり。義務廃絶して、而して法律もまた偕に亡ぶ、と。意はけだしすべて一個人は、その思想行為は、必ず己を中枢とし、また己を終極とする、すなわち我性を立てて絶対の自由となす者である。ショーペンハウアー(A.Schopenhauer)に至っては、すなわち自ら既に兀傲剛愎をもって名あり、言行奇觚にして、世に希有であり、また盲瞽鄙倍の衆の、両間に充塞するを見て、すなわちこれを視ること至劣の動物と並等とし、ますます主我扬己して天才を尊ぶ。デンマークの哲人キルケゴール(S.Kierkegaard)に至ってはすなわち憤発疾呼し、謂らくただ個性を発揮するのみが、至高の道德であり、而して他事を顧瞻するは、みな無益である、と。その後に文界に見ゆる顕理イプセン(Henrik Ibsen)は、瑰才卓識、キルケゴールの詮釈者をもって称す。その著すところの書は、往々社会民主の傾向に反し、精力旁注すれば、すなわち習慣信仰道德を間わず、もし虚に拘って偏至なる者あれば、みなこれに抵排を加えざるはない。更に近世人生を睹るに、毎々平等の名を託し、実はすなわちますます悪濁に趨り、庸凡涼薄は、日にますます深く、頑愚の道行われ、偽詐の勢逞しくして、而して気宇品性卓爾不群の士は、すなわち反って草莽に窮し、泥塗に辱められ、個性の尊厳、人類の価値は、まさにことごとく無有に帰せんとし、すなわち常に慷慨激昂して自ら已むことができない。その『民敵』一書のごとき、謂らく人あり真理を宝守し、世に阿せず俗に媚びず、而して人群に容れられず、狡狯の徒は、すなわち巍然として独り衆愚の領袖となり、多を借りて寡を陵ぎ、党を植えて自私し、ここに於いて戦闘もって興り、而してその書もまた止む。社会の象は、宛然としてここに具わっている。ニーチェのごときに至っては、これ個人主義の至雄桀なる者で、希望の寄するところは、ただ大士天才にあり、而して愚民を本位とするのは、すなわちこれを悪むこと蛇蝎に殊ならず。意はけだし謂らく治を多数に任ずれば、すなわち社会の元気は、一旦隳るべく、庸衆を犠牲に用いて、以って一二天才の出世を冀うに若かず、天才出でて社会の活動もまたもって萌ゆ、すなわちいわゆる超人の説で、嘗て欧州の思想界を震驚せしめたる者である。これによりてこれを観れば、彼の衆数を謳歌し、神明のごとく奉ずる者は、けだし僅かに光明の一端を見て、他は未だ遍く知らず、因りて賛頌を加え、もし反ってこれを諸黑暗に観せば、まさに立ちどころにその然らざるを悟るべきである。一のソクラテスを、而して衆のギリシア人これに毒を飲ませ、一のイエス・キリストを、而して衆のユダヤ人これを磔にし、後世の論者は、孰れも謬と云わざるはないが、顧みればその時はすなわち衆志に従うのみであった。もし今の衆志を留めて、これを載籍に移し、以って来哲の評骘を俟てば、すなわちその是非倒置は、或いは正に今人の往古を視るがごとく、未だ知るべからざるものある。故に多数相朋して、而して仁義の途、是非の端は、樊然として淆乱し、ただ常言のみがこれ解で、奧義に於いては漠然である。常言と奧義と、孰れか正に近き。是の故にブルータス既にシーザーを殺し、市人に昭告するに、その詞は秩然として条あり、名分大義は、炳として火を観るがごとし。而して衆の感を受くるは、すなわちアントニーが血衣を指すの数言に如かず。ここに於いて方に群推して愛国の偉人となし、忽ち域外に逐わるるを見る。それ誉むる者は衆数であり、逐う者もまた衆数であり、一瞬息の中に、変易反復し、その特操なきこと言を俟たず、すなわち現象を観るのみで、已に不祥の消息を知るに足る。故に是非は衆に公すべからず、これを公すればすなわち果して誠ならず。政事は衆に公すべからず、これを公すればすなわち治郅せず。ただ超人出でて、世すなわち太平なり。もしできなければ、すなわち英哲にあり。嗟夫、彼の無政府主義を持する者は、その顛覆満盈、階級鏟除も、また已に至極で、而して建説創業の諸雄は、大都導師を以って自命している。それ一たび導き衆従うは、智愚の別すなわちここにある。その英哲を抑えて凡庸に就かしむるよりは、いずくんぞ衆人を置いて英哲を希うに若かんや。すなわち多数の説は、謬にして経に中らず、個性の尊は、まさに張大すべきところで、けだしこれを是非利害に揆るに、已に繁言深慮を待たずして知るべきである。しかしながら、これもまた勇猛無畏の人に頼り、独立自強して、塵垢を去離し、輿言を排して俗囿に淪せざる者である。
 
個人という一語が、中國に入りて未だ三四年、号して時を識ると称する士は、多くこれを引いて大詬となし、もしその謚を被れば、民賊と同じである。意うに未だ深知明察に遑あらず、而して迷誤して人を害し己を利するの義となすか。その実を夷考するに、至ってしからずである。而して十九世紀末の個人を重んずるは、すなわち弔詭にして恒と殊なり、なおさら往者と比論することができない。試みに爾時の人性を案ずるに、みな絶えてその前と異なり、自識に入り、我執に趣き、剛愎主己にして、庸俗に顧忌するところがない。詩歌説部の記述するところのごとく、毎々驕蹇不遜なる者をもって全局の主人となす。これは操觚の士が、独り神思に憑って構架してしからしむるのではなく、社会思潮が、先にその朕を発し、すなわちこれを載籍に移すのみである。けだしフランス大革命以来、平等自由を、凡事の首となし、続いて普通教育及び国民教育は、みなこれを基として遍施せざるはない。久しく文化に浴すれば、すなわち漸く人類の尊厳を悟り、すでに自我を知れば、すなわち頓に個性の価値を識る。もって往の習慣の墜地し、崇信の蕩搖するに加われば、すなわちその自覚の精神は、自ら一転して極端の主我に之く。かつ社会民主の傾向も、勢いまた大いに張り、すべて個人なる者は、すなわち社会の一分子で、夷隆実陷がこれ指帰となり、天下の人人をして一致に帰らしめ、社会の内に、蕩として高卑なからしむ。これその理想たることは誠に美であるが、顧みれば個人殊特の性に於いては、これを視ること蔑如として、すでにこれに別分を加えず、かつこれを滅絶に致さんと欲している。さらに黮暗を挙ぐれば、すなわち流弊の至るところ、まさに文化の純粋なる者をして、精神ますます固陋に趨らせ、頽波日に逝き、纖屑も存せざらしめんとしている。けだしいわゆる社会を平らかにする者は、大都峻を夷らげて卑を湮めず、もし信じて程度大同に至らば、必ず前此の進歩水平以下にある。況や人群の内には、明哲は多からず、伧俗横行して、浩として御すべからず、風潮剥蝕して、全体もって凡庸に淪す。塵埃を超越し、人事を解脱するか、或いは愚屯罔識にして、ただ衆に是従する者でなければ、その能く緘口して無言なるか。物極に反すれば、すなわち先覚善斗の士出ず。ドイツ人シュティルナー(M.Stirner)すなわち先に極端の個人主義をもって世に現る。謂らく真の進歩は、己の足下にあり。人は必ず自性を発揮して、観念世界の執持を脱せよ。ただこの自性のみが、すなわち造物主である。ただこの我あるのみが、本属自由である。すでに本有であって、而して更に外求するは、これ矛盾と曰う。自由は力をもって得、而して力はすなわち個人にあり、また資財であり、また権利である。故にもし外力来被あれば、すなわち寡人より出づるを間わず、或いは衆庶より出づるも、みな専制である。国家は吾まさに国民とその意志を合すべしと謂うも、また一専制である。衆意は法律として表現し、吾すなわちその束縛を受く、たとい我がための輿台と曰うも、顧みれば同じくこれ輿台のみ。これを去るはいかん。曰く、義務を絶つにあり。義務廃絶して、而して法律もまた偕に亡ぶ、と。意はけだしすべて一個人は、その思想行為は、必ず己を中枢とし、また己を終極とする、すなわち我性を立てて絶対の自由となす者である。ショーペンハウアー(A.Schopenhauer)に至っては、すなわち自ら既に兀傲剛愎をもって名あり、言行奇觚にして、世に希有であり、また盲瞽鄙倍の衆の、両間に充塞するを見て、すなわちこれを視ること至劣の動物と並等とし、ますます主我扬己して天才を尊ぶ。デンマークの哲人キルケゴール(S.Kierkegaard)に至ってはすなわち憤発疾呼し、謂らくただ個性を発揮するのみが、至高の道德であり、而して他事を顧瞻するは、みな無益である、と。その後に文界に見ゆる顕理イプセン(Henrik Ibsen)は、瑰才卓識、キルケゴールの詮釈者をもって称す。その著すところの書は、往々社会民主の傾向に反し、精力旁注すれば、すなわち習慣信仰道德を間わず、もし虚に拘って偏至なる者あれば、みなこれに抵排を加えざるはない。更に近世人生を睹るに、毎々平等の名を託し、実はすなわちますます悪濁に趨り、庸凡涼薄は、日にますます深く、頑愚の道行われ、偽詐の勢逞しくして、而して気宇品性卓爾不群の士は、すなわち反って草莽に窮し、泥塗に辱められ、個性の尊厳、人類の価値は、まさにことごとく無有に帰せんとし、すなわち常に慷慨激昂して自ら已むことができない。その『民敵』一書のごとき、謂らく人あり真理を宝守し、世に阿せず俗に媚びず、而して人群に容れられず、狡狯の徒は、すなわち巍然として独り衆愚の領袖となり、多を借りて寡を陵ぎ、党を植えて自私し、ここに於いて戦闘もって興り、而してその書もまた止む。社会の象は、宛然としてここに具わっている。ニーチェのごときに至っては、これ個人主義の至雄桀なる者で、希望の寄するところは、ただ大士天才にあり、而して愚民を本位とするのは、すなわちこれを悪むこと蛇蝎に殊ならず。意はけだし謂らく治を多数に任ずれば、すなわち社会の元気は、一旦隳るべく、庸衆を犠牲に用いて、以って一二天才の出世を冀うに若かず、天才出でて社会の活動もまたもって萌ゆ、すなわちいわゆる超人の説で、嘗て欧州の思想界を震驚せしめたる者である。これによりてこれを観れば、彼の衆数を謳歌し、神明のごとく奉ずる者は、けだし僅かに光明の一端を見て、他は未だ遍く知らず、因りて賛頌を加え、もし反ってこれを諸黑暗に観せば、まさに立ちどころにその然らざるを悟るべきである。一のソクラテスを、而して衆のギリシア人これに毒を飲ませ、一のイエス・キリストを、而して衆のユダヤ人これを磔にし、後世の論者は、孰れも謬と云わざるはないが、顧みればその時はすなわち衆志に従うのみであった。もし今の衆志を留めて、これを載籍に移し、以って来哲の評骘を俟てば、すなわちその是非倒置は、或いは正に今人の往古を視るがごとく、未だ知るべからざるものある。故に多数相朋して、而して仁義の途、是非の端は、樊然として淆乱し、ただ常言のみがこれ解で、奧義に於いては漠然である。常言と奧義と、孰れか正に近き。是の故にブルータス既にシーザーを殺し、市人に昭告するに、その詞は秩然として条あり、名分大義は、炳として火を観るがごとし。而して衆の感を受くるは、すなわちアントニーが血衣を指すの数言に如かず。ここに於いて方に群推して愛国の偉人となし、忽ち域外に逐わるるを見る。それ誉むる者は衆数であり、逐う者もまた衆数であり、一瞬息の中に、変易反復し、その特操なきこと言を俟たず、すなわち現象を観るのみで、已に不祥の消息を知るに足る。故に是非は衆に公すべからず、これを公すればすなわち果して誠ならず。政事は衆に公すべからず、これを公すればすなわち治郅せず。ただ超人出でて、世すなわち太平なり。もしできなければ、すなわち英哲にあり。嗟夫、彼の無政府主義を持する者は、その顛覆満盈、階級鏟除も、また已に至極で、而して建説創業の諸雄は、大都導師を以って自命している。それ一たび導き衆従うは、智愚の別すなわちここにある。その英哲を抑えて凡庸に就かしむるよりは、いずくんぞ衆人を置いて英哲を希うに若かんや。すなわち多数の説は、謬にして経に中らず、個性の尊は、まさに張大すべきところで、けだしこれを是非利害に揆るに、已に繁言深慮を待たずして知るべきである。しかしながら、これもまた勇猛無畏の人に頼り、独立自強して、塵垢を去離し、輿言を排して俗囿に淪せざる者である。
 
  
 
=== 第4節 ===
 
=== 第4節 ===
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これより観れば、ヨーロッパ十九世紀の文明が前古を度越し、アジアの東を凌駕したことは、まことに明察を俟たずして見えるところだ。しかし改革を以て胎し、反抗を本とする以上、一極に偏るは固より理勢の必然である。末流に及んで、弊はすなわち自ら顕れた。ここに新宗が蹶起し、ことさらにその初めに反し、復た熱烈の情と勇猛の行をもって大波を起こしてこれに滌蕩を加えた。今日に至って益々浩然たり。その将来の結果如何は、いまだ率に測るべからず。しかし旧弊の薬石となり新生の津梁を造り、流衍はまさに長く、漫りに遽に已まざれば、その本質を相し、その精神を察するに、徴信すべきものがある。思うに文化は常に幽深に進み、人心は固定に安んぜず、二十世紀の文明は必ず沈邃
 
これより観れば、ヨーロッパ十九世紀の文明が前古を度越し、アジアの東を凌駕したことは、まことに明察を俟たずして見えるところだ。しかし改革を以て胎し、反抗を本とする以上、一極に偏るは固より理勢の必然である。末流に及んで、弊はすなわち自ら顕れた。ここに新宗が蹶起し、ことさらにその初めに反し、復た熱烈の情と勇猛の行をもって大波を起こしてこれに滌蕩を加えた。今日に至って益々浩然たり。その将来の結果如何は、いまだ率に測るべからず。しかし旧弊の薬石となり新生の津梁を造り、流衍はまさに長く、漫りに遽に已まざれば、その本質を相し、その精神を察するに、徴信すべきものがある。思うに文化は常に幽深に進み、人心は固定に安んぜず、二十世紀の文明は必ず沈邃
 
  
 
=== 第5節 ===
 
=== 第5節 ===
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雷峰塔の煉瓦が掘り取られたのは、ごく最近の小さな一例に過ぎない。龍門の石仏は大半が手足を欠き、図書館の書籍は挿図を引き裂かれぬよう用心せねばならず、公共物や無主の物は、動かしにくいものでさえ完全なままのものは甚だ少ない。その毀損の原因は、革除者のように掃除を志すのでもなく、寇盗のように掠奪や破壊だけを志すのでもなく、ただ目前の極めて小さな私利のために、完全な大きなものにひそかに一つの傷を加えることを厭わないのだ。人数が多ければ傷は当然甚大となり、倒壊した後には、加害者が結局誰なのか分かりにくい。ちょうど雷峰塔が倒れた後、田舎の人の迷信のためだということだけは分かるようなものだ。共有の塔は
 
雷峰塔の煉瓦が掘り取られたのは、ごく最近の小さな一例に過ぎない。龍門の石仏は大半が手足を欠き、図書館の書籍は挿図を引き裂かれぬよう用心せねばならず、公共物や無主の物は、動かしにくいものでさえ完全なままのものは甚だ少ない。その毀損の原因は、革除者のように掃除を志すのでもなく、寇盗のように掠奪や破壊だけを志すのでもなく、ただ目前の極めて小さな私利のために、完全な大きなものにひそかに一つの傷を加えることを厭わないのだ。人数が多ければ傷は当然甚大となり、倒壊した後には、加害者が結局誰なのか分かりにくい。ちょうど雷峰塔が倒れた後、田舎の人の迷信のためだということだけは分かるようなものだ。共有の塔は
 
  
 
=== 第6節 ===
 
=== 第6節 ===
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英雄的な号だけではない。悲壮淋漓たる詩文であっても、所詮は紙の上のものにすぎず、後の武昌起義とはさして大きな関係はなかったろう。もし影響と言うなら、他のどんな千言万語も、おそらく平明直截な「革命軍馬前卒 鄒容」の著した『革命軍』には敵うまい。
 
英雄的な号だけではない。悲壮淋漓たる詩文であっても、所詮は紙の上のものにすぎず、後の武昌起義とはさして大きな関係はなかったろう。もし影響と言うなら、他のどんな千言万語も、おそらく平明直截な「革命軍馬前卒 鄒容」の著した『革命軍』には敵うまい。
 
  
 
 
 
  
 
革命が起こると、大体において言えば、復讐思想は後退した。思うに、大半は皆がすでに成功の希望を抱き、また「文明」の薬を服用して、漢人のために面目を施そうとしたからであり、もはや残酷な報復はなかった。だがあの時のいわゆる文明は、確かに洋文明であって国粋ではなく、いわゆる共和もアメリカ・フランス式の共和であって、周召共和の共和ではなかった。革命党員もおおむね本民族の名誉を高めようと力を尽くしたので、軍隊もさほど略奪しなかった。南京の土匪兵が小さな略奪をした時、黄興先生は勃然と激怒し、多くを銃殺した。後に土匪は銃殺を恐れず梟首を恐れると知り、死体から首を切り落とし、荒縄で括って木に吊るした。以来何の変事もなくなった。もっとも私の住んでいた機関の衛兵が、私の外出時に銃を構えて敬礼した後、窓の穴から這い入って私の衣服を取っていったが、それでも手段はだいぶ穏やかになり、礼儀正しくもなっていた。
 
革命が起こると、大体において言えば、復讐思想は後退した。思うに、大半は皆がすでに成功の希望を抱き、また「文明」の薬を服用して、漢人のために面目を施そうとしたからであり、もはや残酷な報復はなかった。だがあの時のいわゆる文明は、確かに洋文明であって国粋ではなく、いわゆる共和もアメリカ・フランス式の共和であって、周召共和の共和ではなかった。革命党員もおおむね本民族の名誉を高めようと力を尽くしたので、軍隊もさほど略奪しなかった。南京の土匪兵が小さな略奪をした時、黄興先生は勃然と激怒し、多くを銃殺した。後に土匪は銃殺を恐れず梟首を恐れると知り、死体から首を切り落とし、荒縄で括って木に吊るした。以来何の変事もなくなった。もっとも私の住んでいた機関の衛兵が、私の外出時に銃を構えて敬礼した後、窓の穴から這い入って私の衣服を取っていったが、それでも手段はだいぶ穏やかになり、礼儀正しくもなっていた。
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このような有様を見れば、たとえ『揚州十日記』を目の前にぶら下げても、さして憤怒を覚えることもあるまい。私の感じたところでは、民国成立後、漢満の悪感情はずいぶん消え去ったようであり、各省の境界も以前よりさらに薄れた。だが「罪業深重にして自ら殞滅せぬ」中国人は、一年と経たぬうちに事態がまた逆転した。宗社党の活動や遺老の妄挙があって両民族の旧史がまた思い起こされ、袁世凱の策略があって南北の対立が加わり、陰謀家の狡計があって省境がまた利用され、しかもこの後もさらに増長していくのだ!
 
このような有様を見れば、たとえ『揚州十日記』を目の前にぶら下げても、さして憤怒を覚えることもあるまい。私の感じたところでは、民国成立後、漢満の悪感情はずいぶん消え去ったようであり、各省の境界も以前よりさらに薄れた。だが「罪業深重にして自ら殞滅せぬ」中国人は、一年と経たぬうちに事態がまた逆転した。宗社党の活動や遺老の妄挙があって両民族の旧史がまた思い起こされ、袁世凱の策略があって南北の対立が加わり、陰謀家の狡計があって省境がまた利用され、しかもこの後もさらに増長していくのだ!
 
  
 
 
 
  
 
自分の性質が格別に悪いのか、それとも過去の環境の影響から脱し切れぬせいか分からないが、私はどうも復讐は驚くに当たらないと感じている。もちろん無抵抗主義の者を人格なきものと誣いようとまでは思わないが。だが時にはこうも思う。報復を誰が裁き、どうすれば公平になるのか? するとすぐさま自答する。自ら裁き、自ら執行する。上帝が主宰してくれぬ以上、目をもって頭に償うのも構わぬし、頭をもって目に償うのも構わぬと。時には寛恕は美徳だと感じるが、たちまちこの言葉は臆病者が発明したのではないかと疑う。報復の勇気がないからだ。あるいは卑怯な悪人が作り出したのかもしれない。人に害をなしておきながら報復を恐れ、寛恕の美名で欺くのだ。
 
自分の性質が格別に悪いのか、それとも過去の環境の影響から脱し切れぬせいか分からないが、私はどうも復讐は驚くに当たらないと感じている。もちろん無抵抗主義の者を人格なきものと誣いようとまでは思わないが。だが時にはこうも思う。報復を誰が裁き、どうすれば公平になるのか? するとすぐさま自答する。自ら裁き、自ら執行する。上帝が主宰してくれぬ以上、目をもって頭に償うのも構わぬし、頭をもって目に償うのも構わぬと。時には寛恕は美徳だと感じるが、たちまちこの言葉は臆病者が発明したのではないかと疑う。報復の勇気がないからだ。あるいは卑怯な悪人が作り出したのかもしれない。人に害をなしておきながら報復を恐れ、寛恕の美名で欺くのだ。
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日本語版の『桃色の雲』が出版された時、江口氏の文章も載っていたが、すでに検閲機関(警察庁?)に多くを削除されていた。私の訳文は完全なものだが、この戯曲が単行本になった時には付けなかった。なぜなら、その頃私はまた別の事態を目にし、別の考えが生まれ、中国人の憤火の上にさらに薪炭を足す気にはなれなくなったからだ。
 
日本語版の『桃色の雲』が出版された時、江口氏の文章も載っていたが、すでに検閲機関(警察庁?)に多くを削除されていた。私の訳文は完全なものだが、この戯曲が単行本になった時には付けなかった。なぜなら、その頃私はまた別の事態を目にし、別の考えが生まれ、中国人の憤火の上にさらに薪炭を足す気にはなれなくなったからだ。
 
  
 
 
 
  
 
孔先生は言った。「己に如かざる者を友とするなかれ」。実のところこのような勢利眼は、現在の世界にもまだ多い。自分の国の有様を見れば、何の友人もいないことは分かるだろう。友人がいないどころか、大半がかつて仇敵であったことさえある。ただし甲を恨む時には乙に公論を待ち、後に乙を恨む時には甲に同情を期待するので、断片的に見れば、全世界がみな怨敵であるわけではないようにも見える。だが怨敵は常に一人はいるのであり、そのため一、二年ごとに愛国者は敵への怨恨と憤怒を鼓舞しなければならない。
 
孔先生は言った。「己に如かざる者を友とするなかれ」。実のところこのような勢利眼は、現在の世界にもまだ多い。自分の国の有様を見れば、何の友人もいないことは分かるだろう。友人がいないどころか、大半がかつて仇敵であったことさえある。ただし甲を恨む時には乙に公論を待ち、後に乙を恨む時には甲に同情を期待するので、断片的に見れば、全世界がみな怨敵であるわけではないようにも見える。だが怨敵は常に一人はいるのであり、そのため一、二年ごとに愛国者は敵への怨恨と憤怒を鼓舞しなければならない。
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つまり、国民にもし智がなく勇がなく、ただ一種のいわゆる「気」だけに頼るならば、実に非常に危険であると私は思う。今こそ、さらに進んでより堅実な仕事に着手すべきである。
 
つまり、国民にもし智がなく勇がなく、ただ一種のいわゆる「気」だけに頼るならば、実に非常に危険であると私は思う。今こそ、さらに進んでより堅実な仕事に着手すべきである。
 
  
 
(一九二五年六月十六日。)
 
(一九二五年六月十六日。)
  
 
【目を開けて見ることについて】
 
【目を開けて見ることについて】
 
 
  
 
虚生先生の時事短評の中に、かつてこのような題目があった。「我々は各方面を正視する勇気を持つべきである」(『猛進』第十九期)。誠にその通り、正視する勇気があってこそ、敢えて考え、敢えて語り、敢えて行い、敢えて引き受けることが望める。もし正視すらできぬとあれば、他に何ができようか。だが不幸にも、この種の勇気こそ、我々中国人が最も欠くものである。
 
虚生先生の時事短評の中に、かつてこのような題目があった。「我々は各方面を正視する勇気を持つべきである」(『猛進』第十九期)。誠にその通り、正視する勇気があってこそ、敢えて考え、敢えて語り、敢えて行い、敢えて引き受けることが望める。もし正視すらできぬとあれば、他に何ができようか。だが不幸にも、この種の勇気こそ、我々中国人が最も欠くものである。
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(近頃、新詩人が詩を作って発表するのは目立ちたがりで異性を引きつけるためだと言い、新聞雑誌がむやみに掲載するのにまで怒りを向ける者がいる。だが新聞がなくとも、壁は「古よりこれあり」で、とうに発表の機関を務めていた。『封神演義』によれば、紂王がすでに女媧廟の壁に詩を題している。その起源は実に甚だ古い。新聞は白話を採らぬこともでき、小詩を排斥することもできるが、壁は壊し尽くせず管理も及ばない。たとえ一律に黒く塗っても、割れた磁器で引っかき、チョークで書くことができる。まことに応対に窮する。詩を作っても木版に刻んで名山に蔵するのでなく、随時発表しようとするのは、確かに弊害も多いが、おそらく杜絶しがたいのだろう。)
 
(近頃、新詩人が詩を作って発表するのは目立ちたがりで異性を引きつけるためだと言い、新聞雑誌がむやみに掲載するのにまで怒りを向ける者がいる。だが新聞がなくとも、壁は「古よりこれあり」で、とうに発表の機関を務めていた。『封神演義』によれば、紂王がすでに女媧廟の壁に詩を題している。その起源は実に甚だ古い。新聞は白話を採らぬこともでき、小詩を排斥することもできるが、壁は壊し尽くせず管理も及ばない。たとえ一律に黒く塗っても、割れた磁器で引っかき、チョークで書くことができる。まことに応対に窮する。詩を作っても木版に刻んで名山に蔵するのでなく、随時発表しようとするのは、確かに弊害も多いが、おそらく杜絶しがたいのだろう。)
  
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=== 第7節 ===
  
=== 第46節 ===
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『紅楼夢』の中の小悲劇は、社会に常にある出来事であり、作者はまた比較的あえて実写する人であり、その結果も決して悪くない。賈家の家業が再興しようと、蘭桂斉芳であろうと、宝玉自身にしてからが、大紅の猩々毡のマントを纏った和尚となった。和尚は数多いが、このような豪勢なマントを纏う者がいくらいるだろうか、もはや「入聖超凡」に疑いはない。その他の人々に至っては、帳面の中で一人一人あらかじめ定められており、末路は一つの帰結に過ぎない。それは問題の終結であって、問題の始まりではない。読者はたとえ多少の不安を覚えても、結局は如何ともし難い。しかし後世の続作者や改作者は、死骸に魂を借りて還らせるか、冥界で別に縁組みをするかして、必ず「生旦が場上で団円」するまでは手を離さない。自己欺瞞の中毒が深過ぎるので、小さな騙しを見ても甘んじられず、きっと目を瞑って一通りの出鱈目を言ってから気が済むのだ。ヘッケル(E. Haeckel)はかつて言った——人と人との差は、時として類人猿と原人との差よりも遠いと。我々が『紅楼夢』の続作者と原作者とを比較すれば、この言葉がおおむね確かであることを認めるだろう。
  
現在通用される言い方は「日本軍の至る所、抵抗これに随う」というものであり、失地回復の如何については、当然「軍事専門家にあらざれば、詳細なる計画は知り得ず」ということである。なるほど、「日本軍の至る所、抵抗これに随う」──これこそ迎え撃ちでなくて何であろうか!日本軍が来れば、迎え撃って「駆ける」のだ。日本軍が瀋陽に至れば、迎え撃って北平へ駆け、日本軍が閘北に至れば、迎え撃って真茹へ駆け、日本軍が山海関に至れば、迎え撃って塘沽へ駆け、日本軍が承徳に至れば、迎え撃って古北口へ駆ける……。以前には行都洛陽があり、今は陪都西安があり、将来はなお「漢族発祥の地」崑崙山──西方極楽世界がある。失地回復云々に至っては、軍事専門家にあらずともこれを知り得るのであって、経典に曰く「後ろから付いて来るな」と。これを以前の上海戦事に照らせば、日本軍が租界に退守する度に、「厳に部下に命じて一歩たりとも越境せしむることなかれ」というのであった。かくして、いわゆる迎え撃ちと後追い禁止とは、経典に見えるのみならず実験に徴せられた真理となったのである。右、伝の第一章。
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「善を為せば祥が降る」という古訓は、六朝の人々がすでに幾分疑っていた。彼らの墓誌には「善を積んで報いられず、終に自ら人を欺く」とまで書いてある。しかし後世の愚かな者たちは、またこれを隠蔽してしまった。元の劉信が三歳の痴児を醮紙の火盆に投げ入れ、福祐を妄りに望んだのは『元典章』に見えるが、劇本『小張屠焚児救母』では母の延命のためとされ、命は延び、子もまた死ななかった。一女が痼疾の夫に侍することを願い、『醒世恒言』ではついに二人とも自殺するとあるが、後の改作では蛇が薬罐に落ち、夫が服した後たちまち全快したとなっている。およそ欠陥があれば、作者の粉飾を経て、後半は大抵面目を改め、読者を虚妄の中に陥れ、世の中は実に十分に明るい、誰かが不幸に遭えばそれは自業自得だと思わせる。
  
 伝にまた曰く、迎え撃ちと後追い禁止には、第二種の微言大義がある──
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時に明白な史実に遭遇し、隠し切れない場合——たとえば関羽や岳飛の殺害——には、別の騙しを設けるほかない。一つは前世にすでに宿因を作ったとする、岳飛のように。一つは死後に神にするのだ、関羽のように。定命は逃れ得ず、成神の善報はいよいよ人を満足させるから、殺した者を責める必要もなく、殺された者を悲しむ必要もない。冥冥のうちにおのずから按排があり、各々その処を得させるのだから、他人がわざわざ骨を折るには及ばないのだ。
  
 報道によれば、熱河の実況は次の通りである。「義勇軍は皆極めて勇敢にして、日本軍を撹乱し殺戮することを興奮の事と認む……ただ張作相が義勇軍を接収するとの消息が発表された後、張作相は自ら赴いて慰撫せず、湯玉麟もまた義勇軍へのガソリン供給を停止し、輸送は中断し、義勇軍は大いに失望し、甚だしきは張作相のために立功することを無意味と認める者すらあり。」「日本軍既に凌源に至るに、その時張作相は既に不在にして、吾人は報を聞いて出走し、湯玉麟が車を扣えて物を運ぶは既に目撃の事実となり、日本軍がかつて飛行機を承徳に派遣して爆撃したことなきことに照らせば……承徳は実に妥協による放棄なりしことが知られる。」(張慧冲氏が上海東北難民救済会の席上にて語りしところ。)張慧冲氏の言によれば、「最も名声の高き義勇軍の指導者も、その忠勇の精神は必ずしも吾人の想像の如くならず」とのことであるが、しかし義勇軍の兵士は確かに極めて勇敢なる小百姓である。まさにこれらの小百姓が聖典を解さぬがゆえに、迎え撃ちの策略をも知らぬのである。かくして小百姓自身が、自ずと迎え撃ちの抵抗に遭遇することとなった。湯玉麟が承徳を放棄した後、北平軍事委員会分会は「古北口を固守せよ、もし義勇軍にて入関せんと欲する者あらば、即ち銃を発して迎撃せよ」と命じた。これは即ち、我が「抵抗」は日本軍の至る所に随うのみであり、汝が様を変えて抵抗せんとすれば、我は汝を抵抗する、況んや我が退却は予め約定せしものなれば、汝が妥協を肯んぜざる以上は、ただ「後から付いて来させぬ」のみならず、汝を「迎え撃って」梁山に追い上げるほかなし、というのである。右、伝の第二章。
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中国人は各方面を正視する勇気がなく、隠蔽と欺瞞を用いて奇妙な逃げ道を造り出し、しかも正道だと自認する。この道の上に、国民性の怯懦、怠惰、そして狡猾さが証明されている。日に日に満足しているということは、日に日に堕落しているということだが、しかも日ごとにますます光栄だと感じている。事実において、一度亡国すれば殉難の忠臣が幾人か加わり、その後はしばしば旧物の光復を思わず、ただあの数人の忠臣を讃美するだけとなる。一度劫難に遭えば、辱められなかった一群の烈女が生まれ、事が過ぎた後も、しばしば兇を懲らし自衛することを思わず、ただあの一群の烈女を歌詠するのみ。あたかも亡国や劫難が、かえって中国人に「両間の正気」を発揮する機会を与え、価値を高めるものであり、このひと手にあり、一任すべきであって、憂い悲しむに足りないかのようだ。もちろん、これ以上はどうしようもない。なぜなら我々はすでに死者を借りて最上の光栄を獲得したのだから。上海・武漢の烈士の追悼会で、生きている人々があの景仰に値する高大な位牌の下で互いに罵り合うのも、我々の先人と同じ道を歩んでいるのだ。
  
 詩に云う、「惶惶」たる大軍、迎え撃って奔り、「嗤嗤」たる小民、後に従うなかれ! 賦なり。
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文芸は国民精神の発する火光であり、同時に国民精神の前途を導く灯火でもある。これは互いに因果をなし、ちょうど胡麻から搾った油が胡麻に浸み込めば、いよいよ油っぽくなるようなものだ。もし油を上等とするなら言うまでもないが、そうでなければ、水か灰汁か、別のものを混ぜ入れるべきだ。中国人は従来、人生を正視する勇気がないために隠蔽と欺瞞を頼りにし、そこから隠蔽と欺瞞の文芸が生まれ、この文芸がさらに中国人を隠蔽と欺瞞の大沢の中にいよいよ深く陥れ、ついには自分でも気づかなくなるに至っている。世界は日々変わる。我々の作家が仮面を外し、真摯に、深く、大胆に人生を見つめ、その血と肉を書き出す時がとうに来ている。とうに一片の新鮮な文壇があるべきであり、とうに幾人かの獰猛な先駆者がいるべきなのだ!
  
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今や気象は一変したかに見え、花月を歌吟する声はどこにも聞こえなくなり、代わりに起こったのは鉄と血の讃頌だ。しかし欺瞞の心をもって、欺瞞の口を用いれば、AやOを言おうと、YやZを言おうと、等しく虚偽である。ただ、以前花月を蔑んでいたいわゆる批評家の口を黙らせ、満足して中国がまさに中興すると思わせることができるだけだ。哀れにも彼は「愛国」の大きな帽子の下でまた目を閉じてしまった——あるいはもともと閉じていたのだ。
  
 (三月十四日。)
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一切の伝統的思想と手法を突破する先駆者がいなければ、中国に真の新文芸はあり得ない。
  
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(一九二五年七月二十二日。)
  
 この文章は検閲官に指摘され、改正を経て、ようやく十九日の新聞に掲載されることができた。
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【薬】
  
 原文は次の通りであった──
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 第三段の「現在通用される言い方は」から「当然」までの原文は、「民国二十二年春×三月某日、当局談話に曰く、『日本軍の至る所、抵抗これに随う……失地回復及び承徳反攻に至っては、須く軍事の進展如何を視るべし、余。』」であった。また「知り得ず」の下に注として(『申報』三月十二日第三面)とあった。
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秋の後半夜、月は沈み、太陽はまだ出ず、ただ一面の暗藍の空が残っていた。夜行性のもの以外は、何もかも眠っていた。華老栓はふと起き上がった。マッチを擦り、全身油まみれのランプに火を点けると、茶館の二間の部屋は蒼白い光に満ちた。
  
 第四段の「報道によれば熱河……」の上に「民国二十二年春×三月」の九字があった。
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「小栓のお父さん、もう行くのかい?」年老いた女の声であった。奥の小部屋からも、一陣の咳が聞こえた。
  
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「うむ。」老栓は聞きながら返事をし、上着のボタンを留めた。手を伸ばして言った。「くれないか。」
  
 (三月十九日夜記す。)
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華大媽は枕の下を長いこと探り、洋銀の包みを取り出して老栓に渡した。老栓はそれを受け取り、震えながら衣嚢に入れ、その上からさらに二度押さえた。そして提灯に火を点け、ランプを吹き消し、奥の部屋へ向かった。その部屋の中からは、がさがさと音がし、続いてひとしきりの咳であった。老栓は静まるのを待って、低い声で呼んだ。「小栓……起きなくていい。……店は? お母さんがやってくれるから。」
  
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老栓は息子がもう何も言わないのを聞いて、安心して眠ったものと思い、門を出て通りに出た。通りは真っ暗で何もなく、ただ一筋の灰白い道だけがはっきりと見えた。提灯の光が彼の両足を照らし、前へ後ろへと歩いた。時折犬にも出会ったが、一匹も吠えなかった。家の中よりずっと寒かったが、老栓はかえって爽快に感じた。あたかもたちまち少年に戻り、神通力を得て、人に命を与える力を身につけたかのように、歩幅も格別に大きかった。しかも道はますます明るくなり、空もますます白んできた。
  
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老栓がひたすら歩いていると、ふとぎくりとして、遠くに丁字路がくっきりと横たわっているのが見えた。彼は数歩退き、扉を閉ざした店を一軒見つけて、軒下に潜り込み、扉に寄りかかって立った。しばらくして、体に少し寒気を覚えた。
  
【「光明の至る所……」】
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「ふん、じいさん。」
  
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「上機嫌じゃないか……」
  
 中国の監獄における拷問は、公然たる秘密である。先月、民権保障同盟がこの問題を提起した。
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老栓はまた驚き、目を見開くと、何人かが前を通り過ぎた。一人が振り返って彼を見たが、はっきりとは見えなかった。しかし、久しく飢えた者が食物を見たかのように、目に一種の貪欲な光が閃いた。老栓は提灯を見ると、もう消えていた。衣嚢を押さえると、硬いものがまだ入っている。顔を上げて両方を見ると、多くの奇怪な人々が三々五々、亡霊のようにそこいらを彷徨っていたが、目を凝らしてよく見ても、他に何も変わったことは見えなかった。
  
 しかし外国人が経営する『字林西報』は二月十五日の『北京通信』を掲載し、胡適博士がかつて自ら数箇所の監獄を視察し、「極めて親しげに」この記者に語ったところによれば、「その慎重なる調査に拠れば、実に最も軽微なる証拠すら得ることができず……彼らは極めて容易に囚人と談話し得、一度など胡適博士は英語をもって彼らと会談し得たという。監獄の状況は、彼(胡適博士──筆者注)の言によれば、満足し得るものではないが、しかしながら、彼らが極めて自由に(ああ、極めて自由に──筆者注)待遇の劣悪なる侮辱を訴えたにもかかわらず、厳刑拷問については、彼らは一片の暗示すらなさなかった」という……。
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しばらくして、また数人の兵卒がそちらで歩いているのが見えた。衣服の前後に大きな白い丸があり、遠くからでもはっきり見え、すぐ前を通った者の号衣には暗紅色の縁取りも見えた。——足音がどやどやと響き、瞬く間に大勢の人が押し寄せてきた。あの三々五々の人々も、突然一塊になり、潮のように前へ駆け寄り、丁字路の角に来ると突然立ち止まり、半円に群がった。
  
 私はこの度の「慎重なる調査」に随行する光栄には与からなかったが、十年前に北京の模範監獄を参観したことがある。模範監獄とはいえ、囚人との面会において、談話は決して「自由」ではなく、中間に窓一つを隔て、彼此の距離は約三尺、傍らに獄卒が立ち、時間にも制限があり、談話に暗号を用いることも許されず、まして外国語など論外であった。
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老栓もそちらを見たが、人の背中ばかりが見えた。首をみな長く伸ばし、まるで見えない手に首を掴まれた大勢の鶩のように、上に引っ張られているかのようだった。しばらく静かになり、何か物音がしたかと思うと、また揺れ動き、轟と一声、皆後ろへ退き、老栓の立っているところまで散って、もう少しで彼を押し倒すところだった。
  
 ところがこの度、胡適博士は「英語をもって彼らと会談し得た」というのだから、まことに特別の極みである。まさか中国の監獄がかくも改良され、かくも「自由」になったというのか。それとも獄卒が「英語」に恐れをなし、胡適博士をリットン卿の同郷にして、大いに来歴ある人物と思ったがゆえであろうか。
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「おい!片手で金を出し、片手で品物を渡せ!」全身黒ずくめの男が老栓の前に立った。その目はまるで二振りの刃物のようで、老栓を刺して半分に縮ませた。その男の片方の大きな手は彼に向かって開かれ、もう片方の手には真っ赤な饅頭を摘まんでいた。その赤いものはまだぽたぽたと滴り落ちていた。
  
 幸いにも、私はこの度『招商局三大案』に載せられた胡適博士の題辞を見た──
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老栓は慌てて洋銀を探り出し、震えながら渡そうとしたが、男の品物を受け取る勇気がなかった。男は焦って怒鳴った。「怖がるな!何で取らないんだ!」老栓がなおも躊躇していると、黒い男は提灯をひったくり、紙の覆いを引き剥がして饅頭を包み、老栓に押し付け、片手で洋銀を掴み取り、握ってみて、身を翻して去った。口の中でぶつぶつ言った。「この爺さんめ……。」
  
 「公開の告発は、暗黒政治を打倒する唯一の武器にして、光明の至る所、暗黒は自ずと消ゆ。」(原文に新式句読点なし、これは私が僭越ながら付したものである──筆者注。)
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「これは誰の病気に使うんだい?」老栓にも誰かがそう聞いたのが聞こえたようだったが、答えなかった。彼の精神は今やこの一つの包みだけに集中し、まるで十代一子の赤子を抱くように、他の一切のことはもはや眼中になかった。彼は今、この包みの中の新しい命を自分の家に移植し、多くの幸福を収穫しようとしていた。太陽も出てきた。彼の前には大通りが一本、真っ直ぐに家まで続いていた。後ろには丁字路の辻の壊れた扁額に「古□亭□」という四つのくすんだ金文字が照らし出されていた。
  
 かくして私は大いに徹悟した。監獄では外国語をもって囚人と会談することは許されていないが、胡適博士が至れば、特例が開かれるのである。なぜなら彼は「公開の告発」をなし得、彼は外国人と「極めて親しげに」談話し得るからであり、彼こそが「光明」であるからして、「光明」の至る所、「暗黒」は「自ずと消ゆ」るのである。かくして彼は外国人に向かって民権保障同盟を「公開告発」し、「暗黒」はかえってこちら側に在ることとなった。
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 しかし、この「光明」が帰府された後、監獄にはそれ以降も永遠に他の人が「英語」をもって囚人と会談することを許されるであろうか。
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老栓が家に着くと、店先はとうに片付いて、一列一列の茶卓がつるつると光っていた。しかし客はおらず、小栓だけが奥の卓の前に座って食事をしていた。大粒の汗が額から転がり落ち、袷袄も背中に貼りつき、二つの肩甲骨が高く突き出て、陽刻の「八」の字を刻んでいた。老栓はこの有様を見て、開きかけた眉間をまた顰めずにはいられなかった。彼の女房が竈の下から急いで出てきて、目を見開き、唇がいくらか震えていた。
  
 もし許されぬとすれば、それは「光明一たび去れば、暗黒再び来たる」ということになるのである。
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「手に入ったのかい?」
  
 しかもこの「光明」は、大学と庚款委員会の事務に忙殺されて、しばしば「暗黒」の中に赴くことはできず、第二回の「慎重なる調査」の前には、囚人たちはおそらく「極めて自由に」再び「英語」を話す幸福には与かれぬであろう。嗚呼、光明はただ「光明」に随いて行くのみにて、監獄の光明世界はまことに束の間のものである!
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「手に入った。」
  
 しかしながら、これは誰をも恨み得ぬことであって、彼らは何千何万と過ちを犯したのではなく、ただ自ら「法」を犯したのである。「善人」ならば決して「法」を犯すには至らぬ。もし信ぜぬ者あらば、この「光明」を見よ!
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二人は一緒に竈の下に入り、しばらく相談した。華大媽が出て行き、まもなく古い蓮の葉を一枚持って戻り、卓の上に広げた。老栓も提灯の覆いを開き、蓮の葉であの赤い饅頭を包み直した。小栓も食事を終え、母親が慌てて言った——
  
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「小栓——座っていなさい、こっちへ来ちゃいけないよ。」
  
 (三月十五日。)
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竈の火を整えてから、老栓は碧緑の包みと赤白まだらの破れた提灯とを一緒に竈に押し込んだ。紅と黒の炎が通り過ぎると、店中に一種奇妙な芳しい匂いが漂った。
  
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「いい匂いだ!何の点心を食べているんだ?」これは猫背の五少爺が来たのだ。この人は毎日茶館で過ごし、誰よりも早く来て誰よりも遅く帰る。この時ちょうど通りに面した壁際の卓にそろりと着いて、座って尋ねたが、誰も答えない。「炒り米粥か?」やはり誰も答えない。老栓は急いで出てきて、彼にお茶を入れた。
  
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「小栓、中にお入り!」華大媽が小栓を奥の部屋に呼び入れ、中央に腰掛けを据え、小栓を座らせた。母親が真っ黒な丸いものの皿を運んできて、そっと言った——
  
【泣き止ませ文学】
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「さあ食べなさい——病気が治るよ。」
  
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小栓はこの黒いものを摘み上げ、しばらく見つめ、まるで自分の命を手にしているかのように、心の中で何とも言えない不思議を感じた。非常に注意深く割ると、焦げた皮の中から白い湯気が噴き出し、湯気が散ると中は白い饅頭の半分が二つだった。——さほど経たぬうちに、すべて腹の中に収まったが、どんな味だったかはすっかり忘れていた。目の前にはからっぽの皿が一枚残るだけ。その傍らには片側に父親が、片側に母親が立ち、二人の目は何かを彼の体の中に注ぎ込もうとし、同時に何かを取り出そうとするかのようであった。小栓は思わず胸がどきどきし、胸を押さえると、またひとしきりの咳であった。
  
 三年前、「民族主義文学」の徒が銅鑼太鼓を打ち鳴らしていた頃、一篇の『黄人の血』なるものがあり、最高の願望は成吉思汗の孫バトゥ元帥の後に従い、「斡羅斯」を剿滅することにあると述べていた。斡羅斯とは、今のソヴィエト・ロシアである。当時すでに人が指摘するに、今のバトゥの大軍とは即ち日本の軍馬であり、「西征」の前にはまず中国を征服し、従軍の奴隷に変えねばならぬのだと。
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「少し眠りなさい——きっと良くなるよ。」
  
 自らが征服される時には、極少数の者を除いて、甚だ苦痛である。その実例は東三省の陥落、上海の爆撃の如きにて、凡そ生きている人間で全く悲憤を覚えぬ者はおそらく極めて少なかろう。しかしこの悲憤は将来の「西征」には大いに妨げとなる。かくして一冊の『大上海の毀滅』が現れ、数字を以て読者に中国の武力は決して日本に及ばぬと告げ、皆の心を平らかにせしめた。しかも生きているよりは死の方がましであり(「十九路軍の死は、我々の生の惨めさ、無趣味を警告するものだ!」)、勝利は敗退に如かず(「十九路軍の勝利は、我々の苟且・偸安・驕慢の迷夢を増すのみ!」)。要するに戦死は善きことであるが戦敗は殊に善く、上海の戦役こそ中国の完全なる成功であるという。
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小栓は母の言う通りに、咳きながら眠った。華大媽は彼の息遣いが静まるのを待ってから、継ぎだらけの夾被をそっとかけてやった。
  
 今や第二歩が始まった。中央社の消息によれば、日本は既に満洲国と「中華連邦帝国密約」を締結する陰謀を有しているという。その方案の第一条は、「現在世界には二種の国家あるのみ、一種は資本主義にして英・米・日・伊・仏、一種は共産主義にしてソヴィエト・ロシア。今ソヴィエトに対抗せんとせば、中日連合せざれば成功し得ず」云々(詳しくは三月十九日『申報』参照)。
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 「連合」せんとするのである。この度は中日両国の完全なる成功であり、「大上海の毀滅」から「黄人の血」への道を行く第二歩である。
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店には大勢の客が座り、老栓も忙しく、大きな銅壺を提げて何往復もお茶を注いで回った。二つの目の周りには黒い隈ができていた。
  
 固より、ある地方では爆撃が行われているが、上海は爆撃を受けて以来既に一年余を経ている。しかし一部の人民は「西征」の必然の歩調を悟らず、一昨年の悲憤を未だ完全には忘れ去っていないように見える。この悲憤は目下の「連合」には大いに妨げとなる。この景況の中で時運に応じて生まれたのは、人々にいささかの爽快と慰安を与える「辣椒と橄欖」の如き文学である。これこそ苦悶に対する処方箋であろう。なぜか。「辣椒は辛けれども人を辛死させず、橄欖は苦けれども苦中に味あり」だからである。これを明らかにすれば、苦力がなぜ阿片を吸うかも分かる。
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「老栓、体の具合が悪いのか?——病気か?」白髪混じりの髭の男が言った。
  
 しかも無声の苦悶のみならず、辣椒は「厭わしき泣き声」をも止め得るという。王慈氏は『辣椒救国を提唱す』なる名文の中で告げている──
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「いいや。」
  
 「……また北方の人は幼少の頃より母の懐にありて、大いに泣く時、もし母が辣茄子一つを小児に咬ませれば、極めて霊験あらたかに忽ち大泣きを止め得る……
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「何でもない!——笑顔でいるくらいだから、おかしくもないだろうが……」白髪混じりの髭の男は自分の言葉を取り消した。
 「今の中国は、あたかも大泣きしている北方の嬰児の如し。もしその厭わしき泣き声を止めんと欲すれば、ただ多くの辣茄子を彼に咬ませるのみでよい。」(『大晩報』副刊第十二号)
 
  
 辣椒をもって小児の大泣きを止め得るとは空前絶後の奇聞であり、もしこれが真ならば、中国人は衆と異なる特別の「民族」と言わねばならぬ。しかし分明に見て取れるのは、この種の「文学」の企図が、人に一辛を与えて死に至らしめず、「その厭わしき泣き声を止め」て、静かにバトゥ元帥を待つことにあるということである。
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「老栓はただ忙しいだけさ。あの息子さえ……」猫背の五少爷がまだ言い終わらぬうちに、突然、横肉だらけの男が飛び込んできた。黒い布衣を羽織り、ボタンをはだけ、幅広の黒い帯で乱暴に腰を括っていた。入るなり老栓に向かって叫んだ——
  
 ただしこれは無効であって、泣けば「問答無用にて斬殺せよ」の霊験には遠く及ばぬ。この後に防ぐべきは「道に目を以てす」であり、我々は目隠し文学を待つこととしよう。
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「食ったか?良くなったか?老栓、お前は運がいいぞ!運がいいんだ。俺の情報が確かでなきゃ……」
  
 (三月二十日。)
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老栓は片手で茶壺を提げ、片手を恭しく垂らし、にこにこして聞いていた。満座の客も皆恭しく聞いていた。華大媽も目に隈を作りながらにこにこと茶碗と茶葉を運んできて、さらにオリーブの実を一つ添え、老栓がお湯を注いだ。
  
【【備考】:辣椒救国を提唱す 王慈】
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「これは効くぞ!こいつは並みのものじゃない。考えてもみろ、温かいうちに持ってきて、温かいうちに食わせたんだ。」横肉の男はただ叫ぶばかりだった。
  
 かつて一度、ある北方の友人に連れられて天津の点心屋に入ったことを覚えている。腰を下ろすと、給仕が走り寄って問うた──「旦那!何を召し上がります?」「鍋貼を二皿!」かの北方の友人は純粋な北方訛りで言った。鍋貼と共に運ばれて来たのは辣椒の一鉢であった。
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「本当に、康大叔のお世話がなかったら、こうはいきませんでしたよ……」華大媽も感謝して礼を言った。
  
 かの北方の友人が鍋貼を多量の辣椒と共に実に旨そうに口に運ぶのを見て、私の好奇心が触発され、冒険するかの如く鍋貼一つをそっと少しばかり辣椒に浸け、腹に収めたところ、舌先は忽ち痺れて感覚を失い、喉は痒く辛くて堪え難く、眼窩には涙が湧き、この時私は大いなる苦痛を感じた。
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「効くとも、効くとも!こうやって温かいうちに食わせるんだ。こういう人血饅頭なら、どんな癆病だって効くんだ!」
  
 かの北方の友人は私のこの有様を見て大いに笑い出し語った。北方人の辣椒好きは天性であり、「飯菜はなくとも辣椒なくしては食事にならず」との主義を抱いていると。彼らにとって辣椒はあたかも阿片の如く癖になっている! また北方人は幼少の頃より母の懐にありて、大いに泣く時、もし母が辣茄子一つを小児に咬ませれば、極めて霊験あらたかに忽ち大泣きを止め得る……
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華大媽は「癆病」という二文字を聞いて、少し顔色が変わり、いくらか不機嫌のようだったが、すぐにまた笑顔を浮かべ、話をそらして離れた。この康大叔は気づきもせず、声を張り上げてなおも喚き立てた。奥で寝ていた小栓までが、つられて咳き込み始めた。
  
 今の中国は、あたかも大泣きしている北方の嬰児の如し。もしその厭わしき泣き声を止めんと欲すれば、ただ多くの辣茄子を彼に咬ませるのみでよい。
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「なるほどお宅の小栓はこんな良い運にめぐり合ったのか。この病気は当然きっと全快だ。どうりで老栓が一日中笑っているわけだ。」白髪混じりの髭の男は一方で話しながら、康大叔の前に歩み寄り、腰を低くして尋ねた。「康大叔——聞いたところ、今日処刑された囚人は夏の家の子だそうですが、あれは誰の子ですか?一体何をしたんです?」
 中国の人々は、私のかの北方の友人に等しく、辣椒を食べずには興奮しないのだ!
 
  
 (三月十二日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
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「誰だって?夏四奶奶の息子じゃないか。あの小僧だ!」康大叔は皆が耳をそばだてて聞いているのを見て、いよいよ上機嫌になり、横肉がはちきれんばかりに膨らみ、声をますます大きくした。「この小僧は命が要らないと来た。要らないなら仕方がない。俺はこの一件、ちっとも得をしなかったぞ。剥いだ着物まで牢番の赤目の阿義に持って行かれた。——第一に運がいいのは栓叔さ。第二には夏三爷が二十五両の白銀を貰い、丸ごと懐に入れて一文も使わなかった。」
  
【【辣椒で泣き止ませるのは結局無理】:むやみに人を咬むな 王慈】
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小栓がゆっくりと奥の部屋から出てきて、両手で胸を押さえながらしきりに咳をした。竈の下まで行き、冷や飯を一碗よそい、熱い湯をかけて座って食べ始めた。華大媽が後をついて行き、そっと聞いた。「小栓、少しは良くなったかい?——やっぱりただ腹が減っているだけなのかい?……」
  
 辣椒を咬む時はご用心。上海には近頃、趙旦那や趙秀才のような一群の人が増え、物差し棒を握り、懸命に「阿Q面」の者を見つけて八つ当たりしようとしている。幸いにもこの一群の文人が色眼鏡越しに「阿Q面」だと見なした者は、実は真の阿Qではない。
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「効くとも、効くとも!」康大叔は小栓をちらと見て、また顔を座中の人々に向け、「夏三爺は本当にしたたか者だ。もし先に密告しなかったら、一族皆殺しだった。今はどうだ?銀だ!——この小僧もまったくろくでなしだ!牢の中にいても、まだ牢番に謀反を勧めやがった。」
  
 何の来歴かも知れぬ何家幹なる者が、私の『辣椒救国を提唱す』を読み、北方の子供の辣椒好きを「空前絶後」の「奇聞」だと認めた。何家幹は数千年前の劉伯温でもないのに、某紙上でまるで『推背図』を作っているかのようだ。北方の子供が辣椒を好むことが「奇聞」なら、阿片を吸う父母から生まれた嬰児にもなぜ煙癖があるのか。
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「おやまあ、それはとんでもない。」後ろの席に座っていた二十歳余りの男がひどく憤慨した様子を見せた。
  
 何家幹は八つ当たりの対象を掴めず、空振りの後になお得々として「もしこれが真ならば、中国人はまことに衆と異なる特別の民族である」などと言う。敢えて何家幹に問う。色つき近眼鏡をかけて拝読した時、「北方」の二字が目に入らなかったか。既に見たのならば、シュテッティンは日耳曼全体を代表し得るか。アバディーンはブリテン諸島全体を代表し得るか。
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「赤目の阿義が内情を探りに行ったんだが、あの小僧はそれと話し込んでしまった。こう言ったそうだ——この大清の天下は我々みんなのものだ、と。考えてもみろ、これが人間の言葉か?赤目はもともと奴の家には老いた母親が一人いるだけだと知っていたが、まさかあれほど貧しいとは思わなかった。油一滴も搾れず、もう腹が破れそうだった。それでもなお虎の頭を搔くような真似をしやがるから、二つ平手打ちを食らわせてやった!」
  
 何家幹の頭脳は、どうしてかくも単純なのか!趙旦那や趙秀才の類は、徒党を組んでむやみに人を咬もうとしている。私は予め告げておく。私と『辣椒と橄欖』の編者とは面識もなく、『黄人の血』を書いたこともない。何家幹がどうしても私を一噛みせんとするならば、透視眼鏡をかけ目標を見定めてから咬むがよい。さもなくば辣椒を咬んでしまい泣くに泣けず笑うに笑えぬ時、私は責任を負いかねる。
+
「義兄は拳の使い手だ。あの二発は相当こたえたろう。」壁際の猫背が急に嬉しそうになった。
  
 (三月二十八日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
+
「あの賎骨頭め、殴られても怖がらず、まだ可哀想だ可哀想だと言いやがった。」
  
【【しかし結局やはり無理】:愈出愈奇 家幹】
+
白髪混じりの髭の男が言った。「あんな奴を殴って、何が可哀想だ?」
  
 シュテッティンはまことに日耳曼全体を代表し得ず、北方もまた中国全土を代表し得ない。しかし北方の子供を辣椒で泣き止ませることはできぬ──これは事実であり如何ともし難い。
+
康大叔は見下すような顔で冷笑して言った。「聞き違えたんだ。あいつの口ぶりじゃ、阿義が可哀想だと言っているんだ!」
  
 阿片を吸う父母から生まれた嬰児にも煙癖がある、これは確かである。しかし辣椒を好む父母から生まれた嬰児には辣椒癖はなく、酢を好む者の子に酢癖がないのと同じである。これもまた事実であり誰にも如何ともし難い。
+
聞いている者たちの目がふと少し硬くなった。話も途切れた。小栓はもう食べ終わり、全身汗まみれで、頭からも湯気が立ち上っていた。
  
 凡そ事実は坊っちゃん癇癪を起こしたところで覆し得ぬ。ガリレオは地球が回転していると言い、教徒は焼き殺そうとし、彼は死を恐れて主張を撤回した。しかし地球は依然として回転している。なぜか。地球がまことに回転しているからである。
+
「阿義が可哀想だって——狂言だ、完全に気が狂ったんだ。」白髪混じりの髭の男がはたと悟ったように言った。
  
 されば、たとえ私が反対せずとも、辣椒を泣いている北方の(!)子供の口に押し込めば、泣き止むどころかさらに激しく泣くであろう。
+
「気が狂ったんだ。」二十歳余りの男もはたと悟ったように言った。
  
 (七月十九日。)
+
店の客たちはまた活気づき、談笑し始めた。小栓も賑やかさに乗じて懸命に咳をした。康大叔が歩み寄り、彼の肩を叩いて言った——
  
【「人の言葉」】
+
「効くぞ!小栓——そんなに咳をするんじゃない。効くんだから!」
  
 思い起こせば、オランダの作家ファン・エーデン(F. van Eeden)──惜しいことに彼は昨年亡くなった──の童話『小さなヨハネス』の中に、小さなヨハネスが二種類の菌が争論するのを聞き、傍から「お前たち二つとも毒があるぞ」と批評すると、菌たちが驚き叫んで「お前は人間か。これは人の言葉だ!」と言う場面がある。
+
「気が狂ったのさ。」猫背の五少爺が頷いて言った。
  
 菌類の立場から見れば、確かに驚き叫ぶべきことである。人間は彼らを食べようとするがゆえにまず有毒か無毒かに注意するが、菌ら自身にとってはこれは全く無関係にして全く問題とならぬことなのだ。
+
  
 科学知識を与えることを旨とする書籍や文章であっても、面白く語ろうとするあまり往々にして「人の言葉」を言い過ぎるものである。この弊はかのファーブル(J. H. Fabre)の名高き『昆虫記』ですら免れぬところである。近頃雑誌上で偶然、青年に生物学の知識を教える文章を見かけたが、その中に次のような記述があった──
+
=== 第8節 ===
  
 「鳥糞蜘蛛……形体は鳥糞に似、また伏して動かずにおることができ、自ら鳥糞の様を装う。」
+
西門外の城壁沿いの一帯は、もともと官地であった。真ん中を曲がりくねった細道が一本通っているが、近道を好む人々が靴底で踏み固めたもので、しかしそれが自然の境界線となっていた。道の左側には死刑囚と獄死者が埋められ、右側は貧しい者たちの合葬墓であった。両側ともすでに幾重にも積み重なり、さながら富豪の家の祝寿の際の饅頭のようであった。
  
 +
この年の清明節は、格別に寒かった。柳はようやく半粒の米ほどの新芽を出したばかりだった。夜が明けて間もなく、華大媽はすでに右側の新しい墓の前に、四皿の惣菜と一碗の飯を並べ、一泣きした。紙銭を焚き終えて、ぼんやりと地面に座っていた。何かを待っているかのようだったが、自分でも何を待っているのか分からなかった。微風が起こり、短い髪を吹き動かした。確かに去年よりだいぶ白くなっていた。
  
=== 第47節 ===
+
小道にまた一人の女がやって来た。やはり半白の髪、襤褸の衣裙。壊れかけた朱塗りの丸い竹籠を提げ、外に紙錠を一連ぶら下げ、三歩ごとに休みながら歩いてきた。ふと華大媽が地面に座っているのを見て、少し躊躇した。蒼白な顔にいくらか恥じらいの色が浮かんだが、ついに思い切って左側の墓の前に歩み寄り、籠を下ろした。
  
「動物界において、自らの親たる夫を残食するもの甚だ多きが、最も有名なるは、前に述べたる蜘蛛と今まさに述べんとする蟷螂であろう……」
+
その墓と小栓の墓は一列に並び、間にはただ一本の細道が隔てるだけだった。華大媽は彼女が四皿の惣菜と一碗の飯を並べ、立って一通り泣き、紙錠を焚くのを見て、心の中でひそかに思った。「この墓の中のも息子だったのか。」あの老女はしばらく行きつ戻りつして眺めていたが、ふと手足が震え始め、よろよろと数歩退き、目を見開いて呆然としていた。
  
 これもいささか「人の言葉」を言い過ぎている。鳥糞蜘蛛はただ形体がもとより鳥糞に似ており、性としてあまり動き回らぬだけのことであって、故意に鳥糞を装い小虫を欺こうとしているわけではない。蟷螂の世界にもいまだ五倫の説はなく、交尾の最中に雄を食うのはただ腹が減って物を食べているだけのことであり、この食べ物がまさに自分の亭主であるなどと知っているはずもない。しかし「人の言葉」で書かれるや、一方は陰謀殺人の凶犯となり、一方は夫殺しの毒婦となるのである。実のところ、どちらも冤罪なのだ。
+
華大媽はこの様子を見て、悲しみのあまり気が狂いそうなのではないかと恐れ、堪えかねて立ち上がり、細道を跨いで低い声で言った。「おばあさん、そんなに悲しまないでください——私たち、もう帰りましょうよ。」
  
 「人の言葉」の中にも、また各種の「人の言葉」がある。英国人の言葉があり、中国人の言葉がある。中国人の言葉の中にもまた各種あって、「上等華人の言葉」があり、「下等華人の言葉」がある。浙西に、田舎の女の無知を嘲る笑い話がある──
+
その人は頷いたが、目はなお上を凝視していた。やはり低い声で途切れ途切れに言った。「ご覧なさい——ご覧、これは何でしょう?」
  
 「盛夏の真昼、一人の農婦が仕事に苦しみつつ、ふと嘆いて曰く、『皇后様はどれほどお楽であろう。今頃はまだ寝台で午睡をなさり、目覚めた時にはこう仰せになるのだ──太監よ、柿餅を持て参れ!』」
+
華大媽はその指差す方を見ると、目は向こうの墓に注がれた。その墓は草の根がまだすっかりは覆っておらず、一塊一塊の黄土が露出して、いかにも見苦しかった。さらに上の方をよく見ると、はっと驚いた——紛れもなく一輪の紅白の花が、その尖った丸い墓の頂を囲んでいた。
  
 しかしこれは「下等華人の言葉」ではなく、むしろ上等華人が思い描く「下等華人の言葉」であるから、実は「上等華人の言葉」なのである。下等華人自身にあっては、その時おそらくこのようには言わなかったであろうし、たとえこう言ったとしても笑い話とは思わなかったであろう。
+
二人の目はもう何年も老眼だったが、この紅白の花だけははっきりと見えた。花もさほど多くはなく、円く丸い輪に並んで、あまり元気はないが、整ってはいた。華大媽は急いで自分の息子や他の人々の墓を見たが、寒さに強い青白い小さな花がぽつぽつと咲いているだけだった。すると心の中にふと一種の不足と空虚を感じ、深く探ろうとはしなかった。あの老女はさらに数歩近づき、よく見直して、独り言を言った。「根がない、自然に咲いたとは思えない。——この場所に誰が来るだろう?子供が遊びに来るはずもないし——親戚縁者はとうに来なくなった。——これは一体どういうことだろう?」彼女は考えに考え、突然また涙を流し、大声で言った——
  
 これ以上語れば、階級文学の厄介事を引き起こすことになるから、「ここで止める」。
+
「瑜児、みんなお前を冤罪にしたんだ。お前はまだ忘れられずに、悲しくてたまらないから、今日わざと霊験を示して、私に知らせてくれたのかい?」彼女は四方を見回し、葉のない木に烏が一羽止まっているのを見て、続けて言った。「分かったよ。——瑜児、可哀想に、みんなにはめられたんだ。いつかきっと報いがある、天は知っているんだよ。お前は目を閉じていればいいのだよ。——もし本当にここにいて、私の話が聞こえるなら——あの烏をお前の墓の上に飛ばせてみておくれ、私に見せておくれ。」
  
 今、書物を著すに当たり、青年や少年への手紙という形式をとる者が少なくない。無論、語られるのは「人の言葉」に相違ない。しかしいかなる種類の「人の言葉」であるか。なぜもっと年長の人々に書かぬのか。年長になれば教え諭すに値せぬとでも言うのか。それとも青年や少年の方が比較的純朴にして欺きやすいからであるか。
+
微風はとうに止んでいた。枯れ草が一本一本真っ直ぐに立ち、銅線のようだった。微かに震える音が空気の中をますます細くなり、細くなって聞こえなくなると、辺り一面は死のような静けさであった。二人は枯れ草の中に立ち、顔を上げてあの烏を見つめていた。烏もまっすぐな枝の間で、首を縮め、鋳鉄のように立っていた。
  
 (三月二十一日。)
+
長い時間が過ぎた。墓参りの人が次第に増え、何人かの老人や子供が土饅頭の間を行き来していた。
  
 +
華大媽はなぜだか、重い荷を下ろしたような気がして、もう帰ろうという気になった。横から勧めて言った。「もう帰りましょうよ。」
  
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あの老女は溜息をついた。気力なく惣菜を片付け、さらにしばらく迷った後、ついにゆっくりと歩き出した。口の中で独り言を言いながら。「これは一体どういうことなんだろう……」
  
【魂を売る秘訣】
+
二三十歩も行かぬうちに、背後から突然「ガアーッ」と一声、大きな叫びが聞こえた。二人ともぎくりとして振り向くと、あの烏が両翼を広げ、身をひるがえし、遠くの空に向かって矢のように飛び去っていった。
  
 +
(一九一九年四月。)
  
 数年前、胡適博士はかつて「五鬼中華を乱す」なる手品を弄したことがある。それは即ち、この世に帝国主義の如きものが中国を侵略しているのではなく、かえって中国自身が「貧困」「愚昧」……等の五つの鬼に祟られて皆が不安であるというのであった。今や胡適博士は第六の鬼を発見した。その名は「仇恨」という。この鬼は中華を乱すのみならず、禍は友邦にまで及び東京にまで騒ぎを起こしているという。かくして胡適博士は対症の薬を処方し、「日本の友人」に上書するつもりでいる。
+
【明日】
  
 博士に言わせれば、「日本軍閥の中国における暴行が生み出した仇恨は、今日に至って既に甚だ消し難く」、「而して日本は決して暴力をもって中国を征服し得ず」とのことである。これは憂慮に値する──まことに中国を征服する方法はないのか。否、方法はある。「九世の仇、百年の友、皆覚悟するか否かの一点にかかる」──「日本にはただ一つの方法のみ中国を征服し得る。即ち崖に臨みて馬を勒め、徹底的に中国侵略を停止し、翻って中国民族の心を征服することである。」
+
「何の音もしない——坊やはどうしたのかな?」
  
 これこそ「中国を征服する唯一の方法」であるという。なるほど、古来の儒教の軍師は常々「徳を以て人を服するは王たり、その心誠に服するなり」と説いた。胡適博士は日本帝国主義の軍師たるに愧じない。しかしながら中国の小百姓の側から言えば、これこそ魂を売る唯一の秘訣である。中国の小百姓はまことに「愚昧」にして、もとより自らの「民族性」を理解せぬがゆえに、彼らはこれまで仇恨を懐くことを知っていた。もし日本陛下が大いに慈悲を発し胡博士の上書を採用するならば、いわゆる「忠孝仁愛信義和平」の中国固有の文化は恢復し得るであろう。──なぜなら日本が暴力を用いず軟功の王道を用いれば、中国民族は仇恨を生ぜず、仇恨がなければ自ずと抵抗もせず、抵抗せざれば自ずと一層平和に、一層忠孝に……中国の肉体はすでに買い取られ、中国の魂もまた征服されるのである。
+
赤鼻の老拱が黄酒の碗を手にしながら、隣の壁を顎でしゃくって言った。藍皮阿五は酒碗を置き、老拱の背中を力いっぱいどやしつけ、口ごもりながら叫んだ——
  
 惜しむらくは、この「唯一の方法」の実行は全く日本陛下の覚悟にかかっている。もし覚悟せざれば、いかがすべきか。胡博士の答えて曰く、「万やむを得ざるに至りて、真に屈辱的なる城下の盟を受くる」がよいと。まことに万やむを得ぬことである──なぜならばその時「仇恨鬼」は去ることを肯んぜず、これは終始中国民族性の汚点であり、日本のためを思うにも万全の策にあらざればなり。
+
「お前……お前お前、また変なこと考えやがって……」
  
 かくして胡博士は太平洋会議に出席し、もう一度彼の日本の友人に「忠告」する準備をしている──中国を征服する方法がないわけではない、どうか我々の売り渡す魂を受け取ってくれ給え、況んやこれは難しいことではなく、いわゆる「徹底的侵略停止」とは「公平なる」リットン報告書を執行しさえすれば──仇恨は自ずと消え去るのだ!と。
+
もとより魯鎮は辺鄙な土地で、まだいくらか古風が残っていた。初更にもならぬうちに、皆が戸を閉めて眠ってしまう。深夜に起きているのは二軒だけ。一軒は咸亨酒店で、何人かの飲み仲間が勘定台を囲んで上機嫌で飲み食いしている。もう一軒は隣の単四嫂子の家で、一昨年寡婦になってからは自分の両の手で紡いだ綿糸で、自分と三歳の息子を養わねばならず、寝るのも遅い。
  
 (三月二十二日。)
+
この数日、確かに紡ぎの音はしなかった。しかし深夜に起きているのが二軒きりなのだから、単四嫂子の家に音がしても老拱たちだけが聞き、音がしなくても老拱たちだけが聞くのであった。
  
 +
老拱はどやされたが、まるで気持ちよさそうに大きく一口酒を飲み、うーうーと小唄を歌い始めた。
  
 +
この時、単四嫂子はまさに宝児を抱いてベッドの縁に座っていた。紡ぎ車は静かに床に立っていた。薄暗いランプの光が宝児の顔を照らし、紅の中にいくらか青みが差していた。単四嫂子は心の中で算段していた。おみくじも引いた、願掛けもした、民間療法も飲ませた。それでもまだ効かなければどうしよう?——あとは何小仙先生に診てもらうしかない。だが宝児は昼軽く夜重いのかもしれない。明日になれば、日が出れば、熱も下がり、喘ぎも治まるだろう。病人にはよくあることだ。
  
【文人にして文なし】
+
単四嫂子は粗忽な女で、この「だが」の恐ろしさを知らなかった。多くの悪い事がこの字のおかげで好転するが、多くの良い事もこの字のせいで台無しになる。夏の夜は短い。老拱たちがうーうーと歌い終えてほどなく、東の空がすでに白み始めた。やがて窓の隙間から銀白色の曙光が差し込んだ。
  
 +
単四嫂子が夜明けを待つのは、他の人のように容易ではなく、非常に遅く感じられた。宝児の一呼吸がほとんど一年よりも長かった。ようやく明るくなった。明るさがランプの光を圧倒し——宝児の鼻翼が、開いたり縮んだりしているのが見えた。
  
 ある「大」の字を冠する新聞の副刊に、一人の「張氏」なる者が「中国の有為なる青年に要求す、決して『文人無行』の看板を借りて、譏るべき悪癖を犯すなかれ」と述べている。これはまことに的を射た言葉である。しかしその「無行」の定義たるや、また厳密の極みである。彼に言わせれば、「いわゆる無行とは、必ずしも不規則あるいは不道徳の行為を指すのではなく、凡そ一切の人情に近からざる悪劣なる行為もまた皆これに含まれる」のだという。
+
単四嫂子は只事ではないと悟り、ひそかに「ああ!」と叫んだ。心の中で算段した。どうしよう?何小仙先生に診てもらうしか道はない。粗忽な女ではあったが、決断力はあり、すぐに立ち上がった。木の箪笥から毎日節約して貯めた十三枚の小銀貨と百八十文の銅銭をすべて取り出し、衣嚢に入れ、戸締りをし、宝児を抱いて何先生の家に向かって駆け出した。
  
 続けて日本の文人の「悪癖」の例をいくつか挙げ、中国の有為なる青年の殷鑑に供している。一つは「宮地嘉六は指の爪で頭を掻くことを好む」、もう一つは「金子洋文は唇を舐めることを好む」。
+
まだ朝早かったのに、何先生の家にはすでに四人の患者が座っていた。四角の銀貨を出して番号札を買い、五番目に宝児の順番が回った。何小仙が二本の指を伸ばして脈を按じた。爪の長さは四寸余り。単四嫂子はひそかに驚いたが、心の中で算段した。宝児はきっと助かる。しかし焦りは免れず、堪えかねて、もじもじしながら言った——
  
 無論、唇が乾くことと頭皮が痒いことは、古今の聖賢もこれを美徳とは称さぬが、悪徳と斥けたこともないようである。ところが中国上海の今日に至り、掻くことを好み舐めることを好むのは、たとえ自分の唇と頭髪であろうとも「人情に近からざる悪劣なる行為」とされるに至った。不快であっても、ただ堪えるしかない。有為なる青年あるいは文人たらんとすることは、日に日に艱難を増している。
+
「先生——うちの宝児は何の病気でしょうか?」
  
 しかし中国の文人の「悪癖」は実はこのようなことにはなく、ただ文章を書き得さえすれば、掻こうが舐めようが一向に構わぬのであって、「人情に近からざる」のは「文人無行」ではなく「文人無文」──文人にして文なし──なのである。
+
「中焦が塞がっておる。」
  
 二、三年前、刊行物上で某詩人が西湖に吟詩しに行ったとか、某文豪が五十万字の小説を執筆中だとかいう話を見たが、今に至るまで、予告なしに現れた一部の『子夜』を除いては、他の大作は何一つ出現していない。
+
「大事ありませんか? あの子は……」
  
 瑣事を拾い集めて随筆一冊をなす者はある。古文を一篇改作して自作とする者はある。一通りの昏話を語って評論と称し、雑誌を数冊編んでひそかに自分を持ち上げる者はある。猥談を蒐集して下作を書き、旧文を集めて評伝を印す者はある。甚だしきに至っては、外国文壇の消息をいくらか翻訳しただけで世界文学史家となり、文学者辞典を一冊編んで自分もその中に入れ込み、世界の文人を以て自ら任ずる者すらある。しかしながら今のところ彼らはいずれも中国の金看板の「文人」なのである。
+
「まず二服飲ませなさい。」
  
 文人にして文なきは免れ難いが、武人もまた同様に武ならず。「戈を枕に旦を待つ」と言いながら夜に至ってもまだ出発せず、「死を誓して抵抗す」と言いながら百余人の敵兵を見ただけで逃走する。ただ通電宣言の類だけは大いに駢体を弄し、「文」たること尋常ならず。「武を偃め文を修む」、古に明訓あり、文星は悉く軍営の中に照り移ったのである。かくして我らの「文人」は、唇を舐めず頭を掻かず、人情を忖度し、ただ「有行」の一語を落ち得るのみに終わる。
+
「息が詰まって、鼻がぱたぱたしているんです。」
  
 (三月二十八日。)
+
「これは火が金を剋するのだ……」
  
【【備考】:悪癖 若谷】
+
何小仙は半分だけ言って目を閉じた。単四嫂子もそれ以上聞くに忍びなかった。何小仙の向かいに座っていた三十過ぎの男がちょうど処方箋を書き上げ、紙の隅の数文字を指して言った——
  
 「文人無行」は久しく世人に譏られるところである。いわゆる「無行」とは、必ずしも不規則あるいは不道徳の行為を指すのではなく、凡そ一切の人情に近からざる悪劣なる行為もまた皆これに含まれる。
+
「この第一味、保嬰活命丸は、賈家の済世老店でなければございません!」
  
 人である限り誰しも不良の習慣に染まりやすいが、殊に文人は文字著作に専心するがゆえに、日常生活において自ずと怪異なる挙動を免れ難く、しかもおそらくは労苦のゆえに十人中九人は不良の嗜好に染まっている。最も普通なるは神経を刺激する興奮剤を好むことにて、巻煙草とコーヒーは現代文人に流行する嗜好品となった。
+
単四嫂子は処方箋を受け取り、歩きながら考えた。粗忽な女ではあったが、何先生の家と済世老店と自分の家が、ちょうど三角形の頂点に当たることは分かっていたから、薬を買って帰る方が便利に決まっている。そこでまた済世老店に向かって駆けた。店の小僧も長い爪でゆっくり処方箋を見、ゆっくり薬を包んだ。単四嫂子は宝児を抱いて待っていた。宝児が突然小さな手を挙げ、力いっぱい乱れた一房の髪を引っ張った。こんなことは初めてで、単四嫂子は怖くなって呆然とした。
  
 現代の日本の文人は、喫煙とコーヒー以外にも各人各様の奇怪なる悪癖を犯している。前田河広一郎は酒を命の如く愛し、酔後は喧しく叫び止まず。谷崎潤一郎は女人の体臭を嗅ぎ女人の痰涕を嘗めることを好む。今東光は学問を自ら誇り自己を宣伝することを好む。金子洋文は唇を舐めることを好む。細田源吉は猥談を好み朝食後二時間熟睡す。宮地嘉六は指の爪で頭を掻くことを好む。宇野浩二は酔後侍妓を侮慢す。林房雄は姦通の癖あり。山本有三は電車にて膝を横にして斜めに座ることを好む。勝本清一郎は談話の際拇指にて鼻孔を穿ることを好む。形形色色、枚挙に遑あらず。
+
日はとうに昇っていた。単四嫂子は子を抱き、薬の包みを持って歩くほどに、ますます重く感じた。子がまたしきりにもがくので、道もますます長く感じられた。仕方なく路傍のある公館の敷居に腰を下ろして、しばらく休んだ。衣服がだんだん肌に冷たく張り付き、全身汗をかいていたことに気づいた。しかし宝児は眠っているようだった。また立ち上がってゆっくり歩いたが、やはり支えきれず、耳元にふと人の声が聞こえた——
  
 日本の現代文人が犯す悪癖は、中国旧時の文人辜鴻銘が女人の金蓮を嗅ぐことを好んだのと同様に厭うべきものであり、私は現代中国の有為なる青年に要求する。文人に限らず皆健全なる精神を保持し、決して「文人無行」の看板を借りて日本の文人と同様に譏るべき悪癖を犯すことなかれと。
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「単四嫂子、赤ん坊を抱いてやるよ!」藍皮阿五の声のようだった。
  
 (三月九日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
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顔を上げると、なるほど藍皮阿五で、寝ぼけ眼でついて来ていた。
  
【【冷ややかな物言いか?】:第四種の人 周木斎】
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単四嫂子はこの時、天の使いでも降りてきて助けてくれればと願ったが、阿五だけは御免だった。しかし阿五にはいくらか侠気があり、どうあっても手を貸そうとするので、しばらく遠慮した挙げ句、ついに許可を得た。彼は両腕を伸ばし、単四嫂子の胸と子供の間にまっすぐ差し込み、子供を抱き取った。単四嫂子は乳房の上に一筋の熱を感じ、たちまちそれが顔と耳の根まで上った。
  
 四月四日の『申報』『自由談』に何家幹氏の『文人にして文なし』なる一文が載り、中国の文人を論じて云う──
+
二人は二尺五寸ほど離れて、一緒に歩いた。阿五は何か話しかけたが、単四嫂子は大半答えなかった。しばらく歩くと、阿五はまた子を返し、昨日友人と約束した食事の時間だと言って去った。単四嫂子は子を受け取った。幸い、もう近くに家が見え、向かいの王九婆さんが通りの端に座って、遠くからこう言った——
  
 「『人情に近からざる』のは『文人無行』にあらずして『文人無文』なり。瑣事を拾いて随筆一冊をなす者はあり、古文を一篇改めて自作とする者はあり。一通りの昏話を語りて評論と称し、雑誌を数冊編みてひそかに自らを持ち上ぐる者はあり。猥談を蒐集して下作をなし旧文を集めて評伝に印す者はあり。甚だしきに至りては外国文壇の消息をいくらか翻せば世界文学史の専門家となり、文学者辞典を一冊湊えて自らもその中に入り込めば世界の文人ともなる者あり。しかれども今のところ彼らはいずれも中国の金看板の文人なり。」
+
「単四嫂子、坊やはどうしたの?——お医者に見せたのかい?」
  
 この文に「これはまことに的を射ている」と言われた如く、誠にその通りである。しかるに例外として──
+
「見せました。——王九婆さん、年を召して何でもよくご存知でしょうから、どうか目利きの目で見てくださいな、どう……」
  
 「今に至るまで、予告なしに現れた一部の『子夜』を除いては、他の大作は何一つ出現していない。」
+
「うーん……」
  
 「文」の「定義」もまた同文の言葉を借りれば「また厳密の極みである」。この文の動機は冒頭の数句から知れる通り、直接にはある「大」字を冠する副刊上の「×氏」の「文人無行」に関する話に因る。なお聞くところによれば「何家幹」とは即ち魯迅先生の筆名であるという。
+
「どうでしょう……?」
  
 しかし議論は「的を射」ており「文」の「定義」は「厳密の極み」であるが、まさにそれゆえに思わず自分自身をもその中に含めてしまったのではないか。たとえ魯迅先生が「第四種の人」を自任しているとしても。
+
「うーん……」王九婆さんはしげしげと見て、頭を二度頷かせ、二度振った。
  
 中国文壇の充実しつつも空虚なることは諱むべからず。ただし矮人の中に長人を求むれば比較的まだいる。先達に望むところは誰某に対する企図よりも常に深切であるべきだ。魯迅先生の素養と過去の功績をもってすれば、なお中国の金剛石の看板の文人たるに足る。しかし近年はいかがであったか。ただ彼個人の発展のみを言えば途中で画き止めてしまい、今や罪己の詔を下すでもなく、せいぜい局外に身を置いて冷ややかな物言いをするばかり、これが「第四種の人」というものか。名のみ成りし人よ!
+
宝児が薬を飲んだのはもう午後だった。単四嫂子は様子を窺い、どうやらいくらか落ち着いたようだった。午後になって、ふと目を開け「母ちゃん!」と一声呼んで、またすぐ目を閉じ、眠ったようだった。しばらく眠って、額や鼻先に一粒一粒の汗の珠が浮き出た。単四嫂子がそっと触ると、膠のように手にくっついた。慌てて胸を探ると、堪えきれずにすすり泣きを始めた。
  
 「人情に近からざる」は固より「文人無文」であるが、最も肝要なるは「文人不行」(「行」は動詞)である。「進め、吾れ往かん!」
+
宝児の呼吸が落ち着いたものから無くなるにつれて、単四嫂子の声もすすり泣きから号泣に変わった。この時、何人かが集まってきた。門内には王九婆さんや藍皮阿五の類、門外には咸亨の掌櫃や赤鼻の老拱の類。王九婆さんが指図して、紙銭を一連焼いた。さらに二脚の板凳と五枚の衣服を抵当にして、単四嫂子のために二元の洋銀を借り、手伝いの者たちに食事を出した。
  
 (四月十五日、『涛声』二巻十四期。)
+
最初の問題は棺桶だった。単四嫂子にはまだ銀の耳環が一対と金箔張りの銀の簪が一本あり、どちらも咸亨の掌櫃に渡して保証人を頼み、半額現金半額掛けで棺桶を一つ買った。藍皮阿五も手を差し出し、進んで引き受けようとしたが、王九婆さんが許さず、明日棺桶を担ぐ役だけ許した。阿五は「老畜生め」と一声罵り、不満げに唇を突き出して立っていた。掌櫃は出かけて行き、夜になって戻ると、棺桶はすぐに作らねばならず、後半夜にようやく出来上がると言った。
  
【【涼を取る】:二つの誤解と一つの相違 家幹】
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掌櫃が戻った時、手伝いの者たちはとうに食事を済ませていた。魯鎮にはまだいくらか古風が残っているため、初更にもなると皆帰って寝てしまった。ただ阿五だけが咸亨の勘定台にもたれて酒を飲み、老拱もうーうーと歌っていた。
  
 この木斎氏は私に対して二種の誤解を抱いており、私の意見と一点の相違がある。
+
この時、単四嫂子はベッドの縁に座って泣いていた。宝児はベッドの上に横たわり、紡ぎ車は静かに床に立っていた。長い時間の後、単四嫂子の涙は枯れ果て、大きく目を見開いて周囲を見回すと、何もかも不思議に思えた。こんなことがあるはずがないのだ。心の中で算段した——夢に違いない、こんなことはすべて夢だ。明日目が覚めたら、自分はちゃんとベッドに寝ていて、宝児もちゃんと自分のそばに寝ているのだ。あの子も目を覚まし、「母ちゃん」と呼んで、生き生きと跳ねて遊びに行くのだ。
  
 第一は「文」の定義に関してである。私のこの雑感は『大晩報』副刊上の『悪癖』に因るものであり、その文中に挙げられた文人は皆小説の作者である。このことは木斎氏も明らかに知っているはずだが、今これを混同して論ずるのは、おそらく作文の都合上そこまで顧みる余裕がなかったのであろう。『第四種の人』という題目もまことに時好に適っている。
+
老拱の歌声はとうに止み、咸亨も灯を消した。単四嫂子は目を見開いて、こんなことをどうしても信じなかった。——鶏も鳴いた。東の空が次第に白み、窓の隙間から銀白色の曙光が差し込んだ。
  
 第二は私に「罪己の詔」を下せと求めていることである。私はここに一つの無聊なる声明をする。何家幹は誠に魯迅ではあるが、しかし皇帝になった覚えはない。もっとも幸いにしてかかる誤解をする者はそう多くはあるまい。
+
銀白の曙光がしだいに緋色を帯び、太陽の光が屋根棟に射した。単四嫂子は目を見開いてぼんやり座っていたが、門を叩く音が聞こえて、やっとはっとして飛び出し、門を開けた。門の外に見知らぬ人が一人、何かを背負っていた。後ろには王九婆さんが立っていた。
  
 意見の相違する点は次の通りである。凡そ指摘批判するに当たり、木斎氏は自分自身を含めることを「冷ややかな物言い」と見なし、私は自分自身を含めないことを「冷ややかな物言い」と見なす。例えば上海に身を置きながら北平の学生は難に赴くべし少なくとも難を避けるべからずと責めるが如きがそれである。
+
ああ、棺桶を背負って来たのだ。
  
 しかしこの一篇の文章により私はまことに大いなる益を得た。即ち、凡そ社会全体の症結を指摘する文章に対して、論者は往々にしてこれを「人を罵る」ものと称する。以前は甚だ怪しんだものであるが、今にして初めて知った。一部の人々の意見としては、この種の文章は決して自分を含まぬものと考えるのである。なぜなら、もし自分をも含むならば自ら罪己の詔を下すべきところ、詔書はなくして攻撃のみあるからには、指摘するところは全て他人であるに違いないと。かくして「罵る」と称し、こぞってこれを罵り、その人に一切の指摘された症結を負わせて深淵に沈め、天下はここに太平となるのである。
+
午後になってようやく棺桶の蓋が閉じられた。単四嫂子は一泣きしては一見し、どうしても諦めきれずに蓋をさせなかったからだ。幸い王九婆さんが待ちきれなくなり、腹を立てて駆け寄り、一押しに引き離してくれたので、ようやくてんやわんやで蓋を閉めることができた。
  
 (七月十九日。)
+
しかし単四嫂子は宝児のために本当に心を尽くし、もはや何の欠けたところもなかった。昨日は紙銭を一連焼き、午前にはさらに四十九巻の『大悲咒』を焼いた。納棺の際には一番新しい着物を着せ、日頃好きだった玩具——泥人形一つ、小さな木の椀二つ、ガラスの小瓶二つ——をすべて枕元に置いた。後で王九婆さんが指を折って子細に検討したが、ついに何の欠けたところも思いつかなかった。
  
 +
この日、藍皮阿五はまるきり一日中姿を見せなかった。咸亨の掌櫃が代わりに二人の人足を雇い、一人二百十文の大銭で、棺桶を義冢に運んで安置した。王九婆さんがまた飯を炊いてくれ、手を出し口を出した者たちが皆飯を食べた。太陽がだんだん山に入ろうとする色を見せると、飯を食べた者もいつしか帰ろうという色を見せ——こうして彼らはついに皆帰って行った。
  
 +
単四嫂子はひどく目眩がして、しばらく休むと、意外にもいくらか落ち着いてきた。しかし続けざまに奇妙な感じがした。生まれてから出会ったことのない、ありそうもないことが、確かに起こったのだ。考えれば考えるほど不思議で、またもう一つ奇妙なことに気づいた——この家が急にあまりにも静かなのだ。
  
【最も芸術的なる国家】
+
彼女は立ち上がり、灯をつけた。部屋はますます静かに見えた。ぼんやりと歩いて行って戸を閉め、戻ってベッドの縁に座った。紡ぎ車は静かに床に立っていた。気を落ち着けて四方を見回すと、いよいよ座っていても立っていてもいられなくなった。部屋は静か過ぎるだけでなく、大き過ぎ、ものも空っぽ過ぎた。大き過ぎる部屋が四方から彼女を取り囲み、空っぽ過ぎるものが四方から彼女を押し、息もできなくなった。
  
 +
彼女は今、宝児が確かに死んだことを知った。この部屋を見たくなくて、灯を吹き消し、横になった。泣きながら考えた——あの頃、自分が綿糸を紡いでいると、宝児がそばに座って茴香豆を食べ、黒い小さな目を見開いてしばらく考えてから、こう言ったのだ。「母ちゃん——父ちゃんは雲呑を売ってたんだ。僕が大きくなったら僕も雲呑を売って、たくさんたくさんお金を稼いで——みんな母ちゃんにあげるよ。」あの時は、紡ぎ出す綿糸の一寸一寸までが意味を持ち、一寸一寸が生きているかのようだった。しかし今はどうだ? 今のことは、単四嫂子には実のところ何も思い浮かばなかった。——すでに言った通り、彼女は粗忽な女だ。彼女に何が思いつこうか。ただこの部屋があまりにも静かで、あまりにも大きく、あまりにも空っぽだと感じるだけなのだ。
  
 我が中国の最も偉大にして最も永久、しかも最も普遍なる「芸術」は、男が女に扮することである。この芸術の貴きは両面に光沢あること、いわゆる「中庸」にある──男が見れば「女に扮する」を見、女が見れば「男が扮する」を見る。表面上は中性なれども骨の髄は当然なお男である。しかしもし扮さざれば、それでも芸術と言えようか。例えば中国の固有の文化は科挙制度であり、加えて官位売買の類がある。当初はあまりに民権に似ず時代の潮流に合わぬと言われ、かくして中華民国に扮装した。しかるにこの民国は年久しくして修繕されず、看板すら既に剥落して殆ど尽き、あたかも花旦の顔の脂粉の如し。同時に正直なる民衆がまことに政権を求め出し、科挙出身者や官位売買出身者の参政権を廃さんとしている。これは民族に対して不忠、祖先に対して不孝にしてまことに反動の極みである。今や既に固有の文化を恢復する「時代の潮流」に回帰したのであれば、この不忠不孝を放任するわけにはいかぬ。かくしてもう一度新たに扮装し直さねばならず、草案は次の如し。第一、誰が国民を代表する資格を有するかは試験により決定すべし。第二、挙人を試験により選出したる後さらに一度選抜す。これを選(動詞)挙人と称し、選抜されたる挙人は即ち被選挙人である。文法に照らせば、このような国民大会の選挙人は「選挙人を選ぶ者」と称すべく、被選挙人は「選ばれたる挙人」と称すべきである。しかし扮さざれば芸術と言えようか。かくして彼らは憲政国家の選挙人と被選挙人に扮装せねばならぬ。実質は依然として秀才と挙人であるにもかかわらず。この草案の深意はここにある──民衆には民権に見え、民族の祖先には忠孝に見える。このほか上海で既に実現せし民権の如きは、納税者のみ選挙権と被選挙権を有し、広大なる上海をして僅か四千四百六十五人の大市民のみを残す。これは官位売買──富める者が主人──であるが、彼らは必ず挙人に合格し、甚だしくは補考なくして同進士出身を賜うであろう。その一。
+
しかし単四嫂子は粗忽ではあったが、還魂などあり得ないことは分かっていたし、宝児がもう二度と会えないことも確かに分かっていた。溜息をつき、独り言を言った。「宝児、お前はまだここにいるんだろう、夢の中で会わせておくれ。」そして目を閉じ、急いで眠って宝児に会おうとした。苦しげな息遣いが静寂と大きさと空虚を通り、自分にもはっきり聞こえた。
  
 その二、一方で交渉し一方で抵抗す。こちらの面より見れば抵抗であり、あちらの面より見れば実は交渉である。その三、一方で実業家・銀行家を務めつつ一方で自ら「小貧に過ぎず」と称す。その四、一方で日本製品の売行きは再び盛んとなり一方で人には「国貨年」と告げる……このたぐい枚挙に遑なく、しかも大抵は扮演すること甚だ巧みにして両面に光沢あり。
+
単四嫂子はついにぼんやりと夢の国に入った。部屋中がとても静かだった。この時、赤鼻の老拱の小唄もとうに歌い終わり、よろよろと咸亨を出たが、また声を張り上げて歌った——
  
 ああ、中国はまことに最も芸術的なる国家にして、最も中庸なる民族である。
+
「ああ恨めしい人よ!——可哀想に——独りぼっちで……」
  
 しかるに小百姓はなお不満足なり。嗚呼、君子の中庸にして小人の反中庸なるかな!
+
藍皮阿五が手を伸ばして老拱の肩を掴み、二人はよろよろと笑いながら押し合いながら去って行った。
  
 (三月三十日。)
+
単四嫂子はとうに眠り込み、老拱たちも去り、咸亨も戸を閉めた。この時の魯鎮は完全な静寂の中に沈んでいた。ただあの闇夜が明日に変わろうとして、この静寂の中をなお奔走していた。ほかに数匹の犬が、暗がりに隠れてうーうーと鳴いていた。
  
 +
=== 第9節 ===
  
 +
(一九二〇年六月。)
  
【現代史】
+
【わが失恋
  
 +
——擬古の新戯れ歌】
  
 私に記憶がある時分から今に至るまで、凡そ私がかつて至りし地において、空き地の上に常々「手品師」を見かけた。「手品を使う」とも言う。
+
わが愛しき人は山の腰にあり
  
 +
尋ねゆかんとすれど山はあまりに高く
  
=== 第48節 ===
+
うなだれてすべなし 涙袍を濡らす
  
この手品師には、おおよそ二種のみであった──
+
愛しき人われに百蝶の巾を贈る
  
 一種は、猿一匹に仮面を被せ衣服を着せて一通り刀槍を弄ばせ、羊に騎って数周走らせる。さらに薄粥で養われ既に痩せて骨と皮ばかりの熊が若干の芸当をする。最後に皆から銭を集める。
+
返すは何ぞ——木菟
  
 もう一種は、石一つを空箱に入れ手巾で左に覆い右に覆いして白鳩一羽を出現させる。また紙を口に詰めて火を点け、口角や鼻孔から煙炎を吐く。次に皆から銭を集める。銭を集めた後、一人が少ないと言って勿体をつけてもう演じぬと言い張り、もう一人がなだめて皆に「あと五つ」と言う。果たして銭を投げる者が現れ、かくしてあと四つ、三つ……。
+
爾来そっぽを向きて我を顧みず
  
 銭が足りると、手品はまた始まる。今度は子供一人を口の小さな甕の中に入れてしまい、小さな辮髪だけが見え、再び出すにはまた銭が要る。十分集まると、どういうわけか大人が尖った刀で子供を刺し殺してしまい、被り物を掛けて真っ直ぐに横たえ、生き返らせるにはまた銭が要る。
+
何ゆえぞ わが心を驚かしむる
  
 「家にあっては父母を頼り、外にあっては朋友を頼り……ファーザ!ファーザ!」手品師は銭を撒く手振りをし、厳粛にして悲哀に言う。
+
わが愛しき人は繁華の巷にあり
  
 他の子供が近寄って仔細に見ようとすれば彼は叱る。それでも聞かねば打つ。
+
尋ねゆかんとすれど人混みに阻まれ
  
 果たして多くの人が「ファーザ」した。金額が見込みの通りに達すると、彼らは銭を拾い上げ道具を片付け、死んだ子供も自ら起き上がり一同立ち去る。
+
仰ぎてすべなし 涙耳を濡らす
  
 見物客もぼんやりと散って行く。
+
愛しき人われに双燕の図を贈る
  
 この空き地は暫時の沈寂となる。しばらくすると、またこの一式が始まる。俗に言う「手品は誰でも使えるが、各々巧みさが異なる」と。実のところ何年も常にこの一式であり、常に見る者があり常に「ファーザ」する者があるが、ただしその間に数日の沈寂を経なければならぬ。
+
返すは何ぞ——氷糖葫蘆
  
 私の話はこれで終わりであり、意味もごく浅い。ただ皆が一通り「ファーザファーザ」した後またしばらく静かになり、それからまたこの一式が繰り返されるというだけのことである。
+
爾来そっぽを向きて我を顧みず
  
 ここに至って私は初めて題目を間違えたことに気づいた。これはまことに「死にもせず生きもせぬ」代物になってしまった。
+
何ゆえぞ わが頭を惑乱せしむる
  
 (四月一日。)
+
わが愛しき人は河のほとりにあり
  
 +
尋ねゆかんとすれど河の水深く
  
 +
首をかしげてすべなし 涙襟を濡らす
  
【推背図】
+
愛しき人われに金の懐中時計の鎖を贈る
  
 +
返すは何ぞ——発汗薬
  
 ここで私が用いる「推背」の意味は、裏面から推して未来の情況を測るということである。
+
爾来そっぽを向きて我を顧みず
  
 先月の『自由談』に一篇の『正面の文章は逆に読め』があったが、これは人をして毛骨悚然たらしめる文字である。なぜならこの結論に達するまでに、必ずや多くの苦い経験を経、多くの痛ましき犠牲を目にしたに違いないからだ。本草家が筆を執って「砒霜、大毒」と書く。字は僅か四つなれど、彼はこのものがかつていかに多くの命を毒殺したかを確実に知っているのである。
+
何ゆえぞ わが神経を衰弱せしむる
  
 巷間に一つの笑い話がある。某甲が銀三十両を地中に埋め、人に知られることを恐れその上に木の板を立てて「此処に銀三十両なし」と書いた。隣の阿二はこれを見てその銀を掘り出したが、やはり発覚を恐れ木の板の裏に「隣の阿二は盗まず」と書き添えた。これこそ「正面の文章は逆に読め」を教えるものである。
+
わが愛しき人は豪家にあり
  
 しかし我々が日々目にする文章はかくも単純にはいかぬ。明らかにやると言いつつ実はやらぬものがあり、明らかにやらぬと言いつつ実はやるものがあり、明らかにこうすると言いつつ実はああするものがあり、実は自分がこうしたいのにかえって他人がこうしたがっていると言うものがあり、一声も発せずして実はやってしまっているものがある。しかしまた、こうすると言って本当にそうするものもある。難しいのはまさにここにある。
+
尋ねゆかんとすれど自動車なし
  
 例えば近日の新聞に載る要聞を見よ──一、××軍は××にて血戦、敵××××人を殺す。二、××の談話:決して日本と直接交渉せず、依然として初志を改めず最後まで抵抗す。三、芳沢来華、私用とのこと。四、共産党が日本と連携、偽中央は既に幹部××を日本に派遣して交渉中。五、××××……
+
首を振りてすべなし 涙麻のごとし
  
 もしこれらを全て逆に読めば、あまりに駭然たるものがある。しかし新聞にはまた「莫干山路の草棚船百余隻大火」や「××××廉売はあと四日のみ」等々おそらく「推背」の要なき記事もあり、かくしてまた我々は混沌とするのである。
+
愛しき人われに薔薇の花を贈る
  
 聞くところによれば、『推背図』は本来霊験あらたかであったが、某朝某帝が人心を惑わすことを恐れ偽造のものを加えたがゆえに予知し得なくなり、事実の証明を俟って後人々はようやく悟るのだという。
+
返すは何ぞ——赤練蛇
  
 我々もまた事実を見て待つほかなく、幸いにしておそらくそう久しくはなく、今年中には必ず結末がつくであろう。
+
爾来そっぽを向きて我を顧みず
  
 (四月二日。)
+
何ゆえぞ——彼女に任せよかし
  
 +
(一九二四年十月三日。)
  
 +
【復讐(其の二)】
  
【「殺す相手を間違えた」異議】
+
彼が自ら神の子、イスラエルの王を以て任じたがゆえに、十字架に釘づけにされに行くのだ。
  
 +
兵卒たちは彼に紫の衣を着せ、茨の冠を戴かせ、慶賀した。また葦の茎で彼の頭を打ち、唾を吐きかけ、跪いて拝んだ。嘲弄し終わると、紫の衣を脱がせ、もとの衣を着せた。
  
 曹聚仁氏の一篇『殺す相手を間違えた』を読み甚だ痛快を覚えたが、振り返ってみればなおいささか憤激の談に過ぎぬ嫌いがあるので、異議を数言呈したい──
+
見よ、彼らは彼の頭を打ち、唾を吐きかけ、拝む……
  
 袁世凱が辛亥革命の後に党人を大殺したのは、袁世凱の側から見れば一点の間違いもなかった。なぜなら彼はまさに偽革命の反革命者であったからだ。
+
彼は没薬を混ぜた酒を飲もうとしなかった。イスラエルの民が彼らの神の子をいかに扱うかを、はっきりと味わおうとし、しかも彼らの前途をより永く憐れみ、しかし彼らの現在を憎んだのだ。
  
 間違っていたのは革命者が騙されたことであり、彼がまことに宙返り一回で北洋大臣から革命家に変じたと思い込み、同志として迎え入れ、皆の血を流して彼を大統領の座に押し上げたのである。二次革命の時、表面上は彼がまた宙返り一回で「国民の公僕」から吸血魔王に変じたかに見えた。しかし実はそうではなく、彼がまた本来の姿を現しただけのことであった。
+
四方は敵意に満ちていた。憐れむべき、呪うべきものに。
  
 かくして殺す、殺す、殺す。北京城内では旅館や宿屋の中にまで偵探が満ち溢れ、さらに「軍政執法処」なるものがあり、嫌疑を受けて捕らえられた青年が中に送り込まれるのは見えるが、彼らが生きて出て来るのを見たことはなかった。さらに『政府公報』には日毎に党人の脱党広告が載り、曰く以前は友人に引き込まれて誤ってかの党に入ったが、今は自ら迷妄を知りこれより離脱し心を洗い面を改めて善人たらんとする云々。
+
丁丁と響き、釘の先が掌を貫通した。彼らは彼らの神の子を釘殺しようとしているのだ。憐れむべき人々よ、その痛みは彼を柔らかくした。丁丁と響き、釘の先が足の甲を貫通し、骨を一片砕いた。痛苦もまた心髄にまで透った。しかし彼ら自身が彼らの神の子を釘殺しつつあるのだ。呪うべき人々よ、この痛みは彼を快くした。
  
 間もなく袁世凱が人を殺して間違いなかったことが証明された。彼は皇帝になろうとしたのである。
+
十字架は立てられた。彼は虚空に懸かった。
  
 この事、瞬く間に既に二十年。今の二十歳前後の青年はその時まだ乳を吸っていたのであり、時の流れのいかに速きことか。
+
彼は没薬を混ぜた酒を飲まなかった。イスラエルの民が彼らの神の子をいかに扱うかを、はっきりと味わおうとし、しかも彼らの前途をより永く憐れみ、しかし彼らの現在を憎んだのだ。
  
 しかし袁世凱は自ら皇帝にならんとしながら、なぜ真の仇敵たる旧皇帝を残しておいたのか。これは多く議論するまでもなく、今の軍閥の混戦を見れば分かる。彼らは死物狂いで戦い天を共にせざるが如くなれども、後に至りて一方が「下野」しさえすれば、また丁重に相対するのである。しかし革命者に対してはたとえ戦ったことがなくとも、決して一人たりとも見逃さぬ。彼らは実によく心得ているのだ。
+
通りがかりの者は皆彼を罵り、祭司長や律法学者も彼を嘲弄し、ともに釘づけにされた二人の強盗も彼を嘲った。
  
 されば私は思う。中国の革命がかくも不首尾に終わるのは彼らが「殺す相手を間違えた」からではなく、我々が「見る相手を間違えた」からなのである。
+
見よ、ともに釘づけにされた者までも……
  
 最後に「中年以上の者を多く殺すべし」との主張にもいささか異議があるが、自分自身が既に「中年以上」であるからして、嫌疑を避けるためただ目を地面に向けるのみとする。
+
四方は敵意に満ちていた。憐れむべき、呪うべきものに。
  
 (四月十日。)
+
彼は手足の痛苦の中で、憐れむべき人々が神の子を釘殺する悲哀と、呪うべき人々が神の子を釘殺しようとし、しかも神の子がまさに釘殺されんとする歓喜とを味わった。突然、砕けた骨の大いなる痛苦が心髄にまで透り、彼はすなわち大いなる歓喜と大いなる悲憫の中に酔いしれた。
  
 原稿では「丁重に相対する」の後に「下野して出洋の際にはさらに盛大なる送別会が開かれることすらある」という趣旨の文があったが、後に削除されたことを記憶している。
+
彼の腹部が波打った。悲憫と呪詛の痛苦の波が。
  
 (四月十二日記す。)
+
地はことごとく暗くなった。
  
【【備考】:殺す相手を間違えた 曹聚仁】
+
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!?」(訳せば、すなわち——わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!?)
  
 先日某紙に某氏が長春帰りの客の話を載せていた。曰く、日本人は偽国において既に「阿片専売」と「幣制統一」の二大政策を完遂したと。この二件はかつて老張・小張の時代には誰もが整理不可能と見なしていたが、今や彼らは一挙手の間にこれを整然と処理した。そこで某氏は嘆息して曰く「余かつて東北の人士と幣制紊乱の害を論ずるに、皆積重にして返り難しと推諉す。何ぞ日本人は一刹那の間に畢えるや。『為さざるなり、能わざるにあらず。』これ国人の一大病根なり!」と。
+
神は彼を棄てた。彼はついにやはり一人の「人の子」であった。しかしイスラエルの民は「人の子」さえも釘殺した。
  
 豈にただ「病根」のみならんや。中華民族の滅亡と中華民国の顛覆もまたこの肺癆病にある。一つの社会、一つの民族が衰老期に至れば何事も「積重にして返り難し」となる。ゆえに「革命」せざるべからず。革命とは社会の突変の過程であり、善人も悪人も善でも悪でもない人もいくらかは殺されるものである。殺すことは代価なきにあらず──社会に隔離作用を起こし旧社会と新社会を截然として二段に分かち、悪しき勢力を新しき組織に伝染させぬのである。ゆえに革命の殺人には基準あるべく、中年以上の者を多く殺し旧勢力を代表する者を多く殺すべきである。フランス大革命の成功は大恐慌時期に旧勢力を一掃したことにある。
+
「人の子」を釘殺した者たちの身には、「神の子」を釘殺した場合にもまして血が汚れ、血の臭いがした。
  
 しかるに中国の毎回の革命は常に常態に反している。多くの青年が革命運動に参加して犠牲となり、革命の進行中旧勢力は一時身を隠すのみにて一切も剷除されず、革命成功の後に旧勢力がまた湧き出して青年を犠牲にし一大批を殺す。孫中山先生が辛苦して十数年の革命工作をなし辛亥革命は成功したが、袁世凱が大権を握り日毎に党人を殺し甚だしくは十五六歳の子供までも殺さんとした。かくの如き革命は隔離作用を起こすどころかまるで旧勢力の護衛をしているようなものだ。ゆえに民国以来ただ暮気のみにて朝気なく、いかなる事業も改革を論ずるに及ばず、一たび改革を論ずれば必ず「積重にして返り難し」と推諉する。その悪しき勢力は現在に至るまで続いている。
+
(一九二四年十二月二十日。)
  
 この種の反常状態を私は「殺す相手を間違えた」と名づける。私は常に友人に語っている。「流血なき革命はあり得ぬが、『流血』は人を間違えてはならぬ。早くに溥儀を殺し鄭孝胥の輩を多く殺すこそ邦国の大幸なり。もし二十五歳以下の青年を乱殺し倒行逆施して社会の元気を斫喪すれば『亡国滅種』の『眼前の報い』を得ること必定」と。
+
=== 第10節 ===
  
 (『自由談』四月十日。)
+
彼女がもう矢継ぎ早に問わないのに乗じて、私は足を速めて歩き出し、大急ぎで四叔の家に逃げ帰った。心の中がひどく落ち着かなかった。自分で思った。この答え方は彼女にとっていくらか危険だったかもしれない。彼女はおそらく他の人々の祝福の時に、自分自身の寂寞を感じたのだろう。だが、他に何か含みがあったのではないか?——あるいは何か予感があったのか? もし他の意味があり、そのために何か別のことが起こったなら、私の答えはいくばくかの責任を負うべきだ……。しかしすぐにまた自嘲して、偶然の出来事にもともと何の深い意味もないのに、私がわざわざ子細に推し量るから、教育者に神経病だと言われるのも無理はないと思った。まして「分かりません」とはっきり言ったのだから、答え全体をすでに覆したのであり、たとえ何事が起ころうとも、私とは毫も関係がないのだ。
  
 +
「分かりません」は極めて有用な言葉だ。世慣れぬ勇敢な若者はしばしば他人の疑問を解こうとしたり、医者を選んだりするが、万一結果が良くなければ、大抵かえって恨みの的になる。しかしこの「分かりません」で結びとすれば、万事のんびりと気楽でいられるのだ。私はこの時、この一言の必要性をいよいよ痛感した。たとえ物乞いの女と話す時であっても、決して省いてはならないのだ。
  
 +
しかし私はやはり落ち着かず、一夜が過ぎても、なお時々思い出された。何か不吉な予感を抱いているかのように。陰鬱な雪の日の、退屈な書斎の中で、この不安はいよいよ強まった。いっそ出かけよう、明日町へ行こう。福興楼の清蒸鱶鰭は一元で大皿一つ、安くて旨かった。今は値上がりしているだろうか? かつて一緒に出かけた友人たちは、すでに雲散霧消したが、しかし鱶鰭は食べないわけにはいかない。たとえ私一人だけだとしても……。いずれにしても、明日きっと出発するのだ。
  
【中国人の生命圏】
+
私は、かねてそうであってほしくないと願い、まさかそうではあるまいと思っていたことが、往々にしてその通りになるのを見てきたから、今度のこともその例に違わないかと恐れた。果たして、特別の事態が始まった。夕方、奥の部屋で何人かが何事か相談しているらしい話し声が聞こえたが、やがてそれも止み、ただ四叔が歩きながら大声で言うのが聞こえた。
  
 +
「早くもなく遅くもなく、よりによってこの時に——これこそ謬種というものだ!」
  
 「螻蟻すら生を貪ることを知る」──中国の百姓は昔から自ら「蟻民」と称してきた。私は暫時己が命を保全せんがため、常に比較的安全なる場所に心を配っているが、英雄豪傑を除けばおそらく嘲られることもあるまい。
+
私は最初は不審に思い、次いでひどく落ち着かなくなった。この言葉は私に関係があるようだった。門外を見ても誰もいない。やっと夕食前に下男が茶を入れに来た時、ようやく情報を聞き出す機会を得た。
  
 ただし私は正面の記載はあまり信用せず、往々にして別の見方をする。例えば新聞に北平が防空の設備を整えつつあると載っていても、私は安心を覚えぬ。しかし古物を載せて南へ運ぶのを見れば忽ち古都の危機を感じ、しかもこの古物の行方から中国の楽土の所在を推測する。
+
「さっき、四老爺は誰に怒っていたのですか?」と私は聞いた。
  
 今や一批また一批の古物が皆上海に集まって来ている。最も安全なる場所は結局のところやはり上海の租界の上であることが分かる。
+
「祥林嫂のことじゃありませんか。」下男は簡潔に答えた。
  
 しかしながら家賃は必ずや高騰するであろう。これは「蟻民」にとっても大打撃であるから、なお他の場所を考えねばならぬ。
+
「祥林嫂? どうしたのです?」私はまた急いで聞いた。
  
 考えに考えて一つの「生命圏」に思い至った。即ち「腹地」にもあらず「辺疆」にもあらず、両者の中間に介在するあたかも環の如く輪の如き場所であり、ここにおいてこそ「×世に性命を苟延する」ことができるやもしれぬ。
+
「年を取ったんですよ。」
  
 「辺疆」では飛行機が爆弾を投下する。日本の新聞によれば「兵匪」を剿滅中とのことであり、中国の新聞によれば人民を屠戮し村落市街は一片の瓦礫となっている。「腹地」でもまた飛行機が爆弾を投下する。上海の新聞によれば「共匪」を剿滅中であり彼らは炸かれて見る影もないとのことであるが、「共匪」の新聞に何と書いてあるかは我々には分からぬ。要するに辺疆では炸、炸、炸、腹地でもまた炸、炸、炸。一方は他人が炸し一方は自分が炸するのであって炸す手は異なれど炸される身は同じである。ただこの両者の中間にあるもののみが、爆弾が誤って落ちて来さえしなければ「血肉横飛」を免れる望みがあるので、私はこれを「中国人の生命圏」と名づける。
+
「死んだのか?」私の心は急に締めつけられ、ほとんど飛び上がりそうで、顔色もたぶん変わっただろう。しかし彼は終始顔を上げなかったので、まったく気づかなかった。私も自分を落ち着かせて、続けて聞いた。
  
 さらに外から炸し入ればこの「生命圏」は収縮して「生命線」となり、さらに炸し入れば皆は炸され尽くした「腹地」の中に逃げ込みこの「生命圏」は完結して「生命○」(ゼロ)となる。
+
「いつ死んだのです?」
  
 実はこの予感は誰にもあるのであって、この一年来文章の上に「我が中国は地大にして物博、人口衆多」なる常套句がほとんど見られなくなったことこそ一つの証拠である。しかもある先生は演説の上で自ら中国人は「弱小民族」だと言っている始末だ。
+
「いつだって?——昨夜か、それとも今日か——分かりません。」
  
 しかしこの言葉は権力者たちの同意するところではない。なぜなら彼らには飛行機のみならず、彼らの「外国」があるからだ!
+
「どうして死んだのです?」
  
 (四月十日。)
+
「どうしてって——貧乏で死んだんですよ。」彼は淡々と答え、やはり顔を上げずに出て行った。
  
 +
しかし私の驚愕は一時のことに過ぎず、すぐに、来るべきことはすでに過ぎ去ったのだと感じた。私自身の「分かりません」と、彼の言う「貧乏で死んだ」という慰めに頼るまでもなく、心は次第に軽くなった。ただ時折、いくらかの後ろめたさがあるようだった。夕食が並べられ、四叔が厳かに相伴した。私もなお祥林嫂の消息を聞き出したかったが、彼は「鬼神は二気の良能なり」を読んだ人でありながら忌諱がなお多く、祝福の近づく時に死亡や病気の類の話をするのは絶対に許されないと知っていた。やむを得ない場合は隠語を使うべきだが、あいにく私にはそれが分からず、何度も聞こうとしてはやめた。彼の厳めしい顔色から、彼がまさに私のことを、早くもなく遅くもなくこの時に来て煩わせるのは一つの謬種だと思っているのではないかと疑い、急いで明日魯鎮を離れて町へ行くと告げ、早々に彼の心を安んじた。彼もさほど引き止めなかった。こうして悶々と一食を食べ終えた。
  
 +
冬は日が短く、しかも雪の日で、夜の帳はすでに早くから町全体を覆っていた。人々は灯りの下であわただしいが、窓の外は静まり返っていた。雪花が分厚く積もった雪の褥の上に落ち、瑟瑟と音がするかのようで、いよいよ深い静寂を感じさせた。私は黄色い光を発する菜種油のランプの下に独り座り、考えた。この打つ手のない祥林嫂が、人々に捨てられた塵芥の中の、見飽きた古くさい玩具のように、以前はまだ形骸を塵芥の中に晒していた。生きることに楽しみを見出す人々から見れば、なぜまだ存在するのかと怪しまれたであろう。今やようやく無常に一掃され、きれいさっぱり片づいた。魂の有無は私には分からない。しかしこの世においては、無聊な生者が生まれず、嫌悪する者が見ずに済むのは、人のためにも己のためにも悪くはない。私は窓の外の瑟瑟と音を立てるかのような雪花の声を聞きながら、考えるにつれて、かえって次第に晴れやかな気持ちになってきた。
  
【内と外】
+
しかし、先に見聞きした彼女の半生の断片が、ここに至って一つに繋がった。
  
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彼女は魯鎮の人ではなかった。ある年の初冬、四叔の家で女中を替えようとしていた時、仲人の衛婆さんが彼女を連れてきた。頭に白い喪の紐を巻き、黒い裙、藍の袷袄、月白の背心を身につけ、年齢は二十六、七ほど。顔色は青黄色だが、両の頬にはまだ赤みがあった。衛婆さんは彼女を祥林嫂と呼び、自分の母方の実家の隣人で、夫を亡くしたので奉公に出てきたのだと言った。四叔は眉をひそめた。四婶はすでに彼の意を察した——寡婦であることが気に入らないのだ。だが見たところ容貌は端正で、手足も丈夫で、しかも目を伏せたまま一言も口を開かず、まことに分相応で辛抱強い人のようだったので、四叔の渋面など構わず引き留めた。試用期間中、彼女は一日中働き、暇でいるのが退屈というかのようで、しかも力があり、まったく男一人分に相当した。そこで三日目に本決まりとなり、月の賃金は五百文に定められた。
  
 古人曰く、内外に別あり道理は各々異なると。夫を「外子」と呼び妻を「賤内」と呼ぶ。傷病兵は病院の内にあり慰問品は病院の外にあって、査明を経ざれば受け取ることを許さず。外に対しては安んじ、内に対しては攘いあるいは嚷ぶ。
+
皆が彼女を祥林嫂と呼んだ。姓は聞かなかったが、仲人は衛家山の人で、隣人だと言うからには、おそらく姓も衛であろう。彼女はあまり口数が多くなく、人に聞かれて初めて答え、答えても多くは語らなかった。十数日経ってようやく次第に分かったのは、家には厳しい姑がいること、十いくつになる小姑がいて、柴刈りができること、彼女は春に夫を亡くしたこと、夫ももとは柴刈りで生計を立て、彼女より十歳若かったこと——皆が知っていたのはただこれだけだった。
  
 ○ ○ ○ ○
+
日は早く過ぎ、彼女の仕事ぶりには少しも弛みがなかった。食べ物は選ばず、力は惜しまなかった。人々は皆、魯四老爺の家に雇われた女中は、実際に勤勉な男よりもなお勤勉だと言った。年末には、掃除、床磨き、鶏を殺し、鵞鳥を屠り、夜通し「福礼」を煮るのも、すべて一人で引き受け、臨時の手伝いを雇わずに済んだ。しかし彼女はかえって満足し、口元にだんだん笑みが浮かび、顔も白くふっくらしてきた。
  
 何香凝先生は嘆息して曰く「当年はその起たざることを恐れしに、今日はその死なざることを恐る」と。しかしながら死の道理もまた内外で異なる。
+
新年が過ぎたばかりの頃、彼女が川べりで米を研いで帰ってきた時、ふと顔色を変えた。さっき遠くに対岸を彷徨く男がいて、夫の家の従伯にそっくりで、おそらく彼女を探しに来たのだろうと言う。四婶はたいそう驚き怪しみ、詳しく聞こうとしたが、彼女はそれ以上は言わなかった。四叔は聞くとすぐに眉をひそめて言った。
  
 ○ ○ ○ ○
+
「これは良くない。どうやら逃げてきたらしい。」
  
 荘子曰く「哀しみの大なるは心の死するに如くはなし、身の死するはこれに次ぐ」と。次ぐとは二害の軽きを取るなり。されば外なる身体はこれを死なしめ、内なる心はこれを活かす。あるいはまさにその心が活きているがゆえに身体を死なしめるのである。これを治心と謂う。
+
彼女はまさしく逃げてきたのであり、まもなくこの推測は証明された。
  
 ○ ○ ○ ○
+
その後おそらく十数日して、皆がそろそろ先の事を忘れかけた頃、衛婆さんが突然三十過ぎの女を連れてきた。祥林嫂の姑だと言う。その女は山の人の身なりだったが、応対はなかなか堂に入っており、話もうまく、挨拶の後に詫びを述べた。嫁を実家に呼び戻しに来たのだという。春は忙しいのに家には年寄りと子供しかおらず、人手が足りないからだそうだ。
  
 治心の道理は甚だ玄妙である。心は固より活かすべきなれどもあまりに活かし過ぎてはならぬ。心が死すれば明々白々に抵抗せぬことになり、結果としてかえって皆が鎮静でなくなる。心があまりに活き過ぎれば妄想を逞しくし本気で抵抗を企てる。この種の人は「絶対に抗日を言うべからず」なのである。
+
「彼女の姑が帰れと言うなら、何も言いようがない。」四叔は言った。
  
 ○ ○ ○ ○
+
そこで賃金を精算した。合計千七百五十文。彼女は全額を主人の家に預けたままで、一文も使っていなかったので、すべて姑に渡した。あの女はさらに衣服を取り、礼を言って出て行った。その時はすでに正午だった。
  
 皆を鎮静せしめんがためには心の死せし者は出洋すべし。留学とは外国に赴いて心を治する方法である。しかして心のあまりに活き過ぎたる者は罪あり厳しく処置すべし。これこそ国内にて心を治する方法なのである。
+
「おや、お米は? 祥林嫂は米を研ぎに行ったはずでは?……」しばらくして、四婶がようやく叫んだ。彼女は少し空腹を覚え、昼飯のことを思い出したのだ。
  
 ○ ○ ○ ○
+
そこで皆手分けして笊を探した。彼女はまず台所、次に広間、それから寝室を探したが、どこにも笊の影はなかった。四叔が門の外に出ても見つからず、川べりまで行ってようやく、笊がきちんと岸に置いてあるのを見つけた。そのそばに菜が一株。
  
 何香凝先生は「誰が罪人であるかはなはだ問題あり」と言うが──これはまさに彼女が内外有別の道理を弁えぬがゆえである。
+
目撃者の報告によれば、川には午前中から白い帆の船が一艘停泊しており、帆はすっぽりと被せてあって、中に誰がいるか分からなかったが、事前には誰も気に留めなかった。祥林嫂が米を研ぎに出てきて、まさに跪こうとした瞬間、船の中から突然二人の男が飛び出した。山の人のようで、一人が彼女を抱き、一人が手伝って船に引きずり込んだ。祥林嫂は何度か叫んだが、その後はもう何の物音もしなかった。おそらく何かで口を塞がれたのだろう。続いて二人の女が歩いてきた。一人は見知らぬ女で、もう一人は衛婆さんだった。船内を覗くと、よくは分からなかったが、彼女は縛られて船板の上に横たわっているようだった。
  
 (四月十一日。)
+
「けしからん! しかし……。」四叔は言った。
  
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この日は四婶が自分で昼飯を作った。息子の阿牛が火を焚いた。
  
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昼食後、衛婆さんがまた来た。
  
【透底】
+
「けしからん!」四叔は言った。
  
 +
「どういうおつもりです? よくもまあ再びお目にかかれたものですね。」四婶は皿を洗いながら、会うなり憤然として言った。「あなた自身が彼女を推薦して連れて来ておいて、今度は結託して攫って行って、大騒ぎになって、みっともないったらない。うちを馬鹿にしているのですか?」
  
 凡そ事を徹底するのは善いことであるが「透底」(底を透く)となると必ずしも高明とは言えぬ。なぜなら連続して左に廻り続ければやがて右に廻る友人と出くわすからであり、その時互いに頷き合い顔がひりひりするであろう。自由を求める者が忽ち復辟の自由を保障せよとか大衆虐殺の自由を保障せよと言い出す──透底は透底であるが自由そのものまで漏れ落ちてしまい、元来ただ底なき穴が残るのみである。
+
「おやおや、とんだ手違いでした。今回わざわざ参ったのは、このことを申し上げるためです。彼女が奉公先を探してくれと頼むので、まさか姑に内緒だとは思いもしませんでした。申し訳ありません、四老爺、四太太。いつもお宅は心が広くて、小人と争わないお方ですから。今度はきっと良い者を推薦して罪滅ぼしをいたします……。」
  
 例えば八股文に反対するのは至極尤もなことである。八股はもともと愚鈍の産物である。一つには試験官が面倒を嫌い──彼らの頭脳は大半が陰沉木でできている──何の聖賢に代わりて言を立てるとか起承転結だとか文章の気韻だとか一定の基準がなく捉え難いがゆえに、一股一股と定め功令に合する格式としこの格式をもって「文を衡る」ことで一目にして軽重が分かるようにした。二つには受験者もまた省力にして手間いらずと感じたのである。かくの如き八股は新旧を問わず皆掃蕩すべきである。しかしこれは聡明であらんがためであって、さらに愚鈍であらんがためではない。
+
「しかし……。」四叔は言った。
  
 ただし愚鈍を保存せんとする者には一つの策略がある。彼らは言う「私は駄目だが、あいつも私と同じだ」と。──皆がやっていけなければ引き倒して大団円! しかし「あいつ」が引き倒された後、旧き愚鈍なる「私」はこっそりとまた立ち上がるのであり、実利は愚鈍に帰するのだ。あたかも偶像を打倒せんとすれば偶像は焦って一切の生きた人間を指さし「彼らは皆私に似ている」と言い、かくして汝は走り行って偶像に似たる生きた人間を悉く打倒し、戻って来ると偶像が一頻り讃えて曰く、偶像を打倒して「打倒」者を打倒するとは確かに透底の至りであると。実はこの時さらに大いなる愚鈍が全世界を覆っているのである。
+
こうして祥林嫂事件は終結し、まもなく忘れ去られた。
  
 +
ただ四婶だけは、その後雇った女中がおおむね怠け者か食いしん坊、あるいは食いしん坊の上に怠け者で、何かと気に入らなかったので、今でも祥林嫂のことを口にした。そのたびに独り言のように言った。「あの人は今頃どうしているかしら?」希望は、彼女がまた来てくれることだった。しかし翌年の正月になっても、望みは絶えた。
  
=== 第49節 ===
+
正月が終わりかけた頃、衛婆さんが年賀に来た。すでにかなり酔っ払っていた。衛家山の実家に帰って数日泊まったから遅くなったのだと自分で言った。問答の間に、自然と祥林嫂の話になった。
  
口を開けば詩云子曰、これは旧八股である。しかるに人あって「ダーウィン曰く、プレハーノフ曰く」をも新八股と見なす。かくして地球が丸いことを知ろうとすれば、人人自ら地球を一周せねばならず、蒸気機関を製造せんとすれば、まず開水壺の前に座して格物せねばならぬ……。これは自ずと透底の極みである。実のところ、かつて衛道文学に反対したのは、あのように人を食う「道」は衛るべきではないという意味であったが、ある人が透底にせんとして、いかなる道も衛らぬと言い出した。この「いかなる道も衛らぬ」というのは、それ自体一つの「道」ではないか。されば、真に最も透底なるは、なお以下の一つの物語であろう──
+
「あの人ですか?」衛婆さんは嬉しそうに言った。「今は良い運にめぐり合ったんですよ。姑が連れ戻しに来た時には、とっくに賀家墺の賀老六に嫁がせる話がついていたんです。だから家に帰って何日もしないうちに、花嫁籠に乗せて担いで行ったんですよ。」
  
 古、ある国で革命が起こり、旧政府は倒れ新政府が立った。傍の者が言った「お前は革命党だが、もとは有政府主義に反対していたではないか。なぜ自分が政府をやるのか」と。革命党は即座に剣を抜いて自らの首を斬り落とした。しかしその身体は倒れず、殭屍と化して直立し、喉管の中から呑々吐々と言うには、この主義の実現はもとより三千年後を待たねばならぬのだと。
+
「おやまあ、なんという姑でしょう!……」四婶は驚いて言った。
  
 (四月十一日。)
+
「おやおや、奥様!大家のお方のお言葉ですよ。私ら山の者、小家の人間にはこんなこと何でもありません。彼女には小姑がいて、嫁を取らねばなりませんからね。嫁にやらなければ、聘礼のための金がどこにある?姑はなかなかのやり手で、よく計算しているから、だから山奥に嫁にやったんです。同じ村の者に嫁がせたら、聘礼は多くはもらえない。深山の奥まで嫁ぐ女が少ないから、八十千もの金が手に入った。今では次男の嫁も迎えたが、聘礼は五十千で済んだ。祝儀の費用を引いても、十数千は残る。ねえ、この算段の見事なこと!……」
  
【【来信】:】
+
「祥林嫂は承知したのですか?……」
  
 家幹先生:昨日、大作『透底』一文を拝読し、晩前に発表した拙文『論新八股』に触れられている箇所あり、甚だ幸甚。ただし「譬え」云々は実に誤解より出たるものです。小生の所謂新八股とは、一等の文にして本は充実せる内容なく、ただ時好の看板のみあり、あるいは新装をもって旧き皮嚢を包むものを指します。看板替えにして中身は同じなればこそ「この空虚なる宇宙」は依然として「且つ夫れ天地の間」と同じく八股であり、羊頭を掲げて狗肉を売ればこそ「ダーウィン曰く」「プレハーノフ曰く」は依然として「子曰く詩に云う」と毫も異ならぬのです。ゆえに攻撃するは「ダーウィン曰く」「プレハーノフ曰く」それ自体にあらず、これを利用して新八股の形式を成すことにあります。先生の挙ぐる「地球」「機器」の例、「透底」「衛道」の理は三尺の童子も知るところ、これを以て比とするは曲解の嫌いあり。
+
「承知も何も。——暴れるのは誰だって暴れますよ。ただ縄で一つ縛って花嫁籠に押し込み、男の家に担いで行って、花冠を被せ、拝礼させ、部屋の戸を閉めれば、それでおしまいです。ところが祥林嫂は本当に並外れていましてね。聞くところでは、あの時は本当にひどく暴れたそうで、みんな、読書人の家で奉公していたから人並み外れているのだろうと言ったものです。奥様、私どもは場数を踏んでおりますよ。再婚で嫁に行く女が、泣き叫ぶ者もいれば、死ぬの殺すのと言う者もいるし、男の家に担ぎ込まれて天地の拝礼ができないほど暴れる者もいれば、花燭まで叩き壊す者もいる。祥林嫂はまったく尋常ではなかった。道中ずっと泣き喚き、罵り通しで、賀家墺に着いた時にはもう喉が潰れていた。輿から引き出しても、二人の男と小姑が力づくで押さえても、まだ天地の拝礼ができなかった。ちょっと油断して手を緩めた隙に、ああ、南無阿弥陀仏、彼女は頭から香案の角にぶつかり、額に大きな穴が開いて血がだらだらと流れ、香灰を二掴み当てて赤い布を二枚巻いても血は止まらなかった。七人八人がかりで彼女と男を新房に閉じ込めてもまだ罵っていた。ああまあ、これは本当に……。」彼女は頭を振り、目を伏せて、言わなかった。
  
 今日の文壇、蓬勃たる新気あるも、一切の狐鼠魍魎なお改頭換面し衣錦逍遥する者あり、礼拝六・礼拝五派等の旧貨を新装して出現する者の如し。この種の新皮毛旧骨髄の八股、先生はこれを掃除すべきものと認められるか否か?
+
「それからどうなりました?」四婶はなお聞いた。
  
 また時代の看板を借り、革命学説を歪曲し、口に阿弥陀を唱えつつ心に妄想を抱く者あり。この種の他人の辺幅を借りて自己の臭き足を蓋う新八股、先生はまたこれを掃除すべきものと認められるか否か?
+
「聞くところでは、翌日も起きてこなかったそうです。」彼女は目を上げて言った。
  
 「透底」に言えば、「譬えば古の皇帝、今の主席、実質上固より大いに区別あるを知るも、今の主席と古の皇帝と一模一様なる者なおありて、しからば某一の意義において主席を非難すること、その意は自ずと明らかにして、もし虱を捉うるに志あるにあらざれば、両目瞭然たらざることなからん」。
+
「それから?」
  
 予生まれること晩く、不学無術なれども、「徹底」の聡明なきも、「透底」の蠢笨には至らず、あるいは言いて未だ「透」ならざるがゆえに誤解を招きしか。なおご教示「底」に到ること願う。「透」に感じ「透」に感ず!
+
「それから?——起きてきましたよ。年末にはもう子供を産んで、男の子で、新年にはもう二つになりました。私が実家にいるこの数日の間に、賀家墺に行った人がいて、帰ってきて言うには、母子ともに見たそうで、母親も太り、子供も太っている。上に姑もいない。男は力持ちで、よく働く。家は自分の物だ。——ああ、あの人は本当に良い運にめぐり合ったのですよ。」
  
 祝秀侠 上。
+
これ以後、四婶も祥林嫂のことを口にしなくなった。
  
【【回信】:】
+
しかしある年の秋——祥林嫂の幸運の知らせを聞いてからさらに二度の新年を経た後——彼女はなんとまた四叔の家の広間に立っていた。卓の上には慈姑の形の丸い竹籠が一つ、軒下には小さな布団包みが一つ。やはり頭には白い喪の紐を巻き、黒い裙、藍の袷袄、月白の背心で、顔色は青黄色だが、両の頬からはすでに血の色が消え、目を伏せ、目尻に涙の痕があり、目の光もかつてのような精彩はなかった。そしてやはり衛婆さんが連れてきて、慈悲深い様子で、くどくどと四婶に言った。
  
 秀侠先生:お手紙拝受。貴兄の所謂新八股が礼拝五六派等の流れを指すことを知りました。実は礼拜五六派の病根は必ずしも全てその八股性にあるのではありません。
+
「……これはまったく『天に不測の風雲あり』というものです。あの人の夫は丈夫な人でした。まさか若いのに、傷寒で逝ってしまうとは。もう治りかけていたのに、冷や飯を一杯食べて再発したんです。幸い子供がいる。彼女はよく働くから、柴刈りでも茶摘みでも蚕の世話でも何でもする。もともとまだやっていけたはずなのに、あの子供までが狼にさらわれるとは。春ももう終わりかけという時に、村にかえって狼が出てきたのです、誰が思ったでしょう?今ではただ一人きりの体になってしまった。伯父が来て家を取り上げ、追い出した。本当にどこにも行き場がなくなって、元の主人の家に頼るしかないのです。幸い今ではもう何のしがらみもないし、奥様のお宅もちょうど人を替えるところでしたから、私がお連れしたのです。——なじみの道ですもの、初めてのよそ者よりはずっとましでしょう……。」
  
 八股は新旧を問わず皆掃蕩すべきこと、私は既に述べました。礼拜五六派に新八股性があるのみならず、その余の人にも新八股性はあり得ます。例えばただ「罵倒」「恫喝」甚だしくは「判決」するのみにて、具体的に切実に科学の求め得たる公式を用いて日毎の新しき事実新しき現象を解釈することを肯んぜず、ただ公式を書き写して一切の事実に乱雑に当てはめる──これもまた一種の八股です。たとえ明らかに理が貴兄にあっても、読者をして貴兄の空虚を疑わしめ、もはや答弁し得ずただ「国罵」のみ残れりと疑わしめることになります。
+
「私は本当に馬鹿でした、本当に」と祥林嫂は精彩のない目を上げて、続けて言った。「雪の時は山奥の獣に食べ物がなくなって村に来ることは知っていた。春にも来るとは知らなかった。早朝起きて戸を開け、小さな籠に豆を一杯入れて、あのう、阿毛を敷居に座らせて豆を剥かせた。あの子はとても聞き分けが良かったんです。私の言うことは何でも聞いた。あの子は出て行った。私は裏で薪を割り、米を研ぎ、米を鍋にかけ、豆を蒸そうとした。阿毛を呼んだけど返事がない。出て見ると、豆が一面に散らばっていて、阿毛がいない。あの子はよその家に遊びに行くような子じゃない。あちこち聞いて回ったけど、やっぱりいない。焦って、人に頼んで探しに行った。午後になって、あちこち探してやっと山の窪みで見つけた。棘の柴に小さな靴が片方引っかかっていた。みんな言った。しまった、狼にやられたに違いない、と。さらに奥へ行くと、果たして草むらに横たわっていた。お腹の中の五臓はもうすっかり食べられていて、手にはまだあの小さな籠をしっかり握っていた。……」彼女はそのまますすり泣きとなり、まとまった言葉にならなかった。
  
 「革命学説を歪曲する」者が「プレハーノフ曰く」等を以て自己の臭き足を蓋う場合、彼らの誤りは「プレハーノフ曰く」等を書いたことにあるのでしょうか。我々は具体的にこれらの人がいかに誤りなぜ誤りかを証明すべきです。もし単純に「プレハーノフ曰く」等と「詩に云う子曰く」等を等量に扱えば、必然的に誤解を引き起こします。先生の来信もこの点を認めておられるようです。これがまさに私の『透底』において指摘せんとしたところです。
+
四婶は最初は躊躇していたが、彼女自身の話を聞き終えると、目の縁がいくらか赤くなった。少し考えてから、丸い竹籠と布団包みを下の部屋に持って行くよう言いつけた。衛婆さんは重荷を下ろしたようにほっと一息ついた。祥林嫂は初めて来た時よりいくらか晴れやかな面持ちで、案内されるまでもなく手慣れた様子で寝具を整えた。彼女はこうして再び魯鎮で女中として働くことになった。
  
 最後に、私のあの文章は虚無主義的な一般的傾向に反対するものであり、貴兄の『論新八股』の中のあの一句は多くの例の中の一つに過ぎず、これは必ず解消すべき「誤解」です。あの文章はこの一例のためだけに書いたのではありません。
+
みなは相変わらず彼女を祥林嫂と呼んだ。
  
 家幹。
+
=== 第11節 ===
  
 +
しかし今度は、彼女の境遇は非常に大きく変わった。奉公して二三日もすると、主人たちは彼女の手足が以前ほど機敏でなくなり、物覚えもずっと悪くなったことに気づいた。死人のような顔には終日笑みの影もなく、四婶の口調にはかなりの不満が滲んでいた。初めて来た時、四叔は例によって眉をひそめたが、もとより女中を雇う難しさに鑑みて、さほど反対はしなかった。ただひそかに四婶に告げた。この種の人間は確かに気の毒のようだが、風俗を乱すものだ。手伝いに使うのはまだよいが、祭祀の際には手を触れさせてはならない。すべての飯菜は自分で作るほかない。さもなければ、不浄であって、祖先は召し上がらないのだと。
  
 +
四叔の家で最も重大な行事は祭祀であり、祥林嫂は以前最も忙しかったのもこの祭祀の時であったが、今回は暇であった。卓を広間の真ん中に置き、卓帷を掛けると、彼女は以前と同じように酒杯と箸を配ろうとした。
  
【「以夷制夷」】
+
「祥林嫂、置いておきなさい!私が並べるから。」四婶が慌てて言った。
  
 +
彼女はしょんぼりと手を引っ込めた。今度は燭台を取りに行った。
  
 私はまだ覚えている。去年中国の多くの人々がひたすら国際連盟に泣訴していた頃、日本の新聞は往々にしてこれを嘲笑し、中国の祖伝の「以夷制夷」の古い手段だと言った。一見するとなるほどそのようにも見えるが、しかし実はそうではない。あの時の中国の多くの人々は、確かに国際連盟を「青天大老爺」と見なしていたのであり、心の中にはもはや「夷」の字の影すらなかったのだ。
+
「祥林嫂、置いておきなさい!私が持って行くから。」四婶がまた慌てて言った。
  
 むしろ逆に「青天大老爺」たちの方が常々「以華制華」の方法を用いていたのである。
+
彼女は何度かぐるぐる回ったが、結局することがなく、訝しげに歩き去るしかなかった。この日、彼女にできることはせいぜい竈の下に座って火を焚くことだけだった。
  
 例えば、彼らが深く憎む反帝国主義の「犯人」に対しては、彼ら自身は悪人の役をせず、ただ爽やかに華人に引き渡して自分で殺させるのだ。彼らが痛恨する腹地の「共匪」に対しては、彼ら自身は明白に意見を表明せず、ただ飛行機と爆弾を華人に売って自分で炸させるのだ。下等華人に対しては皇帝の子孫たる巡捕と西崽がおり、知識階級に対しては上等華人の学者と博士がいる。
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鎮の人々もやはり彼女を祥林嫂と呼んだが、声の調子は以前とはずいぶん違っていた。まだ話しかけてはくるが、笑顔は冷淡であった。彼女はそんなことには一切構わず、ただ目を真っ直ぐにして、皆に昼も夜も忘れられない自分の話をした——
  
 我々が何日も自慢していた「大刀隊」は、手がつけられぬかに見えたが、しかし四月十五日の『××報』に頭号活字で「我、敵二百を斬る」なる題目があった。一見するに勝利の感を覚えるが、本文を見てみよう──
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「私は本当に馬鹿でした、本当に」と彼女は言った。「雪の日は山奥の獣に食べ物がなくなって村に来ることしか知らなかった。春にも来るとは知らなかった。朝早く起きて戸を開け、小さな籠に豆を一杯入れて、阿毛を敷居に座らせて豆を剥かせた。聞き分けのよい子でした。私の言うことは何でも聞いた。あの子は出て行った。私は裏で薪を割り、米を研ぎ、米を鍋にかけ、豆を蒸そうとした。『阿毛!』と呼んだけど返事がない。出て見ると、豆が一面に散らばっていて、阿毛がいない。あちこち聞いても、いない。焦って、人に探しに行ってもらった。午後になって、何人かが山の窪みで見つけた。棘の柴に小さな靴が片方引っかかっていた。みんな言った。おしまいだ、狼にやられたに違いない、と。さらに奥へ行くと、果たして草むらに横たわっていた。お腹の五臓はもうすっかり食べられていたのに、可哀想にあの子はまだしっかり小さな籠を握っていた。……」彼女はそこで涙を流し、声もすすり泣きになった。
  
 +
この話はなかなか効き目があり、男たちはここまで聞くと大抵笑みを引っ込め、つまらなそうに立ち去った。女たちはそればかりか赦したかのように、顔の蔑みの表情をすぐに改め、さらに多くの涙を流した。わざわざ聞きに来る老婆もいた。彼女がすすり泣きに至ると、彼女たちも一斉に目尻に溜めていた涙を流し、溜息をつき、満足して去って行った。そしてなおも口々に批評し合っていた。
  
=== 第50節 ===
+
彼女はただ繰り返し繰り返し悲惨な話を聞かせ、しばしば三人五人の聞き手を集めた。しかしまもなく皆も聞き飽きて、最も慈悲深い念仏の老婆たちの目にさえ、もはや涙の痕は見えなくなった。やがて鎮中の人々がほとんど皆、彼女の話を暗誦できるようになり、聞くと退屈で頭が痛くなった。
  
実は、焦大の罵りは賈府を打倒せんとするのではなく、むしろ賈府の好からんことを望んでのことであり、ただ主と奴がかくの如くならば賈府はもうやっていけなくなるぞと言ったに過ぎぬ。しかるに得た報酬は馬糞であった。されば焦大はまことに賈府の屈原であり、もし彼が文章を能くすれば、おそらく一篇の『離騒』の如きものをものしたであろう。
+
「私は本当に馬鹿でした、本当に」と彼女が切り出すと——
  
 三年前の新月社の諸君子は、不幸にして焦大と相類する境遇に遭った。彼らは経典を引き据を引いて党国にいささかの微辞を呈したが、引いたのは大抵は英国の経典であった。しかるに賈府の賈政のような方々は、このような不満こそ懼るべしと見て、主として先ず焦大の属する側を咎めるのが穏当なりとした。かくして我が新月は収まった。しかし焦大のあの一声の罵りは、決して何の効果もなかったわけではない。その後、主はいよいよ心置きなく傲慢になれたのであるから。
+
「そうだ、お前は雪の日しか山奥の獣が食べ物を求めて村に来ないと思っていたんだ。」と彼らはすぐに話を遮り、立ち去るのであった。
  
 だがある日、石にかじりついても清操を守った新月は再び起ち上がった。ただし今度は不平を自ら呑み込み、かえって主に味方して別のものを罵り始めた。即ち下僕どもである。するとこの度は実に結構なるかなと褒められ、さらに「もっともっと忠実に」と求められた。かくして新月は晴れて忠義の家人となり、焦大の類ではなくなった。この類の変遷を見れば、中国の文人のいかに処世に巧みなるかを知り得るのであって、古来「文人多変節」と言われるのも無理はない。
+
彼女は口を開けたまま呆然と立ち、真っ直ぐな目で彼らを見つめ、それから自分も去った。自分でもつまらないと感じたようだった。しかしまだ望みを捨てず、小さな籠や豆や他人の子供から、阿毛の話を引き出そうとした。二三歳の子供を見ると、彼女は必ず言った——
  
 しかし一つの困った問題がある。新月社の場合のように、上に向かって罵ればこそ焦大であり、下に向かって罵れば犬の群れの仲間入りに過ぎぬ。天地の間に身を置くには、この上下の見境をつけねばならぬのだが、権力の側についた途端に見境がなくなってしまう。これが文人の宿命的な弱点であろう。
+
「ああ、うちの阿毛が生きていたら、こんなに大きくなっていたのに。……」
  
 ところで、最近になって思うことがある。あの新月派が英国の自由主義を引いて国民党にちょっぴり苦言を呈した時、彼らは銃殺されこそしなかったが、馬糞は食わされた。それに引き換え、もし労働者農民が同じことを言えば、即座に「赤匪」として銃殺されたであろう。この差はどこから来るか。即ち身分の差である。同じ不満でも上等華人が述べれば「微辞」、下等華人が述べれば「反逆」なのだ。
+
子供たちは彼女の目を見て怯え、母親の裾を引っ張って急がせた。するとまた彼女一人だけが残り、つまらなそうに去って行くのだった。後には皆が彼女の癖を知り、子供が目の前にいさえすれば、笑うでもなく笑わないでもない顔でまず彼女に聞くのだった——
  
 しかるにこの上等華人は自らの特権に安住し、下等華人の苦しみを知ろうともしない。彼らの自由論は畢竟自分たちの自由であって、万人の自由ではない。
+
=== 第12節 ===
  
 されば我々は自ら問うべきである──この社会における真の問題は何か。文人が馬糞を食わされることか、それとも民衆が日々殺されていることか。
+
彼もまた私に別れてからの様子を聞いた。私は一方で大体のところを話しながら、一方で店の者に先に杯と箸を持ってこさせ、まず私の酒を飲ませてから、追加で二斤を注文させた。その間に料理も注文したが、以前の我々はまったく遠慮がなかったのに、今は互いに譲り合い、結局彼に決めさせることになって、四つの料理を選んだ——茴香豆、ゆで落花生、豆腐干し、茹で枝豆であった。
  
 この答えが明らかになれば、「学理上の研究」も自ずと方向を異にするであろう。
+
酒を飲みながら、互いの状況を話した。彼は私のことを聞き、私は彼のことを聞いた。しかし話は弾まなかった。昔はあんなに尽きることなく語り合ったのに、今は何を話してよいか分からないのだ。二人の間には、何か見えない壁ができてしまったようだった。
  
 (四月二十五日。)
+
彼の身の上は聞くに堪えなかった。工場は閉鎖され、仕事は見つからず、妻は子供を連れて実家に帰ってしまった。今は友人のところに泊めてもらっているが、それもいつまで続くか分からない。
  
 +
「だが」と彼は急に目を輝かせて言った。「一つだけ良いことがある。僕は最近、小説を書いているんだ。」
  
=== 第51節 ===
+
「小説?」
  
学理上の研究の結果は──圧迫にはもともと二種ある。一種は理のあるもの、しかも永久に理のあるものであり、もう一種は理のないものである。理のあるもの、それは小百姓に高利貸の返済を迫り、田租を納めさせるが如きであり、この種の圧迫の「理」は布告に書かれている──「借金は返済すべし、これ中外同一の定理なり。田を借りて租税を納むるは千古不易の定規なり。」理のないもの、それは盛宣懐の家産を没収するが如きであり、この種の巨紳を「圧迫する」手法は、当時はあるいは理があったかもしれぬが、今ではとうに無理なものとなっている。
+
「そうだ。工場で経験したことを書いている。労働者の生活を、ありのままに書こうと思っている。」
  
 最初、新聞に載った『五一労働者への告知書』に「本国資本家の無理なる圧迫に反抗せよ」とあるのを見て、私もいささか驚いた。というのは、ここでは「有理の圧迫」には反抗するなと言っているように読めるからだ。しかし考えてみれば、「有理」の圧迫とは即ち合法的なもの、例えば高利貸の取立てや田租の徴収であって、これらに反抗すれば法を犯すことになる。されば「無理の圧迫」にのみ反抗すべし──しかしその「無理」の基準は誰が定めるのか。
+
彼は懐から原稿の束を取り出した。汚れた紙に、細かい字がびっしりと書いてあった。私はいくつかの頁を読んだ。文章は粗削りだったが、力強く、真実味があった。工場の騒音や埃や汗の匂いが、行間から立ち上ってくるようだった。
  
 こうして「有理」「無理」の解釈権は上にある者が握ることとなり、下の者は永遠に「有理の圧迫」を甘受し、「無理の圧迫」──つまり上が認めたもの──にのみ反抗が許されるという仕組みになる。
+
「悪くない」と私は言った。「だが、これを出版してくれるところがあるだろうか?」
  
 しかしよく考えれば、この世に「有理の圧迫」などというものがあるだろうか。高利貸で小百姓を搾り、田租で農民を苦しめるのが「理」であるとは、まさに圧迫する側の「理」であって、される側の「理」ではない。
+
彼は沈黙した。しばらくして言った。「分からない。だが書かずにはいられないんだ。」
  
 されば問題はこうなる──もし「有理の圧迫」に反抗してはならぬとすれば、圧迫はほぼ全て「有理」であるから、反抗はほぼ全て許されぬこととなる。「無理の圧迫に反抗せよ」とは、実は「反抗するな」と同義なのだ。
+
我々はさらに酒を飲んだ。話はだんだん少なくなり、杯を重ねるうちに、二人とも黙り込んでしまった。窓の外では暮色が深まり、通りに灯がともり始めた。
  
 かくして我々は、この「学理上の研究の結果」の真の意味を知る。それは即ち、小百姓はいかなる圧迫をも甘受すべし、反抗は永遠に許されぬ、ただし上が「無理」と認めた場合は別なりと。しかし上が自らの圧迫を「無理」と認めることなど、千古にわたって一度もなかったのである。
+
「そろそろ行こうか。」ついに私が言った。
  
 (四月二十八日。)
+
勘定を払い、店を出た。通りで彼と握手し、別れた。彼は一方へ、私は別の方へ歩き出した。数歩行って振り返ると、彼の後ろ姿がだんだん暮色の中に消えていくところだった。
  
 +
=== 第13節 ===
  
=== 第52節 ===
+
彼の筆はたちまち止まった。顔を上げ、両眼を天井に向けて凝視し、あの「幸福な家庭」を置く場所をあれこれ案配していた。彼は考えた。「北京か? 駄目だ、死気沈沈として、空気まで死んでいる。もしこの家庭の周囲に高い壁を築いたとしたら、外のぐずぐずした空気が染み込んでこないとでも言うのか? だから北京は駄目だ。上海か? いや、いや、もっと駄目だ。A というのはどうだ——そうだ、A にしよう。A は——A はどこでもない場所だ、仮にどこかの場所としておこう。」
  
幼き日、読書にて陶淵明の「好んで書を読むも甚解を求めず」に至りし時、先生はこう講じてくださった。曰く「甚解を求めず」とは、注解を見に行かず、ただ本文の意味のみを読むということだと。注解はあるにはあるが、確かに我々に見せたがらぬ者がいるのである。
+
こう決めると、また書き続けた。しかしすぐにまた止まった。今度は「幸福な家庭」の主人公の容姿を思い描かなければならなかった。
  
 (五月十八日。)
+
「身長は?——中くらい。顔は?——やや長い。目は?——大きくもなく小さくもなく。鼻は?——まっすぐ。着ているものは?——西洋服。」
  
 +
ここまで来て、彼は筆を置き、煙草に火をつけた。そして窓の外を見た。雨がしとしとと降っていた。屋根瓦の上を雨水が流れ、軒先からぽたぽたと落ちていた。向かいの壁は湿って暗く、壁の上には何かの広告が貼ってあったが、雨に打たれて半分剥がれていた。
  
 +
「幸福な家庭」——この言葉が、彼の頭の中でぐるぐると回った。幸福とは何か? 家庭とは何か? 彼自身の家庭を思った。狭い部屋に、妻と二人の子供。妻は朝から晩まで不機嫌で、子供たちはしきりに泣く。米が足りない、薪が足りない、家賃の催促が来る。これが彼の「家庭」だ。そしてこれのどこが「幸福」だと言うのか。
  
【後記】
+
彼は原稿用紙を見た。「幸福な家庭」——この題目はまるで嘲笑のようだった。自分を嘲笑し、この世界を嘲笑しているかのようだった。
  
 +
しかし彼は書かなければならなかった。なぜなら原稿料が必要だったからだ。彼は煙草を捨て、再び筆を取り上げた。
  
 私が『自由談』に投稿するに至った経緯は、『前記』にて既に述べた。ここに至って本文は了わったが、電灯はなお明るく、蚊もしばし静かであるので、鋏と筆をもって『自由談』と私とに因って起こった些末な話をもう少し保存し、いささかの余興とする。
+
「この幸福な家庭の主人は、毎朝七時に目を覚まし……」
  
 一見して分かる通り、私が短評を発表していた間に最も激しく攻撃してきたのは『大晩報』であった。これは前世の恨みがあるわけではなく、私が彼らの文章を引用したからである。しかし私もまた彼らに前世の恨みがあるわけではなく、私が読んでいたのは『申報』と『大晩報』の二紙のみであり、しかも後者の文章は往々にして甚だ珍奇にして引用に値し、愁いを消し悶えを解くに足るからである。即ち今私の眼前にも、煙草を包んできた三月三十日の古い『大晩報』が一枚あり、その中にこのような一段がある──
+
いや、七時は早すぎる。幸福な家庭の主人が、そんなに早く起きるだろうか?
  
 「浦東の人楊江生、年既に四十一、貌は醜陋にして、人また貧窮、もと泥水工にして、かつて蘇州人盛宝山の泥水作場に雇われたり。盛に女あり名は金弟、今方十五歳にして矮小なること異常、人もまた猥瑣なり。昨晩八時、楊は虹口天潼路にて盛と相い遇い、楊は其の女を姦す。捕頭の尋問を経て楊は毫も否認せず、昨年一二八以後連続して十余回姦行せしことを承認す……」
+
「九時に目を覚まし……」
  
 記事の中に分明に見て取れるのは、盛は楊に対して「倫常」関係ありとは言っていないことであり、楊の供述では女は彼を「叔」と呼んでいたが、これは中国の習慣で年が十歳ほど上であれば往々にして叔伯と称するものなのである。しかるに『大晩報』はいかなる見出しをつけたか。四号活字と頭号活字で──
+
しかし九時まで寝ていられるような家庭は、召使いがいなければならない。召使いの給料はいくらだろう? そんなことまで書くのか?
  
 「途中で捕まえ捕房に引き渡して告訴す/義理の叔父が姪を姦す/女自ら十余回姦されたと称す/男は遊びであり風流にあらずと主張す」
+
彼はまた煙草に火をつけた。
  
 彼らは「叔」の上に「義理の」を添え、かくして「女」は「姪」と化し、楊江生もこれによって「逆倫」あるいは準「逆倫」の重犯となったのだ。中国の君子たちは人心の不古を嘆き非人の逆倫を憎みながら、人間に逆倫の話がないことを恐れるかの如く、偏に筆を以て大げさに書き立て、低級趣味の読者の目を聳動させようとする。楊江生は泥水工にて、見ることもなく、見たとしても抗弁の術もなく、ただ彼らの仕立てるがままに任せるほかないが、しかし社会批評者には指弾の任務がある。しかるに指弾にも至らず、ただ数句の奇文を引用しただけで、彼らはたちまち何の「員外」だの何の「警犬」だのと狂嗥し、あたかも自分たちの一群こそ霞を吸い露を飲み、私財を携えて社会奉仕に来た志士であるかのように振る舞う。社長の何者かは知っているが、しかし結局のところ誰が本当のオーナーか──即ち誰が「員外」であるかは分からぬ。商営でもなく官営でもないというのであれば、新聞界にあっては甚だ珍しいことである。しかしこの秘密は、ここでは追究しないでおこう。
+
=== 第14節 ===
  
 『大晩報』と伯仲する、『自由談』に注目する刊行物にはなお『社会新聞』がある。しかしその手段は遥かに巧妙であって、通じ得ぬあるいは通じたがらぬ文章を用いるのではなく、ただ真偽混交の記事を駆使する。即ち『自由談』の改革の原因など、その説が真か偽かは断じ得ぬが、私はなお彼らの第二巻第十三期(二月七日出版)から読み取ったのであった──
+
「僕はちょうど八卦拳の稽古をしていたところで……。」彼はすぐに向き直って四銘に正面を向き、背筋を伸ばして立ち、彼を見つめた。何の用かと問う様子だった。
  
 (以下、「『春秋』と『自由談』より説き起こす」として文壇の新旧対立の経緯──周痩鵑の交代、黎烈文の就任、左翼文化運動の台頭等々──が引用される。)
+
「学程くん、君に聞きたいんだが。『悪毒婦』とは何だね?」
  
 五月初めに至り、『自由談』への圧迫は日に日に厳しくなり、私の投稿も後には相次いで発表し得なくなった。しかしこれは『社会新聞』の類の告発のためではなく、この時ちょうど時事を論ずることが禁じられていたのであり、私の短評には時に時局への憤言があったからである。また『自由談』のみへの圧迫でもなく、この時の圧迫は官営でない刊行物に対しては程度はおおむね同じであった。しかしこの時最も適した文章は鴛鴦蝴蝶の遊泳と飛翔であり、『自由談』にとっては難しいことであって、五月二十五日ついに次のような告知が掲載された──
+
「『悪毒婦』?……それは……」
  
 「編集室──この御時世、物を言うのは難しく、筆を執るのはなお難しい。これは『禍福は門なし、ただ人自ら招く』というのではなく、実に『天下に道あれば』『庶人は議せず』ということなのです。編者は謹んで一瓣の心香を捧げ、海内の文豪に請う──今後は風月を多く語り、牢騒は少なくしてくだされば、著者も編者も共に安泰であります……」
+
学程は首を傾げて考えた。「先生、どこでその言葉を見つけたのですか?」
  
 この現象は『社会新聞』の群をいたく満足させたようで、三巻二十一期には「自由談の態度転換」と題する記事が載った。
+
「今日の新聞に載っていた記事の中にあったのだ。」
  
 さらに五月十四日の午後一時には、丁玲と潘梓年の失踪という事件が起こり、皆は暗殺されたのではないかと推測した。この推測は日に日に確かになっていった。流言もこのため甚だ多く、誰それも同様に暗殺されるだろうとか、警告状や脅迫状を受け取ったとかいう話があった。私は何の手紙も受け取らなかったが、ただ五、六日続けて内山書店の支店に私の住所を問い合わせる電話があった。これらの手紙や電話は実際に暗殺を行う者の仕業ではなく、いわゆる文人の数人の悪ふざけに過ぎぬと私は思う──「文壇」にも自ずとこのような人間はいるものだ。しかし厄介事を恐れる者にとっては、この小細工もいくらかの効力を発し得る。
+
「ああ、それは——つまり、毒の強い女のことです。性格の悪い女、意地の悪い女、そういう意味です。」
  
 +
「ふむ、それは分かっている。しかし私が聞きたいのは、もっと正確な典拠だ。古典に出ているのかね?」
  
=== 第53節 ===
+
「古典ですか……。ちょっと思い出せません。しかし民間ではよく使う言葉ですよ。」
  
ついに『大晩報』は一月余り静観した後、六月十一日の夕べ、その文芸附刊『火炬』から微かな光を放った。甚だ憤慨している──
+
四銘は不満げだった。彼はこの問題をもっと深く掘り下げたかったのだ。新聞の記事では、ある女が夫を毒殺した事件を報じており、その女を「悪毒婦」と呼んでいた。四銘はこの言葉に深い興味を覚え、これを使って一篇の論文を書こうと思っていた。中国の女性の道徳の退廃を論じ、古来の婦徳を説き、現代の風潮を批判する——そのような堂々たる論文を。
  
【結局のところ自由は要るのか要らぬのか 法魯】
+
しかし典拠がはっきりしなければ、論文は書けない。彼は書斎に戻り、『康熙字典』を開いたが、「悪毒婦」という項目はなかった。『淵鑑類函』にも見当たらない。彼はますます苛立ち、茶を何杯も飲んだ。
  
 久しく取り上げられなかった「自由」の問題を、近頃また大いに論ずる者がいる。国事は常に辛辣にして触れ難いゆえ、いっそ論ずるのをやめて、あきらめて「風月」を語ろうとするも、「風月」も意に適わず、喉の奥で「自由が欲しい」と呟きが漏れる。しかし問題が重大なことに気づき、呟く程度は構わぬが明言直語は不便なりと思い、正面から問題を直接提起することを恐れ、何か曲がりくねった文学論に変えてしまう。
+
外では学程がまた八卦拳の稽古を始めていた。掌を突き出し、足を踏み鳴らし、気合いの声が聞こえてくる。四銘は窓越しにちらと見て、眉をひそめた。あの若者は武術にばかり熱中して、学問をしない。これもまた現代の堕落の一つの表れだと彼は思った。
  
 自由は要るのか要らぬのか──これは実にはっきりした問題であるはずだが、文人たちはこれを曖昧にしてしまう。なぜか。真の自由を論ずれば上からの圧迫が来るからであり、自由など要らぬと言えば自らの良心が許さぬからである。かくして彼らは風月を語る振りをしながら、その実、自由への渇望を抑えきれずにいる。
+
結局のところ、四銘の論文は書けなかった。彼は一日中、典拠を探し回った挙げ句、夕方になって疲れ果て、長椅子に横になった。妻が夕食だと呼びに来た時、彼は目を開けてこう言った。
  
 しかし風月を語ることが許される社会は、既に自由のある社会ではないか──否、風月を語ることすら許されぬ時が来ることこそ、真に恐れるべきである。風月の背後には常に権力の影がある。風月を語れと命じられてそれに従う時、我々は既に自由を失っているのだ。
+
「あの新聞の記事はけしからん。道徳が乱れておる。」
  
 要するに、自由は「到底要るのか要らぬのか」という問いは、問うまでもない。問うべきは「なぜ我々は自由を手にし得ぬのか」であり、その答えは明白である──権力がこれを許さぬからだ。
+
妻は何のことか分からず、ただ「ご飯ですよ」と繰り返した。
  
 (六月十一日。)
+
四銘は嘆息しながら立ち上がり、食卓に向かった。食卓には質素な惣菜が並んでいた。彼はまた嘆息した。これは「幸福な家庭」とはほど遠い。しかしこの思いはすぐに消え、代わりにまたあの「悪毒婦」の典拠のことが気にかかり始めた。
  
 +
=== 第15節 ===
  
=== 第54節 ===
+
彼は居場所がなくなったと感じ、蝋燭を消して、庭に出た。行ったり来たりしているうちに、うっかりして、雌鶏と雛がまたぴよぴよと鳴き出したので、すぐに足音を忍ばせ、遠くへ歩いていった。しばらくすると、広間の灯が寝室に移された。地面一面の月光が見え、まるで継ぎ目のない白紗を敷き詰めたようで、玉盤のような月が白雲の間に浮かび、少しも欠けたところは見えなかった。
  
自らもいわゆる「文人」の「林」に忝くも列するとはいえ、近頃は「文人無行」なるこの言葉にいささか同意を示さざるを得ず、「人心不古」「世風日下」との嘆きも、全くの「道学先生」の偏激の言とは見なし難くなっている。実に今日の「人心」は険毒にして人を恐れしむること甚だしく、殊にいわゆる「文人」は、思いつきもし実行もし、種々の卑劣なる行為──陰謀中傷、造謡誣蔑、公開密告、友を売って栄を求め身を売って靠を投ずる所業は枚挙に遑あらず。さらに他方では自吹自擂し、厚かましくも「天才」「作家」を以て自任し、他人の唾余を窃んでなお沾々自喜する種々の怪しき振る舞いがある。
+
彼はいささか悲しくなり、あの孝行娘と同じように「訴える術もない民」となり、孤独で寄る辺なくなったかのようであった。その夜、彼はたいへん遅くまで眠れなかった。
  
 文壇のかくの如き醜態は、文人と名のつく者の恥辱であるのみならず、社会全体の病弊を映し出している。文人が互いに讒言し、密告し、売り渡す──これは文壇に限ったことではなく、この社会の縮図なのだ。
+
だが翌朝になると、石鹸はついに採用された。この日、彼はいつもより遅く起きたが、彼女はすでに洗面台に身をかがめて首筋を擦っており、石鹸の泡は大蟹の口から出る泡のように、両耳の後ろに高々と積み上がっていた。以前の皂莢を使っていたときのごく薄い白い泡とは、まさに雲泥の差であった。それ以来、四太太の体にはいつもオリーブのようなオリーブでないような名状しがたい香りが漂い、半年近く経って、ふいに様子が変わり、嗅いだ者は皆、あれは白檀の香りではないかと言った。
  
 しかし最も恐るべきは、かくの如き風潮の中で正直なる者が沈黙を強いられ、卑劣なる者が跋扈することである。正直に書けば危険が及び、卑劣に媚びれば安泰を得る──この倒錯した世界にあって、文人の「無行」はむしろ必然の帰結ではないか。
+
(一九二四年三月二十二日。)
  
 されば「文人無行」を嘆くのみにては足りぬ。問うべきは、なぜこの社会が文人をかくも卑劣ならしめるのか、である。文人を堕落させるのは文人の性質ではなく、文人を取り巻く権力と圧迫の構造なのだ。
+
【長明灯】
  
 (六月十五日。)
+
春曇りの午後、吉光屯唯一の茶館の空気がまた緊張してきた。人々の耳には、まだ微かで沈んだ声が残っているかのようであった——
  
 +
「消してしまえ!」
  
=== 第55節 ===
+
だがもちろん、屯の人々がすべてそうだったわけではない。この屯の住民はあまり外出しない連中で、少し動くにも暦を調べ、「外出に不向き」と書いてあるかどうか確認しなければならなかった。書いていなくても、出かけるにはまず喜神の方角へ向かい、吉を迎えなければならなかった。禁忌に頓着せず茶館に座っているのは、闊達を自任する数人の若者だけで、引きこもりの人々から見れば、一人残らず放蕩息子であった。
  
この文章は六月十七日の『大晩報』の『火炬』に載った──
+
今もやはり、この茶館の空気が緊張しているにすぎなかった。
  
【新儒林外史 柳丝】
+
「まだあの調子か?」三角顔が茶碗を持ち上げて訊いた。
  
 第一回 旗を揭げて空営を張り 兵を興して迷陣を布く
+
「聞くところでは、まだそうだ」と方頭が言った。「相変わらず『消してしまえ、消してしまえ』と言い続けている。目つきもますます光っている。くそっ!あいつはこの屯の大きな厄災だ、些細なことと見てはならん。何か手を打たなければ!」
  
 さてカールとイリイチの両人はこの日天堂の上にて中国革命の問題を討論していたが、忽ち下界の中国文壇の大ゴビにおいて殺気騰々、塵沙弥漫たるを見た。左翼の防区の中で一人の老将が一人の小将を追い詰め、戦鼓は天を震わせ喊声は四方に起こり、忽然その老将の歯の間から白い霧が吐き出された。カールはその臭気を嗅ぐや忽ち卒倒し、イリイチは机を叩いて大いに怒り「毒瓦斯だ、毒瓦斯だ!」と叫んだ──
+
「あいつを始末するなど、何ほどのことがあろう。あいつはただの……何者でもない!廟を建てた時、あいつの先祖も寄付をしたのに、今になって長明灯を吹き消そうとする。これは不肖の子孫ではないか?県に訴え出て、不孝で訴えてやろう!」闊亭が拳を握りしめ、卓上を一撃して慷慨に言った。斜めにかぶさっていた茶碗の蓋も、ぽんと音を立ててひっくり返った。
  
 これは文壇の攻防を戯画化したものであり、即ち魯迅(老将)が若い文人を追撃する様を諷刺している。しかし「毒瓦斯」とは何か。即ち文章の中に含まれる辛辣なる批判のことであり、これをマルクスやレーニンすら堪え難しとするほどだと言いたいのであろう。
+
「駄目だ。不孝で訴えるには、父母か母方の叔父でなければ……」と方頭が言った。
  
 しかしこの種の「新儒林外史」なるものの真意は、左翼文壇を嘲弄することにある。左翼の内紛を誇大に描き、その理想の虚偽を暴かんとする。しかしながら、「空営を張る」のは果たして左翼のみであろうか。この『大晩報』自身が日毎に張っている空営はいかほどか。
+
「惜しいことに、あいつには伯父が一人いるだけだ……」闊亭はたちまち意気消沈した。
  
 文壇の争いを戯画化するのは自由であるが、真の問題から目を逸らすための道具として用いるならば、これこそ「迷陣を布く」行為に他ならない。
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「闊亭!」方頭が突然呼んだ。「昨日の牌の運はどうだった?」
  
 (六月十七日。)
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闊亭は目を見開いて彼をしばらく見つめたが、すぐには答えなかった。太った顔の荘七光がすでに声を張り上げて叫んでいた——
  
 +
「灯を吹き消したら、わしらの吉光屯はもう吉光屯ではなくなるではないか。おしまいだ。年寄りたちも言っておるだろう——あの灯は梁の武帝が点されたもので、ずっと伝わってきて、消えたことがない。太平天国の乱の時でさえ消えなかった……。見てみろ、あの灯火は緑に輝いておるではないか。余所者もここを通ると皆見に来て、褒め称える……。なんと素晴らしい……。あいつが今こんな狼藉を働くとは、どういうつもりだ?……」
  
=== 第56節 ===
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「あいつは気が狂ったのだ。まだ知らなかったのか?」方頭がいくらか軽蔑した様子で言った。
  
旧式の監獄に至っては、仏教の地獄に倣ったかの如くなれば、単に犯人を禁錮するのみならず、これに苦しみを与える職掌をも有している。金銭を搾り取り、犯人の家族を窮乏の極みに至らしめる職掌も、時に兼帯することがある。しかし皆はこれを当然と思っている。もし誰かが反対すれば、犯人の弁護をするに等しいとして、悪党の嫌疑を受けるであろう。しかるに文明は驚くほど進歩したので、去年には毎年犯人を一度帰宅させ、性欲を解決する機会を与えるべしと提唱する、いささか人道主義的な匂いのする官吏まで現れた。実のところ彼は犯人の性欲に特別の同情を表しているのではなく、ただどうせ実行されることはあるまいと高をくくっているだけなのである。
+
「ふん、お前は賢いな!」荘七光の顔は脂ぎった。
  
 この種の「人道的」提案が実行されることのない理由は明白である。監獄とはそもそも苦しみを与えるための場所であり、犯人に少しでも人間的な待遇を与えることは、監獄の存在意義を否定することに等しいからだ。されば人道を唱える官吏は、実は人道を実現するつもりなどなく、ただ自らの「人道的」なる姿勢を誇示しているに過ぎない。
+
「思うに、昔のやり方であいつを騙すのが一番だ」と灰五嬸——この店の主人兼働き手——が言った。彼女はもとより傍聴していたのだが、話が本題から逸れていくのを見て、急いで口論を遮り、本筋に引き戻そうとしたのだった。
  
 しかし真に恐ろしいのは監獄の中の非人道ではない。監獄の外にこそ、もっと大きな監獄があるのだ。犯人は少なくとも自分が囚われの身であることを知っているが、監獄の外の人々は自分が自由であると思い込んでいる。この思い込みこそ、最も完璧なる牢獄ではないか。
+
「昔のやり方とは?」荘七光が怪訝そうに訊いた。
  
 提案者は犯人に年に一度の帰宅を許そうと言う。しかし犯人でない我々は、果たして真に自由に帰宅しているのか。我々の帰る場所は、我々自身が選んだものなのか。
+
「あの人は前にも一度気が狂ったことがあるだろう、今と全く同じように。あの時はまだ父親が生きていて、騙してやったら治ったのだ。」
  
 監獄の改良を論ずる前に、まず監獄の外の世界を見直すべきであろう。
+
「どう騙した?なぜ私は知らないのだ?」荘七光がますます怪訝そうに訊いた。
  
 (五月五日。)
+
「お前さんたちが知っているわけがないだろう。あの頃お前さんたちはまだ小さい子で、乳を飲んで糞をひるだけだった。私だって、あの頃はこんなではなかった。あの頃の私の手を見てご覧、本当にきめ細かくすべすべで……」
  
 +
「今だってまだすべすべだ……」と方頭が言った。
  
=== 第57節 ===
+
「ふざけるんじゃないよ!」灰五嬸は怒った目で笑い出した。「馬鹿を言うのはやめて、まじめな話をしよう。あの人はあの時まだ若かった。父親にも少し気の狂ったところがあった。聞くところでは、ある日、祖父があの人を社廟に連れて行き、社老爺、瘟将軍、王霊官老爺を拝むように教えたところ、あの人は怖がって頑として拝まず、走り出てしまった。それ以来少しおかしくなった。その後は今と同じように、人に会うたびに正殿の長明灯を吹き消す相談を持ちかけるのだ。消せばもう蝗虫も疫病もなくなると言って、まるで天下の一大事のように。おそらく邪霊が取り憑いて、正道の神を恐れるようになったのだろう。わしらなら、社老爺を怖がるかね?お茶が冷めやしないかい?お湯を足しておくれ。さて、あの人は後で自分から廟に乗り込んで、吹き消そうとした。父親はあの人を可愛がりすぎて、閉じ込めようとしなかった。ああ、後で屯中が憤慨して、父親のところへ押しかけて騒いだだろう?でも手の打ちようがなかった——幸い、うちの死んだ亭主があの頃はまだ生きていて、一計を案じた。長明灯を厚い綿布団で囲み、真っ暗にして、あの人を連れて行って見せ、もう吹き消したと言ったのだ。」
  
「天興元年、哀宗帰徳に走る。翌年春、崔立変を起こし、群小付和し、立のために功徳碑を建てんことを請う。翟奕は尚書省の命を以て若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩は勢いを恃みて威を作し、人もし少しく忤えば、讒構して屠滅せしむ。若虚は自ら必ず死すべきを分かち、ひそかに左右司員外郎元好問に謂いて曰く、『今、我を召して碑を作らしむ。従わざれば死し、これを作れば名節は地を掃う。死するに若くはなし。しかりといえども、我しばらく理を以てこれを諭さん。』……奕の輩奪うこと能わず、乃ち太学生劉祁・麻革の輩を召して省に赴かしむ。好問・張信之、碑を立つることを以て諭して曰く、『衆議は二君に属す、且つ既に鄭王に白せり。二君その辞すことなかれ。』祁等固辞して別る。数日、促迫やまず、祁即ち草定す──」
+
「ああ、よくもまあそんなことを思いついたものだ。」三角顔がため息をつきながら言った。感服の至りといった様子であった。
  
 これは金朝末期の話である。崔立なる者が変を起こした後、権勢を笠に着て群臣に功徳碑の作成を強要した。この時、王若虚は死を覚悟して拒み、元好問もまた巧みにこれを避けようとした。しかし結局のところ劉祁が碑文を草した。
+
「そんな手間をかけるまでもない」と闊亭が憤然として言った。「こんな奴、打ち殺せばそれで済む!」
  
 この故事は何を教えるか。権力者が文人に文章を書かせようとする時、文人には三つの選択がある。第一に拒絶して死ぬ。第二に書いて名節を失う。第三に巧みに逃れる。王若虚は第一の道を選ぼうとし、元好問は第三の道を取り、劉祁は第二の道を歩んだ。
+
「そんなことができるわけがないだろう!」彼女は驚いて彼を見つめ、慌てて手を振った。「できるわけがない!あの人の祖父は役所の印を持っていた人ではないか。」
  
 しかし現代においては、この三つの選択のほかにもう一つある。即ち権力者のために書くと見せかけて、実は権力者を批判する文を書くことだ。これは最も危険な道であるが、同時に最も有効な道でもある。
+
闊亭たちはたちまち顔を見合わせ、「死んだ亭主」の妙案のほかには、実に手の打ちようがないと感じた。
  
 古来、碑文は権力者の徳を讃えるものとされてきた。しかし「功徳碑」を書くことを強いられた文人が、その碑文の中に微かな皮肉を込めることは珍しくない。読む者が読めば分かり、分からぬ者には分からぬ──これこそ圧迫の下での文人の知恵であった。
+
=== 第16節 ===
  
 しかし最も尊ぶべきは、やはり王若虚の如く死をもって拒む気概であろう。碑文を書かずして死ぬのは容易ではないが、碑文を書いて生き延びるよりは遥かに尊い。
+
「わしは毎日あの子が良くなるのを待ち望んでいる」と四爺は暫しの静寂の後、ゆっくりと言った。「だがあの子はいつまでも良くならん。良くならんというのでもない、自分から良くなろうとしないのだ。どうしようもない。この方が仰るように閉じ込めて、人に害を及ぼさぬようにし、父親の恥を晒さぬようにすれば、かえって良いかもしれん。父親に対して顔が立つというものだ……。」
  
 もっとも、死を選ぶべきか生を選ぶべきかは、時と場合による。死んで何の益もなければ、生きて後日を期す方が賢明であることもある。問題は、「後日を期す」と言いつつ実は怯懦に過ぎぬ場合が、あまりに多いということだ。
+
「ごもっとも」と闊亭が感動して言った。「しかし、部屋が……」
  
 (五月十日。)
+
「廟に空き部屋はないのか?……」四爺がゆったりと訊いた。
  
 +
「ある!」闊亭ははっとして言った。「ある!正門を入って西側の一間が空いている。小さな四角い窓が一つあるだけで、太い木の格子がはまっていて、絶対にこじ開けられない。素晴らしい!」
  
=== 第58節 ===
+
老娃と方頭もたちまち喜色を浮かべた。闊亭はため息をつき、唇を尖らせて茶をすすった。
  
「また、臣が参りましたのは、如何如何を願うためではなく、また別に願い求むる事もございませんが、ただ一事未決のことがあり、陛下に対して一つその経緯を申し述べたく存じます。臣は……名を馮起炎と申し、字は南州、かつて臣の張三なる叔母の家に至りし時、一人の女子を見ましたが、娶るべきなれども力の及ばざるを恨みます。この女子は小女と名づけ、年十七歳、まさに嫁ぐべき齢にして、まさに未だ嫁がざる時なり。東関春牛廠長興号の張守忭の次女であります。またかつて臣の杜五なる叔母の家に至りし時、一人の女子を見ましたが、娶るべきなれども力の及ばざるを恨みます。この女子は小鳳と名づけ、年十三歳、必ずしも嫁ぐべき齢にはあらざるも、既に嫁ぎ得る時に在り。本京東城闹市口瑞生号の杜月の次女であります。もし陛下の御力を以てすれば……」
+
黄昏にもならぬうちに、天下はすでに太平であった。いや、すっかり忘れ去られていたと言ってもよかった。人々の顔にはもはや緊張はなく、先ほどの喜びの痕跡さえもうとうに消え失せていた。廟の前には人の足跡が平日より多かったが、やがてそれも稀になった。ただ数日間門が閉ざされていたため、子供たちは中に入って遊べず、この日は庭でことのほか楽しく遊んだようで、夕食を済ませても、まだ何人かが廟に駆け込んで遊び、なぞなぞをしていた。
  
 これは清朝の馮起炎なる秀才が、殿試の場にて皇帝に上書し、二人の女との縁談を助けてくれと頼んだ話である。科挙の試験で天子に直訴して嫁を世話してもらおうとしたのだから、まことに前代未聞の奇事と言うべきだ。
+
「当ててごらん」と一番大きい子が言った。「もう一度言うよ——
  
 しかし嗤うべきは馮起炎だけではない。この天真爛漫なる上書には、実は一つの深い真実が含まれている。即ち、権力というものは、いかなる私事にも介入し得るという信仰である。皇帝は天下の事を決し得る──科挙の成績も、人の婚姻も。この信仰は馮起炎一人のものではなく、中国数千年の伝統そのものなのだ。
+
白い苫船、赤い櫂、
  
 今日においても、この信仰は変わっていない。人々は「上」に対して、あらゆる問題の解決を期待する。就職も、住居も、婚姻も、果ては個人の性欲の解決までも。先に述べた監獄の性欲解決の提案なども、まさにこの精神の延長線上にある。
+
向こう岸まで漕いで一休み、
  
 しかし「上」がこれらの問題を解決し得るのは、「上」が全ての権力を掌握しているからであり、人々が全く無力であるからだ。この構造が変わらぬ限り、馮起炎的な精神は永遠に消えぬであろう。
+
お菓子を少し食べて、
  
 (五月十二日。)
+
芝居を一つ唄おう。」
  
 +
「それは何だろう?『赤い櫂』って。」女の子が言った。
  
=== 第59節 ===
+
「答えを言おうか、それは……」
  
「問:お前は当時皇上の御前にて翎子(花翎の帽子飾り)を賜らんことを請い、翎子なくば帰って妻子に会わす顔がないと申した。この偽道学の恐妻家め。結局皇上は翎子を賜らなかったが、お前はどう帰ったのか。供述:私は家にいた時かつて妻に皇上に拝謁して翎子を賜わると申しましたので、あの時冒昧を顧みず恩典を妄りに求めたのでございます。翎子を得て帰れば誇ることができると思ったのです。後に皇上が賜りませんでしたので、家に帰ってまことに恥ずかしく妻子に会わす顔がありませんでした。これは全く私が偽道学にして恐妻家であることは事実でございます。
+
「待って!」瘡蓋頭の子が言った。「わかった——渡し船だ。」
  
 「問:お前の女房は日頃から嫉妬深く気が荒いので、お前に妾を娶るにも五十歳の女を当てがうと申したが……」
+
「渡し船」と裸の子も言った。
  
 この供述もまた馮起炎と同じ類の話であり、科挙の秀才が殿試の場で個人の私事を天子に持ち出したものである。皇帝の前で妻を恐れることを告白し、翎子がなければ面目が立たぬと泣訴する──このような場面は、一見滑稽であるが、その底には深い悲哀がある。
+
「はは、渡し船だって?」一番大きい子が言った。「渡し船は櫓を漕ぐんだ。芝居を唄えるか?当てられないだろう。答えを言うよ……」
  
 この秀才は十年の苦学を経てようやく殿試に至った。しかし彼が真に求めていたのは学問の成就でも天下国家の治平でもなく、ただ妻の前で面目を保つための「翎子」一本だったのだ。十年の寒窓の目的がこれである。
+
「待って」と瘡蓋頭がまだ言った。
  
 しかし笑ってはならぬ。今日の読書人もまた、畢竟は同じではないか。博士号を取り、教授の肩書きを得、それを以て何をするか──天下の為に何かを為すのではなく、ただ己の面子を立て、妻子の前で威張るためではないのか。
+
「ふん、当てられるものか。答えはね——鵞鳥だ。」
  
 馮起炎もこの秀才も、己の真の欲望を隠さなかった点においてはむしろ正直であった。今日の知識人は、もっと巧みに真の欲望を隠し、高邁なる理想の衣で包む。しかしその衣の下には、翎子一本への渇望が隠れているのだ。
+
「鵞鳥!」女の子が笑って言った。「赤い櫂ね。」
  
 (五月十四日。)
+
「どうして白い苫船なの?」裸の子が訊いた。
  
 +
「火をつけてやる!」
  
=== 第60節 ===
+
子供たちは皆驚き、たちまち彼のことを思い出して、一斉に西の廂房を見つめた。すると一本の手が木の格子を掴み、もう一本の手が木の皮を剥がしているのが見え、その間から二つの目がきらきらと光っていた。
  
私はもうどのようにして彼と初めて出会ったか、また彼がどのようにして北京に来たかを忘れてしまった。彼が北京に来たのはおそらく『新青年』に投稿した後のことで、蔡孑民先生あるいは陳独秀先生に招かれて来たのであろう。来た後は当然『新青年』の一人の戦士となった。彼は活発にして勇敢、幾度かの大いなる戦いを戦った。例えば王敬軒への答書としての双簧の手紙、「她」の字と「牠」の字の創造がそれである。この二つは今日見れば瑣末の極みであるが、あれは十数年前のことであり、新式句読点を提唱しただけで一大群の人が「若し考妣を喪いし如く」嘆き、「肉を食い皮に寝ん」と恨む時代であったから、確かに「大いなる戦い」であった。
+
沈黙はほんの一瞬であった。瘡蓋頭が突然叫び声を上げ、脱兎のごとく駆け出した。他の子供たちも笑いながら叫びながら走り出た。裸の子は葦を後ろに向けて指し、息を切らした桜桃のような小さな唇から、澄んだ一声を発した——
  
 彼──劉半農──はこのように最初の文学革命の勇敢なる闘士であった。しかし文学革命が一段落すると、彼は外国に留学した。帰国後の彼は変わっていた。かつての闘士は穏やかな学者となり、かつての反逆者は秩序の守護者となった。これは珍しいことではない。青年の日の反逆は、年齢と共に体制への順応に変わるものであり、「革命家」が「学者」に変身するのは中国のみならず世界的な現象である。
+
「ばん!」
  
 しかし劉半農の場合はいささか異なる。彼は単に穏やかになったのではなく、かつて自分が戦った相手の側に立つようになったのだ。かつて彼が「旧勢力」と呼んで攻撃した者たちと、今や一つの陣営にいる。
+
それからは完全な静寂であった。暮色が降りてきて、緑に輝く長明灯がいっそう鮮明に神殿を照らし、神龕を照らし、そして庭を照らし、木格子の向こうの薄暗がりまで照らしていた。
  
 彼の死に際して、私は深い感慨を覚えずにはいられない。彼がもし早く死んでいれば、永遠に文学革命の勇士として記憶されたであろう。しかし長く生きたがゆえに、晩年の変節が初年の勇気を覆い隠してしまった。これは劉半農個人の悲劇であると同時に、中国の知識人全般の宿命でもある。
+
子供たちは廟の外に走り出ると立ち止まり、手をつなぎ、ゆっくりとそれぞれの家に向かって歩き始めた。皆にこにこしながら、口から出まかせに作った歌を合唱していた——
  
 (この一篇は劉半農氏の追悼文である。)
+
「白い苫船、向こう岸で一休み。
  
 +
今すぐ消せ、自分で消せ。
  
=== 第61節 ===
+
芝居を一つ唄おう。
  
颶風が過ぎた後、気候もいくらか涼しくなったが、私はついに私に書くことを望む数人の望みに従って書き上げた。口語よりも遥かに簡潔であるが、大意は異ならず、我々の同類の人々が読むために書き写したものと思っていただきたい。当時は記憶のみに頼り、古書を乱雑に引用した。話は耳元の風のようなもので、少々の誤りは構わぬが、紙上に書くとなると甚だ躊躇する。しかし手元に原書がなく確かめようもないので、読者に随時のご訂正をお願いするほかない。
+
火をつけてやる! はははは!
  
 一九三四年八月十六日夜、書き終えて記す。
+
火、火、火、お菓子を少し食べて、
  
 +
芝居を一つ唄おう。
  
【二 文字は誰が作ったか?】
+
…………
  
 文字は誰が作ったか。
+
………
  
 我々はある一つの物事に慣れ親しむと、常に古い時代の一人の聖人が発明したものだと思い込む。文字は倉頡が作ったと言われている。しかし倉頡一人でどうしてあれほど多くの文字を作り得ようか。実際には、文字は長い歳月をかけて、多くの人々の手によって徐々に作られたのであり、一人の天才の所産ではない。
+
……」
  
 この「一人の聖人が発明した」という考え方は、中国人の根深い弊害の一つである。あらゆることを一人の偉人に帰し、多くの無名の人々の貢献を抹殺する。これは権力の正当化にも通じる──天下を治めるのは一人の聖王であり、民衆は従うのみだという思想だ。
+
(一九二五年三月一日。)
  
 しかし文字の歴史を見れば分かるように、真に偉大なるものは常に集団の創造であり、個人の発明ではない。文学も同じである。一人の大作家が全てを創造するのではなく、無数の無名の語り部や歌い手がいて初めて文学が成り立つのだ。
+
【示衆】
  
 (八月十六日。)
+
首善の地たる西城の一条の馬路の上、この時刻は何の騒擾もなかった。炎々と燃える太陽はまだ真上からは照りつけていなかったが、路上の砂土はすでにきらきらと光を放っているかのようであった。酷暑が空気に充満し、至る所で盛夏の威力を振るっていた。多くの犬が舌を垂らし、樹上の烏さえも口を開けて喘いでいた——だが、当然ながら例外もあった。遠くからかすかに二つの銅の碗がぶつかり合う音が聞こえ、酸梅湯を思い起こさせ、おぼろげに涼味を感じさせたが、その怠惰で単調な金属音の間歇が、かえってその静寂をいっそう深遠なものにしていた。
  
 +
ただ足音だけがあった。車夫は黙々と前方へ走り、頭上の烈日から一刻も早く逃れようとしているかのようであった。
  
=== 第62節 ===
+
「熱い肉まんだよ!蒸籠から出したばかりの……。」
  
文学が存在し得る条件としてまず文字が書けることが必要であるとすれば、文字を知らぬ文盲の群れの中に文学者がいるはずはない。しかし作家はいるのだ。諸君よ、あまり早くに私を笑うなかれ、まだ話がある。私が思うに、人類は文字の出現以前に既に創作を有していたのであり、惜しいことに誰もこれを記録せず、また記録する術もなかった。我々の祖先の原始人は、もとは言葉すら話せなかったのであるが、共同労働の必要上意見を発表せねばならず、徐々に複雑な音声を練磨していったのである。仮にあの時皆が材木を担ぎ上げ、皆が力を入れて苦しいと感じたが、これを表現する術を思いつかなかった時、その中の一人が「ハンユーハンユー」と叫んだとしたら──これこそが創作である。皆もこれに感服し、応じるであろう。
+
十一二歳の太った子供が、目を細め、口を歪めて、路傍の店先で叫んでいた。声はもうかすれており、まだいくらか眠気を帯びていて、夏の長い日に催眠をかけられているかのようであった。彼のそばの古びた卓上には、二三十個の饅頭と肉まんが、湯気もなく、冷ややかに座っていた。
  
 これこそが文学の起源である。即ち労働から生まれた叫びであり、いかなる書斎からも、いかなる聖人の閃きからも生まれたのではない。最初の詩人は無名の労働者であり、最初の文学は「ハンユーハンユー」という労働の掛け声であった。
+
「おうい!饅頭に肉まんだよ、熱いぞ……。」
  
 この観点から見れば、現代の文学が書斎の中に閉じ込められ、象牙の塔に籠もっているのは、文学の本来の姿からの甚だしい逸脱である。文学は本来生活の中から生まれるものであり、生活から離れた文学は死せる文学に他ならぬ。
+
壁に力いっぱい投げつけられて跳ね返ってきたゴム球のように、彼は突然馬路の向こう側に飛んでいた。電柱のそばで、彼と向かい合い、馬路に正対して、その時ちょうど二人の人間が立ち止まっていた。一人は薄黄色の制服を着た刀を佩びた顔色の悪い痩せた巡査で、手に縄の端を持っていた。縄のもう一方の端は、藍布の大衫の上に白い背広下着を着たもう一人の男の腕に繋がれていた。この男は新しい麦藁帽をかぶり、帽子の鍔が四方に垂れ下がって、目のあたりを隠していた。だが太った子供は背が低く、顔を仰向けて見ると、ちょうどこの男の目と出くわした。その目もまた彼の頭蓋を見ているようであった。彼は慌てて目を伏せ、白い下着を見ると、下着には一行また一行と、大小さまざまの文字が書かれていた。
  
 大衆の中にこそ文学の真の源泉がある。文盲の中に「文学者」はいないが「作家」はいる──これは矛盾に聞こえるかもしれぬが、書けぬ者にも語り得る者はおり、語り得る者こそが真の作家なのだ。
+
たちまちのうちに、半円ほどの見物人が取り囲んだ。禿頭の老人が加わった後、空きはもうわずかしかなく、すぐに裸の赤鼻の太った大男によって埋められた。この太った男は横幅がありすぎて二人分の場所を占めたので、後から来た者は第二列に屈するしかなく、前の二人の首の間から頭を突き出すほかなかった。
  
 (八月二十日。)
+
禿頭は白下着のほぼ正面に立ち、腰をかがめて下着の文字を研究し、ついに読み始めた——
  
 +
「ん、都、ふん、八、而、……」
  
=== 第63節 ===
+
太った子供は、白下着がこの光る禿頭を研究しているのを見て、自分もそれに倣って研究した。すると頭は一面つるつると光り、耳の近くに一片の灰白色の髪があるだけで、それ以外に格別珍しいところは見当たらなかった。だが後ろにいた子供を抱いた女中が隙を見て割り込もうとしたので、禿頭は場所を失うまいと急いで身を起こした。文字はまだ読み終わっていなかったが、致し方なく、白下着の顔を見ることにした——麦藁帽の鍔の下に半分の鼻、一つの口、尖った顎。
  
大衆と言えば、その範囲は甚だ広く、各種各様の人を含んでいるが、たとえ「目不識丁」の文盲であっても、私の見るところ、実は読書人が想像するほど愚かではない。彼らは知識を欲し、新しい知識を欲し、学び、摂取し得る者なのだ。無論、もし口を開けば新語法、新名詞ばかりであれば、彼らは何も理解しまい。しかし必要なものを徐々に選んで灌注してゆけば、彼らはこれを受け入れるのであり、その消化力は、おそらく成見のより多い読書人をも凌駕するであろう。生まれたばかりの子供は皆文盲であるが、二歳になれば多くの言葉を理解し、多くの言葉を話し得る。彼にとってはこれら全てが新名詞にして新語法なのだ。
+
またしても壁に投げつけられて跳ね返ったゴム球のように、一人の小学生が駆けてきて、片手で頭の上の真っ白な小さな布帽を押さえながら、人込みの中に突進していった。だが第三——いや第四——列まで来たところで、揺るぎなき偉大なるものに遭遇した。見上げると、藍の袴の腰の上に、赤裸々な広い背中が聳え、背中には汗が流れ落ちていた。手の施しようがないと悟り、袴の腰に沿って右へ回ると、幸いにして端に隙間を見つけ、光が差し込んでいた。頭を低くして潜り込もうとしたまさにその時、「何だ」という一声が聞こえ、袴の腰から下の尻が右に揺れ、隙間はたちまち塞がれ、光明も同時に消え失せた。
  
 彼はいったいどこでこれを学んだか──『馬氏文通』からか。否、周りの人々の話す言葉から自然に学んだのである。ここに一つの重要な教訓がある。即ち、大衆に新しい知識を伝えるには、大衆の理解し得る言葉を用いねばならぬということだ。
+
だがまもなく、小学生は巡査の刀の脇から潜り出てきた。彼は驚いて四方を見回した——外側に一重の人の輪があり、上手には白下着の男がおり、向かい側には裸の太った子供がおり、太った子供の後ろには裸の赤鼻の太った大男がいた。彼はこの時おぼろげに、先ほどの偉大なる障壁の正体を悟り、驚嘆と敬服の面持ちで赤鼻をただ見つめていた。太った子供はもともと小学生の顔を注視していたのだが、彼の視線に従って振り返ると、そこにはたいそう太った乳房があり、乳首の周りに数本の長い毛が生えていた。
  
 しかしこれは大衆に迎合せよということではない。大衆の水準に合わせて内容を貧しくするのではなく、内容を豊かに保ちつつ表現を分かりやすくすることが肝要である。赤子が二歳で言葉を覚えるのは、周りの大人が赤子の水準に堕ちたからではなく、大人の言葉が赤子にも理解し得るだけの具体性を備えていたからだ。
+
「あの人、何をしたんだ?……」
  
 新文学が大衆から遊離しているのは、内容が高級だからではなく、表現が不必要に難解だからである。これは文学者の怠慢であり、あるいは大衆を見下す驕慢の表れである。
+
皆が驚いて見ると、労働者風の粗野な男で、声を低くして禿頭の老人に教えを請うていた。
  
 (八月二十二日。)
+
禿頭は答えず、ただ目を見開いて彼を見据えた。見据えられて彼は目を伏せたが、しばらくしてまた見ると、禿頭はまだ目を見開いて見据えており、他の者も皆目を見開いて見据えているようであった。彼はまるで自分が罪を犯したかのように落ち着かなくなり、ついにじりじりと後退し、抜け出していった。洋傘を挟んだ長身の男がその空きを埋め、禿頭もまた顔を回して白下着を見た。
  
 +
長身の男は腰をかがめ、垂れた麦藁帽の鍔の下から白下着の顔を鑑賞しようとしたが、なぜか突然身を起こした。すると後ろの人々はまた懸命に首を伸ばさねばならなかった。一人の痩せた男に至っては、口まで大きく開け、死んだ鱸のようであった。
  
=== 第64節 ===
+
巡査が、突然、足を持ち上げた。皆はまた驚き、急いで彼の足を見た。だが彼はまた足を下ろしたので、再び白下着を見た。長身の男がまた腰をかがめ、垂れた帽子の鍔の下から窺おうとしたが、すぐにまた身を起こし、片手を挙げて懸命に頭を掻いた。
  
况んや杜衡氏の文章は、心情が彼と異なる人々に読ませるために書かれたものである。なぜなら『文芸風景』なるこの新刊を見る者は、決して「新しい本を見るくらいなら古い本を見る方がまし」という心情を懐く友人ではないからだ。しかし新刊を見る以上、ただ一冊の『文芸風景』のみを見るには留まるまい。シェイクスピア劇を論ずる書物は多数あり、いくらか渉猟すれば、かくもびくびくと「政治家」(煽動家)に煽動されることを恐れる心情にはなるまい。かの「友人たち」は、作者の時代と環境に注意するほかに、『シーザー伝』の素材がプルタルコスの『英雄伝』から取られていることをも知るであろうし、しかもそれはシェイクスピアの──
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禿頭は不機嫌になった。まず背後がただならぬ気配であり、続いて耳のそばでひそひそと声がしたからだ。眉をひそめて振り返ると、すぐ右隣に、黒い手が半分の大きな饅頭を持ち、猫のような顔をした男の口に押し込んでいるところだった。彼は何も言わず、白下着の新しい麦藁帽を見ることにした。
  
 杜衡氏はシェイクスピアの歴史劇について論じ、これを「純文学」として政治から切り離そうとした。しかし文学を政治から切り離すことは果たして可能であるか。シェイクスピアの歴史劇は政治そのものであり、彼の劇中にはエリザベス朝の権力闘争が色濃く反映されている。
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突然、雷のような一撃があり、横幅のある太った大男さえも前によろめかずにはいられなかった。同時に、彼の肩の上から同じほど太い腕が伸びてきて、五本の指を広げ、ぱんと太った子供の頬を打った。
  
 「政治家に煽動されることを恐れる」とは、実は政治的な意識を持つことを恐れているに等しい。しかし文学者が政治的意識を持たぬことこそ、最も危険な政治的態度ではないか。なぜなら、政治から逃避すると称しつつ、実は現状を是認し権力に奉仕しているからだ。
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「いい気味だ!この野郎……」同時に、太った大男の後ろから、弥勒仏のようなもっと丸い太った顔がそう言った。
  
 シェイクスピアは決して「純文学」の象牙の塔に籠もってはいなかった。彼は当時の最も激しい政治的渦中にあり、それゆえにこそ偉大な文学を生み出し得たのだ。文学を政治から切り離そうとする者こそ、文学の力を最も恐れる者なのである。
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太った子供も四五歩よろめいたが、倒れはせず、片手で頬を押さえ、体を回して太った大男の脚の隙間から潜り抜けようとした。太った大男は慌てて踏ん張り、尻を揺すって隙間を塞ぎ、恨めしげに訊いた——
  
 (八月二十四日。)
+
「何だ?」
  
 +
太った子供は罠にかかった小鼠のように一瞬慌てふためいたが、突然小学生の方へ駆け出し、彼を押しのけて突破した。小学生も身を翻して後に続いた。
  
=== 第65節 ===
+
「まあ、この子は……。」五六人はそう言った。
  
私がここで語りたいのは、消閑として行う私の読書──つまり気ままに頁を繰ること──についてである。しかしやり方を誤れば、害を被ることもなきにしもあらずだ。
+
再び平静に戻り、太った大男が白下着の顔を見ると、白下着は顔を仰向けて彼の胸を見ていた。彼は慌てて頭を下げて自分の胸を見ると、両乳の間の窪みに一片の汗があり、手のひらでそれを拭った。
  
 私が最初に読書をした場所は私塾で、最初に読んだのは『鑑略』であり、机の上にはこの一冊と習字の描紅と対字(詩作の準備)の課本があるのみで、他の書物は許されなかった。しかし後にようやく徐々に文字を覚え、文字を覚えるや書物に興味を持つようになった。家にはもとより二、三箱の破れた古書があり、それを繰り返し繰り返しめくった。大きな目的は図画を見ることであったが、後には文字も読むようになった。かくして習慣となり、手元に書物があれば、それが何であろうと手に取って繰ってみるか、目次だけでも見ずにはいられなくなった。
+
=== 第17節 ===
  
 この「気ままに頁を繰る」という読書法は、一見すると無秩序で非効率に見えるが、実は計り知れぬ利点がある。体系的な読書は一つの方向に深く掘り下げるが、気ままな読書は思いがけぬ発見をもたらす。ある分野の専門家にはなれぬかもしれぬが、広い視野と柔軟な思考を養う。
+
賢良女学校校長何万淑貞、襟を正し謹んで申し上げます
  
 しかし最大の利点は、権威に盲従しなくなることだ。特定の学派や主義のみを読む者は、やがてその学派の奴隷となる。しかし気ままに読む者は、様々な立場の文章に触れるがゆえに、いかなる権威をも絶対視しなくなる。
+
中華民国十三年夏暦菊月吉旦              立
  
 もっとも、この読書法には危険もある。何でも読むということは、有害な書物をも読むということだ。しかし有害か有益かは、読む前には分からぬ。読んでみて初めて分かるのであり、そのためにもまず読まねばならぬ。
+
「』」
  
 されば私の忠告はこうだ──何でも読め、ただし何も信ずるな。
+
高爾礎はその赤い罫線で囲まれた新聞の切り抜きの招待状をもう一度読み返し、満足げに「ふふん」と笑った。
  
 (九月五日。)
+
「ははは!」と彼はまた感嘆した。
  
 +
「聞いたかい、」と彼は同席の者たちに向かって言った。「陳先生が今度、私を賢良女学校の歴史の教師に推薦してくださったのだ。まもなく始まる。今後はぜひ私のことを高老夫子とお呼びいただきたい。」
  
=== 第66節 ===
+
しかし黄三は聞こえないふりをしていた。彼の注意は麻雀の牌に向いていた。
  
右、御返事まで。
+
「高先生……」と万瑶圃が口を開きかけた。
  
 文安を祈る。
+
「高老夫子と呼んでくれ。」
  
 魯迅。十一月十四日。
+
「高老夫子、失礼ながら、あなたの番ですよ。」
  
 +
「ああ。」高爾礎は我に返った。「うん、今日はもうやめよう。頭の中にもはや牌に向かう気がない。考えていることがあるのだ——つまり女学校だからね、教えるには男女の別を心得ておかなければ……」
  
 +
「全くその通りだ。」万瑶圃が頷いた。
  
【『戯』週刊編者への手紙】
+
「だからだ、」と高老夫子は牌を前に押し出して言った。「これから帰って少し準備せねばならん。」
  
 +
黄三は見るからに不機嫌であった。
  
 編集先生:
+
「高先生は大出世だな。」と彼はぶっきらぼうに言った。
  
 本日『戯』週刊第十四期を見ましたところ、『独白』に私の返信が得られなかったことを「遺憾」に思うとありましたが、思い起こせばこの手紙は一昨日既に発送したはずで、しかも病中に書いたものであり、自分ではなかなか精一杯やったつもりでおりました。ここに特に申し明け、いささか御機嫌伺いの意とします。
+
「高老夫子だと言っているだろう。」
  
 この週刊に載ったいくつかの阿Q像を見ましたが、いずれも余りに特異で、いささか奇妙な感じがします。私の考えでは、阿Qは三十歳前後で、容貌はごく平凡、農民風の──
+
黄三は鼻で笑った。
  
 阿Qの像を描くということは、ある意味では中国の農民を描くということに等しい。しかし多くの画家は阿Qを「異常な人間」として描こうとする。これは大きな間違いである。阿Qの悲劇はまさに彼が平凡であることにあり、彼が特異な人間であったならば、そもそも悲劇は成り立たぬ。
+
高老夫子は意に介さず、牌をそのままに立ち上がった。胸がそわそわして、愛すべき麻雀の相手をしている余裕もなくなったのだ。
  
 阿Qは我々の隣人であり、我々自身でもある。彼を奇人変人として描くのは、自分自身の中の阿Q的なものから目を背けることに他ならない。
+
帰宅すると、まず「歴史についての所見」と題した原稿を引き出しから出してみたが、久しく手を入れていなかったので、自分で読んでもよく分からぬ箇所があった。溜息をついて、それを戻した。
  
 私が望む阿Qの像は、街を歩いていてもすれ違う人の中に見つけられるような、そのような平凡な顔である。奇を衒った造形は、かえって阿Qの精神から遠ざかる。
+
翌日、高老夫子はずいぶん早く目を覚ました。着替えをして鏡を見ると、新調の紫紺の馬褂に黒い長衫、なかなか堂々たるものであった。
  
 しかしこれは画家を責めているのではない。文学作品の人物を視覚化することは常に困難な仕事であり、読者各々が心中に描く像は皆異なるのだから。
+
学校に着くと、校門はまだ閉まっていた。しばらく待って、門番が来て開けてくれた。
  
 (十一月十四日。)
+
「先生は何の御用で?」と門番が訊いた。
  
 +
「私は——」高老夫子は胸を張った。「ここの新しい歴史の教師だ。」
  
=== 第67節 ===
+
通されて、校長何万淑貞に面会した。校長は五十がらみの丸顔の穏やかそうな婦人で、歓迎して教室へ案内した。
  
現在中国で試験中の新文字は、南方人が読むには全てを理解し得ぬ。今の中国は本来一種の言語で統一し得るものではなく、されば各地方の言語に照らして別にローマ字表記を作り、将来の疎通を図らねばならぬ。ラテン化新文字に反対する者は、往々にしてこれを一大欠点として挙げ、かえって中国の文字を不統一にするではないかと言う。しかし彼らは、方塊漢字がもともと中国人の大多数に識られず、知識階級の一部にも真に識られていないという事実を抹殺しているのだ。
+
「今日は初回ですので、自己紹介からどうぞ。」と校長が言った。
  
 しかしながら彼らは、新文字が労苦する大衆に利するものであることを深く知っている。されば白色テロルの瀰漫する地方においては、この新文字は必ず摧残を受けるのである。今や並べて──
+
教室に入ると、二十人ほどの女学生がいた。教壇に立った高老夫子は、にわかに緊張した。若い顔が一斉にこちらを向くのを見て、体が熱くなるようであった。
  
 ラテン化新文字の問題は、単に言語学の問題ではなく、政治の問題である。漢字を読めぬ者が多数を占める社会にあって、漢字はそのまま権力の道具となっている。漢字を知る少数者が知識を独占し、知らぬ多数者を支配する──これが中国の知識構造の根本である。
+
「えー、私は高爾礎と申しまして……」彼は咳払いをした。「本日より皆さんに歴史を教えることになりました。」
  
 新文字はこの構造を打破し得る。だからこそ権力者はこれを恐れ、弾圧するのだ。「文字の統一」を口実にした反対は、実は「無知の維持」を企図するものに他ならぬ。
+
教卓の上の教科書を手に取って開いたが、全く知らない本であった。
  
 漢字の美しさを愛する心情は理解できるが、美しさを理由に大衆の知識への権利を奪うことは許されぬ。文字の目的は美ではなく伝達であり、伝達し得ぬ文字は、いかに美しくとも文字たる資格を失うのだ。
+
「先生、どこからお始めになりますか。」前列の一人が訊いた。
  
 (十一月二十四日。)
+
高老夫子はまごついた。「うむ、では……」と言いかけ、急に顔を赤らめた。
  
 +
=== 第18節 ===
  
=== 第68節 ===
+
一族の長、近しい親族、彼の祖母の実家の親類、暇人たちが一部屋に集まっていた。殳の到着を待てば、納棺の時刻になるはずであった。寿棺も寿衣もとうに出来上がっており、手配する必要はなかった。ただ一つの懸念は殳自身であった——彼は日頃から奇行が多く、何をしでかすか分からなかったからだ。
  
これこそまことに天大の本領である! あの死の如き鎮静が、またもや私の気悶を打ち破った。
+
果たして殳が現れた。しかし案に相違して、いたって穏やかであった。黙って棺を見、黙って遺体を見、それから跪いて三度叩頭した。
  
 私は書物を置き、目を閉じ、横になってこの本領を学ぶ方法を考えた。思うにこれは「君子は庖厨に遠ざかるなり」の方法とは大いに異なる。なぜならこの場合は君子自身もまた庖厨の中に居るからだ。瞑想の結果、二手の太極拳を案出した。一、世事に対して「浮光掠影」──つまり時に随いて忘却し、あまり了然とせず、いくらか関心があるかの如くして実は懇切ならず。二、現実に対して「聡を蔽い明を塞ぐ」──つまり麻木にして冷静、感触を受けず、始めは努力を要するも後には自然となる。第一の名称はあまり聞こえが良くないが、第二もまた──
+
「泣かないのか?」と誰かが小声で言った。
  
 これは病を却け年を延ばす養生法に通じる。しかし問題は、この「死の如き鎮静」は果たして学ぶべきものであるかどうかだ。世事に対して無関心であり、現実に対して感覚を鈍くする──これは確かに自己保全の術ではあるが、同時に人間としての死でもある。
+
すると殳は突然、声を上げて泣き出した——いや、それは泣くというものではなかった。狼の遠吠えのような、長い長い嚎哭であった。居合わせた者の背筋を凍らせるような声であった。
  
 心を殺して身を保つか、心を活かして身を危うくするか──この二択は、中国の知識人が常に直面してきたものである。そして多くの人は前者を選んできた。なぜなら後者を選べば、本当に身が危うくなるからだ。
+
祖母の葬儀は滞りなく終わった。殳はしばらく故郷に留まり、やがて去っていった。
  
 しかし全ての人が心を殺してしまえば、この社会はいったい誰が変えるのか。死の如き鎮静の中で、我々は本当に安らかに生きられるのか。
+
その後、私は殳の消息を時折耳にするだけであった。S城の学校で教えていたが解雇され、どこかの新聞社に入ったがまた追い出され、最後に聞いたのは軍閥のもとで顧問のようなことをしているということであった。
  
 (十二月十日。)
+
ある冬の日、私は偶然、殳と再会した。山陽の寒々とした旅館でのことであった。
  
 +
「久しぶりだね。」と私が言うと、殳は力のない笑みを浮かべた。
  
=== 第69節 ===
+
彼は驚くほど変わっていた。以前の激しさは影を潜め、その代わりに深い倦怠が全身を覆っていた。
  
状、斥候明らかならず、遂に突進して河北に至り、   辺城の斥候明らかならず、遂に長駆して河北に入り、
+
「近況はどうだい?」
 蛇の如く河東に盤結す。              河東に盤結す。
 
  
 孔子の春秋の義を犯す──
+
「まあ、生きている。」と彼は言った。それからぽつりと付け加えた——「飼い犬になった。」
  
 これは古文の校勘の問題であり、異本の対照を通じて原文の真意を探ろうとするものである。「豕突」と「長駆」、「蛇結」と「盤結」──字句の異同は些細なようでいて、実は意味に大きな違いをもたらす。
+
私は言葉を失った。
  
 校勘学は地味な学問であるが、文字文化の根幹を支えるものだ。一字の違いが歴史の解釈を変え、一句の脱落が思想の伝承を歪める。
+
「以前は意地を張っていた。人間らしく生きようとしていた。だが今は言われた通りにしている。言われた通りに笑い、言われた通りに媚びる。金をもらい、食い、生きている。」
  
 しかし校勘学にも限界がある。いかに精密に校勘しても、原著者の真意を完全に復元することはできぬ。なぜなら文字は常に不完全な伝達手段であり、書かれた時点で既に著者の意図からは離れているからだ。
+
「なぜだ?」
  
 それでも校勘は必要である。なぜなら、少しでも原意に近づこうとする努力は、少しでも真実に近づこうとする努力に通じるからだ。真実を知ることは困難であるが、真実を求める姿勢を放棄してはならない。
+
暫く黙った後、彼は低い声で言った。
  
 この姿勢は学問のみならず、社会を見る目にも通じる。新聞の文章を読む時にも、我々は一種の「校勘」を行わねばならぬ。書かれた文字の裏に隠された真意を読み取り、削除された部分を想像し、改竄された箇所を見抜く──これもまた一つの校勘学なのだ。
+
「復讐だ。」
  
 (十二月十五日。)
+
「復讐?」
  
 +
「そうだ。」彼の目に一瞬、昔の光が戻った。「かつて私を唾棄した連中——私が落魄すれば喜び、高潔であれば嘲った連中——その者たちに、今、卑屈な笑みを見せてやっている。これが最も残酷な復讐だ。自分を殺すことで、奴らの顔に私の堕落を突きつける。」
  
=== 第70節 ===
+
私は身震いした。それは狂気に近い論理であった。
  
張勲の姓名は既に暗淡となり、「復辟」の事件も徐々に忘れ去られている。私はかつて『風波』の中でこれに触れたが、他の作品には見られぬようで、早くから人の注意を引かなかったことが分かる。今やそれどころか、辮髪すら日に日に稀少となり、周鼎や商彝と同列に並び、徐々に外国人に売り得る資格を備えつつある。
+
「しかし——」
  
 私もまた絵画を見ることを好む。殊に人物を。国画を見れば方巾長袍、あるいは短褐椎結で、私の記憶にある辮髪は一本も見たことがない。洋画を見れば歪んだ顔の男と太い脚の女で、これまた私の記憶にある辮髪は一本も見たことがない。この度、数幅のペン画と木版画による阿Qの像を見て、ようやく芸術の上における辮髪に出会ったのであるが、しかし──
+
「分かっている。」と彼は遮った。「自分を苦しめているだけだということは。だが、もう他にどうしようもない。」
  
 辮髪は中国近代史の象徴である。清朝の支配の象徴であり、民族的屈辱の象徴であり、しかし同時にある種の郷愁の対象でもある。辮髪を失った中国人は、何か大切なものを──たとえそれが鎖であったとしても──失った喪失感を覚えている。
+
その夜、私たちは遅くまで語り合った。だが彼の言葉はますます散漫になり、やがて沈黙が訪れた。
  
 阿Qの辮髪は、この全ての意味を担っている。それは彼の悲劇の一部であり、彼が属する時代の記号である。画家が阿Qを描く時、辮髪の太さ、長さ、巻き方一つにまで意味が宿る。
+
=== 第19節 ===
  
 しかし最も重要なのは辮髪ではなく、その下にある頭の中身──即ち「精神的勝利法」の持ち主たる阿Qの精神構造そのものなのだ。
+
「私の物さえ食べなくなった。」彼は低い声で、嘲笑するように言った。
  
 (十一月二十日。)
+
「連殳、」私はひどく悲しくなったが、無理に微笑を装って言った。「君は自ら苦しみを求めすぎていると思うよ。」
  
 +
「自ら苦しみを求めている?」彼は不意に顔を上げた。「いや、不愉快なことをしているのだ。だが不愉快なことこそ、彼らが私に望んでいたことではないか。彼らは昔から、私に不愉快なことをさせたがっていた。今その通りにしている——なのに、また不満そうだ。」
  
=== 第71節 ===
+
「だが——」
  
誰もが「賢者は世を避く」と知っているが、私は今の俗人はむしろ雅を避くべしと思う。これもまた一種の「明哲保身」である。
+
「もうよい。」彼はまた静かになった。「もう全てどうでもよいのだ。」
  
 +
煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。煙が部屋にたゆたった。
  
 (十二月二十六日。)
+
「ところで、」と彼は話題を変えた。「最近、子供が三人、私のところに遊びに来る。近所の子供だ。菓子をやるからだろうが、来てくれるのは嬉しい。子供というものは——子供だけは、まだ嘘がない。」
  
 +
その言葉に一抹の温かみがあった。だが彼の目はすぐにまた暗くなった。
  
 +
「もっとも、」と付け加えた。「子供もやがて大人になる。大人になれば、同じことだ。」
  
【附記】
+
翌朝、彼の部屋を訪ねると、まだ床の中であった。部屋は荒れ果て、卓上には酒瓶が何本も転がり、煙草の吸殻が灰皿から溢れていた。
  
 +
「体の具合はどうだ?」
  
 第一篇の『中国に関する二、三の事』は、日本の改造社の依頼により書いたもので、原文は日本語であり、同年三月に『改造』に掲載され、題を『火、王道、監獄』と改めた。記憶では中国の北方にかつてある種の期刊がこの三篇を訳載したことがあるが、南方では林語堂・邵洵美・章克標の三氏が主編する雑誌『人言』のみが、これを著者攻撃の材料として用いた──
+
「まだ死にはしない。」と布団の中から答えた。
  
 「雅を避く」とは何か。即ち、高雅なる振りをせず、文人面をせず、ただ率直に生きることである。今の世の中で最も危険なのは「雅」を装うことだ。なぜなら「雅」を装えば、必ず権力者に利用されるか、さもなくば権力者に睨まれるからだ。
+
その日から数日間、毎日彼を訪ねた。だが日に日に衰えていくようであった。咳がひどくなり、顔色もますます悪くなった。
  
 文人は「雅」であらねばならぬと世間は思っている。しかし「雅」なる文人こそ、最も容易に「功徳碑」を書かされる者なのだ。「俗」なる者ならば誰もそのような依頼をしない。されば「俗」を装い「雅」を避けることは、実は最も賢明な処世術なのである。
+
「医者に行った方がいい。」
  
 しかしこれは単なる処世術に留まらない。「雅」を避けることは、即ち権威主義を避けることでもある。「雅」とは一つの階層秩序であり、「雅」と「俗」の区別は権力の区別に重なる。この区別を拒否することは、ある種の平等主義の実践なのだ。
+
「医者か。」彼は苦笑した。「医者にかかる金はある。だが——この体にそれほどの価値があるだろうか。」
  
 (十二月二十六日。)
+
ある日の午後、訪ねると、近所の子供が三人、部屋の前で泣いていた。
  
 +
「おじさんが——」と一番小さな子が言った。「おじさんが動かないの。」
  
=== 第72節 ===
+
急いで部屋に入った。殳は仰向けに横たわり、もう息をしていなかった。その顔には奇妙な微笑が浮かんでいた——嘲弄とも安堵ともつかない、最後の表情であった。
  
この度はまず「兄」の字の講義から始めねばならぬ。これは私が自ら定めて慣用してきた例であって、即ち、旧知あるいは近来の知己、旧来の同窓にして今なお交際のある者、直接の聴講生に対して手紙を書く時には「兄」と呼ぶのである。それ以外の、もとより先輩であるとか、比較的面識が薄いとか、比較的礼を要するとかいう方々には「先生」「旦那」「奥様」「坊っちゃん」「お嬢様」「大人」……等と呼ぶ。要するに私のこの「兄」の字の意味は、直接に名を呼ぶよりいくらか上という程度に過ぎず、許叔重先生の仰るような、真に「兄さん」の意味を含むものではない。しかしこの理由は私自身しか知らぬのだから、あなたが一見して大いに驚き力争するのも無理からぬことである。しかるに今は既に──
+
卓上に手紙があった。私宛であった。
  
 この「兄」の用法に関する弁明は些末なことのようであるが、実は中国の人間関係における呼称の複雑さを示す好例である。中国語の呼称には厳密な階層序列が込められており、一字の違いが関係の親疎、上下を明確に示す。
+
「君への借金はこの家の物で返してくれ。そして——あの子供たちに菓子を。」
  
 しかし私はこの序列をできるだけ簡略化したいと思っている。知己には「兄」、面識の薄い者には「先生」──これだけで十分ではないか。しかし世間はそう思わず、「兄」と呼ばれたことに大驚する者があり、「先生」と呼ばれなかったことに憤慨する者がある。
+
それだけであった。
  
 呼称への過敏さは、実は身分への過敏さの表れであり、身分への過敏さは封建的秩序意識の残滓である。「兄」の一字にこれほどの波紋が立つ社会は、まだまだ真の平等には遠いのだ。
+
=== 第20節 ===
  
 (十二月一日。)
+
私が一礼すると、地面で突然誰かがおいおいと泣き出した。目を凝らすと、十歳余りの子供が草筵の上に伏しており、同じく白い衣服を着て、髪を短く刈った頭にはまだ一房の大きな苧麻が巻かれていた。傍に一人の女が立っており、殳にそっくりの眼をしていたので、おそらく姪であろうと思われた。
  
 +
「もう泣くな。」と女が子供に言った。だがその声は低く力がなかった。
  
=== 第73節 ===
+
葬列は薄暗い冬の午後に出発した。田畑は枯れ果て、遠くの山々は鉛色の空の下に沈んでいた。棺を担ぐ者は四人、その後ろに十人余りの弔問客が続いた。
  
広平兄:
+
墓地は村のはずれの丘の斜面にあった。穴はもう掘られていた。棺が降ろされ、土が被せられた。
  
 申し上げたいことは多々ありますが、あの日は口頭にてお答えすることもできたはずでした。しかし私のところには朝から夜まで常に各種の客が数人居りますので、天気の好悪や風の大小を論ずることしかできません。なぜなら平常の話であっても、偶々その一部を聞かれれば忽ち訳が分からなくなり、それから流言が造り出されるからです。されば矢張り返信を書く方がよろしいでしょう。
+
私はしばらくその場に立っていた。風が冷たかった。やがて人々は散り、最後に残ったのは私とあの子供だけであった。
  
 学校のことは、暫く不死不活(死にもせず生きもせず)の状態が続くのかもしれません。昨日聞いたところでは、章夫人は来られず、別に二人を推薦したが、一人はやはり来られず、もう一人は請う気にならぬとのこと。さらに□夫人はぜひやりたがっているが、当局はどうやら請う気がないようです。評議会の慰留は大したことではなく、問題は人が得られぬことにあるとのこと。当局は──
+
「おじさんは——」と子供が訊いた。「おじさんはもう戻ってこないの?」
  
 この手紙は、魯迅が許広平に宛てた私信であり、当時の北京の大学における人事の混乱を伝えている。手紙の形式は私的であるが、その中に描かれる情景──常に客がいるために自由に話せず、流言を恐れて口を慎む──は、この時代の知識人が置かれた息苦しい環境をよく示している。
+
私は頷くしかなかった。子供は泣かなかった。ただ墓の上の新しい土を見つめていた。
  
 「天気の好悪を論ずることしかできない」──この一文に、監視と自己検閲の日常がある。家の中ですら自由に語れぬ世界で、人は手紙に真情を託すほかない。しかし手紙もまた傍受される恐れがある。
+
S城に戻った。以後、連殳のことを思い出すたびに、あの冬の午後の寒さが蘇った。あの嘲弄と苦痛の入り混じった最後の微笑が、いつまでも消えなかった。
  
 されば書かれた言葉は常に不完全であり、言外の意味を読み取る力が読者に求められるのだ。
+
【傷逝——涓生の手記】
  
 (三月十一日。)
+
もし私が真実を語ることができるなら、書かねばならない——子君のために、そして自分のために。
  
 +
会館の、あの朽ちかけた部屋に、また私は一人でいる。かつて子君と共に過ごしたあの部屋に。だが今、ここにいるのは私だけだ。
  
=== 第74節 ===
+
あの頃のことを思い出す。最初に彼女が来たときのこと。冬の午後、古い綿入れを着て、頬を赤く染めて、門をくぐってきた。目は光り、足取りはしっかりとしていた。
  
本来ならばもっと長くもっと明白に罵るべきところであるが、いささか憚るところがあり、またその髭の長きを哀れみて、ここで収めることとする。さて話題を一転し、「小鬼」の偽名の問題を論じよう。あの二つの「魚と熊掌」は共に足下の好むところなれども、論文に用いるには不相応と思う。なぜなら、真名をもって無聊なる厄介事を招くのは確かに値せぬことであるが、偽名があまりに滑稽に過ぎれば論文の重量を減ずるゆえ、これもまたあまりよろしくない。あなたの多くの名前の中で、「非心」が幸いまだ使われていないようであるから、私は「編集者」兼「先生」の威権をもって、あなたにこの一つを書き付けよう。もし心に叶わぬならば、急ぎ手紙にて抗議されたし、まだ間に合う──
+
「私は私自身のものです。」——これが彼女の口癖であった。イプセンの言葉。ノラの言葉。彼女はそれを信じていた。
  
 筆名の問題は些末なようで、実は書く者の身の安全に関わる重大事である。真名で書けば攻撃の標的となり、偽名で書けば卑怯と謗られる。しかも偽名が滑稽であれば文章の信用を損ない、真面目過ぎれば正体が透けて見える。
+
私も信じていた。私たちは語り合った。シェリーについて、ノラについて、男女平等について。彼女の目はいつも真剣で、頷き方にも迷いがなかった。
  
 書く者はこのように、内容以前に名前の選択において既に重大な判断を迫られるのである。自由に物を書ける社会においては、筆名など好みの問題に過ぎぬが、圧迫の社会にあっては、筆名は生存の戦略となる。
+
やがて私たちは決心した。世間の反対を押し切って共に暮らすことを。彼女は父親に勘当された。私も職場で白眼視された。だがそれが何だろう——私たちには愛があった。
  
 魯迅自身が多数の筆名を使い分けたことは周知の通りであり、この手紙もまた筆名の使い方を後進に教えるものだ。書く自由が制限された時代にあって、なおも書き続けるための知恵──これこそが魯迅の遺産の一つである。
+
新しい住まいを見つけた。吉兆胡同の小さな家であった。家賃は安かったが、日当たりは悪くなかった。そこで新しい生活を始めた。
  
 (十二月二十日。)
+
最初の数日は夢のようであった。
  
 +
=== 第21節 ===
  
=== 第75節 ===
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子君も日ごとに活発になっていった。だが彼女は花を愛さなかった。私が廟会で買ってきた二鉢の小さな草花は、四日間水をやらずに壁の隅で枯れてしまったが、私にも万事を世話する暇はなかった。しかし彼女は動物を愛した。まず油鶏を四羽手に入れ、次いでまだらの子犬を一匹——阿随と名付けた。
  
私は承知している。数人で事を為すに際して、真に「天下のため」に出でたるものは甚だ少なきことを。しかし人は現状に対して、多少の不平、反抗、改良の意なかるべからず。ただこの一点の共同の目的のみにて、合作し得るのだ。たとえ「利用」の私心がいくらか含まれていても構わぬ。他人を利用し、また他人のために事をなす──聞こえよく言えば即ち「互助」である。しかしながら私は常に「罪業深重にして禍い自らに及ぶ」の身にて、往々にして結局は純粋なる利用を発見し、「互」の字すら当てはめ得ず、利用された後にはただ気力を消耗した自分一人が残されるのみ。時にはさらに逆に罵られ、罵られぬとしても、彼の洪恩に感謝せねばならぬ。私の時折の無聊はまさにこのゆえであるが、しかし私はなお──
+
油鶏は日に日に太り、子犬も日に日に大きくなった。だがそれに伴って、彼女の世界もまた日に日に狭くなっていくようであった。一日は油鶏に餌をやり、阿随と遊び、炊事をし、洗濯をすることに費やされた。
  
 人間関係における「利用」と「互助」の境界線は曖昧である。しかし問題は、その曖昧さを一方的に利用する者がいることだ。「天下のため」を掲げて他人を利用し、自分は何の犠牲も払わぬ──この種の人間こそ最も警戒すべき存在である。
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以前語り合ったシェリーやノラはどこへ行ったのか。イプセンの戯曲はもう話題に上らなくなった。男女平等の議論も消えた。代わりに出てくるのは、隣の奥さんの鶏が庭に入ってきたとか、油鶏の卵が減ったとか、そういう話ばかりであった。
  
 しかしそれでも合作は必要であり、合作なくしては何事も為し得ぬ。問題は「利用されること」そのものではなく、「利用された上にさらに感謝を強いられること」にある。これこそ最も人を疲弊させるものだ。
+
私は焦燥を感じ始めた。だが口には出せなかった。
  
 私が「時折無聊を覚える」のはまさにこのためである。しかし無聊を覚えつつもなお書き続け、なお人と関わり続ける──これは無聊を超えた何かが私の中に残っているからだ。それは「天下のため」などという大層なものではなく、ただ、何も為さずにいることへの耐え難さに過ぎぬ。
+
そのうち、私は職を失った。
  
 (一月二十八日。)
+
理由は——私たちの同居が上司の耳に入ったのだろう。辞令は素っ気ないものであった。
  
 +
それからは暗い日々が続いた。金がなくなっていった。翻訳の仕事を探したが、なかなか見つからなかった。わずかな仕事が来ても、報酬は雀の涙であった。
  
=== 第76節 ===
+
子君は以前のように笑わなくなった。油鶏は一羽ずつ食卓に上り、ついに一羽もいなくなった。
  
私の授業は、おそらく毎週六時間ほどになるだろう。語堂が私にもっと講義をしてほしいと望んでおり、その情を断ることができないからだ。そのうち二時間は小説史で、準備の必要はない。二時間は専門書研究で、準備が要る。二時間は中国文学史で、講義録を編纂しなければならない。ここにある古い講義録を見れば、適当に話すだけで十分だが、私はもう少し真面目に取り組み、比較的良い文学史を一冊編み上げたいと思っている。君もすでに大いに勉強し、講義録の準備をしているだろうが、各クラス一時間、八時間とも同じ内容なら、あまり労力はかかるまい。こちらでは北伐順調の知らせも多く、大いに人心を快くしている。新聞にはしばしば閩粤方面の風雲急を告げる記事があるが、ここではそうした気配は感じられない。ただ鼓浪嶼にはすでに多くの寓居客がおり、空き家がほとんどないと聞く。この島は学校の向かいにあり、小舟で一、二十分で着く。
+
阿随も手放さなければならなかった。
  
 
+
「阿随を捨ててきてくれ。」と私は言った。
  
 
+
子君は何も言わなかった。ただ目に涙が浮かんだ。だが翌日、阿随はいなくなっていた。
迅。九月十四日午。
 
  
 
+
部屋はいよいよ静かになった。静かすぎて、息苦しかった。
  
 
+
私たちの間に沈黙が広がった。食事の時も、夜の灯の下でも、言葉が途絶えた。彼女は針仕事をし、私は本を読むふりをした。だが頁は一向に進まなかった。
二十一
 
  
 
+
私の心には恐ろしい考えが芽生えていた——愛が冷めたのではないか。いや、最初からそれほど深くはなかったのではないか。
  
 
+
この考えは自分でも恐ろしかった。だが一度芽生えると、もう払いのけることができなかった。
広平兄:
 
  
 
+
=== 第22節 ===
十三日に発送された私宛の手紙は、すでに受け取った。私は五日に一通出した後、十三、四日になってようやく手紙を出した。十四日以前は、ただ待ちに待っていただけで、手紙は書いていなかった。これがようやく三通目である。一昨日、『彷徨』と『十二個』を各一冊送った。
 
  
 
+
「……それに、あなたはもう何も気にする必要はないのです。勇往邁進すればよいのです。正直に言えとおっしゃるなら——そうです、人は偽りであってはなりません。正直に申しましょう。なぜなら——なぜなら、私はもうあなたを愛していないからです。しかしこれはあなたにとっても幸いなことです。なぜなら、これであなたは新しい道を——」
君が列挙した職務を見ると、かなり繁重のようで、住まいも良くなさそうだ。四方が「壁にぶつかる」ような住居は、北京にはないが、上海にはある。厦門の旅館でも見たことがあり、実に人を息苦しくさせる。職務が定まった以上、自分でその意を心得て、うまく処理する以外に方法はない。しかし住居だけは、せめて一部屋ぐらいはましなものがあってしかるべきだ。さもなければ、痩せてしまうのではないかと心配だ。
 
  
 
+
子君の顔は灰色になった。黙って座っていた。石像のように動かなかった。
本校は今日開学式を挙行した。学生は三、四百人の間で、四百人としておこう。予科と本科七学科に分かれ、各学科三級に分かれるのだから、各級の人数の少なさは推して知るべしだ。ここは交通が不便なだけでなく、入試も極めて厳しく、寄宿舎も四百人しか収容できず、四方は荒れ地で借りられる家もない。たとえ来たい人がいても、住む場所がないのだ。それなのに学校当局はなお本校の発展を望んでいるとは、まさに夢想だ。おそらく当初から計画がなく、今も非常にだらしない。我々が来てからは、みな陳列室にするはずの大きな洋館の上に放り出され、いまだに一定の住居がない。聞くところでは教員の住居を急いで建築中だそうだが、いつ完成するかは皆目分からない。今もし授業に行くなら、石段を九十六段登らねばならず、往復で百九十二段だ。お湯を飲むのも容易ではないが、幸い最近はもう慣れて、あまりお茶を飲まなくなった。私と兼士、それに朱山根は、早くから辞令を受け取っていたが、他にも何人か、すでにここに到着しているのに、突然辞令が届けられなくなった人がいる。玉堂が大変な苦労をして、ようやく一昨日届けてもらえた。玉堂はここではどうもうまくいっていないようで、上遂の件も切り出せないでいる。
 
  
 
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私は言ってしまった。取り返しのつかないことを。
私の給料は少なくはないと言える。教科は五、六時間で、かなり少ないとも言える。しかし他のいわゆる「相当の職務」は煩雑すぎる。本校季刊の原稿、本院季刊の原稿、研究員の指導(将来は審査もある)、合わせればかなりのものだ。学校当局はまた功を急ぎ、履歴を問い、著作を問い、計画を問い、年末にどんな成果を発表するかと問い、見ているだけでうんざりする。実は『古小説鉤沈』を整理して出すだけで、研究教授三、四年分の成績になるのだが、その他はすべて無視してもよいのだ。しかし玉堂の好意で招かれたのだから、文学史を教える以外に、書目編集の指導もしようと思っている。範囲がかなり広く、二、三年では完成できないかもしれないが、できるところまでやるしかない。
 
  
 
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だが——これは真実であったのか。あの瞬間、本当にそう思っていたのか。それとも、貧窮に追い詰められた自分が、彼女という重荷を下ろすための言い訳を探していただけではなかったか。
国学院にいる朱山根は胡適之の信奉者で、他にも二、三人いるが、みな朱の推薦らしく、彼と大同小異で、さらに浅薄だ。ここに来ると、孫伏園でさえまだ話し相手になる方だ。世にこれほど浅薄な者が多いとは思いもよらなかった。彼らの容貌はなかなか整っているが、話に味わいがなく、夜には蓄音機で梅蘭芳の類を流す。私の今の唯一の方法は口数を減らすことだ。彼らの家族が来た後は、おそらく別の場所に引っ越すだろう。以前女子師範大学で事務員をしていた白果は、ここでは職員兼玉堂の秘書だが、同じく浮ついて実がなく、将来は波風を立てるかもしれない。今の私も極力彼との付き合いを減らしている。他に教員の中に一人知人がいて、以前陝西に行った時に知り合った人で、まだましのようだ。集美中学には師範大学の旧い学生が五人おり、みな国文科の卒業生で、昨日彼らが我々を食事に招いて歓迎してくれた。彼らは白話を主張しており、ここではいささか孤立しているようだ。
 
  
 
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今となっては、もう分からない。
この一週間で、私はここにさらに慣れた。食事の量は変わらず、この数日はむしろよく眠れるようになり、毎晩九時間から十時間は眠れる。しかしまだ少し怠けており、散髪もまだで、一昨晩に安全剃刀で髭を剃っただけだ。これからもう少し規則正しい生活に整えていきたい。おそらく付き合いを減らし、門を閉ざしていれば、できるだろう。ここの菓子はなかなか良い。新鮮な龍眼はもう食べたが、大して美味くはない。やはりバナナの方がよい。しかし自分で買い物には行けない。市場まで十里あり、学校の傍には小さな店が一軒あるだけで、品物は非常に少ない。店の人は「普通話」が少し話せるが、私には半分も聞き取れない。ここの人々はよそ者をいくぶん見下しているようで、閩南だからか、我々を「北方人」と呼ぶ。私が「北方人」と呼ばれたのは、今回が初めてだ。
 
  
 
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子君は去った。父親のもとへ帰ったのだ。勘当した父の家へ、恥辱を負って。
今の天気は北京の夏の終わりのようで、虫がとても多い。最もひどいのは蟻で、大小さまざま、至る所にいて、菓子は一晩も置けない。蚊はそれほど多くないが、おそらく私が三階にいるせいだろう。マラリアにかかる者が多いので、校医がよくキニーネを飲ませてくれる。コレラはすでに減ったが、通りは実にひどい。実際は人家の塀の下、軒の下を巡っているだけで、いわゆる道路など存在しないのだ。
 
  
 
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彼女が去った後、部屋はがらんとした。空虚が壁に充満した。かえって書くことも読むこともできなくなった。
兼士はまだ北京に帰ろうとしているようで、彼の職務を代行してくれと頼むが、私は承知しない。最初の配置には私は関与しておらず、途中で引き継いでも、全く縁もゆかりもない人々で、指揮も利かず、どう手を付ければよいのか。それよりは門を閉じて「自分の門前の雪を掃く」方がましだ。まして私の仕事も十分に多いのだから。
 
  
 
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数日して、思いがけない訪問者があった。子君の親戚だという男であった。
章錫探が建人に手紙を託し、『新女性』に少し原稿を書いてくれないかと君に頼みたいそうで、私に伝言を頼んだ。そういう気があるかな。もしあれば、まず私に送ってくれ。私が見てから転送する。『新女性』の編集は、最近どうやら建人がやっているようだが、理由は分からない。あの第九号(?)はすでに送ったので、もう届いているだろう。
 
  
 
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「子君は亡くなりました。」
私は昨日からトウガラシを食べるのをやめ、コショウに替えた。謹んでお知らせする。では、またの機会に。
 
  
 
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私は立っていられなかった。
  
 
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「原因は——」
 迅。九月二十日午後。
 
  
 
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「それは——まあ、いろいろです。」男は曖昧に言い、去っていった。
  
 
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私は一人で座っていた。蝋燭の灯が揺れていた。部屋の隅に、子君が残していった古い手袋が片方落ちていた。
二十二
 
  
 
+
子君は死んだ。
  
 
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私が殺したのだ。
広平兄:
 
  
 
+
あの言葉で——「もうあなたを愛していない」というあの言葉で。
十七日の手紙は、今日届いた。五日に手紙を出した後、十三日に葉書を一枚、十四日に手紙を一通出しただけで、間隔が確かに空きすぎ、君に風邪を引いたのではと勘ぐらせてしまった。何と言えばよいか分からない。あの頃を振り返ると、いくらか愚かだった。私がここに着いてから、ちょうど広州で人が騒動を起こしたと聞き、君の乗った船もそやつらに阻止されるのではと疑い、ただ手紙が来るのを待つばかりで、手紙を出すことさえ怠ってしまった。その結果、君は長いこと私の手紙を受け取れなかったのだ。
 
  
 
+
彼女をノラのように家を出ていく勇敢な女にしたいと思った。だが実際にはノラの行く道は二つしかない——堕落するか、帰るか。子君は帰った。そして死んだ。
十四日の手紙は、もうとっくに届いたろう。その後、同日に『新女性』一冊を、十八日に『彷徨』と『十二個』を各一冊、二十日に手紙一通(封筒には二十一日と書いてしまったが)を送った。いずれもこの手紙より前に届いているはずだ。
 
  
 
+
今、悔恨の中にいる。だが悔恨が何の役に立とう。死者は還らない。
私はここにいて、不便こそあれ、体は元気だ。ここには人力車がなく、船か徒歩しかないが、今ではもう階段百余段を登っても全く平気になった。睡眠も食事も良好で、毎晩キニーネを一粒飲んでおり、他の薬は一切飲んでいない。昨日市街に行き、麦精肝油を一瓶買った。近日中に飲み始めるつもりだ。ここではお湯を手に入れるのがかなり難しいので、サナトゲンは飲めない。しかし十日前後で、古い教員寮に移る予定で、そうなれば事情も変わり、あるいはお湯が手に入るかもしれない。(教員寮は二棟あり、独身者用を「博学楼」、夫人のいる者用を「兼愛楼」と称する。誰が名付けたか知らないが、なかなか可笑しい。)
 
  
 
+
できるのは、ただ書くことだ。真実を書き留めること。子君のために、そして——もはや生きる資格のない自分のために。
教科もそう忙しくはない。私はたった六時間で、開学の結果、専門書研究の二時間は選択者がおらず、文学史と小説史が各二時間残っただけだ。そのうち文学史だけ講義録の編纂が必要で、毎週四、五千字もあれば足りるだろう。既存の講義録には構わず、自分でしっかり編纂してみたいと思う。功罪は問わない。
 
  
 
+
忘却こそ救いだと人は言う。だが私は忘れない。忘れてはならない。この苦しみを抱えたまま歩いていくしかない——新しい道を。たとえそれが血と涙にまみれた道であっても。
この学校は金を使うことにかけては少なくないが、基金もなく計画もなく、事務は極めてだらしない。私の見たところ、うまくいくまい。
 
  
 
+
=== 第23節 ===
昨日は中秋で、月が出ていた。玉堂が月餅を一籠送ってきて、みなで分けて食べた。私は食べてすぐ寝た。最近は早く寝るようになった。
 
  
 
+
彼は普段から迷信を打破することを専らとしていた。だがこの時ばかりは、靖甫の様子と言葉にどこか不吉なものを感じ、まるで病人自身が何かの予感を抱いているかのようであった。この思いがいっそう彼を不安にさせ、すぐに部屋を出て張医師を呼びに行った。
  
 
+
張医師は来たが、診察の後で首を傾げた。
迅。九月二十二日午後。
 
  
 
+
「発疹チフスのようですな。しかし、まだ断定はできません。」
  
 
+
沛君はぎくりとした。発疹チフスは命に関わる。
二十三
 
  
 
+
「どうすれば——」
  
 
+
「まずは安静に。そして隔離を。伝染しますから。」
広平兄:
 
  
 
+
医師が帰った後、沛君は弟の枕元に座った。靖甫は高熱で目がうつろであった。
十八日の夜の手紙は、昨日届いた。十三日に出した葉書が届いたのなら、十四日に出した手紙も引き続き届くことを願うばかりだ。君が今頃はもう私の何通かの手紙を受け取っているに違いないと、自ら慰め解するほかない。君の方から寄こした七日、九日、十二日、十七日の手紙は、みな受け取った。大抵は私か孫伏園が郵便取次所に取りに行ったもので、彼らは非常にいい加減で、届けたり届けなかったり、山のように積み上げておくだけで、人が行って何通か欲しいと言えば、渡してくれる。ただし他人の分を取り間違えるようなことは、まだないようだ。私か伏園が毎日一度見に行っている。
 
  
 
+
「兄さん、」と靖甫が弱々しい声で言った。「もし私が死んだら——」
厦大の国学院は、見れば見るほどだめだ。朱山根は胡適と陳源の二人だけを尊敬すると自称する人物で、田千頃、辛家、白果の三人も、みな彼が推薦したらしい。白果は特に波風を立てるのがうまい。彼は以前女子師範大学で職員をしていたことがあるから、君も知っているだろう。今は玉堂の副理で、他の仕事も兼ね、下位の職員に対しては威勢がすさまじく、口から出るのは油滑な言葉ばかりだ。私は彼が玉堂にこっそり「誰それはこう良くない」などと耳打ちしているのを直接聞いたので、もう軽蔑するようになった。一昨日、早速彼に釘を一本刺してやったところ、昨日は難癖をつけて仕返しに来たので、今度はもっと大きな釘を刺してやり、自分は国学院の兼職を辞した。この手合いと共に事を為すつもりはない。さもなくば、何のために厦門まで来たのか。
 
  
 
+
「馬鹿を言え。」沛君は怒ったように言ったが、声が震えた。
もともと私が住んでいた部屋は陳列品を置くことになり、引っ越さなければならなくなった。しかし学校のやり方は奇妙で、一方では我々を急かしておきながら、どこに移ればよいかは指示しない。教員寮はすでに満員で、付近に旅館もなく、まったく途方に暮れる。ようやく一部屋を指定してもらったが、家具は一つもない。請求すると、白果がまたわざと意地悪をし(何の意図か、この人物はおそらく他人にちょっとした苦痛を味わわせるのが好きな性分なのだ)、帳簿に記入し署名して受領書を書けと言う。そこで釘を刺してやると大いに怒り出した。大いに怒った後は、家具が揃い、おまけに寝椅子まで一脚余分についた。総務長が自ら搬入を監督した。玉堂がわざわざ招いてくれたのだから、少しは仕事をしようと思っていたが、今の様子では、おそらくだめだろう。一年もつかどうかも分からない。だから私はすでに仕事の範囲を縮小し、短期間にいくらかの小さな成果を上げ、他人の金を騙しに来たのではないことを示したいと決めた。
 
