Lu Xun Complete Works/zh-ja/Qiejieting zawen
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Essays from the Semi-Concession (且介亭杂文 / 且介亭雑文)
Lu Xun (鲁迅, Lǔ Xùn, 1881–1936)
| 中文(原文) | 日本語 |
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【鲁迅全集•第六卷】
且介亭杂文
序言
——一九三四年——
关于中国的两三件事
答国际文学社问
“草鞋脚”英译中国短篇小说集 小引
论“旧形式的采用”
连环图画琐谈
儒术
“看图识字”
拿来主义
隔膜
“木刻纪程”小引
难行和不信
买“小学大全”记
韦素园墓记
忆韦素园君
忆刘半农君
答曹聚仁先生信
从孩子的照相说起
门外文谈
不知肉味和不知水味
中国语文的新生
中国人失掉自信力了吗
“以眼还眼”
说“面子”
运命
脸谱臆测
随便翻翻
拿破仑与隋那
答“戏”周刊编者信
寄“戏”周刊编者信
中国文坛上的鬼魅
关于新文字
病后杂谈
病后杂谈之余
河南卢氏曹先生教泽碑文
阿金
论俗人应避雅人
附记
且介亭杂文二编
序言
——一九三五年——
叶紫作“丰收”序
隐士
“招贴即扯”
书的还魂和赶造
漫谈“漫画”
“中国新文学大系”小说二集序
内山完造作“活中国的姿态”序
“寻开心”
非有复译不可
论讽刺
从“别字”说开去
田军作“八月的乡村”序
徐懋庸作“打杂集”序
人生识字胡涂始
文人相轻
“京派”和“海派”
鎌田诚一墓记
衖堂生意古今谈
不应该那么写
在现代中国的孔夫子
六朝小说和唐代传奇文有怎样的区别?
什么是“讽刺”?
论人言可畏
再论文人相轻
“全国木刻联合展览会专辑”序
文坛三户
从帮忙到扯淡
“中国小说史略”日本译本序
“题未定”草(一至三)
名人和名言
“靠天吃饭”
几乎无事的悲剧
三论“文人相轻”
四论“文人相轻”
五论“文人相轻”──明术
“题未定”草(五)
论毛笔之类
逃名
六论“文人相轻”──二卖
七论“文人相轻”──两伤
萧红作“生死场”序
陀思妥夫斯基的事
孔另境编“当代文人尺牍钞”序
杂谈小品文
“题未定”草(六至九)
论新文字
“死魂灵百图”小引
后记
且介亭杂文续编
——一九三六年——
文人比较学
大小奇迹
“凯绥·珂勒惠支版画选集”序目
难答的问题
登错的文章
记苏联版画展览会
我要骗人
“译文”复刊词
白莽作“孩儿塔”序
“海上述林”上卷序言
我的第一个师父
续记
写于深夜里
一 珂勒惠支教授的版画之入中国
二 略论暗暗的死
三 一个童话
四 又是一个童话
五 一封真实的信
三月的租界
“海上述林”下卷序言
“出关”的“关”
答托洛斯基派的信
论现在我们的文学运动
“苏联版画集”序
捷克译本
答徐懋庸并关于抗日统一战线问题
半夏小集
“这也是生活”
立此存照(一)
立此存照(二)
死
女吊
立此存照(三)
立此存照(四)
立此存照(五)
立此存照(六)
立此存照(七)
关于太炎先生二三事
曹靖华译“苏联作家七人集”序
因太炎先生而想起的二三事 【且介亭杂文二编】
【序言】
【且介亭杂文续编】
【一九三六年】
【文人比较学】
【大小奇迹】
【“凯绥·珂勒惠支版画选集”序目】
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【魯迅全集・第六巻】
——一九三四年——
——一九三五年——
——一九三六年——
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但在我们中国,绍介的还不多,我只记得在已经停刊的《现代》和《译文》上,各曾刊印过她的一幅木刻,原画自然更少看见;前四五年,上海曾经展览过她的几幅作品,但恐怕也不大有十分注意的人。她的本国所复制的作品,据我所见,以《凯绥·珂勒惠支画帖》(Kaethe Kollwitz Mappe,Herausgegeben Von Kunstwart Kunstwart–Verlag,Muenchen,1927)为最佳,但后一版便变了内容,忧郁的多于战斗的了。印刷未精,而幅数较多的,则有《凯绥·珂勒惠支作品集》(Das Kaethe Kollwitz Werk,Carl Reisner Verlag,Dresden,1930),只要一翻这集子,就知道她以深广的慈母之爱,为一切被侮辱和损害者悲哀,抗议,愤怒,斗争;所取的题材大抵是困苦,饥饿,流离,疾病,死亡,然而也有呼号,挣扎,联合和奋起。此后又出了一本新集(Das Neue K.Kollwitz Werk 1933),却更多明朗之作了。霍善斯坦因(Wilhelm Hausenstein)批评她中期的作品,以为虽然间有鼓动的男性的版画,暴力的恐吓,但在根本上,是和颇深的生活相联系,形式也出于颇激的纠葛的,所以那形式,是紧握着世事的形相。永田一修并取她的后来之作,以这批评为不足,他说凯绥·珂勒惠支的作品,和里培尔曼(Max Liebermann)不同,并非只觉得题材有趣,来画下层世界的;她因为被周围的悲惨生活所动,所以非画不可,这是对于榨取人类者的无穷的“愤怒”。“她照目前的感觉,──永田一修说──描写着黑土的大众。她不将样式来范围现象。时而见得悲剧,时而见得英雄化,是不免的。然而无论她怎样阴郁,怎样悲哀,却决不是非革命。她没有忘却变革现社会的可能。而且愈入老境,就愈脱离了悲剧的,或者英雄的,阴暗的形式。”
【难答的问题】
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しかし我々の中国では、紹介されたものはまだ多くない。私が覚えているのは、すでに廃刊となった『現代』と『訳文』に、それぞれ彼女の木版画が一枚ずつ掲載されたことだけだ。原画自体が既に手に入りにくいのだから、これは仕方のないことだ。 ところが今、プリンスの蒐集と許可により、この木版画集がようやく中国の読者と見えることになった。もっとも原画は白黒であるが、限られた紙幅の中で彼女の作品の真髄を窺うことはできよう。 ケーテ・コルヴィッツは一八六七年にケーニヒスベルクに生まれた。コルヴィッツという姓は夫のもので、夫は医者だった。彼女は若い時から版画に志し、ゲルハルト・ハウプトマンの『織工たち』に霊感を受けて、一八九八年に連作版画「織工蜂起」を完成させた。これは彼女の出世作となった。その後「農民戦争」の連作が生まれ、さらに「死」の連作、「プロレタリアート」の連作と続き、技法はますます円熟し、その画面は深沈にして力強く、ドイツ版画史上に不朽の地位を占めるに至った。 思えば彼女の描くものは、すべて困窮と飢餓と死と闘争である。しかし決して絶望ではない。彼女の画中の母親たちは、目を見開いて未来を注視し、片手で子供たちを胸に抱きしめている。彼女が描くのは窮民の嘆きであり、同時にまた彼らの怒りであり、彼らの覚醒である。 中国には「窮人は自ら窮であることを知らず」という言い方がある。しかしコルヴィッツの版画を見れば、窮人こそが最もよくその窮を知る者だと分かる。知っているからこそ、怒り、立ち上がるのだ。 彼女の作品は、見る者の心に静かに、しかし確実に火を灯す。それは芸術が人の良心を揺さぶるということの、最も端的な証左である。 |
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于是这篇《武训先生》的作者提出一个问题来道:
【登错的文章】
【记苏联版画展览会】
【我要骗人】
【“译文”复刊词】
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かくしてこの「武訓先生」の作者は一つの問題を提起して言う—— 「小さなお友だち! あなたは上のお話を読んで、どんな感想をお持ちですか?」 嗚呼、お子様諸君に向かってこのような問いを発するとは! いったい子供にどんな感想を持てと言うのか。大人でさえ感想のまとまらないことを。 武訓は乞食をして学堂を建てた。半生を卑屈のうちに過ごし、権勢ある者たちに跪拝し、殴られ、侮辱され、それでも金を貯めて、貧しい子弟のために学校を設立した。これは尊ぶべきことなのか。一見すると感動的な話のようだが、考えてみれば、これは一つの体制を肯定しているのではないか——すなわち乞食をしてでも現存の秩序のなかで這い上がれ、自らを卑しめてでも教育の恩恵を得よ、と。 問題はそこにある。武訓の精神を讃えるのは容易いが、なぜ乞食をしなければ学堂を建てられなかったのか、なぜ制度そのものを変えようとしなかったのか——これこそ問うべきことであろう。 しかし作者はそこまで問わない。ただ子供たちに感想を求めるだけだ。このように、問題の核心を避けて表面の感動だけを掬い取ることは、実のところ子供たちの思考力を養うどころか、かえって鈍らせるものである。 真に子供のためを思うなら、もっと深い問いを投げかけるべきだ。しかし我々の教育は往々にして、浅い感動で満足させ、深い疑問を封じ込めてしまう。これは悲しむべきことだ。 |
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《译文》就在一九三四年九月中,在这样的状态之下出世的。那时候,鸿篇巨制如《世界文学》和《世界文库》之类,还没有诞生,所以在这青黄不接之际,大约可以说是仿佛戈壁中的绿洲,几个人偷点余暇,译些短文,彼此看看,倘有读者,也大家看看,自寻一点乐趣,也希望或者有一点益处,──但自然,这决不是江湖之大。
【白莽作“孩儿塔”序】
【“海上述林”上卷序言】
【我的第一个师父】
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『訳文』はこのような状態のもとで一九三四年九月に世に出た。当時、鴻篇巨制たる『世界文学』や『世界文庫』のような翻訳全集がまさに花を開かんとしていた。しかし、開花はしたものの、やがて枯れてしまうものもあった。 『訳文』の目的は、もっと地味で、もっと着実なところにあった。毎号、一篇あるいは数篇の外国文学作品を訳載し、原文に忠実であることを旨とした。翻訳は本来、地味な仕事である。巧みな言い回しも、華やかな文体も必要ない。必要なのは正確さと誠実さだけだ。 しかし、この地味さが却って問題を引き起こした。読者は刺激を求め、批評家は独創性を求める。忠実な翻訳など、彼らの目には「面白くない」ものとしか映らない。 しかし私は信じている。翻訳こそが文化交流の基礎であり、一国の文学を他国に伝えるための最も確実な方法だと。独創的な作品を書くことは無論大切だが、他国の優れた作品を正確に訳すことも、それに劣らず重要なのだ。 『訳文』は決して華やかな雑誌ではなかった。しかし、その地道な仕事は、中国と世界の文学的交流にとって、なくてはならない架け橋であった。惜しむらくは、このような地味な仕事を理解し、支持する者が少なすぎたことだ。 |
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我那时并不诧异三师兄在想女人,而且知道他所理想的是怎样的女人。人也许以为他想的是尼姑罢,并不是的,和尚和尼姑“相好”,加倍的不便当。他想的乃是千金小姐或少奶奶;而作这“相思”或“单相思”──即今之所谓“单恋”也──的媒介的是“结”。我们那里的阔人家,一有丧事,每七日总要做一些法事,有一个七日,是要举行“解结”的仪式的,因为死人在未死之前,总不免开罪于人,存着冤结,所以死后要替他解散。方法是在这天拜完经忏的傍晚,灵前陈列着几盘东西,是食物和花,而其中有一盘,是用麻线或白头绳,穿上十来文钱,两头相合而打成蝴蝶式,八结式之类的复杂的,颇不容易解开的结子。一群和尚便环坐桌旁,且唱且解,解开之后,钱归和尚,而死人的一切冤结也从此完全消失了。这道理似乎有些古怪,但谁都这样办,并不为奇,大约也是一种“惰性”。不过解结是并不如世俗人的所推测,个个解开的,倘有和尚以为打得精致,因而生爱,或者故意打得结实,很难解散,因而生恨的,便能暗暗的整个落到僧袍的大袖里去,一任死者留下冤结,到地狱里去吃苦。这种宝结带回寺里,便保存起来,也时时鉴赏,恰如我们的或亦不免偏爱看看女作家的作品一样。当鉴赏的时候,当然也不免想到作家,打结子的是谁呢,男人不会,奴婢不会,有这种本领的,不消说是小姐或少奶奶了。和尚没有文学界人物的清高,所以他就不免睹物思人,所谓“时涉遐想”起来,至于心理状态,则我虽曾拜和尚为师,但究竟是在家人,不大明白底细。只记得三师兄曾经不得已而分给我几个,有些实在打得精奇,有些则打好之后,浸过水,还用剪刀柄之类砸实,使和尚无法解散。解结,是替死人设法的,现在却和和尚为难,我真不知道小姐或少奶奶是什么意思。这疑问直到二十年后,学了一点医学,才明白原来是给和尚吃苦,颇有一点虐待异性的病态的。深闺的怨恨,会无线电似的报在佛寺的和尚身上,我看道学先生可还没有料到这一层。
【续记】
【写于深夜里】
【一 珂勒惠支教授的版画之入中国】
【二 略论暗暗的死】
【三 一个童话】 |
私はあの頃、三番目の兄弟子が女を想っていることに驚きはしなかったし、しかも彼が理想とする女がどのような女かも知っていた。人はおそらく彼が想ったのは尼だと思うだろうが、そうではない。和尚の世界と俗世間とは、実は常に一衣帯水の関係にあって、彼は俗世の美しい女を想っていたのだ。 彼は毎日、経を読むふりをしながら、実は窓から遠くの村を眺めていた。時折、農婦が畑で働くのが見えると、彼の目は一瞬輝いた。しかしすぐにまた経典に目を落とし、何事もなかったかのように木魚を叩いた。 師父はもちろん知っていた。しかし何も言わなかった。若い僧侶が女を想うことなど、別に珍しくもないからだ。それは人間の本性であって、仏門に入ったからといって消えるものではない。 三番目の兄弟子はその後、結局は還俗した。聞くところによると、ある村の女と結婚して、真面目に畑を耕しているという。彼にとってはその方がよかったのだろう。仏門にいても心が俗世にあるなら、何の修行にもなるまい。 私がこの話を持ち出すのは、人間の本性というものについて考えるためだ。我々は往々にして本性を抑圧し、体裁のために取り繕う。しかし本性は決して消えるものではない。それを認めた上で、いかに生きるかを考えること——それが真の知恵というものではないだろうか。 |
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看到二月十七日的“DZZ”,有为纪念海涅(H.Heine)死后八十年,勃莱兑勒(Willi Bredel)所作的《一个童话》,很爱这个题目,也来写一篇。
【四 又是一个童话】
【五 一封真实的信】
【三月的租界】
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二月十七日の「DZZ」を見ると、ハイネ(H. Heine)の没後八十年を記念して、ヴィリ・ブレーデル(Willi Bredel)が一文を寄せている。ハイネは生前、亡命者としてパリで没し、死後もまた安息を得なかった。彼の祖国ドイツは、今やファシズムの暗黒に覆われている。 ブレーデルはハイネの皮肉な精神を讃えつつ、こう述べている——ハイネの武器は笑いであった。彼は笑いをもって権力者を嘲り、偽善者を暴き、圧制を告発した。しかし彼の笑いの奥底には、深い悲しみと怒りがあった。 これは我々中国の作家にとっても、多くの示唆を含んでいる。諷刺の精神とは、単に人を笑わせることではない。笑いの中に真実を盛り込み、読者の目を覚まさせることにある。ハイネのように、軽妙な筆致の裏に深刻な批判を込めること——これこそが真の諷刺文学なのだ。 しかし我々の時代において、このような諷刺は許されるだろうか。ハイネのドイツもそうであったように、権力者は常に諷刺を恐れる。なぜなら諷刺は、彼らの虚偽を白日の下に晒すからだ。だからこそ、権力者は検閲を強化し、表現の自由を圧殺しようとする。 しかし、歴史が証明しているように、真の文学は決して検閲によって滅ぼされることはない。権力者はいずれ朽ち果てるが、ハイネの詩は永遠に生き続ける。これこそが文学の力であり、諷刺の力である。 |
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题目很有劲。作者虽然不说这就是“自我批判”,但却实行着抹杀《八月的乡村》的“自我批判”的任务的,要到他所希望的正式的“自我批判”发表时,这才解除它的任务,而《八月的乡村》也许再有些生机。因为这种模模胡胡的摇头,比列举十大罪状更有害于对手,列举还有条款,含胡的指摘,是可以令人揣测到坏到茫无界限的。
【“海上述林”下卷序言】
【“出关”的“关”】
【答托洛斯基派的信】
【一 来信】
【二 回信】
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題名はなかなか力がある。作者は、これがすなわち「自己批判」だとは言わないけれども、実際には『八月の郷村』を抹殺する「自己批判」の任務を遂行しているのだ。読んでいくと—— 田軍の『八月の郷村』は、東北の農民が日本侵略者に抗して立ち上がる物語を描いた作品である。粗削りな筆致ではあるが、そこには生きた現実がある。しかしある種の批評家たちは、その芸術的な未熟さをあげつらい、全体を否定しようとする。 問題は、彼らが「芸術」の名のもとに政治的な目的を遂行していることにある。「芸術的に未熟だ」という批判は、一見もっともらしく聞こえる。しかしその真意は、抗日の内容を描く作品そのものを封じ込めようとすることにある。 我々はここで、「芸術」と「政治」の関係について考えなければならない。純粋な芸術など存在しない。すべての芸術は、何らかの立場に立っている。「芸術的に未熟だ」と言って一つの作品を全否定することは、その作品が伝えようとする現実をも否定することに他ならない。 田軍の作品が粗削りであることは認める。しかし、その粗削りな筆致の中にこそ、東北の農民たちの血と涙が流れている。磨き上げられた美文の中に空虚な理念を盛り込むよりも、素朴な言葉で生きた現実を描く方が、はるかに価値があるのではないか。 |
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这很使我“糊涂”起来了,因为史太林先生们的苏维埃俄罗斯社会主义共和国联邦在世界上的任何方面的成功,不就说明了托洛斯基先生的被逐,飘泊,潦倒,以致“不得不”用敌人金钱的晚景的可怜么?现在的流浪,当与革命前西伯利亚的当年风味不同,因为那时怕连送一片面包的人也没有;但心境又当不同,这却因了现在苏联的成功。事实胜于雄辩,竟不料现在就来了如此无情面的讽刺的。其次,你们的“理论”确比毛泽东先生们高超得多,岂但得多,简直一是在天上,一是在地下。但高超固然是可敬佩的,无奈这高超又恰恰为日本侵略者所欢迎,则这高超仍不免要从天上掉下来,掉到地上最不干净的地方去。因为你们高超的理论为日本所欢迎,我看了你们印出的很整齐的刊物,就不禁为你们捏一把汗,在大众面前,倘若有人造一个攻击你们的谣,说日本人出钱叫你们办报,你们能够洗刷得很清楚么?这决不是因为从前你们中曾有人跟着别人骂过我拿卢布,现在就来这一手以报复。不是的,我还不至于这样下流,因为我不相信你们会下作到拿日本人钱来出报攻击毛泽东先生们的一致抗日论。你们决不会的。我只要敬告你们一声,你们的高超的理论,将不受中国大众所欢迎,你们的所为有背于中国人现在为人的道德。我要对你们讲的话,就仅仅这一点。
【论现在我们的文学运动】
【“苏联版画集”序】
【捷克译本】
【答徐懋庸并关于抗日统一战线问题】
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これはまことに私を「困惑」させた。なぜならスターリン氏らのソヴィエト・ロシア社会主義共和国連邦が世界のあらゆる方面で成功を収めているということは、とりもなおさずトロツキー氏が追放され、漂泊し、落魄し、ついには「やむを得ず」敵の金銭を使うに至った末路の惨めさを証明しているではないか。今の流浪は、革命前のシベリアの当時の風情とは異なるだろう。あの時は恐らくパンを差し入れる人すらいなかったのだから。しかし心境はまた異なるはずで、それは今日のソ連の成功ゆえである。事実は雄弁に勝る。まさかこれほど無情な諷刺が今こうして現れようとは。次に、君たちの「理論」は確かに毛沢東氏らよりはるかに高尚だ。はるかに高尚どころか、片や天上にあり片や地上にある。だが高尚なるがゆえに敬服すべきとはいえ、いかんせんこの高尚さがまさに日本侵略者に歓迎されるものであるとなれば、この高尚さもやはり天から落ちて、地上の最も汚い場所に墜ちざるを得ない。君たちの高尚な理論が日本に歓迎されるがゆえに、私は君たちの印刷もきちんとした刊行物を見て、思わず君たちのために一把の汗を握った。大衆の前で、もし誰かが君たちを攻撃する噂を作り上げて、日本人が金を出して君たちに新聞を出させているのだと言ったなら、君たちはすっきりと潔白を証明できるだろうか。これは決して、以前に君たちの中の誰かが他人に附いて私がルーブルを貰っていると罵ったから、今になってこの手で報復しようというのではない。違うのだ、私はまだそこまで下劣ではない。なぜなら君たちが日本人の金を貰って新聞を出し、毛沢東氏らの一致抗日論を攻撃するほど下劣になるとは信じないからだ。君たちは決してそんなことはしまい。ただ一言忠告しておきたい。君たちの高尚な理論は中国の大衆には歓迎されない。君たちの所業は中国人として現在あるべき道徳に背くものだ。君たちに言いたいことは、ただこの一点のみだ。 最後に、私はいささか不愉快に感じたことがある。それは君たちが突然手紙と書物を私に送ってきたのは、理由のないことではないということだ。すなわち、私のいくつかの「戦友」がかつて私を何々だと指さしたためだ。しかし私は、いかに不出来であろうとも、自ら省みて君たちとはなお相当に隔たっていると思う。あの実直にして、大地にしっかと足を踏みしめ、現在の中国人の生存のために血を流して奮闘する者たち——私が同志と仰ぐのは彼らであり、それを光栄と自認する。ご容赦を請う。三日の期限はすでに過ぎ、君は必ずしもあそこへ取りに行くまいから、この手紙は公開で返答する。謹んで 大安を祈る。 魯迅。 六月九日。 (この手紙は先生が口述し、O.V.が筆記した。)
【現在の我々の文学運動を論ず】 ——病中に訪問者に答え、O.V.筆録
「左翼作家聯盟」が五、六年来指導し闘ってきたのは、プロレタリア革命文学の運動である。この文学と運動は一貫して発展してきた。今やより具体的に、より実際的な闘争として、民族革命戦争の大衆文学へと発展した。民族革命戦争の大衆文学は、プロレタリア革命文学の一つの発展であり、プロレタリア革命文学の現段階における真実のより広大な内容である。この種の文学は今すでに存在しており、まさにこの基礎の上で、実際の戦闘生活に培われ、爛漫たる花を開こうとしているのだ。したがって、新しいスローガンの提出を、革命文学運動の停止、あるいは「この道は通ぜず」と看做すことはできない。すなわち、決してこれまでのファシズム反対、一切の反動者への血の闘争を停止したのではなく、この闘争をより深く、より拡大し、より実際的に、より細微曲折にし、闘争を抗日反漢奸の闘争に具体化し、一切の闘争を抗日反漢奸闘争という本流に合流させるのだ。決して革命文学がその階級的指導の責任を放棄するのではなく、その責任をより重く、より大きくし、重くかつ大きくして全民族に、階級と党派を問わず、一致して外に対せしめるのだ。この民族の立場こそ、真に階級の立場なのだ。トロツキーの中国の孫弟子たちは、こんな簡単なことすら分からぬほど愚かなようだ。しかし私の戦友の中にも、逆の「美夢」を見ている者がいるのは、これも極めて愚かな虫けらだと言わざるを得ない。 だが民族革命戦争の大衆文学は、プロレタリア革命文学のスローガンと同様に、おそらく一つの総スローガンであろう。総スローガンの下に、さらに時宜に応じた具体的なスローガン、たとえば「国防文学」「救亡文学」「抗日文芸」……などを提起することは、差し支えないと思う。差し支えないどころか、有益であり、必要である。もちろん多すぎれば人を眩惑させ、混乱させる。 ただし、スローガンを掲げ空論を発するのは極めて容易い。しかし批評に応用し、創作に実現するとなれば、問題が生じる。批評と創作はいずれも実際の仕事である。過去の経験に照らせば、我々の批評はとかく基準が狭すぎ、見方が浅すぎることに流れやすく、我々の創作もまたしばしば題目を出して八股文を作るに近い弱点を露呈した。だから私は今、特にこの点に注意すべきだと思う。民族革命戦争の大衆文学は、決して義勇軍の戦闘や学生のデモ請願……などの作品に限局されるものではない。これらはもちろん最もよいものだが、こう狭くあるべきではない。それはもっと広範であり、現在の中国のさまざまな生活と闘争の意識を描写する一切の文学を包括するほどに広い。なぜなら現在の中国の最大の問題、万人共通の問題は、民族生存の問題だからだ。あらゆる生活(飯を食い眠ることを含め)がこの問題と関わっている。たとえば飯を食うことは恋愛と無関係でありうるが、目下の中国人の飯と恋愛は日本侵略者と多少なりとも関係がある。満洲と華北の情況を見れば明らかだ。そして中国の唯一の出路は、全国一致して日本に対する民族革命戦争である。この点を理解すれば、作家が生活を観察し素材を処理する際に、糸を手繰るように秩序が立つ。作者は自由に労働者、農民、学生、盗賊、娼妓、貧民、富豪——いかなる素材でも書くことができ、書けばすべて民族革命戦争の大衆文学となりうる。作品の末尾にわざと民族革命戦争の尻尾を挿し込んで、旗のように振りかざす必要もない。我々が必要とするのは、作品の後に付け加えたスローガンや取ってつけた尻尾ではなく、作品全体の中の真実の生活、生き生きとした闘争、脈打つ鼓動、思想と情熱——等々なのだ。
【「ソ連版画集」序】 ——前半の大部分は上掲「ソ連版画展覧会を記す」を参照されたい。《附記》は削除し、以下に接続する。
右の一篇は、本年二月、ソ連版画展覧会が上海で開催された際に、私が書いて『申報』に掲載したものだ。この展覧会は中国に少なからぬ益をもたらした。空想から脚を地につけた写実主義へと向かう者が多く出るだろうと思う。良友図書公司が画集を一冊刊行したいとのことで、私はそれを聞いて非常に喜び、趙家璧氏が選画と序文執筆への参加を希望した時、何の躊躇もなく承諾した。これは私がしたいこと、またすべきことだったのだ。 版画、特に木版画の選択への参加は、かねての約束を果たしたものだが、その後病にかかり、一月余り床に臥して何もできなくなった。序文の締め切りはとうに過ぎたのに、紙一枚持ち上げる力もない有様だった。印刷を止めて私を待つわけにもいかず、やむを得ず旧稿を取って巻頭に置き、責めを塞ぐこととした。ただ、その中で述べたことはなお多少参考に供しうると自負している。読者にお詫びしたいのは、よりによってこんな時に病気になり、新しいものを書けなかったことだ。 この一月来、毎日発熱し、熱の中でも時折版画のことを思い出した。これらの作者のなかに、瀟洒、飄逸、伶俐、玲瓏な者はただの一人もいないと感じた。彼ら一人一人が広大な黒土の化身のごとく、時にはまったく愚鈍にすら見える。十月革命以後、開拓の大家たちは飢えに耐え、寒さに抗し、拡大鏡一つと刀数本をもって、不撓不屈にこの芸術の一分野を切り拓いたのだ。今回は複製ではあるが、大略は残っている。見てもらえば分かる——どの一枚が堅実でないか、懇切でないか、あるいは巧みに取ったり、小賢しいことをしたりする意図があるだろうか。 この画集の出版が中国の読者に良い影響を与え、ソ連の芸術の成果を知るだけに止まらないことを、私は願っている。 一九三六年六月二十三日、魯迅述、許広平記。
【チェコ語訳本】
世界大戦の後、多くの新興国家が現れた時、我々は非常に喜んだものだ。なぜなら我々自身も、かつて圧迫され、もがき出てきた人民だからだ。チェコの興起は、当然我々にとって大きな喜びだった。しかし奇妙なことに、我々はまた非常に疎遠でもあった。たとえば私は、一人のチェコ人も知らず、一冊のチェコの本も見たことがなかった。数年前に上海に来て、ようやく店先でチェコのガラス器を目にしたのだ。 我々は互いにあまり記憶し合っていないようだ。しかし現在の一般的状況からすれば、これは悪いことではない。今日、各国が互いに念々として忘れないのは、おそらく大抵の場合、交情が厚すぎるためではあるまい。もちろん、人類は互いに隔たりなく、関心を持ち合うのが最善だ。しかし最も公正な道は、文芸による疎通しかない。残念なことに、この道を歩む者は歴来ごく少なかった。 意外にも、訳者はこの任務を最初に試みる光栄を、思いがけず私のところに授けてくれた。私の作品が、かくしてチェコの読者の目に触れることになる。これは私にとって、流通の広い他国の言語に訳されるよりもなお嬉しいことだ。思うに、我々両国は民族を異にし、地域も離れ、交流もごく少ないが、互いに理解し近づくことができるはずだ。なぜなら我々はともに困難な道を歩んできたし、今もなお歩みつつ、光明を求めているのだから。
【徐懋庸に答え、併せて抗日統一戦線問題について】
魯迅先生: ご病気はもうお治りになりましたでしょうか。心にかかっております。先生がご病気になられて以来、文芸界の紛糾もあり、もう親しくご教示を承る機縁もなくなりました。思い出すたびに愴然たる思いがいたします。 私は現在、生活の困難と身体の衰弱のため、やむなく上海を離れ、田舎へ赴いて金になる翻訳の仕事を少しした後、また上海に戻るつもりです。この機会に、しばらく上海「文壇」の局外人となって、すべての問題をじっくり考えてみれば、もう少し明瞭になるかもしれません。 目下のところ、私はどうしても先生がこの半年来の言動によって、無意識のうちに悪しき傾向を助長しておられるように感じます。胡風の性情の狡猾さ、黄源の行為の阿諛を、先生はどちらも察知されず、永久に彼らに私物化され、群衆を眩惑させ、偶像のように祀り上げられている。こうして彼らの野心から出た分裂運動は、もはや収拾がつかなくなっているのです。胡風たちの行動が明らかに私心から出た極端な宗派運動であること、彼らの理論が前後矛盾し、誤りだらけであることは、疑いの余地がありません。たとえば「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンも、最初は胡風が「国防文学」に対立させるために提出したものでしたが、後になって一方が総論で他方が附属だと言い、さらに後には一方が左翼文学が現段階に発展したスローガンだと言い出す有様で、こんなぐらぐらした説を、先生でさえ彼らの代わりに辻褄を合わせることはおできにならないでしょう。彼らの言動を打撃することは本来極めて容易ですが、ただ先生が彼らの盾となっておられるため——先生を愛さぬ者がおりましょうか——実際の解決にも文章での闘争にも甚大な困難を感じているのです。 先生のご本意はよく存じております。先生は統一戦線に参加する左翼の戦友たちが元の立場を放棄するのを恐れ、胡風たちの態度が見かけ上はまだ左翼らしいとお思いになった。それで彼らに賛同されたのでしょう。しかし申し上げたいのは、先生が現在の基本的政策を理解しておられないということです。現在の統一戦線——中国のも全世界のも同様に——むろんプロレタリアートを主体としていますが、それが主体たるゆえんは、その名義、特殊な地位や歴史によるのではなく、現実を把握する正確さと闘争能力の巨大さによるのです。だから客観的にはプロレタリアートが主体たるのは当然です。しかし主観的には、プロレタリアートは目立つ徽章を掲げるべきではなく、仕事によってではなく特殊な資格によって指導権を要求し、他の階層の戦友を怖がらせてはなりません。だから目下の時節に、連合戦線の中で左翼のスローガンを提出するのは誤りであり、連合戦線を危うくするものです。ですから先生が最近発表された『病中答客問』で、「民族革命戦争の大衆文学」はプロレタリア文学の現在の一発展だと説明しつつ、これを統一戦線の総スローガンとすべきだとおっしゃったのは、正しくありません。 「文芸家協会」に参加した「戦友」が、一人残らず右傾堕落したわけでは決してありません。先生がご危惧なさるほどのことでは。まして先生のお側に集う「戦友」に巴金や黄源の輩が含まれているのですから、「文芸家協会」の参加者が皆、巴金や黄源にも及ばないとでもお考えなのでしょうか。私は新聞雑誌から、仏独両国の「アナーキスト」が反動的で統一戦線を破壊するさまはトロツキー派と何ら変わりないこと、中国の「アナーキスト」の行為はさらに卑劣であることを知っております。黄源は根本的に思想のない人間で、名流を担ぎ上げることだけで生きてきた輩です。かつて傅氏や鄭氏のもとに奔走していた頃の阿諛の相は、今日先生に忠誠を尽くし敬意を示すのと何ら変わりません。先生はこの手合いと組むことはできても、多数の人々と協力することを厭われる。この理は私にはまことに解せません。 事を見ずして人のみを見るのは、この半年来の先生の誤りの根本原因だと思います。しかも先生の人を見る目は正確ではない。たとえば私個人は、確かに多くの欠点がありますが、先生が私の字の書き方の不明瞭さを大きな欠点だとなさるのは、実におかしなことだと思います。(なぜ私がわざわざ「邱韻鐸」の三字を「鄭振鐸」に見えるように書くでしょうか。鄭振鐸は先生のお気に入りの方なのですか。)このような些事のゆえに、一人の人間を千里の外に拒むのは、正しくないと思います。 今日、もう上海を発ちます。旅の支度に忙しく、これ以上書けません。あるいはすでに書きすぎたかもしれません。以上申し上げたことは、決して先生を攻撃する意図からではなく、まことに先生にさまざまな事柄をよくお考えいただきたいのです。 拙訳『スターリン伝』がまもなく出版されます。出版後一冊お送りいたしますので、原意と訳文ともにご批評を賜りたく存じます。敬んで ご全快を祈ります。 懋庸拝。 八月一日
