Lu Xun Complete Works/zh-ja/Shexi

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社戏 / Village Opera

中日対訳 / 中日对照

中文 (Chinese) 日本語 (Japanese)

社戏

 


 


 我在倒数上去的二十年中,只看过两回中国戏,前十年是绝不看,因为没有看戏的意思和机会,那两回全在后十年,然而都没有看出什么来就走了。


 第一回是民国元年我初到北京的时候,当时一个朋友对我说,北京戏最好,你不去见见世面么?我想,看戏是有味的,而况在北京呢。于是都兴致勃勃的跑到什么园,戏文已经开场了,在外面也早听到冬冬地响。我们挨进门,几个红的绿的在我的眼前一闪烁,便又看见戏台下满是许多头,再定神四面看,却见中间也还有几个空座,挤过去要坐时,又有人对我发议论,我因为耳朵已经喤喤的响着了,用了心,才听到他是说“有人,不行!”


 我们退到后面,一个辫子很光的却来领我们到了侧面,指出一个地位来。这所谓地位者,原来是一条长凳,然而他那坐板比我的上腿要狭到四分之三,他的脚比我的下腿要长过三分之二。我先是没有爬上去的勇气,接着便联想到私刑拷打的刑具,不由的毛骨悚然的走出了。


 走了许多路,忽听得我的朋友的声音道,“究竟怎的?”我回过脸去,原来他也被我带出来了。他很诧异的说,“怎么总是走,不答应?”我说,“朋友,对不起,我耳朵只在冬冬喤喤的响,并没有听到你的话。”


 后来我每一想到,便很以为奇怪,似乎这戏太不好,——否则便是我近来在戏台下不适于生存了。


 第二回忘记了那一年,总之是募集湖北水灾捐而谭叫天还没有死。捐法是两元钱买一张戏票,可以到第一舞台去看戏,扮演的多是名角,其一就是小叫天。我买了一张票,本是对于劝募人聊以塞责的,然而似乎又有好事家乘机对我说了些叫天不可不看的大法要了。我于是忘了前几年的冬冬喤喤之灾,竟到第一舞台去了,但大约一半也因为重价购来的宝票,总得使用了才舒服。我打听得叫天出台是迟的,而第一舞台却是新式构造,用不着争座位,便放了心,延宕到九点钟才出去,谁料照例,人都满了,连立足也难,我只得挤在远处的人丛中看一个老旦在台上唱。那老旦嘴边插着两个点火的纸捻子,旁边有一个鬼卒,我费尽思量,才疑心他或者是目连的母亲,因为后来又出来了一个和尚。然而我又不知道那名角是谁,就去问挤小在我的左边的一位胖绅士。他很看不起似的斜瞥了我一眼,说道,“龚云甫!”我深愧浅陋而且粗疏,脸上一热,同时脑里也制出了决不再问的定章,于是看小旦唱,看花旦唱,看老生唱,看不知什么角色唱,看一大班人乱打,看两三个人互打,从九点多到十点,从十点到十一点,从十一点到十一点半,从十一点半到十二点,——然而叫天竟还没有来。


 我向来没有这样忍耐的等候过什么事物,而况这身边的胖绅士的吁吁的喘气,这台上的冬冬喤喤的敲打,红红绿绿的晃荡,加之以十二点,忽而使我省悟到在这里不适于生存了。我同时便机械的拧转身子,用力往外只一挤,觉得背后便已满满的,大约那弹性的胖绅士早在我的空处胖开了他的右半身了。我后无回路,自然挤而又挤,终于出了大门。街上除了专等看客的车辆之外,几乎没有什么行人了,大门口却还有十几个人昂着头看戏目,别有一堆人站着并不看什么,我想,他们大概是看散戏之后出来的女人们的,而叫天却还没有来……


 然而夜气很清爽,真所谓“沁人心脾”,我在北京遇着这样的好空气,仿佛这是第一遭了。


 这一夜,就是我对于中国戏告了别的一夜,此后再没有想到他,即使偶而经过戏园,我们也漠不相关,精神上早已一在天之南一在地之北了。


 但是前几天,我忽在无意之中看到一本日本文的书,可惜忘记了书名和著者,总之是关于中国戏的。其中有一篇,大意仿佛说,中国戏是大敲,大叫,大跳,使看客头昏脑眩,很不适于剧场,但若在野外散漫的所在,远远的看起来,也自有他的风致。我当时觉着这正是说了在我意中而未曾想到的话,因为我确记得在野外看过很好的好戏,到北京以后的连进两回戏园去,也许还是受了那时的影响哩。可惜我不知道怎么一来,竟将书名忘却了。


 至于我看那好戏的时候,却实在已经是“远哉遥遥”的了,其时恐怕我还不过十一二岁。我们鲁镇的习惯,本来是凡有出嫁的女儿,倘自己还未当家,夏间便大抵回到母家去消夏。那时我的祖母虽然还康健,但母亲也已分担了些家务,所以夏期便不能多日的归省了,只得在扫墓完毕之后,抽空去住几天,这时我便每年跟了我的母亲住在外祖母的家里。那地方叫平桥村,是一个离海边不远,极偏僻的,临河的小村庄;住户不满三十家,都种田,打鱼,只有一家很小的杂货店。但在我是乐土:因为我在这里不但得到优待,又可以免念“秩秩斯干幽幽南山”了。


 和我一同玩的是许多小朋友,因为有了远客,他们也都从父母那里得了减少工作的许可,伴我来游戏。在小村里,一家的客,几乎也就是公共的。我们年纪都相仿,但论起行辈来,却至少是叔子,有几个还是太公,因为他们合村都同姓,是本家。然而我们是朋友,即使偶而吵闹起来,打了太公,一村的老老小小,也决没有一个会想出“犯上”这两个字来,而他们也百分之九十九不识字。


 我们每天的事情大概是掘蚯蚓,掘来穿在铜丝做的小钩上,伏在河沿上去钓虾。虾是水世界里的呆子,决不惮用了自己的两个钳捧着钩尖送到嘴里去的,所以不半天便可以钓到一大碗。这虾照例是归我吃的。其次便是一同去放牛,但或者因为高等动物了的缘故罢,黄牛、水牛都欺生,敢于欺侮我,因此我也总不敢走近身,只好远远地跟着,站着。这时候,小朋友们便不再原谅我会读“秩秩斯干”,却全都嘲笑起来了。


 至于我在那里所第一盼望的,却在到赵庄去看戏。赵庄是离平桥村五里的较大的村庄;平桥村太小,自己演不起戏,每年总付给赵庄多少钱,算作合做的。当时我并不想到他们为什么年年要演戏。现在想,那或者是春赛,是社戏了。


 就在我十一二岁时候的这一年,这日期也看看等到了。不料这一年真可惜,在早上就叫不到船。平桥村只有一只早出晚归的航船是大船,决没有留用的道理。其余的都是小船,不合用;央人到邻村去问,也没有,早都给别人定下了。外祖母很气恼,怪家里的人不早定,絮叨起来。母亲便宽慰伊,说我们鲁镇的戏比小村里的好得多,一年看几回,今天就算了。只有我急得要哭,母亲却竭力的嘱咐我,说万不能装模装样,怕又招外祖母生气,又不准和别人一同去,说是怕外祖母要担心。


 总之,是完了。到下午,我的朋友都去了,戏已经开场了,我似乎听到锣鼓的声音,而且知道他们在戏台下买豆浆喝。


 这一天我不钓虾,东西也少吃。母亲很为难,没有法子想。到晚饭时候,外祖母也终于觉察了,并且说我应当不高兴,他们太怠慢,是待客的礼数里从来所没有的。吃饭之后,看过戏的少年们也都聚拢来了,高高兴兴的来讲戏。只有我不开口;他们都叹息而且表同情。忽然间,一个最聪明的双喜大悟似的提议了,他说,“大船?八叔的航船不是回来了么?”十几个别的少年也大悟,立刻撺掇起来,说可以坐了这航船和我一同去。我高兴了。然而外祖母又怕都是孩子们,不可靠;母亲又说是若叫大人一同去,他们白天全有工作,要他熬夜,是不合情理的。在这迟疑之中,双喜可又看出底细来了,便又大声的说道,“我写包票!船又大;迅哥儿向来不乱跑;我们又都是识水性的!”