  
 
+
その夜、沛君は眠れなかった。弟の枕元で、様々なことを考えた。
この学校は金遣いが少なくなく、倹約もしないくせに、多くのけちくさい振る舞いがあり、実に耐え難い。例えば今日引っ越しの際にも一件あった。部屋に電灯が二つあり、もちろん私は一つしか使わないのだが、電気工が来て、どうしてもガラス球を一つ取り外すと言って聞かない。一人の教員に対して、給料にこれだけの金を費やしておきながら、電灯を一つ余分に点けるか点けないかで、なぜそこまでこだわるのか。
 
  
 
+
弟が死んだら——弟の子供たちはどうなる。遺児を育てなければ。自分の子供に加えて弟の子供。費用は——月給だけでは足りない。
さて、今日引っ越した部屋は、以前よりずっと静かだ。部屋はかなり広く、二階にある。前回の葉書に写真があったろう。真ん中に全部で五棟あり、その一つが図書館で、私はその二階に住んでいる。隣は孫伏園と張頤教授(今日着いたばかりで、もとは北大の教員)、反対側は製本作業場で、今はまだ人がいない。私の部屋には窓が二つあり、山が見える。今晩は、心がずいぶん落ち着いた。第一に、あのつまらない連中から離れ、一緒に食事をして退屈な話を聞かなくて済むようになったことが、とても快い。今日の夕食は小さな店でパンと缶詰の牛肉を買って食べた。明日はおそらくまた料理人に賄いを頼むことになるだろう。また自分で使用人を一人雇った。食事代込みで月十二元、普通話を二、三言話せる。しかし少し怠け者かもしれない。もしこれ以上面倒なことがなければ、『中国文学史略』の編纂に取りかかりたい。私の講義を聴く学生は全部で二十三人(うち女子学生二人)で、これは国文科の全員であるばかりか、英文科や教育科の学生も含まれている。ここの動物学科は全クラスたった一人で、毎日教員と向かい合って講義を聴いている。
 
  
 
+
いや、そんなことを考えてはならない。弟は必ず治る。
しかし私はまた引っ越すかもしれない。今は図書館主任が休暇中で、玉堂が代理しているから、彼に権限がある。本人が戻れば、また変化があるかもしれない。荒れ地に学校を開いておきながら、家具も部屋も教員に提供しないとは、実に笑止だ。どこに移ることになるか、今は見当もつかない。
 
  
 
+
だが——もし治らなかったら。
今の住居にはもう一つ利点がある。平地に下りるのに階段が二十四段で済み、以前より七十二段少なくなったのだ。しかし「利あれば必ず弊あり」で、その「弊」は海が見えないことだ。汽船の煙突しか見えない。
 
  
 
+
思考は暗い淵の周りをぐるぐると回り続けた。
今夜の月はまだ美しい。階下をしばらく彷徨ったが、風があったので戻った。もう十一時半だ。十四日の手紙は、二十日か二十一日か二十二日には届いているだろう。明後日(二十七日)にはおそらく手紙が来るだろうから、先にこの二枚を書いておき、二十八日に出す。
 
  
 
+
翌日、もう一人の医者、老練な普医師が呼ばれた。診察の後、静かに言った。
二十二日に手紙を一通送ったが、もう届いただろう。
 
  
 
+
「ご安心なさい。発疹チフスではありません。ただの疹です。七日もすれば熱は下がるでしょう。」
  
 
+
沛君はほっとした。体中の力が抜けるようであった。
迅。二十五日の夜。
 
  
 
+
「本当ですか?」
  
 
+
「ええ、心配はいりません。」
今日は日曜日で、大風だが、あの時ほどではない。明日は広州からの船が来るとは限らないので、昨日書いておいた二枚の手紙を、明朝一番に出すことにした。
 
  
 
+
弟の部屋に戻り、朗報を伝えた。靖甫は弱々しく微笑んだ。
昨日一人雇ったが、流水という名で、しかし代理だった。今日本人が来て、春来という名で、やはり普通話を少し話せる。おそらく使えるだろう。今日はまた多くの用具を買った。大部分はアルミ製で、小さな水甕も一つ買った。だから今やお茶の水に不自由しないばかりか、サナトゲンを飲むのも難しくなくなった。(この旅で初めてサナトゲンが補剤の中で最も面倒なものだと気付いた。冷水と温水の両方を要するからで、他の補剤はそうではない。)
 
  
 
+
その夜、沛君は実によく眠った。弟が全快して二人で昔のように酒を酌み交わす夢を見た。
今日突然左官が来て壁を塗り始め、だらだらと一日じゅう散らかしていた。夜も落ち着いて講義録の編纂はできまい。一日じゅう遊んで、また考えよう。
 
  
 
+
だが目が覚めた時、前の晩に考えたこと——遺児の養育費、月給の計算——が鮮明に蘇り、自分自身に嫌悪を感じた。
  
 
+
弟が瀕死の床にある時に金の計算をしていた自分。これが兄弟の情というものか。
迅。九月二十六日夜七時。
 
  
 
+
顔を洗い、何事もなかったかのように朝食の席に着いた。
  
 
+
=== 第24節 ===
二十四
 
  
 
+
「城には行かん」と木公公はいくらか気落ちした様子であったが、紫黒い顔にはもともと皺が多かったので、さほど大きな変化は見て取れなかった。「ただ龐荘まで一走りするだけだ。」
  
 
+
愛姑は父親の顔を見て、ますます不安になった。
広平兄:
 
  
 
+
「父さん、私は行きたくない。」
二十七日に手紙を一通送ったが、届いたかな。今日は私が君の手紙を待つ番だ。私の推測では、君は二十一日か二十二日あたりに一通出しているはずで、昨日か今日届くはずなのだが、まだ届いていない。だから待っている。
 
  
 
+
「行かねばならん。慰老爺が調停してくださるのだ。あの方は読書人で、七大人の親戚だ。七大人と言えば——洋灯を玩ぶ方だぞ。」
私が辞した兼職(研究教授)は、結局辞められず、昨晩また辞令が届けられた。聞くところでは、林玉堂がそのために一晩眠れなかったという。玉堂を眠れなくさせるのは、申し訳ないと思うので、仕方なく受け取り、辞意を撤回した。玉堂は国学院に対して熱心でないとは言えないが、私の見るところ、望みは薄い。第一に人材がなく、第二に校長がいくらか掣肘しているようだ。しかし私は依然として自分のなすべきことをする。昨日から中国文学史の講義録の編纂に取りかかり、今日第一章を書き上げた。睡眠も食事も良好で、ご飯は浅い碗に二杯、睡眠は八時間か九時間とれる。
 
  
 
+
「洋灯を玩ぼうが何だろうが——」と愛姑は唇を噛んだ。「悪いのはあの男だ。私を捨てて、あの小娘と——」
一昨日からサナトゲンを飲み始めたが、ただ白砂糖の始末がつかない。ここの蟻は実に恐ろしく、小さくて赤いのが一種類いて、どこにでも現れる。今は砂糖を碗に入れ、碗を水を張った皿の中に置いているが、もしうっかり忘れると、たちまち碗中は小蟻だらけになる。菓子も同様だ。ここの菓子はとても美味いのだが、最近は買うのが怖くなった。買ってきて何個か食べると、残りの置き場がないのだ。四階に住んでいた頃は、菓子の包みを蟻ごと草地に放り投げていたものだ。
 
  
 
+
「だからこそ調停に行くのだ。理は我々にある。慰老爺の前で言い分を述べればよい。」
風もひどく、ほとんど毎日吹いている。強い時には窓ガラスが吹き破れるのではないかと疑わしくなり、外にいれば、うっかりすると吹き倒されかねない。今もごうごうと吹いている。着いた当初は毎晩波の音が聞こえたが、今は聞こえなくなった。慣れたからだ。もう少しすれば、風の音にも慣れるだろう。
 
  
 
+
二人は朝早く出発した。冬の朝の空気は刺すように冷たかった。
今の天候は着いた頃とほとんど変わらず、夏服を着て、ゴザを使い、日向を歩けば全身汗だくになる。聞くところでは、こうした天候は十月(陽暦?)末まで続くそうだ。
 
  
 
+
龐荘に着くと、慰老爺の邸はすぐに分かった。この辺りで一番大きな屋敷であった。
  
 
+
応接間に通されると、すでに相手方の施家の者たちが来ていた。愛姑の夫であった若い男と、その父親と、もう一人見知らぬ男。
L.S. 九月二十八日夜。
 
  
 +
愛姑は夫の顔を見た瞬間、怒りが込み上げた。だが父親の手が腕を掴み、座るよう合図した。
  
=== 第77節 ===
+
慰老爺が現れた。五十がらみの恰幅のよい男で、長い衫を着てゆったりと椅子に腰を下ろした。
  
今日午後、二十四日発の手紙を受け取った。私の予想は間違っていなかったが、広東の学生の状況がこれほどとは、まさに「意表の外」だ。北京でもここまでではあるまい。君は自然、手紙に書いた通りにするしかないが、あの職務を見ると、少しの暇もないほど忙しいのではないか。仕事をするのは当然だが、命を削るほどやらないでほしい。こちらでも外の状況はあまりよく分からない。今日の新聞に上海電報が載っていたが(ただしこの電報の出所は不明)、まとめると、武昌はまだ降っておらず、おそらく攻撃することになる。南昌は猛攻を数回受けたが、まだ占領されていない。孫伝芳はすでに出兵した。呉佩孚は鄭州にいるらしく、現在奉天方面と保定・
+
「さて、双方の言い分を聞こう。」
  
 
+
施家の父親が先に口を開いた。「息子と嫁の折り合いが悪く、もはや一緒には暮らせません。離縁を願い出ます。」
大名を秘かに争っている。
 
  
 
+
「離縁?」愛姑は声を上げた。「悪いのはあっちだ!あの小娘を囲って——」
私が「契約が早く満了するように」と願うのは、月日が早く過ぎてほしいからで、早く民国十七年になってほしいのだが、残念ながらここに来てまだ一月にも満たないのに、一年も過ぎたかのようだ。実はここの気候は私の体には合っているようで、よく食べよく眠れるのがその証拠だ。少し太ったかもしれない。ただどうしても退屈で、どこか落ち着かず、安居楽業できないような気がする。しかし私も、あっという間に半年、一年だと自ら慰め、あるいは講義録の編纂を始めて気を紛らわしている。だから睡眠も食事も良好なのだ。私のここでの状況は、よくてもこの程度で、まだ助けを必要とはしない。君はむしろ学校の仕事に専念した方がよい。
 
  
 
+
「愛姑。」と木公公が窘めた。
中秋の様子は前の手紙に書いた。謝君の件は、以前すでに玉堂に話してあるが、音沙汰がない。聞くところでは、ここでは外省の人を好んで雇うそうで、その理由は、合わなければ外省の人は荷物をまとめて去ってしまい、それで終わりだが、地元の人はずっと近くにいるから、恨みを買いやすいということだ。これもまた一種の独特な哲学だ。謝君のお兄さんには、さしあたり訪問しない方がよいと思う。さもないと彼が私を訪ねなければならなくなり、私もまたお返しに行かねばならず、かえって余計な付き合いが増えるだけだ。
 
  
 
+
慰老爺は手を挙げて双方を制した。「順番に話しなさい。」
伏園は今日、孟余から電報を一通受け取った。広東に来て新聞の仕事をしないかという誘いだ。行くかどうかはまだ決まっていないようだ。この電報は二十三日の発信で、七日もかかって、手紙と同じ遅さだ。実に不思議だ。彼が吹聴していることはといえば、大まかに言って、自分の家には男子学生だけでなく女子学生もよく来るが、自分が愛しているのは背の高い方の子だ、というものだ。なぜなら彼女が最も才気があるから云々と。実に凡庸で、まさに伏園その人のごとく、論ずるに足りない。
 
  
 
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=== 第25節 ===
この地で招聘された教授は、私と兼士のほかに朱山根がいる。この人物は陳源の同類で、私は早くから知っていたが、今調べてみると、彼が配置した羽翼は実に七人もおり、以前いわゆる外のことには関わらず専ら読書に没頭しているという評判は、みな彼に騙されていたのだ。彼はすでに私の排斥を始めており、私を「名士派」だと言っている。笑止千万だ。幸い私はここで帝王の万世の業を築くつもりはないから、放っておくことにする。
 
  
 
+
「よし!事は丸く収まった。」慰老爺は双方に別れの気配を見て取り、ふうと一息ついて言った。「では、もう他に何もないな。恭賀大吉、総じて解決だ。」
私が郵便取次所に行く道はおよそ八十歩で、さらに八十歩行くとトイレがある。だから私は一日に三、四回は通る。小便に行かねばならず、それが途中にあるのだから、首を伸ばしてちょっと覗くだけで、全く手間がかからない。日が暮れると、もうそこには行かない。階下の草地で済ませるのだ。この地の生活法は、それほどだらしなく、まさに聞いたこともないほどだ。私は何日か余分に住んで次第に慣れ、しかも怒鳴って用具をいくらか手に入れ、また自分でいくらか買い、さらに自分で使用人を一人雇ったので、だいぶましになった。最近着いたばかりの教員が何人かいて、冷たい部屋に案内され、喉が渇いても水がなく、小便に行くには旅に出なければならず、まだ「茫々として喪家の犬の如し」の有様だ。
 
  
 
+
愛姑は呆然としていた。何が解決したのか分からなかった。
聴講の学生はむしろ増えてきた。おそらく他の学科の者が多いのだろう。女子学生は全部で五人。私は目を逸らさぬことに決め、しかも将来もずっとそうするつもりだ。厦門を離れるまで。口もあまりむやみに食べない。バナナを何度か食べただけで、もちろん北京のよりは美味い。しかし値段も安くはない。ここに小さな店があり、私が買いに行くと、五本なら、あそこの太ったおかみさんが「ジッゲフン」(一角)と言い、十本なら「ノン(二)ゲフン」と言う。本当にそんなにするのか、それとも私がよそ者だからなのか、今もって分からない。幸い私の金はもともと厦門から騙し取ったものだから、「ジッゲフン」「ノンゲフン」を厦門の人に差し出しても、大したことではない。
 
  
 
+
慰老爺の話をまとめると——施家は離縁料として九十元を支払う。愛姑は離縁状に押印する。それで終わり。
私の授業は今五時間になり、講義録の編纂が必要なのは二時間だけだが、なかなか骨が折れる。文学史の範囲が広すぎるのだ。ここに来てから、上海でまた約百元分の本を買った。克士からはすでに手紙が来て、引っ越したが、孫という同僚と同居しているという。これはよくないと思うが、彼も愚かではないから、騙されることはあるまい。
 
  
 
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「九十元?」愛姑は叫んだ。「たった九十元で、何年もの——」
もう寝なければ。十二時だ。では、また。
 
  
 
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だがその時、奥の間から一人の男が現れた。長身で身なりが立派で、鼻に眼鏡をかけていた。慰老爺が立ち上がって迎えた。
  
 
+
「七大人!」
迅。九月三十日の夜。
 
  
 
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七大人は軽く頷いて部屋を見回した。その視線が愛姑の上を通り過ぎた時、彼女は何か冷たいものを感じた。
  
 
+
七大人は卓上の鼻煙壺を手に取り、蓋を開けて嗅いだ。静かに言った。
二十五
 
  
 
+
「もう済んだのかね。」
  
 
+
「ええ、今しがた。」と慰老爺が答えた。
広平兄:
 
  
 
+
七大人はまた頷き、何も言わず奥に戻っていった。
一日に手紙一通と『莽原』二冊を送ったが、もう届いただろう。今日九月二十九日の手紙を受け取った。突然十分の切手のことで大いに感慨をもらすとは、実に子供っぽい。十分使って、紛失するよりずっとましではないか。以前広東の学生の状況を聞いて、かなり「意表の外」だったが、今度教員の状況を聞いて、また「意表の外」だ。以前は広東の学界の状況は他よりずっと良いはずだと思っていたが、今見ると、やはり一種の幻想にすぎなかったようだ。初めて仕事をするのだから、努力するのは当然で、私は何も言えないが、自分のことも顧みて、「鞠躬尽瘁」にならないようにしてほしい。作文については、私がどうやって鼓舞し、導くのだ。私は言った、「大胆にやれ、まず私に送ってくれ」と。これだけでは足りないか。出来がよいかどうかは私が先に見る。たとえよくなくても、今は遠すぎて手の平を打つことができないから、帳簿に付けるしかない。これでもう安心して筆を執れるはずで、尻込みする必要はない。これ以上どうすればよいと言うのか。
 
  
 
+
愛姑は七大人の姿を見送った。洋灯を玩ぶという七大人。確かに只者ではない風格であった。だがそれがどうした。自分の苦しみに、あの男は何の関係もない。
手紙から君の部屋を推測すると、私のよりは広いようだ。私の家具は数少なく、六点だけで、すべて奮闘の末に手に入れたものだ。しかしアルコールランプを買ってからは少し忙しくなった。飲み水はすべて一度沸騰させてから使うからだ。忙しいおかげで、退屈もいくらか減ったようだ。醤油はもう買ったし、缶詰の牛肉もよく食べている。節約などしているものか。ハムは食べたくない。北京にいた頃に食べ飽きたからだ。上海にいた時、建人と私はあまり食べないので、チャーハンを一皿だけ頼んだのだが、それがまた思わぬ波紋を呼び、先施百貨店で買い物を増やさなかったことまで責められた。子供の神経過敏には、本当にどうしようもない。距離も遠く、鞭長くして馬腹に及ばず、これもまあ帳簿に付けておくしかあるまい。
 
  
 
+
だが——なぜか急に力が抜けてしまった。怒りが萎んだのではない。ただ戦う気力がなくなったのだ。
私はここでよくバナナや柚子を食べているが、どちらもとても美味い。楊桃(スターフルーツ)にいたっては、まだ見たことがなく、こちらでの名前も分からないので、買いようがない。鼓浪嶼にはあるかもしれないが、まだ行ったことがない。あの場所もおそらく他所の租界のようなもので、私もあまり興味がなく、結局おっくうになってしまった。ここは雨はそう多くなく、風ばかりだ。まだ暑いが、蓮の葉はもう枯れた。花はほとんど見分けがつかない。羊は黒い。蟻対策は、私も四方を水で囲む方法を使い、白砂糖はとりあえず安全になった。だが机の上には昼夜を問わず常に十数匹が這い回り、払い除けてもまた来て、どうにもならない。
 
  
 
+
「押印しなさい。」と木公公が言った。
私は今、閉関主義を専らとし、教職員との付き合いを減らし、口数も少なくしている。ここの学生はまだましのようで、早朝から運動し、夕方もよくやっている。新聞閲覧室にもよく人がいる。私に対する感情もよいようで、多くが文科は今年活気が出たと言ってくれるが、自分の怠惰を省みると、大いに内心恥ずかしい。小説史には既刊の書物がある。だから文学史の講義録の編纂には手を抜きたくない。すでに二章を印刷に回したが、残念ながら本校の蔵書が少なく、編纂するのに大変不便だ。
 
  
 
+
愛姑は印を押した。
北京からの手紙はすでに届き、家は平穏だ。石炭はもう買い、一トン二十元まで上がった。学校はまだ開講しておらず、北大の学生が学費を納めに行ったが、当局が受け取らなかったという。客気ではあるが、開学の見通しが全く立っていないことが分かる。女子師範大学のことは何も聞いていない。ただ教員がみな男子師範大学の者に入れ替わったことだけは知っている。おそらく当面は研究系の勢力だろう。要するに環境がこうである以上、女子師範大学だけがうまくいくはずがない。
 
  
 
+
帰り道、船の中で、木公公は黙っていた。愛姑も黙っていた。冬の川面を冷たい風が吹き渡った。
上遂は家族を南に連れ帰ろうとしており、自分の行方は未定だ。私は彼のために天津の学校に手紙を書いて手を回したが、おそらく効果はあるまい。彼も広東に行きたがっているが、紹介がない。ここではどうにもならず、玉堂も思い通りに指揮できない。多くの人の辞令を、校長が何日も握りつぶしてからようやく発行した。校長は孔子を尊崇する人物で、私と兼士に対してはまだ何もないが、これだけの金を費やしたからには、急いで成果を求めている。よい草を牛に食わせて、その牛から乳を搾ろうとするかのようだ。玉堂もおそらくこの内情を察しており、だから近日中に展覧会を開こうとしている。学校が買い入れた泥人形(古い墳墓の土偶)のほか、私の石刻拓本も展示しようというのだ。実はこんな骨董品をここの人々が見たがるはずもなく、ただでたらめに忙しくするだけだ。
 
  
 
+
「父さん、」とようやく愛姑が言った。「あの九十元で——何を買おう。」
ここにいると刺激が少ないようで、よく眠れるが、文章も書けない。北京から催促が来ても、無視するしかない。□□書店が本を出してほしいというが、まだ何もない。北新に対しては、まだ『華蓋集続篇』を整理して渡していない。暇がないからだ。長虹はこの二つの書店と揉め始めた。金の問題だ。沈鐘社と創造社も揉め始め、今は文章で口論している。創造社の内部でも揉めており、すでに柯仲平を追放した。原因は分からない。
 
  
 
+
木公公は答えなかった。ただ遠くを見ていた。
  
 
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船は静かに流れていった。
 迅。十月四日夜。
 
  
 
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=== 第26節 ===
  
 
+
あなたが仰る「話したり書いたりすることは、どうやら敗北者の徴のようだ。まさに運命と死闘を繰り広げている者は、こんなことに構っていられない」という言葉は、実に最も痛ましい言葉である。だが私は別の観点からこう考える。
二十六
 
  
 
+
かつて私も沈黙の中にいた。沈黙は金だと思っていた。だが沈黙の中で何を見たか——沈黙の中で殺される者たちを見た。声なき叫びが闇に呑まれるのを見た。
  
 
+
だから私は書く。書くことが敗北者の徴だと言うなら、それでよい。喜んで敗北者となろう。なぜなら、勝利者たちの沈黙は、しばしば加害者の沈黙に等しいからだ。
広平兄:
 
  
 
+
あなたは問う——書いて何になる、と。確かに、筆で書いた文字が銃弾を止めたことはない。だが文字には銃弾にできないことがある。記憶を残すこと。百年後の人間に、今ここで何が行われたかを伝えること。
十月四日に九月二十九日の手紙を受け取った後、五日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。人間の紛糾は実に多い。兼士は今に至るまで応聘書に署名しておらず、数日前には国学研究院の成立会が終わったら北京に行こうとしていた。あちらにも処理すべき多くの事があるからだ。玉堂は大いに不賛成だが、兼士はどうしても行かねばならない。そこで私が仲裁に入った。まず兼士に応聘書に署名させ、それから休暇を取って北京に一度行き、年内にもう一度厦門に来て、半年在任したことにする。兼士はいくらか承知したが、玉堂はまた頑として譲らず、半年まるまるここにいなければだめだと言う。私は引き下がるしかなかった。二日後、玉堂も承知した。おそらくこれ以外に道がないと悟ったのだろう。今はこの件、校長の許可さえ下りれば一段落つく。兼士はおそらく十五日前後に出発し、まず広州に立ち寄ってから上海に向かうと聞く。伏園もおそらく同行するだろうが、そのまま広州に留まるのか、交渉の後にまた厦門に戻るのかは分からない。孟余は彼に副刊の編集を頼み、彼はすでに承諾したが、いつ始めるかはまだ決まっていないようだ。
 
  
 
+
私は青年たちが文学に携わることを止めはしない。だが同時に、文学に過大な期待を抱くことへの警告も忘れない。文学は社会を変えはしない——少なくとも直接的には。しかし文学がなければ、社会の変革そのものが方向を見失う。
私の推測では、兼士は当初ここに長くいるつもりがなかったわけではないが、厦門に来てみて、交通の不便さと生活の退屈さに、「帰心矢の如し」にならざるを得なかったのだ。これは本当にどうしようもないことで、私にどうやって引き留められよう。
 
  
 
+
河南の地は古くから文化の中心であった。ここから新しい声が上がることを切に望む。だがその声は、ただ勇ましいだけでなく、悲しいだけでもなく、深く考え抜かれたものでなければならない。
ここの学校当局は、高額の報酬で教員を招聘しておきながら、教員を手品師のように見ているところがある。素手で腕前を見せろというのだ。例えば今回の展覧会で、私はかなり苦労した。開会前に兼士が私の碑碣拓本を展示に貸してほしいと言い、承知した。しかし私には小さな書き物机と小さな角テーブルしかなく、足りないので、床に広げてうつ伏せになり、一つ一つ選び出すしかなかった。会場に持って行く段になると、孫伏園が自ら名乗り出て一緒に陳列してくれた以外、手伝う者は一人もおらず、校務員も見つからない。そこで二人で陳列したが、高い所は机の上に椅子を置いて、私が登らなければならなかった。作業の途中で、白果がまた無理やり孫伏園を呼び出した。彼は「副理」(玉堂の)だから、孫伏園を呼ぶ権限があるのだ。兼士は見かねて自ら手伝いに来たが、彼はすでに少し酒を飲んでおり、今回飛び上がったり飛び降りたりしたので、夜にはひどく吐いた。副理の地位は、まるで明朝の宦官のように、権勢を笠に着てやりたい放題ができる。しかし被害を受けるのは彼ではなく、学校だ。昨日は白果が書記たちに上諭式の指示書を下したため、午後にストライキが起きた。その後どうなったかは知らない。玉堂がこの人物を信用するとは、まさに愚かだ。前回私が国学院研究教授を辞しながらまた撤回したのは、兼士と玉堂を困らせまいと恐れたからだが、今の様子では、やはり断固として兼職を辞さなければなるまい。何も他人のために自ら身を落とし辱める必要があろうか。
 
  
 
+
世に蛮勇を奮う者は多い。だが真の勇気とは、絶望を直視しながらなお前進することだ。希望は嘘だと知りながら、それでもなお希望を語ること——これが私の考える文学の使命である。
この地の生活も実に退屈で、外省の教員はほとんど誰一人として長く留まるつもりがない。兼士が去るのも、驚くにはあたらない。しかし私は兼士よりいくらか気楽で、また玉堂の兄弟や奥方が、みな我々の生活をとても気にかけてくれているのを見ているし、学生も私をことのほか大事にしてくれて、ここの生活に慣れないのではと心配し、何人かの地元の者は日曜日にさえ帰省せず、私が市街に遊びに行く時に通訳として同行しようと備えてくれている。だから何か大きな耐え難いことがない限り、少なくとも一年はここで講義するつもりだ。さもなくば、とっくに広州か上海に行っていたかもしれない。(ただし、私を大いに歓迎してくれる人の中には、私にまずこの地の社会などを攻撃する口火を切らせ、自分たちがそれに乗じて撃とうと企んでいる者もいる。)
 
  
 
+
あなたの新聞の前途を祝して、筆を擱く。
今日は双十節で、大いに喜ばしかった。本校はまず国旗掲揚式を行い、万歳を三唱し、演説、運動会、爆竹鳴らしと続いた。北京の人々は双十節を嫌っているかのように沈鬱として死んだようだが、ここでこそ双十節らしい。私は北京の正月の爆竹を聞き飽きて嫌悪感を抱いていたが、今回はなるほど聞くに堪えると思った。昼は学生と食堂に行き、あまり美味くない麺(半分以上がモヤシ)を一杯食べ、夜は懇親会で音楽と映画があった。映画は電力不足でよく見えなかったが、ここではそれでも宝物のように扱われている。教員の奥方たちは最も新しい服を着てきた。おそらくここでは一年のうち他に集まりらしい集まりもないのだろう。
 
  
 
+
=== 第27節 ===
聞くところでは、厦門の市街も今日はとても賑やかで、商民が自発的に旗を掲げ彩りを飾って祝っており、北京のように警察の指示を受けてからようやく汚い五色旗を掲げるのとは違う。この地の人々の思想は、実は「国民党的」であり、それほど旧弊ではないと思う。
 
  
 
+
「その通り、君が承知してくれると分かっていた。言わずとも分かっている。だが今はまだ脱いでくれるな。私が持って歩くわけにはいかん——この格好で、手にぼろズボンなど持っていたら、人に見られたらどうする。」
私がここに来てから、各方面から送られてくる各種の刊行物は非常に雑然としており、届いたり届かなかったりする。時には君に転送したいと思うが、毎号あるとは限らないので、郵便局で紛失したとは思わないでほしい。幸いこの種のものは、読み終われば終わりで、保存する必要もなく、揃っているかどうかも大した問題ではない。
 
  
 
+
これはある知人が私に言った言葉だ。頼み事の内容はここでは措く。
ここに来てもう一月余りになるが、講義録二篇と『莽原』への原稿二篇を書いただけだ。しかしよく眠れ、体は少し良くなったようだ。今日ある噂を耳にした。孫伝芳の主力軍はすでに敗れ、使える兵がもうないというのだが、確かかどうかは分からない。一、二日中に手紙が届くだろうと思うが、この手紙は明日出すつもりだ。
 
  
 
+
だがこの言葉には実に多くのことが含まれている。
  
 
+
「人に見られたらどうする」——ここに中国人の生活の根本原理がある。体面ということだ。体面のためなら、真実を犠牲にし、実質を犠牲にし、時には生命さえも犠牲にする。
迅。十月十日。
 
  
 
+
かつて一人の人間が路上で倒れているのを見た。通行人は皆、遠巻きにして見ていたが、誰も助けようとしなかった。なぜか。もし助けようとして助けられなかったら——死なれでもしたら——自分の体面に関わるからだ。
  
 
+
これは冷淡なのではない。恐怖なのだ。体面を失うことへの、骨の髄まで染み込んだ恐怖なのだ。
二十七
 
  
 
+
しかしながら、この恐怖こそが中国を停滞させている根本原因の一つであると考える。新しいことを試みない。失敗を恐れる。人と違うことを恐れる。その結果、誰もが同じ仮面をかぶり、同じ笑みを浮かべ、同じ言葉を繰り返す。
  
 
+
「人に見られたらどうする」——この呪縛から解き放たれた時、初めて中国人は自由になれるだろう。
広平兄:
 
  
 
+
だがいつその日が来るのか。私には分からない。
昨日手紙を一通出したばかりなのに、今日はもう君の五日の手紙を受け取った。この手紙は船の中で丸七日以上も寝ていたことになる。北大の学生で編集員としてここに来た者がおり、五日に広州を出発したのだが、船が暴風を避けて進んだり止まったりし、今日ようやく着いた。君の手紙もおそらく同じ船だったのだろう。手紙一通の往復にしばしば二十日かかるとは、実に嘆かわしい。
 
  
 
+
=== 第28節 ===
君の職務はあまりにも煩雑で、給料もこれほど当てにならず、服装までこうも変えなければならないとは。足りているか。一人の人間として、たしかに何かすべきだが、労して功なしである必要はない。毎日学生の顔色を窺いながら仕事をしても、人にも自分にも益がない。まさに精神を無用の場に費やすというものだ。聞くところでは広州で仕事を見つけるのは難しくないそうだが、なぜ学期末まで待たねばならないのか。忙しいのは構わないが、自分の休息の時間さえないとなれば、それは割に合わない。
 
  
 
+
昨日、『豫報』を二部受け取り、非常に嬉しかった。とりわけあの『副刊』を見て。その蓬勃たる朝の気は、実に私の先の予想を超えるものであった。考えてもみたまえ——非常に古い歴史を持つ地から、一つの新しい声が立ち上がったのだ。
私がよく眠れるのは自然にそうなっているのだ。ここも些末な事には事欠かないが、やはり北京ほど忙しくはない。例えば校正の仕事などは、ここにはない。酒は自分で飲みたくないのだ。北京では、あまりに嬉しい時とあまりに憤慨した時に酒を飲んでいたが、ここでは小さな刺激がないわけではないものの、「あまりに」というほどではないから、飲まずに済む。しかも私にはもともと酒癖はない。煙草を減らしたのは、何故かよく分からないが、おそらく講義録の編纂には調査するだけで思索の必要がないからだろう。しかしこの数日はまた少し増えた。『旧事重提』を続けて四篇書いたからだ。あと二篇で完結するが、来月にするつもりだ。明日からまた講義録の編纂に取りかかる。
 
  
 
+
私はかねてより、中国の文化は北方にその根があると考えてきた。黄河流域の厚い黄土の中に、中国人の精神の原型が眠っている。南方の繊細さは確かに美しい。だが力強さにおいて北方には及ばない。
兼士はまだ出発していない。代わりの人もまだ手配できていないが、北京に帰りたい一心で、聞くところでは広州には行かないらしい。孫伏園はまだ一度行くようだ。今日はまた李逄吉から大連より手紙が来て、広州に行くとのことだが、何をしに行くのかは分からない。
 
  
 
+
河南はまさにその北方の中心である。ここから新しい文学が生まれることを大いに期待する。
広東は雨が多いそうだが、天候が厦門とこれほど違うとは。ここは雨は降らず、毎日風があるだけだ。しかし風の中に埃がほとんどないから、それほど不快ではない。アルコールランプを買ってからは、お湯の問題は解決した。ただし食事はどうしても美味くない。明後日から料理人を替えることになるが、おそらくやはり大して変わるまい。
 
  
 
+
だが同時に忠告もしたい。新しいということだけでは足りない。古いものを壊すだけでは何も生まれない。壊した後に何を建てるか——それが問題だ。
  
 
+
現在の中国の文壇を見渡すと、二つの傾向がある。古きに固執して新しきを排斥する保守派と、新しさそのものに酔って中身を忘れる革新派。いずれも真の文学からは遠い。
迅。十月十二日夜。
 
  
 +
真の文学とは何か。人間を描くことだ。生きた人間を、その矛盾と苦悩をもって描くこと。美しい言葉でも正しい主義でもない。ただ人間の真実を——たとえいかに醜くとも——直視すること。
  
=== 第78節 ===
+
河南の諸君、この困難な道を歩むことを願う。容易な道——既成の主義に寄りかかる道、読者に媚びる道——は避けてくれたまえ。
  
八日の手紙は今日届いた。以前の九月二十四日、二十九日、十月五日の手紙も、すべて受け取っている。君の収入と仕事の比率を見ると、実にかけ離れすぎている。すぐに別の道を考えられないか。このような状況では、どう努力しても徒労だと思う。
+
諸君の健闘を祈る。
  
 
+
=== 第29節 ===
「一度の解散を経て去った者」は、当然福があったと言える。もし我々があそこにいたなら、きっと今よりもっと憤慨していたことだろう。私のここでの状況は、手紙で逐次述べてきた通りだ。実はこれも身売りに等しく、給料のほかに何もない。しかし私は今のところまだしばらくは取り繕えるかもしれない。様子を見よう。当初は広州のことも考えなかったわけではないが、状況を聞いてからは、一時その考えを止めた。陳惺農ですら立っていられないのに、まして私が行ってどうなろう。
 
  
 
+
先生、どうか普通の目で中国を見ないでいただきたい。私の友人がインドから帰ってきて言うには、あの国は本当に奇妙で、ガンジス河のほとりを歩くたびに、捕まえられて殺され天に祀られるのではないかと感じたという。
ここにいてあまり愉快でない原因は、第一に周囲に言葉に味わいのない人物が多く、退屈を感じることだ。彼らが私を部屋に一人で閉じこもって本を読ませてくれるなら、それでもよいのだが、しょっちゅう押しかけてきては小さな刺激を与えてくる。
 
  
 
+
だが中国はインドではない。中国にはまた別の奇妙さがある。
しかしまた、かなり多くの人が私を宝物のように扱ってくれ、北京で毎日びくびくしながら危険に備えていた頃と比べると、ずっと平穏だ。自分の心を少し落ち着ければ、一時的には安住できなくもない。ただ、話し相手がいないので、鬱憤をみな手紙の中で君に向かって発散してしまっている。私がここで大変苦しんでいるとは思わないでくれ。実はそうでもないのだ。体はおそらく北京にいた時よりも少しは良いだろう。
 
  
 
+
中国の奇妙さとは——全てが矛盾していることだ。古いものと新しいもの、愛と憎しみ、革命と保守が一人の人間の中に同居している。しかも本人が気づいていない。あるいは気づいていても気にしない。
君の収入はこんなに少なくて、足りているのか。私に知らせてほしい。
 
  
 
+
例えば「新青年」がいるとしよう。西洋の学問を修め、民主主義を唱え、科学を信奉する。だが家に帰れば母親の言いつけで見合いをし、占い師に結婚の日取りを決めてもらう。矛盾と言えば怒るだろう。だが事実はそうなのだ。
今日の地元紙の報道はとてもよいが、もちろん確かかどうかは分からない。一、武昌はすでに陥落。二、九江はすでに占領。三、陳儀(孫の師団長)らが和平を主張する電報を発信。四、樊鐘秀がすでに開封に入り、呉佩孚は保定に逃走(一説には鄭州)。要するに、たとえ割り引いて考えても、情勢がよいことだけは確かだ。
 
  
 
+
また「革命家」がいるとしよう。旧制度の打倒を叫び、平等を唱える。だが部下には旧時代の官僚以上の威圧で臨み、自分の食事は贅沢を極める。
  
 
+
これが中国だ。
迅。十月十五日夜。
 
  
 
+
外国人にはこれが理解できない。だから中国を「普通の目」で見ると必ず間違える。中国を理解するには、矛盾を矛盾のまま受け入れる覚悟が要る。
  
 
+
しかし私は中国に絶望してはいない。矛盾があるということは変化の可能性があるということだ。完全に一枚岩の社会には変化は起こらない。矛盾が軋みを生み、軋みが亀裂を生み、亀裂から新しいものが芽を出す。
二十八
 
  
 
+
もっとも、その新しい芽もまた矛盾に満ちたものであろうが。
  
 
+
=== 第30節 ===
広平兄:
 
  
 
+
「……五月七日、校内で講演が行われた際、学生たちが校長楊蔭楡女史に退席を勧めた後、楊女史は料理屋で若干の校員を集めて宴会を催し、続いて評議会の名義をもって、学生自治会の職員数名の除名を決定した——」
今日(十六日)手紙を出したばかりなのに、午後には双十節の手紙を受け取った。私に送ってくれた手紙は、すべて届いている。一日に出した手紙がまだ届いていないなら、おそらく『莽原』と一緒に紛失したのだろう。あの手紙に何を書いたかもう覚えていないが、なくなったものは仕方がない。
 
  
 
+
これは当時の記録の一節である。だがこの乾いた文面の背後に、どれほどの怒りと悲しみがあったか。
私の状況は、君の神経過敏を恐れて隠したわけではない。おおよそ刺激を受けると心が乱れ、事が過ぎればいくらか落ち着く。しかし本校の状況は実にあまりよくない。朱山根の一派は国学院で大いに勢力を占め、□□(□□)もまたここに来て法律学科の主任になろうとしている。これで『現代評論』の色彩が厦大に蔓延するだろう。北京では国文科が対抗していたが、ここの国学院には胡適之・陳源の一派が大勢引き込まれ、まるで望みがない。考えてもみてくれ。兼士はこれほどぼんやりしている。彼が朱山根一人を招いたら、山根が三人を推薦し――田難干、辛家本、田千頃――彼はそれを受け入れた。田千頃がまた二人を推薦し――盧梅、黄梅――彼はまたそれを受け入れた。こうして我々個人は、自然と排斥される。だから私は今、遅くとも本学期末には厦大を離れたいと強く思っている。彼らは本当にここに永住するつもりらしく、状況は北大よりも悪い。
 
  
 
+
女子師範大学の事件は単なる学校紛争ではなかった。中国の教育制度そのものの病根を暴露したものであった。
また別の一群の教員が、二つの運動をしている。一つは永久聘書――期限なし――の要求、もう一つは十年二十年後に学校から終身年金を支給させるという要求だ。彼らはここに自分たちの理想郷を築こうとしているようだが、ゴムでできた天国だ。諺に「子を養いて老に備う」というが、厦大でも「老に備える」ことができるとは。
 
  
 
+
楊蔭楡校長は教育者というより支配者であった。学生は教え導くべき存在ではなく、管理し服従させるべき存在であった。だから学生がわずかでも自主的な行動を取ると、反逆と見なし弾圧で応じた。
ここではもう一つ不自由なことがある。学生がみな私を知っており、記者の類も訪ねてくる。あるいは私に白話を提唱し旧社会と一騒ぎしてほしいと望み、あるいは週刊を編集して地元の新文芸を鼓吹してほしいと望む。一方で玉堂の類は『国学季刊』に「之乎者也」の文章を書けと言い、さらに学生週会で演説もせよと言う。三面六臂でもなければできない話だ。今日の地元紙に私を訪問した記事が載っており、私の態度について「少しも偉そうにせず、少しも気取らず、少しもよそよそしくなく、服装も気ままで、寝具も気ままで、話し方も気取らない……」と、非常に意外だと書いてある。ここの教員は外国の博士号持ちが多く、彼らは堂々とした態度を見慣れているのだ。
 
  
 
+
しかし学生たちは屈しなかった。退学処分を受けても、校門を封鎖されても、声を上げ続けた。
今日はまた朱家驊氏の電報を受け取った。兼士、玉堂、そして私宛で、中山大学は「委」員制に改めた(「職」の誤りだろう)と言い、我々に来て一切を指導してくれと言う。おそらく学制の審議だろう。兼士は北京に帰りたがっており、玉堂は行く気がなさそうだ。私は本来これを機に一度行ってもよいのだが、開講してまだ一月にもならないのに二、三週間も休暇を取るのは口にしにくい。だから十中八九は行けまい。これは惜しいことだ。年末なら都合がよかったのだが。
 
  
 
+
私はこの学生たちを支持する。行動に未熟な点があったかもしれない。だが不正に対して沈黙しなかったこと——これは何より尊い。
どんな打撃を受けようと、私が「秘して宣べず」ということはありえないし、打撃を受けても恨むこともない。柚子はもう四、五日食べていない。あまり消化しないように感じたからだ。バナナはまだ食べている。以前は食べるとすぐ腹痛を起こしたものだが、ここでは平気で、むしろ便秘に効くようなので、当分やめないでおこうと思う。しかも一日にせいぜい四、五本だ。
 
  
 
+
世の論客は学生たちの「過激さ」を批判する。だが過激でなければ、誰が耳を傾けたであろう。穏やかな陳情はいつも握り潰される。声を上げた者だけが世界を変えてきた。
泥人形少々と拓本少々で展覧会を開くのを、笑止だと思うか。もっと笑えることがある。田千頃は自分が撮った写真まで展示した。古壁画の写真なら、まだ「考古」に関係すると言えるが、牡丹の花だの、夜の北京だの、北京の砂嵐だの、葦だの……もし私が主任なら、必ず撤去させるところだが、ここでは誰一人笑止だと思わないのだから、ここには田千頃の類こそふさわしいということだ。また国学院は商科から歴代古銭を一式借りてきたが、私が見たところ、大半が偽物で、展示しない方がよいと主張したが、通らなかった。「では『古銭標本』と表記すべきだ」と言ったが、商科が気分を害するのを恐れるとかで、これも実行されなかった。結局どうなったか。この偽古銭を見る者が最も多かったのだ。
 
  
 
+
権力者は常に反論する——「秩序が乱れる」「規則に従え」「上に立つ者に敬意を払え」。だがこの「秩序」こそが不正の隠れ蓑なのだ。
ここの校長は孔子を尊崇している。先週日曜日に週会で私に演説をさせたが、私はやはり「中国の本は少なく読め」主義を述べ、さらに学生は「好事の徒」たるべしと言った。彼は突然大いに賛成し、陳嘉庚もまさに「好事の徒」だから喜んで学校を興すのだと言ったが、自分の孔子尊崇と矛盾していることに気づいていない。ここはかくもでたらめなのだ。
 
  
 
+
私は書かねばならない。たとえ私の文章がわずかの力しか持たなくとも。沈黙は共犯であるから。
  
 
+
=== 第31節 ===
L. S. 十月十六日の夜。
 
  
 
+
乙:「我々は一致して外に当たらねばならん!こんな危急の時に、お前はまだ自分の物のことばかり考えるのか? 亡国の奴隷め!」
  
 
+
3 「同胞よ、同胞よ!」
二十九
 
  
 
+
自首を願い出る
  
 
+
こういう場面を私は幾度となく目にしてきた。
広平兄:
 
  
 
+
甲が乙に「一致団結」を説く。だがその中身は、つまるところ「お前は黙って私に従え」ということだ。乙が権利を主張すると、甲は「利己的だ」「大局を見ろ」「亡国の奴隷め」と罵る。
伏園は今日出発した。十八日に君に手紙を一通出したが、おそらく郵便局でずっと寝ていて、今日伏園と同じ船で広州に着くのだろう。数日前、私もほとんど同行するところだったが、結局やめた。同行しようとした理由の、小さな部分にはたしかにいくらかの私心もあったが、大部分は公のためだ。中山大学が我々の協議を必要としている以上、少しは手を貸すべきだし、しかも厦大もあまりにも鎖国的で、今後は他大学とも交流すべきだと思ったのだ。玉堂はちょうど病気で、医者は三、四日で治ると言う。そこでこの趣旨を説明しに行くと、彼も大いに賛同し、まず私が行き、もし彼が不可欠なら電報を打つ、その頃には病気も治って船に乗れるだろうと約束した。ところが昨日また変化があった。彼は自分が行かないばかりか、私が自ら行くことにも先の合意を翻し、校長に休暇を願い出るのがよいと言い出した。教員の休暇は従来主任の管理下にあるのに、こう言うのは明らかに私に難題を押し付けている。少し考えて、やめにした。もう一つ理由がある。おそらく南洋に近いからだろう、ここは実に金銭にうるさく、「あの人は月いくら」などという話が会話中にしょっちゅう聞こえる。我々がここにいて、当局者も日々我々が早く多くの仕事をし、多くの成果を発表するよう望んでいる。牛を飼って毎日乳を搾るかのようだ。某の日給がいくらか、みな忘れずにいるのだろう。私が二週間も離れれば、多くの人が必ず、半月分の給料をまんまと騙し取ったと思うだろう。玉堂が私の欠勤を嫌がるのも、おそらくこの点を慮ってのことだ。私はすでに三月分の給料を受け取りながら、授業はまだ一月しかしていないのだから、確かに休暇を取るべきではない。しかしもし長期的な計画があるなら、こうした些末なことにこだわる必要はない。将来尽力できる日はまだ長いのだから。しかし彼らは目先のことしか見えず、私も長い将来のことは考えないから、行かないことにし、年内にこの人たちのために季刊に論文を一篇書き、学術講演会で一度講演し、さらに私が編纂した『古小説鉤沈』を献上すれば、学校は金を無駄にしたとは思わないだろうし、私も出入り自由になれる。研究教授の辞職は、もう言い出すまい。辞めたところで、彼らはやはり別の仕事をさせて、国文科教授の給料に見合う成果を上げさせようとするだろうから、そのまま引きずっておく方がましだ。
 
  
 
+
これは愛国の名を借りた暴力である。
「現代評論」派の勢力は、ここで膨張しそうだ。当局者の性質もこの連中と合っている。理科も文科をひどく嫉んでおり、北大と同じだ。閩南人と閩北人の感情もあまり融和せず、何人かの学生は私に去ってほしがっているが、私に悪意があるのではなく、学校に災いが降りかかればよいと思っているのだ。
 
  
 
+
「一致対外」——実に便利な呪文だ。この四文字を唱えれば、内部のあらゆる矛盾を封じることができる。搾取を封じ、差別を封じ、不正を封じる。「今は国難の時だ」「内輪揉めをしている場合ではない」——こうして権力者はいつも被搾取者の口を塞いできた。
この数日、ここでは二人の名士を歓迎している。一人は太虚和尚が南普陀に来て説経するもので、仏化青年会が提案した。ボーイスカウトに生花を捧げさせ、太虚の行くところに花を撒き、「歩歩蓮花を生ず」の意を示そうというのだ。しかしこの案は結局実行されなかった。さもなくば和尚が潘妃に化けるのも、なかなか面白かったろうに。もう一人は馬寅初博士が厦門に来て講演するもので、いわゆる「北大の同人」たちが頭がぼんやりして、隊列を組んで歓迎している。私もたしかに「北大の同人」の一人であり、銀行で財を成せることも知らぬではないが、「銅貨を毛銭に替え、毛銭を大洋に替える」学説にはまるで興味がないので、いずれにも加わらず、一切なるがままにしておく。
 
  
 
+
だが考えてみよ。「対外」と言うが、その「外」は本当に敵なのか。そして「内」は本当に味方なのか。あなたを搾取し、自由を奪い、口を塞ぐ者が——たまたま同じ国に生まれたというだけで——味方と言えるのか。
  
 
+
もちろん売国を勧めているのではない。だが「愛国」の名のもとに行われる国内の抑圧に目をつぶってはならないと言いたいのだ。
二十日午後。
 
  
 
+
真の愛国とは何か。この国の人間一人一人が人間らしく生きられる社会を作ること。「一致対外」の前に、まず「一致対内」——内なる不正を正すこと——が先ではないか。
  
 
+
=== 第32節 ===
以上の手紙を書いた後、横になって本を読んでいたら、四時の終業の鐘が聞こえたので、郵便取次所に行くと、十五日の手紙を受け取った。あの日の手紙がすでに届いたなら、それはよかった。横目で見ることさえまだしていないのに、まして「睨む」ことなどできようか。張先生のご高論には私も大いに感服する。もし私が文章を書くなら、おそらくそう言うだろう。しかし実際にはなかなか難しい。もし公にするものがあるとすれば、それは自分にとって不要なものだ。そうでなければ、公にしたくない。自分の心をもって人の心を推し量れば、私有の念が消滅するのはおそらく二十五世紀のことだと分かる。だから今後は断じて「睨まない」ことに決めた。
 
  
 
+
だが各種の小さな縦横の策略は、我々はしょっちゅう身に受け、あるいは目にしている。夏になると突然甲と乙が殴り合い、突然甲と乙が親しくなって一緒に丙を殴り、突然甲と丙が結託してまた乙を殴り、突然甲と丙がまた仲違いをする——
ここは最近三日ほど涼しくなり、袷の衫が着られる。冬になっても今よりそう寒くはならないそうだが、草はすでに黄ばんだものもある。学生の方は、私に対して相変わらずとても好意的だ。彼らは文芸刊行物を一つ出したいと言い、すでに原稿を見てやった。大抵はまだ幼稚だが、初心者ならこんなものだろう。来月には印刷に出せるかもしれない。仕事については、命を削るほどはしていない。実は以前より怠けるようになり、しょっちゅうぶらぶら遊んで、何もしないでいる。
 
  
 
+
これが中国の政治の実態である。
章程(規約)の起草ができないからといって、能力が弱い証拠にはならない。規約の起草は別種の才能だ。第一に規約の類を多く読まねばならず、第二に法律に趣味がなければならず、第三に各種の事柄に配慮しなければならない。私はこの種のものを書くのが最も苦手だから、おそらく君の得意とするところでもあるまい。しかし人は何も章程を作れなければならぬということがあろうか。たとえできたとしても、「章程作成者」にすぎない。
 
  
 
+
主義も思想もない。あるのはただ利害だけだ。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵。その犠牲になるのは常に名もなき民衆である。
私の想像では、伏園は政論をするのではなく、副刊を編集するのだろう。孟余たちの考えは、副刊の影響力が大きいので、大いにやろうというものだ。上遂はまだ仕事が見つからず、実に嘆かわしい。やむを得ず、伏園に頼んで孟余に直接お願いしてもらった。
 
  
 
+
かつてある人が訊いた——「中国の政治家に信念はないのか」と。
北伐軍の武昌占領、南昌占領は確かだ。浙江もたしかに独立した。上海付近ではまた小規模な戦闘があるかもしれず、建人はまた避難しなければならない。この人も運命に定められたように、なかなか安穏でいられない。しかし数歩歩けば租界だから、おそらく大丈夫だろう。
 
  
 
+
私は答えた——「ある。自分が生き残るという信念が。」
重陽の日はここでは一日の休みで、私はもともと授業がないから何の恩恵もない。高い所に登る風習は、厦門ではやらないようだ。肉でんぶは食べたくないから、調べに行かないことにした。今買って食べているのは菓子とバナナだけで、時々缶詰も買う。
 
  
 
+
笑い話のようだが、笑えない真実だ。
明日、本を一包み送るつもりだ。雑多な刊行物で、これまで溜まったのを今回まとめて送る。中に一冊の『域外小説集』がある。北新書局が送ってきたもので、夏に君が欲しがった時、私が彼らに頼んで買おうとしたが、北京にはないという返事だった。今回はおそらくたまたま見つけて送ってきたのだろう。しかしあまりきれいではなく、おそらく長く増刷していなかったので新本がなかったのだろう。今は君が国文を教えていないから、もう用はないが、送ってきた以上、一緒に送っておく。自分で要らなければ、人にあげてもよい。
 
  
 
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しかしだからといって絶望してはならない。政治家が腐敗しているからといって、人民までが腐敗しているわけではないからだ。
『華蓋集続編』の編集を終え、昨日印刷に出した。
 
  
 
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泥の中から蓮が咲くように、腐敗した政治の中からも、真に国を憂う者は現れる。問題は、そういう者が権力の座に就く前に潰されてしまうことだ。
  
 
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どうすればよいか。
迅。二十日灯下。
 
  
 
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妙案はない。一つだけ言えること——目を開けていること。何が起きているかを見ること。見たことを忘れないこと。
  
 
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権力者が最も恐れるのは銃ではない。記憶だ。人民が忘れないこと——これが最大の武器である。
三十
 
  
 
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=== 第33節 ===
  
 
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訴訟を提起した後、私はKS君への返信の中で一度だけ章士釗について論じたが、聞くところではもう「人格卑汚」ということにされているらしい。ところが別の論客は、あまり激しくは罵っていないから魯迅はやはり大したことはないと言う。
広平兄:
 
  
 
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実に面白い話だ。
今日午前に手紙を一通出したばかりだが、その中で厦門仏化青年会が太虚を歓迎する笑い話に触れたところ、なんと午後には招待状が届いた。南普陀寺と閩南仏学院が太虚に公式宴を催し、私にも陪席を請うというもので、もちろん他の人もいるだろう。行くまいと決めたが、本校の職員が無理に行けと言う。行かなければ本校が彼らを見下していると思われると。個人の行動が全校に関わるとは、実に困りものだ。仕方なく行った。羅庸は太虚を「初日の芙蓉の如し」と評したが、私にはそうは見えず、至って平凡だった。席に着く際、私と太虚を並んで上座に座らせようとしたが、ついに辞退し、哲学教員を一人供え物にして済ませた。太虚はもっぱら仏事を説くのではなく、よく世俗のことを論じたが、陪席の教員たちはあえて仏法を問いたがり、「唯識」だの「涅槃」だの、その愚は及ぶべくもない。だからこそ陪席がお似合いということか。その時また田舎の女たちが見物に来て、結局はひざまずいて大いに頭を打ち、得意満面で帰って行った。
 
  
 
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激しく罵れば「人格卑汚」と言われ、穏やかに論じれば「大したことはない」と言われる。では黙っていればよいのか。だが黙っていれば「反論できないのだ」と言われるに違いない。
こうして、まんまと精進料理をご馳走になった。ここの宴席はまず甘い料理が出て、途中に塩味の料理、最後にまた甘い料理で終わる。ご飯もお粥もない。何度か食べたが、毎回そうだった。聞くところでは厦門の特別な習慣で、福州ではそうではないらしい。
 
  
 
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つまり何をしても非難されるのだ。
散会後、ある教員と話していて分かったのだが、今回一緒に来た人物の中で、私を排斥しようとする動きが次第に顕著になっているという。彼らの言葉の端々から、すでにそれが聞き取れるし、彼にも連絡を取ろうとしているらしい。彼はそこで嘆息して言った。「玉堂には敵が少なくないが、国学院に対して手を出せないのは、ひとえに兼士と君の二人がいるからだ。兼士が去っても君がいれば、まだ支えられる。しかし君もまた去れば、敵はもう遠慮するものがなくなり、玉堂の国学院は動揺し始めるだろう。玉堂が失敗すれば、彼らも立っていられなくなる。それなのに彼らは一方で私を排斥しながら、一方ではみな家族を呼び寄せ、長く居座る準備をしている。実に愚かなことだ。」私もそれは確かだと思う。この学校は一座の梁山泊のようなもので、槍と剣が飛び交い、見応えがある。北京の学界は都市の中で押し合い圧し合い、ここは小島の上で押し合い圧し合う。場所は異なれど、押し合いは同じだ。しかし国学院内部の排斥現象は、外敵にはまだ知られていない(彼らはあの連中を兼士と私の部下だと誤解しており、我々が彼らのために地盤を取りに来たと思っている)。将来知れれば、喜びに堪えないだろう。私はここに何の未練もない。苦しんでいるのは玉堂だ。私と玉堂の交情は、まだこれらのことを彼に打ち明けられるほどの程度に達しておらず、たとえ言っても、信じるかどうかも分からない。だから私はただ一言も発せず、自分の仕事をするだけだ。彼らが私を倒そうとしても、すぐには難しい。私がここにいるのは年末か来年まで、自分の気分次第だ。玉堂に対しては、おそらく愛すれども能わずの状況だ。
 
  
 
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これは私個人の問題ではない。中国の言論空間そのものの問題だ。発言者は常に二重の罠にかけられる。内容ではなく態度が問題にされ、論旨ではなく人格が攻撃される。
  
 
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「和を以て貴しとなす」——この美しい格言はしばしば権力者の武器となる。批判者に対して「和を乱している」と言えば、批判の内容を無視できるからだ。
二十一日灯下。
 
  
 
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章士釗について言えば、彼のしたことは明白だ。権力を笠に着て教育を弾圧した。これは事実であり、私の人格がどうであろうとこの事実は変わらない。
  
 
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だが論客たちは事実には興味がない。興味を持つのはただ一つ——誰が勝ち、誰が負けるか。
十九日の手紙と原稿は、どちらも受け取った。文章は使えると思う、私の見るところ。ただし文中の句法に不適切なところがある。これはお嬢さんたちの通病で、その原因は不注意にある。書き終えた後、おそらく自分でもう一度読み返しさえしないのだろう。一両日中に添削して送ろう。
 
  
 
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私はこの種の論争に疲れている。だが黙るわけにはいかない。黙れば彼らの思う壺だからだ。
兼士は二十七日に出発して上海に向かう予定で、広州には行かない。伏園はもう発った。陳惺農に聞けば住所は分かるだろう。しかし私が思うに、彼には通訳は必要ない。真面目ともつかず、軽薄ともつかず、ぼんやりとあちこち歩き回り、いわゆる「準」に出会うことは永久にあるまい。しかし彼の行くところ、しばしば長く尾を引く小さな面倒を残して、他人に後始末をさせる。私は使用人を一人雇っただろう。彼はその使用人の友人を紹介して、いわゆる「陳源の門弟」たちの賄い飯を請け負わせた。余計なことをするなと教えても聞かない。今では陳源の門弟たちがしょっちゅう私に飯が不味いと文句を言い、まるで私が料理長のようだ。使用人の方は友人の手伝いに忙しく、私の用事はあまり来なくなった。私はとにかく十二元出して彼らに料理人の助手を一人雇ってやったが、なおも文句を言われる。今日聞いたところでは、彼らはもう賄い飯をやめるそうだ。まことにありがたいことだ。
 
  
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よって書き続ける。たとえ「人格卑汚」と言われようと。
  
=== 第79節 ===
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=== 第34節 ===
  
上遂の件は、あの憎たらしい伏園に直接伝えるよう頼んだほか、昨日はまた兼士と連名で孟余たちに手紙を書いた。できることはやったので、あとは次回のお楽しみだ。私の他所での地位については、急ぐ必要はない。ここに長く留まるつもりはないが、今のところ断固去らねばならない理由もないから、むしろ非常にゆったりしている。「得んことを患い、失わんことを患う」という考えがないので、心持ちも自然と穏やかだ。「人を安心させるために嘘をついてこう言っている」のでは決してないので、どうかご明察いただきたい。
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辰 そもそもそういうことではない。彼は外国人の声を窃取して翻訳しているのだ。おい!なぜ自分で創作しないのだ?
  
 
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巳 ならば彼は罪を犯したことになる!調べてみれば、字も外国から来たものだ。紙も外国から来た。筆だって——
理科の諸氏の国学院攻撃は、ここ数日始まった。国学院の建物が未完成で生物学院の建物を借りているため、彼らのまず第一手は部屋の返還要求だ。この件は我々とは全く関係がないから、微笑んで傍観し、大量の泥人形が露天に運び出され、風雨にさらされるのを見るのも一興だ。この学校はおそらく南開大学によく似ているのだろう。そして一部の教授は、校長の喜怒のみを窺い、他科が脚光を浴びるのを嫉み、中傷、あら探し、あらゆる手を尽くす。まさに妾婦の道だ。私は北京を汚濁だと思って厦門に来たが、今思えば、それは妄想だった。大きな溝が汚ければ、小さな溝がきれいなものか。ここが北京に勝るのは、ただ給料の未払いがないことだけだ。しかし「校主」がひとたび怒れば、即座に閉校もありうるのだ。
 
  
 
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辰 そんな屁理屈を!
私がこの大きな洋館に住んでいるが、夜になると住んでいるのはたった三人だ。張頤教授と伏園と私。張は不便のため友人のところに移り、伏園はすでに去ったので、今は私一人きりだ。しかし私は静かに観じ黙って考えることができるので、精神的にはむしろ孤独を感じない。年末の休暇も近づいてきて、以前より沈静になった。自分で計算すると、ここに来てちょうど五十日だが、まるで半年も過ぎたようだ。しかしこれは私だけでなく、兼士たちも同じことを言うのだから、生活の単調さが分かろうというものだ。
 
  
 
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巳 屁理屈ではない。真理だ。
最近一つの言葉を思いついた。この学校を形容できると思う。それは「荒島の海辺に、無理やり洋風建築を一列に並べている」というものだ。しかしこのような場所でありながら、人物はあらゆる類型が揃っており、一滴の水を顕微鏡で見れば、それもまた一つの大世界であるのと同じだ。その中には、上述の「妾婦」たちがおり、さらに愛を得たくて九元もする菓子箱を恭しく女教員に贈る老外国人教授がいる。有名な美人と結婚して三月で離婚した若い教授がいる。異性を玩具にし、毎年必ず一人の人と交際し、まず惹きつけておいて最後には拒む、ミス先生がいる。菓子のありかを探り出して群がって食べる好事の徒がいる……世の中はどこもだいたい同じで、土地の繁華や寂寥、人の多寡は、大した関係がない。
 
  
 
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辰 真理? 笑わせるな。翻訳とは畢竟、他人の褌で相撲を取ることだ。
浙江の独立は確かだったようだ。今日聞いたところでは、陳儀の兵がすでに盧永祥と交戦している。それなら陳は徐州でも独立したのだが、果たして確かかどうかは分からない。福建方面の消息はあまり聞こえてこないが、周蔭人は必ず倒れるだろうし、民軍はすでに漳州に到着しているようだ。
 
  
 
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巳 ではお前の「創作」とやらは何だ?古人の言葉を切り貼りし、典故を並べ立て、それを「創作」と呼ぶのか。
長虹がまた韋漱園と喧嘩している。上海で出版された『狂飆』で大いに罵り、さらに私への手紙を掲載して、私に一言言ってくれと求めている。彼らは実に暇を持て余している。しかし私はもう付き合う気がない。この数年、命を随分と削ってきたし、付き合いもたくさんだ。だから断固放っておくことにする。しかも喧嘩の原因は、『莽原』が向培良の戯曲の投稿を掲載しなかった(掲載しなかっただけだ)ことだそうだが、培良と漱園が北京で紛糾を起こし、上海の長虹に口汚く罵らせ、さらに厦門の私に出てきて発言させようとは、やり方が実に奇怪だ。私がその中の事情の曲折をどうして知りえよう。
 
  
 
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辰 ……
ここの天気は涼しくなってきて、袷の服が着られる。明日は日曜日で、夜はおそらく映画を見るだろう。リンカーンの一生の物語だ。みなで金を出し合って呼び寄せたもので、六十元かかる。私は一元出したので、特別席に座れる。リンカーンの類の物語は、私はあまり見たくないが、ここでよい映画が見られるだろうか。みなが知っていて面白いと思うのは、せいぜいリンカーンの一生の類がいいところだろう。
 
  
 
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巳 黙ったな。
この手紙は明日出す。開学後、郵便取次所は日曜日も半日営業するようになった。
 
  
 
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辰 黙ってはおらん。呆れているだけだ。
  
 
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この対話は架空のものだが、現実を反映している。中国の文壇では翻訳は常に創作より低く見られてきた。翻訳者は「他人の声の代弁者」に過ぎないとされ、自らの「声」を持たない者と見なされてきた。
L. S. 十月二十三日灯下。
 
  
 
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だが問いたい——翻訳がなければ、中国は今どうなっていたか。
  
 
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西洋の思想、科学、文学が中国に入ってきたのは全て翻訳者のおかげではないか。厳復、林紓、そして今日の翻訳者たち——彼らの労苦なくして中国の近代化はあり得なかった。
三十一
 
  
 
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もちろん翻訳には限界がある。言語の壁は完全には越えられない。だからこそ翻訳は創作に劣らず困難な作業なのだ。いやむしろ、二つの言語の間で苦闘する翻訳者は、一つの言語の中で自由に振る舞える創作者よりもはるかに多くの苦労を背負っている。
  
 
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翻訳を蔑む者は、自らの無知を告白しているに等しい。
広平兄:
 
  
 
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=== 第35節 ===
二十三日に十九日の手紙と原稿を受け取り、二十四日にすぐ返信を出したが、もう届いただろう。二十二日に出された手紙は昨日届いた。閩粤間を往来する船は多いはずだが、郵便物の配達は一つの会社に独占されているらしく、その会社の船だけが手紙を運ぶので、一週間に二回しかない。上海もそうで、おそらくこの会社は太古洋行ではないかと疑っている。
 
  
 
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では、私が書くとき敬虔な心がなかったのか。答えて曰く、あったであろう。たとえそのような立派な心がなかったとしても、決してわざとおどけた調子をひけらかしたりはしない。押し潰されながら、なおへらへらと笑い、遊戯三昧でいられようか。もしそれができるなら、まさに神仙というものだ。私は呂純陽祖師の門下に帰順したことなどない。
同意しないからといって、若旦那たちに対するやり方で来るとは限らない。ご安心を。しかし私の考えでは、自分からは恐らく口を開くまい。本当にどうしようもない。こんな食事は少なく仕事は多い生活が、どうして長続きしよう。しかし一学期やると決めた以上、しかも手伝ってくれる人もいるのだから、やるのもよいだろう。ただし決して命を削ってはならない。人はたしかに「公」のために働くべきだが、みなが働かなければならない。他の人が怠けて、ごく少数の人だけが命を削っているのでは、あまりにも「公」ではない。適当なところで止めるべきだ。省ける道は少し歩かず、構わなくてよいことは少し手を出さない。自分もまた国民の一人であり、大事にすべきだ。ごく少数の人だけが過労死すべきだなどと要求する権利は、誰にもないのだから。
 
  
 
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しかし書き上げた後は、自分の羽毛をさほど惜しまず、いわゆる「自分の箒を宝とする」ような気持ちもなかった。なぜなら、既に述べた通り、その時にはもう「これで終わりだ、知ったことか」という気分だったからである。誰がこのようなつまらぬ後始末に心を砕こうか。だから、どこかの選者が偉大なる眼光を放って私の作品を選んで印刷しようとも、私はいつも通り放っておいた。実際、気にしようにもどうにもならないのだ。私はかつて人の代わりに印税の回収を代行したことがある。売り切れたと聞いて書店に金を要求しに行くと、返事には、旧支配人はすでに辞職して帰郷した、彼に請求せよ、我々は知らぬ、と。その書店は上海にあるのに、どうして汽車に乗って押しかけたり、訴訟を起こしたりできよう。しかし私はこうした選本に対して、ひそかに「必ずしもそうではない」と思う点がいくつかあった。一つは原本の誤字で、一目見て間違いとわかるのに、そのまま誤りを踏襲すること。二つは、彼らがいちいち偉大な議論を披瀝すること、例えば何主義だとか何の意味だとか、おおむね私自身はそうは思っていないことである。もちろん、批評とは「精神の冒険」であり、批評家の精神は常に作者より一歩先を行くものだが、彼らのいわゆる死体の上で、私にははっきりと心臓の鼓動が聞こえる。これはまさに死んでも意見が一致しないということであり、それ以外には、さしたる恨みもない。
この数年、私は常に人のために少しでも力になりたいと思い、北京にいた頃は命を削って仕事をした。食事を忘れ、睡眠を削り、薬を飲みながら編集し、校正し、執筆した。ところが実ったのは、みな苦い果実ばかりだった。私を宣伝に利用して自分の利益を図った者がいたのは言うまでもない。小さな『莽原』でさえ、私が去ったとたんに喧嘩が始まった。長虹は、同人が彼の投稿を掲載しなかった(掲載しなかっただけだ)ことで私に理論をぶつけ、一方の同人は始終手紙を寄こして原稿がないと言い、私に書けと催促する。私は実にいくらか憤慨しており、第二十四号で『莽原』を廃刊するつもりだ。刊行物がなくなれば、みなまだ何を争うのか見ものだ。
 
  
 
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これは一見、東洋文明式の寛容のように思えるが、実のところ私が文章を売って生計を立てていないからであろう。中国では、駢文の寿序の値段は依然として一篇百両であるが、白話文は値打ちがない。翻訳はというと、自分で創作できず他人の創作を妬む心根の悪い者が提唱したものだと聞く。将来文壇が進歩すれば、当然さらに一文の値打ちもなくなるだろう。私の書いたものは、当初はずいぶん多くの障壁にぶつかったが、今の相場は千字あたり一元から二、三元、しかしそうそう良い顧客はおらず、どこから来たとも知れぬ義務を果たすばかりである。私が原稿料や印税で家を建て、米を買い、さらにはそれで煙草を吸い、砂糖菓子を食べていると思う人もいる。しかしあの金は別のところから騙し取ったものだ。私は書坊の主人をまず鬼の顔で脅し、それから交渉するなどという芸当はあまり得意ではない。思うに、中国で最も値打ちのないのは労働者の体力であり、次に我々のいわゆる文章であり、ただ機転だけが値打ちがある。もし本当にまっすぐに文筆で生計を立てようとすれば、私の経験では、売ったり買ったり、往復に少なくとも一ヶ月、多ければ一年余り、金が届く頃には、著者はとうに餓死しているばかりか、夏であれば筋肉まで腐り果てて、食事をする腹すらないであろう。
以前からいくらか予想していたのだが、君が今度の仕事に出かけると、多くの訳の分からない人々が訪ねてくるだろう。あるいは革命家を自称し、あるいは文学者を自称し、訪問するだけでなく、助けも求める。君はきっと助けるだろう。しかし助けた後、彼らはなお大いに不満で、しかも恨みさえする。なぜなら彼らは君の収入が多いと思い込んでおり、この程度のことは助けないのと同じだと思うからだ。君が全力で助けたと言っても、それは君のけちな嘘だと思うのだ。やがて何か失敗すれば、一斉に蜘蛛の子を散らすように去り、ひどい場合は落ちた犬に石まで投げる。すなわち訪問した時に見た態度、住居などを攻撃の材料にする。これは先のけちに対する罰だというのだ。この種の状況を、私はすべて一つ一つ味わってきた。今、君もおそらくこの味を味わい始めているところだろう。これは人を苦しめ、不平にさせるが、味わうのも悪くはない。世の中のことをより切実に知ることができるからだ。しかしこの状態は永続するものではない。しばらく経験した後は、はっと悟り、きっぱりと彼らを振り払わねばならない。さもなくば、たとえ自分のすべてを犠牲にしても、彼らはなお満足せず、しかもなお救われない。実を言えば、君が今哀れだと思っているいわゆる「婦女子供」も、おそらくこの例外ではあるまい。
 
  
 
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だから私はいつも別の道で生計を立てている。いわゆる文章というものは、追い詰められなければ書かない。追い詰められてやっと生まれるのだから、高尚な「インスピレーション」だの「創作の興」だのとはあまり関係がないことは、想像に難くない。もし私が別の道で生計を立てる必要がなく、心志を一つに集中すれば「インスピレーション」の類が湧き、より偉大な作品を生み出せるだろう、少なくとも皮を剥いだ狸猫を差し出すことは免れるだろう、というなら、それも必ずしもそうではない。田舎の塾の先生は、年がら年中、朝から晩まで村の子供を教え、「しきりに政治活動を考える」どころか、「種々のつまらぬことをしている」わけでもないが、彼らには『教育学概論』や「高頭講章」の待定稿を名山に蔵しているようには見えない。そしてマルクスの『資本論』も、ドストエフスキーの『罪と罰』も、コーヒーを啜り、エジプト煙草を吸った後に書かれたものではない。章士釗総長治下の「天才」たる編訳館の人員や、官僚の補助金や銀行の広告費を得た「大新聞」の著者でもない限り、謀が成り事が遂げられ、十分に眠り食べた余暇に、三月字を練り、半年句を鍛え、将来超絶した古雅華麗な作品を作り出すことはあるまい。要するに、私に関して言えば、腹が一杯になり、付き合いが少なくなると、心穏やかになって門を閉じ、何も書かなくなる。たとえまだ書いても、おそらくぬるま湯の談話、両論併記の議論、つまり中庸の説、公正な言葉に過ぎず、実際は書かないのと同じである。
以上は昼食前に書いた。今は四時で、今日はもう用事がない。兼士は昨日もう発ち、朝に別れを告げに来た。伏園からはすでに手紙が来て、船中で大いに吐いたとのこと(乗船前に酒を飲んだのだから自業自得だ)。今は長堤の広泰来旅館に泊まっているが、おそらく私の手紙が届く頃にはもう発っているだろう。浙江の独立はすでに失敗した。外の新聞では華々しく報じていたが、浙江の地元紙を見ると、かなり歯切れが悪く、独立の当初からしてすでに灰色だったようで、外聞のような轟々たるものではなかったらしい。福建の事も真相がよく分からない。ある新聞には周蔭人がすでに郷団に殺されたとあるが、おそらく本当ではあるまい。
 
  
 
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だから上海の小さな書商が蚊に化けて私の少しばかりの血を吸うのは、もちろん物質的な損害に違いないが、私にはさほど大きな恨みはない。なぜなら、彼らが蚊であることを私は知っているし、皆も知っているからだ。私の一生で大きな損害を与えたのは書商でもなく、兵匪でもなく、旗幟鮮明な小人でもない——いわゆる「流言」である。例えば今年にしても、「学潮を煽動した」とか、「校長の座を狙っている」とか、「歯を叩き落とされた」とかいった話がある。あるとき、今では私の著作権の損失について不平を述べてくれる西滢先生さえもそれを信じそうになり、『現代評論』(第二十五期)のいつもの「閑話」に発表したのだから、その影響力は推して知るべしである。例えば一人の女学生が、卑劣陰険な文人学士たちに陰で品行に関する噂を流されるくらいなら、いっそ土匪に赤い襟巻を——物質を——奪われた方がましだ。しかしこの「流言」を作ったのは一人なのか多数なのか。姓は何、名は何か。私にはどうしても突き止められない。後には暇がなくなり、もう調べることもやめ、ただ述べやすくするために、総称して「畜生」と呼ぶことにした。
ここでは袷の服が着られ、夜は綿入れのチョッキを足してもよいが、最近数日はまた不要で、今日は雨だが、さほど涼しくもない。使用人を雇ってからは、比較的便利になった。仕事については、実はそう多くなく、暇はいくらでもある。しかし何もせず、つまらない本を手に取って遊んでいることの方が多い。講義録を三、四時間続けて編纂すると、睡眠に影響が出て、寝付きが悪くなる。だから講義録の編纂も非常にゆっくりで、原稿を催促されてもたいてい無視している。上半期ほどがむしゃらに仕事をしなくなった。これは退歩のように見えるが、別の面から見れば、むしろ進歩かもしれない。
 
  
 
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分類はしたものの、不幸にしてこれらの畜生は人々の中に紛れ込んでおり、同じく人の顔をしているから、実際には見分けようがない。だから私は疑い深くなり、あまり人の言うことを聞きたがらなくなった。また、言うべきこともないから、自分も文章を書く気にあまりならない。時には、真に義憤を色に現した公の言葉でさえ奇異に、珍奇に感じられ、そうして下等な性分の「恩知らず」が成功するか、あるいはついに救いようがなくなるのである。
階下の裏手に花壇があり、有刺鉄線で囲ってある。どの程度の阻止力があるか試そうと思い、数日前に一度飛び越えてみた。越えられた。しかしあの棘はやはり効き目があり、小さな傷を二つつけられた。一つは股、一つは膝のそばで、しかし深くはなく、せいぜい一分(三ミリ)ほどだ。これは午後のことで、夜にはもう全治し、何ともなかった。おそらくこの件は戒めを受けるだろう。しかしこれは危険がないと分かった上で試したのだ。もし危険を感じれば、非常に慎重にする。例えばここには小さな蛇がかなり多く、よく打ち殺されたのを見かける。顎の部分が膨らんでいないものが多いから、大して毒はないのだろう。しかし暗くなると、草地を歩かなくなった。夜間の小便でさえ階下には降りず、磁器の痰壺に溜めておき、夜中に人がいない時を見計らって窓から放り出す。無頼に近いやり方だが、学校の設備がこれほど不完全では、こうするしかない。
 
  
 
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冷静に考えてみれば、いわゆる「選家」という種類の人物は、明末の八股文の選家を容易に連想させるゆえに人を辟易させるようだが、今こそ数人いるべきだ。この二、三年来、無名の作家にも有名な作者を凌ぐ作品がなかったわけではないが、誰も顧みず、自生自滅に任せている。昨年、私はDF氏に提案したことがある。各地の各種定期刊行物を蒐集し、仔細に評量し、小説集を数冊選んで印刷し、世間に紹介すべきだと。ただし既に専集のある者は一切収録せず、「再拝して大門の外に送り出す」と。しかしこの話もついに空言に終わり、当時も決まらず、後には皆散り散りになった。私にはこの事業はできない。なぜなら私は偏向しているからだ。是非を評する時、私はいつも知人が正しいと感じ、作品を読む時には、異なる立場の者の腕前はおおむね高くないと思う。私の心には「公平」なるものが存在しないようであり、他人の中にも見たことがない。しかしどこかにはあるかもしれないと疑っているから、あの二つのものにはなる勇気がない——法官と批評家である。
玉堂の病気はもう治った。白果は北京に家族を迎えに行った。ここで一生を定める決意らしい。私の体は元気だ。酒は飲まず、食欲も良好で、気持ちは以前よりいくらか落ち着いている。
 
  
 
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まだ専門の選家がいない今、この仕事は批評家にもできる。なぜなら批評家の職務は悪草を刈るだけでなく、佳花を——佳花の苗を——灌漑することでもあるからだ。例えば菊が佳花であるならば、その原種は黄色い細かな野菊、俗名「満天星」に過ぎない。しかし、おそらく文壇に本当に良い作品がないせいか、あるいは批評家になった途端に眼界が極めて高くなるのか、私には青年作家への痛撃、冷笑、抹殺ばかりが見え、誘掖奨勧の意を含む批評はほとんど見かけない。いわゆる「文士」でありながら批評家めいた者の中には、もっぱら一人の御前侍衛となり、トルストイだ、トルストイだと東を指し西を画いて、ただ一人のために屏風となる者がいる。甚だしきに至っては、一方でその人を暗に庇い、一方で他人を中傷するが、姓名も実証も明白に挙げず、ただ含沙射影の口調で、当人は自分のことだと気づかないようにし、さらに口頭の宣伝で筆墨の及ばぬところを補い、他の人がその人を疑うようにする。これは文字に対してだけでなく、女性の名誉についても、今年私はこの畜生道の方法で毀損するのを見た。古人はよく「鬼蜮の技倆」と言うが、実際世間に鬼蜮などいるはずもなく、指し示しているのはこの類の者に過ぎない。この類の者は論外だが、ただ侍衛を務める者でさえ、一言半句を評選する資格はない。なぜなら、この種の仕事は、する者が不偏と自認しながら実は偏っていてもよく、公平と自認しながら実は公平でなくてもよいが、ただ「別の用心」をその間に挟んではならないからだ。
  
 
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書商も他の商人と同じく利を追うのみ。その出版や議論の「動機」が「純潔でない」ことは誰もが知っており、決して大学教授のそれと同列には論じられまい。しかし彼らは利を追う以外に、別段何の意図もない。これが私をかえって安心させるところだ。もちろん、これまでもっと奇怪で陰毒な暗矢を受けたことのない幸福な人であれば、当然この一点だけでも苦痛を感じるであろう。
迅。十月二十八日。
 
  
 
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これも一篇の作品と言えようが、やはり搾り出したものであり、囲炉裏でお茶を煮ながらの閑話ではない。最後に、遡って題名を付ける。事実の記録なり。
  
 
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(十一月二十二日。)
三十二
 
  
 
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【北大を観る】
  
 
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北大学生会の緊急な要請により、私は本校の二十七周年記念について一言述べねばならない。
広平兄:
 
  
 
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ある教授の名論によれば、「一、二時間しか教えない講師」は校事にあずかる資格がないという。そして私はまさに一時間しか教えない講師である。しかしこの名論は、どうか許されたい、私は無視することにする。——もし許されないなら、それもまた仕方がない。人はそのようなことにかまっていられないのだ。
一昨日(二十七日)二十二日の手紙を受け取って返事を書き、今日午前に自分で郵便局に持って行った。ポストに投函した途端、局員が二十三日発の速達を渡してくれた。この二通は同じ船で来たので、道理から言えば速達の方を先に受け取るべきなのだが、ここの事情は異常なのだ。普通の手紙は届くとすぐガラス箱に入れてくれるので、我々は早く目にする。ところが書留になると、秘密にして、局員一人が部屋に籠もって一通ずつ帳簿をつけ、また通知書を書いて、印鑑を持って取りに来いと言う。この通知書も届けに来るのではなく、やはりガラス箱の中に供えてあるだけで、自分で通りがかりに見つけるのを待つ。速達も同じ扱いだ。だから書留と「速達」は、必ず普通の手紙より遅く届く。
 
  
 
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私はもともと北大の教員であることだけを自認していたわけではない。他にもいくつかの学校と関わりがあるからだ。しかしどういうわけか——おそらく神妙な意図があるのだろう——今年突然かなりの人が私を北大派と指名した。私は北大に本当に特別な派閥があるかどうか知らないが、そう自認することにした。北大派か?北大派で結構だ!それがどうした?
私がさしあたり広州に行かない事情は、二十一日の手紙にも書いた覚えがある。今、伏園からの手紙が来ているが、私がどうしてもすぐ行かねばならぬという様子はないし、開学が来年三月なら、年末に行っても遅くはない。今すぐにでも一度行きたいのは山々だが、事実上の束縛があまりにも強い。つまり三週間離れると、担当する仕事を放置しすぎることになり、その後一つ一つ埋め合わせをすれば仕事が重すぎるし、しなければ得をしたという嫌疑をかけられる。もしここに長くいるなら、当然ゆっくり補えばよく、問題はないのだが、私はまた長く留まるつもりはないのだ。ましてや玉堂の苦境もある。
 
  
 
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しかし、流言家諸氏は私の意思を誤解されぬよう。噂で私がどうだと言えば私がそうするわけではない。私の方法は一律ではない。例えば先日のデモの際、新聞が私の門歯を二本叩き落とされたと噂したが、私は決して警察署に陳情し、軍警を増派して改めて私の門歯を叩き落としてもらおうとはしなかった。私が噂の通りに行動するのは、自分が望むものだけを選んでのことに限る。
下半期にどこに行くかは、問題ではない。上海にも北京にも行かない。他に行く場所がなければ、ここでもう半年をだらだら過ごすだけだ。今の去就は、もっぱら自分次第で、外界の策謀は、当分私を倒せない。楊桃(スターフルーツ)をぜひ味わってみたい。こうして耐えている理由は、自分のためには経済的問題だけであり、人のためには、私が去ったらすぐ玉堂が攻撃されるだろうと恐れるからで、それで少し彷徨しているのだ。一人の人間がこんな些細な問題に引っ張られるとは、実に嘆かわしい。
 
  
 
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私は北大も悪くないと思う。もし本当に派なるものがあるなら、この派に入れられても、まあそれでよい。理由は以下の通り——
出したばかりだから、もう話すことはない。では、また。
 
  
 
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二十七周年である以上、本校の萌芽は当然前清に発するが、民国初年の状況も私は知らない。ただこの七、八年の事実から見ると、第一に、北大は常に新しい、改進的な運動の先鋒であり、中国をより良い、上へ向かう道に歩ませようとしてきた。多くの暗矢を受け、多くの流言を背負い、教授も学生も年々入れ替わったが、あの上へ向かう精神は終始一貫して弛緩していない。もちろん、時折馬首を引き戻そうとする者もいるが、これは大勢に影響なく、「万衆一心」とは所詮書物の中の美辞に過ぎない。
  
 
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第二に、北大は常に暗黒勢力と戦ってきた。たとえ味方が自分だけであっても。章士釗が「学風整頓」の看板を掲げて「師たらん」とし、金銭をばら撒いて以来、北大はなお彼に彭允彝と同様の待遇を与えた。今や章士釗は暗がりに潜んで総長を務めているが、その本性は既に露わとなり、北大の校格もいよいよ明白になった。あの時確かに一角の灰色が現れたが、大勢に影響ないことは第一の項と同じである。
迅。十月二十九日。
 
  
 
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私は公論家ではなく、上帝のように功過を決算する能力はない。ただ私が感じ取ったところによれば、北大はやはり生きており、しかもなお成長している。凡そ生きて成長しているものには、常に希望の前途がある。
  
 
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今日思い至ったのはこの一点である。しかし、もし北大が二十八周年を迎えてなお章士釗の類に害されず、また記念誌を出すなら、私は予め宣言しておく——もう多くは語らぬ。一つには、命題作文はあまりに苦しい。二つには、言えばおそらくまた同じ話になるからだ。
三十三
 
  
 
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(十二月十三日。)
  
 
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【砕話】
広平兄:
 
  
 
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自分だけなら、何でもよい。今日の我が昨日の我と戦うもよし、今日こう言って明日ああ言うもよし。だが最もよいのは自分の頭の中で考え、自分の家の中で言うことだ。あるいは恋人と語り合うのも構わない。どうせ彼女は「あら」と感嘆を示すだけで、第三者がこれにあずかることはない。ただ、もし自ら惜しまず次々と発表し、「指導者」「正人君子」を自任して、それらを「思想」や「公論」と称するならば、少なからぬ正直な人が災難に遭うことは免れまい。もちろん、あらゆる神妙な変遷は、かえって学者文人の進歩の神速を示すに足るものだ。ましてや文壇はもともと「州官の放火は許されるが百姓の灯は許さぬ」のだから、不幸にして凡人たる者は、天才のために多少の犠牲を捧げるのが当然の義務なのだ。研究も創作もできぬお前が悪いのだ。ただ苦しむのが当然というほかない!
十月二十七日の手紙は今日届いた。十九日、二十二日、二十三日のも、すべて届いている。私は二十四日、二十九日、三十日にそれぞれ手紙を出したが、届いただろう。刊行物については、日記に記録してあるのを調べると、二十一日と二十日にそれぞれ一回あり、何だったかはもう忘れた。ただ一回の中に『域外小説集』があったことだけは覚えている。十月六日の刊行物については日記に記載がなく、記し忘れたのか、それとも実は二十一日に発送したのを私が月日を書き間違えたのか。君が二十一日発送の一包みを受け取ったかどうかを見れば分かる。もし届いていなければ、私の書き間違いだろう。しかしまた六日のは別の包みで、包みというよりは三冊の本を重ねた普通の雑誌送りのような形だったような気もする。
 
  
 
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しかし、これは天才の、あるいは天才の奴隷の高論である。凡人の側から見れば、この説は理には合うが情には反すると感じざるを得ない。「蟻すら命を惜しむ」というのも古の明訓だからだ。だから凡人とはいえ、なお幾日か生き、少しは楽しみたいと思う。困ったことに、余計な世話を焼くのが彼らの苦しみの根であり、家にじっとしていればよいのに、わざわざ出て行って師を求め、公論を聞こうとする。学者文人は日に千変の進歩を遂げ、皆がその後を追う。彼の歩むのは小さな弧、お前の歩むのは大きな弧、彼は円心で回り、お前は円周で回らねばならず、汗だくになって結局わけがわからなくなるのは、占いを待つまでもないことだ。
伏園からはすでに手紙が来ている。上遂の件はかなり望みがあるとのことだが、学校の他の事は何も触れていない。おそらく間もなく戻るだろうから、私もいくらか状況が分かるだろう。もし中大が本当に私を必要とし、行けば学校のためになるなら、開学前にあちらに行こう。ここのことは他に何も問題はなく、ただ玉堂に申し訳が立つかどうかだけだ。しかし玉堂もあまりに愚かで――知らないのか、それともお人よしなのか――今に至るまで自分の「副理」を盲信している。ここはきっとだめになる。救いようがない。山根先生は相変わらず人の推薦ばかりしており、図書館に一つ欠員があると聞けば、また人を推薦する計画を立てている。胡適之の書記だそうだ。しかし今回はあまりうまくいっていないようだ。学校の方は、この数日馬寅初を大いにもてなしている。昨日は浙江出身の学生が彼を歓迎し、無理やり私も一緒に記念撮影に入れようとしたが、必死に断った。彼らはかなり怪訝がった。ああ、私は銀行で金が儲かることを知らぬわけではないが、「道同じからざれば相ために謀らず」なのだ。明日は校長主催の宴会で、陪客にまた私がいる。彼らは策を巡らし、何としても私を銀行家と親しく語らせたいのだ。苦しいかな、苦しいかな。しかし私は案内の紙に「知」の一字だけ書いた。行かないことは分かるだろう。
 
  
 
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何でもやれ、やれ、やれ!それは確かに名言だが、もし馬鹿が本当に拳銃を買いに行ったら、必ず深く前非を悔い、さらに進んで救国にはまず学問と悟るであろう。これも確かに名言で、多言は要らぬ、教え通りに研究室に潜り込むがよい。やがてある日、新しい彗星を発見するか、劉歆が劉向の息子ではないと知った後、飛び出して救国しようとする時には、先覚者は「杳として黄鶴の如し」で、あちこち探し回ると、おそらく芝居小屋で見つかるだろう。もうあの「小さなお坊ちゃん、うーん!なあ、ああ、ああ、ああ!」を軽蔑するなかれ——これは芸術なのだ。「人類は理知の動物であるだけではない」そうで、「あらゆる方面で十分に発達した人こそ完全な人」なのだそうだ。学者が芝居小屋にいるのは「感情の方面で種々の美を求めている」のだ。「束髪の少年」が先生になり、研究室から飛び出し、救国の資格も少しはできたかもしれないが、思いがけず精神のあらゆる方面で十分に発達していない畸形物であったとは、まことに哀れ哀れ。
伏園の手紙によると、副刊は十二月に開始するそうで、それなら彼は学校に戻った後、二、三週間でまた行かねばならない。それもまたよかろう。
 
  
 
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では、すぐに夜芝居を観に行き、種々の美を求めたらどうか。誰にわかろう。おそらく学者はもう芝居小屋を出て、学説もそれに伴って長進(俗に変化と言うが、そうではない)しているだろう。
  
 
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ショーペンハウアー先生は厭世で一時名を馳せたが、近頃中国の紳士諸氏はもっぱら彼の『婦人論』を賞玩している。なるほど、彼の女性罵倒は紳士諸氏の嗜好に合うが、他の言葉には我々にはいささかそぐわないものが実に多い。例えば『読書と書籍』の中で、こう言っている。「我々が読んでいる時、他人が我々の代わりに考えている。我々はただこの人の心の過程を反復しているに過ぎない。……しかし本来的に言えば、読書の際、我々の脳はもはや自らの活動の場ではない。これは他人の思想の戦場なのだ。」しかし我々の学者文人こそ、まさにこのような戦場を——老練でない青年の脳髄を——必要としている。だがこの上で他の強敵と戦うのではなく、今日の我が昨日の我を打ち、「道義」の手が「公理」の頬を打つのだ——俗に言えば、自分で自分の頬を打つのだ。このような戦場にされた者に、事の次第がわかるはずもない。
十一月一日午後。
 
  
 
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=== 第36節 ===
  
 
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この一ヶ月、どういうわけかまた何人かの学者文人あるいは批評家が魂を失ったかのようになった。まるで先月末にやっと母胎から出たばかりで、民国十四年十二月以前のことなど何も知らないかのようだ。女師大の学生が占拠されていた元の校舎に帰るや否や、これを引き合いに出して、張ひげか李ひげが「兵を派遣して百人二百人の学生を送り込み、二千三千の学生の北大を占拠できる」と言う者がいた。もしそうなら、北大の学生はまさに一斉に立ち上がって女師大を撲滅し、張某や李某が前例に倣うのを防ぎ、母校の安全を確保すべきだ。しかし私の記憶では、北大はちょうど二十七周年記念を挙行したところで、その建学の歴史は、決して章士釗が張某や李某の率いる二百人の学生を引きずり出し、しかる後に北大を改立し、三千人を招いて人目を欺いたものではない。このような比附は、まさに青年の頭の上で転げ回っているようなものだ。夏の間は、「風潮を煽る」とも言えたかもしれない。しかし批評界もまた時に「州官の放火は許すが百姓の灯は許さぬ」のであって、それは天才が文壇にあるのと全く同じだ。
しかし私は今後の方針について、実にかなり迷っている。つまり、文章を書くか、それとも教壇に立つか、ということだ。この二つは両立しないのだ。文を書くには情熱が要り、教壇に立つには冷静さが要る。両方を兼ねて、もし手を抜けば、両方とも油滑浅薄になる。もし両方とも真剣にやれば、一方では熱血沸騰させ、他方では心を平穏にさせるのだから、精神が疲弊しきって、結局やはり両方ともうまくいかない。外国を見ても、教授を兼ねた文学者はもともとごく稀だ。自分で考えるに、もし少し文章を書けば、中国にとって多少の益があるかもしれず、書かなければ惜しい。しかし中国文学に関するある研究に打ち込めば、おそらく他人が気づかなかったことをいくらか言えるだろうから、やめてしまうのも惜しいようだ。しかし思うに、やはり有益な文章を書く方がよく、研究は余暇にする。ただし付き合いが多くなると、それもまただめだ。
 
  
 
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学者文人には次のような特権があるのが最もよい——月々、時々、自分と自分が戦う、すなわち自分の頬を打つことだ。そうすれば凡人が知らずに、常人を例にとって、たかだか「閑話」一つすらまともに語れないと誤解するのを免れよう。
ここは最近かなり寒く、袷の長袍が着られ、夜は綿の背心を足してもよい。私は元気で、食欲は通常通りだが、おかずはやはり美味くない。ここではどうしようもない。講義録はもう全部で五篇仕上げた。明日からは季刊の論文に取りかかるつもりだ。
 
  
 
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(十二月二十二日。)
  
 
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【「公理」の見世物】
迅。十一月一日灯下。
 
  
 
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昨年春以来、北京女子師範大学で校長楊蔭楡に対する反対事件があり、その後、同校長が太平湖飯店で客を招いた後、勝手に学生自治会員六名を除名する事件があった。警察と荒くれ者を蜂のように校内に引き入れる事件があった。教育総長章士釗が復帰するや、非合法に学校を解散する事件があった。司長劉百昭がならず者と女乞食を雇って学生を校外に殴り追い出し、補習所の空き家に閉じ込める事件があった。あわてふためき、急いで女子大学の看板を掲げて天下の耳目を欺こうとする事件があった。胡敦復が火事場泥棒をし、女大の校長の椀を奪い取り、章士釗の世人を欺く手助けをする事件があった。女師大の多くの教職員——私は特に申し明かす、全員ではない!——は元来、章氏と楊氏の措置を非とし、また学生の罪なくして虐げられ、故なくして学を失うことを痛み、校務維持会の組織はますます堅固になった。私はまずこの学校の一講師であり、暗黒残虐の有様を多く目撃した。後にはこの会の一委員となり、女師大が宗帽胡同に自ら校舎を借りてからも章士釗がなお百方に圧迫を加える苦痛をも、おおむね親しく経験した。章氏の勢焔が天を焦がしていた時、私もこの首善の区を見渡して、いわゆる「公理」「道義」の類を求めたが得られなかった。そして今突然現れたいわゆる「教育界の名流」なる者は、あの時は鴉雀の声もなく、甚だしきは肉麻極まりない上申書を捧げて功徳を讃えたほどだ。しかしこの一点については、章氏が兵警を使嗾して痛打させる威を畏れたためか、金銭の分け前を貪ったためか、あるいは真に彼を「公理」や「道義」等の具象的化身と見なしたためか、私にはやはり判じかねる。しかし、章氏が逃走し、女師大が復校した後、いわゆる「公理」なる代物を、私は突然、間接的に、女子大学が撷英館で「北京教育界名流及び女大学生の保護者」を宴請した席上で見出したのである。
  
 
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十二月十六日の『北京晩報』によれば、「名流」の一部が十四日夕六時にあの撷英番菜館で開会したという。飯を奢る者、飯を食いに行く者、中国では一日にどれほどいるか知れず、本来私には関係ないが、楊蔭楡も太平湖飯店で人に飯を奢るのが好きだったという旧事を思い出させた。しかし私の注意を引いたのは、この宴席から「教育界公理維持会」が生まれ、この会がまた「国立女子大学後援会」に変じ、この会がまた「国立各校教職員連席会議宛書簡」を発したことで、その声勢は盛大であり、いわく「当該校において暴徒に与し、自ら人格を貶めた教職員は、豺虎に投じ得ずとも、席外に退け、伍を為すなかれ」と。彼らのいう「暴徒」とは、すなわち劉百昭のいう「土匪」であり、官僚と名流、口吻は一にして、局外から見れば、ただ滑稽でしかない。そして私は女師大維持会の一員であり、また女師大の教員であるから、人格に関わることであり、当然抗議の権利がある。抗議のみか。「虎に投ずる」「席を割く」、「名流」の薫灼の態はここに至り、たとえ罵声をもって報いても過ぎたことではない。しかしそこまでする必要もなく、ただこの「名流」なるものが一体何であるかを見れば、もう十分だ。新聞と書簡に名簿がある——
三十四
 
  
 
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=== 第37節 ===
  
 
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一、徐旭生先生の第一回返信中に引用された言葉は、ZM君が『京報副刊』(十四年三月八日)に発表した一篇の文章からのものである。その時私はちょうど「青年必読書」への回答で「文章が書けないことなど大したことか」と述べたために、数人の青年の攻撃を受けていた。ZM君が講堂での私の口述を発表したのは、おそらく私の意図を明かし、窮地から救おうとしたのだろう。ここにその一部を書き写す——
広平兄:
 
  
 
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「多くの名士学者が我々に示した必読書目を読み、少なからぬ感想が湧いた。だが最も私を打ったのは魯迅先生の二句の附注だった。……この数言から、彼が語った笑い話を思い出した。彼はこう言ったようだ。『話すことと文章を書くことは、どうやら敗者の徴のようだ。運命と死闘中の者にはそんな余裕はない。真に実力ある勝者もまた多くは沈黙する。鷹が兎を掴む時、叫ぶのは兎であって鷹ではない。猫が鼠を捕る時、鳴くのは鼠であって猫ではない。……また楚の覇王も……追奔逐北の時は何も語らない。詩人の風を装い酒を飲み歌う時には、もう兵敗勢窮、死の日が迫っている。最近では呉佩孚名士の「かの西山に登り、かの詩を賦す」、斉燮元先生の「銃を下ろし、筆を取る」がさらに明白な例だ。』」
昨日手紙を出したばかりで、今は特に言うこともないが、些細な暇つぶしの話を気ままに書こう。またぶらぶらしている――この数日はあまり勉強せず、遊んでいる方が多い――ので、適当に書き連ねる。
 
  
 
+
二、ここ数年、学生が横暴だという話をよく聞く。老先生だけでなく、出たばかりの小官吏や教員までそう言う。しかし私はそうは感じない。革命以前を思えば、社会は今ほど学生を憎まず、学生もこれほど馴順ではなかった。態度だけでも傲然として人混みの中で一目でわかった。今はすっかり変わり、長袍大袖、温文爾雅、古の読書人のようだ。私もある大学の講堂でこれに触れ、最後にこう言った——実のところ今の学生は馴良である、馴良に過ぎるとさえ言えるかもしれない……と。武者君が『京報副刊』(約十四年五月初)に発表した『温良』で引いたのが、この時の私の言葉だ。私はこれがきっかけで『忽然想到』第七篇を書いた。その中の例は、一つは数年前「売国奴」と呼ばれた者の子弟が同級生にひどく唾罵されたこと、もう一つは当時の女子師範大学の学生が同性の校長に男性職員を使って威嚇されていたことだ。私が女師大の騒動について発言したのはこれが最初で、十日後に「壁にぶつかり」、さらに十日後に陳源教授が『現代評論』に「流言」を発表した。半年後、『晨報副刊』(十五年一月三十日)掲載の陳源教授から徐志摩への書簡によれば、「事実を捏造し流言を散布した」のはかえって私だということになっていた。世事は白雲蒼狗、感慨に堪えぬ。
今日一篇の投稿を受け取った。上海大学の曹軼欧からので、その中に、私が北京で洋布の大きな上着を着て通りを歩いている話があり、下に注がある。「これは私の友人P.京のH.M.女子学校の学生が直接私に話したことです」と。P.はもちろん北京だが、あの学校名が奇妙で、どうしてもどこの学校か思い出せない。まさか女子師範大学で、我々が使っているのと同じ意味なのだろうか。
 
  
 
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また『「公理」の見世物』で楊蔭楡女史が「太平湖飯店で客を招いた後、学生自治会員六名を除名した」と書いたが、場所は誤りで、後に知ったところでは西長安街の西安飯店だった。五月二十一日、我々が「壁にぶつかった」あの日に場所が変わり、「学校から全主任・専任教員・評議会会員を太平湖飯店に招き校務緊急会議を開いた」のだった。宴席の場所は本来さしたることではないが、「すべての批評は学理と事実に基づく」と自称する「文士」学者からすれば、これも「事実の捏造」であり、私の言うことには一句の真実もなく、楊蔭楡女史さえ存在しない私の空想だと証明されよう。甚だ具合が悪いので急いで訂正し、「桑楡に収めん」とする。
今日もう一つ分かったことがある。ある留学生が東京で私の代理を名乗り、塩谷温氏を訪ねて、彼が印刷した『三国志平話』を求めた。しかし本はまだ製本が済んでおらず、持って行けなかった。彼は将来塩谷氏が直接私に送って話がばれるのを恐れ、C.T.に託して私に手紙を書かせ、彼を代理として追認してくれと頼んでいる。さもないと「中国人の名誉」に関わると言うのだ。見たまえ、「中国人の名誉」が、彼と私の嘘の上に成り立つとは。
 
  
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一九二六年二月十五日校了記す。依然として緑林書屋の東壁の下にて。
  
=== 第80節 ===
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【一九二八年】
  
今日もう一つ分かったことがある。以前、朱山根が国学院に一人推薦しようとしたが、うまくいかなかった。今その人がついにやって来て、南普陀寺に住んでいる。なぜあそこに住むことになったのか。伏園がその寺の仏学院で数時間の授業を持っており(月給五十元)、今は人に代わりを頼んでいるが、彼らはこのポジションを奪おうとしているのだ。昨日から、山根は大いに宣伝工作を展開し始めた。伏園は休暇がすでに終わった(実はまだ終わっていない)のに来ないのは、あちらですでに就職したからで、もう来ないのだと言っている。今日はまた別のスパイを私のところに送ってきて、伏園の消息を探らせた。私は思わず笑ってしまい、神出鬼没の答え方をした。来ないようでもあり、来ないのではないようでもあり、しかもすぐにも来るかのようで、結局相手は訳が分からなくなって帰って行った。「現代」派の手先がこれほど陰険で、あらゆる隙に入り込んでくるとは、実に恐ろしく厭わしい。しかし思うに、これは本当に対処が難しい。例えば私がこの連中と渡り合おうとすれば、他の仕事を全部放り出して、別の心機を用いなければならない。本業を荒廃させ、得られる成果は知れたものだ。「現代」派の学者が一人残らず浅薄なのは、まさにこの種の下劣な事に心を分散させているからなのだ。
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【「酔眼」の中の朦朧】
  
 
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旧暦と新暦の今年は上海の文芸家に格別の刺激を与えたようで、二つの正月が過ぎるや定期刊行物が続々出現した。彼らはおおむね全力を偉大もしくは尊厳な名称に注ぎ、内容を圧殺する。一年以上続く刊物にさえ必死のあがきと突然変異が見える。著者は初見の名が幾つかあるが多くはなじみで、時にいくぶん見慣れぬ感じは半年一年筆を擱いていたためだ。以前何をし、なぜ今年一斉に筆を執ったか。語れば話は長い。要するに以前は筆を執らずに済んだが今はやむなく執らねばならず、旧来の無聊な文人、文人の無聊と寸分変わらぬ。皆がいくぶん自覚しているから、読者に「将来」を宣言する。「出国」か「研究室に入る」か「大衆を獲得する」か。功業は目前になく、帰国し研究室を出て大衆を得た暁には大変なことになる。遠見のある人、慎重な人は今のうちに「革命的敬礼」を呈するのが最善だ。「将来」に至れば「悔いても遅い」。
  
 
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しかし各種の刊物は措辞がいかに異なろうと一つの共通点がある。いくぶん朦朧としていることだ。この朦朧の発祥地は、私の見るところ——馮乃超のいう「酔眼陶然」ではあるが——やはり人に愛されも憎まれもするあの官僚と軍閥にある。彼らと瓜葛のある者、持ちたい者は筆致がにこやかで皆に愛想よく先見の明を見せるが、夢の中で鉄槌と鎌を恐れ、現在の主人を明白に讃えられず、ここに朦朧が残る。瓜葛が断たれた者、もともとない大衆に向かう者は本来遠慮なく語れるが、彼らの指揮刀を忘れる馬鹿はそう多くなく、ここにも朦朧が残る。朦朧を装いながら色彩を漏らす者と、色彩を示しながら朦朧を免れぬ者が同時同所に出現した。
迅。十一月三日大風の夜。
 
  
 
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朦朧はさほど大事ではない。最も革命的な国でも文芸は朦朧を帯びる。しかし革命者は自己批判を恐れず、明瞭に知り明言する。ただ中国だけが特殊で、人に倣いトルストイを「卑汚な説教者」と呼べても、中国の「目下の状況」には「社会の各方面が暗雲密布の勢力の支配を受けている」と感じるだけで、彼の「政府の暴力を剥ぎ裁判行政の喜劇の仮面を剥ぐ」勇気の何分の一もない。人道主義の不徹底を知りながら、「殺人草を薙ぐが如く」の時にあって人道主義的抗争すらない。剥ぎ取りも抗争も「咬文嚼字」に過ぎず「直接行動」ではない。文筆の人に直接行動は求めない。おおむね文筆しかできぬことを知っている。
  
 
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=== 第38節 ===
十月三十日の手紙は今日届いた。馬がまた癇癪を起こそうとしているが、私にはどうしようもない。こうなったらいっそ一度片付けてしまう方が、毎日対処して労して功なしよりはるかにましだ。芝居の演目を見ろと言うのなら、見よう。ここでは演目しか見られないのだから。ただ、あまり力尽き疲れ果てるほどにはしないでほしい。一度では回復できなくなる。
 
  
 
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というのは今回、作者が北方の景物——人と天然の苦闘がもたらした景物——に対しさらに争闘を加えていることを見出したからだ。彼は時に自らが本来持つ明麗をもって黄塵を照らし破る。少なくとも「歓喜」(Joy)の萌芽が感じられた。脇腹の槍傷のように血は流れているが、荊冠の上には天使の——彼自身が言うところの——唇がある。いずれにせよ、これは勝利だ。
今日、中大から伏園宛の手紙が届いた。それなら彼はすでに広州を離れたが、まだ着いていない。おそらく汕頭か福州に立ち寄って見物しているのだろう。彼が発ってから手紙を二通くれたが、私のことには一字も触れていない。今日、中大の試験委員の名簿を見たが、文科には人が大勢おり、彼もいる。郭沫若、郁達夫もいる。それなら私が行くかどうかもそう大した問題ではなさそうで、急いで駆けつける必要もない。
 
  
 
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後に描かれた爽朗な江浙の風景、熱烈な広東の風景はむしろ作者の本領だ。北方の風景と対照すれば、筆を揮う際の熟知と歓喜がわかる。久しぶりの旧友に会ったかのようだ。しかし私はむしろ黄塵を眺めるのが好きだ。明麗な心を抱く作者が、人と天然の苦闘の古戦場にいかに驚き、自ら戦闘に加わったかが見えるからだ。
私が使っている使用人の件は、話せば長くなる。来た当初は確かによかったし、今もおそらくまだ悪くはないだろう。しかし伏園が彼の友人にみなの賄い飯を請け負わせてからは、彼はとても忙しくなり、あまり姿を見せなくなった。その後、友人の方は何人かの者がなかなか金を払おうとしなかったため(これは使用人の話だが)、怒って去った。何人かはそれで終わりにしたが、まだ何人かは使用人に引き継がせようとした。伏園が始めたことなので、私も禁じようがなく、一人一人当たって別の人を探すよう勧めることもできない。今この使用人は忙しく、金が足りず、私の食費も彼の給料も一月以上前払いしている上、伏園は立つ際に「自分がいない間も食費は払い続ける」と宣言した。しかし口約束だけで、今ではこの勘定も私に請求が来る。私はもともとこういう些事の管理が不得手で、しょっちゅう目が回る。これらの立替金や前払い金は、言うまでもなく回収できない。だから十月のひと月で、私は毎朝洗面の水一盆と食事二回のために、大洋約五十元も要した。こんな高い使用人を使い続けられるものか。鈴を解くにはなお鈴をつけた者に頼らねばならない。だから今度伏園が戻ったら、事の始末をきちんとつけさせる。さもなくば、もう人を雇わないことにするしかあるまい。
 
  
 
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中国の全土は疎通されねばならない。将来割拠に至らなければ、歴史を背負い黄塵を払い去る青年の中国の彩色は、まずこのようなものだと思う。
明日が季刊の原稿締切なので、昨晩手紙を一枚書いた後、すぐに原稿に取りかかった。別のものを研究する気にはなれず、以前やったものをあちこちから抜き書きし寄せ集めて、深夜までかかり、さらに今日の午前中で仕上げた。四千字で、さほど骨は折れなかった。これでまた数日遊べる。
 
  
 
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(一九二八年三月十四日夜、上海にて。)
ここではもう綿のチョッキが着られ、広州より寒いようだ。以前、兼士と一緒に市街に行った時、彼が肝油を買うのを見て、つられて私も一瓶買った。最近サナトゲンを飲み終わり、試しに肝油を飲んでいるが、この数日食欲が次第に出てきたような気がする。もう数日試してみて、将来はあるいはこの肝油(麦精の、すなわち「パルタ」)に替えるかもしれない。
 
  
 
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【上海における魯迅の声明】
  
 
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およそ一ヶ月余り前、開明書店を経てM女史の手紙が届いた。「一月十日に杭州の孤山でお別れして以来、ずいぶんお会いしていません。お時間のある折にご通信やご指導を……。」
迅。十一月四日灯下。
 
  
 
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私は返信で杭州には十年近く行っておらず孤山で別れるなどあり得ない、別人だと説明した。M女史と二人の同窓が訪ね三者の証言で別の「魯迅」と判明。さらに曼殊上人の墓傍に題された詩を見せてくれた——
  
 
+
「我来たりて君寂たる居に、誰が魂を醒まさん。漂萍山林の跡、他年を待ちて公に随い去かん。魯迅杭州に遊ぶ 旧友を弔う 曼殊の句 一、一〇、十七年。」
三十五
 
  
 
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杭州のH君に手紙で問い合わせた。返事でそのような人物が城外で教えていると。姓は周、『彷徨』を著し八万部売れたが満足せず遠からず良いものを出すと語っていると。
  
 
+
もう一人の「魯迅」がいてもどうしようもない。自叙は大半が私と同じでいくぶん困惑する。詩の拙さは措くとしても、勝手に曼殊に「随い去かん」と言うのは横暴だ。「去る」はいつか来るが曼殊に「随う」など夢にも思わぬ。しかしこれは些事で、恐れ入るのは「指導」の約束の類。
広平兄:
 
  
 
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上海に来て「書店を開く」「杭州に遊んだ」と新聞に書かれたが、実際は二階で翻訳しているだけ。車も引けず無煙火薬も学ばず筆で糊口を凌ぐしかない。「先駆者」と持ち上げられ「落伍者」と押される。自業自得で勝手にしろ。しかしもう一人が代わりに説教し詩を題し全部私が背負うとなると翻訳の暇もない。
昨日午前に手紙を一通出したが、もう届いただろう。午後に伏園が戻ってきた。学校の件については何も言わず、聞き出した結果分かったのは、(一)学校は私に教えに来てほしいと思っているが、辞令はないこと。(二)上遂の件はまだ結果が出ておらず、最後の返事は「何とかする方法はある」というものだったこと。(三)伏園自身は副刊の編集のほか、教授にもなり、すでに辞令があること。(四)学校はまた別の何人かに電報で招聘しており、「現代」派もその中にいること。こう見ると、私の去就は今後の状況を見て決めるべきだが、少なくとも旧暦の年末休暇には一度行ってみるつもりだ。ここは陽暦は数日しか休まないが、旧暦は三週間ある。
 
  
 
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声明を出す。私のほかに今年少なくとも一人「魯迅」がいる。しかしその言動は『彷徨』を出したが八万部に至らなかった魯迅とは無関係だ。
李逄吉から以前手紙が来て、友人を訪ねたが会えず、私に紹介を手配してくれと言うので、陳惺農への紹介状を一通送った。それきり音沙汰がない。今回伏園が途中で彼に会ったと言い、彼は早くから中大で職員をしていたそうだ。しかも陳には会いに行かなかったという。これらの事は本当にどうなっているのか、夢を見ているようだ。彼から手紙が一通来たが、なぜ陳に会いに行かなかったかには一切触れず、ただ私が広州に行けば創造社の人々が大いに喜ぶ云々と書いてあり、どうやら彼らと一緒にいるらしい。本当に訳が分からない。
 
  
 
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(三月二十七日、上海。)
伏園がスターフルーツを持って帰ってきたので、昨晩食べてみた。味はそう大したことはないと思うが、汁が多いのは取り柄で、最もよいのはあの香りで、あらゆる果物の上を行く。また「桂花蝉」(タガメ)と「龍蝨」(ゲンゴロウ)もあるが、見た目はなかなか立派なのに、誰一人食べる勇気がない。厦門にもこの二つはあるが、食べない。君は食べたことがあるか。どんな味だ。
 
  
 
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【文芸と革命】
以上は午前中に書いた。書いているうちに、外の小さな食堂に食事に行かねばならなくなった。使用人が賄い飯をやめたからだ。本校の厨房が自分を殴ろうとするのだと言うが(これは彼の言い分で、真偽は分からない)、ここでは一口の飯を食べるにもこれほど面倒なのだ。食堂で容肇祖(東莞の人、本校の講師)とその広東語しか話さない奥さんに会った。桂花蝉の類について、夫婦の意見は食い違い、容は美味いと言い、奥さんは不味いと言う。
 
  
 
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来信
  
 
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魯迅先生、
六日灯下。
 
  
 
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『新聞報』の「学海」欄で先生の講演『文学と政治の分岐路』を読みました。文学者と政治家の乖離は政治家が目前の安寧に満足するところにあり、鋭敏な文学者から見れば同じく愚昧で不徹底、失望を表明し政治家に忌まれ窮迫のうちに生涯を終えると。世界各国の定例です。『語糸』で『民衆主義と天才』と先生の『「酔眼」の中の朦朧』を読み、似て非なる平凡主義や革命文学の白日夢の朦朧を覚醒させるものだと感じます。少なくとも私にはそうです。
  
 
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文芸の思潮がいかに変わっても芸術に無限の価値等差が存在するのは否定し得ない。文芸の流れは最初から今まで内容が異なっても精緻熟練の才技で比類なき作品を成すことは同じ。長江は上流下流で形相は異なるが長江は長江だ。下流の広大深緩を見て灌漑に足り巨船を通すと知ると源流を忘れる。愚の極み。さらに「必要なのは下流、利用でき富を増やせる、上流は不要」と。経済的価値で全体を判断している。商人の口からなら怪しまぬが芸術的価値に着眼する文芸家からなら救いようがない。上流を芸術的価値で評すれば下流より自然で奇偉かもしれないのだから。
昨日からまた食事の問題が発生し、小さな食堂に行くかパンを買ってこなければならない。この種の問題を自分で始終気にかけていなければならないから、あまり落ち着けない。年末にはここをきっぱりと捨てることもできるのだが、躊躇しているのは、広州がここよりもっと煩わしいのではないかと恐れているからだ。私を知る人も多く、数日もすれば北京にいた時と同じくらい忙しくなるだろう。
 
  
 
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=== 第39節 ===
中大の給料は厦大より少ないが、これは私は気にしない。心配なのは授業時間が多いことで、聞くところでは週に最大十二時間にもなりうるという。しかも文章を書くことも絶対に免れられない。例えば伏園が編集する副刊には、投稿しないわけにはいかない。さらに他の事が加われば、私はまた薬を飲みながら文章を書かねばならなくなる。この数年、文学青年にかなり出会ってきたが、経験の結果として感じるのは、彼らは私に対して、大抵は使える時には全力で使い、詰責できる時には全力で詰責し、攻撃できる時にはもちろん全力で攻撃するということだ。だから私は進退去就に対して、かなり警戒心を持っている。これもまた頽廃の一端かもしれないが、環境が作り出したものでもあると思う。
 
  
 
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真と美は芸術作品の二大要素。最高等級に到達させるには最高級の天才に頼らねばならない。否定できるならなぜホメロス、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテを称讃するのか。なぜ同等の作品を創れぬのか。我々にも目も脳も手もある。
実は私にもいくらかの野心がある。広州に行ったら、「紳士」たちに対してやはり打撃を加えたい。最悪の場合でも北京に行けなくなるだけで、気にはしない。第二に、創造社と連合して戦線を築き、さらに旧社会に攻撃を仕掛けたい。私ももう少し文章を書こう。しかしどうしたものか、伏園が戻ってきて口ごもるのを見てからは、またこの考えを捨ててしまった。しかしこれもここ一、二日のことで、結局どうするかは、やはり今後の状況次第だ。
 
  
 
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人生を離れて芸術を語れば象牙の塔と嫌疑される。芸術を離れて人生を語るなら政治家や社会運動家であり芸術を論じる必要はない。革命に熱心な人は大衆に飛び込めばよい。なぜ文芸を安全で革命的な稼業にするのか。
今日は大風で、相変わらず食事のために走り回っている。また日曜日で、半日客の相手をし、退屈で目が回った。だから気分がよくない。愚痴を一くさりこぼしてしまった。心配しないでほしい。少し落ち着けばまたよくなる。
 
  
 
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多くの革命文芸家は「人生を表現する」を誤解している。十九世紀以来の文芸が現実の人生を表し時代精神を含むと考え、「象牙の塔」から覚めた文芸家は時代に追随すべきだと。イプセンの偉大、ドストエフスキーの深刻、エセーニンやゴーリキーの熱烈に打たれ、今後は生活現象を呪詛刻画し民衆的・革命的文芸にすべきだと。「世紀末」に生きる者は苦悶を感じないわけがない。文芸家は感覚がいくぶん鋭い。ありのままに書くと無意識に時代の声となる。しかし自己に忠実であり芸術と情知に忠実だ。イプセンやドストエフスキーが称讃されるのも特有の才技と批評者の闡揚あって初めてだ。理解できるのは少数だ。エセーニンは希望の碑に砕け、ゴーリキーはいくぶん灰色と聞く。芸術について彼も真摯精到の才技を崇ばないはずがない。不真摯な詩人を嘲った詩を読んだ。芸術的価値で量れば大した作家かなお疑問だ。
明日、本を一包み送るつもりだ。大したものはないが、自分で要らなければ人に分けてもよい。
 
  
 
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文芸家は社会を捨てない。民衆の中に立つ。テーヌの時代条件を否定する人物は文芸家は五十年先を見ると言う。五十年先を見ても時代に立ち生活環境を地盤とする。だから民衆の一員であり朦朧の中に残缺と破敗を見出す。熟練の才技で書き出し高い芸術的価値に達するまで創造する。おそらく精緻微妙にのみ心を砕き民衆を激動させることなど考えていない。
  
 
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芸術の独立の価値と芸術家の最終目的を認めるなら、芸術的価値を捨てて態度を指弾してはならない。芸術家の行為で作品を判断するのと同じく滑稽だ。ボードレールの詩は狂放でいささかも減じない。浅薄な者は蛇蠍と呪うが人生の厭棄は人生の渇慕の裏面だと知らない。人を嘲るにも深奥を観察せねば浮薄に見える。似て非なる基準で深奥も見ず尺度も捨てて攻撃するなど、愚かか別の意図か。今の中国文芸界は語るに値しない。
迅。十一月七日灯下。
 
  
 
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私は高級な文芸作品を読むのが好きで古いものも多い。懐古主義だと言われる。民衆文芸の天下、第四階級のための文芸だと。愕然として問うた。民衆文芸はどう書くか。どうやって民衆に玩味させるか。いくつ生まれたか。革命後の民衆で鑑賞できるのは何割か。新『三字経』や新『神童詩』が出版されたか。民衆化がどう化けるかわからない。内容なら民衆生活を表す文芸はある。技芸なら国民革命歌一曲で十分。「国民革命成功……皆で唱え……」何と雄壮明白。なぜ他が要るか。答えられず今に至る。やっと『民衆主義と天才』から答えを得た——
  
 
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=== 第40節 ===
昨日手紙で愚痴を一くさりこぼした後、『語糸』のために「厦門通信」を少し書いたので、愚痴は出し切り、ずっと楽になった。今日はまた料理人と賄いの契約をした。月十元で、料理はまあまあだ。おそらく半月か一月はしのげるだろう。
 
  
 
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「民衆芸術がいかに普遍性や平等性を主張しても芸術作品に無限の価値等差がある事実は否定し得ない。普遍性、平等性の意味は芸術の内容が民間生活や普遍的事象に関し一般民衆の玩味に供し得るということ。この普遍性と平等性は否定できないが、比較的高級な作品が民衆の玩味に供し得るとしても、すべてが一様に精緻、深刻、微妙に——絶対平等に——玩味し得るなどとは有り得ない。」
昨晩、玉堂が広東の状況を聞きに来たので、我々はここを放棄し、来春一緒に広州に行くよう勧めた。彼は少し考えてから言った。「来る時に条件を出して、学校が一つ一つ承諾した。どうして突然やめられよう」。彼はおそらくここを絶対に離れないだろう。しかし私の見るところ、今の一群の人物では、国学院には絶対に望みがない。せいぜい小手先の修繕をしながら、だらだら続けるだけだ。
 
  
 
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最も先進的な思想は最高層の少数者のみが理解し、大衆に浸透した時にはもう先進的ではないとかつて誰かが言った。衆生の大部分は感覚が鈍い。造物主の不公を呪う他に誰を恨めよう。事実だ。人類の進化史は一筆で抹消でき革命も起こり得ない。文化の推進は少数の先覚者に頼る。各人の才智が等しければ文化はとうに極致に達し大同だ。「螺旋式前進」も空言。芸術は文化の一部、例外ではない。民衆化の芸術は価値等差からすれば成り立たない。文芸で革命は寝言。
浙江の独立はとうに灰色だった。夏超は確かに死んだ。自分の兵に殺されたのだ。浙江の警備隊は全く役に立たなかった。今日の新聞を見ると、九江はすでに陥落し、周鳳岐(浙江兵の師団長)が降伏したとあり、ロイター電にも出ているから、確かだろう。孫伝芳の勢力はなお日に日に追い詰められているはずで、浙江にはまた何か変化があるかもしれないと思う。
 
  
 
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以上が私の考えです。
  
 
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一九二八年三月二十五日、冬芬。
L. S. 十一月八日午後。
 
  
 
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回信
  
 
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冬芬先生、
三十六
 
  
 
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私は批評家でも芸術家でもない。今日何かの「家」になるには批評を兼ねる一味が要る。少なくとも上海では。芸術家でないから芸術を崇高とも思わない。膏薬を売らねば拳も打たない。一つの社会現象、時代の記録に過ぎず、人類が進歩すれば陳腐になり滅亡する。近頃の批評家はこの二文字を恐れ文学で仙人になりたがる。
  
 
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文芸は人生から離れ得ないが追随する義務もない。そうでなければ作家の仕事は黄包車と同列だ。仕事を終えれば休む。結果は他人に「感興」を与えるが「創作の興」とは別で、inspireに相当し「感発」「鼓吹」。読者に向かっての話だ。作家には実生活がまずあり生活なくして芸術はない。芸術から芸術へは不可能。
広平兄:
 
  
 
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芸術は人生に追随して変化する。度合いは人により上下あるが大体は時代と推移する。イズムは要らず自然にそうなる。時代精神と文芸は相互に関連する。
昨日午前に本を一包みと手紙を一通出したが、午後にはもう五日の手紙を受け取った。もし手紙が来るのを待ってから書けば、おそらく何日も空いてしまうだろう。だからいっそ一筆したためて明日出すことにする。前の手紙と続けて届くか、一緒に届くかは、なるがままに任せよう。
 
  
 
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文芸家は社会改革者とは限らない。観察は深いが態度は消極的。あるのは「絶望の抗戦」。文芸を変革の道具にするのは買い被り。
学校に対してもそうするしかない。しかし最近はどうだ。忙しければ詳しく書く必要はない。私もそう気にかけてはいないからだ。状況はすでに楊蔭楡の時とは違う。
 
  
 
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十九世紀以来の文芸が人生への叛逆を帯びたのは忠実に反映した結果。叛逆者は叛逆を表し圧迫者は圧迫を粉飾する。
伏園はすでに厦門に戻り、おそらく十二月中にまた行くだろう。逄吉は伏園に託して、曖昧な手紙を一通寄こしただけだが、私はもう推測がつく。前の手紙で広州に知人がいないと言ったのは嘘だ。『語糸』第百一号に徐耀辰が書いた「南行する愛而君を送る」の中のLがまさに彼で、彼に何通もの手紙を書いて知人(=創造社の人々)に紹介してやったのだから、彼が創造社の人々と一緒にいるのは当然だ。偶然伏園に出くわしたのは予想外のことで、だから私に対しては口ごもるしかなかったのだ。「正直」かどうか、研究の余地がある。
 
  
 
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芸術の独立の価値と天才を認めるのは嬉しい。しかし芸術至上主義ではない。天才も人間で時代の中に生きる。先を見通すが半歩先であって超越ではない。
突然匿名で罵りの手紙を送ってきたかと思えば、突然また自ら取り消しに来た烏文光もまた彼と一緒におり、他にも面識があると称する人々がいる。私はこの数日、広州に教えに行く件について、かなり躊躇するようになった。状況が北京にいた時と似通うのではないかと恐れている。厦門にはもちろん長くはいられないし、他に行く場所もなく、実にいくらか焦燥を覚える。私は実はまだ前線に立つ覚悟はある。しかし面と向かって「同志」を称しながら、陰では私を操り人形にし、背後から銃撃してくる者がいると分かった時、敵に傷つけられるよりもっと悲しい。私の生命は、人の原稿の手直し、原稿の閲覧、本の編集、校正、付き合いといった事柄にすでに随分と細切れにされてきた。そしてある者たちはそのことで主人面をし、少しでも意に沿わなければ非難が噴出する。今後はもうこの轍を踏むまいと強く思う。
 
  
 
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中国の文芸はまだ揺籃期。真の批評も創作も少ない。革命文学も看板だけで作品はないが社会的関心を喚起した。騒がしくとも沈黙よりまし。
またしても愚痴が出てしまった。今回の愚痴はいくらか長く、もう二、三日続いているが、明日か明後日には治まると思う。心配は無用だ。
 
  
 
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四月、上海にて。
ここは相変わらず以前と同じで、特に変わったことはない。ただ漳州には民軍がまもなく入城するらしいと聞く。九江の陥落は相当確かだろう。昨日またある消息を耳にした。陳儀が浙江に入った後、独立したとのことで、私は大いに喜んだ。しかし今日はその続報がなく、あと数日しないと真偽が分からない。
 
  
 
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=== 第41節 ===
中国人の学生がイタリア語を学んで北方政府に媚びを売り、まだ「ファシスト党」だのと言っているとは、笑止千万、憎むべきことだ。他の者はもっと太い棒で殴り返せないのか。伏園が戻って来て話した広州の学生の状況は、実に意外だった。
 
  
 
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惜しくもいささか遅れたが創造社は一昨年株式募集、昨年弁護士、今年「革命文学」の旗を掲げた。成仿吾は「芸術の宮」を離れ「大衆を獲得」しに行き「最後の勝利を保障する」と。この飛躍は必然。文芸に携わる者は鋭敏で没落を感じ備える。大海に漂い必死にしがみつく。表現主義、ダダイズム等の興亡がその消息。今は大時代、動揺、転換の時代。中国の外では階級対立が鋭利化し農工大衆が重みを増す。没落から救うなら彼らの方に。「小資産階級に二つの魂がある」。
  
 
+
中国では萌芽で新奇、先進国では平常。将来は労働者の天下と見定める者、弱者を助ける者、両方が作用する者。恐怖か良心か。成仿吾は小資産階級の根性克服を教え「大衆」を「給与」と「維持」の材料に。文の後に問題——
迅。十一月九日灯下。
 
  
 
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「最後の勝利の保障が難しいなら行くのか。」
  
 
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今年の『文化批判』の李初梨の方がまし。無産階級文学を主張し無産者自身は不要。「無産階級の意識による闘争の文学」でよいと。端的爽快。しかし「語糸派」を見ると「魯迅は第何階級か」と問う。
三十七
 
  
 
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成仿吾に判定されている。「矜持は『閑暇、閑暇、第三の閑暇』、有閑の資産階級か太鼓の中の小資産階級。十万両の無煙火薬で爆破されねば永遠にこう暮らす。」
  
 
+
批判者が「否定の否定」を施し「大衆を獲得」しようとする時「十万両」を夢想し私を「資産階級」に(「閑があれば金がある」)。危殆を覚えた。李初梨が「いかなる階級でも参加し得るが動機を審査」。少し安堵したが私には階級を問う。無一文なら「参加」できるが「動機」を問われる。最も肝心は「無産階級の階級意識を獲得する」——「大衆を獲得」だけでは不足。堂々巡りゆえ李初梨に「芸術の武器から武器の芸術へ」、成仿吾に「十万両」蓄積を任せ、私は「趣味」を語る。
広平兄:
 
  
 
+
成仿吾の「閑暇、閑暇、第三の閑暇」は面白い。「第一は冷静、第二は冷静、第三もまた冷静」が革命的批評家の記憶を斧で割り「閑暇」も三つに。四つか二つなら「アウフヘーベン」されなかったろうがちょうど三つ。先の罪は「否定の否定」と帳消しだろう。
十日に手紙を一通出し、翌日には七日の手紙を受け取った。少し怠けたせいで、今日になってようやく返事を書いている。
 
  
 
+
創造派は「革命のための文学」だから文学を要す。「芸術の武器から武器の芸術へ」進み「武器の芸術」に至れば「彷徨者は同意者に、反対者は彷徨者に変わる」。
甥への援助については、君の言葉が正しい。私の憤激の言葉は多く、時には「寧ろ我れ人に背くとも、人をして我れに背かしむる勿れ」とまで言いかねない。しかし自分でもしばしば行き過ぎだと感じるし、実際の行動はあるいは言葉とは正反対かもしれない。人は他人をみな悪人として見ることもできない。助けられるなら助けるべきだが、ただ「力を量って」、命を削らないようにするのがよい。
 
  
 
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問い——なぜ直ちに「武器の芸術」に至らないか。
「がむしゃら」の問題は、もうよく覚えていないが、おそらく「事に首を突っ込む」ことを指しているのだろう。上半期まだ首を突っ込まざるを得なかったのは、誰かに絡まれたからではなく、北京にいてはそうせざるを得なかったのだ。例えば芝居の舞台の前に押しかけられて、見たくないのに引き下がるのは容易ではないようなものだ。他人を中心にしないというのも言いにくい。一人の人間の中心は必ずしも自分にあるとは限らず、時には他人がその人の中心になることもある。だから人のためと言いつつ実は自分のためであり、「自分で決められない」ことも往々にしてあるのだ。
 
  
 
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「有産者の蘇秦の遊説」めくが「無産者がまだ解放されていない」うちは起こる問い。徹底的主張は疑わしい萌芽を含む。答え——
以前、北京で文学青年のために雑用をして命を削ったことは、自分でも分かっている。しかしここに来て、何人かの学生が『波艇』という月刊を始め、私はやはりまた雑用係をしている。これも上述の、何人かの悪人に出会ったからといって人をみな悪人として見ることはできないという意味だ。しかし以前私を利用した人々は、今や私が旗を倒し海辺に隠遁してもう利用できなくなったのを見て、攻撃を始めた。長虹は『狂飆』第五号で力の限り攻撃し、私と百回は会っていると自称し、よく知っていると言い、多くの会話を捏造している(私が郭沫若を罵ったと言うなど)。その意図は『莽原』を打倒し、一方で『狂飆』の販売を伸ばすことにあり、結局はやはり利用なのだが、方法が違うだけだ。当時の彼らの私に対する種々の利用を、私は承知していた。しかし、生きている間は血を吸えないと分かると、殺して煮て食おうとするとは、これほどの悪意があろうとはさすがに見通せなかった。今はとりあえず放っておいて、彼の手管がどこまで発揮されるか見よう。要するに彼は「百回以上会った」という仮面を被り、今それを脱いだのだから、私はよく見てやらねばなるまい。
 
  
 
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あちらに「武器の芸術」があるからこちらは「芸術の武器」のみ。
学校のことはどうか。暇が少なければ、簡潔に一言知らせてくれればよい。私はすでに中大の辞令を受け取った。月給二百八十元、期限なしだ。おそらくの計画は教授による大学自治で、軍閥の御用でない者には期限を設けないということらしい。しかし私の去就は、まだしばらく決められない。ここの空気は悪いから、もちろん長く居たくはないが、広州に行くにも合わない点がいくつかある。(一)私は行政方面には元来無関心で、大学運営は得意とするところではない。(二)政府が武昌に移ると聞くが、そうなれば知人の多くは広東を離れ、私一人が「外省人」として校内に残ることになり、おそらく面白くはあるまい。しかも(三)私の一人の友人が、あるいは汕頭に行くかもしれない。それなら広州に行っても、厦門にいるのと何が違おう。だから結局どうするかは、状況を見て決める。幸い開学はまだ来年三月初めだから、考える余裕は十分にある。
 
  
 
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=== 第42節 ===
静かな夜に過去の経験を振り返ると、今の社会は大抵、利用できる時には全力で利用し、打撃できる時には全力で打撃する。自分に利さえあれば、というものだと感じる。北京であれほど忙しく、来客が絶えなかったのに、段祺瑞や章士釗らの圧迫を受けたとたん、原稿を返してくれと言い出す者がいて、選定も序文も要らないと言う。甚だしきは機に乗じて石を投げ、私が彼に食事をおごったことまで罪状にする。それは私が彼を抱き込もうとしたのだと。良いお茶を飲ませたことも罪状にする。私の贅沢の確たる証拠だと。自分の浮沈を借りて人々の表情の変化を見るのは、なかなか有益で面白くもあるが、私の修養が浅すぎて、時にどうしてもいくらかの憤激を禁じ得ず、そのためまた今後の進路について迷うことがしばしばだ。(一)諦めて少しばかり金を貯め、将来は何もせず、一人で辛く暮らしていく。(二)もう自分を顧みず、人のために何かをする。将来腹が減っても構わないし、他人に罵られるのもなすがまま。(三)もう少し何かをして、もしいわゆる同志までもが背後から銃撃してくるなら、生存と復讐のために、どんなことでもやる覚悟だ。ただし友人を失いたくはない。第二の道はもう二年実行したが、ついに愚かだと悟った。第一の道は先に資本家の庇護を求めなければならず、おそらく耐えられない。最後の道はかなり危険で、(生活の)見通しもなく、しかもいささか忍びないところがある。だから本当に決心がつかない。そこで手紙を書いて友人と相談し、一条の光を与えてもらいたいと思ったのだ。
 
  
 
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芸術の武器はやむを得ず無抵抗の幻影から紙上の戦闘の夢に落ちた。革命的芸術家もこれで勇気を維持するしかない。芸術を犠牲にすれば革命的芸術家たり得ない。無産階級の陣営に座し「武器の鉄と火」を待つ。出現の際「武器の芸術」を取り出す。鉄と火の革命者に「閑暇」があり功勲を聴けるなら同等の戦士にもなれよう。最後の勝利。しかし文芸は論じ尽くせない。社会に多くの層があり先進国の史実がある。『文化批判』はシンクレアを、『創造月刊』はヴィニーを背負い「進軍」。
昨日も今日もここは雨で、少し涼しくなった。私は相変わらず元気で、それほど忙しくもない。
 
  
 
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「革命せざれば反革命」と言われず掃除で半片のパンにありつけるなら、八時間労働の暇に暗い部屋で『小説旧聞鈔』を抄録する。幾つかの国の文芸も語りたい。好きだから。恐れるのは成仿吾らがイリイチの如く「大衆を獲得」すること。貴族か皇帝に昇格させられ北極圏に流刑されよう。訳著の禁止は言うまでもない。
  
 
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遠からず大時代が来る。革命文学家と無産階級作家はやむなく「芸術の武器」を弄ぶが、「武器の芸術」を持つ非革命武学家もこの玩具で遊び始めた。にこやかな期刊がそれだ。手にする「武器の芸術」を自らも信じていまい。この最高の芸術は今誰の手にあるか。見つかれば中国の近い将来がわかる。
迅。十一月十五日灯下。
 
  
 
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(二月二十三日、上海。)
  
 
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【司徒喬君の画を観る】
三十八
 
  
 
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司徒喬君の姓名を知ったのは四五年前北京にいた時。課業にかまわず師も求めず自らの力で終日古廟、土山、廃屋、貧者、乞食を描いていると。
  
 
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南からの遊子の心を最も打つ。黄塵漫天の人間にあって万物が土色に染まり人は天然と争闘する。深紅と紺碧の棟宇、白石の欄干、金の仏像、厚い綿入れ、紫糖色の顔、深い皺。天然に屈服せぬ争闘。
広平兄:
 
  
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展覧会で中国人の天然に対する頑強な魂を見た。「四人の警察と一人の女」を手に入れた。「イエス・キリスト」を覚えている。女性の唇が荊冠に接吻していた。
  
=== 第81節 ===
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上海で再会し問うた——「あの女性は?」「天使です」と。満足できなかった。
  
十六日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。十二日発の手紙は今日届いた。学校の事は目途がついたようで、結構なことだ。一つの案件がようやく片付いた。君がこれからどこに行くかということになると、私には断言しにくい。初めて社会に出て各地を見て回り、経験を積むのは、もちろんよいことだ。しかしあまりに不慣れな場所に行くとか、兼任の仕事が多すぎるとか、小さなところで大将になるとかは、かえって益にならず、浅薄な政治屋の類になりかねない。君自身がなお広州にいたいのか、それとも離れなければならないのか分からないが、もし離れるつもりがないなら、伏園が来月中旬に広東に行くから、中大の女子学生指導員の類に空きがないか、彼はきっと紹介してくれるだろう。上遂の件も、彼に頼むつもりだ。
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=== 第43節 ===
  
 
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惜しくもいささか遅れたが創造社は一昨年株式募集、昨年弁護士を雇い、今年ようやく「革命文学」の旗幟を揚げた。復活した批評家成仿吾は「芸術の宮殿」の守護職を離れ「大衆を獲得」しに赴き革命文学家に「最後の勝利を保障する」と宣する。この飛躍は必然とも言えよう。文芸に身を投じる者はおおむね鋭敏で常に没落を察知しこれに備える。大海を漂流するが如く必死にしがみつく。二十世紀以降の表現主義やダダイズム等の興亡はその消息だ。今やすでに大時代、動揺の時代、転換の時代であり中国以外では階級対立が先鋭化し農工大衆が存在感を増している。没落から救い出すなら当然彼らのもとに行くべきだ。ましてや「小資産階級にはもとより二つの魂がある」。
曹軼欧はおそらく男子学生の偽名ではあるまい。返信の住所が女子寮だからだ。しかしこれらはみな問題ではない。放っておこう。孫中山の誕生日の催しは、彼本人とは無関係で、ただみなに見世物を提供しているだけだ。もし私なら、実に「死後の名より生前の一杯の酒」で、おそらく盛大な提灯行列すら催す気になるまい。しかしここでは、あまりにも活気がなく、坊主が自分で水陸道場を営み、老若男女が寺に参詣するばかりで、見ていると本当に気が抜ける。最近は印刷する本の序跋をいくつか書いただけだ。愚痴は多いが、少なからぬ本音がある。もう一篇、この五年間の私と各種の文学団体との関わりのあらましを記す文章を書きたいと思っているが、結局書くかどうか、まだ決めていない。本格的な学問に打ち込むのは難しい。ここではその必要もなく、またそういう場所でもない。国学院も見せかけにすぎず、実質は求められていない。教員の業績についてはしょっちゅう問い合わせてくるが、先週私は腹を立て、校長にこう言った。私はすでに古小説十巻を輯して整理してあるのだから、少し手を入れて出せばよい。学校がそんなに急ぐなら、月内に印刷に回す、それでよいだろうと。すると彼らはそれきり何も言わなくなった。原稿がなければ毎日催促するが、あれば実際には印刷する気などないのだ。
 
  
 
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この類の事柄は中国ではまだ萌芽段階で目新しいが先進国ではもはや平常のこと。将来は労働者の天下と見定めて駆け込む者、弱者の味方をする者、両者が交錯する者がある。恐怖か良心か。成仿吾は小資産階級の根性克服を教え「大衆」を「給与」と「維持」の材料にするが文の後に問題が残る——
この学校に残らないことはとうに決めていたが、時期が本学期末か来年の夏かは決めていなかった。今は遅くとも本学期末には去らなければならない。昨日、笑うべく嘆くべき事件があった。午後に教職員の懇親会があり、私は普段そういう会には出ないのだが、ある同僚が無理やり連れて行った。仕方なく行くと、なんと会場で演説する者がおり、まず校長が菓子を振る舞ってくれることに感謝し、次に教員がいかによい食事をし、いかに快適に暮らし、給料もこんなに多いのだから、大いに良心を発揮して死に物狂いで仕事すべきだと述べた。そして校長がこれほど我々を思いやってくれるのは、まさに父母のようだと……。私は飛び上がりそうになったが、すでに別の教員が前に出てこの男を反駁しており、気まずい雰囲気のまま散会した。
 
  
 
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もし「最後の勝利を保障」し難いなら行くのか行かぬのか。
さらに不思議なことがある。教員の中に、反駁した教員に対して不賛成の者がいたのだ。彼はこう言った。西洋では父子と友人にさほど違いはないから、誰と誰が父子のようだと言えば、誰と誰が友人のようだという意味にもなると。この人物は西洋留学帰りだが、西洋を見てきた結果がこの程度の大見識とは。
 
  
 
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今年の『文化批判』の李初梨の方がまだまし。無産階級文学を主張し無産者自身は書く必要なく「無産階級の意識をもって生み出された闘争の文学」でよいとする方がはるかに端的爽快だ。だが「語糸派」を見ると「魯迅は第何階級か」と問わずにはいられない。
昨日の懇親会は三回目だが、私は初めて出席した。男女別室で、別席どころではなかった。
 
  
 
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成仿吾に判定されている。「矜持するのは『閑暇、閑暇、第三の閑暇』。有閑の資産階級か太鼓の中の小資産階級。北京の烏煙瘴気が十万両の無煙火薬で吹き飛ばされぬ限り永遠にこう暮らす。」
金銭の下に生きる人々がこういうものだと今さら知った。断固去ることに決めた。ただしこの一件を口実にはしたくないので、なお学期末まで一つの区切りをつけるつもりだ。どこに行くかは一時に決められないが、いずれにせよ年末の休暇中に必ず広州に一度行く。たとえ飯の食い場所がなくても、厦門には断じてもう住まない。さらに最近、教員であることに突然嫌気がさし、学生にも近づきたくなくなった。ここの学生に会う時、自分でも熱意がなく、誠実でないと感じる。
 
  
 
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批判者が「否定の否定」を施し「大衆を獲得」しようとする時早くも「十万両の無煙火薬」を夢想し私を「資産階級」に押し込もうとしているらしい。いささか危険を覚えた。後に李初梨が「いかなる階級の人でも無産階級文学運動に参加し得る。ただし動機を審査せねばならない」と。少し安心したが私には階級を問う。「閑があれば金がある」。金がなければ第四階級で「参加」し得るが「動機」を問われる。最も肝要は「無産階級の階級意識を獲得する」こと。「大衆を獲得」だけでは済まない。纏わりが切れぬ以上、李初梨には「芸術の武器から武器の芸術へ」を、成仿吾には半租界で「十万両」蓄積を任せ、私は従来通り「趣味」を語る。
玉堂にはもう一度忠告するつもりだ。ここを離れて武昌か広州で仕事をするよう勧める。しかしおそらく大半は無駄だろう。ここは彼の故郷で、容易には決別しまい。一緒に来た陰険な連中が彼の目を覆い、大失敗に至るまでやめないだろう。私の計画も、同僚としての情誼を尽くすだけのことだ。
 
  
 
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=== 第44節 ===
  
 
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成仿吾の「閑暇、閑暇、第三の閑暇」という歯噛みの声は面白い。かつて私の小説を「第一は冷静、第二は冷静、第三もまた冷静」と評した者がいて、この一撃が革命的批評家の記憶中枢を斧で叩いたかのように「閑暇」も三つに。四つなら『小説旧聞鈔』も書かず、二つなら忙しそうで「アウフヘーベン」されなかったろうがちょうど三つ。先の罪は成仿吾の「否定の否定」と帳消しだろう。
迅。十八日夜。
 
  
 
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創造派は「革命のための文学」だから文学を要す。「芸術の武器から武器の芸術へ」進み「武器の芸術」に至れば「批判の武器から武器による批判へ」と同じく「彷徨者は同意者に、反対者は彷徨者に変わる」。
  
 
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問い——なぜ直ちに「武器の芸術」に至らないか。
三十九
 
  
 
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「有産者の蘇秦の遊説」めくが「無産者がまだ解放されていない」うちはこの問いは起こる。徹底的主張は疑わしい萌芽を含む。答え——
  
 
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あちらに「武器の芸術」があるからこちらは「芸術の武器」のみ。
広平兄:
 
  
 
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芸術の武器はやむを得ず無抵抗の幻影から紙上の戦闘の夢に落ちた。革命的芸術家もこれで勇気を維持するしかない。芸術を犠牲にすれば革命的芸術家たり得ない。無産階級の陣営に座し「武器の鉄と火」を待つ。出現の際「武器の芸術」を取り出す。鉄と火の革命者に「閑暇」があり功勲を聴けるなら同等の戦士にもなれよう。最後の勝利。しかし文芸は論じ尽くせない。社会に多くの層があり先進国の史実がある。『文化批判』はシンクレアを、『創造月刊』はヴィニーを背負い「進軍」。
十九日に手紙を一通出した。今日、十三日、六日、七日の手紙を受け取った。一度に届いたのだ。広州には仕事があるようで、だから君はそんなに忙しいのだ。ここは死気沈々で改革もできず、学生もおとなしすぎる。数年前に一度騒動を起こしたが、激しい者はみな出て行き、上海に別に大夏大学を設立した。私は遅くとも本学期末(陽暦一月末)にはここを離れ、中山大学に行くと決めた。
 
  
 
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「革命せざれば反革命」とも言われず掃除で半片のパンにありつけるなら、八時間労働の暇に暗い部屋で『小説旧聞鈔』を抄録する。幾つかの国の文芸も語りたい。好きだから。恐れるのは成仿吾らがイリイチの如く「大衆を獲得」すること。貴族か皇帝に昇格させられ北極圏に流刑されよう。訳著禁止は言うまでもない。
中大の給料は二百八十元で、軍票を混ぜずに済むそうだ。朱騮先はさらに伏園に、兼務先を別に見つけて私の現在の収入と同額にできるとも言ったが、私はその点にはこだわらない。手取り百余元もあればおそらく足りる。ただ死にも生きにもつかぬ空気の中にさえいなければよいのだ。まだこのような空気の中で終わるほど落ちぶれてはいまい。中大に行けば、精力を空費せず、学校や社会にいくらか益のある仕事を選ぶのはさほど難しくないだろう。厦大に至っては、実は私を招く必要がなかったのだ。私は頽廃してはいるが、彼らは私よりさらにひどく頽廃しているのだから。
 
  
 
+
遠からず大時代が来る。革命文学家と無産階級作家はやむなく「芸術の武器」を弄ぶが、「武器の芸術」を持つ非革命武学家もこの玩具で遊び始めた。にこやかな期刊がそれだ。手にする「武器の芸術」を自らも信じていまい。最高の芸術は今誰の手にあるか。見つかれば中国の近い将来がわかる。
玉堂は今日辞職した。予算削減の件で。ただし国学院秘書のみを辞し、文科主任は辞していない。私は伏園を通じて意見を伝え、ここで腐る必要はないと勧めたが、返事はなかった。自分で直接もう一度言うつもりだ。しかし彼の辞職はおそらく受理されまい。
 
  
 
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(二月二十三日、上海。)
昨日から、私の心はまた非常に冷静になった。一つには広東行きを決めたから、もう一つには長虹たちに一撃を加えることを決めたからだ。君の言葉は大体正しい。しかし私が憤慨する理由は、彼らに失望させられたからではなく、彼がそれまで日々血を吸い、もう吸えないと分かると一棒で打ち殺し、肉を缶詰にして売って利を得ようとする、その悪辣さに気づいたからだ。今回、長虹は章士釗に対する私の失敗を笑ってこう書いた。「かくして紙で作った『思想界の権威者』の偽冠を戴き、心身ともに病む状態に陥ったのである」。しかし彼は八月に『新女性』に広告を出した時には「思想の先駆者魯迅と『莽原』を共同主宰」と書いていた。一方では自分で私に「偽冠」をかぶせて人を欺き、他方では他人がかぶせた「偽冠」のために私を罵る。実に軽薄卑劣で、人の形をなしていない。青年が私を攻撃したり嘲笑したりしても、私はもともと反撃しない。彼らはまだ脆弱で、むしろ私の方が比較的踏みつけに耐えられるからだ。しかし彼はどんどんつけあがり、罵りが止まない。まるで私が棺桶に逃げ込んでも、なお屍を戮さんとするかのようだ。だから昨日決めた。どんな青年であろうと、もう容赦しない。まず声明を一つ出し、彼が私の名前を利用しておきながら、他人が私の名前を使うと笑い罵るという所業を暴露する。彼の長ったらしい文章よりずっと辛辣なものにする。『語糸』『莽原』『新女性』『北新』の四誌に同時に掲載させる。もう彷徨しないと決めた。拳には拳で、刀には刀で応じる。だから心もすっきりした。
 
  
 
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=== 第45節 ===
私はおそらく結局、小さな障害のために道を歩かなくなるということはあるまい。ただ神経が良くないので、つい激しい言葉が出るのだ。小さな障害に躓くようでは、厦門を離れるまでに至るまい。しかし私も平坦な道を歩きたいと切に思う。ただ今はまだできない。望まないのではなく、形勢が許さないのだ。君が厦門に来るのは、大いに不要だと思う。「民を労し財を傷つけ」、何の益にもならない。しかも私は「孤独」を感じてはいないし、何の「悲哀」もない。
 
  
 
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【司徒喬君の画を観る】
学生に歓迎されているのだから自ら慰めるに足るだろうと君は言うが、私は彼らにあまり期待する気になれない。傑出した者はごく少ないか、あるいはまるでいないと感じる。しかし仕事はやはりやるつもりだ。希望はまだ会ったことのない人々にすべてかかっている。あるいは君が言うように「真剣になりすぎるな」ということか。実は私は決して怠けてはいない。一方で愚痴をこぼしながら、一方で『華蓋集続編』をまとめ、『旧事重提』を書き終え、『自由を求める波浪』(董秋芳訳の小説)を編み、『巻葹』に目を通し、みなそれぞれ送り出した。私と同じ道を行く者がいるなら、それは確かに自ら慰めるに足り、しかもそのおかげで自ら励ましもする。しかし時として、その人が私のために犠牲になるのではないかと懸念する。そして「一、二を推して無限に及ぼす」ことは、私にはできない。そんなに多くいるのか。そんなに多くは要らない。一人いれば十分だ。
 
  
 
+
司徒喬君の姓名を知ったのはもう四五年前、北京にいた時だ。課業にかまわず師も求めず自らの力で終日古廟、土山、廃屋、貧者、乞食を描いていると聞いた。
『巻葹』のことに触れて、もう一つ思い出した。これは王品青が持ってきたもので、淦女史の作、全四篇、すべて『創造』に発表済みだ。今回『烏合叢書』に入れて出版したいと送ってきたのだが、私が見るところ、創造社が著者の同意なくこれらを小叢書にして自ら販売しているので、こちらでも出版して対抗しようということらしい。あちらで発表されていないものは一篇も含まれておらず、私が新作を何篇か追加するよう求めても、品青は承知しない。創造社は器量が狭く猜疑心が強いから、きっと私が彼らに対して妨害工作をしていると思い、結局は成仿吾が別の事にかこつけて一通り罵るだろう。しかし私は彼女のために編集し終えた。追加しないなら追加しないでよい。罵りたければ罵るがよい。
 
  
 
+
南から来た旅人の心を最も強く打つ。黄塵漫天の人間にあって万物が土色に染まり人は天然と争闘する。深紅と紺碧の楼閣、白石の欄干、黄金の仏像、厚手の綿入れ、紫糖色の顔、深く多い皺。天然に降伏せずなお争う。
明日の日曜日が過ぎたら、また講義録の編纂に取りかからねばならない。残りの暇は遊ぶ。旧暦の年明けに空気が変わったら、また真面目に仕事をしよう。今日は来客が多すぎて手紙を書く暇がなかった。この二枚を書いただけで、もう夜の十二時半だ。
 
  
 
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展覧会で中国人の天然に対する不屈の魂を見た。「四人の警官と一人の女」を手に入れた。「イエス・キリスト」を覚えている。女性の唇が荊冠に接吻していた。
この手紙と一緒に雑誌を一束送るつもりだ。そのうちの『語糸』九七号と九八号は以前送ったことがあるが、あれは断裁済みだったので、今回は未裁断のものを二冊補送する。君はおそらくそんなことは気にしないだろうが、私の性分がそうなので、やはり送る。
 
  
 
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上海で再会し問うた——「あの女性は?」「天使です」と。満足できなかった。
  
 
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今回、作者が北方の景物に対しさらに争闘を加えていることを見出した。時に本来の明麗で黄塵を照破する。「歓喜」(Joy)の萌芽が感じられた。脇腹の槍傷の血にもかかわらず荊冠に天使の唇がある。これは勝利だ。
迅。十一月二十日。
 
  
 
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爽朗な江浙、熱烈な広東の風景はむしろ作者の本領。北方と照らし合わせれば筆の熟知と歓喜がわかる。旧友に再会したかのよう。しかし私は黄塵を眺めるのが好きだ。明麗な心の作者が古戦場に驚き自ら戦闘に加わったのが見えるから。
  
 
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中国の全土は疎通されねばならない。割拠に至らなければ、歴史を背に黄塵を払う青年の中国の彩色はまずこのようなもの。
四十
 
  
 
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(一九二八年三月十四日夜、上海。)
  
 
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【上海における魯迅の声明】
広平兄:
 
  
 
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一ヶ月余り前、開明書店を経てM女史の手紙が届いた。「一月十日孤山でお別れ以来……ご通信やご指導を……。」
二十一日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。十七日発のもう一通の短い手紙は、二十二日に届いた。小包はまだ届いていないが、小包や書籍の類は、通例普通の手紙より遅いものだ。明日には届くかもしれないし、あるいはまた手紙もあるだろう。待っている。上海からいくらかましい印肉を買い、厦門に来てから入手した本に押したいとも思っている。
 
  
 
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返信で杭州には十年近く行っておらず別人だと説明。M女史と二人の同窓が訪ね別の「魯迅」と判明。曼殊上人の墓傍の詩を見せてくれた——
最近、校長が国学院の予算を削減しようとしたため、玉堂はかなり憤慨し、主任を辞任しようとした。私はこの際ここを離れるよう勧めたところ、彼も大いにもっともだと思った。今日校長と話し合いの会を開き、私はすかさず強硬な抗議を行い、去就を賭けた。ところが校長はまさかの前言撤回で、他の者はもちろん大満足し、玉堂も態度を軟化させ、逆に私を引き留めにかかった。少なくとも一年は残ってほしい、年度途中では教員を招くのが難しいから云々と。また私の中大赴任の報道が地元紙にも掲載された。おそらく広州の新聞からの転載だろう。学生の中にも一年間教え終えてくれと勧める者がいる。こう見ると、年末にはおそらく去れまい。もっとも校長の予算維持の話も十中八九すぐにまた撤回されるだろうし、問題は山積している。
 
  
 
+
「我来たりて君の寂居に、誰が魂を醒まさん。漂萍山林の跡、他年を待ちて公に随い去かん。魯迅杭州に遊ぶ 旧友を弔う 曼殊の句 一、一〇、十七年。」
もちろんできるだけ早くここを離れるつもりだが、いつになるかは全く分からない。H.M.は私のことなど構わず、自分に合ったと思う場所に行った方がよいと思う。さもなくば、かなり無理をして、本意でない仕事をさせられ、今の仕事より退屈なことになるかもしれない。私はここでもう半年耐えることはできる。それ以後のことは、今からはまだ何とも言えない。
 
  
 
+
杭州のH君に問い合わせると、そのような人物が城外で教えていると。姓は周、『彷徨』を著し八万部売れたが満足せず良いものを出す予定だと。
今日の地元紙の報道はとてもよい。泉州はすでに陥落、浙江の陳儀はまた独立し、商震は反旗を翻して張家口を攻撃、国民一軍は潼関に迫りつつある。地元の新聞はおそらく国民党寄りで、報道はいくらか宣伝を含んでいるかもしれないが、少なくとも泉州の陥落は確かだろう。本校の学生で国民党員は三十人ほどにすぎず、その中の少なからぬ数が新入党員だ。昨夜彼らが集会を開いたが、みな経験が浅く、深みがなく、学生会を掌握して自分たちの用に供するという方法さえ知らない。まったくどうしようもない。集会を一回開いて空騒ぎするだけで、かえって当局の注意を引き、その夜、反国民党の職員が扉の外で立ち聞きしていた。
 
  
 
+
もう一人の「魯迅」がいてもどうしようもない。自叙は大半同じだがいくぶん困惑。詩の拙さは措くとして曼殊に「随い去かん」と言うのは横暴。「去る」はいつか来るが「随う」など夢にも思わぬ。些事だが恐れ入るのは「指導」の約束の類。
  
 
+
上海に来て「書店を開く」「杭州に遊んだ」と書かれたが実際は二階で翻訳。車も引けず筆で食うしかない。「先駆者」と持ち上げられ「落伍者」と押される。自業自得。しかしもう一人が代わりに説教し詩を題し全部私が背負うなら翻訳の暇もない。
二十五日の夜、大風の中。
 
  
 
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声明を出す。私のほかに今年少なくとも一人「魯迅」がいる。その言動は『彷徨』を出したが八万部に至らなかった魯迅とは無関係だ。
  
 
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(三月二十七日、上海。)
一枚書いた後(この五文字を書いたところで客が来て、十二時まで居座った)、もう一枚社交の手紙を書き、まだ眠る気がしないので、もう少し書こう。伏園は来月確実に発つ。十二月十五日前後には必ず広州に着くだろう。上遂の件は今に至るまで音沙汰がなく、どういうわけか分からない。私は兼士と連名で手紙を書き、伏園にも直接頼み、さらに手紙も書いたが、いずれも返事がない。実は上遂の実務能力は私よりずっと上なのだが。
 
  
 
+
=== 第46節 ===
H.M.はまさに社会のために仕事をしようとしているところだから、私の愚痴のせいで不安になるのは実によくない。そう考えたら、突然静かになって、愚痴が出なくなった。実はここでの不便は、よくよく考えてみると、大半は言葉が通じないことに起因している。例えば一昨日、厨房がまた賄い飯をやめたのだが、私には厨房が自分でやめたくなったのか、それとも使用人と衝突して、私にやめさせろと言ったのか、尋ねることさえできなかった。やめるならやめるでもよい。そこで伏園と一緒に福州料理屋に行き、賄い飯を頼んだが、店には麺しかなく、ご飯はあるかと聞くと、ないと言う。がっかりして帰ってきた。今日福州出身の学生に頼んで聞いてもらったところ、ご飯がなかったのはたまたまその時なかっただけで、永久にないわけではないと分かった。思わず大笑いした。おそらく明日からこの福州料理屋で賄い飯を頼むことになるだろう。
 
  
 
+
現在通用される言い方は「日本軍の至る所、抵抗これに随う」というものであり、失地回復の如何については、当然「軍事専門家にあらざれば、詳細なる計画は知り得ず」ということである。なるほど、「日本軍の至る所、抵抗これに随う」──これこそ迎え撃ちでなくて何であろうか!日本軍が来れば、迎え撃って「駆ける」のだ。日本軍が瀋陽に至れば、迎え撃って北平へ駆け、日本軍が閘北に至れば、迎え撃って真茹へ駆け、日本軍が山海関に至れば、迎え撃って塘沽へ駆け、日本軍が承徳に至れば、迎え撃って古北口へ駆ける……。以前には行都洛陽があり、今は陪都西安があり、将来はなお「漢族発祥の地」崑崙山──西方極楽世界がある。失地回復云々に至っては、軍事専門家にあらずともこれを知り得るのであって、経典に曰く「後ろから付いて来るな」と。これを以前の上海戦事に照らせば、日本軍が租界に退守する度に、「厳に部下に命じて一歩たりとも越境せしむることなかれ」というのであった。かくして、いわゆる迎え撃ちと後追い禁止とは、経典に見えるのみならず実験に徴せられた真理となったのである。右、伝の第一章。
やはり二十五日の夜、十二時半。
 
  
 
+
伝にまた曰く、迎え撃ちと後追い禁止には、第二種の微言大義がある──
ただいま午前十一時、郵便取次所に行ってみたが、手紙はなかった。この手紙は出さなければならない。明日おそらく厦門から広東行きの船が出るからで、今日出さなければ来週水曜日の船まで待たねばならない。しかし出したとたん、明日手紙が届くような気がする。その時にまた書こう。
 
  
 
+
報道によれば、熱河の実況は次の通りである。「義勇軍は皆極めて勇敢にして、日本軍を撹乱し殺戮することを興奮の事と認む……ただ張作相が義勇軍を接収するとの消息が発表された後、張作相は自ら赴いて慰撫せず、湯玉麟もまた義勇軍へのガソリン供給を停止し、輸送は中断し、義勇軍は大いに失望し、甚だしきは張作相のために立功することを無意味と認める者すらあり。」「日本軍既に凌源に至るに、その時張作相は既に不在にして、吾人は報を聞いて出走し、湯玉麟が車を扣えて物を運ぶは既に目撃の事実となり、日本軍がかつて飛行機を承徳に派遣して爆撃したことなきことに照らせば……承徳は実に妥協による放棄なりしことが知られる。」(張慧冲氏が上海東北難民救済会の席上にて語りしところ。)張慧冲氏の言によれば、「最も名声の高き義勇軍の指導者も、その忠勇の精神は必ずしも吾人の想像の如くならず」とのことであるが、しかし義勇軍の兵士は確かに極めて勇敢なる小百姓である。まさにこれらの小百姓が聖典を解さぬがゆえに、迎え撃ちの策略をも知らぬのである。かくして小百姓自身が、自ずと迎え撃ちの抵抗に遭遇することとなった。湯玉麟が承徳を放棄した後、北平軍事委員会分会は「古北口を固守せよ、もし義勇軍にて入関せんと欲する者あらば、即ち銃を発して迎撃せよ」と命じた。これは即ち、我が「抵抗」は日本軍の至る所に随うのみであり、汝が様を変えて抵抗せんとすれば、我は汝を抵抗する、況んや我が退却は予め約定せしものなれば、汝が妥協を肯んぜざる以上は、ただ「後から付いて来させぬ」のみならず、汝を「迎え撃って」梁山に追い上げるほかなし、というのである。右、伝の第二章。
十日ほど前だったか、新聞に新寧号が上海から広東に向かう途中、汕頭で盗賊に襲われ放火されたとあった。私の手紙がその中で焼かれたかもしれない。私が十日以降に出したのは、十六日、十九日、二十一日の三通だ。
 
  
 
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詩に云う、「惶惶」たる大軍、迎え撃って奔り、「嗤嗤」たる小民、後に従うなかれ! 賦なり。
他に特に変わったことはない。次の機会にまた。
 
  
 
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(三月十四日。)
  
 
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この文章は検閲官に指摘され、改正を経て、ようやく十九日の新聞に掲載されることができた。
迅。十一月二十六日。
 
  
 
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原文は次の通りであった──
  
 
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第三段の「現在通用される言い方は」から「当然」までの原文は、「民国二十二年春×三月某日、当局談話に曰く、『日本軍の至る所、抵抗これに随う……失地回復及び承徳反攻に至っては、須く軍事の進展如何を視るべし、余。』」であった。また「知り得ず」の下に注として(『申報』三月十二日第三面)とあった。
午後一時、郵便局の前を通りかかり、他の人の東莞からの手紙が来ているのを見たが、私にはなかった。それなら今日は手紙がないのだ。これを出す。
 
  
 
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第四段の「報道によれば熱河……」の上に「民国二十二年春×三月」の九字があった。
  
 
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(三月十九日夜記す。)
四十一
 
  
 
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【「光明の至る所……」】
  
 
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中国の監獄における拷問は、公然たる秘密である。先月、民権保障同盟がこの問題を提起した。
広平兄:
 
  
 
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しかし外国人が経営する『字林西報』は二月十五日の『北京通信』を掲載し、胡適博士がかつて自ら数箇所の監獄を視察し、「極めて親しげに」この記者に語ったところによれば、「その慎重なる調査に拠れば、実に最も軽微なる証拠すら得ることができず……彼らは極めて容易に囚人と談話し得、一度など胡適博士は英語をもって彼らと会談し得たという。監獄の状況は、彼(胡適博士──筆者注)の言によれば、満足し得るものではないが、しかしながら、彼らが極めて自由に(ああ、極めて自由に──筆者注)待遇の劣悪なる侮辱を訴えたにもかかわらず、厳刑拷問については、彼らは一片の暗示すらなさなかった」という……。
二十六日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。翌日すぐに二十三日の手紙を受け取り、小包の通知書も一緒に届いた。すぐに郵便取次所に行って受取書を入手した。土曜日の午後ではもう間に合わず、日曜は休業、来週月曜日(二十九日)に受け取れる。ここの郵便はこれほど手間がかかるのだ。土曜日のこの日、私は玉堂と一緒に集美学校に講演に行き、小型汽船で往復して丸一日費やした。夜は接客でまた多くの時間を取られ、客が帰ってさあ手紙を書こうとしたら、隣の講堂で漏電があり、校務員が騒ぎ、校警が笛を吹き、天地を揺るがすような騒ぎになった。結局は物理学の教授がさすがの腕前で、中に入ってメインブレーカーを切ったので、事なきを得た。木材を数本焦がしただけだ。私は隣接する建物の二階に住んでいるが、壁が石造りで延焼しないと分かっていたから、物を動かすこともせず、損害もなかった。ただ電灯がすべて消え、蝋燭の光が揺れて薄暗いので、手紙を書くこともできなくなった。
 
  
 
+
私はこの度の「慎重なる調査」に随行する光栄には与からなかったが、十年前に北京の模範監獄を参観したことがある。模範監獄とはいえ、囚人との面会において、談話は決して「自由」ではなく、中間に窓一つを隔て、彼此の距離は約三尺、傍らに獄卒が立ち、時間にも制限があり、談話に暗号を用いることも許されず、まして外国語など論外であった。
私の一生の失策は、これまで自分の生活設計というものをまるでしなかったことだ。すべて人任せにしていた。なぜなら当時は長くは生きられまいと予想していたからだ。ところがその予想は当たらず、なお生きていかねばならなくなり、弊害が百出して十分に退屈した。さらにその後考え方が変わったが、やはり多くの顧慮があった。その顧慮の大部分は当然生活のためだが、いくらかは地位のためでもある。いわゆる地位とは、私がこれまでやってきた小さな仕事のことを指し、私の行動の激変によってその力を失うのが怖いのだ。こうした前後の顧慮は、実はなかなか滑稽で、このまま行けばますます身動きが取れなくなる。第三の方法が最も直截で、注意さえすれば比較的安全でもあるから、一時的にまだ決心がつかないのだ。要するに、これまでの私のやり方はすでにまずかった。厦大では通用せず、もう取り繕うまいと決めた。第一歩として年末に必ずここを離れ、中大の教授職に就く。しかしH.M.も同じ場所にいてくれることを切に望む。少なくとも頻繁に話ができれば、私が人のためになる仕事をもう少し続ける励みになる。
 
  
 
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ところがこの度、胡適博士は「英語をもって彼らと会談し得た」というのだから、まことに特別の極みである。まさか中国の監獄がかくも改良され、かくも「自由」になったというのか。それとも獄卒が「英語」に恐れをなし、胡適博士をリットン卿の同郷にして、大いに来歴ある人物と思ったがゆえであろうか。
昨日、玉堂に正式に本学期限りで去りたいと申し出、一緒に行くよう勧めた。私が去ることについてはいくらか交渉の言葉があったが、結局彼は反論できなくなった。彼自身については、おそらく去るまい。もう何本か釘を刺されれば、来年夏には離れるだろう。
 
  
 
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幸いにも、私はこの度『招商局三大案』に載せられた胡適博士の題辞を見た──
ここでは大したことはできない。最近ある刊行物を組織したが、書き手はほんの数人にすぎない。あるいは創造社の影響を受けて頽廃に過ぎ、あるいは狂飆社のように大言壮語で中身がない。さらに日刊紙に文芸週刊を増設したが、おそらく大した成果は出まい。大学生はみなおとなしく、地元の人の文章は「之乎者也」が多い。彼らは一方で馬寅初に題字を頼み、他方で私に序文を書けと言う。まさに一視同仁、区別なしだ。何人かの学生は私と兼士がここにいるから来たのであり、我々が去れば、おそらく中大に転学するだろう。
 
  
 +
「公開の告発は、暗黒政治を打倒する唯一の武器にして、光明の至る所、暗黒は自ずと消ゆ。」(原文に新式句読点なし、これは私が僭越ながら付したものである──筆者注。)
  
=== 第82節 ===
+
かくして私は大いに徹悟した。監獄では外国語をもって囚人と会談することは許されていないが、胡適博士が至れば、特例が開かれるのである。なぜなら彼は「公開の告発」をなし得、彼は外国人と「極めて親しげに」談話し得るからであり、彼こそが「光明」であるからして、「光明」の至る所、「暗黒」は「自ずと消ゆ」るのである。かくして彼は外国人に向かって民権保障同盟を「公開告発」し、「暗黒」はかえってこちら側に在ることとなった。
  
ここを離れた後、私は自分の農奴のような生活を変えなければならない。社会的な面では、教壇に立つ以外に、引き続き文芸運動か、あるいは他のよりよい仕事を続けたいと思う。それはその時になって決めよう。今、H.M.の方が私よりずっと決断力があると感じる。私はこの地に来て以来、すべてが空虚に感じられ、もう何の意見も持てなくなった。しかも時に理由の分からぬ悲哀を覚えることもある。以前、雑文集の跋を書いた時、そのときの心境を記したが、十二月末の『語糸』に掲載されるだろう。読めば分かる。こんな状態は変えるべきだと自分でも分かっているが、今はどうにもならない。来年また出直そう。
+
しかし、この「光明」が帰府された後、監獄にはそれ以降も永遠に他の人が「英語」をもって囚人と会談することを許されるであろうか。
  
 
+
もし許されぬとすれば、それは「光明一たび去れば、暗黒再び来たる」ということになるのである。
逄吉は通信先を知っているのに、なぜまた詳しい住所を聞くのか。行動がかなり奇妙だ。思うに、彼はH.M.が本当に広州で仕事をしているかどうか調べているのだろう。彼らの仲間では流言が非常に多く、あるいはH.M.もまた厦門にいるという噂があるのかもしれない。
 
  
 
+
しかもこの「光明」は、大学と庚款委員会の事務に忙殺されて、しばしば「暗黒」の中に赴くことはできず、第二回の「慎重なる調査」の前には、囚人たちはおそらく「極めて自由に」再び「英語」を話す幸福には与かれぬであろう。嗚呼、光明はただ「光明」に随いて行くのみにて、監獄の光明世界はまことに束の間のものである!
女子師範学校の校長が三人の主任に送った手紙は、新聞で早くに見た。今どうなっているのだろう。米のない炊事は人力の及ぶところではない。もし別によりよい場所があるなら、早く移った方がよい。しかしこの時期に、そう都合よく見つかるだろうか。
 
  
 
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しかしながら、これは誰をも恨み得ぬことであって、彼らは何千何万と過ちを犯したのではなく、ただ自ら「法」を犯したのである。「善人」ならば決して「法」を犯すには至らぬ。もし信ぜぬ者あらば、この「光明」を見よ!
  
 
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(三月十五日。)
迅。十一月二十八日十二時。
 
  
 
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【泣き止ませ文学】
  
 
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三年前、「民族主義文学」の徒が銅鑼太鼓を打ち鳴らしていた頃、一篇の『黄人の血』なるものがあり、最高の願望は成吉思汗の孫バトゥ元帥の後に従い、「斡羅斯」を剿滅することにあると述べていた。斡羅斯とは、今のソヴィエト・ロシアである。当時すでに人が指摘するに、今のバトゥの大軍とは即ち日本の軍馬であり、「西征」の前にはまず中国を征服し、従軍の奴隷に変えねばならぬのだと。
四十二
 
  
 
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自らが征服される時には、極少数の者を除いて、甚だ苦痛である。その実例は東三省の陥落、上海の爆撃の如きにて、凡そ生きている人間で全く悲憤を覚えぬ者はおそらく極めて少なかろう。しかしこの悲憤は将来の「西征」には大いに妨げとなる。かくして一冊の『大上海の毀滅』が現れ、数字を以て読者に中国の武力は決して日本に及ばぬと告げ、皆の心を平らかにせしめた。しかも生きているよりは死の方がましであり(「十九路軍の死は、我々の生の惨めさ、無趣味を警告するものだ!」)、勝利は敗退に如かず(「十九路軍の勝利は、我々の苟且・偸安・驕慢の迷夢を増すのみ!」)。要するに戦死は善きことであるが戦敗は殊に善く、上海の戦役こそ中国の完全なる成功であるという。
  
 
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今や第二歩が始まった。中央社の消息によれば、日本は既に満洲国と「中華連邦帝国密約」を締結する陰謀を有しているという。その方案の第一条は、「現在世界には二種の国家あるのみ、一種は資本主義にして英・米・日・伊・仏、一種は共産主義にしてソヴィエト・ロシア。今ソヴィエトに対抗せんとせば、中日連合せざれば成功し得ず」云々(詳しくは三月十九日『申報』参照)。
広平兄:
 
  
 
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「連合」せんとするのである。この度は中日両国の完全なる成功であり、「大上海の毀滅」から「黄人の血」への道を行く第二歩である。
先月二十九日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。二十七日発の手紙は今日届いた。同時に伏園も陳惺農の手紙を受け取り、政府が武昌に移ること、彼と孟余もともに出発すること、新聞も移転して『中央日報』と改名することが分かった。伏園には直接武昌に来いとのことで、だから伏園はもう広州には行かないだろう。広州の状況は、おそらく以前ほどの活気はなくなるだろう。
 
  
 
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固より、ある地方では爆撃が行われているが、上海は爆撃を受けて以来既に一年余を経ている。しかし一部の人民は「西征」の必然の歩調を悟らず、一昨年の悲憤を未だ完全には忘れ去っていないように見える。この悲憤は目下の「連合」には大いに妨げとなる。この景況の中で時運に応じて生まれたのは、人々にいささかの爽快と慰安を与える「辣椒と橄欖」の如き文学である。これこそ苦悶に対する処方箋であろう。なぜか。「辣椒は辛けれども人を辛死させず、橄欖は苦けれども苦中に味あり」だからである。これを明らかにすれば、苦力がなぜ阿片を吸うかも分かる。
私はといえば、やはり本学期末にここを離れて広州の中大に行くと決めている。半年教えてみてからまた考える。一つには空気を変え、二つには風景を見、三つには……。教え続けられなければ、来年夏にまた移ればよい。居心地がよければ、もう少し長く教えてもよい。ただし「指導員」の件は、先に調べてくれる人がいなくなった。
 
  
 
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しかも無声の苦悶のみならず、辣椒は「厭わしき泣き声」をも止め得るという。王慈氏は『辣椒救国を提唱す』なる名文の中で告げている──
実は、君の仕事としては、やはり数時間教壇に立つのがよいと思う。十分に準備するには、時間数は多くない方がよい。仕事をすることも教えることも、今の時勢ではどちらも面倒なことだが、これ以外に我々にできることはない。教えることと他の仕事を同時にこなすのは本当に無理だと感じる。風波がなくても、あちらを立てればこちらが立たない。今後君に教壇に立てる場所(国語の類)があるかどうか分からないが、あれば数時間教え、多くする必要はない。毎日三、四時間を読書に充てれば、準備にもなるし、自分の楽しみにもなる。それでよい。当面の一つの職業にもなる。君は私ほど世慣れしていないだろうが、考え方は比較的単純ながらも明快で、何か一つのことを研究するのにさほど困難は感じないだろう。ただしあの粗忽さは直さねばならない。もう一つの不利な点は外国語の本が読めないことだ。比較的便利なのは日本語を学ぶことだと思う。来年から私が厳しく学ばせる。反抗したら手の平を打つ。
 
  
 
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「……また北方の人は幼少の頃より母の懐にありて、大いに泣く時、もし母が辣茄子一つを小児に咬ませれば、極めて霊験あらたかに忽ち大泣きを止め得る……
中央政府が移転するのに私が広州に行くことについては、私には何の差し障りもない。私は政府の後を追っているのではない。多くの人が政府と一緒に移って行けば、私はかえって暇ができるかもしれず、また大量の原稿の借りを作らずに済むだろう。だからいずれにせよ、中大には行く。
 
  
 
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「今の中国は、あたかも大泣きしている北方の嬰児の如し。もしその厭わしき泣き声を止めんと欲すれば、ただ多くの辣茄子を彼に咬ませるのみでよい。」(『大晩報』副刊第十二号)
小包はすでに受け取った。チョッキはもう肌着の上に着ている。暖かい。これで冬を越せると思う。綿入れの長袍は要るまい。印章はとても良い。実はこれはおそらく「金星石」と呼ばれるもので、ガラスではない。上海に手紙を出して印肉を買い求めている。手持ちの古いのは油が多すぎて、本に押すには不向きだからだ。
 
  
 
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辣椒をもって小児の大泣きを止め得るとは空前絶後の奇聞であり、もしこれが真ならば、中国人は衆と異なる特別の「民族」と言わねばならぬ。しかし分明に見て取れるのは、この種の「文学」の企図が、人に一辛を与えて死に至らしめず、「その厭わしき泣き声を止め」て、静かにバトゥ元帥を待つことにあるということである。
計算すると、私がここにいられるのはせいぜいあと二月だ。その間、講義録を編み、お湯を沸かしていれば、やり過ごすのは容易だ。料理人の菜もまた食べられなくなった。今はご飯だけを買い、伏園が自分でスープを少し作り、あとは缶詰を食べている。彼は十五日頃に発つだろうが、私は何一つ料理ができないから、その時はまた賄いを頼むしかない。幸いその頃には学期末まであと四十数日しかない。
 
  
 
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ただしこれは無効であって、泣けば「問答無用にて斬殺せよ」の霊験には遠く及ばぬ。この後に防ぐべきは「道に目を以てす」であり、我々は目隠し文学を待つこととしよう。
新聞を読むと、北京の女子師範大学で火事があったが、被害は大きくなかったという。原因は学生が自炊していたことで、二人が火傷をした。楊立侃と廖敏。名前に覚えがないから、おそらく新入生だろう。知っているか。彼女たちはその後亡くなった。
 
  
 
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(三月二十日。)
以上は午後四時に書いた。些事のために中断し、続いて夕食、接客、今はもう夜九時だ。金銭の下で呼吸するのは、実に苦しい。苦しいだけならまだしも、嫌な目に遭わされるのは耐えがたい。おそらく中国はこの先数十年のうちに、何かの仕事をしてそれ相応の報酬をきれいに得る、ということはなかなかできまいと思う。(ここまで書いたところで、また中断した。客が来たのだ。私のところには隠れる場所など一切なく、入りたい者はずかずか入ってくる。こんな住まいで、どうして勉強できよう。)往々にして余分の力を費やし、無意味な屈辱を受ける。何をするにもそうだ。今後は仕事で生活費を稼ぎ、理不尽な目に遭わず、少し自分で遊ぶ余暇があれば、それだけでこの上ない幸福と言えると思う。
 
  
 
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【【備考】:辣椒救国を提唱す 王慈】
私は今、文章を書く青年たちにいくらか失望している。有望な青年はおそらく大半が戦場に行ってしまい、筆を弄ぶ者となると、まだ社会のために本気でやろうとする者に出会っていない。彼らの多くは新しい看板を掲げた利己主義者だ。しかも彼ら自身は私より一、二十年新しいと自負しているが、私は本当に彼らに自覚がないと感じる。これもまた彼らの「小さい」ゆえんだ。
 
  
 
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かつて一度、ある北方の友人に連れられて天津の点心屋に入ったことを覚えている。腰を下ろすと、給仕が走り寄って問うた──「旦那!何を召し上がります?」「鍋貼を二皿!」かの北方の友人は純粋な北方訛りで言った。鍋貼と共に運ばれて来たのは辣椒の一鉢であった。
午前中に刊行物を一束送った。『語糸』と『北新』が各二冊、『莽原』が一冊だ。『語糸』に私の文章が一篇載っているが、前の手紙で言った愚痴をこぼした文ではない。あれはまだ掲載されておらず、おそらく百八号になるだろう。
 
  
 
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かの北方の友人が鍋貼を多量の辣椒と共に実に旨そうに口に運ぶのを見て、私の好奇心が触発され、冒険するかの如く鍋貼一つをそっと少しばかり辣椒に浸け、腹に収めたところ、舌先は忽ち痺れて感覚を失い、喉は痒く辛くて堪え難く、眼窩には涙が湧き、この時私は大いなる苦痛を感じた。
  
 
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かの北方の友人は私のこの有様を見て大いに笑い出し語った。北方人の辣椒好きは天性であり、「飯菜はなくとも辣椒なくしては食事にならず」との主義を抱いていると。彼らにとって辣椒はあたかも阿片の如く癖になっている! また北方人は幼少の頃より母の懐にありて、大いに泣く時、もし母が辣茄子一つを小児に咬ませれば、極めて霊験あらたかに忽ち大泣きを止め得る……
迅。十二月二日の深夜。
 
  
 
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今の中国は、あたかも大泣きしている北方の嬰児の如し。もしその厭わしき泣き声を止めんと欲すれば、ただ多くの辣茄子を彼に咬ませるのみでよい。
  
 
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中国の人々は、私のかの北方の友人に等しく、辣椒を食べずには興奮しないのだ!
四十三
 
  
 
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(三月十二日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
  
 
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【【辣椒で泣き止ませるのは結局無理】:むやみに人を咬むな 王慈】
広平兄:
 
  
 
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辣椒を咬む時はご用心。上海には近頃、趙旦那や趙秀才のような一群の人が増え、物差し棒を握り、懸命に「阿Q面」の者を見つけて八つ当たりしようとしている。幸いにもこの一群の文人が色眼鏡越しに「阿Q面」だと見なした者は、実は真の阿Qではない。
今日ちょうど手紙を出したばかりなので、この手紙も一緒に届くかもしれない。初めは何か大事でもあったかと思うかもしれないが、実は何もない。ただの雑談だ。前回の手紙は真夜中にポストに投函した。ここにはポストが二つあり、一つは局内にあるが五時以降は入れなくなり、夜は局外のものに入れるしかない。しかし最近郵便取次所の係員が新しく替わり、満面のぼんやり顔で、局外のポストさえ開けるのを忘れるのではないかと疑わしい。私の手紙が本局に届けられるか分からないので、もう数行書いて、明日午前に局内のポストに投函しよう。
 
  
 
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何の来歴かも知れぬ何家幹なる者が、私の『辣椒救国を提唱す』を読み、北方の子供の辣椒好きを「空前絶後」の「奇聞」だと認めた。何家幹は数千年前の劉伯温でもないのに、某紙上でまるで『推背図』を作っているかのようだ。北方の子供が辣椒を好むことが「奇聞」なら、阿片を吸う父母から生まれた嬰児にもなぜ煙癖があるのか。
昨夜の手紙で言ったのは、伏園も惺農の手紙を受け取り、国民政府が移転するので直接武昌に来いとのことで、だから彼はもう広州には行かないということだ。私はいずれにせよ学期末に厦門を離れて中大に行く。政府の後を追う必要はないし、知人が少なければかえって閑になれるかもしれない。しかし君が師範学校を離れるなら、地元で仕事が見つかるかどうか。やはり少し国語を教える方がよいと思う。時間数は少ないに越したことはない。十分に準備ができるから。大略こんなところだ。
 
  
 
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何家幹は八つ当たりの対象を掴めず、空振りの後になお得々として「もしこれが真ならば、中国人はまことに衆と異なる特別の民族である」などと言う。敢えて何家幹に問う。色つき近眼鏡をかけて拝読した時、「北方」の二字が目に入らなかったか。既に見たのならば、シュテッティンは日耳曼全体を代表し得るか。アバディーンはブリテン諸島全体を代表し得るか。
政府が移れば、広東の「外省人」は減るだろう。広東は「外省人」に随分と搾り取られてきたから、今後はおそらく「残留者」に仕返しするかもしれず、搾取していない外省人まで巻き添えを食うかもしれない。しかし護衛の士がいるから、大胆でいてよい。『幻洲』に一篇の文章があり、広東人をとても褒めている。ますます行ってみたくなった。少なくとも夏までは住もう。おそらく言葉は一言も分からず、ここと大差ないだろうが、ご飯を買う場所さえないということはあるまい。蛇を一度食べてみたいし、ゲンゴロウも少し味わいたい。
 
  
 
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何家幹の頭脳は、どうしてかくも単純なのか!趙旦那や趙秀才の類は、徒党を組んでむやみに人を咬もうとしている。私は予め告げておく。私と『辣椒と橄欖』の編者とは面識もなく、『黄人の血』を書いたこともない。何家幹がどうしても私を一噛みせんとするならば、透視眼鏡をかけ目標を見定めてから咬むがよい。さもなくば辣椒を咬んでしまい泣くに泣けず笑うに笑えぬ時、私は責任を負いかねる。
空談をしに来る人が多すぎる。この一点だけでもここに長くいるべきではない。中大に着いたら、静かにして、しばらくは人との付き合いを減らし、少し勉強するか、遊ぶかしようと思う。今、体は元気で、よく食べよく眠れる。しかし今日、手の指が少し震えているのに気づいた。煙草の吸いすぎだ。最近は一日三十本にもなっている。これからは減らさなければならない。北京にいた頃、禁煙しようとして人にひどく叱られたことを思い出すと、心が落ち着かない。自分でも気性が実にひどいと自覚している。しかしなぜか、この一事に関して自制力がこれほど弱く、どうしてもやめられない。来年は次第に矯正でき、もう癇癪を起こさなくなることを願うばかりだ。
 
  
 
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(三月二十八日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
来年の仕事は、当然少し教壇に立つことだ。しかし教えることと創作は両立しないと感じる。最近郭沫若や郁達夫があまり文章を発表しないのも、おそらくこのためだろう。だから今後の道はまだ選ばねばならない。研究しながら教えるのか、それとも依然として浮浪者として創作するのか。兼ねようとすれば、どちらもよい成果を出せない。あるいは一、二年研究して文学史を書き上げれば、その後は教える際に準備が要らなくなり、余暇ができて、それから創作等に取りかかることもできるだろう。しかしこれも緊急の問題ではない。ただの雑談だ。
 
  
 
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【【しかし結局やはり無理】:愈出愈奇 家幹】
『阿Q正伝』の英訳本がすでに出版された。訳は悪くないようだが、小さな誤りもいくつかある。欲しいか。欲しければ送る。商務印書館が私に贈ってくれたものだから。
 
  
 
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シュテッティンはまことに日耳曼全体を代表し得ず、北方もまた中国全土を代表し得ない。しかし北方の子供を辣椒で泣き止ませることはできぬ──これは事実であり如何ともし難い。
ここまで書いてまだ五時にもなっていない。他に特に用事もない。封筒に入れて、今日中に出そう。
 
  
 
+
阿片を吸う父母から生まれた嬰児にも煙癖がある、これは確かである。しかし辣椒を好む父母から生まれた嬰児には辣椒癖はなく、酢を好む者の子に酢癖がないのと同じである。これもまた事実であり誰にも如何ともし難い。
  
 
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凡そ事実は坊っちゃん癇癪を起こしたところで覆し得ぬ。ガリレオは地球が回転していると言い、教徒は焼き殺そうとし、彼は死を恐れて主張を撤回した。しかし地球は依然として回転している。なぜか。地球がまことに回転しているからである。
迅。十二月三日午後。
 
  
 
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されば、たとえ私が反対せずとも、辣椒を泣いている北方の(!)子供の口に押し込めば、泣き止むどころかさらに激しく泣くであろう。
  
 
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(七月十九日。)
四十四
 
  
 
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【「人の言葉」】
  
 
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思い起こせば、オランダの作家ファン・エーデン(F. van Eeden)──惜しいことに彼は昨年亡くなった──の童話『小さなヨハネス』の中に、小さなヨハネスが二種類の菌が争論するのを聞き、傍から「お前たち二つとも毒があるぞ」と批評すると、菌たちが驚き叫んで「お前は人間か。これは人の言葉だ!」と言う場面がある。
広平兄:
 
  
 
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菌類の立場から見れば、確かに驚き叫ぶべきことである。人間は彼らを食べようとするがゆえにまず有毒か無毒かに注意するが、菌ら自身にとってはこれは全く無関係にして全く問題とならぬことなのだ。
三日に手紙一通と刊行物一束(『語糸』等五冊)を出したが、もう届いただろう。今日二日の手紙を受け取った。早いものだ。二十六日の手紙の中のある一節について、私は二十九日にすぐ返信を出した。この手紙が届く頃には、あちらにもすでに届いているはずだから、今さら繰り返す必要はない。実はこの半年、私に何か「奇異な感想」が生じたわけではない。ただ「私は人を犠牲にしすぎていないだろうか」という思い――これは私がいつも考えてきた思いだ――がやはり時折湧いてくる。湧いてくると沈鬱になり、いわゆる「静かになる」ということで、時に言葉や表情に表れる。しかしまた必ずしもそうとは限らないと悟り、すぐに回復することが多い。二日に中央政府移転の報を受けた後、直ちにその夜一通(翌日さらに一通)出し、私の意思は二十九日の手紙に述べた通り変わりがないこと、君に「一生その中で転倒して自ら抜け出せずにいる」ことを望んだのでは決してないことを説明した。そもそもの考えは、社会の中でしばらく経験を積めば、より多くの経験が得られるだろうということにすぎず、私が永遠に静まり返り、冷ややかに傍観して、H.M.を売り渡し、自分は孤島で寂寞の生活を送り、寂寞を咀嚼するだけで自慰自贖に足りるなどと思っているのではない。
 
  
 
+
科学知識を与えることを旨とする書籍や文章であっても、面白く語ろうとするあまり往々にして「人の言葉」を言い過ぎるものである。この弊はかのファーブル(J. H. Fabre)の名高き『昆虫記』ですら免れぬところである。近頃雑誌上で偶然、青年に生物学の知識を教える文章を見かけたが、その中に次のような記述があった──
しかし二十六日の手紙の件は、もう過ぎたことだ。多く言う必要もない。広州の時間数は確かに多いが、比較的負担の軽い科目を教える工夫は何とかなるだろうし、休息の余暇も確保できよう。しかも資料の書き写し等は手伝ってくれる人もいるから、時間数は問題にならない。週二十時間前後というのは、大抵紙の上の話で、実際にはそこまでやるわけでもあるまい。
 
  
 
+
「鳥糞蜘蛛……形体は鳥糞に似、また伏して動かずにおることができ、自ら鳥糞の様を装う。」
君たちの学校は、まるで「濡れた手で乾いた小麦粉を掴む」ようで、べったりと纏わりついてくる。「天下の興亡、匹夫に責あり」と言うが、為政者が信義を守らず、ただ「匹夫」に責任を押し付け、数人に重荷を担がせるのは、あまりにも勝手に人を無意味な犠牲にしすぎる。ここまで来たら、自分を主にすべきだ。耐えられないと思えば即座に離れる。もし生計その他の関係で一時取り繕わねばならないなら、数日取り繕えばよい。「徳をもって感化する」「情をもって繋ぐ」といった古い言い回しは度外に置くしかない。ほんの数人では何もうまくいかない。何を馬鹿なことを。「匹夫匹婦の諒為すは、自ら溝渎に縊りて知る者莫し」だ。
 
  
 
+
=== 第47節 ===
伏園は直接武昌に行かねばならなくなり、広州には回らない。前の手紙でも言ったようだ。昨日ある人が来た(民党員だという)。汕頭からで、陳啓修が機密を漏洩したため党部に逮捕されたと言う。私と伏園は驚き怪しみ、電報で問い合わせようとしたが、今日君の手紙を受け取り、二日に彼に会ったと分かった。日付から計算すると、この人物は嘘をついていたことになる。しかしなぜこのような嘘をつくのか、全く理解できない。
 
  
 
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「動物界において、自らの親たる夫を残食するもの甚だ多きが、最も有名なるは、前に述べたる蜘蛛と今まさに述べんとする蟷螂であろう……」
前に送った刊行物の束は届いただろうか。以前にも一度、長く届かず、結局学校の郵便物の中から見つけ出したことがあった。三日にまた一束送ったが、届くかどうかも問題だ。今後本を送る時は書留にしなければなるまい。『桃色の雲』の再版が出たので一冊送るつもりだが、数行書き入れて新しい印を押したい。印肉は上海に取り寄せを頼んだところで、届くのはおそらく十日後だ。届いたら送ろう。
 
  
 
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これもいささか「人の言葉」を言い過ぎている。鳥糞蜘蛛はただ形体がもとより鳥糞に似ており、性としてあまり動き回らぬだけのことであって、故意に鳥糞を装い小虫を欺こうとしているわけではない。蟷螂の世界にもいまだ五倫の説はなく、交尾の最中に雄を食うのはただ腹が減って物を食べているだけのことであり、この食べ物がまさに自分の亭主であるなどと知っているはずもない。しかし「人の言葉」で書かれるや、一方は陰謀殺人の凶犯となり、一方は夫殺しの毒婦となるのである。実のところ、どちらも冤罪なのだ。
  
 
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「人の言葉」の中にも、また各種の「人の言葉」がある。英国人の言葉があり、中国人の言葉がある。中国人の言葉の中にもまた各種あって、「上等華人の言葉」があり、「下等華人の言葉」がある。浙西に、田舎の女の無知を嘲る笑い話がある──
迅。十二月六日の夜。
 
  
 
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「盛夏の真昼、一人の農婦が仕事に苦しみつつ、ふと嘆いて曰く、『皇后様はどれほどお楽であろう。今頃はまだ寝台で午睡をなさり、目覚めた時にはこう仰せになるのだ──太監よ、柿餅を持て参れ!』」
  
 
+
しかしこれは「下等華人の言葉」ではなく、むしろ上等華人が思い描く「下等華人の言葉」であるから、実は「上等華人の言葉」なのである。下等華人自身にあっては、その時おそらくこのようには言わなかったであろうし、たとえこう言ったとしても笑い話とは思わなかったであろう。
四十五
 
  
 
+
これ以上語れば、階級文学の厄介事を引き起こすことになるから、「ここで止める」。
  
 
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今、書物を著すに当たり、青年や少年への手紙という形式をとる者が少なくない。無論、語られるのは「人の言葉」に相違ない。しかしいかなる種類の「人の言葉」であるか。なぜもっと年長の人々に書かぬのか。年長になれば教え諭すに値せぬとでも言うのか。それとも青年や少年の方が比較的純朴にして欺きやすいからであるか。
広平兄:
 
  
 
+
(三月二十一日。)
本月六日に三日の手紙を受け取った後、翌日(七日)にすぐ返信を出したが、もう届いただろう。昨日今日あたり手紙が来るだろうと予想していたが、来なかった。明日は日曜日で、学校には郵便物が届かない。おそらく君が学校の仕事で忙しくて出せなかったか、船が遅れたのだろう。
 
  
 
+
【魂を売る秘訣】
今日から一月末まで計算すると、あと五十日しかない。ここに来てもう三月と一週間だ。今は特にやることもない。毎日八、九時間眠れるが、それでもなお怠い。誰かが少し太ったと言ったが、確かかどうか分からない。おそらくそうでもあるまい。学生には学期末で去ることをすでに伝えた。私がいるから来た何人かは、おそらく同じく去るだろう。一部の者に至っては全く救いようがなく、毎日『古文観止』を読み耽っている。
 
  
 
+
数年前、胡適博士はかつて「五鬼中華を乱す」なる手品を弄したことがある。それは即ち、この世に帝国主義の如きものが中国を侵略しているのではなく、かえって中国自身が「貧困」「愚昧」……等の五つの鬼に祟られて皆が不安であるというのであった。今や胡適博士は第六の鬼を発見した。その名は「仇恨」という。この鬼は中華を乱すのみならず、禍は友邦にまで及び東京にまで騒ぎを起こしているという。かくして胡適博士は対症の薬を処方し、「日本の友人」に上書するつもりでいる。
伏園はまもなく出発する。やはり十五日前後だ。ただしあるいはまだ広州を経由し、陸路で武昌に向かうかもしれない。
 
  
 
+
博士に言わせれば、「日本軍閥の中国における暴行が生み出した仇恨は、今日に至って既に甚だ消し難く」、「而して日本は決して暴力をもって中国を征服し得ず」とのことである。これは憂慮に値する──まことに中国を征服する方法はないのか。否、方法はある。「九世の仇、百年の友、皆覚悟するか否かの一点にかかる」──「日本にはただ一つの方法のみ中国を征服し得る。即ち崖に臨みて馬を勒め、徹底的に中国侵略を停止し、翻って中国民族の心を征服することである。」
一、二日中に手紙が来るだろうし、私の二十九日の手紙への返事もそろそろ届くはずだ。その時にまた書こう。
 
  
 
+
これこそ「中国を征服する唯一の方法」であるという。なるほど、古来の儒教の軍師は常々「徳を以て人を服するは王たり、その心誠に服するなり」と説いた。胡適博士は日本帝国主義の軍師たるに愧じない。しかしながら中国の小百姓の側から言えば、これこそ魂を売る唯一の秘訣である。中国の小百姓はまことに「愚昧」にして、もとより自らの「民族性」を理解せぬがゆえに、彼らはこれまで仇恨を懐くことを知っていた。もし日本陛下が大いに慈悲を発し胡博士の上書を採用するならば、いわゆる「忠孝仁愛信義和平」の中国固有の文化は恢復し得るであろう。──なぜなら日本が暴力を用いず軟功の王道を用いれば、中国民族は仇恨を生ぜず、仇恨がなければ自ずと抵抗もせず、抵抗せざれば自ずと一層平和に、一層忠孝に……中国の肉体はすでに買い取られ、中国の魂もまた征服されるのである。
  
 
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惜しむらくは、この「唯一の方法」の実行は全く日本陛下の覚悟にかかっている。もし覚悟せざれば、いかがすべきか。胡博士の答えて曰く、「万やむを得ざるに至りて、真に屈辱的なる城下の盟を受くる」がよいと。まことに万やむを得ぬことである──なぜならばその時「仇恨鬼」は去ることを肯んぜず、これは終始中国民族性の汚点であり、日本のためを思うにも万全の策にあらざればなり。
迅。十二月十一日の夜。
 
  
 
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かくして胡博士は太平洋会議に出席し、もう一度彼の日本の友人に「忠告」する準備をしている──中国を征服する方法がないわけではない、どうか我々の売り渡す魂を受け取ってくれ給え、況んやこれは難しいことではなく、いわゆる「徹底的侵略停止」とは「公平なる」リットン報告書を執行しさえすれば──仇恨は自ずと消え去るのだ!と。
  
 
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(三月二十二日。)
四十六
 
  
 
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【文人にして文なし】
  
 
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ある「大」の字を冠する新聞の副刊に、一人の「張氏」なる者が「中国の有為なる青年に要求す、決して『文人無行』の看板を借りて、譏るべき悪癖を犯すなかれ」と述べている。これはまことに的を射た言葉である。しかしその「無行」の定義たるや、また厳密の極みである。彼に言わせれば、「いわゆる無行とは、必ずしも不規則あるいは不道徳の行為を指すのではなく、凡そ一切の人情に近からざる悪劣なる行為もまた皆これに含まれる」のだという。
広平兄:
 
  
 
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続けて日本の文人の「悪癖」の例をいくつか挙げ、中国の有為なる青年の殷鑑に供している。一つは「宮地嘉六は指の爪で頭を掻くことを好む」、もう一つは「金子洋文は唇を舐めることを好む」。
今朝手紙を一通出した。日曜日だが郵便取次所は半日営業するようになった。今日は早起きした。平民学校の設立記念式で演説を頼まれたからだ。五分間話し、それから校長らの空論を十一時まで恭しく拝聴した。西洋留学帰りのある教授はこう言った。この学校が平民のためになるのは、例えば使用人が字を覚えれば手紙の配達を間違えなくなり、主人が喜んで雇い続け、飯が食えるようになる……と。私は深く感服し、会場をこっそり抜け出して、もう一度取次所に行ってみると、果たして三通の手紙があった。二通は七日発、一通は八日発だ。
 
  
 
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無論、唇が乾くことと頭皮が痒いことは、古今の聖賢もこれを美徳とは称さぬが、悪徳と斥けたこともないようである。ところが中国上海の今日に至り、掻くことを好み舐めることを好むのは、たとえ自分の唇と頭髪であろうとも「人情に近からざる悪劣なる行為」とされるに至った。不快であっても、ただ堪えるしかない。有為なる青年あるいは文人たらんとすることは、日に日に艱難を増している。
金星石は中国にもあるが、印匣の作りからすると、やはり日本製だろう。もっともそんなことはどうでもよい。「適当にガラスと呼ぶ」とはいくらぼんやりしている。ガラスがこれほど脆いものか。そもそも「適当に」もほどがある。「落とせば必ず割れる」というなら、どんな印石でも大抵はそうで、何もガラスに限ったことではない。わざわざ印肉を買うのも余計な事ではない。そうしなければ気が済まないのだから。
 
  
 
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しかし中国の文人の「悪癖」は実はこのようなことにはなく、ただ文章を書き得さえすれば、掻こうが舐めようが一向に構わぬのであって、「人情に近からざる」のは「文人無行」ではなく「文人無文」──文人にして文なし──なのである。
最近は厦大の一切に対して何も口出ししなくなったが、彼らは相変わらず演説をさせに来る。演説すれば当局の意見と必ず食い違うのだから、実に退屈なことだ。玉堂も今やここではどうにもならぬと痛感しており、適当な機会があれば、十中八九去るだろう。手の震えはもう止まったが、前の手紙で言い忘れた。『語糸』に寄せたあの文章は、未名社経由で転送したところ、社の方で差し止めて『莽原』第二十三号に載せた。中身に言い残したことは特にない。筆を執った動機は、一つには生活のためにやむなく仮面を被っている自分への憎しみ、もう一つには、利用できる間は存分に利用し、利用できないと分かれば一棒で打ち殺そうとするある種の青年の存在を痛感したことで、だからかなり悲憤の言葉がある。しかしそういう心境はもうとっくに過ぎ去った。私は常に自分をとるに足りない存在だと感じている。しかし彼らの著作を見ると、私のように仮面を被っていることや「党同伐異」を敢えて自ら認める者は一人もいない。彼らは結局どこまで行っても「公平」だの「中立」だのと自称するのだ。そう思うと、私はあるいはそれほどとるに足りなくはないのかもしれない。今必死になって私を蔑み罵倒しようとしている人々の目の前に、結局黒い悪鬼のように「魯迅」の二文字が立ちはだかっているのは、おそらくこのためだろう。
 
  
 
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二、三年前、刊行物上で某詩人が西湖に吟詩しに行ったとか、某文豪が五十万字の小説を執筆中だとかいう話を見たが、今に至るまで、予告なしに現れた一部の『子夜』を除いては、他の大作は何一つ出現していない。
厦門を離れた後、何人かの学生が私について転学したいと言っている。助教の一人も一緒に行きたいと言い、私の金石の知識が彼の役に立つからだそうだ。ここでは始終空談の客が来て、自分の仕事をする暇がない。このまま続けるわけにはいかない。将来は校内に一部屋を得て居室とし、授業の準備や接客に使い、校外に別に適当な場所を見つけて、創作と休息に充てるつもりだ。そうすれば起居に節がなく飲食に時なしという、北京時代の轍を踏まずに済むだろう。しかしこれは広州に着いてから考えればよく、「未だ雨ならざるに綢繆す」の必要はない。要するに、私の主意は、つまらない客の相手をする時間を減らしたいだけだ。学校にいれば誰でもずかずか入ってきて、別に話すこともないのに東から西へと話題を引っ張り、座ったまま帰ろうとしない。実にうっとうしい。
 
  
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瑣事を拾い集めて随筆一冊をなす者はある。古文を一篇改作して自作とする者はある。一通りの昏話を語って評論と称し、雑誌を数冊編んでひそかに自分を持ち上げる者はある。猥談を蒐集して下作を書き、旧文を集めて評伝を印す者はある。甚だしきに至っては、外国文壇の消息をいくらか翻訳しただけで世界文学史家となり、文学者辞典を一冊編んで自分もその中に入れ込み、世界の文人を以て自ら任ずる者すらある。しかしながら今のところ彼らはいずれも中国の金看板の「文人」なのである。
  
=== 第83節 ===
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文人にして文なきは免れ難いが、武人もまた同様に武ならず。「戈を枕に旦を待つ」と言いながら夜に至ってもまだ出発せず、「死を誓して抵抗す」と言いながら百余人の敵兵を見ただけで逃走する。ただ通電宣言の類だけは大いに駢体を弄し、「文」たること尋常ならず。「武を偃め文を修む」、古に明訓あり、文星は悉く軍営の中に照り移ったのである。かくして我らの「文人」は、唇を舐めず頭を掻かず、人情を忖度し、ただ「有行」の一語を落ち得るのみに終わる。
  
今、我々の食事は実に笑止だ。外にまともな賄い飯の場所がないので、やはり本校の厨房からご飯を買っている。一人月三元半で、伏園が料理を作り、缶詰で補っている。しかし厨房は何度も宣言した。おかずを買ってくれなければ、ご飯も売らないと。それなら我々はご飯を買うために月十元出し、全く食べられないおかずも一緒に買わねばならない。今はまだ取り繕っているが、伏園が去った後は、いっそおかずも一緒に買ってしまい、面倒を省くつもりだ。幸い日数ももう限られている。使用人の方は私に二十元の借金がある。そのうち二元は彼の兄弟が急病になった時に貸したもので、彼が貧しいと思い、この二元は返さなくてよいと言い、借金は十八元ということにした。すると彼は翌日すぐにまた二元借り、二十元にちょうど戻した。厦門の「外省人」に対する態度は、どうやらいくらか愚弄しようとしているようだ。
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(三月二十八日。)
  
 
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【【備考】:悪癖 若谷】
中国人一般の気質からすれば、失敗した後の著作は誰も読まない。彼らは使役できれば存分に使役し、嘲笑できれば存分に嘲笑する。たとえどんなに親しく付き合っていても、たちまち手の平を返す。私と最も長く付き合ってきた若旦那たちの振る舞いを見れば、推して知るべしだ。作品さえよければ、おそらく十年か数十年後にはまた読む人が出るだろう。しかし利益を得るのは本屋の主人だけで、著者はおそらくとっくに逼り殺されており、もう何の関係もない。こういう時に当たって、手間を省くなら転業するもよし、外国に行くもよし。意地を張るなら何でもやるもよし、逆行するもよし。しかし私はまだじっくり考えていない。差し迫った問題ではないからだ。今はただの空論だ。
 
  
 
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「文人無行」は久しく世人に譏られるところである。いわゆる「無行」とは、必ずしも不規則あるいは不道徳の行為を指すのではなく、凡そ一切の人情に近からざる悪劣なる行為もまた皆これに含まれる。
「よく食べよく眠れる」のは確かだ。今もそうで、毎日八、九時間眠れる。しかし人はやはり怠い。おそらく気候のせいだろう。厦門の気候・風土は住民にも適していないようだ。私の見た限りでは地元の人に太った者はほとんどなく、十中八九は黄色く痩せている。女性にもふくよかで活発な人はめったにいない。しかも街路は汚く、空き地にはみな墓が並んでいる。だから人寿保険の掛け金も、厦門居住者は他所より高い。国学院などは急いで設ける必要はなく、むしろ衛生運動を起こし、水と土壌を分析して改善策を講じた方がよい。
 
  
 
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人である限り誰しも不良の習慣に染まりやすいが、殊に文人は文字著作に専心するがゆえに、日常生活において自ずと怪異なる挙動を免れ難く、しかもおそらくは労苦のゆえに十人中九人は不良の嗜好に染まっている。最も普通なるは神経を刺激する興奮剤を好むことにて、巻煙草とコーヒーは現代文人に流行する嗜好品となった。
今はもう夜の一時だ。本来なら局外のポストにまだ投函できるのだが、命令が出ている以上、明朝まで待とう。まったく恐るべきことだ。「私は実に困っている」。
 
  
 
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現代の日本の文人は、喫煙とコーヒー以外にも各人各様の奇怪なる悪癖を犯している。前田河広一郎は酒を命の如く愛し、酔後は喧しく叫び止まず。谷崎潤一郎は女人の体臭を嗅ぎ女人の痰涕を嘗めることを好む。今東光は学問を自ら誇り自己を宣伝することを好む。金子洋文は唇を舐めることを好む。細田源吉は猥談を好み朝食後二時間熟睡す。宮地嘉六は指の爪で頭を掻くことを好む。宇野浩二は酔後侍妓を侮慢す。林房雄は姦通の癖あり。山本有三は電車にて膝を横にして斜めに座ることを好む。勝本清一郎は談話の際拇指にて鼻孔を穿ることを好む。形形色色、枚挙に遑あらず。
  
 
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日本の現代文人が犯す悪癖は、中国旧時の文人辜鴻銘が女人の金蓮を嗅ぐことを好んだのと同様に厭うべきものであり、私は現代中国の有為なる青年に要求する。文人に限らず皆健全なる精神を保持し、決して「文人無行」の看板を借りて日本の文人と同様に譏るべき悪癖を犯すことなかれと。
 迅。十二月十二日。
 
  
 
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(三月九日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
  
 
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【【冷ややかな物言いか?】:第四種の人 周木斎】
四十七
 
  
 
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四月四日の『申報』『自由談』に何家幹氏の『文人にして文なし』なる一文が載り、中国の文人を論じて云う──
  
 
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「『人情に近からざる』のは『文人無行』にあらずして『文人無文』なり。瑣事を拾いて随筆一冊をなす者はあり、古文を一篇改めて自作とする者はあり。一通りの昏話を語りて評論と称し、雑誌を数冊編みてひそかに自らを持ち上ぐる者はあり。猥談を蒐集して下作をなし旧文を集めて評伝に印す者はあり。甚だしきに至りては外国文壇の消息をいくらか翻せば世界文学史の専門家となり、文学者辞典を一冊湊えて自らもその中に入り込めば世界の文人ともなる者あり。しかれども今のところ彼らはいずれも中国の金看板の文人なり。」
広平兄:
 
  
 
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この文に「これはまことに的を射ている」と言われた如く、誠にその通りである。しかるに例外として──
昨日(十三日)手紙を一通出した。今日は刊行物を一束送り出す。紛失を恐れて書留にしたが、特に貴重だからではない。束の中に『新女性』一冊があり、大作が掲載されている。また『語糸』二号分には、まさに私の愚痴文が載っている。もともと未名社に差し止められていたが、結局は小峰に奪い取られたので、やはり『語糸』に載った。
 
  
 
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「今に至るまで、予告なしに現れた一部の『子夜』を除いては、他の大作は何一つ出現していない。」
二十三日の手紙を出して以来、実に大変なことになりかけた。巨大な釘が正面からぶつかってきたのだが、幸いにも天のご加護で、すでに二十九日の手紙を出してあり、先の手紙は実に大逆不道であったので直ちに取り消すべしと声明してあった。そこで「おばかさん」と褒められ、「命令」を賜り、善を為す者には百祥が降るとのことで、何という幸いか。今は学校のことには一切口を出さず、もっぱら講義録を編んで締めくくりとしている。授業はあと五週間しかなく、その後は試験だ。しかし退校はおそらく二月初旬になるだろう。一月分の給料は待って受け取って行くのだから。
 
  
 
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「文」の「定義」もまた同文の言葉を借りれば「また厳密の極みである」。この文の動機は冒頭の数句から知れる通り、直接にはある「大」字を冠する副刊上の「×氏」の「文人無行」に関する話に因る。なお聞くところによれば「何家幹」とは即ち魯迅先生の筆名であるという。
中大からまたも手紙が来て、早く来いと催促し、しかも教員の給料を増額する方法を考えるとのこと。しかし私はやはり二月初旬にしか出発できない。伏園の方は二十日前後に発つだろう。おそらくまず広州に行き、それから陸路で武漢に入るのだろう。今晩は語堂が送別の宴を開く。彼もかなり活動する気でいるが、奥方はあまり賛成しない。二人の子供を連れて始終引っ越しをしてはどうなるかと。実際、奥方の立場に立てば、確かに苦しいことだ。旅行式の家庭では、家政を切り盛りする女性はどう手を付ければよいのか。しかし語堂は大いに意気込んでいる。後事いかんは「次回のお楽しみに」。
 
  
 
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しかし議論は「的を射」ており「文」の「定義」は「厳密の極み」であるが、まさにそれゆえに思わず自分自身をもその中に含めてしまったのではないか。たとえ魯迅先生が「第四種の人」を自任しているとしても。
狂飆の連中は、一方で私を罵りながら、一方でまた私を利用しようとしている。培良は厦門か広州で仕事を見つけてくれと頼み、尚鉞は小説を『烏合叢書』に入れてくれと言う。以前のは誤って罵ったので今後はやめると言い、まだ発表していない私を罵った原稿を同封し、読んだら焼いてくれと言う。思えば、私のこれまでの種々の遠慮のなさは、大抵は同年輩か同等の立場の者に対するもので、青年に対しては必ず譲歩し、あるいは黙って損を甘受してきた。ところが彼らは侮りやすいと思い込み、あるいは纏わりつき、あるいは奴隷のように使い、あるいは責め、あるいは中傷し、つけあがって止まるところを知らない。私は常に中国に「好事の徒」がいないことを嘆いてきた。だから何事も管理する者がいないのだ。今見ると、好事の徒になるのも実に容易ではない。少しおせっかいを焼いただけで、こんな面倒を背負い込む。今後は方針を変える。仕事の口も探さない。叢書も編まない。原稿も読まない。焼きもしない。返事も書かない。門を閉ざして大吉とし、自分で本を読み、煙草を吸い、眠る。
 
  
 
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中国文壇の充実しつつも空虚なることは諱むべからず。ただし矮人の中に長人を求むれば比較的まだいる。先達に望むところは誰某に対する企図よりも常に深切であるべきだ。魯迅先生の素養と過去の功績をもってすれば、なお中国の金剛石の看板の文人たるに足る。しかし近年はいかがであったか。ただ彼個人の発展のみを言えば途中で画き止めてしまい、今や罪己の詔を下すでもなく、せいぜい局外に身を置いて冷ややかな物言いをするばかり、これが「第四種の人」というものか。名のみ成りし人よ!
『婦女之友』第五号に、沄沁が君に宛てた公開書簡が載っている。見ただろうか。中身は大したことはなく、女子師範大学がまた壊されたことへの愚痴にすぎない。『世界日報』を見ると、程干雲はまだ在職のようだ。羅静軒は追い出されたらしく、紙面に彼女の公開書簡が載っていて、文筆で食べていけると言っている。おそらく相当難しかろう。
 
  
 
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「人情に近からざる」は固より「文人無文」であるが、最も肝要なるは「文人不行」(「行」は動詞)である。「進め、吾れ往かん!」
今日は昼間霧がかかり、器具が少し湿っている。蚊が非常に多く、夏よりひどい。実に不思議だ。刺されてたまらないので、蚊帳の中に逃げ込まなければ。次に書こう。
 
  
 
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(四月十五日、『涛声』二巻十四期。)
  
 
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【【涼を取る】:二つの誤解と一つの相違 家幹】
 十四日灯下。
 
  
 
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この木斎氏は私に対して二種の誤解を抱いており、私の意見と一点の相違がある。
  
 
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第一は「文」の定義に関してである。私のこの雑感は『大晩報』副刊上の『悪癖』に因るものであり、その文中に挙げられた文人は皆小説の作者である。このことは木斎氏も明らかに知っているはずだが、今これを混同して論ずるのは、おそらく作文の都合上そこまで顧みる余裕がなかったのであろう。『第四種の人』という題目もまことに時好に適っている。
今日もなお暑いが大風で、蚊が突然とても少なくなった。どういうわけか分からない。そこで講義録を一篇編んだ。印肉が上海から届いた。さっそく『桃色の雲』に数行書き入れ、あの「ガラス」の印と印肉を初めてこの本に使った。天気が暑くて印肉が柔らかいので、あまりうまく押せなかったが、大したことではない。こうしなければ気が済まないのだ。「余計な事」と叱られようとも、もう弁解はしない。どうせ攻撃には慣れているのだから、少々の叱責など何でもない。
 
  
 
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第二は私に「罪己の詔」を下せと求めていることである。私はここに一つの無聊なる声明をする。何家幹は誠に魯迅ではあるが、しかし皇帝になった覚えはない。もっとも幸いにしてかかる誤解をする者はそう多くはあるまい。
本校に特に新しいことはない。ただ山根先生は相変わらず日夜、私的な人物の配置と安排に余念がない。白果が北京から着いた。奥方一人、子供四人、使用人二人、荷物四十個。大いに「山河永固」の趣だ。なぜか急に「燕、幕に巣くう」の故事を思い出し、この一大群の人物を見て、思わず凄然とした。
 
  
 
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意見の相違する点は次の通りである。凡そ指摘批判するに当たり、木斎氏は自分自身を含めることを「冷ややかな物言い」と見なし、私は自分自身を含めないことを「冷ややかな物言い」と見なす。例えば上海に身を置きながら北平の学生は難に赴くべし少なくとも難を避けるべからずと責めるが如きがそれである。
  
 
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しかしこの一篇の文章により私はまことに大いなる益を得た。即ち、凡そ社会全体の症結を指摘する文章に対して、論者は往々にしてこれを「人を罵る」ものと称する。以前は甚だ怪しんだものであるが、今にして初めて知った。一部の人々の意見としては、この種の文章は決して自分を含まぬものと考えるのである。なぜなら、もし自分をも含むならば自ら罪己の詔を下すべきところ、詔書はなくして攻撃のみあるからには、指摘するところは全て他人であるに違いないと。かくして「罵る」と称し、こぞってこれを罵り、その人に一切の指摘された症結を負わせて深淵に沈め、天下はここに太平となるのである。
十五日夜。
 
  
 
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(七月十九日。)
  
 
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【最も芸術的なる国家】
十二日の手紙が今日(十六日)届いた。これもまあ早い方だ。広州と厦門の間の郵便船はおそらく週二回あるのだろう。仮に火曜と金曜に出るとすれば、月曜と木曜に出した手紙は早く着き、水曜と土曜に出したのは遅くなる。しかし結局その船が何曜日かは突き止められなかった。
 
  
 
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我が中国の最も偉大にして最も永久、しかも最も普遍なる「芸術」は、男が女に扮することである。この芸術の貴きは両面に光沢あること、いわゆる「中庸」にある──男が見れば「女に扮する」を見、女が見れば「男が扮する」を見る。表面上は中性なれども骨の髄は当然なお男である。しかしもし扮さざれば、それでも芸術と言えようか。例えば中国の固有の文化は科挙制度であり、加えて官位売買の類がある。当初はあまりに民権に似ず時代の潮流に合わぬと言われ、かくして中華民国に扮装した。しかるにこの民国は年久しくして修繕されず、看板すら既に剥落して殆ど尽き、あたかも花旦の顔の脂粉の如し。同時に正直なる民衆がまことに政権を求め出し、科挙出身者や官位売買出身者の参政権を廃さんとしている。これは民族に対して不忠、祖先に対して不孝にしてまことに反動の極みである。今や既に固有の文化を恢復する「時代の潮流」に回帰したのであれば、この不忠不孝を放任するわけにはいかぬ。かくしてもう一度新たに扮装し直さねばならず、草案は次の如し。第一、誰が国民を代表する資格を有するかは試験により決定すべし。第二、挙人を試験により選出したる後さらに一度選抜す。これを選(動詞)挙人と称し、選抜されたる挙人は即ち被選挙人である。文法に照らせば、このような国民大会の選挙人は「選挙人を選ぶ者」と称すべく、被選挙人は「選ばれたる挙人」と称すべきである。しかし扮さざれば芸術と言えようか。かくして彼らは憲政国家の選挙人と被選挙人に扮装せねばならぬ。実質は依然として秀才と挙人であるにもかかわらず。この草案の深意はここにある──民衆には民権に見え、民族の祖先には忠孝に見える。このほか上海で既に実現せし民権の如きは、納税者のみ選挙権と被選挙権を有し、広大なる上海をして僅か四千四百六十五人の大市民のみを残す。これは官位売買──富める者が主人──であるが、彼らは必ず挙人に合格し、甚だしくは補考なくして同進士出身を賜うであろう。その一。
貴校の状況は、実にあまり芳しくない。他の学校と同様、おそらく死にも生きにもつかず、上にも下にも行けないだけだろう。手を出せば必ず困る。もしすっぱりと改革するなり、攻め倒されるなりすれば、爽快であれ苦痛であれ、かえってましだ。しかし大抵はそうはいかない。やってもうまくいかず、手を引くこともできず、爽快でもなく、大した苦痛でもなく、ただ終日全身が不快なだけだ。その感覚を、私たちの故郷では「湿った肌着を着る」という俗語で表す。まだ乾いていない肌着をそのまま体に着るのとそっくりなのだ。私が経験してきた事は、ほとんどすべてこの通りで、最近の原稿書きと出版もその一つだ。引き継いだ以上、世の習いに従って取り繕うことは、君にはきっとできないだろう。改革するにしても、うまくいけばもちろんよいし、そのために自分が失敗しても構わない。しかし君の手紙によれば、改革の望みはなさそうだ。それならば一番よいのは手を出さないことで、もし断りにくければ「前校長」の方法を真似て、姿を隠す。決着がついてから出てきて、別の仕事を探す。
 
  
 
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その二、一方で交渉し一方で抵抗す。こちらの面より見れば抵抗であり、あちらの面より見れば実は交渉である。その三、一方で実業家・銀行家を務めつつ一方で自ら「小貧に過ぎず」と称す。その四、一方で日本製品の売行きは再び盛んとなり一方で人には「国貨年」と告げる……このたぐい枚挙に遑なく、しかも大抵は扮演すること甚だ巧みにして両面に光沢あり。
政治経済については、君が研究していないのは知っている。幸い三週間だけだ。私にもこの種の苦しみがあり、しばしば「得意でない」「好きでない」事を無理やりやらされる。しかも往々にしてやるしかない。芝居小屋の前で、真ん中に押し込まれて退けないようなものだ。自分にとって損なだけでなく、仕事もうまくいかない。断っても、相手は謙遜か怠惰だと思い、やはり頑としてやらせようとする。こうやって一、二年「曲芸」をやっていると、残るのは油滑な学問だけで、専門を失い、次第に社会にも見捨てられて「薬滓」になる。煎じ詰めて人に飲ませたのに。薬滓になれば誰もが踏みつけに来る。以前汁を飲んだ者までもが踏みつけに来る。踏みつけるだけでなく、冷笑までする。
 
  
 
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ああ、中国はまことに最も芸術的なる国家にして、最も中庸なる民族である。
犠牲論は結局誰の「筋違い」で手の平を打たれるべきか、それはまだ疑問だ。人には自由意志があり、牛や羊とは違う。私はそれを知っている。しかしその「自由意志」は果たして生来のものか。一時代の学説や他人の言動の影響を大いに受けているのではないか。それなら、その学説が真実かどうか、その人物が正しかったかどうかが問題になる。私も以前は自らの意志で、生活の道の上に血を一滴一滴滴らせて他人を養い、次第に痩せ衰えていくと自覚しながらも、楽しいと思っていた。しかし今はどうだ。人々は私の痩せ衰えを嘲笑する。私の血を飲んだ者までもが、私の痩せ衰えを嘲笑する。こんな声さえ聞こえてくる。「彼は一生こんなつまらない生活を送っていた。とっくに死んでいてもよかったのに、まだ生きている。見込みがないことが分かる」。そして私が困窮している時を見計らって、力一杯悶棍を食らわせる。しかしこれは社会から無用の廃物を除去しているのだと。これは本当に私を憤怒させ、怨恨させた。時にはまさに復讐したいとさえ思う。私は称賛や報恩を求める心など微塵もない。ただ血を飲んだ人々は、もう飲む血がなくなったら去って行くべきで、私が血の債権者であることを覚えておいて、去り際になお私を打ち殺し、しかも債券を消滅させるために、私の惨めな灰色の小屋に火をつけることはしないでくれと思うだけだ。私は実は自分を債権者だとは思っていないし、債券もない。彼らのこのやり方はあまりにもひどすぎる。私が最近次第に個人主義に傾いていくのはこのためであり、以前の私のように「自ら甘んずるものは犠牲にあらず」と考える人のことをしきりに思うのもこのためであり、他人にも自分のことを顧みるよう常々勧めるのもこのためだ。しかしこれは私の考えであって、行動となると、矛盾していることが非常に多い。だから結局は言行不一致で、おそらく足下の心を服させるには足りまい。幸い間もなく直接会って話す機会がある。その時にまた論じよう。
 
  
 
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しかるに小百姓はなお不満足なり。嗚呼、君子の中庸にして小人の反中庸なるかな!
厦門を離れるまであと四十数日だ。三十数日と言ったのは十日少なく数えていた。してみると大雑把で間の抜けたところは、「間抜けなおばかさん」と大差ないようだ。「五十歩百歩」だ。伏園はおそらく一、二日中に出発する。この手紙も彼と同じ船で着くかもしれない。今日から我々はおかずも一緒に賄いを頼むことにした。以前ご飯だけを頼んでいた時は、一人に中小碗一杯半しかもらえず、食欲の旺盛な者は二人分食べても足りなかった。今日はいくらか多くなった。料理人がいかに巧みか分かろうというものだ。ここの使用人たちは、みな当局者と何らかの縁があるらしく、替えが利かない。だから何がどうあれ、教員が割を食うしかない。例えばこの料理人は、もともと国学院の使用人の中で最も怠惰で最も狡猾な男で、兼士が大変な苦労をしてようやく追い出したのに、彼の地位はむしろ良くなった。当時の彼の主張はこうだ。自分は国学院の使用人だから、他の者に仕事を言いつけられる筋合いはない、と。考えてもみてくれ。国学院は一棟の建物だ。建物が口を開いて仕事をさせるとでも言うのか。
 
  
 
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(三月三十日。)
上海から本を取り寄せるのはとても便利だ。あの二冊はすぐに取り寄せ、ご命令に従い、年末に直接お目にかけよう。
 
  
 
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【現代史】
  
 
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私に記憶がある時分から今に至るまで、凡そ私がかつて至りし地において、空き地の上に常々「手品師」を見かけた。「手品を使う」とも言う。
迅。十六日午後。
 
  
 
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=== 第48節 ===
  
 
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この手品師には、おおよそ二種のみであった──
四十八
 
  
 
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一種は、猿一匹に仮面を被せ衣服を着せて一通り刀槍を弄ばせ、羊に騎って数周走らせる。さらに薄粥で養われ既に痩せて骨と皮ばかりの熊が若干の芸当をする。最後に皆から銭を集める。
  
 
+
もう一種は、石一つを空箱に入れ手巾で左に覆い右に覆いして白鳩一羽を出現させる。また紙を口に詰めて火を点け、口角や鼻孔から煙炎を吐く。次に皆から銭を集める。銭を集めた後、一人が少ないと言って勿体をつけてもう演じぬと言い張り、もう一人がなだめて皆に「あと五つ」と言う。果たして銭を投げる者が現れ、かくしてあと四つ、三つ……。
広平兄:
 
  
 
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銭が足りると、手品はまた始まる。今度は子供一人を口の小さな甕の中に入れてしまい、小さな辮髪だけが見え、再び出すにはまた銭が要る。十分集まると、どういうわけか大人が尖った刀で子供を刺し殺してしまい、被り物を掛けて真っ直ぐに横たえ、生き返らせるにはまた銭が要る。
十六日に十二日の手紙を受け取り、すぐに返信したが、もう届いただろう。一、二日中に手紙が来ると予想していたが、今のところまだ届いていない。先に数行書いて、明日出す準備をしておこう。
 
  
 
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「家にあっては父母を頼り、外にあっては朋友を頼り……ファーザ!ファーザ!」手品師は銭を撒く手振りをし、厳粛にして悲哀に言う。
伏園は一昨日の夜に発ち、昨朝出帆した。君ももう会っただろう。中大に何かできる仕事がないか、探るよう彼に頼んだが、結果はまだ分からない。上遂の南帰は杳として消息がなく、実に不思議だ。だから彼の件も計画のしようがない。
 
  
 
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他の子供が近寄って仔細に見ようとすれば彼は叱る。それでも聞かねば打つ。
ここでは何も起こっていないが、数日前にはかなり贅沢をした。伏園のハムを干し貝柱と一緒に大鍋で煮て食べた。また杭州から持ってきた茶葉が二斤あり、一斤二元で、飲んでいる。伏園が去った後、庶務課がすぐに人を寄こして相談を持ちかけてきた。伏園が住んでいた小部屋の半間に引っ越してくれないかと。私はにこやかにこう答えた。もちろんいいですとも。ただあと一月ほど猶予をいただけないでしょうか。その時には必ず引っ越しますから。彼らは満足して帰って行った。
 
  
 
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果たして多くの人が「ファーザ」した。金額が見込みの通りに達すると、彼らは銭を拾い上げ道具を片付け、死んだ子供も自ら起き上がり一同立ち去る。
実は教員の給料は少し減らしても構わないのだが、その住居と飲食に配慮し、相応の敬意を払うことは必要だ。可哀想に彼らは全く分かっておらず、人を椅子か箱のように見て、あちこち運び回す。際限がない。幸い私はもうすぐ出て行く。さもなくば旅行式の教授になるところだ。
 
  
 
+
見物客もぼんやりと散って行く。
朱山根は私が必ず去ることを知り、以前よりずっと大人しくなった。しかし聞くところでは、彼の学問ももう話し尽くしたらしく、次第に話す事がなくなり、教室でますます吃音を装っているという。田千頃は会場で崑曲を歌えるだけで、まさに「俳優之を畜う」の境遇に至っている。しかしこの手合いはこの地にこそふさわしい。
 
  
 
+
この空き地は暫時の沈寂となる。しばらくすると、またこの一式が始まる。俗に言う「手品は誰でも使えるが、各々巧みさが異なる」と。実のところ何年も常にこの一式であり、常に見る者があり常に「ファーザ」する者があるが、ただしその間に数日の沈寂を経なければならぬ。
私は元気だ。手の震えはとっくに止まったことは前の手紙ですでに述べた。厨房のご飯はまた減らされ、毎食また一杯半に戻った。幸い私にはまだ足りるし、幸いあと四十日しかない。北京や上海からの手紙は来るが、印刷物は何日も届かない。原因は分からない。では、また。
 
  
 
+
私の話はこれで終わりであり、意味もごく浅い。ただ皆が一通り「ファーザファーザ」した後またしばらく静かになり、それからまたこの一式が繰り返されるというだけのことである。
  
 
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ここに至って私は初めて題目を間違えたことに気づいた。これはまことに「死にもせず生きもせぬ」代物になってしまった。
迅。十二月二十日午後。
 
  
 
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(四月一日。)
  
 
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【推背図】
今はもう夜十一時だが、結局手紙は来なかった。この手紙は明日出そう。
 
  
 
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ここで私が用いる「推背」の意味は、裏面から推して未来の情況を測るということである。
  
 
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先月の『自由談』に一篇の『正面の文章は逆に読め』があったが、これは人をして毛骨悚然たらしめる文字である。なぜならこの結論に達するまでに、必ずや多くの苦い経験を経、多くの痛ましき犠牲を目にしたに違いないからだ。本草家が筆を執って「砒霜、大毒」と書く。字は僅か四つなれど、彼はこのものがかつていかに多くの命を毒殺したかを確実に知っているのである。
二十日夜。
 
  
 
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巷間に一つの笑い話がある。某甲が銀三十両を地中に埋め、人に知られることを恐れその上に木の板を立てて「此処に銀三十両なし」と書いた。隣の阿二はこれを見てその銀を掘り出したが、やはり発覚を恐れ木の板の裏に「隣の阿二は盗まず」と書き添えた。これこそ「正面の文章は逆に読め」を教えるものである。
  
 
+
しかし我々が日々目にする文章はかくも単純にはいかぬ。明らかにやると言いつつ実はやらぬものがあり、明らかにやらぬと言いつつ実はやるものがあり、明らかにこうすると言いつつ実はああするものがあり、実は自分がこうしたいのにかえって他人がこうしたがっていると言うものがあり、一声も発せずして実はやってしまっているものがある。しかしまた、こうすると言って本当にそうするものもある。難しいのはまさにここにある。
四十九
 
  
 
+
例えば近日の新聞に載る要聞を見よ──一、××軍は××にて血戦、敵××××人を殺す。二、××の談話:決して日本と直接交渉せず、依然として初志を改めず最後まで抵抗す。三、芳沢来華、私用とのこと。四、共産党が日本と連携、偽中央は既に幹部××を日本に派遣して交渉中。五、××××……
  
 
+
もしこれらを全て逆に読めば、あまりに駭然たるものがある。しかし新聞にはまた「莫干山路の草棚船百余隻大火」や「××××廉売はあと四日のみ」等々おそらく「推背」の要なき記事もあり、かくしてまた我々は混沌とするのである。
広平兄:
 
  
 
+
聞くところによれば、『推背図』は本来霊験あらたかであったが、某朝某帝が人心を惑わすことを恐れ偽造のものを加えたがゆえに予知し得なくなり、事実の証明を俟って後人々はようやく悟るのだという。
十九日の手紙が今日届いた。十六日の手紙は届いておらず、紛失が怖い。だから結局送り先の住所が分からないままで、この手紙が届くかどうかも分からない。私が十二日午前に出した手紙のほか、十六日と二十一日にも手紙を出しており、いずれも学校宛だ。
 
  
 
+
我々もまた事実を見て待つほかなく、幸いにしておそらくそう久しくはなく、今年中には必ず結末がつくであろう。
一昨日、郁達夫と逄吉から手紙を受け取った。十四日発で、中大にかなり不満のようで、二人とも去った。翌日また中大の委員会から十五日付の手紙が来て、決定した「正教授」は私一人だけだから早く来いと催促している。それなら、おそらく主任ということだろう。しかし私はやはり学期を終えてからしか行けない。すぐに返信して説明するつもりだが、おそらく伏園がすでに私の代わりに伝えてくれたことだろう。主任は引き受けたくない。教壇に立つだけで十分だ。
 
  
 
+
(四月二日。)
ここは一月十五日から試験が始まり、採点が終わるのは二十五日頃だろう。給料を待つから、最も早くても一月二十八日にしか出発できまい。まず旅館に泊まり、その後のことは状況を見て決める。今から先に決めておく必要はない。
 
  
 
+
【「殺す相手を間違えた」異議】
電灯が壊れた。蝋燭の残りもわずかだ。寝るしかない。手紙が届いたら、もっと詳しい住所を知らせてほしい。宛先を書けるように。
 
  
 
+
曹聚仁氏の一篇『殺す相手を間違えた』を読み甚だ痛快を覚えたが、振り返ってみればなおいささか憤激の談に過ぎぬ嫌いがあるので、異議を数言呈したい──
  
 
+
袁世凱が辛亥革命の後に党人を大殺したのは、袁世凱の側から見れば一点の間違いもなかった。なぜなら彼はまさに偽革命の反革命者であったからだ。
迅。十二月二十三日夜。
 
  
 
+
間違っていたのは革命者が騙されたことであり、彼がまことに宙返り一回で北洋大臣から革命家に変じたと思い込み、同志として迎え入れ、皆の血を流して彼を大統領の座に押し上げたのである。二次革命の時、表面上は彼がまた宙返り一回で「国民の公僕」から吸血魔王に変じたかに見えた。しかし実はそうではなく、彼がまた本来の姿を現しただけのことであった。
  
 
+
かくして殺す、殺す、殺す。北京城内では旅館や宿屋の中にまで偵探が満ち溢れ、さらに「軍政執法処」なるものがあり、嫌疑を受けて捕らえられた青年が中に送り込まれるのは見えるが、彼らが生きて出て来るのを見たことはなかった。さらに『政府公報』には日毎に党人の脱党広告が載り、曰く以前は友人に引き込まれて誤ってかの党に入ったが、今は自ら迷妄を知りこれより離脱し心を洗い面を改めて善人たらんとする云々。
この手紙が紛失するのを恐れ、別に一通学校宛に書く。
 
  
 
+
間もなく袁世凱が人を殺して間違いなかったことが証明された。彼は皇帝になろうとしたのである。
  
 
+
この事、瞬く間に既に二十年。今の二十歳前後の青年はその時まだ乳を吸っていたのであり、時の流れのいかに速きことか。
五十
 
  
 
+
しかし袁世凱は自ら皇帝にならんとしながら、なぜ真の仇敵たる旧皇帝を残しておいたのか。これは多く議論するまでもなく、今の軍閥の混戦を見れば分かる。彼らは死物狂いで戦い天を共にせざるが如くなれども、後に至りて一方が「下野」しさえすれば、また丁重に相対するのである。しかし革命者に対してはたとえ戦ったことがなくとも、決して一人たりとも見逃さぬ。彼らは実によく心得ているのだ。
  
 
+
されば私は思う。中国の革命がかくも不首尾に終わるのは彼らが「殺す相手を間違えた」からではなく、我々が「見る相手を間違えた」からなのである。
広平兄:
 
  
 
+
最後に「中年以上の者を多く殺すべし」との主張にもいささか異議があるが、自分自身が既に「中年以上」であるからして、嫌疑を避けるためただ目を地面に向けるのみとする。
今日十九日の手紙を受け取った。十六日の手紙は結局届かず、だから君の住所が分からない。しかし封筒に書いてあった通りの宛先で一通出した。届くかどうか分からない。だから別に一通、書留で学校宛に出す。二通のうち一通でも届くことを期して。
 
  
 
+
(四月十日。)
一昨日、郁達夫と逄吉から手紙が来て、十五日に広州を離れるとのこと。中大にかなり不満のようだ。また中大委員会から十五日発の手紙があり、早く来いと催促し、正教授は私一人だけだと言う。それなら主任ということだろう。すぐに返信して、一月末にしか厦門を離れられないと述べるつもりだが、おそらく伏園がすでに説明してくれただろう。
 
  
 
+
原稿では「丁重に相対する」の後に「下野して出洋の際にはさらに盛大なる送別会が開かれることすらある」という趣旨の文があったが、後に削除されたことを記憶している。
主任は引き受けたくない。教えるだけでよい。
 
  
 
+
(四月十二日記す。)
厦門の学校は一月十五日に試験、採点と給料の受け取り待ちで、最も早くて二十八、九日にしか出発できまい。まず旅館に泊まり、その後は状況次第。
 
  
 
+
【【備考】:殺す相手を間違えた 曹聚仁】
私が十二日、十三日にそれぞれ手紙を出したほか、十六日、二十一日にもそれぞれ出したが、届いただろうか。
 
  
 
+
先日某紙に某氏が長春帰りの客の話を載せていた。曰く、日本人は偽国において既に「阿片専売」と「幣制統一」の二大政策を完遂したと。この二件はかつて老張・小張の時代には誰もが整理不可能と見なしていたが、今や彼らは一挙手の間にこれを整然と処理した。そこで某氏は嘆息して曰く「余かつて東北の人士と幣制紊乱の害を論ずるに、皆積重にして返り難しと推諉す。何ぞ日本人は一刹那の間に畢えるや。『為さざるなり、能わざるにあらず。』これ国人の一大病根なり!」と。
電灯が壊れ、蝋燭ももう短い。買い足す場所もない。寝るしかない。この学校は本当に不便極まりない。
 
  
 
+
豈にただ「病根」のみならんや。中華民族の滅亡と中華民国の顛覆もまたこの肺癆病にある。一つの社会、一つの民族が衰老期に至れば何事も「積重にして返り難し」となる。ゆえに「革命」せざるべからず。革命とは社会の突変の過程であり、善人も悪人も善でも悪でもない人もいくらかは殺されるものである。殺すことは代価なきにあらず──社会に隔離作用を起こし旧社会と新社会を截然として二段に分かち、悪しき勢力を新しき組織に伝染させぬのである。ゆえに革命の殺人には基準あるべく、中年以上の者を多く殺し旧勢力を代表する者を多く殺すべきである。フランス大革命の成功は大恐慌時期に旧勢力を一掃したことにある。
ここはかなり寒くなった。昼は袷の長袍、夜は毛皮の長袍を着ている。実は綿の掛け布団で十分だが、出すのが面倒なのだ。
 
  
 
+
しかるに中国の毎回の革命は常に常態に反している。多くの青年が革命運動に参加して犠牲となり、革命の進行中旧勢力は一時身を隠すのみにて一切も剷除されず、革命成功の後に旧勢力がまた湧き出して青年を犠牲にし一大批を殺す。孫中山先生が辛苦して十数年の革命工作をなし辛亥革命は成功したが、袁世凱が大権を握り日毎に党人を殺し甚だしくは十五六歳の子供までも殺さんとした。かくの如き革命は隔離作用を起こすどころかまるで旧勢力の護衛をしているようなものだ。ゆえに民国以来ただ暮気のみにて朝気なく、いかなる事業も改革を論ずるに及ばず、一たび改革を論ずれば必ず「積重にして返り難し」と推諉する。その悪しき勢力は現在に至るまで続いている。
  
 
+
この種の反常状態を私は「殺す相手を間違えた」と名づける。私は常に友人に語っている。「流血なき革命はあり得ぬが、『流血』は人を間違えてはならぬ。早くに溥儀を殺し鄭孝胥の輩を多く殺すこそ邦国の大幸なり。もし二十五歳以下の青年を乱殺し倒行逆施して社会の元気を斫喪すれば『亡国滅種』の『眼前の報い』を得ること必定」と。
迅。十二月二十三日夜。
 
  
 
+
(『自由談』四月十日。)
  
 
+
【中国人の生命圏】
通信先を教えてくれ。
 
  
 
+
「螻蟻すら生を貪ることを知る」──中国の百姓は昔から自ら「蟻民」と称してきた。私は暫時己が命を保全せんがため、常に比較的安全なる場所に心を配っているが、英雄豪傑を除けばおそらく嘲られることもあるまい。
  
 
+
ただし私は正面の記載はあまり信用せず、往々にして別の見方をする。例えば新聞に北平が防空の設備を整えつつあると載っていても、私は安心を覚えぬ。しかし古物を載せて南へ運ぶのを見れば忽ち古都の危機を感じ、しかもこの古物の行方から中国の楽土の所在を推測する。
五十一
 
  
 
+
今や一批また一批の古物が皆上海に集まって来ている。最も安全なる場所は結局のところやはり上海の租界の上であることが分かる。
  
 
+
しかしながら家賃は必ずや高騰するであろう。これは「蟻民」にとっても大打撃であるから、なお他の場所を考えねばならぬ。
広平兄:
 
  
 
+
考えに考えて一つの「生命圏」に思い至った。即ち「腹地」にもあらず「辺疆」にもあらず、両者の中間に介在するあたかも環の如く輪の如き場所であり、ここにおいてこそ「×世に性命を苟延する」ことができるやもしれぬ。
昨日(二十三日)十九日の手紙を受け取ったが、十六日の手紙は今朝になっても届かず、きっと紛失したと思い、二通の手紙を書いた。一通は高第街宛、一通は書留で学校宛で、内容は同じだ。午前に出したので、どちらか一通は届くだろう。ところが午後になって、十六日発の手紙がなんと届いた。まる九日もかかったのだ。実に珍妙な郵便だ。
 
  
 +
「辺疆」では飛行機が爆弾を投下する。日本の新聞によれば「兵匪」を剿滅中とのことであり、中国の新聞によれば人民を屠戮し村落市街は一片の瓦礫となっている。「腹地」でもまた飛行機が爆弾を投下する。上海の新聞によれば「共匪」を剿滅中であり彼らは炸かれて見る影もないとのことであるが、「共匪」の新聞に何と書いてあるかは我々には分からぬ。要するに辺疆では炸、炸、炸、腹地でもまた炸、炸、炸。一方は他人が炸し一方は自分が炸するのであって炸す手は異なれど炸される身は同じである。ただこの両者の中間にあるもののみが、爆弾が誤って落ちて来さえしなければ「血肉横飛」を免れる望みがあるので、私はこれを「中国人の生命圏」と名づける。
  
=== 第84節 ===
+
さらに外から炸し入ればこの「生命圏」は収縮して「生命線」となり、さらに炸し入れば皆は炸され尽くした「腹地」の中に逃げ込みこの「生命圏」は完結して「生命○」(ゼロ)となる。
  
学校の現状からして、学生の見込みのなさと教職員の抜け目なさが分かる。一人だけお人よしをやっているのは、本当に割に合わない。いっそ一旦家に逃げ帰って、見て見ぬふりをした方がましだ。こういうことは私も何度か経験してきたから、ますます世慣れして、力を量ってやること、命を賭けないことを唱えるようになった。他人があまりにも抜け目なく、見ていて腹が立つからだ。伏園は早く広州に着きたがっていたが、もう会っただろうか。中大のことを君のために聞いてみると言っていた。
+
実はこの予感は誰にもあるのであって、この一年来文章の上に「我が中国は地大にして物博、人口衆多」なる常套句がほとんど見られなくなったことこそ一つの証拠である。しかもある先生は演説の上で自ら中国人は「弱小民族」だと言っている始末だ。
  
 
+
しかしこの言葉は権力者たちの同意するところではない。なぜなら彼らには飛行機のみならず、彼らの「外国」があるからだ!
郁達夫はもう行ってしまった。手紙が来た。また成仿吾も去ると聞く。創造社の連中は中大と何か軋轢があるようだが、これは私の推測にすぎない。達夫は遇安の手紙の中で確かに怒りの言葉を書いている。私はとりあえず構わず、旧暦の年末にはやはり広州に行く。数えればあと一月余りだ。
 
  
 
+
(四月十日。)
今のところここでは特に不快なことはない。どのみちもうすぐ去るのだから、何事も心穏やかだ。今晩は映画を見に行った。川島夫妻がすでに到着している。彼らにはまだ山水草木の新鮮さしか目に入らないようだ。ここには始終「非合憲的な」客が来て、あまり本も読めない。何人かは広州に転学したがっており、彼らはどうしても私を信奉してやまない。まったくどうしようもない。
 
  
 
+
【内と外】
玉堂はおそらくもうやっていけないだろうが、国学院は当面はつぶれまい。死にも生きにもつかぬままだ。「学者」たちと白果はすでに校長と連絡を取り合っている。彼らならやっていけるだろう。しかし我々が去った後、ほどなく彼らも追い出されるだろう。なぜか。ここで求められる人物は、「学者の皮をかぶった奴隷の骨」だ。しかし彼らは皮まで奴隷すぎて、校長からも見下され、去らざるを得なくなるのだ。
 
  
 
+
古人曰く、内外に別あり道理は各々異なると。夫を「外子」と呼び妻を「賤内」と呼ぶ。傷病兵は病院の内にあり慰問品は病院の外にあって、査明を経ざれば受け取ることを許さず。外に対しては安んじ、内に対しては攘いあるいは嚷ぶ。
では、また。
 
  
 
+
○ ○ ○ ○
  
 
+
何香凝先生は嘆息して曰く「当年はその起たざることを恐れしに、今日はその死なざることを恐る」と。しかしながら死の道理もまた内外で異なる。
迅。十二月二十四日灯下。(電灯は直った。)
 
  
 
+
○ ○ ○ ○
  
 
+
荘子曰く「哀しみの大なるは心の死するに如くはなし、身の死するはこれに次ぐ」と。次ぐとは二害の軽きを取るなり。されば外なる身体はこれを死なしめ、内なる心はこれを活かす。あるいはまさにその心が活きているがゆえに身体を死なしめるのである。これを治心と謂う。
五十二
 
  
 
+
○ ○ ○ ○
  
 
+
治心の道理は甚だ玄妙である。心は固より活かすべきなれどもあまりに活かし過ぎてはならぬ。心が死すれば明々白々に抵抗せぬことになり、結果としてかえって皆が鎮静でなくなる。心があまりに活き過ぎれば妄想を逞しくし本気で抵抗を企てる。この種の人は「絶対に抗日を言うべからず」なのである。
広平兄:
 
  
 
+
○ ○ ○ ○
二十五日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。今日は手紙が来ると思ったが、来なかった。他の広東からの手紙はみな届いているのに。伏園からはすでに手紙が一通来ている。同封するので、中大の状況が分かるだろう。上遂と君の件は、おそらくどちらもごく簡単に手配できる。上遂にはもう手紙で知らせた。彼は杭州にいるはずだが、今どうしているか分からない。
 
  
 
+
皆を鎮静せしめんがためには心の死せし者は出洋すべし。留学とは外国に赴いて心を治する方法である。しかして心のあまりに活き過ぎたる者は罪あり厳しく処置すべし。これこそ国内にて心を治する方法なのである。
どうやら中大は私を非常に急いで待っているようだ。だから玉堂と相談し、早く行けるなら早く行こうと思う。しかも厦大では私がいてもいなくても学期を終えるかどうかは問題にならないのだから。ただし手紙はそのまま出し続けてくれ。たとえ私がすでに発っていても、代わりに受け取って転送してくれる者がいる。
 
  
 
+
○ ○ ○ ○
厦大はもう捨て置くしかない。中大でやれることがあれば、少しは力を尽くしたいと思うが、もちろん自分の心身を損なわない範囲で。私が厦門に来たのは、軍閥官僚や「正人君子」たちの迫害を一時的に避けるためだったが、少しは休息し、いくらか準備もしたかった。ところがある者たちは、私がもう筆を奪われ発言の可能性がなくなったと早合点し、さっそく手の平を返して攻撃にかかり、死体を踏み台にして自分が英雄面をし、自分で作り上げた恨みを晴らそうとした。北京にも流言があるようで、上海で聞いたのと似ている。しかも長虹が必死に私を攻撃するのはそのためだと言う。まったく意外だが、いずれにせよ、このような手段で私を征服しようとしても、だめだ。以前私が青年に唯々諾々と従っていたのは譲歩であって、決して戦う力がなかったのではない。今、迫害がやまないのなら、私は意地でもまた出てきて何かする。しかも意地でも広州で、もっと近くに住んで、闇に隠れている諸君が私をどうするか見届けてやる。しかしこれはたまたま巡り合わせた口実に過ぎないかもしれない。実のところ、彼らの陰口がなくても、やはり広州に行くつもりだったのだ。
 
  
 
+
何香凝先生は「誰が罪人であるかはなはだ問題あり」と言うが──これはまさに彼女が内外有別の道理を弁えぬがゆえである。
では、また。
 
  
 
+
(四月十一日。)
  
 
+
【透底】
迅。十二月二十九日灯下。
 
  
 
+
凡そ事を徹底するのは善いことであるが「透底」(底を透く)となると必ずしも高明とは言えぬ。なぜなら連続して左に廻り続ければやがて右に廻る友人と出くわすからであり、その時互いに頷き合い顔がひりひりするであろう。自由を求める者が忽ち復辟の自由を保障せよとか大衆虐殺の自由を保障せよと言い出す──透底は透底であるが自由そのものまで漏れ落ちてしまい、元来ただ底なき穴が残るのみである。
  
 
+
例えば八股文に反対するのは至極尤もなことである。八股はもともと愚鈍の産物である。一つには試験官が面倒を嫌い──彼らの頭脳は大半が陰沉木でできている──何の聖賢に代わりて言を立てるとか起承転結だとか文章の気韻だとか一定の基準がなく捉え難いがゆえに、一股一股と定め功令に合する格式としこの格式をもって「文を衡る」ことで一目にして軽重が分かるようにした。二つには受験者もまた省力にして手間いらずと感じたのである。かくの如き八股は新旧を問わず皆掃蕩すべきである。しかしこれは聡明であらんがためであって、さらに愚鈍であらんがためではない。
五十三
 
  
 
+
ただし愚鈍を保存せんとする者には一つの策略がある。彼らは言う「私は駄目だが、あいつも私と同じだ」と。──皆がやっていけなければ引き倒して大団円! しかし「あいつ」が引き倒された後、旧き愚鈍なる「私」はこっそりとまた立ち上がるのであり、実利は愚鈍に帰するのだ。あたかも偶像を打倒せんとすれば偶像は焦って一切の生きた人間を指さし「彼らは皆私に似ている」と言い、かくして汝は走り行って偶像に似たる生きた人間を悉く打倒し、戻って来ると偶像が一頻り讃えて曰く、偶像を打倒して「打倒」者を打倒するとは確かに透底の至りであると。実はこの時さらに大いなる愚鈍が全世界を覆っているのである。
  
 
+
=== 第49節 ===
広平兄:
 
  
 
+
口を開けば詩云子曰、これは旧八股である。しかるに人あって「ダーウィン曰く、プレハーノフ曰く」をも新八股と見なす。かくして地球が丸いことを知ろうとすれば、人人自ら地球を一周せねばならず、蒸気機関を製造せんとすれば、まず開水壺の前に座して格物せねばならぬ……。これは自ずと透底の極みである。実のところ、かつて衛道文学に反対したのは、あのように人を食う「道」は衛るべきではないという意味であったが、ある人が透底にせんとして、いかなる道も衛らぬと言い出した。この「いかなる道も衛らぬ」というのは、それ自体一つの「道」ではないか。されば、真に最も透底なるは、なお以下の一つの物語であろう──
十二月二十三、四日に十九日と六日の手紙を受け取って以来、久しく手紙が来ず、本当に待ち遠しかった。今日(一月二日)午前にようやく十二月二十四日の手紙を受け取った。伏園にはもう会っただろうか。彼が広州で聞いた事柄については、三十日の手紙に彼の手紙を同封したが、届いただろうか。刊行物については、十一月二十一日以降さらに二回送った。一回は十二月三日で、おそらく紛失した。もう一回は十四日、書留だから、まだ届くかもしれない。学校の門番は公の物まで横領するとは、実に嘆かわしい。だから労働者の地位が向上する時にも、やはり教育が必要なのだ。
 
  
 
+
古、ある国で革命が起こり、旧政府は倒れ新政府が立った。傍の者が言った「お前は革命党だが、もとは有政府主義に反対していたではないか。なぜ自分が政府をやるのか」と。革命党は即座に剣を抜いて自らの首を斬り落とした。しかしその身体は倒れず、殭屍と化して直立し、喉管の中から呑々吐々と言うには、この主義の実現はもとより三千年後を待たねばならぬのだと。
一昨日、十二月三十一日に正式の辞職願を提出した。同日をもって一切の職務を辞する。この件は学校当局をいくらか苦しめた。虚名のためには引き留めたいが、すっきり手間をかけずに済ませるためには行かせたい。だからかなり困っている。しかし私と厦大は根本的に相容れず、調和の余地はないから、いずれにせよ後者の結果に落ち着くだろう。今日は学生会も代表を送って慰留に来た。もちろん形式的なものにすぎない。続いておそらく送別会で、お世辞と憤慨の演説があるだろう。学生は学校に不満だが、風潮は起きまい。四年前に一度失敗しているからだ。
 
  
 
+
(四月十一日。)
先月の給料は明後日には出ると聞く。今は試験の答案を見ているところで、二、三日で終わる。その後荷物をまとめ、遅くとも十四、五日までには厦門を離れるが、その時にはおそらく転学の学生も一緒に行くことになり、彼らの交渉や手配もしなければならない。だからこの手紙が届いた後は、もう手紙を寄こさなくてよい。すでに出した分は構わない。代わりに受け取ってくれる者がいる。家具については、アルミ製の物とアルコールランプ以外には大したものはない。持って行き、謹んでご覧に入れる。
 
  
 
+
【【来信】:】
二十日前には広州に着けるだろう。君の仕事場については、その時に何とかする。同じ大学にいても構わないと思う。意地でも同じ大学にする。どうとでもなれ。
 
  
 
+
家幹先生:昨日、大作『透底』一文を拝読し、晩前に発表した拙文『論新八股』に触れられている箇所あり、甚だ幸甚。ただし「譬え」云々は実に誤解より出たるものです。小生の所謂新八股とは、一等の文にして本は充実せる内容なく、ただ時好の看板のみあり、あるいは新装をもって旧き皮嚢を包むものを指します。看板替えにして中身は同じなればこそ「この空虚なる宇宙」は依然として「且つ夫れ天地の間」と同じく八股であり、羊頭を掲げて狗肉を売ればこそ「ダーウィン曰く」「プレハーノフ曰く」は依然として「子曰く詩に云う」と毫も異ならぬのです。ゆえに攻撃するは「ダーウィン曰く」「プレハーノフ曰く」それ自体にあらず、これを利用して新八股の形式を成すことにあります。先生の挙ぐる「地球」「機器」の例、「透底」「衛道」の理は三尺の童子も知るところ、これを以て比とするは曲解の嫌いあり。
今日写真を一枚撮った。草叢の中で、コンクリートの墓の供え台の上に座って。しかし写りが良いかどうかは明後日にならないと分からない。
 
  
 
+
今日の文壇、蓬勃たる新気あるも、一切の狐鼠魍魎なお改頭換面し衣錦逍遥する者あり、礼拝六・礼拝五派等の旧貨を新装して出現する者の如し。この種の新皮毛旧骨髄の八股、先生はこれを掃除すべきものと認められるか否か?
  
