Lu Xun Complete Works/zh-ja/Tengye xiansheng

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Mr. Fujino (藤野先生 / 藤野先生)

Lu Xun (鲁迅, Lǔ Xùn, 1881–1936)


中文(原文) 日本語

東京也無非是這樣。上野的櫻花爛熳的時節,望去確也像緋紅的輕雲,但花下也缺不了成群結隊的“清國留學生”的速成班,頭頂上盤著大辮子,頂得學生制帽的頂上高高聳起,形成一座富士山。也有解散辮子,盤得平的,除下帽來,油光可鑒,宛如小姑娘的髮髻一般,還要將脖子扭幾扭。實在標致極了。

  中國留學生會館的門房裏有幾本書買,有時還值得去一轉;倘在上午,裏面的幾間洋房裏倒也還可以坐坐的。但到傍晚,有一間的地板便常不免要咚咚咚地響得震天,兼以滿房煙塵斗亂;問問精通時事的人,答道,“那是在學跳舞。”

  到別的地方去看看,如何呢?

  我就往仙台的醫學專門學校去。從東京出發,不久便到一處驛站,寫道:日暮里。不知怎地,我到現在還記得這名目。其次卻只記得水戶了,這是明的遺民朱舜水先生客死的地方。仙台是一個市鎮,並不大;冬天冷得利害;還沒有中國的學生。

  大概是物以稀為貴罷。北京的白菜運往浙江,便用紅頭繩系住菜根,倒掛在水果店頭,尊為“膠菜”;福建野生著的蘆薈,一到北京就請進溫室,且美其名曰“龍舌蘭”。我到仙臺也頗受了這樣的優待,不但學校不收學費,幾個職員還為我的食宿操心。我先是住在監獄旁邊一個客店裏的,初冬已經頗冷,蚊子卻還多,後來用被蓋了全身,用衣服包了頭臉,只留兩個鼻孔出氣。在這呼吸不息的地方,蚊子竟無從插嘴,居然睡安穩了。飯食也不壞。但一位先生卻以為這客店也包辦囚人的飯食,我住在那裏不相宜,幾次三番,幾次三番地說。我雖然覺得客店兼辦囚人的飯食和我不相干,然而好意難卻,也只得別尋相宜的住處了。於是搬到別一家,離監獄也很遠,可惜每天總要喝難以下咽的芋梗湯。

  從此就看見許多陌生的先生,聽到許多新鮮的講義。解剖學是兩個教授分任的。最初是骨學。其時進來的是一個黑瘦的先生,八字鬚,戴著眼鏡,挾著一叠大大小小的書。一將書放在講臺上,便用了緩慢而很有頓挫的聲調,向學生介紹自己道:

  “我就是叫作藤野嚴九郎的……。”

  後面有幾個人笑起來了。他接著便講述解剖學在日本發達的歷史,那些大大小小的書,便是從最初到現今關於這一門學問的著作。起初有幾本是線裝的;還有翻刻中國譯本的,他們的翻譯和研究新的醫學,並不比中國早。

  那坐在後面發笑的是上學年不及格的留級學生,在校已經一年,掌故頗為熟悉的了。他們便給新生講演每個教授的歷史。這藤野先生,據說是穿衣服太模糊了,有時竟會忘記帶領結;冬天是一件舊外套,寒顫顫的,有一回上火車去,致使管車的疑心他是扒手,叫車裏的客人大家小心些。

  他們的話大概是真的,我就親見他有一次上講堂沒有帶領結。

  過了一星期,大約是星期六,他使助手來叫我了。到得研究室,見他坐在人骨和許多單獨的頭骨中間,——他其時正在研究著頭骨,後來有一篇論文在本校的雜誌上發表出來。

  “我的講義,你能抄下來麼?”他問。

  “可以抄一點。”

  “拿來我看!”