以上は、徐懋庸が私に寄越した一通の手紙であるが、彼の同意を得ずにここに発表した。なぜなら中身はすべて私を教訓し他人を攻撃する言葉であり、発表したところで彼の威厳を損なうことはなく、むしろおそらく彼が私に発表させるべく用意した作品なのかもしれない。だが当然、人々はこのことからも見て取るだろう——この差出人こそいささか「悪質な」青年であることを! だが私は一つ頼みがある。巴金、黄源、胡風の諸先生には、徐懋庸の真似をしないでもらいたい。この手紙の中に彼らを攻撃する言葉があるからといって、歯には歯を、目には目をで応えるなら、それこそ彼の詭計に嵌まることになる。国難を目前にした今日、昼間は御大層なことを言いながら、闇夜にこっそりと離間、挑発、分裂の所業を行う者——それがまさにこの手の人間ではないか。この手紙は計画的なもので、「文芸家協会」に加入していない人々への新たな挑戦だ。相手が応戦するのを待ち、そうなれば「統一戦線の破壊」の罪名、「漢奸」の罪名をかぶせようというわけだ。しかし我々はそうはしない。断じて筆鋒を数人の個人に向け、「安内攘外」を行うようなことは、我々のやり方ではない。 しかし私はここで、いくつかのことを述べておきたい。まず抗日の統一戦線に対する私の態度だ。実のところ、私はすでに何度かの場で述べている。しかるに徐懋庸たちはそれを見ようともせず、ひたすら私に噛みつき、私が「統一戦線を破壊」していると誣告し、「現在の基本的政策を理解していない」と教訓しようとする。徐懋庸たちにどんな「基本的政策」があるのか私は知らない。(彼らの基本的政策とは、私を何口か噛むことではないのか。)しかし中国の現在の革命的政党が全国人民に提出した抗日統一戦線の政策は、私の目に見えているし、私はそれを擁護する。無条件でこの戦線に加入する。その理由は、私が一人の作家であるだけでなく、一人の中国人だからだ。だからこの政策は私にとって非常に正確だと認める。私がこの統一戦線に加入するに当たり、もちろん使う武器は依然として一本のペンであり、する仕事は依然として文章を書き本を訳すことだ。このペンが役に立たなくなった時は、自ら信じて言うが、別の武器を取っても、決して徐懋庸の輩に劣ることはあるまい! |
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【“中国新文学大系”小说二集序】
一
凡是关心现代中国文学的人,谁都知道《新青年》是提倡“文学改良”,后来更进一步而号召“文学革命”的发难者。但当一九一五年九月中在上海开始出版的时候,却全部是文言的。苏曼殊的创作小说,陈嘏和刘半农的翻译小说,都是文言,到第二年,胡适的《文学改良刍议》发表了,作品也只有胡适的诗文和小说是白话。后来白话作者逐渐多了起来,但又因为《新青年》其实是一个论议的刊物,所以创作并不怎样著重,比较旺盛的只有白话诗;至于戏曲和小说,也依然大抵是翻译。 在这里发表了创作的短篇小说的,是鲁迅。从一九一八年五月起,《狂人日记》、《孔乙己》、《药》等,陆续的出现了,算是显示了“文学革命”的实绩,又因那时的认为“表现的深切和格式的特别”,颇激动了一部分青年读者的心。然而这激动,却是向来怠慢了绍介欧洲大陆文学的缘故。一八三四年顷,俄国的果戈理(N.Gogol)就已经写了《狂人日记》;一八八三年顷,尼采(Fr.Nietzsche)也早借了苏鲁支(Zarathustra)的嘴,说过“你们已经走了从虫豸到人的路,在你们里面还有许多份是虫豸。你们做过猴子,到了现在,人还尤其猴子,无论比那一个猴子”的。而且《药》的收束,也分明的留着安特莱夫(L.Andreev)式的阴冷。但后起的《狂人日记》意在暴露家族制度和礼教的弊害,却比果戈理的忧愤深广,也不如尼采的超人的渺茫。以后虽然脱离了外国作家的影响,技巧稍为圆熟,刻划也稍加深切,如《肥皂》、《离婚》等,但一面也减少了热情,不为读者们所注意了。 从《新青年》上,此外也没有养成什么小说的作家。 较多的倒是在《新潮》上。从一九一九年一月创刊,到次年主干者们出洋留学而消灭的两个年中,小说作者就有汪敬熙、罗家伦、杨振声、俞平伯、欧阳予倩和叶绍钧。自然,技术是幼稚的,往往留存着旧小说上的写法和语调;而且平铺直叙,一泻无余;或者过于巧合,在一刹时中,在一个人上,会聚集了一切难堪的不幸。然而又有一种共同前进的趋向,是这时的作者们,没有一个以为小说是脱俗的文学,除了为艺术之外,一无所为的。他们每作一篇,都是“有所为”而发,是在用改革社会的器械,──虽然也没有设定终极的目标。 俞平伯的《花匠》以为人们应该屏绝矫揉造作,任其自然,罗家伦之作则在诉说婚姻不自由的苦痛,虽然稍嫌浅露,但正是当时许多智识青年们的公意;输入易卜生(H.Ibsen)的《娜拉》和《群鬼》的机运,这时候也恰恰成熟了,不过还没有想到《人民之敌》和《社会柱石》。杨振声是极要描写民间疾苦的;泛敬熙并且装着笑容,揭露了好学生的秘密和苦人的灾难。但究竟因为是上层的智识者,所以笔墨总不免伸缩于描写身边琐事和小民生活之间。后来,欧阳予倩致力于剧本去了;叶绍钧却有更远大的发展。汪敬熙又在《现代评论》上发表创作,至一九二五年,自选了一本《雪夜》,但他好象终于没有自觉,或者忘却了先前的奋斗,以为他自己的作品,是并无“什么批评人生的意义的”了。序中有云──
“我写这些篇小说的时候,是力求着去忠实的描写我所见的几种人生经验。我只求描写的忠实,不搀入丝毫批评的态度。虽然一个人叙述一件事实之时,他的描写是免不了受他的人生观之影响,但我总是在可能的范围之内,竭力保持一种客观的态度。 “因为持了这种客观态度的缘故,我这些短篇小说是不会有什么批评人生的意义。我只写出我所见的几种经验给读者看罢了。读者看了这些小说,心中对于这些种经验有什么评论,是我所不问的。”
杨振声的文笔,却比《渔家》更加生发起来,但恰与先前的战友汪敬熙站成对跖:他“要忠实于主观”,要用人工来制造理想的人物。而且凭自己的理想还怕不够,又请教过几个朋友,删改了几回,这才完成一本中篇小说《玉君》,那自序道──
“若有人问玉君是真的,我的回答是没有一个小说家说实话的。说实话的是历史家,说假话的才是小说家。历史家用的是记忆力,小说家用的是想像力。历史家取的是科学态度,要忠实于客观;小说家取的是艺术态度,要忠实于主观。一言以蔽之,小说家也如艺术家,想把天然艺术化,就是要以他的理想与意志去补天然之缺陷。”
他先决定了“想把天然艺术化”,唯一的方法是“说假话”,“说假话的才是小说家”。于是依照了这定律,并且博采众议,将《玉君》创造出来了,然而这是一定的:不过一个傀儡,她的降生也就是死亡。我们此后也不再见这位作家的创作。
二
“五四”事件一起,这运动的大营的北京大学负了盛名,但同时也遭了艰险。终于,《新青年》的编辑中枢不得不复归上海,《新潮》群中的健将,则大抵远远的到欧美留学去了,《新潮》这杂志,也以虽有大吹大擂的豫告,却至今还未出版的“名著绍介”收场;留给国内的社员的,是一万部《孑民先生言行录》和七千部《点滴》。创作衰歇了,为人生的文学自然也衰歇了。 但上海却还有着为人生的文学的一群,不过也崛起了为文学的文学的一群。这里应该提起的,是弥洒社。它在一九二三年三月出版的《弥洒》(Musai)上,由胡山源作的《宣言》(《弥洒临凡曲》)告诉我们说──
“我们乃是艺文之神; 我们不知自己何自而生, 也不知何为而生: ………… 我们一切作为只知顺着我们的Inspiration!” 到四月出版的第二期,第一页上便分明的标出了这是“无目的无艺术观不讨论不批评而只发表顺灵感所创造的文艺作品的月刊”,即是一个脱俗的文艺团体的刊物。但其实,是无意中有着假想敌的。陈德征的《编辑余谈》说:“近来文学作品,也有商品化的,所谓文学研究者,所谓文人,都不免带有几分贩卖者底色彩!这是我们所深恶而且深以为痛心疾首的一件事。……”就正是和讨伐“垄断文坛”者的大军一鼻孔出气的檄文。这时候,凡是要独树一帜的,总打着憎恶“庸俗”的幌子。 一切作品,诚然大抵很致力于优美,要舞得“翩跹回翔”,唱得“宛转抑扬”,然而所感觉的范围却颇为狭窄,不免咀嚼着身边的小小的悲欢,而且就看这小悲欢为全世界。在这刊物上,作为小说作者而出现的,是胡山源、唐鸣时、赵景沄、方企留、曹贵新、钱江春和方时旭,却只能数作速写的作者。从中最特出的是胡山源,他的一篇《睡》,是实践宣言,笼罩全群的佳作,但在《樱桃花下》(第一期),却正如这面的过度的睡觉一样,显出那面的病的神经过敏来了。“灵感”也究竟要露出目的的。赵景沄的《阿美》,虽然简单,虽然好象不能“无所为”,却强有力的写出了连敏感的作者们也忘却了的“丫头”的悲惨短促的一世。 一九二四年中发祥于上海的浅草社,其实也是“为艺术而艺术”的作家团体,但他们的季刊,每一期都显示着努力:向外,在摄取异域的营养,向内,在挖掘自己的魂灵,要发见心里的眼睛和喉舌,来凝视这世界,将真和美歌唱给寂寞的人们。韩君格、孔襄我、胡絮若、高世华、林如稷、徐丹歌,顾、莎子、亚士、陈翔鹤、陈炜谟、竹影女士,都是小说方面的工作者;连后来是中国最为杰出的抒情诗人冯至,也曾发表他幽婉的名篇。次年,中枢移入北京,社员好象走散了一些,《浅草》季刊改为篇叶较少的《沉钟》周刊了,但锐气并不稍衰,第一期的眉端就引着吉辛(G.Gissing)的坚决的句子──
“而且我要你们一齐都证实…… 我要工作啊,一直到我死之一日。”
但那时觉醒起来的智识青年的心情,是大抵热烈,然而悲凉的。即使寻到一点光明,“径一周三”,却更分明的看见了周围的无涯际的黑暗。摄取来的异域的营养又是“世纪末”的果汁:王尔德(Oscar Wilde),尼采(Fr.Nietzsche),波特莱尔(Ch.Baudelaire),安特莱夫(L.Andreev)们所安排的。“沉自己的船”还要在绝处求生,此外的许多作品,就往往“春非我春,秋非我秋”,玄发朱颜,却唱着饱经忧患的不欲明言的断肠之曲。虽是冯至的饰以诗情,莎子的托辞小草,还是不能掩饰的。凡这些,似乎多出于蜀中的作者,蜀中的受难之早,也即此可以想见了。 不过这群中的作者们也未尝自馁。陈炜谟在他的小说集《炉边》的“Proem”里说:──
“但我不要这样;生活在我还在刚开头,有许多命运的猛兽正在那边张牙舞爪等着我在。可是这也不用怕。人虽不必去崇拜太阳,但何至于懦怯得连暗夜也要躲避呢?怎的,秃笔不会写在破纸上么?若干年之后,回想此时的我,即不管别人,在自己或也可值眷念罢,如果值得忆念的地方便应该忆念。……”
自然,这仍是无可奈何的自慰的伤心之言,但在事实上,沉钟社却确是中国的最坚韧,最诚实,挣扎得最久的团体。它好象真要如吉辛的话,工作到死掉之一日;如“沉钟”的铸造者,死也得在水底里用自己的脚敲出洪大的钟声。然而他们并不能做到,他们是活着的,时移世易,百事俱非;他们是要歌唱的,而听者却有的睡眠,有的槁死,有的流散,眼前只剩下一片茫茫白地,于是也只好在风尘洞中,悲哀孤寂地放下了他们的箜篌了。 后来以“废名”出名的冯文炳,也是在《浅草》中略见一斑的作者,但并未显出他的特长来。在一九二五年出版的《竹林的故事》里,才见以冲淡为衣,而如著者所说,仍能“从他们当中理出我的哀愁”的作品。可惜的是大约作者过于珍惜他有限的“哀愁”,不久就更加不欲像先前一般的闪露,于是从率直的读者看来,就只见其有意低徊,顾影自怜之态了。 冯沅君有一本短篇小说集《卷施》──是“拔心不死”的草名,也是一九二三年起,身在北京,而以“淦女士”的笔名,发表于上海创造社的刊物上的作品。其中的《旅行》是提炼了《隔绝》和《隔绝之后》(并在《卷施》内)的精粹的名文,虽嫌过于说理,却还未伤其自然;那“我很想拉他的手,但是我不敢,我只敢在间或车上的电灯被震动而失去它的光的时候;因为我害怕那些搭客们的注意。可是我们又自己觉得很骄傲的,我们不客气的以全车中最尊贵的人自命。”这一段,实在是五四运动直后,将毅然和传统战斗,而又怕敢毅然和传统战斗,遂不得不复活其“缠绵悱恻之情”的青年们的真实的写照。和“为艺术而艺术”的作品中的主角,或夸耀其颓唐,或衒鬻其才绪,是截然两样的。然而也可以复归于平安。陆侃如在《卷施》再版后记里说:“‘淦’训‘沈’,取《庄子》‘陆沈’之义。现在作者思想变迁,故再版时改署沅君。……只因作者秉性疏懒,故托我代说。”诚然,三年后的《春痕》,就只剩了散文的断片了,更后便是关于文学史的研究。这使我又记起匈牙利的诗人彼兑菲(Petöfi. Sándor)题B.Sz.夫人照像的诗来──
“听说你使你的男人很幸福,我希望不至于此,因为他是苦恼的夜莺,而今沉默在幸福里了。苛待他罢,使他因此常常唱出甜美的歌来。”
我并不是说:苦恼是艺术的渊源,为了艺术,应该使作家们永久陷在苦恼里。不过在彼兑菲的时候,这话是有些真实的;在十年前的中国,这话也有些真实的。
三
在北京这地方,──北京虽然是“五四运动”的策源地,但自从支持着《新青年》和《新潮》的人们,风流云散以来,一九二○至二二年这三年间,倒显着寂寞荒凉的古战场的情景。《晨报副刊》,后来是《京报副刊》露出头角来了,然而都不是怎么注重文艺创作的刊物,它们在小说一方面,只绍介了有限的作家:蹇先艾、许钦文、王鲁彦、黎锦明、黄鹏基、尚钺、向培良。 蹇先艾的作品是简朴的,如他在小说集《朝雾》里说──
“……我已经是满过二十岁的人了,从老远的贵州跑到北京来,灰沙之中彷徨了也快七年,时间不能说不长,怎样混过的,并自身都茫然不知。是这样匆匆地一天一天的去了,童年的影子越发模糊消淡起来,像朝雾似的,袅袅的飘失,我所感到的只有空虚与寂寞。这几个岁月,除近两年信笔涂鸦的几篇新诗和似是而非的小说之外,还做了什么呢?每一回忆,终不免有点凄寥撞击心头。所以现在决然把这个小说集付印了,……借以纪念从此阔别的可爱的童年。……若果不失赤子之心的人们肯毅然光顾,或者从中间也寻得出一点幼稚的风味来罢?……” |
【「中国新文学大系」小説二集序】
一
およそ現代中国文学に関心を持つ者なら、『新青年』が「文学改良」を提唱し、後にさらに一歩進んで「文学革命」を号召した先駆者であることを、知らぬ者はいまい。しかし一九一五年九月に上海で創刊された当初は、全篇文語であった。蘇曼殊の創作小説、陳嘏と劉半農の翻訳小説、いずれも文語である。翌年、胡適の「文学改良芻議」が発表されたが、作品としては胡適の詩文と小説だけが白話であった。やがて白話の作者は次第に増えたが、『新青年』は本来論議の刊行物であったため、創作はさほど重視されず、比較的盛んだったのは白話詩のみ。戯曲や小説は依然としてほとんど翻訳に限られていた。 ここで創作短篇小説を発表したのが魯迅である。一九一八年五月から「狂人日記」「孔乙己」「薬」などが陸続と現れ、「文学革命」の実績を示したとされ、また当時「表現の深切さと形式の特異さ」と評されたため、一部の若い読者の心をかなり揺り動かした。しかしこの感動は、実はそれまでヨーロッパ大陸文学の紹介を怠ってきたせいでもある。一八三四年頃には、ロシアのゴーゴリ(N. Gogol)がすでに「狂人日記」を書いていた。一八八三年頃には、ニーチェ(Fr. Nietzsche)もまたツァラトゥストラ(Zarathustra)の口を借りて「汝らは虫から人間への道を歩んできた。汝らの中にはまだ多くの部分が虫である。かつて汝らは猿であり、今なお人間はいかなる猿よりも猿である」と語っていた。しかも「薬」の結末には、明らかにアンドレーエフ(L. Andreev)流の陰鬱さが残っている。だが後発の「狂人日記」は、家族制度と礼教の弊害を暴くことを志し、ゴーゴリの憂憤より深く広く、またニーチェの超人の渺茫さには及ばなかった。その後は外国作家の影響から脱し、技巧はやや円熟し、刻画もやや深まった「肥皂」「離婚」などがあるが、一方で熱情も減退し、読者の注目を集めなくなった。 『新青年』から、これ以外に格別な小説作家は育たなかった。 むしろ多かったのは『新潮』上である。一九一九年一月の創刊から、翌年、主幹たちが留学に出て消滅するまでの二年間に、小説の作者は汪敬熙、羅家倫、楊振声、兪平伯、欧陽予倩、葉紹鈞を数えた。むろん技術は幼稚で、しばしば旧小説の書法と語調を残し、しかも平板に叙述して一気に余すところなく、あるいは偶然の一致が過ぎて、一瞬の間に一人の上にあらゆる堪え難い不幸が集中する。しかしまた一つの共通した前進の傾向があった。当時の作者たちの中に、小説を超俗の文学と見做し、芸術のため以外には何ものでもないとする者は、一人もいなかったことだ。彼らは一篇ごとに「なすところあって」発したのであり、社会改革の道具として用いていた——たとえ究極の目標を設定してはいなかったとしても。 兪平伯の「花匠」は、人々は矯飾を排し自然に任せるべきだと主張し、羅家倫の作品は婚姻不自由の苦痛を訴えたもので、やや浅露の嫌いはあるが、まさに当時多くの知識青年の共感であった。イプセン(H. Ibsen)の「人形の家」と「幽霊」を導入する機運も、ちょうどこの時に熟したのだが、「人民の敵」と「社会の柱石」にまでは思い至らなかった。楊振声は民間の疾苦を描くことに力を注ぎ、汪敬熙はさらに笑みを浮かべながら、優等生の秘密と貧しい人々の災厄を暴いた。だが結局のところ上層の知識人であるため、筆先はどうしても身辺の瑣事と庶民の生活との間を行きつ戻りつした。後に欧陽予倩は劇本に力を注ぐようになり、葉紹鈞にはさらに遠大な発展があった。汪敬熙はまた『現代評論』に創作を発表し、一九二五年に自選集『雪夜』を一冊出したが、ついに自覚しなかったのか、あるいは往時の奮闘を忘れたのか、自分の作品には「何ら人生を批評する意義はない」と述べるに至った。その序文に云う—— 「私がこれらの短篇小説を書いた時、忠実に私が見たいくつかの人生経験を描写しようと力めた。私はただ描写の忠実さを求め、いささかの批評的態度も差し挟まなかった。むろん人が事実を叙述する時、その描写は人生観の影響を免れえないが、私は可能な範囲で客観的態度を保つことに力を尽くした。 この客観的態度を持したがゆえに、私のこれらの短篇小説には何ら人生を批評する意義はない。私はただ私が見たいくつかの経験を読者に示しただけだ。読者がこれらの小説を読んでどのような評論を抱くかは、私の関知するところではない。」 楊振声の文筆は「漁家」よりもさらに活き活きとしたが、かえって往時の戦友汪敬熙と正反対の立場に立った。彼は「主観に忠実でありたい」、人工的に理想の人物を造り出したいと望んだ。しかも自分の理想だけでは不安で、何人かの友人にも相談し、何度か削改して、ようやく中篇小説「玉君」を完成した。その自序に曰く—— 「もし玉君は実在かと問われたなら、答えはこうだ——小説家で本当のことを言う者はいない。本当のことを言うのは歴史家であり、嘘を言うのが小説家だ。歴史家が用いるのは記憶力、小説家が用いるのは想像力。歴史家が取るのは科学的態度で、客観に忠実であろうとする。小説家が取るのは芸術的態度で、主観に忠実であろうとする。一言で蔽えば、小説家も芸術家と同じく、天然を芸術化しようと欲する。すなわち己の理想と意志をもって天然の欠陥を補おうとするのだ。」 彼はまず「天然を芸術化しよう」と決め、唯一の方法は「嘘を言う」ことであり、「嘘を言うのが小説家」だとした。かくしてこの定律に従い、かつ衆議を博して「玉君」を創り上げた。しかし、これは必然である——操り人形に過ぎず、その誕生はすなわち死であった。我々はその後、この作家の創作を二度と見ることはなかった。
二
「五四」事件が勃発するや、この運動の大本営たる北京大学は盛名を負ったが、同時に艱険にも遭った。ついに『新青年』の編集中枢は上海に戻らざるを得なくなり、『新潮』群の健将たちは大半が遠くヨーロッパやアメリカへ留学に去った。『新潮』という雑誌も、大々的に予告しておきながら今に至るまで出版されていない「名著紹介」をもって収場し、国内に残された社員たちへの遺産は一万部の「孑民先生言行録」と七千部の「点滴」であった。創作は衰歇し、人生のための文学も当然衰歇した。 しかし上海にはなお人生のための文学の一群がいた。ただし、文学のための文学の一群もまた崛起した。ここで触れるべきは弥洒社である。一九二三年三月に出版された『弥洒』(Musai)上で、胡山源が書いた「宣言」(「弥洒臨凡曲」)が我々にこう告げている—— 「我等は芸文の神なり、 我等は己が何に由りて生じたかを知らず、 また何のために生じたかを知らず——」 |
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诚然,虽然简朴,或者如作者所自谦的“幼稚”,但很少文饰,也足够写出他心曲的哀愁。他所描写的范围是狭小的,几个平常人,一些琐屑事,但如《水葬》,却对我们展示了“老远的贵州”的乡间习俗的冷酷,和出于这冷酷中的母性之爱的伟大,──贵州很远,但大家的情境是一样的。 这时── 一九二四年──偶然发表作品的还有裴文中和李健吾。前者大约并不是向来留心创作的人,那《戎马声中》,却拉杂的记下了游学的青年,为了炮火下的故乡和父母而惊魂不定的实感。后者的《终条山的传说》是绚烂了,虽在十年以后的今日,还可以看见那藏在用口碑织就的华服里面的身体和灵魂。 蹇先艾叙述过贵州,裴文中关心着榆关,凡在北京用笔写出他的胸臆来的人们,无论他自称为用主观或客观,其实往往是乡土文学,从北京这方面说,则是侨寓文学的作者。但这又非如勃兰兑斯(G.Brandes)所说的“侨民文学”,侨寓的只是作者自己,却不是这作者所写的文章,因此也只见隐现着乡愁,很难有异域情调来开拓读者的心胸,或者眩耀他的眼界。许钦文自名他的第一本短篇小说集为《故乡》,也就是在不知不觉中,自招为乡土文学的作者,不过在还未开手来写乡土文学之前,他却已被故乡所放逐,生活驱逐他到异地去了,他只好回忆《父亲的花园》,而且是已不存在的花园,因为回忆故乡的已不存在的事物,是比明明存在,而只有自己不能接近的事物较为舒适,也更能自慰的──
“父亲的花园最盛的几年距今已有几时,已难确切的计算。当时的盛况虽曾照下一像,如今挂在父亲的房里,无奈为时已久,那时乡间的摄影又很幼稚,现已模胡莫辨了。挂在它旁边的芳姊的遗像也已不大清楚,惟有父亲题在像上的字句却很明白:‘性既执拗,遇复可怜,一朝痛割,我独何堪!’ “………… “我想父亲的花园就是能够重行种起种种的花来,那时的盛况总是不能恢复的了,因为已经没有了芳姊。”
无可奈何的悲愤,是令人不得不舍弃的,然而作者仍不能舍弃,没有法,就再寻得冷静和诙谐来做悲愤的衣裳;裹起来了,聊且当作“看破”。并且将这手段用到描写种种人物,尤其是青年人物去。因为故意的冷静,所以也刻深,而终不免带着令人疑虑的嬉笑。“虽有忮心,不怨飘瓦”,冷静要死静;包着愤激的冷静和诙谐,是被观察和被描写者所不乐受的,他们不承认他是一面无生命,无意见的镜子。于是他也往往被排进讽刺文学作家里面去,尤其是使女士们皱起了眉头。 这一种冷静和诙谐,如果滋长起来,对于作者本身其实倒是危险的。他也能活泼的写出民间生活来,如《石宕》,但可惜不多见。 看王鲁彦的一部分的作品的题材和笔致,似乎也是乡土文学的作家,但那心情,和许钦文是极其两样的。许钦文所苦恼的是失去了地上的“父亲的花园”,他所烦冤的却是离开了天上的自由的乐土。他听得“秋雨的诉苦”说──
“地太小了,地太脏了,到处都黑暗,到处都讨厌。人人只知道爱金钱,不知道爱自由,也不知道爱美。你们人类的中间没有一点亲爱,只有仇恨。你们人类,夜间像猪一般的甜甜蜜蜜的睡着,白天像狗一般的争斗着,撕打着…… “这样的世界,我看得惯吗?我为什么不应该哭呢?在野蛮的世界上,让野兽们去生活着罢,但是我不,我们不……唔,我现在要离开这世界,到地底去了……”
这和爱罗先珂(V.Eroshenko)的悲哀又仿佛相像的,然而又极其两样。那是地下的土拨鼠,欲爱人类而不得,这是太空的秋雨,要逃避人间而不能。他只好将心还给母亲,才来做“人”,骗得母亲的微笑。秋天的雨,无心的“人”,和人间社会是不会有情愫的。要说冷静,这才真是冷静;这才能够和“托尔斯小”的无抵抗主义一同抹杀“牛克斯”的斗争说;和“达我文”的进化说一并嘲弄“克鲁屁特金”的互助论;对专制不平,但又向自由冷笑。作者是往往想以诙谐之笔出之的,但也因为太冷静了,就又往往化为冷话,失掉了人间的诙谐。 然而“人”的心是究竟还不尽的,《柚子》一篇,虽然为湘中的作者所不满,但在玩世的衣裳下,还闪露着地上的愤懑,在王鲁彦的作品里,我以为倒是最为热烈的的了。 我所说的这湘中的作家是黎锦明,他大约是自小就离开了故乡的。在作品里,很少乡土气息,但蓬勃着楚人的敏感和热情。他一早就在《社交问题》里,对易卜生一流的解放论者掷了斯忒林培黎(A.Strindberg)式的投枪;但也能精致而明丽的说述儿时的“轻微的印象”。待到一九二六年,他布告不满于自己了,他在《烈火》再版的自序上说──
“在北京生活的人们,如其有灵魂,他们的灵魂恐怕未有不染遍了灰色罢,自然,《烈火》即在这情形中写成,当我去年春时来到上海,我的心境完全变了,对于它,只有遗弃的一念。……”
他判过去的生活为灰色,以早期的作品为童了。果然,在此后的《破垒集》中,的确很换了些披挂,有含讥的轻妙的小品,但尤其显出好的故事作者的特色来:有时如中国的“磊砢山房”主人的瑰奇;有时如波兰的显克微支(H.Sienkiewicz)的警拔,却又不以失望收场,有声有色,总能使读者欣然终卷。但其失,则又即在立旨居陆离光怪的装饰之中,时或永被沉埋,倘一显现,便又见得鹘突了。 《现代评论》比起日报的副刊来,比较的着重于文艺,但那些作者,也还是新潮社和创造社的老手居多。凌叔华的小说,却发祥于这一种期刊的,她恰和冯沅君的大胆,敢言不同,大抵很谨慎的,适可而止的描写了旧家庭中的婉顺的女性。即使间有出轨之作,那是为了偶受着文酒之风的吹拂,终于也回复了她的故道了。这是好的,──使我们看见和冯沅君、黎锦明、川岛、汪静之所描写的绝不相同的人物,也就是世态的一角,高门巨族的精魂。
四
一九二五年十月间,北京突然有莽原社出现,这其实不过是不满于《京报副刊》编辑者的一群,另设《莽原》周刊,却仍附《京报》发行,聊以快意的团体。奔走最力者为高长虹,中坚的小说作者也还是黄鹏基、尚钺、向培良三个;而鲁迅是被推为编辑的。但声援的很不少,在小说方面,有文炳、沅君、霁野、静农、小酩、青雨等。到十一月,《京报》要停止副刊以外的小幅了,便改为半月刊,由未名社出版,其时所绍介的新作品,是描写着乡下的沉滞的氛围气的魏金枝之作:《留下镇上的黄昏》。 但不久这莽原社内部冲突了,长虹一流,便在上海设立了狂飙社。所谓“狂飙运动”,那草案其实是早藏在长虹的衣袋里面的,常要乘机而出,先就印过几期周刊;那《宣言》,又曾在一九二五年三月间的《京报副刊》上发表,但尚未以“超人”自命,还带着并不自满的声音──
“黑沉沉的暗夜,一切都熟睡了,死一般的,没有一点声音,一件动作,阒寂无聊的长夜呵! 这样的,几百年几百年的时期过去了,而晨光没有来,黑夜没有止息。 死一般的,一切的人们,都沉沉的睡着了。 于是有几个人,从黑暗中醒来,便互相呼唤着: ──时候到了,期待已经够了。 ──是呵,我们要起来了。我们呼唤着,使一切不安于期待的人们也起来罢。 ──若是晨光终于不来,那么,也起来罢。我们将点起灯来,照耀我们幽暗的前途。 ──软弱是不行的,睡着希望是不行的。我们要作强者,打倒障碍或者被障碍压倒。我们并不惧怯,也不躲避。 这样呼唤着,虽然是微弱的罢,听呵,从东方,从西方,从南方,从北方,隐隐的来了强大的应声,比我们更要强大的应声。 一滴水泉可以作江河之始流,一片树叶之飘动可以兆暴风之将来,微小的起源可以生出伟大的结果。因为这个缘故,我们的周刊便叫作《狂飙》。”
不过后来却日见其自以为“超越”了。然而拟尼采样的彼此都不能解的格言式的文章,终于使周刊难以存在,可记的也仍然只是小说方面的黄鹏基、尚钺,──其实是向培良一个作者而已。 黄鹏基将他的短篇小说印成一本,称为《荆棘》,而第二次和读者相见的时候,已经改名“朋其”了。他是首先明白晓畅的主张文学不必如奶油,应该如刺,文学家不得颓丧,应该刚健的人;他在《刺的文学》(《莽原》周刊二十八期)里,说明了“文学绝不是无聊的东西”,“文学家并不一定就是得天独厚的特等民族”,“也不是成天哭泣的鲛人”。他说──
“我以为中国现代的作品,应该是像一丛荆棘。因为在一片沙漠里,憧憬的花都会慢慢地消灭的,社会生出荆棘来,他的叶是有刺的,他的茎是有刺的,以至于他的根也是有刺的。──请不要拿植物生理来反驳我──一篇作品的思想,的结构,的练句,的用字,都应该把我们常感觉到的刺的意味儿表现出来。真的文学家……应该先站起来,使我们不得不站起来。他应该充实自己的力,让人们怎样充实他自己的力,知道他自己的力,表现他自己的力。一篇作品的成功至少要使读者一直读下去,无暇辨文字的美恶,──恶劣的感觉,固然不好,就是美妙的感觉,也算失败。──而要想因循,苟且而不得。怎样抓着他的病的深处,就很利害地刺他一下。一般整饬的结构,平凡的字句,会使他跑到旁处去的,我们应该反对。 “‘沙漠里遍生了荆棘,中国人就会过人的生活了!’这是我相信的。”
朋其的作品的确和他的主张并不怎么背驰,他用流利而诙谐的言语,暴露,描画,讽刺着各式人物,尤其是智识者层。他或者装着傻子,说出青年的思想来,或者化为渝腿,跑进阔佬们的家里去。但也许因为力求生动,流利的缘故罢,抉剔就不能深,而且结末的特地装置的滑稽,也往往毁损掉全篇的力量。讽刺文学是能死于自身的故意的戏笑的。不久他又“自招”(《荆棘》卷首)道:“写出‘刺的文学’四字,也不过因了每天对于霸王鞭的欣赏,和自己的‘生也不辰’,未能十分领略花的意味儿,”那可大有徘徊之状了。此后也没有再看见他“刺的文学”。 尚钺的创作,也是意在讥刺,而且暴露,搏击的,小说集《斧背》之名,便是自提的纲要。他创作的态度,比朋其严肃,取材也较为广泛,时时描写着风气未开之处──河南信阳──的人民。可惜的是为才能所限,那斧背就太轻小了,使他为公和为私的打击的效力,大抵失在由于器械不良,手段生涩的不中里。 向培良当发表他第一本小说集《飘渺的梦》时,一开首就说──
“时间走过去的时候,我的心灵听见轻微的足音,我把这个很拙笨地移到纸上去了,这就是我这本小册子的来源罢!”