 诚然!这十多个少年,委实没有一个不会凫水的,而且两三个还是弄潮的好手。


 外祖母和母亲也相信,便不再驳回,都微笑了。我们立刻一哄的出了门。


 我的很重的心忽而轻松了,身体也似乎舒展到说不出的大。一出门,便望见月下的平桥内泊着一只白篷的航船,大家跳下船,双喜拔前篙,阿发拔后篙,年幼的都陪我坐在舱中,较大的聚在船尾。母亲送出来吩咐“要小心”的时候,我们已经点开船,在桥石上一磕,退后几尺,即又上前出了桥。于是架起两枝橹,一枝两人,一里一换,有说笑的,有嚷的,夹着潺潺的船头激水的声音,在左右都是碧绿的豆麦田地的河流中,飞一般径向赵庄前进了。


 两岸的豆麦和河底的水草所发散出来的清香,夹杂在水气中扑面的吹来;月色便朦胧在这水气里。淡黑的起伏的连山,仿佛是踊跃的铁的兽脊似的,都远远地向船尾跑去了,但我却还以为船慢。他们换了四回手,渐望见依稀的赵庄,而且似乎听到歌吹了,还有几点火,料想便是戏台,但或者也许是渔火。


 那声音大概是横笛,宛转,悠扬,使我的心也沉静,然而又自失起来,觉得要和他弥散在含着豆麦蕴藻之香的夜气里。


 那火接近了,果然是渔火;我才记得先前望见的也不是赵庄。那是正对船头的一丛松柏林,我去年也曾经去游玩过,还看见破的石马倒在地下,一个石羊蹲在草里呢。过了那林,船便弯进了叉港,于是赵庄便真在眼前了。


 最惹眼的是屹立在庄外临河的空地上的一座戏台,模胡在远外的月夜中,和空间几乎分不出界限,我疑心画上见过的仙境,就在这里出现了。这时船走得更快,不多时,在台上显出人物来,红红绿绿的动,近台的河里一望乌黑的是看戏的人家的船篷。


 “近台没有什么空了,我们远远的看罢。”阿发说。


 这时船慢了,不久就到,果然近不得台旁,大家只能下了篙,比那正对戏台的神棚还要远。其实我们这白篷的航船,本也不愿意和乌篷的船在一处,而况并没有空地呢……


 在停船的匆忙中,看见台上有一个黑的长胡子的背上插着四张旗,捏着长枪,和一群赤膊的人正打仗。双喜说,那就是有名的铁头老生,能连翻八十四个筋斗,他日里亲自数过的。


 我们便都挤在船头上看打仗,但那铁头老生却又并不翻筋斗,只有几个赤膊的人翻,翻了一阵,都进去了,接着走出一个小旦来,咿咿呀呀的唱,双喜说,“晚上看客少,铁头老生也懈了,谁肯显本领给白地看呢?”我相信这话对,因为其时台下已经不很有人,乡下人为了明天的工作,熬不得夜,早都睡觉去了,疏疏朗朗的站着的不过是几十个本村和邻村的闲汉,乌篷船里的那些土财主的家眷固然在,然而他们也不在乎看戏,多半是专到戏台下来吃糕饼、水果和瓜子的。所以简直可以算白地。


 然而我的意思却也并不在乎看翻筋斗。我最愿意看的是一个人蒙了白布,两手在头上捧着一支棒似的蛇头的蛇精,其次是套了黄布衣跳老虎。但是等了许多时都不见,小旦虽然进去了,立刻又出来了一个很老的小生。我有些疲倦了,托桂生买豆浆去。他去了一刻,回来说,“没有。卖豆浆的聋子也回去了。日里倒有,我还喝了两碗呢。现在去舀一瓢水来给你喝罢。”


 我不喝水,支撑着仍然看,也说不出见了些什么,只觉得戏子的脸都渐渐的有些稀奇了,那五官渐不明显,似乎融成一片的再没有什么高低。年纪小的几个多打呵欠了,大的也各管自己谈话。忽而一个红衫的小丑被绑在台柱子上,给一个花白胡子的用马鞭打起来了,大家才又振作精神的笑着看。在这一夜里,我以为这实在要算是最好的一折。


 然而老旦终于出台了。老旦本来是我所最怕的东西,尤其是怕他坐下了唱。这时候,看见大家也都很扫兴,才知道他们的意见是和我一致的。那老旦当初还只是踱来踱去的唱,后来竟在中间的一把交椅上坐下了。我很担心;双喜他们却就破口喃喃的骂。我忍耐的等着,许多工夫,只见那老旦将手一抬,我以为就要站起来了。不料他却又慢慢的放下在原地方,仍旧唱。全船里几个人不住的吁气,其余的也打起呵欠来。双喜终于熬不住了,说道,怕他会唱到天明还不完,还是我们走的好罢。大家立刻都赞成,和开船时候一样踊跃,三四人径奔船尾,拔了篙,点退几丈,回转船头,架起橹,骂着老旦,又向那松柏林前进了。


 月还没有落,仿佛看戏也并不很久似的,而一离赵庄,月光又显得格外的皎洁。回望戏台在灯火光中,却又如初来未到时候一般,又漂渺得像一座仙山楼阁,满被红霞罩着了,吹到耳边来的又是横笛,很悠扬;我疑心老旦已经进去了,但也不好意思说再回去看。


 不多久,松柏林早在船后了,船行也并不慢,但周围的黑暗只是浓,可知已经到了深夜。他们一面议论着戏子,或骂,或笑,一面加紧的摇船。这一次船头的激水声更其响亮了,那航船,就像一条大白鱼背看一群孩子在浪花里蹿,连夜渔的几个老渔父,也停了艇子看着喝采起来。


 离平桥村还有一里模样。船行却慢了,摇船的都说很疲乏,因为太用力。而且许久没有东西吃。这回想出来的是桂生,说是罗汉豆正旺相,柴火又现成,我们可以偷一点来煮吃的。大家都赞成,立刻近岸停了船;岸上的田里,乌油油的便都是结实的罗汉豆。


 “阿阿,阿发,这边是你家的,这边是老六一家的,我们偷那一边的呢?”双喜先跳下去了,在岸上说。

社戯



過去二十年を遡って、私は中国の芝居を二度しか観たことがない。前の十年はまったく観なかった。芝居を観る気もなかったし機会もなかったからだ。あの二度はいずれも後の十年間のことだが、どちらも何がなんだかわからないまま帰ってしまった。

第一回は民国元年、私が初めて北京に来た時のことだ。ある友人が言った。「北京の芝居は最高だ、一度見聞を広めないか?」私は思った。芝居見物は面白いに違いない、しかも北京なのだから。そこでみな意気揚々とどこやらの園に走っていったが、芝居はもう始まっていて、外からも既にドンドンと鳴り響いていた。門を押し分けて入ると、赤やら緑やらが目の前でちらちらして、すぐに舞台の下が頭だらけなのが見えた。気を取り直して四方を見回すと、真ん中にまだいくつか空席がある。押し分けて座ろうとすると、誰かが何か言ってきた。耳はもうガンガンと鳴っていたので、よく聞くと「人がいるんだ、だめだ!」と言っていたのだった。

我々は後ろに退いたが、辮子がよく光った男が我々を脇の方に導き、一つの場所を指し示した。このいわゆる場所とは、一本の長い腰掛けだった。だがその座板は私の太腿よりも四分の三も狭く、その脚は私の脛よりも三分の二も長い。私は最初よじ登る勇気がなかったが、やがて私刑拷問の刑具を連想して、思わず身の毛がよだって歩き出してしまった。

ずいぶん歩いてから、ふと友人の声が聞こえた。「一体どうしたんだ?」振り返ると、彼も私に連れ出されていたのだった。たいそう怪訝そうに言った。「どうしてずっと歩いて、返事もしないんだ?」私は言った。「すまない、耳がずっとドンドンガンガン鳴っていて、君の言葉が聞こえなかったのだ。」

後になって思い返すたびに、不思議でならなかった。あの芝居がよほどつまらなかったのか——さもなくば私はこの頃、芝居の客席では生存に適さなくなったのだろう。

第二回は何年だったか忘れたが、ともかく湖北水害の義捐金を募集していて、譚叫天がまだ存命の頃だった。二元で一枚の芝居の切符を買い、第一舞台へ行って観ることができた。出演するのは名優ばかりで、そのうちの一人が小叫天だった。私は一枚買ったが、もともと勧募人に対するお義理だった。しかしどこかの好事家が機に乗じて、叫天は見逃してはならないという大法要を吹き込んだらしかった。そこで私は数年前のドンドンガンガンの災難を忘れてしまい、第一舞台に行ってしまったのだが、おそらく半分は高い金を出して買った貴重な切符を使わなければ落ち着かないからでもあっただろう。叫天の出番は遅いと聞き、しかも第一舞台は新式の造りで席取り争いも不要だったので安心して、九時まで出かけるのを延ばした。ところが案の定、人はいっぱいで、立つ場所さえ困難だった。仕方なく遠くの人混みの中から、舞台の上で一人の老旦が歌っているのを眺めるほかなかった。その老旦は口元に火の点いた紙撚りを二本挿しており、傍に鬼卒が一人いた。散々考えた末、目連の母親ではないかと疑ったが、後から坊主も出てきたからだ。しかし名優が誰なのかわからず、左隣に押し潰されるように立っている太った紳士に訊いてみた。彼は見下すように横目で私をちらりと見て言った。「龔雲甫だ!」私は自分の浅学と粗忽を深く恥じ、顔が熱くなると同時に、二度と訊くまいと心に決めた。そこで小旦が歌うのを観、花旦が歌うのを観、老生が歌うのを観、何の役だかわからないのが歌うのを観、大勢が乱闘するのを観、二三人が殴り合うのを観、九時過ぎから十時、十時から十一時、十一時から十一時半、十一時半から十二時——それでも叫天はまだ来なかった。

私はこれまでこれほど辛抱強く何かを待ったことはなかった。しかも隣の太った紳士のフウフウという荒い息、舞台の上のドンドンガンガンという打楽器、赤やら緑やらのちらつき、加えて十二時という時刻が、ふと私にここでは生存に適さないのだと悟らせた。私は同時に機械的に体を捩じ向け、力を込めて外へ一押しすると、背後がもう満杯になったのを感じた。おそらくあの弾力的な太った紳士が、早くも私の空いた場所で右半身を太らせていたのだろう。私は後路がなく、当然押しに押して、ついに正門を出た。通りには客を待つ車のほかは、歩く人もほとんどいなかった。正門にはまだ十数人が顔を上げて演目を見ており、別の一群は立っているが何も見ていなかった。おそらく散場の後に出てくる女たちを眺めるためだろうと私は思った。それなのに叫天はまだ来なかった……。

