Lu Xun Complete Works/ja/Qiejieting zawen

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且介亭雑文 (且介亭杂文)

魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

【魯迅全集・第六巻】


且介亭雑文


序言


——一九三四年——


中国に関する二、三の事


国際文学社の問いに答える


「草鞋脚」英訳中国短篇小説集 小引


「旧形式の採用」を論ず


連環画瑣談


儒術


「看図識字」


拿来主義


隔膜


「木刻紀程」小引


難行と不信


「小学大全」購入記


韋素園墓記


韋素園君を憶う


劉半農君を憶う


曹聚仁先生への返信


子供の写真から言えば


門外文談


肉の味を知らずと水の味を知らず


中国語文の新生


中国人は自信力を失ったか


「以眼還眼」


「面子」を説く


運命


臉譜臆測


気ままにめくる


ナポレオンと隋那


「戯」週刊編者への返信


「戯」週刊編者への手紙


中国文壇の鬼魅


新文字について


病後雑談


病後雑談の余


河南盧氏曹先生教沢碑文


阿金


俗人は雅人を避くべしを論ず


附記



且介亭雑文二集


序言


——一九三五年——


葉紫著「豊収」序


隠士


「招貼即扯」


本の還魂と急造


漫談「漫画」


「中国新文学大系」小説二集序


内山完造著「活ける中国の姿態」序


「尋開心」


翻訳のやり直しは不可欠


論諷刺


「別字」から話を広げて


田軍著「八月の郷村」序


徐懋庸著「打雑集」序


人生は字を識りて胡塗に始まる


文人相軽


「京派」と「海派」


鎌田誠一墓記


衖堂商売の今昔談


そのように書くべきではない


現代中国における孔夫子


六朝小説と唐代伝奇文にはいかなる区別があるか


「諷刺」とは何か


論人言は畏るべし


再び文人相軽を論ず


「全国木刻連合展覧会専輯」序


文壇三戸


助けることから出鱈目へ


「中国小説史略」日本訳本序


「題未定」草(一より三)


名人と名言


「天に頼りて飯を食う」


ほとんど無事の悲劇


三たび「文人相軽」を論ず


四たび「文人相軽」を論ず


五たび「文人相軽」を論ず──明術


「題未定」草(五)


毛筆の類を論ず


名を逃る


六たび「文人相軽」を論ず──二売


七たび「文人相軽」を論ず──両傷


蕭紅著「生死場」序


ドストエフスキーのこと


孔另境編「当代文人尺牘鈔」序


雑談小品文


「題未定」草(六より九)


論新文字


「死魂霊百図」小引


後記



且介亭雑文続編


——一九三六年——


文人比較学


大小奇蹟


「ケーテ・コルヴィッツ版画選集」序目


難答の問題


登り間違えた文章


ソ連版画展覧会を記す


私は人を騙したい


「訳文」復刊の辞


白莽著「孩児塔」序


「海上述林」上巻序言


私の最初の師父


続記


深夜に記す


一 コルヴィッツ教授の版画の中国への伝来


二 暗々たる死を略論す


三 一つの童話


四 またも一つの童話


五 一通の真実の手紙


三月の租界


「海上述林」下巻序言


「出関」の「関」


トロツキー派への返信


現在の我々の文学運動を論ず


「ソ連版画集」序


チェコ語訳本


徐懋庸に答え併せて抗日統一戦線問題について


半夏小集


「これもまた生活」


立此存照(一)


立此存照(二)



女吊


立此存照(三)


立此存照(四)


立此存照(五)


立此存照(六)


立此存照(七)


太炎先生に関する二、三のこと


曹靖華訳「ソ連作家七人集」序


太炎先生によりて想い起こす二、三のこと


第2節

しかし我々の中国では、紹介されたものはまだ多くない。私が覚えているのは、すでに廃刊となった『現代』と『訳文』に、それぞれ彼女の木版画が一枚ずつ掲載されたことだけだ。原画自体が既に手に入りにくいのだから、これは仕方のないことだ。

ところが今、プリンスの蒐集と許可により、この木版画集がようやく中国の読者と見えることになった。もっとも原画は白黒であるが、限られた紙幅の中で彼女の作品の真髄を窺うことはできよう。

ケーテ・コルヴィッツは一八六七年にケーニヒスベルクに生まれた。コルヴィッツという姓は夫のもので、夫は医者だった。彼女は若い時から版画に志し、ゲルハルト・ハウプトマンの『織工たち』に霊感を受けて、一八九八年に連作版画「織工蜂起」を完成させた。これは彼女の出世作となった。その後「農民戦争」の連作が生まれ、さらに「死」の連作、「プロレタリアート」の連作と続き、技法はますます円熟し、その画面は深沈にして力強く、ドイツ版画史上に不朽の地位を占めるに至った。

思えば彼女の描くものは、すべて困窮と飢餓と死と闘争である。しかし決して絶望ではない。彼女の画中の母親たちは、目を見開いて未来を注視し、片手で子供たちを胸に抱きしめている。彼女が描くのは窮民の嘆きであり、同時にまた彼らの怒りであり、彼らの覚醒である。

中国には「窮人は自ら窮であることを知らず」という言い方がある。しかしコルヴィッツの版画を見れば、窮人こそが最もよくその窮を知る者だと分かる。知っているからこそ、怒り、立ち上がるのだ。

彼女の作品は、見る者の心に静かに、しかし確実に火を灯す。それは芸術が人の良心を揺さぶるということの、最も端的な証左である。


第3節

かくしてこの「武訓先生」の作者は一つの問題を提起して言う——

「小さなお友だち! あなたは上のお話を読んで、どんな感想をお持ちですか?」

嗚呼、お子様諸君に向かってこのような問いを発するとは! いったい子供にどんな感想を持てと言うのか。大人でさえ感想のまとまらないことを。

武訓は乞食をして学堂を建てた。半生を卑屈のうちに過ごし、権勢ある者たちに跪拝し、殴られ、侮辱され、それでも金を貯めて、貧しい子弟のために学校を設立した。これは尊ぶべきことなのか。一見すると感動的な話のようだが、考えてみれば、これは一つの体制を肯定しているのではないか——すなわち乞食をしてでも現存の秩序のなかで這い上がれ、自らを卑しめてでも教育の恩恵を得よ、と。

問題はそこにある。武訓の精神を讃えるのは容易いが、なぜ乞食をしなければ学堂を建てられなかったのか、なぜ制度そのものを変えようとしなかったのか——これこそ問うべきことであろう。

しかし作者はそこまで問わない。ただ子供たちに感想を求めるだけだ。このように、問題の核心を避けて表面の感動だけを掬い取ることは、実のところ子供たちの思考力を養うどころか、かえって鈍らせるものである。

真に子供のためを思うなら、もっと深い問いを投げかけるべきだ。しかし我々の教育は往々にして、浅い感動で満足させ、深い疑問を封じ込めてしまう。これは悲しむべきことだ。


