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怎么办呢?
这几天,华西理·彼得略也夫前途失了希望,意气沮丧,好象在大雾里过活一般。
在三月革命终结之春的有一天,母亲威吓似的说道:
“等着罢,等着罢,魔鬼们。一定还要同志们互相残杀的。”
阿,华西理那时笑得多么厉害呵?
“妈妈,你没有明白……到了现在,那里还会分裂成两面呢?”
“对的,我不明白,”母亲说。“母亲早已老发昏,什么也不明白了。只有你们,却聪明的了不得。……但是,看着罢,看着就是了。……”
现在母亲的话说中了……大家开始互相杀戮。伊凡进了白军,而旧友的工人——例如亚庚——却加入红军去。合同一致是破裂了。一样精神,一样境遇的兄弟们,都分离了去参加战斗。这是奇怪的不会有的事;这恐怖,还没有力量够来懂得它。……
伊凡去了。
那一天,送了他去的华西理便伫立在街头很长久,听着远远的射击的声音。从地上弥漫开来的雾气,烟似的浓重地爬在地面上,沁入身子里,令人打起寒噤来。工人们集成队伍,肩着枪,腰挂弹药囊,足音响亮地前去了,但都穿着肮脏的破烂的衣服。恐怕是因为免得徒然弄坏了衣服,所以故意穿了顶坏的罢。
他觉得这些破落汉的乌合之众,在武装着去破坏市街和文化了。他们大声谈天,任意骂詈。
一个高大的,留着带红色的疏疏的胡须的,两颊陷下的工人,夹在第一团里走过了。华西理认识他。他诨名卢邦提哈,在普列思那都知道,是酒鬼,又会偷,所以到处碰钉子,连工人们一伙里也都轻蔑他。然而现在卢邦提哈肩着枪,傲然走过去了。华西理不禁起了嘲笑之念。
“连这样的都去……”
然而和卢邦提哈一起去的,还有别的工人们——米罗诺夫和锡夫珂夫,他们是诚实的,可靠的,世评很好的正经的人们。米罗诺夫走近了华西理。
“同志彼得略也夫,为什么不和我们一道儿去的?打布尔乔亚去罢。”
两手捏着枪,精神旺盛的他,便露出洁白的牙齿,微笑了。
“不,我不去,”华西理用了无精打采的声音,回答说。
“不赞成么?那也没有什么,各有各的意见的。”米罗诺夫调和底地说,又静静地接下去道:
“但你可有新的报纸没有?……要不是我们的,不是布尔塞维克的,而是你们的……有么?给我罢。”
华西理默着从衣袋里掏出昨天的报纸《劳动》来,将这递给了米罗诺夫。
“多谢多谢。我们的报纸上登着各样的事情,可是真相总是不明白。看不明白……”
他接了报章,塞进衣袋里面去。
华西理留神看时,他的大而粗糙的手,却在很快地揉掉那报章。
“那么,再见。将来真不知道怎样,”他笑着,又露一露雪白的牙齿,追着伙伴跑去了。
工人们接连着过去。他们时时唱歌,高声说话,乱嚷乱叫。好象以为国内战争的结果,是成为自由放肆,无论说了怎样长的难听的话,也就毫无妨碍似的。
连十六七岁的学徒工人也去了,而且那人数多,尤其是惹人注目样子。
智慧的人们和愚蠢的人们,卢邦提哈之辈和米罗诺夫之辈,都去了。
战斗正剧烈,枪声不住地在响。
巴理夏耶·普列思那的角角落落上,聚集着许多人。店铺前面,来买粮食的人们排得成串,红军的一伙,便在这些人们里面消失了。
华西理回了家。
母亲到门边来迎接他,但在生气,沉着脸。
“走掉了?”她声气不相接地问。
“走掉了。”
母亲垂下头,仿佛看着脚边的东西似的,不说什么。
“哦,”他于是拉长了语尾,默默地驼了背,就这样地离开门边,顿然成为渺小凄凉的模样了。
“今天又要哭一整天了罢,”华西理叹息着想。“玉亦有瑕。……”[24]
华尔华拉跑到门边来了。她用了一夜之间便已陷了下去的,发热的,试探一般的眼睛,凝视着华西理的脸。
“没有看见亚庚么?”
“我没有走开去。单是送一送哥哥……”
“那么,就是,他也去了?”
“去了。……”
华尔华拉站起身,望一望街道。
“我就去,”她坚决地说。
“那里去呀?”华西理问道。
“寻亚庚去。我将他,拉到家里,剥他的脸皮。要进什么红军。该死的小鬼。害得我夜里睡不着。要发疯……他……他……他的模样总是映在我眼里……”
华尔华拉呜咽起来,用袖子掩了脸。
“亚克……亚庚谟式加,可怜的……唉唉,上帝呵……他在那里呢?”
“但你先不要哭罢,该不会有什么事的。”华西理安慰说:“想是歇宿在什么地方了。”
然而是无力的安慰,连自己也豫感着不祥。
“寻去罢,”华尔华拉说,拭着眼睛,“库慈玛·华西理支肯同我去的。寻得着的罢。”
华西理要安慰这机织女工,也答应同她去寻觅了。
一个钟头之后,三个人——和不放他出外的老婆吵了嘴,因而不高兴了的耶司排司,机织女工和华西理——便由普列思那往沙陀伐耶街去了。街上虽然还有许多看热闹的人,但比起昨天来,已经减少。抱着或背着包裹,箱箧,以及哭喊的孩子们的无路可走的人们,接连不断地从市街的中央走来。
射击的声音,起于尼启德门的附近,勃隆那耶街,德威尔斯克列树路,波瓦尔司卡耶街这些处所,也听到在各处房屋的很远的那边。耶司排司看见到处有兵士和武装了的工人的队伍,便安慰机织女工道:
“一定会寻着的,人不是小针儿……你用不着那么躁急就是。”
机织女工高兴起来,将精神一提,一瞥耶司排司,拖长了声音道:
“上帝呵,你……”
她一个一个,遍跑了武装的工人的群,问他们看见红军兵士亚庚·罗卓夫没有。
“是的,十六岁孩子呵。穿发红的外套,戴灰色帽子的……可有那一位看见么?”
她睁了含着希望的眼,凝视着他们,然而无论那里,回答是一样的:
“怎么会知道呢?因为人多得很。……”
有时也有人回问道:
“但你寻他干什么呀?”
于是机织女工便忍住眼泪,讲述起来:
“是我的儿子呵,我只有这一个,因为真还是一个小娃娃,所以我在担心的,生怕他会送了命。”
“哦!但是,寻是不中用的,一定会回去。”
没心肝地开玩笑的人,有时也有:
“如果活着,那就回来……”
机织女工因为不平,流着泪一段一段只是向前走,沉闷了的不中用的耶司排司一面走,一面慌慌张张回顾着周围,华西理跟在那后面。
两三处断绝交通区域内,没有放进他们去。
“喂,那里去?回转!”兵士们向她喊道。“在这里走不得,要给打死的!”
三个人便都默然站住,等着能够通行的机会。站住的处所,大抵是在街的转角和角落里,这些地方,好象池中涌出的水一般,过路的和看热闹的成了群,默默地站在那里,仿佛不以为然似的看着兵士和红军的人们。
站在诺文斯基列树路上时,有人用了尖利的声音,在他们身边大叫道:
“擎起手来!”
机织女工吃了惊,回头看时,只见一个短小的,麻脸的兵士在叫着:
“统统擎起手来!”
群众动摇着,擎了手。母亲带着要往什么地方去的一个七岁左右的男孩子,便裂帛似的大哭起来。
“这里来,同志们!”那兵士横捏着枪,叫道。“这里,这里这里……”
兵士和红军的人们,便从各方面跑到。
“怎了?什么?”
他们一面跑,一面捏好着枪,准备随时可开放。群众悚然,脸色变成青白了。
“有一个将校在这里,瞧罢!”
兵士说着,用枪柄指点了混在群众里面的一个人。别的兵士们便将一个穿厚外套,戴灰色帽,苍白色脸的汉子,拖到车路上。耶司排司看时,只见那穿外套的人脸色变成铁青,努着嘴。
麻脸的兵士来剥掉他的外套。
“这是什么?瞧罢!”
外套底下,是将校用外套,挂着长剑和手枪。
“唔?他到那里去呀?”兵士愤愤地问道。“先生,您到那里去呢?”将校显出不自然的笑来。
“慢一慢罢,您不要这么着急。我是回家去的。”
“哼?回家?正要捉拿你们哩,却回家!到克莱谟林去,到白军去的呵。我们知道。拿出证明书来瞧罢。”
将校取出一张纸片来,那麻子兵士就更加暴躁了:
“除下手枪!交出剑来!”
“且慢,这是什么理由呢?”
“唔,理由?除下来!狗入的!……打死你!”兵士红得象茱萸一样,大喝道。
将校变了颜色,神经底地勃然愤激起来,但围在他四面的兵士们,却突然抓住了他的两手。
“吓,要反抗么?同志们,走开!”
麻脸的兵士退了一步,同时也用枪抵住了将官的头……在谁——群众,兵士们,连将校自己——都来不及动弹之际,枪声一响,将校便向前一跄踉,又向后一退,即刻倒在地上,抖也不抖,动也不动了。从头上滚滚地流出鲜血来。
“唉唉,天哪!”群众里有谁发了尖利的声音,大家便如受了指挥一般,一齐拔步跑走了。最前面跑着长条子的耶司排司,在后面还响了几发的枪声。兵士们大声叫喊,想阻止逃走的群众,然而群众还是走。机织女工叹着气,喘着气,和华西理一直跑到了动物园。
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どうすればよいのか?
この数日、華西理・彼得略也夫は前途に希望を失い、意気消沈し、まるで濃霧の中で暮らしているような有様であった。
三月革命が終結した春のある日、母親は威嚇するように言った:
「待っていなさい、待っていなさい、悪魔ども。きっとまた同志たちが互いに殺し合うことになる。」
ああ、華西理はその時どれほど激しく笑ったことか?
「お母さん、あなたは分かっていない……今となって、どこに分裂する理由があるというのです?」
「そうね、私は分からない」と母親は言った。「母親はもう年を取ってぼけてしまい、何も分からなくなった。あなたたちだけが、とても聡明なのね。……でも、見ていなさい、見ていればいいのよ……」
今、母親の言葉が的中した……みんなが互いに殺戮を始めたのだ。伊凡は白軍に入り、旧友の労働者たち──例えば亚庚──は赤軍に加わった。団結一致は破綻した。同じ精神、同じ境遇の兄弟たちが、皆別れて戦闘に参加していった。これは奇妙で起こりえないことであり、この恐怖を理解するだけの力はまだ足りなかった……
伊凡は去った。
その日、彼を見送った華西理は街頭に長い間立ち続け、遠くからの銃声を聞いていた。地面から立ち上る霧が、煙のように濃く地面を這い、身体に浸み込んで、人を震え上がらせた。労働者たちは隊列を組み、銃を担ぎ、腰に弾薬嚢をぶら下げ、足音高らかに向かっていったが、皆汚れたぼろぼろの服を着ていた。おそらく無駄に服を汚すのを避けるため、わざと一番悪い服を着たのであろう。
彼はこれらの落ちぶれた烏合の衆が、武装して街と文化を破壊しに行くのだと感じた。彼らは大声で話し、勝手に罵詈雑言を吐いた。
背が高く、赤みがかった疎らな髭を生やし、両頬のこけた労働者が、第一団に混じって通り過ぎた。華西理は彼を知っていた。彼のあだ名はルボンチハといい、プレスナ一帯で知られた酒飲みで、泥棒もする男で、どこでも冷遇され、労働者の仲間からも軽蔑されていた。しかし今ルボンチハは銃を担ぎ、傲然と通り過ぎて行った。華西理は思わず嘲笑の念を起こした。
「こんな者まで行くとは……」
しかしルボンチハと一緒に行くのは、他の労働者たち──ミロノフやシフコフもいて、彼らは誠実で信頼でき、世間の評判も良い真面目な人々であった。ミロノフが華西理に近づいてきた。
「同志彼得略也夫、なぜ我々と一緒に来ないのですか?ブルジョアを討ちに行きましょう。」
両手で銃を握り、精神旺盛な彼は、白い歯を見せて微笑んだ。
「いや、私は行かない」華西理は元気のない声で答えた。
「賛成しないのですか?それも構いません、それぞれ意見があるものです」ミロノフは調和的に言い、また静かに続けた:
「でも新しい新聞はありませんか?……我々のではなく、ボルシェヴィキのでもなく、あなた方の……ありますか?ください。」
華西理は黙って衣袋から昨日の新聞『労働』を取り出し、これをミロノフに渡した。
「ありがとうございます。我々の新聞には色々なことが載っていますが、真相はいつも分からないのです。理解できない……」
彼は新聞を受け取り、衣袋の中に押し込んだ。
華西理がよく見ると、彼の大きくて粗い手が、その新聞を素早く揉みくちゃにしていた。
「それでは、さようなら。将来どうなるか本当に分からない」彼は笑いながら、また雪のように白い歯をちらりと見せ、仲間を追って走って行った。
労働者たちが次々と通り過ぎた。彼らは時々歌を歌い、大声で話し、騒ぎ立てた。まるで国内戦争の結果として、自由放縦になったかのように、どんなに長い悪口を言っても全く差し支えないと思っているようであった。
十六七歳の徒弟労働者まで行き、しかもその人数が多く、特に人目を引く様子であった。
賢明な人々も愚かな人々も、ルボンチハの類もミロノフの類も、皆行った。
戦闘は激烈で、銃声が絶え間なく響いていた。
バリシャエ・プレスナの隅々に、多くの人々が集まっていた。店の前では、食料を買いに来た人々が列を作り、赤軍の一団は、これらの人々の中に消えていった。
華西理は家に帰った。
母親が門まで迎えに来たが、怒っていて、沈んだ顔をしていた。
「行ってしまったの?」彼女は息を切らして尋ねた。
「行ってしまった。」
母親は頭を垂れ、まるで足元の何かを見ているかのように、何も言わなかった。
「ああ」彼は語尾を伸ばし、黙って背中を丸め、そのまま門から離れ、急に小さく惨めな様子になった。
「今日もまた一日中泣いて過ごすことになるだろう」華西理は嘆息しながら思った。「玉にも瑕がある……」
華爾華拉が門まで走ってきた。彼女は一夜のうちに窪んでしまった、熱っぽく、探るような目で、華西理の顔を見つめた。
「亚庚を見なかった?」
「私は出かけていない。ただ兄を見送っただけで……」
「それでは、彼も行ったの?」
「行った……」
華爾華拉は立ち上がり、街道を見回した。
「私が行く」彼女はきっぱりと言った。
「どこへ?」華西理は尋ねた。
「亚庚を探しに行く。彼を家に引きずって帰って、頬を引っ叩いてやる。赤軍だなんて。憎たらしい子供。おかげで夜も眠れない。気が狂いそう……彼が……彼が……彼の姿がいつも目に浮かんで……」
華爾華拉はすすり泣き、袖で顔を覆った。
「亚克……亚庚謨式加、可哀想な……ああ、神様……彼はどこにいるの?」
「でもまず泣かないでください、きっと何事もないでしょう」華西理は慰めて言った:「どこかで宿泊しているのでしょう。」
しかしそれは力ない慰めで、自分でも不吉な予感を抱いていた。
「探しに行きましょう」華爾華拉は目を拭いて言った、「庫慈玛・華西理支肯が私と一緒に行ってくれる。きっと見つかるでしょう。」
華西理はこの機織女工を慰めるため、彼女と一緒に探しに行くことを承諾した。
一時間後、三人──外出を許さない妻と喧嘩をして、そのために不機嫌になったエスパリス、機織女工と華西理──はプレスナからサドヴァエ街へ向かった。街にはまだ多くの見物人がいたが、昨日と比べると、すでに減少していた。包みや箱、そして泣き叫ぶ子供たちを抱えたり背負ったりした行き場のない人々が、絶え間なく市街の中央から歩いてきた。
銃声はニキツキー門の近くで起こり、ブロンナエ街、ドヴェルスク並木道、ポヴァルスカエ街といった場所でも、各所の建物の遥か向こうで聞こえていた。エスパリスは至る所で兵士と武装した労働者の隊列を見ると、機織女工を慰めて言った:
「きっと見つかります、人は小さな針ではないのですから……そんなに焦る必要はありません。」
機織女工は嬉しくなり、精神を奮い立たせ、エスパリスを一瞥し、声を引き延ばして言った:
「神様、あなたは……」
彼女は武装した労働者の群れを一つ一つ回り、赤軍兵士亚庚・ロゾフを見なかったかと尋ねた。
「そうです、十六歳の子供なの。赤っぽい上着を着て、灰色の帽子をかぶった……どなたか見ませんでした?」
彼女は希望に満ちた目を見開き、彼らを見つめたが、どこでも答えは同じだった:
「どうして分かるでしょう?人が大勢いるのですから……」
時には逆に尋ねる人もいた:
「でも何のために彼を探しているのですか?」
すると機織女工は涙をこらえて話し始めた:
「私の息子なのです、たった一人の、まだ本当に小さな子供なので、心配で、命を落とすのではないかと恐れているのです。」
「ああ!でも、探すのは無駄です、きっと帰ってきます。」
心無く冗談を言う人も時にはいた:
「生きていれば、帰ってくるでしょう……」
機織女工は不満で、涙を流しながら一区画また一区画とただ前に歩き続け、沈鬱で役に立たないエスパリスは歩きながら慌てて周囲を振り返り、華西理がその後に続いた。
二三ヶ所の交通遮断区域では、彼らは通してもらえなかった。
「おい、どこへ行く?引き返せ!」兵士たちが彼女に叫んだ。「ここは通れない、撃ち殺されるぞ!」
三人は皆黙って立ち止まり、通行できる機会を待った。立ち止まった場所は、大抵街の角や隅で、これらの場所には、まるで池から湧き出る水のように、通行人や見物人が群れをなし、黙って立って、いかにも不満そうに兵士や赤軍の人々を見ていた。
ノヴィンスキー並木道に立っていた時、誰かが鋭い声で、彼らのそばで大声で叫んだ:
「手を上げろ!」
機織女工は驚いて振り返ると、小柄で、あばた面の兵士が叫んでいた:
「全員手を上げろ!」
群衆は動揺し、手を上げた。母親が七歳ほどの男の子を連れてどこかに行こうとしていたが、絹を裂くような大声で泣き出した。
「こっちへ来い、同志たち!」その兵士は銃を横に構えて叫んだ。「こっち、こっちだ……」
兵士と赤軍の人々が、各方面から駆けつけてきた。
「どうした?何だ?」
彼らは走りながら銃を構え、いつでも発砲できるよう準備した。群衆は恐れおののき、顔色が青白くなった。
「将校がここにいる、見ろ!」
兵士は言いながら、銃床で群衆に混じっている一人の男を指差した。他の兵士たちは厚いコートを着て、灰色の帽子をかぶった、青白い顔の男を車道に引きずり出した。エスパリスが見ると、そのコートを着た男の顔色は鉄青に変わり、口を尖らせていた。
あばた面の兵士がやって来て彼のコートを剥がした。
「これは何だ?見ろ!」
コートの下は将校の軍服で、長剣と拳銃が下がっていた。
「ふん?奴はどこに行くつもりだ?」兵士は憤然として尋ねた。「閣下、あなたはどちらへ?」将校は不自然な笑いを浮かべた。
「ちょっと待ってください、そんなに慌てないでください。私は家に帰るのです。」
「ほう?家に?我々がちょうどお前たちを捕まえようとしているのに、家に帰る!クレムリンへ、白軍へ行くつもりだろう。我々は知っている。証明書を出して見せろ。」
将校が一枚の紙片を取り出すと、そのあばた面の兵士はさらに暴怒した:
「拳銃を外せ!剣を渡せ!」
「ちょっと待て、どういう理由だ?」
「ふん、理由?外せ!犬野郎!……撃ち殺すぞ!」兵士は茱萸のように赤くなって、怒鳴った。
将校は顔色を変え、神経質に激怒したが、彼を取り囲んだ兵士たちは、突然彼の両手を掴んだ。
「はっ、抵抗するつもりか?同志たち、下がれ!」
あばた面の兵士は一歩退き、同時に銃を将校の頭に突きつけた……誰も──群衆も、兵士たちも、将校自身も──動く間もないうちに、銃声が響き、将校は前によろめき、また後ろに下がり、すぐに地面に倒れ、ぴくりとも震えず、動きもしなかった。頭からどくどくと鮮血が流れ出した。
「ああ、神様!」群衆の中で誰かが鋭い声を発すると、皆が指揮を受けたかのように、一斉に駆け出した。最前面では長身のエスパリスが走り、後ろでまた数発の銃声が響いた。兵士たちは大声で叫び、逃げる群衆を止めようとしたが、群衆はそれでも行ってしまった。機織女工は嘆息し、息を切らしながら、華西理と一直線に動物園まで駆けた。
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(M.Malpighi)等精官品之理,而工业如故,交通未良,矿业亦无所进益,惟以机械学之结果,始见极粗之时辰表而已。至十八世纪中叶,英法德意诸国科学之士辈出,质学生学地学之进步,灿然可观,惟所以福社会者若何,则论者尚难于置对。迨酝酿既久,实益乃昭,当同世纪末叶,其效忽大著,举工业之械具资材,植物之滋殖繁养,动物之畜牧改良,无不蒙科学之泽,所谓十九世纪之物质文明,亦即胚胎于是时矣。洪波浩然,精神亦以振,国民风气,因而一新。顾治科学之桀士,则不以是婴心也,如前所言,盖仅以知真理为惟一之仪的,扩脑海之波澜,扫学区之荒秽,因举其身心时力,日探自然之大法而已。尔时之科学名家,无不如是,如侯失勒(J.Herschel)暨拉布拉(S.de Laplace)之于星学,扬俱(Th.Young)暨弗勒那尔(A.Fresnel)之于光学,欧思第德(H.C.Oersted)之于力学,兰麻克(J.de Lamarck)之于生学,迭亢陀耳(A.de Candolle)之于植物学,威那(A.G.Werner)之于矿物学,哈敦(J.Hutton)之于地学,瓦特(J.Watt)之于机械学,其尤著者也。试察所仪,岂在实利哉?然防火灯作矣,汽机出矣,矿术兴矣。而社会之耳目,乃独震惊有此点,日颂当前之结果,于学者独恝然而置之。倒果为因,莫甚于此。欲以求进,殆无异鼓鞭于马勒欤,夫安得如所期?第谓惟科学足以生实业,而实业更无利于科学,人皆慕科学之荣,则又不如是也。社会之事繁,分业之要起,人自不得不有所专,相互为援,于以两进。故实业之蒙益于科学者固多,而科学得实业之助者亦非鲜。今试置身于野人之中,显镜衡机不俟言,即醇酒玻璃,亦不可致,则科学者将何如,仅得运其思理而已。思理孤运,此雅典暨亚历山德府科学之所以中衰也。事多共其悲喜,盖亦诚言也夫。
故震他国之强大,栗然自危,兴业振兵之说,日腾于口者,外状固若成然觉矣,按其实则仅眩于当前之物,而未得其真谛。夫欧人之来,最眩人者,固莫前举二事若,然此亦非本柢而特葩叶耳。寻其根源,深无底极,一隅之学,夫何力焉。顾著者于此,亦非谓人必以科学为先务,待其结果之成,始以振兵兴业也,特信进步有序,曼衍有源,虑举国惟枝叶之求,而无一二士寻其本,则有源者日长,逐末者仍立拨耳。居今之世,不与古同,尊实利可,摹方术亦可,而有不为大潮所漂泛,屹然当横流,如古贤人,能播将来之佳果于今兹,移有根之福祉于宗国者,亦不能不要求于社会,且亦当为社会要求者矣。丁达尔不云乎:止属目于外物,或但以政事之感,而误凡事之真者,每谓邦国安危,一系于政治之思想,顾至公之历史,则立证其不然。夫法之有今日也,宁有他因耶?特以科学之长,胜他国耳。千七百九十二年之变,全欧嚣然,争执干戈以攻法国,联军伺其外,内讧兴于中,武库空虚,战士多死,既不能以疲卒当锐兵,而又无粮以济守者,武人抚剑而视太空,政家饮泪而悲来日,束手衔恨,俟天运矣。而时之振作其国人者何人?震怖其外敌者又何人?曰,科学也。其时学者,无不尽其心力,竭其智能,见兵士不足,则补以发明,武具不足,则补以发明,当防守之际,即知有科学者在,而后之战胜必矣。然此犹可曰丁达尔自治科学,因阿所好而立言耳,然证以阿罗戈之所载书,乃益明其不妄,书所记曰,时公会征九十万人,盖御外敌之四集,实非此不胜用尔。而人不如数;众乃大惧。加以武库久空,战备不足,故目前之急,有非人力所能救者。盖时所必要,首为弹药,而原料硝石,曩悉来自印度,至此时遂穷。次为枪炮,而法地产铜不多,必仰俄英印度之给,至今亦绝。三为钢铁,然平日亦取诸外国,制造之术,无知之者。于是行最后之策,集通国学者,开会议之,其最要而最难得者为火药。政府使者皆知不能成,叹曰,硝石安在?声未绝,学者孟耆即起曰,有之。至适当之地,如马厩土仓中,有硝石无量,为汝所梦想不到者。氏禀天才,加以知识,爱国出于至诚,乃睥睨阖室曰,吾能集其土为之,不越三日,火药就矣,于是以至简之法,晓谕国中,老弱妇稚,悉能制造,俄顷间全法国如大工厂也。此外有质学家,以法化分钟铜,用作武器,而炼铁新法亦昉于是时,凡铸刀剑枪械,无不可用国产。柔皮术亦不日竟成,制履之韦,因以不匮。尔时所称异之气球暨空气中之电报,亦均改良扩张,用之争战,前者即摩洛将军乘之探敌阵,得其情实,因制殊胜者也。丁达尔乃论曰,法国尔时,实生二物,曰:科学与爱国。其至有力者,为孟耆(Monge)与加尔诺(Carnot),与有力者,为孚勒克洛,穆勒惠,暨巴列克黎之徒。大业之成,此其枢纽。故科学者,神圣之光,照世界者也,可以遏末流而生感动。时泰,则为人性之光;时危,则由其灵感,生整理者如加尔诺,生强者强于拿破仑之战将云。今试总观前例,本根之要,洞然可知。盖末虽亦能灿烂于一时,而所宅不坚,顷刻可以蕉萃,储能于初,始长久耳。顾犹有不可忽者,为当防社会入于偏,日趋而之一极,精神渐失,则破灭亦随之。盖使举世惟知识之崇,人生必大归于枯寂,如是既久,则美上之感情漓,明敏之思想失,所谓科学,亦同趣于无有矣。故人群所当希冀要求者,不惟奈端已也,亦希诗人如狭斯丕尔(Shakespeare);不惟波尔,亦希画师如洛菲罗(Raphaelo);既有康德,亦必有乐人如培得诃芬(Beethoven);既有达尔文,亦必有文人如嘉来勒(Carlyle)。凡此者,皆所以致人性于全,不使之偏倚,因以见今日之文明者也。嗟夫,彼人文史实之所垂示,固如是已!
(一九○七年作。)
【文化偏至论】
中国既以自尊大昭闻天下,善诋者,或谓之顽固;且将抱守残阙,以底于灭亡。近世人士,稍稍耳新学之语,则亦引以为愧,翻然思变,言非同西方之理弗道,事非合西方之术弗行,掊击旧物,惟恐不力,曰将以革前缪而图富强也。间尝论之:昔者帝轩辕氏之戡蚩尤而定居于华土也,典章文物,于以权舆,有苗裔之繁衍于兹,则更改张皇,益臻美大。其蠢蠢于四方者,胥蕞尔小蛮夷耳,厥种之所创成,无一足为中国法,是故化成发达,咸出于己而无取乎人。降及周秦,西方有希腊罗马起,艺文思理,灿然可观,顾以道路之艰,波涛之恶,交通梗塞,未能择其善者以为师资。洎元明时,虽有一二景教父师,以教理暨历算质学干中国,而其道非盛。故迄于海禁既开,晰人踵至之顷,中国之在天下,见夫四夷之则效上国,革面来宾者有之;或野心怒发,狡焉思逞者有之;若其文化昭明,诚足以相上下者,盖未之有也。屹然出中央而无校雠,则其益自尊大,宝自有而傲睨万物,固人情所宜然,亦非甚背于理极者矣。虽然,惟无校雠故,则宴安日久,苓落以胎,迫拶不来,上征亦辍,使人,使人屯,其极为见善而不思式。有新国林起于西,以其殊异之方术来向,一施吹拂,块然踣傹,人心始自危,而辁才小慧之徒,于是竞言武事。后有学于殊域者,近不知中国之情,远复不察欧美之实,以所拾尘芥,罗列人前,谓钩爪锯牙,为国家首事,又引文明之语,用以自文,征印度波兰,作之前鉴。夫以力角盈绌者,于文野亦何关?远之则罗马之于东西戈尔,迩之则中国之于蒙古女真,此程度之离距为何如,决之不待智者。然其胜负之数,果奈何矣?苟曰是惟往古为然,今则机械其先,非以力取,故胜负所判,即文野之由分也。则曷弗启人智而开发其性灵,使知罟获戈矛,不过以御豺虎,而喋喋誉白人肉攫之心,以为极世界之文明者又何耶?且使如其言矣,而举国犹孱,授之巨兵,奚能胜任,仍有僵死而已矣。嗟夫,夫子盖以习兵事为生,故不根本之图,而仅提所学以干天下;虽兜牟深隐其面,威武若不可陵,而干禄之色,固灼然现于外矣!计其次者,乃复有制造商估立宪国会之说。前二者素见重于中国青年间,纵不主张,治之者亦将不可缕数。盖国若一日存,固足以假力图富强之名,博志士之誉,即有不幸,宗社为墟,而广有金资,大能温饱,即使怙恃既失,或被虐杀如犹太遗黎,然善自退藏,或不至于身受;纵大祸垂及矣,而幸免者非无人,其人又适为己,则能得温饱又如故也。若夫后二,可无论已。中较善者,或诚痛乎外侮迭来,不可终日,自既荒陋,则不得已,姑拾他人之绪余,思鸠大群以抗御,而又飞扬其性,善能攘扰,见异己者兴,必借众以陵寡,托言众治,压制乃尤烈于暴君。此非独于理至悖也,即缘救国是图,不惜以个人为供献,而考索未用,思虑粗疏,茫未识其所以然,辄皈依于众志,盖无殊痼疾之人,去药石摄卫之道弗讲,而乞灵于不知之力,拜祷稽首于祝由之门者哉。至尤下而居多数者,乃无过假是空名,遂其私欲,不顾见诸实事,将事权言议,悉归奔走干进之徒,或至愚屯之富人,否亦善垄断之市侩,特以自长营搰,当列其班,况复掩自利之恶名,以福群之令誉,捷径在目,斯不惮竭蹶以求之耳。呜呼,古之临民者,一独夫也;由今之道,且顿变而为千万无赖之尤,民不堪命矣,于兴国究何与焉。顾若而人者,当其号召张皇,盖蔑弗托近世文明为后盾,有佛戾其说者起,辄谥之曰野人,谓为辱国害群,罪当甚于流放。第不知彼所谓文明者,将已立准则,慎施去取,指善美而可行诸中国之文明乎,抑成事旧章,咸弃捐不顾,独指西方文化而为言乎?物质也,众数也,十九世纪末叶文明之一面或在兹,而论者不以为有当。盖今所成就,无一不绳前时之遗迹,则文明必日有其迁流,又或抗往代之大潮,则文明亦不能无偏至。诚若为今立计,所当稽求既往,相度方来,掊物质而张灵明,任个人而排众数。人既发扬踔厉矣,则邦国亦以兴起。奚事抱枝拾叶,徒金铁国会立宪之云乎?夫势利之念昌狂于中,则是非之辨为之昧,措置张主,辄失其宜,况乎志行污下,将借新文明之名,以大遂其私欲者乎?是故今所谓识时之彦,为按其实,则多数常为盲子,宝赤菽以为玄珠,少数乃为巨奸,垂微饵以冀鲸鲵。即不若是,中心皆中正无瑕玷矣,于是拮据辛苦,展其雄才,渐乃志遂事成,终致彼所谓新文明者,举而纳之中国,而此迁流偏至之物,已陈旧于殊方者,馨香顶礼,吾又何为若是其芒芒哉!是何也?曰物质也,众数也,其道偏至。根史实而见于西方者不得已,横取而施之中国则非也。借曰非乎?请循其本——
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(M.Malpighi)等の精密な器官の理を究めたが、工業は従来のままであり、交通も未だ良好ならず、鉱業も進歩するところがなく、ただ機械学の結果として、極めて粗末な時計を見るのみであった。十八世紀中葉に至り、英仏独伊諸国の科学者が輩出し、物理学・生物学・地学の進歩は燦然として観るべきものがあったが、社会を福利する所以が如何なるものかについては、論者はなお答えに窮していた。醸成が久しくして後、実益が明らかとなり、同世紀末葉に当たって、その効果は俄かに大いに著れ、工業の機械器具・資材、植物の繁殖栽培、動物の畜牧改良に至るまで、科学の恩沢を蒙らぬものはなく、いわゆる十九世紀の物質文明も、すなわちこの時に胚胎したのである。洪波浩然として、精神もまた振起し、国民の風気もそれによって一新された。しかし科学を修める傑士たちは、これに心を奪われることはなかった。前述の通り、ただ真理を知ることのみを唯一の目的とし、脳海の波瀾を拡大し、学区の荒蕪を掃い去って、その身心と時力を挙げて、日々自然の大法を探究するのみであった。その時の科学名家は皆このようであり、侯失勒(J.Herschel)および拉布拉(S.de Laplace)の天文学における業績、扬俱(Th.Young)および弗勒那尔(A.Fresnel)の光学、欧思第德(H.C.Oersted)の力学、兰麻克(J.de Lamarck)の生物学、迭亢陀耳(A.de Candolle)の植物学、威那(A.G.Werner)の鉱物学、哈敦(J.Hutton)の地学、瓦特(J.Watt)の機械学などは、その殊に著しいものである。その目的とするところを考察してみれば、どうして実利にあろうか。しかし防火灯は作られ、蒸気機関は出現し、鉱業技術は興った。ところが社会の耳目は、ひとりこの点に驚震し、日々目前の結果を称賛するばかりで、学者に対しては恝然として顧みない。結果と原因を取り違えること、これに甚だしいものはない。これで進歩を求めようとは、馬の手綱を打って鞭打つのと何ら異ならず、どうして期待通りになろうか。ただ科学のみが実業を生むことができ、実業が更に科学に利益をもたらさないなどと言うなら、人々が皆科学の栄光を慕うのとは異なる。社会の事は繁雑で、分業の必要が起こり、人は自ずから専門を持たざるを得ず、相互に援助し合って、両者とも進歩する。故に実業が科学から恩恵を受けることは固より多いが、科学が実業の助力を得ることも決して少なくない。今試しに野人の中に身を置いてみれば、顕微鏡や天秤は言うまでもなく、純粋なアルコールやガラスすらも得ることができず、科学者はどうすればよいのか、ただその思理を運用するのみである。思理が孤立して運用されれば、これがアテネおよびアレクサンドリア学府の科学が中衰した所以である。事は多く悲喜を共にするものだというのも、確かに真実の言葉である。
故に他国の強大に震え、栗然として自ら危機を感じ、興業振兵の説が日々口に上る者は、外見は既に覚醒したかのようであるが、その実を按ずれば、ただ目前の物事に眩惑されているだけで、その真諦を得ていない。そもそも欧人の来訪で最も人を眩惑させるものは、固より前述の二事に如くものはないが、しかしこれとて根本ではなくて特別な花葉に過ぎない。その根源を尋ねれば、深くて底極がなく、一隅の学問で何の力になろうか。ここで著者が言うのは、人は必ず科学を先務とし、その結果の成就を待って、初めて振兵興業せよということではない。特に進歩には順序があり、蔓延には源があることを信じ、挙国ただ枝葉のみを求めて、一二の士も其の本を尋ねる者がなければ、源のある者は日々成長し、末を追う者は相変わらず停滞するであろうことを憂慮するのである。今の世に居て、古と同じではなく、実利を尊ぶのも可、方術を模倣するのも可であるが、大潮に漂泊されることなく、屹然として横流に当たり、古の賢人のように、将来の佳果を今此に播き、有根の福祉を宗国に移すことのできる者もまた、社会に要求せざるを得ず、且つまた当に社会が要求すべき者である。丁達尔は言っていないか。ただ外物に着目し、或いは政事の感情のみで、諸事の真実を誤る者は、常に邦国の安危は一に政治の思想にかかると謂うが、至公の歴史は、その然らざることを立証している。そもそもフランスが今日あるのは、どうして他の原因があろうか。特に科学の長によって、他国に勝ったのみである。千七百九十二年の変では、全欧が嚣然として、干戈を争って執りフランス国を攻め、連合軍がその外を窺い、内訌が中に興り、武庫は空虚となり、戦士は多く死に、既に疲卒をもって鋭兵に当てることができず、また糧食もなくて守備を済ませる者もなく、武人は剣を撫でて太空を視、政家は涙を飲んで来日を悲しみ、束手して恨みを銜み、天運を俟つばかりであった。そしてその時その国人を振作させた者は何人か。その外敵を震怖させた者はまた何人か。曰く、科学である。その時の学者は、皆その心力を尽くし、その智能を竭し、兵士が不足すれば発明で補い、武具が不足すれば発明で補い、防守の際には、即ち科学者が在ることを知り、その後の戦勝は必然であった。しかしこれでもなお丁達尔が自ら科学を修めるが故に、阿諛好みによって立言したと言えるであろうが、しかしアロ戈の載せる書を証拠とすれば、その妄でないことが益々明らかになる。書に記されていることには、時の公会は九十万人を徴集した。蓋し外敵の四集に御するためで、実にこれでなくては勝ち用いることができなかったのである。ところが人数は足りず、衆は大いに懼れた。加えて武庫は久しく空で、戦備は不足し、故に目前の急は、人力では救うことのできないものがあった。蓋しその時必要なものは、まず弾薬であったが、原料の硝石は、昔はすべてインドから来ていたので、この時遂に窮した。次に銃砲であったが、フランス地は銅の産出が多くなく、必ずロシア・イギリス・インドの給与に仰いでいたが、今またこれも絶えた。三に鋼鉄であったが、しかし平日もまた外国から取っていて、製造の術を知る者はなかった。そこで最後の策を行い、通国の学者を集めて、会議を開いた。その最も要で最も得難いものは火薬であった。政府使者は皆成すことができないことを知り、嘆いて曰く、硝石は安んぞ在らん。声未だ絶えざるに、学者孟耆が即ち起って曰く、之れ有り。適当の地に至れば、馬廐・土倉の中の如き、硝石無量に有り、汝の夢想だも到らざる者なり。氏は天才を禀け、知識を加え、愛国は至誠より出で、乃ち阖室を睥睨して曰く、吾能くその土を集めて之を為さん、三日を越えず、火薬就かん。そこで至簡の法をもって、国中に晓諭し、老弱婦稚、悉く製造することができ、俄頃の間に全フランス国は大工場の如くなった。この外に物理学家があって、法化でもって銅を分解し、用いて武器を作り、製鉄の新法もまたこの時に始まり、凡そ刀剣銃械を鋳造するに、国産を用いて不可なきはなかった。なめし皮の術もまた日を経ずして竟に成り、履を制する革、因って匱乏しなかった。その時称されるところの奇なる気球および空気中の電報も、皆改良拡張され、之を争戦に用い、前者は即ちモロー将軍がこれに乗って敵陣を探り、その情実を得て、因って殊勝を制した者である。丁達尔は乃ち論じて曰く、フランスはその時、実に二物を生じた、曰く科学と愛国と。その至って有力なる者は、孟耆(Monge)とガルノー(Carnot)であり、有力なる者に与するは、フルクロア、ムーレウィ、およびバレ・クリ等の徒である。大業の成就は、これがその枢紐である。故に科学は、神聖の光であり、世界を照らす者であり、末流を遏して感動を生むことができる。時が泰平であれば、これは人性の光となり、時が危険であれば、その霊感によって、ガルノーの如き整理者を生み、ナポレオンの戦将よりも強い強者を生む云々。今試しに前例を総観すれば、本根の要は、洞然として知ることができる。蓋し末もまた一時は燦爛たり得るが、宅する所が堅固でなく、頃刻にして蕉萃し得る、初めに能を蓄えて、始めて長久なるのである。しかしなお忽すべからざる者があり、社会が偏に陥り、日々趨いて一極に之き、精神を漸く失えば、破滅もまたこれに随うことを防がねばならない。蓋し世を挙げてただ知識のみを崇拝すれば、人生は必ず大いに枯寂に帰し、是の如く既に久しければ、美上の感情は薄れ、明敏の思想は失われ、いわゆる科学もまた同じく無有に趣くのである。故に人群の当に希冀要求すべき者は、ただニュートンのみではなく、また詩人如きシェークスピア(Shakespeare)をも希望し、ただボイルのみでなく、また画師如きラファエロ(Raphaelo)をも希望し、既にカントあれば、また楽人如きベートーヴェン(Beethoven)も必要であり、既にダーウィンあれば、また文人如きカーライル(Carlyle)も必要である。凡そこれらの者は、皆人性を全からしめ、之を偏倚させず、因って今日の文明を見る所以である。嗟乎、彼の人文史実の垂示する所は、固よりかくの如きなり。
(一九〇七年作。)
【文化偏至論】
中国が既に自尊大をもって天下に昭聞し、善く誹る者は、或いはこれを頑固と謂い、且つ将に残闕を抱守して、以って滅亡に底らんとすと言う。近世の人士は、稍々新学の語を耳にすれば、則ちまたこれを以って愧となし、翻然として変を思い、言は西方の理に同じきに非ざれば道わず、事は西方の術に合わざれば行わず、旧物を掊撃し、力を尽くさざることを恐れ、曰く将に以って前の謬を革めて富強を図らんとするなり。間嘗てこれを論ず。昔者帝軒轅氏の蚩尤を戡って華土に定居するや、典章文物、これを以って権輿となし、苗裔の繁衍すること兹に於いてあれば、則ち更に改張皇して、益々美大に臻る。その四方に蠢蠢たる者は、胥に蕞爾たる小蛮夷のみ、厥の種の創成する所、一として中国の法と為すに足る無く、是の故に化成発達、咸く己に出でて人に取る無し。周秦に降り及んで、西方に希臘羅馬起こり、芸文思理、燦然として観るべきも、道路の艱、波涛の悪を以って、交通梗塞し、未だその善なる者を択んで以って師資と為すこと能わず。元明の時に洎んで、一二の景教父師ありといえども、教理および暦算質学を以って中国に干するも、而してその道盛んならず。故に海禁既に開き、晰人踵いで至るの頃に迄んで、中国の天下に在る、夫れ四夷の上国に則效し、革面して来賓する者あることを見る。或いは野心怒発し、狡えんして逞しくせんと思う者あり。その文化昭明にして、誠に以って相上下するに足る者の如きは、蓋し未だ之れ有らざるなり。屹然として中央に出でて校讐無く、則ちその益々自尊大し、自ら有るを宝として万物を傲睨するは、固より人情の宜しく然るべき所にして、また甚だしく理極に背くに非ざる者なり。然りといえども、ただ校讐無き故に、則ち宴安日久しく、苓落以って胎し、迫拶来らず、上征もまた辍み、人をして、人をして屯ならしめ、その極は善を見ても式るを思わざるに至る。新国林として西に起こり、その殊異の方術を以って来向し、一たび吹拂を施せば、塊然として踣僵し、人心始めて自ら危く、而して辁才小慧の徒、ここに於いて競いて武事を言う。後に殊域に学ぶ者あり、近くは中国の情を知らず、遠く復た欧美の実を察せず、拾う所の塵芥を以って、人前に羅列し、鈎爪鋸牙を謂いて、国家の首事と為し、また文明の語を引きて、用いて自ら文とし、印度波蘭を徴して、之を前鑑と作す。夫れ力を以って盈縮を角すは、文野においてまた何の関わりあらん。遠くは則ちローマの東西ゴートに於ける、近くは則ち中国の蒙古女真に於ける、この程度の離距は何如なるか、之を決するに智者を待たず。然るにその勝負の数は、果して奈何せん。苟くも曰く是れはただ往古のみ然りとし、今は則ち機械その先なり、力を以って取るに非ず、故に勝負の判ずる所、即ち文野の由って分かるる所なりと。則ち何ぞ人の智を啓いて其の性霊を開発し、罟獲戈矛を知らしめ、ただ以って豺虎を御するのみにして、喋々として白人の肉攫の心を誉めて、以って世界の文明を極むる者と為すこと又何ぞや。且つその言の如くならしめるも、而して挙国なお孱にして、之に巨兵を授けるとも、奚んぞ能く勝任し、仍って僵死あるのみ。嗟夫、夫子は蓋し兵事を習うを以って生と為すが故に、根本の図をせず、而してただ学ぶ所を提げて以って天下に干す。兜牟深くその面を隠し、威武として陵すべからざるが若きも、而して干禄の色は、固より灼然として外に現わる。其の次を計るは、乃ち復た製造商估立憲国会の説あり。前の二者は素より中国青年間に重んぜられ見ゆ、主張せざるも、之を治むる者もまた缕数すべからざるに将たん。蓋し国もし一日存すれば、固より以って力を仮りて富強を図るの名を仮り、志士の誉を博するに足り、即ち不幸ありとも、宗社墟と為るも、而して広く金資あり、大いに能く温饱し、即ち怙恃既に失うも、或いは虐殺を被ること猶太遺黎の如きも、然るに善く自ら退蔵し、或いは身に受くるに至らず。縦い大禍及ばんとするも、而して幸免する者人無きに非ず、其の人又適々己と為せば、則ち能く温飽を得ること又故の如し。夫の後の二の若きは、論ずるに足らず。中の比較的善なる者は、或いは誠に外侮の迭来を痛み、終日たり得ずして、自ら既に荒陋なれば、則ち已むを得ずして、姑く他人の緒余を拾い、大群を鳩めて以って抗御せんと思うも、而して又其の性を飛揚し、善く能く攘擾し、異己の者の興るを見れば、必ず衆を借りて以って寡を陵ぎ、衆治と託言し、圧制乃ち尤も暴君より烈し。此れは独り理に至って悖るのみならず、即ち救国を縁として図し、個人を以って供献と為すことを惜しまざるも、而して考索未だ精ならず、思慮粗疏にして、茫として未だ其の然る所以を識らず、輒ち衆志に皈依するは、蓋し痼疾の人が、薬石摂衛の道を講ぜず去りて、而して不知の力に霊を乞い、祝由の門に拝祷稽首する者と無殊なり。尤も下にして多数に居る者に至りては、乃ち是の空名を假るに過ぎず、其の私欲を遂げ、実事に見わるるを顧みず、事権言議を将て、悉く奔走干進の徒に帰し、或いは至愚屯の富人に至り、否らざれば亦善く壟断する市侩なり、特に自ら営搰を長ぜしめんが為に、当に其の班に列すべく、況んや復た自利の悪名を掩い、群を福するの令誉を以ってし、捷径目に在り、斯に竭蹶して以って之を求むることを憚らざるのみ。嗚呼、古の民に臨む者は、一独夫なり。今の道に由れば、且つ頓変して千万無頼の尤と為らん、民命に堪えず、興国において究んぞ何の与あらん。若くの如き人の者の、其の号召張皇に当たりて、蔑として近世文明を托して後盾と為さざるは弗く、其の説に佛戾する者起これば、輒ち之を謚して野人と曰い、謂いて辱国害群、罪当に流放より甚だしかるべしと為す。第だ知らず彼の謂う所の文明なる者は、将に已に準則を立て、慎んで施取し、善美を指して中国に行う可きの文明を為すか、抑々成事旧章、咸く棄捐して顧みず、独り西方文化を指して言を為すか。物質なり、衆数なり、十九世紀末葉文明の一面或いは茲に在るも、而して論者以って当有りと為さず。蓋し今の成就する所、一として前時の遺跡を縄せざるは無く、則ち文明は必ず日々其の遷流あり、又或いは往代の大潮に抗すれば、則ち文明も亦た偏至なきこと能わず。誠に今の為に計を立つるが若くば、当に既往を稽求し、方来を相度し、物質を掊ちて霊明を張り、個人に任じて衆数を排すべし。人既に発揚踔厲すれば、則ち邦国も亦た以って興起す。奚んぞ事ありて枝を抱き葉を拾い、徒らに金鉄国会立憲の云うを為さん。夫れ勢利の念中に昌狂すれば、則ち是非の弁之が為に昧く、措置張主、輒ち其の宜を失う、況んや志行汚下にして、将に新文明の名を借りて、以って大いに其の私欲を遂げんとする者をや。是の故に今謂う所の時を識るの彦は、其の実を按ずれば、則ち多数は常に盲子と為り、赤菽を宝として以って玄珠と為し、少数は乃ち巨奸と為り、微餌を垂れて以って鯨鯢を冀う。即ち是の若くならざるも、中心皆中正にして瑕玷無しとするも、是に於いて拮据辛苦し、其の雄才を展べ、漸く乃ち志遂げ事成り、終に彼の謂う所の新文明なる者を致し、挙げて之を中国に納るるも、而して此の遷流偏至の物、已に殊方に陳旧なる者を、馨香頂礼す、吾れ又何為れぞ是の若く其れ芒芒たる。是れ何ぞや。曰く物質なり、衆数なり、其の道偏至す。史実に根ざして西方に見ゆる者は已むを得ざるも、横取して之を中国に施すは則ち非なり。借りに非と曰わんか。請う其の本に循え——
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夫世纪之元,肇于耶稣出世,历年既百,是为一期,大故若兴,斯即此世纪所有事,盖从历来之旧贯,而假是为区分,无奥义也。诚以人事连绵,深有本柢,如流水之必自原泉,卉木之茁于根茇,倏忽隐见,理之必无。故苟为寻绎其条贯本末,大都蝉联而不可离,若所谓某世纪文明之特色何在者,特举荦荦大者而为言耳。按之史实,乃如罗马统一欧洲以来,始生大洲通有之历史;已而教皇以其权力,制御全欧,使列国靡然受圈,如同社会,疆域之判,等于一区;益以梏亡人心,思想之自由几绝,聪明英特之士,虽摘发新理,怀抱新见,而束于教令,胥缄口结舌而不敢言。虽然,民如大波,受沮益浩,则于是始思脱宗教之系缚,英德二国,不平者多,法皇宫庭,实为怨府,又以居于意也,乃并意大利人而疾之。林林之民,咸致同情于不平者,凡有能阻泥教旨,抗拒法皇,无间是非,辄与赞和。时则有路德(M.Luther)者起于德,谓宗教根元,在乎信仰,制度戒法,悉其荣华,力击旧教而仆之。自所创建,在废弃阶级,黜法皇僧正诸号,而代以牧师,职宣神命,置身社会,弗殊常人;仪式祷祈,亦简其法。至精神所注,则在牧师地位,无所胜于平人也。转轮既始,烈栗遍于欧洲,受其改革者,盖非独宗教而已,且波及于其他人事,如邦国离合,争战原因,后兹大变,多基于是。加以束缚弛落,思索自由,社会蔑不有新色,则有尔后超形气学上之发见,与形气学上之发明。以是胚胎,又作新事:发隐地也,善机械也,展学艺而拓贸迁也,非去羁勒而纵人心,不有此也。顾世事之常,有动无定,宗教之改革已,自必益进而求政治之更张。溯厥由来,则以往者颠覆法皇,一假君主之权力,变革既毕,其力乃张,以一意孤临万民,在下者不能加之抑制,日夕孳孳,惟开拓封域是务,驱民纳诸水火,绝无所动于心:生计绌,人力耗矣。而物反于穷,民意遂动,革命于是见于英,继起于美,复次则大起于法朗西,扫荡门第,平一尊卑,政治之权,主以百姓,平等自由之念,社会民主之思,弥漫于人心。流风至今,则凡社会政治经济上一切权利,义必悉公诸众人,而风俗习惯道德宗教趣味好尚言语暨其他为作,俱欲去上下贤不肖之闲,以大归乎无差别。同是者是,独是者非,以多数临天下而暴独特者,实十九世纪大潮之一派,且曼衍入今而未有既者也。更举其他,则物质文明之进步是已。当旧教盛时,威力绝世,学者有见,大率默然,其有毅然表白于众者,每每获囚戮之祸。递教力堕地,思想自由,凡百学术之事,勃焉兴起,学理为用,实益遂生,故至十九世纪,而物质文明之盛,直傲睨前此二千余年之业绩。数其著者,乃有棉铁石炭之属,产生倍旧,应用多方,施之战斗制造交通,无不功越于往日;为汽为电,咸听指挥,世界之情状顿更,人民之事业益利。久食其赐,信乃弥坚,渐而奉为圭臬,视若一切存在之本根,且将以之范围精神界所有事,现实生活,胶不可移,惟此是尊,惟此是尚,此又十九世纪大潮之一派,且曼衍入今而未有既者也。虽然,教权庞大,则覆之假手于帝王,比大权尽集一人,则又颠之以众庶。理若极于众庶矣,而众庶果足以极是非之端也耶?宴安逾法,则矫之以教宗,递教宗淫用其权威,则又掊之以质力。事若尽于物质矣,而物质果足尽人生之本也耶?平意思之,必不然矣。然而大势如是者,盖如前言,文明无不根旧迹而演来,亦以矫往事而生偏至,缘督校量,其颇灼然,犹孑与躄焉耳。特其见于欧洲也,为不得已,且亦不可去,去孑与躄,斯失孑与躄之德,而留者为空无。不安受宝重之者奈何?顾横被之不相系之中国而膜拜之,又宁见其有当也?明者微睇,察逾众凡,大士哲人,乃蚤识其弊而生愤叹,此十九世纪末叶思潮之所以变矣。德人尼佉(Fr.Nietzsche)氏,则假察罗图斯德罗(Zarathustra)之言曰,吾行太远,孑然失其侣,返而观夫今之世,文明之邦国矣,斑斓之社会矣。特其为社会也,无确固之崇信;众庶之于知识也,无作始之性质。邦国如是,奚能淹留?吾见放于父母之邦矣!聊可望者,独苗裔耳。此其深思遐瞩,见近世文明之伪与偏,又无望于今之人,不得已而念来叶者也。
然则十九世纪末思想之为变也,其原安在,其实若何,其力之及于将来也又奚若?曰言其本质,即以矫十九世纪文明而起者耳。盖五十年来,人智弥进,渐乃返观前此,得其通弊,察其黮暗,于是浡焉兴作,会为大潮,以反动破坏充其精神,以获新生为其希望,专向旧有之文明,而加之掊击扫荡焉。全欧人士,为之栗然震惊者有之,芒然自失者有之,其力之烈,盖深入于人之灵府矣。然其根柢,乃远在十九世纪初叶神思一派;递夫后叶,受感化于其时现实之精神,已而更立新形,起以抗前时之现实,即所谓神思宗之至新者也。若夫影响,则眇眇来世,臆测殊难,特知此派之兴,决非突见而靡人心,亦不至突灭而归乌有,据地极固,函义甚深。以是为二十世纪文化始基,虽云早计,然其为将来新思想之朕兆,亦新生活之先驱,则按诸史实所昭垂,可不俟繁言而解者已。顾新者虽作,旧亦未僵,方遍满欧洲,冥通其地人民之呼吸,余力流衍,乃扰远东,使中国之人,由旧梦而入于新梦,冲决嚣叫,状犹狂酲。夫方贱古尊新,而所得既非新,又至偏而至伪,且复横决,浩乎难收,则一国之悲哀亦大矣。今为此篇,非云已尽西方最近思想之全,亦不为中国将来立则,惟疾其已甚,施之抨弹,犹神思新宗之意焉耳。故所述止于二事:曰非物质,曰重个人。
个人一语,入中国未三四年,号称识时之士,多引以为大诟,苟被其谥,与民贼同。意者未遑深知明察,而迷误为害人利己之义也欤?夷考其实,至不然矣。而十九世纪末之重个人,则吊诡殊恒,尤不能与往者比论。试案尔时人性,莫不绝异其前,入于自识,趣于我执,刚愎主己,于庸俗无所顾忌。如诗歌说部之所记述,每以骄蹇不逊者为全局之主人。此非操觚之士,独凭神思构架而然也,社会思潮,先发其朕,则移之载籍而已矣。盖自法朗西大革命以来,平等自由,为凡事首,继而普通教育及国民教育,无不基是以遍施。久浴文化,则渐悟人类之尊严;既知自我,则顿识个性之价值;加以往之习惯坠地,崇信荡摇,则其自觉之精神,自一转而之极端之主我。且社会民主之倾向,势亦大张,凡个人者,即社会之一分子,夷隆实陷,是为指归,使天下人人归于一致,社会之内,荡无高卑。此其为理想诚美矣,顾于个人殊特之性,视之蔑如,既不加之别分,且欲致之灭绝。更举黮暗,则流弊所至,将使文化之纯粹者,精神益趋于固陋,颓波日逝,纤屑靡存焉。盖所谓平社会者,大都夷峻而不湮卑,若信至程度大同,必在前此进步水平以下。况人群之内,明哲非多,伧俗横行,浩不可御,风潮剥蚀,全体以沦于凡庸。非超越尘埃,解脱人事,或愚屯罔识,惟众是从者,其能缄口而无言乎?物反于极,则先觉善斗之士出矣:德人斯契纳尔(M.Stirner)乃先以极端之个人主义现于世。谓真之进步,在于己之足下。人必发挥自性,而脱观念世界之执持。惟此自性,即造物主。惟有此我,本属自由;既本有矣,而更外求也,是曰矛盾。自由之得以力,而力即在乎个人,亦即资财,亦即权利。故苟有外力来被,则无间出于寡人,或出于众庶,皆专制也。国家谓吾当与国民合其意志,亦一专制也。众意表现为法律,吾即受其束缚,虽曰为我之舆台,顾同是舆台耳。去之奈何?曰:在绝义务。义务废绝,而法律与偕亡矣。意盖谓凡一个人,其思想行为,必以己为中枢,亦以己为终极:即立我性为绝对之自由者也。至勖宾霍尔(A.Schopenhauer),则自既以兀傲刚愎有名,言行奇觚,为世希有;又见夫盲瞽鄙倍之众,充塞两间,乃视之与至劣之动物并等,愈益主我扬己而尊天才也。至丹麦哲人契开迦尔(S.Kierkegaard)则愤发疾呼,谓惟发挥个性,为至高之道德,而顾瞻他事,胥无益焉。其后有显理伊勃生(Henrik Ibsen)见于文界,瑰才卓识,以契开迦尔之诠释者称。其所著书,往往反社会民主之倾向,精力旁注,则无间习惯信仰道德,苟有拘于虚而偏至者,无不加之抵排。更睹近世人生,每托平等之名,实乃愈趋于恶浊,庸凡凉薄,日益以深,顽愚之道行,伪诈之势逞,而气宇品性卓尔不群之士,乃反穷于草莽,辱于泥涂,个性之尊严,人类之价值,将咸归于无有,则常为慷慨激昂而不能自已也。如其《民敌》一书,谓有人宝守真理,不阿世媚俗,而不见容于人群,狡狯之徒,乃巍然独为众愚领袖,借多陵寡,植党自私,于是战斗以兴,而其书亦止:社会之象,宛然具于是焉。若夫尼佉,斯个人主义之至雄桀者矣,希望所寄,惟在大士天才;而以愚民为本位,则恶之不殊蛇蝎。意盖谓治任多数,则社会元气,一旦可隳,不若用庸众为牺牲,以冀一二天才之出世,递天才出而社会之活动亦以萌,即所谓超人之说,尝震惊欧洲之思想界者也。由是观之,彼之讴歌众数,奉若神明者,盖仅见光明一端,他未遍知,因加赞颂,使反而观诸黑暗,当立悟其不然矣。一梭格拉第也,而众希腊人鸩之,一耶稣基督也,而众犹太人磔之,后世论者,孰不云缪,顾其时则从众志耳。设留今之众志,移诸载籍,以俟评骘于来哲,则其是非倒置,或正如今人之视往古,未可知也。故多数相朋,而仁义之途,是非之端,樊然淆乱;惟常言是解,于奥义也漠然。常言奥义,孰近正矣?是故布鲁多既杀该撒,昭告市人,其词秩然有条,名分大义,炳如观火;而众之受感,乃不如安多尼指血衣之数言。于是方群推为爱国之伟人,忽见逐于域外。夫誉之者众数也,逐之者又众数也,一瞬息中,变易反复,其无特操不俟言;即观现象,已足知不祥之消息矣。故是非不可公于众,公之则果不诚;政事不可公于众,公之则治不郅。惟超人出,世乃太平。苟不能然,则在英哲。嗟夫,彼持无政府主义者,其颠覆满盈,铲除阶级,亦已至矣,而建说创业诸雄,大都以导师自命。夫一导众从,智愚之别即在斯。与其抑英哲以就凡庸,曷若置众人而希英哲?则多数之说,缪不中经,个性之尊,所当张大,盖揆之是非利害,已不待繁言深虑而可知矣。虽然,此亦赖夫勇猛无畏之人,独立自强,去离尘垢,排舆言而弗沦于俗囿者也。
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そもそも世紀の元は、イエスの出世に始まり、歴年すでに百となり、これを一期とするが、大事が起これば、すなわちこの世紀の所有事となる。けだし従来の旧慣により、これを仮に区分の理由とするのであって、奥義はない。誠に人事は連綿として、深く本根があり、流水が必ず原泉より発し、草木が根から芽ぐむように、忽然と隠見することは、理の必ずないところである。故にもしその条理本末を尋ねれば、大抵は蝉聯して離すことができず、いわゆるある世紀の文明の特色がどこにあるかというのは、ただ荦荦たる大なるものを挙げて言うのみである。史実に照らせば、ローマが欧州を統一して以来、はじめて大洲共通の歴史が生まれた。やがて教皇がその権力をもって全欧を制御し、列国をしてみな圏内に従わせ、社会のごとくし、疆域の判別は一区に等しくした。さらに人心を桎梏し、思想の自由はほとんど絶え、聡明英特の士といえども、新理を摘発し、新見を懐抱しても、教令に束縛され、みな緘口結舌して敢えて言わなかった。しかしながら、民は大波のごとく、阻まれればますます浩大となり、そこではじめて宗教の系縛を脱することを思い、英独二国には不平なる者が多く、法皇宮廷は実に怨府となり、また意大利に居るをもって、すなわち意大利人をも併せて憎んだ。林林たる民は、みな不平なる者に同情を寄せ、すべて教旨を阻泥し、法皇に抗拒する者があれば、是非を問わず、すぐに賛同した。時にルター(M.Luther)という者がドイツに起こり、宗教の根元は信仰にあり、制度戒法はみなその栄華であると謂い、力をもって旧教を撃ってこれを倒した。自らの創建したところは、階級を廃棄し、法皇僧正の諸号を黜けて、これに代えるに牧師をもってし、神命を宣布することを職とし、社会に身を置いて常人と殊ならず、儀式祈祷もまたその法を簡にした。精神の注ぐところでは、牧師の地位は平人に勝るところがないとした。転輪いったん始まり、烈栗は欧州に遍く、その改革を受けたのは、けだし独り宗教のみならず、かつ他の人事に波及し、邦国の離合、争戦の原因、後のこの大変は、多くこれに基づいている。束縛が弛落し、思索が自由になったことに加え、社会は新色を有さないものはなく、そこでその後の超形而上学上の発見と、形而上学上の発明があった。これを胚胎として、また新事をなした。隠れたる地を発し、機械を善くし、学芸を展べて貿遷を拓くのも、羈勒を去って人心を縦にするのでなければ、これはなかった。顧みれば世事の常として、動はあっても定はなく、宗教の改革が済むと、自ずから必ず益々進んで政治の更張を求めるようになった。その由来を溯れば、往者が法皇を顛覆したのは、一に君主の権力を仮り、変革がいったん終わると、その力すなわち張り、一意をもって万民に孤臨し、下の者はこれを抑制することができず、日夕孳孳として、ただ封域を開拓することのみを務とし、民を駆って水火に納れ、まったく心に動くところがなかった。生計は窘迫し、人力は消耗した。しかし物は窮に反し、民意ついに動き、革命はここに英国に見え、続いて米国に起こり、復次に大いにフランスに起こって、門第を掃蕩し、尊卑を平一にし、政治の権は百姓を主とし、平等自由の念、社会民主の思が人心に弥漫した。流風今に至るまで、すべて社会政治経済上一切の権利は、義として必ずことごとく衆人に公し、風俗習慣道德宗教趣味好尚言語および其の他の為作も、みな上下賢不肖の間を去り、大いに無差別に帰することを欲している。同じき者は是、独なる者は非とし、多数をもって天下に臨んで独特なる者を暴虐するのは、実に十九世紀の大潮の一派であり、かつ曼衍して今に入りてまだ已むところがないものである。さらにその他を挙げれば、物質文明の進歩がこれである。旧教の盛んな時、威力は絶世で、学者は見があっても、大率沈黙し、その毅然として衆に表白する者は、しばしば囚戮の禍を獲た。教力が地に堕ちるに及んで、思想が自由になり、すべて百学術の事は、勃然として興起し、学理が用をなし、実益ついに生じ、故に十九世紀に至って、物質文明の盛んなること、直ちに前此二千余年の業績を傲睨した。その著なる者を数えれば、すなわち棉鉄石炭の属があり、産生は旧に倍し、応用は多方で、これを戦闘製造交通に施せば、みな往日に功越している。汽となり電となり、みな指揮に聴き、世界の情状は頓に更わり、人民の事業はますます利となった。久しくその賜を食み、信はすなわちいよいよ堅く、漸くしてこれを奉じて圭臬とし、あたかも一切存在の本根を視るがごとく、かつまさにこれをもって精神界の所有事を範囲せんとし、現実生活に膠着して移すべからず、ただこれを尊び、ただこれを尚ぶのは、これもまた十九世紀の大潮の一派であり、かつ曼衍して今に入りてまだ已むところがないものである。しかしながら、教権が龐大であれば、すなわちこれを覆すのに帝王に仮手し、大権がことごとく一人に集まれば、すなわちまたこれを顛すのに衆庶をもってした。理は衆庶に極まったかのようであるが、しかし衆庶は果たして是非の端を極めるに足りるであろうか。宴安法を逾えれば、すなわちこれを矯むるに教宗をもってし、教宗がその権威を淫用すれば、すなわちまたこれを掊つのに質力をもってした。事は物質に尽きたかのようであるが、しかし物質は果たして人生の本を尽くすに足りるであろうか。平らかに思うに、必ずしからずである。しかして大勢がこのようであるのは、けだし前言のごとく、文明は旧跡に根ざして演来しないものはなく、またもって往事を矯めて偏至を生じ、督を縁として校量すれば、その頗る灼然たるは、なお跛行や片足のごときのみである。ただそのヨーロッパに見えるところは、已むを得ざるものであり、かつまた去るべからず、跛行や片足を去れば、すなわち跛行や片足の德を失い、而して留まる者は空無である。安んじて宝重を受ける者をいかんせん。顧みれば横に相関係のない中國にこれを被らせてこれを膜拜するのは、また寧ろその当があるを見んや。明者は微睇し、察は衆凡を逾え、大士哲人は、すなわち早くその弊を識って憤嘆を生じ、これ十九世紀末葉思潮の変ずる所以である。ドイツ人ニーチェ(Fr.Nietzsche)氏は、すなわちツァラトゥストラ(Zarathustra)の言を仮りて曰く、吾行くこと太だ遠く、孑然としてその侶を失い、返りて今の世を観るに、文明の邦国なり、斑爛たる社会なり。ただその社会たるや、確固たる崇信なく、衆庶の知識に於けるや、作始の性質なし。邦国かくのごとくんば、奚ぞ能く淹留せん。吾父母の邦に放たれたるを見る。聊か望むべき者は、独り苗裔のみ、と。これその深思遐瞩、近世文明の偽と偏とを見、また今の人に望むところなく、已むを得ずして来葉を念う者である。
然らば十九世紀末思想の変ずるや、その原は安くにあり、その実はいかん、その力の将来に及ぶやまたいかん。曰く、その本質を言えば、すなわち十九世紀文明を矯めて起こる者のみ。けだし五十年来、人智ますます進み、漸くすなわち前此を返観し、その通弊を得、その黮暗を察し、ここに於いて浡然として興作し、会して大潮となり、反動破壊をもってその精神に充て、新生を獲ることをその希望とし、専ら旧有の文明に向かって、これに掊撃掃蕩を加えている。全欧人士、これがために栗然震驚する者あり、芒然自失する者あり、その力の烈なるは、けだし深く人の霊府に入っている。しかしその根柢は、すなわち遠く十九世紀初葉の神思一派にあり。その後葉に及んで、感化を其の時の現実の精神に受け、やがて更に新形を立て、起こって前時の現実に抗し、すなわちいわゆる神思宗の至新なる者である。その影響に至っては、すなわち眇眇たる来世で、臆測ははなはだ難しいが、ただこの派の興るは、決して突見して人心を靡かすものでもなく、また突滅して烏有に帰するに至らず、地を占むることきわめて固く、義を函むことはなはだ深い。これをもって二十世紀文化の始基とするのは、云うは早計といえども、しかしそれが将来新思想の朕兆であり、また新生活の先駆であることは、すなわち史実の昭垂するところに按じて、繁言を俟たずして解しうるものである。顧みれば新者は作といえども、旧もまだ僵せず、方に欧州に遍満し、冥にその地の人民の呼吸に通じ、余力流衍して、すなわち遠東を擾し、中國の人をして、旧夢より新夢に入らしめ、冲決嚣叫して、状は狂酲のごとし。それ方に古を賤しんで新を尊びながら、所得はすでに新でもなく、また至偏にして至偽であり、かつまた横決して、浩として収めがたく、すなわち一国の悲哀もまた大である。今この篇を為すのは、すでに西方最近思想の全を尽くしたと云うのでもなく、また中國将来のために則を立てるのでもなく、ただその已甚を疾み、これに抨弾を施し、なお神思新宗の意のごときのみである。故に述ぶるところは二事に止まる。曰く非物質、曰く重個人。
個人という一語が、中國に入りて未だ三四年、号して時を識ると称する士は、多くこれを引いて大詬となし、もしその謚を被れば、民賊と同じである。意うに未だ深知明察に遑あらず、而して迷誤して人を害し己を利するの義となすか。その実を夷考するに、至ってしからずである。而して十九世紀末の個人を重んずるは、すなわち弔詭にして恒と殊なり、なおさら往者と比論することができない。試みに爾時の人性を案ずるに、みな絶えてその前と異なり、自識に入り、我執に趣き、剛愎主己にして、庸俗に顧忌するところがない。詩歌説部の記述するところのごとく、毎々驕蹇不遜なる者をもって全局の主人となす。これは操觚の士が、独り神思に憑って構架してしからしむるのではなく、社会思潮が、先にその朕を発し、すなわちこれを載籍に移すのみである。けだしフランス大革命以来、平等自由を、凡事の首となし、続いて普通教育及び国民教育は、みなこれを基として遍施せざるはない。久しく文化に浴すれば、すなわち漸く人類の尊厳を悟り、すでに自我を知れば、すなわち頓に個性の価値を識る。もって往の習慣の墜地し、崇信の蕩搖するに加われば、すなわちその自覚の精神は、自ら一転して極端の主我に之く。かつ社会民主の傾向も、勢いまた大いに張り、すべて個人なる者は、すなわち社会の一分子で、夷隆実陷がこれ指帰となり、天下の人人をして一致に帰らしめ、社会の内に、蕩として高卑なからしむ。これその理想たることは誠に美であるが、顧みれば個人殊特の性に於いては、これを視ること蔑如として、すでにこれに別分を加えず、かつこれを滅絶に致さんと欲している。さらに黮暗を挙ぐれば、すなわち流弊の至るところ、まさに文化の純粋なる者をして、精神ますます固陋に趨らせ、頽波日に逝き、纖屑も存せざらしめんとしている。けだしいわゆる社会を平らかにする者は、大都峻を夷らげて卑を湮めず、もし信じて程度大同に至らば、必ず前此の進歩水平以下にある。況や人群の内には、明哲は多からず、伧俗横行して、浩として御すべからず、風潮剥蝕して、全体もって凡庸に淪す。塵埃を超越し、人事を解脱するか、或いは愚屯罔識にして、ただ衆に是従する者でなければ、その能く緘口して無言なるか。物極に反すれば、すなわち先覚善斗の士出ず。ドイツ人シュティルナー(M.Stirner)すなわち先に極端の個人主義をもって世に現る。謂らく真の進歩は、己の足下にあり。人は必ず自性を発揮して、観念世界の執持を脱せよ。ただこの自性のみが、すなわち造物主である。ただこの我あるのみが、本属自由である。すでに本有であって、而して更に外求するは、これ矛盾と曰う。自由は力をもって得、而して力はすなわち個人にあり、また資財であり、また権利である。故にもし外力来被あれば、すなわち寡人より出づるを間わず、或いは衆庶より出づるも、みな専制である。国家は吾まさに国民とその意志を合すべしと謂うも、また一専制である。衆意は法律として表現し、吾すなわちその束縛を受く、たとい我がための輿台と曰うも、顧みれば同じくこれ輿台のみ。これを去るはいかん。曰く、義務を絶つにあり。義務廃絶して、而して法律もまた偕に亡ぶ、と。意はけだしすべて一個人は、その思想行為は、必ず己を中枢とし、また己を終極とする、すなわち我性を立てて絶対の自由となす者である。ショーペンハウアー(A.Schopenhauer)に至っては、すなわち自ら既に兀傲剛愎をもって名あり、言行奇觚にして、世に希有であり、また盲瞽鄙倍の衆の、両間に充塞するを見て、すなわちこれを視ること至劣の動物と並等とし、ますます主我扬己して天才を尊ぶ。デンマークの哲人キルケゴール(S.Kierkegaard)に至ってはすなわち憤発疾呼し、謂らくただ個性を発揮するのみが、至高の道德であり、而して他事を顧瞻するは、みな無益である、と。その後に文界に見ゆる顕理イプセン(Henrik Ibsen)は、瑰才卓識、キルケゴールの詮釈者をもって称す。その著すところの書は、往々社会民主の傾向に反し、精力旁注すれば、すなわち習慣信仰道德を間わず、もし虚に拘って偏至なる者あれば、みなこれに抵排を加えざるはない。更に近世人生を睹るに、毎々平等の名を託し、実はすなわちますます悪濁に趨り、庸凡涼薄は、日にますます深く、頑愚の道行われ、偽詐の勢逞しくして、而して気宇品性卓爾不群の士は、すなわち反って草莽に窮し、泥塗に辱められ、個性の尊厳、人類の価値は、まさにことごとく無有に帰せんとし、すなわち常に慷慨激昂して自ら已むことができない。その『民敵』一書のごとき、謂らく人あり真理を宝守し、世に阿せず俗に媚びず、而して人群に容れられず、狡狯の徒は、すなわち巍然として独り衆愚の領袖となり、多を借りて寡を陵ぎ、党を植えて自私し、ここに於いて戦闘もって興り、而してその書もまた止む。社会の象は、宛然としてここに具わっている。ニーチェのごときに至っては、これ個人主義の至雄桀なる者で、希望の寄するところは、ただ大士天才にあり、而して愚民を本位とするのは、すなわちこれを悪むこと蛇蝎に殊ならず。意はけだし謂らく治を多数に任ずれば、すなわち社会の元気は、一旦隳るべく、庸衆を犠牲に用いて、以って一二天才の出世を冀うに若かず、天才出でて社会の活動もまたもって萌ゆ、すなわちいわゆる超人の説で、嘗て欧州の思想界を震驚せしめたる者である。これによりてこれを観れば、彼の衆数を謳歌し、神明のごとく奉ずる者は、けだし僅かに光明の一端を見て、他は未だ遍く知らず、因りて賛頌を加え、もし反ってこれを諸黑暗に観せば、まさに立ちどころにその然らざるを悟るべきである。一のソクラテスを、而して衆のギリシア人これに毒を飲ませ、一のイエス・キリストを、而して衆のユダヤ人これを磔にし、後世の論者は、孰れも謬と云わざるはないが、顧みればその時はすなわち衆志に従うのみであった。もし今の衆志を留めて、これを載籍に移し、以って来哲の評骘を俟てば、すなわちその是非倒置は、或いは正に今人の往古を視るがごとく、未だ知るべからざるものある。故に多数相朋して、而して仁義の途、是非の端は、樊然として淆乱し、ただ常言のみがこれ解で、奧義に於いては漠然である。常言と奧義と、孰れか正に近き。是の故にブルータス既にシーザーを殺し、市人に昭告するに、その詞は秩然として条あり、名分大義は、炳として火を観るがごとし。而して衆の感を受くるは、すなわちアントニーが血衣を指すの数言に如かず。ここに於いて方に群推して愛国の偉人となし、忽ち域外に逐わるるを見る。それ誉むる者は衆数であり、逐う者もまた衆数であり、一瞬息の中に、変易反復し、その特操なきこと言を俟たず、すなわち現象を観るのみで、已に不祥の消息を知るに足る。故に是非は衆に公すべからず、これを公すればすなわち果して誠ならず。政事は衆に公すべからず、これを公すればすなわち治郅せず。ただ超人出でて、世すなわち太平なり。もしできなければ、すなわち英哲にあり。嗟夫、彼の無政府主義を持する者は、その顛覆満盈、階級鏟除も、また已に至極で、而して建説創業の諸雄は、大都導師を以って自命している。それ一たび導き衆従うは、智愚の別すなわちここにある。その英哲を抑えて凡庸に就かしむるよりは、いずくんぞ衆人を置いて英哲を希うに若かんや。すなわち多数の説は、謬にして経に中らず、個性の尊は、まさに張大すべきところで、けだしこれを是非利害に揆るに、已に繁言深慮を待たずして知るべきである。しかしながら、これもまた勇猛無畏の人に頼り、独立自強して、塵垢を去離し、輿言を排して俗囿に淪せざる者である。
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若夫非物质主义者,犹个人主义然,亦兴起于抗俗。盖唯物之倾向,固以现实为权舆,浸润人心,久而不止。故在十九世纪,爰为大潮,据地极坚,且被来叶,一若生活本根,舍此将莫有在者。不知纵令物质文明,即现实生活之大本,而崇奉逾度,倾向偏趋,外此诸端,悉弃置而不顾,则按其究竟,必将缘偏颇之恶因,失文明之神旨,先以消耗,终以灭亡,历世精神,不百年而具尽矣。递夫十九世纪后叶,而其弊果益昭,诸凡事物,无不质化,灵明日以亏蚀,旨趣流于平庸,人惟客观之物质世界是趋,而主观之内面精神,乃舍置不之一省。重其外,放其内,取其质,遗其神,林林众生,物欲来蔽,社会憔悴,进步以停,于是一切诈伪罪恶,蔑弗乘之而萌,使性灵之光,愈益就于黯淡:十九世纪文明一面之通弊,盖如此矣。时乃有新神思宗徒出,或崇奉主观,或张皇意力,匡纠流俗,厉如电霆,使天下群伦,为闻声而摇荡。即其他评骘之士,以至学者文家,虽意主和平,不与世,而见此唯物极端,且杀精神生活,则亦悲观愤叹,知主观与意力主义之兴,功有伟于洪水之有方舟者焉。主观主义者,其趣凡二:一谓惟以主观为准则,用律诸物;一谓视主观之心灵界,当较客观之物质界为尤尊。前者为主观倾向之极端,力特著于十九世纪末叶,然其趋势,颇与主我及我执殊途,仅于客观之习惯,无所盲从,或不置重,而以自有之主观世界为至高之标准而已。以是之故,则思虑动作,咸离外物,独往来于自心之天地,确信在是,满足亦在是,谓之渐自省其内曜之成果可也。若夫兴起之由,则原于外者,为大势所向,胥在平庸之客观习惯,动不由己,发如机缄,识者不能堪,斯生反动;其原于内者,乃实以近世人心,日进于自觉,知物质万能之说,且逸个人之情意,使独创之力,归于槁枯,故不得不以自悟者悟人,冀挽狂澜于方倒耳。如尼佉伊勃生诸人,皆据其所信,力抗时俗,示主观倾向之极致;而契开迦尔则谓真理准则,独在主观,惟主观性,即为真理,至凡有道德行为,亦可弗问客观之结果若何,而一任主观之善恶为判断焉。其说出世,和者日多,于是思潮为之更张,骛外者渐转而趣内,渊思冥想之风作,自省抒情之意苏,去现实物质与自然之樊,以就其本有心灵之域;知精神现象实人类生活之极颠,非发挥其辉光,于人生为无当;而张大个人之人格,又人生之第一义也。然尔时所要求之人格,有甚异于前者。往所理想,在知见情操,两皆调整,若主智一派,则在聪明睿智,能移客观之大世界于主观之中者。如是思惟,迨黑该尔(F.Hegel)出而达其极。若罗曼暨尚古一派,则息孚支培黎(Shaftesbury)承卢骚(J.Rousseau)之后,尚容情感之要求,特必与情操相统一调和,始合其理想之人格。而希籁(Fr.Schiller)氏者,乃谓必知感两性,圆满无间,然后谓之全人。顾至十九世纪垂终,则理想为之一变。明哲之士,反省于内面者深,因以知古人所设具足调协之人,决不能得之今世;惟有意力轶众,所当希求,能于情意一端,处现实之世,而有勇猛奋斗之才,虽屡踣屡僵,终得现其理想:其为人格,如是焉耳。故如勖宾霍尔所张主,则以内省诸己,豁然贯通,因曰意力为世界之本体也;尼佉之所希冀,则意力绝世,几近神明之超人也;伊勃生之所描写,则以更革为生命,多力善斗,即万众不慑之强者也。夫诸凡理想,大致如斯者,诚以人丁转轮之时,处现实之世,使不若是,每至舍己从人,沉溺逝波,莫知所届,文明真髓,顷刻荡然;惟有刚毅不挠,虽遇外物而弗为移,始足作社会桢干。排斥万难,黾勉上征,人类尊严,于此攸赖,则具有绝大意力之士贵耳。虽然,此又特其一端而已。试察其他,乃亦以见末叶人民之弱点,盖往之文明流弊,浸灌性灵,众庶率纤弱颓靡,日益以甚,渐乃反观诸己,为之欿然,于是刻意求意力之人,冀倚为将来之柱石。此正犹洪水横流,自将灭顶,乃神驰彼岸,出全力以呼善没者尔,悲夫!
由是观之,欧洲十九世纪之文明,其度越前古,凌驾亚东,诚不俟明察而见矣。然既以改革而胎,反抗为本,则偏于一极,固理势所必然。洎夫末流,弊乃自显。于是新宗蹶起,特反其初,复以热烈之情,勇猛之行,起大波而加之涤荡。直至今日,益复浩然。其将来之结果若何,盖未可以率测。然作旧弊之药石,造新生之津梁,流衍方长,曼不遽已,则相其本质,察其精神,有可得而征信者。意者文化常进于幽深,人心不安于固定,二十世纪之文明,当必沉邃庄严,至与十九世纪之文明异趣。新生一作,虚伪道消,内部之生活,其将愈深且强欤?精神生活之光耀,将愈兴起而发扬欤?成然以觉,出客观梦幻之世界,而主观与自觉之生活,将由是而益张欤?内部之生活强,则人生之意义亦愈邃,个人尊严之旨趣亦愈明,二十世纪之新精神,殆将立狂风怒浪之间,恃意力以辟生路者也。中国在今,内密既发,四邻竞集而迫拶,情状自不能无所变迁。夫安弱守雌,笃于旧习,固无以争存于天下。第所以匡救之者,缪而失正,则虽日易故常,哭泣叫号之不已,于忧患又何补矣?此所为明哲之士,必洞达世界之大势,权衡校量,去其偏颇,得其神明,施之国中,翕合无间。外之既不后于世界之思潮,内之仍弗失固有之血脉,取今复古,别立新宗,人生意义,致之深邃,则国人之自觉至,个性张,沙聚之邦,由是转为人国。人国既建,乃始雄厉无前,屹然独见于天下,更何有于肤浅凡庸之事物哉?顾今者翻然思变,历岁已多,青年之所思惟,大都归罪恶于古之文物,甚或斥言文为蛮野,鄙思想为简陋,风发浡起,皇皇焉欲进欧西之物而代之,而于适所言十九世纪末之思潮,乃漠然不一措意。凡所张主,惟质为多,取其质犹可也,更按其实,则又质之至伪而偏,无所可用。虽不为将来立计,仅图救今日之阽危,而其术其心,违戾亦已甚矣。况乎凡造言任事者,又复有假改革公名,而阴以遂其私欲者哉?今敢问号称志士者曰,将以富有为文明欤,则犹太遗黎,性长居积,欧人之善贾者,莫与比伦,然其民之遭遇何如矣?将以路矿为文明欤,则五十年来非澳二洲,莫不兴铁路矿事,顾此二洲土著之文化何如矣?将以众治为文明欤,则西班牙波陀牙二国,立宪且久,顾其国之情状又何如矣?若曰惟物质为文化之基也,则列机括,陈粮食,遂足以雄长天下欤?曰惟多数得是非之正也,则以一人与众禺处,其亦将木居而芧食欤?此虽妇竖,必否之矣。然欧美之强,莫不以是炫天下者,则根柢在人,而此特现象之末,本原深而难见,荣华昭而易识也。是故将生存两间,角逐列国是务,其首在立人,人立而后凡事举;若其道术,乃必尊个性而张精神。假不如是,槁丧且不俟夫一世。夫中国在昔,本尚物质而疾天才矣,先王之泽,日以殄绝,逮蒙外力,乃退然不可自存。而辁才小慧之徒,则又号召张皇,重杀之以物质而囿之以多数,个人之性,剥夺无余。往者为本体自发之偏枯,今则获以交通传来之新疫,二患交伐,而中国之沉沦遂以益速矣。呜呼,眷念方来,亦已焉哉!
(一九○七年作。)
【未有天才之前
——一九二四年一月十七日在北京师范大学附属中学
校友会讲】
我自己觉得我的讲话不能使诸君有益或者有趣,因为我实在不知道什么事,但推托拖延得太长久了,所以终于不能不到这里来说几句。
我看现在许多人对于文艺界的要求的呼声之中,要求天才的产生也可以算是很盛大的了,这显然可以反证两件事:一是中国现在没有一个天才,二是大家对于现在的艺术的厌薄。天才究竟有没有?也许有着罢,然而我们和别人都没有见。倘使据了见闻,就可以说没有;不但天才,还有使天才得以生长的民众。
天才并不是自生自长在深林荒野里的怪物,是由可以使天才生长的民众产生,长育出来的,所以没有这种民众,就没有天才。有一回拿破仑过Alps山,说,“我比Alps山还要高!”这何等英伟,然而不要忘记他后面跟着许多兵;倘没有兵,那只有被山那面的敌人捉住或者赶回,他的举动,言语,都离了英雄的界线,要归入疯子一类了。所以我想,在要求天才的产生之前,应该先要求可以使天才生长的民众。——譬如想有乔木,想看好花,一定要有好土;没有土,便没有花木了;所以土实在较花木还重要。花木非有土不可,正同拿破仑非有好兵不可一样。
然而现在社会上的论调和趋势,一面固然要求天才,一面却要他灭亡,连预备的土也想扫尽。举出几样来说:
其一就是“整理国故”。自从新思潮来到中国以后,其实何尝有力,而一群老头子,还有少年,却已丧魂失魄的来讲国故了,他们说,“中国自有许多好东西,都不整理保存,倒去求新,正如放弃祖宗遗产一样不肖。”抬出祖宗来说法,那自然是极威严的,然而我总不信在旧马褂未曾洗净迭好之前,便不能做一件新马褂。就现状而言,做事本来还随各人的自便,老先生要整理国故,当然不妨去埋在南窗下读死书,至于青年,却自有他们的活学问和新艺术,各干各事,也还没有大妨害的,但若拿了这面旗子来号召,那就是要中国永远与世界隔绝了。倘以为大家非此不可,那更是荒谬绝伦!我们和古董商人谈天,他自然总称赞他的古董如何好,然而他决不痛骂画家,农夫,工匠等类,说是忘记了祖宗:他实在比许多国学家聪明得远。
其一是“崇拜创作”。从表面上看来,似乎这和要求天才的步调很相合,其实不然。那精神中,很含有排斥外来思想,异域情调的分子,所以也就是可以使中国和世界潮流隔绝的。许多人对于托尔斯泰,都介涅夫,陀思妥夫斯奇的名字,已经厌听了,然而他们的著作,有什么译到中国来?眼光囚在一国里,听谈彼得和约翰就生厌,定须张三李四才行,于是创作家出来了,从实说,好的也离不了刺取点外国作品的技术和神情,文笔或者漂亮,思想往往赶不上翻译品,甚者还要加上些传统思想,使他适合于中国人的老脾气,而读者却已为他所牢笼了,于是眼界便渐渐的狭小,几乎要缩进旧圈套里去。作者和读者互相为因果,排斥异流,抬上国粹,那里会有天才产生?即使产生了,也是活不下去的。
这样的风气的民众是灰尘,不是泥土,在他这里长不出好花和乔木来!