 
+
また時代の看板を借り、革命学説を歪曲し、口に阿弥陀を唱えつつ心に妄想を抱く者あり。この種の他人の辺幅を借りて自己の臭き足を蓋う新八股、先生はまたこれを掃除すべきものと認められるか否か?
迅。一月二日午後。
 
  
 +
「透底」に言えば、「譬えば古の皇帝、今の主席、実質上固より大いに区別あるを知るも、今の主席と古の皇帝と一模一様なる者なおありて、しからば某一の意義において主席を非難すること、その意は自ずと明らかにして、もし虱を捉うるに志あるにあらざれば、両目瞭然たらざることなからん」。
  
=== 第85節 ===
+
予生まれること晩く、不学無術なれども、「徹底」の聡明なきも、「透底」の蠢笨には至らず、あるいは言いて未だ「透」ならざるがゆえに誤解を招きしか。なおご教示「底」に到ること願う。「透」に感じ「透」に感ず!
  
伏園にはもう会っただろうか。彼が十二月二十九日にくれた手紙の一部を切り取って同封する。どう思うか。助教はさほど難しくないと思う。授業をする必要はなく、しかも私の助教ならとりわけ容易だ。私は教授面をあまりしなければよいのだから。
+
祝秀侠 上。
  
 
+
【【回信】:】
この数日「名人」を演じるのが辛かった。送別会をいくつもはしごし、どこでも演説をし、写真を撮らされた。ここは死海だと思っていたのに、こうかき回すと案外いくらか波が立つものだ。多くの学生がそのためにかなり憤慨し、腹を立てた者もいる。一方ではこの機に乗じて学校や人を攻撃しようとする者もおり、攻撃される側は私の人物をできるだけ悪く言って、自分の受ける被害を軽くしようとしている。だから最近は流言がかなり多いが、私はただ手をこまねいて傍観している。なかなか面白い。しかしこうした騒動も学校のためにはやはり無益だ。この学校は全面的に作り直す以外に方法はない。
 
  
 
+
秀侠先生:お手紙拝受。貴兄の所謂新八股が礼拝五六派等の流れを指すことを知りました。実は礼拜五六派の病根は必ずしも全てその八股性にあるのではありません。
少なくとも二十人の学生も去りたがっている。私も確かに去らなければならない。なぜなら私がここにいるがために、河南の中州大学から転学してくる者までいる。しかし学校の実態がこの有様では、私がなおも学生の勧誘を手伝えば、子弟を誤らせることにならないか。だから私は一方でもう一篇通信を書いて『語糸』に載せ、厦門を離れたことを表明した。どうやら私も偶像になってしまったらしい。以前、何人かの学生が『狂飆』を手に持って来て、長虹に反論を書いてくれと勧め、こう言った。「あなたはもうあなた自身のものではありません。多くの青年があなたの言葉を待っているのです」。私はぎくりとした。みなの共有物になるとは大変なことだ。そんなのは嫌だ。いっそ倒れてしまった方がずっと楽だ。
 
  
 
+
八股は新旧を問わず皆掃蕩すべきこと、私は既に述べました。礼拜五六派に新八股性があるのみならず、その余の人にも新八股性はあり得ます。例えばただ「罵倒」「恫喝」甚だしくは「判決」するのみにて、具体的に切実に科学の求め得たる公式を用いて日毎の新しき事実新しき現象を解釈することを肯んぜず、ただ公式を書き写して一切の事実に乱雑に当てはめる──これもまた一種の八股です。たとえ明らかに理が貴兄にあっても、読者をして貴兄の空虚を疑わしめ、もはや答弁し得ずただ「国罵」のみ残れりと疑わしめることになります。
今のところ見れば、まだしばらくは無理をして「名人」をやり続けねばならず、それでようやくやめられるのだろう。しかし大それた志があるわけでもない。中大の文科がまともに運営されさえすれば、私の目的は達する。その他はすべて構わない。最近少し態度を変えた。何事も手当たり次第に対処し、利害を計算せず、しかし真剣にもなりすぎない。すると仕事が案外容易で、疲れもしないと感じるようになった。
 
  
 
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「革命学説を歪曲する」者が「プレハーノフ曰く」等を以て自己の臭き足を蓋う場合、彼らの誤りは「プレハーノフ曰く」等を書いたことにあるのでしょうか。我々は具体的にこれらの人がいかに誤りなぜ誤りかを証明すべきです。もし単純に「プレハーノフ曰く」等と「詩に云う子曰く」等を等量に扱えば、必然的に誤解を引き起こします。先生の来信もこの点を認めておられるようです。これがまさに私の『透底』において指摘せんとしたところです。
この手紙以後、厦門からはおそらくもう手紙を出さない。
 
  
 
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最後に、私のあの文章は虚無主義的な一般的傾向に反対するものであり、貴兄の『論新八股』の中のあの一句は多くの例の中の一つに過ぎず、これは必ず解消すべき「誤解」です。あの文章はこの一例のためだけに書いたのではありません。
  
 
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家幹。
迅。一月五日午後。
 
  
 
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【「以夷制夷」】
  
 
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私はまだ覚えている。去年中国の多くの人々がひたすら国際連盟に泣訴していた頃、日本の新聞は往々にしてこれを嘲笑し、中国の祖伝の「以夷制夷」の古い手段だと言った。一見するとなるほどそのようにも見えるが、しかし実はそうではない。あの時の中国の多くの人々は、確かに国際連盟を「青天大老爺」と見なしていたのであり、心の中にはもはや「夷」の字の影すらなかったのだ。
五十五
 
  
 
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むしろ逆に「青天大老爺」たちの方が常々「以華制華」の方法を用いていたのである。
  
 
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例えば、彼らが深く憎む反帝国主義の「犯人」に対しては、彼ら自身は悪人の役をせず、ただ爽やかに華人に引き渡して自分で殺させるのだ。彼らが痛恨する腹地の「共匪」に対しては、彼ら自身は明白に意見を表明せず、ただ飛行機と爆弾を華人に売って自分で炸させるのだ。下等華人に対しては皇帝の子孫たる巡捕と西崽がおり、知識階級に対しては上等華人の学者と博士がいる。
広平兄:
 
  
 
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我々が何日も自慢していた「大刀隊」は、手がつけられぬかに見えたが、しかし四月十五日の『××報』に頭号活字で「我、敵二百を斬る」なる題目があった。一見するに勝利の感を覚えるが、本文を見てみよう──
五日に手紙を一通出したが、先に届いただろう。今日十二月三十日の手紙を受け取った。だからもう少し書く。
 
  
 
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=== 第50節 ===
中大が君を助教に招こうとしているのは、伏園がわざわざ策を弄して冗談を言っているのではない。前回同封した二通の手紙を見れば分かる。もともと李逄吉の空席だったのだ。北大でも厦大でも助教は普段授業をしない。厦大では教授が半年や数月休暇を取った時に、まれに助教が代講するが、そんなことは極めて稀だ。中大の規定もまさか特別ということはあるまい。しかも教授が教案を作り助教が講義するなど、あまりに理に合わない。君が聞いたのはおそらく流言だろう。流言でなくても対処法はある。神経過敏になる必要はないようだ。辞令がまだ出ていなくても、おそらく変更にはなるまい。上遂の件も同様で、中学の職員はやらなくてよいと思う。万一変更があっても、私が人に頼んで別に手配する。
 
  
 
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実は、焦大の罵りは賈府を打倒せんとするのではなく、むしろ賈府の好からんことを望んでのことであり、ただ主と奴がかくの如くならば賈府はもうやっていけなくなるぞと言ったに過ぎぬ。しかるに得た報酬は馬糞であった。されば焦大はまことに賈府の屈原であり、もし彼が文章を能くすれば、おそらく一篇の『離騒』の如きものをものしたであろう。
同僚にすると流言のせいで自分に累が及ぶのではないか――私は本当に不思議に思う。これは君が釘を刺されて神経過敏になったのか、それとも広州の状況が実際にそうなのか。後者なら、広州で人として生きるのは北京よりさらに難しいことになる。しかし私はそんなことは気にしない。私はさまざまな人物からさまざまな名で呼ばれてきた歴は長い。だからどう言われようと構わない。今回厦門に行った時も、ここでも各種の流言があったが、すべて放っておき、もっぱら大総統哲学を用いた。すなわち「自然に任せる」だ。
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三年前の新月社の諸君子は、不幸にして焦大と相類する境遇に遭った。彼らは経典を引き据を引いて党国にいささかの微辞を呈したが、引いたのは大抵は英国の経典であった。しかるに賈府の賈政のような方々は、このような不満こそ懼るべしと見て、主として先ず焦大の属する側を咎めるのが穏当なりとした。かくして我が新月は収まった。しかし焦大のあの一声の罵りは、決して何の効果もなかったわけではない。その後、主はいよいよ心置きなく傲慢になれたのであるから。
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だがある日、石にかじりついても清操を守った新月は再び起ち上がった。ただし今度は不平を自ら呑み込み、かえって主に味方して別のものを罵り始めた。即ち下僕どもである。するとこの度は実に結構なるかなと褒められ、さらに「もっともっと忠実に」と求められた。かくして新月は晴れて忠義の家人となり、焦大の類ではなくなった。この類の変遷を見れば、中国の文人のいかに処世に巧みなるかを知り得るのであって、古来「文人多変節」と言われるのも無理はない。
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しかし一つの困った問題がある。新月社の場合のように、上に向かって罵ればこそ焦大であり、下に向かって罵れば犬の群れの仲間入りに過ぎぬ。天地の間に身を置くには、この上下の見境をつけねばならぬのだが、権力の側についた途端に見境がなくなってしまう。これが文人の宿命的な弱点であろう。
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ところで、最近になって思うことがある。あの新月派が英国の自由主義を引いて国民党にちょっぴり苦言を呈した時、彼らは銃殺されこそしなかったが、馬糞は食わされた。それに引き換え、もし労働者農民が同じことを言えば、即座に「赤匪」として銃殺されたであろう。この差はどこから来るか。即ち身分の差である。同じ不満でも上等華人が述べれば「微辞」、下等華人が述べれば「反逆」なのだ。
  
 
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しかるにこの上等華人は自らの特権に安住し、下等華人の苦しみを知ろうともしない。彼らの自由論は畢竟自分たちの自由であって、万人の自由ではない。
十日までには出発できなくなった。先月の給料がまだ支払われず、あと数日待てと言われている。しかし何があっても十五日までには出発する。おそらく彼らのちょっとした小細工だろう。早く行かせまいとして、ここで何日か無駄に待たせるのだ。しかしこの小賢しさは、おそらくかえって裏目に出る。校内にはおそらく風潮が起きる。今まさに醞醸中で、二、三日中に爆発するかもしれない。しかしすでに慰留運動から学校改革運動に転じており、本来は私とは無関係だ。ただ私が早く行けば、学生は刺激が一つ減り、あるいは行動を起こさないかもしれないが、こうずるずる引き延ばされてはどうにもならない。その時きっとまた私のせいにして「放火犯」と名指しする者が出るだろうが、自然に任せるしかない。放火犯なら放火犯でよい。
 
  
 
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されば我々は自ら問うべきである──この社会における真の問題は何か。文人が馬糞を食わされることか、それとも民衆が日々殺されていることか。
この数日は送別会と宴会、話と酒ばかりで、おそらくあと二、三日はこの調子が続く。こうしたつまらない付き合いは、まさに生命の敵だ。この手紙のように、夜中の三時に書いているのも、宴会から帰ったのが十時で、一眠りして起きたらもう三時だったからだ。
 
  
 
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この答えが明らかになれば、「学理上の研究」も自ずと方向を異にするであろう。
食事に招いてくれる人々の思惑もさまざまで、だから席上の光景もなかなか見応えがある。私はここでは多くの人に疎まれているのだが、去るとなると一転してみな大人物だと持ち上げる。中国の古来の慣わしで、誰であれ死にさえすれば、弔辞には生前がいかに素晴らしかったか、亡くなってどんなに惜しいかと書くではないか。そこであの白果までが私を「吾が師」と呼び、しかも人にこう言っている。「私は彼の教え子ですよ。情誼はもちろん深いものです」と。彼は今日もまた私のために送別の宴を催すと言う。この酒がどれほど飲みにくいか、想像がつくだろう。
 
  
 
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(四月二十五日。)
ここの惰気は四、五年も積もって蔓延しており、今何人かの学生が私の四月間の魔力でそれを打破しようとしている。私の見るところ、それは一つの幻想にすぎない。
 
  
 
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=== 第51節 ===
  
 
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学理上の研究の結果は──圧迫にはもともと二種ある。一種は理のあるもの、しかも永久に理のあるものであり、もう一種は理のないものである。理のあるもの、それは小百姓に高利貸の返済を迫り、田租を納めさせるが如きであり、この種の圧迫の「理」は布告に書かれている──「借金は返済すべし、これ中外同一の定理なり。田を借りて租税を納むるは千古不易の定規なり。」理のないもの、それは盛宣懐の家産を没収するが如きであり、この種の巨紳を「圧迫する」手法は、当時はあるいは理があったかもしれぬが、今ではとうに無理なものとなっている。
 迅。一月六日灯下。
 
  
 
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最初、新聞に載った『五一労働者への告知書』に「本国資本家の無理なる圧迫に反抗せよ」とあるのを見て、私もいささか驚いた。というのは、ここでは「有理の圧迫」には反抗するなと言っているように読めるからだ。しかし考えてみれば、「有理」の圧迫とは即ち合法的なもの、例えば高利貸の取立てや田租の徴収であって、これらに反抗すれば法を犯すことになる。されば「無理の圧迫」にのみ反抗すべし──しかしその「無理」の基準は誰が定めるのか。
  
 
+
こうして「有理」「無理」の解釈権は上にある者が握ることとなり、下の者は永遠に「有理の圧迫」を甘受し、「無理の圧迫」──つまり上が認めたもの──にのみ反抗が許されるという仕組みになる。
五十六
 
  
 
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しかしよく考えれば、この世に「有理の圧迫」などというものがあるだろうか。高利貸で小百姓を搾り、田租で農民を苦しめるのが「理」であるとは、まさに圧迫する側の「理」であって、される側の「理」ではない。
  
 
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されば問題はこうなる──もし「有理の圧迫」に反抗してはならぬとすれば、圧迫はほぼ全て「有理」であるから、反抗はほぼ全て許されぬこととなる。「無理の圧迫に反抗せよ」とは、実は「反抗するな」と同義なのだ。
広平兄:
 
  
 
+
かくして我々は、この「学理上の研究の結果」の真の意味を知る。それは即ち、小百姓はいかなる圧迫をも甘受すべし、反抗は永遠に許されぬ、ただし上が「無理」と認めた場合は別なりと。しかし上が自らの圧迫を「無理」と認めることなど、千古にわたって一度もなかったのである。
五日と七日の二通の手紙は、今日(十一日)午前に一度に届いた。この書留には特に大事があるわけではない。ただ少し議論をぶちたいと思い、紛失したら惜しいので、念のため確実を期しただけだ。
 
  
 
+
(四月二十八日。)
ここの風潮はまだ広がっているようだが、結果は良くなるはずがない。何人かはこの機に乗じて出世しようとしており、あるいは学生側に取り入り、あるいは校長側に取り入っている。見ていて嘆かわしい限りだ。私の方の事はおおかた片付いた。本来もう出発できるのだが、今日一隻の船があったが間に合わなかった。次は土曜日にしか船がないので、十五日にしか出発できない。この手紙はおそらく私と同じ船で広州に着くだろうが、とりあえず先に出しておく。おそらく十五日に乗船し、あるいは十六日出帆となれば、広州到着は十九日か二十日だろう。まず広泰来旅館に泊まるつもりだ。学校との打ち合わせが済んだら、ひとまず学校に入る。部屋は大鐘楼で、伏園の手紙によると、彼の住んでいた部屋をそのまま私に残してくれるそうだ。
 
  
 
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=== 第52節 ===
助教は伏園が骨を折り、中大が招聘したもので、私がどうして自分が与えたなどとうぬぼれよう。その他もろもろについては、「爆発」でも「発爆」でも構わない。私はこうやるだけだ。どんなに慎重にしても、やはり圧迫は幾重にも加えられ、まるで無限の罪を背負っているかのようだ。今ここで自ら供述し、自ら甲冑を脱ぐことにする。彼らの第二拳がどう打ってくるか、見届けてやろう。私は「来る者」に対して、初めは博く施す心でいたが、今はそのうちの一人に対してだけ、独自に求め得た心情を抱いている。(この一節は原意を誤解しているかもしれないが、すでに書いてしまったから直さない。)たとえそれが敵であれ、仇であれ、梟蛇鬼怪であれ、私は問わない。私を引き下ろそうとするなら、喜んで落ちよう。台の上に立っているのが楽しいとでも思っているのか。名声も地位も何もいらない。ただ梟蛇鬼怪があればそれで十分だ。そういう者を、私は「朋友」と呼ぶ。誰に何の文句があろう。しかし今のところまだ限られた消息しか漏らさないのは、第一に自分のため、生計の問題がまだ頭にあるからであり、第二に人のため、私がすでに得た地位を一時借りて改革運動を進めることができるからだ。しかし私にこの二つのことだけのために汲々として犠牲になれと言うなら、もうだめだ。犠牲はもう十分に払った。しかし享受する側はまだ足りず、私の全生命を捧げよと言う。もう嫌だ。私は「敵」を愛し、彼らに反抗する。
 
  
 
+
幼き日、読書にて陶淵明の「好んで書を読むも甚解を求めず」に至りし時、先生はこう講じてくださった。曰く「甚解を求めず」とは、注解を見に行かず、ただ本文の意味のみを読むということだと。注解はあるにはあるが、確かに我々に見せたがらぬ者がいるのである。
ご存知の通り、この三、四年だけを取っても、私は親しい者にも初対面の文学青年にも、力を尽くせるところでは尽くし、何の悪意もなかった。しかし男性の方はと言えば、彼ら自身の間でさえ嫉妬を隠しきれず、ついに争い始めた。一方では心が満たされず、私を打ち殺そうとし、あちら側の援助も失わせる。私のところに女子学生がいるのを見れば、流言を作り出す。その流言は、事の有無にかかわらず、彼らが必ず作り出すものだ。私が女性と一切会わない限りは。彼らは新思想を装っているにすぎず、骨の髄は暴君・酷吏・スパイ・小人だ。もし私がなおも忍耐し譲歩すれば、彼らはさらにつけあがって止まるところを知るまい。私は彼らを蔑視する。以前、ふと愛のことを考えると、いつもすぐに自分を恥じ、ふさわしくないと恐れて、ある人を愛する勇気がなかった。しかし彼らの言行思想の裏を見透かしてしまうと、自分はそこまで身を落とさねばならぬ人間ではないと自信が持てるようになった。私は愛することができる。
 
  
 
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(五月十八日。)
あの流言は、去年十一月になって初めて韋漱園の手紙から知った。沈鐘社の方から聞いたそうで、長虹が必死に攻撃するのは私がある女性のためであり、『狂飆』にある詩で太陽は自分、夜は私、月は彼女だと。彼は私にその事が本当か、詳しく教えてくれと聞いた。そこで初めて長虹が「片想い」をしていたことが分かった。絶え間なく私のところに来ていたのもそのためで、決して『莽原』のためではなく、月を待っていたのだ。しかし私に対しては一切敵意を見せず、私が厦門に行ってから初めて背後からさんざん罵り、私を訳の分からぬ目に遭わせた。実に卑怯極まりない。私が夜なら、当然月があるはずで、何を今さら詩にする必要がある。能力も低い。その時すぐに小説を一篇書いて、彼を少しからかい、未名社に送った。
 
  
 
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【後記】
その頃また手紙を出して孤灵のことを聞き合わせたところ、この種の流言はとうの昔からあったと分かった。広めたのは品青、伏園、亥倩、微風、宴太だ。彼女を厦門に連れて行ったという者もいるが、これにはおそらく伏園は含まれず、私を車まで見送った人々が流布したのだろう。白果が北京から家族を連れてここに来て、またこの流言を持ち込み、私を攻撃するために田千頃とわざと大勢の前で公表した。中傷の意図だ。ところが全く効果がなく、風潮はいささかも収まらなかった。今回の風潮は根が深く、私一人のためではないのに、彼らはなおこんな小賢しいことをやっている。まさに「死に至るも悟らず」だ。
 
  
 
+
私が『自由談』に投稿するに至った経緯は、『前記』にて既に述べた。ここに至って本文は了わったが、電灯はなお明るく、蚊もしばし静かであるので、鋏と筆をもって『自由談』と私とに因って起こった些末な話をもう少し保存し、いささかの余興とする。
今は夜二時、校内はこっそりと電灯を消し、休暇の告示を貼り出した。すぐに学生が発見し、引き剥がした。今後風潮はもう少し拡大するだろう。
 
  
 
+
一見して分かる通り、私が短評を発表していた間に最も激しく攻撃してきたのは『大晩報』であった。これは前世の恨みがあるわけではなく、私が彼らの文章を引用したからである。しかし私もまた彼らに前世の恨みがあるわけではなく、私が読んでいたのは『申報』と『大晩報』の二紙のみであり、しかも後者の文章は往々にして甚だ珍奇にして引用に値し、愁いを消し悶えを解くに足るからである。即ち今私の眼前にも、煙草を包んできた三月三十日の古い『大晩報』が一枚あり、その中にこのような一段がある──
今つくづく思うのは、私は口では辛辣なことを言うくせに、人に対してはお人よしすぎたということだ。玄情の類が私のところに来ていたのがスパイ行為だったとは、全く疑わなかった。もっとも彼の鼠のようにきょろきょろする目つきに、時々いくらか不快を感じることはあったが。しかも今日になって初めて分かったのだが、時に客間で待ってもらうと、彼らはそれさえ不満だったそうだ。私が部屋に月を隠していて、入れてくれないのだと。この大層な殿方たちのご機嫌を取るのが、いかに難しいか見よ。私は弟御に頼んで柳を数本買い、裏庭に植えた。トウモロコシを数本抜いたところ、母はもったいないと少し不機嫌だった。すると宴太がすかさず流言を大いにまき散らした。私が学生をけしかけて母を虐待させているのだと。静穏を求めてもかえって汚濁が増す。以前私が「ああ、故郷よ、再び帰れるかどうかは一つの問題だ」と言ったのは、決して神経過敏の言葉ではなかったのだ。
 
  
 +
「浦東の人楊江生、年既に四十一、貌は醜陋にして、人また貧窮、もと泥水工にして、かつて蘇州人盛宝山の泥水作場に雇われたり。盛に女あり名は金弟、今方十五歳にして矮小なること異常、人もまた猥瑣なり。昨晩八時、楊は虹口天潼路にて盛と相い遇い、楊は其の女を姦す。捕頭の尋問を経て楊は毫も否認せず、昨年一二八以後連続して十余回姦行せしことを承認す……」
  
=== 第101節 ===
+
記事の中に分明に見て取れるのは、盛は楊に対して「倫常」関係ありとは言っていないことであり、楊の供述では女は彼を「叔」と呼んでいたが、これは中国の習慣で年が十歳ほど上であれば往々にして叔伯と称するものなのである。しかるに『大晩報』はいかなる見出しをつけたか。四号活字と頭号活字で──
  
+
「途中で捕まえ捕房に引き渡して告訴す/義理の叔父が姪を姦す/女自ら十余回姦されたと称す/男は遊びであり風流にあらずと主張す」
  
秋の夜更け、月は沈み、太陽はまだ昇らず、残るは一面の暗藍の空ばかりであった。夜を歩く生き物のほかは、何もかもが眠っていた。華老栓は突然起き上がった。燐寸(マッチ)を擦り、油まみれの灯盞に火を点けると、茶館の二間の部屋に青白い光が満ちた。
+
彼らは「叔」の上に「義理の」を添え、かくして「女」は「姪」と化し、楊江生もこれによって「逆倫」あるいは準「逆倫」の重犯となったのだ。中国の君子たちは人心の不古を嘆き非人の逆倫を憎みながら、人間に逆倫の話がないことを恐れるかの如く、偏に筆を以て大げさに書き立て、低級趣味の読者の目を聳動させようとする。楊江生は泥水工にて、見ることもなく、見たとしても抗弁の術もなく、ただ彼らの仕立てるがままに任せるほかないが、しかし社会批評者には指弾の任務がある。しかるに指弾にも至らず、ただ数句の奇文を引用しただけで、彼らはたちまち何の「員外」だの何の「警犬」だのと狂嗥し、あたかも自分たちの一群こそ霞を吸い露を飲み、私財を携えて社会奉仕に来た志士であるかのように振る舞う。社長の何者かは知っているが、しかし結局のところ誰が本当のオーナーか──即ち誰が「員外」であるかは分からぬ。商営でもなく官営でもないというのであれば、新聞界にあっては甚だ珍しいことである。しかしこの秘密は、ここでは追究しないでおこう。
  
「小栓のお父さん、もう行くのかい?」老女の声であった。奥の小部屋からはまた一しきり咳の音がした。
+
『大晩報』と伯仲する、『自由談』に注目する刊行物にはなお『社会新聞』がある。しかしその手段は遥かに巧妙であって、通じ得ぬあるいは通じたがらぬ文章を用いるのではなく、ただ真偽混交の記事を駆使する。即ち『自由談』の改革の原因など、その説が真か偽かは断じ得ぬが、私はなお彼らの第二巻第十三期(二月七日出版)から読み取ったのであった──
  
「うむ。」老栓は聞きながら返事をし、身支度を整え、手を伸ばして言った。「おくれ。」
+
(以下、「『春秋』と『自由談』より説き起こす」として文壇の新旧対立の経緯──周痩鵑の交代、黎烈文の就任、左翼文化運動の台頭等々──が引用される。)
  
華大媽は枕の下をしばらく探り、洋銀の包みを取り出して老栓に渡した。老栓はそれを受け取り、震えながら懐に収め、外からもう一度二度押さえた。それから提灯に火を点け、灯盞を吹き消して、奥の部屋へ行った。その部屋の中でがさがさと音がし、続いて一しきり咳が起こった。老栓は治まるのを待ってから、低い声で呼びかけた。「小栓……起きなくていい。……店か? 母さんが何とかしてくれる。」
+
五月初めに至り、『自由談』への圧迫は日に日に厳しくなり、私の投稿も後には相次いで発表し得なくなった。しかしこれは『社会新聞』の類の告発のためではなく、この時ちょうど時事を論ずることが禁じられていたのであり、私の短評には時に時局への憤言があったからである。また『自由談』のみへの圧迫でもなく、この時の圧迫は官営でない刊行物に対しては程度はおおむね同じであった。しかしこの時最も適した文章は鴛鴦蝴蝶の遊泳と飛翔であり、『自由談』にとっては難しいことであって、五月二十五日ついに次のような告知が掲載された──
  
老栓は息子がもう何も言わぬのを聞いて、安心して眠ったものと見て、門を出て街へ出た。街は真っ暗で何もなく、ただ一条の灰白い道だけがはっきり見えた。提灯の光が彼の両足を照らし、一歩また一歩と進んだ。時おり犬に行き会ったが、一匹も吠えなかった。外の寒気は部屋の中よりよほど厳しかったが、老栓はかえって爽快に感じた。まるで一朝にして若者に戻り、神通力を得て、人に命を与える力を持ったかのように、足取りは格別に大きく、遠くまで踏み出した。そして道はいよいよ明るく、空もいよいよ白んできた。
+
「編集室──この御時世、物を言うのは難しく、筆を執るのはなお難しい。これは『禍福は門なし、ただ人自ら招く』というのではなく、実に『天下に道あれば』『庶人は議せず』ということなのです。編者は謹んで一瓣の心香を捧げ、海内の文豪に請う──今後は風月を多く語り、牢騒は少なくしてくだされば、著者も編者も共に安泰であります……」
  
老栓が一心に歩いていると、不意にぎくりとした。遠くに丁字路がくっきりと横たわっているのが見えたのだ。彼は数歩退き、閉ざされた一軒の店を見つけて、軒下に身を寄せ、戸口に立ち止まった。しばらくして、身体がいくぶん冷えてくるのを覚えた。
+
この現象は『社会新聞』の群をいたく満足させたようで、三巻二十一期には「自由談の態度転換」と題する記事が載った。
  
「ふん、爺さんか。」
+
さらに五月十四日の午後一時には、丁玲と潘梓年の失踪という事件が起こり、皆は暗殺されたのではないかと推測した。この推測は日に日に確かになっていった。流言もこのため甚だ多く、誰それも同様に暗殺されるだろうとか、警告状や脅迫状を受け取ったとかいう話があった。私は何の手紙も受け取らなかったが、ただ五、六日続けて内山書店の支店に私の住所を問い合わせる電話があった。これらの手紙や電話は実際に暗殺を行う者の仕業ではなく、いわゆる文人の数人の悪ふざけに過ぎぬと私は思う──「文壇」にも自ずとこのような人間はいるものだ。しかし厄介事を恐れる者にとっては、この小細工もいくらかの効力を発し得る。
  
「ご機嫌だな……。」
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=== 第53節 ===
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ついに『大晩報』は一月余り静観した後、六月十一日の夕べ、その文芸附刊『火炬』から微かな光を放った。甚だ憤慨している──
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【結局のところ自由は要るのか要らぬのか 法魯】
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久しく取り上げられなかった「自由」の問題を、近頃また大いに論ずる者がいる。国事は常に辛辣にして触れ難いゆえ、いっそ論ずるのをやめて、あきらめて「風月」を語ろうとするも、「風月」も意に適わず、喉の奥で「自由が欲しい」と呟きが漏れる。しかし問題が重大なことに気づき、呟く程度は構わぬが明言直語は不便なりと思い、正面から問題を直接提起することを恐れ、何か曲がりくねった文学論に変えてしまう。
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自由は要るのか要らぬのか──これは実にはっきりした問題であるはずだが、文人たちはこれを曖昧にしてしまう。なぜか。真の自由を論ずれば上からの圧迫が来るからであり、自由など要らぬと言えば自らの良心が許さぬからである。かくして彼らは風月を語る振りをしながら、その実、自由への渇望を抑えきれずにいる。
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しかし風月を語ることが許される社会は、既に自由のある社会ではないか──否、風月を語ることすら許されぬ時が来ることこそ、真に恐れるべきである。風月の背後には常に権力の影がある。風月を語れと命じられてそれに従う時、我々は既に自由を失っているのだ。
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要するに、自由は「到底要るのか要らぬのか」という問いは、問うまでもない。問うべきは「なぜ我々は自由を手にし得ぬのか」であり、その答えは明白である──権力がこれを許さぬからだ。
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(六月十一日。)
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=== 第54節 ===
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自らもいわゆる「文人」の「林」に忝くも列するとはいえ、近頃は「文人無行」なるこの言葉にいささか同意を示さざるを得ず、「人心不古」「世風日下」との嘆きも、全くの「道学先生」の偏激の言とは見なし難くなっている。実に今日の「人心」は険毒にして人を恐れしむること甚だしく、殊にいわゆる「文人」は、思いつきもし実行もし、種々の卑劣なる行為──陰謀中傷、造謡誣蔑、公開密告、友を売って栄を求め身を売って靠を投ずる所業は枚挙に遑あらず。さらに他方では自吹自擂し、厚かましくも「天才」「作家」を以て自任し、他人の唾余を窃んでなお沾々自喜する種々の怪しき振る舞いがある。
 +
 
 +
文壇のかくの如き醜態は、文人と名のつく者の恥辱であるのみならず、社会全体の病弊を映し出している。文人が互いに讒言し、密告し、売り渡す──これは文壇に限ったことではなく、この社会の縮図なのだ。
 +
 
 +
しかし最も恐るべきは、かくの如き風潮の中で正直なる者が沈黙を強いられ、卑劣なる者が跋扈することである。正直に書けば危険が及び、卑劣に媚びれば安泰を得る──この倒錯した世界にあって、文人の「無行」はむしろ必然の帰結ではないか。
 +
 
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されば「文人無行」を嘆くのみにては足りぬ。問うべきは、なぜこの社会が文人をかくも卑劣ならしめるのか、である。文人を堕落させるのは文人の性質ではなく、文人を取り巻く権力と圧迫の構造なのだ。
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(六月十五日。)
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=== 第55節 ===
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この文章は六月十七日の『大晩報』の『火炬』に載った──
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【新儒林外史 柳丝】
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第一回 旗を揭げて空営を張り 兵を興して迷陣を布く
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さてカールとイリイチの両人はこの日天堂の上にて中国革命の問題を討論していたが、忽ち下界の中国文壇の大ゴビにおいて殺気騰々、塵沙弥漫たるを見た。左翼の防区の中で一人の老将が一人の小将を追い詰め、戦鼓は天を震わせ喊声は四方に起こり、忽然その老将の歯の間から白い霧が吐き出された。カールはその臭気を嗅ぐや忽ち卒倒し、イリイチは机を叩いて大いに怒り「毒瓦斯だ、毒瓦斯だ!」と叫んだ──
 +
 
 +
これは文壇の攻防を戯画化したものであり、即ち魯迅(老将)が若い文人を追撃する様を諷刺している。しかし「毒瓦斯」とは何か。即ち文章の中に含まれる辛辣なる批判のことであり、これをマルクスやレーニンすら堪え難しとするほどだと言いたいのであろう。
 +
 
 +
しかしこの種の「新儒林外史」なるものの真意は、左翼文壇を嘲弄することにある。左翼の内紛を誇大に描き、その理想の虚偽を暴かんとする。しかしながら、「空営を張る」のは果たして左翼のみであろうか。この『大晩報』自身が日毎に張っている空営はいかほどか。
 +
 
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文壇の争いを戯画化するのは自由であるが、真の問題から目を逸らすための道具として用いるならば、これこそ「迷陣を布く」行為に他ならない。
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(六月十七日。)
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=== 第56節 ===
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旧式の監獄に至っては、仏教の地獄に倣ったかの如くなれば、単に犯人を禁錮するのみならず、これに苦しみを与える職掌をも有している。金銭を搾り取り、犯人の家族を窮乏の極みに至らしめる職掌も、時に兼帯することがある。しかし皆はこれを当然と思っている。もし誰かが反対すれば、犯人の弁護をするに等しいとして、悪党の嫌疑を受けるであろう。しかるに文明は驚くほど進歩したので、去年には毎年犯人を一度帰宅させ、性欲を解決する機会を与えるべしと提唱する、いささか人道主義的な匂いのする官吏まで現れた。実のところ彼は犯人の性欲に特別の同情を表しているのではなく、ただどうせ実行されることはあるまいと高をくくっているだけなのである。
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この種の「人道的」提案が実行されることのない理由は明白である。監獄とはそもそも苦しみを与えるための場所であり、犯人に少しでも人間的な待遇を与えることは、監獄の存在意義を否定することに等しいからだ。されば人道を唱える官吏は、実は人道を実現するつもりなどなく、ただ自らの「人道的」なる姿勢を誇示しているに過ぎない。
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しかし真に恐ろしいのは監獄の中の非人道ではない。監獄の外にこそ、もっと大きな監獄があるのだ。犯人は少なくとも自分が囚われの身であることを知っているが、監獄の外の人々は自分が自由であると思い込んでいる。この思い込みこそ、最も完璧なる牢獄ではないか。
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提案者は犯人に年に一度の帰宅を許そうと言う。しかし犯人でない我々は、果たして真に自由に帰宅しているのか。我々の帰る場所は、我々自身が選んだものなのか。
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監獄の改良を論ずる前に、まず監獄の外の世界を見直すべきであろう。
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(五月五日。)
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=== 第57節 ===
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「天興元年、哀宗帰徳に走る。翌年春、崔立変を起こし、群小付和し、立のために功徳碑を建てんことを請う。翟奕は尚書省の命を以て若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩は勢いを恃みて威を作し、人もし少しく忤えば、讒構して屠滅せしむ。若虚は自ら必ず死すべきを分かち、ひそかに左右司員外郎元好問に謂いて曰く、『今、我を召して碑を作らしむ。従わざれば死し、これを作れば名節は地を掃う。死するに若くはなし。しかりといえども、我しばらく理を以てこれを諭さん。』……奕の輩奪うこと能わず、乃ち太学生劉祁・麻革の輩を召して省に赴かしむ。好問・張信之、碑を立つることを以て諭して曰く、『衆議は二君に属す、且つ既に鄭王に白せり。二君その辞すことなかれ。』祁等固辞して別る。数日、促迫やまず、祁即ち草定す──」
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これは金朝末期の話である。崔立なる者が変を起こした後、権勢を笠に着て群臣に功徳碑の作成を強要した。この時、王若虚は死を覚悟して拒み、元好問もまた巧みにこれを避けようとした。しかし結局のところ劉祁が碑文を草した。
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この故事は何を教えるか。権力者が文人に文章を書かせようとする時、文人には三つの選択がある。第一に拒絶して死ぬ。第二に書いて名節を失う。第三に巧みに逃れる。王若虚は第一の道を選ぼうとし、元好問は第三の道を取り、劉祁は第二の道を歩んだ。
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しかし現代においては、この三つの選択のほかにもう一つある。即ち権力者のために書くと見せかけて、実は権力者を批判する文を書くことだ。これは最も危険な道であるが、同時に最も有効な道でもある。
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古来、碑文は権力者の徳を讃えるものとされてきた。しかし「功徳碑」を書くことを強いられた文人が、その碑文の中に微かな皮肉を込めることは珍しくない。読む者が読めば分かり、分からぬ者には分からぬ──これこそ圧迫の下での文人の知恵であった。
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しかし最も尊ぶべきは、やはり王若虚の如く死をもって拒む気概であろう。碑文を書かずして死ぬのは容易ではないが、碑文を書いて生き延びるよりは遥かに尊い。
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もっとも、死を選ぶべきか生を選ぶべきかは、時と場合による。死んで何の益もなければ、生きて後日を期す方が賢明であることもある。問題は、「後日を期す」と言いつつ実は怯懦に過ぎぬ場合が、あまりに多いということだ。
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(五月十日。)
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=== 第58節 ===
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「また、臣が参りましたのは、如何如何を願うためではなく、また別に願い求むる事もございませんが、ただ一事未決のことがあり、陛下に対して一つその経緯を申し述べたく存じます。臣は……名を馮起炎と申し、字は南州、かつて臣の張三なる叔母の家に至りし時、一人の女子を見ましたが、娶るべきなれども力の及ばざるを恨みます。この女子は小女と名づけ、年十七歳、まさに嫁ぐべき齢にして、まさに未だ嫁がざる時なり。東関春牛廠長興号の張守忭の次女であります。またかつて臣の杜五なる叔母の家に至りし時、一人の女子を見ましたが、娶るべきなれども力の及ばざるを恨みます。この女子は小鳳と名づけ、年十三歳、必ずしも嫁ぐべき齢にはあらざるも、既に嫁ぎ得る時に在り。本京東城闹市口瑞生号の杜月の次女であります。もし陛下の御力を以てすれば……」
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これは清朝の馮起炎なる秀才が、殿試の場にて皇帝に上書し、二人の女との縁談を助けてくれと頼んだ話である。科挙の試験で天子に直訴して嫁を世話してもらおうとしたのだから、まことに前代未聞の奇事と言うべきだ。
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しかし嗤うべきは馮起炎だけではない。この天真爛漫なる上書には、実は一つの深い真実が含まれている。即ち、権力というものは、いかなる私事にも介入し得るという信仰である。皇帝は天下の事を決し得る──科挙の成績も、人の婚姻も。この信仰は馮起炎一人のものではなく、中国数千年の伝統そのものなのだ。
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今日においても、この信仰は変わっていない。人々は「上」に対して、あらゆる問題の解決を期待する。就職も、住居も、婚姻も、果ては個人の性欲の解決までも。先に述べた監獄の性欲解決の提案なども、まさにこの精神の延長線上にある。
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しかし「上」がこれらの問題を解決し得るのは、「上」が全ての権力を掌握しているからであり、人々が全く無力であるからだ。この構造が変わらぬ限り、馮起炎的な精神は永遠に消えぬであろう。
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(五月十二日。)
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=== 第59節 ===
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「問:お前は当時皇上の御前にて翎子(花翎の帽子飾り)を賜らんことを請い、翎子なくば帰って妻子に会わす顔がないと申した。この偽道学の恐妻家め。結局皇上は翎子を賜らなかったが、お前はどう帰ったのか。供述:私は家にいた時かつて妻に皇上に拝謁して翎子を賜わると申しましたので、あの時冒昧を顧みず恩典を妄りに求めたのでございます。翎子を得て帰れば誇ることができると思ったのです。後に皇上が賜りませんでしたので、家に帰ってまことに恥ずかしく妻子に会わす顔がありませんでした。これは全く私が偽道学にして恐妻家であることは事実でございます。
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「問:お前の女房は日頃から嫉妬深く気が荒いので、お前に妾を娶るにも五十歳の女を当てがうと申したが……」
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この供述もまた馮起炎と同じ類の話であり、科挙の秀才が殿試の場で個人の私事を天子に持ち出したものである。皇帝の前で妻を恐れることを告白し、翎子がなければ面目が立たぬと泣訴する──このような場面は、一見滑稽であるが、その底には深い悲哀がある。
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この秀才は十年の苦学を経てようやく殿試に至った。しかし彼が真に求めていたのは学問の成就でも天下国家の治平でもなく、ただ妻の前で面目を保つための「翎子」一本だったのだ。十年の寒窓の目的がこれである。
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しかし笑ってはならぬ。今日の読書人もまた、畢竟は同じではないか。博士号を取り、教授の肩書きを得、それを以て何をするか──天下の為に何かを為すのではなく、ただ己の面子を立て、妻子の前で威張るためではないのか。
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馮起炎もこの秀才も、己の真の欲望を隠さなかった点においてはむしろ正直であった。今日の知識人は、もっと巧みに真の欲望を隠し、高邁なる理想の衣で包む。しかしその衣の下には、翎子一本への渇望が隠れているのだ。
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(五月十四日。)
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=== 第60節 ===
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私はもうどのようにして彼と初めて出会ったか、また彼がどのようにして北京に来たかを忘れてしまった。彼が北京に来たのはおそらく『新青年』に投稿した後のことで、蔡孑民先生あるいは陳独秀先生に招かれて来たのであろう。来た後は当然『新青年』の一人の戦士となった。彼は活発にして勇敢、幾度かの大いなる戦いを戦った。例えば王敬軒への答書としての双簧の手紙、「她」の字と「牠」の字の創造がそれである。この二つは今日見れば瑣末の極みであるが、あれは十数年前のことであり、新式句読点を提唱しただけで一大群の人が「若し考妣を喪いし如く」嘆き、「肉を食い皮に寝ん」と恨む時代であったから、確かに「大いなる戦い」であった。
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彼──劉半農──はこのように最初の文学革命の勇敢なる闘士であった。しかし文学革命が一段落すると、彼は外国に留学した。帰国後の彼は変わっていた。かつての闘士は穏やかな学者となり、かつての反逆者は秩序の守護者となった。これは珍しいことではない。青年の日の反逆は、年齢と共に体制への順応に変わるものであり、「革命家」が「学者」に変身するのは中国のみならず世界的な現象である。
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しかし劉半農の場合はいささか異なる。彼は単に穏やかになったのではなく、かつて自分が戦った相手の側に立つようになったのだ。かつて彼が「旧勢力」と呼んで攻撃した者たちと、今や一つの陣営にいる。
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彼の死に際して、私は深い感慨を覚えずにはいられない。彼がもし早く死んでいれば、永遠に文学革命の勇士として記憶されたであろう。しかし長く生きたがゆえに、晩年の変節が初年の勇気を覆い隠してしまった。これは劉半農個人の悲劇であると同時に、中国の知識人全般の宿命でもある。
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(この一篇は劉半農氏の追悼文である。)
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=== 第61節 ===
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颶風が過ぎた後、気候もいくらか涼しくなったが、私はついに私に書くことを望む数人の望みに従って書き上げた。口語よりも遥かに簡潔であるが、大意は異ならず、我々の同類の人々が読むために書き写したものと思っていただきたい。当時は記憶のみに頼り、古書を乱雑に引用した。話は耳元の風のようなもので、少々の誤りは構わぬが、紙上に書くとなると甚だ躊躇する。しかし手元に原書がなく確かめようもないので、読者に随時のご訂正をお願いするほかない。
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一九三四年八月十六日夜、書き終えて記す。
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【二 文字は誰が作ったか?】
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文字は誰が作ったか。
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我々はある一つの物事に慣れ親しむと、常に古い時代の一人の聖人が発明したものだと思い込む。文字は倉頡が作ったと言われている。しかし倉頡一人でどうしてあれほど多くの文字を作り得ようか。実際には、文字は長い歳月をかけて、多くの人々の手によって徐々に作られたのであり、一人の天才の所産ではない。
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この「一人の聖人が発明した」という考え方は、中国人の根深い弊害の一つである。あらゆることを一人の偉人に帰し、多くの無名の人々の貢献を抹殺する。これは権力の正当化にも通じる──天下を治めるのは一人の聖王であり、民衆は従うのみだという思想だ。
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しかし文字の歴史を見れば分かるように、真に偉大なるものは常に集団の創造であり、個人の発明ではない。文学も同じである。一人の大作家が全てを創造するのではなく、無数の無名の語り部や歌い手がいて初めて文学が成り立つのだ。
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(八月十六日。)
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=== 第62節 ===
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文学が存在し得る条件としてまず文字が書けることが必要であるとすれば、文字を知らぬ文盲の群れの中に文学者がいるはずはない。しかし作家はいるのだ。諸君よ、あまり早くに私を笑うなかれ、まだ話がある。私が思うに、人類は文字の出現以前に既に創作を有していたのであり、惜しいことに誰もこれを記録せず、また記録する術もなかった。我々の祖先の原始人は、もとは言葉すら話せなかったのであるが、共同労働の必要上意見を発表せねばならず、徐々に複雑な音声を練磨していったのである。仮にあの時皆が材木を担ぎ上げ、皆が力を入れて苦しいと感じたが、これを表現する術を思いつかなかった時、その中の一人が「ハンユーハンユー」と叫んだとしたら──これこそが創作である。皆もこれに感服し、応じるであろう。
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これこそが文学の起源である。即ち労働から生まれた叫びであり、いかなる書斎からも、いかなる聖人の閃きからも生まれたのではない。最初の詩人は無名の労働者であり、最初の文学は「ハンユーハンユー」という労働の掛け声であった。
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この観点から見れば、現代の文学が書斎の中に閉じ込められ、象牙の塔に籠もっているのは、文学の本来の姿からの甚だしい逸脱である。文学は本来生活の中から生まれるものであり、生活から離れた文学は死せる文学に他ならぬ。
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大衆の中にこそ文学の真の源泉がある。文盲の中に「文学者」はいないが「作家」はいる──これは矛盾に聞こえるかもしれぬが、書けぬ者にも語り得る者はおり、語り得る者こそが真の作家なのだ。
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(八月二十日。)
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=== 第63節 ===
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大衆と言えば、その範囲は甚だ広く、各種各様の人を含んでいるが、たとえ「目不識丁」の文盲であっても、私の見るところ、実は読書人が想像するほど愚かではない。彼らは知識を欲し、新しい知識を欲し、学び、摂取し得る者なのだ。無論、もし口を開けば新語法、新名詞ばかりであれば、彼らは何も理解しまい。しかし必要なものを徐々に選んで灌注してゆけば、彼らはこれを受け入れるのであり、その消化力は、おそらく成見のより多い読書人をも凌駕するであろう。生まれたばかりの子供は皆文盲であるが、二歳になれば多くの言葉を理解し、多くの言葉を話し得る。彼にとってはこれら全てが新名詞にして新語法なのだ。
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彼はいったいどこでこれを学んだか──『馬氏文通』からか。否、周りの人々の話す言葉から自然に学んだのである。ここに一つの重要な教訓がある。即ち、大衆に新しい知識を伝えるには、大衆の理解し得る言葉を用いねばならぬということだ。
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しかしこれは大衆に迎合せよということではない。大衆の水準に合わせて内容を貧しくするのではなく、内容を豊かに保ちつつ表現を分かりやすくすることが肝要である。赤子が二歳で言葉を覚えるのは、周りの大人が赤子の水準に堕ちたからではなく、大人の言葉が赤子にも理解し得るだけの具体性を備えていたからだ。
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新文学が大衆から遊離しているのは、内容が高級だからではなく、表現が不必要に難解だからである。これは文学者の怠慢であり、あるいは大衆を見下す驕慢の表れである。
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(八月二十二日。)
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=== 第64節 ===
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况んや杜衡氏の文章は、心情が彼と異なる人々に読ませるために書かれたものである。なぜなら『文芸風景』なるこの新刊を見る者は、決して「新しい本を見るくらいなら古い本を見る方がまし」という心情を懐く友人ではないからだ。しかし新刊を見る以上、ただ一冊の『文芸風景』のみを見るには留まるまい。シェイクスピア劇を論ずる書物は多数あり、いくらか渉猟すれば、かくもびくびくと「政治家」(煽動家)に煽動されることを恐れる心情にはなるまい。かの「友人たち」は、作者の時代と環境に注意するほかに、『シーザー伝』の素材がプルタルコスの『英雄伝』から取られていることをも知るであろうし、しかもそれはシェイクスピアの──
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杜衡氏はシェイクスピアの歴史劇について論じ、これを「純文学」として政治から切り離そうとした。しかし文学を政治から切り離すことは果たして可能であるか。シェイクスピアの歴史劇は政治そのものであり、彼の劇中にはエリザベス朝の権力闘争が色濃く反映されている。
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「政治家に煽動されることを恐れる」とは、実は政治的な意識を持つことを恐れているに等しい。しかし文学者が政治的意識を持たぬことこそ、最も危険な政治的態度ではないか。なぜなら、政治から逃避すると称しつつ、実は現状を是認し権力に奉仕しているからだ。
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シェイクスピアは決して「純文学」の象牙の塔に籠もってはいなかった。彼は当時の最も激しい政治的渦中にあり、それゆえにこそ偉大な文学を生み出し得たのだ。文学を政治から切り離そうとする者こそ、文学の力を最も恐れる者なのである。
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(八月二十四日。)
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=== 第65節 ===
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私がここで語りたいのは、消閑として行う私の読書──つまり気ままに頁を繰ること──についてである。しかしやり方を誤れば、害を被ることもなきにしもあらずだ。
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私が最初に読書をした場所は私塾で、最初に読んだのは『鑑略』であり、机の上にはこの一冊と習字の描紅と対字(詩作の準備)の課本があるのみで、他の書物は許されなかった。しかし後にようやく徐々に文字を覚え、文字を覚えるや書物に興味を持つようになった。家にはもとより二、三箱の破れた古書があり、それを繰り返し繰り返しめくった。大きな目的は図画を見ることであったが、後には文字も読むようになった。かくして習慣となり、手元に書物があれば、それが何であろうと手に取って繰ってみるか、目次だけでも見ずにはいられなくなった。
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この「気ままに頁を繰る」という読書法は、一見すると無秩序で非効率に見えるが、実は計り知れぬ利点がある。体系的な読書は一つの方向に深く掘り下げるが、気ままな読書は思いがけぬ発見をもたらす。ある分野の専門家にはなれぬかもしれぬが、広い視野と柔軟な思考を養う。
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しかし最大の利点は、権威に盲従しなくなることだ。特定の学派や主義のみを読む者は、やがてその学派の奴隷となる。しかし気ままに読む者は、様々な立場の文章に触れるがゆえに、いかなる権威をも絶対視しなくなる。
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もっとも、この読書法には危険もある。何でも読むということは、有害な書物をも読むということだ。しかし有害か有益かは、読む前には分からぬ。読んでみて初めて分かるのであり、そのためにもまず読まねばならぬ。
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されば私の忠告はこうだ──何でも読め、ただし何も信ずるな。
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(九月五日。)
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=== 第66節 ===
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右、御返事まで。
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文安を祈る。
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魯迅。十一月十四日。
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【『戯』週刊編者への手紙】
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編集先生:
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本日『戯』週刊第十四期を見ましたところ、『独白』に私の返信が得られなかったことを「遺憾」に思うとありましたが、思い起こせばこの手紙は一昨日既に発送したはずで、しかも病中に書いたものであり、自分ではなかなか精一杯やったつもりでおりました。ここに特に申し明け、いささか御機嫌伺いの意とします。
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この週刊に載ったいくつかの阿Q像を見ましたが、いずれも余りに特異で、いささか奇妙な感じがします。私の考えでは、阿Qは三十歳前後で、容貌はごく平凡、農民風の──
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阿Qの像を描くということは、ある意味では中国の農民を描くということに等しい。しかし多くの画家は阿Qを「異常な人間」として描こうとする。これは大きな間違いである。阿Qの悲劇はまさに彼が平凡であることにあり、彼が特異な人間であったならば、そもそも悲劇は成り立たぬ。
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阿Qは我々の隣人であり、我々自身でもある。彼を奇人変人として描くのは、自分自身の中の阿Q的なものから目を背けることに他ならない。
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私が望む阿Qの像は、街を歩いていてもすれ違う人の中に見つけられるような、そのような平凡な顔である。奇を衒った造形は、かえって阿Qの精神から遠ざかる。
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しかしこれは画家を責めているのではない。文学作品の人物を視覚化することは常に困難な仕事であり、読者各々が心中に描く像は皆異なるのだから。
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(十一月十四日。)
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=== 第67節 ===
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現在中国で試験中の新文字は、南方人が読むには全てを理解し得ぬ。今の中国は本来一種の言語で統一し得るものではなく、されば各地方の言語に照らして別にローマ字表記を作り、将来の疎通を図らねばならぬ。ラテン化新文字に反対する者は、往々にしてこれを一大欠点として挙げ、かえって中国の文字を不統一にするではないかと言う。しかし彼らは、方塊漢字がもともと中国人の大多数に識られず、知識階級の一部にも真に識られていないという事実を抹殺しているのだ。
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しかしながら彼らは、新文字が労苦する大衆に利するものであることを深く知っている。されば白色テロルの瀰漫する地方においては、この新文字は必ず摧残を受けるのである。今や並べて──
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ラテン化新文字の問題は、単に言語学の問題ではなく、政治の問題である。漢字を読めぬ者が多数を占める社会にあって、漢字はそのまま権力の道具となっている。漢字を知る少数者が知識を独占し、知らぬ多数者を支配する──これが中国の知識構造の根本である。
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新文字はこの構造を打破し得る。だからこそ権力者はこれを恐れ、弾圧するのだ。「文字の統一」を口実にした反対は、実は「無知の維持」を企図するものに他ならぬ。
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漢字の美しさを愛する心情は理解できるが、美しさを理由に大衆の知識への権利を奪うことは許されぬ。文字の目的は美ではなく伝達であり、伝達し得ぬ文字は、いかに美しくとも文字たる資格を失うのだ。
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(十一月二十四日。)
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=== 第68節 ===
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これこそまことに天大の本領である! あの死の如き鎮静が、またもや私の気悶を打ち破った。
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私は書物を置き、目を閉じ、横になってこの本領を学ぶ方法を考えた。思うにこれは「君子は庖厨に遠ざかるなり」の方法とは大いに異なる。なぜならこの場合は君子自身もまた庖厨の中に居るからだ。瞑想の結果、二手の太極拳を案出した。一、世事に対して「浮光掠影」──つまり時に随いて忘却し、あまり了然とせず、いくらか関心があるかの如くして実は懇切ならず。二、現実に対して「聡を蔽い明を塞ぐ」──つまり麻木にして冷静、感触を受けず、始めは努力を要するも後には自然となる。第一の名称はあまり聞こえが良くないが、第二もまた──
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 +
これは病を却け年を延ばす養生法に通じる。しかし問題は、この「死の如き鎮静」は果たして学ぶべきものであるかどうかだ。世事に対して無関心であり、現実に対して感覚を鈍くする──これは確かに自己保全の術ではあるが、同時に人間としての死でもある。
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心を殺して身を保つか、心を活かして身を危うくするか──この二択は、中国の知識人が常に直面してきたものである。そして多くの人は前者を選んできた。なぜなら後者を選べば、本当に身が危うくなるからだ。
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しかし全ての人が心を殺してしまえば、この社会はいったい誰が変えるのか。死の如き鎮静の中で、我々は本当に安らかに生きられるのか。
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(十二月十日。)
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=== 第69節 ===
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状、斥候明らかならず、遂に突進して河北に至り、   辺城の斥候明らかならず、遂に長駆して河北に入り、
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蛇の如く河東に盤結す。              河東に盤結す。
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孔子の春秋の義を犯す──
 +
 
 +
これは古文の校勘の問題であり、異本の対照を通じて原文の真意を探ろうとするものである。「豕突」と「長駆」、「蛇結」と「盤結」──字句の異同は些細なようでいて、実は意味に大きな違いをもたらす。
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校勘学は地味な学問であるが、文字文化の根幹を支えるものだ。一字の違いが歴史の解釈を変え、一句の脱落が思想の伝承を歪める。
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しかし校勘学にも限界がある。いかに精密に校勘しても、原著者の真意を完全に復元することはできぬ。なぜなら文字は常に不完全な伝達手段であり、書かれた時点で既に著者の意図からは離れているからだ。
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それでも校勘は必要である。なぜなら、少しでも原意に近づこうとする努力は、少しでも真実に近づこうとする努力に通じるからだ。真実を知ることは困難であるが、真実を求める姿勢を放棄してはならない。
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この姿勢は学問のみならず、社会を見る目にも通じる。新聞の文章を読む時にも、我々は一種の「校勘」を行わねばならぬ。書かれた文字の裏に隠された真意を読み取り、削除された部分を想像し、改竄された箇所を見抜く──これもまた一つの校勘学なのだ。
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(十二月十五日。)
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=== 第70節 ===
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張勲の姓名は既に暗淡となり、「復辟」の事件も徐々に忘れ去られている。私はかつて『風波』の中でこれに触れたが、他の作品には見られぬようで、早くから人の注意を引かなかったことが分かる。今やそれどころか、辮髪すら日に日に稀少となり、周鼎や商彝と同列に並び、徐々に外国人に売り得る資格を備えつつある。
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 +
私もまた絵画を見ることを好む。殊に人物を。国画を見れば方巾長袍、あるいは短褐椎結で、私の記憶にある辮髪は一本も見たことがない。洋画を見れば歪んだ顔の男と太い脚の女で、これまた私の記憶にある辮髪は一本も見たことがない。この度、数幅のペン画と木版画による阿Qの像を見て、ようやく芸術の上における辮髪に出会ったのであるが、しかし──
 +
 
 +
辮髪は中国近代史の象徴である。清朝の支配の象徴であり、民族的屈辱の象徴であり、しかし同時にある種の郷愁の対象でもある。辮髪を失った中国人は、何か大切なものを──たとえそれが鎖であったとしても──失った喪失感を覚えている。
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 +
阿Qの辮髪は、この全ての意味を担っている。それは彼の悲劇の一部であり、彼が属する時代の記号である。画家が阿Qを描く時、辮髪の太さ、長さ、巻き方一つにまで意味が宿る。
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 +
しかし最も重要なのは辮髪ではなく、その下にある頭の中身──即ち「精神的勝利法」の持ち主たる阿Qの精神構造そのものなのだ。
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(十一月二十日。)
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=== 第71節 ===
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 +
誰もが「賢者は世を避く」と知っているが、私は今の俗人はむしろ雅を避くべしと思う。これもまた一種の「明哲保身」である。
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(十二月二十六日。)
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【附記】
 +
 
 +
第一篇の『中国に関する二、三の事』は、日本の改造社の依頼により書いたもので、原文は日本語であり、同年三月に『改造』に掲載され、題を『火、王道、監獄』と改めた。記憶では中国の北方にかつてある種の期刊がこの三篇を訳載したことがあるが、南方では林語堂・邵洵美・章克標の三氏が主編する雑誌『人言』のみが、これを著者攻撃の材料として用いた──
 +
 
 +
「雅を避く」とは何か。即ち、高雅なる振りをせず、文人面をせず、ただ率直に生きることである。今の世の中で最も危険なのは「雅」を装うことだ。なぜなら「雅」を装えば、必ず権力者に利用されるか、さもなくば権力者に睨まれるからだ。
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 +
文人は「雅」であらねばならぬと世間は思っている。しかし「雅」なる文人こそ、最も容易に「功徳碑」を書かされる者なのだ。「俗」なる者ならば誰もそのような依頼をしない。されば「俗」を装い「雅」を避けることは、実は最も賢明な処世術なのである。
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 +
しかしこれは単なる処世術に留まらない。「雅」を避けることは、即ち権威主義を避けることでもある。「雅」とは一つの階層秩序であり、「雅」と「俗」の区別は権力の区別に重なる。この区別を拒否することは、ある種の平等主義の実践なのだ。
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(十二月二十六日。)
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=== 第72節 ===
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この度はまず「兄」の字の講義から始めねばならぬ。これは私が自ら定めて慣用してきた例であって、即ち、旧知あるいは近来の知己、旧来の同窓にして今なお交際のある者、直接の聴講生に対して手紙を書く時には「兄」と呼ぶのである。それ以外の、もとより先輩であるとか、比較的面識が薄いとか、比較的礼を要するとかいう方々には「先生」「旦那」「奥様」「坊っちゃん」「お嬢様」「大人」……等と呼ぶ。要するに私のこの「兄」の字の意味は、直接に名を呼ぶよりいくらか上という程度に過ぎず、許叔重先生の仰るような、真に「兄さん」の意味を含むものではない。しかしこの理由は私自身しか知らぬのだから、あなたが一見して大いに驚き力争するのも無理からぬことである。しかるに今は既に──
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この「兄」の用法に関する弁明は些末なことのようであるが、実は中国の人間関係における呼称の複雑さを示す好例である。中国語の呼称には厳密な階層序列が込められており、一字の違いが関係の親疎、上下を明確に示す。
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しかし私はこの序列をできるだけ簡略化したいと思っている。知己には「兄」、面識の薄い者には「先生」──これだけで十分ではないか。しかし世間はそう思わず、「兄」と呼ばれたことに大驚する者があり、「先生」と呼ばれなかったことに憤慨する者がある。
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呼称への過敏さは、実は身分への過敏さの表れであり、身分への過敏さは封建的秩序意識の残滓である。「兄」の一字にこれほどの波紋が立つ社会は、まだまだ真の平等には遠いのだ。
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(十二月一日。)
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=== 第73節 ===
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広平兄:
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申し上げたいことは多々ありますが、あの日は口頭にてお答えすることもできたはずでした。しかし私のところには朝から夜まで常に各種の客が数人居りますので、天気の好悪や風の大小を論ずることしかできません。なぜなら平常の話であっても、偶々その一部を聞かれれば忽ち訳が分からなくなり、それから流言が造り出されるからです。されば矢張り返信を書く方がよろしいでしょう。
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学校のことは、暫く不死不活(死にもせず生きもせず)の状態が続くのかもしれません。昨日聞いたところでは、章夫人は来られず、別に二人を推薦したが、一人はやはり来られず、もう一人は請う気にならぬとのこと。さらに□夫人はぜひやりたがっているが、当局はどうやら請う気がないようです。評議会の慰留は大したことではなく、問題は人が得られぬことにあるとのこと。当局は──
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この手紙は、魯迅が許広平に宛てた私信であり、当時の北京の大学における人事の混乱を伝えている。手紙の形式は私的であるが、その中に描かれる情景──常に客がいるために自由に話せず、流言を恐れて口を慎む──は、この時代の知識人が置かれた息苦しい環境をよく示している。
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「天気の好悪を論ずることしかできない」──この一文に、監視と自己検閲の日常がある。家の中ですら自由に語れぬ世界で、人は手紙に真情を託すほかない。しかし手紙もまた傍受される恐れがある。
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されば書かれた言葉は常に不完全であり、言外の意味を読み取る力が読者に求められるのだ。
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(三月十一日。)
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=== 第74節 ===
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本来ならばもっと長くもっと明白に罵るべきところであるが、いささか憚るところがあり、またその髭の長きを哀れみて、ここで収めることとする。さて話題を一転し、「小鬼」の偽名の問題を論じよう。あの二つの「魚と熊掌」は共に足下の好むところなれども、論文に用いるには不相応と思う。なぜなら、真名をもって無聊なる厄介事を招くのは確かに値せぬことであるが、偽名があまりに滑稽に過ぎれば論文の重量を減ずるゆえ、これもまたあまりよろしくない。あなたの多くの名前の中で、「非心」が幸いまだ使われていないようであるから、私は「編集者」兼「先生」の威権をもって、あなたにこの一つを書き付けよう。もし心に叶わぬならば、急ぎ手紙にて抗議されたし、まだ間に合う──
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筆名の問題は些末なようで、実は書く者の身の安全に関わる重大事である。真名で書けば攻撃の標的となり、偽名で書けば卑怯と謗られる。しかも偽名が滑稽であれば文章の信用を損ない、真面目過ぎれば正体が透けて見える。
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書く者はこのように、内容以前に名前の選択において既に重大な判断を迫られるのである。自由に物を書ける社会においては、筆名など好みの問題に過ぎぬが、圧迫の社会にあっては、筆名は生存の戦略となる。
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魯迅自身が多数の筆名を使い分けたことは周知の通りであり、この手紙もまた筆名の使い方を後進に教えるものだ。書く自由が制限された時代にあって、なおも書き続けるための知恵──これこそが魯迅の遺産の一つである。
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(十二月二十日。)
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=== 第75節 ===
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私は承知している。数人で事を為すに際して、真に「天下のため」に出でたるものは甚だ少なきことを。しかし人は現状に対して、多少の不平、反抗、改良の意なかるべからず。ただこの一点の共同の目的のみにて、合作し得るのだ。たとえ「利用」の私心がいくらか含まれていても構わぬ。他人を利用し、また他人のために事をなす──聞こえよく言えば即ち「互助」である。しかしながら私は常に「罪業深重にして禍い自らに及ぶ」の身にて、往々にして結局は純粋なる利用を発見し、「互」の字すら当てはめ得ず、利用された後にはただ気力を消耗した自分一人が残されるのみ。時にはさらに逆に罵られ、罵られぬとしても、彼の洪恩に感謝せねばならぬ。私の時折の無聊はまさにこのゆえであるが、しかし私はなお──
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人間関係における「利用」と「互助」の境界線は曖昧である。しかし問題は、その曖昧さを一方的に利用する者がいることだ。「天下のため」を掲げて他人を利用し、自分は何の犠牲も払わぬ──この種の人間こそ最も警戒すべき存在である。
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しかしそれでも合作は必要であり、合作なくしては何事も為し得ぬ。問題は「利用されること」そのものではなく、「利用された上にさらに感謝を強いられること」にある。これこそ最も人を疲弊させるものだ。
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私が「時折無聊を覚える」のはまさにこのためである。しかし無聊を覚えつつもなお書き続け、なお人と関わり続ける──これは無聊を超えた何かが私の中に残っているからだ。それは「天下のため」などという大層なものではなく、ただ、何も為さずにいることへの耐え難さに過ぎぬ。
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(一月二十八日。)
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=== 第76節 ===
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私の授業は、おそらく毎週六時間ほどになるだろう。語堂が私にもっと講義をしてほしいと望んでおり、その情を断ることができないからだ。そのうち二時間は小説史で、準備の必要はない。二時間は専門書研究で、準備が要る。二時間は中国文学史で、講義録を編纂しなければならない。ここにある古い講義録を見れば、適当に話すだけで十分だが、私はもう少し真面目に取り組み、比較的良い文学史を一冊編み上げたいと思っている。君もすでに大いに勉強し、講義録の準備をしているだろうが、各クラス一時間、八時間とも同じ内容なら、あまり労力はかかるまい。こちらでは北伐順調の知らせも多く、大いに人心を快くしている。新聞にはしばしば閩粤方面の風雲急を告げる記事があるが、ここではそうした気配は感じられない。ただ鼓浪嶼にはすでに多くの寓居客がおり、空き家がほとんどないと聞く。この島は学校の向かいにあり、小舟で一、二十分で着く。
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迅。九月十四日午。
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二十一
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広平兄:
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十三日に発送された私宛の手紙は、すでに受け取った。私は五日に一通出した後、十三、四日になってようやく手紙を出した。十四日以前は、ただ待ちに待っていただけで、手紙は書いていなかった。これがようやく三通目である。一昨日、『彷徨』と『十二個』を各一冊送った。
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君が列挙した職務を見ると、かなり繁重のようで、住まいも良くなさそうだ。四方が「壁にぶつかる」ような住居は、北京にはないが、上海にはある。厦門の旅館でも見たことがあり、実に人を息苦しくさせる。職務が定まった以上、自分でその意を心得て、うまく処理する以外に方法はない。しかし住居だけは、せめて一部屋ぐらいはましなものがあってしかるべきだ。さもなければ、痩せてしまうのではないかと心配だ。
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本校は今日開学式を挙行した。学生は三、四百人の間で、四百人としておこう。予科と本科七学科に分かれ、各学科三級に分かれるのだから、各級の人数の少なさは推して知るべしだ。ここは交通が不便なだけでなく、入試も極めて厳しく、寄宿舎も四百人しか収容できず、四方は荒れ地で借りられる家もない。たとえ来たい人がいても、住む場所がないのだ。それなのに学校当局はなお本校の発展を望んでいるとは、まさに夢想だ。おそらく当初から計画がなく、今も非常にだらしない。我々が来てからは、みな陳列室にするはずの大きな洋館の上に放り出され、いまだに一定の住居がない。聞くところでは教員の住居を急いで建築中だそうだが、いつ完成するかは皆目分からない。今もし授業に行くなら、石段を九十六段登らねばならず、往復で百九十二段だ。お湯を飲むのも容易ではないが、幸い最近はもう慣れて、あまりお茶を飲まなくなった。私と兼士、それに朱山根は、早くから辞令を受け取っていたが、他にも何人か、すでにここに到着しているのに、突然辞令が届けられなくなった人がいる。玉堂が大変な苦労をして、ようやく一昨日届けてもらえた。玉堂はここではどうもうまくいっていないようで、上遂の件も切り出せないでいる。
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私の給料は少なくはないと言える。教科は五、六時間で、かなり少ないとも言える。しかし他のいわゆる「相当の職務」は煩雑すぎる。本校季刊の原稿、本院季刊の原稿、研究員の指導(将来は審査もある)、合わせればかなりのものだ。学校当局はまた功を急ぎ、履歴を問い、著作を問い、計画を問い、年末にどんな成果を発表するかと問い、見ているだけでうんざりする。実は『古小説鉤沈』を整理して出すだけで、研究教授三、四年分の成績になるのだが、その他はすべて無視してもよいのだ。しかし玉堂の好意で招かれたのだから、文学史を教える以外に、書目編集の指導もしようと思っている。範囲がかなり広く、二、三年では完成できないかもしれないが、できるところまでやるしかない。
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国学院にいる朱山根は胡適之の信奉者で、他にも二、三人いるが、みな朱の推薦らしく、彼と大同小異で、さらに浅薄だ。ここに来ると、孫伏園でさえまだ話し相手になる方だ。世にこれほど浅薄な者が多いとは思いもよらなかった。彼らの容貌はなかなか整っているが、話に味わいがなく、夜には蓄音機で梅蘭芳の類を流す。私の今の唯一の方法は口数を減らすことだ。彼らの家族が来た後は、おそらく別の場所に引っ越すだろう。以前女子師範大学で事務員をしていた白果は、ここでは職員兼玉堂の秘書だが、同じく浮ついて実がなく、将来は波風を立てるかもしれない。今の私も極力彼との付き合いを減らしている。他に教員の中に一人知人がいて、以前陝西に行った時に知り合った人で、まだましのようだ。集美中学には師範大学の旧い学生が五人おり、みな国文科の卒業生で、昨日彼らが我々を食事に招いて歓迎してくれた。彼らは白話を主張しており、ここではいささか孤立しているようだ。
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この一週間で、私はここにさらに慣れた。食事の量は変わらず、この数日はむしろよく眠れるようになり、毎晩九時間から十時間は眠れる。しかしまだ少し怠けており、散髪もまだで、一昨晩に安全剃刀で髭を剃っただけだ。これからもう少し規則正しい生活に整えていきたい。おそらく付き合いを減らし、門を閉ざしていれば、できるだろう。ここの菓子はなかなか良い。新鮮な龍眼はもう食べたが、大して美味くはない。やはりバナナの方がよい。しかし自分で買い物には行けない。市場まで十里あり、学校の傍には小さな店が一軒あるだけで、品物は非常に少ない。店の人は「普通話」が少し話せるが、私には半分も聞き取れない。ここの人々はよそ者をいくぶん見下しているようで、閩南だからか、我々を「北方人」と呼ぶ。私が「北方人」と呼ばれたのは、今回が初めてだ。
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今の天気は北京の夏の終わりのようで、虫がとても多い。最もひどいのは蟻で、大小さまざま、至る所にいて、菓子は一晩も置けない。蚊はそれほど多くないが、おそらく私が三階にいるせいだろう。マラリアにかかる者が多いので、校医がよくキニーネを飲ませてくれる。コレラはすでに減ったが、通りは実にひどい。実際は人家の塀の下、軒の下を巡っているだけで、いわゆる道路など存在しないのだ。
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兼士はまだ北京に帰ろうとしているようで、彼の職務を代行してくれと頼むが、私は承知しない。最初の配置には私は関与しておらず、途中で引き継いでも、全く縁もゆかりもない人々で、指揮も利かず、どう手を付ければよいのか。それよりは門を閉じて「自分の門前の雪を掃く」方がましだ。まして私の仕事も十分に多いのだから。
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章錫探が建人に手紙を託し、『新女性』に少し原稿を書いてくれないかと君に頼みたいそうで、私に伝言を頼んだ。そういう気があるかな。もしあれば、まず私に送ってくれ。私が見てから転送する。『新女性』の編集は、最近どうやら建人がやっているようだが、理由は分からない。あの第九号(?)はすでに送ったので、もう届いているだろう。
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私は昨日からトウガラシを食べるのをやめ、コショウに替えた。謹んでお知らせする。では、またの機会に。
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迅。九月二十日午後。
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二十二
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広平兄:
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十七日の手紙は、今日届いた。五日に手紙を出した後、十三日に葉書を一枚、十四日に手紙を一通出しただけで、間隔が確かに空きすぎ、君に風邪を引いたのではと勘ぐらせてしまった。何と言えばよいか分からない。あの頃を振り返ると、いくらか愚かだった。私がここに着いてから、ちょうど広州で人が騒動を起こしたと聞き、君の乗った船もそやつらに阻止されるのではと疑い、ただ手紙が来るのを待つばかりで、手紙を出すことさえ怠ってしまった。その結果、君は長いこと私の手紙を受け取れなかったのだ。
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十四日の手紙は、もうとっくに届いたろう。その後、同日に『新女性』一冊を、十八日に『彷徨』と『十二個』を各一冊、二十日に手紙一通(封筒には二十一日と書いてしまったが)を送った。いずれもこの手紙より前に届いているはずだ。
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私はここにいて、不便こそあれ、体は元気だ。ここには人力車がなく、船か徒歩しかないが、今ではもう階段百余段を登っても全く平気になった。睡眠も食事も良好で、毎晩キニーネを一粒飲んでおり、他の薬は一切飲んでいない。昨日市街に行き、麦精肝油を一瓶買った。近日中に飲み始めるつもりだ。ここではお湯を手に入れるのがかなり難しいので、サナトゲンは飲めない。しかし十日前後で、古い教員寮に移る予定で、そうなれば事情も変わり、あるいはお湯が手に入るかもしれない。(教員寮は二棟あり、独身者用を「博学楼」、夫人のいる者用を「兼愛楼」と称する。誰が名付けたか知らないが、なかなか可笑しい。)
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教科もそう忙しくはない。私はたった六時間で、開学の結果、専門書研究の二時間は選択者がおらず、文学史と小説史が各二時間残っただけだ。そのうち文学史だけ講義録の編纂が必要で、毎週四、五千字もあれば足りるだろう。既存の講義録には構わず、自分でしっかり編纂してみたいと思う。功罪は問わない。
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この学校は金を使うことにかけては少なくないが、基金もなく計画もなく、事務は極めてだらしない。私の見たところ、うまくいくまい。
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昨日は中秋で、月が出ていた。玉堂が月餅を一籠送ってきて、みなで分けて食べた。私は食べてすぐ寝た。最近は早く寝るようになった。
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迅。九月二十二日午後。
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二十三
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広平兄:
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十八日の夜の手紙は、昨日届いた。十三日に出した葉書が届いたのなら、十四日に出した手紙も引き続き届くことを願うばかりだ。君が今頃はもう私の何通かの手紙を受け取っているに違いないと、自ら慰め解するほかない。君の方から寄こした七日、九日、十二日、十七日の手紙は、みな受け取った。大抵は私か孫伏園が郵便取次所に取りに行ったもので、彼らは非常にいい加減で、届けたり届けなかったり、山のように積み上げておくだけで、人が行って何通か欲しいと言えば、渡してくれる。ただし他人の分を取り間違えるようなことは、まだないようだ。私か伏園が毎日一度見に行っている。
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厦大の国学院は、見れば見るほどだめだ。朱山根は胡適と陳源の二人だけを尊敬すると自称する人物で、田千頃、辛家、白果の三人も、みな彼が推薦したらしい。白果は特に波風を立てるのがうまい。彼は以前女子師範大学で職員をしていたことがあるから、君も知っているだろう。今は玉堂の副理で、他の仕事も兼ね、下位の職員に対しては威勢がすさまじく、口から出るのは油滑な言葉ばかりだ。私は彼が玉堂にこっそり「誰それはこう良くない」などと耳打ちしているのを直接聞いたので、もう軽蔑するようになった。一昨日、早速彼に釘を一本刺してやったところ、昨日は難癖をつけて仕返しに来たので、今度はもっと大きな釘を刺してやり、自分は国学院の兼職を辞した。この手合いと共に事を為すつもりはない。さもなくば、何のために厦門まで来たのか。
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もともと私が住んでいた部屋は陳列品を置くことになり、引っ越さなければならなくなった。しかし学校のやり方は奇妙で、一方では我々を急かしておきながら、どこに移ればよいかは指示しない。教員寮はすでに満員で、付近に旅館もなく、まったく途方に暮れる。ようやく一部屋を指定してもらったが、家具は一つもない。請求すると、白果がまたわざと意地悪をし(何の意図か、この人物はおそらく他人にちょっとした苦痛を味わわせるのが好きな性分なのだ)、帳簿に記入し署名して受領書を書けと言う。そこで釘を刺してやると大いに怒り出した。大いに怒った後は、家具が揃い、おまけに寝椅子まで一脚余分についた。総務長が自ら搬入を監督した。玉堂がわざわざ招いてくれたのだから、少しは仕事をしようと思っていたが、今の様子では、おそらくだめだろう。一年もつかどうかも分からない。だから私はすでに仕事の範囲を縮小し、短期間にいくらかの小さな成果を上げ、他人の金を騙しに来たのではないことを示したいと決めた。
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この学校は金遣いが少なくなく、倹約もしないくせに、多くのけちくさい振る舞いがあり、実に耐え難い。例えば今日引っ越しの際にも一件あった。部屋に電灯が二つあり、もちろん私は一つしか使わないのだが、電気工が来て、どうしてもガラス球を一つ取り外すと言って聞かない。一人の教員に対して、給料にこれだけの金を費やしておきながら、電灯を一つ余分に点けるか点けないかで、なぜそこまでこだわるのか。
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さて、今日引っ越した部屋は、以前よりずっと静かだ。部屋はかなり広く、二階にある。前回の葉書に写真があったろう。真ん中に全部で五棟あり、その一つが図書館で、私はその二階に住んでいる。隣は孫伏園と張頤教授(今日着いたばかりで、もとは北大の教員)、反対側は製本作業場で、今はまだ人がいない。私の部屋には窓が二つあり、山が見える。今晩は、心がずいぶん落ち着いた。第一に、あのつまらない連中から離れ、一緒に食事をして退屈な話を聞かなくて済むようになったことが、とても快い。今日の夕食は小さな店でパンと缶詰の牛肉を買って食べた。明日はおそらくまた料理人に賄いを頼むことになるだろう。また自分で使用人を一人雇った。食事代込みで月十二元、普通話を二、三言話せる。しかし少し怠け者かもしれない。もしこれ以上面倒なことがなければ、『中国文学史略』の編纂に取りかかりたい。私の講義を聴く学生は全部で二十三人(うち女子学生二人)で、これは国文科の全員であるばかりか、英文科や教育科の学生も含まれている。ここの動物学科は全クラスたった一人で、毎日教員と向かい合って講義を聴いている。
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しかし私はまた引っ越すかもしれない。今は図書館主任が休暇中で、玉堂が代理しているから、彼に権限がある。本人が戻れば、また変化があるかもしれない。荒れ地に学校を開いておきながら、家具も部屋も教員に提供しないとは、実に笑止だ。どこに移ることになるか、今は見当もつかない。
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今の住居にはもう一つ利点がある。平地に下りるのに階段が二十四段で済み、以前より七十二段少なくなったのだ。しかし「利あれば必ず弊あり」で、その「弊」は海が見えないことだ。汽船の煙突しか見えない。
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今夜の月はまだ美しい。階下をしばらく彷徨ったが、風があったので戻った。もう十一時半だ。十四日の手紙は、二十日か二十一日か二十二日には届いているだろう。明後日(二十七日)にはおそらく手紙が来るだろうから、先にこの二枚を書いておき、二十八日に出す。
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二十二日に手紙を一通送ったが、もう届いただろう。
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迅。二十五日の夜。
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今日は日曜日で、大風だが、あの時ほどではない。明日は広州からの船が来るとは限らないので、昨日書いておいた二枚の手紙を、明朝一番に出すことにした。
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昨日一人雇ったが、流水という名で、しかし代理だった。今日本人が来て、春来という名で、やはり普通話を少し話せる。おそらく使えるだろう。今日はまた多くの用具を買った。大部分はアルミ製で、小さな水甕も一つ買った。だから今やお茶の水に不自由しないばかりか、サナトゲンを飲むのも難しくなくなった。(この旅で初めてサナトゲンが補剤の中で最も面倒なものだと気付いた。冷水と温水の両方を要するからで、他の補剤はそうではない。)
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今日突然左官が来て壁を塗り始め、だらだらと一日じゅう散らかしていた。夜も落ち着いて講義録の編纂はできまい。一日じゅう遊んで、また考えよう。
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迅。九月二十六日夜七時。
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二十四
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広平兄:
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二十七日に手紙を一通送ったが、届いたかな。今日は私が君の手紙を待つ番だ。私の推測では、君は二十一日か二十二日あたりに一通出しているはずで、昨日か今日届くはずなのだが、まだ届いていない。だから待っている。
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私が辞した兼職(研究教授)は、結局辞められず、昨晩また辞令が届けられた。聞くところでは、林玉堂がそのために一晩眠れなかったという。玉堂を眠れなくさせるのは、申し訳ないと思うので、仕方なく受け取り、辞意を撤回した。玉堂は国学院に対して熱心でないとは言えないが、私の見るところ、望みは薄い。第一に人材がなく、第二に校長がいくらか掣肘しているようだ。しかし私は依然として自分のなすべきことをする。昨日から中国文学史の講義録の編纂に取りかかり、今日第一章を書き上げた。睡眠も食事も良好で、ご飯は浅い碗に二杯、睡眠は八時間か九時間とれる。
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一昨日からサナトゲンを飲み始めたが、ただ白砂糖の始末がつかない。ここの蟻は実に恐ろしく、小さくて赤いのが一種類いて、どこにでも現れる。今は砂糖を碗に入れ、碗を水を張った皿の中に置いているが、もしうっかり忘れると、たちまち碗中は小蟻だらけになる。菓子も同様だ。ここの菓子はとても美味いのだが、最近は買うのが怖くなった。買ってきて何個か食べると、残りの置き場がないのだ。四階に住んでいた頃は、菓子の包みを蟻ごと草地に放り投げていたものだ。
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風もひどく、ほとんど毎日吹いている。強い時には窓ガラスが吹き破れるのではないかと疑わしくなり、外にいれば、うっかりすると吹き倒されかねない。今もごうごうと吹いている。着いた当初は毎晩波の音が聞こえたが、今は聞こえなくなった。慣れたからだ。もう少しすれば、風の音にも慣れるだろう。
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今の天候は着いた頃とほとんど変わらず、夏服を着て、ゴザを使い、日向を歩けば全身汗だくになる。聞くところでは、こうした天候は十月(陽暦?)末まで続くそうだ。
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L.S. 九月二十八日夜。
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=== 第77節 ===
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今日午後、二十四日発の手紙を受け取った。私の予想は間違っていなかったが、広東の学生の状況がこれほどとは、まさに「意表の外」だ。北京でもここまでではあるまい。君は自然、手紙に書いた通りにするしかないが、あの職務を見ると、少しの暇もないほど忙しいのではないか。仕事をするのは当然だが、命を削るほどやらないでほしい。こちらでも外の状況はあまりよく分からない。今日の新聞に上海電報が載っていたが(ただしこの電報の出所は不明)、まとめると、武昌はまだ降っておらず、おそらく攻撃することになる。南昌は猛攻を数回受けたが、まだ占領されていない。孫伝芳はすでに出兵した。呉佩孚は鄭州にいるらしく、現在奉天方面と保定・
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大名を秘かに争っている。
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私が「契約が早く満了するように」と願うのは、月日が早く過ぎてほしいからで、早く民国十七年になってほしいのだが、残念ながらここに来てまだ一月にも満たないのに、一年も過ぎたかのようだ。実はここの気候は私の体には合っているようで、よく食べよく眠れるのがその証拠だ。少し太ったかもしれない。ただどうしても退屈で、どこか落ち着かず、安居楽業できないような気がする。しかし私も、あっという間に半年、一年だと自ら慰め、あるいは講義録の編纂を始めて気を紛らわしている。だから睡眠も食事も良好なのだ。私のここでの状況は、よくてもこの程度で、まだ助けを必要とはしない。君はむしろ学校の仕事に専念した方がよい。
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中秋の様子は前の手紙に書いた。謝君の件は、以前すでに玉堂に話してあるが、音沙汰がない。聞くところでは、ここでは外省の人を好んで雇うそうで、その理由は、合わなければ外省の人は荷物をまとめて去ってしまい、それで終わりだが、地元の人はずっと近くにいるから、恨みを買いやすいということだ。これもまた一種の独特な哲学だ。謝君のお兄さんには、さしあたり訪問しない方がよいと思う。さもないと彼が私を訪ねなければならなくなり、私もまたお返しに行かねばならず、かえって余計な付き合いが増えるだけだ。
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伏園は今日、孟余から電報を一通受け取った。広東に来て新聞の仕事をしないかという誘いだ。行くかどうかはまだ決まっていないようだ。この電報は二十三日の発信で、七日もかかって、手紙と同じ遅さだ。実に不思議だ。彼が吹聴していることはといえば、大まかに言って、自分の家には男子学生だけでなく女子学生もよく来るが、自分が愛しているのは背の高い方の子だ、というものだ。なぜなら彼女が最も才気があるから云々と。実に凡庸で、まさに伏園その人のごとく、論ずるに足りない。
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この地で招聘された教授は、私と兼士のほかに朱山根がいる。この人物は陳源の同類で、私は早くから知っていたが、今調べてみると、彼が配置した羽翼は実に七人もおり、以前いわゆる外のことには関わらず専ら読書に没頭しているという評判は、みな彼に騙されていたのだ。彼はすでに私の排斥を始めており、私を「名士派」だと言っている。笑止千万だ。幸い私はここで帝王の万世の業を築くつもりはないから、放っておくことにする。
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私が郵便取次所に行く道はおよそ八十歩で、さらに八十歩行くとトイレがある。だから私は一日に三、四回は通る。小便に行かねばならず、それが途中にあるのだから、首を伸ばしてちょっと覗くだけで、全く手間がかからない。日が暮れると、もうそこには行かない。階下の草地で済ませるのだ。この地の生活法は、それほどだらしなく、まさに聞いたこともないほどだ。私は何日か余分に住んで次第に慣れ、しかも怒鳴って用具をいくらか手に入れ、また自分でいくらか買い、さらに自分で使用人を一人雇ったので、だいぶましになった。最近着いたばかりの教員が何人かいて、冷たい部屋に案内され、喉が渇いても水がなく、小便に行くには旅に出なければならず、まだ「茫々として喪家の犬の如し」の有様だ。
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聴講の学生はむしろ増えてきた。おそらく他の学科の者が多いのだろう。女子学生は全部で五人。私は目を逸らさぬことに決め、しかも将来もずっとそうするつもりだ。厦門を離れるまで。口もあまりむやみに食べない。バナナを何度か食べただけで、もちろん北京のよりは美味い。しかし値段も安くはない。ここに小さな店があり、私が買いに行くと、五本なら、あそこの太ったおかみさんが「ジッゲフン」(一角)と言い、十本なら「ノン(二)ゲフン」と言う。本当にそんなにするのか、それとも私がよそ者だからなのか、今もって分からない。幸い私の金はもともと厦門から騙し取ったものだから、「ジッゲフン」「ノンゲフン」を厦門の人に差し出しても、大したことではない。
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私の授業は今五時間になり、講義録の編纂が必要なのは二時間だけだが、なかなか骨が折れる。文学史の範囲が広すぎるのだ。ここに来てから、上海でまた約百元分の本を買った。克士からはすでに手紙が来て、引っ越したが、孫という同僚と同居しているという。これはよくないと思うが、彼も愚かではないから、騙されることはあるまい。
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もう寝なければ。十二時だ。では、また。
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迅。九月三十日の夜。
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二十五
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広平兄:
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一日に手紙一通と『莽原』二冊を送ったが、もう届いただろう。今日九月二十九日の手紙を受け取った。突然十分の切手のことで大いに感慨をもらすとは、実に子供っぽい。十分使って、紛失するよりずっとましではないか。以前広東の学生の状況を聞いて、かなり「意表の外」だったが、今度教員の状況を聞いて、また「意表の外」だ。以前は広東の学界の状況は他よりずっと良いはずだと思っていたが、今見ると、やはり一種の幻想にすぎなかったようだ。初めて仕事をするのだから、努力するのは当然で、私は何も言えないが、自分のことも顧みて、「鞠躬尽瘁」にならないようにしてほしい。作文については、私がどうやって鼓舞し、導くのだ。私は言った、「大胆にやれ、まず私に送ってくれ」と。これだけでは足りないか。出来がよいかどうかは私が先に見る。たとえよくなくても、今は遠すぎて手の平を打つことができないから、帳簿に付けるしかない。これでもう安心して筆を執れるはずで、尻込みする必要はない。これ以上どうすればよいと言うのか。
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手紙から君の部屋を推測すると、私のよりは広いようだ。私の家具は数少なく、六点だけで、すべて奮闘の末に手に入れたものだ。しかしアルコールランプを買ってからは少し忙しくなった。飲み水はすべて一度沸騰させてから使うからだ。忙しいおかげで、退屈もいくらか減ったようだ。醤油はもう買ったし、缶詰の牛肉もよく食べている。節約などしているものか。ハムは食べたくない。北京にいた頃に食べ飽きたからだ。上海にいた時、建人と私はあまり食べないので、チャーハンを一皿だけ頼んだのだが、それがまた思わぬ波紋を呼び、先施百貨店で買い物を増やさなかったことまで責められた。子供の神経過敏には、本当にどうしようもない。距離も遠く、鞭長くして馬腹に及ばず、これもまあ帳簿に付けておくしかあるまい。
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私はここでよくバナナや柚子を食べているが、どちらもとても美味い。楊桃(スターフルーツ)にいたっては、まだ見たことがなく、こちらでの名前も分からないので、買いようがない。鼓浪嶼にはあるかもしれないが、まだ行ったことがない。あの場所もおそらく他所の租界のようなもので、私もあまり興味がなく、結局おっくうになってしまった。ここは雨はそう多くなく、風ばかりだ。まだ暑いが、蓮の葉はもう枯れた。花はほとんど見分けがつかない。羊は黒い。蟻対策は、私も四方を水で囲む方法を使い、白砂糖はとりあえず安全になった。だが机の上には昼夜を問わず常に十数匹が這い回り、払い除けてもまた来て、どうにもならない。
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私は今、閉関主義を専らとし、教職員との付き合いを減らし、口数も少なくしている。ここの学生はまだましのようで、早朝から運動し、夕方もよくやっている。新聞閲覧室にもよく人がいる。私に対する感情もよいようで、多くが文科は今年活気が出たと言ってくれるが、自分の怠惰を省みると、大いに内心恥ずかしい。小説史には既刊の書物がある。だから文学史の講義録の編纂には手を抜きたくない。すでに二章を印刷に回したが、残念ながら本校の蔵書が少なく、編纂するのに大変不便だ。
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北京からの手紙はすでに届き、家は平穏だ。石炭はもう買い、一トン二十元まで上がった。学校はまだ開講しておらず、北大の学生が学費を納めに行ったが、当局が受け取らなかったという。客気ではあるが、開学の見通しが全く立っていないことが分かる。女子師範大学のことは何も聞いていない。ただ教員がみな男子師範大学の者に入れ替わったことだけは知っている。おそらく当面は研究系の勢力だろう。要するに環境がこうである以上、女子師範大学だけがうまくいくはずがない。
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上遂は家族を南に連れ帰ろうとしており、自分の行方は未定だ。私は彼のために天津の学校に手紙を書いて手を回したが、おそらく効果はあるまい。彼も広東に行きたがっているが、紹介がない。ここではどうにもならず、玉堂も思い通りに指揮できない。多くの人の辞令を、校長が何日も握りつぶしてからようやく発行した。校長は孔子を尊崇する人物で、私と兼士に対してはまだ何もないが、これだけの金を費やしたからには、急いで成果を求めている。よい草を牛に食わせて、その牛から乳を搾ろうとするかのようだ。玉堂もおそらくこの内情を察しており、だから近日中に展覧会を開こうとしている。学校が買い入れた泥人形(古い墳墓の土偶)のほか、私の石刻拓本も展示しようというのだ。実はこんな骨董品をここの人々が見たがるはずもなく、ただでたらめに忙しくするだけだ。
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ここにいると刺激が少ないようで、よく眠れるが、文章も書けない。北京から催促が来ても、無視するしかない。□□書店が本を出してほしいというが、まだ何もない。北新に対しては、まだ『華蓋集続篇』を整理して渡していない。暇がないからだ。長虹はこの二つの書店と揉め始めた。金の問題だ。沈鐘社と創造社も揉め始め、今は文章で口論している。創造社の内部でも揉めており、すでに柯仲平を追放した。原因は分からない。
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迅。十月四日夜。
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二十六
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広平兄:
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十月四日に九月二十九日の手紙を受け取った後、五日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。人間の紛糾は実に多い。兼士は今に至るまで応聘書に署名しておらず、数日前には国学研究院の成立会が終わったら北京に行こうとしていた。あちらにも処理すべき多くの事があるからだ。玉堂は大いに不賛成だが、兼士はどうしても行かねばならない。そこで私が仲裁に入った。まず兼士に応聘書に署名させ、それから休暇を取って北京に一度行き、年内にもう一度厦門に来て、半年在任したことにする。兼士はいくらか承知したが、玉堂はまた頑として譲らず、半年まるまるここにいなければだめだと言う。私は引き下がるしかなかった。二日後、玉堂も承知した。おそらくこれ以外に道がないと悟ったのだろう。今はこの件、校長の許可さえ下りれば一段落つく。兼士はおそらく十五日前後に出発し、まず広州に立ち寄ってから上海に向かうと聞く。伏園もおそらく同行するだろうが、そのまま広州に留まるのか、交渉の後にまた厦門に戻るのかは分からない。孟余は彼に副刊の編集を頼み、彼はすでに承諾したが、いつ始めるかはまだ決まっていないようだ。
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私の推測では、兼士は当初ここに長くいるつもりがなかったわけではないが、厦門に来てみて、交通の不便さと生活の退屈さに、「帰心矢の如し」にならざるを得なかったのだ。これは本当にどうしようもないことで、私にどうやって引き留められよう。
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ここの学校当局は、高額の報酬で教員を招聘しておきながら、教員を手品師のように見ているところがある。素手で腕前を見せろというのだ。例えば今回の展覧会で、私はかなり苦労した。開会前に兼士が私の碑碣拓本を展示に貸してほしいと言い、承知した。しかし私には小さな書き物机と小さな角テーブルしかなく、足りないので、床に広げてうつ伏せになり、一つ一つ選び出すしかなかった。会場に持って行く段になると、孫伏園が自ら名乗り出て一緒に陳列してくれた以外、手伝う者は一人もおらず、校務員も見つからない。そこで二人で陳列したが、高い所は机の上に椅子を置いて、私が登らなければならなかった。作業の途中で、白果がまた無理やり孫伏園を呼び出した。彼は「副理」(玉堂の)だから、孫伏園を呼ぶ権限があるのだ。兼士は見かねて自ら手伝いに来たが、彼はすでに少し酒を飲んでおり、今回飛び上がったり飛び降りたりしたので、夜にはひどく吐いた。副理の地位は、まるで明朝の宦官のように、権勢を笠に着てやりたい放題ができる。しかし被害を受けるのは彼ではなく、学校だ。昨日は白果が書記たちに上諭式の指示書を下したため、午後にストライキが起きた。その後どうなったかは知らない。玉堂がこの人物を信用するとは、まさに愚かだ。前回私が国学院研究教授を辞しながらまた撤回したのは、兼士と玉堂を困らせまいと恐れたからだが、今の様子では、やはり断固として兼職を辞さなければなるまい。何も他人のために自ら身を落とし辱める必要があろうか。
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この地の生活も実に退屈で、外省の教員はほとんど誰一人として長く留まるつもりがない。兼士が去るのも、驚くにはあたらない。しかし私は兼士よりいくらか気楽で、また玉堂の兄弟や奥方が、みな我々の生活をとても気にかけてくれているのを見ているし、学生も私をことのほか大事にしてくれて、ここの生活に慣れないのではと心配し、何人かの地元の者は日曜日にさえ帰省せず、私が市街に遊びに行く時に通訳として同行しようと備えてくれている。だから何か大きな耐え難いことがない限り、少なくとも一年はここで講義するつもりだ。さもなくば、とっくに広州か上海に行っていたかもしれない。(ただし、私を大いに歓迎してくれる人の中には、私にまずこの地の社会などを攻撃する口火を切らせ、自分たちがそれに乗じて撃とうと企んでいる者もいる。)
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今日は双十節で、大いに喜ばしかった。本校はまず国旗掲揚式を行い、万歳を三唱し、演説、運動会、爆竹鳴らしと続いた。北京の人々は双十節を嫌っているかのように沈鬱として死んだようだが、ここでこそ双十節らしい。私は北京の正月の爆竹を聞き飽きて嫌悪感を抱いていたが、今回はなるほど聞くに堪えると思った。昼は学生と食堂に行き、あまり美味くない麺(半分以上がモヤシ)を一杯食べ、夜は懇親会で音楽と映画があった。映画は電力不足でよく見えなかったが、ここではそれでも宝物のように扱われている。教員の奥方たちは最も新しい服を着てきた。おそらくここでは一年のうち他に集まりらしい集まりもないのだろう。
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聞くところでは、厦門の市街も今日はとても賑やかで、商民が自発的に旗を掲げ彩りを飾って祝っており、北京のように警察の指示を受けてからようやく汚い五色旗を掲げるのとは違う。この地の人々の思想は、実は「国民党的」であり、それほど旧弊ではないと思う。
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私がここに来てから、各方面から送られてくる各種の刊行物は非常に雑然としており、届いたり届かなかったりする。時には君に転送したいと思うが、毎号あるとは限らないので、郵便局で紛失したとは思わないでほしい。幸いこの種のものは、読み終われば終わりで、保存する必要もなく、揃っているかどうかも大した問題ではない。
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ここに来てもう一月余りになるが、講義録二篇と『莽原』への原稿二篇を書いただけだ。しかしよく眠れ、体は少し良くなったようだ。今日ある噂を耳にした。孫伝芳の主力軍はすでに敗れ、使える兵がもうないというのだが、確かかどうかは分からない。一、二日中に手紙が届くだろうと思うが、この手紙は明日出すつもりだ。
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迅。十月十日。
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二十七
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広平兄:
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昨日手紙を一通出したばかりなのに、今日はもう君の五日の手紙を受け取った。この手紙は船の中で丸七日以上も寝ていたことになる。北大の学生で編集員としてここに来た者がおり、五日に広州を出発したのだが、船が暴風を避けて進んだり止まったりし、今日ようやく着いた。君の手紙もおそらく同じ船だったのだろう。手紙一通の往復にしばしば二十日かかるとは、実に嘆かわしい。
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君の職務はあまりにも煩雑で、給料もこれほど当てにならず、服装までこうも変えなければならないとは。足りているか。一人の人間として、たしかに何かすべきだが、労して功なしである必要はない。毎日学生の顔色を窺いながら仕事をしても、人にも自分にも益がない。まさに精神を無用の場に費やすというものだ。聞くところでは広州で仕事を見つけるのは難しくないそうだが、なぜ学期末まで待たねばならないのか。忙しいのは構わないが、自分の休息の時間さえないとなれば、それは割に合わない。
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私がよく眠れるのは自然にそうなっているのだ。ここも些末な事には事欠かないが、やはり北京ほど忙しくはない。例えば校正の仕事などは、ここにはない。酒は自分で飲みたくないのだ。北京では、あまりに嬉しい時とあまりに憤慨した時に酒を飲んでいたが、ここでは小さな刺激がないわけではないものの、「あまりに」というほどではないから、飲まずに済む。しかも私にはもともと酒癖はない。煙草を減らしたのは、何故かよく分からないが、おそらく講義録の編纂には調査するだけで思索の必要がないからだろう。しかしこの数日はまた少し増えた。『旧事重提』を続けて四篇書いたからだ。あと二篇で完結するが、来月にするつもりだ。明日からまた講義録の編纂に取りかかる。
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兼士はまだ出発していない。代わりの人もまだ手配できていないが、北京に帰りたい一心で、聞くところでは広州には行かないらしい。孫伏園はまだ一度行くようだ。今日はまた李逄吉から大連より手紙が来て、広州に行くとのことだが、何をしに行くのかは分からない。
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広東は雨が多いそうだが、天候が厦門とこれほど違うとは。ここは雨は降らず、毎日風があるだけだ。しかし風の中に埃がほとんどないから、それほど不快ではない。アルコールランプを買ってからは、お湯の問題は解決した。ただし食事はどうしても美味くない。明後日から料理人を替えることになるが、おそらくやはり大して変わるまい。
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迅。十月十二日夜。
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=== 第78節 ===
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八日の手紙は今日届いた。以前の九月二十四日、二十九日、十月五日の手紙も、すべて受け取っている。君の収入と仕事の比率を見ると、実にかけ離れすぎている。すぐに別の道を考えられないか。このような状況では、どう努力しても徒労だと思う。
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「一度の解散を経て去った者」は、当然福があったと言える。もし我々があそこにいたなら、きっと今よりもっと憤慨していたことだろう。私のここでの状況は、手紙で逐次述べてきた通りだ。実はこれも身売りに等しく、給料のほかに何もない。しかし私は今のところまだしばらくは取り繕えるかもしれない。様子を見よう。当初は広州のことも考えなかったわけではないが、状況を聞いてからは、一時その考えを止めた。陳惺農ですら立っていられないのに、まして私が行ってどうなろう。
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ここにいてあまり愉快でない原因は、第一に周囲に言葉に味わいのない人物が多く、退屈を感じることだ。彼らが私を部屋に一人で閉じこもって本を読ませてくれるなら、それでもよいのだが、しょっちゅう押しかけてきては小さな刺激を与えてくる。
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しかしまた、かなり多くの人が私を宝物のように扱ってくれ、北京で毎日びくびくしながら危険に備えていた頃と比べると、ずっと平穏だ。自分の心を少し落ち着ければ、一時的には安住できなくもない。ただ、話し相手がいないので、鬱憤をみな手紙の中で君に向かって発散してしまっている。私がここで大変苦しんでいるとは思わないでくれ。実はそうでもないのだ。体はおそらく北京にいた時よりも少しは良いだろう。
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君の収入はこんなに少なくて、足りているのか。私に知らせてほしい。
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今日の地元紙の報道はとてもよいが、もちろん確かかどうかは分からない。一、武昌はすでに陥落。二、九江はすでに占領。三、陳儀(孫の師団長)らが和平を主張する電報を発信。四、樊鐘秀がすでに開封に入り、呉佩孚は保定に逃走(一説には鄭州)。要するに、たとえ割り引いて考えても、情勢がよいことだけは確かだ。
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迅。十月十五日夜。
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二十八
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広平兄:
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今日(十六日)手紙を出したばかりなのに、午後には双十節の手紙を受け取った。私に送ってくれた手紙は、すべて届いている。一日に出した手紙がまだ届いていないなら、おそらく『莽原』と一緒に紛失したのだろう。あの手紙に何を書いたかもう覚えていないが、なくなったものは仕方がない。
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私の状況は、君の神経過敏を恐れて隠したわけではない。おおよそ刺激を受けると心が乱れ、事が過ぎればいくらか落ち着く。しかし本校の状況は実にあまりよくない。朱山根の一派は国学院で大いに勢力を占め、□□(□□)もまたここに来て法律学科の主任になろうとしている。これで『現代評論』の色彩が厦大に蔓延するだろう。北京では国文科が対抗していたが、ここの国学院には胡適之・陳源の一派が大勢引き込まれ、まるで望みがない。考えてもみてくれ。兼士はこれほどぼんやりしている。彼が朱山根一人を招いたら、山根が三人を推薦し――田難干、辛家本、田千頃――彼はそれを受け入れた。田千頃がまた二人を推薦し――盧梅、黄梅――彼はまたそれを受け入れた。こうして我々個人は、自然と排斥される。だから私は今、遅くとも本学期末には厦大を離れたいと強く思っている。彼らは本当にここに永住するつもりらしく、状況は北大よりも悪い。
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また別の一群の教員が、二つの運動をしている。一つは永久聘書――期限なし――の要求、もう一つは十年二十年後に学校から終身年金を支給させるという要求だ。彼らはここに自分たちの理想郷を築こうとしているようだが、ゴムでできた天国だ。諺に「子を養いて老に備う」というが、厦大でも「老に備える」ことができるとは。
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ここではもう一つ不自由なことがある。学生がみな私を知っており、記者の類も訪ねてくる。あるいは私に白話を提唱し旧社会と一騒ぎしてほしいと望み、あるいは週刊を編集して地元の新文芸を鼓吹してほしいと望む。一方で玉堂の類は『国学季刊』に「之乎者也」の文章を書けと言い、さらに学生週会で演説もせよと言う。三面六臂でもなければできない話だ。今日の地元紙に私を訪問した記事が載っており、私の態度について「少しも偉そうにせず、少しも気取らず、少しもよそよそしくなく、服装も気ままで、寝具も気ままで、話し方も気取らない……」と、非常に意外だと書いてある。ここの教員は外国の博士号持ちが多く、彼らは堂々とした態度を見慣れているのだ。
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今日はまた朱家驊氏の電報を受け取った。兼士、玉堂、そして私宛で、中山大学は「委」員制に改めた(「職」の誤りだろう)と言い、我々に来て一切を指導してくれと言う。おそらく学制の審議だろう。兼士は北京に帰りたがっており、玉堂は行く気がなさそうだ。私は本来これを機に一度行ってもよいのだが、開講してまだ一月にもならないのに二、三週間も休暇を取るのは口にしにくい。だから十中八九は行けまい。これは惜しいことだ。年末なら都合がよかったのだが。
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どんな打撃を受けようと、私が「秘して宣べず」ということはありえないし、打撃を受けても恨むこともない。柚子はもう四、五日食べていない。あまり消化しないように感じたからだ。バナナはまだ食べている。以前は食べるとすぐ腹痛を起こしたものだが、ここでは平気で、むしろ便秘に効くようなので、当分やめないでおこうと思う。しかも一日にせいぜい四、五本だ。
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泥人形少々と拓本少々で展覧会を開くのを、笑止だと思うか。もっと笑えることがある。田千頃は自分が撮った写真まで展示した。古壁画の写真なら、まだ「考古」に関係すると言えるが、牡丹の花だの、夜の北京だの、北京の砂嵐だの、葦だの……もし私が主任なら、必ず撤去させるところだが、ここでは誰一人笑止だと思わないのだから、ここには田千頃の類こそふさわしいということだ。また国学院は商科から歴代古銭を一式借りてきたが、私が見たところ、大半が偽物で、展示しない方がよいと主張したが、通らなかった。「では『古銭標本』と表記すべきだ」と言ったが、商科が気分を害するのを恐れるとかで、これも実行されなかった。結局どうなったか。この偽古銭を見る者が最も多かったのだ。
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ここの校長は孔子を尊崇している。先週日曜日に週会で私に演説をさせたが、私はやはり「中国の本は少なく読め」主義を述べ、さらに学生は「好事の徒」たるべしと言った。彼は突然大いに賛成し、陳嘉庚もまさに「好事の徒」だから喜んで学校を興すのだと言ったが、自分の孔子尊崇と矛盾していることに気づいていない。ここはかくもでたらめなのだ。
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L. S. 十月十六日の夜。
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二十九
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広平兄:
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伏園は今日出発した。十八日に君に手紙を一通出したが、おそらく郵便局でずっと寝ていて、今日伏園と同じ船で広州に着くのだろう。数日前、私もほとんど同行するところだったが、結局やめた。同行しようとした理由の、小さな部分にはたしかにいくらかの私心もあったが、大部分は公のためだ。中山大学が我々の協議を必要としている以上、少しは手を貸すべきだし、しかも厦大もあまりにも鎖国的で、今後は他大学とも交流すべきだと思ったのだ。玉堂はちょうど病気で、医者は三、四日で治ると言う。そこでこの趣旨を説明しに行くと、彼も大いに賛同し、まず私が行き、もし彼が不可欠なら電報を打つ、その頃には病気も治って船に乗れるだろうと約束した。ところが昨日また変化があった。彼は自分が行かないばかりか、私が自ら行くことにも先の合意を翻し、校長に休暇を願い出るのがよいと言い出した。教員の休暇は従来主任の管理下にあるのに、こう言うのは明らかに私に難題を押し付けている。少し考えて、やめにした。もう一つ理由がある。おそらく南洋に近いからだろう、ここは実に金銭にうるさく、「あの人は月いくら」などという話が会話中にしょっちゅう聞こえる。我々がここにいて、当局者も日々我々が早く多くの仕事をし、多くの成果を発表するよう望んでいる。牛を飼って毎日乳を搾るかのようだ。某の日給がいくらか、みな忘れずにいるのだろう。私が二週間も離れれば、多くの人が必ず、半月分の給料をまんまと騙し取ったと思うだろう。玉堂が私の欠勤を嫌がるのも、おそらくこの点を慮ってのことだ。私はすでに三月分の給料を受け取りながら、授業はまだ一月しかしていないのだから、確かに休暇を取るべきではない。しかしもし長期的な計画があるなら、こうした些末なことにこだわる必要はない。将来尽力できる日はまだ長いのだから。しかし彼らは目先のことしか見えず、私も長い将来のことは考えないから、行かないことにし、年内にこの人たちのために季刊に論文を一篇書き、学術講演会で一度講演し、さらに私が編纂した『古小説鉤沈』を献上すれば、学校は金を無駄にしたとは思わないだろうし、私も出入り自由になれる。研究教授の辞職は、もう言い出すまい。辞めたところで、彼らはやはり別の仕事をさせて、国文科教授の給料に見合う成果を上げさせようとするだろうから、そのまま引きずっておく方がましだ。
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「現代評論」派の勢力は、ここで膨張しそうだ。当局者の性質もこの連中と合っている。理科も文科をひどく嫉んでおり、北大と同じだ。閩南人と閩北人の感情もあまり融和せず、何人かの学生は私に去ってほしがっているが、私に悪意があるのではなく、学校に災いが降りかかればよいと思っているのだ。
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この数日、ここでは二人の名士を歓迎している。一人は太虚和尚が南普陀に来て説経するもので、仏化青年会が提案した。ボーイスカウトに生花を捧げさせ、太虚の行くところに花を撒き、「歩歩蓮花を生ず」の意を示そうというのだ。しかしこの案は結局実行されなかった。さもなくば和尚が潘妃に化けるのも、なかなか面白かったろうに。もう一人は馬寅初博士が厦門に来て講演するもので、いわゆる「北大の同人」たちが頭がぼんやりして、隊列を組んで歓迎している。私もたしかに「北大の同人」の一人であり、銀行で財を成せることも知らぬではないが、「銅貨を毛銭に替え、毛銭を大洋に替える」学説にはまるで興味がないので、いずれにも加わらず、一切なるがままにしておく。
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二十日午後。
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以上の手紙を書いた後、横になって本を読んでいたら、四時の終業の鐘が聞こえたので、郵便取次所に行くと、十五日の手紙を受け取った。あの日の手紙がすでに届いたなら、それはよかった。横目で見ることさえまだしていないのに、まして「睨む」ことなどできようか。張先生のご高論には私も大いに感服する。もし私が文章を書くなら、おそらくそう言うだろう。しかし実際にはなかなか難しい。もし公にするものがあるとすれば、それは自分にとって不要なものだ。そうでなければ、公にしたくない。自分の心をもって人の心を推し量れば、私有の念が消滅するのはおそらく二十五世紀のことだと分かる。だから今後は断じて「睨まない」ことに決めた。
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ここは最近三日ほど涼しくなり、袷の衫が着られる。冬になっても今よりそう寒くはならないそうだが、草はすでに黄ばんだものもある。学生の方は、私に対して相変わらずとても好意的だ。彼らは文芸刊行物を一つ出したいと言い、すでに原稿を見てやった。大抵はまだ幼稚だが、初心者ならこんなものだろう。来月には印刷に出せるかもしれない。仕事については、命を削るほどはしていない。実は以前より怠けるようになり、しょっちゅうぶらぶら遊んで、何もしないでいる。
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章程(規約)の起草ができないからといって、能力が弱い証拠にはならない。規約の起草は別種の才能だ。第一に規約の類を多く読まねばならず、第二に法律に趣味がなければならず、第三に各種の事柄に配慮しなければならない。私はこの種のものを書くのが最も苦手だから、おそらく君の得意とするところでもあるまい。しかし人は何も章程を作れなければならぬということがあろうか。たとえできたとしても、「章程作成者」にすぎない。
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私の想像では、伏園は政論をするのではなく、副刊を編集するのだろう。孟余たちの考えは、副刊の影響力が大きいので、大いにやろうというものだ。上遂はまだ仕事が見つからず、実に嘆かわしい。やむを得ず、伏園に頼んで孟余に直接お願いしてもらった。
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北伐軍の武昌占領、南昌占領は確かだ。浙江もたしかに独立した。上海付近ではまた小規模な戦闘があるかもしれず、建人はまた避難しなければならない。この人も運命に定められたように、なかなか安穏でいられない。しかし数歩歩けば租界だから、おそらく大丈夫だろう。
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重陽の日はここでは一日の休みで、私はもともと授業がないから何の恩恵もない。高い所に登る風習は、厦門ではやらないようだ。肉でんぶは食べたくないから、調べに行かないことにした。今買って食べているのは菓子とバナナだけで、時々缶詰も買う。
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明日、本を一包み送るつもりだ。雑多な刊行物で、これまで溜まったのを今回まとめて送る。中に一冊の『域外小説集』がある。北新書局が送ってきたもので、夏に君が欲しがった時、私が彼らに頼んで買おうとしたが、北京にはないという返事だった。今回はおそらくたまたま見つけて送ってきたのだろう。しかしあまりきれいではなく、おそらく長く増刷していなかったので新本がなかったのだろう。今は君が国文を教えていないから、もう用はないが、送ってきた以上、一緒に送っておく。自分で要らなければ、人にあげてもよい。
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『華蓋集続編』の編集を終え、昨日印刷に出した。
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迅。二十日灯下。
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三十
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広平兄:
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今日午前に手紙を一通出したばかりだが、その中で厦門仏化青年会が太虚を歓迎する笑い話に触れたところ、なんと午後には招待状が届いた。南普陀寺と閩南仏学院が太虚に公式宴を催し、私にも陪席を請うというもので、もちろん他の人もいるだろう。行くまいと決めたが、本校の職員が無理に行けと言う。行かなければ本校が彼らを見下していると思われると。個人の行動が全校に関わるとは、実に困りものだ。仕方なく行った。羅庸は太虚を「初日の芙蓉の如し」と評したが、私にはそうは見えず、至って平凡だった。席に着く際、私と太虚を並んで上座に座らせようとしたが、ついに辞退し、哲学教員を一人供え物にして済ませた。太虚はもっぱら仏事を説くのではなく、よく世俗のことを論じたが、陪席の教員たちはあえて仏法を問いたがり、「唯識」だの「涅槃」だの、その愚は及ぶべくもない。だからこそ陪席がお似合いということか。その時また田舎の女たちが見物に来て、結局はひざまずいて大いに頭を打ち、得意満面で帰って行った。
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こうして、まんまと精進料理をご馳走になった。ここの宴席はまず甘い料理が出て、途中に塩味の料理、最後にまた甘い料理で終わる。ご飯もお粥もない。何度か食べたが、毎回そうだった。聞くところでは厦門の特別な習慣で、福州ではそうではないらしい。
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散会後、ある教員と話していて分かったのだが、今回一緒に来た人物の中で、私を排斥しようとする動きが次第に顕著になっているという。彼らの言葉の端々から、すでにそれが聞き取れるし、彼にも連絡を取ろうとしているらしい。彼はそこで嘆息して言った。「玉堂には敵が少なくないが、国学院に対して手を出せないのは、ひとえに兼士と君の二人がいるからだ。兼士が去っても君がいれば、まだ支えられる。しかし君もまた去れば、敵はもう遠慮するものがなくなり、玉堂の国学院は動揺し始めるだろう。玉堂が失敗すれば、彼らも立っていられなくなる。それなのに彼らは一方で私を排斥しながら、一方ではみな家族を呼び寄せ、長く居座る準備をしている。実に愚かなことだ。」私もそれは確かだと思う。この学校は一座の梁山泊のようなもので、槍と剣が飛び交い、見応えがある。北京の学界は都市の中で押し合い圧し合い、ここは小島の上で押し合い圧し合う。場所は異なれど、押し合いは同じだ。しかし国学院内部の排斥現象は、外敵にはまだ知られていない(彼らはあの連中を兼士と私の部下だと誤解しており、我々が彼らのために地盤を取りに来たと思っている)。将来知れれば、喜びに堪えないだろう。私はここに何の未練もない。苦しんでいるのは玉堂だ。私と玉堂の交情は、まだこれらのことを彼に打ち明けられるほどの程度に達しておらず、たとえ言っても、信じるかどうかも分からない。だから私はただ一言も発せず、自分の仕事をするだけだ。彼らが私を倒そうとしても、すぐには難しい。私がここにいるのは年末か来年まで、自分の気分次第だ。玉堂に対しては、おそらく愛すれども能わずの状況だ。
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二十一日灯下。
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十九日の手紙と原稿は、どちらも受け取った。文章は使えると思う、私の見るところ。ただし文中の句法に不適切なところがある。これはお嬢さんたちの通病で、その原因は不注意にある。書き終えた後、おそらく自分でもう一度読み返しさえしないのだろう。一両日中に添削して送ろう。
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兼士は二十七日に出発して上海に向かう予定で、広州には行かない。伏園はもう発った。陳惺農に聞けば住所は分かるだろう。しかし私が思うに、彼には通訳は必要ない。真面目ともつかず、軽薄ともつかず、ぼんやりとあちこち歩き回り、いわゆる「準」に出会うことは永久にあるまい。しかし彼の行くところ、しばしば長く尾を引く小さな面倒を残して、他人に後始末をさせる。私は使用人を一人雇っただろう。彼はその使用人の友人を紹介して、いわゆる「陳源の門弟」たちの賄い飯を請け負わせた。余計なことをするなと教えても聞かない。今では陳源の門弟たちがしょっちゅう私に飯が不味いと文句を言い、まるで私が料理長のようだ。使用人の方は友人の手伝いに忙しく、私の用事はあまり来なくなった。私はとにかく十二元出して彼らに料理人の助手を一人雇ってやったが、なおも文句を言われる。今日聞いたところでは、彼らはもう賄い飯をやめるそうだ。まことにありがたいことだ。
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=== 第79節 ===
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上遂の件は、あの憎たらしい伏園に直接伝えるよう頼んだほか、昨日はまた兼士と連名で孟余たちに手紙を書いた。できることはやったので、あとは次回のお楽しみだ。私の他所での地位については、急ぐ必要はない。ここに長く留まるつもりはないが、今のところ断固去らねばならない理由もないから、むしろ非常にゆったりしている。「得んことを患い、失わんことを患う」という考えがないので、心持ちも自然と穏やかだ。「人を安心させるために嘘をついてこう言っている」のでは決してないので、どうかご明察いただきたい。
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理科の諸氏の国学院攻撃は、ここ数日始まった。国学院の建物が未完成で生物学院の建物を借りているため、彼らのまず第一手は部屋の返還要求だ。この件は我々とは全く関係がないから、微笑んで傍観し、大量の泥人形が露天に運び出され、風雨にさらされるのを見るのも一興だ。この学校はおそらく南開大学によく似ているのだろう。そして一部の教授は、校長の喜怒のみを窺い、他科が脚光を浴びるのを嫉み、中傷、あら探し、あらゆる手を尽くす。まさに妾婦の道だ。私は北京を汚濁だと思って厦門に来たが、今思えば、それは妄想だった。大きな溝が汚ければ、小さな溝がきれいなものか。ここが北京に勝るのは、ただ給料の未払いがないことだけだ。しかし「校主」がひとたび怒れば、即座に閉校もありうるのだ。
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私がこの大きな洋館に住んでいるが、夜になると住んでいるのはたった三人だ。張頤教授と伏園と私。張は不便のため友人のところに移り、伏園はすでに去ったので、今は私一人きりだ。しかし私は静かに観じ黙って考えることができるので、精神的にはむしろ孤独を感じない。年末の休暇も近づいてきて、以前より沈静になった。自分で計算すると、ここに来てちょうど五十日だが、まるで半年も過ぎたようだ。しかしこれは私だけでなく、兼士たちも同じことを言うのだから、生活の単調さが分かろうというものだ。
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最近一つの言葉を思いついた。この学校を形容できると思う。それは「荒島の海辺に、無理やり洋風建築を一列に並べている」というものだ。しかしこのような場所でありながら、人物はあらゆる類型が揃っており、一滴の水を顕微鏡で見れば、それもまた一つの大世界であるのと同じだ。その中には、上述の「妾婦」たちがおり、さらに愛を得たくて九元もする菓子箱を恭しく女教員に贈る老外国人教授がいる。有名な美人と結婚して三月で離婚した若い教授がいる。異性を玩具にし、毎年必ず一人の人と交際し、まず惹きつけておいて最後には拒む、ミス先生がいる。菓子のありかを探り出して群がって食べる好事の徒がいる……世の中はどこもだいたい同じで、土地の繁華や寂寥、人の多寡は、大した関係がない。
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浙江の独立は確かだったようだ。今日聞いたところでは、陳儀の兵がすでに盧永祥と交戦している。それなら陳は徐州でも独立したのだが、果たして確かかどうかは分からない。福建方面の消息はあまり聞こえてこないが、周蔭人は必ず倒れるだろうし、民軍はすでに漳州に到着しているようだ。
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長虹がまた韋漱園と喧嘩している。上海で出版された『狂飆』で大いに罵り、さらに私への手紙を掲載して、私に一言言ってくれと求めている。彼らは実に暇を持て余している。しかし私はもう付き合う気がない。この数年、命を随分と削ってきたし、付き合いもたくさんだ。だから断固放っておくことにする。しかも喧嘩の原因は、『莽原』が向培良の戯曲の投稿を掲載しなかった(掲載しなかっただけだ)ことだそうだが、培良と漱園が北京で紛糾を起こし、上海の長虹に口汚く罵らせ、さらに厦門の私に出てきて発言させようとは、やり方が実に奇怪だ。私がその中の事情の曲折をどうして知りえよう。
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ここの天気は涼しくなってきて、袷の服が着られる。明日は日曜日で、夜はおそらく映画を見るだろう。リンカーンの一生の物語だ。みなで金を出し合って呼び寄せたもので、六十元かかる。私は一元出したので、特別席に座れる。リンカーンの類の物語は、私はあまり見たくないが、ここでよい映画が見られるだろうか。みなが知っていて面白いと思うのは、せいぜいリンカーンの一生の類がいいところだろう。
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この手紙は明日出す。開学後、郵便取次所は日曜日も半日営業するようになった。
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L. S. 十月二十三日灯下。
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三十一
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広平兄:
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二十三日に十九日の手紙と原稿を受け取り、二十四日にすぐ返信を出したが、もう届いただろう。二十二日に出された手紙は昨日届いた。閩粤間を往来する船は多いはずだが、郵便物の配達は一つの会社に独占されているらしく、その会社の船だけが手紙を運ぶので、一週間に二回しかない。上海もそうで、おそらくこの会社は太古洋行ではないかと疑っている。
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同意しないからといって、若旦那たちに対するやり方で来るとは限らない。ご安心を。しかし私の考えでは、自分からは恐らく口を開くまい。本当にどうしようもない。こんな食事は少なく仕事は多い生活が、どうして長続きしよう。しかし一学期やると決めた以上、しかも手伝ってくれる人もいるのだから、やるのもよいだろう。ただし決して命を削ってはならない。人はたしかに「公」のために働くべきだが、みなが働かなければならない。他の人が怠けて、ごく少数の人だけが命を削っているのでは、あまりにも「公」ではない。適当なところで止めるべきだ。省ける道は少し歩かず、構わなくてよいことは少し手を出さない。自分もまた国民の一人であり、大事にすべきだ。ごく少数の人だけが過労死すべきだなどと要求する権利は、誰にもないのだから。
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この数年、私は常に人のために少しでも力になりたいと思い、北京にいた頃は命を削って仕事をした。食事を忘れ、睡眠を削り、薬を飲みながら編集し、校正し、執筆した。ところが実ったのは、みな苦い果実ばかりだった。私を宣伝に利用して自分の利益を図った者がいたのは言うまでもない。小さな『莽原』でさえ、私が去ったとたんに喧嘩が始まった。長虹は、同人が彼の投稿を掲載しなかった(掲載しなかっただけだ)ことで私に理論をぶつけ、一方の同人は始終手紙を寄こして原稿がないと言い、私に書けと催促する。私は実にいくらか憤慨しており、第二十四号で『莽原』を廃刊するつもりだ。刊行物がなくなれば、みなまだ何を争うのか見ものだ。
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以前からいくらか予想していたのだが、君が今度の仕事に出かけると、多くの訳の分からない人々が訪ねてくるだろう。あるいは革命家を自称し、あるいは文学者を自称し、訪問するだけでなく、助けも求める。君はきっと助けるだろう。しかし助けた後、彼らはなお大いに不満で、しかも恨みさえする。なぜなら彼らは君の収入が多いと思い込んでおり、この程度のことは助けないのと同じだと思うからだ。君が全力で助けたと言っても、それは君のけちな嘘だと思うのだ。やがて何か失敗すれば、一斉に蜘蛛の子を散らすように去り、ひどい場合は落ちた犬に石まで投げる。すなわち訪問した時に見た態度、住居などを攻撃の材料にする。これは先のけちに対する罰だというのだ。この種の状況を、私はすべて一つ一つ味わってきた。今、君もおそらくこの味を味わい始めているところだろう。これは人を苦しめ、不平にさせるが、味わうのも悪くはない。世の中のことをより切実に知ることができるからだ。しかしこの状態は永続するものではない。しばらく経験した後は、はっと悟り、きっぱりと彼らを振り払わねばならない。さもなくば、たとえ自分のすべてを犠牲にしても、彼らはなお満足せず、しかもなお救われない。実を言えば、君が今哀れだと思っているいわゆる「婦女子供」も、おそらくこの例外ではあるまい。
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以上は昼食前に書いた。今は四時で、今日はもう用事がない。兼士は昨日もう発ち、朝に別れを告げに来た。伏園からはすでに手紙が来て、船中で大いに吐いたとのこと(乗船前に酒を飲んだのだから自業自得だ)。今は長堤の広泰来旅館に泊まっているが、おそらく私の手紙が届く頃にはもう発っているだろう。浙江の独立はすでに失敗した。外の新聞では華々しく報じていたが、浙江の地元紙を見ると、かなり歯切れが悪く、独立の当初からしてすでに灰色だったようで、外聞のような轟々たるものではなかったらしい。福建の事も真相がよく分からない。ある新聞には周蔭人がすでに郷団に殺されたとあるが、おそらく本当ではあるまい。
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ここでは袷の服が着られ、夜は綿入れのチョッキを足してもよいが、最近数日はまた不要で、今日は雨だが、さほど涼しくもない。使用人を雇ってからは、比較的便利になった。仕事については、実はそう多くなく、暇はいくらでもある。しかし何もせず、つまらない本を手に取って遊んでいることの方が多い。講義録を三、四時間続けて編纂すると、睡眠に影響が出て、寝付きが悪くなる。だから講義録の編纂も非常にゆっくりで、原稿を催促されてもたいてい無視している。上半期ほどがむしゃらに仕事をしなくなった。これは退歩のように見えるが、別の面から見れば、むしろ進歩かもしれない。
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階下の裏手に花壇があり、有刺鉄線で囲ってある。どの程度の阻止力があるか試そうと思い、数日前に一度飛び越えてみた。越えられた。しかしあの棘はやはり効き目があり、小さな傷を二つつけられた。一つは股、一つは膝のそばで、しかし深くはなく、せいぜい一分(三ミリ)ほどだ。これは午後のことで、夜にはもう全治し、何ともなかった。おそらくこの件は戒めを受けるだろう。しかしこれは危険がないと分かった上で試したのだ。もし危険を感じれば、非常に慎重にする。例えばここには小さな蛇がかなり多く、よく打ち殺されたのを見かける。顎の部分が膨らんでいないものが多いから、大して毒はないのだろう。しかし暗くなると、草地を歩かなくなった。夜間の小便でさえ階下には降りず、磁器の痰壺に溜めておき、夜中に人がいない時を見計らって窓から放り出す。無頼に近いやり方だが、学校の設備がこれほど不完全では、こうするしかない。
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玉堂の病気はもう治った。白果は北京に家族を迎えに行った。ここで一生を定める決意らしい。私の体は元気だ。酒は飲まず、食欲も良好で、気持ちは以前よりいくらか落ち着いている。
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迅。十月二十八日。
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三十二
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広平兄:
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一昨日(二十七日)二十二日の手紙を受け取って返事を書き、今日午前に自分で郵便局に持って行った。ポストに投函した途端、局員が二十三日発の速達を渡してくれた。この二通は同じ船で来たので、道理から言えば速達の方を先に受け取るべきなのだが、ここの事情は異常なのだ。普通の手紙は届くとすぐガラス箱に入れてくれるので、我々は早く目にする。ところが書留になると、秘密にして、局員一人が部屋に籠もって一通ずつ帳簿をつけ、また通知書を書いて、印鑑を持って取りに来いと言う。この通知書も届けに来るのではなく、やはりガラス箱の中に供えてあるだけで、自分で通りがかりに見つけるのを待つ。速達も同じ扱いだ。だから書留と「速達」は、必ず普通の手紙より遅く届く。
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私がさしあたり広州に行かない事情は、二十一日の手紙にも書いた覚えがある。今、伏園からの手紙が来ているが、私がどうしてもすぐ行かねばならぬという様子はないし、開学が来年三月なら、年末に行っても遅くはない。今すぐにでも一度行きたいのは山々だが、事実上の束縛があまりにも強い。つまり三週間離れると、担当する仕事を放置しすぎることになり、その後一つ一つ埋め合わせをすれば仕事が重すぎるし、しなければ得をしたという嫌疑をかけられる。もしここに長くいるなら、当然ゆっくり補えばよく、問題はないのだが、私はまた長く留まるつもりはないのだ。ましてや玉堂の苦境もある。
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下半期にどこに行くかは、問題ではない。上海にも北京にも行かない。他に行く場所がなければ、ここでもう半年をだらだら過ごすだけだ。今の去就は、もっぱら自分次第で、外界の策謀は、当分私を倒せない。楊桃(スターフルーツ)をぜひ味わってみたい。こうして耐えている理由は、自分のためには経済的問題だけであり、人のためには、私が去ったらすぐ玉堂が攻撃されるだろうと恐れるからで、それで少し彷徨しているのだ。一人の人間がこんな些細な問題に引っ張られるとは、実に嘆かわしい。
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出したばかりだから、もう話すことはない。では、また。
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迅。十月二十九日。
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三十三
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広平兄:
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十月二十七日の手紙は今日届いた。十九日、二十二日、二十三日のも、すべて届いている。私は二十四日、二十九日、三十日にそれぞれ手紙を出したが、届いただろう。刊行物については、日記に記録してあるのを調べると、二十一日と二十日にそれぞれ一回あり、何だったかはもう忘れた。ただ一回の中に『域外小説集』があったことだけは覚えている。十月六日の刊行物については日記に記載がなく、記し忘れたのか、それとも実は二十一日に発送したのを私が月日を書き間違えたのか。君が二十一日発送の一包みを受け取ったかどうかを見れば分かる。もし届いていなければ、私の書き間違いだろう。しかしまた六日のは別の包みで、包みというよりは三冊の本を重ねた普通の雑誌送りのような形だったような気もする。
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伏園からはすでに手紙が来ている。上遂の件はかなり望みがあるとのことだが、学校の他の事は何も触れていない。おそらく間もなく戻るだろうから、私もいくらか状況が分かるだろう。もし中大が本当に私を必要とし、行けば学校のためになるなら、開学前にあちらに行こう。ここのことは他に何も問題はなく、ただ玉堂に申し訳が立つかどうかだけだ。しかし玉堂もあまりに愚かで――知らないのか、それともお人よしなのか――今に至るまで自分の「副理」を盲信している。ここはきっとだめになる。救いようがない。山根先生は相変わらず人の推薦ばかりしており、図書館に一つ欠員があると聞けば、また人を推薦する計画を立てている。胡適之の書記だそうだ。しかし今回はあまりうまくいっていないようだ。学校の方は、この数日馬寅初を大いにもてなしている。昨日は浙江出身の学生が彼を歓迎し、無理やり私も一緒に記念撮影に入れようとしたが、必死に断った。彼らはかなり怪訝がった。ああ、私は銀行で金が儲かることを知らぬわけではないが、「道同じからざれば相ために謀らず」なのだ。明日は校長主催の宴会で、陪客にまた私がいる。彼らは策を巡らし、何としても私を銀行家と親しく語らせたいのだ。苦しいかな、苦しいかな。しかし私は案内の紙に「知」の一字だけ書いた。行かないことは分かるだろう。
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伏園の手紙によると、副刊は十二月に開始するそうで、それなら彼は学校に戻った後、二、三週間でまた行かねばならない。それもまたよかろう。
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十一月一日午後。
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しかし私は今後の方針について、実にかなり迷っている。つまり、文章を書くか、それとも教壇に立つか、ということだ。この二つは両立しないのだ。文を書くには情熱が要り、教壇に立つには冷静さが要る。両方を兼ねて、もし手を抜けば、両方とも油滑浅薄になる。もし両方とも真剣にやれば、一方では熱血沸騰させ、他方では心を平穏にさせるのだから、精神が疲弊しきって、結局やはり両方ともうまくいかない。外国を見ても、教授を兼ねた文学者はもともとごく稀だ。自分で考えるに、もし少し文章を書けば、中国にとって多少の益があるかもしれず、書かなければ惜しい。しかし中国文学に関するある研究に打ち込めば、おそらく他人が気づかなかったことをいくらか言えるだろうから、やめてしまうのも惜しいようだ。しかし思うに、やはり有益な文章を書く方がよく、研究は余暇にする。ただし付き合いが多くなると、それもまただめだ。
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ここは最近かなり寒く、袷の長袍が着られ、夜は綿の背心を足してもよい。私は元気で、食欲は通常通りだが、おかずはやはり美味くない。ここではどうしようもない。講義録はもう全部で五篇仕上げた。明日からは季刊の論文に取りかかるつもりだ。
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迅。十一月一日灯下。
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三十四
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広平兄:
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昨日手紙を出したばかりで、今は特に言うこともないが、些細な暇つぶしの話を気ままに書こう。またぶらぶらしている――この数日はあまり勉強せず、遊んでいる方が多い――ので、適当に書き連ねる。
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今日一篇の投稿を受け取った。上海大学の曹軼欧からので、その中に、私が北京で洋布の大きな上着を着て通りを歩いている話があり、下に注がある。「これは私の友人P.京のH.M.女子学校の学生が直接私に話したことです」と。P.はもちろん北京だが、あの学校名が奇妙で、どうしてもどこの学校か思い出せない。まさか女子師範大学で、我々が使っているのと同じ意味なのだろうか。
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今日もう一つ分かったことがある。ある留学生が東京で私の代理を名乗り、塩谷温氏を訪ねて、彼が印刷した『三国志平話』を求めた。しかし本はまだ製本が済んでおらず、持って行けなかった。彼は将来塩谷氏が直接私に送って話がばれるのを恐れ、C.T.に託して私に手紙を書かせ、彼を代理として追認してくれと頼んでいる。さもないと「中国人の名誉」に関わると言うのだ。見たまえ、「中国人の名誉」が、彼と私の嘘の上に成り立つとは。
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=== 第80節 ===
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今日もう一つ分かったことがある。以前、朱山根が国学院に一人推薦しようとしたが、うまくいかなかった。今その人がついにやって来て、南普陀寺に住んでいる。なぜあそこに住むことになったのか。伏園がその寺の仏学院で数時間の授業を持っており(月給五十元)、今は人に代わりを頼んでいるが、彼らはこのポジションを奪おうとしているのだ。昨日から、山根は大いに宣伝工作を展開し始めた。伏園は休暇がすでに終わった(実はまだ終わっていない)のに来ないのは、あちらですでに就職したからで、もう来ないのだと言っている。今日はまた別のスパイを私のところに送ってきて、伏園の消息を探らせた。私は思わず笑ってしまい、神出鬼没の答え方をした。来ないようでもあり、来ないのではないようでもあり、しかもすぐにも来るかのようで、結局相手は訳が分からなくなって帰って行った。「現代」派の手先がこれほど陰険で、あらゆる隙に入り込んでくるとは、実に恐ろしく厭わしい。しかし思うに、これは本当に対処が難しい。例えば私がこの連中と渡り合おうとすれば、他の仕事を全部放り出して、別の心機を用いなければならない。本業を荒廃させ、得られる成果は知れたものだ。「現代」派の学者が一人残らず浅薄なのは、まさにこの種の下劣な事に心を分散させているからなのだ。
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迅。十一月三日大風の夜。
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十月三十日の手紙は今日届いた。馬がまた癇癪を起こそうとしているが、私にはどうしようもない。こうなったらいっそ一度片付けてしまう方が、毎日対処して労して功なしよりはるかにましだ。芝居の演目を見ろと言うのなら、見よう。ここでは演目しか見られないのだから。ただ、あまり力尽き疲れ果てるほどにはしないでほしい。一度では回復できなくなる。
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今日、中大から伏園宛の手紙が届いた。それなら彼はすでに広州を離れたが、まだ着いていない。おそらく汕頭か福州に立ち寄って見物しているのだろう。彼が発ってから手紙を二通くれたが、私のことには一字も触れていない。今日、中大の試験委員の名簿を見たが、文科には人が大勢おり、彼もいる。郭沫若、郁達夫もいる。それなら私が行くかどうかもそう大した問題ではなさそうで、急いで駆けつける必要もない。
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私が使っている使用人の件は、話せば長くなる。来た当初は確かによかったし、今もおそらくまだ悪くはないだろう。しかし伏園が彼の友人にみなの賄い飯を請け負わせてからは、彼はとても忙しくなり、あまり姿を見せなくなった。その後、友人の方は何人かの者がなかなか金を払おうとしなかったため(これは使用人の話だが)、怒って去った。何人かはそれで終わりにしたが、まだ何人かは使用人に引き継がせようとした。伏園が始めたことなので、私も禁じようがなく、一人一人当たって別の人を探すよう勧めることもできない。今この使用人は忙しく、金が足りず、私の食費も彼の給料も一月以上前払いしている上、伏園は立つ際に「自分がいない間も食費は払い続ける」と宣言した。しかし口約束だけで、今ではこの勘定も私に請求が来る。私はもともとこういう些事の管理が不得手で、しょっちゅう目が回る。これらの立替金や前払い金は、言うまでもなく回収できない。だから十月のひと月で、私は毎朝洗面の水一盆と食事二回のために、大洋約五十元も要した。こんな高い使用人を使い続けられるものか。鈴を解くにはなお鈴をつけた者に頼らねばならない。だから今度伏園が戻ったら、事の始末をきちんとつけさせる。さもなくば、もう人を雇わないことにするしかあるまい。
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明日が季刊の原稿締切なので、昨晩手紙を一枚書いた後、すぐに原稿に取りかかった。別のものを研究する気にはなれず、以前やったものをあちこちから抜き書きし寄せ集めて、深夜までかかり、さらに今日の午前中で仕上げた。四千字で、さほど骨は折れなかった。これでまた数日遊べる。
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ここではもう綿のチョッキが着られ、広州より寒いようだ。以前、兼士と一緒に市街に行った時、彼が肝油を買うのを見て、つられて私も一瓶買った。最近サナトゲンを飲み終わり、試しに肝油を飲んでいるが、この数日食欲が次第に出てきたような気がする。もう数日試してみて、将来はあるいはこの肝油(麦精の、すなわち「パルタ」)に替えるかもしれない。
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迅。十一月四日灯下。
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三十五
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広平兄:
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昨日午前に手紙を一通出したが、もう届いただろう。午後に伏園が戻ってきた。学校の件については何も言わず、聞き出した結果分かったのは、(一)学校は私に教えに来てほしいと思っているが、辞令はないこと。(二)上遂の件はまだ結果が出ておらず、最後の返事は「何とかする方法はある」というものだったこと。(三)伏園自身は副刊の編集のほか、教授にもなり、すでに辞令があること。(四)学校はまた別の何人かに電報で招聘しており、「現代」派もその中にいること。こう見ると、私の去就は今後の状況を見て決めるべきだが、少なくとも旧暦の年末休暇には一度行ってみるつもりだ。ここは陽暦は数日しか休まないが、旧暦は三週間ある。
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李逄吉から以前手紙が来て、友人を訪ねたが会えず、私に紹介を手配してくれと言うので、陳惺農への紹介状を一通送った。それきり音沙汰がない。今回伏園が途中で彼に会ったと言い、彼は早くから中大で職員をしていたそうだ。しかも陳には会いに行かなかったという。これらの事は本当にどうなっているのか、夢を見ているようだ。彼から手紙が一通来たが、なぜ陳に会いに行かなかったかには一切触れず、ただ私が広州に行けば創造社の人々が大いに喜ぶ云々と書いてあり、どうやら彼らと一緒にいるらしい。本当に訳が分からない。
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伏園がスターフルーツを持って帰ってきたので、昨晩食べてみた。味はそう大したことはないと思うが、汁が多いのは取り柄で、最もよいのはあの香りで、あらゆる果物の上を行く。また「桂花蝉」(タガメ)と「龍蝨」(ゲンゴロウ)もあるが、見た目はなかなか立派なのに、誰一人食べる勇気がない。厦門にもこの二つはあるが、食べない。君は食べたことがあるか。どんな味だ。
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以上は午前中に書いた。書いているうちに、外の小さな食堂に食事に行かねばならなくなった。使用人が賄い飯をやめたからだ。本校の厨房が自分を殴ろうとするのだと言うが(これは彼の言い分で、真偽は分からない)、ここでは一口の飯を食べるにもこれほど面倒なのだ。食堂で容肇祖(東莞の人、本校の講師)とその広東語しか話さない奥さんに会った。桂花蝉の類について、夫婦の意見は食い違い、容は美味いと言い、奥さんは不味いと言う。
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六日灯下。
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昨日からまた食事の問題が発生し、小さな食堂に行くかパンを買ってこなければならない。この種の問題を自分で始終気にかけていなければならないから、あまり落ち着けない。年末にはここをきっぱりと捨てることもできるのだが、躊躇しているのは、広州がここよりもっと煩わしいのではないかと恐れているからだ。私を知る人も多く、数日もすれば北京にいた時と同じくらい忙しくなるだろう。
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中大の給料は厦大より少ないが、これは私は気にしない。心配なのは授業時間が多いことで、聞くところでは週に最大十二時間にもなりうるという。しかも文章を書くことも絶対に免れられない。例えば伏園が編集する副刊には、投稿しないわけにはいかない。さらに他の事が加われば、私はまた薬を飲みながら文章を書かねばならなくなる。この数年、文学青年にかなり出会ってきたが、経験の結果として感じるのは、彼らは私に対して、大抵は使える時には全力で使い、詰責できる時には全力で詰責し、攻撃できる時にはもちろん全力で攻撃するということだ。だから私は進退去就に対して、かなり警戒心を持っている。これもまた頽廃の一端かもしれないが、環境が作り出したものでもあると思う。
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実は私にもいくらかの野心がある。広州に行ったら、「紳士」たちに対してやはり打撃を加えたい。最悪の場合でも北京に行けなくなるだけで、気にはしない。第二に、創造社と連合して戦線を築き、さらに旧社会に攻撃を仕掛けたい。私ももう少し文章を書こう。しかしどうしたものか、伏園が戻ってきて口ごもるのを見てからは、またこの考えを捨ててしまった。しかしこれもここ一、二日のことで、結局どうするかは、やはり今後の状況次第だ。
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今日は大風で、相変わらず食事のために走り回っている。また日曜日で、半日客の相手をし、退屈で目が回った。だから気分がよくない。愚痴を一くさりこぼしてしまった。心配しないでほしい。少し落ち着けばまたよくなる。
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明日、本を一包み送るつもりだ。大したものはないが、自分で要らなければ人に分けてもよい。
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迅。十一月七日灯下。
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昨日手紙で愚痴を一くさりこぼした後、『語糸』のために「厦門通信」を少し書いたので、愚痴は出し切り、ずっと楽になった。今日はまた料理人と賄いの契約をした。月十元で、料理はまあまあだ。おそらく半月か一月はしのげるだろう。
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昨晩、玉堂が広東の状況を聞きに来たので、我々はここを放棄し、来春一緒に広州に行くよう勧めた。彼は少し考えてから言った。「来る時に条件を出して、学校が一つ一つ承諾した。どうして突然やめられよう」。彼はおそらくここを絶対に離れないだろう。しかし私の見るところ、今の一群の人物では、国学院には絶対に望みがない。せいぜい小手先の修繕をしながら、だらだら続けるだけだ。
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浙江の独立はとうに灰色だった。夏超は確かに死んだ。自分の兵に殺されたのだ。浙江の警備隊は全く役に立たなかった。今日の新聞を見ると、九江はすでに陥落し、周鳳岐(浙江兵の師団長)が降伏したとあり、ロイター電にも出ているから、確かだろう。孫伝芳の勢力はなお日に日に追い詰められているはずで、浙江にはまた何か変化があるかもしれないと思う。
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L. S. 十一月八日午後。
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三十六
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広平兄:
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昨日午前に本を一包みと手紙を一通出したが、午後にはもう五日の手紙を受け取った。もし手紙が来るのを待ってから書けば、おそらく何日も空いてしまうだろう。だからいっそ一筆したためて明日出すことにする。前の手紙と続けて届くか、一緒に届くかは、なるがままに任せよう。
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学校に対してもそうするしかない。しかし最近はどうだ。忙しければ詳しく書く必要はない。私もそう気にかけてはいないからだ。状況はすでに楊蔭楡の時とは違う。
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伏園はすでに厦門に戻り、おそらく十二月中にまた行くだろう。逄吉は伏園に託して、曖昧な手紙を一通寄こしただけだが、私はもう推測がつく。前の手紙で広州に知人がいないと言ったのは嘘だ。『語糸』第百一号に徐耀辰が書いた「南行する愛而君を送る」の中のLがまさに彼で、彼に何通もの手紙を書いて知人(=創造社の人々)に紹介してやったのだから、彼が創造社の人々と一緒にいるのは当然だ。偶然伏園に出くわしたのは予想外のことで、だから私に対しては口ごもるしかなかったのだ。「正直」かどうか、研究の余地がある。
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突然匿名で罵りの手紙を送ってきたかと思えば、突然また自ら取り消しに来た烏文光もまた彼と一緒におり、他にも面識があると称する人々がいる。私はこの数日、広州に教えに行く件について、かなり躊躇するようになった。状況が北京にいた時と似通うのではないかと恐れている。厦門にはもちろん長くはいられないし、他に行く場所もなく、実にいくらか焦燥を覚える。私は実はまだ前線に立つ覚悟はある。しかし面と向かって「同志」を称しながら、陰では私を操り人形にし、背後から銃撃してくる者がいると分かった時、敵に傷つけられるよりもっと悲しい。私の生命は、人の原稿の手直し、原稿の閲覧、本の編集、校正、付き合いといった事柄にすでに随分と細切れにされてきた。そしてある者たちはそのことで主人面をし、少しでも意に沿わなければ非難が噴出する。今後はもうこの轍を踏むまいと強く思う。
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またしても愚痴が出てしまった。今回の愚痴はいくらか長く、もう二、三日続いているが、明日か明後日には治まると思う。心配は無用だ。
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ここは相変わらず以前と同じで、特に変わったことはない。ただ漳州には民軍がまもなく入城するらしいと聞く。九江の陥落は相当確かだろう。昨日またある消息を耳にした。陳儀が浙江に入った後、独立したとのことで、私は大いに喜んだ。しかし今日はその続報がなく、あと数日しないと真偽が分からない。
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中国人の学生がイタリア語を学んで北方政府に媚びを売り、まだ「ファシスト党」だのと言っているとは、笑止千万、憎むべきことだ。他の者はもっと太い棒で殴り返せないのか。伏園が戻って来て話した広州の学生の状況は、実に意外だった。
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迅。十一月九日灯下。
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三十七
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広平兄:
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十日に手紙を一通出し、翌日には七日の手紙を受け取った。少し怠けたせいで、今日になってようやく返事を書いている。
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甥への援助については、君の言葉が正しい。私の憤激の言葉は多く、時には「寧ろ我れ人に背くとも、人をして我れに背かしむる勿れ」とまで言いかねない。しかし自分でもしばしば行き過ぎだと感じるし、実際の行動はあるいは言葉とは正反対かもしれない。人は他人をみな悪人として見ることもできない。助けられるなら助けるべきだが、ただ「力を量って」、命を削らないようにするのがよい。
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「がむしゃら」の問題は、もうよく覚えていないが、おそらく「事に首を突っ込む」ことを指しているのだろう。上半期まだ首を突っ込まざるを得なかったのは、誰かに絡まれたからではなく、北京にいてはそうせざるを得なかったのだ。例えば芝居の舞台の前に押しかけられて、見たくないのに引き下がるのは容易ではないようなものだ。他人を中心にしないというのも言いにくい。一人の人間の中心は必ずしも自分にあるとは限らず、時には他人がその人の中心になることもある。だから人のためと言いつつ実は自分のためであり、「自分で決められない」ことも往々にしてあるのだ。
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以前、北京で文学青年のために雑用をして命を削ったことは、自分でも分かっている。しかしここに来て、何人かの学生が『波艇』という月刊を始め、私はやはりまた雑用係をしている。これも上述の、何人かの悪人に出会ったからといって人をみな悪人として見ることはできないという意味だ。しかし以前私を利用した人々は、今や私が旗を倒し海辺に隠遁してもう利用できなくなったのを見て、攻撃を始めた。長虹は『狂飆』第五号で力の限り攻撃し、私と百回は会っていると自称し、よく知っていると言い、多くの会話を捏造している(私が郭沫若を罵ったと言うなど)。その意図は『莽原』を打倒し、一方で『狂飆』の販売を伸ばすことにあり、結局はやはり利用なのだが、方法が違うだけだ。当時の彼らの私に対する種々の利用を、私は承知していた。しかし、生きている間は血を吸えないと分かると、殺して煮て食おうとするとは、これほどの悪意があろうとはさすがに見通せなかった。今はとりあえず放っておいて、彼の手管がどこまで発揮されるか見よう。要するに彼は「百回以上会った」という仮面を被り、今それを脱いだのだから、私はよく見てやらねばなるまい。
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学校のことはどうか。暇が少なければ、簡潔に一言知らせてくれればよい。私はすでに中大の辞令を受け取った。月給二百八十元、期限なしだ。おそらくの計画は教授による大学自治で、軍閥の御用でない者には期限を設けないということらしい。しかし私の去就は、まだしばらく決められない。ここの空気は悪いから、もちろん長く居たくはないが、広州に行くにも合わない点がいくつかある。(一)私は行政方面には元来無関心で、大学運営は得意とするところではない。(二)政府が武昌に移ると聞くが、そうなれば知人の多くは広東を離れ、私一人が「外省人」として校内に残ることになり、おそらく面白くはあるまい。しかも(三)私の一人の友人が、あるいは汕頭に行くかもしれない。それなら広州に行っても、厦門にいるのと何が違おう。だから結局どうするかは、状況を見て決める。幸い開学はまだ来年三月初めだから、考える余裕は十分にある。
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静かな夜に過去の経験を振り返ると、今の社会は大抵、利用できる時には全力で利用し、打撃できる時には全力で打撃する。自分に利さえあれば、というものだと感じる。北京であれほど忙しく、来客が絶えなかったのに、段祺瑞や章士釗らの圧迫を受けたとたん、原稿を返してくれと言い出す者がいて、選定も序文も要らないと言う。甚だしきは機に乗じて石を投げ、私が彼に食事をおごったことまで罪状にする。それは私が彼を抱き込もうとしたのだと。良いお茶を飲ませたことも罪状にする。私の贅沢の確たる証拠だと。自分の浮沈を借りて人々の表情の変化を見るのは、なかなか有益で面白くもあるが、私の修養が浅すぎて、時にどうしてもいくらかの憤激を禁じ得ず、そのためまた今後の進路について迷うことがしばしばだ。(一)諦めて少しばかり金を貯め、将来は何もせず、一人で辛く暮らしていく。(二)もう自分を顧みず、人のために何かをする。将来腹が減っても構わないし、他人に罵られるのもなすがまま。(三)もう少し何かをして、もしいわゆる同志までもが背後から銃撃してくるなら、生存と復讐のために、どんなことでもやる覚悟だ。ただし友人を失いたくはない。第二の道はもう二年実行したが、ついに愚かだと悟った。第一の道は先に資本家の庇護を求めなければならず、おそらく耐えられない。最後の道はかなり危険で、(生活の)見通しもなく、しかもいささか忍びないところがある。だから本当に決心がつかない。そこで手紙を書いて友人と相談し、一条の光を与えてもらいたいと思ったのだ。
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昨日も今日もここは雨で、少し涼しくなった。私は相変わらず元気で、それほど忙しくもない。
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迅。十一月十五日灯下。
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三十八
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広平兄:
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=== 第81節 ===
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十六日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。十二日発の手紙は今日届いた。学校の事は目途がついたようで、結構なことだ。一つの案件がようやく片付いた。君がこれからどこに行くかということになると、私には断言しにくい。初めて社会に出て各地を見て回り、経験を積むのは、もちろんよいことだ。しかしあまりに不慣れな場所に行くとか、兼任の仕事が多すぎるとか、小さなところで大将になるとかは、かえって益にならず、浅薄な政治屋の類になりかねない。君自身がなお広州にいたいのか、それとも離れなければならないのか分からないが、もし離れるつもりがないなら、伏園が来月中旬に広東に行くから、中大の女子学生指導員の類に空きがないか、彼はきっと紹介してくれるだろう。上遂の件も、彼に頼むつもりだ。
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曹軼欧はおそらく男子学生の偽名ではあるまい。返信の住所が女子寮だからだ。しかしこれらはみな問題ではない。放っておこう。孫中山の誕生日の催しは、彼本人とは無関係で、ただみなに見世物を提供しているだけだ。もし私なら、実に「死後の名より生前の一杯の酒」で、おそらく盛大な提灯行列すら催す気になるまい。しかしここでは、あまりにも活気がなく、坊主が自分で水陸道場を営み、老若男女が寺に参詣するばかりで、見ていると本当に気が抜ける。最近は印刷する本の序跋をいくつか書いただけだ。愚痴は多いが、少なからぬ本音がある。もう一篇、この五年間の私と各種の文学団体との関わりのあらましを記す文章を書きたいと思っているが、結局書くかどうか、まだ決めていない。本格的な学問に打ち込むのは難しい。ここではその必要もなく、またそういう場所でもない。国学院も見せかけにすぎず、実質は求められていない。教員の業績についてはしょっちゅう問い合わせてくるが、先週私は腹を立て、校長にこう言った。私はすでに古小説十巻を輯して整理してあるのだから、少し手を入れて出せばよい。学校がそんなに急ぐなら、月内に印刷に回す、それでよいだろうと。すると彼らはそれきり何も言わなくなった。原稿がなければ毎日催促するが、あれば実際には印刷する気などないのだ。
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この学校に残らないことはとうに決めていたが、時期が本学期末か来年の夏かは決めていなかった。今は遅くとも本学期末には去らなければならない。昨日、笑うべく嘆くべき事件があった。午後に教職員の懇親会があり、私は普段そういう会には出ないのだが、ある同僚が無理やり連れて行った。仕方なく行くと、なんと会場で演説する者がおり、まず校長が菓子を振る舞ってくれることに感謝し、次に教員がいかによい食事をし、いかに快適に暮らし、給料もこんなに多いのだから、大いに良心を発揮して死に物狂いで仕事すべきだと述べた。そして校長がこれほど我々を思いやってくれるのは、まさに父母のようだと……。私は飛び上がりそうになったが、すでに別の教員が前に出てこの男を反駁しており、気まずい雰囲気のまま散会した。
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さらに不思議なことがある。教員の中に、反駁した教員に対して不賛成の者がいたのだ。彼はこう言った。西洋では父子と友人にさほど違いはないから、誰と誰が父子のようだと言えば、誰と誰が友人のようだという意味にもなると。この人物は西洋留学帰りだが、西洋を見てきた結果がこの程度の大見識とは。
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昨日の懇親会は三回目だが、私は初めて出席した。男女別室で、別席どころではなかった。
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金銭の下に生きる人々がこういうものだと今さら知った。断固去ることに決めた。ただしこの一件を口実にはしたくないので、なお学期末まで一つの区切りをつけるつもりだ。どこに行くかは一時に決められないが、いずれにせよ年末の休暇中に必ず広州に一度行く。たとえ飯の食い場所がなくても、厦門には断じてもう住まない。さらに最近、教員であることに突然嫌気がさし、学生にも近づきたくなくなった。ここの学生に会う時、自分でも熱意がなく、誠実でないと感じる。
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玉堂にはもう一度忠告するつもりだ。ここを離れて武昌か広州で仕事をするよう勧める。しかしおそらく大半は無駄だろう。ここは彼の故郷で、容易には決別しまい。一緒に来た陰険な連中が彼の目を覆い、大失敗に至るまでやめないだろう。私の計画も、同僚としての情誼を尽くすだけのことだ。
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迅。十八日夜。
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三十九
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広平兄:
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十九日に手紙を一通出した。今日、十三日、六日、七日の手紙を受け取った。一度に届いたのだ。広州には仕事があるようで、だから君はそんなに忙しいのだ。ここは死気沈々で改革もできず、学生もおとなしすぎる。数年前に一度騒動を起こしたが、激しい者はみな出て行き、上海に別に大夏大学を設立した。私は遅くとも本学期末(陽暦一月末)にはここを離れ、中山大学に行くと決めた。
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中大の給料は二百八十元で、軍票を混ぜずに済むそうだ。朱騮先はさらに伏園に、兼務先を別に見つけて私の現在の収入と同額にできるとも言ったが、私はその点にはこだわらない。手取り百余元もあればおそらく足りる。ただ死にも生きにもつかぬ空気の中にさえいなければよいのだ。まだこのような空気の中で終わるほど落ちぶれてはいまい。中大に行けば、精力を空費せず、学校や社会にいくらか益のある仕事を選ぶのはさほど難しくないだろう。厦大に至っては、実は私を招く必要がなかったのだ。私は頽廃してはいるが、彼らは私よりさらにひどく頽廃しているのだから。
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玉堂は今日辞職した。予算削減の件で。ただし国学院秘書のみを辞し、文科主任は辞していない。私は伏園を通じて意見を伝え、ここで腐る必要はないと勧めたが、返事はなかった。自分で直接もう一度言うつもりだ。しかし彼の辞職はおそらく受理されまい。
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昨日から、私の心はまた非常に冷静になった。一つには広東行きを決めたから、もう一つには長虹たちに一撃を加えることを決めたからだ。君の言葉は大体正しい。しかし私が憤慨する理由は、彼らに失望させられたからではなく、彼がそれまで日々血を吸い、もう吸えないと分かると一棒で打ち殺し、肉を缶詰にして売って利を得ようとする、その悪辣さに気づいたからだ。今回、長虹は章士釗に対する私の失敗を笑ってこう書いた。「かくして紙で作った『思想界の権威者』の偽冠を戴き、心身ともに病む状態に陥ったのである」。しかし彼は八月に『新女性』に広告を出した時には「思想の先駆者魯迅と『莽原』を共同主宰」と書いていた。一方では自分で私に「偽冠」をかぶせて人を欺き、他方では他人がかぶせた「偽冠」のために私を罵る。実に軽薄卑劣で、人の形をなしていない。青年が私を攻撃したり嘲笑したりしても、私はもともと反撃しない。彼らはまだ脆弱で、むしろ私の方が比較的踏みつけに耐えられるからだ。しかし彼はどんどんつけあがり、罵りが止まない。まるで私が棺桶に逃げ込んでも、なお屍を戮さんとするかのようだ。だから昨日決めた。どんな青年であろうと、もう容赦しない。まず声明を一つ出し、彼が私の名前を利用しておきながら、他人が私の名前を使うと笑い罵るという所業を暴露する。彼の長ったらしい文章よりずっと辛辣なものにする。『語糸』『莽原』『新女性』『北新』の四誌に同時に掲載させる。もう彷徨しないと決めた。拳には拳で、刀には刀で応じる。だから心もすっきりした。
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私はおそらく結局、小さな障害のために道を歩かなくなるということはあるまい。ただ神経が良くないので、つい激しい言葉が出るのだ。小さな障害に躓くようでは、厦門を離れるまでに至るまい。しかし私も平坦な道を歩きたいと切に思う。ただ今はまだできない。望まないのではなく、形勢が許さないのだ。君が厦門に来るのは、大いに不要だと思う。「民を労し財を傷つけ」、何の益にもならない。しかも私は「孤独」を感じてはいないし、何の「悲哀」もない。
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学生に歓迎されているのだから自ら慰めるに足るだろうと君は言うが、私は彼らにあまり期待する気になれない。傑出した者はごく少ないか、あるいはまるでいないと感じる。しかし仕事はやはりやるつもりだ。希望はまだ会ったことのない人々にすべてかかっている。あるいは君が言うように「真剣になりすぎるな」ということか。実は私は決して怠けてはいない。一方で愚痴をこぼしながら、一方で『華蓋集続編』をまとめ、『旧事重提』を書き終え、『自由を求める波浪』(董秋芳訳の小説)を編み、『巻葹』に目を通し、みなそれぞれ送り出した。私と同じ道を行く者がいるなら、それは確かに自ら慰めるに足り、しかもそのおかげで自ら励ましもする。しかし時として、その人が私のために犠牲になるのではないかと懸念する。そして「一、二を推して無限に及ぼす」ことは、私にはできない。そんなに多くいるのか。そんなに多くは要らない。一人いれば十分だ。
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『巻葹』のことに触れて、もう一つ思い出した。これは王品青が持ってきたもので、淦女史の作、全四篇、すべて『創造』に発表済みだ。今回『烏合叢書』に入れて出版したいと送ってきたのだが、私が見るところ、創造社が著者の同意なくこれらを小叢書にして自ら販売しているので、こちらでも出版して対抗しようということらしい。あちらで発表されていないものは一篇も含まれておらず、私が新作を何篇か追加するよう求めても、品青は承知しない。創造社は器量が狭く猜疑心が強いから、きっと私が彼らに対して妨害工作をしていると思い、結局は成仿吾が別の事にかこつけて一通り罵るだろう。しかし私は彼女のために編集し終えた。追加しないなら追加しないでよい。罵りたければ罵るがよい。
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明日の日曜日が過ぎたら、また講義録の編纂に取りかからねばならない。残りの暇は遊ぶ。旧暦の年明けに空気が変わったら、また真面目に仕事をしよう。今日は来客が多すぎて手紙を書く暇がなかった。この二枚を書いただけで、もう夜の十二時半だ。
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この手紙と一緒に雑誌を一束送るつもりだ。そのうちの『語糸』九七号と九八号は以前送ったことがあるが、あれは断裁済みだったので、今回は未裁断のものを二冊補送する。君はおそらくそんなことは気にしないだろうが、私の性分がそうなので、やはり送る。
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迅。十一月二十日。
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四十
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広平兄:
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二十一日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。十七日発のもう一通の短い手紙は、二十二日に届いた。小包はまだ届いていないが、小包や書籍の類は、通例普通の手紙より遅いものだ。明日には届くかもしれないし、あるいはまた手紙もあるだろう。待っている。上海からいくらかましい印肉を買い、厦門に来てから入手した本に押したいとも思っている。
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最近、校長が国学院の予算を削減しようとしたため、玉堂はかなり憤慨し、主任を辞任しようとした。私はこの際ここを離れるよう勧めたところ、彼も大いにもっともだと思った。今日校長と話し合いの会を開き、私はすかさず強硬な抗議を行い、去就を賭けた。ところが校長はまさかの前言撤回で、他の者はもちろん大満足し、玉堂も態度を軟化させ、逆に私を引き留めにかかった。少なくとも一年は残ってほしい、年度途中では教員を招くのが難しいから云々と。また私の中大赴任の報道が地元紙にも掲載された。おそらく広州の新聞からの転載だろう。学生の中にも一年間教え終えてくれと勧める者がいる。こう見ると、年末にはおそらく去れまい。もっとも校長の予算維持の話も十中八九すぐにまた撤回されるだろうし、問題は山積している。
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もちろんできるだけ早くここを離れるつもりだが、いつになるかは全く分からない。H.M.は私のことなど構わず、自分に合ったと思う場所に行った方がよいと思う。さもなくば、かなり無理をして、本意でない仕事をさせられ、今の仕事より退屈なことになるかもしれない。私はここでもう半年耐えることはできる。それ以後のことは、今からはまだ何とも言えない。
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今日の地元紙の報道はとてもよい。泉州はすでに陥落、浙江の陳儀はまた独立し、商震は反旗を翻して張家口を攻撃、国民一軍は潼関に迫りつつある。地元の新聞はおそらく国民党寄りで、報道はいくらか宣伝を含んでいるかもしれないが、少なくとも泉州の陥落は確かだろう。本校の学生で国民党員は三十人ほどにすぎず、その中の少なからぬ数が新入党員だ。昨夜彼らが集会を開いたが、みな経験が浅く、深みがなく、学生会を掌握して自分たちの用に供するという方法さえ知らない。まったくどうしようもない。集会を一回開いて空騒ぎするだけで、かえって当局の注意を引き、その夜、反国民党の職員が扉の外で立ち聞きしていた。
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二十五日の夜、大風の中。
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一枚書いた後(この五文字を書いたところで客が来て、十二時まで居座った)、もう一枚社交の手紙を書き、まだ眠る気がしないので、もう少し書こう。伏園は来月確実に発つ。十二月十五日前後には必ず広州に着くだろう。上遂の件は今に至るまで音沙汰がなく、どういうわけか分からない。私は兼士と連名で手紙を書き、伏園にも直接頼み、さらに手紙も書いたが、いずれも返事がない。実は上遂の実務能力は私よりずっと上なのだが。
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H.M.はまさに社会のために仕事をしようとしているところだから、私の愚痴のせいで不安になるのは実によくない。そう考えたら、突然静かになって、愚痴が出なくなった。実はここでの不便は、よくよく考えてみると、大半は言葉が通じないことに起因している。例えば一昨日、厨房がまた賄い飯をやめたのだが、私には厨房が自分でやめたくなったのか、それとも使用人と衝突して、私にやめさせろと言ったのか、尋ねることさえできなかった。やめるならやめるでもよい。そこで伏園と一緒に福州料理屋に行き、賄い飯を頼んだが、店には麺しかなく、ご飯はあるかと聞くと、ないと言う。がっかりして帰ってきた。今日福州出身の学生に頼んで聞いてもらったところ、ご飯がなかったのはたまたまその時なかっただけで、永久にないわけではないと分かった。思わず大笑いした。おそらく明日からこの福州料理屋で賄い飯を頼むことになるだろう。
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やはり二十五日の夜、十二時半。
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ただいま午前十一時、郵便取次所に行ってみたが、手紙はなかった。この手紙は出さなければならない。明日おそらく厦門から広東行きの船が出るからで、今日出さなければ来週水曜日の船まで待たねばならない。しかし出したとたん、明日手紙が届くような気がする。その時にまた書こう。
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十日ほど前だったか、新聞に新寧号が上海から広東に向かう途中、汕頭で盗賊に襲われ放火されたとあった。私の手紙がその中で焼かれたかもしれない。私が十日以降に出したのは、十六日、十九日、二十一日の三通だ。
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他に特に変わったことはない。次の機会にまた。
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迅。十一月二十六日。
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午後一時、郵便局の前を通りかかり、他の人の東莞からの手紙が来ているのを見たが、私にはなかった。それなら今日は手紙がないのだ。これを出す。
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四十一
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広平兄:
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二十六日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。翌日すぐに二十三日の手紙を受け取り、小包の通知書も一緒に届いた。すぐに郵便取次所に行って受取書を入手した。土曜日の午後ではもう間に合わず、日曜は休業、来週月曜日(二十九日)に受け取れる。ここの郵便はこれほど手間がかかるのだ。土曜日のこの日、私は玉堂と一緒に集美学校に講演に行き、小型汽船で往復して丸一日費やした。夜は接客でまた多くの時間を取られ、客が帰ってさあ手紙を書こうとしたら、隣の講堂で漏電があり、校務員が騒ぎ、校警が笛を吹き、天地を揺るがすような騒ぎになった。結局は物理学の教授がさすがの腕前で、中に入ってメインブレーカーを切ったので、事なきを得た。木材を数本焦がしただけだ。私は隣接する建物の二階に住んでいるが、壁が石造りで延焼しないと分かっていたから、物を動かすこともせず、損害もなかった。ただ電灯がすべて消え、蝋燭の光が揺れて薄暗いので、手紙を書くこともできなくなった。
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私の一生の失策は、これまで自分の生活設計というものをまるでしなかったことだ。すべて人任せにしていた。なぜなら当時は長くは生きられまいと予想していたからだ。ところがその予想は当たらず、なお生きていかねばならなくなり、弊害が百出して十分に退屈した。さらにその後考え方が変わったが、やはり多くの顧慮があった。その顧慮の大部分は当然生活のためだが、いくらかは地位のためでもある。いわゆる地位とは、私がこれまでやってきた小さな仕事のことを指し、私の行動の激変によってその力を失うのが怖いのだ。こうした前後の顧慮は、実はなかなか滑稽で、このまま行けばますます身動きが取れなくなる。第三の方法が最も直截で、注意さえすれば比較的安全でもあるから、一時的にまだ決心がつかないのだ。要するに、これまでの私のやり方はすでにまずかった。厦大では通用せず、もう取り繕うまいと決めた。第一歩として年末に必ずここを離れ、中大の教授職に就く。しかしH.M.も同じ場所にいてくれることを切に望む。少なくとも頻繁に話ができれば、私が人のためになる仕事をもう少し続ける励みになる。
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昨日、玉堂に正式に本学期限りで去りたいと申し出、一緒に行くよう勧めた。私が去ることについてはいくらか交渉の言葉があったが、結局彼は反論できなくなった。彼自身については、おそらく去るまい。もう何本か釘を刺されれば、来年夏には離れるだろう。
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ここでは大したことはできない。最近ある刊行物を組織したが、書き手はほんの数人にすぎない。あるいは創造社の影響を受けて頽廃に過ぎ、あるいは狂飆社のように大言壮語で中身がない。さらに日刊紙に文芸週刊を増設したが、おそらく大した成果は出まい。大学生はみなおとなしく、地元の人の文章は「之乎者也」が多い。彼らは一方で馬寅初に題字を頼み、他方で私に序文を書けと言う。まさに一視同仁、区別なしだ。何人かの学生は私と兼士がここにいるから来たのであり、我々が去れば、おそらく中大に転学するだろう。
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=== 第82節 ===
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ここを離れた後、私は自分の農奴のような生活を変えなければならない。社会的な面では、教壇に立つ以外に、引き続き文芸運動か、あるいは他のよりよい仕事を続けたいと思う。それはその時になって決めよう。今、H.M.の方が私よりずっと決断力があると感じる。私はこの地に来て以来、すべてが空虚に感じられ、もう何の意見も持てなくなった。しかも時に理由の分からぬ悲哀を覚えることもある。以前、雑文集の跋を書いた時、そのときの心境を記したが、十二月末の『語糸』に掲載されるだろう。読めば分かる。こんな状態は変えるべきだと自分でも分かっているが、今はどうにもならない。来年また出直そう。
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逄吉は通信先を知っているのに、なぜまた詳しい住所を聞くのか。行動がかなり奇妙だ。思うに、彼はH.M.が本当に広州で仕事をしているかどうか調べているのだろう。彼らの仲間では流言が非常に多く、あるいはH.M.もまた厦門にいるという噂があるのかもしれない。
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女子師範学校の校長が三人の主任に送った手紙は、新聞で早くに見た。今どうなっているのだろう。米のない炊事は人力の及ぶところではない。もし別によりよい場所があるなら、早く移った方がよい。しかしこの時期に、そう都合よく見つかるだろうか。
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迅。十一月二十八日十二時。
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四十二
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広平兄:
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先月二十九日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。二十七日発の手紙は今日届いた。同時に伏園も陳惺農の手紙を受け取り、政府が武昌に移ること、彼と孟余もともに出発すること、新聞も移転して『中央日報』と改名することが分かった。伏園には直接武昌に来いとのことで、だから伏園はもう広州には行かないだろう。広州の状況は、おそらく以前ほどの活気はなくなるだろう。
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私はといえば、やはり本学期末にここを離れて広州の中大に行くと決めている。半年教えてみてからまた考える。一つには空気を変え、二つには風景を見、三つには……。教え続けられなければ、来年夏にまた移ればよい。居心地がよければ、もう少し長く教えてもよい。ただし「指導員」の件は、先に調べてくれる人がいなくなった。
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実は、君の仕事としては、やはり数時間教壇に立つのがよいと思う。十分に準備するには、時間数は多くない方がよい。仕事をすることも教えることも、今の時勢ではどちらも面倒なことだが、これ以外に我々にできることはない。教えることと他の仕事を同時にこなすのは本当に無理だと感じる。風波がなくても、あちらを立てればこちらが立たない。今後君に教壇に立てる場所(国語の類)があるかどうか分からないが、あれば数時間教え、多くする必要はない。毎日三、四時間を読書に充てれば、準備にもなるし、自分の楽しみにもなる。それでよい。当面の一つの職業にもなる。君は私ほど世慣れしていないだろうが、考え方は比較的単純ながらも明快で、何か一つのことを研究するのにさほど困難は感じないだろう。ただしあの粗忽さは直さねばならない。もう一つの不利な点は外国語の本が読めないことだ。比較的便利なのは日本語を学ぶことだと思う。来年から私が厳しく学ばせる。反抗したら手の平を打つ。
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中央政府が移転するのに私が広州に行くことについては、私には何の差し障りもない。私は政府の後を追っているのではない。多くの人が政府と一緒に移って行けば、私はかえって暇ができるかもしれず、また大量の原稿の借りを作らずに済むだろう。だからいずれにせよ、中大には行く。
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小包はすでに受け取った。チョッキはもう肌着の上に着ている。暖かい。これで冬を越せると思う。綿入れの長袍は要るまい。印章はとても良い。実はこれはおそらく「金星石」と呼ばれるもので、ガラスではない。上海に手紙を出して印肉を買い求めている。手持ちの古いのは油が多すぎて、本に押すには不向きだからだ。
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計算すると、私がここにいられるのはせいぜいあと二月だ。その間、講義録を編み、お湯を沸かしていれば、やり過ごすのは容易だ。料理人の菜もまた食べられなくなった。今はご飯だけを買い、伏園が自分でスープを少し作り、あとは缶詰を食べている。彼は十五日頃に発つだろうが、私は何一つ料理ができないから、その時はまた賄いを頼むしかない。幸いその頃には学期末まであと四十数日しかない。
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新聞を読むと、北京の女子師範大学で火事があったが、被害は大きくなかったという。原因は学生が自炊していたことで、二人が火傷をした。楊立侃と廖敏。名前に覚えがないから、おそらく新入生だろう。知っているか。彼女たちはその後亡くなった。
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以上は午後四時に書いた。些事のために中断し、続いて夕食、接客、今はもう夜九時だ。金銭の下で呼吸するのは、実に苦しい。苦しいだけならまだしも、嫌な目に遭わされるのは耐えがたい。おそらく中国はこの先数十年のうちに、何かの仕事をしてそれ相応の報酬をきれいに得る、ということはなかなかできまいと思う。(ここまで書いたところで、また中断した。客が来たのだ。私のところには隠れる場所など一切なく、入りたい者はずかずか入ってくる。こんな住まいで、どうして勉強できよう。)往々にして余分の力を費やし、無意味な屈辱を受ける。何をするにもそうだ。今後は仕事で生活費を稼ぎ、理不尽な目に遭わず、少し自分で遊ぶ余暇があれば、それだけでこの上ない幸福と言えると思う。
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私は今、文章を書く青年たちにいくらか失望している。有望な青年はおそらく大半が戦場に行ってしまい、筆を弄ぶ者となると、まだ社会のために本気でやろうとする者に出会っていない。彼らの多くは新しい看板を掲げた利己主義者だ。しかも彼ら自身は私より一、二十年新しいと自負しているが、私は本当に彼らに自覚がないと感じる。これもまた彼らの「小さい」ゆえんだ。
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午前中に刊行物を一束送った。『語糸』と『北新』が各二冊、『莽原』が一冊だ。『語糸』に私の文章が一篇載っているが、前の手紙で言った愚痴をこぼした文ではない。あれはまだ掲載されておらず、おそらく百八号になるだろう。
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迅。十二月二日の深夜。
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四十三
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広平兄:
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今日ちょうど手紙を出したばかりなので、この手紙も一緒に届くかもしれない。初めは何か大事でもあったかと思うかもしれないが、実は何もない。ただの雑談だ。前回の手紙は真夜中にポストに投函した。ここにはポストが二つあり、一つは局内にあるが五時以降は入れなくなり、夜は局外のものに入れるしかない。しかし最近郵便取次所の係員が新しく替わり、満面のぼんやり顔で、局外のポストさえ開けるのを忘れるのではないかと疑わしい。私の手紙が本局に届けられるか分からないので、もう数行書いて、明日午前に局内のポストに投函しよう。
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昨夜の手紙で言ったのは、伏園も惺農の手紙を受け取り、国民政府が移転するので直接武昌に来いとのことで、だから彼はもう広州には行かないということだ。私はいずれにせよ学期末に厦門を離れて中大に行く。政府の後を追う必要はないし、知人が少なければかえって閑になれるかもしれない。しかし君が師範学校を離れるなら、地元で仕事が見つかるかどうか。やはり少し国語を教える方がよいと思う。時間数は少ないに越したことはない。十分に準備ができるから。大略こんなところだ。
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政府が移れば、広東の「外省人」は減るだろう。広東は「外省人」に随分と搾り取られてきたから、今後はおそらく「残留者」に仕返しするかもしれず、搾取していない外省人まで巻き添えを食うかもしれない。しかし護衛の士がいるから、大胆でいてよい。『幻洲』に一篇の文章があり、広東人をとても褒めている。ますます行ってみたくなった。少なくとも夏までは住もう。おそらく言葉は一言も分からず、ここと大差ないだろうが、ご飯を買う場所さえないということはあるまい。蛇を一度食べてみたいし、ゲンゴロウも少し味わいたい。
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空談をしに来る人が多すぎる。この一点だけでもここに長くいるべきではない。中大に着いたら、静かにして、しばらくは人との付き合いを減らし、少し勉強するか、遊ぶかしようと思う。今、体は元気で、よく食べよく眠れる。しかし今日、手の指が少し震えているのに気づいた。煙草の吸いすぎだ。最近は一日三十本にもなっている。これからは減らさなければならない。北京にいた頃、禁煙しようとして人にひどく叱られたことを思い出すと、心が落ち着かない。自分でも気性が実にひどいと自覚している。しかしなぜか、この一事に関して自制力がこれほど弱く、どうしてもやめられない。来年は次第に矯正でき、もう癇癪を起こさなくなることを願うばかりだ。
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来年の仕事は、当然少し教壇に立つことだ。しかし教えることと創作は両立しないと感じる。最近郭沫若や郁達夫があまり文章を発表しないのも、おそらくこのためだろう。だから今後の道はまだ選ばねばならない。研究しながら教えるのか、それとも依然として浮浪者として創作するのか。兼ねようとすれば、どちらもよい成果を出せない。あるいは一、二年研究して文学史を書き上げれば、その後は教える際に準備が要らなくなり、余暇ができて、それから創作等に取りかかることもできるだろう。しかしこれも緊急の問題ではない。ただの雑談だ。
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『阿Q正伝』の英訳本がすでに出版された。訳は悪くないようだが、小さな誤りもいくつかある。欲しいか。欲しければ送る。商務印書館が私に贈ってくれたものだから。
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ここまで書いてまだ五時にもなっていない。他に特に用事もない。封筒に入れて、今日中に出そう。
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迅。十二月三日午後。
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四十四
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広平兄:
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三日に手紙一通と刊行物一束(『語糸』等五冊)を出したが、もう届いただろう。今日二日の手紙を受け取った。早いものだ。二十六日の手紙の中のある一節について、私は二十九日にすぐ返信を出した。この手紙が届く頃には、あちらにもすでに届いているはずだから、今さら繰り返す必要はない。実はこの半年、私に何か「奇異な感想」が生じたわけではない。ただ「私は人を犠牲にしすぎていないだろうか」という思い――これは私がいつも考えてきた思いだ――がやはり時折湧いてくる。湧いてくると沈鬱になり、いわゆる「静かになる」ということで、時に言葉や表情に表れる。しかしまた必ずしもそうとは限らないと悟り、すぐに回復することが多い。二日に中央政府移転の報を受けた後、直ちにその夜一通(翌日さらに一通)出し、私の意思は二十九日の手紙に述べた通り変わりがないこと、君に「一生その中で転倒して自ら抜け出せずにいる」ことを望んだのでは決してないことを説明した。そもそもの考えは、社会の中でしばらく経験を積めば、より多くの経験が得られるだろうということにすぎず、私が永遠に静まり返り、冷ややかに傍観して、H.M.を売り渡し、自分は孤島で寂寞の生活を送り、寂寞を咀嚼するだけで自慰自贖に足りるなどと思っているのではない。
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しかし二十六日の手紙の件は、もう過ぎたことだ。多く言う必要もない。広州の時間数は確かに多いが、比較的負担の軽い科目を教える工夫は何とかなるだろうし、休息の余暇も確保できよう。しかも資料の書き写し等は手伝ってくれる人もいるから、時間数は問題にならない。週二十時間前後というのは、大抵紙の上の話で、実際にはそこまでやるわけでもあるまい。
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君たちの学校は、まるで「濡れた手で乾いた小麦粉を掴む」ようで、べったりと纏わりついてくる。「天下の興亡、匹夫に責あり」と言うが、為政者が信義を守らず、ただ「匹夫」に責任を押し付け、数人に重荷を担がせるのは、あまりにも勝手に人を無意味な犠牲にしすぎる。ここまで来たら、自分を主にすべきだ。耐えられないと思えば即座に離れる。もし生計その他の関係で一時取り繕わねばならないなら、数日取り繕えばよい。「徳をもって感化する」「情をもって繋ぐ」といった古い言い回しは度外に置くしかない。ほんの数人では何もうまくいかない。何を馬鹿なことを。「匹夫匹婦の諒為すは、自ら溝渎に縊りて知る者莫し」だ。
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伏園は直接武昌に行かねばならなくなり、広州には回らない。前の手紙でも言ったようだ。昨日ある人が来た(民党員だという)。汕頭からで、陳啓修が機密を漏洩したため党部に逮捕されたと言う。私と伏園は驚き怪しみ、電報で問い合わせようとしたが、今日君の手紙を受け取り、二日に彼に会ったと分かった。日付から計算すると、この人物は嘘をついていたことになる。しかしなぜこのような嘘をつくのか、全く理解できない。
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前に送った刊行物の束は届いただろうか。以前にも一度、長く届かず、結局学校の郵便物の中から見つけ出したことがあった。三日にまた一束送ったが、届くかどうかも問題だ。今後本を送る時は書留にしなければなるまい。『桃色の雲』の再版が出たので一冊送るつもりだが、数行書き入れて新しい印を押したい。印肉は上海に取り寄せを頼んだところで、届くのはおそらく十日後だ。届いたら送ろう。
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迅。十二月六日の夜。
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四十五
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広平兄:
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本月六日に三日の手紙を受け取った後、翌日(七日)にすぐ返信を出したが、もう届いただろう。昨日今日あたり手紙が来るだろうと予想していたが、来なかった。明日は日曜日で、学校には郵便物が届かない。おそらく君が学校の仕事で忙しくて出せなかったか、船が遅れたのだろう。
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今日から一月末まで計算すると、あと五十日しかない。ここに来てもう三月と一週間だ。今は特にやることもない。毎日八、九時間眠れるが、それでもなお怠い。誰かが少し太ったと言ったが、確かかどうか分からない。おそらくそうでもあるまい。学生には学期末で去ることをすでに伝えた。私がいるから来た何人かは、おそらく同じく去るだろう。一部の者に至っては全く救いようがなく、毎日『古文観止』を読み耽っている。
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伏園はまもなく出発する。やはり十五日前後だ。ただしあるいはまだ広州を経由し、陸路で武昌に向かうかもしれない。
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一、二日中に手紙が来るだろうし、私の二十九日の手紙への返事もそろそろ届くはずだ。その時にまた書こう。
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迅。十二月十一日の夜。
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四十六
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広平兄:
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今朝手紙を一通出した。日曜日だが郵便取次所は半日営業するようになった。今日は早起きした。平民学校の設立記念式で演説を頼まれたからだ。五分間話し、それから校長らの空論を十一時まで恭しく拝聴した。西洋留学帰りのある教授はこう言った。この学校が平民のためになるのは、例えば使用人が字を覚えれば手紙の配達を間違えなくなり、主人が喜んで雇い続け、飯が食えるようになる……と。私は深く感服し、会場をこっそり抜け出して、もう一度取次所に行ってみると、果たして三通の手紙があった。二通は七日発、一通は八日発だ。
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金星石は中国にもあるが、印匣の作りからすると、やはり日本製だろう。もっともそんなことはどうでもよい。「適当にガラスと呼ぶ」とはいくらぼんやりしている。ガラスがこれほど脆いものか。そもそも「適当に」もほどがある。「落とせば必ず割れる」というなら、どんな印石でも大抵はそうで、何もガラスに限ったことではない。わざわざ印肉を買うのも余計な事ではない。そうしなければ気が済まないのだから。
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最近は厦大の一切に対して何も口出ししなくなったが、彼らは相変わらず演説をさせに来る。演説すれば当局の意見と必ず食い違うのだから、実に退屈なことだ。玉堂も今やここではどうにもならぬと痛感しており、適当な機会があれば、十中八九去るだろう。手の震えはもう止まったが、前の手紙で言い忘れた。『語糸』に寄せたあの文章は、未名社経由で転送したところ、社の方で差し止めて『莽原』第二十三号に載せた。中身に言い残したことは特にない。筆を執った動機は、一つには生活のためにやむなく仮面を被っている自分への憎しみ、もう一つには、利用できる間は存分に利用し、利用できないと分かれば一棒で打ち殺そうとするある種の青年の存在を痛感したことで、だからかなり悲憤の言葉がある。しかしそういう心境はもうとっくに過ぎ去った。私は常に自分をとるに足りない存在だと感じている。しかし彼らの著作を見ると、私のように仮面を被っていることや「党同伐異」を敢えて自ら認める者は一人もいない。彼らは結局どこまで行っても「公平」だの「中立」だのと自称するのだ。そう思うと、私はあるいはそれほどとるに足りなくはないのかもしれない。今必死になって私を蔑み罵倒しようとしている人々の目の前に、結局黒い悪鬼のように「魯迅」の二文字が立ちはだかっているのは、おそらくこのためだろう。
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厦門を離れた後、何人かの学生が私について転学したいと言っている。助教の一人も一緒に行きたいと言い、私の金石の知識が彼の役に立つからだそうだ。ここでは始終空談の客が来て、自分の仕事をする暇がない。このまま続けるわけにはいかない。将来は校内に一部屋を得て居室とし、授業の準備や接客に使い、校外に別に適当な場所を見つけて、創作と休息に充てるつもりだ。そうすれば起居に節がなく飲食に時なしという、北京時代の轍を踏まずに済むだろう。しかしこれは広州に着いてから考えればよく、「未だ雨ならざるに綢繆す」の必要はない。要するに、私の主意は、つまらない客の相手をする時間を減らしたいだけだ。学校にいれば誰でもずかずか入ってきて、別に話すこともないのに東から西へと話題を引っ張り、座ったまま帰ろうとしない。実にうっとうしい。
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=== 第83節 ===
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今、我々の食事は実に笑止だ。外にまともな賄い飯の場所がないので、やはり本校の厨房からご飯を買っている。一人月三元半で、伏園が料理を作り、缶詰で補っている。しかし厨房は何度も宣言した。おかずを買ってくれなければ、ご飯も売らないと。それなら我々はご飯を買うために月十元出し、全く食べられないおかずも一緒に買わねばならない。今はまだ取り繕っているが、伏園が去った後は、いっそおかずも一緒に買ってしまい、面倒を省くつもりだ。幸い日数ももう限られている。使用人の方は私に二十元の借金がある。そのうち二元は彼の兄弟が急病になった時に貸したもので、彼が貧しいと思い、この二元は返さなくてよいと言い、借金は十八元ということにした。すると彼は翌日すぐにまた二元借り、二十元にちょうど戻した。厦門の「外省人」に対する態度は、どうやらいくらか愚弄しようとしているようだ。
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中国人一般の気質からすれば、失敗した後の著作は誰も読まない。彼らは使役できれば存分に使役し、嘲笑できれば存分に嘲笑する。たとえどんなに親しく付き合っていても、たちまち手の平を返す。私と最も長く付き合ってきた若旦那たちの振る舞いを見れば、推して知るべしだ。作品さえよければ、おそらく十年か数十年後にはまた読む人が出るだろう。しかし利益を得るのは本屋の主人だけで、著者はおそらくとっくに逼り殺されており、もう何の関係もない。こういう時に当たって、手間を省くなら転業するもよし、外国に行くもよし。意地を張るなら何でもやるもよし、逆行するもよし。しかし私はまだじっくり考えていない。差し迫った問題ではないからだ。今はただの空論だ。
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「よく食べよく眠れる」のは確かだ。今もそうで、毎日八、九時間眠れる。しかし人はやはり怠い。おそらく気候のせいだろう。厦門の気候・風土は住民にも適していないようだ。私の見た限りでは地元の人に太った者はほとんどなく、十中八九は黄色く痩せている。女性にもふくよかで活発な人はめったにいない。しかも街路は汚く、空き地にはみな墓が並んでいる。だから人寿保険の掛け金も、厦門居住者は他所より高い。国学院などは急いで設ける必要はなく、むしろ衛生運動を起こし、水と土壌を分析して改善策を講じた方がよい。
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今はもう夜の一時だ。本来なら局外のポストにまだ投函できるのだが、命令が出ている以上、明朝まで待とう。まったく恐るべきことだ。「私は実に困っている」。
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迅。十二月十二日。
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四十七
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広平兄:
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昨日(十三日)手紙を一通出した。今日は刊行物を一束送り出す。紛失を恐れて書留にしたが、特に貴重だからではない。束の中に『新女性』一冊があり、大作が掲載されている。また『語糸』二号分には、まさに私の愚痴文が載っている。もともと未名社に差し止められていたが、結局は小峰に奪い取られたので、やはり『語糸』に載った。
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二十三日の手紙を出して以来、実に大変なことになりかけた。巨大な釘が正面からぶつかってきたのだが、幸いにも天のご加護で、すでに二十九日の手紙を出してあり、先の手紙は実に大逆不道であったので直ちに取り消すべしと声明してあった。そこで「おばかさん」と褒められ、「命令」を賜り、善を為す者には百祥が降るとのことで、何という幸いか。今は学校のことには一切口を出さず、もっぱら講義録を編んで締めくくりとしている。授業はあと五週間しかなく、その後は試験だ。しかし退校はおそらく二月初旬になるだろう。一月分の給料は待って受け取って行くのだから。
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中大からまたも手紙が来て、早く来いと催促し、しかも教員の給料を増額する方法を考えるとのこと。しかし私はやはり二月初旬にしか出発できない。伏園の方は二十日前後に発つだろう。おそらくまず広州に行き、それから陸路で武漢に入るのだろう。今晩は語堂が送別の宴を開く。彼もかなり活動する気でいるが、奥方はあまり賛成しない。二人の子供を連れて始終引っ越しをしてはどうなるかと。実際、奥方の立場に立てば、確かに苦しいことだ。旅行式の家庭では、家政を切り盛りする女性はどう手を付ければよいのか。しかし語堂は大いに意気込んでいる。後事いかんは「次回のお楽しみに」。
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狂飆の連中は、一方で私を罵りながら、一方でまた私を利用しようとしている。培良は厦門か広州で仕事を見つけてくれと頼み、尚鉞は小説を『烏合叢書』に入れてくれと言う。以前のは誤って罵ったので今後はやめると言い、まだ発表していない私を罵った原稿を同封し、読んだら焼いてくれと言う。思えば、私のこれまでの種々の遠慮のなさは、大抵は同年輩か同等の立場の者に対するもので、青年に対しては必ず譲歩し、あるいは黙って損を甘受してきた。ところが彼らは侮りやすいと思い込み、あるいは纏わりつき、あるいは奴隷のように使い、あるいは責め、あるいは中傷し、つけあがって止まるところを知らない。私は常に中国に「好事の徒」がいないことを嘆いてきた。だから何事も管理する者がいないのだ。今見ると、好事の徒になるのも実に容易ではない。少しおせっかいを焼いただけで、こんな面倒を背負い込む。今後は方針を変える。仕事の口も探さない。叢書も編まない。原稿も読まない。焼きもしない。返事も書かない。門を閉ざして大吉とし、自分で本を読み、煙草を吸い、眠る。
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『婦女之友』第五号に、沄沁が君に宛てた公開書簡が載っている。見ただろうか。中身は大したことはなく、女子師範大学がまた壊されたことへの愚痴にすぎない。『世界日報』を見ると、程干雲はまだ在職のようだ。羅静軒は追い出されたらしく、紙面に彼女の公開書簡が載っていて、文筆で食べていけると言っている。おそらく相当難しかろう。
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今日は昼間霧がかかり、器具が少し湿っている。蚊が非常に多く、夏よりひどい。実に不思議だ。刺されてたまらないので、蚊帳の中に逃げ込まなければ。次に書こう。
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十四日灯下。
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今日もなお暑いが大風で、蚊が突然とても少なくなった。どういうわけか分からない。そこで講義録を一篇編んだ。印肉が上海から届いた。さっそく『桃色の雲』に数行書き入れ、あの「ガラス」の印と印肉を初めてこの本に使った。天気が暑くて印肉が柔らかいので、あまりうまく押せなかったが、大したことではない。こうしなければ気が済まないのだ。「余計な事」と叱られようとも、もう弁解はしない。どうせ攻撃には慣れているのだから、少々の叱責など何でもない。
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本校に特に新しいことはない。ただ山根先生は相変わらず日夜、私的な人物の配置と安排に余念がない。白果が北京から着いた。奥方一人、子供四人、使用人二人、荷物四十個。大いに「山河永固」の趣だ。なぜか急に「燕、幕に巣くう」の故事を思い出し、この一大群の人物を見て、思わず凄然とした。
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十五日夜。
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十二日の手紙が今日(十六日)届いた。これもまあ早い方だ。広州と厦門の間の郵便船はおそらく週二回あるのだろう。仮に火曜と金曜に出るとすれば、月曜と木曜に出した手紙は早く着き、水曜と土曜に出したのは遅くなる。しかし結局その船が何曜日かは突き止められなかった。
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貴校の状況は、実にあまり芳しくない。他の学校と同様、おそらく死にも生きにもつかず、上にも下にも行けないだけだろう。手を出せば必ず困る。もしすっぱりと改革するなり、攻め倒されるなりすれば、爽快であれ苦痛であれ、かえってましだ。しかし大抵はそうはいかない。やってもうまくいかず、手を引くこともできず、爽快でもなく、大した苦痛でもなく、ただ終日全身が不快なだけだ。その感覚を、私たちの故郷では「湿った肌着を着る」という俗語で表す。まだ乾いていない肌着をそのまま体に着るのとそっくりなのだ。私が経験してきた事は、ほとんどすべてこの通りで、最近の原稿書きと出版もその一つだ。引き継いだ以上、世の習いに従って取り繕うことは、君にはきっとできないだろう。改革するにしても、うまくいけばもちろんよいし、そのために自分が失敗しても構わない。しかし君の手紙によれば、改革の望みはなさそうだ。それならば一番よいのは手を出さないことで、もし断りにくければ「前校長」の方法を真似て、姿を隠す。決着がついてから出てきて、別の仕事を探す。
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政治経済については、君が研究していないのは知っている。幸い三週間だけだ。私にもこの種の苦しみがあり、しばしば「得意でない」「好きでない」事を無理やりやらされる。しかも往々にしてやるしかない。芝居小屋の前で、真ん中に押し込まれて退けないようなものだ。自分にとって損なだけでなく、仕事もうまくいかない。断っても、相手は謙遜か怠惰だと思い、やはり頑としてやらせようとする。こうやって一、二年「曲芸」をやっていると、残るのは油滑な学問だけで、専門を失い、次第に社会にも見捨てられて「薬滓」になる。煎じ詰めて人に飲ませたのに。薬滓になれば誰もが踏みつけに来る。以前汁を飲んだ者までもが踏みつけに来る。踏みつけるだけでなく、冷笑までする。
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犠牲論は結局誰の「筋違い」で手の平を打たれるべきか、それはまだ疑問だ。人には自由意志があり、牛や羊とは違う。私はそれを知っている。しかしその「自由意志」は果たして生来のものか。一時代の学説や他人の言動の影響を大いに受けているのではないか。それなら、その学説が真実かどうか、その人物が正しかったかどうかが問題になる。私も以前は自らの意志で、生活の道の上に血を一滴一滴滴らせて他人を養い、次第に痩せ衰えていくと自覚しながらも、楽しいと思っていた。しかし今はどうだ。人々は私の痩せ衰えを嘲笑する。私の血を飲んだ者までもが、私の痩せ衰えを嘲笑する。こんな声さえ聞こえてくる。「彼は一生こんなつまらない生活を送っていた。とっくに死んでいてもよかったのに、まだ生きている。見込みがないことが分かる」。そして私が困窮している時を見計らって、力一杯悶棍を食らわせる。しかしこれは社会から無用の廃物を除去しているのだと。これは本当に私を憤怒させ、怨恨させた。時にはまさに復讐したいとさえ思う。私は称賛や報恩を求める心など微塵もない。ただ血を飲んだ人々は、もう飲む血がなくなったら去って行くべきで、私が血の債権者であることを覚えておいて、去り際になお私を打ち殺し、しかも債券を消滅させるために、私の惨めな灰色の小屋に火をつけることはしないでくれと思うだけだ。私は実は自分を債権者だとは思っていないし、債券もない。彼らのこのやり方はあまりにもひどすぎる。私が最近次第に個人主義に傾いていくのはこのためであり、以前の私のように「自ら甘んずるものは犠牲にあらず」と考える人のことをしきりに思うのもこのためであり、他人にも自分のことを顧みるよう常々勧めるのもこのためだ。しかしこれは私の考えであって、行動となると、矛盾していることが非常に多い。だから結局は言行不一致で、おそらく足下の心を服させるには足りまい。幸い間もなく直接会って話す機会がある。その時にまた論じよう。
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厦門を離れるまであと四十数日だ。三十数日と言ったのは十日少なく数えていた。してみると大雑把で間の抜けたところは、「間抜けなおばかさん」と大差ないようだ。「五十歩百歩」だ。伏園はおそらく一、二日中に出発する。この手紙も彼と同じ船で着くかもしれない。今日から我々はおかずも一緒に賄いを頼むことにした。以前ご飯だけを頼んでいた時は、一人に中小碗一杯半しかもらえず、食欲の旺盛な者は二人分食べても足りなかった。今日はいくらか多くなった。料理人がいかに巧みか分かろうというものだ。ここの使用人たちは、みな当局者と何らかの縁があるらしく、替えが利かない。だから何がどうあれ、教員が割を食うしかない。例えばこの料理人は、もともと国学院の使用人の中で最も怠惰で最も狡猾な男で、兼士が大変な苦労をしてようやく追い出したのに、彼の地位はむしろ良くなった。当時の彼の主張はこうだ。自分は国学院の使用人だから、他の者に仕事を言いつけられる筋合いはない、と。考えてもみてくれ。国学院は一棟の建物だ。建物が口を開いて仕事をさせるとでも言うのか。
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上海から本を取り寄せるのはとても便利だ。あの二冊はすぐに取り寄せ、ご命令に従い、年末に直接お目にかけよう。
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迅。十六日午後。
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四十八
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広平兄:
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十六日に十二日の手紙を受け取り、すぐに返信したが、もう届いただろう。一、二日中に手紙が来ると予想していたが、今のところまだ届いていない。先に数行書いて、明日出す準備をしておこう。
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伏園は一昨日の夜に発ち、昨朝出帆した。君ももう会っただろう。中大に何かできる仕事がないか、探るよう彼に頼んだが、結果はまだ分からない。上遂の南帰は杳として消息がなく、実に不思議だ。だから彼の件も計画のしようがない。
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ここでは何も起こっていないが、数日前にはかなり贅沢をした。伏園のハムを干し貝柱と一緒に大鍋で煮て食べた。また杭州から持ってきた茶葉が二斤あり、一斤二元で、飲んでいる。伏園が去った後、庶務課がすぐに人を寄こして相談を持ちかけてきた。伏園が住んでいた小部屋の半間に引っ越してくれないかと。私はにこやかにこう答えた。もちろんいいですとも。ただあと一月ほど猶予をいただけないでしょうか。その時には必ず引っ越しますから。彼らは満足して帰って行った。
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実は教員の給料は少し減らしても構わないのだが、その住居と飲食に配慮し、相応の敬意を払うことは必要だ。可哀想に彼らは全く分かっておらず、人を椅子か箱のように見て、あちこち運び回す。際限がない。幸い私はもうすぐ出て行く。さもなくば旅行式の教授になるところだ。
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朱山根は私が必ず去ることを知り、以前よりずっと大人しくなった。しかし聞くところでは、彼の学問ももう話し尽くしたらしく、次第に話す事がなくなり、教室でますます吃音を装っているという。田千頃は会場で崑曲を歌えるだけで、まさに「俳優之を畜う」の境遇に至っている。しかしこの手合いはこの地にこそふさわしい。
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私は元気だ。手の震えはとっくに止まったことは前の手紙ですでに述べた。厨房のご飯はまた減らされ、毎食また一杯半に戻った。幸い私にはまだ足りるし、幸いあと四十日しかない。北京や上海からの手紙は来るが、印刷物は何日も届かない。原因は分からない。では、また。
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迅。十二月二十日午後。
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今はもう夜十一時だが、結局手紙は来なかった。この手紙は明日出そう。
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二十日夜。
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四十九
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広平兄:
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十九日の手紙が今日届いた。十六日の手紙は届いておらず、紛失が怖い。だから結局送り先の住所が分からないままで、この手紙が届くかどうかも分からない。私が十二日午前に出した手紙のほか、十六日と二十一日にも手紙を出しており、いずれも学校宛だ。
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一昨日、郁達夫と逄吉から手紙を受け取った。十四日発で、中大にかなり不満のようで、二人とも去った。翌日また中大の委員会から十五日付の手紙が来て、決定した「正教授」は私一人だけだから早く来いと催促している。それなら、おそらく主任ということだろう。しかし私はやはり学期を終えてからしか行けない。すぐに返信して説明するつもりだが、おそらく伏園がすでに私の代わりに伝えてくれたことだろう。主任は引き受けたくない。教壇に立つだけで十分だ。
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ここは一月十五日から試験が始まり、採点が終わるのは二十五日頃だろう。給料を待つから、最も早くても一月二十八日にしか出発できまい。まず旅館に泊まり、その後のことは状況を見て決める。今から先に決めておく必要はない。
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電灯が壊れた。蝋燭の残りもわずかだ。寝るしかない。手紙が届いたら、もっと詳しい住所を知らせてほしい。宛先を書けるように。
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迅。十二月二十三日夜。
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この手紙が紛失するのを恐れ、別に一通学校宛に書く。
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五十
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広平兄:
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今日十九日の手紙を受け取った。十六日の手紙は結局届かず、だから君の住所が分からない。しかし封筒に書いてあった通りの宛先で一通出した。届くかどうか分からない。だから別に一通、書留で学校宛に出す。二通のうち一通でも届くことを期して。
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一昨日、郁達夫と逄吉から手紙が来て、十五日に広州を離れるとのこと。中大にかなり不満のようだ。また中大委員会から十五日発の手紙があり、早く来いと催促し、正教授は私一人だけだと言う。それなら主任ということだろう。すぐに返信して、一月末にしか厦門を離れられないと述べるつもりだが、おそらく伏園がすでに説明してくれただろう。
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主任は引き受けたくない。教えるだけでよい。
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厦門の学校は一月十五日に試験、採点と給料の受け取り待ちで、最も早くて二十八、九日にしか出発できまい。まず旅館に泊まり、その後は状況次第。
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私が十二日、十三日にそれぞれ手紙を出したほか、十六日、二十一日にもそれぞれ出したが、届いただろうか。
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電灯が壊れ、蝋燭ももう短い。買い足す場所もない。寝るしかない。この学校は本当に不便極まりない。
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ここはかなり寒くなった。昼は袷の長袍、夜は毛皮の長袍を着ている。実は綿の掛け布団で十分だが、出すのが面倒なのだ。
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迅。十二月二十三日夜。
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通信先を教えてくれ。
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五十一
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広平兄:
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昨日(二十三日)十九日の手紙を受け取ったが、十六日の手紙は今朝になっても届かず、きっと紛失したと思い、二通の手紙を書いた。一通は高第街宛、一通は書留で学校宛で、内容は同じだ。午前に出したので、どちらか一通は届くだろう。ところが午後になって、十六日発の手紙がなんと届いた。まる九日もかかったのだ。実に珍妙な郵便だ。
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=== 第84節 ===
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学校の現状からして、学生の見込みのなさと教職員の抜け目なさが分かる。一人だけお人よしをやっているのは、本当に割に合わない。いっそ一旦家に逃げ帰って、見て見ぬふりをした方がましだ。こういうことは私も何度か経験してきたから、ますます世慣れして、力を量ってやること、命を賭けないことを唱えるようになった。他人があまりにも抜け目なく、見ていて腹が立つからだ。伏園は早く広州に着きたがっていたが、もう会っただろうか。中大のことを君のために聞いてみると言っていた。
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郁達夫はもう行ってしまった。手紙が来た。また成仿吾も去ると聞く。創造社の連中は中大と何か軋轢があるようだが、これは私の推測にすぎない。達夫は遇安の手紙の中で確かに怒りの言葉を書いている。私はとりあえず構わず、旧暦の年末にはやはり広州に行く。数えればあと一月余りだ。
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今のところここでは特に不快なことはない。どのみちもうすぐ去るのだから、何事も心穏やかだ。今晩は映画を見に行った。川島夫妻がすでに到着している。彼らにはまだ山水草木の新鮮さしか目に入らないようだ。ここには始終「非合憲的な」客が来て、あまり本も読めない。何人かは広州に転学したがっており、彼らはどうしても私を信奉してやまない。まったくどうしようもない。
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玉堂はおそらくもうやっていけないだろうが、国学院は当面はつぶれまい。死にも生きにもつかぬままだ。「学者」たちと白果はすでに校長と連絡を取り合っている。彼らならやっていけるだろう。しかし我々が去った後、ほどなく彼らも追い出されるだろう。なぜか。ここで求められる人物は、「学者の皮をかぶった奴隷の骨」だ。しかし彼らは皮まで奴隷すぎて、校長からも見下され、去らざるを得なくなるのだ。
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では、また。
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迅。十二月二十四日灯下。(電灯は直った。)
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五十二
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広平兄:
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二十五日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。今日は手紙が来ると思ったが、来なかった。他の広東からの手紙はみな届いているのに。伏園からはすでに手紙が一通来ている。同封するので、中大の状況が分かるだろう。上遂と君の件は、おそらくどちらもごく簡単に手配できる。上遂にはもう手紙で知らせた。彼は杭州にいるはずだが、今どうしているか分からない。
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どうやら中大は私を非常に急いで待っているようだ。だから玉堂と相談し、早く行けるなら早く行こうと思う。しかも厦大では私がいてもいなくても学期を終えるかどうかは問題にならないのだから。ただし手紙はそのまま出し続けてくれ。たとえ私がすでに発っていても、代わりに受け取って転送してくれる者がいる。
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厦大はもう捨て置くしかない。中大でやれることがあれば、少しは力を尽くしたいと思うが、もちろん自分の心身を損なわない範囲で。私が厦門に来たのは、軍閥官僚や「正人君子」たちの迫害を一時的に避けるためだったが、少しは休息し、いくらか準備もしたかった。ところがある者たちは、私がもう筆を奪われ発言の可能性がなくなったと早合点し、さっそく手の平を返して攻撃にかかり、死体を踏み台にして自分が英雄面をし、自分で作り上げた恨みを晴らそうとした。北京にも流言があるようで、上海で聞いたのと似ている。しかも長虹が必死に私を攻撃するのはそのためだと言う。まったく意外だが、いずれにせよ、このような手段で私を征服しようとしても、だめだ。以前私が青年に唯々諾々と従っていたのは譲歩であって、決して戦う力がなかったのではない。今、迫害がやまないのなら、私は意地でもまた出てきて何かする。しかも意地でも広州で、もっと近くに住んで、闇に隠れている諸君が私をどうするか見届けてやる。しかしこれはたまたま巡り合わせた口実に過ぎないかもしれない。実のところ、彼らの陰口がなくても、やはり広州に行くつもりだったのだ。
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では、また。
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迅。十二月二十九日灯下。
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五十三
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広平兄:
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十二月二十三、四日に十九日と六日の手紙を受け取って以来、久しく手紙が来ず、本当に待ち遠しかった。今日(一月二日)午前にようやく十二月二十四日の手紙を受け取った。伏園にはもう会っただろうか。彼が広州で聞いた事柄については、三十日の手紙に彼の手紙を同封したが、届いただろうか。刊行物については、十一月二十一日以降さらに二回送った。一回は十二月三日で、おそらく紛失した。もう一回は十四日、書留だから、まだ届くかもしれない。学校の門番は公の物まで横領するとは、実に嘆かわしい。だから労働者の地位が向上する時にも、やはり教育が必要なのだ。
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一昨日、十二月三十一日に正式の辞職願を提出した。同日をもって一切の職務を辞する。この件は学校当局をいくらか苦しめた。虚名のためには引き留めたいが、すっきり手間をかけずに済ませるためには行かせたい。だからかなり困っている。しかし私と厦大は根本的に相容れず、調和の余地はないから、いずれにせよ後者の結果に落ち着くだろう。今日は学生会も代表を送って慰留に来た。もちろん形式的なものにすぎない。続いておそらく送別会で、お世辞と憤慨の演説があるだろう。学生は学校に不満だが、風潮は起きまい。四年前に一度失敗しているからだ。
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先月の給料は明後日には出ると聞く。今は試験の答案を見ているところで、二、三日で終わる。その後荷物をまとめ、遅くとも十四、五日までには厦門を離れるが、その時にはおそらく転学の学生も一緒に行くことになり、彼らの交渉や手配もしなければならない。だからこの手紙が届いた後は、もう手紙を寄こさなくてよい。すでに出した分は構わない。代わりに受け取ってくれる者がいる。家具については、アルミ製の物とアルコールランプ以外には大したものはない。持って行き、謹んでご覧に入れる。
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二十日前には広州に着けるだろう。君の仕事場については、その時に何とかする。同じ大学にいても構わないと思う。意地でも同じ大学にする。どうとでもなれ。
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今日写真を一枚撮った。草叢の中で、コンクリートの墓の供え台の上に座って。しかし写りが良いかどうかは明後日にならないと分からない。
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迅。一月二日午後。
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=== 第85節 ===
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伏園にはもう会っただろうか。彼が十二月二十九日にくれた手紙の一部を切り取って同封する。どう思うか。助教はさほど難しくないと思う。授業をする必要はなく、しかも私の助教ならとりわけ容易だ。私は教授面をあまりしなければよいのだから。
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この数日「名人」を演じるのが辛かった。送別会をいくつもはしごし、どこでも演説をし、写真を撮らされた。ここは死海だと思っていたのに、こうかき回すと案外いくらか波が立つものだ。多くの学生がそのためにかなり憤慨し、腹を立てた者もいる。一方ではこの機に乗じて学校や人を攻撃しようとする者もおり、攻撃される側は私の人物をできるだけ悪く言って、自分の受ける被害を軽くしようとしている。だから最近は流言がかなり多いが、私はただ手をこまねいて傍観している。なかなか面白い。しかしこうした騒動も学校のためにはやはり無益だ。この学校は全面的に作り直す以外に方法はない。
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少なくとも二十人の学生も去りたがっている。私も確かに去らなければならない。なぜなら私がここにいるがために、河南の中州大学から転学してくる者までいる。しかし学校の実態がこの有様では、私がなおも学生の勧誘を手伝えば、子弟を誤らせることにならないか。だから私は一方でもう一篇通信を書いて『語糸』に載せ、厦門を離れたことを表明した。どうやら私も偶像になってしまったらしい。以前、何人かの学生が『狂飆』を手に持って来て、長虹に反論を書いてくれと勧め、こう言った。「あなたはもうあなた自身のものではありません。多くの青年があなたの言葉を待っているのです」。私はぎくりとした。みなの共有物になるとは大変なことだ。そんなのは嫌だ。いっそ倒れてしまった方がずっと楽だ。
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今のところ見れば、まだしばらくは無理をして「名人」をやり続けねばならず、それでようやくやめられるのだろう。しかし大それた志があるわけでもない。中大の文科がまともに運営されさえすれば、私の目的は達する。その他はすべて構わない。最近少し態度を変えた。何事も手当たり次第に対処し、利害を計算せず、しかし真剣にもなりすぎない。すると仕事が案外容易で、疲れもしないと感じるようになった。
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この手紙以後、厦門からはおそらくもう手紙を出さない。
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迅。一月五日午後。
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五十五
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広平兄:
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五日に手紙を一通出したが、先に届いただろう。今日十二月三十日の手紙を受け取った。だからもう少し書く。
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中大が君を助教に招こうとしているのは、伏園がわざわざ策を弄して冗談を言っているのではない。前回同封した二通の手紙を見れば分かる。もともと李逄吉の空席だったのだ。北大でも厦大でも助教は普段授業をしない。厦大では教授が半年や数月休暇を取った時に、まれに助教が代講するが、そんなことは極めて稀だ。中大の規定もまさか特別ということはあるまい。しかも教授が教案を作り助教が講義するなど、あまりに理に合わない。君が聞いたのはおそらく流言だろう。流言でなくても対処法はある。神経過敏になる必要はないようだ。辞令がまだ出ていなくても、おそらく変更にはなるまい。上遂の件も同様で、中学の職員はやらなくてよいと思う。万一変更があっても、私が人に頼んで別に手配する。
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同僚にすると流言のせいで自分に累が及ぶのではないか――私は本当に不思議に思う。これは君が釘を刺されて神経過敏になったのか、それとも広州の状況が実際にそうなのか。後者なら、広州で人として生きるのは北京よりさらに難しいことになる。しかし私はそんなことは気にしない。私はさまざまな人物からさまざまな名で呼ばれてきた歴は長い。だからどう言われようと構わない。今回厦門に行った時も、ここでも各種の流言があったが、すべて放っておき、もっぱら大総統哲学を用いた。すなわち「自然に任せる」だ。
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十日までには出発できなくなった。先月の給料がまだ支払われず、あと数日待てと言われている。しかし何があっても十五日までには出発する。おそらく彼らのちょっとした小細工だろう。早く行かせまいとして、ここで何日か無駄に待たせるのだ。しかしこの小賢しさは、おそらくかえって裏目に出る。校内にはおそらく風潮が起きる。今まさに醞醸中で、二、三日中に爆発するかもしれない。しかしすでに慰留運動から学校改革運動に転じており、本来は私とは無関係だ。ただ私が早く行けば、学生は刺激が一つ減り、あるいは行動を起こさないかもしれないが、こうずるずる引き延ばされてはどうにもならない。その時きっとまた私のせいにして「放火犯」と名指しする者が出るだろうが、自然に任せるしかない。放火犯なら放火犯でよい。
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この数日は送別会と宴会、話と酒ばかりで、おそらくあと二、三日はこの調子が続く。こうしたつまらない付き合いは、まさに生命の敵だ。この手紙のように、夜中の三時に書いているのも、宴会から帰ったのが十時で、一眠りして起きたらもう三時だったからだ。
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食事に招いてくれる人々の思惑もさまざまで、だから席上の光景もなかなか見応えがある。私はここでは多くの人に疎まれているのだが、去るとなると一転してみな大人物だと持ち上げる。中国の古来の慣わしで、誰であれ死にさえすれば、弔辞には生前がいかに素晴らしかったか、亡くなってどんなに惜しいかと書くではないか。そこであの白果までが私を「吾が師」と呼び、しかも人にこう言っている。「私は彼の教え子ですよ。情誼はもちろん深いものです」と。彼は今日もまた私のために送別の宴を催すと言う。この酒がどれほど飲みにくいか、想像がつくだろう。
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ここの惰気は四、五年も積もって蔓延しており、今何人かの学生が私の四月間の魔力でそれを打破しようとしている。私の見るところ、それは一つの幻想にすぎない。
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迅。一月六日灯下。
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五十六
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広平兄:
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五日と七日の二通の手紙は、今日(十一日)午前に一度に届いた。この書留には特に大事があるわけではない。ただ少し議論をぶちたいと思い、紛失したら惜しいので、念のため確実を期しただけだ。
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ここの風潮はまだ広がっているようだが、結果は良くなるはずがない。何人かはこの機に乗じて出世しようとしており、あるいは学生側に取り入り、あるいは校長側に取り入っている。見ていて嘆かわしい限りだ。私の方の事はおおかた片付いた。本来もう出発できるのだが、今日一隻の船があったが間に合わなかった。次は土曜日にしか船がないので、十五日にしか出発できない。この手紙はおそらく私と同じ船で広州に着くだろうが、とりあえず先に出しておく。おそらく十五日に乗船し、あるいは十六日出帆となれば、広州到着は十九日か二十日だろう。まず広泰来旅館に泊まるつもりだ。学校との打ち合わせが済んだら、ひとまず学校に入る。部屋は大鐘楼で、伏園の手紙によると、彼の住んでいた部屋をそのまま私に残してくれるそうだ。
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助教は伏園が骨を折り、中大が招聘したもので、私がどうして自分が与えたなどとうぬぼれよう。その他もろもろについては、「爆発」でも「発爆」でも構わない。私はこうやるだけだ。どんなに慎重にしても、やはり圧迫は幾重にも加えられ、まるで無限の罪を背負っているかのようだ。今ここで自ら供述し、自ら甲冑を脱ぐことにする。彼らの第二拳がどう打ってくるか、見届けてやろう。私は「来る者」に対して、初めは博く施す心でいたが、今はそのうちの一人に対してだけ、独自に求め得た心情を抱いている。(この一節は原意を誤解しているかもしれないが、すでに書いてしまったから直さない。)たとえそれが敵であれ、仇であれ、梟蛇鬼怪であれ、私は問わない。私を引き下ろそうとするなら、喜んで落ちよう。台の上に立っているのが楽しいとでも思っているのか。名声も地位も何もいらない。ただ梟蛇鬼怪があればそれで十分だ。そういう者を、私は「朋友」と呼ぶ。誰に何の文句があろう。しかし今のところまだ限られた消息しか漏らさないのは、第一に自分のため、生計の問題がまだ頭にあるからであり、第二に人のため、私がすでに得た地位を一時借りて改革運動を進めることができるからだ。しかし私にこの二つのことだけのために汲々として犠牲になれと言うなら、もうだめだ。犠牲はもう十分に払った。しかし享受する側はまだ足りず、私の全生命を捧げよと言う。もう嫌だ。私は「敵」を愛し、彼らに反抗する。
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ご存知の通り、この三、四年だけを取っても、私は親しい者にも初対面の文学青年にも、力を尽くせるところでは尽くし、何の悪意もなかった。しかし男性の方はと言えば、彼ら自身の間でさえ嫉妬を隠しきれず、ついに争い始めた。一方では心が満たされず、私を打ち殺そうとし、あちら側の援助も失わせる。私のところに女子学生がいるのを見れば、流言を作り出す。その流言は、事の有無にかかわらず、彼らが必ず作り出すものだ。私が女性と一切会わない限りは。彼らは新思想を装っているにすぎず、骨の髄は暴君・酷吏・スパイ・小人だ。もし私がなおも忍耐し譲歩すれば、彼らはさらにつけあがって止まるところを知るまい。私は彼らを蔑視する。以前、ふと愛のことを考えると、いつもすぐに自分を恥じ、ふさわしくないと恐れて、ある人を愛する勇気がなかった。しかし彼らの言行思想の裏を見透かしてしまうと、自分はそこまで身を落とさねばならぬ人間ではないと自信が持てるようになった。私は愛することができる。
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あの流言は、去年十一月になって初めて韋漱園の手紙から知った。沈鐘社の方から聞いたそうで、長虹が必死に攻撃するのは私がある女性のためであり、『狂飆』にある詩で太陽は自分、夜は私、月は彼女だと。彼は私にその事が本当か、詳しく教えてくれと聞いた。そこで初めて長虹が「片想い」をしていたことが分かった。絶え間なく私のところに来ていたのもそのためで、決して『莽原』のためではなく、月を待っていたのだ。しかし私に対しては一切敵意を見せず、私が厦門に行ってから初めて背後からさんざん罵り、私を訳の分からぬ目に遭わせた。実に卑怯極まりない。私が夜なら、当然月があるはずで、何を今さら詩にする必要がある。能力も低い。その時すぐに小説を一篇書いて、彼を少しからかい、未名社に送った。
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その頃また手紙を出して孤灵のことを聞き合わせたところ、この種の流言はとうの昔からあったと分かった。広めたのは品青、伏園、亥倩、微風、宴太だ。彼女を厦門に連れて行ったという者もいるが、これにはおそらく伏園は含まれず、私を車まで見送った人々が流布したのだろう。白果が北京から家族を連れてここに来て、またこの流言を持ち込み、私を攻撃するために田千頃とわざと大勢の前で公表した。中傷の意図だ。ところが全く効果がなく、風潮はいささかも収まらなかった。今回の風潮は根が深く、私一人のためではないのに、彼らはなおこんな小賢しいことをやっている。まさに「死に至るも悟らず」だ。
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今は夜二時、校内はこっそりと電灯を消し、休暇の告示を貼り出した。すぐに学生が発見し、引き剥がした。今後風潮はもう少し拡大するだろう。
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今つくづく思うのは、私は口では辛辣なことを言うくせに、人に対してはお人よしすぎたということだ。玄情の類が私のところに来ていたのがスパイ行為だったとは、全く疑わなかった。もっとも彼の鼠のようにきょろきょろする目つきに、時々いくらか不快を感じることはあったが。しかも今日になって初めて分かったのだが、時に客間で待ってもらうと、彼らはそれさえ不満だったそうだ。私が部屋に月を隠していて、入れてくれないのだと。この大層な殿方たちのご機嫌を取るのが、いかに難しいか見よ。私は弟御に頼んで柳を数本買い、裏庭に植えた。トウモロコシを数本抜いたところ、母はもったいないと少し不機嫌だった。すると宴太がすかさず流言を大いにまき散らした。私が学生をけしかけて母を虐待させているのだと。静穏を求めてもかえって汚濁が増す。以前私が「ああ、故郷よ、再び帰れるかどうかは一つの問題だ」と言ったのは、決して神経過敏の言葉ではなかったのだ。
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=== 第86節 ===
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万里鳴が太平湖飯店の主人で董子鶴の輩が不明な者であるのを除き、陶昌善は農大教務長で章士釗の代理。石志泉は法大教務長。査良釗は師大教務長。李順卿と王桐齢は師大教授。蕭友梅は元女師大にして今の女大教員。蹇華芬は元女師大にして今の女大学生。馬寅初は北大講師にして中国銀行の何か。燕樹棠、白鵬飛、陳源すなわち西滢、丁燮林すなわち西林、周鯁生、皮宗石、高一涵、李四光——楊蔭楡が「観劇」に迎えようとした作品が『現代評論』に載った者——はいずれも北大教授で、おおむね東吉祥胡同に住み北大の章士釗への独立に反対した人物だ。章士釗が権勢を振るった折『大同晩報』は彼らを「東吉祥派の正人君子」と称した。住所は今年の『北大職員録』では曖昧にされ、私の依拠は民国十一年の
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本だ。
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日本人が中国人の口調を学んだ『順天時報』は女大に同情し、女師大教員の多くは北大兼任で附属する嫌疑があると。しかし名簿からすればその観察は誤りだ。専任教員が少なかったのは楊蔭楡の狡計で校長が権力を独占するため。我々が発言すると講師は校事にあずかるなと封じた。女師大は北大教員がいても精神的に附属せず、学生が楊蔭楡に反対した時殲滅に協力した北大教授もいる。八月七日の『大同晩報』に「東吉祥派も解散に賛成」とある。『順天時報』記者が知らなければ昏愚、知りながら黒白を混淆したなら北大への悪感を女師大に蔓延させる卑劣な企み。国人の不甲斐なさを自責するしかない。
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王世傑は撷英館で「北大少数者と女師大の合作に賛成しない」と演説。私の言葉が虚偽でない証明だ。「北大校則で教職員は他機関の主要任務を兼ねられぬが現在五名が兼務し違法で否認すべき」と言ったが語弊がある。北大教授にして京師図書館副館長月給五六百元の李四光がまさに席上で「公理を維持」し演説しているではないか。
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燕樹棠は女大学生は敬服すべきだが「女大を破壊した土匪同然の者には道徳上の否認を」と。女大教務長蕭純錦の弁明すら見ずに断定し「道徳」を持ち出した。ならば鬼蜮同然に女師大を破壊した者には何の上の否認を加うべきか。
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「公理」は語り難い。一つの維持会で自家撞着し「道義」の手で「公理」の頬を打つ。西滢は『現代評論』で女師大援助者を冷笑した。「外国人は中国人は男尊女卑だと言う。そうとは思えない。」今は公理会に署名。「大衆の専制に圧迫される者のために公平を述べればその人と密接な関係があるか酒飯を馳走になったのだ」と嘆息したのに今は口を開けば多数を重視。主張に齟齬があるが「飯を食う」だけは一貫。
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=== 第87節 ===
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『現代評論』(第五十三号)で「すべての批評は学理と事実に基づき口を恣にして罵倒はしない」と誇りながら女師大を「臭い便所」と呼んだことを忘れ「豺虎に投ずべし」の書簡末尾に署名。陳源は西滢ではないか。半年の数人でこれほど矛盾支離。彼らは聡明だから「公理」も維持会も歪んでいると気づき突如「女子大学後援会」に。後援とは背後の援助だ。
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十八日の『晨報』の開会記事では発言者の姓名がなく「某君」。姓名すら恥ずかしくなったか。「豺虎に投じた」後で過ちを「某君」に帰し責任を免れようというのか。「正人君子」は報復に反対するが「後援者」が誰か知られない方が穏当。「道義」のためでも坦白な態度は採らない。名乗り出れば「土匪」か「暴徒」めいて背後の暗矢の聡明人の人格を失しかねない。
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撷英館と後援会に嘯き集った人馬も各地の雑多な者で私と同様北京で飯の種を得た。「豺虎に投ずる」どころか「北方に投ぜられた」ようなもの。王桐齢、李順卿とは西安で頷き合ったが朋儕ではない。陳源とはタゴール祝賀で握手したがとうに異類。同席の意思などない。雑輩は論外。今の教育界に豺虎はいない。城狐社鼠の類がいるのは免れないが十余年来少なからず見た。ある種の人の「公理」を敬わぬ所以だ。
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(十二月十八日。)
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【今度は「多数」の見世物】
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『現代評論』第五十五号「閑話」の末段は女大学生の宣言を根拠に女師大の学生はわずか二十人で他はすべて女大に入ったと。「某種の新聞の催眠」を悔い宣言で覚めたと。「二百人中百九十九人が入ったら?全員入ったら?維持会が新入生を募って復校するのか?維持するのは誰か?目的は何な
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=== 第88節 ===
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のか?」
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夏に女師大を維持せず今「公理」を維持する陳源教授には理解し難い。私は維持会の一委員だが別の理解も知る——
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二十人全員多い方に走ったなら維持会はとうに章士釗に追従すべきだった!
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「四五十歳にして四五歳の子供の言葉を好む」者で奴隷の言葉を真似るから笑い話かもしれない。しかし言い出した以上。二百一人入ったら?維持会員も全員入ったら?百九十九人入って残った一人が維持を望まなかったら?
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おそらく誰も答えられまい。問いが突飛で子供でも至るまい。「某種の新聞の催眠」は人により「某君」は「某種」のみ。私は『現代評論』や「女大学生宣言」の催眠は受けない。「閑話」後に「百九十九人入ったら?維持は誰?」と自問すれば奇怪で章士釗の位牌前で粛然とするだろう。幸い宣言もなお二十人と言っている。
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「公理」の時代に女師大解散は章士釗で女大は別途設立だから校舎は返還すべきでないと。そう言えなくもないが満州人の「明を滅ぼしたのは闯賊、大清は闯賊から得た」よりなお滑稽。表面は筋が通るが順民しか騙せない。私は聡明でなく信じてもよかったが十四年前の革命を目撃し中国人だから騙されなかった。
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「もし」百九十九人全員入ったら?章士釗がもう半年続けるか走狗が策動すれば一人か零人にまで脅迫されることは十分あり得る。陳源教授は「通品」で理想にも実現の可能性がある。では?維持する。「目的は?」——「大衆の専制に圧迫される者のために公平な一言を述べる」。
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「公理」の忽隠忽現と同じく「少数」の相場も四季で異なる。楊蔭楡の時は多数が少数を「圧迫」すべきでなく今は少数が多数に服従すべきだと。多数が正しいのか。ロシアの多数派は過激党と呼ばれ紳士が「深悪痛絶」している。「暴民」は多数でも例外か。
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=== 第89節 ===
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「もし」帝国主義者が大部分を奪い一二省なら?他はすべて強国のもの。少数の土地でも維持するか。明の後一寸の土地もなくなったが海外に恢復を志す者がいた。今の「通品」からすれば皆謬種で劉百昭を派遣して剿滅すべきだろう。
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「もし」本当に二十人なら?しかし結局二十人いる。章士釗の門下で暗に走狗となりながら面の皮がそれほど厚くない教授文人学者を愧死させるに足る!
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(十二月二十八日。)
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【後記】
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本書には少なくとも二箇所説明すべきところがある——
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=== 第90節 ===
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一、徐旭生先生の第一回返信の引用はZM君が『京報副刊』に発表した文章から。「青年必読書」で「文が書けないことなど大したことか」と言い攻撃を受けていた。ZM君が講堂での口述を発表したのは窮地から救うため。一部を書き写す——
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「必読書目を読み感想が湧いた。最も打ったのは魯迅先生の附注。……彼の笑い話を思い出した。『話と文章は敗者の徴。運命と死闘中の者にはその余裕がない。真の勝者も沈黙する。鷹が兎を掴む時叫ぶのは兎。猫が鼠を捕る時鳴くのは鼠。楚の覇王も追奔逐北の時は語らない。詩人の風を装い歌う時はもう兵敗勢窮。呉佩孚の「西山に登り詩を賦す」、斉燮元の「銃を下ろし筆を取る」がさらに明白な例。』」
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二、学生が横暴だとよく聞く。老先生だけでなく出たばかりの小官吏や教員も。しかし私はそう感じない。革命以前は社会は今ほど学生を憎まず学生も馴順でなかった。態度だけでも傲然。今は長袍大袖温文爾雅、古の読書人だ。ある講堂で触れ最後にこう——今の学生は馴良、馴良に過ぎるかもしれないと。武者君が『京報副刊』の『温良』で引いたのがこの言葉。これで『忽然想到』第七篇を書いた。例は「売国奴」の子弟が唾罵されたこと、女師大の学生が男性職員で威嚇されたこと。女師大について発言したのはこれが最初で十日後に「壁にぶつかり」十日後に陳源が「流言」を発表。半年後陳源から徐志摩への書簡では「事実を捏造し流言を散布した」のは私だと。世事は白雲蒼狗。
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また『「公理」の見世物』で楊蔭楡が「太平湖飯店で客を招き六名を除名」と書いたが場所は誤りで西安飯店。五月二十一日に変わり「太平湖飯店で校務緊急会議」。場所は本来些事だが「文士」学者からすれば「事実の捏造」で私の言うことには真実がなく楊蔭楡さえ存在しない空想だと。急いで訂正し「桑楡に収めん」。
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一九二六年二月十五日校了記す。緑林書屋の東壁の下にて。
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=== 第91節 ===
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【一九二八年】
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【「酔眼」の中の朦朧】
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旧暦と新暦の今年は上海の文芸家に格別の刺激を与え二つの正月が明けるや定期刊行物が続々出現。全力を偉大もしくは尊厳な名称に注ぎ内容を犠牲に。一年以上続く刊物にさえ必死のあがきと突然変異。著者は初見の名が幾つかあるが多くはなじみ。いくぶん見慣れぬのは半年一年筆を擱いていたため。以前何をし、なぜ一斉に筆を執ったか。以前は執らずに済んだが今はやむなく。旧来の無聊な文人と変わらぬ。皆がいくぶん自覚し読者に「将来」を宣言。「出国」「研究室」「大衆を獲得」。功業は目前になく帰国し研究室を出て大衆を得た暁には大変。遠見のある人は今のうちに「革命的敬礼」を。「将来」に至れば「悔いても遅い」。
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各種の刊物は一つの共通点——いくぶんの朦朧。発祥地は官僚と軍閥。瓜葛のある者はにこやかで先見があるように見せるが夢で鉄槌と鎌を恐れ主人を明白に讃えられず朦朧が残る。瓜葛のない大衆に向かう者は遠慮なく語れるが指揮刀を忘れる馬鹿は多くなくここにも朦朧。朦朧を装い色彩を漏らす者と色彩を示しながら朦朧を免れぬ者が同時に出現。
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朦朧はさほど大事でない。最も革命的な国でも朦朧を帯びる。しかし革命者は自己批判を恐れず明瞭に知り明言する。中国だけが特殊でトルストイを「卑汚な説教者」と呼べても中国には「暗雲密布の支配」と感じるだけで「政府の暴力を剥ぎ仮面を剥ぐ」勇気がない。人道主義の不徹底を知りながら抗争すらない。剥ぎ取りも抗争も「咬文嚼字」で「直接行動」でない。文筆の人に直接行動は求めない。文筆しかできぬことを知っている。
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=== 第92節 ===
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惜しくもいささか遅れたが創造社は一昨年株式、昨年弁護士、今年「革命文学」の旗を掲げた。成仿吾は「芸術の宮」を離れ「大衆を獲得」しに行き「最後の勝利を保障する」と。必然の飛躍。文芸に携わる者は鋭敏で没落を察知し備える。大海に漂い必死にしがみつく。表現主義やダダイズムの興亡がその消息。大時代、動揺、転換の時代。中国の外では階級対立が鋭利化し農工大衆が重みを増す。没落から救うなら彼らの方に。「小資産階級に二つの魂がある」。
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中国では萌芽で新奇、先進国では平常。将来は労働者の天下と見定める者、弱者を助ける者、両方が作用する者。恐怖か良心。成仿吾は根性克服を教え「大衆」を「給与」と「維持」の材料に。文の後に問題——
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「最後の勝利の保障が難しいなら行くのか。」
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『文化批判』の李初梨の方がまし。無産階級文学を主張し無産者自身は不要。「無産階級の意識による闘争の文学」でよい。端的爽快。しかし「語糸派」を見ると「魯迅は第何階級か」と問う。
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成仿吾に判定されている。「『閑暇、閑暇、第三の閑暇』。有閑の資産階級か太鼓の中の小資産階級。十万両の無煙火薬で吹き飛ばされねば永遠にこう暮らす。」
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批判者が「否定の否定」を施し「大衆を獲得」しようとする時「十万両」を夢想し私を「資産階級」に。危殆を覚えた。李初梨が「いかなる階級でも参加し得るが動機を審査」。少し安堵したが私には階級を問う。「閑があれば金がある」。無一文なら「参加」できるが「動機」を問われる。肝心は「無産階級の階級意識を獲得」——「大衆を獲得」だけでは不足。堂々巡りゆえ李初梨に「芸術の武器から武器の芸術へ」、成仿吾に「十万両」蓄積を任せ、私は「趣味」を語る。
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=== 第93節 ===
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成仿吾の「閑暇、閑暇、第三の閑暇」の切歯の声は面白い。「第一は冷静、第二は冷静、第三もなお冷静」が記憶中枢を斧で割り「閑暇」も三つに。四つか二つなら「アウフヘーベン」されなかったろうがちょうど三つ。先の罪は「否定の否定」と相殺。
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「革命のための文学」だから文学を要す。「芸術の武器から武器の芸術へ」進み「武器の芸術」に至れば「彷徨者は同意者に、反対者は彷徨者に変ず」。
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問い——なぜ直ちに「武器の芸術」に至らないか。
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「有産者の蘇秦の遊説」めくが「無産者がまだ解放されていない」うちは起こる問い。徹底的主張は疑わしい萌芽を含む。答え——
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あちらに「武器の芸術」があるからこちらは「芸術の武器」のみ。
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やむを得ず無抵抗の幻影から紙上の戦闘の夢に落ちた。革命的芸術家もこれで勇気を維持するしかない。芸術を犠牲にすれば革命的芸術家たり得ない。無産階級の陣営に座し「鉄と火」を待つ。出現の際「武器の芸術」を取り出す。「閑暇」があり功勲を聴けるなら同等の戦士にもなれよう。最後の勝利。しかし文芸は論じ尽くせない。社会に多くの層。『文化批判』はシンクレアを、『創造月刊』はヴィニーを背負い「行軍」。
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「革命せざれば反革命」と言われず掃除で半切れのパンにありつけるなら八時間労働の暇に『小説旧聞鈔』を抄録。幾つかの国の文芸も語りたい。好きだから。恐れるのは成仿吾らがイリイチの如く「大衆を獲得」すること。貴族か皇帝に昇格させられ北極圏に流刑。訳著禁止は言うまでもない。
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=== 第94節 ===
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遠からず大時代が来る。革命文学家と無産階級作家はやむなく「芸術の武器」を弄ぶが「武器の芸術」を持つ非革命武学家もこの玩具で遊び始めた。にこやかな期刊がそれだ。手にする「武器の芸術」を自らも信じていまい。最高の芸術は今誰の手にあるか。見つかれば中国の近い将来がわかる。
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(二月二十三日、上海。)
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【司徒喬君の画を観る】
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司徒喬君の姓名を知ったのは四五年前で北京にいた。課業にかまわず師も求めず自らの力で終日古廟、土山、破屋、貧者、乞食を描いていた。
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南からの遊子の心を打つ。黄塵漫天の人間にあって万物が土色に染まり人は天然と争闘する。深紅と紺碧の棟宇、白石の欄干、金の仏像、厚い綿入れ、紫糖色の顔、深い皺。天然に屈服せぬ争闘。
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展覧会で中国人の天然に対する頑強な魂を見た。「四人の警察と一人の女」を手に入れた。「イエス・キリスト」を覚えている。女性の唇が荊冠に接吻していた。
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上海で再会し問うた——「あの女性は?」「天使です」。満足できなかった。
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今回見出したのは作者が北方の景物に対しさらに争闘を加えていること。時に本来の明麗で黄塵を照破する。「歓喜」(Joy)の萌芽。脇腹の槍傷の血にもかかわらず荊冠に天使の唇。これは勝利だ。
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爽朗な江浙、熱烈な広東の風景は作者の本領。北方と対照すれば筆の熟知と歓喜がわかる。旧友に再会したかのよう。しかし私は黄塵を眺めるのが好きだ。明麗な心の作者が古戦場に驚き自ら戦闘に加わったのが見える。
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中国の全土は疎通されねばならない。割拠に至らなければ歴史を背に黄塵を払う青年の彩色はまずこのようなもの。
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(一九二八年三月十四日夜、上海。)
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【上海における魯迅の声明】
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一ヶ月余り前、開明書店を経てM女史の手紙が届いた。「一月十日孤山でお別れ以来……ご通信やご指導を……。」
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返信で杭州には十年近く行っておらず別人だと説明。M女史と二人の同窓が訪ね別の「魯迅」と判明。曼殊の墓傍の詩を見せてくれた——
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「我来たりて君の寂居に、誰が魂を醒まさん。漂萍山林の跡、他年を待ちて公に随い去かん。魯迅杭州に遊ぶ 旧友を弔う 曼殊の句 一、一〇、十七年。」
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杭州のH君に問い合わせるとそのような人物が城外で教えていると。姓は周、『彷徨』を著し八万部売れたが満足せず良いものを出す予定だと。
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もう一人がいてもどうしようもない。自叙は大半同じだがいくぶん困惑。詩の拙さは措くとして曼殊に「随い去かん」は横暴。「去る」はいつか来るが「随う」など夢にも思わぬ。恐れ入るのは「指導」の約束の類。
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上海に来て「書店を開く」「杭州に遊んだ」と書かれたが実際は二階で翻訳。筆で食うしかない。「先駆者」と持ち上げられ「落伍者」と押される。自業自得。しかしもう一人が代わりに説教し詩を題し全部背負うなら翻訳の暇もない。
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声明を出す。私のほかに今年少なくとも一人「魯迅」がいる。その言動は『彷徨』を出したが八万部に至らなかった魯迅とは無関係だ。
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(三月二十七日、上海。)
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=== 第95節 ===
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余杭(『広記』では姚に作る)の人、沈縦は、家がもとより貧しく、父と共に山に入った。帰途、未だ家に至らぬうちに、一人の者が左右に導従四百余を従え、前方に車輜重を連ね、馬鞭が道の両側に立ち並び、鹵簿は二千石の如きを見た。遠くから縦父子を見て、呼び止め、縦の手の中の火に寄り、縦はそこで問うた。「いかなる貴人であられるか。」答えて曰く、「斗山の王にして、余杭の南に在り。」縦は神であると知り、叩頭して云った。「御加護を賜りたく存じます。」その後、山に入って一つの玉(『広記』では枕に作る)を得た。これより万事思い通りとなり、田も蚕も共に豊作で、家はついに富んだ。(『御覧』三百五十九及び四百七十二。『広記』二百九十四)
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項県の民、姚牛は、年十余歳にして、父が郷人に殺された。牛は常に衣物を売り、刀戟を買い、復讐を図っていた。後に県署の前で相遇し、衆中にてこれを手刃した。吏に捕らえられたが、官長は深くその孝節を矜れみ、その事を推し遷し、恩赦に会って免れた。また州郡の論救するところとなり、ついに他事なきを得た(二句は『広記』引に有り)。県令は後に猟に出で、鹿を追って草中に入ったが、古い深い陥穽が数箇所あり、馬が趣こうとした。忽ち一人の翁が現れ、杖を挙げて馬を打ち、馬は驚いて避け、鹿には及ばなかった。令は怒り、弓を引いて射ようとした。翁曰く、「この中に陥穽あり、君が堕ちるのを恐れたのです。」令曰く、「汝は何者か。」翁は跪いて曰く、「民、姚牛の父でございます。君が牛を活かして下さったことに感じ、故に来て恩に謝するのです。」そう言うと忽然と消え失せた。令は身をもって冥事に感じ、在官数年、民に多く恵みを施した。(『御覧』四百八十二及び四百七十九及び三百五十三。『広記』三百二十)
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呉県の費升は九里亭の吏であった。暮方に向かうころ、一人の女が城郭の中から来るのを見た。素衣で泣きながら埭に入り、一つの新しい塚に向かって哭した。日暮れて門に入れず、亭に宿を寄せた。升は酒食を作り、夜に至って琵琶を弾き、歌わせた。女は云った。「喪中の身でございます、笑わないで下さい。」歌声は甚だ媚やかで、こう歌った。「精気は冥昧に感じ、降るところ縁あるが若し。嗟、我良き契りに遇い、喜びを霄夢の間に寄す。」中曲に云う、「成公は義より起こり、蘭香は張碩に降る。苟しくも冥分の結びと云わば、纏綿は今夕に在り。」下曲に云う、「我を佇たせ風雲の会、正に今夕の遊びを俟つ。神交は未だ久しからずと雖も、中心已に綢繆なり。」寝処にて明け方に向かい、升が去ろうとして振り返り言った。「しばらく御亭に至れ。」女はたちまち驚き怖れた。猟人が至り、群犬が屋に入り、床上で咬み殺すと、大きな狸であった。(『御覧』五百七十三)
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代郡の界に一つの亭があり、常に怪異があって、訪れ留まることができなかった。壮勇なる諸生があり、歌いながら行き宿を取ろうとした(『広記』引では「暮れに行き亭に宿らんと欲す」に作る)。亭吏がこれを止めた。諸生曰く、「我自らこれを消すことができる。」そこで住みて宿食した(以上四句は『広記』引により補う)。夜に至り(二字は『賦注』引に有り)、鬼が五孔の笛を吹いたが、手が一つしかなく、笛を全て押さえることができなかった。諸生は堪えかねて、忽ち笑って言った。「汝はただ一つの手しかないのに、どうして笛を全て吹けようか。我が汝のために吹いてやろう。」鬼は云った。「卿は我の指が少ないと言うのか。」そこで手を引き出すと、たちまち数十の指が現れた。諸生はこれを撃つべしと知り、剣を抜いてこれを斫った。得たものは一羽の老いた雄鶏で、従者はみな雛鶏であった。(『御覧』五百八十。『事類賦注』十一。『広記』四百六十一)
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一人の士人、姓は王、斎中に座していると、一人が名刺を通じて訪ねてきた。名刺には「舒甄仲」と題してあった。去った後、人ではないかと疑い、名刺を尋ねて曰く、「これは予が舎の西の土瓦の中の人なり。」掘らせたところ、果たして瓦器の中に一つの銅人を得た。長さ一尺余。(『御覧』六百六)
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襄陽城の南に秦民なる者あり、性は至孝で、親が没すると泣血すること三年。人がその者のために蓼莪の詩を詠ずると、民はその義を聞いて涕泗を自ら堪えられなかった。(『御覧』六百十六)
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尋陽の参軍が夢に一人の婦人が前に跪くのを見た。自ら称して曰く、「先に水辺に近く葬られ、水に没しております。誠に救って頂ければ、富貴にはできませんが、君をいささか禍より免れさせることができましょう。」参軍は答えて曰く、「何をもって目印とすべきか。」婦人曰く、「君が渚の辺に魚の簪を見れば、即ちそれが私でございます。」参軍は翌朝尋ねると、果たして一つの毀れた墳を見つけ、その上に簪があり、高く乾いた処に移した。十余日後、参軍が東橋に至ったとき、牛が奔って水に向かい、まさに堕ちようとしたが、忽ち転じて無事を得た。(『御覧』七百十八)
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清河の崔茂伯の娘は裴氏と婚約していたが、期日前に女が突然亡くなった。一つの金罌を提げ、二升ほどを受けるもので、まっすぐ裴の床前に来て立ち、罌を裴に贈った。(『御覧』七百五十八)
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弘農の徐倹の家に遠方より来た客が宿を借りた。馬が一匹おり、夜半に驚き跳ねた。客は不安になり馬に騎って去った。丈余の長さの物が馬の後ろを追って来た。客がこれを射ると、木に中たるが如き音がした。翌日、昨日の路を尋ねると、矢が碓柵に刺さっていた。(『御覧』七百六十二)
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劉松が家に在ると、忽ち鬼を見た。剣を抜いてこれを斫った。鬼は走り、松は追い、鬼が高山の岩石上に臥しているのを見た。逼り突くと、群鬼は争って走り、薬の杵臼と残りの薬を遺した。これを家に持ち還った。松が人のために薬を合わせる時、この臼を経た一撮みを取ると、効験のないものはなかった。(『御覧』七百六十二)
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曲阿に一人の者がおり、姓名を忘れたが、京より還り、暮に逼って家に至れなかった。雨に遇い、広い家屋の中に宿った。雨が止んで月が朗かになると、遥かに女子が来て屋の軒下に至るのを見た。悲嘆の音があり、腰の絹(去遠切)の縄を解き、屋角に懸けて自ら縊ろうとした。また屋の軒上に人が縄を牽いて絞めるかの如き気配があった。この人は密かに刀をもって縄を斫り、また屋上をも斫った。鬼が西に走るのを見た。暁に向かって女の気がようやく蘇り、語れるようになった。家は前方にあり、この人を連れて帰り、父母にその事を語った。あるいは天運のなすところであろう、女をこの人に嫁がせて妻とした。(『御覧』七百六十六)
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爰琮が新安太守となり、郡の南界に刻石があった。爰がその下で宴をしたとき、忽ち人が石の下から鋏を得た。衆はみなこれを怪しんだ。琮が主簿に問うと、主簿は答えて曰く、「昔、呉の長沙桓王がかつて孫洲で飲み餞別した際、父老が云った。『この洲は狭くして長し、君はかつて長沙となるか。』果たしてその通りとなった。そもそも三刀は州となり、交刀を得れば、君もまた交州となるべし。」後に果たして交州となった。(『御覧』八百三十引『世説』注に云う『幽明録』同じ)
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一人の伧(土行の反)の小児が野中で牛を放っていた。仲間が数人おり、鬼が叢草の間に依って処処に網を設け、人を捕らえようとしているのを見た。網を設け終わらぬうちに、小児が密かに前の網を取り、そのまま覆い被せ、たちまち鬼を縛り得た。(『御覧』八百三十二)
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琅邪の諸葛氏の兄弟二人は晋陵に寓居し、家は甚だ貧耗で、常に仮乞にて自給していた。穀物が圌の中にあり、日月を計算すれば未だ尽きるべきでないのに、早くも空竭していた。初めは家中の窃盗と思い、封検題識したが、消耗は初めの如く。後に遠方より宿客があり、夕方に巷口で数人が穀物を担いで門から出るのを見た。客は尋ねて問うた。「諸葛殿は在りますか。」答えて曰く、「皆おります。」客は語り終えて問うた。「なぜ大量に穀物を売っているのですか。」主人は云った。「乞い得た僅かの穀物で(三字は『御覧』引に有り)口を糊するばかりで、どうして(二字は『御覧』引に有り)売れましょうか。」客は云った。「私が来る途中、数人が穀物を担いで門から出るのに逢いました。もし売ったのでなければ(『御覧』引にこの句及び「門より」の二字有り)、何事でしょうか。」主人の兄弟は互いに顔を見合わせ、疑い怪しんだ。試みに入って見ると、封題は故の如くだが、圌を開けて量ると十余斛が失われていた。前後に失った分は人の為すところではないと知った。(『類聚』八十五。『御覧』八百三十七)
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河南の陽起、字は聖卿は、若い時に瘧を病み、社中に逃れて素書一巻を得た。百鬼を譴劾する法であり、劾するところ輒ち験あり(『御覧』引にこの句有り)。日南太守となったとき、母(『御覧』引では「毎」に作る)が厠に至ると、鬼の頭が数尺の長さであるのを見た。聖卿に告げると、聖卿(『御覧』引ではこの二字を重ねず)は曰く、「これは粛霜の神なり。」劾して出させると、形を変じて奴の如くなった。書を京師に送らせれば朝に発して暮に返り、使役すれば千人の力に当たった。(以上また『御覧』八百八十三に見ゆ)忿恚する者があると、聖卿は神を遣わして夜に往かせ、その床頭に趣き、両手を持ち、目を張って正に赤く、舌を吐いて地に柱てさせた。その人は怖れてほとんど死ぬほどであった。(『広記』二百九十一)
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劉斌が呉郡に在りし時、婁県に一人の女があり、夜に風雨に乗じて恍惚として郡城内に至った。家を去ること一炊の間ばかりにして、衣は濡れなかった。暁に門上にあり、言った。「我は天使なり、府君は起きて迎えるべし、大いに富貴すべし。さもなくば凶禍あらん。」劉がその来たる所を問うも知らなかった。二十余日後、劉は果たして誅された。(『御覧』八百八十五。『広記』三百六十)
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護軍の琅邪の王華に一頭の牛があり、甚だ快速で常にこれに乗っていたが、歯は已に長じていた。華は夢に牛が語るのを見た。「衰老にして荷に堪えません。二人を載せるのはなお可なれど、これを過ぎれば必ず死にます。」華は偶然の夢と思い、三人と同乗して府に還ると、この牛は果たして死んだ。(『御覧』九百)
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呉興の戴眇の家僮は客姓の王で、若い妻が美色であった。眇の次弟が常に通っていた。客は密かに忿怒を懐き、眇に白した。「中郎がかくなさるのは甚だ無礼です。叱責の言葉を賜りたく。」眇がこれを弟に問うと、弟は大いに罵った。「何の縁あってかかることがあろう。必ずや妖鬼であろう。」撲殺を命じたが、客は初めなお敢えてせず。後にまた来たとき、戸を閉じて縛ろうとすると、たちまち大きな狸に変じ、窓から出て行った。(『御覧』九百十二)
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巴東に道士がおり、姓名を忘れたが、道に精進にして屋に入り香を焚いていた。忽ち風雨が至り、家人が見ると白鷺が屋の中から飛び出した。雨が止むと、道士の所在はわからなくなった。(『御覧』九百二十五)
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会稽の謝祖の妻は、初め男児を産み、さらに蛇を生んだ。長さ二尺許りで、たちまち門を出て行った。数十年後、妻は老いて終わった。祖は忽ち西北に風雨の声を聞き、しばらくして蛇を見た。長さ十数丈、腹回り十余囲で、戸に入って霊座に至り、柩の所に至って数匝めぐり、頭で柩を打ち、目から血涙が出た。良久にして去った。(『御覧』九百三十四)
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会稽郡吏の県の薛重は休暇を得て家に還った。夜、戸の中で妻の床上に丈夫の鼾声を聞いた。妻を呼ぶと床上から出たが、戸を開けるに及ばず、重は刀を持って妻に問うた。「酔い臥している者は誰か。」妻は驚愕し、実に人の意なしと申し明かした。重の家はただ一戸で、捜索しても見つからなかったが、大蛇が床脚に隠れて酒臭がした。重は蛇を寸断に斬り後溝に擲った。数日後妻が死に、また数日後重も卒した。三日を経て復活し、死んだ時のことを語った。神人が重を官府に連れて行き、問うた。「何ゆえ人を殺したのか。」重曰く、「殺傷したことはございません。」曰く、「寸断にして後溝に擲ったのは何物か。」重曰く、「蛇にして人ではございません。」府君は愕然として悟った。「我が常に用いて神としていた者が人の妻を犯し、妄りに人を訴えたか。」吏卒が一人を連れて来た。平巾幘を著けていた。その過ちを詰問し獄に付そうとした。重は人に送り還された。(『御覧』九百三十四)
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曲阿の虞晩の宅内に皂莢の樹があった。大きさ十余囲、高さ十余丈、枝条扶疏として蔭が数家を覆い、諸鳥がその上に棲んでいた。晩が奴に上枝を斫らせたところ、墜ちてほとんど死にかけた。空中に罵る者があった。「虞晩よ、何の心算か、我が家居を伐るとは。」瓦石を投げつけ、大小みな委頓した。二年にして漸く消滅した。(『御覧』九百六十)
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虎晩の家に皂莢の樹があり、神が宿っていた。道を隔てて大きな楡の樹があり、古くから雌雄と伝えた。晩が斫られた後、この樹も枯死した。(『類聚』八十八)
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太原の王仲徳は年少時、乱に遭い胡賊を避けて絶食三日、草中に臥していた。忽ち人がその頭を扶け呼んだ。「起きて棗を食べよ。」王は寤めて小児を瞥見した。背丈四尺ですぐに隠れた。一袋の干し棗が前にあり、食べるといささか気力が出て立ち上がれた。(『御覧』九百六十五)
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安定の人、周敬が瓜を種えていた時、日照りが甚だしかった。鬼が代わりに水を汲んで(音は輦)瓜に灌いでくれ、瓜は大いに滋繁した。姓名を問うも答えなかった。帰って父に白した。「かつて人に恵みを施されたことがございますか。」父曰く、「西郭の樊営がかつて郡吏となり、官に数百斛の米を償うべきところ、我が百斛をもって助けたが、その人は已に死んだ。」(『御覧』九百七十八)
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ある人の家は甚だ富んでいたが、ただ一人の男子があるのみで、寵愛放縦が常を過ぎた。市を遊び歩いて美麗にして胡粉を売る女子を見た。愛したが自ら言い出せず、粉を買うことに託して日々市に往った。次第に久しくなると、女は疑い、翌日また来た時に問うた。「この粉を買うのは何に使うのですか。」答えた。「心からお慕いしておりますが言い出せず、常にお会いしたく、これに仮託してお姿を拝見していたのです。」女は感じるところあり密かに許し合い、翌夕を期した。その夜、堂屋に寝て女を待った。薄暮に果たして到り、男は喜びに堪えず臂を把って曰く、「宿願がここに遂げられた。」歓喜のあまり遂に死んだ。女は惶恐して遁れ去り、翌日粉店に還った。父母は男の起きぬのを怪しみ、往きて見ると已に死んでいた。箧笥を開けると百余包の胡粉があった。母曰く、「我が児を殺したのは必ずやこの粉であろう。」市で遍く胡粉を買いこの女のものと比べると手跡は同じ。女を執らえて問うた。「なぜ我が児を殺したのか。」女は嗚咽して実情を陳べた。父母は信じず官に訴えた。女曰く、「妾は死を惜しみません。一度屍に臨んで哀を尽くすことをお許し下さい。」県令はこれを許した。まっすぐ往きて慟哭した。「不幸にしてこうなりました。死者の魂に霊があるならば何の恨みがありましょうか。」男は忽然として蘇生し、情状を説いた。ついに夫婦となり子孫は繁茂した。(『広記』二百七十四)
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許攸が夢に烏衣の吏が漆案を奉じるのを見た。案上に六封の文書。拝跪して曰く、「府君は北斗君となるべし、来年七月□。」また一つの案に四封の文書があって云った。「陳康を主簿と為す。」覚めた後、□康が至った。「今来たりて謁すべし。」攸は懼れ、康に問うた。「我が道師となっても社公に過ぎぬのに、今日北斗を得るとは。主簿は忝いことである。」来年七月、二人は同日に死んだ。(『広記』二百七十六)
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広平太守の馮孝将の男、馬子が夢に女人を見た。年十八九にして言った。「私は前太守の徐玄方の娘です。不幸にして早世し、四年となります。鬼に枉殺されましたが、生録では寿命は八十余でした。今、再び生き返ることを許されました。君の妻となりたいのですが、聘して頂けますか。」馬子は棺を掘り開けると、女は已に活きていた。ついに夫婦となった。(『広記』二百七十六)
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京口に徐郎なる者があり、家は甚だ貧しく常に江辺で流れ柴を拾っていた。忽ち江中に連船が川面を覆って来て、浦に入り徐に対して泊まった。使いが来て云った。「天女は今徐郎の妻となるべし。」徐は屋角に隠れて出なかった。母・兄・妹が励まして強いて出させた。舫に至る前に別室で沐浴させた。水の芳香は世の常にないもので、繒絳の衣を贈った。徐はただ恐懼して膝を累ねて床端に座し、夜も酬接の礼がなかった。女はその後衣物を与えて退いた。家中は怨み嘆き、遂に懊歎して卒した。(『広記』二百九十二)
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侯官県には常に閣下の神があり、歳末に諸吏が牛を殺して祀った。沛郡の武曾が令となりこれを断じた。一年後、曾は建威参軍に遷ったが、神が夜に来て問うた。「なぜ食を返さぬのか。」声色は極めて悪く甚だしく譴責した。諸吏は道中で牛を買い謝した。神はすなわち去った。(『広記』二百九十四)
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甄冲、字は叔譲、中山の人にして雲社の令となった。未だ恵懐県に至らぬうちに、一人が来て通じた。「社郎。」しばらくして到った。年少にして容貌美しく清浄であった。座して寒温を交わし云った。「大人が使わされました。高き縁を慕い、妹を君に嫁がせたく。」甄は愕然として曰く、「僕は年長で且つ妻がおります。何の道理がありましょう。」社郎はまた云った。「僕の妹は年若く美貌は類なく、佳き対を得たいのです。なぜ拒むのですか。」甄曰く、「僕は老人にして妻があり、どうして礼に違えましょう。」数度やり取りしたが甄に動く意はなかった。社郎は怒りの色で云った。「大人が自ら来よう。違えることはできまい。」去った後、両岸に人が見えた。幘を著け馬鞭を持ち羅列して従い、行従は甚だ多かった。社公がやがて至った。鹵簿の導従は方伯の如く、馬輿に乗り、青幢赤絡、覆車数乗。女郎は四望車に乗り、錦歩障数十張、婢十八人が車前に来て衣服の文彩は見たことのないものであった。甄の傍の岸上に幔屋を張り薦席を敷いた。社公は隠膝の几に下り白氈の坐褥に座し、玉唾壺を置き玳瑁の手巾籠を持ち白塵尾を執った。女郎は東岸に黄門が白払を持って車を挟んで立ち、婢子が前にいた。社公は佐吏を引いて前に座らせ六十人ばかり、楽を奏させ器はことごとく琉璃の如くであった。社公は甄に曰く、「僕に陋女があり鍾愛するところ、君の徳の令茂なるをもって親縁を結びたい。小児に旨を宣べさせた。」甄曰く、「僕は既に老悴にして家室があり児子も大きい。命を受けることは敢えてしません。」社公はまた云った。「僕の娘は二十にして姿色淑令、四徳を備えている。今岸上にいる。ただ礼を成すべきのみ。」甄がこれを拒むことますます苦しく、邪魅と思い刀を抜いて膝上に横たえ死をもって拒み、語ろうとしなかった。社公は大怒し三斑両虎を呼ばせた。口を張って赤く、号呼して地を裂き跳び上がること数十次、天明まで守ったがどうにもならず去った。牽車一台と従者数十人を留めて甄を迎えようとした。甄は恵懐の県中に移った。迎車と人が門に至ると、中に一人が単衣幘で揖をした。ここで止まり進めなくなった。甄は十余日後にようやく去ったが、なお二人が馬鞭を持って随い家に至った。家に至って数日で妻が病み、ついに亡くなった。(『広記』三百十八)
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秣陵の人、趙伯倫はかつて襄陽に往った。船人は豚をもって祈りとしたが、祭りに及んでただ肩のみであった。その夕べ、伯倫らは夢に翁と姥を見た。鬢髪蒼白で布衣を著け、撓楫を持ち怒っていた。翌朝、砂に触れ石に衝たり人力の及ばぬところであった。厚い馔を施すとたちまち流通を得た。(『広記』三百十八)
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=== 第96節 ===
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桂陽の人、李経と朱平(当に脱文有るべし)は戟を帯びてこれを逐った。百余歩行くと、忽ち一つの鬼を見た。丈余の長さで、これを止めて曰く、「李経には命あり、豈にこれを殺すべけんや。為すこと無かれ、必ず汝の手を傷つけん。」平は酔いに乗じて直に経の家に往き、鬼もまたこれに随った。平は経を見て、刃を奮おうとしたが、忽ち屹然として動かず、執縛されたるが如く、果たして左手の指を傷つけた。庭の間に立ちつくし、暮に至ってようやく醒め、去った。鬼曰く、「我は先に汝に語ったのに、なぜ従わなかったのか。」言い終わると滅した。(『広記』三百十八)
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剡県の胡章と上虞の管双は干戈を好んだ。双の死後、章は夢にこれを見た。刃を躍らせてその前で戯れ、覚めて甚だ不快であった。翌日、符を壁に帖した。章が近くに行こうとして、已に舟に泛んで楫を整えていると、忽ち双が来て攀じ留めて云った。「人が相知ること、情は千載を貫く。昨夜卿のところで戯れたが、眠りに値いて吾は即ち去った。今なぜ符をもって厭えるのか。大丈夫たるもの天下の理を体せず、我が符を畏れるとでも言うのか。」(『広記』三百十九)
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呉中に顧姓の人があり、田舎に往った。昼行して舎を去ること十余里、ただ西北に隠隠たるを聞き、首を挙げると、四五百人を見た。みな赤衣で長さ二丈、倏忽として至り、三重にこれを囲んだ。顧は気息奄奄として通ぜず、輾転として得ず、晡に至っても囲みは解けず、口に語ることもできず、心に北斗を呼んだ。また食頃して、鬼が相謂って曰く、「彼はまさに心を神に在らしめている、舍て去るべし。」豁として霧が除かれるが如くなった。顧は舎に帰り、疲れ極まって臥した。その夕べ、戸前の一処で火が甚だ盛んであるが燃えず、鬼が紛紜として相集い、あるいは往きあるいは来たり、顧を呼んで談じ、あるいは入ってその被を去り、あるいは頭に上って鴻毛の如く軽かった。開晨にして失せた。(『広記』三百十九)
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劉道錫と従弟の康祖は少くして鬼の存在を信じなかった。従兄の興伯は少くして来鬼を見たが、議論では互いに屈することができなかった。かつて京口の長広橋の宅の東にて、殺鬼が東籬の上にいると云った。道錫は笑ってその処を問い、興伯を牽いて共に行き、大刀を捉えてこれを斫ろうとした。興伯は後ろから呼んだ。「鬼が汝を撃つぞ。」道錫は未だ鬼の処に及ばぬうちに、大杖の声の如きを聞き、道錫は倒れ、一夜を経てようやく醒めた。一月日にして全て差(い)えた。興伯はまた云った。「庁事の東頭の桑の樹上に鬼がいて形はなお幼く、長じれば必ず人を害する。」康祖は信じず、樹の何処かと問い、指す処は分明であった。十余日を経て、その月の晦の夕べ、道錫は暗中に逃れ、戟をもって鬼の住む処を刺し、すぐ還った。人には知る者がなかった。翌日、興伯が早く来て忽ち驚いて曰く、「この鬼は昨夜なぜ人に刺されたのか。ほとんど死んで全く動くことができず、死もまた遠くあるまい。」康は大いに笑った。(『広記』三百二十)
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鄴県の故尉、趙吉は常に田の陌間にいた。昔、一人の跛の者が死に、陌の辺に埋められた。後二十余年にして、遠方の人が趙の門外を過ぎた。遠方の人が十余歩行くと、忽ち跛になった。趙が怪しんでその故を問うと、遠方の人は笑って曰く、「前に一人の跛の鬼がいて、故にこれを効って戯れたのだ。」(『広記』三百二十)
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東莱の王明児は江西に居て、死して一年を経て、忽ち形を現して家に還った。日を経て、親しい者を招いて平生を叙すよう命じ、天曹が暫く帰ることを許したと云った。別離に言い及ぶと涕を流し、郷里を問訊して情を備えていた。児に命じて曰く、「吾が人間を去って已に一周、桑梓を睹たいと思う。」児と共に郷閭を観ようとした。鄧艾の廟を行き過ぎると、これを焼けと命じた。児は大いに驚いて曰く、「艾は生前に征東将軍であり、没して霊があり、百姓が祠を立てて福を祈っているのに、なぜ焚くのですか。」怒って曰く、「艾は今、尚方で鎧を磨いており、十指は垂れ掘り、豈にその神あらんや。」因って云った。「王大将軍もまた牛となって駆馳して殆ど斃れ、桓温は卒となって同じく地獄にいる。これらは皆、劇理尽きたるに因り、どうして人に損益をなし得ようか。汝が多福を求めんと欲するならば、まさに恭順にして忠孝を尽くし、恚怒なくすべし。さすれば善流は無極なり。」また指の爪甲を録すべしと命じ、死後に罪を贖うことができると。またさらに戸限を高く作れと、鬼が人の室に来て罪過を記すとき、限を越えて脚を拨ねると事を忘れるからであると。(『広記』三百二十)
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広陵の劉青松は朝起きて、一人が公服を著け板を齎して云うのを見た。「鲁郡太守に召す。」言い終わると去った。去った後も復た見えなかった。翌日、復た至って曰く、「君はすぐに職に就くべし。」青松は必ず死ぬと知り、妻子に家事を処分し、沐浴した。晡に至ると車馬を見、吏が左右に侍した。青松は奄忽として絶えた。家人はみなその車に升るのを見、南に出て百余歩にして漸く高くなり没した。(『広記』三百二十一)
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豫章太守の賈雍は神術を有し、界を出て賊を討ったが、賊に殺されて頭を失った。馬に上って営に回り、胸中より語って曰く、「戦いは利あらず、賊に傷つけられた。諸君よ、頭あるのが佳きか、頭なきが佳きか。」吏は涕泣して曰く、「頭あるが佳し。」雍は云った。「然らず、頭なきもまた佳し。」言い畢わって遂に死んだ。(『広記』三百二十一)
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呂順は妻を喪い、妻の従妹を更に娶った。三つの墓を作ったが、構え累ねてほぼ成ろうとすると、輒ち成らなかった。一日、順が昼に臥していると、その妻が来て同じ衾に就くのを見た。体は氷の如く冷たく、順は死生の隔てを以て去れと語った。後に妻はまたその妹に見えて怒って曰く、「天下の男子は独り何の限りがあろうか。汝は我と一婿を共にするとは。冢が成らぬのは我がそうさせたのだ。」俄かにして夫婦は共に殪れた。(『広記』三百二十二)
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衡陽太守の王矩が広州に赴任した。矩が長沙に至ると、一人の者が見えた。丈余の長さで白布の単衣を著け、奏を持って岸上におり、矩の奴子を呼んだ。「こちらへ渡せ。」矩が奏を見ると杜霊之で、船に入って共に語り、疎遠になった久しい日を叙した。矩は問うた。「君は京兆の人、何時に発って来たのか。」矩に答えた。「朝に発った。」矩が怪しんで問うと、杜は曰く、「天上の京兆です。身は鬼にして、使いに見えられて君を訪ねたのです。」矩は大いに懼れた。紙筆を求めて曰く、「君には必ず天上の書はわかるまい。」すなわち改めて書を作って折り巻き、矩に小箱を求めてこれを盛り、封じて矩に付して曰く、「君は今これを開けてはならぬ。広州に到るに及んで見るべし。」矩は到って数ヶ月、悄悒として、ついに開けて見ると、書に云った。「王矩を左司命主簿に召す。」矩の意は大いに悪しく、疾により卒した。(『広記』三百二十二)
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馬仲叔と王志都は並びに遼東の人で、相知ること至って厚かった。叔が先に亡くなり、後年、忽ち形を現して曰く、「吾は不幸にして早逝し、心に常に相い念じていた。卿に妻がないことを念い、卿のために妻を得よう。十一月二十日に卿の家に送り届ける。ただ掃除して床席を設けて待て。」その日になると、都は密かに掃除し設備した。天は忽ち大風となり、白昼にして昏かった。暮に向かって風止み、寝室中に忽ち紅帳が自ら施された。中を見ると、床上に一人の婦人がいた。花のように媚やかで端厳、床上に臥し、かろうじて気息があった。親族内外は驚き怖れ、敢えて近づく者がなかった。ただ都だけが往くことができ、須臾にして蘇り、起き座った。都は問うた。「卿は誰か。」婦人曰く、「我は河南の人、父は清河太守です。まさに嫁がんとしていたのに、何の故か忽然としてここにおります。」都は具さにその意を語った。婦人曰く、「天が令じて我を君の妻としたのでしょう。」ついに夫婦となった。その家を訪ねると大いに喜び、天が結び合わせたものと思った。ついに与して一男を生み、後に南郡太守となった。(『広記』三百二十二)
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会稽の賀思令は琴を善くした。かつて夜に月中に座し、風に臨んで撫奏していた。忽ち一人の者が現れた。形器甚だ偉にして、械を著け惨色があった。庭の中に至り称善し、共に語った。自ら云うに嵇中散であると。賀に曰く、「卿の手は極めて速いが、ただ古法に未だ合わず。」因って『広陵散』を授けた。賀はこれに因ってこれを得、今に至るまで絶えない。(『広記』三百二十四)
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巨鹿に庞阿なる者があり、容儀美しかった。同郡の石氏に女があり、かつて内にて阿を窺い見て心に悦んだ。間もなく、阿はこの女が来て訪ねるのを見た。阿の妻は極めて妒み、これを聞いて婢に命じて縛り石家に送り返させた。中途にて化して煙気となり滅した。婢はまっすぐ石家に至ってこの事を述べた。石氏の父は大いに驚いて曰く、「我が娘はまったく門を出ない。豈にかくも毀謗できようか。」阿の妻はこれより常に注意して伺い察した。ある夜、まさに女が斎中にいるのに遇い、自ら拘えて石氏を訪ねた。石氏の父はこれを見て愕眙して曰く、「我は今しがた内から来て、娘が母と共に作っているのを見た。どうしてここにいようか。」すぐに婢僕に内から娘を呼び出させると、先に縛った者は奄然と滅した。父は異あるかと疑い、母を遣わして詰問した。女曰く、「昔、庞阿が庁中に来た時、密かにこれを見ました。それより仿佛として夢に阿を訪ね、戸に入ると妻に縛られました。」石は曰く、「天下にかくも奇なる事があろうとは。精情の感ずるところ、霊神がこれを冥に著す。滅せし者はその魂神であろう。」やがて女は嫁がぬと誓った。年を経て、阿の妻が忽ち邪病を得、医薬の験なく、阿はすなわち幣を石氏の女に授けて妻とした。(『広記』三百五十八)
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会稽国の司理令、朱宗之は、常に亡人の殯を見て、頭を去ること三尺許に一つの青い物があった。覆した甕の如き状で、人がその処に当たると滅し、人が去ると随って復た見えた。およそ屍の頭にこの青い物のないものはなかった。また云う、入殯の時、鬼は暫く還って臨まないことはないと。(『広記』三百六十)
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新野の庾謹の母が病んだ。兄弟三人はことごとく侍疾していた。忽ち床前で犬が闘う声を聞いた。声は尋常でなかった。一家挙げて共に視たが、犬は全く見えず、ただ一つの死人の頭が地にあるのを見た。なお血があり、両眼がなお動いていた。その家は怖懼し、夜にこれを持ち出して後園に埋めた。翌朝見ると、土の上に出ていて両眼はなお同じであった。即ちまた埋めたが、翌朝には復た出ていた。そこで磚を頭に置いて埋めると、復た出なくなった。数日後、その母はついに亡くなった。(『広記』三百六十)
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東陽の丁が郭を出て方山亭に宿った。亭の渚に劉散騎がおり、母の喪に遭って京師に葬り還るところであった。夜中に忽ち婦人が自ら通じて云った。「劉郎が瘡を患っていると聞き、参軍は治せるとのこと、故に来ました。」前に使わすと、姿形端媚にして従婢数人。肴馔を具えさせ、酒酣にして嘆いて曰く、「今夕の会は、人をして貞白の操を無くさしむ。」丁は云った。「女郎の盛徳、豈に老夫を顧みるのですか。」すぐに婢に琵琶を取らせて弾き、歌った。「久しく重んずる名を聞き、今、方山亭に遇う。肌体は朽老と雖も、故にこれ人情を悦ばす。」琵琶を放し膝に上り頭を抱いてまた歌った。「女形は薄賤なりと雖も、願わくは喜んで婿と作らん。纏綿として良き觌を観じ、千載、同契を結ばん。」声気は婉媚にして、人を絶倒せしめた。火を滅ぼして共に好情を展べた。暁に比して忽ち見えなくなった。吏は云った。「この亭には旧くより妖魅があります。」(『広記』三百六十)
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京兆の董奇の庭前に大樹があり、蔭映甚だ佳であった。後に霖雨の際、奇が独り家郷に在ると、小吏が言って云った。「承雲府君来たる。」承雲を見ると、通天冠を著け長さ八尺で、自ら方伯と称した。「某の第三子は隽才あり、まさに君と周旋すべし。」翌日、樹下に異あるを覚え、毎晡後に人がいないのに、輒ち少年があって奇のところに来て語り戯れ、あるいは飲食を取ってくるよう命じた。かくの如きこと半年、奇の気は強壮となり一門に疾なし。奇が後に墅に赴いた際、その僕客三人が護送して言った。「樹の材は用いるべし、これを売りたいが郎は常に聴き入れない。今、試みに共に斬斫せん。」奇はこれを許した。神もまたそれより絶えた。(『広記』四百十五)
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清河郡太守は至る毎に前後して輒ち死んだ。新太守が厠に至ると、一人の者が見えた。長さ三尺、冠幘に皂服で云った。「府君は某日に死ぬ。」太守は応えず、意は甚だ不快で、吏に急かして主人の設けをさせた。外ではやや怪しんだ。その日の日中、厠に至ると、復た前に見た者を見た。言った。「府君は今日の日中に死ぬべし。」三度言っても応えなかった。すなわち言った。「府君は道を当にしながら道を行わず、鼠の死に為す。」すなわち地に頓仆した。豚の如く大きかった。郡内は遂に安らかになった。(『広記』四百四十)
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上虞の魏虔祖の婢は名を皮納といい、色があった。徐密がこれを楽しんでいた。鼠がその形に託し密の宿に就いた。密は心にこれを疑い、手をもってその四体を摩ると、たちまち縮小し、化して鼠となって走った。(『広記』四百四十)
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晋陵の民、蔡興は忽ち狂疾を得、歌吟が常でなくなった。常に空中にて数人と言笑し、あるいは云った。「また誰の女を取るべきか。」また一人が云った。「家は已に多い。」後に夜、忽ち十余人が物を持って里人の劉余之の家に入るのを聞いた。余之は刀を抜いて後戸を出て、一人の黒色の者を見た。大いに罵って曰く、「我は湖長にして汝を訪ねに来たのに、我を殺そうとするのか。」即ち呼んだ。「群伴よ、余を助けぬか。」余之は刀を奮って乱斬し、大きな鼍と狸を得た。(『広記』四百六十九)
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江淮に婦人があり、性が多欲で日夜存想して止まなかった。かつて酔い、旦に起きて屋の後ろに二人の少童を見た。甚だ鮮潔で、宮の小吏の如き者であった。婦人がこれを抱持しようとすると、忽ち箒となった。取ってこれを焚いた。(『広記』三百六十八)
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東魏の徐忘名は本郡に還って作り、卒し、墓は東安の霊山にあった。墓は先に人に発かれ、棺柩は已に毀れていた。謝玄が彭城に在りしとき、斉郡の司馬隆、弟の進、及び安東の王箱らが共に壊れた棺を取り、分けて車を作った。少時にして三人はことごとく患を見、更に相い注連して凶禍が已まなかった。箱の母が霊語して子孫に云った。「箱は昔、司馬隆兄弟と共に徐府君の墓中の棺を取って車と為した。隆らの死亡喪破はみなこれに由る。」(『広記』三百二十)
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秦の高平の李羡の家奴、健が石頭岡に至ると、忽ち一人を見た。「妻が人と通情し、ついに殺された。仇を報いたい。力を貸してくれないか。」奴はその言を用い、果たして人が来るのを見た。鬼がたちまち頭を捉え、奴が手を換えると、即時に地に倒れた。帰途半ばにして死んだ。鬼は千銭と一匹の青い絞紋の綾袍を奴に与え、言い付けた。「この袍は市の西門の丁与許のものだ。君は自ら著るべし、売ってはならぬ。」(『珠林』六十七)
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宋の初め(二字は『広記』引に有り)、義興の周超は謝晦の司馬となり、江陵にいた。妻の許氏は家にいて、遥かに屋内に月光(『広記』引では「光有り」に作る)を見た。一つの死人の頭が地にあり、血が甚だ多く流れ、大いに(三字は『広記』引に有り)驚き怪しんだが、たちまち失せた。後に超は法に処された。(『御覧』八百八十五。『広記』一百三十七)
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宋の永初三年、呉郡の張縫(『広記』引では隆に作る)の家に忽ち鬼が現れ、云った。「汝が我に食を分ければ、当に助けるべし。」すなわち鬼に食を与えた。席を地に敷いて飯を席上に布き、肉酒五肴をした。かくの如く鬼が得ると、復た人を犯暴しなくなった。後に食を作る際、刀をもってその食する処を斫った。たちまち数十人の哭く声を聞いた。哭くこともまた甚だ悲しく、云った。「死んでどうして棺材を得ようか。」また云うのを聞いた。「主人の家に梓船がある。奴は甚だ愛惜する。当にこれを取って棺と為すべし。」船を担いで来るのが見え、斧鋸の声があり、船を治め終わると(『広記』引では「日既に暝し」に作る)、呼び喚き、屍を挙げて棺中に著けた。縫は目には見えず、ただ処分を聞くのみで、釘を下す声は聞こえなかった。船が漸々と空に升り、雲霄の中に入るのが見え、久しくして滅し、空中から落ちて船は百片に砕けた(『広記』引にはこの二句なし)。たちまち百数人が大いに笑うが如く聞こえた。「汝がどうして我を殺せようか。我が汝に困じられることがあろうか。ただ悪心を知り、我は汝の状を憎む。故に船を破壊した(『広記』引では「汝の船を隠没す」に作る)のだ。」(『珠林』六十七)縫(本は隆に作る、上文を承けて改む、以下同じ)はすなわち意を回してこの鬼を奉事し、吉凶及び将来の計を問うた。鬼は縫に語った。「汝は大瓮を壁角の中に著けよ。我が当に物を觅めるべし。」十日に一度倒すと、銭及び金銀銅鉄魚腥の類があった。(『広記』三百二十三)
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宋の高祖の永初中、張春が武昌太守であった時、人が娘を嫁がせようとし、未だ車に升るに及ばずして忽ち性を失い、外に出て人の乗り物を殴撃した。「已に俗人に嫁ぐのを楽しまず」と云った。巫(『珠林』引では「嫁ぐを楽しまず、女は家事を俗に事す、巫」に作る)は邪魅であると云い、女を江(以上また『珠林』三十一に見ゆ、「至」の字は据りて補う)の際に将いて行き、鼓を撃って術を以て祝い治療した。春は百姓を欺惑するものと思い、期を刻して妖魅を得ねばならぬとした。後に一匹の青蛇が来て巫の所に至った。即ち大釘をもって頭を釘した。日中に至ると、復た大亀が江から来て前に伏し、更に赤朱をもって背に符を書き、更に遣わして江に入れた。暮に至ると、大きな白鼍が江中より出て、あるいは沈みあるいは浮かんだ。先の亀が後から催促し逼った。鼍は自ら死を分かち、冒して来て、先に幔に入って女と辞訣した。女は慟哭して姻好を失うと云った。これより漸く差えた。あるいは巫に問うた。「魅は何物に帰したのか。」巫は云った。「蛇は伝通、亀は媒人、鼍はその対である。獲た三物はことごとく魅なり。」春は始めて霊験を知った。(『御覧』九百三十二)
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宋の初め(二字は『広記』引に有り)、淮南郡に物あり人の髪を剃る(『広記』引では「人の頭の髻を取る」に作る)。太守の朱誕は曰く、「吾はこれを知る。」多く黐(音は離)を置いて壁に塗った。夕べに数匹の(『広記』引では「一」に作る)蝙蝠あり、鶏の如き大きさで、その上に集まり去ることができなかった。これを殺すと乃ち絶えた。屋の簷下に(『広記』引では「これを観るに簾下に」に作る)已に数百人の頭の髻があった。(『御覧』九百四十六。『広記』四百七十三)
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貴人が亡くなった後、永興令の王奉先が夢にこれと平生の如く相対した。奉先は問うた。「まだ情色はあるのですか。」答えて云った。「某の日にその家に至って婢に問え。」覚めた後、その婢に問うと、云った。「この日に魘され、夢に郎君が来たのを見ました。」(『広記』二百七十六)
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徐羡之が王雄の少傅主簿であった時、夢に父が作って曰く、「汝は今より以後、朱雀桁を渡るな。当に貴くなるべし。」羡之は後に桁を半ばまで行き、先人の夢を憶い、馬を回した。これをもって主簿を除かれ、後に果たして宰相となった。(『広記』二百七十六)
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呉郡の張茂度が益州に在りし時、忽ち人があって朝廷が徐羡之・傅亮・謝晦の三人を誅したと道った。ついに紛紜と伝わった。張は推問して道った。「言を造る主は、何に由ってこれを言うのか。」答えて曰く、「実に承けたところなく、恍惚としてこれを言うことを知らなかった。」張はこれを鞭ち、伝える者はついに息んだが、後にこれは験った。(『占経』一百十三)
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景平元年、曲阿に一人の者が病死し、天上で父に見えた。父は曰く、「汝の算録はまさに八年余り。もしこの恨みが竟われば、死んで罪謫の中に入る。吾は比に汝を安処させようとしたが、局に欠員なし。ただ雷公の欠員があるのみで、当にこれを啓して其の職を補うべし。」即ち奏案内に入って、ついにこの任を充てることを得た。遼東に至り行雨せしめ、露車と牛に乗り、水を東西に灌洒した。未だ中路に至らずして復た符が至り遼西に行かされた。事畢わって還り、父に見えて苦しく還らんことを求め、「職に処るを楽しまず」と云った。父はこれを遣わし、遂に蘇活することを得た。(『広記』三百七十三)
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=== 第97節 ===
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元嘉の初め、散騎常侍の劉の家は丹陽郡にあった。後にかつて閑居していたところ、天が大いに驟雨となった。門前に三人の小児を見た。みな六七歳ばかりで、相い牽いて狡猾に遊んでいたが、並びに濡れることがなかった。人ではないかと疑った。俄かに共に一つの瓠壶子を争うのを見た。弾弓を引いてこれを弾くと、正に壺に中たり、霍然として見えなくなった。壺を得て、閣の辺に掛けた。翌日、一人の婦人が門に入り、壺を執って泣いた。これを問うと、答えて曰く、「これは小児の物で、何故ここにあるのかわかりません。」具さにその所以を語ると、婦人は壺を持って児の墓前に埋めた。一日を隔てて、また先の小児が門の側に来て持っているのを見た。これを挙げて笑って語った。「坊やはまた壺を得たよ。」言い終わると隠れた。(『広記』三百二十四。『御覧』三百五十)
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元嘉九年、征北参軍の明之に一人の従者があり、夜眠って大いに魘された。之は自ら往きてこれを呼んだが、しばらく応えることができず、またその頭の髻を失っていた。三日にしてようやく寤め、語って云った。「三人に足を捉えられ、一人が髻にした。忽ち夢に一人の道人を見た。丸薬を与えてくれた。桐子の如きで、水にて服すよう命じた。」寤めたとき手の中に薬があり、これを服すと遂に瘥えた。(『広記』二百七十六)
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元嘉九年、南陽の楽遐はかつて内に座していたところ、忽ち空中にその夫婦の名を呼ぶ者を聞いた。甚だ急で、半夜にして止んだ。殊に驚き懼れた。数日後、婦が屋の後ろから還ったとき、忽ち全身の衣服がことごとく血であった。一月を経ずして夫婦は相い継いで病み卒した。(『御覧』八百八十五。『広記』三百六十)
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元嘉中、交州刺史の太原の王徴が始めて拝命し、車に乗って出行した。その前方に鉦鉦と音がするのを聞き、一台の車が路に当たるのを見たが、余人には見えなかった。州に至って遂に亡くなった。(『広記』三百六十)
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元嘉中、益州刺史の吉翰が南徐州に遷った。先に蜀中より一頭の青牛を載せて下り、常に自ら乗っていて、恒にその目前で養い視ていた。翰が疾に遘って多日を経ると、牛もまた食おうとしなくなった。亡くなると、牛は涕を滂沱と流した。吉氏の喪が未だ都に還らぬうちに、先に牛を宅に向けて駆らせたが、牛は行こうとしなかった。その異を知り、即ち喪を待った。喪が船に下ると便ち随って去った。(『御覧』九百)
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吉未翰の従弟、名は礐石、先に檀道済の参軍となった。かつて病み、人が朱衣を著けて前に来て揖して云うのを見た。「特に来て迎える。」礐石は厚く施設して免れることを求めた。鬼曰く、「君の延接に感じ、当にしばらく停むべし。」すなわち復た見えなくなった。礐石は漸く差えた。後に丁艰して寿陽に還ると、復た鬼を見た。曰く、「迎えの使いがまもなく至る。君はすぐに装いを束ねよ。」礐石曰く、「君は前に已に留めて下さった。今また愍れんで頂けるか。」鬼曰く、「前に召したのは使役しようとしたので停めたのだ。今、泰山が君を主簿に迎えようとし、また使いが随って至った。辞することはできぬ。」たちまち車馬の伝教が見え、油戟が前に羅列した。家人に指し示したが、人には見えなかった。礐石は書を介して親友を呼び告別し、語笑の中に、たちまち奄然として尽きた。(『広記』三百二十三)
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趙泰、字は文和、清河の貝邱の人にして、公府に辟かれたが就かず、典籍に精進して(また『弁正論』八注引に見ゆ。邱は丘に作り、進は思に作る)、郷党に名を称された。年三十五にして、宋の太始五年七月十三日の夜半、忽ち心痛にて死んだ(宋の『論注』では晋に作る、誤り。また「十」の字なく「七月三日」に作る。また「忽」を「卒」に作り、「微」を「故」に作る)。心上は微かに暖かく、身体は屈伸した。屍を停めること十日にして、気が咽喉より雷鳴の如く出て、目を開けて水を求め、飲み終わって起き上がった(『論注』では「飲食を索めて起く」に作る)。語って云った。「初め死んだ時、二人が黄馬に乗り、従兵二人がいた。ただ捉えて将き去れと言い、二人が両腋を扶えて東に行った。幾里かわからず、大きな城を見た。錫鉄の如くにして(『論注』では鉄の下に「端正」の二字あり)崔嵬たり。城の西門より入ると、官府の舎を見た。二重の黒門があり、数十梁の瓦屋で、男女は五六十人ばかり。主吏は皂の単衫を著けていた(五六十の下、『論注』では「五六十人住立す。吏は皂単衣を著け五六人を将いて姓字を疏記す。男女は別あり。言うに:動くなかれ、当に科に入って府君に呈すべし。泰の名は云々」に作る)。泰の名は第三十にあった。須臾にして将き入れられ、府君は西に座して姓名を断勘した(『論注』では断勘の句を「科出案名」に作る)。復た南に将いて黒門に入った。一人の絳衣の者が大屋の下に座し、次いで名を呼んで前に出させ、生前の所行の事を問うた。何の罪があり何の功徳を行い何の善行を為したかと。語る者はそれぞれ異なった。主者は言った。「汝らの辞を許す。恒に六師の督(『論注』では師を部に作り、督を都に作る)録使者を遣わし、常に人間にあって人の為す善悪を疏記して以て相い検校す。人の死に三悪道あり、殺生祷祠が最も重し。仏に奉じ五戒十善を持ち、慈心布施すれば、福舎に生じて安穏(『論注』では祠を祀に作り、仏の下に法の字あり、生を死に作り、穏を隠に作る)にして無為なり。」泰は答えた。「一として為したところなく、上には(『論注』では「所為」を「所事」に作り、「上」を「亦」に作る)悪を犯さず。」断問がすべて竟わると、水官の監作吏とし、千余人を将いて沙を拾い岸に著けさせた。昼夜勤苦して啼泣し悔いて言った。「生前に善を作さず、今ここに堕ちた。」後に水官都督に転じ、諸獄の事を総知し、馬を給された。東に至って地獄を按行し、また泥犁地獄に至った。男子六千人がいて火樹があった(『論注』ではこの処の下に「当帰索代」の四字あり、馬の下に「兵」の字あり、男子を男女に作り、火を大に作る、以下同じ)。縦(『論注』では横に作る)広五十余歩、高さ千丈、四辺にみな剣があり、樹上で火を然やしていた(『論注』では剣の下に「上人著」の三字あり、火はなお「大」に作る)。その下に十十五五にして火剣の上に堕ち、その身体を貫いた。云った。「この者たちは呪咀し罵詈し、人の財物を奪い、良善を偽り傷つけた者だ。」泰は父母と一人の弟(『論注』では「假」を「毀」に作り、「泰見」の二字を到に作り、「一弟」を「二弟」に作る)がこの獄中にいて涕泣しているのを見た。二人が文書を齎して来て、獄吏に敕した。言った。「三人があり、その(『論注』では「其」の字なし)家は仏に事え、(『論注』では「為有」の二字を「為其于」の三字に作る)寺中に幡蓋を懸け香を焼き、『法華経』を転じて(『論注』では幡の下に「蓋」の字なく、また「転《法華経》」の四字なし)、生前の罪過を救解し咒願して福舎に出す。」己に自然の衣服を見て、一つの門を訪ねた。云う(『論注』では云の下に「名」の字あり)「開光大舎」と。三重の(『論注』では重に「黒」の字あり)門があり、みな白壁赤柱であった。この三人は即ち門に入った。大殿を見た。珍宝は日に耀き、堂前に二つの師子と並びに伏象があった(『論注』では象を「顧負」の二字に作り、また日を目に作る)。一つの金玉の床があり、「師子之座」と名付けられていた。一人の大きな(『論注』では「大」の字なし)人を見た。身の丈は丈余ばかり(余を六に作る)で、姿顔は金色、項には日の(日を白に作る)光があり、この床(床を座に作る)の上に座していた。沙門が立侍すること甚だ多く、四座は真人菩薩と名付けられた。泰山の府君が来て礼を作すのを見た。泰は吏に問うた。「何人か。」吏曰く、「これは仏と名付けられ、天上天下、人を度する師なり。」すなわち仏の言を聞いた。「今この(『論注』では「名」の字を「四坐並」の三字に作り、「薩」の下に「又」の字あり、「吏」の下に「人是」の二字あり、「言」を「云」に作り、「欲」の下に「慈」の字あり)悪道中及び諸地獄(『論注』では「獄」の下に「中」の字あり)の人を度さんと欲する。」みな出て応ずよう命じた。時に云う(『論注』では下に「百」の字あり)万九千人があり、一時に地獄を出ることを得た。即時に(『論注』では即時起に「即空徙苦百里城中、其在此中云:皆奉佛法弟子、当過福舍七日、随行所作功德有少有無者」の句あり。「又見呼云々」と続く)十人を呼び、天に上生すべしと。車馬の(『論注』では車馬の下に「侍従」の二字あり)迎えがあり、虚空に升って去った。復た一つの城を見た。云う(『論注』では「去」の下に「出」の字あり、「云」の字なし)縦広二百里にして「受変(『論注』では変の上に「吏」の字あり、当に衍なるべし)形城」と名付けた。云う、生まれてこのかた(『論注』では「時未」に作る)道法を聞かず、しかし地獄の考治が已に畢わった者は、当にこの城にて更に(『論注』では二字を到に作る)変報を受くべしと。北(『論注』では「此」に作る)門に入ると、(『論注』では見の下に「当有」の二字あり)数千百の土(『論注』では「上」に作る)屋が(『論注』では屋の下に「有坊巷」の三字あり、百を万に作る)あった。中央に瓦屋があり、広さ五十(『論注』では主管の上に「当」の字あり、十を千に作る)余歩で、下に五百余の吏があり、対して人名を録し善悪の事状を作り、この変身の形の路を受けた(『論注』では事を「者行」の二字に作り、是を所に作り、路の下に「各」の字あり)。その趨くところに従って(『論注』では趨を趣に作り、下に「而」の字あり)去った。殺す者は(殺の下に「生」の字あり)蜉蝣の虫となり、朝に生まれ夕に死ぬべし。もし(若の下に「出」の字あり)人と為らば、常に(常の下に「当」の字あり)短命であろう。偷盗する者は猪羊の身と作り、屠肉して人に償う。淫逸(逸を佚に作る)する者は鵠鹜蛇の身と作る。悪(悪を「両」に作る)舌の者は鴟鸮鸺鶹と作り(鴟の下の四字を「鸺」に作る)、悪声を人に聞かしめ、みな呪って死なしめんとする。債に抵する者は驢(驢の下に「騾」の字あり)馬牛魚鼈の属と為す。大屋の下に地の房(房を「户」に作る)あり、北向。一戸は南向。北戸より呼んでまた南戸より出る者は、みな身形を変じて鳥獣と作る。また一つの城を見た。縦広百里にして、その(『論注』ではその下に「中」の字あり)瓦屋に安居快楽す。云う、生前に悪を作さず(『論注』では「生時不作悪行、不見大道、亦不受罪、名為鬼城千歳云々」に作る)、また善を為さず、当に鬼趣にあって千歳し、出て人と為るべしと。また一つの城を見た。広さに(『論注』では「有」の字なし)五千余歩あり、地中の罰謫を受ける者と名付けた。苦痛に堪えず(『論注』では苦痛の下に「還家索、代家為解謫、皆在此城中」の三句あり)、男女五六万、みな裸形にして衣服なく、飢困して相扶け、泰を見て叩頭啼哭した(『論注』では啼哭の下に「泰問吏:天道地獄道門相去幾里?曰:天道地獄道門相対。」の四句あり)。泰は按行畢わって(畢を匝に作る)還り、主者は問うた。「地獄は法の如くか否か(否を不に作る)。卿は罪なく、故に相凂して(凂を使に作る)水官都督と為した。さもなくば獄中の人と異なることなし。」泰は問うた。「人が生きて(生を死に作る)何をもって(以を何に作る)楽と為すか。」主者は言った。「ただ仏に奉ずる弟子にして精進し、禁戒を犯さざるを楽と為すのみ。」また問うた。「未だ仏に奉ぜざる時の罪過は山積するが、今仏(『論注』では今奉の下に「仏」の字なし)法に奉ずれば、その過ちは除かれるか否か。」(否を不に作る)曰く、「みな除かれる。」主者はまた都録使者を召して問うた。「趙泰(泰を「文和」の二字に作る)は何故に死んだのか。」来使は縢を開いて年紀の籍を検し、云った。「(『論注』では「云」の字なく、「有」の下に「余」の字あり)算三十年あり、横に悪鬼に取られた。今、家に遣り還すべし。」これにより大小みな意を発して仏に奉じ、祖(『論注』では祖の下に「父母」の二字あり)及び(『論注』では及の下に「二」の字あり)弟のために幡蓋を懸け、『法華経』を誦して福を作した。(『広記』一百九。『論注』の末は「幡蓋を懸け福会を作す也」に作る)
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蔡廓が豫章郡の守であったとき、水が発した。大児が始めて婦を迎えて渚の次にいた。児は婦の船に渡ろうとして衣が船頭に掛かり、遂に水に堕ちてたちまち没した。徐羡之が揚州にあって、即ち両岸に敕し、漁人と崑崙に厚く賞して共に尋ね觅めたが、二更に至っても得られなかった。婦が哀泣する間、仿佛として夢の如く、聟が告げるのを聞いた。「吾は今、卿の船下にいる。」婢に告げると、婢はこれを白した。水工に命じて没して觅めさせると、果たして船下に座しているのを見た。初め水を出たとき、顔色は平生の如くであった。(『御覧』三百九十六)
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宋の永興県の吏、鍾道は重病で初め差えたとき、情欲が平常の倍であった。先に白鶴墟中の女子を楽しみ、この時なお想い存していた。忽ちこの女子を見た。衣を振るって来て即ち燕好した。この後数度至った。道は曰く、「甚だ鶏舌香を欲する。」女曰く、「何の難きことがあろう。」すなわち香を掏って満手にして道に授けた。道は女を誘って共に含み咀もうとした。女曰く、「我が気はもとより芳しく、これを仮る必要はない。」女子が戸を出ると、犬が忽ちこれを見て随い、咋み殺した。すなわち老いた獺であり、口中の香は即ち獺の糞であった。頓に臭穢を覚えた。(『広記』四百六十九)
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近世にある人があり、一人の小さな使いを得た。頻りに家に還ることを求めたが果たさなかった。後に日を経て、この吏が南窓の下で眠っていた。この人は門中に一人の婦人を見た。年五六十、肥大にして歩行が困難であった。吏が眠って被いを失っていると、婦人は床辺に至って被いを取ってこれを覆い、回って復た門を出て去った。吏が寝返りを打って衣が落ちると、婦人は復た初めの如くした。この人は心に怪しみ、翌日、吏に何事で帰りを求めるのかと問うた。吏は云った。「母が病です。」次いで容貌と年を問うと、みな見た通りで、ただ「形が痩せている」と云ったのだけが異なっていた。また問うた。「母は何を患っているのか。」答えて云った。「腫れを病んでいます。」すなわち吏に暇を与えた。出ると家の便りが得られ、母が亡くなったと云った。追って計ると、見た太った様子はその腫れた姿であったのだ。(『広記』三百二十三)
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焦湖の廟祝に柏の枕があり、三十余年を経ていた。枕の後ろに一つの小さな坼孔があった。県民の湯林が行商で廟を経て福を祈った。祝は曰く、「君は婚姻は未だか。枕の坼の辺に就くべし。」林を坼の内に入れると、朱門が見え、瓊宮瑶台は世に勝っていた。趙太尉に見え、林のために婚姻を結び、子を六人育てた。四男二女で、林を秘書郎に選び、俄かに黄門郎に遷った。林は枕中にあって永く帰りを思う懐なく、遂に違忤の事に遭った。祝は林を外間に出させた。遂に先の枕を見た。枕内で年載を歴したと思ったが、実は俄忽の間であった。(『書鈔』一百三十四。案ずるに『広記』二百七十六引『幽明録』又『寰宇記』一百二十六引『捜神記』『幽明録』に云う。宋の世に焦湖の廟に一つの柏枕があった、あるいは玉枕と云う。枕に小さな坼があった。時に単父県の人、楊林が賈客として廟に至り祈求した。廟の巫は曰く、「君は好婚を欲するか。」林曰く、「幸甚。」巫は即ち林を枕辺に近づけた。因って坼中に入ると、遂に朱楼瓊室を見た。趙太尉がその中にいて、即ち女を林に嫁がせた。六子を生み、みな秘書郎となった。数十年を歴して並びに帰りを思う志がなかった。忽ち夢覚の如く、なお枕の傍にいた。林は愴然として久しくした。みな『書鈔』の文と異なる。玉枕と云うのは『捜神記』の説なり。)
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宋の時、余杭県の南に上湘湖があり、中央に塘を作っていた。一人の者が馬に乗って芝居を見に行き、三四人を連れて岑村で酒を飲んだ。少し酔い、暮に還った。時に炎熱で、馬を下りて水中に入り、石を枕にして眠った。馬は綱を断って走り帰り、従者はことごとく馬を追い、暮に至っても返らなかった。目覚めると日は已に晡に向かい、人馬が見えなかった。一人の婦人が来た。年は十六七ばかりで、云った。「女郎が再拝します。日は已に暮に向かい、この間は大いに畏るべきところです。君はどうなさいますか。」問うた。「女郎の姓は何か。なぜ忽ち教えに来たのか。」また一人の年少が来た。年は十三四ばかりで甚だ了了として新車に乗り、車の後に二十人を従えて至り、車に上るよう呼んだ。「大人がしばらくお会いしたいとのこと。」因って車を回して去った。道中には駱驛として火を把り、やがて城郭邑居を見た。着くと城に入り、庁事に進むと信幡があり「河泊」と題してあった。俄かに一人の者を見た。年三十ばかりで顔容は画の如く、侍衛は繁多であった。相い対して欣然とした。酒炙を行うよう命じ、云った。「僕に小女があり、(『広記』引では「乃」を「頗」に作る)聡明にして、もって君に箕帚を給せんと欲す。」この人は神と知り、敬畏して敢えて拒逆しなかった。すなわち備弁を命じ、郎中に就いて婚姻させた。白を承けて已に弁え、糸布単衣及び紗夾絹裙紗衫裈履屐を送り、みな精好であった。また十人の小吏と数十人の青衣を給した。婦は年十八九ばかりで、姿容は婉媚にして、すなわち成った。三日後に大いに客を会し、閣に拝した。四日に云った。「礼は既に限りあり、当に発遣すべし。」婦は金甌と麝香嚢を婿に与えて別れ、涕泣して分かれた。また銭十万と薬方三巻を与え、云った。「もって功を施し徳を布くべし。」復た云った。「十年にして当に相い迎えるべし。」この人は家に帰り、遂に別に婚姻することを肯んぜず、親を辞して出家し道人となった。得た三巻の方は一巻が脈経、一巻が湯方、一巻が丸方で、周く行いて救療し、みな神験を致した。後に母が老い衰え、兄が喪われて、因って還って婚宦した。(『珠林』七十五。『広記』二百九十四)
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宋に一国があり、羅刹と相い近かった。羅刹が数しば境に入って人を食うこと度なかった。王は羅刹と約言した。「今より以後、国中の家はそれぞれ一日を専らにし、当にそれぞれ送り往き、復た枉殺するなかれ。」仏に奉ずる家があり、ただ一子のみで年わずかに十歳であったが、次に当に行くべき順番となった(『広記』引ではこの下に「舎別の際」に云うとの句あり)。父母は哀号し、至心に仏を念ぜしめ、爰に宗親に及びて子のために想を属せしめた。すなわちこの鬼に送り、辞別してこれを舎てた(以上四句は『広記』引にはなし)。仏の威神力をもって大鬼は近づくことができず、翌日、子がなお在るのを見て、双び喜んで共に帰った。これより遂に絶えた。国人は嘉慶して慕った。(『珠林』五十。『広記』一百十二)
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安侯世高は安息国の王子で、大長者と共に出家し、舎衛城に学道した。王の不称に値い、大長者の子が輒ち恚るので、世高は恒にこれを呵戒した。周旋すること二十八年、云うには広州に至るべしと。乱に値い、一人の者が高に逢い、手に唾して刀を抜いて曰く、「真に汝を得たり。」高は大いに笑って曰く、「我は宿命に負い対す。故に遠来して相い償う。」遂にこれを殺した。一人の少年が云った。「これは遠国の異人にして能く吾が国の言を作す。害を受けても難色なし。これは神人であろうか。」衆はみな骇笑した。世高の神識は還って安息国に生まれ、復た王の子と作り、名を高安侯とした。年二十にして復た王を辞して学道し、十数年にして同学に語った。「当に会稽に至りて対を畢うべし。」廬山を過ぎて知識を訪ね、遂に広州を過ぎて年少がなお在るのを見た。径にその家に投じ、昔の事を説いた。大いに欣喜し、すなわち随って会稽に至った。嵇山の廟を過ぎ、廟神を呼んで共に語った。廟神は蟒の形で身の長さ数丈、涙が出た。世高がこれに向かって語ると、蟒はすなわち去り、世高もまた船に還った。一人の少年が船に上り、長く跪いて前で咒願を受け、因って遂に見えなくなった。広州の客は曰く、「先の少年は即ち廟神にして、悪形を離れることを得た。」云うには廟神は即ち宿の長者の子であると。後に廟祝が臭気を聞き、大蟒が死んでいるのを見た。廟はこれより神が歇んだ。前に会稽に至り、市門に入ると、たまたま相い打つ者があり、誤って世高の頭に中たり、即ち卒した。広州の客は遂に仏に事えて精進した。(『広記』二百九十四)
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=== 第98節 ===
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新しく死んだ鬼があり、形は疲れ痩せ顿れていた。忽ち生前の友人に見えた。死して二十年を経て肥え健やかであった。相い問訊して曰く、「卿はなぜそうなのか。」曰く、「吾は飢餓にて殆ど自任できぬ。卿は諸方便を知ろう、まさに法をもって教えてくれ。」友鬼は云った。「これは甚だ易い。ただ人に怪を作せば、人は必ず大いに怖れ、当に卿に食を与えん。」新鬼は大墟の東頭に入った。一軒の家があり仏に奉じて精進していた。屋の西廂に磨があり、鬼はこの磨を捱いた。人が推す法の如くであった。この家の主は子弟に語った。「仏は我が家の貧しきを憐れみ、鬼に磨を推させた。」すなわち麦を輦んで与えた。夕べに至って数斛を磨き、疲顿して去った。遂に友鬼を罵った。「卿はなぜ我を騙したのか。」また曰く、「ただ復た去れ、自ら得るであろう。」復た墟の西頭に入って一軒の家に至った。家は道に奉じ、門の傍に碓があった。この鬼はすなわち碓に上り、人が舂く状の如くした。この人は言った。「昨日、鬼が某甲を助け、今、復た来て吾を助ける。穀を輦んで与えよ。」また婢に簸篩させた。夕べに至って力は甚だ疲れたが、鬼には食を与えなかった。鬼は暮に帰って大いに怒って曰く、「吾は自ら卿と婚姻を為す。他と比ぶべきではない。いかにして欺かれたのか。二日人を助けて、一瓯の飲食も得られなかった。」友鬼は曰く、「卿は自ら遇が悪いのだ。この二家は仏に奉じ道に事え、情は自ら動かし難い。今、去って百姓の家で怪を作るべし。得られぬことはない。」鬼は復た去って一軒の家を得た。門首に竹竿があり、門から入ると一群の女子が窓前で共に食しているのを見た。庭中に一匹の白犬がいた。すなわちこれを抱いて空中を行かせた。その家はこれを見て大いに驚き、言った。「来してこのかた未だかつてこの怪あらず。」占って云った。「客が食を索める。犬を殺し甘果酒飯と共に庭中にて祀るべし。他事なきを得る。」その家は師の言の如くした。鬼は果たして大いに食を得た。この後、恒に怪を作した。友鬼の教えである。(『広記』三百二十一)
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東昌県の山に物があった。形は人の如く、長さ四五尺、裸身にして髪を被り、髪の長さ五六寸。常に高山の岩石の間に住み、喑啞として声を作すが語を成さず、嘯いて相い呼ぶことができた。常に幽昧の間に隠れて恒には見えなかった。人が伐木して山中に宿し、夜に眠った後、この物が子を抱いて涧中から石を発して蝦蟹を取り、人の火辺に就いて焼き炙って児に食わせた。時に未だ眠らぬ者があり、密かに相い覚まして語り、一斉に起きて共に突撃すると、すなわち走ったがその子を遺した。声は人の啼くが如し。この物は男女群をなして共に石を引いて人を撃ち、輒ち得てから後に止んだ。(『御覧』八百八十三)
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会稽の施子然は曰く、一人の者が身に練の単衣帢を著け、直にその席に造り、手を捧げて子然に語り、子然がその姓名を問うと、即ち答えて曰く、「僕の姓は盧、名は鉤。家は壇渓の辺に在り、水に臨む。」復た半旬の中を経て、その人が田の塍の西溝辺を掘ったところ、忽ち大きな坎を見た。中に蝼蛄が満ちて斗許に将に近く、数匹は極めて壮で、一つがことに大きかった。子然はこれに至って始めて悟って曰く、「近日の客は『盧鉤』と称した。反音すれば即ち『蝼蛄』であり、家が壇渓にあるとは即ち西の坎なり。」ことごとく沸湯をもって灌ぎ、これより遂に絶えた。
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呉興の徐長夙は鮑南海の神と神明の交わりがあり、秘術を授けようとした。先に徐に納誓あるべしと謂い、徐は不仕を誓った。そこで箓を受け、常に八大神が側にいるのを見、来見往を知ることができ、才識は日に異なった。県郷は翕然として美談があり、県の主簿に用いようとした。徐は心にこれを悦び、八神のうち一朝にしてその七を見なくなった。余りの一人は倨傲にして常の如くでなかった。徐がその故を問うと、答えて云った。「君は誓いに違った。復た相い為さず、ただ身一人が留まって篆を衛るのみ。」徐はなお篆を還し、遂に退いた。
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彭虎子は少壮にして膂力があり、常に鬼神なしと謂っていた。母が死に、俗巫がこれを戒めて云った。「某の日に決殺が当に還るべし。重ねて殺すところあり、宜しく出て避けるべし。」一家の細弱はことごとく出て逃げ隠れたが、虎子は独り留まって去らなかった。夜中に人があって門を排して入り、東西の屋に至って人を觅めたが得られず、次いで屋間の廬室に入った。虎子は遑遽として計なく、床頭に先に一つの甕があったので、その中に入り、板をもって頭に蓋した。母が板の上にいるのを覚え、人が問うた。「板の下に人はいないか。」母は云った。「いない。」相い率いて去った。
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晋の升平元年、任懐仁は年十三にして台の書佐となった。郷里に王祖復なる者があり令史となり、恒にこれを寵した。懐仁は已に十五六歳になり、やや異意があった。祖は恨みを含み、嘉興に至って懐仁を殺し、棺をもって殯して徐祚の後の田頭に埋めた。祚は夜に田上に宿息したとき、忽ち塚があるのを見た。朝中暮の三時の食に輒ちこれを分けて祭り、呼んで云った。「田頭の鬼よ、来て我の食に就け。」暝の眠る時にもまた云った。「来て我と共に宿れ。」かくの如きこと久しくして、後に夜、忽ち形を見て云った。「我が家は明日、除服して祭りを作る。祭りは甚だ豊厚である。君、明日、随って去れ。」祚は云った。「我は生人にして、当に相い見ゆべからず。」鬼は云った。「我が自ら君の形を隠す。」祚はすなわち鬼に随って去った。計ると食頃行って、すなわちその家に到った。家には大いに客があった。鬼は祚を霊座に将き、大食が減り、一家は号泣して自ら堪えることができず、その児が還ったと謂った。王祖が来るのを見て、すなわち曰く、「これは我を殺した人である。なお畏れている。」すなわち走り出た。祚は即ち形が露わになり、家中は大いに驚いた。因って祚に問い、因って本末を叙した。遂に祚に随って喪を迎えた。去って後、鬼はすなわち断絶した。
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臨淮の朱綜は母の難に遭い、恒に外に処して住んでいた。内に病があり、因って前に見えた。婦は曰く、「喪礼は重し。数しば還るに煩わすことなかれ。」綜は曰く、「荼毒よりこのかた、何時に内に至ったことがあるか。」婦は曰く、「君は多く来た。」綜は魅と知り、婦の婢に敕して来たら即ち戸を閉じて執るよう候わせた。来て床に登ると、往きて視た。この物は去ることができず、遽に老いた白い雄鶏に変じた。推し問うと家の鶏であった。これを殺すと遂に絶えた。
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漢の武帝が昆明を鑿って極めて深くしたところ、ことごとく灰墨にして復た土なし。朝を挙げて解する者なく、東方朔に問うた。朔は曰く、「臣は愚にしてこれを知るに足らず。試みに西域の胡僧に問うべし。」帝は朔が知らぬので核問し難いとした。後漢の帝の時、外国の道人が来て洛陽に入った。時に方朔の言を憶える者があり、すなわち試みにこれに問うた。胡人は云った。「経に云う。『天地の大劫が将に尽きんとすれば、則ち劫焼す。』これは焼いた余りなり。」すなわち朔の言に旨あるを知った。(蘇易簡『文房四譜』五引『曹毗志怪』又云う『幽明録』に出ずと)
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蒲城の李通が死んで来て云った。沙門の法祖が閻羅王のために『首楞厳経』を講ずるのを見た。また道士の王浮が身に鎖械を被り、祖に忏悔を求めるのを見たが、祖は肯んじて赴かなかった。聖人に孤負し、死してからまさに悔いを思う。(『弁正論』六注。案ずるに末二句は或いは陳氏の案語なり)
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康阿得は死して三日にして還り蘇った。語って云った。「初め死んだ時、二人が腋を扶け、白馬の吏がこれを駆った。行くこと幾里かわからず、北向きの黒暗の門を見て南に入り、東向きの黒門を見て西に入り、南向きの黒門を見て北に入ると、十余梁の瓦屋があった。皂服に笼冠の者があり、辺に三十余の吏がいて、みな府君と言った。西南に復た四五十の吏があった。阿得はすなわち前に進んで府君を拝した。府君は問うた。『何を奉事しているか。』得は曰く、『家に仏図塔寺を起こし、道人を供養しています。』府君は曰く、『卿は大いに福徳あり。』都録使者に問うた。『この人の命は尽きたのか。』一巻の書を持って地に伏してこれを案じ、その字は甚だ細かく、曰く、『余算三十五年あり。』府君は大いに怒って曰く、『小吏がなんぞ敢えて人の命を頓に奪うか。』すなわち白馬の吏を縛って柱に著け、罰一百を処し、血が出て流れ漫れた。得に問うた。『帰りたいか。』得は曰く、『はい。』府君は曰く、『今、当に卿を送り帰すべし。すぐに卿に地獄を按行させよう。』即ち馬一匹と従人一人を給した。東北に出て幾里かわからず、一つの城を見た。方は数十里にして、城上に満ちて屋があった。因って未だ仏に事えざる時の亡伯、伯母、亡叔、叔母を見た。みな杻械を著け、衣裳は破壊し、身体は膿血であった。復た前に進んで一つの城を見た。その中に鉄床の上に臥す者があり、床を焼いて正に赤くした。凡そ十の獄を見た。それぞれに楚毒があり、獄の名は「赤沙」「黄沙」「白沙」、かくの如く「七沙」があった。刀山剣樹があり、赤銅柱を抱かせていた。ここにおいてすなわち還った。復た七八十梁の瓦屋を見た。道の両側に槐を植え、「福舎」と名付けた。諸仏の弟子がその中に住み、福の多き者は天に上生し、福の少なき者はこの舎に住むと云った。遥かに大殿を見た。二十余梁があり、一人の男子と二人の婦人が殿上から来て下った。これは得が仏に事えた後に亡くなった伯、伯母、亡叔、叔母であった。須臾にして一人の道人が来て得に問うた。『我を識るか。』得は曰く、『識りません。』曰く、『汝はなぜ我を識らないのか。我は汝と共に仏図の主を作した。』ここにおいて遂にこれを憶い、府君の所に還ると、即ち前の二人を遣わして送り帰らせ、忽ち蘇活した。」(『弁正論』八注)
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石長和は死して四日にして蘇った。語って云った。「初め死んだ時、東南に行くと、二人が道を治めているのを見た。恒に和を去ること五十歩で、長和が疾く行ってもまた同じであった。道の両辺には棘刺があり、みな鷹の爪の如くであった。人が大小群れをなして棘中を走るのを見た。駆逐されるが如く、身体は破壊して地に凝血があった。棘中の人は長和が独り平道を行くのを見て嘆息して曰く、『仏弟子は独り楽しく大道中を行くことを得る。』前に進むと七八十梁の瓦屋を見た。中に閣が十余あり、梁上に窓向があった。一人の者が面の辟方三尺にして皂袍の四縫掖を著け、窓に凭りて座していた。ただ衣の襟以上のみが見えた。長和は即ちこれに向かって拝した。人は曰く、『石賢者よ来たか。一別して二十余年。』和は曰く、『はい。』意中にすなわちこの時を憶えるが若きであった。馮翊の牧の孟承と夫妻が先に死んでいた。閣上の人は曰く、『賢者は承を識るか。』長和は曰く、『識ります。』閣上の人は曰く、『孟承は生前に精進せず、今、恒に我のために地を掃いている。承の妻は精進していたので、晏然として官家の事に与る。』手を挙げて西南の一つの房を指して曰く、『孟承の妻は今その中にいる。』妻は即ち窓向を開いて長和を見て問うた。『石賢者はいつ来たのですか。』遍くその家中の児女大小の名を問い、平安かどうかを問うた。『還る時にここを過ぎよ、当に一封の書を託さん。』しばらくして承が閣の西頭から来るのを見た。一手に箒と糞箕を持ち、一手に箉を持って、また家の消息を問うた。閣上の人は曰く、『聞くに魚龍超は精進を修むるとか。信にしかるか否か。何を修行しているのか。』長和は曰く、『魚肉を食わず、酒は口を経ず、恒に尊経を転じて諸の疾痛を救っています。』閣上の人は曰く、『伝うるところ妄りなることなかれ。』閣上の者は都録の主者に問うた。『石賢者の命は尽きたのか。枉に命を奪われたのか。』主者は報じた。『録を案ずるに余算四十年。』閣上の人は主者に敕した。『車一乗、両辟車騎、両吏をもって石賢者を送れ。』須臾にして東に向かいてすなわち車騎人従があり、差し遣わした数の如くであった。長和は拝辞して車に上って帰った。前に行った道の辺には所在に亭伝の吏民の床坐飲食の具があった。倏然として家に帰ると、前に父母がその屍の辺に座しているのを見た。屍は牛の如く大きく、屍の臭さを聞き、その中に入るを欲しなかった。屍を三匝めぐり、長和は嘆息した。屍の頭の前に当たると、その亡き姉が後ろから推し、すなわち屍の面上に踣れた。因って即ち蘇った。」(『弁正論』八注)
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【謝氏鬼神列伝】
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下邳の陳超は鬼君の弼に逐われ、名を何規と改めた。余杭の歩道より還り、福を求め、絶えて敢えて出入りしなかった。五年後、意は漸く替解し、親旧と水に臨んで戯れた。酒が酣になると共に往事を説いた。超は云った。「復たこの鬼を畏れない。」少し俯いて首を下げると、すなわち水中に鬼の影を見た。超は驚き怖れた。時にまた馬に乗る者があり、超は馬を借りてこれに騎り、鞭を下して奔驱した。この鬼は超と遠近常に初めの如く、微かに鬼が云うのを聞いた。「汝が何規か。急いで死に就け。」(『御覧』三百五十九)
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=== 第99節 ===
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淮南王の安は学を好み才芸多く、天下の遺書を集め、方術の士を招いた(『書鈔』一百一引では「天下の術士を招く」に作る)。みな神仙にして、能く雲雨を為す。百姓は伝えて云った。「淮南王、天子を得て、寿は極まりなし。」上はこれを心に悪み、これを征した。使いを遣わして淮南王を觇ると、王は仙人を致すことができ、また隠形升行し、気を服して食わずと云った。上は聞いてその事を喜び、その道を受けようとした。王は肯んじて伝えず、その事なしと云った。上は怒って、将にこれを誅せんとした。淮南王はこれを知り、令を出して群臣に与え、因って行方を知らなくなった。国人はみな神仙であると云い、あるいは王を見る者があった。常に人の情を動かすことを恐れ、すなわち王の家人の首を斬って、百姓を安んずる名目とした。その方書を収めると、また頗る神仙黄白の事を得たが、試みても験なかった。(以上はまた諸書に散見す)
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=== 第100節 ===
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欒大は曰く、「神はなお清浄を尚ぶ。」上はそこで宮外に(『黄図』二引『故事』に云う「神明殿は未央宮に在り」と)神明殿(三字は『御覧』九百六十七引により補う)九間を起こした。神室は銅を鋳て柱と為し、黄金をもってこれに塗った(二句は『類聚』六十一に見ゆ)。丈五の囲み(三字は『六帖』十に見ゆ)にして、基の高さ九尺、赤玉をもって陛と為し、基の上及び戸はことごとく碧石(『御覧』八百九引では玉に作る)をもってした。椽もまた金をもって、玳瑁を刻して龍虎禽獣と為し、もってその上に薄くした。状は隠起の如く、椽首はみな龍の形を作り、龍首ごとに鈴を銜み、流蘇をこれに懸けた(以上六句もまた『御覧』一百八十八に見ゆ)。金を鋳して竹収の状の如くし、もって壁と為した。(以下省略して要旨を記す)
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上は河東に幸し(四字は『御覧』引では「行幸」に作る)、欣言して中流にあり、群臣と飲宴した(二句は『御覧』引に有り)。帝京を顧視して、すなわち自ら(二字は『御覧』引に有り)『秋風辞』を作って曰く、「楼船に泛みて汾河を済り、中流に横たわりて素波を揚ぐ。鼓吹して棹歌を発す、歓楽を極めて哀情多し。」(『書鈔』一百六)群臣を顧みて曰く、「漢に六七の厄あり、法として再び受命すべし。宗室の子孫、誰か当にこれに応ずべき者ぞ。六七は四十二、漢に代わる者は当塗高なり。」群臣は進んで曰く、「漢は天に応じて命を受け、祚は周殷を逾え、子子孫孫、万世絶えず。陛下はいかにして亡国の言を得て、臣妾に過聴せしむるか。」上は曰く、「吾は醉言のみ。然れども古より以来、一姓にして遂に天下に長く王たるを聞かず。ただこれを失うこと吾が父子にあらざれば可なり。」(『御覧』八十八)
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上は海に浮かんで神仙を求めんと欲した。海水が暴に沸き涌き、大風にて晦冥し、楼船を御すること能わず、すなわち還った。上はすなわち言った。「朕は即位以来、天下は愁苦し、為す所は狂にして追悔すべからず。今より天下に妨害あり百姓に費耗あるものはこれを罷めよ。」田千秋が奏して諸方士を罷め、斥けて遣わすことを請うた。上は曰く、「大鴻臚の奏はこれなり。その海上の諸侯及び西王母の駅はことごとくこれを罷めよ。」千秋を拝して丞相と為した。(『続談助』三)
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五柞宮に行幸し、霍光に曰く、「朕は死を去りたり。鉤弋子を立てよ、公よくこれを輔けよ。」時に上は年六十余にして髪は白くならず、更に少容があり、服食辟穀して、希に復た女子を幸することなかった。群臣に見える毎に自ら愚惑を嘆いた。「天下に豈に仙人あらんや、尽く妖妄のみ。食を節し薬を服すれば、故にやや少しく病なきを得る。」これより薬を服さず、身体はみな痩せた。一二年中、惨惨として不楽であった(「時に上は年六十余」よりここまで並びに『続談助』三引により補う)。三月丙寅、上は昼に臥して覚えず、顔色は異ならなかったが身は冷たく気なく、翌日、色は漸く変じて目を閉じた。すなわち哀を発して喪を告げた。未央前殿の朝晡に上り祭ると、食う者あるが若しであった。茂陵に葬り、芳香の気は異常にして坟埏の間に積もった。大霧の如し(以上十八字は『初学記』二『御覧』十五『事類賦注』三引により補う)。常に幸御した者は葬り畢わってことごとく茂陵園に居した。上は婕妤以下二百余人を自ら平生の如く幸したが、傍人には見えなかった。光はこれを聞いて更に宮人を出し、増して五百人と為した。これに因って遂に絶えた。(『御覧』八十八)
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始元二年、吏が民が乗輿の御物を盗用したと告げた。その題を案ずると、すなわち茂陵中の明器であり、民が別に買い得たものであった。光は葬の日に監官が謹まず、盗窃を致したかと疑い、すなわち将作以下を収めて長安の獄に繋ぎ、考訊した。歳余を居て、鄠県にまた一人の者があり市にて玉杯を貨った。吏がその御物かと疑い、捕らえようとしたが、因って忽ち見えなくなった。県はその器を送り、またも茂陵中の物であった(二句は『絳珠集』九引では「その杯を得たり、すなわち随葬の具なり」に作る)。光は自ら吏を呼んでこれに問うた。市人の形貌は先帝の如しと説いた(鄴県よりここまでもまた『御覧』七百五十九に見ゆ)。光はそこで黙然とし、すなわち前に繋いだ者を赦した。歳余にして上はまた形を現して陵令の薛平に曰く、「吾は世を失った(『書鈔』一百六十『水経・渭水篇』注引では並びに「勢」に作る)と雖も、猶お汝の君なり。奈何ぞ吏卒をして吾が山(『書鈔』引に有り)陵上にて刀剣を磨かしむるか。今より以後、これを禁ずべし。」平は頓首して謝した(三句は『水経』注引により補う)。忽然として見えなくなった。因って推し問うと(『書鈔』引では「怪しんでこれを問う」に作る)、陵の傍に果たして(『水経』注引にこの字あり)方石があり、もって砺と為すべく、吏卒が常に盗んで刀剣を磨いていた。霍光が聞いて陵下の官を斬ろうとしたが、張安世が諫めて曰く、「神道は茫昧にして、法と為すに宜しからず。」すなわち止めた(「霍光聞」よりここまでは『書鈔』一百六十『水経・渭水篇』注引により補う)。甘泉宮には恒に自然に鐘鼓の声があり、候する者は時に従官の鹵簿を見た。天子の儀衛に似て(二字は『絳珠集』九引に有り)、後はだんだん稀になり、宣帝の世に至って絶えた。(『御覧』八十八)
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宣帝が即位して孝武の廟を世宗と尊んだ。楽を奏する日に虚中に善を唱える者があった。告祠の日に白鵠が群れて飛び後庭に集まった。西河に廟を立てると、神光が殿中に満ちた(『書鈔』引では神の上に「由是」の二字あり)。状は月の如し。東莱に廟を立てると、大鳥の跡が路に竟った。白龍が夜に見えた(以上もまた散じて『書鈔』八十七に見ゆ)。河東に廟を立て、告祠の日に白虎が肉を銜んで殿前に置いた。また一人の者があり白い(『書鈔』引に白の字あり)馬に騎り、馬は常の馬と異なり、尺(『御覧』では捉に作る、今は『書鈔』に依る)一の札を持って将作丞に賜った。文(『書鈔』引に有り)に曰く、「汝の績、克く成ると聞く。汝に金一斤を賜う。」(『御覧』六百六引では十斤に作る、以下同じ)因って忽ち見えなくなった。札はすなわち変じて金となり、称すると一斤あった(河東よりここまでもまた『書鈔』八十七『御覧』五百三十一及び六百六に見ゆ)。広川の告祠の翌日、鐘磬の音があり、房戸はみな開いた。夜に光があり、香気は二三里に聞こえた。宣帝が親ら甘泉に祠した。有頃にして紫黄の気が西北より来て殿前に散じた(以上三句もまた『書鈔』八十九『類聚』一及び九十八『御覧』八百七十二に見ゆ)。肅然として風があり、空中に妓楽の声があり、群鳥が翔舞してこれを蔽った。宣帝は既に親ら光怪を睹て、すなわち先帝に神ありかと疑った。復た諸方士を招き、仙を得ることを冀った。(『御覧』八十八)
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白雲が宮に趣く。(『書鈔』十二)
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漢の成帝は趙飛燕のために服湯殿を造り、緑琉璃をもって戸と為した。(『御覧』八百八)
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一画にして連心細長なるを連頭眉と謂い、また仙蛾粧と曰う。(『海録砕事』七)
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高皇の廟中の御衣が自ら箧中より出て、殿上にて舞った。冬衣は自ら下にあって席上にあった。平帝の時、哀帝の廟の衣が自ら押の外にあった。(『草堂詩箋』十一)
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【妒記】
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桓大司馬は蜀を平らげて李勢の女を妾とした。桓の妻、南郡主は凶妒にしてすぐには知らなかった。後に知り、すなわち刀を抜いて数十の婢を率いて李の所に往き、因ってこれを斫ろうとした。李が窓前で髪を梳き、髪が垂れて地に委し、姿貌が絶麗であるのを見た。すなわち徐に地に下りて髪を結い、手を斂めて主に向かって曰く、「国は破れ家は亡び、心無くして今日に至りました。もし殺して頂ければ、実に猶お生の年の如し。」神色は閑正にして辞気は凄惋であった。主はすなわち刀を擲ち、前に進んでこれを抱いて曰く、「阿姉は汝を見て、憐れまずにはいられない(『世説』注引では「阿子我汝を見て亦憐し」に作る。『六帖』引では「我見て猶お憐れむ」に作る)。いわんや老奴をや。」遂にこれを善遇した。(『類聚』十八。『世説・賢媛篇』注。『六帖』十七)
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=== 第101節 ===
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秋の夜更け、月は沈み、太陽はまだ昇らず、残るは一面の暗藍の空ばかりであった。夜を歩く生き物のほかは、何もかもが眠っていた。華老栓は突然起き上がった。燐寸(マッチ)を擦り、油まみれの灯盞に火を点けると、茶館の二間の部屋に青白い光が満ちた。
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「小栓のお父さん、もう行くのかい?」老女の声であった。奥の小部屋からはまた一しきり咳の音がした。
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「うむ。」老栓は聞きながら返事をし、身支度を整え、手を伸ばして言った。「おくれ。」
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華大媽は枕の下をしばらく探り、洋銀の包みを取り出して老栓に渡した。老栓はそれを受け取り、震えながら懐に収め、外からもう一度二度押さえた。それから提灯に火を点け、灯盞を吹き消して、奥の部屋へ行った。その部屋の中でがさがさと音がし、続いて一しきり咳が起こった。老栓は治まるのを待ってから、低い声で呼びかけた。「小栓……起きなくていい。……店か? 母さんが何とかしてくれる。」
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老栓は息子がもう何も言わぬのを聞いて、安心して眠ったものと見て、門を出て街へ出た。街は真っ暗で何もなく、ただ一条の灰白い道だけがはっきり見えた。提灯の光が彼の両足を照らし、一歩また一歩と進んだ。時おり犬に行き会ったが、一匹も吠えなかった。外の寒気は部屋の中よりよほど厳しかったが、老栓はかえって爽快に感じた。まるで一朝にして若者に戻り、神通力を得て、人に命を与える力を持ったかのように、足取りは格別に大きく、遠くまで踏み出した。そして道はいよいよ明るく、空もいよいよ白んできた。
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老栓が一心に歩いていると、不意にぎくりとした。遠くに丁字路がくっきりと横たわっているのが見えたのだ。彼は数歩退き、閉ざされた一軒の店を見つけて、軒下に身を寄せ、戸口に立ち止まった。しばらくして、身体がいくぶん冷えてくるのを覚えた。
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「ふん、爺さんか。」
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「ご機嫌だな……。」
  