第4節

『訳文』はこのような状態のもとで一九三四年九月に世に出た。当時、鴻篇巨制たる『世界文学』や『世界文庫』のような翻訳全集がまさに花を開かんとしていた。しかし、開花はしたものの、やがて枯れてしまうものもあった。

『訳文』の目的は、もっと地味で、もっと着実なところにあった。毎号、一篇あるいは数篇の外国文学作品を訳載し、原文に忠実であることを旨とした。翻訳は本来、地味な仕事である。巧みな言い回しも、華やかな文体も必要ない。必要なのは正確さと誠実さだけだ。

しかし、この地味さが却って問題を引き起こした。読者は刺激を求め、批評家は独創性を求める。忠実な翻訳など、彼らの目には「面白くない」ものとしか映らない。

しかし私は信じている。翻訳こそが文化交流の基礎であり、一国の文学を他国に伝えるための最も確実な方法だと。独創的な作品を書くことは無論大切だが、他国の優れた作品を正確に訳すことも、それに劣らず重要なのだ。

『訳文』は決して華やかな雑誌ではなかった。しかし、その地道な仕事は、中国と世界の文学的交流にとって、なくてはならない架け橋であった。惜しむらくは、このような地味な仕事を理解し、支持する者が少なすぎたことだ。


第5節

私はあの頃、三番目の兄弟子が女を想っていることに驚きはしなかったし、しかも彼が理想とする女がどのような女かも知っていた。人はおそらく彼が想ったのは尼だと思うだろうが、そうではない。和尚の世界と俗世間とは、実は常に一衣帯水の関係にあって、彼は俗世の美しい女を想っていたのだ。

彼は毎日、経を読むふりをしながら、実は窓から遠くの村を眺めていた。時折、農婦が畑で働くのが見えると、彼の目は一瞬輝いた。しかしすぐにまた経典に目を落とし、何事もなかったかのように木魚を叩いた。

師父はもちろん知っていた。しかし何も言わなかった。若い僧侶が女を想うことなど、別に珍しくもないからだ。それは人間の本性であって、仏門に入ったからといって消えるものではない。

三番目の兄弟子はその後、結局は還俗した。聞くところによると、ある村の女と結婚して、真面目に畑を耕しているという。彼にとってはその方がよかったのだろう。仏門にいても心が俗世にあるなら、何の修行にもなるまい。

私がこの話を持ち出すのは、人間の本性というものについて考えるためだ。我々は往々にして本性を抑圧し、体裁のために取り繕う。しかし本性は決して消えるものではない。それを認めた上で、いかに生きるかを考えること——それが真の知恵というものではないだろうか。


第6節

二月十七日の「DZZ」を見ると、ハイネ(H. Heine)の没後八十年を記念して、ヴィリ・ブレーデル(Willi Bredel)が一文を寄せている。ハイネは生前、亡命者としてパリで没し、死後もまた安息を得なかった。彼の祖国ドイツは、今やファシズムの暗黒に覆われている。

ブレーデルはハイネの皮肉な精神を讃えつつ、こう述べている——ハイネの武器は笑いであった。彼は笑いをもって権力者を嘲り、偽善者を暴き、圧制を告発した。しかし彼の笑いの奥底には、深い悲しみと怒りがあった。

これは我々中国の作家にとっても、多くの示唆を含んでいる。諷刺の精神とは、単に人を笑わせることではない。笑いの中に真実を盛り込み、読者の目を覚まさせることにある。ハイネのように、軽妙な筆致の裏に深刻な批判を込めること——これこそが真の諷刺文学なのだ。

しかし我々の時代において、このような諷刺は許されるだろうか。ハイネのドイツもそうであったように、権力者は常に諷刺を恐れる。なぜなら諷刺は、彼らの虚偽を白日の下に晒すからだ。だからこそ、権力者は検閲を強化し、表現の自由を圧殺しようとする。

しかし、歴史が証明しているように、真の文学は決して検閲によって滅ぼされることはない。権力者はいずれ朽ち果てるが、ハイネの詩は永遠に生き続ける。これこそが文学の力であり、諷刺の力である。


第7節

題名はなかなか力がある。作者は、これがすなわち「自己批判」だとは言わないけれども、実際には『八月の郷村』を抹殺する「自己批判」の任務を遂行しているのだ。読んでいくと——

田軍の『八月の郷村』は、東北の農民が日本侵略者に抗して立ち上がる物語を描いた作品である。粗削りな筆致ではあるが、そこには生きた現実がある。しかしある種の批評家たちは、その芸術的な未熟さをあげつらい、全体を否定しようとする。

問題は、彼らが「芸術」の名のもとに政治的な目的を遂行していることにある。「芸術的に未熟だ」という批判は、一見もっともらしく聞こえる。しかしその真意は、抗日の内容を描く作品そのものを封じ込めようとすることにある。

我々はここで、「芸術」と「政治」の関係について考えなければならない。純粋な芸術など存在しない。すべての芸術は、何らかの立場に立っている。「芸術的に未熟だ」と言って一つの作品を全否定することは、その作品が伝えようとする現実をも否定することに他ならない。

田軍の作品が粗削りであることは認める。しかし、その粗削りな筆致の中にこそ、東北の農民たちの血と涙が流れている。磨き上げられた美文の中に空虚な理念を盛り込むよりも、素朴な言葉で生きた現実を描く方が、はるかに価値があるのではないか。


第8節

これはまことに私を「困惑」させた。なぜならスターリン氏らのソヴィエト・ロシア社会主義共和国連邦が世界のあらゆる方面で成功を収めているということは、とりもなおさずトロツキー氏が追放され、漂泊し、落魄し、ついには「やむを得ず」敵の金銭を使うに至った末路の惨めさを証明しているではないか。今の流浪は、革命前のシベリアの当時の風情とは異なるだろう。あの時は恐らくパンを差し入れる人すらいなかったのだから。しかし心境はまた異なるはずで、それは今日のソ連の成功ゆえである。事実は雄弁に勝る。まさかこれほど無情な諷刺が今こうして現れようとは。次に、君たちの「理論」は確かに毛沢東氏らよりはるかに高尚だ。はるかに高尚どころか、片や天上にあり片や地上にある。だが高尚なるがゆえに敬服すべきとはいえ、いかんせんこの高尚さがまさに日本侵略者に歓迎されるものであるとなれば、この高尚さもやはり天から落ちて、地上の最も汚い場所に墜ちざるを得ない。君たちの高尚な理論が日本に歓迎されるがゆえに、私は君たちの印刷もきちんとした刊行物を見て、思わず君たちのために一把の汗を握った。大衆の前で、もし誰かが君たちを攻撃する噂を作り上げて、日本人が金を出して君たちに新聞を出させているのだと言ったなら、君たちはすっきりと潔白を証明できるだろうか。これは決して、以前に君たちの中の誰かが他人に附いて私がルーブルを貰っていると罵ったから、今になってこの手で報復しようというのではない。違うのだ、私はまだそこまで下劣ではない。なぜなら君たちが日本人の金を貰って新聞を出し、毛沢東氏らの一致抗日論を攻撃するほど下劣になるとは信じないからだ。君たちは決してそんなことはしまい。ただ一言忠告しておきたい。君たちの高尚な理論は中国の大衆には歓迎されない。君たちの所業は中国人として現在あるべき道徳に背くものだ。君たちに言いたいことは、ただこの一点のみだ。