还有一样是恶意的批评。大家的要求批评家的出现,也由来已久了,到目下就出了许多批评家。可惜他们之中很有不少是不平家,不像批评家,作品才到面前,便恨恨地磨墨,立刻写出很高明的结论道,“唉,幼稚得很。中国要天才!”到后来,连并非批评家也这样叫喊了,他是听来的。其实即使天才,在生下来的时候的第一声啼哭,也和平常的儿童的一样,决不会就是一首好诗。因为幼稚,当头加以戕贼,也可以萎死的。我亲见几个作者,都被他们骂得寒噤了。那些作者大约自然不是天才,然而我的希望是便是常人也留着。
恶意的批评家在嫩苗的地上驰马,那当然是十分快意的事;然而遭殃的是嫩苗——平常的苗和天才的苗。幼稚对于老成,有如孩子对于老人,决没有什么耻辱;作品也一样,起初幼稚,不算耻辱的。因为倘不遭了戕贼,他就会生长,成熟,老成;独有老衰和腐败,倒是无药可救的事!我以为幼稚的人,或者老大的人,如有幼稚的心,就说幼稚的话,只为自己要说而说,说出之后,至多到印出之后,自己的事就完了,对于无论打着什么旗子的批评,都可以置之不理的!
就是在座的诸君,料来也十之九愿有天才的产生罢,然而情形是这样,不但产生天才难,单是有培养天才的泥土也难。我想,天才大半是天赋的;独有这培养天才的泥土,似乎大家都可以做。做土的功效,比要求天才还切近;否则,纵有成千成百的天才,也因为没有泥土,不能发达,要像一碟子绿豆芽。
做土要扩大了精神,就是收纳新潮,脱离旧套,能够容纳,了解那将来产生的天才;又要不怕做小事业,就是能创作的自然是创作,否则翻译,介绍,欣赏,读,看,消闲都可以。以文艺来消闲,说来似乎有些可笑,但究竟较胜于戕贼他。
泥土和天才比,当然是不足齿数的,然而不是坚苦卓绝者,也怕不容易做;不过事在人为,比空等天赋的天才有把握。这一点,是泥土的伟大的地方,也是反有大希望的地方。而且也有报酬,譬如好花从泥土里出来,看的人固然欣然的赏鉴,泥土也可以欣然的赏鉴,正不必花卉自身,这才心旷神怡的——假如当作泥土也有灵魂的说。
【再论雷峰塔的倒掉】
从崇轩先生的通信(二月份《京报副刊》)里,知道他在轮船上听到两个旅客谈话,说是杭州雷峰塔之所以倒掉,是因为乡下人迷信那塔砖放在自己的家中,凡事都必平安,如意,逢凶化吉,于是这个也挖,那个也挖,挖之久久,便倒了。一个旅客并且再三叹息道:西湖十景这可缺了呵!
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それ非物質主義者は、なお個人主義の如く、また俗に抗することに興起する。けだし唯物の傾向は、固より現実を権輿とし、人心に浸潤して久しく止まず。ゆえに十九世紀に至り、ここに大潮をなし、拠るところ極めて堅く、かつ来葉に及び、あたかも生活の本根にして、これを舍てば存するものなきが如し。知らずや、たとえ物質文明が現実生活の大本なりとも、崇奉すること度を逾え、傾向偏趨して、これ以外の諸端をことごとく棄置して顧みざれば、その究竟を按ずるに、必ず偏頗の悪因に縁りて文明の神旨を失い、先ず消耗し、終に滅亡し、歴世の精神は百年を待たずして尽くるであろう。十九世紀後葉に及びて、その弊果はいよいよ昭らかとなり、あらゆる事物は質化せざるなく、霊明は日に虧蝕し、旨趣は平庸に流れ、人はただ客観の物質世界にのみ趨き、主観の内面精神はすなわち舍置して一顧だにせず。その外を重んじ、その内を放ち、その質を取り、その神を遺し、衆生は林林として物欲に蔽われ、社会は憔悴し、進歩は停止した。ここにおいて一切の詐偽罪悪、乗じて萌えざるなく、性霊の光はますます黯淡に就く。十九世紀の文明の一面の通弊とは、けだしかくの如きものである。時にすなわち新たなる神思の宗徒出で、あるいは主観を崇奉し、あるいは意力を張皇し、流俗を匡糾すること、厲として電霆の如く、天下の群倫をして声を聞きて搖蕩せしめた。その他の評隲の士も、学者文家に至るまで、意は和平を主とし世と争わずといえども、この唯物の極端を見、かつ精神生活を殺さんとするに至っては、やはり悲観憤嘆し、主観と意力主義の興るは、その功、洪水に方舟あるに偉れりと知るのである。主観主義者の趣意はおよそ二つ。一つはただ主観を準則として諸物を律すること。もう一つは主観の心霊界を客観の物質界よりも尊しと見ること。前者は主観的傾向の極端にして、力は特に十九世紀末葉に著しいが、その趨勢は主我や我執とはかなり異なり、ただ客観の習慣に盲従せず、あるいは重きを置かず、自ら有する主観の世界を至高の標準とするのみ。このゆえに、思慮も動作もみな外物を離れ、独り自心の天地を往来し、確信はここに在り、満足もここに在る。これを漸く自ら省みてその内なる光輝の成果とすと謂うべし。その興起の由は、外に原する者としては、大勢の向かうところ、ことごとく平庸な客観の習慣に在り、動くに由らず、発すること機仕掛けの如く、識ある者は堪え能わず、ここに反動を生ずる。内に原する者としては、近世の人心が日に自覚に進み、物質万能の説が個人の情意を逸し、独創の力を槁枯に帰せしむるを知り、ゆえに自ら悟れる者をもって人を悟らしめ、狂瀾を方に倒れんとするに挽回せんことを冀うのである。ニーチェやイプセンの如き人々は、みなその信ずるところに拠り、力めて時俗に抗し、主観的傾向の極致を示した。そしてキルケゴールは真理の準則はただ主観にのみ在り、ただ主観性こそが真理であるとし、凡そ道徳的行為も客観の結果の如何を問うに及ばず、一に主観の善悪をもって判断すべしと論じた。その説が世に出て、和する者は日に多く、ここに思潮はこれがために更張し、外に馳する者は漸く転じて内に趣き、淵思冥想の風起こり、自省抒情の意は蘇り、現実・物質と自然の樊を去りて、その本来有する心霊の域に就く。精神現象こそ実に人類生活の極頂にして、その輝光を発揮せざれば人生に当たるところなく、しかして個人の人格を張大にするはまた人生の第一義なりと知る。しかるに爾の時に要求される人格には、前とは甚だ異なるものがある。かつての理想は知見と情操の両つをともに調整すること、もし主知の一派ならば聡明叡智にして客観の大世界を主観の中に移し得る者にあった。かかる思惟はヘーゲル(F. Hegel)出でてその極に達した。ロマン派並びに尚古の一派ならば、シャフツベリ(Shaftesbury)がルソー(J. Rousseau)を承けて後、情感の要求を容すも、ただし必ず情操と統一調和して始めてその理想の人格に合う。しかしてシラー(Fr. Schiller)氏は、必ず知と感の両性が円満にして間なき然る後に全人と謂うべしとした。しかるに十九世紀の終わりに至って、理想は一変した。明哲の士は内面を反省すること深く、ゆえに古人の設けた具足調協の人は決して今世に得られぬことを知り、ただ意力の群を軼ぐ者のみ希求すべく、情意の一端に能くし、現実の世に処して勇猛奮闘の才あり、屢々踣れ屢々僵れども、ついにその理想を現し得る者——その人格かくの如きのみ。ゆえにショーペンハウアーが主張するところは、内省して諸己を省み、豁然として貫通し、ゆえに意志は世界の本体なりと曰い、ニーチェの希冀するところは、意志の絶世にして神明に近き超人なり、イプセンの描写するところは、変革を生命とし、多力にして善く闘い、万衆に怯まぬ強者なり。それ凡そ理想の大致かくの如きは、まことに人が転輪の時に当たり現実の世に処するに、もしかくならざれば、往々にして己を舍て人に従い、逝波に沈溺して届くところを知らず、文明の真髄はたちまち蕩然たらん。ただ剛毅にして撓まず、外物に遇えども移されざる者のみ、始めて社会の柱石たるに足る。万難を排し、黽勉として上征し、人類の尊厳はここに攸りて頼む。すなわち絶大なる意力を具する士こそ尊いのだ。とはいえ、これもまたその一端に過ぎない。その他を察すれば、また末葉の人民の弱点が見える。けだしかつての文明の流弊は性霊に浸灌し、衆庶は率ね繊弱頽靡にして日に甚だしきを増し、漸く自らを反観して欿然たるに至り、ここに刻意して意力の人を求め、将来の柱石として倚らんことを冀うのだ。これはまさに洪水横流して自ら頂を没せんとするに当たり、神は彼岸を馳し、全力を出して善く泳ぐ者を呼ぶに等しい。悲しいかな!
これより観れば、ヨーロッパ十九世紀の文明が前古を度越し、アジアの東を凌駕したことは、まことに明察を俟たずして見えるところだ。しかし改革を以て胎し、反抗を本とする以上、一極に偏るは固より理勢の必然である。末流に及んで、弊はすなわち自ら顕れた。ここに新宗が蹶起し、ことさらにその初めに反し、復た熱烈の情と勇猛の行をもって大波を起こしてこれに滌蕩を加えた。今日に至って益々浩然たり。その将来の結果如何は、いまだ率に測るべからず。しかし旧弊の薬石となり新生の津梁を造り、流衍はまさに長く、漫りに遽に已まざれば、その本質を相し、その精神を察するに、徴信すべきものがある。思うに文化は常に幽深に進み、人心は固定に安んぜず、二十世紀の文明は必ず沈邃
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这消息,可又使我有点畅快了,虽然明知道幸灾乐祸,不像一个绅士,但本来不是绅士的,也没有法子来装潢。
我们中国的许多人,——我在此特别郑重声明:并不包括四万万同胞全部!——大抵患有一种“十景病”,至少是“八景病”,沉重起来的时候大概在清朝。凡看一部县志,这一县往往有十景或八景,如“远村明月”“萧寺清钟”“古池好水”之类。而且,“十”字形的病菌,似乎已经侵入血管,流布全身,其势力早不在“!”形惊叹亡国病菌之下了。点心有十样锦,菜有十碗,音乐有十番,阎罗有十殿,药有十全大补,猜拳有全福手福手全,连人的劣迹或罪状,宣布起来也大抵是十条,仿佛犯了九条的时候总不肯歇手。现在西湖十景可缺了呵!“凡为天下国家有九经”,九经固古已有之,而九景却颇不习见,所以正是对于十景病的一个针砭,至少也可以使患者感到一种不平常,知道自己的可爱的老病,忽而跑掉了十分之一了。
但仍有悲哀在里面。
其实,这一种势所必至的破坏,也还是徒然的。畅快不过是无聊的自欺。雅人和信士和传统大家,定要苦心孤诣巧语花言地再来补足了十景而后已。
无破坏即无新建设,大致是的;但有破坏却未必即有新建设。卢梭,斯谛纳尔,尼采,托尔斯泰,伊孛生等辈,若用勃兰兑斯的话来说,乃是“轨道破坏者”。其实他们不单是破坏,而且是扫除,是大呼猛进,将碍脚的旧轨道不论整条或碎片,一扫而空,并非想挖一块废铁古砖挟回家去,预备卖给旧货店。中国很少这一类人,即使有之,也会被大众的唾沫淹死。孔丘先生确是伟大,生在巫鬼势力如此旺盛的时代,偏不肯随俗谈鬼神;但可惜太聪明了,“祭如在祭神如神在”,只用他修《春秋》的照例手段以两个“如”字略寓“俏皮刻薄”之意,使人一时莫明其妙,看不出他肚皮里的反对来。他肯对子路赌咒,却不肯对鬼神宣战,因为一宣战就不和平,易犯骂人——虽然不过骂鬼——之罪,即不免有《衡论》(见一月份《晨报副镌》)作家TY先生似的好人,会替鬼神来奚落他道:为名乎?骂人不能得名。为利乎?骂人不能得利。想引诱女人乎?又不能将蚩尤的脸子印在文章上。何乐而为之也欤?
孔丘先生是深通世故的老先生,大约除脸子付印问题以外,还有深心,犯不上来做明目张胆的破坏者,所以只是不谈,而决不骂,于是乎俨然成为中国的圣人,道大,无所不包故也。否则,现在供在圣庙里的,也许不姓孔。
不过在戏台上罢了,悲剧将人生的有价值的东西毁灭给人看,喜剧将那无价值的撕破给人看。讥讽又不过是喜剧的变简的一支流。但悲壮滑稽,却都是十景病的仇敌,因为都有破坏性,虽然所破坏的方面各不同。中国如十景病尚存,则不但卢梭他们似的疯子决不产生,并且也决不产生一个悲剧作家或喜剧作家或讽刺诗人。所有的,只是喜剧底人物或非喜剧非悲剧底人物,在互相模造的十景中生存,一面各各带了十景病。
然而十全停滞的生活,世界上是很不多见的事,于是破坏者到了,但并非自己的先觉的破坏者,却是狂暴的强盗,或外来的蛮夷。狁早到过中原,五胡来过了,蒙古也来过了;同胞张献忠杀人如草,而满洲兵的一箭,就钻进树丛中死掉了。有人论中国说,倘使没有带着新鲜的血液的野蛮的侵入,真不知自身会腐败到如何!这当然是极刻毒的恶谑,但我们一翻历史,怕不免要有汗流浃背的时候罢。外寇来了,暂一震动,终于请他作主子,在他的刀斧下修补老例;内寇来了,也暂一震动,终于请他做主子,或者别拜一个主子,在自己的瓦砾中修补老例。再来翻县志,就看见每一次兵燹之后,所添上的是许多烈妇烈女的氏名。看近来的兵祸,怕又要大举表扬节烈了罢。许多男人们都那里去了?
凡这一种寇盗式的破坏,结果只能留下一片瓦砾,与建设无关。
但当太平时候,就是正在修补老例,并无寇盗时候,即国中暂时没有破坏么?也不然的,其时有奴才式的破坏作用常川活动着。
雷峰塔砖的挖去,不过是极近的一条小小的例。龙门的石佛,大半肢体不全,图书馆中的书籍,插图须谨防撕去,凡公物或无主的东西,倘难于移动,能够完全的即很不多。但其毁坏的原因,则非如革除者的志在扫除,也非如寇盗的志在掠夺或单是破坏,仅因目前极小的自利,也肯对于完整的大物暗暗的加一个创伤。人数既多,创伤自然极大,而倒败之后,却难于知道加害的究竟是谁。正如雷峰塔倒掉以后,我们单知道由于乡下人的迷信。共有的塔失去了,乡下人的所得,却不过一块砖,这砖,将来又将为别一自利者所藏,终究至于灭尽。倘在民康物阜时候,因为十景病的发作,新的雷峰塔也会再造的罢。但将来的运命,不也就可以推想而知么?如果乡下人还是这样的乡下人,老例还是这样的老例。
这一种奴才式的破坏,结果也只能留下一片瓦砾,与建设无关。
岂但乡下人之于雷峰塔,日日偷挖中华民国的柱石的奴才们,现在正不知有多少!
瓦砾场上还不足悲,在瓦砾场上修补老例是可悲的。我们要革新的破坏者,因为他内心有理想的光。我们应该知道他和寇盗奴才的分别;应该留心自己堕入后两种。这区别并不烦难,只要观人,省己,凡言动中,思想中,含有借此据为己有的联兆者是寇盗,含有借此占些目前的小便宜的朕兆者是奴才,无论在前面打着的是怎样鲜明好看的旗子。
(一九二五年二月六日。)
【春末闲谈】
北京正是春末,也许我过于性急之故罢,觉着夏意了,于是突然记起故乡的细腰蜂。那时候大约是盛夏,青蝇密集在凉棚索子上,铁黑色的细腰蜂就在桑树间或墙角的蛛网左近往来飞行,有时衔一支小青虫去了,有时拉一个蜘蛛。青虫或蜘蛛先是抵抗着不肯去,但终于乏力,被衔着腾空而去了,坐了飞机似的。
老前辈们开导我,那细腰蜂就是书上所说的果蠃,纯雌无雄,必须捉螟蛉去做继子的。她将小青虫封在窠里,自己在外面日日夜夜敲打着,祝道“像我像我”,经过若干日,我记不清了,大约七七四十九日罢,——那青虫也就成了细腰蜂了,所以《诗经》里说:“螟蛉有子,果蠃负之。”螟蛉就是桑上小青虫。蜘蛛呢?他们没有提。——我记得有几个考据家曾经立过异说,以为她其实自能生卵;其捉青虫,乃是填在窠里,给孵化出来的幼蜂做食料的。但我所遇见的前辈们都不采用此说,还道是拉去做女儿。我们为存留天地间的美谈起见,倒不如这样好。当长夏无事,遣暑林荫,瞥见二虫一拉一拒的时候,便如睹慈母教女,满怀好意,而青虫的宛转抗拒,则活像一个不识好歹的毛鸦头。
但究竟是夷人可恶,偏要讲什么科学。科学虽然给我们许多惊奇,但也搅坏了我们许多好梦。自从法国的昆虫学大家发勃耳(Fabre)仔细观察之后,给幼蜂做食料的事可就证实了。而且,这细腰蜂不但是普通的凶手,还是一种很残忍的凶手,又是一个学识技术都极高明的解剖学家。她知道青虫的神经构造和作用,用了神奇的毒针,向那运动神经球上只一螫,它便麻痹为不死不活状态,这才在它身上生下蜂卵,封入窠中。青虫因为不死不活,所以不动,但也因为不活不死,所以不烂,直到她的子女孵化出来的时候,这食料还和被捕当日一样的新鲜。
三年前,我遇见神经过敏的俄国的E君,有一天他忽然发愁道,不知道将来的科学家,是否不至于发明一种奇妙的药品,将这注射在谁的身上,则这人即甘心永远去做服役和战争的机器了?那时我也就皱眉叹息,装作一齐发愁的模样,以示“所见略同”之至意,殊不知我国的圣君,贤臣,圣贤,圣贤之徒,却早已有过这一种黄金世界的理想了。不是“唯辟作福,唯辟作威,唯辟玉食”么?不是“君子劳心,小人劳力”么?不是“治于人者食(去声)人,治人者食于人”么?可惜理论虽已卓然,而终于没有发明十全的好方法。要服从作威就须不活,要贡献玉食就须不死;要被治就须不活,要供养治人者又须不死。人类升为万物之灵,自然是可贺的,但没有了细腰蜂的毒针,却很使圣君,贤臣,圣贤,圣贤之徒,以至现在的阔人,学者,教育家觉得棘手。将来未可知,若已往,则治人者虽然尽力施行过各种麻痹术,也还不能十分奏效,与果蠃并驱争先。即以皇帝一伦而言,便难免时常改姓易代,终没有“万年有道之长”;《二十四史》而多至二十四,就是可悲的铁证。现在又似乎有些别开生面了,世上挺生了一种所谓“特殊知识阶级”的留学生,在研究室中研究之结果,说医学不发达是有益于人种改良的,中国妇女的境遇是极其平等的,一切道理都已不错,一切状态都已够好。E君的发愁,或者也不为无因罢,然而俄国是不要紧的,因为他们不像我们中国,有所谓“特别国情”,还有所谓“特殊知识阶级”。
但这种工作,也怕终于像古人那样,不能十分奏效的罢,因为这实在比细腰蜂所做的要难得多。她于青虫,只须不动,所以仅在运动神经球上一螫,即告成功。而我们的工作,却求其能运动,无知觉,该在知觉神经中枢,加以完全的麻醉的。但智觉一失,运动也就随之失却主宰,不能贡献玉食,恭请上自“极峰”下至“特殊知识阶级”的赏收享用了。就现在而言,窃以为除了遗老的圣经贤传法,学者的进研究室主义,文学家和茶摊老板的莫谈国事律,教育家的勿视勿听勿言勿动论之外,委实还没有更好,更完全,更无流弊的方法。便是留学生的特别发见,其实也并未轶出了前贤的范围。
那么,又要“礼失而求诸野”了。夷人,现在因为想去取法,姑且称之为外国,他那里,可有较好的法子么?可惜,也没有。所有者,仍不外乎不准集会,不许开口之类,和我们中华并没有什么很不同。然亦可见至道嘉猷,人同此心,心同此理,固无华夷之限也。猛兽是单独的,牛羊则结队;野牛的大队,就会排角成城以御强敌了,但拉开一匹,定只能牟牟地叫。人民与牛马同流,——此就中国而言,夷人别有分类法云,——治之之道,自然应该禁止集合:这方法是对的。其次要防说话。人能说话,已经是祸胎了,而况有时还要做文章。所以苍颉造字,夜有鬼哭。鬼且反对,而况于官?猴子不会说话,猴界即向无风潮,——可是猴界中也没有官,但这又作别论,——确应该虚心取法,反朴归真,则口且不开,文章自灭:这方法也是对的。然而上文也不过就理论而言,至于实效,却依然是难说。最显著的例,是连那么专制的俄国,而尼古拉二世“龙御上宾”之后,罗马诺夫氏竟已“覆宗绝祀”了。要而言之,那大缺点就在虽有二大良法,而还缺其一,便是:无法禁止人们的思想。
于是我们的造物主——假如天空真有这样的一位“主子”——就可恨了:一恨其没有永远分清“治者”与“被治者”;二恨其不给治者生一枝细腰蜂那样的毒针;三恨其不将被治者造得即使砍去了藏着的思想中枢的脑袋而还能动作——服役。三者得一,阔人的地位即永久稳固,统御也永久省了气力,而天下于是乎太平。今也不然,所以即使单想高高在上,暂时维持阔气,也还得日施手段,夜费心机,实在不胜其委屈劳神之至……。
假使没有了头颅,却还能做服役和战争的机械,世上的情形就何等地醒目呵!这时再不必用什么制帽勋章来表明阔人和窄人了,只要一看头之有无,便知道主奴,官民,上下,贵贱的区别。并且也不至于再闹什么革命,共和,会议等等的乱子了,单是电报,就要省下许多许多来。古人毕竟聪明,仿佛早想到过这样的东西,《山海经》上就记载着一种名叫“刑天”的怪物。他没有了能想的头,却还活着,“以乳为目,以脐为口”,——这一点想得很周到,否则他怎么看,怎么吃呢,——实在是很值得奉为师法的。假使我们的国民都能这样,阔人又何等安全快乐?但他又“执干戚而舞”,则似乎还是死也不肯安分,和我那专为阔人图便利而设的理想底好国民又不同。陶潜先生又有诗道:“刑天舞干戚,猛志固常在。”连这位貌似旷达的老隐士也这么说,可见无头也会仍有猛志,阔人的天下一时总怕难得太平的了。但有了太多的“特殊知识阶级”的国民,也许有特在例外的希望;况且精神文明太高了之后,精神的头就会提前飞去,区区物质的头的有无也算不得什么难问题。
(一九二五年四月二十二日。)
【杂忆】
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この知らせは、私をまたいくらか痛快にした。他人の不幸を喜ぶのは紳士らしくないと承知してはいるが、もとより紳士ではないのだから、取り繕いようもない。
我々中国人の多く——ここで特に鄭重に声明する。四億の同胞全部を含むわけではない!——はおおむね一種の「十景病」を患っており、少なくとも「八景病」は患っている。重くなったのはおそらく清朝の頃だ。県志を一部見るたびに、その県にはたいてい十景か八景があり、「遠村明月」「蕭寺清鐘」「古池好水」の類だ。しかもこの「十」の字の形をした病菌は、すでに血管に侵入して全身に流布し、その勢力はとうに「!」の形をした亡国驚嘆病菌に劣らない。点心には十様錦、料理には十碗、音楽には十番、閻魔には十殿、薬には十全大補、拳遊びには全福手福手全、人の悪行や罪状を公表する時もたいてい十条で、九条まで犯した時にはどうしても手を休めないかのようだ。今や西湖十景が一つ欠けたぞ!「凡そ天下国家を治むるに九経あり」、九経はもとより古来あるものだが、九景はかなり見慣れないもので、だからこそ十景病への一つの鍼砭であり、少なくとも患者に一種の異常を感じさせ、自分の愛しい持病が突如として十分の一消え去ったことを知らしめるだろう。
だがやはり悲哀がその中にある。
実のところ、この勢い避け難い破壊すらも徒労なのだ。痛快とは退屈な自欺に過ぎない。風雅な人と信者と伝統の大家とが、苦心惨憺、巧みな言葉で再び十景を補い足さずには置くまい。
破壊なくして新建設なしとは、おおむねその通りだ。だが破壊があっても必ずしも新建設があるとは限らない。ルソー、スティルネル、ニーチェ、トルストイ、イプセン等の輩は、ブランデスの言葉を借りれば「軌道の破壊者」である。実際、彼らは単なる破壊ではなく掃除であり、大いに叫んで猛進し、足に障る古い軌道を丸ごとであれ破片であれ一掃して空にしたのであって、廃鉄や古煉瓦を一つ掘り出して家に持ち帰り、古物商に売る算段をしたわけではない。中国にはこの手の人は甚だ少なく、たとえいたとしても大衆の唾で溺れ死ぬであろう。孔丘先生は確かに偉大で、巫鬼の勢力がかくも旺盛な時代に生まれながら、世俗に従って鬼神を語ることをしなかった。だが惜しいことに聡明すぎて、「祭るは在すが如くし、神を祭るは神在すが如くす」と、『春秋』を修める時のお決まりの手法で二つの「如し」の字にそっと「洒落な辛辣」の意を込め、人に一時はその真意が分からぬようにし、腹の中の反対を見せなかったのだ。子路に対しては賭けの誓いをする気があったが、鬼神に宣戦する気はなかった。宣戦すれば不穏になり、罵倒——鬼を罵るだけにせよ——の罪を犯しやすく、『衡論』(一月号の『晨報副鋲』所載)の作者TY先生のような善人に、鬼神に代わってこう嘲笑されかねないからだ。名のためか?人を罵って名は得られぬ。利のためか?人を罵って利は得られぬ。女を誘惑するためか?蚩尤の面を文章に印刷するわけにもゆくまい。何を楽しんでそうするのか、と。
孔丘先生は世故に通じた老先生であり、面の印刷問題以外にも深い考えがあり、あからさまな破壊者になるのは割に合わないと思ったのだろう。だから語らぬだけで、決して罵らず、かくして厳然と中国の聖人となった。道大にして包まざるなきゆえなり。さもなくば、今聖廟に祀られているのは、孔の姓ではなかったかもしれない。
芝居の舞台上に限って言えば、悲劇とは人生の価値あるものを滅ぼして人に見せるものであり、喜劇とは無価値なものを引き裂いて人に見せるものだ。諷刺は喜劇を簡略にした一つの支流に過ぎない。だが悲壮も滑稽も、ともに十景病の敵である。いずれも破壊性を持つからだ——破壊する方面は異なるにせよ。中国に十景病がなお存するならば、ルソーたちのような狂人が生まれぬのはもちろん、一人の悲劇作家も喜劇作家も諷刺詩人も生まれまい。あるのはただ、喜劇的人物か、喜劇でも悲劇でもない人物が、互いに模倣し合う十景の中で生存し、各々が十景病を帯びているだけだ。
しかし十全に停滞した生活は世界にそう多くはない。そこで破壊者が来る。だが自らの先覚的な破壊者ではなく、狂暴な強盗か、外来の蛮夷である。猃狁はかつて中原に来たし、五胡も来た、蒙古も来た。同胞の張献忠は人を草のように殺し、満洲兵の一矢は茂みの中に刺さって人を死なせた。中国について論じて、もし新鮮な血を帯びた野蛮人の侵入がなければ、自ら腐敗がどこまで進んだか分からぬと言う者がある。これはもちろん甚だ刻毒な悪口だが、歴史を一度繙けば、冷や汗の出る思いをしないわけにはいくまい。外寇が来て暫し震動するが、結局はその者を主人に迎え、その刀斧の下で旧例を修補する。内寇が来ても暫し震動するが、結局はその者を主人に迎えるか、あるいは別の主人を拝み、自分の瓦礫の中で旧例を修補する。県志を改めて繙けば、毎回の兵火の後に付け加えられるのは、多くの烈婦烈女の氏名である。近頃の兵禍を見れば、またもや盛大に節烈を表彰するのだろう。多くの男たちはどこへ行ったのか。
およそこの手の寇盗式の破壊は、結果として一面の瓦礫を残すだけで、建設とは無関係だ。
だが太平の時、すなわち旧例を修補中であり、寇盗のいない時、国中に暫時破壊がないかというと、そうでもない。その時には奴隷式の破壊作用が常に活動している。
雷峰塔の煉瓦が掘り取られたのは、ごく最近の小さな一例に過ぎない。龍門の石仏は大半が手足を欠き、図書館の書籍は挿図を引き裂かれぬよう用心せねばならず、公共物や無主の物は、動かしにくいものでさえ完全なままのものは甚だ少ない。その毀損の原因は、革除者のように掃除を志すのでもなく、寇盗のように掠奪や破壊だけを志すのでもなく、ただ目前の極めて小さな私利のために、完全な大きなものにひそかに一つの傷を加えることを厭わないのだ。人数が多ければ傷は当然甚大となり、倒壊した後には、加害者が結局誰なのか分かりにくい。ちょうど雷峰塔が倒れた後、田舎の人の迷信のためだということだけは分かるようなものだ。共有の塔は
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有人说G.Byron的诗多为青年所爱读,我觉得这话很有几分真。就自己而论,也还记得怎样读了他的诗而心神俱旺;尤其是看见他那花布裹头,去助希腊独立时候的肖像。这像,去年才从《小说月报》传入中国了。可惜我不懂英文,所看的都是译本。听近今的议论,译诗是已经不值一文钱,即使译得并不错。但那时大家的眼界还没有这样高,所以我看了译本,倒也觉得好,或者就因为不懂原文之故,于是便将臭草当作芳兰。《新罗马传奇》中的译文也曾传诵一时,虽然用的是词调,又译Sappho为“萨芷波”,证明着是根据日文译本的重译。
苏曼殊先生也译过几首,那时他还没有做诗“寄弹筝人”,因此与Byron也还有缘。但译文古奥得很,也许曾经章太炎先生的润色的罢,所以真像古诗,可是流传倒并不广。后来收入他自印的绿面金签的《文学因缘》中,现在连这《文学因缘》也少见了。
其实,那时Byron之所以比较的为中国人所知,还有别一原因,就是他的助希腊独立。时当清的末年,在一部分中国青年的心中,革命思潮正盛,凡有叫喊复仇和反抗的,便容易惹起感应。那时我所记得的人,还有波兰的复仇诗人Adam Mi ckiewicz;匈牙利的爱国诗人Petöfi Sándor;飞猎滨的文人而为西班牙政府所杀的厘沙路,——他的祖父还是中国人,中国也曾译过他的绝命诗。Hauptmann,Sudermann,Ibsen这些人虽然正负盛名,我们却不大注意。别有一部分人,则专意搜集明末遗民的著作,满人残暴的记录,钻在东京或其他的图书馆里,抄写出来,印了,输入中国,希望使忘却的旧恨复活,助革命成功。于是《扬州十日记》,《嘉定屠城记略》,《朱舜水集》,《张苍水集》都翻印了,还有《黄萧养回头》及其他单篇的汇集,我现在已经举不出那些名目来。别有一部分人,则改名“扑满”“打清”之类,算是英雄。这些大号,自然和实际的革命不甚相关,但也可见那时对于光复的渴望之心,是怎样的旺盛。
不独英雄式的名号而已,便是悲壮淋漓的诗文,也不过是纸片上的东西,于后来的武昌起义怕没有什么大关系。倘说影响,则别的千言万语,大概都抵不过浅近直截的“革命军马前卒邹容”所做的《革命军》。
2
待到革命起来,就大体而言,复仇思想可是减退了。我想,这大半是因为大家已经抱着成功的希望,又服了“文明”的药,想给汉人挣一点面子,所以不再有残酷的报复。但那时的所谓文明,却确是洋文明,并不是国粹;所谓共和,也是美国法国式的共和,不是周召共和的共和。革命党人也大概竭力想给本族增光,所以兵队倒不大抢掠。南京的土匪兵小有劫掠,黄兴先生便勃然大怒,枪毙了许多,后来因为知道土匪是不怕枪毙而怕枭首的,就从死尸上割下头来,草绳络住了挂在树上。从此也不再有什么变故了,虽然我所住的一个机关的卫兵,当我外出时举枪立正之后,就从窗门洞爬进去取了我的衣服,但究竟手段已经平和得多,也客气得多了。
南京是革命政府所在地,当然格外文明。但我去一看先前的满人的驻在处,却是一片瓦砾;只有方孝孺血迹石的亭子总算还在。这里本是明的故宫,我做学生时骑马经过,曾很被顽童骂詈和投石,——犹言你们不配这样,听说向来是如此的。现在却面目全非了,居民寥寥;即使偶有几间破屋,也无门窗;若有门,则是烂洋铁做的。总之,是毫无一点木料。
那么,城破之时,汉人大大的发挥了复仇手段了么?并不然。知道情形的人告诉我:战争时候自然有些损坏;革命军一进城,旗人中间便有些人定要按古法殉难,在明的冷宫的遗址的屋子里使火药炸裂,以炸杀自己,恰巧一同炸死了几个适从近旁经过的骑兵。革命军以为埋藏地雷反抗了,便烧了一回,可是燹余的房子还不少。此后是他们自己动手,拆屋材出卖,先拆自己的,次拆较多的别人的,待到屋无尺材寸椽,这才大家流散,还给我们一片瓦砾场。——但这是我耳闻的,保不定可是真话。
看到这样的情形,即使你将《扬州十日记》挂在眼前,也不至于怎样愤怒了罢。据我感得,民国成立以后,汉满的恶感仿佛很是消除了,各省的界限也比先前更其轻淡了。然而“罪孽深重不自殒灭”的中国人,不到一年,情形便又逆转:有宗社党的活动和遗老的谬举而两族的旧史又令人忆起,有袁世凯的手段而南北的交恶加甚,有阴谋家的狡计而省界又被利用,并且此后还要增长起来!
3
不知道我的性质特别坏,还是脱不出往昔的环境的影响之故,我总觉得复仇是不足为奇的,虽然也并不想诬无抵抗主义者为无人格。但有时也想:报复,谁来裁判,怎能公平呢?便又立刻自答:自己裁判,自己执行;既没有上帝来主持,人便不妨以目偿头,也不妨以头偿目。有时也觉得宽恕是美德,但立刻也疑心这话是怯汉所发明,因为他没有报复的勇气;或者倒是卑怯的坏人所创造,因为他贻害于人而怕人来报复,便骗以宽恕的美名。
因此我常常欣慕现在的青年,虽然生于清末,而大抵长于民国,吐纳共和的空气,该不至于再有什么异族轭下的不平之气,和被压迫民族的合辙之悲罢。果然,连大学教授,也已经不解何以小说要描写下等社会的缘故了,我和现代人要相距一世纪的话,似乎有些确凿。但我也不想湔洗,——虽然很觉得惭惶。
当爱罗先珂君在日本未被驱逐之前,我并不知道他的姓名。直到已被放逐,这才看起他的作品来;所以知道那迫辱放逐的情形的,是由于登在《读卖新闻》上的一篇江口涣氏的文字。于是将这译出,还译他的童话,还译他的剧本《桃色的云》。其实,我当时的意思,不过要传播被虐待者的苦痛的呼声和激发国人对于强权者的憎恶和愤怒而已,并不是从什么“艺术之宫”里伸出手来,拔了海外的奇花瑶草,来移植在华国的艺苑。
日文的《桃色的云》出版时,江口氏的文章也在,可是已被检查机关(警察厅?)删节得很多。我的译文是完全的,但当这剧本印成本子时,却没有印上去。因为其时我又见了别一种情形,起了别一种意见,不想在中国人的愤火上,再添薪炭了。
4
孔老先生说:“毋友不如己者。”其实这样的势利眼睛,现在的世界上还多得很。我们自己看看本国的模样,就可知道不会有什么友人的了,岂但没有友人,简直大半都曾经做过仇敌。不过仇甲的时候,向乙等候公论,后来仇乙的时候,又向甲期待同情,所以片段的看起来,倒也似乎并不是全世界都是怨敌。但怨敌总常有一个,因此每一两年,爱国者总要鼓舞一番对于敌人的怨恨与愤怒。
这也是现在极普通的事情,此国将与彼国为敌的时候,总得先用了手段,煽起国民的敌忾心来,使他们一同去扞御或攻击。但有一个必要的条件,就是:国民是勇敢的。因为勇敢,这才能勇往直前,肉搏强敌,以报仇雪恨。假使是怯弱的人民,则即使如何鼓舞,也不会有面临强敌的决心;然而引起的愤火却在,仍不能不寻一个发泄的地方,这地方,就是眼见得比他们更弱的人民,无论是同胞或是异族。
我觉得中国人所蕴蓄的怨愤已经够多了,自然是受强者的蹂躏所致的。但她们却不很向强者反抗,而反在弱者身上发泄,兵和匪不相争,无枪的百姓却并受兵匪之苦,就是最近便的证据。再露骨地说,怕还可以证明这些人的卑怯。卑怯的人,即使有万丈的愤火,除弱草以外,又能烧掉甚么呢?
或者要说,我们现在所要使人愤恨的是外敌,和国人不相干,无从受害。可是这转移是极容易的,虽曰国人,要借以泄愤的时候,只要给与一种特异的名称,即可放心剚刃。先前则有异端、妖人、奸党、逆徒等类名目,现在就可用国贼、汉奸、二毛子、洋狗或洋奴。庚子年的义和团捉住路人,可以任意指为教徒,据云这铁证是他的神通眼已在那人的额上看出一个“十”字。
然而我们在“毋友不如己者”的世上,除了激发自己的国民,使他们发些火花,聊以应景之外,又有什么良法呢。可是我根据上述的理由,更进一步而希望于点火的青年的,是对于群众,在引起他们的公愤之余,还须设法注入深沉的勇气,当鼓舞他们的感情的时候,还须竭力启发明白的理性;而且还得偏重于勇气和理性,从此继续地训练许多年。这声音,自然断乎不及大叫宣战杀贼的大而闳,但我以为却是更紧要而更艰难伟大的工作。
否则,历史指示过我们,遭殃的不是什么敌手而是自己的同胞和子孙。那结果,是反为敌人先驱,而敌人就做了这一国的所谓强者的胜利者,同时也就做了弱者的恩人。因为自己先已互相残杀过了,所蕴蓄的怨愤都已消除,天下也就成为太平的盛世。
总之,我以为国民倘没有智,没有勇,而单靠一种所谓“气”,实在是非常危险的。现在,应该更进而着手于较为坚实的工作了。
(一九二五年六月十六日。)
【论睁了眼看】
虚生先生所做的时事短评中,曾有一个这样的题目:“我们应该有正眼看各方面的勇气”(《猛进》十九期)。诚然,必须敢于正视,这才可望敢想、敢说、敢作、敢当。倘使并正视而不敢,此外还能成什么气候。然而,不幸这一种勇气,是我们中国人最所缺乏的。
但现在我所想到的是别一方面——
中国的文人,对于人生,——至少是对于社会现象,向来就多没有正视的勇气。我们的圣贤,本来早已教人“非礼勿视”的了;而这“礼”又非常之严,不但“正视”,连“平视”“斜视”也不许。现在青年的精神未可知,在体质,却大半还是弯腰曲背,低眉顺眼,表示着老牌的老成的子弟,驯良的百姓,——至于说对外却有大力量,乃是近一月来的新说,还不知道究竟是如何。
再回到“正视”问题去:先既不敢,后便不能,再后,就自然不视,不见了。一辆汽车坏了,停在马路上,一群人围着呆看,所得的结果是一团乌油油的东西。然而由本身的矛盾或社会的缺陷所生的苦痛,虽不正视,却要身受的。文人究竟是敏感人物,从他们的作品上看来,有些人确也早已感到不满,可是一到快要显露缺陷的危机一发之际,他们总即刻连说“并无其事”,同时便闭上了眼睛。这闭着的眼睛便看见一切圆满,当前的苦痛不过是“天之将降大任于是人也,必先苦其心志,劳其筋骨,饿其体肤,空乏其身,行拂乱其所为”。于是无问题,无缺陷,无不平,也就无解决,无改革,无反抗。因为凡事总要“团圆”,正无须我们焦躁;放心喝茶,睡觉大吉。再说费话,就有“不合时宜”之咎,免不了要受大学教授的纠正了。呸!
我并未实验过,但有时候想:倘将一位久蛰洞房的老太爷抛在夏天正午的烈日底下,或将不出闺门的千金小姐拖到旷野的黑夜里,大概只好闭了眼睛,暂续他们残存的旧梦,总算并没有遇到暗或光,虽然已经是绝不相同的现实。中国的文人也一样,万事闭眼睛,聊以自欺,而且欺人,那方法是:瞒和骗。
中国婚姻方法的缺陷,才子佳人小说作家早就感到了,他于是使一个才子在壁上题诗,一个佳人便来和,由倾慕——现在就得称恋爱——而至于有“终身之约”。但约定之后,也就有了难关。我们都知道,“私订终身”在诗和戏曲或小说上尚不失为美谈(自然只以与终于中状元的男人私订为限,)实际却不容于天下的,仍然免不了要离异。明末的作家便闭上眼睛,并这一层也加以补救了,说是:才子及第,奉旨成婚。“父母之命媒妁之言”经这大帽子来一压,便成了半个铅钱也不值,问题也一点没有了。假使有之,也只在才子的能否中状元,而决不在婚姻制度的良否。
(近来有人以为新诗人的做诗发表,是在出风头,引异性;且迁怒于报章杂志之滥登。殊不知即使无报,墙壁实“古已有之”,早做过发表机关了;据《封神演义》,纣王已曾在女娲庙壁上题诗,那起源实在非常之早。报章可以不取白话,或排斥小诗,墙壁却拆不完,管不及的;倘一律刷成黑色,也还有破磁可划,粉笔可书,真是穷于应付。做诗不刻木板,去藏之名山,却要随时发表,虽然很有流弊,但大概是难以杜绝的罢。)
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バイロン(G. Byron)の詩は青年に愛読されるものが多いと言う人がいるが、この言葉にはかなりの真実があると思う。自分自身について言えば、いかに彼の詩を読んで心も体も奮い立ったかをまだ覚えている。とりわけ彼があの花布で頭を巻き、ギリシア独立を助けに行く時の肖像を見た時は。この像は去年ようやく『小説月報』を通じて中国に伝わった。惜しむらくは私は英語が分からず、読んだのはすべて翻訳である。近年の議論を聞くと、詩の翻訳はもはや一文の値打ちもないとされ、たとえ翻訳が悪くなくても。だがあの頃はみなの見識がまだそこまで高くなかったので、私は翻訳を読んでもなかなか良いと思った。あるいは原文が分からぬゆえに、臭い草を芳蘭と取り違えたのかもしれない。『新羅馬伝奇』の中の訳文も一時伝誦されたが、詞調を用い、また Sappho を「薩芷波」と訳していることから、日本語訳本の重訳であることは明らかだ。
蘇曼殊先生も数首を訳したことがある。その頃はまだ「弾箏人に寄す」の詩を作っておらず、それゆえバイロンともまだ縁があった。だが訳文は甚だ古雅で、あるいは章太炎先生が潤色したのかもしれず、本当に古詩のようだったが、流布はさほど広くなかった。後に自費出版の緑表紙に金の題籤の『文学因縁』に収められたが、今ではこの『文学因縁』すら稀になった。
実のところ、あの頃バイロンが比較的中国人に知られていたのには、もう一つ別の原因がある。すなわち彼のギリシア独立への援助である。時は清の末年、一部の中国の青年の心には革命思潮がまさに盛んで、およそ復讐と反抗を叫ぶものは、たやすく共感を呼び起こした。その時私が記憶している人物には、ポーランドの復讐詩人アダム・ミツキェヴィチ、ハンガリーの愛国詩人ペテーフィ・シャーンドル、フィリピンの文人でスペイン政府に殺されたリサール――彼の祖父は中国人であり、中国でも彼の絶命詩が訳された――がいる。ハウプトマン、ズーダーマン、イプセンらは盛名を極めていたが、我々はあまり注意を払わなかった。別の一群の人々は、もっぱら明末の遺民の著作や満人の残虐の記録を収集し、東京その他の図書館にこもって書き写し、印刷して中国に輸入し、忘れられた旧恨を蘇らせ、革命の成功を助けようとした。かくして『揚州十日記』『嘉定屠城記略』『朱舜水集』『張蒼水集』がみな翻刻され、さらに『黄蕭養回頭』やその他の単篇の集成もあったが、今はその名目を挙げることもできない。また別の一群の人々は「撲満」「打清」の類に改名し、英雄気取りであった。こうした大号はもちろん実際の革命とはさほど関係がないが、光復への渇望の心がいかに旺盛であったかは見て取れる。
英雄的な号だけではない。悲壮淋漓たる詩文であっても、所詮は紙の上のものにすぎず、後の武昌起義とはさして大きな関係はなかったろう。もし影響と言うなら、他のどんな千言万語も、おそらく平明直截な「革命軍馬前卒 鄒容」の著した『革命軍』には敵うまい。
二
革命が起こると、大体において言えば、復讐思想は後退した。思うに、大半は皆がすでに成功の希望を抱き、また「文明」の薬を服用して、漢人のために面目を施そうとしたからであり、もはや残酷な報復はなかった。だがあの時のいわゆる文明は、確かに洋文明であって国粋ではなく、いわゆる共和もアメリカ・フランス式の共和であって、周召共和の共和ではなかった。革命党員もおおむね本民族の名誉を高めようと力を尽くしたので、軍隊もさほど略奪しなかった。南京の土匪兵が小さな略奪をした時、黄興先生は勃然と激怒し、多くを銃殺した。後に土匪は銃殺を恐れず梟首を恐れると知り、死体から首を切り落とし、荒縄で括って木に吊るした。以来何の変事もなくなった。もっとも私の住んでいた機関の衛兵が、私の外出時に銃を構えて敬礼した後、窓の穴から這い入って私の衣服を取っていったが、それでも手段はだいぶ穏やかになり、礼儀正しくもなっていた。
南京は革命政府の所在地であるから、もちろん格別に文明的だった。だが以前の満人の駐在地を見に行くと、一面の瓦礫だった。ただ方孝孺の血痕石の亭だけはまだ残っていた。ここはもと明の故宮で、私が学生の頃に馬で通った時には、腕白小僧に大いに罵られ石を投げつけられた――お前たちにこんなことをする資格はない、と言わんばかりで、聞くところによれば昔からそうだったという。だが今や面目は一新し、住民はまばら。たまに数軒の壊れた家があっても窓も戸もなく、戸がある場合は朽ちたブリキ板でできていた。つまり木材は一片もなかった。
では、城が陥ちた時、漢人は大いに復讐の手段を発揮したのか? そうではない。事情を知る人が教えてくれた。戦時にはもちろん若干の損壊はあった。革命軍が入城するや、旗人の中にはぜひとも古式に殉難しようとする者がおり、明の冷宮の遺址の家で火薬を爆発させて自殺した。ちょうどその近くを通りかかった数騎の兵が巻き添えで死んだ。革命軍は地雷を埋めて抵抗したものと思い、一度焼き払ったが、焼け残りの家はまだ少なくなかった。その後は彼ら自身が手をつけ、建材を剥がして売り始めた。まず自分の家を壊し、次に他人のより多い家を壊し、ついに寸木も椽も残らなくなると、みな散り散りになり、我々に瓦礫の野原を返してくれた。――だがこれは私の伝聞であり、真実かどうか保証はできない。
このような有様を見れば、たとえ『揚州十日記』を目の前にぶら下げても、さして憤怒を覚えることもあるまい。私の感じたところでは、民国成立後、漢満の悪感情はずいぶん消え去ったようであり、各省の境界も以前よりさらに薄れた。だが「罪業深重にして自ら殞滅せぬ」中国人は、一年と経たぬうちに事態がまた逆転した。宗社党の活動や遺老の妄挙があって両民族の旧史がまた思い起こされ、袁世凱の策略があって南北の対立が加わり、陰謀家の狡計があって省境がまた利用され、しかもこの後もさらに増長していくのだ!
三
自分の性質が格別に悪いのか、それとも過去の環境の影響から脱し切れぬせいか分からないが、私はどうも復讐は驚くに当たらないと感じている。もちろん無抵抗主義の者を人格なきものと誣いようとまでは思わないが。だが時にはこうも思う。報復を誰が裁き、どうすれば公平になるのか? するとすぐさま自答する。自ら裁き、自ら執行する。上帝が主宰してくれぬ以上、目をもって頭に償うのも構わぬし、頭をもって目に償うのも構わぬと。時には寛恕は美徳だと感じるが、たちまちこの言葉は臆病者が発明したのではないかと疑う。報復の勇気がないからだ。あるいは卑怯な悪人が作り出したのかもしれない。人に害をなしておきながら報復を恐れ、寛恕の美名で欺くのだ。
そのため私はしばしば今の青年を羨む。清末に生まれたとはいえ、おおむね民国に育ち、共和の空気を呼吸してきたのだから、もはや異民族の軛の下の不平や、被圧迫民族の轍を同じくする悲しみなどはないだろう。果たして、大学教授でさえ、小説がなぜ下層社会を描くのかが分からなくなっている。私と現代人との隔たりが一世紀あるという言葉にも、いくらかの確かさがあるようだ。だが私は洗い清めようとも思わない――甚だ恥じ入ってはいるけれども。
エロシェンコ氏が日本から追放される前は、私は彼の名前すら知らなかった。追放されて初めて、彼の作品を読み始めた。あの迫害追放の事情を知ったのは、『読売新聞』に載った江口渙氏の文章による。そこでこれを訳し、彼の童話も訳し、戯曲『桃色の雲』も訳した。実のところ、当時の私の意図は、虐げられた者の苦痛の叫びを伝え、国人の強権者への憎悪と憤怒を激発することにすぎず、何か「芸術の宮殿」から手を伸ばして、海外の奇花瑶草を摘んで華国の芸苑に移植しようとしたのではない。
日本語版の『桃色の雲』が出版された時、江口氏の文章も載っていたが、すでに検閲機関(警察庁?)に多くを削除されていた。私の訳文は完全なものだが、この戯曲が単行本になった時には付けなかった。なぜなら、その頃私はまた別の事態を目にし、別の考えが生まれ、中国人の憤火の上にさらに薪炭を足す気にはなれなくなったからだ。
四
孔先生は言った。「己に如かざる者を友とするなかれ」。実のところこのような勢利眼は、現在の世界にもまだ多い。自分の国の有様を見れば、何の友人もいないことは分かるだろう。友人がいないどころか、大半がかつて仇敵であったことさえある。ただし甲を恨む時には乙に公論を待ち、後に乙を恨む時には甲に同情を期待するので、断片的に見れば、全世界がみな怨敵であるわけではないようにも見える。だが怨敵は常に一人はいるのであり、そのため一、二年ごとに愛国者は敵への怨恨と憤怒を鼓舞しなければならない。
これも今では極めてよくあることだ。この国があの国を敵とせんとする時には、常にまず手段を弄して国民の敵愾心を煽り立て、ともに防衛あるいは攻撃に向かわせる。だが一つ必要な条件がある。すなわち国民が勇敢であることだ。勇敢であればこそ勇往邁進し、強敵に肉薄して仇を報じ恥を雪ぐことができる。もし臆病な人民ならば、いかに鼓舞しても強敵に対峙する決心は生まれない。だが引き起こされた憤火はそこにあり、やはり発散の場を求めずにはいられない。その場所とは、明らかに彼らより弱い人民であり、同胞であれ異族であれ。
中国人が蓄えた怨憤はすでに十分に多いと思う。もちろん強者の蹂躙を受けた結果だ。だが彼らは強者に向かってさほど反抗せず、かえって弱者に発散する。兵と匪は争わず、銃を持たぬ百姓がかえって兵匪双方の苦しみを受ける。これが最も身近な証拠だ。もっと露骨に言えば、これらの人間の卑怯さをも証明しうるのではないか。卑怯な者は、万丈の憤火があったとて、弱い草の他に何を焼き尽くせようか。
あるいはこう言うかもしれない。我々が今、人に憤恨させようとしているのは外敵であり、国人とは関係なく、害を受けることもないと。だがこの転移はきわめて容易だ。国人といっても、憤りを晴らすために利用しようとする時には、特異な名称を与えさえすれば、安心して刃を刺せる。かつては異端、妖人、奸党、逆徒の類の名目があり、今は国賊、漢奸、二毛子、洋狗あるいは洋奴を用いることができる。庚子の年の義和団は通りがかりの者を捕まえ、任意に教徒と指さすことができた。その鉄の証拠は、彼の神通眼がその者の額に「十」の字を見たからだという。
しかし我々は「己に如かざる者を友とするなかれ」の世にあって、自国の国民を奮い立たせ、いくばくかの火花を散らし、かろうじて場を繕うほかに、何の良策があろうか。だが私は上述の理由に基づき、さらに一歩進んで、火を点ずる青年に望む。群衆に対して、彼らの公憤を引き起こすと同時に、深沈な勇気をも注入すべきであり、彼らの感情を鼓舞する時には、明晰な理性をも啓発すべく力を尽くすべきである。しかも勇気と理性に重きを置き、ここからさらに長年にわたって訓練を続けるべきだ。この声はもちろん断じて宣戦殺賊を大叫するほどの大きさも広がりもないが、私はこれこそがより緊要にして、より艱難偉大な仕事であると思う。
さもなくば、歴史が示してきたように、災いを被るのは何かの敵ではなく、自らの同胞と子孫なのだ。その結果、かえって敵のための先駆となり、敵はこの国のいわゆる強者の勝利者となると同時に、弱者の恩人ともなる。なぜなら自ら先に互いに殺し合ってしまい、蓄えていた怨憤はすべて消え去り、天下もまた太平の盛世となるからだ。
つまり、国民にもし智がなく勇がなく、ただ一種のいわゆる「気」だけに頼るならば、実に非常に危険であると私は思う。今こそ、さらに進んでより堅実な仕事に着手すべきである。
(一九二五年六月十六日。)
【目を開けて見ることについて】
虚生先生の時事短評の中に、かつてこのような題目があった。「我々は各方面を正視する勇気を持つべきである」(『猛進』第十九期)。誠にその通り、正視する勇気があってこそ、敢えて考え、敢えて語り、敢えて行い、敢えて引き受けることが望める。もし正視すらできぬとあれば、他に何ができようか。だが不幸にも、この種の勇気こそ、我々中国人が最も欠くものである。
だが今私が考えているのは別の方面である――
中国の文人は、人生に対して、少なくとも社会現象に対して、昔から正視する勇気を持たぬ者が多かった。我々の聖賢は、もとより早くから「礼にあらざれば視るなかれ」と教えていた。そしてこの「礼」は非常に厳しく、「正視」どころか「平視」も「斜視」も許さない。今の青年の精神は知るべくもないが、体つきは大半まだ腰を曲げ背を丸め、眉を低くし目を伏せて、昔ながらの老成な子弟、馴良な百姓の姿を示している。――対外的には大きな力量があるという話は、この一ヶ月以来の新説で、実際のところどうなのかはまだ分からない。
「正視」の問題に戻ろう。初めに敢えてしなければ、後にはできなくなり、さらに後には自然に視なくなり、見えなくなる。一台の自動車が壊れて道に止まると、一群の人が取り囲んでぼんやり眺め、得られる結果は一塊の油じみた黒い物体だ。だが自身の矛盾や社会の欠陥から生じる苦痛は、正視しなくとも身に受けねばならない。文人はやはり敏感な人間であり、その作品から見れば、確かにとうに不満を感じている者もいる。だが欠陥が露呈する危機一髪の際には、必ずすぐに「そんなことはない」と言い、同時に目を閉じてしまう。この閉じた目はすべてが円満であると見てとり、目前の苦痛は「天がこの人に大任を降さんとする時は、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を飢えさせ、その身を窮乏させ、その行いを妨げ乱す」にすぎないとする。かくして問題もなく、欠陥もなく、不平もなく、したがって解決もなく、改革もなく、反抗もない。万事「大団円」に終わるのだから、我々が焦る必要はない。安心して茶を飲み、眠るが吉。さらに余計なことを言えば「時宜に合わぬ」咎を受け、大学教授の矯正を免れまい。ちぇっ!
私は実験したことはないが、時にこう思う。もし長く奥の間に引きこもっていた老旦那を真夏の正午の烈日の下に放り出し、あるいは閨門を出ぬ深窓の令嬢を曠野の暗夜に引きずり出せば、おそらく目を閉じて、残存する旧い夢をしばらく続けるしかなく、暗にも光にも遭っていないとみなすのだろう。もはやまったく異なる現実であるにもかかわらず。中国の文人も同じで、万事目を閉じ、いささか自欺し、かつ人を欺く。その方法は、隠蔽と詐りである。
中国の婚姻制度の欠陥は、才子佳人小説の作家がとうに感じ取っていた。そこで彼は一人の才子に壁の上に詩を題させ、一人の佳人がそれに和し、傾慕から――今では恋愛と称さねばならないが――ついに「終身の約」に至る。だが約定の後には難関もある。我々はみな知っている。「密かに終身を約す」ことは詩や戯曲や小説の上では美談とされ(もちろん最終的に状元となる男との密約に限るが)、実際には天下に容れられず、やはり離縁を免れない。明末の作家はそこで目を閉じ、この一層まで補修した。すなわち、才子が及第し、勅旨をもって成婚すると。「父母の命、媒酌の言」はこの大帽子に押さえつけられて半銭の値打ちもなくなり、問題も一切なくなる。問題があるとすれば、それはただ才子が状元に受かるかどうかであり、決して婚姻制度の良否ではない。
(近頃、新詩人が詩を作って発表するのは目立ちたがりで異性を引きつけるためだと言い、新聞雑誌がむやみに掲載するのにまで怒りを向ける者がいる。だが新聞がなくとも、壁は「古よりこれあり」で、とうに発表の機関を務めていた。『封神演義』によれば、紂王がすでに女媧廟の壁に詩を題している。その起源は実に甚だ古い。新聞は白話を採らぬこともでき、小詩を排斥することもできるが、壁は壊し尽くせず管理も及ばない。たとえ一律に黒く塗っても、割れた磁器で引っかき、チョークで書くことができる。まことに応対に窮する。詩を作っても木版に刻んで名山に蔵するのでなく、随時発表しようとするのは、確かに弊害も多いが、おそらく杜絶しがたいのだろう。)
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现在通行的说法是:“日军所至,抵抗随之”,至于收复失地与否,那么,当然“既非军事专家,详细计画,不得而知”。不错呀,“日军所至,抵抗随之”,这不是迎头赶上是什么!日军一到,迎头而“赶”:日军到沈阳,迎头赶上北平;日军到闸北,迎头赶上真茹;日军到山海关,迎头赶上塘沽;日军到承德,迎头赶上古北口……以前有过行都洛阳,现在有了陪都西安,将来还有“汉族发源地”昆仑山──西方极乐世界。至于收复失地云云,则虽非军事专家亦得而知焉,于经有之,曰“不要向后跟着”也。证之已往的上海战事,每到日军退守租界的时候,就要“严饬所部切勿越界一步”。这样,所谓迎头赶上和勿向后跟,都是不但见于经典而且证诸实验的真理了。右传之一章。
传又曰:迎头赶和勿后跟,还有第二种的微言大义──
报载热河实况曰:“义军皆极勇敢,认扰乱及杀戮日军为兴奋之事……唯张作相接收义军之消息发表后,张作相既不亲往抚慰,热汤又停止供给义军汽油,运输中断,义军大都失望,甚至有认替张作相立功为无谓者。”“日军既至凌源,其时张作相已不在,吾人闻讯出走,热汤扣车运物已成目击之事实,证以日军从未派飞机至承德轰炸……可知承德实为妥协之放弃。”(张慧冲君在上海东北难民救济会席上所谈。)虽然据张慧冲君所说,“享名最盛之义军领袖,其忠勇之精神,未能悉如吾人之意想”,然而义军的兵士的确是极勇敢的小百姓。正因为这些小百姓不懂得圣经,所以也不知道迎头式的策略。于是小百姓自己,就自然要碰见迎头的抵抗了:热汤放弃承德之后,北平军委分会下令“固守古北口,如义军有欲入口者,即开枪迎击之”。这是说,我的“抵抗”只是随日军之所至,你要换个样子去抵抗,我就抵抗你;何况我的退后是预先约好了的,你既不肯妥协,那就只有“不要你向后跟着”而要把你“迎头赶上”梁山了。右传之二章。
诗云:“惶惶”大军,迎头而奔,“嗤嗤”小民,勿向后跟!赋也。
(三月十四日。)
这篇文章被检查员所指摘,经过改正,这才能在十九日的报上登出来了。
原文是这样的──
第三段“现在通行的说法”至“当然既”,原文为“民国廿二年春×三月某日,当局谈话曰:‘日军所至,抵抗随之……至收复失地及反攻承德,须视军事进展如何而定,余。’”又“不得而知”下有注云:(《申报》三月十二日第三张)。
第四段“报载热河……”上有“民国廿二年春×三月”九字。
(三月十九夜记。)
【“光明所到……”】
中国监狱里的拷打,是公然的秘密。上月里,民权保障同盟曾经提起了这问题。
但外国人办的《字林西报》就揭载了二月十五日的《北京通信》,详述胡适博士曾经亲自看过几个监狱,“很亲爱的”告诉这位记者,说“据他的慎重调查,实在不能得最轻微的证据,……他们很容易和犯人谈话,有一次胡适博士还能够用英国话和他们会谈。监狱的情形,他(胡适博士──干注)说,是不能满意的,但是,虽然他们很自由的(哦,很自由的──干注)诉说待遇的恶劣侮辱,然而关于严刑拷打,他们却连一点儿暗示也没有。”……
我虽然没有随从这回的“慎重调查”的光荣,但在十年以前,是参观过北京的模范监狱的。虽是模范监狱,而访问犯人,谈话却很不“自由”,中隔一窗,彼此相距约三尺,旁边站一狱卒,时间既有限制,谈话也不准用暗号,更何况外国话。
而这回胡适博士却“能够用英国话和他们会谈”,真是特别之极了。莫非中国的监狱竟已经改良到这地步,“自由”到这地步;还是狱卒给“英国话”吓倒了,以为胡适博士是李顿爵士的同乡,很有来历的缘故呢?
幸而我这回看见了《招商局三大案》上的胡适博士的题辞:
“公开检举,是打倒黑暗政治的唯一武器,光明所到,黑暗自消。”(原无新式标点,这是我僭加的──干注。)
我于是大彻大悟。监狱里是不准用外国话和犯人会谈的,但胡适博士一到,就开了特例,因为他能够“公开检举”,他能够和外国人“很亲爱的”谈话,他就是“光明”,所以“光明”所到,“黑暗”就“自消”了。他于是向外国人“公开检举”了民权保障同盟,“黑暗”倒在这一面。
但不知这位“光明”回府以后,监狱里可从此也永远允许别人用“英国话”和犯人会谈否?
如果不准,那就是“光明一去,黑暗又来”了也。
而这位“光明”又因为大学和庚款委员会的事务忙,不能常跑到“黑暗”里面去,在第二次“慎重调查”监狱之前,犯人们恐怕未必有“很自由的”再说“英国话”的幸福了罢。呜呼,光明只跟着“光明”走,监狱里的光明世界真是暂时得很!
但是,这是怨不了谁的,他们千不该万不该是自己犯了“法”。“好人”就决不至于犯“法”。倘有不信,看这“光明”!
(三月十五日。)
【止哭文学】
前三年,“民族主义文学”家敲着大锣大鼓的时候,曾经有一篇《黄人之血》说明了最高的愿望是在追随成吉思皇帝的孙子拔都元帅之后,去剿灭“斡罗斯”。斡罗斯者,今之苏俄也。那时就有人指出,说是现在的拔都的大军,就是日本的军马,而在“西征”之前,尚须先将中国征服,给变成从军的奴才。
当自己们被征服时,除了极少数人以外,是很苦痛的。这实例,就如东三省的沦亡,上海的爆击,凡是活着的人们,毫无悲愤的怕是很少很少罢。但这悲愤,于将来的“西征”是大有妨碍的。于是来了一部《大上海的毁灭》,用数目字告诉读者以中国的武力,决定不如日本,给大家平平心;而且以为活着不如死亡(“十九路军死,是警告我们活得可怜,无趣!”),但胜利又不如败退(“十九路军胜利,只能增加我们苟且,偷安与骄傲的迷梦!”)。总之,战死是好的,但战败尤其好,上海之役,正是中国的完全的成功。
现在第二步开始了。据中央社消息,则日本已有与满洲国签订一种“中华联邦帝国密约”之阴谋。那方案的第一条是:“现在世界只有两种国家,一种系资本主义,英、美、日、意、法,一种系共产主义,苏俄。现在要抵制苏俄,非中日联合起来……不能成功”云(详见三月十九日《申报》)。
要“联合起来”了。这回是中日两国的完全的成功,是从“大上海的毁灭”走到“黄人之血”路上去的第二步。
固然,有些地方正在爆击,上海却自从遭到爆击之后,已经有了一年多,但有些人民不悟“西征”的必然的步法,竟似乎还没有完全忘掉前年的悲愤。这悲愤,和目前的“联合”就大有妨碍的。在这景况中,应运而生的是给人们一点爽利和慰安,好象“辣椒和橄榄”的文学。这也许正是一服苦闷的对症药罢。为什么呢?就因为是“辣椒虽辣,辣不死人,橄榄虽苦,苦中有味”的。明乎此,也就知道苦力为什么吸鸦片。
而且不独无声的苦闷而已,还据说辣椒是连“讨厌的哭声”也可以停止的。王慈先生在《提倡辣椒救国》这一篇名文里告诉我们说:
“……还有北方人自小在母亲怀里,大哭的时候,倘使母亲拿一只辣茄子给小儿咬,很灵验的可以立止大哭……
“现在的中国,仿佛是一个在大哭时的北方婴孩,倘使要制止他讨厌的哭声,只要多多的给辣茄子他咬。”(《大晚报》副刊第十二号)
辣椒可以止小儿的大哭,真是空前绝后的奇闻,倘是真的,中国人可实在是一种与众不同的特别“民族”了。然而也很分明的看见了这种“文学”的企图,是在给人一辣而不死,“制止他讨厌的哭声”,静候着拔都元帅。
不过,这是无效的,远不如哭则“格杀勿论”的灵验。此后要防的是“道路以目”了,我们等待着遮眼文学罢。
(三月二十日。)
【【备考】:提倡辣椒救国 王慈 】
记得有一次跟着一位北方朋友上天津点心馆子里去,坐定了以后,堂倌跑过来问道:
“老乡!吃些什么东西?”
“两盘锅贴儿!”那位北方朋友用纯粹的北方口音说。
随着锅贴儿端来的,是一盆辣椒。
我看见那位北方朋友把锅贴和着多量的辣椒津津有味的送进嘴里去,触起了我的好奇心,探险般的把一个锅贴悄悄的蘸上一点儿辣椒,送下肚去,只觉得舌尖顿时麻木得失了知觉,喉间痒辣得怪难受,眼眶里不自主涌着泪水,这时,我大大的感觉到痛苦。
那位北方朋友看见了我这个样子,大笑了起来,接着他告诉我,北方人的善吃辣椒是出于天性,他们是抱着“饭菜可以不要,辣椒不能不吃”的主义的;他们对于辣椒已经是仿佛吸鸦片似的上了瘾!还有北方人自小在母亲怀里,大哭的时候,倘使母亲拿一只辣茄子给小儿咬,很灵验的可以立止大哭……
现在的中国,仿佛是一个大哭时的北方婴孩,倘使要制止他讨厌的哭声,只要多多的给辣茄子他咬。
中国的人们,等于我的那位北方朋友,不吃辣椒是不会兴奋的!
(三月十二日,《大晚报》副刊《辣椒与橄榄》。)
【【硬要用辣椒止哭】:不要乱咬人 王慈 】
当心咬着辣椒
上海近来多了赵大爷赵秀才一批的人,握了尺棒,拚命想找到“阿Q相”的人来出气。还好,这一批文人从有色的近视眼镜里望出来认为“阿Q相”的,偏偏不是真正的阿Q。
不知道是什么来历的何家干,看了我的《提倡辣椒救国》(见本刊十二号),认北方小孩的爱嗜辣椒,为“空前绝后”的“奇闻”。倘使我那位北方朋友告诉我,是吹的牛皮,那末,的确可以说空前。而何家干既不是数千年前的刘伯温,在某报上做文章,却是像在造“推背图”。北方小孩子爱嗜辣椒,若使可以算是“奇闻”,那么吸鸦片的父母,生育出来的婴孩,为什么也有烟瘾呢?
何家干既抓不到可以出气的对象,他在扑了一个空之后,却还要振振有词,说什么:“倘使是真的,中国人可实在是一种与众不同的特别民族了。”
敢问何家干,戴了有色近视眼镜捧读《提倡辣椒救国》的时候,有没有看见“北方”两个字?(何家干既把有这两个字的句子,录在他的谈话里,显然的是看到了。)既已看到了,那末,请问斯德丁是不是可以代表整个的日耳曼?亚伯丁是不是可以代表整个的不列颠群岛?
在这里我真怀疑,何家干的脑筋,怎的是这么简单?会前后矛盾到这个地步!
赵大爷和赵秀才一类的人,想结党来乱咬人。我可以先告诉他们:我和《辣椒与橄榄》的编者是素不相识的,我也从没有写过《黄人之血》,请何家干若使一定要咬我一口,我劝他再架一副可以透视的眼镜,认清了目标再咬。否则咬着了辣椒,哭笑不得的时候,我不能负责。
(三月二十八日,《大晚报》副刊《辣椒与橄榄》。)
【【但到底是不行的】:这叫作愈出愈奇 家干 】
斯德丁实在不可以代表整个的日耳曼的,北方也实在不可以代表全中国。然而北方的孩子不能用辣椒止哭,却是事实,也实在没有法子想。
吸鸦片的父母生育出来的婴孩,也有烟瘾,是的确的。然而嗜辣椒的父母生育出来的婴孩,却没有辣椒瘾,和嗜醋者的孩子,没有醋瘾相同。这也是事实,无论谁都没有法子想。
凡事实,靠发少爷脾气是还是改不过来的。格里莱阿说地球在回旋,教徒要烧死他,他怕死,将主张取消了。但地球仍然在回旋。为什么呢?就因为地球是实在在回旋的缘故。
所以,即使我不反对,倘将辣椒塞在哭着的北方(!)孩子的嘴里,他不但不止,还要哭得更加利害的。
(七月十九日。)
【“人话”】
记得荷兰的作家望蔼覃(F.van Eeden)──可惜他去年死掉了──所做的童话《小约翰》里,记着小约翰听两种菌类相争论,从旁批评了一句“你们俩都是有毒的”,菌们便惊喊道:“你是人么?这是人话呵!”
从菌类的立场看起来,的确应该惊喊的。人类因为要吃它们,才首先注意于有毒或无毒,但在菌们自己,这却完全没有关系,完全不成问题。
虽是意在给人科学知识的书籍或文章,为要讲得有趣也往往太说些“人话”。这毛病,是连法布耳(J.H.Fabre)做的大名鼎鼎的《昆虫记》(Souvenirs Entomlogiques),也是在所不免的。随手抄撮的东西不必说了。近来在杂志上偶然看见一篇教青年以生物学上的知识的文章,内有这样的叙述──
“鸟粪蜘蛛……形体既似鸟粪,又能伏着不动,自己假做鸟粪的样子。”
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現在通用される言い方は「日本軍の至る所、抵抗これに随う」というものであり、失地回復の如何については、当然「軍事専門家にあらざれば、詳細なる計画は知り得ず」ということである。なるほど、「日本軍の至る所、抵抗これに随う」──これこそ迎え撃ちでなくて何であろうか!日本軍が来れば、迎え撃って「駆ける」のだ。日本軍が瀋陽に至れば、迎え撃って北平へ駆け、日本軍が閘北に至れば、迎え撃って真茹へ駆け、日本軍が山海関に至れば、迎え撃って塘沽へ駆け、日本軍が承徳に至れば、迎え撃って古北口へ駆ける……。以前には行都洛陽があり、今は陪都西安があり、将来はなお「漢族発祥の地」崑崙山──西方極楽世界がある。失地回復云々に至っては、軍事専門家にあらずともこれを知り得るのであって、経典に曰く「後ろから付いて来るな」と。これを以前の上海戦事に照らせば、日本軍が租界に退守する度に、「厳に部下に命じて一歩たりとも越境せしむることなかれ」というのであった。かくして、いわゆる迎え撃ちと後追い禁止とは、経典に見えるのみならず実験に徴せられた真理となったのである。右、伝の第一章。
伝にまた曰く、迎え撃ちと後追い禁止には、第二種の微言大義がある──
報道によれば、熱河の実況は次の通りである。「義勇軍は皆極めて勇敢にして、日本軍を撹乱し殺戮することを興奮の事と認む……ただ張作相が義勇軍を接収するとの消息が発表された後、張作相は自ら赴いて慰撫せず、湯玉麟もまた義勇軍へのガソリン供給を停止し、輸送は中断し、義勇軍は大いに失望し、甚だしきは張作相のために立功することを無意味と認める者すらあり。」「日本軍既に凌源に至るに、その時張作相は既に不在にして、吾人は報を聞いて出走し、湯玉麟が車を扣えて物を運ぶは既に目撃の事実となり、日本軍がかつて飛行機を承徳に派遣して爆撃したことなきことに照らせば……承徳は実に妥協による放棄なりしことが知られる。」(張慧冲氏が上海東北難民救済会の席上にて語りしところ。)張慧冲氏の言によれば、「最も名声の高き義勇軍の指導者も、その忠勇の精神は必ずしも吾人の想像の如くならず」とのことであるが、しかし義勇軍の兵士は確かに極めて勇敢なる小百姓である。まさにこれらの小百姓が聖典を解さぬがゆえに、迎え撃ちの策略をも知らぬのである。かくして小百姓自身が、自ずと迎え撃ちの抵抗に遭遇することとなった。湯玉麟が承徳を放棄した後、北平軍事委員会分会は「古北口を固守せよ、もし義勇軍にて入関せんと欲する者あらば、即ち銃を発して迎撃せよ」と命じた。これは即ち、我が「抵抗」は日本軍の至る所に随うのみであり、汝が様を変えて抵抗せんとすれば、我は汝を抵抗する、況んや我が退却は予め約定せしものなれば、汝が妥協を肯んぜざる以上は、ただ「後から付いて来させぬ」のみならず、汝を「迎え撃って」梁山に追い上げるほかなし、というのである。右、伝の第二章。
詩に云う、「惶惶」たる大軍、迎え撃って奔り、「嗤嗤」たる小民、後に従うなかれ! 賦なり。
(三月十四日。)
この文章は検閲官に指摘され、改正を経て、ようやく十九日の新聞に掲載されることができた。
原文は次の通りであった──
第三段の「現在通用される言い方は」から「当然」までの原文は、「民国二十二年春×三月某日、当局談話に曰く、『日本軍の至る所、抵抗これに随う……失地回復及び承徳反攻に至っては、須く軍事の進展如何を視るべし、余。』」であった。また「知り得ず」の下に注として(『申報』三月十二日第三面)とあった。
第四段の「報道によれば熱河……」の上に「民国二十二年春×三月」の九字があった。
(三月十九日夜記す。)
【「光明の至る所……」】
中国の監獄における拷問は、公然たる秘密である。先月、民権保障同盟がこの問題を提起した。
しかし外国人が経営する『字林西報』は二月十五日の『北京通信』を掲載し、胡適博士がかつて自ら数箇所の監獄を視察し、「極めて親しげに」この記者に語ったところによれば、「その慎重なる調査に拠れば、実に最も軽微なる証拠すら得ることができず……彼らは極めて容易に囚人と談話し得、一度など胡適博士は英語をもって彼らと会談し得たという。監獄の状況は、彼(胡適博士──筆者注)の言によれば、満足し得るものではないが、しかしながら、彼らが極めて自由に(ああ、極めて自由に──筆者注)待遇の劣悪なる侮辱を訴えたにもかかわらず、厳刑拷問については、彼らは一片の暗示すらなさなかった」という……。
私はこの度の「慎重なる調査」に随行する光栄には与からなかったが、十年前に北京の模範監獄を参観したことがある。模範監獄とはいえ、囚人との面会において、談話は決して「自由」ではなく、中間に窓一つを隔て、彼此の距離は約三尺、傍らに獄卒が立ち、時間にも制限があり、談話に暗号を用いることも許されず、まして外国語など論外であった。
ところがこの度、胡適博士は「英語をもって彼らと会談し得た」というのだから、まことに特別の極みである。まさか中国の監獄がかくも改良され、かくも「自由」になったというのか。それとも獄卒が「英語」に恐れをなし、胡適博士をリットン卿の同郷にして、大いに来歴ある人物と思ったがゆえであろうか。
幸いにも、私はこの度『招商局三大案』に載せられた胡適博士の題辞を見た──
「公開の告発は、暗黒政治を打倒する唯一の武器にして、光明の至る所、暗黒は自ずと消ゆ。」(原文に新式句読点なし、これは私が僭越ながら付したものである──筆者注。)
かくして私は大いに徹悟した。監獄では外国語をもって囚人と会談することは許されていないが、胡適博士が至れば、特例が開かれるのである。なぜなら彼は「公開の告発」をなし得、彼は外国人と「極めて親しげに」談話し得るからであり、彼こそが「光明」であるからして、「光明」の至る所、「暗黒」は「自ずと消ゆ」るのである。かくして彼は外国人に向かって民権保障同盟を「公開告発」し、「暗黒」はかえってこちら側に在ることとなった。
しかし、この「光明」が帰府された後、監獄にはそれ以降も永遠に他の人が「英語」をもって囚人と会談することを許されるであろうか。
もし許されぬとすれば、それは「光明一たび去れば、暗黒再び来たる」ということになるのである。
しかもこの「光明」は、大学と庚款委員会の事務に忙殺されて、しばしば「暗黒」の中に赴くことはできず、第二回の「慎重なる調査」の前には、囚人たちはおそらく「極めて自由に」再び「英語」を話す幸福には与かれぬであろう。嗚呼、光明はただ「光明」に随いて行くのみにて、監獄の光明世界はまことに束の間のものである!
しかしながら、これは誰をも恨み得ぬことであって、彼らは何千何万と過ちを犯したのではなく、ただ自ら「法」を犯したのである。「善人」ならば決して「法」を犯すには至らぬ。もし信ぜぬ者あらば、この「光明」を見よ!
(三月十五日。)
【泣き止ませ文学】
三年前、「民族主義文学」の徒が銅鑼太鼓を打ち鳴らしていた頃、一篇の『黄人の血』なるものがあり、最高の願望は成吉思汗の孫バトゥ元帥の後に従い、「斡羅斯」を剿滅することにあると述べていた。斡羅斯とは、今のソヴィエト・ロシアである。当時すでに人が指摘するに、今のバトゥの大軍とは即ち日本の軍馬であり、「西征」の前にはまず中国を征服し、従軍の奴隷に変えねばならぬのだと。
自らが征服される時には、極少数の者を除いて、甚だ苦痛である。その実例は東三省の陥落、上海の爆撃の如きにて、凡そ生きている人間で全く悲憤を覚えぬ者はおそらく極めて少なかろう。しかしこの悲憤は将来の「西征」には大いに妨げとなる。かくして一冊の『大上海の毀滅』が現れ、数字を以て読者に中国の武力は決して日本に及ばぬと告げ、皆の心を平らかにせしめた。しかも生きているよりは死の方がましであり(「十九路軍の死は、我々の生の惨めさ、無趣味を警告するものだ!」)、勝利は敗退に如かず(「十九路軍の勝利は、我々の苟且・偸安・驕慢の迷夢を増すのみ!」)。要するに戦死は善きことであるが戦敗は殊に善く、上海の戦役こそ中国の完全なる成功であるという。
今や第二歩が始まった。中央社の消息によれば、日本は既に満洲国と「中華連邦帝国密約」を締結する陰謀を有しているという。その方案の第一条は、「現在世界には二種の国家あるのみ、一種は資本主義にして英・米・日・伊・仏、一種は共産主義にしてソヴィエト・ロシア。今ソヴィエトに対抗せんとせば、中日連合せざれば成功し得ず」云々(詳しくは三月十九日『申報』参照)。
「連合」せんとするのである。この度は中日両国の完全なる成功であり、「大上海の毀滅」から「黄人の血」への道を行く第二歩である。
固より、ある地方では爆撃が行われているが、上海は爆撃を受けて以来既に一年余を経ている。しかし一部の人民は「西征」の必然の歩調を悟らず、一昨年の悲憤を未だ完全には忘れ去っていないように見える。この悲憤は目下の「連合」には大いに妨げとなる。この景況の中で時運に応じて生まれたのは、人々にいささかの爽快と慰安を与える「辣椒と橄欖」の如き文学である。これこそ苦悶に対する処方箋であろう。なぜか。「辣椒は辛けれども人を辛死させず、橄欖は苦けれども苦中に味あり」だからである。これを明らかにすれば、苦力がなぜ阿片を吸うかも分かる。
しかも無声の苦悶のみならず、辣椒は「厭わしき泣き声」をも止め得るという。王慈氏は『辣椒救国を提唱す』なる名文の中で告げている──
「……また北方の人は幼少の頃より母の懐にありて、大いに泣く時、もし母が辣茄子一つを小児に咬ませれば、極めて霊験あらたかに忽ち大泣きを止め得る……
「今の中国は、あたかも大泣きしている北方の嬰児の如し。もしその厭わしき泣き声を止めんと欲すれば、ただ多くの辣茄子を彼に咬ませるのみでよい。」(『大晩報』副刊第十二号)
辣椒をもって小児の大泣きを止め得るとは空前絶後の奇聞であり、もしこれが真ならば、中国人は衆と異なる特別の「民族」と言わねばならぬ。しかし分明に見て取れるのは、この種の「文学」の企図が、人に一辛を与えて死に至らしめず、「その厭わしき泣き声を止め」て、静かにバトゥ元帥を待つことにあるということである。
ただしこれは無効であって、泣けば「問答無用にて斬殺せよ」の霊験には遠く及ばぬ。この後に防ぐべきは「道に目を以てす」であり、我々は目隠し文学を待つこととしよう。
(三月二十日。)
【【備考】:辣椒救国を提唱す 王慈】
かつて一度、ある北方の友人に連れられて天津の点心屋に入ったことを覚えている。腰を下ろすと、給仕が走り寄って問うた──「旦那!何を召し上がります?」「鍋貼を二皿!」かの北方の友人は純粋な北方訛りで言った。鍋貼と共に運ばれて来たのは辣椒の一鉢であった。
かの北方の友人が鍋貼を多量の辣椒と共に実に旨そうに口に運ぶのを見て、私の好奇心が触発され、冒険するかの如く鍋貼一つをそっと少しばかり辣椒に浸け、腹に収めたところ、舌先は忽ち痺れて感覚を失い、喉は痒く辛くて堪え難く、眼窩には涙が湧き、この時私は大いなる苦痛を感じた。
かの北方の友人は私のこの有様を見て大いに笑い出し語った。北方人の辣椒好きは天性であり、「飯菜はなくとも辣椒なくしては食事にならず」との主義を抱いていると。彼らにとって辣椒はあたかも阿片の如く癖になっている! また北方人は幼少の頃より母の懐にありて、大いに泣く時、もし母が辣茄子一つを小児に咬ませれば、極めて霊験あらたかに忽ち大泣きを止め得る……
今の中国は、あたかも大泣きしている北方の嬰児の如し。もしその厭わしき泣き声を止めんと欲すれば、ただ多くの辣茄子を彼に咬ませるのみでよい。
中国の人々は、私のかの北方の友人に等しく、辣椒を食べずには興奮しないのだ!
(三月十二日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
【【辣椒で泣き止ませるのは結局無理】:むやみに人を咬むな 王慈】
辣椒を咬む時はご用心。上海には近頃、趙旦那や趙秀才のような一群の人が増え、物差し棒を握り、懸命に「阿Q面」の者を見つけて八つ当たりしようとしている。幸いにもこの一群の文人が色眼鏡越しに「阿Q面」だと見なした者は、実は真の阿Qではない。
何の来歴かも知れぬ何家幹なる者が、私の『辣椒救国を提唱す』を読み、北方の子供の辣椒好きを「空前絶後」の「奇聞」だと認めた。何家幹は数千年前の劉伯温でもないのに、某紙上でまるで『推背図』を作っているかのようだ。北方の子供が辣椒を好むことが「奇聞」なら、阿片を吸う父母から生まれた嬰児にもなぜ煙癖があるのか。
何家幹は八つ当たりの対象を掴めず、空振りの後になお得々として「もしこれが真ならば、中国人はまことに衆と異なる特別の民族である」などと言う。敢えて何家幹に問う。色つき近眼鏡をかけて拝読した時、「北方」の二字が目に入らなかったか。既に見たのならば、シュテッティンは日耳曼全体を代表し得るか。アバディーンはブリテン諸島全体を代表し得るか。
何家幹の頭脳は、どうしてかくも単純なのか!趙旦那や趙秀才の類は、徒党を組んでむやみに人を咬もうとしている。私は予め告げておく。私と『辣椒と橄欖』の編者とは面識もなく、『黄人の血』を書いたこともない。何家幹がどうしても私を一噛みせんとするならば、透視眼鏡をかけ目標を見定めてから咬むがよい。さもなくば辣椒を咬んでしまい泣くに泣けず笑うに笑えぬ時、私は責任を負いかねる。
(三月二十八日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
【【しかし結局やはり無理】:愈出愈奇 家幹】
シュテッティンはまことに日耳曼全体を代表し得ず、北方もまた中国全土を代表し得ない。しかし北方の子供を辣椒で泣き止ませることはできぬ──これは事実であり如何ともし難い。
阿片を吸う父母から生まれた嬰児にも煙癖がある、これは確かである。しかし辣椒を好む父母から生まれた嬰児には辣椒癖はなく、酢を好む者の子に酢癖がないのと同じである。これもまた事実であり誰にも如何ともし難い。
凡そ事実は坊っちゃん癇癪を起こしたところで覆し得ぬ。ガリレオは地球が回転していると言い、教徒は焼き殺そうとし、彼は死を恐れて主張を撤回した。しかし地球は依然として回転している。なぜか。地球がまことに回転しているからである。
されば、たとえ私が反対せずとも、辣椒を泣いている北方の(!)子供の口に押し込めば、泣き止むどころかさらに激しく泣くであろう。
(七月十九日。)
【「人の言葉」】
思い起こせば、オランダの作家ファン・エーデン(F. van Eeden)──惜しいことに彼は昨年亡くなった──の童話『小さなヨハネス』の中に、小さなヨハネスが二種類の菌が争論するのを聞き、傍から「お前たち二つとも毒があるぞ」と批評すると、菌たちが驚き叫んで「お前は人間か。これは人の言葉だ!」と言う場面がある。
菌類の立場から見れば、確かに驚き叫ぶべきことである。人間は彼らを食べようとするがゆえにまず有毒か無毒かに注意するが、菌ら自身にとってはこれは全く無関係にして全く問題とならぬことなのだ。
科学知識を与えることを旨とする書籍や文章であっても、面白く語ろうとするあまり往々にして「人の言葉」を言い過ぎるものである。この弊はかのファーブル(J. H. Fabre)の名高き『昆虫記』ですら免れぬところである。近頃雑誌上で偶然、青年に生物学の知識を教える文章を見かけたが、その中に次のような記述があった──
「鳥糞蜘蛛……形体は鳥糞に似、また伏して動かずにおることができ、自ら鳥糞の様を装う。」
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“动物界中,要残食自己亲丈夫的很多,但最有名的,要算前面所说的蜘蛛和现今要说的螳螂了。……”
这也未免太说了“人话”。鸟粪蜘蛛只是形体原像鸟粪,性又不大走动罢了,并非它故意装作鸟粪模样,意在欺骗小虫豸。螳螂界中也尚无五伦之说,它在交尾中吃掉雄的,只是肚子饿了,在吃东西,何尝知道这东西就是自己的家主公。但经用“人话”一写,一个就成了阴谋害命的凶犯,一个是谋死亲夫的毒妇了。实则都是冤枉的。
“人话”之中,又有各种的“人话”:有英人话,有华人话。华人话中又有各种:有“高等华人话”,有“下等华人话”。浙西有一个讥笑乡下女人之无知的笑话──
“是大热天的正午,一个农妇做事做得正苦,忽而叹道:‘皇后娘娘真不知道多么快活。这时还不是在床上睡午觉,醒过来的时候,就叫道:太监,拿个柿饼来!’”