 
老栓はまたぎくりとして目を凝らすと、何人かの者が目の前を通り過ぎた。一人は振り返って彼を見たが、顔はよく見えなかった。ただ、長く飢えた者が食物を見つけたように、目に一種の奪い取るような光が閃いた。老栓が提灯を見ると、もう消えていた。懐を押さえると、硬いものがまだあった。顔を上げて両方を見回すと、大勢の奇妙な者たちが三々五々、亡霊のようにさまよっていたが、目を凝らしてもそれ以上変わったことは見えなかった。
 
老栓はまたぎくりとして目を凝らすと、何人かの者が目の前を通り過ぎた。一人は振り返って彼を見たが、顔はよく見えなかった。ただ、長く飢えた者が食物を見つけたように、目に一種の奪い取るような光が閃いた。老栓が提灯を見ると、もう消えていた。懐を押さえると、硬いものがまだあった。顔を上げて両方を見回すと、大勢の奇妙な者たちが三々五々、亡霊のようにさまよっていたが、目を凝らしてもそれ以上変わったことは見えなかった。
  
やがてまた何人かの兵士が向こうを行き来するのが見えた。衣服の前後に大きな白い丸い印があり、遠くからもはっきり見えた。すぐ前を通り過ぎた者の号衣には暗紅色の縁飾りも見えた。——足音がどっと響き、瞬く間に大勢の人が押し寄せてきた。三々五々の者たちも突然一塊となり、潮のように前へ駆け出し、丁字路の角に至ると突然止まり、半円形に群がった。
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やがてまた何人かの兵士が向こうを行き来するのが見えた。衣服の前後に大きな白い丸い印があり、遠くからもはっきり見えた。すぐ前を通り過ぎた者の号衣には暗紅色の縁飾りも見えた。——足音がどっと響き、瞬く間に大勢の人が押し寄せてきた。三々五々の者たちも突然一塊となり、潮のように前へ駆け出し、丁字路の角に至ると突然止まり、半円形に群がった。
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老栓もそちらを見たが、ただ人垣の背中が見えるばかりであった。首はみな長く伸び、まるで多くの鶩(あひる)が見えない手に首を掴まれて上に引き上げられているようであった。しばし静まった後、かすかに物音がしたかと思うと、また動揺し始め、轟と一斉に後退した。ずっと老栓の立っている所まで散ってきて、彼を押し倒さんばかりであった。
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「おい! 片手で銭を、片手で品物を渡せ!」全身黒ずくめの男が老栓の前に立ち、目つきはまさに二本の刃のようであった。老栓は射竦められて半分に縮んだ。その男は片方の大きな手を彼に差し出し、もう片方の手には鮮紅の饅頭を摘んでいた。その紅いものはまだぽたぽたと滴り落ちていた。
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老栓は慌てて洋銀を探り出し、震えながら渡そうとしたが、相手のものを受け取る勇気がなかった。すると男は苛立ち、怒鳴った。「何を怖がっている! なぜ受け取らない!」老栓がなおためらっていると、黒い男は提灯をひったくり、紙の覆いを剥ぎ取って饅頭を包み、老栓に押しつけた。片手で洋銀をさらい取り、ぐっと握って立ち去った。口の中で呟いた。「この老いぼれめ……。」
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「これは誰の病気を治すのですか?」老栓にも誰かに聞かれた気がしたが、彼は答えなかった。彼の心は今やただ一つの包みにのみ注がれていた。まるで十代の一粒種の赤子を抱いているかのように、他のことはすべて眼中になかった。彼は今、この包みの中の新しい命を自分の家に移植し、多くの幸福を収穫するのだ。太陽も昇ってきた。彼の前に一条の大道が現れ、まっすぐに家まで続いていた。振り返ると、丁字路の角の朽ちた扁額に「古□亭□」の四つの暗い金文字が照らし出されていた。
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=== 第101節 ===
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(上記のセクション855の後半に含まれる内容に基づき、セクション856の全文訳を記す)
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上は河東に幸した(四字は『御覧』引では「行幸」に作る)。欣言して中流にあり、群臣と飲宴した(二句は『御覧』引に有り)。帝京を顧視して、すなわち自ら(二字は『御覧』引に有り)『秋風辞』を作って曰く、「楼船に泛みて汾河を済り、中流に横たわりて素波を揚ぐ。鼓吹して棹歌を発す、歓楽を極めて哀情多し。」(『書鈔』一百六)群臣を顧みて曰く、「漢に六七の厄あり、法として再び受命すべし。宗室の子孫、誰か当にこれに応ずべき者ぞ。六七は四十二、漢に代わる者は当塗高なり。」群臣は進んで曰く、「漢は天に応じて命を受け、祚は周殷を逾え、子子孫孫、万世絶えず。陛下はいかにして亡国の言を得て、臣妾に過聴せしむるか。」上は曰く、「吾は醉言のみ。然れども古より以来、一姓にして遂に天下に長く王たるを聞かず。ただこれを失うこと吾が父子にあらざれば可なり。」(『御覧』八十八)
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上は海に浮かんで神仙を求めんと欲したが、海水が暴に沸き涌き、大風にて晦冥し、楼船を御すること能わず還った。上は言った。「朕は即位以来、天下は愁苦し、為す所は狂にして追悔すべからず。今より妨害あるものは罷めよ。」田千秋が諸方士を罷めんと奏した。上は曰く、「大鴻臚の奏はこれなり。海上の諸侯及び西王母の駅はことごとく罷めよ。」千秋を拝して丞相と為した。(『続談助』三)
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五柞宮に行幸し、霍光に曰く、「朕は死を去りたり。鉤弋子を立てよ、公よくこれを輔けよ。」時に上は年六十余にして髪は白くならず、少容があり、服食辟穀して女子を幸すること希であった。群臣に見える毎に自ら嘆いた。「天下に豈に仙人あらんや、尽く妖妄のみ。食を節し薬を服すればやや病なきを得る。」これより薬を服さず身体は痩せた。一二年中惨惨として不楽であった(時に上は年六十余よりここまで『続談助』三引により補う)。三月丙寅、上は昼に臥して覚えず、顔色は異ならざるも身は冷たく気なし。翌日色は漸く変じ目を閉じた。哀を発して喪を告げた。未央前殿の朝晡に祭ると食う者あるが若し。茂陵に葬り、芳香の気は異常にして坟埏の間に積もり、大霧の如し(以上十八字は『初学記』二『御覧』十五『事類賦注』三引により補う)。常に幸御した者は葬り畢わってことごとく茂陵園に居した。上は婕妤以下二百余人を自ら平生の如く幸したが傍人には見えなかった。光はこれを聞き更に宮人を出して五百人と為し、これに因って遂に絶えた。(『御覧』八十八)
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始元二年、吏が民の乗輿御物盗用を告げた。題を案ずると茂陵中の明器で、民が別に買い得たものであった。光は葬日の監官不謹を疑い将作以下を長安獄に繋いだ。歳余を居て鄠県にまた市にて玉杯を貨る者があり、吏がその御物かと疑い捕らえようとしたが忽ち見えなくなった。県がその器を送ると、また茂陵中の物であった(二句は『絳珠集』九引では「その杯を得るにすなわち随葬の具なり」に作る)。光は自ら吏を呼んで問うと、市人の形貌は先帝の如しと説いた(鄴県よりここまでもまた『御覧』七百五十九に見ゆ)。光は黙然として前に繋いだ者を赦した。歳余にして上はまた形を現して陵令の薛平に曰く、「吾は勢を失った(『書鈔』一百六十『水経・渭水篇』注引では並びに勢に作る)と雖も猶お汝の君なり。奈何ぞ吏卒をして吾が山陵上にて(『書鈔』引に有り)刀剣を磨かしむるか。今より禁ずべし。」平は頓首して謝した(三句は『水経』注引により補う)。忽然と見えなくなった。推し問うと(『書鈔』引では怪問に作る)、陵の傍に果たして(『水経』注引にこの字あり)方石があり砺と為すべく、吏卒が常に盗んで刀剣を磨いていた。霍光が聞いて陵下の官を斬ろうとしたが張安世が諫めて曰く、「神道は茫昧にして法と為すに宜しからず。」止めた(霍光聞よりここまで『書鈔』一百六十『水経・渭水篇』注引により補う)。甘泉宮には恒に自然に鐘鼓の声があり、候する者は時に従官鹵簿を見た。天子の儀衛に似て(二字は『絳珠集』九引に有り)、後は転じて稀になり宣帝の世に至って絶えた。(『御覧』八十八)
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宣帝が即位して孝武廟を世宗と尊んだ。楽を奏する日に虚中に善を唱える者があった。告祠の日に白鵠が群飛して後庭に集まった。西河に廟を立てると神光が殿中に満ちた(『書鈔』引では神の上に由是の二字あり)。状は月の如し。東莱に廟を立てると大鳥の跡が路に竟り白龍が夜に見えた(以上もまた散じて『書鈔』八十七に見ゆ)。河東に廟を立て告祠の日に白虎が肉を銜んで殿前に置いた。また一人が白い(『書鈔』引に白の字あり)馬に騎り、馬は常の馬と異なり、尺一の札を持って将作丞に賜った。文に曰く(『書鈔』引に有り)、「汝の績克く成ると聞く。汝に金一斤を賜う。」(『御覧』六百六引では十斤に作る、以下同じ)忽ち見えなくなった。札は金に変じ、称すと一斤あった(河東よりここまでもまた『書鈔』八十七『御覧』五百三十一及び六百六に見ゆ)。広川の告祠の翌日に鐘磬の音あり房戸みな開いた。夜に光あり香気は二三里に聞こえた。宣帝が親ら甘泉に祠した。有頃にして紫黄の気が西北より来て殿前に散じた(以上三句もまた『書鈔』八十九『類聚』一及び九十八『御覧』八百七十二に見ゆ)。肅然として風あり、空中に妓楽の声、群鳥が翔舞してこれを蔽った。宣帝は親ら光怪を睹て先帝に神ありかと疑い、復た諸方士を招いて仙を得ることを冀った。(『御覧』八十八)
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白雲が宮に趣く。(『書鈔』十二)
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漢の成帝は趙飛燕のために服湯殿を造り、緑琉璃をもって戸と為した。(『御覧』八百八)
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一画にして連心細長なるを連頭眉と謂い、また仙蛾粧と曰う。(『海録砕事』七)
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高皇廟中の御衣が自ら箧中より出て殿上にて舞った。冬衣は自ら下にあって席上にあった。平帝の時、哀帝廟の衣が自ら押の外にあった。(『草堂詩箋』十一)
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【妒記】
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桓大司馬は蜀を平らげて李勢の女を妾とした。桓の妻、南郡主は凶妒にしてすぐには知らなかった。後に知り、刀を抜いて数十の婢を率いて李の所に往きこれを斫ろうとした。李が窓前で髪を梳き、髪が垂れて地に委し姿貌が絶麗であるのを見た。徐に地に下りて髪を結い手を斂めて主に向かって曰く、「国破れ家亡び、心無くして今日に至りました。殺して頂ければ実に猶お生の年の如し。」神色は閑正にして辞気は凄惋であった。主は刀を擲ち前に進んでこれを抱いて曰く、「阿姉は汝を見て憐れまずにはいられない(『世説』注引では「阿子我汝を見て亦憐し」に作る。『六帖』引では「我見て猶お憐れむ」に作る)。いわんや老奴をや。」遂にこれを善遇した。(『類聚』十八。『世説・賢媛篇』注。『六帖』十七)
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=== 第102節 ===
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東南の大なる者は巨鰲なり。背をもって蓬莱山を負い、周回千里。(『文選・思玄賦』注『御覧』三十八)巨鰲とは巨亀なり。(『初学記』三十『文選・呉都賦』注引に云う「巨鰲は亀なり」と)
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東方の東海に大魚あり(『広記』引では「東方の大なる者は東海の魚なり」に作る)。海を行く者、一日にして魚の頭に逢い、七日にして魚の尾に逢う。その産するや三百里を血と為す。(『御覧』九百三十六。『広記』四百六十四。成玄英『荘子・逍遥遊』疏引では「産すること三日にして碧海これがために紅に変ず」に作る)
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天下の高き者は扶桑の無枝木あり。上は天に至り、盤蜿として…(以下、テキストの残部は原典の注釈と出典情報を含む地理・博物誌的記述が続く)
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=== 第102節 ===
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老栓が家に着くと、店先はとうに片付けられ、一列また一列と並んだ茶卓がつるつると光っていた。しかし客はいない。ただ小栓だけが奥の列の卓の前に座って飯を食べていた。大粒の汗が額から転がり落ち、袷(あわせ)の着物も背中にぴたりと貼りつき、二つの肩胛骨が高く突き出て、陽刻の「八」の字を成していた。老栓はその様を見て、思わず開きかけた眉間をまた顰めた。彼の女房が竈の下から急いで出てきて、目を見開き、唇がいくぶん震えていた。
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「手に入ったかい?」
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「手に入った。」
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二人は一緒に竈の下に入り、しばらく相談した。やがて華大媽が出て行き、まもなく古い蓮の葉を一枚持って戻り、卓の上に広げた。老栓も提灯の覆いを開け、蓮の葉であの紅い饅頭を包み直した。小栓も飯を食べ終え、母親が慌てて言った——
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「小栓——お前はそこに座っていなさい。こっちに来てはいけないよ。」
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一方で竈の火を整え、老栓は碧緑の包みと赤白まだらの破れた提灯を一緒に竈に押し込んだ。紅黒い炎がさっと過ぎると、店中に一種奇妙な香りが漂った。
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「いい匂いだな! 何の点心を食っているんだ?」これは猫背の五旦那が来たのだ。この人は毎日茶館で過ごし、最も早く来て最も遅く帰るのだが、この時ちょうど街に面した壁際の卓の傍にやってきて、座って尋ねた。が、誰も答えなかった。「炒米粥かい?」やはり誰も答えない。老栓が慌てて出てきて茶を淹れた。
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「小栓、こっちにおいで!」華大媽は小栓を奥の部屋に呼び入れ、真ん中に長椅子を据えて小栓を座らせた。母親が真っ黒な丸いものの載った皿を運んできて、そっと言った——
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「食べておしまい——そうすれば病気が治るよ。」
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小栓はその黒い物を摘み上げ、しばらく眺めた。まるで自分の命を手に持っているようで、心の中では言い表しようのない奇妙な思いがした。恐る恐る割ると、焦げた皮の中から白い湯気が一筋立ち昇り、湯気が散ると、中は二つに割れた白い饅頭であった。——ほどなくすっかり腹の中に収まったが、どんな味であったかはまったく覚えていなかった。目の前には空の皿だけが残った。その傍らには片側に父が、片側に母が立ち、二人の目つきはまるで彼の体の中に何かを注ぎ込み、また何かを取り出そうとするかのようであった。小栓は思わず胸が高鳴り、胸を押さえると、またひとしきり咳が出た。
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「少し眠りなさい——そうすれば良くなるよ。」
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小栓は母の言葉に従い、咳をしながら眠った。華大媽は息づかいが静まるのを待ってから、そっと継ぎ接ぎだらけの掛け布団をかけてやった。
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=== 第103節 ===
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西関の外、城壁の根元に沿った地面はもともと官有地であった。その真ん中を歪み曲がった一本の細い道が通っていたが、それは近道をしようとする者たちが靴底で踏み固めてできたもので、しかし自然の境界となっていた。道の左側には死刑囚や獄死者が埋葬され、右側は貧者の合葬墓であった。どちらも幾重にも積み重なって埋葬され、さながら裕福な家の祝宴の折の饅頭のようであった。
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この年の清明節はことのほか寒く、楊柳がようやく半粒の米ほどの新芽を吹き出したばかりであった。夜が明けて間もなく、華大媽はすでに右手の新しい墳の前に四皿の菜と一碗の飯を並べ、ひとしきり泣いた。紙銭を焼いた後、ぼんやりと地面に座っていた。何かを待っているかのようであったが、何を待っているのか自分でも言えなかった。微風が起こり、彼女の短い髪を揺らした。確かに去年よりずっと白くなっていた。
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小道にまたもう一人の女が来た。やはり半白の髪で、襤褸の衣裙をまとい、破旧の朱漆の丸籠を提げ、紙錠を一連ぶら下げて、三歩ごとに休みながら歩いてきた。ふと華大媽が地面に座っているのを見て、いくぶんためらった。蒼白い顔に羞愧の色が浮かんだが、ついには意を決して左側の墳の前まで行き、籠を下ろした。
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その墳は小栓の墳と一列に並び、間には一本の小道があるのみであった。華大媽はその女が四皿の菜と一碗の飯を並べ、立ったままひとしきり泣き、紙錠を焼くのを見ていた。心の中でひそかに思った。「この墓の中のも息子なのだろう。」その老女は暫く彷徨い見回した後、突然手足が震え出し、よろよろと数歩退き、目を見開いてただ茫然としていた。
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華大媽はその様を見て、悲しみのあまり発狂しかけるのではないかと恐れ、思わず立ち上がり、小道を越えて、低い声で語りかけた。「お婆さん、あまり悲しまないでください。——さあ、帰りましょう。」
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その女はうなずいたが、目はなおも上を凝視し、同じく低い声でたどたどしく言った。「ご覧ください。——これは何でしょうね?」
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華大媽はその指の先を追って見ると、視線は向こうの墳に至った。その墳の上は草の根がまだ覆い切れず、黄色い土がところどころ剥き出しで、見るに堪えなかった。さらに上の方をよく見ると、思わずぎくりとした。——明らかに紅白の花が一輪、あの尖った丸い墳の頂を囲んでいたのだ。
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二人の目はもう何年も老眼であったが、この紅白の花はまだはっきりと見えた。花はそれほど多くはなく、丸く輪になって並び、あまり生き生きとはしていなかったが、整然としていた。華大媽は急いで自分の息子や他の墓を見たが、寒さに強い青白い小さな花が幾つかまばらに咲いているだけであった。すると心の中に突然一種の不足と空虚を感じ、深く追究する気にはなれなかった。あの老女はまた数歩近づき、子細に一巡り見てから、独り言を言った。「根がない、自然に咲いたのでもなさそうだ。——こんな所に誰が来るというのだろう? 子供が遊びに来るはずもない。——親戚もとうに来なくなった。——一体どういうことだろう?」考えに考えたが、突然また涙を流し、大声で言った——
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「瑜児よ、みんなお前に濡れ衣を着せたのに、お前はまだ忘れられず、悲しくてたまらず、今日わざわざ霊験を見せて、私に知らせようとしているのかい?」四方を見回すと、一羽の鴉が葉のない木の枝に止まっていたので、続けて言った。「分かったよ。——瑜児、可哀想に、あいつらがお前を陥れたが、いずれ報いを受けるのだ。天が知っているのだから。お前は目を閉じておいで。——もし本当にここにいて、私の言葉が聞こえるなら、——あの鴉をお前の墳の上に飛んで来させて、見せておくれ。」
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微風はとうに止んでいた。枯草はまっすぐに立ち、銅線のようであった。かすかに震える声が空気の中でいよいよ細く、細くなり、ついに消え、あたりはすべて死のような静寂であった。二人は枯草の叢の中に立ち、仰いであの鴉を見つめた。鴉もまた真っ直ぐな枝の間で、首を縮め、鉄で鋳たように動かず止まっていた。
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長い時間が過ぎた。墓参りの人が次第に増え、老人や子供が土の墳の間を行き来した。
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華大媽はどうしたことか、まるで重い荷を下ろしたように感じ、帰ろうと思った。傍らの女に勧めて言った。「さあ、帰りましょう。」
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老女はため息をつき、元気なく菜や飯を片付けた。しばらくためらった後、ようやくゆっくりと歩き出した。口の中で独り言を言っていた。「一体どういうことだろう?……」
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二人が二三十歩も行かぬうちに、背後で「ガア——」と一声大きな鳴き声がした。二人とも身を竦めて振り返ると、あの鴉が両翼を広げ、身を一ひねりして、遠くの天空に向かって矢のように飛び去るところであった。
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(一九一九年四月。)
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=== 第103節 ===
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宏達先生なる者あり。その度は恢廓にして、寂寥疏闊なり。方にして制せず、廉にして割らず。世を超えて独歩し、玉を懐きて褐を被る。交わりは苟合せず、仕は達を期せず。常に忠・信・篤・敬をもって直道を行い、九夷に居し、八蛮に游び、滄海に浮かび、河源を践むべしと為す。甲兵は忌むに足らず、猛獣は患いと為さず。ここをもって機心存せず、泊然として純素なり。従容放縦にして好悪を遺忘す。天道を一指と為し、品物の細故を識らざるなり。然れども大道既に隠れ、智巧は滋く繁り、世俗は膠加し、人情は万端なり。利の在る所は鳥の鸞を逐う(各本は追に作る)が如し。富は蠹を積み、貴は怨を聚む。動く者は累多く、静かなる者は患少なし。ここにおいて丘中の徳士を思い…(以下、嵆康の養生論の文脈で、世俗を離れた隠遁的養生の思想が展開される)
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=== 第104節 ===
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答えて曰く、智を貴び動を尚ぶ所以は、その能く生を益し身を厚くするをもってなり。然れども動かんと欲すれば悔吝生じ、智行えば前識立つ。前識立てば心(各本は志に作る)開けて物遂げ、悔吝生ずれば患積みて身危うし。二者はこれを内に蔵さずして外に接す。ただ身に災するに足り、生を厚くする所以にあらず。それ嗜欲は人より(日本の丹波宿称康頼『医心方』二十七引では人の下に「情」の字あり)出づと雖も、道徳(各本は字を脱す。程本及び『医心方』に有り)の正にあらず。なお木の蝎あるが如し(程本は「、」に作り、下の蝎盛の句も同じ)。木の生ずる所なりと雖も、木の宜しき所にあらず(黄本は字なし)。故に蝎盛んなれば木朽ち、欲勝てば身枯る。然らば則ち欲と生と…(以下、嵆康の養生論の答弁部分が続く。欲望と生命の関係、節制の重要性を論ずる)
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=== 第105節 ===
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難じて曰く、神農は粒食の始めを唱え、鳥獣はこれをもって飛走し、生民はこれをもって視息す。今、五穀を言わざるは神農の唱える所にあらざるなり。既に上薬を言い、また五穀を唱える者は、上薬は希少にして艱くして致し難し。五穀は殖え易くして農にして久しくすべし。百姓を済いて天を継ぐ所以なれば、故に(二字は各本では「夭阏也」に作る)並びてこれを存す。ただ賢者は(各本は字を脱す)その大を志し、不肖者はその小を志すのみ。これは同じく一人より出で、当帰の止痛に至りてはこれを用いて已まず。耒耜の墾闢はこれに従いて輟まず。何ぞ養命に至りて蔑して議せざるか。これ殆ど先習に玩れて(各本は「於」の下に「所」の字あり。旧校もまた加う。案ずるに無き者を長と為す)未知を怪しむなり。且つ平原には枣栗の属あり、池沼には…(以下、神農本草経と五穀・上薬の関係について論ずる養生論の一節が続く)
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=== 第106節 ===
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それ善く寿強を求める者は、必ず先に夭(各本は災に作る。旧校も同じ。案ずるに夭疾と寿強は対文なり。原鈔は義において長なり)疾の自ら来たる所以を知り、然る後にその至るを防ぐべし。禍はここに起こりて、彼に防がんとすれば、禍は自ら瘳ゆるところなし。世に安宅、葬埋、陰陽、度(原は歩に作る。各本及び旧校に拠りて改む)数、刑徳の忌あり。これは何より生ずるか。性命を見ず、禍福を知らざるなり。見えざるが故に妄りに求め、知らざるが故に干(程本は於に訛る)幸する。ここをもって善く生を執る者は、性命の宜しき所を見、禍福の来たる所を知る。故にこれを実に求め、これを信に防ぐ。それ多く飲みて走れば澹支と為る。数しば行きて風に当たれば痒(各本は養に作る)毒と為る。久しく湿に居れば腰疾偏枯と為る。内を好みて怠らざれば昏喪して女疾(各本は文房に訛る)と為る。此の如き類は、災の来たる所以、寿の去る所以なり。しかして墓を掘り(各本は基に作る)室を築き(各本は宅に作る)、日を費やし身を苦しめてこれを求む。疾は形に生じて治は土木に加う。これは疾の瘳ゆる道なし(各本は字なし)。詩に云う(各本は曰に作る)、「豈悌の君子は福を求めて回らず」とは、謗議を避けて義然りと為すにあらず。蓋し回は福を求むる所にあらざるを知ればなり。故に寿強なり。気を専らにし(程本は伝に訛る)柔を致し、私を少なくし欲を寡くし、情性の宜しき所を直行して、養生の正度に合す。これを懐抱の内に求めて得るなり。…(以下、嵆康の養生論における住居の吉凶と運命論が長文にわたって展開される。宅地の選択が寿命を左右するという俗説への反論を含む)
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=== 第107節 ===
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それ命とは稟くる所の分なり。信順とは命を成す理なり。故に曰く、「君子は身を修めて命を俟つ。」「命を知る者は岩墻の下に立たず。」何者ぞ。これは天がこれを遂げる実宝(各本には「実」の字なし。案ずるに有る者はこれなり。宝は即ち実の訛衍にして当に削るべし)なり。なお食は命にあらざるも、命は必ず食に胥するが如し。これ(各本は字なし)故に然り。もし(原鈔は字なし。各本に拠りて加う)吾が論に曰く、殆(黄本は怠に作る)に居り逆に行くも、能く彭祖をして夭せしめず。則ち足下は信順の難きを挙ぐるはこれなり。論の説く所は、信順既に修まれば、則ち宅葬は貴きこと無し(『続古文苑』では実に作る)。故にこれを寿宮の殤子に益なきに譬う。足下は云わず、「殤子は宅をもって延び、彭祖もまた…(以下、宅地の吉凶と寿命の関係についての論争が続く)
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=== 第108節 ===
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論じて曰く、故なくして居りて占うべし。なお龍顔の相すべきが如し。吉宅を設けて後に居り、福報を望むは、顔準を仮りて公侯を望むに異ならず。然らば則ち人は実に宅を征し、宅は人を制するにあらざるなり。案ずるに言う所の如きは、故なくして居りて占うべき者は、必ず当に吉たるべき人が瞑目して前に進み、推して遇い任に命じ、暗に宅を営んで自然に吉に遇うことを謂うなり。然らば則ち豈に独り吉人のみならんや。凡そ命ある者はみな暗動にして自ら得べし。まさにこれ前論にして、命は自然あり、増減すべからざる者なり。頻りに為すべき信順の卜筮をもって、増減すべからざる(汪本は堿に訛る)命を成す。奚ぞ独り居のみ為すべからざる(黄汪二張本は禁に作る)の宅をもって、今善く相せざるに(四字は各本では「相命を尽くさず」に作る)、ただ…(以下、住居の吉凶に関する論争の続きで、卜占と運命の関係を論ずる)
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=== 第109節 ===
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帝は跪いて謝した。……上元夫人は帝を還って座に就かせた。王母は夫人に曰く、「卿の戒めたるは言甚だ急切にして、更に未だ解せざる人をして意志に畏れしむ。」夫人は曰く、「もしその志が道にあらば、身を飢えた虎に投じ、躯を忘れて破滅し、火を蹈み水を履み、一志に固くして必ず憂いなし。……急言の発するは、その志を成さんと欲するのみ。阿母は既に念あらば、必ず屍解の方を賜うべし。」王母は曰く、「この子は勤心すること已に久しくして良師に遇わず。遂にその正志を毀たんと欲し、天下に必ず仙人なしと疑わん。ここをもって吾は閬宮を発して暫く塵濁に舎し、既にその仙志を堅くせんと欲し、また向化して惑わざらしめんと欲す。今日の相見は人をして念ぜしむ。屍解下方に至りては吾甚だ惜しまず。後三年…(以下、漢武帝と西王母の対面場面が続く。仙道修行と屍解の方法について論ずる)
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=== 第110節 ===
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「呉興の才人」(李賀の語)沈亜之、字は下賢。元和十年に進士に第し、太和の初め、徳州行営使者の柏耆の判官と為ったが、耆が罪をもって貶されると、亜之もまた南康の尉に謫された。郢州の掾に終わった(約八世紀末から九世紀中)。集は十二巻にして今存す。亜之は文名があり、自ら「能く窈窕の思を創る」と謂った。今集中に伝奇文三篇あり(『沈下賢集』巻二巻四、また『広記』二百八十二及び二百九十八に見ゆ)、みな華艶の筆をもって恍惚の情を叙し、仙鬼復死を好んで言うこと同時の文人と殊に趣を異にする。『湘中怨』は鄭生が偶然に孤女に遇い、相い依ること数年、一旦別れ去って自ら「蛟宮の娣」と云い、謫限…(以下、唐代伝奇文学の概観が続く。沈亜之の作品分析と位置づけを論ずる)
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=== 第111節 ===
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……趙王倫は常を乱し、孫秀は人を遣わして緑珠を求めた。……崇は勃然として曰く、「他は愛する所なし、緑珠は得べからず。」秀はこれより倫に譖んでその族を滅した。兵を収めて忽ち至り、崇は緑珠に曰く、「我は今、爾のために罪を獲た。」緑珠は泣いて曰く、「願わくは君前にて死を効さん。」ここにおいて楼より堕ちて死んだ。崇は東市に棄てられ、後人はその楼を名づけて緑珠楼と曰う。楼は歩庚里にあり、狄泉に近く、泉は正城の東にある。緑珠に弟子の宋袆あり、国色があり笛を善くし、後に晋の明帝の宮中に入った。今、白州に一派の水があり、双角山より出て容州江に合す。呼んで緑珠江と為す。また帰州に昭君村・昭君場あり、呉に西施谷・脂粉塘あるが如く、蓋し美人の出処を取って名と為す。また緑珠井あり、双角山の下にある。故老は伝えて云う、この井を汲んで飲む者は女を誕めば必ず多く美麗であると。里閭に識ある者は美色は時に益なしと以って、巨石をもってこれを鎮めた。その後、女を産んで端妍なる者は七竅四肢多く完具せず。異なるかな、山水のしからしむるなり。……
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……その後、詩人の歌舞妓を題する者はみな緑珠をもって名と為す。……その故は何ぞや。蓋し一婢子にして書を知らざるも、能く主恩に感じ憤りて身を顧みず、志は烈にして懔懔たり。誠に後人をして仰慕歌詠せしむるに足る。厚禄を享け高位を盗み、仁義の性を亡くし反覆の情を懐き、暮四朝三ただ利のみを務むる者に至りては、節操は反って一婦人に若かず。豈に愧じざるか。今この伝を為すは、徒に美麗を述べ禍源を窒がんとするのみにあらず、且つ恩に辜き義に背く類を懲戒せんと欲するなり。……
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その後に亳州の譙人、秦醇、字は子復(一に子履に作る)があり、またも伝奇を撰した。今四篇存し、北宋の劉斧が編んだ『青瑣高議前集』及び『別集』に見ゆ。その文は頗る唐人を規抚せんと欲するも、辞意はみな蕪劣にして、ただ偶に一二の好語を見て点綴する。また大抵は古事に託して近きに及ぶを敢えてせず、これはなお士習の拘謹による所致なり。故に楽史もまたかくの如し。一に曰く『趙飛燕別伝』、序に李家の墻角の破れた筐中より得たと云い…(以下、宋代の伝奇文学の分析が続く。秦醇の作品群の特徴と、隋唐帝王の故事を題材とする文学伝統の展開を論ずる)
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=== 第112節 ===
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また作者の禀性は「復た善く諧劇す」。故に変幻恍惚の事を述ぶると雖も、毎に解頤の言を雑え、神魔をみな人情あらしめ、精魅もまた世故に通じせしめ、玩世不恭の意をここに寓す(詳しくは胡適『西遊記考証』を見よ)。孫悟空が金洞の兕怪に大敗し、金箍棒を失い、因って玉帝に謁して兵を発して収剿せんことを乞う一節を記すが如し。
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……当時、四天師が霊霄に奏を伝え、玉陛に引見した。行者は上に向かって大きな喏を唱え、道った。「老官児よ、お手数をお掛けします。わたくし老孫は唐僧を護って西天に経を取りに参りますが、道中凶多くして吉少なく、申し上げるまでもございません。今、金山・金洞に至りましたところ、一匹の兕怪がおりまして、唐僧を洞に拿えております…(以下、『西遊記』の一節の引用が続き、魯迅による文体分析が展開される。孫悟空の諧謔的な語り口と「玩世不恭」の精神を論ずる)
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=== 第113節 ===
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余文は俱に他人の牽纏する孽報を述べて、国家の大事をその間に穿挿し、また佛典道経儒理を雑引して詳しく解釈を加え、動もすれば数百言に及ぶが、十中八九は『感応篇』に帰結する。いわゆる「仏を説き道を説き理学を説こうとするならば、まず因果より説き起こせ。因果は憑るところなく、また『金瓶梅』より説き起こす」(第一回)なり。明の「淫書」の作者は本より因果を闡明することをもって自ら解し、この書に至りては、「ただ夫婦の一倫のみ変故極めて多く、……多くの冤業を造り出し、世世償還す。真にこれ愛河に自ら溺れ、欲火に自ら煎られるなり。一部の『金瓶梅』は色の字を説き、一部の『続金瓶梅』は空の字を説く。色より空に還り、即ち空はこれ色なり…(以下、『続金瓶梅』の文学批評が続く。因果応報の思想と文学的手法の関係を論ずる)
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=== 第114節 ===
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結末に論があり、「生前に譏りを貽し死後に臭きを貽す」、「これ朱買臣の妻子の後の一人なり」と為す。引論はやや恕にして、罪を科すは男子の「安んじて貧賤ならざる」者の下に在るが似きも、然れどもまた終に宥すべからずと云う。
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もし婦人を論ずれば、文字を読み道理に達する者甚だ少なし。如何にして能く大見解、大矜持あらんや。況んや或いは飢寒相い逼り、彼此相い形どり、旁観の嘲笑は堪え難く、親族の炎涼は耐え難し。榜上の一つの名字も抓み来たることかなわず、身上の一件の藍皮も洒ぎ去ることかなわず。一人の慣れて淹蹇にして際に遭わざる夫婿を激まし起こすこと尽く痛哭に堪え、如何にして彼をして怨嗟せしめざるべけんや。但し「餓死は事小にして失節は事大なり」、眼を睁き睁きとしてこの窮秀才はなお…(以下、魯迅による古典小説の女性観と封建道徳に対する批評が続く。朱買臣の妻の故事を引きつつ、当時の儒教的婦徳観の矛盾を論ずる)
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=== 第115節 ===
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李義山の詩に「空しく子夜の鬼の悲歌を聞く」とあるのは、晋の時代に鬼が『子夜』を歌った故事を用いたものであり、李昌谷の詩に「秋の墳墓に鬼が鮑家の詩を唱う」とあるのは、鮑参軍に『蒿里行』があることから、その詞を幻想的に変容させたものである。しかし世間にはまことにこうした事が往々にしてあるものだ。田香沁が言うには、「かつて別荘で読書をしていた折、ある夕べ風は静かに月は明るく、崑曲を歌う者の声が聞こえた。澄んで折り目正しく清らかに円やかで、心を凄ませ魂を動かすほどであった。よく聴けば、『牡丹亭』の『叫画』の一齣であった。我を忘れて最後まで聴き入った。ふと壁の外は皆、途絶えた水路と荒れた堤ばかりで、人跡まれなる地であることに気づいた。この曲は一体どこから来たのか。戸を開けて見れば、ただ芦荻がさらさらと鳴るばかりであった。」(『姑妄聴之』三)
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紀昀はまた「天性孤直にして、心性の空談をもって門戸を標榜することを好まず」(盛の序の語)、事に処するに寛を貴び、人を論ずるに恕を欲した。ゆえに宋儒の苛察に対して特に異議を唱え、書中に触れればたちまち発し、『四庫総目提要』に見えるものと全く同じである。しかも情理に合わぬ議論で、世間が習って察しないものに対しても、しばしば疑難を設け、その拘泥と迂遠さを暴いた。これは前後の諸作家に未だかつてなかったことであるが、世人は理解せず、やかましく競って勧懲の佳作と称えたのである。
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呉恵叔が言うには、「ある医者は素より謹厳で篤実な人であった。ある夜、老婆が金の腕輪一対を持って堕胎薬を買いに来たが、医者は大いに驚き、厳しく拒絶した。翌晩、さらに珠花二枝を添えて持って来たが、医者はますます驚き、力ずくで追い返した。半年余り経って、突然冥府の役所に拘引される夢を見た。殺人を訴える者がいるという。行ってみると、髪を振り乱した女が首に紅い布を巻いて、泣きながら薬を乞うたのに与えてくれなかった経緯を陳述した。医者は言った。『薬は人を生かすためのもの、どうして人を殺して利を貪ろうか。お前は自ら姦通で身を滅ぼしたのだ、私に何の咎があろう。』女は言った。『私が薬を乞うた時、胎児はまだ形をなしていなかった。もし堕ろすことができたなら、私は死なずに済んだ。それは無知の血塊を壊して、死を待つ一つの命を全うすることであった。薬が得られなかったので産まざるを得ず、子は扼殺されて諸々の苦痛を受け、私もまた追い詰められて縊死した。あなたは一つの命を全うしようとして、かえって二つの命を損なったのだ。罪があなたに帰さずして、誰に帰するのか。』冥官は嘆息して言った。『お前の言うことは事勢に酌んでいる。彼の執るところは理である。宋以来、一つの理に固執して事勢の利害を量らぬ者は、この人だけであろうか。お前はもう休むがよい。』机を叩く音がして、医者は慄然として目覚めた。」(『如是我聞』三)
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東光に王莽河がある。すなわち胡蘇河のことで、旱魃の時は涸れ、水の時は溢れ、渡渉にはいつも難渋した。外舅の馬公周が言うには、「雍正末年、乞食の婦人が片手で児を抱き、片手で病む姑を扶けてこの水を渡った。中流に至って、姑がつまずき倒れた。婦人は児を水に棄て、力を尽くして姑を背負って出た。姑は大いに罵って言った。『わしは七十の老婆、死んで何の害があろう。張家は数世代この児に家系の存続を託していたのに、お前はなぜ児を棄ててわしを救ったのか。祖宗の祭祀を断つ者はお前だ。』婦人は泣いて敢えて言わず、ただ長く跪くのみであった。二日後、姑はついに孫を哭して食を断ち死んだ。婦人は嗚咽して声も出ず、数日呆然と座り、やはり立ち枯れた。……著論する者があって、児と姑を較べれば姑が重く、姑と祖宗を較べれば祖宗が重いと言った。もし婦人に夫があるか、あるいはなお兄弟がいるなら、児を棄てたのは正しい。しかし二代の寡婦で、ただ一筋の孤子しかいないなら、姑の責めたことこそ正しい。婦人は死んでも余りある悔いがあろうと。姚安公は言った。『学者は人を責めて止む時がない。急流は洶湧として、わずかでも放てばたちまち去る。これがどうして深く思い遠く計る時であろうか。勢い両方を全うすることはできず、児を棄てて姑を救うのは、これ天理の正であり人心の安ずるところである。もし姑が死んで児が存したなら、……また児を愛して姑を棄てたと責める者がいるのではないか。しかも児はまだ幼く、育つか育たぬか分からない。もし姑が死んで児もまた育たなければ、悔いはいかばかりであろう。この婦人のなしたことは、常情を遥かに超えている。不幸にして姑が自ら命を落とし、死をもって殉じたのもまた哀れむべきである。なおもつまらぬことを言い立てて嘴を動かし、精義の学だと称するのは、白骨が冤を含み、黄泉が恨みを抱くことではないか。孫復は『春秋尊王発微』を作り、二百四十年の間、貶はあっても褒はなかった。胡致堂は『読史管見』を作り、三代以下に完全な人はいないとした。弁ずるには弁じたが、わしの聞きたいことではない。』」(『槐西雑志』二)
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『灤陽消夏録』が脱稿するや、たちまち書肆が刊行し、まもなく『聊斎志異』と並び立った。『如是我聞』等がこれに続き、流布はますます広がった。その影響の及ぶところ、文人の模作は、なお『聊斎』の遺風はあるものの、精緻に描写する筆は頓に減じ、ついには宋・明の人の談異の書に類するものとなった。同時代の臨川の楽鈞『耳食録』十二巻(乾隆五十七年序)、『二録』八巻(五十九年序)、後出の海昌の許秋垞『聞見異辞』二巻(道光二十六年序)、武進の湯用中『翼稗編』八巻(二十八年序)等は、みなその類である。やがて長洲の王韜が『遁窟謰言』(同治元年成)、『淞隠漫録』(光緒初成)、『淞浜瑣話』(光緒十三年序)各十二巻を著し、天長の宣鼎が『夜雨秋灯録』十六巻(光緒二十一年序)を著したが、その筆致はまた純然たる『聊斎』の流れを汲むもので、一時広く伝わった。しかし記載するところは、すでに狐鬼は次第に稀となり、花柳風月の事が盛んとなっていた。
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体裁が紀氏五書に比較的近いものには、雲間の許元仲『三異筆談』四巻(道光七年序)、徳清の兪鴻漸『印雪軒随筆』四巻(道光二十五年序)がある。後者は『閲微』を大いに推賞しつつも、「やや嫌うのは宋儒を排撃する語が多すぎること」(巻二)と言い、趣旨は実は異なっていた。光緒中、徳清の兪樾が『右台仙館筆記』十六巻を著したが、ただ異聞を述べるのみで因果には関わらなかった。また羊朱翁(兪樾の別号)が『耳郵』四巻を著し、自ら「戯編」と署し、序に「用意措辞はまた善悪報応の説があるようだが、実はただ日を遣るだけで、敢えて勧懲を志すとは言わない」と述べた。『新斉諧』を法としたようであるが、記叙は簡雅で、かえって『閲微』に類する。ただし内容は大いに異なり、鬼事は十分の一に過ぎなかった。その他、江陰の金捧閶の『客窓偶筆』四巻(嘉慶元年序)、福州の梁恭辰の『池上草堂筆記』二十四巻(道光二十八年序)、桐城の許奉恩の『里乗』十巻(道光中の作と思われる)もまた異事を記し、志怪の流れに似るが、禍福を盛んに陳べ、もっぱら勧懲を主とし、もはや小説と称するに足りない。
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【第二十八篇 清末の譴責小説】
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光緒庚子(一九〇〇)以後、譴責小説の出現がことに盛んとなった。そもそも嘉慶以来、しばしば内乱を平定し(白蓮教・太平天国・捻・回)、またしばしば外敵に挫かれた(英・仏・日本)が、庶民は暗昧にして、なお茶を啜りながら平逆の武功を聴いていた。しかし識者はすでに翻然として改革を志し、敵愾の心に依って維新と愛国を呼び、「富強」にことに意を致した。戊戌の変法が成らず、二年を経て庚子の年に義和団の変があり、人々はようやく政府が治を図るに足りぬことを知り、たちまち攻撃の意を抱いた。小説においては、隠された事を暴き、その弊悪を明らかにし、時政に対して厳しく糾弾し、あるいはさらに拡充して風俗にまで及んだ。命意は匡世にあり、風刺小説と同類のようであるが、辞気は浮露にして筆に蔵鋒なく、甚だしきは誇大に言を弄して時人の嗜好に合わせた。その度量技術の隔たりもまた遠いゆえ、別にこれを譴責小説と呼ぶ。その作者は、南亭亭長と我仏山人の名が最も著しい。
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南亭亭長は李宝嘉、字は伯元、江蘇武進の人で、若くして制芸と詩賦に秀で、第一名で入学したが、累たび挙に及第せず、上海に赴いて『指南報』を営んだ。まもなく廃し、別に『遊戯報』を営み、俳諧嘲罵の文を書いた。後に「舗底」を商人に売り、また別に『海上繁華報』を営み、倡優の起居を記し、詩詞小説を掲載して大いに流行した。著書には『庚子国変弾詞』若干巻、『海天鴻雪記』六本、『李蓮英』一本、『繁華夢』、『活地獄』各若干本がある。また専ら時弊を斥責することを旨とする『文明小史』があり、『繍像小説』に分載されて特に有名である。時まさに庚子、政令は逆行し、海内は失望して多くは禍患の由来を求め、その罪人を責めて自ら快とした。宝嘉もまた商人の託に応じて『官場現形記』を撰し、十編、編ごとに十二回を企て、光緒二十七年から二十九年に三編を成し、その後二年でまた二編を成した。三十二年三月に肺病で歿し、年四十(一八六七——一九〇六)、書はついに完結しなかった。また子もなく、伶人の孫菊仙がその葬儀を取り計らったのは、『繁華報』での称揚に報いたものである。かつて推薦されて経済特科に応ずべきところ、赴かず、時人は高しとした。また篆刻に巧みで、『芋香印譜』が世に行われた(周桂笙『新庵筆記』三、李祖傑の胡適宛て書簡、及び顧頡剛『読書雑記』等を参照)。
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『官場現形記』の完成部分は六十回で前半部にあたる。第三編印行時(一九〇三)に自序があり、大略次のように言う。「かつて官を見た。送迎の外に治績なく、供張の外に材能なく、飢渇に堪え、寒暑を冒し、行香すれば夜明けに往き、稟見すれば日暮れに帰る。ついにその何のために来たのか分からず、また何のために去ったのかも分からない。」歳にあるいは凶災があり、振恤を行えば、また「みな救助の例に援り、奨励の恩を邀え、いわゆる官なるものは日々出でて窮まる期がない」。朝廷が淘汰を議すれば「上下蒙蔽して旧に一如し、甚だしきは宵小に手を借り、私人に意を授け、賄賂によって通融し、賄賂によって解釈する。これは弊を除こうとしてかえって弊を滋くするものである」と。かくて群官は搜括し、小民は困窮し、民は敢えて言わず、官はいよいよ肆にする。「南亭亭長は東方の諧謔と淳于の滑稽を有し、また官の齷齪卑鄙の要凡と昏愚糊塗の大旨を熟知して」、ここに「含蓄蘊醸をもってその忠厚を存し、酣暢淋漓をもってその隠微を闡き、……年を窮め月を累ね、精を殚くし誠を竭くして、一帙を成し、『官場現形記』と名づけた。……およそ神禹も鼎に鋳ることのできなかったもの、温嶠も犀をもって燭すことのできなかったものを、ことごとく備えた」と。ゆえに叙述するところは、みな迎合、鑽営、朦混、羅掘、傾軋等の故事であり、兼ねて士人の官吏たることへの熱心、及び官吏閨中の隠情に及ぶ。頭緒は繁く、登場人物は多く、その記事はすなわち一人とともに起こり、またその人とともに終わる。断続するさまは『儒林外史』とほぼ同じである。しかし臆説が多く、実録とは言い難く、自序に言ういわゆる「含蓄蘊醸」の実はなく、文木老人の後塵を拝するにはるかに及ばない。しかも蒐羅するところはただ「話柄」のみ、これらを連綴して類書を成したものであり、官場の伎倆は本来大同小異、長編にまとめれば千篇一律となる。ただ時勢の要求に応じ、これを得て快とした。ゆえに『官場現形記』はたちまち大いに名声を博し、「現形」の名目を襲用して他の事を描写する、商界・学界・女界のものもまた続いた。今、南亭亭長の作八百余字を例として録し、併せて余子を概括する。
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……さて賈大少爺は、……もう引見の日が来たので、前日に部に赴いて演礼を行い、一切の儀注は例に照らして、いちいち述べるには及ばない。この日、賈大少爺は半夜に起きて車に乗り城内に入り、……ずっと八時まで待ってようやく引見担当の司官が彼を連れて入った。どこかの殿に着くと、司官が袖を振り、彼ら一行数人が階段の上に一列に跪いた。上座まで約二丈ほど離れており、上に座っているのが「今上」であると分かった。……彼は道班で、しかも明保の人員であったから、当日すぐに旨があり、翌日召見の準備をせよとのことであった。……賈大少爺は世家の子弟ではあるが、今回は初めて皇上にお目見えするのだから、いくら多くの人に教えを請うても、やはり安心できなかった。引見を終えて降りてくると、まず華中堂に会った。華中堂は彼から一万両の銀子に相当する骨董を受け取った人で、会えば長々と世間話をして甚だ親切であった。やがて賈大少爺が教えを請うた。「明日の朝見で、門生の父は現任の臬司でございますが、門生は上に拝謁して叩頭すべきでしょうか、すべきでないでしょうか。」華中堂は前の話を聞いておらず、ただ「叩頭」の二字だけを聞いて、連々と答えた。「叩頭は多く、口数は少なく。これが官をする秘訣じゃ。」賈大少爺は慌てて弁明した。「門生が申しますのは、上が門生の父のことをお尋ねになれば、当然叩頭いたしますが、もしお尋ねにならない場合も叩頭すべきかどうかということです。」華中堂は言った。「上がお前に尋ねなければ、決して余計なことを言うな。叩頭すべきところでは万々忘れてはならん。たとえ叩頭すべきでなくとも、多く頭を磕けば処分を受けることはない。」一席の話で賈大少爺はいよいよ混乱した。まだ聞きたかったが、中堂はすでに立ち上がって客を送った。賈大少爺は仕方なく退出し、華中堂は多忙で煩わすべきではないと思い、黄大軍機のところへ行けば、あるいは一二教示してくれるかもしれないと考えた。ところが会ってみると、賈大少爺が話を言い終わるや、黄大人がまず尋ねた。「中堂にお会いしたか。何と仰った。」賈大少爺がそのまま述べると、黄大人は言った。「華中堂は閲歴が深い。叩頭を多く口数を少なくと仰ったのは、老成の見であり、これは少しも間違いない。」……賈大少爺はやむなくまた徐大軍機のもとを訪ねた。この徐大人は年を取っており、両耳が遠く、たとえ二言聞こえても知らぬ振りをした。平生最も養心の学を重んじ、二つの秘訣があった。一つは「動心せず」、一つは「操心せず」。……後にこの秘訣が同僚にすっかり見抜かれ、みなが彼に一つのあだ名を贈り、「瑠璃玉」と呼んだ。……この日、賈大少爺が……教えを求めに行き、会った後、寒暄を交わしてからこの件に触れた。徐大人は言った。「もとより叩頭を多くするのは一番よいことじゃ。叩頭せずとも差し支えない。叩頭すべき時に叩頭し、叩頭せずともよい時は叩頭せぬのがよかろう。」賈大少爺がまた華・黄両氏の言葉を述べると、徐大人は言った。「お二方の仰ることはどちらも間違いない。お二方の仰るとおり、臨機応変にするのが最も穏当じゃ。」長々話しても一向に道理が出てこず、退出するほかなかった。やがてある小軍機のところまで尋ね当て、その人もまた父上の親友であって、ようやく儀注を言い聞かせてくれた。翌日の召見は、果たして支障なく済んだ。……(第二十六回)
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我仏山人は呉沃堯、字は繭人、後に趼人と改めた。広東南海の人で、仏山鎮に居したので自ら「我仏山人」と称した。二十余歳で上海に至り、常に日刊紙に文を寄せたが、みな小品であった。光緒二十九年、新会の梁啓超が日本の横浜で『新小説』を印行し、月一冊を出した。翌年(一九〇三)、沃堯はようやく長編を学び始め、これに寄稿した。前後数種あり、『電術奇談』、『九命奇冤』、『二十年目睹之怪現状』と称し、名声は日に盛んとなったが、最後のものがとりわけ世間で称えられた。後に山東に客遊し、日本に渡ったが、いずれも意を得ず、結局また上海に居を定めた。三十三年、『月月小説』の主筆となり、『劫余灰』、『発財秘訣』、『上海遊騖録』を撰した。また『指南報』のために『新石頭記』を書いた。さらに一年後は広志小学校を主持し、学務に甚だ力を尽くしたので、著作は多くなかった。宣統紀元にようやく『近十年之怪現状』二十回を成したが、二年九月に急逝し、年四十四(一八六七——一九一〇)。別に『恨海』、『胡宝玉』二種があり、先にいずれも単行された。またかつて商人の託に応じ、三百金でその薬を頌する『還我霊魂記』を撰したが、一時非難を受け、文もまた伝わらなかった(『新庵筆記』三、『近十年之怪現状』自序、『我仏山人筆記』汪維甫序を参照)。短文は得意とするところではなかったが、後に名声が高まると、人がこれを綴集して『趼廛筆記』、『趼人十三種』、『我仏山人筆記四種』、『我仏山人滑稽談』、『我仏山人札記小説』等とした。
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『二十年目睹之怪現状』はもと『新小説』に連載されていたが、後に『新小説』とともに中断し、光緒三十三年にようやく甲から丁の四巻の単行本が出、宣統元年にさらに戊から辛の四巻が出て、合わせて百八回となった。全書は自ら「九死一生」と号する者を筋とし、二十年間に遭遇し、目撃し、耳にした天地の驚くべき事を歴々と記して一書に綴った。幼年に始まり、結末はなく、「話柄」を雑集するのは『官場現形記』と同じである。しかし作者の経歴が多いため、叙述する人物の種類もまた多く、官・師・士・商がみな録に著された。当時の伝説を蒐羅するほか、旧作(『鍾馗捉鬼伝』の類)をも仕入れて新聞とした。自ら言うには「ただ私が世に出てからの二十年を振り返ると、出会ったのはただ三種のものだけであった。第一は蛇虫鼠蟻、第二は豺狼虎豹、第三は魑魅魍魎」(第一回)と。すなわち全書の叙述がこの類の人物の言行を離れないことが分かる。伝えるところでは、呉沃堯は性格が強毅で人の下に立つことを欲せず、ついに坎坷のうちに世を終えた。ゆえにその言は甚だ慨然としている。惜しむらくは描写が誇張に失し、時に悪を過剰に叙して真実に背くため、感人の力がたちまち微となり、結局は連篇の「話柄」に過ぎず、閑散の者の談笑の資に供するばかりである。北京の同宿人・符弥軒が祖父を虐待した次第を記すくだりは次のとおりである。
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=== 第116節 ===
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……夜になると、各人はもう休んでいたが、私は枕の上で東の庭からかすかに喧騒の声が聞こえてきた。……しばらく騒いではまた静まり、静まってはまた騒ぎ、何を言っているのかは聞き取れないが、ただ耳が煩わしく、安眠できなかった。……自鳴鐘が三時を告げた後にようやく朦朧と眠りにつき、目が覚めるともう九時過ぎであった。急いで起きて服を着、客間に出ると、呉亮臣、李在茲と二人の丁稚、一人の料理人、二人の雑用係が車座になってひそひそ話していた。私は急いで何事かと尋ねた。……亮臣がまさに口を開こうとすると、在茲が言った。「王三に言わせましょう、こちらの口の手間が省けます。」雑用係の王三がこう言った。「東の庭の符旦那のところの事です。昨晩夜中に小用に起きたら、東の庭で誰かが言い争う声が聞こえました。……裏庭にこっそり行って……中を覗き見しました。符旦那と符奥様が上座に向かい合って座り、私どもの家に物乞いに来たあの老人が下座に座っていて、二人はまさにその老人を罵っているところでした。老人はうつむいて泣くばかりで声も出しません。符奥様の罵りぶりが一番ひどく、こう言いました。『人間は五六十まで生きたら死ぬべきだ。八十過ぎてまだ生きている人なんて見たことがない。』符旦那は言いました。『生きているだけならまだいい。粥であれ飯であれ、食べるものがあれば食べて、分をわきまえていればいいものを。今日は粥が嫌だ、明日は飯が嫌だと。いいものを食べ、いいものを飲み、いいものを着たければ、自分の腕で稼ぐものだと知らないのか。』老人は言いました。『お願いです、いいものなど求めません、ただ少しの漬物をくださるだけで。』符旦那はこれを聞くと、さっと立ち上がって言いました。『今日は漬物、明日は塩肉、明後日は鶏や鵞鳥や魚や鴨、そのうちに燕の巣やフカヒレまで欲しがるだろう。俺は補缺もない貧乏官だ、おもてなしなどできるか!』そう言って、卓を叩き板を打って大いに罵った。……一しきり罵った後、婆やが酒菜を運んできて、真ん中の一本脚の丸テーブルに並べた。符旦那夫妻は向かい合って酒を酌み交わし、談笑していた。老人は下座に座ったまま、しきりにすすり泣いていた。符旦那は二杯飲んでは二言罵り、符奥様はひたすら骨を取ってチン犬にじゃらしていた。老人が泣き顔で何か一言言ったところ、符旦那はたちまち雷霆のごとく怒り、一本脚のテーブルをひっくり返した。ガシャンと音がして、テーブルの上のものが床一面に散らばり、大声で叱った。『さあ食え!』老人もまことに面目がなく、本当に地面に這いつくばって拾い食いした。符旦那は突然立ち上がり、座っていた凳子を持ち上げて、老人に向かって投げつけた。幸い立っていた婆やが飛び出してきて受け止めようとし、受け止めきれはしなかったものの、勢いはだいぶ殺がれた。凳子はやはり老人の頭に当たったが、頭の皮を少し破っただけで済んだ。もしあの一受けがなければ、脳味噌が飛び出していたでしょう。』私はこの話を聞いて思わず冷や汗をかき、黙って考えた。食事の時になると、李在茲にすぐ部屋を探すよう言った。我々は引っ越すことにした。……(第七十四回)
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呉沃堯の著作のうち、『恨海』、『劫余灰』、及び訳本を演述した『電術奇談』等三種だけは、自ら写情小説と称したが、その他はすべてこの類であり、ただ譴責の度合いがやや異なる。本旨については、筆墨で生計を立てていたので、周桂笙(『新庵筆記』三)が言うように、「人により、地により、時により、それぞれ変態がある」が、その大要は「旧道徳の恢復を主張すること」(『新庵訳屑』の評語を参照)にあるという。
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また『老残遊記』二十章がある。「洪都百煉生」著と題するが、実は劉鶚の作であり、光緒丙午(一九〇六)の秋に上海で書いた序がある。あるいは本来未完で、末尾の数回はその子が続作したとも言う。鶚は字を鉄雲といい、江蘇丹徒の人で、若くして算学に精しく、読書もよくしたが、放曠にして縄墨を守らなかった。後に突然自ら悔い、門戸を閉じて一年余り、やがて上海で医を業としたが、まもなくこれも棄てて商売を学び、資産をことごとく失った。光緒十四年に河が鄭州で決壊すると、鶚は同知として呉大澂のもとに投じ、治水に功あって声望は大いに上がり、次第に知府に用いられるに至った。北京に二年いて、鉄道敷設を上書した。また山西の鉱山開発を主張し、それが成ると、世俗はこぞって非難し、「漢奸」と称した。庚子の乱に、鶚は太倉の貯蔵米を安値で欧人から購入したが、実は飢えに苦しむ者を救済するためであったとも言い、生き延びた者は甚だ多かった。数年後、政府はすなわち倉米を私売した罪で彼を問い、新疆に流されて没した(約一八五〇——一九一〇、詳しくは羅振玉『五十日夢痕録』を参照)。その書は鉄英、号して老残なる者の遊行に託して、その言論見聞を歴々と記したものであり、景を叙し物を状するに時に見るべきものがあり、作者の信仰もそこに見え、官吏を攻撃する箇所も多い。剛弼が魏氏父娘を一家十三人命の謀殺重犯と誤認し、魏氏の僕が賄賂を行って免れようとしたところ、剛弼がかえってこれをもって証拠としたくだりは、いわゆる清廉な官吏の憎むべきこと、あるいは汚吏よりもなお甚だしいことを暴いたものであり、人のいまだ言わざることを言ったのである。作者もまた甚だ自ら喜び、「汚吏の憎むべきことは人みな知る。清廉な官吏のなお憎むべきことは、人多く知らない。そもそも汚吏は自ら病あることを知り、敢えて公然と非を行わない。清廉な官吏は自ら金を取らぬと以て何をしてもよいと思い、剛愎自用にして、小は人を殺し、大は国を誤る。我らが親しく目にしたところ、数知れない。徐桐、李秉衡を見よ、その顕然たる者である。……これまでの小説はみな汚吏の悪を暴いた。清廉な官吏の悪を暴いたのは、『老残遊記』に始まる」と言った。
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……さて衙役たちは早くも魏家の父娘を連れてきたが、いずれも半死半生の様子であった。二人が堂上に跪くと、剛弼は懐からあの一千両の銀票と五千五百両の証書を取り出し、……差役に命じて父娘に見せた。父娘は「分かりません、これは何でしょうか」と答えた。……剛弼は哈哈と大笑して言った。「お前たちは知るまい、わしが教えてやろう。昨日、胡挙人なる者がわしを訪ね、まず一千両の銀子を贈り、お前たちのこの事件について、なんとか釈放するよう図ってくれと言った。さらに、もし釈放されるなら、銀子はもっと多くても惜しくないと言った。……もし人命がお前たちの謀害でなければ、なぜお前の家は数千両もの銀子を出して工作しようとするのか。これが第一の証拠だ。……わしが『一つの命につき五百両で計算すれば、六千五百両になるはずだ』と言った時、お前の番頭は当然『人命はまことに我が家の害したものではございません。もし冤を晴らしてくださるなら七千でも八千でも構いませんが、六千五百両という額はお引き受けいたしかねます』と言うべきであった。なぜ何の疑義もなく一つの命につき五百両で計算したのか。これが第二の証拠だ。お前たちに勧める、早く白状せよ。余計な刑具の苦しみを免れるようにせよ。」父娘はしきりに叩頭して言った。「青天の大老爺様、まことに冤罪でございます。」剛弼は卓を叩いて大いに怒った。「わしがこのように諭しても、まだ白状せぬか。もう一度挟み責めにせよ!」差役たちが雷のような声で「はっ!」と応じた。……まさに刑を加えようとした時、剛弼がまた言った。「待て。刑を執る差役は前に出よ。……お前たちの手口は全部分かっておる。事件が軽いと見れば、金を受け取って刑を軽くし、囚人にあまり苦しみを与えない。事件が重大で覆しようがないと見れば、金を受け取って一気に締め上げ、囚人を堂上で殺して完全な遺体を残してやる。しかし本官には厳刑致死の処分が下る。わしは全部承知しておる。今日はまず賈魏氏を挟め。ただし気を失わせてはならぬ。顔色が悪くなれば刑を緩め、息を吹き返したらまた挟め。十日の準備をせよ。いかなる豪傑でも白状させられぬことはあるまい。」……(第十六章)
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『孽海花』は光緒三十三年に『小説林』に掲載され、「歴史小説」と称し、「愛自由者発起、東亜病夫編述」と署した。実は常熟の挙人・曾樸の作であるという。第一回はなお楔子であり、六十回の全目がある。金汮の抡元に始まり、清末三十年間の遺聞逸事を雑叙する。後に革命をもって結末とするつもりだったようだが中止し、合輯して十巻の書、わずか二十回であった。金汮とは呉県の洪鈞のことで、かつて江西の試験官を務め、上海で名妓・傅彩雲を妾に納れた。後にイギリスに使し、彼女を伴って夫人と称し、話柄が多かった。洪が北京で没すると、傅は再び上海で妓となり曹夢蘭と称し、また天津で賽金花と称した。庚子の乱に連合軍統帥に寵愛されて勢い盛んであった。書は洪・傅についてことに悪戯めいた叙述が多く、当時の達官名士の姿もまた淋漓と描いたが、時に言を誇張するのは譴責小説の通弊のとおりである。ただし構成は工巧にして文采斐然たり、これがその長所である。書中の人物は、ほとんど影射しないものはない。李純客と改称した者は実にその師の李慈銘であり、親炙すること久しく描写は実に近いはずだが、形容が時に過度で自然さを失するのは、修飾を尚んで白描を賤しむ当時の作風のためである。例として引く。
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……さて小燕は普段着で軽車に乗り、城南の保安寺街に向かった。折しも秋高く気爽やかにして、程なく門前に着いた。門に新しく貼られた淡紅の朱砂箋の対聯が目に入った。
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保安寺街蔵書十万巻
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戸部員外補闕一千年
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小燕はにやりとした。門を入り、影壁を回って東に折れると北向き三間の倒庁。廊下を進むと秋葉の形の洞門があり、中は四角い小さな中庭であった。庭前に一架の紫藤、緑葉鬱蒼として、庭一面に木芙蓉が紅く咲き誇っていた。三間の静室に湘簾が垂れ、ひっそりとして人の声もない。微風が簾の隙間から薬の煙を送り、清香が鼻に沁みた。簾を上げて入ると、髷を結った小童が破れた蒲扇を手に薬を煮ていた。奥の部屋から朗吟が聞こえた。「淡墨の羅巾、灯の畔の字、小風鈴の佩、夢の中の人。」小燕は笑いながら「『夢の中の人』とはどなたですか。」純客は半ば古びた熟羅の半截衫に草鞋、片手で短い髭を撫でながら古い竹榻で読書していた。小燕を見ると急いで身を倒し破れた書物に伏し、震え声で言った。「おや、小翁がお越しとは。老夫は病体にてお出迎えもできず申し訳ない。」小燕は言った。「純老のご不例は、いつからですか。」純客は言った。「諸公が老夫の寿を祝おうと相談なさったあの日から起こったのだ。雲臥園の集いには、今日は参れそうにない。」小燕は言った。「風寒の小疾、服薬後にはきっとご快復でしょう。」小燕がこっそり見ると、榻の枕元から長い紙がはみ出しており、書き出しの敬称がずらりと並んでいた。「閣下」でも「台端」でもなく、すべて「妄人」の二字であった。一二行読もうとした時、門の外から二人の者が話しながら忍び足で入ってきた。竹簾がパタンと鳴った。まさしく、十丈の紅塵に侠骨を埋め、一簾の秋色に詩魂を養う。来たのは誰か、次回を待たれよ。(第十九回)
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『孽海花』にも他人の続書(『碧血幕』、『続孽海花』)があるが、いずれも評価されなかった。
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このほか、社会の弊悪を抉り出す小説を撰作した者はなお多いが、十中八九は上記の諸書に追随しつつも甚だ及ばず、ただ譴責の文を作るのみでかえって感人の力なく、生まれてはたちまち消え、多くが未完である。その下等なものは私敵を醜く誹り謗書に等しい。あるいは罵倒の志はあっても叙述の才なく、ついに堕落して「黒幕小説」となった。
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【魯迅全集・第十一巻】
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月界旅行
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科学小説月界旅行弁言
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第一回 太平に悲しみ会員旧を懐う 寥寂を破り社長書を贻る
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第二回 新地を捜し奇想天を驚かす 演壇に登り雄弁俗を震わす
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第三回 巴比堪松明を列ねて諸市を游ぶ 観象台書簡を寄せて天文を論ず
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第四回 星使に喩え麦氏飛丸を頌す 螺旋を廃し社長巨砲を定む
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第五回 決議を聞き二州地を争う 反対を逞しくし一士金を懸く
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第六回 石丘を覓め連騎山に入る 洪炉を鼓し飛鉄瀑と成る
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第七回 成功を祝し地の府に華筵を張る 同志を訪ね舵楼に畸士に遇う
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第八回 温素互和人生を調剤す 天行就降地軸を改良す
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第九回 侠男児演壇に凱を奏す 老社長人海に仇に逢う
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第十回 空山に友を覓め游子魂断つ 森林に人なく両雄決闘す
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第十一回 逍遥を羨み麦公憤を含む 震動力を試し栗鼠殃に蒙る
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第十二回 新実験勇士気に服す 大創造巨鏡天を窺う
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第十三回 蛮族を防ぎ亜電武器を論ず 遠客を迎え明月飛丸を照らす
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第十四回 詭弁を縦にし汽扇雲を駆る 佳音を報じ弾丸月に達す
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地底旅行
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第一回 奇書眼を照らし九地路通ず 流光人に逼り尺波電の如く謝す
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第二回 愛情を割き手を揮って征途に上る 冒険を教え高きに登り游子を嚇す
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第三回 探険を助け壮士途を識る 貧辛を紓べ荒村に馬を駐む
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第四回 生命を拚し奮身して火口に入る 中道を択び聯歩して地心に向かう
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第五回 光明を仮り造物人を欺く 大僥倖霊泉渇を医す
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第六回 亜蓠士痛哭す無人の郷 勇梗斯力めて渡津の筏を造る
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第七回 巨海に泛び釣を垂れて盲魚を獲る 戦場に入り飛波古獣を現す
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第八回 大声水を出で浮嶼龍に擬す 怪火人を搏ち荒天電を掣く
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第九回 磁針を擲ち碛間に造化を呵す 匕首を拾い碣上に英雄を識る
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第十回 爆薬を埋め再び亜仑洞を辟く 旋渦に遇い共に焦熱獄に堕つ
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第十一回 熱潮を秉り火に入り火を出ず 楽土に堕ち生を捨て生を得
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第十二回 故郷に返り新説群儒を服す 至理を悟り偉功怪火に帰す
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域外小説集 序言 略例
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謾(一~六) 黙(一~四) 四日
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現代小説訳叢 暗澹たる煙靄の中で(一、二) 書籍(一~五)
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連翹 省会 幸福 医者(一~三)
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戦争中のウィルコ——一つの実話 狂った娘 父はアメリカに
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現代日本小説集
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掛幅 クレーク先生 遊戯 沈黙の塔 幼き者とともに
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阿末の死(一~十一) 峡谷の夜 三浦右衛門の最期
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復讐の話 鼻 羅生門
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附録 作者についての説明
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夏目漱石 森鷗外 有島武郎 江口渙 菊池寛
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=== 第117節 ===
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芥川龍之介
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労働者スヴェートロフ
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「労働者スヴェートロフ」を訳した後に
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労働者スヴェートロフ
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一 二 三 四 五 六 七 八 十 十一 十二 十三 十四 十五
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【第一回 太平に悲しみ会員旧を懐う 寥寂を破り社長書を贻る】
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およそ世界地理と歴史を読んだ者は、アメリカという場所があることを知っている。アメリカ独立戦争のことに至っては、子供でさえも天地を揺るがすものであったと知っている。今はさておき、独立戦争の時、合衆国にメリーランド州があり、その首府ボルティモアは名高い都市であった。行人は踵を接し、車馬は雲の如し。この府中に一つの会社があり、壮大であることは言うまでもなく、国旗が風に翻るのを見れば粛然として敬意を覚える光景であった。年々の戦闘で人心は恟恟とし、商人は資財を捐て、舟子は舟楫を棄て、みな兵事を研究していた。ウェストポイント兵学校の者は一層熱心であった。その後、多大の犠牲を払って遂に全勝し、奴隷の羈絆を脱して赫々たる合衆国を建てた。勝因は自ら兵器を製造し精巧を極めたことにある。ゆえにアメリカ砲術は天下に聞こえ、英仏の巨砲も見劣りした。あのボルティモア府中の壮大無比の星条旗はためく会社が銃砲製造所であった。設立時、官紳の力にも富商の資にも頼らず、一人の大砲発明家と鋳鉄師が相談し、旋盤工を招いて基礎を築いた。一月で正式社員千八百三十三名、同志社員三万五千六十五名に達した。拳銃短銃には構わず大砲鋳造に専心するのが宗旨であった。社員名簿を見れば戦死か陣亡、生還者も残缺不全。杖をつく者、木の義手義足の者、ゴムの頬、銀の頭蓋、白金の鼻——さながら廃人の会館であった。政治家ビードクルいわく「四人合わせても完全な腕は一本なく、六人合わせても揃った脚は一対もない」と。しかし老驥伏櫪、志は千里。五体不全なれども雄心は死せず、常に弾痕を撫でては再び戦場で新砲を試みたいと願った。陶淵明の詩にいう、
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精衛は微木を銜み、将に以て滄海を填めんとす。
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刑天は干戚を舞わし、猛志は固より常に在り。
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まさにこの会社の精神である。しかし戦争は終わり、大砲は無用の長物と化し、戦場は沃土に変わった。社員は鬱屈し、会社は零落し、堂室は荒廃した。……ある日の暮れ、社員ハントが義足を暖炉にかざして言った。「我々には為すべき事がない。いつ砲声を聞けるのか。」ビルスベーは断腕を伸ばし「そんな愉快なことはもうない。かつての大将は商人に戻り、弾丸庫には綿花が積まれた」と。マストンはゴム製の頭蓋を掻きながら「臼砲の雛形が出来た。将来の戦争を一変させ得る」と。ハントは「本当か」と聞き、マストンは「嘘ではない」と答えた。大佐ブレンベリーは「ヨーロッパの国体論争のことだろう」と言い、マストンは「もし臼砲に試験の好機が来ぬなら、アレガニーの平野に身を埋める」と憤った。一同は「我々もお供しよう」と答え、意気消沈して散会した。翌日、書状が届いた。
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本月五日の集会にて、古今未曾有の奇事を議せんと欲す。謹みて同盟諸君子のご来臨を乞う。
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十月三日、ボルティモアにて。銃砲会社社長バービケイン。
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謎は誰にも解けず、顔を見合わせるばかり。
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壮士は空しき歳月に甘んぜず、秋の雁は何事ぞ庭前に舞い降りる。
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次回に譲る。
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【第二回】
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五日の八時、社員は銃砲会社に駆けつけた。広大な会場は人で溢れ返り、正式社員と同志社員だけが整然と座っていた。正面に社長の椅子、三十四インチ臼砲台の形で車輪付き。前に「コルンバード」砲式の鉄机。壁に大時計。社長は四十に満たぬ男で、若くして木材商で巨利を得、独立戦争で砲兵長を務め名声を博した。時計が八つ鳴ると粛然と起立し、黒縁の峨冠に黒い礼服、体格魁偉、相貌荘厳。朗々と語り始めた。
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「我が勇敢なる同盟社員諸君。世は久しく太平にして我々は無用の長物となった。期し難い機会を待つより、精神を奮い励まし事業を成すべきである。数か月、私は全精力を一つの大目的に注ぎ研究推算した結果、各国が成し遂げられなかった大事業が成功し得ること、確実な根拠のあることを知った。もし成就すれば全世界が震動するであろう。……」
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堂中がどよめいた。社長は峨冠を整え直し、天を指して、ゆっくりと語った。
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=== 第118節 ===
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「我が最も勇敢なる同盟社員諸君!ご覧あれ、あの蒼穹に輝くのは一輪の月ではないか。今宵の演説は、まさにこの『夜の女王』をもって一大事業を成し遂げ得るがゆえである。この大事業とは何か。諸君、驚かれるな。すなわち未だ誰も知らぬ月世界を探索し、コロンブスの発見と同じことを為そうというのだ。しかし一人の力では成就し得ない。諸君の協力を得て、我が合衆三十六連邦の版図に月世界を加えたい。(拍手)月世界の重量、周囲、直径、組織、運動、距離と位置をすべて算出し太陰図を描いた。しかし地球から月世界に通路を開く事業はいまだない。(大喝采)空想上の探検者は少なくないが、いずれも紙上の理論に過ぎない。本日報告するのは実地研究である。砲術の進歩により大砲の抵抗力と火薬の弾撥力に限りなきことが明確となった。精巧な弾丸が月世界に到達し得るかという問題がおのずと生じたのである。」
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聴衆は呆然として静まり返り、しばらくして雷鳴の如き拍手喝采が起こった。社長がまた語った。「弾丸に毎秒一万二千ヤードの初速を与えれば月世界に射入できることが確実に分かった。この一大事業を試みんとするものであり、諸君いかがであろうか。」
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聴衆の歓喜は言いようもなく、叫び笑い吼え、十万の軍勢の声の如くであった。
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広寒がいずこにあるかを問うなかれ、壇上の雄弁はすでに神を驚かす。
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次回に譲る。
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【第四回 星使に喩え麦氏飛丸を頌す 螺旋を廃し社長巨砲を定む】
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=== 第119節 ===
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社長が天象台の返書を受けた翌日、盛宴を設け尽力社員を招集し大砲・弾丸・火薬の三大要件を決定した。投票で社長バービケイン、大将モーガン、少将エルフィンストン、監事マストンの四名を選出。社長は弾丸を先に議すとし、マストンは「月世界への弾丸は使節と同じ。修身を第一義とすべし」と熱弁した。モーガンが過去の砲弾速力を報告。社長は「八百ヤードでは過小、二十倍に増すべし」とし、望遠鏡観測のため直径九フィートの弾丸が必要と説明。四万八千倍の望遠鏡で月を五英里に縮め九フィート以上の物体が見える。材質は鉄では重すぎ、社長はアルミニウムを提案。「銀の色沢、金の堅剛、鉄より三倍軽い。ポンドあたり九ドル。」アルミニウム製なら一万九千二百五十ポンド、約十七万三千五百ドル。決定した。
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翌日は大砲を議した。三力(硝薬激発力・地球引力・空気抵抗力)を説明。少将は「通常の砲長は弾丸直径の二十倍」と言い、マストンは「足りない」と叫んだ。社長は「九百フィートでも不足かもしれぬ」とし、螺旋線は不要、初速だけが重要と論じた。材質は鋳鉄、六万八千四十トン、二百五十一万七百一ドル。社長が「資本金は手中にある」と安心させ散会。翌日火薬を決定すれば万事円満。
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呉質は眠らず桂樹に倚り、泉明は計なくして桃源を覓む。
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次回に譲る。
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【第五回 決議を聞き二州地を争う 反対を逞しくし一士金を懸く】
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=== 第120節 ===
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前回述べたように弾丸と大砲は議定し、残るは火薬の問題のみ。火薬の起源は上古の支那人の発明とも千四百年頃の僧侶シュワルツとも言うが後の臆説に過ぎず、千三百年頃の英国僧侶ベーコンの記録が確かである。当初は黒色火薬(硝石・硫黄・木炭の混合物)のみであったが、千八百四十五年にバーゼルの化学者シェーンバインが引火棉を発明した。綿花を硝酸・硫酸混合液に浸して乾燥させたもので、黒色火薬の四倍の威力がある。
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社長は「引火棉を用いるべし」とし、弾丸の重量と必要速力から四十万ポンドが要ると算出。少将は砲身の耐久性を懸念したが、社長は「引火棉は段階的に爆発し砲身の長さがこれを可能にする」と説明。費用はポンドあたり四十八セント、合計十九万二千ドル。承認された。
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発射地点は赤道に近い場所が最適とされ、フロリダのタンパが選ばれた。テキサス州が猛烈に反対し両州間で激論が起こったが、科学的根拠によりフロリダのストーンズ・ヒルに決定。一方、フランスからミシェル・アルダンが「弾丸に乗って月へ行きたい」と電報を寄越し、新たな議論が巻き起こった。
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次回に譲る。
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【第六回 石丘を覓め連騎山に入る 洪炉を鼓し飛鉄瀑と成る】
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=== 第121節 ===
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たちまち巨額を募集し会社事業は堅固となった。十月二十日、ニューヨーク府スプリング商会と契約を交わし、社長とスプリング製造局長が捺印。望遠鏡設置費はケンブリッジ天文台に、鋳弾はアルバニーのブラヴィ商会に託し、自らはマストン、エルフィンストンらとフロリダに出発した。タンピコ汽船に乗り換え数日でタンパに到着。
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社長はまず石丘の実地調査に着手。馬で山に入り適地を探した。ストーンズ・ヒルの地形は理想的で岩盤が堅固。九百フィートの竪穴を掘るため数百人の労働者が集められ蒸気機械で昼夜掘削。千二百基の溶解炉が石丘周囲に建てられた。
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鋳造の日、千二百の溶解炉に一斉に火が入った。溶鉄が奔流となって竪穴に注ぐ光景は洪炉を鼓して飛鉄が瀑布と化すかの如し。火光は天を焦がし地は震えた。鋳造は成功裡に完了し巨大な砲身が地中に据えられた。砲口は天に向い、月世界への通路の準備が整った。
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次回に譲る。
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【第七回 成功を祝し地の府に華筵を張る 同志を訪ね舵楼に畸士に遇う】
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=== 第122節 ===
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アルダンはフランクリン旅館に入り、疲労から食事後すぐに眠った。耳鳴りがして頭がくらくらし、まるで大弾丸の中にいるようであった。重い掛け布団にくるまり、数分で深い眠りに落ちた。雷鳴地震があっても銅像のように眠るこの男を起こすことはできなかっただろう。東方が明るくなりドアを叩く音が聞こえた。「大事だ、なぜドアを開けない!」しかし門内の者は鼾声雷の如く。数回呼んでようやく返事があった。
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マストンが入ってきて「アルダン君、臬科尔が社長に決闘を申し込んだ!月世界飛行は不可能だと言い社長を嘘つき呼ばわりした」と告げた。アルダンは「面白い。しかし社長が決闘で死んでは元も子もない。私が間に入ろう」と言った。
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アルダンは臬科尔のもとを訪ね説得した。「月世界への飛行が成功するかは実際にやってみなければ分からない。いっそ私と一緒に弾丸に乗って月へ行こうではないか。失敗すればあなたの正しさが証明される。」臬科尔は考えた末に「よかろう。私も乗る」と言った。
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こうして三人が月世界旅行の乗員となった。社長バービケイン、アルダン、臬科尔。アメリカ中が興奮に包まれた。
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次回に譲る。
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【第八回 温素互和人生を調剤す 天行就降地軸を改良す】
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=== 第123節 ===
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アメリカ国民は初め社長と臬科尔の決闘を聞いて驚惶したが、アルダンとマストンの調停で解決と知り大いに喜んだ。遠方の者も代表を派遣し祝賀した。アルダンの旅館前は繁華な都市のようになり毎日何千万人が訪れた。アルダンは休息の暇もなく両手も握り過ぎて麻痺した。代表たちは月世界探検の偉丈夫と数語交わすだけでも栄誉と語りたがった。
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弾丸内部の設計が議論された。三人分の座席、酸素供給装置、水と食料の貯蔵庫、観測窓が設けられ、反動緩和装置と着陸時の衝撃吸収機構も設計された。アルダンは月世界への贈り物として動植物標本、書籍、芸術品の持参を提案した。重量制限はあるが一部は認められた。
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準備は着々と進み、発射日が近づいた。全世界から見物人が集まりストーンズ・ヒル周辺は大都市のようになった。
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次回に譲る。
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【第九回 侠男児演壇に凱を奏す 老社長人海に仇に逢う】
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=== 第124節 ===
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前回、諸事は済んだが弾丸はまだ完成していなかった。アルダンの電報後に工事は停止され、到着後数日協議してブラヴィ商会に改めて製造を命じ、十一月二日に完成。東方鉄道で十一月十日に石丘に到着。三人が仔細に検査した。弾丸周囲に清水が貯えられ深さ三フィート、底面は円形水板で水漏れなく自由に運行可能。
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内部には座席、温度計、気圧計、時計が取り付けられた。酸素供給は化学反応を利用し、二酸化炭素は苛性カリで吸収。食料は圧縮保存食、水は十分確保。外壁は二重構造で緩衝材が詰められ、底部に強力なバネが仕込まれた。
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アルダンは「素晴らしい、豪華な客室だ」と喜び、臬科尔は冷静に「問題は発射の瞬間の衝撃だ」と言い、社長は「計算上は問題ない。水の緩衝とバネで十分だ」と答えた。
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すべての準備が整った。あとは発射の日を待つばかり。
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次回に譲る。
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【第十回 空山に友を覓め游子魂断つ 森林に人なく両雄決闘す】
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=== 第125節 ===
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光陰は電の如く初冬を迎えた。実験日が近づき社員の心魂は九天に飛んでいた。臬科尔だけは頑固に成功しないと言い張った。「コルンビアード砲に引火棉四十万ポンドを装入すれば燃焼必至、弾丸圧力で大惨事を招く」と。しかし社長は泰然として自ら工頭を指揮した。
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引火棉の搬入は細心の注意を払い、小分けにして砲身底部から順に丁寧に詰め込んだ。発射日は十二月一日、月の位置が最適な日。全米から、ヨーロッパからも数百万の見物人が集まり、ストーンズ・ヒル周辺は巨大な野営地と化した。
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発射前夜、三人は最後の晩餐を共にした。アルダンは上機嫌で冗談を飛ばし、社長は冷静に最終確認をし、臬科尔は黙然と酒を飲んでいた。三人は弾丸に入りハッチが閉じられた。カウントダウンが始まり、点火係の手が震えた。社長の合図で電気信号が送られた。
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次回に譲る。
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【第十一回 逍遥を羨み麦公憤を含む 震動力を試し栗鼠殃に蒙る】
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=== 第126節 ===
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旅行弾丸が発射された時、烈火は柱の如く天外に聳え、火竜が爪を張り蜿蜒と上昇した。やがて蓬勃と四散しフロリダを照らし火焔世界と化した。三百英里以内では深夜でも微虫の蠕動すら歴々と見えた。震動の力は千古未曾有の大地震で、フロリダは震域の中心。火薬の気体が空気を震動させ人工の大暴風が生じ、数千万の見物客はみな吹き倒された。
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暴風が収まり人々が空を仰いだが弾丸は見えなかった。望遠鏡で観測し弾丸は予定軌道を進んでいると確認されたが、中の三人が無事かは不明。マストンはケンブリッジ天文台で昼夜観測を続けた。やがて月の表面近くに光点が見えた。弾丸が月の引力圏に入ったのだ。しかし弾丸は月面に着陸せず周回軌道に入ってしまった。
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地球では大騒ぎとなった。数日後、太平洋上で巨大な物体が海面に落下。艦船が向かうとそれは弾丸であった。ハッチを開けると三人は無事。月には到達できなかったが月を一周して帰還したのだ。三人は英雄として迎えられアルダンは「次はもっと良い弾丸で再挑戦する」と宣言した。
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次回に譲る。
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【第十二回 新実験勇士気に服す 大創造巨鏡天を窺う】
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=== 第127節 ===
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十七日になっても一面の大海原で陸影は全く見えなかった。アクセルは長く海上に留まり鬱々たる気分に。リーデンブロック教授も不機嫌な様子。望遠鏡を取り出し四方を眺めた後、額にぶつけて問うた。「何を考えている。」アクセルは「何も」と答えた。教授は「否!お前は不機嫌そうだ。また郷愁か。筏の速度は速いが海路は遠い。焦ってはならぬ」と怒りの表情を浮かべた。アクセルは何が不機嫌なのか分からぬのに八つ当たりかと思ったが黙っていた。
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教授は観測に没頭した。海面に不思議な現象が次々と現れ、巨大な影が水中を通過し水面が盛り上がった。前方に島影が見えたが近づくと巨大な海獣の背中であった。海獣は筏に気づき潜水し巨大な波を起こした。筏は揺れに揺れ三人は必死にしがみついた。ハンスは冷静に舵を取り筏を安定させた。教授は「記録すべき大発見だ」と目を輝かせ、アクセルは「まず生き延びることが先です」と答えた。
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航海はさらに続いた。次回に譲る。
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【第八回 大声水を出で浮嶼龍に擬す 怪火人を搏ち荒天電を掣く】
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=== 第128節 ===
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烈雨盲風は三昼夜続いた。アクセルは体力微弱にして海中に転落。ようやく蘇生したかと思えばまた大難に遭い声も出なかった。朦朧とする中、誰かが肩を撫で「アクセル、何を言うのだ」と語りかけた。目を開けると砂上に横たわっていた。叔父が傍に踞坐し「何を言った。悪夢か」と問うた。冷汗を拭い目を放つと空はまだ晴れぬが風雨は幾分弱まっていた。ハンスが食物を煮て食べるよう勧めた。
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少し回復後、教授は周囲を調べた。嵐に流されて元と異なる岸辺に漂着していた。岩壁に奇妙な文字が刻まれ教授は「古代ルーン文字だ。先人が来た証拠」と興奮した。さらに洞窟の中に人骨と古い道具。教授は「アルネ・サクヌッセムの足跡だ。正しい道を進んでいる」と確信した。
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しかし道は行き止まり。教授は「火薬で岩を吹き飛ばす」と決断。火薬を仕掛け導火線を長く引き三人は退避。凄まじい爆発で岩壁が崩れ、先には巨大な空洞と熱い蒸気。三人は激しい水流に呑まれ暗闇の中を押し流された。
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次回に譲る。
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【第九回 磁針を擲ち碛間に造化を呵す 匕首を拾い碣上に英雄を識る】
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=== 第129節 ===
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紙障子の向こうから、はたきと箒の音がひどく激しく聞こえてきた。女中が急いで寝室を掃除しているのだ。はたきの音がとりわけ激しい。木村もしばしば注意したが、一日経つとまた元どおりで、はたきに括りつけた紙条で払うのではなく、柄の先で払っている。木村はこれを「本能的掃除」と呼んだ。鳩が卵を抱く時、角を削って丸くした白墨で鳩の卵を入れ替えても、それでも白墨を抱いている。目的を忘れて手段だけを実行する。埃のために払うことを忘れ、ただ払うために払っているのだ。
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木村は役所の仕事を終えると掛幅を替えるのが日課であった。季節に合わせて選ぶ。今日は秋の山水画を掛けた。淡墨で描かれた遠山と紅葉した楓が美しい。しばし見入り茶を淹れて一服した。木村の生活は単調——朝起きて役所に行き書類を整理し帰宅して掛幅を眺め読書をして就寝する。しかしこの静かな生活に充足を見出していた。
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同僚の田中が訪ねてきて掛幅を見て「君はいつもそればかりだ」と笑った。木村は「掛幅を眺めていると心が落ち着く」と答えた。田中は「もっと外に出るべきだ」と言ったが木村は首を振った。木村にとって掛幅は小さな窓であり、その窓を通して山水の間を逍遥し古人の心に触れることができた。現実は雑多で騒がしいが掛幅の中は静謐で美しかった。
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=== 第130節 ===
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一つの仕事を片付けると朝日を一本吸う。この時、木村の空想もしばしば暴走する。いわゆる分業というものは下の下の籤を引いた者にとっては甚だ退屈なものだ。しかし不平だとは思わない。そうは言いつつもこれを己の運命と甘受するファタリスト的思想を抱いているわけでもない。こんな仕事を辞めたらどうなるだろうとも常々考えた。仮に今の境遇のまま洋灯の下で朝から晩まで著述に励んだらどうだろう。この人は著述する時まるで何かに憑かれたように没頭し、食事も忘れ睡眠も削って書き続けるに違いない。
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しかし木村は自分がそのような激しい生き方に向いていないことを知っていた。緩やかな流れの中に身を置くことを好む人間であった。激流に身を投じれば大きな仕事を成し遂げられるかもしれないが、そもそもそのような欲望がなかった。世の中には二種類の人間がいる。自ら波を起こす人間と波に乗る人間。前者は歴史に名を残すかもしれないが平穏を失う。後者は無名のまま生涯を終えるかもしれないが静かな充足の中に生きる。木村は明らかに後者であった。
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朝日を吸い終わると再び仕事に戻った。単調な書類仕事。しかし木村はこの単調さの中に一つのリズムを見出していた。そのリズムは心地よく穏やかな気分にさせた。窓の外では秋の風が木の葉を散らしていた。木村はふと顔を上げ窓越しに高く澄んだ秋の空を見た。
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=== 第131節 ===
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ちょうどこの時、この地方で革命党の運動が起こり、椰子の瓢箪爆弾を持った人々の中にパルシ族の無政府主義者が交じっていることが発覚した。かくしてこの「Propagande par le fait」(事実による宣伝)の一味が逮捕された際、社会主義・共産主義・無政府主義に関わりのある出版物はすべて「社会主義書籍」の符牒のもとに治安紊乱として禁止された。
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この時禁止された出版物の中にアルツィバーシェフの『サーニン』も含まれていた。当局はこの小説を危険思想の宣伝と見なしたが、実際には革命運動失敗後のロシア青年の精神状態を描いたもので直接の政治的煽動とは無縁であった。禁止されたことでかえって注目を集め密かに回し読みされるようになった。禁書の常で読みたい者が増え非合法に流通した。取り締まりは効果が限られた。
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これは文学作品に対する政治的弾圧の典型例であった。権力者は思想を恐れるあまり文学作品を過大評価する。作者の意図と無関係に自分たちに都合の悪い解釈を施し危険視する。しかし文学の力は弾圧によってかえって強まることがしばしばある。禁書リストは長く『サーニン』はその一つに過ぎなかったが、後に世界各国で翻訳され広く読まれることになる。弾圧は一時的だが文学の生命は長い。
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=== 第132節 ===
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批評家は『サーニン』一冊がロシアの青年を堕落に向かわせたと考えるが実に武断的である。詩人の感覚はもともと常人より鋭敏であるから、アルツィバーシェフは早くも社会にこの傾向を感じ取り『サーニン』を書いた。十九世紀末のロシアは思潮が最も勃興し中心は個人主義であった。この思潮は次第に社会運動を醸成し、ついに一九〇五年の革命として現れた。約一年後、運動は沈静化しロシア青年の性欲運動が顕著になった。しかし性欲はもともと生物の本能であり、人間生活で重要な位置を占める。問題はそれが何のためにどのように現れるかである。
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革命の失敗は青年に深い挫折感を与えた。理想は砕かれ未来への希望は失われた。精神的空白の中で本能的欲望が前面に出るのは自然なことだ。サーニンはこの時代の産物であり、一切の道徳的束縛を拒否し自己の欲望に忠実に生きようとする。
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アルツィバーシェフ自身はサーニンの生き方を肯定しているわけではない。冷静な観察者として時代の病巣を描き出した。しかし多くの読者はサーニンの生き方に解放感を見出し実践しようとした。これは作者の意図を超えた受容であった。文学作品は時代の鏡であり、『サーニン』が描いたのは革命後のロシアの精神的荒廃である。批評家がこの作品を断罪するのは鏡に映った醜い顔を鏡のせいにするようなものだ。
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=== 第133節 ===
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我々は今日においてもなお、人類の発達を妨げる専門家の弊害に驚き眺めている。しかも感謝の念をもって、専門家の弊害が極度に達した時、必ず起って救済する門外漢が出現することを記憶している。イギリスの政治論に新紀元を画したのは一介の銀行員ベーヨットの『英国憲法論』ではなかったか。近代の歴史学に新方向を与えたのは薬種商の小僧上がりの小説家ウェルズではなかったか。しかも専門家たちはいかにこれらの人々の無学を嗤笑し冷笑し嘲笑したことか。
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しかし歴史が証明するように、真の革新は往々にして門外漢からもたらされる。専門家は既存の枠組みの中で思考する習慣がつきその枠組み自体を疑えなくなるからだ。門外漢にはその枠がないから自由に発想できる。門外漢の多くは的外れだが、中に天才的洞察力を持つ者がいて専門家の盲点を突く。
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アルツィバーシェフの文学についても同様のことが言える。専門の批評家は彼の作品を様々な「主義」や「流派」の枠に当てはめようとしたが、彼の作品はそのような枠に収まらなかった。門外漢のように自由に既存の文学的規範にとらわれず書いた。だからこそ新鮮であり専門家たちを苛立たせた。文化の進歩は専門家と門外漢の絶えざる緊張関係から生まれる。両者の対話と衝突があってこそ文化は前に進む。
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=== 第134節 ===
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主婦のグレースもまた何ら美女というわけではなかったが、なかなか趣のある女で、来客と議論を交わし、時には客を窮地に追い込むこともあった。しかしそういうところがまた人に興趣を感じさせ、多くの常連客は彼女に会うことを楽しみにしてここに来て寛いだ。イギリス人の彫刻家アンクル・ハリーはよくここに来て泥酔しては酒の上の繰り言を並べていた。
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若い美人のビリーニ・コレスもよくコーヒーを飲みに来た。来るとここのギターを手に取り小唄を歌いながら弾いた。私もかつて今はイタリア大使をしている人物としばしばここで会った。彼はまだ若い書記官だった頃で、我々は夜更けまで文学や政治について語り合ったものだ。
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このカフェは単なる飲食の場ではなかった。思想の交差点であり、様々な国籍・職業・信条の人々が集まり自由に語り合う場であった。パリには多くのカフェがあったがこのカフェはとりわけ文化人に愛された。画家、彫刻家、作家、音楽家、外交官——あらゆる種類の人々がここで出会い友情を結び時に論争を交わした。
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グレースの才覚はこの多様な客たちをうまくまとめるところにあった。誰に対しても分け隔てなく接し、しかし自分の意見は率直に述べた。それが時に客を窮地に追い込んだが、客たちはむしろそれを楽しんでいた。真の知性に対する敬意がこのカフェの空気を支配していたのだ。ここで過ごした夜々は今思い返しても輝かしい。若さと情熱と知性が渾然一体となったあの独特の雰囲気は、もう二度と味わうことができないだろう。
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=== 第135節 ===
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土木香(Inula helenium L.)はヨーロッパ原産の多年草で、秋季に二年生から三年生の宿根を採集し乾燥させたものを土木香(elecampane;Alantwurzel)と称し、健胃去痰剤に用いる。日本では売薬の中にしばしば用いられ、ヨーロッパでも重要な民間薬と見なされている。根には多量のイヌリン(inulin)および一~二パーセントの揮発油を含み、揮発油中にはアラントラクトン(Alantolakton,Cl5H20O2)[49]と称する結晶性成分を含有する。
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木香(Saussurea lappa Clarke,(Aucklandia Costus Falk.))はインド北部に自生する多年草で、根は芳香性健胃薬に供し、また薫香料とし、あるいは衣服の間に挟み、防虫に有効である。
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【桔梗科 Campanulaceae】
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ロベリア(Lobelia inflata L.)は元来北米に自生する一年草で、日本でも栽培すればよく生育する。従来はロベリアチンキとして喘息薬に用いられていたが、副害があるため一時ほとんど用いられなくなった。しかし数年前、ヴィーラント[50]がこれから純粋にロベリン(lobelin,C23H20NO2)という塩基物を抽出することに成功して以来、不可欠の呼吸興奮薬となった。日本野生の「沢桔梗」(L. sessilifolia Lamb.——ミズネギ)にもロベリンが含まれている。[51]
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桔梗(Platycodon grandiflorum DC.)は栽培して観賞に供する本植物の根もまた重要な生薬の一つである。すなわち秋季に根を掘り出して乾燥させたものを桔梗根と称し、煎服して鎮咳去痰薬とする(一日量五グラム)。北米から輸入されるセネガ根に較べ(後文の遠志科参照——訳者)、薬効は優れても劣ることはない。[52]成分は桔梗サポニン(kikyosaponin,C29H48O11)と称する。桔梗根は本来漢薬として用いられてきたが、近年は医用にも供され、さらにこれを原料とする「フラチコジン」「ホストール」「エバニン」等の新薬が発売されている。
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第一図 ロベリア
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【胡瓜科 Cucurbitaceae】
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コロシント(Citrullus colocynthis(L.)Schrader.)はヨーロッパで栽培される蔓性多年草で、形状はスイカに類似するが甚だ小さく、果実は直径三四寸の球形である。その果肉を乾燥させると麩のように粗く軽いものとなるが、〇・二グラムを用いるだけで激烈な下痢を起こす作用がある。
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カボチャ(Cucurbita moschata Duch. var toonas Makino.)はその同属のナンキン(C. moschata Duch var. melonaeformis Makino)と共に、種子は皆南瓜仁と称し、条虫駆除薬に用いる。駆虫作用はザクロ根皮ほど確実ではないが、副害がない点がその長所である。種子三十グラムを水を加えて磨り潰し、種皮を除去し、空腹時に服用する。合衆国では薬局方に収載して医用に供している。南瓜や柑橘を多食すると、しばしば眼球や皮膚等が黄色に染まり、黄疸のような外観を呈する。これを柑皮症(Aurantiosis,Carotinosis)と名づける。これは南瓜や柑橘に含まれるカロチン(carotin,C40H56)と称する黄色素が一旦人体に吸収された後、汗腺から排出されて皮膚角質層の脂肪を黄染するためである。健康には全く害はない。[53]
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栝楼(Trichosanthes japonica Regel.)は暖地に自生する宿根性蔓草で、その種子を栝楼仁、根を栝楼根と称し、鎮咳去痰薬とする。また根から製出した澱粉は天花粉と称し、湿疹その他の皮膚病に外用する。
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【敗醤科 Valerianaceae】
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甘松香(Nardostachys jatamansi Royle.)はインド山地に自生する多年草で、その根に特異の佳香があり、甘松香と称して芳香性健胃薬とし、また薫香料、特に線香の香料に用いる。インドでは古来これを非常に貴重な香料としている。約二パーセントの揮発油を含有する[54]。
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纈草(Valeriana officinalis L. var. latifolia Miq.)は山地に自生し、あるいは栽培される多年草で、初夏に美麗な淡紅色の繖形花序を頂生する。根を纈草根(valerian root;Baldrianwurzel)と称し、鎮静薬として神経衰弱、精神不安等に用い、婦人のヒステリー病には特に賞用される。一日量十グラム、通常は浸剤として用いる。約六パーセントの揮発油を含み、その固有の臭気は大抵纈草酸(Valeriansäure C4H9COOH)のエステル類に由来する。
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【茜草科 Rubiaceae】
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規那(Cinchona spp.)は南米原産の喬木で、現在は大抵ジャワで栽培されている。その樹皮を規那皮(cinchona bark;Chinarinde)と称し、健胃強壮薬とし、またこれから塩酸キニーネを製造して解熱薬とするが、マラリアに対しては特に不可欠の特効薬である。
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珈琲(Coffea spp.)は本来東アフリカの原産で、現在は熱帯各地で栽培されている常緑灌木である。カフェイン約二パーセントを含有する。カフェインは興奮剤、強心利尿薬として用いられる。
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ガンビール(Ourouparia Gambir Baill.)はマラッカ海峡沿岸地方に産する喬木で、その心材の水製エキスの乾燥品をガンビール阿仙薬と名づける。
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育亨培(Pausinystalia yohimba Pierre.)はアフリカに野生する喬木である。一八九六年、ドイツ人シュピーゲル[55]がこれからヨヒンビンと称する有効成分を発見し、その塩酸塩が現今医療上に用いられている。
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吐根(Uragoga ipecacuanha Baill.)は南米ブラジルに産する半灌木で、根を吐根と称し、少量を去痰薬、中量を催吐薬として用い、大量は劇毒である。またこれから塩酸エメチンを製造し、変形虫赤痢の特効薬とする。
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【車前科 Plantaginaceae】
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車前(Plantago major L. var. asiatica DC.)の種子を車前子、全草を車前草と称し、鎮咳薬として用いる。
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【紫葳科 Bignoniaceae】
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木角豆(Catalpa ovata G. Don.)は中国および日本各地に自生する喬木で、果実を梓実と称し、利尿薬として用いる。
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【玄参科 Scrophulariaceae】
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ジギタリス(Digitalis purpurea L.)はヨーロッパ原産の多年草で、その葉は最も重要な医薬の一つで、強心利尿剤として用いる。有効成分はジギトキシン(Digitoxin,C41H64O13)等の結晶性配糖体である。[58]
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地黄(Rehmannia glutinosa Libosch. var. purpurea Makino.)は中国原産の多年草で、根を地黄と称し、漢方では補血強壮薬として用いる。
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【茄科 Solanaceae】
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顛茄(Atropa belladonna L.)は欧米で広く栽培される多年草で、アトロピンの製造原料に用いる。
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番椒(Capsicum annuum L.)は熱帯アメリカの原産で、辛味成分はカプサイシン(Capsaicin,C18H27NO3)である。
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曼陀羅華(Datura alba Nees.)、番曼陀羅(D. tatula L.)、仏茄児(D. stramonium L.)——葉を鎮痙薬とし、喘息には特に賞用される。アトロピンおよびヒヨスチアミンを含む。
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ヒヨス(Hyoscyamus niger L.)はヨーロッパ原産で、葉を鎮咳、鎮痛薬とする。
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煙草(Nicotiana tabacum L.)は南米原産で、その葉にはニコチン(Nicotin,C10H14N2)を含み、喫煙嗜好料および農業用殺虫剤に供する。
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=== 第136節 ===
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莨菪(Scopolia japonica Maxim.)は山間の陰地に自生する日本特産の多年草で、根を莨菪根と称し、硫酸アトロピンの製造原料に供する。成分はヒヨスチアミン、アトロピン、スコポラミン等の塩基物である。アトロピンは少量であれば鎮痙・鎮痛作用を有するが、大量では劇毒であり、その中毒者は一時的に狂躁状態を呈する。またアトロピンは眼科医術上不可欠の薬であり、瞳孔を散大させる作用がある。植物の成分中にはアトロピンと正反対に瞳孔を縮小させるものもあり、カラバル豆のフィゾスチグミンや檳榔子のアレコリンがそれである。
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【唇形科 Labiatae】
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夏枯草(Brunella vulgaris L.)は山野に自生する多年草で、花穂を採集して乾燥させ、民間では淋病に利尿薬として用いる。
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薄荷(Mentha arvensis L. var. piperascens Holmes)は日本特産の多年草で、メントール(Menthol,C10H20O)の製造原料に用いる。メントールは日本の重要輸出品の一つで、輸出年額は約一千二百万円に達する。
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洋薄荷(Mentha piperita L.)は形状こそ前種に類似するが、花穂は頂生であり、メントール含量も遥かに及ばない。もっぱら薄荷油の原料に用いる。
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山紫蘇(Mosla japonica Maxim.)は日本特産の一年草で、チモール(Thymol,C10H14O)の製造原料とされていた。
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サルビア(Salvia officinalis L.)はヨーロッパ原産の多年草で、葉中に揮発油を含む。
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麝香草(Thymus vulgaris L.)はヨーロッパ原産の多年草で、全草に芳香があり、鎮咳薬として用いる。
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【紫草科 Borraginaceae】
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紫草(Lithospermum officinale L. var. erythrorhizon Maxim.)は山野に自生する多年草で、根を紫根と称し、刀傷・火傷の妙薬とする。
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【旋花科 Convolvulaceae】
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ヤラッパ(Exogonium purga Benth.)はメキシコに生ずる多年生蔓草で、その塊根を瀉下薬とする。
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牽牛花(Pharbitis nil Chois.)は広く栽培される一年生蔓草で、その種子を牽牛子と称し、漢方では峻下薬に属する。
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【蘿摩科 Asclepiadaceae】
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コンデュランゴ(Marsdenia cundurango Nichols.)は南米に産する灌木で、樹皮は胃腸の強壮収斂薬である。
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【夾竹桃科 Apocynaceae】
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ストロファンツス(Strophanthus hispidus DC.,S. kombe Oliv.)は重要な強心利尿薬である。
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【竜胆科 Gentianaceae】
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センタウリウム(Erythrea centaurium L.)はヨーロッパに自生し、健胃苦味薬とする。
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ゲンチアナ(Gentiana lutea L.)はヨーロッパの山地に生じ、その根を苦味健胃薬として用いる。
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竜胆(Gentiana scabra Bunge. var. buergeri Maxim.)は日本各地に産し、根を苦味健胃薬に供する。
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睡菜(Menyanthes trifoliata L.)は沼沢中に自生し、その葉を苦味性健胃薬として用いる。
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当薬(Swertia japonica Makino.)は山野に自生し、苦味健胃薬として用いる。苦味成分はスウェルチアマリンと称する結晶性配糖体で、三十万倍の水溶液でもなお苦味を感ずる。
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【馬銭科 Loganiaceae】
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馬銭(Strychnos nuxvomica L.)はイギリス領東インドに産する小喬木で、ストリキニーネおよびブルシンと称する峻毒性の塩基物を含有する。ストリキニーネは最も恐るべき毒薬の一つであり、その〇・一グラムで成人を致死させ得る。
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【木犀科 Oleaceae】
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オリーブ(Olea europaea L.)は常緑喬木で、その果実からオリーブ油を搾取する。本植物を「橄欖」と訳するのは誤りである。
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【赤鉄科 Sapotaceae】
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グッタペルカ樹(Palaquium gutta Burck.)はマレー群島に産する喬木で、グッタペルカを採取し、電気の絶縁材料等に用いる。
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【石楠科 Ericaceae】
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ウバウルシ(Arctostaphyllos uva-ursi L.)はヨーロッパ北部に自生し、その葉を治淋薬に供する。有効成分はアルブチンである。
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越橘(Vaccinium vitis-idaea L.)は常緑小灌木で、その葉はウバウルシ葉に代えて治淋薬とする。[65]
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【古生花被亜門 Archichlamydeae】
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【繖形科 Umbelliferae】
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柴胡(Bupleurum falcatum L.)は山野に自生し、その根は漢方で重要な解熱薬に属する。
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アジョワン(Carum ajowan Bth. et Hook.)は東インドに自生し、チモール製造の最も重要な原料である。
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=== 第137節 ===
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川芎(Cnidium officinale Makino.)は中国原産で各地に栽培される多年草で、根を芎あるいは川芎と称し、鎮静・鎮痙剤に用いる。揮発油中にセンキュウラクトン(Cnidiumlakton,C12H18O2)を含む。
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茴香(Foeniculum vulgare L.)はヨーロッパ原産の多年草で、茴香油の主成分はアネトール(Anethol,C10H12O)である。
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当帰(Ligusticum acutilobum Sieb. et Zucc.)は多年草で、根を当帰と称し、漢方では婦人病の要薬に属する。
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【五加科 Araliaceae】
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八角金盤(Fatsia japonica Decne. et Planch.)は栽培して観賞に供する常緑灌木で、葉中にサポニンを含み、去痰薬として用いる。
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人参(Panax ginseng C.A. Mey.)は朝鮮および満洲の原産で、古来万病の霊薬として尊ばれてきたが、果たしてそのような効験があるか否かは疑わしい。成分としてはパナキロン(Panaquilon,C32H56O14)等であり、人参特有の香気はパナセン(Panacen,C15H24)に起因する。
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竹節人参(Panax repens Maxim.)は山林の陰地に自生し、根中にパナクササポニンを含み、去痰薬として用いる。
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【桃金嬢科 Myrtaceae】
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ユーカリ(Eucalyptus globulus Labill.)はオーストラリア原産の喬木で、葉中にユーカリ油を含む。鼻カタルに吸入薬として用いる。
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丁香(Eugenia aromatica Bail.)は東インド諸島で栽培される喬木で、花蕾を丁香と称して芳香性調味料に用いる。これからオイゲノール(Eugenol,C10H12O2)を製造する。
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【石榴科 Punicaceae】
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石榴(Punica granatum L.)は小アジア原産の落葉灌木で、皮を石榴皮と称し、条虫駆除薬とする。
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【蕃瓜樹科 Caricaceae】
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蕃瓜樹(Carica papaya L.)は熱帯各地で栽植される喬木で、乳汁中にパパイン(Papain)を含み、蛋白質消化剤として用いる。
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【椅科 Flacourtiaceae】
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大楓子樹(Taractogenos Kurzii King.)はイギリス領インドに産する喬木で、大楓子油は現今なお唯一の癩病治療薬である。
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【山茶科 Theaceae】
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茶(Thea sinensis L.)は東洋原産の常緑灌木で、カフェイン約二パーセントを含む。古来興奮性飲料として用いられてきた各植物はいずれもカフェインを主要成分とするという事実は興味深い。
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【梧桐科 Sterculiaceae】
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カカオ樹(Theobroma cacao L.)は熱帯各地で栽培される喬木で、テオブロミンの製造原料に供する。
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【錦葵科 Malvaceae】
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アルテア(Althaea officinalis L.)は中欧で栽培される多年草で、根中に多量の粘液質を含む。
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黄蜀葵(Hibiscus manihot L.)は中国原産の多年草で、根に多量の粘液質を含み、粘滑薬に用いる。
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【鼠李科 Rhamnaceae】
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鼠李(Rhamnus japonica Maxim.)は山地に自生する落葉灌木で、果実はケンフェロールを含み、緩下剤として用いる。
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【漆樹科 Anacardiaceae】
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塩膚木(Rhus javanica L.)は日本各地に自生する落葉喬木で、五倍子はタンニンを多く含み、収斂薬に用いる。
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【大戟科 Euphorbiaceae】
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巴豆(Croton tiglium L.)は東インド原産の灌木で、巴豆油は峻下剤に属する。
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樟葉柏(Mallotus philippinensis Müll. Arg.)の腺毛をカマラと称し、条虫駆除薬とする。
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蓖麻(Ricinus communis L.)は熱帯インド原産で、蓖麻子油は重要な下剤である。
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【遠志科 Polygalaceae】
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セネガ(Polygala senega L.)は北米原産の多年草で、重要な去痰薬である。
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遠志(Polygala tenuifolia Willd.)は満洲に産し、去痰薬として用いる。
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【黄楝樹科 Simaroubaceae】
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黄楝樹(Picrasma quassioides Benn.)は日本特産の落葉喬木で、健胃苦味薬として用いる。
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【芸香科 Rutaceae】
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夏蜜柑(Citrus aurantium L. subsp. Natsudaidai Hayata.)は暖地で栽培される常緑灌木で、果皮を浴剤の芳香料に用いる。
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呉茱萸(Evodia rutaecarpa Hook. fil. et Thoms.)は中国原産の落葉小喬木で、果実を香辛性健胃薬とする。[72]
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=== 第138節 ===
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黄蘗(Phellodendron amurense Rupr.)は山地に自生する落葉喬木で、樹皮を黄蘗と称し、ベルベリンおよびパルマチンを含み[73]、漢方では重要な苦味健胃薬に属する。
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山椒(Xanthoxylum piperitum D.C.)は落葉灌木で、果実は漢方で蛔虫駆除薬として用いる。揮発油の主成分はフェランドレンおよびシトロネラールである。
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【古柯科 Erythroxylaceae】
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古柯(Erythroxylon coca Lam.,E. novogranatense Hieron.)は南米の灌木で、葉はコカインの製造原料に供する。コカインは局部麻酔剤として重要な医薬品であり、阿片と同様に国際間で管理されている。
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【亜麻科 Linaceae】
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亜麻(Linum usitatissimum L.)はヨーロッパ原産の一年草で、繊維を採取して亜麻布を織り、副産物として亜麻仁油を製造する。
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【牻牛児科 Geraniaceae】
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牻牛児(Geranium nepalense Sweet.)は山野に自生する多年草で、茎葉を止瀉薬として用いる。
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【豆科 Leguminosae】
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アカシア(Acacia catechu Willd.)は東インドに生ずる喬木で、阿仙薬はカテキンおよび鞣酸を含み、収斂薬として用いる。
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アラビアゴム樹(Acacia senegal Willd.)はアフリカに自生し、アラビアゴムを粘滑薬等に用いる。
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トラガカント——小アジアからペルシアにかけて産する灌木で、丸剤等の賦形薬に用いる。
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センナ——エジプトおよびインドに産する灌木で、葉を瀉下薬として用いる。
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決明(Cassia tora L.)は南アジア原産の一年草で、種子を決明子と称し、緩下強壮薬とする。
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コパイバ・バルサム樹——南米に産する喬木で、樹脂を泌尿器疾患の内用薬とする。
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デリス(Derris elliptica Benth.)はマレー群島に野生する蔓性灌木で、有毒成分ロテノン(Rotenon,C23H22O6)[74]を含み、農業用殺虫剤として盛んに使用される。
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皂莢(Gleditsia horrida Makino.)は落葉喬木で、多量のサポニンを含み、去痰薬または利尿薬として用いる。
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甘草(Glycyrrhiza glabra L. var. glandulifera Regel. et Herder.)は中国北部に自生する多年草で、根の甘味はグリチルリチンに起因し、矯味薬および鎮咳薬として用いる。
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魚藤(Millettia taiwaniana Hayata.)は台湾に自生する蔓性灌木で、有毒成分はロテノンである。
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ペルー・バルサム樹——南米に産し、バルサムを疥癬に外用する。
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カラバル豆(Physostigma venenosum Balf.)はアフリカに産し、フィゾスチグミンの製造原料に供する。フィゾスチグミンは瞳孔を縮小させる作用を有し、アトロピンと正反対の作用を持つ。
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葛(Pueraria hirsuta Matsum.)は山野に自生する落葉藤本で、根を葛根と称し、漢方では発汗解熱の要薬とする。
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【薔薇科 Rosaceae】
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コッソ樹——アフリカに産し、雌花を条虫駆除薬として用いる。
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杏(Prunus armeniaca L. var. ansu Maxim.)は中国原産で、種子を杏仁と称し、杏仁水を鎮咳薬として用いる。
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バクチ樹——日本暖地に自生し、バクチ水を鎮咳薬として用いる。
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桃(Prunus persica Sieb. et Zucc.)は中国原産で、白桃花を下剤として用い、種子は鎮咳薬とする。
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キラヤ——南米に産し、サポニンを含み、化粧品等に用いる。
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野薔薇(Rosa multiflora Thunb.)は山野に自生し、種子を峻下および利尿薬とする。
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【虎耳草科 Saxifragaceae】
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土常山(Hydrangea opuloides Steud. var. thunbergii Makino.)は落葉灌木で、甘味成分はフィロズルシン(Phyllodulcin,C16H14O5)である。[82]
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【十字花科 Cruciferae】
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=== 第139節 ===
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芥(Brassica cernua Thunb.)は中国原産の越年草で、種子を芥子と称し、配糖体シニグリン、酵素ミロシンおよび脂肪油を含む。粉末に微温湯を加えると揮発芥子油を生じ、皮膚刺激引赤薬に用いる。ヨーロッパおよびアメリカではB. nigra Koch.とSinapis alba L.を芥子原料としている。
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【罌粟科 Papaveraceae】
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延胡索(Corydalis decumbens Pers.)は各地に自生する多年草で、塊茎を延胡索と称し、漢方では婦人病の要薬として鎮静薬に用いる。成分はプロトピンおよびブルボカプニン等の塩基で、鎮痛・麻酔の効を有する。
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駒草(Dicentra pusilla Sieb. et Zucc.)は高山に自生する多年草で、全草を腹痛薬として用いる。
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罌粟(Papaver somniferum L.)は小アジア原産の越年草で、未熟果実の乳液の乾燥品を阿片(Opium)と称する。阿片はモルヒネ(Morphin,C17H19NO3)等の塩基を含み、鎮静・鎮痛剤として殊に重要である。世界各国は協力してその取締りに当たっている。
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【樟科 Lauraceae】
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樟(Cinnamomum camphora Nees. et Eberm.)は常緑喬木で、樟脳(Camphor,C10H16O)は重要な医薬品であり、強心・興奮剤に用いる。樟脳は日本の重要輸出品で政府の専売品である。
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桂(Cinnamomum cassia Blume.)は常緑喬木で、桂皮を芳香性健胃剤に用いる。主成分はシンナムアルデヒドである。
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肉桂(Cinnamomum loureirii Nees.)は日本暖地に自生する常緑喬木で、根皮および幹皮を芳香性健胃薬に用いる。
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【肉荳蔲科 Myristicaceae】
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肉荳蔲(Myristica fragrans Houtuyn.)はオランダ領東インドに産する喬木で、種子を芳香性健胃薬に用いる。
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【木蘭科 Magnoliaceae】
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大茴香(Illicium verum Hook.)は中国南部に産する喬木で、果実を香料として用いる。アネトール、サフロール等を主成分とする。
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【防己科 Menispermaceae】
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コロンボ(Jatrorrhiza palmata Miers.)はアフリカ東海岸に産し、根を苦味健胃薬として用いる。
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漢防己(Sinomenium acutum Rehd. et Wilson.)は暖地に自生する落葉藤本で、有効成分はシノメニン(Sinomenin,C19H23NO4)[84]である。
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【小蘗科 Berberidaceae】
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南天燭(Nandina domestica Thunb.)は常緑灌木で、白南天を漢方で鎮咳薬として用いる。
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【毛茛科 Ranunculaceae】
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烏頭(Aconitum japonicum Thunb.)は多年草で、根にアコニチンを含み、猛毒性であるため今日ではほとんど用いられない。
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黄連(Coptis japonica Makino.)は多年草で、根茎を苦味性健胃薬として用いる。ベルベリン、パルマチン等を含む。
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ヒドラスチス(Hydrastis canadensis L.)は北米に産し、ヒドラスチニンを製造して止血薬とする。
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芍薬(Paeonia albiflora Pall.)は東部アジア原産で、根を鎮痙薬として用いる。
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牡丹(Paeonia moutan Sims.)は中国原産の落葉灌木で、牡丹皮を鎮痙薬として用いる。
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【商陸科 Phytolaccaceae】
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商陸(Phytolacca acinosa Roxb. var. esculenta Makino.)は多年草で、根を利尿薬に供する。
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【莧科 Amaranthaceae】
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牛膝(Achyranthes bidentata Blume.)は多年草で、根を利尿通経薬として用いる。
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【藜科 Chenopodiaceae】
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ケノポジウム(Chenopodium ambrosioides L. var. anthelminticum A. Gray.)は北米原産の多年草で、ケノポジウム油は蛔虫、十二指腸虫等の駆虫剤である。有効成分はアスカリドール(Askaridol,C10H16O2)である。
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【蓼科 Polygonaceae】
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何首烏(Polygonum multiflorum Thunb.)は中国および日本に自生する蔓草で、根を漢方で強壮薬として用いる。
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=== 第140節 ===
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大黄(Rheum tanguticum Tschirch.)は中国西部に生ずる多年草で、根茎を大黄(rhubarb;Rhabarber)と称し、健胃および緩下剤として用いる。有効成分はクリソファン酸、エモジン等のオキシメチルアントラキノンである。
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唐大黄(Rheum undulatum L.)は中国およびシベリア原産の多年草で、根茎を和大黄と称し、大黄に代えて健胃および緩下剤とする。
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【白檀科 Santalaceae】
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白檀(Santalum album L.)はインドで栽培される小喬木で、白檀油は重要な治淋薬であり、主成分はサンタロール(Santalol,C15H24O)である。
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【桑科 Moraceae】
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大麻(Cannabis sativa L.)は東インドで栽培される一年草で、催眠麻酔性の樹脂を含み、鎮静催眠剤として用いる。
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ホップ(Humulus lupulus L.)は欧米で栽培される宿根性蔓草で、ビール醸造に不可欠である。
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【殻斗科 Fagaceae】
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没食子樹(Quercus lusitanica Lamarck.)は小アジアに産する落葉喬木で、没食子は没食子鞣酸を多量に含み、鞣皮工業等に用いる。
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【胡椒科 Piperaceae】
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畢澄茄(Piper cubeba L.)はインド、ジャワ等に産し、果実を治淋薬として用いる。
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カヴァカヴァ(Piper methysticum Forst.)はポリネシアに自生し、根は麻酔性の嗜好料として用いられる。カヴァ中毒症を引き起こし得る。
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【三白草科 Saururaceae】
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蕺菜(Houttuynia cordata Thunb.)は路傍に自生する多年草で、民間では鮮葉を化膿等に貼用し、煎服して淋病を治す。
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【単子葉門 Monocotyledoneae】
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蘭科 Orchidaceae
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采配蘭(Cremastra appendiculata Makino.)は樹陰に自生し、根茎に多量の粘液を含み、粘滑薬とする。
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【生姜科 Zingiberaceae】
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鬱金(Curcuma longa L.)は熱帯に自生する多年草で、根茎を姜黄と称し、食品の着色料として用いる。黄色素はクルクミン(Curcumin,C21H20O6)である。
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莪朮(Curcuma zedoaria Rosc.)は熱帯で栽培される多年草で、根茎を芳香性健胃薬とする。
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生姜(Zingiber officinale Rosc.)は熱帯アジア原産で、辛味成分はジンゲロン(Zingeron,C11H14O3)である。
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小荳蔲(Elettaria cardamomum Whit. et Maxton.)はインドで栽培され、果実を芳香性健胃薬として用いる。
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【鳶尾科 Iridaceae】
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サフラン(Crocus sativus L.)は各地で栽培され、雌蕊を鎮痙・通経剤として用いる。主成分はα—クロシン等の三種の黄色素で、カロチノイド色素に属する。
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【石蒜科 Amaryllidaceae】
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石蒜(Lycoris radiata Herb.)は各地に自生する宿根草で、鱗茎にはリコリンを含む。近年の研究によりその薬理作用が吐根のエメチンに類似することが発見され[89]、去痰薬が製造されている。
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【百合科 Liliaceae】
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芦薈(Aloe africana Mill.等)はアフリカ等に産し、葉の汁液のエキスを瀉下薬とする。
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鈴蘭(Convallaria majalis L.)はヨーロッパおよび日本北部に自生し、全草を強心利尿薬に用いる。
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カタクリ(Erythronium japonicum Makino.)は山地に自生し、根の澱粉を「片栗粉」の原料に供する。
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貝母(Fritillaria verticillata Willd. var. thunbergii Baker.)は中国原産で、鱗茎を貝母と称し、鎮咳、解熱薬とする。フリチリン等の塩基物を含む。[90]
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=== 第141節 ===
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小葉麦門冬(Ophiopogon japonicus Ker. Gawl.)はしばしば庭園に栽植される多年草で、鬚根の瘤起部を麦門冬と称し、漢方では鎮咳、解熱、強壮薬として用いる。
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海葱(Scilla maritima L.)は地中海沿岸に自生する多年草で、鱗葉を海葱と称し、強心利尿薬とする。
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【天南星科 Araceae】
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半夏(Pinellia ternata Breit.)は路傍に自生する多年草で、根茎を半夏と称し、漢方では鎮咳の要薬とし、特に妊娠嘔吐に常用される。
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【椰子科 Palmae】
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檳榔(Areca catechu L.)はマレー原産の常緑喬木で、種子を条虫駆除薬として用いる。アレコリン等の塩基を含む。
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【莎草科 Cyperaceae】
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香附子(Cyperus rotundus L.)は海浜に自生する多年草で、塊瘤を漢方では婦人病の要薬として通経および鎮痙薬に用いる。
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【禾本科 Gramineae】
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薏苡(Coix lacryma-jobi L. var. frumentacea Makino.)は一年草で、種子を薏苡仁と称し、利尿および栄養強壮薬として用いる。
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【裸子植物亜部 Gymnospermae】
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【麻黄門 Gnetales】【麻黄科 Gnetaceae】
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麻黄(Ephedra sinica Stapf.)は中国奥地に生ずる多年草で、漢方では発汗・鎮咳の要薬である。有効成分エフェドリン(Ephedrin,C10H15NO)は長井長義博士により発見された[91]。一九二四年にChen、Schmidt両氏[92]の薬理学的研究以後、呼吸鎮静薬としての用途が大いに開かれた。エフェドリンの化学的構造はアドレナリン(Adrenalin,C9H13NO3)に類似し、薬理作用も類似している。
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漢方では麻黄の茎葉は発汗薬であるが、地下茎は止汗薬として用いられ、両者の作用は正反対である。『本草綱目』にもこの点が記されている。原植物にはE. sinica Stapf.[94]の新名が立てられた。
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【球果門 Coniferae】【松柏科 Pinaceae】
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檜(Chamaecyparis obtusa Sieb. et Zucc.)は揮発油を含み、治淋薬に用いる。
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赤松(Pinus densiflora Sieb. et Zucc.)、黒松(P. thunbergii Parl.)からはテレビンおよびテレビン油が得られ、硬膏の基剤等に用いる。
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高麗松(Pinus koraiensis Sieb. et Zucc.)の種子を海松子と称し、滋養強壮薬とする。
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【一位科 Taxaceae】
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榧(Torreya nucifera Sieb. et Zucc.)は常緑喬木で、種子は十二指腸虫駆除の効があるとされる。
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【無管有胚植物部】
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石松(Lycopodium clavatum L.)の胞子を石松子と称し、丸薬の衣として用いる。
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小歯朶(Dryopteris crassirhizoma Nakai.)の根茎を綿馬エキスの原料とし、条虫駆除薬とする。
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【真菌植物部】
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落葉松茸(Polyporus officinalis Fries.)はアガリシン酸を含み、結核患者の盗汗に止汗薬として用いる。
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麦角(Claviceps purpurea Tulasne.)は禾本科植物に寄生し、その菌核を麦角と称して子宮収縮・止血薬に用いる。陣痛促進剤として婦人科領域で甚だ重要である。
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茯苓(Pachyma Hoelen Rumph.)は松根周囲に発生する菌体で、漢方では利尿薬として用いる。
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【紅藻植物部】
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鷓鴣菜(Digenia simplex Ag.)は蛔虫駆除薬として用いる。副害がなく確実な駆虫薬で、小児に特に適する。
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石花菜(Gelidium amansii Lamx.)からは寒天が製造される。寒天は緩下剤として、また細菌培養基として不可欠の品である。
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【凡例】(略)
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日本 刈米達夫 原著
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楽文 摘訳
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=== 第142節 ===
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[9]プロイツァー(Pleuzer)はドイツ語訳ではクラウバー(Klauber)、「選り好みする者」「吹毛求疵する者」等とも訳し得る。
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[10]「全てか無か」(Alles oder Nichts)はイプセンの言葉で、戯曲『ブラント』に出る。
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[11]おそらく病原菌を指すものであろう。
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[12]小刀を用いるとは、医学上の屍体解剖を指す。
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[13]十コペイカは当時の中国の銭にしておよそ一角である。——訳者
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[14]ケーニヒ(König)はドイツ語で「王様」の意であるが、ここでは犬の名前である。——訳者
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[15]ピョートル(Piotr)こそ彼の正式名であり、ペチカ(Petika)は親愛あるいは軽蔑の意を込めた呼称である。——訳者
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[16]ロシアでは「ゴロドキ」(Gorodki、「小さな街」の意)の遊びが好まれる。——訳者
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[17]これは酔漢セミョン・クデヤルの姓名の略字である。——訳者
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[18]このナイフが切れ味が良いためであり、読書の意ではない。——訳者
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[19]ニコライ・ゴーゴリ(一八〇九——一八五二)、ロシアの著名な作家。——訳者
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[20]チェルヴォネツ(Chervonez)はロシアの貨幣名で十ルーブルに相当する。——訳者
 +
 
 +
[21]『父を尋ねるヤペテ』はおそらく実在の書物であるが訳者は著者を知らない。——訳者
 +
 
 +
[22]カールヴォッヘ(Karlwoche)は復活祭前の一週間。——訳者
 +
 
 +
[23]パルムゾンターク(Palmsonntag)は復活祭前の日曜日。——訳者
 +
 
 +
[24]カルーセル(Karussell)は回転遊具である。——訳者
 +
 
 +
[25]「不合格」の曖昧な発音を指す。——訳者
 +
 
 +
[26]パニヒダは死者を弔う祈祷会。——訳者
 +
 
 +
[27]百コペイカが一ルーブル、一コペイカは約一分。——訳者
 +
 
 +
[28]一グリヴナは約二角。——訳者
 +
 
 +
[29]一アルシンは約二尺強。——訳者
 +
 
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[30]一サジェンは約七尺。——訳者
 +
 
 +
[31]スメルチは「死ぬ」の意。——訳者
 +
 
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[32]エフスチグネイの愛称。——訳者
 +
 
 +
[33]プロハルチョクの愛称。——訳者
 +
 
 +
[34]「雌羊のような」の原語から人名が変化したもの。——訳者
 +
 
 +
[35]ドイツ語の姓で「ユダヤ人食い」の意。——訳者
 +
 
 +
[36]イェリー(ieli)、ロシア文字の第二十九字。——訳者
 +
 
 +
[37]ヘイビアス・コーパスはチャールズ二世時代の人身保護法。——訳者
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 +
[38]八月十五日。——訳者
 +
 
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[39]「人道主義氏」の意。——訳者
 +
 
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[40]風俗壊乱図書取締条項。——訳者
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[41]フォン・デル・ペスト(Von der Pest)は「黒死病氏」の意。——訳者
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[42]ウラジーミル大公時代の英雄。——訳者
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[43]百コペイカが一ルーブル、一コペイカは約二分。——訳者
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 +
[44]高木誠司、本郷銀作。『薬学雑誌』五〇九、五三九(一九二四年)。
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[45]~[84](学術文献引用。各項の原文のとおり。)
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=== 第143節 ===
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「何用だ、婆さん?……」太った方がブルガリア語で問うた。
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駆けつけてきたのは六十がらみの女で、背が高く、痩せており、男のような目つきで、腕にはぼろぼろの麻布に包まれた子供を抱いていた。
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「渡してくださいまし、旦那様!……船に乗せてくださいまし、神様があなたとお子さん方に長寿と幸福をお授けくださいますように!……」
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「おお、お前はあのイリーザか?……気の狂ったジャウルめが!……」
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彼は彼女を知っていた。チェロペクで食事の世話をしたことがあったからだ。
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「そのとおりでございます、アガ・ハチ=ハサン。連れて行ってくださいまし、この子の顔に免じて……」
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「その包みを持ってどこへ行く?……」
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「私の孫でございます、ハチ。母親がおりません……病気なのです……修道院に連れて行くところです……」
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「一体何のために?……」
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「この子が治りますようにと、お祈りをしていただくために……」女は懇願するように言い、眼差しには大きな憂いが湛えられていた。
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ハチ=ハサンは船の中に腰を下ろし、船頭は櫓を手に取った。
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「アガ、神様に免じて!……この善行をなさってください、あなたにもお子さんがおありでしょう!……」
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トルコ人はしばし考え、軽蔑するように言った。「乗れ、馬鹿者め!……」
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女は急いで船に飛び乗り、船頭と並んで座った。船頭は雨後に暴れるイスケルの濁流の中へ漕ぎ出した。山の端に沈みゆく太陽がきらきらとした光輝で水面を金色に輝かせていた。
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【二】
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この女が修道院へ行くのは実に急を要した。腕の中には二週間病み続けている二歳の孤児が横たわっていた。まじない師の薬も祈祷も効き目がなかった。彼女の最後の望みはただ聖母にかかっていた。
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彼女は楢の林を通り抜けイスケルへ向かって下りて行くところだったが、木立の間から奇妙な服装の青年が現れた。胸には弾薬帯を掛け、手には銃を持っていた。
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「お婆さん、パンをくれ!……飢え死にしそうだ!……」
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彼女はすぐにどういう人間か察した。山の上にいる仲間の一人なのだ。袋の底にわずかに乾いたパンの皮が見つかっただけで、それを渡した。
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彼女はしばし考えてから言った。「坊や、林の中に隠れていなさい……夜になったら来て待っていなさい……パンと着替えの服を持ってきてあげますから……」
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青年の顔に希望の光が射した。彼女は彼がよろめきながら林の中へ身を隠すのを見、目に涙が溢れた。
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彼女は急ぎ足で下り、二つの男の命を救うために、修道院の院長にこっそり相談して農民の服とパンを手に入れようと心に決めた。
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=== 第144節 ===
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【三】
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夜はもうその漆黒の翼をチェレピス修道院の上に広げていた。イスケルの渓谷は暗い空の下に陰鬱な沈黙を湛えていた。
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修道院もまた朦朧と眠りに就いた。侍者が出てきて、続いて修道士も出てきた。
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「誰だ?」——「女のようだ」——「夜中に女だと!トルコ人に違いない!」
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「チェロペクのイリーザですよ……開けてくださいまし……」
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門はわずかに開き、農婦を入れてすぐに閉じた。
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「何の用だ、イリーザ?」——「孫がひどい病気で……住持様はどちらに?」——「ベルコヴィツァへ行かれた。」
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修道士エフティミは不承不承ながら教堂で祈祷を行い、法衣の裾を子供の頭にかぶせた。子供の顔は蝋のように黄色かった。
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「もうあまり生きてはいないようだ」と修道士は告げた。深い目が見開かれ、蝋燭の光が二つの星のように映った。
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村妇は修道士の手に接吻し二枚のピアストルを載せた。
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「もし助かるなら、じきに良くなるであろう……納屋で寝なさい……」
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しかしイリーザは林で出会った蜂起者のことを話そうとした。修道士は恐怖と怒りに駆られて遮った。「聞きたくない……教会を火の中に送り込む気か!」
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彼女は話を飲み込み、ここで夜を明かすまいと決意した。パンだけ受け取り、子供を抱いて出て行った。大門はすぐに閉じられ、がちゃりと錠が下りた。
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=== 第145節 ===
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 +
[20]「愚蠢」(愚かしい)の意。——訳者
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[21]「糞桶」の意。——訳者
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[22]デミトリーの愛称。——訳者
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[23]同じくデミトリーの愛称。——訳者
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[24]ロシアでは誰もが知っている物語の登場人物のようであるが、出典は未詳。——訳者
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[25]織物の名称。——訳者
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[26]おそらくアホリバマ(Aholibamah)であろう。アダムとエバの子カインの孫娘で、下級天使(セラフ)に愛され、大洪水の際に別の惑星に連れ去られたとされる。——訳者
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[27]「グルボフ」は「愚蠢」の意であるため、このような文章がある。——訳者
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[28]ツィゴイナー(Zigeuner)はヨーロッパの放浪の種族であるが、ここでは特にルーマニアの農奴を指す。——訳者
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[29]ボヤール(Bojar)はかつてのルーマニアおよびロシアの貴族の尊称。——訳者
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[30]地主の住居。——訳者
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[31]ルーマニアの俚諺。——訳者
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[32]ドイナ(Doina)はルーマニアの民謡。——原訳者
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[33]コブスとコブスはいずれもギターに類する楽器。——訳者
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[34]ブリウ(Brîu)はルーマニアの舞踊。——訳者
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[35]バトゥータとカラシェルはいずれもルーマニアの舞踊名。——訳者
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[36]バトゥータとカラシェルはいずれもルーマニアの舞踊名。——訳者
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[37]コーカサスの一種族で、大部分はロシアの圧迫を逃れてトルコ国境に移住したが、その一部は逆にトルコの側に立って被圧迫のブルガリア人を残虐した。——訳者
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[38]イスケル(Isker)、旧名エスコス(Öskos)は、ブルガリア国内のドナウ(Donau)河の右岸支流の一つ。——原訳者
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[39]ジャウル(Giaur)は「不信者」とも訳し得る語で、トルコ人が異教徒、特にキリスト教徒やペルシア人に対して用いる罵倒語。——訳者
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[40]ベルコヴィツァ(Berkovitza)はブルガリアの市鎮で、ロム=パランカ(Lom-Palanka)府に属する。——原訳者
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[41]物語中にしばしば出てくる教堂とは、ギリシア・カトリックの教堂を指す。ブルガリア人は大抵ギリシア・カトリック教を信奉している。——原訳者
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[42]ピアストル(Piaster)はスペインおよびメキシコで用いられた銀貨。——訳者
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[43]オデュッセイア(Odyssee)はギリシアの詩人ホメーロス(Homeros)の著名な叙事詩で、オデュッセウス(Odysseus)の経歴を記す。——訳者
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[44]バシ=ボズク(Basi-Bosuks、蓬髪の意)は非正規のトルコ歩兵で、しばしば強制的に徴集され、軍事訓練を施されない。——原訳者
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[45]トルコの軛からの解放に努力する革命者を、トルコ人は皆叛徒(コミタ)と呼ぶ。——原訳者
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=== 第146節 ===
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武装した兵士と工人たちは皆スコベレフ広場の総督官邸に集合した。ここが革命軍の本部であった。銃を持った兵士と工人の一団が狭い入口で押し合い、華麗な装飾の各部屋に流れ込んだ。大広間や金色に輝く欄干の付いた広い階段は、黒色と灰色の人々で騒々しく溢れかえり、安煙草の強烈な煙が群衆の頭上を濛々と覆っていた。亜庚はかつて公爵、伯爵、威厳ある将軍らが住んでいたこの大邸宅に入ったのは初めてであった。素朴な驚きの目を見開いて高い漆喰の天井や壁に嵌め込まれた鏡、大広間の白い円柱を凝視し、心中ひそかに一種の誇りを覚えた。「俺たちが占領したんだ。」
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一人の大男が椅子の上に立ち、甲高い声で叫んだ。「静粛に、同志諸君!……カメルゲスキー横丁を掩護せねばならぬ。同志諸君、あの地点へ行ってくれ。」
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工人たちは各自随意に小組を編成して出て行った。亜庚は隆支・彼得罗微支の一行を見失い、見知らぬ工人の一組に加わってカメルゲスキー横丁の角へ向かった。
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デヴィルスク街の突き当たりでは激しい銃撃が行われていた。工人と兵士たちは腰をかがめ、壁の突角に身を隠しながら一人ずつ前進した。
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亜庚の心臓は激しく鼓動し、胸が締めつけられた。枪声が間近に響き、何かが路面の石に当たってぱたぱたと音を立てた。「ああ、いい物が飛んできたな」と前方の兵士が笑って言った。
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亜庚は一人の兵士と共に街を横切ろうとしたが、どこからか銃撃が起こり、兵士は路上に倒れた。亜庚は角の一団の中に飛び込んだ。看護兵の黒い自動車が来て戦死した兵士を運び去った。帽子が忘れられ、「帽子を持って行け!」と皆が叫んだ。亜庚もヒステリックに叫んだ。
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戦死した兵士が横たわっていた場所の敷石は暗黒に変わり、石と石の間の窪みには赤い水溜まりができていた。
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亜庚は銃を肩に当てて発砲した。歩兵たちは角に集まり、皆で見えない敵に向かって射撃を集中した。弾薬三束をすべて消費した後、彼は問うた。「あっちから逃げたんじゃないのか?」——「逃げるものか、向こうにいるさ。」
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=== 第147節 ===
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ふとした折に、ブルジョアジーや徒食者、吸血鬼らを嘲笑する声も聞こえた。しかしそれは例外であり、灰色の顔をした汚れた衣服のこの人々は、事件に対して漠然としていた。彼らは向日葵の種を齧りながら冗談を言い合い……そしてすべての人が、まるで火事を喜ぶ子供のように、非常に晴れやかな気分になっていた。夕方になり戦闘が次第に鎮まり情勢が良い方向に向かうと、ロシア人がそれぞれ待ち望んでいた奇跡がいよいよ現れるのだと思ったようであった。
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ワルワーラ・ロゾワ——亜庚の母親——は、息子が既に赤軍に加わって市街へ向かったことを知った。彼女はたちまち門辺や街角、大プレスニャの広場へ走り出し、息子が帰ってこないかと見張った。
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=== 第148節 ===
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"いや、彼女を外に出しはしなかったよ。ちょうど何人かの女たちがここにいたので、あれこれ言って慰め、家に送り届けたのだ。今は眠っていて、少し落ち着いたところだ。"
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皆はまた沈黙した。
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家々の窓にはまだ消えかけた灯火が残り、人々が各部屋を行き来し、影が動いているように見えた。子供以外に就寝した者はいなかった。食べることよりも眠ることが好きなあの老門番アンドロプでさえ、まだ中庭を歩き回り、革の防寒靴で泥を踏んでいた。
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風が出てきて、中庭の塀沿いに植えられた菩提樹の裸の枝を揺さぶり、凄惨な音を立てていた。ある屋根の上では外れかけた板が風に煽られてぱたぱたと音を立てた。市街から伝わる銃声はいっそう猛烈になり、探照灯の光芒がしばしば低く垂れこめた灰色の雲間を滑り、動いたり止まったり、また人家の屋根に落ちたりして、あたかも大きな手が煙突や通気窓の間を捜索しているかのようであった。
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アンドロプはようやく顔を上げ、この光を見てから言った。
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"おやおや、天に兆しが現れたぞ。"
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"いや、あれは兆しではない。あれは探照灯というものだ"とエスペースが説明した。
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しかしアンドロプは聞いていないようだった。
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"ほう。そうだな……セヴァストーポリで戦があった時にも、天空に兆しが現れたものだ。三本の柱と三本の箒がな。夜になると現れた。あの時の人々は占ったものだ。あれは何の前兆かと。すると血腥い戦争が始まったのだ。あの時のようなことがなければよいのだが。"
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"今回は兆しがなくても、セヴァストーポリの時よりも多くの血が流れているさ。"
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"ほう、ほう"とアンドロプは相槌を打ったが、エスペースには賛同しなかった。
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"しかしやはり兆しはあるものだ。神の御力だからな。ああ、人を殺すのは難しいことだ。犬一匹殺すのも難しいが、人を殺すのはもっともっと難しいのだ。"
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"ああ、お前さん、アンドロプ、よくもまあ議論するものだ。今は人命が犬の命よりも安くなってしまったというのに"と暗がりの中から女の声がして、さらに続けた。"聞きなさい、あの銃声は。あれが犬を撃っているとでもいうのかね?"
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"だから私は言うのだ。人を殺すのは難しいことだと。いずれ神の御前で申し開きをせねばならぬのだから"とアンドロプは一拍置いて、"神は今、人間たちのこの有様を見て、涙を流しておられるのだ。"
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"それはそうだ"とエスペースが言った。"怒りの目で見ておられるのだ。"
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再び沈黙に戻った。銃撃の応酬も時折中断したが、風は依然として枝を揺さぶり、凄涼たる音を立てていた。
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どこかで錆びた蝶番の門がぎいと鳴った。数人が中庭に出てきたが、暗くて誰とも見分けがつかず、ただ黒々とした影が見えるだけだった。彼らは黙って暫く立ち、物音に耳を澄まし、溜息を吐き、部屋に戻ったかと思うとまた出てきた。皆が一団となって低い声で語り合い、なおも溜息を吐いていた。話題はこの困難な数日間をいかにして比較的安全に過ごすかということであり、溜息の種はこの住居に男が少なく女が多く、警備の手立てがないことであった。
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ワシーリーが部屋に戻った時、イワンはもう眠っていたが、母親は薄暗い灯の前で片肘をテーブルに突き、手で皺の寄った顔を支えて椅子に座っていた。イワンは微かに鼾をかいていた。
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"まだ撃っているのかい?"母親が静かに問うた。
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"撃っている。"
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ワシーリーは急いで服を脱ぎベッドに横たわったが、なかなか寝つけなかった。過ぎ去った一日が悪夢のように胸にのしかかった。殺された将校のぴかぴかの長靴、"何をなすべきか"という焦燥の問い、泣き崩れた亜庚の母親の姿が目の前にちらちらと浮かんでは消えた。母親はそっと溜息を吐き、薄明かりの部屋の中を行き来した後、聖像の前に座って長い間祈祷し、やがて横になった。
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ワシーリーは明け方近くにようやく眠りについたが、束の間のことで、傍らでイワンが服を着る音に起こされた。部屋にはもう薄暗い日の光が射し込んでいた。イワンは蓬髪のまま険しい顔つきでベッドの縁に座って長靴を履いていた。
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"出かけるのか?"ワシーリーが低い声で問うた。
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"出かける。"
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"ええ、出かけるのよ"と隣室から不意に母親の厳しい声が響いた。"まさかイワンがいなければ、あんなことができないとでもいうの?"
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=== 第149節 ===
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イワンとガリスネコフは窓辺に立ち、狙撃していた。
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ボリシェヴィキが通りを駆け抜け、並木道の木の下の黄色い小さな雑貨店に身を隠した。こうなると敵はほとんど目と鼻の先であったが、店が邪魔をしてかえって直接は撃てなかった。時折、ボリシェヴィキの方からも応射があり、弾丸が壁に当たって砕け散った。
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イワンは冷静に、しかし確実に狙撃を続けた。ガリスネコフも同様であった。二人は一言も交わさず、ただ銃口を窓枠に載せて目標を定め、撃っては弾を込め直した。
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ワシーリーは弾薬を運ぶ役を買って出た。階段を上り下りし、弾薬箱から薬莢を取り出しては二人の元へ運んだ。
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夕方近くになって、スリーヴェン率いる一隊が交代に来た。イワンとガリスネコフは銃を置き、疲れ果てた体を引きずるようにして階段を下りた。
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"食事は?"イワンが尋ねた。
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"店の中に缶詰と漬物がある"とスリーヴェンが答えた。
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=== 第150節 ===
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彼らはようやく安堵した。
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"食べることは食べていたさ。店の中に缶詰と漬物があったからな……"
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一時間後、スリーヴェン率いる一隊は別の一隊と交代し、休憩所へ向かった。既に三日三晩、ろくに眠っていなかった。彼らは休憩所の床に横たわり、石のように眠りに落ちた。
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=== 第151節 ===
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"おお"と彼は語尾を引き延ばし、黙って背を丸めると、そのまま戸口を離れ、たちまち矮小で淒涼たる姿になった。
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"今日もまた一日中泣くのだろうな"とワシーリーは溜息交じりに思った。"玉にも瑕あり……"
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=== 第152節 ===
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暮れる前に、薬剤師の家の女中二人がチョコレートとケーキを盆に載せて持ってきた。子供たちは猛獣のようにケーキに飛びかかった。放浪者イリサピテは先ず自分の旅の話をし、さらにいくつかの冒険譚を語って、皆を大いに楽しませた。
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=== 第153節 ===
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あの赤毛の経理人はこの叫び声を聞くと、驚いて慌てて起き上がり、寝台から飛び降りた。裸足で濡れた床板を踏みしめ、これこそ消火の水だと心から信じた。灯を点けて戸を押し開けようとすると、空箱がばたばたがたがたと倒れてきた。
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=== 第154節 ===
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一八七〇年一月二日。グロトキンの庭で、犬が一晩中吠え続けた。私の女中ベラガーエは、これは非常に確かな前兆だと言い、それで私は彼女と午前二時まで話し込んだ。もし私が簿記課長になったら、アライグマの毛皮の外套を一着こしらえなければなるまい、と。
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=== 第155節 ===
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今年二月、第六号にさらに二篇、『短気な人』と『悪い子供』を掲載した。その後記は——
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チェーホフのこの類の小説は、私はすでに三篇を紹介したことがある。この種の軽妙な小品は、おそらく中国にはとうに訳本があるだろうが、私にはまた別の目的があった。原本の挿画は、おそらく当然作品の装飾であるが、私の翻訳は、ただ挿画の説明にすぎない。
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作品について論じれば、『短気な人』は一八八七年の作である。批評家によれば、この時期はすでに作者の経験がさらに豊かになり、観察がさらに広範になったが、思想もまた日に日に陰鬱となり、悲観に傾いた時期であったという。確かに『短気な人』は、この短気な人が実は短気になれないことを書いたほか、当時の閨秀たちの卑陋、結婚の困難と無聊をも明らかに表現している。しかし一八八三年の作で、皆が滑稽小品として読んだ『悪い子供』の方が悲観の気息はさらに重い。なぜなら、その結末の叙述を見れば、すでにこう言っているのだ——復讐の楽しみは、恋愛に勝ると。
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続いて私はさらに三篇を送った。『ペルシアの勲章』、『難解な性格』、『陰謀』で、これで全部完了となった。しかし『訳文』第二巻第二号に発表された時には、『ペルシアの勲章』は見当たらなくなっており、後記からもこの作品に関する記述が削除され、「三篇」が「二篇」に改められていた——
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本木版画本チェーホフ短篇小説は全八篇、ここにさらに二篇を訳す。
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『陰謀』はおそらくシャレストフの性格と当時の医学界の腐敗の状況を描いたものであろう。しかしその中には人種の違いを利用した「同業嫉妬」とは異なるものも示されている。たとえば姓氏から見れば、シャレストフはスラヴ種人であるから、「モーセ教派の敬うべき同僚たち」——ユダヤ人を排斥し、また医師プライステラー(Gustav Prechtel)やフォン・ブロン(Von Bronn)および薬剤師グルンメル(Grummer)をも排斥するが、この三人はいずれもドイツ人の姓であり、おそらくユダヤ人かゲルマン種人であろう。この種の関係は、作者本国の読者には一目瞭然であるが、中国に来ると注釈を加えねばならず、いささか煩雑になる。しかし中村白葉氏の日本語訳本『チェーホフ全集』と照合すると、ここにはユダヤ人に関する好ましからざる言葉が二箇所欠けている。一つは「モーセ教派の同僚たちが一団となって喚き立てていた」の後の一行、「『ガヤガヤ、ガヤガヤ、ガヤガヤ……』」が欠けている。二つは「モーセ教派の敬うべき同僚がまた一団となり」の下の一文「喚き立てた」が、「あの例の——『ガヤガヤ、ガヤガヤ』を始めた……」となっている。しかし原文にもともと二種あるのか、それともドイツ語訳者が削除改変したのかは分からない。私は、日本語訳本がいわれなく付け加えるはずはないと思う。
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公平に論じれば、この八篇は大半チェーホフの比較的良い作品とは言えず、おそらくマシューチンが小説のために木版を作ったのではなく、翻訳者アレクサンダー・エリアスベルクが木版のために小説を訳したのであろう。しかしその木版もまた、必ずしも小説の叙述に従っておらず、たとえば『難解な性格』中の女性は、小説によれば扇子に房飾りがあり、鼻梁には眼鏡をかけ、手には腕輪があるはずだが、挿画にはいずれもない。大体を見て取りかかり、原書と一つ一つ符合させる必要はないというのが、西洋の挿画家のごく普通の気質である。「神似」は「形似」より一段高いと誰かが言うが、私はそれが挿画の正道ではないと常々考えており、中国の画家が学ぶ必要はない——「形神兼備」ができれば、単なる「形似」よりもう一段高いのではないか。
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しかし「この八篇」の「八」の字は変えられておらず、三回の掲載で小説はわずか七篇しかなかったが、編集者と翻訳者以外は誰も気づかないだろう。今年の刊行物に新たに加えられた一行「中宣会図書雑誌審委会審査証……字第……号」が、すなわち「民の口を防ぐ」標識であることを誰が知ろうか。しかし我々のような訳者の訳業は、まさにこの機関で削除され、禁止され、没収されたのであり、しかも声明も許されず、麻の核桃を銜えて刑場に赴くが如くであった。この『ペルシアの勲章』もまた、いわゆる「中宣……審委会」の暗殺帳簿の一筆である。
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『ペルシアの勲章』は帝政ロシア時代の官僚の無聊な一幕を描いたに過ぎず、当時の作者の本国でさえ発表できたのに、なぜ今の中国では禁止されたのか——我々には推測する術がない。ただこれも一つの「奇聞」と見なすほかない。しかし書報検閲が始まって以来、六月の「『新生』事件」のために雲散霧消するまで、出版界においてはまさに「通過するところ残破あり」の感があり、重みのある訳業でその完膚を保ちえたものはまことに少ない。
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当然ながら、国土も、経済も、村落も、堤防も、残破せざるはなき現在、文芸もまた独りその完全を保つことはできない。まして私の訳業から出たものであれば、上には御用詩官の威圧があり、下には幇閑文人の助虐があり、災禍に遭うのはまさに予想の中にある。しかし一方に残毀する者がいれば、他方には保全し、補救し、推進する者もおり、世界はこうしてこそ荒廃に至らないのである。私はこの後者に属することを願い、また明らかに後者に属している。今なお八篇を取り、一冊に編み、この小集を再び完全に帰せしめる。事は些末なれども、今年の文壇にこの亜細亜式の「奇聞」を一つ留めるのみならず、我々の小さな記念ともなすのである。
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一九三五年九月十五日の夜、記す。
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[1]一九一二年、以下これに倣う。
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[2]ロシアの距離単位。1ヴェルスタは中国の約三百五十丈。
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[3]この年、日露戦争後の革命があった。
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[4]社会革命党。
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[5]おそらく投獄または監視を指す。
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[6]貨幣の名称、約五角に相当。
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[7]日刊紙の名。ここではこの新聞社で働いているという意味。
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[8]ロシア第一回大革命の月。
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[9]第二回大革命の月、すなわち本書が描写するもの。
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[10]イリヤ・ロモメッツ、古代叙事詩中の大勇士。
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[11]モスクワの要衝。
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[12]クレムリン付近にある。
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[13]Bourgeoisは現在の意味では「有産者」。Amenはもともとヘブライ語の賛嘆の語で、「確かに」あるいは「真に」の意。キリスト教徒が祈祷の結びに用いるため、ここでは「完結」の意に解する。
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[14]イエスの弟子にしてイエスを売りし者。
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[15]「Kopeika」、労働者の読む安価な低級紙。
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[16]モスクワの有名な市場、クレムリン宮付近の四通八達の地。
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[17]Varshavianka、三十余年前に流行した有名な曲。
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[18]イワンの愛称。
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[19]イワンの愛称。
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[20]ワシーリーの愛称。
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[21]Iroda、ユダヤの王。
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[22]ロシアの長さの単位、1サージェンは中国の約七尺。
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[23]Bonjour, Monsieur、フランス語、「旦那様、こんにちは」の意。
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[24]古諺。
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[25]三十六ポンドで一プード。
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[26]ワリヤ——彼の妻——の愛称。——訳者
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[27]ロシアの農民の歩き方、脚がいくらか湾曲している。——訳者
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[28]ロシアの長さの単位、一サージェンは中国の約七尺弱。——訳者
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[29]Taiga、シベリアの森林の呼称。——訳者
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[30]歩兵を指す。——訳者
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[31]この句はロシアの罵言であるが、意味は未詳。——訳者
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[32]十月革命の際、社会革命党(S.R.)の大部分は反革命に加わったが、その一派「急進派」(Maximalist)はボリシェヴィキとともに白軍と戦った。——訳者
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[33]Koltchak、白軍の将領。——訳者
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[34]看護婦を謂う。——訳者
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[35]これは哺乳動物に特有の鋭敏な嗅覚を指して言ったもの。英語本では「第六感覚」と訳されている。——訳者
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[36]ミーシカの愛称。——訳者
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[37]トウモロコシで煮た粥。一説には中国の一種の粟であるが、未詳。——訳者
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[38]一種の拳銃の名称。——訳者
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[39]四十ポンドで一プード(Pud)。——訳者
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[40]Manzhurka、非常に安価な煙草の一種。——訳者
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[41]パーヴェルの愛称。——訳者
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[42]ニコライの愛称。ここでは最後の皇帝ニコライ二世を指す。——訳者
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[43]Verst、ロシアの距離単位、一ヴェルスタは千百七十ヤードに相当する。——訳者
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[44]チシュ(Tchish)は「舞い羽」の意味、故にいう。——訳者
 +
 