しかし夜気はたいそう爽やかで、まさしく「沁人心脾」というもの、私が北京でこんなに良い空気に出会ったのは、これが初めてのようだった。

この一夜こそ、私が中国の芝居に別れを告げた夜であった。以後は芝居のことを考えることもなく、たとえ偶々戯園の前を通りかかっても、互いに無関係で、精神的にはとうに天の南と地の北に離れていたのだ。

ところが数日前、私はふと何の気なしに一冊の日本語の本を見かけた。惜しいことに書名も著者も忘れてしまったが、ともかく中国の芝居に関するものだった。その中の一篇は、大意はこうだった——中国の芝居は大きく叩き、大きく叫び、大きく跳ねて、客の頭をくらくらさせる。劇場にはあまり向かない。しかし野外の開けた場所で、遠くから眺めれば、それなりの風趣があると。その時、私はこれこそ自分の心中にあって未だ言葉にできなかったことを言い当てたものだと感じた。というのも、私はたしかに野外でとても良い芝居を観たことがあり、北京に来てから立て続けに二度も戯園に行ったのも、あの時の影響を受けていたのかもしれなかったからだ。惜しいことに、どういうわけかとうとう書名を忘れてしまった。

さて、私があの良い芝居を観たのは、もう実に「遠哉遥遥」の昔であり、おそらくまだ十一二歳の頃であった。我が魯鎮の慣わしとして、嫁いだ娘がまだ自分で家計を仕切っていなければ、夏には大抵実家に帰って避暑した。当時、祖母はまだ健やかであったが、母もすでにいくらか家事を分担していたので、夏の休みは長く帰省することができず、墓参りが済んでから暇を見つけて数日滞在するだけだった。この時、私は毎年母について外祖母の家に住んだ。その場所は平橋村といい、海辺からそう遠くない、極めて辺鄙な、河に臨む小さな村だった。戸数は三十に満たず、みな田を耕し魚を獲り、一軒だけごく小さな雑貨屋があった。しかし私にとっては楽土であった。ここでは優遇されるだけでなく、「秩秩斯干、幽幽南山」を暗唱しなくて済んだからだ。

私と一緒に遊んだのは多くの子供たちで、遠来の客があるというので、彼らも親から仕事を減らしてもらい、私に付き添って遊んだ。小さな村では、一家の客はほとんど村全体の客も同然だった。我々は年齢がみな同じくらいだったが、行輩を論ずれば、少なくとも叔父で、何人かは曾祖父ですらあった。一村みな同姓で本家だったからだ。しかし我々は友達だった。たとえ時に喧嘩して曾祖父を殴っても、村中の老いも若きも誰一人として「目上に逆らう」などという言葉を思いつく者はいなかった。しかも彼らの九十九パーセントは字が読めなかったのだ。

我々の毎日の仕事はだいたい蚯蚓を掘り出して、銅線で作った小さな針に刺し、河端にうつ伏せて蝦を釣ることだった。蝦は水の世界の阿呆で、自分の二本の鋏で針先を挟んで口に運ぶことを決して厭わないから、半日もすれば大きな碗一杯釣れた。この蝦はいつも私が食べることになっていた。次に一緒に牛の放牧に行くのだが、高等動物だからだろうか、黄牛も水牛もよそ者をいじめ、敢えて私をいじめるので、近づく勇気がなく、遠くからついて行って立っているしかなかった。この時、小さな友達たちは私が「秩秩斯干」を読めることをもう許してはくれず、みな揃って嘲笑するのだった。

さて私があの村で一番待ち望んでいたのは、趙荘に芝居を観に行くことだった。趙荘は平橋村から五里離れた、やや大きな村落である。平橋村は小さすぎて自前で芝居を打てないので、毎年趙荘にいくらかの金を出して、合同で催すことになっていた。当時は彼らがなぜ毎年芝居をやるのか考えもしなかった。今思えば、あれはおそらく春の祭り、つまり社戯であったのだろう。

私が十一二歳のちょうどこの年、その期日も見る見る近づいてきた。ところが何と今年に限って、朝から船が見つからなかった。平橋村にはただ一隻、朝出て夕方に帰る航船があるだけで、それは大きな船であり、取っておく道理はなかった。他はみな小船で、使えない。隣村まで人をやって訊いても、どこもみな先に予約されていた。外祖母はたいそう腹を立てて、家の者が早く予約しなかったのを咎めて、くどくど言った。母は祖母をなだめて、我が魯鎮の芝居は小さな村のものよりもずっと良いし、一年に何度も観るのだから、今日はもうよいではないかと言った。泣きたいほど焦っていたのは私だけだった。母は懸命に私に言い含め、決してわがままな素振りを見せてはならない、また外祖母を怒らせてはいけないし、他の人と一緒に行ってもいけない、外祖母が心配するからと。

ともかく、もう駄目だった。午後になると、友達はみな行ってしまい、芝居はもう始まっていて、私には銅鑼や太鼓の音が聞こえるようだった。しかも彼らが舞台の下で豆乳を買って飲んでいることも知っていた。

その日は蝦釣りもせず、食事もろくに食べなかった。母はたいそう困って、手の打ちようがなかった。夕食の時、外祖母もとうとう察して、私が不機嫌なのは当然だ、皆があまりにもぞんざいだ、客をもてなす礼儀として前代未聞だと言った。食後、芝居を観てきた少年たちもみな集まってきて、喜々として芝居の話をした。私だけは口を開かなかった。彼らはみな嘆息して同情を示した。すると突然、一番利口な双喜が大悟したように提案した。「大きな船?八叔の航船が帰ってきたじゃないか?」十数人の他の少年も大悟して、たちまち煽り立て、この航船に乗って一緒に行けると言った。私は嬉しくなった。しかし外祖母がまた、子供ばかりでは心もとないと言った。母もまた、大人を一緒にやるとなれば、日中はみな仕事があるのだから、夜更かしさせるのは道理に合わないと言った。この躊躇いの中で、双喜がまた底を見抜いて、大声で言った。「太鼓判を押しますよ!船は大きいし、迅坊ちゃんはいつもむやみに走り回ったりしないし、我々はみな泳ぎが得意ですから!」

まことに!この十数人の少年の中に、泳げない者は一人としていなかったし、二三人は波乗りの名手でさえあった。

外祖母と母もこれを信じて、もう反対しなくなり、みな微笑んだ。我々はたちまちどっと門を出た。

私の重い心がふと軽くなり、体も言いようもなく大きく伸びたようだった。門を出ると、すぐに月の下の平橋の内に白い幌の航船が一隻泊まっているのが見えた。みな船に飛び乗り、双喜が前の竿を取り、阿発が後の竿を取り、年少の者はみな私と一緒に船室に座り、年長の者は船尾に集まった。母が出てきて「気をつけるのよ」と言った時には、もう船を漕ぎ出して、橋の石にガツンと当てて数尺退き、すぐまた前に出て橋をくぐった。そうして二本の櫓を架け、一本に二人ずつ、一里ごとに交代しながら、笑い声、叫び声に、サラサラと船首が水を切る音が交じり、左右に緑の豆畑や麦畑が広がる河の中を、飛ぶように一直線に趙荘へ向かって進んでいった。

両岸の豆や麦と河底の水草から発散する清らかな香りが、水気に交じって顔に吹きつけてきた。月の光はその水気の中で朧になっていた。淡い黒の起伏する連なった山は、まるで躍動する鉄の獣の背のように、みな遠く遠く船尾の方へ走り去っていった。しかし私はそれでもまだ船が遅いと思った。彼らが四回手を替えると、次第に趙荘がおぼろげに見えてきて、しかも歌と笛の音が聞こえてくるようだった。さらに何点かの火が見え、おそらくあれが舞台だろうと思ったが、あるいは漁火かもしれなかった。

その音はおそらく横笛で、婉転として悠揚、私の心も沈静になったが、同時にまた我を忘れるようになり、豆や麦や蕴藻の香りを含んだ夜気の中に溶けてゆきたい気持ちになった。

あの火が近づいた。果たして漁火だった。先ほど見たのも趙荘ではなかったと気づいた。あれは船首の正面にある松や柏の林で、去年も遊びに行ったことがあり、壊れた石馬が地面に倒れているのや、石の羊が草の中にうずくまっているのを見た覚えがある。あの林を過ぎると、船は叉港に曲がり込み、すると趙荘が本当に目の前に現れた。

最も目を引いたのは、村の外の河に臨む空き地にそびえ立つ一座の舞台で、遠くの月夜の中にぼんやりして、空間との境目もほとんどつかず、私は絵で見た仙境がここに現れたのではないかと疑った。この時、船はさらに速くなり、まもなく舞台の上に人物が現れ、赤やら緑やらが動き、舞台近くの河には見渡す限り黒々と芝居見物の人々の船の幌があった。

「舞台の近くはもう空いてないぞ、遠くから観よう。」阿発が言った。

この時、船は遅くなり、まもなく着いたが、果たして舞台の傍には近づけず、みな竿を下ろすしかなかった。舞台の正面にある神棚よりもさらに遠い。実のところ、我々のこの白い幌の航船は、もともと黒い幌の船と一緒になりたくなかったし、ましてや空き場所もなかったのだ……。

船を止める慌ただしさの中で、舞台の上に黒い長髯の、背に四本の旗を挿し、長槍を握った男が、一群の上半身裸の男たちと戦っているのが見えた。双喜が言った。あれが有名な「鉄頭老生」で、連続八十四回のとんぼ返りができる、自分が昼間に数えたのだと。