  我交出所抄的講義去,他收下了,第二三天便還我,並且說,此後每一星期要送給他看一回。我拿下來打開看時,很吃了一驚,同時也感到一種不安和感激。原來我的講義已經從頭到末,都用紅筆添改過了,不但增加了許多脫漏的地方,連文法的錯誤,也都一一訂正。這樣一直繼續到教完了他所擔任的功課:骨學、血管學、神經學。

  可惜我那時太不用功,有時也很任性。還記得有一回藤野先生將我叫到他的研究室裏去,翻出我那講義上的一個圖來,是下臂的血管,指著,向我和藹的說道:

  “你看,你將這條血管移了一點位置了。——自然,這樣一移,的確比較的好看些,然而解剖圖不是美術,實物是那麼樣的,我們沒法改換它。現在我給你改好了,以後你要全照著黑板上那樣的畫。”

  但是我還不服氣,口頭答應著,心裏卻想道:

  “圖還是我畫的不錯;至於實在的情形,我心裏自然記得的。”

  學年試驗完畢之後,我便到東京玩了一夏天,秋初再回學校,成績早已發表了,同學一百餘人之中,我在中間,不過是沒有落第。這回藤野先生所擔任的功課,是解剖實習和局部解剖學。

  解剖實習了大概一星期,他又叫我去了,很高興地,仍用了極有抑揚的聲調對我說道:

  “我因為聽說中國人是很敬重鬼的,所以很擔心,怕你不肯解剖屍體。現在總算放心了,沒有這回事。”

  但他也偶有使我很為難的時候。他聽說中國的女人是裹腳的,但不知道詳細,所以要問我怎麽裹法,足骨變成怎樣的畸形,還嘆息道,“總要看一看才知道。究竟是怎麼一回事呢?”

  有一天,本級的學生會幹事到我寓裏來了,要借我的講義看。我檢出來交給他們,卻只翻檢了一通,並沒有帶走。但他們一走,郵差就送到一封很厚的信,拆開看時,第一句是:

  “你改悔罷!”

  這是《新約》上的句子罷,但經托爾斯泰新近引用過的。其時正值日俄戰爭,托老先生便寫了一封給俄國和日本的皇帝的信,開首便是這一句。日本報紙上很斥責他的不遜,愛國青年也憤然,然而暗地裏卻早受了他的影響了。其次的話,大略是說上年解剖學試驗的題目,是藤野先生在講義上做了記號,我預先知道的,所以能有這樣的成績。末尾是匿名。

  我這才回憶到前幾天的一件事。因為要開同級會,幹事便在黑板上寫廣告,末一句是“請全數到會勿漏為要”,而且在“漏”字旁邊加了一個圈。我當時雖然覺到圈得可笑,但是毫不介意,這回才悟出那字也在譏刺我了,猶言我得了教員漏泄出來的題目。

  我便將這事告知了藤野先生;有幾個和我熟識的同學也很不平,一同去詰責幹事托辭檢查的無禮,並且要求他們將檢查的結果,發表出來。終於這流言消滅了,幹事卻又竭力運動,要收回那一封匿名信去。結末是我便將這托爾斯泰式的信退還了他們。

  中國是弱國,所以中國人當然是低能兒,分數在六十分以上,便不是自己的能力了:也無怪他們疑惑。但我接著便有參觀槍斃中國人的命運了。第二年添教黴菌學,細菌的形狀是全用電影來顯示的,一段落已完而還沒有到下課的時候,便影幾片時事的片子,自然都是日本戰勝俄國的情形。但偏有中國人夾在裏邊:給俄國人做偵探,被日本軍捕獲,要槍斃了,圍著看的也是一群中國人;在講堂裏的還有一個我。

  “萬歲!”他們都拍掌歡呼起來。

  這種歡呼,是每看一片都有的,但在我,這一聲卻特別聽得刺耳。此後回到中國來,我看見那些閑看槍斃犯人的人們,他們也何嘗不酒醉似的喝彩,——嗚呼,無法可想!但在那時那地,我的意見卻變化了。

  到第二學年的終結,我便去尋藤野先生,告訴他我將不學醫學,並且離開這仙臺。他的臉色仿彿有些悲哀,似乎想說話,但竟沒有說。

  “我想去學生物學,先生教給我的學問,也還有用的。”其實我並沒有決意要學生物學,因為看得他有些悽然,便說了一個安慰他的謊話。

  “為醫學而教的解剖學之類,怕於生物學也沒有什麼大幫助。”他歎息說。

  將走的前幾天,他叫我到他家裏去,交給我一張照相,後面寫著兩個字道:“惜別”,還說希望將我的也送他。但我這時適值沒有照相了;他便叮囑我將來照了寄給他,並且時時通信告訴他此後的狀況。