最後に、私はいささか不愉快に感じたことがある。それは君たちが突然手紙と書物を私に送ってきたのは、理由のないことではないということだ。すなわち、私のいくつかの「戦友」がかつて私を何々だと指さしたためだ。しかし私は、いかに不出来であろうとも、自ら省みて君たちとはなお相当に隔たっていると思う。あの実直にして、大地にしっかと足を踏みしめ、現在の中国人の生存のために血を流して奮闘する者たち——私が同志と仰ぐのは彼らであり、それを光栄と自認する。ご容赦を請う。三日の期限はすでに過ぎ、君は必ずしもあそこへ取りに行くまいから、この手紙は公開で返答する。謹んで

大安を祈る。

魯迅。 六月九日。

(この手紙は先生が口述し、O.V.が筆記した。)


【現在の我々の文学運動を論ず】

——病中に訪問者に答え、O.V.筆録


「左翼作家聯盟」が五、六年来指導し闘ってきたのは、プロレタリア革命文学の運動である。この文学と運動は一貫して発展してきた。今やより具体的に、より実際的な闘争として、民族革命戦争の大衆文学へと発展した。民族革命戦争の大衆文学は、プロレタリア革命文学の一つの発展であり、プロレタリア革命文学の現段階における真実のより広大な内容である。この種の文学は今すでに存在しており、まさにこの基礎の上で、実際の戦闘生活に培われ、爛漫たる花を開こうとしているのだ。したがって、新しいスローガンの提出を、革命文学運動の停止、あるいは「この道は通ぜず」と看做すことはできない。すなわち、決してこれまでのファシズム反対、一切の反動者への血の闘争を停止したのではなく、この闘争をより深く、より拡大し、より実際的に、より細微曲折にし、闘争を抗日反漢奸の闘争に具体化し、一切の闘争を抗日反漢奸闘争という本流に合流させるのだ。決して革命文学がその階級的指導の責任を放棄するのではなく、その責任をより重く、より大きくし、重くかつ大きくして全民族に、階級と党派を問わず、一致して外に対せしめるのだ。この民族の立場こそ、真に階級の立場なのだ。トロツキーの中国の孫弟子たちは、こんな簡単なことすら分からぬほど愚かなようだ。しかし私の戦友の中にも、逆の「美夢」を見ている者がいるのは、これも極めて愚かな虫けらだと言わざるを得ない。

だが民族革命戦争の大衆文学は、プロレタリア革命文学のスローガンと同様に、おそらく一つの総スローガンであろう。総スローガンの下に、さらに時宜に応じた具体的なスローガン、たとえば「国防文学」「救亡文学」「抗日文芸」……などを提起することは、差し支えないと思う。差し支えないどころか、有益であり、必要である。もちろん多すぎれば人を眩惑させ、混乱させる。

ただし、スローガンを掲げ空論を発するのは極めて容易い。しかし批評に応用し、創作に実現するとなれば、問題が生じる。批評と創作はいずれも実際の仕事である。過去の経験に照らせば、我々の批評はとかく基準が狭すぎ、見方が浅すぎることに流れやすく、我々の創作もまたしばしば題目を出して八股文を作るに近い弱点を露呈した。だから私は今、特にこの点に注意すべきだと思う。民族革命戦争の大衆文学は、決して義勇軍の戦闘や学生のデモ請願……などの作品に限局されるものではない。これらはもちろん最もよいものだが、こう狭くあるべきではない。それはもっと広範であり、現在の中国のさまざまな生活と闘争の意識を描写する一切の文学を包括するほどに広い。なぜなら現在の中国の最大の問題、万人共通の問題は、民族生存の問題だからだ。あらゆる生活(飯を食い眠ることを含め)がこの問題と関わっている。たとえば飯を食うことは恋愛と無関係でありうるが、目下の中国人の飯と恋愛は日本侵略者と多少なりとも関係がある。満洲と華北の情況を見れば明らかだ。そして中国の唯一の出路は、全国一致して日本に対する民族革命戦争である。この点を理解すれば、作家が生活を観察し素材を処理する際に、糸を手繰るように秩序が立つ。作者は自由に労働者、農民、学生、盗賊、娼妓、貧民、富豪——いかなる素材でも書くことができ、書けばすべて民族革命戦争の大衆文学となりうる。作品の末尾にわざと民族革命戦争の尻尾を挿し込んで、旗のように振りかざす必要もない。我々が必要とするのは、作品の後に付け加えたスローガンや取ってつけた尻尾ではなく、作品全体の中の真実の生活、生き生きとした闘争、脈打つ鼓動、思想と情熱——等々なのだ。


(六月十日。)


【「ソ連版画集」序】

——前半の大部分は上掲「ソ連版画展覧会を記す」を参照されたい。《附記》は削除し、以下に接続する。


右の一篇は、本年二月、ソ連版画展覧会が上海で開催された際に、私が書いて『申報』に掲載したものだ。この展覧会は中国に少なからぬ益をもたらした。空想から脚を地につけた写実主義へと向かう者が多く出るだろうと思う。良友図書公司が画集を一冊刊行したいとのことで、私はそれを聞いて非常に喜び、趙家璧氏が選画と序文執筆への参加を希望した時、何の躊躇もなく承諾した。これは私がしたいこと、またすべきことだったのだ。

版画、特に木版画の選択への参加は、かねての約束を果たしたものだが、その後病にかかり、一月余り床に臥して何もできなくなった。序文の締め切りはとうに過ぎたのに、紙一枚持ち上げる力もない有様だった。印刷を止めて私を待つわけにもいかず、やむを得ず旧稿を取って巻頭に置き、責めを塞ぐこととした。ただ、その中で述べたことはなお多少参考に供しうると自負している。読者にお詫びしたいのは、よりによってこんな時に病気になり、新しいものを書けなかったことだ。

この一月来、毎日発熱し、熱の中でも時折版画のことを思い出した。これらの作者のなかに、瀟洒、飄逸、伶俐、玲瓏な者はただの一人もいないと感じた。彼ら一人一人が広大な黒土の化身のごとく、時にはまったく愚鈍にすら見える。十月革命以後、開拓の大家たちは飢えに耐え、寒さに抗し、拡大鏡一つと刀数本をもって、不撓不屈にこの芸術の一分野を切り拓いたのだ。今回は複製ではあるが、大略は残っている。見てもらえば分かる——どの一枚が堅実でないか、懇切でないか、あるいは巧みに取ったり、小賢しいことをしたりする意図があるだろうか。