然而这并不是“下等华人话”,倒是高等华人意中的“下等华人话”,所以其实是“高等华人话”。在下等华人自己,那时也许未必这么说,即使这么说,也并不以为笑话的。
再说下去,就要引起阶级文学的麻烦来了,“带住”。
现在很有些人做书,格式是写给青年或少年的信。自然,说的一定是“人话”了。但不知道是那一种“人话”?为什么不写给年龄更大的人们?年龄大了就不屑教诲么?还是青年和少年比较的纯厚,容易诓骗呢?
(三月二十一日。)
【出卖灵魂的秘诀】
几年前,胡适博士曾经玩过一套“五鬼闹中华”的把戏,那是说:这世界上并无所谓帝国主义之类在侵略中国,倒是中国自己该着“贫穷”,“愚昧”……等五个鬼,闹得大家不安宁。现在,胡适博士又发见了第六个鬼,叫做仇恨。这个鬼不但闹中华,而且祸延友邦,闹到东京去了。因此,胡适博士对症发药,预备向“日本朋友”上条陈。
据博士说:“日本军阀在中国暴行所造成之仇恨,到今日已颇难消除,”“而日本决不能用暴力征服中国”(见报载胡适之的最近谈话,下同)。这是值得忧虑的:难道真的没有方法征服中国么?不,法子是有的。“九世之仇,百年之友,均在觉悟不觉悟之关系头上”,──“日本只有一个方法可以征服中国,即悬崖勒马,彻底停止侵略中国,反过来征服中国民族的心。”
这据说是“征服中国的唯一方法”。不错,古代的儒教军师,总说“以德服人者王,其心诚服也”。胡适博士不愧为日本帝国主义的军师。但是,从中国小百姓方面说来,这却是出卖灵魂的唯一秘诀。中国小百姓实在“愚昧”,原不懂得自己的“民族性”,所以他们一向会仇恨,如果日本陛下大发慈悲,居然采用胡博士的条陈,那么,所谓“忠孝仁爱信义和平”的中国固有文化,就可以恢复:──因为日本不用暴力而用软功的王道,中国民族就不至于再生仇恨,因为没有仇恨,自然更不抵抗,因为更不抵抗,自然就更和平,更忠孝……中国的肉体固然买到了,中国的灵魂也被征服了。
可惜的是这“唯一方法”的实行,完全要靠日本陛下的觉悟。如果不觉悟,那又怎么办?胡博士回答道:“到无可奈何之时,真的接受一种耻辱的城下之盟”好了。那真是无可奈何的呵──因为那时候“仇恨鬼”是不肯走的,这始终是中国民族性的污点,即为日本计,也非万全之道。
因此,胡博士准备出席太平洋会议,再去“忠告”一次他的日本朋友:征服中国并不是没有法子的,请接受我们出卖的灵魂罢,何况这并不难,所谓“彻底停止侵略”,原只要执行“公平的”李顿报告──仇恨自然就消除了!
(三月二十二日。)
【文人无文】
在一种姓“大”的报的副刊上,有一位“姓张的”在“要求中国有为的青年,切勿借了‘文人无行’的幌子,犯着可诟病的恶癖。”这实在是对透了的。但那“无行”的界说,可又严紧透顶了。据说:“所谓无行,并不一定是指不规则或不道德的行为,凡一切不近人情的恶劣行为,也都包括在内。”
接着就举了一些日本文人的“恶癖”的例子,来作中国的有为的青年的殷鉴,一条是“宫地嘉六爱用指爪搔头发”,还有一条是“金子洋文喜舐嘴唇”。
自然,嘴唇干和头皮痒,古今的圣贤都不称它为美德,但好象也没有斥为恶德的。不料一到中国上海的现在,爱搔喜舐,即使是自己的嘴唇和头发罢,也成了“不近人情的恶劣行为”了。如果不舒服,也只好熬着。要做有为的青年或文人,真是一天一天的艰难起来了。
但中国文人的“恶癖”,其实并不在这些,只要他写得出文章来,或搔或舐,都不关紧要,“不近人情”的并不是“文人无行”,而是“文人无文”。
我们在两三年前,就看见刊物上说某诗人到西湖吟诗去了,某文豪在做五十万字的小说了,但直到现在,除了并未豫告的一部《子夜》而外,别的大作都没有出现。
拾些琐事,做本随笔的是有的;改首古文,算是自作的是有的。讲一通昏话,称为评论;编几张期刊,暗捧自己的是有的。收罗猥谈,写成下作;聚集旧文,印作评传的是有的。甚至于翻些外国文坛消息,就成为世界文学史家;凑一本文学家辞典,连自己也塞在里面,就成为世界的文人的也有。然而,现在到底也都是中国的金字招牌的“文人”。
文人不免无文,武人也一样不武。说是“枕戈待旦”的,到夜还没有动身,说是“誓死抵抗”的,看见一百多个敌兵就逃走了。只是通电宣言之类,却大做其骈体,“文”得异乎寻常。“偃武修文”,古有明训,文星全照到营子里去了。于是我们的“文人”,就只好不舐嘴唇,不搔头发,揣摩人情,单落得一个“有行”完事。
(三月二十八日。)
【【备考】:恶癖 若谷 】
“文人无行”久为一般人所诟病。
所谓“无行”,并不一定是不规则或不道德的行为,凡一切不近人情的恶劣行为,也都包括在内。
只要是人,谁都容易沾染不良的习惯,特别是文人,因为专心文字著作的缘故,在日常生活方面,自然免不了有怪异的举动,而且,或者也因为工作劳苦的缘故,十人中九人是染着不良嗜好,最普通的,是喜欢服用刺激神经的兴奋剂,卷烟与咖啡,是成为现代文人流行的嗜好品了。
现代的日本文人,除了抽烟喝咖啡之外,各人都犯着各样的怪奇恶癖。前田河广一郎爱酒若命,醉后呶鸣不休;谷崎润一郎爱闻女人的体臭和尝女人的痰涕;今东光喜欢自炫学问宣传自己;金子洋文喜舐嘴唇;细田源吉喜作猥谈,朝食后熟睡二小时;宫地嘉六爱用指爪搔头发;宇野浩二醺醉后侮慢侍妓;林房雄有奸通癖;山本有三乘电车时喜横膝斜坐;胜本清一郎谈话时喜用拇指挖鼻孔。形形色色,不胜枚举。
日本现代文人所犯的恶癖,正和中国旧时文人辜鸿鸣喜闻女人金莲同样的可厌,我要求现代中国有为的青年,不但是文人,都要保持着健全的精神,切勿借了“文人无行”的幌子,再犯着和日本文人同样可诟病的恶癖。
(三月九日,《大晚报》副刊《辣椒与橄榄》。)
【【风凉话?】:第四种人 周木斋 】
四月四日《申报》《自由谈》,载有何家干先生《文人无文》一文,论中国的文人,有云:
“‘不近人情’的并不是‘文人无行’,而是‘文人无文’。拾些琐事,做本随笔的是有的;改首古文,算是自作的是有的。进一通昏话,称为评论;编几张期刊,暗捧自己的是有的;收罗猥谈,写成下作;聚集旧文,印作评传的是有的。甚至于翻些外国文坛消息,就成为世界文学史专家;凑一本文学家辞典,连自己也塞在里面,就成为世界的文人的也有。然而,现在到底也都是中国的金字招牌的文人。”
诚如这文所说,“这实在是对透了的”。
然而例外的是:
“直到现在,除了并未预告的一部《子夜》而外,别的大作却没有出现。”
“文”的“界说”,也可借用同文的话,“可又严紧透顶了”。
这文的动机,从开首的几句,可以知道直接是因“一种姓‘大’的副刊上一位‘姓×的’”关于“文人无行”的话而起的。此外,听说“何家干”就是鲁迅先生的笔名。
可是议论虽“对透”,“文”的“界说”虽“严紧透顶”,但正惟因为这样,却不提防也把自己套在里面了;纵然鲁迅先生是以“第四种人”自居的。
中国文坛的充实而又空虚,无可讳言也不必讳言。不过在矮子中间找长人,比较还是有的。我们企望先进比企图谁某总要深切些,正因熟田比荒地总要容易收获些。以鲁迅先生的素养及过去的造就,总还不失为中国的金钢钻招牌的文人吧。但近年来又是怎样?单就他个人的发展而言,却中画了,现在不下一道罪己诏,顶倒置身事外,说些风凉话,这是“第四种人”了。名的成人!
“不近人情”的固是“文人无文”,最要紧的还是“文人不行”(“行”为动词)。“进,吾往也!”
(四月十五日,《涛声》二卷十四期。)
【【乘凉】:两误一不同 家干 】
这位木斋先生对我有两种误解,和我的意见有一点不同。
第一是关于“文”的界说。我的这篇杂感,是由《大晚报》副刊上的《恶癖》而来的,而那篇中所举的文人,都是小说作者。这事木斋先生明明知道,现在混而言之者,大约因为作文要紧,顾不及这些了罢,《第四种人》这题目,也实在时新得很。
第二是要我下“罪己诏”。我现在作一个无聊的声明:何家干诚然就是鲁迅,但并没有做皇帝。不过好在这样误解的人们也并不多。
意见不同之点,是:凡有所指责时,木斋先生以自己包括在内为“风凉话”;我以自己不包括在内为“风凉话”,如身居上海,而责北平的学生应该赴难,至少是不逃难之类。
但由这一篇文章,我可实在得了很大的益处。就是:凡有指摘社会全体的症结的文字,论者往往谓之“骂人”。先前我是很以为奇的。至今才知道一部分人们的意见,是认为这类文章,决不含自己在内,因为如果兼包自己,是应该自下罪己诏的,现在没有诏书而有攻击,足见所指责的全是别人了,于是乎谓之“骂”。且从而群起而骂之,使其人背着一切所指摘的症结,沉入深渊,而天下于是乎太平。
(七月十九日。)
【最艺术的国家】
我们中国的最伟大最永久,而且最普遍的“艺术”是男人扮女人。这艺术的可贵,是在于两面光,或谓之“中庸”——男人看见“扮女人”,女人看见“男人扮”。表面上是中性,骨子里当然还是男的。然而如果不扮,还成艺术么?譬如说,中国的固有文化是科举制度,外加捐班之类。当初说这太不像民权,不合时代潮流,于是扮成了中华民国。然而这民国年久失修,连招牌都已经剥落殆尽,仿佛花旦脸上的脂粉。同时,老实的民众真个要起政权来了,竟想革掉科甲出身和捐班出身的参政权。这对于民族是不忠,对于祖宗是不孝,实属反动之至。现在早已回到恢复固有文化的“时代潮流”,那能放任这种不忠不孝。因此,更不能不重新扮过一次,草案如下:第一,谁有代表国民的资格,须由考试决定。第二,考出了举人之后,再来挑选一次,此之谓选(动词)举人;而被挑选的举人,自然是被选举人了。照文法而论,这样的国民大会的选举人,应称为“选举人者”,而被选举人,应称为“被选之举人”。但是,如果不扮,还成艺术么?因此,他们得扮成宪政国家的选举的人和被选举人,虽则实质上还是秀才和举人。这草案的深意就在这里:叫民众看见是民权,而民族祖宗看见是忠孝──忠于固有科举的民族,孝于制定科举的祖宗。此外,像上海已经实现的民权,是纳税的方有权选举和被选,使偌大上海只剩四千四百六十五个大市民。这虽是捐班──有钱的为主,然而他们一定会考中举人,甚至不补考也会赐同进士出身的,因为洋大人膝下的榜样,理应遵照,何况这也并不是一面违背固有文化,一面又扮得很像宪政民权呢?此其一。
其二,一面交涉,一面抵抗:从这一方面看过去是抵抗,从那一面看过来其实是交涉。其三,一面做实业家、银行家,一面自称“小贫而已”。其四,一面日货销路复旺,一面对人说是“国货年”……诸如此类,不胜枚举,而大都是扮演得十分巧妙,两面光滑的。
呵,中国真是个最艺术的国家,最中庸的民族。
然而小百姓还要不满意,呜呼,君子之中庸,小人之反中庸也!
(三月三十日)
【现代史】
从我有记忆的时候起,直到现在,凡我所曾经到过的地方,在空地上,常常看见有“变把戏”的,也叫作“变戏法”的。
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「動物界において、自らの親たる夫を残食するもの甚だ多きが、最も有名なるは、前に述べたる蜘蛛と今まさに述べんとする蟷螂であろう……」
これもいささか「人の言葉」を言い過ぎている。鳥糞蜘蛛はただ形体がもとより鳥糞に似ており、性としてあまり動き回らぬだけのことであって、故意に鳥糞を装い小虫を欺こうとしているわけではない。蟷螂の世界にもいまだ五倫の説はなく、交尾の最中に雄を食うのはただ腹が減って物を食べているだけのことであり、この食べ物がまさに自分の亭主であるなどと知っているはずもない。しかし「人の言葉」で書かれるや、一方は陰謀殺人の凶犯となり、一方は夫殺しの毒婦となるのである。実のところ、どちらも冤罪なのだ。
「人の言葉」の中にも、また各種の「人の言葉」がある。英国人の言葉があり、中国人の言葉がある。中国人の言葉の中にもまた各種あって、「上等華人の言葉」があり、「下等華人の言葉」がある。浙西に、田舎の女の無知を嘲る笑い話がある──
「盛夏の真昼、一人の農婦が仕事に苦しみつつ、ふと嘆いて曰く、『皇后様はどれほどお楽であろう。今頃はまだ寝台で午睡をなさり、目覚めた時にはこう仰せになるのだ──太監よ、柿餅を持て参れ!』」
しかしこれは「下等華人の言葉」ではなく、むしろ上等華人が思い描く「下等華人の言葉」であるから、実は「上等華人の言葉」なのである。下等華人自身にあっては、その時おそらくこのようには言わなかったであろうし、たとえこう言ったとしても笑い話とは思わなかったであろう。
これ以上語れば、階級文学の厄介事を引き起こすことになるから、「ここで止める」。
今、書物を著すに当たり、青年や少年への手紙という形式をとる者が少なくない。無論、語られるのは「人の言葉」に相違ない。しかしいかなる種類の「人の言葉」であるか。なぜもっと年長の人々に書かぬのか。年長になれば教え諭すに値せぬとでも言うのか。それとも青年や少年の方が比較的純朴にして欺きやすいからであるか。
(三月二十一日。)
【魂を売る秘訣】
数年前、胡適博士はかつて「五鬼中華を乱す」なる手品を弄したことがある。それは即ち、この世に帝国主義の如きものが中国を侵略しているのではなく、かえって中国自身が「貧困」「愚昧」……等の五つの鬼に祟られて皆が不安であるというのであった。今や胡適博士は第六の鬼を発見した。その名は「仇恨」という。この鬼は中華を乱すのみならず、禍は友邦にまで及び東京にまで騒ぎを起こしているという。かくして胡適博士は対症の薬を処方し、「日本の友人」に上書するつもりでいる。
博士に言わせれば、「日本軍閥の中国における暴行が生み出した仇恨は、今日に至って既に甚だ消し難く」、「而して日本は決して暴力をもって中国を征服し得ず」とのことである。これは憂慮に値する──まことに中国を征服する方法はないのか。否、方法はある。「九世の仇、百年の友、皆覚悟するか否かの一点にかかる」──「日本にはただ一つの方法のみ中国を征服し得る。即ち崖に臨みて馬を勒め、徹底的に中国侵略を停止し、翻って中国民族の心を征服することである。」
これこそ「中国を征服する唯一の方法」であるという。なるほど、古来の儒教の軍師は常々「徳を以て人を服するは王たり、その心誠に服するなり」と説いた。胡適博士は日本帝国主義の軍師たるに愧じない。しかしながら中国の小百姓の側から言えば、これこそ魂を売る唯一の秘訣である。中国の小百姓はまことに「愚昧」にして、もとより自らの「民族性」を理解せぬがゆえに、彼らはこれまで仇恨を懐くことを知っていた。もし日本陛下が大いに慈悲を発し胡博士の上書を採用するならば、いわゆる「忠孝仁愛信義和平」の中国固有の文化は恢復し得るであろう。──なぜなら日本が暴力を用いず軟功の王道を用いれば、中国民族は仇恨を生ぜず、仇恨がなければ自ずと抵抗もせず、抵抗せざれば自ずと一層平和に、一層忠孝に……中国の肉体はすでに買い取られ、中国の魂もまた征服されるのである。
惜しむらくは、この「唯一の方法」の実行は全く日本陛下の覚悟にかかっている。もし覚悟せざれば、いかがすべきか。胡博士の答えて曰く、「万やむを得ざるに至りて、真に屈辱的なる城下の盟を受くる」がよいと。まことに万やむを得ぬことである──なぜならばその時「仇恨鬼」は去ることを肯んぜず、これは終始中国民族性の汚点であり、日本のためを思うにも万全の策にあらざればなり。
かくして胡博士は太平洋会議に出席し、もう一度彼の日本の友人に「忠告」する準備をしている──中国を征服する方法がないわけではない、どうか我々の売り渡す魂を受け取ってくれ給え、況んやこれは難しいことではなく、いわゆる「徹底的侵略停止」とは「公平なる」リットン報告書を執行しさえすれば──仇恨は自ずと消え去るのだ!と。
(三月二十二日。)
【文人にして文なし】
ある「大」の字を冠する新聞の副刊に、一人の「張氏」なる者が「中国の有為なる青年に要求す、決して『文人無行』の看板を借りて、譏るべき悪癖を犯すなかれ」と述べている。これはまことに的を射た言葉である。しかしその「無行」の定義たるや、また厳密の極みである。彼に言わせれば、「いわゆる無行とは、必ずしも不規則あるいは不道徳の行為を指すのではなく、凡そ一切の人情に近からざる悪劣なる行為もまた皆これに含まれる」のだという。
続けて日本の文人の「悪癖」の例をいくつか挙げ、中国の有為なる青年の殷鑑に供している。一つは「宮地嘉六は指の爪で頭を掻くことを好む」、もう一つは「金子洋文は唇を舐めることを好む」。
無論、唇が乾くことと頭皮が痒いことは、古今の聖賢もこれを美徳とは称さぬが、悪徳と斥けたこともないようである。ところが中国上海の今日に至り、掻くことを好み舐めることを好むのは、たとえ自分の唇と頭髪であろうとも「人情に近からざる悪劣なる行為」とされるに至った。不快であっても、ただ堪えるしかない。有為なる青年あるいは文人たらんとすることは、日に日に艱難を増している。
しかし中国の文人の「悪癖」は実はこのようなことにはなく、ただ文章を書き得さえすれば、掻こうが舐めようが一向に構わぬのであって、「人情に近からざる」のは「文人無行」ではなく「文人無文」──文人にして文なし──なのである。
二、三年前、刊行物上で某詩人が西湖に吟詩しに行ったとか、某文豪が五十万字の小説を執筆中だとかいう話を見たが、今に至るまで、予告なしに現れた一部の『子夜』を除いては、他の大作は何一つ出現していない。
瑣事を拾い集めて随筆一冊をなす者はある。古文を一篇改作して自作とする者はある。一通りの昏話を語って評論と称し、雑誌を数冊編んでひそかに自分を持ち上げる者はある。猥談を蒐集して下作を書き、旧文を集めて評伝を印す者はある。甚だしきに至っては、外国文壇の消息をいくらか翻訳しただけで世界文学史家となり、文学者辞典を一冊編んで自分もその中に入れ込み、世界の文人を以て自ら任ずる者すらある。しかしながら今のところ彼らはいずれも中国の金看板の「文人」なのである。
文人にして文なきは免れ難いが、武人もまた同様に武ならず。「戈を枕に旦を待つ」と言いながら夜に至ってもまだ出発せず、「死を誓して抵抗す」と言いながら百余人の敵兵を見ただけで逃走する。ただ通電宣言の類だけは大いに駢体を弄し、「文」たること尋常ならず。「武を偃め文を修む」、古に明訓あり、文星は悉く軍営の中に照り移ったのである。かくして我らの「文人」は、唇を舐めず頭を掻かず、人情を忖度し、ただ「有行」の一語を落ち得るのみに終わる。
(三月二十八日。)
【【備考】:悪癖 若谷】
「文人無行」は久しく世人に譏られるところである。いわゆる「無行」とは、必ずしも不規則あるいは不道徳の行為を指すのではなく、凡そ一切の人情に近からざる悪劣なる行為もまた皆これに含まれる。
人である限り誰しも不良の習慣に染まりやすいが、殊に文人は文字著作に専心するがゆえに、日常生活において自ずと怪異なる挙動を免れ難く、しかもおそらくは労苦のゆえに十人中九人は不良の嗜好に染まっている。最も普通なるは神経を刺激する興奮剤を好むことにて、巻煙草とコーヒーは現代文人に流行する嗜好品となった。
現代の日本の文人は、喫煙とコーヒー以外にも各人各様の奇怪なる悪癖を犯している。前田河広一郎は酒を命の如く愛し、酔後は喧しく叫び止まず。谷崎潤一郎は女人の体臭を嗅ぎ女人の痰涕を嘗めることを好む。今東光は学問を自ら誇り自己を宣伝することを好む。金子洋文は唇を舐めることを好む。細田源吉は猥談を好み朝食後二時間熟睡す。宮地嘉六は指の爪で頭を掻くことを好む。宇野浩二は酔後侍妓を侮慢す。林房雄は姦通の癖あり。山本有三は電車にて膝を横にして斜めに座ることを好む。勝本清一郎は談話の際拇指にて鼻孔を穿ることを好む。形形色色、枚挙に遑あらず。
日本の現代文人が犯す悪癖は、中国旧時の文人辜鴻銘が女人の金蓮を嗅ぐことを好んだのと同様に厭うべきものであり、私は現代中国の有為なる青年に要求する。文人に限らず皆健全なる精神を保持し、決して「文人無行」の看板を借りて日本の文人と同様に譏るべき悪癖を犯すことなかれと。
(三月九日、『大晩報』副刊『辣椒と橄欖』。)
【【冷ややかな物言いか?】:第四種の人 周木斎】
四月四日の『申報』『自由談』に何家幹氏の『文人にして文なし』なる一文が載り、中国の文人を論じて云う──
「『人情に近からざる』のは『文人無行』にあらずして『文人無文』なり。瑣事を拾いて随筆一冊をなす者はあり、古文を一篇改めて自作とする者はあり。一通りの昏話を語りて評論と称し、雑誌を数冊編みてひそかに自らを持ち上ぐる者はあり。猥談を蒐集して下作をなし旧文を集めて評伝に印す者はあり。甚だしきに至りては外国文壇の消息をいくらか翻せば世界文学史の専門家となり、文学者辞典を一冊湊えて自らもその中に入り込めば世界の文人ともなる者あり。しかれども今のところ彼らはいずれも中国の金看板の文人なり。」
この文に「これはまことに的を射ている」と言われた如く、誠にその通りである。しかるに例外として──
「今に至るまで、予告なしに現れた一部の『子夜』を除いては、他の大作は何一つ出現していない。」
「文」の「定義」もまた同文の言葉を借りれば「また厳密の極みである」。この文の動機は冒頭の数句から知れる通り、直接にはある「大」字を冠する副刊上の「×氏」の「文人無行」に関する話に因る。なお聞くところによれば「何家幹」とは即ち魯迅先生の筆名であるという。
しかし議論は「的を射」ており「文」の「定義」は「厳密の極み」であるが、まさにそれゆえに思わず自分自身をもその中に含めてしまったのではないか。たとえ魯迅先生が「第四種の人」を自任しているとしても。
中国文壇の充実しつつも空虚なることは諱むべからず。ただし矮人の中に長人を求むれば比較的まだいる。先達に望むところは誰某に対する企図よりも常に深切であるべきだ。魯迅先生の素養と過去の功績をもってすれば、なお中国の金剛石の看板の文人たるに足る。しかし近年はいかがであったか。ただ彼個人の発展のみを言えば途中で画き止めてしまい、今や罪己の詔を下すでもなく、せいぜい局外に身を置いて冷ややかな物言いをするばかり、これが「第四種の人」というものか。名のみ成りし人よ!
「人情に近からざる」は固より「文人無文」であるが、最も肝要なるは「文人不行」(「行」は動詞)である。「進め、吾れ往かん!」
(四月十五日、『涛声』二巻十四期。)
【【涼を取る】:二つの誤解と一つの相違 家幹】
この木斎氏は私に対して二種の誤解を抱いており、私の意見と一点の相違がある。
第一は「文」の定義に関してである。私のこの雑感は『大晩報』副刊上の『悪癖』に因るものであり、その文中に挙げられた文人は皆小説の作者である。このことは木斎氏も明らかに知っているはずだが、今これを混同して論ずるのは、おそらく作文の都合上そこまで顧みる余裕がなかったのであろう。『第四種の人』という題目もまことに時好に適っている。
第二は私に「罪己の詔」を下せと求めていることである。私はここに一つの無聊なる声明をする。何家幹は誠に魯迅ではあるが、しかし皇帝になった覚えはない。もっとも幸いにしてかかる誤解をする者はそう多くはあるまい。
意見の相違する点は次の通りである。凡そ指摘批判するに当たり、木斎氏は自分自身を含めることを「冷ややかな物言い」と見なし、私は自分自身を含めないことを「冷ややかな物言い」と見なす。例えば上海に身を置きながら北平の学生は難に赴くべし少なくとも難を避けるべからずと責めるが如きがそれである。
しかしこの一篇の文章により私はまことに大いなる益を得た。即ち、凡そ社会全体の症結を指摘する文章に対して、論者は往々にしてこれを「人を罵る」ものと称する。以前は甚だ怪しんだものであるが、今にして初めて知った。一部の人々の意見としては、この種の文章は決して自分を含まぬものと考えるのである。なぜなら、もし自分をも含むならば自ら罪己の詔を下すべきところ、詔書はなくして攻撃のみあるからには、指摘するところは全て他人であるに違いないと。かくして「罵る」と称し、こぞってこれを罵り、その人に一切の指摘された症結を負わせて深淵に沈め、天下はここに太平となるのである。
(七月十九日。)
【最も芸術的なる国家】
我が中国の最も偉大にして最も永久、しかも最も普遍なる「芸術」は、男が女に扮することである。この芸術の貴きは両面に光沢あること、いわゆる「中庸」にある──男が見れば「女に扮する」を見、女が見れば「男が扮する」を見る。表面上は中性なれども骨の髄は当然なお男である。しかしもし扮さざれば、それでも芸術と言えようか。例えば中国の固有の文化は科挙制度であり、加えて官位売買の類がある。当初はあまりに民権に似ず時代の潮流に合わぬと言われ、かくして中華民国に扮装した。しかるにこの民国は年久しくして修繕されず、看板すら既に剥落して殆ど尽き、あたかも花旦の顔の脂粉の如し。同時に正直なる民衆がまことに政権を求め出し、科挙出身者や官位売買出身者の参政権を廃さんとしている。これは民族に対して不忠、祖先に対して不孝にしてまことに反動の極みである。今や既に固有の文化を恢復する「時代の潮流」に回帰したのであれば、この不忠不孝を放任するわけにはいかぬ。かくしてもう一度新たに扮装し直さねばならず、草案は次の如し。第一、誰が国民を代表する資格を有するかは試験により決定すべし。第二、挙人を試験により選出したる後さらに一度選抜す。これを選(動詞)挙人と称し、選抜されたる挙人は即ち被選挙人である。文法に照らせば、このような国民大会の選挙人は「選挙人を選ぶ者」と称すべく、被選挙人は「選ばれたる挙人」と称すべきである。しかし扮さざれば芸術と言えようか。かくして彼らは憲政国家の選挙人と被選挙人に扮装せねばならぬ。実質は依然として秀才と挙人であるにもかかわらず。この草案の深意はここにある──民衆には民権に見え、民族の祖先には忠孝に見える。このほか上海で既に実現せし民権の如きは、納税者のみ選挙権と被選挙権を有し、広大なる上海をして僅か四千四百六十五人の大市民のみを残す。これは官位売買──富める者が主人──であるが、彼らは必ず挙人に合格し、甚だしくは補考なくして同進士出身を賜うであろう。その一。
その二、一方で交渉し一方で抵抗す。こちらの面より見れば抵抗であり、あちらの面より見れば実は交渉である。その三、一方で実業家・銀行家を務めつつ一方で自ら「小貧に過ぎず」と称す。その四、一方で日本製品の売行きは再び盛んとなり一方で人には「国貨年」と告げる……このたぐい枚挙に遑なく、しかも大抵は扮演すること甚だ巧みにして両面に光沢あり。
ああ、中国はまことに最も芸術的なる国家にして、最も中庸なる民族である。
しかるに小百姓はなお不満足なり。嗚呼、君子の中庸にして小人の反中庸なるかな!
(三月三十日。)
【現代史】
私に記憶がある時分から今に至るまで、凡そ私がかつて至りし地において、空き地の上に常々「手品師」を見かけた。「手品を使う」とも言う。
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这变戏法的,大概只有两种──
一种,是教一个猴子戴起假面,穿上衣服,耍一通刀枪;骑了羊跑几圈。还有一匹用稀粥养活,已经瘦得皮包骨头的狗熊玩一些把戏。末后是向大家要钱。
一种,是将一块石头放在空盒子里,用手巾左盖右盖,变出一只白鸽来;还有将纸塞在嘴巴里,点上火,从嘴角鼻孔里冒出烟焰。其次是向大家要钱。要了钱之后,一个人嫌少,装腔作势的不肯变了,一个人来劝他,对大家说再五个。果然有人抛钱了,于是再四个,三个……
抛足之后,戏法就又开了场。这回是将一个孩子装进小口的坛子里面去,只见一条小辫子,要他再出来,又要钱。收足之后,不知怎么一来,大人用尖刀将孩子刺死了,盖上被单,直挺挺躺着,要他活过来,又要钱。
“在家靠父母,出家靠朋友……Huazaa!Huazaa!”变戏法的装出撒钱的手势,严肃而悲哀的说。
别的孩子,如果走近去想仔细的看,他是要骂的;再不听,他就会打。
果然有许多人 Huazaa 了。待到数目和预料的差不多,他们就捡起钱来,收拾家伙,死孩子也自己爬起来,一同走掉了。
看客们也就呆头呆脑的走散。
这空地上,暂时是沉寂了。过了些时,就又来这一套。俗语说,“戏法人人会变,各有巧妙不同。”其实是许多年间,总是这一套,也总有人看,总有人 Huazaa,不过其间必须经过沉寂的几日。
我的话说完了,意思也浅得很,不过说大家 Huazaa Huazaa 一通之后,又要静几天了,然后再来这一套。
到这里我才记得写错了题目,这真是成了“不死不活”的东西。
(四月一日。)
【推背图】
我这里所用的“推背”的意思,是说:从反面来推测未来的情形。
上月的《自由谈》里,就有一篇《正面文章反看法》,这是令人毛骨悚然的文字。因为得到这一个结论的时候,先前一定经过许多苦楚的经验,见过许多可怜的牺牲。本草家提起笔来,写道:砒霜,大毒。字不过四个,但他却确切知道了这东西曾经毒死过若干性命的了。
里巷间有一个笑话:某甲将银子三十两埋在地里面,怕人知道,就在上面竖一块木板,写道:“此地无银三十两。”隔壁的阿二因此却将这掘去了,也怕人发觉,就在木板的那一面添上一句道,“隔壁阿二勿曾偷。”这就是在教人“正面文章反看法”。
但我们日日所见的文章,却不能这么简单。有明说要做,其实不做的;有明说不做,其实要做的;有明说做这样,其实做那样的;有其实自己要这么做,倒说别人要这么做的;有一声不响,而其实倒做了的。然而也有说这样,竟这样的。难就在这地方。
例如近几天报章上记载着的要闻罢:
一、××军在××血战,杀敌××××人。
二、××谈话:决不与日本直接交涉,仍然不改初衷,抵抗到底。
三、芳泽来华,据云系私人事件。
四、共党联日,该伪中央已派干部××赴日接洽。
五、××××……
倘使都当反面文章看,可就太骇人了。但报上也有“莫干山路草棚船百余只大火”,“××××廉价只有四天了”等大概无须“推背”的记载,于是乎我们就又胡涂起来。
听说,《推背图》本是灵验的,某朝某帝怕他淆惑人心,就添了些假造的在里面,因此弄得不能豫知了,必待事实证明之后,人们这才恍然大悟。
我们也只好等着看事实,幸而大概是不很久的,总出不了今年。
(四月二日。)
【“杀错了人”异议】
看了曹聚仁先生的一篇《杀错了人》,觉得很痛快,但往回一想,又觉得有些还不免是愤激之谈了,所以想提出几句异议──
袁世凯在辛亥革命之后,大杀党人,从袁世凯那方面看来,是一点没有杀错的,因为他正是一个假革命的反革命者。
错的是革命者受了骗,以为他真是一个筋斗,从北洋大臣变了革命家了,于是引为同调,流了大家的血,将他浮上总统的宝位去。到二次革命时,表面上好象他又是一个筋斗,从“国民公仆”变了吸血魔王似的。其实不然,他不过又显了本相。
于是杀,杀,杀。北京城里,连饭店客栈中,都满布了侦探;还有“军政执法处”,只见受了嫌疑而被捕的青年送进去,却从不见他们活着走出来;还有,《政府公报》上,是天天看见党人脱党的广告,说是先前为友人所拉,误入该党,现在自知迷谬,从此脱离,要洗心革面的做好人了。
不久就证明了袁世凯杀人的没有杀错,他要做皇帝了。
这事情,一转眼竟已经是二十年,现在二十来岁的青年,那时还在吸奶,时光是多么飞快呵。
但是,袁世凯自己要做皇帝,为什么留下他真正对头的旧皇帝呢?这无须多议论,只要看现在的军阀混战就知道。他们打得你死我活,好象不共戴天似的,但到后来,只要一个“下野”了,也就会客客气气的,然而对于革命者呢,即使没有打过仗,也决不肯放过一个。他们知道得很清楚。
所以我想,中国革命的闹成这模样,并不是因为他们“杀错了人”,倒是因为我们看错了人。
临末,对于“多杀中年以上的人”的主张,我也有一点异议,但因为自己早在“中年以上”了,为避免嫌疑起见,只将眼睛看着地面罢。
(四月十日。)
记得原稿在“客客气气的”之下,尚有“说不定在出洋的时候,还要大开欢送会”这类意思的句子,后被删去了。
(四月十二日记。)
【【备考】:杀错了人 曹聚仁 】
前日某报载某君述长春归客的谈话,说:日人在伪国已经完成“专卖鸦片”和“统一币制”的两大政策。这两件事,从前在老张、小张时代,大家认为无法整理,现在他们一举手之间,办得有头有绪。所以某君叹息道:“愚尝与东北人士论币制紊乱之害,咸以积重难返,诿为难办;何以日人一刹那间,即毕乃事?‘是不为也,非不能也。’此为国人一大病根!”
岂独“病根”而已哉!中华民族的灭亡和中华民国的颠覆,也就在这肺痨病上。一个社会,一个民族,到了衰老期,什么都“积重难返”,所以非“革命”不可。革命是社会的突变过程;在过程中,好人,坏人,与不好不坏的人,总要杀了一些。杀了一些人,并不是没有代价的:于社会起了隔离作用,旧的社会和新的社会截然分成两段,恶的势力不会传染到新的组织中来。所以革命杀人应该有标准,应该多杀中年以上的人。多杀代表旧势力的人。法国大革命的成功,即在大恐慌时期的扫荡旧势力。
可是中国每一回的革命,总是反了常态。许多青年因为参加革命运动,做了牺牲;革命进程中,旧势力一时躲开去,一些也不曾铲除掉;革命成功以后,旧势力重复涌了出来,又把青年来做牺牲品,杀了一大批。孙中山先生辛辛苦苦做了十来年革命工作,辛亥革命成功了,袁世凯拿大权,天天杀党人,甚至连十五六岁的孩子都要杀;这样的革命,不但不起隔离作用,简直替旧势力作保镖;因此民国以来,只有暮气,没有朝气,任何事业,都不必谈改革,一谈改革,必“积重难返,诿为难办”。其恶势力一直注到现在。
这种反常状态,我名之曰:“杀错了人。”我常和朋友说:“不流血的革命是没有的,但‘流血’不可流错了人。早杀溥仪,多杀郑孝胥之流,方是邦国之大幸。若乱杀二十五岁以下的青年,倒行逆施,斫丧社会元气,就可以得‘亡国灭种’的‘眼前报’”。
(《自由谈》四月十日。)
【中国人的生命圈】
“蝼蚁尚知贪生”,中国百姓向来自称“蚁民”,我为暂时保全自己的生命计,时常留心着比较安全的处所,除英雄豪杰之外,想必不至于讥笑我的罢。
不过,我对于正面的记载,是不大相信的,往往用一种另外的看法。例如罢,报上说,北平正在设备防空,我见了并不觉得可靠;但一看见载着古物的南运,却立刻感到古城的危机,并且由这古物的行踪,推测中国乐土的所在。
现在,一批一批的古物,都集中到上海来了,可见最安全的地方,到底也还是上海的租界上。
然而,房租是一定要贵起来的了。
这在“蚁民”,也是一个大打击,所以还得想想另外的地方。
想来想去,想到了一个“生命圈”。这就是说,既非“腹地”,也非“边疆”,是介乎两者之间,正如一个环子,一个圈子的所在,在这里倒或者也可以“苟延性命于×世”的。
“边疆”上是飞机抛炸弹。据日本报,说是在剿灭“兵匪”;据中国报,说是屠戮了人民,村落市廛,一片瓦砾。“腹地”里也是飞机抛炸弹。据上海报,说是在剿灭“共匪”,他们被炸得一塌胡涂;“共匪”的报上怎么说呢,我们可不知道。但总而言之,边疆上是炸,炸,炸;腹地里也是炸,炸,炸。虽然一面是别人炸,一面是自己炸,炸手不同,而被炸则一。只有在这两者之间的,只要炸弹不要误行落下来,倒还有可免“血肉横飞”的希望,所以我名之曰“中国人的生命圈”。
再从外面炸进来,这“生命圈”便收缩而为“生命线”;再炸进来,大家便都逃进那炸好了的“腹地”里面去,这“生命圈”便完结而为“生命○”。
其实,这预感是大家都有的,只要看这一年来,文章上不大见有“我中国地大物博,人口众多”的套话了,便是一个证据。而有一位先生,还在演说上自己说中国人是“弱小民族”哩。
但这一番话,阔人们是不以为然的,因为他们不但有飞机,还有他们的“外国”!
(四月十日。)
【内外】
古人说内外有别,道理各各不同。丈夫叫“外子”,妻叫“贱内”。伤兵在医院之内,而慰劳品在医院之外,非经查明,不准接收。对外要安,对内就要攘,或者嚷。
○ ○ ○ ○
何香凝先生叹气:“当年唯恐其不起者,今日唯恐其不死。”然而死的道理也是内外不同的。
○ ○ ○ ○
庄子曰,“哀莫大于心死,而身死次之”。次之者,两害取其轻也。所以,外面的身体要它死,而内心要它活;或者正因为那心活,所以把身体治死。此之谓治心。
○ ○ ○ ○
治心的道理很玄妙:心固然要活,但不可过于活。
心死了,就明明白白地不抵抗,结果,反而弄得大家不镇静。心过于活了,就胡思乱想,当真要闹抵抗:这种人,“绝对不能言抗日”。
○ ○ ○ ○
为要镇静大家,心死的应该出洋,留学是到外国去治心的方法。
而心过于活的,是有罪,应该严厉处置,这才是在国内治心的方法。
○ ○ ○ ○
何香凝先生以为“谁为罪犯是很成问题的”,──这就因为她不懂得内外有别的道理。
(四月十一日。)
【透底】
凡事彻底是好的,而“透底”就不见得高明。因为连续的向左转,结果碰见了向右转的朋友,那时候彼此点头会意,脸上会要辣辣的。要自由的人,忽然要保障复辟的自由,或者屠杀大众的自由,──透底是透底的了,却连自由的本身也漏掉了,原来只剩得一个无底洞。
譬如反对八股是极应该的。八股原是蠢笨的产物。一来是考官嫌麻烦──他们的头脑大半是阴沉木做的,──甚么代圣贤立言,甚么起承转合,文章气韵,都没有一定的标准,难以捉摸,因此,一股一股地定出来,算是合于功令的格式,用这格式来“衡文”,一眼就看得出多少轻重。二来,连应试的人也觉得又省力,又不费事了。这样的八股,无论新旧,都应当扫荡。但是,这是为着要聪明,不是要更蠢笨些。
不过要保存蠢笨的人,却有一种策略。他们说:“我不行,而他和我一样。”──大家活不成,拉倒大吉!而等“他”拉倒之后,旧的蠢笨的“我”却总是偷偷地又站起来,实惠是属于蠢笨的。好比要打倒偶像,偶像急了,就指着一切活人说:“他们都像我”,于是你跑去把貌似偶像的活人,统统打倒;回来,偶像会赞赏一番,说打倒偶像而打倒“打倒”者,确是透底之至。其实,这时候更大的蠢笨,笼罩了全世界。
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この手品師には、おおよそ二種のみであった──
一種は、猿一匹に仮面を被せ衣服を着せて一通り刀槍を弄ばせ、羊に騎って数周走らせる。さらに薄粥で養われ既に痩せて骨と皮ばかりの熊が若干の芸当をする。最後に皆から銭を集める。
もう一種は、石一つを空箱に入れ手巾で左に覆い右に覆いして白鳩一羽を出現させる。また紙を口に詰めて火を点け、口角や鼻孔から煙炎を吐く。次に皆から銭を集める。銭を集めた後、一人が少ないと言って勿体をつけてもう演じぬと言い張り、もう一人がなだめて皆に「あと五つ」と言う。果たして銭を投げる者が現れ、かくしてあと四つ、三つ……。
銭が足りると、手品はまた始まる。今度は子供一人を口の小さな甕の中に入れてしまい、小さな辮髪だけが見え、再び出すにはまた銭が要る。十分集まると、どういうわけか大人が尖った刀で子供を刺し殺してしまい、被り物を掛けて真っ直ぐに横たえ、生き返らせるにはまた銭が要る。
「家にあっては父母を頼り、外にあっては朋友を頼り……ファーザ!ファーザ!」手品師は銭を撒く手振りをし、厳粛にして悲哀に言う。
他の子供が近寄って仔細に見ようとすれば彼は叱る。それでも聞かねば打つ。
果たして多くの人が「ファーザ」した。金額が見込みの通りに達すると、彼らは銭を拾い上げ道具を片付け、死んだ子供も自ら起き上がり一同立ち去る。
見物客もぼんやりと散って行く。
この空き地は暫時の沈寂となる。しばらくすると、またこの一式が始まる。俗に言う「手品は誰でも使えるが、各々巧みさが異なる」と。実のところ何年も常にこの一式であり、常に見る者があり常に「ファーザ」する者があるが、ただしその間に数日の沈寂を経なければならぬ。
私の話はこれで終わりであり、意味もごく浅い。ただ皆が一通り「ファーザファーザ」した後またしばらく静かになり、それからまたこの一式が繰り返されるというだけのことである。
ここに至って私は初めて題目を間違えたことに気づいた。これはまことに「死にもせず生きもせぬ」代物になってしまった。
(四月一日。)
【推背図】
ここで私が用いる「推背」の意味は、裏面から推して未来の情況を測るということである。
先月の『自由談』に一篇の『正面の文章は逆に読め』があったが、これは人をして毛骨悚然たらしめる文字である。なぜならこの結論に達するまでに、必ずや多くの苦い経験を経、多くの痛ましき犠牲を目にしたに違いないからだ。本草家が筆を執って「砒霜、大毒」と書く。字は僅か四つなれど、彼はこのものがかつていかに多くの命を毒殺したかを確実に知っているのである。
巷間に一つの笑い話がある。某甲が銀三十両を地中に埋め、人に知られることを恐れその上に木の板を立てて「此処に銀三十両なし」と書いた。隣の阿二はこれを見てその銀を掘り出したが、やはり発覚を恐れ木の板の裏に「隣の阿二は盗まず」と書き添えた。これこそ「正面の文章は逆に読め」を教えるものである。
しかし我々が日々目にする文章はかくも単純にはいかぬ。明らかにやると言いつつ実はやらぬものがあり、明らかにやらぬと言いつつ実はやるものがあり、明らかにこうすると言いつつ実はああするものがあり、実は自分がこうしたいのにかえって他人がこうしたがっていると言うものがあり、一声も発せずして実はやってしまっているものがある。しかしまた、こうすると言って本当にそうするものもある。難しいのはまさにここにある。
例えば近日の新聞に載る要聞を見よ──一、××軍は××にて血戦、敵××××人を殺す。二、××の談話:決して日本と直接交渉せず、依然として初志を改めず最後まで抵抗す。三、芳沢来華、私用とのこと。四、共産党が日本と連携、偽中央は既に幹部××を日本に派遣して交渉中。五、××××……
もしこれらを全て逆に読めば、あまりに駭然たるものがある。しかし新聞にはまた「莫干山路の草棚船百余隻大火」や「××××廉売はあと四日のみ」等々おそらく「推背」の要なき記事もあり、かくしてまた我々は混沌とするのである。
聞くところによれば、『推背図』は本来霊験あらたかであったが、某朝某帝が人心を惑わすことを恐れ偽造のものを加えたがゆえに予知し得なくなり、事実の証明を俟って後人々はようやく悟るのだという。
我々もまた事実を見て待つほかなく、幸いにしておそらくそう久しくはなく、今年中には必ず結末がつくであろう。
(四月二日。)
【「殺す相手を間違えた」異議】
曹聚仁氏の一篇『殺す相手を間違えた』を読み甚だ痛快を覚えたが、振り返ってみればなおいささか憤激の談に過ぎぬ嫌いがあるので、異議を数言呈したい──
袁世凱が辛亥革命の後に党人を大殺したのは、袁世凱の側から見れば一点の間違いもなかった。なぜなら彼はまさに偽革命の反革命者であったからだ。
間違っていたのは革命者が騙されたことであり、彼がまことに宙返り一回で北洋大臣から革命家に変じたと思い込み、同志として迎え入れ、皆の血を流して彼を大統領の座に押し上げたのである。二次革命の時、表面上は彼がまた宙返り一回で「国民の公僕」から吸血魔王に変じたかに見えた。しかし実はそうではなく、彼がまた本来の姿を現しただけのことであった。
かくして殺す、殺す、殺す。北京城内では旅館や宿屋の中にまで偵探が満ち溢れ、さらに「軍政執法処」なるものがあり、嫌疑を受けて捕らえられた青年が中に送り込まれるのは見えるが、彼らが生きて出て来るのを見たことはなかった。さらに『政府公報』には日毎に党人の脱党広告が載り、曰く以前は友人に引き込まれて誤ってかの党に入ったが、今は自ら迷妄を知りこれより離脱し心を洗い面を改めて善人たらんとする云々。
間もなく袁世凱が人を殺して間違いなかったことが証明された。彼は皇帝になろうとしたのである。
この事、瞬く間に既に二十年。今の二十歳前後の青年はその時まだ乳を吸っていたのであり、時の流れのいかに速きことか。
しかし袁世凱は自ら皇帝にならんとしながら、なぜ真の仇敵たる旧皇帝を残しておいたのか。これは多く議論するまでもなく、今の軍閥の混戦を見れば分かる。彼らは死物狂いで戦い天を共にせざるが如くなれども、後に至りて一方が「下野」しさえすれば、また丁重に相対するのである。しかし革命者に対してはたとえ戦ったことがなくとも、決して一人たりとも見逃さぬ。彼らは実によく心得ているのだ。
されば私は思う。中国の革命がかくも不首尾に終わるのは彼らが「殺す相手を間違えた」からではなく、我々が「見る相手を間違えた」からなのである。
最後に「中年以上の者を多く殺すべし」との主張にもいささか異議があるが、自分自身が既に「中年以上」であるからして、嫌疑を避けるためただ目を地面に向けるのみとする。
(四月十日。)
原稿では「丁重に相対する」の後に「下野して出洋の際にはさらに盛大なる送別会が開かれることすらある」という趣旨の文があったが、後に削除されたことを記憶している。
(四月十二日記す。)
【【備考】:殺す相手を間違えた 曹聚仁】
先日某紙に某氏が長春帰りの客の話を載せていた。曰く、日本人は偽国において既に「阿片専売」と「幣制統一」の二大政策を完遂したと。この二件はかつて老張・小張の時代には誰もが整理不可能と見なしていたが、今や彼らは一挙手の間にこれを整然と処理した。そこで某氏は嘆息して曰く「余かつて東北の人士と幣制紊乱の害を論ずるに、皆積重にして返り難しと推諉す。何ぞ日本人は一刹那の間に畢えるや。『為さざるなり、能わざるにあらず。』これ国人の一大病根なり!」と。
豈にただ「病根」のみならんや。中華民族の滅亡と中華民国の顛覆もまたこの肺癆病にある。一つの社会、一つの民族が衰老期に至れば何事も「積重にして返り難し」となる。ゆえに「革命」せざるべからず。革命とは社会の突変の過程であり、善人も悪人も善でも悪でもない人もいくらかは殺されるものである。殺すことは代価なきにあらず──社会に隔離作用を起こし旧社会と新社会を截然として二段に分かち、悪しき勢力を新しき組織に伝染させぬのである。ゆえに革命の殺人には基準あるべく、中年以上の者を多く殺し旧勢力を代表する者を多く殺すべきである。フランス大革命の成功は大恐慌時期に旧勢力を一掃したことにある。
しかるに中国の毎回の革命は常に常態に反している。多くの青年が革命運動に参加して犠牲となり、革命の進行中旧勢力は一時身を隠すのみにて一切も剷除されず、革命成功の後に旧勢力がまた湧き出して青年を犠牲にし一大批を殺す。孫中山先生が辛苦して十数年の革命工作をなし辛亥革命は成功したが、袁世凱が大権を握り日毎に党人を殺し甚だしくは十五六歳の子供までも殺さんとした。かくの如き革命は隔離作用を起こすどころかまるで旧勢力の護衛をしているようなものだ。ゆえに民国以来ただ暮気のみにて朝気なく、いかなる事業も改革を論ずるに及ばず、一たび改革を論ずれば必ず「積重にして返り難し」と推諉する。その悪しき勢力は現在に至るまで続いている。
この種の反常状態を私は「殺す相手を間違えた」と名づける。私は常に友人に語っている。「流血なき革命はあり得ぬが、『流血』は人を間違えてはならぬ。早くに溥儀を殺し鄭孝胥の輩を多く殺すこそ邦国の大幸なり。もし二十五歳以下の青年を乱殺し倒行逆施して社会の元気を斫喪すれば『亡国滅種』の『眼前の報い』を得ること必定」と。
(『自由談』四月十日。)
【中国人の生命圏】
「螻蟻すら生を貪ることを知る」──中国の百姓は昔から自ら「蟻民」と称してきた。私は暫時己が命を保全せんがため、常に比較的安全なる場所に心を配っているが、英雄豪傑を除けばおそらく嘲られることもあるまい。
ただし私は正面の記載はあまり信用せず、往々にして別の見方をする。例えば新聞に北平が防空の設備を整えつつあると載っていても、私は安心を覚えぬ。しかし古物を載せて南へ運ぶのを見れば忽ち古都の危機を感じ、しかもこの古物の行方から中国の楽土の所在を推測する。
今や一批また一批の古物が皆上海に集まって来ている。最も安全なる場所は結局のところやはり上海の租界の上であることが分かる。
しかしながら家賃は必ずや高騰するであろう。これは「蟻民」にとっても大打撃であるから、なお他の場所を考えねばならぬ。
考えに考えて一つの「生命圏」に思い至った。即ち「腹地」にもあらず「辺疆」にもあらず、両者の中間に介在するあたかも環の如く輪の如き場所であり、ここにおいてこそ「×世に性命を苟延する」ことができるやもしれぬ。
「辺疆」では飛行機が爆弾を投下する。日本の新聞によれば「兵匪」を剿滅中とのことであり、中国の新聞によれば人民を屠戮し村落市街は一片の瓦礫となっている。「腹地」でもまた飛行機が爆弾を投下する。上海の新聞によれば「共匪」を剿滅中であり彼らは炸かれて見る影もないとのことであるが、「共匪」の新聞に何と書いてあるかは我々には分からぬ。要するに辺疆では炸、炸、炸、腹地でもまた炸、炸、炸。一方は他人が炸し一方は自分が炸するのであって炸す手は異なれど炸される身は同じである。ただこの両者の中間にあるもののみが、爆弾が誤って落ちて来さえしなければ「血肉横飛」を免れる望みがあるので、私はこれを「中国人の生命圏」と名づける。
さらに外から炸し入ればこの「生命圏」は収縮して「生命線」となり、さらに炸し入れば皆は炸され尽くした「腹地」の中に逃げ込みこの「生命圏」は完結して「生命○」(ゼロ)となる。
実はこの予感は誰にもあるのであって、この一年来文章の上に「我が中国は地大にして物博、人口衆多」なる常套句がほとんど見られなくなったことこそ一つの証拠である。しかもある先生は演説の上で自ら中国人は「弱小民族」だと言っている始末だ。
しかしこの言葉は権力者たちの同意するところではない。なぜなら彼らには飛行機のみならず、彼らの「外国」があるからだ!
(四月十日。)
【内と外】
古人曰く、内外に別あり道理は各々異なると。夫を「外子」と呼び妻を「賤内」と呼ぶ。傷病兵は病院の内にあり慰問品は病院の外にあって、査明を経ざれば受け取ることを許さず。外に対しては安んじ、内に対しては攘いあるいは嚷ぶ。
○ ○ ○ ○
何香凝先生は嘆息して曰く「当年はその起たざることを恐れしに、今日はその死なざることを恐る」と。しかしながら死の道理もまた内外で異なる。
○ ○ ○ ○
荘子曰く「哀しみの大なるは心の死するに如くはなし、身の死するはこれに次ぐ」と。次ぐとは二害の軽きを取るなり。されば外なる身体はこれを死なしめ、内なる心はこれを活かす。あるいはまさにその心が活きているがゆえに身体を死なしめるのである。これを治心と謂う。
○ ○ ○ ○
治心の道理は甚だ玄妙である。心は固より活かすべきなれどもあまりに活かし過ぎてはならぬ。心が死すれば明々白々に抵抗せぬことになり、結果としてかえって皆が鎮静でなくなる。心があまりに活き過ぎれば妄想を逞しくし本気で抵抗を企てる。この種の人は「絶対に抗日を言うべからず」なのである。
○ ○ ○ ○
皆を鎮静せしめんがためには心の死せし者は出洋すべし。留学とは外国に赴いて心を治する方法である。しかして心のあまりに活き過ぎたる者は罪あり厳しく処置すべし。これこそ国内にて心を治する方法なのである。
○ ○ ○ ○
何香凝先生は「誰が罪人であるかはなはだ問題あり」と言うが──これはまさに彼女が内外有別の道理を弁えぬがゆえである。
(四月十一日。)
【透底】
凡そ事を徹底するのは善いことであるが「透底」(底を透く)となると必ずしも高明とは言えぬ。なぜなら連続して左に廻り続ければやがて右に廻る友人と出くわすからであり、その時互いに頷き合い顔がひりひりするであろう。自由を求める者が忽ち復辟の自由を保障せよとか大衆虐殺の自由を保障せよと言い出す──透底は透底であるが自由そのものまで漏れ落ちてしまい、元来ただ底なき穴が残るのみである。
例えば八股文に反対するのは至極尤もなことである。八股はもともと愚鈍の産物である。一つには試験官が面倒を嫌い──彼らの頭脳は大半が陰沉木でできている──何の聖賢に代わりて言を立てるとか起承転結だとか文章の気韻だとか一定の基準がなく捉え難いがゆえに、一股一股と定め功令に合する格式としこの格式をもって「文を衡る」ことで一目にして軽重が分かるようにした。二つには受験者もまた省力にして手間いらずと感じたのである。かくの如き八股は新旧を問わず皆掃蕩すべきである。しかしこれは聡明であらんがためであって、さらに愚鈍であらんがためではない。
ただし愚鈍を保存せんとする者には一つの策略がある。彼らは言う「私は駄目だが、あいつも私と同じだ」と。──皆がやっていけなければ引き倒して大団円! しかし「あいつ」が引き倒された後、旧き愚鈍なる「私」はこっそりとまた立ち上がるのであり、実利は愚鈍に帰するのだ。あたかも偶像を打倒せんとすれば偶像は焦って一切の生きた人間を指さし「彼らは皆私に似ている」と言い、かくして汝は走り行って偶像に似たる生きた人間を悉く打倒し、戻って来ると偶像が一頻り讃えて曰く、偶像を打倒して「打倒」者を打倒するとは確かに透底の至りであると。実はこの時さらに大いなる愚鈍が全世界を覆っているのである。
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开口诗云子曰,这是老八股;而有人把“达尔文说,蒲力汗诺夫曰”也算做新八股。于是要知道地球是圆的,人人都要自己去环游地球一周;要制造汽机的,也要先坐在开水壶前格物……。这自然透底之极。其实,从前反对卫道文学,原是说那样吃人的“道”不应该卫,而有人要透底,就说什么道也不卫;这“什么道也不卫”难道不也是一种“道”么?所以,真正最透底的,还是下列的一个故事:
古时候一个国度里革命了,旧的政府倒下去,新的站上来。旁人说,“你这革命党,原先是反对有政府主义的,怎么自己又来做政府?”那革命党立刻拔出剑来,割下了自己的头;但是,他的身体并不倒,而变成了僵尸,直立着,喉管里吞吞吐吐地似乎是说:这主义的实现原本要等三千年之后呢。
(四月十一日。)
【【来信】:】
家干先生:
昨阅及大作《透底》一文,有引及晚前发表《论新八股》之处,至为欣幸。惟所“譬”云云,实出误会。鄙意所谓新八股者,系指有一等文,本无充实内容,只有时髦幌子,或利用新时装包裹旧皮囊而言。因为是换汤不换药,所以“这个空虚的宇宙”,仍与“且夫天地之间”同为八股。因为是挂羊头卖狗肉,所以“达尔文说”“蒲力汗诺夫说”,仍与“子曰诗云”毫无二致。故攻击不在“达尔文说”,“蒲力汗诺夫说”,与“这个宇宙”本身(其实“子曰”,“诗云”,如做起一本中国文学史来,仍旧要引用,断无所谓八股之理),而在利用此而成为新八股之形式。先生所举“地球”“机器”之例,“透底”“卫道”之理,三尺之童,亦知其非,以此作比,殊觉曲解。
今日文坛,虽有蓬勃新气,然一切狐鼠魍魉,仍有改头换面,衣锦逍遥,如礼拜六、礼拜五派等以旧货新装出现者,此种新皮毛旧骨髓之八股,未审先生是否认为应在扫除之列?
又有借时代招牌,歪曲革命学说,口念阿弥,心存罔想者,此种借他人边幅,盖自己臭脚之新八股,未审先生亦是否认为应在扫除之列?
“透底”言之,“譬如,古之皇帝,今之主席,在实质上固知大有区别,但仍有今之主席与古之皇帝一模一样者,则在某一意义上非难主席,其意自明,苟非志在捉虱,未必不能两目了然也。
予生也晚,不学无术,但虽无“彻底”之聪明,亦不致如“透底”之蠢笨,容或言而未“透”,致招误会耳。尚望赐教到“底”,感“透”感“透”!
祝秀侠上。
【【回信】:】
秀侠先生:
接到你的来信,知道你所谓新八股是礼拜五六派等流。其实礼拜五六派的病根并不全在他们的八股性。
八股无论新旧,都在扫荡之列,我是已经说过了;礼拜五,六派有新八股性,其余的人也会有新八股性。例如只会“辱骂”“恐吓”甚至于“判决,”而不肯具体地切实地运用科学所求得的公式,去解释每天的新的事实,新的现象,而只抄一通公式,往一切事实上乱凑,这也是一种八股。即使明明是你理直,也会弄得读者疑心你空虚,疑心你已经不能答辩,只剩得“国骂”了。
至于“歪曲革命学说”的人,用些“蒲力汗诺夫曰”等来掩盖自己的臭脚,那他们的错误难道就在他写了“蒲……曰”等等么?我们要具体的证明这些人是怎样错误,为什么错误。假使简单地把“蒲力汗诺夫曰”等等和“诗云子曰”等量齐观起来,那就一定必然的要引起误会。先生来信似乎也承认这一点。这就是我那《透底》里所以要指出的原因。
最后,我那篇文章是反对一种虚无主义的一般倾向的,你的《论新八股》之中的那一句,不过是许多例子之中的一个,这是必须解除的一个“误会”。而那文章却并不是专为这一个例子写的。
家干。
【“以夷制夷”】
我还记得,当去年中国有许多人,一味哭诉国联的时候,日本的报纸上往往加以讥笑,说这是中国祖传的“以夷制夷”的老手段。粗粗一看,也仿佛有些像的,但是,其实不然。那时的中国的许多人,的确将国联看作“青天大老爷”,心里何尝还有一点儿“夷”字的影子。
倒相反,“青天大老爷”们却常常用着“以华制华”的方法的。
例如罢,他们所深恶的反帝国主义的“犯人”,他们自己倒是不做恶人的,只是松松爽爽的送给华人,叫你自己去杀去。他们所痛恨的腹地的“共匪”,他们自己是并不明白表示意见的,只将飞机炸弹卖给华人,叫你自己去炸去。对付下等华人的有黄帝子孙的巡捕和西崽,对付智识阶级的有高等华人的学者和博士。
我们自夸了许多日子的“大刀队”,好象是无法制伏的了,然而四月十五日的《××报》上,有一个用头号字印《我斩敌二百》的题目。粗粗一看,是要令人觉得胜利的,但我们再来看一看本文罢──
“(本报今日北平电)昨日喜峰口右翼,仍在滦阳城以东各地,演争夺战。敌出现大刀队千名,系新开到者,与我大刀队对抗。其刀特长,敌使用不灵活。我军挥刀砍抹,敌招架不及,连刀带臂,被我砍落者纵横满地,我军伤亡亦达二百余。……”
那么,这其实是“敌斩我军二百”了,中国的文字,真是像“国步”一样,正在一天一天的艰难起来。但我要指出来的却并不在此。
我要指出来的是“大刀队”乃中国人自夸已久的特长,日本人虽有击剑,大刀却非素习。现在可是“出现”了,这不必迟疑,就可决定是满洲的军队。满洲从明末以来,每年即大有直隶、山东人迁居,数代之后,成为土著,则虽是满洲军队,而大多数实为华人,也决无疑义。现在已经各用了特长的大刀,在滦东相杀起来,一面是“连刀带臂,纵横满地”,一面是“伤亡亦达二百余”,开演了极显著的“以华制华”的一幕了。
至于中国的所谓手段,由我看来,有是也应该说有的,但决非“以夷制夷”,倒是想“以夷制华”。然而“夷”又那有这么愚笨呢,却先来一套“以华制华”给你看。
这例子常见于中国的历史上,后来的史官为新朝作颂,称此辈的行为曰:“为王前驱!”
近来的战报是极可诧异的,如同日同报记冷口失守云:“十日以后,冷口方面之战,非常激烈,华军……顽强抵抗,故继续未曾有之大激战,”但由宫崎部队以十余兵士,作成人梯,前仆后继,“卒越过长城,因此宫崎部队牺牲二十三名之多云”。越过一个险要,而日军只死了二十三人,但已云“之多”,又称为“未曾有之大激战”,也未免有些费解。所以大刀队之战,也许并不如我所猜测。但既经写出,就姑且留下以备一说罢。
(四月十七日。)
【【跳踉】:“以华制华” 李家作 】
报纸不可不看。在报上不但可以看到虔修功德如念念阿弥陀佛,选拔国士如征求飞檐走壁之类的“善”文,还可以随时长许多见识。譬如说杀人,以前只知道有斫头绞颈子,现在却知道还有吃人肉,而且还有“以夷制夷”,“以华制华”等等的分别。经明眼人一说,是越想越觉得不错的。
尤其是“以华制华”,那样的手段真是越想越觉得多的。原因是人太多了,华对华并不会亲热;而且为了自身的利害要坐大交椅,当然非解决别人不可。所以那“制”是,无论如何要“制”的。假如因为制人而能得到好处,或是因为制人而能讨得上头的欢心,那自然更其起劲。这心理,夷人就很善于利用,从侵略土地到卖卖肥皂,都是用的这“华人”善于“制华”的美点。然而,华人对华人,其实也很会利用这种方法,而且非常巧妙。双方不必明言,彼此心照,各得其所;旁人看来,不露痕迹,据说那被利用的人便是哈吧狗,即走狗。但细细甄别起来,倒并不只是哈吧狗一种,另外还有一种是警犬。
做哈吧狗与做警犬,当然都是“以华制华”,但其中也不无分别。哈吧狗只能听主人吩咐,向仇人摇摇尾,狂吠几声。他知道他是什么样的身分。警犬则不然:老于世故者往往如此。他只认定自己是一个好汉,是一个权威,是一个执大义以绳天下者。在那门庭间的方寸之地上,只有他可以彷徨彷徨,呐喊呐喊。他的威风没有人敢冒犯,和哈吧狗比较起来,哈吧狗真是浅薄得可怜。但何以也是“以华制华”呢?那是因为虽然老于世故,也不免露出破绽。破绽是:他俨若嫉恶如仇,平时蹲在地上冷眼旁观,一看到有类乎“可杀”的情形时,就踪身向前,猛咬一口;可是,他决不是乱咬,他早已看得分明,凡在他寄身的地段上的(他当然不能不有一个寄身的地方),他决不伤害,有了也只当不看见,以免引起“不便”。他咬,是咬圈子外头的,尤其是,圈子外头最碍眼的仇人。这便是勇,这便是执大义,同时,既可显出自己的权威,又可博得主人底欢心:因为,他所咬的,往往会是他和他东家的共同的敌人。主人对于他所痛恨,自己是并不明白表示意见的,只给你一些供养和地位,叫你自己去咬去。因此有接二连三的奋勇,和吹毛求疵的找机会。旁观者不免有点不明白,觉得这仇太深,却不知道这正是老于世故者的做人之道,所谓向恶社会“搏战”“周旋”是也。那样的用心,真是很苦!
所可哀者,为了要挣扎在替天行道的大旗之下,竟然不惜受员外府君之类的供奉,把那旗子斜插在庄院的门楼边,暂且作个“江湖一应水碗不得骚扰”的招贴纸儿。也可见得做中国人的不容易,和“以华制华”的效劳,虽贤者亦不免焉。
──二二, 四, 二一。
(四月二十二日,《大晚报》副刊《火炬》。)
【【摇摆】:过而能改 傅红蓼 】
孔老夫子,在从前教训着那么许多门生说:“过而能改,善莫大焉!”意思是错误人人都有,只要能够回头。我觉得孔老夫子这句话尚有未尽意处,譬如说:“过而能改,善莫大焉”之后,再加上一句:“知过不改,罪孽深重,”那便觉得天衣无缝了。
譬如说现在前线打得落花流水的时候,而有人觉得这种为国牺牲是残酷,是无聊,便主张不要打,而且更主张不要讲和,只说索性藏起头来,等个五十年。俗谚常有“十年生聚,十年教训”,看起来五十年的教训,大概什么都够了。凡事有了错误,才有教训,可见中国人尚还有些救药,国事弄得乌烟瘴气到如此,居然大家都恍然大觉大悟自己内部组织的三大不健全,更而发现武器的不充足。眼前须要几十个年头,来作准备。言至此,吾人对于热河一直到滦东的失守,似乎应当有些感到失得不大冤枉。因为吾党(借用)建基以至于今日,由军事而至于宪政,尚还没有人肯认过错,则现在失掉几个国土,使一些负有自信天才的国家栋梁学贯中西的名儒,居然都肯认错,所谓“过而能改,善莫大焉”,塞翁失马,又安知非福的聊以自慰,也只得闭着眼睛喊两声了,不过假使今后“知过尚不能改,罪孽的深重”,比写在讣文上,大概也更要来得使人注目了。
譬如再说,四月二十二日本刊上李家作的“以华制华”里说的警犬。警犬咬人,是蹲在地上冷眼傍观,等到有可杀的时候,便一跃上前,猛咬一口,不过,有的时候那警犬被人们提起棍子,向着当头一棒,也会把专门咬人的警犬,打得藏起头来,伸出舌头在暗地里发急。这种发急,大概便又是所谓“过”了。因为警犬虽然野性,但有时被棍子当头一击,也会被打出自己的错误来的,于是“过而能改”的警犬,在暗地里发急时,自又便会想忏悔,假使是不大晓得改过的警犬,在暗地发急之余,还想乘机再试,这种犬,大概是“罪孽深重”的了。
中国人只晓得说过而能改,善莫大焉,可惜都忘记了底下那一句。
(四月二十六日,《大晚报》副刊《火炬》。)
【【只要几句】:案语 家干 】
以上两篇,是一星期之内,登在《大晚报》附刊《火炬》上的文章,为了我的那篇《“以夷制夷”》而发的,揭开了“以华制华”的黑幕,他们竟有如此的深恶痛嫉,莫非真是太伤了此辈的心么?
但是,不尽然的。大半倒因为我引以为例的《××报》其实是《大晚报》,所以使他们有这样的跳踉和摇摆。然而无论怎样的跳踉和摇摆,所引的记事具在,旧的《大晚报》也具在,终究挣不脱这一个本已扣得紧紧的笼头。
此外也无须多话了,只要转载了这两篇,就已经由他们自己十足的说明了《火炬》的光明,露出了他们真实的嘴脸。
(七月十九日。)
【言论自由的界限】
看《红楼梦》,觉得贾府上是言论颇不自由的地方。焦大以奴才的身分,仗着酒醉,从主子骂起,直到别的一切奴才,说只有两个石狮子干净。结果怎样呢?结果是主子深恶,奴才痛嫉,给他塞了一嘴马粪。
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口を開けば詩云子曰、これは旧八股である。しかるに人あって「ダーウィン曰く、プレハーノフ曰く」をも新八股と見なす。かくして地球が丸いことを知ろうとすれば、人人自ら地球を一周せねばならず、蒸気機関を製造せんとすれば、まず開水壺の前に座して格物せねばならぬ……。これは自ずと透底の極みである。実のところ、かつて衛道文学に反対したのは、あのように人を食う「道」は衛るべきではないという意味であったが、ある人が透底にせんとして、いかなる道も衛らぬと言い出した。この「いかなる道も衛らぬ」というのは、それ自体一つの「道」ではないか。されば、真に最も透底なるは、なお以下の一つの物語であろう──
古、ある国で革命が起こり、旧政府は倒れ新政府が立った。傍の者が言った「お前は革命党だが、もとは有政府主義に反対していたではないか。なぜ自分が政府をやるのか」と。革命党は即座に剣を抜いて自らの首を斬り落とした。しかしその身体は倒れず、殭屍と化して直立し、喉管の中から呑々吐々と言うには、この主義の実現はもとより三千年後を待たねばならぬのだと。
(四月十一日。)
【【来信】:】
家幹先生:昨日、大作『透底』一文を拝読し、晩前に発表した拙文『論新八股』に触れられている箇所あり、甚だ幸甚。ただし「譬え」云々は実に誤解より出たるものです。小生の所謂新八股とは、一等の文にして本は充実せる内容なく、ただ時好の看板のみあり、あるいは新装をもって旧き皮嚢を包むものを指します。看板替えにして中身は同じなればこそ「この空虚なる宇宙」は依然として「且つ夫れ天地の間」と同じく八股であり、羊頭を掲げて狗肉を売ればこそ「ダーウィン曰く」「プレハーノフ曰く」は依然として「子曰く詩に云う」と毫も異ならぬのです。ゆえに攻撃するは「ダーウィン曰く」「プレハーノフ曰く」それ自体にあらず、これを利用して新八股の形式を成すことにあります。先生の挙ぐる「地球」「機器」の例、「透底」「衛道」の理は三尺の童子も知るところ、これを以て比とするは曲解の嫌いあり。
今日の文壇、蓬勃たる新気あるも、一切の狐鼠魍魎なお改頭換面し衣錦逍遥する者あり、礼拝六・礼拝五派等の旧貨を新装して出現する者の如し。この種の新皮毛旧骨髄の八股、先生はこれを掃除すべきものと認められるか否か?
また時代の看板を借り、革命学説を歪曲し、口に阿弥陀を唱えつつ心に妄想を抱く者あり。この種の他人の辺幅を借りて自己の臭き足を蓋う新八股、先生はまたこれを掃除すべきものと認められるか否か?
「透底」に言えば、「譬えば古の皇帝、今の主席、実質上固より大いに区別あるを知るも、今の主席と古の皇帝と一模一様なる者なおありて、しからば某一の意義において主席を非難すること、その意は自ずと明らかにして、もし虱を捉うるに志あるにあらざれば、両目瞭然たらざることなからん」。
予生まれること晩く、不学無術なれども、「徹底」の聡明なきも、「透底」の蠢笨には至らず、あるいは言いて未だ「透」ならざるがゆえに誤解を招きしか。なおご教示「底」に到ること願う。「透」に感じ「透」に感ず!
祝秀侠 上。
【【回信】:】
秀侠先生:お手紙拝受。貴兄の所謂新八股が礼拝五六派等の流れを指すことを知りました。実は礼拜五六派の病根は必ずしも全てその八股性にあるのではありません。
八股は新旧を問わず皆掃蕩すべきこと、私は既に述べました。礼拜五六派に新八股性があるのみならず、その余の人にも新八股性はあり得ます。例えばただ「罵倒」「恫喝」甚だしくは「判決」するのみにて、具体的に切実に科学の求め得たる公式を用いて日毎の新しき事実新しき現象を解釈することを肯んぜず、ただ公式を書き写して一切の事実に乱雑に当てはめる──これもまた一種の八股です。たとえ明らかに理が貴兄にあっても、読者をして貴兄の空虚を疑わしめ、もはや答弁し得ずただ「国罵」のみ残れりと疑わしめることになります。
「革命学説を歪曲する」者が「プレハーノフ曰く」等を以て自己の臭き足を蓋う場合、彼らの誤りは「プレハーノフ曰く」等を書いたことにあるのでしょうか。我々は具体的にこれらの人がいかに誤りなぜ誤りかを証明すべきです。もし単純に「プレハーノフ曰く」等と「詩に云う子曰く」等を等量に扱えば、必然的に誤解を引き起こします。先生の来信もこの点を認めておられるようです。これがまさに私の『透底』において指摘せんとしたところです。
最後に、私のあの文章は虚無主義的な一般的傾向に反対するものであり、貴兄の『論新八股』の中のあの一句は多くの例の中の一つに過ぎず、これは必ず解消すべき「誤解」です。あの文章はこの一例のためだけに書いたのではありません。
家幹。
【「以夷制夷」】
私はまだ覚えている。去年中国の多くの人々がひたすら国際連盟に泣訴していた頃、日本の新聞は往々にしてこれを嘲笑し、中国の祖伝の「以夷制夷」の古い手段だと言った。一見するとなるほどそのようにも見えるが、しかし実はそうではない。あの時の中国の多くの人々は、確かに国際連盟を「青天大老爺」と見なしていたのであり、心の中にはもはや「夷」の字の影すらなかったのだ。
むしろ逆に「青天大老爺」たちの方が常々「以華制華」の方法を用いていたのである。
例えば、彼らが深く憎む反帝国主義の「犯人」に対しては、彼ら自身は悪人の役をせず、ただ爽やかに華人に引き渡して自分で殺させるのだ。彼らが痛恨する腹地の「共匪」に対しては、彼ら自身は明白に意見を表明せず、ただ飛行機と爆弾を華人に売って自分で炸させるのだ。下等華人に対しては皇帝の子孫たる巡捕と西崽がおり、知識階級に対しては上等華人の学者と博士がいる。
我々が何日も自慢していた「大刀隊」は、手がつけられぬかに見えたが、しかし四月十五日の『××報』に頭号活字で「我、敵二百を斬る」なる題目があった。一見するに勝利の感を覚えるが、本文を見てみよう──
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其实是,焦大的骂,并非要打倒贾府,倒是要贾府好,不过说主奴如此,贾府就要弄不下去罢了。然而得到的报酬是马粪。所以这焦大,实在是贾府的屈原,假使他能做文章,我想,恐怕也会有一篇《离骚》之类。
三年前的新月社诸君子,不幸和焦大有了相类的境遇。他们引经据典,对于党国有了一点微词,虽然引的大抵是英国经典,但何尝有丝毫不利于党国的恶意,不过说:“老爷,人家的衣服多么干净,您老人家的可有些儿脏,应该洗它一洗”罢了。不料“荃不察余之中情兮”,来了一嘴的马粪:国报同声致讨,连《新月》杂志也遭殃。但新月社究竟是文人学士的团体,这时就也来了一大堆引据三民主义,辨明心迹的“离骚经”。现在好了,吐出马粪,换塞甜头,有的顾问,有的教授,有的秘书,有的大学院长,言论自由,《新月》也满是所谓“为文艺的文艺”了。
这就是文人学士究竟比不识字的奴才聪明,党国究竟比贾府高明,现在究竟比乾隆时候光明:三明主义。
然而竟还有人在嚷着要求言论自由。世界上没有这许多甜头,我想,该是明白的罢,这误解,大约是在没有悟到现在的言论自由,只以能够表示主人的宽宏大度的说些“老爷,你的衣服……”为限,而还想说开去。
这是断乎不行的。前一种,是和《新月》受难时代不同,现在好象已有的了,这《自由谈》也就是一个证据,虽然有时还有几位拿着马粪,前来探头探脑的英雄。至于想说开去,那就足以破坏言论自由的保障。要知道现在虽比先前光明,但也比先前利害,一说开去,是连性命都要送掉的。即使有了言论自由的明令,也千万大意不得。这我是亲眼见过好几回的,非“卖老”也,不自觉其做奴才之君子,幸想一想而垂鉴焉。
(四月十七日。)
【大观园的人才】
早些年,大观园里的压轴戏是刘姥姥骂山门。那是要老旦出场的,老气横秋地大“放”一通,直到裤子后穿而后止。当时指着手无寸铁或者已被缴械的人大喊“杀,杀,杀!”那呼声是多么雄壮。所以它──男角扮的老婆子,也可以算得一个人才。
而今时世大不同了,手里拿刀,而嘴里却需要“自由,自由,自由”,“开放××”云云。压轴戏要换了。
于是人才辈出,各有巧妙不同。出场的不是老旦,却是花旦了,而且这不是平常的花旦,而是海派戏广告上所说的“玩笑旦”。这是一种特殊的人物,他(她)要会媚笑,又要会撒泼,要会打情骂俏,又要会油腔滑调。总之,这是花旦而兼小丑的角色。不知道是时世造英雄(说“美人”要妥当些),还是美人儿多年阅历的结果?
美人儿而说“多年”,自然是阅人多矣的徐娘了,她早已从窑姐儿升任了老鸨婆;然而她丰韵犹存,虽在卖人,还兼自卖。自卖容易,而卖人就难些。现在不但有手无寸铁的人,而且有了……况且又遇见了太露骨的强奸。要会应付这种非常之变,就非有非常之才不可。你想想:现在的压轴戏是要似战似和,又战又和,不降不守,亦降亦守!这是多么难做的戏。没有半推半就假作娇痴的手段是做不好的。孟夫子说:“以天下与人易。”其实,能够简单地双手捧着“天下”去“与人”,倒也不为难了。问题就在于不能如此。所以要一把眼泪一把鼻涕,哭哭啼啼,而又刁声浪气的诉苦说:我不入火坑,谁入火坑。
然而娼妓说她自己落在火坑里,还是想人家去救她出来;而老鸨婆哭火坑,却未必有人相信她,何况她已经申明:她是敞开了怀抱,准备把一切人都拖进火坑的。虽然,这新鲜压轴戏的玩笑却开得不差,不是非常之才,就是挖空了心思也想不出的。
老旦进场,玩笑旦出场,大观园的人才着实不少!
(四月二十四日。)
【文章与题目】
一个题目,做来做去,文章是要做完的,如果再要出新花样,那就使人会觉得不是人话。然而只要一步一步的做下去,每天又有帮闲的敲边鼓,给人们听惯了,就不但做得出,而且也行得通。
譬如近来最主要的题目,是“安内与攘外”罢,做的也着实不少了。有说安内必先攘外的,有说安内同时攘外的,有说不攘外无以安内的,有说攘外即所以安内的,有说安内即所以攘外的,有说安内急于攘外的。
做到这里,文章似乎已经无可翻腾了,看起来,大约总可以算是做到了绝顶。
所以再要出新花样,就使人会觉得不是人话,用现在最流行的谥法来说,就是大有“汉奸”的嫌疑。为什么呢?就因为新花样的文章,只剩了“安内而不必攘外”,“不如迎外以安内”,“外就是内,本无可攘”这三种了。
这三种意思,做起文章来,虽然实在希奇,但事实却有的,而且不必远征晋、宋,只要看看明朝就够。满洲人早在窥伺了,国内却是草菅民命,杀戮清流,做了第一种。李自成进北京了,阔人们不甘给奴子做皇帝,索性请“大清兵”来打掉他,做了第二种。至于第三种,我没有看过《清史》,不得而知,但据老例,则应说是爱新觉罗氏之先,原是轩辕黄帝第几子之苗裔,遁于朔方,厚泽深仁,遂有天下,总而言之,咱们原是一家子云。
后来的史论家,自然是力斥其非的,就是现在的名人,也正痛恨流寇。但这是后来和现在的话,当时可不然,鹰犬塞途,干儿当道,魏忠贤不是活着就配享了孔庙么?他们那种办法,那时都有人来说得头头是道的。
前清末年,满人出死力以镇压革命,有“宁赠友邦,不给家奴”的口号,汉人一知道,更恨得切齿。其实汉人何尝不如此?吴三桂之请清兵入关,便是一想到自身的利害,即“人同此心”的实例了。……
(四月二十九日。)
附记:
原题是《安内与攘外》
(五月五日。)
【新药】
说起来就记得,诚然,自从九一八以后,再没有听到吴稚老的妙语了,相传是生了病。现在刚从南昌专电中,飞出一点声音来,却连改头换面的,也是自从九一八以后,就再没有一丝声息的民族主义文学者们,也来加以冷冷的讪笑。
为什么呢?为了九一八。
想起来就记得,吴稚老的笔和舌,是尽过很大的任务的,清末的时候,五四的时候,北伐的时候,清党的时候,清党以后的还是闹不清白的时候。然而他现在一开口,却连躲躲闪闪的人物儿也来冷笑了。九一八以来的飞机,真也炸着了这党国的元老吴先生,或者是,炸大了一些躲躲闪闪的人物儿的小胆子。
九一八以后,情形就有这么不同了。
旧书里有过这么一个寓言,某朝某帝的时候,宫女们多数生了病,总是医不好。最后来了一个名医,开出神方道:壮汉若干名。皇帝没有法,只得照他办。若干天之后,自去察看时,宫女们果然个个神采焕发了,却另有许多瘦得不像人样的男人,拜伏在地上。皇帝吃了一惊,问这是什么呢?宫女们就嗫嚅的答道:是药渣。
照前几天报上的情形看起来,吴先生仿佛就如药渣一样,也许连狗子都要加以践踏了。然而他是聪明的,又很恬淡,决不至于不顾自己,给人家熬尽了汁水。不过因为九一八以后,情形已经不同,要有一种新药出卖是真的,对于他的冷笑,其实也就是新药的作用。
这种新药的性味,是要很激烈,而和平。譬之文章,则须先讲烈士的殉国,再叙美人的殉情;一面赞希特勒的组阁,一面颂苏联的成功;军歌唱后,来了恋歌;道德谈完,就讲妓院;因国耻日而悲杨柳,逢五一节而忆蔷薇;攻击主人的敌手,也似乎不满于它自己的主人……总而言之,先前所用的是单方,此后出卖的却是复药了。
复药虽然好象万应,但也常无一效的,医不好病,即毒不死人。不过对于误服这药的病人,却能够使他不再寻求良药,拖重了病症而至于胡里胡涂的死亡。
(四月二十九日。)
【“多难之月”】
前月底的报章上,多说五月是“多难之月”。这名目,以前是没有见过的。现在这“多难之月”已经临头了。从经过了的日子来想一想,不错,五一是“劳动节”,可以说很有些“多难”;五三是济南惨案纪念日,也当然属于“多难”之一的。但五四是新文化运动的发扬,五五是革命政府成立的佳日,为什么都包括在“难”字堆里的呢?这可真有点儿希奇古怪!
不过只要将这“难”字,不作国民“受难”的“难”字解,而作令人“为难”的“难”字解,则一切困难,可就涣然冰释了。
时势也真改变得飞快,古之佳节,后来自不免化为难关。先前的开会,是听大众在空地上开的,现在却要防人“乘机捣乱”了,所以只得函请代表,齐集洋楼,还要由军警维持秩序。先前的要人,虽然出来要“清道”(俗名“净街”),但还是走在地上的,现在却更要防人“谋为不轨”了,必得坐着飞机,须到出洋的时候,才能放心送给朋友。名人逛一趟古董店,先前也不算奇事情的,现在却“微服”“微服”的嚷得人耳聋,只好或登名山,或入古庙,比较的免掉大惊小怪。总而言之,可靠的国之柱石,已经多在半空中,最低限度也上了高楼峻岭了,地上就只留着些可疑的百姓,实做了“下民”,且又民匪难分,一有庆吊,总不免“假名滋扰”。向来虽靠“华洋两方当局,先事严防”,没有闹过什么大乱子,然而总比平时费力的,这就令人为难,而五月也成了“多难之月”,纪念的是好是坏,日子的为戚为喜,都不在话下。
但愿世界上大事件不要增加起来;但愿中国里惨案不要再有;但愿也不再有什么政府成立;但愿也不再有伟人的生日和忌日增添。否则,日积月累,不久就会成个“多难之年”,不但华洋当局,老是为难,连我们走在地面上的小百姓,也只好永远身带“嫌疑”,奉陪戒严,呜呼哀哉,不能喘气了。
(五月五日。)
【不负责任的坦克车】
新近报上说,江西人第一次看了坦克车。自然,江西人的眼福很好。然而也有人惴惴然,唯恐又要掏腰包,报效坦克捐。我倒记起了另外一件事:
有一个自称姓“张”的说过,“我是拥护言论不自由者……唯其言论不自由,才有好文章做出来,所谓冷嘲、讽刺、幽默和其他形形色色,不敢负言论责任的文体,在压迫钳制之下,都应运产生出来了。”这所谓不负责任的文体,不知道比坦克车怎样?
讽刺等类为什么是不负责任,我可不知道。然而听人议论“风凉话”怎么不行,“冷箭”怎么射死了天才,倒也多年了。既然多年,似乎就很有道理。大致是骂人不敢充好汉,胆小。其实,躲在厚厚的铁板──坦克车里面,砰砰碰碰的轰炸,是着实痛快得多,虽然也似乎并不胆大。
高等人向来就善于躲在厚厚的东西后面来杀人的。古时候有厚厚的城墙,为的要防备盗匪和流寇。现在就有钢马甲,铁甲车,坦克车。就是保障“民国”和私产的法律,也总是厚厚的一大本。甚至于自天子以至卿大夫的棺材,也比庶民的要厚些。至于脸皮的厚,也是合于古礼的。
独有下等人要这么自卫一下,就要受到“不负责任”等类的嘲笑:
“你敢出来!出来!躲在背后说风凉话不算好汉!”
但是,如果你上了他的当,真的赤膊奔上前阵,像许褚似的充好汉,那他那边立刻就会给你一枪,老实不客气,然后,再学着金圣叹批《三国演义》的笔法,骂一声“谁叫你赤膊的”——活该。总之,死活都有罪。足见做人实在很难,而做坦克车要容易得多。
(五月六日。)
【从盛宣怀说到有理的压迫】
盛氏的祖宗积德很厚,他们的子孙就举行了两次“收复失地”的盛典:一次还是在袁世凯的民国政府治下,一次就在当今国民政府治下了。
民元的时候,说盛宣怀是第一名的卖国贼,将他的家产没收了。不久,似乎是二次革命之后,就发还了。那是没有什么奇怪的,因为袁世凯是“物伤其类”,他自己也是卖国贼。不是年年都在纪念五七和五九么?袁世凯签订过二十一条,卖国是有真凭实据的。
最近又在报上发见这么一段消息,大致是说:“盛氏家产早已奉命归还,如苏州之留园,江阴、无锡之典当等,正在办理发还手续。”这却叫我吃了一惊。打听起来,说是民国十六年国民革命军初到沪宁的时候,又没收了一次盛氏家产:那次的罪名大概是“土豪劣绅”,绅而至于“劣”,再加上卖国的旧罪,自然又该没收了。可是为什么又发还了呢?