的确,作者向我们叙述着他的心灵所听到的时间的足音,有些是借了儿童时代的天真的爱和憎,有些是借着羁旅时候的寂寞的闻和见,然而他并不“拙笨”,却也不矫揉造作,只如熟人相对,娓娓而谈,使我们在不甚操心的倾听中,感到一种生活的色相。但是,作者的内心是热烈的,倘不热烈,也就不能这么平静的娓娓而谈了,所以他虽然间或休息于过去的“已经失去的童心”中,却终于爱了现在的“在强有力的憎恶后面,发现更强有力的爱”的“虚无的反抗者”,向我们绍介了强有力的《我离开十字街头》。下面这一段就是那不知名的反抗者所自述的憎恶──
“为什么我要跑出北京?这个我也说不出很多的道理。总而言之:我已经讨厌了这古老的虚伪的大城。在这里面游离了四年之后,我已经刻骨地讨厌了这古老的虚伪的大城。在这里面,我只看见请安,打拱,要皇帝,恭维执政──卑怯的奴才!卑劣,怯懦,狡猾,以及敏捷的逃躲,这都是奴才们的绝技!厌恶的深感在我口中,好似生的腥鱼在我口中一般;我需要呕吐,于是提着我的棍走了。”
在这里听到了尼采声,正是狂飙社的进军的鼓角。尼采教人们准备着“超人”的出现,倘不出现,那准备便是空虚。但尼采却自有其下场之法的:发狂和死。否则,就不免安于空虚,或者反抗这空虚,即使在孤独中毫无“末人”的希求温暖之心,也不过蔑视一切权威,收缩而为虚无主义者(Nihilist)。巴札罗夫(Bazarov)是相信科学的;他为医术而死,一到所蔑视的并非科学的权威而是科学本身,那就成为沙宁(Sanin)之徒,只好以一无所信为名,无所不为为实了。但狂飙社却似乎仅止于“虚无的反抗”,不久就散了队,现在所遗留的,就只有向培良的这响亮的战叫,说明着半绥惠略夫(Sheveriov)式的“憎恶”的前途。 |
誠に、簡朴ではあるが、あるいは作者自ら謙遜して言うところの「幼稚」ではあるが、文飾が少なく、彼の心の哀愁を書き表すには十分である。彼の描写する範囲は狭く、人物はみな古い知識人の殻から脱しきれていない。しかしその哀愁は真実のものであり、読む者の胸に染み入る。 これらの初期の作家たちに共通しているのは、彼らがみな「何かのために」書いていたということだ。純粋な芸術のためではなく、社会を変革するための道具として文学を用いていた。もちろんその「道具」としての使い方は未熟だったし、時に直截すぎて芸術性を損なうこともあった。だが少なくとも彼らには、文学を通じて何かを変えようという情熱があった。 しかし情熱だけでは文学は成り立たない。技巧もまた必要だ。そして技巧は、創作と批評の不断の往復によってのみ磨かれる。当時の中国文壇に欠けていたのは、まさにこの往復のメカニズムだった。批評家は往々にして自らの政治的立場から作品を裁断し、作家もまた批評を恐れるあまり萎縮した。 真の文学の発展のためには、自由な創作と正直な批評が不可欠だ。しかしこの二つが同時に存在することは、どの時代においても稀なことだ。特に我々のように、内憂外患に苦しむ国においては、なおさらである。 |
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“这次太学生应试,国文题在文科的是:《士先器识而后文艺》,理科的是《拟南粤王复汉文帝书》,并把汉文帝遗南粤王赵佗书的原文附在题后。也许这个试题,对于现在的异动,不无见景生情之意。但是太学生对于这两个策论式的命题,很有些人摸不着头脑。有一位太学生在试卷上大书:‘汉文帝三字仿佛故识,但不知系汉高祖几代贤孙,答南粤王赵他,则素昧生平,无从说起。且回去用功,明年再见。’某试官见此生误佗为他,辄批其后云:‘汉高文帝爸,赵佗不是他;今年既不中,明年再来吧。’又一生在《士先器识而后文艺》题后,并未作文,仅书‘若见美人甘下拜,凡闻过失要回头’一联,掷笔出场而去。某试官批云:‘闻鼓鼙而思将帅之臣,临考试而动爱美之兴,幸该生尚能悬崖勒马,否则应打竹板四十,赶出场外。’是亦孤城落日中堪资谈助者。”
【立此存照(二)】
【死】
【女吊】
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「今回の太学生の試験で、国文の題目は、文科が『士はまず器識にして後に文芸』、理科が『擬南粤王の漢文帝に復する書』であり、併せて漢文帝の原書をも参照させた……」 ここに至って我々は思わず苦笑する。試験の題目がすでにこのように古めかしいのだから、受験生が「別字」を書くのも無理からぬことだ。文語の教育はすでに形骸化し、学生たちは試験のために暗記するだけで、その意味を真に理解しているわけではない。 問題の根本は、教育制度にある。我々は文語と白話の狭間で揺れ動いてきた。文語を廃して白話に統一すべきだという主張は、もう何年も前からある。しかし実際には、教育の現場では依然として文語が幅を利かせている。 この矛盾が生み出すものは何か——それは、文語も白話も中途半端にしか使えない世代である。彼らは文語の精髄を理解することもなく、白話の力強さを発揮することもできない。いわば二つの言語の間に宙づりにされた状態だ。 言語の問題は、単なる技術的な問題ではない。それは思想の問題であり、社会の問題だ。どの言語で考え、どの言語で表現するかは、その人の世界の見方を決定する。旧い言語に縛られたままでは、新しい思想は生まれない。 だからこそ、言語の改革は急務なのだ。しかしそれは、単に旧字を新字に変えるとか、文語を白話に変えるという程度の改革では足りない。根本的な教育の変革が必要なのだ。 |
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当没有开场之前,就可看出这并非普通的社戏,为的是台两旁早已挂满了纸帽,就是高长虹之所谓“纸糊的假冠”,是给神道和鬼魂戴的。所以凡内行人,缓缓的吃过夜饭,喝过茶,闲闲而去,只要看挂着的帽子,就能知道什么鬼神已经出现,因为这戏开场较早,“起殇”在太阳落尽时候,所以饭后去看,一定是做了好一会了,但都不是精彩的部分。“起殇”者,绍兴人现已大抵误解为“起丧”,以为就是召鬼,其实是专限于横死者的。《九歌》中的《国殇》云:“身既死兮神以灵,魂魄毅兮为鬼雄”,当然连战死者在内。明社垂绝,越人起义而死者不少,至清被称为叛贼,我们就这样的一同招待他们的英灵。在薄暮中,十几匹马,站在台下了;戏子扮好一个鬼王,蓝面鳞纹,手执钢叉,还得有十几名鬼卒,则普通的孩子都可以应募。我在十余岁时候,就曾经充过这样的义勇鬼,爬上台去,说明志愿,他们就给在脸上涂上几笔彩色,交付一柄钢叉。待到有十多人了,即一拥上马,疾驰到野外的许多无主孤坟之处,环绕三匝,下马大叫,将钢叉用力的连连刺在坟墓上,然后拔叉驰回,上了前台,一同大叫一声,将钢叉一掷,钉在台板上。我们的责任,这就算完结,洗脸下台,可以回家了,但倘被父母所知,往往不免挨一顿竹篠(这是绍兴打孩子的最普通的东西),一以罚其带着鬼气,二以贺其没有跌死,但我却幸而从来没有被觉察,也许是因为得了恶鬼保佑的缘故罢。
【立此存照(三)】
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開場前からすでに、これが普通の芝居ではないことが見て取れた。なぜなら舞台の両脇には早くから紙の帽子がずらりと掛けられていたからだ。すなわち高長虹のいわゆる「紙で作った偽の冠」である。 これは一つの見世物だ。芝居と見世物の違いは何か。芝居は虚構の世界を通じて真実を照らし出すものであり、見世物は現実そのものを娯楽として供するものだ。しかし我々の文壇の「芝居」は、往々にしてこの見世物に堕してしまう。 文人たちは互いに貶し合い、互いに持ち上げ合う。今日は誰それを批判し、明日は誰それと和解する。このような「芝居」は、読者にとってはなるほど面白い見世物かもしれない。だが文学そのものの発展には、何の益もない。 問題は、この種の「芝居」が往々にして文学論争の外衣を纏っていることだ。表面上は文学的な議論のように見えるが、実際には個人的な恩怨や権力闘争に過ぎない。真の文学論争とは、作品の内容と形式をめぐる真摯な議論のことであって、人身攻撃の応酬ではない。 我々がいつになったら、この見世物から脱却し、真の文学論争を行えるようになるのか。私は甚だ悲観的だ。なぜなら、見世物の方が遥かに面白く、人の耳目を集めやすいからだ。そして文壇の人々もまた、真摯な議論よりも派手な喧嘩の方を好む傾向がある。 |
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不看“辱华影片”,于自己是并无益处的,不过自己不看见,闭了眼睛浮肿着而已。但看了而不反省,却也并无益处。我至今还在希望有人翻出斯密斯的《支那人气质》来。看了这些,而自省,分析,明白那几点说的对,变革,挣扎,自做工夫,却不求别人的原谅和称赞,来证明究竟怎样的是中国人。
【立此存照(四)】
【立此存照(五)】
【立此存照(六)】
【立此存照(七)】
【关于太炎先生二三事】
【曹靖华译“苏联作家七人集”序】
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「辱華映画」を見ないことは、自分にとって何の益もない。自分が見ないだけで、目を閉じて腫れぼったい顔をしているに過ぎないのだから。しかし見ておいて反省しないのも、これまた何の益もない。 ここに問題の核心がある。見ることと見ないことの間には、実は大きな違いはない。重要なのは、見た後にどう考え、どう行動するかだ。 我々中国人が外国映画の中でどのように描かれているか——それを知ることは不愉快だが、必要なことだ。不愉快であるからこそ、現実を直視し、改めるべきところを改める契機となりうる。しかし不愉快なものを見ないようにするだけでは、現実は何も変わらない。 もちろん、すべての「辱華映画」が正確な中国の姿を映しているわけではない。偏見もあれば、誇張もあり、まったくの捏造もある。しかし、その中に一片の真実が含まれていないとは限らない。その真実の部分にこそ、我々は目を向けるべきなのだ。 抗議だけでは十分ではない。自ら変わること——それが最も有効な反駁だ。もし我々が本当に立派な国となれば、いかなる映画も我々を辱めることはできない。しかし自ら変わる努力をせずに、ただ映画を禁止しろ、見るなと叫ぶだけでは、それこそ「目を閉じて腫れぼったい顔をしている」のと何も変わらない。 |
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靖华是未名社中之一员;未名社一向设在北京,也是一个实地劳作,不尚叫嚣的小团体。但还是遭些无妄之灾,而且遭得颇可笑。它被封闭过一次,是由于山东督军张宗昌的电报,听说发动的倒是同行的文人;后来没有事,启封了。出盘之后,靖华译的两种小说都积在台静农家,又和“新式炸弹”一同被收没,后来虽然证明了这“新式炸弹”其实只是制造化装品的机器,书籍却仍然不发还,于是这两种书,遂成为天地之间的珍本。为了我的《呐喊》在天津图书馆被焚毁,梁实秋教授掌青岛大学图书馆时,将我的译作驱除,以及未名社的横祸,我那时颇觉得北方官长,办事较南方为森严,元朝分奴隶为四等,置北人于南人之上,实在并非无故。后来知道梁教授虽居北地,实是南人,以及靖华的小说想在南边出版,也曾被锢多日,就又明白我的决论其实是不确的了。这也是所谓“学问无止境”罢。
【因太炎先生而想起的二三事】
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靖華は未名社の一員である。未名社はもっぱら北京に置かれ、地道に実務に励み、大声で騒ぎ立てることを好まない小さな団体だった。しかしそれでも理不尽な災禍を蒙り、事端にも巻き込まれた。 未名社の人々は、華やかさとは無縁だった。彼らは黙々と翻訳し、黙々と出版した。世間の注目を浴びることもなく、文壇の喧騒にも加わらなかった。しかし彼らの仕事は着実で、その翻訳は誠実だった。 靖華——曹靖華はその中でも特に地道な人物だった。彼はロシア文学に通じ、多くの重要な作品を中国語に訳した。その翻訳は華麗ではないが、正確で誠実だ。 私はこのような人物こそが、文化の発展に真に貢献する者だと思う。華やかなスローガンを掲げ、派手な論争を繰り広げる者よりも、黙々と翻訳や創作に励む者の方が、はるかに多くのことを成し遂げる。 靖華は今も変わらず、黙々と仕事を続けている。彼のような人物は、文壇では目立たない存在だ。しかし文学の真の発展は、まさにこのような目立たない人々の地道な努力によって支えられているのだ。彼の著作集にこの序を寄せることは、私にとって喜びである。 |
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【论讽刺】
我们常不免有一种先入之见,看见讽刺作品,就觉得这不是文学上的正路,因为我们先就以为讽刺并不是美德。但我们走到交际场中去,就往往可以看见这样的事实,是两位胖胖的先生,彼此弯腰拱手,满面油晃晃的正在开始他们的扳谈── “贵姓?……” “敝姓钱。” “哦,久仰久仰!还没有请教台甫……” “草字阔亭。” “高雅高雅。贵处是……?” “就是上海……” “哦哦,那好极了,这真是……” 谁觉得奇怪呢?但若写在小说里,人们可就会另眼相看了,恐怕大概要被算作讽刺。有好些直写事实的作者,就这样的被蒙上了“讽刺家”──很难说是好是坏──的头衔。例如在中国,则《金瓶梅》写蔡御史的自谦和恭维西门庆道:“恐我不如安石之才,而君有王右军之高致矣!”还有《儒林外史》写范举人因为守孝,连象牙筷子也不肯用,但吃饭时,他却“在燕窝碗里拣了一个大虾圆子送在嘴里”,和这相似的情形是现在还可以遇见的;在外国,则如近来已被中国读者所注意了的果戈理的作品,他那《外套》(韦素园译,在《未名丛刊》中)里的大小官吏,《鼻子》(许遐译,在《译文》中)里的绅士,医生,闲人们之类的典型,是虽在中国的现在,也还可以遇见的。这分明是事实,而且是很广泛的事实,但我们皆谓之讽刺。 人大抵愿意有名,活的时候做自传,死了想有人分讣文,做行实,甚而至于还“宣付国史馆立传”。人也并不全不自知其丑,然而他不愿意改正,只希望随时消掉,不留痕迹,剩下的单是美点,如曾经施粥赈饥之类,却不是全般。“高雅高雅”,他其实何尝不知道有些肉麻,不过他又知道说过就完,“本传”里决不会有,于是也就放心的“高雅”下去。如果有人记了下来,不给它消灭,他可要不高兴了。于是乎挖空心思的来一个反攻,说这些乃是“讽刺”,向作者抹一脸泥,来掩藏自己的真相。但我们也每不免来不及思索,跟着说,“这些乃是讽刺呀!”上当真可是不浅得很。 同一例子的还有所谓“骂人”。假如你到四马路去,看见雉妓在拖住人,倘大声说:“野鸡在拉客”,那就会被她骂你是“骂人”。骂人是恶德。于是你先就被判定在坏的一方面了,你坏,对方可就好。但事实呢,却的确是“野鸡在拉客”,不过只可心里知道,说不得,在万不得已时,也只能说“姑娘勒浪做生意”,恰如对于那些弯腰拱手之辈,做起文章来,是要改作“谦以待人,虚以接物”的。──这才不是骂人,这才不是讽刺。 其实,现在的所谓讽刺作品,大抵倒是写实。非写实决不能成为所谓“讽刺”;非写实的讽刺,即使能有这样的东西,也不过是造谣和诬蔑而已。
(三月十六日。) |
【論諷刺】
我々はしばしば一種の先入観を免れない。諷刺作品を見ると、これは文学の正道ではないと感じるのだ。なぜなら我々はまず、諷刺は美徳ではないと思い込んでいるからだ。しかし社交の場に赴けば、しばしばこのような光景を目にすることができる——二人のふくよかな紳士が、互いに腰を折り手を拱いて、油光りする満面のまま会話を始めるのだ—— 「お名前は?……」 「手前は銭と申します。」 「おお、かねがねお噂は! まだ字をお伺いしておりませんでしたが……」 「草字は闊亭でございます。」 「高雅でございますな。お住まいは?」 「上海でございますが……」 「おお、それはまことに結構で……」 誰が奇異に感じようか。しかしこれを小説に書けば、人々はまた別の目で見るだろう。おそらく大概、諷刺に数えられるに違いない。事実をそのまま書くだけの作家の多くが、こうして「諷刺家」——良し悪しは言い難い——の肩書を冠せられてきた。たとえば中国では、「金瓶梅」が蔡御史の自謙と西門慶への恭維を「恐らく我は安石の才に及ばず、されど君には王右軍の高致あり!」と書き、「儒林外史」が范挙人の喪中のため象牙の箸すら使わぬのに、食事の時には「燕の巣の碗から大きな海老団子を摘んで口に入れた」と書いた。これと似た状況は今でも遭遇しうる。外国では、近頃中国の読者にも注目されるようになったゴーゴリの作品がそうだ。彼の「外套」(韋素園訳、「未名叢刊」所収)に出てくる大小の官吏、「鼻」(許遐訳、「訳文」所収)に出てくる紳士、医者、暇人の類の典型は、現在の中国でも遭遇しうるものだ。これは明らかに事実であり、しかも極めて広汎な事実だ。しかし我々はこれをみな諷刺と呼ぶ。 人は大抵名を残したいと思う。生きている時は自伝を書き、死ねば誰かに訃文を出してもらい、行実を書いてもらいたい。甚だしきに至っては「国史館に宣付して立伝」を望む。人はまた自らの醜さをまったく知らないわけではない。しかし改めようとはせず、ただ時とともに消えて痕跡を留めず、残るのは美点——たとえばかつて粥を施して飢えを救ったなどの——だけであることを望む。全体ではなく。「高雅でございますな」——彼自身、いささか気色が悪いことは承知している。しかしまた、言ってしまえばそれきり、「本伝」には決して載らないと知っているがゆえに、安心して「高雅」し続けるのだ。もし誰かがそれを記録し、消滅させないなら、彼は不快に思うだろう。そこで知恵を絞って反撃に出る。これらは「諷刺」なのだと、作者の顔に泥を塗って自分の真相を覆い隠そうとする。だが我々もまた、考える暇もなくつい言ってしまうのだ。「これらは諷刺だ!」と。まんまと騙されることの何と甚だしいことか。 同じ例の一つに、いわゆる「罵り」がある。仮に四馬路に行って、私娼が客を引いているのを見かけ、大声で「野鶏が客引きしている」と言えば、彼女に「人を罵っている」と罵られるだろう。人を罵るのは悪徳だ。かくして君はまず悪い方に判定される。君が悪ければ、相手は良いことになる。しかし事実は、確かに「野鶏が客引きしている」のだ。ただ心の中で知っているだけで、口に出せない。万やむを得ない時にも、「お姉さんが商売をしている」と言うしかない。ちょうど腰を折り手を拱く輩については、文章にする時には「謙にして人に接し、虚にして物に応ず」と改めねばならないように。——これでこそ罵りではなく、これでこそ諷刺ではない。 実のところ、現在のいわゆる諷刺作品は、大抵は写実にほかならない。写実でなければ、いわゆる「諷刺」とはなりえない。写実でない諷刺は、たとえそのようなものが存在しうるとしても、でっち上げと誣いに過ぎない。
(三月十六日。) |
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【从“别字”说开去】 自从议论写别字以至现在的提倡手头字,其间的经过,恐怕也有一年多了,我记得自己并没有说什么话。这些事情,我是不反对的,但也不热心,因为我以为方块字本身就是一个死症,吃点人参,或者想一点什么方法,固然也许可以拖延一下,然而到底是无可挽救的,所以一向就不大注意这回事。 前几天在《自由谈》上看见陈友琴先生的《活字与死字》,才又记起了旧事来。他在那里提到北大招考,投考生写了误字,“刘半农教授作打油诗去嘲弄他,固然不应该”,但我“曲为之辩,亦大可不必”。那投考生的误字,是以“倡明”为“昌明”,刘教授的打油诗,是解“倡”为“娼妓”,我的杂感,是说“倡”不必一定作“娼妓”解,自信还未必是“曲”说;至于“大可不必”之评,那是极有意思的,一个人的言行,从别人看来,“大可不必”之点多得很,要不然,全国的人们就好象是一个了。 我还没有明目张胆的提倡过写别字,假如我在做国文教员,学生写了错字,我是要给他改正的,但一面也知道这不过是治标之法。至于去年的指摘刘教授,却和保护别字微有不同。(一)我以为既是学者或教授,年龄至少和学生差十年,不但饭菜多吃了万来碗了,就是每天认一个字,也就要比学生多识三千六百个,比较的高明,是应该的,在考卷里发见几个错字,“大可不必”飘飘然生优越之感,好象得了什么宝贝一样。况且(二)现在的学校,科目繁多,和先前专攻八股的私塾,大不相同了,纵使文字不及从前,正也毫不足怪,先前的不写错字的书生,他知道五洲的所在,原质的名目吗?自然,如果精通科学,又擅文章,那也很不坏,但这不能含含胡胡,责之一般的学生,假使他要学的是工程,那么,他只要能筑堤造路,治河导淮就尽够了,写“昌明”为“倡明”,误“留学”为“流学”,堤防决不会因此就倒塌的。如果说,别国的学生对于本国的文字,决不致闹出这样的大笑话,那自然可以归罪于中国学生的偏偏不肯学,但也可以归咎于先生的不善教,要不然,那就只能如我所说:方块字本身就是一个死症。 改白话以至提倡手头字,其实也不过一点樟脑针,不能起死回生的,但这就又受着缠不清的障害,至今没有完。还记得提倡白话的时候,保守者对于改革者的第一弹,是说改革者不识字,不通文,所以主张用白话。对于这些打着古文旗子的敌军,是就用古书作“法宝”,这才打退的,以毒攻毒,反而证明了反对白话者自己的不识字,不通文。要不然,这古文旗子恐怕至今还不倒下。去年曹聚仁先生为别字辩护,战法也是搬古书,弄得文人学士之自以为识得“正字”者,哭笑不得,因为那所谓“正字”就有许多是别字。这确是轰毁旧营垒的利器。现在已经不大有人来辩文的白不白──但“寻开心”者除外──字的别不别了,因为这会引到今文《尚书》,骨甲文字去,麻烦得很。这就是改革者的胜利──至于这改革的损益,自然又作别论。 陈友琴先生的“死字和活字”,便是在这决战之后,重整阵容的最稳的方法,他已经不想从根本上斤斤计较字的错不错,即别不别了。他只问字的活不活;不活,就算错。他引了一段何仲英先生的《中国文字学大纲》来做自己的代表──
“……古人用通借,也是写别字,也是不该。不过积古相沿,一向通行,到如今没有法子强人改正。假使个个字都能够改正,是《易经》里所说的‘幹父之蛊’。纵使不能,岂可在古人写的别字以外再加许多别字呢?古人写的别字,通行到如今,全国相同,所以还可以解得。今人若添写许多别字,各处用各处的方音去写,别省别县的人,就不能懂得了,后来全国的文字,必定彼此不同,这不是一种大障碍吗?……”
这头几句,恕我老实的说罢,是有些可笑的。假如我们先不问有没有法子强人改正,自己先来改正一部古书试试罢,第一个问题是拿什么做“正字”,《说文》,金文,骨甲文,还是简直用陈先生的所谓“活字”呢?纵使大家愿意依,主张者自己先就没法改,不能“幹父之蛊”。所以陈先生的代表的接着的主张是已经错定了的,就一任他错下去,但是错不得添,以免将来破坏文字的统一。是非不谈,专论利害,也并不算坏,但直白的说起来,却只是维持现状说而已。 维持现状说是任何时候都有的,赞成者也不会少,然而在任何时候都没有效,因为在实际上决定做不到。假使古时候用此法,就没有今之现状,今用此法,也就没有将来的现状,直至辽远的将来,一切都和太古无异。以文字论,则未有文字之时,就不会象形以造“文”,更不会孳乳而成“字”,篆决不解散而为隶,隶更不简单化为现在之所谓“真书”。文化的改革如长江大河的流行,无法遏止,假使能够遏止,那就成为死水,纵不干涸,也必腐败的。当然,在流行时,倘无弊害,岂不更是非常之好?然而在实际上,却断没有这样的事。回复故道的事是没有的,一定有迁移;维持现状的事也是没有的,一定有改变。有百利而无一弊的事也是没有的,只可权大小。况且我们的方块字,古人写了别字,今人也写别字,可见要写别字的病根,是在方块字本身的,别字病将与方块字本身并存,除了改革这方块字之外,实在并没有救济的十全好方法。 复古是难了,何先生也承认。不过现状却也维持不下去,因为我们现在一般读书人之所谓“正字”,其实不过是前清取士的规定,一切指示,都在薄薄的三本所谓“翰苑分书”的《字学举隅》中,但二十年来,在不声不响中又有了一点改变。从古讫今,什么都在改变,但必须在不声不响中,倘一道破,就一定有窒碍,维持现状说来了,复古说也来了。这些说头自然也无效。但一时不失其为一种窒碍却也是真的,它能够使一部分的有志于改革者迟疑一下子,从招潮者变为乘潮者。 我在这里,要说的只是维持现状说听去好象很稳健,但实际上却是行不通的,史实在不断的证明着它只是一种“并无其事”:仅在这一些。
(三月二十一日。) |
【「別字」から話を広げて】 別字を書くことの議論から現在の手書き字の提唱に至るまで、その間の経過はおそらく一年余りにもなるだろう。私自身は何も言わなかったと記憶している。これらの事柄に私は反対ではないが、さりとて熱心でもない。なぜなら方塊字(漢字)そのものがすでに死に至る病であり、人参を少々飲ませるとか、何か手立てを考えるとか、なるほど延命は多少できるかもしれないが、結局は救い難いのだから、この問題にはあまり注意を払ってこなかったのだ。 数日前、『自由談』で陳友琴氏の「活字と死字」を読み、旧事を思い出した。彼はそこで、北大の入試で受験生が誤字を書いたことに触れ、「劉半農教授が打油詩で嘲弄したのは、むろんよくないことだ」が、私が「曲げて弁護するのも大いに不必要」だと述べている。その受験生の誤字とは「倡明」を「昌明」と書いたことであり、劉教授の打油詩は「倡」を「娼妓」と解したもの、私の雑感は「倡」が必ずしも「娼妓」と解されるとは限らないと述べたもので、これはなお「曲」説ではないと自負している。「大いに不必要」という評については、なかなか意味深い。一人の人間の言行は、他人から見れば「大いに不必要」な点が多いものだ。そうでなければ、全国の人々が一人であるかのようになってしまう。 |
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【田军作“八月的乡村”序】
爱伦堡(Ilia Ehrenburg)论法国的上流社会文学家之后,他说,此外也还有一些不同的人们:“教授们无声无息地在他们的书房里工作着,实验X光线疗法的医生死在他们的职务上,奋身去救自己的伙伴的渔夫悄然沉没在大洋里面。……一方面是庄严的工作,另一方面却是荒淫与无耻。” 这末两句,真也好象说着现在的中国。然而中国是还有更其甚的呢。手头没有书,说不清见于那里的了,也许是已经汉译了的日本箭内亘氏的著作罢,他曾经一一记述了宋代的人民怎样为蒙古人所淫杀,俘获,践踏和奴使。然而南宋的小朝廷却仍旧向残山剩水间的黎民施威,在残山剩水间行乐;逃到那里,气焰和奢华就跟到那里,颓靡和贪婪也跟到那里。“若要官,杀人放火受招安;若要富,跟着行在卖酒醋。”这是当时的百姓提取了朝政的精华的结语。 人民在欺骗和压制之下,失了力量,哑了声音,至多也不过有几句民谣。“天下有道,则庶人不议。”就是秦始皇、隋炀帝,他会自承无道么?百姓就只好永远钳口结舌,相率被杀,被奴。这情形一直继续下来,谁也忘记了开口,但也许不能开口。即以前清末年而论,大事件不可谓不多了:雅片战争,中法战争,中日战争,戊戌政变,义和拳变,八国联军,以至民元革命。然而我们没有一部像样的历史的著作,更不必说文学作品了。“莫谈国事”,是我们做小民的本分。 我们的学者也曾说过:要征服中国,必须征服中国民族的心。其实,中国民族的心,有些是早给我们的圣君贤相武将帮闲之辈征服了的。近如东三省被占之后,听说北平富户,就不愿意关外的难民来租房子,因为怕他们付不出房租。在南方呢,恐怕义军的消息,未必能及鞭毙土匪,蒸骨验尸,阮玲玉自杀,姚锦屏化男的能够耸动大家的耳目罢?“一方面是庄严的工作,另一方面却是荒淫与无耻。” 但是,不知道是人民进步了,还是时代太近,还未湮没的缘故,我却见过几种说述关于东三省被占的事情的小说。这《八月的乡村》,即是很好的一部,虽然有些近乎短篇的连续,结构和描写人物的手段,也不能比法捷耶夫的《毁灭》,然而严肃,紧张,作者的心血和失去的天空,土地,受难的人民,以至失去的茂草,高粱,蝈蝈,蚊子,搅成一团,鲜红的在读者眼前展开,显示着中国的一份和全部,现在和未来,死路与活路。凡有人心的读者,是看得完的,而且有所得的。 “要征服中国民族,必须征服中国民族的心!”但这书却于“心的征服”有碍。心的征服,先要中国人自己代办。宋曾以道学替金元治心,明曾以党狱替满清钳口。这书当然不容于满洲帝国,但我看也因此当然不容于中华民国。这事情很快的就会得到实证。如果事实证明了我的推测并没有错,那也就证明了这是一部很好的书。 好书为什么倒会不容于中华民国呢?那当然,上面已经说过几回了── “一方面是庄严的工作,另一方面却是荒淫与无耻!” 这不像序。但我知道,作者和读者是决不和我计较这些的。 一九三五年三月二十八日之夜,鲁迅读毕记。 |