  我離開仙臺之後,就多年沒有照過相,又因為狀況也無聊,說起來無非使他失望,便連信也怕敢寫了。經過的年月一多,話更無從說起,所以雖然有時想寫信,卻又難以下筆,這樣的一直到現在,竟沒有寄過一封信和一張照片。從他那一面看起來,是一去之後,杳無消息了。

  但不知怎地,我總還時時記起他,在我所認為我師的之中,他是最使我感激,給我鼓勵的一個。有時我常常想:他的對於我的熱心的希望,不倦的教誨,小而言之,是為中國,就是希望中國有新的醫學;大而言之,是為學術,就是希望新的醫學傳到中國去。他的性格,在我的眼裏和心裏是偉大的,雖然他的姓名並不為許多人所知道。

  他所改正的講義,我曾經訂成三厚本,收藏著的,將作為永久的紀念。不幸七年前遷居的時候,中途毀壞了一口書箱,失去半箱書,恰巧這講義也遺失在內了。責成運送局去找尋,寂無回信。只有他的照相至今還掛在我北京寓居的東牆上,書桌對面。每當夜間疲倦,正想偷懶時,仰面在燈光中瞥見他黑瘦的面貌,似乎正要說出抑揚頓挫的話來,便使我忽又良心發現,而且增加勇氣了,於是點上一枝煙,再繼續寫些為“正人君子”之流所深惡痛疾的文字。

十月十二日。

東京も結局はこんなものだった。上野の桜が爛漫と咲く季節、望めば確かに緋色の軽い雲のようだったが、花の下には群れをなした「清国留学生」の速成班が絶えず、頭のてっぺんに大きな辮子を巻き上げ、学生帽の天辺を高々と突き上げて富士山の形を作っていた。辮子をほどいて平らに巻いている者もいて、帽子を脱ぐと油でぴかぴか光り、まるで娘の髷のようで、さらに首をくねくねさせる。実にお見事というほかない。

  中国人留学生会館の受付には本が幾冊か買えて、時には立ち寄る価値があった。午前中なら、奥の洋室のいくつかにもまだ座っていられた。だが夕方になると、一間の床板が必ずドンドンドンと天も割れんばかりに鳴り、部屋中が煙と埃にまみれた。事情通に聞くと、答えて曰く、「あれは舞踏の稽古です。」

  他の場所を見に行ってみたらどうだろう?

  私は仙台の医学専門学校に行くことにした。東京を発って、じきにある駅に着いた。日暮里と書いてある。なぜか今でもこの名前を覚えている。その次は水戸しか覚えていない。明の遺臣、朱舜水先生が客死した地である。仙台はさして大きくない市街で、冬の寒さが厳しく、まだ中国人の学生はいなかった。

  おそらく物珍しさに値打ちがあるということだろう。北京の白菜を浙江に運べば、赤い紐で菜の根を結び、果物屋の軒先に逆さに吊るして「膠菜」と尊び、福建の野に自生する蘆薈も、北京に来れば温室に迎え入れ、「龍舌蘭」と名づける。私も仙台でこのような優遇を受けた。学費は免除されたばかりか、数人の職員が私の食住の心配までしてくれた。最初は監獄の隣の宿屋に泊まっていたが、初冬ですでにかなり寒く、蚊がまだ多かった。後に布団で全身を覆い、服で頭と顔を包み、鼻の穴だけ二つ出して息をした。この絶え間ない呼吸の場所で、蚊はつけ入る隙がなく、ぐっすり眠れた。食事も悪くなかった。だがある先生が、この宿屋は囚人の食事も請け負っているから私がそこにいるのはふさわしくないと、何度も何度も言った。宿屋が囚人の食事を兼ねていようと自分には関係ないと思ったが、好意を無にはできず、別の住まいを探すことにした。こうして別の家に移り、監獄からもずいぶん遠かったが、残念なことに毎日飲み下しがたい芋茎の汁を飲まねばならなかった。

  それから見知らぬ先生たちに大勢会い、新しい講義をたくさん聞いた。解剖学は二人の教授が分担していた。最初は骨学だった。その時入ってきたのは黒くて痩せた先生で、八の字髭を生やし、眼鏡をかけ、大小さまざまの本を一束抱えていた。本を講壇に置くと、ゆっくりした、しかし抑揚のある声で、学生に自己紹介した。