第一,不应当疑心现在有卖国贼,因为并无真凭实据──现在的人早就誓不签订辱国条约,他们不比盛宣怀和袁世凯。第二,现在正在募航空捐,足见政府财政并不宽裕。那么,为什么呢?
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実は、焦大の罵りは賈府を打倒せんとするのではなく、むしろ賈府の好からんことを望んでのことであり、ただ主と奴がかくの如くならば賈府はもうやっていけなくなるぞと言ったに過ぎぬ。しかるに得た報酬は馬糞であった。されば焦大はまことに賈府の屈原であり、もし彼が文章を能くすれば、おそらく一篇の『離騒』の如きものをものしたであろう。
三年前の新月社の諸君子は、不幸にして焦大と相類する境遇に遭った。彼らは経典を引き据を引いて党国にいささかの微辞を呈したが、引いたのは大抵は英国の経典であった。しかるに賈府の賈政のような方々は、このような不満こそ懼るべしと見て、主として先ず焦大の属する側を咎めるのが穏当なりとした。かくして我が新月は収まった。しかし焦大のあの一声の罵りは、決して何の効果もなかったわけではない。その後、主はいよいよ心置きなく傲慢になれたのであるから。
だがある日、石にかじりついても清操を守った新月は再び起ち上がった。ただし今度は不平を自ら呑み込み、かえって主に味方して別のものを罵り始めた。即ち下僕どもである。するとこの度は実に結構なるかなと褒められ、さらに「もっともっと忠実に」と求められた。かくして新月は晴れて忠義の家人となり、焦大の類ではなくなった。この類の変遷を見れば、中国の文人のいかに処世に巧みなるかを知り得るのであって、古来「文人多変節」と言われるのも無理はない。
しかし一つの困った問題がある。新月社の場合のように、上に向かって罵ればこそ焦大であり、下に向かって罵れば犬の群れの仲間入りに過ぎぬ。天地の間に身を置くには、この上下の見境をつけねばならぬのだが、権力の側についた途端に見境がなくなってしまう。これが文人の宿命的な弱点であろう。
ところで、最近になって思うことがある。あの新月派が英国の自由主義を引いて国民党にちょっぴり苦言を呈した時、彼らは銃殺されこそしなかったが、馬糞は食わされた。それに引き換え、もし労働者農民が同じことを言えば、即座に「赤匪」として銃殺されたであろう。この差はどこから来るか。即ち身分の差である。同じ不満でも上等華人が述べれば「微辞」、下等華人が述べれば「反逆」なのだ。
しかるにこの上等華人は自らの特権に安住し、下等華人の苦しみを知ろうともしない。彼らの自由論は畢竟自分たちの自由であって、万人の自由ではない。
されば我々は自ら問うべきである──この社会における真の問題は何か。文人が馬糞を食わされることか、それとも民衆が日々殺されていることか。
この答えが明らかになれば、「学理上の研究」も自ずと方向を異にするであろう。
(四月二十五日。)
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学理上研究的结果是──压迫本来有两种:一种是有理的,而且永久有理的,一种是无理的。有理的,就像逼小百姓还高利贷,交田租之类;这种压迫的“理”写在布告上:“借债还钱本中外所同之定理,租田纳税乃千古不易之成规。”无理的,就是没收盛宣怀的家产等等了;这种“压迫”巨绅的手法,在当时也许有理,现在早已变成无理的了。
初初看见报上登载的《五一告工友书》上说:“反抗本国资本家无理的压迫”,我也是吃了一惊的。这不是提倡阶级斗争么?后来想想也就明白了。这是说,无理的压迫要反对,有理的不在此例。至于怎样有理,看下去就懂得了,下文是说:“必须克苦耐劳,加紧生产……尤应共体时艰,力谋劳资间之真诚合作,消弭劳资间之一切纠纷。”还有说“中国工人没有外国工人那么苦”等等的。
我心上想,幸而没有大惊小怪地叫起来,天下的事情总是有道理的,一切压迫也是如此。何况对付盛宣怀等的理由虽然很少,而对付工人总不会没有的。
(五月六日。)
【王化】
中国的王化现在真是“光被四表格于上下”的了。
溥仪的弟媳妇跟着一位厨司务,卷了三万多元逃走了。于是中国的法庭把她缉获归案,判定“交还夫家管束”。满洲国虽然“伪”,夫权是不“伪”的。
新疆的回民闹乱子,于是派出宣慰使。
蒙古的王公流离失所了,于是特别组织“蒙古王公救济委员会”。
对于西藏的怀柔,是请班禅喇嘛诵经念咒。
而最宽仁的王化政策,要算广西对付瑶民的办法。据《大晚报》载,这种“宽仁政策”是在三万瑶民之中杀死三千人,派了三架飞机到瑶洞里去“下蛋”,使他们“惊诧为天神天将而不战自降”。事后,还要挑选瑶民代表到外埠来观光,叫他们看看上国的文化,例如马路上,红头阿三的威武之类。
而红头阿三说的是:勿要哗啦哗啦!
这些久已归化的“夷狄”,近来总是“哗啦哗啦”,原因是都有些怨了。王化盛行的时候,“东面而征西夷怨,南面而征北狄怨。”这原是当然的道理。
不过我们还是东奔西走,南征北剿,决不偷懒。虽然劳苦些,但“精神上的胜利”是属于我们的。
等到“伪”满的夫权保障了,蒙古的王公救济了,喇嘛的经咒念完了,回民真的安慰了,瑶民“不战自降”了,还有什么事可以做呢?自然只有修文德以服“远人”的日本了。这时候,我们印度阿三式的责任算是尽到了。
呜呼,草野小民,生逢盛世,唯有逖听欢呼,闻风鼓舞而已!
(五月七日。)
这篇被新闻检查处抽掉了,没有登出。幸而既非瑶民,又居租界,得免于国货的飞机来“下蛋”,然而“勿要哗啦哗啦”却是一律的,所以连“欢呼”也不许,──然则惟有一声不响,装死救国而已!
(十五夜记。)
【天上地下】
中国现在有两种炸,一种是炸进去,一种是炸进来。
炸进去之一例曰:“日内除飞机往匪区轰炸外,无战事,三四两队,七日晨迄申,更番成队飞宜黄以西崇仁以南掷百二十磅弹两三百枚,凡匪足资屏蔽处炸毁几平,使匪无从休养。……”(五月十日《申报》南昌专电)
炸进来之一例曰:“今晨六时,敌机炸蓟县,死民十余,又密云今遭敌轰四次,每次二架,投弹盈百,损害正详查中。……”(同日《大晚报》北平电)
应了这运会而生的,是上海小学生的买飞机,和北平小学生的挖地洞。
这也是对于“非安内无以攘外”或“安内急于攘外”的题目,做出来的两股好文章。
住在租界里的人们是有福的。但试闭目一想,想得广大一些,就会觉得内是官兵在天上,“共匪”和“匪化”了的百姓在地下,外是敌军在天上,没有“匪化”了的百姓在地下。“损害正详查中”,而太平之区,却造起了宝塔。释迦出世,一手指天,一手指地曰:“天上地下,惟我独尊!”此之谓也。
但又试闭目一想,想得久远一些,可就遇着难题目了。假如炸进去慢,炸进来快,两种飞机遇着了,又怎么办呢?停止了“安内”,回转头来“迎头痛击”呢,还是仍然只管自己炸进去,一任他跟着炸进来,一前一后,同炸“匪区”,待到炸清了,然后再“攘”他们出去呢?……
不过这只是讲笑话,事实是决不会弄到这地步的。即使弄到这地步,也没有什么难解决:外洋养病,名山拜佛,这就完结了。
(五月十六日。)
记得末尾的三句,原稿是:“外洋养病,背脊生疮,名山上拜佛,小便里有糖,这就完结了。”
(十九夜补记。)
【保留】
这几天的报章告诉我们:新任政务整理委员会委员长黄郛的专车一到天津,即有十七岁的青年刘庚生掷一炸弹,犯人当场捕获,据供系受日人指使,遂于次日绑赴新站外枭首示众云。
清朝的变成民国,虽然已经二十二年,但宪法草案的民族民权两篇,日前这才草成,尚未颁布。上月杭州曾将西湖抢犯当众斩决,据说奔往赏鉴者有“万人空巷”之概。可见这虽与“民权篇”第一项的“提高民族地位”稍有出入,却很合于“民族篇”第二项的“发扬民族精神”。南北统一,业已八年,天津也来挂一颗小小的头颅,以示全国一致,原也不必大惊小怪的。
其次,是中国虽说“惟女子与小人为难养也”,但一有事故,除三老通电,二老宣言,九四老人题字之外,总有许多“童子爱国”,“佳人从军”的美谈,使壮年男儿索然无色。我们的民族,好象往往是“小时了了,大未必佳”,到得老年,才又脱尽暮气,据讣文,死的就更其了不得。则十七岁的少年而来投掷炸弹,也不是出于情理之外的。
但我要保留的,是“据供系受日人指使”这一节,因为这就是所谓卖国。二十年来,国难不息,而被大众公认为卖国者,一向全是三十以上的人,虽然他们后来依然逍遥自在。至于少年和儿童,则拚命的使尽他们稚弱的心力和体力,携着竹筒或扑满,奔走于风沙泥泞中,想于中国有些微的裨益者,真不知有若干次数了。虽然因为他们无先见之明,这些用汗血求来的金钱,大抵反以供虎狼的一舐,然而爱国之心是真诚的,卖国的事是向来没有的。
不料这一次却破例了,但我希望我们将加给他的罪名暂时保留,再来看一看事实,这事实不必待至三年,也不必待至五十年,在那挂着的头颅还未烂掉之前,就要明白了:谁是卖国者。
从我们的儿童和少年的头颅上,洗去喷来的狗血罢!
(五月十七日。)
这一篇和以后的三篇,都没有能够登出。
(七月十九日。)
【再谈保留】
因为讲过刘庚生的罪名,就想到开口和动笔,在现在的中国,实在也很难的,要稳当,还是不响的好。要不然,就常不免反弄到自己的头上来。
举几个例在这里──
十二年前,鲁迅作的一篇《阿Q正传》,大约是想暴露国民的弱点的,虽然没有说明自己是否也包含在里面。然而到得今年,有几个人就用“阿Q”来称他自己了,这就是现世的恶报。
八九年前,正人君子们办了一种报,说反对者是拿了卢布的,所以在学界捣乱。然而过了四五年,正人又是教授,君子化为主任,靠俄款享福,听到停付,就要力争了。这虽然是现世的善报,但也总是弄到自己的头上来。
不过用笔的人,即使小心,也总不免略欠周到的。最近的例,则如各报章上,“敌”呀,“逆”呀,“伪”呀,“傀儡国”呀,用得沸反盈天。不这样写,实在也不足以表示其爱国,且将为读者所不满。谁料得到“某机关通知:御侮要重实际,逆敌一类过度刺激字面,无裨实际,后宜屏用”,而且黄委员长抵平,发表政见,竟说是“中国和战皆处被动,办法难言,国难不止一端,亟谋最后挽救”(并见十八日《大晚报》北平电)的呢?……
幸而还好,报上果然只看见“日机威胁北平”之类的题目,没有“过度刺激字面”了,只是“汉奸”的字样却还有。日既非敌,汉何云奸,这似乎不能不说是一个大漏洞。好在汉人是不怕“过度刺激字面”的,就是砍下头来,挂在街头,给中外士女欣赏,也从来不会有人来说一句话。
这些处所,我们是知道说话之难的。
从清朝的文字狱以后,文人不敢做野史了,如果有谁能忘了三百年前的恐怖,只要撮取报章,存其精英,就是一部不朽的大作。但自然,也不必神经过敏,豫先改称为“上国”或“天机”的。
(五月十七日。)
【“有名无实”的反驳】
新近的《战区见闻记》有这么一段记载:
“记者适遇一排长,甫由前线调防于此,彼云,我军前在石门寨、海阳镇、秦皇岛、牛头关、柳江等处所做阵地及掩蔽部……化洋三四十万元,木材重价尚不在内……艰难缔造,原期死守,不幸冷口失陷,一令传出,即行后退,血汗金钱所合并成立之阵地,多未重用,弃若敝屣,至堪痛心;不抵抗将军下台,上峰易人,我士兵莫不额手相庆……结果心与愿背。不幸生为中国人!尤不幸生为有名无实之抗日军人!”(五月十七日《申报》特约通信。)
这排长的天真,正好证明未经“教训”的愚劣人民,不足与言政治。第一,他以为不抵抗将军下台,“不抵抗”就一定跟着下台了。这是不懂逻辑:将军是一个人,而不抵抗是一种主义,人可以下台,主义却可以仍旧留在台上的。第二,他以为化了三四十万大洋建筑了防御工程,就一定要死守的了(总算还好,他没有想到进攻)。这是不懂策略:防御工程原是建筑给老百姓看看的,并不是教你死守的阵地,真正的策略却是“诱敌深入”。第三,他虽然奉令后退,却敢于“痛心”。这是不懂哲学:他的心非得治一治不可!第四,他“额手称庆”,实在高兴得太快了。这是不懂命理:中国人生成是苦命的。如此痴呆的排长,难怪他连叫两个“不幸”,居然自己承认是“有名无实的抗日军人”。其实究竟是谁“有名无实”,他是始终没有懂得的。
至于比排长更下等的小兵,那不用说,他们只会“打开天窗说亮话,咱们弟兄,处于今日局势,若非对外,鲜有不变者”(同上通信)。这还成话么?古人说,“无敌国外患者,国恒亡。”以前我总不大懂得这是什么意思:既然连敌国都没有了,我们的国还会亡给谁呢?现在照这兵士的话就明白了,国是可以亡给“变者”的。
结论:要不亡国,必须多找些“敌国外患”来,更必须多多“教训”那些痛心的愚劣人民,使他们变成“有名有实”。
(五月十八日。)
【不求甚解】
文章一定要有注解,尤其是世界要人的文章。有些文学家自己做的文章还要自己来注释,觉得很麻烦。至于世界要人就不然,他们有的是秘书,或是私淑弟子,替他们来做注释的工作。然而另外有一种文章,却是注释不得的。
譬如说,世界第一要人美国总统发表了“和平”宣言,据说是要禁止各国军队越出国境。但是,注释家立刻就说:“至于美国之驻兵于中国,则为条约所许,故不在罗斯福总统所提议之禁止内”(十六日路透社华盛顿电)。再看罗氏的原文:“世界各国应参加一庄严而确切之不侵犯公约,及重行庄严声明其限制及减少军备之义务,并在签约各国能忠实履行其义务时,各自承允不派遣任何性质之武装军队越出国境。”要是认真注解起来,这其实是说:凡是不“确切”,不“庄严”,并不“自己承允”的国家,尽可以派遣任何性质的军队越出国境。至少,中国人且慢高兴,照这样解释,日本军队的越出国境,理由还是十足的;何况连美国自己驻在中国的军队,也早已声明是“不在此例”了。可是,这种认真的注释是叫人扫兴的。
再则,像“誓不签订辱国条约”一句经文,也早已有了不少传注。传曰:“对日妥协,现在无人敢言,亦无人敢行。”这里,主要的是一个“敢”字。但是:签订条约有敢与不敢的分别,这是拿笔杆的人的事,而拿枪杆的人却用不着研究敢与不敢的为难问题——缩短防线,诱敌深入之类的策略是用不着签订的。就是拿笔杆的人也不至于只会签字,假使这样,未免太低能。所以又有一说,谓之“一面交涉”。于是乎注疏就来了:“以不承认为责任者之第三者,用不合理之方法,以口头交涉……清算无益之抗日。”这是日本电通社的消息。这种泄漏天机的注解也是十分讨厌的,因此,这不会不是日本人的“造谣”。
总之,这类文章浑沌一体,最妙是不用注解,尤其是那种使人扫兴或讨厌的注解。
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学理上の研究の結果は──圧迫にはもともと二種ある。一種は理のあるもの、しかも永久に理のあるものであり、もう一種は理のないものである。理のあるもの、それは小百姓に高利貸の返済を迫り、田租を納めさせるが如きであり、この種の圧迫の「理」は布告に書かれている──「借金は返済すべし、これ中外同一の定理なり。田を借りて租税を納むるは千古不易の定規なり。」理のないもの、それは盛宣懐の家産を没収するが如きであり、この種の巨紳を「圧迫する」手法は、当時はあるいは理があったかもしれぬが、今ではとうに無理なものとなっている。
最初、新聞に載った『五一労働者への告知書』に「本国資本家の無理なる圧迫に反抗せよ」とあるのを見て、私もいささか驚いた。というのは、ここでは「有理の圧迫」には反抗するなと言っているように読めるからだ。しかし考えてみれば、「有理」の圧迫とは即ち合法的なもの、例えば高利貸の取立てや田租の徴収であって、これらに反抗すれば法を犯すことになる。されば「無理の圧迫」にのみ反抗すべし──しかしその「無理」の基準は誰が定めるのか。
こうして「有理」「無理」の解釈権は上にある者が握ることとなり、下の者は永遠に「有理の圧迫」を甘受し、「無理の圧迫」──つまり上が認めたもの──にのみ反抗が許されるという仕組みになる。
しかしよく考えれば、この世に「有理の圧迫」などというものがあるだろうか。高利貸で小百姓を搾り、田租で農民を苦しめるのが「理」であるとは、まさに圧迫する側の「理」であって、される側の「理」ではない。
されば問題はこうなる──もし「有理の圧迫」に反抗してはならぬとすれば、圧迫はほぼ全て「有理」であるから、反抗はほぼ全て許されぬこととなる。「無理の圧迫に反抗せよ」とは、実は「反抗するな」と同義なのだ。
かくして我々は、この「学理上の研究の結果」の真の意味を知る。それは即ち、小百姓はいかなる圧迫をも甘受すべし、反抗は永遠に許されぬ、ただし上が「無理」と認めた場合は別なりと。しかし上が自らの圧迫を「無理」と認めることなど、千古にわたって一度もなかったのである。
(四月二十八日。)
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小时候读书讲到陶渊明的“好读书不求甚解”,先生就给我讲了,他说:“不求甚解”者,就是不去看注解,而只读本文的意思。注解虽有,确有人不愿意我们去看的。
(五月十八日)。
【后记】
我向《自由谈》投稿的由来,《前记》里已经说过了。到这里,本文已完,而电灯尚明,蚊子暂静,便用剪刀和笔,再来保存些因为《自由谈》和我而起的琐闻,算是一点余兴。
只要一看就知道,在我的发表短评时中,攻击得最烈的是《大晚报》。这也并非和我前生有仇,是因为我引用了它的文字。但我也并非和它前生有仇,是因为我所看的只有《申报》和《大晚报》两种,而后者的文字往往颇觉新奇,值得引用,以消愁释闷。即如我的眼前,现在就有一张包了香烟来的三月三十日的旧《大晚报》在,其中有着这样的一段──
“浦东人杨江生,年已四十有一,貌既丑陋,人复贫穷,向为泥水匠,曾佣于苏州人盛宝山之泥水作场。盛有女名金弟,今方十五龄,而矮小异常,人亦猥琐。昨晚八时,杨在虹口天潼路与盛相遇,杨奸其女。经捕头向杨询问,杨毫不抵赖,承认自去年一二八以后,连续行奸十余次,当派探员将盛金弟送往医院,由医生验明确非处女,今晨解送第一特区地方法院,经刘毓桂推事提审,捕房律师王耀堂以被告诱未满十六岁之女子,虽其后数次皆系该女自往被告家相就,但按法亦应强奸罪论,应请讯究。旋传女父盛宝山讯问,据称初不知有此事,前晚因事责女后,女忽失踪,直至昨晨才归,严诘之下,女始谓留住被告家,并将被告诱奸经过说明,我方得悉,故将被告扭入捕房云。继由盛金弟陈述,与被告行奸,自去年二月至今,已有十余次,每次均系被告将我唤去,并着我不可对父母说知云。质之杨江生供,盛女向呼我为叔,纵欲奸犹不忍下手,故绝对无此事,所谓十余次者,系将盛女带出游玩之次数等语。刘推事以本案尚须调查,谕被告收押,改期再讯。”
在记事里分明可见,盛对于杨,并未说有“伦常”关系,杨供女称之为“叔”,是中国的习惯,年长十年左右,往往称为叔伯的。然而《大晚报》用了怎样的题目呢?是四号和头号字的──
“拦途扭往捕房控诉
干叔奸侄女
女自称被奸过十余次
男指系游玩并非风流”
它在“叔”上添一“干”字,于是“女”就化为“侄女”,杨江生也因此成了“逆伦”或准“逆伦”的重犯了。中国之君子,叹人心之不古,憎匪人之逆伦,而惟恐人间没有逆伦的故事,偏要用笔铺张扬厉起来,以耸动低级趣味读者的眼目。杨江生是泥水匠,无从看见,见了也无从抗辩,只得一任他们的编排,然而社会批评者是有指斥的任务的。但还不到指斥,单单引用了几句奇文,他们便什么“员外”什么“警犬”的狂嗥起来,好象他们的一群倒是吸风饮露,带了自己的家私来给社会服务的志士。是的,社长我们是知道的,然而终于不知道谁是东家,就是究竟谁是“员外”,倘说既非商办,又非官办;则在报界里是很难得的。但这秘密,在这里不再研究它也好。
和《大晚报》不相上下,注意于《自由谈》的还有《社会新闻》。但手段巧妙得远了,它不用不能通或不愿通的文章,而只驱使着真伪杂糅的记事。即如《自由谈》的改革的原因,虽然断不定所说是真是假,我倒还是从它那第二卷第十三期(二月七日出版)上看来的──
从《春秋》与《自由谈》说起
中国文坛,本无新旧之分,但到了五四运动那年,陈独秀在《新青年》上一声号炮,别树一帜,提倡文学革命,胡适之、钱玄同、刘半农等,在后摇旗呐喊。这时中国青年外感外侮的压迫,内受政治的刺激,失望与烦闷,为了要求光明的出路,各种新思潮,遂受青年热烈的拥护,使文学革命建了伟大的成功。从此之后,中国文坛新旧的界限,判若鸿沟;但旧文坛势力在社会上有悠久的历史,根深蒂固,一时不易动摇。那时旧文坛的机关杂志,是著名的《礼拜六》,几乎集了天下摇头摆尾的文人,于《礼拜六》一炉!至《礼拜六》所刊的文字,十九是卿卿我我,哀哀唧唧的小说,把民族性陶醉萎靡到极点了!此即所谓鸳鸯蝴蝶派的文字。其中如徐枕亚、吴双热、周瘦鹃等,尤以善谈鸳鸯蝴蝶著名,周瘦鹃且为礼拜六派之健将。这时新文坛对于旧势力的大本营《礼拜六》,攻击颇力,卒以新兴势力,实力单薄,旧派有封建社会为背景,有恃无恐,两不相让,各行其是。此后新派如文学研究会,创造社等,陆续成立,人材渐众,势力渐厚,《礼拜六》应时势之推移,终至“寿终正寝”!惟礼拜六派之残余分子,迄今犹四出活动,无肃清之望,上海各大报中之文艺编辑,至今大都仍是所谓鸳鸯蝴蝶派所把持。可是只要放眼在最近的出版界中,新兴文艺出版数量的可惊,已有使旧势力不能抬头之势!礼拜六派文人之在今日,已不敢复以《礼拜六》的头衔以相召号,盖已至强弩之末的时期了!最近守旧的《申报》,忽将《自由谈》编辑礼拜六派的巨子周瘦鹃撤职,换了一个新派作家黎烈文,这对于旧势力当然是件非常的变动,遂形成了今日新旧文坛剧烈的冲突。周瘦鹃一方面策动各小报,对黎烈文作总攻击,我们只要看陈逸梅主编的《金刚钻》,主张周瘦鹃仍返《自由谈》原位,让黎烈文主编《春秋》,也足见旧派文人终不能忘情于已失的地盘。而另一方面周瘦鹃在自己编的《春秋》内说:各种副刊有各种副刊的特性,作河水不犯井水之论,也足见周瘦鹃犹惴惴于他现有地位的危殆。周同时还硬拉非苏州人的严独鹤加入周所主持的纯苏州人的文艺团体“星社”,以为拉拢而固地位之计。不图旧派势力的失败,竟以周启其端。据我所闻:周的不能安于其位,也有原因:他平日对于选稿方面,太刻薄而私心,只要是认识的人投去的稿,不看内容,见篇即登;同时无名小卒或为周所陌生的投稿者,则也不看内容,整堆的作为字纸篓的虏俘。因周所编的刊物,总是几个夹袋里的人物,私心自用,以致内容糟不可言!外界对他的攻击日甚,如许啸天主编之《红叶》,也对周有数次剧烈的抨击,史量才为了外界对他的不满,所以才把他撤去。那知这次史量才的一动,周竟作了导火线,造成了今日新旧两派短兵相接战斗愈烈的境界!以后想好戏还多,读者请拭目俟之。
〔微知〕
但到二卷廿一期(三月三日)上,就已大惊小怪起来,为“守旧文化的堡垒”的动摇惋惜──
左翼文化运动的抬头 水手
关于左翼文化运动,虽然受过各方面严厉的压迫,及其内部的分裂,但近来又似乎渐渐抬起头了。在上海,左翼文化在共产党“联络同路人”的路线之下,的确是较前稍有起色。在杂志方面,甚至连那些第一块老牌杂志,也左倾起来。胡愈之主编的《东方杂志》,原是中国历史最久的杂志,也是最稳健不过的杂志,可是据王云五老板的意见,胡愈之近来太左倾了,所以在愈之看过的样子,他必须再重看一遍。但虽然是经过王老板大刀阔斧的删段以后,《东方杂志》依然还嫌太左倾,于是胡愈之的饭碗不能不打破,而由李某来接他的手了。又如《申报》的《自由谈》在礼拜六派的周某主编之时,陈腐到太不像样,但现在也在左联手中了。鲁迅与沈雁冰,现在已成了《自由谈》的两大台柱了。《东方杂志》是属于商务印书馆的,《自由谈》是属于《申报》的,商务印书馆与申报馆,是两个守旧文化的堡垒,可是这两个堡垒,现在似乎是开始动摇了,其余自然是可想而知。此外,还有几个中级的新的书局,也完全在左翼作家手中,如郭沫若、高语罕、丁晓先与沈雁冰等,都各自抓着了一个书局,而做其台柱,这些都是著名的红色人物,而书局老板现在竟靠他们吃饭了。
…………
过了三星期,便确指鲁迅与沈雁冰为《自由谈》的“台柱”(三月廿四日第二卷第廿八期)──
黎烈文未入文总
《申报·自由谈》编辑黎烈文,系留法学生,为一名不见于经传之新进作家。自彼接办《自由谈》后,《自由谈》之论调,为之一变,而执笔为文者,亦由星社《礼拜六》之旧式文人,易为左翼普罗作家。现《自由谈》资为台柱者,为鲁迅与沈雁冰两氏,鲁迅在《自由谈》上发表文稿尤多,署名为“何家干”。除鲁迅与沈雁冰外,其他作品,亦什九系左翼作家之作,如施蛰存、曹聚仁、李辉英辈是。一般人以《自由谈》作文者均系中国左翼文化总同盟(简称文总),故疑黎氏本人,亦系文总中人,但黎氏对此,加以否认,谓彼并未加入文总,与以上诸人仅友谊关系云。
〔逸〕
又过了一个多月,则发见这两人的“雄图”(五月六日第三卷第十二期)了──
鲁迅沈雁冰的雄图
自从鲁迅、沈雁冰等以《申报·自由谈》为地盘,发抒阴阳怪气的论调后,居然又能吸引群众,取得满意的收获了。在鲁(?)沈的初衷,当然这是一种有作用的尝试,想复兴他们的文化运动。现在,听说已到组织团体的火候了。
参加这个运动的台柱,除他们二人外有郁达夫、郑振铎等,交换意见的结果,认为中国最早的文化运动,是以语丝社、创造社及文学研究会为中心,而消散之后,语丝、创造的人分化太大了,惟有文学研究会的人大部分都还一致,——如王统照、叶绍钧、徐雉之类。而沈雁冰及郑振铎,一向是文学研究派的主角,于是决定循此路线进行。最近,连田汉都愿意率众归附,大概组会一事,已在必成,而且可以在这红五月中实现了。
〔农〕
这些记载,于编辑者黎烈文是并无损害的,但另有一种小报式的期刊所谓《微言》 ,却在《文坛进行曲》里刊了这样的记事──
“曹聚仁经黎烈文等绍介,已加入左联。”(七月十五日,九期。)
这两种刊物立说的差异,由于私怨之有无,是可不言而喻的。但《微言》却更为巧妙:只要用寥寥十五字,便并陷两者,使都成为必被压迫或受难的人们。
到五月初,对于《自由谈》的压迫,逐日严紧起来了,我的投稿,后来就接连的不能发表。但我以为这并非因了《社会新闻》之类的告状,倒是因为这时正值禁谈时事,而我的短评却时有对于时局的愤言;也并非仅在压迫《自由谈》,这时的压迫,凡非官办的刊物,所受之度大概是一样的。但这时候,最适宜的文章是鸳鸯蝴蝶的游泳和飞舞,而《自由谈》可就难了,到五月廿五日,终于刊出了这样的启事──
编辑室
这年头,说话难,摇笔杆尤难。这并不是说:“祸福无门,惟人自召”,实在是“天下有道”,“庶人”相应“不议。”编者谨掬一瓣心香,吁请海内文豪,从兹多谈风月,少发牢骚,庶作者编者,两蒙其休。若必论长议短,妄谈大事,则塞之字簏既有所不忍,布之报端又有所不能,陷编者于两难之境,未免有失恕道。语云:识时务者为俊杰,编者敢以此为海内文豪告。区区苦衷,伏乞矜鉴!
编者
这现象,好象很得了《社会新闻》群的满足了,在第三卷廿一期(六月三日)里的“文化秘闻”栏内,就有了如下的记载──
“自由谈”态度转变
《申报·自由谈》自黎烈文主编后,即吸收左翼作家鲁迅、沈雁冰及乌鸦主义者曹聚仁等为基本人员,一时论调不三不四,大为读者所不满。且因嘲骂“礼拜五派”,而得罪张若谷等;抨击“取消式”之社会主义理论,而与严灵峰等结怨;腰斩《时代与爱的歧途》,又招张资平派之反感,计黎主编《自由谈》数月之结果,已形成一种壁垒,而此种壁垒,乃营业主义之《申报》所最忌者。又史老板在外间亦耳闻有种种不满之论调,乃特下警告,否则为此则惟有解约。最后结果伙计当然屈伏于老板,于是“老话”“小旦收场”之类之文字,已不复见于近日矣。
〔闻〕
而以前的五月十四日午后一时,还有了丁玲和潘梓年的失踪的事,大家多猜测为遭了暗算,而这猜测也日益证实了。谣言也因此非常多,传说某某也将同遭暗算的也有,接到警告或恐吓信的也有。我没有接到什么信,只有一连五六日,有人打电话到内山书店的支店去询问我的住址。我以为这些信件和电话,都不是实行暗算者们所做的,只不过几个所谓文人的鬼把戏,就是“文坛”上,自然也会有这样的人的。但倘有人怕麻烦,这小玩意是也能发生些效力,六月九日《自由谈》上《蘧庐絮语》之后有一条下列的文章,我看便是那些鬼把戏的见效的证据了──
编者附告:昨得子展先生来信,现以全力从事某项著作,无暇旁骛,《蘧庐絮语》,就此完结。
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幼き日、読書にて陶淵明の「好んで書を読むも甚解を求めず」に至りし時、先生はこう講じてくださった。曰く「甚解を求めず」とは、注解を見に行かず、ただ本文の意味のみを読むということだと。注解はあるにはあるが、確かに我々に見せたがらぬ者がいるのである。
(五月十八日。)
【後記】
私が『自由談』に投稿するに至った経緯は、『前記』にて既に述べた。ここに至って本文は了わったが、電灯はなお明るく、蚊もしばし静かであるので、鋏と筆をもって『自由談』と私とに因って起こった些末な話をもう少し保存し、いささかの余興とする。
一見して分かる通り、私が短評を発表していた間に最も激しく攻撃してきたのは『大晩報』であった。これは前世の恨みがあるわけではなく、私が彼らの文章を引用したからである。しかし私もまた彼らに前世の恨みがあるわけではなく、私が読んでいたのは『申報』と『大晩報』の二紙のみであり、しかも後者の文章は往々にして甚だ珍奇にして引用に値し、愁いを消し悶えを解くに足るからである。即ち今私の眼前にも、煙草を包んできた三月三十日の古い『大晩報』が一枚あり、その中にこのような一段がある──
「浦東の人楊江生、年既に四十一、貌は醜陋にして、人また貧窮、もと泥水工にして、かつて蘇州人盛宝山の泥水作場に雇われたり。盛に女あり名は金弟、今方十五歳にして矮小なること異常、人もまた猥瑣なり。昨晩八時、楊は虹口天潼路にて盛と相い遇い、楊は其の女を姦す。捕頭の尋問を経て楊は毫も否認せず、昨年一二八以後連続して十余回姦行せしことを承認す……」
記事の中に分明に見て取れるのは、盛は楊に対して「倫常」関係ありとは言っていないことであり、楊の供述では女は彼を「叔」と呼んでいたが、これは中国の習慣で年が十歳ほど上であれば往々にして叔伯と称するものなのである。しかるに『大晩報』はいかなる見出しをつけたか。四号活字と頭号活字で──
「途中で捕まえ捕房に引き渡して告訴す/義理の叔父が姪を姦す/女自ら十余回姦されたと称す/男は遊びであり風流にあらずと主張す」
彼らは「叔」の上に「義理の」を添え、かくして「女」は「姪」と化し、楊江生もこれによって「逆倫」あるいは準「逆倫」の重犯となったのだ。中国の君子たちは人心の不古を嘆き非人の逆倫を憎みながら、人間に逆倫の話がないことを恐れるかの如く、偏に筆を以て大げさに書き立て、低級趣味の読者の目を聳動させようとする。楊江生は泥水工にて、見ることもなく、見たとしても抗弁の術もなく、ただ彼らの仕立てるがままに任せるほかないが、しかし社会批評者には指弾の任務がある。しかるに指弾にも至らず、ただ数句の奇文を引用しただけで、彼らはたちまち何の「員外」だの何の「警犬」だのと狂嗥し、あたかも自分たちの一群こそ霞を吸い露を飲み、私財を携えて社会奉仕に来た志士であるかのように振る舞う。社長の何者かは知っているが、しかし結局のところ誰が本当のオーナーか──即ち誰が「員外」であるかは分からぬ。商営でもなく官営でもないというのであれば、新聞界にあっては甚だ珍しいことである。しかしこの秘密は、ここでは追究しないでおこう。
『大晩報』と伯仲する、『自由談』に注目する刊行物にはなお『社会新聞』がある。しかしその手段は遥かに巧妙であって、通じ得ぬあるいは通じたがらぬ文章を用いるのではなく、ただ真偽混交の記事を駆使する。即ち『自由談』の改革の原因など、その説が真か偽かは断じ得ぬが、私はなお彼らの第二巻第十三期(二月七日出版)から読み取ったのであった──
(以下、「『春秋』と『自由談』より説き起こす」として文壇の新旧対立の経緯──周痩鵑の交代、黎烈文の就任、左翼文化運動の台頭等々──が引用される。)
五月初めに至り、『自由談』への圧迫は日に日に厳しくなり、私の投稿も後には相次いで発表し得なくなった。しかしこれは『社会新聞』の類の告発のためではなく、この時ちょうど時事を論ずることが禁じられていたのであり、私の短評には時に時局への憤言があったからである。また『自由談』のみへの圧迫でもなく、この時の圧迫は官営でない刊行物に対しては程度はおおむね同じであった。しかしこの時最も適した文章は鴛鴦蝴蝶の遊泳と飛翔であり、『自由談』にとっては難しいことであって、五月二十五日ついに次のような告知が掲載された──
「編集室──この御時世、物を言うのは難しく、筆を執るのはなお難しい。これは『禍福は門なし、ただ人自ら招く』というのではなく、実に『天下に道あれば』『庶人は議せず』ということなのです。編者は謹んで一瓣の心香を捧げ、海内の文豪に請う──今後は風月を多く語り、牢騒は少なくしてくだされば、著者も編者も共に安泰であります……」
この現象は『社会新聞』の群をいたく満足させたようで、三巻二十一期には「自由談の態度転換」と題する記事が載った。
さらに五月十四日の午後一時には、丁玲と潘梓年の失踪という事件が起こり、皆は暗殺されたのではないかと推測した。この推測は日に日に確かになっていった。流言もこのため甚だ多く、誰それも同様に暗殺されるだろうとか、警告状や脅迫状を受け取ったとかいう話があった。私は何の手紙も受け取らなかったが、ただ五、六日続けて内山書店の支店に私の住所を問い合わせる電話があった。これらの手紙や電話は実際に暗殺を行う者の仕業ではなく、いわゆる文人の数人の悪ふざけに過ぎぬと私は思う──「文壇」にも自ずとこのような人間はいるものだ。しかし厄介事を恐れる者にとっては、この小細工もいくらかの効力を発し得る。
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终于,《大晚报》静观了月余,在六月十一的傍晚,从它那文艺附刊的《火炬》上发出毫光来了,它愤慨得很──
到底要不要自由 法鲁
久不曾提起的“自由”这问题,近来又有人在那里大论特谈,因为国事总是热辣辣的不好惹,索性莫谈,死心再来谈“风月”,可是“风月”又谈得不称心,不免喉底里喃喃地漏出几声要“自由”,又觉得问题严重,喃喃几句倒是可以,明言直语似有不便,于是正面问题不敢直接提起来论,大刀阔斧不好当面幌起来,却弯弯曲曲,兜着圈子,叫人摸不着棱角,摸着正面,却要把它当做反面看,这原是看“幽默”文字的方法也。
心要自由,口又不明言,口不能代表心,可见这只口本身已经是不自由的了。因为不自由,所以才讽讽刺刺,一回儿“要自由”,一回儿又“不要自由”,过一回儿再“要不自由的自由”和“自由的不自由”,翻来复去,总叫头脑简单的人弄得“神经衰弱”,把捉不住中心。到底要不要自由呢?说清了,大家也好顺风转舵,免得闷在葫芦里,失掉听懂的自由。照我这个不是“雅人”的意思,还是粗粗直直地说:“咱们要自由,不自由就来拚个你死我活!”
本来“自由”并不是个非常问题,给大家一谈,倒严重起来了。──问题到底是自己弄严重的,如再不使用大刀阔斧,将何以冲破这黑漆一团?细针短刺毕竟是雕虫小技,无助于大题,讥刺嘲讽更已属另一年代的老人所发的呓语。我们聪明的智识份子,又何尝不知道讽刺在这时代已失去效力,但是要想弄起刀斧,却又觉左右掣肘,在这一年代,科学发明,刀斧自然不及枪炮;生贱于蚁,本不足惜,无奈我们无能的智识份子偏吝惜他的生命何!
这就是说,自由原不是什么稀罕的东西,给你一谈,倒谈得难能可贵起来了。你对于时局,本不该弯弯曲曲的讽刺。现在他对于讽刺者,是“粗粗直直地”要求你去死亡。作者是一位心直口快的人,现在被别人累得“要不要自由”也摸不着头脑了。
然而六月十八日晨八时十五分,是中国民权保障同盟的副会长杨杏佛(铨)遭了暗杀。
这总算拚了个“你死我活”,法鲁先生不再在《火炬》上说亮话了。只有《社会新闻》,却在第四卷第一期(七月三日出)里,还描出左翼作家的懦怯来──
左翼作家纷纷离沪
在五月,上海的左翼作家曾喧闹一时,好象什么都要染上红色,文艺界全归左翼。但在六月下旬,情势显然不同了,非左翼作家的反攻阵线布置完成,左翼的内部也起了分化,最近上海暗杀之风甚盛,文人的脑筋最敏锐,胆子最小而脚步最快,他们都以避暑为名离开了上海。据确讯,鲁迅赴青岛,沈雁冰在浦东乡间,郁达夫杭州,陈望道回家乡,连蓬子、白薇之类的踪迹都看不见了。
〔道〕
西湖是诗人避暑之地,牯岭乃阔老消夏之区,神往尚且不敢,而况身游。杨杏佛一死,别人也不会突然怕热起来的。听说青岛也是好地方,但这是梁实秋教授传道的圣境,我连遥望一下的眼福也没有过。“道”先生有道,代我设想的恐怖,其实是不确的。否则,一群流氓,几枝手枪,真可以治国平天下了。
但是,嗅觉好象特别灵敏的《微言》,却在第九期(七月十五日出)上载着另一种消息──
自由的风月 顽石
黎烈文主编之《自由谈》,自宣布“只谈风月,少发牢骚”以后,而新进作家所投真正谈风月之稿,仍拒登载,最近所载者非老作家化名之讽刺文章,即其刺探们无聊之考古。闻此次辩论旧剧中的锣鼓问题,署名“罗复”者,即陈子展,“何如”者,即曾经被捕之黄素。此一笔糊涂官司,颇骗得稿费不少。
这虽然也是一科“牢骚”,但“真正谈风月”和“曾经被捕”等字样,我觉得是用得很有趣的。惜“化名”为“顽石”,灵气之不钟于鼻子若我辈者,竟莫辨其为“新进作家”抑“老作家”也。
《后记》本来也可以完结了,但还有应该提一下的,是所谓“腰斩张资平”案。
《自由谈》上原登着这位作者的小说,没有做完,就被停止了,有些小报上,便轰传为“腰斩张资平”。当时也许有和编辑者往复驳难的文章的,但我没有留心,因此就没有收集。现在手头的只有《社会新闻》,第三卷十三期(五月九日出)里有一篇文章,据说是罪魁祸首又是我,如下──
张资平挤出《自由谈》 粹公
今日的《自由谈》,是一块有为而为的地盘,是“乌鸦”“阿Q”的播音台,当然用不着“三角四角恋爱”的张资平混迹其间,以至不得清一。
然而有人要问:为什么那个色欲狂的“迷羊”——郁达夫却能例外?他不是同张资平一样发源于创造吗?一样唱着“妹妹我爱你”吗?我可以告诉你,这的确是例外。因为郁达夫虽则是个色欲狂,但他能流入“左联”,认识“民权保障”的大人物,与今日《自由谈》的后台老板鲁(?)老夫子是同志,成为“乌鸦”“阿Q”的伙伴了。
据《自由谈》主编人黎烈文开革张资平的理由,是读者对于《时代与爱的歧路》一文,发生了不满之感,因此中途腰斩,这当然是一种遁词。在肥胖得走油的申报馆老板,固然可以不惜几千块钱,买了十洋一千字的稿子去塞纸簏,但在靠卖文为活的张资平,却比宣布了死刑都可惨,他还得见见人呢!
而且《自由谈》的写稿,是在去年十一月,黎烈文请客席上,请他担任的,即使鲁(?)先生要扫清地盘,似乎也应当客气一些,而不能用此辣手。问题是这样的,鲁先生为了要复兴文艺(?)运动,当然第一步先须将一切的不同道者打倒,于是乃有批评曾今可、张若谷、章衣萍等为“礼拜五派”之举;张资平如若识相,自不难感觉到自己正酣卧在他们榻旁,而立刻滚蛋!无如十洋一千使他眷恋着,致触了这个大霉头。当然,打倒人是愈毒愈好,管他是死刑还是徒刑呢!
在张资平被挤出《自由谈》之后,以常情论,谁都咽不下这口冷水,不过张资平的阘懦是著名的,他为了老婆小孩子之故,是不能同他们斗争,而且也不敢同他们摆好了阵营的集团去斗争,于是,仅仅在《中华日报》的《小贡献》上,发了一条软弱无力的冷箭,以作遮羞。
现在什么事都没有了,《红萝卜须》已代了他的位置,而沈雁冰新组成的文艺观摹团,将大批的移殖到《自由谈》来。
还有,是《自由谈》上曾经攻击过曾今可的《解放词》,据《社会新闻》第三卷廿二期(六月六日出)说,原来却又是我在闹的了,如下──
曾今可准备反攻
曾今可之为鲁迅等攻击也,实至体无完肤,固无时不想反攻,特以力薄能鲜,难于如愿耳!且知鲁迅等有左联作背景,人多手众,此呼彼应,非孤军抗战所能抵御,因亦着手拉拢,凡曾受鲁等侮辱者更所欢迎。近已拉得张资平、胡怀琛、张凤、龙榆生等十余人,组织一文艺漫谈会,假新时代书店为地盘,计划一专门对付左翼作家之半月刊,本月中旬即能出版。
〔如〕
那时我想,关于曾今可,我虽然没有写过专文,但在《曲的解放》(本书第十五篇)里确曾涉及,也许可以称为“侮辱”罢;胡怀琛虽然和我不相干,《自由谈》上是嘲笑过他的“墨翟为印度人说”的。但张、龙两位是怎么的呢?彼此的关涉,在我的记忆上竟一点也没有。这事直到我看见二卷二十六期的《涛声》(七月八日出),疑团这才冰释了──
《文艺座谈》遥领记 聚仁
《文艺座谈》者,曾词人之反攻机关报也,遥者远也,领者领情也,记者记不曾与座谈而遥领盛情之经过也。
解题既毕,乃述本事。
有一天,我到暨南去上课,休息室的台子上赫然一个请帖;展而恭读之,则《新时代月刊》之请帖也,小子何幸,乃得此请帖!折而藏之,以为传家之宝。
《新时代》请客而《文艺座谈》生焉,而反攻之阵线成焉。报章煌煌记载,有名将在焉。我前天碰到张凤老师,带便问一个口讯;他说:“谁知道什么座谈不座谈呢?他早又没说,签了名,第二天,报上都说是发起人啦。”昨天遇到龙榆生先生,龙先生说:“上海地方真不容易做人,他们再三叫我去谈谈,只吃了一些茶点,就算数了;我又出不起广告费。”我说:“吃了他家的茶,自然是他家人啦!”
我幸而没有去吃茶,免于被强奸,遥领盛情,志此谢谢!
但这“文艺漫谈会”的机关杂志《文艺座谈》 第一期,却已经罗列了十多位作家的名字,于七月一日出版了。其中的一篇是专为我而作的——
内山书店小坐记 白羽遐
某天的下午,我同一个朋友在上海北四川路散步。走着走着,就走到北四川路底了。我提议到虹口公园去看看,我的朋友却说先到内山书店去看看有没有什么新书。我们就进了内山书店。
内山书店是日本浪人内山完造开的,他表面是开书店,实在差不多是替日本政府做侦探。他每次和中国人谈了点什么话,马上就报告日本领事馆。这也已经成了“公开的秘密”了,只要是略微和内山书店接近的人都知道。
我和我的朋友随便翻看着书报。内山看见我们就连忙跑过来和我们招呼,请我们坐下来,照例地闲谈。因为到内山书店来的中国人大多数是文人,内山也就知道点中国的文化。他常和中国人谈中国文化及中国社会的情形,却不大谈到中国的政治,自然是怕中国人对他怀疑。
“中国的事都要打折扣,文字也是一样。‘白发三千丈’这就是一个天大的诳!这就得大打其折扣。中国的别的问题,也可以以此类推……哈哈!哈!”
内山的话我们听了并不觉得一点难为情,诗是不能用科学方法去批评的。内山不过是一个九州角落里的小商人,一个暗探,我们除了用微笑去回答之外,自然不会拿什么话语去向他声辩了。不久以前,在《自由谈》上看到何家干先生的一篇文字,就是内山所说的那些话。原来所谓“思想界的权威”,所谓“文坛老将”,连一点这样的文章都非“出自心裁”!
内山还和我们谈了好些,“航空救国”等问题都谈到,也有些是已由何家干先生抄去在《自由谈》发表过的。我们除了勉强敷衍他之外,不大讲什么话,不想理他。因为我们知道内山是个什么东西,而我们又没有请他救过命,保过险,以后也决不预备请他救命或保险。
我同我的朋友出了内山书店,又散步散到虹口公园去了。
不到一礼拜(七月六日),《社会新闻》(第四卷二期)就加以应援,并且廓大到“左联” 去了。其中的“茅盾”,是本该写作“鲁迅”的故意的错误,为的是令人不疑为出于同一人的手笔──
内山书店与左联
《文艺座谈》第一期上说,日本浪人内山完造在上海开书店,是侦探作用,这是确属的,而尤其与左联有缘。记得郭沫若由汉逃沪,即匿内山书店楼上,后又代为买船票渡日。茅盾在风声紧急时,亦以内山书店为惟一避难所。然则该书店之作用究何在者?盖中国之有共匪,日本之利也,所以日本杂志所载调查中国匪情文字,比中国自身所知者为多,而此类材料之获得,半由受过救命之恩之共党文艺份子所供给;半由共党自行送去,为张扬势力之用,而无聊文人为其收买甘愿为其刺探者亦大有人在。闻此种侦探机关,除内山以外,尚有日日新闻社,满铁调查所等,而著名侦探除内山完造外,亦有田中、小岛、中村等。
〔新皖〕
这两篇文章中,有两种新花样:一、先前的诬蔑者,都说左翼作家是受苏联的卢布的,现在则变了日本的间接侦探;二、先前的揭发者,说人抄袭是一定根据书本的,现在却可以从别人的嘴里听来,专凭他的耳朵了。至于内山书店,三年以来,我确是常去坐,检书谈话,比和上海的有些所谓文人相对还安心,因为我确信他做生意,是要赚钱的,却不做侦探;他卖书,是要赚钱的,却不卖人血:这一点,倒是凡有自以为人,而其实是狗也不如的文人们应该竭力学学的!
但也有人来抱不平了,七月五日的《自由谈》上,竟揭载了这样的一篇文字──
谈“文人无行” 谷春帆
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ついに『大晩報』は一月余り静観した後、六月十一日の夕べ、その文芸附刊『火炬』から微かな光を放った。甚だ憤慨している──
【結局のところ自由は要るのか要らぬのか 法魯】
久しく取り上げられなかった「自由」の問題を、近頃また大いに論ずる者がいる。国事は常に辛辣にして触れ難いゆえ、いっそ論ずるのをやめて、あきらめて「風月」を語ろうとするも、「風月」も意に適わず、喉の奥で「自由が欲しい」と呟きが漏れる。しかし問題が重大なことに気づき、呟く程度は構わぬが明言直語は不便なりと思い、正面から問題を直接提起することを恐れ、何か曲がりくねった文学論に変えてしまう。
自由は要るのか要らぬのか──これは実にはっきりした問題であるはずだが、文人たちはこれを曖昧にしてしまう。なぜか。真の自由を論ずれば上からの圧迫が来るからであり、自由など要らぬと言えば自らの良心が許さぬからである。かくして彼らは風月を語る振りをしながら、その実、自由への渇望を抑えきれずにいる。
しかし風月を語ることが許される社会は、既に自由のある社会ではないか──否、風月を語ることすら許されぬ時が来ることこそ、真に恐れるべきである。風月の背後には常に権力の影がある。風月を語れと命じられてそれに従う時、我々は既に自由を失っているのだ。
要するに、自由は「到底要るのか要らぬのか」という問いは、問うまでもない。問うべきは「なぜ我々は自由を手にし得ぬのか」であり、その答えは明白である──権力がこれを許さぬからだ。
(六月十一日。)
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虽说自己也忝列于所谓“文人”之“林”,但近来对于“文人无行”这句话,却颇表示几分同意,而对于“人心不古”,“世风日下”的感喟,也不完全视为“道学先生”的偏激之言。实在,今日“人心”险毒得太令人可怕了,尤其是所谓“文人”,想得出,做得到,种种卑劣行为如阴谋中伤,造谣诬蔑,公开告密,卖友求荣,卖身投靠的勾当,举不胜举。而在另一方面自吹自擂,觍然以“天才”与“作家”自命,偷窃他人唾余,还沾沾自喜的种种怪象,也是“无丑不备有恶皆臻”,对着这些痛心的事实,我们还能够否认“文人无行”这句话的相当真实吗?(自然,我也并不是说凡文人皆无行。)我们能不兴起“世道人心”的感喟吗?
自然,我这样的感触并不是毫没来由的。举实事来说,过去有曾某其人者,硬以“管他娘”与“打打麻将”等屁话来实行其所谓“词的解放”,被人斥为“轻薄少年”与“色情狂的急色儿”,曾某却唠唠叨叨辩个不休,现在呢,新的事实又证明了曾某不仅是一个轻薄少年,而且是阴毒可憎的蛇蝎,他可以借崔万秋的名字为自己吹牛(见二月崔在本报所登广告),甚至硬把日本一个打字女和一个中学教员派做“女诗人”和“大学教授”,把自己吹捧得无微不至;他可以用最卑劣的手段投稿于小报,指他的朋友为×××,并公布其住址,把朋友公开出卖(见第五号《中外书报新闻》)。这样的大胆,这样的阴毒,这样的无聊,实在使我不能相信这是一个有廉耻有人格的“人”──尤其是“文人”,所能做出。然而曾某却真想得到,真做得出,我想任何人当不能不佩服曾某的大无畏的精神。
听说曾某年纪还不大,也并不是没有读书的机会,我想假如曾某能把那种吹牛拍马的精力和那种阴毒机巧的心思用到求实学一点上,所得不是要更多些吗?然而曾某却偏要日以吹拍为事,日以造谣中伤为事,这,一方面固愈足以显曾某之可怕,另一方面亦正见青年自误之可惜。
不过,话说回头,就是受过高等教育的也未必一定能束身自好,比如以专写三角恋爱小说出名,并发了财的张××,彼固动辄以日本某校出身自炫者,然而他最近也会在一些小报上泼辣叫嗥,完全一副满怀毒恨的“弃妇”的脸孔,他会阴谋中伤,造谣挑拨,他会硬派人像布哈林或列宁,简直想要置你于死地,其人格之卑污,手段之恶辣,可说空前绝后,这样看来,高等教育又有何用?还有新出版之某无聊刊物上有署名“白羽遐”者作《内山书店小坐记》一文,公然说某人常到内山书店,曾请内山书店救过命保过险。我想这种公开告密的勾当,大概也就是一流人化名玩出的花样。
然而无论他们怎样造谣中伤,怎样阴谋陷害,明眼人一见便知,害人不着,不过徒然暴露他们自己的卑污与无人格而已。
但,我想,“有行”的“文人”,对于这班丑类,实在不应当像现在一样,始终置之不理,而应当振臂奋起,把它们驱逐于文坛以外,应当在污秽不堪的中国文坛,做一番扫除的工作!
于是祸水就又引到《自由谈》上去,在次日的《时事新报》 上,便看见一则启事,是方寸大字的标名──
张资平启事
五日《申报·自由谈》之《谈“文人无行”》,后段大概是指我而说的。我是坐不改名,行不改姓的人,纵令有时用其他笔名,但所发表文字,均自负责,此须申明者一;白羽遐另有其人,至《内山小坐记》亦不见是怎样坏的作品,但非出我笔,我未便承认,此须申明者二;我所写文章均出自信,而发见关于政治上主张及国际情势之研究有错觉及乱视者,均不惜加以纠正。至于“造谣伪造信件及对于意见不同之人,任意加以诬毁”皆为我生平所反对,此须申明者三;我不单无资本家的出版者为我后援,又无姊妹嫁作大商人为妾,以谋得一编辑以自豪,更进而行其“诬毁造谣假造信件”等卑劣的行动。我连想发表些关于对政治对国际情势之见解,都无从发表,故凡容纳我的这类文章之刊物,我均愿意投稿。但对于该刊物之其他文字则不能负责,此须申明者四。今后凡有利用以资本家为背景之刊物对我诬毁者,我只视作狗吠,不再答复,特此申明。
这很明白,除我而外,大部分是对于《自由谈》编辑者黎烈文的。所以又次日的《时事新报》上,也登出相对的启事来──
黎烈文启事
烈文去岁游欧洲归来,客居沪上,因《申报》总理史量才先生系世交长辈,故常往访候,史先生以烈文未曾入过任何党派,且留欧时专治文学,故令加入申报馆编辑《自由谈》。不料近两月来,有三角恋爱小说商张资平,因烈文停登其长篇小说,怀恨入骨,常在各大小刊物,造谣诬蔑,挑拨陷害,无所不至,烈文因其手段与目的过于卑劣,明眼人一见自知,不值一辩,故至今绝未置答,但张氏昨日又在《青光》栏上登一启事,含沙射影,肆意诬毁,其中有“又无姊妹嫁作大商人为妾”一语,不知何指。张氏启事既系对《自由谈》而发,而烈文现为《自由谈》编辑人,自不得不有所表白,以释群疑。烈文只胞妹两人,长应元未嫁早死,次友元现在长沙某校读书,亦未嫁人,均未出过湖南一步。且据烈文所知,湘潭黎氏同族姊妹中不论亲疏远近,既无一人嫁人为妾,亦无一人得与“大商人”结婚,张某之言,或系一种由衷的遗憾(没有姊妹嫁作大商人为妾的遗憾),或另有所指,或系一种病的发作,有如疯犬之狂吠,则非烈文所知耳。
此后还有几个启事,避烦不再剪贴了。总之:较关紧要的问题,是“姊妹嫁作大商人为妾”者是谁?但这事须问“行不改名,坐不改姓”的好汉张资平本人才知道。
可是中国真也还有好事之徒,竟有人不怕中暑的跑到真茹的“望岁小农居”这洋楼底下去请教他了。《访问记》登在《中外书报新闻》 的第七号(七月十五日出)上,下面是关于“为妾”问题等的一段──
(四)启事中的疑问
以上这些话还只是讲刊登及停载的经过,接着,我便请他解答启事中的几个疑问。
“对于你的启事中,有许多话,外人看了不明白,能不能让我问一问?”
“是那几句?”
“‘姊妹嫁作商人妾’,这不知道有没有什么影射?”
“这是黎烈文他自己多心,我不过顺便在启事中,另外指一个人。”
“那个人是谁呢?”
“那不能公开。”自然他既然说了不能公开的话,也就不便追问了。
“还有一点,你所谓‘想发表些关于对政治对国际情势之见解都无从发表,’这又何所指?”
“那是讲我在文艺以外的政治见解的东西,随笔一类的东西。”
“是不是像《新时代》上的《望岁小农居日记》一样的东西呢?”(参看《新时代》七月号)我插问。
“那是对于鲁迅的批评,我所说的是对政治的见解,《文艺座谈》上面有。”(参看《文艺座谈》一卷一期《从早上到下午》。)
“对于鲁迅的什么批评?”
“这是题外的事情了,我看关于这个,请你还是不发表好了。”
这真是“胸中不正,则眸子眊焉”,寥寥几笔,就画出了这位文学家的嘴脸。《社会新闻》说他“阘懦”,固然意在博得社会上“济弱扶倾”的同情,不足置信,但启事上的自白,却也须照中国文学上的例子,大打折扣的(倘白羽遐先生在“某天”又到“内山书店小坐”,一定又会从老板口头听到),因为他自己在“行不改姓”之后,也就说“纵令有时用其他笔名”,虽然“但所发表文字,均自负责”,而无奈“还是不发表好了”何?但既然“还是不发表好了”,则关于我的一笔,我也就不再深论了。
一枝笔不能兼写两件事,以前我实在闲却了《文艺座谈》的座主,“解放词人”曾今可先生了。但写起来却又很简单,他除了“准备反攻”之外,只在玩“告密”的玩艺。
崔万秋先生和这位词人,原先是相识的,只为了一点小纠葛,他便匿名向小报投稿,诬陷老朋友去了。不幸原稿偏落在崔万秋先生的手里,制成铜版,在《中外书报新闻》(五号)上精印了出来──
崔万秋加入国家主义派
《大晚报》屁股编辑崔万秋自日回国,即住在愚园坊六十八号左舜生家,旋即由左与王造时介绍于《大晚报》工作。近为国家主义及广东方面宣传极力,夜则留连于舞场或八仙桥庄上云。
有罪案,有住址,逮捕起来是很容易的。而同时又诊出了一点小毛病,是这位词人曾经用了崔万秋的名字,自己大做了一通自己的诗的序,而在自己所做的序里又大称赞了一通自己的诗。轻恙重症,同时夹攻,渐使这柔嫩的诗人兼词人站不住,他要下野了,而在《时事新报》(七月九日)上却又是一个启事,好象这时的文坛是入了“启事时代”似的──
曾今可启事
鄙人不日离沪旅行,且将脱离文字生活。以后对于别人对我造谣诬蔑,一概置之不理。这年头,只许强者打,不许弱者叫,我自然没有什么话可说。我承认我是一个弱者,我无力反抗,我将在英雄们胜利的笑声中悄悄地离开这文坛。如果有人笑我是“懦夫”,我只当他是尊我为“英雄”。此启。
这就完了。但我以为文字是有趣的,结末两句,尤为出色。
我剪贴在上面的《谈“文人无行”》,其实就是这曾张两案的合论。但由我看来,这事件却还要坏一点,便也做了一点短评,投给《自由谈》。久而久之,不见登出,索回原稿,油墨手印满纸,这便是曾经排过,又被谁抽掉了的证据,可见纵“无姊妹嫁作大商人为妾”,“资本家的出版者”也还是为这一类名公“后援”的。但也许因为恐怕得罪名公,就会立刻给你戴上一顶红帽子,为性命计,不如不登的也难说。现在就抄在这里罢——
驳“文人无行”
“文人”这一块大招牌,是极容易骗人的。虽然现在,社会上的轻贱文人,实在还不如所谓“文人”的自轻自贱之甚。看见只要是“人”,就决不肯做的事情,论者还不过说他“无行”,解为“疯人”,恕其“可怜”。其实他们却原是贩子,也一向聪明绝顶,以前的种种,无非“生意经”,现在的种种,也并不是“无行”,倒是他要“改行”了。
生意的衰微使他要“改行”。虽是极低劣的三角恋爱小说,也可以卖掉一批的。我们在夜里走过马路边,常常会遇见小瘪三从暗中来,鬼鬼祟祟的问道:“阿要春宫?阿要春宫?中国的,东洋的,西洋的,都有。阿要勿?”生意也并不清淡。上当的是初到上海的青年和乡下人。然而这至多也不过四五回,他们看过几套,就觉得讨厌,甚且要作呕了,无论你“中国的,东洋的,西洋的,都有”也无效。而且因时势的迁移,读书界也起了变化,一部份是不再要看这样的东西了;一部份是简直去跳舞,去嫖妓,因为所化的钱,比买手淫小说全集还便宜。这就使三角家之类觉得没落。我们不要以为造成了洋房,人就会满足的,每一个儿子,至少还得给他赚下十万块钱呢。
于是乎暴躁起来。然而三角上面,是没有出路了的。于是勾结一批同类,开茶会,办小报,造谣言,其甚者还竟至于卖朋友,好象他们的鸿篇巨制的不再有人赏识,只是因为有几个人用一手掩尽了天下人的眼目似的。但不要误解,以为他真在这样想。他是聪明绝顶,其实并不在这样想的,现在这副嘴脸,也还是一种“生意经”,用三角钻出来的活路。总而言之,就是现在只好经营这一种卖买,才又可以赚些钱。
譬如说罢,有些“第三种人”也曾做过“革命文学家”,借此开张书店,吞过郭沫若的许多版税,现在所住的洋房,有一部分怕还是郭沫若的血汗所装饰的。此刻那里还能做这样的生意呢?此刻要合伙攻击左翼,并且造谣陷害了知道他们的行为的人,自己才是一个干净刚直的作者,而况告密式的投稿,还可以大赚一注钱呢。
先前的手淫小说,还是下部的勾当,但此路已经不通,必须上进才是,而人们──尤其是他的旧相识──的头颅就危险了。这那里是单单的“无行”文人所能做得出来的?
上文所说,有几处自然好象带着了曾今可、张资平这一流,但以前的“腰斩张资平”,却的确不是我的意见。这位作家的大作,我自己是不要看的,理由很简单:我脑子里不要三角四角的这许多角。倘有青年来问我可看与否,我是劝他不必看的,理由也很简单:他脑子里也不必有三角四角的那许多角。若夫他自在投稿取费,出版卖钱,即使他无须养活老婆儿子,我也满不管,理由也很简单:我是从不想到他那些三角四角的角不完的许多角的。
然而多角之辈,竟谓我策动“腰斩张资平”。既谓矣,我乃简直以X光照其五脏六腑了。
《后记》这回本来也真可以完结了,但且住,还有一点余兴的余兴。因为剪下的材料中,还留着一篇妙文,倘使任其散失,是极为可惜的,所以特地将它保存在这里。
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自らもいわゆる「文人」の「林」に忝くも列するとはいえ、近頃は「文人無行」なるこの言葉にいささか同意を示さざるを得ず、「人心不古」「世風日下」との嘆きも、全くの「道学先生」の偏激の言とは見なし難くなっている。実に今日の「人心」は険毒にして人を恐れしむること甚だしく、殊にいわゆる「文人」は、思いつきもし実行もし、種々の卑劣なる行為──陰謀中傷、造謡誣蔑、公開密告、友を売って栄を求め身を売って靠を投ずる所業は枚挙に遑あらず。さらに他方では自吹自擂し、厚かましくも「天才」「作家」を以て自任し、他人の唾余を窃んでなお沾々自喜する種々の怪しき振る舞いがある。
文壇のかくの如き醜態は、文人と名のつく者の恥辱であるのみならず、社会全体の病弊を映し出している。文人が互いに讒言し、密告し、売り渡す──これは文壇に限ったことではなく、この社会の縮図なのだ。
しかし最も恐るべきは、かくの如き風潮の中で正直なる者が沈黙を強いられ、卑劣なる者が跋扈することである。正直に書けば危険が及び、卑劣に媚びれば安泰を得る──この倒錯した世界にあって、文人の「無行」はむしろ必然の帰結ではないか。
されば「文人無行」を嘆くのみにては足りぬ。問うべきは、なぜこの社会が文人をかくも卑劣ならしめるのか、である。文人を堕落させるのは文人の性質ではなく、文人を取り巻く権力と圧迫の構造なのだ。
(六月十五日。)
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这篇文章载在六月十七日《大晚报》的《火炬》里──
新儒林外史 柳丝
第一回 揭旗扎空营 兴师布迷阵
却说卡尔和伊理基两人这日正在天堂以上讨论中国革命问题,忽见下界中国文坛的大戈壁上面,杀气腾腾,尘沙弥漫,左翼防区里面,一位老将紧追一位小将,战鼓震天,喊声四起,忽然那位老将牙缝开处,吐出一道白雾,卡尔闻到气味立刻晕倒,伊理基拍案大怒道,“毒瓦斯,毒瓦斯!”扶着卡尔赶快走开去了。原来下界中国文坛的大戈壁上面,左翼防区里头,近来新扎一座空营,揭起小资产阶级革命文学之旗,无产阶级文艺营垒受了奸人挑拨,大兴问罪之师。这日大军压境,新扎空营的主将兼官佐又兼士兵杨邨人提起笔枪,跃马相迎,只见得战鼓震天,喊声四起,为首先锋扬刀跃马而来,乃老将鲁迅是也。那杨邨人打拱,叫声“老将军别来无恙?”老将鲁迅并不答话,跃马直冲扬刀便刺,那杨邨人笔枪挡住又道:“老将有话好讲,何必动起干戈?小将别树一帜,自扎空营,只因事起仓卒,未及呈请指挥,并非倒戈相向,实则独当一面,此心此志,天人共鉴。老将军试思左翼诸将,空言克服,骄盈自满,战术既不研究,武器又不制造。临阵则军容不整,出马则拖枪而逃,如果长此以往,何以维持威信?老将军整顿纪纲之不暇,劳师远征,窃以为大大对不起革命群众的呵!”老将鲁迅又不答话,圆睁环眼,倒竖虎须,只见得从他的牙缝里头嘘出一道白雾,那小将杨邨人知道老将放出毒瓦斯,说的迟那时快,已经将防毒面具戴好了,正是:情感作用无理讲,是非不明只天知!欲知老将究竟能不能将毒瓦斯闷死那小将,且待下回分解。
第二天就收到一封编辑者的信,大意说:兹署名有柳丝者(“先生读其文之内容或不难想像其为何人”),投一滑稽文稿,题为《新儒林外史》,但并无伤及个人名誉之事,业已决定为之发表,倘有反驳文章,亦可登载云云。使刊物暂时化为战场,热闹一通,是办报人的一种极普通办法,近来我更加“世故”,天气又这么热,当然不会去流汗同翻筋斗的。况且“反驳”滑稽文章,也是一种少有的奇事,即使“伤及个人名誉事”,我也没有办法,除非我也作一部《旧儒林外史》,来辩明“卡尔和伊理基” 的话的真假。但我并不是巫师,又怎么看得见“天堂”?“柳丝”是杨邨人 先生还在做“无产阶级革命文学者”时候已经用起的笔名,这无须看内容就知道,而曾几何时,就在“小资产阶级革命文学”的旗子下做着这样的幻梦,将自己写成了这么一副形容了。时代的巨轮,真是能够这么冷酷地将人们辗碎的。但也幸而有这一辗,因为韩侍桁先生倒因此从这位“小将”的腔子里看见了“良心”了。
这作品只是第一回,当然没有完,我虽然毫不想“反驳”,却也愿意看看这有“良心”的文学,不料从此就不见了,迄今已有月余,听不到“卡尔和伊理基”在“天堂”上和“老将”“小将”在地狱里的消息。但据《社会新闻》(七月九日,四卷三期)说,则又是“左联”阻止的──
杨邨人转入 AB 团
叛左联而写揭小资产战斗之旗的杨邨人,近已由汉来沪,闻寄居于 AB 团小卒徐翔之家,并已加入该团活动矣。前在《大晚报》署名柳丝所发表的《新封神榜》一文,即杨手笔,内对鲁迅大加讽刺,但未完即止,闻因受左联警告云。
〔预〕
左联会这么看重一篇“讽刺”的东西,而且仍会给“叛左联而写揭小资产战斗之旗的杨邨人”以“警告”,这才真是一件奇事。据有些人说,“第三种人”的“忠实于自己的艺术”,是已经因了左翼理论家的凶恶的批评而写不出来了 ,现在这“小资产战斗”的英雄,又因了左联的警告而不再“战斗”,我想,再过几时,则一切割地吞款,兵祸水灾,古物失踪,阔人生病,也要都成为左联之罪,尤其是鲁迅之罪了。
现在使我记起了蒋光慈先生。
事情是早已过去,恐怕有四五年了,当蒋光慈先生组织太阳社,和创造社联盟,率领“小将”来围剿我的时候,他曾经做过一篇文章,其中有几句,大意是说,鲁迅向来未曾受人攻击,自以为不可一世,现在要给他知道知道了。其实这是错误的,我自作评论以来,即无时不受攻击,即如这三四月中,仅仅关于《自由谈》的,就已有这许多篇,而且我所收录的,还不过一部份。先前何尝不如此呢,但它们都与如驶的流光一同消逝,无踪无影,不再为别人所觉察罢了。这回趁几种刊物还在手头,便转载一部份到《后记》里,这其实也并非专为我自己,战斗正未有穷期,老谱将不断的袭用,对于别人的攻击,想来也还要用这一类的方法,但自然要改变了所攻击的人名。将来的战斗的青年,倘在类似的境遇中,能偶然看见这记录,我想是必能开颜一笑,更明白所谓敌人者是怎样的东西的。
所引的文字中,我以为很有些篇,倒是出于先前的“革命文学者”。但他们现在是另一个笔名,另一副嘴脸了。这也是必然的。革命文学者若不想以他的文学,助革命更加深化,展开,却借革命来推销他自己的“文学”,则革命高扬的时候,他正是狮子身中的害虫 ,而革命一受难,就一定要发现以前的“良心”,或以“孝子” 之名,或以“人道”之名,或以“比正在受难的革命更加革命”之名,走出阵线之外,好则沉默,坏就成为叭儿的。这不是我的“毒瓦斯”,这是彼此看见的事实!
一九三三年七月二十日午,记。
【一九三四年】
【关于中国的两三件事】
【一 关于中国的火】
希腊人所用的火,听说是在一直先前,普洛美修斯从天上偷来的,但中国的却和它不同,是燧人氏自家所发见——或者该说是发明罢。因为并非偷儿,所以拴在山上,给老雕去啄的灾难是免掉了,然而也没有普洛美修斯那样的被传扬,被崇拜。
中国也有火神的。但那可不是燧人氏,而是随意放火的莫名其妙的东西。
自从燧人氏发见,或者发明了火以来,能够很有味的吃火锅,点起灯来,夜里也可以工作了,但是,真如先哲之所谓“有一利必有一弊”罢,同时也开始了火灾,故意点上火,烧掉那有巢氏所发明的巢的了不起的人物也出现了。
和善的燧人氏是该被忘却的。即使伤了食,这回是属于神农氏的领域了,所以那神农氏,至今还被人们所记得。至于火灾,虽然不知道那发明家究竟是什么人,但祖师总归是有的,于是没有法,只好漫称之曰火神,而献以敬畏。看他的画像,是红面孔,红胡须,不过祭祀的时候,却须避去一切红色的东西,而代之以绿色。他大约像西班牙的牛一样,一看见红色,便会亢奋起来,做出一种可怕的行动的。
他因此受着崇祀。在中国,这样的恶神还很多。
然而,在人世间,倒似乎因了他们而热闹。赛会也只有火神的,燧人氏的却没有。倘有火灾,则被灾的和邻近的没有被灾的人们,都要祭火神,以表感谢之意。被了灾还要来表感谢之意,虽然未免有些出于意外,但若不祭,据说是第二回还会烧,所以还是感谢了的安全。而且也不但对于火神,就是对于人,有时也一样的这么办,我想,大约也是礼仪的一种罢。
其实,放火,是很可怕的,然而比起烧饭来,却也许更有趣。外国的事情我不知道,若在中国,则无论查检怎样的历史,总寻不出烧饭和点灯的人们的列传来。在社会上,即使怎样的善于烧饭,善于点灯,也毫没有成为名人的希望。然而秦始皇一烧书,至今还俨然做着名人,至于引为希特拉烧书事件的先例。假使希特拉太太善于开电灯,烤面包罢,那么,要在历史上寻一点先例,恐怕可就难了。但是,幸而那样的事,是不会哄动一世的。
烧掉房子的事,据宋人的笔记说,是开始于蒙古人的。因为他们住着帐篷,不知道住房子,所以就一路的放火。然而,这是诳话。蒙古人中,懂得汉文的很少,所以不来更正的。其实,秦的末年就有着放火的名人项羽在,一烧阿房宫,便天下闻名,至今还会在戏台上出现,连在日本也很有名。然而,在未烧以前的阿房宫里每天点灯的人们,又有谁知道他们的名姓呢?
现在是爆裂弹呀,烧夷弹呀之类的东西已经做出,加以飞机也很进步,如果要做名人,就更加容易了。而且如果放火比先前放得大,那么,那人就也更加受尊敬,从远处看去,恰如救世主一样,而那火光,便令人以为是光明。
【二 关于中国的王道】
在前年,曾经拜读过中里介山氏的大作《给支那及支那国民的信》。只记得那里面说,周汉都有着侵略者的资质。而支那人都讴歌他,欢迎他了。连对于朔北的元和清,也加以讴歌了。只要那侵略,有着安定国家之力,保护民生之实,那便是支那人民所渴望的王道,于是对于支那人的执迷不悟之点,愤慨得非常。
那“信”,在满洲出版的杂志上,是被译载了的,但因为未曾输入中国,所以象是回信的东西,至今一篇也没有见。只在去年的上海报上所载的胡适博士的谈话里,有的说,“只有一个方法可以征服中国,即彻底停止侵略,反过来征服中国民族的心。”不消说,那不过是偶然的,但也有些令人觉得好象是对于那信的答复。
征服中国民族的心,这是胡适博士给中国之所谓王道所下的定义,然而我想,他自己恐怕也未必相信自己的话的罢。在中国,其实是彻底的未曾有过王道,“有历史癖和考据癖”的胡博士,该是不至于不知道的。
不错,中国也有过讴歌了元和清的人们,但那是感谢火神之类,并非连心也全被征服了的证据。如果给与一个暗示,说是倘不讴歌,便将更加虐待,那么,即使加以或一程度的虐待,也还可以使人们来讴歌。四五年前,我曾经加盟于一个要求自由的团体,而那时的上海教育局长陈德征氏勃然大怒道,在三民主义的统治之下,还觉得不满么?那可连现在所给与着的一点自由也要收起了。而且,真的是收起了的。每当感到比先前更不自由的时候,我一面佩服着陈氏的精通王道的学识,一面有时也不免想,真该是讴歌三民主义的。然而,现在是已经太晚了。
在中国的王道,看去虽然好象是和霸道对立的东西,其实却是兄弟,这之前和之后,一定要有霸道跑来的。人民之所讴歌,就为了希望霸道的减轻,或者不更加重的缘故。
汉的高祖,据历史家说,是龙种,但其实是无赖出身,说是侵略者,恐怕有些不对的。至于周的武王,则以征伐之名入中国,加以和殷似乎连民族也不同,用现代的话来说,那可是侵略者。然而那时的民众的声音,现在已经没有留存了。孔子和孟子确曾大大的宣传过那王道,但先生们不但是周朝的臣民而已,并且周游历国,有所活动,所以恐怕是为了想做官也难说。说得好看一点,就是因为要“行道”,倘做了官,于行道就较为便当,而要做官,则不如称赞周朝之为便当的。然而,看起别的记载来,却虽是那王道的祖师而且专家的周朝,当讨伐之初,也有伯夷和叔齐扣马而谏,非拖开不可;纣的军队也加反抗,非使他们的血流到漂杵不可。接着是殷民又造了反,虽然特别称之曰“顽民”,从王道天下的人民中除开,但总之,似乎究竟有了一种什么破绽似的。好个王道,只消一个顽民,便将它弄得毫无根据了。
儒士和方士,是中国特产的名物。方士的最高理想是仙道,儒士的便是王道。但可惜的是这两件在中国终于都没有。据长久的历史上的事实所证明,则倘说先前曾有真的王道者,是妄言,说现在还有者,是新药。孟子生于周季,所以以谈霸道为羞,倘使生于今日,则跟着人类的智识范围的展开,怕要羞谈王道的罢。
【三 关于中国的监狱】
我想,人们是的确由事实而从新省悟,而事情又由此发生变化的。从宋朝到清朝的末年,许多年间,专以代圣贤立言的“制艺”这一种烦难的文章取士,到得和法国打了败仗,这才省悟了这方法的错误。于是派留学生到西洋,开设兵器制造局,作为那改正的手段。省悟到这还不够,是在和日本打了败仗之后,这回是竭力开起学校来。于是学生们年年大闹了。从清朝倒掉,国民党掌握政权的时候起,才又省悟了这错误,作为那改正的手段的,是除了大造监狱之外,什么也没有了。
在中国,国粹式的监狱,是早已各处都有的,到清末,就也造了一点西洋式,即所谓文明式的监狱。那是为了示给旅行到此的外国人而建造,应该与为了和外国人好互相应酬,特地派出去,学些文明人的礼节的留学生,属于同一种类的。托了这福,犯人的待遇也还好,给洗澡,也给一定分量的饭吃,所以倒是颇为幸福的地方。但是,就在两三礼拜前,政府因为要行仁政了,还发过一个不准克扣囚粮的命令。从此以后,可更加幸福了。
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この文章は六月十七日の『大晩報』の『火炬』に載った──
【新儒林外史 柳丝】
第一回 旗を揭げて空営を張り 兵を興して迷陣を布く
さてカールとイリイチの両人はこの日天堂の上にて中国革命の問題を討論していたが、忽ち下界の中国文壇の大ゴビにおいて殺気騰々、塵沙弥漫たるを見た。左翼の防区の中で一人の老将が一人の小将を追い詰め、戦鼓は天を震わせ喊声は四方に起こり、忽然その老将の歯の間から白い霧が吐き出された。カールはその臭気を嗅ぐや忽ち卒倒し、イリイチは机を叩いて大いに怒り「毒瓦斯だ、毒瓦斯だ!」と叫んだ──
これは文壇の攻防を戯画化したものであり、即ち魯迅(老将)が若い文人を追撃する様を諷刺している。しかし「毒瓦斯」とは何か。即ち文章の中に含まれる辛辣なる批判のことであり、これをマルクスやレーニンすら堪え難しとするほどだと言いたいのであろう。
しかしこの種の「新儒林外史」なるものの真意は、左翼文壇を嘲弄することにある。左翼の内紛を誇大に描き、その理想の虚偽を暴かんとする。しかしながら、「空営を張る」のは果たして左翼のみであろうか。この『大晩報』自身が日毎に張っている空営はいかほどか。
文壇の争いを戯画化するのは自由であるが、真の問題から目を逸らすための道具として用いるならば、これこそ「迷陣を布く」行為に他ならない。
(六月十七日。)
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至于旧式的监狱,则因为好象是取法于佛教的地狱的,所以不但禁锢犯人,此外还有给他吃苦的职掌。挤取金钱,使犯人的家属穷到透顶的职掌,有时也会兼带的。但大家都以为应该。如果有谁反对罢,那就等于替犯人说话,便要受恶党的嫌疑。然而文明是出奇的进步了,所以去年也有了提倡每年该放犯人回家一趟,给以解决性欲的机会的,颇是人道主义气味之说的官吏。其实,他也并非对于犯人的性欲,特别表着同情,不过因为总不愁竟会实行的,所以也就高声嚷一下,以见自己的作为官吏的存在。然而舆论颇为沸腾了。有一位批评家,还以为这么一来,大家便要不怕牢监,高高兴兴的进去了,很为世道人心愤慨了一下。受了所谓圣贤之教那么久,竟还没有那位官吏的圆滑,固然也令人觉得诚实可靠,然而他的意见,是以为对于犯人,非加虐待不可,却也因此可见了。
从别一条路想,监狱确也并非没有不像以“安全第一”为标语的人们的理想乡的地方。火灾极少,偷儿不来,土匪也一定不来抢。即使打仗,也决没有以监狱为目标,施行轰炸的傻子;即使革命,有释放囚犯的例,而加以屠戮的是没有的。当福建独立之初,虽有说是释放犯人,而一到外面,和他们自己意见不同的人们倒反而失踪了的谣言,然而这样的例子,以前是未曾有过的。总而言之,似乎也并非很坏的处所。只要准带家眷,则即使不是现在似的大水、饥荒、战争、恐怖的时候,请求搬进去住的人们,也未必一定没有的。于是虐待就成为必不可少了。
牛兰夫妇,作为赤化宣传者而关在南京的监狱里,也绝食了三四回了,可是什么效力也没有。这是因为他不知道中国的监狱的精神的缘故。有一位官员诧异的说过:他自己不吃,和别人有什么关系呢?岂但和仁政并无关系而已呢,省些食料,倒是于监狱有益的。甘地的把戏,倘不挑选兴行场,就毫无成效了。
然而,在这样的近于完美的监狱里,却还剩着一种缺点。至今为止,对于思想上的事,都没有很留心。为要弥补这缺点,是在近来新发明的叫作“反省院”的特种监狱里,施着教育。我还没有到那里面去反省过,所以并不知道详情,但要而言之,好象是将三民主义时时讲给犯人听,使他反省着自己的错误。听人说,此外还得做排击共产主义的论文。如果不肯做,或者不能做,那自然,非终身反省不可了,而做得不够格,也还是非反省到死则不可。现在是进去的也有,出来的也有,因为听说还得添造反省院,可见还是进去的多了。考完放出的良民,偶尔也可以遇见,但仿佛大抵是萎靡不振,恐怕是在反省和毕业论文上,将力气使尽了罢。那前途,是在没有希望这一面的。
【答国际文学社问】
原问──
一、苏联的存在与成功,对于你怎样?(苏维埃建设的十月革命,对于你的思想的路径和创作的性质,有什么改变?)
二、你对于苏维埃文学的意见怎样?
三、在资本主义的各国,什么事件和种种文化上的进行,特别引起你的注意?