我々はみな船首に詰めかけて戦いを観たが、あの鉄頭老生はとんぼ返りをせず、裸の何人かだけが返り、しばらく返ると、みな引っ込んでしまった。続いて小旦が出てきて、キーキーヤーヤーと歌った。双喜が言った。「夜は客が少ないから、鉄頭老生も気が抜けているのさ。タダで見ている連中に誰が本気を出すもんか。」この言葉は正しいと思った。その時、舞台の下にはもうあまり人がおらず、田舎の者は明日の仕事があって夜更かしできず、早々と寝てしまったのだ。まばらに立っているのはこの村と隣村の暇な男たちが数十人にすぎなかった。黒い幌の船の中の小金持ちの家族はたしかにいたが、彼らも芝居を観る気はなく、大半は舞台の下に菓子や果物や瓜子を食べに来ているだけだった。だからまったくのタダ見も同然だった。

しかし私の関心も実はとんぼ返りにあったのではない。一番観たかったのは、白い布を被り、両手で頭の上に棒のような蛇の頭を捧げた蛇の精で、次は黄色い布の衣を着て虎を演じるものだった。しかし長いこと待っても出てこず、小旦が引っ込んだかと思えば、すぐにたいそう年寄りの小生が出てきた。私はいささか疲れて、桂生に豆乳を買いに行かせた。彼は一刻ほどして戻ってきて言った。「ないよ。豆乳売りの聾者ももう帰ったんだ。昼間にはあったのに。僕は二碗飲んだよ。今から柄杓で水を一杯汲んできてあげようか。」

水は飲みたくなかったから、我慢してなお観ていたが、何を観たかも言えず、ただ役者の顔がだんだんと奇妙になってきて、目鼻立ちが次第にはっきりしなくなり、一面に融け合って高低の別もないようになった。年少の者は何人かあくびを始め、年長の者もそれぞれ勝手に話をしていた。ふと赤い衣の道化者が舞台の柱に縛られて、胡麻塩髭の男に馬鞭で叩かれ始めると、みなまた元気を取り戻して笑いながら観た。この一夜で、これこそ最良の一幕だったと私は思った。

しかし老旦がとうとう登場した。老旦こそ私が最も恐れるものであり、とりわけ座り込んで歌うのが恐ろしかった。この時、みなも大いに興醒めしたのを見て、彼らの意見が私と一致していることを知った。あの老旦は最初はまだ行ったり来たりしながら歌っていたが、やがてとうとう真ん中の椅子に座り込んだ。私はひどく心配したが、双喜たちはもう口を開いてぶつぶつ悪態をついていた。私は辛抱強く待っていたが、長い間経って、あの老旦が手を上げたので、立ち上がるかと思った。ところが、またゆっくりと元の位置に下ろして、やはり歌い続けた。船中の何人かがしきりにため息をつき、他の者もあくびを始めた。双喜がとうとう堪えかねて言った。「あいつは夜明けまで歌っても終わらないだろう、もう帰った方がいい。」みなたちまち賛成し、出発の時と同じく元気よく、三四人が一直線に船尾に走り、竿を引き抜き、数丈漕ぎ退いて船首を回し、櫓を架け、老旦を罵りながら、またあの松柏の林に向かって進んでいった。

月はまだ沈んでおらず、芝居見物もさほど長くはなかったようだ。趙荘を離れると、月の光はいっそう冴え冴えと明るかった。振り返ると舞台は灯火の光の中に、しかしまた来た時のように、遥かに仙山楼閣のように、紅の霞に満ち覆われていた。耳に吹いてくるのはまた横笛で、とても悠揚だった。老旦はもう引っ込んだのではないかと思ったが、また戻って観たいとも言いかねた。

まもなく松柏の林はとうに船の後ろになり、船の速さも遅くはなかったが、周囲の闇はいっそう濃くなるばかりで、もう深夜に入ったことがわかった。彼らは一方で役者のことを議論し、罵ったり笑ったりしながら、一方では船をいっそう速く漕いだ。今度は船首の水を切る音がいっそう高らかになり、あの航船は、まるで大きな白い魚が一群の子供たちを背中に乗せて波の中を駆けているようで、夜漁をしていた何人かの老漁師も、舟を止めて見ながら喝采した。

平橋村まであと一里ほどの所で、船の速度が落ちた。漕ぎ手たちはみな疲れたと言った。力を入れすぎたのだ。しかも長いこと何も食べていない。今度、思いついたのは桂生で、羅漢豆がちょうど旬で、薪も手近にある、少し盗んできて煮て食べようと言った。みな賛成して、すぐに岸に寄せて船を止めた。岸の上の畑には、黒々と艶やかに実った羅漢豆が一面に広がっていた。

「ああ、阿発、こっちはお前の家のだ、こっちは六一じいさんの家のだ、どっちを盗ろうか?」双喜がまず飛び降りて、岸の上で言った。

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我们也都跳上岸。阿发一面跳,一面说道,“且慢,让我来看一看罢,”他于是往来的摸了一回,直起身来说道,“偷我们的罢,我们的大得多呢。”一声答应,大家便散开在阿发家的豆田里,各摘了一大捧,抛入船舱中。双喜以为再多偷,倘给阿发的娘知道是要哭骂的,于是各人便到六一公公的田里又各偷了一大捧。

 我们中间几个年长的仍然慢慢的摇着船,几个到后舱去生火,年幼的和我都剥豆。不久豆熟了,便任凭航船浮在水面上,都围起来用手撮着吃。吃完豆,又开船,一面洗器具,豆荚豆壳全抛在河水里,什么痕迹也没有了。双喜所虑的是用了八公公船上的盐和柴,这老头子很细心,一定要知道,会骂的。然而大家议论之后,归结是不怕。他如果骂,我们便要他归还去年在岸边拾去的一枝枯桕树,而且当面叫他“八癞子”。


 “都回来了!那里会错。我原说过写包票的!”双喜在船头上忽而大声的说。


 我向船头一望,前面已经是平桥,桥脚上站着一个人,却是我的母亲,双喜便是对伊说着话。我走出前舱去,船也就进了平桥了,停了船,我们纷纷都上岸。母亲颇有些生气,说是过了三更了,怎么回来得这样迟,但也就高兴了,笑着邀大家去吃炒米。


 大家都说已经吃了点心,又渴睡,不如及早睡的好,各自回去了。


 第二天,我向午才起来,并没有听到什么关系八公公盐柴事件的纠葛,下午仍然去钓虾。


 “双喜,你们这班小鬼,昨天偷了我的豆了罢?又不肯好好的摘,踏坏了不少。”我抬头看时,是六一公公掉着小船,卖了豆回来了,船肚里还有剩下的一堆豆。


 “是的。我们请客。我们当初还不要你的呢。你看,你把我的虾吓跑了!”双喜说。


 六一公公看见我,便停了楫,笑道,“请客?——这是应该的。”于是对我说,“迅哥儿,昨天的戏可好么?”


 我点一点头,说道,“好。”


 “豆可中吃呢?”


 我又点一点头,说道,“很好。”


 不料六一公公竟非常感激起来,将大拇指一翘,得意的说道:“这真是大市镇里出来的读过书的人才识货!我的豆种是粒粒挑选过的,乡下人不识好歹,还说我的豆比不上别人的呢。我今天也要送些给我们的姑奶奶尝尝去……”他于是打着楫子过去了。


 待到母亲叫我回去吃晚饭的时候,桌上便有一大碗煮熟的罗汉豆,就是六一公公送给母亲和我吃的。听说他还对母亲极口夸奖我,说“小小年纪便有见识,将来一定要中状元。姑奶奶,你的福气是可以写包票的了。”但我吃了豆,却并没有昨夜的豆那么好。


 真的,一直到现在,我实在再没有吃到那夜似的好豆,——也不再看到那夜似的好戏了。


 


 (一九二二年十月。)

我々もみな岸に跳び上がった。阿発は跳びながら言った。「ちょっと待て、俺に見させてくれ。」そうして彼はあちこち手探りして回り、身を起こして言った。「うちのを盗ろう、うちのほうがずっと大きいぜ。」一声の応答があり、みなは阿発の家の豆畑に散らばって、それぞれ両手いっぱいに摘み取り、船の中に放り込んだ。双喜はこれ以上盗ると、阿発のおっかさんに知られたら泣いて叱られるだろうと思い、そこでみなはそれぞれ六一じいさんの畑に行って、またそれぞれ両手いっぱいに盗った。

我々の中の年長の何人かは依然としてゆっくりと船を漕ぎ、何人かは船尾の方へ行って火を起こし、年少の者と私はみな豆を剥いた。まもなく豆が煮えると、船を水面に浮かぶままにして、みな囲んで手でつまんで食べた。豆を食べ終えると、また船を出し、一方で器を洗い、豆の莢も殻もみな河の水に投げ捨てて、何の痕跡も残らなかった。双喜が心配していたのは八じいさんの船の塩と薪を使ったことで、この爺さんはとても細かい人だから、きっと気づいて叱るだろうということだった。しかしみなで議論した結果、怖くないということになった。もし叱るなら、去年岸辺で拾っていった一本の枯れた烏臼の木を返せと言えばいい、しかもその場で「八癩子」と呼んでやればいいのだ。

「みんな帰って来たぞ!間違いなんかあるもんか。俺が太鼓判を押すと言っただろう!」双喜が船首で突然大声で言った。

私が船首のほうを見ると、前方はもう平橋で、橋のたもとに一人の人が立っていたが、それは私の母だった。双喜はまさに母に話しかけていたのだ。私は前の船室から出て行くと、船もちょうど平橋に入り、船が止まると、我々はぞろぞろと岸に上がった。母はいささか不機嫌で、三更を過ぎたのにどうしてこんなに遅く帰ってきたのかと言ったが、やがて機嫌もなおり、笑ってみなに炒り米を食べに来るよう誘った。