この画集の出版が中国の読者に良い影響を与え、ソ連の芸術の成果を知るだけに止まらないことを、私は願っている。

一九三六年六月二十三日、魯迅述、許広平記。


【チェコ語訳本】


世界大戦の後、多くの新興国家が現れた時、我々は非常に喜んだものだ。なぜなら我々自身も、かつて圧迫され、もがき出てきた人民だからだ。チェコの興起は、当然我々にとって大きな喜びだった。しかし奇妙なことに、我々はまた非常に疎遠でもあった。たとえば私は、一人のチェコ人も知らず、一冊のチェコの本も見たことがなかった。数年前に上海に来て、ようやく店先でチェコのガラス器を目にしたのだ。

我々は互いにあまり記憶し合っていないようだ。しかし現在の一般的状況からすれば、これは悪いことではない。今日、各国が互いに念々として忘れないのは、おそらく大抵の場合、交情が厚すぎるためではあるまい。もちろん、人類は互いに隔たりなく、関心を持ち合うのが最善だ。しかし最も公正な道は、文芸による疎通しかない。残念なことに、この道を歩む者は歴来ごく少なかった。

意外にも、訳者はこの任務を最初に試みる光栄を、思いがけず私のところに授けてくれた。私の作品が、かくしてチェコの読者の目に触れることになる。これは私にとって、流通の広い他国の言語に訳されるよりもなお嬉しいことだ。思うに、我々両国は民族を異にし、地域も離れ、交流もごく少ないが、互いに理解し近づくことができるはずだ。なぜなら我々はともに困難な道を歩んできたし、今もなお歩みつつ、光明を求めているのだから。


一九三六年七月二十一日、魯迅。


【徐懋庸に答え、併せて抗日統一戦線問題について】


魯迅先生:

ご病気はもうお治りになりましたでしょうか。心にかかっております。先生がご病気になられて以来、文芸界の紛糾もあり、もう親しくご教示を承る機縁もなくなりました。思い出すたびに愴然たる思いがいたします。

私は現在、生活の困難と身体の衰弱のため、やむなく上海を離れ、田舎へ赴いて金になる翻訳の仕事を少しした後、また上海に戻るつもりです。この機会に、しばらく上海「文壇」の局外人となって、すべての問題をじっくり考えてみれば、もう少し明瞭になるかもしれません。

目下のところ、私はどうしても先生がこの半年来の言動によって、無意識のうちに悪しき傾向を助長しておられるように感じます。胡風の性情の狡猾さ、黄源の行為の阿諛を、先生はどちらも察知されず、永久に彼らに私物化され、群衆を眩惑させ、偶像のように祀り上げられている。こうして彼らの野心から出た分裂運動は、もはや収拾がつかなくなっているのです。胡風たちの行動が明らかに私心から出た極端な宗派運動であること、彼らの理論が前後矛盾し、誤りだらけであることは、疑いの余地がありません。たとえば「民族革命戦争の大衆文学」というスローガンも、最初は胡風が「国防文学」に対立させるために提出したものでしたが、後になって一方が総論で他方が附属だと言い、さらに後には一方が左翼文学が現段階に発展したスローガンだと言い出す有様で、こんなぐらぐらした説を、先生でさえ彼らの代わりに辻褄を合わせることはおできにならないでしょう。彼らの言動を打撃することは本来極めて容易ですが、ただ先生が彼らの盾となっておられるため——先生を愛さぬ者がおりましょうか——実際の解決にも文章での闘争にも甚大な困難を感じているのです。

先生のご本意はよく存じております。先生は統一戦線に参加する左翼の戦友たちが元の立場を放棄するのを恐れ、胡風たちの態度が見かけ上はまだ左翼らしいとお思いになった。それで彼らに賛同されたのでしょう。しかし申し上げたいのは、先生が現在の基本的政策を理解しておられないということです。現在の統一戦線——中国のも全世界のも同様に——むろんプロレタリアートを主体としていますが、それが主体たるゆえんは、その名義、特殊な地位や歴史によるのではなく、現実を把握する正確さと闘争能力の巨大さによるのです。だから客観的にはプロレタリアートが主体たるのは当然です。しかし主観的には、プロレタリアートは目立つ徽章を掲げるべきではなく、仕事によってではなく特殊な資格によって指導権を要求し、他の階層の戦友を怖がらせてはなりません。だから目下の時節に、連合戦線の中で左翼のスローガンを提出するのは誤りであり、連合戦線を危うくするものです。ですから先生が最近発表された『病中答客問』で、「民族革命戦争の大衆文学」はプロレタリア文学の現在の一発展だと説明しつつ、これを統一戦線の総スローガンとすべきだとおっしゃったのは、正しくありません。

「文芸家協会」に参加した「戦友」が、一人残らず右傾堕落したわけでは決してありません。先生がご危惧なさるほどのことでは。まして先生のお側に集う「戦友」に巴金や黄源の輩が含まれているのですから、「文芸家協会」の参加者が皆、巴金や黄源にも及ばないとでもお考えなのでしょうか。私は新聞雑誌から、仏独両国の「アナーキスト」が反動的で統一戦線を破壊するさまはトロツキー派と何ら変わりないこと、中国の「アナーキスト」の行為はさらに卑劣であることを知っております。黄源は根本的に思想のない人間で、名流を担ぎ上げることだけで生きてきた輩です。かつて傅氏や鄭氏のもとに奔走していた頃の阿諛の相は、今日先生に忠誠を尽くし敬意を示すのと何ら変わりません。先生はこの手合いと組むことはできても、多数の人々と協力することを厭われる。この理は私にはまことに解せません。

事を見ずして人のみを見るのは、この半年来の先生の誤りの根本原因だと思います。しかも先生の人を見る目は正確ではない。たとえば私個人は、確かに多くの欠点がありますが、先生が私の字の書き方の不明瞭さを大きな欠点だとなさるのは、実におかしなことだと思います。(なぜ私がわざわざ「邱韻鐸」の三字を「鄭振鐸」に見えるように書くでしょうか。鄭振鐸は先生のお気に入りの方なのですか。)このような些事のゆえに、一人の人間を千里の外に拒むのは、正しくないと思います。

今日、もう上海を発ちます。旅の支度に忙しく、これ以上書けません。あるいはすでに書きすぎたかもしれません。以上申し上げたことは、決して先生を攻撃する意図からではなく、まことに先生にさまざまな事柄をよくお考えいただきたいのです。

拙訳『スターリン伝』がまもなく出版されます。出版後一冊お送りいたしますので、原意と訳文ともにご批評を賜りたく存じます。敬んで

ご全快を祈ります。

懋庸拝。 八月一日


以上は、徐懋庸が私に寄越した一通の手紙であるが、彼の同意を得ずにここに発表した。なぜなら中身はすべて私を教訓し他人を攻撃する言葉であり、発表したところで彼の威厳を損なうことはなく、むしろおそらく彼が私に発表させるべく用意した作品なのかもしれない。だが当然、人々はこのことからも見て取るだろう——この差出人こそいささか「悪質な」青年であることを!