一、先前,旧社会的腐败,我是觉到了的,我希望着新的社会的起来,但不知道这“新的”该是什么,而且也不知道“新的”起来以后,是否一定就好。待到十月革命后,我才知道这“新的”社会的创造者是无产阶级,但因为资本主义各国的反宣传,对于十月革命还有些冷淡,并且怀疑。现在苏联的存在和成功,使我确切的相信无阶级社会一定要出现,不但完全扫除了怀疑,而且增加许多勇气了。但在创作上,则因为我不在革命的旋涡中心,而且久不能到各处去考察,所以我大约仍然只能暴露旧社会的坏处。
二、我只能看别国──德国、日本──的译本。我觉得现在的讲建设的,还是先前的讲战斗的──如《铁甲列车》、《毁灭》、《铁流》等──于我有兴趣,并且有益。我看苏维埃文学,是大半因为想绍介给中国,而对于中国,现在也还是战斗的作品更为紧要。
三、我在中国,看不见资本主义各国之所谓“文化”;我单知道他们和他们的奴才们,在中国正在用力学和化学的方法,还有电气机械,以拷问革命者,并且用飞机和炸弹以屠杀革命群众。
【“草鞋脚”英译中国短篇小说集 小引】
在中国,小说是向来不算文学的。在轻视的眼光下,自从十八世纪末的《红楼梦》以后,实在也没有产生什么较伟大的作品。小说家的侵入文坛,仅是开始“文学革命”运动,即一九一七年以来的事。自然,一方面是由于社会的要求的,一方面则是受了西洋文学的影响。
但这新的小说的生存,却总在不断的战斗中。最初,文学革命者的要求是人性的解放,他们以为只要扫荡了旧的成法,剩下来的便是原来的人,好的社会了,于是就遇到保守家们的迫压和陷害。大约十年之后,阶级意识觉醒了起来,前进的作家,就都成了革命文学者,而迫害也更加厉害,禁止出版,烧掉书籍,杀戮作家,有许多青年,竟至于在黑暗中,将生命殉了他的工作了。
这一本书,便是十五年来的,“文学革命”以后的短篇小说的选集。因为在我们还算是新的尝试,自然不免幼稚,但恐怕也可以看见它恰如压在大石下面的植物一般,虽然并不繁荣,它却在曲曲折折地生长。
至今为止,西洋人讲中国的著作,大约比中国人民讲自己的还要多。不过这些总不免只是西洋人的看法,中国有一句古谚,说:“肺腑而能语,医师面如土。”我想,假使肺腑真能说话,怕也未必一定完全可靠的罢,然而,也一定能有医师所诊察不到,出乎意外,而其实是十分真实的地方。
一九三四年三月二十三日,鲁迅记于上海。
【论“旧形式的采用”】
“旧形式的采用”的问题,如果平心静气的讨论起来,在现在,我想是很有意义的,但开首便遭到了耳耶先生的笔伐。“类乎投降”,“机会主义”,这是近十年来“新形式的探求”的结果,是克敌的咒文,至少先使你惹一身不干不净。但耳耶先生是正直的,因为他同时也在译《艺术底内容和形式》,一经登完,便会洗净他激烈的责罚;而且有几句话也正确的,是他说新形式的探求不能和旧形式的采用机械的地分开。
不过这几句话已经可以说是常识;就是说内容和形式不能机械的地分开,也已经是常识;还有,知道作品和大众不能机械的地分开,也当然是常识。旧形式为什么只是“采用”──但耳耶先生却指为“为整个(!)旧艺术捧场”──就是为了新形式的探求。采取若干,和“整个”捧来是不同的,前进的艺术家不能有这思想(内容)。然而他会想到采取旧艺术,因为他明白了作品和大众不能机械的地分开。以为艺术是艺术家的“灵感”的爆发,像鼻子发痒的人,只要打出喷嚏来就浑身舒服,一了百了的时候已经过去了,现在想到,而且关心了大众。这是一个新思想(内容),由此而在探求新形式,首先提出的是旧形式的采取,这采取的主张,正是新形式的发端,也就是旧形式的蜕变,在我看来,是既没有将内容和形式机械的地分开,更没有看得《姊妹花》叫座,于是也来学一套的投机主义的罪案的。
自然,旧形式的采取,或者必须说新形式的探求,都必须艺术学徒的努力的实践,但理论家或批评家是同有指导,评论,商量的责任的,不能只斥他交代未清之后,便可逍遥事外。我们有艺术史,而且生在中国,即必须翻开中国的艺术史来。采取什么呢?我想,唐以前的真迹,我们无从目睹了,但还能知道大抵以故事为题材,这是可以取法的;在唐,可取佛画的灿烂,线画的空实和明快,宋的院画,萎靡柔媚之处当舍,周密不苟之处是可取的,米点山水,则毫无用处。后来的写意画(文人画)有无用处,我此刻不敢确说,恐怕也许还有可用之点的罢。这些采取,并非断片的古董的杂陈,必须溶化于新作品中,那是不必赘说的事,恰如吃用牛羊,弃去蹄毛,留其精粹,以滋养及发达新的生体,决不因此就会“类乎”牛羊的。
只是上文所举的,亦即我们现在所能看见的,都是消费的艺术。它一向独得有力者的宠爱,所以还有许多存留。但既有消费者,必有生产者,所以一面有消费者的艺术,一面也有生产者的艺术。古代的东西,因为无人保护,除小说的插画以外,我们几乎什么也看不见了。至于现在,却还有市上新年的花纸,和猛克先生所指出的连环图画。这些虽未必是真正的生产者的艺术,但和高等有闲者的艺术对立,是无疑的。但虽然如此,它还是大受着消费者艺术的影响,例如在文学上,则民歌大抵脱不开七言的范围,在图画上,则题材多是士大夫的部事,然而已经加以提炼,成为明快,简捷的东西了。这也就是蜕变,一向则谓之“俗”。注意于大众的艺术家,来注意于这些东西,大约也未必错,至于仍要加以提炼,那也是无须赘说的。
但中国的两者的艺术,也有形似而实不同的地方,例如佛画的满幅云烟,是豪华的装璜,花纸也有一种硬填到几乎不见白纸的,却是惜纸的节俭;唐伯虎画的细腰纤手的美人,是他一类人们的欲得之物,花纸上也有这一种,在赏玩者却只以为世间有这一类人物,聊资博识,或满足好奇心而已。为大众的画家,都无须避忌。
至于谓连环图画不过图画的种类之一,与文学中之有诗歌,戏曲,小说相同,那自然是不错的。但这种类之别,也仍然与社会条件相关联,则我们只要看有时盛行诗歌,有时大出小说,有时独多短篇的史实便可以知道。因此,也可以知道即与内容相关联。现在社会上的流行连环图画,即因为它有流行的可能,且有流行的必要,着眼于此,因而加以导引,正是前进的艺术家的正确的任务;为了大众,力求易懂,也正是前进的艺术家正确的努力。旧形式是采取,必有所删除,既有删除,必有所增益,这结果是新形式的出现,也就是变革。而且,这工作是决不如旁观者所想的容易的。
但就是立有了新形式罢,当然不会就是很高的艺术。艺术的前进,还要别的文化工作的协助,某一文化部门,要某一专家唱独脚戏来提得特别高,是不妨空谈,却难做到的事,所以专责个人,那立论的偏颇和偏重环境的是一样的。
(五月二日。)
【连环图画琐谈】
“连环图画”的拥护者,看现在的议论,是“启蒙”之意居多的。
古人“左图右史”,现在只剩下一句话,看不见真相了,宋元小说,有的是每页上图下说,却至今还有存留,就是所谓“出相”;明、清以来,有卷头只画书中人物的,称为“绣像”。有画每回故事的,称为“全图”。那目的,大概是在诱引未读者的购读,增加阅读者的兴趣和理解。
但民间另有一种《智灯难字》或《日用杂字》,是一字一像,两相对照,虽可看图,主意却在帮助识字的东西,略加变通,便是现在的《看图识字》。文字较多的是《圣谕像解》,《二十四孝图》等,都是借图画以启蒙,又因中国文字太难,只得用图画来济文字之穷的产物。
“连环图画”便是取“出相”的格式,收《智灯难字》的功效的,倘要启蒙,实在也是一种利器。
但要启蒙,即必须能懂。懂的标准,当然不能俯就低能儿或白痴,但应该着眼于一般的大众,譬如罢,中国画是一向没有阴影的,我所遇见的农民,十之九不赞成西洋画及照相,他们说:人脸那有两边颜色不同的呢?西洋人的看画,是观者作为站在一定之处的,但中国的观者,却向不站在定点上,所以他说的话也是真实。那么,作“连环图画”而没有阴影,我以为是可以的;人物旁边写上名字,也可以的,甚至于表示做梦从人头上放出一道毫光来,也无所不可。观者懂得了内容之后,他就会自己删去帮助理解的记号。这也不能谓之失真,因为观者既经会得了内容,便是有了艺术上的真,倘必如实物之真,则人物只有二三寸,就不真了,而没有和地球一样大小的纸张,地球便无法绘画。
艾思奇先生说:“若能够触到大众真正的切身问题,那恐怕愈是新的,才愈能流行。”这话也并不错。不过要商量的是怎样才能够触到,触到之法,“懂”是最要紧的,而且能懂的图画,也可以仍然是艺术。
(五月九日。)
【儒术】
元遗山在金、元之际,为文宗,为遗献,为愿修野史,保存旧章的有心人,明清以来颇为一部分人士所爱重。然而他生平有一宗疑案,就是为叛将崔立颂德者,是否确实与他无涉,或竟是出于他的手笔的文章。
金天兴元年(一二三二),蒙古兵围洛阳;次年,安平都尉京城西面元帅崔立杀二丞相,自立为郑王,降于元。惧或加以恶名,群小承旨,议立碑颂功德,于是在文臣间,遂发生了极大的惶恐,因为这与一生的名节相关,在个人是十分重要的。
当时的情状,《金史》《王若虚传》这样说──
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旧式の監獄に至っては、仏教の地獄に倣ったかの如くなれば、単に犯人を禁錮するのみならず、これに苦しみを与える職掌をも有している。金銭を搾り取り、犯人の家族を窮乏の極みに至らしめる職掌も、時に兼帯することがある。しかし皆はこれを当然と思っている。もし誰かが反対すれば、犯人の弁護をするに等しいとして、悪党の嫌疑を受けるであろう。しかるに文明は驚くほど進歩したので、去年には毎年犯人を一度帰宅させ、性欲を解決する機会を与えるべしと提唱する、いささか人道主義的な匂いのする官吏まで現れた。実のところ彼は犯人の性欲に特別の同情を表しているのではなく、ただどうせ実行されることはあるまいと高をくくっているだけなのである。
この種の「人道的」提案が実行されることのない理由は明白である。監獄とはそもそも苦しみを与えるための場所であり、犯人に少しでも人間的な待遇を与えることは、監獄の存在意義を否定することに等しいからだ。されば人道を唱える官吏は、実は人道を実現するつもりなどなく、ただ自らの「人道的」なる姿勢を誇示しているに過ぎない。
しかし真に恐ろしいのは監獄の中の非人道ではない。監獄の外にこそ、もっと大きな監獄があるのだ。犯人は少なくとも自分が囚われの身であることを知っているが、監獄の外の人々は自分が自由であると思い込んでいる。この思い込みこそ、最も完璧なる牢獄ではないか。
提案者は犯人に年に一度の帰宅を許そうと言う。しかし犯人でない我々は、果たして真に自由に帰宅しているのか。我々の帰る場所は、我々自身が選んだものなのか。
監獄の改良を論ずる前に、まず監獄の外の世界を見直すべきであろう。
(五月五日。)
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“天兴元年,哀宗走归德。明年春,崔立变,群小附和,请为立建功德碑。翟奕以尚书省命,召若虚为文。时奕辈恃势作威,人或少忤,则谗搆立见屠灭。若虚自分必死,私谓左右司员外郎元好问曰,‘今召我作碑,不从则死,作之则名节扫地,不若死之为愈。虽然,我姑以理谕之。’……奕辈不能夺,乃召太学生刘祁麻革辈赴省,好问张信之喻以立碑事曰,‘众议属二君,且已白郑王矣!二君其无让。’祁等固辞而别。数日,促迫不已,祁即为草定,以付好问。好问意未惬,乃自为之,既成,以示若虚,乃共删定数字,然止直叙其事而已。后兵入城,不果立也。”
碑虽然“不果立”,但当时却已经发生了“名节”的问题,或谓元好问作,或谓刘祁作,文证具在清凌廷堪所辑的《元遗山先生年谱》中,兹不多录。经其推勘,已知前出的《王若虚传》文,上半据元好问《内翰王公墓表》,后半却全取刘祁自作的《归潜志》,被诬攀之说所蒙蔽了。凌氏辩之云,“夫当时立碑撰文,不过畏崔立之祸,非必取文辞之工,有京叔属草,已足塞立之请,何取更为之耶?”然则刘祁之未尝决死如王若虚,固为一生大玷,但不能更有所推诿,以致成为“塞责”之具,却也可以说是十分晦气的。
然而,元遗山生平还有一宗大事,见于《元史》《张德辉》传──
“世祖在潜邸,……访中国人材。德辉举魏璠、元裕、李冶等二十余人。……壬子,德辉与元裕北觐,请世祖为儒教大宗师,世祖悦而受之。因启:累朝有旨蠲儒户兵赋,乞令有司遵行。从之。”
以拓跋魏的后人与德辉,请蒙古小酋长为“汉儿”的“儒教大宗师”,在现在看来,未免有些滑稽,但当时却似乎并无訾议。盖蠲除兵赋,“儒户”均沾利益,清议操之于士,利益既沾,虽已将“儒教”呈献,也不想再来开口了。
由此士大夫便渐渐的进身,然终因不切实用,又渐渐的见弃。但仕路日塞,而南北之士的相争却也日甚了。余阙的《青阳先生文集》卷四《杨君显民诗集序》云──
“我国初有金宋,天下之人,惟才是用之,无所专主,然用儒者为居多也。自至元以下,始浸用吏,虽执政大臣,亦以吏为之,……而中州之士,见用者遂浸寡。况南方之地远,士多不能自至于京师,其抱才缊者,又往往不屑为吏,故其见用者尤寡也。及其久也,则南北之士亦自町畦以相訾,甚若晋之与秦,不可与同中国,故夫南方之士微矣。”
然在南方,士人其实亦并不冷落。同书《送范立中赴襄阳诗序》云——
“宋高宗南迁,合淝遂为边地,守臣多以武臣为之。……故民之豪杰者,皆去而为将校,累功多至节制。郡中衣冠之族,惟范氏,商氏,葛氏三家而已。……皇元受命,包裹兵革,……诸武臣之子弟,无所用其能,多伏匿而不出。春秋月朔,郡太守有事于学,衣深衣,戴乌角巾,执笾豆罍爵,唱赞道引者,皆三家之子孙也,故其材皆有所成就,至学校官,累累有焉。……虽天道忌满恶盈,而儒者之泽深且远,从古然也。”
这是“中国人才”们献教,卖经以来,“儒户”所食的佳果。虽不能为王者师,且次于吏者数等,而究亦胜于将门和平民者一等,“唱赞道引”,非“伏匿”者所敢望了。
中华民国二十三年五月二十日及次日,上海无线电播音由冯明权先生讲给我们一种奇书:《抱经堂勉学家训》(据《大美晚报》)。这是从未前闻的书,但看见下署“颜子推”,便可以悟出是颜之推《家训》中的《勉学篇》了。曰“抱经堂”者,当是因为曾被卢文弨印入《抱经堂丛书》中的缘故。所讲有这样的一段──
“有学艺者,触地而安。自荒乱已来,诸见俘虏,虽百世小人,知读《论语》、《孝经》者,尚为人师;虽千载冠冕,不晓书记者,莫不耕田养马。以此观之,汝可不自勉耶?若能常保数百卷书,千载终不为小人也。……谚曰,‘积财千万,不如薄伎在身。’伎之易习而可贵者,无过读书也。”
这说得很透彻:易习之伎,莫如读书,但知读《论语》、《孝经》,则虽被俘虏,犹能为人师,居一切别的俘虏之上。这种教训,是从当时的事实推断出来的,但施之于金元而准,按之于明清之际而亦准。现在忽由播音,以“训”听众,莫非选讲者已大有感于方来,遂绸缪于未雨么?
“儒者之泽深且远”,即小见大,我们由此可以明白“儒术”,知道“儒效”了。
(五月二十七日。)
【“看图识字”】
凡一个人,即使到了中年以至暮年,倘一和孩子接近,便会踏进久经忘却了的孩子世界的边疆去,想到月亮怎么会跟着人走,星星究竟是怎么嵌在天空中。但孩子在他的世界里,是好象鱼之在水,游泳自如,忘其所以的,成人却有如人的凫水一样,虽然也觉到水的柔滑和清凉,不过总不免吃力,为难,非上陆不可了。
月亮和星星的情形,一时怎么讲得清楚呢,家境还不算精穷,当然还不如给一点所谓教育,首先是识字。上海有各国的人们,有各国的书铺,也有各国的儿童用书。但我们是中国人,要看中国书,识中国字。这样的书也有,虽然纸张、图画、色彩、印订,都远不及别国,但有是也有的。我到市上去,给孩子买来的是民国二十一年十一月印行的“国难后第六版”的《看图识字》。
先是那色彩就多么恶浊,但这且也不管他。图画又多么死板,这且也不管他。出版处虽然是上海,然而奇怪,图上有蜡烛,有洋灯,却没有电灯;有朝靴,有三镶云头鞋,却没有皮鞋。跪着放枪的,一脚拖地;站着射箭的,两臂不平,他们将永远不能达到目的,更坏的是连钓竿、风车、布机之类,也和实物有些不同。
我轻轻的叹了一口气,记起幼小时候看过的《日用杂字》来。这是一本教育妇女婢仆,使她们能够记帐的书,虽然名物的种类并不多,图画也很粗劣,然而很活泼,也很像。为什么呢?就因为作画的人,是熟悉他所画的东西的,一个“萝卜”,一只鸡,在他的记忆里并不含胡,画起来当然就切实。现在我们只要看《看图识字》里所画的生活状态──洗脸,吃饭,读书──就知道这是作者意中的读者,也是作者自己的生活状态,是在租界上租一层屋,装了全家,既不阔绰,也非精穷的,埋头苦干一日,才得维持生活一日的人,孩子得上学校,自己须穿长衫,用尽心神,撑住场面,又那有余力去买参考书,观察事物,修炼本领呢?况且,那书的末叶上还有一行道:“戊申年七月初版”。查年表,才知道那就是清朝光绪三十四年,即西历一九○八年,虽是前年新印,书却成于二十七年前,已是一部古籍了,其奄奄无生气,正也不足为奇的。
孩子是可以敬服的,他常常想到星月以上的境界,想到地面下的情形,想到花卉的用处,想到昆虫的言语;他想飞上天空,他想潜入蚁穴……所以给儿童看的图书就必须十分慎重,做起来也十分烦难。即如《看图识字》这两本小书,就天文、地理、人事、物情,无所不有。其实是,倘不是对于上至宇宙之大,下至苍蝇之微,都有些切实的知识的画家,决难胜任的。
然而我们是忘却了自己曾为孩子时候的情形了,将他们看作一个蠢才,什么都不放在眼里。即使因为时势所趋,只得施一点所谓教育,也以为只要付给蠢才去教就足够。于是他们长大起来,就真的成了蠢才,和我们一样了。
然而我们这些蠢才,却还在变本加厉的愚弄孩子。只要看近两三年的出版界,给“小学生”、“小朋友”看的刊物,特别的多就知道。中国突然出了这许多“儿童文学家”了么?我想:是并不然的。
(五月三十日。)
【拿来主义】
中国一向是所谓“闭关主义”,自己不去,别人也不许来。自从给枪炮打破了大门之后,又碰了一串钉子,到现在,成了什么都是“送去主义”了。别的且不说罢,单是学艺上的东西,近来就先送一批古董到巴黎去展览,但终“不知后事如何”;还有几位“大师”们捧着几张古画和新画,在欧洲各国一路的挂过去,叫作“发扬国光”。听说不远还要送梅兰芳博士到苏联去,以催进“象征主义”,此后是顺便到欧洲传道。我在这里不想讨论梅博士演艺和象征主义的关系,总之,活人替代了古董,我敢说,也可以算得显出一点进步了。
但我们没有人根据了“礼尚往来”的仪节,说道:拿来!
当然,能够只是送出去,也不算坏事情,一者见得丰富,二者见得大度。尼采就自诩过他是太阳,光热无穷,只是给与,不想取得。然而尼采究竟不是太阳,他发了疯。中国也不是,虽然有人说,掘起地下的煤来,就足够全世界几百年之用。但是,几百年之后呢?几百年之后,我们当然是化为魂灵,或上天堂,或落了地狱,但我们的子孙是在的,所以还应该给他们留下一点礼品。要不然,则当佳节大典之际,他们拿不出东西来,只好磕头贺喜,讨一点残羹冷炙做奖赏。
这种奖赏,不要误解为“抛来”的东西,这是“抛给”的,说得冠冕些,可以称之为“送来”,我在这里不想举出实例。
我在这里也并不想对于“送去”再说什么,否则太不“摩登”了。我只想鼓吹我们再吝啬一点,“送去”之外,还得“拿来”,是为“拿来主义”。
但我们被“送来”的东西吓怕了。先有英国的鸦片,德国的废枪炮,后有法国的香粉,美国的电影,日本的印着“完全国货”的各种小东西。于是连清醒的青年们,也对于洋货发生了恐怖。其实,这正是因为那是“送来”的,而不是“拿来”的缘故。
所以我们要运用脑髓,放出眼光,自己来拿!
譬如罢,我们之中的一个穷青年,因为祖上的阴功(姑且让我这么说说罢),得了一所大宅子,且不问他是骗来的,抢来的,或合法继承的,或是做了女婿换来的。那么,怎么办呢?我想,首先是不管三七二十一,“拿来”!但是,如果反对这宅子的旧主人,怕给他的东西染污了,徘徊不敢走进门,是孱头;勃然大怒,放一把火烧光,算是保存自己的清白,则是昏蛋。不过因为原是羡慕这宅子的旧主人的,而这回接受一切,欣欣然的蹩进卧室,大吸剩下的鸦片,那当然更是废物。“拿来主义”者是全不这样的。
他占有,挑选。看见鱼翅,并不就抛在路上以显其“平民化”,只要有养料,也和朋友们像萝卜白菜一样的吃掉,只不用它来宴大宾;看见鸦片,也不当众摔在毛厕里,以见其彻底革命,只送到药房里去,以供治病之用,却不弄“出售存膏,售完即止”的玄虚。只有烟枪和烟灯,虽然形式和印度,波斯,阿剌伯的烟具都不同,确可以算是一种国粹,倘使背着周游世界,一定会有人看,但我想,除了送一点进博物馆之外,其余的是大可以毁掉的了。还有一群姨太太,也大以请她们各自走散为是,要不然,“拿来主义”怕未免有些危机。
总之,我们要拿来。我们要或使用,或存放,或毁灭。那么,主人是新主人,宅子也就会成为新宅子。然而首先要这人沉着,勇猛,有辨别,不自私。没有拿来的,人不能自成为新人,没有拿来的,文艺不能自成为新文艺。
(六月四日。)
【隔膜】
清朝初年的文字之狱,到清朝末年才被从新提起。最起劲的是“南社”里的有几个人,为被害者辑印遗集;还有些留学生,也争从日本搬回文证来。待到孟森的《心史丛刊》出,我们这才明白了较详细的状况,大家向来的意见,总以为文字之祸,是起于笑骂了清朝。然而,其实是不尽然的。
这一两年来,故宫博物院的故事似乎不大能够令人敬服,但它却印给了我们一种好书,曰《清代文字狱档》,去年已经出到八辑。其中的案件,真是五花八门,而最有趣的,则莫如乾隆四十八年二月“冯起炎注解易诗二经欲行投呈案”。
冯起炎是山西临汾县的生员,闻乾隆将谒泰陵,便身怀著作,在路上徘徊,意图呈进,不料先以“形迹可疑”被捕了。那著作,是以《易》解《诗》,实则信口开河,在这里犯不上抄录,惟结尾有“自传”似的文章一大段,却是十分特别的──
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「天興元年、哀宗帰徳に走る。翌年春、崔立変を起こし、群小付和し、立のために功徳碑を建てんことを請う。翟奕は尚書省の命を以て若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩は勢いを恃みて威を作し、人もし少しく忤えば、讒構して屠滅せしむ。若虚は自ら必ず死すべきを分かち、ひそかに左右司員外郎元好問に謂いて曰く、『今、我を召して碑を作らしむ。従わざれば死し、これを作れば名節は地を掃う。死するに若くはなし。しかりといえども、我しばらく理を以てこれを諭さん。』……奕の輩奪うこと能わず、乃ち太学生劉祁・麻革の輩を召して省に赴かしむ。好問・張信之、碑を立つることを以て諭して曰く、『衆議は二君に属す、且つ既に鄭王に白せり。二君その辞すことなかれ。』祁等固辞して別る。数日、促迫やまず、祁即ち草定す──」
これは金朝末期の話である。崔立なる者が変を起こした後、権勢を笠に着て群臣に功徳碑の作成を強要した。この時、王若虚は死を覚悟して拒み、元好問もまた巧みにこれを避けようとした。しかし結局のところ劉祁が碑文を草した。
この故事は何を教えるか。権力者が文人に文章を書かせようとする時、文人には三つの選択がある。第一に拒絶して死ぬ。第二に書いて名節を失う。第三に巧みに逃れる。王若虚は第一の道を選ぼうとし、元好問は第三の道を取り、劉祁は第二の道を歩んだ。
しかし現代においては、この三つの選択のほかにもう一つある。即ち権力者のために書くと見せかけて、実は権力者を批判する文を書くことだ。これは最も危険な道であるが、同時に最も有効な道でもある。
古来、碑文は権力者の徳を讃えるものとされてきた。しかし「功徳碑」を書くことを強いられた文人が、その碑文の中に微かな皮肉を込めることは珍しくない。読む者が読めば分かり、分からぬ者には分からぬ──これこそ圧迫の下での文人の知恵であった。
しかし最も尊ぶべきは、やはり王若虚の如く死をもって拒む気概であろう。碑文を書かずして死ぬのは容易ではないが、碑文を書いて生き延びるよりは遥かに尊い。
もっとも、死を選ぶべきか生を選ぶべきかは、時と場合による。死んで何の益もなければ、生きて後日を期す方が賢明であることもある。問題は、「後日を期す」と言いつつ実は怯懦に過ぎぬ場合が、あまりに多いということだ。
(五月十日。)
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“又,臣之来也,不愿如何如何,亦别无愿求之事,惟有一事未决,请对陛下一叙其缘由。臣……名曰冯起炎,字是南州,尝到臣张三姨母家,见一女,可娶,而恨力不足以办此。此女名曰小女,年十七岁,方当待字之年,而正在未字之时,乃原籍东关春牛厂长兴号张守忭之次女也。又到臣杜五姨母家,见一女,可娶,而恨力不足以办此。此女名小凤,年十三岁,虽非必字之年,而已在可字之时,乃本京东城闹市口瑞生号杜月之次女也。若以陛下之力,差干员一人,选快马一匹,克日长驱到临邑,问彼临邑之地方官:‘其东关春牛厂长兴号中果有张守忭一人否?’诚如是也,则此事谐矣。再问:‘东城闹市口瑞生号中果有杜月一人否?’诚如是也,则此事谐矣。二事谐,则臣之愿毕矣。然臣之来也,方不知陛下纳臣之言耶否耶,而必以此等事相强乎?特进言之际,一叙及之。”
这何尝有丝毫恶意?不过着了当时通行的才子佳人小说的迷,想一举成名,天子做媒,表妹入抱而已。不料事实结局却不大好,署直隶总督袁守侗拟奏罪名是“阅其呈首,胆敢于圣主之前,混讲经书,而呈尾措词,尤属狂妄。核其情罪,较冲突仪仗为更重。冯起炎一犯,应从重发往黑龙江等处,给披甲人为奴。俟部复到日,照例解部刺字发遣。”这位才子,后来大约终于单身出关做西崽去了。
此外的案情,虽然没有这么风雅,但并非反动的还不少。有的是卤莽;有的是发疯;有的是乡曲迂儒,真的不识讳忌;有的则是草野愚民,实在关心皇家。而运命大概很悲惨,不是凌迟,灭族,便是立刻杀头,或者“斩监候”,也仍然活不出。
凡这等事,粗略的一看,先使我们觉得清朝的凶虐,其次,是死者的可怜。但再来一想,事情是并不这么简单的。这些惨案的来由,都只为了“隔膜”。
满洲人自己,就严分着主奴,大臣奏事,必称“奴才”,而汉人却称“臣”就好。这并非因为是“炎黄之胄”,特地优待,锡以嘉名的,其实是所以别于满人的“奴才”,其地位还下于“奴才”数等。奴隶只能奉行,不许言议;评论固然不可,妄自颂扬也不可,这就是“思不出其位”。譬如说:主子,您这袍角有些儿破了,拖下去怕更要破烂,还是补一补好。进言者方自以为在尽忠,而其实却犯了罪,因为另有准其讲这样的话的人在,不是谁都可说的。一乱说,便是“越俎代谋”,当然“罪有应得”。倘自以为是“忠而获咎”,那不过是自己的胡涂。
但是,清朝的开国之君是十分聪明的,他们虽然打定了这样的主意,嘴里却并不照样说,用的是中国的古训:“爱民如子”,“一视同仁”。一部分的大臣,士大夫,是明白这奥妙的,并不敢相信。但有一些简单愚蠢的人们却上了当,真以为“陛下”是自己的老子,亲亲热热的撒娇讨好去了。他那里要这被征服者做儿子呢?于是乎杀掉。不久,儿子们吓得不再开口了,计划居然成功;直到光绪时康有为们的上书,才又冲破了“祖宗的成法”。然而这奥妙,好象至今还没有人来说明。
施蛰存先生在《文艺风景》创刊号里,很为“忠而获咎”者不平,就因为还不免有些“隔膜”的缘故。这是《颜氏家训》或《庄子》、《文选》里所没有的。
(六月十日。)
【“木刻纪程”小引】
中国木刻图画,从唐到明,曾经有过很体面的历史。但现在的新的木刻,却和这历史不相干。新的木刻,是受了欧洲的创作木刻的影响的。创作木刻的绍介,始于朝花社,那出版的《艺苑朝华》四本,虽然选择印造,并不精工,且为艺术名家所不齿,却颇引起了青年学徒的注意。到一九三一年夏,在上海遂有了中国最初的木刻讲习会。又由是蔓衍而有木铃社,曾印《木铃木刻集》两本。又有野穗社,曾印《木刻画》一辑。有无名木刻社,曾印《木刻集》。但木铃社早被毁灭,后两社也未有继续或发展的消息。前些时在上海还剩有M.K.木刻研究社,是一个历史较长的小团体,曾经屡次展览作品,并且将出《木刻画选集》的,可惜今夏又被私怨者告密。社员多遭捕逐,木版也为工部局所没收了。
据我们所知道,现在似乎已经没有一个研究木刻的团体了。但尚有研究木刻的个人。如罗清桢,已出《清桢木刻集》二辑;如又村,最近已印有《廖坤玉故事》的连环图。这是都值得特记的。
而且仗着作者历来的努力和作品的日见其优良,现在不但已得中国读者的同情,并且也渐渐的到了跨出世界上去的第一步。虽然还未坚实,但总之,是要跨出去了。不过,同时也到了停顿的危机。因为倘没有鼓励和切磋,恐怕也很容易陷于自足。本集即愿做一个木刻的路程碑,将自去年以来,认为应该流布的作品,陆续辑印,以为读者的综观,作者的借镜之助。但自然,只以收集所及者为限,中国的优秀之作,是决非尽在于此的。
别的出版者,一方面还正在绍介欧美的新作,一方面则在复印中国的古刻,这也都是中国的新木刻的羽翼。采用外国的良规,加以发挥,使我们的作品更加丰满是一条路;择取中国的遗产,融合新机,使将来的作品别开生面也是一条路。如果作者都不断的奋发,使本集能一程一程的向前走,那就会知道上文所说,实在不仅是一种奢望的了。
一九三四年六月中,铁木艺术社记。
【难行和不信】
中国的“愚民”──没有学问的下等人,向来就怕人注意他。如果你无端的问他多少年纪,什么意见,兄弟几个,家景如何,他总是支吾一通之后,躲了开去。有学识的大人物,很不高兴他们这样的脾气。然而这脾气总不容易改,因为他们也实在从经验而来的。
假如你被谁注意了,一不小心,至少就不免上一点小当,譬如罢,中国是改革过的了,孩子们当然早已从“孟宗哭竹”“王祥卧冰”的教训里蜕出,然而不料又来了一个崭新的“儿童年”,爱国之士,因此又想起了“小朋友”,或者用笔,或者用舌,不怕劳苦的来给他们教训。一个说要用功,古时候曾有“囊萤照读”“凿壁偷光”的志士;一个说要爱国,古时候曾有十几岁突围请援,十四岁上阵杀敌的奇童。这些故事,作为闲谈来听听是不算很坏的,但万一有谁相信了,照办了,那就会成为乳臭未干的吉诃德。你想,每天要捉一袋照得见四号铅字的萤火虫,那岂是一件容易事?但这还只是不容易罢了,倘去凿壁,事情就更糟,无论在哪里,至少是挨一顿骂之后,立刻由爸爸妈妈赔礼,雇人去修好。
请援,杀敌,更加是大事情,在外国,都是三四十岁的人们所做的。他们那里的儿童,着重的是吃,玩,认字,听些极普通,极紧要的常识。中国的儿童给大家特别看得起,那当然也很好,然而出来的题目就因此常常是难题,仍如飞剑一样,非上武当山寻师学道之后,决计没法办。到了二十世纪,古人空想中的潜水艇,飞行机,是实地上成功了,但《龙文鞭影》或《幼学琼林》里的模范故事,却还有些难学。我想,便是说教的人,恐怕自己也未必相信罢。
所以听的人也不相信。我们听了千多年的剑仙侠客,去年到武当山去的只有三个人,只占全人口的五百兆分之一,就可见。古时候也许还要多,现在是有了经验,不大相信了,于是照办的人也少了。──但这是我个人的推测。
不负责任的,不能照办的教训多,则相信的人少;利己损人的教训多,则相信的人更其少。“不相信”就是“愚民”的远害的堑壕,也是使他们成为散沙的毒素。然而有这脾气的也不但是“愚民”,虽是说教的士大夫,相信自己和别人的,现在也未必有多少。例如既尊孔子,又拜活佛者,也就是恰如将他的钱试买各种股票,分存许多银行一样,其实是那一面都不相信的。
(七月一日。)
【买“小学大全”记】
线装书真是买不起了。乾隆时候的刻本的价钱,几乎等于那时的宋本。明版小说,是五四运动以后飞涨的;从今年起,洪运怕要轮到小品文身上去了。至于清朝禁书,则民元革命后就是宝贝,即使并无足观的著作,也常要百余元至数十元。我向来也走走旧书坊,但对于这类宝书,却从不敢作非分之想。端午节前,在四马路一带闲逛,竟无意之间买到了一种,曰《小学大全》,共五本,价七角,看这名目,是不大有人会欢迎的,然而,却是清朝的禁书。
这书的编纂者尹嘉铨,博野人;他父亲尹会一,是有名的孝子,乾隆皇帝曾经给过褒扬的诗。他本身也是孝子,又是道学家,官又做到大理寺卿稽察觉罗学。还请令旗籍子弟也讲读朱子的《小学》,而“荷蒙朱批:所奏是。钦此。”这部书便成于两年之后的,加疏的《小学》六卷,《考证》和《释文》、《或问》各一卷,《后编》二卷,合成一函,是为《大全》。也曾进呈,终于在乾隆四十二年九月十七日奉旨:“好!知道了。钦此。”那明明是得了皇帝的嘉许的。
到乾隆四十六年,他已经致仕回家了,但真所谓“及其老也,戒之在得”罢,虽然欲得的乃是“名”,也还是一样的招了大祸。这年三月,乾隆行经保定,尹嘉铨便使儿子送了一本奏章,为他的父亲请,朱批是“与乃国家定典,岂可妄求。此奏本当交部治罪,念汝为父私情,姑免之。若再不安分家居,汝罪不可逭矣!钦此。”不过他豫先料不到会碰这样的大钉子,所以接着还有一本,是请许“我朝”名臣汤斌范文程李光地顾八代张伯行等从祀孔庙,“至于臣父尹会一,既蒙御制诗章褒嘉称孝,已在德行之科,自可从祀,非臣所敢请也。”这回可真出了大岔子,三月十八日的朱批是:“竟大肆狂吠,不可恕矣!钦此。”
乾隆时代的一定办法,是凡以文字获罪者,一面拿办,一面就查抄,这并非着重他的家产,乃在查看藏书和另外的文字,如果别有“狂吠”,便可以一并治罪。因为乾隆的意见,是以为既敢“狂吠”,必不止于一两声,非彻底根究不可的。尹嘉铨当然逃不出例外,和自己的被捕同时,他那博野的老家和北京的寓所,都被查抄了。藏书和别项著作,实在不少,但其实也并无什么干碍之作。不过那时是决不能这样就算的,经大学士三宝等再三审讯之后,定为“相应请旨将尹嘉铨照大逆律凌迟处死”,幸而结果很宽大:“尹嘉铨著加恩免其凌迟之罪,改为处绞立决,其家属一并加恩免其缘坐”就完结了。
这也还是名儒兼孝子的尹嘉铨所不及料的。
这一回的文字狱,只绞杀了一个人,比起别的案子来,决不能算是大狱,但乾隆皇帝却颇费心机,发表了几篇文字。从这些文字和奏章(均见《清代文字狱档》第六辑)看来,这回的祸机虽然发于他的“不安分”,但大原因,却在既以名儒自居,又请将名臣从祀:这都是大“不可恕”的地方。清朝虽然尊崇朱子,但止于“尊崇”,却不许“学样”,因为一学样,就要讲学,于是而有学说,于是而有门徒,于是而有门户,于是而有门户之争,这就足为“太平盛世”之累。况且以这样的“名儒”而做官,便不免以“名臣”自居,“妄自尊大”。乾隆是不承认清朝会有“名臣”的,他自己是“英主”,是“明君”,所以在他的统治之下,不能有奸臣,既没有特别坏的奸臣,也就没有特别好的名臣,一律都是不好不坏,无所谓好坏的奴子。
特别攻击道学先生,所以是那时的一种潮流,也就是“圣意”。我们所常见的,是纪昀总纂的《四库全书总目提要》和自著的《阅微草堂笔记》里的时时的排击。这就是迎合着这种潮流的,倘以为他秉性平易近人,所以憎恨了道学先生的谿刻,那是一种误解。大学士三宝们也很明白这潮流,当会审尹嘉铨时,曾奏道:“查该犯如此狂悖不法,若即行定罪正法,尚不足以泄公愤而快人心。该犯曾任三品大员,相应遵例奏明,将该犯严加夹讯,多受刑法,问其究属何心,录取供词,具奏,再请旨立正典刑,方足以昭炯戒。”后来究竟用了夹棍没有,未曾查考,但看所录供词,却于用他的“丑行”来打倒他的道学的策略,是做得非常起劲的。现在抄三条在下面──
“问:尹嘉铨!你所书李孝女暮年不字事一篇,说‘年逾五十,依然待字,吾妻李恭人闻而贤之,欲求淑女以相助,仲女固辞不就’等语。这处女既立志不嫁,已年过五旬,你为何叫你女人遣媒说合,要他做妾?这样没廉耻的事,难道是讲正经人干的么?据供:我说的李孝女年逾五十,依然待字,原因素日间知道雄县有个姓李的女子,守贞不字。吾女人要聘他为妾,我那时在京候补,并不知道;后来我女人告诉我,才知道的,所以替他做了这篇文字,要表扬他,实在我并没有见过他的面。但他年过五十,我还将要他做妾的话,做在文字内,这就是我廉耻丧尽,还有何辩。
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「また、臣が参りましたのは、如何如何を願うためではなく、また別に願い求むる事もございませんが、ただ一事未決のことがあり、陛下に対して一つその経緯を申し述べたく存じます。臣は……名を馮起炎と申し、字は南州、かつて臣の張三なる叔母の家に至りし時、一人の女子を見ましたが、娶るべきなれども力の及ばざるを恨みます。この女子は小女と名づけ、年十七歳、まさに嫁ぐべき齢にして、まさに未だ嫁がざる時なり。東関春牛廠長興号の張守忭の次女であります。またかつて臣の杜五なる叔母の家に至りし時、一人の女子を見ましたが、娶るべきなれども力の及ばざるを恨みます。この女子は小鳳と名づけ、年十三歳、必ずしも嫁ぐべき齢にはあらざるも、既に嫁ぎ得る時に在り。本京東城闹市口瑞生号の杜月の次女であります。もし陛下の御力を以てすれば……」
これは清朝の馮起炎なる秀才が、殿試の場にて皇帝に上書し、二人の女との縁談を助けてくれと頼んだ話である。科挙の試験で天子に直訴して嫁を世話してもらおうとしたのだから、まことに前代未聞の奇事と言うべきだ。
しかし嗤うべきは馮起炎だけではない。この天真爛漫なる上書には、実は一つの深い真実が含まれている。即ち、権力というものは、いかなる私事にも介入し得るという信仰である。皇帝は天下の事を決し得る──科挙の成績も、人の婚姻も。この信仰は馮起炎一人のものではなく、中国数千年の伝統そのものなのだ。
今日においても、この信仰は変わっていない。人々は「上」に対して、あらゆる問題の解決を期待する。就職も、住居も、婚姻も、果ては個人の性欲の解決までも。先に述べた監獄の性欲解決の提案なども、まさにこの精神の延長線上にある。
しかし「上」がこれらの問題を解決し得るのは、「上」が全ての権力を掌握しているからであり、人々が全く無力であるからだ。この構造が変わらぬ限り、馮起炎的な精神は永遠に消えぬであろう。
(五月十二日。)
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“问:你当时在皇上跟前讨赏翎子,说是没有翎子,就回去见不得你妻小。你这假道学怕老婆,到底皇上没有给你翎子,你如何回去的呢?据供:我当初在家时,曾向我妻子说过,要见皇上讨翎子,所以我彼时不辞冒昧,就妄求恩典,原想得了翎子回家,可以夸耀。后来皇上没有赏我,我回到家里,实在觉得害羞,难见妻子。这都是我假道学,怕老婆,是实。
“问:你女人平日妒悍,所以替你娶妾,也要娶这五十岁女人给你,知道这女人断不肯嫁,他又得了不妒之名。总是你这假道学居常做惯这欺世盗名之事,你女人也学了你欺世盗名。你难道不知道么?供:我女人要替我讨妾,这五十岁李氏女子既已立志不嫁,断不肯做我的妾,我女人是明知的,所以借此要得不妒之名。总是我平日所做的事,俱系欺世盗名,所以我女人也学做此欺世盗名之事,难逃皇上洞鉴。”
还有一件要紧事是销毁和他有关的书。他的著述也真太多,计应“销毁”者有书籍八十六种,石刻七种,都是著作;应“撤毁”者有书籍六种,都是古书,而有他的序跋。《小学大全》虽不过“疏辑”,然而是在“销毁”之列的。
但我所得的《小学大全》,却是光绪二十二年开雕,二十五年刊竣,而“宣统丁巳”(实是中华民国六年)重校的遗老本,有张锡恭跋云:“世风不古若矣,愿读是书者,有以转移之。……”又有刘安涛跋云:“晚近凌夷,益加甚焉,异言喧豗,显与是书相悖,一唱百和,……驯致家与国均蒙其害,唐虞三代以来先圣先贤蒙以养正之遗意,扫地尽矣。剥极必复,天地之心见焉。……”为了文字狱,使士子不敢治史,尤不敢言近代事,但一面却也使昧于掌故,乾隆朝所竭力“销毁”的书,虽遗老也不复明白,不到一百三十年,又从新奉为宝典了。这莫非也是“剥极必复”么?恐怕是遗老们的乾隆皇帝所不及料的罢。
但是,清的康熙雍正和乾隆三个,尤其是后两个皇帝,对于“文艺政策”或说得较大一点的“文化统制”,却真尽了很大的努力的。文字狱不过是消极的一方面,积极的一面,则如钦定四库全书,于汉人的著作,无不加以取舍,所取的书,凡有涉及金元之处者,又大抵加以修改,作为定本。此外,对于《七经》,《二十四史》,《通鉴》,文士的诗文,和尚的语录,也都不肯放过,不是鉴定,便是评选,文苑中实在没有不被蹂躏的处所了。而且他们是深通汉文的异族的君主,以胜者的看法,来批评被征服的汉族的文化和人情,也鄙夷,但也恐惧,有苛论,但也有确评,文字狱只是由此而来的辣手的一种,那成果,由满洲这方面言,是的确不能说它没有效的。
现在这影响好象是淡下去了,遗老们的重刻《小学大全》,就是一个证据,但也可见被愚弄了的性灵,又终于并不清醒过来。近来明人小品,清代禁书,市价之高,决非穷读书人所敢窥,但《东华录》、《御批通鉴辑览》、《上谕八旗》、《雍正朱批谕旨》……等,却好象无人过问,其低廉为别的一切大部书所不及。倘有有心人加以收集,一一钩稽,将其中的关于驾御汉人,批评文化,利用文艺之处,分别排比,辑成一书,我想,我们不但可以看见那策略的博大和恶辣,并且还能够明白我们怎样受异族主子的驯扰,以及遗留至今的奴性的由来的罢。
自然,这决不及赏玩性灵文字的有趣,然而借此知道一点演成了现在的所谓性灵的历史,却也十分有益的。
(七月十日。)
【韦素园墓记】
韦君素园之墓。
君以一九又二年六月十八日生,一九三二年八月一日卒。呜呼,宏才远志,厄于短年。文苑失英,明者永悼。弟丛芜,友静农,霁野立表;鲁迅书。
【忆韦素园君】
我也还有记忆的,但是,零落得很。我自己觉得我的记忆好象被刀刮过了的鱼鳞,有些还留在身体上,有些是掉在水里了,将水一搅,有几片还会翻腾,闪烁,然而中间混着血丝,连我自己也怕得因此污了赏鉴家的眼目。
现在有几个朋友要纪念韦素园君,我也须说几句话。是的,我是有这义务的。我只好连身外的水也搅一下,看看泛起怎样的东西来。
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怕是十多年之前了罢,我在北京大学做讲师,有一天,在教师豫备室里遇见了一个头发和胡子统统长得要命的青年,这就是李霁野。我的认识素园,大约就是霁野绍介的罢,然而我忘记了那时的情景。现在留在记忆里的。是他已经坐在客店的一间小房子里计画出版了。
这一间小房子,就是未名社。
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那时我正在编印两种小丛书,一种是《乌合丛书》,专收创作,一种是《未名丛刊》,专收翻译,都由北新书局出版。出版者和读者的不喜欢翻译书,那时和现在也并不两样,所以《未名丛刊》是特别冷落的。恰巧,素园他们愿意绍介外国文学到中国来,便和李小峰商量,要将《未名丛刊》移出,由几个同人自办。小峰一口答应了,于是这一种丛书便和北新书局脱离。稿子是我们自己的,另筹了一笔印费,就算开始。因这丛书的名目,连社名也就叫了“未名”──但并非“没有名目”的意思,是“还没有名目”的意思,恰如孩子的“还未成丁”似的。
未名社的同人,实在并没有什么雄心和大志,但是,愿意切切实实的,点点滴滴的做下去的意志,却是大家一致的。而其中的骨干就是素园。
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于是他坐在一间破小屋子,就是未名社里办事了,不过小半好象也因为他生着病,不能上学校去读书,因此便天然的轮着他守寨。
我最初的记忆是在这破寨里看见了素园,一个瘦小,精明,正经的青年,窗前的几排破旧外国书,在证明他穷着也还是钉住着文学。然而,我同时又有了一种坏印象,觉得和他是很难交往的,因为他笑影少。“笑影少”原是未名社同人的一种特色,不过素园显得最分明,一下子就能够令人感得。但到后来,我知道我的判断是错误了,和他也并不难于交往。他的不很笑,大约是因为年龄的不同,对我的一种特别态度罢,可惜我不能化为青年,使大家忘掉彼我,得到确证了。这真相,我想,霁野他们是知道的。
但待到我明白了我的误解之后,却同时又发见了一个他的致命伤:他太认真;虽然似乎沉静,然而他激烈。认真会是人的致命伤的么?至少,在那时以至现在,可以是的。一认真,便容易趋于激烈,发扬则送掉自己的命,沉静着,又啮碎了自己的心。
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这里有一点小例子。──我们是只有小例子的。
那时候,因为段祺瑞总理和他的帮闲们的迫压,我已经逃到厦门,但北京的狐虎之威还正是无穷无尽。段派的女子师范大学校长林素园,带兵接收学校去了,演过全副武行之后,还指留着的几个教员为“共产党”。这个名词,一向就给有些人以“办事”上的便利,而且这方法,也是一种老谱,本来并不希罕的。但素园却好象激烈起来了,从此以后,他给我的信上,有好一晌竟憎恶“素园”两字而不用,改称为“漱园”。同时社内也发生了冲突,高长虹从上海寄信来,说素园压下了向培良的稿子,叫我讲一句话。我一声也不响。于是在《狂飙》上骂起来了,先骂素园,后是我。素园在北京压下了培良的稿子,却由上海的高长虹来抱不平,要在厦门的我去下判断,我颇觉得是出色的滑稽,而且一个团体,虽是小小的文学团体罢,每当光景艰难时,内部是一定有人起来捣乱的,这也并不希罕。然而素园却很认真,他不但写信给我,叙述着详情,还作文登在杂志上剖白。在“天才”们的法庭上,别人剖白得清楚的么?──我不禁长长的叹了一口气,想到他只是一个文人,又生着病,却这么拚命的对付着内忧外患,又怎么能够持久呢。自然,这仅仅是小忧患,但在认真而激烈的个人,却也相当的大的。
不久,未名社就被封,几个人还被捕。也许素园已经咯血,进了病院了罢,他不在内。但后来,被捕的释放,未名社也启封了,忽封忽启,忽捕忽放,我至今还不明白这是怎么的一个玩意。
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我到广州,是第二年── 一九二七年的秋初,仍旧陆续的接到他几封信,是在西山病院里,伏在枕头上写就的,因为医生不允许他起坐。他措辞更明显,思想也更清楚,更广大了,但也更使我担心他的病。有一天,我忽然接到一本书,是布面装订的素园翻译的《外套》。我一看明白,就打了一个寒噤:这明明是他送给我的一个纪念品,莫非他已经自觉了生命的期限了么?
我不忍再翻阅这一本书,然而我没有法。
我因此记起,素园的一个好朋友也咯过血,一天竟对着素园咯起来,他慌张失措,用了爱和忧急的声音命令道:“你不许再吐了!”我那时却记起了伊孛生的《勃兰特》。他不是命令过去的人,从新起来,却并无这神力,只将自己埋在崩雪下面的么?……
我在空中看见了勃兰特和素园,但是我没有话。
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一九二九年五月末,我最以为侥幸的是自己到西山病院去,和素园谈了天。他为了日光浴,皮肤被晒得很黑了,精神却并不萎顿。我们和几个朋友都很高兴。但我在高兴中,又时时夹着悲哀:忽而想到他的爱人,已由他同意之后,和别人订了婚;忽而想到他竟连绍介外国文学给中国的一点志愿,也怕难于达到;忽而想到他在这里静卧着,不知道他自以为是在等候全愈,还是等候灭亡;忽而想到他为什么要寄给我一本精装的《外套》?……
壁上还有一幅陀思妥也夫斯基的大画像。对于这先生,我是尊敬,佩服的,但我又恨他残酷到了冷静的文章。他布置了精神上的苦刑,一个个拉了不幸的人来,拷问给我们看。现在他用沉郁的眼光,凝视着素园和他的卧榻,好象在告诉我:这也是可以收在作品里的不幸的人。
自然,这不过是小不幸,但在素园个人,是相当的大的。
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一九三二年八月一日晨五时半,素园终于病殁在北平同仁医院里了,一切计画,一切希望,也同归于尽。我所抱憾的是因为避祸,烧去了他的信札,我只能将一本《外套》当作唯一的纪念,永远放在自己的身边。
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自素园病殁之后,转眼已是两年了,这其间,对于他,文坛上并没有人开口。这也不能算是希罕的,他既非天才,也非豪杰,活的时候,既不过在默默中生存,死了之后,当然也只好在默默中泯没。但对于我们,却是值得记念的青年,因为他在默默中支持了未名社。
未名社现在是几乎消灭了,那存在期,也并不长久。然而自素园经营以来,绍介了果戈理(N. Gogol),陀思妥也夫斯基(F. Dostoevsky),安特列夫(L. Andreev),绍介了望·蔼覃(F. van Eeden),绍介了爱伦堡(I. Ehrenburg)的《烟袋》和拉夫列涅夫(B. Lavrenev)的《四十一》。还印行了《未名新集》,其中有丛芜的《君山》,静农的《地之子》和《建塔者》,我的《朝华夕拾》,在那时候,也都还算是相当可看的作品。事实不为轻薄阴险小儿留情,曾几何年,他们就都已烟消火灭,然而未名社的译作,在文苑里却至今没有枯死的。
是的,但素园却并非天才,也非豪杰,当然更不是高楼的尖顶,或名园的美花,然而他是楼下的一块石材,园中的一撮泥土,在中国第一要它多。他不入于观赏者的眼中,只有建筑者和栽植者,决不会将他置之度外。
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文人的遭殃,不在生前的被攻击和被冷落,一瞑之后,言行两亡,于是无聊之徒,谬托知己,是非蜂起,既以自衒,又以卖钱,连死尸也成了他们的沽名获利之具,这倒是值得悲哀的。现在我以这几千字纪念我所熟识的素园,但愿还没有营私肥己的处所,此外也别无话说了。
我不知道以后是否还有记念的时候,倘止于这一次,那么,素园,从此别了!
一九三四年七月十六之夜,鲁迅记。
【忆刘半农君】
这是小峰出给我的一个题目。
这题目并不出得过分。半农去世,我是应该哀悼的,因为他也是我的老朋友。但是,这是十来年前的话了,现在呢,可难说得很。
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「問:お前は当時皇上の御前にて翎子(花翎の帽子飾り)を賜らんことを請い、翎子なくば帰って妻子に会わす顔がないと申した。この偽道学の恐妻家め。結局皇上は翎子を賜らなかったが、お前はどう帰ったのか。供述:私は家にいた時かつて妻に皇上に拝謁して翎子を賜わると申しましたので、あの時冒昧を顧みず恩典を妄りに求めたのでございます。翎子を得て帰れば誇ることができると思ったのです。後に皇上が賜りませんでしたので、家に帰ってまことに恥ずかしく妻子に会わす顔がありませんでした。これは全く私が偽道学にして恐妻家であることは事実でございます。
「問:お前の女房は日頃から嫉妬深く気が荒いので、お前に妾を娶るにも五十歳の女を当てがうと申したが……」
この供述もまた馮起炎と同じ類の話であり、科挙の秀才が殿試の場で個人の私事を天子に持ち出したものである。皇帝の前で妻を恐れることを告白し、翎子がなければ面目が立たぬと泣訴する──このような場面は、一見滑稽であるが、その底には深い悲哀がある。
この秀才は十年の苦学を経てようやく殿試に至った。しかし彼が真に求めていたのは学問の成就でも天下国家の治平でもなく、ただ妻の前で面目を保つための「翎子」一本だったのだ。十年の寒窓の目的がこれである。
しかし笑ってはならぬ。今日の読書人もまた、畢竟は同じではないか。博士号を取り、教授の肩書きを得、それを以て何をするか──天下の為に何かを為すのではなく、ただ己の面子を立て、妻子の前で威張るためではないのか。
馮起炎もこの秀才も、己の真の欲望を隠さなかった点においてはむしろ正直であった。今日の知識人は、もっと巧みに真の欲望を隠し、高邁なる理想の衣で包む。しかしその衣の下には、翎子一本への渇望が隠れているのだ。
(五月十四日。)
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我已经忘记了怎么和他初次会面,以及他怎么能到了北京。他到北京,恐怕是在《新青年》投稿之后,由蔡孑民先生或陈独秀先生去请来的,到了之后,当然更是《新青年》里的一个战士。他活泼,勇敢,很打了几次大仗。譬如罢,答王敬轩的双信,“她”字和“牠”字的创造,就都是的。这两件,现在看起来,自然是琐屑得很,但那是十多年前,单是提倡新式标点,就会有一大群人“若丧考妣”,恨不得“食肉寝皮”的时候,所以的确是“大仗”。现在的二十左右的青年,大约很少有人知道三十年前,单是剪下辫子就会坐牢或杀头的了。然而这曾经是事实。
但半农的活泼,有时颇近于草率,勇敢也有失之无谋的地方。但是,要商量袭击敌人的时候,他还是好伙伴,进行之际,心口并不相应,或者暗暗的给你一刀,他是决不会的。倘若失了算,那是因为没有算好的缘故。
《新青年》每出一期,就开一次编辑会,商定下一期的稿件。其时最惹我注意的是陈独秀和胡适之。假如将韬略比作一间仓库罢。独秀先生的是外面竖一面大旗,大书道:“内皆武器,来者小心!”但那门却开着的,里面有几枝枪,几把刀,一目了然,用不着提防。适之先生的是紧紧的关着门,门上粘一条小纸条道:“内无武器,请勿疑虑。”这自然可以是真的,但有些人──至少是我这样的人──有时总不免要侧着头想一想。半农却是令人不觉其有“武库”的一个人,所以我佩服陈、胡,却亲近半农。
所谓亲近,不过是多谈闲天,一多谈,就露出了缺点。几乎有一年多,他没有消失掉从上海带来的才子必有“红袖添香夜读书”的艳福的思想,好容易才给我们骂掉了。但他好象到处都这么的乱说,使有些“学者”皱眉。有时候,连到《新青年》投稿都被排斥。他很勇于写稿,但试去看旧报去,很有几期是没有他的。那些人们批评他的为人,是:浅。
不错,半农确是浅。但他的浅,却如一条清溪,澄澈见底,纵有多少沉渣和腐草,也不掩其大体的清。倘使装的是烂泥,一时就看不出它的深浅来了。如果是烂泥的深渊呢,那就更不如浅一点的好。
但这些背后的批评,大约是很伤了半农的心的,他的到法国留学,我疑心大半就为此。我最懒于通信,从此我们就疏远起来了。他回来时,我才知道他在外国钞古书,后来也要标点《何典》,我那时还以老朋友自居,在序文上说了几句老实话,事后,才知道半农颇不高兴了,“驷不及舌”,也没有法子。另外还有一回关于《语丝》的彼此心照的不快活。五六年前,曾在上海的宴会上见过一回面,那时候,我们几乎已经无话可谈了。
近几年,半农渐渐的据了要津,我也渐渐的更将他忘却;但从报章上看见他禁称“蜜斯”之类,却很起了反感:我以为这些事情是不必半农来做的。从去年来,又看见他不断的做打油诗,弄烂古文,回想先前的交情,也往往不免长叹。我想,假如见面,而我还以老朋友自居,不给一个“今天天气……哈哈哈”完事,那就也许会弄到冲突罢。
不过,半农的忠厚,是还使我感动的。我前年曾到北平,后来有人通知我,半农是要来看我的,有谁恐吓了他一下,不敢来了。这使我很惭愧,因为我到北平后,实在未曾有过访问半农的心思。
现在他死去了,我对于他的感情,和他生时也并无变化。我爱十年前的半农,而憎恶他的近几年。这憎恶是朋友的憎恶,因为我希望他常是十年前的半农,他的为战士,即使“浅”罢,却于中国更为有益。我愿以愤火照出他的战绩,免使一群陷沙鬼将他先前的光荣和死尸一同拖入烂泥的深渊。
(八月一日。)
【答曹聚仁先生信】
聚仁先生:
关于大众语的问题,提出得真是长久了,我是没有研究的,所以一向没有开过口。但是现在的有些文章觉得不少是“高论”,文章虽好,能说而不能行,一下子就消灭,而问题却依然如故。
现在写一点我的简单的意见在这里:
一、汉字和大众,是势不两立的。
二、所以,要推行大众语文,必须用罗马字拼音(即拉丁化,现在有人分为两件事,我不懂是怎么一回事),而且要分为多少区,每区又分为小区(譬如绍兴一个地方,至少也得分为四小区),写作之初,纯用其地的方言,但是,人们是要前进的,那时原有方言一定不够,就只好采用白话,欧字,甚而至于语法。但,在交通繁盛,言语混杂的地方,又有一种语文,是比较普通的东西,它已经采用着新字汇,我想,这就是“大众语”的雏形,它的字汇和语法,即可以输进穷乡僻壤去。中国人是无论如何,在将来必有非通几种中国语不可的运命的,这事情,由教育与交通,可以办得到。
三、普及拉丁化,要在大众自掌教育的时候。现在我们所办得到的是:(甲)研究拉丁化法;(乙)试用广东话之类,读者较多的言语,做出东西来看;(丙)竭力将白话做得浅豁,使能懂的人增多,但精密的所谓“欧化”语文,仍应支持,因为讲话倘要精密,中国原有的语法是不够的,而中国的大众语文,也决不会永久含胡下去。譬如罢,反对欧化者所说的欧化,就不是中国固有字,有些新字眼,新语法,是会有非用不可的时候的。
四、在乡僻处启蒙的大众语,固然应该纯用方言,但一面仍然要改进。譬如“妈的”一句话罢,乡下是有许多意义的,有时骂骂,有时佩服,有时赞叹,因为他说不出别样的话来。先驱者的任务,是在给他们许多话,可以发表更明确的意思,同时也可以明白更精确的意义。如果也照样的写着“这妈的天气真是妈的,妈的再这样,什么都要妈的了。”那么于大众有什么益处呢?
五、至于已有大众语雏形的地方,我以为大可以依此为根据而加以改进,太僻的土语,是不必用的。例如上海叫“打”为“吃生活”,可以用于上海人的对话,却不必特用于作者的叙事中,因为说“打”,工人也一样的能够懂。有些人以为如“像煞有介事”之类,已经通行,也是不确的话,北方人对于这句话的理解,和江苏人是不一样的,那感觉并不比“俨乎其然”切实。
语文和口语不能完全相同;讲话的时候,可以夹许多“这个这个”“那个那个”之类,其实并无意义,到写作时,为了时间、纸张的经济,意思的分明,就要分别删去的,所以文章一定应该比口语简洁,然而明了,有些不同,并非文章的坏处。
所以现在能够实行的,我以为是(一)制定罗马字拼音(赵元任的太繁,用不来的);(二)做更浅显的白话文,采用较普通的方言,姑且算是向大众语去的作品,至于思想,那不消说,该是“进步”的;(三)仍要支持欧化文法,当作一种后备。
还有一层,是文言的保护者,现在也有打了大众语的旗子的了,他一方面,是立论极高,使大众语悬空,做不得;别一方面,借此攻击他当面的大敌──白话。这一点也须注意的。要不然,我们就会自己缴了自己的械。专此布复,即颂
时绥。
迅上。八月二日。
【从孩子的照相说起】
因为长久没有小孩子,曾有人说,这是我做人不好的报应,要绝种的。房东太太讨厌我的时候,就不准她的孩子们到我这里玩,叫作“给他冷清冷清,冷清得他要死!”但是,现在却有了一个孩子,虽然能不能养大也很难说,然而目下总算已经颇能说些话,发表他自己的意见了。不过不会说还好,一会说,就使我觉得他仿佛也是我的敌人。
他有时对于我很不满,有一回,当面对我说:“我做起爸爸来,还要好……”甚而至于颇近于“反动”,曾经给我一个严厉的批评道:“这种爸爸,什么爸爸!?”
我不相信他的话。做儿子时,以将来的好父亲自命,待到自己有了儿子的时候,先前的宣言早已忘得一干二净了。况且我自以为也不算怎么坏的父亲,虽然有时也要骂,甚至于打,其实是爱他的。所以他健康,活泼,顽皮,毫没有被压迫得瘟头瘟脑。如果真的是一个“什么爸爸”,他还敢当面发这样反动的宣言么?
但那健康和活泼,有时却也使他吃亏,九一八事件后,就被同胞误认为日本孩子,骂了好几回,还挨过一次打──自然是并不重的。这里还要加一句说的听的,都不十分舒服的话:近一年多以来,这样的事情可是一次也没有了。
中国和日本的小孩子,穿的如果都是洋服,普通实在是很难分辨的。但我们这里的有些人,都有一种错误的速断法:温文尔雅,不大言笑,不大动弹的,是中国孩子;健壮活泼,不怕生人,大叫大跳的,是日本孩子。
然而奇怪,我曾在日本的照相馆里给他照过一张相,满脸顽皮,也真像日本孩子;后来又在中国的照相馆里照了一张相,相类的衣服,然而面貌很拘谨,驯良,是一个道地的中国孩子了。
为了这事,我曾经想了一想。
这不同的大原因,是在照相师的。他所指示的站或坐的姿势,两国的照相师先就不相同,站定之后,他就瞪了眼睛,机摄取他以为最好的一刹那的相貌。孩子被摆在照相机的镜头之下,表情是总在变化的,时而活泼,时而顽皮,时而驯良,时而拘谨,时而烦厌,时而疑惧,时而无畏,时而疲劳……。照住了驯良和拘谨的一刹那的,是中国孩子相;照住了活泼或顽皮的一刹那的,就好象日本孩子相。
驯良之类并不是恶德。但发展开去,对一切事无不驯良,却决不是美德,也许简直倒是没出息。“爸爸”和前辈的话,固然也要听的,但也须说得有道理。假使有一个孩子,自以为事事都不如人,鞠躬倒退;或者满脸笑容,实际上却总是阴谋暗箭,我实在宁可听到当面骂我“什么东西”的爽快,而且希望他自己是一个东西。
但中国一般的趋势,却只在向驯良之类──“静”的一方面发展,低眉顺眼,唯唯诺诺,才算一个好孩子,名之曰“有趣”。活泼,健康,顽强,挺胸仰面……凡是属于“动”的,那就未免有人摇头了,甚至于称之为“洋气”。又因为多年受着侵略,就和这“洋气”为仇;更进一步,则故意和这“洋气”反一调:他们活动,我偏静坐;他们讲科学,我偏扶乩;他们穿短衣,我偏着长衫;他们重卫生,我偏吃苍蝇;他们壮健,我偏生病……这才是保存中国固有文化,这才是爱国,这才不是奴隶性。
其实,由我看来,所谓“洋气”之中,有不少是优点,也是中国人性质中所本有的,但因了历朝的压抑,已经萎缩了下去,现在就连自己也莫名其妙,统统送给洋人了。这是必须拿它回来──恢复过来的──自然还得加一番慎重的选择。
即使并非中国所固有的罢,只要是优点,我们也应该学习。即使那老师是我们的仇敌罢,我们也应该向他学习。我在这里要提出现在大家所不高兴说的日本来,他的会摹仿,少创造,是为中国的许多论者所鄙薄的,但是,只要看看他们的出版物和工业品,早非中国所及,就知道“会摹仿”决不是劣点,我们正应该学习这“会摹仿”的。“会摹仿”又加以有创造,不是更好么?否则,只不过是一个“恨恨而死”而已。
我在这里还要附加一句象是多余的声明:我相信自己的主张,决不是“受了帝国主义者的指使”,要诱中国人做奴才;而满口爱国,满身国粹,也于实际上的做奴才并无妨碍。
(八月七日。)
【门外文谈】
【一 开头】
听说今年上海的热,是六十年来所未有的。白天出去混饭,晚上低头回家,屋子里还是热,并且加上蚊子,这时候,只有门外是天堂。因为海边的缘故罢,总有些风,用不着挥扇。虽然彼此有些认识,却不常见面的寓在四近的亭子间或搁楼里的邻人也都坐出来了,他们有的是店员,有的是书局里的校对员,有的是制图工人的好手。大家都已经做得筋疲力尽,叹着苦,但这时总还算有闲的,所以也谈闲天。
闲天的范围也并不小:谈旱灾,谈求雨,谈吊膀子,谈三寸怪人干,谈洋米,谈裸腿,也谈古文,谈白话,谈大众语。因为我写过几篇白话文,所以关于古文之类他们特别要听我的话,我也只好特别说的多。这样的过了两三夜,才给别的话岔开,也总算谈完了。不料过了几天之后,有几个还要我写出来。
他们里面,有的是因为我看过几本古书,所以相信我的,有的是因为我看过一点洋书,有的又因为我看古书也看洋书;但有几位却因此反不相信我,说我是蝙蝠。我说到古文,他就笑道,你不是唐、宋八大家,能信么?我谈到大众语,他又笑道:你又不是劳苦大众,讲什么海话呢?
这也是真的。我们讲旱灾的时候,就讲到一位老爷下乡查灾,说有些地方是本可以不成灾的,现在成灾,是因为农民懒,不戽水。但一种报上,却记着一个六十老翁,因儿子戽水乏力而死,灾象如故,无路可走,自杀了。老爷和乡下人,意见是真有这么的不同的。那么,我的夜谈,恐怕也终不过是一个门外闲人的空话罢了。
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私はもうどのようにして彼と初めて出会ったか、また彼がどのようにして北京に来たかを忘れてしまった。彼が北京に来たのはおそらく『新青年』に投稿した後のことで、蔡孑民先生あるいは陳独秀先生に招かれて来たのであろう。来た後は当然『新青年』の一人の戦士となった。彼は活発にして勇敢、幾度かの大いなる戦いを戦った。例えば王敬軒への答書としての双簧の手紙、「她」の字と「牠」の字の創造がそれである。この二つは今日見れば瑣末の極みであるが、あれは十数年前のことであり、新式句読点を提唱しただけで一大群の人が「若し考妣を喪いし如く」嘆き、「肉を食い皮に寝ん」と恨む時代であったから、確かに「大いなる戦い」であった。
彼──劉半農──はこのように最初の文学革命の勇敢なる闘士であった。しかし文学革命が一段落すると、彼は外国に留学した。帰国後の彼は変わっていた。かつての闘士は穏やかな学者となり、かつての反逆者は秩序の守護者となった。これは珍しいことではない。青年の日の反逆は、年齢と共に体制への順応に変わるものであり、「革命家」が「学者」に変身するのは中国のみならず世界的な現象である。
しかし劉半農の場合はいささか異なる。彼は単に穏やかになったのではなく、かつて自分が戦った相手の側に立つようになったのだ。かつて彼が「旧勢力」と呼んで攻撃した者たちと、今や一つの陣営にいる。
彼の死に際して、私は深い感慨を覚えずにはいられない。彼がもし早く死んでいれば、永遠に文学革命の勇士として記憶されたであろう。しかし長く生きたがゆえに、晩年の変節が初年の勇気を覆い隠してしまった。これは劉半農個人の悲劇であると同時に、中国の知識人全般の宿命でもある。
(この一篇は劉半農氏の追悼文である。)
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飓风过后,天气也凉爽了一些,但我终于照着希望我写的几个人的希望,写出来了,比口语简单得多,大致却无异,算是抄给我们一流人看的。当时只凭记忆,乱引古书,说话是耳边风,错点不打紧,写在纸上,却使我很踌躇,但自己又苦于没有原书可对,这只好请读者随时指正了。
一九三四年,八月十六夜,写完并记。
【二 字是什么人造的?】
字是什么人造的?
我们听惯了一件东西,总是古时候一位圣贤所造的故事,对于文字,也当然要有这质问。但立刻就有忘记了来源的答话:字是仓颉造的。
这是一般的学者的主张,他自然有他的出典。我还见过一幅这位仓颉的画像,是生着四只眼睛的老头陀。可见要造文字,相貌先得出奇,我们这种只有两只眼睛的人,是不但本领不够,连相貌也不配的。
然而做《易经》的人(我不知道是谁),却比较的聪明,他说:“上古结绳而治,后世圣人易之以书契。”他不说仓颉,只说“后世圣人”,不说创造,只说掉换,真是谨慎得很;也许他无意中就不相信古代会有一个独自造出许多文字来的人的了,所以就只是这么含含胡胡的来一句。
但是,用书契来代结绳的人,又是什么脚色呢?文学家?不错,从现在的所谓文学家的最要卖弄文字,夺掉笔杆便一无所能的事实看起来,的确首先就要想到他;他也的确应该给自己的吃饭家伙出点力。然而并不是的。有史以前的人们,虽然劳动也唱歌,求爱也唱歌,他却并不起草,或者留稿子,因为他做梦也想不到卖诗稿,编全集,而且那时的社会里,也没有报馆和书铺子,文字毫无用处。据有些学者告诉我们的话来看,这在文字上用了一番工夫的,想来该是史官了。
原始社会里,大约先前只有巫,待到渐次进化,事情繁复了,有些事情,如祭祀,狩猎,战争……之类,渐有记住的必要,巫就只好在他那本职的“降神”之外,一面也想法子来记事,这就是“史”的开头。况且“升中于天”,他在本职上,也得将记载酋长和他的治下的大事的册子,烧给上帝看,因此一样的要做文章──虽然这大约是后起的事。再后来,职掌分得更清楚了,于是就有专门记事的史官。文字就是史官必要的工具,古人说:“仓颉,黄帝史。”第一句未可信,但指出了史和文字的关系,却是很有意思的。至于后来的“文学家”用它来写“阿呀呀,我的爱哟,我要死了!”那些佳句,那不过是享享现成的罢了,“何足道哉”!
【三 字是怎么来的?】
照《易经》说,书契之前明明是结绳;我们那里的乡下人,碰到明天要做一件紧要事,怕得忘记时,也常常说:“裤带上打一个结!”那么,我们的古圣人,是否也用一条长绳,有一件事就打一个结呢?恐怕是不行的。只有几个结还记得,一多可就糟了。或者那正是伏羲皇上的“八封”之流,三条绳一组,都不打结是“乾”,中间各打一结是“坤”罢?恐怕也不对。八组尚可,六十四组就难记,何况还会有五百十二组呢。只有在秘鲁还有存留的“打结字”(Quippus),用一条横绳,挂上许多直绳,拉来拉去的结起来,网不像网,倒似乎还可以表现较多的意思。我们上古的结绳,恐怕也是如此的罢。但它既然被书契掉换,又不是书契的祖宗,我们也不妨暂且不去管它了。
夏禹的“岣嵝碑”,是道士们假造的;现在我们能在实物上看见的最古的文字,只有商朝的甲骨和钟鼎文。但这些,都已经很进步了,几乎找不出一个原始形态。只在铜器上,有时还可以看见一点写实的图形,如鹿,如象,而从这图形上,又能发见和文字相关的线索:中国文字的基础是“象形”。
画在西班牙的亚勒泰米拉(Altamira)洞里的野牛,是有名的原始人的遗迹,许多艺术史家说,这正是“为艺术的艺术”,原始人画着玩玩的。但这解释未免过于“摩登”,因为原始人没有十九世纪的文艺家那么有闲,他的画一只牛,是有缘故的,为的是关于野牛,或者是猎取野牛,禁咒野牛的事。现在上海墙壁上的香烟和电影的广告画,尚且常有人张着嘴巴看,在少见多怪的原始社会里,有了这么一个奇迹,那轰动一时,就可想而知了。他们一面看,知道了野牛这东西,原来可以用线条移在别的平面上,同时仿佛也认识了一个“牛”字,一面也佩服这作者的才能,但没有人请他作自传赚钱,所以姓氏也就湮没了。但在社会里,仓颉也不止一个,有的在刀柄上刻一点图,有的在门户上画一些画,心心相印,口口相传,文字就多起来,史官一采集,便可以敷衍记事了。中国文字的由来,恐怕也逃不出这例子的。
自然,后来还该有不断的增补,这是史官自己可以办到的,新字夹在熟字中,又是象形,别人也容易推测到那字的意义。直到现在,中国还在生出新字来。但是,硬做新仓颉,却要失败的,吴的朱育,唐的武则天,都曾经造过古怪字,也都白费力。现在最会造字的是中国化学家,许多原质和化合物的名目,很不容易认得,连音也难以读出来了。老实说,我是一看见就头痛的,觉得远不如就用万国通用的拉丁名来得爽快,如果二十来个字母都认不得,请恕我直说:那么,化学也大抵学不好的。
【四 写字就是画画】
《周礼》和《说文解字》上都说文字的构成法有六种,这里且不谈罢,只说些和“象形”有关的东西。
象形,“近取诸身,远取诸物”,就是画一只眼睛是“目”,画一个圆圈,放几条毫光是“日”,那自然很明白,便当的。但有时要碰壁,譬如要画刀口,怎么办呢?不画刀背,也显不出刀口来,这时就只好别出心裁,在刀口上加一条短棍,算是指明“这个地方”的意思,造了“刃”。这已经颇有些办事棘手的模样了,何况还有无形可象的事件,于是只得来“象事”,也叫作“会意”。一只手放在树上是“采”,一颗心放在屋子和饭碗之间是“寍”,有吃有住,安寍了。但要写“寜可”的寜,却又得在碗下面放一条线,表明这不过是用了“寍”的声音的意思。“会意”比“象形”更麻烦,它至少要画两样。如“寶”字,则要画一个屋顶,一串玉,一个缶,一个貝,计四样;我看“缶”字还是杵臼两形合成的,那么一共有五样。单单为了寶这一个字,就很要破费些工夫。
不过还是走不通,因为有些事物是画不出,有些事物是画不来,譬如松柏,叶样不同,原是可以分出来的,但写字究竟是写字,不能像绘画那样精工,到底还是硬挺不下去。来打开这僵局的是“谐声”,意义和形象离开了关系。这已经是“记音”了,所以有人说,这是中国文字的进步。不错,也可以说是进步,然而那基础也还是画画儿。例如“菜,从草,采声”,画一窠草,一个爪,一株树:三样;“海,从水,每声”,画一条河,一位戴帽(?)的太太,也三样。总之:如果要写字,就非永远画画不成。
但古人是并不愚蠢的,他们早就将形象改得简单,远离了写实。篆字圆折,还有图画的余痕,从隶书到现在的楷书,和形象就天差地远。不过那基础并未改变,天差地远之后,就成为不象形的象形字,写起来虽然比较的简单,认起来却非常困难了,要凭空一个一个的记住。而且有些字,也至今并不简单,例如“鸞”或“鑿”,去叫孩子写,非练习半年六月,是很难写在半寸见方的格子里面的。
还有一层,是“谐声”字也因为古今字音的变迁,很有些和“声”不大“谐”的了。现在还有谁读“滑”为“骨”,读“海”为“每”呢?
古人传文字给我们,原是一份重大的遗产,应该感谢的。但在成了不象形的象形字,不十分谐声的谐声字的现在,这感谢却只好踌蹰一下了。
【五 古时候言文一致么?】
到这里,我想来猜一下古时候言文是否一致的问题。
对于这问题,现在的学者们虽然并没有分明的结论,但听他口气,好象大概是以为一致的;越古,就越一致。不过我却很有些怀疑,因为文字愈容易写,就愈容易写得和口语一致,但中国却是那么难画的象形字,也许我们的古人,向来就将不关重要的词摘去了的。
《书经》有那么难读,似乎正可作照写口语的证据,但商周人的的确的口语,现在还没有研究出,还要繁也说不定的。至于周秦古书,虽然作者也用一点他本地的方言,而文字大致相类,即使和口语还相近罢,用的也是周秦白话,并非周秦大众语。汉朝更不必说了,虽是肯将《书经》里难懂的字眼,翻成今字的司马迁,也不过在特别情况之下,采用一点俗语,例如陈涉的老朋友看见他为王,惊异道:“夥颐,涉之为王沈沈者”,而其中的“涉之为王”四个字,我还疑心太史公加过修剪的。
那么,古书里采录的童谣,谚语,民歌,该是那时的老牌俗语罢。我看也很难说。中国的文学家,是颇有爱改别人文章的脾气的。最明显的例子是汉民间的《淮南王歌》,同一地方的同一首歌,《汉书》和《前汉纪》记的就两样。
一面是──
一尺布,尚可缝;
一斗粟,尚可舂。
兄弟二人,不能相容。
一面却是──
一尺布,暖童童;
一斗粟,饱蓬蓬。
兄弟二人不相容。
比较起来,好象后者是本来面目,但已经删掉了一些也说不定的:只是一个提要。后来宋人的语录,话本,元人的杂剧和传奇里的科白,也都是提要,只是它用字较为平常,删去的文字较少,就令人觉得“明白如话”了。
我的臆测,是以为中国的言文,一向就并不一致的,大原因便是字难写,只好节省些。当时的口语的摘要,是古人的文;古代的口语的摘要,是后人的古文。所以我们的做古文,是在用了已经并不象形的象形字,未必一定谐声的谐声字,在纸上描出今人谁也不说,懂的也不多的,古人的口语的摘要来。你想,这难不难呢?
【六 于是文章成为奇货了】
文字在人民间萌芽,后来却一定为特权者所收揽。据《易经》的作者所推测,“上古结绳而治”,则连结绳就已是治人者的东西。待到落在巫史的手里的时候,更不必说了,他们都是酋长之下,万民之上的人。社会改变下去,学习文字的人们的范围也扩大起来,但大抵限于特权者。至于平民,那是不识字的,并非缺少学费,只因为限于资格,他不配。而且连书籍也看不见。中国在刻版还未发达的时候,有一部好书,往往是“藏之秘阁,副在三馆”,连做了士子,也还是不知道写着什么的。
因为文字是特权者的东西,所以它就有了尊严性,并且有了神秘性。中国的字,到现在还很尊严,我们在墙壁上,就常常看见挂着写上“敬惜字纸”的篓子;至于符的驱邪治病,那就靠了它的神秘性的。文字既然含着尊严性,那么,知道文字,这人也就连带的尊严起来了。新的尊严者日出不穷,对于旧的尊严者就不利,而且知道文字的人们一多,也会损伤神秘性的。符的威力,就因为这好象是字的东西,除道士以外,谁也不认识的缘故。所以,对于文字,他们一定要把持。
欧洲中世,文章学问,都在道院里;克罗蒂亚(Kroatia),是到了十九世纪,识字的还只有教士的,人民的口语,退步到对于旧生活刚够用。他们革新的时候,就只好从外国借进许多新语来。
我们中国的文字,对于大众,除了身分,经济这些限制之外,却还要加上一条高门槛:难。单是这条门槛,倘不费他十来年工夫,就不容易跨过。跨过了的,就是士大夫,而这些士大夫,又竭力的要使文字更加难起来,因为这可以使他特别的尊严,超出别的一切平常的士大夫之上。汉朝的杨雄的喜欢奇字,就有这毛病的,刘歆想借他的《方言》稿子,他几乎要跳黄浦。唐朝呢,樊宗师的文章做到别人点不断,李贺的诗做到别人看不懂,也都为了这缘故。还有一种方法是将字写得别人不认识,下焉者,是从《康熙字典》上查出几个古字来,夹进文章里面去;上焉者是钱坫的用篆字来写刘熙的《释名》,最近还有钱玄同先生的照《说文》字样给太炎先生抄《小学答问》。
文字难,文章难,这还都是原来的;这些上面,又加以士大夫故意特制的难,却还想它和大众有缘,怎么办得到。但士大夫们也正愿其如此,如果文字易识,大家都会,文字就不尊严,他也跟着不尊严了。说白话不如文言的人,就从这里出发的;现在论大众语,说大众只要教给“千字课”就够的人,那意思的根柢也还是在这里。
【七 不识字的作家】
用那么艰难的文字写出来的古语摘要,我们先前也叫“文”,现在新派一点的叫“文学”,这不是从“文学子游子夏”上割下来的,是从日本输入,他们的对于英文 Literature 的译名。会写写这样的“文”的,现在是写白话也可以了,就叫作“文学家”,或者叫“作家”。
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颶風が過ぎた後、気候もいくらか涼しくなったが、私はついに私に書くことを望む数人の望みに従って書き上げた。口語よりも遥かに簡潔であるが、大意は異ならず、我々の同類の人々が読むために書き写したものと思っていただきたい。当時は記憶のみに頼り、古書を乱雑に引用した。話は耳元の風のようなもので、少々の誤りは構わぬが、紙上に書くとなると甚だ躊躇する。しかし手元に原書がなく確かめようもないので、読者に随時のご訂正をお願いするほかない。
一九三四年八月十六日夜、書き終えて記す。
【二 文字は誰が作ったか?】
文字は誰が作ったか。
我々はある一つの物事に慣れ親しむと、常に古い時代の一人の聖人が発明したものだと思い込む。文字は倉頡が作ったと言われている。しかし倉頡一人でどうしてあれほど多くの文字を作り得ようか。実際には、文字は長い歳月をかけて、多くの人々の手によって徐々に作られたのであり、一人の天才の所産ではない。
この「一人の聖人が発明した」という考え方は、中国人の根深い弊害の一つである。あらゆることを一人の偉人に帰し、多くの無名の人々の貢献を抹殺する。これは権力の正当化にも通じる──天下を治めるのは一人の聖王であり、民衆は従うのみだという思想だ。
しかし文字の歴史を見れば分かるように、真に偉大なるものは常に集団の創造であり、個人の発明ではない。文学も同じである。一人の大作家が全てを創造するのではなく、無数の無名の語り部や歌い手がいて初めて文学が成り立つのだ。
(八月十六日。)
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文学的存在条件首先要会写字,那么,不识字的文盲群里,当然不会有文学家的了。然而作家却有的。你们不要太早的笑我,我还有话说。我想,人类是在未有文字之前,就有了创作的,可惜没有人记下,也没有法子记下。我们的祖先的原始人,原是连话也不会说的,为了共同劳作,必需发表意见,才渐渐的练出复杂的声音来,假如那时大家抬木头,都觉得吃力了,却想不到发表,其中有一个叫道“杭育杭育”,那么,这就是创作;大家也要佩服,应用的,这就等于出版;倘若用什么记号留存了下来,这就是文学;他当然就是作家,也是文学家,是“杭育杭育派”。不要笑,这作品确也幼稚得很,但古人不及今人的地方是很多的,这正是其一。就是周朝的什么“关关雎鸠,在河之洲,窈窕淑女,君子好逑”罢,它是《诗经》里的头一篇,所以吓得我们只好磕头佩服,假如先前未曾有过这样的一篇诗,现在的新诗人用这意思做一首白话诗,到无论什么副刊上去投稿试试罢,我看十分之九是要被编辑者塞进字纸篓去的。“漂亮的好小姐呀,是少爷的好一对儿!”什么话呢?
就是《诗经》的《国风》里的东西,好许多也是不识字的无名氏作品,因为比较的优秀,大家口口相传的。王官们检出它可作行政上参考的记录了下来,此外消灭的正不知有多少。希腊人荷马──我们姑且当作有这样一个人──的两大史诗,也原是口吟,现存的是别人的记录。东晋到齐、陈的《子夜歌》和《读曲歌》之类,唐朝的《竹枝词》和《柳枝词》之类,原都是无名氏的创作,经文人的采录和润色之后,留传下来的。这一润色,留传固然留传了,但可惜的是一定失去了许多本来面目。到现在,到处还有民谣,山歌,渔歌等,这就是不识字的诗人的作品;也传述着童话和故事,这就是不识字的小说家的作品;他们,就都是不识字的作家。
但是,因为没有记录作品的东西,又很容易消灭,流布的范围也不能很广大,知道的人们也就很少了。偶有一点为文人所见,往往倒吃惊,吸入自己的作品中,作为新的养料。旧文学衰颓时,因为摄取民间文学或外国文学而起一个新的转变,这例子是常见于文学史上的。不识字的作家虽然不及文人的细腻,但他却刚健,清新。
要这样的作品为大家所共有,首先也就是要这作家能写字,同时也还要读者们能识字以至能写字,一句话:将文字交给一切人。
【八 怎么交代?】
将文字交给大众的事实,从清朝末年就已经有了的。
“莫打鼓,莫打锣,听我唱个太平歌……”是钦颁的教育大众的俗歌;此外,士大夫也办过一些白话报,但那主意,是只要大家听得懂,不必一定写得出。《平民千字课》就带了一点写得出的可能,但也只够记账,写信。倘要写出心里所想的东西,它那限定的字数是不够的。譬如牢监,的确是给了人一块地,不过它有限制,只能在这圈子里行立坐卧,断不能跑出设定了的铁栅外面去。
劳乃宣和王照他两位都有简字,进步得很,可以照音写字了。民国初年,教育部要制字母,他们俩都是会员,劳先生派了一位代表,王先生是亲到的,为了入声存废问题,曾和吴稚晖先生大战,战得吴先生肚子一凹,棉裤也落了下来。但结果总算几经斟酌,制成了一种东西,叫作“注音字母”。那时很有些人,以为可以替代汉字了,但实际上还是不行,因为它究竟不过简单的方块字,恰如日本的“假名”一样,夹上几个,或者注在汉字的旁边还可以,要它拜帅,能力就不够了。写起来会混杂,看起来要眼花。那时的会员们称它为“注音字母”,是深知道它的能力范围的。再看日本,他们有主张减少汉字的,有主张拉丁拼音的,但主张只用“假名”的却没有。
再好一点的是用罗马字拼法,研究得最精的是赵元任先生罢,我不大明白。用世界通用的罗马字拼起来──现在是连土耳其也采用了── 一词一串,非常清晰,是好的。但教我似的门外汉来说,好象那拼法还太繁。要精密,当然不得不繁,但繁得很,就又变了“难”,有些妨碍普及了。最好是另有一种简而不陋的东西。
这里我们可以研究一下新的“拉丁化”法,《每日国际文选》里有一小本《中国语书法之拉丁化》,《世界》第二年第六七号合刊附录的一份《言语科学》,就都是绍介这东西的。价钱便宜,有心的人可以买来看。它只有二十八个字母,拼法也容易学。“人”就是 Rhen,“房子”就是 Fangz,“我吃果子”是 Wo ch goz,“他是工人”是 Tau sh gungrhen 。现在在华侨里实验,见了成绩的,还只是北方话。但我想,中国究竟还是讲北方话──不是北京话──的人们多,将来如果真有一种到处通行的大众语,那主力也恐怕还是北方话罢。为今之计,只要酌量增减一点,使它合于各该地方所特有的音,也就可以用到无论什么穷乡僻壤去了。
那么,只要认识二十八个字母,学一点拼法和写法,除懒虫和低能外,就谁都能够写得出,看得懂了。况且它还有一个好处,是写得快。美国人说,时间就是金钱;但我想:时间就是性命。无端的空耗别人的时间,其实是无异于谋财害命的。不过像我们这样坐着乘风凉,谈闲天的人们,可又是例外。
【九 专化呢,普遍化呢?】
到了这里,就又碰着了一个大问题:中国的言语,各处很不同,单给一个粗枝大叶的区别,就有北方话,江浙话,两湖川贵话,福建话,广东话这五种,而这五种中,还有小区别。现在用拉丁字来写,写普通话,还是写土话呢?要写普通话,人们不会;倘写土话,别处的人们就看不懂,反而隔阂起来,不及全国通行的汉字了。这是一个大弊病!
我的意思是:在开首的启蒙时期,各地方各写它的土话,用不着顾到和别地方意思不相通。当未用拉丁写法之前,我们的不识字的人们,原没有用汉字互通着声气,所以新添的坏处是一点也没有的。倒有新的益处,至少是在同一语言的区域里,可以彼此交换意见,吸收智识了──那当然,一面也得有人写些有益的书。问题倒在这各处的大众语文,将来究竟要它专化呢,还是普通化?
方言土语里,很有些意味深长的话,我们那里叫“炼话”,用起来是很有意思的,恰如文言的用古典,听者也觉得趣味津津。各就各处的方言,将语法和词汇,更加提炼,使他们发达上去的,就是专化。这于文学,是很有益处的,它可以做得比仅用泛泛的话头的文章更加有意思。但专化又有专化的危险。言语学我不知道,看生物,是一到专化,往往要灭亡的。未有人类以前的许多动植物,就因为太专化了,失其可变性,环境一改,无法应付,只好灭亡。──幸而我们人类还不算专化的动物,请你们不要愁。大众,是有文学,要文学的,但决不该为文学做牺牲,要不然,他的荒谬和为了保存汉字,要十分之八的中国人做文盲来殉难的活圣贤就并不两样。所以,我想,启蒙时候用方言,但一面又要渐渐的加入普通的语法和词汇去。先用固有的,是一地方的语文的大众化,加入新的去,是全国的语文的大众化。
几个读书人在书房里商量出来的方案,固然大抵行不通,但一切都听其自然,却也不是好办法。现在在码头上,公共机关中,大学校里,确已有着一种好象普通话模样的东西,大家说话,既非“国语”,又不是京话,各各带着乡音,乡调,却又不是方言,即使说的吃力,听的也吃力,然而总归说得出,听得懂。如果加以整理,帮它发达,也是大众语中的一支,说不定将来还简直是主力。我说要在方言里“加入新的去”,那“新的”的来源就在这地方。待到这一种出于自然,又加人工的话一普遍,我们的大众语文就算大致统一了。
此后当然还要做。年深月久之后,语文更加一致,和“炼话”一样好,比“古典”还要活的东西,也渐渐的形成,文学就更加精采了。马上是办不到的。你们想,国粹家当作宝贝的汉字,不是化了三四千年工夫,这才有这么一堆古怪成绩么?