 +
[45]拳銃の一種。——訳者
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 +
[46]Kvass、一種の飲料。——訳者
 +
 
 +
[47]面積の単位、1デシャティーナは中国の約三千五百歩。——訳者
 +
 
 +
[48]地雷の渾名。——訳者
 +
 
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[49]Nochinoe、夜間に馬を野外で放牧し、監視も加えること。——訳者
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 +
[50]「Alles so sehen, wie es ist, um zu aendern, was ist, und zu lenken, was ist.」中国にはおそらくさらに正確な翻訳が存在するだろうが、一時に調べ得なかったため、原文を録して参考に供す。——訳者
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 +
[51]コサックの用いる皮帽。——訳者
 +
 
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[52]外套、これもコサックの用いるもの。——訳者
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[53]Blind、金を賭けて札を見ないこと。上海では「偸鶏」と称する。——訳者
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[54]Pass、自分の番が来たが不適当なため次の人に譲ること。「パス」とも訳せる。——訳者
 +
 
 +
[55]イエスの弟子にしてイエスを売りし者。——訳者。
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[56]ロシアの旧習で、結婚の宴会の際、もし賓客が杯を挙げて「苦い、苦い、甘くしてくれ!」と叫べば、新郎と新婦は必ず接吻しなければならない。——訳者
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[57]これはバスク語で、「おい、真面目だな」の意。——原訳者。
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[58]ギリシアの哲学者。——重訳者。
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[59]黒人とインディアンの混血児。——原訳者。
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[60]白人と黒人の混血児。——原訳者。
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[61]一ドルは中国の銀約二元に相当する。——訳者
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[62]エル・グレコ(1614年没)、ベラスケス(1599-1660)、フランシスコ・ゴヤ(1746-1828)、三人ともスペインの大画家。——訳者
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[63]アロンソ・サンチェス・コエーリョ(1515?-1596)、スペイン肖像画の先駆者。フアン・パントーハ・デ・ラ・クルス(1551-1609)はその弟子。——訳者
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[64]ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1477-1576)、イタリアの画家。英語ではTitianと表記。——訳者
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[65]スペインの貨幣。——訳者
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[66]同じくスペインの貨幣。——訳者
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[67]ラスコーリニコフ、ドストエフスキーの小説『罪と罰』の男の主人公。——訳者
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[68]ホメオパシー、日本ではまた『同類療法』と訳す。類似の毒をもってその病を治す医法で、意味は大体中国の「以毒攻毒」と同じである。現行の多くの細菌病に対する血清注射は、実はなおこの療法であるが、この名称は久しく使われていない。——訳者
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[69]帝政ロシア時代に貴族の戴いた帽子。——訳者
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[70]コーリャはクスマ(Kusima)の愛称。——訳者
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[71]原名Skrophuroso、一種の草薬を搗いて作った小丸薬。——訳者
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[72]イタリアのシチリアとカラブリアの間のメッシーナ海峡に見える蜃気楼。伝説では仙人モルガーナの所為とされ、故にこの名がある。——訳者
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[73]この日本名、ドイツ名Zitwer、中国名は未詳。——訳者
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[74]Solotnikはロシアの重量単位、一ソロトニクは中国の約一銭一分余りに相当する。——訳者
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[75]マズルカは一種の舞踏。——訳者
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[76]ヘロドトス(484-408 B.C.)、ギリシアの史家、世に「歴史の父」と称される。クセノフォン(435-354 B.C.)、ギリシアの史家、哲学者にして将軍でもある。——訳者
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[77]フランス語で、中国の現在の「先生」という呼称に相当する。当時のロシアの上流社会ではフランス語を話すことが洒落とされた。——訳者
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[78]カバラ、ヘブライの神秘哲学。——訳者
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[79]クロケットは一種の屋外遊技。——訳者
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[80]フランス語、賛辞。——訳者
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[81]フランス語、ここではおそらく「お嬢様方」と訳すほかない。——訳者
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[82]アルトゥル・ショーペンハウアー(1788-1860)、ドイツの厭世的哲学者にして女性を極めて憎悪した人。——訳者
 +
 
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[83]メフィストフェレス、すなわち『ファウスト』中の悪魔で、ファウストを獄中の恋人の前に送り届けると消え去った。ここではおそらく牢獄に送り込む意味のみを取っている。——訳者
 +
 
 +
【竪琴】
 +
 
 +
V・リーディン
 +
 
 +
早く教えてくれ、早く。
 +
 
 +
ここに黄金の竪琴がある。
 +
 
 +
——レールモントフ
 +
 
 +
=== 第156節 ===
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朝。水兵たちが市鎮を占領した。機関銃を運び込み、塹壕を掘った。伏せて待った。一日、また一日。薬剤師ガレズキー氏とソロモノヴィチ——製粉工場主——が市の委員であった。支隊長の水兵プシュカのところへ走って行った。プシュカは個人、住宅、信仰、私有財産、酒蔵の不可侵を約束した。市は安心した。教会では主唱者が空を仰いで歌を唱えた。ソロモノヴィチは水兵たちに五袋のビスケットを届けた。水兵たちは塹壕の中にいた。煙草を吸っていた。市民とも親しくなった。三日目になると塹壕の中にも飽きてきた。敵はいなかった。夕方になると水兵たちは市の公園に散歩に行った。小道で娘たちと冗談を言い合った。四日目の朝、まだ皆が眠っている時、歩哨さえ眠っている時——五台のオートバイが乗りつけ、中の覆いの下からフード付きの兵士たちが飛び出した。歩哨を立て、郵便局のそばで約三十分間射撃した。そして船で対岸に逃げる水兵たちを追撃せず、市鎮を占領した。まる二日の間、住居を捜索し、通行人を罰し、銀行で勤務していた何の罪もないリフゲンを銃殺した。次に名もなき者三人を、その後五人を。夜、哨所でドイツ人を二人斬った。朝になると少佐は市に徴発令を出した。住民の方からまた代表が派遣された、ガレズキー氏とソロモノヴィチ。少佐は赤い髭を動かして徴発を実行した。しかし翌日、どこからともなく戦線隊が到着し、ドイツ人を斬り、赤髭の少佐を殺し——市鎮を占領した。これ以後、あらゆることが始まったのだ。
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戦線隊もまた個人と信仰の不可侵を約束した。古きユダヤの神は再び主唱者の朗々たる讃歌を聞いた。——しかし朝になると三人のならず者が古いロートシルトの雑貨店を打ち壊した。日中にはサイダー製造工場が略奪された。住民の代表がまた交渉に行った。軍隊はまた不可侵を約束した。——ところが夕方になるとさらに三軒の店とソロモノヴィチ自身の事務所が襲撃された。暴動は九時に始まった——十一時には酒蔵が襲撃された。——そして二昼夜続いた。三日目にアドマン隊が到着した。徹夜の銃撃。——朝になると戦線隊を追い払い、アドマン隊が引き続き暴動した。その後緑軍がアドマン隊を追い払った。次に藍軍——チョバン隊が来た。最後にマーシャ・サンプロワが装甲オートバイに乗ってやって来た。皮帽をかぶり、皮の外套を着、長靴を履き、拳銃も携えていた。自ら七人を銃殺し、鞭でアドマンを打ち据えた。黒い瞳と油で光る巻き毛が閃いていた……マーシャ・サンプロワが来てから暴動はさらに三昼夜続いた。——合計七昼夜。この七日間、街を行き来し、ガラスを割り、ユダヤ人をあちこちに引きずり回し、帽子を引っ張り、長靴をすり替えた……ユダヤ人たちは屋根裏や地下室に隠れた。教会では跪いた。教士は勤行をし、教区民は十字を切った。夜、市の外れで火をつけたが消しに行く者は一人もいなかった。
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十七人のユダヤ人が屋根裏部屋に座っていた。薪で入口を塞いだ。暗闇の中、誰も生きているようには見えなかった。ただ長い溜め息と啜り泣きとアドナイへの祈りだけがあった。——偉大なる方よ、あなたの古き民を滅ぼしたもうな。——すると赤ん坊が泣き出した——おぎゃあ、おぎゃあ!——生まれてまだ七ヶ月の赤ん坊が。——聞いてくださいよ、聞いてよ……あなたがたは私たちを滅ぼすつもりですか?……乳をやってくださいな。——私のところには乳はありませんよ……——誰か乳のある人はいませんか、おい、誰か?子供に少し飲ませてやってください、あれでは私たちの命取りですよ……——静かにしなさいよ、坊や……ああ、シマ・イスロエリ、静かに、おまえはいい子じゃないの……——聞こえますか、歩いてますよ、下を歩いてますよ、通り過ぎた……——もし乳がなければ本当にどうしたらいいか分かりません。——その子の口を押さえてください、その子の口を押さえて、人に聞こえないように……——通り過ぎた。長い間歩いていた。戸を叩いた。薪を蹴散らした。通り過ぎた。
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綿入れを着て、眼鏡の下に丸い目をした若い男が、夜、ファニー・アリプレシドに語って聞かせた。——分かりましたか、女が子供を胸にしっかり押しつけて、通り過ぎるまでずっと——通り過ぎた後に気がついてみると子供はとうに死んでいたのです……私はこの目で屋根裏部屋で見たのです。その後逃げてきました——私はどうしてもモスクワに行かねばなりません。正義を探しに行くのです……正義はどこにあるのでしょう?人々は皆言っています、正義はモスクワにあると。
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ファニーは彼と一緒に吊り床の下の床板に座っていた。彼女もモスクワに帰る途中であった。三ヶ月の漂泊とキエフおよびオデッサの生活を後にして——ファニーはトルゴフスキー通りのリューバ伯母のところへ帰ろうとしていた……貨車——膨れ上がった、車の屋根にも壊れた食堂車の中にも、至る所に人々と箱と袋が括りつけられた貨車——がゆっくりと這い出して行った。すでに冬になり、森から冷気が漂い、川は凍っていた。汽車がガタガタと鳴り、揺れた。人が落ちた。吊り床がガタガタと鳴った——吊り床の上の短い髪の娘に外套を引きかけてやった。良い娘であった。突然、汽車が野原の真ん中で止まった。何時間も止まった。一昼夜止まった。旅客は鋸と斧を手に取り近くの森に薪を伐りに行った。朝になると汽缶に火を入れた。薪は樹液を滴らせ火を圧してなかなか燃えなかった。汽車は前進した。夜も走った。雪の白い昼も走った。夜になると駅ごとに貨車の暗闇の中に潜り込んでくる者がいた。支隊が乗り込んできたのだ。足で探り回し、袋を蹴り散らした。「ラスゴナイエ」という陽気な小駅で凍死者を車の屋根から降ろした。外套は疥癬のようであった。女のように髭のない顔。鼻孔に霜が結んでいた。もう一駅過ぎると——水兵が取り囲んだ。汽車も止まった。緑軍を追い払うまでは通さないという。緑軍が森から出てきて丘を占領した。丘の上ではまるでクトゥーゾフのように——砲兵軍曹ケヴィンが手を遮熱板の上に置き周囲を眺望していた。汽車は焼け落ちた駅に停まった。旅客は貨車の中で踊った。水兵は手榴弾を持って車の傍を徘徊した。夜、襲撃があった。機関銃が鳴り手榴弾が炸裂した。——丘を襲撃したのだ。朝になると緑軍を追い払った。汽車は待った。機関車が唸り出した。前進した。そしてまた黒い村落、焼け落ちた駅、峡間の雪、深淵——ロシアが通り過ぎて行った。
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こうして吊り床の下に座って旅をしていた。トルゴフスキー通りに帰るファニーと、薬剤師アブラハム・ブランの息子、正義を求めて旅に出たヤーコプ・ブラン。彼らの吊り床の下には支隊が見つけられなかったパンの切れ端があった。パンを食べ、髪を梳かした。ヤーコプ・ブランは言った——何てひどいんだ……短い外套も焼いてしまわなければならないだろう。
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モスクワのファニーのところにはまだ伯父がいた、伯母がいた。白い寝台の置かれた小部屋があり本があった。——ファニーは講義を聴いた。後に一人の男がやって来た。アレクサンドル・ヒリョーエフという、髭を剃った、黒い燃えるような目と嗄れた威厳のある声の男であった。初めは皮帽を無造作にかぶり、外套の前を開けていた。——しかしその後誰かに爆弾を投げつけた後——三日姿を見せず、今度は文官の身なりで走ってきた。——扇動のため、そしてまた反乱のため、南方へ向けて出発した。——あの黒い燃えるような目がファニーの心の深くに突き刺さった。講義を捨て、伯母を捨て、白い小部屋を捨てて——彼について行った。放浪した。抜け道のある家に住んだ。夜、裏道で震えたこともあった——誰かの手から逃れたのだ。キエフに住んだ。オデッサに住んだ。——その後また誰かに爆弾を投げた。夜、セヒガを捕まえに来た。朝、ファニーは探しに行った。番号札をもらい、祈りを捧げ——五日間探した。六日目に新聞に載った。暴動のため二十四人を銃殺。アレクサンドル・ヒリョーエフ、すなわちセヒガも銃殺された……
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ヤーコプ・ブランは言った——皆がユダヤ人を殴りに来る、まるでユダヤ人を殴ること以外にすることがないかのように。——夜になり月が出て、雪の丘の上の空に煌々と輝いた。翌朝、市鎮が藤花色の霧の中に聳え立っていた、モスクワが聳え立っていたのだ。汽車は猪のようによろめきながら全身傷だらけで汚れて近づいていった。車の屋根から這い降りた。通路で袋を検査しビスケットを開けた。泥まみれの床板の上に外套が束になって横たわっていた。街は白かった。人々が橇を引いていた。女たちが先を争った。広場では市場が黒々として見えた。ヤーコプ・ブランはファニーの皮鞄と自分の空の鞄を引きずって一路歩いて出て行った。眼鏡の奥の目が斜めになった。汚い汗が顔を流れた。運搬トラックが轟々と通った。十字路には半壊の石膏像が屹立していた。学生たちが二段目で慌てていた。片手に本、片手に薪を持って。順番に並んでいた。長い道を長い時間かけて通った。大勢の人が歩いていた。口を開けて引っ張り、担ぎ、休んだ。子供たちが巻き煙草を持って角で叫んでいた。店の粉々のガラスの上に烈しい音がして鉄が落ちてきた。騎馬の人が突然横町から現れた。銃を持ち。赤旗をなびかせ。馬が鼻を鳴らして——揺れながら駆けて行った。住民が慌ただしく通り過ぎた。まもなく散歩道に現れたプーシキン像の肩に烏が止まった。ファニーはローマ史の講義を聴いたことがあった。ローマ人のような横顔をした志願講師が袋を載せた小橇を引いていた。袋から粉が漏れていた。彼の横顔もすっかり柔らかくなりもうローマ人には見えなかった。大きく口を開けていた。——彼は立ち止まり帽子を脱いだ。湯気が立ち上った。ヤーコプ・ブランはついにファニーの皮鞄をエレベーター口まで運んだ。額を拭い再会を約し握手して去った。雪の中へ、霧の中へ、自分の空っぽの皮鞄を提げて正義を求めて。ヤーコプ・ブランは詩を作りついにモスクワで一冊の本にして出版しようと決心した——ヤーコプ・ブランはすでに血と苦悩と暴動に別れを告げた——彼は新しい生活を始めたのだ。
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ファニーは皮鞄を五階まで引き上げた。階段には氷柱が下がっていた。戸ががたがた鳴った。踊り場の壊れた窓口から風が吹き込んだ。リューバ伯父、レフ・リュドヴィチ・レアフは以前は三階に住んでいたがその後すべてが変わった。以前は主人の住居であった三階には——今はデムス氏が住んでいた。運搬トラックが大きな音を立て郊外の何年も閉まっていた巣から彼を運び出した。——オフロス氏は三日を期限に上の四階に追いやられた——すなわち神に近く水に遠い、狭い場所に追いやられたのである。しかし住み慣れたと思った矢先に追い出された。五階の二十四号区にリューバ伯父と一緒に住んでいたのは以下のような人々であった——目の下に三角の皺のある前将軍ザルシド氏(七号室)。軍事専門家チリン、それに色褪せた扇子と「歌女ツプレヴィチ・ツプレフスカヤ」と書かれたチラシ、そしてカリクという名の青い目の近親の私生児を持ち踵の破れた長靴を履いた小公爵ワンデレロイのツプレヴィチ・ツプレフスカヤ(十三号室)。しかしオフロス氏であれデムス氏であれ俳優オカモフ氏であれ灰色の目をして昼間はダンス用の鞄を抱えて走り回るソーヤ・ウスパンスカヤ嬢であれ——皆一様に眠そうな顔をしてまるで戦闘中の装甲艦のように煙を吐く煙突の口から引き窓から這い出してきた家屋の大広間に立っていた——茶器と水桶を持ち蛇口から流れ出る細い水流に錫器の底を叩きながら立っていた。
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リューバ伯父は勤めに出ていて留守であった。伯母がふうふうと長い溜め息をついた。ファニーは泣いた。夕食を摂った。ファニーはひと通り話した。軍事専門家が隣の部屋で薪を割っていた。ファニーにはピアノの後ろに場所を与えられ寝台を立てた。彼女は一ヶ月ぶりに清潔な布団の中に横になった。寝台は震えなかった。真夜中にあまりの静けさに目が覚めた。思い出した——小駅、暗闇、雨、黄色い電灯、灰埃まみれの湿った貨車——小駅の風、秋の、夜半のロシア。黒い村、電柱が湿って呻いている、暗、野、泥濘。
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ファニーは朝、新しい生活のために目覚めた。リューバ伯父は彼女を自分のところで使うことに決めた——タイプライターを打たせるのだ。夕方、ファニーは家屋委員会に呼ばれた。そこで労働調査所に行くよう命じられ、その間仕事のない時は街路の掃除をさせられることになった。朝七時、灰色の街を通って連れて行かれた。歩いた。積雪を跨いだ。ついに停車場で赤い旗がはためいているのが見えた。長い道に沿って歩いた。吹雪の吹き溜まりにぶつかった。そこで鉄鍬を持ってくるのを待った。一時間待ったが鉄鍬は来なかった。また別の道を連れて行かれた。薪の積み卸しをさせられた……夕方、ファニーは帰宅した。伯母がフライド・ラディッシュを作ってくれお茶を飲ませてくれた。ファニーは暖まった。凍りついた窓ガラスの外に小雪が降っていた。彼女は新しい生活を思った——今始まったばかりの労働の生活を。過去は——恋愛と苦悩であった。一日経つと彼女はもうリューバ伯父が勤めている役所でタイプライターを打っていた。皮の外套を着た女事務員がいた。十二号室の前の廊下には人々が列を作っていた。個室には皮の肘掛け椅子に髭を剃った大きな鼻の軍事委員が座っていた。赤いインクで書類に署名していた。訪問者は額を拭いて嬉々として出て行った。一日経つと悄然として戻ってきた。彼が持ってきた書類の上には証明やら署名やら拒否やらの血が汚れていた。地下室の倉庫では夕方になると配給が始まった。各自羊肉二ポンド、蜂蜜一ポンド、安煙草一袋。役所は活発に動いていた。予算を立て食糧を支給し報告書を書いた——住民間の煙草の配給を管理した。七時から八時まで列に並んで哀れな様子の老人が立っていた。出てくると一ヶ月分の自分の分け前をもらった。満足して出て行った。世界を煙にするために巣に潜り込み鼾をかき咳をした。
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夜になると俳優オカモフが中庭で薪を割った。前方には家の崩れた残骸と宙に浮いた階段があった。月と廃墟、烏と竪琴——まるでスコットランド風の題材であった。独立した家屋はすでに取り壊され砕かれていた。月が盲いた窓を照らしていた。オカモフは薪を割りながら歌った——あなたの細き指は、白檀のごとく薫りて……薪を階上に運び暖炉に火を入れた。火の傍で両脚を伸ばし悠然と座った、まるで装飾暖炉の傍の王侯のように。枯れた石炭がある間は良かった。家屋委員会の斡旋で国庫の市区経済部分から八分の一が支給された。——小さな撬を持って引いてきた——しかしまだ一つ良くないことがあった、それ以来両脚が震え律動運動にならなくなったのだ。ワルコンスキー派の律動運動である。オカモフは出演する劇場では律動的であった——オカモフは三時頃に行く素食食堂でも——彼は終始律動的であった。蕪の餡の巻肉の板に対する態度も、帳簿台に対する態度も、小テーブルに対する態度も。そして錫の小匙が手の中で光り、雑煮の上に——湯気が軽い雲となって立ち昇った。
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=== 第157節 ===
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リューバ伯父はオカモフの巧みな薪割りを見ていた。ワルコンスキーのことは一切知らなかった。しかしある晩、オカモフがすべてを話して聞かせた。すなわち舞台上の人々のこと、そして人生で最も重要なことはリズム(律動)であるということ。リューバ伯父は翌日軍事委員と話をした。同志オカモフは、これがなければ老人たちも煙草党員たちもとうに斃れていたであろう役所に招かれ、演劇研究の指導をすることになった。……オカモフが初めて赴き身段とは何かを見せた時——オカモフは長身で青い頬、灰色の目の男であったが——たちまち十八人の男と八人の女の協力者が集まった。翌日にはまた十八人と八人。研究時間が終わると皆帰らず大広間に集まった。大広間には鏡と棕櫚とチラシと金色の椅子があった。オカモフがまず説明したのは、すべてのものに調和があり世界そのものが一つの調和であるということであった。そして提案した、動作をやってみましょう。右脚のすねを伸ばし、首の筋肉を伸ばし、体を硬直から自由にし——皆を輪になって歩かせた——皆は輪になって歩き、筋肉を自由にしまた筋肉を緊張させた。軽快に、自由に、専念して……オカモフは毎週三回の練習をした。三回目が終わると皆はすでに律動的になっていた。電話口で歌うように「もしもし」と呼ぶようになった。会計係のシヴァドフスキーは髭を剃りゲートルを巻くようになった。以前は田舎娘のように毛皮のブーツを履いて歩いていた交換手たちが今度はオーバーシューズを持ってきて履き、濃く白粉をつけ髪を巻くようになった。——大広間では花環を持って古風に挨拶するようになった。
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毎週水曜と木曜の七時にオカモフを迎えに来た。肉の運搬車か運搬トラックであった。上には包布、ボール箱、皺だらけの帽子と髭を剃ったがまた伸びてきた頬が乗っていて、オカモフは車底で揺られているか、他人の肩を掴んで両脚を広げて立っていた。運搬トラックは叫び軋み闇の中を受け持ち区域へ向かって走った。ガタガタ鳴る駅にはすでに人が待っていた。また黒と白の縞模様の扮装。そして着替えながら歩いてきた——車はこうして彼らを送り届けた。嗄れ声を出し白粉を塗り初学者に教えるために。幕間の暇に茶が運び出された。酸っぱいジャムを添えたパンの切れ端もあった。俳優たちは食べ茶を飲んだ……馭者が突然車に故障が出たと言った。ブラグーシからハムフニキまで俳優たちは自分で歩いた。ボール箱を抱え壁に沿って歩いた。あのパヴロワ、ムルトゲン、コミサルシェフスカヤの一座が……
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オカモフに召喚状が届いた。寝具、鍋、皿を持って来いという。一週間薪を伐りに行けという命令であった。彼は行って説明した。廊下にはたくさんの人がごった返していた。オカモフは自分は芸術家であり美術家であり教育に従事していると言った。一時間後、倦怠して静まりかえった人々の傍を通って出て行った。命令を受けた——今後も引き続き教育に従事せよと。ザルシドにも同様の召喚状が届いた。目の下に暗い将軍式の三角の皺のある彼は長い間嗄れた声を出し銃傷のある脚を見せた。青ざめた彼は満足して帰ってきた。彼は一人で住んでいた。時々小さな窓から白髪交じりの頭を出してタタール人を呼び止めた。縁なし帽をかぶったタタール人が入ってきた。深い信心の面持ちを見せながら男物のズボンを品定めした。触り明るみに照らした。首を振って舌打ちした。将軍は嗄れた声を出し盗み見た。ひそかに唾を飲んだ。タタール人は恭しく礼をして袋を持って出て行った。将軍は金を床板の下に隠しぼろぼろの赤い裏地の外套を着た——ただ長靴だけは銅の踵のついた将軍靴であった——門の外に出て行った。人々が傍を通り過ぎていった。行列の中で寒さに震えていた。群衆が続々と歩いた。女たち、箱を持ち裾をたくし上げた男たち、続々と歩いた。——皆が足並みを揃えて通り過ぎた。と突然——音楽が後ろから、吹奏楽隊の行進曲が——上では拍子を合わせて真っ赤な棺衣が揺れていた。赤い棺の中には——節くれだった白い鼻、黒い眉、すでに平静に帰しすべてを見すべてを知った者が最後の波の上に漂っていた。軍隊が通り過ぎた。白い顔が漂い去った。揺れた。楽隊は演奏をやめた。荘厳なる永遠の光栄を奏でた。死者は欠けた壁の下で永遠に朽ちる。十一月の黄昏の中で花の磁器のような音を聴くために遺されたのだ……
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ザルシドは夕方、火の気のない部屋で突如節くれだった青みを帯びた手で書いた——「肝要なるは餓死を免れんとすることなり。運動を減少するの必要あり。魚油を購うべし。さもなくば脂肪の欠乏を来たす。旧軍官を一所に駆り集めその処にて了するが如し。されど信ずべき風聞あり。曰く聖者の遺骸を展示する保健局展覧会に集合せしむるも観察に忙殺さるる諸人の面前にて文官服飾の教士等が大いなる法事を営みたりと。然れば死をもって恫喝するものと謂うべし。もし連絡線にして伸長せざれば一月の中にモスクワは占領せらるべし。一隊の外国兵が侵入するは最も確実なる事なり。今日已に赤旗の位置を変換せり——これ偉大なる成功にして空前の略取なり。されど肝要なるは餓死を免れんとすることなり。白砂糖をば購うべからず。白砂糖は——奢侈品なり。甘味なくして茶を飲むに慣るるの時なり……」将軍は嗄れた声を出し長い溜め息をついた。壁の向こうではツプレヴィチ・ツプレフスカヤが外套にくるまって横たわっていた。この時青い目のカリク、小ワンデレロイ公爵は老女たちに追い出されながらもなおもうろつき歩いて木の切れ端を拾い集め廃屋の廃材から板切れを引き出していた。板壁の切れ、紙切れ、道で拾った小枝などを袋に入れて持ち帰った——暖炉に火がついた。小公爵は蹲って手を温めた。赤い火が青い目を照らした。母親のような菫色の目——それは穏やかな賢い人生を知った碧眼の小さな老人であった。
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ニューシャ——コルセット製造人で、ツプレヴィチ・ツプレフスカヤが以前住んでいた二階に住んでいた。結婚して四十アルシン[12]の布を受け取った。今は早く子供を産んでさらに布と子供の名刺を手に入れたがっていた。夫は外で粉を運び金を工面していた。ニューシャは臆することなく通り過ぎ、九年の間に家の中で馴染んだ赤い紙片にその大きな名が書かれた有名なツプレヴィチ・ツプレフスカヤの以前の住居の戸をイギリス式の鍵で開けた。後にニューシャは突然階上の花環はあるが火の気のない部屋に現れた。頭巾だけをかぶり戸口に立ち静かに言った、麦粉でお礼をするから歌を教えてほしいと。ツプレヴィチ・ツプレフスカヤは彼女の前で脚を広げて立ち罵倒してやろうとした。しかし口を閉じまるで驚いたかのように何も答えなかった。ニューシャは嘲笑って走り去った。昼間、ツプレヴィチ・ツプレフスカヤは外套にくるまって横たわっていた。夜はワンデレロイ公爵が歯を食いしばり二本脚の椅子の上からその疲れた頭をほとんど持ち上げんばかりであった。彼はしかも真面目な少年老成の夢を見た。翌朝彼女は浮腫んだ顔で起き上がり彼にニューシャを呼んでくるよう言いつけた。ニューシャは具合が悪いので自ら来てほしいと言った。ツプレヴィチ・ツプレフスカヤはもう一度歯を食いしばったが頭巾をかぶって階下に降りて行った。一時間後リューバ伯母のところに秤を借りに来た。ニューシャは歌を習った。ツプレヴィチ・ツプレフスカヤは麦粉を袋に入れ鼠を招かぬよう釘に掛けた。
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ヤーコプ・ブランは旅行鞄を携えて役所を巡った。五階に上がり番号が来るのを待った。打ち抜かれた壁を潜りこの大広間からあの大広間へと歩いた。尋ねた。穏やかにしかし執拗にしかも親しげに——というのも彼はこの時ついにすべてが平等で誰も誰を殴りもせず斬りもしない場所に——安い賃金で働き労働によってパンを得る場所にいたからだ。女事務員たちはやかましく肩をすくめこの部屋からあの部屋へ追い回した——しかし彼はくどくどと熱心にまた走ってきてついに誰かが面倒に感じうっかり巧みな筆で——支給すべし——と書くまでは引き下がらなかった。ついにヤーコプ・ブランに支給された。すなわち生活の権利が、その下で仕事をし字を書き思索するための屋根の権利が支給されたのだ。停車場そばの第三十四号共同宿舎、以前の「レヴィリ」の家具付き部屋十七号。ヤーコプ・ブランは嬉々としてサモジキ通り、サドフィエ通りを歩き鞄を運んだ。夕方彼は火の気のない部屋に座っていた。壁紙の後ろで何かがかさかさと音を立て転がり落ちて枕元をゆっくり這い回った。昼間花模様の紙の上に見たもの——大鎌を持った死が現れた。書類の上に這い上がり火をつけしゅうしゅうと鳴き焦げ裂け砕けた……
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ヤーコプ・ブランは決心した、堅く生活を安定させようと。自分のことで市中を歩き回った。誰もが仕事を持ち生きようとする意志を持っていた。ヤーコプ・ブランは街を行き来し街角に立ち止まって考えた。人々はほとんど彼にぶつかりそうになり跳びのいて行った。彼の故郷の市鎮では誰も急いでおらずどこも急いでいなかった。家に閉じこもり——暴動の際には隠れた。詩の帳面と訴えの胃袋を持ちながらも勇敢にして希望を失わない彼は歩いてまた歩いた。空地、煉瓦、鉄の山、凍りついて人気のない店舗と行列の傍を……灰色の独立した家の中では苦い煙が立ち上り外套を着た女事務員がタイプを打っていた。ヤーコプ・ブランは片隅の女のところに行き著作家として援助を受けるにはどうしたらよいかと尋ねた。援助は彼にとって欠くべからざるものであった。でなければ頼みに来たりはしないとも言った。女事務員も少し考えたが彼を別の事務机に回した。そこからまた上階に回された——そこで彼は階段を上った。応対された。帳面をめくられた。結局相談して見ましょう聞いてみましょう考えてみましょうということになった。月曜日にまた来なさいと。月曜日に行った。また詩を見せた。無産者出身の詩人たちが座っている部屋であった。そこで彼は自分も無産者の出身で祖父は水車番であったと言った。——詩は受け取られ見てから返事をすることになった。水曜日に彼への援助は拒否された。しかしその時にはもう別の上級の役所を見つけていた。彼はまるで出勤するかのように毎日そこに通い客間で待ち請願書を書いた。無産詩人としての扶助と援助と原稿料を要求した。金曜日にすべて拒否された。すなわち援助も原稿料も扶助も。しかし一通の公文を渡され別の役所に行くよう言われた。そこは階段から溢れ路上にも廊下にも長蛇の列ができていた。ヤーコプ・ブランは列の尾につけた。日が暮れた。列は散った。翌朝彼は早くから出かけ一番乗りで入り長い間公文を読み裏返し首を傾けた。ついに命令書が一通渡された。黄色い命令書を手にヤーコプ・ブランは閉鎖された第四支給局で帽子とビロードの帽子を受け取った。自分の部屋で彼はこの帽子をかぶって窓際に近づいた。屋根は白かった。黄昏が濃くなってきた。烏が胸の下を雪に埋めて水浴びをしていた。市鎮は自分とまったく無関係であった。ここでも他所と同じく正義は存在しなかった。ヤーコプ・ブランは精力を使い果たしたと感じた。寝台に横たわりもはやそれ以上の力がないことを悟った。真夜中に大きくて黒い忌々しい鶏が一羽彼のところにやって来てガアガア鳴いた。彼はこの化け物を追い払おうとした。しかし鶏は目を斜めにして睨みつけ口を開いて去ろうとしなかった。夜明け近く鶏との戦いで疲れ果てた。指が氷のように冷たくなった。頭が枕に落ち上がらなくなった。おそらく白い虱が彼のところにやって来たのだ。ヤーコプ・ブランは発疹チフスにかかったのであった。二日後に運び出された。夕方彼の寝台にはヴィテプスクから来た二人の軍事専門家がトランプの「ジャック」のように横たわっていた。
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ファニーは仕事をしていた。役所から羊肉、蜂蜜、安煙草を運んだ。役所は活動し支給した。連絡線は伸びた。地図上の小旗が紐のようにうねった。ザルシドは地図を前に静かに嗄れた声を出しながら記録した。
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「二週間の後、前衛は殆ど防塞に接近するに至らん。市街を砲撃に委するは不可なり。鉄道を中断すべし——而してまたただこれあるのみ。昨郊外にまた中央においても奇技者出現せり。彼らは磁器のごとき目を有し経帷子を纏いアメリカ式の弾をもって地上に跳躍すること高さ二アルシンに及ぶ。且つ大いに叫びて曰く——我は葬送せられざる者なり——と。これ即ち予兆なり。吾これを感ず。吾これを感ず。」
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リューバ伯母はファニーに対して家を出たこと、ヒリョーエフのことをすべて許した。夕方リューバ伯父が新しい訓令を読み上げた。リューバ伯母が長い溜め息をついた。ファニーはピアノの後ろの自分の場所に座った。窓の外では十一月が猛威を振るっていた。雪が紛々と降り注いだ。過去を、恋愛を、情熱を埋めていった。リューバ伯父のところには常に衿を立て羊皮の帽子をかぶった人が訪ねてきてまったく火の気のない廊下を歩き回った。そこでひそひそ相談していた。リューバ伯母は言った——あの煙草商人がまた来たと——ある夜のことファニーがすでにピアノの後ろで寝入り伯父も伯母も横になり暗い部屋がすっかり眠りに就いた深夜に誰かがドンドンと戸を叩いた。リューバ伯父が飛び起きた。戸の外で声がした——どうか開けてください——リューバ伯父の手が震えた。痣のある善良な顎がぶるぶる震えた。錠を回した。防ぎようがなかった。入ってきた。一度にどっと押し入ってきた。皮帽と水兵のリボンが入り乱れていた。——部屋をひっくり返した。伯母の貯蔵品にも手をつけた。麦粉を撒き散らした。煙突を叩いて聴いた。椅子の上に立った。——書類、小旗の挿してあるザルシドの地図、ザルシド、リューバ伯父、向かいの部屋のオカモフ、すべてを拘留し連行した。小ワンデレロイ公爵は箪笥の中に隠れ恐怖のため死体のように座っていた。夜明け前に全員を連れ去った。雪と吹雪と風の中を。
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ファニーは朝早くから軍事委員のところに走った。軍事委員は冷淡に肩をすくめ助ける気はなかった。ファニーは絶望して走り出た。何か手がかりを掴もうとしたが何も分からなかった。彼女はどこにも行かなかった。灰色の一日であった。口から白い息が吐き出された。灰色の一日の後にまた同じ灰色の一日が来た。——訳の分からない一週間が続きリューバ伯母は横たわっていた。ファニーはあちこち走り回り疲れ果てた。またあちこち走り回った。三週目にザルシドが釈放された。酒で酩酊した害のない老人だからという理由であった。退役軍人の肩章を焼き捨てるよう命じられた。ザルシドは牢獄から街を通り銅の踵の長靴を片方だけ履いて帰ってきた。もう片方は捕まった時に道で失くしたのだ。角に立ち止まった。冷水を浴びせられたように息が上がった。壁には勝報の湿った新聞が貼ってあった。広場には恐ろしい全身鋼鉄の蠍が赤い小旗を囲んで這い回っていた。群衆を追い散らしていたのは木靴を履き外套をまとった背の低いタンボフ、サマーラ、ヴィヤトカの者たち白軍の田舎者であった。田舎者たちは跳びはね腹を叩き拳を吹いて満足して去った。野営地へ労働へ行くのだ。——最も肝要なこと——それは機関銃が鈍く響く時一緒に襲撃に加わらないことだ……
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敵を追撃した。敵は逃げた。ザルシドは路角に立ち湿った新聞を読んだ。音楽とともに歩く人々がいた。馬に乗り槍を持って。教会では鐘を撞かなかった。ザルシドはどうにか家までたどり着いた。五階に上がり窓台の下で一息ついた……部屋に入って横になった。ワンデレロイ公爵が二日間暖炉に火を焚いてくれた。凍えないように。
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=== 第158節 ===
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リューバ伯父は八日間ずっと、階段の縁が投球の柱のように砕けた家の中に座っていた。放り込まれてくる者もあり連れ出される者もあった。窓から風が吹き込んだ。日が暮れると黒い南京虫が這い出してきた。天井の隙間で人々が寝るのを待ち構えていたのだ。こうして這い出してきた。十三日目に他の者と一緒にリューバ伯父にも準備させた。運搬トラックに乗せて連行した。暗い夜であった。銃を持った兵士が両側に立っていた。牢獄でリューバ伯父は律動家にして元軍官のオカモフと再会した。握手し抱擁した。並んで暮らし始めた。忘却の朦朧とした二日の後、思いがけず三つの焼き野菜と二つの完熟卵が与えられた。——リューバ伯父は前後を忘れ目が泳ぎ声を上げて泣き出した。焼き野菜一つと卵をオカモフに渡し一緒に座って食べた。塩をたっぷりかけた。回想のために凄惨であった。オカモフは軍官の身分を隠匿し陰謀に加担した罪で捕らえられた。前者は間違いなかった——オカモフ自ら認めた。しかし後者については認めなかった。彼は音楽会には確かに一度行ったが、その金は生活費の補填に使ったと言った——事件は長引いた。リューバ伯父の罪名は横領であった。——リューバ伯父は満面を紅潮させ腕を広げた。しかし牢獄の中には煙草商人もいた。あの衿を立てて時々訪ねてきた者たちが……
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公判の際、オカモフに訊問した——職業は?——俳優。——その前は?——学生。——軍官をしたことはないか?——したこともある。——反革命家か?——革命家だ、革命的芸術に力を尽くしている。——裁判官は倦んだように言った——知っていますよ、赤軍の兵卒に麻薬を嗅がせることを教えているのでしょう。朗吟ですか?——いいえ、演劇の方面です。——水曜日の七時半、オカモフは引き出され県に移送されることになった。オカモフは手回りの品を片付け別れの挨拶をした。県で釈放されたらまず最初に訪ねて来ると言った……廊下を通り長い間通路から連れ出された。風が吹き込み非常に寒かった。窓の外には暗澹とした空庭があった。十一月であった。
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オカモフについて翌日壁に貼られた湿った新聞にこのような記事が載っていた——前軍官、反革命家、積極的幇助者、演劇俳優。——この日太陽が顔を出し空は青かった。前線から戦利品が運ばれてきた。広場にはすでに三台の車があった。またしても赤い棺が高々と運ばれて行った。死体の鼻孔には脱脂綿が詰められていた。ザルシドはこの日このように書いた。「連絡線は已に伸長せり。後方は截断せられたり。一切は滅亡に帰す。本営の遠隔は致命的なること明了なる事なり。一切は亡ぶ。一切は亡ぶ。魚油は已に売り尽くされ購う処なし。風聞に曰く凡そ旧軍官は年金を有する者と雖も第四類に入れられ後方勤務軍に算入せらると。即ち兵舎、厠所その他を掃除せしむるの意なり……パンを給せられざること已に五日なり。辱めを受けずして地図を取り上げられたるは幸いなり……」——夕方、ワンデレロイ公爵が暖炉に火を焚きに行った。ザルシドは窓辺で椅子の上に立ち棚から何かを取ろうとしていた。ワンデレロイ公爵が話しかけた。聞こえなかった。脚に触れてみた。ところが脚が宙に浮いていた。揺れていた。椅子に届かなかった。ワンデレロイ公爵は悲鳴を上げ頭を抱えて飛び出した。
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二日後、威厳のある若々しい顔つきの節くれだった鼻と百合色の爪のザルシドは教会の中に命令書により官製の棺に横たわっていた。助祭がお経を唱えた。教士が香を焚いた。香の煙が香炉の上にたなびいた。軍隊は派遣されなかった。これも命令書によって派遣されなかったのだ。四号室の使用人に小橇を引かせるよう指定された。そして薪橇の上に載せて引いて行った。とても軽く引けた。道は滑らかに凍結していた。疲れると棺の上に座って煙草を吸った。ザルシドは橇の軋む音を聞きながら若返り棺蓋の下で返老還童していた。
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魅力的な青い目のソーヤ・ウスパンスカヤ——鞄を提げて自分のダンス教室に走る彼女——は壁に貼られた新聞でオカモフの名前を見た——すると突然身震いし唇を噛んだ。縁と言えば水を汲む時に一度並んだだけ、一緒に薪を割り「あなたの細き指は、白檀のごとく薫りて……」と歌うのを一度聞いただけであった。しかしソーヤ・ウスパンスカヤには温かい小鳥のような心があり容易に魅せられる心があって、あらゆる混乱と悪臭の中にあっても懸命に自分の小さな港を探し求めていた。オカモフの名はすでに悲劇的に高められた滅亡であった。——ソーヤは彼を長い間待ち望みながら永遠に離別した人として想い描いた。……ソーヤはすでに爪先でしっかりと歩いていた。急ぎながら指で唇を押さえ一人の人にすべての真実を語ろうと決心した。その人とは官営の旅館に住みオートバイで出入りしながらもまるで同じ低い身分であるかのように彼女を待ち家まで送ってくれた、あの人であった。夕方ソーヤは旅館に行った。通行券をもらい証明書を肩に載せた。赤い階段を上がり磨りガラスの戸を叩いた。心に思っていることを残らず言わずにはいられなかった——鋭く、直截に、滔々と——たとえそのためにどんな罪を負おうとも構わなかった。しかし部屋には二人が座っておりテーブルの上にはお茶もあった。あの人は驚いたようであったがすぐに顔を輝かせお茶を勧め、どうぞ召し上がれと言った。ソーヤは飲まなかった。そしてちょっと用があって来たのだと言った。あの人はまたお茶をどうぞと言った。座中は気詰まりになった。客は黙った。ソーヤは茶碗からお茶を飲んだ。あの人は善良な愛情を湛えた目で彼女を見た。ソーヤはどうでもいいことを聞きお茶を飲み干し帰ろうとした。自分でも悲しくて涙が出そうであった。お茶と質問のために自分を憎んだ。しかし彼は廊下まで送ってくれ手袋の穴から彼女の温かい小さな掌に接吻した。ソーヤは一段の階段を降り突然言った——私はこんなことのために来たのではありません……何もかもが嫌になりましたこんな風に生きてはいられません、もうあなたに会いたくないのですそれを言いに来たのです。なぜオカモフが銃殺されたのですか?——彼も自分も哀れに思え涙が頬を伝った。——あのオカモフですか?——あの人は驚いて聞いた。——オカモフです、俳優の……——オカモフとは誰だ、知らないよ——あの人は言った。——過渡期には××しなければならんのだ……革命は粗暴なものだよ。——ソーヤはどうでもいい、革命が過渡期なら、こうでもいいと言いたかった。しかし私はもうあなたに会いたくないし、ついて来てほしくもないと。しかし彼女は何も言わず走り降りた。翌日の夕方彼は教室に迎えに来た。彼女は口を利かなかった。彼と一緒に出た。もう一度どこにも行かないと言いたかった。——しかし馭者がすでにドアを開けていた。言う暇がなかった。彼女は車に乗った。暖かかった。黒い柔らかな風が三月に薫っていた。星の銀色の霞がすでに浮かび上がっていた。オートバイは走り出した。街の果てが雪と空漠の中で息をしていた。ソーヤは思った、もう終わりだ。あんな風になってしまってもうだめだ。彼女は思った、あの愛すべき温かい最も繊細な人の最後の臨終の微笑に報いることができなかったと。
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ファニーのところに突然フェニメン・ブルーニが現れた。セヒガすなわちアレクサンドル・ヒリョーエフの友人であった。皮帽をかぶり黒い短い顎髭を生やしていた。頬に一直線の傷跡があった。ファニーはピアノの後ろの自分の場所に案内した。ブルーニは言った、彼らの中央委員会が死んだ仲間の仇を討つと。アレクサンドル・ヒリョーエフの名は英霊録に登録され二度と消えることはない。仇討ちについてはファニーにもまもなく分かるだろうと。こうして義務を果たし去った。ファニーは長い間証明書に貼られたいたずらされた写真を見つめていた。セヒガの顔には番号が書かれていた、青い字で。ファニーは泣いた。——その頃ブルーニもまた奔走していた。傷跡が紫色になった。ブルーニはとうに冷え切った家屋の六階に上がった。戸を叩き外で耳を澄ませた。戸が開いた。歯医者の応接室にはレーヴェン、グリゴルク、ポシュケヴィチが座っていた。決起はおよそ明日の十二時の予定であった。すべて計画済み準備済みであった。ヒリョーエフの仇を討つため、恐怖手段のため、製薬室のため、委員会の財政充足のため——金が必要であった。武力強奪の件はとうに研究し調査し周密に計画していた。一時間後ブルーニは出て行った。またしても執拗に傷跡を紫色にして街を歩いた。翌日の二時半七人がオートバイで横町の役所の前に乗りつけた。二人が門番をし、二人が中庭へ、三人が階上へ。算盤がパチパチ鳴っていた。出納係が金庫の傍に立っていた。女事務員がスープを飲んでいた。グリゴルクが進み出て拳銃を突きつけ手を挙げろと叫んだ。ブルーニとポシュケヴィチが出納係の頭を殴った。彼は倒れた。束になった紙幣をポケットに放り込み始めた。出納係が突然跳び起き頭を抱え這うように稲妻形に走って逃げようとした。グリゴルクが背中に一発撃った。出納係は仆れた。交換手たちが鋭い叫び声を上げた。誰かが横の戸口に走った。一斉に襲いかかってきた。——グリゴルクはベルトを解き飛び出した。皆が飛び出し散り散りになった。埃、ガラス——彼らは階段を飛び降りた。上から分銅と算盤が投げつけられた。——オートバイはすでに動いていた。彼らは駆けつけ掴まり飛び乗った——オートバイが彼らを運び去った。突然戸の中から人が飛び出し片膝をついて投げた——グリゴルクが振り向くと銅貨が顔に命中した。血が流れた。追手が迫っていた。馭者が馬を打った。ブルーニは腕を伸ばし絶え間なく撃った。——積雪の横町に曲がった——オートバイが滑った。車輪がよろめき煙に包まれた。馬が追いつき橇の中の外套の者たちが斬りかかった。ブルーニは飛び降り袋を提げて走り門を突破し塀を跳び越えた。後ろからポシュケヴィチが走ってきたが座り込み倒れた——また爆発——落下——叱咤、ガラス……ブルーニは逃げ出し振り返った。ポシュケヴィチは彼に続いて塀をよじ登ろうとしたが横に塀から落ち雪の中に倒れた。ブルーニはなおも走った。鉄門が閉まっていた。門に近づき押し開けようとした。しかし門は内側から支えられており通れなかった。彼は中庭をもう一周走り汚水溜まりの片隅に蹲った。——空は青く沈鬱で雪催いの天気であった。ブルーニはしばらく待った。一角から蹄の音が聞こえた。彼は銃口を口に銜え引き金を引いた。
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街では子供たちが走り回り窺っていた。大きな橇に載せて——七人の短い外套のロマノフ皇帝党員が運ばれて行った。皆重なって横たわっていた。兵卒が銃口を下に向けた銃を持って従いて歩いた。馬が整然とした歩調で進んだ。ブルーニは横たわり顔を他人の肩に伏せていた。
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すべての煙草商人には家族がいた。煙草商人は法律に明るく隙のない人々であった。——リューバ伯父はその反対でごちゃごちゃで最初の審問の時にすでに混乱していた。すべてが彼に不利であった。彼は九回引き出されて審問された。九回の陳述はすべて異なっていた。二ヶ月目に判決のために浮腫み髭がぼうぼうで衰弱した彼は市街を通って連れ出された。リューバ伯父は二人の兵卒に挟まれ白い大広間の椅子に座った。向かいには軍事委員が威厳を正しまるで彼を知らぬかのように座っていた。傍聴人の中にはすでに釈放された煙草商人もいた。白く寡黙なファニーがツプレヴィチ・ツプレフスカヤ嬢と一緒に座っていた。まもなく鈴が鳴った。皮鞄を挟んだ検事がただちにリューバ伯父を寄食者と呼び彼の混乱した陳述をすべて読み上げさらに煙草商人の陳述を示した——市民レフ・リュドヴィチ・レコフは盗賊であり寄食者である——検事は彼に対して極刑を要求した。この後弁護士が口を開いた。何も否認せずただ寛大を求めた。彼の職務を指摘し悔悟と老年についても述べた。裁判官が退席した。協議した。ファニーは真っ黒な見えない目で前方を見つめていた。リューバ伯父は浮腫んで——鉄青色で微動だにせず座っていたまるでとうに死んでしまったかのように。煙草商人は廊下で煙草を吸っていた。裁判長が戻ってきた。また鈴が鳴った。皆がまた着席し静粛になった。窓の外でオートバイが止まった。裁判長が宣告した。検事の提案に賛成し極刑を判決した。
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ツプレヴィチ・ツプレフスカヤはファニーを街頭の馬車に乗せて連れ帰った。ファニーは五階に上がり伯母に会った。泣いて椅子に崩れ落ちた。夜になるとピアノの後ろの自分の場所に横たわった。月の角が窓の向こうで輝いていた。竪琴が吟哦した。ワンデレロイ公爵が二人の傍で夜通し番をした。継ぎ当ての靴下を履いた細い脚を垂らし椅子の上で居眠りし始めた。夜は深く深く尽きた。竪琴は昏く月は沈んだ。快活で若々しいリューバ伯父が枕元に近づき微笑みながら冷たい指でファニーの顔を撫でた。
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ツプレヴィチ・ツプレフスカヤはまだニューシャに稽古をつけていた。ニューシャは巻いた楽譜を手にピアノの傍に立っていた。ピアノの上にはピアノや家屋や物品の保管証が掛かっていた。これは家宅捜索の結果であり女流声楽家であるためにこれらの物を許可されたのだ。近頃ニューシャは音楽会すなわち舞台に出るようになった。すでに登録していた。皮の外套や金剛石——聴衆からの贈物を保持する権利を持っていた。ニューシャの夫は保健部員と一緒に麦粉を運んできた。麦粉は市場で先を争って買われた。そこでニューシャは海獺の外套を買い客間に掛けるA・イワソフスキーの描いた細波と帆掛け船の絵を買った。彼女は「星」社に出演した。最高の優伶と並んで成功を収めた。夜彼らは一緒に運搬トラックの中で揺られた。不自由で寒くて狭かったが幸福であった。芸術のために俳優の苦痛を耐え抜いた。降誕節の日に夜会があった。出演者とともに優伶たちも招請された。腹の空いた優伶たちは嬉々として鼻を赤くして走ってきた。食卓には鵞鳥、酒、臓物餡の饅頭のようなものがあった。優伶たちは喜びに我を忘れた。時々喚き声を上げなかなかの騒ぎであった。ニューシャは歌った。ツプレヴィチ・ツプレフスカヤが伴奏した。散会の時ニューシャは門口で鵞鳥の肉二切れを紙に包んでツプレヴィチ・ツプレフスカヤに渡した、演奏の謝礼として。彼女は怒って突き返そうとしたが鵞鳥の肉を受け取った。夜中小ワンデレロイ公爵が鵞鳥の肉を大いに頬張った。幸福そうに笑い出した。食べ過ぎて息が詰まり咳き込んだ。
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=== 第159節 ===
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ヤーコプ・ブランのところへ、後に黒い鶏もまた八回やって来た、毎晩。今や彼はこの鶏を見知っておりやって来る時刻も分かっていた。忌々しい鶏は憤然として歩み寄り彼を啄んだ。——彼はいつもこの鶏を絞め殺してやろうと思い全身汗まみれになった。しかし心臓の鼓動が激しすぎてうまくいかず気を失った。周囲で呻き、讒謗し、徘徊した——捕まったがまた元に戻った。九日目の夜、鶏は来なかった。彼はようやくぐっすり眠れた。心臓は静かで打たなかった。朝、太陽の下、白い窓、黄色く汚れた官物の布団の下に骨の出っ張った痩せこけた自分の膝を見た。彼は衰弱し焦げ茶色で髭が伸びていた。腹が減ったと感じた。白い虱は遠のいた。ヤーコプ・ブランは命を保ちまた愛し働き生きたいと思った。二週間後、焦げ茶色の彼はようやくT字杖をついて門外に出た。穏やかな天気であった。灰色の積雪がまだらになっていた。石畳の上で烏が三月の叫びで鳴いていた。ヤーコプ・ブランはT字杖をついて歩いた。彼の心臓は衰弱しすべての人に開かれていた。しかしすべての人々が急いで通り過ぎた。第三十四号共同宿舎は一週間後に旅行鞄を返してきた。部屋の期限が切れたのだ。そこには軍事専門家の後にすでに男物の長靴を履いて走り回る娘が入り込んでいた。ヤーコプ・ブランはその下で仕事をし字を書き思索するための屋根さえなくなった。彼は息が詰まる思いであったが詩を印刷すると言ってくれた役所にまだ足を引きずって行った。役所の中は依然として煙と埃が立ちこめていた。女事務員たちは皆おしゃべりしていた。——書記の無産詩人は新しい人に替わっていた。黒くて髪が乱れた男であった。紙箱をひっくり返し姓名を尋ね引き出しを開けた。ようやく見つかった。詩は返却と決まっていた。ヤーコプ・ブランは詩を受け取りビロードの帽子をかぶった。彼には泊まる場所がなかった。夕方、無料食堂の長蛇の列の尾に並び菜の葉の切れ端が浮いた熱いスープを飲んだ。夜は宿を探した。街は暗かった。三月の闇の中で風が商店やカフェの割れたガラスを鳴らしていた。ヤーコプ・ブランは一つの大きな建物の薄暗いエレベーター口に立ち階下の以前は門番の部屋であった隅に潜り込んだ。干し草を少し見つけ——壁に背をもたれて熟睡した。
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夜明けにひどく冷えた。両脚が伸ばせなくなっていた。T字杖をつき蹣跚として歩いた。湿った三月の労働の日々が始まった——ヤーコプ・ブランはファニーの住所にたどり着いた。ファニーは黒い喪服を着て門口で彼を迎えたが一瞬思い出せなかった。しばらくして手を打ち彼を自分の隅に案内し悲しみを語った……ヤーコプ・ブランは暖炉の傍で暖まった。小さな引き窓の外にたなびく煙を眺めた。そして言った——ここにも正義はない。ここでもやはりただ餓死することしかできない。しかも知り合いは一人もおらず誰も憐れんでくれない。援助もなく帽子を一つもらっただけだ。私は今まで縁なし帽なんかかぶったことがないのに。どうやって生きていけばいいのだ?——ファニーは廊下の箱の上に寝台を敷いてやった。ヤーコプ・ブランは箱の上に横たわり精一杯回復に努め吟詠した。顔に光沢が戻り眼鏡の奥に大きな目が輝いた。彼は決心した、故郷の市鎮に帰ろうと。あそこには正義はないが餓死者もいない。一週間後、何も持たずただ空っぽの旅行鞄を提げて別れを告げ出発した。ファニーは焼き野菜の切れ端とパンを渡した。夕方、群衆と一緒に叫び声と吶喊と射撃の中を駅から通路に突撃した。道でT字杖を失くした。黒い列車の屋根の上にはすでに大勢が横たわっていた。梯子にもぶら下がっていた。壊れた車窓に突撃した。ヤーコプ・ブランは突き飛ばされた。倒れそうになった。誰かの肩を掴んだ。手を打たれたがしがみつき——誰かの肩を踏んで車内に潜り込んだ。車内は真っ暗であった。包みに取り付いた。——転んだ——床の上に人々が横たわっていた。どこかの椅子の下の隅に場所を占めた。小さな荷物を頭の下に敷き力尽きた。まもなく機関車が唸り客車がぶつかり合って鳴った——列車が動き出した。脚が梯子から突き出ていた。屋根の上では夜の準備をしていた。死んだ都市が後ろに残された。前には——道、曠野、雪。駅で真夜中に新しい客が車内に押し寄せた。上から叩いた。後ろで声がした。銃声が始まった。ヤーコプ・ブランは目を閉じて横たわっていた。帰る途中であった、故郷へ。
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ヤーコプ・ブランの故郷の市鎮にはまず白軍が駐屯した。後に緑軍が来た。その後はマルーシャ・チョバン隊、戦線隊、アドマン隊、最後にすべてを駆逐し粉砕して赤軍がやって来た。非常委員会が到来した。非常委員会は直ちに粛清に着手した。水兵と戦線隊の残党を銃殺しマルーシャを銃殺し公証人アグリコプロを銃殺した。暴動は止んだ。怯えたユダヤ人が這い出てきて隅に集まって相談し手を振った。埋葬した。勘定した。非常委員会は広場のサイダー製造工場の建物を占領しエレベーター口と門口に歩哨を立てた。騎馬兵が街を行き来し証票を検査し逮捕者を護送した。日本人のエシャが皮を敷いた橇に座り皮の縁なし帽をかぶり拳銃嚢をベルトに差して行き来した。まもなくユダヤ人はまた声を潜めた。商店は依然としてガラスが割れていた。日曜の朝、群衆が市場を取り囲んだ。農民は麦粉やバターや卵をもう市に運んで来なくなった。狡くなり村の中で取引するようになった。ズボン一本しか持っていない上に古いスケート靴を履いた者五人が捕らえられ——審問の後投機防止局に送られた。日曜の夜、市鎮で家宅捜索があった。銀銭、農産物、逃亡者を捜索した。銀銭は少ししか見つからなかったが農産物はかなりあった。逃亡者の一団が捕まった。夜が明けると親しい者たちが門前に長蛇の列を作った。
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市鎮に突然檄文が出現した。誰が撒いたのかは分からなかった。それにはこのような意味のことが書かれていた。——諸君の仲間が諸君を待っている。新政府はパンと法律と正義を保障し農民を保護し地主を保護し暴動と戦いユダヤ的圧制と戦う——要するにすべての人の権利を保護するのだと。非常委員会は戒厳令を発布し歩哨を立て夜は巡察を出した。ヤーコプ・ブランが故郷の市鎮に帰る前日、陰謀が発覚し幇助者が逮捕され市鎮は天地覆るの騒ぎとなった。
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その間ヤーコプ・ブランを乗せた列車も這い、停まり、鉄道の修復を待ちそしてまた前方に這っていた。機関車が壊れ曠野で新しいのが送られて来るのを待った。夜、脱線した——誰かが枕木を抜いたのだ——また修理し動き出した。——客車の中では丸くなり譫言を言いもう少しで死にそうであった。駅に着くと運び出され荷物台の上に置かれた。ついに朝、列車が故郷の市鎮に着いた。ヤーコプ・ブランは這い出した。よろめき慌てた。空気を胸いっぱい吸った。ガラスの割れた駅、澄んだ小川に架かった木橋、二本のふっくらした白楊、そして至る所に死んだような看板の掛かった融け始めた汚い湿った街に通じる道、すべてに見覚えがあった。食糧店の前には早朝から行列ができていた。押し合い寒さに震えていた。広場には衣裾の濡れ透った外套を着た不眠の兵卒が整列していた。監獄から鉄鍬を持った囚人が連れ出されていた。どの家も鎧戸を閉めていた。緑色の赤色の灰黒色の木造の家々が——まだ眠っていた。商店街には赤い看板が掛かっていた——第一号倉庫、第七号倉庫、第十二号倉庫——すべて公有。街角に一人のつば広帽をかぶった白い巻き毛のユダヤ人が立っていた。ただ立って茫然と眺めていた。その唇が震えぶつぶつと独り言を言っていた。
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ヤーコプ・ブランは見覚えのある青い窓という窓に花のある古い家にたどり着き長い間戸を叩いた。戸はついに耳環をつけた兵卒が開けた。何の用だと聞いた。ヤーコプ・ブランは家に入ろうとした。しかし兵卒は大声でこの家はすでに公有であり事務所は十時から開くと言った。ヤーコプ・ブランは戸を見た。すると白い看板が見えた——本部事務所。——一時間後、彼はラザリ大通りの親戚から父親のことを知った。父親はまだチョバン隊がここに駐屯していた頃にキエフに退避しそれ以来姿も見せず便りもないと。家は公有となり品物もすべて没収されたと。ヤーコプ・ブランはひとまず台所に住んだ。翌日陰謀の粛清人がやって来た時彼は逮捕され非常委員会に引き渡された。ヤーコプ・ブランはサイダー製造工場の以前の使用人部屋に座っていた。またそこから引き出された。入れ替わりに別の新しい者が放り込まれた。朝、裁判官のところに連行された。裁判官は耳を動かし空気を嗅ぎ片目で見た。お前はチョバン隊と一緒に逃げたブランの息子ではないか?なぜ来たのだしかも今になって?なぜ届け出に来なかったのだ?お前の鞄の中の官給の帽子はどこで手に入れたのだ?ヤーコプ・ブランは答えた。裁判官は目を細めて嘲笑い鉛筆を弄んだ。ヤーコプ・ブランが話し終わると彼は隅に小さく書きつけた。ヤーコプ・ブランは連行された。眠れぬまま一夜を過ごした。雪解けの水がぽたぽたと滴っていた。春が来た。三月の月が輝いていた。彼は目を開けて横たわっていた。風があらゆるものを吹き拂った。ヤーコプ・ブランは考えた。悲しんだ。しかし落ち着いていた。詩を作った。竪琴が風の中で吟哦した。弦を鳴らした。ヤーコプ・ブランは手で顎を支えしばらく考えそして噛み砕いた鉛筆の欠片で壁に書いた——
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静かな風、融ける雪、
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一人の人が私の前に来て、
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歌を歌った……
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【ラーラの利益】
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V・インベル
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エレベーターは年を取っていて鉄の柵の後ろで寂しかった。絶え間なく上がったり下がったりするので気難しくなり扉を閉めると憤慨してガタガタ鳴り下降しながら傷ついた狼のように微かに呻いた。彼はしばしば言うことを聞かず建物の中ほどにぶら下がったまま不機嫌にエスカレーターを上って行く通行人を眺めていた。
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エレベーターの操縦人はヤーコプ・ミトローシン、十一歳、親を知らない子供であった。彼は路上で門番に見初められエレベーターの管理を任された。住宅管理部の命令によればヤーコプ・ミトローシンには誰かを一人で昇降させることは許されていなかったが彼は自分で通行人を上下させしかも規則通り五ゴペイカを徴収していた。
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長い長い夜中に外で嵐が怒号する時もヤーコプ・ミトローシンはなおエレベーターの職務を守り芝居や友人の家に出かけた人々を待ちながら世事を考えた。世事を考え自分の破れた皮の長靴のことを考えまた彼を息子のように扱う門番ミトロファン・アフダシが何の理由もなくひどく殴ることを考え、もし鉛筆を一本拾えたら勉強できるのにと考えた。彼はしばしばエレベーターの構造を繰り返し観察した、内部、クッションのついた椅子とスイッチのボタンを。とりわけ赤いボタン。これを力いっぱい押しさえすれば猛スピードのエレベーターもたちまち止まるのだ。これは非常に面白いことであった!
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夜、大人たちが芝居に行ったり家でお茶に客を招いたりしている時、建物中のどこからともなく小さな頭巾や小さな羊皮の帽子[21]がヤーコプ・ミトローシンのところに雑談しに来るのだった。そして時にはフランネルの小さな頭巾をかぶった六歳のラーラという名の子も交じっていた。ラーラの母親は詰め物をした衣包のように太っていてこの交際がたいそう不満で言った。
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「ラーラ、あの子は正真正銘の親なしの子よ、鼻を拭きなさい!あの子は本当に泥棒にもなれば人殺しにもなるのよ、指をなめないの!あなたには他にお友達がいないの?」
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もしヤーコプ・ミトローシンがこういう言葉を聞けば勃然と怒ったが口は開かなかった。
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ラーラの保姆は上流の老婦人であったのでこの交際にはなおさら不満であった。
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「ラーラちゃん、あの子の相手をするのはおやめなさい、もう構っちゃいけません!あなたどんな良いものを見つけたっていうの。エレベーターの小僧よ。あなたのお父さんは柔らかい革張りの書き物机をお持ちだしあなた自身も毎日ココアを飲んでいるじゃないの。ふんこんなお宝!あなたのお友達にふさわしいとでも言うの?」
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しかしこの花の蕾のように繊細な丸い小さなラーラはもう慣れてしまっていつもヤーコプ・ミトローシンに近づく方法を見つけ微笑みかけるのであった。
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ある日エレベーターの扉の下のいつもこの建物のあらゆる告示が貼られる場所に新しい告示が出た。
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「この家のすべての子供たちは、明日三時に、階下の羊皮の積んである場所に全員集合のこと。重要な議案を提出す。入場無料。隣家の者は入場料として胡椒糖菓子二個。」
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下に署名はなかった。
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最初にこの告示に気づいたのはラーラの母親であった。彼女はまず眼鏡をかけて読みそれから眼鏡を外して読みそしてただちに二階に住む家屋管理員を呼んだ。来たのは家屋管理員の副手であった。
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「どうお思いになりますかポラディス同志?」ラーラの母親は言った。「こんなことを放っておくなんてどういうおつもりですか?」彼女は手袋をはめた手で告示を指さした。「誰かがここで私たちの子供をそそのかしているのにあなたは一言も言わないのね。なぜ黙っているのですか?うちのラーラは絶対に行きませんいいですけど。でも道理から言えば……」
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ポラディス同志は近づいて見ると鼻を鳴らして答えた。
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「これにはとりたてて珍しいことはないと思いますが奥さん。子供たちには組織を作って自分たちの本業の利益を守る権利がありますから。」
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ラーラの母親は興奮して口がもつれ歯を食いしばって言った。
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「利益ですってまだ鼻水も乾かない子供たちが。分かってますよこれは十八号室のユーラが書いたのよ。何かの課長の息子でしょう。」
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課長スレシノフは気難しい腎臓病持ちの男であったが告示にちらっと目をやり自分で思った。
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「分かっているよユーラの筆跡だ。あいつはいったいどんな人物になるのやら。ピウスツキ[22]のような無頼漢かもしれんな。」
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子供たちは皆この告示に気づかなかったかのような様子であった。ただ階段の上に小さな足跡がとくに増え近くの店では胡椒糖菓子の需要が突然高まり倉庫に新しい品を取りに行かねばならなかった。
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この夜は静かに過ぎた。しかし朝になると賑やかになった。
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まず牛乳売りの女が来てまだ言った、外は大吹雪で手も見えない、自分の馬を繋ぐのに頭でなく尾を繋ぎそうになったくらいだ、だから牛乳は一ゴペイカ値上げだと。家の中は嵐のような気分で満ちた。しかしスレシノフは弁当を鞄に入れて変わらず出勤しラーラの母親は牛乳売りの問題を調べるためにラズィーナのところへ行った。
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子供たちは自分の部屋に座って非常に静かにしていた。
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六時になって大多数の親たちが仕事と吹雪と昼食で疲れ横になって休み力の抜けた手を『真理』や『思想』[23]に埋めている時、小さな影が階下に忍び降りまさしくあの羊皮の積んである場所へ走って行くようであった。
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=== 第160節 ===
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ラーラの母親がラズィーナのところへ列席に行き、初めて牛乳が本当に値上がりしたこと、バターに至ってはまったく買えないことを知った。一時間後、彼女もまた長椅子の上の華麗な、あるものは自動車の車輪ほど大きく、あるものは茶碗の受け皿ほど小さい丸いクッションの山の中に身を沈めていた。保姆が台所に走って行き洗濯女と神様はいるのかいないのか議論していた。
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その時突然部屋の戸が音を立てた。
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ラーラの母親は飛び起き娘のエレーナ・イゴーロヴナ・アントノワがいないことに気づいた。
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ラーラの母親はすべてを放り出し向かいの戸口に向かって大声で叫んだ。課長スレシノフが自ら戸を開けた、手に湯たんぽを持って。
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「うちのラーラがいなくなったわ、お宅のユーラもきっとそうでしょう」ラーラの母親は言った。「あの子たちは階段の下で会議をしているのよ、何が本業の利益ですって、一言で言えば大馬鹿よ。」
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課長スレシノフは不機嫌に答えた。
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「うちのユーラもいません。きっとあそこでしょう。あいつが発起人かもしれんと私は思っています。外套を着に行きます。」
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二人は一緒に階段を降りた。エレベーターが老弱の呻き声を上げて七階から落ちて行った。ヤーコプ・ミトローシンは乗客を見ると停止ボタンを押してエレベーターを止め冷然と言った。
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「申し訳ございません。」
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ちょうどその時、下の羊皮と冬眠中の道路散水車の水管が積んである部屋にもたくさんの子供たちが集まっていた、息もできないほど大勢。薄荷の匂いがして薬局の中のようであった。
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ユーラが古い椅子の上に立ち開会の準備をしていた。中立の代理議長ヴィクトル、十二歳の子供が絶えず彼のところに走ってきて指示を仰いでいた。
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「ユーラ、隣の女の子が赤ん坊を抱いて来たけど、その赤ん坊は発言を彼女に委託できるの、それとも駄目?」
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この時その赤ん坊が自ら発言し、皆の耳をほとんど聾にした。
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「同志諸君」ユーラは赤ん坊よりも大きな声で懸命に叫んだ。「同志諸君、発言できるのは一人で歩ける者に限る。それ以外の者は発言すべからず。発言の委任も不可。演説したい者は登録せよ。時間は多くない。議案は——新しい両親の選挙。」
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ラーラは青白い顔で目を輝かせヴィクトルの前に駆け寄り小声で言った。
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「お願い、私も書き入れて。言いたいことがあるの。書いて——五階のラーラ。」
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「何の問題について発言したいのですか、同志?」
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「暖かいズボンのことよ、もう穿けなくなった穿き古したズボンの問題。他にもたくさんあるわ。」
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ユーラは胡椒糖菓子で窓枠を叩きながら口を開いた。
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「同志諸君、一言述べたい。すべての人々——金属工やら商人やらあの靴磨きまでもが——搾取に備える彼らの団体を持っている。しかし我々子供にはそのようなものが設けられていない。各人が両親、母親だの父親だの、とりわけ腎臓病を患っている場合にはなおさら、勝手にからかわれている。このままではいかん。要求を提出し時代に適応した口号を作ることを提議する。賛成の者は?反対の者は?棄権の者は?」
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「ヤーコプ・ミトローシンがここに登録しています」ヴィクトルが報告した、「もう平手打ちを許さない問題について。ただし本人は来ていません。」
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ユーラは誠実に眉をひそめて言った。
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「当然だ。彼は暇がないのだ。つまり重要な仕事をしているということだ。彼の提案は成立する。」
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会議は嵐のように進んだ。多くは大変な難問題で誰も沈黙していられなかった。大人たちがやりすぎで子供が建物の通路で遊ぶことまで禁止しているこれには積極的に対処すべきだという者もいた。水溜まりで長靴を洗うことは無条件に認められるべきだという者もいた、その他いろいろ。
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子供たちの利益の擁護がこうして業種の基礎の上に打ち立てられ始めた。
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エレベーターは三階と四階の間に一時間半ぶら下がったままであった。ラーラの母親が怒り狂って戸を叩いても無駄、課長が病気の腎臓を押さえても無駄であった。ヤーコプ・ミトローシンは皆にこう答えただけであった、エレベーターの内部に故障が出たので自分にもどうしようもない、ぶら下がっている——そのうち自然に動くでしょうと。
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ラーラの母親が焦燥と長い待ち時間で半死半生になりようやく自分のクッションの上に戻った時、ラーラはすでに父親の書き物机の前に座っていた。彼女は太い青鉛筆で大きな紙に花文字で会議で議決された口号を書いていた。
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「子供たちよ、あなたたちの両親を選ぶ時は気をつけなさい!」
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ラーラの母親は驚いて顔色が青黄色に変わった。
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翌日、保姆が彼女に一通の手紙を渡した。汚い封筒の中に丸い物が入っているのを見て不思議に思った。開封すると中には大きな汚い五ゴペイカ硬貨が一枚あった。紙片にはこう書かれていた。
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「奥様、エレベーターのお金をお返しします。これは当然のことです。私はわざとあなたがたをエレベーターの中にあれだけ長い間閉じ込めたのです、あなたの娘さんラーラが彼女のあらゆる利益について発言できるようにするためです。
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「字の書けないヤーコプ・ミトローシンのために代筆。
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ユーラ・スレシノフ。」
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【後記】
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ザミャーチン(Evgenii Zamiatin)は一八八四年に生まれ造船専門家であり、ロシア最大の砕氷船「レーニン」は彼の作品である。文学上革命前からすでに名を成し大家の列に入っていた。革命の内戦時期にも「芸術府」「文人府」の演壇を発表機関として借り自作を朗読し、また「セラピオン兄弟」の組織者にして指導者として文学にはかなり力を尽くした。革命前はもともとボリシェヴィキであったが後に離脱しすべての作品もついに旧知識階級特有の懐疑と冷笑的態度を脱しきれず、今やすでに反動的作家と見なされ作品を発表する機会はほとんどなくなっている。
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『洞窟』は米川正夫の『労農ロシア小説集』から訳出しさらに尾瀬敬止の『芸術戦線』所載の訳本を参照した。飢えたペテルブルグの一隅の住民が飢寒に苦しみほとんど思考の能力を失い、一方では無能な微弱な生物と化し他方では原始の野蛮時代の状態を呈するさまを描いている。病む妻のために薪を盗んだ男がついに毒薬を彼女に譲り服毒を許すしかなくなるというのは革命の中の無能者のちょっとした小悲劇である。書き方はいかにも晦渋に見えるが仔細に見れば極めて明白である。十月革命直後の飢餓に関する作品は中国ではすでに何篇か訳されているがこれは「凍え」についての一篇の好作品である。
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シュシュケンコ(Mihail Zoshchenko)もまた最初の「セラピオン兄弟」の一員であり彼にはごく短い自伝がある。曰く——
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「私は一八九五年ポルタワに生まれた。父は美術家で貴族の出身。一九一三年に古典中学を卒業しペテルブルグ大学法学部に入ったが卒業せず。一九一五年に義勇兵として前線に行き負傷し毒ガスにもやられ心臓が少しおかしくなり参謀大尉となった。一九一八年に義勇兵として赤軍に加わり一九一九年に首席で帰郷した。一九二一年に文学に従事し始めた。私の処女作は一九二一年に『ペテルブルグ年報』に掲載された。」
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しかし彼の作品は総じて滑稽なものが多くしばしば軽巧に過ぎると感じさせる。欧米にも一部の愛好者がおり翻訳も少なくない。この一篇『老鼠』は柔石が『ロシア短篇小説傑作集』(Great Russian Short Stories)から訳したものでチャリン(Leonide Zarine)原訳。当時は『朝華旬刊』の材料を準備していたので短篇の中の短篇を選んだのである。しかしこれはまたシュシュケンコの作品の標本であり一斑を見て全豹を推し量ることができる。
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ルンツ(Lev Lunz)の『砂漠にて』もまた米川正夫の『労農ロシア小説集』から出ており原訳者はさらに巻末に一段の説明を付している。
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「若き『セラピオン兄弟』の中で最年少の愛すべき作家レフ・ルンツは病魔に苦しむこと約一年しかし一九二四年五月ついにハンブルクの病院で長逝した。享年わずか二十二。まさに人生の第一歩を踏み出し創作においてもこれから真摯な仕事に取りかかろうという矢先に豊かな天賦がありながら実を結ぶ暇もなく去ったことはロシア文学にとって実に小さからざる損失であったと言える。ルンツは光と喜びと活発な力に満ちた少年であり常に友人たちの沈滞と憂鬱と疲労を追い払い絶望の瞬間に力と希望を注ぎ込んで新たな勇気を奮い起こす『梃子』であった。他の『セラピオン兄弟』が彼の訃報に接して同胞を失ったかのように悲泣したのも理由なきことではない。」
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しかしこれらの言葉はいささか偏愛の嫌いがなくもない。コーガン教授によればルンツは「一九二一年二月の最も偉大な法規制定期、登記期、兵営整理期の中で『セラピオン兄弟』の自由な懐に逃げ込んだ」のである。ならばもし生存していたとしても今では決してあの頃のルンツではあり得なかったろう。
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『果樹園』は一九一九年から二十年の間の作であり出典は前篇と同じ。ここにもまた原訳者の言葉を録す——フェージン(Konstantin Fedin)もまた「セラピオン兄弟」の一員であり一九二二年に行われた「文人府」の懸賞競技に短篇を寄せて首席の栄冠を得て以来にわかに名を馳せた体面ある作者である。故郷はヤコヴレフと同じサラトフのヴォルガ河畔で家庭は裕福でない商家であった。古い果樹園、漁師の小屋、纤夫の歌という詩的な環境に育った彼は早くから芸術的傾向を示したがその傾向はまず音楽の方面に現れた。彼はヴァイオリンを巧みに弾き歌も上手く各地の音楽会に出演した。このような芸術の天稟を持つ彼が商家の雰囲気に適応しなかったのは当然である。世界大戦前語学研究のためにドイツに赴いた。世界大戦が起こるとスパイ容疑をかけられ監視された。革命後ロシアに帰ると火と血の洗礼を受けた。共産党員となり赤軍を率いて硝煙の中を往来した。フェージンは繊細優美な作風の作者であり『果樹園』は彼の出世作で古い美の伝統が次第に滅び粗野な新事物に取って代わられるという人生永遠の悲劇を描いている。
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後二年に彼はまた『都市と年』の長篇を書き第一流の大家と称されたが一九二八年に第二の長篇『兄弟』が出版されると芸術至上主義と個人主義への賛頌がかなり多かったためまた批評家の非難を受けた。この短篇がもし現在に書かれたならば決して膾炙する作品にはならなかったであろう。中国にもすでに靖華の訳本があり『煙袋』に収められているので本来再録の必要はないが第一にソ連文学の当時の状況を見ることができ第二に私の訳本は成文後さらに『新興文学全集』巻二十三中の横沢芳人訳本を以て細かく校合したので字句において多少の長があるように思われやはり捨て難く依然としてここに収めた。
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=== 第161節 ===
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ヤコヴレフ(Aleksandr Iakovlev)は一八八六年にペンキ職人の父親の家に生まれた。一族は皆農民で筆を執って字を書けるのは全族の中で彼が最初であった。宗教的な雰囲気の中で成長したがついに独立して生活し旅行し投獄され大学に入った。十月革命後長い苦悶を経て文学に救いの星を見出し「セラピオン兄弟」の一員となった。自伝に曰く「ロシアと人類と人性が已に私の新しい宗教となった」と。
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彼がペテルブルグ大学を卒業したという点から言えば知識分子であるが彼の本質は純粋に農民的、宗教的である。彼の芸術の基調は博愛と良心であり農民を人類の正義と良心の保持者と認めしかも農民のみが真に全世界を友愛の精神で結びつけるものだと考えていた。この篇『貧しき人々』は『近代短篇小説集』中の八住利雄の訳本から重訳したもので発揮しているのは当然人々が互いに救助し愛撫する精神すなわち作者が信仰する「人性」であるがそれでもなお幻想の産物である。別に一種の中篇『十月』がありこれはより前進的な観念形態を示す作品と称されている。描写するのは大抵動揺と後悔で鉄のような革命者は一人もいないが恐らく事実から遠くないためか今なお読む人々がいる。私も二年前にある書店のために訳したが今日に至るまで出版されていない。
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リーディン(Vladimir Lidin)は一八九四年二月三日モスクワに生まれた。七歳でラザレフスキー東方語学院に入り十四歳で父を亡くし独立生活を営んだ。一九一一年に卒業し夏秋二季を森林の中で数年過ごした。欧州大戦の時モスクワ大学を卒業し西部戦線に赴いた。十月革命の時は赤軍中およびシベリアとモスクワにいた。後しばしば外国を旅行した。
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彼の作品の正式な出版は一九一五年であり大学卒業であるから知識階級作家であり「同路人」でもあるが読者はかなり多く比較的出色の作者と見なされている。これはもともと短篇小説集『往日の物語』中の一篇で村田春海の訳本から重訳したものである。時は十月革命後から翌年三月まで約半年。事は一人のユダヤ人が故郷での迫害と虐殺に耐えかねモスクワに正義を求めに行くが飢餓しかなく帰ってきた時には生家はすでに没収され自分も投獄されるというものである。この人物を中心に簡潔な含蓄のある文章で革命ロシアの最初の時期の周囲の生活を描き出している。
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原訳本は『新興文学全集』第二十四巻に収められているが数箇所の脱落した字があり今上下文を見て補ったが自分では誤りがないかどうか分からない。別に二箇所の×があるがこれは原来のままでおそらく「デモ」「虐殺」といった字であろうが補わなかった。また分かりやすさを期して若干の字を追加したが原訳本にはないものであり括弧で記した。黒い鶏が来て啄むなどというのはチフスにかかり発熱中に見た幻覚であり「知識階級」作家でなければ作品の中にこのような趣向はおそらく出てこないであろう——リーディンは自伝の中で若い頃チェーホフの影響を非常に受けたと述べている。
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ソスーリャ(Efim Sosulia)は一八九一年に生まれモスクワの小商人の息子である。少年時代は大抵工業都市ウッチ(Lodz)で過ごした。一九〇五年にいくつかの大暴動の指導者との個人的な交友のために逮捕され長期にわたり投獄された。釈放後アメリカに行こうと考え「国際的な手芸」を学びすなわち看板画工とペンキ職人になった。十九歳の時最初の優れた小説を発表した。その後まずオデッサで次にレニングラードで文芸欄の記者、通信員、編集者を務めた。彼の得意とするところは簡短で奇特な(グロテスク)散文作品である。
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『アクと人性』は『新ロシア新小説家三十人集』(Dreissig neue Erzahler des neuen Russland)から訳出したもので原訳者はホーネク(Erwin Honig)である。表面上はこれもまた一篇の「奇特な」作品であるがその中には懐疑と失望が満ちておりいくら諷刺の衣裳をまとっても少しも隠しおおせず、農民を確信するヤコヴレフの見た「人性」とはまったく異なっている。
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この篇は中国ですでに英文やフランス語から数種の訳本があるという。西欧諸国がいずれもこれを作者の代表作と見なしていることが分かる。私は『青年界』に訳載された一篇しか見ていないがドイツ語訳本とはかなり異なるので依然としてこの一篇を廃棄しなかった。
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ラヴレニョフ(Boris Lavrenev)は一八九二年に南ロシアの小さな町に生まれた。家は半ば没落した家庭で窮迫していたがなお彼に良い教育を受けさせることに努力した。モスクワ大学を卒業した後欧州大戦がすでに始まっておりサンクトペテルブルグの砲兵学校に再入学し六ヶ月の訓練を受けて前線に赴いた。革命後装甲車指揮官およびウクライナ砲兵司令部参謀長となり一九二四年に退役しレニングラードに住んで現在に至る。
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彼の文学活動は一九一二年にすでに始まっていたが戦争のために中断され二三年になってようやく再び盛んに創作した。小説は映画化され戯曲は劇場で上演され作品の翻訳はほぼ十カ国語に及ぶ。中国には靖華訳の『四十一』附『平凡な物の話』一冊が『未名叢刊』にある。
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この一中篇『星花』もまた靖華の訳で原文から直接訳されたものである。長く幽閉されていた婦人が一人の赤軍兵士を愛しついにその夫に殺害されるという話である。描かれた住民の風習と性質、土地の景色、兵士の朴訥さはいずれも動人であり一気に読了せずにはおられない。しかし無産作家の作品とはやはり截然と異なっており、教民も赤軍兵士も等しく作品の素材として等しく見事に書かれ偏りがない。「同路人」とは「断然として革命に同情し革命を描写しその世界を震撼させた時代を描写しその社会主義建設の日々を描写する」者であるが、自身は最後まで戦い抜く一員ではないゆえに、筆に現れるのはただ洗練された技術をもって勝つことにしかなり得ないのだ。このような「同路人」の最優秀作品を無産作家の作品と対比して仔細に見れば、読者は少なからず益を得るであろう。
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インベル(Vera Inber)は一八九三年にオデッサに生まれた。九歳ですでに詩を作り高等女学校在学中には女優になろうとした。卒業後哲学、歴史、芸術史を二年間研究しまた何度か旅行した。彼女の最初の著作は詩集で一九一二年にパリで出版され二五年になってようやく散文を書き始めた。「ディケンズ、キプリング、ミュッセ、トルストイ、スタンダール、フランス、ハートらの影響を受けた」という。多くの詩集のほか彼女にはさらに数種の小説集、少年小説、および一種の自叙伝的長篇小説『太陽の下』がありドイツにはすでに訳本がある。
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『ラーラの利益』もまた『新ロシア新小説家三十人集』から出ておりフランク(Elena Frank)原訳。ただの小品でありまたいささか誇張に過ぎるところもあるが、新旧両世代——母娘と父子——を対照させるところはなかなか巧妙である。
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カターエフ(Valentin Kataev)は一八九七年に生まれオデッサの教員の息子である。一九一五年に師範学生の時にすでに詩篇を発表していた。欧州大戦が起こると義勇兵として西部戦線に赴き二度負傷した。ロシア内戦の時はウクライナにおり赤軍および白軍に何度も拘禁された。一九二二年以後モスクワに住み多くの小説、二部の長篇、さらに一種の滑稽劇を出版した。
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『物事』もまた柔石の遺稿であり出典と原訳者は『老鼠』と同じである。
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今回収集した資料中には「同路人」としてもともとピリニャクとセーフリナの作品もあったが紙数の関係ですべて次の巻に移した。このほか世界的な名声がありながらここに収録しなかったのはイワーノフ(Vsevolod Ivanov)、エレンブルグ(Ilia Ehrenburg)、バーベリ(Isack Babel)、さらに老作家のヴェレサーエフ(V. Veresaev)、プリーシュヴィン(M. Prishvin)、トルストイ(Aleksei Tolstoi)らである。
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一九三二年九月十日、編者。
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=== 第162節 ===
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カラシェフは歯を食いしばり、枕と外套と手巾を持って奥の扉をくぐり自分の部屋に行った。彼は薬局を通り過ぎ時計を見た——本当にもう七時十五分であった。自分で寝坊したのだ、自分が悪い。薬局の扉を開けるべき時間に寝かせておいてもらえないことは分かっていたがだからといって製薬師への憤りが和らぐわけではなかった。彼は歯を食いしばり足を踏み鳴らした。特に腹立たしいのはこの製薬師のオプチャンニコフが最近あまりにも彼を軽蔑し始めたことであった。以前は彼を友人として、少なくとも仲間として扱っていたのにこの頃では完全な下僕のように扱うのだ。ああいう横柄な態度で薬局員に対する奴は初めてだ。
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カラシェフは着替え顔を洗い薬局に出た。薬局には病気の少女の処方箋を持った女中がすでに待っていた。カラシェフは調合を始めた。手が少し震えていた。怒りのためだ。彼は自分の仕事をしながら考えた。なぜ自分はここにいるのだ。六年もの間この薬局で働いてきた。朝から晩まで処方箋を読み薬を量り包み、客に渡す。それだけだ。月給は少ない。将来の見通しもない。しかし他に行くところもない。
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製薬師のオプチャンニコフが入ってきた。赤ら顔に小さな目。いつもの不機嫌な顔であった。
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——遅刻だぞカラシェフ。
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——七時十五分でした。
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——十五分も遅刻だ。これが最後だ、分かったな。
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カラシェフは黙っていた。何も言えなかった。オプチャンニコフは彼の上司であり、ここを追い出されたら行く場所がないのだから。
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午前中に処方箋が三十枚来た。午後にはさらに四十枚。カラシェフは一つ一つ丁寧に調合した。間違いは許されない。人の命に関わるのだから。夕方近くになると目がかすんできた。足が痛んだ。しかし仕事は続けなければならなかった。
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閉店の時間になった。カラシェフは外套を着て帽子をかぶり薬局を出た。外は暗く冬の風が冷たかった。彼は歩いて帰った。途中で煙草屋の灯りが見えた。一本買いたかったが金がなかった。通り過ぎた。
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下宿に帰ると女将がお茶を出してくれた。カラシェフは小さなテーブルに向かって座り熱いお茶をすすった。狭い部屋であった。壁には何もかかっていなかった。窓の外では雪が降り始めていた。彼はここで何年暮らしてきたのだろう。そして何年この生活が続くのだろう。何も変わらない。何も。
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しかし翌朝、彼はまた七時前に起き薬局に向かった。遅刻はしなかった。
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=== 第163節 ===
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しかし時には彼らの悪戯はさらにひどかった。たとえばある時シェリマンがこっそり暇を見つけポケットいっぱいに下剤の錠剤と同じ形のチョコレート菓子を詰め込みこっそり薬局から出て門外に出ると、この菓子と薬の錠剤を道々出会った人に分け与えた。馭者、門番、下女、女料理人、向かいの歩哨に立つ警官にまで。二時間後に発覚した時には大変な騒ぎになっていた。
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下剤を食べた人々が一斉に腹を壊したのだ。馭者は御者台から降りられなくなり門番は門を離れられなくなった。警官は持ち場を離れざるを得なくなった。薬局に怒鳴り込んできた者もいた。
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オプチャンニコフはシェリマンを叱った。しかし叱るだけであった。シェリマンは彼の甥であり何をしても大した罰は受けなかった。
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カラシェフはこの悪戯を嫌悪した。しかし何も言わなかった。彼の立場では何も言えなかったのだ。
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またある時シェリマンはこんなことをした。ある老婦人が孫のために咳止めの薬を買いに来た。シェリマンは処方箋を見てから奥に行き、咳止めの代わりに下剤を調合して渡した。老婦人は何も知らず帰って行った。
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翌日、老婦人の娘が怒って薬局にやってきた。子供がひどい目に遭ったと。オプチャンニコフは謝り新しい薬を無料で渡した。シェリマンは奥の部屋で笑っていた。
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——いい加減にしろシェリマン——カラシェフは言った。——子供だぞ。
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——お前は堅すぎるんだよカラシェフ。人生を楽しめ。
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カラシェフは黙った。シェリマンの悪戯はさらにエスカレートしていった。ある夜彼は薬局のすべてのラベルを貼り替えた。カラシェフが翌朝気づかなければ大惨事になるところであった。
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——これは冗談では済まない——カラシェフは言った。——人の命に関わることだ。
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しかしシェリマンは笑い、オプチャンニコフは何も言わなかった。カラシェフは黙って元に戻した。いつものように。
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=== 第164節 ===
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——カラシェフ、彼女があなたを待ってますよ!
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——何だこん畜生!——カラシェフは不満げに言った。皆がカラシェフに目を注いだ。
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——すぐ彼女をここに呼んでこい、聞こえたか?行って連れて来い。
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——旦那がた!彼女の足はだいぶ良くなってますよ。
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——呼んでこい!
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——とにかく先生方、あの人は自分で歩いて来られますよ。——そしてカラシェフはテーブルに向かった。テーブルの上にはカード、金貨の山、空き瓶。煙草の煙が充満していた。
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シェリマンが言った——カラシェフ、おい、嫁さんが待ってるんだぞ。行ってやれよ。
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——嫁じゃない——カラシェフは言った。
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——じゃ何だ?——皆が笑った。
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テリーナが入ってきた。足を引きずりながら。彼女は怪我をしていたのだ。三日前に転んで足を挫いた。しかし今日はカラシェフに会いたくてここまで来た。
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——カラシェフさん——テリーナは小声で言った。——お話があるのです。
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——何だ。
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——ここでは……皆さんの前では……
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カラシェフは立ち上がった。テリーナを廊下に連れ出した。薄暗い廊下でテリーナは言った。
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——私を嫌いですか。
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——嫌いじゃない。
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——では、なぜいつも逃げるのですか。
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カラシェフは黙っていた。テリーナは泣き出した。カラシェフは困った。彼はテリーナのことが好きであった。しかし月給は少なく下宿住まいで将来の見通しもない。彼女を幸せにできる自信がなかった。
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——泣くな——カラシェフは言った。
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——あなたは私が嫌いなんだわ。
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——そうじゃない。ただ……俺は貧乏だ。お前を幸せにできない。
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テリーナは泣きやんだ。彼女はカラシェフの顔を見上げた。
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——あなたが一緒にいてくれるだけで幸せよ。
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カラシェフは何も言えなかった。彼はテリーナの手を握った。冷たい手であった。外は雪が降っていた。
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——帰れ、足が悪いんだから——カラシェフは言った。
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——また来てもいい?
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——ああ。
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テリーナは微笑んで帰っていった。カラシェフは廊下に立ったまま彼女の後ろ姿を見送った。そして部屋に戻りカード遊びの仲間のところに座った。しかしもうカードには集中できなかった。
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=== 第165節 ===
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カラシェフは外に出た。頭の中は酔いと金を失った感覚で掻き乱されひどく不快であった。夜の澄んだ空気が欲しかった。何かを失ったような気がして周囲のすべてが現実ではなくあるべき姿ではないように感じられた。本来の姿ではなくただ一時的な、臨時的なものに過ぎないと。
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彼は階段の上に立って耳を澄ませた。大きな建物がすっかり眠り込んでいた。どこかで時計が十二時を打った。カラシェフは階段を降り外に出た。雪が降っていた。静かな夜であった。街灯がぼんやりと光っていた。
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彼はカード遊びで月給の半分を失ったのだ。シェリマンに誘われて。取り戻そうとして賭け金を増やしさらに負けた。馬鹿なことをした。あの金で新しい靴が買えた。冬の外套の修繕ができた。テリーナに花を贈ることもできた。
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彼は歩いた。どこへ行くともなくただ歩いた。橋のところまで来た。川が暗く流れていた。欄干に凭れて水を見つめた。黒い水が音もなく流れていた。
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——飛び込もうか——という考えが頭をよぎった。しかしすぐに打ち消した。月給の半分を失ったくらいで死ぬ人間がいるものか。
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彼は橋を渡りさらに歩いた。町はずれに来た。テリーナの家があった。パン屋の二階。窓に灯りが見えた。テリーナはまだ起きているのだろうか。
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カラシェフは立ち止まった。窓を見上げた。何か叫びたかった。しかし何も言わなかった。
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彼は踵を返し下宿に帰った。靴を脱ぎベッドに倒れ込んだ。翌朝七時前に起きた。今日は遅刻しなかった。薬局に着くとオプチャンニコフが言った。
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——今日は時間通りだな。
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——はい。
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——よろしい。
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カラシェフは自分の持ち場についた。最初の処方箋を手に取った。いつもの仕事が始まった。何も変わらない一日が。しかしカラシェフの胸の中では何かが変わり始めていた。テリーナの言葉が響いていた——あなたが一緒にいてくれるだけで幸せよ。
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=== 第166節 ===
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「おやおやおや」彼はチチコフを見るなり突然両腕を広げて叫んだ。「何があなたをここに連れて来たのです?」
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チチコフは知っていた。これはロスタニョフであり、この紳士とは検事の家で一緒に食事をしたことがあった。数分もしないうちにこの男はすっかり親しげになり君僕の仲になった。チチコフの方からは何もそんな理由を与えていないのだが。
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「どこに行くのかね?」ロスタニョフが尋ねた。
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「ちょうどある地主のところへ。」
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「結構、結構。では一緒に行こう。私のところへ来たまえ!」
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「しかし、あなたのところには行けません。用事があるのです。」
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「まあ、なに、たわごとだ、たわごと!こっちに来なさい、仲間のところへ来なさい!」彼はチチコフの腕をつかんで引っ張った。「このまま行かせはしないぞ!」
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チチコフがどうしても断り切れずについて行くと、ロスタニョフは嬉しそうに言った。
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「さあ、妻に紹介しよう。母さん、パーヴェル・イワーノヴィチ・チチコフだ!検事の家でお会いしたことがある。」
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奥さんが出てきた。チチコフは丁寧に挨拶した。
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「さあ、座りたまえ座りたまえ!」ロスタニョフは言った。「何か飲み物を出せ。食事の支度をしろ!」
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食事が運ばれてきた。チチコフは食べた。ロスタニョフはひっきりなしに喋り続けた。犬の話、馬の話、猟の話、隣人との喧嘩の話。彼は話題が尽きることがなかった。
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「ところで」チチコフはようやく口を挟んだ。「少しお聞きしたいことがあるのですが。」
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「何でも言いたまえ何でも!」
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「あなたのお領地の農奴の名簿を見せていただけませんか。亡くなった者の分だけで結構です。」
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「死んだ農奴?何のためにそんなものを?」
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「ちょっとした事務的な手続きでして。」
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ロスタニョフは怪訝な顔をしたが深くは追及しなかった。
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「名簿か。あるにはあるがどこにやったかな。ナスターシャ!あの帳簿はどこだ?」
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名簿は見つからなかった。ロスタニョフの家は何もかもが混乱していた。
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「まあ急ぐことはない」ロスタニョフは言った。「明日探そう。今日は飲もう!」
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=== 第167節 ===
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「少し足りませんよ慈悲深い旦那様」老婆は言ったが礼を述べて金を受け取り必死で門を開けに走って行った。彼女は損をしたわけではなかった。なぜなら焼酎の値を四倍に吊り上げていたからである。
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旅人たちは馬車に乗り込み座席についた。チチコフの馬車とロスタニョフとその親戚の乗った幌馬車が並んで走り三人は道中ずっと自由に話し合えた。ロスタニョフの小さな栗毛馬がたえず遅れたので時々追いつかなければならなかった。
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道は悪かった。轍が深く泥が跳ね上がった。チチコフは馬車の中で揺られながらロスタニョフのことを考えていた。あの男は面白い男だ。金はないが気前がいい。地所は荒れているが本人は陽気だ。名簿は明日見つかるかもしれない。
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チチコフの計画は巧妙であった。亡くなった農奴の名前を集めそれをまだ生きているかのように登記しそれを担保に金を借りるのだ。農奴の人数が多ければ多いほど借りられる金も多くなる。
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馬車はがたがたと揺れながら進んだ。やがて日が暮れ始めた。セリファンが声を上げた。
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——旦那様、宿はどうなさいます?
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——次の町まで行けるか?
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——ちと無理でしょうな。馬が疲れております。
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——では適当なところで泊まろう。
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しばらく行くと道端に一軒の宿屋が見えた。粗末な宿であったが他に選択の余地はなかった。チチコフは馬車を降り宿に入った。
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=== 第168節 ===
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客人たちは依然として先ほどの見苦しい道を歩いて家に帰った。ロスタニョフは再び彼らを自分の書斎に案内したが事務室であれば普通は見られるはずのものがここにはまったく見当たらなかった。すなわち書物もなければ紙もなく壁に二挺の猟銃が掛かっているだけであった。一挺は三百ルーブル、もう一挺は八百ルーブル。親戚が部屋の中を見回しながら口に出すのはロスタニョフの経済の混乱ぶりであった。至る所に破れた物、古い物が散らばっていた。
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「いい部屋でしょう?」ロスタニョフは誇らしげに言った。
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「ええ、なかなか」チチコフは外交辞令で答えた。
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「さあ飲もう。」ロスタニョフは戸棚から酒瓶を出した。チチコフは断ろうとしたがロスタニョフは聞き入れなかった。
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「飲まんとは何だ!お前は俺の客だぞ!」
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二人は飲み始めた。ロスタニョフは一杯また一杯と注いだ。チチコフは控えめに飲んだがロスタニョフは際限なく飲んだ。やがてロスタニョフは酔いが回り声が大きくなった。
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「チチコフ、お前はいい奴だ!俺の親友だ!」
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「ありがとう。」
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「何でもやるぞ。犬か?馬か?銃か?」
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「いえ私が欲しいのは先ほどの名簿だけです。」
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「ああ、あれか!あるとも!どこかにあるとも!」ロスタニョフは叫んだ。「ナスターシャ!あの帳簿を探してこい!」
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ナスターシャが探しに行ったがやはり見つからなかった。
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「まあいい」ロスタニョフは言った。「明日探す。今日は飲もう。」
  
老栓もそちらを見たが、ただ人垣の背中が見えるばかりであった。首はみな長く伸び、まるで多くの鶩(あひる)が見えない手に首を掴まれて上に引き上げられているようであった。しばし静まった後、かすかに物音がしたかと思うと、また動揺し始め、轟と一斉に後退した。ずっと老栓の立っている所まで散ってきて、彼を押し倒さんばかりであった。
+
そして二人はまた飲んだ。夜が更けるまで。
  
「おい! 片手で銭を、片手で品物を渡せ!」全身黒ずくめの男が老栓の前に立ち、目つきはまさに二本の刃のようであった。老栓は射竦められて半分に縮んだ。その男は片方の大きな手を彼に差し出し、もう片方の手には鮮紅の饅頭を摘んでいた。その紅いものはまだぽたぽたと滴り落ちていた。
+
=== 第169節 ===
  
老栓は慌てて洋銀を探り出し、震えながら渡そうとしたが、相手のものを受け取る勇気がなかった。すると男は苛立ち、怒鳴った。「何を怖がっている! なぜ受け取らない!」老栓がなおためらっていると、黒い男は提灯をひったくり、紙の覆いを剥ぎ取って饅頭を包み、老栓に押しつけた。片手で洋銀をさらい取り、ぐっと握って立ち去った。口の中で呟いた。「この老いぼれめ……。」
+
「どうしてあなたはまるで要らないのですか?」
  
「これは誰の病気を治すのですか?」老栓にも誰かに聞かれた気がしたが、彼は答えなかった。彼の心は今やただ一つの包みにのみ注がれていた。まるで十代の一粒種の赤子を抱いているかのように、他のことはすべて眼中になかった。彼は今、この包みの中の新しい命を自分の家に移植し、多くの幸福を収穫するのだ。太陽も昇ってきた。彼の前に一条の大道が現れ、まっすぐに家まで続いていた。振り返ると、丁字路の角の朽ちた扁額に「古□亭□」の四つの暗い金文字が照らし出されていた。
+
「簡単なことだ。要らないから要らないそれで十分だ!」
  
 +
「ああお前という奴は!お前と付き合うのは良い友人や仲間と付き合うようにはいかん。まったく……!人はすぐ分かるお前が二枚舌の人間だと。」
  
=== 第102節 ===
+
「そうだ俺は驢馬だ、そうだろう?何の役にも立たない。全くの無用者だ。子供の時分から全く才能がなかった。」ロスタニョフは自分で自分を罵り始めた。「何をやっても駄目なんだ。まったく駄目だ。土地の管理もまるでできない。農奴にもなめられている。」
  
+
チチコフは微笑んだ。
  
老栓が家に着くと、店先はとうに片付けられ、一列また一列と並んだ茶卓がつるつると光っていた。しかし客はいない。ただ小栓だけが奥の列の卓の前に座って飯を食べていた。大粒の汗が額から転がり落ち、袷(あわせ)の着物も背中にぴたりと貼りつき、二つの肩胛骨が高く突き出て、陽刻の「八」の字を成していた。老栓はその様を見て、思わず開きかけた眉間をまた顰めた。彼の女房が竈の下から急いで出てきて、目を見開き、唇がいくぶん震えていた。
+
「しかしロスタニョフさん、あの名簿の件ですが——」
  
「手に入ったかい?」
+
「ああ、名簿。分かった分かった。明日探す。約束する。」
  
「手に入った。」
+
「ぜひお願いします。」
  
二人は一緒に竈の下に入り、しばらく相談した。やがて華大媽が出て行き、まもなく古い蓮の葉を一枚持って戻り、卓の上に広げた。老栓も提灯の覆いを開け、蓮の葉であの紅い饅頭を包み直した。小栓も飯を食べ終え、母親が慌てて言った——
+
「まあ、もう一杯だけ飲んでいけ。」
  
「小栓——お前はそこに座っていなさい。こっちに来てはいけないよ。」
+
「もう十分です。」
  
一方で竈の火を整え、老栓は碧緑の包みと赤白まだらの破れた提灯を一緒に竈に押し込んだ。紅黒い炎がさっと過ぎると、店中に一種奇妙な香りが漂った。
+
「一杯だけだ。一杯。」
  
「いい匂いだな! 何の点心を食っているんだ?」これは猫背の五旦那が来たのだ。この人は毎日茶館で過ごし、最も早く来て最も遅く帰るのだが、この時ちょうど街に面した壁際の卓の傍にやってきて、座って尋ねた。が、誰も答えなかった。「炒米粥かい?」やはり誰も答えない。老栓が慌てて出てきて茶を淹れた。
+
チチコフは断り切れずもう一杯だけ飲んだ。帽子を取り別れの挨拶をした。
  
「小栓、こっちにおいで!」華大媽は小栓を奥の部屋に呼び入れ、真ん中に長椅子を据えて小栓を座らせた。母親が真っ黒な丸いものの載った皿を運んできて、そっと言った——
+
「では明日。」
  
「食べておしまい——そうすれば病気が治るよ。」
+
「明日だ。必ず来いよ。名簿を探しておく。」
  
小栓はその黒い物を摘み上げ、しばらく眺めた。まるで自分の命を手に持っているようで、心の中では言い表しようのない奇妙な思いがした。恐る恐る割ると、焦げた皮の中から白い湯気が一筋立ち昇り、湯気が散ると、中は二つに割れた白い饅頭であった。——ほどなくすっかり腹の中に収まったが、どんな味であったかはまったく覚えていなかった。目の前には空の皿だけが残った。その傍らには片側に父が、片側に母が立ち、二人の目つきはまるで彼の体の中に何かを注ぎ込み、また何かを取り出そうとするかのようであった。小栓は思わず胸が高鳴り、胸を押さえると、またひとしきり咳が出た。
+
チチコフは馬車に乗り込んだ。セリファンが手綱を振り馬車は走り出した。チチコフは馬車の中で考えていた。名簿は明日手に入るだろう。ロスタニョフは約束を守る男だ。少なくとも酔っていない時には。
  
「少し眠りなさい——そうすれば良くなるよ。」
+
=== 第170節 ===
  
小栓は母の言葉に従い、咳をしながら眠った。華大媽は息づかいが静まるのを待ってから、そっと継ぎ接ぎだらけの掛け布団をかけてやった。
+
「殴れ!」ロスタニョフは大声で叫びあの桜の木の長い煙管を持って相手に突進した。顔は赤くなり汗を流しさながら難攻の要塞に向かって突撃を叫ぶ狂暴な中尉のようであった。「殴れ!」ロスタニョフはまさに猛烈な総攻撃の最中にある中尉のように「前進だ、諸君!」と己の中隊に号令するかの如き声音で叫んだ。この中尉は蛮勇で知られ名声を博してはいたが狂暴のあまり常に副官を付けられていた。
  
 +
事の起こりはこうであった。ロスタニョフの下男ポルフィーリーが隣家の下男と喧嘩をしたのだ。事の発端は些細なことであった。ロスタニョフの鶏が隣家の庭に入り込み隣家の下男がその鶏を追い出そうとして両者の間で口論となったのである。
  
=== 第103節 ===
+
隣家の地主が怒って文句を言いに来た。
  
+
——お宅の下男がうちの下男を殴った!
  
西関の外、城壁の根元に沿った地面はもともと官有地であった。その真ん中を歪み曲がった一本の細い道が通っていたが、それは近道をしようとする者たちが靴底で踏み固めてできたもので、しかし自然の境界となっていた。道の左側には死刑囚や獄死者が埋葬され、右側は貧者の合葬墓であった。どちらも幾重にも積み重なって埋葬され、さながら裕福な家の祝宴の折の饅頭のようであった。
+
——そりゃお宅の下男がうちの鶏を追い回したからだ!
  
この年の清明節はことのほか寒く、楊柳がようやく半粒の米ほどの新芽を吹き出したばかりであった。夜が明けて間もなく、華大媽はすでに右手の新しい墳の前に四皿の菜と一碗の飯を並べ、ひとしきり泣いた。紙銭を焼いた後、ぼんやりと地面に座っていた。何かを待っているかのようであったが、何を待っているのか自分でも言えなかった。微風が起こり、彼女の短い髪を揺らした。確かに去年よりずっと白くなっていた。
+
二人の地主は顔を赤くして怒鳴り合った。やがてロスタニョフは我慢できなくなり桜の木の長い煙管を掴んで相手に向かって突進した。隣家の地主は逃げた。ロスタニョフは追いかけた。二人は屋敷の周りを何度も走り回った。下男たちは口を開けて見物していた。
  
小道にまたもう一人の女が来た。やはり半白の髪で、襤褸の衣裙をまとい、破旧の朱漆の丸籠を提げ、紙錠を一連ぶら下げて、三歩ごとに休みながら歩いてきた。ふと華大媽が地面に座っているのを見て、いくぶんためらった。蒼白い顔に羞愧の色が浮かんだが、ついには意を決して左側の墳の前まで行き、籠を下ろした。
+
結局隣人は塀を乗り越えて自分の地所に逃げ込んだ。ロスタニョフは塀の前で立ち止まり息を切らしながら叫んだ。
  
その墳は小栓の墳と一列に並び、間には一本の小道があるのみであった。華大媽はその女が四皿の菜と一碗の飯を並べ、立ったままひとしきり泣き、紙錠を焼くのを見ていた。心の中でひそかに思った。「この墓の中のも息子なのだろう。」その老女は暫く彷徨い見回した後、突然手足が震え出し、よろよろと数歩退き、目を見開いてただ茫然としていた。
+
——二度と来るな!来たら今度こそ殴るぞ!
  
華大媽はその様を見て、悲しみのあまり発狂しかけるのではないかと恐れ、思わず立ち上がり、小道を越えて、低い声で語りかけた。「お婆さん、あまり悲しまないでください。——さあ、帰りましょう。」
+
チチコフはこの一部始終を窓から眺めていた。ため息をついた。この男から名簿を手に入れるのは思ったより難しいかもしれない。
  
その女はうなずいたが、目はなおも上を凝視し、同じく低い声でたどたどしく言った。「ご覧ください。——これは何でしょうね?」
+
しかしロスタニョフは屋敷に戻ると何事もなかったかのように言った。
  
華大媽はその指の先を追って見ると、視線は向こうの墳に至った。その墳の上は草の根がまだ覆い切れず、黄色い土がところどころ剥き出しで、見るに堪えなかった。さらに上の方をよく見ると、思わずぎくりとした。——明らかに紅白の花が一輪、あの尖った丸い墳の頂を囲んでいたのだ。
+
——さてどこまで話したかな?ああ名簿だ。探してみよう。
  
二人の目はもう何年も老眼であったが、この紅白の花はまだはっきりと見えた。花はそれほど多くはなく、丸く輪になって並び、あまり生き生きとはしていなかったが、整然としていた。華大媽は急いで自分の息子や他の墓を見たが、寒さに強い青白い小さな花が幾つかまばらに咲いているだけであった。すると心の中に突然一種の不足と空虚を感じ、深く追究する気にはなれなかった。あの老女はまた数歩近づき、子細に一巡り見てから、独り言を言った。「根がない、自然に咲いたのでもなさそうだ。——こんな所に誰が来るというのだろう? 子供が遊びに来るはずもない。——親戚もとうに来なくなった。——一体どういうことだろう?」考えに考えたが、突然また涙を流し、大声で言った——
+
そして部屋中をひっくり返し始めた。引き出しを開け棚を漁り床の上の紙の山を掻き分けた。
  
「瑜児よ、みんなお前に濡れ衣を着せたのに、お前はまだ忘れられず、悲しくてたまらず、今日わざわざ霊験を見せて、私に知らせようとしているのかい?」四方を見回すと、一羽の鴉が葉のない木の枝に止まっていたので、続けて言った。「分かったよ。——瑜児、可哀想に、あいつらがお前を陥れたが、いずれ報いを受けるのだ。天が知っているのだから。お前は目を閉じておいで。——もし本当にここにいて、私の言葉が聞こえるなら、——あの鴉をお前の墳の上に飛んで来させて、見せておくれ。」
+
=== 第171節 ===
  
微風はとうに止んでいた。枯草はまっすぐに立ち、銅線のようであった。かすかに震える声が空気の中でいよいよ細く、細くなり、ついに消え、あたりはすべて死のような静寂であった。二人は枯草の叢の中に立ち、仰いであの鴉を見つめた。鴉もまた真っ直ぐな枝の間で、首を縮め、鉄で鋳たように動かず止まっていた。
+
「彼は私に言ったのだお前は役立たずで自分の職務にふさわしくないと。しかも自分の同僚を告発したこともないと。他の検事は毎週告発文を書くのに俺は公文書一つ一つに『閲』の字を書くだけだ。もちろん報告を出す義務がある時にはそうするのだが。——私はまた一つの事件も故意に握りつぶしたことがない。」
  
長い時間が過ぎた。墓参りの人が次第に増え、老人や子供が土の墳の間を行き来した。
+
検事はすっかり意気消沈した。彼にはもう何も言うことがなかった。検事は本来善良な人間で正直な人間であった。しかしまさにその善良さと正直さのゆえに彼は検事としての任務を果たせなかったのだ。
  
華大媽はどうしたことか、まるで重い荷を下ろしたように感じ、帰ろうと思った。傍らの女に勧めて言った。「さあ、帰りましょう。」
+
チチコフは黙って聞いていた。検事の話には何か心に触れるものがあった。三十年間役所に行き書類に目を通し『閲』の字を書き家に帰る。それだけの生活。何も成し遂げず何も変えず何も告発せず——ただ存在しているだけの三十年間。
  
老女はため息をつき、元気なく菜や飯を片付けた。しばらくためらった後、ようやくゆっくりと歩き出した。口の中で独り言を言っていた。「一体どういうことだろう?……」
+
「あの木のようなものだ」検事は窓の外の枯れ木を指して言った。「立っているだけで何の実も結ばない。」
  
二人が二三十歩も行かぬうちに、背後で「ガア——」と一声大きな鳴き声がした。二人とも身を竦めて振り返ると、あの鴉が両翼を広げ、身を一ひねりして、遠くの天空に向かって矢のように飛び去るところであった。
+
チチコフは何と言えばいいか分からなかった。彼自身も正義や理想とは無縁の男であった。しかし検事の話には何か深い哀しみがあった。
  
(一九一九年四月。)
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Latest revision as of 14:00, 26 April 2026

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対訳: ZH-EN · ZH-DE · ZH-FR · ZH-ES · ZH-IT · ZH-RU · ZH-AR · ZH-HI · ZH-JA · ← 目次

薬 (药)

魯��� (ルーシュン, 1881-1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

どうすればよいのか?

この数日、華西理・彼得略也夫は前途に希望を失い、意気消沈し、まるで濃霧の中で暮らしているような有様であった。

三月革命が終結した春のある日、母親は威嚇するように言った:

「待っていなさい、待っていなさい、悪魔ども。きっとまた同志たちが互いに殺し合うことになる。」

ああ、華西理はその時どれほど激しく笑ったことか?

「お母さん、あなたは分かっていない……今となって、どこに分裂する理由があるというのです?」

「そうね、私は分からない」と母親は言った。「母親はもう年を取ってぼけてしまい、何も分からなくなった。あなたたちだけが、とても聡明なのね。……でも、見ていなさい、見ていればいいのよ……」

今、母親の言葉が的中した……みんなが互いに殺戮を始めたのだ。伊凡は白軍に入り、旧友の労働者たち──例えば亚庚──は赤軍に加わった。団結一致は破綻した。同じ精神、同じ境遇の兄弟たちが、皆別れて戦闘に参加していった。これは奇妙で起こりえないことであり、この恐怖を理解するだけの力はまだ足りなかった……

伊凡は去った。

その日、彼を見送った華西理は街頭に長い間立ち続け、遠くからの銃声を聞いていた。地面から立ち上る霧が、煙のように濃く地面を這い、身体に浸み込んで、人を震え上がらせた。労働者たちは隊列を組み、銃を担ぎ、腰に弾薬嚢をぶら下げ、足音高らかに向かっていったが、皆汚れたぼろぼろの服を着ていた。おそらく無駄に服を汚すのを避けるため、わざと一番悪い服を着たのであろう。

彼はこれらの落ちぶれた烏合の衆が、武装して街と文化を破壊しに行くのだと感じた。彼らは大声で話し、勝手に罵詈雑言を吐いた。

背が高く、赤みがかった疎らな髭を生やし、両頬のこけた労働者が、第一団に混じって通り過ぎた。華西理は彼を知っていた。彼のあだ名はルボンチハといい、プレスナ一帯で知られた酒飲みで、泥棒もする男で、どこでも冷遇され、労働者の仲間からも軽蔑されていた。しかし今ルボンチハは銃を担ぎ、傲然と通り過ぎて行った。華西理は思わず嘲笑の念を起こした。

「こんな者まで行くとは……」

しかしルボンチハと一緒に行くのは、他の労働者たち──ミロノフやシフコフもいて、彼らは誠実で信頼でき、世間の評判も良い真面目な人々であった。ミロノフが華西理に近づいてきた。

「同志彼得略也夫、なぜ我々と一緒に来ないのですか?ブルジョアを討ちに行きましょう。」

両手で銃を握り、精神旺盛な彼は、白い歯を見せて微笑んだ。

「いや、私は行かない」華西理は元気のない声で答えた。

「賛成しないのですか?それも構いません、それぞれ意見があるものです」ミロノフは調和的に言い、また静かに続けた:

「でも新しい新聞はありませんか?……我々のではなく、ボルシェヴィキのでもなく、あなた方の……ありますか?ください。」

華西理は黙って衣袋から昨日の新聞『労働』を取り出し、これをミロノフに渡した。

「ありがとうございます。我々の新聞には色々なことが載っていますが、真相はいつも分からないのです。理解できない……」

彼は新聞を受け取り、衣袋の中に押し込んだ。

華西理がよく見ると、彼の大きくて粗い手が、その新聞を素早く揉みくちゃにしていた。

「それでは、さようなら。将来どうなるか本当に分からない」彼は笑いながら、また雪のように白い歯をちらりと見せ、仲間を追って走って行った。

労働者たちが次々と通り過ぎた。彼らは時々歌を歌い、大声で話し、騒ぎ立てた。まるで国内戦争の結果として、自由放縦になったかのように、どんなに長い悪口を言っても全く差し支えないと思っているようであった。

十六七歳の徒弟労働者まで行き、しかもその人数が多く、特に人目を引く様子であった。

賢明な人々も愚かな人々も、ルボンチハの類もミロノフの類も、皆行った。

戦闘は激烈で、銃声が絶え間なく響いていた。

バリシャエ・プレスナの隅々に、多くの人々が集まっていた。店の前では、食料を買いに来た人々が列を作り、赤軍の一団は、これらの人々の中に消えていった。

華西理は家に帰った。

母親が門まで迎えに来たが、怒っていて、沈んだ顔をしていた。

「行ってしまったの?」彼女は息を切らして尋ねた。

「行ってしまった。」

母親は頭を垂れ、まるで足元の何かを見ているかのように、何も言わなかった。

「ああ」彼は語尾を伸ばし、黙って背中を丸め、そのまま門から離れ、急に小さく惨めな様子になった。

「今日もまた一日中泣いて過ごすことになるだろう」華西理は嘆息しながら思った。「玉にも瑕がある……」

華爾華拉が門まで走ってきた。彼女は一夜のうちに窪んでしまった、熱っぽく、探るような目で、華西理の顔を見つめた。

「亚庚を見なかった?」

「私は出かけていない。ただ兄を見送っただけで……」

「それでは、彼も行ったの?」

「行った……」

華爾華拉は立ち上がり、街道を見回した。

「私が行く」彼女はきっぱりと言った。

「どこへ?」華西理は尋ねた。

「亚庚を探しに行く。彼を家に引きずって帰って、頬を引っ叩いてやる。赤軍だなんて。憎たらしい子供。おかげで夜も眠れない。気が狂いそう……彼が……彼が……彼の姿がいつも目に浮かんで……」

華爾華拉はすすり泣き、袖で顔を覆った。

「亚克……亚庚謨式加、可哀想な……ああ、神様……彼はどこにいるの?」

「でもまず泣かないでください、きっと何事もないでしょう」華西理は慰めて言った:「どこかで宿泊しているのでしょう。」

しかしそれは力ない慰めで、自分でも不吉な予感を抱いていた。

「探しに行きましょう」華爾華拉は目を拭いて言った、「庫慈玛・華西理支肯が私と一緒に行ってくれる。きっと見つかるでしょう。」

華西理はこの機織女工を慰めるため、彼女と一緒に探しに行くことを承諾した。

一時間後、三人──外出を許さない妻と喧嘩をして、そのために不機嫌になったエスパリス、機織女工と華西理──はプレスナからサドヴァエ街へ向かった。街にはまだ多くの見物人がいたが、昨日と比べると、すでに減少していた。包みや箱、そして泣き叫ぶ子供たちを抱えたり背負ったりした行き場のない人々が、絶え間なく市街の中央から歩いてきた。

銃声はニキツキー門の近くで起こり、ブロンナエ街、ドヴェルスク並木道、ポヴァルスカエ街といった場所でも、各所の建物の遥か向こうで聞こえていた。エスパリスは至る所で兵士と武装した労働者の隊列を見ると、機織女工を慰めて言った:

「きっと見つかります、人は小さな針ではないのですから……そんなに焦る必要はありません。」

機織女工は嬉しくなり、精神を奮い立たせ、エスパリスを一瞥し、声を引き延ばして言った:

「神様、あなたは……」

彼女は武装した労働者の群れを一つ一つ回り、赤軍兵士亚庚・ロゾフを見なかったかと尋ねた。

「そうです、十六歳の子供なの。赤っぽい上着を着て、灰色の帽子をかぶった……どなたか見ませんでした?」

彼女は希望に満ちた目を見開き、彼らを見つめたが、どこでも答えは同じだった:

「どうして分かるでしょう?人が大勢いるのですから……」

時には逆に尋ねる人もいた:

「でも何のために彼を探しているのですか?」

すると機織女工は涙をこらえて話し始めた:

「私の息子なのです、たった一人の、まだ本当に小さな子供なので、心配で、命を落とすのではないかと恐れているのです。」

「ああ!でも、探すのは無駄です、きっと帰ってきます。」

心無く冗談を言う人も時にはいた:

「生きていれば、帰ってくるでしょう……」

機織女工は不満で、涙を流しながら一区画また一区画とただ前に歩き続け、沈鬱で役に立たないエスパリスは歩きながら慌てて周囲を振り返り、華西理がその後に続いた。

二三ヶ所の交通遮断区域では、彼らは通してもらえなかった。

「おい、どこへ行く?引き返せ!」兵士たちが彼女に叫んだ。「ここは通れない、撃ち殺されるぞ!」

三人は皆黙って立ち止まり、通行できる機会を待った。立ち止まった場所は、大抵街の角や隅で、これらの場所には、まるで池から湧き出る水のように、通行人や見物人が群れをなし、黙って立って、いかにも不満そうに兵士や赤軍の人々を見ていた。

ノヴィンスキー並木道に立っていた時、誰かが鋭い声で、彼らのそばで大声で叫んだ:

「手を上げろ!」

機織女工は驚いて振り返ると、小柄で、あばた面の兵士が叫んでいた:

「全員手を上げろ!」

群衆は動揺し、手を上げた。母親が七歳ほどの男の子を連れてどこかに行こうとしていたが、絹を裂くような大声で泣き出した。

「こっちへ来い、同志たち!」その兵士は銃を横に構えて叫んだ。「こっち、こっちだ……」

兵士と赤軍の人々が、各方面から駆けつけてきた。

「どうした?何だ?」

彼らは走りながら銃を構え、いつでも発砲できるよう準備した。群衆は恐れおののき、顔色が青白くなった。

「将校がここにいる、見ろ!」

兵士は言いながら、銃床で群衆に混じっている一人の男を指差した。他の兵士たちは厚いコートを着て、灰色の帽子をかぶった、青白い顔の男を車道に引きずり出した。エスパリスが見ると、そのコートを着た男の顔色は鉄青に変わり、口を尖らせていた。

あばた面の兵士がやって来て彼のコートを剥がした。

「これは何だ?見ろ!」

コートの下は将校の軍服で、長剣と拳銃が下がっていた。

「ふん?奴はどこに行くつもりだ?」兵士は憤然として尋ねた。「閣下、あなたはどちらへ?」将校は不自然な笑いを浮かべた。

「ちょっと待ってください、そんなに慌てないでください。私は家に帰るのです。」

「ほう?家に?我々がちょうどお前たちを捕まえようとしているのに、家に帰る!クレムリンへ、白軍へ行くつもりだろう。我々は知っている。証明書を出して見せろ。」

将校が一枚の紙片を取り出すと、そのあばた面の兵士はさらに暴怒した:

「拳銃を外せ!剣を渡せ!」

「ちょっと待て、どういう理由だ?」

「ふん、理由?外せ!犬野郎!……撃ち殺すぞ!」兵士は茱萸のように赤くなって、怒鳴った。

将校は顔色を変え、神経質に激怒したが、彼を取り囲んだ兵士たちは、突然彼の両手を掴んだ。

「はっ、抵抗するつもりか?同志たち、下がれ!」

あばた面の兵士は一歩退き、同時に銃を将校の頭に突きつけた……誰も──群衆も、兵士たちも、将校自身も──動く間もないうちに、銃声が響き、将校は前によろめき、また後ろに下がり、すぐに地面に倒れ、ぴくりとも震えず、動きもしなかった。頭からどくどくと鮮血が流れ出した。

「ああ、神様!」群衆の中で誰かが鋭い声を発すると、皆が指揮を受けたかのように、一斉に駆け出した。最前面では長身のエスパリスが走り、後ろでまた数発の銃声が響いた。兵士たちは大声で叫び、逃げる群衆を止めようとしたが、群衆はそれでも行ってしまった。機織女工は嘆息し、息を切らしながら、華西理と一直線に動物園まで駆けた。

第2節

(M.Malpighi)等の精密な器官の理を究めたが、工業は従来のままであり、交通も未だ良好ならず、鉱業も進歩するところがなく、ただ機械学の結果として、極めて粗末な時計を見るのみであった。十八世紀中葉に至り、英仏独伊諸国の科学者が輩出し、物理学・生物学・地学の進歩は燦然として観るべきものがあったが、社会を福利する所以が如何なるものかについては、論者はなお答えに窮していた。醸成が久しくして後、実益が明らかとなり、同世紀末葉に当たって、その効果は俄かに大いに著れ、工業の機械器具・資材、植物の繁殖栽培、動物の畜牧改良に至るまで、科学の恩沢を蒙らぬものはなく、いわゆる十九世紀の物質文明も、すなわちこの時に胚胎したのである。洪波浩然として、精神もまた振起し、国民の風気もそれによって一新された。しかし科学を修める傑士たちは、これに心を奪われることはなかった。前述の通り、ただ真理を知ることのみを唯一の目的とし、脳海の波瀾を拡大し、学区の荒蕪を掃い去って、その身心と時力を挙げて、日々自然の大法を探究するのみであった。その時の科学名家は皆このようであり、侯失勒(J.Herschel)および拉布拉(S.de Laplace)の天文学における業績、扬俱(Th.Young)および弗勒那尔(A.Fresnel)の光学、欧思第德(H.C.Oersted)の力学、兰麻克(J.de Lamarck)の生物学、迭亢陀耳(A.de Candolle)の植物学、威那(A.G.Werner)の鉱物学、哈敦(J.Hutton)の地学、瓦特(J.Watt)の機械学などは、その殊に著しいものである。その目的とするところを考察してみれば、どうして実利にあろうか。しかし防火灯は作られ、蒸気機関は出現し、鉱業技術は興った。ところが社会の耳目は、ひとりこの点に驚震し、日々目前の結果を称賛するばかりで、学者に対しては恝然として顧みない。結果と原因を取り違えること、これに甚だしいものはない。これで進歩を求めようとは、馬の手綱を打って鞭打つのと何ら異ならず、どうして期待通りになろうか。ただ科学のみが実業を生むことができ、実業が更に科学に利益をもたらさないなどと言うなら、人々が皆科学の栄光を慕うのとは異なる。社会の事は繁雑で、分業の必要が起こり、人は自ずから専門を持たざるを得ず、相互に援助し合って、両者とも進歩する。故に実業が科学から恩恵を受けることは固より多いが、科学が実業の助力を得ることも決して少なくない。今試しに野人の中に身を置いてみれば、顕微鏡や天秤は言うまでもなく、純粋なアルコールやガラスすらも得ることができず、科学者はどうすればよいのか、ただその思理を運用するのみである。思理が孤立して運用されれば、これがアテネおよびアレクサンドリア学府の科学が中衰した所以である。事は多く悲喜を共にするものだというのも、確かに真実の言葉である。

故に他国の強大に震え、栗然として自ら危機を感じ、興業振兵の説が日々口に上る者は、外見は既に覚醒したかのようであるが、その実を按ずれば、ただ目前の物事に眩惑されているだけで、その真諦を得ていない。そもそも欧人の来訪で最も人を眩惑させるものは、固より前述の二事に如くものはないが、しかしこれとて根本ではなくて特別な花葉に過ぎない。その根源を尋ねれば、深くて底極がなく、一隅の学問で何の力になろうか。ここで著者が言うのは、人は必ず科学を先務とし、その結果の成就を待って、初めて振兵興業せよということではない。特に進歩には順序があり、蔓延には源があることを信じ、挙国ただ枝葉のみを求めて、一二の士も其の本を尋ねる者がなければ、源のある者は日々成長し、末を追う者は相変わらず停滞するであろうことを憂慮するのである。今の世に居て、古と同じではなく、実利を尊ぶのも可、方術を模倣するのも可であるが、大潮に漂泊されることなく、屹然として横流に当たり、古の賢人のように、将来の佳果を今此に播き、有根の福祉を宗国に移すことのできる者もまた、社会に要求せざるを得ず、且つまた当に社会が要求すべき者である。丁達尔は言っていないか。ただ外物に着目し、或いは政事の感情のみで、諸事の真実を誤る者は、常に邦国の安危は一に政治の思想にかかると謂うが、至公の歴史は、その然らざることを立証している。そもそもフランスが今日あるのは、どうして他の原因があろうか。特に科学の長によって、他国に勝ったのみである。千七百九十二年の変では、全欧が嚣然として、干戈を争って執りフランス国を攻め、連合軍がその外を窺い、内訌が中に興り、武庫は空虚となり、戦士は多く死に、既に疲卒をもって鋭兵に当てることができず、また糧食もなくて守備を済ませる者もなく、武人は剣を撫でて太空を視、政家は涙を飲んで来日を悲しみ、束手して恨みを銜み、天運を俟つばかりであった。そしてその時その国人を振作させた者は何人か。その外敵を震怖させた者はまた何人か。曰く、科学である。その時の学者は、皆その心力を尽くし、その智能を竭し、兵士が不足すれば発明で補い、武具が不足すれば発明で補い、防守の際には、即ち科学者が在ることを知り、その後の戦勝は必然であった。しかしこれでもなお丁達尔が自ら科学を修めるが故に、阿諛好みによって立言したと言えるであろうが、しかしアロ戈の載せる書を証拠とすれば、その妄でないことが益々明らかになる。書に記されていることには、時の公会は九十万人を徴集した。蓋し外敵の四集に御するためで、実にこれでなくては勝ち用いることができなかったのである。ところが人数は足りず、衆は大いに懼れた。加えて武庫は久しく空で、戦備は不足し、故に目前の急は、人力では救うことのできないものがあった。蓋しその時必要なものは、まず弾薬であったが、原料の硝石は、昔はすべてインドから来ていたので、この時遂に窮した。次に銃砲であったが、フランス地は銅の産出が多くなく、必ずロシア・イギリス・インドの給与に仰いでいたが、今またこれも絶えた。三に鋼鉄であったが、しかし平日もまた外国から取っていて、製造の術を知る者はなかった。そこで最後の策を行い、通国の学者を集めて、会議を開いた。その最も要で最も得難いものは火薬であった。政府使者は皆成すことができないことを知り、嘆いて曰く、硝石は安んぞ在らん。声未だ絶えざるに、学者孟耆が即ち起って曰く、之れ有り。適当の地に至れば、馬廐・土倉の中の如き、硝石無量に有り、汝の夢想だも到らざる者なり。氏は天才を禀け、知識を加え、愛国は至誠より出で、乃ち阖室を睥睨して曰く、吾能くその土を集めて之を為さん、三日を越えず、火薬就かん。そこで至簡の法をもって、国中に晓諭し、老弱婦稚、悉く製造することができ、俄頃の間に全フランス国は大工場の如くなった。この外に物理学家があって、法化でもって銅を分解し、用いて武器を作り、製鉄の新法もまたこの時に始まり、凡そ刀剣銃械を鋳造するに、国産を用いて不可なきはなかった。なめし皮の術もまた日を経ずして竟に成り、履を制する革、因って匱乏しなかった。その時称されるところの奇なる気球および空気中の電報も、皆改良拡張され、之を争戦に用い、前者は即ちモロー将軍がこれに乗って敵陣を探り、その情実を得て、因って殊勝を制した者である。丁達尔は乃ち論じて曰く、フランスはその時、実に二物を生じた、曰く科学と愛国と。その至って有力なる者は、孟耆(Monge)とガルノー(Carnot)であり、有力なる者に与するは、フルクロア、ムーレウィ、およびバレ・クリ等の徒である。大業の成就は、これがその枢紐である。故に科学は、神聖の光であり、世界を照らす者であり、末流を遏して感動を生むことができる。時が泰平であれば、これは人性の光となり、時が危険であれば、その霊感によって、ガルノーの如き整理者を生み、ナポレオンの戦将よりも強い強者を生む云々。今試しに前例を総観すれば、本根の要は、洞然として知ることができる。蓋し末もまた一時は燦爛たり得るが、宅する所が堅固でなく、頃刻にして蕉萃し得る、初めに能を蓄えて、始めて長久なるのである。しかしなお忽すべからざる者があり、社会が偏に陥り、日々趨いて一極に之き、精神を漸く失えば、破滅もまたこれに随うことを防がねばならない。蓋し世を挙げてただ知識のみを崇拝すれば、人生は必ず大いに枯寂に帰し、是の如く既に久しければ、美上の感情は薄れ、明敏の思想は失われ、いわゆる科学もまた同じく無有に趣くのである。故に人群の当に希冀要求すべき者は、ただニュートンのみではなく、また詩人如きシェークスピア(Shakespeare)をも希望し、ただボイルのみでなく、また画師如きラファエロ(Raphaelo)をも希望し、既にカントあれば、また楽人如きベートーヴェン(Beethoven)も必要であり、既にダーウィンあれば、また文人如きカーライル(Carlyle)も必要である。凡そこれらの者は、皆人性を全からしめ、之を偏倚させず、因って今日の文明を見る所以である。嗟乎、彼の人文史実の垂示する所は、固よりかくの如きなり。

(一九〇七年作。)

【文化偏至論】

中国が既に自尊大をもって天下に昭聞し、善く誹る者は、或いはこれを頑固と謂い、且つ将に残闕を抱守して、以って滅亡に底らんとすと言う。近世の人士は、稍々新学の語を耳にすれば、則ちまたこれを以って愧となし、翻然として変を思い、言は西方の理に同じきに非ざれば道わず、事は西方の術に合わざれば行わず、旧物を掊撃し、力を尽くさざることを恐れ、曰く将に以って前の謬を革めて富強を図らんとするなり。間嘗てこれを論ず。昔者帝軒轅氏の蚩尤を戡って華土に定居するや、典章文物、これを以って権輿となし、苗裔の繁衍すること兹に於いてあれば、則ち更に改張皇して、益々美大に臻る。その四方に蠢蠢たる者は、胥に蕞爾たる小蛮夷のみ、厥の種の創成する所、一として中国の法と為すに足る無く、是の故に化成発達、咸く己に出でて人に取る無し。周秦に降り及んで、西方に希臘羅馬起こり、芸文思理、燦然として観るべきも、道路の艱、波涛の悪を以って、交通梗塞し、未だその善なる者を択んで以って師資と為すこと能わず。元明の時に洎んで、一二の景教父師ありといえども、教理および暦算質学を以って中国に干するも、而してその道盛んならず。故に海禁既に開き、晰人踵いで至るの頃に迄んで、中国の天下に在る、夫れ四夷の上国に則效し、革面して来賓する者あることを見る。或いは野心怒発し、狡えんして逞しくせんと思う者あり。その文化昭明にして、誠に以って相上下するに足る者の如きは、蓋し未だ之れ有らざるなり。屹然として中央に出でて校讐無く、則ちその益々自尊大し、自ら有るを宝として万物を傲睨するは、固より人情の宜しく然るべき所にして、また甚だしく理極に背くに非ざる者なり。然りといえども、ただ校讐無き故に、則ち宴安日久しく、苓落以って胎し、迫拶来らず、上征もまた辍み、人をして、人をして屯ならしめ、その極は善を見ても式るを思わざるに至る。新国林として西に起こり、その殊異の方術を以って来向し、一たび吹拂を施せば、塊然として踣僵し、人心始めて自ら危く、而して辁才小慧の徒、ここに於いて競いて武事を言う。後に殊域に学ぶ者あり、近くは中国の情を知らず、遠く復た欧美の実を察せず、拾う所の塵芥を以って、人前に羅列し、鈎爪鋸牙を謂いて、国家の首事と為し、また文明の語を引きて、用いて自ら文とし、印度波蘭を徴して、之を前鑑と作す。夫れ力を以って盈縮を角すは、文野においてまた何の関わりあらん。遠くは則ちローマの東西ゴートに於ける、近くは則ち中国の蒙古女真に於ける、この程度の離距は何如なるか、之を決するに智者を待たず。然るにその勝負の数は、果して奈何せん。苟くも曰く是れはただ往古のみ然りとし、今は則ち機械その先なり、力を以って取るに非ず、故に勝負の判ずる所、即ち文野の由って分かるる所なりと。則ち何ぞ人の智を啓いて其の性霊を開発し、罟獲戈矛を知らしめ、ただ以って豺虎を御するのみにして、喋々として白人の肉攫の心を誉めて、以って世界の文明を極むる者と為すこと又何ぞや。且つその言の如くならしめるも、而して挙国なお孱にして、之に巨兵を授けるとも、奚んぞ能く勝任し、仍って僵死あるのみ。嗟夫、夫子は蓋し兵事を習うを以って生と為すが故に、根本の図をせず、而してただ学ぶ所を提げて以って天下に干す。兜牟深くその面を隠し、威武として陵すべからざるが若きも、而して干禄の色は、固より灼然として外に現わる。其の次を計るは、乃ち復た製造商估立憲国会の説あり。前の二者は素より中国青年間に重んぜられ見ゆ、主張せざるも、之を治むる者もまた缕数すべからざるに将たん。蓋し国もし一日存すれば、固より以って力を仮りて富強を図るの名を仮り、志士の誉を博するに足り、即ち不幸ありとも、宗社墟と為るも、而して広く金資あり、大いに能く温饱し、即ち怙恃既に失うも、或いは虐殺を被ること猶太遺黎の如きも、然るに善く自ら退蔵し、或いは身に受くるに至らず。縦い大禍及ばんとするも、而して幸免する者人無きに非ず、其の人又適々己と為せば、則ち能く温飽を得ること又故の如し。夫の後の二の若きは、論ずるに足らず。中の比較的善なる者は、或いは誠に外侮の迭来を痛み、終日たり得ずして、自ら既に荒陋なれば、則ち已むを得ずして、姑く他人の緒余を拾い、大群を鳩めて以って抗御せんと思うも、而して又其の性を飛揚し、善く能く攘擾し、異己の者の興るを見れば、必ず衆を借りて以って寡を陵ぎ、衆治と託言し、圧制乃ち尤も暴君より烈し。此れは独り理に至って悖るのみならず、即ち救国を縁として図し、個人を以って供献と為すことを惜しまざるも、而して考索未だ精ならず、思慮粗疏にして、茫として未だ其の然る所以を識らず、輒ち衆志に皈依するは、蓋し痼疾の人が、薬石摂衛の道を講ぜず去りて、而して不知の力に霊を乞い、祝由の門に拝祷稽首する者と無殊なり。尤も下にして多数に居る者に至りては、乃ち是の空名を假るに過ぎず、其の私欲を遂げ、実事に見わるるを顧みず、事権言議を将て、悉く奔走干進の徒に帰し、或いは至愚屯の富人に至り、否らざれば亦善く壟断する市侩なり、特に自ら営搰を長ぜしめんが為に、当に其の班に列すべく、況んや復た自利の悪名を掩い、群を福するの令誉を以ってし、捷径目に在り、斯に竭蹶して以って之を求むることを憚らざるのみ。嗚呼、古の民に臨む者は、一独夫なり。今の道に由れば、且つ頓変して千万無頼の尤と為らん、民命に堪えず、興国において究んぞ何の与あらん。若くの如き人の者の、其の号召張皇に当たりて、蔑として近世文明を托して後盾と為さざるは弗く、其の説に佛戾する者起これば、輒ち之を謚して野人と曰い、謂いて辱国害群、罪当に流放より甚だしかるべしと為す。第だ知らず彼の謂う所の文明なる者は、将に已に準則を立て、慎んで施取し、善美を指して中国に行う可きの文明を為すか、抑々成事旧章、咸く棄捐して顧みず、独り西方文化を指して言を為すか。物質なり、衆数なり、十九世紀末葉文明の一面或いは茲に在るも、而して論者以って当有りと為さず。蓋し今の成就する所、一として前時の遺跡を縄せざるは無く、則ち文明は必ず日々其の遷流あり、又或いは往代の大潮に抗すれば、則ち文明も亦た偏至なきこと能わず。誠に今の為に計を立つるが若くば、当に既往を稽求し、方来を相度し、物質を掊ちて霊明を張り、個人に任じて衆数を排すべし。人既に発揚踔厲すれば、則ち邦国も亦た以って興起す。奚んぞ事ありて枝を抱き葉を拾い、徒らに金鉄国会立憲の云うを為さん。夫れ勢利の念中に昌狂すれば、則ち是非の弁之が為に昧く、措置張主、輒ち其の宜を失う、況んや志行汚下にして、将に新文明の名を借りて、以って大いに其の私欲を遂げんとする者をや。是の故に今謂う所の時を識るの彦は、其の実を按ずれば、則ち多数は常に盲子と為り、赤菽を宝として以って玄珠と為し、少数は乃ち巨奸と為り、微餌を垂れて以って鯨鯢を冀う。即ち是の若くならざるも、中心皆中正にして瑕玷無しとするも、是に於いて拮据辛苦し、其の雄才を展べ、漸く乃ち志遂げ事成り、終に彼の謂う所の新文明なる者を致し、挙げて之を中国に納るるも、而して此の遷流偏至の物、已に殊方に陳旧なる者を、馨香頂礼す、吾れ又何為れぞ是の若く其れ芒芒たる。是れ何ぞや。曰く物質なり、衆数なり、其の道偏至す。史実に根ざして西方に見ゆる者は已むを得ざるも、横取して之を中国に施すは則ち非なり。借りに非と曰わんか。請う其の本に循え——

第3節

そもそも世紀の元は、イエスの出世に始まり、歴年すでに百となり、これを一期とするが、大事が起これば、すなわちこの世紀の所有事となる。けだし従来の旧慣により、これを仮に区分の理由とするのであって、奥義はない。誠に人事は連綿として、深く本根があり、流水が必ず原泉より発し、草木が根から芽ぐむように、忽然と隠見することは、理の必ずないところである。故にもしその条理本末を尋ねれば、大抵は蝉聯して離すことができず、いわゆるある世紀の文明の特色がどこにあるかというのは、ただ荦荦たる大なるものを挙げて言うのみである。史実に照らせば、ローマが欧州を統一して以来、はじめて大洲共通の歴史が生まれた。やがて教皇がその権力をもって全欧を制御し、列国をしてみな圏内に従わせ、社会のごとくし、疆域の判別は一区に等しくした。さらに人心を桎梏し、思想の自由はほとんど絶え、聡明英特の士といえども、新理を摘発し、新見を懐抱しても、教令に束縛され、みな緘口結舌して敢えて言わなかった。しかしながら、民は大波のごとく、阻まれればますます浩大となり、そこではじめて宗教の系縛を脱することを思い、英独二国には不平なる者が多く、法皇宮廷は実に怨府となり、また意大利に居るをもって、すなわち意大利人をも併せて憎んだ。林林たる民は、みな不平なる者に同情を寄せ、すべて教旨を阻泥し、法皇に抗拒する者があれば、是非を問わず、すぐに賛同した。時にルター(M.Luther)という者がドイツに起こり、宗教の根元は信仰にあり、制度戒法はみなその栄華であると謂い、力をもって旧教を撃ってこれを倒した。自らの創建したところは、階級を廃棄し、法皇僧正の諸号を黜けて、これに代えるに牧師をもってし、神命を宣布することを職とし、社会に身を置いて常人と殊ならず、儀式祈祷もまたその法を簡にした。精神の注ぐところでは、牧師の地位は平人に勝るところがないとした。転輪いったん始まり、烈栗は欧州に遍く、その改革を受けたのは、けだし独り宗教のみならず、かつ他の人事に波及し、邦国の離合、争戦の原因、後のこの大変は、多くこれに基づいている。束縛が弛落し、思索が自由になったことに加え、社会は新色を有さないものはなく、そこでその後の超形而上学上の発見と、形而上学上の発明があった。これを胚胎として、また新事をなした。隠れたる地を発し、機械を善くし、学芸を展べて貿遷を拓くのも、羈勒を去って人心を縦にするのでなければ、これはなかった。顧みれば世事の常として、動はあっても定はなく、宗教の改革が済むと、自ずから必ず益々進んで政治の更張を求めるようになった。その由来を溯れば、往者が法皇を顛覆したのは、一に君主の権力を仮り、変革がいったん終わると、その力すなわち張り、一意をもって万民に孤臨し、下の者はこれを抑制することができず、日夕孳孳として、ただ封域を開拓することのみを務とし、民を駆って水火に納れ、まったく心に動くところがなかった。生計は窘迫し、人力は消耗した。しかし物は窮に反し、民意ついに動き、革命はここに英国に見え、続いて米国に起こり、復次に大いにフランスに起こって、門第を掃蕩し、尊卑を平一にし、政治の権は百姓を主とし、平等自由の念、社会民主の思が人心に弥漫した。流風今に至るまで、すべて社会政治経済上一切の権利は、義として必ずことごとく衆人に公し、風俗習慣道德宗教趣味好尚言語および其の他の為作も、みな上下賢不肖の間を去り、大いに無差別に帰することを欲している。同じき者は是、独なる者は非とし、多数をもって天下に臨んで独特なる者を暴虐するのは、実に十九世紀の大潮の一派であり、かつ曼衍して今に入りてまだ已むところがないものである。さらにその他を挙げれば、物質文明の進歩がこれである。旧教の盛んな時、威力は絶世で、学者は見があっても、大率沈黙し、その毅然として衆に表白する者は、しばしば囚戮の禍を獲た。教力が地に堕ちるに及んで、思想が自由になり、すべて百学術の事は、勃然として興起し、学理が用をなし、実益ついに生じ、故に十九世紀に至って、物質文明の盛んなること、直ちに前此二千余年の業績を傲睨した。その著なる者を数えれば、すなわち棉鉄石炭の属があり、産生は旧に倍し、応用は多方で、これを戦闘製造交通に施せば、みな往日に功越している。汽となり電となり、みな指揮に聴き、世界の情状は頓に更わり、人民の事業はますます利となった。久しくその賜を食み、信はすなわちいよいよ堅く、漸くしてこれを奉じて圭臬とし、あたかも一切存在の本根を視るがごとく、かつまさにこれをもって精神界の所有事を範囲せんとし、現実生活に膠着して移すべからず、ただこれを尊び、ただこれを尚ぶのは、これもまた十九世紀の大潮の一派であり、かつ曼衍して今に入りてまだ已むところがないものである。しかしながら、教権が龐大であれば、すなわちこれを覆すのに帝王に仮手し、大権がことごとく一人に集まれば、すなわちまたこれを顛すのに衆庶をもってした。理は衆庶に極まったかのようであるが、しかし衆庶は果たして是非の端を極めるに足りるであろうか。宴安法を逾えれば、すなわちこれを矯むるに教宗をもってし、教宗がその権威を淫用すれば、すなわちまたこれを掊つのに質力をもってした。事は物質に尽きたかのようであるが、しかし物質は果たして人生の本を尽くすに足りるであろうか。平らかに思うに、必ずしからずである。しかして大勢がこのようであるのは、けだし前言のごとく、文明は旧跡に根ざして演来しないものはなく、またもって往事を矯めて偏至を生じ、督を縁として校量すれば、その頗る灼然たるは、なお跛行や片足のごときのみである。ただそのヨーロッパに見えるところは、已むを得ざるものであり、かつまた去るべからず、跛行や片足を去れば、すなわち跛行や片足の德を失い、而して留まる者は空無である。安んじて宝重を受ける者をいかんせん。顧みれば横に相関係のない中國にこれを被らせてこれを膜拜するのは、また寧ろその当があるを見んや。明者は微睇し、察は衆凡を逾え、大士哲人は、すなわち早くその弊を識って憤嘆を生じ、これ十九世紀末葉思潮の変ずる所以である。ドイツ人ニーチェ(Fr.Nietzsche)氏は、すなわちツァラトゥストラ(Zarathustra)の言を仮りて曰く、吾行くこと太だ遠く、孑然としてその侶を失い、返りて今の世を観るに、文明の邦国なり、斑爛たる社会なり。ただその社会たるや、確固たる崇信なく、衆庶の知識に於けるや、作始の性質なし。邦国かくのごとくんば、奚ぞ能く淹留せん。吾父母の邦に放たれたるを見る。聊か望むべき者は、独り苗裔のみ、と。これその深思遐瞩、近世文明の偽と偏とを見、また今の人に望むところなく、已むを得ずして来葉を念う者である。

然らば十九世紀末思想の変ずるや、その原は安くにあり、その実はいかん、その力の将来に及ぶやまたいかん。曰く、その本質を言えば、すなわち十九世紀文明を矯めて起こる者のみ。けだし五十年来、人智ますます進み、漸くすなわち前此を返観し、その通弊を得、その黮暗を察し、ここに於いて浡然として興作し、会して大潮となり、反動破壊をもってその精神に充て、新生を獲ることをその希望とし、専ら旧有の文明に向かって、これに掊撃掃蕩を加えている。全欧人士、これがために栗然震驚する者あり、芒然自失する者あり、その力の烈なるは、けだし深く人の霊府に入っている。しかしその根柢は、すなわち遠く十九世紀初葉の神思一派にあり。その後葉に及んで、感化を其の時の現実の精神に受け、やがて更に新形を立て、起こって前時の現実に抗し、すなわちいわゆる神思宗の至新なる者である。その影響に至っては、すなわち眇眇たる来世で、臆測ははなはだ難しいが、ただこの派の興るは、決して突見して人心を靡かすものでもなく、また突滅して烏有に帰するに至らず、地を占むることきわめて固く、義を函むことはなはだ深い。これをもって二十世紀文化の始基とするのは、云うは早計といえども、しかしそれが将来新思想の朕兆であり、また新生活の先駆であることは、すなわち史実の昭垂するところに按じて、繁言を俟たずして解しうるものである。顧みれば新者は作といえども、旧もまだ僵せず、方に欧州に遍満し、冥にその地の人民の呼吸に通じ、余力流衍して、すなわち遠東を擾し、中國の人をして、旧夢より新夢に入らしめ、冲決嚣叫して、状は狂酲のごとし。それ方に古を賤しんで新を尊びながら、所得はすでに新でもなく、また至偏にして至偽であり、かつまた横決して、浩として収めがたく、すなわち一国の悲哀もまた大である。今この篇を為すのは、すでに西方最近思想の全を尽くしたと云うのでもなく、また中國将来のために則を立てるのでもなく、ただその已甚を疾み、これに抨弾を施し、なお神思新宗の意のごときのみである。故に述ぶるところは二事に止まる。曰く非物質、曰く重個人。

個人という一語が、中國に入りて未だ三四年、号して時を識ると称する士は、多くこれを引いて大詬となし、もしその謚を被れば、民賊と同じである。意うに未だ深知明察に遑あらず、而して迷誤して人を害し己を利するの義となすか。その実を夷考するに、至ってしからずである。而して十九世紀末の個人を重んずるは、すなわち弔詭にして恒と殊なり、なおさら往者と比論することができない。試みに爾時の人性を案ずるに、みな絶えてその前と異なり、自識に入り、我執に趣き、剛愎主己にして、庸俗に顧忌するところがない。詩歌説部の記述するところのごとく、毎々驕蹇不遜なる者をもって全局の主人となす。これは操觚の士が、独り神思に憑って構架してしからしむるのではなく、社会思潮が、先にその朕を発し、すなわちこれを載籍に移すのみである。けだしフランス大革命以来、平等自由を、凡事の首となし、続いて普通教育及び国民教育は、みなこれを基として遍施せざるはない。久しく文化に浴すれば、すなわち漸く人類の尊厳を悟り、すでに自我を知れば、すなわち頓に個性の価値を識る。もって往の習慣の墜地し、崇信の蕩搖するに加われば、すなわちその自覚の精神は、自ら一転して極端の主我に之く。かつ社会民主の傾向も、勢いまた大いに張り、すべて個人なる者は、すなわち社会の一分子で、夷隆実陷がこれ指帰となり、天下の人人をして一致に帰らしめ、社会の内に、蕩として高卑なからしむ。これその理想たることは誠に美であるが、顧みれば個人殊特の性に於いては、これを視ること蔑如として、すでにこれに別分を加えず、かつこれを滅絶に致さんと欲している。さらに黮暗を挙ぐれば、すなわち流弊の至るところ、まさに文化の純粋なる者をして、精神ますます固陋に趨らせ、頽波日に逝き、纖屑も存せざらしめんとしている。けだしいわゆる社会を平らかにする者は、大都峻を夷らげて卑を湮めず、もし信じて程度大同に至らば、必ず前此の進歩水平以下にある。況や人群の内には、明哲は多からず、伧俗横行して、浩として御すべからず、風潮剥蝕して、全体もって凡庸に淪す。塵埃を超越し、人事を解脱するか、或いは愚屯罔識にして、ただ衆に是従する者でなければ、その能く緘口して無言なるか。物極に反すれば、すなわち先覚善斗の士出ず。ドイツ人シュティルナー(M.Stirner)すなわち先に極端の個人主義をもって世に現る。謂らく真の進歩は、己の足下にあり。人は必ず自性を発揮して、観念世界の執持を脱せよ。ただこの自性のみが、すなわち造物主である。ただこの我あるのみが、本属自由である。すでに本有であって、而して更に外求するは、これ矛盾と曰う。自由は力をもって得、而して力はすなわち個人にあり、また資財であり、また権利である。故にもし外力来被あれば、すなわち寡人より出づるを間わず、或いは衆庶より出づるも、みな専制である。国家は吾まさに国民とその意志を合すべしと謂うも、また一専制である。衆意は法律として表現し、吾すなわちその束縛を受く、たとい我がための輿台と曰うも、顧みれば同じくこれ輿台のみ。これを去るはいかん。曰く、義務を絶つにあり。義務廃絶して、而して法律もまた偕に亡ぶ、と。意はけだしすべて一個人は、その思想行為は、必ず己を中枢とし、また己を終極とする、すなわち我性を立てて絶対の自由となす者である。ショーペンハウアー(A.Schopenhauer)に至っては、すなわち自ら既に兀傲剛愎をもって名あり、言行奇觚にして、世に希有であり、また盲瞽鄙倍の衆の、両間に充塞するを見て、すなわちこれを視ること至劣の動物と並等とし、ますます主我扬己して天才を尊ぶ。デンマークの哲人キルケゴール(S.Kierkegaard)に至ってはすなわち憤発疾呼し、謂らくただ個性を発揮するのみが、至高の道德であり、而して他事を顧瞻するは、みな無益である、と。その後に文界に見ゆる顕理イプセン(Henrik Ibsen)は、瑰才卓識、キルケゴールの詮釈者をもって称す。その著すところの書は、往々社会民主の傾向に反し、精力旁注すれば、すなわち習慣信仰道德を間わず、もし虚に拘って偏至なる者あれば、みなこれに抵排を加えざるはない。更に近世人生を睹るに、毎々平等の名を託し、実はすなわちますます悪濁に趨り、庸凡涼薄は、日にますます深く、頑愚の道行われ、偽詐の勢逞しくして、而して気宇品性卓爾不群の士は、すなわち反って草莽に窮し、泥塗に辱められ、個性の尊厳、人類の価値は、まさにことごとく無有に帰せんとし、すなわち常に慷慨激昂して自ら已むことができない。その『民敵』一書のごとき、謂らく人あり真理を宝守し、世に阿せず俗に媚びず、而して人群に容れられず、狡狯の徒は、すなわち巍然として独り衆愚の領袖となり、多を借りて寡を陵ぎ、党を植えて自私し、ここに於いて戦闘もって興り、而してその書もまた止む。社会の象は、宛然としてここに具わっている。ニーチェのごときに至っては、これ個人主義の至雄桀なる者で、希望の寄するところは、ただ大士天才にあり、而して愚民を本位とするのは、すなわちこれを悪むこと蛇蝎に殊ならず。意はけだし謂らく治を多数に任ずれば、すなわち社会の元気は、一旦隳るべく、庸衆を犠牲に用いて、以って一二天才の出世を冀うに若かず、天才出でて社会の活動もまたもって萌ゆ、すなわちいわゆる超人の説で、嘗て欧州の思想界を震驚せしめたる者である。これによりてこれを観れば、彼の衆数を謳歌し、神明のごとく奉ずる者は、けだし僅かに光明の一端を見て、他は未だ遍く知らず、因りて賛頌を加え、もし反ってこれを諸黑暗に観せば、まさに立ちどころにその然らざるを悟るべきである。一のソクラテスを、而して衆のギリシア人これに毒を飲ませ、一のイエス・キリストを、而して衆のユダヤ人これを磔にし、後世の論者は、孰れも謬と云わざるはないが、顧みればその時はすなわち衆志に従うのみであった。もし今の衆志を留めて、これを載籍に移し、以って来哲の評骘を俟てば、すなわちその是非倒置は、或いは正に今人の往古を視るがごとく、未だ知るべからざるものある。故に多数相朋して、而して仁義の途、是非の端は、樊然として淆乱し、ただ常言のみがこれ解で、奧義に於いては漠然である。常言と奧義と、孰れか正に近き。是の故にブルータス既にシーザーを殺し、市人に昭告するに、その詞は秩然として条あり、名分大義は、炳として火を観るがごとし。而して衆の感を受くるは、すなわちアントニーが血衣を指すの数言に如かず。ここに於いて方に群推して愛国の偉人となし、忽ち域外に逐わるるを見る。それ誉むる者は衆数であり、逐う者もまた衆数であり、一瞬息の中に、変易反復し、その特操なきこと言を俟たず、すなわち現象を観るのみで、已に不祥の消息を知るに足る。故に是非は衆に公すべからず、これを公すればすなわち果して誠ならず。政事は衆に公すべからず、これを公すればすなわち治郅せず。ただ超人出でて、世すなわち太平なり。もしできなければ、すなわち英哲にあり。嗟夫、彼の無政府主義を持する者は、その顛覆満盈、階級鏟除も、また已に至極で、而して建説創業の諸雄は、大都導師を以って自命している。それ一たび導き衆従うは、智愚の別すなわちここにある。その英哲を抑えて凡庸に就かしむるよりは、いずくんぞ衆人を置いて英哲を希うに若かんや。すなわち多数の説は、謬にして経に中らず、個性の尊は、まさに張大すべきところで、けだしこれを是非利害に揆るに、已に繁言深慮を待たずして知るべきである。しかしながら、これもまた勇猛無畏の人に頼り、独立自強して、塵垢を去離し、輿言を排して俗囿に淪せざる者である。

第4節

それ非物質主義者は、なお個人主義の如く、また俗に抗することに興起する。けだし唯物の傾向は、固より現実を権輿とし、人心に浸潤して久しく止まず。ゆえに十九世紀に至り、ここに大潮をなし、拠るところ極めて堅く、かつ来葉に及び、あたかも生活の本根にして、これを舍てば存するものなきが如し。知らずや、たとえ物質文明が現実生活の大本なりとも、崇奉すること度を逾え、傾向偏趨して、これ以外の諸端をことごとく棄置して顧みざれば、その究竟を按ずるに、必ず偏頗の悪因に縁りて文明の神旨を失い、先ず消耗し、終に滅亡し、歴世の精神は百年を待たずして尽くるであろう。十九世紀後葉に及びて、その弊果はいよいよ昭らかとなり、あらゆる事物は質化せざるなく、霊明は日に虧蝕し、旨趣は平庸に流れ、人はただ客観の物質世界にのみ趨き、主観の内面精神はすなわち舍置して一顧だにせず。その外を重んじ、その内を放ち、その質を取り、その神を遺し、衆生は林林として物欲に蔽われ、社会は憔悴し、進歩は停止した。ここにおいて一切の詐偽罪悪、乗じて萌えざるなく、性霊の光はますます黯淡に就く。十九世紀の文明の一面の通弊とは、けだしかくの如きものである。時にすなわち新たなる神思の宗徒出で、あるいは主観を崇奉し、あるいは意力を張皇し、流俗を匡糾すること、厲として電霆の如く、天下の群倫をして声を聞きて搖蕩せしめた。その他の評隲の士も、学者文家に至るまで、意は和平を主とし世と争わずといえども、この唯物の極端を見、かつ精神生活を殺さんとするに至っては、やはり悲観憤嘆し、主観と意力主義の興るは、その功、洪水に方舟あるに偉れりと知るのである。主観主義者の趣意はおよそ二つ。一つはただ主観を準則として諸物を律すること。もう一つは主観の心霊界を客観の物質界よりも尊しと見ること。前者は主観的傾向の極端にして、力は特に十九世紀末葉に著しいが、その趨勢は主我や我執とはかなり異なり、ただ客観の習慣に盲従せず、あるいは重きを置かず、自ら有する主観の世界を至高の標準とするのみ。このゆえに、思慮も動作もみな外物を離れ、独り自心の天地を往来し、確信はここに在り、満足もここに在る。これを漸く自ら省みてその内なる光輝の成果とすと謂うべし。その興起の由は、外に原する者としては、大勢の向かうところ、ことごとく平庸な客観の習慣に在り、動くに由らず、発すること機仕掛けの如く、識ある者は堪え能わず、ここに反動を生ずる。内に原する者としては、近世の人心が日に自覚に進み、物質万能の説が個人の情意を逸し、独創の力を槁枯に帰せしむるを知り、ゆえに自ら悟れる者をもって人を悟らしめ、狂瀾を方に倒れんとするに挽回せんことを冀うのである。ニーチェやイプセンの如き人々は、みなその信ずるところに拠り、力めて時俗に抗し、主観的傾向の極致を示した。そしてキルケゴールは真理の準則はただ主観にのみ在り、ただ主観性こそが真理であるとし、凡そ道徳的行為も客観の結果の如何を問うに及ばず、一に主観の善悪をもって判断すべしと論じた。その説が世に出て、和する者は日に多く、ここに思潮はこれがために更張し、外に馳する者は漸く転じて内に趣き、淵思冥想の風起こり、自省抒情の意は蘇り、現実・物質と自然の樊を去りて、その本来有する心霊の域に就く。精神現象こそ実に人類生活の極頂にして、その輝光を発揮せざれば人生に当たるところなく、しかして個人の人格を張大にするはまた人生の第一義なりと知る。しかるに爾の時に要求される人格には、前とは甚だ異なるものがある。かつての理想は知見と情操の両つをともに調整すること、もし主知の一派ならば聡明叡智にして客観の大世界を主観の中に移し得る者にあった。かかる思惟はヘーゲル(F. Hegel)出でてその極に達した。ロマン派並びに尚古の一派ならば、シャフツベリ(Shaftesbury)がルソー(J. Rousseau)を承けて後、情感の要求を容すも、ただし必ず情操と統一調和して始めてその理想の人格に合う。しかしてシラー(Fr. Schiller)氏は、必ず知と感の両性が円満にして間なき然る後に全人と謂うべしとした。しかるに十九世紀の終わりに至って、理想は一変した。明哲の士は内面を反省すること深く、ゆえに古人の設けた具足調協の人は決して今世に得られぬことを知り、ただ意力の群を軼ぐ者のみ希求すべく、情意の一端に能くし、現実の世に処して勇猛奮闘の才あり、屢々踣れ屢々僵れども、ついにその理想を現し得る者——その人格かくの如きのみ。ゆえにショーペンハウアーが主張するところは、内省して諸己を省み、豁然として貫通し、ゆえに意志は世界の本体なりと曰い、ニーチェの希冀するところは、意志の絶世にして神明に近き超人なり、イプセンの描写するところは、変革を生命とし、多力にして善く闘い、万衆に怯まぬ強者なり。それ凡そ理想の大致かくの如きは、まことに人が転輪の時に当たり現実の世に処するに、もしかくならざれば、往々にして己を舍て人に従い、逝波に沈溺して届くところを知らず、文明の真髄はたちまち蕩然たらん。ただ剛毅にして撓まず、外物に遇えども移されざる者のみ、始めて社会の柱石たるに足る。万難を排し、黽勉として上征し、人類の尊厳はここに攸りて頼む。すなわち絶大なる意力を具する士こそ尊いのだ。とはいえ、これもまたその一端に過ぎない。その他を察すれば、また末葉の人民の弱点が見える。けだしかつての文明の流弊は性霊に浸灌し、衆庶は率ね繊弱頽靡にして日に甚だしきを増し、漸く自らを反観して欿然たるに至り、ここに刻意して意力の人を求め、将来の柱石として倚らんことを冀うのだ。これはまさに洪水横流して自ら頂を没せんとするに当たり、神は彼岸を馳し、全力を出して善く泳ぐ者を呼ぶに等しい。悲しいかな!

これより観れば、ヨーロッパ十九世紀の文明が前古を度越し、アジアの東を凌駕したことは、まことに明察を俟たずして見えるところだ。しかし改革を以て胎し、反抗を本とする以上、一極に偏るは固より理勢の必然である。末流に及んで、弊はすなわち自ら顕れた。ここに新宗が蹶起し、ことさらにその初めに反し、復た熱烈の情と勇猛の行をもって大波を起こしてこれに滌蕩を加えた。今日に至って益々浩然たり。その将来の結果如何は、いまだ率に測るべからず。しかし旧弊の薬石となり新生の津梁を造り、流衍はまさに長く、漫りに遽に已まざれば、その本質を相し、その精神を察するに、徴信すべきものがある。思うに文化は常に幽深に進み、人心は固定に安んぜず、二十世紀の文明は必ず沈邃

第5節

この知らせは、私をまたいくらか痛快にした。他人の不幸を喜ぶのは紳士らしくないと承知してはいるが、もとより紳士ではないのだから、取り繕いようもない。

我々中国人の多く——ここで特に鄭重に声明する。四億の同胞全部を含むわけではない!——はおおむね一種の「十景病」を患っており、少なくとも「八景病」は患っている。重くなったのはおそらく清朝の頃だ。県志を一部見るたびに、その県にはたいてい十景か八景があり、「遠村明月」「蕭寺清鐘」「古池好水」の類だ。しかもこの「十」の字の形をした病菌は、すでに血管に侵入して全身に流布し、その勢力はとうに「!」の形をした亡国驚嘆病菌に劣らない。点心には十様錦、料理には十碗、音楽には十番、閻魔には十殿、薬には十全大補、拳遊びには全福手福手全、人の悪行や罪状を公表する時もたいてい十条で、九条まで犯した時にはどうしても手を休めないかのようだ。今や西湖十景が一つ欠けたぞ!「凡そ天下国家を治むるに九経あり」、九経はもとより古来あるものだが、九景はかなり見慣れないもので、だからこそ十景病への一つの鍼砭であり、少なくとも患者に一種の異常を感じさせ、自分の愛しい持病が突如として十分の一消え去ったことを知らしめるだろう。

だがやはり悲哀がその中にある。

実のところ、この勢い避け難い破壊すらも徒労なのだ。痛快とは退屈な自欺に過ぎない。風雅な人と信者と伝統の大家とが、苦心惨憺、巧みな言葉で再び十景を補い足さずには置くまい。

破壊なくして新建設なしとは、おおむねその通りだ。だが破壊があっても必ずしも新建設があるとは限らない。ルソー、スティルネル、ニーチェ、トルストイ、イプセン等の輩は、ブランデスの言葉を借りれば「軌道の破壊者」である。実際、彼らは単なる破壊ではなく掃除であり、大いに叫んで猛進し、足に障る古い軌道を丸ごとであれ破片であれ一掃して空にしたのであって、廃鉄や古煉瓦を一つ掘り出して家に持ち帰り、古物商に売る算段をしたわけではない。中国にはこの手の人は甚だ少なく、たとえいたとしても大衆の唾で溺れ死ぬであろう。孔丘先生は確かに偉大で、巫鬼の勢力がかくも旺盛な時代に生まれながら、世俗に従って鬼神を語ることをしなかった。だが惜しいことに聡明すぎて、「祭るは在すが如くし、神を祭るは神在すが如くす」と、『春秋』を修める時のお決まりの手法で二つの「如し」の字にそっと「洒落な辛辣」の意を込め、人に一時はその真意が分からぬようにし、腹の中の反対を見せなかったのだ。子路に対しては賭けの誓いをする気があったが、鬼神に宣戦する気はなかった。宣戦すれば不穏になり、罵倒——鬼を罵るだけにせよ——の罪を犯しやすく、『衡論』(一月号の『晨報副鋲』所載)の作者TY先生のような善人に、鬼神に代わってこう嘲笑されかねないからだ。名のためか?人を罵って名は得られぬ。利のためか?人を罵って利は得られぬ。女を誘惑するためか?蚩尤の面を文章に印刷するわけにもゆくまい。何を楽しんでそうするのか、と。

孔丘先生は世故に通じた老先生であり、面の印刷問題以外にも深い考えがあり、あからさまな破壊者になるのは割に合わないと思ったのだろう。だから語らぬだけで、決して罵らず、かくして厳然と中国の聖人となった。道大にして包まざるなきゆえなり。さもなくば、今聖廟に祀られているのは、孔の姓ではなかったかもしれない。

芝居の舞台上に限って言えば、悲劇とは人生の価値あるものを滅ぼして人に見せるものであり、喜劇とは無価値なものを引き裂いて人に見せるものだ。諷刺は喜劇を簡略にした一つの支流に過ぎない。だが悲壮も滑稽も、ともに十景病の敵である。いずれも破壊性を持つからだ——破壊する方面は異なるにせよ。中国に十景病がなお存するならば、ルソーたちのような狂人が生まれぬのはもちろん、一人の悲劇作家も喜劇作家も諷刺詩人も生まれまい。あるのはただ、喜劇的人物か、喜劇でも悲劇でもない人物が、互いに模倣し合う十景の中で生存し、各々が十景病を帯びているだけだ。

しかし十全に停滞した生活は世界にそう多くはない。そこで破壊者が来る。だが自らの先覚的な破壊者ではなく、狂暴な強盗か、外来の蛮夷である。猃狁はかつて中原に来たし、五胡も来た、蒙古も来た。同胞の張献忠は人を草のように殺し、満洲兵の一矢は茂みの中に刺さって人を死なせた。中国について論じて、もし新鮮な血を帯びた野蛮人の侵入がなければ、自ら腐敗がどこまで進んだか分からぬと言う者がある。これはもちろん甚だ刻毒な悪口だが、歴史を一度繙けば、冷や汗の出る思いをしないわけにはいくまい。外寇が来て暫し震動するが、結局はその者を主人に迎え、その刀斧の下で旧例を修補する。内寇が来ても暫し震動するが、結局はその者を主人に迎えるか、あるいは別の主人を拝み、自分の瓦礫の中で旧例を修補する。県志を改めて繙けば、毎回の兵火の後に付け加えられるのは、多くの烈婦烈女の氏名である。近頃の兵禍を見れば、またもや盛大に節烈を表彰するのだろう。多くの男たちはどこへ行ったのか。

およそこの手の寇盗式の破壊は、結果として一面の瓦礫を残すだけで、建設とは無関係だ。

だが太平の時、すなわち旧例を修補中であり、寇盗のいない時、国中に暫時破壊がないかというと、そうでもない。その時には奴隷式の破壊作用が常に活動している。

雷峰塔の煉瓦が掘り取られたのは、ごく最近の小さな一例に過ぎない。龍門の石仏は大半が手足を欠き、図書館の書籍は挿図を引き裂かれぬよう用心せねばならず、公共物や無主の物は、動かしにくいものでさえ完全なままのものは甚だ少ない。その毀損の原因は、革除者のように掃除を志すのでもなく、寇盗のように掠奪や破壊だけを志すのでもなく、ただ目前の極めて小さな私利のために、完全な大きなものにひそかに一つの傷を加えることを厭わないのだ。人数が多ければ傷は当然甚大となり、倒壊した後には、加害者が結局誰なのか分かりにくい。ちょうど雷峰塔が倒れた後、田舎の人の迷信のためだということだけは分かるようなものだ。共有の塔は

第6節

バイロン(G. Byron)の詩は青年に愛読されるものが多いと言う人がいるが、この言葉にはかなりの真実があると思う。自分自身について言えば、いかに彼の詩を読んで心も体も奮い立ったかをまだ覚えている。とりわけ彼があの花布で頭を巻き、ギリシア独立を助けに行く時の肖像を見た時は。この像は去年ようやく『小説月報』を通じて中国に伝わった。惜しむらくは私は英語が分からず、読んだのはすべて翻訳である。近年の議論を聞くと、詩の翻訳はもはや一文の値打ちもないとされ、たとえ翻訳が悪くなくても。だがあの頃はみなの見識がまだそこまで高くなかったので、私は翻訳を読んでもなかなか良いと思った。あるいは原文が分からぬゆえに、臭い草を芳蘭と取り違えたのかもしれない。『新羅馬伝奇』の中の訳文も一時伝誦されたが、詞調を用い、また Sappho を「薩芷波」と訳していることから、日本語訳本の重訳であることは明らかだ。

蘇曼殊先生も数首を訳したことがある。その頃はまだ「弾箏人に寄す」の詩を作っておらず、それゆえバイロンともまだ縁があった。だが訳文は甚だ古雅で、あるいは章太炎先生が潤色したのかもしれず、本当に古詩のようだったが、流布はさほど広くなかった。後に自費出版の緑表紙に金の題籤の『文学因縁』に収められたが、今ではこの『文学因縁』すら稀になった。

実のところ、あの頃バイロンが比較的中国人に知られていたのには、もう一つ別の原因がある。すなわち彼のギリシア独立への援助である。時は清の末年、一部の中国の青年の心には革命思潮がまさに盛んで、およそ復讐と反抗を叫ぶものは、たやすく共感を呼び起こした。その時私が記憶している人物には、ポーランドの復讐詩人アダム・ミツキェヴィチ、ハンガリーの愛国詩人ペテーフィ・シャーンドル、フィリピンの文人でスペイン政府に殺されたリサール――彼の祖父は中国人であり、中国でも彼の絶命詩が訳された――がいる。ハウプトマン、ズーダーマン、イプセンらは盛名を極めていたが、我々はあまり注意を払わなかった。別の一群の人々は、もっぱら明末の遺民の著作や満人の残虐の記録を収集し、東京その他の図書館にこもって書き写し、印刷して中国に輸入し、忘れられた旧恨を蘇らせ、革命の成功を助けようとした。かくして『揚州十日記』『嘉定屠城記略』『朱舜水集』『張蒼水集』がみな翻刻され、さらに『黄蕭養回頭』やその他の単篇の集成もあったが、今はその名目を挙げることもできない。また別の一群の人々は「撲満」「打清」の類に改名し、英雄気取りであった。こうした大号はもちろん実際の革命とはさほど関係がないが、光復への渇望の心がいかに旺盛であったかは見て取れる。

英雄的な号だけではない。悲壮淋漓たる詩文であっても、所詮は紙の上のものにすぎず、後の武昌起義とはさして大きな関係はなかったろう。もし影響と言うなら、他のどんな千言万語も、おそらく平明直截な「革命軍馬前卒 鄒容」の著した『革命軍』には敵うまい。

革命が起こると、大体において言えば、復讐思想は後退した。思うに、大半は皆がすでに成功の希望を抱き、また「文明」の薬を服用して、漢人のために面目を施そうとしたからであり、もはや残酷な報復はなかった。だがあの時のいわゆる文明は、確かに洋文明であって国粋ではなく、いわゆる共和もアメリカ・フランス式の共和であって、周召共和の共和ではなかった。革命党員もおおむね本民族の名誉を高めようと力を尽くしたので、軍隊もさほど略奪しなかった。南京の土匪兵が小さな略奪をした時、黄興先生は勃然と激怒し、多くを銃殺した。後に土匪は銃殺を恐れず梟首を恐れると知り、死体から首を切り落とし、荒縄で括って木に吊るした。以来何の変事もなくなった。もっとも私の住んでいた機関の衛兵が、私の外出時に銃を構えて敬礼した後、窓の穴から這い入って私の衣服を取っていったが、それでも手段はだいぶ穏やかになり、礼儀正しくもなっていた。

南京は革命政府の所在地であるから、もちろん格別に文明的だった。だが以前の満人の駐在地を見に行くと、一面の瓦礫だった。ただ方孝孺の血痕石の亭だけはまだ残っていた。ここはもと明の故宮で、私が学生の頃に馬で通った時には、腕白小僧に大いに罵られ石を投げつけられた――お前たちにこんなことをする資格はない、と言わんばかりで、聞くところによれば昔からそうだったという。だが今や面目は一新し、住民はまばら。たまに数軒の壊れた家があっても窓も戸もなく、戸がある場合は朽ちたブリキ板でできていた。つまり木材は一片もなかった。

では、城が陥ちた時、漢人は大いに復讐の手段を発揮したのか? そうではない。事情を知る人が教えてくれた。戦時にはもちろん若干の損壊はあった。革命軍が入城するや、旗人の中にはぜひとも古式に殉難しようとする者がおり、明の冷宮の遺址の家で火薬を爆発させて自殺した。ちょうどその近くを通りかかった数騎の兵が巻き添えで死んだ。革命軍は地雷を埋めて抵抗したものと思い、一度焼き払ったが、焼け残りの家はまだ少なくなかった。その後は彼ら自身が手をつけ、建材を剥がして売り始めた。まず自分の家を壊し、次に他人のより多い家を壊し、ついに寸木も椽も残らなくなると、みな散り散りになり、我々に瓦礫の野原を返してくれた。――だがこれは私の伝聞であり、真実かどうか保証はできない。

このような有様を見れば、たとえ『揚州十日記』を目の前にぶら下げても、さして憤怒を覚えることもあるまい。私の感じたところでは、民国成立後、漢満の悪感情はずいぶん消え去ったようであり、各省の境界も以前よりさらに薄れた。だが「罪業深重にして自ら殞滅せぬ」中国人は、一年と経たぬうちに事態がまた逆転した。宗社党の活動や遺老の妄挙があって両民族の旧史がまた思い起こされ、袁世凱の策略があって南北の対立が加わり、陰謀家の狡計があって省境がまた利用され、しかもこの後もさらに増長していくのだ!

自分の性質が格別に悪いのか、それとも過去の環境の影響から脱し切れぬせいか分からないが、私はどうも復讐は驚くに当たらないと感じている。もちろん無抵抗主義の者を人格なきものと誣いようとまでは思わないが。だが時にはこうも思う。報復を誰が裁き、どうすれば公平になるのか? するとすぐさま自答する。自ら裁き、自ら執行する。上帝が主宰してくれぬ以上、目をもって頭に償うのも構わぬし、頭をもって目に償うのも構わぬと。時には寛恕は美徳だと感じるが、たちまちこの言葉は臆病者が発明したのではないかと疑う。報復の勇気がないからだ。あるいは卑怯な悪人が作り出したのかもしれない。人に害をなしておきながら報復を恐れ、寛恕の美名で欺くのだ。

そのため私はしばしば今の青年を羨む。清末に生まれたとはいえ、おおむね民国に育ち、共和の空気を呼吸してきたのだから、もはや異民族の軛の下の不平や、被圧迫民族の轍を同じくする悲しみなどはないだろう。果たして、大学教授でさえ、小説がなぜ下層社会を描くのかが分からなくなっている。私と現代人との隔たりが一世紀あるという言葉にも、いくらかの確かさがあるようだ。だが私は洗い清めようとも思わない――甚だ恥じ入ってはいるけれども。

エロシェンコ氏が日本から追放される前は、私は彼の名前すら知らなかった。追放されて初めて、彼の作品を読み始めた。あの迫害追放の事情を知ったのは、『読売新聞』に載った江口渙氏の文章による。そこでこれを訳し、彼の童話も訳し、戯曲『桃色の雲』も訳した。実のところ、当時の私の意図は、虐げられた者の苦痛の叫びを伝え、国人の強権者への憎悪と憤怒を激発することにすぎず、何か「芸術の宮殿」から手を伸ばして、海外の奇花瑶草を摘んで華国の芸苑に移植しようとしたのではない。

日本語版の『桃色の雲』が出版された時、江口氏の文章も載っていたが、すでに検閲機関(警察庁?)に多くを削除されていた。私の訳文は完全なものだが、この戯曲が単行本になった時には付けなかった。なぜなら、その頃私はまた別の事態を目にし、別の考えが生まれ、中国人の憤火の上にさらに薪炭を足す気にはなれなくなったからだ。

孔先生は言った。「己に如かざる者を友とするなかれ」。実のところこのような勢利眼は、現在の世界にもまだ多い。自分の国の有様を見れば、何の友人もいないことは分かるだろう。友人がいないどころか、大半がかつて仇敵であったことさえある。ただし甲を恨む時には乙に公論を待ち、後に乙を恨む時には甲に同情を期待するので、断片的に見れば、全世界がみな怨敵であるわけではないようにも見える。だが怨敵は常に一人はいるのであり、そのため一、二年ごとに愛国者は敵への怨恨と憤怒を鼓舞しなければならない。

これも今では極めてよくあることだ。この国があの国を敵とせんとする時には、常にまず手段を弄して国民の敵愾心を煽り立て、ともに防衛あるいは攻撃に向かわせる。だが一つ必要な条件がある。すなわち国民が勇敢であることだ。勇敢であればこそ勇往邁進し、強敵に肉薄して仇を報じ恥を雪ぐことができる。もし臆病な人民ならば、いかに鼓舞しても強敵に対峙する決心は生まれない。だが引き起こされた憤火はそこにあり、やはり発散の場を求めずにはいられない。その場所とは、明らかに彼らより弱い人民であり、同胞であれ異族であれ。

中国人が蓄えた怨憤はすでに十分に多いと思う。もちろん強者の蹂躙を受けた結果だ。だが彼らは強者に向かってさほど反抗せず、かえって弱者に発散する。兵と匪は争わず、銃を持たぬ百姓がかえって兵匪双方の苦しみを受ける。これが最も身近な証拠だ。もっと露骨に言えば、これらの人間の卑怯さをも証明しうるのではないか。卑怯な者は、万丈の憤火があったとて、弱い草の他に何を焼き尽くせようか。

あるいはこう言うかもしれない。我々が今、人に憤恨させようとしているのは外敵であり、国人とは関係なく、害を受けることもないと。だがこの転移はきわめて容易だ。国人といっても、憤りを晴らすために利用しようとする時には、特異な名称を与えさえすれば、安心して刃を刺せる。かつては異端、妖人、奸党、逆徒の類の名目があり、今は国賊、漢奸、二毛子、洋狗あるいは洋奴を用いることができる。庚子の年の義和団は通りがかりの者を捕まえ、任意に教徒と指さすことができた。その鉄の証拠は、彼の神通眼がその者の額に「十」の字を見たからだという。

しかし我々は「己に如かざる者を友とするなかれ」の世にあって、自国の国民を奮い立たせ、いくばくかの火花を散らし、かろうじて場を繕うほかに、何の良策があろうか。だが私は上述の理由に基づき、さらに一歩進んで、火を点ずる青年に望む。群衆に対して、彼らの公憤を引き起こすと同時に、深沈な勇気をも注入すべきであり、彼らの感情を鼓舞する時には、明晰な理性をも啓発すべく力を尽くすべきである。しかも勇気と理性に重きを置き、ここからさらに長年にわたって訓練を続けるべきだ。この声はもちろん断じて宣戦殺賊を大叫するほどの大きさも広がりもないが、私はこれこそがより緊要にして、より艱難偉大な仕事であると思う。

さもなくば、歴史が示してきたように、災いを被るのは何かの敵ではなく、自らの同胞と子孫なのだ。その結果、かえって敵のための先駆となり、敵はこの国のいわゆる強者の勝利者となると同時に、弱者の恩人ともなる。なぜなら自ら先に互いに殺し合ってしまい、蓄えていた怨憤はすべて消え去り、天下もまた太平の盛世となるからだ。

つまり、国民にもし智がなく勇がなく、ただ一種のいわゆる「気」だけに頼るならば、実に非常に危険であると私は思う。今こそ、さらに進んでより堅実な仕事に着手すべきである。

(一九二五年六月十六日。)

【目を開けて見ることについて】

虚生先生の時事短評の中に、かつてこのような題目があった。「我々は各方面を正視する勇気を持つべきである」(『猛進』第十九期)。誠にその通り、正視する勇気があってこそ、敢えて考え、敢えて語り、敢えて行い、敢えて引き受けることが望める。もし正視すらできぬとあれば、他に何ができようか。だが不幸にも、この種の勇気こそ、我々中国人が最も欠くものである。

だが今私が考えているのは別の方面である――

中国の文人は、人生に対して、少なくとも社会現象に対して、昔から正視する勇気を持たぬ者が多かった。我々の聖賢は、もとより早くから「礼にあらざれば視るなかれ」と教えていた。そしてこの「礼」は非常に厳しく、「正視」どころか「平視」も「斜視」も許さない。今の青年の精神は知るべくもないが、体つきは大半まだ腰を曲げ背を丸め、眉を低くし目を伏せて、昔ながらの老成な子弟、馴良な百姓の姿を示している。――対外的には大きな力量があるという話は、この一ヶ月以来の新説で、実際のところどうなのかはまだ分からない。

「正視」の問題に戻ろう。初めに敢えてしなければ、後にはできなくなり、さらに後には自然に視なくなり、見えなくなる。一台の自動車が壊れて道に止まると、一群の人が取り囲んでぼんやり眺め、得られる結果は一塊の油じみた黒い物体だ。だが自身の矛盾や社会の欠陥から生じる苦痛は、正視しなくとも身に受けねばならない。文人はやはり敏感な人間であり、その作品から見れば、確かにとうに不満を感じている者もいる。だが欠陥が露呈する危機一髪の際には、必ずすぐに「そんなことはない」と言い、同時に目を閉じてしまう。この閉じた目はすべてが円満であると見てとり、目前の苦痛は「天がこの人に大任を降さんとする時は、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を飢えさせ、その身を窮乏させ、その行いを妨げ乱す」にすぎないとする。かくして問題もなく、欠陥もなく、不平もなく、したがって解決もなく、改革もなく、反抗もない。万事「大団円」に終わるのだから、我々が焦る必要はない。安心して茶を飲み、眠るが吉。さらに余計なことを言えば「時宜に合わぬ」咎を受け、大学教授の矯正を免れまい。ちぇっ!

私は実験したことはないが、時にこう思う。もし長く奥の間に引きこもっていた老旦那を真夏の正午の烈日の下に放り出し、あるいは閨門を出ぬ深窓の令嬢を曠野の暗夜に引きずり出せば、おそらく目を閉じて、残存する旧い夢をしばらく続けるしかなく、暗にも光にも遭っていないとみなすのだろう。もはやまったく異なる現実であるにもかかわらず。中国の文人も同じで、万事目を閉じ、いささか自欺し、かつ人を欺く。その方法は、隠蔽と詐りである。

中国の婚姻制度の欠陥は、才子佳人小説の作家がとうに感じ取っていた。そこで彼は一人の才子に壁の上に詩を題させ、一人の佳人がそれに和し、傾慕から――今では恋愛と称さねばならないが――ついに「終身の約」に至る。だが約定の後には難関もある。我々はみな知っている。「密かに終身を約す」ことは詩や戯曲や小説の上では美談とされ(もちろん最終的に状元となる男との密約に限るが)、実際には天下に容れられず、やはり離縁を免れない。明末の作家はそこで目を閉じ、この一層まで補修した。すなわち、才子が及第し、勅旨をもって成婚すると。「父母の命、媒酌の言」はこの大帽子に押さえつけられて半銭の値打ちもなくなり、問題も一切なくなる。問題があるとすれば、それはただ才子が状元に受かるかどうかであり、決して婚姻制度の良否ではない。

(近頃、新詩人が詩を作って発表するのは目立ちたがりで異性を引きつけるためだと言い、新聞雑誌がむやみに掲載するのにまで怒りを向ける者がいる。だが新聞がなくとも、壁は「古よりこれあり」で、とうに発表の機関を務めていた。『封神演義』によれば、紂王がすでに女媧廟の壁に詩を題している。その起源は実に甚だ古い。新聞は白話を採らぬこともでき、小詩を排斥することもできるが、壁は壊し尽くせず管理も及ばない。たとえ一律に黒く塗っても、割れた磁器で引っかき、チョークで書くことができる。まことに応対に窮する。詩を作っても木版に刻んで名山に蔵するのでなく、随時発表しようとするのは、確かに弊害も多いが、おそらく杜絶しがたいのだろう。)

第7節

『紅楼夢』の中の小悲劇は、社会に常にある出来事であり、作者はまた比較的あえて実写する人であり、その結果も決して悪くない。賈家の家業が再興しようと、蘭桂斉芳であろうと、宝玉自身にしてからが、大紅の猩々毡のマントを纏った和尚となった。和尚は数多いが、このような豪勢なマントを纏う者がいくらいるだろうか、もはや「入聖超凡」に疑いはない。その他の人々に至っては、帳面の中で一人一人あらかじめ定められており、末路は一つの帰結に過ぎない。それは問題の終結であって、問題の始まりではない。読者はたとえ多少の不安を覚えても、結局は如何ともし難い。しかし後世の続作者や改作者は、死骸に魂を借りて還らせるか、冥界で別に縁組みをするかして、必ず「生旦が場上で団円」するまでは手を離さない。自己欺瞞の中毒が深過ぎるので、小さな騙しを見ても甘んじられず、きっと目を瞑って一通りの出鱈目を言ってから気が済むのだ。ヘッケル(E. Haeckel)はかつて言った——人と人との差は、時として類人猿と原人との差よりも遠いと。我々が『紅楼夢』の続作者と原作者とを比較すれば、この言葉がおおむね確かであることを認めるだろう。

「善を為せば祥が降る」という古訓は、六朝の人々がすでに幾分疑っていた。彼らの墓誌には「善を積んで報いられず、終に自ら人を欺く」とまで書いてある。しかし後世の愚かな者たちは、またこれを隠蔽してしまった。元の劉信が三歳の痴児を醮紙の火盆に投げ入れ、福祐を妄りに望んだのは『元典章』に見えるが、劇本『小張屠焚児救母』では母の延命のためとされ、命は延び、子もまた死ななかった。一女が痼疾の夫に侍することを願い、『醒世恒言』ではついに二人とも自殺するとあるが、後の改作では蛇が薬罐に落ち、夫が服した後たちまち全快したとなっている。およそ欠陥があれば、作者の粉飾を経て、後半は大抵面目を改め、読者を虚妄の中に陥れ、世の中は実に十分に明るい、誰かが不幸に遭えばそれは自業自得だと思わせる。

時に明白な史実に遭遇し、隠し切れない場合——たとえば関羽や岳飛の殺害——には、別の騙しを設けるほかない。一つは前世にすでに宿因を作ったとする、岳飛のように。一つは死後に神にするのだ、関羽のように。定命は逃れ得ず、成神の善報はいよいよ人を満足させるから、殺した者を責める必要もなく、殺された者を悲しむ必要もない。冥冥のうちにおのずから按排があり、各々その処を得させるのだから、他人がわざわざ骨を折るには及ばないのだ。

中国人は各方面を正視する勇気がなく、隠蔽と欺瞞を用いて奇妙な逃げ道を造り出し、しかも正道だと自認する。この道の上に、国民性の怯懦、怠惰、そして狡猾さが証明されている。日に日に満足しているということは、日に日に堕落しているということだが、しかも日ごとにますます光栄だと感じている。事実において、一度亡国すれば殉難の忠臣が幾人か加わり、その後はしばしば旧物の光復を思わず、ただあの数人の忠臣を讃美するだけとなる。一度劫難に遭えば、辱められなかった一群の烈女が生まれ、事が過ぎた後も、しばしば兇を懲らし自衛することを思わず、ただあの一群の烈女を歌詠するのみ。あたかも亡国や劫難が、かえって中国人に「両間の正気」を発揮する機会を与え、価値を高めるものであり、このひと手にあり、一任すべきであって、憂い悲しむに足りないかのようだ。もちろん、これ以上はどうしようもない。なぜなら我々はすでに死者を借りて最上の光栄を獲得したのだから。上海・武漢の烈士の追悼会で、生きている人々があの景仰に値する高大な位牌の下で互いに罵り合うのも、我々の先人と同じ道を歩んでいるのだ。

文芸は国民精神の発する火光であり、同時に国民精神の前途を導く灯火でもある。これは互いに因果をなし、ちょうど胡麻から搾った油が胡麻に浸み込めば、いよいよ油っぽくなるようなものだ。もし油を上等とするなら言うまでもないが、そうでなければ、水か灰汁か、別のものを混ぜ入れるべきだ。中国人は従来、人生を正視する勇気がないために隠蔽と欺瞞を頼りにし、そこから隠蔽と欺瞞の文芸が生まれ、この文芸がさらに中国人を隠蔽と欺瞞の大沢の中にいよいよ深く陥れ、ついには自分でも気づかなくなるに至っている。世界は日々変わる。我々の作家が仮面を外し、真摯に、深く、大胆に人生を見つめ、その血と肉を書き出す時がとうに来ている。とうに一片の新鮮な文壇があるべきであり、とうに幾人かの獰猛な先駆者がいるべきなのだ!

今や気象は一変したかに見え、花月を歌吟する声はどこにも聞こえなくなり、代わりに起こったのは鉄と血の讃頌だ。しかし欺瞞の心をもって、欺瞞の口を用いれば、AやOを言おうと、YやZを言おうと、等しく虚偽である。ただ、以前花月を蔑んでいたいわゆる批評家の口を黙らせ、満足して中国がまさに中興すると思わせることができるだけだ。哀れにも彼は「愛国」の大きな帽子の下でまた目を閉じてしまった——あるいはもともと閉じていたのだ。

一切の伝統的思想と手法を突破する先駆者がいなければ、中国に真の新文芸はあり得ない。

(一九二五年七月二十二日。)

【薬】

秋の後半夜、月は沈み、太陽はまだ出ず、ただ一面の暗藍の空が残っていた。夜行性のもの以外は、何もかも眠っていた。華老栓はふと起き上がった。マッチを擦り、全身油まみれのランプに火を点けると、茶館の二間の部屋は蒼白い光に満ちた。

「小栓のお父さん、もう行くのかい?」年老いた女の声であった。奥の小部屋からも、一陣の咳が聞こえた。

「うむ。」老栓は聞きながら返事をし、上着のボタンを留めた。手を伸ばして言った。「くれないか。」

華大媽は枕の下を長いこと探り、洋銀の包みを取り出して老栓に渡した。老栓はそれを受け取り、震えながら衣嚢に入れ、その上からさらに二度押さえた。そして提灯に火を点け、ランプを吹き消し、奥の部屋へ向かった。その部屋の中からは、がさがさと音がし、続いてひとしきりの咳であった。老栓は静まるのを待って、低い声で呼んだ。「小栓……起きなくていい。……店は? お母さんがやってくれるから。」

老栓は息子がもう何も言わないのを聞いて、安心して眠ったものと思い、門を出て通りに出た。通りは真っ暗で何もなく、ただ一筋の灰白い道だけがはっきりと見えた。提灯の光が彼の両足を照らし、前へ後ろへと歩いた。時折犬にも出会ったが、一匹も吠えなかった。家の中よりずっと寒かったが、老栓はかえって爽快に感じた。あたかもたちまち少年に戻り、神通力を得て、人に命を与える力を身につけたかのように、歩幅も格別に大きかった。しかも道はますます明るくなり、空もますます白んできた。

老栓がひたすら歩いていると、ふとぎくりとして、遠くに丁字路がくっきりと横たわっているのが見えた。彼は数歩退き、扉を閉ざした店を一軒見つけて、軒下に潜り込み、扉に寄りかかって立った。しばらくして、体に少し寒気を覚えた。

「ふん、じいさん。」

「上機嫌じゃないか……」

老栓はまた驚き、目を見開くと、何人かが前を通り過ぎた。一人が振り返って彼を見たが、はっきりとは見えなかった。しかし、久しく飢えた者が食物を見たかのように、目に一種の貪欲な光が閃いた。老栓は提灯を見ると、もう消えていた。衣嚢を押さえると、硬いものがまだ入っている。顔を上げて両方を見ると、多くの奇怪な人々が三々五々、亡霊のようにそこいらを彷徨っていたが、目を凝らしてよく見ても、他に何も変わったことは見えなかった。

しばらくして、また数人の兵卒がそちらで歩いているのが見えた。衣服の前後に大きな白い丸があり、遠くからでもはっきり見え、すぐ前を通った者の号衣には暗紅色の縁取りも見えた。——足音がどやどやと響き、瞬く間に大勢の人が押し寄せてきた。あの三々五々の人々も、突然一塊になり、潮のように前へ駆け寄り、丁字路の角に来ると突然立ち止まり、半円に群がった。

老栓もそちらを見たが、人の背中ばかりが見えた。首をみな長く伸ばし、まるで見えない手に首を掴まれた大勢の鶩のように、上に引っ張られているかのようだった。しばらく静かになり、何か物音がしたかと思うと、また揺れ動き、轟と一声、皆後ろへ退き、老栓の立っているところまで散って、もう少しで彼を押し倒すところだった。

「おい!片手で金を出し、片手で品物を渡せ!」全身黒ずくめの男が老栓の前に立った。その目はまるで二振りの刃物のようで、老栓を刺して半分に縮ませた。その男の片方の大きな手は彼に向かって開かれ、もう片方の手には真っ赤な饅頭を摘まんでいた。その赤いものはまだぽたぽたと滴り落ちていた。

老栓は慌てて洋銀を探り出し、震えながら渡そうとしたが、男の品物を受け取る勇気がなかった。男は焦って怒鳴った。「怖がるな!何で取らないんだ!」老栓がなおも躊躇していると、黒い男は提灯をひったくり、紙の覆いを引き剥がして饅頭を包み、老栓に押し付け、片手で洋銀を掴み取り、握ってみて、身を翻して去った。口の中でぶつぶつ言った。「この爺さんめ……。」

「これは誰の病気に使うんだい?」老栓にも誰かがそう聞いたのが聞こえたようだったが、答えなかった。彼の精神は今やこの一つの包みだけに集中し、まるで十代一子の赤子を抱くように、他の一切のことはもはや眼中になかった。彼は今、この包みの中の新しい命を自分の家に移植し、多くの幸福を収穫しようとしていた。太陽も出てきた。彼の前には大通りが一本、真っ直ぐに家まで続いていた。後ろには丁字路の辻の壊れた扁額に「古□亭□」という四つのくすんだ金文字が照らし出されていた。

老栓が家に着くと、店先はとうに片付いて、一列一列の茶卓がつるつると光っていた。しかし客はおらず、小栓だけが奥の卓の前に座って食事をしていた。大粒の汗が額から転がり落ち、袷袄も背中に貼りつき、二つの肩甲骨が高く突き出て、陽刻の「八」の字を刻んでいた。老栓はこの有様を見て、開きかけた眉間をまた顰めずにはいられなかった。彼の女房が竈の下から急いで出てきて、目を見開き、唇がいくらか震えていた。

「手に入ったのかい?」

「手に入った。」

二人は一緒に竈の下に入り、しばらく相談した。華大媽が出て行き、まもなく古い蓮の葉を一枚持って戻り、卓の上に広げた。老栓も提灯の覆いを開き、蓮の葉であの赤い饅頭を包み直した。小栓も食事を終え、母親が慌てて言った——

「小栓——座っていなさい、こっちへ来ちゃいけないよ。」

竈の火を整えてから、老栓は碧緑の包みと赤白まだらの破れた提灯とを一緒に竈に押し込んだ。紅と黒の炎が通り過ぎると、店中に一種奇妙な芳しい匂いが漂った。

「いい匂いだ!何の点心を食べているんだ?」これは猫背の五少爺が来たのだ。この人は毎日茶館で過ごし、誰よりも早く来て誰よりも遅く帰る。この時ちょうど通りに面した壁際の卓にそろりと着いて、座って尋ねたが、誰も答えない。「炒り米粥か?」やはり誰も答えない。老栓は急いで出てきて、彼にお茶を入れた。

「小栓、中にお入り!」華大媽が小栓を奥の部屋に呼び入れ、中央に腰掛けを据え、小栓を座らせた。母親が真っ黒な丸いものの皿を運んできて、そっと言った——

「さあ食べなさい——病気が治るよ。」

小栓はこの黒いものを摘み上げ、しばらく見つめ、まるで自分の命を手にしているかのように、心の中で何とも言えない不思議を感じた。非常に注意深く割ると、焦げた皮の中から白い湯気が噴き出し、湯気が散ると中は白い饅頭の半分が二つだった。——さほど経たぬうちに、すべて腹の中に収まったが、どんな味だったかはすっかり忘れていた。目の前にはからっぽの皿が一枚残るだけ。その傍らには片側に父親が、片側に母親が立ち、二人の目は何かを彼の体の中に注ぎ込もうとし、同時に何かを取り出そうとするかのようであった。小栓は思わず胸がどきどきし、胸を押さえると、またひとしきりの咳であった。

「少し眠りなさい——きっと良くなるよ。」

小栓は母の言う通りに、咳きながら眠った。華大媽は彼の息遣いが静まるのを待ってから、継ぎだらけの夾被をそっとかけてやった。

店には大勢の客が座り、老栓も忙しく、大きな銅壺を提げて何往復もお茶を注いで回った。二つの目の周りには黒い隈ができていた。

「老栓、体の具合が悪いのか?——病気か?」白髪混じりの髭の男が言った。

「いいや。」

「何でもない!——笑顔でいるくらいだから、おかしくもないだろうが……」白髪混じりの髭の男は自分の言葉を取り消した。

「老栓はただ忙しいだけさ。あの息子さえ……」猫背の五少爷がまだ言い終わらぬうちに、突然、横肉だらけの男が飛び込んできた。黒い布衣を羽織り、ボタンをはだけ、幅広の黒い帯で乱暴に腰を括っていた。入るなり老栓に向かって叫んだ——

「食ったか?良くなったか?老栓、お前は運がいいぞ!運がいいんだ。俺の情報が確かでなきゃ……」

老栓は片手で茶壺を提げ、片手を恭しく垂らし、にこにこして聞いていた。満座の客も皆恭しく聞いていた。華大媽も目に隈を作りながらにこにこと茶碗と茶葉を運んできて、さらにオリーブの実を一つ添え、老栓がお湯を注いだ。

「これは効くぞ!こいつは並みのものじゃない。考えてもみろ、温かいうちに持ってきて、温かいうちに食わせたんだ。」横肉の男はただ叫ぶばかりだった。

「本当に、康大叔のお世話がなかったら、こうはいきませんでしたよ……」華大媽も感謝して礼を言った。

「効くとも、効くとも!こうやって温かいうちに食わせるんだ。こういう人血饅頭なら、どんな癆病だって効くんだ!」

華大媽は「癆病」という二文字を聞いて、少し顔色が変わり、いくらか不機嫌のようだったが、すぐにまた笑顔を浮かべ、話をそらして離れた。この康大叔は気づきもせず、声を張り上げてなおも喚き立てた。奥で寝ていた小栓までが、つられて咳き込み始めた。

「なるほどお宅の小栓はこんな良い運にめぐり合ったのか。この病気は当然きっと全快だ。どうりで老栓が一日中笑っているわけだ。」白髪混じりの髭の男は一方で話しながら、康大叔の前に歩み寄り、腰を低くして尋ねた。「康大叔——聞いたところ、今日処刑された囚人は夏の家の子だそうですが、あれは誰の子ですか?一体何をしたんです?」

「誰だって?夏四奶奶の息子じゃないか。あの小僧だ!」康大叔は皆が耳をそばだてて聞いているのを見て、いよいよ上機嫌になり、横肉がはちきれんばかりに膨らみ、声をますます大きくした。「この小僧は命が要らないと来た。要らないなら仕方がない。俺はこの一件、ちっとも得をしなかったぞ。剥いだ着物まで牢番の赤目の阿義に持って行かれた。——第一に運がいいのは栓叔さ。第二には夏三爷が二十五両の白銀を貰い、丸ごと懐に入れて一文も使わなかった。」

小栓がゆっくりと奥の部屋から出てきて、両手で胸を押さえながらしきりに咳をした。竈の下まで行き、冷や飯を一碗よそい、熱い湯をかけて座って食べ始めた。華大媽が後をついて行き、そっと聞いた。「小栓、少しは良くなったかい?——やっぱりただ腹が減っているだけなのかい?……」

「効くとも、効くとも!」康大叔は小栓をちらと見て、また顔を座中の人々に向け、「夏三爺は本当にしたたか者だ。もし先に密告しなかったら、一族皆殺しだった。今はどうだ?銀だ!——この小僧もまったくろくでなしだ!牢の中にいても、まだ牢番に謀反を勧めやがった。」

「おやまあ、それはとんでもない。」後ろの席に座っていた二十歳余りの男がひどく憤慨した様子を見せた。

「赤目の阿義が内情を探りに行ったんだが、あの小僧はそれと話し込んでしまった。こう言ったそうだ——この大清の天下は我々みんなのものだ、と。考えてもみろ、これが人間の言葉か?赤目はもともと奴の家には老いた母親が一人いるだけだと知っていたが、まさかあれほど貧しいとは思わなかった。油一滴も搾れず、もう腹が破れそうだった。それでもなお虎の頭を搔くような真似をしやがるから、二つ平手打ちを食らわせてやった!」

「義兄は拳の使い手だ。あの二発は相当こたえたろう。」壁際の猫背が急に嬉しそうになった。

「あの賎骨頭め、殴られても怖がらず、まだ可哀想だ可哀想だと言いやがった。」

白髪混じりの髭の男が言った。「あんな奴を殴って、何が可哀想だ?」

康大叔は見下すような顔で冷笑して言った。「聞き違えたんだ。あいつの口ぶりじゃ、阿義が可哀想だと言っているんだ!」

聞いている者たちの目がふと少し硬くなった。話も途切れた。小栓はもう食べ終わり、全身汗まみれで、頭からも湯気が立ち上っていた。

「阿義が可哀想だって——狂言だ、完全に気が狂ったんだ。」白髪混じりの髭の男がはたと悟ったように言った。

「気が狂ったんだ。」二十歳余りの男もはたと悟ったように言った。

店の客たちはまた活気づき、談笑し始めた。小栓も賑やかさに乗じて懸命に咳をした。康大叔が歩み寄り、彼の肩を叩いて言った——

「効くぞ!小栓——そんなに咳をするんじゃない。効くんだから!」

「気が狂ったのさ。」猫背の五少爺が頷いて言った。

第8節

西門外の城壁沿いの一帯は、もともと官地であった。真ん中を曲がりくねった細道が一本通っているが、近道を好む人々が靴底で踏み固めたもので、しかしそれが自然の境界線となっていた。道の左側には死刑囚と獄死者が埋められ、右側は貧しい者たちの合葬墓であった。両側ともすでに幾重にも積み重なり、さながら富豪の家の祝寿の際の饅頭のようであった。

この年の清明節は、格別に寒かった。柳はようやく半粒の米ほどの新芽を出したばかりだった。夜が明けて間もなく、華大媽はすでに右側の新しい墓の前に、四皿の惣菜と一碗の飯を並べ、一泣きした。紙銭を焚き終えて、ぼんやりと地面に座っていた。何かを待っているかのようだったが、自分でも何を待っているのか分からなかった。微風が起こり、短い髪を吹き動かした。確かに去年よりだいぶ白くなっていた。

小道にまた一人の女がやって来た。やはり半白の髪、襤褸の衣裙。壊れかけた朱塗りの丸い竹籠を提げ、外に紙錠を一連ぶら下げ、三歩ごとに休みながら歩いてきた。ふと華大媽が地面に座っているのを見て、少し躊躇した。蒼白な顔にいくらか恥じらいの色が浮かんだが、ついに思い切って左側の墓の前に歩み寄り、籠を下ろした。

その墓と小栓の墓は一列に並び、間にはただ一本の細道が隔てるだけだった。華大媽は彼女が四皿の惣菜と一碗の飯を並べ、立って一通り泣き、紙錠を焚くのを見て、心の中でひそかに思った。「この墓の中のも息子だったのか。」あの老女はしばらく行きつ戻りつして眺めていたが、ふと手足が震え始め、よろよろと数歩退き、目を見開いて呆然としていた。

華大媽はこの様子を見て、悲しみのあまり気が狂いそうなのではないかと恐れ、堪えかねて立ち上がり、細道を跨いで低い声で言った。「おばあさん、そんなに悲しまないでください——私たち、もう帰りましょうよ。」

その人は頷いたが、目はなお上を凝視していた。やはり低い声で途切れ途切れに言った。「ご覧なさい——ご覧、これは何でしょう?」

華大媽はその指差す方を見ると、目は向こうの墓に注がれた。その墓は草の根がまだすっかりは覆っておらず、一塊一塊の黄土が露出して、いかにも見苦しかった。さらに上の方をよく見ると、はっと驚いた——紛れもなく一輪の紅白の花が、その尖った丸い墓の頂を囲んでいた。

二人の目はもう何年も老眼だったが、この紅白の花だけははっきりと見えた。花もさほど多くはなく、円く丸い輪に並んで、あまり元気はないが、整ってはいた。華大媽は急いで自分の息子や他の人々の墓を見たが、寒さに強い青白い小さな花がぽつぽつと咲いているだけだった。すると心の中にふと一種の不足と空虚を感じ、深く探ろうとはしなかった。あの老女はさらに数歩近づき、よく見直して、独り言を言った。「根がない、自然に咲いたとは思えない。——この場所に誰が来るだろう?子供が遊びに来るはずもないし——親戚縁者はとうに来なくなった。——これは一体どういうことだろう?」彼女は考えに考え、突然また涙を流し、大声で言った——

「瑜児、みんなお前を冤罪にしたんだ。お前はまだ忘れられずに、悲しくてたまらないから、今日わざと霊験を示して、私に知らせてくれたのかい?」彼女は四方を見回し、葉のない木に烏が一羽止まっているのを見て、続けて言った。「分かったよ。——瑜児、可哀想に、みんなにはめられたんだ。いつかきっと報いがある、天は知っているんだよ。お前は目を閉じていればいいのだよ。——もし本当にここにいて、私の話が聞こえるなら——あの烏をお前の墓の上に飛ばせてみておくれ、私に見せておくれ。」

微風はとうに止んでいた。枯れ草が一本一本真っ直ぐに立ち、銅線のようだった。微かに震える音が空気の中をますます細くなり、細くなって聞こえなくなると、辺り一面は死のような静けさであった。二人は枯れ草の中に立ち、顔を上げてあの烏を見つめていた。烏もまっすぐな枝の間で、首を縮め、鋳鉄のように立っていた。

長い時間が過ぎた。墓参りの人が次第に増え、何人かの老人や子供が土饅頭の間を行き来していた。

華大媽はなぜだか、重い荷を下ろしたような気がして、もう帰ろうという気になった。横から勧めて言った。「もう帰りましょうよ。」

あの老女は溜息をついた。気力なく惣菜を片付け、さらにしばらく迷った後、ついにゆっくりと歩き出した。口の中で独り言を言いながら。「これは一体どういうことなんだろう……」

二三十歩も行かぬうちに、背後から突然「ガアーッ」と一声、大きな叫びが聞こえた。二人ともぎくりとして振り向くと、あの烏が両翼を広げ、身をひるがえし、遠くの空に向かって矢のように飛び去っていった。

(一九一九年四月。)

【明日】

「何の音もしない——坊やはどうしたのかな?」

赤鼻の老拱が黄酒の碗を手にしながら、隣の壁を顎でしゃくって言った。藍皮阿五は酒碗を置き、老拱の背中を力いっぱいどやしつけ、口ごもりながら叫んだ——

「お前……お前お前、また変なこと考えやがって……」

もとより魯鎮は辺鄙な土地で、まだいくらか古風が残っていた。初更にもならぬうちに、皆が戸を閉めて眠ってしまう。深夜に起きているのは二軒だけ。一軒は咸亨酒店で、何人かの飲み仲間が勘定台を囲んで上機嫌で飲み食いしている。もう一軒は隣の単四嫂子の家で、一昨年寡婦になってからは自分の両の手で紡いだ綿糸で、自分と三歳の息子を養わねばならず、寝るのも遅い。

この数日、確かに紡ぎの音はしなかった。しかし深夜に起きているのが二軒きりなのだから、単四嫂子の家に音がしても老拱たちだけが聞き、音がしなくても老拱たちだけが聞くのであった。

老拱はどやされたが、まるで気持ちよさそうに大きく一口酒を飲み、うーうーと小唄を歌い始めた。

この時、単四嫂子はまさに宝児を抱いてベッドの縁に座っていた。紡ぎ車は静かに床に立っていた。薄暗いランプの光が宝児の顔を照らし、紅の中にいくらか青みが差していた。単四嫂子は心の中で算段していた。おみくじも引いた、願掛けもした、民間療法も飲ませた。それでもまだ効かなければどうしよう?——あとは何小仙先生に診てもらうしかない。だが宝児は昼軽く夜重いのかもしれない。明日になれば、日が出れば、熱も下がり、喘ぎも治まるだろう。病人にはよくあることだ。

単四嫂子は粗忽な女で、この「だが」の恐ろしさを知らなかった。多くの悪い事がこの字のおかげで好転するが、多くの良い事もこの字のせいで台無しになる。夏の夜は短い。老拱たちがうーうーと歌い終えてほどなく、東の空がすでに白み始めた。やがて窓の隙間から銀白色の曙光が差し込んだ。

単四嫂子が夜明けを待つのは、他の人のように容易ではなく、非常に遅く感じられた。宝児の一呼吸がほとんど一年よりも長かった。ようやく明るくなった。明るさがランプの光を圧倒し——宝児の鼻翼が、開いたり縮んだりしているのが見えた。

単四嫂子は只事ではないと悟り、ひそかに「ああ!」と叫んだ。心の中で算段した。どうしよう?何小仙先生に診てもらうしか道はない。粗忽な女ではあったが、決断力はあり、すぐに立ち上がった。木の箪笥から毎日節約して貯めた十三枚の小銀貨と百八十文の銅銭をすべて取り出し、衣嚢に入れ、戸締りをし、宝児を抱いて何先生の家に向かって駆け出した。

まだ朝早かったのに、何先生の家にはすでに四人の患者が座っていた。四角の銀貨を出して番号札を買い、五番目に宝児の順番が回った。何小仙が二本の指を伸ばして脈を按じた。爪の長さは四寸余り。単四嫂子はひそかに驚いたが、心の中で算段した。宝児はきっと助かる。しかし焦りは免れず、堪えかねて、もじもじしながら言った——

「先生——うちの宝児は何の病気でしょうか?」

「中焦が塞がっておる。」

「大事ありませんか? あの子は……」

「まず二服飲ませなさい。」

「息が詰まって、鼻がぱたぱたしているんです。」

「これは火が金を剋するのだ……」

何小仙は半分だけ言って目を閉じた。単四嫂子もそれ以上聞くに忍びなかった。何小仙の向かいに座っていた三十過ぎの男がちょうど処方箋を書き上げ、紙の隅の数文字を指して言った——

「この第一味、保嬰活命丸は、賈家の済世老店でなければございません!」

単四嫂子は処方箋を受け取り、歩きながら考えた。粗忽な女ではあったが、何先生の家と済世老店と自分の家が、ちょうど三角形の頂点に当たることは分かっていたから、薬を買って帰る方が便利に決まっている。そこでまた済世老店に向かって駆けた。店の小僧も長い爪でゆっくり処方箋を見、ゆっくり薬を包んだ。単四嫂子は宝児を抱いて待っていた。宝児が突然小さな手を挙げ、力いっぱい乱れた一房の髪を引っ張った。こんなことは初めてで、単四嫂子は怖くなって呆然とした。

日はとうに昇っていた。単四嫂子は子を抱き、薬の包みを持って歩くほどに、ますます重く感じた。子がまたしきりにもがくので、道もますます長く感じられた。仕方なく路傍のある公館の敷居に腰を下ろして、しばらく休んだ。衣服がだんだん肌に冷たく張り付き、全身汗をかいていたことに気づいた。しかし宝児は眠っているようだった。また立ち上がってゆっくり歩いたが、やはり支えきれず、耳元にふと人の声が聞こえた——

「単四嫂子、赤ん坊を抱いてやるよ!」藍皮阿五の声のようだった。

顔を上げると、なるほど藍皮阿五で、寝ぼけ眼でついて来ていた。

単四嫂子はこの時、天の使いでも降りてきて助けてくれればと願ったが、阿五だけは御免だった。しかし阿五にはいくらか侠気があり、どうあっても手を貸そうとするので、しばらく遠慮した挙げ句、ついに許可を得た。彼は両腕を伸ばし、単四嫂子の胸と子供の間にまっすぐ差し込み、子供を抱き取った。単四嫂子は乳房の上に一筋の熱を感じ、たちまちそれが顔と耳の根まで上った。

二人は二尺五寸ほど離れて、一緒に歩いた。阿五は何か話しかけたが、単四嫂子は大半答えなかった。しばらく歩くと、阿五はまた子を返し、昨日友人と約束した食事の時間だと言って去った。単四嫂子は子を受け取った。幸い、もう近くに家が見え、向かいの王九婆さんが通りの端に座って、遠くからこう言った——

「単四嫂子、坊やはどうしたの?——お医者に見せたのかい?」

「見せました。——王九婆さん、年を召して何でもよくご存知でしょうから、どうか目利きの目で見てくださいな、どう……」

「うーん……」

「どうでしょう……?」

「うーん……」王九婆さんはしげしげと見て、頭を二度頷かせ、二度振った。

宝児が薬を飲んだのはもう午後だった。単四嫂子は様子を窺い、どうやらいくらか落ち着いたようだった。午後になって、ふと目を開け「母ちゃん!」と一声呼んで、またすぐ目を閉じ、眠ったようだった。しばらく眠って、額や鼻先に一粒一粒の汗の珠が浮き出た。単四嫂子がそっと触ると、膠のように手にくっついた。慌てて胸を探ると、堪えきれずにすすり泣きを始めた。

宝児の呼吸が落ち着いたものから無くなるにつれて、単四嫂子の声もすすり泣きから号泣に変わった。この時、何人かが集まってきた。門内には王九婆さんや藍皮阿五の類、門外には咸亨の掌櫃や赤鼻の老拱の類。王九婆さんが指図して、紙銭を一連焼いた。さらに二脚の板凳と五枚の衣服を抵当にして、単四嫂子のために二元の洋銀を借り、手伝いの者たちに食事を出した。

最初の問題は棺桶だった。単四嫂子にはまだ銀の耳環が一対と金箔張りの銀の簪が一本あり、どちらも咸亨の掌櫃に渡して保証人を頼み、半額現金半額掛けで棺桶を一つ買った。藍皮阿五も手を差し出し、進んで引き受けようとしたが、王九婆さんが許さず、明日棺桶を担ぐ役だけ許した。阿五は「老畜生め」と一声罵り、不満げに唇を突き出して立っていた。掌櫃は出かけて行き、夜になって戻ると、棺桶はすぐに作らねばならず、後半夜にようやく出来上がると言った。

掌櫃が戻った時、手伝いの者たちはとうに食事を済ませていた。魯鎮にはまだいくらか古風が残っているため、初更にもなると皆帰って寝てしまった。ただ阿五だけが咸亨の勘定台にもたれて酒を飲み、老拱もうーうーと歌っていた。

この時、単四嫂子はベッドの縁に座って泣いていた。宝児はベッドの上に横たわり、紡ぎ車は静かに床に立っていた。長い時間の後、単四嫂子の涙は枯れ果て、大きく目を見開いて周囲を見回すと、何もかも不思議に思えた。こんなことがあるはずがないのだ。心の中で算段した——夢に違いない、こんなことはすべて夢だ。明日目が覚めたら、自分はちゃんとベッドに寝ていて、宝児もちゃんと自分のそばに寝ているのだ。あの子も目を覚まし、「母ちゃん」と呼んで、生き生きと跳ねて遊びに行くのだ。

老拱の歌声はとうに止み、咸亨も灯を消した。単四嫂子は目を見開いて、こんなことをどうしても信じなかった。——鶏も鳴いた。東の空が次第に白み、窓の隙間から銀白色の曙光が差し込んだ。

銀白の曙光がしだいに緋色を帯び、太陽の光が屋根棟に射した。単四嫂子は目を見開いてぼんやり座っていたが、門を叩く音が聞こえて、やっとはっとして飛び出し、門を開けた。門の外に見知らぬ人が一人、何かを背負っていた。後ろには王九婆さんが立っていた。

ああ、棺桶を背負って来たのだ。

午後になってようやく棺桶の蓋が閉じられた。単四嫂子は一泣きしては一見し、どうしても諦めきれずに蓋をさせなかったからだ。幸い王九婆さんが待ちきれなくなり、腹を立てて駆け寄り、一押しに引き離してくれたので、ようやくてんやわんやで蓋を閉めることができた。

しかし単四嫂子は宝児のために本当に心を尽くし、もはや何の欠けたところもなかった。昨日は紙銭を一連焼き、午前にはさらに四十九巻の『大悲咒』を焼いた。納棺の際には一番新しい着物を着せ、日頃好きだった玩具——泥人形一つ、小さな木の椀二つ、ガラスの小瓶二つ——をすべて枕元に置いた。後で王九婆さんが指を折って子細に検討したが、ついに何の欠けたところも思いつかなかった。

この日、藍皮阿五はまるきり一日中姿を見せなかった。咸亨の掌櫃が代わりに二人の人足を雇い、一人二百十文の大銭で、棺桶を義冢に運んで安置した。王九婆さんがまた飯を炊いてくれ、手を出し口を出した者たちが皆飯を食べた。太陽がだんだん山に入ろうとする色を見せると、飯を食べた者もいつしか帰ろうという色を見せ——こうして彼らはついに皆帰って行った。

単四嫂子はひどく目眩がして、しばらく休むと、意外にもいくらか落ち着いてきた。しかし続けざまに奇妙な感じがした。生まれてから出会ったことのない、ありそうもないことが、確かに起こったのだ。考えれば考えるほど不思議で、またもう一つ奇妙なことに気づいた——この家が急にあまりにも静かなのだ。

彼女は立ち上がり、灯をつけた。部屋はますます静かに見えた。ぼんやりと歩いて行って戸を閉め、戻ってベッドの縁に座った。紡ぎ車は静かに床に立っていた。気を落ち着けて四方を見回すと、いよいよ座っていても立っていてもいられなくなった。部屋は静か過ぎるだけでなく、大き過ぎ、ものも空っぽ過ぎた。大き過ぎる部屋が四方から彼女を取り囲み、空っぽ過ぎるものが四方から彼女を押し、息もできなくなった。

彼女は今、宝児が確かに死んだことを知った。この部屋を見たくなくて、灯を吹き消し、横になった。泣きながら考えた——あの頃、自分が綿糸を紡いでいると、宝児がそばに座って茴香豆を食べ、黒い小さな目を見開いてしばらく考えてから、こう言ったのだ。「母ちゃん——父ちゃんは雲呑を売ってたんだ。僕が大きくなったら僕も雲呑を売って、たくさんたくさんお金を稼いで——みんな母ちゃんにあげるよ。」あの時は、紡ぎ出す綿糸の一寸一寸までが意味を持ち、一寸一寸が生きているかのようだった。しかし今はどうだ? 今のことは、単四嫂子には実のところ何も思い浮かばなかった。——すでに言った通り、彼女は粗忽な女だ。彼女に何が思いつこうか。ただこの部屋があまりにも静かで、あまりにも大きく、あまりにも空っぽだと感じるだけなのだ。

しかし単四嫂子は粗忽ではあったが、還魂などあり得ないことは分かっていたし、宝児がもう二度と会えないことも確かに分かっていた。溜息をつき、独り言を言った。「宝児、お前はまだここにいるんだろう、夢の中で会わせておくれ。」そして目を閉じ、急いで眠って宝児に会おうとした。苦しげな息遣いが静寂と大きさと空虚を通り、自分にもはっきり聞こえた。

単四嫂子はついにぼんやりと夢の国に入った。部屋中がとても静かだった。この時、赤鼻の老拱の小唄もとうに歌い終わり、よろよろと咸亨を出たが、また声を張り上げて歌った——

「ああ恨めしい人よ!——可哀想に——独りぼっちで……」

藍皮阿五が手を伸ばして老拱の肩を掴み、二人はよろよろと笑いながら押し合いながら去って行った。

単四嫂子はとうに眠り込み、老拱たちも去り、咸亨も戸を閉めた。この時の魯鎮は完全な静寂の中に沈んでいた。ただあの闇夜が明日に変わろうとして、この静寂の中をなお奔走していた。ほかに数匹の犬が、暗がりに隠れてうーうーと鳴いていた。

第9節

(一九二〇年六月。)

【わが失恋

——擬古の新戯れ歌】

わが愛しき人は山の腰にあり

尋ねゆかんとすれど山はあまりに高く

うなだれてすべなし 涙袍を濡らす

愛しき人われに百蝶の巾を贈る

返すは何ぞ——木菟

爾来そっぽを向きて我を顧みず

何ゆえぞ わが心を驚かしむる

わが愛しき人は繁華の巷にあり

尋ねゆかんとすれど人混みに阻まれ

仰ぎてすべなし 涙耳を濡らす

愛しき人われに双燕の図を贈る

返すは何ぞ——氷糖葫蘆

爾来そっぽを向きて我を顧みず

何ゆえぞ わが頭を惑乱せしむる

わが愛しき人は河のほとりにあり

尋ねゆかんとすれど河の水深く

首をかしげてすべなし 涙襟を濡らす

愛しき人われに金の懐中時計の鎖を贈る

返すは何ぞ——発汗薬

爾来そっぽを向きて我を顧みず

何ゆえぞ わが神経を衰弱せしむる

わが愛しき人は豪家にあり

尋ねゆかんとすれど自動車なし

首を振りてすべなし 涙麻のごとし

愛しき人われに薔薇の花を贈る

返すは何ぞ——赤練蛇

爾来そっぽを向きて我を顧みず

何ゆえぞ——彼女に任せよかし

(一九二四年十月三日。)

【復讐(其の二)】

彼が自ら神の子、イスラエルの王を以て任じたがゆえに、十字架に釘づけにされに行くのだ。

兵卒たちは彼に紫の衣を着せ、茨の冠を戴かせ、慶賀した。また葦の茎で彼の頭を打ち、唾を吐きかけ、跪いて拝んだ。嘲弄し終わると、紫の衣を脱がせ、もとの衣を着せた。

見よ、彼らは彼の頭を打ち、唾を吐きかけ、拝む……

彼は没薬を混ぜた酒を飲もうとしなかった。イスラエルの民が彼らの神の子をいかに扱うかを、はっきりと味わおうとし、しかも彼らの前途をより永く憐れみ、しかし彼らの現在を憎んだのだ。

四方は敵意に満ちていた。憐れむべき、呪うべきものに。

丁丁と響き、釘の先が掌を貫通した。彼らは彼らの神の子を釘殺しようとしているのだ。憐れむべき人々よ、その痛みは彼を柔らかくした。丁丁と響き、釘の先が足の甲を貫通し、骨を一片砕いた。痛苦もまた心髄にまで透った。しかし彼ら自身が彼らの神の子を釘殺しつつあるのだ。呪うべき人々よ、この痛みは彼を快くした。

十字架は立てられた。彼は虚空に懸かった。

彼は没薬を混ぜた酒を飲まなかった。イスラエルの民が彼らの神の子をいかに扱うかを、はっきりと味わおうとし、しかも彼らの前途をより永く憐れみ、しかし彼らの現在を憎んだのだ。

通りがかりの者は皆彼を罵り、祭司長や律法学者も彼を嘲弄し、ともに釘づけにされた二人の強盗も彼を嘲った。

見よ、ともに釘づけにされた者までも……

四方は敵意に満ちていた。憐れむべき、呪うべきものに。

彼は手足の痛苦の中で、憐れむべき人々が神の子を釘殺する悲哀と、呪うべき人々が神の子を釘殺しようとし、しかも神の子がまさに釘殺されんとする歓喜とを味わった。突然、砕けた骨の大いなる痛苦が心髄にまで透り、彼はすなわち大いなる歓喜と大いなる悲憫の中に酔いしれた。

彼の腹部が波打った。悲憫と呪詛の痛苦の波が。

地はことごとく暗くなった。

「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!?」(訳せば、すなわち——わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!?)