  「私が藤野厳九郎というものです……。」

  後ろの方で何人かが笑い出した。彼は続けて日本における解剖学発達の歴史を語り、大小の書物はこの学問の黎明期から現在までの著作であった。初めの何冊かは和綴じで、中国の翻訳を重刻したものもあった。彼らの翻訳と新医学の研究は、中国より早くはなかったのだ。

  後ろで笑っていたのは前年不合格の留年生で、校内にもう一年おり、事情にかなり通じていた。彼らは新入生に各教授の来歴を講釈してくれた。この藤野先生は、服装がだらしなさすぎて、時にネクタイを忘れることさえある。冬は古い外套一枚で寒そうにしており、一度汽車に乗る際、車掌にすりと疑われ、車内の乗客にくれぐれも用心するよう呼びかけられたという。

  彼らの話はおそらく本当で、私自身、先生が一度ネクタイなしで教壇に立つのを目撃した。

  一週間ほど過ぎた、おそらく土曜日だったろう、先生が助手をよこして呼んだ。研究室に行くと、人骨と多くの頭蓋骨に囲まれて座っていた。その時まさに頭蓋骨を研究しており、後に一篇の論文が本校の雑誌に発表された。

  「私の講義は写せますか?」彼は聞いた。

  「少しは写せます。」

  「持ってきなさい!」

  私が写した講義ノートを渡すと、受け取った。二、三日して返してくれ、以後毎週一回見せるようにと言った。受け取って開いてみると、ひどく驚き、同時に不安と感激を覚えた。私のノートは最初から最後まで赤ペンで添削されていたのだ。脱落した箇所が多く補われているだけでなく、文法の誤りも一つ一つ訂正されていた。これは彼の担当する科目——骨学、血管学、神経学——が終わるまで続いた。

  惜しいことに私はあの頃あまり勉強せず、時にわがままだった。ある時、藤野先生が私を研究室に呼び、講義ノートの一枚の図を開いた。前腕の血管の図で、指さしながら穏やかに言った。

  「ごらんなさい、あなたはこの血管を少しずらしました。——もちろん、こうずらした方が確かに見栄えはいいのですが、解剖図は美術ではありません。実物はこうなっているのですから、変えるわけにはいきません。今、直しておきましたから、今後は黒板の通りに描いてください。」

  だが私はまだ納得せず、口では「はい」と言いながら心の中では思った。

  「図はやはり私の方が正しい。実際の形は心の中でちゃんと覚えている。」

  学年末試験が終わると、私は東京へ遊びに行き、ひと夏を過ごした。秋の初めに学校に戻ると、成績はとうに発表されていた。同級百余名の中で真ん中あたり、落第しなかっただけのことだ。今度の藤野先生の担当科目は解剖実習と局部解剖学であった。

  解剖実習が一週間ほど過ぎた頃、先生はまた呼んでくれ、たいそう嬉しそうに、やはり抑揚のある声で言った。

  「中国人は鬼をとても敬うと聞いていたので、解剖をしたがらないのではないかと心配しておりました。今ようやく安心しました、そんなことはなかったようで。」

  しかし先生にも私を困らせることがあった。中国の女性は纏足をすると聞いたが、詳しくは知らないので、どう巻くのか、足の骨はどんな畸形になるのか聞きたいと言い、嘆息しながら「実際に見てみないとわかりませんね。一体どういうことなのでしょう?」と。

  ある日、同級の学生会幹事が私の下宿にやってきて、ノートを借りて見たいと言った。出して渡したが、ぱらぱらとめくっただけで持っていかなかった。ところが彼らが帰るとすぐ、郵便が分厚い封書を届けた。開けてみると、最初の一句はこうだった。

  「悔い改めよ!」

  これは『新約聖書』の言葉だろうが、トルストイが最近引用したものだ。折しも日露戦争の最中で、トルストイ翁はロシアと日本の皇帝に宛てた手紙を書き、冒頭がまさにこの一句だった。日本の新聞はその不遜を激しく非難し、愛国青年も憤慨したが、ひそかにすでに影響を受けていた。続く文面の大意は、前年の解剖学試験の問題は藤野先生がノートに印をつけておいたもので、私があらかじめ知っていたからこのような成績を取れたのだ、ということだった。末尾は匿名。