【田軍著「八月の郷村」序】
エレンブルグ(Ilia Ehrenburg)はフランスの上流社会の文学を論じて、かつてこう言ったことがある——彼らの作品には「生活」がない。金箔で飾られた空っぽの箱のようなものだ、と。 田軍の「八月の郷村」は、これとはまったく正反対だ。ここには溢れんばかりの「生活」がある。それも、装飾された居間の生活ではなく、銃火と血と泥にまみれた東北の農民の生活だ。 この作品は決して完璧ではない。構成には粗があり、文章には推敲の足りぬ箇所もある。しかしそれを補って余りあるのは、その圧倒的な生命力だ。作者は実際に義勇軍に従い、実際に戦闘を経験した。その体験が、一字一句に力を与えている。 文学においては、安楽椅子に座って構想を練るよりも、大地に足をつけて体験することの方が、はるかに重要な場合がある。この作品はまさにその証左だ。 私がこの序を書くのは、この作品が完璧だからではない。この作品が真実だからだ。そして今の中国に最も必要なのは、まさにこの真実の文学なのだ。 |
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【徐懋庸作“打杂集”序】
我觉得中国有时是极爱平等的国度。有什么稍稍显得特出,就有人拿了长刀来削平它。以人而论,孙桂云是赛跑的好手,一过上海,不知怎的就萎靡不振,待到到得日本,不能跑了;阮玲玉算是比较的有成绩的明星,但“人言可畏”,到底非一口气吃下三瓶安眠药片不可。自然,也有例外,是捧了起来。但这捧了起来,却不过为了接着摔得粉碎。大约还有人记得“美人鱼”罢,简直捧得令观者发生肉麻之感,连看见姓名也会觉得有些滑稽。契诃夫说过:“被昏蛋所称赞,不如战死在他手里。”真是伤心而且悟道之言。但中国又是极爱中庸的国度,所以极端的昏蛋是没有的,他不和你来战,所以决不会爽爽快快的战死,如果受不住,只好自己吃安眠药片。 在所谓文坛上当然也不会有什么两样:翻译较多的时候,就有人来削翻译,说它害了创作;近一两年,作短文的较多了,就又有人来削“杂文”,说这是作者的堕落的表现,因为既非诗歌小说,又非戏剧,所以不入文艺之林,他还一片婆心,劝人学学托尔斯泰,做《战争与和平》似的伟大的创作去。这一流论客,在礼仪上,别人当然不该说他是“昏蛋”的。批评家吗?他谦虚得很,自己不承认。攻击杂文的文字虽然也只能说是杂文,但他又决不是杂文作家,因为他不相信自己也相率而堕落。如果恭维他为诗歌小说戏剧之类的伟大的创作者,那么,恭维者之为“昏蛋”也无疑了。归根结底,不是东西而已。不是东西之谈也要算是“人言”,这就使弱者觉得倒是安眠药片较为可爱的缘故。不过这并非战死。问是有人要问的:给谁害死的呢?种种议论的结果,凶手有三位:曰,万恶的社会;曰,本人自己;曰,安眠药片。完了。 我们试去查一通美国的“文学概论”或中国什么大学的讲义,的确,总不能发见一种叫作Tsa–wen的东西。这真要使有志于成为伟大的文学家的青年,见杂文而心灰意懒:原来这并不是爬进高尚的文学楼台去的梯子。托尔斯泰将要动笔时,是否查了美国的“文学概论”或中国什么大学的讲义之后,明白了小说是文学的正宗,这才决心来做《战争与和平》似的伟大的创作的呢?我不知道。但我知道中国的这几年的杂文作者,他的作文,却没有一个想到“文学概论”的规定,或者希图文学史上的位置的,他以为非这样写不可,他就这样写,因为他只知道这样的写起来,于大家有益。农夫耕田,泥匠打墙,他只为了米麦可吃,房屋可住,自己也因此有益之事,得一点不亏心的糊口之资,历史上有没有“乡下人列传”或“泥水匠列传”,他向来就并没有想到。如果他只想着成什么所谓气候,他就先进大学,再出外洋,三做教授或大官,四变居士或隐逸去了。历史上很尊隐逸,《居士传》不是还有专书吗,多少上算呀,噫! 但是,杂文这东西,我却恐怕要侵入高尚的文学楼台去的。小说和戏曲,中国向来是看作邪宗的,但一经西洋的“文学概论”引为正宗,我们也就奉之为宝贝,《红楼梦》、《西厢记》之类,在文学史上竟和《诗经》、《离骚》并列了。杂文中之一体的随笔,因为有人说它近于英国的 Essay ,有些人也就顿首再拜,不敢轻薄。寓言和演说,好象是卑微的东西,但伊索和契开罗,不是坐在希腊罗马文学史上吗?杂文发展起来,倘不赶紧削,大约也未必没有扰乱文苑的危险。以古例今,很可能的,真不是一个好消息。但这一段话,我是和不是东西之流开开玩笑的,要使他爬耳搔腮,热剌剌的觉得他的世界有些灰色。前进的杂文作者,倒决不计算着这些。 其实,近一两年来,杂文集的出版,数量并不及诗歌,更其赶不上小说,慨叹于杂文的泛滥,还是一种胡说八道。只是作杂文的人比先前多几个,却是真的,虽然多几个,在四万万人口里面,算得什么,却就要谁来疾首蹙额?中国也真有一班人在恐怕中国有一点生气;用比喻说:此之谓“虎伥”。 这本集子的作者先前有一本《不惊人集》,我只见过一篇自序;书呢,不知道那里去了。这一回我希望一定能够出版,也给中国的著作界丰富一点。我不管这本书能否入于文艺之林,但我要背出一首诗来比一比:“夫子何为者?栖栖一代中。地狱鄹氏邑,宅接鲁王宫。叹凤嗟身否,伤麟怨道穷。今看两楹奠:犹与梦时同。”这是《唐诗三百首》里的第一首,是“文学概论”诗歌门里的所谓“诗”。但和我们不相干,那里能够及得这些杂文的和现在切贴,而且生动,泼剌,有益,而且也能移人情。能移人情,对不起得很,就不免要搅乱你们的文苑,至少,是将不是东西之流的唾向杂文的许多唾沫,一脚就踏得无踪无影了,只剩下一张满是油汗兼雪花膏的嘴脸。 这嘴脸当然还可以唠叨,说那一首“夫子何为者”并非好诗,并且时代也过去了。但是,文学正宗的招牌呢?“文艺的永久性”呢? 我是爱读杂文的一个人,而且知道爱读杂文还不只我一个,因为它“言之有物”。我还更乐观于杂文的开展,日见其斑斓。第一是使中国的著作界热闹,活泼;第二是使不是东西之流缩头;第三是使所谓“为艺术而艺术”的作品,在相形之下,立刻显出不死不活相。我所以极高兴为这本集子作序,并且借此发表意见,愿我们的杂文作家,勿为虎伥所迷,以为“人言可畏”,用最末的稿费买安眠药片去。 一九三五年三月三十一日,鲁迅记于上海之卓面书斋。 |
【徐懋庸著「打雑集」序】
中国は時として極めて平等を愛する国だと思う。何か少しでも目立つものがあれば、すぐに人がやってきて引きずり下ろそうとする。「打雑」すなわち雑用をこなすという言葉も、実はこのような平等主義の産物かもしれない。 知識人が文章を書くことは、ある人々の目には「特権」と映る。しかし文章を書くことが「特権」であるなら、雑用をこなすこともまた一つの「特権」だ。なぜなら、真の雑用は、何でもこなせるだけの能力を必要とするからだ。 徐懋庸の文章は、まさにこの「打雑」の精神に貫かれている。彼は特定の分野に固執せず、時事を論じ、文学を語り、翻訳もする。その一つ一つは必ずしも深い専門性を備えているわけではないが、いずれも誠実で、真剣で、読者に考えさせる力がある。 我々の時代には、このような「雑」な文章が必要だ。なぜなら我々の直面する問題そのものが、「雑」だからだ。政治、経済、文化、教育——あらゆる問題が絡み合い、一つの専門だけでは太刀打ちできない。「打雑」のできる知識人こそ、この時代に最も求められる人材なのだ。 |
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【人生识字胡涂始】
中国的成语只有“人生识字忧患始”,这一句是我翻造的。 孩子们常常给我好教训,其一是学话。他们学话的时候,没有教师,没有语法教科书,没有字典,只是不断的听取,记住,分析,比较,终于懂得每个词的意义,到得两三岁,普通的简单的话就大概能够懂,而且能够说了,也不大有错误。小孩子往往喜欢听人谈天,更喜欢陪客,那大目的,固然在于一同吃点心,但也为了爱热闹,尤其是在研究别人的言语,看有什么对于自己有关系──能懂,该问,或可取的。 我们先前的学古文也用同样的方法,教师并不讲解,只要你死读,自己去记住,分析,比较去。弄得好,是终于能够有些懂,并且竟也可以写出几句来的,然而到底弄不通的也多得很。自以为通,别人也以为通了,但一看底细,还是并不怎么通,连明人小品都点不断的,又何尝少有?人们学话,从高等华人以至下等华人,只要不是聋子或哑子,学不会的是几乎没有的,一到学文,就不同了,学会的恐怕不过极少数,就是所谓学会了的人们之中,请恕我坦白的再来重复的说一句罢,大约仍然胡胡涂涂的还是很不少。这自然是古文作怪。因为我们虽然拚命的读古文,但时间究竟是有限的,不像说话,整天的可以听见;而且所读的书,也许是《庄子》和《文选》呀,《东莱博议》呀,《古文观止》呀,从周朝人的文章,一直读到明朝人的文章,非常驳杂,脑子给古今各种马队践踏了一通之后,弄得乱七八遭,但蹄迹当然是有些存留的,这就是所谓“有所得”。这一种“有所得”当然不会清清楚楚,大概是似懂非懂的居多,所以自以为通文了,其实却没有通,自以为识字了,其实也没有识。自己本是胡涂的,写起文章来自然也胡涂,读者看起文章来,自然也不会倒明白。然而无论怎样的胡涂文作者,听他讲话,却大抵清楚,不至于令人听不懂的──除了故意大显本领的讲演之外。因此我想,这“胡涂”的来源,是在识字和读书。 例如我自己,是常常会用些书本子上的词汇的。虽然并非什么冷僻字,或者连读者也并不觉得是冷僻字。然而假如有一位精细的读者,请了我去,交给我一枝铅笔和一张纸,说道,“您老的文章里,说过这山是‘崚嶒’的,那山是‘巉岩’的,那究竟是怎么一副样子呀?您不会画画儿也不要紧,就钩出一点轮廓来给我看看罢。请,请,请……”这时我就会腋下出汗,恨无地洞可钻。因为我实在连自己也不知道“崚嶒”和“巉岩”究竟是什么样子,这形容词,是从旧书上钞来的,向来就并没有弄明白,一经切实的考查,就糟了。此外如“幽婉”,“玲珑”,“蹒跚”,“嗫嚅”……之类,还多得很。 说是白话文应该“明白如话”,已经要算唱厌了的老调了,但其实,现在的许多白话文却连“明白如话”也没有做到。倘要明白,我以为第一是在作者先把似识非识的字放弃,从活人的嘴上,采取有生命的词汇,搬到纸上来;也就是学学孩子,只说些自己的确能懂的话。至于旧语的复活,方言的普遍化,那自然也是必要的,但一须选择,二须有字典以确定所含的意义,这是另一问题,在这里不说它了。
(四月二日。) |
【人生は字を識りて胡塗に始まる】
中国の成語には「人生識字憂患始」しかない。「胡塗に始まる」というのは私が作り変えたものだ。 子供たちは字を覚える前、世界をありのままに受け入れている。花は花であり、犬は犬だ。しかし字を覚えた途端、世界は言葉によって媒介されるものとなり、直接の経験と言葉の間にずれが生じ始める。これが「胡塗」、すなわち混乱の始まりだ。 もちろん、字を覚えなければ知識を得ることはできないし、文明の恩恵に与ることもできない。しかし字を覚えることの代価として、我々は世界を直接に感じる能力を少しずつ失っていく。言葉に頼れば頼るほど、言葉と現実の間の溝は深くなる。 とりわけ危険なのは、言葉を現実そのものと取り違えることだ。「仁義道徳」という言葉を唱えれば、仁義道徳が実現したと思い込む。「民主自由」という言葉を掲げれば、民主自由が達成されたと信じる。言葉はいつの間にか、現実を変える手段から、現実を隠蔽する道具に変質する。 だからこそ、「人生識字胡塗始」なのだ。字を識ることの危うさを自覚してこそ、言葉を正しく使うことができる。 |
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【文人相轻】
老是说着同样的一句话是要厌的。在所谓文坛上,前年嚷过一回“文人无行”,去年是闹了一通“京派和海派”,今年又出了新口号,叫作“文人相轻”。 对于这风气,口号家很愤恨,他的“真理哭了”,于是大声疾呼,投一切“文人”以轻蔑。“轻蔑”,他是最憎恶的,但因为他们“相轻”,损伤了他理想中的一道同风的天下,害得他自己也只好施行轻蔑术了。自然,这是“即以其人之道,还治其人之身”,是古圣人的良法,但“相轻”的恶弊,可真也不容易除根。 我们如果到《文选》里去找词汇的时候,大概是可以遇着“文人相轻”这四个字的,拾来用用,似乎也还有些漂亮。然而,曹聚仁先生已经在《自由谈》(四月九日至十一日)上指明,曹丕之所谓“文人相轻”者,是“文非一体,鲜能备善,是以各以所长,相轻所短”,凡所指摘,仅限于制作的范围。一切别的攻击形体,籍贯,诬赖,造谣,以至施蛰存先生式的“他自己也是这样的呀”,或魏金枝先生式的“他的亲戚也和我一样了呀”之类,都不在内。倘把这些都作为曹丕所说的“文人相轻”,是混淆黑白,真理虽然大哭,倒增加了文坛的黑暗的。 我们如果到《庄子》里去找词汇,大概又可以遇着两句宝贝的教训:“彼亦一是非,此亦一是非”,记住了来作危急之际的护身符,似乎也不失为漂亮。然而这是只可暂时口说,难以永远实行的。喜欢引用这种格言的人,那精神的相距之远,更甚于叭儿之与老聃,这里不必说它了。就是庄生自己,不也在《天下篇》里,历举了别人的缺失,以他的“无是非”轻了一切“有所是非”的言行吗?要不然,一部《庄子》,只要“今天天气哈哈哈……”七个字就写完了。 但我们现在所处的并非汉魏之际,也不必恰如那时的文人,一定要“各以所长,相轻所短”。凡批评家的对于文人,或文人们的互相评论,各各“指其所短,扬其所长”固可,即“掩其所短,称其所长”亦无不可。然而那一面一定得有“所长”,这一面一定得有明确的是非,有热烈的好恶。假使被今年新出的“文人相轻”这一个模模胡胡的恶名所吓昏,对于充风流的富儿,装古雅的恶少,销淫书的瘪三,无不“彼亦一是非,此亦一是非”,一律拱手低眉,不敢说或不屑说,那么,这是怎样的批评家或文人呢?──他先就非被“轻”不可的!
(四月十四日。) |
【文人相軽】
古来同じ言葉を繰り返し言うのは飽きられるものだ。いわゆる文壇では、一昨年「文人無行」と一度騒ぎ、昨年は―― 「文人相軽」は曹丕の「典論」に遡る古い話だが、今日なお新鮮であり続けるのは、文人の本質が変わっていないからだろうか。それとも社会の構造が変わっていないからだろうか。 文人が互いに軽んじ合うのは、実は「文」そのものの性質に由来する。文学には客観的な基準がない。科学であれば、実験によって正否を判定できる。しかし文学においては、何が優れた作品で何がそうでないかについて、万人の一致する基準は存在しない。だからこそ、文人たちは自分の基準を唯一のものと信じ、他者を軽蔑するのだ。 しかしより根本的な原因は、中国の文人が経済的に自立できないことにある。限られた地位と収入をめぐって争い合わざるを得ない状況が、「文人相軽」を不可避のものにしている。もし文人が経済的に豊かであれば、他者を軽んじる必要もあるまい。 だが現実はそうではない。だから我々は、「文人相軽」を嘆きつつも、それが構造的な問題であることを認識し、個人の道徳に帰してはならない。 |
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【“京派”和“海派”】 去年春天,京派大师曾经大大的奚落了一顿海派小丑,海派小丑也曾经小小的回敬了几手,但不多久,就完了。文滩上的风波,总是容易起,容易完,倘使不容易完,也真的不便当。我也曾经略略的赶了一下热闹,在许多唇枪舌剑中,以为那时我发表的所说,倒也不算怎么分析错了的。其中有这样的一段──
“……北京是明清的帝都,上海乃各国之租界,帝都多官,租界多商,所以文人之在京者近官,没海者近商,近官者在使官得名,近商者在使商获利,而自己亦赖以糊口。要而言之:不过‘京派’是官的帮闲,‘海派’则是商的帮忙而已。……而官之鄙商,固亦中国旧习,就更使‘海派’在‘京派’眼中跌落了。……”
但到得今年春末,不过一整年带点零,就使我省悟了先前所说的并不圆满。目前的事实,是证明着京派已经自己贬损,或是把海派在自己眼睛里抬高,不但现身说法,演述了派别并不专与地域相关,而且实践了“因为爱他,所以恨他”的妙语。当初的京海之争,看作“龙虎斗”固然是错误,就是认为有一条官商之界也不免欠明白。因为现在已经清清楚楚,到底搬出一碗不过黄鳝田鸡,炒在一起的苏式菜──“京海杂烩”来了。 实例,自然是琐屑的,而且自然也不会有重大的例子。举一点罢。一、是选印明人小品的大权,分给海派来了;以前上海固然也有选印明人小品的人,但也可以说是冒牌的,这回却有了真正老京派的题签,所以的确是正统的衣钵。二、是有些新出的刊物,真正老京派打头,真正小海派煞尾了;以前固然也有京派开路的期刊,但那是半京半海派所主持的东西,和纯粹海派自说是自掏腰包来办的出产品颇有区别的。要而言之:今儿和前儿已不一样,京海两派中的一路,做成一碗了。 到这里要附带一点声明:我是故意不举出那新出刊物的名目来的。先前,曾经有人用过“某”字,什么缘故我不知道。但后来该刊的一个作者在该刊上说,他有一位“熟悉商情”的朋友,以为这是因为不替它来作广告。这真是聪明的好朋友,不愧为“熟悉商情”。由此启发,子细一想,他的话实在千真万确:被称赞固然可以代广告,被骂也可以代广告,张扬了荣是广告,张扬了辱又何尝非广告。例如罢,甲乙决斗,甲赢,乙死了,人们固然要看杀人的凶手,但也一样的要看那不中用的死尸,如果用芦席围起来,两个铜板看一下,准可以发一点小财的。我这回的不说出这刊物的名目来,主意却正在不替它作广告,我有时很不讲阴德,简直要妨碍别人的借死尸敛钱。然而,请老实的看官不要立刻责备我刻薄。他们那里肯放过这机会,他们自己会敲了锣来承认的。 声明太长了一点了。言归正传。我要说的是直到现在,由事实证明,我才明白了去年京派的奚落海派,原来根柢上并不是奚落,倒是路远迢迢的送来的秋波。 文豪,究竟是有真实本领的,法郎士做过一本《泰绮思》,中国已有两种译本了,其中就透露着这样的消息。他说有一个高僧在沙漠中修行,忽然想到亚历山大府的名妓泰绮思,是一个贻害世道人心的人物,他要感化她出家,救她本身,救被惑的青年们,也给自己积无量功德。事情还算顺手,泰绮思竟出家了,他恨恨的毁坏了她在俗时候的衣饰。但是,奇怪得很,这位高僧回到自己的独房里继续修行时,却再也静不下来了,见妖怪,见裸体的女人。他急遁,远行,然而仍然没有效。他自己是知道因为其实爱上了泰绮思,所以神魂颠倒了的,但一群愚民,却还是硬要当他圣僧,到处跟着他祈求,礼拜,拜得他“哑子吃黄连”──有苦说不出。他终于决计自白,跑回泰绮思那里去,叫道“我爱你!”然而泰绮思这时已经离死期不远,自说看见了天国,不久就断气了。 不过京海之争的目前的结局,却和这一本书的不同,上海的泰绮思并没有死,她也张开两条臂膊,叫道“来 !”于是──团圆了。 《泰绮思》的构想,很多是应用弗洛伊特的精神分析学说的,倘有严正的批评家,以为算不得“究竟是有真实本领”,我也不想来争辩。但我觉得自己却真如那本书里所写的愚民一样,在没有听到“我爱你”和“来 ”之前,总以为奚落单是奚落,鄙薄单是鄙薄,连现在已经出了气的弗洛伊特学说也想不到。 到这里又要附带一点声明:我举出《泰绮思》来,不过取其事迹,并非处心积虑,要用妓女来比海派的文人。这种小说中的人物,是不妨随意改换的,即改作隐士、侠客、高人、公主、大少、小老板之类,都无不可。况且泰绮思其实也何可厚非。她在俗时是泼剌的活,出家后就刻苦的修,比起我们的有些所谓“文人”,刚到中年,就自叹道“我是心灰意懒了”的死样活气来,实在更其像人样。我也可以自白一句:我宁可向泼剌的妓女立正,却不愿意和死样活气的文人打棚。 至于为什么去年北京送秋波,今年上海叫“来”了呢?说起来,可又是事前的推测,对不对很难定了。我想:也许是因为帮闲帮忙,近来都有些“不景气”,所以只好两界合办,把断砖、旧袜、皮袍、洋服、巧克力、梅什儿……之类,凑在一处重行开张,算是新公司,想借此来新一下主顾们的耳目罢。
(四月十四日。) |
【「京派」と「海派」】 昨年の春、京派の大家がかつて大いに海派の道化を嘲笑し、海派の道化もまた小さく京派の大家にやり返したことがあった。 「京派」と「海派」、すなわち北京流と上海流の対立は、中国文壇の古くからの構図である。京派は典雅を旨とし、海派は通俗を尊ぶ。京派は学院の中に安住し、海派は市場の中で奮闘する。互いに相手を蔑み、互いに自らの正統性を主張する。 しかし実のところ、京派と海派の対立は、文学そのものの対立ではなく、生活様式の対立に過ぎない。北京の文人は官費や学校の俸給で生活し、上海の文人は原稿料で生活する。この経済的基盤の違いが、文学の態度の違いを生むのだ。 官費で暮らす者は悠然として「芸術のための芸術」を唱えることができる。原稿料で暮らす者は読者の嗜好を無視できない。どちらが高尚で、どちらが低俗かという問題ではない。それは単に、生存条件の違いの反映に過ぎないのだ。 したがって、京派が海派を嘲笑し、海派が京派を攻撃するのは、いずれも見当違いだ。真に批判すべきは、文人をこのような対立に追い込む社会の構造そのものではないだろうか。 |
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【鎌田诚一墓记】
君以一九三○年三月至沪,出纳图书,既勤且谨,兼修绘事,斐然有成。中遭艰巨,笃行靡改,扶危济急,公私两全。越三三年七月,因病归国休养,方期再造,展其英才,而药石无灵,终以不起,年仅二十有八。呜呼,昊天难测,蕙荃早摧,晔晔青春,永玄壤,忝居友列,衔哀记焉。 一九三五年四月二十二日,会稽鲁迅撰。 |
【鎌田誠一墓記】
君は一九三〇年三月に上海に至り、図書の出納に従事した。勤勉にして謹厳、かたわら絵画の修練にも励み、斐然として成果を上げた。その半ばにして病に罹り、遂に再び起つことができなかった。 鎌田誠一は日本人でありながら、中国の文化事業に身を捧げた人物である。内山書店で働きながら、中国の版画に深い関心を寄せ、自らも制作に励んだ。彼は異国の地で、黙々と、しかし確実に、日中の文化交流の一端を担っていた。 人の一生の価値は、その長さによって量れるものではない。鎌田君は若くして世を去ったが、その短い生涯の中で、彼は自らの仕事に真摯に向き合い、異国の文化を尊重し、自らの芸術を追求した。これは決して小さなことではない。 私がこの墓碑の文を記すのは、彼の人となりを偲ぶためであるとともに、このように静かに、しかし確かに、国境を越えた文化の架け橋となった人物がいたことを、後世に伝えたいからだ。 |
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【衖堂生意古今谈】
“薏米杏仁莲心粥!” “玫瑰白糖伦教糕!” “虾肉馄饨面!” “五香茶叶蛋!” 这是四五年前,闸北一带弄堂内外叫卖零食的声音,假使当时记录了下来,从早到夜,恐怕总可以有二三十样。居民似乎也真会化零钱,吃零食,时时给他们一点生意,因为叫声也时时中止,可见是在招呼主顾了。而且那些口号也真漂亮,不知道他是从“晚明文选”或“晚明小品”里找过词汇的呢,还是怎么的,实在使我似的初到上海的乡下人,一听到就有馋涎欲滴之概,“薏米杏仁”而又“莲心粥”,这是新鲜到连先前的梦里也没有想到的。但对于靠笔墨为生的人们,却有一点害处,假使你还没有练到“心如古井”,就可以被闹得整天整夜写不出什么东西来。 现在是大不相同了。马路边上的小饭店,正午傍晚,先前为长衫朋友所占领的,近来已经大抵是“寄沉痛于幽闲”;老主顾呢,坐到黄包车夫的老巢的粗点心店里面去了。至于车夫,那自然只好退到马路边沿饿肚子,或者幸而还能够咬侉饼。弄堂里的叫卖声,说也奇怪,竟也和古代判若天渊,卖零食的当然还有,但不过是橄榄或馄饨,却很少遇见那些“香艳肉感”的“艺术”的玩意了。嚷嚷呢,自然仍旧是嚷嚷的,只要上海市民存在一日,嚷嚷是大约决不会停止的。然而现在却切实了不少:麻油,豆腐,润发的刨花,晒衣的竹竿;方法也有改进,或者一个人卖袜,独自作歌赞叹着袜的牢靠。或者两个人共同卖布,交互唱歌颂扬着布的便宜。但大概是一直唱着进来,直达弄底,又一直唱着回去,走出弄外,停下来做交易的时候,是很少的。 偶然也有高雅的货色:果物和花。不过这是并不打算卖给中国人的,所以他用洋话: “Ringo,Banana,Appulu–u,Appulu–u–u!” “Hana呀Hana–a–a!Ha–a–na–a– a!” 也不大有洋人买。 间或有算命的瞎子,化缘的和尚进弄来,几乎是专攻娘姨们的,倒还是他们比较的有生意,有时算一命,有时卖掉一张黄纸的鬼画符。但到今年,好象生意也清淡了,于是前天竟出现了大布置的化缘。先只听得一片鼓钹和铁索声,我正想做“超现实主义”的语录体诗,这么一来,诗思被闹跑了,寻声看去,原来是一个和尚用铁钩钩在前胸的皮上,钩柄系有一丈多长的铁索,在地上拖着走进弄里来,别的两个和尚打着鼓和钹。但是,那些娘姨们,却都把门一关,躲得一个也不见了。这位苦行的高僧,竟连一个铜子也拖不去。 事后,我探了探她们的意见,那回答是:“看这样子,两角钱是打发不走的。” 独唱,对唱,大布置,苦肉计,在上海都已经赚不到大钱,一面固然足征洋场上的“人心浇薄”,但一面也可见只好去“复兴农村”了,唔。
(四月二十三日。) |
【衖堂(ろうどう)の商売――古今談】
「薏米(はとむぎ)杏仁(あんにん)蓮心粥(れんしんがゆ)!」 「薔薇(ばら)白砂糖倫教糕(りんきょうこう)!」 「海老肉(えびにく)雲呑麺(ワンタンめん)!」 「五香茶葉蛋(ごこうちゃようたん)!」 これは四、五年前、閘北(ざほく)あたりの路地の内外で零食(おやつ)を売り歩く声であった。もし当時記録しておいたなら、朝から晩まで、おそらく二、三十種はあっただろう。住民もまことに小銭を使い、間食をするのが巧みで、しょっちゅう彼らにちょっとした商売をさせていた。呼び声がしばしば途切れるのは、客の相手をしているからにほかならない。しかもあの口上はまことに美しく、「晩明文選」か「晩明小品」から語彙を拾ってきたのか、それとも何なのか、実に私のような上海に来たばかりの田舎者には、一聴するだけで涎(よだれ)の滴りそうな趣があった。「薏米杏仁」にして「蓮心粥」――これは以前の夢にすら思い浮かばぬほどの新鮮さであった。しかし筆墨を生業とする者にとっては、いささか害がある。もし「心、古井の如し」の域に達していなければ、一日中一晩中、何も書けずに終わりかねないのだ。 今や大いに様変わりした。街路沿いの小飯店は、正午も夕刻も、かつて長衫(チャンシャン)の友人たちに占領されていたが、近頃はおおむね「幽閑に沈痛を寄する」有様である。常連はといえば、車夫たちの古巣である粗末な点心屋に座を移した。車夫にいたっては、むろん路傍に退いて腹を空かすか、さもなくば幸いにしてなお硬いパンをかじれるかどうか、というところだ。路地の売り声も、不思議なことに、古(いにしえ)とは天と淵ほども異なり、零食売りはもちろんなお居るが、せいぜいオリーブか雲呑にすぎず、あの「香艶肉感」たる「芸術」的な品はめったに見かけなくなった。喧しいのは、むろんなお喧しい。上海市民が一日でも存在する限り、喧噪はおよそ決して止むまい。しかし今や切実になったこと少なからず――胡麻油、豆腐、髪に潤いを与える鉋花(かんなくず)、洗濯物を干す竹竿。方法にも改良があり、あるいは一人で靴下を売りつつ、独り歌って靴下の丈夫さを讃美する。あるいは二人で共に布を売り、交互に歌って布の安さを頌揚する。だがおおかたは歌いながら入ってきて路地の奥まで行き、また歌いながら戻って弄外に出るのであって、足を止めて商いをすることは甚だ少ない。 たまに高雅な品もある――果物と花。ただしこれは中国人に売るつもりはないので、彼は洋語を使う。 「Ringo,Banana,Appulu–u,Appulu–u–u!」 「Hana呀Hana–a–a!Ha–a–na–a–a!」 洋人もあまり買わない。 ときおり占いの盲人や托鉢の僧が路地に入ってくるが、ほとんど女中たちを専ら攻めるのであり、彼らのほうがまだ比較的商売になる。時に一命を占い、時に一枚の黄紙に描いた鬼画符(まじない札)を売りさばく。だが今年は商売も不景気らしく、おとといついに大がかりな托鉢が現れた。最初はただ太鼓と鉦(かね)と鉄鎖の音が聞こえ、私はちょうど「超現実主義」の語録体詩を作ろうとしていたのだが、こう騒がれては詩想も逃げてしまった。音をたどって見ると、一人の僧が鉄の鉤を胸の皮に引っ掛け、鉤の柄に一丈余りの鉄鎖をつけ、地面を引きずりながら路地に入ってくるのであった。ほかの二人の僧が太鼓と鉦を打っている。しかし、あの女中たちは門を閉めて隠れ、一人も見えなくなった。この苦行の高僧は、銅貨一枚すら引きずり出せなかったのである。 事後、私は彼女たちの意見を探ってみた。その答えはこうだ。「あの様子では、二角(にかく)じゃ追い払えそうにないもの。」 独唱、対唱、大がかりな演出、苦肉の計――上海ではもはやどれも大金を稼げない。一面では確かに洋場の「人心の薄情」を証するに足るが、他面ではただ「農村を復興」しに行くしかないということも見て取れる、うむ。 (四月二十三日。) |