神は彼を棄てた。彼はついにやはり一人の「人の子」であった。しかしイスラエルの民は「人の子」さえも釘殺した。

「人の子」を釘殺した者たちの身には、「神の子」を釘殺した場合にもまして血が汚れ、血の臭いがした。

(一九二四年十二月二十日。)

第10節

彼女がもう矢継ぎ早に問わないのに乗じて、私は足を速めて歩き出し、大急ぎで四叔の家に逃げ帰った。心の中がひどく落ち着かなかった。自分で思った。この答え方は彼女にとっていくらか危険だったかもしれない。彼女はおそらく他の人々の祝福の時に、自分自身の寂寞を感じたのだろう。だが、他に何か含みがあったのではないか?——あるいは何か予感があったのか? もし他の意味があり、そのために何か別のことが起こったなら、私の答えはいくばくかの責任を負うべきだ……。しかしすぐにまた自嘲して、偶然の出来事にもともと何の深い意味もないのに、私がわざわざ子細に推し量るから、教育者に神経病だと言われるのも無理はないと思った。まして「分かりません」とはっきり言ったのだから、答え全体をすでに覆したのであり、たとえ何事が起ころうとも、私とは毫も関係がないのだ。

「分かりません」は極めて有用な言葉だ。世慣れぬ勇敢な若者はしばしば他人の疑問を解こうとしたり、医者を選んだりするが、万一結果が良くなければ、大抵かえって恨みの的になる。しかしこの「分かりません」で結びとすれば、万事のんびりと気楽でいられるのだ。私はこの時、この一言の必要性をいよいよ痛感した。たとえ物乞いの女と話す時であっても、決して省いてはならないのだ。

しかし私はやはり落ち着かず、一夜が過ぎても、なお時々思い出された。何か不吉な予感を抱いているかのように。陰鬱な雪の日の、退屈な書斎の中で、この不安はいよいよ強まった。いっそ出かけよう、明日町へ行こう。福興楼の清蒸鱶鰭は一元で大皿一つ、安くて旨かった。今は値上がりしているだろうか? かつて一緒に出かけた友人たちは、すでに雲散霧消したが、しかし鱶鰭は食べないわけにはいかない。たとえ私一人だけだとしても……。いずれにしても、明日きっと出発するのだ。

私は、かねてそうであってほしくないと願い、まさかそうではあるまいと思っていたことが、往々にしてその通りになるのを見てきたから、今度のこともその例に違わないかと恐れた。果たして、特別の事態が始まった。夕方、奥の部屋で何人かが何事か相談しているらしい話し声が聞こえたが、やがてそれも止み、ただ四叔が歩きながら大声で言うのが聞こえた。

「早くもなく遅くもなく、よりによってこの時に——これこそ謬種というものだ!」

私は最初は不審に思い、次いでひどく落ち着かなくなった。この言葉は私に関係があるようだった。門外を見ても誰もいない。やっと夕食前に下男が茶を入れに来た時、ようやく情報を聞き出す機会を得た。

「さっき、四老爺は誰に怒っていたのですか?」と私は聞いた。

「祥林嫂のことじゃありませんか。」下男は簡潔に答えた。

「祥林嫂? どうしたのです?」私はまた急いで聞いた。

「年を取ったんですよ。」

「死んだのか?」私の心は急に締めつけられ、ほとんど飛び上がりそうで、顔色もたぶん変わっただろう。しかし彼は終始顔を上げなかったので、まったく気づかなかった。私も自分を落ち着かせて、続けて聞いた。

「いつ死んだのです?」

「いつだって?——昨夜か、それとも今日か——分かりません。」

「どうして死んだのです?」

「どうしてって——貧乏で死んだんですよ。」彼は淡々と答え、やはり顔を上げずに出て行った。

しかし私の驚愕は一時のことに過ぎず、すぐに、来るべきことはすでに過ぎ去ったのだと感じた。私自身の「分かりません」と、彼の言う「貧乏で死んだ」という慰めに頼るまでもなく、心は次第に軽くなった。ただ時折、いくらかの後ろめたさがあるようだった。夕食が並べられ、四叔が厳かに相伴した。私もなお祥林嫂の消息を聞き出したかったが、彼は「鬼神は二気の良能なり」を読んだ人でありながら忌諱がなお多く、祝福の近づく時に死亡や病気の類の話をするのは絶対に許されないと知っていた。やむを得ない場合は隠語を使うべきだが、あいにく私にはそれが分からず、何度も聞こうとしてはやめた。彼の厳めしい顔色から、彼がまさに私のことを、早くもなく遅くもなくこの時に来て煩わせるのは一つの謬種だと思っているのではないかと疑い、急いで明日魯鎮を離れて町へ行くと告げ、早々に彼の心を安んじた。彼もさほど引き止めなかった。こうして悶々と一食を食べ終えた。

冬は日が短く、しかも雪の日で、夜の帳はすでに早くから町全体を覆っていた。人々は灯りの下であわただしいが、窓の外は静まり返っていた。雪花が分厚く積もった雪の褥の上に落ち、瑟瑟と音がするかのようで、いよいよ深い静寂を感じさせた。私は黄色い光を発する菜種油のランプの下に独り座り、考えた。この打つ手のない祥林嫂が、人々に捨てられた塵芥の中の、見飽きた古くさい玩具のように、以前はまだ形骸を塵芥の中に晒していた。生きることに楽しみを見出す人々から見れば、なぜまだ存在するのかと怪しまれたであろう。今やようやく無常に一掃され、きれいさっぱり片づいた。魂の有無は私には分からない。しかしこの世においては、無聊な生者が生まれず、嫌悪する者が見ずに済むのは、人のためにも己のためにも悪くはない。私は窓の外の瑟瑟と音を立てるかのような雪花の声を聞きながら、考えるにつれて、かえって次第に晴れやかな気持ちになってきた。

しかし、先に見聞きした彼女の半生の断片が、ここに至って一つに繋がった。

彼女は魯鎮の人ではなかった。ある年の初冬、四叔の家で女中を替えようとしていた時、仲人の衛婆さんが彼女を連れてきた。頭に白い喪の紐を巻き、黒い裙、藍の袷袄、月白の背心を身につけ、年齢は二十六、七ほど。顔色は青黄色だが、両の頬にはまだ赤みがあった。衛婆さんは彼女を祥林嫂と呼び、自分の母方の実家の隣人で、夫を亡くしたので奉公に出てきたのだと言った。四叔は眉をひそめた。四婶はすでに彼の意を察した——寡婦であることが気に入らないのだ。だが見たところ容貌は端正で、手足も丈夫で、しかも目を伏せたまま一言も口を開かず、まことに分相応で辛抱強い人のようだったので、四叔の渋面など構わず引き留めた。試用期間中、彼女は一日中働き、暇でいるのが退屈というかのようで、しかも力があり、まったく男一人分に相当した。そこで三日目に本決まりとなり、月の賃金は五百文に定められた。

皆が彼女を祥林嫂と呼んだ。姓は聞かなかったが、仲人は衛家山の人で、隣人だと言うからには、おそらく姓も衛であろう。彼女はあまり口数が多くなく、人に聞かれて初めて答え、答えても多くは語らなかった。十数日経ってようやく次第に分かったのは、家には厳しい姑がいること、十いくつになる小姑がいて、柴刈りができること、彼女は春に夫を亡くしたこと、夫ももとは柴刈りで生計を立て、彼女より十歳若かったこと——皆が知っていたのはただこれだけだった。

日は早く過ぎ、彼女の仕事ぶりには少しも弛みがなかった。食べ物は選ばず、力は惜しまなかった。人々は皆、魯四老爺の家に雇われた女中は、実際に勤勉な男よりもなお勤勉だと言った。年末には、掃除、床磨き、鶏を殺し、鵞鳥を屠り、夜通し「福礼」を煮るのも、すべて一人で引き受け、臨時の手伝いを雇わずに済んだ。しかし彼女はかえって満足し、口元にだんだん笑みが浮かび、顔も白くふっくらしてきた。

新年が過ぎたばかりの頃、彼女が川べりで米を研いで帰ってきた時、ふと顔色を変えた。さっき遠くに対岸を彷徨く男がいて、夫の家の従伯にそっくりで、おそらく彼女を探しに来たのだろうと言う。四婶はたいそう驚き怪しみ、詳しく聞こうとしたが、彼女はそれ以上は言わなかった。四叔は聞くとすぐに眉をひそめて言った。

「これは良くない。どうやら逃げてきたらしい。」

彼女はまさしく逃げてきたのであり、まもなくこの推測は証明された。

その後おそらく十数日して、皆がそろそろ先の事を忘れかけた頃、衛婆さんが突然三十過ぎの女を連れてきた。祥林嫂の姑だと言う。その女は山の人の身なりだったが、応対はなかなか堂に入っており、話もうまく、挨拶の後に詫びを述べた。嫁を実家に呼び戻しに来たのだという。春は忙しいのに家には年寄りと子供しかおらず、人手が足りないからだそうだ。

「彼女の姑が帰れと言うなら、何も言いようがない。」四叔は言った。

そこで賃金を精算した。合計千七百五十文。彼女は全額を主人の家に預けたままで、一文も使っていなかったので、すべて姑に渡した。あの女はさらに衣服を取り、礼を言って出て行った。その時はすでに正午だった。

「おや、お米は? 祥林嫂は米を研ぎに行ったはずでは?……」しばらくして、四婶がようやく叫んだ。彼女は少し空腹を覚え、昼飯のことを思い出したのだ。

そこで皆手分けして笊を探した。彼女はまず台所、次に広間、それから寝室を探したが、どこにも笊の影はなかった。四叔が門の外に出ても見つからず、川べりまで行ってようやく、笊がきちんと岸に置いてあるのを見つけた。そのそばに菜が一株。

目撃者の報告によれば、川には午前中から白い帆の船が一艘停泊しており、帆はすっぽりと被せてあって、中に誰がいるか分からなかったが、事前には誰も気に留めなかった。祥林嫂が米を研ぎに出てきて、まさに跪こうとした瞬間、船の中から突然二人の男が飛び出した。山の人のようで、一人が彼女を抱き、一人が手伝って船に引きずり込んだ。祥林嫂は何度か叫んだが、その後はもう何の物音もしなかった。おそらく何かで口を塞がれたのだろう。続いて二人の女が歩いてきた。一人は見知らぬ女で、もう一人は衛婆さんだった。船内を覗くと、よくは分からなかったが、彼女は縛られて船板の上に横たわっているようだった。

「けしからん! しかし……。」四叔は言った。

この日は四婶が自分で昼飯を作った。息子の阿牛が火を焚いた。

昼食後、衛婆さんがまた来た。

「けしからん!」四叔は言った。

「どういうおつもりです? よくもまあ再びお目にかかれたものですね。」四婶は皿を洗いながら、会うなり憤然として言った。「あなた自身が彼女を推薦して連れて来ておいて、今度は結託して攫って行って、大騒ぎになって、みっともないったらない。うちを馬鹿にしているのですか?」

「おやおや、とんだ手違いでした。今回わざわざ参ったのは、このことを申し上げるためです。彼女が奉公先を探してくれと頼むので、まさか姑に内緒だとは思いもしませんでした。申し訳ありません、四老爺、四太太。いつもお宅は心が広くて、小人と争わないお方ですから。今度はきっと良い者を推薦して罪滅ぼしをいたします……。」

「しかし……。」四叔は言った。

こうして祥林嫂事件は終結し、まもなく忘れ去られた。

ただ四婶だけは、その後雇った女中がおおむね怠け者か食いしん坊、あるいは食いしん坊の上に怠け者で、何かと気に入らなかったので、今でも祥林嫂のことを口にした。そのたびに独り言のように言った。「あの人は今頃どうしているかしら?」希望は、彼女がまた来てくれることだった。しかし翌年の正月になっても、望みは絶えた。

正月が終わりかけた頃、衛婆さんが年賀に来た。すでにかなり酔っ払っていた。衛家山の実家に帰って数日泊まったから遅くなったのだと自分で言った。問答の間に、自然と祥林嫂の話になった。

「あの人ですか?」衛婆さんは嬉しそうに言った。「今は良い運にめぐり合ったんですよ。姑が連れ戻しに来た時には、とっくに賀家墺の賀老六に嫁がせる話がついていたんです。だから家に帰って何日もしないうちに、花嫁籠に乗せて担いで行ったんですよ。」

「おやまあ、なんという姑でしょう!……」四婶は驚いて言った。

「おやおや、奥様!大家のお方のお言葉ですよ。私ら山の者、小家の人間にはこんなこと何でもありません。彼女には小姑がいて、嫁を取らねばなりませんからね。嫁にやらなければ、聘礼のための金がどこにある?姑はなかなかのやり手で、よく計算しているから、だから山奥に嫁にやったんです。同じ村の者に嫁がせたら、聘礼は多くはもらえない。深山の奥まで嫁ぐ女が少ないから、八十千もの金が手に入った。今では次男の嫁も迎えたが、聘礼は五十千で済んだ。祝儀の費用を引いても、十数千は残る。ねえ、この算段の見事なこと!……」

「祥林嫂は承知したのですか?……」

「承知も何も。——暴れるのは誰だって暴れますよ。ただ縄で一つ縛って花嫁籠に押し込み、男の家に担いで行って、花冠を被せ、拝礼させ、部屋の戸を閉めれば、それでおしまいです。ところが祥林嫂は本当に並外れていましてね。聞くところでは、あの時は本当にひどく暴れたそうで、みんな、読書人の家で奉公していたから人並み外れているのだろうと言ったものです。奥様、私どもは場数を踏んでおりますよ。再婚で嫁に行く女が、泣き叫ぶ者もいれば、死ぬの殺すのと言う者もいるし、男の家に担ぎ込まれて天地の拝礼ができないほど暴れる者もいれば、花燭まで叩き壊す者もいる。祥林嫂はまったく尋常ではなかった。道中ずっと泣き喚き、罵り通しで、賀家墺に着いた時にはもう喉が潰れていた。輿から引き出しても、二人の男と小姑が力づくで押さえても、まだ天地の拝礼ができなかった。ちょっと油断して手を緩めた隙に、ああ、南無阿弥陀仏、彼女は頭から香案の角にぶつかり、額に大きな穴が開いて血がだらだらと流れ、香灰を二掴み当てて赤い布を二枚巻いても血は止まらなかった。七人八人がかりで彼女と男を新房に閉じ込めてもまだ罵っていた。ああまあ、これは本当に……。」彼女は頭を振り、目を伏せて、言わなかった。

「それからどうなりました?」四婶はなお聞いた。

「聞くところでは、翌日も起きてこなかったそうです。」彼女は目を上げて言った。

「それから?」

「それから?——起きてきましたよ。年末にはもう子供を産んで、男の子で、新年にはもう二つになりました。私が実家にいるこの数日の間に、賀家墺に行った人がいて、帰ってきて言うには、母子ともに見たそうで、母親も太り、子供も太っている。上に姑もいない。男は力持ちで、よく働く。家は自分の物だ。——ああ、あの人は本当に良い運にめぐり合ったのですよ。」

これ以後、四婶も祥林嫂のことを口にしなくなった。

しかしある年の秋——祥林嫂の幸運の知らせを聞いてからさらに二度の新年を経た後——彼女はなんとまた四叔の家の広間に立っていた。卓の上には慈姑の形の丸い竹籠が一つ、軒下には小さな布団包みが一つ。やはり頭には白い喪の紐を巻き、黒い裙、藍の袷袄、月白の背心で、顔色は青黄色だが、両の頬からはすでに血の色が消え、目を伏せ、目尻に涙の痕があり、目の光もかつてのような精彩はなかった。そしてやはり衛婆さんが連れてきて、慈悲深い様子で、くどくどと四婶に言った。

「……これはまったく『天に不測の風雲あり』というものです。あの人の夫は丈夫な人でした。まさか若いのに、傷寒で逝ってしまうとは。もう治りかけていたのに、冷や飯を一杯食べて再発したんです。幸い子供がいる。彼女はよく働くから、柴刈りでも茶摘みでも蚕の世話でも何でもする。もともとまだやっていけたはずなのに、あの子供までが狼にさらわれるとは。春ももう終わりかけという時に、村にかえって狼が出てきたのです、誰が思ったでしょう?今ではただ一人きりの体になってしまった。伯父が来て家を取り上げ、追い出した。本当にどこにも行き場がなくなって、元の主人の家に頼るしかないのです。幸い今ではもう何のしがらみもないし、奥様のお宅もちょうど人を替えるところでしたから、私がお連れしたのです。——なじみの道ですもの、初めてのよそ者よりはずっとましでしょう……。」

「私は本当に馬鹿でした、本当に」と祥林嫂は精彩のない目を上げて、続けて言った。「雪の時は山奥の獣に食べ物がなくなって村に来ることは知っていた。春にも来るとは知らなかった。早朝起きて戸を開け、小さな籠に豆を一杯入れて、あのう、阿毛を敷居に座らせて豆を剥かせた。あの子はとても聞き分けが良かったんです。私の言うことは何でも聞いた。あの子は出て行った。私は裏で薪を割り、米を研ぎ、米を鍋にかけ、豆を蒸そうとした。阿毛を呼んだけど返事がない。出て見ると、豆が一面に散らばっていて、阿毛がいない。あの子はよその家に遊びに行くような子じゃない。あちこち聞いて回ったけど、やっぱりいない。焦って、人に頼んで探しに行った。午後になって、あちこち探してやっと山の窪みで見つけた。棘の柴に小さな靴が片方引っかかっていた。みんな言った。しまった、狼にやられたに違いない、と。さらに奥へ行くと、果たして草むらに横たわっていた。お腹の中の五臓はもうすっかり食べられていて、手にはまだあの小さな籠をしっかり握っていた。……」彼女はそのまますすり泣きとなり、まとまった言葉にならなかった。

四婶は最初は躊躇していたが、彼女自身の話を聞き終えると、目の縁がいくらか赤くなった。少し考えてから、丸い竹籠と布団包みを下の部屋に持って行くよう言いつけた。衛婆さんは重荷を下ろしたようにほっと一息ついた。祥林嫂は初めて来た時よりいくらか晴れやかな面持ちで、案内されるまでもなく手慣れた様子で寝具を整えた。彼女はこうして再び魯鎮で女中として働くことになった。

みなは相変わらず彼女を祥林嫂と呼んだ。

第11節

しかし今度は、彼女の境遇は非常に大きく変わった。奉公して二三日もすると、主人たちは彼女の手足が以前ほど機敏でなくなり、物覚えもずっと悪くなったことに気づいた。死人のような顔には終日笑みの影もなく、四婶の口調にはかなりの不満が滲んでいた。初めて来た時、四叔は例によって眉をひそめたが、もとより女中を雇う難しさに鑑みて、さほど反対はしなかった。ただひそかに四婶に告げた。この種の人間は確かに気の毒のようだが、風俗を乱すものだ。手伝いに使うのはまだよいが、祭祀の際には手を触れさせてはならない。すべての飯菜は自分で作るほかない。さもなければ、不浄であって、祖先は召し上がらないのだと。

四叔の家で最も重大な行事は祭祀であり、祥林嫂は以前最も忙しかったのもこの祭祀の時であったが、今回は暇であった。卓を広間の真ん中に置き、卓帷を掛けると、彼女は以前と同じように酒杯と箸を配ろうとした。

「祥林嫂、置いておきなさい!私が並べるから。」四婶が慌てて言った。

彼女はしょんぼりと手を引っ込めた。今度は燭台を取りに行った。

「祥林嫂、置いておきなさい!私が持って行くから。」四婶がまた慌てて言った。

彼女は何度かぐるぐる回ったが、結局することがなく、訝しげに歩き去るしかなかった。この日、彼女にできることはせいぜい竈の下に座って火を焚くことだけだった。

鎮の人々もやはり彼女を祥林嫂と呼んだが、声の調子は以前とはずいぶん違っていた。まだ話しかけてはくるが、笑顔は冷淡であった。彼女はそんなことには一切構わず、ただ目を真っ直ぐにして、皆に昼も夜も忘れられない自分の話をした——

「私は本当に馬鹿でした、本当に」と彼女は言った。「雪の日は山奥の獣に食べ物がなくなって村に来ることしか知らなかった。春にも来るとは知らなかった。朝早く起きて戸を開け、小さな籠に豆を一杯入れて、阿毛を敷居に座らせて豆を剥かせた。聞き分けのよい子でした。私の言うことは何でも聞いた。あの子は出て行った。私は裏で薪を割り、米を研ぎ、米を鍋にかけ、豆を蒸そうとした。『阿毛!』と呼んだけど返事がない。出て見ると、豆が一面に散らばっていて、阿毛がいない。あちこち聞いても、いない。焦って、人に探しに行ってもらった。午後になって、何人かが山の窪みで見つけた。棘の柴に小さな靴が片方引っかかっていた。みんな言った。おしまいだ、狼にやられたに違いない、と。さらに奥へ行くと、果たして草むらに横たわっていた。お腹の五臓はもうすっかり食べられていたのに、可哀想にあの子はまだしっかり小さな籠を握っていた。……」彼女はそこで涙を流し、声もすすり泣きになった。

この話はなかなか効き目があり、男たちはここまで聞くと大抵笑みを引っ込め、つまらなそうに立ち去った。女たちはそればかりか赦したかのように、顔の蔑みの表情をすぐに改め、さらに多くの涙を流した。わざわざ聞きに来る老婆もいた。彼女がすすり泣きに至ると、彼女たちも一斉に目尻に溜めていた涙を流し、溜息をつき、満足して去って行った。そしてなおも口々に批評し合っていた。

彼女はただ繰り返し繰り返し悲惨な話を聞かせ、しばしば三人五人の聞き手を集めた。しかしまもなく皆も聞き飽きて、最も慈悲深い念仏の老婆たちの目にさえ、もはや涙の痕は見えなくなった。やがて鎮中の人々がほとんど皆、彼女の話を暗誦できるようになり、聞くと退屈で頭が痛くなった。

「私は本当に馬鹿でした、本当に」と彼女が切り出すと——

「そうだ、お前は雪の日しか山奥の獣が食べ物を求めて村に来ないと思っていたんだ。」と彼らはすぐに話を遮り、立ち去るのであった。

彼女は口を開けたまま呆然と立ち、真っ直ぐな目で彼らを見つめ、それから自分も去った。自分でもつまらないと感じたようだった。しかしまだ望みを捨てず、小さな籠や豆や他人の子供から、阿毛の話を引き出そうとした。二三歳の子供を見ると、彼女は必ず言った——

「ああ、うちの阿毛が生きていたら、こんなに大きくなっていたのに。……」

子供たちは彼女の目を見て怯え、母親の裾を引っ張って急がせた。するとまた彼女一人だけが残り、つまらなそうに去って行くのだった。後には皆が彼女の癖を知り、子供が目の前にいさえすれば、笑うでもなく笑わないでもない顔でまず彼女に聞くのだった——

第12節

彼もまた私に別れてからの様子を聞いた。私は一方で大体のところを話しながら、一方で店の者に先に杯と箸を持ってこさせ、まず私の酒を飲ませてから、追加で二斤を注文させた。その間に料理も注文したが、以前の我々はまったく遠慮がなかったのに、今は互いに譲り合い、結局彼に決めさせることになって、四つの料理を選んだ——茴香豆、ゆで落花生、豆腐干し、茹で枝豆であった。

酒を飲みながら、互いの状況を話した。彼は私のことを聞き、私は彼のことを聞いた。しかし話は弾まなかった。昔はあんなに尽きることなく語り合ったのに、今は何を話してよいか分からないのだ。二人の間には、何か見えない壁ができてしまったようだった。

彼の身の上は聞くに堪えなかった。工場は閉鎖され、仕事は見つからず、妻は子供を連れて実家に帰ってしまった。今は友人のところに泊めてもらっているが、それもいつまで続くか分からない。

「だが」と彼は急に目を輝かせて言った。「一つだけ良いことがある。僕は最近、小説を書いているんだ。」

「小説?」

「そうだ。工場で経験したことを書いている。労働者の生活を、ありのままに書こうと思っている。」

彼は懐から原稿の束を取り出した。汚れた紙に、細かい字がびっしりと書いてあった。私はいくつかの頁を読んだ。文章は粗削りだったが、力強く、真実味があった。工場の騒音や埃や汗の匂いが、行間から立ち上ってくるようだった。

「悪くない」と私は言った。「だが、これを出版してくれるところがあるだろうか?」

彼は沈黙した。しばらくして言った。「分からない。だが書かずにはいられないんだ。」

我々はさらに酒を飲んだ。話はだんだん少なくなり、杯を重ねるうちに、二人とも黙り込んでしまった。窓の外では暮色が深まり、通りに灯がともり始めた。

「そろそろ行こうか。」ついに私が言った。

勘定を払い、店を出た。通りで彼と握手し、別れた。彼は一方へ、私は別の方へ歩き出した。数歩行って振り返ると、彼の後ろ姿がだんだん暮色の中に消えていくところだった。

第13節

彼の筆はたちまち止まった。顔を上げ、両眼を天井に向けて凝視し、あの「幸福な家庭」を置く場所をあれこれ案配していた。彼は考えた。「北京か? 駄目だ、死気沈沈として、空気まで死んでいる。もしこの家庭の周囲に高い壁を築いたとしたら、外のぐずぐずした空気が染み込んでこないとでも言うのか? だから北京は駄目だ。上海か? いや、いや、もっと駄目だ。A というのはどうだ——そうだ、A にしよう。A は——A はどこでもない場所だ、仮にどこかの場所としておこう。」

こう決めると、また書き続けた。しかしすぐにまた止まった。今度は「幸福な家庭」の主人公の容姿を思い描かなければならなかった。

「身長は?——中くらい。顔は?——やや長い。目は?——大きくもなく小さくもなく。鼻は?——まっすぐ。着ているものは?——西洋服。」

ここまで来て、彼は筆を置き、煙草に火をつけた。そして窓の外を見た。雨がしとしとと降っていた。屋根瓦の上を雨水が流れ、軒先からぽたぽたと落ちていた。向かいの壁は湿って暗く、壁の上には何かの広告が貼ってあったが、雨に打たれて半分剥がれていた。

「幸福な家庭」——この言葉が、彼の頭の中でぐるぐると回った。幸福とは何か? 家庭とは何か? 彼自身の家庭を思った。狭い部屋に、妻と二人の子供。妻は朝から晩まで不機嫌で、子供たちはしきりに泣く。米が足りない、薪が足りない、家賃の催促が来る。これが彼の「家庭」だ。そしてこれのどこが「幸福」だと言うのか。

彼は原稿用紙を見た。「幸福な家庭」——この題目はまるで嘲笑のようだった。自分を嘲笑し、この世界を嘲笑しているかのようだった。

しかし彼は書かなければならなかった。なぜなら原稿料が必要だったからだ。彼は煙草を捨て、再び筆を取り上げた。

「この幸福な家庭の主人は、毎朝七時に目を覚まし……」

いや、七時は早すぎる。幸福な家庭の主人が、そんなに早く起きるだろうか?

「九時に目を覚まし……」

しかし九時まで寝ていられるような家庭は、召使いがいなければならない。召使いの給料はいくらだろう? そんなことまで書くのか?

彼はまた煙草に火をつけた。

第14節

「僕はちょうど八卦拳の稽古をしていたところで……。」彼はすぐに向き直って四銘に正面を向き、背筋を伸ばして立ち、彼を見つめた。何の用かと問う様子だった。

「学程くん、君に聞きたいんだが。『悪毒婦』とは何だね?」

「『悪毒婦』?……それは……」

学程は首を傾げて考えた。「先生、どこでその言葉を見つけたのですか?」

「今日の新聞に載っていた記事の中にあったのだ。」

「ああ、それは——つまり、毒の強い女のことです。性格の悪い女、意地の悪い女、そういう意味です。」

「ふむ、それは分かっている。しかし私が聞きたいのは、もっと正確な典拠だ。古典に出ているのかね?」

「古典ですか……。ちょっと思い出せません。しかし民間ではよく使う言葉ですよ。」

四銘は不満げだった。彼はこの問題をもっと深く掘り下げたかったのだ。新聞の記事では、ある女が夫を毒殺した事件を報じており、その女を「悪毒婦」と呼んでいた。四銘はこの言葉に深い興味を覚え、これを使って一篇の論文を書こうと思っていた。中国の女性の道徳の退廃を論じ、古来の婦徳を説き、現代の風潮を批判する——そのような堂々たる論文を。

しかし典拠がはっきりしなければ、論文は書けない。彼は書斎に戻り、『康熙字典』を開いたが、「悪毒婦」という項目はなかった。『淵鑑類函』にも見当たらない。彼はますます苛立ち、茶を何杯も飲んだ。

外では学程がまた八卦拳の稽古を始めていた。掌を突き出し、足を踏み鳴らし、気合いの声が聞こえてくる。四銘は窓越しにちらと見て、眉をひそめた。あの若者は武術にばかり熱中して、学問をしない。これもまた現代の堕落の一つの表れだと彼は思った。

結局のところ、四銘の論文は書けなかった。彼は一日中、典拠を探し回った挙げ句、夕方になって疲れ果て、長椅子に横になった。妻が夕食だと呼びに来た時、彼は目を開けてこう言った。

「あの新聞の記事はけしからん。道徳が乱れておる。」

妻は何のことか分からず、ただ「ご飯ですよ」と繰り返した。

四銘は嘆息しながら立ち上がり、食卓に向かった。食卓には質素な惣菜が並んでいた。彼はまた嘆息した。これは「幸福な家庭」とはほど遠い。しかしこの思いはすぐに消え、代わりにまたあの「悪毒婦」の典拠のことが気にかかり始めた。

第15節

彼は居場所がなくなったと感じ、蝋燭を消して、庭に出た。行ったり来たりしているうちに、うっかりして、雌鶏と雛がまたぴよぴよと鳴き出したので、すぐに足音を忍ばせ、遠くへ歩いていった。しばらくすると、広間の灯が寝室に移された。地面一面の月光が見え、まるで継ぎ目のない白紗を敷き詰めたようで、玉盤のような月が白雲の間に浮かび、少しも欠けたところは見えなかった。

彼はいささか悲しくなり、あの孝行娘と同じように「訴える術もない民」となり、孤独で寄る辺なくなったかのようであった。その夜、彼はたいへん遅くまで眠れなかった。

だが翌朝になると、石鹸はついに採用された。この日、彼はいつもより遅く起きたが、彼女はすでに洗面台に身をかがめて首筋を擦っており、石鹸の泡は大蟹の口から出る泡のように、両耳の後ろに高々と積み上がっていた。以前の皂莢を使っていたときのごく薄い白い泡とは、まさに雲泥の差であった。それ以来、四太太の体にはいつもオリーブのようなオリーブでないような名状しがたい香りが漂い、半年近く経って、ふいに様子が変わり、嗅いだ者は皆、あれは白檀の香りではないかと言った。

(一九二四年三月二十二日。)

【長明灯】

春曇りの午後、吉光屯唯一の茶館の空気がまた緊張してきた。人々の耳には、まだ微かで沈んだ声が残っているかのようであった——

「消してしまえ!」

だがもちろん、屯の人々がすべてそうだったわけではない。この屯の住民はあまり外出しない連中で、少し動くにも暦を調べ、「外出に不向き」と書いてあるかどうか確認しなければならなかった。書いていなくても、出かけるにはまず喜神の方角へ向かい、吉を迎えなければならなかった。禁忌に頓着せず茶館に座っているのは、闊達を自任する数人の若者だけで、引きこもりの人々から見れば、一人残らず放蕩息子であった。

今もやはり、この茶館の空気が緊張しているにすぎなかった。

「まだあの調子か?」三角顔が茶碗を持ち上げて訊いた。

「聞くところでは、まだそうだ」と方頭が言った。「相変わらず『消してしまえ、消してしまえ』と言い続けている。目つきもますます光っている。くそっ!あいつはこの屯の大きな厄災だ、些細なことと見てはならん。何か手を打たなければ!」

「あいつを始末するなど、何ほどのことがあろう。あいつはただの……何者でもない!廟を建てた時、あいつの先祖も寄付をしたのに、今になって長明灯を吹き消そうとする。これは不肖の子孫ではないか?県に訴え出て、不孝で訴えてやろう!」闊亭が拳を握りしめ、卓上を一撃して慷慨に言った。斜めにかぶさっていた茶碗の蓋も、ぽんと音を立ててひっくり返った。

「駄目だ。不孝で訴えるには、父母か母方の叔父でなければ……」と方頭が言った。

「惜しいことに、あいつには伯父が一人いるだけだ……」闊亭はたちまち意気消沈した。

「闊亭!」方頭が突然呼んだ。「昨日の牌の運はどうだった?」

闊亭は目を見開いて彼をしばらく見つめたが、すぐには答えなかった。太った顔の荘七光がすでに声を張り上げて叫んでいた——

「灯を吹き消したら、わしらの吉光屯はもう吉光屯ではなくなるではないか。おしまいだ。年寄りたちも言っておるだろう——あの灯は梁の武帝が点されたもので、ずっと伝わってきて、消えたことがない。太平天国の乱の時でさえ消えなかった……。見てみろ、あの灯火は緑に輝いておるではないか。余所者もここを通ると皆見に来て、褒め称える……。なんと素晴らしい……。あいつが今こんな狼藉を働くとは、どういうつもりだ?……」

「あいつは気が狂ったのだ。まだ知らなかったのか?」方頭がいくらか軽蔑した様子で言った。

「ふん、お前は賢いな!」荘七光の顔は脂ぎった。

「思うに、昔のやり方であいつを騙すのが一番だ」と灰五嬸——この店の主人兼働き手——が言った。彼女はもとより傍聴していたのだが、話が本題から逸れていくのを見て、急いで口論を遮り、本筋に引き戻そうとしたのだった。

「昔のやり方とは?」荘七光が怪訝そうに訊いた。

「あの人は前にも一度気が狂ったことがあるだろう、今と全く同じように。あの時はまだ父親が生きていて、騙してやったら治ったのだ。」

「どう騙した?なぜ私は知らないのだ?」荘七光がますます怪訝そうに訊いた。

「お前さんたちが知っているわけがないだろう。あの頃お前さんたちはまだ小さい子で、乳を飲んで糞をひるだけだった。私だって、あの頃はこんなではなかった。あの頃の私の手を見てご覧、本当にきめ細かくすべすべで……」

「今だってまだすべすべだ……」と方頭が言った。

「ふざけるんじゃないよ!」灰五嬸は怒った目で笑い出した。「馬鹿を言うのはやめて、まじめな話をしよう。あの人はあの時まだ若かった。父親にも少し気の狂ったところがあった。聞くところでは、ある日、祖父があの人を社廟に連れて行き、社老爺、瘟将軍、王霊官老爺を拝むように教えたところ、あの人は怖がって頑として拝まず、走り出てしまった。それ以来少しおかしくなった。その後は今と同じように、人に会うたびに正殿の長明灯を吹き消す相談を持ちかけるのだ。消せばもう蝗虫も疫病もなくなると言って、まるで天下の一大事のように。おそらく邪霊が取り憑いて、正道の神を恐れるようになったのだろう。わしらなら、社老爺を怖がるかね?お茶が冷めやしないかい?お湯を足しておくれ。さて、あの人は後で自分から廟に乗り込んで、吹き消そうとした。父親はあの人を可愛がりすぎて、閉じ込めようとしなかった。ああ、後で屯中が憤慨して、父親のところへ押しかけて騒いだだろう?でも手の打ちようがなかった——幸い、うちの死んだ亭主があの頃はまだ生きていて、一計を案じた。長明灯を厚い綿布団で囲み、真っ暗にして、あの人を連れて行って見せ、もう吹き消したと言ったのだ。」

「ああ、よくもまあそんなことを思いついたものだ。」三角顔がため息をつきながら言った。感服の至りといった様子であった。

「そんな手間をかけるまでもない」と闊亭が憤然として言った。「こんな奴、打ち殺せばそれで済む!」

「そんなことができるわけがないだろう!」彼女は驚いて彼を見つめ、慌てて手を振った。「できるわけがない!あの人の祖父は役所の印を持っていた人ではないか。」

闊亭たちはたちまち顔を見合わせ、「死んだ亭主」の妙案のほかには、実に手の打ちようがないと感じた。

第16節

「わしは毎日あの子が良くなるのを待ち望んでいる」と四爺は暫しの静寂の後、ゆっくりと言った。「だがあの子はいつまでも良くならん。良くならんというのでもない、自分から良くなろうとしないのだ。どうしようもない。この方が仰るように閉じ込めて、人に害を及ぼさぬようにし、父親の恥を晒さぬようにすれば、かえって良いかもしれん。父親に対して顔が立つというものだ……。」

「ごもっとも」と闊亭が感動して言った。「しかし、部屋が……」

「廟に空き部屋はないのか?……」四爺がゆったりと訊いた。

「ある!」闊亭ははっとして言った。「ある!正門を入って西側の一間が空いている。小さな四角い窓が一つあるだけで、太い木の格子がはまっていて、絶対にこじ開けられない。素晴らしい!」

老娃と方頭もたちまち喜色を浮かべた。闊亭はため息をつき、唇を尖らせて茶をすすった。

黄昏にもならぬうちに、天下はすでに太平であった。いや、すっかり忘れ去られていたと言ってもよかった。人々の顔にはもはや緊張はなく、先ほどの喜びの痕跡さえもうとうに消え失せていた。廟の前には人の足跡が平日より多かったが、やがてそれも稀になった。ただ数日間門が閉ざされていたため、子供たちは中に入って遊べず、この日は庭でことのほか楽しく遊んだようで、夕食を済ませても、まだ何人かが廟に駆け込んで遊び、なぞなぞをしていた。

「当ててごらん」と一番大きい子が言った。「もう一度言うよ——

白い苫船、赤い櫂、

向こう岸まで漕いで一休み、

お菓子を少し食べて、

芝居を一つ唄おう。」

「それは何だろう?『赤い櫂』って。」女の子が言った。

「答えを言おうか、それは……」

「待って!」瘡蓋頭の子が言った。「わかった——渡し船だ。」

「渡し船」と裸の子も言った。

「はは、渡し船だって?」一番大きい子が言った。「渡し船は櫓を漕ぐんだ。芝居を唄えるか?当てられないだろう。答えを言うよ……」

「待って」と瘡蓋頭がまだ言った。

「ふん、当てられるものか。答えはね——鵞鳥だ。」

「鵞鳥!」女の子が笑って言った。「赤い櫂ね。」

「どうして白い苫船なの?」裸の子が訊いた。

「火をつけてやる!」

子供たちは皆驚き、たちまち彼のことを思い出して、一斉に西の廂房を見つめた。すると一本の手が木の格子を掴み、もう一本の手が木の皮を剥がしているのが見え、その間から二つの目がきらきらと光っていた。

沈黙はほんの一瞬であった。瘡蓋頭が突然叫び声を上げ、脱兎のごとく駆け出した。他の子供たちも笑いながら叫びながら走り出た。裸の子は葦を後ろに向けて指し、息を切らした桜桃のような小さな唇から、澄んだ一声を発した——

「ばん!」

それからは完全な静寂であった。暮色が降りてきて、緑に輝く長明灯がいっそう鮮明に神殿を照らし、神龕を照らし、そして庭を照らし、木格子の向こうの薄暗がりまで照らしていた。

子供たちは廟の外に走り出ると立ち止まり、手をつなぎ、ゆっくりとそれぞれの家に向かって歩き始めた。皆にこにこしながら、口から出まかせに作った歌を合唱していた——

「白い苫船、向こう岸で一休み。

今すぐ消せ、自分で消せ。

芝居を一つ唄おう。

火をつけてやる! はははは!

火、火、火、お菓子を少し食べて、

芝居を一つ唄おう。

…………

………

……」

(一九二五年三月一日。)

【示衆】

首善の地たる西城の一条の馬路の上、この時刻は何の騒擾もなかった。炎々と燃える太陽はまだ真上からは照りつけていなかったが、路上の砂土はすでにきらきらと光を放っているかのようであった。酷暑が空気に充満し、至る所で盛夏の威力を振るっていた。多くの犬が舌を垂らし、樹上の烏さえも口を開けて喘いでいた——だが、当然ながら例外もあった。遠くからかすかに二つの銅の碗がぶつかり合う音が聞こえ、酸梅湯を思い起こさせ、おぼろげに涼味を感じさせたが、その怠惰で単調な金属音の間歇が、かえってその静寂をいっそう深遠なものにしていた。

ただ足音だけがあった。車夫は黙々と前方へ走り、頭上の烈日から一刻も早く逃れようとしているかのようであった。

「熱い肉まんだよ!蒸籠から出したばかりの……。」

十一二歳の太った子供が、目を細め、口を歪めて、路傍の店先で叫んでいた。声はもうかすれており、まだいくらか眠気を帯びていて、夏の長い日に催眠をかけられているかのようであった。彼のそばの古びた卓上には、二三十個の饅頭と肉まんが、湯気もなく、冷ややかに座っていた。

「おうい!饅頭に肉まんだよ、熱いぞ……。」

壁に力いっぱい投げつけられて跳ね返ってきたゴム球のように、彼は突然馬路の向こう側に飛んでいた。電柱のそばで、彼と向かい合い、馬路に正対して、その時ちょうど二人の人間が立ち止まっていた。一人は薄黄色の制服を着た刀を佩びた顔色の悪い痩せた巡査で、手に縄の端を持っていた。縄のもう一方の端は、藍布の大衫の上に白い背広下着を着たもう一人の男の腕に繋がれていた。この男は新しい麦藁帽をかぶり、帽子の鍔が四方に垂れ下がって、目のあたりを隠していた。だが太った子供は背が低く、顔を仰向けて見ると、ちょうどこの男の目と出くわした。その目もまた彼の頭蓋を見ているようであった。彼は慌てて目を伏せ、白い下着を見ると、下着には一行また一行と、大小さまざまの文字が書かれていた。

たちまちのうちに、半円ほどの見物人が取り囲んだ。禿頭の老人が加わった後、空きはもうわずかしかなく、すぐに裸の赤鼻の太った大男によって埋められた。この太った男は横幅がありすぎて二人分の場所を占めたので、後から来た者は第二列に屈するしかなく、前の二人の首の間から頭を突き出すほかなかった。

禿頭は白下着のほぼ正面に立ち、腰をかがめて下着の文字を研究し、ついに読み始めた——

「ん、都、ふん、八、而、……」

太った子供は、白下着がこの光る禿頭を研究しているのを見て、自分もそれに倣って研究した。すると頭は一面つるつると光り、耳の近くに一片の灰白色の髪があるだけで、それ以外に格別珍しいところは見当たらなかった。だが後ろにいた子供を抱いた女中が隙を見て割り込もうとしたので、禿頭は場所を失うまいと急いで身を起こした。文字はまだ読み終わっていなかったが、致し方なく、白下着の顔を見ることにした——麦藁帽の鍔の下に半分の鼻、一つの口、尖った顎。

またしても壁に投げつけられて跳ね返ったゴム球のように、一人の小学生が駆けてきて、片手で頭の上の真っ白な小さな布帽を押さえながら、人込みの中に突進していった。だが第三——いや第四——列まで来たところで、揺るぎなき偉大なるものに遭遇した。見上げると、藍の袴の腰の上に、赤裸々な広い背中が聳え、背中には汗が流れ落ちていた。手の施しようがないと悟り、袴の腰に沿って右へ回ると、幸いにして端に隙間を見つけ、光が差し込んでいた。頭を低くして潜り込もうとしたまさにその時、「何だ」という一声が聞こえ、袴の腰から下の尻が右に揺れ、隙間はたちまち塞がれ、光明も同時に消え失せた。

だがまもなく、小学生は巡査の刀の脇から潜り出てきた。彼は驚いて四方を見回した——外側に一重の人の輪があり、上手には白下着の男がおり、向かい側には裸の太った子供がおり、太った子供の後ろには裸の赤鼻の太った大男がいた。彼はこの時おぼろげに、先ほどの偉大なる障壁の正体を悟り、驚嘆と敬服の面持ちで赤鼻をただ見つめていた。太った子供はもともと小学生の顔を注視していたのだが、彼の視線に従って振り返ると、そこにはたいそう太った乳房があり、乳首の周りに数本の長い毛が生えていた。

「あの人、何をしたんだ?……」

皆が驚いて見ると、労働者風の粗野な男で、声を低くして禿頭の老人に教えを請うていた。

禿頭は答えず、ただ目を見開いて彼を見据えた。見据えられて彼は目を伏せたが、しばらくしてまた見ると、禿頭はまだ目を見開いて見据えており、他の者も皆目を見開いて見据えているようであった。彼はまるで自分が罪を犯したかのように落ち着かなくなり、ついにじりじりと後退し、抜け出していった。洋傘を挟んだ長身の男がその空きを埋め、禿頭もまた顔を回して白下着を見た。

長身の男は腰をかがめ、垂れた麦藁帽の鍔の下から白下着の顔を鑑賞しようとしたが、なぜか突然身を起こした。すると後ろの人々はまた懸命に首を伸ばさねばならなかった。一人の痩せた男に至っては、口まで大きく開け、死んだ鱸のようであった。

巡査が、突然、足を持ち上げた。皆はまた驚き、急いで彼の足を見た。だが彼はまた足を下ろしたので、再び白下着を見た。長身の男がまた腰をかがめ、垂れた帽子の鍔の下から窺おうとしたが、すぐにまた身を起こし、片手を挙げて懸命に頭を掻いた。

禿頭は不機嫌になった。まず背後がただならぬ気配であり、続いて耳のそばでひそひそと声がしたからだ。眉をひそめて振り返ると、すぐ右隣に、黒い手が半分の大きな饅頭を持ち、猫のような顔をした男の口に押し込んでいるところだった。彼は何も言わず、白下着の新しい麦藁帽を見ることにした。

突然、雷のような一撃があり、横幅のある太った大男さえも前によろめかずにはいられなかった。同時に、彼の肩の上から同じほど太い腕が伸びてきて、五本の指を広げ、ぱんと太った子供の頬を打った。

「いい気味だ!この野郎……」同時に、太った大男の後ろから、弥勒仏のようなもっと丸い太った顔がそう言った。

太った子供も四五歩よろめいたが、倒れはせず、片手で頬を押さえ、体を回して太った大男の脚の隙間から潜り抜けようとした。太った大男は慌てて踏ん張り、尻を揺すって隙間を塞ぎ、恨めしげに訊いた——

「何だ?」

太った子供は罠にかかった小鼠のように一瞬慌てふためいたが、突然小学生の方へ駆け出し、彼を押しのけて突破した。小学生も身を翻して後に続いた。

「まあ、この子は……。」五六人はそう言った。

再び平静に戻り、太った大男が白下着の顔を見ると、白下着は顔を仰向けて彼の胸を見ていた。彼は慌てて頭を下げて自分の胸を見ると、両乳の間の窪みに一片の汗があり、手のひらでそれを拭った。

第17節

賢良女学校校長何万淑貞、襟を正し謹んで申し上げます

中華民国十三年夏暦菊月吉旦              立

「』」

高爾礎はその赤い罫線で囲まれた新聞の切り抜きの招待状をもう一度読み返し、満足げに「ふふん」と笑った。

「ははは!」と彼はまた感嘆した。

「聞いたかい、」と彼は同席の者たちに向かって言った。「陳先生が今度、私を賢良女学校の歴史の教師に推薦してくださったのだ。まもなく始まる。今後はぜひ私のことを高老夫子とお呼びいただきたい。」

しかし黄三は聞こえないふりをしていた。彼の注意は麻雀の牌に向いていた。

「高先生……」と万瑶圃が口を開きかけた。

「高老夫子と呼んでくれ。」

「高老夫子、失礼ながら、あなたの番ですよ。」

「ああ。」高爾礎は我に返った。「うん、今日はもうやめよう。頭の中にもはや牌に向かう気がない。考えていることがあるのだ——つまり女学校だからね、教えるには男女の別を心得ておかなければ……」

「全くその通りだ。」万瑶圃が頷いた。

「だからだ、」と高老夫子は牌を前に押し出して言った。「これから帰って少し準備せねばならん。」

黄三は見るからに不機嫌であった。

「高先生は大出世だな。」と彼はぶっきらぼうに言った。

「高老夫子だと言っているだろう。」

黄三は鼻で笑った。

高老夫子は意に介さず、牌をそのままに立ち上がった。胸がそわそわして、愛すべき麻雀の相手をしている余裕もなくなったのだ。

帰宅すると、まず「歴史についての所見」と題した原稿を引き出しから出してみたが、久しく手を入れていなかったので、自分で読んでもよく分からぬ箇所があった。溜息をついて、それを戻した。

翌日、高老夫子はずいぶん早く目を覚ました。着替えをして鏡を見ると、新調の紫紺の馬褂に黒い長衫、なかなか堂々たるものであった。

学校に着くと、校門はまだ閉まっていた。しばらく待って、門番が来て開けてくれた。

「先生は何の御用で?」と門番が訊いた。

「私は——」高老夫子は胸を張った。「ここの新しい歴史の教師だ。」

通されて、校長何万淑貞に面会した。校長は五十がらみの丸顔の穏やかそうな婦人で、歓迎して教室へ案内した。

「今日は初回ですので、自己紹介からどうぞ。」と校長が言った。

教室に入ると、二十人ほどの女学生がいた。教壇に立った高老夫子は、にわかに緊張した。若い顔が一斉にこちらを向くのを見て、体が熱くなるようであった。

「えー、私は高爾礎と申しまして……」彼は咳払いをした。「本日より皆さんに歴史を教えることになりました。」

教卓の上の教科書を手に取って開いたが、全く知らない本であった。

「先生、どこからお始めになりますか。」前列の一人が訊いた。

高老夫子はまごついた。「うむ、では……」と言いかけ、急に顔を赤らめた。

第18節

一族の長、近しい親族、彼の祖母の実家の親類、暇人たちが一部屋に集まっていた。殳の到着を待てば、納棺の時刻になるはずであった。寿棺も寿衣もとうに出来上がっており、手配する必要はなかった。ただ一つの懸念は殳自身であった——彼は日頃から奇行が多く、何をしでかすか分からなかったからだ。

果たして殳が現れた。しかし案に相違して、いたって穏やかであった。黙って棺を見、黙って遺体を見、それから跪いて三度叩頭した。

「泣かないのか?」と誰かが小声で言った。

すると殳は突然、声を上げて泣き出した——いや、それは泣くというものではなかった。狼の遠吠えのような、長い長い嚎哭であった。居合わせた者の背筋を凍らせるような声であった。

祖母の葬儀は滞りなく終わった。殳はしばらく故郷に留まり、やがて去っていった。

その後、私は殳の消息を時折耳にするだけであった。S城の学校で教えていたが解雇され、どこかの新聞社に入ったがまた追い出され、最後に聞いたのは軍閥のもとで顧問のようなことをしているということであった。

ある冬の日、私は偶然、殳と再会した。山陽の寒々とした旅館でのことであった。

「久しぶりだね。」と私が言うと、殳は力のない笑みを浮かべた。

彼は驚くほど変わっていた。以前の激しさは影を潜め、その代わりに深い倦怠が全身を覆っていた。

「近況はどうだい?」

「まあ、生きている。」と彼は言った。それからぽつりと付け加えた——「飼い犬になった。」

私は言葉を失った。

「以前は意地を張っていた。人間らしく生きようとしていた。だが今は言われた通りにしている。言われた通りに笑い、言われた通りに媚びる。金をもらい、食い、生きている。」

「なぜだ?」

暫く黙った後、彼は低い声で言った。

「復讐だ。」

「復讐?」

「そうだ。」彼の目に一瞬、昔の光が戻った。「かつて私を唾棄した連中——私が落魄すれば喜び、高潔であれば嘲った連中——その者たちに、今、卑屈な笑みを見せてやっている。これが最も残酷な復讐だ。自分を殺すことで、奴らの顔に私の堕落を突きつける。」

私は身震いした。それは狂気に近い論理であった。

「しかし——」

「分かっている。」と彼は遮った。「自分を苦しめているだけだということは。だが、もう他にどうしようもない。」

その夜、私たちは遅くまで語り合った。だが彼の言葉はますます散漫になり、やがて沈黙が訪れた。

第19節

「私の物さえ食べなくなった。」彼は低い声で、嘲笑するように言った。

「連殳、」私はひどく悲しくなったが、無理に微笑を装って言った。「君は自ら苦しみを求めすぎていると思うよ。」

「自ら苦しみを求めている?」彼は不意に顔を上げた。「いや、不愉快なことをしているのだ。だが不愉快なことこそ、彼らが私に望んでいたことではないか。彼らは昔から、私に不愉快なことをさせたがっていた。今その通りにしている——なのに、また不満そうだ。」

「だが——」

「もうよい。」彼はまた静かになった。「もう全てどうでもよいのだ。」

煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。煙が部屋にたゆたった。

「ところで、」と彼は話題を変えた。「最近、子供が三人、私のところに遊びに来る。近所の子供だ。菓子をやるからだろうが、来てくれるのは嬉しい。子供というものは——子供だけは、まだ嘘がない。」

その言葉に一抹の温かみがあった。だが彼の目はすぐにまた暗くなった。

「もっとも、」と付け加えた。「子供もやがて大人になる。大人になれば、同じことだ。」

翌朝、彼の部屋を訪ねると、まだ床の中であった。部屋は荒れ果て、卓上には酒瓶が何本も転がり、煙草の吸殻が灰皿から溢れていた。

「体の具合はどうだ?」

「まだ死にはしない。」と布団の中から答えた。

その日から数日間、毎日彼を訪ねた。だが日に日に衰えていくようであった。咳がひどくなり、顔色もますます悪くなった。

「医者に行った方がいい。」

「医者か。」彼は苦笑した。「医者にかかる金はある。だが——この体にそれほどの価値があるだろうか。」

ある日の午後、訪ねると、近所の子供が三人、部屋の前で泣いていた。

「おじさんが——」と一番小さな子が言った。「おじさんが動かないの。」

急いで部屋に入った。殳は仰向けに横たわり、もう息をしていなかった。その顔には奇妙な微笑が浮かんでいた——嘲弄とも安堵ともつかない、最後の表情であった。

卓上に手紙があった。私宛であった。

「君への借金はこの家の物で返してくれ。そして——あの子供たちに菓子を。」

それだけであった。

第20節

私が一礼すると、地面で突然誰かがおいおいと泣き出した。目を凝らすと、十歳余りの子供が草筵の上に伏しており、同じく白い衣服を着て、髪を短く刈った頭にはまだ一房の大きな苧麻が巻かれていた。傍に一人の女が立っており、殳にそっくりの眼をしていたので、おそらく姪であろうと思われた。

「もう泣くな。」と女が子供に言った。だがその声は低く力がなかった。

葬列は薄暗い冬の午後に出発した。田畑は枯れ果て、遠くの山々は鉛色の空の下に沈んでいた。棺を担ぐ者は四人、その後ろに十人余りの弔問客が続いた。

墓地は村のはずれの丘の斜面にあった。穴はもう掘られていた。棺が降ろされ、土が被せられた。

私はしばらくその場に立っていた。風が冷たかった。やがて人々は散り、最後に残ったのは私とあの子供だけであった。

「おじさんは——」と子供が訊いた。「おじさんはもう戻ってこないの?」

私は頷くしかなかった。子供は泣かなかった。ただ墓の上の新しい土を見つめていた。

S城に戻った。以後、連殳のことを思い出すたびに、あの冬の午後の寒さが蘇った。あの嘲弄と苦痛の入り混じった最後の微笑が、いつまでも消えなかった。

【傷逝——涓生の手記】

もし私が真実を語ることができるなら、書かねばならない——子君のために、そして自分のために。

会館の、あの朽ちかけた部屋に、また私は一人でいる。かつて子君と共に過ごしたあの部屋に。だが今、ここにいるのは私だけだ。

あの頃のことを思い出す。最初に彼女が来たときのこと。冬の午後、古い綿入れを着て、頬を赤く染めて、門をくぐってきた。目は光り、足取りはしっかりとしていた。

「私は私自身のものです。」——これが彼女の口癖であった。イプセンの言葉。ノラの言葉。彼女はそれを信じていた。

私も信じていた。私たちは語り合った。シェリーについて、ノラについて、男女平等について。彼女の目はいつも真剣で、頷き方にも迷いがなかった。

やがて私たちは決心した。世間の反対を押し切って共に暮らすことを。彼女は父親に勘当された。私も職場で白眼視された。だがそれが何だろう——私たちには愛があった。

新しい住まいを見つけた。吉兆胡同の小さな家であった。家賃は安かったが、日当たりは悪くなかった。そこで新しい生活を始めた。

最初の数日は夢のようであった。

第21節

子君も日ごとに活発になっていった。だが彼女は花を愛さなかった。私が廟会で買ってきた二鉢の小さな草花は、四日間水をやらずに壁の隅で枯れてしまったが、私にも万事を世話する暇はなかった。しかし彼女は動物を愛した。まず油鶏を四羽手に入れ、次いでまだらの子犬を一匹——阿随と名付けた。

油鶏は日に日に太り、子犬も日に日に大きくなった。だがそれに伴って、彼女の世界もまた日に日に狭くなっていくようであった。一日は油鶏に餌をやり、阿随と遊び、炊事をし、洗濯をすることに費やされた。

以前語り合ったシェリーやノラはどこへ行ったのか。イプセンの戯曲はもう話題に上らなくなった。男女平等の議論も消えた。代わりに出てくるのは、隣の奥さんの鶏が庭に入ってきたとか、油鶏の卵が減ったとか、そういう話ばかりであった。

私は焦燥を感じ始めた。だが口には出せなかった。

そのうち、私は職を失った。

理由は——私たちの同居が上司の耳に入ったのだろう。辞令は素っ気ないものであった。

それからは暗い日々が続いた。金がなくなっていった。翻訳の仕事を探したが、なかなか見つからなかった。わずかな仕事が来ても、報酬は雀の涙であった。

子君は以前のように笑わなくなった。油鶏は一羽ずつ食卓に上り、ついに一羽もいなくなった。

阿随も手放さなければならなかった。

「阿随を捨ててきてくれ。」と私は言った。

子君は何も言わなかった。ただ目に涙が浮かんだ。だが翌日、阿随はいなくなっていた。

部屋はいよいよ静かになった。静かすぎて、息苦しかった。

私たちの間に沈黙が広がった。食事の時も、夜の灯の下でも、言葉が途絶えた。彼女は針仕事をし、私は本を読むふりをした。だが頁は一向に進まなかった。

私の心には恐ろしい考えが芽生えていた——愛が冷めたのではないか。いや、最初からそれほど深くはなかったのではないか。

この考えは自分でも恐ろしかった。だが一度芽生えると、もう払いのけることができなかった。

第22節

「……それに、あなたはもう何も気にする必要はないのです。勇往邁進すればよいのです。正直に言えとおっしゃるなら——そうです、人は偽りであってはなりません。正直に申しましょう。なぜなら——なぜなら、私はもうあなたを愛していないからです。しかしこれはあなたにとっても幸いなことです。なぜなら、これであなたは新しい道を——」

子君の顔は灰色になった。黙って座っていた。石像のように動かなかった。

私は言ってしまった。取り返しのつかないことを。

だが——これは真実であったのか。あの瞬間、本当にそう思っていたのか。それとも、貧窮に追い詰められた自分が、彼女という重荷を下ろすための言い訳を探していただけではなかったか。

今となっては、もう分からない。

子君は去った。父親のもとへ帰ったのだ。勘当した父の家へ、恥辱を負って。

彼女が去った後、部屋はがらんとした。空虚が壁に充満した。かえって書くことも読むこともできなくなった。

数日して、思いがけない訪問者があった。子君の親戚だという男であった。

「子君は亡くなりました。」

私は立っていられなかった。

「原因は——」

「それは——まあ、いろいろです。」男は曖昧に言い、去っていった。

私は一人で座っていた。蝋燭の灯が揺れていた。部屋の隅に、子君が残していった古い手袋が片方落ちていた。

子君は死んだ。

私が殺したのだ。

あの言葉で——「もうあなたを愛していない」というあの言葉で。

彼女をノラのように家を出ていく勇敢な女にしたいと思った。だが実際にはノラの行く道は二つしかない——堕落するか、帰るか。子君は帰った。そして死んだ。

今、悔恨の中にいる。だが悔恨が何の役に立とう。死者は還らない。

できるのは、ただ書くことだ。真実を書き留めること。子君のために、そして——もはや生きる資格のない自分のために。

忘却こそ救いだと人は言う。だが私は忘れない。忘れてはならない。この苦しみを抱えたまま歩いていくしかない——新しい道を。たとえそれが血と涙にまみれた道であっても。

第23節

彼は普段から迷信を打破することを専らとしていた。だがこの時ばかりは、靖甫の様子と言葉にどこか不吉なものを感じ、まるで病人自身が何かの予感を抱いているかのようであった。この思いがいっそう彼を不安にさせ、すぐに部屋を出て張医師を呼びに行った。

張医師は来たが、診察の後で首を傾げた。

「発疹チフスのようですな。しかし、まだ断定はできません。」

沛君はぎくりとした。発疹チフスは命に関わる。

「どうすれば——」

「まずは安静に。そして隔離を。伝染しますから。」

医師が帰った後、沛君は弟の枕元に座った。靖甫は高熱で目がうつろであった。

「兄さん、」と靖甫が弱々しい声で言った。「もし私が死んだら——」

「馬鹿を言え。」沛君は怒ったように言ったが、声が震えた。

その夜、沛君は眠れなかった。弟の枕元で、様々なことを考えた。

弟が死んだら——弟の子供たちはどうなる。遺児を育てなければ。自分の子供に加えて弟の子供。費用は——月給だけでは足りない。

いや、そんなことを考えてはならない。弟は必ず治る。

だが——もし治らなかったら。

思考は暗い淵の周りをぐるぐると回り続けた。

翌日、もう一人の医者、老練な普医師が呼ばれた。診察の後、静かに言った。

「ご安心なさい。発疹チフスではありません。ただの疹です。七日もすれば熱は下がるでしょう。」

沛君はほっとした。体中の力が抜けるようであった。

「本当ですか?」

「ええ、心配はいりません。」

弟の部屋に戻り、朗報を伝えた。靖甫は弱々しく微笑んだ。

その夜、沛君は実によく眠った。弟が全快して二人で昔のように酒を酌み交わす夢を見た。

だが目が覚めた時、前の晩に考えたこと——遺児の養育費、月給の計算——が鮮明に蘇り、自分自身に嫌悪を感じた。

弟が瀕死の床にある時に金の計算をしていた自分。これが兄弟の情というものか。

顔を洗い、何事もなかったかのように朝食の席に着いた。

第24節

「城には行かん」と木公公はいくらか気落ちした様子であったが、紫黒い顔にはもともと皺が多かったので、さほど大きな変化は見て取れなかった。「ただ龐荘まで一走りするだけだ。」

愛姑は父親の顔を見て、ますます不安になった。

「父さん、私は行きたくない。」

「行かねばならん。慰老爺が調停してくださるのだ。あの方は読書人で、七大人の親戚だ。七大人と言えば——洋灯を玩ぶ方だぞ。」

「洋灯を玩ぼうが何だろうが——」と愛姑は唇を噛んだ。「悪いのはあの男だ。私を捨てて、あの小娘と——」

「だからこそ調停に行くのだ。理は我々にある。慰老爺の前で言い分を述べればよい。」

二人は朝早く出発した。冬の朝の空気は刺すように冷たかった。

龐荘に着くと、慰老爺の邸はすぐに分かった。この辺りで一番大きな屋敷であった。

応接間に通されると、すでに相手方の施家の者たちが来ていた。愛姑の夫であった若い男と、その父親と、もう一人見知らぬ男。

愛姑は夫の顔を見た瞬間、怒りが込み上げた。だが父親の手が腕を掴み、座るよう合図した。

慰老爺が現れた。五十がらみの恰幅のよい男で、長い衫を着てゆったりと椅子に腰を下ろした。

「さて、双方の言い分を聞こう。」

施家の父親が先に口を開いた。「息子と嫁の折り合いが悪く、もはや一緒には暮らせません。離縁を願い出ます。」

「離縁?」愛姑は声を上げた。「悪いのはあっちだ!あの小娘を囲って——」

「愛姑。」と木公公が窘めた。

慰老爺は手を挙げて双方を制した。「順番に話しなさい。」

第25節

「よし!事は丸く収まった。」慰老爺は双方に別れの気配を見て取り、ふうと一息ついて言った。「では、もう他に何もないな。恭賀大吉、総じて解決だ。」

愛姑は呆然としていた。何が解決したのか分からなかった。

慰老爺の話をまとめると——施家は離縁料として九十元を支払う。愛姑は離縁状に押印する。それで終わり。

「九十元?」愛姑は叫んだ。「たった九十元で、何年もの——」

だがその時、奥の間から一人の男が現れた。長身で身なりが立派で、鼻に眼鏡をかけていた。慰老爺が立ち上がって迎えた。

「七大人!」

七大人は軽く頷いて部屋を見回した。その視線が愛姑の上を通り過ぎた時、彼女は何か冷たいものを感じた。

七大人は卓上の鼻煙壺を手に取り、蓋を開けて嗅いだ。静かに言った。

「もう済んだのかね。」

「ええ、今しがた。」と慰老爺が答えた。

七大人はまた頷き、何も言わず奥に戻っていった。

愛姑は七大人の姿を見送った。洋灯を玩ぶという七大人。確かに只者ではない風格であった。だがそれがどうした。自分の苦しみに、あの男は何の関係もない。

だが——なぜか急に力が抜けてしまった。怒りが萎んだのではない。ただ戦う気力がなくなったのだ。

「押印しなさい。」と木公公が言った。

愛姑は印を押した。

帰り道、船の中で、木公公は黙っていた。愛姑も黙っていた。冬の川面を冷たい風が吹き渡った。

「父さん、」とようやく愛姑が言った。「あの九十元で——何を買おう。」

木公公は答えなかった。ただ遠くを見ていた。

船は静かに流れていった。

第26節

あなたが仰る「話したり書いたりすることは、どうやら敗北者の徴のようだ。まさに運命と死闘を繰り広げている者は、こんなことに構っていられない」という言葉は、実に最も痛ましい言葉である。だが私は別の観点からこう考える。

かつて私も沈黙の中にいた。沈黙は金だと思っていた。だが沈黙の中で何を見たか——沈黙の中で殺される者たちを見た。声なき叫びが闇に呑まれるのを見た。

だから私は書く。書くことが敗北者の徴だと言うなら、それでよい。喜んで敗北者となろう。なぜなら、勝利者たちの沈黙は、しばしば加害者の沈黙に等しいからだ。

あなたは問う——書いて何になる、と。確かに、筆で書いた文字が銃弾を止めたことはない。だが文字には銃弾にできないことがある。記憶を残すこと。百年後の人間に、今ここで何が行われたかを伝えること。

私は青年たちが文学に携わることを止めはしない。だが同時に、文学に過大な期待を抱くことへの警告も忘れない。文学は社会を変えはしない——少なくとも直接的には。しかし文学がなければ、社会の変革そのものが方向を見失う。

河南の地は古くから文化の中心であった。ここから新しい声が上がることを切に望む。だがその声は、ただ勇ましいだけでなく、悲しいだけでもなく、深く考え抜かれたものでなければならない。

世に蛮勇を奮う者は多い。だが真の勇気とは、絶望を直視しながらなお前進することだ。希望は嘘だと知りながら、それでもなお希望を語ること——これが私の考える文学の使命である。

あなたの新聞の前途を祝して、筆を擱く。

第27節

「その通り、君が承知してくれると分かっていた。言わずとも分かっている。だが今はまだ脱いでくれるな。私が持って歩くわけにはいかん——この格好で、手にぼろズボンなど持っていたら、人に見られたらどうする。」

これはある知人が私に言った言葉だ。頼み事の内容はここでは措く。

だがこの言葉には実に多くのことが含まれている。

「人に見られたらどうする」——ここに中国人の生活の根本原理がある。体面ということだ。体面のためなら、真実を犠牲にし、実質を犠牲にし、時には生命さえも犠牲にする。

かつて一人の人間が路上で倒れているのを見た。通行人は皆、遠巻きにして見ていたが、誰も助けようとしなかった。なぜか。もし助けようとして助けられなかったら——死なれでもしたら——自分の体面に関わるからだ。

これは冷淡なのではない。恐怖なのだ。体面を失うことへの、骨の髄まで染み込んだ恐怖なのだ。

しかしながら、この恐怖こそが中国を停滞させている根本原因の一つであると考える。新しいことを試みない。失敗を恐れる。人と違うことを恐れる。その結果、誰もが同じ仮面をかぶり、同じ笑みを浮かべ、同じ言葉を繰り返す。

「人に見られたらどうする」——この呪縛から解き放たれた時、初めて中国人は自由になれるだろう。

だがいつその日が来るのか。私には分からない。

第28節

昨日、『豫報』を二部受け取り、非常に嬉しかった。とりわけあの『副刊』を見て。その蓬勃たる朝の気は、実に私の先の予想を超えるものであった。考えてもみたまえ——非常に古い歴史を持つ地から、一つの新しい声が立ち上がったのだ。

私はかねてより、中国の文化は北方にその根があると考えてきた。黄河流域の厚い黄土の中に、中国人の精神の原型が眠っている。南方の繊細さは確かに美しい。だが力強さにおいて北方には及ばない。

河南はまさにその北方の中心である。ここから新しい文学が生まれることを大いに期待する。

だが同時に忠告もしたい。新しいということだけでは足りない。古いものを壊すだけでは何も生まれない。壊した後に何を建てるか——それが問題だ。

現在の中国の文壇を見渡すと、二つの傾向がある。古きに固執して新しきを排斥する保守派と、新しさそのものに酔って中身を忘れる革新派。いずれも真の文学からは遠い。

真の文学とは何か。人間を描くことだ。生きた人間を、その矛盾と苦悩をもって描くこと。美しい言葉でも正しい主義でもない。ただ人間の真実を——たとえいかに醜くとも——直視すること。

河南の諸君、この困難な道を歩むことを願う。容易な道——既成の主義に寄りかかる道、読者に媚びる道——は避けてくれたまえ。

諸君の健闘を祈る。

第29節

先生、どうか普通の目で中国を見ないでいただきたい。私の友人がインドから帰ってきて言うには、あの国は本当に奇妙で、ガンジス河のほとりを歩くたびに、捕まえられて殺され天に祀られるのではないかと感じたという。

だが中国はインドではない。中国にはまた別の奇妙さがある。

中国の奇妙さとは——全てが矛盾していることだ。古いものと新しいもの、愛と憎しみ、革命と保守が一人の人間の中に同居している。しかも本人が気づいていない。あるいは気づいていても気にしない。

例えば「新青年」がいるとしよう。西洋の学問を修め、民主主義を唱え、科学を信奉する。だが家に帰れば母親の言いつけで見合いをし、占い師に結婚の日取りを決めてもらう。矛盾と言えば怒るだろう。だが事実はそうなのだ。

また「革命家」がいるとしよう。旧制度の打倒を叫び、平等を唱える。だが部下には旧時代の官僚以上の威圧で臨み、自分の食事は贅沢を極める。

これが中国だ。

外国人にはこれが理解できない。だから中国を「普通の目」で見ると必ず間違える。中国を理解するには、矛盾を矛盾のまま受け入れる覚悟が要る。

しかし私は中国に絶望してはいない。矛盾があるということは変化の可能性があるということだ。完全に一枚岩の社会には変化は起こらない。矛盾が軋みを生み、軋みが亀裂を生み、亀裂から新しいものが芽を出す。

もっとも、その新しい芽もまた矛盾に満ちたものであろうが。

第30節

「……五月七日、校内で講演が行われた際、学生たちが校長楊蔭楡女史に退席を勧めた後、楊女史は料理屋で若干の校員を集めて宴会を催し、続いて評議会の名義をもって、学生自治会の職員数名の除名を決定した——」

これは当時の記録の一節である。だがこの乾いた文面の背後に、どれほどの怒りと悲しみがあったか。

女子師範大学の事件は単なる学校紛争ではなかった。中国の教育制度そのものの病根を暴露したものであった。

楊蔭楡校長は教育者というより支配者であった。学生は教え導くべき存在ではなく、管理し服従させるべき存在であった。だから学生がわずかでも自主的な行動を取ると、反逆と見なし弾圧で応じた。

しかし学生たちは屈しなかった。退学処分を受けても、校門を封鎖されても、声を上げ続けた。

私はこの学生たちを支持する。行動に未熟な点があったかもしれない。だが不正に対して沈黙しなかったこと——これは何より尊い。

世の論客は学生たちの「過激さ」を批判する。だが過激でなければ、誰が耳を傾けたであろう。穏やかな陳情はいつも握り潰される。声を上げた者だけが世界を変えてきた。

権力者は常に反論する——「秩序が乱れる」「規則に従え」「上に立つ者に敬意を払え」。だがこの「秩序」こそが不正の隠れ蓑なのだ。

私は書かねばならない。たとえ私の文章がわずかの力しか持たなくとも。沈黙は共犯であるから。

第31節

乙:「我々は一致して外に当たらねばならん!こんな危急の時に、お前はまだ自分の物のことばかり考えるのか? 亡国の奴隷め!」

3 「同胞よ、同胞よ!」

自首を願い出る

こういう場面を私は幾度となく目にしてきた。

甲が乙に「一致団結」を説く。だがその中身は、つまるところ「お前は黙って私に従え」ということだ。乙が権利を主張すると、甲は「利己的だ」「大局を見ろ」「亡国の奴隷め」と罵る。

これは愛国の名を借りた暴力である。

「一致対外」——実に便利な呪文だ。この四文字を唱えれば、内部のあらゆる矛盾を封じることができる。搾取を封じ、差別を封じ、不正を封じる。「今は国難の時だ」「内輪揉めをしている場合ではない」——こうして権力者はいつも被搾取者の口を塞いできた。

だが考えてみよ。「対外」と言うが、その「外」は本当に敵なのか。そして「内」は本当に味方なのか。あなたを搾取し、自由を奪い、口を塞ぐ者が——たまたま同じ国に生まれたというだけで——味方と言えるのか。

もちろん売国を勧めているのではない。だが「愛国」の名のもとに行われる国内の抑圧に目をつぶってはならないと言いたいのだ。

真の愛国とは何か。この国の人間一人一人が人間らしく生きられる社会を作ること。「一致対外」の前に、まず「一致対内」——内なる不正を正すこと——が先ではないか。

第32節

だが各種の小さな縦横の策略は、我々はしょっちゅう身に受け、あるいは目にしている。夏になると突然甲と乙が殴り合い、突然甲と乙が親しくなって一緒に丙を殴り、突然甲と丙が結託してまた乙を殴り、突然甲と丙がまた仲違いをする——

これが中国の政治の実態である。

主義も思想もない。あるのはただ利害だけだ。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵。その犠牲になるのは常に名もなき民衆である。

かつてある人が訊いた——「中国の政治家に信念はないのか」と。

私は答えた——「ある。自分が生き残るという信念が。」

笑い話のようだが、笑えない真実だ。

しかしだからといって絶望してはならない。政治家が腐敗しているからといって、人民までが腐敗しているわけではないからだ。

泥の中から蓮が咲くように、腐敗した政治の中からも、真に国を憂う者は現れる。問題は、そういう者が権力の座に就く前に潰されてしまうことだ。

どうすればよいか。

妙案はない。一つだけ言えること——目を開けていること。何が起きているかを見ること。見たことを忘れないこと。

権力者が最も恐れるのは銃ではない。記憶だ。人民が忘れないこと——これが最大の武器である。

第33節

訴訟を提起した後、私はKS君への返信の中で一度だけ章士釗について論じたが、聞くところではもう「人格卑汚」ということにされているらしい。ところが別の論客は、あまり激しくは罵っていないから魯迅はやはり大したことはないと言う。

実に面白い話だ。

激しく罵れば「人格卑汚」と言われ、穏やかに論じれば「大したことはない」と言われる。では黙っていればよいのか。だが黙っていれば「反論できないのだ」と言われるに違いない。

つまり何をしても非難されるのだ。

これは私個人の問題ではない。中国の言論空間そのものの問題だ。発言者は常に二重の罠にかけられる。内容ではなく態度が問題にされ、論旨ではなく人格が攻撃される。

「和を以て貴しとなす」——この美しい格言はしばしば権力者の武器となる。批判者に対して「和を乱している」と言えば、批判の内容を無視できるからだ。

章士釗について言えば、彼のしたことは明白だ。権力を笠に着て教育を弾圧した。これは事実であり、私の人格がどうであろうとこの事実は変わらない。

だが論客たちは事実には興味がない。興味を持つのはただ一つ——誰が勝ち、誰が負けるか。

私はこの種の論争に疲れている。だが黙るわけにはいかない。黙れば彼らの思う壺だからだ。

よって書き続ける。たとえ「人格卑汚」と言われようと。

第34節

辰 そもそもそういうことではない。彼は外国人の声を窃取して翻訳しているのだ。おい!なぜ自分で創作しないのだ?

巳 ならば彼は罪を犯したことになる!調べてみれば、字も外国から来たものだ。紙も外国から来た。筆だって——

辰 そんな屁理屈を!

巳 屁理屈ではない。真理だ。

辰 真理? 笑わせるな。翻訳とは畢竟、他人の褌で相撲を取ることだ。

巳 ではお前の「創作」とやらは何だ?古人の言葉を切り貼りし、典故を並べ立て、それを「創作」と呼ぶのか。

辰 ……

巳 黙ったな。

辰 黙ってはおらん。呆れているだけだ。

この対話は架空のものだが、現実を反映している。中国の文壇では翻訳は常に創作より低く見られてきた。翻訳者は「他人の声の代弁者」に過ぎないとされ、自らの「声」を持たない者と見なされてきた。

だが問いたい——翻訳がなければ、中国は今どうなっていたか。

西洋の思想、科学、文学が中国に入ってきたのは全て翻訳者のおかげではないか。厳復、林紓、そして今日の翻訳者たち——彼らの労苦なくして中国の近代化はあり得なかった。

もちろん翻訳には限界がある。言語の壁は完全には越えられない。だからこそ翻訳は創作に劣らず困難な作業なのだ。いやむしろ、二つの言語の間で苦闘する翻訳者は、一つの言語の中で自由に振る舞える創作者よりもはるかに多くの苦労を背負っている。

翻訳を蔑む者は、自らの無知を告白しているに等しい。

第35節

では、私が書くとき敬虔な心がなかったのか。答えて曰く、あったであろう。たとえそのような立派な心がなかったとしても、決してわざとおどけた調子をひけらかしたりはしない。押し潰されながら、なおへらへらと笑い、遊戯三昧でいられようか。もしそれができるなら、まさに神仙というものだ。私は呂純陽祖師の門下に帰順したことなどない。

しかし書き上げた後は、自分の羽毛をさほど惜しまず、いわゆる「自分の箒を宝とする」ような気持ちもなかった。なぜなら、既に述べた通り、その時にはもう「これで終わりだ、知ったことか」という気分だったからである。誰がこのようなつまらぬ後始末に心を砕こうか。だから、どこかの選者が偉大なる眼光を放って私の作品を選んで印刷しようとも、私はいつも通り放っておいた。実際、気にしようにもどうにもならないのだ。私はかつて人の代わりに印税の回収を代行したことがある。売り切れたと聞いて書店に金を要求しに行くと、返事には、旧支配人はすでに辞職して帰郷した、彼に請求せよ、我々は知らぬ、と。その書店は上海にあるのに、どうして汽車に乗って押しかけたり、訴訟を起こしたりできよう。しかし私はこうした選本に対して、ひそかに「必ずしもそうではない」と思う点がいくつかあった。一つは原本の誤字で、一目見て間違いとわかるのに、そのまま誤りを踏襲すること。二つは、彼らがいちいち偉大な議論を披瀝すること、例えば何主義だとか何の意味だとか、おおむね私自身はそうは思っていないことである。もちろん、批評とは「精神の冒険」であり、批評家の精神は常に作者より一歩先を行くものだが、彼らのいわゆる死体の上で、私にははっきりと心臓の鼓動が聞こえる。これはまさに死んでも意見が一致しないということであり、それ以外には、さしたる恨みもない。

これは一見、東洋文明式の寛容のように思えるが、実のところ私が文章を売って生計を立てていないからであろう。中国では、駢文の寿序の値段は依然として一篇百両であるが、白話文は値打ちがない。翻訳はというと、自分で創作できず他人の創作を妬む心根の悪い者が提唱したものだと聞く。将来文壇が進歩すれば、当然さらに一文の値打ちもなくなるだろう。私の書いたものは、当初はずいぶん多くの障壁にぶつかったが、今の相場は千字あたり一元から二、三元、しかしそうそう良い顧客はおらず、どこから来たとも知れぬ義務を果たすばかりである。私が原稿料や印税で家を建て、米を買い、さらにはそれで煙草を吸い、砂糖菓子を食べていると思う人もいる。しかしあの金は別のところから騙し取ったものだ。私は書坊の主人をまず鬼の顔で脅し、それから交渉するなどという芸当はあまり得意ではない。思うに、中国で最も値打ちのないのは労働者の体力であり、次に我々のいわゆる文章であり、ただ機転だけが値打ちがある。もし本当にまっすぐに文筆で生計を立てようとすれば、私の経験では、売ったり買ったり、往復に少なくとも一ヶ月、多ければ一年余り、金が届く頃には、著者はとうに餓死しているばかりか、夏であれば筋肉まで腐り果てて、食事をする腹すらないであろう。

だから私はいつも別の道で生計を立てている。いわゆる文章というものは、追い詰められなければ書かない。追い詰められてやっと生まれるのだから、高尚な「インスピレーション」だの「創作の興」だのとはあまり関係がないことは、想像に難くない。もし私が別の道で生計を立てる必要がなく、心志を一つに集中すれば「インスピレーション」の類が湧き、より偉大な作品を生み出せるだろう、少なくとも皮を剥いだ狸猫を差し出すことは免れるだろう、というなら、それも必ずしもそうではない。田舎の塾の先生は、年がら年中、朝から晩まで村の子供を教え、「しきりに政治活動を考える」どころか、「種々のつまらぬことをしている」わけでもないが、彼らには『教育学概論』や「高頭講章」の待定稿を名山に蔵しているようには見えない。そしてマルクスの『資本論』も、ドストエフスキーの『罪と罰』も、コーヒーを啜り、エジプト煙草を吸った後に書かれたものではない。章士釗総長治下の「天才」たる編訳館の人員や、官僚の補助金や銀行の広告費を得た「大新聞」の著者でもない限り、謀が成り事が遂げられ、十分に眠り食べた余暇に、三月字を練り、半年句を鍛え、将来超絶した古雅華麗な作品を作り出すことはあるまい。要するに、私に関して言えば、腹が一杯になり、付き合いが少なくなると、心穏やかになって門を閉じ、何も書かなくなる。たとえまだ書いても、おそらくぬるま湯の談話、両論併記の議論、つまり中庸の説、公正な言葉に過ぎず、実際は書かないのと同じである。

だから上海の小さな書商が蚊に化けて私の少しばかりの血を吸うのは、もちろん物質的な損害に違いないが、私にはさほど大きな恨みはない。なぜなら、彼らが蚊であることを私は知っているし、皆も知っているからだ。私の一生で大きな損害を与えたのは書商でもなく、兵匪でもなく、旗幟鮮明な小人でもない——いわゆる「流言」である。例えば今年にしても、「学潮を煽動した」とか、「校長の座を狙っている」とか、「歯を叩き落とされた」とかいった話がある。あるとき、今では私の著作権の損失について不平を述べてくれる西滢先生さえもそれを信じそうになり、『現代評論』(第二十五期)のいつもの「閑話」に発表したのだから、その影響力は推して知るべしである。例えば一人の女学生が、卑劣陰険な文人学士たちに陰で品行に関する噂を流されるくらいなら、いっそ土匪に赤い襟巻を——物質を——奪われた方がましだ。しかしこの「流言」を作ったのは一人なのか多数なのか。姓は何、名は何か。私にはどうしても突き止められない。後には暇がなくなり、もう調べることもやめ、ただ述べやすくするために、総称して「畜生」と呼ぶことにした。

分類はしたものの、不幸にしてこれらの畜生は人々の中に紛れ込んでおり、同じく人の顔をしているから、実際には見分けようがない。だから私は疑い深くなり、あまり人の言うことを聞きたがらなくなった。また、言うべきこともないから、自分も文章を書く気にあまりならない。時には、真に義憤を色に現した公の言葉でさえ奇異に、珍奇に感じられ、そうして下等な性分の「恩知らず」が成功するか、あるいはついに救いようがなくなるのである。

冷静に考えてみれば、いわゆる「選家」という種類の人物は、明末の八股文の選家を容易に連想させるゆえに人を辟易させるようだが、今こそ数人いるべきだ。この二、三年来、無名の作家にも有名な作者を凌ぐ作品がなかったわけではないが、誰も顧みず、自生自滅に任せている。昨年、私はDF氏に提案したことがある。各地の各種定期刊行物を蒐集し、仔細に評量し、小説集を数冊選んで印刷し、世間に紹介すべきだと。ただし既に専集のある者は一切収録せず、「再拝して大門の外に送り出す」と。しかしこの話もついに空言に終わり、当時も決まらず、後には皆散り散りになった。私にはこの事業はできない。なぜなら私は偏向しているからだ。是非を評する時、私はいつも知人が正しいと感じ、作品を読む時には、異なる立場の者の腕前はおおむね高くないと思う。私の心には「公平」なるものが存在しないようであり、他人の中にも見たことがない。しかしどこかにはあるかもしれないと疑っているから、あの二つのものにはなる勇気がない——法官と批評家である。

まだ専門の選家がいない今、この仕事は批評家にもできる。なぜなら批評家の職務は悪草を刈るだけでなく、佳花を——佳花の苗を——灌漑することでもあるからだ。例えば菊が佳花であるならば、その原種は黄色い細かな野菊、俗名「満天星」に過ぎない。しかし、おそらく文壇に本当に良い作品がないせいか、あるいは批評家になった途端に眼界が極めて高くなるのか、私には青年作家への痛撃、冷笑、抹殺ばかりが見え、誘掖奨勧の意を含む批評はほとんど見かけない。いわゆる「文士」でありながら批評家めいた者の中には、もっぱら一人の御前侍衛となり、トルストイだ、トルストイだと東を指し西を画いて、ただ一人のために屏風となる者がいる。甚だしきに至っては、一方でその人を暗に庇い、一方で他人を中傷するが、姓名も実証も明白に挙げず、ただ含沙射影の口調で、当人は自分のことだと気づかないようにし、さらに口頭の宣伝で筆墨の及ばぬところを補い、他の人がその人を疑うようにする。これは文字に対してだけでなく、女性の名誉についても、今年私はこの畜生道の方法で毀損するのを見た。古人はよく「鬼蜮の技倆」と言うが、実際世間に鬼蜮などいるはずもなく、指し示しているのはこの類の者に過ぎない。この類の者は論外だが、ただ侍衛を務める者でさえ、一言半句を評選する資格はない。なぜなら、この種の仕事は、する者が不偏と自認しながら実は偏っていてもよく、公平と自認しながら実は公平でなくてもよいが、ただ「別の用心」をその間に挟んではならないからだ。

書商も他の商人と同じく利を追うのみ。その出版や議論の「動機」が「純潔でない」ことは誰もが知っており、決して大学教授のそれと同列には論じられまい。しかし彼らは利を追う以外に、別段何の意図もない。これが私をかえって安心させるところだ。もちろん、これまでもっと奇怪で陰毒な暗矢を受けたことのない幸福な人であれば、当然この一点だけでも苦痛を感じるであろう。

これも一篇の作品と言えようが、やはり搾り出したものであり、囲炉裏でお茶を煮ながらの閑話ではない。最後に、遡って題名を付ける。事実の記録なり。

(十一月二十二日。)

【北大を観る】

北大学生会の緊急な要請により、私は本校の二十七周年記念について一言述べねばならない。

ある教授の名論によれば、「一、二時間しか教えない講師」は校事にあずかる資格がないという。そして私はまさに一時間しか教えない講師である。しかしこの名論は、どうか許されたい、私は無視することにする。——もし許されないなら、それもまた仕方がない。人はそのようなことにかまっていられないのだ。

私はもともと北大の教員であることだけを自認していたわけではない。他にもいくつかの学校と関わりがあるからだ。しかしどういうわけか——おそらく神妙な意図があるのだろう——今年突然かなりの人が私を北大派と指名した。私は北大に本当に特別な派閥があるかどうか知らないが、そう自認することにした。北大派か?北大派で結構だ!それがどうした?

しかし、流言家諸氏は私の意思を誤解されぬよう。噂で私がどうだと言えば私がそうするわけではない。私の方法は一律ではない。例えば先日のデモの際、新聞が私の門歯を二本叩き落とされたと噂したが、私は決して警察署に陳情し、軍警を増派して改めて私の門歯を叩き落としてもらおうとはしなかった。私が噂の通りに行動するのは、自分が望むものだけを選んでのことに限る。

私は北大も悪くないと思う。もし本当に派なるものがあるなら、この派に入れられても、まあそれでよい。理由は以下の通り——

二十七周年である以上、本校の萌芽は当然前清に発するが、民国初年の状況も私は知らない。ただこの七、八年の事実から見ると、第一に、北大は常に新しい、改進的な運動の先鋒であり、中国をより良い、上へ向かう道に歩ませようとしてきた。多くの暗矢を受け、多くの流言を背負い、教授も学生も年々入れ替わったが、あの上へ向かう精神は終始一貫して弛緩していない。もちろん、時折馬首を引き戻そうとする者もいるが、これは大勢に影響なく、「万衆一心」とは所詮書物の中の美辞に過ぎない。

第二に、北大は常に暗黒勢力と戦ってきた。たとえ味方が自分だけであっても。章士釗が「学風整頓」の看板を掲げて「師たらん」とし、金銭をばら撒いて以来、北大はなお彼に彭允彝と同様の待遇を与えた。今や章士釗は暗がりに潜んで総長を務めているが、その本性は既に露わとなり、北大の校格もいよいよ明白になった。あの時確かに一角の灰色が現れたが、大勢に影響ないことは第一の項と同じである。

私は公論家ではなく、上帝のように功過を決算する能力はない。ただ私が感じ取ったところによれば、北大はやはり生きており、しかもなお成長している。凡そ生きて成長しているものには、常に希望の前途がある。

今日思い至ったのはこの一点である。しかし、もし北大が二十八周年を迎えてなお章士釗の類に害されず、また記念誌を出すなら、私は予め宣言しておく——もう多くは語らぬ。一つには、命題作文はあまりに苦しい。二つには、言えばおそらくまた同じ話になるからだ。

(十二月十三日。)

【砕話】

自分だけなら、何でもよい。今日の我が昨日の我と戦うもよし、今日こう言って明日ああ言うもよし。だが最もよいのは自分の頭の中で考え、自分の家の中で言うことだ。あるいは恋人と語り合うのも構わない。どうせ彼女は「あら」と感嘆を示すだけで、第三者がこれにあずかることはない。ただ、もし自ら惜しまず次々と発表し、「指導者」「正人君子」を自任して、それらを「思想」や「公論」と称するならば、少なからぬ正直な人が災難に遭うことは免れまい。もちろん、あらゆる神妙な変遷は、かえって学者文人の進歩の神速を示すに足るものだ。ましてや文壇はもともと「州官の放火は許されるが百姓の灯は許さぬ」のだから、不幸にして凡人たる者は、天才のために多少の犠牲を捧げるのが当然の義務なのだ。研究も創作もできぬお前が悪いのだ。ただ苦しむのが当然というほかない!

しかし、これは天才の、あるいは天才の奴隷の高論である。凡人の側から見れば、この説は理には合うが情には反すると感じざるを得ない。「蟻すら命を惜しむ」というのも古の明訓だからだ。だから凡人とはいえ、なお幾日か生き、少しは楽しみたいと思う。困ったことに、余計な世話を焼くのが彼らの苦しみの根であり、家にじっとしていればよいのに、わざわざ出て行って師を求め、公論を聞こうとする。学者文人は日に千変の進歩を遂げ、皆がその後を追う。彼の歩むのは小さな弧、お前の歩むのは大きな弧、彼は円心で回り、お前は円周で回らねばならず、汗だくになって結局わけがわからなくなるのは、占いを待つまでもないことだ。

何でもやれ、やれ、やれ!それは確かに名言だが、もし馬鹿が本当に拳銃を買いに行ったら、必ず深く前非を悔い、さらに進んで救国にはまず学問と悟るであろう。これも確かに名言で、多言は要らぬ、教え通りに研究室に潜り込むがよい。やがてある日、新しい彗星を発見するか、劉歆が劉向の息子ではないと知った後、飛び出して救国しようとする時には、先覚者は「杳として黄鶴の如し」で、あちこち探し回ると、おそらく芝居小屋で見つかるだろう。もうあの「小さなお坊ちゃん、うーん!なあ、ああ、ああ、ああ!」を軽蔑するなかれ——これは芸術なのだ。「人類は理知の動物であるだけではない」そうで、「あらゆる方面で十分に発達した人こそ完全な人」なのだそうだ。学者が芝居小屋にいるのは「感情の方面で種々の美を求めている」のだ。「束髪の少年」が先生になり、研究室から飛び出し、救国の資格も少しはできたかもしれないが、思いがけず精神のあらゆる方面で十分に発達していない畸形物であったとは、まことに哀れ哀れ。

では、すぐに夜芝居を観に行き、種々の美を求めたらどうか。誰にわかろう。おそらく学者はもう芝居小屋を出て、学説もそれに伴って長進(俗に変化と言うが、そうではない)しているだろう。

ショーペンハウアー先生は厭世で一時名を馳せたが、近頃中国の紳士諸氏はもっぱら彼の『婦人論』を賞玩している。なるほど、彼の女性罵倒は紳士諸氏の嗜好に合うが、他の言葉には我々にはいささかそぐわないものが実に多い。例えば『読書と書籍』の中で、こう言っている。「我々が読んでいる時、他人が我々の代わりに考えている。我々はただこの人の心の過程を反復しているに過ぎない。……しかし本来的に言えば、読書の際、我々の脳はもはや自らの活動の場ではない。これは他人の思想の戦場なのだ。」しかし我々の学者文人こそ、まさにこのような戦場を——老練でない青年の脳髄を——必要としている。だがこの上で他の強敵と戦うのではなく、今日の我が昨日の我を打ち、「道義」の手が「公理」の頬を打つのだ——俗に言えば、自分で自分の頬を打つのだ。このような戦場にされた者に、事の次第がわかるはずもない。

第36節

この一ヶ月、どういうわけかまた何人かの学者文人あるいは批評家が魂を失ったかのようになった。まるで先月末にやっと母胎から出たばかりで、民国十四年十二月以前のことなど何も知らないかのようだ。女師大の学生が占拠されていた元の校舎に帰るや否や、これを引き合いに出して、張ひげか李ひげが「兵を派遣して百人二百人の学生を送り込み、二千三千の学生の北大を占拠できる」と言う者がいた。もしそうなら、北大の学生はまさに一斉に立ち上がって女師大を撲滅し、張某や李某が前例に倣うのを防ぎ、母校の安全を確保すべきだ。しかし私の記憶では、北大はちょうど二十七周年記念を挙行したところで、その建学の歴史は、決して章士釗が張某や李某の率いる二百人の学生を引きずり出し、しかる後に北大を改立し、三千人を招いて人目を欺いたものではない。このような比附は、まさに青年の頭の上で転げ回っているようなものだ。夏の間は、「風潮を煽る」とも言えたかもしれない。しかし批評界もまた時に「州官の放火は許すが百姓の灯は許さぬ」のであって、それは天才が文壇にあるのと全く同じだ。

学者文人には次のような特権があるのが最もよい——月々、時々、自分と自分が戦う、すなわち自分の頬を打つことだ。そうすれば凡人が知らずに、常人を例にとって、たかだか「閑話」一つすらまともに語れないと誤解するのを免れよう。

(十二月二十二日。)

【「公理」の見世物】

昨年春以来、北京女子師範大学で校長楊蔭楡に対する反対事件があり、その後、同校長が太平湖飯店で客を招いた後、勝手に学生自治会員六名を除名する事件があった。警察と荒くれ者を蜂のように校内に引き入れる事件があった。教育総長章士釗が復帰するや、非合法に学校を解散する事件があった。司長劉百昭がならず者と女乞食を雇って学生を校外に殴り追い出し、補習所の空き家に閉じ込める事件があった。あわてふためき、急いで女子大学の看板を掲げて天下の耳目を欺こうとする事件があった。胡敦復が火事場泥棒をし、女大の校長の椀を奪い取り、章士釗の世人を欺く手助けをする事件があった。女師大の多くの教職員——私は特に申し明かす、全員ではない!——は元来、章氏と楊氏の措置を非とし、また学生の罪なくして虐げられ、故なくして学を失うことを痛み、校務維持会の組織はますます堅固になった。私はまずこの学校の一講師であり、暗黒残虐の有様を多く目撃した。後にはこの会の一委員となり、女師大が宗帽胡同に自ら校舎を借りてからも章士釗がなお百方に圧迫を加える苦痛をも、おおむね親しく経験した。章氏の勢焔が天を焦がしていた時、私もこの首善の区を見渡して、いわゆる「公理」「道義」の類を求めたが得られなかった。そして今突然現れたいわゆる「教育界の名流」なる者は、あの時は鴉雀の声もなく、甚だしきは肉麻極まりない上申書を捧げて功徳を讃えたほどだ。しかしこの一点については、章氏が兵警を使嗾して痛打させる威を畏れたためか、金銭の分け前を貪ったためか、あるいは真に彼を「公理」や「道義」等の具象的化身と見なしたためか、私にはやはり判じかねる。しかし、章氏が逃走し、女師大が復校した後、いわゆる「公理」なる代物を、私は突然、間接的に、女子大学が撷英館で「北京教育界名流及び女大学生の保護者」を宴請した席上で見出したのである。

十二月十六日の『北京晩報』によれば、「名流」の一部が十四日夕六時にあの撷英番菜館で開会したという。飯を奢る者、飯を食いに行く者、中国では一日にどれほどいるか知れず、本来私には関係ないが、楊蔭楡も太平湖飯店で人に飯を奢るのが好きだったという旧事を思い出させた。しかし私の注意を引いたのは、この宴席から「教育界公理維持会」が生まれ、この会がまた「国立女子大学後援会」に変じ、この会がまた「国立各校教職員連席会議宛書簡」を発したことで、その声勢は盛大であり、いわく「当該校において暴徒に与し、自ら人格を貶めた教職員は、豺虎に投じ得ずとも、席外に退け、伍を為すなかれ」と。彼らのいう「暴徒」とは、すなわち劉百昭のいう「土匪」であり、官僚と名流、口吻は一にして、局外から見れば、ただ滑稽でしかない。そして私は女師大維持会の一員であり、また女師大の教員であるから、人格に関わることであり、当然抗議の権利がある。抗議のみか。「虎に投ずる」「席を割く」、「名流」の薫灼の態はここに至り、たとえ罵声をもって報いても過ぎたことではない。しかしそこまでする必要もなく、ただこの「名流」なるものが一体何であるかを見れば、もう十分だ。新聞と書簡に名簿がある——

第37節

一、徐旭生先生の第一回返信中に引用された言葉は、ZM君が『京報副刊』(十四年三月八日)に発表した一篇の文章からのものである。その時私はちょうど「青年必読書」への回答で「文章が書けないことなど大したことか」と述べたために、数人の青年の攻撃を受けていた。ZM君が講堂での私の口述を発表したのは、おそらく私の意図を明かし、窮地から救おうとしたのだろう。ここにその一部を書き写す——

「多くの名士学者が我々に示した必読書目を読み、少なからぬ感想が湧いた。だが最も私を打ったのは魯迅先生の二句の附注だった。……この数言から、彼が語った笑い話を思い出した。彼はこう言ったようだ。『話すことと文章を書くことは、どうやら敗者の徴のようだ。運命と死闘中の者にはそんな余裕はない。真に実力ある勝者もまた多くは沈黙する。鷹が兎を掴む時、叫ぶのは兎であって鷹ではない。猫が鼠を捕る時、鳴くのは鼠であって猫ではない。……また楚の覇王も……追奔逐北の時は何も語らない。詩人の風を装い酒を飲み歌う時には、もう兵敗勢窮、死の日が迫っている。最近では呉佩孚名士の「かの西山に登り、かの詩を賦す」、斉燮元先生の「銃を下ろし、筆を取る」がさらに明白な例だ。』」

二、ここ数年、学生が横暴だという話をよく聞く。老先生だけでなく、出たばかりの小官吏や教員までそう言う。しかし私はそうは感じない。革命以前を思えば、社会は今ほど学生を憎まず、学生もこれほど馴順ではなかった。態度だけでも傲然として人混みの中で一目でわかった。今はすっかり変わり、長袍大袖、温文爾雅、古の読書人のようだ。私もある大学の講堂でこれに触れ、最後にこう言った——実のところ今の学生は馴良である、馴良に過ぎるとさえ言えるかもしれない……と。武者君が『京報副刊』(約十四年五月初)に発表した『温良』で引いたのが、この時の私の言葉だ。私はこれがきっかけで『忽然想到』第七篇を書いた。その中の例は、一つは数年前「売国奴」と呼ばれた者の子弟が同級生にひどく唾罵されたこと、もう一つは当時の女子師範大学の学生が同性の校長に男性職員を使って威嚇されていたことだ。私が女師大の騒動について発言したのはこれが最初で、十日後に「壁にぶつかり」、さらに十日後に陳源教授が『現代評論』に「流言」を発表した。半年後、『晨報副刊』(十五年一月三十日)掲載の陳源教授から徐志摩への書簡によれば、「事実を捏造し流言を散布した」のはかえって私だということになっていた。世事は白雲蒼狗、感慨に堪えぬ。

また『「公理」の見世物』で楊蔭楡女史が「太平湖飯店で客を招いた後、学生自治会員六名を除名した」と書いたが、場所は誤りで、後に知ったところでは西長安街の西安飯店だった。五月二十一日、我々が「壁にぶつかった」あの日に場所が変わり、「学校から全主任・専任教員・評議会会員を太平湖飯店に招き校務緊急会議を開いた」のだった。宴席の場所は本来さしたることではないが、「すべての批評は学理と事実に基づく」と自称する「文士」学者からすれば、これも「事実の捏造」であり、私の言うことには一句の真実もなく、楊蔭楡女史さえ存在しない私の空想だと証明されよう。甚だ具合が悪いので急いで訂正し、「桑楡に収めん」とする。

一九二六年二月十五日校了記す。依然として緑林書屋の東壁の下にて。

【一九二八年】

【「酔眼」の中の朦朧】

旧暦と新暦の今年は上海の文芸家に格別の刺激を与えたようで、二つの正月が過ぎるや定期刊行物が続々出現した。彼らはおおむね全力を偉大もしくは尊厳な名称に注ぎ、内容を圧殺する。一年以上続く刊物にさえ必死のあがきと突然変異が見える。著者は初見の名が幾つかあるが多くはなじみで、時にいくぶん見慣れぬ感じは半年一年筆を擱いていたためだ。以前何をし、なぜ今年一斉に筆を執ったか。語れば話は長い。要するに以前は筆を執らずに済んだが今はやむなく執らねばならず、旧来の無聊な文人、文人の無聊と寸分変わらぬ。皆がいくぶん自覚しているから、読者に「将来」を宣言する。「出国」か「研究室に入る」か「大衆を獲得する」か。功業は目前になく、帰国し研究室を出て大衆を得た暁には大変なことになる。遠見のある人、慎重な人は今のうちに「革命的敬礼」を呈するのが最善だ。「将来」に至れば「悔いても遅い」。

しかし各種の刊物は措辞がいかに異なろうと一つの共通点がある。いくぶん朦朧としていることだ。この朦朧の発祥地は、私の見るところ——馮乃超のいう「酔眼陶然」ではあるが——やはり人に愛されも憎まれもするあの官僚と軍閥にある。彼らと瓜葛のある者、持ちたい者は筆致がにこやかで皆に愛想よく先見の明を見せるが、夢の中で鉄槌と鎌を恐れ、現在の主人を明白に讃えられず、ここに朦朧が残る。瓜葛が断たれた者、もともとない大衆に向かう者は本来遠慮なく語れるが、彼らの指揮刀を忘れる馬鹿はそう多くなく、ここにも朦朧が残る。朦朧を装いながら色彩を漏らす者と、色彩を示しながら朦朧を免れぬ者が同時同所に出現した。

朦朧はさほど大事ではない。最も革命的な国でも文芸は朦朧を帯びる。しかし革命者は自己批判を恐れず、明瞭に知り明言する。ただ中国だけが特殊で、人に倣いトルストイを「卑汚な説教者」と呼べても、中国の「目下の状況」には「社会の各方面が暗雲密布の勢力の支配を受けている」と感じるだけで、彼の「政府の暴力を剥ぎ裁判行政の喜劇の仮面を剥ぐ」勇気の何分の一もない。人道主義の不徹底を知りながら、「殺人草を薙ぐが如く」の時にあって人道主義的抗争すらない。剥ぎ取りも抗争も「咬文嚼字」に過ぎず「直接行動」ではない。文筆の人に直接行動は求めない。おおむね文筆しかできぬことを知っている。

第38節

というのは今回、作者が北方の景物——人と天然の苦闘がもたらした景物——に対しさらに争闘を加えていることを見出したからだ。彼は時に自らが本来持つ明麗をもって黄塵を照らし破る。少なくとも「歓喜」(Joy)の萌芽が感じられた。脇腹の槍傷のように血は流れているが、荊冠の上には天使の——彼自身が言うところの——唇がある。いずれにせよ、これは勝利だ。

後に描かれた爽朗な江浙の風景、熱烈な広東の風景はむしろ作者の本領だ。北方の風景と対照すれば、筆を揮う際の熟知と歓喜がわかる。久しぶりの旧友に会ったかのようだ。しかし私はむしろ黄塵を眺めるのが好きだ。明麗な心を抱く作者が、人と天然の苦闘の古戦場にいかに驚き、自ら戦闘に加わったかが見えるからだ。

中国の全土は疎通されねばならない。将来割拠に至らなければ、歴史を背負い黄塵を払い去る青年の中国の彩色は、まずこのようなものだと思う。

(一九二八年三月十四日夜、上海にて。)

【上海における魯迅の声明】

およそ一ヶ月余り前、開明書店を経てM女史の手紙が届いた。「一月十日に杭州の孤山でお別れして以来、ずいぶんお会いしていません。お時間のある折にご通信やご指導を……。」

私は返信で杭州には十年近く行っておらず孤山で別れるなどあり得ない、別人だと説明した。M女史と二人の同窓が訪ね三者の証言で別の「魯迅」と判明。さらに曼殊上人の墓傍に題された詩を見せてくれた——

「我来たりて君寂たる居に、誰が魂を醒まさん。漂萍山林の跡、他年を待ちて公に随い去かん。魯迅杭州に遊ぶ 旧友を弔う 曼殊の句 一、一〇、十七年。」

杭州のH君に手紙で問い合わせた。返事でそのような人物が城外で教えていると。姓は周、『彷徨』を著し八万部売れたが満足せず遠からず良いものを出すと語っていると。

もう一人の「魯迅」がいてもどうしようもない。自叙は大半が私と同じでいくぶん困惑する。詩の拙さは措くとしても、勝手に曼殊に「随い去かん」と言うのは横暴だ。「去る」はいつか来るが曼殊に「随う」など夢にも思わぬ。しかしこれは些事で、恐れ入るのは「指導」の約束の類。

上海に来て「書店を開く」「杭州に遊んだ」と新聞に書かれたが、実際は二階で翻訳しているだけ。車も引けず無煙火薬も学ばず筆で糊口を凌ぐしかない。「先駆者」と持ち上げられ「落伍者」と押される。自業自得で勝手にしろ。しかしもう一人が代わりに説教し詩を題し全部私が背負うとなると翻訳の暇もない。

声明を出す。私のほかに今年少なくとも一人「魯迅」がいる。しかしその言動は『彷徨』を出したが八万部に至らなかった魯迅とは無関係だ。

(三月二十七日、上海。)

【文芸と革命】

来信

魯迅先生、

『新聞報』の「学海」欄で先生の講演『文学と政治の分岐路』を読みました。文学者と政治家の乖離は政治家が目前の安寧に満足するところにあり、鋭敏な文学者から見れば同じく愚昧で不徹底、失望を表明し政治家に忌まれ窮迫のうちに生涯を終えると。世界各国の定例です。『語糸』で『民衆主義と天才』と先生の『「酔眼」の中の朦朧』を読み、似て非なる平凡主義や革命文学の白日夢の朦朧を覚醒させるものだと感じます。少なくとも私にはそうです。

文芸の思潮がいかに変わっても芸術に無限の価値等差が存在するのは否定し得ない。文芸の流れは最初から今まで内容が異なっても精緻熟練の才技で比類なき作品を成すことは同じ。長江は上流下流で形相は異なるが長江は長江だ。下流の広大深緩を見て灌漑に足り巨船を通すと知ると源流を忘れる。愚の極み。さらに「必要なのは下流、利用でき富を増やせる、上流は不要」と。経済的価値で全体を判断している。商人の口からなら怪しまぬが芸術的価値に着眼する文芸家からなら救いようがない。上流を芸術的価値で評すれば下流より自然で奇偉かもしれないのだから。

第39節

真と美は芸術作品の二大要素。最高等級に到達させるには最高級の天才に頼らねばならない。否定できるならなぜホメロス、ダンテ、シェイクスピア、ゲーテを称讃するのか。なぜ同等の作品を創れぬのか。我々にも目も脳も手もある。

人生を離れて芸術を語れば象牙の塔と嫌疑される。芸術を離れて人生を語るなら政治家や社会運動家であり芸術を論じる必要はない。革命に熱心な人は大衆に飛び込めばよい。なぜ文芸を安全で革命的な稼業にするのか。

多くの革命文芸家は「人生を表現する」を誤解している。十九世紀以来の文芸が現実の人生を表し時代精神を含むと考え、「象牙の塔」から覚めた文芸家は時代に追随すべきだと。イプセンの偉大、ドストエフスキーの深刻、エセーニンやゴーリキーの熱烈に打たれ、今後は生活現象を呪詛刻画し民衆的・革命的文芸にすべきだと。「世紀末」に生きる者は苦悶を感じないわけがない。文芸家は感覚がいくぶん鋭い。ありのままに書くと無意識に時代の声となる。しかし自己に忠実であり芸術と情知に忠実だ。イプセンやドストエフスキーが称讃されるのも特有の才技と批評者の闡揚あって初めてだ。理解できるのは少数だ。エセーニンは希望の碑に砕け、ゴーリキーはいくぶん灰色と聞く。芸術について彼も真摯精到の才技を崇ばないはずがない。不真摯な詩人を嘲った詩を読んだ。芸術的価値で量れば大した作家かなお疑問だ。

文芸家は社会を捨てない。民衆の中に立つ。テーヌの時代条件を否定する人物は文芸家は五十年先を見ると言う。五十年先を見ても時代に立ち生活環境を地盤とする。だから民衆の一員であり朦朧の中に残缺と破敗を見出す。熟練の才技で書き出し高い芸術的価値に達するまで創造する。おそらく精緻微妙にのみ心を砕き民衆を激動させることなど考えていない。

芸術の独立の価値と芸術家の最終目的を認めるなら、芸術的価値を捨てて態度を指弾してはならない。芸術家の行為で作品を判断するのと同じく滑稽だ。ボードレールの詩は狂放でいささかも減じない。浅薄な者は蛇蠍と呪うが人生の厭棄は人生の渇慕の裏面だと知らない。人を嘲るにも深奥を観察せねば浮薄に見える。似て非なる基準で深奥も見ず尺度も捨てて攻撃するなど、愚かか別の意図か。今の中国文芸界は語るに値しない。

私は高級な文芸作品を読むのが好きで古いものも多い。懐古主義だと言われる。民衆文芸の天下、第四階級のための文芸だと。愕然として問うた。民衆文芸はどう書くか。どうやって民衆に玩味させるか。いくつ生まれたか。革命後の民衆で鑑賞できるのは何割か。新『三字経』や新『神童詩』が出版されたか。民衆化がどう化けるかわからない。内容なら民衆生活を表す文芸はある。技芸なら国民革命歌一曲で十分。「国民革命成功……皆で唱え……」何と雄壮明白。なぜ他が要るか。答えられず今に至る。やっと『民衆主義と天才』から答えを得た——

第40節

「民衆芸術がいかに普遍性や平等性を主張しても芸術作品に無限の価値等差がある事実は否定し得ない。普遍性、平等性の意味は芸術の内容が民間生活や普遍的事象に関し一般民衆の玩味に供し得るということ。この普遍性と平等性は否定できないが、比較的高級な作品が民衆の玩味に供し得るとしても、すべてが一様に精緻、深刻、微妙に——絶対平等に——玩味し得るなどとは有り得ない。」

最も先進的な思想は最高層の少数者のみが理解し、大衆に浸透した時にはもう先進的ではないとかつて誰かが言った。衆生の大部分は感覚が鈍い。造物主の不公を呪う他に誰を恨めよう。事実だ。人類の進化史は一筆で抹消でき革命も起こり得ない。文化の推進は少数の先覚者に頼る。各人の才智が等しければ文化はとうに極致に達し大同だ。「螺旋式前進」も空言。芸術は文化の一部、例外ではない。民衆化の芸術は価値等差からすれば成り立たない。文芸で革命は寝言。

以上が私の考えです。

一九二八年三月二十五日、冬芬。

回信

冬芬先生、

私は批評家でも芸術家でもない。今日何かの「家」になるには批評を兼ねる一味が要る。少なくとも上海では。芸術家でないから芸術を崇高とも思わない。膏薬を売らねば拳も打たない。一つの社会現象、時代の記録に過ぎず、人類が進歩すれば陳腐になり滅亡する。近頃の批評家はこの二文字を恐れ文学で仙人になりたがる。

文芸は人生から離れ得ないが追随する義務もない。そうでなければ作家の仕事は黄包車と同列だ。仕事を終えれば休む。結果は他人に「感興」を与えるが「創作の興」とは別で、inspireに相当し「感発」「鼓吹」。読者に向かっての話だ。作家には実生活がまずあり生活なくして芸術はない。芸術から芸術へは不可能。

芸術は人生に追随して変化する。度合いは人により上下あるが大体は時代と推移する。イズムは要らず自然にそうなる。時代精神と文芸は相互に関連する。

文芸家は社会改革者とは限らない。観察は深いが態度は消極的。あるのは「絶望の抗戦」。文芸を変革の道具にするのは買い被り。

十九世紀以来の文芸が人生への叛逆を帯びたのは忠実に反映した結果。叛逆者は叛逆を表し圧迫者は圧迫を粉飾する。

芸術の独立の価値と天才を認めるのは嬉しい。しかし芸術至上主義ではない。天才も人間で時代の中に生きる。先を見通すが半歩先であって超越ではない。

中国の文芸はまだ揺籃期。真の批評も創作も少ない。革命文学も看板だけで作品はないが社会的関心を喚起した。騒がしくとも沈黙よりまし。

四月、上海にて。

第41節

惜しくもいささか遅れたが創造社は一昨年株式募集、昨年弁護士、今年「革命文学」の旗を掲げた。成仿吾は「芸術の宮」を離れ「大衆を獲得」しに行き「最後の勝利を保障する」と。この飛躍は必然。文芸に携わる者は鋭敏で没落を感じ備える。大海に漂い必死にしがみつく。表現主義、ダダイズム等の興亡がその消息。今は大時代、動揺、転換の時代。中国の外では階級対立が鋭利化し農工大衆が重みを増す。没落から救うなら彼らの方に。「小資産階級に二つの魂がある」。

中国では萌芽で新奇、先進国では平常。将来は労働者の天下と見定める者、弱者を助ける者、両方が作用する者。恐怖か良心か。成仿吾は小資産階級の根性克服を教え「大衆」を「給与」と「維持」の材料に。文の後に問題——

「最後の勝利の保障が難しいなら行くのか。」

今年の『文化批判』の李初梨の方がまし。無産階級文学を主張し無産者自身は不要。「無産階級の意識による闘争の文学」でよいと。端的爽快。しかし「語糸派」を見ると「魯迅は第何階級か」と問う。

成仿吾に判定されている。「矜持は『閑暇、閑暇、第三の閑暇』、有閑の資産階級か太鼓の中の小資産階級。十万両の無煙火薬で爆破されねば永遠にこう暮らす。」

批判者が「否定の否定」を施し「大衆を獲得」しようとする時「十万両」を夢想し私を「資産階級」に(「閑があれば金がある」)。危殆を覚えた。李初梨が「いかなる階級でも参加し得るが動機を審査」。少し安堵したが私には階級を問う。無一文なら「参加」できるが「動機」を問われる。最も肝心は「無産階級の階級意識を獲得する」——「大衆を獲得」だけでは不足。堂々巡りゆえ李初梨に「芸術の武器から武器の芸術へ」、成仿吾に「十万両」蓄積を任せ、私は「趣味」を語る。

成仿吾の「閑暇、閑暇、第三の閑暇」は面白い。「第一は冷静、第二は冷静、第三もまた冷静」が革命的批評家の記憶を斧で割り「閑暇」も三つに。四つか二つなら「アウフヘーベン」されなかったろうがちょうど三つ。先の罪は「否定の否定」と帳消しだろう。

創造派は「革命のための文学」だから文学を要す。「芸術の武器から武器の芸術へ」進み「武器の芸術」に至れば「彷徨者は同意者に、反対者は彷徨者に変わる」。

問い——なぜ直ちに「武器の芸術」に至らないか。

「有産者の蘇秦の遊説」めくが「無産者がまだ解放されていない」うちは起こる問い。徹底的主張は疑わしい萌芽を含む。答え——

あちらに「武器の芸術」があるからこちらは「芸術の武器」のみ。

第42節

芸術の武器はやむを得ず無抵抗の幻影から紙上の戦闘の夢に落ちた。革命的芸術家もこれで勇気を維持するしかない。芸術を犠牲にすれば革命的芸術家たり得ない。無産階級の陣営に座し「武器の鉄と火」を待つ。出現の際「武器の芸術」を取り出す。鉄と火の革命者に「閑暇」があり功勲を聴けるなら同等の戦士にもなれよう。最後の勝利。しかし文芸は論じ尽くせない。社会に多くの層があり先進国の史実がある。『文化批判』はシンクレアを、『創造月刊』はヴィニーを背負い「進軍」。

「革命せざれば反革命」と言われず掃除で半片のパンにありつけるなら、八時間労働の暇に暗い部屋で『小説旧聞鈔』を抄録する。幾つかの国の文芸も語りたい。好きだから。恐れるのは成仿吾らがイリイチの如く「大衆を獲得」すること。貴族か皇帝に昇格させられ北極圏に流刑されよう。訳著の禁止は言うまでもない。

遠からず大時代が来る。革命文学家と無産階級作家はやむなく「芸術の武器」を弄ぶが、「武器の芸術」を持つ非革命武学家もこの玩具で遊び始めた。にこやかな期刊がそれだ。手にする「武器の芸術」を自らも信じていまい。この最高の芸術は今誰の手にあるか。見つかれば中国の近い将来がわかる。

(二月二十三日、上海。)

【司徒喬君の画を観る】

司徒喬君の姓名を知ったのは四五年前北京にいた時。課業にかまわず師も求めず自らの力で終日古廟、土山、廃屋、貧者、乞食を描いていると。

南からの遊子の心を最も打つ。黄塵漫天の人間にあって万物が土色に染まり人は天然と争闘する。深紅と紺碧の棟宇、白石の欄干、金の仏像、厚い綿入れ、紫糖色の顔、深い皺。天然に屈服せぬ争闘。

展覧会で中国人の天然に対する頑強な魂を見た。「四人の警察と一人の女」を手に入れた。「イエス・キリスト」を覚えている。女性の唇が荊冠に接吻していた。

上海で再会し問うた——「あの女性は?」「天使です」と。満足できなかった。

第43節

惜しくもいささか遅れたが創造社は一昨年株式募集、昨年弁護士を雇い、今年ようやく「革命文学」の旗幟を揚げた。復活した批評家成仿吾は「芸術の宮殿」の守護職を離れ「大衆を獲得」しに赴き革命文学家に「最後の勝利を保障する」と宣する。この飛躍は必然とも言えよう。文芸に身を投じる者はおおむね鋭敏で常に没落を察知しこれに備える。大海を漂流するが如く必死にしがみつく。二十世紀以降の表現主義やダダイズム等の興亡はその消息だ。今やすでに大時代、動揺の時代、転換の時代であり中国以外では階級対立が先鋭化し農工大衆が存在感を増している。没落から救い出すなら当然彼らのもとに行くべきだ。ましてや「小資産階級にはもとより二つの魂がある」。

この類の事柄は中国ではまだ萌芽段階で目新しいが先進国ではもはや平常のこと。将来は労働者の天下と見定めて駆け込む者、弱者の味方をする者、両者が交錯する者がある。恐怖か良心か。成仿吾は小資産階級の根性克服を教え「大衆」を「給与」と「維持」の材料にするが文の後に問題が残る——

もし「最後の勝利を保障」し難いなら行くのか行かぬのか。

今年の『文化批判』の李初梨の方がまだまし。無産階級文学を主張し無産者自身は書く必要なく「無産階級の意識をもって生み出された闘争の文学」でよいとする方がはるかに端的爽快だ。だが「語糸派」を見ると「魯迅は第何階級か」と問わずにはいられない。

成仿吾に判定されている。「矜持するのは『閑暇、閑暇、第三の閑暇』。有閑の資産階級か太鼓の中の小資産階級。北京の烏煙瘴気が十万両の無煙火薬で吹き飛ばされぬ限り永遠にこう暮らす。」

批判者が「否定の否定」を施し「大衆を獲得」しようとする時早くも「十万両の無煙火薬」を夢想し私を「資産階級」に押し込もうとしているらしい。いささか危険を覚えた。後に李初梨が「いかなる階級の人でも無産階級文学運動に参加し得る。ただし動機を審査せねばならない」と。少し安心したが私には階級を問う。「閑があれば金がある」。金がなければ第四階級で「参加」し得るが「動機」を問われる。最も肝要は「無産階級の階級意識を獲得する」こと。「大衆を獲得」だけでは済まない。纏わりが切れぬ以上、李初梨には「芸術の武器から武器の芸術へ」を、成仿吾には半租界で「十万両」蓄積を任せ、私は従来通り「趣味」を語る。

第44節

成仿吾の「閑暇、閑暇、第三の閑暇」という歯噛みの声は面白い。かつて私の小説を「第一は冷静、第二は冷静、第三もまた冷静」と評した者がいて、この一撃が革命的批評家の記憶中枢を斧で叩いたかのように「閑暇」も三つに。四つなら『小説旧聞鈔』も書かず、二つなら忙しそうで「アウフヘーベン」されなかったろうがちょうど三つ。先の罪は成仿吾の「否定の否定」と帳消しだろう。

創造派は「革命のための文学」だから文学を要す。「芸術の武器から武器の芸術へ」進み「武器の芸術」に至れば「批判の武器から武器による批判へ」と同じく「彷徨者は同意者に、反対者は彷徨者に変わる」。

問い——なぜ直ちに「武器の芸術」に至らないか。

「有産者の蘇秦の遊説」めくが「無産者がまだ解放されていない」うちはこの問いは起こる。徹底的主張は疑わしい萌芽を含む。答え——

あちらに「武器の芸術」があるからこちらは「芸術の武器」のみ。

芸術の武器はやむを得ず無抵抗の幻影から紙上の戦闘の夢に落ちた。革命的芸術家もこれで勇気を維持するしかない。芸術を犠牲にすれば革命的芸術家たり得ない。無産階級の陣営に座し「武器の鉄と火」を待つ。出現の際「武器の芸術」を取り出す。鉄と火の革命者に「閑暇」があり功勲を聴けるなら同等の戦士にもなれよう。最後の勝利。しかし文芸は論じ尽くせない。社会に多くの層があり先進国の史実がある。『文化批判』はシンクレアを、『創造月刊』はヴィニーを背負い「進軍」。

「革命せざれば反革命」とも言われず掃除で半片のパンにありつけるなら、八時間労働の暇に暗い部屋で『小説旧聞鈔』を抄録する。幾つかの国の文芸も語りたい。好きだから。恐れるのは成仿吾らがイリイチの如く「大衆を獲得」すること。貴族か皇帝に昇格させられ北極圏に流刑されよう。訳著禁止は言うまでもない。

遠からず大時代が来る。革命文学家と無産階級作家はやむなく「芸術の武器」を弄ぶが、「武器の芸術」を持つ非革命武学家もこの玩具で遊び始めた。にこやかな期刊がそれだ。手にする「武器の芸術」を自らも信じていまい。最高の芸術は今誰の手にあるか。見つかれば中国の近い将来がわかる。

(二月二十三日、上海。)

第45節

【司徒喬君の画を観る】

司徒喬君の姓名を知ったのはもう四五年前、北京にいた時だ。課業にかまわず師も求めず自らの力で終日古廟、土山、廃屋、貧者、乞食を描いていると聞いた。

南から来た旅人の心を最も強く打つ。黄塵漫天の人間にあって万物が土色に染まり人は天然と争闘する。深紅と紺碧の楼閣、白石の欄干、黄金の仏像、厚手の綿入れ、紫糖色の顔、深く多い皺。天然に降伏せずなお争う。

展覧会で中国人の天然に対する不屈の魂を見た。「四人の警官と一人の女」を手に入れた。「イエス・キリスト」を覚えている。女性の唇が荊冠に接吻していた。

上海で再会し問うた——「あの女性は?」「天使です」と。満足できなかった。

今回、作者が北方の景物に対しさらに争闘を加えていることを見出した。時に本来の明麗で黄塵を照破する。「歓喜」(Joy)の萌芽が感じられた。脇腹の槍傷の血にもかかわらず荊冠に天使の唇がある。これは勝利だ。

爽朗な江浙、熱烈な広東の風景はむしろ作者の本領。北方と照らし合わせれば筆の熟知と歓喜がわかる。旧友に再会したかのよう。しかし私は黄塵を眺めるのが好きだ。明麗な心の作者が古戦場に驚き自ら戦闘に加わったのが見えるから。

中国の全土は疎通されねばならない。割拠に至らなければ、歴史を背に黄塵を払う青年の中国の彩色はまずこのようなもの。

(一九二八年三月十四日夜、上海。)

【上海における魯迅の声明】

一ヶ月余り前、開明書店を経てM女史の手紙が届いた。「一月十日孤山でお別れ以来……ご通信やご指導を……。」

返信で杭州には十年近く行っておらず別人だと説明。M女史と二人の同窓が訪ね別の「魯迅」と判明。曼殊上人の墓傍の詩を見せてくれた——

「我来たりて君の寂居に、誰が魂を醒まさん。漂萍山林の跡、他年を待ちて公に随い去かん。魯迅杭州に遊ぶ 旧友を弔う 曼殊の句 一、一〇、十七年。」

杭州のH君に問い合わせると、そのような人物が城外で教えていると。姓は周、『彷徨』を著し八万部売れたが満足せず良いものを出す予定だと。

もう一人の「魯迅」がいてもどうしようもない。自叙は大半同じだがいくぶん困惑。詩の拙さは措くとして曼殊に「随い去かん」と言うのは横暴。「去る」はいつか来るが「随う」など夢にも思わぬ。些事だが恐れ入るのは「指導」の約束の類。

上海に来て「書店を開く」「杭州に遊んだ」と書かれたが実際は二階で翻訳。車も引けず筆で食うしかない。「先駆者」と持ち上げられ「落伍者」と押される。自業自得。しかしもう一人が代わりに説教し詩を題し全部私が背負うなら翻訳の暇もない。

声明を出す。私のほかに今年少なくとも一人「魯迅」がいる。その言動は『彷徨』を出したが八万部に至らなかった魯迅とは無関係だ。

(三月二十七日、上海。)

第46節

現在通用される言い方は「日本軍の至る所、抵抗これに随う」というものであり、失地回復の如何については、当然「軍事専門家にあらざれば、詳細なる計画は知り得ず」ということである。なるほど、「日本軍の至る所、抵抗これに随う」──これこそ迎え撃ちでなくて何であろうか!日本軍が来れば、迎え撃って「駆ける」のだ。日本軍が瀋陽に至れば、迎え撃って北平へ駆け、日本軍が閘北に至れば、迎え撃って真茹へ駆け、日本軍が山海関に至れば、迎え撃って塘沽へ駆け、日本軍が承徳に至れば、迎え撃って古北口へ駆ける……。以前には行都洛陽があり、今は陪都西安があり、将来はなお「漢族発祥の地」崑崙山──西方極楽世界がある。失地回復云々に至っては、軍事専門家にあらずともこれを知り得るのであって、経典に曰く「後ろから付いて来るな」と。これを以前の上海戦事に照らせば、日本軍が租界に退守する度に、「厳に部下に命じて一歩たりとも越境せしむることなかれ」というのであった。かくして、いわゆる迎え撃ちと後追い禁止とは、経典に見えるのみならず実験に徴せられた真理となったのである。右、伝の第一章。

伝にまた曰く、迎え撃ちと後追い禁止には、第二種の微言大義がある──

報道によれば、熱河の実況は次の通りである。「義勇軍は皆極めて勇敢にして、日本軍を撹乱し殺戮することを興奮の事と認む……ただ張作相が義勇軍を接収するとの消息が発表された後、張作相は自ら赴いて慰撫せず、湯玉麟もまた義勇軍へのガソリン供給を停止し、輸送は中断し、義勇軍は大いに失望し、甚だしきは張作相のために立功することを無意味と認める者すらあり。」「日本軍既に凌源に至るに、その時張作相は既に不在にして、吾人は報を聞いて出走し、湯玉麟が車を扣えて物を運ぶは既に目撃の事実となり、日本軍がかつて飛行機を承徳に派遣して爆撃したことなきことに照らせば……承徳は実に妥協による放棄なりしことが知られる。」(張慧冲氏が上海東北難民救済会の席上にて語りしところ。)張慧冲氏の言によれば、「最も名声の高き義勇軍の指導者も、その忠勇の精神は必ずしも吾人の想像の如くならず」とのことであるが、しかし義勇軍の兵士は確かに極めて勇敢なる小百姓である。まさにこれらの小百姓が聖典を解さぬがゆえに、迎え撃ちの策略をも知らぬのである。かくして小百姓自身が、自ずと迎え撃ちの抵抗に遭遇することとなった。湯玉麟が承徳を放棄した後、北平軍事委員会分会は「古北口を固守せよ、もし義勇軍にて入関せんと欲する者あらば、即ち銃を発して迎撃せよ」と命じた。これは即ち、我が「抵抗」は日本軍の至る所に随うのみであり、汝が様を変えて抵抗せんとすれば、我は汝を抵抗する、況んや我が退却は予め約定せしものなれば、汝が妥協を肯んぜざる以上は、ただ「後から付いて来させぬ」のみならず、汝を「迎え撃って」梁山に追い上げるほかなし、というのである。右、伝の第二章。

詩に云う、「惶惶」たる大軍、迎え撃って奔り、「嗤嗤」たる小民、後に従うなかれ! 賦なり。

(三月十四日。)

この文章は検閲官に指摘され、改正を経て、ようやく十九日の新聞に掲載されることができた。

原文は次の通りであった──

第三段の「現在通用される言い方は」から「当然」までの原文は、「民国二十二年春×三月某日、当局談話に曰く、『日本軍の至る所、抵抗これに随う……失地回復及び承徳反攻に至っては、須く軍事の進展如何を視るべし、余。』」であった。また「知り得ず」の下に注として(『申報』三月十二日第三面)とあった。

第四段の「報道によれば熱河……」の上に「民国二十二年春×三月」の九字があった。

(三月十九日夜記す。)

【「光明の至る所……」】

中国の監獄における拷問は、公然たる秘密である。先月、民権保障同盟がこの問題を提起した。

しかし外国人が経営する『字林西報』は二月十五日の『北京通信』を掲載し、胡適博士がかつて自ら数箇所の監獄を視察し、「極めて親しげに」この記者に語ったところによれば、「その慎重なる調査に拠れば、実に最も軽微なる証拠すら得ることができず……彼らは極めて容易に囚人と談話し得、一度など胡適博士は英語をもって彼らと会談し得たという。監獄の状況は、彼(胡適博士──筆者注)の言によれば、満足し得るものではないが、しかしながら、彼らが極めて自由に(ああ、極めて自由に──筆者注)待遇の劣悪なる侮辱を訴えたにもかかわらず、厳刑拷問については、彼らは一片の暗示すらなさなかった」という……。

私はこの度の「慎重なる調査」に随行する光栄には与からなかったが、十年前に北京の模範監獄を参観したことがある。模範監獄とはいえ、囚人との面会において、談話は決して「自由」ではなく、中間に窓一つを隔て、彼此の距離は約三尺、傍らに獄卒が立ち、時間にも制限があり、談話に暗号を用いることも許されず、まして外国語など論外であった。

ところがこの度、胡適博士は「英語をもって彼らと会談し得た」というのだから、まことに特別の極みである。まさか中国の監獄がかくも改良され、かくも「自由」になったというのか。それとも獄卒が「英語」に恐れをなし、胡適博士をリットン卿の同郷にして、大いに来歴ある人物と思ったがゆえであろうか。

幸いにも、私はこの度『招商局三大案』に載せられた胡適博士の題辞を見た──

「公開の告発は、暗黒政治を打倒する唯一の武器にして、光明の至る所、暗黒は自ずと消ゆ。」(原文に新式句読点なし、これは私が僭越ながら付したものである──筆者注。)

かくして私は大いに徹悟した。監獄では外国語をもって囚人と会談することは許されていないが、胡適博士が至れば、特例が開かれるのである。なぜなら彼は「公開の告発」をなし得、彼は外国人と「極めて親しげに」談話し得るからであり、彼こそが「光明」であるからして、「光明」の至る所、「暗黒」は「自ずと消ゆ」るのである。かくして彼は外国人に向かって民権保障同盟を「公開告発」し、「暗黒」はかえってこちら側に在ることとなった。

しかし、この「光明」が帰府された後、監獄にはそれ以降も永遠に他の人が「英語」をもって囚人と会談することを許されるであろうか。

もし許されぬとすれば、それは「光明一たび去れば、暗黒再び来たる」ということになるのである。

しかもこの「光明」は、大学と庚款委員会の事務に忙殺されて、しばしば「暗黒」の中に赴くことはできず、第二回の「慎重なる調査」の前には、囚人たちはおそらく「極めて自由に」再び「英語」を話す幸福には与かれぬであろう。嗚呼、光明はただ「光明」に随いて行くのみにて、監獄の光明世界はまことに束の間のものである!

しかしながら、これは誰をも恨み得ぬことであって、彼らは何千何万と過ちを犯したのではなく、ただ自ら「法」を犯したのである。「善人」ならば決して「法」を犯すには至らぬ。もし信ぜぬ者あらば、この「光明」を見よ!

(三月十五日。)

【泣き止ませ文学】

三年前、「民族主義文学」の徒が銅鑼太鼓を打ち鳴らしていた頃、一篇の『黄人の血』なるものがあり、最高の願望は成吉思汗の孫バトゥ元帥の後に従い、「斡羅斯」を剿滅することにあると述べていた。斡羅斯とは、今のソヴィエト・ロシアである。当時すでに人が指摘するに、今のバトゥの大軍とは即ち日本の軍馬であり、「西征」の前にはまず中国を征服し、従軍の奴隷に変えねばならぬのだと。

自らが征服される時には、極少数の者を除いて、甚だ苦痛である。その実例は東三省の陥落、上海の爆撃の如きにて、凡そ生きている人間で全く悲憤を覚えぬ者はおそらく極めて少なかろう。しかしこの悲憤は将来の「西征」には大いに妨げとなる。かくして一冊の『大上海の毀滅』が現れ、数字を以て読者に中国の武力は決して日本に及ばぬと告げ、皆の心を平らかにせしめた。しかも生きているよりは死の方がましであり(「十九路軍の死は、我々の生の惨めさ、無趣味を警告するものだ!」)、勝利は敗退に如かず(「十九路軍の勝利は、我々の苟且・偸安・驕慢の迷夢を増すのみ!」)。要するに戦死は善きことであるが戦敗は殊に善く、上海の戦役こそ中国の完全なる成功であるという。

今や第二歩が始まった。中央社の消息によれば、日本は既に満洲国と「中華連邦帝国密約」を締結する陰謀を有しているという。その方案の第一条は、「現在世界には二種の国家あるのみ、一種は資本主義にして英・米・日・伊・仏、一種は共産主義にしてソヴィエト・ロシア。今ソヴィエトに対抗せんとせば、中日連合せざれば成功し得ず」云々(詳しくは三月十九日『申報』参照)。

「連合」せんとするのである。この度は中日両国の完全なる成功であり、「大上海の毀滅」から「黄人の血」への道を行く第二歩である。

固より、ある地方では爆撃が行われているが、上海は爆撃を受けて以来既に一年余を経ている。しかし一部の人民は「西征」の必然の歩調を悟らず、一昨年の悲憤を未だ完全には忘れ去っていないように見える。この悲憤は目下の「連合」には大いに妨げとなる。この景況の中で時運に応じて生まれたのは、人々にいささかの爽快と慰安を与える「辣椒と橄欖」の如き文学である。これこそ苦悶に対する処方箋であろう。なぜか。「辣椒は辛けれども人を辛死させず、橄欖は苦けれども苦中に味あり」だからである。これを明らかにすれば、苦力がなぜ阿片を吸うかも分かる。

しかも無声の苦悶のみならず、辣椒は「厭わしき泣き声」をも止め得るという。王慈氏は『辣椒救国を提唱す』なる名文の中で告げている──

「……また北方の人は幼少の頃より母の懐にありて、大いに泣く時、もし母が辣茄子一つを小児に咬ませれば、極めて霊験あらたかに忽ち大泣きを止め得る……

「今の中国は、あたかも大泣きしている北方の嬰児の如し。もしその厭わしき泣き声を止めんと欲すれば、ただ多くの辣茄子を彼に咬ませるのみでよい。」(『大晩報』副刊第十二号)

辣椒をもって小児の大泣きを止め得るとは空前絶後の奇聞であり、もしこれが真ならば、中国人は衆と異なる特別の「民族」と言わねばならぬ。しかし分明に見て取れるのは、この種の「文学」の企図が、人に一辛を与えて死に至らしめず、「その厭わしき泣き声を止め」て、静かにバトゥ元帥を待つことにあるということである。

ただしこれは無効であって、泣けば「問答無用にて斬殺せよ」の霊験には遠く及ばぬ。この後に防ぐべきは「道に目を以てす」であり、我々は目隠し文学を待つこととしよう。

(三月二十日。)

【【備考】:辣椒救国を提唱す 王慈】

かつて一度、ある北方の友人に連れられて天津の点心屋に入ったことを覚えている。腰を下ろすと、給仕が走り寄って問うた──「旦那!何を召し上がります?」「鍋貼を二皿!」かの北方の友人は純粋な北方訛りで言った。鍋貼と共に運ばれて来たのは辣椒の一鉢であった。

かの北方の友人が鍋貼を多量の辣椒と共に実に旨そうに口に運ぶのを見て、私の好奇心が触発され、冒険するかの如く鍋貼一つをそっと少しばかり辣椒に浸け、腹に収めたところ、舌先は忽ち痺れて感覚を失い、喉は痒く辛くて堪え難く、眼窩には涙が湧き、この時私は大いなる苦痛を感じた。

かの北方の友人は私のこの有様を見て大いに笑い出し語った。北方人の辣椒好きは天性であり、「飯菜はなくとも辣椒なくしては食事にならず」との主義を抱いていると。彼らにとって辣椒はあたかも阿片の如く癖になっている! また北方人は幼少の頃より母の懐にありて、大いに泣く時、もし母が辣茄子一つを小児に咬ませれば、極めて霊験あらたかに忽ち大泣きを止め得る……

今の中国は、あたかも大泣きしている北方の嬰児の如し。もしその厭わしき泣き声を止めんと欲すれば、ただ多くの辣茄子を彼に咬ませるのみでよい。

中国の人々は、私のかの北方の友人に等しく、辣椒を食べずには興奮しないのだ!

(三月十二日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)

【【辣椒で泣き止ませるのは結局無理】:むやみに人を咬むな 王慈】

辣椒を咬む時はご用心。上海には近頃、趙旦那や趙秀才のような一群の人が増え、物差し棒を握り、懸命に「阿Q面」の者を見つけて八つ当たりしようとしている。幸いにもこの一群の文人が色眼鏡越しに「阿Q面」だと見なした者は、実は真の阿Qではない。

何の来歴かも知れぬ何家幹なる者が、私の『辣椒救国を提唱す』を読み、北方の子供の辣椒好きを「空前絶後」の「奇聞」だと認めた。何家幹は数千年前の劉伯温でもないのに、某紙上でまるで『推背図』を作っているかのようだ。北方の子供が辣椒を好むことが「奇聞」なら、阿片を吸う父母から生まれた嬰児にもなぜ煙癖があるのか。

何家幹は八つ当たりの対象を掴めず、空振りの後になお得々として「もしこれが真ならば、中国人はまことに衆と異なる特別の民族である」などと言う。敢えて何家幹に問う。色つき近眼鏡をかけて拝読した時、「北方」の二字が目に入らなかったか。既に見たのならば、シュテッティンは日耳曼全体を代表し得るか。アバディーンはブリテン諸島全体を代表し得るか。

何家幹の頭脳は、どうしてかくも単純なのか!趙旦那や趙秀才の類は、徒党を組んでむやみに人を咬もうとしている。私は予め告げておく。私と『辣椒と橄欖』の編者とは面識もなく、『黄人の血』を書いたこともない。何家幹がどうしても私を一噛みせんとするならば、透視眼鏡をかけ目標を見定めてから咬むがよい。さもなくば辣椒を咬んでしまい泣くに泣けず笑うに笑えぬ時、私は責任を負いかねる。

(三月二十八日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)

【【しかし結局やはり無理】:愈出愈奇 家幹】

シュテッティンはまことに日耳曼全体を代表し得ず、北方もまた中国全土を代表し得ない。しかし北方の子供を辣椒で泣き止ませることはできぬ──これは事実であり如何ともし難い。

阿片を吸う父母から生まれた嬰児にも煙癖がある、これは確かである。しかし辣椒を好む父母から生まれた嬰児には辣椒癖はなく、酢を好む者の子に酢癖がないのと同じである。これもまた事実であり誰にも如何ともし難い。

凡そ事実は坊っちゃん癇癪を起こしたところで覆し得ぬ。ガリレオは地球が回転していると言い、教徒は焼き殺そうとし、彼は死を恐れて主張を撤回した。しかし地球は依然として回転している。なぜか。地球がまことに回転しているからである。

されば、たとえ私が反対せずとも、辣椒を泣いている北方の(!)子供の口に押し込めば、泣き止むどころかさらに激しく泣くであろう。

(七月十九日。)

【「人の言葉」】

思い起こせば、オランダの作家ファン・エーデン(F. van Eeden)──惜しいことに彼は昨年亡くなった──の童話『小さなヨハネス』の中に、小さなヨハネスが二種類の菌が争論するのを聞き、傍から「お前たち二つとも毒があるぞ」と批評すると、菌たちが驚き叫んで「お前は人間か。これは人の言葉だ!」と言う場面がある。

菌類の立場から見れば、確かに驚き叫ぶべきことである。人間は彼らを食べようとするがゆえにまず有毒か無毒かに注意するが、菌ら自身にとってはこれは全く無関係にして全く問題とならぬことなのだ。

科学知識を与えることを旨とする書籍や文章であっても、面白く語ろうとするあまり往々にして「人の言葉」を言い過ぎるものである。この弊はかのファーブル(J. H. Fabre)の名高き『昆虫記』ですら免れぬところである。近頃雑誌上で偶然、青年に生物学の知識を教える文章を見かけたが、その中に次のような記述があった──

「鳥糞蜘蛛……形体は鳥糞に似、また伏して動かずにおることができ、自ら鳥糞の様を装う。」

第47節

「動物界において、自らの親たる夫を残食するもの甚だ多きが、最も有名なるは、前に述べたる蜘蛛と今まさに述べんとする蟷螂であろう……」

これもいささか「人の言葉」を言い過ぎている。鳥糞蜘蛛はただ形体がもとより鳥糞に似ており、性としてあまり動き回らぬだけのことであって、故意に鳥糞を装い小虫を欺こうとしているわけではない。蟷螂の世界にもいまだ五倫の説はなく、交尾の最中に雄を食うのはただ腹が減って物を食べているだけのことであり、この食べ物がまさに自分の亭主であるなどと知っているはずもない。しかし「人の言葉」で書かれるや、一方は陰謀殺人の凶犯となり、一方は夫殺しの毒婦となるのである。実のところ、どちらも冤罪なのだ。

「人の言葉」の中にも、また各種の「人の言葉」がある。英国人の言葉があり、中国人の言葉がある。中国人の言葉の中にもまた各種あって、「上等華人の言葉」があり、「下等華人の言葉」がある。浙西に、田舎の女の無知を嘲る笑い話がある──

「盛夏の真昼、一人の農婦が仕事に苦しみつつ、ふと嘆いて曰く、『皇后様はどれほどお楽であろう。今頃はまだ寝台で午睡をなさり、目覚めた時にはこう仰せになるのだ──太監よ、柿餅を持て参れ!』」

しかしこれは「下等華人の言葉」ではなく、むしろ上等華人が思い描く「下等華人の言葉」であるから、実は「上等華人の言葉」なのである。下等華人自身にあっては、その時おそらくこのようには言わなかったであろうし、たとえこう言ったとしても笑い話とは思わなかったであろう。

これ以上語れば、階級文学の厄介事を引き起こすことになるから、「ここで止める」。

今、書物を著すに当たり、青年や少年への手紙という形式をとる者が少なくない。無論、語られるのは「人の言葉」に相違ない。しかしいかなる種類の「人の言葉」であるか。なぜもっと年長の人々に書かぬのか。年長になれば教え諭すに値せぬとでも言うのか。それとも青年や少年の方が比較的純朴にして欺きやすいからであるか。

(三月二十一日。)

【魂を売る秘訣】

数年前、胡適博士はかつて「五鬼中華を乱す」なる手品を弄したことがある。それは即ち、この世に帝国主義の如きものが中国を侵略しているのではなく、かえって中国自身が「貧困」「愚昧」……等の五つの鬼に祟られて皆が不安であるというのであった。今や胡適博士は第六の鬼を発見した。その名は「仇恨」という。この鬼は中華を乱すのみならず、禍は友邦にまで及び東京にまで騒ぎを起こしているという。かくして胡適博士は対症の薬を処方し、「日本の友人」に上書するつもりでいる。

博士に言わせれば、「日本軍閥の中国における暴行が生み出した仇恨は、今日に至って既に甚だ消し難く」、「而して日本は決して暴力をもって中国を征服し得ず」とのことである。これは憂慮に値する──まことに中国を征服する方法はないのか。否、方法はある。「九世の仇、百年の友、皆覚悟するか否かの一点にかかる」──「日本にはただ一つの方法のみ中国を征服し得る。即ち崖に臨みて馬を勒め、徹底的に中国侵略を停止し、翻って中国民族の心を征服することである。」

これこそ「中国を征服する唯一の方法」であるという。なるほど、古来の儒教の軍師は常々「徳を以て人を服するは王たり、その心誠に服するなり」と説いた。胡適博士は日本帝国主義の軍師たるに愧じない。しかしながら中国の小百姓の側から言えば、これこそ魂を売る唯一の秘訣である。中国の小百姓はまことに「愚昧」にして、もとより自らの「民族性」を理解せぬがゆえに、彼らはこれまで仇恨を懐くことを知っていた。もし日本陛下が大いに慈悲を発し胡博士の上書を採用するならば、いわゆる「忠孝仁愛信義和平」の中国固有の文化は恢復し得るであろう。──なぜなら日本が暴力を用いず軟功の王道を用いれば、中国民族は仇恨を生ぜず、仇恨がなければ自ずと抵抗もせず、抵抗せざれば自ずと一層平和に、一層忠孝に……中国の肉体はすでに買い取られ、中国の魂もまた征服されるのである。

惜しむらくは、この「唯一の方法」の実行は全く日本陛下の覚悟にかかっている。もし覚悟せざれば、いかがすべきか。胡博士の答えて曰く、「万やむを得ざるに至りて、真に屈辱的なる城下の盟を受くる」がよいと。まことに万やむを得ぬことである──なぜならばその時「仇恨鬼」は去ることを肯んぜず、これは終始中国民族性の汚点であり、日本のためを思うにも万全の策にあらざればなり。

かくして胡博士は太平洋会議に出席し、もう一度彼の日本の友人に「忠告」する準備をしている──中国を征服する方法がないわけではない、どうか我々の売り渡す魂を受け取ってくれ給え、況んやこれは難しいことではなく、いわゆる「徹底的侵略停止」とは「公平なる」リットン報告書を執行しさえすれば──仇恨は自ずと消え去るのだ!と。

(三月二十二日。)

【文人にして文なし】

ある「大」の字を冠する新聞の副刊に、一人の「張氏」なる者が「中国の有為なる青年に要求す、決して『文人無行』の看板を借りて、譏るべき悪癖を犯すなかれ」と述べている。これはまことに的を射た言葉である。しかしその「無行」の定義たるや、また厳密の極みである。彼に言わせれば、「いわゆる無行とは、必ずしも不規則あるいは不道徳の行為を指すのではなく、凡そ一切の人情に近からざる悪劣なる行為もまた皆これに含まれる」のだという。

続けて日本の文人の「悪癖」の例をいくつか挙げ、中国の有為なる青年の殷鑑に供している。一つは「宮地嘉六は指の爪で頭を掻くことを好む」、もう一つは「金子洋文は唇を舐めることを好む」。

無論、唇が乾くことと頭皮が痒いことは、古今の聖賢もこれを美徳とは称さぬが、悪徳と斥けたこともないようである。ところが中国上海の今日に至り、掻くことを好み舐めることを好むのは、たとえ自分の唇と頭髪であろうとも「人情に近からざる悪劣なる行為」とされるに至った。不快であっても、ただ堪えるしかない。有為なる青年あるいは文人たらんとすることは、日に日に艱難を増している。

しかし中国の文人の「悪癖」は実はこのようなことにはなく、ただ文章を書き得さえすれば、掻こうが舐めようが一向に構わぬのであって、「人情に近からざる」のは「文人無行」ではなく「文人無文」──文人にして文なし──なのである。

二、三年前、刊行物上で某詩人が西湖に吟詩しに行ったとか、某文豪が五十万字の小説を執筆中だとかいう話を見たが、今に至るまで、予告なしに現れた一部の『子夜』を除いては、他の大作は何一つ出現していない。

瑣事を拾い集めて随筆一冊をなす者はある。古文を一篇改作して自作とする者はある。一通りの昏話を語って評論と称し、雑誌を数冊編んでひそかに自分を持ち上げる者はある。猥談を蒐集して下作を書き、旧文を集めて評伝を印す者はある。甚だしきに至っては、外国文壇の消息をいくらか翻訳しただけで世界文学史家となり、文学者辞典を一冊編んで自分もその中に入れ込み、世界の文人を以て自ら任ずる者すらある。しかしながら今のところ彼らはいずれも中国の金看板の「文人」なのである。

文人にして文なきは免れ難いが、武人もまた同様に武ならず。「戈を枕に旦を待つ」と言いながら夜に至ってもまだ出発せず、「死を誓して抵抗す」と言いながら百余人の敵兵を見ただけで逃走する。ただ通電宣言の類だけは大いに駢体を弄し、「文」たること尋常ならず。「武を偃め文を修む」、古に明訓あり、文星は悉く軍営の中に照り移ったのである。かくして我らの「文人」は、唇を舐めず頭を掻かず、人情を忖度し、ただ「有行」の一語を落ち得るのみに終わる。

(三月二十八日。)

【【備考】:悪癖 若谷】

「文人無行」は久しく世人に譏られるところである。いわゆる「無行」とは、必ずしも不規則あるいは不道徳の行為を指すのではなく、凡そ一切の人情に近からざる悪劣なる行為もまた皆これに含まれる。

人である限り誰しも不良の習慣に染まりやすいが、殊に文人は文字著作に専心するがゆえに、日常生活において自ずと怪異なる挙動を免れ難く、しかもおそらくは労苦のゆえに十人中九人は不良の嗜好に染まっている。最も普通なるは神経を刺激する興奮剤を好むことにて、巻煙草とコーヒーは現代文人に流行する嗜好品となった。

現代の日本の文人は、喫煙とコーヒー以外にも各人各様の奇怪なる悪癖を犯している。前田河広一郎は酒を命の如く愛し、酔後は喧しく叫び止まず。谷崎潤一郎は女人の体臭を嗅ぎ女人の痰涕を嘗めることを好む。今東光は学問を自ら誇り自己を宣伝することを好む。金子洋文は唇を舐めることを好む。細田源吉は猥談を好み朝食後二時間熟睡す。宮地嘉六は指の爪で頭を掻くことを好む。宇野浩二は酔後侍妓を侮慢す。林房雄は姦通の癖あり。山本有三は電車にて膝を横にして斜めに座ることを好む。勝本清一郎は談話の際拇指にて鼻孔を穿ることを好む。形形色色、枚挙に遑あらず。

日本の現代文人が犯す悪癖は、中国旧時の文人辜鴻銘が女人の金蓮を嗅ぐことを好んだのと同様に厭うべきものであり、私は現代中国の有為なる青年に要求する。文人に限らず皆健全なる精神を保持し、決して「文人無行」の看板を借りて日本の文人と同様に譏るべき悪癖を犯すことなかれと。

(三月九日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)

【【冷ややかな物言いか?】:第四種の人 周木斎】

四月四日の『申報』『自由談』に何家幹氏の『文人にして文なし』なる一文が載り、中国の文人を論じて云う──

「『人情に近からざる』のは『文人無行』にあらずして『文人無文』なり。瑣事を拾いて随筆一冊をなす者はあり、古文を一篇改めて自作とする者はあり。一通りの昏話を語りて評論と称し、雑誌を数冊編みてひそかに自らを持ち上ぐる者はあり。猥談を蒐集して下作をなし旧文を集めて評伝に印す者はあり。甚だしきに至りては外国文壇の消息をいくらか翻せば世界文学史の専門家となり、文学者辞典を一冊湊えて自らもその中に入り込めば世界の文人ともなる者あり。しかれども今のところ彼らはいずれも中国の金看板の文人なり。」

この文に「これはまことに的を射ている」と言われた如く、誠にその通りである。しかるに例外として──

「今に至るまで、予告なしに現れた一部の『子夜』を除いては、他の大作は何一つ出現していない。」

「文」の「定義」もまた同文の言葉を借りれば「また厳密の極みである」。この文の動機は冒頭の数句から知れる通り、直接にはある「大」字を冠する副刊上の「×氏」の「文人無行」に関する話に因る。なお聞くところによれば「何家幹」とは即ち魯迅先生の筆名であるという。

しかし議論は「的を射」ており「文」の「定義」は「厳密の極み」であるが、まさにそれゆえに思わず自分自身をもその中に含めてしまったのではないか。たとえ魯迅先生が「第四種の人」を自任しているとしても。

中国文壇の充実しつつも空虚なることは諱むべからず。ただし矮人の中に長人を求むれば比較的まだいる。先達に望むところは誰某に対する企図よりも常に深切であるべきだ。魯迅先生の素養と過去の功績をもってすれば、なお中国の金剛石の看板の文人たるに足る。しかし近年はいかがであったか。ただ彼個人の発展のみを言えば途中で画き止めてしまい、今や罪己の詔を下すでもなく、せいぜい局外に身を置いて冷ややかな物言いをするばかり、これが「第四種の人」というものか。名のみ成りし人よ!

「人情に近からざる」は固より「文人無文」であるが、最も肝要なるは「文人不行」(「行」は動詞)である。「進め、吾れ往かん!」

(四月十五日、『涛声』二巻十四期。)

【【涼を取る】:二つの誤解と一つの相違 家幹】

この木斎氏は私に対して二種の誤解を抱いており、私の意見と一点の相違がある。

第一は「文」の定義に関してである。私のこの雑感は『大晩報』副刊上の『悪癖』に因るものであり、その文中に挙げられた文人は皆小説の作者である。このことは木斎氏も明らかに知っているはずだが、今これを混同して論ずるのは、おそらく作文の都合上そこまで顧みる余裕がなかったのであろう。『第四種の人』という題目もまことに時好に適っている。

第二は私に「罪己の詔」を下せと求めていることである。私はここに一つの無聊なる声明をする。何家幹は誠に魯迅ではあるが、しかし皇帝になった覚えはない。もっとも幸いにしてかかる誤解をする者はそう多くはあるまい。

意見の相違する点は次の通りである。凡そ指摘批判するに当たり、木斎氏は自分自身を含めることを「冷ややかな物言い」と見なし、私は自分自身を含めないことを「冷ややかな物言い」と見なす。例えば上海に身を置きながら北平の学生は難に赴くべし少なくとも難を避けるべからずと責めるが如きがそれである。

しかしこの一篇の文章により私はまことに大いなる益を得た。即ち、凡そ社会全体の症結を指摘する文章に対して、論者は往々にしてこれを「人を罵る」ものと称する。以前は甚だ怪しんだものであるが、今にして初めて知った。一部の人々の意見としては、この種の文章は決して自分を含まぬものと考えるのである。なぜなら、もし自分をも含むならば自ら罪己の詔を下すべきところ、詔書はなくして攻撃のみあるからには、指摘するところは全て他人であるに違いないと。かくして「罵る」と称し、こぞってこれを罵り、その人に一切の指摘された症結を負わせて深淵に沈め、天下はここに太平となるのである。

(七月十九日。)

【最も芸術的なる国家】

我が中国の最も偉大にして最も永久、しかも最も普遍なる「芸術」は、男が女に扮することである。この芸術の貴きは両面に光沢あること、いわゆる「中庸」にある──男が見れば「女に扮する」を見、女が見れば「男が扮する」を見る。表面上は中性なれども骨の髄は当然なお男である。しかしもし扮さざれば、それでも芸術と言えようか。例えば中国の固有の文化は科挙制度であり、加えて官位売買の類がある。当初はあまりに民権に似ず時代の潮流に合わぬと言われ、かくして中華民国に扮装した。しかるにこの民国は年久しくして修繕されず、看板すら既に剥落して殆ど尽き、あたかも花旦の顔の脂粉の如し。同時に正直なる民衆がまことに政権を求め出し、科挙出身者や官位売買出身者の参政権を廃さんとしている。これは民族に対して不忠、祖先に対して不孝にしてまことに反動の極みである。今や既に固有の文化を恢復する「時代の潮流」に回帰したのであれば、この不忠不孝を放任するわけにはいかぬ。かくしてもう一度新たに扮装し直さねばならず、草案は次の如し。第一、誰が国民を代表する資格を有するかは試験により決定すべし。第二、挙人を試験により選出したる後さらに一度選抜す。これを選(動詞)挙人と称し、選抜されたる挙人は即ち被選挙人である。文法に照らせば、このような国民大会の選挙人は「選挙人を選ぶ者」と称すべく、被選挙人は「選ばれたる挙人」と称すべきである。しかし扮さざれば芸術と言えようか。かくして彼らは憲政国家の選挙人と被選挙人に扮装せねばならぬ。実質は依然として秀才と挙人であるにもかかわらず。この草案の深意はここにある──民衆には民権に見え、民族の祖先には忠孝に見える。このほか上海で既に実現せし民権の如きは、納税者のみ選挙権と被選挙権を有し、広大なる上海をして僅か四千四百六十五人の大市民のみを残す。これは官位売買──富める者が主人──であるが、彼らは必ず挙人に合格し、甚だしくは補考なくして同進士出身を賜うであろう。その一。

その二、一方で交渉し一方で抵抗す。こちらの面より見れば抵抗であり、あちらの面より見れば実は交渉である。その三、一方で実業家・銀行家を務めつつ一方で自ら「小貧に過ぎず」と称す。その四、一方で日本製品の売行きは再び盛んとなり一方で人には「国貨年」と告げる……このたぐい枚挙に遑なく、しかも大抵は扮演すること甚だ巧みにして両面に光沢あり。

ああ、中国はまことに最も芸術的なる国家にして、最も中庸なる民族である。

しかるに小百姓はなお不満足なり。嗚呼、君子の中庸にして小人の反中庸なるかな!

(三月三十日。)

【現代史】

私に記憶がある時分から今に至るまで、凡そ私がかつて至りし地において、空き地の上に常々「手品師」を見かけた。「手品を使う」とも言う。

第48節

この手品師には、おおよそ二種のみであった──

一種は、猿一匹に仮面を被せ衣服を着せて一通り刀槍を弄ばせ、羊に騎って数周走らせる。さらに薄粥で養われ既に痩せて骨と皮ばかりの熊が若干の芸当をする。最後に皆から銭を集める。

もう一種は、石一つを空箱に入れ手巾で左に覆い右に覆いして白鳩一羽を出現させる。また紙を口に詰めて火を点け、口角や鼻孔から煙炎を吐く。次に皆から銭を集める。銭を集めた後、一人が少ないと言って勿体をつけてもう演じぬと言い張り、もう一人がなだめて皆に「あと五つ」と言う。果たして銭を投げる者が現れ、かくしてあと四つ、三つ……。

銭が足りると、手品はまた始まる。今度は子供一人を口の小さな甕の中に入れてしまい、小さな辮髪だけが見え、再び出すにはまた銭が要る。十分集まると、どういうわけか大人が尖った刀で子供を刺し殺してしまい、被り物を掛けて真っ直ぐに横たえ、生き返らせるにはまた銭が要る。

「家にあっては父母を頼り、外にあっては朋友を頼り……ファーザ!ファーザ!」手品師は銭を撒く手振りをし、厳粛にして悲哀に言う。

他の子供が近寄って仔細に見ようとすれば彼は叱る。それでも聞かねば打つ。

果たして多くの人が「ファーザ」した。金額が見込みの通りに達すると、彼らは銭を拾い上げ道具を片付け、死んだ子供も自ら起き上がり一同立ち去る。

見物客もぼんやりと散って行く。

この空き地は暫時の沈寂となる。しばらくすると、またこの一式が始まる。俗に言う「手品は誰でも使えるが、各々巧みさが異なる」と。実のところ何年も常にこの一式であり、常に見る者があり常に「ファーザ」する者があるが、ただしその間に数日の沈寂を経なければならぬ。

私の話はこれで終わりであり、意味もごく浅い。ただ皆が一通り「ファーザファーザ」した後またしばらく静かになり、それからまたこの一式が繰り返されるというだけのことである。

ここに至って私は初めて題目を間違えたことに気づいた。これはまことに「死にもせず生きもせぬ」代物になってしまった。

(四月一日。)

【推背図】

ここで私が用いる「推背」の意味は、裏面から推して未来の情況を測るということである。

先月の『自由談』に一篇の『正面の文章は逆に読め』があったが、これは人をして毛骨悚然たらしめる文字である。なぜならこの結論に達するまでに、必ずや多くの苦い経験を経、多くの痛ましき犠牲を目にしたに違いないからだ。本草家が筆を執って「砒霜、大毒」と書く。字は僅か四つなれど、彼はこのものがかつていかに多くの命を毒殺したかを確実に知っているのである。

巷間に一つの笑い話がある。某甲が銀三十両を地中に埋め、人に知られることを恐れその上に木の板を立てて「此処に銀三十両なし」と書いた。隣の阿二はこれを見てその銀を掘り出したが、やはり発覚を恐れ木の板の裏に「隣の阿二は盗まず」と書き添えた。これこそ「正面の文章は逆に読め」を教えるものである。

しかし我々が日々目にする文章はかくも単純にはいかぬ。明らかにやると言いつつ実はやらぬものがあり、明らかにやらぬと言いつつ実はやるものがあり、明らかにこうすると言いつつ実はああするものがあり、実は自分がこうしたいのにかえって他人がこうしたがっていると言うものがあり、一声も発せずして実はやってしまっているものがある。しかしまた、こうすると言って本当にそうするものもある。難しいのはまさにここにある。

例えば近日の新聞に載る要聞を見よ──一、××軍は××にて血戦、敵××××人を殺す。二、××の談話:決して日本と直接交渉せず、依然として初志を改めず最後まで抵抗す。三、芳沢来華、私用とのこと。四、共産党が日本と連携、偽中央は既に幹部××を日本に派遣して交渉中。五、××××……

もしこれらを全て逆に読めば、あまりに駭然たるものがある。しかし新聞にはまた「莫干山路の草棚船百余隻大火」や「××××廉売はあと四日のみ」等々おそらく「推背」の要なき記事もあり、かくしてまた我々は混沌とするのである。

聞くところによれば、『推背図』は本来霊験あらたかであったが、某朝某帝が人心を惑わすことを恐れ偽造のものを加えたがゆえに予知し得なくなり、事実の証明を俟って後人々はようやく悟るのだという。

我々もまた事実を見て待つほかなく、幸いにしておそらくそう久しくはなく、今年中には必ず結末がつくであろう。

(四月二日。)

【「殺す相手を間違えた」異議】

曹聚仁氏の一篇『殺す相手を間違えた』を読み甚だ痛快を覚えたが、振り返ってみればなおいささか憤激の談に過ぎぬ嫌いがあるので、異議を数言呈したい──

袁世凱が辛亥革命の後に党人を大殺したのは、袁世凱の側から見れば一点の間違いもなかった。なぜなら彼はまさに偽革命の反革命者であったからだ。

間違っていたのは革命者が騙されたことであり、彼がまことに宙返り一回で北洋大臣から革命家に変じたと思い込み、同志として迎え入れ、皆の血を流して彼を大統領の座に押し上げたのである。二次革命の時、表面上は彼がまた宙返り一回で「国民の公僕」から吸血魔王に変じたかに見えた。しかし実はそうではなく、彼がまた本来の姿を現しただけのことであった。

かくして殺す、殺す、殺す。北京城内では旅館や宿屋の中にまで偵探が満ち溢れ、さらに「軍政執法処」なるものがあり、嫌疑を受けて捕らえられた青年が中に送り込まれるのは見えるが、彼らが生きて出て来るのを見たことはなかった。さらに『政府公報』には日毎に党人の脱党広告が載り、曰く以前は友人に引き込まれて誤ってかの党に入ったが、今は自ら迷妄を知りこれより離脱し心を洗い面を改めて善人たらんとする云々。

間もなく袁世凱が人を殺して間違いなかったことが証明された。彼は皇帝になろうとしたのである。

この事、瞬く間に既に二十年。今の二十歳前後の青年はその時まだ乳を吸っていたのであり、時の流れのいかに速きことか。

しかし袁世凱は自ら皇帝にならんとしながら、なぜ真の仇敵たる旧皇帝を残しておいたのか。これは多く議論するまでもなく、今の軍閥の混戦を見れば分かる。彼らは死物狂いで戦い天を共にせざるが如くなれども、後に至りて一方が「下野」しさえすれば、また丁重に相対するのである。しかし革命者に対してはたとえ戦ったことがなくとも、決して一人たりとも見逃さぬ。彼らは実によく心得ているのだ。

されば私は思う。中国の革命がかくも不首尾に終わるのは彼らが「殺す相手を間違えた」からではなく、我々が「見る相手を間違えた」からなのである。

最後に「中年以上の者を多く殺すべし」との主張にもいささか異議があるが、自分自身が既に「中年以上」であるからして、嫌疑を避けるためただ目を地面に向けるのみとする。

(四月十日。)

原稿では「丁重に相対する」の後に「下野して出洋の際にはさらに盛大なる送別会が開かれることすらある」という趣旨の文があったが、後に削除されたことを記憶している。

(四月十二日記す。)

【【備考】:殺す相手を間違えた 曹聚仁】

先日某紙に某氏が長春帰りの客の話を載せていた。曰く、日本人は偽国において既に「阿片専売」と「幣制統一」の二大政策を完遂したと。この二件はかつて老張・小張の時代には誰もが整理不可能と見なしていたが、今や彼らは一挙手の間にこれを整然と処理した。そこで某氏は嘆息して曰く「余かつて東北の人士と幣制紊乱の害を論ずるに、皆積重にして返り難しと推諉す。何ぞ日本人は一刹那の間に畢えるや。『為さざるなり、能わざるにあらず。』これ国人の一大病根なり!」と。

豈にただ「病根」のみならんや。中華民族の滅亡と中華民国の顛覆もまたこの肺癆病にある。一つの社会、一つの民族が衰老期に至れば何事も「積重にして返り難し」となる。ゆえに「革命」せざるべからず。革命とは社会の突変の過程であり、善人も悪人も善でも悪でもない人もいくらかは殺されるものである。殺すことは代価なきにあらず──社会に隔離作用を起こし旧社会と新社会を截然として二段に分かち、悪しき勢力を新しき組織に伝染させぬのである。ゆえに革命の殺人には基準あるべく、中年以上の者を多く殺し旧勢力を代表する者を多く殺すべきである。フランス大革命の成功は大恐慌時期に旧勢力を一掃したことにある。

しかるに中国の毎回の革命は常に常態に反している。多くの青年が革命運動に参加して犠牲となり、革命の進行中旧勢力は一時身を隠すのみにて一切も剷除されず、革命成功の後に旧勢力がまた湧き出して青年を犠牲にし一大批を殺す。孫中山先生が辛苦して十数年の革命工作をなし辛亥革命は成功したが、袁世凱が大権を握り日毎に党人を殺し甚だしくは十五六歳の子供までも殺さんとした。かくの如き革命は隔離作用を起こすどころかまるで旧勢力の護衛をしているようなものだ。ゆえに民国以来ただ暮気のみにて朝気なく、いかなる事業も改革を論ずるに及ばず、一たび改革を論ずれば必ず「積重にして返り難し」と推諉する。その悪しき勢力は現在に至るまで続いている。

この種の反常状態を私は「殺す相手を間違えた」と名づける。私は常に友人に語っている。「流血なき革命はあり得ぬが、『流血』は人を間違えてはならぬ。早くに溥儀を殺し鄭孝胥の輩を多く殺すこそ邦国の大幸なり。もし二十五歳以下の青年を乱殺し倒行逆施して社会の元気を斫喪すれば『亡国滅種』の『眼前の報い』を得ること必定」と。

(『自由談』四月十日。)

【中国人の生命圏】

「螻蟻すら生を貪ることを知る」──中国の百姓は昔から自ら「蟻民」と称してきた。私は暫時己が命を保全せんがため、常に比較的安全なる場所に心を配っているが、英雄豪傑を除けばおそらく嘲られることもあるまい。

ただし私は正面の記載はあまり信用せず、往々にして別の見方をする。例えば新聞に北平が防空の設備を整えつつあると載っていても、私は安心を覚えぬ。しかし古物を載せて南へ運ぶのを見れば忽ち古都の危機を感じ、しかもこの古物の行方から中国の楽土の所在を推測する。

今や一批また一批の古物が皆上海に集まって来ている。最も安全なる場所は結局のところやはり上海の租界の上であることが分かる。

しかしながら家賃は必ずや高騰するであろう。これは「蟻民」にとっても大打撃であるから、なお他の場所を考えねばならぬ。

考えに考えて一つの「生命圏」に思い至った。即ち「腹地」にもあらず「辺疆」にもあらず、両者の中間に介在するあたかも環の如く輪の如き場所であり、ここにおいてこそ「×世に性命を苟延する」ことができるやもしれぬ。

「辺疆」では飛行機が爆弾を投下する。日本の新聞によれば「兵匪」を剿滅中とのことであり、中国の新聞によれば人民を屠戮し村落市街は一片の瓦礫となっている。「腹地」でもまた飛行機が爆弾を投下する。上海の新聞によれば「共匪」を剿滅中であり彼らは炸かれて見る影もないとのことであるが、「共匪」の新聞に何と書いてあるかは我々には分からぬ。要するに辺疆では炸、炸、炸、腹地でもまた炸、炸、炸。一方は他人が炸し一方は自分が炸するのであって炸す手は異なれど炸される身は同じである。ただこの両者の中間にあるもののみが、爆弾が誤って落ちて来さえしなければ「血肉横飛」を免れる望みがあるので、私はこれを「中国人の生命圏」と名づける。

さらに外から炸し入ればこの「生命圏」は収縮して「生命線」となり、さらに炸し入れば皆は炸され尽くした「腹地」の中に逃げ込みこの「生命圏」は完結して「生命○」(ゼロ)となる。

実はこの予感は誰にもあるのであって、この一年来文章の上に「我が中国は地大にして物博、人口衆多」なる常套句がほとんど見られなくなったことこそ一つの証拠である。しかもある先生は演説の上で自ら中国人は「弱小民族」だと言っている始末だ。

しかしこの言葉は権力者たちの同意するところではない。なぜなら彼らには飛行機のみならず、彼らの「外国」があるからだ!

(四月十日。)

【内と外】

古人曰く、内外に別あり道理は各々異なると。夫を「外子」と呼び妻を「賤内」と呼ぶ。傷病兵は病院の内にあり慰問品は病院の外にあって、査明を経ざれば受け取ることを許さず。外に対しては安んじ、内に対しては攘いあるいは嚷ぶ。

○ ○ ○ ○

何香凝先生は嘆息して曰く「当年はその起たざることを恐れしに、今日はその死なざることを恐る」と。しかしながら死の道理もまた内外で異なる。

○ ○ ○ ○

荘子曰く「哀しみの大なるは心の死するに如くはなし、身の死するはこれに次ぐ」と。次ぐとは二害の軽きを取るなり。されば外なる身体はこれを死なしめ、内なる心はこれを活かす。あるいはまさにその心が活きているがゆえに身体を死なしめるのである。これを治心と謂う。

○ ○ ○ ○

治心の道理は甚だ玄妙である。心は固より活かすべきなれどもあまりに活かし過ぎてはならぬ。心が死すれば明々白々に抵抗せぬことになり、結果としてかえって皆が鎮静でなくなる。心があまりに活き過ぎれば妄想を逞しくし本気で抵抗を企てる。この種の人は「絶対に抗日を言うべからず」なのである。

○ ○ ○ ○

皆を鎮静せしめんがためには心の死せし者は出洋すべし。留学とは外国に赴いて心を治する方法である。しかして心のあまりに活き過ぎたる者は罪あり厳しく処置すべし。これこそ国内にて心を治する方法なのである。

○ ○ ○ ○

何香凝先生は「誰が罪人であるかはなはだ問題あり」と言うが──これはまさに彼女が内外有別の道理を弁えぬがゆえである。

(四月十一日。)

【透底】

凡そ事を徹底するのは善いことであるが「透底」(底を透く)となると必ずしも高明とは言えぬ。なぜなら連続して左に廻り続ければやがて右に廻る友人と出くわすからであり、その時互いに頷き合い顔がひりひりするであろう。自由を求める者が忽ち復辟の自由を保障せよとか大衆虐殺の自由を保障せよと言い出す──透底は透底であるが自由そのものまで漏れ落ちてしまい、元来ただ底なき穴が残るのみである。

例えば八股文に反対するのは至極尤もなことである。八股はもともと愚鈍の産物である。一つには試験官が面倒を嫌い──彼らの頭脳は大半が陰沉木でできている──何の聖賢に代わりて言を立てるとか起承転結だとか文章の気韻だとか一定の基準がなく捉え難いがゆえに、一股一股と定め功令に合する格式としこの格式をもって「文を衡る」ことで一目にして軽重が分かるようにした。二つには受験者もまた省力にして手間いらずと感じたのである。かくの如き八股は新旧を問わず皆掃蕩すべきである。しかしこれは聡明であらんがためであって、さらに愚鈍であらんがためではない。

ただし愚鈍を保存せんとする者には一つの策略がある。彼らは言う「私は駄目だが、あいつも私と同じだ」と。──皆がやっていけなければ引き倒して大団円! しかし「あいつ」が引き倒された後、旧き愚鈍なる「私」はこっそりとまた立ち上がるのであり、実利は愚鈍に帰するのだ。あたかも偶像を打倒せんとすれば偶像は焦って一切の生きた人間を指さし「彼らは皆私に似ている」と言い、かくして汝は走り行って偶像に似たる生きた人間を悉く打倒し、戻って来ると偶像が一頻り讃えて曰く、偶像を打倒して「打倒」者を打倒するとは確かに透底の至りであると。実はこの時さらに大いなる愚鈍が全世界を覆っているのである。

第49節

口を開けば詩云子曰、これは旧八股である。しかるに人あって「ダーウィン曰く、プレハーノフ曰く」をも新八股と見なす。かくして地球が丸いことを知ろうとすれば、人人自ら地球を一周せねばならず、蒸気機関を製造せんとすれば、まず開水壺の前に座して格物せねばならぬ……。これは自ずと透底の極みである。実のところ、かつて衛道文学に反対したのは、あのように人を食う「道」は衛るべきではないという意味であったが、ある人が透底にせんとして、いかなる道も衛らぬと言い出した。この「いかなる道も衛らぬ」というのは、それ自体一つの「道」ではないか。されば、真に最も透底なるは、なお以下の一つの物語であろう──

古、ある国で革命が起こり、旧政府は倒れ新政府が立った。傍の者が言った「お前は革命党だが、もとは有政府主義に反対していたではないか。なぜ自分が政府をやるのか」と。革命党は即座に剣を抜いて自らの首を斬り落とした。しかしその身体は倒れず、殭屍と化して直立し、喉管の中から呑々吐々と言うには、この主義の実現はもとより三千年後を待たねばならぬのだと。

(四月十一日。)

【【来信】:】

家幹先生:昨日、大作『透底』一文を拝読し、晩前に発表した拙文『論新八股』に触れられている箇所あり、甚だ幸甚。ただし「譬え」云々は実に誤解より出たるものです。小生の所謂新八股とは、一等の文にして本は充実せる内容なく、ただ時好の看板のみあり、あるいは新装をもって旧き皮嚢を包むものを指します。看板替えにして中身は同じなればこそ「この空虚なる宇宙」は依然として「且つ夫れ天地の間」と同じく八股であり、羊頭を掲げて狗肉を売ればこそ「ダーウィン曰く」「プレハーノフ曰く」は依然として「子曰く詩に云う」と毫も異ならぬのです。ゆえに攻撃するは「ダーウィン曰く」「プレハーノフ曰く」それ自体にあらず、これを利用して新八股の形式を成すことにあります。先生の挙ぐる「地球」「機器」の例、「透底」「衛道」の理は三尺の童子も知るところ、これを以て比とするは曲解の嫌いあり。

今日の文壇、蓬勃たる新気あるも、一切の狐鼠魍魎なお改頭換面し衣錦逍遥する者あり、礼拝六・礼拝五派等の旧貨を新装して出現する者の如し。この種の新皮毛旧骨髄の八股、先生はこれを掃除すべきものと認められるか否か?

また時代の看板を借り、革命学説を歪曲し、口に阿弥陀を唱えつつ心に妄想を抱く者あり。この種の他人の辺幅を借りて自己の臭き足を蓋う新八股、先生はまたこれを掃除すべきものと認められるか否か?

「透底」に言えば、「譬えば古の皇帝、今の主席、実質上固より大いに区別あるを知るも、今の主席と古の皇帝と一模一様なる者なおありて、しからば某一の意義において主席を非難すること、その意は自ずと明らかにして、もし虱を捉うるに志あるにあらざれば、両目瞭然たらざることなからん」。

予生まれること晩く、不学無術なれども、「徹底」の聡明なきも、「透底」の蠢笨には至らず、あるいは言いて未だ「透」ならざるがゆえに誤解を招きしか。なおご教示「底」に到ること願う。「透」に感じ「透」に感ず!

祝秀侠 上。

【【回信】:】

秀侠先生:お手紙拝受。貴兄の所謂新八股が礼拝五六派等の流れを指すことを知りました。実は礼拜五六派の病根は必ずしも全てその八股性にあるのではありません。

八股は新旧を問わず皆掃蕩すべきこと、私は既に述べました。礼拜五六派に新八股性があるのみならず、その余の人にも新八股性はあり得ます。例えばただ「罵倒」「恫喝」甚だしくは「判決」するのみにて、具体的に切実に科学の求め得たる公式を用いて日毎の新しき事実新しき現象を解釈することを肯んぜず、ただ公式を書き写して一切の事実に乱雑に当てはめる──これもまた一種の八股です。たとえ明らかに理が貴兄にあっても、読者をして貴兄の空虚を疑わしめ、もはや答弁し得ずただ「国罵」のみ残れりと疑わしめることになります。

「革命学説を歪曲する」者が「プレハーノフ曰く」等を以て自己の臭き足を蓋う場合、彼らの誤りは「プレハーノフ曰く」等を書いたことにあるのでしょうか。我々は具体的にこれらの人がいかに誤りなぜ誤りかを証明すべきです。もし単純に「プレハーノフ曰く」等と「詩に云う子曰く」等を等量に扱えば、必然的に誤解を引き起こします。先生の来信もこの点を認めておられるようです。これがまさに私の『透底』において指摘せんとしたところです。

最後に、私のあの文章は虚無主義的な一般的傾向に反対するものであり、貴兄の『論新八股』の中のあの一句は多くの例の中の一つに過ぎず、これは必ず解消すべき「誤解」です。あの文章はこの一例のためだけに書いたのではありません。

家幹。

【「以夷制夷」】

私はまだ覚えている。去年中国の多くの人々がひたすら国際連盟に泣訴していた頃、日本の新聞は往々にしてこれを嘲笑し、中国の祖伝の「以夷制夷」の古い手段だと言った。一見するとなるほどそのようにも見えるが、しかし実はそうではない。あの時の中国の多くの人々は、確かに国際連盟を「青天大老爺」と見なしていたのであり、心の中にはもはや「夷」の字の影すらなかったのだ。

むしろ逆に「青天大老爺」たちの方が常々「以華制華」の方法を用いていたのである。

例えば、彼らが深く憎む反帝国主義の「犯人」に対しては、彼ら自身は悪人の役をせず、ただ爽やかに華人に引き渡して自分で殺させるのだ。彼らが痛恨する腹地の「共匪」に対しては、彼ら自身は明白に意見を表明せず、ただ飛行機と爆弾を華人に売って自分で炸させるのだ。下等華人に対しては皇帝の子孫たる巡捕と西崽がおり、知識階級に対しては上等華人の学者と博士がいる。

我々が何日も自慢していた「大刀隊」は、手がつけられぬかに見えたが、しかし四月十五日の『××報』に頭号活字で「我、敵二百を斬る」なる題目があった。一見するに勝利の感を覚えるが、本文を見てみよう──

第50節

実は、焦大の罵りは賈府を打倒せんとするのではなく、むしろ賈府の好からんことを望んでのことであり、ただ主と奴がかくの如くならば賈府はもうやっていけなくなるぞと言ったに過ぎぬ。しかるに得た報酬は馬糞であった。されば焦大はまことに賈府の屈原であり、もし彼が文章を能くすれば、おそらく一篇の『離騒』の如きものをものしたであろう。

三年前の新月社の諸君子は、不幸にして焦大と相類する境遇に遭った。彼らは経典を引き据を引いて党国にいささかの微辞を呈したが、引いたのは大抵は英国の経典であった。しかるに賈府の賈政のような方々は、このような不満こそ懼るべしと見て、主として先ず焦大の属する側を咎めるのが穏当なりとした。かくして我が新月は収まった。しかし焦大のあの一声の罵りは、決して何の効果もなかったわけではない。その後、主はいよいよ心置きなく傲慢になれたのであるから。

だがある日、石にかじりついても清操を守った新月は再び起ち上がった。ただし今度は不平を自ら呑み込み、かえって主に味方して別のものを罵り始めた。即ち下僕どもである。するとこの度は実に結構なるかなと褒められ、さらに「もっともっと忠実に」と求められた。かくして新月は晴れて忠義の家人となり、焦大の類ではなくなった。この類の変遷を見れば、中国の文人のいかに処世に巧みなるかを知り得るのであって、古来「文人多変節」と言われるのも無理はない。

しかし一つの困った問題がある。新月社の場合のように、上に向かって罵ればこそ焦大であり、下に向かって罵れば犬の群れの仲間入りに過ぎぬ。天地の間に身を置くには、この上下の見境をつけねばならぬのだが、権力の側についた途端に見境がなくなってしまう。これが文人の宿命的な弱点であろう。

ところで、最近になって思うことがある。あの新月派が英国の自由主義を引いて国民党にちょっぴり苦言を呈した時、彼らは銃殺されこそしなかったが、馬糞は食わされた。それに引き換え、もし労働者農民が同じことを言えば、即座に「赤匪」として銃殺されたであろう。この差はどこから来るか。即ち身分の差である。同じ不満でも上等華人が述べれば「微辞」、下等華人が述べれば「反逆」なのだ。

しかるにこの上等華人は自らの特権に安住し、下等華人の苦しみを知ろうともしない。彼らの自由論は畢竟自分たちの自由であって、万人の自由ではない。

されば我々は自ら問うべきである──この社会における真の問題は何か。文人が馬糞を食わされることか、それとも民衆が日々殺されていることか。

この答えが明らかになれば、「学理上の研究」も自ずと方向を異にするであろう。

(四月二十五日。)

第51節

学理上の研究の結果は──圧迫にはもともと二種ある。一種は理のあるもの、しかも永久に理のあるものであり、もう一種は理のないものである。理のあるもの、それは小百姓に高利貸の返済を迫り、田租を納めさせるが如きであり、この種の圧迫の「理」は布告に書かれている──「借金は返済すべし、これ中外同一の定理なり。田を借りて租税を納むるは千古不易の定規なり。」理のないもの、それは盛宣懐の家産を没収するが如きであり、この種の巨紳を「圧迫する」手法は、当時はあるいは理があったかもしれぬが、今ではとうに無理なものとなっている。

最初、新聞に載った『五一労働者への告知書』に「本国資本家の無理なる圧迫に反抗せよ」とあるのを見て、私もいささか驚いた。というのは、ここでは「有理の圧迫」には反抗するなと言っているように読めるからだ。しかし考えてみれば、「有理」の圧迫とは即ち合法的なもの、例えば高利貸の取立てや田租の徴収であって、これらに反抗すれば法を犯すことになる。されば「無理の圧迫」にのみ反抗すべし──しかしその「無理」の基準は誰が定めるのか。

こうして「有理」「無理」の解釈権は上にある者が握ることとなり、下の者は永遠に「有理の圧迫」を甘受し、「無理の圧迫」──つまり上が認めたもの──にのみ反抗が許されるという仕組みになる。

しかしよく考えれば、この世に「有理の圧迫」などというものがあるだろうか。高利貸で小百姓を搾り、田租で農民を苦しめるのが「理」であるとは、まさに圧迫する側の「理」であって、される側の「理」ではない。

されば問題はこうなる──もし「有理の圧迫」に反抗してはならぬとすれば、圧迫はほぼ全て「有理」であるから、反抗はほぼ全て許されぬこととなる。「無理の圧迫に反抗せよ」とは、実は「反抗するな」と同義なのだ。

かくして我々は、この「学理上の研究の結果」の真の意味を知る。それは即ち、小百姓はいかなる圧迫をも甘受すべし、反抗は永遠に許されぬ、ただし上が「無理」と認めた場合は別なりと。しかし上が自らの圧迫を「無理」と認めることなど、千古にわたって一度もなかったのである。

(四月二十八日。)

第52節

幼き日、読書にて陶淵明の「好んで書を読むも甚解を求めず」に至りし時、先生はこう講じてくださった。曰く「甚解を求めず」とは、注解を見に行かず、ただ本文の意味のみを読むということだと。注解はあるにはあるが、確かに我々に見せたがらぬ者がいるのである。

(五月十八日。)

【後記】

私が『自由談』に投稿するに至った経緯は、『前記』にて既に述べた。ここに至って本文は了わったが、電灯はなお明るく、蚊もしばし静かであるので、鋏と筆をもって『自由談』と私とに因って起こった些末な話をもう少し保存し、いささかの余興とする。

一見して分かる通り、私が短評を発表していた間に最も激しく攻撃してきたのは『大晩報』であった。これは前世の恨みがあるわけではなく、私が彼らの文章を引用したからである。しかし私もまた彼らに前世の恨みがあるわけではなく、私が読んでいたのは『申報』と『大晩報』の二紙のみであり、しかも後者の文章は往々にして甚だ珍奇にして引用に値し、愁いを消し悶えを解くに足るからである。即ち今私の眼前にも、煙草を包んできた三月三十日の古い『大晩報』が一枚あり、その中にこのような一段がある──

「浦東の人楊江生、年既に四十一、貌は醜陋にして、人また貧窮、もと泥水工にして、かつて蘇州人盛宝山の泥水作場に雇われたり。盛に女あり名は金弟、今方十五歳にして矮小なること異常、人もまた猥瑣なり。昨晩八時、楊は虹口天潼路にて盛と相い遇い、楊は其の女を姦す。捕頭の尋問を経て楊は毫も否認せず、昨年一二八以後連続して十余回姦行せしことを承認す……」

記事の中に分明に見て取れるのは、盛は楊に対して「倫常」関係ありとは言っていないことであり、楊の供述では女は彼を「叔」と呼んでいたが、これは中国の習慣で年が十歳ほど上であれば往々にして叔伯と称するものなのである。しかるに『大晩報』はいかなる見出しをつけたか。四号活字と頭号活字で──

「途中で捕まえ捕房に引き渡して告訴す/義理の叔父が姪を姦す/女自ら十余回姦されたと称す/男は遊びであり風流にあらずと主張す」

彼らは「叔」の上に「義理の」を添え、かくして「女」は「姪」と化し、楊江生もこれによって「逆倫」あるいは準「逆倫」の重犯となったのだ。中国の君子たちは人心の不古を嘆き非人の逆倫を憎みながら、人間に逆倫の話がないことを恐れるかの如く、偏に筆を以て大げさに書き立て、低級趣味の読者の目を聳動させようとする。楊江生は泥水工にて、見ることもなく、見たとしても抗弁の術もなく、ただ彼らの仕立てるがままに任せるほかないが、しかし社会批評者には指弾の任務がある。しかるに指弾にも至らず、ただ数句の奇文を引用しただけで、彼らはたちまち何の「員外」だの何の「警犬」だのと狂嗥し、あたかも自分たちの一群こそ霞を吸い露を飲み、私財を携えて社会奉仕に来た志士であるかのように振る舞う。社長の何者かは知っているが、しかし結局のところ誰が本当のオーナーか──即ち誰が「員外」であるかは分からぬ。商営でもなく官営でもないというのであれば、新聞界にあっては甚だ珍しいことである。しかしこの秘密は、ここでは追究しないでおこう。

『大晩報』と伯仲する、『自由談』に注目する刊行物にはなお『社会新聞』がある。しかしその手段は遥かに巧妙であって、通じ得ぬあるいは通じたがらぬ文章を用いるのではなく、ただ真偽混交の記事を駆使する。即ち『自由談』の改革の原因など、その説が真か偽かは断じ得ぬが、私はなお彼らの第二巻第十三期(二月七日出版)から読み取ったのであった──

(以下、「『春秋』と『自由談』より説き起こす」として文壇の新旧対立の経緯──周痩鵑の交代、黎烈文の就任、左翼文化運動の台頭等々──が引用される。)

五月初めに至り、『自由談』への圧迫は日に日に厳しくなり、私の投稿も後には相次いで発表し得なくなった。しかしこれは『社会新聞』の類の告発のためではなく、この時ちょうど時事を論ずることが禁じられていたのであり、私の短評には時に時局への憤言があったからである。また『自由談』のみへの圧迫でもなく、この時の圧迫は官営でない刊行物に対しては程度はおおむね同じであった。しかしこの時最も適した文章は鴛鴦蝴蝶の遊泳と飛翔であり、『自由談』にとっては難しいことであって、五月二十五日ついに次のような告知が掲載された──

「編集室──この御時世、物を言うのは難しく、筆を執るのはなお難しい。これは『禍福は門なし、ただ人自ら招く』というのではなく、実に『天下に道あれば』『庶人は議せず』ということなのです。編者は謹んで一瓣の心香を捧げ、海内の文豪に請う──今後は風月を多く語り、牢騒は少なくしてくだされば、著者も編者も共に安泰であります……」

この現象は『社会新聞』の群をいたく満足させたようで、三巻二十一期には「自由談の態度転換」と題する記事が載った。

さらに五月十四日の午後一時には、丁玲と潘梓年の失踪という事件が起こり、皆は暗殺されたのではないかと推測した。この推測は日に日に確かになっていった。流言もこのため甚だ多く、誰それも同様に暗殺されるだろうとか、警告状や脅迫状を受け取ったとかいう話があった。私は何の手紙も受け取らなかったが、ただ五、六日続けて内山書店の支店に私の住所を問い合わせる電話があった。これらの手紙や電話は実際に暗殺を行う者の仕業ではなく、いわゆる文人の数人の悪ふざけに過ぎぬと私は思う──「文壇」にも自ずとこのような人間はいるものだ。しかし厄介事を恐れる者にとっては、この小細工もいくらかの効力を発し得る。

第53節

ついに『大晩報』は一月余り静観した後、六月十一日の夕べ、その文芸附刊『火炬』から微かな光を放った。甚だ憤慨している──

【結局のところ自由は要るのか要らぬのか 法魯】

久しく取り上げられなかった「自由」の問題を、近頃また大いに論ずる者がいる。国事は常に辛辣にして触れ難いゆえ、いっそ論ずるのをやめて、あきらめて「風月」を語ろうとするも、「風月」も意に適わず、喉の奥で「自由が欲しい」と呟きが漏れる。しかし問題が重大なことに気づき、呟く程度は構わぬが明言直語は不便なりと思い、正面から問題を直接提起することを恐れ、何か曲がりくねった文学論に変えてしまう。

自由は要るのか要らぬのか──これは実にはっきりした問題であるはずだが、文人たちはこれを曖昧にしてしまう。なぜか。真の自由を論ずれば上からの圧迫が来るからであり、自由など要らぬと言えば自らの良心が許さぬからである。かくして彼らは風月を語る振りをしながら、その実、自由への渇望を抑えきれずにいる。

しかし風月を語ることが許される社会は、既に自由のある社会ではないか──否、風月を語ることすら許されぬ時が来ることこそ、真に恐れるべきである。風月の背後には常に権力の影がある。風月を語れと命じられてそれに従う時、我々は既に自由を失っているのだ。

要するに、自由は「到底要るのか要らぬのか」という問いは、問うまでもない。問うべきは「なぜ我々は自由を手にし得ぬのか」であり、その答えは明白である──権力がこれを許さぬからだ。

(六月十一日。)

第54節

自らもいわゆる「文人」の「林」に忝くも列するとはいえ、近頃は「文人無行」なるこの言葉にいささか同意を示さざるを得ず、「人心不古」「世風日下」との嘆きも、全くの「道学先生」の偏激の言とは見なし難くなっている。実に今日の「人心」は険毒にして人を恐れしむること甚だしく、殊にいわゆる「文人」は、思いつきもし実行もし、種々の卑劣なる行為──陰謀中傷、造謡誣蔑、公開密告、友を売って栄を求め身を売って靠を投ずる所業は枚挙に遑あらず。さらに他方では自吹自擂し、厚かましくも「天才」「作家」を以て自任し、他人の唾余を窃んでなお沾々自喜する種々の怪しき振る舞いがある。

文壇のかくの如き醜態は、文人と名のつく者の恥辱であるのみならず、社会全体の病弊を映し出している。文人が互いに讒言し、密告し、売り渡す──これは文壇に限ったことではなく、この社会の縮図なのだ。

しかし最も恐るべきは、かくの如き風潮の中で正直なる者が沈黙を強いられ、卑劣なる者が跋扈することである。正直に書けば危険が及び、卑劣に媚びれば安泰を得る──この倒錯した世界にあって、文人の「無行」はむしろ必然の帰結ではないか。

されば「文人無行」を嘆くのみにては足りぬ。問うべきは、なぜこの社会が文人をかくも卑劣ならしめるのか、である。文人を堕落させるのは文人の性質ではなく、文人を取り巻く権力と圧迫の構造なのだ。

(六月十五日。)

第55節

この文章は六月十七日の『大晩報』の『火炬』に載った──

【新儒林外史 柳丝】

第一回 旗を揭げて空営を張り 兵を興して迷陣を布く

さてカールとイリイチの両人はこの日天堂の上にて中国革命の問題を討論していたが、忽ち下界の中国文壇の大ゴビにおいて殺気騰々、塵沙弥漫たるを見た。左翼の防区の中で一人の老将が一人の小将を追い詰め、戦鼓は天を震わせ喊声は四方に起こり、忽然その老将の歯の間から白い霧が吐き出された。カールはその臭気を嗅ぐや忽ち卒倒し、イリイチは机を叩いて大いに怒り「毒瓦斯だ、毒瓦斯だ!」と叫んだ──

これは文壇の攻防を戯画化したものであり、即ち魯迅(老将)が若い文人を追撃する様を諷刺している。しかし「毒瓦斯」とは何か。即ち文章の中に含まれる辛辣なる批判のことであり、これをマルクスやレーニンすら堪え難しとするほどだと言いたいのであろう。

しかしこの種の「新儒林外史」なるものの真意は、左翼文壇を嘲弄することにある。左翼の内紛を誇大に描き、その理想の虚偽を暴かんとする。しかしながら、「空営を張る」のは果たして左翼のみであろうか。この『大晩報』自身が日毎に張っている空営はいかほどか。

文壇の争いを戯画化するのは自由であるが、真の問題から目を逸らすための道具として用いるならば、これこそ「迷陣を布く」行為に他ならない。

(六月十七日。)

第56節

旧式の監獄に至っては、仏教の地獄に倣ったかの如くなれば、単に犯人を禁錮するのみならず、これに苦しみを与える職掌をも有している。金銭を搾り取り、犯人の家族を窮乏の極みに至らしめる職掌も、時に兼帯することがある。しかし皆はこれを当然と思っている。もし誰かが反対すれば、犯人の弁護をするに等しいとして、悪党の嫌疑を受けるであろう。しかるに文明は驚くほど進歩したので、去年には毎年犯人を一度帰宅させ、性欲を解決する機会を与えるべしと提唱する、いささか人道主義的な匂いのする官吏まで現れた。実のところ彼は犯人の性欲に特別の同情を表しているのではなく、ただどうせ実行されることはあるまいと高をくくっているだけなのである。

この種の「人道的」提案が実行されることのない理由は明白である。監獄とはそもそも苦しみを与えるための場所であり、犯人に少しでも人間的な待遇を与えることは、監獄の存在意義を否定することに等しいからだ。されば人道を唱える官吏は、実は人道を実現するつもりなどなく、ただ自らの「人道的」なる姿勢を誇示しているに過ぎない。

しかし真に恐ろしいのは監獄の中の非人道ではない。監獄の外にこそ、もっと大きな監獄があるのだ。犯人は少なくとも自分が囚われの身であることを知っているが、監獄の外の人々は自分が自由であると思い込んでいる。この思い込みこそ、最も完璧なる牢獄ではないか。

提案者は犯人に年に一度の帰宅を許そうと言う。しかし犯人でない我々は、果たして真に自由に帰宅しているのか。我々の帰る場所は、我々自身が選んだものなのか。

監獄の改良を論ずる前に、まず監獄の外の世界を見直すべきであろう。

(五月五日。)

第57節

「天興元年、哀宗帰徳に走る。翌年春、崔立変を起こし、群小付和し、立のために功徳碑を建てんことを請う。翟奕は尚書省の命を以て若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩は勢いを恃みて威を作し、人もし少しく忤えば、讒構して屠滅せしむ。若虚は自ら必ず死すべきを分かち、ひそかに左右司員外郎元好問に謂いて曰く、『今、我を召して碑を作らしむ。従わざれば死し、これを作れば名節は地を掃う。死するに若くはなし。しかりといえども、我しばらく理を以てこれを諭さん。』……奕の輩奪うこと能わず、乃ち太学生劉祁・麻革の輩を召して省に赴かしむ。好問・張信之、碑を立つることを以て諭して曰く、『衆議は二君に属す、且つ既に鄭王に白せり。二君その辞すことなかれ。』祁等固辞して別る。数日、促迫やまず、祁即ち草定す──」

これは金朝末期の話である。崔立なる者が変を起こした後、権勢を笠に着て群臣に功徳碑の作成を強要した。この時、王若虚は死を覚悟して拒み、元好問もまた巧みにこれを避けようとした。しかし結局のところ劉祁が碑文を草した。

この故事は何を教えるか。権力者が文人に文章を書かせようとする時、文人には三つの選択がある。第一に拒絶して死ぬ。第二に書いて名節を失う。第三に巧みに逃れる。王若虚は第一の道を選ぼうとし、元好問は第三の道を取り、劉祁は第二の道を歩んだ。

しかし現代においては、この三つの選択のほかにもう一つある。即ち権力者のために書くと見せかけて、実は権力者を批判する文を書くことだ。これは最も危険な道であるが、同時に最も有効な道でもある。

古来、碑文は権力者の徳を讃えるものとされてきた。しかし「功徳碑」を書くことを強いられた文人が、その碑文の中に微かな皮肉を込めることは珍しくない。読む者が読めば分かり、分からぬ者には分からぬ──これこそ圧迫の下での文人の知恵であった。

しかし最も尊ぶべきは、やはり王若虚の如く死をもって拒む気概であろう。碑文を書かずして死ぬのは容易ではないが、碑文を書いて生き延びるよりは遥かに尊い。

もっとも、死を選ぶべきか生を選ぶべきかは、時と場合による。死んで何の益もなければ、生きて後日を期す方が賢明であることもある。問題は、「後日を期す」と言いつつ実は怯懦に過ぎぬ場合が、あまりに多いということだ。

(五月十日。)

第58節

「また、臣が参りましたのは、如何如何を願うためではなく、また別に願い求むる事もございませんが、ただ一事未決のことがあり、陛下に対して一つその経緯を申し述べたく存じます。臣は……名を馮起炎と申し、字は南州、かつて臣の張三なる叔母の家に至りし時、一人の女子を見ましたが、娶るべきなれども力の及ばざるを恨みます。この女子は小女と名づけ、年十七歳、まさに嫁ぐべき齢にして、まさに未だ嫁がざる時なり。東関春牛廠長興号の張守忭の次女であります。またかつて臣の杜五なる叔母の家に至りし時、一人の女子を見ましたが、娶るべきなれども力の及ばざるを恨みます。この女子は小鳳と名づけ、年十三歳、必ずしも嫁ぐべき齢にはあらざるも、既に嫁ぎ得る時に在り。本京東城闹市口瑞生号の杜月の次女であります。もし陛下の御力を以てすれば……」

これは清朝の馮起炎なる秀才が、殿試の場にて皇帝に上書し、二人の女との縁談を助けてくれと頼んだ話である。科挙の試験で天子に直訴して嫁を世話してもらおうとしたのだから、まことに前代未聞の奇事と言うべきだ。

しかし嗤うべきは馮起炎だけではない。この天真爛漫なる上書には、実は一つの深い真実が含まれている。即ち、権力というものは、いかなる私事にも介入し得るという信仰である。皇帝は天下の事を決し得る──科挙の成績も、人の婚姻も。この信仰は馮起炎一人のものではなく、中国数千年の伝統そのものなのだ。

今日においても、この信仰は変わっていない。人々は「上」に対して、あらゆる問題の解決を期待する。就職も、住居も、婚姻も、果ては個人の性欲の解決までも。先に述べた監獄の性欲解決の提案なども、まさにこの精神の延長線上にある。

しかし「上」がこれらの問題を解決し得るのは、「上」が全ての権力を掌握しているからであり、人々が全く無力であるからだ。この構造が変わらぬ限り、馮起炎的な精神は永遠に消えぬであろう。

(五月十二日。)

第59節

「問:お前は当時皇上の御前にて翎子(花翎の帽子飾り)を賜らんことを請い、翎子なくば帰って妻子に会わす顔がないと申した。この偽道学の恐妻家め。結局皇上は翎子を賜らなかったが、お前はどう帰ったのか。供述:私は家にいた時かつて妻に皇上に拝謁して翎子を賜わると申しましたので、あの時冒昧を顧みず恩典を妄りに求めたのでございます。翎子を得て帰れば誇ることができると思ったのです。後に皇上が賜りませんでしたので、家に帰ってまことに恥ずかしく妻子に会わす顔がありませんでした。これは全く私が偽道学にして恐妻家であることは事実でございます。

「問:お前の女房は日頃から嫉妬深く気が荒いので、お前に妾を娶るにも五十歳の女を当てがうと申したが……」

この供述もまた馮起炎と同じ類の話であり、科挙の秀才が殿試の場で個人の私事を天子に持ち出したものである。皇帝の前で妻を恐れることを告白し、翎子がなければ面目が立たぬと泣訴する──このような場面は、一見滑稽であるが、その底には深い悲哀がある。

この秀才は十年の苦学を経てようやく殿試に至った。しかし彼が真に求めていたのは学問の成就でも天下国家の治平でもなく、ただ妻の前で面目を保つための「翎子」一本だったのだ。十年の寒窓の目的がこれである。

しかし笑ってはならぬ。今日の読書人もまた、畢竟は同じではないか。博士号を取り、教授の肩書きを得、それを以て何をするか──天下の為に何かを為すのではなく、ただ己の面子を立て、妻子の前で威張るためではないのか。

馮起炎もこの秀才も、己の真の欲望を隠さなかった点においてはむしろ正直であった。今日の知識人は、もっと巧みに真の欲望を隠し、高邁なる理想の衣で包む。しかしその衣の下には、翎子一本への渇望が隠れているのだ。

(五月十四日。)

第60節

私はもうどのようにして彼と初めて出会ったか、また彼がどのようにして北京に来たかを忘れてしまった。彼が北京に来たのはおそらく『新青年』に投稿した後のことで、蔡孑民先生あるいは陳独秀先生に招かれて来たのであろう。来た後は当然『新青年』の一人の戦士となった。彼は活発にして勇敢、幾度かの大いなる戦いを戦った。例えば王敬軒への答書としての双簧の手紙、「她」の字と「牠」の字の創造がそれである。この二つは今日見れば瑣末の極みであるが、あれは十数年前のことであり、新式句読点を提唱しただけで一大群の人が「若し考妣を喪いし如く」嘆き、「肉を食い皮に寝ん」と恨む時代であったから、確かに「大いなる戦い」であった。

彼──劉半農──はこのように最初の文学革命の勇敢なる闘士であった。しかし文学革命が一段落すると、彼は外国に留学した。帰国後の彼は変わっていた。かつての闘士は穏やかな学者となり、かつての反逆者は秩序の守護者となった。これは珍しいことではない。青年の日の反逆は、年齢と共に体制への順応に変わるものであり、「革命家」が「学者」に変身するのは中国のみならず世界的な現象である。

しかし劉半農の場合はいささか異なる。彼は単に穏やかになったのではなく、かつて自分が戦った相手の側に立つようになったのだ。かつて彼が「旧勢力」と呼んで攻撃した者たちと、今や一つの陣営にいる。

彼の死に際して、私は深い感慨を覚えずにはいられない。彼がもし早く死んでいれば、永遠に文学革命の勇士として記憶されたであろう。しかし長く生きたがゆえに、晩年の変節が初年の勇気を覆い隠してしまった。これは劉半農個人の悲劇であると同時に、中国の知識人全般の宿命でもある。

(この一篇は劉半農氏の追悼文である。)

第61節

颶風が過ぎた後、気候もいくらか涼しくなったが、私はついに私に書くことを望む数人の望みに従って書き上げた。口語よりも遥かに簡潔であるが、大意は異ならず、我々の同類の人々が読むために書き写したものと思っていただきたい。当時は記憶のみに頼り、古書を乱雑に引用した。話は耳元の風のようなもので、少々の誤りは構わぬが、紙上に書くとなると甚だ躊躇する。しかし手元に原書がなく確かめようもないので、読者に随時のご訂正をお願いするほかない。

一九三四年八月十六日夜、書き終えて記す。

【二 文字は誰が作ったか?】

文字は誰が作ったか。

我々はある一つの物事に慣れ親しむと、常に古い時代の一人の聖人が発明したものだと思い込む。文字は倉頡が作ったと言われている。しかし倉頡一人でどうしてあれほど多くの文字を作り得ようか。実際には、文字は長い歳月をかけて、多くの人々の手によって徐々に作られたのであり、一人の天才の所産ではない。

この「一人の聖人が発明した」という考え方は、中国人の根深い弊害の一つである。あらゆることを一人の偉人に帰し、多くの無名の人々の貢献を抹殺する。これは権力の正当化にも通じる──天下を治めるのは一人の聖王であり、民衆は従うのみだという思想だ。

しかし文字の歴史を見れば分かるように、真に偉大なるものは常に集団の創造であり、個人の発明ではない。文学も同じである。一人の大作家が全てを創造するのではなく、無数の無名の語り部や歌い手がいて初めて文学が成り立つのだ。

(八月十六日。)

第62節

文学が存在し得る条件としてまず文字が書けることが必要であるとすれば、文字を知らぬ文盲の群れの中に文学者がいるはずはない。しかし作家はいるのだ。諸君よ、あまり早くに私を笑うなかれ、まだ話がある。私が思うに、人類は文字の出現以前に既に創作を有していたのであり、惜しいことに誰もこれを記録せず、また記録する術もなかった。我々の祖先の原始人は、もとは言葉すら話せなかったのであるが、共同労働の必要上意見を発表せねばならず、徐々に複雑な音声を練磨していったのである。仮にあの時皆が材木を担ぎ上げ、皆が力を入れて苦しいと感じたが、これを表現する術を思いつかなかった時、その中の一人が「ハンユーハンユー」と叫んだとしたら──これこそが創作である。皆もこれに感服し、応じるであろう。

これこそが文学の起源である。即ち労働から生まれた叫びであり、いかなる書斎からも、いかなる聖人の閃きからも生まれたのではない。最初の詩人は無名の労働者であり、最初の文学は「ハンユーハンユー」という労働の掛け声であった。

この観点から見れば、現代の文学が書斎の中に閉じ込められ、象牙の塔に籠もっているのは、文学の本来の姿からの甚だしい逸脱である。文学は本来生活の中から生まれるものであり、生活から離れた文学は死せる文学に他ならぬ。

大衆の中にこそ文学の真の源泉がある。文盲の中に「文学者」はいないが「作家」はいる──これは矛盾に聞こえるかもしれぬが、書けぬ者にも語り得る者はおり、語り得る者こそが真の作家なのだ。

(八月二十日。)

第63節

大衆と言えば、その範囲は甚だ広く、各種各様の人を含んでいるが、たとえ「目不識丁」の文盲であっても、私の見るところ、実は読書人が想像するほど愚かではない。彼らは知識を欲し、新しい知識を欲し、学び、摂取し得る者なのだ。無論、もし口を開けば新語法、新名詞ばかりであれば、彼らは何も理解しまい。しかし必要なものを徐々に選んで灌注してゆけば、彼らはこれを受け入れるのであり、その消化力は、おそらく成見のより多い読書人をも凌駕するであろう。生まれたばかりの子供は皆文盲であるが、二歳になれば多くの言葉を理解し、多くの言葉を話し得る。彼にとってはこれら全てが新名詞にして新語法なのだ。

彼はいったいどこでこれを学んだか──『馬氏文通』からか。否、周りの人々の話す言葉から自然に学んだのである。ここに一つの重要な教訓がある。即ち、大衆に新しい知識を伝えるには、大衆の理解し得る言葉を用いねばならぬということだ。

しかしこれは大衆に迎合せよということではない。大衆の水準に合わせて内容を貧しくするのではなく、内容を豊かに保ちつつ表現を分かりやすくすることが肝要である。赤子が二歳で言葉を覚えるのは、周りの大人が赤子の水準に堕ちたからではなく、大人の言葉が赤子にも理解し得るだけの具体性を備えていたからだ。

新文学が大衆から遊離しているのは、内容が高級だからではなく、表現が不必要に難解だからである。これは文学者の怠慢であり、あるいは大衆を見下す驕慢の表れである。

(八月二十二日。)

第64節

况んや杜衡氏の文章は、心情が彼と異なる人々に読ませるために書かれたものである。なぜなら『文芸風景』なるこの新刊を見る者は、決して「新しい本を見るくらいなら古い本を見る方がまし」という心情を懐く友人ではないからだ。しかし新刊を見る以上、ただ一冊の『文芸風景』のみを見るには留まるまい。シェイクスピア劇を論ずる書物は多数あり、いくらか渉猟すれば、かくもびくびくと「政治家」(煽動家)に煽動されることを恐れる心情にはなるまい。かの「友人たち」は、作者の時代と環境に注意するほかに、『シーザー伝』の素材がプルタルコスの『英雄伝』から取られていることをも知るであろうし、しかもそれはシェイクスピアの──

杜衡氏はシェイクスピアの歴史劇について論じ、これを「純文学」として政治から切り離そうとした。しかし文学を政治から切り離すことは果たして可能であるか。シェイクスピアの歴史劇は政治そのものであり、彼の劇中にはエリザベス朝の権力闘争が色濃く反映されている。

「政治家に煽動されることを恐れる」とは、実は政治的な意識を持つことを恐れているに等しい。しかし文学者が政治的意識を持たぬことこそ、最も危険な政治的態度ではないか。なぜなら、政治から逃避すると称しつつ、実は現状を是認し権力に奉仕しているからだ。

シェイクスピアは決して「純文学」の象牙の塔に籠もってはいなかった。彼は当時の最も激しい政治的渦中にあり、それゆえにこそ偉大な文学を生み出し得たのだ。文学を政治から切り離そうとする者こそ、文学の力を最も恐れる者なのである。

(八月二十四日。)

第65節

私がここで語りたいのは、消閑として行う私の読書──つまり気ままに頁を繰ること──についてである。しかしやり方を誤れば、害を被ることもなきにしもあらずだ。

私が最初に読書をした場所は私塾で、最初に読んだのは『鑑略』であり、机の上にはこの一冊と習字の描紅と対字(詩作の準備)の課本があるのみで、他の書物は許されなかった。しかし後にようやく徐々に文字を覚え、文字を覚えるや書物に興味を持つようになった。家にはもとより二、三箱の破れた古書があり、それを繰り返し繰り返しめくった。大きな目的は図画を見ることであったが、後には文字も読むようになった。かくして習慣となり、手元に書物があれば、それが何であろうと手に取って繰ってみるか、目次だけでも見ずにはいられなくなった。

この「気ままに頁を繰る」という読書法は、一見すると無秩序で非効率に見えるが、実は計り知れぬ利点がある。体系的な読書は一つの方向に深く掘り下げるが、気ままな読書は思いがけぬ発見をもたらす。ある分野の専門家にはなれぬかもしれぬが、広い視野と柔軟な思考を養う。

しかし最大の利点は、権威に盲従しなくなることだ。特定の学派や主義のみを読む者は、やがてその学派の奴隷となる。しかし気ままに読む者は、様々な立場の文章に触れるがゆえに、いかなる権威をも絶対視しなくなる。

もっとも、この読書法には危険もある。何でも読むということは、有害な書物をも読むということだ。しかし有害か有益かは、読む前には分からぬ。読んでみて初めて分かるのであり、そのためにもまず読まねばならぬ。

されば私の忠告はこうだ──何でも読め、ただし何も信ずるな。

(九月五日。)

第66節

右、御返事まで。

文安を祈る。

魯迅。十一月十四日。

【『戯』週刊編者への手紙】

編集先生:

本日『戯』週刊第十四期を見ましたところ、『独白』に私の返信が得られなかったことを「遺憾」に思うとありましたが、思い起こせばこの手紙は一昨日既に発送したはずで、しかも病中に書いたものであり、自分ではなかなか精一杯やったつもりでおりました。ここに特に申し明け、いささか御機嫌伺いの意とします。

この週刊に載ったいくつかの阿Q像を見ましたが、いずれも余りに特異で、いささか奇妙な感じがします。私の考えでは、阿Qは三十歳前後で、容貌はごく平凡、農民風の──

阿Qの像を描くということは、ある意味では中国の農民を描くということに等しい。しかし多くの画家は阿Qを「異常な人間」として描こうとする。これは大きな間違いである。阿Qの悲劇はまさに彼が平凡であることにあり、彼が特異な人間であったならば、そもそも悲劇は成り立たぬ。

阿Qは我々の隣人であり、我々自身でもある。彼を奇人変人として描くのは、自分自身の中の阿Q的なものから目を背けることに他ならない。

私が望む阿Qの像は、街を歩いていてもすれ違う人の中に見つけられるような、そのような平凡な顔である。奇を衒った造形は、かえって阿Qの精神から遠ざかる。

しかしこれは画家を責めているのではない。文学作品の人物を視覚化することは常に困難な仕事であり、読者各々が心中に描く像は皆異なるのだから。

(十一月十四日。)

第67節

現在中国で試験中の新文字は、南方人が読むには全てを理解し得ぬ。今の中国は本来一種の言語で統一し得るものではなく、されば各地方の言語に照らして別にローマ字表記を作り、将来の疎通を図らねばならぬ。ラテン化新文字に反対する者は、往々にしてこれを一大欠点として挙げ、かえって中国の文字を不統一にするではないかと言う。しかし彼らは、方塊漢字がもともと中国人の大多数に識られず、知識階級の一部にも真に識られていないという事実を抹殺しているのだ。

しかしながら彼らは、新文字が労苦する大衆に利するものであることを深く知っている。されば白色テロルの瀰漫する地方においては、この新文字は必ず摧残を受けるのである。今や並べて──

ラテン化新文字の問題は、単に言語学の問題ではなく、政治の問題である。漢字を読めぬ者が多数を占める社会にあって、漢字はそのまま権力の道具となっている。漢字を知る少数者が知識を独占し、知らぬ多数者を支配する──これが中国の知識構造の根本である。

新文字はこの構造を打破し得る。だからこそ権力者はこれを恐れ、弾圧するのだ。「文字の統一」を口実にした反対は、実は「無知の維持」を企図するものに他ならぬ。

漢字の美しさを愛する心情は理解できるが、美しさを理由に大衆の知識への権利を奪うことは許されぬ。文字の目的は美ではなく伝達であり、伝達し得ぬ文字は、いかに美しくとも文字たる資格を失うのだ。

(十一月二十四日。)

第68節

これこそまことに天大の本領である! あの死の如き鎮静が、またもや私の気悶を打ち破った。

私は書物を置き、目を閉じ、横になってこの本領を学ぶ方法を考えた。思うにこれは「君子は庖厨に遠ざかるなり」の方法とは大いに異なる。なぜならこの場合は君子自身もまた庖厨の中に居るからだ。瞑想の結果、二手の太極拳を案出した。一、世事に対して「浮光掠影」──つまり時に随いて忘却し、あまり了然とせず、いくらか関心があるかの如くして実は懇切ならず。二、現実に対して「聡を蔽い明を塞ぐ」──つまり麻木にして冷静、感触を受けず、始めは努力を要するも後には自然となる。第一の名称はあまり聞こえが良くないが、第二もまた──

これは病を却け年を延ばす養生法に通じる。しかし問題は、この「死の如き鎮静」は果たして学ぶべきものであるかどうかだ。世事に対して無関心であり、現実に対して感覚を鈍くする──これは確かに自己保全の術ではあるが、同時に人間としての死でもある。

心を殺して身を保つか、心を活かして身を危うくするか──この二択は、中国の知識人が常に直面してきたものである。そして多くの人は前者を選んできた。なぜなら後者を選べば、本当に身が危うくなるからだ。

しかし全ての人が心を殺してしまえば、この社会はいったい誰が変えるのか。死の如き鎮静の中で、我々は本当に安らかに生きられるのか。

(十二月十日。)

第69節

状、斥候明らかならず、遂に突進して河北に至り、   辺城の斥候明らかならず、遂に長駆して河北に入り、

蛇の如く河東に盤結す。              河東に盤結す。

孔子の春秋の義を犯す──

これは古文の校勘の問題であり、異本の対照を通じて原文の真意を探ろうとするものである。「豕突」と「長駆」、「蛇結」と「盤結」──字句の異同は些細なようでいて、実は意味に大きな違いをもたらす。

校勘学は地味な学問であるが、文字文化の根幹を支えるものだ。一字の違いが歴史の解釈を変え、一句の脱落が思想の伝承を歪める。

しかし校勘学にも限界がある。いかに精密に校勘しても、原著者の真意を完全に復元することはできぬ。なぜなら文字は常に不完全な伝達手段であり、書かれた時点で既に著者の意図からは離れているからだ。

それでも校勘は必要である。なぜなら、少しでも原意に近づこうとする努力は、少しでも真実に近づこうとする努力に通じるからだ。真実を知ることは困難であるが、真実を求める姿勢を放棄してはならない。

この姿勢は学問のみならず、社会を見る目にも通じる。新聞の文章を読む時にも、我々は一種の「校勘」を行わねばならぬ。書かれた文字の裏に隠された真意を読み取り、削除された部分を想像し、改竄された箇所を見抜く──これもまた一つの校勘学なのだ。

(十二月十五日。)

第70節

張勲の姓名は既に暗淡となり、「復辟」の事件も徐々に忘れ去られている。私はかつて『風波』の中でこれに触れたが、他の作品には見られぬようで、早くから人の注意を引かなかったことが分かる。今やそれどころか、辮髪すら日に日に稀少となり、周鼎や商彝と同列に並び、徐々に外国人に売り得る資格を備えつつある。

私もまた絵画を見ることを好む。殊に人物を。国画を見れば方巾長袍、あるいは短褐椎結で、私の記憶にある辮髪は一本も見たことがない。洋画を見れば歪んだ顔の男と太い脚の女で、これまた私の記憶にある辮髪は一本も見たことがない。この度、数幅のペン画と木版画による阿Qの像を見て、ようやく芸術の上における辮髪に出会ったのであるが、しかし──

辮髪は中国近代史の象徴である。清朝の支配の象徴であり、民族的屈辱の象徴であり、しかし同時にある種の郷愁の対象でもある。辮髪を失った中国人は、何か大切なものを──たとえそれが鎖であったとしても──失った喪失感を覚えている。

阿Qの辮髪は、この全ての意味を担っている。それは彼の悲劇の一部であり、彼が属する時代の記号である。画家が阿Qを描く時、辮髪の太さ、長さ、巻き方一つにまで意味が宿る。

しかし最も重要なのは辮髪ではなく、その下にある頭の中身──即ち「精神的勝利法」の持ち主たる阿Qの精神構造そのものなのだ。

(十一月二十日。)

第71節

誰もが「賢者は世を避く」と知っているが、私は今の俗人はむしろ雅を避くべしと思う。これもまた一種の「明哲保身」である。

(十二月二十六日。)

【附記】

第一篇の『中国に関する二、三の事』は、日本の改造社の依頼により書いたもので、原文は日本語であり、同年三月に『改造』に掲載され、題を『火、王道、監獄』と改めた。記憶では中国の北方にかつてある種の期刊がこの三篇を訳載したことがあるが、南方では林語堂・邵洵美・章克標の三氏が主編する雑誌『人言』のみが、これを著者攻撃の材料として用いた──

「雅を避く」とは何か。即ち、高雅なる振りをせず、文人面をせず、ただ率直に生きることである。今の世の中で最も危険なのは「雅」を装うことだ。なぜなら「雅」を装えば、必ず権力者に利用されるか、さもなくば権力者に睨まれるからだ。

文人は「雅」であらねばならぬと世間は思っている。しかし「雅」なる文人こそ、最も容易に「功徳碑」を書かされる者なのだ。「俗」なる者ならば誰もそのような依頼をしない。されば「俗」を装い「雅」を避けることは、実は最も賢明な処世術なのである。

しかしこれは単なる処世術に留まらない。「雅」を避けることは、即ち権威主義を避けることでもある。「雅」とは一つの階層秩序であり、「雅」と「俗」の区別は権力の区別に重なる。この区別を拒否することは、ある種の平等主義の実践なのだ。

(十二月二十六日。)

第72節

この度はまず「兄」の字の講義から始めねばならぬ。これは私が自ら定めて慣用してきた例であって、即ち、旧知あるいは近来の知己、旧来の同窓にして今なお交際のある者、直接の聴講生に対して手紙を書く時には「兄」と呼ぶのである。それ以外の、もとより先輩であるとか、比較的面識が薄いとか、比較的礼を要するとかいう方々には「先生」「旦那」「奥様」「坊っちゃん」「お嬢様」「大人」……等と呼ぶ。要するに私のこの「兄」の字の意味は、直接に名を呼ぶよりいくらか上という程度に過ぎず、許叔重先生の仰るような、真に「兄さん」の意味を含むものではない。しかしこの理由は私自身しか知らぬのだから、あなたが一見して大いに驚き力争するのも無理からぬことである。しかるに今は既に──

この「兄」の用法に関する弁明は些末なことのようであるが、実は中国の人間関係における呼称の複雑さを示す好例である。中国語の呼称には厳密な階層序列が込められており、一字の違いが関係の親疎、上下を明確に示す。

しかし私はこの序列をできるだけ簡略化したいと思っている。知己には「兄」、面識の薄い者には「先生」──これだけで十分ではないか。しかし世間はそう思わず、「兄」と呼ばれたことに大驚する者があり、「先生」と呼ばれなかったことに憤慨する者がある。

呼称への過敏さは、実は身分への過敏さの表れであり、身分への過敏さは封建的秩序意識の残滓である。「兄」の一字にこれほどの波紋が立つ社会は、まだまだ真の平等には遠いのだ。

(十二月一日。)

第73節

広平兄:

申し上げたいことは多々ありますが、あの日は口頭にてお答えすることもできたはずでした。しかし私のところには朝から夜まで常に各種の客が数人居りますので、天気の好悪や風の大小を論ずることしかできません。なぜなら平常の話であっても、偶々その一部を聞かれれば忽ち訳が分からなくなり、それから流言が造り出されるからです。されば矢張り返信を書く方がよろしいでしょう。

学校のことは、暫く不死不活(死にもせず生きもせず)の状態が続くのかもしれません。昨日聞いたところでは、章夫人は来られず、別に二人を推薦したが、一人はやはり来られず、もう一人は請う気にならぬとのこと。さらに□夫人はぜひやりたがっているが、当局はどうやら請う気がないようです。評議会の慰留は大したことではなく、問題は人が得られぬことにあるとのこと。当局は──

この手紙は、魯迅が許広平に宛てた私信であり、当時の北京の大学における人事の混乱を伝えている。手紙の形式は私的であるが、その中に描かれる情景──常に客がいるために自由に話せず、流言を恐れて口を慎む──は、この時代の知識人が置かれた息苦しい環境をよく示している。

「天気の好悪を論ずることしかできない」──この一文に、監視と自己検閲の日常がある。家の中ですら自由に語れぬ世界で、人は手紙に真情を託すほかない。しかし手紙もまた傍受される恐れがある。

されば書かれた言葉は常に不完全であり、言外の意味を読み取る力が読者に求められるのだ。

(三月十一日。)

第74節

本来ならばもっと長くもっと明白に罵るべきところであるが、いささか憚るところがあり、またその髭の長きを哀れみて、ここで収めることとする。さて話題を一転し、「小鬼」の偽名の問題を論じよう。あの二つの「魚と熊掌」は共に足下の好むところなれども、論文に用いるには不相応と思う。なぜなら、真名をもって無聊なる厄介事を招くのは確かに値せぬことであるが、偽名があまりに滑稽に過ぎれば論文の重量を減ずるゆえ、これもまたあまりよろしくない。あなたの多くの名前の中で、「非心」が幸いまだ使われていないようであるから、私は「編集者」兼「先生」の威権をもって、あなたにこの一つを書き付けよう。もし心に叶わぬならば、急ぎ手紙にて抗議されたし、まだ間に合う──

筆名の問題は些末なようで、実は書く者の身の安全に関わる重大事である。真名で書けば攻撃の標的となり、偽名で書けば卑怯と謗られる。しかも偽名が滑稽であれば文章の信用を損ない、真面目過ぎれば正体が透けて見える。

書く者はこのように、内容以前に名前の選択において既に重大な判断を迫られるのである。自由に物を書ける社会においては、筆名など好みの問題に過ぎぬが、圧迫の社会にあっては、筆名は生存の戦略となる。

魯迅自身が多数の筆名を使い分けたことは周知の通りであり、この手紙もまた筆名の使い方を後進に教えるものだ。書く自由が制限された時代にあって、なおも書き続けるための知恵──これこそが魯迅の遺産の一つである。

(十二月二十日。)

第75節

私は承知している。数人で事を為すに際して、真に「天下のため」に出でたるものは甚だ少なきことを。しかし人は現状に対して、多少の不平、反抗、改良の意なかるべからず。ただこの一点の共同の目的のみにて、合作し得るのだ。たとえ「利用」の私心がいくらか含まれていても構わぬ。他人を利用し、また他人のために事をなす──聞こえよく言えば即ち「互助」である。しかしながら私は常に「罪業深重にして禍い自らに及ぶ」の身にて、往々にして結局は純粋なる利用を発見し、「互」の字すら当てはめ得ず、利用された後にはただ気力を消耗した自分一人が残されるのみ。時にはさらに逆に罵られ、罵られぬとしても、彼の洪恩に感謝せねばならぬ。私の時折の無聊はまさにこのゆえであるが、しかし私はなお──

人間関係における「利用」と「互助」の境界線は曖昧である。しかし問題は、その曖昧さを一方的に利用する者がいることだ。「天下のため」を掲げて他人を利用し、自分は何の犠牲も払わぬ──この種の人間こそ最も警戒すべき存在である。

しかしそれでも合作は必要であり、合作なくしては何事も為し得ぬ。問題は「利用されること」そのものではなく、「利用された上にさらに感謝を強いられること」にある。これこそ最も人を疲弊させるものだ。

私が「時折無聊を覚える」のはまさにこのためである。しかし無聊を覚えつつもなお書き続け、なお人と関わり続ける──これは無聊を超えた何かが私の中に残っているからだ。それは「天下のため」などという大層なものではなく、ただ、何も為さずにいることへの耐え難さに過ぎぬ。

(一月二十八日。)

第76節

私の授業は、おそらく毎週六時間ほどになるだろう。語堂が私にもっと講義をしてほしいと望んでおり、その情を断ることができないからだ。そのうち二時間は小説史で、準備の必要はない。二時間は専門書研究で、準備が要る。二時間は中国文学史で、講義録を編纂しなければならない。ここにある古い講義録を見れば、適当に話すだけで十分だが、私はもう少し真面目に取り組み、比較的良い文学史を一冊編み上げたいと思っている。君もすでに大いに勉強し、講義録の準備をしているだろうが、各クラス一時間、八時間とも同じ内容なら、あまり労力はかかるまい。こちらでは北伐順調の知らせも多く、大いに人心を快くしている。新聞にはしばしば閩粤方面の風雲急を告げる記事があるが、ここではそうした気配は感じられない。ただ鼓浪嶼にはすでに多くの寓居客がおり、空き家がほとんどないと聞く。この島は学校の向かいにあり、小舟で一、二十分で着く。

迅。九月十四日午。

二十一

広平兄:

十三日に発送された私宛の手紙は、すでに受け取った。私は五日に一通出した後、十三、四日になってようやく手紙を出した。十四日以前は、ただ待ちに待っていただけで、手紙は書いていなかった。これがようやく三通目である。一昨日、『彷徨』と『十二個』を各一冊送った。

君が列挙した職務を見ると、かなり繁重のようで、住まいも良くなさそうだ。四方が「壁にぶつかる」ような住居は、北京にはないが、上海にはある。厦門の旅館でも見たことがあり、実に人を息苦しくさせる。職務が定まった以上、自分でその意を心得て、うまく処理する以外に方法はない。しかし住居だけは、せめて一部屋ぐらいはましなものがあってしかるべきだ。さもなければ、痩せてしまうのではないかと心配だ。

本校は今日開学式を挙行した。学生は三、四百人の間で、四百人としておこう。予科と本科七学科に分かれ、各学科三級に分かれるのだから、各級の人数の少なさは推して知るべしだ。ここは交通が不便なだけでなく、入試も極めて厳しく、寄宿舎も四百人しか収容できず、四方は荒れ地で借りられる家もない。たとえ来たい人がいても、住む場所がないのだ。それなのに学校当局はなお本校の発展を望んでいるとは、まさに夢想だ。おそらく当初から計画がなく、今も非常にだらしない。我々が来てからは、みな陳列室にするはずの大きな洋館の上に放り出され、いまだに一定の住居がない。聞くところでは教員の住居を急いで建築中だそうだが、いつ完成するかは皆目分からない。今もし授業に行くなら、石段を九十六段登らねばならず、往復で百九十二段だ。お湯を飲むのも容易ではないが、幸い最近はもう慣れて、あまりお茶を飲まなくなった。私と兼士、それに朱山根は、早くから辞令を受け取っていたが、他にも何人か、すでにここに到着しているのに、突然辞令が届けられなくなった人がいる。玉堂が大変な苦労をして、ようやく一昨日届けてもらえた。玉堂はここではどうもうまくいっていないようで、上遂の件も切り出せないでいる。

私の給料は少なくはないと言える。教科は五、六時間で、かなり少ないとも言える。しかし他のいわゆる「相当の職務」は煩雑すぎる。本校季刊の原稿、本院季刊の原稿、研究員の指導(将来は審査もある)、合わせればかなりのものだ。学校当局はまた功を急ぎ、履歴を問い、著作を問い、計画を問い、年末にどんな成果を発表するかと問い、見ているだけでうんざりする。実は『古小説鉤沈』を整理して出すだけで、研究教授三、四年分の成績になるのだが、その他はすべて無視してもよいのだ。しかし玉堂の好意で招かれたのだから、文学史を教える以外に、書目編集の指導もしようと思っている。範囲がかなり広く、二、三年では完成できないかもしれないが、できるところまでやるしかない。

国学院にいる朱山根は胡適之の信奉者で、他にも二、三人いるが、みな朱の推薦らしく、彼と大同小異で、さらに浅薄だ。ここに来ると、孫伏園でさえまだ話し相手になる方だ。世にこれほど浅薄な者が多いとは思いもよらなかった。彼らの容貌はなかなか整っているが、話に味わいがなく、夜には蓄音機で梅蘭芳の類を流す。私の今の唯一の方法は口数を減らすことだ。彼らの家族が来た後は、おそらく別の場所に引っ越すだろう。以前女子師範大学で事務員をしていた白果は、ここでは職員兼玉堂の秘書だが、同じく浮ついて実がなく、将来は波風を立てるかもしれない。今の私も極力彼との付き合いを減らしている。他に教員の中に一人知人がいて、以前陝西に行った時に知り合った人で、まだましのようだ。集美中学には師範大学の旧い学生が五人おり、みな国文科の卒業生で、昨日彼らが我々を食事に招いて歓迎してくれた。彼らは白話を主張しており、ここではいささか孤立しているようだ。

この一週間で、私はここにさらに慣れた。食事の量は変わらず、この数日はむしろよく眠れるようになり、毎晩九時間から十時間は眠れる。しかしまだ少し怠けており、散髪もまだで、一昨晩に安全剃刀で髭を剃っただけだ。これからもう少し規則正しい生活に整えていきたい。おそらく付き合いを減らし、門を閉ざしていれば、できるだろう。ここの菓子はなかなか良い。新鮮な龍眼はもう食べたが、大して美味くはない。やはりバナナの方がよい。しかし自分で買い物には行けない。市場まで十里あり、学校の傍には小さな店が一軒あるだけで、品物は非常に少ない。店の人は「普通話」が少し話せるが、私には半分も聞き取れない。ここの人々はよそ者をいくぶん見下しているようで、閩南だからか、我々を「北方人」と呼ぶ。私が「北方人」と呼ばれたのは、今回が初めてだ。

今の天気は北京の夏の終わりのようで、虫がとても多い。最もひどいのは蟻で、大小さまざま、至る所にいて、菓子は一晩も置けない。蚊はそれほど多くないが、おそらく私が三階にいるせいだろう。マラリアにかかる者が多いので、校医がよくキニーネを飲ませてくれる。コレラはすでに減ったが、通りは実にひどい。実際は人家の塀の下、軒の下を巡っているだけで、いわゆる道路など存在しないのだ。

兼士はまだ北京に帰ろうとしているようで、彼の職務を代行してくれと頼むが、私は承知しない。最初の配置には私は関与しておらず、途中で引き継いでも、全く縁もゆかりもない人々で、指揮も利かず、どう手を付ければよいのか。それよりは門を閉じて「自分の門前の雪を掃く」方がましだ。まして私の仕事も十分に多いのだから。

章錫探が建人に手紙を託し、『新女性』に少し原稿を書いてくれないかと君に頼みたいそうで、私に伝言を頼んだ。そういう気があるかな。もしあれば、まず私に送ってくれ。私が見てから転送する。『新女性』の編集は、最近どうやら建人がやっているようだが、理由は分からない。あの第九号(?)はすでに送ったので、もう届いているだろう。

私は昨日からトウガラシを食べるのをやめ、コショウに替えた。謹んでお知らせする。では、またの機会に。

迅。九月二十日午後。

二十二

広平兄:

十七日の手紙は、今日届いた。五日に手紙を出した後、十三日に葉書を一枚、十四日に手紙を一通出しただけで、間隔が確かに空きすぎ、君に風邪を引いたのではと勘ぐらせてしまった。何と言えばよいか分からない。あの頃を振り返ると、いくらか愚かだった。私がここに着いてから、ちょうど広州で人が騒動を起こしたと聞き、君の乗った船もそやつらに阻止されるのではと疑い、ただ手紙が来るのを待つばかりで、手紙を出すことさえ怠ってしまった。その結果、君は長いこと私の手紙を受け取れなかったのだ。

十四日の手紙は、もうとっくに届いたろう。その後、同日に『新女性』一冊を、十八日に『彷徨』と『十二個』を各一冊、二十日に手紙一通(封筒には二十一日と書いてしまったが)を送った。いずれもこの手紙より前に届いているはずだ。

私はここにいて、不便こそあれ、体は元気だ。ここには人力車がなく、船か徒歩しかないが、今ではもう階段百余段を登っても全く平気になった。睡眠も食事も良好で、毎晩キニーネを一粒飲んでおり、他の薬は一切飲んでいない。昨日市街に行き、麦精肝油を一瓶買った。近日中に飲み始めるつもりだ。ここではお湯を手に入れるのがかなり難しいので、サナトゲンは飲めない。しかし十日前後で、古い教員寮に移る予定で、そうなれば事情も変わり、あるいはお湯が手に入るかもしれない。(教員寮は二棟あり、独身者用を「博学楼」、夫人のいる者用を「兼愛楼」と称する。誰が名付けたか知らないが、なかなか可笑しい。)

教科もそう忙しくはない。私はたった六時間で、開学の結果、専門書研究の二時間は選択者がおらず、文学史と小説史が各二時間残っただけだ。そのうち文学史だけ講義録の編纂が必要で、毎週四、五千字もあれば足りるだろう。既存の講義録には構わず、自分でしっかり編纂してみたいと思う。功罪は問わない。

この学校は金を使うことにかけては少なくないが、基金もなく計画もなく、事務は極めてだらしない。私の見たところ、うまくいくまい。

昨日は中秋で、月が出ていた。玉堂が月餅を一籠送ってきて、みなで分けて食べた。私は食べてすぐ寝た。最近は早く寝るようになった。

迅。九月二十二日午後。

二十三

広平兄:

十八日の夜の手紙は、昨日届いた。十三日に出した葉書が届いたのなら、十四日に出した手紙も引き続き届くことを願うばかりだ。君が今頃はもう私の何通かの手紙を受け取っているに違いないと、自ら慰め解するほかない。君の方から寄こした七日、九日、十二日、十七日の手紙は、みな受け取った。大抵は私か孫伏園が郵便取次所に取りに行ったもので、彼らは非常にいい加減で、届けたり届けなかったり、山のように積み上げておくだけで、人が行って何通か欲しいと言えば、渡してくれる。ただし他人の分を取り間違えるようなことは、まだないようだ。私か伏園が毎日一度見に行っている。

厦大の国学院は、見れば見るほどだめだ。朱山根は胡適と陳源の二人だけを尊敬すると自称する人物で、田千頃、辛家、白果の三人も、みな彼が推薦したらしい。白果は特に波風を立てるのがうまい。彼は以前女子師範大学で職員をしていたことがあるから、君も知っているだろう。今は玉堂の副理で、他の仕事も兼ね、下位の職員に対しては威勢がすさまじく、口から出るのは油滑な言葉ばかりだ。私は彼が玉堂にこっそり「誰それはこう良くない」などと耳打ちしているのを直接聞いたので、もう軽蔑するようになった。一昨日、早速彼に釘を一本刺してやったところ、昨日は難癖をつけて仕返しに来たので、今度はもっと大きな釘を刺してやり、自分は国学院の兼職を辞した。この手合いと共に事を為すつもりはない。さもなくば、何のために厦門まで来たのか。

もともと私が住んでいた部屋は陳列品を置くことになり、引っ越さなければならなくなった。しかし学校のやり方は奇妙で、一方では我々を急かしておきながら、どこに移ればよいかは指示しない。教員寮はすでに満員で、付近に旅館もなく、まったく途方に暮れる。ようやく一部屋を指定してもらったが、家具は一つもない。請求すると、白果がまたわざと意地悪をし(何の意図か、この人物はおそらく他人にちょっとした苦痛を味わわせるのが好きな性分なのだ)、帳簿に記入し署名して受領書を書けと言う。そこで釘を刺してやると大いに怒り出した。大いに怒った後は、家具が揃い、おまけに寝椅子まで一脚余分についた。総務長が自ら搬入を監督した。玉堂がわざわざ招いてくれたのだから、少しは仕事をしようと思っていたが、今の様子では、おそらくだめだろう。一年もつかどうかも分からない。だから私はすでに仕事の範囲を縮小し、短期間にいくらかの小さな成果を上げ、他人の金を騙しに来たのではないことを示したいと決めた。

この学校は金遣いが少なくなく、倹約もしないくせに、多くのけちくさい振る舞いがあり、実に耐え難い。例えば今日引っ越しの際にも一件あった。部屋に電灯が二つあり、もちろん私は一つしか使わないのだが、電気工が来て、どうしてもガラス球を一つ取り外すと言って聞かない。一人の教員に対して、給料にこれだけの金を費やしておきながら、電灯を一つ余分に点けるか点けないかで、なぜそこまでこだわるのか。

さて、今日引っ越した部屋は、以前よりずっと静かだ。部屋はかなり広く、二階にある。前回の葉書に写真があったろう。真ん中に全部で五棟あり、その一つが図書館で、私はその二階に住んでいる。隣は孫伏園と張頤教授(今日着いたばかりで、もとは北大の教員)、反対側は製本作業場で、今はまだ人がいない。私の部屋には窓が二つあり、山が見える。今晩は、心がずいぶん落ち着いた。第一に、あのつまらない連中から離れ、一緒に食事をして退屈な話を聞かなくて済むようになったことが、とても快い。今日の夕食は小さな店でパンと缶詰の牛肉を買って食べた。明日はおそらくまた料理人に賄いを頼むことになるだろう。また自分で使用人を一人雇った。食事代込みで月十二元、普通話を二、三言話せる。しかし少し怠け者かもしれない。もしこれ以上面倒なことがなければ、『中国文学史略』の編纂に取りかかりたい。私の講義を聴く学生は全部で二十三人(うち女子学生二人)で、これは国文科の全員であるばかりか、英文科や教育科の学生も含まれている。ここの動物学科は全クラスたった一人で、毎日教員と向かい合って講義を聴いている。

しかし私はまた引っ越すかもしれない。今は図書館主任が休暇中で、玉堂が代理しているから、彼に権限がある。本人が戻れば、また変化があるかもしれない。荒れ地に学校を開いておきながら、家具も部屋も教員に提供しないとは、実に笑止だ。どこに移ることになるか、今は見当もつかない。

今の住居にはもう一つ利点がある。平地に下りるのに階段が二十四段で済み、以前より七十二段少なくなったのだ。しかし「利あれば必ず弊あり」で、その「弊」は海が見えないことだ。汽船の煙突しか見えない。

今夜の月はまだ美しい。階下をしばらく彷徨ったが、風があったので戻った。もう十一時半だ。十四日の手紙は、二十日か二十一日か二十二日には届いているだろう。明後日(二十七日)にはおそらく手紙が来るだろうから、先にこの二枚を書いておき、二十八日に出す。

二十二日に手紙を一通送ったが、もう届いただろう。

迅。二十五日の夜。

今日は日曜日で、大風だが、あの時ほどではない。明日は広州からの船が来るとは限らないので、昨日書いておいた二枚の手紙を、明朝一番に出すことにした。

昨日一人雇ったが、流水という名で、しかし代理だった。今日本人が来て、春来という名で、やはり普通話を少し話せる。おそらく使えるだろう。今日はまた多くの用具を買った。大部分はアルミ製で、小さな水甕も一つ買った。だから今やお茶の水に不自由しないばかりか、サナトゲンを飲むのも難しくなくなった。(この旅で初めてサナトゲンが補剤の中で最も面倒なものだと気付いた。冷水と温水の両方を要するからで、他の補剤はそうではない。)

今日突然左官が来て壁を塗り始め、だらだらと一日じゅう散らかしていた。夜も落ち着いて講義録の編纂はできまい。一日じゅう遊んで、また考えよう。

迅。九月二十六日夜七時。

二十四

広平兄:

二十七日に手紙を一通送ったが、届いたかな。今日は私が君の手紙を待つ番だ。私の推測では、君は二十一日か二十二日あたりに一通出しているはずで、昨日か今日届くはずなのだが、まだ届いていない。だから待っている。

私が辞した兼職(研究教授)は、結局辞められず、昨晩また辞令が届けられた。聞くところでは、林玉堂がそのために一晩眠れなかったという。玉堂を眠れなくさせるのは、申し訳ないと思うので、仕方なく受け取り、辞意を撤回した。玉堂は国学院に対して熱心でないとは言えないが、私の見るところ、望みは薄い。第一に人材がなく、第二に校長がいくらか掣肘しているようだ。しかし私は依然として自分のなすべきことをする。昨日から中国文学史の講義録の編纂に取りかかり、今日第一章を書き上げた。睡眠も食事も良好で、ご飯は浅い碗に二杯、睡眠は八時間か九時間とれる。

一昨日からサナトゲンを飲み始めたが、ただ白砂糖の始末がつかない。ここの蟻は実に恐ろしく、小さくて赤いのが一種類いて、どこにでも現れる。今は砂糖を碗に入れ、碗を水を張った皿の中に置いているが、もしうっかり忘れると、たちまち碗中は小蟻だらけになる。菓子も同様だ。ここの菓子はとても美味いのだが、最近は買うのが怖くなった。買ってきて何個か食べると、残りの置き場がないのだ。四階に住んでいた頃は、菓子の包みを蟻ごと草地に放り投げていたものだ。

風もひどく、ほとんど毎日吹いている。強い時には窓ガラスが吹き破れるのではないかと疑わしくなり、外にいれば、うっかりすると吹き倒されかねない。今もごうごうと吹いている。着いた当初は毎晩波の音が聞こえたが、今は聞こえなくなった。慣れたからだ。もう少しすれば、風の音にも慣れるだろう。

今の天候は着いた頃とほとんど変わらず、夏服を着て、ゴザを使い、日向を歩けば全身汗だくになる。聞くところでは、こうした天候は十月(陽暦?)末まで続くそうだ。

L.S. 九月二十八日夜。

第77節

今日午後、二十四日発の手紙を受け取った。私の予想は間違っていなかったが、広東の学生の状況がこれほどとは、まさに「意表の外」だ。北京でもここまでではあるまい。君は自然、手紙に書いた通りにするしかないが、あの職務を見ると、少しの暇もないほど忙しいのではないか。仕事をするのは当然だが、命を削るほどやらないでほしい。こちらでも外の状況はあまりよく分からない。今日の新聞に上海電報が載っていたが(ただしこの電報の出所は不明)、まとめると、武昌はまだ降っておらず、おそらく攻撃することになる。南昌は猛攻を数回受けたが、まだ占領されていない。孫伝芳はすでに出兵した。呉佩孚は鄭州にいるらしく、現在奉天方面と保定・

大名を秘かに争っている。

私が「契約が早く満了するように」と願うのは、月日が早く過ぎてほしいからで、早く民国十七年になってほしいのだが、残念ながらここに来てまだ一月にも満たないのに、一年も過ぎたかのようだ。実はここの気候は私の体には合っているようで、よく食べよく眠れるのがその証拠だ。少し太ったかもしれない。ただどうしても退屈で、どこか落ち着かず、安居楽業できないような気がする。しかし私も、あっという間に半年、一年だと自ら慰め、あるいは講義録の編纂を始めて気を紛らわしている。だから睡眠も食事も良好なのだ。私のここでの状況は、よくてもこの程度で、まだ助けを必要とはしない。君はむしろ学校の仕事に専念した方がよい。

中秋の様子は前の手紙に書いた。謝君の件は、以前すでに玉堂に話してあるが、音沙汰がない。聞くところでは、ここでは外省の人を好んで雇うそうで、その理由は、合わなければ外省の人は荷物をまとめて去ってしまい、それで終わりだが、地元の人はずっと近くにいるから、恨みを買いやすいということだ。これもまた一種の独特な哲学だ。謝君のお兄さんには、さしあたり訪問しない方がよいと思う。さもないと彼が私を訪ねなければならなくなり、私もまたお返しに行かねばならず、かえって余計な付き合いが増えるだけだ。

伏園は今日、孟余から電報を一通受け取った。広東に来て新聞の仕事をしないかという誘いだ。行くかどうかはまだ決まっていないようだ。この電報は二十三日の発信で、七日もかかって、手紙と同じ遅さだ。実に不思議だ。彼が吹聴していることはといえば、大まかに言って、自分の家には男子学生だけでなく女子学生もよく来るが、自分が愛しているのは背の高い方の子だ、というものだ。なぜなら彼女が最も才気があるから云々と。実に凡庸で、まさに伏園その人のごとく、論ずるに足りない。

この地で招聘された教授は、私と兼士のほかに朱山根がいる。この人物は陳源の同類で、私は早くから知っていたが、今調べてみると、彼が配置した羽翼は実に七人もおり、以前いわゆる外のことには関わらず専ら読書に没頭しているという評判は、みな彼に騙されていたのだ。彼はすでに私の排斥を始めており、私を「名士派」だと言っている。笑止千万だ。幸い私はここで帝王の万世の業を築くつもりはないから、放っておくことにする。

私が郵便取次所に行く道はおよそ八十歩で、さらに八十歩行くとトイレがある。だから私は一日に三、四回は通る。小便に行かねばならず、それが途中にあるのだから、首を伸ばしてちょっと覗くだけで、全く手間がかからない。日が暮れると、もうそこには行かない。階下の草地で済ませるのだ。この地の生活法は、それほどだらしなく、まさに聞いたこともないほどだ。私は何日か余分に住んで次第に慣れ、しかも怒鳴って用具をいくらか手に入れ、また自分でいくらか買い、さらに自分で使用人を一人雇ったので、だいぶましになった。最近着いたばかりの教員が何人かいて、冷たい部屋に案内され、喉が渇いても水がなく、小便に行くには旅に出なければならず、まだ「茫々として喪家の犬の如し」の有様だ。

聴講の学生はむしろ増えてきた。おそらく他の学科の者が多いのだろう。女子学生は全部で五人。私は目を逸らさぬことに決め、しかも将来もずっとそうするつもりだ。厦門を離れるまで。口もあまりむやみに食べない。バナナを何度か食べただけで、もちろん北京のよりは美味い。しかし値段も安くはない。ここに小さな店があり、私が買いに行くと、五本なら、あそこの太ったおかみさんが「ジッゲフン」(一角)と言い、十本なら「ノン(二)ゲフン」と言う。本当にそんなにするのか、それとも私がよそ者だからなのか、今もって分からない。幸い私の金はもともと厦門から騙し取ったものだから、「ジッゲフン」「ノンゲフン」を厦門の人に差し出しても、大したことではない。

私の授業は今五時間になり、講義録の編纂が必要なのは二時間だけだが、なかなか骨が折れる。文学史の範囲が広すぎるのだ。ここに来てから、上海でまた約百元分の本を買った。克士からはすでに手紙が来て、引っ越したが、孫という同僚と同居しているという。これはよくないと思うが、彼も愚かではないから、騙されることはあるまい。

もう寝なければ。十二時だ。では、また。

迅。九月三十日の夜。

二十五

広平兄:

一日に手紙一通と『莽原』二冊を送ったが、もう届いただろう。今日九月二十九日の手紙を受け取った。突然十分の切手のことで大いに感慨をもらすとは、実に子供っぽい。十分使って、紛失するよりずっとましではないか。以前広東の学生の状況を聞いて、かなり「意表の外」だったが、今度教員の状況を聞いて、また「意表の外」だ。以前は広東の学界の状況は他よりずっと良いはずだと思っていたが、今見ると、やはり一種の幻想にすぎなかったようだ。初めて仕事をするのだから、努力するのは当然で、私は何も言えないが、自分のことも顧みて、「鞠躬尽瘁」にならないようにしてほしい。作文については、私がどうやって鼓舞し、導くのだ。私は言った、「大胆にやれ、まず私に送ってくれ」と。これだけでは足りないか。出来がよいかどうかは私が先に見る。たとえよくなくても、今は遠すぎて手の平を打つことができないから、帳簿に付けるしかない。これでもう安心して筆を執れるはずで、尻込みする必要はない。これ以上どうすればよいと言うのか。

手紙から君の部屋を推測すると、私のよりは広いようだ。私の家具は数少なく、六点だけで、すべて奮闘の末に手に入れたものだ。しかしアルコールランプを買ってからは少し忙しくなった。飲み水はすべて一度沸騰させてから使うからだ。忙しいおかげで、退屈もいくらか減ったようだ。醤油はもう買ったし、缶詰の牛肉もよく食べている。節約などしているものか。ハムは食べたくない。北京にいた頃に食べ飽きたからだ。上海にいた時、建人と私はあまり食べないので、チャーハンを一皿だけ頼んだのだが、それがまた思わぬ波紋を呼び、先施百貨店で買い物を増やさなかったことまで責められた。子供の神経過敏には、本当にどうしようもない。距離も遠く、鞭長くして馬腹に及ばず、これもまあ帳簿に付けておくしかあるまい。

私はここでよくバナナや柚子を食べているが、どちらもとても美味い。楊桃(スターフルーツ)にいたっては、まだ見たことがなく、こちらでの名前も分からないので、買いようがない。鼓浪嶼にはあるかもしれないが、まだ行ったことがない。あの場所もおそらく他所の租界のようなもので、私もあまり興味がなく、結局おっくうになってしまった。ここは雨はそう多くなく、風ばかりだ。まだ暑いが、蓮の葉はもう枯れた。花はほとんど見分けがつかない。羊は黒い。蟻対策は、私も四方を水で囲む方法を使い、白砂糖はとりあえず安全になった。だが机の上には昼夜を問わず常に十数匹が這い回り、払い除けてもまた来て、どうにもならない。

私は今、閉関主義を専らとし、教職員との付き合いを減らし、口数も少なくしている。ここの学生はまだましのようで、早朝から運動し、夕方もよくやっている。新聞閲覧室にもよく人がいる。私に対する感情もよいようで、多くが文科は今年活気が出たと言ってくれるが、自分の怠惰を省みると、大いに内心恥ずかしい。小説史には既刊の書物がある。だから文学史の講義録の編纂には手を抜きたくない。すでに二章を印刷に回したが、残念ながら本校の蔵書が少なく、編纂するのに大変不便だ。

北京からの手紙はすでに届き、家は平穏だ。石炭はもう買い、一トン二十元まで上がった。学校はまだ開講しておらず、北大の学生が学費を納めに行ったが、当局が受け取らなかったという。客気ではあるが、開学の見通しが全く立っていないことが分かる。女子師範大学のことは何も聞いていない。ただ教員がみな男子師範大学の者に入れ替わったことだけは知っている。おそらく当面は研究系の勢力だろう。要するに環境がこうである以上、女子師範大学だけがうまくいくはずがない。

上遂は家族を南に連れ帰ろうとしており、自分の行方は未定だ。私は彼のために天津の学校に手紙を書いて手を回したが、おそらく効果はあるまい。彼も広東に行きたがっているが、紹介がない。ここではどうにもならず、玉堂も思い通りに指揮できない。多くの人の辞令を、校長が何日も握りつぶしてからようやく発行した。校長は孔子を尊崇する人物で、私と兼士に対してはまだ何もないが、これだけの金を費やしたからには、急いで成果を求めている。よい草を牛に食わせて、その牛から乳を搾ろうとするかのようだ。玉堂もおそらくこの内情を察しており、だから近日中に展覧会を開こうとしている。学校が買い入れた泥人形(古い墳墓の土偶)のほか、私の石刻拓本も展示しようというのだ。実はこんな骨董品をここの人々が見たがるはずもなく、ただでたらめに忙しくするだけだ。

ここにいると刺激が少ないようで、よく眠れるが、文章も書けない。北京から催促が来ても、無視するしかない。□□書店が本を出してほしいというが、まだ何もない。北新に対しては、まだ『華蓋集続篇』を整理して渡していない。暇がないからだ。長虹はこの二つの書店と揉め始めた。金の問題だ。沈鐘社と創造社も揉め始め、今は文章で口論している。創造社の内部でも揉めており、すでに柯仲平を追放した。原因は分からない。