  そこで数日前のことを思い出した。同級会を開くことになり、幹事が黒板に告知を書いた。最後の一句は「全員出席のこと漏れなきよう」で、しかも「漏」の字の傍にまるがつけてあった。その時は可笑しいと思ったが気にしなかった。今回やっとあの字も私への当てこすりだとわかった。教員から漏洩された問題で点を取った、という意味だ。

  私はこのことを藤野先生に告げた。親しい同級生も数人が憤慨し、一緒に幹事のもとへ行き、検査を口実にした無礼を詰問し、しかも検査の結果を公表するよう求めた。とうとうこの流言は消え、幹事は匿名の手紙を取り戻そうと画策した。結局、私はこのトルストイ式の手紙を彼らに返却した。

  中国は弱国である、だから中国人はもちろん低能児であり、六十点以上を取れば自力ではあり得ない。——彼らが疑うのも無理はない。だがすぐに私には中国人が銃殺されるのを見る運命が回ってきた。二年目には黴菌学が加わり、細菌の形は全て映画で示された。一区切りがつき、まだ下課の時間でない時は時事の映像が映された。もちろんすべて日本がロシアに勝った場面だった。だが中に中国人が混じっていた。ロシア軍のスパイをして日本軍に捕まり、銃殺されようとしている。見物しているのも中国人の群衆で、教室の中にも一人——私がいた。

  「万歳!」彼らはみな拍手喝采した。

  この喝采は映像を見るたびにあったが、私にはこの一声が特別に耳に刺さった。それ以後、中国に戻ってから、銃殺される犯罪者を眺める人々を見た。彼らもまた酒に酔ったように喝采していたではないか。——ああ、もうどうしようもない!だがあの時あの場所で、私の考えは変わったのだ。

  二年目の学年末、私は藤野先生を訪ね、医学をやめて仙台を去ると告げた。先生の顔色はいくらか悲しげで、何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。

  「生物学を学ぼうと思います。先生に教わった学問もまだ役に立ちます。」実は生物学をやろうと決めたわけではなかったが、先生が寂しそうだったので、慰めの嘘をついたのだ。

  「医学のために教える解剖学の類は、生物学にはあまり役に立たないでしょう。」先生は嘆息した。

  去る数日前、先生は私を自宅に呼び、一枚の写真を渡した。裏に「惜別」と二字書いてあり、私のも送ってほしいと言った。しかしあいにくその時手元に写真がなかった。先生は後で撮ったら送るように、また時々手紙で近況を知らせるようにと念を押した。

  仙台を去ってから、長い間写真を撮ることもなく、また境遇もつまらなく、話したところで失望させるだけだと思い、手紙すら書く勇気がなくなった。月日が経つほど話の糸口がなくなり、手紙を書きたいと思いながらも筆が進まず、こうして今に至るまで、一通の手紙も一枚の写真も送っていない。先生の側から見れば、去って以来、音信不通である。

  だがなぜか、私はいつも先生のことを思い出す。私が師と仰ぐ人々の中で、先生は最も私を感激させ、励ましてくれた一人だ。時々考える。先生が私に寄せてくれた熱い期待と倦まぬ教えは、小さく言えば中国のためであり、中国に新しい医学が生まれることを望んだもの、大きく言えば学術のためであり、新しい医学が中国に伝わることを望んだものだ。先生の人柄は、私の目にも心にも偉大であった。その名は多くの人に知られていないけれど。

  先生が添削してくれた講義ノートは、三冊の分厚い本に綴じて保存し、永久の記念にするつもりだった。不幸にも七年前の引っ越しの途中で書箱が一つ壊れ、半箱分の本を失い、あいにくこのノートも紛失してしまった。運送会社に探させたが、返事すらなかった。先生の写真だけは今も北京の住居の東の壁、書机の正面に掛けてある。夜、疲れて怠けようとする時、仰ぎ見て灯火の中に先生の黒くて痩せた顔を見ると、まさに抑揚をつけた言葉を発しようとしているかのようで、たちまちまた良心が目覚め、勇気も増してくる。そこで煙草に火をつけ、再び「正人君子」の類が深く忌み嫌う文章を書き続けるのだ。

十月十二日。