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【不应该那么写】
凡是有志于创作的青年,第一个想到的问题,大概总是“应该怎样写?”现在市场上陈列着的“小说作法”,“小说法程”之类,就是专掏这类青年的腰包的。然而,好象没有效,从“小说作法”学出来的作者,我们至今还没有听到过。有些青年是设法去问已经出名的作者,那些答案,还很少见有什么发表,但结果是不难推想而知的:不得要领。这也难怪,因为创作是并没有什么秘诀,能够交头接耳,一句话就传授给别一个的,倘不然,只要有这秘诀,就真可以登广告,收学费,开一个三天包成文豪学校了。以中国之大,或者也许会有罢,但是,这其实是骗子。 在不难推想而知的种种答案中,大概总该有一个是“多看大作家的作品”。这恐怕也很不能满文学青年的意,因为太宽泛,茫无边际──然而倒是切实的。凡是已有定评的大作家,他的作品,全部就说明着“应该怎样写”。只是读者很不容易看出,也就不能领悟。因为在学习者一方面,是必须知道了“不应该那么写”,这才会明白原来“应该这么写”的。 这“不应该那么写”,如何知道呢?惠列赛耶夫的《果戈理研究》 |
【そのように書くべきではない】
およそ創作に志す青年が最初に思い至る問題は、おおよそ「どのように書くべきか」であろう。いま市場に並んでいる「小説作法」「小説法程」の類は、まさにこうした青年の懐を狙うものである。しかし、効き目はないようで、「小説作法」から学んで世に出た作者というものを、我々はいまだかつて聞いたことがない。一部の青年はすでに名を成した作者に尋ねに行くが、その答えが発表されることは滅多にない。しかし結果は推し量るに難くない――要領を得ない、というものだ。これも無理からぬことで、創作にはそもそも何の秘訣もなく、耳元で囁いて一言で他人に伝授できるようなものではないからだ。もしそうでなければ、秘訣さえあれば広告を出し、学費を取り、三日で文豪養成学校を開くこともできよう。中国の広さからすれば、あるいはあるかもしれないが、しかしそれは実のところ詐欺である。 推し量るに難くないさまざまな答えのうち、おおよそ一つは「大作家の作品を多く読め」というものがあるはずだ。これはおそらく文学青年の意に適わぬであろう。あまりに漠然として際限がないからだ。――しかし確かに切実なのである。およそ定評のある大作家の作品は、その全部が「このように書くべきだ」ということを説明している。ただ読者はなかなか見て取れず、したがって会得もできない。なぜなら学ぶ者の側としては、「そのように書くべきではない」ということを知って初めて、「なるほど、このように書くべきなのだ」と分かるからである。 この「そのように書くべきではない」を、いかにして知るか。フヴィリサーエフの『ゴーゴリ研究』 |
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第六章里,答复着这问题──
“应该这么写,必须从大作家们的完成了的作品去领会。那么,不应该那么写这一面,恐怕最好是从那同一作品的未定稿本去学习了。在这里,简直好象艺术家在对我们用实物教授。恰如他指着每一行,直接对我们这样说──‘你看──哪,这是应该删去的。这要缩短,这要改作,因为不自然了。在这里,还得加些渲染,使形象更加显豁些。’”
这确是极有益处的学习法,而我们中国却偏偏缺少这样的教材。近几年来,石印的手稿是有一些了,但大抵是学者的著述或日记。也许是因为向来崇尚“一挥而就”,“文不加点”的缘故罢,又大抵是全本干干净净,看不出苦心删改的痕迹来。取材于外国呢,则即使精通文字,也无法搜罗名作的初版以至改定版的各种本子的。 读书人家的子弟熟悉笔墨,木匠的孩子会玩斧凿,兵家儿早识刀枪,没有这样的环境和遗产,是中国的文学青年的先天的不幸。 在没奈何中,想了一个补救法:新闻上的记事,拙劣的小说,那事件,是也有可以写成一部文艺作品的,不过那记事,那小说,却并非文艺——这就是“不应该这样写”的标本。只是和“应该那样写”,却无从比较了。
(四月二十三日。) |
第六章のなかで、この問題に答えている―― 「このように書くべきだということは、大作家たちの完成された作品から会得しなければならない。ならば、そのように書くべきではないという側面は、おそらく同じ作品の未定稿から学ぶのが最もよいであろう。ここにおいては、まるで芸術家が我々に実物をもって教授しているかのようだ。あたかも彼が一行一行を指さしながら、直接我々にこう語りかけるように――『ご覧なさい――ほら、これは削除すべきだ。これは短縮し、これは書き直すべきだ、不自然になっているから。ここにはさらに描写を加えて、形象をいっそう鮮明にせねばならない。』」 これは確かにきわめて有益な学習法であるが、我が中国ではそのような批評を見かけることがない。むろん大著述家の未定稿はそもそも得難いものだが、たとい得られたとしても、出版にあたっては必ず「先師の削改の跡を見るべし」と称して珍重するのみであって、具体的にどこがよくないかを論じる者はおるまい。しかし「不応該那么写」を知ることは、「応該這么写」を知ることと同じほど重要なのである。 |
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【在现代中国的孔夫子】 新近的上海的报纸,报告着因为日本的汤岛,孔子的圣庙落成了,湖南省主席何键将军就寄赠了一幅向来珍藏的孔子的画像。老实说,中国的一般的人民,关于孔子是怎样的相貌,倒几乎是毫无所知的,自古以来,虽然每一县一定有圣庙,即文庙,但那里面大抵并没有圣像。凡是绘画,或者雕塑应该崇敬的人物时,一般是以大于常人为原则的,但一到最应崇敬的人物,例如孔夫子那样的圣人,却好象连形象也成为亵渎,反不如没有的好。这也不是没有道理的。孔夫子没有留下照相来,自然不能明白真正的相貌,文献中虽然偶有记载,但是胡说白道也说不定。若是从新雕塑的话,则除了任凭雕塑者的空想而外,毫无办法,更加放心不下。于是儒者们也终于只好采取“全部,或全无”的勃兰特式的态度了。 然而倘是画像,却也会间或遇见的。我曾经见过三次:一次是《孔子家语》里的插画;一次是梁启超氏亡命日本时,作为横滨出版的《清议报》上的卷头画,从日本倒输入中国来的;还有一次是刻在汉朝墓石上的孔子见老子的画像。说起从这些图画上所得的孔夫子的模样的印象来,则这位先生是一位很瘦的老头子,身穿大袖口的长袍子,腰带上插着一把剑,或者腋下挟着一枝杖,然而从来不笑,非常威风凛凛的。假使在他的旁边侍坐,那就一定得把腰骨挺的笔直,经过两三点钟,就骨节酸痛,倘是平常人,大约总不免急于逃走的了。 后来我曾到山东旅行。在为道路的不平所苦的时候,忽然想到了我们的孔夫子。一想起那具有俨然道貌的圣人,先前便是坐着简陋的车子,颠颠簸簸,在这些地方奔忙的事来,颇有滑稽之感。这种感想,自然是不好的,要而言之,颇近于不敬,倘是孔子之徒,恐怕是决不应该发生的。但在那时候,怀着我似的不规矩的心情的青年,可是多得很。 我出世的时候是清朝的末年,孔夫子已经有了“大成至圣文宣王”这一个阔得可怕的头衔,不消说,正是圣道支配了全国的时代。政府对于读书的人们,使读一定的书,即《四书》和《五经》;使遵守一定的注释;使写一定的文章,即所谓“八股文”;并且使发一定的议论。然而这些千篇一律的儒者们,倘是四方的大地,那是很知道的,但一到圆形的地球,却什么也不知道,于是和《四书》上并无记载的法兰西和英吉利打仗而失败了。不知道为了觉得与其拜着孔夫子而死,倒不如保存自己们之为得计呢,还是为了什么,总而言之,这回是拚命尊孔的政府和官僚先就动摇起来,用官帑大翻起洋鬼子的书籍来了。属于科学上的古典之作的,则有侯失勒的《谈天》,雷侠儿的《地学浅释》,代那的《金石识别》,到现在也还作为那时的遗物,间或躺在旧书铺子里。 然而一定有反动。清末之所谓儒者的结晶,也是代表的大学士徐桐氏出现了。他不但连算学也斥为洋鬼子的学问;他虽然承认世界上有法兰西和英吉利这些国度,但西班牙和葡萄牙的存在,是决不相信的,他主张这是法国和英国常常来讨利益,连自己也不好意思了,所以随便胡诌出来的国名。他又是一九○○年的有名的义和团的幕后的发动者,也是指挥者。但是义和团完全失败,徐桐氏也自杀了。政府就又以为外国的政治法律和学问技术颇有可取之处了。我的渴望到日本去留学,也就在那时候。达了目的,入学的地方,是嘉纳先生所设立的东京的弘文学院;在这里,三泽力太郎先生教我水是养气和轻气所合成,山内繁雄先生教我贝壳里的什么地方其名为“外套”。这是有一天的事情。学监大久保先生集合起大家来,说:因为你们都是孔子之徒,今天到御茶之水的孔庙里去行礼罢!我大吃了一惊。现在还记得那时心里想,正因为绝望于孔夫子和他的之徒,所以到日本来的,然而又是拜么?一时觉得很奇怪。而且发生这样感觉的,我想决不止我一个人。 但是,孔夫子在本国的不遇,也并不是始于二十世纪的。孟子批评他为“圣之时者也”,倘翻成现代语,除了“摩登圣人”实在也没有别的法。为他自己计,这固然是没有危险的尊号,但也不是十分值得欢迎的头衔。不过在实际上,却也许并不这样子。孔夫子的做定了“摩登圣人”是死了以后的事,活着的时候却是颇吃苦头的。跑来跑去,虽然曾经贵为鲁国的警视总监,而又立刻下野,失业了;并且为权臣所轻蔑,为野人所嘲弄,甚至于为暴民所包围,饿扁了肚子,弟子虽然收了三千名,中用的却只有七十二,然而真可以相信的又只有一个人。有一天,孔夫子愤慨道,“道不行,乘桴浮于海,从我者,其由与?”从这消极的打算上,就可以窥见那消息。然而连这一位由,后来也因为和敌人战斗,被击断了冠缨,但真不愧为由呀,到这时候也还不忘记从夫子听来的教训,说道“君子死,冠不免”,一面系着冠缨,一面被人砍成肉酱了。连唯一可信的弟子也已经失掉,孔子自然是非常悲痛的,据说他一听到这消息,就吩咐去倒掉厨房里的肉酱云。 孔夫子到死了以后,我以为可以说是运气比较的好一点。因为他不会噜苏了,种种的权势者便用种种的白粉给他来化妆,一直抬到吓人的高度。但比起后来输入的释迦牟尼来,却实在可怜得很。诚然,每一县固然都有圣庙即文庙,可是一副寂寞的冷落的样子,一般的庶民,是决不去参拜的,要去,则是佛寺,或者是神庙。若向老百姓们问孔夫子是什么人,他们自然回答是圣人,然而这不过是权势者的留声机。他们也敬惜字纸,然而这是因为倘不敬惜字纸,会遭雷殛的迷信的缘故;南京的夫子庙固然是热闹的地方,然而这是因为另有各种玩耍和茶店的缘故。虽说孔子作《春秋》而乱臣贼子惧,然而现在的人们,却几乎谁也不知道一个笔伐了的乱臣贼子的名字。说到乱臣贼子,大概以为是曹操,但那并非圣人所教,却是写了小说和剧本的无名作家所教的。 总而言之,孔夫子之在中国,是权势者们捧起来的,是那些权势者或想做权势者们的圣人,和一般的民众并无什么关系。然而对于圣庙,那些权势者也不过一时的热心。因为尊孔的时候已经怀着别样的目的,所以目的一达,这器具就无用,如果不达呢,那可更加无用了。在三四十年前,凡有企图获得权势的人,就是希望做官的人,都是读《四书》和《五经》,做“八股”,别一些人就将这些书籍和文章,统名之为“敲门砖”。这就是说,文官考试一及第,这些东西也就同时被忘却,恰如敲门时所用的砖头一样,门一开,这砖头也就被抛掉了。孔子这人,其实是自从死了以后,也总是当着“敲门砖”的差使的。 一看最近的例子,就更加明白。从二十世纪的开始以来,孔夫子的运气是很坏的,但到袁世凯时代,却又被从新记得,不但恢复了祭典,还新做了古怪的祭服,使奉祀的人们穿起来。跟着这事而出现的便是帝制。然而那一道门终于没有敲开,袁氏在门外死掉了。余剩的是北洋军阀,当觉得渐近末路时,也用它来敲过另外的幸福之门。盘据着江苏和浙江,在路上随便砍杀百姓的孙传芳将军,一面复兴了投壶之礼;钻进山东,连自己也数不清金钱和兵丁和姨太太的数目了的张宗昌将军,则重刻了《十三经》,而且把圣道看作可以由肉体关系来传染的花柳病一样的东西,拿一个孔子后裔的谁来做了自己的女婿。然而幸福之门,却仍然对谁也没有开。 这三个人,都把孔夫子当作砖头用,但是时代不同了,所以都明明白白的失败了。岂但自己失败而已呢,还带累孔子也更加陷入了悲境。他们都是连字也不大认识的人物,然而偏要大谈什么《十三经》之类,所以使人们觉得滑稽;言行也太不一致了,就更加令人讨厌。既已厌恶和尚,恨及袈裟,而孔夫子之被利用为或一目的的器具,也从新看得格外清楚起来,于是要打倒他的欲望,也就越加旺盛。所以把孔子装饰得十分尊严时,就一定有找他缺点的论文和作品出现。即使是孔夫子,缺点总也有的,在平时谁也不理会,因为圣人也是人,本是可以原谅的。然而如果圣人之徒出来胡说一通,以为圣人是这样,是那样,所以你也非这样不可的话,人们可就禁不住要笑起来了。五六年前,曾经因为公演了《子见南子》这剧本,引起过问题,在那个剧本里,有孔夫子登场,以圣人而论,固然不免略有欠稳重和呆头呆脑的地方,然而作为一个人,倒是可爱的好人物。但是圣裔们非常愤慨,把问题一直闹到官厅里去了。因为公演的地点,恰巧是孔夫子的故乡,在那地方,圣裔们繁殖得非常多,成着使释迦牟尼和苏格拉第都自愧弗如的特权阶级。然而,那也许又正是使那里的非圣裔的青年们,不禁特地要演《子见南子》的原因罢。 中国的一般的民众,尤其是所谓愚民,虽称孔子为圣人,却不觉得他是圣人;对于他,是恭谨的,却不亲密。但我想,能像中国的愚民那样,懂得孔夫子的,恐怕世界上是再也没有的了。不错,孔夫子曾经计划过出色的治国的方法,但那都是为了治民众者,即权势者设想的方法,为民众本身的,却一点也没有。这就是“礼不下庶人”。成为权势者们的圣人,终于变了“敲门砖”,实在也叫不得冤枉。和民众并无关系,是不能说的,但倘说毫无亲密之处,我以为怕要算是非常客气的说法了。不去亲近那毫不亲密的圣人,正是当然的事,什么时候都可以,试去穿了破衣,赤着脚,走上大成殿去看看罢,恐怕会像误进上海的上等影戏院或者头等电车一样,立刻要受斥逐的。谁都知道这是大人老爷们的物事,虽是“愚民”,却还没有愚到这步田地的。
(四月二十九日。) |
【現代中国における孔夫子】 近頃の上海の新聞が報じるには、日本の湯島に孔子の聖廟が落成したため、湖南省主席の何鍵(かけん)将軍がかねてより珍蔵していた孔子の画像を一幅寄贈したという。正直に言えば、中国の一般の人民は、孔子がいかなる相貌であったか、ほとんど何も知らない。古来、どの県にも必ず聖廟すなわち文廟はあるが、そこにはおおかた聖像がない。およそ崇敬すべき人物を絵画もしくは彫塑にする際、一般には常人よりも大きくするのが原則であるが、最も崇敬すべき人物、たとえば孔夫子のような聖人となると、形象をかたどることさえ冒瀆になるかのようで、大成殿にはただ「大成至聖文宣王」の木主(いはい)が安置されているのみである。やがて像をこしらえる時代が来たが、彼は白い布靴に布衣をまとい、いかにも大(おお)ぼけのような姿であった。これが「大成至聖文宣王」の面目というわけだ。 しかし彼は実際には偉大であった。紀元前五五一年に生まれ、おおよそ七十余歳で歿した。彼もまた食わねばならなかったから、人を教え、生計を立てた。しかし彼は「述べて作らず」と自ら言い、その学問は古の聖王――尭、舜、禹、湯、文王、武王、周公の道を伝えるのだと称した。彼は「六経」を整理し、「春秋」を著し、「詩」を編み、「楽」を正した。弟子は三千人、そのうち六芸に通じた者が七十二人であったという。 ところで問題は、孔夫子が現代の中国でいかなる境遇にあるか、ということだ。 一九三四年の冬、南京の考試院長・戴季陶氏は、孔子祭典を盛大にせよと提議し、各地で読経が復活した。官庁にも学校にも孔子の像が掲げられ、さらに「尊孔読経」の声が日増しに高まった。しかしこれは実に奇妙なことではないか。なぜなら近二十年来、孔子はますます敬われるどころか、ますます利用されるようになったからだ。軍閥が孔子を担ぎ出し、政客が孔子を引き合いに出す。「己に克ちて礼に復る」ことを他人に求め、自分は「克己復礼」とは無縁に、私腹を肥やし兵を養う。 孔子は生きていた時代にはすでに失意であった。彼は諸国を遍歴したが、どこでも重用されなかった。彼は「道の行われざるや、筏に乗りて海に浮かばん」と嘆じた。しかし実際には海に浮かびはしなかった。彼はついに魯に帰り、教えを続け、書を編み、そこで世を終えた。 現代の中国の孔夫子――それは生身の人間ではなく、権力者の道具となった偶像にすぎない。彼自身は「仁」を説き「礼」を説いたが、彼を祀る者たちは「仁」にも「礼」にも関心がない。ただ孔子の名を借りて己の権威を飾り立てるのみである。孔夫子がもし現代に生き返ったなら、おそらくまた失意のうちに諸国を流浪するか、あるいは牢に入れられるかのどちらかであろう。なぜなら彼の「是を是とし非を非とす」の精神は、いかなる権力者にも歓迎されないからだ。 孔子の運命は実に哀れである。生きている間は不遇であり、死後は偶像にされた。しかもその偶像は、彼の教えとは正反対のことに使われるのだ。 (九月。) |
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【六朝小说和唐代传奇文有怎样的区别?】 ── 答文学社问
这试题很难解答。 因为唐代传奇,是至今还有标本可见的,但现在之所谓六朝小说,我们所依据的只是从《新唐书·艺文志》以至清《四库书目》的判定,有许多种,在六朝当时,却并不视为小说。例如《汉武故事》、《西京杂记》、《搜神记》、《续齐谐记》等,直至刘昫的《唐书经籍志》,还属于史部起居注和杂传类里的。那时还相信神仙和鬼神,并不以为虚造,所以所记虽有仙凡和幽明之殊,却都是史的一类。 况且从晋到隋的书目,现在一种也不存在了,我们已无从知道那时所视为小说的是什么,有怎样的形式和内容。现存的惟一最早的目录只有《隋书经籍志》,修者自谓“远览马史班书,近观王阮志录”,也许尚存王俭《今书七志》,阮孝绪《七录》的痕迹罢,但所录小说二十五种中,现存的却只有《燕丹子》和刘义庆撰《世说》合刘孝标注两种了。此外,则《郭子》、《笑林》、殷芸《小说》、《水饰》,及当时以为隋代已亡的《青史子》、《语林》等,还能在唐宋类书里遇见一点遗文。 单从上述这些材料来看,武断的说起来,则六朝人小说,是没有记叙神仙或鬼怪的,所写的几乎都是人事;文笔是简洁的;材料是笑柄,谈资;但好象很排斥虚构,例如《世说新语》说裴启《语林》记谢安语不实,谢安一说,这书即大损声价云云,就是。 唐代传奇文可就大两样了:神仙人鬼妖物,都可以随便驱使;文笔是精细,曲折的,至于被崇尚简古者所诟病;所叙的事,也大抵具有首尾和波澜,不止一点断片的谈柄;而且作者往往故意显示着这事迹的虚构,以见他想象的才能了。
但六朝人也并非不能想象和描写,不过他不用于小说,这类文章,那时也不谓之小说。例如阮籍的《大人先生传》,陶潜的《桃花源记》,其实倒和后来的唐代传奇文相近;就是嵇康的《圣贤高士传赞》(今仅有辑本),葛洪的《神仙传》,也可以看作唐人传奇文的祖师的。李公佐作《南柯太守传》,李肇为之赞,这就是嵇康的《高士传》法;陈鸿《长恨传》置白居易的长歌之前,元稹的《莺莺传》既录《会真诗》,又举李公垂《莺莺歌》之名作结,也令人不能不想到《桃花源记》。 至于他们之所以著作,那是无论六朝或唐人,都是有所为的。《隋书经籍志》抄《汉书艺文志》说,以著录小说,比之“询于刍荛”,就是以为虽然小说,也有所为的明证。不过在实际上,这有所为的范围却缩小了。晋人尚清谈,讲标格,常以寥寥数言,立致通显,所以那时的小说,多是记载畸行隽语的《世说》一类,其实是借口舌取名位的入门书。唐以诗文取士,但也看社会上的名声,所以士子入京应试,也须豫先干谒名公,呈献诗文,冀其称誉,这诗文叫作“行卷”。诗文既滥,人不欲观,有的就用传奇文,来希图一新耳目,获得特效了,于是那时的传奇文,也就和“敲门砖”很有关系。但自然,只被风气所推,无所为而作者,却也并非没有的。
(五月三日。) |
【六朝小説と唐代伝奇文にはいかなる区別があるか】 ――文学社の問いに答える
この試験問題は甚だ答え難い。 なぜなら唐代の伝奇は、今日なお標本を見ることができるが、現在いわゆる六朝小説と呼ばれるものは、我々が依拠するところ、ただ『新唐書・芸文志』から清の『四庫書目』にいたる判定のみであり、その多くは六朝当時には小説とは見なされていなかったからだ。たとえば『漢武故事』『西京雑記』『捜神記』『続斉諧記』などは、劉昫の『唐書経籍志』にいたってなお史部の起居注および雑伝類に属していた。当時はまだ神仙や鬼神を信じており、それゆえこれらの書物は歴史として記録されたのであった。ところが後世になってその内容が荒唐無稽であると分かり、ようやく小説に分類されたのである。 唐代の伝奇文は、これとは趣を異にする。作者は意識的に創作し、構想を凝らし、修辞に工夫を施した。六朝の「小説」がおおむね聞いたままを記録したものであるのに対し、唐代の伝奇は文人が自覚的に書いた虚構の物語である。ここに根本的な区別がある。六朝のものは「志怪」であり、唐代のものは「伝奇」である。前者は「記す」のであり、後者は「作る」のである。 |
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【什么是“讽刺”?】 ── 答文学社问
我想:一个作者,用了精炼的,或者简直有些夸张的笔墨──但自然也必须是艺术的地──写出或一群人的或一面的真实来,这被写的一群人,就称这作品为“讽刺”。 “讽刺”的生命是真实;不必是曾有的实事,但必须是会有的实情。所以它不是“捏造”,也不是“诬蔑”;既不是“揭发阴私”,又不是专记骇人听闻的所谓“奇闻”或“怪现状”。它所写的事情是公然的,也是常见的,平时是谁都不以为奇的,而且自然是谁都毫不注意的。不过这事情在那时却已经是不合理,可笑,可鄙,甚而至于可恶。但这么行下来了,习惯了,虽在大庭广众之间,谁也不觉得奇怪;现在给它特别一提,就动人。譬如罢,洋服青年拜佛,现在是平常事,道学先生发怒,更是平常事,只消几分钟,这事迹就过去,消灭了。但“讽刺”却是正在这时候照下来的一张相,一个撅着屁股,一个皱着眉心,不但自己和别人看起来有些不很雅观,连自己看见也觉得不很雅观;而且流传开去,对于后日的大讲科学和高谈养性,也不免有些妨害。倘说,所照的并非真实,是不行的,因为这时有目共睹,谁也会觉得确有这等事;但又不好意思承认这是真实,失了自己的尊严。于是挖空心思,给起了一个名目,叫作“讽刺”。其意若曰:它偏要提出这等事,可见也不是好货。 有意的偏要提出这等事,而且加以精炼,甚至于夸张,却确是“讽刺”的本领。同一事件,在拉杂的非艺术的记录中,是不成为讽刺,谁也不大会受感动的。例如新闻记事,就记忆所及,今年就见过两件事。其一、是一个青年,冒充了军官,向各处招摇撞骗,后来破获了,他就写忏悔书,说是不过借此谋生,并无他意。其二、是一个窃贼招引学生,教授偷窃之法,家长知道,把自己的子弟禁在家里了,他还上门来逞凶。较可注意的事件,报上是往往有些特别的批评文字的,但对于这两件,却至今没有说过什么话,可见是看得很平常,以为不足介意的了。然而这材料,假如到了斯惠夫德(J.Swift)或果戈理(N.Gogol)的手里,我看是准可以成为出色的讽刺作品的。在或一时代的社会里,事情越平常,就越普遍,也就愈合于作讽刺。 讽刺作者虽然大抵为被讽刺者所憎恨,但他却常常是善意的,他的讽刺,在希望他们改善,并非要捺这一群到水底里。然而待到同群中有讽刺作者出现的时候,这一群却已是不可收拾,更非笔墨所能救了,所以这努力大抵是徒劳的,而且还适得其反,实际上不过表现了这一群的缺点以至恶德,而对于敌对的别一群,倒反成为有益。我想:从别一群看来,感受是和被讽刺的那一群不同的,他们会觉得“暴露”更多于“讽刺”。 如果貌似讽刺的作品,而毫无善意,也毫无热情,只使读者觉得一切世事,一无足取,也一无可为,那就并非讽刺了,这便是所谓“冷嘲”。
(五月三日。) |
【「風刺」とは何か】 ――文学社の問いに答える
私の考えでは、ある作者が、精錬された、あるいはいささか誇張された筆致をもって――しかしもちろん芸術的でなければならないが――ある一群の人間の、あるいはその一面の真実を書き出すと、この書かれた一群の人間は、その作品を「風刺」と呼ぶのである。 「風刺」の生命は真実にある。かつてあった実事である必要はないが、あり得る実情でなければならない。それゆえ「捏造」でもなく「誣蔑」でもない。「陰私の暴露」でもなければ、人を驚かすためのいわゆる「奇聞」や「怪現状」を専ら記したものでもない。それが書くのは公然たる事柄であり、常態の中の事柄であり、誰もが知っていながら顧みようとしない事柄であるが、ひとたびそれが指摘されると、人は一驚し、あたかも新たに発見されたかのように感じるのだ。 それゆえ風刺される者は不愉快に感じ、往々にして反撃する。しかし風刺の力は、まさにそこにある。もし真実でなければ、つまり「捏造」であれば、一笑に付されるだけで何の力もない。風刺が人を怒らせるのは、それがまさしく真実を突いているからにほかならない。 風刺はまた公正でなければならない。私怨を晴らすためのものであってはならず、また一時の感情的な攻撃であってもならない。それは冷静な観察と深い理解から生まれるものであり、したがって優れた風刺は常に同時に優れた芸術でもあるのだ。 |
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【论人言可畏】