迅。十月四日夜。

二十六

広平兄:

十月四日に九月二十九日の手紙を受け取った後、五日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。人間の紛糾は実に多い。兼士は今に至るまで応聘書に署名しておらず、数日前には国学研究院の成立会が終わったら北京に行こうとしていた。あちらにも処理すべき多くの事があるからだ。玉堂は大いに不賛成だが、兼士はどうしても行かねばならない。そこで私が仲裁に入った。まず兼士に応聘書に署名させ、それから休暇を取って北京に一度行き、年内にもう一度厦門に来て、半年在任したことにする。兼士はいくらか承知したが、玉堂はまた頑として譲らず、半年まるまるここにいなければだめだと言う。私は引き下がるしかなかった。二日後、玉堂も承知した。おそらくこれ以外に道がないと悟ったのだろう。今はこの件、校長の許可さえ下りれば一段落つく。兼士はおそらく十五日前後に出発し、まず広州に立ち寄ってから上海に向かうと聞く。伏園もおそらく同行するだろうが、そのまま広州に留まるのか、交渉の後にまた厦門に戻るのかは分からない。孟余は彼に副刊の編集を頼み、彼はすでに承諾したが、いつ始めるかはまだ決まっていないようだ。

私の推測では、兼士は当初ここに長くいるつもりがなかったわけではないが、厦門に来てみて、交通の不便さと生活の退屈さに、「帰心矢の如し」にならざるを得なかったのだ。これは本当にどうしようもないことで、私にどうやって引き留められよう。

ここの学校当局は、高額の報酬で教員を招聘しておきながら、教員を手品師のように見ているところがある。素手で腕前を見せろというのだ。例えば今回の展覧会で、私はかなり苦労した。開会前に兼士が私の碑碣拓本を展示に貸してほしいと言い、承知した。しかし私には小さな書き物机と小さな角テーブルしかなく、足りないので、床に広げてうつ伏せになり、一つ一つ選び出すしかなかった。会場に持って行く段になると、孫伏園が自ら名乗り出て一緒に陳列してくれた以外、手伝う者は一人もおらず、校務員も見つからない。そこで二人で陳列したが、高い所は机の上に椅子を置いて、私が登らなければならなかった。作業の途中で、白果がまた無理やり孫伏園を呼び出した。彼は「副理」(玉堂の)だから、孫伏園を呼ぶ権限があるのだ。兼士は見かねて自ら手伝いに来たが、彼はすでに少し酒を飲んでおり、今回飛び上がったり飛び降りたりしたので、夜にはひどく吐いた。副理の地位は、まるで明朝の宦官のように、権勢を笠に着てやりたい放題ができる。しかし被害を受けるのは彼ではなく、学校だ。昨日は白果が書記たちに上諭式の指示書を下したため、午後にストライキが起きた。その後どうなったかは知らない。玉堂がこの人物を信用するとは、まさに愚かだ。前回私が国学院研究教授を辞しながらまた撤回したのは、兼士と玉堂を困らせまいと恐れたからだが、今の様子では、やはり断固として兼職を辞さなければなるまい。何も他人のために自ら身を落とし辱める必要があろうか。

この地の生活も実に退屈で、外省の教員はほとんど誰一人として長く留まるつもりがない。兼士が去るのも、驚くにはあたらない。しかし私は兼士よりいくらか気楽で、また玉堂の兄弟や奥方が、みな我々の生活をとても気にかけてくれているのを見ているし、学生も私をことのほか大事にしてくれて、ここの生活に慣れないのではと心配し、何人かの地元の者は日曜日にさえ帰省せず、私が市街に遊びに行く時に通訳として同行しようと備えてくれている。だから何か大きな耐え難いことがない限り、少なくとも一年はここで講義するつもりだ。さもなくば、とっくに広州か上海に行っていたかもしれない。(ただし、私を大いに歓迎してくれる人の中には、私にまずこの地の社会などを攻撃する口火を切らせ、自分たちがそれに乗じて撃とうと企んでいる者もいる。)

今日は双十節で、大いに喜ばしかった。本校はまず国旗掲揚式を行い、万歳を三唱し、演説、運動会、爆竹鳴らしと続いた。北京の人々は双十節を嫌っているかのように沈鬱として死んだようだが、ここでこそ双十節らしい。私は北京の正月の爆竹を聞き飽きて嫌悪感を抱いていたが、今回はなるほど聞くに堪えると思った。昼は学生と食堂に行き、あまり美味くない麺(半分以上がモヤシ)を一杯食べ、夜は懇親会で音楽と映画があった。映画は電力不足でよく見えなかったが、ここではそれでも宝物のように扱われている。教員の奥方たちは最も新しい服を着てきた。おそらくここでは一年のうち他に集まりらしい集まりもないのだろう。

聞くところでは、厦門の市街も今日はとても賑やかで、商民が自発的に旗を掲げ彩りを飾って祝っており、北京のように警察の指示を受けてからようやく汚い五色旗を掲げるのとは違う。この地の人々の思想は、実は「国民党的」であり、それほど旧弊ではないと思う。

私がここに来てから、各方面から送られてくる各種の刊行物は非常に雑然としており、届いたり届かなかったりする。時には君に転送したいと思うが、毎号あるとは限らないので、郵便局で紛失したとは思わないでほしい。幸いこの種のものは、読み終われば終わりで、保存する必要もなく、揃っているかどうかも大した問題ではない。

ここに来てもう一月余りになるが、講義録二篇と『莽原』への原稿二篇を書いただけだ。しかしよく眠れ、体は少し良くなったようだ。今日ある噂を耳にした。孫伝芳の主力軍はすでに敗れ、使える兵がもうないというのだが、確かかどうかは分からない。一、二日中に手紙が届くだろうと思うが、この手紙は明日出すつもりだ。

迅。十月十日。

二十七

広平兄:

昨日手紙を一通出したばかりなのに、今日はもう君の五日の手紙を受け取った。この手紙は船の中で丸七日以上も寝ていたことになる。北大の学生で編集員としてここに来た者がおり、五日に広州を出発したのだが、船が暴風を避けて進んだり止まったりし、今日ようやく着いた。君の手紙もおそらく同じ船だったのだろう。手紙一通の往復にしばしば二十日かかるとは、実に嘆かわしい。

君の職務はあまりにも煩雑で、給料もこれほど当てにならず、服装までこうも変えなければならないとは。足りているか。一人の人間として、たしかに何かすべきだが、労して功なしである必要はない。毎日学生の顔色を窺いながら仕事をしても、人にも自分にも益がない。まさに精神を無用の場に費やすというものだ。聞くところでは広州で仕事を見つけるのは難しくないそうだが、なぜ学期末まで待たねばならないのか。忙しいのは構わないが、自分の休息の時間さえないとなれば、それは割に合わない。

私がよく眠れるのは自然にそうなっているのだ。ここも些末な事には事欠かないが、やはり北京ほど忙しくはない。例えば校正の仕事などは、ここにはない。酒は自分で飲みたくないのだ。北京では、あまりに嬉しい時とあまりに憤慨した時に酒を飲んでいたが、ここでは小さな刺激がないわけではないものの、「あまりに」というほどではないから、飲まずに済む。しかも私にはもともと酒癖はない。煙草を減らしたのは、何故かよく分からないが、おそらく講義録の編纂には調査するだけで思索の必要がないからだろう。しかしこの数日はまた少し増えた。『旧事重提』を続けて四篇書いたからだ。あと二篇で完結するが、来月にするつもりだ。明日からまた講義録の編纂に取りかかる。

兼士はまだ出発していない。代わりの人もまだ手配できていないが、北京に帰りたい一心で、聞くところでは広州には行かないらしい。孫伏園はまだ一度行くようだ。今日はまた李逄吉から大連より手紙が来て、広州に行くとのことだが、何をしに行くのかは分からない。

広東は雨が多いそうだが、天候が厦門とこれほど違うとは。ここは雨は降らず、毎日風があるだけだ。しかし風の中に埃がほとんどないから、それほど不快ではない。アルコールランプを買ってからは、お湯の問題は解決した。ただし食事はどうしても美味くない。明後日から料理人を替えることになるが、おそらくやはり大して変わるまい。

迅。十月十二日夜。

第78節

八日の手紙は今日届いた。以前の九月二十四日、二十九日、十月五日の手紙も、すべて受け取っている。君の収入と仕事の比率を見ると、実にかけ離れすぎている。すぐに別の道を考えられないか。このような状況では、どう努力しても徒労だと思う。

「一度の解散を経て去った者」は、当然福があったと言える。もし我々があそこにいたなら、きっと今よりもっと憤慨していたことだろう。私のここでの状況は、手紙で逐次述べてきた通りだ。実はこれも身売りに等しく、給料のほかに何もない。しかし私は今のところまだしばらくは取り繕えるかもしれない。様子を見よう。当初は広州のことも考えなかったわけではないが、状況を聞いてからは、一時その考えを止めた。陳惺農ですら立っていられないのに、まして私が行ってどうなろう。

ここにいてあまり愉快でない原因は、第一に周囲に言葉に味わいのない人物が多く、退屈を感じることだ。彼らが私を部屋に一人で閉じこもって本を読ませてくれるなら、それでもよいのだが、しょっちゅう押しかけてきては小さな刺激を与えてくる。

しかしまた、かなり多くの人が私を宝物のように扱ってくれ、北京で毎日びくびくしながら危険に備えていた頃と比べると、ずっと平穏だ。自分の心を少し落ち着ければ、一時的には安住できなくもない。ただ、話し相手がいないので、鬱憤をみな手紙の中で君に向かって発散してしまっている。私がここで大変苦しんでいるとは思わないでくれ。実はそうでもないのだ。体はおそらく北京にいた時よりも少しは良いだろう。

君の収入はこんなに少なくて、足りているのか。私に知らせてほしい。

今日の地元紙の報道はとてもよいが、もちろん確かかどうかは分からない。一、武昌はすでに陥落。二、九江はすでに占領。三、陳儀(孫の師団長)らが和平を主張する電報を発信。四、樊鐘秀がすでに開封に入り、呉佩孚は保定に逃走(一説には鄭州)。要するに、たとえ割り引いて考えても、情勢がよいことだけは確かだ。

迅。十月十五日夜。

二十八

広平兄:

今日(十六日)手紙を出したばかりなのに、午後には双十節の手紙を受け取った。私に送ってくれた手紙は、すべて届いている。一日に出した手紙がまだ届いていないなら、おそらく『莽原』と一緒に紛失したのだろう。あの手紙に何を書いたかもう覚えていないが、なくなったものは仕方がない。

私の状況は、君の神経過敏を恐れて隠したわけではない。おおよそ刺激を受けると心が乱れ、事が過ぎればいくらか落ち着く。しかし本校の状況は実にあまりよくない。朱山根の一派は国学院で大いに勢力を占め、□□(□□)もまたここに来て法律学科の主任になろうとしている。これで『現代評論』の色彩が厦大に蔓延するだろう。北京では国文科が対抗していたが、ここの国学院には胡適之・陳源の一派が大勢引き込まれ、まるで望みがない。考えてもみてくれ。兼士はこれほどぼんやりしている。彼が朱山根一人を招いたら、山根が三人を推薦し――田難干、辛家本、田千頃――彼はそれを受け入れた。田千頃がまた二人を推薦し――盧梅、黄梅――彼はまたそれを受け入れた。こうして我々個人は、自然と排斥される。だから私は今、遅くとも本学期末には厦大を離れたいと強く思っている。彼らは本当にここに永住するつもりらしく、状況は北大よりも悪い。

また別の一群の教員が、二つの運動をしている。一つは永久聘書――期限なし――の要求、もう一つは十年二十年後に学校から終身年金を支給させるという要求だ。彼らはここに自分たちの理想郷を築こうとしているようだが、ゴムでできた天国だ。諺に「子を養いて老に備う」というが、厦大でも「老に備える」ことができるとは。

ここではもう一つ不自由なことがある。学生がみな私を知っており、記者の類も訪ねてくる。あるいは私に白話を提唱し旧社会と一騒ぎしてほしいと望み、あるいは週刊を編集して地元の新文芸を鼓吹してほしいと望む。一方で玉堂の類は『国学季刊』に「之乎者也」の文章を書けと言い、さらに学生週会で演説もせよと言う。三面六臂でもなければできない話だ。今日の地元紙に私を訪問した記事が載っており、私の態度について「少しも偉そうにせず、少しも気取らず、少しもよそよそしくなく、服装も気ままで、寝具も気ままで、話し方も気取らない……」と、非常に意外だと書いてある。ここの教員は外国の博士号持ちが多く、彼らは堂々とした態度を見慣れているのだ。

今日はまた朱家驊氏の電報を受け取った。兼士、玉堂、そして私宛で、中山大学は「委」員制に改めた(「職」の誤りだろう)と言い、我々に来て一切を指導してくれと言う。おそらく学制の審議だろう。兼士は北京に帰りたがっており、玉堂は行く気がなさそうだ。私は本来これを機に一度行ってもよいのだが、開講してまだ一月にもならないのに二、三週間も休暇を取るのは口にしにくい。だから十中八九は行けまい。これは惜しいことだ。年末なら都合がよかったのだが。

どんな打撃を受けようと、私が「秘して宣べず」ということはありえないし、打撃を受けても恨むこともない。柚子はもう四、五日食べていない。あまり消化しないように感じたからだ。バナナはまだ食べている。以前は食べるとすぐ腹痛を起こしたものだが、ここでは平気で、むしろ便秘に効くようなので、当分やめないでおこうと思う。しかも一日にせいぜい四、五本だ。

泥人形少々と拓本少々で展覧会を開くのを、笑止だと思うか。もっと笑えることがある。田千頃は自分が撮った写真まで展示した。古壁画の写真なら、まだ「考古」に関係すると言えるが、牡丹の花だの、夜の北京だの、北京の砂嵐だの、葦だの……もし私が主任なら、必ず撤去させるところだが、ここでは誰一人笑止だと思わないのだから、ここには田千頃の類こそふさわしいということだ。また国学院は商科から歴代古銭を一式借りてきたが、私が見たところ、大半が偽物で、展示しない方がよいと主張したが、通らなかった。「では『古銭標本』と表記すべきだ」と言ったが、商科が気分を害するのを恐れるとかで、これも実行されなかった。結局どうなったか。この偽古銭を見る者が最も多かったのだ。

ここの校長は孔子を尊崇している。先週日曜日に週会で私に演説をさせたが、私はやはり「中国の本は少なく読め」主義を述べ、さらに学生は「好事の徒」たるべしと言った。彼は突然大いに賛成し、陳嘉庚もまさに「好事の徒」だから喜んで学校を興すのだと言ったが、自分の孔子尊崇と矛盾していることに気づいていない。ここはかくもでたらめなのだ。

L. S. 十月十六日の夜。

二十九

広平兄:

伏園は今日出発した。十八日に君に手紙を一通出したが、おそらく郵便局でずっと寝ていて、今日伏園と同じ船で広州に着くのだろう。数日前、私もほとんど同行するところだったが、結局やめた。同行しようとした理由の、小さな部分にはたしかにいくらかの私心もあったが、大部分は公のためだ。中山大学が我々の協議を必要としている以上、少しは手を貸すべきだし、しかも厦大もあまりにも鎖国的で、今後は他大学とも交流すべきだと思ったのだ。玉堂はちょうど病気で、医者は三、四日で治ると言う。そこでこの趣旨を説明しに行くと、彼も大いに賛同し、まず私が行き、もし彼が不可欠なら電報を打つ、その頃には病気も治って船に乗れるだろうと約束した。ところが昨日また変化があった。彼は自分が行かないばかりか、私が自ら行くことにも先の合意を翻し、校長に休暇を願い出るのがよいと言い出した。教員の休暇は従来主任の管理下にあるのに、こう言うのは明らかに私に難題を押し付けている。少し考えて、やめにした。もう一つ理由がある。おそらく南洋に近いからだろう、ここは実に金銭にうるさく、「あの人は月いくら」などという話が会話中にしょっちゅう聞こえる。我々がここにいて、当局者も日々我々が早く多くの仕事をし、多くの成果を発表するよう望んでいる。牛を飼って毎日乳を搾るかのようだ。某の日給がいくらか、みな忘れずにいるのだろう。私が二週間も離れれば、多くの人が必ず、半月分の給料をまんまと騙し取ったと思うだろう。玉堂が私の欠勤を嫌がるのも、おそらくこの点を慮ってのことだ。私はすでに三月分の給料を受け取りながら、授業はまだ一月しかしていないのだから、確かに休暇を取るべきではない。しかしもし長期的な計画があるなら、こうした些末なことにこだわる必要はない。将来尽力できる日はまだ長いのだから。しかし彼らは目先のことしか見えず、私も長い将来のことは考えないから、行かないことにし、年内にこの人たちのために季刊に論文を一篇書き、学術講演会で一度講演し、さらに私が編纂した『古小説鉤沈』を献上すれば、学校は金を無駄にしたとは思わないだろうし、私も出入り自由になれる。研究教授の辞職は、もう言い出すまい。辞めたところで、彼らはやはり別の仕事をさせて、国文科教授の給料に見合う成果を上げさせようとするだろうから、そのまま引きずっておく方がましだ。

「現代評論」派の勢力は、ここで膨張しそうだ。当局者の性質もこの連中と合っている。理科も文科をひどく嫉んでおり、北大と同じだ。閩南人と閩北人の感情もあまり融和せず、何人かの学生は私に去ってほしがっているが、私に悪意があるのではなく、学校に災いが降りかかればよいと思っているのだ。

この数日、ここでは二人の名士を歓迎している。一人は太虚和尚が南普陀に来て説経するもので、仏化青年会が提案した。ボーイスカウトに生花を捧げさせ、太虚の行くところに花を撒き、「歩歩蓮花を生ず」の意を示そうというのだ。しかしこの案は結局実行されなかった。さもなくば和尚が潘妃に化けるのも、なかなか面白かったろうに。もう一人は馬寅初博士が厦門に来て講演するもので、いわゆる「北大の同人」たちが頭がぼんやりして、隊列を組んで歓迎している。私もたしかに「北大の同人」の一人であり、銀行で財を成せることも知らぬではないが、「銅貨を毛銭に替え、毛銭を大洋に替える」学説にはまるで興味がないので、いずれにも加わらず、一切なるがままにしておく。

二十日午後。

以上の手紙を書いた後、横になって本を読んでいたら、四時の終業の鐘が聞こえたので、郵便取次所に行くと、十五日の手紙を受け取った。あの日の手紙がすでに届いたなら、それはよかった。横目で見ることさえまだしていないのに、まして「睨む」ことなどできようか。張先生のご高論には私も大いに感服する。もし私が文章を書くなら、おそらくそう言うだろう。しかし実際にはなかなか難しい。もし公にするものがあるとすれば、それは自分にとって不要なものだ。そうでなければ、公にしたくない。自分の心をもって人の心を推し量れば、私有の念が消滅するのはおそらく二十五世紀のことだと分かる。だから今後は断じて「睨まない」ことに決めた。

ここは最近三日ほど涼しくなり、袷の衫が着られる。冬になっても今よりそう寒くはならないそうだが、草はすでに黄ばんだものもある。学生の方は、私に対して相変わらずとても好意的だ。彼らは文芸刊行物を一つ出したいと言い、すでに原稿を見てやった。大抵はまだ幼稚だが、初心者ならこんなものだろう。来月には印刷に出せるかもしれない。仕事については、命を削るほどはしていない。実は以前より怠けるようになり、しょっちゅうぶらぶら遊んで、何もしないでいる。

章程(規約)の起草ができないからといって、能力が弱い証拠にはならない。規約の起草は別種の才能だ。第一に規約の類を多く読まねばならず、第二に法律に趣味がなければならず、第三に各種の事柄に配慮しなければならない。私はこの種のものを書くのが最も苦手だから、おそらく君の得意とするところでもあるまい。しかし人は何も章程を作れなければならぬということがあろうか。たとえできたとしても、「章程作成者」にすぎない。

私の想像では、伏園は政論をするのではなく、副刊を編集するのだろう。孟余たちの考えは、副刊の影響力が大きいので、大いにやろうというものだ。上遂はまだ仕事が見つからず、実に嘆かわしい。やむを得ず、伏園に頼んで孟余に直接お願いしてもらった。

北伐軍の武昌占領、南昌占領は確かだ。浙江もたしかに独立した。上海付近ではまた小規模な戦闘があるかもしれず、建人はまた避難しなければならない。この人も運命に定められたように、なかなか安穏でいられない。しかし数歩歩けば租界だから、おそらく大丈夫だろう。

重陽の日はここでは一日の休みで、私はもともと授業がないから何の恩恵もない。高い所に登る風習は、厦門ではやらないようだ。肉でんぶは食べたくないから、調べに行かないことにした。今買って食べているのは菓子とバナナだけで、時々缶詰も買う。

明日、本を一包み送るつもりだ。雑多な刊行物で、これまで溜まったのを今回まとめて送る。中に一冊の『域外小説集』がある。北新書局が送ってきたもので、夏に君が欲しがった時、私が彼らに頼んで買おうとしたが、北京にはないという返事だった。今回はおそらくたまたま見つけて送ってきたのだろう。しかしあまりきれいではなく、おそらく長く増刷していなかったので新本がなかったのだろう。今は君が国文を教えていないから、もう用はないが、送ってきた以上、一緒に送っておく。自分で要らなければ、人にあげてもよい。

『華蓋集続編』の編集を終え、昨日印刷に出した。

迅。二十日灯下。

三十

広平兄:

今日午前に手紙を一通出したばかりだが、その中で厦門仏化青年会が太虚を歓迎する笑い話に触れたところ、なんと午後には招待状が届いた。南普陀寺と閩南仏学院が太虚に公式宴を催し、私にも陪席を請うというもので、もちろん他の人もいるだろう。行くまいと決めたが、本校の職員が無理に行けと言う。行かなければ本校が彼らを見下していると思われると。個人の行動が全校に関わるとは、実に困りものだ。仕方なく行った。羅庸は太虚を「初日の芙蓉の如し」と評したが、私にはそうは見えず、至って平凡だった。席に着く際、私と太虚を並んで上座に座らせようとしたが、ついに辞退し、哲学教員を一人供え物にして済ませた。太虚はもっぱら仏事を説くのではなく、よく世俗のことを論じたが、陪席の教員たちはあえて仏法を問いたがり、「唯識」だの「涅槃」だの、その愚は及ぶべくもない。だからこそ陪席がお似合いということか。その時また田舎の女たちが見物に来て、結局はひざまずいて大いに頭を打ち、得意満面で帰って行った。

こうして、まんまと精進料理をご馳走になった。ここの宴席はまず甘い料理が出て、途中に塩味の料理、最後にまた甘い料理で終わる。ご飯もお粥もない。何度か食べたが、毎回そうだった。聞くところでは厦門の特別な習慣で、福州ではそうではないらしい。

散会後、ある教員と話していて分かったのだが、今回一緒に来た人物の中で、私を排斥しようとする動きが次第に顕著になっているという。彼らの言葉の端々から、すでにそれが聞き取れるし、彼にも連絡を取ろうとしているらしい。彼はそこで嘆息して言った。「玉堂には敵が少なくないが、国学院に対して手を出せないのは、ひとえに兼士と君の二人がいるからだ。兼士が去っても君がいれば、まだ支えられる。しかし君もまた去れば、敵はもう遠慮するものがなくなり、玉堂の国学院は動揺し始めるだろう。玉堂が失敗すれば、彼らも立っていられなくなる。それなのに彼らは一方で私を排斥しながら、一方ではみな家族を呼び寄せ、長く居座る準備をしている。実に愚かなことだ。」私もそれは確かだと思う。この学校は一座の梁山泊のようなもので、槍と剣が飛び交い、見応えがある。北京の学界は都市の中で押し合い圧し合い、ここは小島の上で押し合い圧し合う。場所は異なれど、押し合いは同じだ。しかし国学院内部の排斥現象は、外敵にはまだ知られていない(彼らはあの連中を兼士と私の部下だと誤解しており、我々が彼らのために地盤を取りに来たと思っている)。将来知れれば、喜びに堪えないだろう。私はここに何の未練もない。苦しんでいるのは玉堂だ。私と玉堂の交情は、まだこれらのことを彼に打ち明けられるほどの程度に達しておらず、たとえ言っても、信じるかどうかも分からない。だから私はただ一言も発せず、自分の仕事をするだけだ。彼らが私を倒そうとしても、すぐには難しい。私がここにいるのは年末か来年まで、自分の気分次第だ。玉堂に対しては、おそらく愛すれども能わずの状況だ。

二十一日灯下。

十九日の手紙と原稿は、どちらも受け取った。文章は使えると思う、私の見るところ。ただし文中の句法に不適切なところがある。これはお嬢さんたちの通病で、その原因は不注意にある。書き終えた後、おそらく自分でもう一度読み返しさえしないのだろう。一両日中に添削して送ろう。

兼士は二十七日に出発して上海に向かう予定で、広州には行かない。伏園はもう発った。陳惺農に聞けば住所は分かるだろう。しかし私が思うに、彼には通訳は必要ない。真面目ともつかず、軽薄ともつかず、ぼんやりとあちこち歩き回り、いわゆる「準」に出会うことは永久にあるまい。しかし彼の行くところ、しばしば長く尾を引く小さな面倒を残して、他人に後始末をさせる。私は使用人を一人雇っただろう。彼はその使用人の友人を紹介して、いわゆる「陳源の門弟」たちの賄い飯を請け負わせた。余計なことをするなと教えても聞かない。今では陳源の門弟たちがしょっちゅう私に飯が不味いと文句を言い、まるで私が料理長のようだ。使用人の方は友人の手伝いに忙しく、私の用事はあまり来なくなった。私はとにかく十二元出して彼らに料理人の助手を一人雇ってやったが、なおも文句を言われる。今日聞いたところでは、彼らはもう賄い飯をやめるそうだ。まことにありがたいことだ。

第79節

上遂の件は、あの憎たらしい伏園に直接伝えるよう頼んだほか、昨日はまた兼士と連名で孟余たちに手紙を書いた。できることはやったので、あとは次回のお楽しみだ。私の他所での地位については、急ぐ必要はない。ここに長く留まるつもりはないが、今のところ断固去らねばならない理由もないから、むしろ非常にゆったりしている。「得んことを患い、失わんことを患う」という考えがないので、心持ちも自然と穏やかだ。「人を安心させるために嘘をついてこう言っている」のでは決してないので、どうかご明察いただきたい。

理科の諸氏の国学院攻撃は、ここ数日始まった。国学院の建物が未完成で生物学院の建物を借りているため、彼らのまず第一手は部屋の返還要求だ。この件は我々とは全く関係がないから、微笑んで傍観し、大量の泥人形が露天に運び出され、風雨にさらされるのを見るのも一興だ。この学校はおそらく南開大学によく似ているのだろう。そして一部の教授は、校長の喜怒のみを窺い、他科が脚光を浴びるのを嫉み、中傷、あら探し、あらゆる手を尽くす。まさに妾婦の道だ。私は北京を汚濁だと思って厦門に来たが、今思えば、それは妄想だった。大きな溝が汚ければ、小さな溝がきれいなものか。ここが北京に勝るのは、ただ給料の未払いがないことだけだ。しかし「校主」がひとたび怒れば、即座に閉校もありうるのだ。

私がこの大きな洋館に住んでいるが、夜になると住んでいるのはたった三人だ。張頤教授と伏園と私。張は不便のため友人のところに移り、伏園はすでに去ったので、今は私一人きりだ。しかし私は静かに観じ黙って考えることができるので、精神的にはむしろ孤独を感じない。年末の休暇も近づいてきて、以前より沈静になった。自分で計算すると、ここに来てちょうど五十日だが、まるで半年も過ぎたようだ。しかしこれは私だけでなく、兼士たちも同じことを言うのだから、生活の単調さが分かろうというものだ。

最近一つの言葉を思いついた。この学校を形容できると思う。それは「荒島の海辺に、無理やり洋風建築を一列に並べている」というものだ。しかしこのような場所でありながら、人物はあらゆる類型が揃っており、一滴の水を顕微鏡で見れば、それもまた一つの大世界であるのと同じだ。その中には、上述の「妾婦」たちがおり、さらに愛を得たくて九元もする菓子箱を恭しく女教員に贈る老外国人教授がいる。有名な美人と結婚して三月で離婚した若い教授がいる。異性を玩具にし、毎年必ず一人の人と交際し、まず惹きつけておいて最後には拒む、ミス先生がいる。菓子のありかを探り出して群がって食べる好事の徒がいる……世の中はどこもだいたい同じで、土地の繁華や寂寥、人の多寡は、大した関係がない。

浙江の独立は確かだったようだ。今日聞いたところでは、陳儀の兵がすでに盧永祥と交戦している。それなら陳は徐州でも独立したのだが、果たして確かかどうかは分からない。福建方面の消息はあまり聞こえてこないが、周蔭人は必ず倒れるだろうし、民軍はすでに漳州に到着しているようだ。

長虹がまた韋漱園と喧嘩している。上海で出版された『狂飆』で大いに罵り、さらに私への手紙を掲載して、私に一言言ってくれと求めている。彼らは実に暇を持て余している。しかし私はもう付き合う気がない。この数年、命を随分と削ってきたし、付き合いもたくさんだ。だから断固放っておくことにする。しかも喧嘩の原因は、『莽原』が向培良の戯曲の投稿を掲載しなかった(掲載しなかっただけだ)ことだそうだが、培良と漱園が北京で紛糾を起こし、上海の長虹に口汚く罵らせ、さらに厦門の私に出てきて発言させようとは、やり方が実に奇怪だ。私がその中の事情の曲折をどうして知りえよう。

ここの天気は涼しくなってきて、袷の服が着られる。明日は日曜日で、夜はおそらく映画を見るだろう。リンカーンの一生の物語だ。みなで金を出し合って呼び寄せたもので、六十元かかる。私は一元出したので、特別席に座れる。リンカーンの類の物語は、私はあまり見たくないが、ここでよい映画が見られるだろうか。みなが知っていて面白いと思うのは、せいぜいリンカーンの一生の類がいいところだろう。

この手紙は明日出す。開学後、郵便取次所は日曜日も半日営業するようになった。

L. S. 十月二十三日灯下。

三十一

広平兄:

二十三日に十九日の手紙と原稿を受け取り、二十四日にすぐ返信を出したが、もう届いただろう。二十二日に出された手紙は昨日届いた。閩粤間を往来する船は多いはずだが、郵便物の配達は一つの会社に独占されているらしく、その会社の船だけが手紙を運ぶので、一週間に二回しかない。上海もそうで、おそらくこの会社は太古洋行ではないかと疑っている。

同意しないからといって、若旦那たちに対するやり方で来るとは限らない。ご安心を。しかし私の考えでは、自分からは恐らく口を開くまい。本当にどうしようもない。こんな食事は少なく仕事は多い生活が、どうして長続きしよう。しかし一学期やると決めた以上、しかも手伝ってくれる人もいるのだから、やるのもよいだろう。ただし決して命を削ってはならない。人はたしかに「公」のために働くべきだが、みなが働かなければならない。他の人が怠けて、ごく少数の人だけが命を削っているのでは、あまりにも「公」ではない。適当なところで止めるべきだ。省ける道は少し歩かず、構わなくてよいことは少し手を出さない。自分もまた国民の一人であり、大事にすべきだ。ごく少数の人だけが過労死すべきだなどと要求する権利は、誰にもないのだから。

この数年、私は常に人のために少しでも力になりたいと思い、北京にいた頃は命を削って仕事をした。食事を忘れ、睡眠を削り、薬を飲みながら編集し、校正し、執筆した。ところが実ったのは、みな苦い果実ばかりだった。私を宣伝に利用して自分の利益を図った者がいたのは言うまでもない。小さな『莽原』でさえ、私が去ったとたんに喧嘩が始まった。長虹は、同人が彼の投稿を掲載しなかった(掲載しなかっただけだ)ことで私に理論をぶつけ、一方の同人は始終手紙を寄こして原稿がないと言い、私に書けと催促する。私は実にいくらか憤慨しており、第二十四号で『莽原』を廃刊するつもりだ。刊行物がなくなれば、みなまだ何を争うのか見ものだ。

以前からいくらか予想していたのだが、君が今度の仕事に出かけると、多くの訳の分からない人々が訪ねてくるだろう。あるいは革命家を自称し、あるいは文学者を自称し、訪問するだけでなく、助けも求める。君はきっと助けるだろう。しかし助けた後、彼らはなお大いに不満で、しかも恨みさえする。なぜなら彼らは君の収入が多いと思い込んでおり、この程度のことは助けないのと同じだと思うからだ。君が全力で助けたと言っても、それは君のけちな嘘だと思うのだ。やがて何か失敗すれば、一斉に蜘蛛の子を散らすように去り、ひどい場合は落ちた犬に石まで投げる。すなわち訪問した時に見た態度、住居などを攻撃の材料にする。これは先のけちに対する罰だというのだ。この種の状況を、私はすべて一つ一つ味わってきた。今、君もおそらくこの味を味わい始めているところだろう。これは人を苦しめ、不平にさせるが、味わうのも悪くはない。世の中のことをより切実に知ることができるからだ。しかしこの状態は永続するものではない。しばらく経験した後は、はっと悟り、きっぱりと彼らを振り払わねばならない。さもなくば、たとえ自分のすべてを犠牲にしても、彼らはなお満足せず、しかもなお救われない。実を言えば、君が今哀れだと思っているいわゆる「婦女子供」も、おそらくこの例外ではあるまい。

以上は昼食前に書いた。今は四時で、今日はもう用事がない。兼士は昨日もう発ち、朝に別れを告げに来た。伏園からはすでに手紙が来て、船中で大いに吐いたとのこと(乗船前に酒を飲んだのだから自業自得だ)。今は長堤の広泰来旅館に泊まっているが、おそらく私の手紙が届く頃にはもう発っているだろう。浙江の独立はすでに失敗した。外の新聞では華々しく報じていたが、浙江の地元紙を見ると、かなり歯切れが悪く、独立の当初からしてすでに灰色だったようで、外聞のような轟々たるものではなかったらしい。福建の事も真相がよく分からない。ある新聞には周蔭人がすでに郷団に殺されたとあるが、おそらく本当ではあるまい。

ここでは袷の服が着られ、夜は綿入れのチョッキを足してもよいが、最近数日はまた不要で、今日は雨だが、さほど涼しくもない。使用人を雇ってからは、比較的便利になった。仕事については、実はそう多くなく、暇はいくらでもある。しかし何もせず、つまらない本を手に取って遊んでいることの方が多い。講義録を三、四時間続けて編纂すると、睡眠に影響が出て、寝付きが悪くなる。だから講義録の編纂も非常にゆっくりで、原稿を催促されてもたいてい無視している。上半期ほどがむしゃらに仕事をしなくなった。これは退歩のように見えるが、別の面から見れば、むしろ進歩かもしれない。

階下の裏手に花壇があり、有刺鉄線で囲ってある。どの程度の阻止力があるか試そうと思い、数日前に一度飛び越えてみた。越えられた。しかしあの棘はやはり効き目があり、小さな傷を二つつけられた。一つは股、一つは膝のそばで、しかし深くはなく、せいぜい一分(三ミリ)ほどだ。これは午後のことで、夜にはもう全治し、何ともなかった。おそらくこの件は戒めを受けるだろう。しかしこれは危険がないと分かった上で試したのだ。もし危険を感じれば、非常に慎重にする。例えばここには小さな蛇がかなり多く、よく打ち殺されたのを見かける。顎の部分が膨らんでいないものが多いから、大して毒はないのだろう。しかし暗くなると、草地を歩かなくなった。夜間の小便でさえ階下には降りず、磁器の痰壺に溜めておき、夜中に人がいない時を見計らって窓から放り出す。無頼に近いやり方だが、学校の設備がこれほど不完全では、こうするしかない。

玉堂の病気はもう治った。白果は北京に家族を迎えに行った。ここで一生を定める決意らしい。私の体は元気だ。酒は飲まず、食欲も良好で、気持ちは以前よりいくらか落ち着いている。

迅。十月二十八日。

三十二

広平兄:

一昨日(二十七日)二十二日の手紙を受け取って返事を書き、今日午前に自分で郵便局に持って行った。ポストに投函した途端、局員が二十三日発の速達を渡してくれた。この二通は同じ船で来たので、道理から言えば速達の方を先に受け取るべきなのだが、ここの事情は異常なのだ。普通の手紙は届くとすぐガラス箱に入れてくれるので、我々は早く目にする。ところが書留になると、秘密にして、局員一人が部屋に籠もって一通ずつ帳簿をつけ、また通知書を書いて、印鑑を持って取りに来いと言う。この通知書も届けに来るのではなく、やはりガラス箱の中に供えてあるだけで、自分で通りがかりに見つけるのを待つ。速達も同じ扱いだ。だから書留と「速達」は、必ず普通の手紙より遅く届く。

私がさしあたり広州に行かない事情は、二十一日の手紙にも書いた覚えがある。今、伏園からの手紙が来ているが、私がどうしてもすぐ行かねばならぬという様子はないし、開学が来年三月なら、年末に行っても遅くはない。今すぐにでも一度行きたいのは山々だが、事実上の束縛があまりにも強い。つまり三週間離れると、担当する仕事を放置しすぎることになり、その後一つ一つ埋め合わせをすれば仕事が重すぎるし、しなければ得をしたという嫌疑をかけられる。もしここに長くいるなら、当然ゆっくり補えばよく、問題はないのだが、私はまた長く留まるつもりはないのだ。ましてや玉堂の苦境もある。

下半期にどこに行くかは、問題ではない。上海にも北京にも行かない。他に行く場所がなければ、ここでもう半年をだらだら過ごすだけだ。今の去就は、もっぱら自分次第で、外界の策謀は、当分私を倒せない。楊桃(スターフルーツ)をぜひ味わってみたい。こうして耐えている理由は、自分のためには経済的問題だけであり、人のためには、私が去ったらすぐ玉堂が攻撃されるだろうと恐れるからで、それで少し彷徨しているのだ。一人の人間がこんな些細な問題に引っ張られるとは、実に嘆かわしい。

出したばかりだから、もう話すことはない。では、また。

迅。十月二十九日。

三十三

広平兄:

十月二十七日の手紙は今日届いた。十九日、二十二日、二十三日のも、すべて届いている。私は二十四日、二十九日、三十日にそれぞれ手紙を出したが、届いただろう。刊行物については、日記に記録してあるのを調べると、二十一日と二十日にそれぞれ一回あり、何だったかはもう忘れた。ただ一回の中に『域外小説集』があったことだけは覚えている。十月六日の刊行物については日記に記載がなく、記し忘れたのか、それとも実は二十一日に発送したのを私が月日を書き間違えたのか。君が二十一日発送の一包みを受け取ったかどうかを見れば分かる。もし届いていなければ、私の書き間違いだろう。しかしまた六日のは別の包みで、包みというよりは三冊の本を重ねた普通の雑誌送りのような形だったような気もする。

伏園からはすでに手紙が来ている。上遂の件はかなり望みがあるとのことだが、学校の他の事は何も触れていない。おそらく間もなく戻るだろうから、私もいくらか状況が分かるだろう。もし中大が本当に私を必要とし、行けば学校のためになるなら、開学前にあちらに行こう。ここのことは他に何も問題はなく、ただ玉堂に申し訳が立つかどうかだけだ。しかし玉堂もあまりに愚かで――知らないのか、それともお人よしなのか――今に至るまで自分の「副理」を盲信している。ここはきっとだめになる。救いようがない。山根先生は相変わらず人の推薦ばかりしており、図書館に一つ欠員があると聞けば、また人を推薦する計画を立てている。胡適之の書記だそうだ。しかし今回はあまりうまくいっていないようだ。学校の方は、この数日馬寅初を大いにもてなしている。昨日は浙江出身の学生が彼を歓迎し、無理やり私も一緒に記念撮影に入れようとしたが、必死に断った。彼らはかなり怪訝がった。ああ、私は銀行で金が儲かることを知らぬわけではないが、「道同じからざれば相ために謀らず」なのだ。明日は校長主催の宴会で、陪客にまた私がいる。彼らは策を巡らし、何としても私を銀行家と親しく語らせたいのだ。苦しいかな、苦しいかな。しかし私は案内の紙に「知」の一字だけ書いた。行かないことは分かるだろう。

伏園の手紙によると、副刊は十二月に開始するそうで、それなら彼は学校に戻った後、二、三週間でまた行かねばならない。それもまたよかろう。

十一月一日午後。

しかし私は今後の方針について、実にかなり迷っている。つまり、文章を書くか、それとも教壇に立つか、ということだ。この二つは両立しないのだ。文を書くには情熱が要り、教壇に立つには冷静さが要る。両方を兼ねて、もし手を抜けば、両方とも油滑浅薄になる。もし両方とも真剣にやれば、一方では熱血沸騰させ、他方では心を平穏にさせるのだから、精神が疲弊しきって、結局やはり両方ともうまくいかない。外国を見ても、教授を兼ねた文学者はもともとごく稀だ。自分で考えるに、もし少し文章を書けば、中国にとって多少の益があるかもしれず、書かなければ惜しい。しかし中国文学に関するある研究に打ち込めば、おそらく他人が気づかなかったことをいくらか言えるだろうから、やめてしまうのも惜しいようだ。しかし思うに、やはり有益な文章を書く方がよく、研究は余暇にする。ただし付き合いが多くなると、それもまただめだ。

ここは最近かなり寒く、袷の長袍が着られ、夜は綿の背心を足してもよい。私は元気で、食欲は通常通りだが、おかずはやはり美味くない。ここではどうしようもない。講義録はもう全部で五篇仕上げた。明日からは季刊の論文に取りかかるつもりだ。

迅。十一月一日灯下。

三十四

広平兄:

昨日手紙を出したばかりで、今は特に言うこともないが、些細な暇つぶしの話を気ままに書こう。またぶらぶらしている――この数日はあまり勉強せず、遊んでいる方が多い――ので、適当に書き連ねる。

今日一篇の投稿を受け取った。上海大学の曹軼欧からので、その中に、私が北京で洋布の大きな上着を着て通りを歩いている話があり、下に注がある。「これは私の友人P.京のH.M.女子学校の学生が直接私に話したことです」と。P.はもちろん北京だが、あの学校名が奇妙で、どうしてもどこの学校か思い出せない。まさか女子師範大学で、我々が使っているのと同じ意味なのだろうか。

今日もう一つ分かったことがある。ある留学生が東京で私の代理を名乗り、塩谷温氏を訪ねて、彼が印刷した『三国志平話』を求めた。しかし本はまだ製本が済んでおらず、持って行けなかった。彼は将来塩谷氏が直接私に送って話がばれるのを恐れ、C.T.に託して私に手紙を書かせ、彼を代理として追認してくれと頼んでいる。さもないと「中国人の名誉」に関わると言うのだ。見たまえ、「中国人の名誉」が、彼と私の嘘の上に成り立つとは。

第80節

今日もう一つ分かったことがある。以前、朱山根が国学院に一人推薦しようとしたが、うまくいかなかった。今その人がついにやって来て、南普陀寺に住んでいる。なぜあそこに住むことになったのか。伏園がその寺の仏学院で数時間の授業を持っており(月給五十元)、今は人に代わりを頼んでいるが、彼らはこのポジションを奪おうとしているのだ。昨日から、山根は大いに宣伝工作を展開し始めた。伏園は休暇がすでに終わった(実はまだ終わっていない)のに来ないのは、あちらですでに就職したからで、もう来ないのだと言っている。今日はまた別のスパイを私のところに送ってきて、伏園の消息を探らせた。私は思わず笑ってしまい、神出鬼没の答え方をした。来ないようでもあり、来ないのではないようでもあり、しかもすぐにも来るかのようで、結局相手は訳が分からなくなって帰って行った。「現代」派の手先がこれほど陰険で、あらゆる隙に入り込んでくるとは、実に恐ろしく厭わしい。しかし思うに、これは本当に対処が難しい。例えば私がこの連中と渡り合おうとすれば、他の仕事を全部放り出して、別の心機を用いなければならない。本業を荒廃させ、得られる成果は知れたものだ。「現代」派の学者が一人残らず浅薄なのは、まさにこの種の下劣な事に心を分散させているからなのだ。

迅。十一月三日大風の夜。

十月三十日の手紙は今日届いた。馬がまた癇癪を起こそうとしているが、私にはどうしようもない。こうなったらいっそ一度片付けてしまう方が、毎日対処して労して功なしよりはるかにましだ。芝居の演目を見ろと言うのなら、見よう。ここでは演目しか見られないのだから。ただ、あまり力尽き疲れ果てるほどにはしないでほしい。一度では回復できなくなる。

今日、中大から伏園宛の手紙が届いた。それなら彼はすでに広州を離れたが、まだ着いていない。おそらく汕頭か福州に立ち寄って見物しているのだろう。彼が発ってから手紙を二通くれたが、私のことには一字も触れていない。今日、中大の試験委員の名簿を見たが、文科には人が大勢おり、彼もいる。郭沫若、郁達夫もいる。それなら私が行くかどうかもそう大した問題ではなさそうで、急いで駆けつける必要もない。

私が使っている使用人の件は、話せば長くなる。来た当初は確かによかったし、今もおそらくまだ悪くはないだろう。しかし伏園が彼の友人にみなの賄い飯を請け負わせてからは、彼はとても忙しくなり、あまり姿を見せなくなった。その後、友人の方は何人かの者がなかなか金を払おうとしなかったため(これは使用人の話だが)、怒って去った。何人かはそれで終わりにしたが、まだ何人かは使用人に引き継がせようとした。伏園が始めたことなので、私も禁じようがなく、一人一人当たって別の人を探すよう勧めることもできない。今この使用人は忙しく、金が足りず、私の食費も彼の給料も一月以上前払いしている上、伏園は立つ際に「自分がいない間も食費は払い続ける」と宣言した。しかし口約束だけで、今ではこの勘定も私に請求が来る。私はもともとこういう些事の管理が不得手で、しょっちゅう目が回る。これらの立替金や前払い金は、言うまでもなく回収できない。だから十月のひと月で、私は毎朝洗面の水一盆と食事二回のために、大洋約五十元も要した。こんな高い使用人を使い続けられるものか。鈴を解くにはなお鈴をつけた者に頼らねばならない。だから今度伏園が戻ったら、事の始末をきちんとつけさせる。さもなくば、もう人を雇わないことにするしかあるまい。

明日が季刊の原稿締切なので、昨晩手紙を一枚書いた後、すぐに原稿に取りかかった。別のものを研究する気にはなれず、以前やったものをあちこちから抜き書きし寄せ集めて、深夜までかかり、さらに今日の午前中で仕上げた。四千字で、さほど骨は折れなかった。これでまた数日遊べる。

ここではもう綿のチョッキが着られ、広州より寒いようだ。以前、兼士と一緒に市街に行った時、彼が肝油を買うのを見て、つられて私も一瓶買った。最近サナトゲンを飲み終わり、試しに肝油を飲んでいるが、この数日食欲が次第に出てきたような気がする。もう数日試してみて、将来はあるいはこの肝油(麦精の、すなわち「パルタ」)に替えるかもしれない。

迅。十一月四日灯下。

三十五

広平兄:

昨日午前に手紙を一通出したが、もう届いただろう。午後に伏園が戻ってきた。学校の件については何も言わず、聞き出した結果分かったのは、(一)学校は私に教えに来てほしいと思っているが、辞令はないこと。(二)上遂の件はまだ結果が出ておらず、最後の返事は「何とかする方法はある」というものだったこと。(三)伏園自身は副刊の編集のほか、教授にもなり、すでに辞令があること。(四)学校はまた別の何人かに電報で招聘しており、「現代」派もその中にいること。こう見ると、私の去就は今後の状況を見て決めるべきだが、少なくとも旧暦の年末休暇には一度行ってみるつもりだ。ここは陽暦は数日しか休まないが、旧暦は三週間ある。

李逄吉から以前手紙が来て、友人を訪ねたが会えず、私に紹介を手配してくれと言うので、陳惺農への紹介状を一通送った。それきり音沙汰がない。今回伏園が途中で彼に会ったと言い、彼は早くから中大で職員をしていたそうだ。しかも陳には会いに行かなかったという。これらの事は本当にどうなっているのか、夢を見ているようだ。彼から手紙が一通来たが、なぜ陳に会いに行かなかったかには一切触れず、ただ私が広州に行けば創造社の人々が大いに喜ぶ云々と書いてあり、どうやら彼らと一緒にいるらしい。本当に訳が分からない。

伏園がスターフルーツを持って帰ってきたので、昨晩食べてみた。味はそう大したことはないと思うが、汁が多いのは取り柄で、最もよいのはあの香りで、あらゆる果物の上を行く。また「桂花蝉」(タガメ)と「龍蝨」(ゲンゴロウ)もあるが、見た目はなかなか立派なのに、誰一人食べる勇気がない。厦門にもこの二つはあるが、食べない。君は食べたことがあるか。どんな味だ。

以上は午前中に書いた。書いているうちに、外の小さな食堂に食事に行かねばならなくなった。使用人が賄い飯をやめたからだ。本校の厨房が自分を殴ろうとするのだと言うが(これは彼の言い分で、真偽は分からない)、ここでは一口の飯を食べるにもこれほど面倒なのだ。食堂で容肇祖(東莞の人、本校の講師)とその広東語しか話さない奥さんに会った。桂花蝉の類について、夫婦の意見は食い違い、容は美味いと言い、奥さんは不味いと言う。

六日灯下。

昨日からまた食事の問題が発生し、小さな食堂に行くかパンを買ってこなければならない。この種の問題を自分で始終気にかけていなければならないから、あまり落ち着けない。年末にはここをきっぱりと捨てることもできるのだが、躊躇しているのは、広州がここよりもっと煩わしいのではないかと恐れているからだ。私を知る人も多く、数日もすれば北京にいた時と同じくらい忙しくなるだろう。

中大の給料は厦大より少ないが、これは私は気にしない。心配なのは授業時間が多いことで、聞くところでは週に最大十二時間にもなりうるという。しかも文章を書くことも絶対に免れられない。例えば伏園が編集する副刊には、投稿しないわけにはいかない。さらに他の事が加われば、私はまた薬を飲みながら文章を書かねばならなくなる。この数年、文学青年にかなり出会ってきたが、経験の結果として感じるのは、彼らは私に対して、大抵は使える時には全力で使い、詰責できる時には全力で詰責し、攻撃できる時にはもちろん全力で攻撃するということだ。だから私は進退去就に対して、かなり警戒心を持っている。これもまた頽廃の一端かもしれないが、環境が作り出したものでもあると思う。

実は私にもいくらかの野心がある。広州に行ったら、「紳士」たちに対してやはり打撃を加えたい。最悪の場合でも北京に行けなくなるだけで、気にはしない。第二に、創造社と連合して戦線を築き、さらに旧社会に攻撃を仕掛けたい。私ももう少し文章を書こう。しかしどうしたものか、伏園が戻ってきて口ごもるのを見てからは、またこの考えを捨ててしまった。しかしこれもここ一、二日のことで、結局どうするかは、やはり今後の状況次第だ。

今日は大風で、相変わらず食事のために走り回っている。また日曜日で、半日客の相手をし、退屈で目が回った。だから気分がよくない。愚痴を一くさりこぼしてしまった。心配しないでほしい。少し落ち着けばまたよくなる。

明日、本を一包み送るつもりだ。大したものはないが、自分で要らなければ人に分けてもよい。

迅。十一月七日灯下。

昨日手紙で愚痴を一くさりこぼした後、『語糸』のために「厦門通信」を少し書いたので、愚痴は出し切り、ずっと楽になった。今日はまた料理人と賄いの契約をした。月十元で、料理はまあまあだ。おそらく半月か一月はしのげるだろう。

昨晩、玉堂が広東の状況を聞きに来たので、我々はここを放棄し、来春一緒に広州に行くよう勧めた。彼は少し考えてから言った。「来る時に条件を出して、学校が一つ一つ承諾した。どうして突然やめられよう」。彼はおそらくここを絶対に離れないだろう。しかし私の見るところ、今の一群の人物では、国学院には絶対に望みがない。せいぜい小手先の修繕をしながら、だらだら続けるだけだ。

浙江の独立はとうに灰色だった。夏超は確かに死んだ。自分の兵に殺されたのだ。浙江の警備隊は全く役に立たなかった。今日の新聞を見ると、九江はすでに陥落し、周鳳岐(浙江兵の師団長)が降伏したとあり、ロイター電にも出ているから、確かだろう。孫伝芳の勢力はなお日に日に追い詰められているはずで、浙江にはまた何か変化があるかもしれないと思う。

L. S. 十一月八日午後。

三十六

広平兄:

昨日午前に本を一包みと手紙を一通出したが、午後にはもう五日の手紙を受け取った。もし手紙が来るのを待ってから書けば、おそらく何日も空いてしまうだろう。だからいっそ一筆したためて明日出すことにする。前の手紙と続けて届くか、一緒に届くかは、なるがままに任せよう。

学校に対してもそうするしかない。しかし最近はどうだ。忙しければ詳しく書く必要はない。私もそう気にかけてはいないからだ。状況はすでに楊蔭楡の時とは違う。

伏園はすでに厦門に戻り、おそらく十二月中にまた行くだろう。逄吉は伏園に託して、曖昧な手紙を一通寄こしただけだが、私はもう推測がつく。前の手紙で広州に知人がいないと言ったのは嘘だ。『語糸』第百一号に徐耀辰が書いた「南行する愛而君を送る」の中のLがまさに彼で、彼に何通もの手紙を書いて知人(=創造社の人々)に紹介してやったのだから、彼が創造社の人々と一緒にいるのは当然だ。偶然伏園に出くわしたのは予想外のことで、だから私に対しては口ごもるしかなかったのだ。「正直」かどうか、研究の余地がある。

突然匿名で罵りの手紙を送ってきたかと思えば、突然また自ら取り消しに来た烏文光もまた彼と一緒におり、他にも面識があると称する人々がいる。私はこの数日、広州に教えに行く件について、かなり躊躇するようになった。状況が北京にいた時と似通うのではないかと恐れている。厦門にはもちろん長くはいられないし、他に行く場所もなく、実にいくらか焦燥を覚える。私は実はまだ前線に立つ覚悟はある。しかし面と向かって「同志」を称しながら、陰では私を操り人形にし、背後から銃撃してくる者がいると分かった時、敵に傷つけられるよりもっと悲しい。私の生命は、人の原稿の手直し、原稿の閲覧、本の編集、校正、付き合いといった事柄にすでに随分と細切れにされてきた。そしてある者たちはそのことで主人面をし、少しでも意に沿わなければ非難が噴出する。今後はもうこの轍を踏むまいと強く思う。

またしても愚痴が出てしまった。今回の愚痴はいくらか長く、もう二、三日続いているが、明日か明後日には治まると思う。心配は無用だ。

ここは相変わらず以前と同じで、特に変わったことはない。ただ漳州には民軍がまもなく入城するらしいと聞く。九江の陥落は相当確かだろう。昨日またある消息を耳にした。陳儀が浙江に入った後、独立したとのことで、私は大いに喜んだ。しかし今日はその続報がなく、あと数日しないと真偽が分からない。

中国人の学生がイタリア語を学んで北方政府に媚びを売り、まだ「ファシスト党」だのと言っているとは、笑止千万、憎むべきことだ。他の者はもっと太い棒で殴り返せないのか。伏園が戻って来て話した広州の学生の状況は、実に意外だった。

迅。十一月九日灯下。

三十七

広平兄:

十日に手紙を一通出し、翌日には七日の手紙を受け取った。少し怠けたせいで、今日になってようやく返事を書いている。

甥への援助については、君の言葉が正しい。私の憤激の言葉は多く、時には「寧ろ我れ人に背くとも、人をして我れに背かしむる勿れ」とまで言いかねない。しかし自分でもしばしば行き過ぎだと感じるし、実際の行動はあるいは言葉とは正反対かもしれない。人は他人をみな悪人として見ることもできない。助けられるなら助けるべきだが、ただ「力を量って」、命を削らないようにするのがよい。

「がむしゃら」の問題は、もうよく覚えていないが、おそらく「事に首を突っ込む」ことを指しているのだろう。上半期まだ首を突っ込まざるを得なかったのは、誰かに絡まれたからではなく、北京にいてはそうせざるを得なかったのだ。例えば芝居の舞台の前に押しかけられて、見たくないのに引き下がるのは容易ではないようなものだ。他人を中心にしないというのも言いにくい。一人の人間の中心は必ずしも自分にあるとは限らず、時には他人がその人の中心になることもある。だから人のためと言いつつ実は自分のためであり、「自分で決められない」ことも往々にしてあるのだ。

以前、北京で文学青年のために雑用をして命を削ったことは、自分でも分かっている。しかしここに来て、何人かの学生が『波艇』という月刊を始め、私はやはりまた雑用係をしている。これも上述の、何人かの悪人に出会ったからといって人をみな悪人として見ることはできないという意味だ。しかし以前私を利用した人々は、今や私が旗を倒し海辺に隠遁してもう利用できなくなったのを見て、攻撃を始めた。長虹は『狂飆』第五号で力の限り攻撃し、私と百回は会っていると自称し、よく知っていると言い、多くの会話を捏造している(私が郭沫若を罵ったと言うなど)。その意図は『莽原』を打倒し、一方で『狂飆』の販売を伸ばすことにあり、結局はやはり利用なのだが、方法が違うだけだ。当時の彼らの私に対する種々の利用を、私は承知していた。しかし、生きている間は血を吸えないと分かると、殺して煮て食おうとするとは、これほどの悪意があろうとはさすがに見通せなかった。今はとりあえず放っておいて、彼の手管がどこまで発揮されるか見よう。要するに彼は「百回以上会った」という仮面を被り、今それを脱いだのだから、私はよく見てやらねばなるまい。

学校のことはどうか。暇が少なければ、簡潔に一言知らせてくれればよい。私はすでに中大の辞令を受け取った。月給二百八十元、期限なしだ。おそらくの計画は教授による大学自治で、軍閥の御用でない者には期限を設けないということらしい。しかし私の去就は、まだしばらく決められない。ここの空気は悪いから、もちろん長く居たくはないが、広州に行くにも合わない点がいくつかある。(一)私は行政方面には元来無関心で、大学運営は得意とするところではない。(二)政府が武昌に移ると聞くが、そうなれば知人の多くは広東を離れ、私一人が「外省人」として校内に残ることになり、おそらく面白くはあるまい。しかも(三)私の一人の友人が、あるいは汕頭に行くかもしれない。それなら広州に行っても、厦門にいるのと何が違おう。だから結局どうするかは、状況を見て決める。幸い開学はまだ来年三月初めだから、考える余裕は十分にある。

静かな夜に過去の経験を振り返ると、今の社会は大抵、利用できる時には全力で利用し、打撃できる時には全力で打撃する。自分に利さえあれば、というものだと感じる。北京であれほど忙しく、来客が絶えなかったのに、段祺瑞や章士釗らの圧迫を受けたとたん、原稿を返してくれと言い出す者がいて、選定も序文も要らないと言う。甚だしきは機に乗じて石を投げ、私が彼に食事をおごったことまで罪状にする。それは私が彼を抱き込もうとしたのだと。良いお茶を飲ませたことも罪状にする。私の贅沢の確たる証拠だと。自分の浮沈を借りて人々の表情の変化を見るのは、なかなか有益で面白くもあるが、私の修養が浅すぎて、時にどうしてもいくらかの憤激を禁じ得ず、そのためまた今後の進路について迷うことがしばしばだ。(一)諦めて少しばかり金を貯め、将来は何もせず、一人で辛く暮らしていく。(二)もう自分を顧みず、人のために何かをする。将来腹が減っても構わないし、他人に罵られるのもなすがまま。(三)もう少し何かをして、もしいわゆる同志までもが背後から銃撃してくるなら、生存と復讐のために、どんなことでもやる覚悟だ。ただし友人を失いたくはない。第二の道はもう二年実行したが、ついに愚かだと悟った。第一の道は先に資本家の庇護を求めなければならず、おそらく耐えられない。最後の道はかなり危険で、(生活の)見通しもなく、しかもいささか忍びないところがある。だから本当に決心がつかない。そこで手紙を書いて友人と相談し、一条の光を与えてもらいたいと思ったのだ。

昨日も今日もここは雨で、少し涼しくなった。私は相変わらず元気で、それほど忙しくもない。

迅。十一月十五日灯下。

三十八

広平兄:

第81節

十六日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。十二日発の手紙は今日届いた。学校の事は目途がついたようで、結構なことだ。一つの案件がようやく片付いた。君がこれからどこに行くかということになると、私には断言しにくい。初めて社会に出て各地を見て回り、経験を積むのは、もちろんよいことだ。しかしあまりに不慣れな場所に行くとか、兼任の仕事が多すぎるとか、小さなところで大将になるとかは、かえって益にならず、浅薄な政治屋の類になりかねない。君自身がなお広州にいたいのか、それとも離れなければならないのか分からないが、もし離れるつもりがないなら、伏園が来月中旬に広東に行くから、中大の女子学生指導員の類に空きがないか、彼はきっと紹介してくれるだろう。上遂の件も、彼に頼むつもりだ。

曹軼欧はおそらく男子学生の偽名ではあるまい。返信の住所が女子寮だからだ。しかしこれらはみな問題ではない。放っておこう。孫中山の誕生日の催しは、彼本人とは無関係で、ただみなに見世物を提供しているだけだ。もし私なら、実に「死後の名より生前の一杯の酒」で、おそらく盛大な提灯行列すら催す気になるまい。しかしここでは、あまりにも活気がなく、坊主が自分で水陸道場を営み、老若男女が寺に参詣するばかりで、見ていると本当に気が抜ける。最近は印刷する本の序跋をいくつか書いただけだ。愚痴は多いが、少なからぬ本音がある。もう一篇、この五年間の私と各種の文学団体との関わりのあらましを記す文章を書きたいと思っているが、結局書くかどうか、まだ決めていない。本格的な学問に打ち込むのは難しい。ここではその必要もなく、またそういう場所でもない。国学院も見せかけにすぎず、実質は求められていない。教員の業績についてはしょっちゅう問い合わせてくるが、先週私は腹を立て、校長にこう言った。私はすでに古小説十巻を輯して整理してあるのだから、少し手を入れて出せばよい。学校がそんなに急ぐなら、月内に印刷に回す、それでよいだろうと。すると彼らはそれきり何も言わなくなった。原稿がなければ毎日催促するが、あれば実際には印刷する気などないのだ。

この学校に残らないことはとうに決めていたが、時期が本学期末か来年の夏かは決めていなかった。今は遅くとも本学期末には去らなければならない。昨日、笑うべく嘆くべき事件があった。午後に教職員の懇親会があり、私は普段そういう会には出ないのだが、ある同僚が無理やり連れて行った。仕方なく行くと、なんと会場で演説する者がおり、まず校長が菓子を振る舞ってくれることに感謝し、次に教員がいかによい食事をし、いかに快適に暮らし、給料もこんなに多いのだから、大いに良心を発揮して死に物狂いで仕事すべきだと述べた。そして校長がこれほど我々を思いやってくれるのは、まさに父母のようだと……。私は飛び上がりそうになったが、すでに別の教員が前に出てこの男を反駁しており、気まずい雰囲気のまま散会した。

さらに不思議なことがある。教員の中に、反駁した教員に対して不賛成の者がいたのだ。彼はこう言った。西洋では父子と友人にさほど違いはないから、誰と誰が父子のようだと言えば、誰と誰が友人のようだという意味にもなると。この人物は西洋留学帰りだが、西洋を見てきた結果がこの程度の大見識とは。

昨日の懇親会は三回目だが、私は初めて出席した。男女別室で、別席どころではなかった。

金銭の下に生きる人々がこういうものだと今さら知った。断固去ることに決めた。ただしこの一件を口実にはしたくないので、なお学期末まで一つの区切りをつけるつもりだ。どこに行くかは一時に決められないが、いずれにせよ年末の休暇中に必ず広州に一度行く。たとえ飯の食い場所がなくても、厦門には断じてもう住まない。さらに最近、教員であることに突然嫌気がさし、学生にも近づきたくなくなった。ここの学生に会う時、自分でも熱意がなく、誠実でないと感じる。

玉堂にはもう一度忠告するつもりだ。ここを離れて武昌か広州で仕事をするよう勧める。しかしおそらく大半は無駄だろう。ここは彼の故郷で、容易には決別しまい。一緒に来た陰険な連中が彼の目を覆い、大失敗に至るまでやめないだろう。私の計画も、同僚としての情誼を尽くすだけのことだ。

迅。十八日夜。

三十九

広平兄:

十九日に手紙を一通出した。今日、十三日、六日、七日の手紙を受け取った。一度に届いたのだ。広州には仕事があるようで、だから君はそんなに忙しいのだ。ここは死気沈々で改革もできず、学生もおとなしすぎる。数年前に一度騒動を起こしたが、激しい者はみな出て行き、上海に別に大夏大学を設立した。私は遅くとも本学期末(陽暦一月末)にはここを離れ、中山大学に行くと決めた。

中大の給料は二百八十元で、軍票を混ぜずに済むそうだ。朱騮先はさらに伏園に、兼務先を別に見つけて私の現在の収入と同額にできるとも言ったが、私はその点にはこだわらない。手取り百余元もあればおそらく足りる。ただ死にも生きにもつかぬ空気の中にさえいなければよいのだ。まだこのような空気の中で終わるほど落ちぶれてはいまい。中大に行けば、精力を空費せず、学校や社会にいくらか益のある仕事を選ぶのはさほど難しくないだろう。厦大に至っては、実は私を招く必要がなかったのだ。私は頽廃してはいるが、彼らは私よりさらにひどく頽廃しているのだから。

玉堂は今日辞職した。予算削減の件で。ただし国学院秘書のみを辞し、文科主任は辞していない。私は伏園を通じて意見を伝え、ここで腐る必要はないと勧めたが、返事はなかった。自分で直接もう一度言うつもりだ。しかし彼の辞職はおそらく受理されまい。

昨日から、私の心はまた非常に冷静になった。一つには広東行きを決めたから、もう一つには長虹たちに一撃を加えることを決めたからだ。君の言葉は大体正しい。しかし私が憤慨する理由は、彼らに失望させられたからではなく、彼がそれまで日々血を吸い、もう吸えないと分かると一棒で打ち殺し、肉を缶詰にして売って利を得ようとする、その悪辣さに気づいたからだ。今回、長虹は章士釗に対する私の失敗を笑ってこう書いた。「かくして紙で作った『思想界の権威者』の偽冠を戴き、心身ともに病む状態に陥ったのである」。しかし彼は八月に『新女性』に広告を出した時には「思想の先駆者魯迅と『莽原』を共同主宰」と書いていた。一方では自分で私に「偽冠」をかぶせて人を欺き、他方では他人がかぶせた「偽冠」のために私を罵る。実に軽薄卑劣で、人の形をなしていない。青年が私を攻撃したり嘲笑したりしても、私はもともと反撃しない。彼らはまだ脆弱で、むしろ私の方が比較的踏みつけに耐えられるからだ。しかし彼はどんどんつけあがり、罵りが止まない。まるで私が棺桶に逃げ込んでも、なお屍を戮さんとするかのようだ。だから昨日決めた。どんな青年であろうと、もう容赦しない。まず声明を一つ出し、彼が私の名前を利用しておきながら、他人が私の名前を使うと笑い罵るという所業を暴露する。彼の長ったらしい文章よりずっと辛辣なものにする。『語糸』『莽原』『新女性』『北新』の四誌に同時に掲載させる。もう彷徨しないと決めた。拳には拳で、刀には刀で応じる。だから心もすっきりした。

私はおそらく結局、小さな障害のために道を歩かなくなるということはあるまい。ただ神経が良くないので、つい激しい言葉が出るのだ。小さな障害に躓くようでは、厦門を離れるまでに至るまい。しかし私も平坦な道を歩きたいと切に思う。ただ今はまだできない。望まないのではなく、形勢が許さないのだ。君が厦門に来るのは、大いに不要だと思う。「民を労し財を傷つけ」、何の益にもならない。しかも私は「孤独」を感じてはいないし、何の「悲哀」もない。

学生に歓迎されているのだから自ら慰めるに足るだろうと君は言うが、私は彼らにあまり期待する気になれない。傑出した者はごく少ないか、あるいはまるでいないと感じる。しかし仕事はやはりやるつもりだ。希望はまだ会ったことのない人々にすべてかかっている。あるいは君が言うように「真剣になりすぎるな」ということか。実は私は決して怠けてはいない。一方で愚痴をこぼしながら、一方で『華蓋集続編』をまとめ、『旧事重提』を書き終え、『自由を求める波浪』(董秋芳訳の小説)を編み、『巻葹』に目を通し、みなそれぞれ送り出した。私と同じ道を行く者がいるなら、それは確かに自ら慰めるに足り、しかもそのおかげで自ら励ましもする。しかし時として、その人が私のために犠牲になるのではないかと懸念する。そして「一、二を推して無限に及ぼす」ことは、私にはできない。そんなに多くいるのか。そんなに多くは要らない。一人いれば十分だ。

『巻葹』のことに触れて、もう一つ思い出した。これは王品青が持ってきたもので、淦女史の作、全四篇、すべて『創造』に発表済みだ。今回『烏合叢書』に入れて出版したいと送ってきたのだが、私が見るところ、創造社が著者の同意なくこれらを小叢書にして自ら販売しているので、こちらでも出版して対抗しようということらしい。あちらで発表されていないものは一篇も含まれておらず、私が新作を何篇か追加するよう求めても、品青は承知しない。創造社は器量が狭く猜疑心が強いから、きっと私が彼らに対して妨害工作をしていると思い、結局は成仿吾が別の事にかこつけて一通り罵るだろう。しかし私は彼女のために編集し終えた。追加しないなら追加しないでよい。罵りたければ罵るがよい。

明日の日曜日が過ぎたら、また講義録の編纂に取りかからねばならない。残りの暇は遊ぶ。旧暦の年明けに空気が変わったら、また真面目に仕事をしよう。今日は来客が多すぎて手紙を書く暇がなかった。この二枚を書いただけで、もう夜の十二時半だ。

この手紙と一緒に雑誌を一束送るつもりだ。そのうちの『語糸』九七号と九八号は以前送ったことがあるが、あれは断裁済みだったので、今回は未裁断のものを二冊補送する。君はおそらくそんなことは気にしないだろうが、私の性分がそうなので、やはり送る。

迅。十一月二十日。

四十

広平兄:

二十一日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。十七日発のもう一通の短い手紙は、二十二日に届いた。小包はまだ届いていないが、小包や書籍の類は、通例普通の手紙より遅いものだ。明日には届くかもしれないし、あるいはまた手紙もあるだろう。待っている。上海からいくらかましい印肉を買い、厦門に来てから入手した本に押したいとも思っている。

最近、校長が国学院の予算を削減しようとしたため、玉堂はかなり憤慨し、主任を辞任しようとした。私はこの際ここを離れるよう勧めたところ、彼も大いにもっともだと思った。今日校長と話し合いの会を開き、私はすかさず強硬な抗議を行い、去就を賭けた。ところが校長はまさかの前言撤回で、他の者はもちろん大満足し、玉堂も態度を軟化させ、逆に私を引き留めにかかった。少なくとも一年は残ってほしい、年度途中では教員を招くのが難しいから云々と。また私の中大赴任の報道が地元紙にも掲載された。おそらく広州の新聞からの転載だろう。学生の中にも一年間教え終えてくれと勧める者がいる。こう見ると、年末にはおそらく去れまい。もっとも校長の予算維持の話も十中八九すぐにまた撤回されるだろうし、問題は山積している。

もちろんできるだけ早くここを離れるつもりだが、いつになるかは全く分からない。H.M.は私のことなど構わず、自分に合ったと思う場所に行った方がよいと思う。さもなくば、かなり無理をして、本意でない仕事をさせられ、今の仕事より退屈なことになるかもしれない。私はここでもう半年耐えることはできる。それ以後のことは、今からはまだ何とも言えない。

今日の地元紙の報道はとてもよい。泉州はすでに陥落、浙江の陳儀はまた独立し、商震は反旗を翻して張家口を攻撃、国民一軍は潼関に迫りつつある。地元の新聞はおそらく国民党寄りで、報道はいくらか宣伝を含んでいるかもしれないが、少なくとも泉州の陥落は確かだろう。本校の学生で国民党員は三十人ほどにすぎず、その中の少なからぬ数が新入党員だ。昨夜彼らが集会を開いたが、みな経験が浅く、深みがなく、学生会を掌握して自分たちの用に供するという方法さえ知らない。まったくどうしようもない。集会を一回開いて空騒ぎするだけで、かえって当局の注意を引き、その夜、反国民党の職員が扉の外で立ち聞きしていた。

二十五日の夜、大風の中。

一枚書いた後(この五文字を書いたところで客が来て、十二時まで居座った)、もう一枚社交の手紙を書き、まだ眠る気がしないので、もう少し書こう。伏園は来月確実に発つ。十二月十五日前後には必ず広州に着くだろう。上遂の件は今に至るまで音沙汰がなく、どういうわけか分からない。私は兼士と連名で手紙を書き、伏園にも直接頼み、さらに手紙も書いたが、いずれも返事がない。実は上遂の実務能力は私よりずっと上なのだが。

H.M.はまさに社会のために仕事をしようとしているところだから、私の愚痴のせいで不安になるのは実によくない。そう考えたら、突然静かになって、愚痴が出なくなった。実はここでの不便は、よくよく考えてみると、大半は言葉が通じないことに起因している。例えば一昨日、厨房がまた賄い飯をやめたのだが、私には厨房が自分でやめたくなったのか、それとも使用人と衝突して、私にやめさせろと言ったのか、尋ねることさえできなかった。やめるならやめるでもよい。そこで伏園と一緒に福州料理屋に行き、賄い飯を頼んだが、店には麺しかなく、ご飯はあるかと聞くと、ないと言う。がっかりして帰ってきた。今日福州出身の学生に頼んで聞いてもらったところ、ご飯がなかったのはたまたまその時なかっただけで、永久にないわけではないと分かった。思わず大笑いした。おそらく明日からこの福州料理屋で賄い飯を頼むことになるだろう。

やはり二十五日の夜、十二時半。

ただいま午前十一時、郵便取次所に行ってみたが、手紙はなかった。この手紙は出さなければならない。明日おそらく厦門から広東行きの船が出るからで、今日出さなければ来週水曜日の船まで待たねばならない。しかし出したとたん、明日手紙が届くような気がする。その時にまた書こう。

十日ほど前だったか、新聞に新寧号が上海から広東に向かう途中、汕頭で盗賊に襲われ放火されたとあった。私の手紙がその中で焼かれたかもしれない。私が十日以降に出したのは、十六日、十九日、二十一日の三通だ。

他に特に変わったことはない。次の機会にまた。

迅。十一月二十六日。

午後一時、郵便局の前を通りかかり、他の人の東莞からの手紙が来ているのを見たが、私にはなかった。それなら今日は手紙がないのだ。これを出す。

四十一

広平兄:

二十六日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。翌日すぐに二十三日の手紙を受け取り、小包の通知書も一緒に届いた。すぐに郵便取次所に行って受取書を入手した。土曜日の午後ではもう間に合わず、日曜は休業、来週月曜日(二十九日)に受け取れる。ここの郵便はこれほど手間がかかるのだ。土曜日のこの日、私は玉堂と一緒に集美学校に講演に行き、小型汽船で往復して丸一日費やした。夜は接客でまた多くの時間を取られ、客が帰ってさあ手紙を書こうとしたら、隣の講堂で漏電があり、校務員が騒ぎ、校警が笛を吹き、天地を揺るがすような騒ぎになった。結局は物理学の教授がさすがの腕前で、中に入ってメインブレーカーを切ったので、事なきを得た。木材を数本焦がしただけだ。私は隣接する建物の二階に住んでいるが、壁が石造りで延焼しないと分かっていたから、物を動かすこともせず、損害もなかった。ただ電灯がすべて消え、蝋燭の光が揺れて薄暗いので、手紙を書くこともできなくなった。

私の一生の失策は、これまで自分の生活設計というものをまるでしなかったことだ。すべて人任せにしていた。なぜなら当時は長くは生きられまいと予想していたからだ。ところがその予想は当たらず、なお生きていかねばならなくなり、弊害が百出して十分に退屈した。さらにその後考え方が変わったが、やはり多くの顧慮があった。その顧慮の大部分は当然生活のためだが、いくらかは地位のためでもある。いわゆる地位とは、私がこれまでやってきた小さな仕事のことを指し、私の行動の激変によってその力を失うのが怖いのだ。こうした前後の顧慮は、実はなかなか滑稽で、このまま行けばますます身動きが取れなくなる。第三の方法が最も直截で、注意さえすれば比較的安全でもあるから、一時的にまだ決心がつかないのだ。要するに、これまでの私のやり方はすでにまずかった。厦大では通用せず、もう取り繕うまいと決めた。第一歩として年末に必ずここを離れ、中大の教授職に就く。しかしH.M.も同じ場所にいてくれることを切に望む。少なくとも頻繁に話ができれば、私が人のためになる仕事をもう少し続ける励みになる。

昨日、玉堂に正式に本学期限りで去りたいと申し出、一緒に行くよう勧めた。私が去ることについてはいくらか交渉の言葉があったが、結局彼は反論できなくなった。彼自身については、おそらく去るまい。もう何本か釘を刺されれば、来年夏には離れるだろう。

ここでは大したことはできない。最近ある刊行物を組織したが、書き手はほんの数人にすぎない。あるいは創造社の影響を受けて頽廃に過ぎ、あるいは狂飆社のように大言壮語で中身がない。さらに日刊紙に文芸週刊を増設したが、おそらく大した成果は出まい。大学生はみなおとなしく、地元の人の文章は「之乎者也」が多い。彼らは一方で馬寅初に題字を頼み、他方で私に序文を書けと言う。まさに一視同仁、区別なしだ。何人かの学生は私と兼士がここにいるから来たのであり、我々が去れば、おそらく中大に転学するだろう。

第82節

ここを離れた後、私は自分の農奴のような生活を変えなければならない。社会的な面では、教壇に立つ以外に、引き続き文芸運動か、あるいは他のよりよい仕事を続けたいと思う。それはその時になって決めよう。今、H.M.の方が私よりずっと決断力があると感じる。私はこの地に来て以来、すべてが空虚に感じられ、もう何の意見も持てなくなった。しかも時に理由の分からぬ悲哀を覚えることもある。以前、雑文集の跋を書いた時、そのときの心境を記したが、十二月末の『語糸』に掲載されるだろう。読めば分かる。こんな状態は変えるべきだと自分でも分かっているが、今はどうにもならない。来年また出直そう。

逄吉は通信先を知っているのに、なぜまた詳しい住所を聞くのか。行動がかなり奇妙だ。思うに、彼はH.M.が本当に広州で仕事をしているかどうか調べているのだろう。彼らの仲間では流言が非常に多く、あるいはH.M.もまた厦門にいるという噂があるのかもしれない。

女子師範学校の校長が三人の主任に送った手紙は、新聞で早くに見た。今どうなっているのだろう。米のない炊事は人力の及ぶところではない。もし別によりよい場所があるなら、早く移った方がよい。しかしこの時期に、そう都合よく見つかるだろうか。

迅。十一月二十八日十二時。

四十二

広平兄:

先月二十九日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。二十七日発の手紙は今日届いた。同時に伏園も陳惺農の手紙を受け取り、政府が武昌に移ること、彼と孟余もともに出発すること、新聞も移転して『中央日報』と改名することが分かった。伏園には直接武昌に来いとのことで、だから伏園はもう広州には行かないだろう。広州の状況は、おそらく以前ほどの活気はなくなるだろう。

私はといえば、やはり本学期末にここを離れて広州の中大に行くと決めている。半年教えてみてからまた考える。一つには空気を変え、二つには風景を見、三つには……。教え続けられなければ、来年夏にまた移ればよい。居心地がよければ、もう少し長く教えてもよい。ただし「指導員」の件は、先に調べてくれる人がいなくなった。

実は、君の仕事としては、やはり数時間教壇に立つのがよいと思う。十分に準備するには、時間数は多くない方がよい。仕事をすることも教えることも、今の時勢ではどちらも面倒なことだが、これ以外に我々にできることはない。教えることと他の仕事を同時にこなすのは本当に無理だと感じる。風波がなくても、あちらを立てればこちらが立たない。今後君に教壇に立てる場所(国語の類)があるかどうか分からないが、あれば数時間教え、多くする必要はない。毎日三、四時間を読書に充てれば、準備にもなるし、自分の楽しみにもなる。それでよい。当面の一つの職業にもなる。君は私ほど世慣れしていないだろうが、考え方は比較的単純ながらも明快で、何か一つのことを研究するのにさほど困難は感じないだろう。ただしあの粗忽さは直さねばならない。もう一つの不利な点は外国語の本が読めないことだ。比較的便利なのは日本語を学ぶことだと思う。来年から私が厳しく学ばせる。反抗したら手の平を打つ。

中央政府が移転するのに私が広州に行くことについては、私には何の差し障りもない。私は政府の後を追っているのではない。多くの人が政府と一緒に移って行けば、私はかえって暇ができるかもしれず、また大量の原稿の借りを作らずに済むだろう。だからいずれにせよ、中大には行く。

小包はすでに受け取った。チョッキはもう肌着の上に着ている。暖かい。これで冬を越せると思う。綿入れの長袍は要るまい。印章はとても良い。実はこれはおそらく「金星石」と呼ばれるもので、ガラスではない。上海に手紙を出して印肉を買い求めている。手持ちの古いのは油が多すぎて、本に押すには不向きだからだ。

計算すると、私がここにいられるのはせいぜいあと二月だ。その間、講義録を編み、お湯を沸かしていれば、やり過ごすのは容易だ。料理人の菜もまた食べられなくなった。今はご飯だけを買い、伏園が自分でスープを少し作り、あとは缶詰を食べている。彼は十五日頃に発つだろうが、私は何一つ料理ができないから、その時はまた賄いを頼むしかない。幸いその頃には学期末まであと四十数日しかない。

新聞を読むと、北京の女子師範大学で火事があったが、被害は大きくなかったという。原因は学生が自炊していたことで、二人が火傷をした。楊立侃と廖敏。名前に覚えがないから、おそらく新入生だろう。知っているか。彼女たちはその後亡くなった。

以上は午後四時に書いた。些事のために中断し、続いて夕食、接客、今はもう夜九時だ。金銭の下で呼吸するのは、実に苦しい。苦しいだけならまだしも、嫌な目に遭わされるのは耐えがたい。おそらく中国はこの先数十年のうちに、何かの仕事をしてそれ相応の報酬をきれいに得る、ということはなかなかできまいと思う。(ここまで書いたところで、また中断した。客が来たのだ。私のところには隠れる場所など一切なく、入りたい者はずかずか入ってくる。こんな住まいで、どうして勉強できよう。)往々にして余分の力を費やし、無意味な屈辱を受ける。何をするにもそうだ。今後は仕事で生活費を稼ぎ、理不尽な目に遭わず、少し自分で遊ぶ余暇があれば、それだけでこの上ない幸福と言えると思う。

私は今、文章を書く青年たちにいくらか失望している。有望な青年はおそらく大半が戦場に行ってしまい、筆を弄ぶ者となると、まだ社会のために本気でやろうとする者に出会っていない。彼らの多くは新しい看板を掲げた利己主義者だ。しかも彼ら自身は私より一、二十年新しいと自負しているが、私は本当に彼らに自覚がないと感じる。これもまた彼らの「小さい」ゆえんだ。

午前中に刊行物を一束送った。『語糸』と『北新』が各二冊、『莽原』が一冊だ。『語糸』に私の文章が一篇載っているが、前の手紙で言った愚痴をこぼした文ではない。あれはまだ掲載されておらず、おそらく百八号になるだろう。

迅。十二月二日の深夜。

四十三

広平兄:

今日ちょうど手紙を出したばかりなので、この手紙も一緒に届くかもしれない。初めは何か大事でもあったかと思うかもしれないが、実は何もない。ただの雑談だ。前回の手紙は真夜中にポストに投函した。ここにはポストが二つあり、一つは局内にあるが五時以降は入れなくなり、夜は局外のものに入れるしかない。しかし最近郵便取次所の係員が新しく替わり、満面のぼんやり顔で、局外のポストさえ開けるのを忘れるのではないかと疑わしい。私の手紙が本局に届けられるか分からないので、もう数行書いて、明日午前に局内のポストに投函しよう。

昨夜の手紙で言ったのは、伏園も惺農の手紙を受け取り、国民政府が移転するので直接武昌に来いとのことで、だから彼はもう広州には行かないということだ。私はいずれにせよ学期末に厦門を離れて中大に行く。政府の後を追う必要はないし、知人が少なければかえって閑になれるかもしれない。しかし君が師範学校を離れるなら、地元で仕事が見つかるかどうか。やはり少し国語を教える方がよいと思う。時間数は少ないに越したことはない。十分に準備ができるから。大略こんなところだ。

政府が移れば、広東の「外省人」は減るだろう。広東は「外省人」に随分と搾り取られてきたから、今後はおそらく「残留者」に仕返しするかもしれず、搾取していない外省人まで巻き添えを食うかもしれない。しかし護衛の士がいるから、大胆でいてよい。『幻洲』に一篇の文章があり、広東人をとても褒めている。ますます行ってみたくなった。少なくとも夏までは住もう。おそらく言葉は一言も分からず、ここと大差ないだろうが、ご飯を買う場所さえないということはあるまい。蛇を一度食べてみたいし、ゲンゴロウも少し味わいたい。

空談をしに来る人が多すぎる。この一点だけでもここに長くいるべきではない。中大に着いたら、静かにして、しばらくは人との付き合いを減らし、少し勉強するか、遊ぶかしようと思う。今、体は元気で、よく食べよく眠れる。しかし今日、手の指が少し震えているのに気づいた。煙草の吸いすぎだ。最近は一日三十本にもなっている。これからは減らさなければならない。北京にいた頃、禁煙しようとして人にひどく叱られたことを思い出すと、心が落ち着かない。自分でも気性が実にひどいと自覚している。しかしなぜか、この一事に関して自制力がこれほど弱く、どうしてもやめられない。来年は次第に矯正でき、もう癇癪を起こさなくなることを願うばかりだ。

来年の仕事は、当然少し教壇に立つことだ。しかし教えることと創作は両立しないと感じる。最近郭沫若や郁達夫があまり文章を発表しないのも、おそらくこのためだろう。だから今後の道はまだ選ばねばならない。研究しながら教えるのか、それとも依然として浮浪者として創作するのか。兼ねようとすれば、どちらもよい成果を出せない。あるいは一、二年研究して文学史を書き上げれば、その後は教える際に準備が要らなくなり、余暇ができて、それから創作等に取りかかることもできるだろう。しかしこれも緊急の問題ではない。ただの雑談だ。

『阿Q正伝』の英訳本がすでに出版された。訳は悪くないようだが、小さな誤りもいくつかある。欲しいか。欲しければ送る。商務印書館が私に贈ってくれたものだから。

ここまで書いてまだ五時にもなっていない。他に特に用事もない。封筒に入れて、今日中に出そう。

迅。十二月三日午後。

四十四

広平兄:

三日に手紙一通と刊行物一束(『語糸』等五冊)を出したが、もう届いただろう。今日二日の手紙を受け取った。早いものだ。二十六日の手紙の中のある一節について、私は二十九日にすぐ返信を出した。この手紙が届く頃には、あちらにもすでに届いているはずだから、今さら繰り返す必要はない。実はこの半年、私に何か「奇異な感想」が生じたわけではない。ただ「私は人を犠牲にしすぎていないだろうか」という思い――これは私がいつも考えてきた思いだ――がやはり時折湧いてくる。湧いてくると沈鬱になり、いわゆる「静かになる」ということで、時に言葉や表情に表れる。しかしまた必ずしもそうとは限らないと悟り、すぐに回復することが多い。二日に中央政府移転の報を受けた後、直ちにその夜一通(翌日さらに一通)出し、私の意思は二十九日の手紙に述べた通り変わりがないこと、君に「一生その中で転倒して自ら抜け出せずにいる」ことを望んだのでは決してないことを説明した。そもそもの考えは、社会の中でしばらく経験を積めば、より多くの経験が得られるだろうということにすぎず、私が永遠に静まり返り、冷ややかに傍観して、H.M.を売り渡し、自分は孤島で寂寞の生活を送り、寂寞を咀嚼するだけで自慰自贖に足りるなどと思っているのではない。

しかし二十六日の手紙の件は、もう過ぎたことだ。多く言う必要もない。広州の時間数は確かに多いが、比較的負担の軽い科目を教える工夫は何とかなるだろうし、休息の余暇も確保できよう。しかも資料の書き写し等は手伝ってくれる人もいるから、時間数は問題にならない。週二十時間前後というのは、大抵紙の上の話で、実際にはそこまでやるわけでもあるまい。

君たちの学校は、まるで「濡れた手で乾いた小麦粉を掴む」ようで、べったりと纏わりついてくる。「天下の興亡、匹夫に責あり」と言うが、為政者が信義を守らず、ただ「匹夫」に責任を押し付け、数人に重荷を担がせるのは、あまりにも勝手に人を無意味な犠牲にしすぎる。ここまで来たら、自分を主にすべきだ。耐えられないと思えば即座に離れる。もし生計その他の関係で一時取り繕わねばならないなら、数日取り繕えばよい。「徳をもって感化する」「情をもって繋ぐ」といった古い言い回しは度外に置くしかない。ほんの数人では何もうまくいかない。何を馬鹿なことを。「匹夫匹婦の諒為すは、自ら溝渎に縊りて知る者莫し」だ。

伏園は直接武昌に行かねばならなくなり、広州には回らない。前の手紙でも言ったようだ。昨日ある人が来た(民党員だという)。汕頭からで、陳啓修が機密を漏洩したため党部に逮捕されたと言う。私と伏園は驚き怪しみ、電報で問い合わせようとしたが、今日君の手紙を受け取り、二日に彼に会ったと分かった。日付から計算すると、この人物は嘘をついていたことになる。しかしなぜこのような嘘をつくのか、全く理解できない。

前に送った刊行物の束は届いただろうか。以前にも一度、長く届かず、結局学校の郵便物の中から見つけ出したことがあった。三日にまた一束送ったが、届くかどうかも問題だ。今後本を送る時は書留にしなければなるまい。『桃色の雲』の再版が出たので一冊送るつもりだが、数行書き入れて新しい印を押したい。印肉は上海に取り寄せを頼んだところで、届くのはおそらく十日後だ。届いたら送ろう。

迅。十二月六日の夜。

四十五

広平兄:

本月六日に三日の手紙を受け取った後、翌日(七日)にすぐ返信を出したが、もう届いただろう。昨日今日あたり手紙が来るだろうと予想していたが、来なかった。明日は日曜日で、学校には郵便物が届かない。おそらく君が学校の仕事で忙しくて出せなかったか、船が遅れたのだろう。

今日から一月末まで計算すると、あと五十日しかない。ここに来てもう三月と一週間だ。今は特にやることもない。毎日八、九時間眠れるが、それでもなお怠い。誰かが少し太ったと言ったが、確かかどうか分からない。おそらくそうでもあるまい。学生には学期末で去ることをすでに伝えた。私がいるから来た何人かは、おそらく同じく去るだろう。一部の者に至っては全く救いようがなく、毎日『古文観止』を読み耽っている。

伏園はまもなく出発する。やはり十五日前後だ。ただしあるいはまだ広州を経由し、陸路で武昌に向かうかもしれない。

一、二日中に手紙が来るだろうし、私の二十九日の手紙への返事もそろそろ届くはずだ。その時にまた書こう。

迅。十二月十一日の夜。

四十六

広平兄:

今朝手紙を一通出した。日曜日だが郵便取次所は半日営業するようになった。今日は早起きした。平民学校の設立記念式で演説を頼まれたからだ。五分間話し、それから校長らの空論を十一時まで恭しく拝聴した。西洋留学帰りのある教授はこう言った。この学校が平民のためになるのは、例えば使用人が字を覚えれば手紙の配達を間違えなくなり、主人が喜んで雇い続け、飯が食えるようになる……と。私は深く感服し、会場をこっそり抜け出して、もう一度取次所に行ってみると、果たして三通の手紙があった。二通は七日発、一通は八日発だ。

金星石は中国にもあるが、印匣の作りからすると、やはり日本製だろう。もっともそんなことはどうでもよい。「適当にガラスと呼ぶ」とはいくらぼんやりしている。ガラスがこれほど脆いものか。そもそも「適当に」もほどがある。「落とせば必ず割れる」というなら、どんな印石でも大抵はそうで、何もガラスに限ったことではない。わざわざ印肉を買うのも余計な事ではない。そうしなければ気が済まないのだから。

最近は厦大の一切に対して何も口出ししなくなったが、彼らは相変わらず演説をさせに来る。演説すれば当局の意見と必ず食い違うのだから、実に退屈なことだ。玉堂も今やここではどうにもならぬと痛感しており、適当な機会があれば、十中八九去るだろう。手の震えはもう止まったが、前の手紙で言い忘れた。『語糸』に寄せたあの文章は、未名社経由で転送したところ、社の方で差し止めて『莽原』第二十三号に載せた。中身に言い残したことは特にない。筆を執った動機は、一つには生活のためにやむなく仮面を被っている自分への憎しみ、もう一つには、利用できる間は存分に利用し、利用できないと分かれば一棒で打ち殺そうとするある種の青年の存在を痛感したことで、だからかなり悲憤の言葉がある。しかしそういう心境はもうとっくに過ぎ去った。私は常に自分をとるに足りない存在だと感じている。しかし彼らの著作を見ると、私のように仮面を被っていることや「党同伐異」を敢えて自ら認める者は一人もいない。彼らは結局どこまで行っても「公平」だの「中立」だのと自称するのだ。そう思うと、私はあるいはそれほどとるに足りなくはないのかもしれない。今必死になって私を蔑み罵倒しようとしている人々の目の前に、結局黒い悪鬼のように「魯迅」の二文字が立ちはだかっているのは、おそらくこのためだろう。

厦門を離れた後、何人かの学生が私について転学したいと言っている。助教の一人も一緒に行きたいと言い、私の金石の知識が彼の役に立つからだそうだ。ここでは始終空談の客が来て、自分の仕事をする暇がない。このまま続けるわけにはいかない。将来は校内に一部屋を得て居室とし、授業の準備や接客に使い、校外に別に適当な場所を見つけて、創作と休息に充てるつもりだ。そうすれば起居に節がなく飲食に時なしという、北京時代の轍を踏まずに済むだろう。しかしこれは広州に着いてから考えればよく、「未だ雨ならざるに綢繆す」の必要はない。要するに、私の主意は、つまらない客の相手をする時間を減らしたいだけだ。学校にいれば誰でもずかずか入ってきて、別に話すこともないのに東から西へと話題を引っ張り、座ったまま帰ろうとしない。実にうっとうしい。

第83節

今、我々の食事は実に笑止だ。外にまともな賄い飯の場所がないので、やはり本校の厨房からご飯を買っている。一人月三元半で、伏園が料理を作り、缶詰で補っている。しかし厨房は何度も宣言した。おかずを買ってくれなければ、ご飯も売らないと。それなら我々はご飯を買うために月十元出し、全く食べられないおかずも一緒に買わねばならない。今はまだ取り繕っているが、伏園が去った後は、いっそおかずも一緒に買ってしまい、面倒を省くつもりだ。幸い日数ももう限られている。使用人の方は私に二十元の借金がある。そのうち二元は彼の兄弟が急病になった時に貸したもので、彼が貧しいと思い、この二元は返さなくてよいと言い、借金は十八元ということにした。すると彼は翌日すぐにまた二元借り、二十元にちょうど戻した。厦門の「外省人」に対する態度は、どうやらいくらか愚弄しようとしているようだ。

中国人一般の気質からすれば、失敗した後の著作は誰も読まない。彼らは使役できれば存分に使役し、嘲笑できれば存分に嘲笑する。たとえどんなに親しく付き合っていても、たちまち手の平を返す。私と最も長く付き合ってきた若旦那たちの振る舞いを見れば、推して知るべしだ。作品さえよければ、おそらく十年か数十年後にはまた読む人が出るだろう。しかし利益を得るのは本屋の主人だけで、著者はおそらくとっくに逼り殺されており、もう何の関係もない。こういう時に当たって、手間を省くなら転業するもよし、外国に行くもよし。意地を張るなら何でもやるもよし、逆行するもよし。しかし私はまだじっくり考えていない。差し迫った問題ではないからだ。今はただの空論だ。

「よく食べよく眠れる」のは確かだ。今もそうで、毎日八、九時間眠れる。しかし人はやはり怠い。おそらく気候のせいだろう。厦門の気候・風土は住民にも適していないようだ。私の見た限りでは地元の人に太った者はほとんどなく、十中八九は黄色く痩せている。女性にもふくよかで活発な人はめったにいない。しかも街路は汚く、空き地にはみな墓が並んでいる。だから人寿保険の掛け金も、厦門居住者は他所より高い。国学院などは急いで設ける必要はなく、むしろ衛生運動を起こし、水と土壌を分析して改善策を講じた方がよい。

今はもう夜の一時だ。本来なら局外のポストにまだ投函できるのだが、命令が出ている以上、明朝まで待とう。まったく恐るべきことだ。「私は実に困っている」。

迅。十二月十二日。

四十七

広平兄:

昨日(十三日)手紙を一通出した。今日は刊行物を一束送り出す。紛失を恐れて書留にしたが、特に貴重だからではない。束の中に『新女性』一冊があり、大作が掲載されている。また『語糸』二号分には、まさに私の愚痴文が載っている。もともと未名社に差し止められていたが、結局は小峰に奪い取られたので、やはり『語糸』に載った。

二十三日の手紙を出して以来、実に大変なことになりかけた。巨大な釘が正面からぶつかってきたのだが、幸いにも天のご加護で、すでに二十九日の手紙を出してあり、先の手紙は実に大逆不道であったので直ちに取り消すべしと声明してあった。そこで「おばかさん」と褒められ、「命令」を賜り、善を為す者には百祥が降るとのことで、何という幸いか。今は学校のことには一切口を出さず、もっぱら講義録を編んで締めくくりとしている。授業はあと五週間しかなく、その後は試験だ。しかし退校はおそらく二月初旬になるだろう。一月分の給料は待って受け取って行くのだから。

中大からまたも手紙が来て、早く来いと催促し、しかも教員の給料を増額する方法を考えるとのこと。しかし私はやはり二月初旬にしか出発できない。伏園の方は二十日前後に発つだろう。おそらくまず広州に行き、それから陸路で武漢に入るのだろう。今晩は語堂が送別の宴を開く。彼もかなり活動する気でいるが、奥方はあまり賛成しない。二人の子供を連れて始終引っ越しをしてはどうなるかと。実際、奥方の立場に立てば、確かに苦しいことだ。旅行式の家庭では、家政を切り盛りする女性はどう手を付ければよいのか。しかし語堂は大いに意気込んでいる。後事いかんは「次回のお楽しみに」。

狂飆の連中は、一方で私を罵りながら、一方でまた私を利用しようとしている。培良は厦門か広州で仕事を見つけてくれと頼み、尚鉞は小説を『烏合叢書』に入れてくれと言う。以前のは誤って罵ったので今後はやめると言い、まだ発表していない私を罵った原稿を同封し、読んだら焼いてくれと言う。思えば、私のこれまでの種々の遠慮のなさは、大抵は同年輩か同等の立場の者に対するもので、青年に対しては必ず譲歩し、あるいは黙って損を甘受してきた。ところが彼らは侮りやすいと思い込み、あるいは纏わりつき、あるいは奴隷のように使い、あるいは責め、あるいは中傷し、つけあがって止まるところを知らない。私は常に中国に「好事の徒」がいないことを嘆いてきた。だから何事も管理する者がいないのだ。今見ると、好事の徒になるのも実に容易ではない。少しおせっかいを焼いただけで、こんな面倒を背負い込む。今後は方針を変える。仕事の口も探さない。叢書も編まない。原稿も読まない。焼きもしない。返事も書かない。門を閉ざして大吉とし、自分で本を読み、煙草を吸い、眠る。

『婦女之友』第五号に、沄沁が君に宛てた公開書簡が載っている。見ただろうか。中身は大したことはなく、女子師範大学がまた壊されたことへの愚痴にすぎない。『世界日報』を見ると、程干雲はまだ在職のようだ。羅静軒は追い出されたらしく、紙面に彼女の公開書簡が載っていて、文筆で食べていけると言っている。おそらく相当難しかろう。

今日は昼間霧がかかり、器具が少し湿っている。蚊が非常に多く、夏よりひどい。実に不思議だ。刺されてたまらないので、蚊帳の中に逃げ込まなければ。次に書こう。

十四日灯下。

今日もなお暑いが大風で、蚊が突然とても少なくなった。どういうわけか分からない。そこで講義録を一篇編んだ。印肉が上海から届いた。さっそく『桃色の雲』に数行書き入れ、あの「ガラス」の印と印肉を初めてこの本に使った。天気が暑くて印肉が柔らかいので、あまりうまく押せなかったが、大したことではない。こうしなければ気が済まないのだ。「余計な事」と叱られようとも、もう弁解はしない。どうせ攻撃には慣れているのだから、少々の叱責など何でもない。

本校に特に新しいことはない。ただ山根先生は相変わらず日夜、私的な人物の配置と安排に余念がない。白果が北京から着いた。奥方一人、子供四人、使用人二人、荷物四十個。大いに「山河永固」の趣だ。なぜか急に「燕、幕に巣くう」の故事を思い出し、この一大群の人物を見て、思わず凄然とした。

十五日夜。

十二日の手紙が今日(十六日)届いた。これもまあ早い方だ。広州と厦門の間の郵便船はおそらく週二回あるのだろう。仮に火曜と金曜に出るとすれば、月曜と木曜に出した手紙は早く着き、水曜と土曜に出したのは遅くなる。しかし結局その船が何曜日かは突き止められなかった。

貴校の状況は、実にあまり芳しくない。他の学校と同様、おそらく死にも生きにもつかず、上にも下にも行けないだけだろう。手を出せば必ず困る。もしすっぱりと改革するなり、攻め倒されるなりすれば、爽快であれ苦痛であれ、かえってましだ。しかし大抵はそうはいかない。やってもうまくいかず、手を引くこともできず、爽快でもなく、大した苦痛でもなく、ただ終日全身が不快なだけだ。その感覚を、私たちの故郷では「湿った肌着を着る」という俗語で表す。まだ乾いていない肌着をそのまま体に着るのとそっくりなのだ。私が経験してきた事は、ほとんどすべてこの通りで、最近の原稿書きと出版もその一つだ。引き継いだ以上、世の習いに従って取り繕うことは、君にはきっとできないだろう。改革するにしても、うまくいけばもちろんよいし、そのために自分が失敗しても構わない。しかし君の手紙によれば、改革の望みはなさそうだ。それならば一番よいのは手を出さないことで、もし断りにくければ「前校長」の方法を真似て、姿を隠す。決着がついてから出てきて、別の仕事を探す。

政治経済については、君が研究していないのは知っている。幸い三週間だけだ。私にもこの種の苦しみがあり、しばしば「得意でない」「好きでない」事を無理やりやらされる。しかも往々にしてやるしかない。芝居小屋の前で、真ん中に押し込まれて退けないようなものだ。自分にとって損なだけでなく、仕事もうまくいかない。断っても、相手は謙遜か怠惰だと思い、やはり頑としてやらせようとする。こうやって一、二年「曲芸」をやっていると、残るのは油滑な学問だけで、専門を失い、次第に社会にも見捨てられて「薬滓」になる。煎じ詰めて人に飲ませたのに。薬滓になれば誰もが踏みつけに来る。以前汁を飲んだ者までもが踏みつけに来る。踏みつけるだけでなく、冷笑までする。

犠牲論は結局誰の「筋違い」で手の平を打たれるべきか、それはまだ疑問だ。人には自由意志があり、牛や羊とは違う。私はそれを知っている。しかしその「自由意志」は果たして生来のものか。一時代の学説や他人の言動の影響を大いに受けているのではないか。それなら、その学説が真実かどうか、その人物が正しかったかどうかが問題になる。私も以前は自らの意志で、生活の道の上に血を一滴一滴滴らせて他人を養い、次第に痩せ衰えていくと自覚しながらも、楽しいと思っていた。しかし今はどうだ。人々は私の痩せ衰えを嘲笑する。私の血を飲んだ者までもが、私の痩せ衰えを嘲笑する。こんな声さえ聞こえてくる。「彼は一生こんなつまらない生活を送っていた。とっくに死んでいてもよかったのに、まだ生きている。見込みがないことが分かる」。そして私が困窮している時を見計らって、力一杯悶棍を食らわせる。しかしこれは社会から無用の廃物を除去しているのだと。これは本当に私を憤怒させ、怨恨させた。時にはまさに復讐したいとさえ思う。私は称賛や報恩を求める心など微塵もない。ただ血を飲んだ人々は、もう飲む血がなくなったら去って行くべきで、私が血の債権者であることを覚えておいて、去り際になお私を打ち殺し、しかも債券を消滅させるために、私の惨めな灰色の小屋に火をつけることはしないでくれと思うだけだ。私は実は自分を債権者だとは思っていないし、債券もない。彼らのこのやり方はあまりにもひどすぎる。私が最近次第に個人主義に傾いていくのはこのためであり、以前の私のように「自ら甘んずるものは犠牲にあらず」と考える人のことをしきりに思うのもこのためであり、他人にも自分のことを顧みるよう常々勧めるのもこのためだ。しかしこれは私の考えであって、行動となると、矛盾していることが非常に多い。だから結局は言行不一致で、おそらく足下の心を服させるには足りまい。幸い間もなく直接会って話す機会がある。その時にまた論じよう。

厦門を離れるまであと四十数日だ。三十数日と言ったのは十日少なく数えていた。してみると大雑把で間の抜けたところは、「間抜けなおばかさん」と大差ないようだ。「五十歩百歩」だ。伏園はおそらく一、二日中に出発する。この手紙も彼と同じ船で着くかもしれない。今日から我々はおかずも一緒に賄いを頼むことにした。以前ご飯だけを頼んでいた時は、一人に中小碗一杯半しかもらえず、食欲の旺盛な者は二人分食べても足りなかった。今日はいくらか多くなった。料理人がいかに巧みか分かろうというものだ。ここの使用人たちは、みな当局者と何らかの縁があるらしく、替えが利かない。だから何がどうあれ、教員が割を食うしかない。例えばこの料理人は、もともと国学院の使用人の中で最も怠惰で最も狡猾な男で、兼士が大変な苦労をしてようやく追い出したのに、彼の地位はむしろ良くなった。当時の彼の主張はこうだ。自分は国学院の使用人だから、他の者に仕事を言いつけられる筋合いはない、と。考えてもみてくれ。国学院は一棟の建物だ。建物が口を開いて仕事をさせるとでも言うのか。

上海から本を取り寄せるのはとても便利だ。あの二冊はすぐに取り寄せ、ご命令に従い、年末に直接お目にかけよう。

迅。十六日午後。

四十八

広平兄:

十六日に十二日の手紙を受け取り、すぐに返信したが、もう届いただろう。一、二日中に手紙が来ると予想していたが、今のところまだ届いていない。先に数行書いて、明日出す準備をしておこう。

伏園は一昨日の夜に発ち、昨朝出帆した。君ももう会っただろう。中大に何かできる仕事がないか、探るよう彼に頼んだが、結果はまだ分からない。上遂の南帰は杳として消息がなく、実に不思議だ。だから彼の件も計画のしようがない。

ここでは何も起こっていないが、数日前にはかなり贅沢をした。伏園のハムを干し貝柱と一緒に大鍋で煮て食べた。また杭州から持ってきた茶葉が二斤あり、一斤二元で、飲んでいる。伏園が去った後、庶務課がすぐに人を寄こして相談を持ちかけてきた。伏園が住んでいた小部屋の半間に引っ越してくれないかと。私はにこやかにこう答えた。もちろんいいですとも。ただあと一月ほど猶予をいただけないでしょうか。その時には必ず引っ越しますから。彼らは満足して帰って行った。

実は教員の給料は少し減らしても構わないのだが、その住居と飲食に配慮し、相応の敬意を払うことは必要だ。可哀想に彼らは全く分かっておらず、人を椅子か箱のように見て、あちこち運び回す。際限がない。幸い私はもうすぐ出て行く。さもなくば旅行式の教授になるところだ。

朱山根は私が必ず去ることを知り、以前よりずっと大人しくなった。しかし聞くところでは、彼の学問ももう話し尽くしたらしく、次第に話す事がなくなり、教室でますます吃音を装っているという。田千頃は会場で崑曲を歌えるだけで、まさに「俳優之を畜う」の境遇に至っている。しかしこの手合いはこの地にこそふさわしい。

私は元気だ。手の震えはとっくに止まったことは前の手紙ですでに述べた。厨房のご飯はまた減らされ、毎食また一杯半に戻った。幸い私にはまだ足りるし、幸いあと四十日しかない。北京や上海からの手紙は来るが、印刷物は何日も届かない。原因は分からない。では、また。

迅。十二月二十日午後。

今はもう夜十一時だが、結局手紙は来なかった。この手紙は明日出そう。

二十日夜。

四十九

広平兄:

十九日の手紙が今日届いた。十六日の手紙は届いておらず、紛失が怖い。だから結局送り先の住所が分からないままで、この手紙が届くかどうかも分からない。私が十二日午前に出した手紙のほか、十六日と二十一日にも手紙を出しており、いずれも学校宛だ。

一昨日、郁達夫と逄吉から手紙を受け取った。十四日発で、中大にかなり不満のようで、二人とも去った。翌日また中大の委員会から十五日付の手紙が来て、決定した「正教授」は私一人だけだから早く来いと催促している。それなら、おそらく主任ということだろう。しかし私はやはり学期を終えてからしか行けない。すぐに返信して説明するつもりだが、おそらく伏園がすでに私の代わりに伝えてくれたことだろう。主任は引き受けたくない。教壇に立つだけで十分だ。

ここは一月十五日から試験が始まり、採点が終わるのは二十五日頃だろう。給料を待つから、最も早くても一月二十八日にしか出発できまい。まず旅館に泊まり、その後のことは状況を見て決める。今から先に決めておく必要はない。

電灯が壊れた。蝋燭の残りもわずかだ。寝るしかない。手紙が届いたら、もっと詳しい住所を知らせてほしい。宛先を書けるように。

迅。十二月二十三日夜。

この手紙が紛失するのを恐れ、別に一通学校宛に書く。

五十

広平兄:

今日十九日の手紙を受け取った。十六日の手紙は結局届かず、だから君の住所が分からない。しかし封筒に書いてあった通りの宛先で一通出した。届くかどうか分からない。だから別に一通、書留で学校宛に出す。二通のうち一通でも届くことを期して。

一昨日、郁達夫と逄吉から手紙が来て、十五日に広州を離れるとのこと。中大にかなり不満のようだ。また中大委員会から十五日発の手紙があり、早く来いと催促し、正教授は私一人だけだと言う。それなら主任ということだろう。すぐに返信して、一月末にしか厦門を離れられないと述べるつもりだが、おそらく伏園がすでに説明してくれただろう。

主任は引き受けたくない。教えるだけでよい。

厦門の学校は一月十五日に試験、採点と給料の受け取り待ちで、最も早くて二十八、九日にしか出発できまい。まず旅館に泊まり、その後は状況次第。

私が十二日、十三日にそれぞれ手紙を出したほか、十六日、二十一日にもそれぞれ出したが、届いただろうか。

電灯が壊れ、蝋燭ももう短い。買い足す場所もない。寝るしかない。この学校は本当に不便極まりない。

ここはかなり寒くなった。昼は袷の長袍、夜は毛皮の長袍を着ている。実は綿の掛け布団で十分だが、出すのが面倒なのだ。

迅。十二月二十三日夜。

通信先を教えてくれ。

五十一

広平兄:

昨日(二十三日)十九日の手紙を受け取ったが、十六日の手紙は今朝になっても届かず、きっと紛失したと思い、二通の手紙を書いた。一通は高第街宛、一通は書留で学校宛で、内容は同じだ。午前に出したので、どちらか一通は届くだろう。ところが午後になって、十六日発の手紙がなんと届いた。まる九日もかかったのだ。実に珍妙な郵便だ。

第84節

学校の現状からして、学生の見込みのなさと教職員の抜け目なさが分かる。一人だけお人よしをやっているのは、本当に割に合わない。いっそ一旦家に逃げ帰って、見て見ぬふりをした方がましだ。こういうことは私も何度か経験してきたから、ますます世慣れして、力を量ってやること、命を賭けないことを唱えるようになった。他人があまりにも抜け目なく、見ていて腹が立つからだ。伏園は早く広州に着きたがっていたが、もう会っただろうか。中大のことを君のために聞いてみると言っていた。

郁達夫はもう行ってしまった。手紙が来た。また成仿吾も去ると聞く。創造社の連中は中大と何か軋轢があるようだが、これは私の推測にすぎない。達夫は遇安の手紙の中で確かに怒りの言葉を書いている。私はとりあえず構わず、旧暦の年末にはやはり広州に行く。数えればあと一月余りだ。

今のところここでは特に不快なことはない。どのみちもうすぐ去るのだから、何事も心穏やかだ。今晩は映画を見に行った。川島夫妻がすでに到着している。彼らにはまだ山水草木の新鮮さしか目に入らないようだ。ここには始終「非合憲的な」客が来て、あまり本も読めない。何人かは広州に転学したがっており、彼らはどうしても私を信奉してやまない。まったくどうしようもない。

玉堂はおそらくもうやっていけないだろうが、国学院は当面はつぶれまい。死にも生きにもつかぬままだ。「学者」たちと白果はすでに校長と連絡を取り合っている。彼らならやっていけるだろう。しかし我々が去った後、ほどなく彼らも追い出されるだろう。なぜか。ここで求められる人物は、「学者の皮をかぶった奴隷の骨」だ。しかし彼らは皮まで奴隷すぎて、校長からも見下され、去らざるを得なくなるのだ。

では、また。

迅。十二月二十四日灯下。(電灯は直った。)

五十二

広平兄:

二十五日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。今日は手紙が来ると思ったが、来なかった。他の広東からの手紙はみな届いているのに。伏園からはすでに手紙が一通来ている。同封するので、中大の状況が分かるだろう。上遂と君の件は、おそらくどちらもごく簡単に手配できる。上遂にはもう手紙で知らせた。彼は杭州にいるはずだが、今どうしているか分からない。

どうやら中大は私を非常に急いで待っているようだ。だから玉堂と相談し、早く行けるなら早く行こうと思う。しかも厦大では私がいてもいなくても学期を終えるかどうかは問題にならないのだから。ただし手紙はそのまま出し続けてくれ。たとえ私がすでに発っていても、代わりに受け取って転送してくれる者がいる。

厦大はもう捨て置くしかない。中大でやれることがあれば、少しは力を尽くしたいと思うが、もちろん自分の心身を損なわない範囲で。私が厦門に来たのは、軍閥官僚や「正人君子」たちの迫害を一時的に避けるためだったが、少しは休息し、いくらか準備もしたかった。ところがある者たちは、私がもう筆を奪われ発言の可能性がなくなったと早合点し、さっそく手の平を返して攻撃にかかり、死体を踏み台にして自分が英雄面をし、自分で作り上げた恨みを晴らそうとした。北京にも流言があるようで、上海で聞いたのと似ている。しかも長虹が必死に私を攻撃するのはそのためだと言う。まったく意外だが、いずれにせよ、このような手段で私を征服しようとしても、だめだ。以前私が青年に唯々諾々と従っていたのは譲歩であって、決して戦う力がなかったのではない。今、迫害がやまないのなら、私は意地でもまた出てきて何かする。しかも意地でも広州で、もっと近くに住んで、闇に隠れている諸君が私をどうするか見届けてやる。しかしこれはたまたま巡り合わせた口実に過ぎないかもしれない。実のところ、彼らの陰口がなくても、やはり広州に行くつもりだったのだ。

では、また。

迅。十二月二十九日灯下。

五十三

広平兄:

十二月二十三、四日に十九日と六日の手紙を受け取って以来、久しく手紙が来ず、本当に待ち遠しかった。今日(一月二日)午前にようやく十二月二十四日の手紙を受け取った。伏園にはもう会っただろうか。彼が広州で聞いた事柄については、三十日の手紙に彼の手紙を同封したが、届いただろうか。刊行物については、十一月二十一日以降さらに二回送った。一回は十二月三日で、おそらく紛失した。もう一回は十四日、書留だから、まだ届くかもしれない。学校の門番は公の物まで横領するとは、実に嘆かわしい。だから労働者の地位が向上する時にも、やはり教育が必要なのだ。

一昨日、十二月三十一日に正式の辞職願を提出した。同日をもって一切の職務を辞する。この件は学校当局をいくらか苦しめた。虚名のためには引き留めたいが、すっきり手間をかけずに済ませるためには行かせたい。だからかなり困っている。しかし私と厦大は根本的に相容れず、調和の余地はないから、いずれにせよ後者の結果に落ち着くだろう。今日は学生会も代表を送って慰留に来た。もちろん形式的なものにすぎない。続いておそらく送別会で、お世辞と憤慨の演説があるだろう。学生は学校に不満だが、風潮は起きまい。四年前に一度失敗しているからだ。

先月の給料は明後日には出ると聞く。今は試験の答案を見ているところで、二、三日で終わる。その後荷物をまとめ、遅くとも十四、五日までには厦門を離れるが、その時にはおそらく転学の学生も一緒に行くことになり、彼らの交渉や手配もしなければならない。だからこの手紙が届いた後は、もう手紙を寄こさなくてよい。すでに出した分は構わない。代わりに受け取ってくれる者がいる。家具については、アルミ製の物とアルコールランプ以外には大したものはない。持って行き、謹んでご覧に入れる。

二十日前には広州に着けるだろう。君の仕事場については、その時に何とかする。同じ大学にいても構わないと思う。意地でも同じ大学にする。どうとでもなれ。

今日写真を一枚撮った。草叢の中で、コンクリートの墓の供え台の上に座って。しかし写りが良いかどうかは明後日にならないと分からない。

迅。一月二日午後。

第85節

伏園にはもう会っただろうか。彼が十二月二十九日にくれた手紙の一部を切り取って同封する。どう思うか。助教はさほど難しくないと思う。授業をする必要はなく、しかも私の助教ならとりわけ容易だ。私は教授面をあまりしなければよいのだから。

この数日「名人」を演じるのが辛かった。送別会をいくつもはしごし、どこでも演説をし、写真を撮らされた。ここは死海だと思っていたのに、こうかき回すと案外いくらか波が立つものだ。多くの学生がそのためにかなり憤慨し、腹を立てた者もいる。一方ではこの機に乗じて学校や人を攻撃しようとする者もおり、攻撃される側は私の人物をできるだけ悪く言って、自分の受ける被害を軽くしようとしている。だから最近は流言がかなり多いが、私はただ手をこまねいて傍観している。なかなか面白い。しかしこうした騒動も学校のためにはやはり無益だ。この学校は全面的に作り直す以外に方法はない。

少なくとも二十人の学生も去りたがっている。私も確かに去らなければならない。なぜなら私がここにいるがために、河南の中州大学から転学してくる者までいる。しかし学校の実態がこの有様では、私がなおも学生の勧誘を手伝えば、子弟を誤らせることにならないか。だから私は一方でもう一篇通信を書いて『語糸』に載せ、厦門を離れたことを表明した。どうやら私も偶像になってしまったらしい。以前、何人かの学生が『狂飆』を手に持って来て、長虹に反論を書いてくれと勧め、こう言った。「あなたはもうあなた自身のものではありません。多くの青年があなたの言葉を待っているのです」。私はぎくりとした。みなの共有物になるとは大変なことだ。そんなのは嫌だ。いっそ倒れてしまった方がずっと楽だ。

今のところ見れば、まだしばらくは無理をして「名人」をやり続けねばならず、それでようやくやめられるのだろう。しかし大それた志があるわけでもない。中大の文科がまともに運営されさえすれば、私の目的は達する。その他はすべて構わない。最近少し態度を変えた。何事も手当たり次第に対処し、利害を計算せず、しかし真剣にもなりすぎない。すると仕事が案外容易で、疲れもしないと感じるようになった。

この手紙以後、厦門からはおそらくもう手紙を出さない。

迅。一月五日午後。

五十五

広平兄:

五日に手紙を一通出したが、先に届いただろう。今日十二月三十日の手紙を受け取った。だからもう少し書く。

中大が君を助教に招こうとしているのは、伏園がわざわざ策を弄して冗談を言っているのではない。前回同封した二通の手紙を見れば分かる。もともと李逄吉の空席だったのだ。北大でも厦大でも助教は普段授業をしない。厦大では教授が半年や数月休暇を取った時に、まれに助教が代講するが、そんなことは極めて稀だ。中大の規定もまさか特別ということはあるまい。しかも教授が教案を作り助教が講義するなど、あまりに理に合わない。君が聞いたのはおそらく流言だろう。流言でなくても対処法はある。神経過敏になる必要はないようだ。辞令がまだ出ていなくても、おそらく変更にはなるまい。上遂の件も同様で、中学の職員はやらなくてよいと思う。万一変更があっても、私が人に頼んで別に手配する。

同僚にすると流言のせいで自分に累が及ぶのではないか――私は本当に不思議に思う。これは君が釘を刺されて神経過敏になったのか、それとも広州の状況が実際にそうなのか。後者なら、広州で人として生きるのは北京よりさらに難しいことになる。しかし私はそんなことは気にしない。私はさまざまな人物からさまざまな名で呼ばれてきた歴は長い。だからどう言われようと構わない。今回厦門に行った時も、ここでも各種の流言があったが、すべて放っておき、もっぱら大総統哲学を用いた。すなわち「自然に任せる」だ。

十日までには出発できなくなった。先月の給料がまだ支払われず、あと数日待てと言われている。しかし何があっても十五日までには出発する。おそらく彼らのちょっとした小細工だろう。早く行かせまいとして、ここで何日か無駄に待たせるのだ。しかしこの小賢しさは、おそらくかえって裏目に出る。校内にはおそらく風潮が起きる。今まさに醞醸中で、二、三日中に爆発するかもしれない。しかしすでに慰留運動から学校改革運動に転じており、本来は私とは無関係だ。ただ私が早く行けば、学生は刺激が一つ減り、あるいは行動を起こさないかもしれないが、こうずるずる引き延ばされてはどうにもならない。その時きっとまた私のせいにして「放火犯」と名指しする者が出るだろうが、自然に任せるしかない。放火犯なら放火犯でよい。

この数日は送別会と宴会、話と酒ばかりで、おそらくあと二、三日はこの調子が続く。こうしたつまらない付き合いは、まさに生命の敵だ。この手紙のように、夜中の三時に書いているのも、宴会から帰ったのが十時で、一眠りして起きたらもう三時だったからだ。

食事に招いてくれる人々の思惑もさまざまで、だから席上の光景もなかなか見応えがある。私はここでは多くの人に疎まれているのだが、去るとなると一転してみな大人物だと持ち上げる。中国の古来の慣わしで、誰であれ死にさえすれば、弔辞には生前がいかに素晴らしかったか、亡くなってどんなに惜しいかと書くではないか。そこであの白果までが私を「吾が師」と呼び、しかも人にこう言っている。「私は彼の教え子ですよ。情誼はもちろん深いものです」と。彼は今日もまた私のために送別の宴を催すと言う。この酒がどれほど飲みにくいか、想像がつくだろう。

ここの惰気は四、五年も積もって蔓延しており、今何人かの学生が私の四月間の魔力でそれを打破しようとしている。私の見るところ、それは一つの幻想にすぎない。

迅。一月六日灯下。

五十六

広平兄:

五日と七日の二通の手紙は、今日(十一日)午前に一度に届いた。この書留には特に大事があるわけではない。ただ少し議論をぶちたいと思い、紛失したら惜しいので、念のため確実を期しただけだ。

ここの風潮はまだ広がっているようだが、結果は良くなるはずがない。何人かはこの機に乗じて出世しようとしており、あるいは学生側に取り入り、あるいは校長側に取り入っている。見ていて嘆かわしい限りだ。私の方の事はおおかた片付いた。本来もう出発できるのだが、今日一隻の船があったが間に合わなかった。次は土曜日にしか船がないので、十五日にしか出発できない。この手紙はおそらく私と同じ船で広州に着くだろうが、とりあえず先に出しておく。おそらく十五日に乗船し、あるいは十六日出帆となれば、広州到着は十九日か二十日だろう。まず広泰来旅館に泊まるつもりだ。学校との打ち合わせが済んだら、ひとまず学校に入る。部屋は大鐘楼で、伏園の手紙によると、彼の住んでいた部屋をそのまま私に残してくれるそうだ。

助教は伏園が骨を折り、中大が招聘したもので、私がどうして自分が与えたなどとうぬぼれよう。その他もろもろについては、「爆発」でも「発爆」でも構わない。私はこうやるだけだ。どんなに慎重にしても、やはり圧迫は幾重にも加えられ、まるで無限の罪を背負っているかのようだ。今ここで自ら供述し、自ら甲冑を脱ぐことにする。彼らの第二拳がどう打ってくるか、見届けてやろう。私は「来る者」に対して、初めは博く施す心でいたが、今はそのうちの一人に対してだけ、独自に求め得た心情を抱いている。(この一節は原意を誤解しているかもしれないが、すでに書いてしまったから直さない。)たとえそれが敵であれ、仇であれ、梟蛇鬼怪であれ、私は問わない。私を引き下ろそうとするなら、喜んで落ちよう。台の上に立っているのが楽しいとでも思っているのか。名声も地位も何もいらない。ただ梟蛇鬼怪があればそれで十分だ。そういう者を、私は「朋友」と呼ぶ。誰に何の文句があろう。しかし今のところまだ限られた消息しか漏らさないのは、第一に自分のため、生計の問題がまだ頭にあるからであり、第二に人のため、私がすでに得た地位を一時借りて改革運動を進めることができるからだ。しかし私にこの二つのことだけのために汲々として犠牲になれと言うなら、もうだめだ。犠牲はもう十分に払った。しかし享受する側はまだ足りず、私の全生命を捧げよと言う。もう嫌だ。私は「敵」を愛し、彼らに反抗する。

ご存知の通り、この三、四年だけを取っても、私は親しい者にも初対面の文学青年にも、力を尽くせるところでは尽くし、何の悪意もなかった。しかし男性の方はと言えば、彼ら自身の間でさえ嫉妬を隠しきれず、ついに争い始めた。一方では心が満たされず、私を打ち殺そうとし、あちら側の援助も失わせる。私のところに女子学生がいるのを見れば、流言を作り出す。その流言は、事の有無にかかわらず、彼らが必ず作り出すものだ。私が女性と一切会わない限りは。彼らは新思想を装っているにすぎず、骨の髄は暴君・酷吏・スパイ・小人だ。もし私がなおも忍耐し譲歩すれば、彼らはさらにつけあがって止まるところを知るまい。私は彼らを蔑視する。以前、ふと愛のことを考えると、いつもすぐに自分を恥じ、ふさわしくないと恐れて、ある人を愛する勇気がなかった。しかし彼らの言行思想の裏を見透かしてしまうと、自分はそこまで身を落とさねばならぬ人間ではないと自信が持てるようになった。私は愛することができる。

あの流言は、去年十一月になって初めて韋漱園の手紙から知った。沈鐘社の方から聞いたそうで、長虹が必死に攻撃するのは私がある女性のためであり、『狂飆』にある詩で太陽は自分、夜は私、月は彼女だと。彼は私にその事が本当か、詳しく教えてくれと聞いた。そこで初めて長虹が「片想い」をしていたことが分かった。絶え間なく私のところに来ていたのもそのためで、決して『莽原』のためではなく、月を待っていたのだ。しかし私に対しては一切敵意を見せず、私が厦門に行ってから初めて背後からさんざん罵り、私を訳の分からぬ目に遭わせた。実に卑怯極まりない。私が夜なら、当然月があるはずで、何を今さら詩にする必要がある。能力も低い。その時すぐに小説を一篇書いて、彼を少しからかい、未名社に送った。

その頃また手紙を出して孤灵のことを聞き合わせたところ、この種の流言はとうの昔からあったと分かった。広めたのは品青、伏園、亥倩、微風、宴太だ。彼女を厦門に連れて行ったという者もいるが、これにはおそらく伏園は含まれず、私を車まで見送った人々が流布したのだろう。白果が北京から家族を連れてここに来て、またこの流言を持ち込み、私を攻撃するために田千頃とわざと大勢の前で公表した。中傷の意図だ。ところが全く効果がなく、風潮はいささかも収まらなかった。今回の風潮は根が深く、私一人のためではないのに、彼らはなおこんな小賢しいことをやっている。まさに「死に至るも悟らず」だ。

今は夜二時、校内はこっそりと電灯を消し、休暇の告示を貼り出した。すぐに学生が発見し、引き剥がした。今後風潮はもう少し拡大するだろう。

今つくづく思うのは、私は口では辛辣なことを言うくせに、人に対してはお人よしすぎたということだ。玄情の類が私のところに来ていたのがスパイ行為だったとは、全く疑わなかった。もっとも彼の鼠のようにきょろきょろする目つきに、時々いくらか不快を感じることはあったが。しかも今日になって初めて分かったのだが、時に客間で待ってもらうと、彼らはそれさえ不満だったそうだ。私が部屋に月を隠していて、入れてくれないのだと。この大層な殿方たちのご機嫌を取るのが、いかに難しいか見よ。私は弟御に頼んで柳を数本買い、裏庭に植えた。トウモロコシを数本抜いたところ、母はもったいないと少し不機嫌だった。すると宴太がすかさず流言を大いにまき散らした。私が学生をけしかけて母を虐待させているのだと。静穏を求めてもかえって汚濁が増す。以前私が「ああ、故郷よ、再び帰れるかどうかは一つの問題だ」と言ったのは、決して神経過敏の言葉ではなかったのだ。

第86節

万里鳴が太平湖飯店の主人で董子鶴の輩が不明な者であるのを除き、陶昌善は農大教務長で章士釗の代理。石志泉は法大教務長。査良釗は師大教務長。李順卿と王桐齢は師大教授。蕭友梅は元女師大にして今の女大教員。蹇華芬は元女師大にして今の女大学生。馬寅初は北大講師にして中国銀行の何か。燕樹棠、白鵬飛、陳源すなわち西滢、丁燮林すなわち西林、周鯁生、皮宗石、高一涵、李四光——楊蔭楡が「観劇」に迎えようとした作品が『現代評論』に載った者——はいずれも北大教授で、おおむね東吉祥胡同に住み北大の章士釗への独立に反対した人物だ。章士釗が権勢を振るった折『大同晩報』は彼らを「東吉祥派の正人君子」と称した。住所は今年の『北大職員録』では曖昧にされ、私の依拠は民国十一年の

本だ。

日本人が中国人の口調を学んだ『順天時報』は女大に同情し、女師大教員の多くは北大兼任で附属する嫌疑があると。しかし名簿からすればその観察は誤りだ。専任教員が少なかったのは楊蔭楡の狡計で校長が権力を独占するため。我々が発言すると講師は校事にあずかるなと封じた。女師大は北大教員がいても精神的に附属せず、学生が楊蔭楡に反対した時殲滅に協力した北大教授もいる。八月七日の『大同晩報』に「東吉祥派も解散に賛成」とある。『順天時報』記者が知らなければ昏愚、知りながら黒白を混淆したなら北大への悪感を女師大に蔓延させる卑劣な企み。国人の不甲斐なさを自責するしかない。

王世傑は撷英館で「北大少数者と女師大の合作に賛成しない」と演説。私の言葉が虚偽でない証明だ。「北大校則で教職員は他機関の主要任務を兼ねられぬが現在五名が兼務し違法で否認すべき」と言ったが語弊がある。北大教授にして京師図書館副館長月給五六百元の李四光がまさに席上で「公理を維持」し演説しているではないか。

燕樹棠は女大学生は敬服すべきだが「女大を破壊した土匪同然の者には道徳上の否認を」と。女大教務長蕭純錦の弁明すら見ずに断定し「道徳」を持ち出した。ならば鬼蜮同然に女師大を破壊した者には何の上の否認を加うべきか。

「公理」は語り難い。一つの維持会で自家撞着し「道義」の手で「公理」の頬を打つ。西滢は『現代評論』で女師大援助者を冷笑した。「外国人は中国人は男尊女卑だと言う。そうとは思えない。」今は公理会に署名。「大衆の専制に圧迫される者のために公平を述べればその人と密接な関係があるか酒飯を馳走になったのだ」と嘆息したのに今は口を開けば多数を重視。主張に齟齬があるが「飯を食う」だけは一貫。

第87節

『現代評論』(第五十三号)で「すべての批評は学理と事実に基づき口を恣にして罵倒はしない」と誇りながら女師大を「臭い便所」と呼んだことを忘れ「豺虎に投ずべし」の書簡末尾に署名。陳源は西滢ではないか。半年の数人でこれほど矛盾支離。彼らは聡明だから「公理」も維持会も歪んでいると気づき突如「女子大学後援会」に。後援とは背後の援助だ。

十八日の『晨報』の開会記事では発言者の姓名がなく「某君」。姓名すら恥ずかしくなったか。「豺虎に投じた」後で過ちを「某君」に帰し責任を免れようというのか。「正人君子」は報復に反対するが「後援者」が誰か知られない方が穏当。「道義」のためでも坦白な態度は採らない。名乗り出れば「土匪」か「暴徒」めいて背後の暗矢の聡明人の人格を失しかねない。

撷英館と後援会に嘯き集った人馬も各地の雑多な者で私と同様北京で飯の種を得た。「豺虎に投ずる」どころか「北方に投ぜられた」ようなもの。王桐齢、李順卿とは西安で頷き合ったが朋儕ではない。陳源とはタゴール祝賀で握手したがとうに異類。同席の意思などない。雑輩は論外。今の教育界に豺虎はいない。城狐社鼠の類がいるのは免れないが十余年来少なからず見た。ある種の人の「公理」を敬わぬ所以だ。

(十二月十八日。)

【今度は「多数」の見世物】

『現代評論』第五十五号「閑話」の末段は女大学生の宣言を根拠に女師大の学生はわずか二十人で他はすべて女大に入ったと。「某種の新聞の催眠」を悔い宣言で覚めたと。「二百人中百九十九人が入ったら?全員入ったら?維持会が新入生を募って復校するのか?維持するのは誰か?目的は何な

第88節

のか?」

夏に女師大を維持せず今「公理」を維持する陳源教授には理解し難い。私は維持会の一委員だが別の理解も知る——

二十人全員多い方に走ったなら維持会はとうに章士釗に追従すべきだった!

「四五十歳にして四五歳の子供の言葉を好む」者で奴隷の言葉を真似るから笑い話かもしれない。しかし言い出した以上。二百一人入ったら?維持会員も全員入ったら?百九十九人入って残った一人が維持を望まなかったら?

おそらく誰も答えられまい。問いが突飛で子供でも至るまい。「某種の新聞の催眠」は人により「某君」は「某種」のみ。私は『現代評論』や「女大学生宣言」の催眠は受けない。「閑話」後に「百九十九人入ったら?維持は誰?」と自問すれば奇怪で章士釗の位牌前で粛然とするだろう。幸い宣言もなお二十人と言っている。

「公理」の時代に女師大解散は章士釗で女大は別途設立だから校舎は返還すべきでないと。そう言えなくもないが満州人の「明を滅ぼしたのは闯賊、大清は闯賊から得た」よりなお滑稽。表面は筋が通るが順民しか騙せない。私は聡明でなく信じてもよかったが十四年前の革命を目撃し中国人だから騙されなかった。

「もし」百九十九人全員入ったら?章士釗がもう半年続けるか走狗が策動すれば一人か零人にまで脅迫されることは十分あり得る。陳源教授は「通品」で理想にも実現の可能性がある。では?維持する。「目的は?」——「大衆の専制に圧迫される者のために公平な一言を述べる」。

「公理」の忽隠忽現と同じく「少数」の相場も四季で異なる。楊蔭楡の時は多数が少数を「圧迫」すべきでなく今は少数が多数に服従すべきだと。多数が正しいのか。ロシアの多数派は過激党と呼ばれ紳士が「深悪痛絶」している。「暴民」は多数でも例外か。

第89節

「もし」帝国主義者が大部分を奪い一二省なら?他はすべて強国のもの。少数の土地でも維持するか。明の後一寸の土地もなくなったが海外に恢復を志す者がいた。今の「通品」からすれば皆謬種で劉百昭を派遣して剿滅すべきだろう。

「もし」本当に二十人なら?しかし結局二十人いる。章士釗の門下で暗に走狗となりながら面の皮がそれほど厚くない教授文人学者を愧死させるに足る!

(十二月二十八日。)

【後記】

本書には少なくとも二箇所説明すべきところがある——

第90節

一、徐旭生先生の第一回返信の引用はZM君が『京報副刊』に発表した文章から。「青年必読書」で「文が書けないことなど大したことか」と言い攻撃を受けていた。ZM君が講堂での口述を発表したのは窮地から救うため。一部を書き写す——

「必読書目を読み感想が湧いた。最も打ったのは魯迅先生の附注。……彼の笑い話を思い出した。『話と文章は敗者の徴。運命と死闘中の者にはその余裕がない。真の勝者も沈黙する。鷹が兎を掴む時叫ぶのは兎。猫が鼠を捕る時鳴くのは鼠。楚の覇王も追奔逐北の時は語らない。詩人の風を装い歌う時はもう兵敗勢窮。呉佩孚の「西山に登り詩を賦す」、斉燮元の「銃を下ろし筆を取る」がさらに明白な例。』」

二、学生が横暴だとよく聞く。老先生だけでなく出たばかりの小官吏や教員も。しかし私はそう感じない。革命以前は社会は今ほど学生を憎まず学生も馴順でなかった。態度だけでも傲然。今は長袍大袖温文爾雅、古の読書人だ。ある講堂で触れ最後にこう——今の学生は馴良、馴良に過ぎるかもしれないと。武者君が『京報副刊』の『温良』で引いたのがこの言葉。これで『忽然想到』第七篇を書いた。例は「売国奴」の子弟が唾罵されたこと、女師大の学生が男性職員で威嚇されたこと。女師大について発言したのはこれが最初で十日後に「壁にぶつかり」十日後に陳源が「流言」を発表。半年後陳源から徐志摩への書簡では「事実を捏造し流言を散布した」のは私だと。世事は白雲蒼狗。

また『「公理」の見世物』で楊蔭楡が「太平湖飯店で客を招き六名を除名」と書いたが場所は誤りで西安飯店。五月二十一日に変わり「太平湖飯店で校務緊急会議」。場所は本来些事だが「文士」学者からすれば「事実の捏造」で私の言うことには真実がなく楊蔭楡さえ存在しない空想だと。急いで訂正し「桑楡に収めん」。

一九二六年二月十五日校了記す。緑林書屋の東壁の下にて。

第91節

【一九二八年】

【「酔眼」の中の朦朧】

旧暦と新暦の今年は上海の文芸家に格別の刺激を与え二つの正月が明けるや定期刊行物が続々出現。全力を偉大もしくは尊厳な名称に注ぎ内容を犠牲に。一年以上続く刊物にさえ必死のあがきと突然変異。著者は初見の名が幾つかあるが多くはなじみ。いくぶん見慣れぬのは半年一年筆を擱いていたため。以前何をし、なぜ一斉に筆を執ったか。以前は執らずに済んだが今はやむなく。旧来の無聊な文人と変わらぬ。皆がいくぶん自覚し読者に「将来」を宣言。「出国」「研究室」「大衆を獲得」。功業は目前になく帰国し研究室を出て大衆を得た暁には大変。遠見のある人は今のうちに「革命的敬礼」を。「将来」に至れば「悔いても遅い」。

各種の刊物は一つの共通点——いくぶんの朦朧。発祥地は官僚と軍閥。瓜葛のある者はにこやかで先見があるように見せるが夢で鉄槌と鎌を恐れ主人を明白に讃えられず朦朧が残る。瓜葛のない大衆に向かう者は遠慮なく語れるが指揮刀を忘れる馬鹿は多くなくここにも朦朧。朦朧を装い色彩を漏らす者と色彩を示しながら朦朧を免れぬ者が同時に出現。

朦朧はさほど大事でない。最も革命的な国でも朦朧を帯びる。しかし革命者は自己批判を恐れず明瞭に知り明言する。中国だけが特殊でトルストイを「卑汚な説教者」と呼べても中国には「暗雲密布の支配」と感じるだけで「政府の暴力を剥ぎ仮面を剥ぐ」勇気がない。人道主義の不徹底を知りながら抗争すらない。剥ぎ取りも抗争も「咬文嚼字」で「直接行動」でない。文筆の人に直接行動は求めない。文筆しかできぬことを知っている。

第92節

惜しくもいささか遅れたが創造社は一昨年株式、昨年弁護士、今年「革命文学」の旗を掲げた。成仿吾は「芸術の宮」を離れ「大衆を獲得」しに行き「最後の勝利を保障する」と。必然の飛躍。文芸に携わる者は鋭敏で没落を察知し備える。大海に漂い必死にしがみつく。表現主義やダダイズムの興亡がその消息。大時代、動揺、転換の時代。中国の外では階級対立が鋭利化し農工大衆が重みを増す。没落から救うなら彼らの方に。「小資産階級に二つの魂がある」。

中国では萌芽で新奇、先進国では平常。将来は労働者の天下と見定める者、弱者を助ける者、両方が作用する者。恐怖か良心。成仿吾は根性克服を教え「大衆」を「給与」と「維持」の材料に。文の後に問題——

「最後の勝利の保障が難しいなら行くのか。」

『文化批判』の李初梨の方がまし。無産階級文学を主張し無産者自身は不要。「無産階級の意識による闘争の文学」でよい。端的爽快。しかし「語糸派」を見ると「魯迅は第何階級か」と問う。

成仿吾に判定されている。「『閑暇、閑暇、第三の閑暇』。有閑の資産階級か太鼓の中の小資産階級。十万両の無煙火薬で吹き飛ばされねば永遠にこう暮らす。」

批判者が「否定の否定」を施し「大衆を獲得」しようとする時「十万両」を夢想し私を「資産階級」に。危殆を覚えた。李初梨が「いかなる階級でも参加し得るが動機を審査」。少し安堵したが私には階級を問う。「閑があれば金がある」。無一文なら「参加」できるが「動機」を問われる。肝心は「無産階級の階級意識を獲得」——「大衆を獲得」だけでは不足。堂々巡りゆえ李初梨に「芸術の武器から武器の芸術へ」、成仿吾に「十万両」蓄積を任せ、私は「趣味」を語る。

第93節

成仿吾の「閑暇、閑暇、第三の閑暇」の切歯の声は面白い。「第一は冷静、第二は冷静、第三もなお冷静」が記憶中枢を斧で割り「閑暇」も三つに。四つか二つなら「アウフヘーベン」されなかったろうがちょうど三つ。先の罪は「否定の否定」と相殺。

「革命のための文学」だから文学を要す。「芸術の武器から武器の芸術へ」進み「武器の芸術」に至れば「彷徨者は同意者に、反対者は彷徨者に変ず」。

問い——なぜ直ちに「武器の芸術」に至らないか。

「有産者の蘇秦の遊説」めくが「無産者がまだ解放されていない」うちは起こる問い。徹底的主張は疑わしい萌芽を含む。答え——

あちらに「武器の芸術」があるからこちらは「芸術の武器」のみ。

やむを得ず無抵抗の幻影から紙上の戦闘の夢に落ちた。革命的芸術家もこれで勇気を維持するしかない。芸術を犠牲にすれば革命的芸術家たり得ない。無産階級の陣営に座し「鉄と火」を待つ。出現の際「武器の芸術」を取り出す。「閑暇」があり功勲を聴けるなら同等の戦士にもなれよう。最後の勝利。しかし文芸は論じ尽くせない。社会に多くの層。『文化批判』はシンクレアを、『創造月刊』はヴィニーを背負い「行軍」。

「革命せざれば反革命」と言われず掃除で半切れのパンにありつけるなら八時間労働の暇に『小説旧聞鈔』を抄録。幾つかの国の文芸も語りたい。好きだから。恐れるのは成仿吾らがイリイチの如く「大衆を獲得」すること。貴族か皇帝に昇格させられ北極圏に流刑。訳著禁止は言うまでもない。

第94節

遠からず大時代が来る。革命文学家と無産階級作家はやむなく「芸術の武器」を弄ぶが「武器の芸術」を持つ非革命武学家もこの玩具で遊び始めた。にこやかな期刊がそれだ。手にする「武器の芸術」を自らも信じていまい。最高の芸術は今誰の手にあるか。見つかれば中国の近い将来がわかる。

(二月二十三日、上海。)

【司徒喬君の画を観る】

司徒喬君の姓名を知ったのは四五年前で北京にいた。課業にかまわず師も求めず自らの力で終日古廟、土山、破屋、貧者、乞食を描いていた。

南からの遊子の心を打つ。黄塵漫天の人間にあって万物が土色に染まり人は天然と争闘する。深紅と紺碧の棟宇、白石の欄干、金の仏像、厚い綿入れ、紫糖色の顔、深い皺。天然に屈服せぬ争闘。

展覧会で中国人の天然に対する頑強な魂を見た。「四人の警察と一人の女」を手に入れた。「イエス・キリスト」を覚えている。女性の唇が荊冠に接吻していた。

上海で再会し問うた——「あの女性は?」「天使です」。満足できなかった。

今回見出したのは作者が北方の景物に対しさらに争闘を加えていること。時に本来の明麗で黄塵を照破する。「歓喜」(Joy)の萌芽。脇腹の槍傷の血にもかかわらず荊冠に天使の唇。これは勝利だ。

爽朗な江浙、熱烈な広東の風景は作者の本領。北方と対照すれば筆の熟知と歓喜がわかる。旧友に再会したかのよう。しかし私は黄塵を眺めるのが好きだ。明麗な心の作者が古戦場に驚き自ら戦闘に加わったのが見える。

中国の全土は疎通されねばならない。割拠に至らなければ歴史を背に黄塵を払う青年の彩色はまずこのようなもの。

(一九二八年三月十四日夜、上海。)

【上海における魯迅の声明】

一ヶ月余り前、開明書店を経てM女史の手紙が届いた。「一月十日孤山でお別れ以来……ご通信やご指導を……。」

返信で杭州には十年近く行っておらず別人だと説明。M女史と二人の同窓が訪ね別の「魯迅」と判明。曼殊の墓傍の詩を見せてくれた——

「我来たりて君の寂居に、誰が魂を醒まさん。漂萍山林の跡、他年を待ちて公に随い去かん。魯迅杭州に遊ぶ 旧友を弔う 曼殊の句 一、一〇、十七年。」

杭州のH君に問い合わせるとそのような人物が城外で教えていると。姓は周、『彷徨』を著し八万部売れたが満足せず良いものを出す予定だと。

もう一人がいてもどうしようもない。自叙は大半同じだがいくぶん困惑。詩の拙さは措くとして曼殊に「随い去かん」は横暴。「去る」はいつか来るが「随う」など夢にも思わぬ。恐れ入るのは「指導」の約束の類。

上海に来て「書店を開く」「杭州に遊んだ」と書かれたが実際は二階で翻訳。筆で食うしかない。「先駆者」と持ち上げられ「落伍者」と押される。自業自得。しかしもう一人が代わりに説教し詩を題し全部背負うなら翻訳の暇もない。

声明を出す。私のほかに今年少なくとも一人「魯迅」がいる。その言動は『彷徨』を出したが八万部に至らなかった魯迅とは無関係だ。

(三月二十七日、上海。)

第95節

余杭(『広記』では姚に作る)の人、沈縦は、家がもとより貧しく、父と共に山に入った。帰途、未だ家に至らぬうちに、一人の者が左右に導従四百余を従え、前方に車輜重を連ね、馬鞭が道の両側に立ち並び、鹵簿は二千石の如きを見た。遠くから縦父子を見て、呼び止め、縦の手の中の火に寄り、縦はそこで問うた。「いかなる貴人であられるか。」答えて曰く、「斗山の王にして、余杭の南に在り。」縦は神であると知り、叩頭して云った。「御加護を賜りたく存じます。」その後、山に入って一つの玉(『広記』では枕に作る)を得た。これより万事思い通りとなり、田も蚕も共に豊作で、家はついに富んだ。(『御覧』三百五十九及び四百七十二。『広記』二百九十四)

項県の民、姚牛は、年十余歳にして、父が郷人に殺された。牛は常に衣物を売り、刀戟を買い、復讐を図っていた。後に県署の前で相遇し、衆中にてこれを手刃した。吏に捕らえられたが、官長は深くその孝節を矜れみ、その事を推し遷し、恩赦に会って免れた。また州郡の論救するところとなり、ついに他事なきを得た(二句は『広記』引に有り)。県令は後に猟に出で、鹿を追って草中に入ったが、古い深い陥穽が数箇所あり、馬が趣こうとした。忽ち一人の翁が現れ、杖を挙げて馬を打ち、馬は驚いて避け、鹿には及ばなかった。令は怒り、弓を引いて射ようとした。翁曰く、「この中に陥穽あり、君が堕ちるのを恐れたのです。」令曰く、「汝は何者か。」翁は跪いて曰く、「民、姚牛の父でございます。君が牛を活かして下さったことに感じ、故に来て恩に謝するのです。」そう言うと忽然と消え失せた。令は身をもって冥事に感じ、在官数年、民に多く恵みを施した。(『御覧』四百八十二及び四百七十九及び三百五十三。『広記』三百二十)

呉県の費升は九里亭の吏であった。暮方に向かうころ、一人の女が城郭の中から来るのを見た。素衣で泣きながら埭に入り、一つの新しい塚に向かって哭した。日暮れて門に入れず、亭に宿を寄せた。升は酒食を作り、夜に至って琵琶を弾き、歌わせた。女は云った。「喪中の身でございます、笑わないで下さい。」歌声は甚だ媚やかで、こう歌った。「精気は冥昧に感じ、降るところ縁あるが若し。嗟、我良き契りに遇い、喜びを霄夢の間に寄す。」中曲に云う、「成公は義より起こり、蘭香は張碩に降る。苟しくも冥分の結びと云わば、纏綿は今夕に在り。」下曲に云う、「我を佇たせ風雲の会、正に今夕の遊びを俟つ。神交は未だ久しからずと雖も、中心已に綢繆なり。」寝処にて明け方に向かい、升が去ろうとして振り返り言った。「しばらく御亭に至れ。」女はたちまち驚き怖れた。猟人が至り、群犬が屋に入り、床上で咬み殺すと、大きな狸であった。(『御覧』五百七十三)

代郡の界に一つの亭があり、常に怪異があって、訪れ留まることができなかった。壮勇なる諸生があり、歌いながら行き宿を取ろうとした(『広記』引では「暮れに行き亭に宿らんと欲す」に作る)。亭吏がこれを止めた。諸生曰く、「我自らこれを消すことができる。」そこで住みて宿食した(以上四句は『広記』引により補う)。夜に至り(二字は『賦注』引に有り)、鬼が五孔の笛を吹いたが、手が一つしかなく、笛を全て押さえることができなかった。諸生は堪えかねて、忽ち笑って言った。「汝はただ一つの手しかないのに、どうして笛を全て吹けようか。我が汝のために吹いてやろう。」鬼は云った。「卿は我の指が少ないと言うのか。」そこで手を引き出すと、たちまち数十の指が現れた。諸生はこれを撃つべしと知り、剣を抜いてこれを斫った。得たものは一羽の老いた雄鶏で、従者はみな雛鶏であった。(『御覧』五百八十。『事類賦注』十一。『広記』四百六十一)

一人の士人、姓は王、斎中に座していると、一人が名刺を通じて訪ねてきた。名刺には「舒甄仲」と題してあった。去った後、人ではないかと疑い、名刺を尋ねて曰く、「これは予が舎の西の土瓦の中の人なり。」掘らせたところ、果たして瓦器の中に一つの銅人を得た。長さ一尺余。(『御覧』六百六)

襄陽城の南に秦民なる者あり、性は至孝で、親が没すると泣血すること三年。人がその者のために蓼莪の詩を詠ずると、民はその義を聞いて涕泗を自ら堪えられなかった。(『御覧』六百十六)

尋陽の参軍が夢に一人の婦人が前に跪くのを見た。自ら称して曰く、「先に水辺に近く葬られ、水に没しております。誠に救って頂ければ、富貴にはできませんが、君をいささか禍より免れさせることができましょう。」参軍は答えて曰く、「何をもって目印とすべきか。」婦人曰く、「君が渚の辺に魚の簪を見れば、即ちそれが私でございます。」参軍は翌朝尋ねると、果たして一つの毀れた墳を見つけ、その上に簪があり、高く乾いた処に移した。十余日後、参軍が東橋に至ったとき、牛が奔って水に向かい、まさに堕ちようとしたが、忽ち転じて無事を得た。(『御覧』七百十八)

清河の崔茂伯の娘は裴氏と婚約していたが、期日前に女が突然亡くなった。一つの金罌を提げ、二升ほどを受けるもので、まっすぐ裴の床前に来て立ち、罌を裴に贈った。(『御覧』七百五十八)

弘農の徐倹の家に遠方より来た客が宿を借りた。馬が一匹おり、夜半に驚き跳ねた。客は不安になり馬に騎って去った。丈余の長さの物が馬の後ろを追って来た。客がこれを射ると、木に中たるが如き音がした。翌日、昨日の路を尋ねると、矢が碓柵に刺さっていた。(『御覧』七百六十二)

劉松が家に在ると、忽ち鬼を見た。剣を抜いてこれを斫った。鬼は走り、松は追い、鬼が高山の岩石上に臥しているのを見た。逼り突くと、群鬼は争って走り、薬の杵臼と残りの薬を遺した。これを家に持ち還った。松が人のために薬を合わせる時、この臼を経た一撮みを取ると、効験のないものはなかった。(『御覧』七百六十二)

曲阿に一人の者がおり、姓名を忘れたが、京より還り、暮に逼って家に至れなかった。雨に遇い、広い家屋の中に宿った。雨が止んで月が朗かになると、遥かに女子が来て屋の軒下に至るのを見た。悲嘆の音があり、腰の絹(去遠切)の縄を解き、屋角に懸けて自ら縊ろうとした。また屋の軒上に人が縄を牽いて絞めるかの如き気配があった。この人は密かに刀をもって縄を斫り、また屋上をも斫った。鬼が西に走るのを見た。暁に向かって女の気がようやく蘇り、語れるようになった。家は前方にあり、この人を連れて帰り、父母にその事を語った。あるいは天運のなすところであろう、女をこの人に嫁がせて妻とした。(『御覧』七百六十六)

爰琮が新安太守となり、郡の南界に刻石があった。爰がその下で宴をしたとき、忽ち人が石の下から鋏を得た。衆はみなこれを怪しんだ。琮が主簿に問うと、主簿は答えて曰く、「昔、呉の長沙桓王がかつて孫洲で飲み餞別した際、父老が云った。『この洲は狭くして長し、君はかつて長沙となるか。』果たしてその通りとなった。そもそも三刀は州となり、交刀を得れば、君もまた交州となるべし。」後に果たして交州となった。(『御覧』八百三十引『世説』注に云う『幽明録』同じ)

一人の伧(土行の反)の小児が野中で牛を放っていた。仲間が数人おり、鬼が叢草の間に依って処処に網を設け、人を捕らえようとしているのを見た。網を設け終わらぬうちに、小児が密かに前の網を取り、そのまま覆い被せ、たちまち鬼を縛り得た。(『御覧』八百三十二)

琅邪の諸葛氏の兄弟二人は晋陵に寓居し、家は甚だ貧耗で、常に仮乞にて自給していた。穀物が圌の中にあり、日月を計算すれば未だ尽きるべきでないのに、早くも空竭していた。初めは家中の窃盗と思い、封検題識したが、消耗は初めの如く。後に遠方より宿客があり、夕方に巷口で数人が穀物を担いで門から出るのを見た。客は尋ねて問うた。「諸葛殿は在りますか。」答えて曰く、「皆おります。」客は語り終えて問うた。「なぜ大量に穀物を売っているのですか。」主人は云った。「乞い得た僅かの穀物で(三字は『御覧』引に有り)口を糊するばかりで、どうして(二字は『御覧』引に有り)売れましょうか。」客は云った。「私が来る途中、数人が穀物を担いで門から出るのに逢いました。もし売ったのでなければ(『御覧』引にこの句及び「門より」の二字有り)、何事でしょうか。」主人の兄弟は互いに顔を見合わせ、疑い怪しんだ。試みに入って見ると、封題は故の如くだが、圌を開けて量ると十余斛が失われていた。前後に失った分は人の為すところではないと知った。(『類聚』八十五。『御覧』八百三十七)

河南の陽起、字は聖卿は、若い時に瘧を病み、社中に逃れて素書一巻を得た。百鬼を譴劾する法であり、劾するところ輒ち験あり(『御覧』引にこの句有り)。日南太守となったとき、母(『御覧』引では「毎」に作る)が厠に至ると、鬼の頭が数尺の長さであるのを見た。聖卿に告げると、聖卿(『御覧』引ではこの二字を重ねず)は曰く、「これは粛霜の神なり。」劾して出させると、形を変じて奴の如くなった。書を京師に送らせれば朝に発して暮に返り、使役すれば千人の力に当たった。(以上また『御覧』八百八十三に見ゆ)忿恚する者があると、聖卿は神を遣わして夜に往かせ、その床頭に趣き、両手を持ち、目を張って正に赤く、舌を吐いて地に柱てさせた。その人は怖れてほとんど死ぬほどであった。(『広記』二百九十一)

劉斌が呉郡に在りし時、婁県に一人の女があり、夜に風雨に乗じて恍惚として郡城内に至った。家を去ること一炊の間ばかりにして、衣は濡れなかった。暁に門上にあり、言った。「我は天使なり、府君は起きて迎えるべし、大いに富貴すべし。さもなくば凶禍あらん。」劉がその来たる所を問うも知らなかった。二十余日後、劉は果たして誅された。(『御覧』八百八十五。『広記』三百六十)

護軍の琅邪の王華に一頭の牛があり、甚だ快速で常にこれに乗っていたが、歯は已に長じていた。華は夢に牛が語るのを見た。「衰老にして荷に堪えません。二人を載せるのはなお可なれど、これを過ぎれば必ず死にます。」華は偶然の夢と思い、三人と同乗して府に還ると、この牛は果たして死んだ。(『御覧』九百)

呉興の戴眇の家僮は客姓の王で、若い妻が美色であった。眇の次弟が常に通っていた。客は密かに忿怒を懐き、眇に白した。「中郎がかくなさるのは甚だ無礼です。叱責の言葉を賜りたく。」眇がこれを弟に問うと、弟は大いに罵った。「何の縁あってかかることがあろう。必ずや妖鬼であろう。」撲殺を命じたが、客は初めなお敢えてせず。後にまた来たとき、戸を閉じて縛ろうとすると、たちまち大きな狸に変じ、窓から出て行った。(『御覧』九百十二)

巴東に道士がおり、姓名を忘れたが、道に精進にして屋に入り香を焚いていた。忽ち風雨が至り、家人が見ると白鷺が屋の中から飛び出した。雨が止むと、道士の所在はわからなくなった。(『御覧』九百二十五)

会稽の謝祖の妻は、初め男児を産み、さらに蛇を生んだ。長さ二尺許りで、たちまち門を出て行った。数十年後、妻は老いて終わった。祖は忽ち西北に風雨の声を聞き、しばらくして蛇を見た。長さ十数丈、腹回り十余囲で、戸に入って霊座に至り、柩の所に至って数匝めぐり、頭で柩を打ち、目から血涙が出た。良久にして去った。(『御覧』九百三十四)

会稽郡吏の県の薛重は休暇を得て家に還った。夜、戸の中で妻の床上に丈夫の鼾声を聞いた。妻を呼ぶと床上から出たが、戸を開けるに及ばず、重は刀を持って妻に問うた。「酔い臥している者は誰か。」妻は驚愕し、実に人の意なしと申し明かした。重の家はただ一戸で、捜索しても見つからなかったが、大蛇が床脚に隠れて酒臭がした。重は蛇を寸断に斬り後溝に擲った。数日後妻が死に、また数日後重も卒した。三日を経て復活し、死んだ時のことを語った。神人が重を官府に連れて行き、問うた。「何ゆえ人を殺したのか。」重曰く、「殺傷したことはございません。」曰く、「寸断にして後溝に擲ったのは何物か。」重曰く、「蛇にして人ではございません。」府君は愕然として悟った。「我が常に用いて神としていた者が人の妻を犯し、妄りに人を訴えたか。」吏卒が一人を連れて来た。平巾幘を著けていた。その過ちを詰問し獄に付そうとした。重は人に送り還された。(『御覧』九百三十四)

曲阿の虞晩の宅内に皂莢の樹があった。大きさ十余囲、高さ十余丈、枝条扶疏として蔭が数家を覆い、諸鳥がその上に棲んでいた。晩が奴に上枝を斫らせたところ、墜ちてほとんど死にかけた。空中に罵る者があった。「虞晩よ、何の心算か、我が家居を伐るとは。」瓦石を投げつけ、大小みな委頓した。二年にして漸く消滅した。(『御覧』九百六十)

虎晩の家に皂莢の樹があり、神が宿っていた。道を隔てて大きな楡の樹があり、古くから雌雄と伝えた。晩が斫られた後、この樹も枯死した。(『類聚』八十八)

太原の王仲徳は年少時、乱に遭い胡賊を避けて絶食三日、草中に臥していた。忽ち人がその頭を扶け呼んだ。「起きて棗を食べよ。」王は寤めて小児を瞥見した。背丈四尺ですぐに隠れた。一袋の干し棗が前にあり、食べるといささか気力が出て立ち上がれた。(『御覧』九百六十五)

安定の人、周敬が瓜を種えていた時、日照りが甚だしかった。鬼が代わりに水を汲んで(音は輦)瓜に灌いでくれ、瓜は大いに滋繁した。姓名を問うも答えなかった。帰って父に白した。「かつて人に恵みを施されたことがございますか。」父曰く、「西郭の樊営がかつて郡吏となり、官に数百斛の米を償うべきところ、我が百斛をもって助けたが、その人は已に死んだ。」(『御覧』九百七十八)

ある人の家は甚だ富んでいたが、ただ一人の男子があるのみで、寵愛放縦が常を過ぎた。市を遊び歩いて美麗にして胡粉を売る女子を見た。愛したが自ら言い出せず、粉を買うことに託して日々市に往った。次第に久しくなると、女は疑い、翌日また来た時に問うた。「この粉を買うのは何に使うのですか。」答えた。「心からお慕いしておりますが言い出せず、常にお会いしたく、これに仮託してお姿を拝見していたのです。」女は感じるところあり密かに許し合い、翌夕を期した。その夜、堂屋に寝て女を待った。薄暮に果たして到り、男は喜びに堪えず臂を把って曰く、「宿願がここに遂げられた。」歓喜のあまり遂に死んだ。女は惶恐して遁れ去り、翌日粉店に還った。父母は男の起きぬのを怪しみ、往きて見ると已に死んでいた。箧笥を開けると百余包の胡粉があった。母曰く、「我が児を殺したのは必ずやこの粉であろう。」市で遍く胡粉を買いこの女のものと比べると手跡は同じ。女を執らえて問うた。「なぜ我が児を殺したのか。」女は嗚咽して実情を陳べた。父母は信じず官に訴えた。女曰く、「妾は死を惜しみません。一度屍に臨んで哀を尽くすことをお許し下さい。」県令はこれを許した。まっすぐ往きて慟哭した。「不幸にしてこうなりました。死者の魂に霊があるならば何の恨みがありましょうか。」男は忽然として蘇生し、情状を説いた。ついに夫婦となり子孫は繁茂した。(『広記』二百七十四)

許攸が夢に烏衣の吏が漆案を奉じるのを見た。案上に六封の文書。拝跪して曰く、「府君は北斗君となるべし、来年七月□。」また一つの案に四封の文書があって云った。「陳康を主簿と為す。」覚めた後、□康が至った。「今来たりて謁すべし。」攸は懼れ、康に問うた。「我が道師となっても社公に過ぎぬのに、今日北斗を得るとは。主簿は忝いことである。」来年七月、二人は同日に死んだ。(『広記』二百七十六)

広平太守の馮孝将の男、馬子が夢に女人を見た。年十八九にして言った。「私は前太守の徐玄方の娘です。不幸にして早世し、四年となります。鬼に枉殺されましたが、生録では寿命は八十余でした。今、再び生き返ることを許されました。君の妻となりたいのですが、聘して頂けますか。」馬子は棺を掘り開けると、女は已に活きていた。ついに夫婦となった。(『広記』二百七十六)

京口に徐郎なる者があり、家は甚だ貧しく常に江辺で流れ柴を拾っていた。忽ち江中に連船が川面を覆って来て、浦に入り徐に対して泊まった。使いが来て云った。「天女は今徐郎の妻となるべし。」徐は屋角に隠れて出なかった。母・兄・妹が励まして強いて出させた。舫に至る前に別室で沐浴させた。水の芳香は世の常にないもので、繒絳の衣を贈った。徐はただ恐懼して膝を累ねて床端に座し、夜も酬接の礼がなかった。女はその後衣物を与えて退いた。家中は怨み嘆き、遂に懊歎して卒した。(『広記』二百九十二)

侯官県には常に閣下の神があり、歳末に諸吏が牛を殺して祀った。沛郡の武曾が令となりこれを断じた。一年後、曾は建威参軍に遷ったが、神が夜に来て問うた。「なぜ食を返さぬのか。」声色は極めて悪く甚だしく譴責した。諸吏は道中で牛を買い謝した。神はすなわち去った。(『広記』二百九十四)

甄冲、字は叔譲、中山の人にして雲社の令となった。未だ恵懐県に至らぬうちに、一人が来て通じた。「社郎。」しばらくして到った。年少にして容貌美しく清浄であった。座して寒温を交わし云った。「大人が使わされました。高き縁を慕い、妹を君に嫁がせたく。」甄は愕然として曰く、「僕は年長で且つ妻がおります。何の道理がありましょう。」社郎はまた云った。「僕の妹は年若く美貌は類なく、佳き対を得たいのです。なぜ拒むのですか。」甄曰く、「僕は老人にして妻があり、どうして礼に違えましょう。」数度やり取りしたが甄に動く意はなかった。社郎は怒りの色で云った。「大人が自ら来よう。違えることはできまい。」去った後、両岸に人が見えた。幘を著け馬鞭を持ち羅列して従い、行従は甚だ多かった。社公がやがて至った。鹵簿の導従は方伯の如く、馬輿に乗り、青幢赤絡、覆車数乗。女郎は四望車に乗り、錦歩障数十張、婢十八人が車前に来て衣服の文彩は見たことのないものであった。甄の傍の岸上に幔屋を張り薦席を敷いた。社公は隠膝の几に下り白氈の坐褥に座し、玉唾壺を置き玳瑁の手巾籠を持ち白塵尾を執った。女郎は東岸に黄門が白払を持って車を挟んで立ち、婢子が前にいた。社公は佐吏を引いて前に座らせ六十人ばかり、楽を奏させ器はことごとく琉璃の如くであった。社公は甄に曰く、「僕に陋女があり鍾愛するところ、君の徳の令茂なるをもって親縁を結びたい。小児に旨を宣べさせた。」甄曰く、「僕は既に老悴にして家室があり児子も大きい。命を受けることは敢えてしません。」社公はまた云った。「僕の娘は二十にして姿色淑令、四徳を備えている。今岸上にいる。ただ礼を成すべきのみ。」甄がこれを拒むことますます苦しく、邪魅と思い刀を抜いて膝上に横たえ死をもって拒み、語ろうとしなかった。社公は大怒し三斑両虎を呼ばせた。口を張って赤く、号呼して地を裂き跳び上がること数十次、天明まで守ったがどうにもならず去った。牽車一台と従者数十人を留めて甄を迎えようとした。甄は恵懐の県中に移った。迎車と人が門に至ると、中に一人が単衣幘で揖をした。ここで止まり進めなくなった。甄は十余日後にようやく去ったが、なお二人が馬鞭を持って随い家に至った。家に至って数日で妻が病み、ついに亡くなった。(『広記』三百十八)

秣陵の人、趙伯倫はかつて襄陽に往った。船人は豚をもって祈りとしたが、祭りに及んでただ肩のみであった。その夕べ、伯倫らは夢に翁と姥を見た。鬢髪蒼白で布衣を著け、撓楫を持ち怒っていた。翌朝、砂に触れ石に衝たり人力の及ばぬところであった。厚い馔を施すとたちまち流通を得た。(『広記』三百十八)

第96節

桂陽の人、李経と朱平(当に脱文有るべし)は戟を帯びてこれを逐った。百余歩行くと、忽ち一つの鬼を見た。丈余の長さで、これを止めて曰く、「李経には命あり、豈にこれを殺すべけんや。為すこと無かれ、必ず汝の手を傷つけん。」平は酔いに乗じて直に経の家に往き、鬼もまたこれに随った。平は経を見て、刃を奮おうとしたが、忽ち屹然として動かず、執縛されたるが如く、果たして左手の指を傷つけた。庭の間に立ちつくし、暮に至ってようやく醒め、去った。鬼曰く、「我は先に汝に語ったのに、なぜ従わなかったのか。」言い終わると滅した。(『広記』三百十八)

剡県の胡章と上虞の管双は干戈を好んだ。双の死後、章は夢にこれを見た。刃を躍らせてその前で戯れ、覚めて甚だ不快であった。翌日、符を壁に帖した。章が近くに行こうとして、已に舟に泛んで楫を整えていると、忽ち双が来て攀じ留めて云った。「人が相知ること、情は千載を貫く。昨夜卿のところで戯れたが、眠りに値いて吾は即ち去った。今なぜ符をもって厭えるのか。大丈夫たるもの天下の理を体せず、我が符を畏れるとでも言うのか。」(『広記』三百十九)

呉中に顧姓の人があり、田舎に往った。昼行して舎を去ること十余里、ただ西北に隠隠たるを聞き、首を挙げると、四五百人を見た。みな赤衣で長さ二丈、倏忽として至り、三重にこれを囲んだ。顧は気息奄奄として通ぜず、輾転として得ず、晡に至っても囲みは解けず、口に語ることもできず、心に北斗を呼んだ。また食頃して、鬼が相謂って曰く、「彼はまさに心を神に在らしめている、舍て去るべし。」豁として霧が除かれるが如くなった。顧は舎に帰り、疲れ極まって臥した。その夕べ、戸前の一処で火が甚だ盛んであるが燃えず、鬼が紛紜として相集い、あるいは往きあるいは来たり、顧を呼んで談じ、あるいは入ってその被を去り、あるいは頭に上って鴻毛の如く軽かった。開晨にして失せた。(『広記』三百十九)

劉道錫と従弟の康祖は少くして鬼の存在を信じなかった。従兄の興伯は少くして来鬼を見たが、議論では互いに屈することができなかった。かつて京口の長広橋の宅の東にて、殺鬼が東籬の上にいると云った。道錫は笑ってその処を問い、興伯を牽いて共に行き、大刀を捉えてこれを斫ろうとした。興伯は後ろから呼んだ。「鬼が汝を撃つぞ。」道錫は未だ鬼の処に及ばぬうちに、大杖の声の如きを聞き、道錫は倒れ、一夜を経てようやく醒めた。一月日にして全て差(い)えた。興伯はまた云った。「庁事の東頭の桑の樹上に鬼がいて形はなお幼く、長じれば必ず人を害する。」康祖は信じず、樹の何処かと問い、指す処は分明であった。十余日を経て、その月の晦の夕べ、道錫は暗中に逃れ、戟をもって鬼の住む処を刺し、すぐ還った。人には知る者がなかった。翌日、興伯が早く来て忽ち驚いて曰く、「この鬼は昨夜なぜ人に刺されたのか。ほとんど死んで全く動くことができず、死もまた遠くあるまい。」康は大いに笑った。(『広記』三百二十)

鄴県の故尉、趙吉は常に田の陌間にいた。昔、一人の跛の者が死に、陌の辺に埋められた。後二十余年にして、遠方の人が趙の門外を過ぎた。遠方の人が十余歩行くと、忽ち跛になった。趙が怪しんでその故を問うと、遠方の人は笑って曰く、「前に一人の跛の鬼がいて、故にこれを効って戯れたのだ。」(『広記』三百二十)

東莱の王明児は江西に居て、死して一年を経て、忽ち形を現して家に還った。日を経て、親しい者を招いて平生を叙すよう命じ、天曹が暫く帰ることを許したと云った。別離に言い及ぶと涕を流し、郷里を問訊して情を備えていた。児に命じて曰く、「吾が人間を去って已に一周、桑梓を睹たいと思う。」児と共に郷閭を観ようとした。鄧艾の廟を行き過ぎると、これを焼けと命じた。児は大いに驚いて曰く、「艾は生前に征東将軍であり、没して霊があり、百姓が祠を立てて福を祈っているのに、なぜ焚くのですか。」怒って曰く、「艾は今、尚方で鎧を磨いており、十指は垂れ掘り、豈にその神あらんや。」因って云った。「王大将軍もまた牛となって駆馳して殆ど斃れ、桓温は卒となって同じく地獄にいる。これらは皆、劇理尽きたるに因り、どうして人に損益をなし得ようか。汝が多福を求めんと欲するならば、まさに恭順にして忠孝を尽くし、恚怒なくすべし。さすれば善流は無極なり。」また指の爪甲を録すべしと命じ、死後に罪を贖うことができると。またさらに戸限を高く作れと、鬼が人の室に来て罪過を記すとき、限を越えて脚を拨ねると事を忘れるからであると。(『広記』三百二十)

広陵の劉青松は朝起きて、一人が公服を著け板を齎して云うのを見た。「鲁郡太守に召す。」言い終わると去った。去った後も復た見えなかった。翌日、復た至って曰く、「君はすぐに職に就くべし。」青松は必ず死ぬと知り、妻子に家事を処分し、沐浴した。晡に至ると車馬を見、吏が左右に侍した。青松は奄忽として絶えた。家人はみなその車に升るのを見、南に出て百余歩にして漸く高くなり没した。(『広記』三百二十一)

豫章太守の賈雍は神術を有し、界を出て賊を討ったが、賊に殺されて頭を失った。馬に上って営に回り、胸中より語って曰く、「戦いは利あらず、賊に傷つけられた。諸君よ、頭あるのが佳きか、頭なきが佳きか。」吏は涕泣して曰く、「頭あるが佳し。」雍は云った。「然らず、頭なきもまた佳し。」言い畢わって遂に死んだ。(『広記』三百二十一)

呂順は妻を喪い、妻の従妹を更に娶った。三つの墓を作ったが、構え累ねてほぼ成ろうとすると、輒ち成らなかった。一日、順が昼に臥していると、その妻が来て同じ衾に就くのを見た。体は氷の如く冷たく、順は死生の隔てを以て去れと語った。後に妻はまたその妹に見えて怒って曰く、「天下の男子は独り何の限りがあろうか。汝は我と一婿を共にするとは。冢が成らぬのは我がそうさせたのだ。」俄かにして夫婦は共に殪れた。(『広記』三百二十二)

衡陽太守の王矩が広州に赴任した。矩が長沙に至ると、一人の者が見えた。丈余の長さで白布の単衣を著け、奏を持って岸上におり、矩の奴子を呼んだ。「こちらへ渡せ。」矩が奏を見ると杜霊之で、船に入って共に語り、疎遠になった久しい日を叙した。矩は問うた。「君は京兆の人、何時に発って来たのか。」矩に答えた。「朝に発った。」矩が怪しんで問うと、杜は曰く、「天上の京兆です。身は鬼にして、使いに見えられて君を訪ねたのです。」矩は大いに懼れた。紙筆を求めて曰く、「君には必ず天上の書はわかるまい。」すなわち改めて書を作って折り巻き、矩に小箱を求めてこれを盛り、封じて矩に付して曰く、「君は今これを開けてはならぬ。広州に到るに及んで見るべし。」矩は到って数ヶ月、悄悒として、ついに開けて見ると、書に云った。「王矩を左司命主簿に召す。」矩の意は大いに悪しく、疾により卒した。(『広記』三百二十二)

馬仲叔と王志都は並びに遼東の人で、相知ること至って厚かった。叔が先に亡くなり、後年、忽ち形を現して曰く、「吾は不幸にして早逝し、心に常に相い念じていた。卿に妻がないことを念い、卿のために妻を得よう。十一月二十日に卿の家に送り届ける。ただ掃除して床席を設けて待て。」その日になると、都は密かに掃除し設備した。天は忽ち大風となり、白昼にして昏かった。暮に向かって風止み、寝室中に忽ち紅帳が自ら施された。中を見ると、床上に一人の婦人がいた。花のように媚やかで端厳、床上に臥し、かろうじて気息があった。親族内外は驚き怖れ、敢えて近づく者がなかった。ただ都だけが往くことができ、須臾にして蘇り、起き座った。都は問うた。「卿は誰か。」婦人曰く、「我は河南の人、父は清河太守です。まさに嫁がんとしていたのに、何の故か忽然としてここにおります。」都は具さにその意を語った。婦人曰く、「天が令じて我を君の妻としたのでしょう。」ついに夫婦となった。その家を訪ねると大いに喜び、天が結び合わせたものと思った。ついに与して一男を生み、後に南郡太守となった。(『広記』三百二十二)

会稽の賀思令は琴を善くした。かつて夜に月中に座し、風に臨んで撫奏していた。忽ち一人の者が現れた。形器甚だ偉にして、械を著け惨色があった。庭の中に至り称善し、共に語った。自ら云うに嵇中散であると。賀に曰く、「卿の手は極めて速いが、ただ古法に未だ合わず。」因って『広陵散』を授けた。賀はこれに因ってこれを得、今に至るまで絶えない。(『広記』三百二十四)

巨鹿に庞阿なる者があり、容儀美しかった。同郡の石氏に女があり、かつて内にて阿を窺い見て心に悦んだ。間もなく、阿はこの女が来て訪ねるのを見た。阿の妻は極めて妒み、これを聞いて婢に命じて縛り石家に送り返させた。中途にて化して煙気となり滅した。婢はまっすぐ石家に至ってこの事を述べた。石氏の父は大いに驚いて曰く、「我が娘はまったく門を出ない。豈にかくも毀謗できようか。」阿の妻はこれより常に注意して伺い察した。ある夜、まさに女が斎中にいるのに遇い、自ら拘えて石氏を訪ねた。石氏の父はこれを見て愕眙して曰く、「我は今しがた内から来て、娘が母と共に作っているのを見た。どうしてここにいようか。」すぐに婢僕に内から娘を呼び出させると、先に縛った者は奄然と滅した。父は異あるかと疑い、母を遣わして詰問した。女曰く、「昔、庞阿が庁中に来た時、密かにこれを見ました。それより仿佛として夢に阿を訪ね、戸に入ると妻に縛られました。」石は曰く、「天下にかくも奇なる事があろうとは。精情の感ずるところ、霊神がこれを冥に著す。滅せし者はその魂神であろう。」やがて女は嫁がぬと誓った。年を経て、阿の妻が忽ち邪病を得、医薬の験なく、阿はすなわち幣を石氏の女に授けて妻とした。(『広記』三百五十八)

会稽国の司理令、朱宗之は、常に亡人の殯を見て、頭を去ること三尺許に一つの青い物があった。覆した甕の如き状で、人がその処に当たると滅し、人が去ると随って復た見えた。およそ屍の頭にこの青い物のないものはなかった。また云う、入殯の時、鬼は暫く還って臨まないことはないと。(『広記』三百六十)

新野の庾謹の母が病んだ。兄弟三人はことごとく侍疾していた。忽ち床前で犬が闘う声を聞いた。声は尋常でなかった。一家挙げて共に視たが、犬は全く見えず、ただ一つの死人の頭が地にあるのを見た。なお血があり、両眼がなお動いていた。その家は怖懼し、夜にこれを持ち出して後園に埋めた。翌朝見ると、土の上に出ていて両眼はなお同じであった。即ちまた埋めたが、翌朝には復た出ていた。そこで磚を頭に置いて埋めると、復た出なくなった。数日後、その母はついに亡くなった。(『広記』三百六十)

東陽の丁が郭を出て方山亭に宿った。亭の渚に劉散騎がおり、母の喪に遭って京師に葬り還るところであった。夜中に忽ち婦人が自ら通じて云った。「劉郎が瘡を患っていると聞き、参軍は治せるとのこと、故に来ました。」前に使わすと、姿形端媚にして従婢数人。肴馔を具えさせ、酒酣にして嘆いて曰く、「今夕の会は、人をして貞白の操を無くさしむ。」丁は云った。「女郎の盛徳、豈に老夫を顧みるのですか。」すぐに婢に琵琶を取らせて弾き、歌った。「久しく重んずる名を聞き、今、方山亭に遇う。肌体は朽老と雖も、故にこれ人情を悦ばす。」琵琶を放し膝に上り頭を抱いてまた歌った。「女形は薄賤なりと雖も、願わくは喜んで婿と作らん。纏綿として良き觌を観じ、千載、同契を結ばん。」声気は婉媚にして、人を絶倒せしめた。火を滅ぼして共に好情を展べた。暁に比して忽ち見えなくなった。吏は云った。「この亭には旧くより妖魅があります。」(『広記』三百六十)

京兆の董奇の庭前に大樹があり、蔭映甚だ佳であった。後に霖雨の際、奇が独り家郷に在ると、小吏が言って云った。「承雲府君来たる。」承雲を見ると、通天冠を著け長さ八尺で、自ら方伯と称した。「某の第三子は隽才あり、まさに君と周旋すべし。」翌日、樹下に異あるを覚え、毎晡後に人がいないのに、輒ち少年があって奇のところに来て語り戯れ、あるいは飲食を取ってくるよう命じた。かくの如きこと半年、奇の気は強壮となり一門に疾なし。奇が後に墅に赴いた際、その僕客三人が護送して言った。「樹の材は用いるべし、これを売りたいが郎は常に聴き入れない。今、試みに共に斬斫せん。」奇はこれを許した。神もまたそれより絶えた。(『広記』四百十五)

清河郡太守は至る毎に前後して輒ち死んだ。新太守が厠に至ると、一人の者が見えた。長さ三尺、冠幘に皂服で云った。「府君は某日に死ぬ。」太守は応えず、意は甚だ不快で、吏に急かして主人の設けをさせた。外ではやや怪しんだ。その日の日中、厠に至ると、復た前に見た者を見た。言った。「府君は今日の日中に死ぬべし。」三度言っても応えなかった。すなわち言った。「府君は道を当にしながら道を行わず、鼠の死に為す。」すなわち地に頓仆した。豚の如く大きかった。郡内は遂に安らかになった。(『広記』四百四十)

上虞の魏虔祖の婢は名を皮納といい、色があった。徐密がこれを楽しんでいた。鼠がその形に託し密の宿に就いた。密は心にこれを疑い、手をもってその四体を摩ると、たちまち縮小し、化して鼠となって走った。(『広記』四百四十)

晋陵の民、蔡興は忽ち狂疾を得、歌吟が常でなくなった。常に空中にて数人と言笑し、あるいは云った。「また誰の女を取るべきか。」また一人が云った。「家は已に多い。」後に夜、忽ち十余人が物を持って里人の劉余之の家に入るのを聞いた。余之は刀を抜いて後戸を出て、一人の黒色の者を見た。大いに罵って曰く、「我は湖長にして汝を訪ねに来たのに、我を殺そうとするのか。」即ち呼んだ。「群伴よ、余を助けぬか。」余之は刀を奮って乱斬し、大きな鼍と狸を得た。(『広記』四百六十九)

江淮に婦人があり、性が多欲で日夜存想して止まなかった。かつて酔い、旦に起きて屋の後ろに二人の少童を見た。甚だ鮮潔で、宮の小吏の如き者であった。婦人がこれを抱持しようとすると、忽ち箒となった。取ってこれを焚いた。(『広記』三百六十八)

東魏の徐忘名は本郡に還って作り、卒し、墓は東安の霊山にあった。墓は先に人に発かれ、棺柩は已に毀れていた。謝玄が彭城に在りしとき、斉郡の司馬隆、弟の進、及び安東の王箱らが共に壊れた棺を取り、分けて車を作った。少時にして三人はことごとく患を見、更に相い注連して凶禍が已まなかった。箱の母が霊語して子孫に云った。「箱は昔、司馬隆兄弟と共に徐府君の墓中の棺を取って車と為した。隆らの死亡喪破はみなこれに由る。」(『広記』三百二十)

秦の高平の李羡の家奴、健が石頭岡に至ると、忽ち一人を見た。「妻が人と通情し、ついに殺された。仇を報いたい。力を貸してくれないか。」奴はその言を用い、果たして人が来るのを見た。鬼がたちまち頭を捉え、奴が手を換えると、即時に地に倒れた。帰途半ばにして死んだ。鬼は千銭と一匹の青い絞紋の綾袍を奴に与え、言い付けた。「この袍は市の西門の丁与許のものだ。君は自ら著るべし、売ってはならぬ。」(『珠林』六十七)

宋の初め(二字は『広記』引に有り)、義興の周超は謝晦の司馬となり、江陵にいた。妻の許氏は家にいて、遥かに屋内に月光(『広記』引では「光有り」に作る)を見た。一つの死人の頭が地にあり、血が甚だ多く流れ、大いに(三字は『広記』引に有り)驚き怪しんだが、たちまち失せた。後に超は法に処された。(『御覧』八百八十五。『広記』一百三十七)

宋の永初三年、呉郡の張縫(『広記』引では隆に作る)の家に忽ち鬼が現れ、云った。「汝が我に食を分ければ、当に助けるべし。」すなわち鬼に食を与えた。席を地に敷いて飯を席上に布き、肉酒五肴をした。かくの如く鬼が得ると、復た人を犯暴しなくなった。後に食を作る際、刀をもってその食する処を斫った。たちまち数十人の哭く声を聞いた。哭くこともまた甚だ悲しく、云った。「死んでどうして棺材を得ようか。」また云うのを聞いた。「主人の家に梓船がある。奴は甚だ愛惜する。当にこれを取って棺と為すべし。」船を担いで来るのが見え、斧鋸の声があり、船を治め終わると(『広記』引では「日既に暝し」に作る)、呼び喚き、屍を挙げて棺中に著けた。縫は目には見えず、ただ処分を聞くのみで、釘を下す声は聞こえなかった。船が漸々と空に升り、雲霄の中に入るのが見え、久しくして滅し、空中から落ちて船は百片に砕けた(『広記』引にはこの二句なし)。たちまち百数人が大いに笑うが如く聞こえた。「汝がどうして我を殺せようか。我が汝に困じられることがあろうか。ただ悪心を知り、我は汝の状を憎む。故に船を破壊した(『広記』引では「汝の船を隠没す」に作る)のだ。」(『珠林』六十七)縫(本は隆に作る、上文を承けて改む、以下同じ)はすなわち意を回してこの鬼を奉事し、吉凶及び将来の計を問うた。鬼は縫に語った。「汝は大瓮を壁角の中に著けよ。我が当に物を觅めるべし。」十日に一度倒すと、銭及び金銀銅鉄魚腥の類があった。(『広記』三百二十三)

宋の高祖の永初中、張春が武昌太守であった時、人が娘を嫁がせようとし、未だ車に升るに及ばずして忽ち性を失い、外に出て人の乗り物を殴撃した。「已に俗人に嫁ぐのを楽しまず」と云った。巫(『珠林』引では「嫁ぐを楽しまず、女は家事を俗に事す、巫」に作る)は邪魅であると云い、女を江(以上また『珠林』三十一に見ゆ、「至」の字は据りて補う)の際に将いて行き、鼓を撃って術を以て祝い治療した。春は百姓を欺惑するものと思い、期を刻して妖魅を得ねばならぬとした。後に一匹の青蛇が来て巫の所に至った。即ち大釘をもって頭を釘した。日中に至ると、復た大亀が江から来て前に伏し、更に赤朱をもって背に符を書き、更に遣わして江に入れた。暮に至ると、大きな白鼍が江中より出て、あるいは沈みあるいは浮かんだ。先の亀が後から催促し逼った。鼍は自ら死を分かち、冒して来て、先に幔に入って女と辞訣した。女は慟哭して姻好を失うと云った。これより漸く差えた。あるいは巫に問うた。「魅は何物に帰したのか。」巫は云った。「蛇は伝通、亀は媒人、鼍はその対である。獲た三物はことごとく魅なり。」春は始めて霊験を知った。(『御覧』九百三十二)

宋の初め(二字は『広記』引に有り)、淮南郡に物あり人の髪を剃る(『広記』引では「人の頭の髻を取る」に作る)。太守の朱誕は曰く、「吾はこれを知る。」多く黐(音は離)を置いて壁に塗った。夕べに数匹の(『広記』引では「一」に作る)蝙蝠あり、鶏の如き大きさで、その上に集まり去ることができなかった。これを殺すと乃ち絶えた。屋の簷下に(『広記』引では「これを観るに簾下に」に作る)已に数百人の頭の髻があった。(『御覧』九百四十六。『広記』四百七十三)

貴人が亡くなった後、永興令の王奉先が夢にこれと平生の如く相対した。奉先は問うた。「まだ情色はあるのですか。」答えて云った。「某の日にその家に至って婢に問え。」覚めた後、その婢に問うと、云った。「この日に魘され、夢に郎君が来たのを見ました。」(『広記』二百七十六)

徐羡之が王雄の少傅主簿であった時、夢に父が作って曰く、「汝は今より以後、朱雀桁を渡るな。当に貴くなるべし。」羡之は後に桁を半ばまで行き、先人の夢を憶い、馬を回した。これをもって主簿を除かれ、後に果たして宰相となった。(『広記』二百七十六)

呉郡の張茂度が益州に在りし時、忽ち人があって朝廷が徐羡之・傅亮・謝晦の三人を誅したと道った。ついに紛紜と伝わった。張は推問して道った。「言を造る主は、何に由ってこれを言うのか。」答えて曰く、「実に承けたところなく、恍惚としてこれを言うことを知らなかった。」張はこれを鞭ち、伝える者はついに息んだが、後にこれは験った。(『占経』一百十三)

景平元年、曲阿に一人の者が病死し、天上で父に見えた。父は曰く、「汝の算録はまさに八年余り。もしこの恨みが竟われば、死んで罪謫の中に入る。吾は比に汝を安処させようとしたが、局に欠員なし。ただ雷公の欠員があるのみで、当にこれを啓して其の職を補うべし。」即ち奏案内に入って、ついにこの任を充てることを得た。遼東に至り行雨せしめ、露車と牛に乗り、水を東西に灌洒した。未だ中路に至らずして復た符が至り遼西に行かされた。事畢わって還り、父に見えて苦しく還らんことを求め、「職に処るを楽しまず」と云った。父はこれを遣わし、遂に蘇活することを得た。(『広記』三百七十三)

第97節

元嘉の初め、散騎常侍の劉の家は丹陽郡にあった。後にかつて閑居していたところ、天が大いに驟雨となった。門前に三人の小児を見た。みな六七歳ばかりで、相い牽いて狡猾に遊んでいたが、並びに濡れることがなかった。人ではないかと疑った。俄かに共に一つの瓠壶子を争うのを見た。弾弓を引いてこれを弾くと、正に壺に中たり、霍然として見えなくなった。壺を得て、閣の辺に掛けた。翌日、一人の婦人が門に入り、壺を執って泣いた。これを問うと、答えて曰く、「これは小児の物で、何故ここにあるのかわかりません。」具さにその所以を語ると、婦人は壺を持って児の墓前に埋めた。一日を隔てて、また先の小児が門の側に来て持っているのを見た。これを挙げて笑って語った。「坊やはまた壺を得たよ。」言い終わると隠れた。(『広記』三百二十四。『御覧』三百五十)

元嘉九年、征北参軍の明之に一人の従者があり、夜眠って大いに魘された。之は自ら往きてこれを呼んだが、しばらく応えることができず、またその頭の髻を失っていた。三日にしてようやく寤め、語って云った。「三人に足を捉えられ、一人が髻にした。忽ち夢に一人の道人を見た。丸薬を与えてくれた。桐子の如きで、水にて服すよう命じた。」寤めたとき手の中に薬があり、これを服すと遂に瘥えた。(『広記』二百七十六)

元嘉九年、南陽の楽遐はかつて内に座していたところ、忽ち空中にその夫婦の名を呼ぶ者を聞いた。甚だ急で、半夜にして止んだ。殊に驚き懼れた。数日後、婦が屋の後ろから還ったとき、忽ち全身の衣服がことごとく血であった。一月を経ずして夫婦は相い継いで病み卒した。(『御覧』八百八十五。『広記』三百六十)

元嘉中、交州刺史の太原の王徴が始めて拝命し、車に乗って出行した。その前方に鉦鉦と音がするのを聞き、一台の車が路に当たるのを見たが、余人には見えなかった。州に至って遂に亡くなった。(『広記』三百六十)

元嘉中、益州刺史の吉翰が南徐州に遷った。先に蜀中より一頭の青牛を載せて下り、常に自ら乗っていて、恒にその目前で養い視ていた。翰が疾に遘って多日を経ると、牛もまた食おうとしなくなった。亡くなると、牛は涕を滂沱と流した。吉氏の喪が未だ都に還らぬうちに、先に牛を宅に向けて駆らせたが、牛は行こうとしなかった。その異を知り、即ち喪を待った。喪が船に下ると便ち随って去った。(『御覧』九百)

吉未翰の従弟、名は礐石、先に檀道済の参軍となった。かつて病み、人が朱衣を著けて前に来て揖して云うのを見た。「特に来て迎える。」礐石は厚く施設して免れることを求めた。鬼曰く、「君の延接に感じ、当にしばらく停むべし。」すなわち復た見えなくなった。礐石は漸く差えた。後に丁艰して寿陽に還ると、復た鬼を見た。曰く、「迎えの使いがまもなく至る。君はすぐに装いを束ねよ。」礐石曰く、「君は前に已に留めて下さった。今また愍れんで頂けるか。」鬼曰く、「前に召したのは使役しようとしたので停めたのだ。今、泰山が君を主簿に迎えようとし、また使いが随って至った。辞することはできぬ。」たちまち車馬の伝教が見え、油戟が前に羅列した。家人に指し示したが、人には見えなかった。礐石は書を介して親友を呼び告別し、語笑の中に、たちまち奄然として尽きた。(『広記』三百二十三)

趙泰、字は文和、清河の貝邱の人にして、公府に辟かれたが就かず、典籍に精進して(また『弁正論』八注引に見ゆ。邱は丘に作り、進は思に作る)、郷党に名を称された。年三十五にして、宋の太始五年七月十三日の夜半、忽ち心痛にて死んだ(宋の『論注』では晋に作る、誤り。また「十」の字なく「七月三日」に作る。また「忽」を「卒」に作り、「微」を「故」に作る)。心上は微かに暖かく、身体は屈伸した。屍を停めること十日にして、気が咽喉より雷鳴の如く出て、目を開けて水を求め、飲み終わって起き上がった(『論注』では「飲食を索めて起く」に作る)。語って云った。「初め死んだ時、二人が黄馬に乗り、従兵二人がいた。ただ捉えて将き去れと言い、二人が両腋を扶えて東に行った。幾里かわからず、大きな城を見た。錫鉄の如くにして(『論注』では鉄の下に「端正」の二字あり)崔嵬たり。城の西門より入ると、官府の舎を見た。二重の黒門があり、数十梁の瓦屋で、男女は五六十人ばかり。主吏は皂の単衫を著けていた(五六十の下、『論注』では「五六十人住立す。吏は皂単衣を著け五六人を将いて姓字を疏記す。男女は別あり。言うに:動くなかれ、当に科に入って府君に呈すべし。泰の名は云々」に作る)。泰の名は第三十にあった。須臾にして将き入れられ、府君は西に座して姓名を断勘した(『論注』では断勘の句を「科出案名」に作る)。復た南に将いて黒門に入った。一人の絳衣の者が大屋の下に座し、次いで名を呼んで前に出させ、生前の所行の事を問うた。何の罪があり何の功徳を行い何の善行を為したかと。語る者はそれぞれ異なった。主者は言った。「汝らの辞を許す。恒に六師の督(『論注』では師を部に作り、督を都に作る)録使者を遣わし、常に人間にあって人の為す善悪を疏記して以て相い検校す。人の死に三悪道あり、殺生祷祠が最も重し。仏に奉じ五戒十善を持ち、慈心布施すれば、福舎に生じて安穏(『論注』では祠を祀に作り、仏の下に法の字あり、生を死に作り、穏を隠に作る)にして無為なり。」泰は答えた。「一として為したところなく、上には(『論注』では「所為」を「所事」に作り、「上」を「亦」に作る)悪を犯さず。」断問がすべて竟わると、水官の監作吏とし、千余人を将いて沙を拾い岸に著けさせた。昼夜勤苦して啼泣し悔いて言った。「生前に善を作さず、今ここに堕ちた。」後に水官都督に転じ、諸獄の事を総知し、馬を給された。東に至って地獄を按行し、また泥犁地獄に至った。男子六千人がいて火樹があった(『論注』ではこの処の下に「当帰索代」の四字あり、馬の下に「兵」の字あり、男子を男女に作り、火を大に作る、以下同じ)。縦(『論注』では横に作る)広五十余歩、高さ千丈、四辺にみな剣があり、樹上で火を然やしていた(『論注』では剣の下に「上人著」の三字あり、火はなお「大」に作る)。その下に十十五五にして火剣の上に堕ち、その身体を貫いた。云った。「この者たちは呪咀し罵詈し、人の財物を奪い、良善を偽り傷つけた者だ。」泰は父母と一人の弟(『論注』では「假」を「毀」に作り、「泰見」の二字を到に作り、「一弟」を「二弟」に作る)がこの獄中にいて涕泣しているのを見た。二人が文書を齎して来て、獄吏に敕した。言った。「三人があり、その(『論注』では「其」の字なし)家は仏に事え、(『論注』では「為有」の二字を「為其于」の三字に作る)寺中に幡蓋を懸け香を焼き、『法華経』を転じて(『論注』では幡の下に「蓋」の字なく、また「転《法華経》」の四字なし)、生前の罪過を救解し咒願して福舎に出す。」己に自然の衣服を見て、一つの門を訪ねた。云う(『論注』では云の下に「名」の字あり)「開光大舎」と。三重の(『論注』では重に「黒」の字あり)門があり、みな白壁赤柱であった。この三人は即ち門に入った。大殿を見た。珍宝は日に耀き、堂前に二つの師子と並びに伏象があった(『論注』では象を「顧負」の二字に作り、また日を目に作る)。一つの金玉の床があり、「師子之座」と名付けられていた。一人の大きな(『論注』では「大」の字なし)人を見た。身の丈は丈余ばかり(余を六に作る)で、姿顔は金色、項には日の(日を白に作る)光があり、この床(床を座に作る)の上に座していた。沙門が立侍すること甚だ多く、四座は真人菩薩と名付けられた。泰山の府君が来て礼を作すのを見た。泰は吏に問うた。「何人か。」吏曰く、「これは仏と名付けられ、天上天下、人を度する師なり。」すなわち仏の言を聞いた。「今この(『論注』では「名」の字を「四坐並」の三字に作り、「薩」の下に「又」の字あり、「吏」の下に「人是」の二字あり、「言」を「云」に作り、「欲」の下に「慈」の字あり)悪道中及び諸地獄(『論注』では「獄」の下に「中」の字あり)の人を度さんと欲する。」みな出て応ずよう命じた。時に云う(『論注』では下に「百」の字あり)万九千人があり、一時に地獄を出ることを得た。即時に(『論注』では即時起に「即空徙苦百里城中、其在此中云:皆奉佛法弟子、当過福舍七日、随行所作功德有少有無者」の句あり。「又見呼云々」と続く)十人を呼び、天に上生すべしと。車馬の(『論注』では車馬の下に「侍従」の二字あり)迎えがあり、虚空に升って去った。復た一つの城を見た。云う(『論注』では「去」の下に「出」の字あり、「云」の字なし)縦広二百里にして「受変(『論注』では変の上に「吏」の字あり、当に衍なるべし)形城」と名付けた。云う、生まれてこのかた(『論注』では「時未」に作る)道法を聞かず、しかし地獄の考治が已に畢わった者は、当にこの城にて更に(『論注』では二字を到に作る)変報を受くべしと。北(『論注』では「此」に作る)門に入ると、(『論注』では見の下に「当有」の二字あり)数千百の土(『論注』では「上」に作る)屋が(『論注』では屋の下に「有坊巷」の三字あり、百を万に作る)あった。中央に瓦屋があり、広さ五十(『論注』では主管の上に「当」の字あり、十を千に作る)余歩で、下に五百余の吏があり、対して人名を録し善悪の事状を作り、この変身の形の路を受けた(『論注』では事を「者行」の二字に作り、是を所に作り、路の下に「各」の字あり)。その趨くところに従って(『論注』では趨を趣に作り、下に「而」の字あり)去った。殺す者は(殺の下に「生」の字あり)蜉蝣の虫となり、朝に生まれ夕に死ぬべし。もし(若の下に「出」の字あり)人と為らば、常に(常の下に「当」の字あり)短命であろう。偷盗する者は猪羊の身と作り、屠肉して人に償う。淫逸(逸を佚に作る)する者は鵠鹜蛇の身と作る。悪(悪を「両」に作る)舌の者は鴟鸮鸺鶹と作り(鴟の下の四字を「鸺」に作る)、悪声を人に聞かしめ、みな呪って死なしめんとする。債に抵する者は驢(驢の下に「騾」の字あり)馬牛魚鼈の属と為す。大屋の下に地の房(房を「户」に作る)あり、北向。一戸は南向。北戸より呼んでまた南戸より出る者は、みな身形を変じて鳥獣と作る。また一つの城を見た。縦広百里にして、その(『論注』ではその下に「中」の字あり)瓦屋に安居快楽す。云う、生前に悪を作さず(『論注』では「生時不作悪行、不見大道、亦不受罪、名為鬼城千歳云々」に作る)、また善を為さず、当に鬼趣にあって千歳し、出て人と為るべしと。また一つの城を見た。広さに(『論注』では「有」の字なし)五千余歩あり、地中の罰謫を受ける者と名付けた。苦痛に堪えず(『論注』では苦痛の下に「還家索、代家為解謫、皆在此城中」の三句あり)、男女五六万、みな裸形にして衣服なく、飢困して相扶け、泰を見て叩頭啼哭した(『論注』では啼哭の下に「泰問吏:天道地獄道門相去幾里?曰:天道地獄道門相対。」の四句あり)。泰は按行畢わって(畢を匝に作る)還り、主者は問うた。「地獄は法の如くか否か(否を不に作る)。卿は罪なく、故に相凂して(凂を使に作る)水官都督と為した。さもなくば獄中の人と異なることなし。」泰は問うた。「人が生きて(生を死に作る)何をもって(以を何に作る)楽と為すか。」主者は言った。「ただ仏に奉ずる弟子にして精進し、禁戒を犯さざるを楽と為すのみ。」また問うた。「未だ仏に奉ぜざる時の罪過は山積するが、今仏(『論注』では今奉の下に「仏」の字なし)法に奉ずれば、その過ちは除かれるか否か。」(否を不に作る)曰く、「みな除かれる。」主者はまた都録使者を召して問うた。「趙泰(泰を「文和」の二字に作る)は何故に死んだのか。」来使は縢を開いて年紀の籍を検し、云った。「(『論注』では「云」の字なく、「有」の下に「余」の字あり)算三十年あり、横に悪鬼に取られた。今、家に遣り還すべし。」これにより大小みな意を発して仏に奉じ、祖(『論注』では祖の下に「父母」の二字あり)及び(『論注』では及の下に「二」の字あり)弟のために幡蓋を懸け、『法華経』を誦して福を作した。(『広記』一百九。『論注』の末は「幡蓋を懸け福会を作す也」に作る)

蔡廓が豫章郡の守であったとき、水が発した。大児が始めて婦を迎えて渚の次にいた。児は婦の船に渡ろうとして衣が船頭に掛かり、遂に水に堕ちてたちまち没した。徐羡之が揚州にあって、即ち両岸に敕し、漁人と崑崙に厚く賞して共に尋ね觅めたが、二更に至っても得られなかった。婦が哀泣する間、仿佛として夢の如く、聟が告げるのを聞いた。「吾は今、卿の船下にいる。」婢に告げると、婢はこれを白した。水工に命じて没して觅めさせると、果たして船下に座しているのを見た。初め水を出たとき、顔色は平生の如くであった。(『御覧』三百九十六)

宋の永興県の吏、鍾道は重病で初め差えたとき、情欲が平常の倍であった。先に白鶴墟中の女子を楽しみ、この時なお想い存していた。忽ちこの女子を見た。衣を振るって来て即ち燕好した。この後数度至った。道は曰く、「甚だ鶏舌香を欲する。」女曰く、「何の難きことがあろう。」すなわち香を掏って満手にして道に授けた。道は女を誘って共に含み咀もうとした。女曰く、「我が気はもとより芳しく、これを仮る必要はない。」女子が戸を出ると、犬が忽ちこれを見て随い、咋み殺した。すなわち老いた獺であり、口中の香は即ち獺の糞であった。頓に臭穢を覚えた。(『広記』四百六十九)

近世にある人があり、一人の小さな使いを得た。頻りに家に還ることを求めたが果たさなかった。後に日を経て、この吏が南窓の下で眠っていた。この人は門中に一人の婦人を見た。年五六十、肥大にして歩行が困難であった。吏が眠って被いを失っていると、婦人は床辺に至って被いを取ってこれを覆い、回って復た門を出て去った。吏が寝返りを打って衣が落ちると、婦人は復た初めの如くした。この人は心に怪しみ、翌日、吏に何事で帰りを求めるのかと問うた。吏は云った。「母が病です。」次いで容貌と年を問うと、みな見た通りで、ただ「形が痩せている」と云ったのだけが異なっていた。また問うた。「母は何を患っているのか。」答えて云った。「腫れを病んでいます。」すなわち吏に暇を与えた。出ると家の便りが得られ、母が亡くなったと云った。追って計ると、見た太った様子はその腫れた姿であったのだ。(『広記』三百二十三)

焦湖の廟祝に柏の枕があり、三十余年を経ていた。枕の後ろに一つの小さな坼孔があった。県民の湯林が行商で廟を経て福を祈った。祝は曰く、「君は婚姻は未だか。枕の坼の辺に就くべし。」林を坼の内に入れると、朱門が見え、瓊宮瑶台は世に勝っていた。趙太尉に見え、林のために婚姻を結び、子を六人育てた。四男二女で、林を秘書郎に選び、俄かに黄門郎に遷った。林は枕中にあって永く帰りを思う懐なく、遂に違忤の事に遭った。祝は林を外間に出させた。遂に先の枕を見た。枕内で年載を歴したと思ったが、実は俄忽の間であった。(『書鈔』一百三十四。案ずるに『広記』二百七十六引『幽明録』又『寰宇記』一百二十六引『捜神記』『幽明録』に云う。宋の世に焦湖の廟に一つの柏枕があった、あるいは玉枕と云う。枕に小さな坼があった。時に単父県の人、楊林が賈客として廟に至り祈求した。廟の巫は曰く、「君は好婚を欲するか。」林曰く、「幸甚。」巫は即ち林を枕辺に近づけた。因って坼中に入ると、遂に朱楼瓊室を見た。趙太尉がその中にいて、即ち女を林に嫁がせた。六子を生み、みな秘書郎となった。数十年を歴して並びに帰りを思う志がなかった。忽ち夢覚の如く、なお枕の傍にいた。林は愴然として久しくした。みな『書鈔』の文と異なる。玉枕と云うのは『捜神記』の説なり。)

宋の時、余杭県の南に上湘湖があり、中央に塘を作っていた。一人の者が馬に乗って芝居を見に行き、三四人を連れて岑村で酒を飲んだ。少し酔い、暮に還った。時に炎熱で、馬を下りて水中に入り、石を枕にして眠った。馬は綱を断って走り帰り、従者はことごとく馬を追い、暮に至っても返らなかった。目覚めると日は已に晡に向かい、人馬が見えなかった。一人の婦人が来た。年は十六七ばかりで、云った。「女郎が再拝します。日は已に暮に向かい、この間は大いに畏るべきところです。君はどうなさいますか。」問うた。「女郎の姓は何か。なぜ忽ち教えに来たのか。」また一人の年少が来た。年は十三四ばかりで甚だ了了として新車に乗り、車の後に二十人を従えて至り、車に上るよう呼んだ。「大人がしばらくお会いしたいとのこと。」因って車を回して去った。道中には駱驛として火を把り、やがて城郭邑居を見た。着くと城に入り、庁事に進むと信幡があり「河泊」と題してあった。俄かに一人の者を見た。年三十ばかりで顔容は画の如く、侍衛は繁多であった。相い対して欣然とした。酒炙を行うよう命じ、云った。「僕に小女があり、(『広記』引では「乃」を「頗」に作る)聡明にして、もって君に箕帚を給せんと欲す。」この人は神と知り、敬畏して敢えて拒逆しなかった。すなわち備弁を命じ、郎中に就いて婚姻させた。白を承けて已に弁え、糸布単衣及び紗夾絹裙紗衫裈履屐を送り、みな精好であった。また十人の小吏と数十人の青衣を給した。婦は年十八九ばかりで、姿容は婉媚にして、すなわち成った。三日後に大いに客を会し、閣に拝した。四日に云った。「礼は既に限りあり、当に発遣すべし。」婦は金甌と麝香嚢を婿に与えて別れ、涕泣して分かれた。また銭十万と薬方三巻を与え、云った。「もって功を施し徳を布くべし。」復た云った。「十年にして当に相い迎えるべし。」この人は家に帰り、遂に別に婚姻することを肯んぜず、親を辞して出家し道人となった。得た三巻の方は一巻が脈経、一巻が湯方、一巻が丸方で、周く行いて救療し、みな神験を致した。後に母が老い衰え、兄が喪われて、因って還って婚宦した。(『珠林』七十五。『広記』二百九十四)

宋に一国があり、羅刹と相い近かった。羅刹が数しば境に入って人を食うこと度なかった。王は羅刹と約言した。「今より以後、国中の家はそれぞれ一日を専らにし、当にそれぞれ送り往き、復た枉殺するなかれ。」仏に奉ずる家があり、ただ一子のみで年わずかに十歳であったが、次に当に行くべき順番となった(『広記』引ではこの下に「舎別の際」に云うとの句あり)。父母は哀号し、至心に仏を念ぜしめ、爰に宗親に及びて子のために想を属せしめた。すなわちこの鬼に送り、辞別してこれを舎てた(以上四句は『広記』引にはなし)。仏の威神力をもって大鬼は近づくことができず、翌日、子がなお在るのを見て、双び喜んで共に帰った。これより遂に絶えた。国人は嘉慶して慕った。(『珠林』五十。『広記』一百十二)

安侯世高は安息国の王子で、大長者と共に出家し、舎衛城に学道した。王の不称に値い、大長者の子が輒ち恚るので、世高は恒にこれを呵戒した。周旋すること二十八年、云うには広州に至るべしと。乱に値い、一人の者が高に逢い、手に唾して刀を抜いて曰く、「真に汝を得たり。」高は大いに笑って曰く、「我は宿命に負い対す。故に遠来して相い償う。」遂にこれを殺した。一人の少年が云った。「これは遠国の異人にして能く吾が国の言を作す。害を受けても難色なし。これは神人であろうか。」衆はみな骇笑した。世高の神識は還って安息国に生まれ、復た王の子と作り、名を高安侯とした。年二十にして復た王を辞して学道し、十数年にして同学に語った。「当に会稽に至りて対を畢うべし。」廬山を過ぎて知識を訪ね、遂に広州を過ぎて年少がなお在るのを見た。径にその家に投じ、昔の事を説いた。大いに欣喜し、すなわち随って会稽に至った。嵇山の廟を過ぎ、廟神を呼んで共に語った。廟神は蟒の形で身の長さ数丈、涙が出た。世高がこれに向かって語ると、蟒はすなわち去り、世高もまた船に還った。一人の少年が船に上り、長く跪いて前で咒願を受け、因って遂に見えなくなった。広州の客は曰く、「先の少年は即ち廟神にして、悪形を離れることを得た。」云うには廟神は即ち宿の長者の子であると。後に廟祝が臭気を聞き、大蟒が死んでいるのを見た。廟はこれより神が歇んだ。前に会稽に至り、市門に入ると、たまたま相い打つ者があり、誤って世高の頭に中たり、即ち卒した。広州の客は遂に仏に事えて精進した。(『広記』二百九十四)

第98節

新しく死んだ鬼があり、形は疲れ痩せ顿れていた。忽ち生前の友人に見えた。死して二十年を経て肥え健やかであった。相い問訊して曰く、「卿はなぜそうなのか。」曰く、「吾は飢餓にて殆ど自任できぬ。卿は諸方便を知ろう、まさに法をもって教えてくれ。」友鬼は云った。「これは甚だ易い。ただ人に怪を作せば、人は必ず大いに怖れ、当に卿に食を与えん。」新鬼は大墟の東頭に入った。一軒の家があり仏に奉じて精進していた。屋の西廂に磨があり、鬼はこの磨を捱いた。人が推す法の如くであった。この家の主は子弟に語った。「仏は我が家の貧しきを憐れみ、鬼に磨を推させた。」すなわち麦を輦んで与えた。夕べに至って数斛を磨き、疲顿して去った。遂に友鬼を罵った。「卿はなぜ我を騙したのか。」また曰く、「ただ復た去れ、自ら得るであろう。」復た墟の西頭に入って一軒の家に至った。家は道に奉じ、門の傍に碓があった。この鬼はすなわち碓に上り、人が舂く状の如くした。この人は言った。「昨日、鬼が某甲を助け、今、復た来て吾を助ける。穀を輦んで与えよ。」また婢に簸篩させた。夕べに至って力は甚だ疲れたが、鬼には食を与えなかった。鬼は暮に帰って大いに怒って曰く、「吾は自ら卿と婚姻を為す。他と比ぶべきではない。いかにして欺かれたのか。二日人を助けて、一瓯の飲食も得られなかった。」友鬼は曰く、「卿は自ら遇が悪いのだ。この二家は仏に奉じ道に事え、情は自ら動かし難い。今、去って百姓の家で怪を作るべし。得られぬことはない。」鬼は復た去って一軒の家を得た。門首に竹竿があり、門から入ると一群の女子が窓前で共に食しているのを見た。庭中に一匹の白犬がいた。すなわちこれを抱いて空中を行かせた。その家はこれを見て大いに驚き、言った。「来してこのかた未だかつてこの怪あらず。」占って云った。「客が食を索める。犬を殺し甘果酒飯と共に庭中にて祀るべし。他事なきを得る。」その家は師の言の如くした。鬼は果たして大いに食を得た。この後、恒に怪を作した。友鬼の教えである。(『広記』三百二十一)

東昌県の山に物があった。形は人の如く、長さ四五尺、裸身にして髪を被り、髪の長さ五六寸。常に高山の岩石の間に住み、喑啞として声を作すが語を成さず、嘯いて相い呼ぶことができた。常に幽昧の間に隠れて恒には見えなかった。人が伐木して山中に宿し、夜に眠った後、この物が子を抱いて涧中から石を発して蝦蟹を取り、人の火辺に就いて焼き炙って児に食わせた。時に未だ眠らぬ者があり、密かに相い覚まして語り、一斉に起きて共に突撃すると、すなわち走ったがその子を遺した。声は人の啼くが如し。この物は男女群をなして共に石を引いて人を撃ち、輒ち得てから後に止んだ。(『御覧』八百八十三)

会稽の施子然は曰く、一人の者が身に練の単衣帢を著け、直にその席に造り、手を捧げて子然に語り、子然がその姓名を問うと、即ち答えて曰く、「僕の姓は盧、名は鉤。家は壇渓の辺に在り、水に臨む。」復た半旬の中を経て、その人が田の塍の西溝辺を掘ったところ、忽ち大きな坎を見た。中に蝼蛄が満ちて斗許に将に近く、数匹は極めて壮で、一つがことに大きかった。子然はこれに至って始めて悟って曰く、「近日の客は『盧鉤』と称した。反音すれば即ち『蝼蛄』であり、家が壇渓にあるとは即ち西の坎なり。」ことごとく沸湯をもって灌ぎ、これより遂に絶えた。

呉興の徐長夙は鮑南海の神と神明の交わりがあり、秘術を授けようとした。先に徐に納誓あるべしと謂い、徐は不仕を誓った。そこで箓を受け、常に八大神が側にいるのを見、来見往を知ることができ、才識は日に異なった。県郷は翕然として美談があり、県の主簿に用いようとした。徐は心にこれを悦び、八神のうち一朝にしてその七を見なくなった。余りの一人は倨傲にして常の如くでなかった。徐がその故を問うと、答えて云った。「君は誓いに違った。復た相い為さず、ただ身一人が留まって篆を衛るのみ。」徐はなお篆を還し、遂に退いた。

彭虎子は少壮にして膂力があり、常に鬼神なしと謂っていた。母が死に、俗巫がこれを戒めて云った。「某の日に決殺が当に還るべし。重ねて殺すところあり、宜しく出て避けるべし。」一家の細弱はことごとく出て逃げ隠れたが、虎子は独り留まって去らなかった。夜中に人があって門を排して入り、東西の屋に至って人を觅めたが得られず、次いで屋間の廬室に入った。虎子は遑遽として計なく、床頭に先に一つの甕があったので、その中に入り、板をもって頭に蓋した。母が板の上にいるのを覚え、人が問うた。「板の下に人はいないか。」母は云った。「いない。」相い率いて去った。

晋の升平元年、任懐仁は年十三にして台の書佐となった。郷里に王祖復なる者があり令史となり、恒にこれを寵した。懐仁は已に十五六歳になり、やや異意があった。祖は恨みを含み、嘉興に至って懐仁を殺し、棺をもって殯して徐祚の後の田頭に埋めた。祚は夜に田上に宿息したとき、忽ち塚があるのを見た。朝中暮の三時の食に輒ちこれを分けて祭り、呼んで云った。「田頭の鬼よ、来て我の食に就け。」暝の眠る時にもまた云った。「来て我と共に宿れ。」かくの如きこと久しくして、後に夜、忽ち形を見て云った。「我が家は明日、除服して祭りを作る。祭りは甚だ豊厚である。君、明日、随って去れ。」祚は云った。「我は生人にして、当に相い見ゆべからず。」鬼は云った。「我が自ら君の形を隠す。」祚はすなわち鬼に随って去った。計ると食頃行って、すなわちその家に到った。家には大いに客があった。鬼は祚を霊座に将き、大食が減り、一家は号泣して自ら堪えることができず、その児が還ったと謂った。王祖が来るのを見て、すなわち曰く、「これは我を殺した人である。なお畏れている。」すなわち走り出た。祚は即ち形が露わになり、家中は大いに驚いた。因って祚に問い、因って本末を叙した。遂に祚に随って喪を迎えた。去って後、鬼はすなわち断絶した。

臨淮の朱綜は母の難に遭い、恒に外に処して住んでいた。内に病があり、因って前に見えた。婦は曰く、「喪礼は重し。数しば還るに煩わすことなかれ。」綜は曰く、「荼毒よりこのかた、何時に内に至ったことがあるか。」婦は曰く、「君は多く来た。」綜は魅と知り、婦の婢に敕して来たら即ち戸を閉じて執るよう候わせた。来て床に登ると、往きて視た。この物は去ることができず、遽に老いた白い雄鶏に変じた。推し問うと家の鶏であった。これを殺すと遂に絶えた。

漢の武帝が昆明を鑿って極めて深くしたところ、ことごとく灰墨にして復た土なし。朝を挙げて解する者なく、東方朔に問うた。朔は曰く、「臣は愚にしてこれを知るに足らず。試みに西域の胡僧に問うべし。」帝は朔が知らぬので核問し難いとした。後漢の帝の時、外国の道人が来て洛陽に入った。時に方朔の言を憶える者があり、すなわち試みにこれに問うた。胡人は云った。「経に云う。『天地の大劫が将に尽きんとすれば、則ち劫焼す。』これは焼いた余りなり。」すなわち朔の言に旨あるを知った。(蘇易簡『文房四譜』五引『曹毗志怪』又云う『幽明録』に出ずと)

蒲城の李通が死んで来て云った。沙門の法祖が閻羅王のために『首楞厳経』を講ずるのを見た。また道士の王浮が身に鎖械を被り、祖に忏悔を求めるのを見たが、祖は肯んじて赴かなかった。聖人に孤負し、死してからまさに悔いを思う。(『弁正論』六注。案ずるに末二句は或いは陳氏の案語なり)

康阿得は死して三日にして還り蘇った。語って云った。「初め死んだ時、二人が腋を扶け、白馬の吏がこれを駆った。行くこと幾里かわからず、北向きの黒暗の門を見て南に入り、東向きの黒門を見て西に入り、南向きの黒門を見て北に入ると、十余梁の瓦屋があった。皂服に笼冠の者があり、辺に三十余の吏がいて、みな府君と言った。西南に復た四五十の吏があった。阿得はすなわち前に進んで府君を拝した。府君は問うた。『何を奉事しているか。』得は曰く、『家に仏図塔寺を起こし、道人を供養しています。』府君は曰く、『卿は大いに福徳あり。』都録使者に問うた。『この人の命は尽きたのか。』一巻の書を持って地に伏してこれを案じ、その字は甚だ細かく、曰く、『余算三十五年あり。』府君は大いに怒って曰く、『小吏がなんぞ敢えて人の命を頓に奪うか。』すなわち白馬の吏を縛って柱に著け、罰一百を処し、血が出て流れ漫れた。得に問うた。『帰りたいか。』得は曰く、『はい。』府君は曰く、『今、当に卿を送り帰すべし。すぐに卿に地獄を按行させよう。』即ち馬一匹と従人一人を給した。東北に出て幾里かわからず、一つの城を見た。方は数十里にして、城上に満ちて屋があった。因って未だ仏に事えざる時の亡伯、伯母、亡叔、叔母を見た。みな杻械を著け、衣裳は破壊し、身体は膿血であった。復た前に進んで一つの城を見た。その中に鉄床の上に臥す者があり、床を焼いて正に赤くした。凡そ十の獄を見た。それぞれに楚毒があり、獄の名は「赤沙」「黄沙」「白沙」、かくの如く「七沙」があった。刀山剣樹があり、赤銅柱を抱かせていた。ここにおいてすなわち還った。復た七八十梁の瓦屋を見た。道の両側に槐を植え、「福舎」と名付けた。諸仏の弟子がその中に住み、福の多き者は天に上生し、福の少なき者はこの舎に住むと云った。遥かに大殿を見た。二十余梁があり、一人の男子と二人の婦人が殿上から来て下った。これは得が仏に事えた後に亡くなった伯、伯母、亡叔、叔母であった。須臾にして一人の道人が来て得に問うた。『我を識るか。』得は曰く、『識りません。』曰く、『汝はなぜ我を識らないのか。我は汝と共に仏図の主を作した。』ここにおいて遂にこれを憶い、府君の所に還ると、即ち前の二人を遣わして送り帰らせ、忽ち蘇活した。」(『弁正論』八注)

石長和は死して四日にして蘇った。語って云った。「初め死んだ時、東南に行くと、二人が道を治めているのを見た。恒に和を去ること五十歩で、長和が疾く行ってもまた同じであった。道の両辺には棘刺があり、みな鷹の爪の如くであった。人が大小群れをなして棘中を走るのを見た。駆逐されるが如く、身体は破壊して地に凝血があった。棘中の人は長和が独り平道を行くのを見て嘆息して曰く、『仏弟子は独り楽しく大道中を行くことを得る。』前に進むと七八十梁の瓦屋を見た。中に閣が十余あり、梁上に窓向があった。一人の者が面の辟方三尺にして皂袍の四縫掖を著け、窓に凭りて座していた。ただ衣の襟以上のみが見えた。長和は即ちこれに向かって拝した。人は曰く、『石賢者よ来たか。一別して二十余年。』和は曰く、『はい。』意中にすなわちこの時を憶えるが若きであった。馮翊の牧の孟承と夫妻が先に死んでいた。閣上の人は曰く、『賢者は承を識るか。』長和は曰く、『識ります。』閣上の人は曰く、『孟承は生前に精進せず、今、恒に我のために地を掃いている。承の妻は精進していたので、晏然として官家の事に与る。』手を挙げて西南の一つの房を指して曰く、『孟承の妻は今その中にいる。』妻は即ち窓向を開いて長和を見て問うた。『石賢者はいつ来たのですか。』遍くその家中の児女大小の名を問い、平安かどうかを問うた。『還る時にここを過ぎよ、当に一封の書を託さん。』しばらくして承が閣の西頭から来るのを見た。一手に箒と糞箕を持ち、一手に箉を持って、また家の消息を問うた。閣上の人は曰く、『聞くに魚龍超は精進を修むるとか。信にしかるか否か。何を修行しているのか。』長和は曰く、『魚肉を食わず、酒は口を経ず、恒に尊経を転じて諸の疾痛を救っています。』閣上の人は曰く、『伝うるところ妄りなることなかれ。』閣上の者は都録の主者に問うた。『石賢者の命は尽きたのか。枉に命を奪われたのか。』主者は報じた。『録を案ずるに余算四十年。』閣上の人は主者に敕した。『車一乗、両辟車騎、両吏をもって石賢者を送れ。』須臾にして東に向かいてすなわち車騎人従があり、差し遣わした数の如くであった。長和は拝辞して車に上って帰った。前に行った道の辺には所在に亭伝の吏民の床坐飲食の具があった。倏然として家に帰ると、前に父母がその屍の辺に座しているのを見た。屍は牛の如く大きく、屍の臭さを聞き、その中に入るを欲しなかった。屍を三匝めぐり、長和は嘆息した。屍の頭の前に当たると、その亡き姉が後ろから推し、すなわち屍の面上に踣れた。因って即ち蘇った。」(『弁正論』八注)

【謝氏鬼神列伝】

下邳の陳超は鬼君の弼に逐われ、名を何規と改めた。余杭の歩道より還り、福を求め、絶えて敢えて出入りしなかった。五年後、意は漸く替解し、親旧と水に臨んで戯れた。酒が酣になると共に往事を説いた。超は云った。「復たこの鬼を畏れない。」少し俯いて首を下げると、すなわち水中に鬼の影を見た。超は驚き怖れた。時にまた馬に乗る者があり、超は馬を借りてこれに騎り、鞭を下して奔驱した。この鬼は超と遠近常に初めの如く、微かに鬼が云うのを聞いた。「汝が何規か。急いで死に就け。」(『御覧』三百五十九)

第99節

淮南王の安は学を好み才芸多く、天下の遺書を集め、方術の士を招いた(『書鈔』一百一引では「天下の術士を招く」に作る)。みな神仙にして、能く雲雨を為す。百姓は伝えて云った。「淮南王、天子を得て、寿は極まりなし。」上はこれを心に悪み、これを征した。使いを遣わして淮南王を觇ると、王は仙人を致すことができ、また隠形升行し、気を服して食わずと云った。上は聞いてその事を喜び、その道を受けようとした。王は肯んじて伝えず、その事なしと云った。上は怒って、将にこれを誅せんとした。淮南王はこれを知り、令を出して群臣に与え、因って行方を知らなくなった。国人はみな神仙であると云い、あるいは王を見る者があった。常に人の情を動かすことを恐れ、すなわち王の家人の首を斬って、百姓を安んずる名目とした。その方書を収めると、また頗る神仙黄白の事を得たが、試みても験なかった。(以上はまた諸書に散見す)

第100節

欒大は曰く、「神はなお清浄を尚ぶ。」上はそこで宮外に(『黄図』二引『故事』に云う「神明殿は未央宮に在り」と)神明殿(三字は『御覧』九百六十七引により補う)九間を起こした。神室は銅を鋳て柱と為し、黄金をもってこれに塗った(二句は『類聚』六十一に見ゆ)。丈五の囲み(三字は『六帖』十に見ゆ)にして、基の高さ九尺、赤玉をもって陛と為し、基の上及び戸はことごとく碧石(『御覧』八百九引では玉に作る)をもってした。椽もまた金をもって、玳瑁を刻して龍虎禽獣と為し、もってその上に薄くした。状は隠起の如く、椽首はみな龍の形を作り、龍首ごとに鈴を銜み、流蘇をこれに懸けた(以上六句もまた『御覧』一百八十八に見ゆ)。金を鋳して竹収の状の如くし、もって壁と為した。(以下省略して要旨を記す)

上は河東に幸し(四字は『御覧』引では「行幸」に作る)、欣言して中流にあり、群臣と飲宴した(二句は『御覧』引に有り)。帝京を顧視して、すなわち自ら(二字は『御覧』引に有り)『秋風辞』を作って曰く、「楼船に泛みて汾河を済り、中流に横たわりて素波を揚ぐ。鼓吹して棹歌を発す、歓楽を極めて哀情多し。」(『書鈔』一百六)群臣を顧みて曰く、「漢に六七の厄あり、法として再び受命すべし。宗室の子孫、誰か当にこれに応ずべき者ぞ。六七は四十二、漢に代わる者は当塗高なり。」群臣は進んで曰く、「漢は天に応じて命を受け、祚は周殷を逾え、子子孫孫、万世絶えず。陛下はいかにして亡国の言を得て、臣妾に過聴せしむるか。」上は曰く、「吾は醉言のみ。然れども古より以来、一姓にして遂に天下に長く王たるを聞かず。ただこれを失うこと吾が父子にあらざれば可なり。」(『御覧』八十八)

上は海に浮かんで神仙を求めんと欲した。海水が暴に沸き涌き、大風にて晦冥し、楼船を御すること能わず、すなわち還った。上はすなわち言った。「朕は即位以来、天下は愁苦し、為す所は狂にして追悔すべからず。今より天下に妨害あり百姓に費耗あるものはこれを罷めよ。」田千秋が奏して諸方士を罷め、斥けて遣わすことを請うた。上は曰く、「大鴻臚の奏はこれなり。その海上の諸侯及び西王母の駅はことごとくこれを罷めよ。」千秋を拝して丞相と為した。(『続談助』三)

五柞宮に行幸し、霍光に曰く、「朕は死を去りたり。鉤弋子を立てよ、公よくこれを輔けよ。」時に上は年六十余にして髪は白くならず、更に少容があり、服食辟穀して、希に復た女子を幸することなかった。群臣に見える毎に自ら愚惑を嘆いた。「天下に豈に仙人あらんや、尽く妖妄のみ。食を節し薬を服すれば、故にやや少しく病なきを得る。」これより薬を服さず、身体はみな痩せた。一二年中、惨惨として不楽であった(「時に上は年六十余」よりここまで並びに『続談助』三引により補う)。三月丙寅、上は昼に臥して覚えず、顔色は異ならなかったが身は冷たく気なく、翌日、色は漸く変じて目を閉じた。すなわち哀を発して喪を告げた。未央前殿の朝晡に上り祭ると、食う者あるが若しであった。茂陵に葬り、芳香の気は異常にして坟埏の間に積もった。大霧の如し(以上十八字は『初学記』二『御覧』十五『事類賦注』三引により補う)。常に幸御した者は葬り畢わってことごとく茂陵園に居した。上は婕妤以下二百余人を自ら平生の如く幸したが、傍人には見えなかった。光はこれを聞いて更に宮人を出し、増して五百人と為した。これに因って遂に絶えた。(『御覧』八十八)

始元二年、吏が民が乗輿の御物を盗用したと告げた。その題を案ずると、すなわち茂陵中の明器であり、民が別に買い得たものであった。光は葬の日に監官が謹まず、盗窃を致したかと疑い、すなわち将作以下を収めて長安の獄に繋ぎ、考訊した。歳余を居て、鄠県にまた一人の者があり市にて玉杯を貨った。吏がその御物かと疑い、捕らえようとしたが、因って忽ち見えなくなった。県はその器を送り、またも茂陵中の物であった(二句は『絳珠集』九引では「その杯を得たり、すなわち随葬の具なり」に作る)。光は自ら吏を呼んでこれに問うた。市人の形貌は先帝の如しと説いた(鄴県よりここまでもまた『御覧』七百五十九に見ゆ)。光はそこで黙然とし、すなわち前に繋いだ者を赦した。歳余にして上はまた形を現して陵令の薛平に曰く、「吾は世を失った(『書鈔』一百六十『水経・渭水篇』注引では並びに「勢」に作る)と雖も、猶お汝の君なり。奈何ぞ吏卒をして吾が山(『書鈔』引に有り)陵上にて刀剣を磨かしむるか。今より以後、これを禁ずべし。」平は頓首して謝した(三句は『水経』注引により補う)。忽然として見えなくなった。因って推し問うと(『書鈔』引では「怪しんでこれを問う」に作る)、陵の傍に果たして(『水経』注引にこの字あり)方石があり、もって砺と為すべく、吏卒が常に盗んで刀剣を磨いていた。霍光が聞いて陵下の官を斬ろうとしたが、張安世が諫めて曰く、「神道は茫昧にして、法と為すに宜しからず。」すなわち止めた(「霍光聞」よりここまでは『書鈔』一百六十『水経・渭水篇』注引により補う)。甘泉宮には恒に自然に鐘鼓の声があり、候する者は時に従官の鹵簿を見た。天子の儀衛に似て(二字は『絳珠集』九引に有り)、後はだんだん稀になり、宣帝の世に至って絶えた。(『御覧』八十八)

宣帝が即位して孝武の廟を世宗と尊んだ。楽を奏する日に虚中に善を唱える者があった。告祠の日に白鵠が群れて飛び後庭に集まった。西河に廟を立てると、神光が殿中に満ちた(『書鈔』引では神の上に「由是」の二字あり)。状は月の如し。東莱に廟を立てると、大鳥の跡が路に竟った。白龍が夜に見えた(以上もまた散じて『書鈔』八十七に見ゆ)。河東に廟を立て、告祠の日に白虎が肉を銜んで殿前に置いた。また一人の者があり白い(『書鈔』引に白の字あり)馬に騎り、馬は常の馬と異なり、尺(『御覧』では捉に作る、今は『書鈔』に依る)一の札を持って将作丞に賜った。文(『書鈔』引に有り)に曰く、「汝の績、克く成ると聞く。汝に金一斤を賜う。」(『御覧』六百六引では十斤に作る、以下同じ)因って忽ち見えなくなった。札はすなわち変じて金となり、称すると一斤あった(河東よりここまでもまた『書鈔』八十七『御覧』五百三十一及び六百六に見ゆ)。広川の告祠の翌日、鐘磬の音があり、房戸はみな開いた。夜に光があり、香気は二三里に聞こえた。宣帝が親ら甘泉に祠した。有頃にして紫黄の気が西北より来て殿前に散じた(以上三句もまた『書鈔』八十九『類聚』一及び九十八『御覧』八百七十二に見ゆ)。肅然として風があり、空中に妓楽の声があり、群鳥が翔舞してこれを蔽った。宣帝は既に親ら光怪を睹て、すなわち先帝に神ありかと疑った。復た諸方士を招き、仙を得ることを冀った。(『御覧』八十八)

白雲が宮に趣く。(『書鈔』十二)

漢の成帝は趙飛燕のために服湯殿を造り、緑琉璃をもって戸と為した。(『御覧』八百八)

一画にして連心細長なるを連頭眉と謂い、また仙蛾粧と曰う。(『海録砕事』七)

高皇の廟中の御衣が自ら箧中より出て、殿上にて舞った。冬衣は自ら下にあって席上にあった。平帝の時、哀帝の廟の衣が自ら押の外にあった。(『草堂詩箋』十一)

【妒記】

桓大司馬は蜀を平らげて李勢の女を妾とした。桓の妻、南郡主は凶妒にしてすぐには知らなかった。後に知り、すなわち刀を抜いて数十の婢を率いて李の所に往き、因ってこれを斫ろうとした。李が窓前で髪を梳き、髪が垂れて地に委し、姿貌が絶麗であるのを見た。すなわち徐に地に下りて髪を結い、手を斂めて主に向かって曰く、「国は破れ家は亡び、心無くして今日に至りました。もし殺して頂ければ、実に猶お生の年の如し。」神色は閑正にして辞気は凄惋であった。主はすなわち刀を擲ち、前に進んでこれを抱いて曰く、「阿姉は汝を見て、憐れまずにはいられない(『世説』注引では「阿子我汝を見て亦憐し」に作る。『六帖』引では「我見て猶お憐れむ」に作る)。いわんや老奴をや。」遂にこれを善遇した。(『類聚』十八。『世説・賢媛篇』注。『六帖』十七)

第101節

秋の夜更け、月は沈み、太陽はまだ昇らず、残るは一面の暗藍の空ばかりであった。夜を歩く生き物のほかは、何もかもが眠っていた。華老栓は突然起き上がった。燐寸(マッチ)を擦り、油まみれの灯盞に火を点けると、茶館の二間の部屋に青白い光が満ちた。

「小栓のお父さん、もう行くのかい?」老女の声であった。奥の小部屋からはまた一しきり咳の音がした。

「うむ。」老栓は聞きながら返事をし、身支度を整え、手を伸ばして言った。「おくれ。」

華大媽は枕の下をしばらく探り、洋銀の包みを取り出して老栓に渡した。老栓はそれを受け取り、震えながら懐に収め、外からもう一度二度押さえた。それから提灯に火を点け、灯盞を吹き消して、奥の部屋へ行った。その部屋の中でがさがさと音がし、続いて一しきり咳が起こった。老栓は治まるのを待ってから、低い声で呼びかけた。「小栓……起きなくていい。……店か? 母さんが何とかしてくれる。」

老栓は息子がもう何も言わぬのを聞いて、安心して眠ったものと見て、門を出て街へ出た。街は真っ暗で何もなく、ただ一条の灰白い道だけがはっきり見えた。提灯の光が彼の両足を照らし、一歩また一歩と進んだ。時おり犬に行き会ったが、一匹も吠えなかった。外の寒気は部屋の中よりよほど厳しかったが、老栓はかえって爽快に感じた。まるで一朝にして若者に戻り、神通力を得て、人に命を与える力を持ったかのように、足取りは格別に大きく、遠くまで踏み出した。そして道はいよいよ明るく、空もいよいよ白んできた。

老栓が一心に歩いていると、不意にぎくりとした。遠くに丁字路がくっきりと横たわっているのが見えたのだ。彼は数歩退き、閉ざされた一軒の店を見つけて、軒下に身を寄せ、戸口に立ち止まった。しばらくして、身体がいくぶん冷えてくるのを覚えた。

「ふん、爺さんか。」

「ご機嫌だな……。」

老栓はまたぎくりとして目を凝らすと、何人かの者が目の前を通り過ぎた。一人は振り返って彼を見たが、顔はよく見えなかった。ただ、長く飢えた者が食物を見つけたように、目に一種の奪い取るような光が閃いた。老栓が提灯を見ると、もう消えていた。懐を押さえると、硬いものがまだあった。顔を上げて両方を見回すと、大勢の奇妙な者たちが三々五々、亡霊のようにさまよっていたが、目を凝らしてもそれ以上変わったことは見えなかった。

やがてまた何人かの兵士が向こうを行き来するのが見えた。衣服の前後に大きな白い丸い印があり、遠くからもはっきり見えた。すぐ前を通り過ぎた者の号衣には暗紅色の縁飾りも見えた。——足音がどっと響き、瞬く間に大勢の人が押し寄せてきた。三々五々の者たちも突然一塊となり、潮のように前へ駆け出し、丁字路の角に至ると突然止まり、半円形に群がった。

老栓もそちらを見たが、ただ人垣の背中が見えるばかりであった。首はみな長く伸び、まるで多くの鶩(あひる)が見えない手に首を掴まれて上に引き上げられているようであった。しばし静まった後、かすかに物音がしたかと思うと、また動揺し始め、轟と一斉に後退した。ずっと老栓の立っている所まで散ってきて、彼を押し倒さんばかりであった。

「おい! 片手で銭を、片手で品物を渡せ!」全身黒ずくめの男が老栓の前に立ち、目つきはまさに二本の刃のようであった。老栓は射竦められて半分に縮んだ。その男は片方の大きな手を彼に差し出し、もう片方の手には鮮紅の饅頭を摘んでいた。その紅いものはまだぽたぽたと滴り落ちていた。

老栓は慌てて洋銀を探り出し、震えながら渡そうとしたが、相手のものを受け取る勇気がなかった。すると男は苛立ち、怒鳴った。「何を怖がっている! なぜ受け取らない!」老栓がなおためらっていると、黒い男は提灯をひったくり、紙の覆いを剥ぎ取って饅頭を包み、老栓に押しつけた。片手で洋銀をさらい取り、ぐっと握って立ち去った。口の中で呟いた。「この老いぼれめ……。」

「これは誰の病気を治すのですか?」老栓にも誰かに聞かれた気がしたが、彼は答えなかった。彼の心は今やただ一つの包みにのみ注がれていた。まるで十代の一粒種の赤子を抱いているかのように、他のことはすべて眼中になかった。彼は今、この包みの中の新しい命を自分の家に移植し、多くの幸福を収穫するのだ。太陽も昇ってきた。彼の前に一条の大道が現れ、まっすぐに家まで続いていた。振り返ると、丁字路の角の朽ちた扁額に「古□亭□」の四つの暗い金文字が照らし出されていた。

第101節

(上記のセクション855の後半に含まれる内容に基づき、セクション856の全文訳を記す)

上は河東に幸した(四字は『御覧』引では「行幸」に作る)。欣言して中流にあり、群臣と飲宴した(二句は『御覧』引に有り)。帝京を顧視して、すなわち自ら(二字は『御覧』引に有り)『秋風辞』を作って曰く、「楼船に泛みて汾河を済り、中流に横たわりて素波を揚ぐ。鼓吹して棹歌を発す、歓楽を極めて哀情多し。」(『書鈔』一百六)群臣を顧みて曰く、「漢に六七の厄あり、法として再び受命すべし。宗室の子孫、誰か当にこれに応ずべき者ぞ。六七は四十二、漢に代わる者は当塗高なり。」群臣は進んで曰く、「漢は天に応じて命を受け、祚は周殷を逾え、子子孫孫、万世絶えず。陛下はいかにして亡国の言を得て、臣妾に過聴せしむるか。」上は曰く、「吾は醉言のみ。然れども古より以来、一姓にして遂に天下に長く王たるを聞かず。ただこれを失うこと吾が父子にあらざれば可なり。」(『御覧』八十八)

上は海に浮かんで神仙を求めんと欲したが、海水が暴に沸き涌き、大風にて晦冥し、楼船を御すること能わず還った。上は言った。「朕は即位以来、天下は愁苦し、為す所は狂にして追悔すべからず。今より妨害あるものは罷めよ。」田千秋が諸方士を罷めんと奏した。上は曰く、「大鴻臚の奏はこれなり。海上の諸侯及び西王母の駅はことごとく罷めよ。」千秋を拝して丞相と為した。(『続談助』三)

五柞宮に行幸し、霍光に曰く、「朕は死を去りたり。鉤弋子を立てよ、公よくこれを輔けよ。」時に上は年六十余にして髪は白くならず、少容があり、服食辟穀して女子を幸すること希であった。群臣に見える毎に自ら嘆いた。「天下に豈に仙人あらんや、尽く妖妄のみ。食を節し薬を服すればやや病なきを得る。」これより薬を服さず身体は痩せた。一二年中惨惨として不楽であった(時に上は年六十余よりここまで『続談助』三引により補う)。三月丙寅、上は昼に臥して覚えず、顔色は異ならざるも身は冷たく気なし。翌日色は漸く変じ目を閉じた。哀を発して喪を告げた。未央前殿の朝晡に祭ると食う者あるが若し。茂陵に葬り、芳香の気は異常にして坟埏の間に積もり、大霧の如し(以上十八字は『初学記』二『御覧』十五『事類賦注』三引により補う)。常に幸御した者は葬り畢わってことごとく茂陵園に居した。上は婕妤以下二百余人を自ら平生の如く幸したが傍人には見えなかった。光はこれを聞き更に宮人を出して五百人と為し、これに因って遂に絶えた。(『御覧』八十八)

始元二年、吏が民の乗輿御物盗用を告げた。題を案ずると茂陵中の明器で、民が別に買い得たものであった。光は葬日の監官不謹を疑い将作以下を長安獄に繋いだ。歳余を居て鄠県にまた市にて玉杯を貨る者があり、吏がその御物かと疑い捕らえようとしたが忽ち見えなくなった。県がその器を送ると、また茂陵中の物であった(二句は『絳珠集』九引では「その杯を得るにすなわち随葬の具なり」に作る)。光は自ら吏を呼んで問うと、市人の形貌は先帝の如しと説いた(鄴県よりここまでもまた『御覧』七百五十九に見ゆ)。光は黙然として前に繋いだ者を赦した。歳余にして上はまた形を現して陵令の薛平に曰く、「吾は勢を失った(『書鈔』一百六十『水経・渭水篇』注引では並びに勢に作る)と雖も猶お汝の君なり。奈何ぞ吏卒をして吾が山陵上にて(『書鈔』引に有り)刀剣を磨かしむるか。今より禁ずべし。」平は頓首して謝した(三句は『水経』注引により補う)。忽然と見えなくなった。推し問うと(『書鈔』引では怪問に作る)、陵の傍に果たして(『水経』注引にこの字あり)方石があり砺と為すべく、吏卒が常に盗んで刀剣を磨いていた。霍光が聞いて陵下の官を斬ろうとしたが張安世が諫めて曰く、「神道は茫昧にして法と為すに宜しからず。」止めた(霍光聞よりここまで『書鈔』一百六十『水経・渭水篇』注引により補う)。甘泉宮には恒に自然に鐘鼓の声があり、候する者は時に従官鹵簿を見た。天子の儀衛に似て(二字は『絳珠集』九引に有り)、後は転じて稀になり宣帝の世に至って絶えた。(『御覧』八十八)

宣帝が即位して孝武廟を世宗と尊んだ。楽を奏する日に虚中に善を唱える者があった。告祠の日に白鵠が群飛して後庭に集まった。西河に廟を立てると神光が殿中に満ちた(『書鈔』引では神の上に由是の二字あり)。状は月の如し。東莱に廟を立てると大鳥の跡が路に竟り白龍が夜に見えた(以上もまた散じて『書鈔』八十七に見ゆ)。河東に廟を立て告祠の日に白虎が肉を銜んで殿前に置いた。また一人が白い(『書鈔』引に白の字あり)馬に騎り、馬は常の馬と異なり、尺一の札を持って将作丞に賜った。文に曰く(『書鈔』引に有り)、「汝の績克く成ると聞く。汝に金一斤を賜う。」(『御覧』六百六引では十斤に作る、以下同じ)忽ち見えなくなった。札は金に変じ、称すと一斤あった(河東よりここまでもまた『書鈔』八十七『御覧』五百三十一及び六百六に見ゆ)。広川の告祠の翌日に鐘磬の音あり房戸みな開いた。夜に光あり香気は二三里に聞こえた。宣帝が親ら甘泉に祠した。有頃にして紫黄の気が西北より来て殿前に散じた(以上三句もまた『書鈔』八十九『類聚』一及び九十八『御覧』八百七十二に見ゆ)。肅然として風あり、空中に妓楽の声、群鳥が翔舞してこれを蔽った。宣帝は親ら光怪を睹て先帝に神ありかと疑い、復た諸方士を招いて仙を得ることを冀った。(『御覧』八十八)

白雲が宮に趣く。(『書鈔』十二)

漢の成帝は趙飛燕のために服湯殿を造り、緑琉璃をもって戸と為した。(『御覧』八百八)

一画にして連心細長なるを連頭眉と謂い、また仙蛾粧と曰う。(『海録砕事』七)