みなはもう間食を食べたし、眠くもあるので、早く寝たほうがよいと言って、それぞれ帰っていった。

翌日、私は昼近くにようやく起き上がったが、八じいさんの塩と薪の件についての紛糾は何も聞こえてこなかった。午後はやはり蝦釣りに行った。

「双喜、お前らちびっ子どもめ、昨日俺の豆を盗んだだろう?ちゃんと摘まないで、たくさん踏み潰しやがって。」顔を上げて見ると、六一じいさんが小舟を漕いで、豆を売って帰ってきたところだった。船の腹にはまだ残りの豆が一山あった。

「そうだよ。お客をもてなしたんだ。最初はじいさんのなんか要らなかったんだぜ。ほら、俺の蝦を驚かして逃がしちまったじゃないか!」双喜が言った。

六一じいさんは私を見ると、櫂を止めて笑って言った。「お客をもてなした?——それは当然のことじゃ。」そうして私に向かって言った。「迅坊ちゃん、昨日のお芝居は面白かったかね?」

私はこくりと頷いて言った。「面白かったです。」

「豆は美味しかったかね?」

私はまたこくりと頷いて言った。「とても美味しかったです。」

すると六一じいさんは思いがけなく大いに感激して、親指を立て、得意げに言った。「これだから大きな町から出てきた、本を読んだことのある人は目が利くというもんじゃ!わしの豆の種は一粒一粒選り抜いたもんじゃが、田舎の者はものの良し悪しがわからんで、わしの豆は人様のに及ばんなどと言いよる。今日はわしもいくらかうちの姑奶奶に味見してもらおうかのう……。」そうして彼は櫂を打って去っていった。

母が私を呼んで晩御飯を食べに帰らせた時、卓の上には大きな椀一杯の煮た羅漢豆があったが、それは六一じいさんが母と私に食べてくれと贈ってくれたものだった。聞くところによれば、彼はさらに母に向かって私を口を極めて褒め、「小さいのに見識があって、将来きっと状元に合格しますぞ。姑奶奶、あなたの御福運は太鼓判を押せますわい。」と言ったそうだ。しかし私はその豆を食べたが、昨夜の豆ほどは美味しくなかった。

本当に、今に至るまで、私はあの夜のように美味しい豆を再び食べたことがない——あの夜のように良い芝居も再び観たことがない。

(一九二二年十月。)

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第二回忘记了那一年,总之是募集湖北水灾捐而谭叫天还没有死。捐法是两元钱买一张戏票,可以到第一舞台去看戏,扮演的多是名角,其一就是小叫天。我买了一张票,本是对于劝募人聊以塞责的,然而似乎又有好事家乘机对我说了些叫天不可不看的大法要了。我于是忘了前几年的冬冬喤喤之灾,竟到第一舞台去了,但大约一半也因为重价购来的宝票,总得使用了才舒服。我打听得叫天出台是迟的,而第一舞台却是新式构造,用不着争座位,便放了心,延宕到九点钟才出去,谁料照例,人都满了,连立足也难,我只得挤在远处的人丛中看一个老旦在台上唱。那老旦嘴边插着两个点火的纸捻子,旁边有一个鬼卒,我费尽思量,才疑心他或者是目连的母亲,因为后来又出来了一个和尚。然而我又不知道那名角是谁,就去问挤小在我的左边的一位胖绅士。他很看不起似的斜瞥了我一眼,说道,“龚云甫!”我深愧浅陋而且粗疏,脸上一热,同时脑里也制出了决不再问的定章,于是看小旦唱,看花旦唱,看老生唱,看不知什么角色唱,看一大班人乱打,看两三个人互打,从九点多到十点,从十点到十一点,从十一点到十一点半,从十一点半到十二点,——然而叫天竟还没有来。

 我向来没有这样忍耐的等候过什么事物,而况这身边的胖绅士的吁吁的喘气,这台上的冬冬喤喤的敲打,红红绿绿的晃荡,加之以十二点,忽而使我省悟到在这里不适于生存了。我同时便机械的拧转身子,用力往外只一挤,觉得背后便已满满的,大约那弹性的胖绅士早在我的空处胖开了他的右半身了。我后无回路,自然挤而又挤,终于出了大门。街上除了专等看客的车辆之外,几乎没有什么行人了,大门口却还有十几个人昂着头看戏目,别有一堆人站着并不看什么,我想,他们大概是看散戏之后出来的女人们的,而叫天却还没有来……


 然而夜气很清爽,真所谓“沁人心脾”,我在北京遇着这样的好空气,仿佛这是第一遭了。


 这一夜,就是我对于中国戏告了别的一夜,此后再没有想到他,即使偶而经过戏园,我们也漠不相关,精神上早已一在天之南一在地之北了。


 但是前几天,我忽在无意之中看到一本日本文的书,可惜忘记了书名和著者,总之是关于中国戏的。其中有一篇,大意仿佛说,中国戏是大敲,大叫,大跳,使看客头昏脑眩,很不适于剧场,但若在野外散漫的所在,远远的看起来,也自有他的风致。我当时觉着这正是说了在我意中而未曾想到的话,因为我确记得在野外看过很好的好戏,到北京以后的连进两回戏园去,也许还是受了那时的影响哩。可惜我不知道怎么一来,竟将书名忘却了。


 至于我看那好戏的时候,却实在已经是“远哉遥遥”的了,其时恐怕我还不过十一二岁。我们鲁镇的习惯,本来是凡有出嫁的女儿,倘自己还未当家,夏间便大抵回到母家去消夏。那时我的祖母虽然还康健,但母亲也已分担了些家务,所以夏期便不能多日的归省了,只得在扫墓完毕之后,抽空去住几天,这时我便每年跟了我的母亲住在外祖母的家里。那地方叫平桥村,是一个离海边不远,极偏僻的,临河的小村庄;住户不满三十家,都种田,打鱼,只有一家很小的杂货店。但在我是乐土:因为我在这里不但得到优待,又可以免念“秩秩斯干幽幽南山”了。


 和我一同玩的是许多小朋友,因为有了远客,他们也都从父母那里得了减少工作的许可,伴我来游戏。在小村里,一家的客,几乎也就是公共的。我们年纪都相仿,但论起行辈来,却至少是叔子,有几个还是太公,因为他们合村都同姓,是本家。然而我们是朋友,即使偶而吵闹起来,打了太公,一村的老老小小,也决没有一个会想出“犯上”这两个字来,而他们也百分之九十九不识字。


 我们每天的事情大概是掘蚯蚓,掘来穿在铜丝做的小钩上,伏在河沿上去钓虾。虾是水世界里的呆子,决不惮用了自己的两个钳捧着钩尖送到嘴里去的,所以不半天便可以钓到一大碗。这虾照例是归我吃的。其次便是一同去放牛,但或者因为高等动物了的缘故罢,黄牛、水牛都欺生,敢于欺侮我,因此我也总不敢走近身,只好远远地跟着,站着。这时候,小朋友们便不再原谅我会读“秩秩斯干”,却全都嘲笑起来了。


 至于我在那里所第一盼望的,却在到赵庄去看戏。赵庄是离平桥村五里的较大的村庄;平桥村太小,自己演不起戏,每年总付给赵庄多少钱,算作合做的。当时我并不想到他们为什么年年要演戏。现在想,那或者是春赛,是社戏了。


 就在我十一二岁时候的这一年,这日期也看看等到了。不料这一年真可惜,在早上就叫不到船。平桥村只有一只早出晚归的航船是大船,决没有留用的道理。其余的都是小船,不合用;央人到邻村去问,也没有,早都给别人定下了。外祖母很气恼,怪家里的人不早定,絮叨起来。母亲便宽慰伊,说我们鲁镇的戏比小村里的好得多,一年看几回,今天就算了。只有我急得要哭,母亲却竭力的嘱咐我,说万不能装模装样,怕又招外祖母生气,又不准和别人一同去,说是怕外祖母要担心。


 总之,是完了。到下午,我的朋友都去了,戏已经开场了,我似乎听到锣鼓的声音,而且知道他们在戏台下买豆浆喝。


 这一天我不钓虾,东西也少吃。母亲很为难,没有法子想。到晚饭时候,外祖母也终于觉察了,并且说我应当不高兴,他们太怠慢,是待客的礼数里从来所没有的。吃饭之后,看过戏的少年们也都聚拢来了,高高兴兴的来讲戏。只有我不开口;他们都叹息而且表同情。忽然间,一个最聪明的双喜大悟似的提议了,他说,“大船?八叔的航船不是回来了么?”十几个别的少年也大悟,立刻撺掇起来,说可以坐了这航船和我一同去。我高兴了。然而外祖母又怕都是孩子们,不可靠;母亲又说是若叫大人一同去,他们白天全有工作,要他熬夜,是不合情理的。在这迟疑之中,双喜可又看出底细来了,便又大声的说道,“我写包票!船又大;迅哥儿向来不乱跑;我们又都是识水性的!”