だが私は一つ頼みがある。巴金、黄源、胡風の諸先生には、徐懋庸の真似をしないでもらいたい。この手紙の中に彼らを攻撃する言葉があるからといって、歯には歯を、目には目をで応えるなら、それこそ彼の詭計に嵌まることになる。国難を目前にした今日、昼間は御大層なことを言いながら、闇夜にこっそりと離間、挑発、分裂の所業を行う者——それがまさにこの手の人間ではないか。この手紙は計画的なもので、「文芸家協会」に加入していない人々への新たな挑戦だ。相手が応戦するのを待ち、そうなれば「統一戦線の破壊」の罪名、「漢奸」の罪名をかぶせようというわけだ。しかし我々はそうはしない。断じて筆鋒を数人の個人に向け、「安内攘外」を行うようなことは、我々のやり方ではない。

しかし私はここで、いくつかのことを述べておきたい。まず抗日の統一戦線に対する私の態度だ。実のところ、私はすでに何度かの場で述べている。しかるに徐懋庸たちはそれを見ようともせず、ひたすら私に噛みつき、私が「統一戦線を破壊」していると誣告し、「現在の基本的政策を理解していない」と教訓しようとする。徐懋庸たちにどんな「基本的政策」があるのか私は知らない。(彼らの基本的政策とは、私を何口か噛むことではないのか。)しかし中国の現在の革命的政党が全国人民に提出した抗日統一戦線の政策は、私の目に見えているし、私はそれを擁護する。無条件でこの戦線に加入する。その理由は、私が一人の作家であるだけでなく、一人の中国人だからだ。だからこの政策は私にとって非常に正確だと認める。私がこの統一戦線に加入するに当たり、もちろん使う武器は依然として一本のペンであり、する仕事は依然として文章を書き本を訳すことだ。このペンが役に立たなくなった時は、自ら信じて言うが、別の武器を取っても、決して徐懋庸の輩に劣ることはあるまい!


第9節

【「中国新文学大系」小説二集序】



およそ現代中国文学に関心を持つ者なら、『新青年』が「文学改良」を提唱し、後にさらに一歩進んで「文学革命」を号召した先駆者であることを、知らぬ者はいまい。しかし一九一五年九月に上海で創刊された当初は、全篇文語であった。蘇曼殊の創作小説、陳嘏と劉半農の翻訳小説、いずれも文語である。翌年、胡適の「文学改良芻議」が発表されたが、作品としては胡適の詩文と小説だけが白話であった。やがて白話の作者は次第に増えたが、『新青年』は本来論議の刊行物であったため、創作はさほど重視されず、比較的盛んだったのは白話詩のみ。戯曲や小説は依然としてほとんど翻訳に限られていた。

ここで創作短篇小説を発表したのが魯迅である。一九一八年五月から「狂人日記」「孔乙己」「薬」などが陸続と現れ、「文学革命」の実績を示したとされ、また当時「表現の深切さと形式の特異さ」と評されたため、一部の若い読者の心をかなり揺り動かした。しかしこの感動は、実はそれまでヨーロッパ大陸文学の紹介を怠ってきたせいでもある。一八三四年頃には、ロシアのゴーゴリ(N. Gogol)がすでに「狂人日記」を書いていた。一八八三年頃には、ニーチェ(Fr. Nietzsche)もまたツァラトゥストラ(Zarathustra)の口を借りて「汝らは虫から人間への道を歩んできた。汝らの中にはまだ多くの部分が虫である。かつて汝らは猿であり、今なお人間はいかなる猿よりも猿である」と語っていた。しかも「薬」の結末には、明らかにアンドレーエフ(L. Andreev)流の陰鬱さが残っている。だが後発の「狂人日記」は、家族制度と礼教の弊害を暴くことを志し、ゴーゴリの憂憤より深く広く、またニーチェの超人の渺茫さには及ばなかった。その後は外国作家の影響から脱し、技巧はやや円熟し、刻画もやや深まった「肥皂」「離婚」などがあるが、一方で熱情も減退し、読者の注目を集めなくなった。

『新青年』から、これ以外に格別な小説作家は育たなかった。

むしろ多かったのは『新潮』上である。一九一九年一月の創刊から、翌年、主幹たちが留学に出て消滅するまでの二年間に、小説の作者は汪敬熙、羅家倫、楊振声、兪平伯、欧陽予倩、葉紹鈞を数えた。むろん技術は幼稚で、しばしば旧小説の書法と語調を残し、しかも平板に叙述して一気に余すところなく、あるいは偶然の一致が過ぎて、一瞬の間に一人の上にあらゆる堪え難い不幸が集中する。しかしまた一つの共通した前進の傾向があった。当時の作者たちの中に、小説を超俗の文学と見做し、芸術のため以外には何ものでもないとする者は、一人もいなかったことだ。彼らは一篇ごとに「なすところあって」発したのであり、社会改革の道具として用いていた——たとえ究極の目標を設定してはいなかったとしても。

兪平伯の「花匠」は、人々は矯飾を排し自然に任せるべきだと主張し、羅家倫の作品は婚姻不自由の苦痛を訴えたもので、やや浅露の嫌いはあるが、まさに当時多くの知識青年の共感であった。イプセン(H. Ibsen)の「人形の家」と「幽霊」を導入する機運も、ちょうどこの時に熟したのだが、「人民の敵」と「社会の柱石」にまでは思い至らなかった。楊振声は民間の疾苦を描くことに力を注ぎ、汪敬熙はさらに笑みを浮かべながら、優等生の秘密と貧しい人々の災厄を暴いた。だが結局のところ上層の知識人であるため、筆先はどうしても身辺の瑣事と庶民の生活との間を行きつ戻りつした。後に欧陽予倩は劇本に力を注ぐようになり、葉紹鈞にはさらに遠大な発展があった。汪敬熙はまた『現代評論』に創作を発表し、一九二五年に自選集『雪夜』を一冊出したが、ついに自覚しなかったのか、あるいは往時の奮闘を忘れたのか、自分の作品には「何ら人生を批評する意義はない」と述べるに至った。その序文に云う——

「私がこれらの短篇小説を書いた時、忠実に私が見たいくつかの人生経験を描写しようと力めた。私はただ描写の忠実さを求め、いささかの批評的態度も差し挟まなかった。むろん人が事実を叙述する時、その描写は人生観の影響を免れえないが、私は可能な範囲で客観的態度を保つことに力を尽くした。

この客観的態度を持したがゆえに、私のこれらの短篇小説には何ら人生を批評する意義はない。私はただ私が見たいくつかの経験を読者に示しただけだ。読者がこれらの小説を読んでどのような評論を抱くかは、私の関知するところではない。」