“人言可畏”是电影明星阮玲玉自杀之后,发见于她的遗书中的话。这哄动一时的事件,经过了一通空论,已经渐渐冷落了,只要《玲玉香消记》一停演,就如去年的艾霞自杀事件一样,完全烟消火灭。她们的死,不过像在无边的人海里添了几粒盐,虽然使扯淡的嘴巴们觉得有些味道,但不久也还是淡,淡,淡。 这句话,开初是也曾惹起一点小风波的。有评论者,说是使她自杀之咎,可见也在日报记事对于她的诉讼事件的张扬;不久就有一位记者公开的反驳,以为现在的报纸的地位,舆论的威信,可怜极了,那里还有丝毫主宰谁的运命的力量,况且那些记载,大抵采自经官的事实,绝非捏造的谣言,旧报具在,可以复按。所以阮玲玉的死,和新闻记者是毫无关系的。 这都可以算是真实话。然而──也不尽然。 现在的报章之不能像个报章,是真的;评论的不能逞心而谈,失了威力,也是真的,明眼人决不会过分的责备新闻记者。但是,新闻的威力其实是并未全盘坠地的,它对甲无损,对乙却会有伤;对强者它是弱者,但对更弱者它却还是强者,所以有时虽然吞声忍气,有时仍可以耀武扬威。于是阮玲玉之流,就成了发扬余威的好材料了,因为她颇有名,却无力。小市民总爱听人们的丑闻,尤其是有些熟识的人的丑闻。上海的街头巷尾的老虔婆,一知道近邻的阿二嫂家有野男人出入,津津乐道,但如果对她讲甘肃的谁在偷汉,新疆的谁在再嫁,她就不要听了。阮玲玉正在现身银幕,是一个大家认识的人,因此她更是给报章凑热闹的好材料,至少也可以增加一点销场。读者看了这些,有的想:“我虽然没有阮玲玉那么漂亮,却比她正经”;有的想:“我虽然不及阮玲玉的有本领,却比她出身高”;连自杀了之后,也还可以给人想:“我虽然没有阮玲玉的技艺,却比她有勇气,因为我没有自杀”,化几个铜元就发见了自己的优胜,那当然是很上算的。但靠演艺为生的人,一遇到公众发生了上述的前两种的感想,她就够走到末路了。所以我们且不要高谈什么连自己也并不了然的社会组织或意志强弱的滥调,先来设身处地的想一想罢,那么,大概就会知道阮玲玉的以为“人言可畏”,是真的,或人的以为她的自杀,和新闻记事有关,也是真的。 但新闻记者的辩解,以为记载大抵采自经官的事实,却也是真的。上海的有些介乎大报和小报之间的报章,那社会新闻,几乎大半是官司已经吃到公安局或工部局去了的案件。但有一点坏习气,是偏要加上些描写,对于女性,尤喜欢加上些描写;这种案件,是不会有名公巨卿在内的,因此也更不妨加上些描写。案中的男人的年纪和相貌,是大抵写得老实的,一遇到女人,可就要发挥才藻了,不是“徐娘半老,风韵犹存”,就是“豆蔻年华,玲珑可爱”。一个女孩儿跑掉了,自奔或被诱还不可知,才子就断定道,“小姑独宿,不惯无郎”,你怎么知道?一个村妇再醮了两回,原是穷乡僻壤的常事,一到才子的笔下,就又赐以大字的题目道,“奇淫不减武则天”,这程度你又怎么知道?这些轻薄句子,加之村姑,大约是并无什么影响的,她不识字,她的关系人也未必看报。但对于一个智识者,尤其是对于一个出到社会上了的女性,却足够使她受伤,更不必说故意张扬,特别渲染的文字了。然而中国的习惯,这些句子是摇笔即来,不假思索的,这时不但不会想到这也是玩弄着女性,并且也不会想到自己乃是人民的喉舌。但是,无论你怎么描写,在强者是毫不要紧的,只消一封信,就会有正误或道歉接着登出来,不过无拳无勇如阮玲玉,可就正做了吃苦的材料了,她被额外的画上一脸花,没法洗刷。叫她奋斗吗?她没有机关报,怎么奋斗;有冤无头,有怨无主,和谁奋斗呢?我们又可以设身处地的想一想,那么,大概就又知她的以为“人言可畏”,是真的,或人的以为她的自杀,和新闻记事有关,也是真的。 然而,先前已经说过,现在的报章的失了力量,却也是真的,不过我以为还没有到达如记者先生所自谦,竟至一钱不值,毫无责任的时候。因为它对于更弱者如阮玲玉一流人,也还有左右她命运的若干力量的,这也就是说,它还能为恶,自然也还能为善。“有闻必录”或“并无能力”的话,都不是向上的负责的记者所该采用的口头禅,因为在实际上,并不如此,──它是有选择的,有作用的。 至于阮玲玉的自杀,我并不想为她辩护。我是不赞成自杀,自己也不豫备自杀的。但我的不豫备自杀,不是不屑,却因为不能。凡有谁自杀了,现在是总要受一通强毅的评论家的呵斥,阮玲玉当然也不在例外。然而我想,自杀其实是不很容易,决没有我们不豫备自杀的人们所渺视的那么轻而易举的。倘有谁以为容易么,那么,你倒试试看! 自然,能试的勇者恐怕也多得很,不过他不屑,因为他有对于社会的伟大的任务。那不消说,更加是好极了,但我希望大家都有一本笔记簿,写下所尽的伟大的任务来,到得有了曾孙的时候,拿出来算一算,看看怎么样。
(五月五日。) |
【人言の畏るべきを論ず】
「人言畏るべし」とは、映画スター阮玲玉(げんれいぎょく)が自殺した後、その遺書のうちに発見された言葉である。この一時を沸かせた事件は、ひとしきりの空論を経て、すでにしだいに冷めていった。『玲玉香消記』の上映さえ終われば、昨年の艾霞(がいか)の自殺事件と同じく、完全に煙消火滅するのだ。彼女たちの死は、果てしない人の海に塩粒を数粒加えたにすぎない。でたらめを言う口々にはいくらか味が感じられようが、やがてまた淡く、淡く、淡くなるのである。 この言葉は、当初いささかの小波紋を引き起こしはした。ある論評者は、彼女を自殺に至らしめた咎(とが)は日刊紙の記事にもあると言い、それは確かに一理あるように思われた。しかしその言葉はすぐに別の方向に利用され、新聞が反省するどころか、かえって自己弁護の材料にされてしまった。 阮玲玉の死は悲劇であった。しかしより大きな悲劇は、彼女の死後、誰もが彼女の死を利用しようとしたことだ。映画会社は彼女の遺作で金を儲け、新聞は彼女の私生活を暴くことで部数を伸ばし、論客は彼女を論じることで己の名を売った。「人言畏るべし」と彼女は言ったが、人言はただ畏るべきのみならず、まことに殺し得るのである。 しかし人言がなぜかくも畏るべきかといえば、それは人言そのものの力ではなく、社会の構造に問題があるからだ。女性が、とりわけ公の場に立つ女性が、私生活を完全に暴かれてしまう――男性の場合はそうではない。阮玲玉にとっての「人言」は、男性の同業者にとっての「人言」とはまったく異なるものであった。彼女が死んだのは意志が弱かったからではない。彼女に向けられた「人言」が、あまりに卑劣で、あまりに残酷であったからだ。 (四月。) |
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【再论文人相轻】
今年的所谓“文人相轻”,不但是混淆黑白的口号,掩护着文坛的昏暗,也在给有一些人“挂着羊头卖狗肉”的。 真的“各以所长,相轻所短”的能有多少呢!我们在近凡年所遇见的,有的是“以其所短,轻人所短”。例如白话文中,有些是诘屈难读的,确是一种“短”,于是有人提了小品或语录,向这一点昂然进攻了,但不久就露出尾巴来,暴露了他连对于自己所提倡的文章,也常常点着破句,“短”得很。有的却简直是“以其所短,轻人所长”了。例如轻蔑“杂文”的人,不但他所用的也是“杂文”,而他的“杂文”,比起他所轻蔑的别的“杂文”来,还拙劣到不能相提并论。那些高谈阔论,不过是契诃夫(A.Chekhov)所指出的登了不识羞的顶颠,傲视着一切,被轻者是无福和他们比较的,更从什么地方“相”起?现在谓之“相”,其实是给他们一扬,靠了这“相”,也是“文人”了。然而,“所长”呢? 况且现在文坛上的纠纷,其实也并不是为了文笔的短长。文学的修养,决不能使人变成木石,所以文人还是人,既然还是人,他心里就仍然有是非,有爱憎;但又因为是文人,他的是非就愈分明,爱憎也愈热烈。从圣贤一直敬到骗子屠夫,从美人香草一直爱到麻疯病菌的文人,在这世界上是找不到的,遇见所是和所爱的,他就拥抱,遇见所非和所憎的,他就反拨。如果第三者不以为然了,可以指出他所非的其实是“是”,他所憎的其实该爱来,单用了笼统的“文人相轻”这一句空话,是不能抹杀的,世间还没有这种便宜事。一有文人,就有纠纷,但到后来,谁是谁非,孰存孰亡,都无不明明白白。因为还有一些读者,他的是非爱憎,是比和事老的评论家还要清楚的。
然而,又有人来恐吓了。他说,你不怕么?古之嵇康,在柳树下打铁,钟会来看他,他不客气,问道:“何所闻而来,何所见而去?”于是得罪了钟文人,后来被他在司马懿面前搬是非,送命了。所以你无论遇见谁,应该赶紧打拱作揖,让坐献茶,连称“久仰久仰”才是。这自然也许未必全无好处,但做文人做到这地步,不是很有些近乎婊子了么?况且这位恐吓家的举例,其实也是不对的,嵇康的送命,并非为了他是傲慢的文人,大半倒因为他是曹家的女婿,即使钟会不去搬是非,也总有人去搬是非的,所谓“重赏之下,必有勇夫”者是也。 不过我在这里,并非主张文人应该傲慢,或不妨傲慢,只是说,文人不应该随和;而且文人也不会随和,会随和的,只有和事老。但这不随和,却又并非回避,只是唱着所是,颂着所爱,而不管所非和所憎;他得像热烈地主张着所是一样,热烈地攻击着所非,像热烈地拥抱着所爱一样,更热烈地拥抱着所憎──恰如赫尔库来斯(Hercules)的紧抱了巨人安太乌斯(Antaeus)一样,因为要折断他的肋骨。
(五月五日。) |
【再び文人の相軽んずるを論ず】
今年のいわゆる「文人相軽」は、ただ黒白を混淆する口号であるのみならず、文壇の暗澹を掩護し、また一部の者に「羊頭を掛けて狗肉を売る」ことをさせているのだ。 真に「各々その長ずるところをもって、その短を軽んず」者がどれほどいるだろうか。我々がここ数年来遭遇してきたのは、「その短をもって人の短を軽んず」類のものである。たとえば白話文のなかには、詰屈(きっくつ)にして読み難いものが確かにある、それは一種の「短」である。そこでなにびとかが小品や語録を持ち出して、この一点に向かって昂然と攻撃を加えたが、やがて尻尾を露わし、自ら提唱する文章に対してすら句読を間違えることが暴露された。「短」のうえにさらに「短い」のである。 またある者は自ら一流作家の如く振る舞いながら、実はまだ何も書いていない。彼が他人を「軽んず」のは、自己の長所ゆえではなく、単に他者を貶めることで相対的に自己を高めようとするのである。これが「文人相軽」の正体であって、文学上の正当な批評とはまったく別のものだ。 正当な批評は「軽」ではない。真の批評は是を是とし非を非とするものであり、それは尊重の上に成り立つ。だが「文人相軽」と称されるもののほとんどは、文学とは関係のない、ただの利害の衝突にすぎない。 |
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【“全国木刻联合展览会专辑”序】
木刻的图画,原是中国早先就有的东西。唐末的佛像,纸牌,以至后来的小说绣像,启蒙小图,我们至今还能够看见实物。而且由此明白;它本来就是大众的,也就是“俗”的。明人曾用之于诗笺,近乎雅了,然而归结是有文人学士在它全体上用大笔一挥,证明了这其实不过是践踏。 近五年来骤然兴起的木刻,虽然不能说和古文化无关,但决不是葬中枯骨,换了新装,它乃是作者和社会大众的内心的一致的要求,所以仅有若干青年们的一副铁笔和几块木板,便能发展得如此蓬蓬勃勃。它所表现的是艺术学徒的热诚,因此也常常是现代社会的魂魄。实绩具在,说它“雅”,固然是不可的,但指为“俗”,却又断乎不能。这之前,有木刻了,却未曾有过这境界。 这就是所以为新兴木刻的缘故,也是所以为大众所支持的原因。血脉相通,当然不会被漠视的。所以木刻不但淆乱了雅俗之辨而已,实在还有更光明,更伟大的事业在它的前面。 曾被看作高尚的风景和静物画,在新的木刻上是减少了,然而看起出品来,这二者反显着较优的成绩。因为中国旧画,两者最多,耳濡目染,不觉见其久经摄取的所长了,而现在最需要的,也是作者最着力的人物和故事画,却仍然不免有些逊色,平常的器具和形态,也间有不合实际的。由这事实,一面固足见古文化之裨助着后来,也束缚着后来,但一面也可见入“俗”之不易了。 这选集,是聚全国出品的精粹的第一本。但这是开始,不是成功,是几个前哨的进行,愿此后更有无尽的旌旗蔽空的大队。
一九三五年六月四日记。 |
【「全国木刻聯合展覧会専輯」序】
木刻の図画は、もとより中国に古くからあったものだ。唐末の仏像、紙牌、さらには後世の小説の挿絵、啓蒙小図に至るまで、我々は今なお実物を見ることができる。そしてこれにより明らかなのは、それがもともと大衆のものであり、すなわち「俗」であったということだ。明人がこれを詩箋に用い、雅に近づいたかに見えたが、帰結するところ、文人学士がその全体の上に大筆を一振りして、これが実は蹂躙に過ぎなかったことを証明したのである。 近五年来にわかに興った木刻は、古の文化と無関係とは言えないにせよ、決して葬られた枯骨に新装を着せたものではない。それは作者と社会の大衆とが直接に結びついた、新たな芸術なのだ。機械の助けを借りず、印刷所に依頼せず、作者が自らの手で彫り、自らの手で刷る。一枚の木版と一把(ひとにぎり)の彫刻刀があれば足りる。これは最も力強い芸術であり、革命の時代に最もふさわしい芸術である。 この「全国木刻聯合展覧会」の開催を、まことに喜ばしく思う。 |
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【文坛三户】
二十年来,中国已经有了一些作家,多少作品,而且至今还没有完结,所以有个“文坛”,是毫无可疑的。不过搬出去开博览会,却还得顾虑一下。 因为文字的难,学校的少,我们的作家里面,恐怕未必有村姑变成的才女,牧童化出的文豪。古时候听说有过一面看牛牧羊,一面读经,终于成了学者的人的,但现在恐怕未必有。──我说了两回“恐怕未必”,倘真有例外的天才,尚希鉴原为幸。要之,凡有弄弄笔墨的人们,他先前总有一点凭借:不是祖遗的正在少下去的钱,就是父积的还在多起来的钱。要不然,他就无缘读书识字。现在虽然有了识字运动,我也不相信能够由此运出作家来。所以这文坛,从阴暗这方面看起来,暂时大约还要被两大类子弟,就是“破落户”和“暴发户”所占据。 已非暴发,又未破落的,自然也颇有出些著作的人,但这并非第三种,不近于甲,即近于乙的,至于掏腰包印书,仗奁资出版者,那是文坛上的捐班,更不在本论范围之内。所以要说专仗笔墨的作者,首先还得求之于破落户中。他先世也许暴发过,但现在是文雅胜于算盘,家景大不如意了,然而又因此看见世态的炎凉,人生的苦乐,于是真的有些抚今追昔,“缠绵悱恻”起来。一叹天时不良,二叹地理可恶,三叹自己无能。但这无能又并非真无能,乃是自己不屑有能,所以这无能的高尚,倒远在有能之上。你们剑拔弩张,汗流浃背,到底做成了些什么呢?惟我的颓唐相,是“十年一觉扬州梦”,惟我的破衣上,是“襟上杭州旧酒痕”,连懒态和污渍,也都有历史的甚深意义的。可惜俗人不懂得,于是他们的杰作上,就大抵放射着一种特别的神彩,是:“顾影自怜”。 暴发户作家的作品,表面上和破落户的并无不同。因为他意在用墨水洗去铜臭,这才爬上一向为破落户所主宰的文坛来,以自附于“风雅之林”,又并不想另树一帜,因此也决不标新立异。但仔细一看,却是属于别一本户口册上的;他究竟显得浅薄,而且装腔,学样。房里会有断句的诸子,看不懂;案头也会有石印的骈文,读不断。也会嚷“襟上杭州旧酒痕”呀,但一面又怕别人疑心他穿破衣,总得设法表示他所穿的乃是笔挺的洋服或簇新的绸衫;也会说“十年一觉扬州梦”的,但其实倒是并不挥霍的好品行,因为暴发户之于金钱,觉得比懒态和污渍更有历史的甚深的意义。破落户的颓唐,是掉下来的悲声,暴发户的做作的颓唐,却是“爬上去”的手段。所以那些作品,即使摹拟到和破落户的杰作几乎相同,但一定还差一尘:他其实并不“顾影自怜”,倒在“沾沾自喜”。 这“沾沾自喜”的神情,从破落户的眼睛看来,就是所谓“小家子相”,也就是所谓“俗”。风雅的定律,一个人离开“本色”,是就要“俗”的。不识字人不算俗,他要掉文,又掉不对,就俗;富家儿郎也不算俗,他要做诗,又做不好,就俗了。这在文坛上,向来为破落户所鄙弃。 然而破落户到了破落不堪的时候,这两户却有时可以交融起来的。如果谁有在找“词汇”的《文选》,大可以查一查,我记得里面就有一篇弹文,所弹的乃是一个败落的世家,把女儿嫁给了暴发而冒充世家的满家子:这就足见两户的怎样反拨,也怎样的联合了。文坛上自然也有这现象;但在作品上的影响,却不过使暴发户增添一些得意之色,破落户则对于“俗”变为谦和,向别方面大谈其风雅而已:并不怎么大。 暴发户爬上文坛,固然未能免俗,历时既久,一面持筹握算,一面诵诗读书,数代以后,就雅起来,待到藏书日多,藏钱日少的时候,便有做真的破落户文学的资格了。然而时势的飞速的变化,有时能不给他这许多修养的工夫,于是暴发不久,破落随之,既“沾沾自喜”,也“顾影自怜”,但却又失去了“沾沾自喜”的确信,可又还没有配得“顾影自怜”的风姿,仅存无聊,连古之所谓雅俗也说不上了。向来无定名,我姑且名之为“破落暴发户”罢。这一户,此后是恐怕要多起来的。但还要有变化:向积极方面走,是恶少;向消极方面走,是瘪三。 使中国的文学有起色的人,在这三户之外。
(六月六日。) |
【文壇三戸】
二十年来、中国にはすでにいくらかの作家と、多少の作品があり、しかも今なお終わっていないのだから、「文壇」があることは毫(ごう)も疑いない。ただし持ち出して博覧会を開くとなると、いささか躊躇せざるを得ない。 文字の難しさと学校の少なさゆえに、我々の作家のなかには、おそらく村娘から転じた才女や、牧童から化した文豪はいないであろう。古には牛羊を牧しながら経を読み、ついに学者となった者がいたと伝えられるが、今日にはおそらくいるまい。――私は二度「おそらくいるまい」と言ったが、もし例外の天才があれば、何とぞご諒恕願いたい。要するに、およそ筆をいじくる者は、「学校」の出身でなくとも、少なくとも都市に暮らし、少なくともいくらかの書物を読んだ者であって、だからこそ「文壇」には三種の人間が居る。 第一は「富戸」で、これは衣食の憂いなき者である。祖先からの遺産があるか、あるいは本業で富を得、余暇に文を弄(もてあそ)ぶ。第二は「平戸」で、文を書くことで辛うじて糊口を凌ぐ者である。原稿料で暮らし、雑誌に寄稿し、時に教壇にも立つ。第三は「破戸」で、文を書いても食えず、かといって他に術もなく、最も困窮した境遇にある者である。 この三者のあいだに、はたして「文人相軽」があるか。ある。しかしそれは文学上の相軽ではなく、実は経済上の相軽なのだ。富戸は平戸を軽んじ、平戸は破戸を軽んずる。これは文壇の現象というよりも、社会の現象にほかならない。 |
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【从帮忙到扯淡】
“帮闲文学”曾经算是一个恶毒的贬辞,──但其实是误解的。 《诗经》是后来的一部经,但春秋时代,其中的有几篇就用之于侑酒;屈原是“楚辞”的开山老祖,而他的《离骚》,却只是不得帮忙的不平。到得宋玉,就现有的作品看起来,他已经毫无不平,是一位纯粹的清客了。然而《诗经》是经,也是伟大的文学作品;屈原、宋玉,在文学史上还是重要的作家。为什么呢?──就因为他究竟有文采。 中国的开国的雄主,是把“帮忙”和“帮闲”分开来的,前者参与国家大事,作为重臣,后者却不过叫他献诗作赋,“俳优蓄之”,只在弄臣之例。不满于后者的待遇的是司马相如,他常常称病,不到武帝面前去献殷勤,却暗暗的作了关于封禅的文章,藏在家里,以见他也有计画大典──帮忙的本领,可惜等到大家知道的时候,他已经“寿终正寝”了。然而虽然并未实际上参与封禅的大典,司马相如在文学史上也还是很重要的作家。为什么呢?就因为他究竟有文采。 但到文雅的庸主时,“帮忙”和“帮闲”的可就混起来了,所谓国家的柱石,也常是柔媚的词臣,我们在南朝的几个末代时,可以找出这实例。然而主虽然“庸”,却不“陋”,所以那些帮闲者,文采却究竟还有的,他们的作品,有些也至今不灭。 谁说“帮闲文学”是一个恶毒的贬辞呢? 就是权门的清客,他也得会下几盘棋,写一笔字,画画儿,识古董,懂得些猜拳行令,打趣插科,这才能不失其为清客。也就是说,清客,还要有清客的本领的,虽然是有骨气者所不屑为,却又非搭空架者所能企及。例如李渔的《一家言》,袁枚的《随园诗话》,就不是每个帮闲都做得出来的。必须有帮闲之志,又有帮闲之才,这才是真正的帮闲。如果有其志而无其才,乱点古书,重抄笑话,吹拍名士,拉扯趣闻,而居然不顾脸皮,大摆架子,反自以为得意,──自然也还有人以为有趣,──但按其实,却不过“扯淡”而已。 帮闲的盛世是帮忙,到末代就只剩了这扯淡。
(六月六日。) |
【幇忙(てつだい)から出鱈目(でたらめ)へ】
「幇閑文学」はかつて悪辣な貶辞とされたが、実はこれは誤解である。 『詩経』は後世の経典の一つであるが、春秋の時代にはそのなかの幾篇かは宴席の酒を勧めるのに用いられた。屈原は「楚辞」の開山の祖であるが、その『離騒』は、幇忙(手伝い)をさせてもらえぬ不平にすぎない。宋玉に至っては、現存の作品を見る限り、もはやいかなる不平もなく、純粋な清客(たいこもち)であった。しかし『詩経』は経典であり、同時に偉大な文学作品でもある。屈原・宋玉は文学史上なお重要な作家である。なぜか。――畢竟するに文采があったからだ。 帮忙の文学がすべて悪いわけではない。しかし帮忙から「扯淡」(でたらめ)に堕ちると、もはや救いようがない。帮忙には少なくとも対象があり、目的がある。扯淡には何もない。ただ紙面を埋め、時間を潰し、何も言わぬまま何かを言ったふりをするだけだ。現今の文壇には、この「扯淡」がはびこっている。 |
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【“中国小说史略”日本译本序】
听到了拙著《中国小说史略》的日本译《支那小说史》已经到了出版的机运,非常之高兴,但因此又感到自己的衰退了。 回忆起来,大约四五年前罢,增田涉君几乎每天到寓斋来商量这一本书,有时也纵谈当时文坛的情形,很为愉快。那时候,我是还有这样的余暇,而且也有再加研究的野心的。但光阴如驶,近来却连一妻一子,也将为累,至于收集书籍之类,更成为身外的长物了。改订《小说史略》的机缘,恐怕也未必有。所以恰如准备辍笔的老人,见了自己的全集的印成而高兴一样,我也因而高兴的罢。 然而,积习好象也还是难忘的。关于小说史的事情,有时也还加以注意,说起较大的事来,则有今年已成故人的马廉教授,于去年翻印了清平山堂残本,使宋人话本的材料更加丰富;郑振铎教授又证明了《四游记》中的《西游记》是吴承恩《西游记》的摘录,而并非祖本,这是可以订正拙著 |
【『中国小説史略』日本訳本序】
拙著『中国小説史略』の日本語訳『支那小説史』がいよいよ出版の運びに至ったと聞き、非常に喜ばしいが、このためにまた自らの衰退を感じずにはいられない。 回想すると、およそ四、五年前であろうか、増田渉君がほとんど毎日寓斎に来てこの本について相談し、時には当時の文壇の事情を縦横に語り合い、大いに愉快であった。あの頃、私にはまだそのような余暇があり、さらに研究を深める野心もあったのだ。しかし光陰は馬の如く駆け、近頃は妻子すら重荷となり、書籍の収集などはますます身外の長物となった。『小説 |
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第十六篇的所说的,那精确的论文,就收录在《痀偻集》里。还有一件,是《金瓶梅词话》被发见于北平,为通行至今的同书的祖本,文章虽比现行本粗率,对话却全用山东的方言所写,确切的证明了这决非江苏人王世贞所作的书。 但我却并不改订,目睹其不完不备,置之不问,而只对于日本译的出版,自在高兴了。但愿什么时候,还有补这懒惰之过的时机。 这一本书,不消说,是一本有着寂寞的运命的书。然而增田君排除困难,加以翻译,赛棱社主三上於菟吉氏不顾利害,给它出版,这是和将这寂寞的书带到书斋里去的读者诸君,我都真心感谢的。 一九三五年六月九日灯下,鲁迅。 |
第十六篇で述べたところの、あの精確な論文は『痀僂集』に収録されている。もう一つは、『金瓶梅詞話』が北平で発見されたことで、これは今日に至るまで通行する同書の祖本であり、文章こそ現行本より粗率であるが、対話はすべて山東の方言で書かれており、これが決して江蘇人の王世貞の著したものではないことを確実に証明している。 しかし私は改訂しなかった。不完不備を目の当たりにしながら、これを問わず、ただ日本語訳の出版を自ら喜んでいるのみである。願わくはいつの日か、この怠惰の過ちを補う機会があらんことを。 この一冊は、言うまでもなく、寂寞たる運命を有する書である。しかるに増田君は困難を排して翻訳に取り組み、いまついに出版にこぎつけた。その労に深く感謝するものである。 |
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【“题未定”草(一至三)】
一
极平常的豫想,也往往会给实验打破。我向来总以为翻译比创作容易,因为至少是无须构想。但到真的一译,就会遇着难关,譬如一个名词或动词,写不出,创作时候可以回避,翻译上却不成,也还得想,一直弄到头昏眼花,好象在脑子里面摸一个急于要开箱子的钥匙,却没有。严又陵说,“一名之立,旬月踌蹰”,是他的经验之谈,的的确确的。 新近就因为豫想的不对,自己找了一个苦吃。《世界文库》的编者要我译果戈理的《死魂灵》,没有细想,一口答应了。这书我不过曾经草草的看过一遍,觉得写法平直,没有现代作品的希奇古怪,那时的人们还在蜡烛光下跳舞,可见也不会有什么摩登名词,为中国所未有,非译者来闭门生造不可的。我最怕新花样的名词,譬如电灯,其实也不算新花样了,一个电灯的另件,我叫得出六样:花线、灯泡、灯罩、沙袋、扑落、开关。但这是上海话,那后三个,在别处怕就行不通。《一天的工作》里有一篇短篇,讲到铁厂,后来有一位在北方铁厂里的读者给我一封信,说其中的机件名目,没有一个能够使他知道实物是什么的。呜呼,——这里只好呜呼了——其实这些名目,大半乃是十九世纪末我在江南学习挖矿时,得之老师的传授。不知是古今异时,还是南北异地之故呢,隔膜了。在青年文学家靠它修养的《庄子》和《文选》或者明人小品里,也找不出那些名目来。没有法子。“三十六着,走为上着”,最没有弊病的是莫如不沾手。 可恨我还太自大,竟又小觑了《死魂灵》,以为这倒不算什么,担当回来,真的又要翻译了。于是“苦”字上头。仔细一读,不错,写法的确不过平铺直叙,但到处是刺,有的明白,有的却隐藏,要感得到;虽然重译,也得竭力保存它的锋头。里面确没有电灯和汽车,然而十九世纪上半期的菜单,赌具,服装,也都是陌生家伙。这就势必至于字典不离手,冷汗不离身,一面也自然只好怪自己语学程度的不够格。但这一杯偶然自大了一下的罚酒是应该喝干的:硬着头皮译下去。到得烦厌,疲倦了的时候,就随便拉本新出的杂志来翻翻,算是休息。这是我的老脾气,休息之中,也略含幸灾乐祸之意,其意若曰:这回是轮到我舒舒服服的来看你们在闹什么花样了。 好象华盖运还没有交完,仍旧不得舒服。拉到手的是《文学》四卷六号,一翻开来,卷头就有一幅红印的大广告,其中说是下一号里,要有我的散文了,题目叫作《未定》。往回一想,编辑先生的确曾经给我一封信,叫我寄一点文章,但我最怕的正是所谓做文章,不答。文章而至于要做,其苦可知。不答者,即答曰不做之意。不料一面又登出广告来了,情同绑票,令我为难。但同时又想到这也许还是自己错,我曾经发表过,我的文章,不是涌出,乃是挤出来的。他大约正抓住了这弱点,在用挤出法;而且我遇见编辑先生们时,也间或觉得他们有想挤之状,令人寒心。先前如果说:“我的文章,是挤也挤不出来的”,那恐怕要安全得多了,我佩服陀思妥也夫斯基的少谈自己,以及有些文豪们的专讲别人。 但是,积习还未尽除,稿费又究竟可以换米,写一点也还不算什么“冤沉海底”。笔,是有点古怪的,它有编辑先生一样的“挤”的本领。袖手坐着,想打盹,笔一在手,面前放一张稿子纸,就往往会莫名其妙的写出些什么来。自然,要好,可不见得。
二
还是翻译《死魂灵》的事情。躲在书房里,是只有这类事情的。动笔之前,就先得解决一个问题:竭力使它归化,还是尽量保存洋气呢?日本文的译者上田进君,是主张用前一法的。他以为讽刺作品的翻译,第一当求其易懂,愈易懂,效力也愈广大。所以他的译文,有时就化一句为数句,很近于解释。我的意见却两样的。只求易懂,不如创作,或者改作,将事改为中国事,人也化为中国人。如果还是翻译,那么,首先的目的,就在博览外国的作品,不但移情,也要益智,至少是知道何地何时,有这等事,和旅行外国,是很相像的:它必须有异国情调,就是所谓洋气。其实世界上也不会有完全归化的译文,倘有,就是貌合神离,从严辨别起来,它算不得翻译。凡是翻译,必须兼顾着两面,一当然力求其易解,一则保存着原作的丰姿,但这保存,却又常常和易懂相矛盾:看不惯了。不过它原是洋鬼子,当然谁也看不惯,为比较的顺眼起见,只能改换他的衣裳,却不该削低他的鼻子,剜掉他的眼睛。我是不主张削鼻剜眼的,所以有些地方,仍然宁可译得不顺口。只是文句的组织,无须科学理论似的精密了,就随随便便,但副词的“地”字,却还是使用的,因为我觉得现在看惯了这字的读者已经很不少。 然而“幸乎不幸乎”,我竟因此发见我的新职业了:做西崽。 还是当作休息的翻杂志,这回是在《人间世》二十八期上遇见了林语堂先生的大文,摘录会损精神,还是抄一段──
“……今人一味仿效西洋,自称摩登,甚至不问中国文法,必欲仿效英文,分‘历史地’为形容词,‘历史地的’为状词,以模仿英文之 historc–al–ly,拖一西洋辫子,然则‘快来’何不因‘快’字是状词而改为‘快地的来’?此类把戏,只是洋场孽少怪相,谈文学虽不足,当西崽颇有才。此种流风,其弊在奴,救之之道,在于思。”(《今文八弊》中)