至于开手要谁来做的问题,那不消说:是觉悟的读书人。有人说:“大众的事情,要大众自己来做!”那当然不错的,不过得看看说的是什么脚色。如果说的是大众,那有一点是对的,对的是要自己来,错的是推开了帮手。倘使说的是读书人呢,那可全不同了:他在用漂亮话把持文字,保护自己的尊荣。
【十 不必恐慌】
但是,这还不必实做,只要一说,就又使另一些人发生恐慌了。
首先是说提倡大众语文的,乃是“文艺的政治宣传员如宋阳之流”,本意在于造反。给带上一顶有色帽,是极简单的反对法。不过一面也就是说,为了自己的太平,宁可中国有百分之八十的文盲。那么,倘使口头宣传呢,就应该使中国有百分之八十的聋子了。但这不属于“谈文”的范围,这里也无须多说。
专为着文学发愁的,我现在看见有两种。一种是怕大众如果都会读,写,就大家都变成文学家了。这真是怕天掉下来的好人。上次说过,在不识字的大众里,是一向就有作家的。我久不到乡下去了,先前是,农民们还有一点余闲,譬如乘凉,就有人讲故事。不过这讲手,大抵是特定的人,他比较的见识多,说话巧,能够使人听下去,懂明白,并且觉得有趣。这就是作家,抄出他的话来,也就是作品。倘有语言无味,偏爱多嘴的人,大家是不要听的,还要送给他许多冷话──讥刺。我们弄了几千年文言,十来年白话,凡是能写的人,何尝个个是文学家呢?即使都变成文学家,又不是军阀或土匪,于大众也并无害处的,不过彼此互看作品而已。
还有一种是怕文学的低落。大众并无旧文学的修养,比起士大夫文学的细致来,或者会显得所谓“低落”的,但也未染旧文学的痼疾,所以它又刚健,清新。无名氏文学如《子夜歌》之流,会给旧文学一种新力量,我先前已经说过了;现在也有人绍介了许多民歌和故事。还有戏剧,例如《朝花夕拾》所引《目连救母》里的无常鬼的自传,说是因为同情一个鬼魂,暂放还阳半日,不料被阎罗责罚,从此不再宽纵了──
“那怕你铜墙铁壁!
那怕你皇亲国戚!……”
何等有人情,又何等知过,何等守法,又何等果决,我们的文学家做得出来么?
这是真的农民和手业工人的作品,由他们闲中扮演。借目连的巡行来贯串许多故事,除《小尼姑下山》外,和刻本的《目莲救母记》是完全不同的。其中有一段《武松打虎》,是甲乙两人,一强一弱,扮着戏玩。先是甲扮武松,乙扮老虎;被甲打得要命,乙埋怨他了,甲道:“你是老虎,不打,不是给你咬死了?”乙只得要求互换,却又被甲咬得要命,一说怨话,甲便道:“你是武松,不咬,不是给你打死了?”我想:比起希腊的伊索,俄国的梭罗古勃的寓言来,这是毫无逊色的。
如果到全国的各处去收集,这一类的作品恐怕还很多。但自然,缺点是有的。是一向受着难文字,难文章的封锁,和现代思潮隔绝。所以,倘要中国的文化一同向上,就必须提倡大众语,大众文,而且书法更必须拉丁化。
【十一 大众并不如读书人所想像的愚蠢】
但是,这一回,大众语文刚一提出,就有些猛将趁势出现了,来路是并不一样的,可是都向白话,翻译,欧化语法,新字眼进攻。他们都打着“大众”的旗,说这些东西,都为大众所不懂,所以要不得。其中有的是原是文言余孽,借此先来打击当面的白话和翻译的,就是祖传的“远交近攻”的老法术;有的是本是懒惰分子,未尝用功,要大众语未成,白话先倒,让他在这空场上夸海口的,其实也还是文言文的好朋友,我都不想在这里多谈。现在要说的只是那些好意的,然而错误的人,因为他们不是看轻了大众,就是看轻了自己,仍旧犯着古之读书人的老毛病。
读书人常常看轻别人,以为较新,较难的字句,自己能懂,大众却不能懂,所以为大众计,是必须彻底扫荡的;说话作文,越俗,就越好。这意见发展开来,他就要不自觉的成为新国粹派。或则希图大众语文在大众中推行得快,主张什么都要配大众的胃口,甚至于说要“迎合大众”,故意多骂几句,以博大众的欢心。这当然自有他的苦心孤诣,但这样下去,可要成为大众的新帮闲的。
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文学が存在し得る条件としてまず文字が書けることが必要であるとすれば、文字を知らぬ文盲の群れの中に文学者がいるはずはない。しかし作家はいるのだ。諸君よ、あまり早くに私を笑うなかれ、まだ話がある。私が思うに、人類は文字の出現以前に既に創作を有していたのであり、惜しいことに誰もこれを記録せず、また記録する術もなかった。我々の祖先の原始人は、もとは言葉すら話せなかったのであるが、共同労働の必要上意見を発表せねばならず、徐々に複雑な音声を練磨していったのである。仮にあの時皆が材木を担ぎ上げ、皆が力を入れて苦しいと感じたが、これを表現する術を思いつかなかった時、その中の一人が「ハンユーハンユー」と叫んだとしたら──これこそが創作である。皆もこれに感服し、応じるであろう。
これこそが文学の起源である。即ち労働から生まれた叫びであり、いかなる書斎からも、いかなる聖人の閃きからも生まれたのではない。最初の詩人は無名の労働者であり、最初の文学は「ハンユーハンユー」という労働の掛け声であった。
この観点から見れば、現代の文学が書斎の中に閉じ込められ、象牙の塔に籠もっているのは、文学の本来の姿からの甚だしい逸脱である。文学は本来生活の中から生まれるものであり、生活から離れた文学は死せる文学に他ならぬ。
大衆の中にこそ文学の真の源泉がある。文盲の中に「文学者」はいないが「作家」はいる──これは矛盾に聞こえるかもしれぬが、書けぬ者にも語り得る者はおり、語り得る者こそが真の作家なのだ。
(八月二十日。)
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说起大众来,界限宽泛得很,其中包括着各式各样的人,但即使“目不识丁”的文盲,由我看来,其实也并不如读书人所推想的那么愚蠢。他们是要智识,要新的智识,要学习,能摄取的。当然,如果满口新语法,新名词,他们是什么也不懂;但逐渐的检必要的灌输进去,他们却会接受;那消化的力量,也许还赛过成见更多的读书人。初生的孩子,都是文盲,但到两岁,就懂许多话,能说许多话了,这在他,全部是新名词,新语法。他哪里是从《马氏文通》或《辞源》里查来的呢,也没有教师给他解释,他是听过几回之后,从比较而明白了意义的。大众的会摄取新词汇和语法,也就是这样子,他们会这样的前进。所以,新国粹派的主张,虽然好象为大众设想,实际上倒尽了拖住的任务。不过也不能听大众的自然,因为有些见识,他们究竟还在觉悟的读书人之下,如果不给他们随时拣选,也许会误拿了无益的,甚而至于有害的东西。所以,“迎合大众”的新帮闲,是绝对的要不得的。
由历史所指示,凡有改革,最初,总是觉悟的智识者的任务。但这些智识者,却必须有研究,能思索,有决断,而且有毅力。他也用权,却不是骗人,他利导,却并非迎合。他不看轻自己,以为是大家的戏子,也不看轻别人,当作自己的喽罗。他只是大众中的一个人,我想,这才可以做大众的事业。
【十二 煞尾】
话已经说得不少了。总之,单是话不行,要紧的是做。要许多人做:大众和先驱;要各式的人做:教育家,文学家,言语学家……。这已经迫于必要了,即使目下还有点逆水行舟,也只好拉纤;顺水固然好得很,然而还是少不得把舵的。
这拉纤或把舵的好方法,虽然也可以口谈,但大抵得益于实验,无论怎么看风看水,目的只是一个:向前。
各人大概都有些自己的意见,现在还是给我听听你们诸位的高论罢。
【不知肉味和不知水味】
今年的尊孔,是民国以来第二次的盛典,凡是可以施展出来的,几乎全都施展出来了。上海的华界虽然接近夷(亦作彝)场,也听到了当年孔子听得“三月不知肉味”的“韶乐”。八月三十日的《申报》报告我们说──
“廿七日本市各界在文庙举行孔诞纪念会,到党政机关,及各界代表一千余人。有大同乐会演奏中和韶乐二章,所用乐器因欲扩大音量起见,不分古今,凡属国乐器,一律配入,共四十种。其谱一仍旧贯,并未变动。聆其节奏,庄严肃穆,不同凡响,令人悠然起敬,如亲三代以上之承平雅颂,亦即我国民族性酷爱和平之表示也。……”
乐器不分古今,一律配入,盖和周朝的韶乐,该已很有不同。但为“扩大音量起见”,也只能这么办,而且和现在的尊孔的精神,也似乎十分合拍的。“孔子,圣之时者也”,“亦即圣之摩登者也”,要三月不知鱼翅燕窝味,乐器大约决非“共四十种”不可;况且那时候,中国虽然已有外患,却还没有夷场。
不过因此也可见时势究竟有些不同了,纵使“扩大音量”,终于还扩不到乡间,同日的《中华日报》上,就记着一则颇伤“承平雅颂,亦即我国民族性酷爱和平之表示”的体面的新闻,最不凑巧的是事情也出在二十七──
“(宁波通讯)余姚入夏以来,因天时亢旱,河水干涸,住民饮料,大半均在河畔开凿土井,借以汲取,故往往因争先后,而起冲突。廿七日上午,距姚城四十里之朗霞镇后方屋地方,居民杨厚坤与姚士莲,又因争井水,发生冲突,互相加殴。姚士莲以烟筒头猛击杨头部,杨当即昏倒在地。继姚又以木棍石块击杨中要害,竟遭殴毙。迨邻近闻声施救,杨早已气绝。而姚士莲见已闯祸,知必不能免,即乘机逃避……”
闻韶,是一个世界,口渴,是一个世界。食肉而不知味,是一个世界,口渴而争水,又是一个世界。自然,这中间大有君子小人之分,但“非小人无以养君子”,到底还不可任凭他们互相打死,渴死的。
听说在阿拉伯,有些地方,水已经是宝贝,为了喝水,要用血去换。“我国民族性”是“酷爱和平”的,想必不至于如此。但余姚的实例却未免有点怕人,所以我们除食肉者听了而不知肉味的“韶乐”之外,还要不知水味者听了而不想水喝的“韶乐”。
(八月二十九日。)
【中国语文的新生】
中国现在的所谓中国字和中国文,已经不是中国大家的东西了。
古时候,无论那一国,能用文字的原是只有少数的人的,但到现在,教育普及起来,凡是称为文明国者,文字已为大家所公有。但我们中国,识字的却大概只占全人口的十分之二,能作文的当然还要少。这还能说文字和我们大家有关系么?
也许有人要说,这十分之二的特别国民,是怀抱着中国文化,代表着中国大众的。我觉得这话并不对。这样的少数,并不足以代表中国人。正如中国人中,有吃燕窝鱼翅的人,有卖红丸的人,有拿回扣的人,但不能因此就说一切中国人,都在吃燕窝鱼翅,卖红丸,拿回扣一样。要不然,一个郑孝胥,真可以把全副“王道”挑到满洲去。
我们倒应该以最大多数为根据,说中国现在等于并没有文字。
这样的一个连文字也没有的国度,是在一天一天的坏下去了。我想,这可以无须我举例。
单在没有文字这一点上,智识者是早就感到模胡的不安的。清末的办白话报,五四时候的叫“文学革命”,就为此。但还只知道了文章难,没有悟出中国等于并没有文字。今年的提倡复兴文言文,也为此,他明知道现在的机关枪是利器,却因历来偷懒,未曾振作,临危又想侥幸,就只好梦想大刀队成事了。
大刀队的失败已经显然,只有两年,已没有谁来打九十九把钢刀去送给军队。但文言队的显出不中用来,是很慢,很隐的,它还有寿命。
和提倡文言文的开倒车相反,是目前的大众语文的提倡,但也还没有碰到根本的问题:中国等于并没有文字。待到拉丁化的提议出现,这才抓住了解决问题的紧要关键。
反对,当然大大的要有的,特殊人物的成规,动他不得。格理莱倡地动说,达尔文说进化论,摇动了宗教,道德的基础,被攻击原是毫不足怪的;但哈飞发见了血液在人身中环流,这和一切社会制度有什么关系呢,却也被攻击了一世。然而结果怎样?结果是:血液在人身中环流!
中国人要在这世界上生存,那些识得《十三经》的名目的学者,“灯红”会对“酒绿”的文人,并无用处,却全靠大家的切实的智力,是明明白白的。那么,倘要生存,首先就必须除去阻碍传布智力的结核:非语文和方块字。如果不想大家来给旧文字做牺牲,就得牺牲掉旧文字。走那一面呢,这并非如冷笑家所指摘,只是拉丁化提倡者的成败,乃是关于中国大众的存亡的。要得实证,我看也不必等候怎么久。
至于拉丁化的较详的意见,我是大体和《自由谈》连载的华圉作《门外文谈》相近的,这里不多说。我也同意于一切冷笑家所冷嘲的大众语的前途的艰难;但以为即使艰难,也还要做;愈艰难,就愈要做。改革,是向来没有一帆风顺的,冷笑家的赞成,是在见了成效之后,如果不信,可看提倡白话文的当时。
(九月二十四日。)
【中国人失掉自信力了吗】
从公开的文字上看起来:两年以前,我们总自夸着“地大物博”,是事实;不久就不再自夸了,只希望着国联,也是事实;现在是既不夸自己,也不信国联,改为一味求神拜佛,怀古伤今了──却也是事实。
于是有人慨叹曰:中国人失掉自信力了。
如果单据这一点现象而论,自信其实是早就失掉了的。先前信“地”,信“物”,后来信“国联”,都没有相信过“自己”。假使这也算一种“信”,那也只能说中国人曾经有过“他信力”,自从对国联失望之后,便把这他信力都失掉了。
失掉了他信力,就会疑,一个转身,也许能够只相信了自己,倒是一条新生路,但不幸的是逐渐玄虚起来了。信“地”和“物”,还是切实的东西,国联就渺茫,不过这还可以令人不久就省悟到依赖它的不可靠。一到求神拜佛,可就玄虚之至了,有益或是有害,一时就找不出分明的结果来,它可以令人更长久的麻醉着自己。
中国人现在是在发展着“自欺力”。
“自欺”也并非现在的新东西,现在只不过日见其明显,笼罩了一切罢了。然而,在这笼罩之下,我们有并不失掉自信力的中国人在。
我们从古以来,就有埋头苦干的人,有拚命硬干的人,有为民请命的人,有舍身求法的人,……虽是等于为帝王将相作家谱的所谓“正史”,也往往掩不住他们的光耀,这就是中国的脊梁。
这一类的人们,就是现在也何尝少呢?他们有确信,不自欺;他们在前仆后继的战斗,不过一面总在被摧残,被抹杀,消灭于黑暗中,不能为大家所知道罢了。说中国人失掉了自信力,用以指一部分人则可,倘若加于全体,那简直是诬蔑。
要论中国人,必须不被搽在表面的自欺欺人的脂粉所诓骗,却看看他的筋骨和脊梁。自信力的有无,状元宰相的文章是不足为据的,要自己去看地底下。
(九月二十五日。)
【“以眼还眼”】
杜衡先生在“最近,出于‘与其看一部新的书,还不如看一部旧的书’的心情”,重读了莎士比亚的《凯撒传》。这一读是颇有关系的,结果使我们能够拜读他从读旧书而来的新文章:《莎剧凯撒传里所表现的群众》(见《文艺风景》创刊号)。
这个剧本,杜衡先生是“曾经用两个月的时间把它翻译出来过”的,就可见读得非常子细。他告诉我们:“在这个剧里,莎氏描写了两个英雄──凯撒,和……勃鲁都斯。……还进一步创造了两位政治家(煽动家)──阴险而卑鄙的卡西乌斯,和表面上显得那么麻木而糊涂的安东尼。”但最后的胜利却属于安东尼,而“很明显地,安东尼底胜利是凭借了群众底力量”,于是更明显地,即使“甚至说,群众是这个剧底无形的主脑,也不嫌太过”了。
然而这“无形的主脑”是怎样的东西呢?杜衡先生在叙事和引文之后,加以结束──决不是结论,这是作者所不愿意说的──道──
“在这许多地方,莎氏是永不忘记把群众表现为一个力量的;不过,这力量只是一种盲目的暴力。他们没有理性,他们没有明确的利害观念;他们底感情是完全被几个煽动家所控制着,所操纵着。……自然,我们不能贸然地肯定这是群众底本质,但是我们倘若说,这位伟大的剧作者是把群众这样看法的,大概不会有什么错误吧。这看法,我知道将使作者大大地开罪于许多把群众底理性和感情用另一种方式来估计的朋友们。至于我,说实话,我以为对这些问题的判断,是至今还超乎我底能力之上,我不敢妄置一词。……”
杜衡先生是文学家,所以这文章做得极好,很谦虚。假如说,“妈的群众是瞎了眼睛的!”即使根据的是“理性”,也容易因了表现的粗暴而招致反感;现在是“这位伟大的剧作者”莎士比亚老前辈“把群众这样看法的”,您以为怎么样呢?“巽语之言,能无说乎”,至少也得客客气气的搔一搔头皮,如果你没有翻译或细读过莎剧《凯撒传》的话──只得说,这判断,更是“超乎我底能力之上”了。
于是我们都不负责任,单是讲莎剧。莎剧的确是伟大的,仅就杜衡先生所绍介的几点来看,它实在已经打破了文艺和政治无关的高论了。群众是一个力量,但“这力量只是一种盲目的暴力。他们没有理性,他们没有明确的利害观念”,据莎氏的表现,至少,他们就将“民治”的金字招牌踏得粉碎,何况其他?即在目前,也使杜衡先生对于这些问题不能判断了。一本《凯撒传》,就是作政论看,也是极有力量的。
然而杜衡先生却又因此替作者捏了一把汗,怕“将使作者大大地开罪于许多把群众底理性和感情用另一种方式来估计的朋友们”。自然,在杜衡先生,这是一定要想到的,他应该爱惜这一位以《凯撒传》给他智慧的作者。然而肯定的判断了那一种“朋友们”,却未免太不顾事实了。现在不但施蛰存先生已经看见了苏联将要排演莎剧的“丑态”(见《现代》九月号),便是《资本论》里,不也常常引用莎氏的名言,未尝说他有罪么?将来呢,恐怕也如未必有人引《哈孟雷特》来证明有鬼,更未必有人因《哈孟雷特》而责莎士比亚的迷信一样,会特地“吊民伐罪”,和杜衡先生一般见识的。
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大衆と言えば、その範囲は甚だ広く、各種各様の人を含んでいるが、たとえ「目不識丁」の文盲であっても、私の見るところ、実は読書人が想像するほど愚かではない。彼らは知識を欲し、新しい知識を欲し、学び、摂取し得る者なのだ。無論、もし口を開けば新語法、新名詞ばかりであれば、彼らは何も理解しまい。しかし必要なものを徐々に選んで灌注してゆけば、彼らはこれを受け入れるのであり、その消化力は、おそらく成見のより多い読書人をも凌駕するであろう。生まれたばかりの子供は皆文盲であるが、二歳になれば多くの言葉を理解し、多くの言葉を話し得る。彼にとってはこれら全てが新名詞にして新語法なのだ。
彼はいったいどこでこれを学んだか──『馬氏文通』からか。否、周りの人々の話す言葉から自然に学んだのである。ここに一つの重要な教訓がある。即ち、大衆に新しい知識を伝えるには、大衆の理解し得る言葉を用いねばならぬということだ。
しかしこれは大衆に迎合せよということではない。大衆の水準に合わせて内容を貧しくするのではなく、内容を豊かに保ちつつ表現を分かりやすくすることが肝要である。赤子が二歳で言葉を覚えるのは、周りの大人が赤子の水準に堕ちたからではなく、大人の言葉が赤子にも理解し得るだけの具体性を備えていたからだ。
新文学が大衆から遊離しているのは、内容が高級だからではなく、表現が不必要に難解だからである。これは文学者の怠慢であり、あるいは大衆を見下す驕慢の表れである。
(八月二十二日。)
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况且杜衡先生的文章,是写给心情和他两样的人们来读的,因为会看见《文艺风景》这一本新书的,当然决不是怀着“与其看一部新的书,还不如看一部旧的书”的心情的朋友。但是,一看新书,可也就不至于只看一本《文艺风景》了,讲莎剧的书又很多,涉猎一点,心情就不会这么抖抖索索,怕被“政治家”(煽动家)所煽动。那些“朋友们”除注意作者的时代和环境而外,还会知道《凯撒传》的材料是从布鲁特奇的《英雄传》里取来的,而且是莎士比亚从作喜剧转入悲剧的第一部;作者这时是失意了。为什么事呢,还不大明白。但总之,当判断的时候,是都要想到的,又未必有杜衡先生所豫言的痛快,简单。
单是对于“莎剧《凯撒传》里所表现的群众”的看法,和杜衡先生的眼睛两样的就有的是。现在只抄一位痛恨十月革命,逃入法国的显斯妥夫(Lev Shestov)先生的见解,而且是结论在这里罢──
“在《攸里乌斯·凯撒》中活动的人,以上之外,还有一个。那是复合底人物。那便是人民,或说‘群众’。莎士比亚之被称为写实家,并不是无意义的。无论在那一点,他决不阿谀群众,做出凡俗的性格来。他们轻薄,胡乱,残酷。今天跟在彭贝的战车之后,明天喊着凯撒之名,但过了几天,却被他的叛徒勃鲁都斯的辩才所惑,其次又赞成安东尼的攻击,要求着刚才的红人勃鲁都斯的头了。人往往愤慨着群众之不可靠。但其实,岂不是正有适用着‘以眼还眼,以牙还牙’的古来的正义的法则的事在这里吗?劈开底来看,群众原是轻蔑着彭贝、凯撒、安东尼、辛那之辈的,他们那一面,也轻蔑着群众。今天凯撒握着权力,凯撒万岁。明天轮到安东尼了,那就跟在他后面罢。只要他们给饭吃,给戏看,就好。他们的功绩之类,是用不着想到的。他们那一面也很明白,施与些像个王者的宽容,借此给自己收得报答。在拥挤着这些满是虚荣心的人们的连串里,间或夹杂着勃鲁都斯那样的廉直之士,是事实。然而谁有从山积的沙中,找出一粒珠子来的闲工夫呢?群众,是英雄的大炮的食料,而英雄,从群众看来,不过是余兴。在其间,正义就占了胜利,而幕也垂下来了。”(《莎士比亚〔剧〕中的伦理的问题》)
这当然也未必是正确的见解,显斯妥夫就不很有人说他是哲学家或文学家。不过便是这一点点,就很可以看见虽然同是从《凯撒传》来看它所表现的群众,结果却已经和杜衡先生有这么的差别。而且也很可以推见,正不会如杜衡先生所豫料,“将使作者大大地开罪于许多把群众底理性和感情用另一方式来估计的朋友们”了。
所以,杜衡先生大可以不必替莎士比亚发愁。彼此其实都很明白:“阴险而卑鄙的卡西乌斯,和表面上显得那么麻木而糊涂的安东尼”,就是在那时候的群众,也“不过是余兴”而已。
(九月三十日。)
【说“面子”】
“面子”,是我们在谈话里常常听到的,因为好象一听就懂,所以细想的人大约不很多。
但近来从外国人的嘴里,有时也听到这两个音,他们似乎在研究。他们以为这一件事情,很不容易懂,然而是中国精神的纲领,只要抓住这个,就像二十四年前的拔住了辫子一样,全身都跟着走动了。相传前清时候,洋人到总理衙门去要求利益,一通威吓,吓得大官们满口答应,但临走时,却被从边门送出去。不给他走正门,就是他没有面子;他既然没有面子,自然就是中国有了面子,也就是占了上风了。这是不是事实,我断不定,但这故事,“中外人士”中是颇有些人知道的。
因此,我颇疑心他们想专将“面子”给我们。
但“面子”究竟是怎么一回事呢?不想还好,一想可就觉得胡涂。它象是很有好几种的,每一种身份,就有一种“面子”,也就是所谓“脸”。这“脸”有一条界线,如果落到这线的下面去了,即失了面子,也叫作“丢脸”。不怕“丢脸”,便是“不要脸”。但倘使做了超出这线以上的事,就“有面子”,或曰“露脸”。而“丢脸”之道,则因人而不同,例如车夫坐在路边赤膊捉虱子,并不算什么,富家姑爷坐在路边赤膊捉虱子,才成为“丢脸”。但车夫也并非没有“脸”,不过这时不算“丢”,要给老婆踢了一脚,就躺倒哭起来,这才成为他的“丢脸”。这一条“丢脸”律,是也适用于上等人的。这样看来,“丢脸”的机会,似乎上等人比较的多,但也不一定,例如车夫偷一个钱袋,被人发见,是失了面子的,而上等人大捞一批金珠珍玩,却仿佛也不见得怎样“丢脸”,况且还有“出洋考察”,是改头换面的良方。
谁都要“面子”,当然也可以说是好事情,但“面子”这东西,却实在有些怪。九月三十日的《申报》就告诉我们一条新闻:沪西有业木匠大包作头之罗立鸿,为其母出殡,邀开“贳器店之王树宝夫妇帮忙,因来宾众多,所备白衣,不敷分配,其时适有名王道才,绰号三喜子,亦到来送殡,争穿白衣不遂,以为有失体面,心中怀恨,……邀集徒党数十人,各执铁棍,据说尚有持手枪者多人,将王树宝家人乱打,一时双方有剧烈之战争,头破血流,多人受有重伤。……”白衣是亲族有服者所穿的,现在必须“争穿”而又“不遂”,足见并非亲族,但竟以为“有失体面”,演成这样的大战了。这时候,好象要和普通有些不同便是“有面子”,而自己成了什么,却可以完全不管。这类脾气,是“绅商”也不免发露的:袁世凯将要称帝的时候,有人以列名于劝进表中为“有面子”;有一国从青岛撤兵的时候,有人以列名于万民伞上为“有面子”。
所以,要“面子”也可以说并不一定是好事情──但我并非说,人应该“不要脸”。现在说话难,如果主张“非孝”,就有人会说你在煽动打父母,主张男女平等,就有人会说你在提倡乱交──这声明是万不可少的。
况且,“要面子”和“不要脸”实在也可以有很难分辨的时候。不是有一个笑话么?一个绅士有钱有势,我假定他叫四大人罢,人们都以能够和他扳谈为荣。有一个专爱夸耀的小瘪三,一天高兴的告诉别人道:“四大人和我讲过话了!”人问他“说什么呢?”答道:“我站在他门口,四大人出来了,对我说:滚开去!”当然,这是笑话,是形容这人的“不要脸”,但在他本人,是以为“有面子”的,如此的人一多,也就真成为“有面子”了。别的许多人,不是四大人连“滚开去”也不对他说么?
在上海,“吃外国火腿”虽然还不是“有面子”,却也不算怎么“丢脸”了,然而比起被一个本国的下等人所踢来,又仿佛近于“有面子”。
中国人要“面子”,是好的,可惜的是这“面子”是“圆机活法”,善于变化,于是就和“不要脸”混起来了。长谷川如是闲说“盗泉”云:“古之君子,恶其名而不饮,今之君子,改其名而饮之。”也说穿了“今之君子”的“面子”的秘密。
(十月四日。)
【运命】
有一天,我坐在内山书店里闲谈──我是常到内山书店去闲谈的,我的可怜的敌对的“文学家”,还曾经借此竭力给我一个“汉奸”的称号,可惜现在他们又不坚持了──才知道日本的丙午年生,今年二十九岁的女性,是一群十分不幸的人。大家相信丙午年生的女人要克夫,即使再嫁,也还要克,而且可以多至五六个,所以想结婚是很困难的。这自然是一种迷信,但日本社会上的迷信也还是真不少。
我问:可有方法解除这夙命呢?回答是:没有。
接着我就想到了中国。
许多外国的中国研究家,都说中国人是定命论者,命中注定,无可奈何;就是中国的论者,现在也有些人这样说。但据我所知道,中国女性就没有这样无法解除的命运。“命凶”或“命硬”,是有的,但总有法子想,就是所谓“禳解”;或者和不怕相克的命的男子结婚,制住她的“凶”或“硬”。假如有一种命,说是要连克五六个丈夫的罢,那就早有道士之类出场,自称知道妙法,用桃木刻成五六个男人,画上符咒,和这命的女人一同行“结俪之礼”后,烧掉或埋掉,于是真来订婚的丈夫,就算是第七个,毫无危险了。
中国人的确相信运命,但这运命是有方法转移的。所谓“没有法子”,有时也就是一种另想道路──转移运命的方法。等到确信这是“运命”,真真“没有法子”的时候,那是在事实上已经十足碰壁,或者恰要灭亡之际了。运命并不是中国人的事前的指导,乃是事后的一种不费心思的解释。
中国人自然有迷信,也有“信”,但好象很少“坚信”。我们先前最尊皇帝,但一面想玩弄他,也尊后妃,但一面又有些想吊她的膀子;畏神明,而又烧纸钱作贿赂,佩服豪杰,却不肯为他作牺牲。崇孔的名儒,一面拜佛,信甲的战士,明天信丁。宗教战争是向来没有的,从北魏到唐末的佛道二教的此仆彼起,是只靠几个人在皇帝耳朵边的甘言蜜语。风水,符咒,拜祷……偌大的“运命”,只要化一批钱或磕几个头,就改换得和注定的一笔大不相同了──就是并不注定。
我们的先哲,也有知道“定命”有这么的不定,是不足以定人心的,于是他说,这用种种方法之后所得的结果,就是真的“定命”,而且连必须用种种方法,也是命中注定的。但看起一般的人们来,却似乎并不这样想。
人而没有“坚信”,狐狐疑疑,也许并不是好事情,因为这也就是所谓“无特操”。但我以为信运命的中国人而又相信运命可以转移,却是值得乐观的。不过现在为止,是在用迷信来转移别的迷信,所以归根结蒂,并无不同,以后倘能用正当的道理和实行──科学来替换了这迷信,那么,定命论的思想,也就和中国人离开了。
假如真有这一日,则和尚、道士、巫师、星相家、风水先生……的宝座,就都让给了科学家,我们也不必整年的见神见鬼了。
(十月二十三日。)
【脸谱臆测】
对于戏剧,我完全是外行。但遇到研究中国戏剧的文章,有时也看一看。近来的中国戏是否象征主义,或中国戏里有无象征手法的问题,我是觉得很有趣味的。
伯鸿先生在《戏》周刊十一期(《中华日报》副刊)上,说起脸谱,承认了中国戏有时用象征的手法,“比如白表‘奸诈’,红表‘忠勇’,黑表‘威猛’,蓝表‘妖异’,金表‘神灵’之类,实与西洋的白表‘纯洁清净’,黑表‘悲哀’,红表‘热烈’,黄金色表‘光荣’和‘努力’”并无不同,这就是“色的象征”,虽然比较的单纯,低级。
这似乎也很不错,但再一想,却又生了疑问,因为白表奸诈,红表忠勇之类,是只以在脸上为限,一到别的地方,白就并不象征奸诈,红也不表示忠勇了。
对于中国戏剧史,我又是完全的外行。我只知道古时候(南北朝)的扮演故事,是带假面的,这假面上,大约一定得表示出这角色的特征,一面也是这角色的脸相的规定。古代的假面和现在的打脸的关系,好象还没有人研究过,假使有些关系,那么,“白表奸诈”之类,就恐怕只是人物的分类,却并非象征手法了。
中国古来就喜欢讲“相人术”,但自然和现在的“相面”不同,并非从气色上看出祸福来,而是所谓“诚于中,必形于外”,要从脸相上辨别这人的好坏的方法。一般的人们,也有这一种意见的,我们在现在,还常听到“看他样子就不是好人”这一类话。这“样子”的具体的表现,就是戏剧上的“脸谱”。富贵人全无心肝,只知道自私自利,吃得白白胖胖,什么都做得出,于是白就表了奸诈。红表忠勇,是从关云长的“面如重枣”来的。“重枣”是怎样的枣子,我不知道,要之,总是红色的罢。在实际上,忠勇的人思想较为简单,不会神经衰弱,面皮也容易发红,倘使他要永远中立,自称“第三种人”,精神上就不免时时痛苦,脸上一块青,一块白,终于显出白鼻子来了。黑表威猛,更是极平常的事,整年在战场上驰驱,脸孔怎会不黑,擦着雪花膏的公子,是一定不肯自己出面去战斗的。
士君子常在一门一门的将人们分类,平民也在分类,我想,这“脸谱”,便是优伶和看客公同逐渐议定的分类图。不过平民的辨别,感受的力量,是没有士君子那么细腻的。况且我们古时候戏台的搭法,又和罗马不同,使看客非常散漫,表现倘不加重,他们就觉不到,看不清。这么一来,各类人物的脸谱,就不能不夸大化,漫画化,甚而至于到得后来,弄得希奇古怪,和实际离得很远,好象象征手法了。
脸谱,当然自有它本身的意义的,但我总觉得并非象征手法,而且在舞台的构造和看客的程度和古代不同的时候,它更不过是一种赘疣,无须扶持它的存在了。然而用在别一种有意义的玩艺上,在现在,我却以为还是很有兴趣的。
(十月三十一日。)
【随便翻翻】
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况んや杜衡氏の文章は、心情が彼と異なる人々に読ませるために書かれたものである。なぜなら『文芸風景』なるこの新刊を見る者は、決して「新しい本を見るくらいなら古い本を見る方がまし」という心情を懐く友人ではないからだ。しかし新刊を見る以上、ただ一冊の『文芸風景』のみを見るには留まるまい。シェイクスピア劇を論ずる書物は多数あり、いくらか渉猟すれば、かくもびくびくと「政治家」(煽動家)に煽動されることを恐れる心情にはなるまい。かの「友人たち」は、作者の時代と環境に注意するほかに、『シーザー伝』の素材がプルタルコスの『英雄伝』から取られていることをも知るであろうし、しかもそれはシェイクスピアの──
杜衡氏はシェイクスピアの歴史劇について論じ、これを「純文学」として政治から切り離そうとした。しかし文学を政治から切り離すことは果たして可能であるか。シェイクスピアの歴史劇は政治そのものであり、彼の劇中にはエリザベス朝の権力闘争が色濃く反映されている。
「政治家に煽動されることを恐れる」とは、実は政治的な意識を持つことを恐れているに等しい。しかし文学者が政治的意識を持たぬことこそ、最も危険な政治的態度ではないか。なぜなら、政治から逃避すると称しつつ、実は現状を是認し権力に奉仕しているからだ。
シェイクスピアは決して「純文学」の象牙の塔に籠もってはいなかった。彼は当時の最も激しい政治的渦中にあり、それゆえにこそ偉大な文学を生み出し得たのだ。文学を政治から切り離そうとする者こそ、文学の力を最も恐れる者なのである。
(八月二十四日。)
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我想讲一点我的当作消闲的读书──随便翻翻。但如果弄得不好,会受害也说不定的。
我最初去读书的地方是私塾,第一本读的是《鉴略》,桌上除了这一本书和习字的描红格,对字(这是做诗的准备)的课本之外,不许有别的书。但后来竟也慢慢的认识字了,一认识字,对于书就发生了兴趣,家里原有两三箱破烂书,于是翻来翻去,大目的是找图画看,后来也看看文字。这样就成了习惯,书在手头,不管它是什么,总要拿来翻一下,或者看一遍序目,或者读几叶内容,到得现在,还是如此,不用心,不费力,往往在作文或看非看不可的书籍之后,觉得疲劳的时候,也拿这玩意来作消遣了,而且它也的确能够恢复疲劳。
倘要骗人,这方法很可以冒充博雅。现在有一些老实人,和我闲谈之后,常说我书是看得很多的,略谈一下,我也的确好象书看得很多,殊不知就为了常常随手翻翻的缘故,却并没有本本细看。还有一种很容易到手的秘本,是《四库书目提要》,倘还怕繁,那么,《简明目录》也可以,这可要细看,它能做成你好象看过许多书。不过我也曾用过正经工夫,如什么“国学”之类,请过先生指教,留心过学者所开的参考书目。结果都不满意。有些书目开得太多,要十来年才能看完,我还疑心他自己就没有看;只开几部的较好,可是这须看这位开书目的先生了,如果他是一位胡涂虫,那么,开出来的几部一定也是极顶胡涂书,不看还好,一看就胡涂。
我并不是说,天下没有指导后学看书的先生,有是有的,不过很难得。
这里只说我消闲的看书──有些正经人是反对的,以为这么一来,就“杂”!“杂”,现在又算是很坏的形容词。但我以为也有好处。譬如我们看一家的陈年账簿,每天写着“豆付三文,青菜十文,鱼五十文,酱油一文”,就知先前这几个钱就可买一天的小菜,吃够一家;看一本旧历本,写着“不宜出行,不宜沐浴,不宜上梁”,就知道先前是有这么多的禁忌。看见了宋人笔记里的“食菜事魔”,明人笔记里的“十彪五虎”,就知道“哦呵,原来‘古已有之’。”但看完一部书,都是些那时的名人轶事,某将军每餐要吃三十八碗饭,某先生体重一百七十五斤半;或是奇闻怪事,某村雷劈蜈蚣精,某妇产生人面蛇,毫无益处的也有。这时可得自己有主意了,知道这是帮闲文士所做的书。凡帮闲,他能令人消闲消得最坏,他用的是最坏的方法。倘不小心,被他诱过去,那就坠入陷阱,后来满脑子是某将军的饭量,某先生的体重,蜈蚣精和人面蛇了。
讲扶乩的书,讲婊子的书,倘有机会遇见,不要皱起眉头,显示憎厌之状,也可以翻一翻;明知道和自己意见相反的书,已经过时的书,也用一样的办法。例如杨先生的《不得已》是清初的著作,但看起来,他的思想是活着的,现在意见和他相近的人们正多得很。这也有一点危险,也就是怕被它诱过去。治法是多翻,翻来翻去,一多翻,就有比较,比较是医治受骗的好方子。乡下人常常误认一种硫化铜为金矿,空口是和他说不明白的,或者他还会赶紧藏起来,疑心你要白骗他的宝贝。但如果遇到一点真的金矿,只要用手掂一掂轻重,他就死心塌地:明白了。
“随便翻翻”是用各种别的矿石来比的方法,很费事,没有用真的金矿来比的明白,简单。我看现在青年的常在问人该读什么书,就是要看一看真金,免得受硫化铜的欺骗。而且一识得真金,一面也就真的识得了硫化铜,一举两得了。
但这样的好东西,在中国现有的书里,却不容易得到。我回忆自己的得到一点知识,真是苦得可怜。幼小时候,我知道中国在“盘古氏开辟天地”之后,有三皇五帝、……宋朝,元朝,明朝,“我大清”。到二十岁,又听说“我们”的成吉思汗征服欧洲,是“我们”最阔气的时代。到二十五岁,才知道所谓这“我们”最阔气的时代,其实是蒙古人征服了中国,我们做了奴才。直到今年八月里,因为要查一点故事,翻了三部蒙古史,这才明白蒙古人的征服“斡罗思”,侵入匈奥,还在征服全中国之前,那时的成吉思还不是我们的汗,倒是俄人被奴的资格比我们老,应该他们说“我们的成吉思汗征服中国,是我们最阔气的时代”的。
我久不看现行的历史教科书了,不知道里面怎么说;但在报章杂志上,却有时还看见以成吉思汗自豪的文章。事情早已过去了,原没有什么大关系,但也许正有着大关系,而且无论如何,总是说些真实的好。所以我想,无论是学文学的,学科学的,他应该先看一部关于历史的简明而可靠的书。但如果他专讲天王星,或海王星,虾蟆的神经细胞,或只咏梅花,叫妹妹,不发关于社会的议论,那么,自然,不看也可以的。
我自己,是因为懂一点日本文,在用日译本《世界史教程》和新出的《中国社会史》应应急的,都比我历来所见的历史书类说得明确。前一种中国曾有译本,但只有一本,后五本不译了,译得怎样,因为没有见过,不知道,后一种中国倒先有译本,叫作《中国社会发展史》,不过据日译者说,是多错误,有删节,靠不住的。
我还在希望中国有这两部书。又希望不要一哄而来,一哄而散,要译,就译他完;也不要删节,要删节,就得声明,但最好还是译得小心,完全,替作者和读者想一想。
(十一月二日。)
【拿破仑与隋那】
我认识一个医生,忙的,但也常受病家的攻击,有一回,自解自叹道:要得称赞,最好是杀人,你把拿破仑和隋那(Edward Jenner,1749─1823)去比比看……
我想,这是真的。拿破仑的战绩,和我们什么相干呢,我们却总敬服他的英雄。甚而至于自己的祖宗做了蒙古人的奴隶,我们却还恭维成吉思;从现在的卐字眼睛看来,黄人已经是劣种了,我们却还夸耀希特拉。
因为他们三个,都是杀人不眨眼的大灾星。
但我们看看自己的臂膊,大抵总有几个疤,这就是种过牛痘的痕迹,是使我们脱离了天花的危症的。自从有这种牛痘法以来,在世界上真不知救活了多少孩子,──虽然有些人大起来也还是去给英雄们做炮灰,但我们有谁记得这发明者隋那的名字呢?
杀人者在毁坏世界,救人者在修补它,而炮灰资格的诸公,却总在恭维杀人者。
这看法倘不改变,我想,世界是还要毁坏,人们也还要吃苦的。
(十一月六日。)
【答“戏”周刊编者信】
鲁迅先生鉴:
《阿Q》的第一幕已经登完了,搬上舞台实验虽还不是马上可以做到,但我们的准备工作是就要开始发动了。我们希望你能在第一幕刚登完的时候先发表一点意见,一方面对于我们的公演准备或者也有些帮助,另方面本刊的丛书计划一实现也可以把你的意见和《阿Q》剧本同时付印当作一篇序。这是编者的要求,也是作者,读者和演出的同志们的要求。祝健!
编者。
编辑先生──
在《戏》周刊上给我的公开信,我早看见了;后来又收到邮寄的一张周刊,我知道这大约是在催促我的答复。对于戏剧,我是毫无研究的,我的最可靠的答复,是一声也不响。但如果先生和读者们都肯豫先了解我不过是一个外行人的随便谈谈,那么,我自然也不妨说一点我个人的意见。
《阿Q》在每一期里,登得不多,每期相隔又有六天,断断续续的看过,也陆陆续续的忘记了。现在回忆起来,只记得那编排,将《呐喊》中的另外的人物也插进去,以显示未庄或鲁镇的全貌的方法,是很好的。但阿Q所说的绍兴话,我却有许多地方看不懂。
现在我自己想说几句的,有两点──
一,未庄在那里?《阿Q》的编者已经决定:在绍兴。我是绍兴人,所写的背景又是绍兴的居多,对于这决定,大概是谁都同意的。但是,我的一切小说中,指明着某处的却少得很。中国人几乎都是爱护故乡,奚落别处的大英雄,阿Q也很有这脾气。那时我想,假如写一篇暴露小说,指定事情是出在某处的罢,那么,某处人恨得不共戴天,非某处人却无异隔岸观火,彼此都不反省,一班人咬牙切齿,一班人却飘飘然,不但作品的意义和作用完全失掉了,还要由此生出无聊的枝节来,大家争一通闲气──《闲话扬州》是最近的例子。为了医病,方子上开人参,吃法不好,倒落得满身浮肿,用萝卜子来解,这才恢复了先前一样的瘦,人参白买了,还空空的折贴了萝卜子。人名也一样,古今文坛消息家,往往以为有些小说的根本是在报私仇,所以一定要穿凿书上的谁,就是实际上的谁。为免除这些才子学者们的白费心思,另生枝节起见,我就用“赵太爷”,“钱大爷”,是《百家姓》上最初的两个字;至于阿Q的姓呢,谁也不十分了然。但是,那时还是发生了谣言。还有排行,因为我是长男,下有两个兄弟,为豫防谣言家的毒舌起见,我的作品中的坏脚色,是没有一个不是老大,或老四,老五的。
上面所说那样的苦心,并非我怕得罪人,目的是在消灭各种无聊的副作用,使作品的力量较能集中,发挥得更强烈。果戈理作《巡按使》,使演员直接对看客道:“你们笑自己!”(奇怪的是中国的译本,却将这极要紧的一句删去了。)我的方法是在使读者摸不着在写自己以外的谁,一下子就推诿掉,变成旁观者,而疑心到象是写自己,又象是写一切人,由此开出反省的道路。但我看历来的批评家,是没有一个注意到这一点的。这回编者的对于主角阿Q所说的绍兴话,取了这样随手胡调的态度,我看他的眼睛也是为俗尘所蔽的。
但是,指定了绍兴也好。于是跟着起来的是第二个问题──
二,阿Q该说什么话?这似乎无须问,阿Q一生的事情既然出在绍兴,他当然该说绍兴话。但是第三个疑问接着又来了──
三,《阿Q》是演给那里的人们看的?倘是演给绍兴人看的,他得说绍兴话无疑。绍兴戏文中,一向是官员秀才用官话,堂倌狱卒用土话的,也就是生,旦,净大抵用官话,丑用土话。我想,这也并非全为了用这来区别人的上下,雅俗,好坏,还有一个大原因,是警句或炼话,讥刺和滑稽,十之九是出于下等人之口的,所以他必用土话,使本地的看客们能够彻底的了解。那么,这关系之重大,也就可想而知了。其实,倘使演给绍兴的人们看,别的脚色也大可以用绍兴话,因为同是绍兴话,所谓上等人和下等人说的也并不同,大抵前者句子简,语助词和感叹词少,后者句子长,语助词和感叹词多,同一意思的一句话,可以冗长到一倍。但如演给别处的人们看,这剧本的作用却减弱,或者简直完全消失了。据我所留心观察,凡有自以为深通绍兴话的外县人,他大抵是像目前标点明人小品的名人一样,并不怎么懂得的;至于北方或闽粤人,我恐怕他听了之后,不会比听外国马戏里的打诨更有所得。
我想,普遍,永久,完全,这三件宝贝,自然是了不得的,不过也是作家的棺材钉,会将他钉死。譬如现在的中国,要编一本随时随地,无不可用的剧本,其实是不可能的,要这样编,结果就是编不成。所以我以为现在的办法,只好编一种对话都是比较的容易了解的剧本,倘在学校之类这些地方扮演,可以无须改动,如果到某一省县,某一乡村里面去,那么,这本子就算是一个底本,将其中的说白都改为当地的土话,不但语言,就是背景,人名,也都可变换,使看客觉得更加切实。譬如罢,如果这演剧之处并非水村,那么,航船可以化为大车,七斤也可以叫作“小辫儿”的。
我的意见说完了,总括一句,不过是说,这剧本最好是不要专化,却使大家可以活用。
临末还有一点尾巴,当然决没有叭儿君的尾巴的有趣。这是我十分抱歉的,不过还是非说不可。记得几个月之前,曾经回答过一个朋友的关于大众语的质问,这信后来被发表在《社会月报》上了,末了是杨邨人先生的一篇文章。一位绍伯先生就在《火炬》上说我已经和杨邨人先生调和,并且深深的感慨了一番中国人之富于调和性。这一回,我的这一封信,大约也要发表的罢,但我记得《戏》周刊上已曾发表过曾今可叶灵凤两位先生的文章;叶先生还画了一幅阿Q像,好象我那一本《呐喊》还没有在上茅厕时候用尽,倘不是多年便秘,那一定是又买了一本新的了。如果我被绍伯先生的判决所震慑,这回是应该不敢再写什么的,但我想,也不必如此。只是在这里要顺便声明:我并无此种权力,可以禁止别人将我的信件在刊物上发表,而且另外还有谁的文章,更无从豫先知道,所以对于同一刊物上的任何作者,都没有表示调和与否的意思;但倘有同一营垒中人,化了装从背后给我一刀,则我的对于他的憎恶和鄙视,是在明显的敌人之上的。
这倒并非个人的事情,因为现在又到了绍伯先生可以施展老手段的时候,我若不声明,则我所说过的各节,纵非买办意识,也是调和论了,还有什么意思呢?
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私がここで語りたいのは、消閑として行う私の読書──つまり気ままに頁を繰ること──についてである。しかしやり方を誤れば、害を被ることもなきにしもあらずだ。
私が最初に読書をした場所は私塾で、最初に読んだのは『鑑略』であり、机の上にはこの一冊と習字の描紅と対字(詩作の準備)の課本があるのみで、他の書物は許されなかった。しかし後にようやく徐々に文字を覚え、文字を覚えるや書物に興味を持つようになった。家にはもとより二、三箱の破れた古書があり、それを繰り返し繰り返しめくった。大きな目的は図画を見ることであったが、後には文字も読むようになった。かくして習慣となり、手元に書物があれば、それが何であろうと手に取って繰ってみるか、目次だけでも見ずにはいられなくなった。
この「気ままに頁を繰る」という読書法は、一見すると無秩序で非効率に見えるが、実は計り知れぬ利点がある。体系的な読書は一つの方向に深く掘り下げるが、気ままな読書は思いがけぬ発見をもたらす。ある分野の専門家にはなれぬかもしれぬが、広い視野と柔軟な思考を養う。
しかし最大の利点は、権威に盲従しなくなることだ。特定の学派や主義のみを読む者は、やがてその学派の奴隷となる。しかし気ままに読む者は、様々な立場の文章に触れるがゆえに、いかなる権威をも絶対視しなくなる。
もっとも、この読書法には危険もある。何でも読むということは、有害な書物をも読むということだ。しかし有害か有益かは、読む前には分からぬ。読んでみて初めて分かるのであり、そのためにもまず読まねばならぬ。
されば私の忠告はこうだ──何でも読め、ただし何も信ずるな。
(九月五日。)
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专此布复,即请
文安。
鲁迅。十一月十四日。
【寄“戏”周刊编者信】
编辑先生:
今天看《戏》周刊第十四期,《独白》上“抱憾”于不得我的回信,但记得这信已于前天送出了,还是病中写的,自以为巴结得很,现在特地声明,算是讨好之意。
在这周刊上,看了几个阿Q像,我觉得都太特别,有点古里古怪。我的意见,以为阿Q该是三十岁左右,样子平平常常,有农民式的质朴,愚蠢,但也很沾了些游手之徒的狡猾。在上海,从洋车夫和小车夫里面,恐怕可以找出他的影子来的,不过没有流氓样,也不像瘪三样。只要在头上戴上一顶瓜皮小帽,就失去了阿Q,我记得我给他戴的是毡帽。这是一种黑色的,半圆形的东西,将那帽边翻起一寸多,戴在头上的;上海的乡下,恐怕也还有人戴。
报上说要图画,我这里有十张,是陈铁耕君刻的,今寄上,如不要,仍请寄回。他是广东人,所用的背景有许多大约是广东。第二,第三之二,第五,第七这四幅,比较刻的好;第三之一和本文不符;第九更远于事实,那时那里有摩托车给阿Q坐呢?该是大车,有些地方叫板车,是一种马拉的四轮的车,平时是载货物的。但绍兴也并没有这种车,我用的是那时的北京的情形,我在绍兴,其实并未见过这样的盛典。
又,今天的《阿Q正传》上说:“小D大约是小董罢?”并不是的。他叫“小同”,大起来,和阿Q一样。
专此布达,并请
撰安。
鲁迅上。十一月十八日。
【中国文坛上的鬼魅】
一
当国民党对于共产党从合作改为剿灭之后,有人说,国民党先前原不过利用他们的,北伐将成的时候,要施行剿灭是豫定的计划。但我以为这说的并不是真实。国民党中很有些有权力者,是愿意共产的,他们那时争先恐后的将自己的子女送到苏联去学习,便是一个证据,因为中国的父母,孩子是他们第一等宝贵的人,他们决不至于使他们去练习做剿灭的材料。不过权力者们好象有一种错误的思想,他们以为中国只管共产,但他们自己的权力却可以更大,财产和姨太太也更多;至少,也总不会比不共产还要坏。
我们有一个传说。大约二千年之前,有一个刘先生,积了许多苦功,修成神仙,可以和他的夫人一同飞上天去了,然而他的太太不愿意。为什么呢?她舍不得住着的老房子,养着的鸡和狗。刘先生只好去恳求上帝,设法连老房子、鸡、狗,和他们俩全都弄到天上去,这才做成了神仙。也就是大大的变化了,其实却等于并没有变化。假使共产主义国里可以毫不改动那些权力者的老样,或者还要阔,他们是一定赞成的。然而后来的情形证明了共产主义没有上帝那样的可以通融办理,于是才下了剿灭的决心。孩子自然是第一等宝贵的人,但自己究竟更宝贵。
于是许多青年们,共产主义者及其嫌疑者,左倾者及其嫌疑者,以及这些嫌疑者的朋友们,就到处用自己的血来洗自己的错误,以及那些权力者们的错误。权力者们的先前的错误,是受了他们的欺骗的,所以必得用他们的血来洗干净。然而另有许多青年们,却还不知底细,在苏联学毕,骑着骆驼高高兴兴的由蒙古回来了。我记得有一个外国旅行者还曾经看得酸心,她说,他们竟不知道现在在祖国等候他们的,却已经是绞架。
不错,是绞架。但绞架还不算坏,简简单单的只用绞索套住了颈子,这是属于优待的。而且也并非个个走上了绞架,他们之中的一些人,还有一条路,是使劲的拉住了那颈子套上了绞索的朋友的脚。这就是用事实来证明他内心的忏悔,能忏悔的人,精神是极其崇高的。
二
从此而不知忏悔的共产主义者,在中国就成了该杀的罪人。而且这罪人,却又给了别人无穷的便利;他们成为商品,可以卖钱,给人添出职业来了。而且学校的风潮,恋爱的纠纷,也总有一面被指为共产党,就是罪人,因此极容易的得到解决。如果有谁和有钱的诗人辩论,那诗人的最后的结论是:共产党反对资产阶级,我有钱,他反对我,所以他是共产党。于是诗神就坐了金的坦克车,凯旋了。
但是,革命青年的血,却浇灌了革命文学的萌芽,在文学方面,倒比先前更其增加了革命性。政府里很有些从外国学来,或在本国学得的富于智识的青年,他们自然是觉得的,最先用的是极普通的手段:禁止书报,压迫作者,终于是杀戮作者,五个左翼青年作家就做了这示威的牺牲。然而这事件又并没有公表,他们很知道,这事是可以做,却不可以说的。古人也早经说过,“以马上得天下,不能以马上治之。”所以要剿灭革命文学,还得用文学的武器。
作为这武器而出现的,是所谓“民族文学”。他们研究了世界上各人种的脸色,决定了脸色一致的人种,就得取同一的行为,所以黄色的无产阶级,不该和黄色的有产阶级斗争,却该和白色的无产阶级斗争。他们还想到了成吉思汗,作为理想的标本,描写他的孙子拔都汗,怎样率领了许多黄色的民族,侵入斡罗斯,将他们的文化摧残,贵族和平民都做了奴隶。
中国人跟了蒙古的可汗去打仗,其实是不能算中国民族的光荣的,但为了扑灭斡罗斯,他们不能不这样做,因为我们的权力者,现在已经明白了古之斡罗斯,即今之苏联,他们的主义,是决不能增加自己的权力,财富和姨太太的了。然而,现在的拔都汗是谁呢?
一九三一年九月,日本占据了东三省,这确是中国人将要跟着别人去毁坏苏联的序曲,民族主义文学家们可以满足的了。但一般的民众却以为目前的失去东三省,比将来的毁坏苏联还紧要,他们激昂了起来。于是民族主义文学家也只好顺风转舵,改为对于这事件的啼哭,叫喊了。许多热心的青年们往南京去请愿,要求出兵;然而这须经过极辛苦的试验,火车不准坐,露宿了几日,才给他们坐到南京,有许多是只好用自己的脚走。到得南京,却不料就遇到一大队曾经训练过的“民众”,手里是棍子,皮鞭,手枪,迎头一顿打,使他们只好脸上或身上肿起几块,当作结果,垂头丧气的回家,有些人还从此找不到,有的是在水里淹死了,据报上说,那是他们自己掉下去的。
民族主义文学家们的啼哭也从此收了场,他们的影子也看不见了,他们已经完成了送丧的任务。这正和上海的葬式行列是一样的,出去的时候,有杂乱的乐队,有唱歌似的哭声,但那目的是在将悲哀埋掉,不再记忆起来;目的一达,大家走散,再也不会成什么行列的了。
三
但是,革命文学是没有动摇的,还发达起来,读者们也更加相信了。
于是别一方面,就出现了所谓“第三种人”,是当然决非左翼,但又不是右翼,超然于左右之外的人物。他们以为文学是永久的,政治的现象是暂时的,所以文学不能和政治相关,一相关,就失去它的永久性,中国将从此没有伟大的作品。不过他们,忠实于文学的“第三种人”,也写不出伟大的作品。为什么呢?是因为左翼批评家不懂得文学,为邪说所迷,对于他们的好作品,都加以严酷而不正确的批评,打击得他们写不出来了。所以左翼批评家,是中国文学的刽子手。
至于对于政府的禁止刊物,杀戮作家呢,他们不谈,因为这是属于政治的,一谈,就失去他们的作品的永久性了;况且禁压,或杀戮“中国文学的刽子手”之流,倒正是“第三种人”的永久的文学,伟大的作品的保护者。
这一种微弱的假惺惺的哭诉,虽然也是一种武器,但那力量自然是很小的,革命文学并不为它所击退。“民族主义文学”已经自灭,“第三种文学”又站不起来,这时候,只好又来一次真的武器了。
一九三三年十一月,上海的艺华影片公司突然被一群人们所袭击,捣毁得一塌胡涂了。他们是极有组织的,吹一声哨,动手,又一声哨,停止,又一声哨,散开。临时还留下了传单,说他们的所以征伐,是为了这公司为共产党所利用。而且所征伐的还不止影片公司,又蔓延到书店方面去,大则一群人闯进去捣毁一切,小则不知从那里飞来一块石子,敲碎了值洋二百的窗玻璃。那理由,自然也是因为这书店为共产党所利用。高价的窗玻璃的不安全,是使书店主人非常心痛的。几天之后,就有“文学家”将自己的“好作品”来卖给他了,他知道印出来是没有人看的,但得买下,因为价钱不过和一块窗玻璃相当,而可以免去第二块石子,省了修理窗门的工作。
四
压迫书店,真成为最好的战略了。
但是,几块石子是还嫌不够的。中央宣传委员会也查禁了一大批书,计一百四十九种,凡是销行较多的,几乎都包括在里面。中国左翼作家的作品,自然大抵是被禁止的,而且又禁到译本。要举出几个作者来,那就是高尔基(Gorky),卢那卡尔斯基(Lunacharsky),斐定(Fedin),法捷耶夫(Fadeev),绥拉斐摩维支(Serafimovich),辛克莱(Upton Sinclair),甚而至于梅迪林克(Maeterlinck),梭罗古勃(Sologub),斯忒林培克(Strindberg)。
这真使出版家很为难,他们有的是立刻将书缴出,烧毁了,有的却还想补救,和官厅去商量,结果是免除了一部分。为减少将来的出版的困难起见,官员和出版家还开了一个会议。在这会议上,有几个“第三种人”因为要保护好的文学和出版家的资本,便以杂志编辑者的资格提议,请采用日本的办法,在付印之前,先将原稿审查,加以删改,以免别人也被左翼作家的作品所连累而禁止,或印出后始行禁止而使出版家受亏。这提议很为各方面所满足,当即被采用了,虽然并不是光荣的拔都汗的老方法。
而且也即开始了实行,今年七月,在上海就设立了书籍杂志检查处,许多“文学家”的失业问题消失了,还有些改悔的革命作家们,反对文学和政治相关的“第三种人”们,也都坐上了检查官的椅子。他们是很熟悉文坛情形的;头脑没有纯粹官僚的胡涂,一点讽刺,一句反语,他们都比较的懂得所含的意义,而且用文学的笔来涂抹,无论如何总没有创作的烦难,于是那成绩,听说是非常之好了。
但是,他们的引日本为榜样,是错误的。日本固然不准谈阶级斗争,却并不说世界上并无阶级斗争,而中国则说世界上其实无所谓阶级斗争,都是马克斯捏造出来的,所以这不准谈,为的是守护真理。日本固然也禁止,删削书籍杂志,但在被删削之处,是可以留下空白的,使读者一看就明白这地方是受了删削,而中国却不准留空白,必须连起来,在读者眼前好象还是一篇完整的文章,只是作者在说着意思不明的昏话。这种在现在的中国读者面前说昏话,是弗理契(Friche),卢那卡尔斯基他们也在所不免的。
于是出版家的资本安全了,“第三种人”的旗子不见了,他们也在暗地里使劲的拉那上了绞架的同业的脚,而没有一种刊物可以描出他们的原形,因为他们正握着涂抹的笔尖,生杀的权力。在读者,只看见刊物消沉,作品的衰落,和外国一向有名的前进的作家,今年也大抵忽然变了低能者而已。
然而在实际上,文学界的阵线却更加分明了。蒙蔽是不能长久的,接着起来的又将是一场血腥的战斗。
(十一月二十一日。)
【关于新文字】
──答问
比较,是最好的事情。当没有知道拼音字之前,就不会想到象形字的难;当没有看见拉丁化的新文字之前,就很难明确的断定以前的注音字母和罗马字拼法,也还是麻烦的,不合实用,也没有前途的文字。
方块汉字真是愚民政策的利器,不但劳苦大众没有学习和学会的可能,就是有钱有势的特权阶级,费时一二十年,终于学不会的也多得很。最近,宣传古文的好处的教授,竟将古文的句子也点错了,就是一个证据──他自己也没有懂。不过他们可以装作懂得的样子,来胡说八道,欺骗不明真相的人。
所以,汉字也是中国劳苦大众身上的一个结核,病菌都潜伏在里面,倘不首先除去它,结果只有自己死。先前也曾有过学者,想出拼音字来,要大家容易学,也就是更容易教训,并且延长他们服役的生命,但那些字都还很繁琐,因为学者总忘不了官话,四声,以及这是学者创造出来的字,必需有学者的气息。这回的新文字却简易得远了,又是根据于实生活的,容易学,有用,可以用这对大家说话,听大家的话,明白道理,学得技艺,这才是劳苦大众自己的东西,首先的唯一的活路。
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右、御返事まで。
文安を祈る。
魯迅。十一月十四日。
【『戯』週刊編者への手紙】
編集先生:
本日『戯』週刊第十四期を見ましたところ、『独白』に私の返信が得られなかったことを「遺憾」に思うとありましたが、思い起こせばこの手紙は一昨日既に発送したはずで、しかも病中に書いたものであり、自分ではなかなか精一杯やったつもりでおりました。ここに特に申し明け、いささか御機嫌伺いの意とします。
この週刊に載ったいくつかの阿Q像を見ましたが、いずれも余りに特異で、いささか奇妙な感じがします。私の考えでは、阿Qは三十歳前後で、容貌はごく平凡、農民風の──
阿Qの像を描くということは、ある意味では中国の農民を描くということに等しい。しかし多くの画家は阿Qを「異常な人間」として描こうとする。これは大きな間違いである。阿Qの悲劇はまさに彼が平凡であることにあり、彼が特異な人間であったならば、そもそも悲劇は成り立たぬ。
阿Qは我々の隣人であり、我々自身でもある。彼を奇人変人として描くのは、自分自身の中の阿Q的なものから目を背けることに他ならない。
私が望む阿Qの像は、街を歩いていてもすれ違う人の中に見つけられるような、そのような平凡な顔である。奇を衒った造形は、かえって阿Qの精神から遠ざかる。
しかしこれは画家を責めているのではない。文学作品の人物を視覚化することは常に困難な仕事であり、読者各々が心中に描く像は皆異なるのだから。
(十一月十四日。)
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现在正在中国试验的新文字,给南方人读起来,是不能全懂的。现在的中国,本来还不是一种语言所能统一,所以必须另照各地方的言语来拼,待将来再图沟通。反对拉丁化文字的人,往往将这当作一个大缺点,以为反而使中国的文字不统一了,但他却抹杀了方块汉字本为大多数中国人所不识,有些知识阶级也并不真识的事实。
然而他们却深知道新文字对于劳苦大众有利,所以在弥漫着白色恐怖的地方,这新文字是一定要受摧残的。现在连并非新文字,而只是更接近口语的“大众语”,也在受着苛酷的压迫和摧残。中国的劳苦大众虽然并不识字,但特权阶级却还嫌他们太聪明了,正竭力的弄麻木他们的思索机关呢,例如用飞机掷下炸弹去,用机关枪送过子弹去,用刀斧将他们的颈子砍断,就都是的。
(十二月九日。)
【病后杂谈】
一
生一点病,的确也是一种福气。不过这里有两个必要条件:一要病是小病,并非什么霍乱吐泻,黑死病,或脑膜炎之类;二要至少手头有一点现款,不至于躺一天,就饿一天。这二者缺一,便是俗人,不足与言生病之雅趣的。
我曾经爱管闲事,知道过许多人,这些人物,都怀着一个大愿。大愿,原是每个人都有的,不过有些人却模模胡胡,自己抓不住,说不出。他们中最特别的有两位:一位是愿天下的人都死掉,只剩下他自己和一个好看的姑娘,还有一个卖大饼的;另一位是愿秋天薄暮,吐半口血,两个侍儿扶着,恹恹的到阶前去看秋海棠。这种志向,一看好象离奇,其实却照顾得很周到。第一位姑且不谈他罢,第二位的“吐半口血”,就有很大的道理。才子本来多病,但要“多”,就不能重,假使一吐就是一碗或几升,一个人的血,能有几回好吐呢?过不几天,就雅不下去了。
我一向很少生病,上月却生了一点点。开初是每晚发热,没有力,不想吃东西,一礼拜不肯好,只得看医生。医生说是流行性感冒。好罢,就是流行性感冒。但过了流行性感冒一定退热的时期,我的热却还不退。医生从他那大皮包里取出玻璃管来,要取我的血液,我知道他在疑心我生伤寒病了,自己也有些发愁。然而他第二天对我说,血里没有一粒伤寒菌;于是注意的听肺,平常;听心,上等。这似乎很使他为难。我说,也许是疲劳罢;他也不甚反对,只是沉吟着说,但是疲劳的发热,还应该低一点。……
好几回检查了全体,没有死症,不至于呜呼哀哉是明明白白的,不过是每晚发热,没有力,不想吃东西而已,这真无异于“吐半口血”,大可享生病之福了。因为既不必写遗嘱,又没有大痛苦,然而可以不看正经书,不管柴米账,玩他几天,名称又好听,叫作“养病”。从这一天起,我就自己觉得好象有点儿“雅”了;那一位愿吐半口血的才子,也就是那时躺着无事,忽然记了起来的。
光是胡思乱想也不是事,不如看点不劳精神的书,要不然,也不成其为“养病”。像这样的时候,我赞成中国纸的线装书,这也就是有点儿“雅”起来了的证据。洋装书便于插架,便于保存,现在不但有洋装二十五六史,连《四部备要》也硬领而皮靴了,──原是不为无见的。但看洋装书要年富力强,正襟危坐,有严肃的态度。假使你躺着看,那就好象两只手捧着一块大砖头,不多工夫,就两臂酸麻,只好叹一口气,将它放下。所以,我在叹气之后,就去寻线装书。
一寻,寻到了久不见面的《世说新语》之类一大堆,躺着来看,轻飘飘的毫不费力了,魏晋人的豪放潇洒的风姿,也仿佛在眼前浮动。由此想到阮嗣宗的听到步兵厨善于酿酒,就求为步兵校尉;陶渊明的做了彭泽令,就教官田都种秫,以便做酒,因了太太的抗议,这才种了一点秔。这真是天趣盎然,决非现在的“站在云端里呐喊”者们所能望其项背。但是,“雅”要想到适可而止,再想便不行。例如阮嗣宗可以求做步兵校尉,陶渊明补了彭泽令,他们的地位,就不是一个平常人,要“雅”,也还是要地位。“采菊东篱下,悠然见南山”是渊明的好句,但我们在上海学起来可就难了。没有南山,我们还可以改作“悠然见洋房”或“悠然见烟囱”的,然而要租一所院子里有点竹篱,可以种菊的房子,租钱就每月总得一百两,水电在外;巡捕捐按房租百分之十四,每月十四两。单是这两项,每月就是一百十四两,每两作一元四角算,等于一百五十九元六。近来的文稿又不值钱,每千字最低的只有四五角,因为是学陶渊明的雅人的稿子,现在算他每千字三大元罢,但标点,洋文,空白除外。那么,单单为了采菊,他就得每月译作净五万三千二百字。吃饭呢?要另外想法子生发,否则,他只好“饥来驱我去,不知竟何之”了。
“雅”要地位,也要钱,古今并不两样的,但古代的买雅,自然比现在便宜;办法也并不两样,书要摆在书架上,或者抛几本在地板上,酒杯要摆在桌子上,但算盘却要收在抽屉里,或者最好是在肚子里。
此之谓“空灵”。
二
为了“雅”,本来不想说这些话的。后来一想,这于“雅”并无伤,不过是在证明我自己的“俗”。王夷甫口不言钱,还是一个不干不净人物,雅人打算盘,当然也无损其为雅人。不过他应该有时收起算盘,或者最妙是暂时忘却算盘,那么,那时的一言一笑,就都是灵机天成的一言一笑,如果念念不忘世间的利害,那可就成为“杭育杭育派”了。这关键,只在一者能够忽而放开,一者却是永远执着,因此也就大有了雅俗和高下之分。我想,这和时而“敦伦”者不失为圣贤,连白天也在想女人的就被称为“登徒子”的道理,大概是一样的。
所以我恐怕只好自己承认“俗”,因为随手翻了一通《世说新语》,看过“娵隅跃清池”的时候,千不该万不该的竟从“养病”想到“养病费”上去了,于是一骨碌爬起来,写信讨版税,催稿费。写完之后,觉得和魏晋人有点隔膜,自己想,假使此刻有阮嗣宗或陶渊明在面前出现,我们也一定谈不来的。于是另换了几本书,大抵是明末清初的野史,时代较近,看起来也许较有趣味。第一本拿在手里的是《蜀碧》。
这是蜀宾从成都带来送我的,还有一部《蜀龟鉴》,都是讲张献忠祸蜀的书,其实是不但四川人,而是凡有中国人都该翻一下的著作,可惜刻的太坏,错字颇不少。翻了一遍,在卷三里看见了这样的一条──
“又,剥皮者,从头至尻,一缕裂之,张于前,如鸟展翅,率逾日始绝。有即毙者,行刑之人坐死。”
也还是为了自己生病的缘故罢,这时就想到了人体解剖。医术和虐刑,是都要生理学和解剖学智识的。中国却怪得很,固有的医书上的人身五脏图,真是草率错误到见不得人,但虐刑的方法,则往往好象古人早懂得了现代的科学。例如罢,谁都知道从周到汉,有一种施于男子的“宫刑”,也叫“腐刑”,次于“大辟”一等。对于女性就叫“幽闭”,向来不大有人提起那方法,但总之,是决非将她关起来,或者将它缝起来。近时好象被我查出一点大概来了,那办法的凶恶,妥当,而又合乎解剖学,真使我不得不吃惊。但妇科的医书呢?几乎都不明白女性下半身的解剖学的构造,他们只将肚子看作一个大口袋,里面装着莫名其妙的东西。
单说剥皮法,中国就有种种。上面所抄的是张献忠式;还有孙可望式,见于屈大均的《安龙逸史》,也是这回在病中翻到的。其时是永历六年,即清顺治九年,永历帝已经躲在安隆(那时改为安龙),秦王孙可望杀了陈邦传父子,御史李如月就弹劾他“擅杀勋将,无人臣礼”,皇帝反打了如月四十板。可是事情还不能完,又给孙党张应科知道了,就去报告了孙可望。
“可望得应科报,即令应科杀如月,剥皮示众。俄缚如月至朝门,有负石灰一筐,稻草一捆,置于其前。如月问,‘如何用此?’其人曰,‘是揎你的草!’,如月叱曰,‘瞎奴!此株株是文章,节节是忠肠也!’既而应科立右角门阶,捧可望令旨,喝如月跪。如月叱曰,‘我是朝廷命官,岂跪贼令!?’乃步至中门,向阙再拜。……应科促令仆地,剖脊,及臀,如月大呼曰:‘死得快活,浑身清凉!’又呼可望名,大骂不绝。及断至手足,转前胸,犹微声恨骂;至颈绝而死。随以灰渍之,纫以线,后乃入草,移北城门通衢阁上,悬之。……”
张献忠的自然是“流贼”式;孙可望虽然也是流贼出身,但这时已是保明拒清的柱石,封为秦王,后来降了满洲,还是封为义王,所以他所用的其实是官式。明初,永乐皇帝剥了那忠于建文帝的景清的皮,也就是用这方法的。大明一朝,以剥皮始,以剥皮终,可谓始终不变;至今在绍兴戏文里和乡下人的嘴上,还偶然可以听到“剥皮揎草”的话,那皇泽之长也就可想而知了。
真也无怪有些慈悲心肠人不愿意看野史,听故事;有些事情,真也不像人世,要令人毛骨悚然,心里受伤,永不全愈的。残酷的事实尽有,最好莫如不闻,这才可以保全性灵,也是“是以君子远庖厨也”的意思。比灭亡略早的晚明名家的潇洒小品在现在的盛行,实在也不能说是无缘无故。不过这一种心地晶莹的雅致,又必须有一种好境遇,李如月仆地“剖脊”,脸孔向下,原是一个看书的好姿势,但如果这时给他看袁中郎的《广庄》,我想他是一定不要看的。这时他的性灵有些儿不对,不懂得真文艺了。
然而,中国的士大夫是到底有点雅气的,例如李如月说的“株株是文章,节节是忠肠”,就很富于诗趣。临死做诗的,古今来也不知道有多少。直到近代,谭嗣同在临刑之前就做一绝“闭门投辖思张俭”,秋瑾女士也有一句“秋雨秋风愁杀人”,然而还雅得不够格,所以各种诗选里都不载,也不能卖钱。
三
清朝有灭族,有凌迟,却没有剥皮之刑,这是汉人应该惭愧的,但后来脍炙人口的虐政是文字狱。虽说文字狱,其实还含着许多复杂的原因,在这里不能细说;我们现在还直接受到流毒的,是他删改了许多古人的著作的字句,禁了许多明清人的书。
《安龙逸史》大约也是一种禁书,我所得的是吴兴刘氏嘉业堂的新刻本。他刻的前清禁书还不止这一种,屈大均的又有《翁山文外》;还有蔡显的《闲渔闲闲录》,是作者因此“斩立决”,还累及门生的,但我细看了一遍,却又寻不出什么忌讳。对于这种刻书家,我是很感激的,因为他传授给我许多知识──虽然从雅人看来,只是些庸俗不堪的知识。但是到嘉业堂去买书,可真难。我还记得,今年春天的一个下午,好容易在爱文义路找着了,两扇大铁门,叩了几下,门上开了一个小方洞,里面有中国门房,中国巡捕,白俄镖师各一位。巡捕问我来干什么的。我说买书。他说账房出去了,没有人管,明天再来罢。我告诉他我住得远,可能给我等一会呢?他说,不成!同时也堵住了那个小方洞。过了两天,我又去了,改作上午,以为此时账房也许不至于出去。但这回所得回答却更其绝望,巡捕曰:“书都没有了!卖完了!不卖了!”
我就没有第三次再去买,因为实在回复的斩钉截铁。现在所有的几种,是托朋友去辗转买来的,好象必须是熟人或走熟的书店,这才买得到。
每种书的末尾,都有嘉业堂主人刘承干先生的跋文,他对于明季的遗老很有同情,对于清初的文祸也颇不满。但奇怪的是他自己的文章却满是前清遗老的口风;书是民国刻的,“儀”还缺着末笔。我想,试看明朝遗老的著作,反抗清朝的主旨,是在异族的入主中夏的,改换朝代,倒还在其次。所以要顶礼明末的遗民,必须接受他的民族思想,这才可以心心相印。现在以明遗老之仇的满清的遗老自居,却又引明遗老为同调,只着重在“遗老”两个字,而毫不问遗于何族,遗在何时,这真可以说是“为遗老而遗老”,和现在文坛上的“为艺术而艺术”,成为一副绝好的对子了。
倘以为这是因为“食古不化”的缘故,那可也并不然。中国的士大夫,该化的时候,就未必决不化。就如上面说过的《蜀龟鉴》,原是一部笔法都仿《春秋》的书,但写到“圣祖仁皇帝康熙元年春正月”,就有“赞”道:“……明季之乱甚矣!风终豳,雅终《召旻》,托乱极思治之隐忧而无其实事,孰若臣祖亲见之,臣身亲被之乎?是编以元年正月终者,非徒谓体元表正,蔑以加兹;生逢 盛世,荡荡难名,一以寄没世不忘之恩,一以见太平之业所由始耳!”
《春秋》上是没有这种笔法的。满洲的肃王的一箭,不但射死了张献忠,也感化了许多读书人,而且改变了“春秋笔法”了。
四
病中来看这些书,归根结蒂,也还是令人气闷。但又开始知道了有些聪明的士大夫,依然会从血泊里寻出闲适来。例如《蜀碧》,总可以说是够惨的书了,然而序文后面却刻着一位乐斋先生的批语道:“古穆有魏晋间人笔意。”
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現在中国で試験中の新文字は、南方人が読むには全てを理解し得ぬ。今の中国は本来一種の言語で統一し得るものではなく、されば各地方の言語に照らして別にローマ字表記を作り、将来の疎通を図らねばならぬ。ラテン化新文字に反対する者は、往々にしてこれを一大欠点として挙げ、かえって中国の文字を不統一にするではないかと言う。しかし彼らは、方塊漢字がもともと中国人の大多数に識られず、知識階級の一部にも真に識られていないという事実を抹殺しているのだ。
しかしながら彼らは、新文字が労苦する大衆に利するものであることを深く知っている。されば白色テロルの瀰漫する地方においては、この新文字は必ず摧残を受けるのである。今や並べて──
ラテン化新文字の問題は、単に言語学の問題ではなく、政治の問題である。漢字を読めぬ者が多数を占める社会にあって、漢字はそのまま権力の道具となっている。漢字を知る少数者が知識を独占し、知らぬ多数者を支配する──これが中国の知識構造の根本である。
新文字はこの構造を打破し得る。だからこそ権力者はこれを恐れ、弾圧するのだ。「文字の統一」を口実にした反対は、実は「無知の維持」を企図するものに他ならぬ。
漢字の美しさを愛する心情は理解できるが、美しさを理由に大衆の知識への権利を奪うことは許されぬ。文字の目的は美ではなく伝達であり、伝達し得ぬ文字は、いかに美しくとも文字たる資格を失うのだ。
(十一月二十四日。)
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这真是天大的本领!那死似的镇静,又将我的气闷打破了。
我放下书,合了眼睛,躺着想想学这本领的方法,以为这和“君子远庖厨也”的法子是大两样的,因为这时是君子自己也亲到了庖厨里。瞑想的结果,拟定了两手太极拳。一,是对于世事要“浮光掠影”,随时忘却,不甚了然,仿佛有些关心,却又并不恳切;二,是对于现实要“蔽聪塞明”,麻木冷静,不受感触,先由努力,后成自然。第一种的名称不大好听,第二种却也是却病延年的要诀,连古之儒者也并不讳言的。这都是大道。还有一种轻捷的小道,是:彼此说谎,自欺欺人。
有些事情,换一句话说就不大合式,所以君子憎恶俗人的“道破”。其实,“君子远庖厨也”就是自欺欺人的办法:君子非吃牛肉不可,然而他慈悲,不忍见牛的临死的觳觫,于是走开,等到烧成牛排,然后慢慢的来咀嚼。牛排是决不会“觳觫”的了,也就和慈悲不再有冲突,于是他心安理得,天趣盎然,剔剔牙齿,摸摸肚子,“万物皆备于我矣”了。彼此说谎也决不是伤雅的事情,东坡先生在黄州,有客来,就要客谈鬼,客说没有,东坡道:“姑妄言之!”至今还算是一件韵事。
撒一点小谎,可以解无聊,也可以消闷气;到后来,忘却了真,相信了谎。也就心安理得,天趣盎然了起来。永乐的硬做皇帝,一部分士大夫是颇以为不大好的。尤其是对于他的惨杀建文的忠臣。和景清一同被杀的还有铁铉,景清剥皮,铁铉油炸,他的两个女儿则发付了教坊,叫她们做婊子。这更使士大夫不舒服,但有人说,后来二女献诗于原问官,被永乐所知,赦出,嫁给士人了。
这真是“曲终奏雅”,令人如释重负,觉得天皇毕竟圣明,好人也终于得救。她虽然做过官妓,然而究竟是一位能诗的才女,她父亲又是大忠臣,为夫的士人,当然也不算辱没。但是,必须“浮光掠影”到这里为止,想不得下去。一想,就要想到永乐的上谕,有些是凶残猥亵,将张献忠祭梓潼神的“咱老子姓张,你也姓张,咱老子和你联了宗罢。尚飨!”的名文,和他的比起来,真是高华典雅,配登西洋的上等杂志,那就会觉得永乐皇帝决不像一位爱才怜弱的明君。况且那时的教坊是怎样的处所?罪人的妻女在那里是并非静候嫖客的,据永乐定法,还要她们“转营”,这就是每座兵营里都去几天,目的是在使她们为多数男性所凌辱,生出“小龟子”和“淫贱材儿”来!所以,现在成了问题的“守节”,在那时,其实是只准“良民”专利的特典。在这样的治下,这样的地狱里,做一首诗就能超生的么?
我这回从杭世骏的《订讹类编》(续补卷上)里,这才确切的知道了这佳话的欺骗。他说:
“……考铁长女诗,乃吴人范昌期《题老妓卷》作也。诗云:‘教坊落籍洗铅华,一片春心对落花。旧曲听来空有恨,故园归去却无家。云鬟半临青镜,雨泪频弹湿绛纱。安得江州司马在,尊前重为赋琵琶。’昌期,字鸣凤;诗见张士瀹《国朝文纂》。同时杜琼用嘉亦有次韵诗,题曰《无题》,则其非铁氏作明矣。次女诗所谓‘春来雨露深如海,嫁得刘郎胜阮郎’,其论尤为不伦。宗正睦论革除事,谓建文流落西南诸诗,皆好事伪作,则铁女之诗可知。……”
《国朝文纂》我没有见过,铁氏次女的诗,杭世骏也并未寻出根底,但我以为他的话是可信的,──虽然他败坏了口口相传的韵事。况且一则他也是一个认真的考证学者,二则我觉得凡是得到大杀风景的结果的考证,往往比表面说得好听,玩得有趣的东西近真。
首先将范昌期的诗嫁给铁氏长女,聊以自欺欺人的是谁呢?我也不知道。但“浮光掠影”的一看,倒也罢了,一经杭世骏道破,再去看时,就很明白的知道了确是咏老妓之作,那第一句就不像现任官妓的口吻。不过中国的有一些士大夫,总爱无中生有,移花接木的造出故事来,他们不但歌颂升平,还粉饰黑暗。关于铁氏二女的撒谎,尚其小焉者耳,大至胡元杀掠,满清焚屠之际,也还会有人单单捧出什么烈女绝命,难妇题壁的诗词来,这个艳传,那个步韵,比对于华屋丘墟,生民涂炭之惨的大事情还起劲。到底是刻了一本集,连自己们都附进去,而韵事也就完结了。
我在写着这些的时候,病是要算已经好了的了,用不着写遗书。但我想在这里趁便拜托我的相识的朋友,将来我死掉之后,即使在中国还有追悼的可能,也千万不要给我开追悼会或者出什么记念册。因为这不过是活人的讲演或挽联的斗法场,为了造语惊人,对仗工稳起见,有些文豪们是简直不恤于胡说八道的。结果至多也不过印成一本书,即使有谁看了,于我死人,于读者活人,都无益处,就是对于作者,其实也并无益处,挽联做得好,也不过挽联做得好而已。
现在的意见,我以为倘有购买那些纸墨白布的闲钱,还不如选几部明人,清人或今人的野史或笔记来印印,倒是于大家很有益处的。但是要认真,用点工夫,标点不要错。
(十二月十一日。)
【病后杂谈之余】
──关于“舒愤懑”
一
我常说明朝永乐皇帝的凶残,远在张献忠之上,是受了宋端仪的《立斋闲录》的影响的。那时我还是满洲治下的一个拖着辫子的十四五岁的少年,但已经看过记载张献忠怎样屠杀蜀人的《蜀碧》,痛恨着这“流贼”的凶残。后来又偶然在破书堆里发见了一本不全的《立斋闲录》,还是明抄本,我就在那书上看见了永乐的上谕,于是我的憎恨就移到永乐身上去了。
那时我毫无什么历史知识,这憎恨转移的原因是极简单的,只以为流贼尚可,皇帝却不该,还是“礼不下庶人”的传统思想。至于《立斋闲录》,好象是一部少见的书,作者是明人,而明朝已有抄本,那刻本之少就可想。记得《汇刻书目》说是在明代的一部什么丛书中,但这丛书我至今没有见;清《四库全书总目提要》将它放在“存目”里,那么,《四库全书》里也是没有的,我家并不是藏书家,我真不解怎么会有这明抄本。这书我一直保存着,直到十多年前,因为肚子饿得慌了,才和别的两本明抄和一部明刻的《宫闺秘典》去卖给以藏书家和学者出名的傅某,他使我跑了三四趟之后,才说一总给我八块钱,我赌气不卖,抱回来了,又藏在北平的寓里;但久已没有人照管,不知道现在究竟怎样了。
那一本书,还是四十年前看的,对于永乐的憎恨虽然还在,书的内容却早已模模胡胡,所以在前几天写《病后杂谈》时,举不出一句永乐上谕的实例。我也很想看一看《永乐实录》,但在上海又如何能够;来青阁有残本在寄售,十本,实价却是一百六十元,也决不是我辈书架上的书。又是一个偶然:昨天在《安徽丛书》第三集中看见了清俞正燮(1775─1840)《癸巳类稿》的改定本,那《除乐户丐户籍及女乐考附古事》里,却引有永乐皇帝的上谕,是根据王世贞《弇州史料》中的《南京法司所记》的,虽然不多,又未必是精粹,但也足够“略见一斑”,和献忠流贼的作品相比较了。摘录于下──
“永乐十一年正月十一日,教坊司于右顺门口奏:齐泰姊及外甥媳妇,又黄子澄妹四个妇人,每一日一夜,二十余条汉子看守着,年少的都有身孕,除生子令做小龟子,又有三岁女子,奏请圣旨。奉钦依:由他。不的到长大便是个淫贱材儿?”
“铁铉妻杨氏年三十五,送教坊司;茅大芳妻张氏年五十六,送教坊司。张氏病故,教坊司安政于奉天门奏。奉圣旨:分付上元县抬出门去,着狗吃了!钦此!”