楊振声の文筆は「漁家」よりもさらに活き活きとしたが、かえって往時の戦友汪敬熙と正反対の立場に立った。彼は「主観に忠実でありたい」、人工的に理想の人物を造り出したいと望んだ。しかも自分の理想だけでは不安で、何人かの友人にも相談し、何度か削改して、ようやく中篇小説「玉君」を完成した。その自序に曰く——

「もし玉君は実在かと問われたなら、答えはこうだ——小説家で本当のことを言う者はいない。本当のことを言うのは歴史家であり、嘘を言うのが小説家だ。歴史家が用いるのは記憶力、小説家が用いるのは想像力。歴史家が取るのは科学的態度で、客観に忠実であろうとする。小説家が取るのは芸術的態度で、主観に忠実であろうとする。一言で蔽えば、小説家も芸術家と同じく、天然を芸術化しようと欲する。すなわち己の理想と意志をもって天然の欠陥を補おうとするのだ。」

彼はまず「天然を芸術化しよう」と決め、唯一の方法は「嘘を言う」ことであり、「嘘を言うのが小説家」だとした。かくしてこの定律に従い、かつ衆議を博して「玉君」を創り上げた。しかし、これは必然である——操り人形に過ぎず、その誕生はすなわち死であった。我々はその後、この作家の創作を二度と見ることはなかった。



「五四」事件が勃発するや、この運動の大本営たる北京大学は盛名を負ったが、同時に艱険にも遭った。ついに『新青年』の編集中枢は上海に戻らざるを得なくなり、『新潮』群の健将たちは大半が遠くヨーロッパやアメリカへ留学に去った。『新潮』という雑誌も、大々的に予告しておきながら今に至るまで出版されていない「名著紹介」をもって収場し、国内に残された社員たちへの遺産は一万部の「孑民先生言行録」と七千部の「点滴」であった。創作は衰歇し、人生のための文学も当然衰歇した。

しかし上海にはなお人生のための文学の一群がいた。ただし、文学のための文学の一群もまた崛起した。ここで触れるべきは弥洒社である。一九二三年三月に出版された『弥洒』(Musai)上で、胡山源が書いた「宣言」(「弥洒臨凡曲」)が我々にこう告げている——

「我等は芸文の神なり、 我等は己が何に由りて生じたかを知らず、 また何のために生じたかを知らず——」


第10節

誠に、簡朴ではあるが、あるいは作者自ら謙遜して言うところの「幼稚」ではあるが、文飾が少なく、彼の心の哀愁を書き表すには十分である。彼の描写する範囲は狭く、人物はみな古い知識人の殻から脱しきれていない。しかしその哀愁は真実のものであり、読む者の胸に染み入る。

これらの初期の作家たちに共通しているのは、彼らがみな「何かのために」書いていたということだ。純粋な芸術のためではなく、社会を変革するための道具として文学を用いていた。もちろんその「道具」としての使い方は未熟だったし、時に直截すぎて芸術性を損なうこともあった。だが少なくとも彼らには、文学を通じて何かを変えようという情熱があった。

しかし情熱だけでは文学は成り立たない。技巧もまた必要だ。そして技巧は、創作と批評の不断の往復によってのみ磨かれる。当時の中国文壇に欠けていたのは、まさにこの往復のメカニズムだった。批評家は往々にして自らの政治的立場から作品を裁断し、作家もまた批評を恐れるあまり萎縮した。

真の文学の発展のためには、自由な創作と正直な批評が不可欠だ。しかしこの二つが同時に存在することは、どの時代においても稀なことだ。特に我々のように、内憂外患に苦しむ国においては、なおさらである。


第11節

「今回の太学生の試験で、国文の題目は、文科が『士はまず器識にして後に文芸』、理科が『擬南粤王の漢文帝に復する書』であり、併せて漢文帝の原書をも参照させた……」

ここに至って我々は思わず苦笑する。試験の題目がすでにこのように古めかしいのだから、受験生が「別字」を書くのも無理からぬことだ。文語の教育はすでに形骸化し、学生たちは試験のために暗記するだけで、その意味を真に理解しているわけではない。

問題の根本は、教育制度にある。我々は文語と白話の狭間で揺れ動いてきた。文語を廃して白話に統一すべきだという主張は、もう何年も前からある。しかし実際には、教育の現場では依然として文語が幅を利かせている。

この矛盾が生み出すものは何か——それは、文語も白話も中途半端にしか使えない世代である。彼らは文語の精髄を理解することもなく、白話の力強さを発揮することもできない。いわば二つの言語の間に宙づりにされた状態だ。

言語の問題は、単なる技術的な問題ではない。それは思想の問題であり、社会の問題だ。どの言語で考え、どの言語で表現するかは、その人の世界の見方を決定する。旧い言語に縛られたままでは、新しい思想は生まれない。

だからこそ、言語の改革は急務なのだ。しかしそれは、単に旧字を新字に変えるとか、文語を白話に変えるという程度の改革では足りない。根本的な教育の変革が必要なのだ。


第12節

開場前からすでに、これが普通の芝居ではないことが見て取れた。なぜなら舞台の両脇には早くから紙の帽子がずらりと掛けられていたからだ。すなわち高長虹のいわゆる「紙で作った偽の冠」である。

これは一つの見世物だ。芝居と見世物の違いは何か。芝居は虚構の世界を通じて真実を照らし出すものであり、見世物は現実そのものを娯楽として供するものだ。しかし我々の文壇の「芝居」は、往々にしてこの見世物に堕してしまう。

文人たちは互いに貶し合い、互いに持ち上げ合う。今日は誰それを批判し、明日は誰それと和解する。このような「芝居」は、読者にとってはなるほど面白い見世物かもしれない。だが文学そのものの発展には、何の益もない。

問題は、この種の「芝居」が往々にして文学論争の外衣を纏っていることだ。表面上は文学的な議論のように見えるが、実際には個人的な恩怨や権力闘争に過ぎない。真の文学論争とは、作品の内容と形式をめぐる真摯な議論のことであって、人身攻撃の応酬ではない。

我々がいつになったら、この見世物から脱却し、真の文学論争を行えるようになるのか。私は甚だ悲観的だ。なぜなら、見世物の方が遥かに面白く、人の耳目を集めやすいからだ。そして文壇の人々もまた、真摯な議論よりも派手な喧嘩の方を好む傾向がある。


第13節

「辱華映画」を見ないことは、自分にとって何の益もない。自分が見ないだけで、目を閉じて腫れぼったい顔をしているに過ぎないのだから。しかし見ておいて反省しないのも、これまた何の益もない。

ここに問題の核心がある。見ることと見ないことの間には、実は大きな違いはない。重要なのは、見た後にどう考え、どう行動するかだ。

我々中国人が外国映画の中でどのように描かれているか——それを知ることは不愉快だが、必要なことだ。不愉快であるからこそ、現実を直視し、改めるべきところを改める契機となりうる。しかし不愉快なものを見ないようにするだけでは、現実は何も変わらない。