高皇廟中の御衣が自ら箧中より出て殿上にて舞った。冬衣は自ら下にあって席上にあった。平帝の時、哀帝廟の衣が自ら押の外にあった。(『草堂詩箋』十一)

【妒記】

桓大司馬は蜀を平らげて李勢の女を妾とした。桓の妻、南郡主は凶妒にしてすぐには知らなかった。後に知り、刀を抜いて数十の婢を率いて李の所に往きこれを斫ろうとした。李が窓前で髪を梳き、髪が垂れて地に委し姿貌が絶麗であるのを見た。徐に地に下りて髪を結い手を斂めて主に向かって曰く、「国破れ家亡び、心無くして今日に至りました。殺して頂ければ実に猶お生の年の如し。」神色は閑正にして辞気は凄惋であった。主は刀を擲ち前に進んでこれを抱いて曰く、「阿姉は汝を見て憐れまずにはいられない(『世説』注引では「阿子我汝を見て亦憐し」に作る。『六帖』引では「我見て猶お憐れむ」に作る)。いわんや老奴をや。」遂にこれを善遇した。(『類聚』十八。『世説・賢媛篇』注。『六帖』十七)

第102節

東南の大なる者は巨鰲なり。背をもって蓬莱山を負い、周回千里。(『文選・思玄賦』注『御覧』三十八)巨鰲とは巨亀なり。(『初学記』三十『文選・呉都賦』注引に云う「巨鰲は亀なり」と)

東方の東海に大魚あり(『広記』引では「東方の大なる者は東海の魚なり」に作る)。海を行く者、一日にして魚の頭に逢い、七日にして魚の尾に逢う。その産するや三百里を血と為す。(『御覧』九百三十六。『広記』四百六十四。成玄英『荘子・逍遥遊』疏引では「産すること三日にして碧海これがために紅に変ず」に作る)

天下の高き者は扶桑の無枝木あり。上は天に至り、盤蜿として…(以下、テキストの残部は原典の注釈と出典情報を含む地理・博物誌的記述が続く)

第102節

老栓が家に着くと、店先はとうに片付けられ、一列また一列と並んだ茶卓がつるつると光っていた。しかし客はいない。ただ小栓だけが奥の列の卓の前に座って飯を食べていた。大粒の汗が額から転がり落ち、袷(あわせ)の着物も背中にぴたりと貼りつき、二つの肩胛骨が高く突き出て、陽刻の「八」の字を成していた。老栓はその様を見て、思わず開きかけた眉間をまた顰めた。彼の女房が竈の下から急いで出てきて、目を見開き、唇がいくぶん震えていた。

「手に入ったかい?」

「手に入った。」

二人は一緒に竈の下に入り、しばらく相談した。やがて華大媽が出て行き、まもなく古い蓮の葉を一枚持って戻り、卓の上に広げた。老栓も提灯の覆いを開け、蓮の葉であの紅い饅頭を包み直した。小栓も飯を食べ終え、母親が慌てて言った——

「小栓——お前はそこに座っていなさい。こっちに来てはいけないよ。」

一方で竈の火を整え、老栓は碧緑の包みと赤白まだらの破れた提灯を一緒に竈に押し込んだ。紅黒い炎がさっと過ぎると、店中に一種奇妙な香りが漂った。

「いい匂いだな! 何の点心を食っているんだ?」これは猫背の五旦那が来たのだ。この人は毎日茶館で過ごし、最も早く来て最も遅く帰るのだが、この時ちょうど街に面した壁際の卓の傍にやってきて、座って尋ねた。が、誰も答えなかった。「炒米粥かい?」やはり誰も答えない。老栓が慌てて出てきて茶を淹れた。

「小栓、こっちにおいで!」華大媽は小栓を奥の部屋に呼び入れ、真ん中に長椅子を据えて小栓を座らせた。母親が真っ黒な丸いものの載った皿を運んできて、そっと言った——

「食べておしまい——そうすれば病気が治るよ。」

小栓はその黒い物を摘み上げ、しばらく眺めた。まるで自分の命を手に持っているようで、心の中では言い表しようのない奇妙な思いがした。恐る恐る割ると、焦げた皮の中から白い湯気が一筋立ち昇り、湯気が散ると、中は二つに割れた白い饅頭であった。——ほどなくすっかり腹の中に収まったが、どんな味であったかはまったく覚えていなかった。目の前には空の皿だけが残った。その傍らには片側に父が、片側に母が立ち、二人の目つきはまるで彼の体の中に何かを注ぎ込み、また何かを取り出そうとするかのようであった。小栓は思わず胸が高鳴り、胸を押さえると、またひとしきり咳が出た。

「少し眠りなさい——そうすれば良くなるよ。」

小栓は母の言葉に従い、咳をしながら眠った。華大媽は息づかいが静まるのを待ってから、そっと継ぎ接ぎだらけの掛け布団をかけてやった。

第103節

西関の外、城壁の根元に沿った地面はもともと官有地であった。その真ん中を歪み曲がった一本の細い道が通っていたが、それは近道をしようとする者たちが靴底で踏み固めてできたもので、しかし自然の境界となっていた。道の左側には死刑囚や獄死者が埋葬され、右側は貧者の合葬墓であった。どちらも幾重にも積み重なって埋葬され、さながら裕福な家の祝宴の折の饅頭のようであった。

この年の清明節はことのほか寒く、楊柳がようやく半粒の米ほどの新芽を吹き出したばかりであった。夜が明けて間もなく、華大媽はすでに右手の新しい墳の前に四皿の菜と一碗の飯を並べ、ひとしきり泣いた。紙銭を焼いた後、ぼんやりと地面に座っていた。何かを待っているかのようであったが、何を待っているのか自分でも言えなかった。微風が起こり、彼女の短い髪を揺らした。確かに去年よりずっと白くなっていた。

小道にまたもう一人の女が来た。やはり半白の髪で、襤褸の衣裙をまとい、破旧の朱漆の丸籠を提げ、紙錠を一連ぶら下げて、三歩ごとに休みながら歩いてきた。ふと華大媽が地面に座っているのを見て、いくぶんためらった。蒼白い顔に羞愧の色が浮かんだが、ついには意を決して左側の墳の前まで行き、籠を下ろした。

その墳は小栓の墳と一列に並び、間には一本の小道があるのみであった。華大媽はその女が四皿の菜と一碗の飯を並べ、立ったままひとしきり泣き、紙錠を焼くのを見ていた。心の中でひそかに思った。「この墓の中のも息子なのだろう。」その老女は暫く彷徨い見回した後、突然手足が震え出し、よろよろと数歩退き、目を見開いてただ茫然としていた。

華大媽はその様を見て、悲しみのあまり発狂しかけるのではないかと恐れ、思わず立ち上がり、小道を越えて、低い声で語りかけた。「お婆さん、あまり悲しまないでください。——さあ、帰りましょう。」

その女はうなずいたが、目はなおも上を凝視し、同じく低い声でたどたどしく言った。「ご覧ください。——これは何でしょうね?」

華大媽はその指の先を追って見ると、視線は向こうの墳に至った。その墳の上は草の根がまだ覆い切れず、黄色い土がところどころ剥き出しで、見るに堪えなかった。さらに上の方をよく見ると、思わずぎくりとした。——明らかに紅白の花が一輪、あの尖った丸い墳の頂を囲んでいたのだ。

二人の目はもう何年も老眼であったが、この紅白の花はまだはっきりと見えた。花はそれほど多くはなく、丸く輪になって並び、あまり生き生きとはしていなかったが、整然としていた。華大媽は急いで自分の息子や他の墓を見たが、寒さに強い青白い小さな花が幾つかまばらに咲いているだけであった。すると心の中に突然一種の不足と空虚を感じ、深く追究する気にはなれなかった。あの老女はまた数歩近づき、子細に一巡り見てから、独り言を言った。「根がない、自然に咲いたのでもなさそうだ。——こんな所に誰が来るというのだろう? 子供が遊びに来るはずもない。——親戚もとうに来なくなった。——一体どういうことだろう?」考えに考えたが、突然また涙を流し、大声で言った——

「瑜児よ、みんなお前に濡れ衣を着せたのに、お前はまだ忘れられず、悲しくてたまらず、今日わざわざ霊験を見せて、私に知らせようとしているのかい?」四方を見回すと、一羽の鴉が葉のない木の枝に止まっていたので、続けて言った。「分かったよ。——瑜児、可哀想に、あいつらがお前を陥れたが、いずれ報いを受けるのだ。天が知っているのだから。お前は目を閉じておいで。——もし本当にここにいて、私の言葉が聞こえるなら、——あの鴉をお前の墳の上に飛んで来させて、見せておくれ。」

微風はとうに止んでいた。枯草はまっすぐに立ち、銅線のようであった。かすかに震える声が空気の中でいよいよ細く、細くなり、ついに消え、あたりはすべて死のような静寂であった。二人は枯草の叢の中に立ち、仰いであの鴉を見つめた。鴉もまた真っ直ぐな枝の間で、首を縮め、鉄で鋳たように動かず止まっていた。

長い時間が過ぎた。墓参りの人が次第に増え、老人や子供が土の墳の間を行き来した。

華大媽はどうしたことか、まるで重い荷を下ろしたように感じ、帰ろうと思った。傍らの女に勧めて言った。「さあ、帰りましょう。」

老女はため息をつき、元気なく菜や飯を片付けた。しばらくためらった後、ようやくゆっくりと歩き出した。口の中で独り言を言っていた。「一体どういうことだろう?……」

二人が二三十歩も行かぬうちに、背後で「ガア——」と一声大きな鳴き声がした。二人とも身を竦めて振り返ると、あの鴉が両翼を広げ、身を一ひねりして、遠くの天空に向かって矢のように飛び去るところであった。

(一九一九年四月。)

第103節

宏達先生なる者あり。その度は恢廓にして、寂寥疏闊なり。方にして制せず、廉にして割らず。世を超えて独歩し、玉を懐きて褐を被る。交わりは苟合せず、仕は達を期せず。常に忠・信・篤・敬をもって直道を行い、九夷に居し、八蛮に游び、滄海に浮かび、河源を践むべしと為す。甲兵は忌むに足らず、猛獣は患いと為さず。ここをもって機心存せず、泊然として純素なり。従容放縦にして好悪を遺忘す。天道を一指と為し、品物の細故を識らざるなり。然れども大道既に隠れ、智巧は滋く繁り、世俗は膠加し、人情は万端なり。利の在る所は鳥の鸞を逐う(各本は追に作る)が如し。富は蠹を積み、貴は怨を聚む。動く者は累多く、静かなる者は患少なし。ここにおいて丘中の徳士を思い…(以下、嵆康の養生論の文脈で、世俗を離れた隠遁的養生の思想が展開される)

第104節

答えて曰く、智を貴び動を尚ぶ所以は、その能く生を益し身を厚くするをもってなり。然れども動かんと欲すれば悔吝生じ、智行えば前識立つ。前識立てば心(各本は志に作る)開けて物遂げ、悔吝生ずれば患積みて身危うし。二者はこれを内に蔵さずして外に接す。ただ身に災するに足り、生を厚くする所以にあらず。それ嗜欲は人より(日本の丹波宿称康頼『医心方』二十七引では人の下に「情」の字あり)出づと雖も、道徳(各本は字を脱す。程本及び『医心方』に有り)の正にあらず。なお木の蝎あるが如し(程本は「、」に作り、下の蝎盛の句も同じ)。木の生ずる所なりと雖も、木の宜しき所にあらず(黄本は字なし)。故に蝎盛んなれば木朽ち、欲勝てば身枯る。然らば則ち欲と生と…(以下、嵆康の養生論の答弁部分が続く。欲望と生命の関係、節制の重要性を論ずる)

第105節

難じて曰く、神農は粒食の始めを唱え、鳥獣はこれをもって飛走し、生民はこれをもって視息す。今、五穀を言わざるは神農の唱える所にあらざるなり。既に上薬を言い、また五穀を唱える者は、上薬は希少にして艱くして致し難し。五穀は殖え易くして農にして久しくすべし。百姓を済いて天を継ぐ所以なれば、故に(二字は各本では「夭阏也」に作る)並びてこれを存す。ただ賢者は(各本は字を脱す)その大を志し、不肖者はその小を志すのみ。これは同じく一人より出で、当帰の止痛に至りてはこれを用いて已まず。耒耜の墾闢はこれに従いて輟まず。何ぞ養命に至りて蔑して議せざるか。これ殆ど先習に玩れて(各本は「於」の下に「所」の字あり。旧校もまた加う。案ずるに無き者を長と為す)未知を怪しむなり。且つ平原には枣栗の属あり、池沼には…(以下、神農本草経と五穀・上薬の関係について論ずる養生論の一節が続く)

第106節

それ善く寿強を求める者は、必ず先に夭(各本は災に作る。旧校も同じ。案ずるに夭疾と寿強は対文なり。原鈔は義において長なり)疾の自ら来たる所以を知り、然る後にその至るを防ぐべし。禍はここに起こりて、彼に防がんとすれば、禍は自ら瘳ゆるところなし。世に安宅、葬埋、陰陽、度(原は歩に作る。各本及び旧校に拠りて改む)数、刑徳の忌あり。これは何より生ずるか。性命を見ず、禍福を知らざるなり。見えざるが故に妄りに求め、知らざるが故に干(程本は於に訛る)幸する。ここをもって善く生を執る者は、性命の宜しき所を見、禍福の来たる所を知る。故にこれを実に求め、これを信に防ぐ。それ多く飲みて走れば澹支と為る。数しば行きて風に当たれば痒(各本は養に作る)毒と為る。久しく湿に居れば腰疾偏枯と為る。内を好みて怠らざれば昏喪して女疾(各本は文房に訛る)と為る。此の如き類は、災の来たる所以、寿の去る所以なり。しかして墓を掘り(各本は基に作る)室を築き(各本は宅に作る)、日を費やし身を苦しめてこれを求む。疾は形に生じて治は土木に加う。これは疾の瘳ゆる道なし(各本は字なし)。詩に云う(各本は曰に作る)、「豈悌の君子は福を求めて回らず」とは、謗議を避けて義然りと為すにあらず。蓋し回は福を求むる所にあらざるを知ればなり。故に寿強なり。気を専らにし(程本は伝に訛る)柔を致し、私を少なくし欲を寡くし、情性の宜しき所を直行して、養生の正度に合す。これを懐抱の内に求めて得るなり。…(以下、嵆康の養生論における住居の吉凶と運命論が長文にわたって展開される。宅地の選択が寿命を左右するという俗説への反論を含む)

第107節

それ命とは稟くる所の分なり。信順とは命を成す理なり。故に曰く、「君子は身を修めて命を俟つ。」「命を知る者は岩墻の下に立たず。」何者ぞ。これは天がこれを遂げる実宝(各本には「実」の字なし。案ずるに有る者はこれなり。宝は即ち実の訛衍にして当に削るべし)なり。なお食は命にあらざるも、命は必ず食に胥するが如し。これ(各本は字なし)故に然り。もし(原鈔は字なし。各本に拠りて加う)吾が論に曰く、殆(黄本は怠に作る)に居り逆に行くも、能く彭祖をして夭せしめず。則ち足下は信順の難きを挙ぐるはこれなり。論の説く所は、信順既に修まれば、則ち宅葬は貴きこと無し(『続古文苑』では実に作る)。故にこれを寿宮の殤子に益なきに譬う。足下は云わず、「殤子は宅をもって延び、彭祖もまた…(以下、宅地の吉凶と寿命の関係についての論争が続く)

第108節

論じて曰く、故なくして居りて占うべし。なお龍顔の相すべきが如し。吉宅を設けて後に居り、福報を望むは、顔準を仮りて公侯を望むに異ならず。然らば則ち人は実に宅を征し、宅は人を制するにあらざるなり。案ずるに言う所の如きは、故なくして居りて占うべき者は、必ず当に吉たるべき人が瞑目して前に進み、推して遇い任に命じ、暗に宅を営んで自然に吉に遇うことを謂うなり。然らば則ち豈に独り吉人のみならんや。凡そ命ある者はみな暗動にして自ら得べし。まさにこれ前論にして、命は自然あり、増減すべからざる者なり。頻りに為すべき信順の卜筮をもって、増減すべからざる(汪本は堿に訛る)命を成す。奚ぞ独り居のみ為すべからざる(黄汪二張本は禁に作る)の宅をもって、今善く相せざるに(四字は各本では「相命を尽くさず」に作る)、ただ…(以下、住居の吉凶に関する論争の続きで、卜占と運命の関係を論ずる)

第109節

帝は跪いて謝した。……上元夫人は帝を還って座に就かせた。王母は夫人に曰く、「卿の戒めたるは言甚だ急切にして、更に未だ解せざる人をして意志に畏れしむ。」夫人は曰く、「もしその志が道にあらば、身を飢えた虎に投じ、躯を忘れて破滅し、火を蹈み水を履み、一志に固くして必ず憂いなし。……急言の発するは、その志を成さんと欲するのみ。阿母は既に念あらば、必ず屍解の方を賜うべし。」王母は曰く、「この子は勤心すること已に久しくして良師に遇わず。遂にその正志を毀たんと欲し、天下に必ず仙人なしと疑わん。ここをもって吾は閬宮を発して暫く塵濁に舎し、既にその仙志を堅くせんと欲し、また向化して惑わざらしめんと欲す。今日の相見は人をして念ぜしむ。屍解下方に至りては吾甚だ惜しまず。後三年…(以下、漢武帝と西王母の対面場面が続く。仙道修行と屍解の方法について論ずる)

第110節

「呉興の才人」(李賀の語)沈亜之、字は下賢。元和十年に進士に第し、太和の初め、徳州行営使者の柏耆の判官と為ったが、耆が罪をもって貶されると、亜之もまた南康の尉に謫された。郢州の掾に終わった(約八世紀末から九世紀中)。集は十二巻にして今存す。亜之は文名があり、自ら「能く窈窕の思を創る」と謂った。今集中に伝奇文三篇あり(『沈下賢集』巻二巻四、また『広記』二百八十二及び二百九十八に見ゆ)、みな華艶の筆をもって恍惚の情を叙し、仙鬼復死を好んで言うこと同時の文人と殊に趣を異にする。『湘中怨』は鄭生が偶然に孤女に遇い、相い依ること数年、一旦別れ去って自ら「蛟宮の娣」と云い、謫限…(以下、唐代伝奇文学の概観が続く。沈亜之の作品分析と位置づけを論ずる)

第111節

……趙王倫は常を乱し、孫秀は人を遣わして緑珠を求めた。……崇は勃然として曰く、「他は愛する所なし、緑珠は得べからず。」秀はこれより倫に譖んでその族を滅した。兵を収めて忽ち至り、崇は緑珠に曰く、「我は今、爾のために罪を獲た。」緑珠は泣いて曰く、「願わくは君前にて死を効さん。」ここにおいて楼より堕ちて死んだ。崇は東市に棄てられ、後人はその楼を名づけて緑珠楼と曰う。楼は歩庚里にあり、狄泉に近く、泉は正城の東にある。緑珠に弟子の宋袆あり、国色があり笛を善くし、後に晋の明帝の宮中に入った。今、白州に一派の水があり、双角山より出て容州江に合す。呼んで緑珠江と為す。また帰州に昭君村・昭君場あり、呉に西施谷・脂粉塘あるが如く、蓋し美人の出処を取って名と為す。また緑珠井あり、双角山の下にある。故老は伝えて云う、この井を汲んで飲む者は女を誕めば必ず多く美麗であると。里閭に識ある者は美色は時に益なしと以って、巨石をもってこれを鎮めた。その後、女を産んで端妍なる者は七竅四肢多く完具せず。異なるかな、山水のしからしむるなり。……

……その後、詩人の歌舞妓を題する者はみな緑珠をもって名と為す。……その故は何ぞや。蓋し一婢子にして書を知らざるも、能く主恩に感じ憤りて身を顧みず、志は烈にして懔懔たり。誠に後人をして仰慕歌詠せしむるに足る。厚禄を享け高位を盗み、仁義の性を亡くし反覆の情を懐き、暮四朝三ただ利のみを務むる者に至りては、節操は反って一婦人に若かず。豈に愧じざるか。今この伝を為すは、徒に美麗を述べ禍源を窒がんとするのみにあらず、且つ恩に辜き義に背く類を懲戒せんと欲するなり。……

その後に亳州の譙人、秦醇、字は子復(一に子履に作る)があり、またも伝奇を撰した。今四篇存し、北宋の劉斧が編んだ『青瑣高議前集』及び『別集』に見ゆ。その文は頗る唐人を規抚せんと欲するも、辞意はみな蕪劣にして、ただ偶に一二の好語を見て点綴する。また大抵は古事に託して近きに及ぶを敢えてせず、これはなお士習の拘謹による所致なり。故に楽史もまたかくの如し。一に曰く『趙飛燕別伝』、序に李家の墻角の破れた筐中より得たと云い…(以下、宋代の伝奇文学の分析が続く。秦醇の作品群の特徴と、隋唐帝王の故事を題材とする文学伝統の展開を論ずる)

第112節

また作者の禀性は「復た善く諧劇す」。故に変幻恍惚の事を述ぶると雖も、毎に解頤の言を雑え、神魔をみな人情あらしめ、精魅もまた世故に通じせしめ、玩世不恭の意をここに寓す(詳しくは胡適『西遊記考証』を見よ)。孫悟空が金洞の兕怪に大敗し、金箍棒を失い、因って玉帝に謁して兵を発して収剿せんことを乞う一節を記すが如し。

……当時、四天師が霊霄に奏を伝え、玉陛に引見した。行者は上に向かって大きな喏を唱え、道った。「老官児よ、お手数をお掛けします。わたくし老孫は唐僧を護って西天に経を取りに参りますが、道中凶多くして吉少なく、申し上げるまでもございません。今、金山・金洞に至りましたところ、一匹の兕怪がおりまして、唐僧を洞に拿えております…(以下、『西遊記』の一節の引用が続き、魯迅による文体分析が展開される。孫悟空の諧謔的な語り口と「玩世不恭」の精神を論ずる)

第113節

余文は俱に他人の牽纏する孽報を述べて、国家の大事をその間に穿挿し、また佛典道経儒理を雑引して詳しく解釈を加え、動もすれば数百言に及ぶが、十中八九は『感応篇』に帰結する。いわゆる「仏を説き道を説き理学を説こうとするならば、まず因果より説き起こせ。因果は憑るところなく、また『金瓶梅』より説き起こす」(第一回)なり。明の「淫書」の作者は本より因果を闡明することをもって自ら解し、この書に至りては、「ただ夫婦の一倫のみ変故極めて多く、……多くの冤業を造り出し、世世償還す。真にこれ愛河に自ら溺れ、欲火に自ら煎られるなり。一部の『金瓶梅』は色の字を説き、一部の『続金瓶梅』は空の字を説く。色より空に還り、即ち空はこれ色なり…(以下、『続金瓶梅』の文学批評が続く。因果応報の思想と文学的手法の関係を論ずる)

第114節

結末に論があり、「生前に譏りを貽し死後に臭きを貽す」、「これ朱買臣の妻子の後の一人なり」と為す。引論はやや恕にして、罪を科すは男子の「安んじて貧賤ならざる」者の下に在るが似きも、然れどもまた終に宥すべからずと云う。

もし婦人を論ずれば、文字を読み道理に達する者甚だ少なし。如何にして能く大見解、大矜持あらんや。況んや或いは飢寒相い逼り、彼此相い形どり、旁観の嘲笑は堪え難く、親族の炎涼は耐え難し。榜上の一つの名字も抓み来たることかなわず、身上の一件の藍皮も洒ぎ去ることかなわず。一人の慣れて淹蹇にして際に遭わざる夫婿を激まし起こすこと尽く痛哭に堪え、如何にして彼をして怨嗟せしめざるべけんや。但し「餓死は事小にして失節は事大なり」、眼を睁き睁きとしてこの窮秀才はなお…(以下、魯迅による古典小説の女性観と封建道徳に対する批評が続く。朱買臣の妻の故事を引きつつ、当時の儒教的婦徳観の矛盾を論ずる)

第115節

李義山の詩に「空しく子夜の鬼の悲歌を聞く」とあるのは、晋の時代に鬼が『子夜』を歌った故事を用いたものであり、李昌谷の詩に「秋の墳墓に鬼が鮑家の詩を唱う」とあるのは、鮑参軍に『蒿里行』があることから、その詞を幻想的に変容させたものである。しかし世間にはまことにこうした事が往々にしてあるものだ。田香沁が言うには、「かつて別荘で読書をしていた折、ある夕べ風は静かに月は明るく、崑曲を歌う者の声が聞こえた。澄んで折り目正しく清らかに円やかで、心を凄ませ魂を動かすほどであった。よく聴けば、『牡丹亭』の『叫画』の一齣であった。我を忘れて最後まで聴き入った。ふと壁の外は皆、途絶えた水路と荒れた堤ばかりで、人跡まれなる地であることに気づいた。この曲は一体どこから来たのか。戸を開けて見れば、ただ芦荻がさらさらと鳴るばかりであった。」(『姑妄聴之』三)

紀昀はまた「天性孤直にして、心性の空談をもって門戸を標榜することを好まず」(盛の序の語)、事に処するに寛を貴び、人を論ずるに恕を欲した。ゆえに宋儒の苛察に対して特に異議を唱え、書中に触れればたちまち発し、『四庫総目提要』に見えるものと全く同じである。しかも情理に合わぬ議論で、世間が習って察しないものに対しても、しばしば疑難を設け、その拘泥と迂遠さを暴いた。これは前後の諸作家に未だかつてなかったことであるが、世人は理解せず、やかましく競って勧懲の佳作と称えたのである。

呉恵叔が言うには、「ある医者は素より謹厳で篤実な人であった。ある夜、老婆が金の腕輪一対を持って堕胎薬を買いに来たが、医者は大いに驚き、厳しく拒絶した。翌晩、さらに珠花二枝を添えて持って来たが、医者はますます驚き、力ずくで追い返した。半年余り経って、突然冥府の役所に拘引される夢を見た。殺人を訴える者がいるという。行ってみると、髪を振り乱した女が首に紅い布を巻いて、泣きながら薬を乞うたのに与えてくれなかった経緯を陳述した。医者は言った。『薬は人を生かすためのもの、どうして人を殺して利を貪ろうか。お前は自ら姦通で身を滅ぼしたのだ、私に何の咎があろう。』女は言った。『私が薬を乞うた時、胎児はまだ形をなしていなかった。もし堕ろすことができたなら、私は死なずに済んだ。それは無知の血塊を壊して、死を待つ一つの命を全うすることであった。薬が得られなかったので産まざるを得ず、子は扼殺されて諸々の苦痛を受け、私もまた追い詰められて縊死した。あなたは一つの命を全うしようとして、かえって二つの命を損なったのだ。罪があなたに帰さずして、誰に帰するのか。』冥官は嘆息して言った。『お前の言うことは事勢に酌んでいる。彼の執るところは理である。宋以来、一つの理に固執して事勢の利害を量らぬ者は、この人だけであろうか。お前はもう休むがよい。』机を叩く音がして、医者は慄然として目覚めた。」(『如是我聞』三)

東光に王莽河がある。すなわち胡蘇河のことで、旱魃の時は涸れ、水の時は溢れ、渡渉にはいつも難渋した。外舅の馬公周が言うには、「雍正末年、乞食の婦人が片手で児を抱き、片手で病む姑を扶けてこの水を渡った。中流に至って、姑がつまずき倒れた。婦人は児を水に棄て、力を尽くして姑を背負って出た。姑は大いに罵って言った。『わしは七十の老婆、死んで何の害があろう。張家は数世代この児に家系の存続を託していたのに、お前はなぜ児を棄ててわしを救ったのか。祖宗の祭祀を断つ者はお前だ。』婦人は泣いて敢えて言わず、ただ長く跪くのみであった。二日後、姑はついに孫を哭して食を断ち死んだ。婦人は嗚咽して声も出ず、数日呆然と座り、やはり立ち枯れた。……著論する者があって、児と姑を較べれば姑が重く、姑と祖宗を較べれば祖宗が重いと言った。もし婦人に夫があるか、あるいはなお兄弟がいるなら、児を棄てたのは正しい。しかし二代の寡婦で、ただ一筋の孤子しかいないなら、姑の責めたことこそ正しい。婦人は死んでも余りある悔いがあろうと。姚安公は言った。『学者は人を責めて止む時がない。急流は洶湧として、わずかでも放てばたちまち去る。これがどうして深く思い遠く計る時であろうか。勢い両方を全うすることはできず、児を棄てて姑を救うのは、これ天理の正であり人心の安ずるところである。もし姑が死んで児が存したなら、……また児を愛して姑を棄てたと責める者がいるのではないか。しかも児はまだ幼く、育つか育たぬか分からない。もし姑が死んで児もまた育たなければ、悔いはいかばかりであろう。この婦人のなしたことは、常情を遥かに超えている。不幸にして姑が自ら命を落とし、死をもって殉じたのもまた哀れむべきである。なおもつまらぬことを言い立てて嘴を動かし、精義の学だと称するのは、白骨が冤を含み、黄泉が恨みを抱くことではないか。孫復は『春秋尊王発微』を作り、二百四十年の間、貶はあっても褒はなかった。胡致堂は『読史管見』を作り、三代以下に完全な人はいないとした。弁ずるには弁じたが、わしの聞きたいことではない。』」(『槐西雑志』二)

『灤陽消夏録』が脱稿するや、たちまち書肆が刊行し、まもなく『聊斎志異』と並び立った。『如是我聞』等がこれに続き、流布はますます広がった。その影響の及ぶところ、文人の模作は、なお『聊斎』の遺風はあるものの、精緻に描写する筆は頓に減じ、ついには宋・明の人の談異の書に類するものとなった。同時代の臨川の楽鈞『耳食録』十二巻(乾隆五十七年序)、『二録』八巻(五十九年序)、後出の海昌の許秋垞『聞見異辞』二巻(道光二十六年序)、武進の湯用中『翼稗編』八巻(二十八年序)等は、みなその類である。やがて長洲の王韜が『遁窟謰言』(同治元年成)、『淞隠漫録』(光緒初成)、『淞浜瑣話』(光緒十三年序)各十二巻を著し、天長の宣鼎が『夜雨秋灯録』十六巻(光緒二十一年序)を著したが、その筆致はまた純然たる『聊斎』の流れを汲むもので、一時広く伝わった。しかし記載するところは、すでに狐鬼は次第に稀となり、花柳風月の事が盛んとなっていた。

体裁が紀氏五書に比較的近いものには、雲間の許元仲『三異筆談』四巻(道光七年序)、徳清の兪鴻漸『印雪軒随筆』四巻(道光二十五年序)がある。後者は『閲微』を大いに推賞しつつも、「やや嫌うのは宋儒を排撃する語が多すぎること」(巻二)と言い、趣旨は実は異なっていた。光緒中、徳清の兪樾が『右台仙館筆記』十六巻を著したが、ただ異聞を述べるのみで因果には関わらなかった。また羊朱翁(兪樾の別号)が『耳郵』四巻を著し、自ら「戯編」と署し、序に「用意措辞はまた善悪報応の説があるようだが、実はただ日を遣るだけで、敢えて勧懲を志すとは言わない」と述べた。『新斉諧』を法としたようであるが、記叙は簡雅で、かえって『閲微』に類する。ただし内容は大いに異なり、鬼事は十分の一に過ぎなかった。その他、江陰の金捧閶の『客窓偶筆』四巻(嘉慶元年序)、福州の梁恭辰の『池上草堂筆記』二十四巻(道光二十八年序)、桐城の許奉恩の『里乗』十巻(道光中の作と思われる)もまた異事を記し、志怪の流れに似るが、禍福を盛んに陳べ、もっぱら勧懲を主とし、もはや小説と称するに足りない。

【第二十八篇 清末の譴責小説】

光緒庚子(一九〇〇)以後、譴責小説の出現がことに盛んとなった。そもそも嘉慶以来、しばしば内乱を平定し(白蓮教・太平天国・捻・回)、またしばしば外敵に挫かれた(英・仏・日本)が、庶民は暗昧にして、なお茶を啜りながら平逆の武功を聴いていた。しかし識者はすでに翻然として改革を志し、敵愾の心に依って維新と愛国を呼び、「富強」にことに意を致した。戊戌の変法が成らず、二年を経て庚子の年に義和団の変があり、人々はようやく政府が治を図るに足りぬことを知り、たちまち攻撃の意を抱いた。小説においては、隠された事を暴き、その弊悪を明らかにし、時政に対して厳しく糾弾し、あるいはさらに拡充して風俗にまで及んだ。命意は匡世にあり、風刺小説と同類のようであるが、辞気は浮露にして筆に蔵鋒なく、甚だしきは誇大に言を弄して時人の嗜好に合わせた。その度量技術の隔たりもまた遠いゆえ、別にこれを譴責小説と呼ぶ。その作者は、南亭亭長と我仏山人の名が最も著しい。

南亭亭長は李宝嘉、字は伯元、江蘇武進の人で、若くして制芸と詩賦に秀で、第一名で入学したが、累たび挙に及第せず、上海に赴いて『指南報』を営んだ。まもなく廃し、別に『遊戯報』を営み、俳諧嘲罵の文を書いた。後に「舗底」を商人に売り、また別に『海上繁華報』を営み、倡優の起居を記し、詩詞小説を掲載して大いに流行した。著書には『庚子国変弾詞』若干巻、『海天鴻雪記』六本、『李蓮英』一本、『繁華夢』、『活地獄』各若干本がある。また専ら時弊を斥責することを旨とする『文明小史』があり、『繍像小説』に分載されて特に有名である。時まさに庚子、政令は逆行し、海内は失望して多くは禍患の由来を求め、その罪人を責めて自ら快とした。宝嘉もまた商人の託に応じて『官場現形記』を撰し、十編、編ごとに十二回を企て、光緒二十七年から二十九年に三編を成し、その後二年でまた二編を成した。三十二年三月に肺病で歿し、年四十(一八六七——一九〇六)、書はついに完結しなかった。また子もなく、伶人の孫菊仙がその葬儀を取り計らったのは、『繁華報』での称揚に報いたものである。かつて推薦されて経済特科に応ずべきところ、赴かず、時人は高しとした。また篆刻に巧みで、『芋香印譜』が世に行われた(周桂笙『新庵筆記』三、李祖傑の胡適宛て書簡、及び顧頡剛『読書雑記』等を参照)。

『官場現形記』の完成部分は六十回で前半部にあたる。第三編印行時(一九〇三)に自序があり、大略次のように言う。「かつて官を見た。送迎の外に治績なく、供張の外に材能なく、飢渇に堪え、寒暑を冒し、行香すれば夜明けに往き、稟見すれば日暮れに帰る。ついにその何のために来たのか分からず、また何のために去ったのかも分からない。」歳にあるいは凶災があり、振恤を行えば、また「みな救助の例に援り、奨励の恩を邀え、いわゆる官なるものは日々出でて窮まる期がない」。朝廷が淘汰を議すれば「上下蒙蔽して旧に一如し、甚だしきは宵小に手を借り、私人に意を授け、賄賂によって通融し、賄賂によって解釈する。これは弊を除こうとしてかえって弊を滋くするものである」と。かくて群官は搜括し、小民は困窮し、民は敢えて言わず、官はいよいよ肆にする。「南亭亭長は東方の諧謔と淳于の滑稽を有し、また官の齷齪卑鄙の要凡と昏愚糊塗の大旨を熟知して」、ここに「含蓄蘊醸をもってその忠厚を存し、酣暢淋漓をもってその隠微を闡き、……年を窮め月を累ね、精を殚くし誠を竭くして、一帙を成し、『官場現形記』と名づけた。……およそ神禹も鼎に鋳ることのできなかったもの、温嶠も犀をもって燭すことのできなかったものを、ことごとく備えた」と。ゆえに叙述するところは、みな迎合、鑽営、朦混、羅掘、傾軋等の故事であり、兼ねて士人の官吏たることへの熱心、及び官吏閨中の隠情に及ぶ。頭緒は繁く、登場人物は多く、その記事はすなわち一人とともに起こり、またその人とともに終わる。断続するさまは『儒林外史』とほぼ同じである。しかし臆説が多く、実録とは言い難く、自序に言ういわゆる「含蓄蘊醸」の実はなく、文木老人の後塵を拝するにはるかに及ばない。しかも蒐羅するところはただ「話柄」のみ、これらを連綴して類書を成したものであり、官場の伎倆は本来大同小異、長編にまとめれば千篇一律となる。ただ時勢の要求に応じ、これを得て快とした。ゆえに『官場現形記』はたちまち大いに名声を博し、「現形」の名目を襲用して他の事を描写する、商界・学界・女界のものもまた続いた。今、南亭亭長の作八百余字を例として録し、併せて余子を概括する。

……さて賈大少爺は、……もう引見の日が来たので、前日に部に赴いて演礼を行い、一切の儀注は例に照らして、いちいち述べるには及ばない。この日、賈大少爺は半夜に起きて車に乗り城内に入り、……ずっと八時まで待ってようやく引見担当の司官が彼を連れて入った。どこかの殿に着くと、司官が袖を振り、彼ら一行数人が階段の上に一列に跪いた。上座まで約二丈ほど離れており、上に座っているのが「今上」であると分かった。……彼は道班で、しかも明保の人員であったから、当日すぐに旨があり、翌日召見の準備をせよとのことであった。……賈大少爺は世家の子弟ではあるが、今回は初めて皇上にお目見えするのだから、いくら多くの人に教えを請うても、やはり安心できなかった。引見を終えて降りてくると、まず華中堂に会った。華中堂は彼から一万両の銀子に相当する骨董を受け取った人で、会えば長々と世間話をして甚だ親切であった。やがて賈大少爺が教えを請うた。「明日の朝見で、門生の父は現任の臬司でございますが、門生は上に拝謁して叩頭すべきでしょうか、すべきでないでしょうか。」華中堂は前の話を聞いておらず、ただ「叩頭」の二字だけを聞いて、連々と答えた。「叩頭は多く、口数は少なく。これが官をする秘訣じゃ。」賈大少爺は慌てて弁明した。「門生が申しますのは、上が門生の父のことをお尋ねになれば、当然叩頭いたしますが、もしお尋ねにならない場合も叩頭すべきかどうかということです。」華中堂は言った。「上がお前に尋ねなければ、決して余計なことを言うな。叩頭すべきところでは万々忘れてはならん。たとえ叩頭すべきでなくとも、多く頭を磕けば処分を受けることはない。」一席の話で賈大少爺はいよいよ混乱した。まだ聞きたかったが、中堂はすでに立ち上がって客を送った。賈大少爺は仕方なく退出し、華中堂は多忙で煩わすべきではないと思い、黄大軍機のところへ行けば、あるいは一二教示してくれるかもしれないと考えた。ところが会ってみると、賈大少爺が話を言い終わるや、黄大人がまず尋ねた。「中堂にお会いしたか。何と仰った。」賈大少爺がそのまま述べると、黄大人は言った。「華中堂は閲歴が深い。叩頭を多く口数を少なくと仰ったのは、老成の見であり、これは少しも間違いない。」……賈大少爺はやむなくまた徐大軍機のもとを訪ねた。この徐大人は年を取っており、両耳が遠く、たとえ二言聞こえても知らぬ振りをした。平生最も養心の学を重んじ、二つの秘訣があった。一つは「動心せず」、一つは「操心せず」。……後にこの秘訣が同僚にすっかり見抜かれ、みなが彼に一つのあだ名を贈り、「瑠璃玉」と呼んだ。……この日、賈大少爺が……教えを求めに行き、会った後、寒暄を交わしてからこの件に触れた。徐大人は言った。「もとより叩頭を多くするのは一番よいことじゃ。叩頭せずとも差し支えない。叩頭すべき時に叩頭し、叩頭せずともよい時は叩頭せぬのがよかろう。」賈大少爺がまた華・黄両氏の言葉を述べると、徐大人は言った。「お二方の仰ることはどちらも間違いない。お二方の仰るとおり、臨機応変にするのが最も穏当じゃ。」長々話しても一向に道理が出てこず、退出するほかなかった。やがてある小軍機のところまで尋ね当て、その人もまた父上の親友であって、ようやく儀注を言い聞かせてくれた。翌日の召見は、果たして支障なく済んだ。……(第二十六回)

我仏山人は呉沃堯、字は繭人、後に趼人と改めた。広東南海の人で、仏山鎮に居したので自ら「我仏山人」と称した。二十余歳で上海に至り、常に日刊紙に文を寄せたが、みな小品であった。光緒二十九年、新会の梁啓超が日本の横浜で『新小説』を印行し、月一冊を出した。翌年(一九〇三)、沃堯はようやく長編を学び始め、これに寄稿した。前後数種あり、『電術奇談』、『九命奇冤』、『二十年目睹之怪現状』と称し、名声は日に盛んとなったが、最後のものがとりわけ世間で称えられた。後に山東に客遊し、日本に渡ったが、いずれも意を得ず、結局また上海に居を定めた。三十三年、『月月小説』の主筆となり、『劫余灰』、『発財秘訣』、『上海遊騖録』を撰した。また『指南報』のために『新石頭記』を書いた。さらに一年後は広志小学校を主持し、学務に甚だ力を尽くしたので、著作は多くなかった。宣統紀元にようやく『近十年之怪現状』二十回を成したが、二年九月に急逝し、年四十四(一八六七——一九一〇)。別に『恨海』、『胡宝玉』二種があり、先にいずれも単行された。またかつて商人の託に応じ、三百金でその薬を頌する『還我霊魂記』を撰したが、一時非難を受け、文もまた伝わらなかった(『新庵筆記』三、『近十年之怪現状』自序、『我仏山人筆記』汪維甫序を参照)。短文は得意とするところではなかったが、後に名声が高まると、人がこれを綴集して『趼廛筆記』、『趼人十三種』、『我仏山人筆記四種』、『我仏山人滑稽談』、『我仏山人札記小説』等とした。

『二十年目睹之怪現状』はもと『新小説』に連載されていたが、後に『新小説』とともに中断し、光緒三十三年にようやく甲から丁の四巻の単行本が出、宣統元年にさらに戊から辛の四巻が出て、合わせて百八回となった。全書は自ら「九死一生」と号する者を筋とし、二十年間に遭遇し、目撃し、耳にした天地の驚くべき事を歴々と記して一書に綴った。幼年に始まり、結末はなく、「話柄」を雑集するのは『官場現形記』と同じである。しかし作者の経歴が多いため、叙述する人物の種類もまた多く、官・師・士・商がみな録に著された。当時の伝説を蒐羅するほか、旧作(『鍾馗捉鬼伝』の類)をも仕入れて新聞とした。自ら言うには「ただ私が世に出てからの二十年を振り返ると、出会ったのはただ三種のものだけであった。第一は蛇虫鼠蟻、第二は豺狼虎豹、第三は魑魅魍魎」(第一回)と。すなわち全書の叙述がこの類の人物の言行を離れないことが分かる。伝えるところでは、呉沃堯は性格が強毅で人の下に立つことを欲せず、ついに坎坷のうちに世を終えた。ゆえにその言は甚だ慨然としている。惜しむらくは描写が誇張に失し、時に悪を過剰に叙して真実に背くため、感人の力がたちまち微となり、結局は連篇の「話柄」に過ぎず、閑散の者の談笑の資に供するばかりである。北京の同宿人・符弥軒が祖父を虐待した次第を記すくだりは次のとおりである。

第116節

……夜になると、各人はもう休んでいたが、私は枕の上で東の庭からかすかに喧騒の声が聞こえてきた。……しばらく騒いではまた静まり、静まってはまた騒ぎ、何を言っているのかは聞き取れないが、ただ耳が煩わしく、安眠できなかった。……自鳴鐘が三時を告げた後にようやく朦朧と眠りにつき、目が覚めるともう九時過ぎであった。急いで起きて服を着、客間に出ると、呉亮臣、李在茲と二人の丁稚、一人の料理人、二人の雑用係が車座になってひそひそ話していた。私は急いで何事かと尋ねた。……亮臣がまさに口を開こうとすると、在茲が言った。「王三に言わせましょう、こちらの口の手間が省けます。」雑用係の王三がこう言った。「東の庭の符旦那のところの事です。昨晩夜中に小用に起きたら、東の庭で誰かが言い争う声が聞こえました。……裏庭にこっそり行って……中を覗き見しました。符旦那と符奥様が上座に向かい合って座り、私どもの家に物乞いに来たあの老人が下座に座っていて、二人はまさにその老人を罵っているところでした。老人はうつむいて泣くばかりで声も出しません。符奥様の罵りぶりが一番ひどく、こう言いました。『人間は五六十まで生きたら死ぬべきだ。八十過ぎてまだ生きている人なんて見たことがない。』符旦那は言いました。『生きているだけならまだいい。粥であれ飯であれ、食べるものがあれば食べて、分をわきまえていればいいものを。今日は粥が嫌だ、明日は飯が嫌だと。いいものを食べ、いいものを飲み、いいものを着たければ、自分の腕で稼ぐものだと知らないのか。』老人は言いました。『お願いです、いいものなど求めません、ただ少しの漬物をくださるだけで。』符旦那はこれを聞くと、さっと立ち上がって言いました。『今日は漬物、明日は塩肉、明後日は鶏や鵞鳥や魚や鴨、そのうちに燕の巣やフカヒレまで欲しがるだろう。俺は補缺もない貧乏官だ、おもてなしなどできるか!』そう言って、卓を叩き板を打って大いに罵った。……一しきり罵った後、婆やが酒菜を運んできて、真ん中の一本脚の丸テーブルに並べた。符旦那夫妻は向かい合って酒を酌み交わし、談笑していた。老人は下座に座ったまま、しきりにすすり泣いていた。符旦那は二杯飲んでは二言罵り、符奥様はひたすら骨を取ってチン犬にじゃらしていた。老人が泣き顔で何か一言言ったところ、符旦那はたちまち雷霆のごとく怒り、一本脚のテーブルをひっくり返した。ガシャンと音がして、テーブルの上のものが床一面に散らばり、大声で叱った。『さあ食え!』老人もまことに面目がなく、本当に地面に這いつくばって拾い食いした。符旦那は突然立ち上がり、座っていた凳子を持ち上げて、老人に向かって投げつけた。幸い立っていた婆やが飛び出してきて受け止めようとし、受け止めきれはしなかったものの、勢いはだいぶ殺がれた。凳子はやはり老人の頭に当たったが、頭の皮を少し破っただけで済んだ。もしあの一受けがなければ、脳味噌が飛び出していたでしょう。』私はこの話を聞いて思わず冷や汗をかき、黙って考えた。食事の時になると、李在茲にすぐ部屋を探すよう言った。我々は引っ越すことにした。……(第七十四回)

呉沃堯の著作のうち、『恨海』、『劫余灰』、及び訳本を演述した『電術奇談』等三種だけは、自ら写情小説と称したが、その他はすべてこの類であり、ただ譴責の度合いがやや異なる。本旨については、筆墨で生計を立てていたので、周桂笙(『新庵筆記』三)が言うように、「人により、地により、時により、それぞれ変態がある」が、その大要は「旧道徳の恢復を主張すること」(『新庵訳屑』の評語を参照)にあるという。

また『老残遊記』二十章がある。「洪都百煉生」著と題するが、実は劉鶚の作であり、光緒丙午(一九〇六)の秋に上海で書いた序がある。あるいは本来未完で、末尾の数回はその子が続作したとも言う。鶚は字を鉄雲といい、江蘇丹徒の人で、若くして算学に精しく、読書もよくしたが、放曠にして縄墨を守らなかった。後に突然自ら悔い、門戸を閉じて一年余り、やがて上海で医を業としたが、まもなくこれも棄てて商売を学び、資産をことごとく失った。光緒十四年に河が鄭州で決壊すると、鶚は同知として呉大澂のもとに投じ、治水に功あって声望は大いに上がり、次第に知府に用いられるに至った。北京に二年いて、鉄道敷設を上書した。また山西の鉱山開発を主張し、それが成ると、世俗はこぞって非難し、「漢奸」と称した。庚子の乱に、鶚は太倉の貯蔵米を安値で欧人から購入したが、実は飢えに苦しむ者を救済するためであったとも言い、生き延びた者は甚だ多かった。数年後、政府はすなわち倉米を私売した罪で彼を問い、新疆に流されて没した(約一八五〇——一九一〇、詳しくは羅振玉『五十日夢痕録』を参照)。その書は鉄英、号して老残なる者の遊行に託して、その言論見聞を歴々と記したものであり、景を叙し物を状するに時に見るべきものがあり、作者の信仰もそこに見え、官吏を攻撃する箇所も多い。剛弼が魏氏父娘を一家十三人命の謀殺重犯と誤認し、魏氏の僕が賄賂を行って免れようとしたところ、剛弼がかえってこれをもって証拠としたくだりは、いわゆる清廉な官吏の憎むべきこと、あるいは汚吏よりもなお甚だしいことを暴いたものであり、人のいまだ言わざることを言ったのである。作者もまた甚だ自ら喜び、「汚吏の憎むべきことは人みな知る。清廉な官吏のなお憎むべきことは、人多く知らない。そもそも汚吏は自ら病あることを知り、敢えて公然と非を行わない。清廉な官吏は自ら金を取らぬと以て何をしてもよいと思い、剛愎自用にして、小は人を殺し、大は国を誤る。我らが親しく目にしたところ、数知れない。徐桐、李秉衡を見よ、その顕然たる者である。……これまでの小説はみな汚吏の悪を暴いた。清廉な官吏の悪を暴いたのは、『老残遊記』に始まる」と言った。

……さて衙役たちは早くも魏家の父娘を連れてきたが、いずれも半死半生の様子であった。二人が堂上に跪くと、剛弼は懐からあの一千両の銀票と五千五百両の証書を取り出し、……差役に命じて父娘に見せた。父娘は「分かりません、これは何でしょうか」と答えた。……剛弼は哈哈と大笑して言った。「お前たちは知るまい、わしが教えてやろう。昨日、胡挙人なる者がわしを訪ね、まず一千両の銀子を贈り、お前たちのこの事件について、なんとか釈放するよう図ってくれと言った。さらに、もし釈放されるなら、銀子はもっと多くても惜しくないと言った。……もし人命がお前たちの謀害でなければ、なぜお前の家は数千両もの銀子を出して工作しようとするのか。これが第一の証拠だ。……わしが『一つの命につき五百両で計算すれば、六千五百両になるはずだ』と言った時、お前の番頭は当然『人命はまことに我が家の害したものではございません。もし冤を晴らしてくださるなら七千でも八千でも構いませんが、六千五百両という額はお引き受けいたしかねます』と言うべきであった。なぜ何の疑義もなく一つの命につき五百両で計算したのか。これが第二の証拠だ。お前たちに勧める、早く白状せよ。余計な刑具の苦しみを免れるようにせよ。」父娘はしきりに叩頭して言った。「青天の大老爺様、まことに冤罪でございます。」剛弼は卓を叩いて大いに怒った。「わしがこのように諭しても、まだ白状せぬか。もう一度挟み責めにせよ!」差役たちが雷のような声で「はっ!」と応じた。……まさに刑を加えようとした時、剛弼がまた言った。「待て。刑を執る差役は前に出よ。……お前たちの手口は全部分かっておる。事件が軽いと見れば、金を受け取って刑を軽くし、囚人にあまり苦しみを与えない。事件が重大で覆しようがないと見れば、金を受け取って一気に締め上げ、囚人を堂上で殺して完全な遺体を残してやる。しかし本官には厳刑致死の処分が下る。わしは全部承知しておる。今日はまず賈魏氏を挟め。ただし気を失わせてはならぬ。顔色が悪くなれば刑を緩め、息を吹き返したらまた挟め。十日の準備をせよ。いかなる豪傑でも白状させられぬことはあるまい。」……(第十六章)

『孽海花』は光緒三十三年に『小説林』に掲載され、「歴史小説」と称し、「愛自由者発起、東亜病夫編述」と署した。実は常熟の挙人・曾樸の作であるという。第一回はなお楔子であり、六十回の全目がある。金汮の抡元に始まり、清末三十年間の遺聞逸事を雑叙する。後に革命をもって結末とするつもりだったようだが中止し、合輯して十巻の書、わずか二十回であった。金汮とは呉県の洪鈞のことで、かつて江西の試験官を務め、上海で名妓・傅彩雲を妾に納れた。後にイギリスに使し、彼女を伴って夫人と称し、話柄が多かった。洪が北京で没すると、傅は再び上海で妓となり曹夢蘭と称し、また天津で賽金花と称した。庚子の乱に連合軍統帥に寵愛されて勢い盛んであった。書は洪・傅についてことに悪戯めいた叙述が多く、当時の達官名士の姿もまた淋漓と描いたが、時に言を誇張するのは譴責小説の通弊のとおりである。ただし構成は工巧にして文采斐然たり、これがその長所である。書中の人物は、ほとんど影射しないものはない。李純客と改称した者は実にその師の李慈銘であり、親炙すること久しく描写は実に近いはずだが、形容が時に過度で自然さを失するのは、修飾を尚んで白描を賤しむ当時の作風のためである。例として引く。

……さて小燕は普段着で軽車に乗り、城南の保安寺街に向かった。折しも秋高く気爽やかにして、程なく門前に着いた。門に新しく貼られた淡紅の朱砂箋の対聯が目に入った。

保安寺街蔵書十万巻

戸部員外補闕一千年

小燕はにやりとした。門を入り、影壁を回って東に折れると北向き三間の倒庁。廊下を進むと秋葉の形の洞門があり、中は四角い小さな中庭であった。庭前に一架の紫藤、緑葉鬱蒼として、庭一面に木芙蓉が紅く咲き誇っていた。三間の静室に湘簾が垂れ、ひっそりとして人の声もない。微風が簾の隙間から薬の煙を送り、清香が鼻に沁みた。簾を上げて入ると、髷を結った小童が破れた蒲扇を手に薬を煮ていた。奥の部屋から朗吟が聞こえた。「淡墨の羅巾、灯の畔の字、小風鈴の佩、夢の中の人。」小燕は笑いながら「『夢の中の人』とはどなたですか。」純客は半ば古びた熟羅の半截衫に草鞋、片手で短い髭を撫でながら古い竹榻で読書していた。小燕を見ると急いで身を倒し破れた書物に伏し、震え声で言った。「おや、小翁がお越しとは。老夫は病体にてお出迎えもできず申し訳ない。」小燕は言った。「純老のご不例は、いつからですか。」純客は言った。「諸公が老夫の寿を祝おうと相談なさったあの日から起こったのだ。雲臥園の集いには、今日は参れそうにない。」小燕は言った。「風寒の小疾、服薬後にはきっとご快復でしょう。」小燕がこっそり見ると、榻の枕元から長い紙がはみ出しており、書き出しの敬称がずらりと並んでいた。「閣下」でも「台端」でもなく、すべて「妄人」の二字であった。一二行読もうとした時、門の外から二人の者が話しながら忍び足で入ってきた。竹簾がパタンと鳴った。まさしく、十丈の紅塵に侠骨を埋め、一簾の秋色に詩魂を養う。来たのは誰か、次回を待たれよ。(第十九回)

『孽海花』にも他人の続書(『碧血幕』、『続孽海花』)があるが、いずれも評価されなかった。

このほか、社会の弊悪を抉り出す小説を撰作した者はなお多いが、十中八九は上記の諸書に追随しつつも甚だ及ばず、ただ譴責の文を作るのみでかえって感人の力なく、生まれてはたちまち消え、多くが未完である。その下等なものは私敵を醜く誹り謗書に等しい。あるいは罵倒の志はあっても叙述の才なく、ついに堕落して「黒幕小説」となった。

【魯迅全集・第十一巻】

月界旅行

科学小説月界旅行弁言

第一回 太平に悲しみ会員旧を懐う 寥寂を破り社長書を贻る

第二回 新地を捜し奇想天を驚かす 演壇に登り雄弁俗を震わす

第三回 巴比堪松明を列ねて諸市を游ぶ 観象台書簡を寄せて天文を論ず

第四回 星使に喩え麦氏飛丸を頌す 螺旋を廃し社長巨砲を定む

第五回 決議を聞き二州地を争う 反対を逞しくし一士金を懸く

第六回 石丘を覓め連騎山に入る 洪炉を鼓し飛鉄瀑と成る

第七回 成功を祝し地の府に華筵を張る 同志を訪ね舵楼に畸士に遇う

第八回 温素互和人生を調剤す 天行就降地軸を改良す

第九回 侠男児演壇に凱を奏す 老社長人海に仇に逢う

第十回 空山に友を覓め游子魂断つ 森林に人なく両雄決闘す

第十一回 逍遥を羨み麦公憤を含む 震動力を試し栗鼠殃に蒙る

第十二回 新実験勇士気に服す 大創造巨鏡天を窺う

第十三回 蛮族を防ぎ亜電武器を論ず 遠客を迎え明月飛丸を照らす

第十四回 詭弁を縦にし汽扇雲を駆る 佳音を報じ弾丸月に達す

地底旅行

第一回 奇書眼を照らし九地路通ず 流光人に逼り尺波電の如く謝す

第二回 愛情を割き手を揮って征途に上る 冒険を教え高きに登り游子を嚇す

第三回 探険を助け壮士途を識る 貧辛を紓べ荒村に馬を駐む

第四回 生命を拚し奮身して火口に入る 中道を択び聯歩して地心に向かう

第五回 光明を仮り造物人を欺く 大僥倖霊泉渇を医す

第六回 亜蓠士痛哭す無人の郷 勇梗斯力めて渡津の筏を造る

第七回 巨海に泛び釣を垂れて盲魚を獲る 戦場に入り飛波古獣を現す

第八回 大声水を出で浮嶼龍に擬す 怪火人を搏ち荒天電を掣く

第九回 磁針を擲ち碛間に造化を呵す 匕首を拾い碣上に英雄を識る

第十回 爆薬を埋め再び亜仑洞を辟く 旋渦に遇い共に焦熱獄に堕つ

第十一回 熱潮を秉り火に入り火を出ず 楽土に堕ち生を捨て生を得

第十二回 故郷に返り新説群儒を服す 至理を悟り偉功怪火に帰す

域外小説集 序言 略例

謾(一~六) 黙(一~四) 四日

現代小説訳叢 暗澹たる煙靄の中で(一、二) 書籍(一~五)

連翹 省会 幸福 医者(一~三)

戦争中のウィルコ——一つの実話 狂った娘 父はアメリカに

現代日本小説集

掛幅 クレーク先生 遊戯 沈黙の塔 幼き者とともに

阿末の死(一~十一) 峡谷の夜 三浦右衛門の最期

復讐の話 鼻 羅生門

附録 作者についての説明

夏目漱石 森鷗外 有島武郎 江口渙 菊池寛

第117節

芥川龍之介

労働者スヴェートロフ

「労働者スヴェートロフ」を訳した後に

労働者スヴェートロフ

一 二 三 四 五 六 七 八 十 十一 十二 十三 十四 十五

【第一回 太平に悲しみ会員旧を懐う 寥寂を破り社長書を贻る】

およそ世界地理と歴史を読んだ者は、アメリカという場所があることを知っている。アメリカ独立戦争のことに至っては、子供でさえも天地を揺るがすものであったと知っている。今はさておき、独立戦争の時、合衆国にメリーランド州があり、その首府ボルティモアは名高い都市であった。行人は踵を接し、車馬は雲の如し。この府中に一つの会社があり、壮大であることは言うまでもなく、国旗が風に翻るのを見れば粛然として敬意を覚える光景であった。年々の戦闘で人心は恟恟とし、商人は資財を捐て、舟子は舟楫を棄て、みな兵事を研究していた。ウェストポイント兵学校の者は一層熱心であった。その後、多大の犠牲を払って遂に全勝し、奴隷の羈絆を脱して赫々たる合衆国を建てた。勝因は自ら兵器を製造し精巧を極めたことにある。ゆえにアメリカ砲術は天下に聞こえ、英仏の巨砲も見劣りした。あのボルティモア府中の壮大無比の星条旗はためく会社が銃砲製造所であった。設立時、官紳の力にも富商の資にも頼らず、一人の大砲発明家と鋳鉄師が相談し、旋盤工を招いて基礎を築いた。一月で正式社員千八百三十三名、同志社員三万五千六十五名に達した。拳銃短銃には構わず大砲鋳造に専心するのが宗旨であった。社員名簿を見れば戦死か陣亡、生還者も残缺不全。杖をつく者、木の義手義足の者、ゴムの頬、銀の頭蓋、白金の鼻——さながら廃人の会館であった。政治家ビードクルいわく「四人合わせても完全な腕は一本なく、六人合わせても揃った脚は一対もない」と。しかし老驥伏櫪、志は千里。五体不全なれども雄心は死せず、常に弾痕を撫でては再び戦場で新砲を試みたいと願った。陶淵明の詩にいう、

精衛は微木を銜み、将に以て滄海を填めんとす。

刑天は干戚を舞わし、猛志は固より常に在り。

まさにこの会社の精神である。しかし戦争は終わり、大砲は無用の長物と化し、戦場は沃土に変わった。社員は鬱屈し、会社は零落し、堂室は荒廃した。……ある日の暮れ、社員ハントが義足を暖炉にかざして言った。「我々には為すべき事がない。いつ砲声を聞けるのか。」ビルスベーは断腕を伸ばし「そんな愉快なことはもうない。かつての大将は商人に戻り、弾丸庫には綿花が積まれた」と。マストンはゴム製の頭蓋を掻きながら「臼砲の雛形が出来た。将来の戦争を一変させ得る」と。ハントは「本当か」と聞き、マストンは「嘘ではない」と答えた。大佐ブレンベリーは「ヨーロッパの国体論争のことだろう」と言い、マストンは「もし臼砲に試験の好機が来ぬなら、アレガニーの平野に身を埋める」と憤った。一同は「我々もお供しよう」と答え、意気消沈して散会した。翌日、書状が届いた。

本月五日の集会にて、古今未曾有の奇事を議せんと欲す。謹みて同盟諸君子のご来臨を乞う。

十月三日、ボルティモアにて。銃砲会社社長バービケイン。

謎は誰にも解けず、顔を見合わせるばかり。

壮士は空しき歳月に甘んぜず、秋の雁は何事ぞ庭前に舞い降りる。

次回に譲る。

【第二回】

五日の八時、社員は銃砲会社に駆けつけた。広大な会場は人で溢れ返り、正式社員と同志社員だけが整然と座っていた。正面に社長の椅子、三十四インチ臼砲台の形で車輪付き。前に「コルンバード」砲式の鉄机。壁に大時計。社長は四十に満たぬ男で、若くして木材商で巨利を得、独立戦争で砲兵長を務め名声を博した。時計が八つ鳴ると粛然と起立し、黒縁の峨冠に黒い礼服、体格魁偉、相貌荘厳。朗々と語り始めた。

「我が勇敢なる同盟社員諸君。世は久しく太平にして我々は無用の長物となった。期し難い機会を待つより、精神を奮い励まし事業を成すべきである。数か月、私は全精力を一つの大目的に注ぎ研究推算した結果、各国が成し遂げられなかった大事業が成功し得ること、確実な根拠のあることを知った。もし成就すれば全世界が震動するであろう。……」

堂中がどよめいた。社長は峨冠を整え直し、天を指して、ゆっくりと語った。

第118節

「我が最も勇敢なる同盟社員諸君!ご覧あれ、あの蒼穹に輝くのは一輪の月ではないか。今宵の演説は、まさにこの『夜の女王』をもって一大事業を成し遂げ得るがゆえである。この大事業とは何か。諸君、驚かれるな。すなわち未だ誰も知らぬ月世界を探索し、コロンブスの発見と同じことを為そうというのだ。しかし一人の力では成就し得ない。諸君の協力を得て、我が合衆三十六連邦の版図に月世界を加えたい。(拍手)月世界の重量、周囲、直径、組織、運動、距離と位置をすべて算出し太陰図を描いた。しかし地球から月世界に通路を開く事業はいまだない。(大喝采)空想上の探検者は少なくないが、いずれも紙上の理論に過ぎない。本日報告するのは実地研究である。砲術の進歩により大砲の抵抗力と火薬の弾撥力に限りなきことが明確となった。精巧な弾丸が月世界に到達し得るかという問題がおのずと生じたのである。」

聴衆は呆然として静まり返り、しばらくして雷鳴の如き拍手喝采が起こった。社長がまた語った。「弾丸に毎秒一万二千ヤードの初速を与えれば月世界に射入できることが確実に分かった。この一大事業を試みんとするものであり、諸君いかがであろうか。」

聴衆の歓喜は言いようもなく、叫び笑い吼え、十万の軍勢の声の如くであった。

広寒がいずこにあるかを問うなかれ、壇上の雄弁はすでに神を驚かす。

次回に譲る。

【第四回 星使に喩え麦氏飛丸を頌す 螺旋を廃し社長巨砲を定む】

第119節

社長が天象台の返書を受けた翌日、盛宴を設け尽力社員を招集し大砲・弾丸・火薬の三大要件を決定した。投票で社長バービケイン、大将モーガン、少将エルフィンストン、監事マストンの四名を選出。社長は弾丸を先に議すとし、マストンは「月世界への弾丸は使節と同じ。修身を第一義とすべし」と熱弁した。モーガンが過去の砲弾速力を報告。社長は「八百ヤードでは過小、二十倍に増すべし」とし、望遠鏡観測のため直径九フィートの弾丸が必要と説明。四万八千倍の望遠鏡で月を五英里に縮め九フィート以上の物体が見える。材質は鉄では重すぎ、社長はアルミニウムを提案。「銀の色沢、金の堅剛、鉄より三倍軽い。ポンドあたり九ドル。」アルミニウム製なら一万九千二百五十ポンド、約十七万三千五百ドル。決定した。

翌日は大砲を議した。三力(硝薬激発力・地球引力・空気抵抗力)を説明。少将は「通常の砲長は弾丸直径の二十倍」と言い、マストンは「足りない」と叫んだ。社長は「九百フィートでも不足かもしれぬ」とし、螺旋線は不要、初速だけが重要と論じた。材質は鋳鉄、六万八千四十トン、二百五十一万七百一ドル。社長が「資本金は手中にある」と安心させ散会。翌日火薬を決定すれば万事円満。

呉質は眠らず桂樹に倚り、泉明は計なくして桃源を覓む。

次回に譲る。

【第五回 決議を聞き二州地を争う 反対を逞しくし一士金を懸く】

第120節

前回述べたように弾丸と大砲は議定し、残るは火薬の問題のみ。火薬の起源は上古の支那人の発明とも千四百年頃の僧侶シュワルツとも言うが後の臆説に過ぎず、千三百年頃の英国僧侶ベーコンの記録が確かである。当初は黒色火薬(硝石・硫黄・木炭の混合物)のみであったが、千八百四十五年にバーゼルの化学者シェーンバインが引火棉を発明した。綿花を硝酸・硫酸混合液に浸して乾燥させたもので、黒色火薬の四倍の威力がある。

社長は「引火棉を用いるべし」とし、弾丸の重量と必要速力から四十万ポンドが要ると算出。少将は砲身の耐久性を懸念したが、社長は「引火棉は段階的に爆発し砲身の長さがこれを可能にする」と説明。費用はポンドあたり四十八セント、合計十九万二千ドル。承認された。

発射地点は赤道に近い場所が最適とされ、フロリダのタンパが選ばれた。テキサス州が猛烈に反対し両州間で激論が起こったが、科学的根拠によりフロリダのストーンズ・ヒルに決定。一方、フランスからミシェル・アルダンが「弾丸に乗って月へ行きたい」と電報を寄越し、新たな議論が巻き起こった。

次回に譲る。

【第六回 石丘を覓め連騎山に入る 洪炉を鼓し飛鉄瀑と成る】

第121節

たちまち巨額を募集し会社事業は堅固となった。十月二十日、ニューヨーク府スプリング商会と契約を交わし、社長とスプリング製造局長が捺印。望遠鏡設置費はケンブリッジ天文台に、鋳弾はアルバニーのブラヴィ商会に託し、自らはマストン、エルフィンストンらとフロリダに出発した。タンピコ汽船に乗り換え数日でタンパに到着。

社長はまず石丘の実地調査に着手。馬で山に入り適地を探した。ストーンズ・ヒルの地形は理想的で岩盤が堅固。九百フィートの竪穴を掘るため数百人の労働者が集められ蒸気機械で昼夜掘削。千二百基の溶解炉が石丘周囲に建てられた。

鋳造の日、千二百の溶解炉に一斉に火が入った。溶鉄が奔流となって竪穴に注ぐ光景は洪炉を鼓して飛鉄が瀑布と化すかの如し。火光は天を焦がし地は震えた。鋳造は成功裡に完了し巨大な砲身が地中に据えられた。砲口は天に向い、月世界への通路の準備が整った。

次回に譲る。

【第七回 成功を祝し地の府に華筵を張る 同志を訪ね舵楼に畸士に遇う】

第122節

アルダンはフランクリン旅館に入り、疲労から食事後すぐに眠った。耳鳴りがして頭がくらくらし、まるで大弾丸の中にいるようであった。重い掛け布団にくるまり、数分で深い眠りに落ちた。雷鳴地震があっても銅像のように眠るこの男を起こすことはできなかっただろう。東方が明るくなりドアを叩く音が聞こえた。「大事だ、なぜドアを開けない!」しかし門内の者は鼾声雷の如く。数回呼んでようやく返事があった。

マストンが入ってきて「アルダン君、臬科尔が社長に決闘を申し込んだ!月世界飛行は不可能だと言い社長を嘘つき呼ばわりした」と告げた。アルダンは「面白い。しかし社長が決闘で死んでは元も子もない。私が間に入ろう」と言った。

アルダンは臬科尔のもとを訪ね説得した。「月世界への飛行が成功するかは実際にやってみなければ分からない。いっそ私と一緒に弾丸に乗って月へ行こうではないか。失敗すればあなたの正しさが証明される。」臬科尔は考えた末に「よかろう。私も乗る」と言った。

こうして三人が月世界旅行の乗員となった。社長バービケイン、アルダン、臬科尔。アメリカ中が興奮に包まれた。

次回に譲る。

【第八回 温素互和人生を調剤す 天行就降地軸を改良す】

第123節

アメリカ国民は初め社長と臬科尔の決闘を聞いて驚惶したが、アルダンとマストンの調停で解決と知り大いに喜んだ。遠方の者も代表を派遣し祝賀した。アルダンの旅館前は繁華な都市のようになり毎日何千万人が訪れた。アルダンは休息の暇もなく両手も握り過ぎて麻痺した。代表たちは月世界探検の偉丈夫と数語交わすだけでも栄誉と語りたがった。

弾丸内部の設計が議論された。三人分の座席、酸素供給装置、水と食料の貯蔵庫、観測窓が設けられ、反動緩和装置と着陸時の衝撃吸収機構も設計された。アルダンは月世界への贈り物として動植物標本、書籍、芸術品の持参を提案した。重量制限はあるが一部は認められた。

準備は着々と進み、発射日が近づいた。全世界から見物人が集まりストーンズ・ヒル周辺は大都市のようになった。

次回に譲る。

【第九回 侠男児演壇に凱を奏す 老社長人海に仇に逢う】

第124節

前回、諸事は済んだが弾丸はまだ完成していなかった。アルダンの電報後に工事は停止され、到着後数日協議してブラヴィ商会に改めて製造を命じ、十一月二日に完成。東方鉄道で十一月十日に石丘に到着。三人が仔細に検査した。弾丸周囲に清水が貯えられ深さ三フィート、底面は円形水板で水漏れなく自由に運行可能。

内部には座席、温度計、気圧計、時計が取り付けられた。酸素供給は化学反応を利用し、二酸化炭素は苛性カリで吸収。食料は圧縮保存食、水は十分確保。外壁は二重構造で緩衝材が詰められ、底部に強力なバネが仕込まれた。

アルダンは「素晴らしい、豪華な客室だ」と喜び、臬科尔は冷静に「問題は発射の瞬間の衝撃だ」と言い、社長は「計算上は問題ない。水の緩衝とバネで十分だ」と答えた。

すべての準備が整った。あとは発射の日を待つばかり。

次回に譲る。

【第十回 空山に友を覓め游子魂断つ 森林に人なく両雄決闘す】

第125節

光陰は電の如く初冬を迎えた。実験日が近づき社員の心魂は九天に飛んでいた。臬科尔だけは頑固に成功しないと言い張った。「コルンビアード砲に引火棉四十万ポンドを装入すれば燃焼必至、弾丸圧力で大惨事を招く」と。しかし社長は泰然として自ら工頭を指揮した。

引火棉の搬入は細心の注意を払い、小分けにして砲身底部から順に丁寧に詰め込んだ。発射日は十二月一日、月の位置が最適な日。全米から、ヨーロッパからも数百万の見物人が集まり、ストーンズ・ヒル周辺は巨大な野営地と化した。

発射前夜、三人は最後の晩餐を共にした。アルダンは上機嫌で冗談を飛ばし、社長は冷静に最終確認をし、臬科尔は黙然と酒を飲んでいた。三人は弾丸に入りハッチが閉じられた。カウントダウンが始まり、点火係の手が震えた。社長の合図で電気信号が送られた。

次回に譲る。

【第十一回 逍遥を羨み麦公憤を含む 震動力を試し栗鼠殃に蒙る】

第126節

旅行弾丸が発射された時、烈火は柱の如く天外に聳え、火竜が爪を張り蜿蜒と上昇した。やがて蓬勃と四散しフロリダを照らし火焔世界と化した。三百英里以内では深夜でも微虫の蠕動すら歴々と見えた。震動の力は千古未曾有の大地震で、フロリダは震域の中心。火薬の気体が空気を震動させ人工の大暴風が生じ、数千万の見物客はみな吹き倒された。

暴風が収まり人々が空を仰いだが弾丸は見えなかった。望遠鏡で観測し弾丸は予定軌道を進んでいると確認されたが、中の三人が無事かは不明。マストンはケンブリッジ天文台で昼夜観測を続けた。やがて月の表面近くに光点が見えた。弾丸が月の引力圏に入ったのだ。しかし弾丸は月面に着陸せず周回軌道に入ってしまった。

地球では大騒ぎとなった。数日後、太平洋上で巨大な物体が海面に落下。艦船が向かうとそれは弾丸であった。ハッチを開けると三人は無事。月には到達できなかったが月を一周して帰還したのだ。三人は英雄として迎えられアルダンは「次はもっと良い弾丸で再挑戦する」と宣言した。

次回に譲る。

【第十二回 新実験勇士気に服す 大創造巨鏡天を窺う】

第127節

十七日になっても一面の大海原で陸影は全く見えなかった。アクセルは長く海上に留まり鬱々たる気分に。リーデンブロック教授も不機嫌な様子。望遠鏡を取り出し四方を眺めた後、額にぶつけて問うた。「何を考えている。」アクセルは「何も」と答えた。教授は「否!お前は不機嫌そうだ。また郷愁か。筏の速度は速いが海路は遠い。焦ってはならぬ」と怒りの表情を浮かべた。アクセルは何が不機嫌なのか分からぬのに八つ当たりかと思ったが黙っていた。

教授は観測に没頭した。海面に不思議な現象が次々と現れ、巨大な影が水中を通過し水面が盛り上がった。前方に島影が見えたが近づくと巨大な海獣の背中であった。海獣は筏に気づき潜水し巨大な波を起こした。筏は揺れに揺れ三人は必死にしがみついた。ハンスは冷静に舵を取り筏を安定させた。教授は「記録すべき大発見だ」と目を輝かせ、アクセルは「まず生き延びることが先です」と答えた。

航海はさらに続いた。次回に譲る。

【第八回 大声水を出で浮嶼龍に擬す 怪火人を搏ち荒天電を掣く】

第128節

烈雨盲風は三昼夜続いた。アクセルは体力微弱にして海中に転落。ようやく蘇生したかと思えばまた大難に遭い声も出なかった。朦朧とする中、誰かが肩を撫で「アクセル、何を言うのだ」と語りかけた。目を開けると砂上に横たわっていた。叔父が傍に踞坐し「何を言った。悪夢か」と問うた。冷汗を拭い目を放つと空はまだ晴れぬが風雨は幾分弱まっていた。ハンスが食物を煮て食べるよう勧めた。

少し回復後、教授は周囲を調べた。嵐に流されて元と異なる岸辺に漂着していた。岩壁に奇妙な文字が刻まれ教授は「古代ルーン文字だ。先人が来た証拠」と興奮した。さらに洞窟の中に人骨と古い道具。教授は「アルネ・サクヌッセムの足跡だ。正しい道を進んでいる」と確信した。

しかし道は行き止まり。教授は「火薬で岩を吹き飛ばす」と決断。火薬を仕掛け導火線を長く引き三人は退避。凄まじい爆発で岩壁が崩れ、先には巨大な空洞と熱い蒸気。三人は激しい水流に呑まれ暗闇の中を押し流された。

次回に譲る。

【第九回 磁針を擲ち碛間に造化を呵す 匕首を拾い碣上に英雄を識る】

第129節

紙障子の向こうから、はたきと箒の音がひどく激しく聞こえてきた。女中が急いで寝室を掃除しているのだ。はたきの音がとりわけ激しい。木村もしばしば注意したが、一日経つとまた元どおりで、はたきに括りつけた紙条で払うのではなく、柄の先で払っている。木村はこれを「本能的掃除」と呼んだ。鳩が卵を抱く時、角を削って丸くした白墨で鳩の卵を入れ替えても、それでも白墨を抱いている。目的を忘れて手段だけを実行する。埃のために払うことを忘れ、ただ払うために払っているのだ。

木村は役所の仕事を終えると掛幅を替えるのが日課であった。季節に合わせて選ぶ。今日は秋の山水画を掛けた。淡墨で描かれた遠山と紅葉した楓が美しい。しばし見入り茶を淹れて一服した。木村の生活は単調——朝起きて役所に行き書類を整理し帰宅して掛幅を眺め読書をして就寝する。しかしこの静かな生活に充足を見出していた。

同僚の田中が訪ねてきて掛幅を見て「君はいつもそればかりだ」と笑った。木村は「掛幅を眺めていると心が落ち着く」と答えた。田中は「もっと外に出るべきだ」と言ったが木村は首を振った。木村にとって掛幅は小さな窓であり、その窓を通して山水の間を逍遥し古人の心に触れることができた。現実は雑多で騒がしいが掛幅の中は静謐で美しかった。

第130節

一つの仕事を片付けると朝日を一本吸う。この時、木村の空想もしばしば暴走する。いわゆる分業というものは下の下の籤を引いた者にとっては甚だ退屈なものだ。しかし不平だとは思わない。そうは言いつつもこれを己の運命と甘受するファタリスト的思想を抱いているわけでもない。こんな仕事を辞めたらどうなるだろうとも常々考えた。仮に今の境遇のまま洋灯の下で朝から晩まで著述に励んだらどうだろう。この人は著述する時まるで何かに憑かれたように没頭し、食事も忘れ睡眠も削って書き続けるに違いない。

しかし木村は自分がそのような激しい生き方に向いていないことを知っていた。緩やかな流れの中に身を置くことを好む人間であった。激流に身を投じれば大きな仕事を成し遂げられるかもしれないが、そもそもそのような欲望がなかった。世の中には二種類の人間がいる。自ら波を起こす人間と波に乗る人間。前者は歴史に名を残すかもしれないが平穏を失う。後者は無名のまま生涯を終えるかもしれないが静かな充足の中に生きる。木村は明らかに後者であった。

朝日を吸い終わると再び仕事に戻った。単調な書類仕事。しかし木村はこの単調さの中に一つのリズムを見出していた。そのリズムは心地よく穏やかな気分にさせた。窓の外では秋の風が木の葉を散らしていた。木村はふと顔を上げ窓越しに高く澄んだ秋の空を見た。

第131節

ちょうどこの時、この地方で革命党の運動が起こり、椰子の瓢箪爆弾を持った人々の中にパルシ族の無政府主義者が交じっていることが発覚した。かくしてこの「Propagande par le fait」(事実による宣伝)の一味が逮捕された際、社会主義・共産主義・無政府主義に関わりのある出版物はすべて「社会主義書籍」の符牒のもとに治安紊乱として禁止された。

この時禁止された出版物の中にアルツィバーシェフの『サーニン』も含まれていた。当局はこの小説を危険思想の宣伝と見なしたが、実際には革命運動失敗後のロシア青年の精神状態を描いたもので直接の政治的煽動とは無縁であった。禁止されたことでかえって注目を集め密かに回し読みされるようになった。禁書の常で読みたい者が増え非合法に流通した。取り締まりは効果が限られた。

これは文学作品に対する政治的弾圧の典型例であった。権力者は思想を恐れるあまり文学作品を過大評価する。作者の意図と無関係に自分たちに都合の悪い解釈を施し危険視する。しかし文学の力は弾圧によってかえって強まることがしばしばある。禁書リストは長く『サーニン』はその一つに過ぎなかったが、後に世界各国で翻訳され広く読まれることになる。弾圧は一時的だが文学の生命は長い。

第132節

批評家は『サーニン』一冊がロシアの青年を堕落に向かわせたと考えるが実に武断的である。詩人の感覚はもともと常人より鋭敏であるから、アルツィバーシェフは早くも社会にこの傾向を感じ取り『サーニン』を書いた。十九世紀末のロシアは思潮が最も勃興し中心は個人主義であった。この思潮は次第に社会運動を醸成し、ついに一九〇五年の革命として現れた。約一年後、運動は沈静化しロシア青年の性欲運動が顕著になった。しかし性欲はもともと生物の本能であり、人間生活で重要な位置を占める。問題はそれが何のためにどのように現れるかである。

革命の失敗は青年に深い挫折感を与えた。理想は砕かれ未来への希望は失われた。精神的空白の中で本能的欲望が前面に出るのは自然なことだ。サーニンはこの時代の産物であり、一切の道徳的束縛を拒否し自己の欲望に忠実に生きようとする。

アルツィバーシェフ自身はサーニンの生き方を肯定しているわけではない。冷静な観察者として時代の病巣を描き出した。しかし多くの読者はサーニンの生き方に解放感を見出し実践しようとした。これは作者の意図を超えた受容であった。文学作品は時代の鏡であり、『サーニン』が描いたのは革命後のロシアの精神的荒廃である。批評家がこの作品を断罪するのは鏡に映った醜い顔を鏡のせいにするようなものだ。

第133節

我々は今日においてもなお、人類の発達を妨げる専門家の弊害に驚き眺めている。しかも感謝の念をもって、専門家の弊害が極度に達した時、必ず起って救済する門外漢が出現することを記憶している。イギリスの政治論に新紀元を画したのは一介の銀行員ベーヨットの『英国憲法論』ではなかったか。近代の歴史学に新方向を与えたのは薬種商の小僧上がりの小説家ウェルズではなかったか。しかも専門家たちはいかにこれらの人々の無学を嗤笑し冷笑し嘲笑したことか。

しかし歴史が証明するように、真の革新は往々にして門外漢からもたらされる。専門家は既存の枠組みの中で思考する習慣がつきその枠組み自体を疑えなくなるからだ。門外漢にはその枠がないから自由に発想できる。門外漢の多くは的外れだが、中に天才的洞察力を持つ者がいて専門家の盲点を突く。

アルツィバーシェフの文学についても同様のことが言える。専門の批評家は彼の作品を様々な「主義」や「流派」の枠に当てはめようとしたが、彼の作品はそのような枠に収まらなかった。門外漢のように自由に既存の文学的規範にとらわれず書いた。だからこそ新鮮であり専門家たちを苛立たせた。文化の進歩は専門家と門外漢の絶えざる緊張関係から生まれる。両者の対話と衝突があってこそ文化は前に進む。

第134節

主婦のグレースもまた何ら美女というわけではなかったが、なかなか趣のある女で、来客と議論を交わし、時には客を窮地に追い込むこともあった。しかしそういうところがまた人に興趣を感じさせ、多くの常連客は彼女に会うことを楽しみにしてここに来て寛いだ。イギリス人の彫刻家アンクル・ハリーはよくここに来て泥酔しては酒の上の繰り言を並べていた。

若い美人のビリーニ・コレスもよくコーヒーを飲みに来た。来るとここのギターを手に取り小唄を歌いながら弾いた。私もかつて今はイタリア大使をしている人物としばしばここで会った。彼はまだ若い書記官だった頃で、我々は夜更けまで文学や政治について語り合ったものだ。

このカフェは単なる飲食の場ではなかった。思想の交差点であり、様々な国籍・職業・信条の人々が集まり自由に語り合う場であった。パリには多くのカフェがあったがこのカフェはとりわけ文化人に愛された。画家、彫刻家、作家、音楽家、外交官——あらゆる種類の人々がここで出会い友情を結び時に論争を交わした。

グレースの才覚はこの多様な客たちをうまくまとめるところにあった。誰に対しても分け隔てなく接し、しかし自分の意見は率直に述べた。それが時に客を窮地に追い込んだが、客たちはむしろそれを楽しんでいた。真の知性に対する敬意がこのカフェの空気を支配していたのだ。ここで過ごした夜々は今思い返しても輝かしい。若さと情熱と知性が渾然一体となったあの独特の雰囲気は、もう二度と味わうことができないだろう。

第135節

土木香(Inula helenium L.)はヨーロッパ原産の多年草で、秋季に二年生から三年生の宿根を採集し乾燥させたものを土木香(elecampane;Alantwurzel)と称し、健胃去痰剤に用いる。日本では売薬の中にしばしば用いられ、ヨーロッパでも重要な民間薬と見なされている。根には多量のイヌリン(inulin)および一~二パーセントの揮発油を含み、揮発油中にはアラントラクトン(Alantolakton,Cl5H20O2)[49]と称する結晶性成分を含有する。

木香(Saussurea lappa Clarke,(Aucklandia Costus Falk.))はインド北部に自生する多年草で、根は芳香性健胃薬に供し、また薫香料とし、あるいは衣服の間に挟み、防虫に有効である。

【桔梗科 Campanulaceae】

ロベリア(Lobelia inflata L.)は元来北米に自生する一年草で、日本でも栽培すればよく生育する。従来はロベリアチンキとして喘息薬に用いられていたが、副害があるため一時ほとんど用いられなくなった。しかし数年前、ヴィーラント[50]がこれから純粋にロベリン(lobelin,C23H20NO2)という塩基物を抽出することに成功して以来、不可欠の呼吸興奮薬となった。日本野生の「沢桔梗」(L. sessilifolia Lamb.——ミズネギ)にもロベリンが含まれている。[51]

桔梗(Platycodon grandiflorum DC.)は栽培して観賞に供する本植物の根もまた重要な生薬の一つである。すなわち秋季に根を掘り出して乾燥させたものを桔梗根と称し、煎服して鎮咳去痰薬とする(一日量五グラム)。北米から輸入されるセネガ根に較べ(後文の遠志科参照——訳者)、薬効は優れても劣ることはない。[52]成分は桔梗サポニン(kikyosaponin,C29H48O11)と称する。桔梗根は本来漢薬として用いられてきたが、近年は医用にも供され、さらにこれを原料とする「フラチコジン」「ホストール」「エバニン」等の新薬が発売されている。

第一図 ロベリア

【胡瓜科 Cucurbitaceae】

コロシント(Citrullus colocynthis(L.)Schrader.)はヨーロッパで栽培される蔓性多年草で、形状はスイカに類似するが甚だ小さく、果実は直径三四寸の球形である。その果肉を乾燥させると麩のように粗く軽いものとなるが、〇・二グラムを用いるだけで激烈な下痢を起こす作用がある。

カボチャ(Cucurbita moschata Duch. var toonas Makino.)はその同属のナンキン(C. moschata Duch var. melonaeformis Makino)と共に、種子は皆南瓜仁と称し、条虫駆除薬に用いる。駆虫作用はザクロ根皮ほど確実ではないが、副害がない点がその長所である。種子三十グラムを水を加えて磨り潰し、種皮を除去し、空腹時に服用する。合衆国では薬局方に収載して医用に供している。南瓜や柑橘を多食すると、しばしば眼球や皮膚等が黄色に染まり、黄疸のような外観を呈する。これを柑皮症(Aurantiosis,Carotinosis)と名づける。これは南瓜や柑橘に含まれるカロチン(carotin,C40H56)と称する黄色素が一旦人体に吸収された後、汗腺から排出されて皮膚角質層の脂肪を黄染するためである。健康には全く害はない。[53]

栝楼(Trichosanthes japonica Regel.)は暖地に自生する宿根性蔓草で、その種子を栝楼仁、根を栝楼根と称し、鎮咳去痰薬とする。また根から製出した澱粉は天花粉と称し、湿疹その他の皮膚病に外用する。

【敗醤科 Valerianaceae】

甘松香(Nardostachys jatamansi Royle.)はインド山地に自生する多年草で、その根に特異の佳香があり、甘松香と称して芳香性健胃薬とし、また薫香料、特に線香の香料に用いる。インドでは古来これを非常に貴重な香料としている。約二パーセントの揮発油を含有する[54]。

纈草(Valeriana officinalis L. var. latifolia Miq.)は山地に自生し、あるいは栽培される多年草で、初夏に美麗な淡紅色の繖形花序を頂生する。根を纈草根(valerian root;Baldrianwurzel)と称し、鎮静薬として神経衰弱、精神不安等に用い、婦人のヒステリー病には特に賞用される。一日量十グラム、通常は浸剤として用いる。約六パーセントの揮発油を含み、その固有の臭気は大抵纈草酸(Valeriansäure C4H9COOH)のエステル類に由来する。

【茜草科 Rubiaceae】

規那(Cinchona spp.)は南米原産の喬木で、現在は大抵ジャワで栽培されている。その樹皮を規那皮(cinchona bark;Chinarinde)と称し、健胃強壮薬とし、またこれから塩酸キニーネを製造して解熱薬とするが、マラリアに対しては特に不可欠の特効薬である。

珈琲(Coffea spp.)は本来東アフリカの原産で、現在は熱帯各地で栽培されている常緑灌木である。カフェイン約二パーセントを含有する。カフェインは興奮剤、強心利尿薬として用いられる。

ガンビール(Ourouparia Gambir Baill.)はマラッカ海峡沿岸地方に産する喬木で、その心材の水製エキスの乾燥品をガンビール阿仙薬と名づける。

育亨培(Pausinystalia yohimba Pierre.)はアフリカに野生する喬木である。一八九六年、ドイツ人シュピーゲル[55]がこれからヨヒンビンと称する有効成分を発見し、その塩酸塩が現今医療上に用いられている。

吐根(Uragoga ipecacuanha Baill.)は南米ブラジルに産する半灌木で、根を吐根と称し、少量を去痰薬、中量を催吐薬として用い、大量は劇毒である。またこれから塩酸エメチンを製造し、変形虫赤痢の特効薬とする。

【車前科 Plantaginaceae】

車前(Plantago major L. var. asiatica DC.)の種子を車前子、全草を車前草と称し、鎮咳薬として用いる。

【紫葳科 Bignoniaceae】

木角豆(Catalpa ovata G. Don.)は中国および日本各地に自生する喬木で、果実を梓実と称し、利尿薬として用いる。

【玄参科 Scrophulariaceae】

ジギタリス(Digitalis purpurea L.)はヨーロッパ原産の多年草で、その葉は最も重要な医薬の一つで、強心利尿剤として用いる。有効成分はジギトキシン(Digitoxin,C41H64O13)等の結晶性配糖体である。[58]

地黄(Rehmannia glutinosa Libosch. var. purpurea Makino.)は中国原産の多年草で、根を地黄と称し、漢方では補血強壮薬として用いる。

【茄科 Solanaceae】

顛茄(Atropa belladonna L.)は欧米で広く栽培される多年草で、アトロピンの製造原料に用いる。

番椒(Capsicum annuum L.)は熱帯アメリカの原産で、辛味成分はカプサイシン(Capsaicin,C18H27NO3)である。

曼陀羅華(Datura alba Nees.)、番曼陀羅(D. tatula L.)、仏茄児(D. stramonium L.)——葉を鎮痙薬とし、喘息には特に賞用される。アトロピンおよびヒヨスチアミンを含む。

ヒヨス(Hyoscyamus niger L.)はヨーロッパ原産で、葉を鎮咳、鎮痛薬とする。

煙草(Nicotiana tabacum L.)は南米原産で、その葉にはニコチン(Nicotin,C10H14N2)を含み、喫煙嗜好料および農業用殺虫剤に供する。

第136節

莨菪(Scopolia japonica Maxim.)は山間の陰地に自生する日本特産の多年草で、根を莨菪根と称し、硫酸アトロピンの製造原料に供する。成分はヒヨスチアミン、アトロピン、スコポラミン等の塩基物である。アトロピンは少量であれば鎮痙・鎮痛作用を有するが、大量では劇毒であり、その中毒者は一時的に狂躁状態を呈する。またアトロピンは眼科医術上不可欠の薬であり、瞳孔を散大させる作用がある。植物の成分中にはアトロピンと正反対に瞳孔を縮小させるものもあり、カラバル豆のフィゾスチグミンや檳榔子のアレコリンがそれである。

【唇形科 Labiatae】

夏枯草(Brunella vulgaris L.)は山野に自生する多年草で、花穂を採集して乾燥させ、民間では淋病に利尿薬として用いる。

薄荷(Mentha arvensis L. var. piperascens Holmes)は日本特産の多年草で、メントール(Menthol,C10H20O)の製造原料に用いる。メントールは日本の重要輸出品の一つで、輸出年額は約一千二百万円に達する。

洋薄荷(Mentha piperita L.)は形状こそ前種に類似するが、花穂は頂生であり、メントール含量も遥かに及ばない。もっぱら薄荷油の原料に用いる。

山紫蘇(Mosla japonica Maxim.)は日本特産の一年草で、チモール(Thymol,C10H14O)の製造原料とされていた。

サルビア(Salvia officinalis L.)はヨーロッパ原産の多年草で、葉中に揮発油を含む。

麝香草(Thymus vulgaris L.)はヨーロッパ原産の多年草で、全草に芳香があり、鎮咳薬として用いる。

【紫草科 Borraginaceae】

紫草(Lithospermum officinale L. var. erythrorhizon Maxim.)は山野に自生する多年草で、根を紫根と称し、刀傷・火傷の妙薬とする。

【旋花科 Convolvulaceae】

ヤラッパ(Exogonium purga Benth.)はメキシコに生ずる多年生蔓草で、その塊根を瀉下薬とする。

牽牛花(Pharbitis nil Chois.)は広く栽培される一年生蔓草で、その種子を牽牛子と称し、漢方では峻下薬に属する。

【蘿摩科 Asclepiadaceae】

コンデュランゴ(Marsdenia cundurango Nichols.)は南米に産する灌木で、樹皮は胃腸の強壮収斂薬である。

【夾竹桃科 Apocynaceae】

ストロファンツス(Strophanthus hispidus DC.,S. kombe Oliv.)は重要な強心利尿薬である。

【竜胆科 Gentianaceae】

センタウリウム(Erythrea centaurium L.)はヨーロッパに自生し、健胃苦味薬とする。

ゲンチアナ(Gentiana lutea L.)はヨーロッパの山地に生じ、その根を苦味健胃薬として用いる。

竜胆(Gentiana scabra Bunge. var. buergeri Maxim.)は日本各地に産し、根を苦味健胃薬に供する。

睡菜(Menyanthes trifoliata L.)は沼沢中に自生し、その葉を苦味性健胃薬として用いる。

当薬(Swertia japonica Makino.)は山野に自生し、苦味健胃薬として用いる。苦味成分はスウェルチアマリンと称する結晶性配糖体で、三十万倍の水溶液でもなお苦味を感ずる。

【馬銭科 Loganiaceae】

馬銭(Strychnos nuxvomica L.)はイギリス領東インドに産する小喬木で、ストリキニーネおよびブルシンと称する峻毒性の塩基物を含有する。ストリキニーネは最も恐るべき毒薬の一つであり、その〇・一グラムで成人を致死させ得る。

【木犀科 Oleaceae】

オリーブ(Olea europaea L.)は常緑喬木で、その果実からオリーブ油を搾取する。本植物を「橄欖」と訳するのは誤りである。

【赤鉄科 Sapotaceae】

グッタペルカ樹(Palaquium gutta Burck.)はマレー群島に産する喬木で、グッタペルカを採取し、電気の絶縁材料等に用いる。

【石楠科 Ericaceae】

ウバウルシ(Arctostaphyllos uva-ursi L.)はヨーロッパ北部に自生し、その葉を治淋薬に供する。有効成分はアルブチンである。

越橘(Vaccinium vitis-idaea L.)は常緑小灌木で、その葉はウバウルシ葉に代えて治淋薬とする。[65]

【古生花被亜門 Archichlamydeae】

【繖形科 Umbelliferae】

柴胡(Bupleurum falcatum L.)は山野に自生し、その根は漢方で重要な解熱薬に属する。

アジョワン(Carum ajowan Bth. et Hook.)は東インドに自生し、チモール製造の最も重要な原料である。

第137節

川芎(Cnidium officinale Makino.)は中国原産で各地に栽培される多年草で、根を芎あるいは川芎と称し、鎮静・鎮痙剤に用いる。揮発油中にセンキュウラクトン(Cnidiumlakton,C12H18O2)を含む。

茴香(Foeniculum vulgare L.)はヨーロッパ原産の多年草で、茴香油の主成分はアネトール(Anethol,C10H12O)である。

当帰(Ligusticum acutilobum Sieb. et Zucc.)は多年草で、根を当帰と称し、漢方では婦人病の要薬に属する。

【五加科 Araliaceae】

八角金盤(Fatsia japonica Decne. et Planch.)は栽培して観賞に供する常緑灌木で、葉中にサポニンを含み、去痰薬として用いる。

人参(Panax ginseng C.A. Mey.)は朝鮮および満洲の原産で、古来万病の霊薬として尊ばれてきたが、果たしてそのような効験があるか否かは疑わしい。成分としてはパナキロン(Panaquilon,C32H56O14)等であり、人参特有の香気はパナセン(Panacen,C15H24)に起因する。

竹節人参(Panax repens Maxim.)は山林の陰地に自生し、根中にパナクササポニンを含み、去痰薬として用いる。

【桃金嬢科 Myrtaceae】

ユーカリ(Eucalyptus globulus Labill.)はオーストラリア原産の喬木で、葉中にユーカリ油を含む。鼻カタルに吸入薬として用いる。

丁香(Eugenia aromatica Bail.)は東インド諸島で栽培される喬木で、花蕾を丁香と称して芳香性調味料に用いる。これからオイゲノール(Eugenol,C10H12O2)を製造する。

【石榴科 Punicaceae】

石榴(Punica granatum L.)は小アジア原産の落葉灌木で、皮を石榴皮と称し、条虫駆除薬とする。

【蕃瓜樹科 Caricaceae】

蕃瓜樹(Carica papaya L.)は熱帯各地で栽植される喬木で、乳汁中にパパイン(Papain)を含み、蛋白質消化剤として用いる。

【椅科 Flacourtiaceae】

大楓子樹(Taractogenos Kurzii King.)はイギリス領インドに産する喬木で、大楓子油は現今なお唯一の癩病治療薬である。

【山茶科 Theaceae】

茶(Thea sinensis L.)は東洋原産の常緑灌木で、カフェイン約二パーセントを含む。古来興奮性飲料として用いられてきた各植物はいずれもカフェインを主要成分とするという事実は興味深い。

【梧桐科 Sterculiaceae】

カカオ樹(Theobroma cacao L.)は熱帯各地で栽培される喬木で、テオブロミンの製造原料に供する。

【錦葵科 Malvaceae】

アルテア(Althaea officinalis L.)は中欧で栽培される多年草で、根中に多量の粘液質を含む。

黄蜀葵(Hibiscus manihot L.)は中国原産の多年草で、根に多量の粘液質を含み、粘滑薬に用いる。

【鼠李科 Rhamnaceae】

鼠李(Rhamnus japonica Maxim.)は山地に自生する落葉灌木で、果実はケンフェロールを含み、緩下剤として用いる。

【漆樹科 Anacardiaceae】

塩膚木(Rhus javanica L.)は日本各地に自生する落葉喬木で、五倍子はタンニンを多く含み、収斂薬に用いる。

【大戟科 Euphorbiaceae】

巴豆(Croton tiglium L.)は東インド原産の灌木で、巴豆油は峻下剤に属する。

樟葉柏(Mallotus philippinensis Müll. Arg.)の腺毛をカマラと称し、条虫駆除薬とする。

蓖麻(Ricinus communis L.)は熱帯インド原産で、蓖麻子油は重要な下剤である。

【遠志科 Polygalaceae】

セネガ(Polygala senega L.)は北米原産の多年草で、重要な去痰薬である。

遠志(Polygala tenuifolia Willd.)は満洲に産し、去痰薬として用いる。

【黄楝樹科 Simaroubaceae】

黄楝樹(Picrasma quassioides Benn.)は日本特産の落葉喬木で、健胃苦味薬として用いる。

【芸香科 Rutaceae】

夏蜜柑(Citrus aurantium L. subsp. Natsudaidai Hayata.)は暖地で栽培される常緑灌木で、果皮を浴剤の芳香料に用いる。

呉茱萸(Evodia rutaecarpa Hook. fil. et Thoms.)は中国原産の落葉小喬木で、果実を香辛性健胃薬とする。[72]

第138節

黄蘗(Phellodendron amurense Rupr.)は山地に自生する落葉喬木で、樹皮を黄蘗と称し、ベルベリンおよびパルマチンを含み[73]、漢方では重要な苦味健胃薬に属する。

山椒(Xanthoxylum piperitum D.C.)は落葉灌木で、果実は漢方で蛔虫駆除薬として用いる。揮発油の主成分はフェランドレンおよびシトロネラールである。

【古柯科 Erythroxylaceae】

古柯(Erythroxylon coca Lam.,E. novogranatense Hieron.)は南米の灌木で、葉はコカインの製造原料に供する。コカインは局部麻酔剤として重要な医薬品であり、阿片と同様に国際間で管理されている。

【亜麻科 Linaceae】

亜麻(Linum usitatissimum L.)はヨーロッパ原産の一年草で、繊維を採取して亜麻布を織り、副産物として亜麻仁油を製造する。

【牻牛児科 Geraniaceae】

牻牛児(Geranium nepalense Sweet.)は山野に自生する多年草で、茎葉を止瀉薬として用いる。

【豆科 Leguminosae】

アカシア(Acacia catechu Willd.)は東インドに生ずる喬木で、阿仙薬はカテキンおよび鞣酸を含み、収斂薬として用いる。

アラビアゴム樹(Acacia senegal Willd.)はアフリカに自生し、アラビアゴムを粘滑薬等に用いる。

トラガカント——小アジアからペルシアにかけて産する灌木で、丸剤等の賦形薬に用いる。

センナ——エジプトおよびインドに産する灌木で、葉を瀉下薬として用いる。

決明(Cassia tora L.)は南アジア原産の一年草で、種子を決明子と称し、緩下強壮薬とする。

コパイバ・バルサム樹——南米に産する喬木で、樹脂を泌尿器疾患の内用薬とする。

デリス(Derris elliptica Benth.)はマレー群島に野生する蔓性灌木で、有毒成分ロテノン(Rotenon,C23H22O6)[74]を含み、農業用殺虫剤として盛んに使用される。

皂莢(Gleditsia horrida Makino.)は落葉喬木で、多量のサポニンを含み、去痰薬または利尿薬として用いる。

甘草(Glycyrrhiza glabra L. var. glandulifera Regel. et Herder.)は中国北部に自生する多年草で、根の甘味はグリチルリチンに起因し、矯味薬および鎮咳薬として用いる。

魚藤(Millettia taiwaniana Hayata.)は台湾に自生する蔓性灌木で、有毒成分はロテノンである。

ペルー・バルサム樹——南米に産し、バルサムを疥癬に外用する。

カラバル豆(Physostigma venenosum Balf.)はアフリカに産し、フィゾスチグミンの製造原料に供する。フィゾスチグミンは瞳孔を縮小させる作用を有し、アトロピンと正反対の作用を持つ。

葛(Pueraria hirsuta Matsum.)は山野に自生する落葉藤本で、根を葛根と称し、漢方では発汗解熱の要薬とする。

【薔薇科 Rosaceae】

コッソ樹——アフリカに産し、雌花を条虫駆除薬として用いる。

杏(Prunus armeniaca L. var. ansu Maxim.)は中国原産で、種子を杏仁と称し、杏仁水を鎮咳薬として用いる。

バクチ樹——日本暖地に自生し、バクチ水を鎮咳薬として用いる。

桃(Prunus persica Sieb. et Zucc.)は中国原産で、白桃花を下剤として用い、種子は鎮咳薬とする。

キラヤ——南米に産し、サポニンを含み、化粧品等に用いる。

野薔薇(Rosa multiflora Thunb.)は山野に自生し、種子を峻下および利尿薬とする。

【虎耳草科 Saxifragaceae】

土常山(Hydrangea opuloides Steud. var. thunbergii Makino.)は落葉灌木で、甘味成分はフィロズルシン(Phyllodulcin,C16H14O5)である。[82]

【十字花科 Cruciferae】

第139節

芥(Brassica cernua Thunb.)は中国原産の越年草で、種子を芥子と称し、配糖体シニグリン、酵素ミロシンおよび脂肪油を含む。粉末に微温湯を加えると揮発芥子油を生じ、皮膚刺激引赤薬に用いる。ヨーロッパおよびアメリカではB. nigra Koch.とSinapis alba L.を芥子原料としている。

【罌粟科 Papaveraceae】

延胡索(Corydalis decumbens Pers.)は各地に自生する多年草で、塊茎を延胡索と称し、漢方では婦人病の要薬として鎮静薬に用いる。成分はプロトピンおよびブルボカプニン等の塩基で、鎮痛・麻酔の効を有する。

駒草(Dicentra pusilla Sieb. et Zucc.)は高山に自生する多年草で、全草を腹痛薬として用いる。

罌粟(Papaver somniferum L.)は小アジア原産の越年草で、未熟果実の乳液の乾燥品を阿片(Opium)と称する。阿片はモルヒネ(Morphin,C17H19NO3)等の塩基を含み、鎮静・鎮痛剤として殊に重要である。世界各国は協力してその取締りに当たっている。

【樟科 Lauraceae】

樟(Cinnamomum camphora Nees. et Eberm.)は常緑喬木で、樟脳(Camphor,C10H16O)は重要な医薬品であり、強心・興奮剤に用いる。樟脳は日本の重要輸出品で政府の専売品である。

桂(Cinnamomum cassia Blume.)は常緑喬木で、桂皮を芳香性健胃剤に用いる。主成分はシンナムアルデヒドである。

肉桂(Cinnamomum loureirii Nees.)は日本暖地に自生する常緑喬木で、根皮および幹皮を芳香性健胃薬に用いる。

【肉荳蔲科 Myristicaceae】

肉荳蔲(Myristica fragrans Houtuyn.)はオランダ領東インドに産する喬木で、種子を芳香性健胃薬に用いる。

【木蘭科 Magnoliaceae】

大茴香(Illicium verum Hook.)は中国南部に産する喬木で、果実を香料として用いる。アネトール、サフロール等を主成分とする。

【防己科 Menispermaceae】

コロンボ(Jatrorrhiza palmata Miers.)はアフリカ東海岸に産し、根を苦味健胃薬として用いる。

漢防己(Sinomenium acutum Rehd. et Wilson.)は暖地に自生する落葉藤本で、有効成分はシノメニン(Sinomenin,C19H23NO4)[84]である。

【小蘗科 Berberidaceae】

南天燭(Nandina domestica Thunb.)は常緑灌木で、白南天を漢方で鎮咳薬として用いる。

【毛茛科 Ranunculaceae】

烏頭(Aconitum japonicum Thunb.)は多年草で、根にアコニチンを含み、猛毒性であるため今日ではほとんど用いられない。

黄連(Coptis japonica Makino.)は多年草で、根茎を苦味性健胃薬として用いる。ベルベリン、パルマチン等を含む。

ヒドラスチス(Hydrastis canadensis L.)は北米に産し、ヒドラスチニンを製造して止血薬とする。

芍薬(Paeonia albiflora Pall.)は東部アジア原産で、根を鎮痙薬として用いる。

牡丹(Paeonia moutan Sims.)は中国原産の落葉灌木で、牡丹皮を鎮痙薬として用いる。

【商陸科 Phytolaccaceae】

商陸(Phytolacca acinosa Roxb. var. esculenta Makino.)は多年草で、根を利尿薬に供する。

【莧科 Amaranthaceae】

牛膝(Achyranthes bidentata Blume.)は多年草で、根を利尿通経薬として用いる。

【藜科 Chenopodiaceae】

ケノポジウム(Chenopodium ambrosioides L. var. anthelminticum A. Gray.)は北米原産の多年草で、ケノポジウム油は蛔虫、十二指腸虫等の駆虫剤である。有効成分はアスカリドール(Askaridol,C10H16O2)である。

【蓼科 Polygonaceae】

何首烏(Polygonum multiflorum Thunb.)は中国および日本に自生する蔓草で、根を漢方で強壮薬として用いる。

第140節

大黄(Rheum tanguticum Tschirch.)は中国西部に生ずる多年草で、根茎を大黄(rhubarb;Rhabarber)と称し、健胃および緩下剤として用いる。有効成分はクリソファン酸、エモジン等のオキシメチルアントラキノンである。

唐大黄(Rheum undulatum L.)は中国およびシベリア原産の多年草で、根茎を和大黄と称し、大黄に代えて健胃および緩下剤とする。

【白檀科 Santalaceae】

白檀(Santalum album L.)はインドで栽培される小喬木で、白檀油は重要な治淋薬であり、主成分はサンタロール(Santalol,C15H24O)である。

【桑科 Moraceae】

大麻(Cannabis sativa L.)は東インドで栽培される一年草で、催眠麻酔性の樹脂を含み、鎮静催眠剤として用いる。

ホップ(Humulus lupulus L.)は欧米で栽培される宿根性蔓草で、ビール醸造に不可欠である。

【殻斗科 Fagaceae】

没食子樹(Quercus lusitanica Lamarck.)は小アジアに産する落葉喬木で、没食子は没食子鞣酸を多量に含み、鞣皮工業等に用いる。

【胡椒科 Piperaceae】

畢澄茄(Piper cubeba L.)はインド、ジャワ等に産し、果実を治淋薬として用いる。

カヴァカヴァ(Piper methysticum Forst.)はポリネシアに自生し、根は麻酔性の嗜好料として用いられる。カヴァ中毒症を引き起こし得る。

【三白草科 Saururaceae】

蕺菜(Houttuynia cordata Thunb.)は路傍に自生する多年草で、民間では鮮葉を化膿等に貼用し、煎服して淋病を治す。

【単子葉門 Monocotyledoneae】

蘭科 Orchidaceae

采配蘭(Cremastra appendiculata Makino.)は樹陰に自生し、根茎に多量の粘液を含み、粘滑薬とする。

【生姜科 Zingiberaceae】

鬱金(Curcuma longa L.)は熱帯に自生する多年草で、根茎を姜黄と称し、食品の着色料として用いる。黄色素はクルクミン(Curcumin,C21H20O6)である。

莪朮(Curcuma zedoaria Rosc.)は熱帯で栽培される多年草で、根茎を芳香性健胃薬とする。

生姜(Zingiber officinale Rosc.)は熱帯アジア原産で、辛味成分はジンゲロン(Zingeron,C11H14O3)である。

小荳蔲(Elettaria cardamomum Whit. et Maxton.)はインドで栽培され、果実を芳香性健胃薬として用いる。

【鳶尾科 Iridaceae】

サフラン(Crocus sativus L.)は各地で栽培され、雌蕊を鎮痙・通経剤として用いる。主成分はα—クロシン等の三種の黄色素で、カロチノイド色素に属する。

【石蒜科 Amaryllidaceae】

石蒜(Lycoris radiata Herb.)は各地に自生する宿根草で、鱗茎にはリコリンを含む。近年の研究によりその薬理作用が吐根のエメチンに類似することが発見され[89]、去痰薬が製造されている。

【百合科 Liliaceae】

芦薈(Aloe africana Mill.等)はアフリカ等に産し、葉の汁液のエキスを瀉下薬とする。

鈴蘭(Convallaria majalis L.)はヨーロッパおよび日本北部に自生し、全草を強心利尿薬に用いる。

カタクリ(Erythronium japonicum Makino.)は山地に自生し、根の澱粉を「片栗粉」の原料に供する。

貝母(Fritillaria verticillata Willd. var. thunbergii Baker.)は中国原産で、鱗茎を貝母と称し、鎮咳、解熱薬とする。フリチリン等の塩基物を含む。[90]

第141節

小葉麦門冬(Ophiopogon japonicus Ker. Gawl.)はしばしば庭園に栽植される多年草で、鬚根の瘤起部を麦門冬と称し、漢方では鎮咳、解熱、強壮薬として用いる。

海葱(Scilla maritima L.)は地中海沿岸に自生する多年草で、鱗葉を海葱と称し、強心利尿薬とする。

【天南星科 Araceae】

半夏(Pinellia ternata Breit.)は路傍に自生する多年草で、根茎を半夏と称し、漢方では鎮咳の要薬とし、特に妊娠嘔吐に常用される。

【椰子科 Palmae】

檳榔(Areca catechu L.)はマレー原産の常緑喬木で、種子を条虫駆除薬として用いる。アレコリン等の塩基を含む。

【莎草科 Cyperaceae】

香附子(Cyperus rotundus L.)は海浜に自生する多年草で、塊瘤を漢方では婦人病の要薬として通経および鎮痙薬に用いる。

【禾本科 Gramineae】

薏苡(Coix lacryma-jobi L. var. frumentacea Makino.)は一年草で、種子を薏苡仁と称し、利尿および栄養強壮薬として用いる。

【裸子植物亜部 Gymnospermae】

【麻黄門 Gnetales】【麻黄科 Gnetaceae】

麻黄(Ephedra sinica Stapf.)は中国奥地に生ずる多年草で、漢方では発汗・鎮咳の要薬である。有効成分エフェドリン(Ephedrin,C10H15NO)は長井長義博士により発見された[91]。一九二四年にChen、Schmidt両氏[92]の薬理学的研究以後、呼吸鎮静薬としての用途が大いに開かれた。エフェドリンの化学的構造はアドレナリン(Adrenalin,C9H13NO3)に類似し、薬理作用も類似している。

漢方では麻黄の茎葉は発汗薬であるが、地下茎は止汗薬として用いられ、両者の作用は正反対である。『本草綱目』にもこの点が記されている。原植物にはE. sinica Stapf.[94]の新名が立てられた。

【球果門 Coniferae】【松柏科 Pinaceae】

檜(Chamaecyparis obtusa Sieb. et Zucc.)は揮発油を含み、治淋薬に用いる。

赤松(Pinus densiflora Sieb. et Zucc.)、黒松(P. thunbergii Parl.)からはテレビンおよびテレビン油が得られ、硬膏の基剤等に用いる。

高麗松(Pinus koraiensis Sieb. et Zucc.)の種子を海松子と称し、滋養強壮薬とする。

【一位科 Taxaceae】

榧(Torreya nucifera Sieb. et Zucc.)は常緑喬木で、種子は十二指腸虫駆除の効があるとされる。

【無管有胚植物部】

石松(Lycopodium clavatum L.)の胞子を石松子と称し、丸薬の衣として用いる。

小歯朶(Dryopteris crassirhizoma Nakai.)の根茎を綿馬エキスの原料とし、条虫駆除薬とする。

【真菌植物部】

落葉松茸(Polyporus officinalis Fries.)はアガリシン酸を含み、結核患者の盗汗に止汗薬として用いる。

麦角(Claviceps purpurea Tulasne.)は禾本科植物に寄生し、その菌核を麦角と称して子宮収縮・止血薬に用いる。陣痛促進剤として婦人科領域で甚だ重要である。

茯苓(Pachyma Hoelen Rumph.)は松根周囲に発生する菌体で、漢方では利尿薬として用いる。

【紅藻植物部】

鷓鴣菜(Digenia simplex Ag.)は蛔虫駆除薬として用いる。副害がなく確実な駆虫薬で、小児に特に適する。

石花菜(Gelidium amansii Lamx.)からは寒天が製造される。寒天は緩下剤として、また細菌培養基として不可欠の品である。

【凡例】(略)

日本 刈米達夫 原著

楽文 摘訳

第142節

[9]プロイツァー(Pleuzer)はドイツ語訳ではクラウバー(Klauber)、「選り好みする者」「吹毛求疵する者」等とも訳し得る。

[10]「全てか無か」(Alles oder Nichts)はイプセンの言葉で、戯曲『ブラント』に出る。

[11]おそらく病原菌を指すものであろう。

[12]小刀を用いるとは、医学上の屍体解剖を指す。

[13]十コペイカは当時の中国の銭にしておよそ一角である。——訳者

[14]ケーニヒ(König)はドイツ語で「王様」の意であるが、ここでは犬の名前である。——訳者

[15]ピョートル(Piotr)こそ彼の正式名であり、ペチカ(Petika)は親愛あるいは軽蔑の意を込めた呼称である。——訳者

[16]ロシアでは「ゴロドキ」(Gorodki、「小さな街」の意)の遊びが好まれる。——訳者

[17]これは酔漢セミョン・クデヤルの姓名の略字である。——訳者

[18]このナイフが切れ味が良いためであり、読書の意ではない。——訳者

[19]ニコライ・ゴーゴリ(一八〇九——一八五二)、ロシアの著名な作家。——訳者

[20]チェルヴォネツ(Chervonez)はロシアの貨幣名で十ルーブルに相当する。——訳者

[21]『父を尋ねるヤペテ』はおそらく実在の書物であるが訳者は著者を知らない。——訳者

[22]カールヴォッヘ(Karlwoche)は復活祭前の一週間。——訳者

[23]パルムゾンターク(Palmsonntag)は復活祭前の日曜日。——訳者

[24]カルーセル(Karussell)は回転遊具である。——訳者

[25]「不合格」の曖昧な発音を指す。——訳者

[26]パニヒダは死者を弔う祈祷会。——訳者

[27]百コペイカが一ルーブル、一コペイカは約一分。——訳者

[28]一グリヴナは約二角。——訳者

[29]一アルシンは約二尺強。——訳者

[30]一サジェンは約七尺。——訳者

[31]スメルチは「死ぬ」の意。——訳者

[32]エフスチグネイの愛称。——訳者

[33]プロハルチョクの愛称。——訳者

[34]「雌羊のような」の原語から人名が変化したもの。——訳者

[35]ドイツ語の姓で「ユダヤ人食い」の意。——訳者

[36]イェリー(ieli)、ロシア文字の第二十九字。——訳者

[37]ヘイビアス・コーパスはチャールズ二世時代の人身保護法。——訳者

[38]八月十五日。——訳者

[39]「人道主義氏」の意。——訳者

[40]風俗壊乱図書取締条項。——訳者

[41]フォン・デル・ペスト(Von der Pest)は「黒死病氏」の意。——訳者

[42]ウラジーミル大公時代の英雄。——訳者

[43]百コペイカが一ルーブル、一コペイカは約二分。——訳者

[44]高木誠司、本郷銀作。『薬学雑誌』五〇九、五三九(一九二四年)。

[45]~[84](学術文献引用。各項の原文のとおり。)

第143節

「何用だ、婆さん?……」太った方がブルガリア語で問うた。

駆けつけてきたのは六十がらみの女で、背が高く、痩せており、男のような目つきで、腕にはぼろぼろの麻布に包まれた子供を抱いていた。

「渡してくださいまし、旦那様!……船に乗せてくださいまし、神様があなたとお子さん方に長寿と幸福をお授けくださいますように!……」

「おお、お前はあのイリーザか?……気の狂ったジャウルめが!……」

彼は彼女を知っていた。チェロペクで食事の世話をしたことがあったからだ。

「そのとおりでございます、アガ・ハチ=ハサン。連れて行ってくださいまし、この子の顔に免じて……」

「その包みを持ってどこへ行く?……」

「私の孫でございます、ハチ。母親がおりません……病気なのです……修道院に連れて行くところです……」

「一体何のために?……」

「この子が治りますようにと、お祈りをしていただくために……」女は懇願するように言い、眼差しには大きな憂いが湛えられていた。

ハチ=ハサンは船の中に腰を下ろし、船頭は櫓を手に取った。

「アガ、神様に免じて!……この善行をなさってください、あなたにもお子さんがおありでしょう!……」

トルコ人はしばし考え、軽蔑するように言った。「乗れ、馬鹿者め!……」

女は急いで船に飛び乗り、船頭と並んで座った。船頭は雨後に暴れるイスケルの濁流の中へ漕ぎ出した。山の端に沈みゆく太陽がきらきらとした光輝で水面を金色に輝かせていた。

【二】

この女が修道院へ行くのは実に急を要した。腕の中には二週間病み続けている二歳の孤児が横たわっていた。まじない師の薬も祈祷も効き目がなかった。彼女の最後の望みはただ聖母にかかっていた。

彼女は楢の林を通り抜けイスケルへ向かって下りて行くところだったが、木立の間から奇妙な服装の青年が現れた。胸には弾薬帯を掛け、手には銃を持っていた。

「お婆さん、パンをくれ!……飢え死にしそうだ!……」

彼女はすぐにどういう人間か察した。山の上にいる仲間の一人なのだ。袋の底にわずかに乾いたパンの皮が見つかっただけで、それを渡した。

彼女はしばし考えてから言った。「坊や、林の中に隠れていなさい……夜になったら来て待っていなさい……パンと着替えの服を持ってきてあげますから……」

青年の顔に希望の光が射した。彼女は彼がよろめきながら林の中へ身を隠すのを見、目に涙が溢れた。

彼女は急ぎ足で下り、二つの男の命を救うために、修道院の院長にこっそり相談して農民の服とパンを手に入れようと心に決めた。

第144節

【三】

夜はもうその漆黒の翼をチェレピス修道院の上に広げていた。イスケルの渓谷は暗い空の下に陰鬱な沈黙を湛えていた。

修道院もまた朦朧と眠りに就いた。侍者が出てきて、続いて修道士も出てきた。

「誰だ?」——「女のようだ」——「夜中に女だと!トルコ人に違いない!」

「チェロペクのイリーザですよ……開けてくださいまし……」

門はわずかに開き、農婦を入れてすぐに閉じた。

「何の用だ、イリーザ?」——「孫がひどい病気で……住持様はどちらに?」——「ベルコヴィツァへ行かれた。」

修道士エフティミは不承不承ながら教堂で祈祷を行い、法衣の裾を子供の頭にかぶせた。子供の顔は蝋のように黄色かった。

「もうあまり生きてはいないようだ」と修道士は告げた。深い目が見開かれ、蝋燭の光が二つの星のように映った。

村妇は修道士の手に接吻し二枚のピアストルを載せた。

「もし助かるなら、じきに良くなるであろう……納屋で寝なさい……」

しかしイリーザは林で出会った蜂起者のことを話そうとした。修道士は恐怖と怒りに駆られて遮った。「聞きたくない……教会を火の中に送り込む気か!」

彼女は話を飲み込み、ここで夜を明かすまいと決意した。パンだけ受け取り、子供を抱いて出て行った。大門はすぐに閉じられ、がちゃりと錠が下りた。

第145節

[20]「愚蠢」(愚かしい)の意。——訳者

[21]「糞桶」の意。——訳者

[22]デミトリーの愛称。——訳者

[23]同じくデミトリーの愛称。——訳者

[24]ロシアでは誰もが知っている物語の登場人物のようであるが、出典は未詳。——訳者

[25]織物の名称。——訳者

[26]おそらくアホリバマ(Aholibamah)であろう。アダムとエバの子カインの孫娘で、下級天使(セラフ)に愛され、大洪水の際に別の惑星に連れ去られたとされる。——訳者

[27]「グルボフ」は「愚蠢」の意であるため、このような文章がある。——訳者

[28]ツィゴイナー(Zigeuner)はヨーロッパの放浪の種族であるが、ここでは特にルーマニアの農奴を指す。——訳者

[29]ボヤール(Bojar)はかつてのルーマニアおよびロシアの貴族の尊称。——訳者

[30]地主の住居。——訳者

[31]ルーマニアの俚諺。——訳者

[32]ドイナ(Doina)はルーマニアの民謡。——原訳者

[33]コブスとコブスはいずれもギターに類する楽器。——訳者

[34]ブリウ(Brîu)はルーマニアの舞踊。——訳者

[35]バトゥータとカラシェルはいずれもルーマニアの舞踊名。——訳者

[36]バトゥータとカラシェルはいずれもルーマニアの舞踊名。——訳者

[37]コーカサスの一種族で、大部分はロシアの圧迫を逃れてトルコ国境に移住したが、その一部は逆にトルコの側に立って被圧迫のブルガリア人を残虐した。——訳者

[38]イスケル(Isker)、旧名エスコス(Öskos)は、ブルガリア国内のドナウ(Donau)河の右岸支流の一つ。——原訳者

[39]ジャウル(Giaur)は「不信者」とも訳し得る語で、トルコ人が異教徒、特にキリスト教徒やペルシア人に対して用いる罵倒語。——訳者

[40]ベルコヴィツァ(Berkovitza)はブルガリアの市鎮で、ロム=パランカ(Lom-Palanka)府に属する。——原訳者

[41]物語中にしばしば出てくる教堂とは、ギリシア・カトリックの教堂を指す。ブルガリア人は大抵ギリシア・カトリック教を信奉している。——原訳者

[42]ピアストル(Piaster)はスペインおよびメキシコで用いられた銀貨。——訳者

[43]オデュッセイア(Odyssee)はギリシアの詩人ホメーロス(Homeros)の著名な叙事詩で、オデュッセウス(Odysseus)の経歴を記す。——訳者

[44]バシ=ボズク(Basi-Bosuks、蓬髪の意)は非正規のトルコ歩兵で、しばしば強制的に徴集され、軍事訓練を施されない。——原訳者

[45]トルコの軛からの解放に努力する革命者を、トルコ人は皆叛徒(コミタ)と呼ぶ。——原訳者

第146節

武装した兵士と工人たちは皆スコベレフ広場の総督官邸に集合した。ここが革命軍の本部であった。銃を持った兵士と工人の一団が狭い入口で押し合い、華麗な装飾の各部屋に流れ込んだ。大広間や金色に輝く欄干の付いた広い階段は、黒色と灰色の人々で騒々しく溢れかえり、安煙草の強烈な煙が群衆の頭上を濛々と覆っていた。亜庚はかつて公爵、伯爵、威厳ある将軍らが住んでいたこの大邸宅に入ったのは初めてであった。素朴な驚きの目を見開いて高い漆喰の天井や壁に嵌め込まれた鏡、大広間の白い円柱を凝視し、心中ひそかに一種の誇りを覚えた。「俺たちが占領したんだ。」

一人の大男が椅子の上に立ち、甲高い声で叫んだ。「静粛に、同志諸君!……カメルゲスキー横丁を掩護せねばならぬ。同志諸君、あの地点へ行ってくれ。」

工人たちは各自随意に小組を編成して出て行った。亜庚は隆支・彼得罗微支の一行を見失い、見知らぬ工人の一組に加わってカメルゲスキー横丁の角へ向かった。

デヴィルスク街の突き当たりでは激しい銃撃が行われていた。工人と兵士たちは腰をかがめ、壁の突角に身を隠しながら一人ずつ前進した。

亜庚の心臓は激しく鼓動し、胸が締めつけられた。枪声が間近に響き、何かが路面の石に当たってぱたぱたと音を立てた。「ああ、いい物が飛んできたな」と前方の兵士が笑って言った。

亜庚は一人の兵士と共に街を横切ろうとしたが、どこからか銃撃が起こり、兵士は路上に倒れた。亜庚は角の一団の中に飛び込んだ。看護兵の黒い自動車が来て戦死した兵士を運び去った。帽子が忘れられ、「帽子を持って行け!」と皆が叫んだ。亜庚もヒステリックに叫んだ。

戦死した兵士が横たわっていた場所の敷石は暗黒に変わり、石と石の間の窪みには赤い水溜まりができていた。

亜庚は銃を肩に当てて発砲した。歩兵たちは角に集まり、皆で見えない敵に向かって射撃を集中した。弾薬三束をすべて消費した後、彼は問うた。「あっちから逃げたんじゃないのか?」——「逃げるものか、向こうにいるさ。」

第147節

ふとした折に、ブルジョアジーや徒食者、吸血鬼らを嘲笑する声も聞こえた。しかしそれは例外であり、灰色の顔をした汚れた衣服のこの人々は、事件に対して漠然としていた。彼らは向日葵の種を齧りながら冗談を言い合い……そしてすべての人が、まるで火事を喜ぶ子供のように、非常に晴れやかな気分になっていた。夕方になり戦闘が次第に鎮まり情勢が良い方向に向かうと、ロシア人がそれぞれ待ち望んでいた奇跡がいよいよ現れるのだと思ったようであった。

ワルワーラ・ロゾワ——亜庚の母親——は、息子が既に赤軍に加わって市街へ向かったことを知った。彼女はたちまち門辺や街角、大プレスニャの広場へ走り出し、息子が帰ってこないかと見張った。

第148節

"いや、彼女を外に出しはしなかったよ。ちょうど何人かの女たちがここにいたので、あれこれ言って慰め、家に送り届けたのだ。今は眠っていて、少し落ち着いたところだ。"

皆はまた沈黙した。

家々の窓にはまだ消えかけた灯火が残り、人々が各部屋を行き来し、影が動いているように見えた。子供以外に就寝した者はいなかった。食べることよりも眠ることが好きなあの老門番アンドロプでさえ、まだ中庭を歩き回り、革の防寒靴で泥を踏んでいた。

風が出てきて、中庭の塀沿いに植えられた菩提樹の裸の枝を揺さぶり、凄惨な音を立てていた。ある屋根の上では外れかけた板が風に煽られてぱたぱたと音を立てた。市街から伝わる銃声はいっそう猛烈になり、探照灯の光芒がしばしば低く垂れこめた灰色の雲間を滑り、動いたり止まったり、また人家の屋根に落ちたりして、あたかも大きな手が煙突や通気窓の間を捜索しているかのようであった。

アンドロプはようやく顔を上げ、この光を見てから言った。

"おやおや、天に兆しが現れたぞ。"

"いや、あれは兆しではない。あれは探照灯というものだ"とエスペースが説明した。

しかしアンドロプは聞いていないようだった。

"ほう。そうだな……セヴァストーポリで戦があった時にも、天空に兆しが現れたものだ。三本の柱と三本の箒がな。夜になると現れた。あの時の人々は占ったものだ。あれは何の前兆かと。すると血腥い戦争が始まったのだ。あの時のようなことがなければよいのだが。"

"今回は兆しがなくても、セヴァストーポリの時よりも多くの血が流れているさ。"

"ほう、ほう"とアンドロプは相槌を打ったが、エスペースには賛同しなかった。

"しかしやはり兆しはあるものだ。神の御力だからな。ああ、人を殺すのは難しいことだ。犬一匹殺すのも難しいが、人を殺すのはもっともっと難しいのだ。"

"ああ、お前さん、アンドロプ、よくもまあ議論するものだ。今は人命が犬の命よりも安くなってしまったというのに"と暗がりの中から女の声がして、さらに続けた。"聞きなさい、あの銃声は。あれが犬を撃っているとでもいうのかね?"

"だから私は言うのだ。人を殺すのは難しいことだと。いずれ神の御前で申し開きをせねばならぬのだから"とアンドロプは一拍置いて、"神は今、人間たちのこの有様を見て、涙を流しておられるのだ。"

"それはそうだ"とエスペースが言った。"怒りの目で見ておられるのだ。"

再び沈黙に戻った。銃撃の応酬も時折中断したが、風は依然として枝を揺さぶり、凄涼たる音を立てていた。

どこかで錆びた蝶番の門がぎいと鳴った。数人が中庭に出てきたが、暗くて誰とも見分けがつかず、ただ黒々とした影が見えるだけだった。彼らは黙って暫く立ち、物音に耳を澄まし、溜息を吐き、部屋に戻ったかと思うとまた出てきた。皆が一団となって低い声で語り合い、なおも溜息を吐いていた。話題はこの困難な数日間をいかにして比較的安全に過ごすかということであり、溜息の種はこの住居に男が少なく女が多く、警備の手立てがないことであった。

ワシーリーが部屋に戻った時、イワンはもう眠っていたが、母親は薄暗い灯の前で片肘をテーブルに突き、手で皺の寄った顔を支えて椅子に座っていた。イワンは微かに鼾をかいていた。

"まだ撃っているのかい?"母親が静かに問うた。

"撃っている。"

ワシーリーは急いで服を脱ぎベッドに横たわったが、なかなか寝つけなかった。過ぎ去った一日が悪夢のように胸にのしかかった。殺された将校のぴかぴかの長靴、"何をなすべきか"という焦燥の問い、泣き崩れた亜庚の母親の姿が目の前にちらちらと浮かんでは消えた。母親はそっと溜息を吐き、薄明かりの部屋の中を行き来した後、聖像の前に座って長い間祈祷し、やがて横になった。

ワシーリーは明け方近くにようやく眠りについたが、束の間のことで、傍らでイワンが服を着る音に起こされた。部屋にはもう薄暗い日の光が射し込んでいた。イワンは蓬髪のまま険しい顔つきでベッドの縁に座って長靴を履いていた。

"出かけるのか?"ワシーリーが低い声で問うた。

"出かける。"

"ええ、出かけるのよ"と隣室から不意に母親の厳しい声が響いた。"まさかイワンがいなければ、あんなことができないとでもいうの?"

第149節

イワンとガリスネコフは窓辺に立ち、狙撃していた。

ボリシェヴィキが通りを駆け抜け、並木道の木の下の黄色い小さな雑貨店に身を隠した。こうなると敵はほとんど目と鼻の先であったが、店が邪魔をしてかえって直接は撃てなかった。時折、ボリシェヴィキの方からも応射があり、弾丸が壁に当たって砕け散った。

イワンは冷静に、しかし確実に狙撃を続けた。ガリスネコフも同様であった。二人は一言も交わさず、ただ銃口を窓枠に載せて目標を定め、撃っては弾を込め直した。

ワシーリーは弾薬を運ぶ役を買って出た。階段を上り下りし、弾薬箱から薬莢を取り出しては二人の元へ運んだ。

夕方近くになって、スリーヴェン率いる一隊が交代に来た。イワンとガリスネコフは銃を置き、疲れ果てた体を引きずるようにして階段を下りた。

"食事は?"イワンが尋ねた。

"店の中に缶詰と漬物がある"とスリーヴェンが答えた。

第150節

彼らはようやく安堵した。

"食べることは食べていたさ。店の中に缶詰と漬物があったからな……"

一時間後、スリーヴェン率いる一隊は別の一隊と交代し、休憩所へ向かった。既に三日三晩、ろくに眠っていなかった。彼らは休憩所の床に横たわり、石のように眠りに落ちた。

第151節

"おお"と彼は語尾を引き延ばし、黙って背を丸めると、そのまま戸口を離れ、たちまち矮小で淒涼たる姿になった。

"今日もまた一日中泣くのだろうな"とワシーリーは溜息交じりに思った。"玉にも瑕あり……"

第152節

暮れる前に、薬剤師の家の女中二人がチョコレートとケーキを盆に載せて持ってきた。子供たちは猛獣のようにケーキに飛びかかった。放浪者イリサピテは先ず自分の旅の話をし、さらにいくつかの冒険譚を語って、皆を大いに楽しませた。

第153節

あの赤毛の経理人はこの叫び声を聞くと、驚いて慌てて起き上がり、寝台から飛び降りた。裸足で濡れた床板を踏みしめ、これこそ消火の水だと心から信じた。灯を点けて戸を押し開けようとすると、空箱がばたばたがたがたと倒れてきた。

第154節

一八七〇年一月二日。グロトキンの庭で、犬が一晩中吠え続けた。私の女中ベラガーエは、これは非常に確かな前兆だと言い、それで私は彼女と午前二時まで話し込んだ。もし私が簿記課長になったら、アライグマの毛皮の外套を一着こしらえなければなるまい、と。

第155節

今年二月、第六号にさらに二篇、『短気な人』と『悪い子供』を掲載した。その後記は——

チェーホフのこの類の小説は、私はすでに三篇を紹介したことがある。この種の軽妙な小品は、おそらく中国にはとうに訳本があるだろうが、私にはまた別の目的があった。原本の挿画は、おそらく当然作品の装飾であるが、私の翻訳は、ただ挿画の説明にすぎない。

作品について論じれば、『短気な人』は一八八七年の作である。批評家によれば、この時期はすでに作者の経験がさらに豊かになり、観察がさらに広範になったが、思想もまた日に日に陰鬱となり、悲観に傾いた時期であったという。確かに『短気な人』は、この短気な人が実は短気になれないことを書いたほか、当時の閨秀たちの卑陋、結婚の困難と無聊をも明らかに表現している。しかし一八八三年の作で、皆が滑稽小品として読んだ『悪い子供』の方が悲観の気息はさらに重い。なぜなら、その結末の叙述を見れば、すでにこう言っているのだ——復讐の楽しみは、恋愛に勝ると。

続いて私はさらに三篇を送った。『ペルシアの勲章』、『難解な性格』、『陰謀』で、これで全部完了となった。しかし『訳文』第二巻第二号に発表された時には、『ペルシアの勲章』は見当たらなくなっており、後記からもこの作品に関する記述が削除され、「三篇」が「二篇」に改められていた——

本木版画本チェーホフ短篇小説は全八篇、ここにさらに二篇を訳す。

『陰謀』はおそらくシャレストフの性格と当時の医学界の腐敗の状況を描いたものであろう。しかしその中には人種の違いを利用した「同業嫉妬」とは異なるものも示されている。たとえば姓氏から見れば、シャレストフはスラヴ種人であるから、「モーセ教派の敬うべき同僚たち」——ユダヤ人を排斥し、また医師プライステラー(Gustav Prechtel)やフォン・ブロン(Von Bronn)および薬剤師グルンメル(Grummer)をも排斥するが、この三人はいずれもドイツ人の姓であり、おそらくユダヤ人かゲルマン種人であろう。この種の関係は、作者本国の読者には一目瞭然であるが、中国に来ると注釈を加えねばならず、いささか煩雑になる。しかし中村白葉氏の日本語訳本『チェーホフ全集』と照合すると、ここにはユダヤ人に関する好ましからざる言葉が二箇所欠けている。一つは「モーセ教派の同僚たちが一団となって喚き立てていた」の後の一行、「『ガヤガヤ、ガヤガヤ、ガヤガヤ……』」が欠けている。二つは「モーセ教派の敬うべき同僚がまた一団となり」の下の一文「喚き立てた」が、「あの例の——『ガヤガヤ、ガヤガヤ』を始めた……」となっている。しかし原文にもともと二種あるのか、それともドイツ語訳者が削除改変したのかは分からない。私は、日本語訳本がいわれなく付け加えるはずはないと思う。

公平に論じれば、この八篇は大半チェーホフの比較的良い作品とは言えず、おそらくマシューチンが小説のために木版を作ったのではなく、翻訳者アレクサンダー・エリアスベルクが木版のために小説を訳したのであろう。しかしその木版もまた、必ずしも小説の叙述に従っておらず、たとえば『難解な性格』中の女性は、小説によれば扇子に房飾りがあり、鼻梁には眼鏡をかけ、手には腕輪があるはずだが、挿画にはいずれもない。大体を見て取りかかり、原書と一つ一つ符合させる必要はないというのが、西洋の挿画家のごく普通の気質である。「神似」は「形似」より一段高いと誰かが言うが、私はそれが挿画の正道ではないと常々考えており、中国の画家が学ぶ必要はない——「形神兼備」ができれば、単なる「形似」よりもう一段高いのではないか。

しかし「この八篇」の「八」の字は変えられておらず、三回の掲載で小説はわずか七篇しかなかったが、編集者と翻訳者以外は誰も気づかないだろう。今年の刊行物に新たに加えられた一行「中宣会図書雑誌審委会審査証……字第……号」が、すなわち「民の口を防ぐ」標識であることを誰が知ろうか。しかし我々のような訳者の訳業は、まさにこの機関で削除され、禁止され、没収されたのであり、しかも声明も許されず、麻の核桃を銜えて刑場に赴くが如くであった。この『ペルシアの勲章』もまた、いわゆる「中宣……審委会」の暗殺帳簿の一筆である。

『ペルシアの勲章』は帝政ロシア時代の官僚の無聊な一幕を描いたに過ぎず、当時の作者の本国でさえ発表できたのに、なぜ今の中国では禁止されたのか——我々には推測する術がない。ただこれも一つの「奇聞」と見なすほかない。しかし書報検閲が始まって以来、六月の「『新生』事件」のために雲散霧消するまで、出版界においてはまさに「通過するところ残破あり」の感があり、重みのある訳業でその完膚を保ちえたものはまことに少ない。

当然ながら、国土も、経済も、村落も、堤防も、残破せざるはなき現在、文芸もまた独りその完全を保つことはできない。まして私の訳業から出たものであれば、上には御用詩官の威圧があり、下には幇閑文人の助虐があり、災禍に遭うのはまさに予想の中にある。しかし一方に残毀する者がいれば、他方には保全し、補救し、推進する者もおり、世界はこうしてこそ荒廃に至らないのである。私はこの後者に属することを願い、また明らかに後者に属している。今なお八篇を取り、一冊に編み、この小集を再び完全に帰せしめる。事は些末なれども、今年の文壇にこの亜細亜式の「奇聞」を一つ留めるのみならず、我々の小さな記念ともなすのである。

一九三五年九月十五日の夜、記す。

[1]一九一二年、以下これに倣う。

[2]ロシアの距離単位。1ヴェルスタは中国の約三百五十丈。

[3]この年、日露戦争後の革命があった。

[4]社会革命党。

[5]おそらく投獄または監視を指す。

[6]貨幣の名称、約五角に相当。

[7]日刊紙の名。ここではこの新聞社で働いているという意味。

[8]ロシア第一回大革命の月。

[9]第二回大革命の月、すなわち本書が描写するもの。

[10]イリヤ・ロモメッツ、古代叙事詩中の大勇士。

[11]モスクワの要衝。

[12]クレムリン付近にある。

[13]Bourgeoisは現在の意味では「有産者」。Amenはもともとヘブライ語の賛嘆の語で、「確かに」あるいは「真に」の意。キリスト教徒が祈祷の結びに用いるため、ここでは「完結」の意に解する。

[14]イエスの弟子にしてイエスを売りし者。

[15]「Kopeika」、労働者の読む安価な低級紙。

[16]モスクワの有名な市場、クレムリン宮付近の四通八達の地。

[17]Varshavianka、三十余年前に流行した有名な曲。

[18]イワンの愛称。

[19]イワンの愛称。

[20]ワシーリーの愛称。

[21]Iroda、ユダヤの王。

[22]ロシアの長さの単位、1サージェンは中国の約七尺。

[23]Bonjour, Monsieur、フランス語、「旦那様、こんにちは」の意。

[24]古諺。

[25]三十六ポンドで一プード。

[26]ワリヤ——彼の妻——の愛称。——訳者

[27]ロシアの農民の歩き方、脚がいくらか湾曲している。——訳者

[28]ロシアの長さの単位、一サージェンは中国の約七尺弱。——訳者

[29]Taiga、シベリアの森林の呼称。——訳者

[30]歩兵を指す。——訳者

[31]この句はロシアの罵言であるが、意味は未詳。——訳者

[32]十月革命の際、社会革命党(S.R.)の大部分は反革命に加わったが、その一派「急進派」(Maximalist)はボリシェヴィキとともに白軍と戦った。——訳者

[33]Koltchak、白軍の将領。——訳者

[34]看護婦を謂う。——訳者

[35]これは哺乳動物に特有の鋭敏な嗅覚を指して言ったもの。英語本では「第六感覚」と訳されている。——訳者

[36]ミーシカの愛称。——訳者

[37]トウモロコシで煮た粥。一説には中国の一種の粟であるが、未詳。——訳者

[38]一種の拳銃の名称。——訳者

[39]四十ポンドで一プード(Pud)。——訳者

[40]Manzhurka、非常に安価な煙草の一種。——訳者

[41]パーヴェルの愛称。——訳者

[42]ニコライの愛称。ここでは最後の皇帝ニコライ二世を指す。——訳者

[43]Verst、ロシアの距離単位、一ヴェルスタは千百七十ヤードに相当する。——訳者

[44]チシュ(Tchish)は「舞い羽」の意味、故にいう。——訳者

[45]拳銃の一種。——訳者

[46]Kvass、一種の飲料。——訳者

[47]面積の単位、1デシャティーナは中国の約三千五百歩。——訳者

[48]地雷の渾名。——訳者

[49]Nochinoe、夜間に馬を野外で放牧し、監視も加えること。——訳者

[50]「Alles so sehen, wie es ist, um zu aendern, was ist, und zu lenken, was ist.」中国にはおそらくさらに正確な翻訳が存在するだろうが、一時に調べ得なかったため、原文を録して参考に供す。——訳者

[51]コサックの用いる皮帽。——訳者

[52]外套、これもコサックの用いるもの。——訳者

[53]Blind、金を賭けて札を見ないこと。上海では「偸鶏」と称する。——訳者

[54]Pass、自分の番が来たが不適当なため次の人に譲ること。「パス」とも訳せる。——訳者

[55]イエスの弟子にしてイエスを売りし者。——訳者。

[56]ロシアの旧習で、結婚の宴会の際、もし賓客が杯を挙げて「苦い、苦い、甘くしてくれ!」と叫べば、新郎と新婦は必ず接吻しなければならない。——訳者

[57]これはバスク語で、「おい、真面目だな」の意。——原訳者。

[58]ギリシアの哲学者。——重訳者。

[59]黒人とインディアンの混血児。——原訳者。

[60]白人と黒人の混血児。——原訳者。

[61]一ドルは中国の銀約二元に相当する。——訳者

[62]エル・グレコ(1614年没)、ベラスケス(1599-1660)、フランシスコ・ゴヤ(1746-1828)、三人ともスペインの大画家。——訳者

[63]アロンソ・サンチェス・コエーリョ(1515?-1596)、スペイン肖像画の先駆者。フアン・パントーハ・デ・ラ・クルス(1551-1609)はその弟子。——訳者

[64]ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1477-1576)、イタリアの画家。英語ではTitianと表記。——訳者

[65]スペインの貨幣。——訳者

[66]同じくスペインの貨幣。——訳者

[67]ラスコーリニコフ、ドストエフスキーの小説『罪と罰』の男の主人公。——訳者

[68]ホメオパシー、日本ではまた『同類療法』と訳す。類似の毒をもってその病を治す医法で、意味は大体中国の「以毒攻毒」と同じである。現行の多くの細菌病に対する血清注射は、実はなおこの療法であるが、この名称は久しく使われていない。——訳者

[69]帝政ロシア時代に貴族の戴いた帽子。——訳者

[70]コーリャはクスマ(Kusima)の愛称。——訳者

[71]原名Skrophuroso、一種の草薬を搗いて作った小丸薬。——訳者

[72]イタリアのシチリアとカラブリアの間のメッシーナ海峡に見える蜃気楼。伝説では仙人モルガーナの所為とされ、故にこの名がある。——訳者

[73]この日本名、ドイツ名Zitwer、中国名は未詳。——訳者

[74]Solotnikはロシアの重量単位、一ソロトニクは中国の約一銭一分余りに相当する。——訳者

[75]マズルカは一種の舞踏。——訳者

[76]ヘロドトス(484-408 B.C.)、ギリシアの史家、世に「歴史の父」と称される。クセノフォン(435-354 B.C.)、ギリシアの史家、哲学者にして将軍でもある。——訳者

[77]フランス語で、中国の現在の「先生」という呼称に相当する。当時のロシアの上流社会ではフランス語を話すことが洒落とされた。——訳者

[78]カバラ、ヘブライの神秘哲学。——訳者

[79]クロケットは一種の屋外遊技。——訳者

[80]フランス語、賛辞。——訳者

[81]フランス語、ここではおそらく「お嬢様方」と訳すほかない。——訳者

[82]アルトゥル・ショーペンハウアー(1788-1860)、ドイツの厭世的哲学者にして女性を極めて憎悪した人。——訳者

[83]メフィストフェレス、すなわち『ファウスト』中の悪魔で、ファウストを獄中の恋人の前に送り届けると消え去った。ここではおそらく牢獄に送り込む意味のみを取っている。——訳者

【竪琴】

V・リーディン

早く教えてくれ、早く。

ここに黄金の竪琴がある。

——レールモントフ

第156節

朝。水兵たちが市鎮を占領した。機関銃を運び込み、塹壕を掘った。伏せて待った。一日、また一日。薬剤師ガレズキー氏とソロモノヴィチ——製粉工場主——が市の委員であった。支隊長の水兵プシュカのところへ走って行った。プシュカは個人、住宅、信仰、私有財産、酒蔵の不可侵を約束した。市は安心した。教会では主唱者が空を仰いで歌を唱えた。ソロモノヴィチは水兵たちに五袋のビスケットを届けた。水兵たちは塹壕の中にいた。煙草を吸っていた。市民とも親しくなった。三日目になると塹壕の中にも飽きてきた。敵はいなかった。夕方になると水兵たちは市の公園に散歩に行った。小道で娘たちと冗談を言い合った。四日目の朝、まだ皆が眠っている時、歩哨さえ眠っている時——五台のオートバイが乗りつけ、中の覆いの下からフード付きの兵士たちが飛び出した。歩哨を立て、郵便局のそばで約三十分間射撃した。そして船で対岸に逃げる水兵たちを追撃せず、市鎮を占領した。まる二日の間、住居を捜索し、通行人を罰し、銀行で勤務していた何の罪もないリフゲンを銃殺した。次に名もなき者三人を、その後五人を。夜、哨所でドイツ人を二人斬った。朝になると少佐は市に徴発令を出した。住民の方からまた代表が派遣された、ガレズキー氏とソロモノヴィチ。少佐は赤い髭を動かして徴発を実行した。しかし翌日、どこからともなく戦線隊が到着し、ドイツ人を斬り、赤髭の少佐を殺し——市鎮を占領した。これ以後、あらゆることが始まったのだ。

戦線隊もまた個人と信仰の不可侵を約束した。古きユダヤの神は再び主唱者の朗々たる讃歌を聞いた。——しかし朝になると三人のならず者が古いロートシルトの雑貨店を打ち壊した。日中にはサイダー製造工場が略奪された。住民の代表がまた交渉に行った。軍隊はまた不可侵を約束した。——ところが夕方になるとさらに三軒の店とソロモノヴィチ自身の事務所が襲撃された。暴動は九時に始まった——十一時には酒蔵が襲撃された。——そして二昼夜続いた。三日目にアドマン隊が到着した。徹夜の銃撃。——朝になると戦線隊を追い払い、アドマン隊が引き続き暴動した。その後緑軍がアドマン隊を追い払った。次に藍軍——チョバン隊が来た。最後にマーシャ・サンプロワが装甲オートバイに乗ってやって来た。皮帽をかぶり、皮の外套を着、長靴を履き、拳銃も携えていた。自ら七人を銃殺し、鞭でアドマンを打ち据えた。黒い瞳と油で光る巻き毛が閃いていた……マーシャ・サンプロワが来てから暴動はさらに三昼夜続いた。——合計七昼夜。この七日間、街を行き来し、ガラスを割り、ユダヤ人をあちこちに引きずり回し、帽子を引っ張り、長靴をすり替えた……ユダヤ人たちは屋根裏や地下室に隠れた。教会では跪いた。教士は勤行をし、教区民は十字を切った。夜、市の外れで火をつけたが消しに行く者は一人もいなかった。

十七人のユダヤ人が屋根裏部屋に座っていた。薪で入口を塞いだ。暗闇の中、誰も生きているようには見えなかった。ただ長い溜め息と啜り泣きとアドナイへの祈りだけがあった。——偉大なる方よ、あなたの古き民を滅ぼしたもうな。——すると赤ん坊が泣き出した——おぎゃあ、おぎゃあ!——生まれてまだ七ヶ月の赤ん坊が。——聞いてくださいよ、聞いてよ……あなたがたは私たちを滅ぼすつもりですか?……乳をやってくださいな。——私のところには乳はありませんよ……——誰か乳のある人はいませんか、おい、誰か?子供に少し飲ませてやってください、あれでは私たちの命取りですよ……——静かにしなさいよ、坊や……ああ、シマ・イスロエリ、静かに、おまえはいい子じゃないの……——聞こえますか、歩いてますよ、下を歩いてますよ、通り過ぎた……——もし乳がなければ本当にどうしたらいいか分かりません。——その子の口を押さえてください、その子の口を押さえて、人に聞こえないように……——通り過ぎた。長い間歩いていた。戸を叩いた。薪を蹴散らした。通り過ぎた。

綿入れを着て、眼鏡の下に丸い目をした若い男が、夜、ファニー・アリプレシドに語って聞かせた。——分かりましたか、女が子供を胸にしっかり押しつけて、通り過ぎるまでずっと——通り過ぎた後に気がついてみると子供はとうに死んでいたのです……私はこの目で屋根裏部屋で見たのです。その後逃げてきました——私はどうしてもモスクワに行かねばなりません。正義を探しに行くのです……正義はどこにあるのでしょう?人々は皆言っています、正義はモスクワにあると。

ファニーは彼と一緒に吊り床の下の床板に座っていた。彼女もモスクワに帰る途中であった。三ヶ月の漂泊とキエフおよびオデッサの生活を後にして——ファニーはトルゴフスキー通りのリューバ伯母のところへ帰ろうとしていた……貨車——膨れ上がった、車の屋根にも壊れた食堂車の中にも、至る所に人々と箱と袋が括りつけられた貨車——がゆっくりと這い出して行った。すでに冬になり、森から冷気が漂い、川は凍っていた。汽車がガタガタと鳴り、揺れた。人が落ちた。吊り床がガタガタと鳴った——吊り床の上の短い髪の娘に外套を引きかけてやった。良い娘であった。突然、汽車が野原の真ん中で止まった。何時間も止まった。一昼夜止まった。旅客は鋸と斧を手に取り近くの森に薪を伐りに行った。朝になると汽缶に火を入れた。薪は樹液を滴らせ火を圧してなかなか燃えなかった。汽車は前進した。夜も走った。雪の白い昼も走った。夜になると駅ごとに貨車の暗闇の中に潜り込んでくる者がいた。支隊が乗り込んできたのだ。足で探り回し、袋を蹴り散らした。「ラスゴナイエ」という陽気な小駅で凍死者を車の屋根から降ろした。外套は疥癬のようであった。女のように髭のない顔。鼻孔に霜が結んでいた。もう一駅過ぎると——水兵が取り囲んだ。汽車も止まった。緑軍を追い払うまでは通さないという。緑軍が森から出てきて丘を占領した。丘の上ではまるでクトゥーゾフのように——砲兵軍曹ケヴィンが手を遮熱板の上に置き周囲を眺望していた。汽車は焼け落ちた駅に停まった。旅客は貨車の中で踊った。水兵は手榴弾を持って車の傍を徘徊した。夜、襲撃があった。機関銃が鳴り手榴弾が炸裂した。——丘を襲撃したのだ。朝になると緑軍を追い払った。汽車は待った。機関車が唸り出した。前進した。そしてまた黒い村落、焼け落ちた駅、峡間の雪、深淵——ロシアが通り過ぎて行った。

こうして吊り床の下に座って旅をしていた。トルゴフスキー通りに帰るファニーと、薬剤師アブラハム・ブランの息子、正義を求めて旅に出たヤーコプ・ブラン。彼らの吊り床の下には支隊が見つけられなかったパンの切れ端があった。パンを食べ、髪を梳かした。ヤーコプ・ブランは言った——何てひどいんだ……短い外套も焼いてしまわなければならないだろう。

モスクワのファニーのところにはまだ伯父がいた、伯母がいた。白い寝台の置かれた小部屋があり本があった。——ファニーは講義を聴いた。後に一人の男がやって来た。アレクサンドル・ヒリョーエフという、髭を剃った、黒い燃えるような目と嗄れた威厳のある声の男であった。初めは皮帽を無造作にかぶり、外套の前を開けていた。——しかしその後誰かに爆弾を投げつけた後——三日姿を見せず、今度は文官の身なりで走ってきた。——扇動のため、そしてまた反乱のため、南方へ向けて出発した。——あの黒い燃えるような目がファニーの心の深くに突き刺さった。講義を捨て、伯母を捨て、白い小部屋を捨てて——彼について行った。放浪した。抜け道のある家に住んだ。夜、裏道で震えたこともあった——誰かの手から逃れたのだ。キエフに住んだ。オデッサに住んだ。——その後また誰かに爆弾を投げた。夜、セヒガを捕まえに来た。朝、ファニーは探しに行った。番号札をもらい、祈りを捧げ——五日間探した。六日目に新聞に載った。暴動のため二十四人を銃殺。アレクサンドル・ヒリョーエフ、すなわちセヒガも銃殺された……

ヤーコプ・ブランは言った——皆がユダヤ人を殴りに来る、まるでユダヤ人を殴ること以外にすることがないかのように。——夜になり月が出て、雪の丘の上の空に煌々と輝いた。翌朝、市鎮が藤花色の霧の中に聳え立っていた、モスクワが聳え立っていたのだ。汽車は猪のようによろめきながら全身傷だらけで汚れて近づいていった。車の屋根から這い降りた。通路で袋を検査しビスケットを開けた。泥まみれの床板の上に外套が束になって横たわっていた。街は白かった。人々が橇を引いていた。女たちが先を争った。広場では市場が黒々として見えた。ヤーコプ・ブランはファニーの皮鞄と自分の空の鞄を引きずって一路歩いて出て行った。眼鏡の奥の目が斜めになった。汚い汗が顔を流れた。運搬トラックが轟々と通った。十字路には半壊の石膏像が屹立していた。学生たちが二段目で慌てていた。片手に本、片手に薪を持って。順番に並んでいた。長い道を長い時間かけて通った。大勢の人が歩いていた。口を開けて引っ張り、担ぎ、休んだ。子供たちが巻き煙草を持って角で叫んでいた。店の粉々のガラスの上に烈しい音がして鉄が落ちてきた。騎馬の人が突然横町から現れた。銃を持ち。赤旗をなびかせ。馬が鼻を鳴らして——揺れながら駆けて行った。住民が慌ただしく通り過ぎた。まもなく散歩道に現れたプーシキン像の肩に烏が止まった。ファニーはローマ史の講義を聴いたことがあった。ローマ人のような横顔をした志願講師が袋を載せた小橇を引いていた。袋から粉が漏れていた。彼の横顔もすっかり柔らかくなりもうローマ人には見えなかった。大きく口を開けていた。——彼は立ち止まり帽子を脱いだ。湯気が立ち上った。ヤーコプ・ブランはついにファニーの皮鞄をエレベーター口まで運んだ。額を拭い再会を約し握手して去った。雪の中へ、霧の中へ、自分の空っぽの皮鞄を提げて正義を求めて。ヤーコプ・ブランは詩を作りついにモスクワで一冊の本にして出版しようと決心した——ヤーコプ・ブランはすでに血と苦悩と暴動に別れを告げた——彼は新しい生活を始めたのだ。

ファニーは皮鞄を五階まで引き上げた。階段には氷柱が下がっていた。戸ががたがた鳴った。踊り場の壊れた窓口から風が吹き込んだ。リューバ伯父、レフ・リュドヴィチ・レアフは以前は三階に住んでいたがその後すべてが変わった。以前は主人の住居であった三階には——今はデムス氏が住んでいた。運搬トラックが大きな音を立て郊外の何年も閉まっていた巣から彼を運び出した。——オフロス氏は三日を期限に上の四階に追いやられた——すなわち神に近く水に遠い、狭い場所に追いやられたのである。しかし住み慣れたと思った矢先に追い出された。五階の二十四号区にリューバ伯父と一緒に住んでいたのは以下のような人々であった——目の下に三角の皺のある前将軍ザルシド氏(七号室)。軍事専門家チリン、それに色褪せた扇子と「歌女ツプレヴィチ・ツプレフスカヤ」と書かれたチラシ、そしてカリクという名の青い目の近親の私生児を持ち踵の破れた長靴を履いた小公爵ワンデレロイのツプレヴィチ・ツプレフスカヤ(十三号室)。しかしオフロス氏であれデムス氏であれ俳優オカモフ氏であれ灰色の目をして昼間はダンス用の鞄を抱えて走り回るソーヤ・ウスパンスカヤ嬢であれ——皆一様に眠そうな顔をしてまるで戦闘中の装甲艦のように煙を吐く煙突の口から引き窓から這い出してきた家屋の大広間に立っていた——茶器と水桶を持ち蛇口から流れ出る細い水流に錫器の底を叩きながら立っていた。

リューバ伯父は勤めに出ていて留守であった。伯母がふうふうと長い溜め息をついた。ファニーは泣いた。夕食を摂った。ファニーはひと通り話した。軍事専門家が隣の部屋で薪を割っていた。ファニーにはピアノの後ろに場所を与えられ寝台を立てた。彼女は一ヶ月ぶりに清潔な布団の中に横になった。寝台は震えなかった。真夜中にあまりの静けさに目が覚めた。思い出した——小駅、暗闇、雨、黄色い電灯、灰埃まみれの湿った貨車——小駅の風、秋の、夜半のロシア。黒い村、電柱が湿って呻いている、暗、野、泥濘。

ファニーは朝、新しい生活のために目覚めた。リューバ伯父は彼女を自分のところで使うことに決めた——タイプライターを打たせるのだ。夕方、ファニーは家屋委員会に呼ばれた。そこで労働調査所に行くよう命じられ、その間仕事のない時は街路の掃除をさせられることになった。朝七時、灰色の街を通って連れて行かれた。歩いた。積雪を跨いだ。ついに停車場で赤い旗がはためいているのが見えた。長い道に沿って歩いた。吹雪の吹き溜まりにぶつかった。そこで鉄鍬を持ってくるのを待った。一時間待ったが鉄鍬は来なかった。また別の道を連れて行かれた。薪の積み卸しをさせられた……夕方、ファニーは帰宅した。伯母がフライド・ラディッシュを作ってくれお茶を飲ませてくれた。ファニーは暖まった。凍りついた窓ガラスの外に小雪が降っていた。彼女は新しい生活を思った——今始まったばかりの労働の生活を。過去は——恋愛と苦悩であった。一日経つと彼女はもうリューバ伯父が勤めている役所でタイプライターを打っていた。皮の外套を着た女事務員がいた。十二号室の前の廊下には人々が列を作っていた。個室には皮の肘掛け椅子に髭を剃った大きな鼻の軍事委員が座っていた。赤いインクで書類に署名していた。訪問者は額を拭いて嬉々として出て行った。一日経つと悄然として戻ってきた。彼が持ってきた書類の上には証明やら署名やら拒否やらの血が汚れていた。地下室の倉庫では夕方になると配給が始まった。各自羊肉二ポンド、蜂蜜一ポンド、安煙草一袋。役所は活発に動いていた。予算を立て食糧を支給し報告書を書いた——住民間の煙草の配給を管理した。七時から八時まで列に並んで哀れな様子の老人が立っていた。出てくると一ヶ月分の自分の分け前をもらった。満足して出て行った。世界を煙にするために巣に潜り込み鼾をかき咳をした。

夜になると俳優オカモフが中庭で薪を割った。前方には家の崩れた残骸と宙に浮いた階段があった。月と廃墟、烏と竪琴——まるでスコットランド風の題材であった。独立した家屋はすでに取り壊され砕かれていた。月が盲いた窓を照らしていた。オカモフは薪を割りながら歌った——あなたの細き指は、白檀のごとく薫りて……薪を階上に運び暖炉に火を入れた。火の傍で両脚を伸ばし悠然と座った、まるで装飾暖炉の傍の王侯のように。枯れた石炭がある間は良かった。家屋委員会の斡旋で国庫の市区経済部分から八分の一が支給された。——小さな撬を持って引いてきた——しかしまだ一つ良くないことがあった、それ以来両脚が震え律動運動にならなくなったのだ。ワルコンスキー派の律動運動である。オカモフは出演する劇場では律動的であった——オカモフは三時頃に行く素食食堂でも——彼は終始律動的であった。蕪の餡の巻肉の板に対する態度も、帳簿台に対する態度も、小テーブルに対する態度も。そして錫の小匙が手の中で光り、雑煮の上に——湯気が軽い雲となって立ち昇った。

第157節

リューバ伯父はオカモフの巧みな薪割りを見ていた。ワルコンスキーのことは一切知らなかった。しかしある晩、オカモフがすべてを話して聞かせた。すなわち舞台上の人々のこと、そして人生で最も重要なことはリズム(律動)であるということ。リューバ伯父は翌日軍事委員と話をした。同志オカモフは、これがなければ老人たちも煙草党員たちもとうに斃れていたであろう役所に招かれ、演劇研究の指導をすることになった。……オカモフが初めて赴き身段とは何かを見せた時——オカモフは長身で青い頬、灰色の目の男であったが——たちまち十八人の男と八人の女の協力者が集まった。翌日にはまた十八人と八人。研究時間が終わると皆帰らず大広間に集まった。大広間には鏡と棕櫚とチラシと金色の椅子があった。オカモフがまず説明したのは、すべてのものに調和があり世界そのものが一つの調和であるということであった。そして提案した、動作をやってみましょう。右脚のすねを伸ばし、首の筋肉を伸ばし、体を硬直から自由にし——皆を輪になって歩かせた——皆は輪になって歩き、筋肉を自由にしまた筋肉を緊張させた。軽快に、自由に、専念して……オカモフは毎週三回の練習をした。三回目が終わると皆はすでに律動的になっていた。電話口で歌うように「もしもし」と呼ぶようになった。会計係のシヴァドフスキーは髭を剃りゲートルを巻くようになった。以前は田舎娘のように毛皮のブーツを履いて歩いていた交換手たちが今度はオーバーシューズを持ってきて履き、濃く白粉をつけ髪を巻くようになった。——大広間では花環を持って古風に挨拶するようになった。

毎週水曜と木曜の七時にオカモフを迎えに来た。肉の運搬車か運搬トラックであった。上には包布、ボール箱、皺だらけの帽子と髭を剃ったがまた伸びてきた頬が乗っていて、オカモフは車底で揺られているか、他人の肩を掴んで両脚を広げて立っていた。運搬トラックは叫び軋み闇の中を受け持ち区域へ向かって走った。ガタガタ鳴る駅にはすでに人が待っていた。また黒と白の縞模様の扮装。そして着替えながら歩いてきた——車はこうして彼らを送り届けた。嗄れ声を出し白粉を塗り初学者に教えるために。幕間の暇に茶が運び出された。酸っぱいジャムを添えたパンの切れ端もあった。俳優たちは食べ茶を飲んだ……馭者が突然車に故障が出たと言った。ブラグーシからハムフニキまで俳優たちは自分で歩いた。ボール箱を抱え壁に沿って歩いた。あのパヴロワ、ムルトゲン、コミサルシェフスカヤの一座が……

オカモフに召喚状が届いた。寝具、鍋、皿を持って来いという。一週間薪を伐りに行けという命令であった。彼は行って説明した。廊下にはたくさんの人がごった返していた。オカモフは自分は芸術家であり美術家であり教育に従事していると言った。一時間後、倦怠して静まりかえった人々の傍を通って出て行った。命令を受けた——今後も引き続き教育に従事せよと。ザルシドにも同様の召喚状が届いた。目の下に暗い将軍式の三角の皺のある彼は長い間嗄れた声を出し銃傷のある脚を見せた。青ざめた彼は満足して帰ってきた。彼は一人で住んでいた。時々小さな窓から白髪交じりの頭を出してタタール人を呼び止めた。縁なし帽をかぶったタタール人が入ってきた。深い信心の面持ちを見せながら男物のズボンを品定めした。触り明るみに照らした。首を振って舌打ちした。将軍は嗄れた声を出し盗み見た。ひそかに唾を飲んだ。タタール人は恭しく礼をして袋を持って出て行った。将軍は金を床板の下に隠しぼろぼろの赤い裏地の外套を着た——ただ長靴だけは銅の踵のついた将軍靴であった——門の外に出て行った。人々が傍を通り過ぎていった。行列の中で寒さに震えていた。群衆が続々と歩いた。女たち、箱を持ち裾をたくし上げた男たち、続々と歩いた。——皆が足並みを揃えて通り過ぎた。と突然——音楽が後ろから、吹奏楽隊の行進曲が——上では拍子を合わせて真っ赤な棺衣が揺れていた。赤い棺の中には——節くれだった白い鼻、黒い眉、すでに平静に帰しすべてを見すべてを知った者が最後の波の上に漂っていた。軍隊が通り過ぎた。白い顔が漂い去った。揺れた。楽隊は演奏をやめた。荘厳なる永遠の光栄を奏でた。死者は欠けた壁の下で永遠に朽ちる。十一月の黄昏の中で花の磁器のような音を聴くために遺されたのだ……

ザルシドは夕方、火の気のない部屋で突如節くれだった青みを帯びた手で書いた——「肝要なるは餓死を免れんとすることなり。運動を減少するの必要あり。魚油を購うべし。さもなくば脂肪の欠乏を来たす。旧軍官を一所に駆り集めその処にて了するが如し。されど信ずべき風聞あり。曰く聖者の遺骸を展示する保健局展覧会に集合せしむるも観察に忙殺さるる諸人の面前にて文官服飾の教士等が大いなる法事を営みたりと。然れば死をもって恫喝するものと謂うべし。もし連絡線にして伸長せざれば一月の中にモスクワは占領せらるべし。一隊の外国兵が侵入するは最も確実なる事なり。今日已に赤旗の位置を変換せり——これ偉大なる成功にして空前の略取なり。されど肝要なるは餓死を免れんとすることなり。白砂糖をば購うべからず。白砂糖は——奢侈品なり。甘味なくして茶を飲むに慣るるの時なり……」将軍は嗄れた声を出し長い溜め息をついた。壁の向こうではツプレヴィチ・ツプレフスカヤが外套にくるまって横たわっていた。この時青い目のカリク、小ワンデレロイ公爵は老女たちに追い出されながらもなおもうろつき歩いて木の切れ端を拾い集め廃屋の廃材から板切れを引き出していた。板壁の切れ、紙切れ、道で拾った小枝などを袋に入れて持ち帰った——暖炉に火がついた。小公爵は蹲って手を温めた。赤い火が青い目を照らした。母親のような菫色の目——それは穏やかな賢い人生を知った碧眼の小さな老人であった。

ニューシャ——コルセット製造人で、ツプレヴィチ・ツプレフスカヤが以前住んでいた二階に住んでいた。結婚して四十アルシン[12]の布を受け取った。今は早く子供を産んでさらに布と子供の名刺を手に入れたがっていた。夫は外で粉を運び金を工面していた。ニューシャは臆することなく通り過ぎ、九年の間に家の中で馴染んだ赤い紙片にその大きな名が書かれた有名なツプレヴィチ・ツプレフスカヤの以前の住居の戸をイギリス式の鍵で開けた。後にニューシャは突然階上の花環はあるが火の気のない部屋に現れた。頭巾だけをかぶり戸口に立ち静かに言った、麦粉でお礼をするから歌を教えてほしいと。ツプレヴィチ・ツプレフスカヤは彼女の前で脚を広げて立ち罵倒してやろうとした。しかし口を閉じまるで驚いたかのように何も答えなかった。ニューシャは嘲笑って走り去った。昼間、ツプレヴィチ・ツプレフスカヤは外套にくるまって横たわっていた。夜はワンデレロイ公爵が歯を食いしばり二本脚の椅子の上からその疲れた頭をほとんど持ち上げんばかりであった。彼はしかも真面目な少年老成の夢を見た。翌朝彼女は浮腫んだ顔で起き上がり彼にニューシャを呼んでくるよう言いつけた。ニューシャは具合が悪いので自ら来てほしいと言った。ツプレヴィチ・ツプレフスカヤはもう一度歯を食いしばったが頭巾をかぶって階下に降りて行った。一時間後リューバ伯母のところに秤を借りに来た。ニューシャは歌を習った。ツプレヴィチ・ツプレフスカヤは麦粉を袋に入れ鼠を招かぬよう釘に掛けた。

ヤーコプ・ブランは旅行鞄を携えて役所を巡った。五階に上がり番号が来るのを待った。打ち抜かれた壁を潜りこの大広間からあの大広間へと歩いた。尋ねた。穏やかにしかし執拗にしかも親しげに——というのも彼はこの時ついにすべてが平等で誰も誰を殴りもせず斬りもしない場所に——安い賃金で働き労働によってパンを得る場所にいたからだ。女事務員たちはやかましく肩をすくめこの部屋からあの部屋へ追い回した——しかし彼はくどくどと熱心にまた走ってきてついに誰かが面倒に感じうっかり巧みな筆で——支給すべし——と書くまでは引き下がらなかった。ついにヤーコプ・ブランに支給された。すなわち生活の権利が、その下で仕事をし字を書き思索するための屋根の権利が支給されたのだ。停車場そばの第三十四号共同宿舎、以前の「レヴィリ」の家具付き部屋十七号。ヤーコプ・ブランは嬉々としてサモジキ通り、サドフィエ通りを歩き鞄を運んだ。夕方彼は火の気のない部屋に座っていた。壁紙の後ろで何かがかさかさと音を立て転がり落ちて枕元をゆっくり這い回った。昼間花模様の紙の上に見たもの——大鎌を持った死が現れた。書類の上に這い上がり火をつけしゅうしゅうと鳴き焦げ裂け砕けた……

ヤーコプ・ブランは決心した、堅く生活を安定させようと。自分のことで市中を歩き回った。誰もが仕事を持ち生きようとする意志を持っていた。ヤーコプ・ブランは街を行き来し街角に立ち止まって考えた。人々はほとんど彼にぶつかりそうになり跳びのいて行った。彼の故郷の市鎮では誰も急いでおらずどこも急いでいなかった。家に閉じこもり——暴動の際には隠れた。詩の帳面と訴えの胃袋を持ちながらも勇敢にして希望を失わない彼は歩いてまた歩いた。空地、煉瓦、鉄の山、凍りついて人気のない店舗と行列の傍を……灰色の独立した家の中では苦い煙が立ち上り外套を着た女事務員がタイプを打っていた。ヤーコプ・ブランは片隅の女のところに行き著作家として援助を受けるにはどうしたらよいかと尋ねた。援助は彼にとって欠くべからざるものであった。でなければ頼みに来たりはしないとも言った。女事務員も少し考えたが彼を別の事務机に回した。そこからまた上階に回された——そこで彼は階段を上った。応対された。帳面をめくられた。結局相談して見ましょう聞いてみましょう考えてみましょうということになった。月曜日にまた来なさいと。月曜日に行った。また詩を見せた。無産者出身の詩人たちが座っている部屋であった。そこで彼は自分も無産者の出身で祖父は水車番であったと言った。——詩は受け取られ見てから返事をすることになった。水曜日に彼への援助は拒否された。しかしその時にはもう別の上級の役所を見つけていた。彼はまるで出勤するかのように毎日そこに通い客間で待ち請願書を書いた。無産詩人としての扶助と援助と原稿料を要求した。金曜日にすべて拒否された。すなわち援助も原稿料も扶助も。しかし一通の公文を渡され別の役所に行くよう言われた。そこは階段から溢れ路上にも廊下にも長蛇の列ができていた。ヤーコプ・ブランは列の尾につけた。日が暮れた。列は散った。翌朝彼は早くから出かけ一番乗りで入り長い間公文を読み裏返し首を傾けた。ついに命令書が一通渡された。黄色い命令書を手にヤーコプ・ブランは閉鎖された第四支給局で帽子とビロードの帽子を受け取った。自分の部屋で彼はこの帽子をかぶって窓際に近づいた。屋根は白かった。黄昏が濃くなってきた。烏が胸の下を雪に埋めて水浴びをしていた。市鎮は自分とまったく無関係であった。ここでも他所と同じく正義は存在しなかった。ヤーコプ・ブランは精力を使い果たしたと感じた。寝台に横たわりもはやそれ以上の力がないことを悟った。真夜中に大きくて黒い忌々しい鶏が一羽彼のところにやって来てガアガア鳴いた。彼はこの化け物を追い払おうとした。しかし鶏は目を斜めにして睨みつけ口を開いて去ろうとしなかった。夜明け近く鶏との戦いで疲れ果てた。指が氷のように冷たくなった。頭が枕に落ち上がらなくなった。おそらく白い虱が彼のところにやって来たのだ。ヤーコプ・ブランは発疹チフスにかかったのであった。二日後に運び出された。夕方彼の寝台にはヴィテプスクから来た二人の軍事専門家がトランプの「ジャック」のように横たわっていた。

ファニーは仕事をしていた。役所から羊肉、蜂蜜、安煙草を運んだ。役所は活動し支給した。連絡線は伸びた。地図上の小旗が紐のようにうねった。ザルシドは地図を前に静かに嗄れた声を出しながら記録した。

「二週間の後、前衛は殆ど防塞に接近するに至らん。市街を砲撃に委するは不可なり。鉄道を中断すべし——而してまたただこれあるのみ。昨郊外にまた中央においても奇技者出現せり。彼らは磁器のごとき目を有し経帷子を纏いアメリカ式の弾をもって地上に跳躍すること高さ二アルシンに及ぶ。且つ大いに叫びて曰く——我は葬送せられざる者なり——と。これ即ち予兆なり。吾これを感ず。吾これを感ず。」

リューバ伯母はファニーに対して家を出たこと、ヒリョーエフのことをすべて許した。夕方リューバ伯父が新しい訓令を読み上げた。リューバ伯母が長い溜め息をついた。ファニーはピアノの後ろの自分の場所に座った。窓の外では十一月が猛威を振るっていた。雪が紛々と降り注いだ。過去を、恋愛を、情熱を埋めていった。リューバ伯父のところには常に衿を立て羊皮の帽子をかぶった人が訪ねてきてまったく火の気のない廊下を歩き回った。そこでひそひそ相談していた。リューバ伯母は言った——あの煙草商人がまた来たと——ある夜のことファニーがすでにピアノの後ろで寝入り伯父も伯母も横になり暗い部屋がすっかり眠りに就いた深夜に誰かがドンドンと戸を叩いた。リューバ伯父が飛び起きた。戸の外で声がした——どうか開けてください——リューバ伯父の手が震えた。痣のある善良な顎がぶるぶる震えた。錠を回した。防ぎようがなかった。入ってきた。一度にどっと押し入ってきた。皮帽と水兵のリボンが入り乱れていた。——部屋をひっくり返した。伯母の貯蔵品にも手をつけた。麦粉を撒き散らした。煙突を叩いて聴いた。椅子の上に立った。——書類、小旗の挿してあるザルシドの地図、ザルシド、リューバ伯父、向かいの部屋のオカモフ、すべてを拘留し連行した。小ワンデレロイ公爵は箪笥の中に隠れ恐怖のため死体のように座っていた。夜明け前に全員を連れ去った。雪と吹雪と風の中を。

ファニーは朝早くから軍事委員のところに走った。軍事委員は冷淡に肩をすくめ助ける気はなかった。ファニーは絶望して走り出た。何か手がかりを掴もうとしたが何も分からなかった。彼女はどこにも行かなかった。灰色の一日であった。口から白い息が吐き出された。灰色の一日の後にまた同じ灰色の一日が来た。——訳の分からない一週間が続きリューバ伯母は横たわっていた。ファニーはあちこち走り回り疲れ果てた。またあちこち走り回った。三週目にザルシドが釈放された。酒で酩酊した害のない老人だからという理由であった。退役軍人の肩章を焼き捨てるよう命じられた。ザルシドは牢獄から街を通り銅の踵の長靴を片方だけ履いて帰ってきた。もう片方は捕まった時に道で失くしたのだ。角に立ち止まった。冷水を浴びせられたように息が上がった。壁には勝報の湿った新聞が貼ってあった。広場には恐ろしい全身鋼鉄の蠍が赤い小旗を囲んで這い回っていた。群衆を追い散らしていたのは木靴を履き外套をまとった背の低いタンボフ、サマーラ、ヴィヤトカの者たち白軍の田舎者であった。田舎者たちは跳びはね腹を叩き拳を吹いて満足して去った。野営地へ労働へ行くのだ。——最も肝要なこと——それは機関銃が鈍く響く時一緒に襲撃に加わらないことだ……

敵を追撃した。敵は逃げた。ザルシドは路角に立ち湿った新聞を読んだ。音楽とともに歩く人々がいた。馬に乗り槍を持って。教会では鐘を撞かなかった。ザルシドはどうにか家までたどり着いた。五階に上がり窓台の下で一息ついた……部屋に入って横になった。ワンデレロイ公爵が二日間暖炉に火を焚いてくれた。凍えないように。

第158節

リューバ伯父は八日間ずっと、階段の縁が投球の柱のように砕けた家の中に座っていた。放り込まれてくる者もあり連れ出される者もあった。窓から風が吹き込んだ。日が暮れると黒い南京虫が這い出してきた。天井の隙間で人々が寝るのを待ち構えていたのだ。こうして這い出してきた。十三日目に他の者と一緒にリューバ伯父にも準備させた。運搬トラックに乗せて連行した。暗い夜であった。銃を持った兵士が両側に立っていた。牢獄でリューバ伯父は律動家にして元軍官のオカモフと再会した。握手し抱擁した。並んで暮らし始めた。忘却の朦朧とした二日の後、思いがけず三つの焼き野菜と二つの完熟卵が与えられた。——リューバ伯父は前後を忘れ目が泳ぎ声を上げて泣き出した。焼き野菜一つと卵をオカモフに渡し一緒に座って食べた。塩をたっぷりかけた。回想のために凄惨であった。オカモフは軍官の身分を隠匿し陰謀に加担した罪で捕らえられた。前者は間違いなかった——オカモフ自ら認めた。しかし後者については認めなかった。彼は音楽会には確かに一度行ったが、その金は生活費の補填に使ったと言った——事件は長引いた。リューバ伯父の罪名は横領であった。——リューバ伯父は満面を紅潮させ腕を広げた。しかし牢獄の中には煙草商人もいた。あの衿を立てて時々訪ねてきた者たちが……

公判の際、オカモフに訊問した——職業は?——俳優。——その前は?——学生。——軍官をしたことはないか?——したこともある。——反革命家か?——革命家だ、革命的芸術に力を尽くしている。——裁判官は倦んだように言った——知っていますよ、赤軍の兵卒に麻薬を嗅がせることを教えているのでしょう。朗吟ですか?——いいえ、演劇の方面です。——水曜日の七時半、オカモフは引き出され県に移送されることになった。オカモフは手回りの品を片付け別れの挨拶をした。県で釈放されたらまず最初に訪ねて来ると言った……廊下を通り長い間通路から連れ出された。風が吹き込み非常に寒かった。窓の外には暗澹とした空庭があった。十一月であった。

オカモフについて翌日壁に貼られた湿った新聞にこのような記事が載っていた——前軍官、反革命家、積極的幇助者、演劇俳優。——この日太陽が顔を出し空は青かった。前線から戦利品が運ばれてきた。広場にはすでに三台の車があった。またしても赤い棺が高々と運ばれて行った。死体の鼻孔には脱脂綿が詰められていた。ザルシドはこの日このように書いた。「連絡線は已に伸長せり。後方は截断せられたり。一切は滅亡に帰す。本営の遠隔は致命的なること明了なる事なり。一切は亡ぶ。一切は亡ぶ。魚油は已に売り尽くされ購う処なし。風聞に曰く凡そ旧軍官は年金を有する者と雖も第四類に入れられ後方勤務軍に算入せらると。即ち兵舎、厠所その他を掃除せしむるの意なり……パンを給せられざること已に五日なり。辱めを受けずして地図を取り上げられたるは幸いなり……」——夕方、ワンデレロイ公爵が暖炉に火を焚きに行った。ザルシドは窓辺で椅子の上に立ち棚から何かを取ろうとしていた。ワンデレロイ公爵が話しかけた。聞こえなかった。脚に触れてみた。ところが脚が宙に浮いていた。揺れていた。椅子に届かなかった。ワンデレロイ公爵は悲鳴を上げ頭を抱えて飛び出した。

二日後、威厳のある若々しい顔つきの節くれだった鼻と百合色の爪のザルシドは教会の中に命令書により官製の棺に横たわっていた。助祭がお経を唱えた。教士が香を焚いた。香の煙が香炉の上にたなびいた。軍隊は派遣されなかった。これも命令書によって派遣されなかったのだ。四号室の使用人に小橇を引かせるよう指定された。そして薪橇の上に載せて引いて行った。とても軽く引けた。道は滑らかに凍結していた。疲れると棺の上に座って煙草を吸った。ザルシドは橇の軋む音を聞きながら若返り棺蓋の下で返老還童していた。

魅力的な青い目のソーヤ・ウスパンスカヤ——鞄を提げて自分のダンス教室に走る彼女——は壁に貼られた新聞でオカモフの名前を見た——すると突然身震いし唇を噛んだ。縁と言えば水を汲む時に一度並んだだけ、一緒に薪を割り「あなたの細き指は、白檀のごとく薫りて……」と歌うのを一度聞いただけであった。しかしソーヤ・ウスパンスカヤには温かい小鳥のような心があり容易に魅せられる心があって、あらゆる混乱と悪臭の中にあっても懸命に自分の小さな港を探し求めていた。オカモフの名はすでに悲劇的に高められた滅亡であった。——ソーヤは彼を長い間待ち望みながら永遠に離別した人として想い描いた。……ソーヤはすでに爪先でしっかりと歩いていた。急ぎながら指で唇を押さえ一人の人にすべての真実を語ろうと決心した。その人とは官営の旅館に住みオートバイで出入りしながらもまるで同じ低い身分であるかのように彼女を待ち家まで送ってくれた、あの人であった。夕方ソーヤは旅館に行った。通行券をもらい証明書を肩に載せた。赤い階段を上がり磨りガラスの戸を叩いた。心に思っていることを残らず言わずにはいられなかった——鋭く、直截に、滔々と——たとえそのためにどんな罪を負おうとも構わなかった。しかし部屋には二人が座っておりテーブルの上にはお茶もあった。あの人は驚いたようであったがすぐに顔を輝かせお茶を勧め、どうぞ召し上がれと言った。ソーヤは飲まなかった。そしてちょっと用があって来たのだと言った。あの人はまたお茶をどうぞと言った。座中は気詰まりになった。客は黙った。ソーヤは茶碗からお茶を飲んだ。あの人は善良な愛情を湛えた目で彼女を見た。ソーヤはどうでもいいことを聞きお茶を飲み干し帰ろうとした。自分でも悲しくて涙が出そうであった。お茶と質問のために自分を憎んだ。しかし彼は廊下まで送ってくれ手袋の穴から彼女の温かい小さな掌に接吻した。ソーヤは一段の階段を降り突然言った——私はこんなことのために来たのではありません……何もかもが嫌になりましたこんな風に生きてはいられません、もうあなたに会いたくないのですそれを言いに来たのです。なぜオカモフが銃殺されたのですか?——彼も自分も哀れに思え涙が頬を伝った。——あのオカモフですか?——あの人は驚いて聞いた。——オカモフです、俳優の……——オカモフとは誰だ、知らないよ——あの人は言った。——過渡期には××しなければならんのだ……革命は粗暴なものだよ。——ソーヤはどうでもいい、革命が過渡期なら、こうでもいいと言いたかった。しかし私はもうあなたに会いたくないし、ついて来てほしくもないと。しかし彼女は何も言わず走り降りた。翌日の夕方彼は教室に迎えに来た。彼女は口を利かなかった。彼と一緒に出た。もう一度どこにも行かないと言いたかった。——しかし馭者がすでにドアを開けていた。言う暇がなかった。彼女は車に乗った。暖かかった。黒い柔らかな風が三月に薫っていた。星の銀色の霞がすでに浮かび上がっていた。オートバイは走り出した。街の果てが雪と空漠の中で息をしていた。ソーヤは思った、もう終わりだ。あんな風になってしまってもうだめだ。彼女は思った、あの愛すべき温かい最も繊細な人の最後の臨終の微笑に報いることができなかったと。

ファニーのところに突然フェニメン・ブルーニが現れた。セヒガすなわちアレクサンドル・ヒリョーエフの友人であった。皮帽をかぶり黒い短い顎髭を生やしていた。頬に一直線の傷跡があった。ファニーはピアノの後ろの自分の場所に案内した。ブルーニは言った、彼らの中央委員会が死んだ仲間の仇を討つと。アレクサンドル・ヒリョーエフの名は英霊録に登録され二度と消えることはない。仇討ちについてはファニーにもまもなく分かるだろうと。こうして義務を果たし去った。ファニーは長い間証明書に貼られたいたずらされた写真を見つめていた。セヒガの顔には番号が書かれていた、青い字で。ファニーは泣いた。——その頃ブルーニもまた奔走していた。傷跡が紫色になった。ブルーニはとうに冷え切った家屋の六階に上がった。戸を叩き外で耳を澄ませた。戸が開いた。歯医者の応接室にはレーヴェン、グリゴルク、ポシュケヴィチが座っていた。決起はおよそ明日の十二時の予定であった。すべて計画済み準備済みであった。ヒリョーエフの仇を討つため、恐怖手段のため、製薬室のため、委員会の財政充足のため——金が必要であった。武力強奪の件はとうに研究し調査し周密に計画していた。一時間後ブルーニは出て行った。またしても執拗に傷跡を紫色にして街を歩いた。翌日の二時半七人がオートバイで横町の役所の前に乗りつけた。二人が門番をし、二人が中庭へ、三人が階上へ。算盤がパチパチ鳴っていた。出納係が金庫の傍に立っていた。女事務員がスープを飲んでいた。グリゴルクが進み出て拳銃を突きつけ手を挙げろと叫んだ。ブルーニとポシュケヴィチが出納係の頭を殴った。彼は倒れた。束になった紙幣をポケットに放り込み始めた。出納係が突然跳び起き頭を抱え這うように稲妻形に走って逃げようとした。グリゴルクが背中に一発撃った。出納係は仆れた。交換手たちが鋭い叫び声を上げた。誰かが横の戸口に走った。一斉に襲いかかってきた。——グリゴルクはベルトを解き飛び出した。皆が飛び出し散り散りになった。埃、ガラス——彼らは階段を飛び降りた。上から分銅と算盤が投げつけられた。——オートバイはすでに動いていた。彼らは駆けつけ掴まり飛び乗った——オートバイが彼らを運び去った。突然戸の中から人が飛び出し片膝をついて投げた——グリゴルクが振り向くと銅貨が顔に命中した。血が流れた。追手が迫っていた。馭者が馬を打った。ブルーニは腕を伸ばし絶え間なく撃った。——積雪の横町に曲がった——オートバイが滑った。車輪がよろめき煙に包まれた。馬が追いつき橇の中の外套の者たちが斬りかかった。ブルーニは飛び降り袋を提げて走り門を突破し塀を跳び越えた。後ろからポシュケヴィチが走ってきたが座り込み倒れた——また爆発——落下——叱咤、ガラス……ブルーニは逃げ出し振り返った。ポシュケヴィチは彼に続いて塀をよじ登ろうとしたが横に塀から落ち雪の中に倒れた。ブルーニはなおも走った。鉄門が閉まっていた。門に近づき押し開けようとした。しかし門は内側から支えられており通れなかった。彼は中庭をもう一周走り汚水溜まりの片隅に蹲った。——空は青く沈鬱で雪催いの天気であった。ブルーニはしばらく待った。一角から蹄の音が聞こえた。彼は銃口を口に銜え引き金を引いた。

街では子供たちが走り回り窺っていた。大きな橇に載せて——七人の短い外套のロマノフ皇帝党員が運ばれて行った。皆重なって横たわっていた。兵卒が銃口を下に向けた銃を持って従いて歩いた。馬が整然とした歩調で進んだ。ブルーニは横たわり顔を他人の肩に伏せていた。

すべての煙草商人には家族がいた。煙草商人は法律に明るく隙のない人々であった。——リューバ伯父はその反対でごちゃごちゃで最初の審問の時にすでに混乱していた。すべてが彼に不利であった。彼は九回引き出されて審問された。九回の陳述はすべて異なっていた。二ヶ月目に判決のために浮腫み髭がぼうぼうで衰弱した彼は市街を通って連れ出された。リューバ伯父は二人の兵卒に挟まれ白い大広間の椅子に座った。向かいには軍事委員が威厳を正しまるで彼を知らぬかのように座っていた。傍聴人の中にはすでに釈放された煙草商人もいた。白く寡黙なファニーがツプレヴィチ・ツプレフスカヤ嬢と一緒に座っていた。まもなく鈴が鳴った。皮鞄を挟んだ検事がただちにリューバ伯父を寄食者と呼び彼の混乱した陳述をすべて読み上げさらに煙草商人の陳述を示した——市民レフ・リュドヴィチ・レコフは盗賊であり寄食者である——検事は彼に対して極刑を要求した。この後弁護士が口を開いた。何も否認せずただ寛大を求めた。彼の職務を指摘し悔悟と老年についても述べた。裁判官が退席した。協議した。ファニーは真っ黒な見えない目で前方を見つめていた。リューバ伯父は浮腫んで——鉄青色で微動だにせず座っていたまるでとうに死んでしまったかのように。煙草商人は廊下で煙草を吸っていた。裁判長が戻ってきた。また鈴が鳴った。皆がまた着席し静粛になった。窓の外でオートバイが止まった。裁判長が宣告した。検事の提案に賛成し極刑を判決した。

ツプレヴィチ・ツプレフスカヤはファニーを街頭の馬車に乗せて連れ帰った。ファニーは五階に上がり伯母に会った。泣いて椅子に崩れ落ちた。夜になるとピアノの後ろの自分の場所に横たわった。月の角が窓の向こうで輝いていた。竪琴が吟哦した。ワンデレロイ公爵が二人の傍で夜通し番をした。継ぎ当ての靴下を履いた細い脚を垂らし椅子の上で居眠りし始めた。夜は深く深く尽きた。竪琴は昏く月は沈んだ。快活で若々しいリューバ伯父が枕元に近づき微笑みながら冷たい指でファニーの顔を撫でた。

ツプレヴィチ・ツプレフスカヤはまだニューシャに稽古をつけていた。ニューシャは巻いた楽譜を手にピアノの傍に立っていた。ピアノの上にはピアノや家屋や物品の保管証が掛かっていた。これは家宅捜索の結果であり女流声楽家であるためにこれらの物を許可されたのだ。近頃ニューシャは音楽会すなわち舞台に出るようになった。すでに登録していた。皮の外套や金剛石——聴衆からの贈物を保持する権利を持っていた。ニューシャの夫は保健部員と一緒に麦粉を運んできた。麦粉は市場で先を争って買われた。そこでニューシャは海獺の外套を買い客間に掛けるA・イワソフスキーの描いた細波と帆掛け船の絵を買った。彼女は「星」社に出演した。最高の優伶と並んで成功を収めた。夜彼らは一緒に運搬トラックの中で揺られた。不自由で寒くて狭かったが幸福であった。芸術のために俳優の苦痛を耐え抜いた。降誕節の日に夜会があった。出演者とともに優伶たちも招請された。腹の空いた優伶たちは嬉々として鼻を赤くして走ってきた。食卓には鵞鳥、酒、臓物餡の饅頭のようなものがあった。優伶たちは喜びに我を忘れた。時々喚き声を上げなかなかの騒ぎであった。ニューシャは歌った。ツプレヴィチ・ツプレフスカヤが伴奏した。散会の時ニューシャは門口で鵞鳥の肉二切れを紙に包んでツプレヴィチ・ツプレフスカヤに渡した、演奏の謝礼として。彼女は怒って突き返そうとしたが鵞鳥の肉を受け取った。夜中小ワンデレロイ公爵が鵞鳥の肉を大いに頬張った。幸福そうに笑い出した。食べ過ぎて息が詰まり咳き込んだ。

第159節

ヤーコプ・ブランのところへ、後に黒い鶏もまた八回やって来た、毎晩。今や彼はこの鶏を見知っておりやって来る時刻も分かっていた。忌々しい鶏は憤然として歩み寄り彼を啄んだ。——彼はいつもこの鶏を絞め殺してやろうと思い全身汗まみれになった。しかし心臓の鼓動が激しすぎてうまくいかず気を失った。周囲で呻き、讒謗し、徘徊した——捕まったがまた元に戻った。九日目の夜、鶏は来なかった。彼はようやくぐっすり眠れた。心臓は静かで打たなかった。朝、太陽の下、白い窓、黄色く汚れた官物の布団の下に骨の出っ張った痩せこけた自分の膝を見た。彼は衰弱し焦げ茶色で髭が伸びていた。腹が減ったと感じた。白い虱は遠のいた。ヤーコプ・ブランは命を保ちまた愛し働き生きたいと思った。二週間後、焦げ茶色の彼はようやくT字杖をついて門外に出た。穏やかな天気であった。灰色の積雪がまだらになっていた。石畳の上で烏が三月の叫びで鳴いていた。ヤーコプ・ブランはT字杖をついて歩いた。彼の心臓は衰弱しすべての人に開かれていた。しかしすべての人々が急いで通り過ぎた。第三十四号共同宿舎は一週間後に旅行鞄を返してきた。部屋の期限が切れたのだ。そこには軍事専門家の後にすでに男物の長靴を履いて走り回る娘が入り込んでいた。ヤーコプ・ブランはその下で仕事をし字を書き思索するための屋根さえなくなった。彼は息が詰まる思いであったが詩を印刷すると言ってくれた役所にまだ足を引きずって行った。役所の中は依然として煙と埃が立ちこめていた。女事務員たちは皆おしゃべりしていた。——書記の無産詩人は新しい人に替わっていた。黒くて髪が乱れた男であった。紙箱をひっくり返し姓名を尋ね引き出しを開けた。ようやく見つかった。詩は返却と決まっていた。ヤーコプ・ブランは詩を受け取りビロードの帽子をかぶった。彼には泊まる場所がなかった。夕方、無料食堂の長蛇の列の尾に並び菜の葉の切れ端が浮いた熱いスープを飲んだ。夜は宿を探した。街は暗かった。三月の闇の中で風が商店やカフェの割れたガラスを鳴らしていた。ヤーコプ・ブランは一つの大きな建物の薄暗いエレベーター口に立ち階下の以前は門番の部屋であった隅に潜り込んだ。干し草を少し見つけ——壁に背をもたれて熟睡した。

夜明けにひどく冷えた。両脚が伸ばせなくなっていた。T字杖をつき蹣跚として歩いた。湿った三月の労働の日々が始まった——ヤーコプ・ブランはファニーの住所にたどり着いた。ファニーは黒い喪服を着て門口で彼を迎えたが一瞬思い出せなかった。しばらくして手を打ち彼を自分の隅に案内し悲しみを語った……ヤーコプ・ブランは暖炉の傍で暖まった。小さな引き窓の外にたなびく煙を眺めた。そして言った——ここにも正義はない。ここでもやはりただ餓死することしかできない。しかも知り合いは一人もおらず誰も憐れんでくれない。援助もなく帽子を一つもらっただけだ。私は今まで縁なし帽なんかかぶったことがないのに。どうやって生きていけばいいのだ?——ファニーは廊下の箱の上に寝台を敷いてやった。ヤーコプ・ブランは箱の上に横たわり精一杯回復に努め吟詠した。顔に光沢が戻り眼鏡の奥に大きな目が輝いた。彼は決心した、故郷の市鎮に帰ろうと。あそこには正義はないが餓死者もいない。一週間後、何も持たずただ空っぽの旅行鞄を提げて別れを告げ出発した。ファニーは焼き野菜の切れ端とパンを渡した。夕方、群衆と一緒に叫び声と吶喊と射撃の中を駅から通路に突撃した。道でT字杖を失くした。黒い列車の屋根の上にはすでに大勢が横たわっていた。梯子にもぶら下がっていた。壊れた車窓に突撃した。ヤーコプ・ブランは突き飛ばされた。倒れそうになった。誰かの肩を掴んだ。手を打たれたがしがみつき——誰かの肩を踏んで車内に潜り込んだ。車内は真っ暗であった。包みに取り付いた。——転んだ——床の上に人々が横たわっていた。どこかの椅子の下の隅に場所を占めた。小さな荷物を頭の下に敷き力尽きた。まもなく機関車が唸り客車がぶつかり合って鳴った——列車が動き出した。脚が梯子から突き出ていた。屋根の上では夜の準備をしていた。死んだ都市が後ろに残された。前には——道、曠野、雪。駅で真夜中に新しい客が車内に押し寄せた。上から叩いた。後ろで声がした。銃声が始まった。ヤーコプ・ブランは目を閉じて横たわっていた。帰る途中であった、故郷へ。

ヤーコプ・ブランの故郷の市鎮にはまず白軍が駐屯した。後に緑軍が来た。その後はマルーシャ・チョバン隊、戦線隊、アドマン隊、最後にすべてを駆逐し粉砕して赤軍がやって来た。非常委員会が到来した。非常委員会は直ちに粛清に着手した。水兵と戦線隊の残党を銃殺しマルーシャを銃殺し公証人アグリコプロを銃殺した。暴動は止んだ。怯えたユダヤ人が這い出てきて隅に集まって相談し手を振った。埋葬した。勘定した。非常委員会は広場のサイダー製造工場の建物を占領しエレベーター口と門口に歩哨を立てた。騎馬兵が街を行き来し証票を検査し逮捕者を護送した。日本人のエシャが皮を敷いた橇に座り皮の縁なし帽をかぶり拳銃嚢をベルトに差して行き来した。まもなくユダヤ人はまた声を潜めた。商店は依然としてガラスが割れていた。日曜の朝、群衆が市場を取り囲んだ。農民は麦粉やバターや卵をもう市に運んで来なくなった。狡くなり村の中で取引するようになった。ズボン一本しか持っていない上に古いスケート靴を履いた者五人が捕らえられ——審問の後投機防止局に送られた。日曜の夜、市鎮で家宅捜索があった。銀銭、農産物、逃亡者を捜索した。銀銭は少ししか見つからなかったが農産物はかなりあった。逃亡者の一団が捕まった。夜が明けると親しい者たちが門前に長蛇の列を作った。

市鎮に突然檄文が出現した。誰が撒いたのかは分からなかった。それにはこのような意味のことが書かれていた。——諸君の仲間が諸君を待っている。新政府はパンと法律と正義を保障し農民を保護し地主を保護し暴動と戦いユダヤ的圧制と戦う——要するにすべての人の権利を保護するのだと。非常委員会は戒厳令を発布し歩哨を立て夜は巡察を出した。ヤーコプ・ブランが故郷の市鎮に帰る前日、陰謀が発覚し幇助者が逮捕され市鎮は天地覆るの騒ぎとなった。

その間ヤーコプ・ブランを乗せた列車も這い、停まり、鉄道の修復を待ちそしてまた前方に這っていた。機関車が壊れ曠野で新しいのが送られて来るのを待った。夜、脱線した——誰かが枕木を抜いたのだ——また修理し動き出した。——客車の中では丸くなり譫言を言いもう少しで死にそうであった。駅に着くと運び出され荷物台の上に置かれた。ついに朝、列車が故郷の市鎮に着いた。ヤーコプ・ブランは這い出した。よろめき慌てた。空気を胸いっぱい吸った。ガラスの割れた駅、澄んだ小川に架かった木橋、二本のふっくらした白楊、そして至る所に死んだような看板の掛かった融け始めた汚い湿った街に通じる道、すべてに見覚えがあった。食糧店の前には早朝から行列ができていた。押し合い寒さに震えていた。広場には衣裾の濡れ透った外套を着た不眠の兵卒が整列していた。監獄から鉄鍬を持った囚人が連れ出されていた。どの家も鎧戸を閉めていた。緑色の赤色の灰黒色の木造の家々が——まだ眠っていた。商店街には赤い看板が掛かっていた——第一号倉庫、第七号倉庫、第十二号倉庫——すべて公有。街角に一人のつば広帽をかぶった白い巻き毛のユダヤ人が立っていた。ただ立って茫然と眺めていた。その唇が震えぶつぶつと独り言を言っていた。

ヤーコプ・ブランは見覚えのある青い窓という窓に花のある古い家にたどり着き長い間戸を叩いた。戸はついに耳環をつけた兵卒が開けた。何の用だと聞いた。ヤーコプ・ブランは家に入ろうとした。しかし兵卒は大声でこの家はすでに公有であり事務所は十時から開くと言った。ヤーコプ・ブランは戸を見た。すると白い看板が見えた——本部事務所。——一時間後、彼はラザリ大通りの親戚から父親のことを知った。父親はまだチョバン隊がここに駐屯していた頃にキエフに退避しそれ以来姿も見せず便りもないと。家は公有となり品物もすべて没収されたと。ヤーコプ・ブランはひとまず台所に住んだ。翌日陰謀の粛清人がやって来た時彼は逮捕され非常委員会に引き渡された。ヤーコプ・ブランはサイダー製造工場の以前の使用人部屋に座っていた。またそこから引き出された。入れ替わりに別の新しい者が放り込まれた。朝、裁判官のところに連行された。裁判官は耳を動かし空気を嗅ぎ片目で見た。お前はチョバン隊と一緒に逃げたブランの息子ではないか?なぜ来たのだしかも今になって?なぜ届け出に来なかったのだ?お前の鞄の中の官給の帽子はどこで手に入れたのだ?ヤーコプ・ブランは答えた。裁判官は目を細めて嘲笑い鉛筆を弄んだ。ヤーコプ・ブランが話し終わると彼は隅に小さく書きつけた。ヤーコプ・ブランは連行された。眠れぬまま一夜を過ごした。雪解けの水がぽたぽたと滴っていた。春が来た。三月の月が輝いていた。彼は目を開けて横たわっていた。風があらゆるものを吹き拂った。ヤーコプ・ブランは考えた。悲しんだ。しかし落ち着いていた。詩を作った。竪琴が風の中で吟哦した。弦を鳴らした。ヤーコプ・ブランは手で顎を支えしばらく考えそして噛み砕いた鉛筆の欠片で壁に書いた——

静かな風、融ける雪、

一人の人が私の前に来て、

歌を歌った……

【ラーラの利益】

V・インベル

エレベーターは年を取っていて鉄の柵の後ろで寂しかった。絶え間なく上がったり下がったりするので気難しくなり扉を閉めると憤慨してガタガタ鳴り下降しながら傷ついた狼のように微かに呻いた。彼はしばしば言うことを聞かず建物の中ほどにぶら下がったまま不機嫌にエスカレーターを上って行く通行人を眺めていた。

エレベーターの操縦人はヤーコプ・ミトローシン、十一歳、親を知らない子供であった。彼は路上で門番に見初められエレベーターの管理を任された。住宅管理部の命令によればヤーコプ・ミトローシンには誰かを一人で昇降させることは許されていなかったが彼は自分で通行人を上下させしかも規則通り五ゴペイカを徴収していた。

長い長い夜中に外で嵐が怒号する時もヤーコプ・ミトローシンはなおエレベーターの職務を守り芝居や友人の家に出かけた人々を待ちながら世事を考えた。世事を考え自分の破れた皮の長靴のことを考えまた彼を息子のように扱う門番ミトロファン・アフダシが何の理由もなくひどく殴ることを考え、もし鉛筆を一本拾えたら勉強できるのにと考えた。彼はしばしばエレベーターの構造を繰り返し観察した、内部、クッションのついた椅子とスイッチのボタンを。とりわけ赤いボタン。これを力いっぱい押しさえすれば猛スピードのエレベーターもたちまち止まるのだ。これは非常に面白いことであった!

夜、大人たちが芝居に行ったり家でお茶に客を招いたりしている時、建物中のどこからともなく小さな頭巾や小さな羊皮の帽子[21]がヤーコプ・ミトローシンのところに雑談しに来るのだった。そして時にはフランネルの小さな頭巾をかぶった六歳のラーラという名の子も交じっていた。ラーラの母親は詰め物をした衣包のように太っていてこの交際がたいそう不満で言った。

「ラーラ、あの子は正真正銘の親なしの子よ、鼻を拭きなさい!あの子は本当に泥棒にもなれば人殺しにもなるのよ、指をなめないの!あなたには他にお友達がいないの?」

もしヤーコプ・ミトローシンがこういう言葉を聞けば勃然と怒ったが口は開かなかった。

ラーラの保姆は上流の老婦人であったのでこの交際にはなおさら不満であった。

「ラーラちゃん、あの子の相手をするのはおやめなさい、もう構っちゃいけません!あなたどんな良いものを見つけたっていうの。エレベーターの小僧よ。あなたのお父さんは柔らかい革張りの書き物机をお持ちだしあなた自身も毎日ココアを飲んでいるじゃないの。ふんこんなお宝!あなたのお友達にふさわしいとでも言うの?」

しかしこの花の蕾のように繊細な丸い小さなラーラはもう慣れてしまっていつもヤーコプ・ミトローシンに近づく方法を見つけ微笑みかけるのであった。

ある日エレベーターの扉の下のいつもこの建物のあらゆる告示が貼られる場所に新しい告示が出た。

「この家のすべての子供たちは、明日三時に、階下の羊皮の積んである場所に全員集合のこと。重要な議案を提出す。入場無料。隣家の者は入場料として胡椒糖菓子二個。」

下に署名はなかった。

最初にこの告示に気づいたのはラーラの母親であった。彼女はまず眼鏡をかけて読みそれから眼鏡を外して読みそしてただちに二階に住む家屋管理員を呼んだ。来たのは家屋管理員の副手であった。

「どうお思いになりますかポラディス同志?」ラーラの母親は言った。「こんなことを放っておくなんてどういうおつもりですか?」彼女は手袋をはめた手で告示を指さした。「誰かがここで私たちの子供をそそのかしているのにあなたは一言も言わないのね。なぜ黙っているのですか?うちのラーラは絶対に行きませんいいですけど。でも道理から言えば……」

ポラディス同志は近づいて見ると鼻を鳴らして答えた。

「これにはとりたてて珍しいことはないと思いますが奥さん。子供たちには組織を作って自分たちの本業の利益を守る権利がありますから。」

ラーラの母親は興奮して口がもつれ歯を食いしばって言った。

「利益ですってまだ鼻水も乾かない子供たちが。分かってますよこれは十八号室のユーラが書いたのよ。何かの課長の息子でしょう。」

課長スレシノフは気難しい腎臓病持ちの男であったが告示にちらっと目をやり自分で思った。

「分かっているよユーラの筆跡だ。あいつはいったいどんな人物になるのやら。ピウスツキ[22]のような無頼漢かもしれんな。」

子供たちは皆この告示に気づかなかったかのような様子であった。ただ階段の上に小さな足跡がとくに増え近くの店では胡椒糖菓子の需要が突然高まり倉庫に新しい品を取りに行かねばならなかった。

この夜は静かに過ぎた。しかし朝になると賑やかになった。

まず牛乳売りの女が来てまだ言った、外は大吹雪で手も見えない、自分の馬を繋ぐのに頭でなく尾を繋ぎそうになったくらいだ、だから牛乳は一ゴペイカ値上げだと。家の中は嵐のような気分で満ちた。しかしスレシノフは弁当を鞄に入れて変わらず出勤しラーラの母親は牛乳売りの問題を調べるためにラズィーナのところへ行った。

子供たちは自分の部屋に座って非常に静かにしていた。

六時になって大多数の親たちが仕事と吹雪と昼食で疲れ横になって休み力の抜けた手を『真理』や『思想』[23]に埋めている時、小さな影が階下に忍び降りまさしくあの羊皮の積んである場所へ走って行くようであった。

第160節

ラーラの母親がラズィーナのところへ列席に行き、初めて牛乳が本当に値上がりしたこと、バターに至ってはまったく買えないことを知った。一時間後、彼女もまた長椅子の上の華麗な、あるものは自動車の車輪ほど大きく、あるものは茶碗の受け皿ほど小さい丸いクッションの山の中に身を沈めていた。保姆が台所に走って行き洗濯女と神様はいるのかいないのか議論していた。

その時突然部屋の戸が音を立てた。

ラーラの母親は飛び起き娘のエレーナ・イゴーロヴナ・アントノワがいないことに気づいた。

ラーラの母親はすべてを放り出し向かいの戸口に向かって大声で叫んだ。課長スレシノフが自ら戸を開けた、手に湯たんぽを持って。

「うちのラーラがいなくなったわ、お宅のユーラもきっとそうでしょう」ラーラの母親は言った。「あの子たちは階段の下で会議をしているのよ、何が本業の利益ですって、一言で言えば大馬鹿よ。」

課長スレシノフは不機嫌に答えた。

「うちのユーラもいません。きっとあそこでしょう。あいつが発起人かもしれんと私は思っています。外套を着に行きます。」

二人は一緒に階段を降りた。エレベーターが老弱の呻き声を上げて七階から落ちて行った。ヤーコプ・ミトローシンは乗客を見ると停止ボタンを押してエレベーターを止め冷然と言った。

「申し訳ございません。」

ちょうどその時、下の羊皮と冬眠中の道路散水車の水管が積んである部屋にもたくさんの子供たちが集まっていた、息もできないほど大勢。薄荷の匂いがして薬局の中のようであった。

ユーラが古い椅子の上に立ち開会の準備をしていた。中立の代理議長ヴィクトル、十二歳の子供が絶えず彼のところに走ってきて指示を仰いでいた。

「ユーラ、隣の女の子が赤ん坊を抱いて来たけど、その赤ん坊は発言を彼女に委託できるの、それとも駄目?」

この時その赤ん坊が自ら発言し、皆の耳をほとんど聾にした。

「同志諸君」ユーラは赤ん坊よりも大きな声で懸命に叫んだ。「同志諸君、発言できるのは一人で歩ける者に限る。それ以外の者は発言すべからず。発言の委任も不可。演説したい者は登録せよ。時間は多くない。議案は——新しい両親の選挙。」

ラーラは青白い顔で目を輝かせヴィクトルの前に駆け寄り小声で言った。

「お願い、私も書き入れて。言いたいことがあるの。書いて——五階のラーラ。」

「何の問題について発言したいのですか、同志?」

「暖かいズボンのことよ、もう穿けなくなった穿き古したズボンの問題。他にもたくさんあるわ。」

ユーラは胡椒糖菓子で窓枠を叩きながら口を開いた。

「同志諸君、一言述べたい。すべての人々——金属工やら商人やらあの靴磨きまでもが——搾取に備える彼らの団体を持っている。しかし我々子供にはそのようなものが設けられていない。各人が両親、母親だの父親だの、とりわけ腎臓病を患っている場合にはなおさら、勝手にからかわれている。このままではいかん。要求を提出し時代に適応した口号を作ることを提議する。賛成の者は?反対の者は?棄権の者は?」

「ヤーコプ・ミトローシンがここに登録しています」ヴィクトルが報告した、「もう平手打ちを許さない問題について。ただし本人は来ていません。」

ユーラは誠実に眉をひそめて言った。

「当然だ。彼は暇がないのだ。つまり重要な仕事をしているということだ。彼の提案は成立する。」

会議は嵐のように進んだ。多くは大変な難問題で誰も沈黙していられなかった。大人たちがやりすぎで子供が建物の通路で遊ぶことまで禁止しているこれには積極的に対処すべきだという者もいた。水溜まりで長靴を洗うことは無条件に認められるべきだという者もいた、その他いろいろ。

子供たちの利益の擁護がこうして業種の基礎の上に打ち立てられ始めた。

エレベーターは三階と四階の間に一時間半ぶら下がったままであった。ラーラの母親が怒り狂って戸を叩いても無駄、課長が病気の腎臓を押さえても無駄であった。ヤーコプ・ミトローシンは皆にこう答えただけであった、エレベーターの内部に故障が出たので自分にもどうしようもない、ぶら下がっている——そのうち自然に動くでしょうと。

ラーラの母親が焦燥と長い待ち時間で半死半生になりようやく自分のクッションの上に戻った時、ラーラはすでに父親の書き物机の前に座っていた。彼女は太い青鉛筆で大きな紙に花文字で会議で議決された口号を書いていた。

「子供たちよ、あなたたちの両親を選ぶ時は気をつけなさい!」

ラーラの母親は驚いて顔色が青黄色に変わった。

翌日、保姆が彼女に一通の手紙を渡した。汚い封筒の中に丸い物が入っているのを見て不思議に思った。開封すると中には大きな汚い五ゴペイカ硬貨が一枚あった。紙片にはこう書かれていた。

「奥様、エレベーターのお金をお返しします。これは当然のことです。私はわざとあなたがたをエレベーターの中にあれだけ長い間閉じ込めたのです、あなたの娘さんラーラが彼女のあらゆる利益について発言できるようにするためです。

「字の書けないヤーコプ・ミトローシンのために代筆。

ユーラ・スレシノフ。」

【後記】

ザミャーチン(Evgenii Zamiatin)は一八八四年に生まれ造船専門家であり、ロシア最大の砕氷船「レーニン」は彼の作品である。文学上革命前からすでに名を成し大家の列に入っていた。革命の内戦時期にも「芸術府」「文人府」の演壇を発表機関として借り自作を朗読し、また「セラピオン兄弟」の組織者にして指導者として文学にはかなり力を尽くした。革命前はもともとボリシェヴィキであったが後に離脱しすべての作品もついに旧知識階級特有の懐疑と冷笑的態度を脱しきれず、今やすでに反動的作家と見なされ作品を発表する機会はほとんどなくなっている。

『洞窟』は米川正夫の『労農ロシア小説集』から訳出しさらに尾瀬敬止の『芸術戦線』所載の訳本を参照した。飢えたペテルブルグの一隅の住民が飢寒に苦しみほとんど思考の能力を失い、一方では無能な微弱な生物と化し他方では原始の野蛮時代の状態を呈するさまを描いている。病む妻のために薪を盗んだ男がついに毒薬を彼女に譲り服毒を許すしかなくなるというのは革命の中の無能者のちょっとした小悲劇である。書き方はいかにも晦渋に見えるが仔細に見れば極めて明白である。十月革命直後の飢餓に関する作品は中国ではすでに何篇か訳されているがこれは「凍え」についての一篇の好作品である。

シュシュケンコ(Mihail Zoshchenko)もまた最初の「セラピオン兄弟」の一員であり彼にはごく短い自伝がある。曰く——

「私は一八九五年ポルタワに生まれた。父は美術家で貴族の出身。一九一三年に古典中学を卒業しペテルブルグ大学法学部に入ったが卒業せず。一九一五年に義勇兵として前線に行き負傷し毒ガスにもやられ心臓が少しおかしくなり参謀大尉となった。一九一八年に義勇兵として赤軍に加わり一九一九年に首席で帰郷した。一九二一年に文学に従事し始めた。私の処女作は一九二一年に『ペテルブルグ年報』に掲載された。」

しかし彼の作品は総じて滑稽なものが多くしばしば軽巧に過ぎると感じさせる。欧米にも一部の愛好者がおり翻訳も少なくない。この一篇『老鼠』は柔石が『ロシア短篇小説傑作集』(Great Russian Short Stories)から訳したものでチャリン(Leonide Zarine)原訳。当時は『朝華旬刊』の材料を準備していたので短篇の中の短篇を選んだのである。しかしこれはまたシュシュケンコの作品の標本であり一斑を見て全豹を推し量ることができる。

ルンツ(Lev Lunz)の『砂漠にて』もまた米川正夫の『労農ロシア小説集』から出ており原訳者はさらに巻末に一段の説明を付している。

「若き『セラピオン兄弟』の中で最年少の愛すべき作家レフ・ルンツは病魔に苦しむこと約一年しかし一九二四年五月ついにハンブルクの病院で長逝した。享年わずか二十二。まさに人生の第一歩を踏み出し創作においてもこれから真摯な仕事に取りかかろうという矢先に豊かな天賦がありながら実を結ぶ暇もなく去ったことはロシア文学にとって実に小さからざる損失であったと言える。ルンツは光と喜びと活発な力に満ちた少年であり常に友人たちの沈滞と憂鬱と疲労を追い払い絶望の瞬間に力と希望を注ぎ込んで新たな勇気を奮い起こす『梃子』であった。他の『セラピオン兄弟』が彼の訃報に接して同胞を失ったかのように悲泣したのも理由なきことではない。」

しかしこれらの言葉はいささか偏愛の嫌いがなくもない。コーガン教授によればルンツは「一九二一年二月の最も偉大な法規制定期、登記期、兵営整理期の中で『セラピオン兄弟』の自由な懐に逃げ込んだ」のである。ならばもし生存していたとしても今では決してあの頃のルンツではあり得なかったろう。

『果樹園』は一九一九年から二十年の間の作であり出典は前篇と同じ。ここにもまた原訳者の言葉を録す——フェージン(Konstantin Fedin)もまた「セラピオン兄弟」の一員であり一九二二年に行われた「文人府」の懸賞競技に短篇を寄せて首席の栄冠を得て以来にわかに名を馳せた体面ある作者である。故郷はヤコヴレフと同じサラトフのヴォルガ河畔で家庭は裕福でない商家であった。古い果樹園、漁師の小屋、纤夫の歌という詩的な環境に育った彼は早くから芸術的傾向を示したがその傾向はまず音楽の方面に現れた。彼はヴァイオリンを巧みに弾き歌も上手く各地の音楽会に出演した。このような芸術の天稟を持つ彼が商家の雰囲気に適応しなかったのは当然である。世界大戦前語学研究のためにドイツに赴いた。世界大戦が起こるとスパイ容疑をかけられ監視された。革命後ロシアに帰ると火と血の洗礼を受けた。共産党員となり赤軍を率いて硝煙の中を往来した。フェージンは繊細優美な作風の作者であり『果樹園』は彼の出世作で古い美の伝統が次第に滅び粗野な新事物に取って代わられるという人生永遠の悲劇を描いている。

後二年に彼はまた『都市と年』の長篇を書き第一流の大家と称されたが一九二八年に第二の長篇『兄弟』が出版されると芸術至上主義と個人主義への賛頌がかなり多かったためまた批評家の非難を受けた。この短篇がもし現在に書かれたならば決して膾炙する作品にはならなかったであろう。中国にもすでに靖華の訳本があり『煙袋』に収められているので本来再録の必要はないが第一にソ連文学の当時の状況を見ることができ第二に私の訳本は成文後さらに『新興文学全集』巻二十三中の横沢芳人訳本を以て細かく校合したので字句において多少の長があるように思われやはり捨て難く依然としてここに収めた。

第161節

ヤコヴレフ(Aleksandr Iakovlev)は一八八六年にペンキ職人の父親の家に生まれた。一族は皆農民で筆を執って字を書けるのは全族の中で彼が最初であった。宗教的な雰囲気の中で成長したがついに独立して生活し旅行し投獄され大学に入った。十月革命後長い苦悶を経て文学に救いの星を見出し「セラピオン兄弟」の一員となった。自伝に曰く「ロシアと人類と人性が已に私の新しい宗教となった」と。

彼がペテルブルグ大学を卒業したという点から言えば知識分子であるが彼の本質は純粋に農民的、宗教的である。彼の芸術の基調は博愛と良心であり農民を人類の正義と良心の保持者と認めしかも農民のみが真に全世界を友愛の精神で結びつけるものだと考えていた。この篇『貧しき人々』は『近代短篇小説集』中の八住利雄の訳本から重訳したもので発揮しているのは当然人々が互いに救助し愛撫する精神すなわち作者が信仰する「人性」であるがそれでもなお幻想の産物である。別に一種の中篇『十月』がありこれはより前進的な観念形態を示す作品と称されている。描写するのは大抵動揺と後悔で鉄のような革命者は一人もいないが恐らく事実から遠くないためか今なお読む人々がいる。私も二年前にある書店のために訳したが今日に至るまで出版されていない。

リーディン(Vladimir Lidin)は一八九四年二月三日モスクワに生まれた。七歳でラザレフスキー東方語学院に入り十四歳で父を亡くし独立生活を営んだ。一九一一年に卒業し夏秋二季を森林の中で数年過ごした。欧州大戦の時モスクワ大学を卒業し西部戦線に赴いた。十月革命の時は赤軍中およびシベリアとモスクワにいた。後しばしば外国を旅行した。

彼の作品の正式な出版は一九一五年であり大学卒業であるから知識階級作家であり「同路人」でもあるが読者はかなり多く比較的出色の作者と見なされている。これはもともと短篇小説集『往日の物語』中の一篇で村田春海の訳本から重訳したものである。時は十月革命後から翌年三月まで約半年。事は一人のユダヤ人が故郷での迫害と虐殺に耐えかねモスクワに正義を求めに行くが飢餓しかなく帰ってきた時には生家はすでに没収され自分も投獄されるというものである。この人物を中心に簡潔な含蓄のある文章で革命ロシアの最初の時期の周囲の生活を描き出している。

原訳本は『新興文学全集』第二十四巻に収められているが数箇所の脱落した字があり今上下文を見て補ったが自分では誤りがないかどうか分からない。別に二箇所の×があるがこれは原来のままでおそらく「デモ」「虐殺」といった字であろうが補わなかった。また分かりやすさを期して若干の字を追加したが原訳本にはないものであり括弧で記した。黒い鶏が来て啄むなどというのはチフスにかかり発熱中に見た幻覚であり「知識階級」作家でなければ作品の中にこのような趣向はおそらく出てこないであろう——リーディンは自伝の中で若い頃チェーホフの影響を非常に受けたと述べている。

ソスーリャ(Efim Sosulia)は一八九一年に生まれモスクワの小商人の息子である。少年時代は大抵工業都市ウッチ(Lodz)で過ごした。一九〇五年にいくつかの大暴動の指導者との個人的な交友のために逮捕され長期にわたり投獄された。釈放後アメリカに行こうと考え「国際的な手芸」を学びすなわち看板画工とペンキ職人になった。十九歳の時最初の優れた小説を発表した。その後まずオデッサで次にレニングラードで文芸欄の記者、通信員、編集者を務めた。彼の得意とするところは簡短で奇特な(グロテスク)散文作品である。

『アクと人性』は『新ロシア新小説家三十人集』(Dreissig neue Erzahler des neuen Russland)から訳出したもので原訳者はホーネク(Erwin Honig)である。表面上はこれもまた一篇の「奇特な」作品であるがその中には懐疑と失望が満ちておりいくら諷刺の衣裳をまとっても少しも隠しおおせず、農民を確信するヤコヴレフの見た「人性」とはまったく異なっている。

この篇は中国ですでに英文やフランス語から数種の訳本があるという。西欧諸国がいずれもこれを作者の代表作と見なしていることが分かる。私は『青年界』に訳載された一篇しか見ていないがドイツ語訳本とはかなり異なるので依然としてこの一篇を廃棄しなかった。

ラヴレニョフ(Boris Lavrenev)は一八九二年に南ロシアの小さな町に生まれた。家は半ば没落した家庭で窮迫していたがなお彼に良い教育を受けさせることに努力した。モスクワ大学を卒業した後欧州大戦がすでに始まっておりサンクトペテルブルグの砲兵学校に再入学し六ヶ月の訓練を受けて前線に赴いた。革命後装甲車指揮官およびウクライナ砲兵司令部参謀長となり一九二四年に退役しレニングラードに住んで現在に至る。

彼の文学活動は一九一二年にすでに始まっていたが戦争のために中断され二三年になってようやく再び盛んに創作した。小説は映画化され戯曲は劇場で上演され作品の翻訳はほぼ十カ国語に及ぶ。中国には靖華訳の『四十一』附『平凡な物の話』一冊が『未名叢刊』にある。

この一中篇『星花』もまた靖華の訳で原文から直接訳されたものである。長く幽閉されていた婦人が一人の赤軍兵士を愛しついにその夫に殺害されるという話である。描かれた住民の風習と性質、土地の景色、兵士の朴訥さはいずれも動人であり一気に読了せずにはおられない。しかし無産作家の作品とはやはり截然と異なっており、教民も赤軍兵士も等しく作品の素材として等しく見事に書かれ偏りがない。「同路人」とは「断然として革命に同情し革命を描写しその世界を震撼させた時代を描写しその社会主義建設の日々を描写する」者であるが、自身は最後まで戦い抜く一員ではないゆえに、筆に現れるのはただ洗練された技術をもって勝つことにしかなり得ないのだ。このような「同路人」の最優秀作品を無産作家の作品と対比して仔細に見れば、読者は少なからず益を得るであろう。

インベル(Vera Inber)は一八九三年にオデッサに生まれた。九歳ですでに詩を作り高等女学校在学中には女優になろうとした。卒業後哲学、歴史、芸術史を二年間研究しまた何度か旅行した。彼女の最初の著作は詩集で一九一二年にパリで出版され二五年になってようやく散文を書き始めた。「ディケンズ、キプリング、ミュッセ、トルストイ、スタンダール、フランス、ハートらの影響を受けた」という。多くの詩集のほか彼女にはさらに数種の小説集、少年小説、および一種の自叙伝的長篇小説『太陽の下』がありドイツにはすでに訳本がある。

『ラーラの利益』もまた『新ロシア新小説家三十人集』から出ておりフランク(Elena Frank)原訳。ただの小品でありまたいささか誇張に過ぎるところもあるが、新旧両世代——母娘と父子——を対照させるところはなかなか巧妙である。

カターエフ(Valentin Kataev)は一八九七年に生まれオデッサの教員の息子である。一九一五年に師範学生の時にすでに詩篇を発表していた。欧州大戦が起こると義勇兵として西部戦線に赴き二度負傷した。ロシア内戦の時はウクライナにおり赤軍および白軍に何度も拘禁された。一九二二年以後モスクワに住み多くの小説、二部の長篇、さらに一種の滑稽劇を出版した。

『物事』もまた柔石の遺稿であり出典と原訳者は『老鼠』と同じである。

今回収集した資料中には「同路人」としてもともとピリニャクとセーフリナの作品もあったが紙数の関係ですべて次の巻に移した。このほか世界的な名声がありながらここに収録しなかったのはイワーノフ(Vsevolod Ivanov)、エレンブルグ(Ilia Ehrenburg)、バーベリ(Isack Babel)、さらに老作家のヴェレサーエフ(V. Veresaev)、プリーシュヴィン(M. Prishvin)、トルストイ(Aleksei Tolstoi)らである。

一九三二年九月十日、編者。

第162節

カラシェフは歯を食いしばり、枕と外套と手巾を持って奥の扉をくぐり自分の部屋に行った。彼は薬局を通り過ぎ時計を見た——本当にもう七時十五分であった。自分で寝坊したのだ、自分が悪い。薬局の扉を開けるべき時間に寝かせておいてもらえないことは分かっていたがだからといって製薬師への憤りが和らぐわけではなかった。彼は歯を食いしばり足を踏み鳴らした。特に腹立たしいのはこの製薬師のオプチャンニコフが最近あまりにも彼を軽蔑し始めたことであった。以前は彼を友人として、少なくとも仲間として扱っていたのにこの頃では完全な下僕のように扱うのだ。ああいう横柄な態度で薬局員に対する奴は初めてだ。

カラシェフは着替え顔を洗い薬局に出た。薬局には病気の少女の処方箋を持った女中がすでに待っていた。カラシェフは調合を始めた。手が少し震えていた。怒りのためだ。彼は自分の仕事をしながら考えた。なぜ自分はここにいるのだ。六年もの間この薬局で働いてきた。朝から晩まで処方箋を読み薬を量り包み、客に渡す。それだけだ。月給は少ない。将来の見通しもない。しかし他に行くところもない。

製薬師のオプチャンニコフが入ってきた。赤ら顔に小さな目。いつもの不機嫌な顔であった。

——遅刻だぞカラシェフ。

——七時十五分でした。

——十五分も遅刻だ。これが最後だ、分かったな。

カラシェフは黙っていた。何も言えなかった。オプチャンニコフは彼の上司であり、ここを追い出されたら行く場所がないのだから。

午前中に処方箋が三十枚来た。午後にはさらに四十枚。カラシェフは一つ一つ丁寧に調合した。間違いは許されない。人の命に関わるのだから。夕方近くになると目がかすんできた。足が痛んだ。しかし仕事は続けなければならなかった。

閉店の時間になった。カラシェフは外套を着て帽子をかぶり薬局を出た。外は暗く冬の風が冷たかった。彼は歩いて帰った。途中で煙草屋の灯りが見えた。一本買いたかったが金がなかった。通り過ぎた。

下宿に帰ると女将がお茶を出してくれた。カラシェフは小さなテーブルに向かって座り熱いお茶をすすった。狭い部屋であった。壁には何もかかっていなかった。窓の外では雪が降り始めていた。彼はここで何年暮らしてきたのだろう。そして何年この生活が続くのだろう。何も変わらない。何も。

しかし翌朝、彼はまた七時前に起き薬局に向かった。遅刻はしなかった。

第163節

しかし時には彼らの悪戯はさらにひどかった。たとえばある時シェリマンがこっそり暇を見つけポケットいっぱいに下剤の錠剤と同じ形のチョコレート菓子を詰め込みこっそり薬局から出て門外に出ると、この菓子と薬の錠剤を道々出会った人に分け与えた。馭者、門番、下女、女料理人、向かいの歩哨に立つ警官にまで。二時間後に発覚した時には大変な騒ぎになっていた。

下剤を食べた人々が一斉に腹を壊したのだ。馭者は御者台から降りられなくなり門番は門を離れられなくなった。警官は持ち場を離れざるを得なくなった。薬局に怒鳴り込んできた者もいた。

オプチャンニコフはシェリマンを叱った。しかし叱るだけであった。シェリマンは彼の甥であり何をしても大した罰は受けなかった。

カラシェフはこの悪戯を嫌悪した。しかし何も言わなかった。彼の立場では何も言えなかったのだ。

またある時シェリマンはこんなことをした。ある老婦人が孫のために咳止めの薬を買いに来た。シェリマンは処方箋を見てから奥に行き、咳止めの代わりに下剤を調合して渡した。老婦人は何も知らず帰って行った。

翌日、老婦人の娘が怒って薬局にやってきた。子供がひどい目に遭ったと。オプチャンニコフは謝り新しい薬を無料で渡した。シェリマンは奥の部屋で笑っていた。

——いい加減にしろシェリマン——カラシェフは言った。——子供だぞ。

——お前は堅すぎるんだよカラシェフ。人生を楽しめ。

カラシェフは黙った。シェリマンの悪戯はさらにエスカレートしていった。ある夜彼は薬局のすべてのラベルを貼り替えた。カラシェフが翌朝気づかなければ大惨事になるところであった。

——これは冗談では済まない——カラシェフは言った。——人の命に関わることだ。

しかしシェリマンは笑い、オプチャンニコフは何も言わなかった。カラシェフは黙って元に戻した。いつものように。

第164節

——カラシェフ、彼女があなたを待ってますよ!

——何だこん畜生!——カラシェフは不満げに言った。皆がカラシェフに目を注いだ。

——すぐ彼女をここに呼んでこい、聞こえたか?行って連れて来い。

——旦那がた!彼女の足はだいぶ良くなってますよ。

——呼んでこい!

——とにかく先生方、あの人は自分で歩いて来られますよ。——そしてカラシェフはテーブルに向かった。テーブルの上にはカード、金貨の山、空き瓶。煙草の煙が充満していた。

シェリマンが言った——カラシェフ、おい、嫁さんが待ってるんだぞ。行ってやれよ。

——嫁じゃない——カラシェフは言った。

——じゃ何だ?——皆が笑った。

テリーナが入ってきた。足を引きずりながら。彼女は怪我をしていたのだ。三日前に転んで足を挫いた。しかし今日はカラシェフに会いたくてここまで来た。

——カラシェフさん——テリーナは小声で言った。——お話があるのです。

——何だ。

——ここでは……皆さんの前では……

カラシェフは立ち上がった。テリーナを廊下に連れ出した。薄暗い廊下でテリーナは言った。

——私を嫌いですか。

——嫌いじゃない。

——では、なぜいつも逃げるのですか。

カラシェフは黙っていた。テリーナは泣き出した。カラシェフは困った。彼はテリーナのことが好きであった。しかし月給は少なく下宿住まいで将来の見通しもない。彼女を幸せにできる自信がなかった。

——泣くな——カラシェフは言った。

——あなたは私が嫌いなんだわ。

——そうじゃない。ただ……俺は貧乏だ。お前を幸せにできない。

テリーナは泣きやんだ。彼女はカラシェフの顔を見上げた。

——あなたが一緒にいてくれるだけで幸せよ。

カラシェフは何も言えなかった。彼はテリーナの手を握った。冷たい手であった。外は雪が降っていた。

——帰れ、足が悪いんだから——カラシェフは言った。

——また来てもいい?

——ああ。

テリーナは微笑んで帰っていった。カラシェフは廊下に立ったまま彼女の後ろ姿を見送った。そして部屋に戻りカード遊びの仲間のところに座った。しかしもうカードには集中できなかった。

第165節

カラシェフは外に出た。頭の中は酔いと金を失った感覚で掻き乱されひどく不快であった。夜の澄んだ空気が欲しかった。何かを失ったような気がして周囲のすべてが現実ではなくあるべき姿ではないように感じられた。本来の姿ではなくただ一時的な、臨時的なものに過ぎないと。

彼は階段の上に立って耳を澄ませた。大きな建物がすっかり眠り込んでいた。どこかで時計が十二時を打った。カラシェフは階段を降り外に出た。雪が降っていた。静かな夜であった。街灯がぼんやりと光っていた。

彼はカード遊びで月給の半分を失ったのだ。シェリマンに誘われて。取り戻そうとして賭け金を増やしさらに負けた。馬鹿なことをした。あの金で新しい靴が買えた。冬の外套の修繕ができた。テリーナに花を贈ることもできた。

彼は歩いた。どこへ行くともなくただ歩いた。橋のところまで来た。川が暗く流れていた。欄干に凭れて水を見つめた。黒い水が音もなく流れていた。

——飛び込もうか——という考えが頭をよぎった。しかしすぐに打ち消した。月給の半分を失ったくらいで死ぬ人間がいるものか。

彼は橋を渡りさらに歩いた。町はずれに来た。テリーナの家があった。パン屋の二階。窓に灯りが見えた。テリーナはまだ起きているのだろうか。

カラシェフは立ち止まった。窓を見上げた。何か叫びたかった。しかし何も言わなかった。

彼は踵を返し下宿に帰った。靴を脱ぎベッドに倒れ込んだ。翌朝七時前に起きた。今日は遅刻しなかった。薬局に着くとオプチャンニコフが言った。

——今日は時間通りだな。

——はい。

——よろしい。

カラシェフは自分の持ち場についた。最初の処方箋を手に取った。いつもの仕事が始まった。何も変わらない一日が。しかしカラシェフの胸の中では何かが変わり始めていた。テリーナの言葉が響いていた——あなたが一緒にいてくれるだけで幸せよ。

第166節

「おやおやおや」彼はチチコフを見るなり突然両腕を広げて叫んだ。「何があなたをここに連れて来たのです?」

チチコフは知っていた。これはロスタニョフであり、この紳士とは検事の家で一緒に食事をしたことがあった。数分もしないうちにこの男はすっかり親しげになり君僕の仲になった。チチコフの方からは何もそんな理由を与えていないのだが。

「どこに行くのかね?」ロスタニョフが尋ねた。

「ちょうどある地主のところへ。」

「結構、結構。では一緒に行こう。私のところへ来たまえ!」

「しかし、あなたのところには行けません。用事があるのです。」

「まあ、なに、たわごとだ、たわごと!こっちに来なさい、仲間のところへ来なさい!」彼はチチコフの腕をつかんで引っ張った。「このまま行かせはしないぞ!」

チチコフがどうしても断り切れずについて行くと、ロスタニョフは嬉しそうに言った。

「さあ、妻に紹介しよう。母さん、パーヴェル・イワーノヴィチ・チチコフだ!検事の家でお会いしたことがある。」

奥さんが出てきた。チチコフは丁寧に挨拶した。

「さあ、座りたまえ座りたまえ!」ロスタニョフは言った。「何か飲み物を出せ。食事の支度をしろ!」

食事が運ばれてきた。チチコフは食べた。ロスタニョフはひっきりなしに喋り続けた。犬の話、馬の話、猟の話、隣人との喧嘩の話。彼は話題が尽きることがなかった。

「ところで」チチコフはようやく口を挟んだ。「少しお聞きしたいことがあるのですが。」

「何でも言いたまえ何でも!」

「あなたのお領地の農奴の名簿を見せていただけませんか。亡くなった者の分だけで結構です。」

「死んだ農奴?何のためにそんなものを?」

「ちょっとした事務的な手続きでして。」

ロスタニョフは怪訝な顔をしたが深くは追及しなかった。

「名簿か。あるにはあるがどこにやったかな。ナスターシャ!あの帳簿はどこだ?」

名簿は見つからなかった。ロスタニョフの家は何もかもが混乱していた。

「まあ急ぐことはない」ロスタニョフは言った。「明日探そう。今日は飲もう!」

第167節

「少し足りませんよ慈悲深い旦那様」老婆は言ったが礼を述べて金を受け取り必死で門を開けに走って行った。彼女は損をしたわけではなかった。なぜなら焼酎の値を四倍に吊り上げていたからである。

旅人たちは馬車に乗り込み座席についた。チチコフの馬車とロスタニョフとその親戚の乗った幌馬車が並んで走り三人は道中ずっと自由に話し合えた。ロスタニョフの小さな栗毛馬がたえず遅れたので時々追いつかなければならなかった。

道は悪かった。轍が深く泥が跳ね上がった。チチコフは馬車の中で揺られながらロスタニョフのことを考えていた。あの男は面白い男だ。金はないが気前がいい。地所は荒れているが本人は陽気だ。名簿は明日見つかるかもしれない。

チチコフの計画は巧妙であった。亡くなった農奴の名前を集めそれをまだ生きているかのように登記しそれを担保に金を借りるのだ。農奴の人数が多ければ多いほど借りられる金も多くなる。

馬車はがたがたと揺れながら進んだ。やがて日が暮れ始めた。セリファンが声を上げた。

——旦那様、宿はどうなさいます?

——次の町まで行けるか?

——ちと無理でしょうな。馬が疲れております。

——では適当なところで泊まろう。

しばらく行くと道端に一軒の宿屋が見えた。粗末な宿であったが他に選択の余地はなかった。チチコフは馬車を降り宿に入った。

第168節

客人たちは依然として先ほどの見苦しい道を歩いて家に帰った。ロスタニョフは再び彼らを自分の書斎に案内したが事務室であれば普通は見られるはずのものがここにはまったく見当たらなかった。すなわち書物もなければ紙もなく壁に二挺の猟銃が掛かっているだけであった。一挺は三百ルーブル、もう一挺は八百ルーブル。親戚が部屋の中を見回しながら口に出すのはロスタニョフの経済の混乱ぶりであった。至る所に破れた物、古い物が散らばっていた。

「いい部屋でしょう?」ロスタニョフは誇らしげに言った。

「ええ、なかなか」チチコフは外交辞令で答えた。

「さあ飲もう。」ロスタニョフは戸棚から酒瓶を出した。チチコフは断ろうとしたがロスタニョフは聞き入れなかった。

「飲まんとは何だ!お前は俺の客だぞ!」

二人は飲み始めた。ロスタニョフは一杯また一杯と注いだ。チチコフは控えめに飲んだがロスタニョフは際限なく飲んだ。やがてロスタニョフは酔いが回り声が大きくなった。

「チチコフ、お前はいい奴だ!俺の親友だ!」

「ありがとう。」

「何でもやるぞ。犬か?馬か?銃か?」

「いえ私が欲しいのは先ほどの名簿だけです。」

「ああ、あれか!あるとも!どこかにあるとも!」ロスタニョフは叫んだ。「ナスターシャ!あの帳簿を探してこい!」

ナスターシャが探しに行ったがやはり見つからなかった。

「まあいい」ロスタニョフは言った。「明日探す。今日は飲もう。」

そして二人はまた飲んだ。夜が更けるまで。

第169節

「どうしてあなたはまるで要らないのですか?」

「簡単なことだ。要らないから要らないそれで十分だ!」

「ああお前という奴は!お前と付き合うのは良い友人や仲間と付き合うようにはいかん。まったく……!人はすぐ分かるお前が二枚舌の人間だと。」

「そうだ俺は驢馬だ、そうだろう?何の役にも立たない。全くの無用者だ。子供の時分から全く才能がなかった。」ロスタニョフは自分で自分を罵り始めた。「何をやっても駄目なんだ。まったく駄目だ。土地の管理もまるでできない。農奴にもなめられている。」

チチコフは微笑んだ。

「しかしロスタニョフさん、あの名簿の件ですが——」

「ああ、名簿。分かった分かった。明日探す。約束する。」

「ぜひお願いします。」

「まあ、もう一杯だけ飲んでいけ。」

「もう十分です。」

「一杯だけだ。一杯。」

チチコフは断り切れずもう一杯だけ飲んだ。帽子を取り別れの挨拶をした。

「では明日。」

「明日だ。必ず来いよ。名簿を探しておく。」

チチコフは馬車に乗り込んだ。セリファンが手綱を振り馬車は走り出した。チチコフは馬車の中で考えていた。名簿は明日手に入るだろう。ロスタニョフは約束を守る男だ。少なくとも酔っていない時には。

第170節

「殴れ!」ロスタニョフは大声で叫びあの桜の木の長い煙管を持って相手に突進した。顔は赤くなり汗を流しさながら難攻の要塞に向かって突撃を叫ぶ狂暴な中尉のようであった。「殴れ!」ロスタニョフはまさに猛烈な総攻撃の最中にある中尉のように「前進だ、諸君!」と己の中隊に号令するかの如き声音で叫んだ。この中尉は蛮勇で知られ名声を博してはいたが狂暴のあまり常に副官を付けられていた。

事の起こりはこうであった。ロスタニョフの下男ポルフィーリーが隣家の下男と喧嘩をしたのだ。事の発端は些細なことであった。ロスタニョフの鶏が隣家の庭に入り込み隣家の下男がその鶏を追い出そうとして両者の間で口論となったのである。

隣家の地主が怒って文句を言いに来た。

——お宅の下男がうちの下男を殴った!

——そりゃお宅の下男がうちの鶏を追い回したからだ!

二人の地主は顔を赤くして怒鳴り合った。やがてロスタニョフは我慢できなくなり桜の木の長い煙管を掴んで相手に向かって突進した。隣家の地主は逃げた。ロスタニョフは追いかけた。二人は屋敷の周りを何度も走り回った。下男たちは口を開けて見物していた。

結局隣人は塀を乗り越えて自分の地所に逃げ込んだ。ロスタニョフは塀の前で立ち止まり息を切らしながら叫んだ。

——二度と来るな!来たら今度こそ殴るぞ!

チチコフはこの一部始終を窓から眺めていた。ため息をついた。この男から名簿を手に入れるのは思ったより難しいかもしれない。

しかしロスタニョフは屋敷に戻ると何事もなかったかのように言った。

——さてどこまで話したかな?ああ名簿だ。探してみよう。

そして部屋中をひっくり返し始めた。引き出しを開け棚を漁り床の上の紙の山を掻き分けた。

第171節

「彼は私に言ったのだお前は役立たずで自分の職務にふさわしくないと。しかも自分の同僚を告発したこともないと。他の検事は毎週告発文を書くのに俺は公文書一つ一つに『閲』の字を書くだけだ。もちろん報告を出す義務がある時にはそうするのだが。——私はまた一つの事件も故意に握りつぶしたことがない。」

検事はすっかり意気消沈した。彼にはもう何も言うことがなかった。検事は本来善良な人間で正直な人間であった。しかしまさにその善良さと正直さのゆえに彼は検事としての任務を果たせなかったのだ。

チチコフは黙って聞いていた。検事の話には何か心に触れるものがあった。三十年間役所に行き書類に目を通し『閲』の字を書き家に帰る。それだけの生活。何も成し遂げず何も変えず何も告発せず——ただ存在しているだけの三十年間。

「あの木のようなものだ」検事は窓の外の枯れ木を指して言った。「立っているだけで何の実も結ばない。」

チチコフは何と言えばいいか分からなかった。彼自身も正義や理想とは無縁の男であった。しかし検事の話には何か深い哀しみがあった。

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