君臣之间的问答,竟是这等口吻,不见旧记,恐怕是万想不到的罢。但其实,这也仅仅是一时的一例。自有历史以来,中国人是一向被同族和异族屠戮,奴隶,敲掠,刑辱,压迫下来的,非人类所能忍受的楚毒,也都身受过,每一考查,真教人觉得不像活在人间。俞正燮看过野史,正是一个因此觉得义愤填膺的人,所以他在记载清朝的解放惰民丐户,罢教坊,停女乐的故事之后,作一结语道──
“自三代至明,惟宇文周武帝、唐高祖、后晋高祖,金,元及明景帝,于法宽假之,而尚存其旧。余皆视为固然。本朝尽去其籍,而天地为之廓清矣。汉儒歌颂朝廷功德,自云‘舒愤懑’,除乐户之事,诚可云舒愤懑者:故列古语琐事之实,有关因革者如此。”
这一段结语,有两事使我吃惊。第一事,是宽假奴隶的皇帝中,汉人居很少数。但我疑心俞正燮还是考之未详,例如金元,是并非厚待奴隶的,只因那时连中国的蓄奴的主人也成了奴隶,从征服者看来,并无高下,即所谓“一视同仁”,于是就好象对于先前的奴隶加以宽假了。第二事,就是这自有历史以来的虐政,竟必待满洲的清才来廓清,使考史的儒生,为之拍案称快,自比于汉儒的“舒愤懑”──就是明末清初的才子们之所谓“不亦快哉!”然而解放乐户却是真的,但又并未“廓清”,例如绍兴的惰民,直到民国革命之初,他们还是不与良民通婚,去给大户服役,不过已有报酬,这一点,恐怕是和解放之前大不相同的了。革命之后,我久不回到绍兴去了,不知道他们怎样,推想起来,大约和三十年前是不会有什么两样的。
二
但俞正燮的歌颂清朝功德,却不能不说是当然的事。他生于乾隆四十年,到他壮年以至晚年的时候,文字狱的血迹已经消失,满洲人的凶焰已经缓和,愚民政策早已集了大成,剩下的就只有“功德”了。那时的禁书,我想他都未必看见。现在不说别的,单看雍正乾隆两朝的对于中国人著作的手段,就足够令人惊心动魄。全毁,抽毁,剜去之类也且不说,最阴险的是删改了古书的内容。乾隆朝的纂修《四库全书》,是许多人颂为一代之盛业的,但他们却不但捣乱了古书的格式,还修改了古人的文章;不但藏之内廷,还颁之文风颇盛之处,使天下士子阅读,永不会觉得我们中国的作者里面,也曾经有过很有些骨气的人。(这两句,奉官命改为“永远看不出底细来。”)
嘉庆道光以来,珍重宋元版本的风气逐渐旺盛,也没有悟出乾隆皇帝的“圣虑”,影宋元本或校宋元本的书籍很有些出版了,这就使那时的阴谋露了马脚。最初启示了我的是《琳琅秘室丛书》里的两部《茅亭客话》,一是校宋本,一是四库本,同是一种书,而两本的文章却常有不同,而且一定是关于“华夷”的处所。这一定是四库本删改了的;现在连影宋本的《茅亭客话》也已出版,更足据为铁证,不过倘不和四库本对读,也无从知道那时的阴谋。《琳琅秘室丛书》我是在图书馆里看的,自己没有,现在去买起来又嫌太贵,因此也举不出实例来。但还有比较容易的法子在。
新近陆续出版的《四部丛刊续编》自然应该说是一部新的古董书,但其中却保存着满清暗杀中国著作的案卷。例如宋洪迈的《容斋随笔》至《五笔》是影宋刊本和明活字本,据张元济跋,其中有三条就为清代刻本中所没有。所删的是怎样内容的文章呢?为惜纸墨汁,现在只摘录一条《容斋三笔》卷三里的《北狄俘虏之苦》在这里──
“元魏破江陵,尽以所俘士民为奴,无分贵贱,盖北方夷俗皆然也。自靖康之后,陷于金虏者,帝子王孙,官门仕族之家,尽没为奴婢,使供作务。每人一月支稗子五斗,令自舂为米,得一斗八升,用为餱粮;岁支麻五把,令缉为裘。此外更无一钱一帛之入。男子不能缉者,则终岁裸体。虏或哀之,则使执爨,虽时负火得暖气,然才出外取柴归,再坐火边,皮肉即脱落,不日辄死。惟喜有手艺,如医人绣工之类,寻常只团坐地上,以败席或芦藉衬之,遇客至开筵,引能乐者使奏技,酒阑客散,各复其初,依旧环坐刺绣:任其生死,视如草芥。……”
清朝不惟自掩其凶残,还要替金人来掩饰他们的凶残。据此一条,可见俞正燮入金朝于仁君之列,是不确的了,他们不过是一扫宋朝的主奴之分,一律都作为奴隶,而自己则是主子。但是,这校勘,是用清朝的书坊刻本的,不知道四库本是否也如此。要更确凿,还有一部也是《四部丛刊续编》里的影旧抄本宋晁说之《嵩山文集》在这里,卷末就有单将《负薪对》一篇和四库本相对比,以见一斑的实证,现在摘录几条在下面,大抵非删则改,语意全非,仿佛宋臣晁说之,已在对金人战栗,嗫嚅不吐,深怕得罪似的了──
旧抄本 四库本
金贼以我疆埸之臣无 金人扰我疆埸之地,
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これこそまことに天大の本領である! あの死の如き鎮静が、またもや私の気悶を打ち破った。
私は書物を置き、目を閉じ、横になってこの本領を学ぶ方法を考えた。思うにこれは「君子は庖厨に遠ざかるなり」の方法とは大いに異なる。なぜならこの場合は君子自身もまた庖厨の中に居るからだ。瞑想の結果、二手の太極拳を案出した。一、世事に対して「浮光掠影」──つまり時に随いて忘却し、あまり了然とせず、いくらか関心があるかの如くして実は懇切ならず。二、現実に対して「聡を蔽い明を塞ぐ」──つまり麻木にして冷静、感触を受けず、始めは努力を要するも後には自然となる。第一の名称はあまり聞こえが良くないが、第二もまた──
これは病を却け年を延ばす養生法に通じる。しかし問題は、この「死の如き鎮静」は果たして学ぶべきものであるかどうかだ。世事に対して無関心であり、現実に対して感覚を鈍くする──これは確かに自己保全の術ではあるが、同時に人間としての死でもある。
心を殺して身を保つか、心を活かして身を危うくするか──この二択は、中国の知識人が常に直面してきたものである。そして多くの人は前者を選んできた。なぜなら後者を選べば、本当に身が危うくなるからだ。
しかし全ての人が心を殺してしまえば、この社会はいったい誰が変えるのか。死の如き鎮静の中で、我々は本当に安らかに生きられるのか。
(十二月十日。)
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状,斥堠不明,遂豕突河 边城斥堠不明,遂长驱河北,
北,蛇结河东。 盘结河东。
犯孔子春秋之大禁, 为上下臣民之大耻,
以百骑却虏枭将, 以百骑却辽枭将,
彼金贼虽非人类,而 彼金人虽甚强盛,而
犬豕亦有掉瓦怖恐之号, 赫然示之以威令之森严,
顾弗之惧哉! 顾弗之惧哉!
我取而歼焉可也。 我因而取之可也。
太宗时,女真困于 太宗时,女真困于契
契丹之三栅,控告乞援, 丹之三栅,控告乞援,亦
亦卑恭甚矣。不谓敢 和好甚矣。不谓竟酿患滋
睨中国之地于今日也。 祸一至于今日也。
忍弃上皇之子于胡 忍弃上皇之子于异
虏乎? 地乎?
何则:夷狄喜相吞
并斗争,是其犬羊狺吠
咋啮之性也。唯其富者
最先亡。古今夷狄族帐,
大小见于史册者百十,
今其存者一二,皆以其
财富而自底灭亡者也。 (无)
今此小丑不指日而灭亡,
是无天道也。
褫中国之衣冠,复 遂其报复之心,肆其
夷狄之态度。 凌侮之意。
取故相家孙女姊妹, 故相家皆携老襁幼,
缚马上而去,执侍帐中, 弃其籍而去,焚掠之余,
远近胆落,不暇寒心。 远近胆落,不暇寒心。
即此数条,已可见“贼”“虏”“犬羊”是讳的;说金人的淫掠是讳的;“夷狄”当然要讳,但也不许看见“中国”两个字,因为这是和“夷狄”对立的字眼,很容易引起种族思想来的。但是,这《嵩山文集》的抄者不自改,读者不自改,尚存旧文,使我们至今能够看见晁氏的真面目,在现在说起来,也可以算是令人大“舒愤懑”的了。
清朝的考据家有人说过,“明人好刻古书而古书亡”,因为他们妄行校改。我以为这之后,则清人纂修《四库全书》而古书亡,因为他们变乱旧式,删改原文;今人标点古书而古书亡,因为他们乱点一通,佛头着粪:这是古书的水火兵虫以外的三大厄。
三
对于清朝的愤懑的从新发作,大约始于光绪中,但在文学界上,我没有查过以谁为“祸首”。太炎先生是以文章排满的骁将著名的,然而在他那《訄书》的未改订本中,还承认满人可以主中国,称为“客帝”,比于嬴秦的“客卿”。但是,总之,到光绪末年,翻印的不利于清朝的古书,可是陆续出现了;太炎先生也自己改正了“客帝”说,在再版的《訄书》里,“删而存此篇”;后来这书又改名为《检论》,我却不知道是否还是这办法。留学日本的学生们中的有些人,也在图书馆里搜寻可以鼓吹革命的明末清初的文献。那时印成一大本的有《汉声》,是《湖北学生界》的增刊,面子上题着四句集《文选》句:“抒怀旧之积念,发思古之幽情”,第三句想不起来了,第四句是“振大汉之天声”。无古无今,这种文献,倒是总要在外国的图书馆里抄得的。
我生长在偏僻之区,毫不知道什么是满汉,只在饭店的招牌上看见过“满汉酒席”字样,也从不引起什么疑问来。听人讲“本朝”的故事是常有的,文字狱的事情却一向没有听到过,乾隆皇帝南巡的盛事也很少有人讲述了,最多的是“打长毛”。我家里有一个年老的女工,她说长毛时候,她已经十多岁,长毛故事要算她对我讲得最多,但她并无邪正之分,只说最可怕的东西有三种,一种自然是“长毛”,一种是“短毛”,还有一种是“花绿头”。到得后来,我才明白后两种其实是官兵,但在愚民的经验上,是和长毛并无区别的。给我指明长毛之可恶的倒是几位读书人;我家里有几部县志,偶然翻开来看,那时殉难的烈士烈女的名册就有一两卷,同族里的人也有几个被杀掉的,后来封了“世袭云骑尉”,我于是确切的认定了长毛之可恶。然而,真所谓“心事如波涛”罢,久而久之,由于自己的阅历,证以女工的讲述,我竟决不定那些烈士烈女的凶手,究竟是长毛呢,还是“短毛”和“花绿头”了。我真很羡慕“四十而不惑”的圣人的幸福。
对我最初提醒了满汉的界限的不是书,是辫子。这辫子,是砍了我们古人的许多头,这才种定了的,到得我有知识的时候,大家早忘却了血史,反以为全留乃是长毛,全剃好象和尚,必须剃一点,留一点,才可以算是一个正经人了。而且还要从辫子上玩出花样来:小丑挽一个结,插上一朵纸花打诨;开口跳将小辫子挂在铁杆上,慢慢的吸烟献本领;变把戏的不必动手,只消将头一摇,劈拍一声,辫子便自会跳起来盘在头顶上,他于是耍起关王刀来了。而且还切于实用:打架的时候可以拔住,挣脱极难;捉人的时候可以拉着,省得绳索,要是被捉的人多呢,只要捏住辫梢头,一个人就可以牵一大串。吴友如画的《申江胜景图》里,有一幅会审公堂,就有一个巡捕拉着犯人的辫子的形象,但是,这是已经算作“胜景”了。
住在偏僻之区还好,一到上海,可就不免有时会听到一句洋话:Pig–tail——猪尾巴。这一句话,现在是早不听见了,那意思,似乎也不过说人头上生着猪尾巴,和今日之上海,中国人自己一斗嘴,便彼此互骂为“猪猡”的,还要客气得远。不过那时的青年,好象涵养工夫没有现在的深,也还未懂得“幽默”,所以听起来实在觉得刺耳。而且对于拥有二百余年历史的辫子的模样,也渐渐的觉得并不雅观,既不全留,又不全剃,剃去一圈,留下一撮,又打起来拖在背后,真好象做着好给别人来拔着牵着的柄子。对于它终于怀了恶感,我看也正是人情之常,不必指为拿了什么地方的东西,迷了什么斯基的理论的。(这两句,奉官谕改为“不足怪的”。)
我的辫子留在日本,一半送给客店里的一位使女做了假发,一半给了理发匠,人是在宣统初年回到故乡来了。一到上海,首先得装假辫子。这时上海有一个专装假辫子的专家,定价每条大洋四元,不折不扣,他的大名,大约那时的留学生都知道。做也真做得巧妙,只要别人不留心,是很可以不出岔子的,但如果人知道你原是留学生,留心研究起来,那就漏洞百出。夏天不能戴帽,也不大行;人堆里要防挤掉或挤歪,也不行。装了一个多月,我想,如果在路上掉了下来或者被人拉下来,不是比原没有辫子更不好看么?索性不装了,贤人说过的:一个人做人要真实。
但这真实的代价真也不便宜,走出去时,在路上所受的待遇完全和先前两样了。我从前是只以为访友作客,才有待遇的,这时才明白路上也一样的一路有待遇。最好的是呆看,但大抵是冷笑,恶骂。小则说是偷了人家的女人,因为那时捉住奸夫,总是首先剪去他辫子的,我至今还不明白为什么;大则指为“里通外国”,就是现在之所谓“汉奸”。我想,如果一个没有鼻子的人在街上走,他还未必至于这么受苦,假使没有了影子,那么,他恐怕也要这样的受社会的责罚了。
我回中国的第一年在杭州做教员,还可以穿了洋服算是洋鬼子;第二年回到故乡绍兴中学去做学监,却连洋服也不行了,因为有许多人是认识我的,所以不管如何装束,总不失为“里通外国”的人,于是我所受的无辫之灾,以在故乡为第一。尤其应该小心的是满洲人的绍兴知府的眼睛,他每到学校来,总喜欢注视我的短头发,和我多说话。
学生们里面,忽然起了剪辫风潮了,很有许多人要剪掉。我连忙禁止。他们就举出代表来诘问道:究竟有辫子好呢,还是没有辫子好呢?我的不假思索的答覆是:没有辫子好,然而我劝你们不要剪。学生是向来没有一个说我“里通外国”的,但从这时起,却给了我一个“言行不一致”的结语,看不起了。“言行一致”,当然是很有价值的,现在之所谓文学家里,也还有人以这一点自豪,但他们却不知道他们一剪辫子,价值就会集中在脑袋上。轩亭口离绍兴中学并不远,就是秋瑾小姐就义之处,他们常走,然而忘却了。
“不亦快哉!”──到了一千九百十一年的双十,后来绍兴也挂起白旗来,算是革命了,我觉得革命给我的好处,最大,最不能忘的是我从此可以昂头露顶,慢慢的在街上走,再不听到什么嘲骂。几个也是没有辫子的老朋友从乡下来,一见面就摩着自己的光头,从心底里笑了出来道:哈哈,终于也有了这一天了。
假如有人要我颂革命功德,以“舒愤懑”,那么,我首先要说的就是剪辫子。
四
然而辫子还有一场小风波,那就是张勋的“复辟”,一不小心,辫子是又可以种起来的,我曾见他的辫子兵在北京城外布防,对于没辫子的人们真是气焰万丈。幸而不几天就失败了,使我们至今还可以剪短,分开,披落,烫卷……
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状、斥候明らかならず、遂に突進して河北に至り、 辺城の斥候明らかならず、遂に長駆して河北に入り、
蛇の如く河東に盤結す。 河東に盤結す。
孔子の春秋の義を犯す──
これは古文の校勘の問題であり、異本の対照を通じて原文の真意を探ろうとするものである。「豕突」と「長駆」、「蛇結」と「盤結」──字句の異同は些細なようでいて、実は意味に大きな違いをもたらす。
校勘学は地味な学問であるが、文字文化の根幹を支えるものだ。一字の違いが歴史の解釈を変え、一句の脱落が思想の伝承を歪める。
しかし校勘学にも限界がある。いかに精密に校勘しても、原著者の真意を完全に復元することはできぬ。なぜなら文字は常に不完全な伝達手段であり、書かれた時点で既に著者の意図からは離れているからだ。
それでも校勘は必要である。なぜなら、少しでも原意に近づこうとする努力は、少しでも真実に近づこうとする努力に通じるからだ。真実を知ることは困難であるが、真実を求める姿勢を放棄してはならない。
この姿勢は学問のみならず、社会を見る目にも通じる。新聞の文章を読む時にも、我々は一種の「校勘」を行わねばならぬ。書かれた文字の裏に隠された真意を読み取り、削除された部分を想像し、改竄された箇所を見抜く──これもまた一つの校勘学なのだ。
(十二月十五日。)
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张勋的姓名已经暗淡,“复辟”的事件也逐渐遗忘,我曾在《风波》里提到它,别的作品上却似乎没有见,可见早就不受人注意。现在是,连辫子也日见稀少,将与周鼎商彝同列,渐有卖给外国人的资格了。
我也爱看绘画,尤其是人物。国画呢,方巾长袍,或短褐椎结,从没有见过一条我所记得的辫子;洋画呢,歪脸汉子,肥腿女人,也从没有见过一条我所记得的辫子。这回见了几幅钢笔画和木刻的阿Q像,这才算遇到了在艺术上的辫子,然而是没有一条生得合式的。想起来也难怪,现在的二十岁上下的青年,他生下来已是民国,就是三十岁的,在辫子时代也不过四五岁,当然不会深知道辫子的底细的了。
那么,我的“舒愤懑”,恐怕也很难传给别人,令人一样的愤激,感慨,欢喜,忧愁的罢。
(十二月十七日。)
一星期前,我在《病后杂谈》里说到铁氏二女的诗。据杭世骏说,钱谦益编的《列朝诗集》里是有的,但我没有这书,所以只引了《订讹类编》完事。今天《四部丛刊续编》的明遗民彭孙贻《茗斋集》出版了,后附《明诗钞》,却有铁氏长女诗在里面。现在就照抄在这里,并将范昌期原作,与所谓铁女诗不同之处,用括弧附注在下面,以便比较。照此看来,作伪者实不过改了一句,并每句各改易一二字而已──
教坊献诗
教坊脂粉(落籍)洗铅华,一片闲(春)心对落花。旧曲听来犹(空)有恨,故园归去已(却)无家。云鬟半挽()临妆(青)镜,雨泪空流(频弹)湿绛纱。今日相逢白司马(安得江州司马在),尊前重与诉(为赋)琵琶。
但俞正燮《癸巳类稿》又据茅大芳《希董集》,言“铁公妻女以死殉”;并记或一说云,“铁二子,无女。”那么,连铁铉有无女儿,也都成为疑案了。两个近视眼论扁额上字,辩论一通,其实连扁额也没有挂,原也是能有的事实。不过铁妻死殉之说,我以为是粉饰的。《弇州史料》所记,奏文与上谕具存,王世贞明人,决不敢捏造。
倘使铁铉真的并无女儿,或有而实已自杀,则由这虚构的故事,也可以窥见社会心理之一斑。就是:在受难者家族中,无女不如其有之有趣,自杀又不如其落教坊之有趣;但铁铉究竟是忠臣,使其女永沦教坊,终觉于心不安,所以还是和寻常女子不同,因献诗而配了士子。这和小生落难,下狱挨打,到底中了状元的公式,完全是一致的。
(二十三日之夜,附记。)
【河南卢氏曹先生教泽碑文】
夫激荡之会,利于乘时,劲风盘空,轻蓬振翮,故以豪杰称一时者多矣,而品节卓异之士,盖难得一。卢氏曹植甫先生名培元,幼承义方,长怀大愿,秉性宽厚,立行贞明。躬居山曲,设校授徒,专心一志,启迪后进,或有未谛,循循诱之,历久不渝,惠流遐迩。又不泥古,为学日新,作时世之前驱,与童冠而俱迈。爰使旧乡丕变,日见昭明,君子自强,永无意必。而韬光里巷,处之怡然。此岂辁才小慧之徒之所能至哉。中华民国二十有三年秋,年届七十,含和守素,笃行如初。门人敬仰,同心立表,冀彰潜德,亦报师恩云尔。铭曰:
华土奥衍,代生英贤,或居或作,历四千年,文物有赫,峙于中天。海涛外薄,黄神徙倚,巧黠因时,枪鹊起,然犹飘风,终朝而已。卓哉先生,遗荣崇实,开拓新流,恢弘文术,诲人不倦,惟精惟一。介立或有,恒久则难,敷教翊化,实邦之翰,敢契贞石,以励后昆。
会稽后学鲁迅谨撰。
【阿金】
近几时我最讨厌阿金。
她是一个女仆,上海叫娘姨,外国人叫阿妈,她的主人也正是外国人。
她有许多女朋友,天一晚,就陆续到她窗下来,“阿金,阿金!”的大声的叫,这样的一直到半夜。她又好象颇有几个姘头;她曾在后门口宣布她的主张:弗轧姘头,到上海来做啥呢?……
不过这和我不相干。不幸的是她的主人家的后门,斜对着我的前门,所以“阿金,阿金!”的叫起来,我总受些影响,有时是文章做不下去了,有时竟会在稿子上写一个“金”字。更不幸的是我的进出,必须从她家的晒台下走过,而她大约是不喜欢走楼梯的,竹竿,木板,还有别的什么,常常从晒台上直摔下来,使我走过的时候,必须十分小心,先看一看这位阿金可在晒台上面,倘在,就得绕远些。自然,这是大半为了我的胆子小,看得自己的性命太值钱;但我们也得想一想她的主子是外国人,被打得头破血出,固然不成问题,即使死了,开同乡会,打电报也都没有用的,──况且我想,我也未必能够弄到开起同乡会。
半夜以后,是别一种世界,还剩着白天脾气是不行的。有一夜,已经三点半钟了,我在译一篇东西,还没有睡觉。忽然听得路上有人低声的在叫谁,虽然听不清楚,却并不是叫阿金,当然也不是叫我。我想:这么迟了,还有谁来叫谁呢?同时也站起来,推开楼窗去看去了,却看见一个男人,望着阿金的绣阁的窗,站着。他没有看见我。我自悔我的莽撞,正想关窗退回的时候,斜对面的小窗开处,已经现出阿金的上半身来,并且立刻看见了我,向那男人说了一句不知道什么话,用手向我一指,又一挥,那男人便开大步跑掉了。我很不舒服,好象是自己做了甚么错事似的,书译不下去了,心里想:以后总要少管闲事,要炼到泰山崩于前而色不变,炸弹落于侧而身不移!……
但在阿金,却似乎毫不受什么影响,因为她仍然嘻嘻哈哈。不过这是晚快边才得到的结论,所以我真是负疚了小半夜和一整天。这时我很感激阿金的大度,但同时又讨厌了她的大声会议,嘻嘻哈哈了。自有阿金以来,四围的空气也变得扰动了,她就有这么大的力量。这种扰动,我的警告是毫无效验的,她们连看也不对我看一看。有一回,邻近的洋人说了几句洋话,她们也不理;但那洋人就奔出来了,用脚向各人乱踢,她们这才逃散,会议也收了场。这踢的效力,大约保存了五六夜。
此后是照常的嚷嚷;而且扰动又廓张了开去,阿金和马路对面一家烟纸店里的老女人开始奋斗了,还有男人相帮。她的声音原是响亮的,这回就更加响亮,我觉得一定可以使二十间门面以外的人们听见。不一会,就聚集了一大批人。论战的将近结束的时候当然要提到“偷汉”之类,那老女人的话我没有听清楚,阿金的答复是:
“你这老×没有人要!我可有人要呀!”
这恐怕是实情,看客似乎大抵对她表同情,“没有人要”的老×战败了。这时踱来了一位洋巡捕,反背着两手,看了一会,就来把看客们赶开;阿金赶紧迎上去,对他讲了一连串的洋话。洋巡捕注意的听完之后,微笑的说道:
“我看你也不弱呀!”
他并不去捉老×,又反背着手,慢慢的踱过去了。这一场巷战就算这样的结束。但是,人间世的纠纷又并不能解决得这么干脆,那老×大约是也有一点势力的。第二天早晨,那离阿金家不远的也是外国人家的西崽忽然向阿金家逃来。后面追着三个彪形大汉。西崽的小衫已被撕破,大约他被他们诱出外面,又给人堵住后门,退不回去,所以只好逃到他爱人这里来了。爱人的肘腋之下,原是可以安身立命的,伊孛生(H.Ibsen)戏剧里的彼尔·干德,就是失败之后,终于躲在爱人的裙边,听唱催眠歌的大人物。但我看阿金似乎比不上瑙威女子,她无情,也没有魄力。独有感觉是灵的,那男人刚要跑到的时候,她已经赶紧把后门关上了。那男人于是进了绝路,只得站住。这好象也颇出于彪形大汉们的意料之外,显得有些踌蹰;但终于一齐举起拳头,两个是在他背脊和胸脯上一共给了三拳,仿佛也并不怎么重,一个在他脸上打了一拳,却使它立刻红起来。这一场巷战很神速,又在早晨,所以观战者也不多,胜败两军,各自走散,世界又从此暂时和平了。然而我仍然不放心,因为我曾经听人说过:所谓“和平”,不过是两次战争之间的时日。
但是,过了几天,阿金就不再看见了,我猜想是被她自己的主人所回复。补了她的缺的是一个胖胖的,脸上很有些福相和雅气的娘姨,已经二十多天,还很安静,只叫了卖唱的两个穷人唱过一回“奇葛隆冬强”的《十八摸》之类,那是她用“自食其力”的余闲,享点清福,谁也没有话说的。只可惜那时又招集了一群男男女女,连阿金的爱人也在内,保不定什么时候又会发生巷战。但我却也叨光听到了男嗓子的上低音(barytone)的歌声,觉得很自然,比绞死猫儿似的《毛毛雨》要好得天差地远。
阿金的相貌是极其平凡的。所谓平凡,就是很普通,很难记住,不到一个月,我就说不出她究竟是怎么一副模样来了。但是我还讨厌她,想到“阿金”这两个字就讨厌;在邻近闹嚷一下当然不会成什么深仇重怨,我的讨厌她是因为不消几日,她就动摇了我三十年来的信念和主张。
我一向不相信昭君出塞会安汉,木兰从军就可以保隋;也不信妲己亡殷,西施沼吴,杨妃乱唐的那些古老话。我以为在男权社会里,女人是决不会有这种大力量的,兴亡的责任,都应该男的负。但向来的男性的作者,大抵将败亡的大罪,推在女性身上,这真是一钱不值的没有出息的男人。殊不料现在阿金却以一个貌不出众,才不惊人的娘姨,不用一个月,就在我眼前搅乱了四分之一里,假使她是一个女王,或者是皇后,皇太后,那么,其影响也就可以推见了:足够闹出大大的乱子来。
昔者孔子“五十而知天命”,我却为了区区一个阿金,连对于人事也从新疑惑起来了,虽然圣人和凡人不能相比,但也可见阿金的伟力,和我的满不行。我不想将我的文章的退步,归罪于阿金的嚷嚷,而且以上的一通议论,也很近于迁怒,但是,近几时我最讨厌阿金,仿佛她塞住了我的一条路,却是的确的。
愿阿金也不能算是中国女性的标本。
(十二月二十一日。)
【论俗人应避雅人】
这是看了些杂志,偶然想到的──
浊世少见“雅人”,少有“韵事”。但是,没有浊到彻底的时候,雅人却也并非全没有,不过因为“伤雅”的人们多,也累得他们“雅”不彻底了。
道学先生是躬行“仁恕”的,但遇见不仁不恕的人们,他就也不能仁恕。所以朱子是大贤,而做官的时候,不能不给无告的官妓吃板子。新月社的作家们是最憎恶骂人的,但遇见骂人的人,就害得他们不能不骂。林语堂先生是佩服“费厄泼赖”的,但在杭州赏菊,遇见“口里含一枝苏俄香烟,手里夹一本什么斯基的译本”的青年,他就不能不“假作无精打彩,愁眉不展,忧国忧家”(详见《论语》五十五期)的样子,面目全非了。
优良的人物,有时候是要靠别种人来比较,衬托的,例如上等与下等,好与坏,雅与俗,小器与大度之类。没有别人,即无以显出这一面之优,所谓“相反而实相成”者,就是这。但又须别人凑趣,至少是知趣,即使不能帮闲,也至少不可说破,逼得好人们再也好不下去。例如曹孟德是“尚通侻”的,但祢正平天天上门来骂他,他也只好生起气来,送给黄祖去“借刀杀人”了。祢正平真是“咎由自取”。
所谓“雅人”,原不是一天雅到晚的,即使睡的是珠罗帐,吃的是香稻米,但那根本的睡觉和吃饭,和俗人究竟也没有什么大不同;就是肚子里盘算些挣钱固位之法,自然也不能绝无其事。但他的出众之处,是在有时又忽然能够“雅”。倘使揭穿了这谜底,便是所谓“杀风景”,也就是俗人,而且带累了雅人,使他雅不下去,“未能免俗”了。若无此辈,何至于此呢?所以错处总归在俗人这方面。
譬如罢,有两位知县在这里,他们自然都是整天的办公事,审案子的,但如果其中之一,能够偶然的去看梅花,那就要算是一位雅官,应该加以恭维,天地之间这才会有雅人,会有韵事。如果你不恭维,还可以;一皱眉,就俗;敢开玩笑,那就把好事情都搅坏了。然而世间也偏有狂夫俗子;记得在一部中国的什么古“幽默”书里,有一首“轻薄子”咏知县老爷公余探梅的七绝──
红帽哼兮黑帽呵,风流太守看梅花。
梅花低首开言道:小底梅花接老爷。
这真是恶作剧,将韵事闹得一塌胡涂。而且他替梅花所说的话,也不合式,它这时应该一声不响的,一说,就“伤雅”,会累得“老爷”不便再雅,只好立刻还俗,赏吃板子,至少是给一种什么罪案的。为什么呢?就因为你俗,再不能以雅道相处了。
小心谨慎的人,偶然遇见仁人君子或雅人学者时,倘不会帮闲凑趣,就须远远避开,愈远愈妙。假如不然,即不免要碰着和他们口头大不相同的脸孔和手段。晦气的时候,还会弄到卢布学说的老套,大吃其亏。只给你“口里含一枝苏俄香烟,手里夹一本什么斯基的译本”,倒还不打紧,──然而险矣。
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張勲の姓名は既に暗淡となり、「復辟」の事件も徐々に忘れ去られている。私はかつて『風波』の中でこれに触れたが、他の作品には見られぬようで、早くから人の注意を引かなかったことが分かる。今やそれどころか、辮髪すら日に日に稀少となり、周鼎や商彝と同列に並び、徐々に外国人に売り得る資格を備えつつある。
私もまた絵画を見ることを好む。殊に人物を。国画を見れば方巾長袍、あるいは短褐椎結で、私の記憶にある辮髪は一本も見たことがない。洋画を見れば歪んだ顔の男と太い脚の女で、これまた私の記憶にある辮髪は一本も見たことがない。この度、数幅のペン画と木版画による阿Qの像を見て、ようやく芸術の上における辮髪に出会ったのであるが、しかし──
辮髪は中国近代史の象徴である。清朝の支配の象徴であり、民族的屈辱の象徴であり、しかし同時にある種の郷愁の対象でもある。辮髪を失った中国人は、何か大切なものを──たとえそれが鎖であったとしても──失った喪失感を覚えている。
阿Qの辮髪は、この全ての意味を担っている。それは彼の悲劇の一部であり、彼が属する時代の記号である。画家が阿Qを描く時、辮髪の太さ、長さ、巻き方一つにまで意味が宿る。
しかし最も重要なのは辮髪ではなく、その下にある頭の中身──即ち「精神的勝利法」の持ち主たる阿Qの精神構造そのものなのだ。
(十一月二十日。)
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大家都知道“贤者避世”,我以为现在的俗人却要避雅,这也是一种“明哲保身”。
(十二月二十六日。)
【附记】
第一篇《关于中国的两三件事》,是应日本的改造社之托而写的,原是日文,即于是年三月,登在《改造》上,改题为《火,王道,监狱》。记得中国北方,曾有一种期刊译载过这三篇,但在南方,却只有林语堂、邵洵美、章克标三位所主编的杂志《人言》上,曾用这为攻击作者之具,其详见于《准风月谈》的后记中,兹不赘。
《草鞋脚》是现代中国作家的短篇小说集,应伊罗生(H. Isaacs)先生之托,由我和茅盾先生选出,他更加选择,译成英文的。但至今好象还没有出版。
《答曹聚仁先生信》原是我们的私人通信,不料竟在《社会月报》上登出来了,这一登可是祸事非小,我就成为“替杨邨人氏打开场锣鼓,谁说鲁迅先生器量窄小呢”了。有八月三十一日《大晚报》副刊《火炬》上的文章为证──
调 和 绍伯
──读《社会月报》八月号
“中国人是善于调和的民族”──这话我从前还不大相信,因为那时我年纪还轻,阅历不到,我自己是不大肯调和的,我就以为别人也和我一样的不肯调和。
这观念后来也稍稍改正了。那是我有一个亲戚,在我故乡两个军阀的政权争夺战中做了牺牲,我那时对于某军阀虽无好感,却因亲戚之故也感着一种同仇敌忾,及至后来两军阀到了上海又很快的调和了,彼此过从颇密,我不觉为之呆然,觉得我们亲戚假使仅仅是为着他的“政友”而死,他真是白死了。
后来又听得广东A君告诉我在两广战争后战士们白骨在野碧血还腥的时候,两军主持的太太在香港寓楼时常一道打牌,亲昵逾常,这更使我大彻大悟。
现在,我们更明白了,这是当然的事,不单是军阀战争如此,帝国主义的分赃战争也作如是观。老百姓整千整万地做了炮灰,各国资本家却可以聚首一堂举着香槟相视而笑。什么“军阀主义”、“民主主义”都成了骗人的话。
然而这是指那些军阀资本家们“无原则的争斗”,若夫真理追求者的“有原则的争斗”应该不是这样!
最近这几年,青年们追随着思想界的领袖们之后做了许多惨淡的努力,有的为着这还牺牲了宝贵的生命。个人的生命是可宝贵的,但一代的真理更可宝贵,生命牺牲了而真理昭然于天下,这死是值得的,就是不可以太打浑了水,把人家弄得不明不白。
后者的例子可求之于《社会月报》。这月刊真可以说是当今最完备的“杂”志了。而最“杂”得有趣的是题为“大众语特辑”的八月号。读者试念念这一期的目录罢,第一位打开场锣鼓的是鲁迅先生(关于大众语的意见),而“压轴子”的是《赤区归来记》作者杨邨人氏。就是健忘的读者想也记得鲁迅先生和杨邨人氏有过不小的一点“原则上”的争执罢。鲁迅先生似乎还“嘘”过杨邨人氏,然而他却可以替杨邨人氏打开场锣鼓,谁说鲁迅先生器量窄小呢?
苦的只是读者,读了鲁迅先生的信,我们知道“汉字和大众不两立”,我们知道应把“交通繁盛言语混杂的地方”的“大众语”的雏形,它的“字汇和语法输进穷乡僻壤去”。我们知道“先驱者的任务”是在给大众许多话“发表更明确的意思”,同时“明白更精确的意义”;我们知道现在所能实行的是以“进步的”思想写“向大众语去的作品”。但读了最后杨邨人氏的文章,才知道向大众去根本是一条死路,那里在水灾与敌人围攻之下,破产无余,……“维持已经困难,建设更不要空谈。”还是“归”到都会里“来”扬起小资产阶级文学之旗更靠得住。
于是,我们所得的知识前后相销,昏昏沉沉,莫明其妙。
这恐怕也表示中国民族善于调和吧,但是太调和了,使人疑心思想上的争斗也渐渐没有原则了。变成“戟门坝上的儿戏”了。照这样的阵容看,有些人真死的不明不白。
关于开锣以后“压轴”以前的那些“中间作家”的文章特别是大众语问题的一些宏论,本想略抒鄙见,但这只好改日再谈了。
关于这一案,我到十一月《答〈戏〉周刊编者的信》里,这才回答了几句。
《门外文谈》是用了“华圉”的笔名,向《自由谈》投稿的,每天登一节。但不知道为什么,第一节被删去了末一行,第十节开头又被删去了二百余字,现仍补足,并用黑点为记。
《不知肉味和不知水味》是写给《太白》的,登出来时,后半篇都不见了,我看这是“中央宣传部书报检查委员会”的政绩。那时有人看了《太白》上的这一篇,当面问我道:“你在说什么呀?”现仍补足,并用黑点为记,使读者可以知道我其实是在说什么。
《中国人失掉自信力了吗》也是写给《太白》的。凡是对于求神拜佛,略有不敬之处,都被删除,可见这时我们的“上峰”正在主张求神拜佛。现仍补足,并用黑点为记,聊以存一时之风尚耳。
《脸谱臆测》是写给《生生月刊》的,奉官谕:不准发表。我当初很觉得奇怪,待到领回原稿,看见用红铅笔打着杠子的处所,才明白原来是因为得罪了“第三种人”老爷们了。现仍加上黑杠子,以代红杠子,且以警戒新作家。
《答〈戏〉周刊编者信》的末尾,是对于绍伯先生那篇《调和》的答复。听说当时我们有一位姓沈的“战友”看了就呵呵大笑道:“这老头子又发牢骚了!”“头子”而“老”,“牢骚”而“又”,恐怕真也滑稽得很。然而我自己,是认真的。
不过向《戏》周刊编者去“发牢骚”,别人也许会觉得奇怪。然而并不,因为编者之一是田汉同志,而田汉同志也就是绍伯先生。
《中国文坛上的鬼魅》是写给《现代中国》(China To-day)的,不知由何人所译,登在第一卷第五期,后来又由英文转译,载在德文和法文的《国际文学》上。
《病后杂谈》是向《文学》的投稿,共五段;待到四卷二号上登了出来时,只剩下第一段了。后有一位作家,根据了这一段评论我道:鲁迅是赞成生病的。他竟毫不想到检查官的删削。可见文艺上的暗杀政策,有时也还有一些效力的。
《病后杂谈之余》也是向《文学》的投稿,但不知道为什么,检查官这回却古里古怪了,不说不准登,也不说可登,也不动贵手删削,就是一个支支吾吾。发行人没有法,来找我自己删改了一些,然而听说还是不行,终于由发行人执笔,检查官动口,再删一通,这才能在四卷三号上登出。题目必须改为《病后余谈》,小注“关于舒愤懑”这一句也不准有;改动的两处,我都注在本文之下,删掉的五处,则仍以黑点为记,读者试一想这些讳忌,是会觉得很有趣的。只有不准说“言行一致”云云,也许莫明其妙,现在我应该指明,这是因为又触犯了“第三种人”了。
《阿金》是写给《漫画生活》的;然而不但不准登载,听说还送到南京中央宣传会里去了。这真是不过一篇漫谈,毫无深意,怎么会惹出这样大问题来的呢,自己总是参不透。后来索回原稿,先看见第一页上有两颗紫色印,一大一小,文曰“抽去”,大约小的是上海印,大的是首都印,然则必须“抽去”,已无疑义了。再看下去,就又发见了许多红杠子,现在改为黑杠,仍留在本文的旁边。
看了杠子,有几处是可以悟出道理来的。例如“主子是外国人”,“炸弹”,“巷战”之类,自然也以不提为是。但是我总不懂为什么不能说我死了“未必能够弄到开起同乡会”的缘由,莫非官意是以为我死了会开同乡会的么?
我们活在这样的地方,我们活在这样的时代。
一九三五年十二月三十日,编讫记。
【】
【致许广平书信集】
(一九二五年——一九二九年)
【北京(一九二五年三月至七月)】
一
广平兄:
今天收到来信,有些问题恐怕我答不出,姑且写下去看。
学风如何,我以为和政治状态及社会情形相关的,倘在山林中,该可以比城市好一点,只要办事人员好。但若政治昏暗,好的人也不能做办事人员,学生在学校中,只是少听到一些可厌的新闻,待到出校和社会接触,仍然要苦痛,仍然要堕落,无非略有迟早之分。所以我的意思,以为倒不如在都市中,要堕落的从速堕落罢,要苦痛的速速苦痛罢,否则从较为宁静的地方突到闹处,也须意外地吃惊受苦,而其苦痛之总量,与本在都市者略同。
学校的情形,也向来如此,但一二十年前,看去仿佛较好者,乃是因为足够办学资格的人们不很多,因而竞争也不猛烈的缘故。现在可多了,竞争也猛烈了,于是坏脾气也就彻底显出。教育界的称为清高,本是粉饰之谈,其实和别的什么界都一样,人的气质不大容易改变,进几年大学是无甚效力的,况且又有这样的环境,正如人身的血液一坏,体中的一部分决不能独保健康一样,教育界也不会在这样的民国里特别清高的。
所以,学校之不甚高明,其实由来已久,加以金钱的魔力,本是非常之大,而中国又是向来善于运用金钱诱惑法术的地方,于是自然就成了这现象。听说现在是中学校也有这样的了,间有例外,大约即因年龄太小,还未感到经济困难或花费的必要之故罢。至于传入女校,当是近来的事,大概其起因,当在女性已经自觉到经济独立的必要,而借以获得这独立的方法,不外两途,一是力争,一是巧取,前一法很费力,于是就堕入后一手段去,就是略一清醒,又复昏睡了。可是这情形不独女界为然,男人也多如此,所不同者巧取之外,还有豪夺而已。
我其实那里会“立地成佛”,许多烟卷,不过是麻醉药,烟雾中也没有见过极乐世界。假使我真有指导青年的本领——无论指导得错不错——我决不藏匿起来,但可惜我连自己也没有指南针,到现在还是乱闯,倘若闯入深渊,自己有自己负责,领着别人又怎么好呢,我之怕上讲台讲空话者就为此。记得有一种小说里攻击牧师,说有一个乡下女人,向牧师沥诉困苦的半生,请他救助,牧师听毕答道,“忍着罢,上帝使你在生前受苦,死后定当赐福的。”其实古今的圣贤以及哲人学者所说,何尝能比这高明些,他们之所谓“将来”,不就是牧师之所谓“死后”么?我所知道的话就全是这样,我不相信,但自己也并无更好的解释。章锡琛的答话是一定要模胡的,听说他自己在书铺子里做伙计,就时常叫苦连天。
我想,苦痛是总与人生联带的,但也有离开的时候,就是当睡熟之际。醒的时候要免去若干苦痛,中国的老法子是“骄傲”与“玩世不恭”,我觉得我自己就有这毛病,不大好。苦茶加“糖”,其苦之量如故,只是聊胜于无“糖”,但这糖就不容易找到,我不知道在那里,这一节只好交白卷了。
以上许多话,仍等于章锡琛,我再说我自己如何在世上混过去的方法,以供参考罢——
一、走“人生”的长途,最易遇到的有两大难关。其一是“歧路”,倘若墨翟先生,相传是恸哭而返的。但我不哭也不返,先在歧路头坐下,歇一会,或者睡一觉,于是选一条似乎可走的路再走,倘遇见老实人,也许夺他食物充饥,但是不问路,因为我料定他并不知道的。如果遇见老虎,我就爬上树去,等它饿得走去了再下来,倘它竟不走,我就自己饿死在树上,而且先用带子缚住,连死尸也决不给它吃。但倘若没有树呢?那么,没有法子,只好请它吃了,但也不妨也咬它一口。其二便是“穷途”了,听说阮籍先生也大哭而回,我却也象在歧路上的办法一样,还是跨进去,在刺丛里姑且走走,但我也并未遇到全是荆棘毫无可走的地方过,不知道是否世上本无所谓穷途,还是我幸而没有遇着。
二、对于社会的战斗,我是并不挺身而出的,我不劝别人牺牲什么之类者就为此。欧战的时候,最重“壕堑战”,战士伏在壕中,有时吸烟,也唱歌,打纸牌,喝酒,也在壕内开美术展览会,但有时忽向敌人开他几枪。中国多暗箭,挺身而出的勇士容易丧命,这种战法是必要的罢。但恐怕也有时会逼到非短兵相接不可的,这时候,没有法子,就短兵相接。
总结起来,我自己对于苦闷的办法,是专与袭来的苦痛捣乱,将无赖手段当作胜利,硬唱凯歌,算是乐趣,这或者就是糖罢。但临末也还是归结到“没有法子”,这真是没有法子!
以上,我自己的办法说完了,就是不过如此,而且近于游戏,不象步步走在人生的正轨上(人生或者有正轨罢,但我不知道),我相信写了出来,未必于你有用,但我也只能写出这些罢了。
鲁迅 三月十一日
二
广平兄:
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誰もが「賢者は世を避く」と知っているが、私は今の俗人はむしろ雅を避くべしと思う。これもまた一種の「明哲保身」である。
(十二月二十六日。)
【附記】
第一篇の『中国に関する二、三の事』は、日本の改造社の依頼により書いたもので、原文は日本語であり、同年三月に『改造』に掲載され、題を『火、王道、監獄』と改めた。記憶では中国の北方にかつてある種の期刊がこの三篇を訳載したことがあるが、南方では林語堂・邵洵美・章克標の三氏が主編する雑誌『人言』のみが、これを著者攻撃の材料として用いた──
「雅を避く」とは何か。即ち、高雅なる振りをせず、文人面をせず、ただ率直に生きることである。今の世の中で最も危険なのは「雅」を装うことだ。なぜなら「雅」を装えば、必ず権力者に利用されるか、さもなくば権力者に睨まれるからだ。
文人は「雅」であらねばならぬと世間は思っている。しかし「雅」なる文人こそ、最も容易に「功徳碑」を書かされる者なのだ。「俗」なる者ならば誰もそのような依頼をしない。されば「俗」を装い「雅」を避けることは、実は最も賢明な処世術なのである。
しかしこれは単なる処世術に留まらない。「雅」を避けることは、即ち権威主義を避けることでもある。「雅」とは一つの階層秩序であり、「雅」と「俗」の区別は権力の区別に重なる。この区別を拒否することは、ある種の平等主義の実践なのだ。
(十二月二十六日。)
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这回要先讲“兄”字的讲义了。这是我自己制定,沿用下来的例子,就是:旧日或近来所识的朋友,旧同学而至今还在来往的,直接听讲的学生,写信的时候我都称“兄”。此外如原是前辈,或较为生疏,较需客气的,就称先生,老爷,太太,少爷,小姐,大人……之类。总之我这“兄”字的意思,不过比直呼其名略胜一筹,并不如许叔重先生所说,真含有“老哥”的意义。但这些理由,只有我自己知道,则你一见而大惊力争,盖无足怪也。然而现已说明,则亦毫不为奇焉矣。
现在的所谓教育,世界上无论那一国,其实都不过是制造许多适应环境的机器的方法罢了,要适如其分,发展各各的个性,这时候还未到来,也料不定将来究竟可有这样的时候。我疑心将来的黄金世界里,也会有将叛徒处死刑,而大家尚以为是黄金世界的事,其大病根就在人们各各不同,不能象印版书似的每本一律。要彻底地毁坏这种大势的,就容易变成“个人的无政府主义者”,如《工人绥惠略夫》里所描写的绥惠略夫就是。这一类人物的运命,在现在,——也许虽在将来——是要救群众,而反被群众所迫害,终至于成了单身,忿激之余,一转而仇视一切,无论对谁都开枪,自己也归于毁灭。
社会上千奇百怪,无所不有;在学校里,只有捧线装书和希望得到文凭者,虽然根柢上不离“利害”二字,但是还要算好的。中国大约太老了,社会上事无大小,都恶劣不堪,象一只黑色的染缸,无论加进什么新东西去,都变成漆黑,可是除了再想法子来改革之外,也再没有别的路。我看一切理想家,不是怀念“过去”,就是希望“将来”,对于“现在”这一个题目,都缴了白卷,因为谁也开不出药方。其中最好的药方,即所谓“希望将来”的就是。
“将来”这回事,虽然不能知道情形怎样,但有是一定会有的,就是一定会到来的,所虑者到了那时,就成了那时的“现在”。然而人们也不必这样悲观,只要“那时的现在”比“现在的现在”好一点,就很好了,这就是进步。
这些空想,也无法证明一定是空想,所以也可以算是人生的一种慰安,正如信徒的上帝。你好象常在看我的作品,但我的作品太黑暗了,因为我常觉得惟“黑暗与虚无”乃是“实有”,却偏要向这些作绝望的抗战,所以很多着偏激的声音。其实这或者是年龄和经历的关系,也许未必一定的确的,因为我终于不能证实:惟黑暗与虚无乃是实有。所以我想,在青年,须是有不平而不悲观,常抗战而亦自卫,倘荆棘非践不可,固然不得不践,但若无须必践,即不必随便去践,这就是之我所以主张“壕堑战”的原因,其实也无非想多留下几个战士,以得更多的战绩。
子路先生确是勇士,但他因为“吾闻君子死冠不免”,于是“结缨而死”,则我总觉得有点迂。掉了一顶帽子,又有何妨呢,却看得这么郑重,实在是上了仲尼先生的当了。仲尼先生自己“厄于陈蔡”,却并不饿死,真是滑得可观。子路先生倘若不信他的胡说,披头散发的战起来,也许不至于死的罢,但这种散发的战法,也就是属于我所谓“壕堑战”的。
时候不早了,就此结束了。
鲁迅 三月十八日
三
广平兄:
仿佛记得收到来信有好几天了,但因为偶然没有工夫,一直到今天才能写回信。
“一步步的现在过去”,自然可以比较的不为环境所苦,但“现在的我”中,既然“含有原来的我”,而这“我”又有不满于时代环境之心,则苦痛也依然相续。不过能够随遇而安——即有船坐船云云——则比起幻想太多的人们来,可以稍为安稳,能够敷衍下去而已。总之,人若一经走出麻木境界,便即增加苦痛,而且无法可想,所谓“希望将来”,不过是自慰——或者简直是自欺——之法,即所谓“随顺现在”者也一样。必须麻木到不想“将来”也不知“现在”,这才和中国的时代环境相合,但一有知识,就不能再回到这地步去了。也只好如我前信所说,“有不平而不悲观”,也即来信之所谓“养精蓄锐以待及锋而试”罢。
来信所说“时代的落伍者”的定义,是不对的。时代环境全都迁流,并且进步,而个人始终如故,毫无长进,这才谓之“落伍者”。倘若对于时代环境怀着不满,要它更好,待较好时,又要它更更好,即不当有“落伍者”之称。因为世界上改革者的动机,大抵就是这对于时代环境的不满的缘故。
这回教育次长的下台,我以为似乎是他自己的失策,否则,不至于此的。至于妨碍《民国日报》,乃是北京官场的老手段,实在可笑。停止一种报章,他们的天下便即太平么?这种漆黑的染缸不打破,中国即无希望,但正在准备毁坏者,目下也仿佛有人,只可惜数目太少。然而既然已有,即可望多起来,一多,可就好玩了——但是这自然还在将来;现在呢,只是准备。
我如果有所知道,当然不至于不说的,但这种满纸“将来”和“准备”的指教,其实不过是空言,恐怕于“小鬼”无甚好处。至于时间,那倒不要紧的,因为我即使不写信,也并不做着什么了不得的事。
鲁迅 三月二十三日
四
广平兄:
现在才有写回信的工夫,所以我就写回信。那一回演剧时候,我之所以先去者,实与剧的好坏无关,我在群集里面,是向来坐不久的。那天观众似乎不少,筹款的目的,该可以达到一点了罢。好在中国现在也没有什么批评家,鉴赏家,给看那样的戏剧,已经尽够了,严格的说起来,则那天的看客,什么也不懂而胡闹的很多,都应该用大批的蚊烟,将它们熏出去的。
近来的事件,内容大抵复杂,实不但学校为然。据我看来,女学生还要算好的,大约因为和外面的社会不大接触之故罢,所以还不过谈谈衣饰宴会之类。至于别的地方,怪状更是层出不穷,东南大学事件就是其一,倘细细剖析,真要为中国前途万分悲哀。虽至小事,亦复如是,即如《现代评论》上的“一个女读者”的文章,我看那行文造语,总疑心是男人做的,所以你的推想,也许不确。世上的鬼蜮是多极了。
说起民元的事来,那时确是光明得多,当时我也在南京教育部,觉得中国将来很有希望。自然,那时恶劣分子固然也有的,然而他总失败。一到二年二次革命失败之后,即渐渐坏下去,坏而又坏,遂成了现在的情形。其实这也不是新添的坏,乃是涂饰的新漆剥落已尽,于是旧相又显了出来。使奴才主持家政,那里会有好样子。最初的革命是排满,容易做到的,其次的改革是要国民改革自己的坏根性,于是就不肯了。所以此后最要紧的是改革国民性,否则,无论是专制,是共和,是什么什么,招牌虽换,货色照旧,全不行的。
但说到这类的改革,便是真叫作无从措手。不但此也,现在虽只想将“政象”稍稍改善,尚且非常之难。在中国活动的现有两种“主义者”,外表都很新的,但我研究他们的精神,还是旧货,所以我现在无所属,但希望他们自己觉悟,自动的改良而已。例如世界主义者,而同志自己先打架;无政府主义者的报馆,而用护兵守门,真不知是怎么一回事。土匪也不行,河南的单知道烧抢,东三省的渐趋于保护雅片,总之是抱“发财主义”的居多,梁山泊劫富济贫的事,已成为书本子上的故事了。军队里也不好,排挤之风甚盛,勇敢无私的一定孤立,为敌所乘,同人不救,终至阵亡,而巧滑骑墙,专图地盘者反很得意。我有几个学生在军中,倘不同化,怕终不能占得势力,但若同化,则占得势力又于将来何益。一个就在攻惠州,虽闻已胜,而终于没有信来,使我常常苦痛。
我又无拳无勇,真没有法,在手头的只有笔墨,能写这封信一类的不得要领的东西而已。但我总还想对于根深蒂固的所谓旧文明,施行袭击,令其动摇,冀于将来有万一之希望。而且留心看看,居然也有几个不问成败而要战斗的人,虽然意见和我并不尽同,但这是前几年所没有遇到的。我所谓“正在准备破坏者目下也仿佛有人”的人,不过这么一回事。要成联合战线,还在将来。
希望我做一点什么事的人,也颇有几个了,但我自己知道,是不行的。凡做领导的人,一须勇猛,而我看事情太仔细,一仔细,即多疑虑,不易勇往直前;二须不惜用牺牲,而我最不愿使别人做牺牲(这其实还是革命以前的种种事情的刺激的结果),也就不能有大局面。所以,其结果,终于不外乎用空论来发牢骚,印一通书籍杂志。你如果也要发牢骚,请来帮我们,倘曰“马前卒”,则吾岂敢,因为我实无马,坐在人力车上,已经是阔气的时候了。
投稿到报馆里,是碰运气的,一者编辑先生总有些胡涂,二者投稿一多,确也使人头昏眼花。我近来常看稿子,不但没有空闲,而且人也疲乏了,此后想不再给人看,但除了几个熟识的人们。你投稿虽不写什么“女士”,我写信也改称为“兄”,但看那文章,总带些女性。我虽然没有细研究过,但大略看来,似乎“女士”的说话的句子排列法,就与“男士”不同,所以写在纸上,一见可辨。
北京的印刷品现在虽然比先前多,但好的却少。《猛进》很勇,而论一时的政象的文字太多。《现代评论》的作者固然多是名人,看去却显得灰色。《语丝》虽总想有反抗精神,而时时有疲劳的颜色,大约因为看得中国的内情太清楚,所以不免有些失望之故罢。由此可知见事太明,做事即失其勇,庄子所谓“察见渊鱼者不祥”,盖不独谓将为众所忌,且于自己的前进亦复大有妨碍也。我现在还要找寻生力军,加多破坏论者。
鲁迅 三月三十一日
五
广平兄:
我先前收到五个人署名的印刷品,知道学校里又有些事情,但并未收到薛先生的宣言,只能从学生方面的信中,猜测一点。我的习性不大好,每不肯相信表面上的事情,所以我疑心薜先生辞职的意思,恐怕还在先,现在不过借题发挥,自以为去得格外好看。其实“声势汹汹”的罪状,未免太不切实,即使如此,也没有辞职的必要的。如果自己要辞职而必须牵连几个学生,我觉得这办法有些恶劣。但我究竟不明白内中的情形,要之,那普通所想得到的,总无非是“用阴谋”与“装死”,学生都不易应付的。现在已没有中庸之法,如果他的所谓罪状不过是“声势汹汹”,则殊不足以制人死命,有那一回反驳的信,已经可以了。此后只能平心静气,再看后来,随时用质直的方法对付。
这回演剧,每人分到二十余元,我以为结果并不算坏,前年世界语学校演剧筹款,却赔了几十元。但这几个钱,自然不够旅行,要旅行只好到天津。其实现在何必旅行,江浙的教育,表面上虽说发达,内情何尝佳,只要看母校,即可以推知其他一切。不如买点心,一日吃一元,反有
实益。
大同的世界,怕一时未必到来,即使到来,象中国现在似的民族,也一定在大同的门外,所以我想无论如何,总要改革才好。但改革最快的还是火与剑,孙中山奔波一世,而中国还是如此者,最大原因还在他没有党军,因此不能不迁就有武力的别人。近几年似乎他们也觉悟了,开起军官学校来,惜已太晚。中国国民性的堕落,我觉得不是因为顾家,他们也未尝为“家”设想。最大的病根,是眼光不远,加以“卑怯”与“贪婪”,但这是历久养成的,一时不容易去掉。我对于攻打这些病根的工作,倘有可为,现在还不想放手,但即使有效,也恐很迟,我自己看不见了。由我想来,——这只是如此感到,说不出理由,——目下的压制和黑暗还要增加,但因此也许可以发生较激烈的反抗与不平的新分子,为将来的新的变动的萌蘖。
“关起门来长吁短叹”,自然是太气闷了,现在我想先对于思想——习惯加以明白的攻击,先前我只攻击旧党,现在我还要攻击青年。但政府似乎已在张起压制言论的网来,那么,又须准备“钻网”的法子,——这是各国鼓吹改革的人照例要遇到的。我现在还在寻有反抗和攻击的笔的人们,再多几个,就来“试他一试”,但那效果,仍然还在不可知之数,恐怕也不过聊以自慰而已。所以一面又觉得无聊,又疑心自己有些暮气,“小鬼”年青,当然是有锐气的,可有更好、更有聊的法子么?
我所谓“女性”的文章,倒不专在“唉,呀,哟,……”之多。就是在抒情文,则多用好看字样,多讲风景,多怀家庭,见秋花而心伤,对明月而泪下之类。一到辩论之文,尤易看出特别。即历举出对手之语,从头至尾,逐一驳去,虽然犀利,而不沉重,且罕有正对“论敌”之要害,仅以一击给与致命的重伤者。总之是只有小毒而无剧毒,好作长文而不善于短文。
《猛进》昨已送上五期,想已收到。此后如不被禁止,我当寄上,因为我这里有好几份。
鲁迅 四月八日
□□女士的举动似乎不很好,听说她办报章时,到加拉罕那里去募捐,说如果不给,她就要对于俄国说坏话云云。
六
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この度はまず「兄」の字の講義から始めねばならぬ。これは私が自ら定めて慣用してきた例であって、即ち、旧知あるいは近来の知己、旧来の同窓にして今なお交際のある者、直接の聴講生に対して手紙を書く時には「兄」と呼ぶのである。それ以外の、もとより先輩であるとか、比較的面識が薄いとか、比較的礼を要するとかいう方々には「先生」「旦那」「奥様」「坊っちゃん」「お嬢様」「大人」……等と呼ぶ。要するに私のこの「兄」の字の意味は、直接に名を呼ぶよりいくらか上という程度に過ぎず、許叔重先生の仰るような、真に「兄さん」の意味を含むものではない。しかしこの理由は私自身しか知らぬのだから、あなたが一見して大いに驚き力争するのも無理からぬことである。しかるに今は既に──
この「兄」の用法に関する弁明は些末なことのようであるが、実は中国の人間関係における呼称の複雑さを示す好例である。中国語の呼称には厳密な階層序列が込められており、一字の違いが関係の親疎、上下を明確に示す。
しかし私はこの序列をできるだけ簡略化したいと思っている。知己には「兄」、面識の薄い者には「先生」──これだけで十分ではないか。しかし世間はそう思わず、「兄」と呼ばれたことに大驚する者があり、「先生」と呼ばれなかったことに憤慨する者がある。
呼称への過敏さは、実は身分への過敏さの表れであり、身分への過敏さは封建的秩序意識の残滓である。「兄」の一字にこれほどの波紋が立つ社会は、まだまだ真の平等には遠いのだ。
(十二月一日。)
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广平兄:
有许多话,那天本可以口头答复,但我这里从早到夜,总有几个各样的客在座,所以只能论天气之好坏,风之大小。因为虽是平常的话,但偶然听了一段,即容易莫名其妙,由此造出谣言,所以还不如仍旧写回信。
学校的事,也许暂时要不死不活罢。昨天听人说,章太太不来,另荐了两个人,一个也不来,一个是不去请。还有□太太却很想做,而当局似乎不敢请教。听说评议会的挽留倒不算什么,而问题却在不能得人。当局定要在“太太类”中选择,固然也过于拘执,但别的一时可也没有,此实不死不活之大原因也。后事如何,且听下回分解可耳。
来信所说的意见,我实在也无法说一定是错的,但是不赞成,一是由于全局的估计,二是由于自己的偏见。第一,这不是少数人所能做,而这类人现在很不多,即或有之,更不该轻易用去;还有,是纵使有一两回类此的事件,实不足以震动国民,他们还很麻木,至于坏种,则警备极严,也未必就肯洗心革面,假使接连而起,自然就好得多,但怕没有这许多人;还有,是此事容易引起坏影响,例如民二,袁世凯也用这方法了,革命者所用的多青年,而他的乃是用钱雇来的奴子,试一衡量,还是这一面吃亏。但这时革命者们之间,也曾用过雇工,以自相残杀,于是此道乃更堕落。现在即使复活,我以为虽然可以快一时之意,而与大局是无关的。第二,我的脾气是如此的,自己没有做的事,就不大赞成。我有时也能辣手评文,也尝煽动青年冒险,但有相识的人,我就不能评他的文章,怕见他的冒险,明知道这是自相矛盾的,也就是做不出什么事情来的死症,然而终于无法改良,奈何不得——姑且由他去罢。
“无处不是苦闷,苦闷(此下还有四个和……)”,我觉得“小鬼”的“苦闷”的原因是在“性急”。在进取的国民中,性急是好的,但生在麻木如中国的地方,却容易吃亏,纵使如何牺牲,也无非毁灭自己,于国度没有影响。我记得先前在学校演说时候也曾说过,要治这麻木状态的国度,只有一法,就是“韧”,也就是“锲而不舍”。逐渐的做一点,总不肯休,不至于比“踔厉风发”无效的。但其间自然免不了“苦闷,苦闷(此下还有四个并……)”,可是只好便与这“苦闷……”反抗。这虽然近于劝人耐心做奴隶,而其实很不同,甘心乐意的奴隶是无望的,但若怀着不平,总可以逐渐做些有效的事。
我有时以为“宣传”是无效的,但细想起来,也不尽然。革命之前,第一个牺牲者我记得是史坚如,现在人们都不大知道了,在广东一定是记得的人较多罢,此后接连的有好几人,而爆发却在湖北,还是宣传的功劳。当时和袁世凯妥协,种下病根,其实却还是党人实力没有充实之故。所以鉴于前车,则此后的第一要图,还在充足实力,此外各种言动,只能稍作辅佐而已。
文章的看法,也是因人不同的,我因为自己好作短文,好用反语,每遇辩论,辄不管三七二十一,就迎头一击,所以每见和我的办法不同者便以为缺点。其实畅达也自有畅达的好处,正不必故意减缩(但繁冗则自应删削),例如玄同之文,即颇汪洋,而少含蓄,使读者览之了然,无所疑惑,故于表白意见,反为相宜,效力亦复很大。我的东西却常招误解,有时竟大出于意料之外,可见意在简练,稍一不慎,即易流于晦涩,而其弊有不可究诘者焉。(不可究诘四字颇有语病,但一时想不出适当之字,姑仍之。意但云“其弊颇大”耳。)
前天仿佛听说《猛进》终于没有定妥,后来因为别的话岔开,不说下去了。如未定,便中可见告,当寄上。我虽说忙,其实也不过“口头禅”,每日常有闲坐及讲空话的时候,写一个信面,尚非大难事也。
鲁迅四月十四日
七
广平兄:
十六和廿日的信,都收到了,实在对不起,到现在才一并回答。几天以来,真所谓忙得不堪,除些琐事以外,就是那可笑的“□□周刊”。这一件事,本来还不过一种计划,不料有一个学生对邵飘萍一说,他就登出广告来,并且写得那么夸大可笑。第二天我就代拟了一个别的广告,硬令登载,又不许改动,不料他却又加了几句无聊的案语,做事遇着隔膜者,真是连小事情也碰头。至于我这一面,则除百来行稿子以外,什么也没有,但既然受了广告的鞭子的强迫,也不能不跑了,于是催人去做,自己也做,直到此刻,这才勉强凑成,而今天就是交稿的日子。统看全稿,实在不见得高明,你不要那么热望,过于热望,要更失望的。但我还希望将来能够比较的好一点。如有稿子,也望寄来,所论的问题也不拘大小。你不知定有《京报》否,如无,我可以嘱他们将《莽原》——即所谓“□□周刊”——寄上。
但星期五,你一定在学校先看见《京报》罢。那“莽原”二字,是一个八岁的孩子写的,名目也并无意义,与《语丝》相同,可是又仿佛近于“旷野”。投稿的人名都是真的;只有末尾的四个都由我代表,然而将来从文章上恐怕也仍然看得出来,改变文体,实在是不容易的事。这些人里面,做小说的和能翻译的居多,而做评论的没有几个,这实在是一个大缺点。
薛先生已经复职,自然极好,但来来去去,似乎未免太劳苦一点了。至于今之教育当局,则我不知其人。但看他挽孙中山对联中之自夸,与对于完全“道不同”之段祺瑞之密切,为人亦可想而知。所闻的历来的言行,盖是一大言无实,欺善怕恶之流而已。要之在这昏浊的政局中,居然出为高官,清流大约无这种手段,由我看来,王九龄要好得多罢。校长之事,部中毫无所闻,此人之来,以整顿教育自命,或当别有一反从前一切之新法(他是不满于今之学风的),但是否又是大言,则不得而知,现在鬼鬼祟祟之人太多,实在无从说起。
我以前做些小说短评之类,难免描写或批评别人,现在不知道怎么,似乎报应已至,自己忽而变了别人的文章的题目了。张王两篇,也已看过,未免说得我太好些。我自己觉得并无如此“冷静”,如此能干,即如“小鬼”们之光降,在未得十六来信以前,我还未悟出已被“探检”而去,倘如张君所言,从第一至第三,全是“冷静”,则该早已看破了。但你们的研究,似亦不甚精细,现在试出一题,加以考试:我所坐的有玻璃窗的房子的屋顶,是什么样子的?后园已经到过,应该可以看见这个,仰即答复可也!
星期一的比赛“韧性”,我确又失败了,但究竟抵抗了一点钟,成绩还可以在六十分以上。可惜众寡不敌,终被逼上午门,此后则遁入公园,避去近于“带队”之厄。我常想带兵抢劫,固然无可讳言,但若一变而为带女学生游历,则未免变得离题太远,先前之逃来逃去者,非怕“难为”“出轨”等等,其实不过是逃脱领队而已。
“琴心”问题,现在总算明白了。先前,有人说是司空蕙,有人说是陆晶清,而孙伏园坚谓俱不然,乃是一个新出的女作者。盖投稿非其自写,所以是另一种笔迹,伏园以善认笔迹自负,岂料反而上当。二则所用的红信封绿信纸早将伏园善识笔迹之眼睛吓昏,遂愈加疑不到司空蕙身上去了。加以所作诗文,也太近于女性。今看他署着真名之文,也是一样色彩,本该容易识破,但他人谁会想到他为了争一点无聊的名声,竟肯如此钩心斗角,无所不至呢。他的“横扫千人”的大作,今天在《京报副刊》似乎露一点端倪了,所扫的一个是批评廖仲潜小说的芳子,但我现在疑心芳子也就是廖仲潜,实无其人,和琴心一样的。第二个是向培良,则识力比他坚实得多,琴心的扫帚,未免太软弱一点。但培良已往河南去办报,不会有答复的了,这实在可惜,使我们少看见许多痛快的议论。
《民国公报》的实情,我不知道,待探听了再回答罢。普通所谓考试编辑多是一种手段,大抵因为荐条太多,无法应付,便来装作这一种门面,故作秉公选用之状,以免荐送者见怪,其实却是早已暗暗定好,别的应试者不过陪他变一场戏法罢了。但《民国公报》是否也这样,却尚难决(我看十之九也这样),总之,先去打听一回罢。我的意见,以为做编辑是不会有什么进步的,我近来常与周刊之类相关,弄得看书和休息的工夫也没有了,因为选用的稿子,常须动笔改削,倘若任其自然,又怕闹出笑话来。还是“人之患”较为从容,即使有时逼上午门,也不过费两三个钟头而已。
鲁迅 四月二十二日夜
八
广平兄:
来信收到了。今天又收到一封文稿,拜读过了,后三段是好的,首一段累坠一点,所以看纸面如何,也许将这一段删去。但第二期上已经来不及登,因为不知“小鬼”何意,竟不署作者名字。所以请你捏造一个,并且通知我,并且必须于下星期三上午以前通知,并且回信中不准说“请先生随便写上一个可也”之类的油滑话。
现在的小周刊,目录必在角上者,是为订成本子之后,读者容易翻检起见,倘要检查什么,就不必全本翻开,才能够看见每天的细目。但也确有隔断读者注意的弊病,我想了另一格式,是专用第一版上层的如下:则目录既在边上,容易检查,又无隔断本文之弊,可惜《莽原》第一期已经印出,不能便即变换了,但到二十期以后,我想来“试他一试”。至于印在末尾,书籍尚可,定期刊却不合宜,放在第一版中央,尤为不便擅起此种“心理作用”,应该记大过二次。
《莽原》第一期的作者和性质,诚如来信所言,长虹确不是我,乃是我今年新认识的。意见也有一部分和我相合,而似是安那其主义者。他很能做文章,但大约因为受了尼采的作品的影响之故罢,常有太晦涩难解处;第二期登出的署着C. H. 的,也是他的作品。至于《棉袍里的世界》所说的“掠夺”问题,则敢请少爷不必多心,我辈赴贵校教书,每月明明写定“致送修金十三元五角正”。夫既有“十三元五角”而且“正”,则又何“掠夺”之有也欤哉!
割舌之罪,早在我的意中,然而倒不以为意。近来整天的和人谈话,颇觉得有点苦了,割去舌头,则一者免得教书,二者免得陪客,三者免得做官,四者免得讲应酬话,五者免得演说;从此可以专心做报章文字,岂不舒服。所以你们应该趁我还未割去舌头之前听完《苦闷的象征》,前回的不肯听讲而逼上午门,也就应该记大过若干次。而我的六十分,则必有无疑。因为这并非“界限分得太清”之故,我无论对于什么学生,都不用“冲锋突围而出”之法也。况且,窃闻小姐之类,大抵容易“潸然泪下”,倘我挥拳打出,诸君在后面哭而送之,则这一篇文章的分数,岂非当在零分以下?现在不然,可知定为六十分者,还是自己客气的。
但是这次试验,我却可以自认失败,因为我过于大意,以为广平少爷未必如此“细心”,题目出得太容易了。现在也只好任凭排卦拈签,不再辩论,装作舌头已经割去之状。惟报仇题目,却也不再交卷,因为时间太严。那信是星期一上午收到的,午后即须上课,其间更无作答的工夫,而一经上课,则无论答得如何正确,也必被冤为“临时预备夹带,然后交卷”,倒不如拼出,交了白卷便宜。
中国现今文坛(?)的状态,实在不佳,但究竟做诗及小说者尚有人。最缺少的是“文明批评”和“社会批评”,我之以“莽原”起哄,大半也就为了想由此引出些新的这一种批评者来,虽在割去敝舌之后,也还有人说话,继续撕去旧社会的假面。可惜所收的至今为止的稿子,也还是小说多。
鲁迅四月二十八日
九
广平兄:
四月卅的信收到了。闲话休提,先来攻击朱老夫子的《假名论》罢。
夫朱老夫子者,是我的老同学,我对于他的在窗下孜孜研究,久而不倦,是十分佩服的,然此亦惟于古学一端而已,若夫评论世事,乃颇觉其迂远之至者也。他对于假名之非难,实不过其最偏的一部分,如以此诬陷毁谤个人之类,才可谓之“不负责任的推诿的表示”。倘在人权尚无确实保障的时候,两面的众寡强弱,又极悬殊,则须又作别论才是。例如子房为韩报仇,以君子看来,盖是应该写信给秦始皇,要求两人赤膊决斗,才算合理的,然而博浪一击,大索十日而终不可得,后世亦不以为“不负责任”者,知公私不同,而强弱之势亦异,一匹夫不得不然之故也。况且,现在的有权者,是什么东西呢?他知道什么责任呢?《民国日报》案故意拖延月余,才来裁判,又决罚至如此之重,而叫喊几声的人独要硬负片面的责任,如孩子脱衣以入虎穴,岂非大愚么?朱老夫子生活于平安中,所做的是《萧梁旧史考》,负责与否,没有大关系,也并没有什么意外的危险,所以他的侃侃而谈之谈,仅可以供他日共和实现之后的参考,若今日者,则我以为只要目的是正的——这所谓正不正,又只专凭自己判断——即可用无论什么手段,而况区区假名真名之小事也哉,此我所以指窗下为活人之坟墓,而劝人们不必多读中国之书者也!
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広平兄:
申し上げたいことは多々ありますが、あの日は口頭にてお答えすることもできたはずでした。しかし私のところには朝から夜まで常に各種の客が数人居りますので、天気の好悪や風の大小を論ずることしかできません。なぜなら平常の話であっても、偶々その一部を聞かれれば忽ち訳が分からなくなり、それから流言が造り出されるからです。されば矢張り返信を書く方がよろしいでしょう。
学校のことは、暫く不死不活(死にもせず生きもせず)の状態が続くのかもしれません。昨日聞いたところでは、章夫人は来られず、別に二人を推薦したが、一人はやはり来られず、もう一人は請う気にならぬとのこと。さらに□夫人はぜひやりたがっているが、当局はどうやら請う気がないようです。評議会の慰留は大したことではなく、問題は人が得られぬことにあるとのこと。当局は──
この手紙は、魯迅が許広平に宛てた私信であり、当時の北京の大学における人事の混乱を伝えている。手紙の形式は私的であるが、その中に描かれる情景──常に客がいるために自由に話せず、流言を恐れて口を慎む──は、この時代の知識人が置かれた息苦しい環境をよく示している。
「天気の好悪を論ずることしかできない」──この一文に、監視と自己検閲の日常がある。家の中ですら自由に語れぬ世界で、人は手紙に真情を託すほかない。しかし手紙もまた傍受される恐れがある。
されば書かれた言葉は常に不完全であり、言外の意味を読み取る力が読者に求められるのだ。
(三月十一日。)
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本来还要更长更明白的骂几句,但因为有所顾忌,又哀其胡子之长,就此收束罢。那么,话题一转,而论“小鬼”之假名问题。那两个“鱼与熊掌”,虽并为足下所喜,我以为用于论文,却不相宜,因为以真名招一个无聊的麻烦,固然不值得,但若假名太近于滑稽,则足以减少论文的重量,所以也不很好。你这许多名字中,既然“非心”总算还未用过,我就以“编辑”兼“先生”之威权,给你写上这一个罢。假如于心不甘,赶紧发信抗议,还来得及,但如到星期二夜为止并无痛哭流涕之抗议,即以默认论,虽驷马也难于追回了。而且此后的文章,也应细心署名,不得以“因为忙中”推诿!
试验题目出得太容易了,自然也算得我的失策,然而也未始没有补救之法的。其法即称之为“少爷”,刺之以“细心”,则效力之大,也抵得记大过二次。现在果然慷慨激昂的来“力争”了,而且写至七行之多,可见费力不少。我的报复计划,总算已经达到了一部分,“少爷”之称,姑且准其取消罢。
历来的《妇周》,几乎还是一种文艺杂志,议论很少,即偶有之,也不很好。前回的那一篇,则简直是笑话。请他们诸公来“试他一试”,也不坏罢。然而咱们的《莽原》也很窘,寄来的多是小说与诗,评论很少,倘不小心,也容易变成文艺杂志的。我虽然被称为“编辑先生”,非常骄气,但每星期被逼作文,却很感痛苦,因为这就像先前学校中的星期考试。你如有议论,敢乞源源寄来,不胜荣幸感激涕零之至!
缝纫先生听说又不来了,要寻善于缝纫的,北京很多,本不必发电号召,奔波而至,她这回总算聪明。继其后者,据现状以观,总还是太太类罢。其实这倒不成为什么问题,不必定用毛瑟,因为“女人长女校”,还是社会的公意,想章士钊和社会奋斗,是不会的,否则,也不成其为章士钊了。老爷类也没有什么相宜的人,名人不来,来也未必一定能办好。我想校长之类,最好是请无大名而真肯做事的人做。然而,目下无之。
我也可以“不打自招”:东边架上一盒盒的确是书籍。但我已将废去考试法不用,倘有必须报复之处,即尊称之曰“少爷”,就尽够了。
鲁迅五月三日
(其间缺鲁迅五月八日信一封)。
十
广平兄:
两信均收到,一信中并有稿子,自然照例“感激涕零”而阅之。小鬼“最怕听半截话”,而我偏有爱说半截话的毛病,真是无可奈何。本来想做一篇详明的《朱老夫子论》呈政,而心绪太乱,又没有工夫。简截地说一句罢,就是:他历来所走的都是最稳的路,不做一点小小冒险事,所以他偶然的话倒是不负责任的,待到别人因此而被祸,他不作声了。
群众不过如此,由来久矣,将来恐怕也不过如此。公理也和事之成败无关。但是,女师大的教员也太可怜了,只见暗中活动之鬼,而竟没有站出来说话的人。我近来对于□先生之赴西山,也有些怀疑了,但也许真真恰巧,疑之者倒是我自己的神经过敏。
我现在愈加相信说话和弄笔的都是不中用的人,无论你说话如何有理,文章如何动人,都是空的。他们即使怎样无理,事实上却着着得胜。然而,世界岂真不过如此而已么?我要反抗,试他一试。
提起牺牲,就使我记起前两三年被北大开除的冯省三。他是闹讲义风潮之一人,后来讲义费撤消了,却没有一个同学再提起他。我那时曾在《晨报副刊》上做过一则杂感,意思是牺牲为群众祈福,祀了神道之后,群众就分了他的肉,散胙。
听说学校当局有打电报给家属之类的举动,我以为这些手段太毒了。教员之类该有一番宣言,说明事件的真相,几个人也可以的。如果没有一个人肯负这一点责任(署名),那么,即使校长竟去,学籍也恢复了,也不如走罢,全校没有人了,还有什么可学?
鲁迅五月十八日
十一
广平兄:
午回来,看见留字。现在的现象是各方面黑暗,所以有这情形,不但治本无从说起,便是治标也无法,只好跟着时局推移而已。至于《京报》事,据我所闻却不止秦小姐一人,还有许多人运动,结果是说定两面的新闻都不载,但久而久之,也许会反而帮它们(男女一群,所以只好用“它”),办报的人们,就是这样的东西。其实报章的宣传于实际上也没有多大关系。
今天看见《现代评论》,所谓西滢也者,对于我们的宣言出来说话了,装作局外人的样子,真会玩把戏。我也做了一点寄给《京副》,给他碰一个小钉子。但不知于伏园饭碗之安危如何。它们是无所不为的,满口仁义,行为比什么都不如。我明知道笔是无用的,可是现在只有这个,只有这个而且还要为鬼魅所妨害。然而只要有地方发表,我还是不放下,或者《莽原》要独立,也未可知。独立就独立,完结就完结,都无不可。总而言之,倘笔舌尚存,是总要使用的,东滢西滢,都不相干也。
西滢文托之“流言”,以为此次风潮是“某系某籍教员所鼓动”,那明明是说“国文系浙籍教员”了。别人我不知道,至于我之骂杨荫榆,却在此次风潮之后,而“杨家将”偏来诬赖,可谓卑劣万分。但浙籍也好,夷籍也好,既经骂起,就要骂下去,杨荫榆尚无割舌之权,总还要被骂几回的。
现在老实说一句罢,“世界岂真不过如此而已么?……”这些话,确是“为对小鬼而说的”。我所说的话,常与所想的不同,至于何以如此,则我已在《呐喊》的序上说过:不愿将自己的思想,传染给别人。何以不愿,则因为我的思想太黑暗,而自己终不能确知是否正确之故。至于“还要反抗”,倒是真的,但我知道这“所以反抗之故”,与小鬼截然不同。你的反抗,是为了希望光明的到来罢?我想,一定是如此的。但我的反抗,却不过是与黑暗捣乱。大约我的意见,小鬼很有几点不大了然,这是年龄、经历、环境等等不同之故,不足为奇。例如我是诅咒“人间苦”而不嫌恶“死”的,因为“苦”可以设法减轻而“死”是必然的事,虽曰“尽头”,也不足悲哀。而你却不高兴听这类话,——但是,为什么将好的活人看作“废物”的?这就比不做“痛哭流涕的文字”还“该打”!又如来信说,“凡有死的同我有关的,同时我就憎恨所有与我无关的。……”而我正相反,同我有关的活着,我倒不放心,死了,我就安心,这意思也在《过客》中说过:都与小鬼的不同。其实,我的意见原也一时不容易了然,因为其中本含有许多矛盾,教我自己说,或者是“人道主义”与“个人主义”这两种思想的消长起伏罢,所以我忽而爱人,忽而憎人;做事的时候,有时确为别人,有时却为自己玩玩,有时则竟因为希望生命从速消磨,所以故意拼命的做。此外或者还有什么道理,自己也不甚了然。但我对人说话时,却总拣择光明些的说出,然而偶不留意,就露出阎王并不反对,而小鬼反不乐闻的话来。总而言之,我为自己和为别人的设想,是两样的。所以者何,就因为我的思想太黑暗,但是究竟是否真确,不得而知,所以只能在自身试验,不能邀请别人。其实小鬼希望父兄长存,而自视为“废物”,硬去替“大众请命”,大半也是如此。
《莽原》实在有些穿棉花鞋了,但没有撒泼文章,真也无法。自己呢,又做惯了晦涩的文章,一时改不过来,下笔时立志要显豁,而后来往往仍以晦涩结尾,实在可气之至!现在除附《京报》分送外,另售千五百,看的人也算不少。待“闹潮”略有结束,你这一匹“害群之马”多来发一点议论罢。
鲁迅五月三十日
十二
广平兄:
拆信案件,或者它们有些受了冤,因为卅一日的那一封,也许是我自己拆过的。那时已经很晚,又写了许多信,所以自己不大记得清楚,只记得将其中之一封拆开(从下方),在第一张上加了一点细注。如你所收的第一张上有小注,那就确是我自己拆过的了。
至于别的信,我却不能代它们辩护。其实私拆函件,本是中国的惯技,我也早料到的。但是这类技俩,也不过心劳日拙而已。听说明的方孝孺就被永乐皇帝灭十族,其一是“师”,但也许是齐东野语,我没有考查过这事的真伪。可是从西滢的文字上看来,此辈一得志,则不但灭族,怕还要“灭系”,“灭籍”了。
明明将学生开除,而布告文中文其词曰“出校”,我当时颇叹中国文字之巧。今见上海印捕击杀学生,而路透电则云,“华人不省人事”,可谓异曲同工,但此系中国报译文,不知原文如何。
其实我并不很喝酒,饮酒之害,我是深知道的。现在也还是不喝的时候多,只要没有人劝喝。多住些时,固无不可的。短刀我的确有,但这不过为夜间防贼之用,而偶见者少见多怪,遂有“流言”,皆不足信也。
汪懋祖先生的宣言发表了,而引“某女士”之言以为重,可笑。他们大抵爱用“某”字,不知何也。又观其意似乎说是“某籍某系”想将学校解散,也是一种奇谈,黑幕中人面目渐露,亦殊可观,可惜他又说要“南归”了。躲躲闪闪,躲躲闪闪,此其所以为“黑幕中们说”欤!?哈哈!
迅六月二日
十三
广平兄:
六月六日的信早收到了,但我久没有复。今天又收到十二夕信,并文稿。其实我并不做什么事,而总是忙,拿不起笔来,偶然在什么周刊上写几句,也不过是敷衍,近几天尤其甚。这原因大概是因为“无聊”,人到无聊,便比什么都可怕,因为这是从自己发生的,不大有药可救。喝酒是好的,但也很不好。等暑假时闲空一点,我很想休息几天,什么也不做,什么也不看,但不知道可能够。
第一,小鬼不要变成狂人,也不要发脾气了。人一发狂,自己或者没有什么,——俄国的梭罗古勃以为倒是幸福,——但从别人看来,却似乎一切都已完结。所以我倘能力所及,决不肯使自己发狂,实未发狂而有人硬说我有神经病,那自然无法可想。性急就容易发脾气,最好要酌减“急”的角度,否则,要防自己吃亏,因为现在的中国,总是阴柔人物得胜。
上海的风潮,也出于意料之外。可是今年的学生的动作,据我看来是比前几回进步了。不过这些表示,真所谓“就是这么一回事”。试想:北京全体(?)学生而不能去一“章士钉”,女师大大多数学生而不能去一杨荫榆,何况英国和日本。但在学生一方面,也只能这么做,唯一的希望,就是等候意外飞来的“公理”。现在“公理”也确有点飞来了,而且,说英国不对的,还有英国人。所以无论如何,我总觉得洋鬼子比中国人文明,货只管排,而那品性却很有可学的地方。这种敢于指摘自己国度的错误的,中国人就很少。
所谓“经济绝交”者,在无法可想中,确是一个最好的方法,但有附带条件,要耐久,认真。这么办起来,有人说中国的实业就会借此促进,那是自欺欺人之谈。(前几年排斥日货时,大家也那么说,然而结果不过做成功了一种“万年糊”。草帽和火柴发达的原因,尚不在此。那时候,是连这种万年糊也不会做的,排货事起,有三四个学生组织了一个小团体来制造,我还是小股东,但是每瓶八枚铜子的糊,成本要十枚,而且货色总敌不过日本品。后来,折本,闹架,关门。现在所做的好得多,进步得多了,但和我辈无关也。)因此获利的却是美法商人。我们不过将送给英日的钱,改送美法,归根结蒂,二五等于一十。但英日却究竟受损,为报复计,亦足快意而已。
可是据我看来,要防一个不好的结果,就是白用了许多牺牲,而反为巧人取得自利的机会,这种在中国是常有的。但在学生方面,也愁不得这些,只好凭良心做去,可是要缓而韧,不要急而猛。中国青年中,有些很有太“急”的毛病,(小鬼即其一),因此,就难于耐久(因为开首太猛,易将力气用完),也容易碰钉子,吃亏而发脾气,此不佞所再三申说者也,亦自己所曾经实验者也。
前信反对“喝酒”,何以这回自己“微醉?”(?)了?大作中好看的字面太多,拟删去一些,然后赐列第□期《莽原》。
□□的态度我近来颇怀疑,因为似乎已与西滢大有联络。其登载几篇反杨之稿,盖出于不得已。今天在《京副》上,至于指《猛进》、《现代》、《语丝》为“兄弟周刊”,大有卖《语丝》以与《现代》拉之观。或者《京副》之专载沪事,不登他文,也还有别种隐情(但这也许是我的妄猜),《晨副》即不如此。
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本来ならばもっと長くもっと明白に罵るべきところであるが、いささか憚るところがあり、またその髭の長きを哀れみて、ここで収めることとする。さて話題を一転し、「小鬼」の偽名の問題を論じよう。あの二つの「魚と熊掌」は共に足下の好むところなれども、論文に用いるには不相応と思う。なぜなら、真名をもって無聊なる厄介事を招くのは確かに値せぬことであるが、偽名があまりに滑稽に過ぎれば論文の重量を減ずるゆえ、これもまたあまりよろしくない。あなたの多くの名前の中で、「非心」が幸いまだ使われていないようであるから、私は「編集者」兼「先生」の威権をもって、あなたにこの一つを書き付けよう。もし心に叶わぬならば、急ぎ手紙にて抗議されたし、まだ間に合う──
筆名の問題は些末なようで、実は書く者の身の安全に関わる重大事である。真名で書けば攻撃の標的となり、偽名で書けば卑怯と謗られる。しかも偽名が滑稽であれば文章の信用を損ない、真面目過ぎれば正体が透けて見える。
書く者はこのように、内容以前に名前の選択において既に重大な判断を迫られるのである。自由に物を書ける社会においては、筆名など好みの問題に過ぎぬが、圧迫の社会にあっては、筆名は生存の戦略となる。
魯迅自身が多数の筆名を使い分けたことは周知の通りであり、この手紙もまた筆名の使い方を後進に教えるものだ。書く自由が制限された時代にあって、なおも書き続けるための知恵──これこそが魯迅の遺産の一つである。
(十二月二十日。)
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我明知道几个人做事,真出于“为天下”是很少的。但人于现状,总该有点不平,反抗,改良的意思。只这一点共同目的,便可以合作。即使含些“利用”的私心,也不妨,利用别人,又给别人做点事,说得好看一点,就是“互助”。但是,我总是“罪孽深重,祸延”自己,每每终于发见纯粹的利用,连“互”字也安不上,被用之后,只剩下耗了气力的自己一个。有时候,他还要反而骂你;不骂你,还要谢他的洪恩。我的时常无聊,就是为此,但我还能将一切忘却,休息一时之后,从新再来,即使明知道后来的运命未必会胜于过去。
本来有四张信纸已可写完,而牢骚发出第五张上去了。时候已经不早,非结束不可。止此而已罢。
迅 六月十三夜
然而,这一点空白,也还要用空话来填满。司空蕙,前回登过启事,说要到欧洲去,现在听说又不到欧洲去了。我近来收到一封信,署名“捏蚊”,说要加入《莽原》,大约就是“雪纹”也即司空蕙。这回《民众文艺》上所登的署名“聂文”的,我看也是他。碰一个小钉子,就说要到欧洲去,一不到欧洲去,就又闹“琴心”式的老玩艺了。
这一点空白,即以这样填满。
十四
(前缺。)
那一首诗,意气也未尝不盛,但此种猛烈的攻击,只宜用散文,如“杂感”之类,而造语还须曲折,否,即容易引起反感。诗歌较有永久性,所以不甚合于做这样题目。
沪案以后,周刊上常有极锋利肃杀的诗,其实是没有意思的,情随事迁,即味如嚼蜡。我以为感情正烈的时候,不宜做诗,否则锋铓太露,能将“诗美”杀掉。这首诗有此病。
我自己是不会做作诗的,只是意见如此。编辑者对于投稿,照例不加批评,现遵来信所嘱,妄说几句,但如投稿者并未要知道我的意见,仍希不必告知。
迅 六月二十八日
十五
广平兄:
昨夜,或者今天早上,记得寄上一封信,大概总该先到了。刚才得二十八日函,必须写几句回答,便是小鬼何以屡次诚惶诚恐的赔罪不已,大约也许听了“某籍”小姐的什么谣言了罢,辟谣之举,是不可以已的。
第一,酒精中毒是能有的,但我并不中毒。即使中毒,也是自己的行为,与别人无干。且夫不佞年届半百,位居讲师,难道还会连喝酒多少的主见也没有,至于被小娃儿所激么?!这是决不会的。
第二,我并不受有何种“戒条”,我的母亲也并不禁止我喝酒。我到现在为止,真的醉止有一回半,决不会如此平和。
然而“某籍”小姐为粉饰自己的逃走起见,一定将不知从那里拾来的故事(也许就从“太师母”那里得来的)加以演义,以致小鬼也不免吓得赔罪不已了罢。但是,虽是“太师母”,观察也未必就对,虽是“太太师母”,观察也未必就对。我自己知道,那天毫没有醉,更何至于胡涂,击“房东”之拳,吓而去之的事,全都记得的。
所以,此后不准再来道歉,否则,我“学笈单洋,教鞭17载”,要发杨荫榆式的宣言以传布小姐们胆怯之罪状了。看你们还敢逞能么?