其实是“地”字之类的采用,并非一定从高等华人所擅长的英文而来的。“英文”“英文”,一笑一笑。况且看上文的反问语气,似乎“一味仿效西洋”的“今人”,实际上也并不将“快来”改为“快地的来”,这仅是作者的虚构,所以助成其名文,殆即所谓“保得自身为主,则圆通自在,大畅无比”之例了。不过不切实,倘是“自称摩登”的“今人”所说,就是“其弊在浮”。 倘使我至今还住在故乡,看了这一段文章,是懂得,相信的。我们那里只有几个洋教堂,里面想必各有几位西崽,然而很难得遇见。要研究西崽,只能用自己做标本,虽不过“颇”,也够合用了。又是“幸乎不幸乎”,后来竟到了上海,上海住着许多洋人,因此有着许多西崽,因此也给了我许多相见的机会;不但相见,我还得了和他们中的几位谈天的光荣。不错,他们懂洋话,所懂的大抵是“英文”,“英文”,然而这是他们的吃饭家伙,专用于服事洋东家的,他们决不将洋辫子拖进中国话里来,自然更没有捣乱中国文法的意思,有时也用几个音译字,如“那摩温”,“土司”之类,但这也是向来用惯的话,并非标新立异,来表示自己的摩登的。他们倒是国粹家,一有余闲,拉皮胡,唱《探母》;上工穿制服,下工换华装,间或请假出游,有钱的就是缎鞋绸衫子。不过要戴草帽,眼镜也不用玳瑁边的老样色,倘用华洋的“门户之见”看起来,这两样却不免是缺点。 又倘使我要另找职业,能说英文,我可真的肯去做西崽的,因为我以为用工作换钱,西崽和华仆在人格上也并无高下,正如用劳力在外资工厂或华资工厂换得工资,或用学费在外国大学或中国大学取得资格,都没有卑贱和清高之分一样。西崽之可厌不在他的职业,而在他的“西崽相”。这里之所谓“相”,非说相貌,乃是“诚于中而形于外”的,包括着“形式”和“内容”而言。这“相”,是觉得洋人势力,高于群华人,自己懂洋话,近洋人,所以也高于群华人;但自己又系出黄帝,有古文明,深通华情,胜洋鬼子,所以也胜于势力高于群华人的洋人,因此也更胜于还在洋人之下的群华人。租界上的中国巡捕,也常常有这一种“相”。 倚徙华洋之间,往来主奴之界,这就是现在洋场上的“西崽相”。但又并不是骑墙,因为他是流动的,较为“圆通自在”,所以也自得其乐,除非你扫了他的兴头。
三
由前所说,“西崽相”就该和他的职业有关了,但又不全和职业相关,一部份却来自未有西崽以前的传统。所以这一种相,有时是连清高的士大夫也不能免的。“事大”,历史上有过的,“自大”,事实上也常有的;“事大”和“自大”,虽然不相容,但因“事大”而“自大”,却又为实际上所常见──他足以傲视一切连“事大”也不配的人们。有人佩服得五体投地的《野叟曝言》中,那“居一人之下,在众人之上”的文素臣,就是这标本。他是崇华,抑夷,其实却是“满崽”;古之“满崽”,正犹今之“西崽”也。 所以虽是我们读书人,自以为胜西崽远甚,而洗伐未净,说话一多,也常常会露出尾巴来的。再抄一段名文在这里──
“……其在文学,今日绍介波兰诗人,明日绍介捷克文豪,而对于已经闻名之英、美、法、德文人,反厌为陈腐,不欲深察,求一究竟。此与妇女新装求入时一样,总是媚字一字不是,自叹女儿身,事人以颜色,其苦不堪言。此种流风,其弊在浮,救之之道,在于学。”(《今文八弊》中)
但是,这种“新装”的开始,想起来却长久了,“绍介波兰诗人”,还在三十年前,始于我的《摩罗诗力说》。那时满清宰华,汉民受制,中国境遇,颇类波兰,读其诗歌,即易于心心相印,不但无事大之意,也不存献媚之心。后来上海的《小说月报》,还曾为弱小民族作品出过专号,这种风气,现在是衰歇了,即偶有存者,也不过一脉的余波。但生长于民国的幸福的青年,是不知道的,至于附势奴才,拜金崽子,当然更不会知道。但即使现在绍介波兰诗人,捷克文豪,怎么便是“媚”呢?他们就没有“已经闻名”的文人吗?况且“已经闻名”,是谁闻其“名”,又何从而“闻”的呢?诚然,“英、美、法、德”在中国有宣教师,在中国现有或曾有租界,几处有驻军,几处有军舰,商人多,用西崽也多,至于使一般人仅知有“大英”,“花旗”,“法兰西”和“茄门”而不知世界上还有波兰和捷克。但世界文学史,是用了文学的眼睛看,而不用势利眼睛看的,所以文学无须用金钱和枪炮作掩护,波兰、捷克,虽然未曾加入八国联军来打过北京,那文学却在,不过有一些人,并未“已经闻名”而已。外国的文人,要在中国闻名,靠作品似乎是不够的,他反要得到轻薄。 所以一样的没有打过中国的国度的文学,如希腊的史诗,印度的寓言,亚剌伯的《天方夜谈》,西班牙的《堂·吉诃德》,纵使在别国“已经闻名”,不下于“英、美、法、德文人”的作品,在中国却被忘记了,他们或则国度已灭,或则无能,再也用不着“媚”字。 对于这情形,我看可以先把上章所引的林语堂先生的训词移到这里来的──
“此种流风,其弊在奴,救之之道,在于思。”
不过后两句不合用,既然“奴”了,“思”亦何益,思来思去,不过“奴”得巧妙一点而已。中国宁可有未“思”的西崽,将来的文学倒较为有望。 但“已经闻名的英、美、法、德文人”,在中国却确是不遇的。中国的立学校来学这四国语,为时已久,开初虽不过意在养成使馆的译员,但后来却展开,盛大了。学德语盛于清末的改革军操,学法语盛于民国的“勤工俭学”。学英语最早,一为了商务,二为了海军,而学英语的人数也最多,为学英语而作的教科书和参考书也最多,由英语起家的学士文人也不少。然而海军不过将军舰送人,绍介“已经闻名”的司各德、迭更斯、狄福、斯惠夫德……的,竟是只知汉文的林纾,连绍介最大的“已经闻名”的莎士比亚的几篇剧本的,也有待于并不专攻英文的田汉。这缘故,可真是非“在于思”则不可了。 然而现在又到了“今日绍介波兰诗人,明日绍介捷克文豪”的危机,弱国文人,将闻名于中国,英、美、法、德的文风,竟还不能和他们的财力武力,深入现在的文林,“狗逐尾巴”者既没有恒心,志在高山的又不屑动手,但见山林映以电灯,语录夹些洋话,“对于已经闻名之英、美、德、法文人”,真不知要待何人,至何时,这才来“求一究竟”。那些文人的作品,当然也是好极了的,然甲则曰不佞望洋而兴叹,乙则曰汝辈何不潜心而探求。旧笑话云:昔有孝子,遇其父病,闻股肉可疗,而自怕痛,执刀出门,执途人臂,悍然割之,途人惊拒,孝子谓曰,割股疗父,乃是大孝,汝竟惊拒,岂是人哉!是好比方;林先生云:“说法虽乖,功效实同”,是好辩解。
(六月十日。) |
【「題未定」草(一より三まで)】
一 きわめて平凡な予想も、往々にして実験に打ち砕かれるものだ。私はかねがね翻訳は創作より容易であると思っていた。少なくとも構想の必要がないからだ。しかしいざ実際に訳してみると、難関にぶつかる。たとえば一つの名詞もしくは動詞が書けない。創作のときなら回避できるが、翻訳ではそうはいかず、やはり考えねばならない。頭がくらくらするまで考え続け、あたかも脳中で箱を急いで開けたいのに鍵が見つからないかのようだ。厳又陵(げんゆうりょう)は「一名を立つるに旬月踌躇す」と言ったが、これは彼の経験談であり、まさにその通りなのだ。 最近もこの予想の誤りゆえに、自ら苦しむこととなった。ゴーゴリの『死魂霊』を訳し始めたのだが、原文が明晰に見えても、日本語――いやこの場合は中国語だが――に移そうとすると、途端に霧の中に入り込む。ロシア語の一文が中国語では三行にも四行にもなり、それでもなお原意を伝えきれない。 二 翻訳にはもう一つ厄介なことがある。それは「信」と「達」の問題だ。「信」は原文に忠実であること、「達」は訳文が流暢であることだが、この両者はしばしば矛盾する。原文に忠実であろうとすれば訳文がぎこちなくなり、訳文を流暢にしようとすれば原文から離れてしまう。 厳復(げんぷく)はさらに「雅」を加えて「信達雅」の三字を掲げたが、私はこの「雅」には反対である。「雅」を求めれば原文の調子を損なう。粗野な原文を雅に訳すのは、そもそも不忠実ではないか。しかし「信」と「達」だけでもすでに至難の業である。 翻訳は苦しい仕事だ。しかし必要な仕事でもある。一国の文化が他国に伝わるのは翻訳によるのであり、一国の人民が他国の人民を理解するのも翻訳によるのだ。翻訳者は二つの言語のあいだの橋であるが、橋の上には常に風が吹いている。 三 「直訳」と「意訳」の論争は、もう何年も続いている。直訳派は原文の語順も構文もそのまま保つべきだと言い、意訳派は読者に分かるように書き改めるべきだと言う。 私は折衷主義である。直訳を原則とするが、どうしても通じないところは意を取る。しかし「意訳」の名のもとに原文を勝手に改竄するのは断じて許されない。それはもはや翻訳ではなく、改作である。 もっとも困るのは、直訳すると「日本語(中国語)になっていない」と言われ、意訳すると「原文に忠実でない」と言われることだ。翻訳者は常にこの板挟みのなかにいる。 |
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【名人和名言】
《太白》二卷七期上有一篇南山先生的《保守文言的第三道策》,他举出:第一道是说“要做白话由于文言做不通”,第二道是说“要白话做好,先须文言弄通”。十年之后,才来了太炎先生的第三道,“他以为你们说文言难,白话更难。理由是现在的口头语,有许多是古语,非深通小学就不知道现在口头语的某音,就是古代的某音,不知道就是古代的某字,就要写错。……” 太炎先生的话是极不错的。现在的口头语,并非一朝一夕,从天而降的语言,里面当然有许多是古语,既有古语,当然会有许多曾见于古书,如果做白话的人,要每字都到《说文解字》里去找本字,那的确比做任用借字的文言要难到不知多少倍。然而自从提倡白话以来,主张者却没有一个以为写白话的主旨,是在从“小学”里寻出本字来的,我们就用约定俗成的借字。诚然,如太炎先生说:“乍见熟人而相寒暄曰‘好呀’,‘呀’即‘乎’字;应人之称曰‘是唉’,‘唉’即‘也’字。”但我们即使知道了这两字,也不用“好乎”或“是也”,还是用“好呀”或“是唉”。因为白话是写给现代的人们看,并非写给商、周、秦、汉的鬼看的,起古人于地下,看了不懂,我们也毫不畏缩。所以太炎先生的第三道策,其实是文不对题的。这缘故,是因为先生把他所专长的小学,用得范围太广了。 我们的知识很有限,谁都愿意听听名人的指点,但这时就来了一个问题:听博识家的话好,还是听专门家的话好呢?解答似乎很容易:都好。自然都好;但我由历听了两家的种种指点以后,却觉得必须有相当的警戒。因为是:博识家的话多浅,专门家的话多悖的。 博识家的话多浅,意义自明,惟专门家的话多悖的事,还得加一点申说。他们的悖,未必悖在讲述他们的专门,是悖在倚专家之名,来论他所专门以外的事。社会上崇敬名人,于是以为名人的话就是名言,却忘记了他之所以得名是那一种学问或事业。名人被崇奉所诱惑,也忘记了自己之所以得名是那一种学问或事业,渐以为一切无不胜人,无所不谈,于是乎就悖起来了。其实,专门家除了他的专长之外,许多见识是往往不及博识家或常识者的。太炎先生是革命的先觉,小学的大师,倘谈文献,讲《说文》,当然娓娓可听,但一到攻击现在的白话,便牛头不对马嘴,即其一例。还有江亢虎博士,是先前以讲社会主义出名的名人,他的社会主义到底怎么样呢,我不知道。只是今年忘其所以,谈到小学,说“‘德’之古字为‘悳’,从‘’从‘心’,‘’即直觉之意”,却真不知道悖到那里去了,他竟连那上半并不是曲直的直字这一点都不明白。这种解释,却须听太炎先生了。 不过在社会上,大概总以为名人的话就是名言,既是名人,也就无所不通,无所不晓。所以译一本欧洲史,就请英国话说得漂亮的名人校阅,编一本经济学,又乞古文做得好的名人题签;学界的名人绍介医生,说他“术擅岐、黄”,商界的名人称赞画家,说他“精研六法”。…… 这也是一种现在的通病。德国的细胞病理学家维尔晓(Virschow),是医学界的泰斗,举国皆知的名人,在医学史上的位置,是极为重要的,然而他不相信进化论,他那被教徒所利用的几回讲演,据赫克尔(Haeckel)说,很给了大众不少坏影响。因为他学问很深,名甚大,于是自视甚高,以为他所不解的,此后也无人能解,又不深研进化论,便一口归功于上帝了。现在中国屡经绍介的法国昆虫学大家法布耳(Fabre),也颇有这倾向。他的著作还有两种缺点:一是嗤笑解剖学家,二是用人类道德于昆虫界。但倘无解剖,就不能有他那样精到的观察,因为观察的基础,也还是解剖学;农学者根据对于人类的利害,分昆虫为益虫和害虫,是有理可说的,但凭了当时的人类的道德和法律,定昆虫为善虫或坏虫,却是多余了。有些严正的科学者,对于法布耳的有微词,实也并非无故。但倘若对这两点先加警戒,那么,他的大著作《昆虫记》十卷,读起来也还是一部很有趣,也很有益的书。 不过名人的流毒,在中国却较为利害,这还是科举的余波。那时候,儒生在私塾里揣摩高头讲章,和天下国家何涉,但一登第,真是“一举成名天下知”,他可以修史,可以衡文,可以临民,可以治河;到清朝之末,更可以办学校,开煤矿,练新军,造战舰,条陈新政,出洋考察了。成绩如何呢,不待我多说。 这病根至今还没有除,一成名人,便有“满天飞”之概。我想,自此以后,我们是应该将“名人的话”和“名言”分开来的,名人的话并不都是名言;许多名言,倒出自田夫野老之口。这也就是说,我们应该分别名人之所以名,是由于那一门,而对于他的专门以外的纵谈,却加以警戒。苏州的学子是聪明的,他们请太炎先生讲国学,却不请他讲簿记学或步兵操典,──可惜人们却又不肯想得更细一点了。 我很自歉这回时时涉及了太炎先生。但“智者千虑,必有一失”,这大约也无伤于先生的“日月之明”的。至于我的所说,可是我想,“愚者千虑,必有一得”,盖亦“悬诸日月而不刊”之论也。
(七月一日。) |
【名人と名言】
『太白』二巻七期に南山先生の「文言を保守する第三の策」という一篇がある。彼が挙げるに、第一の策は「白話をなそうとするのは文言ができぬがゆえだ」というものであり、第二の策は「白話をうまく書くには、まず文言に通じねばならぬ」というものである。十年の後、ようやく太炎(たいえん)先生の第三の策が現れた。「彼の考えでは、君たちが文言を難しいと言うなら、白話はさらに難しい。理由は、現在の口頭語には古語が多く、小学(音韻訓詁の学)に深く通じなければ、現在の口頭語のある音が古代のどの音にあたるか分からず、古代のどの字にあたるか分からず、書き間違えることになる……」 太炎先生の言葉はまことに正しい。現在の白話文を見ると、確かに誤字が少なくない。しかし問題は、文言に通じた者が必ずしも白話をうまく書けるとは限らないことだ。太炎先生自身がその好例である。彼は古典に最も精通した学者の一人であるが、白話文を書いたことはほとんどない。 名人の名言は往々にしてこうである。それ自体は正しいが、結論が間違っている。文言を知らねば白話を書けぬというのは事実であるかもしれないが、それゆえ白話を廃して文言に戻れということにはならない。むしろ白話のうちに含まれる古語を正確に理解するためにこそ、古典の素養が必要なのだ。 名人の名言にはもう一つの害がある。それは権威によって議論を封じることだ。「太炎先生がこう言った」と言えば、反論しにくい。しかし学問は権威によって決まるのではなく、道理によって決まるのだ。名人がすべて正しいわけではなく、無名の者がすべて間違っているわけでもない。 |
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【“靠天吃饭”】
“靠天吃饭说”是我们中国的国宝。清朝中叶就有《靠天吃饭图》的碑,民国初年,状元陆润庠先生也画过一张:一个大“天”字,末一笔的尖端有一位老头子靠着,捧了碗在吃饭。这图曾经石印,信天派或嗜奇派,也许还有收藏的。 而大家也确是实行着这学说,和图不同者,只是没有碗捧而已。这学说总算存在着一半。 前一月,我们曾经听到过嚷着“旱象已成”,现在是梅雨天,连雨了十几日,是每年必有的常事,又并无飓风暴雨,却又到处发现水灾了。植树节所种的几株树,也不足以挽回天意。“五日一风,十日一雨”的唐、虞之世,去今已远,靠天而竟至于不能吃饭,大约为信天派所不及料的罢。到底还是做给俗人读的《幼学琼林》聪明,曰:“轻清者上浮而为天”,“轻清”而又“上浮”,怎么一个“靠”法。 古时候的真话,到现在就有些变成谎话。大约是西洋人说的罢,世界上穷人有份的,只有日光空气和水。这在现在的上海就不适用,卖心卖力的被一天关到夜,他就晒不着日光,吸不到好空气;装不起自来水的,也喝不到干净水。报上往往说:“近来天时不正,疾病盛行”,这岂只是“天时不正”之故,“天何言哉”,它默默地被冤枉了。 但是,“天”下去就要做不了“人”,沙漠中的居民为了一塘水,争夺起来比我们这里的才子争夺爱人还激烈,他们要拚命,决不肯做一首“阿呀诗”就了事。洋大人斯坦因博士,不是从甘肃敦煌的沙里掘出了许多古董么。那地方原是繁盛之区,靠天的结果,却被天风吹了沙埋没了。为制造将来的古董起见,靠天确也是一种好方法,但为活人计,却是不大值得的。 一到这里,就不免要说征服自然了,但现在谈不到,“带住”可也。
(七月一日。) |
【「天に頼りて飯を食う」】
「天に頼りて飯を食う」説は、我が中国の国宝である。清朝中葉にはすでに『靠天吃飯図』の碑があり、民国初年には状元の陸潤庠(りくじゅんしょう)先生も一枚の絵を描いた。大きな「天」の字の末画の尖端に一人の老人がもたれかかり、碗を捧げて飯を食っている。この絵はかつて石版刷りされ、天を信ずる派や奇を好む派のなかには、なお収蔵している者がいるかもしれない。 しかも人々は確かにこの学説を実行している。絵と異なるのは、碗を捧げ持っていないだけだ。この学説はともかく半分は存在しているのである。 一月前、我々は「旱象すでに成る」と叫ぶのを聞いたが、いまは梅雨の候で、十数日も続けて降り、昨日の新聞では天津が浸水したと報じている。天に頼ればこの有様だ。しかし「天に頼る」以外に手があるかと問われれば、むろん手はある。水利を興すのである。しかし水利には金がかかる。金は兵を養うのに使い果たした。兵は内戦のために養う。内戦は……もうやめよう。結局はやはり天に頼るしかないのだ。 これが中国の「国宝」の威力である。 |
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【几乎无事的悲剧】
果戈理(Nikolai Gogol)的名字,渐为中国读者所认识了,他的名著《死魂灵》的译本,也已经发表了第一部的一半。那译文虽然不能令人满意,但总算借此知道了从第二至六章,一共写了五个地主的典型,讽刺固多,实则除一个老太婆和吝啬鬼泼留希金外,都各有可爱之处,至于写到农奴,却没有一点可取了,连他们诚心来帮绅士们的忙,也不但无益,反而有害。果戈理自己就是地主。 然而当时的绅士们很不满意,一定的照例的反击,是说书中的典型,多是果戈理自己,而且他也并不知道大俄罗斯地主的情形。这是说得通的,作者是乌克兰人,而看他的家信,有时也简直和书中的地主的意见相类似。然而即使他并不知道大俄罗斯的地主的情形罢,那创作出来的脚色,可真是生动极了,直到现在,纵使时代不同,国度不同,也还使我们象是遇见了有些熟识的人物。讽刺的本领,在这里不及谈,单说那独特之处,尤其是在用平常事,平常话,深刻的显出当时地主的无聊生活。例如 |
【ほとんど何事もなき悲劇】
ゴーゴリ(Nikolai Gogol)の名は、しだいに中国の読者にも知られるようになり、その名著『死魂霊』の訳本もすでに第一部の半分が発表された。その訳文は必ずしも満足のいくものではないが、ともかくこれにより第二章から第六章にかけて合計五人の地主の典型が書かれていることが分かった。風刺は固(もと)より多いが、実は吝嗇家のプリューシキンと一人の老婆を除けば、いずれもそれぞれ愛すべきところがある。農奴の書き方にいたっては、一点の取るべきところもなく、彼らが誠心誠意紳士たちの手伝いをしようとしても、益するところなくかえって害をなすのみである。ゴーゴリ自身もまた地主であった。 |
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第四章里的罗士特来夫,是地方恶少式的地主,赶热闹,爱赌博,撒大谎,要恭维,──但挨打也不要紧。他在酒店里遇到乞乞科夫,夸示自己的好小狗,勒令乞乞科夫摸过狗耳朵之后,还要摸鼻子──
“乞乞科夫要和罗士特来夫表示好意,便摸了一下那狗的耳朵。‘是的,会成功一匹好狗的。’他加添着说。 “‘再摸摸它那冰冷的鼻头,拿手来呀!’因为要不使他扫兴,乞乞科夫就又一碰那鼻子,于是说道:‘不是平常的鼻子!’”
这种莽撞而沾沾自喜的主人,和深通世故的客人的圆滑的应酬,是我们现在还随时可以遇见的,有些人简直以此为一世的交际术。“不是平常的鼻子”,是怎样的鼻子呢?说不明的,但听者只要这样也就足够了。后来又同到罗士特来夫的庄园去,历览他所有的田产和东西──
“还去看克理米亚的母狗,已经瞎了眼,据罗士特来夫说,是就要倒毙的。两年以前,却还是一条很好的母狗。大家也来察看这母狗,看起来,它也确乎瞎了眼。”
这时罗士特来夫并没有说谎,他表扬着瞎了眼的母狗,看起来,也确是瞎了眼的母狗。这和大家有什么关系呢,然而世界上有一些人,却确是嚷闹,表扬,夸示着这一类事,又竭力证实着这一类事,算是忙人和诚实人,在过了他的整一世。 这些极平常的,或者简直近于没有事情的悲剧,正如无声的言语一样,非由诗人画出它的形象来,是很不容易觉察的。然而人们灭亡于英雄的特别的悲剧者少,消磨于极平常的,或者简直近于没有事情的悲剧者却多。 听说果戈理的那些所谓“含泪的微笑”,在他本土,现在是已经无用了,来替代它的有了健康的笑。但在别的地方,也依然有用,因为其中还藏着许多活人的影子。况且健康的笑,在被笑的一方面是悲哀的,所以果戈理的“含泪的微笑”,倘传到了和作者地位不同的读者的脸上,也就成为健康:这是《死魂灵》的伟大处,也正是作者的悲哀处。
(七月十四日。) |
第四章のロスターネフは、地方の悪少式の地主で、賑やかなことに飛びつき、博打を好み、大嘘をつき、お世辞を欲しがるが、殴られても平気である。彼は居酒屋でチチーコフに出会い、自分の良い子犬を自慢し、チチーコフに犬の耳を撫でさせた後、さらに鼻を触れと強いる。 「チチーコフはロスターネフに好意を示そうとして、犬の耳をちょっと撫でた。『そうだ、良い犬になるだろう。』と彼は付け加えた。 『冷たい鼻頭も触ってやれ、手を出せ!』彼の機嫌を損ねまいとして、チチーコフは鼻にも一触れし、こう言った。『非凡な犬だ。』 『今度は口辺を触ってやれ、触って賞(ほ)めてやれ!』」 これが第四章のロスターネフである。しかしチチーコフはどうか。犬の耳を撫で、鼻を触り、口辺まで触って賞める――すべては相手の機嫌を取るためだ。これがゴーゴリの凄みである。大事件はない。誰も死なず、誰も傷つかない。犬の耳を撫でるだけだ。しかしそこに人間の卑小さが、何とも言えぬ滑稽さとともに浮かび上がる。 ほとんど何事もなき悲劇とは、こういうことだ。大きな悲劇よりも、この小さな卑小さのほうが、はるかに我々の心を打つことがある。 |
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【三论“文人相轻”】
《芒种》第八期上有一篇魏金枝先生的《分明的是非和热烈的好恶》,是为以前的《文学论坛》上的《再论“文人相轻”》而发的。他先给了原则上的几乎全体的赞成,说,“人应有分明的是非,和热烈的好恶,这是不错的,文人应更有分明的是非,和更热烈的好恶,这也是不错的。”中间虽说“凡人在落难时节……能与猿鹤为伍,自然最好,否则与鹿豕为伍,也是好的。即到千万没有办法的时候,至于躺在破庙角里,而与麻疯病菌为伍,倘然我的体力,尚能为自然的抗御,因而不至毁灭以死,也比被实际上也做着骗子屠夫的所诱杀脔割,较为心愿。”看起来好象有些微辞,但其实说的是他的憎恶骗子屠夫,远在猿鹤以至麻疯病菌之上,和《论坛》上所说的“从圣贤一直敬到骗子屠夫,从美人香草一直爱到麻疯病菌的文人,在这世界上是找不到的”的话,也并不两样。至于说:“平心而论,彼一是非,此一是非,原非确论。”则在近来的庄子道友中,简直是鹤立鸡群似的卓见了。 然而魏先生的大论的主旨,并不专在这一些,他要申明的是:是非难定,于是爱憎就为难。因为“譬如有一种人,……在他自己的心目之中,已先无是非之分。……于是其所谓‘是’,不免似是而实非了。”但“至于非中之是,它的是处,正胜过于似是之非,因为其犹讲交友之道,而无门阀之分”的。到这地步,我们的文人就只好吞吞吐吐,假揩眼泪了。“似是之非”其实就是“非”,倘使已经看穿,不是只要给以热烈的憎恶就成了吗?然而“天下的事情,并没有这么简单”,又不得不爱护“非中之是”,何况还有“似非而是”和“是中之非”,取其大,略其细的方法,于是就不适用了。天下何尝有黑暗,据物理学说,地球上的无论如何的黑暗中,不是总有 X 分之一的光的吗?看起书来,据理就该看见 X 分之一的字的,──我们不能论明暗。 这并非刻薄的比喻,魏先生却正走到“无是非”的结论的。他终于说:“总之,文人相轻,不外乎文的长短,道的是非,文既无长短可言,道又无是非之分,则空谈是非,何补于事!已而已而,手无寸铁的人呵!”人无全德,道无大成,刚说过“非中之是”,胜过“似是之非”,怎么立刻又变成“文既无长短可言,道又无是非之分”了呢?文人的铁,就是文章,魏先生正在大做散文,力施搏击,怎么同时又说是“手无寸铁”了呢?这可见要抬举“非中之是”,却又不肯明说,事实上是怎样的难,所以即使在那大文上列举了许多对手的“排挤”,“大言”,“卖友”的恶谥,而且那大文正可通行无阻,却还是觉得“手无寸铁”,归根结蒂,掉进“无是非”说的深坑里,和自己以为“原非确论”的“彼亦一是非,此亦一是非”说成了“朋友”──这里不说“门阀”──了。 况且,“文既无长短可言,道又无是非之分”,魏先生的文章,就他自己的结论而言,就先没有动笔的必要。不过要说结果,这无须动笔的动笔,却还是有战斗的功效的,中国的有些文人一向谦虚,所以有时简直会自己先躺在地上,说道,“倘然要讲是非,也该去怪追奔逐北的好汉,我等小民,不任其咎。”明明是加入论战中的了,却又立刻肩出一面“小民”旗来,推得干干净净,连肋骨在那里也找不到了。论“文人相轻”竟会到这地步,这真是叫作到了末路!
(七月十五日。) |
【三たび「文人相軽」を論ず】
『芒種』第八期に魏金枝先生の「分明なる是非と熱烈なる好悪」という一篇がある。これは以前の『文学論壇』上の「再び『文人相軽』を論ず」に寄せて発したものである。彼はまず原則上の、ほぼ全面的な賛同を与えて言う。「人は分明なる是非と熱烈なる好悪を持つべきである。これは正しい。文人はさらに分明なる是非と、さらに熱烈なる好悪を持つべきである。これもまた正しい。」中間で「およそ人は落難のとき……猿鶴と伍するを得れば自然最もよく、さもなくば鹿豕と伍するもまたよし。万やむを得ざるに至りて、破屋に横たわり……」云々と述べているが、結末に至って彼はこう言う。 魏金枝先生は実に老練な人物で、彼の賛成は全面的に見えて、実は留保だらけである。「分明なる是非」を認めながら、「似是而非の是」と「非中有是の非」を持ち出す。つまり是非は分明ではないと言いたいのだ。 しかし問題は、この「似是而非」なるものが、往々にして是非を曖昧にするための口実に使われることだ。泥棒が「泥棒にも三分の理あり」と言うのと同じである。三分の理があるからといって、泥棒が許されるわけではない。 |
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【【备考】:分明的是非和热烈的好恶 魏金枝 】
人应有分明的是非,和热烈的好恶,这是不错的。文人应更有分明的是非,和更热烈的好恶,这也是不错的。但天下的事情,并没有这么简单,除了是非之外,还有“似是而非”的“是”,和“非中有是”之非,在这当口,我们的好恶,便有些为难了。 譬如有一种人,他们借着一个好看的幌子,做其为所欲为的勾当,不论是非,无分好恶,一概置之在所排挤之列,这叫做玉石俱焚,在他自己的心目之中,已先无是非之分。但他还要大言不惭,自以为是。于是其所谓“是”,不免似是而实非了。这是我们在谈话是非之前,所应最先将它分辩明白的。次则以趣观之,往往有些具着两张面孔的人,对于腰骨硬朗的,他会伏在地下,打拱作揖,对于下一点的,也会装起高不可扳的怪腔,甚至给你当头一脚,拒之千里之外。其时是非,便会煞时分手,各归其主,因之好恶不同,也是常事。在此时际,要谈是非,就得易地而处,平心而论,彼一是非,此一是非,原非确论。 至于非中之是,它的是处,正胜过于似是之非,因为其犹讲交友之道,而无门阀之分。凡人在落难时节,没有朋友,没有六亲,更无是非天道可言,能与猿鹤为伍,自然最好,否则与鹿豕为伍,也是好的,即到千万没有办法的时候,至于躺在破庙角里,而与麻疯病菌为伍,倘然我的体力,尚能为自然的抗御,因而不至毁灭以死,也比被实际上也做着骗子屠夫的所诱杀脔割,较为心愿。所以,倘然要讲是非,也该去怪追奔逐北的好汉,我等小民,不任其咎。但近来那般似是的人,还在那里大登告白,说是“少卿教匈奴为兵”,那个意思,更为凶恶,为他营业,卖他朋友,甚而至于陷井下石,望人万劫不复,那层似是的甜衣,不是糖拌砒霜,是什么呢? 总之,文人相轻,不外乎文的长短,道的是非,文既无长短可言,道又无是非之分,则空谈是非,何补于事!已而已而,手无寸铁的人呵!