 诚然!这十多个少年,委实没有一个不会凫水的,而且两三个还是弄潮的好手。


 外祖母和母亲也相信,便不再驳回,都微笑了。我们立刻一哄的出了门。


 我的很重的心忽而轻松了,身体也似乎舒展到说不出的大。一出门,便望见月下的平桥内泊着一只白篷的航船,大家跳下船,双喜拔前篙,阿发拔后篙,年幼的都陪我坐在舱中,较大的聚在船尾。母亲送出来吩咐“要小心”的时候,我们已经点开船,在桥石上一磕,退后几尺,即又上前出了桥。于是架起两枝橹,一枝两人,一里一换,有说笑的,有嚷的,夹着潺潺的船头激水的声音,在左右都是碧绿的豆麦田地的河流中,飞一般径向赵庄前进了。


 两岸的豆麦和河底的水草所发散出来的清香,夹杂在水气中扑面的吹来;月色便朦胧在这水气里。淡黑的起伏的连山,仿佛是踊跃的铁的兽脊似的,都远远地向船尾跑去了,但我却还以为船慢。他们换了四回手,渐望见依稀的赵庄,而且似乎听到歌吹了,还有几点火,料想便是戏台,但或者也许是渔火。


 那声音大概是横笛,宛转,悠扬,使我的心也沉静,然而又自失起来,觉得要和他弥散在含着豆麦蕴藻之香的夜气里。


 那火接近了,果然是渔火;我才记得先前望见的也不是赵庄。那是正对船头的一丛松柏林,我去年也曾经去游玩过,还看见破的石马倒在地下,一个石羊蹲在草里呢。过了那林,船便弯进了叉港,于是赵庄便真在眼前了。


 最惹眼的是屹立在庄外临河的空地上的一座戏台,模胡在远外的月夜中,和空间几乎分不出界限,我疑心画上见过的仙境,就在这里出现了。这时船走得更快,不多时,在台上显出人物来,红红绿绿的动,近台的河里一望乌黑的是看戏的人家的船篷。


 “近台没有什么空了,我们远远的看罢。”阿发说。


 这时船慢了,不久就到,果然近不得台旁,大家只能下了篙,比那正对戏台的神棚还要远。其实我们这白篷的航船,本也不愿意和乌篷的船在一处,而况并没有空地呢……


 在停船的匆忙中,看见台上有一个黑的长胡子的背上插着四张旗,捏着长枪,和一群赤膊的人正打仗。双喜说,那就是有名的铁头老生,能连翻八十四个筋斗,他日里亲自数过的。


 我们便都挤在船头上看打仗,但那铁头老生却又并不翻筋斗,只有几个赤膊的人翻,翻了一阵,都进去了,接着走出一个小旦来,咿咿呀呀的唱,双喜说,“晚上看客少,铁头老生也懈了,谁肯显本领给白地看呢?”我相信这话对,因为其时台下已经不很有人,乡下人为了明天的工作,熬不得夜,早都睡觉去了,疏疏朗朗的站着的不过是几十个本村和邻村的闲汉,乌篷船里的那些土财主的家眷固然在,然而他们也不在乎看戏,多半是专到戏台下来吃糕饼、水果和瓜子的。所以简直可以算白地。


 然而我的意思却也并不在乎看翻筋斗。我最愿意看的是一个人蒙了白布,两手在头上捧着一支棒似的蛇头的蛇精,其次是套了黄布衣跳老虎。但是等了许多时都不见,小旦虽然进去了,立刻又出来了一个很老的小生。我有些疲倦了,托桂生买豆浆去。他去了一刻,回来说,“没有。卖豆浆的聋子也回去了。日里倒有,我还喝了两碗呢。现在去舀一瓢水来给你喝罢。”


 我不喝水,支撑着仍然看,也说不出见了些什么,只觉得戏子的脸都渐渐的有些稀奇了,那五官渐不明显,似乎融成一片的再没有什么高低。年纪小的几个多打呵欠了,大的也各管自己谈话。忽而一个红衫的小丑被绑在台柱子上,给一个花白胡子的用马鞭打起来了,大家才又振作精神的笑着看。在这一夜里,我以为这实在要算是最好的一折。


 然而老旦终于出台了。老旦本来是我所最怕的东西,尤其是怕他坐下了唱。这时候,看见大家也都很扫兴,才知道他们的意见是和我一致的。那老旦当初还只是踱来踱去的唱,后来竟在中间的一把交椅上坐下了。我很担心;双喜他们却就破口喃喃的骂。我忍耐的等着,许多工夫,只见那老旦将手一抬,我以为就要站起来了。不料他却又慢慢的放下在原地方,仍旧唱。全船里几个人不住的吁气,其余的也打起呵欠来。双喜终于熬不住了,说道,怕他会唱到天明还不完,还是我们走的好罢。大家立刻都赞成,和开船时候一样踊跃,三四人径奔船尾,拔了篙,点退几丈,回转船头,架起橹,骂着老旦,又向那松柏林前进了。


 月还没有落,仿佛看戏也并不很久似的,而一离赵庄,月光又显得格外的皎洁。回望戏台在灯火光中,却又如初来未到时候一般,又漂渺得像一座仙山楼阁,满被红霞罩着了,吹到耳边来的又是横笛,很悠扬;我疑心老旦已经进去了,但也不好意思说再回去看。


 不多久,松柏林早在船后了,船行也并不慢,但周围的黑暗只是浓,可知已经到了深夜。他们一面议论着戏子,或骂,或笑,一面加紧的摇船。这一次船头的激水声更其响亮了,那航船,就像一条大白鱼背看一群孩子在浪花里蹿,连夜渔的几个老渔父,也停了艇子看着喝采起来。


 离平桥村还有一里模样。船行却慢了,摇船的都说很疲乏,因为太用力。而且许久没有东西吃。这回想出来的是桂生,说是罗汉豆正旺相,柴火又现成,我们可以偷一点来煮吃的。大家都赞成,立刻近岸停了船;岸上的田里,乌油油的便都是结实的罗汉豆。


 “阿阿,阿发,这边是你家的,这边是老六一家的,我们偷那一边的呢?”双喜先跳下去了,在岸上说。


 我们也都跳上岸。阿发一面跳,一面说道,“且慢,让我来看一看罢,”他于是往来的摸了一回,直起身来说道,“偷我们的罢,我们的大得多呢。”一声答应,大家便散开在阿发家的豆田里,各摘了一大捧,抛入船舱中。双喜以为再多偷,倘给阿发的娘知道是要哭骂的,于是各人便到六一公公的田里又各偷了一大捧。


 我们中间几个年长的仍然慢慢的摇着船,几个到后舱去生火,年幼的和我都剥豆。不久豆熟了,便任凭航船浮在水面上,都围起来用手撮着吃。吃完豆,又开船,一面洗器具,豆荚豆壳全抛在河水里,什么痕迹也没有了。双喜所虑的是用了八公公船上的盐和柴,这老头子很细心,一定要知道,会骂的。然而大家议论之后,归结是不怕。他如果骂,我们便要他归还去年在岸边拾去的一枝枯桕树,而且当面叫他“八癞子”。


 “都回来了!那里会错。我原说过写包票的!”双喜在船头上忽而大声的说。


 我向船头一望,前面已经是平桥,桥脚上站着一个人,却是我的母亲,双喜便是对伊说着话。我走出前舱去,船也就进了平桥了,停了船,我们纷纷都上岸。母亲颇有些生气,说是过了三更了,怎么回来得这样迟,但也就高兴了,笑着邀大家去吃炒米。


 大家都说已经吃了点心,又渴睡,不如及早睡的好,各自回去了。

第二回 何年だったか忘れたが、ともかく湖北水害の義捐金を募集し、譚叫天がまだ死んでいなかった頃のことだ。義捐の方法は二元で一枚の芝居の切符を買い、第一舞台に芝居を見に行けるというもので、出演するのは多くが名優、その一人が小叫天であった。私は一枚の切符を買ったが、もともと勧募者への義理立てに過ぎなかった。しかしどうやらまた好事家がこの機会に、叫天は見逃せないと大いに吹き込んだらしい。私はこうして数年前の冬の太鼓や鉦の災いを忘れ、第一舞台に出かけてしまった。もっとも半分は高い金を出して買った貴重な切符を使わねば気が済まなかったせいでもある。叫天の出番は遅いと聞いていたし、第一舞台は新式の造りで席取り争いの心配もないので、安心して九時になってからようやく出かけた。ところが例の如く、人で一杯で立っていることさえ難しく、遠くの人混みに混じって一人の老旦が台上で歌っているのを見るほかなかった。その老旦は口の両脇に火の点いた紙縒りを挿し、傍らに鬼卒が一人いた。懸命に考えた末、あれはおそらく目連の母ではないかと疑った、後から和尚も出てきたから。しかしまたあの名優が誰なのか分からず、左隣に押し付けられていた太った紳士に尋ねた。彼は甚だ見下すように横目で睨んで言った、「龔雲甫!」私は自分の浅学と粗雑を深く恥じ、顔が熱くなると同時に、頭の中にもう二度と人に尋ねまいという規則を作り上げた。かくして小旦が歌い、花旦が歌い、老生が歌い、何の役か分からぬ者が歌い、大勢の乱闘を見、二三人の殴り合いを見、九時過ぎから十時、十時から十一時、十一時から十一時半、十一時半から十二時に至った——しかし叫天はまだ来なかった。

私はかつてこれほど忍耐強く何かを待ったことがない。まして傍の太った紳士のふうふうという喘ぎ声、台上のドンドンジャンジャンという打楽器の音、赤や緑の揺れ動き、加うるに十二時になって、ここは生存に適さないと悟った。私は同時に機械的に体を捻り、力を込めて外へ一押しすると、背後はもう満杯になっていた。おそらくあの弾力性のある太った紳士が、私の空いた場所で右半身を膨張させたのだろう。私に退路はなく、当然押して又押し、ようやく大門を出た。街には客待ちの車の他にはほとんど人影がなく、大門口にはまだ十数人が首を上げて演目を見ていた。別の一群は立っていたが何も見ておらず、おそらく散場後に出てくる女たちを見物するのだろうと私は思った。そして叫天はまだ来ていなかった……