もちろん、すべての「辱華映画」が正確な中国の姿を映しているわけではない。偏見もあれば、誇張もあり、まったくの捏造もある。しかし、その中に一片の真実が含まれていないとは限らない。その真実の部分にこそ、我々は目を向けるべきなのだ。

抗議だけでは十分ではない。自ら変わること——それが最も有効な反駁だ。もし我々が本当に立派な国となれば、いかなる映画も我々を辱めることはできない。しかし自ら変わる努力をせずに、ただ映画を禁止しろ、見るなと叫ぶだけでは、それこそ「目を閉じて腫れぼったい顔をしている」のと何も変わらない。


第14節

靖華は未名社の一員である。未名社はもっぱら北京に置かれ、地道に実務に励み、大声で騒ぎ立てることを好まない小さな団体だった。しかしそれでも理不尽な災禍を蒙り、事端にも巻き込まれた。

未名社の人々は、華やかさとは無縁だった。彼らは黙々と翻訳し、黙々と出版した。世間の注目を浴びることもなく、文壇の喧騒にも加わらなかった。しかし彼らの仕事は着実で、その翻訳は誠実だった。

靖華——曹靖華はその中でも特に地道な人物だった。彼はロシア文学に通じ、多くの重要な作品を中国語に訳した。その翻訳は華麗ではないが、正確で誠実だ。

私はこのような人物こそが、文化の発展に真に貢献する者だと思う。華やかなスローガンを掲げ、派手な論争を繰り広げる者よりも、黙々と翻訳や創作に励む者の方が、はるかに多くのことを成し遂げる。

靖華は今も変わらず、黙々と仕事を続けている。彼のような人物は、文壇では目立たない存在だ。しかし文学の真の発展は、まさにこのような目立たない人々の地道な努力によって支えられているのだ。彼の著作集にこの序を寄せることは、私にとって喜びである。


第15節

【論諷刺】


我々はしばしば一種の先入観を免れない。諷刺作品を見ると、これは文学の正道ではないと感じるのだ。なぜなら我々はまず、諷刺は美徳ではないと思い込んでいるからだ。しかし社交の場に赴けば、しばしばこのような光景を目にすることができる——二人のふくよかな紳士が、互いに腰を折り手を拱いて、油光りする満面のまま会話を始めるのだ——

「お名前は?……」

「手前は銭と申します。」

「おお、かねがねお噂は! まだ字をお伺いしておりませんでしたが……」

「草字は闊亭でございます。」

「高雅でございますな。お住まいは?」

「上海でございますが……」

「おお、それはまことに結構で……」

誰が奇異に感じようか。しかしこれを小説に書けば、人々はまた別の目で見るだろう。おそらく大概、諷刺に数えられるに違いない。事実をそのまま書くだけの作家の多くが、こうして「諷刺家」——良し悪しは言い難い——の肩書を冠せられてきた。たとえば中国では、「金瓶梅」が蔡御史の自謙と西門慶への恭維を「恐らく我は安石の才に及ばず、されど君には王右軍の高致あり!」と書き、「儒林外史」が范挙人の喪中のため象牙の箸すら使わぬのに、食事の時には「燕の巣の碗から大きな海老団子を摘んで口に入れた」と書いた。これと似た状況は今でも遭遇しうる。外国では、近頃中国の読者にも注目されるようになったゴーゴリの作品がそうだ。彼の「外套」(韋素園訳、「未名叢刊」所収)に出てくる大小の官吏、「鼻」(許遐訳、「訳文」所収)に出てくる紳士、医者、暇人の類の典型は、現在の中国でも遭遇しうるものだ。これは明らかに事実であり、しかも極めて広汎な事実だ。しかし我々はこれをみな諷刺と呼ぶ。

人は大抵名を残したいと思う。生きている時は自伝を書き、死ねば誰かに訃文を出してもらい、行実を書いてもらいたい。甚だしきに至っては「国史館に宣付して立伝」を望む。人はまた自らの醜さをまったく知らないわけではない。しかし改めようとはせず、ただ時とともに消えて痕跡を留めず、残るのは美点——たとえばかつて粥を施して飢えを救ったなどの——だけであることを望む。全体ではなく。「高雅でございますな」——彼自身、いささか気色が悪いことは承知している。しかしまた、言ってしまえばそれきり、「本伝」には決して載らないと知っているがゆえに、安心して「高雅」し続けるのだ。もし誰かがそれを記録し、消滅させないなら、彼は不快に思うだろう。そこで知恵を絞って反撃に出る。これらは「諷刺」なのだと、作者の顔に泥を塗って自分の真相を覆い隠そうとする。だが我々もまた、考える暇もなくつい言ってしまうのだ。「これらは諷刺だ!」と。まんまと騙されることの何と甚だしいことか。

同じ例の一つに、いわゆる「罵り」がある。仮に四馬路に行って、私娼が客を引いているのを見かけ、大声で「野鶏が客引きしている」と言えば、彼女に「人を罵っている」と罵られるだろう。人を罵るのは悪徳だ。かくして君はまず悪い方に判定される。君が悪ければ、相手は良いことになる。しかし事実は、確かに「野鶏が客引きしている」のだ。ただ心の中で知っているだけで、口に出せない。万やむを得ない時にも、「お姉さんが商売をしている」と言うしかない。ちょうど腰を折り手を拱く輩については、文章にする時には「謙にして人に接し、虚にして物に応ず」と改めねばならないように。——これでこそ罵りではなく、これでこそ諷刺ではない。

実のところ、現在のいわゆる諷刺作品は、大抵は写実にほかならない。写実でなければ、いわゆる「諷刺」とはなりえない。写実でない諷刺は、たとえそのようなものが存在しうるとしても、でっち上げと誣いに過ぎない。


(三月十六日。)


第16節

【「別字」から話を広げて】

別字を書くことの議論から現在の手書き字の提唱に至るまで、その間の経過はおそらく一年余りにもなるだろう。私自身は何も言わなかったと記憶している。これらの事柄に私は反対ではないが、さりとて熱心でもない。なぜなら方塊字(漢字)そのものがすでに死に至る病であり、人参を少々飲ませるとか、何か手立てを考えるとか、なるほど延命は多少できるかもしれないが、結局は救い難いのだから、この問題にはあまり注意を払ってこなかったのだ。

数日前、『自由談』で陳友琴氏の「活字と死字」を読み、旧事を思い出した。彼はそこで、北大の入試で受験生が誤字を書いたことに触れ、「劉半農教授が打油詩で嘲弄したのは、むろんよくないことだ」が、私が「曲げて弁護するのも大いに不必要」だと述べている。その受験生の誤字とは「倡明」を「昌明」と書いたことであり、劉教授の打油詩は「倡」を「娼妓」と解したもの、私の雑感は「倡」が必ずしも「娼妓」と解されるとは限らないと述べたもので、これはなお「曲」説ではないと自負している。「大いに不必要」という評については、なかなか意味深い。一人の人間の言行は、他人から見れば「大いに不必要」な点が多いものだ。そうでなければ、全国の人々が一人であるかのようになってしまう。