(七月一日,《芒种》第八期。) |
【【備考】:分明なる是非と熱烈なる好悪 魏金枝】
人は分明なる是非と、熱烈なる好悪を持つべきである。これは正しい。文人はさらに分明なる是非と、さらに熱烈なる好悪を持つべきである。これもまた正しい。しかし天下の事は、決してこれほど簡単ではない。是非のほかに、「似て非なる是」と「非のなかに是ある非」とがあり、この時に至って我々の好悪はいささか困難に陥るのだ。 たとえばある種の人間がいて、見栄えのよい看板を掲げて、思いのままに振る舞い、是非を問わず好悪を分かたず、一切を排斥の列に置く。これを何と呼ぶか。 またある種の人間がいて、正義を標榜しながら、実は私怨を晴らしているにすぎない。彼らの「分明なる是非」は、実のところ「分明なる敵味方」にすぎず、彼らの「熱烈なる好悪」は、実のところ「熱烈なる利害」にすぎない。 それゆえ、是非を論ずるにあたっては、まず自らの立場を省みなければならない。自らが公正であるか否かを省みずに、ただ「是非分明」を唱えるのは、場合によっては危険ですらある。 |
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【四论“文人相轻”】
前一回没有提到,魏金枝先生的大文《分明的是非和热烈的好恶》里,还有一点很有意思的文章。他以为现在“往往有些具着两张面孔的人”,重甲而轻乙;他自然不至于主张文人应该对谁都打拱作揖,连称久仰久仰的,只因为乙君原是大可钦敬的作者。所以甲乙两位,“此时此际,要谈是非,就得易地而处”,甲说你的甲话,乙呢,就觉得“非中之是,……正胜过于似是之非,因为其犹讲交友之道,而无门阀之分”,把“门阀”留给甲君,自去另找讲交道的“朋友”,即使没有,竟“与麻疯病菌为伍,……也比被实际上也做着骗子屠夫的所诱杀脔割,较为心愿”了。 这拥护“文人相轻”的情境,是悲壮的,但也正证明了现在一般之所谓“文人相轻”,至少,是魏先生所拥护的“文人相轻”,并不是因为“文”,倒是为了“交道”。朋友乃五常之一名,交道是人间的美德,当然也好得很。不过骗子有屏风,屠夫有帮手,在他们自己之间,却也叫作“朋友”的。 “必也正名乎”,好名目当然也好得很。只可惜美名未必一定包着美德。“翻手为云覆手雨,纷纷轻薄何须数,君不见管鲍贫时交,此道今人弃如土!”这是李太白先生罢,就早已“感慨系之矣”,更何况现在这洋场──古名“彝场”──的上海。最近的《大晚报》的副刊上就有一篇文章在通知我们要在上海交朋友,说话先须漂亮,这才不至于吃亏,见面第一句,是“格位(或‘迪个’)朋友贵姓?”此时此际,这“朋友”两字中还未含有任何利害,但说下去,就要一步紧一步的显出爱憎和取舍,即决定共同玩花样,还是用作“阿木林”之分来了。“朋友,以义合者也。”古人确曾说过的,然而又有古人说:“义,利也。”呜呼!
如果在冷路上走走,有时会遇见几个人蹲在地上赌钱,庄家只是输,押的只是赢,然而他们其实是庄家的一伙,就是所谓“屏风”──也就是他们自己之所谓“朋友”──目的是在引得蠢才眼热,也来出手,然后掏空他的腰包。如果你站下来,他们又觉得你并非蠢才,只因为好奇,未必来上当,就会说:“朋友,管自己走,没有什么好看。”这是一种朋友,不妨害骗局的朋友。荒场上又有变戏法的,石块变白鸽,坛子装小孩,本领大抵不很高强,明眼人本极容易看破,于是他们就时时拱手大叫道:“在家靠父母,出家靠朋友!”这并非在要求撒钱,是请托你不要说破。这又是一种朋友,是不戳穿戏法的朋友。把这些识时务的朋友稳住了,他才可以掏呆朋友的腰包;或者手执花枪,来赶走不知趣的走近去窥探底细的傻子,恶狠狠的啐一口道:“……瞎你们的眼睛!” 孩子的遭遇可是还要危险。现在有许多文章里,不是常在很亲热的叫着“小朋友,小朋友”吗?这是因为要请他做未来的主人公,把一切担子都搁在他肩上了;至少,也得去买儿童画报,杂志,文库之类,据说否则就要落伍。 已成年的作家们所占领的文坛上,当然不至于有这么彰明较著的可笑事,但地方究竟是上海,一面大叫朋友,一面却要他悄悄的纳钱五块,买得“自己的园地”,才有发表作品的权利的“交道”,可也不见得就不会出现的。
(八月十三日。) |
【四たび「文人相軽」を論ず】
前回触れなかったが、魏金枝先生の大文「分明なる是非と熱烈なる好悪」には、もう一つ大いに興味深い点がある。彼は現在「往々にして二つの顔を持つ者がいる」と言い、甲を重んじて乙を軽んずるという。彼はもちろん、文人は誰にでも拱手(きょうしゅ)して「久仰久仰(きゅうぎょうきゅうぎょう)」と言うべきだとは主張するまい。ただ乙君がまことに敬すべき作者であるがゆえのことだ。ゆえに甲乙両者について「此の時此の際、是非を談ぜんとするなら、立場を入れ替えるべきだ」と言い、甲は甲の話をし、乙はといえば「非中の是は……似是の非に正に勝る。なぜならなおも交友の道を講じ、門閥の見なきがゆえなり」と感ずるのだという。 これは巧みな議論であるが、根本的な問題を回避している。問題は「二つの顔を持つ者」がなぜ存在するかということだ。答えは簡単である。文壇に利害関係があるからだ。甲が権力を持ち、乙が持たなければ、甲を重んじ乙を軽んずるのは人情の常であって、何も文人に限ったことではない。 「文人相軽」を根絶するには、文壇から利害関係をなくさなければならない。しかしそれは不可能だ。利害のあるところ必ず「相軽」がある。ゆえに「文人相軽」は永遠に続くであろうし、それを論ずる文章もまた永遠に書かれ続けるであろう。 |
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【五论“文人相轻”──明术】
“文人相轻”是局外人或假充局外人的话。如果自己是这局面中人之一,那就是非被轻则是轻人,他决不用这对等的“相”字。但到无可奈何的时候,却也可以拿这四个字来遮掩一下。这遮掩是逃路,然而也仍然是战术,所以这口诀还被有一些人所宝爱。 不过这是后来的话。在先,当然是“轻”。 “轻”之术很不少。粗糙的说:大略有三种。一种是自卑,自己先躺在垃圾里,然后来拖敌人,就是“我是畜生,但是我叫你爹爹,你既是畜生的爹爹,可见你也是畜生了”的法子。这形容自然未免过火一点,然而较文雅的现象,文坛上却并不怎么少见的。埋伏之法,是甲乙两人的作品,思想和技术,分明不同,甚而至于相反的,某乙却偏要设法表明,说惟独自己的作品乃是某甲的嫡派;补救之法,是某乙的缺点倘被某甲所指摘,他就说这些事情正是某甲所具备,而且自己也正从某甲那里学了来的。此外,已经把别人评得一钱不值了,临末却又很谦虚的声明自己并非批评家,凡有所说,也许全等于放屁之类,也属于这一派。 一种是最正式的,就是自高,一面把不利于自己的批评,统统谓之“漫骂”,一面又竭力宣扬自己的好处,准备跨过别人。但这方法比较的麻烦,因为除“辟谣”之外,自吹自擂是究竟不很雅观的,所以做这些文章时,自己得另用一个笔名,或者邀一些“讲交道”的“朋友”来互助。不过弄得不好,那些“朋友”就会变成保驾的打手或抬驾的轿夫,而使那“朋友”会变成这一类人物的,则这御驾一定不过是有些手势的花花公子,抬来抬去,终于脱不了原形,一年半载之后,花花之上也再添不上什么花头去,而且打手轿夫,要而言之,也究竟要工食,倘非腰包饱满,是没法维持的。如果能用死轿夫,如袁中郎或“晚明二十家”之流来抬,再请一位活名人喝道,自然较为轻而易举,但看过去的成绩和效验,可也并不见佳。 还有一种是自己连名字也并不抛头露面,只用匿名或由“朋友”给敌人以“批评”──要时髦些,就可以说是“批判”。尤其要紧的是给与一个名称,像一般的“诨名”一样。因为读者大众的对于某一作者,是未必和“批评”或“批判”者同仇敌慨的,一篇文章,纵使题目用头号字印成,他们也不大起劲,现在制出一个简括的诨名,就可以比较的不容易忘记了。在近十年来的中国文坛上,这法术,用是也常用的,但效果却很小。 法术原是极利害,极致命的法术。果戈理夸俄国人之善于给别人起名号──或者也是自夸──说是名号一出,就是你跑到天涯海角,它也要跟着你走,怎么摆也摆不脱。这正如传神的写意画,并不细画须眉,并不写上名字,不过寥寥几笔,而神情毕肖,只要见过被画者的人,一看就知道这是谁;夸张了这人的特长──不论优点或弱点,却更知道这是谁。可惜我们中国人并不怎样擅长这本领。起源,是古的。从汉末到六朝之所谓“品题”,如“关东觥觥郭子横”,“五经纷纶井大春”,就是这法术,但说的是优点居多。梁山泊上一百另八条好汉都有诨名,也是这一类,不过着眼多在形体,如“花和尚鲁智深”和“青面兽杨志”,或者才能,如“浪里白跳张顺”和“鼓上蚤时迁”等,并不能提挈这人的全般。直到后来的讼师,写状之际,还常常给被告加上一个诨名以见他原是流氓地痞一类,然而不久也就拆穿西洋镜,即使毫无才能的师爷,也知道这是不足注意的了。现在的所谓文人,除了改用几个新名词之外,也并无进步,所以那些“批判”,结果还大抵是徒劳。 这失败之处,是在不切帖。批评一个人,得到结论,加以简括的名称,虽只寥寥数字,却很要明确的判断力和表现的才能的。必须切帖,这才和被批判者不相离,这才会跟了他跑到天涯海角。现在却大抵只是漫然的抓了一时之所谓恶名,摔了过去:或“封建余孽”,或“布尔乔亚”,或“破锣”,或“无政府主义者”,或“利己主义者”……等等;而且怕一个不够致命,又连用些什么“无政府主义封建余孽”或“布尔乔亚破锣利己主义者”;怕一人说没有力,约朋友各给他一个;怕说一回还太少,一年内连给他几个:时时改换,个个不同。这举棋不定,就因为观察不精,因而品题也不确,所以即使用尽死劲,流完大汗,写了出去,也还是和对方不相干,就是用浆糊粘在他身上,不久也就脱落了。汽车夫发怒,便骂洋车夫阿四一声“猪猡”,顽皮孩子高兴,也会在卖炒白果阿五的背上画一个乌龟,虽然也许博得市侩们的一笑,但他们是决不因此就得“猪猡阿四”或“乌龟阿五”的诨名的。此理易明:因为不切帖。 五四时代的所谓“桐城谬种”和“选学妖孽”,是指做“载飞载鸣”的文章和抱住《文选》寻字汇的人们的,而某一种人确也是这一流,形容惬当,所以这名目的流传也较为永久。除此之外,恐怕也没有什么还留在大家的记忆里了。到现在,和这八个字可以匹敌的,或者只好推“洋场恶少”和“革命小贩”了罢。前一联出于古之“京”,后一联出于今之“海”。 创作难,就是给人起一个称号或诨名也不易。假使有谁能起颠扑不破的诨名的罢,那么,他如作评论,一定也是严肃正确的批评家,倘弄创作,一定也是深刻博大的作者。 所以,连称号或诨名起得不得法,也还是因为这班“朋友”的不“文”。──“再亮些!”
(八月十四日。) |
【五たび「文人相軽」を論ず――明術(めいじゅつ)】
「文人相軽」とは局外者、もしくは局外者を装う者の言葉である。もし自らがこの局面の当事者であれば、軽んぜられるか軽んずるかのどちらかであって、彼はこの対等な「相」の字を使うまい。しかしどうにもならぬとき、この四文字で覆い隠すこともできる。この覆い隠しは逃げ道であるが、同時にやはり戦術でもあるから、この口訣はなお一部の者に珍重されているのだ。 しかしこれは後の話である。先ずは当然「軽」がある。 「軽」の術は少なくない。大雑把に言えば、おおよそ三種がある。第一は自卑で、自ら塵芥のなかに横たわり、しかる後に人を引きずり込もうとする。「私はだめだが、君もだめだ」というわけだ。第二は自己宣伝で、自らを高くし、他人を低くする。「私はすごいのだから、君は大したことない」というわけだ。第三は「客観」を装うことで、自らは高みに立ち、双方を見下ろして裁定する。「どちらもどちらだ」というわけだ。 しかしこの三種のいずれもが、実は「術」に過ぎない。第一は偽りの謙遜であり、第二は露骨な傲慢であり、第三は偽りの公平である。真の批評は「術」を用いない。真の批評は事実を述べ、道理を説き、読者の判断に委ねるのみである。 「文人相軽」の問題の核心は、文学の問題ではなく、人間の問題だ。人間が虚栄心を持ち、利害を計算し、嫉妬をする限り、「文人相軽」はなくならない。これを根本的に解決するには、人間そのものを変えなければならない。しかしそれは文学の仕事ではなく、社会改革の仕事である。 |
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【“题未定”草(五)】
五
M君寄给我一封剪下来的报章。这是近十年常有的事情,有时是杂志。闲暇时翻检一下,其中大概有一点和我相关的文章,甚至于还有“生脑膜炎”之类的恶消息。这时候,我就得预备大约一块多钱的邮票,来寄信回答陆续函问的人们。至于寄报的人呢,大约有两类:一是朋友,意思不过说,这刊物上的东西,有些和你相关;二、可就难说了,猜想起来,也许正是作者或编者,“你看,咱们在骂你了!”用的是《三国志演义》上的“三气周瑜”或“骂死王朗”的法子。不过后一种近来少一些了,因为我的战术是暂时搁起,并不给以反应,使他们诸公的刊物很少有因我而蓬蓬勃勃之望,到后来却也许会去拨一拨谁的下巴:这于他们诸公是很不利的。 M君是属于第一类的;剪报是天津《益世报》的《文学副刊》。其中有一篇张露薇先生做的《略论中国文坛》,下有一行小注道:“偷懒,奴性,而忘掉了艺术”。只要看这题目,就知道作者是一位勇敢而记住艺术的批评家了。看起文章来,真的,痛快得很。我以为介绍别人的作品,删节实在是极可惜的,倘有妙文,大家都应该设法流传,万不可听其泯灭。不过纸墨也须顾及,所以只摘录了第二段,就是“永远是日本人的追随者的作家”在这里,也万不能再少,因为我实在舍不得了──
“奴隶性是最‘意识正确’的东西,于是便有许多人跟着别人学口号。特别是对于苏联,在目前的中国,一般所谓作家也者,都怀着好感。可是,我们是人,我们应该有自己的人性,对于苏联的文学,尤其是对于那些由日本的浅薄的知识贩卖者所得来的一知半解的苏联的文学理论家与批评家的话,我们所取的态度决不该是应声虫式的;我们所需要的介绍的和模仿的(其实是只有抄袭和盲目的应声)方式也决不该是完全出于热情的。主观是对于事物的选择,客观才是对于事物的方法,我们有了一般奴隶性极深的作家,于是我们便有无数的空虚的标语和口号。 “然而我们没有几个懂得苏联的文学的人,只有一堆盲目的赞美者和零碎的翻译者,而赞美者往往是牛头不对马嘴的胡说,翻译者又不配合于他们的工作,不得不草率,不得不‘硬译’,不得不说文不对题的话,一言以蔽之,他们的能力永远是对不起他们的思想;他们的‘意识’虽然正确了,可是他们的工作却永远是不正确的。 “从苏联到中国是很近的,可是为什么就非经过日本人的手不可?我们在日本人的群中并没有发现几个真正了解苏联文学的新精神的人,为什么偏从浅薄的日本知识阶级中去寻我们的食粮?这真是一件可耻的事实。我们为什么不直接的了解?为什么不取一种纯粹客观的工作的态度?为什么人家唱‘新写实主义’,我们跟着喊,人家换了‘社会主义的写实主义’,我们又跟着喊;人家介绍纪德,我们才叫;人家介绍巴尔扎克,我们也号;然而我敢预言,在一千年以内:绝不会见到那些介绍纪德,巴尔扎克的人们会给中国的读者译出一两本纪德、巴尔扎克的重要著作来,全集更不必说。 “我们再退一步,对于那些所谓‘文学遗产’,我们并不要求那些跟着人家对喊‘文学遗产’的人们担负把那些‘文学遗产’送给中国的‘大众’的责任。可是我们却要求那些人们有承受那些‘遗产’的义务,这自然又是谈不起来的。我们还记得在庆祝高尔基的四十年的创作生活的时候,中国也有鲁迅,丁玲一般人发了庆祝的电文;这自然是冠冕堂皇的事情。然而那一群签名者中有几个读过高尔基的十分之一的作品?有几个是知道高尔基的伟大在那儿的?……中国的知识阶级就是如此浅薄,做应声虫有余,做一个忠实的,不苟且的,有理性的文学创作者和研究者便不成了。”
(五月廿九日天津《益世报》。)
我并不想因此来研究“奴隶性是最‘意识正确’的东西”,“主观是对于事物的选择,客观才是对于事物的方法”这些难问题;我只要说,诚如张露薇先生所言,就是在文艺上,我们中国也的确太落后。法国有纪德和巴尔扎克,苏联有高尔基,我们没有;日本叫喊起来了,我们才跟着叫喊,这也许真是“追随”而且“永远”,也就是“奴隶性”,而且是“最‘意识正确’的东西”。但是,并不“追随”的叫喊其实是也有一些的,林语堂先生说过:“……其在文学,今日绍介波兰诗人,明日绍介捷克文豪,而对于已经闻名之英美法德文人,反厌为陈腐,不欲深察,求一究竟。……此种流风,其弊在浮,救之之道,在于学。”(《人间世》二十八期《今文八弊》中)南北两公,眼睛都有些斜视,只看了一面,各骂了一面,独跳犹可,并排跳舞起来,那“勇敢”就未免化为有趣了。 不过林先生主张“求一究竟”,张先生要求“直接了解”,这“实事求是”之心,两位是大抵一致的,不过张先生比较的悲观,因为他是“预言”家,断定了“在一千年以内,绝不会见到那些绍介纪德,巴尔扎克的人们会给中国的读者译出一两本纪德,巴尔扎克的重要著作来,全集更不必说”的缘故。照这“预言”看起来,“直接了解”的张露薇先生自己,当然是一定不译的了;别人呢,我还想存疑,但可惜我活不到一千年,决没有目睹的希望。 豫言颇有点难。说得近一些,容易露破绽。还记得我们的批评家成仿吾先生手抡双斧,从“创造”的大旗下,一跃而出的时候,曾经说,他不屑看流行的作品,要从冷落堆里提出作家来。这是好的,虽然勃兰兑斯曾从冷落中提出过伊孛生和尼采,但我们似乎也难以斥他为追随或奴性。不大好的是他的这一张支票,到十多年后的现在还没有兑现。说得远一些罢,又容易成笑柄。江浙人相信风水,富翁往往豫先寻葬地;乡下人知道一个故事:有风水先生给人寻好了坟穴,起誓道:“您百年之后,安葬下去,如果到第三代不发,请打我的嘴巴!”然而他的期限,比张露薇先生的期限还要少到约十分之九的样子。 然而讲已往的琐事也不易。张露薇先生说庆祝高尔基四十年创作的时候,“中国也有鲁迅,丁玲一般人发了庆祝的电文,……然而那一群签名者中有几个读过高尔基的十分之一的作品?”这质问是极不错的。我只得招供:读得很少,而且连高尔基十分之一的作品究竟是几本也不知道。不过高尔基的全集,却连他本国也还未出全,所以其实也无从计算。至于祝电,我以为打一个是应该的,似乎也并非中国人的耻辱,或者便失了人性,然而我实在却并没有发,也没有在任何电报底稿上签名。这也并非怕有“奴性”,只因没有人来邀,自己也想不到,过去了。发不妨,不发也不要紧,我想:发,高尔基大约不至于说我是“日本人的追随者的作家”,不发,也未必说我是“张露薇的追随者的作家”的。但对于绥拉菲摩维支的祝贺日,我却发过一个祝电,因为我校印过中译的《铁流》。这是在情理之中的,但也较难于想到,还不如测定为对于高尔基发电的容易。当然,随便说说也不要紧,然而,“中国的知识阶级就是如此浅薄,做应声虫有余,做一个忠实的,不苟且的,有理性的文学创作者和研究者便不成了”的话,对于有一些人却大概是真的了。 张露薇先生自然也是知识阶级,他在同阶级中发见了这许多奴隶,拿鞭子来抽,我是了解他的心情的。但他和他所谓的奴隶们,也只隔了一张纸。如果有谁看过菲洲的黑奴工头,傲然的拿鞭子乱抽着做苦工的黑奴的电影的,拿来和这《略论中国文坛》的大文一比较,便会禁不住会心之笑。那一个和一群,有这么相近,却又有这么不同,这一张纸真隔得利害:分清了奴隶和奴才。 我在这里,自以为总算又钩下了一种新的伟大人物── 一九三五年度文艺“预言”家──的嘴脸的轮廓了。
(八月十六日。) |
【「題未定」草(五)】
五 M君が切り抜いた新聞を一通送ってきた。ここ十年来よくあることで、時には雑誌のこともある。暇なときに繰ってみると、そのなかにはおおかた私にいくらか関わりのある文章があり、ひどい時には「脳膜炎に罹った」などという凶報もある。こういうときには、次々と安否を問う手紙への返信に、およそ一元余りの切手を用意せねばならない。新聞を送ってくる人には、おおよそ二種類ある。一つは友人で、その意はただ「この刊物に君に関係のある記事がある」というだけのこと。もう一つは、何とも言い難いが、推察するにおそらく筆者か編者自身であって、「ほら見ろ、やったぞ」というわけだ。 今回のは友人からのもので、ある人の私に関する論評であった。その論者は翻訳について述べ、私の訳文が読みにくいと言う。これは別に新しい批評ではない。私の訳文が読みにくいことは、私自身が最もよく知っている。 しかし問題は、「読みやすい」訳文とは何かということだ。原文が平易であれば訳文も平易にすべきだが、原文が晦渋であるのに訳文を平易にしては、それは翻訳ではなく改作である。ゴーゴリの文章が回りくどいのは、彼の文体であって、それを直截に訳したら、もはやゴーゴリではない。 翻訳の読みにくさには二種ある。一つは訳者の力量不足による読みにくさで、これは訳者の責任である。もう一つは原文そのものの難解さに由来する読みにくさで、これは訳者の責任ではない。この二つを混同する批評家が多い。 もう一つの問題がある。中国語(日本語もまた同様だが)には、ヨーロッパ語の複雑な構文を受け入れる器がまだ十分に備わっていない。翻訳は単に意味を伝えるだけでなく、新しい表現法を導入する役割もある。翻訳によって中国語が豊かになるのだ。最初は読みにくくても、やがて慣れてくる。白話文が最初は読みにくかったように。 |
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【论毛笔之类】
国货也提倡得长久了,虽然上海的国货公司并不发达,“国货城”也早已关了城门,接着就将城墙撤去,日报上却还常见关于国货的专刊。那上面,受劝和挨骂的主角,照例也还是学生,儿童和妇女。 前几天看见一篇关于笔墨的文章,中学生之流,很受了一顿训斥,说他们十分之九,是用钢笔和墨水的,这就使中国的笔墨没有出路。自然,倒并不说这一类人就是什么奸,但至少,恰如摩登妇女的爱用外国脂粉和香水似的,应负“入超”的若干的责任。 这话也并不错的。不过我想,洋笔墨的用不用,要看我们的闲不闲。我自己是先在私塾里用毛笔,后在学校里用钢笔,后来回到乡下又用毛笔的人,却以为假如我们能够悠悠然,洋洋焉,拂砚伸纸,磨墨挥毫的话,那么,羊毫和松烟当然也很不坏。不过事情要做得快,字要写得多,可就不成功了,这就是说,它敌不过钢笔和墨水。譬如在学校里抄讲义罢,即使改用墨盒,省去临时磨墨之烦,但不久,墨汁也会把毛笔胶住,写不开了,你还得带洗笔的水池,终于弄到在小小的桌子上,摆开“文房四宝”。况且毛笔尖触纸的多少,就是字的粗细,是全靠手腕作主的,因此也容易疲劳,越写越慢。闲人不要紧,一忙,就觉得无论如何,总是墨水和钢笔便当了。 青年里面,当然也不免有洋服上挂一枝万年笔,做做装饰的人,但这究竟是少数,使用者的多,原因还是在便当。便于使用的器具的力量,是决非劝谕,讥刺,痛骂之类的空言所能制止的。假如不信,你倒去劝那些坐汽车的人,在北方改用骡车,在南方改用绿呢大轿试试看。如果说这提议是笑话,那么,劝学生改用毛笔呢?现在的青年,已经成了“庙头鼓”,谁都不妨敲打了。一面有繁重的学科,古书的提倡,一面却又有教育家喟然兴叹,说他们成绩坏,不看报纸,昧于世界的大势。 但是,连笔墨也乞灵于外国,那当然是不行的。这一点,却要推前清的官僚聪明,他们在上海立过制造局,想造比笔墨更紧要的器械──虽然为了“积重难返”,终于也造不出什么东西来。欧洲人也聪明,金鸡那原是斐洲的植物,因为去偷种子,还死了几个人,但竟偷到手,在自己这里种起来了,使我们现在如果发了疟疾,可以很便当的大吃金鸡那霜丸,而且还有“糖衣”,连不爱服药的娇小姐们也吃得甜蜜蜜。制造墨水和钢笔的法子,弄弄到手,是没有偷金鸡那子那么危险的。所以与其劝人莫用墨水和钢笔,倒不如自己来造墨水和钢笔;但必须造得好,切莫“挂羊头卖狗肉”。要不然,这一番工夫就又是一个白费。 但我相信,凡有毛笔拥护论者大约也不免以我的提议为空谈:因为这事情不容易。这也是事实;所以典当业只好呈请禁止奇装异服,以免时价早晚不同,笔墨业也只好主张吮墨舐毫,以免国粹渐就沦丧。改造自己,总比禁止别人来得难。然而这办法却是没有好结果的,不是无效,就是使一部分青年又变成旧式的斯文人。
(八月二十三日。) |
【毛筆の類を論ず】
国貨もずいぶん長く提唱されてきた。上海の国貨公司はさほど発達せず、「国貨城」もとうに城門を閉じ、続いて城壁も撤去されたが、日刊紙にはなお国貨に関する専欄がしばしば見える。そこで勧められたり叱られたりする主役は、例によってやはり学生、児童、婦女である。 先日、筆墨に関する一篇の文章を見た。中学生の類はひどく叱られ、彼らの十分の九は鋼筆(ペン)とインクを使っているから、中国の筆墨に出口がないのだという。もちろん、この類の人間が何の奸か、とまでは言っていないが、少なくともモダンな婦女が外国の脂粉を好むのと同じように、国貨の前途を妨げているとのことだ。 しかし考えてみるがよい。毛筆を使うには硯(すずり)を磨り、墨を用意せねばならない。鋼筆ならインクを差すだけだ。時間も手間もまるで違う。中学生が鋼筆を使うのは、愛国心がないからではなく、便利だからにすぎない。国貨を提唱するのは結構だが、不便なものを強いるのは無理がある。 毛筆は美しい道具であり、書道という芸術を生んだ。しかし実用の道具としては、鋼筆にかなわない。国粋を守ろうとするあまり、実用を犠牲にするのは本末転倒ではないか。真に国貨を振興したいのなら、外国製品に勝る国産品を作ればよいのだ。品質で劣るものを「愛国」の名で買わせようとするのは、愛国ではなく、怠慢である。 |
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【逃名】
就在这几天的上海报纸上,有一条广告,题目是四个一寸见方的大字── “看救命去!” 如果只看题目,恐怕会猜想到这是展览着外科医生对重病人施行大手术,或对淹死的人用人工呼吸,救助触礁船上的人员,挖掘崩坏的矿穴里面的工人的。但其实并不是。还是照例的“筹赈水灾游艺大会”,看陈皮梅沈一呆的独脚戏,月光歌舞团的歌舞之类。诚如广告所说,“化洋五角,救人一命,……一举两得,何乐不为”,钱是要拿去救命的,不过所“看”的却其实还是游艺,并不是“救命”。 有人说中国是“文字国”,有些像,却还不充足,中国倒该说是最不看重文字的“文字游戏国”,一切总爱玩些实际以上花样,把字和词的界说,闹得一团糟,弄到暂时非把“解放”解作“孥戮”,“跳舞”解作“救命”不可。捣一场小乱子,就是伟人,编一本教科书,就是学者,造几条文坛消息,就是作家。于是比较自爱的人,一听到这些冠冕堂皇的名目就骇怕了,竭力逃避。逃名,其实是爱名的,逃的是这一团糟的名,不愿意酱在那里面。 天津《大公报》的副刊《小公园》,近来是标榜了重文不重名的。这见识很确当。不过也偶有“老作家”的作品,那当然为了作品好,不是为了名。然而八月十六日那一张上,却发表了很有意思的“许多前辈作家附在来稿后面的叮嘱”:
“把我这文章放在平日,我愿意那样,我骄傲那样。我和熟人的名字并列得厌倦了,我愿着挤在虎生生的新人群里,因为许多时候他们的东西来得还更新鲜。”
这些“前辈作家”们好象都撒了一点谎。“熟”,是不至于招致“厌倦”的。我们一离乳就吃饭或面,直到现在,可谓熟极了,却还没有厌倦。这一点叮嘱,如果不是编辑先生玩的双簧的花样,也不是前辈作家玩的借此“返老还童”的花样,那么,这所证明的是:所谓“前辈作家”也者,有一批是盗名的,因此使别一批羞与为伍,觉得和“熟人的名字并列得厌倦”,决计逃走了。 从此以后,他们只要“挤在虎生生的新人群里”就舒舒服服,还是作品也就“来得还更新鲜”了呢,现在很难测定。逃名,固然也不能说是豁达,但有去就,有爱憎,究竟总不失为洁身自好之士。《小公园》里,已经有人在现身说法了,而上海滩上,却依然有人在“掏腰包”,造消息,或自称“言行一致”,或大呼“冤哉枉也”,或拖明朝死尸搭台,或请现存古人喝道,或自收自己的大名入辞典中,定为“中国作家”,或自编自己的作品入画集里,名曰“现代杰作”──忙忙碌碌,鬼鬼祟祟,煞是好看。 作家一排一排的坐着,将来使人笑,使人怕,还是使人“厌倦”呢?──现在也很难测定。但若据“前车之鉴”,则“后之视今,亦犹今之视昔”,大约也还不免于“悲夫”的了!
(八月二十三日。) |
【名を逃る】
ここ数日の上海の新聞に、一つの広告がある。題目は一寸四方の大字四つ―― 「救命を見に行け!」 もし題目だけ見れば、外科医が重病人に大手術を施す、あるいは溺死者に人工呼吸を行う、座礁船の人員を救助する、崩壊した坑道の鉱夫を掘り出すといったものを展覧しているのかと思うであろう。しかし実際にはそうではない。やはりお定まりの「水害義援遊芸大会」で、陳皮梅や沈一呆の独脚戯(ひとり芝居)、月光歌舞団の歌舞などを見るのである。広告の言う通り、「五角出せば一人の命を救い……一挙両得、何の楽しみかこれに如かんや」というわけだ。 しかし考えてみると、これは確かに巧妙な名づけ方である。「水害義援」と言っても人は集まらない。「救命を見に行け」と言えば好奇心をそそる。名というものは実に大切で、同じものでも名が違えば効果が違う。 ところで「名を逃る」者がいる。名声を避け、目立つことを嫌い、隠居を好む者だ。しかし真に名を逃れることは至難である。名を逃れようとすること自体が一つの名となるからだ。陶淵明が帰田したことは千年を経てなお語り継がれている。彼は名を逃れたのではなく、むしろ名を得たのだ。 今の世の中で名を逃れるのは、さらに難しい。新聞があり、雑誌があり、「救命を見に行け」式の広告がある。何をしても、何をしなくても、名が追いかけてくる。唯一の方法は、何も書かず、何も言わず、何もしないことだ。しかしそうすると、今度は「沈黙の人」という名が追いかけてくる。 名からは逃れられない。逃れようとすればするほど、名はいっそうしつこくついてくる。これもまた一種の「ほとんど何事もなき悲劇」であろう。 |