しかし夜気は清爽で、まさに「沁人心脾」(人の心に沁み入る)というもの、北京でこのような良い空気に出会ったのは、これが初めてのようだった。

この夜こそ、私が中国の芝居に別れを告げた夜であった。それ以来二度と思い出すこともなく、たとえ偶然芝居小屋の前を通っても、我々は無関係で、精神的にはとうに天の南と地の北ほども隔たっていた。

しかし数日前、ふと日本語の書物を目にした。書名と著者は忘れてしまったが、ともかく中国の芝居に関するものであった。その中の一篇の大意はこうであった。中国の芝居は大いに叩き、大いに叫び、大いに跳ね、観客の頭を昏くさせ、劇場には不向きである。しかし野外の散漫な場所で、遠くから見れば、それなりの風情がある、と。私はこれこそ自分の心中にあって未だ思い至らなかった言葉だと感じた。なぜなら私は確かに野外で実によい芝居を見たことを覚えており、北京に来てから二度も芝居小屋に足を運んだのも、おそらくあの時の影響を受けていたのだ。惜しいことに、どうしたことか書名を忘れてしまった。

その良い芝居を見た頃といえば、実に「遠哉遥遥」(遙か遠い昔)で、おそらく私はまだ十一二歳に過ぎなかったろう。我が魯鎮の習わしでは、嫁に出た娘がまだ家の切り盛りをしていなければ、夏の間は大体実家に帰って避暑するのが常であった。その頃私の祖母はまだ健在であったが、母もすでに家事の一部を担っていたので、夏の帰省は長くはできず、墓参りが済んでから暇を見て数日滞在するだけであった。この時、私は毎年母に付いて外祖母の家に住んだ。その場所は平橋村といい、海辺からさほど遠くない、極めて辺鄙な川沿いの小さな村であった。戸数は三十にも満たず、皆田を耕し魚を獲り、ただ一軒のごく小さな雑貨屋があるだけであった。しかし私にとっては楽土であった。ここでは優遇されるだけでなく、「秩秩斯干幽幽南山」の暗唱からも免れたからだ。

一緒に遊ぶのは多くの子供たちで、遠来の客が来たというので、彼らも皆親から仕事を減らす許可を得て、私の遊び相手になった。小さな村では、一軒の客はほとんど村全体の客であった。皆年頃は同じだったが、輩分で言えば少なくとも叔父であり、何人かは曾祖父にあたった。村中が同姓で本家だったからだ。しかし我々は友達で、たとえ偶然喧嘩になって曾祖父を殴っても、村中の老若男女の誰一人として「上に逆らう」という二字を思いつく者はなかったし、彼らの九十九パーセントは字が読めなかった。

我々の毎日の仕事はだいたい蚯蚓を掘り、銅線で作った小さな鉤に通して川端に伏せて蝦を釣ることであった。蝦は水の世界の馬鹿者で、自分の二つの鋏で鉤先を挟んで口に運ぶことを厭わないから、半日もすれば大きな椀一杯釣れた。この蝦は当然私が食べることになっていた。次は一緒に牛を放すことだったが、高等動物のせいか、黄牛も水牛も余所者をいじめ、私を威嚇するので、近寄れず遠くから付いて立っているほかなかった。この時、子供たちは私が「秩秩斯干」を読めることなどもう許さず、皆で嘲笑した。

私がそこで最も待ち望んだのは、趙荘へ芝居を見に行くことであった。趙荘は平橋村から五里の大きな村で、平橋村は小さすぎて自前で芝居を興行できず、毎年趙荘にいくらかの金を払い合同興行とした。当時、なぜ毎年芝居を演じるのか考えもしなかった。今思えば、おそらく春の祭り、つまり社戲であったろう。

私が十一二歳のまさにその年、この日が近づいた。ところがこの年はまことに惜しいことに、朝から船が見つからなかった。平橋村には一隻の朝出夕帰の定期船があるだけで大きな船だったが、留めておく道理はなかった。他は皆小船で使い物にならず、隣村に頼みに行っても皆既に他に取られていた。外祖母は大いに腹を立て、家の者が早く予約しなかったと愚痴を言い始めた。母は宥めて言った、我が魯鎮の芝居は小さな村のよりずっと良いし、一年に何度も見る、今日はもういいではないかと。ただ私だけが泣きそうになったが、母は必死に言い聞かせた、変な真似をしてはいけない、また外祖母を怒らせてはいけないと。そして他の子と一緒に行くことも許さなかった、外祖母が心配するからと。

要するに、お仕舞いだった。午後になると友達は皆行ってしまい、芝居はもう始まっていた。私には太鼓や鉦の音が聞こえるような気がしたし、彼らが舞台の下で豆乳を買って飲んでいることも分かっていた。

この日、私は蝦も釣らず、食事も少なかった。母は困り果て、手の打ちようがなかった。夕食の頃になってようやく外祖母も気づき、私が不機嫌なのも当然だ、あまりにも怠慢で客に対する礼を失している、と言った。食事の後、芝居を見て来た少年たちも集まって来て、上機嫌で芝居の話をした。私だけが口を開かなかった。皆が溜息をつき同情を示した。突然、最も聡明な双喜が大悟したように提案した。「大船?八叔の定期船はもう戻っているじゃないか?」十数人の少年たちも悟り、すぐさま賛成して、この定期船に乗って一緒に行こうと言い出した。私は喜んだ。しかし外祖母はまた心配した、子供ばかりでは信頼できないと。母もまた言った、大人を一緒に行かせるにしても皆日中は仕事があり、夜更かしさせるのは理に合わないと。この逡巡の中で、双喜はまた事の底を見抜き、大声で言った。「僕が請け合います!船は大きいし、迅兄さんはもともと勝手に走り回ったりしないし、僕らは皆泳ぎが上手です!」

まことに!この十数人の少年で、泳げない者は一人もなく、しかも二三人は波乗りの名手であった。

外祖母も母も信じて、もう異議を唱えず、皆微笑んだ。我々はたちまち一斉に門を飛び出した。

私の重かった心が忽ち軽くなり、体も言いようのないほど伸びやかになった。門を出ると月下の平橋の中に白い幌の定期船が泊まっているのが見え、皆が船に飛び乗った。双喜が前の棹を抜き、阿発が後の棹を抜き、年少の者は皆私と船室に座り、年長の者は船尾に集まった。母が出てきて「気をつけて」と言いかけた時には、我々はもう船を出し、橋の石に一つぶつけて数尺下がり、またすぐ前進して橋を出た。二本の櫓を架け、一本に二人、一里ごとに交代し、笑い声や叫び声が船首の水を切る潺潺たる音と混じり合い、左右がことごとく碧緑の大豆と麦の田である河の中を、飛ぶように趙荘へ向かって進んだ。

両岸の大豆と麦、河底の水草から発散する清香が水気に混じって顔を吹いて来た。月色はこの水気の中で朧に霞んでいた。暗く起伏する連山は、踊り跳ねる鉄の獣の背のように、遠く遠く船尾の方へ走り去ったが、私にはまだ船が遅いと思えた。四度手を替え、ようやく趙荘がおぼろに見え、歌や吹奏楽が聞こえるような気がした。さらに幾つかの灯火が見え、おそらくあれが舞台だろうと思ったが、もしかすると漁火かもしれなかった。

その音はおそらく横笛で、婉転として悠揚、私の心も静まったが、同時にまた自失し、大豆と麦と蘊藻の香を含む夜気の中に、その音と共に瀰漫して行きたいような気がした。

その火が近づいた。果たして漁火であった。先ほど見えたのも趙荘ではなかったと思い出した。あれは船首の正面にある松柏の林で、去年も遊びに行ったことがあり、壊れた石馬が地に倒れ、一頭の石羊が草の中に蹲っているのを見たのだった。あの林を過ぎると、船は叉港に曲がり入り、趙荘がまさに目の前に現れた。

最も目を引いたのは、村の外の川沿いの空き地に屹立する一座の舞台で、遠くの月夜の中に朦朧として、空間とほとんど境界が分かたず、私は絵で見た仙境がここに現れたかと疑った。この時、船はさらに速くなり、間もなく舞台の上に人物が現れ、赤や緑が動き、舞台近くの川面は一望真っ黒で、芝居を見る人々の船の幌であった。

「舞台の近くはもう空きがないから、遠くから見ましょう」阿発が言った。

この時船は遅くなり、間もなく着いたが、果たして舞台の傍には近づけず、皆は棹を置くしかなく、あの舞台の正面の神棚よりもまだ遠かった。そもそも我々のこの白幌の定期船は、黒幌の船と一緒にいたくないのだ。まして空き地もないのだから……

船を停める慌ただしさの中で、舞台の上に長い黒い髭の一人が背中に四本の旗を挿し、長槍を握って、一群の上半身裸の男たちと戦っているのが見えた。双喜が言った、あれが有名な鉄頭老生で、連続八十四回のとんぼ返りができる、彼は昼間自分で数えたのだと。

我々は皆船首に擠って戦いを見たが、あの鉄頭老生はとんぼ返りをせず、上半身裸の男が何人か返っただけで、一しきり返るとみな引っ込み、続いて小旦が出てきて、きいきいやあやあと歌った。双喜が言った、「夜は客が少ないから、鉄頭老生もやる気がない。ただの見物にわざわざ腕を見せる者がいるか」。私はこの言葉は正しいと思った。なぜなら舞台の下にはもうあまり人がおらず、田舎の人は明日の仕事のために夜更かしできず、とっくに寝てしまい、まばらに立っているのは数十人の本村と隣村の暇人だけで、黒幌の船の中の金持ちの家族は確かにいたが、彼らも芝居を見るどころではなく、大方は舞台の下に来て菓子や果物や瓜子を食べるためであった。だから実質はただ見の客であった。