第17節

【田軍著「八月の郷村」序】


エレンブルグ(Ilia Ehrenburg)はフランスの上流社会の文学を論じて、かつてこう言ったことがある——彼らの作品には「生活」がない。金箔で飾られた空っぽの箱のようなものだ、と。

田軍の「八月の郷村」は、これとはまったく正反対だ。ここには溢れんばかりの「生活」がある。それも、装飾された居間の生活ではなく、銃火と血と泥にまみれた東北の農民の生活だ。

この作品は決して完璧ではない。構成には粗があり、文章には推敲の足りぬ箇所もある。しかしそれを補って余りあるのは、その圧倒的な生命力だ。作者は実際に義勇軍に従い、実際に戦闘を経験した。その体験が、一字一句に力を与えている。

文学においては、安楽椅子に座って構想を練るよりも、大地に足をつけて体験することの方が、はるかに重要な場合がある。この作品はまさにその証左だ。

私がこの序を書くのは、この作品が完璧だからではない。この作品が真実だからだ。そして今の中国に最も必要なのは、まさにこの真実の文学なのだ。


第18節

【徐懋庸著「打雑集」序】


中国は時として極めて平等を愛する国だと思う。何か少しでも目立つものがあれば、すぐに人がやってきて引きずり下ろそうとする。「打雑」すなわち雑用をこなすという言葉も、実はこのような平等主義の産物かもしれない。

知識人が文章を書くことは、ある人々の目には「特権」と映る。しかし文章を書くことが「特権」であるなら、雑用をこなすこともまた一つの「特権」だ。なぜなら、真の雑用は、何でもこなせるだけの能力を必要とするからだ。

徐懋庸の文章は、まさにこの「打雑」の精神に貫かれている。彼は特定の分野に固執せず、時事を論じ、文学を語り、翻訳もする。その一つ一つは必ずしも深い専門性を備えているわけではないが、いずれも誠実で、真剣で、読者に考えさせる力がある。

我々の時代には、このような「雑」な文章が必要だ。なぜなら我々の直面する問題そのものが、「雑」だからだ。政治、経済、文化、教育——あらゆる問題が絡み合い、一つの専門だけでは太刀打ちできない。「打雑」のできる知識人こそ、この時代に最も求められる人材なのだ。


第19節

【人生は字を識りて胡塗に始まる】


中国の成語には「人生識字憂患始」しかない。「胡塗に始まる」というのは私が作り変えたものだ。

子供たちは字を覚える前、世界をありのままに受け入れている。花は花であり、犬は犬だ。しかし字を覚えた途端、世界は言葉によって媒介されるものとなり、直接の経験と言葉の間にずれが生じ始める。これが「胡塗」、すなわち混乱の始まりだ。

もちろん、字を覚えなければ知識を得ることはできないし、文明の恩恵に与ることもできない。しかし字を覚えることの代価として、我々は世界を直接に感じる能力を少しずつ失っていく。言葉に頼れば頼るほど、言葉と現実の間の溝は深くなる。

とりわけ危険なのは、言葉を現実そのものと取り違えることだ。「仁義道徳」という言葉を唱えれば、仁義道徳が実現したと思い込む。「民主自由」という言葉を掲げれば、民主自由が達成されたと信じる。言葉はいつの間にか、現実を変える手段から、現実を隠蔽する道具に変質する。

だからこそ、「人生識字胡塗始」なのだ。字を識ることの危うさを自覚してこそ、言葉を正しく使うことができる。


第20節

【文人相軽】


古来同じ言葉を繰り返し言うのは飽きられるものだ。いわゆる文壇では、一昨年「文人無行」と一度騒ぎ、昨年は――

「文人相軽」は曹丕の「典論」に遡る古い話だが、今日なお新鮮であり続けるのは、文人の本質が変わっていないからだろうか。それとも社会の構造が変わっていないからだろうか。

文人が互いに軽んじ合うのは、実は「文」そのものの性質に由来する。文学には客観的な基準がない。科学であれば、実験によって正否を判定できる。しかし文学においては、何が優れた作品で何がそうでないかについて、万人の一致する基準は存在しない。だからこそ、文人たちは自分の基準を唯一のものと信じ、他者を軽蔑するのだ。

しかしより根本的な原因は、中国の文人が経済的に自立できないことにある。限られた地位と収入をめぐって争い合わざるを得ない状況が、「文人相軽」を不可避のものにしている。もし文人が経済的に豊かであれば、他者を軽んじる必要もあるまい。

だが現実はそうではない。だから我々は、「文人相軽」を嘆きつつも、それが構造的な問題であることを認識し、個人の道徳に帰してはならない。


第21節

【「京派」と「海派」】

昨年の春、京派の大家がかつて大いに海派の道化を嘲笑し、海派の道化もまた小さく京派の大家にやり返したことがあった。

「京派」と「海派」、すなわち北京流と上海流の対立は、中国文壇の古くからの構図である。京派は典雅を旨とし、海派は通俗を尊ぶ。京派は学院の中に安住し、海派は市場の中で奮闘する。互いに相手を蔑み、互いに自らの正統性を主張する。

しかし実のところ、京派と海派の対立は、文学そのものの対立ではなく、生活様式の対立に過ぎない。北京の文人は官費や学校の俸給で生活し、上海の文人は原稿料で生活する。この経済的基盤の違いが、文学の態度の違いを生むのだ。

官費で暮らす者は悠然として「芸術のための芸術」を唱えることができる。原稿料で暮らす者は読者の嗜好を無視できない。どちらが高尚で、どちらが低俗かという問題ではない。それは単に、生存条件の違いの反映に過ぎないのだ。

したがって、京派が海派を嘲笑し、海派が京派を攻撃するのは、いずれも見当違いだ。真に批判すべきは、文人をこのような対立に追い込む社会の構造そのものではないだろうか。


第22節

【鎌田誠一墓記】


君は一九三〇年三月に上海に至り、図書の出納に従事した。勤勉にして謹厳、かたわら絵画の修練にも励み、斐然として成果を上げた。その半ばにして病に罹り、遂に再び起つことができなかった。

鎌田誠一は日本人でありながら、中国の文化事業に身を捧げた人物である。内山書店で働きながら、中国の版画に深い関心を寄せ、自らも制作に励んだ。彼は異国の地で、黙々と、しかし確実に、日中の文化交流の一端を担っていた。

人の一生の価値は、その長さによって量れるものではない。鎌田君は若くして世を去ったが、その短い生涯の中で、彼は自らの仕事に真摯に向き合い、異国の文化を尊重し、自らの芸術を追求した。これは決して小さなことではない。

私がこの墓碑の文を記すのは、彼の人となりを偲ぶためであるとともに、このように静かに、しかし確かに、国境を越えた文化の架け橋となった人物がいたことを、後世に伝えたいからだ。


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