しかし私の興味もとんぼ返りにはなかった。私が最も見たかったのは白い布を被り、両手を頭の上に棒のような蛇の頭を捧げ持つ蛇精で、次が黄色い布の衣を着て虎を演じるものであった。だが長いこと待っても出て来ず、小旦が引っ込んでもすぐまた年老いた小生が出てきた。少し疲れて、桂生に豆乳を買いに行かせた。彼はしばらくして戻り言った、「ない。豆乳売りの聾も帰った。昼間はあったんだ、僕も二杯飲んだよ。今から水を一杓汲んできて飲ませようか」。

私は水は飲まず、こらえてなお見ていたが、何を見たとも言えず、ただ役者の顔が次第にいくらか奇妙になり、五官が次第にぼやけて一面に融け合い、もはや高低がないように感じられた。年少の何人かは頻りに欠伸をし、年長の者も各々自分たちで話をしていた。すると突然、赤い衣の道化が柱に縛り付けられ、白髪交じりの髭の者が馬鞭で打ち始め、皆がまた精神を奮い起こして笑いながら見た。この一夜で、これこそ最も良い一幕だったと私は思った。

しかしとうとう老旦が登場した。老旦こそ私が最も恐れるもので、とりわけ座って歌い出すのが恐ろしかった。この時、皆もいかにも興醒めした様子を見て、彼らの意見は私と一致していることが分かった。あの老旦は最初こそ歩き回りながら歌っていたが、後にはとうとう真ん中の椅子に座ってしまった。私はとても心配した。双喜たちは口々にぶつぶつと罵った。私はじっと我慢して待ったが、長い時間が経ち、ようやく老旦が手を上げたので、もう立ち上がるのかと思った。ところが彼はまたゆっくりと元の場所に手を下ろし、相変わらず歌い続けた。船中の数人は絶えず溜息をつき、残りの者も欠伸を始めた。双喜がとうとう堪えきれず言った、「あれは夜明けまで歌い続けても終わらないだろう、我々は帰った方がいい」。皆直ちに賛成し、出発の時と同じ勢いで、三四人が船尾に走り、棹を抜き、数丈退いて、船首を返し、櫓を架けて、老旦を罵りながら、再びあの松柏の林へ向かって進んだ。

月はまだ落ちておらず、芝居を見ていた時間もさほど長くなかったようで、趙荘を離れると月光は一段と皎々と冴えた。振り返れば舞台は灯火の中にあり、しかしまた来た時のように朦朧として仙山楼閣のようで、一面に紅い霞に覆われていた。耳に吹いてくるのはまた横笛で、甚だ悠揚であった。老旦はもう引っ込んだのではないかと疑ったが、もう一度戻って見ようとは気恥ずかしくて言えなかった。

間もなく松柏の林はもう船尾に過ぎた。船足も遅くはなかったが、周りの暗闇は濃くなるばかりで、既に深夜に至ったことが知れた。皆は一方で役者のことを論じ、罵ったり笑ったりしながら、一方で懸命に船を漕いだ。今度は船首の水を切る音がさらに響き、あの定期船は大きな白い魚のように、一群の子供たちを背に乗せて波の中を躍り跳ねた。夜釣りの何人かの老漁夫も、小舟を停めて喝采した。

平橋村まであと一里ほどのところで船足が遅くなった。漕ぎ手は皆疲れたと言った、力を使い過ぎたからだ。しかも久しく何も食べていなかった。今度思いついたのは桂生で、今は羅漢豆(空豆)が旬だし、薪もあるから少し盗んで煮て食おうと言った。皆賛成し、直ちに岸に寄せて船を停めた。岸の上の田は、真っ黒に実った羅漢豆であった。

「ああ、阿発、こちらは君の家の、こちらは六一さんの家の、どっちを盗もうか?」双喜が先に飛び降り、岸の上で言った。

我々も皆岸に上がった。阿発は跳びながら言った、「ちょっと待て、僕に見させてくれ」。彼はあちこち撫でて回り、身を起こして言った、「うちのを盗もう、うちのの方がずっと大きいよ」。一声の賛同と共に皆は阿発の家の豆畑に散らばり、各々大きな一掴みを摘んで船室に投げ入れた。双喜はこれ以上盗んで阿発の母に知れたら泣いて叱られると思い、各人は六一爺さんの畑に行ってまた各々大きな一掴みを盗んだ。

年長の何人かは相変わらずゆっくり船を漕ぎ、何人かは後の船室で火を起こし、年少の者と私は豆を剥いた。やがて豆が煮え、定期船を水面に浮かべたまま、皆で囲んで手で摘んで食べた。豆を食べ終えてまた船を出し、器具を洗い、豆の莢も殻もすべて川に投げ捨て、何の痕跡もなくなった。双喜が心配したのは、八爺さんの船の塩と薪を使ったことで、あの爺さんは几帳面だから必ず気づいて叱るだろうと。しかし皆で相談した結果、怖くないということになった。もし叱ったら、去年岸辺で拾った枯れた烏桕の木を返せと言い、面と向かって「八癩子」と呼んでやるのだ。

「皆戻ったぞ!間違いない。僕が請け合うと言ったろう!」双喜が船首で突然大声で言った。

私が船首を見やると、前方はもう平橋で、橋の袂に人が一人立っていた。私の母であった。双喜はちょうど母に話しかけているところだった。私が前の船室に出ると、船も平橋に入り、停船して我々は皆岸に上がった。母はいくらか機嫌が悪く、三更を過ぎているのになぜこんなに遅いのかと言ったが、すぐに機嫌を直し、笑って皆を炒り米を食べに誘った。

皆はもう軽食を食べたし、眠くもあるから早く寝た方がいいと言い、各々帰って行った。

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第二天,我向午才起来,并没有听到什么关系八公公盐柴事件的纠葛,下午仍然去钓虾。

 “双喜,你们这班小鬼,昨天偷了我的豆了罢?又不肯好好的摘,踏坏了不少。”我抬头看时,是六一公公掉着小船,卖了豆回来了,船肚里还有剩下的一堆豆。


 “是的。我们请客。我们当初还不要你的呢。你看,你把我的虾吓跑了!”双喜说。


 六一公公看见我,便停了楫,笑道,“请客?——这是应该的。”于是对我说,“迅哥儿,昨天的戏可好么?”


 我点一点头,说道,“好。”


 “豆可中吃呢?”


 我又点一点头,说道,“很好。”


 不料六一公公竟非常感激起来,将大拇指一翘,得意的说道:“这真是大市镇里出来的读过书的人才识货!我的豆种是粒粒挑选过的,乡下人不识好歹,还说我的豆比不上别人的呢。我今天也要送些给我们的姑奶奶尝尝去……”他于是打着楫子过去了。


 待到母亲叫我回去吃晚饭的时候,桌上便有一大碗煮熟的罗汉豆,就是六一公公送给母亲和我吃的。听说他还对母亲极口夸奖我,说“小小年纪便有见识,将来一定要中状元。姑奶奶,你的福气是可以写包票的了。”但我吃了豆,却并没有昨夜的豆那么好。


 真的,一直到现在,我实在再没有吃到那夜似的好豆,——也不再看到那夜似的好戏了。


 


 (一九二二年十月。)

翌日、私は昼近くになってようやく起き出したが、八公公の塩や薪の事件にまつわるいざこざは何も聞こえてこなかった。午後はまた蝦釣りに出かけた。

 「双喜、お前たちこのガキども、昨日わしの豆を盗んだだろう?ちゃんと摘まないで、ずいぶん踏み荒らしてくれたな。」顔を上げて見ると、六一公公が小舟を漕いで、豆を売って帰ってきたところだった。舟の底にはまだ売れ残りの豆が一山あった。

 「そうだよ。お客をもてなしたんだ。最初はおじさんの豆なんかいらなかったんだよ。ほら見ろ、おじさんのせいで僕の蝦が逃げちゃったじゃないか!」双喜が言った。

 六一公公は私を見ると、櫂を止め、笑いながら言った。「お客をもてなした?——それは当然のことだ。」そして私に向かって言った。「迅ちゃん、昨日の芝居は面白かったかね?」

 私はうなずいて言った。「面白かったよ。」

 「豆はうまかったかね?」

 私はまたうなずいて言った。「とてもおいしかった。」

 すると六一公公は思いがけず大いに感激し、親指を立てて、得意げに言った。「さすが大きな町から来た学のある人は目が利く!わしの豆の種は一粒一粒選び抜いたものだ。田舎者は良し悪しもわからんで、わしの豆は他人のに及ばないなどと言いおる。今日はいくらか姑奶奶にも味見してもらおう……」そう言って櫂を漕いで去っていった。

 母が晩御飯に呼びに来た時、食卓には大きな鉢一杯の茹でた空豆があった。六一公公が母と私に食べてくれと持ってきたものだった。聞くところによると、彼は母に向かって私のことをしきりに褒め、「小さいのにもう見る目がある。将来きっと状元に及第なさるよ。姑奶奶、あなたの福は請け合いだ」と言ったそうだ。しかし私が食べた豆は、昨夜の豆ほどおいしくはなかった。

 本当に、今に至るまで、私はあの夜のようなおいしい豆を二度と食べたことがない——あの夜のような素晴らしい芝居も二度と見たことがない。



 (一九二二年十月。)