来稿有过火处,或者须改一点。其中的有些话,大约是为反对往执政府请愿而说的罢。总之,这回以打学生手心之马良为总指挥,就可笑。
《莽原》第十期,与《京报》同时罢工了。发稿是星期三,当时并未想到要停刊,所以并将目录在别的周刊上登载了。现在正在交涉,要他们补印,还没有头绪;倘不能补,则旧稿须在本星期五出版。
《莽原》的投稿,就是小说太多,议论太少。现在则并小说也少,大约大家专心爱国,要“到民间去”,所以不做文章了。
迅。六,二九,晚。
十六
广平仁兄大人阁下,敬启者:前蒙投赠之
大作,就要登出来,而我或将被作者暗暗咒骂。因为我连题目也已经改换,而所以改换之故,则因为原题太觉怕人故也。收束处太没有力量,所以添了几句,想来也未必与 尊意背驰;但总而言之:殊为专擅。尚希曲予
海涵,免施
贵骂,勿露“勃谿”之技暂羁“害马”之才,仍复源源投稿,以光敝报,不胜侥幸之至!至于大作之所以常被登载者,实在因为《莽原》有些闹饥荒之故也。我所要多登的是议论,而寄来的偏多小说、诗。先前是虚伪的“花呀”“爱呀”的诗,现在是虚伪的“死呀”“血呀”的诗。呜呼,头痛极了!所以倘有近于议论的文章,即易于登出,夫岂“骗小孩”云乎哉!又,新做文章的人,在我所编的报上,也许比较的易于登出,此则颇有“骗小孩”之嫌疑者也。但若做得稍久,该有更进步之成绩,而偏又偷懒有敷衍之意,则我要加以猛烈之打击:小些罢!
肃此布达,敬请
“好说话的”安!
“老师”谨训。七月九日。
报言“章士钉”将辞屈映光继之,此即浙江有名之“兄弟素不吃饭”人物也,与“士钉”盖伯仲之间,或且不及所以我总以为不革内政,即无一好现象,无论怎样游行示威。
(其间当缺往来信札约共五六封。)
十七
广平兄:
在好看的天亮还未到来之前,再看了一遍大作,我以为还不如不发表。这类题目,其实,在现在,是只能我做的因为大概要受攻击。然而我不要紧,一则我自有还击的方法;二则现在做“文学家”似乎有些做厌了,仿佛要变成机械所以倒很愿意从所谓“文坛”上摔下来。至于如诸君之雪花膏派则究属“嫩”之一流,犯不上以一篇文章而招得攻击或误解,终至于“泣下沾襟”
那上半篇,倘在小说,或回忆的文章里,固然毫不足奇,但在论文中,而给现在的中国读者看,却还太直白,至于下半篇,则实在有点迂。我在那篇文章里本来说:这种骂法,是“卑劣”的。而你却还硬诬赖我“引以为荣”真是可恶透了。
其实,对于满抱着传统思想的人们也还大可以这样骂。看目下有些批评文字,表面上虽然没有什么,而骨子里却还是“他妈的”思想,对于这样批评的批评,倒不如直捷爽快的骂出来,就是“即以其人之道还治其人之身”,于人我均属合适。我常想:治中国应该有两种方法,对新的用新法,对旧的仍用旧法。例如“遗老”有罪,即该用清朝法律:打屁股。因为这是他所佩服的。民元革命时,对任何人都宽容(那时称为“文明”),但待到二次革命失败,许多旧党对于革命党却不“文明”了:杀。假使那时(元年)的新党不“文明”,则许多东西早已灭亡,那里会来发挥他们的老手段?现在用“他妈的”来骂那些背着祖宗的木主以自傲的人们,夫岂太过也欤哉?
还有一篇今天已经发出去,但将两段并作一个题目了:《五分钟与半年》。多么漂亮呀。
天只管下雨,绣花衫不知如何?放晴的时候,赶紧嗮罢,千切千切!
迅。七月二十九,或三十,随便。
【厦门——广州(一九二六年九月至一九二七年一月)】
十八
广平兄:
我九月一日夜半上船,二日晨七时开,四日午后一时到厦门,一路无风,船很平稳。这里的话,我一字都不懂,只得暂到客寓,打电话给林语堂,他便来接,当晚即移入学校居住了。
我在船上时,看见后面有一只轮船,总是不远不近地走着,我疑心就是广大。不知你在船中,可看见前面有一只船否?倘看见,那我所悬拟的便不错了。
此地背山面海,风景佳绝,白天虽暖——约八十七八度——夜却凉。四面几无人家,离市面约有十里,要静养倒好的。普通的东西,亦不易买。听差懒极,不会做事也不肯做事,邮政也懒极,星期六下午及星期日都不办事。
因为教员住室尚未造好,(据说一月后可完工,但未必确,)所以我暂住在一间很大的三层楼上,上下虽不便,眺望却佳。学校开课是二十日,还有许多日可闲。
我写此信时,你还在船上,但我当于明天发出,则你一到校,此信也就到了。你到校后望即见告,那时再写较详细的情形罢,因为现在我初到,还不知道什么。
迅 九月四日夜
十九
(明信片背面)
从后面(南普陀)所照的厦门大学全景。
前面是海,对面是鼓浪屿。
最右边的是生物学院与国学院,第三层楼上有*记的便是我所住的地方。
昨夜发飓风,拔木发屋,但我没有受损害。
迅。九,十一。
(明信片正面)
想已到校,已开课否?
此地二十日上课。
十三日。
二十
广平兄:
依我想,早该得到你的来信了,然而还没有。大约闽粤间的通邮,不大便当,因为并非每日都有船。此地只有一个邮局代办所,星期六下午及星期日不办事,所以今天什么信件也没有——因为是星期——且看明天怎样罢。
我到厦门后便发一信(五日),想早到。现在住了已经近十天,渐渐习惯起来了,不过言语仍旧不懂,买东西仍旧不便。开学在二十日,我有六点钟功课,就要忙起来,但未开学之前,却又觉得太闲,有些无聊,倒望从速开学,而且合同的年限早满。学校的房子尚未造齐,所以我暂住在国学院的陈列所空屋里,是三层楼上,眺望风景,极其合宜,我已写好一张有这房子照相的明信片,或者将与此信一同发出。上遂的事没有结果,我心中很不安,然而也无法可想。
十日之夜发飓风,十分利害,语堂的住宅的房顶也吹破了,门也吹破了。粗如笔管的铜闩也都挤弯,毁东西不少。我住的屋子只破了一扇外层的百叶窗,此外没有损失。今天学校近旁的海边漂来不少东西,有桌子,有枕头,还有死尸,可见别处还翻了船或漂没了房屋。
此地四无人烟,图书馆中书籍不多,常在一处的人,又都是“面笑心不笑”,无话可谈,真是无聊之至。海水浴倒是很近便,但我多年没有浮水了;又想,倘使你在这里,恐怕一定不赞成我这种举动,所以没有去洗;以后也不去洗罢,学校有洗浴处的。夜间,电灯一开,飞虫聚集甚多,几乎不能做事,此后事情一多,大约非早睡而一早起来做不可。
迅。九月十二日夜。
今天(十四日)上午到邮政代办所去看看,得到你六日八日的两封来信,高兴极了。此地的代办所太懒,信件往往放在柜台上,不送来,此后来信可于厦门大学下加“国学院”三字,使他易于投递,且看如何。这几天,我是每日去看的,昨天还未见你的信,因想起报载英国鬼子在广州胡闹,进口船或者要受影响,所以心中很不安,现在放心了。看上海报,北京已戒严,不知何故;女师大已被合并为女子学院,师范部的主任是林素园(小研究系),而且于四日武装接收了,真令人气愤,但此时无暇管也无法管,只得暂且不去理会它,还有将来呢。
回上去讲我途中的事,同房的是一个五十多岁的广东人,姓魏或韦,我没有问清楚,似乎也是民党中人,所以还可谈,也许是老同盟会员罢。但我们不大谈政事,因为彼此都不知道底细;也曾问他从厦门到广州的走法,据说最好是从厦门到汕头,再到广州,和你所闻于客栈中人的话一样。船中的饭菜顿数,和“广大”同,也有鸡粥,船也很平,但无耶稣教徒,比你所遭遇的好得多了。小船的倾侧,真太危险,幸而终于“马”已登陆,使我得以放心。我到厦门时亦以小船搬入学校,浪也不小,但我是从小惯于坐小船的,所以一点也没有什么。
我前信似乎说过这里的听差很不好,现在熟识些了,觉得殊不尽然。大约看惯了北京的听差的唯唯从命的,即易觉得南方人的倔强,其实是南方的等级观念,没有北方之深,所以便是听差,也常有平等言动,现在我和他们的感情好起来了,觉得并不可恶。但茶水很不便,所以我现在少喝茶了,或者这倒是好的。烟卷似乎也比先前少吸。
我上船时,是克士送我去的,并有客栈里的茶房。当未上船之前,我们谈了许多话。我才知道关于我的事情,伏园已经大大的宣传过了,还做些演义。所以上海的有些人,见我们同车到此,便深信伏园之说了,然而也并不为奇。
我已不喝酒了;饭是每餐一大碗(方底的碗,等于尖底碗的两碗),但因为此地的菜总是淡而无味(校内的饭菜是不能吃的,我们合雇了一个厨子,每月工钱十元,每人饭菜钱十元,但仍然淡而无味),所以还不免吃点辣椒末,但我还想改良,逐渐停止。
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私は承知している。数人で事を為すに際して、真に「天下のため」に出でたるものは甚だ少なきことを。しかし人は現状に対して、多少の不平、反抗、改良の意なかるべからず。ただこの一点の共同の目的のみにて、合作し得るのだ。たとえ「利用」の私心がいくらか含まれていても構わぬ。他人を利用し、また他人のために事をなす──聞こえよく言えば即ち「互助」である。しかしながら私は常に「罪業深重にして禍い自らに及ぶ」の身にて、往々にして結局は純粋なる利用を発見し、「互」の字すら当てはめ得ず、利用された後にはただ気力を消耗した自分一人が残されるのみ。時にはさらに逆に罵られ、罵られぬとしても、彼の洪恩に感謝せねばならぬ。私の時折の無聊はまさにこのゆえであるが、しかし私はなお──
人間関係における「利用」と「互助」の境界線は曖昧である。しかし問題は、その曖昧さを一方的に利用する者がいることだ。「天下のため」を掲げて他人を利用し、自分は何の犠牲も払わぬ──この種の人間こそ最も警戒すべき存在である。
しかしそれでも合作は必要であり、合作なくしては何事も為し得ぬ。問題は「利用されること」そのものではなく、「利用された上にさらに感謝を強いられること」にある。これこそ最も人を疲弊させるものだ。
私が「時折無聊を覚える」のはまさにこのためである。しかし無聊を覚えつつもなお書き続け、なお人と関わり続ける──これは無聊を超えた何かが私の中に残っているからだ。それは「天下のため」などという大層なものではなく、ただ、何も為さずにいることへの耐え難さに過ぎぬ。
(一月二十八日。)
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我的功课,大约每周当有六小时,因为语堂希望我多讲,情不可却。其中两点是小说史,无须豫备;两点是专书研究,须豫备;两点是中国文学史,须编讲义。看看这里旧的讲义,则我随便讲讲就很够了,但我还想认真一点,编成一本较好的文学史。你已在大大地用功,豫备讲义了罢,但每班一小时,八时相同,或者不至于很费力罢。此地北伐顺利的消息也甚多,极快人意。报上又常有闽粤风云紧张之说,在这里却看不出;不过听说鼓浪屿上已有很多寓客,极少空屋了,这屿就在学校对面,坐舢板一二十分钟可到。
迅。九月十四日午。
二十一
广平兄:
十三日发的给我的信,已经收到了。我从五日发了一信之后,直到十三四日才发信;十四以前,我只是等着等着,并没有写信,这一封才是第三封。前天,我寄了《彷徨》和《十二个》各一本。
看你所开的职务,似乎很繁重,住处亦不见佳。这种四面“碰壁”的住所,北京没有,上海是有的,在厦门客店里也看见过,实在使人气闷。职务有定,除自己心知其意,善为处理外,更无他法;住室却总该有一间较好才是,否则,恐怕要瘦下。
本校今天行开学礼,学生在三四百人之间,就算作四百人罢,分为豫科及本科七系,每系分三级,则每级人数之寥寥,亦可想而知。此地不但交通不便,招考极严,寄宿舍也只容四百人,四面是荒地,无屋可租,即使有人要来,也无处可住,而学校当局还想本校发达,真是梦想。大约早先就是没有计划的,现在也很散漫,我们来后,都被搁在须作陈列室的大洋楼上,至今尚无一定住所。听说现正赶造着教员的住所,但何时造成,殊不可知。我现在如去上课,须走石阶九十六级,来回就是一百九十二级,喝开水也不容易,幸而近来倒已习惯,不大喝茶了。我和兼士及朱山根,是早就收到聘书的,此外还有几个人,已经到此,而忽然不送聘书,玉堂费了许多力,才于前天送来;玉堂在此似乎也不大顺手,所以上遂的事,竟无法开口。
我的薪水不可谓不多,教科是五或六小时,也可以算很少,但别的所谓“相当职务”,却太繁,有本校季刊的作文,有本院季刊的作文,有指导研究员的事(将来还有审查),合计起来,很够做做了。学校当局又急于事功,问履历,问著作,问计划,问年底有什么成绩发表,令人看得心烦。其实我只要将《古小说钩沉》整理一下拿出去,就可以作为研究教授三四年的成绩了,其余都可以置之不理,但为了玉堂好意请我,所以我除教文学史外,还拟指导一种编辑书目的事,范围颇大,两三年未必能完,但这也只能做到那里算那里了。
在国学院里的,朱山根是胡适之的信徒,另外还有两三个,好象都是朱荐的,和他大同小异,而更浅薄,一到这里,孙伏园便要算可以谈谈的了。我真想不到天下何其浅薄者之多。他们面目倒漂亮的,而语言无味,夜间还要玩留声机,什么梅兰芳之类。我现在惟一的方法是少说话;他们的家眷到来之后,大约要搬往别处去了罢。从前在女师大做办事员的白果是一个职员兼玉堂的秘书,一样浮而不实,将来也许会生风作浪,我现在也竭力地少和他往来。此外,教员内有一个熟人,是先前往陕西去时认识的,似乎还好;集美中学内有师大旧学生五人,都是国文系毕业的,昨天他们请我们吃饭,算作欢迎,他们是主张白话的,在此好象有点孤立。
这一星期以来,我对于本地更加习惯了,饭量照旧,这几天而且更能睡觉,每晚总可以睡九至十小时;但还有点懒,未曾理发,只在前晚用安全剃刀刮了一回髭须而已。我想从此整理为较有条理的生活;大约只要少应酬,关起门来,是做得到的。此地的点心很好;鲜龙眼已吃过了,并不见佳,还是香蕉好。但我不能自己去买东西,因为离市有十里,校旁只有一个小店,东西非常之少,店中人能说几句“普通话”,但我懂不到一半。这里的人似乎很有点欺生,因为是闽南了,所以称我们为北人,我被称为北人,这回是第一次。
现在的天气正象北京的夏末,虫类多极了,最利害的是蚂蚁,有大有小,无处不至,点心是放不过夜的。蚊子倒不多,大概是我在三层楼上之故;生疟疾的很多,所以校医常给我们吃金鸡纳。霍乱已经减少了;但那街道,却真是坏,其实是在绕着人家的墙下,檐下走,无所谓路的。
兼士似乎还要回京去,他要我代他的职务,我不答应他。最初的布置,我未与闻,中途接手,一班极不相干的人,指挥不灵,如何措手,还不如关起门来,“自扫门前雪”罢,况且我的工作也已够多了。
章锡探托建人写信给我,说想托你给《新女性》做一点文章,嘱我转达。不知可有这兴致?如有,可先寄我,我看后转寄去。《新女性》的编辑,近来好象是建人了,不知何故。那第九(?)期,我已寄上,想早
到了。
我从昨日起,已停止吃青椒,而改为胡椒了,特此奉闻。再谈。
迅。九月二十日下午。
二十二
广平兄:
十七日的来信,今天收到了。我从五日发信后,只在十三日发一信片,十四日发一信,中间间隔,的确太多,致使你猜我感冒,我真不知怎样说才好。回想那时,也有些傻气,因为我到此以后,正听见人在广州肇事,遂疑你所坐的船,亦将为彼等所阻,所以只盼望来信,连寄信的事也拖延了。这结果,却使你久不得我的信。
现在十四的信,总该早到了罢。此后,我又于同日寄《新女性》一本,于十八日寄《彷徨》及《十二个》各一本,于二十日寄信一封(信面却写了廿一),想来都该到在此信之前。
我在这里,不便则有之,身体却好。此地无人力车,只好坐船或步行,现在已经炼得走扶梯百余级,毫不费力了。眠食也都好,每晚吃金鸡纳霜一粒,别的药一概未吃。昨日到市去,买了一瓶麦精鱼肝油,拟日内吃它。因为此地得开水颇难,所以不能吃散拿吐瑾。但十天内外,我要移住到旧的教员寄宿所去了,那时情形又当与在此不同,或者易得开水罢。(教员寄宿舍有两所,一所住单身人者曰博学楼,一所住有夫人者曰兼爱楼,不知何人所名,颇可笑。)
教科也不算忙,我只六时,开学之结果,专书研究二小时无人选,只剩了文学史,小说史各二小时了。其中只有文学史须编讲义,大约每星期四五千字即可。我想不管旧有的讲义,而自己好好的来编一编,功罪在所不计。
这学校化钱不可谓不多,而并无基金,也无计划,办事散漫之至,我看是办不好的。
昨天中秋,有月,玉堂送来一筐月饼,大家分吃了,我吃了便睡,我近来睡得早了。
迅。九月二十二日下午。
二十三
广平兄:
十八日之晚的信,昨天收到了。我十三日所发的明信片既然已经收到,我惟有希望十四日所发的信也接着收到。我惟有以你现在一定已经收到了我的几封信的事,聊自慰解而已。至于你所寄的七,九,十二,十七的信,我却都收到了,大抵是我或孙伏园从邮务代办处去寻来的,他们很乱,或送或不送,堆成一团,只要人去说要拿那几封,便给拿去,但冒领的事倒似乎还没有。我或伏园是每日自去看一回。
看厦大的国学院,越看越不行了。朱山根是自称只佩服胡适陈源两个人的,而田千顷、辛家、白果三人,似皆他所荐引。白果尤善兴风作浪,他曾在女师大做过职员,你该知道的罢,现在是玉堂的襄理,还兼别的事,对于较小的职员,气焰不可当,嘴里都是油滑话。我因为亲闻他密语玉堂“谁怎样不好”等等,就看不起他了。前天就很给他碰了一个钉子,他昨天借题报复,我便又给他碰了一个大钉子,而自己则辞去国学院兼职,我是不与此辈共事的;否则,何必到厦门。
我原住的房屋,要陈列物品了,我就须搬。而学校之办法甚奇,一面催我们,却并不指出搬到那里,教员寄宿舍已经人满,而附近又无客栈,真是无法可想。后来总算指给我一间了,但器具毫无,向他们要,而白果又故意特别刁难起来(不知何意,此人大概是有喜欢给别人吃点小苦头的脾气的),要我开账签名具领,于是就给碰了一个钉子而又大发其怒。大发其怒之后,器具就有了,还格外添了一把躺椅;总务长亲自监督搬运。因为玉堂邀请我一场,我本想做点事,现在看来,恐怕不行的,能否到一年,也很难说,所以我已决计将工作范围缩小,希图在短时日中,可以有点小成绩,不算来骗别人的钱。
此校用钱并不少,也很不撙节,而有许多悭吝举动,却令人难耐。即如今天我搬房时,就又有一件。房中有两个电灯,我当然只用一个的,而有电机匠来必要取去其一个玻璃泡,止之不可。其实对于一个教员,薪水已经化了这许多了,多点一个电灯或少点一个,又何必如此计较呢?
至于我今天所搬的房,却比先前的静多了,房子颇大,是在楼上。前回的明信片上,不是有照相么?中间一共五座,其一是图书馆,我就住在那楼上,间壁是孙伏园与张颐教授(今天才到,原先也是北大教员),那一面是钉书作场,现在还没有人。我的房有两个窗门,可以看见山。今天晚上,心就安静得多了,第一是离开了那些无聊人,也不必一同吃饭,听些无聊话了,这就很舒服。今天晚饭是在一个小店里买了面包和罐头牛肉吃的,明天大概仍要叫厨子包做。又自雇了一个当差的,每月连饭钱十二元,懂得两三句普通话。但恐怕颇有点懒。如果再没有什么麻烦事,我想开手编《中国文学史略》了。来听我的讲义的学生,一共有二十三人(内女生二人),这不但是国文系全部,而且还含有英文、教育系的。这里的动物学系,全班只有一人,天天和教员对坐而听讲。
但是我也许还要搬。因为现在是图书馆主任正请假着,由玉堂代理,所以他有权。一旦本人回来,或者又有变化也难说。在荒地里开学校,无器具,无房屋给教员住,实在可笑。至于搬到那里去,现在是无从揣
测的。
现在的住房还有一样好处,就是到平地只须走扶梯二十四级,比原先要少七十二级了。然而“有利必有弊”,那“弊”是看不见海,只能见轮船的烟通。
今夜的月色还很好,在楼下徘徊了片时,因有风,遂回,已是十一点半了。我想,我的十四的信,到二十,二十一或二十二总该寄到了罢,后天(二十七)也许有信来,因先来写了这两张,待二十八日寄出。
二十二日曾寄一信,想已到了。
迅。二十五日之夜。
今天是礼拜,大风,但比起那一次来,却差得远了。明天未必一定有从粤来的船,所以昨天写好的两张信,我决计于明天一早寄出。
昨天雇了一个人,叫作流水,然而是替工;今天本人来了,叫作春来,也能说几句普通话,大约可以用罢。今天又买了许多器具,大抵是铝做的,又买了一只小水缸,所以现在是不但茶水饶足,连吃散拿吐瑾也不为难了。(我从这次旅行,才觉到散拿吐瑾是补品中之最麻烦者,因为它须兼用冷水热水两种,别的补品不如此。)
今天忽然有瓦匠来给我刷墙壁了,懒懒地乱了一天。夜间大约也未必能静心编讲义,玩一整天再说罢。
迅。九月二十六日晚七点钟。
二十四
广平兄:
廿七日寄上一信,收到了没有?今天是我在等你的信了,据我想,你于廿一二大约该有一封信发出,昨天或今天要到的,然而竟还没有到。所以我等着。
我所辞的兼职(研究教授),终于辞不掉,昨晚又将聘书送来了,据说林玉堂因此一晚睡不着。使玉堂睡不着,我想,这是对他不起的,所以只得收下,将辞意取消。玉堂对于国学院,不可谓不热心,但由我看来,希望不多,第一是没有人才,第二是校长有些掣肘(我觉得这样)。但我仍然做我该做的事,从昨天起,已开手编中国文学史讲义,今天编好了第一章。眠食都好,饭两浅碗,睡觉是可以有八或九小时。
从前天起,开始吃散拿吐瑾,只是白糖无法办理。这里的蚂蚁可怕极了,有一种小而红的,无处不到。我现在将糖放在碗里,将碗放在贮水的盘中,然而倘若偶然忘记,则顷刻之间,满碗都是小蚂蚁,点心也这样;这里的点心很好,而我近来却怕敢买了,买来之后,吃过几个,其余的竟无处安放,我住在四层楼上的时候,常将一包点心和蚂蚁一同抛到草地里去。
风也很利害,几乎天天发,较大的时候,使人疑心窗玻璃就要吹破,若在屋外,则走路倘不小心,也可以被吹倒的。现在就呼呼地吹着。我初到时,夜夜听到波声,现在不听见了,因为习惯了,再过几时,风声也会习惯的罢。
现在的天气,同我初来时差不多,须穿夏衣,用凉席,在太阳下行走,即遍身是汗。听说这样的天气,要继续到十月(阳历?)底。
L.S.九月二十八日夜。
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私の授業は、おそらく毎週六時間ほどになるだろう。語堂が私にもっと講義をしてほしいと望んでおり、その情を断ることができないからだ。そのうち二時間は小説史で、準備の必要はない。二時間は専門書研究で、準備が要る。二時間は中国文学史で、講義録を編纂しなければならない。ここにある古い講義録を見れば、適当に話すだけで十分だが、私はもう少し真面目に取り組み、比較的良い文学史を一冊編み上げたいと思っている。君もすでに大いに勉強し、講義録の準備をしているだろうが、各クラス一時間、八時間とも同じ内容なら、あまり労力はかかるまい。こちらでは北伐順調の知らせも多く、大いに人心を快くしている。新聞にはしばしば閩粤方面の風雲急を告げる記事があるが、ここではそうした気配は感じられない。ただ鼓浪嶼にはすでに多くの寓居客がおり、空き家がほとんどないと聞く。この島は学校の向かいにあり、小舟で一、二十分で着く。
迅。九月十四日午。
二十一
広平兄:
十三日に発送された私宛の手紙は、すでに受け取った。私は五日に一通出した後、十三、四日になってようやく手紙を出した。十四日以前は、ただ待ちに待っていただけで、手紙は書いていなかった。これがようやく三通目である。一昨日、『彷徨』と『十二個』を各一冊送った。
君が列挙した職務を見ると、かなり繁重のようで、住まいも良くなさそうだ。四方が「壁にぶつかる」ような住居は、北京にはないが、上海にはある。厦門の旅館でも見たことがあり、実に人を息苦しくさせる。職務が定まった以上、自分でその意を心得て、うまく処理する以外に方法はない。しかし住居だけは、せめて一部屋ぐらいはましなものがあってしかるべきだ。さもなければ、痩せてしまうのではないかと心配だ。
本校は今日開学式を挙行した。学生は三、四百人の間で、四百人としておこう。予科と本科七学科に分かれ、各学科三級に分かれるのだから、各級の人数の少なさは推して知るべしだ。ここは交通が不便なだけでなく、入試も極めて厳しく、寄宿舎も四百人しか収容できず、四方は荒れ地で借りられる家もない。たとえ来たい人がいても、住む場所がないのだ。それなのに学校当局はなお本校の発展を望んでいるとは、まさに夢想だ。おそらく当初から計画がなく、今も非常にだらしない。我々が来てからは、みな陳列室にするはずの大きな洋館の上に放り出され、いまだに一定の住居がない。聞くところでは教員の住居を急いで建築中だそうだが、いつ完成するかは皆目分からない。今もし授業に行くなら、石段を九十六段登らねばならず、往復で百九十二段だ。お湯を飲むのも容易ではないが、幸い最近はもう慣れて、あまりお茶を飲まなくなった。私と兼士、それに朱山根は、早くから辞令を受け取っていたが、他にも何人か、すでにここに到着しているのに、突然辞令が届けられなくなった人がいる。玉堂が大変な苦労をして、ようやく一昨日届けてもらえた。玉堂はここではどうもうまくいっていないようで、上遂の件も切り出せないでいる。
私の給料は少なくはないと言える。教科は五、六時間で、かなり少ないとも言える。しかし他のいわゆる「相当の職務」は煩雑すぎる。本校季刊の原稿、本院季刊の原稿、研究員の指導(将来は審査もある)、合わせればかなりのものだ。学校当局はまた功を急ぎ、履歴を問い、著作を問い、計画を問い、年末にどんな成果を発表するかと問い、見ているだけでうんざりする。実は『古小説鉤沈』を整理して出すだけで、研究教授三、四年分の成績になるのだが、その他はすべて無視してもよいのだ。しかし玉堂の好意で招かれたのだから、文学史を教える以外に、書目編集の指導もしようと思っている。範囲がかなり広く、二、三年では完成できないかもしれないが、できるところまでやるしかない。
国学院にいる朱山根は胡適之の信奉者で、他にも二、三人いるが、みな朱の推薦らしく、彼と大同小異で、さらに浅薄だ。ここに来ると、孫伏園でさえまだ話し相手になる方だ。世にこれほど浅薄な者が多いとは思いもよらなかった。彼らの容貌はなかなか整っているが、話に味わいがなく、夜には蓄音機で梅蘭芳の類を流す。私の今の唯一の方法は口数を減らすことだ。彼らの家族が来た後は、おそらく別の場所に引っ越すだろう。以前女子師範大学で事務員をしていた白果は、ここでは職員兼玉堂の秘書だが、同じく浮ついて実がなく、将来は波風を立てるかもしれない。今の私も極力彼との付き合いを減らしている。他に教員の中に一人知人がいて、以前陝西に行った時に知り合った人で、まだましのようだ。集美中学には師範大学の旧い学生が五人おり、みな国文科の卒業生で、昨日彼らが我々を食事に招いて歓迎してくれた。彼らは白話を主張しており、ここではいささか孤立しているようだ。
この一週間で、私はここにさらに慣れた。食事の量は変わらず、この数日はむしろよく眠れるようになり、毎晩九時間から十時間は眠れる。しかしまだ少し怠けており、散髪もまだで、一昨晩に安全剃刀で髭を剃っただけだ。これからもう少し規則正しい生活に整えていきたい。おそらく付き合いを減らし、門を閉ざしていれば、できるだろう。ここの菓子はなかなか良い。新鮮な龍眼はもう食べたが、大して美味くはない。やはりバナナの方がよい。しかし自分で買い物には行けない。市場まで十里あり、学校の傍には小さな店が一軒あるだけで、品物は非常に少ない。店の人は「普通話」が少し話せるが、私には半分も聞き取れない。ここの人々はよそ者をいくぶん見下しているようで、閩南だからか、我々を「北方人」と呼ぶ。私が「北方人」と呼ばれたのは、今回が初めてだ。
今の天気は北京の夏の終わりのようで、虫がとても多い。最もひどいのは蟻で、大小さまざま、至る所にいて、菓子は一晩も置けない。蚊はそれほど多くないが、おそらく私が三階にいるせいだろう。マラリアにかかる者が多いので、校医がよくキニーネを飲ませてくれる。コレラはすでに減ったが、通りは実にひどい。実際は人家の塀の下、軒の下を巡っているだけで、いわゆる道路など存在しないのだ。
兼士はまだ北京に帰ろうとしているようで、彼の職務を代行してくれと頼むが、私は承知しない。最初の配置には私は関与しておらず、途中で引き継いでも、全く縁もゆかりもない人々で、指揮も利かず、どう手を付ければよいのか。それよりは門を閉じて「自分の門前の雪を掃く」方がましだ。まして私の仕事も十分に多いのだから。
章錫探が建人に手紙を託し、『新女性』に少し原稿を書いてくれないかと君に頼みたいそうで、私に伝言を頼んだ。そういう気があるかな。もしあれば、まず私に送ってくれ。私が見てから転送する。『新女性』の編集は、最近どうやら建人がやっているようだが、理由は分からない。あの第九号(?)はすでに送ったので、もう届いているだろう。
私は昨日からトウガラシを食べるのをやめ、コショウに替えた。謹んでお知らせする。では、またの機会に。
迅。九月二十日午後。
二十二
広平兄:
十七日の手紙は、今日届いた。五日に手紙を出した後、十三日に葉書を一枚、十四日に手紙を一通出しただけで、間隔が確かに空きすぎ、君に風邪を引いたのではと勘ぐらせてしまった。何と言えばよいか分からない。あの頃を振り返ると、いくらか愚かだった。私がここに着いてから、ちょうど広州で人が騒動を起こしたと聞き、君の乗った船もそやつらに阻止されるのではと疑い、ただ手紙が来るのを待つばかりで、手紙を出すことさえ怠ってしまった。その結果、君は長いこと私の手紙を受け取れなかったのだ。
十四日の手紙は、もうとっくに届いたろう。その後、同日に『新女性』一冊を、十八日に『彷徨』と『十二個』を各一冊、二十日に手紙一通(封筒には二十一日と書いてしまったが)を送った。いずれもこの手紙より前に届いているはずだ。
私はここにいて、不便こそあれ、体は元気だ。ここには人力車がなく、船か徒歩しかないが、今ではもう階段百余段を登っても全く平気になった。睡眠も食事も良好で、毎晩キニーネを一粒飲んでおり、他の薬は一切飲んでいない。昨日市街に行き、麦精肝油を一瓶買った。近日中に飲み始めるつもりだ。ここではお湯を手に入れるのがかなり難しいので、サナトゲンは飲めない。しかし十日前後で、古い教員寮に移る予定で、そうなれば事情も変わり、あるいはお湯が手に入るかもしれない。(教員寮は二棟あり、独身者用を「博学楼」、夫人のいる者用を「兼愛楼」と称する。誰が名付けたか知らないが、なかなか可笑しい。)
教科もそう忙しくはない。私はたった六時間で、開学の結果、専門書研究の二時間は選択者がおらず、文学史と小説史が各二時間残っただけだ。そのうち文学史だけ講義録の編纂が必要で、毎週四、五千字もあれば足りるだろう。既存の講義録には構わず、自分でしっかり編纂してみたいと思う。功罪は問わない。
この学校は金を使うことにかけては少なくないが、基金もなく計画もなく、事務は極めてだらしない。私の見たところ、うまくいくまい。
昨日は中秋で、月が出ていた。玉堂が月餅を一籠送ってきて、みなで分けて食べた。私は食べてすぐ寝た。最近は早く寝るようになった。
迅。九月二十二日午後。
二十三
広平兄:
十八日の夜の手紙は、昨日届いた。十三日に出した葉書が届いたのなら、十四日に出した手紙も引き続き届くことを願うばかりだ。君が今頃はもう私の何通かの手紙を受け取っているに違いないと、自ら慰め解するほかない。君の方から寄こした七日、九日、十二日、十七日の手紙は、みな受け取った。大抵は私か孫伏園が郵便取次所に取りに行ったもので、彼らは非常にいい加減で、届けたり届けなかったり、山のように積み上げておくだけで、人が行って何通か欲しいと言えば、渡してくれる。ただし他人の分を取り間違えるようなことは、まだないようだ。私か伏園が毎日一度見に行っている。
厦大の国学院は、見れば見るほどだめだ。朱山根は胡適と陳源の二人だけを尊敬すると自称する人物で、田千頃、辛家、白果の三人も、みな彼が推薦したらしい。白果は特に波風を立てるのがうまい。彼は以前女子師範大学で職員をしていたことがあるから、君も知っているだろう。今は玉堂の副理で、他の仕事も兼ね、下位の職員に対しては威勢がすさまじく、口から出るのは油滑な言葉ばかりだ。私は彼が玉堂にこっそり「誰それはこう良くない」などと耳打ちしているのを直接聞いたので、もう軽蔑するようになった。一昨日、早速彼に釘を一本刺してやったところ、昨日は難癖をつけて仕返しに来たので、今度はもっと大きな釘を刺してやり、自分は国学院の兼職を辞した。この手合いと共に事を為すつもりはない。さもなくば、何のために厦門まで来たのか。
もともと私が住んでいた部屋は陳列品を置くことになり、引っ越さなければならなくなった。しかし学校のやり方は奇妙で、一方では我々を急かしておきながら、どこに移ればよいかは指示しない。教員寮はすでに満員で、付近に旅館もなく、まったく途方に暮れる。ようやく一部屋を指定してもらったが、家具は一つもない。請求すると、白果がまたわざと意地悪をし(何の意図か、この人物はおそらく他人にちょっとした苦痛を味わわせるのが好きな性分なのだ)、帳簿に記入し署名して受領書を書けと言う。そこで釘を刺してやると大いに怒り出した。大いに怒った後は、家具が揃い、おまけに寝椅子まで一脚余分についた。総務長が自ら搬入を監督した。玉堂がわざわざ招いてくれたのだから、少しは仕事をしようと思っていたが、今の様子では、おそらくだめだろう。一年もつかどうかも分からない。だから私はすでに仕事の範囲を縮小し、短期間にいくらかの小さな成果を上げ、他人の金を騙しに来たのではないことを示したいと決めた。
この学校は金遣いが少なくなく、倹約もしないくせに、多くのけちくさい振る舞いがあり、実に耐え難い。例えば今日引っ越しの際にも一件あった。部屋に電灯が二つあり、もちろん私は一つしか使わないのだが、電気工が来て、どうしてもガラス球を一つ取り外すと言って聞かない。一人の教員に対して、給料にこれだけの金を費やしておきながら、電灯を一つ余分に点けるか点けないかで、なぜそこまでこだわるのか。
さて、今日引っ越した部屋は、以前よりずっと静かだ。部屋はかなり広く、二階にある。前回の葉書に写真があったろう。真ん中に全部で五棟あり、その一つが図書館で、私はその二階に住んでいる。隣は孫伏園と張頤教授(今日着いたばかりで、もとは北大の教員)、反対側は製本作業場で、今はまだ人がいない。私の部屋には窓が二つあり、山が見える。今晩は、心がずいぶん落ち着いた。第一に、あのつまらない連中から離れ、一緒に食事をして退屈な話を聞かなくて済むようになったことが、とても快い。今日の夕食は小さな店でパンと缶詰の牛肉を買って食べた。明日はおそらくまた料理人に賄いを頼むことになるだろう。また自分で使用人を一人雇った。食事代込みで月十二元、普通話を二、三言話せる。しかし少し怠け者かもしれない。もしこれ以上面倒なことがなければ、『中国文学史略』の編纂に取りかかりたい。私の講義を聴く学生は全部で二十三人(うち女子学生二人)で、これは国文科の全員であるばかりか、英文科や教育科の学生も含まれている。ここの動物学科は全クラスたった一人で、毎日教員と向かい合って講義を聴いている。
しかし私はまた引っ越すかもしれない。今は図書館主任が休暇中で、玉堂が代理しているから、彼に権限がある。本人が戻れば、また変化があるかもしれない。荒れ地に学校を開いておきながら、家具も部屋も教員に提供しないとは、実に笑止だ。どこに移ることになるか、今は見当もつかない。
今の住居にはもう一つ利点がある。平地に下りるのに階段が二十四段で済み、以前より七十二段少なくなったのだ。しかし「利あれば必ず弊あり」で、その「弊」は海が見えないことだ。汽船の煙突しか見えない。
今夜の月はまだ美しい。階下をしばらく彷徨ったが、風があったので戻った。もう十一時半だ。十四日の手紙は、二十日か二十一日か二十二日には届いているだろう。明後日(二十七日)にはおそらく手紙が来るだろうから、先にこの二枚を書いておき、二十八日に出す。
二十二日に手紙を一通送ったが、もう届いただろう。
迅。二十五日の夜。
今日は日曜日で、大風だが、あの時ほどではない。明日は広州からの船が来るとは限らないので、昨日書いておいた二枚の手紙を、明朝一番に出すことにした。
昨日一人雇ったが、流水という名で、しかし代理だった。今日本人が来て、春来という名で、やはり普通話を少し話せる。おそらく使えるだろう。今日はまた多くの用具を買った。大部分はアルミ製で、小さな水甕も一つ買った。だから今やお茶の水に不自由しないばかりか、サナトゲンを飲むのも難しくなくなった。(この旅で初めてサナトゲンが補剤の中で最も面倒なものだと気付いた。冷水と温水の両方を要するからで、他の補剤はそうではない。)
今日突然左官が来て壁を塗り始め、だらだらと一日じゅう散らかしていた。夜も落ち着いて講義録の編纂はできまい。一日じゅう遊んで、また考えよう。
迅。九月二十六日夜七時。
二十四
広平兄:
二十七日に手紙を一通送ったが、届いたかな。今日は私が君の手紙を待つ番だ。私の推測では、君は二十一日か二十二日あたりに一通出しているはずで、昨日か今日届くはずなのだが、まだ届いていない。だから待っている。
私が辞した兼職(研究教授)は、結局辞められず、昨晩また辞令が届けられた。聞くところでは、林玉堂がそのために一晩眠れなかったという。玉堂を眠れなくさせるのは、申し訳ないと思うので、仕方なく受け取り、辞意を撤回した。玉堂は国学院に対して熱心でないとは言えないが、私の見るところ、望みは薄い。第一に人材がなく、第二に校長がいくらか掣肘しているようだ。しかし私は依然として自分のなすべきことをする。昨日から中国文学史の講義録の編纂に取りかかり、今日第一章を書き上げた。睡眠も食事も良好で、ご飯は浅い碗に二杯、睡眠は八時間か九時間とれる。
一昨日からサナトゲンを飲み始めたが、ただ白砂糖の始末がつかない。ここの蟻は実に恐ろしく、小さくて赤いのが一種類いて、どこにでも現れる。今は砂糖を碗に入れ、碗を水を張った皿の中に置いているが、もしうっかり忘れると、たちまち碗中は小蟻だらけになる。菓子も同様だ。ここの菓子はとても美味いのだが、最近は買うのが怖くなった。買ってきて何個か食べると、残りの置き場がないのだ。四階に住んでいた頃は、菓子の包みを蟻ごと草地に放り投げていたものだ。
風もひどく、ほとんど毎日吹いている。強い時には窓ガラスが吹き破れるのではないかと疑わしくなり、外にいれば、うっかりすると吹き倒されかねない。今もごうごうと吹いている。着いた当初は毎晩波の音が聞こえたが、今は聞こえなくなった。慣れたからだ。もう少しすれば、風の音にも慣れるだろう。
今の天候は着いた頃とほとんど変わらず、夏服を着て、ゴザを使い、日向を歩けば全身汗だくになる。聞くところでは、こうした天候は十月(陽暦?)末まで続くそうだ。
L.S. 九月二十八日夜。
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今天下午收到廿四发的来信了,我所料的并不错,粤中学生情形如此,却真出我的“意表之外”,北京似乎还不至此。你自然只能照你来信所说的做,但看那些职务,不是忙得连一点闲空都没有了么?我想做事自然是应该做的,但不要拼命地做才好。此地对于外面情形,也不大了然。看今天的报章,登有上海电(但这些电报是什么来路,却不明),总结起来:武昌还未降,大约要攻击;南昌猛扑数次,未取得。孙传芳已出兵。吴佩孚似乎在郑州,现正与奉天方面暗争保定
大名。
我之愿“合同早满”者,就是愿意年月过得快,快到民国十七年,可惜到此未及一月,却如过了一年了。其实此地对于我的身体,仿佛倒好,能吃能睡,便是证据,也许肥胖一点了罢。不过总有些无聊,有些不高兴,好象不能安居乐业似的,但我也以转瞬便是半年,一年,聊自排遣,或者开手编讲义,来排遣排遣,所以眠食是好的。我在这里的情形,就是好如此,还可以无须帮助,你还是给学校办点事的好。
中秋的情形,前信说过了,谢君的事,原已早向玉堂提过的,没有消息。听说这里喜欢用外江佬,理由是因为倘有不合,外江佬卷铺盖就走了,从此完事;本地人却永久在近旁,容易结怨云。这也是一种特别的哲学。谢君的令兄我想暂且不去访问他,否则他须来招呼我,我又须去回谢他,反而多一番应酬也。
伏园今天接孟余一电,招他往粤办报。他去否似尚未定。这电报是廿三发的,走了七天,同信一样慢,真奇。至于他所宣传的,大略是说:他家不但常有男学生,也常有女学生,但他是爱高的那个的。因为她最有才气云云。平凡得很,正如伏园之人,不足多论也。
此地所请的教授,我和兼士之外,还有朱山根。这人是陈源之流,我是早知道的,现在一调查,则他所安排的羽翼,竟有七人之多,先前所谓不问外事,专一看书的舆论,乃是都为其所骗。他已在开始排斥我,说我是名士派,可笑。好在我并不想在此挣帝王万世之业,不去管他了。
我到邮政代办处的路,大约有八十步,再加八十步,才到便所,所以我一天总要走过三四回,因为我须去小解,而它就在中途,只要伸首一窥,毫不费事。天一黑,我就不到那里去了,就在楼下的草地上了事。此地的生活法,就是如此散漫,真是闻所未闻。我因为多住了几天,渐渐习惯,而且骂来了一些用具,又自买了一些用具,又自雇了一个用人,好得多了;近几天有几个初到的教员,被迎进在一间冷房里,口干则无水,要小便则须旅行,还在“茫茫若丧家之狗”哩。
听讲的学生倒多起来了,大概有许多是别科的。女生共五人。我决定目不邪视,而且将来永远如此,直到离开了厦门。嘴也不大乱吃,只吃了几回香蕉,自然比北京的好。但价亦不廉,此地有一所小店,我去买时,倘五个,那里的一位胖老婆子就要“吉格浑”(一角钱),倘是十个,便要“能(二)格浑”了。究竟是确要这许多呢,还是欺我是外江佬之故,我至今还不得而知。好在我的钱原是从厦门骗来的,拿出“吉格浑”“能格浑”去给厦门人,也不打紧。
我的功课现在有五小时了,只有两小时须编讲义,然而颇费事,因为文学史的范围太大了。我到此之后,从上海又买了约一百元书。克士已有信来,说他已迁居,而与一个同事姓孙的同住,我想这是不好的,但他也不笨,或不至于上当。
要睡觉了,已是十二时,再谈罢。
迅。九月三十日之夜。
二十五
广平兄:
一日寄出一信并《莽原》两本,早到了罢。今天收到九月廿九的来信了,忽然于十分的邮票大发感慨,真是孩子气。花了十分,比寄失不是好得多么?我先前闻粤中学生情形,颇出于“意表之外”,今闻教员情形,又“出于意表之外”,我先前总以为广东学界状况总该比别处好得多,现在看来,似乎也只是一种幻想。你初作事,要努力工作,我当然不能说什么,但也须兼顾自己,不要“鞠躬尽瘁”才好。至于作文,我怎样鼓舞、引导呢?我说:大胆做来,先寄给我,不够么?好否我先看,即使不好,现在太远,不能打手心,只得记账了,这就已可以放胆下笔,无须畏缩的了。还要怎么样呢?
从信上推测起你的住室来,似乎比我的阔些。我用具寥寥,只有六件皆从奋斗得来。但自从买了火酒灯之后,我也忙了一点,因为凡有饮用之水,我必煮沸一回才用,因为忙,无聊也仿佛减少了。酱油已买,也常吃罐头牛肉,何尝省钱!火腿我却不想吃,在北京时吃怕了。在上海时,我和建人因为吃不多,便只叫了一碗炒饭,不料又惹出影响,至于不在先施公司多买东西,孩子之神经过敏,真令人无法可想。相距又远,鞭长不及马腹,也还是姑且记在帐上罢。
我在此常吃香蕉,柚子,都很好;至于杨桃,却没有见过,又不知道是甚么名字,所以也无从买起。鼓浪屿也许有罢,但我还未去过,那地方大约也不过象别处的租界,我也无甚趣味,终于懒下来了。此地雨倒不多,只有风,现在还热,可是荷叶却干了,一切花,我大抵不认识;羊是黑的。防止蚂蚁,我现也用四面围水之法,总算白糖已经安全;而在桌上,则昼夜总有十余匹爬着,拂去又来,没有法子。
我现在专取闭关主义,一切教职员,少与往来,也少说话。此地之学生似尚佳,清早便运动,晚亦常有;阅报室中也常有人。对我之感情似亦好,多说文科今年有生气了,我自省自己之懒惰,殊为内愧。小说史有成书;所以我对于编文学史讲义,不愿草率,现已有两章付印了,可惜本校藏书不多,编起来很不便。
北京信已有收到,家里是平安的,煤已买,每吨至二十元。学校还未开课,北大学生去缴学费,而当局不收,可谓客气,然则开学之毫无把握可知。女师大的事,没有听到什么,单知道教员都换了男师大的,大概暂时当是研究系势力,总之,环境如此,女师大是不会单独弄好的。
上遂要搬家眷回南,自己行踪未定,我曾为之写信向天津学校设法,但恐亦无效。他也想赴广东,而无介绍。此地总无法想,玉堂也不能指挥如意,许多人的聘书,校长压了多日才发下来。校长是尊孔的,对于我和兼士,倒还没有什么,但因为化了这许多钱,汲汲要有成效,如以好草喂牛,要挤此牛乳一般。玉堂盖亦窥知此隐,故不日要开展览会,除学校自买之泥人(古冢中土偶也)而外,还要将我的石刻拓片挂出。其实这些古董,此地人那里会要看,无非胡里胡涂,忙碌一番而已。
在这里好象刺戟少些,所以我颇能睡,但也做不出文章来,北京来催,只好不理。□□书店想我有书给他印,我还没有。对于北新,则我还未将《华盖集续篇》整理给他,因为没有工夫。长虹和这两店,闹起来了,因为要钱的事。沉钟社和创造社,也闹起来了,现已以文章口角。创造社伙计内部,也闹起来了,已将柯仲平逐出,原因我不知道。
迅。十,四,夜。
二十六
广平兄:
十月四日得九月廿九日来信后,即于五日寄一信,想已收到了。人间的纠葛真多,兼士直到现在,未在应聘书上签名,前几天便拟于国学研究院成立会一开毕,便往北京去,因为那边也有许多事待他料理。玉堂大不以为然,而兼士却非去不可。我便从中调和:先令兼士在应聘书上签名,然后请假到北京去一趟,年内再来厦门一次,算是在此半年。兼士有些可以了,玉堂却又坚执不允,非他在此整半年不可。我只好退开。过了两天,玉堂也可以了,大约也觉得除此更无别路了罢。现在此事只要经校长允许后,便要告一结束了。兼士大约十五左右动身,闻先将赴粤一看,再向上海。伏园恐怕也同行,至是否便即在粤,抑接洽之后,仍再回厦门一次,则不得而知,孟余请他是办副刊,他已经答应了,但何时办起,则似
未定。
据我想:兼士当初是未尝不豫备常在这里的,待到厦门一看,觉交通之不便,生活之无聊,就不免“归心如箭”了。这实在是无可奈何的事,叫我如何劝得他。
这里的学校当局,虽出重资聘请教员,而未免视教员如变把戏者,要他空拳赤手,显出本领来。即如这回开展览会,我就吃苦不少。当开会之先,兼士要我的碑碣拓片去陈列,我答应了。但我只有一张小书桌和小方桌,不够用,只得摊在地上,伏着,一一选出。及至拿到会场去时,则除孙伏园自告奋勇,同去陈列之外,没有第二人帮忙,寻校役也寻不到。于是只得二人陈列,高处则须桌上放一椅子,由我站上去。弄至中途,白果又硬将孙伏园叫去了,因为他是“襄理”(玉堂的),有叫孙伏园去之权力。兼士看不过去,便自来帮我,他已喝了一点酒,这回跳上跳下,晚上就大吐了一通。襄理的位置,正如明朝的太监,可以倚靠权势,胡作非为,而受害的不是他,是学校。昨天因为白果对书记们下条子(上谕式的),下午同盟罢工了,后事不知如何。玉堂信用此人,可谓胡涂。我前回辞国学院研究教授而又中止者,因怕兼士玉堂为难也,现在看来,总非坚决辞去兼职不可,人亦何苦因为别人计,而自轻自辱至此哉。
此地的生活也实在无聊,外省的教员,几乎无一人作长久之计。兼士之去,固无足怪。但我比兼士随便一些,又因为见玉堂的兄弟及太太,都很为我们的生活操心;学生对我尤好,只恐怕我在此住不惯,有几个本地人,甚至于星期六不回家,豫备星期日我要往市上去玩,他们好同去作翻译,所以只要没有什么大下不去的事,我总想在此至少讲一年,否则,我也许早跑到广州或上海去了。(但还有几个很欢迎我的人,是想我首先开口攻击此地的社会等等,他们好跟着来开枪。)
今天是双十节,却使我欢喜非常,本校先行升旗礼,三呼万岁,于是有演说,运动,放鞭炮。北京的人,仿佛厌恶双十节似的,沉沉如死,此地这才象双十节。我因为听北京过年的鞭炮听厌了,对鞭炮有了恶感,这回才觉得却也好听。中午同学生上饭厅,吃了一碗不大可口的面(大半碗是豆芽菜),晚上是恳亲会,有音乐和电影,电影因为电力不足,不甚了然,但在此已视同宝贝了。教员太太将最新的衣服都穿上了,大约在这里,一年中另外也没有什么别的聚会了罢。
听说厦门市上今天也很热闹,商民都自动的地挂旗结彩庆贺,不象北京那样,听警察吩咐之后,才挂出一张污秽的五色旗来。此地人民的思想,我看其实是“国民党的”的,并不怎样老旧。
自从我到此之后,各种寄给我的各种期刊很杂乱,忽有忽无。我有时想分寄给你,但不见得期期有,勿疑为邮局失落,好在这类东西,看过便罢,未必保存,完全与否亦无什么关系。
我来此已一月余,只做了两篇讲义,两篇稿子给《莽原》;但能睡,身体似乎好些。今天听到一种传说,说孙传芳的主力兵已败,没有什么可用的了,不知确否。我想一二天内该可以得到来信,但这信我明天要寄出了。
迅。十月十日。
二十七
广平兄:
昨天刚寄出一封信,今天就收到你五日的来信了。你这封信,在船上足足躺了七天多,因为有一个北大学生来此做编辑员的,就于五日从广州动身,船因避风或行或止,直到今天才到,你的信大约就与他同船的。一封信的往返,往往要二十天,真是可叹。
我看你的职务太烦剧了,薪水又这么不可靠,衣服又须如此变化,你够用么?我想一个人也许应该做点事,但也无须乎劳而无功。天天看学生的脸色办事,于人我都无益,这也就是所谓敝精神于无用之地,听说在广州寻事做并不难,你又何必一定要等到学期之末呢?忙自然不妨,但倘若连自己休息的时间都没有,那可是不值得的。
我的能睡,是出于自然的,此地虽然不乏琐事,但究竟没有北京的忙,即如校对等事,在这里就没有。酒是自己不想喝,我在北京,太高兴和太愤懑时就喝酒,这里虽然仍不免有小刺戟,然而不至于“太”,所以可以无须喝了,况且我本来没有瘾。少吸烟卷,可不知道是怎么一回事,大约因为编讲义,只要调查,不须思索之故罢。但近几天可又多吸了一点,因为我连做了四篇《旧事重提》。这东西还有两篇便完,拟下月再做;从明天起,又要编讲义了。
兼士尚未动身,他连替他的人也还未弄妥,但因为急于回北京,听说不往广州了;孙伏园似乎还要去一趟。今天又得李逄吉从大连来信,知道他往广州,但不知道他去作何事。
广东多雨,天气和厦门竟这么不同么?这里不下雨,不过天天有风,而风中很少灰尘,所以并不讨厌。我自从买了火酒灯以后,开水不生问题了,但饭菜总不见佳。从后天起要换厨子了,然而大概总还是差不多的罢。
迅十月十二日夜
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今日午後、二十四日発の手紙を受け取った。私の予想は間違っていなかったが、広東の学生の状況がこれほどとは、まさに「意表の外」だ。北京でもここまでではあるまい。君は自然、手紙に書いた通りにするしかないが、あの職務を見ると、少しの暇もないほど忙しいのではないか。仕事をするのは当然だが、命を削るほどやらないでほしい。こちらでも外の状況はあまりよく分からない。今日の新聞に上海電報が載っていたが(ただしこの電報の出所は不明)、まとめると、武昌はまだ降っておらず、おそらく攻撃することになる。南昌は猛攻を数回受けたが、まだ占領されていない。孫伝芳はすでに出兵した。呉佩孚は鄭州にいるらしく、現在奉天方面と保定・
大名を秘かに争っている。
私が「契約が早く満了するように」と願うのは、月日が早く過ぎてほしいからで、早く民国十七年になってほしいのだが、残念ながらここに来てまだ一月にも満たないのに、一年も過ぎたかのようだ。実はここの気候は私の体には合っているようで、よく食べよく眠れるのがその証拠だ。少し太ったかもしれない。ただどうしても退屈で、どこか落ち着かず、安居楽業できないような気がする。しかし私も、あっという間に半年、一年だと自ら慰め、あるいは講義録の編纂を始めて気を紛らわしている。だから睡眠も食事も良好なのだ。私のここでの状況は、よくてもこの程度で、まだ助けを必要とはしない。君はむしろ学校の仕事に専念した方がよい。
中秋の様子は前の手紙に書いた。謝君の件は、以前すでに玉堂に話してあるが、音沙汰がない。聞くところでは、ここでは外省の人を好んで雇うそうで、その理由は、合わなければ外省の人は荷物をまとめて去ってしまい、それで終わりだが、地元の人はずっと近くにいるから、恨みを買いやすいということだ。これもまた一種の独特な哲学だ。謝君のお兄さんには、さしあたり訪問しない方がよいと思う。さもないと彼が私を訪ねなければならなくなり、私もまたお返しに行かねばならず、かえって余計な付き合いが増えるだけだ。
伏園は今日、孟余から電報を一通受け取った。広東に来て新聞の仕事をしないかという誘いだ。行くかどうかはまだ決まっていないようだ。この電報は二十三日の発信で、七日もかかって、手紙と同じ遅さだ。実に不思議だ。彼が吹聴していることはといえば、大まかに言って、自分の家には男子学生だけでなく女子学生もよく来るが、自分が愛しているのは背の高い方の子だ、というものだ。なぜなら彼女が最も才気があるから云々と。実に凡庸で、まさに伏園その人のごとく、論ずるに足りない。
この地で招聘された教授は、私と兼士のほかに朱山根がいる。この人物は陳源の同類で、私は早くから知っていたが、今調べてみると、彼が配置した羽翼は実に七人もおり、以前いわゆる外のことには関わらず専ら読書に没頭しているという評判は、みな彼に騙されていたのだ。彼はすでに私の排斥を始めており、私を「名士派」だと言っている。笑止千万だ。幸い私はここで帝王の万世の業を築くつもりはないから、放っておくことにする。
私が郵便取次所に行く道はおよそ八十歩で、さらに八十歩行くとトイレがある。だから私は一日に三、四回は通る。小便に行かねばならず、それが途中にあるのだから、首を伸ばしてちょっと覗くだけで、全く手間がかからない。日が暮れると、もうそこには行かない。階下の草地で済ませるのだ。この地の生活法は、それほどだらしなく、まさに聞いたこともないほどだ。私は何日か余分に住んで次第に慣れ、しかも怒鳴って用具をいくらか手に入れ、また自分でいくらか買い、さらに自分で使用人を一人雇ったので、だいぶましになった。最近着いたばかりの教員が何人かいて、冷たい部屋に案内され、喉が渇いても水がなく、小便に行くには旅に出なければならず、まだ「茫々として喪家の犬の如し」の有様だ。
聴講の学生はむしろ増えてきた。おそらく他の学科の者が多いのだろう。女子学生は全部で五人。私は目を逸らさぬことに決め、しかも将来もずっとそうするつもりだ。厦門を離れるまで。口もあまりむやみに食べない。バナナを何度か食べただけで、もちろん北京のよりは美味い。しかし値段も安くはない。ここに小さな店があり、私が買いに行くと、五本なら、あそこの太ったおかみさんが「ジッゲフン」(一角)と言い、十本なら「ノン(二)ゲフン」と言う。本当にそんなにするのか、それとも私がよそ者だからなのか、今もって分からない。幸い私の金はもともと厦門から騙し取ったものだから、「ジッゲフン」「ノンゲフン」を厦門の人に差し出しても、大したことではない。
私の授業は今五時間になり、講義録の編纂が必要なのは二時間だけだが、なかなか骨が折れる。文学史の範囲が広すぎるのだ。ここに来てから、上海でまた約百元分の本を買った。克士からはすでに手紙が来て、引っ越したが、孫という同僚と同居しているという。これはよくないと思うが、彼も愚かではないから、騙されることはあるまい。
もう寝なければ。十二時だ。では、また。
迅。九月三十日の夜。
二十五
広平兄:
一日に手紙一通と『莽原』二冊を送ったが、もう届いただろう。今日九月二十九日の手紙を受け取った。突然十分の切手のことで大いに感慨をもらすとは、実に子供っぽい。十分使って、紛失するよりずっとましではないか。以前広東の学生の状況を聞いて、かなり「意表の外」だったが、今度教員の状況を聞いて、また「意表の外」だ。以前は広東の学界の状況は他よりずっと良いはずだと思っていたが、今見ると、やはり一種の幻想にすぎなかったようだ。初めて仕事をするのだから、努力するのは当然で、私は何も言えないが、自分のことも顧みて、「鞠躬尽瘁」にならないようにしてほしい。作文については、私がどうやって鼓舞し、導くのだ。私は言った、「大胆にやれ、まず私に送ってくれ」と。これだけでは足りないか。出来がよいかどうかは私が先に見る。たとえよくなくても、今は遠すぎて手の平を打つことができないから、帳簿に付けるしかない。これでもう安心して筆を執れるはずで、尻込みする必要はない。これ以上どうすればよいと言うのか。
手紙から君の部屋を推測すると、私のよりは広いようだ。私の家具は数少なく、六点だけで、すべて奮闘の末に手に入れたものだ。しかしアルコールランプを買ってからは少し忙しくなった。飲み水はすべて一度沸騰させてから使うからだ。忙しいおかげで、退屈もいくらか減ったようだ。醤油はもう買ったし、缶詰の牛肉もよく食べている。節約などしているものか。ハムは食べたくない。北京にいた頃に食べ飽きたからだ。上海にいた時、建人と私はあまり食べないので、チャーハンを一皿だけ頼んだのだが、それがまた思わぬ波紋を呼び、先施百貨店で買い物を増やさなかったことまで責められた。子供の神経過敏には、本当にどうしようもない。距離も遠く、鞭長くして馬腹に及ばず、これもまあ帳簿に付けておくしかあるまい。
私はここでよくバナナや柚子を食べているが、どちらもとても美味い。楊桃(スターフルーツ)にいたっては、まだ見たことがなく、こちらでの名前も分からないので、買いようがない。鼓浪嶼にはあるかもしれないが、まだ行ったことがない。あの場所もおそらく他所の租界のようなもので、私もあまり興味がなく、結局おっくうになってしまった。ここは雨はそう多くなく、風ばかりだ。まだ暑いが、蓮の葉はもう枯れた。花はほとんど見分けがつかない。羊は黒い。蟻対策は、私も四方を水で囲む方法を使い、白砂糖はとりあえず安全になった。だが机の上には昼夜を問わず常に十数匹が這い回り、払い除けてもまた来て、どうにもならない。
私は今、閉関主義を専らとし、教職員との付き合いを減らし、口数も少なくしている。ここの学生はまだましのようで、早朝から運動し、夕方もよくやっている。新聞閲覧室にもよく人がいる。私に対する感情もよいようで、多くが文科は今年活気が出たと言ってくれるが、自分の怠惰を省みると、大いに内心恥ずかしい。小説史には既刊の書物がある。だから文学史の講義録の編纂には手を抜きたくない。すでに二章を印刷に回したが、残念ながら本校の蔵書が少なく、編纂するのに大変不便だ。
北京からの手紙はすでに届き、家は平穏だ。石炭はもう買い、一トン二十元まで上がった。学校はまだ開講しておらず、北大の学生が学費を納めに行ったが、当局が受け取らなかったという。客気ではあるが、開学の見通しが全く立っていないことが分かる。女子師範大学のことは何も聞いていない。ただ教員がみな男子師範大学の者に入れ替わったことだけは知っている。おそらく当面は研究系の勢力だろう。要するに環境がこうである以上、女子師範大学だけがうまくいくはずがない。
上遂は家族を南に連れ帰ろうとしており、自分の行方は未定だ。私は彼のために天津の学校に手紙を書いて手を回したが、おそらく効果はあるまい。彼も広東に行きたがっているが、紹介がない。ここではどうにもならず、玉堂も思い通りに指揮できない。多くの人の辞令を、校長が何日も握りつぶしてからようやく発行した。校長は孔子を尊崇する人物で、私と兼士に対してはまだ何もないが、これだけの金を費やしたからには、急いで成果を求めている。よい草を牛に食わせて、その牛から乳を搾ろうとするかのようだ。玉堂もおそらくこの内情を察しており、だから近日中に展覧会を開こうとしている。学校が買い入れた泥人形(古い墳墓の土偶)のほか、私の石刻拓本も展示しようというのだ。実はこんな骨董品をここの人々が見たがるはずもなく、ただでたらめに忙しくするだけだ。
ここにいると刺激が少ないようで、よく眠れるが、文章も書けない。北京から催促が来ても、無視するしかない。□□書店が本を出してほしいというが、まだ何もない。北新に対しては、まだ『華蓋集続篇』を整理して渡していない。暇がないからだ。長虹はこの二つの書店と揉め始めた。金の問題だ。沈鐘社と創造社も揉め始め、今は文章で口論している。創造社の内部でも揉めており、すでに柯仲平を追放した。原因は分からない。
迅。十月四日夜。
二十六
広平兄:
十月四日に九月二十九日の手紙を受け取った後、五日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。人間の紛糾は実に多い。兼士は今に至るまで応聘書に署名しておらず、数日前には国学研究院の成立会が終わったら北京に行こうとしていた。あちらにも処理すべき多くの事があるからだ。玉堂は大いに不賛成だが、兼士はどうしても行かねばならない。そこで私が仲裁に入った。まず兼士に応聘書に署名させ、それから休暇を取って北京に一度行き、年内にもう一度厦門に来て、半年在任したことにする。兼士はいくらか承知したが、玉堂はまた頑として譲らず、半年まるまるここにいなければだめだと言う。私は引き下がるしかなかった。二日後、玉堂も承知した。おそらくこれ以外に道がないと悟ったのだろう。今はこの件、校長の許可さえ下りれば一段落つく。兼士はおそらく十五日前後に出発し、まず広州に立ち寄ってから上海に向かうと聞く。伏園もおそらく同行するだろうが、そのまま広州に留まるのか、交渉の後にまた厦門に戻るのかは分からない。孟余は彼に副刊の編集を頼み、彼はすでに承諾したが、いつ始めるかはまだ決まっていないようだ。
私の推測では、兼士は当初ここに長くいるつもりがなかったわけではないが、厦門に来てみて、交通の不便さと生活の退屈さに、「帰心矢の如し」にならざるを得なかったのだ。これは本当にどうしようもないことで、私にどうやって引き留められよう。
ここの学校当局は、高額の報酬で教員を招聘しておきながら、教員を手品師のように見ているところがある。素手で腕前を見せろというのだ。例えば今回の展覧会で、私はかなり苦労した。開会前に兼士が私の碑碣拓本を展示に貸してほしいと言い、承知した。しかし私には小さな書き物机と小さな角テーブルしかなく、足りないので、床に広げてうつ伏せになり、一つ一つ選び出すしかなかった。会場に持って行く段になると、孫伏園が自ら名乗り出て一緒に陳列してくれた以外、手伝う者は一人もおらず、校務員も見つからない。そこで二人で陳列したが、高い所は机の上に椅子を置いて、私が登らなければならなかった。作業の途中で、白果がまた無理やり孫伏園を呼び出した。彼は「副理」(玉堂の)だから、孫伏園を呼ぶ権限があるのだ。兼士は見かねて自ら手伝いに来たが、彼はすでに少し酒を飲んでおり、今回飛び上がったり飛び降りたりしたので、夜にはひどく吐いた。副理の地位は、まるで明朝の宦官のように、権勢を笠に着てやりたい放題ができる。しかし被害を受けるのは彼ではなく、学校だ。昨日は白果が書記たちに上諭式の指示書を下したため、午後にストライキが起きた。その後どうなったかは知らない。玉堂がこの人物を信用するとは、まさに愚かだ。前回私が国学院研究教授を辞しながらまた撤回したのは、兼士と玉堂を困らせまいと恐れたからだが、今の様子では、やはり断固として兼職を辞さなければなるまい。何も他人のために自ら身を落とし辱める必要があろうか。
この地の生活も実に退屈で、外省の教員はほとんど誰一人として長く留まるつもりがない。兼士が去るのも、驚くにはあたらない。しかし私は兼士よりいくらか気楽で、また玉堂の兄弟や奥方が、みな我々の生活をとても気にかけてくれているのを見ているし、学生も私をことのほか大事にしてくれて、ここの生活に慣れないのではと心配し、何人かの地元の者は日曜日にさえ帰省せず、私が市街に遊びに行く時に通訳として同行しようと備えてくれている。だから何か大きな耐え難いことがない限り、少なくとも一年はここで講義するつもりだ。さもなくば、とっくに広州か上海に行っていたかもしれない。(ただし、私を大いに歓迎してくれる人の中には、私にまずこの地の社会などを攻撃する口火を切らせ、自分たちがそれに乗じて撃とうと企んでいる者もいる。)
今日は双十節で、大いに喜ばしかった。本校はまず国旗掲揚式を行い、万歳を三唱し、演説、運動会、爆竹鳴らしと続いた。北京の人々は双十節を嫌っているかのように沈鬱として死んだようだが、ここでこそ双十節らしい。私は北京の正月の爆竹を聞き飽きて嫌悪感を抱いていたが、今回はなるほど聞くに堪えると思った。昼は学生と食堂に行き、あまり美味くない麺(半分以上がモヤシ)を一杯食べ、夜は懇親会で音楽と映画があった。映画は電力不足でよく見えなかったが、ここではそれでも宝物のように扱われている。教員の奥方たちは最も新しい服を着てきた。おそらくここでは一年のうち他に集まりらしい集まりもないのだろう。
聞くところでは、厦門の市街も今日はとても賑やかで、商民が自発的に旗を掲げ彩りを飾って祝っており、北京のように警察の指示を受けてからようやく汚い五色旗を掲げるのとは違う。この地の人々の思想は、実は「国民党的」であり、それほど旧弊ではないと思う。
私がここに来てから、各方面から送られてくる各種の刊行物は非常に雑然としており、届いたり届かなかったりする。時には君に転送したいと思うが、毎号あるとは限らないので、郵便局で紛失したとは思わないでほしい。幸いこの種のものは、読み終われば終わりで、保存する必要もなく、揃っているかどうかも大した問題ではない。
ここに来てもう一月余りになるが、講義録二篇と『莽原』への原稿二篇を書いただけだ。しかしよく眠れ、体は少し良くなったようだ。今日ある噂を耳にした。孫伝芳の主力軍はすでに敗れ、使える兵がもうないというのだが、確かかどうかは分からない。一、二日中に手紙が届くだろうと思うが、この手紙は明日出すつもりだ。
迅。十月十日。
二十七
広平兄:
昨日手紙を一通出したばかりなのに、今日はもう君の五日の手紙を受け取った。この手紙は船の中で丸七日以上も寝ていたことになる。北大の学生で編集員としてここに来た者がおり、五日に広州を出発したのだが、船が暴風を避けて進んだり止まったりし、今日ようやく着いた。君の手紙もおそらく同じ船だったのだろう。手紙一通の往復にしばしば二十日かかるとは、実に嘆かわしい。
君の職務はあまりにも煩雑で、給料もこれほど当てにならず、服装までこうも変えなければならないとは。足りているか。一人の人間として、たしかに何かすべきだが、労して功なしである必要はない。毎日学生の顔色を窺いながら仕事をしても、人にも自分にも益がない。まさに精神を無用の場に費やすというものだ。聞くところでは広州で仕事を見つけるのは難しくないそうだが、なぜ学期末まで待たねばならないのか。忙しいのは構わないが、自分の休息の時間さえないとなれば、それは割に合わない。
私がよく眠れるのは自然にそうなっているのだ。ここも些末な事には事欠かないが、やはり北京ほど忙しくはない。例えば校正の仕事などは、ここにはない。酒は自分で飲みたくないのだ。北京では、あまりに嬉しい時とあまりに憤慨した時に酒を飲んでいたが、ここでは小さな刺激がないわけではないものの、「あまりに」というほどではないから、飲まずに済む。しかも私にはもともと酒癖はない。煙草を減らしたのは、何故かよく分からないが、おそらく講義録の編纂には調査するだけで思索の必要がないからだろう。しかしこの数日はまた少し増えた。『旧事重提』を続けて四篇書いたからだ。あと二篇で完結するが、来月にするつもりだ。明日からまた講義録の編纂に取りかかる。
兼士はまだ出発していない。代わりの人もまだ手配できていないが、北京に帰りたい一心で、聞くところでは広州には行かないらしい。孫伏園はまだ一度行くようだ。今日はまた李逄吉から大連より手紙が来て、広州に行くとのことだが、何をしに行くのかは分からない。
広東は雨が多いそうだが、天候が厦門とこれほど違うとは。ここは雨は降らず、毎日風があるだけだ。しかし風の中に埃がほとんどないから、それほど不快ではない。アルコールランプを買ってからは、お湯の問題は解決した。ただし食事はどうしても美味くない。明後日から料理人を替えることになるが、おそらくやはり大して変わるまい。
迅。十月十二日夜。
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八日的信,今天收到了;以前九月廿四,廿九,十月五日的信,也都收到。看你收入和做事的比例,实在相距太远了,你不知能即另作他图否?我以为如此情形,努力也都是白费的。
“经过一次解散而去的”,自然要算有福,倘我们在那里,一定比现在还要气愤得多。至于我在这里的情形,我信中都已陆续说出。其实也等于卖身,除为了薪水之外,再没有别的什么,但我现在或者还可以暂时敷衍,再看情形。当初我也未尝不想起广州,后来一听情形,就暂时不作此想了,你看陈惺农尚且站不住,何况我呢。
我在这里不大高兴的原因,首先是在周围多是语言无味的人物,令我觉得无聊。他们倘肯让我独自躲在房里看书,倒也罢了,偏又常常寻上门来给我小刺戟。
但也很有一班人当作宝贝看,和在北京的天天提心吊胆要防危险的时候一比,平安得多,只要自己的心静一静,也未尝不可暂时安住。但因为无人可谈,所以将牢骚都在信里对你发了,你不要以为我在这里苦得很。其实也不然的。身体大概比在北京还要好点。
你收入这样少,够用么?我希望你通知我。
今天本地报上的消息很好,但自然不知道可确的。一,武昌已攻下;二,九江已取得;三,陈仪(孙之师长)等通电主张和平;四,樊钟秀已入开封,吴佩孚逃保定(一云郑州)。总而言之,即使要打折扣,情形很好总是真的。
迅。十月十五日夜。
二十八
广平兄:
今天(十六日)刚寄一信,下午就收到双十节的来信了。寄我的信,是都收到的。我一日所寄的信,既然未到,那就恐怕已和《莽原》一同遗失。我也记不清那信里说的是什么了,由它去罢。
我的情形,并未因为怕你神经过敏而隐瞒,大约一受刺激,便心烦,事情过后,即平安些。可是本校情形实在太不见佳,朱山根之流已在国学院大占势力,□□(□□)又要到这里来做法律系主任了,从此《现代评论》色彩,将弥漫厦大。在北京是国文系对抗着的,而这里的国学院却弄了一大批胡适之陈源之流,我觉得毫无希望。你想:兼士至于如此模胡,他请了一个朱山根,山根就荐三人,田难干、辛家本、田千顷,他收了;田千顷又荐两人,卢梅、黄梅,他又收了。这样,我们个体,自然被排斥。所以我现在很想至多在本学期之末,离开厦大。他们实在有永久在此之意,情形比北大还坏。
另外又有一班教员,在作两种运动:一是要求永久聘书,没有年限的;一是要求十年二十年后,由学校付给养老金终身。他们似乎要想在这里建立他们理想中的天国,用橡皮做成的。谚云“养儿防老”,不料厦大也可以“防老”。
我在这里又有一事不自由,学生个个认得我了,记者之类亦有来访,或者希望我提倡白话,和旧社会闹一通,或者希望我编周刊,鼓吹本地新文艺,而玉堂之流又要我在《国学季刊》上做些“之乎者也”,还有到学生周会去演说,我真没有这三头六臂。今天在本地报上载着一篇访我的记事,对于我的态度,以为“没有一点架子,也没有一点派头,也没有一点客气,衣服也随便,铺盖也随便,说话也不装腔作势……”觉得很出意料之外。这里的教员是外国博士很多,他们看惯了那俨然的模样的。
今天又得了朱家骅君的电报,是给兼士玉堂和我的,说中山大学已改职(当是“委”字之误)员制,叫我们去指示一切。大概是议定学制罢。兼士急于回京,玉堂是不见得去的。我本来大可以借此走一遭,然而上课不到一月,便请假两三星期,又未免难于启口,所以十之九总是不能去了,这实是可惜,倘在年底,就好了。
无论怎么打击,我也不至于“秘而不宣”,而且也被打击而无怨。现在柚子是不吃已有四五天了,因为我觉得不大消化。香蕉却还吃,先前是一吃便要肚痛的,在这里却不,而对于便秘,反似有好处,所以想暂不停止它,而且每天至多也不过四五个。
一点泥人和一点拓片便开展览会,你以为可笑么?还有可笑的呢。田千顷并将他所照的照片陈列起来,几张古壁画的照片,还可以说是与“考古”相关,然而还有什么牡丹花,夜的北京,北京的刮风,苇子……倘使我是主任,就非令撤去不可;但这里却没有一个人觉得可笑,可见在此也惟有田千顷们相宜。又国学院从商科借了一套历代古钱来,我一看,大半是假的,主张不陈列,没有通过;我说“那么,应该写作‘古钱标本’。”后来也不实行,听说是恐怕商科生气。后来的结果如何呢?结果是看这假古钱的人们最多。
这里的校长是尊孔的,上星期日他们请我到周会演说,我仍说我的“少读中国书”主义,并且说学生应该做“好事之徒”。他忽而大以为然,说陈嘉庚也正是“好事之徒”,所以肯兴学,而不悟和他的尊孔冲突。这里就是如此胡里胡涂。
L. S. 十月十六日之夜。
二十九
广平兄:
伏园今天动身了。我于十八日寄你一信,恐怕就在邮局里一直躺到今天,将与伏园同船到粤罢。我前几天几乎也要同行,后来中止了。要同行的理由,小半自然也有些私心,但大部分却是为公,我以为中山大学既然需我们商议,应该帮点忙,而且厦大也太过于闭关自守,此后还应与他大学往还。玉堂正病着,医生说三四天可好,我便去将此意说明,他亦深以为然,约定我先去,倘尚非他不可,我便打电报叫他,这时他病已好,可以坐船了。不料昨天又有了变化,他不但自己不说去,而且对于我的自去也翻了成议,说最好是向校长请假。教员请假,向来是归主任管理的,现在这样说,明明是拿难题给我做。我想了一想,就中止了。此外还有一个原因,大概因为与南洋相距太近之故罢,此地实在太斤斤于银钱,“某人多少钱一月”等等的话,谈话中常听见;我们在此,当局者也日日希望我们从速做许多工作,发表许多成绩,像养牛之每日挤牛奶一般。某人每日薪水几元,大约是大家念念不忘的。我一走,至少需两星期,有许多人一定以为我白白骗去了他们半月薪水,玉堂之不愿我旷课,或者就因为顾虑着这一节。我已收了三个月的薪水,而上课才一月,自然不应该又请假,但倘计划远大,就不必拘拘于此,因为将来可以尽力之日正长。然而他们是眼光不远的,我也不作久远之想,所以我便不走,拟于本年中为他们作一篇季刊上的文章,到学术讲演会去讲演一次,又将我所辑的《古小说钩沉》献出,则学校可以觉得钱不白化,而我也可以来去自由了。至于研究教授,那自然不再去辞,因为即使辞掉,他们也仍要想法使你做别的工作,使收成与国文系教授之薪水相当的,还是任它拖着的好。
派“现代评论”的势力,在这里我看要膨涨起来,当局者的性质,也与此辈相合。理科也很忌文科,正与北大一样。闽南与闽北人之感情颇不洽,有几个学生极希望我走,但并非对我有恶意,乃是要学校倒楣。
这几天此地正在欢迎两个名人。一个是太虚和尚到南普陀来讲经,于是佛化青年会提议,拟令童子军捧鲜花,随太虚行踪而散之,以示“步步生莲花”之意。但此议竟未实行,否则和尚化为潘妃,倒也有趣。一个是马寅初博士到厦门来演说,所谓“北大同人”,正在发昏章第十一,排班欢迎。我固然是“北大同人”之一,也非不知银行之可以发财,然而于“铜子换毛钱,毛钱换大洋”学说,实在没有什么趣味,所以都不加入,一切由它去罢。
二十日下午。
写了以上的信之后,躺下看书,听得打四点的下课钟了,便到邮政代办所去看,收得了十五日的来信。我那一日的信既已收到,那很好。邪视尚不敢,而况“瞪”乎?至于张先生的伟论,我也很佩服,我若作文,也许这样说的;但事实怕很难,我若有公之于众的东西,那是自己所不要的,否则不愿意。以己之心,度人之心,知道私有之念之消除,大约当在二十五世纪,所以决计从此不瞪了。
这里近三天凉起来了,可穿夹衫,据说到冬天,比现在冷得不多,但草却已有黄了的。学生方面,对我仍然很好,他们想出一种文艺刊物,已为之看稿,大抵尚幼稚,然而初学的人,也只能如此,或者下月要印出来。至于工作,我不至于拼命,我实在比先前懈得多了,时常闲着玩,不做事。
你不会起草章程,并不足为能力薄弱之证据。草章程是别一种本领,一须多看章程之类,二须有法律趣味,三须能顾到各种事件。我就最怕做这东西,或者也非你之所长罢。然而人又何必定须会做章程呢?即使会做,也不过一个“做章程者”而已。
据我想伏园未必做政论,是办副刊,孟余们的意思,盖以为副刊的效力很大,所以想大大的干一下。上遂还是找不到事做,真是可叹,我不得已,已嘱伏园面托孟余去了。
北伐军得武昌,得南昌,都是确的;浙江确也独立了,上海附近也许又要小战,建人又要逃难,此人也是命运注定,不大能够安逸的。但走几步便是租界,大概不要紧。
重九日这里放一天假,我本无功课,毫无好处,登高之事,则厦门似乎不举行。肉松我不要吃,不去查考了。我现在买来吃的,只是点心和香蕉;偶然也买罐头。
明天要寄你一包书,都是零零碎碎的期刊之类,历来积下,现在一总寄出了。内中的一本《域外小说集》,是北新书局寄来的,夏季你要,我托他们去买,回说北京没有,这回大约是碰见了,所以寄来的罢,但不大干净,也许是久不印,没有新书之故。现在你不教国文,已没有用,但他们既然寄来,也就一并寄上,自己不要,可以送人的。
我已将《华盖集续编》编好,昨天寄去付印了。
迅。二十日灯下。
三十
广平兄:
我今天上午刚发一信,内中说到厦门佛化青年会欢迎太虚的笑话,不料下午便接到请柬,是南普陀寺和闽南佛学院公宴太虚,并邀我作陪,自然也还有别的人。我决计不去,而本校的职员硬要我去,说否则他们将以为本校看不起他们。个人的行动,会涉及全校,真是窘极了,我只得去。罗庸说太虚“如初日芙蓉”,我实在看不出这样,只是平平常常。入席,他们要我与太虚并排上坐,我终于推掉,将一个哲学教员供上完事。太虚倒并不专讲佛事,常论世俗事情,而作陪之教员们,偏好问他佛法,什么“唯织”呀,“涅槃”哪,真是其愚不可及,此所以只配作陪也欤。其时又有乡下女人来看,结果是跪下大磕其头,得意之状可掬而去。
这样,总算白吃了一餐素斋。这里的酒席,是先上甜菜,中间咸菜,末后又上一碗甜菜,这就完了,并无饭及稀饭。我吃了几回,都是如此,听说这是厦门的特别习惯,福州即不然。
散后,一个教员和我谈起,知道有几个这回同来的人物之排斥我,渐渐显著了,因为从他们的语气里,他已经听得出来,而且他们似乎还同他去联络。他于是叹息,说:“玉堂敌人颇多,但对于国学院不敢下手者,只因为兼士和你两人在此也;兼士去而你在,尚可支持,倘你亦走,敌人即无所顾忌,玉堂的国学院就要开始动摇了。玉堂一失败,他们也站不住了。而他们一面排斥我,一面又个个接家眷,准备作长久之计,真是胡涂。”我看这是确的,这学校,就如一坐〔座〕梁山泊,你枪我剑,好看煞人。北京的学界在都市中挤轧,这里是在小岛上挤轧,地点虽异,挤轧则同。但国学院内部的排挤现象,外敌却还未知道(他们误以为那些人们倒是兼士和我的小卒,我们是给他们来打地盘的),将来一知道,就要乐不可支。我于这里毫无留恋,吃苦的还是玉堂,我和玉堂交情,还不到可以向他说明这些事情的程度,即便说了,他是否相信,也难说的。我所以只好一声不响,自做我的事,他们想攻倒我,一时也很难,我在这里到年底或明年,看我自己的高兴。至于玉堂,我大概是爱莫能助的了。
二十一日灯下。
十九的信和文稿,都收到了。文是可以用的,据我看来。但其中的句法有不妥处,这是小姐们的普通病,其病根在于粗心,写完之后,大约自己也未必再看一遍。过一两天,改正了寄去罢。
兼士拟于廿七日动身向沪,不赴粤;伏园却已走了,打听陈惺农该可以知道他的住址。但我以为他是用不着翻译的,他似认真非认真,似油滑非油滑,模模胡胡的走来走去,永远不会遇到所谓“为准”。然而行旌所过,却往往会留一点长远的小麻烦来给别人打扫。我不是雇了一个工人么?他却给这工人的朋友绍介,去包什么“陈源之徒”的饭,我教他不要多事,也不听。现在是陈源之徒常常对我骂饭菜坏,好象我是厨子头,工人则因为帮他朋友,我的事不大来做了。我总算出了十二块钱给他们雇了一个厨子的帮工,还要听埋怨。今天听说他们要不包了,真是感激之至。
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八日の手紙は今日届いた。以前の九月二十四日、二十九日、十月五日の手紙も、すべて受け取っている。君の収入と仕事の比率を見ると、実にかけ離れすぎている。すぐに別の道を考えられないか。このような状況では、どう努力しても徒労だと思う。
「一度の解散を経て去った者」は、当然福があったと言える。もし我々があそこにいたなら、きっと今よりもっと憤慨していたことだろう。私のここでの状況は、手紙で逐次述べてきた通りだ。実はこれも身売りに等しく、給料のほかに何もない。しかし私は今のところまだしばらくは取り繕えるかもしれない。様子を見よう。当初は広州のことも考えなかったわけではないが、状況を聞いてからは、一時その考えを止めた。陳惺農ですら立っていられないのに、まして私が行ってどうなろう。
ここにいてあまり愉快でない原因は、第一に周囲に言葉に味わいのない人物が多く、退屈を感じることだ。彼らが私を部屋に一人で閉じこもって本を読ませてくれるなら、それでもよいのだが、しょっちゅう押しかけてきては小さな刺激を与えてくる。
しかしまた、かなり多くの人が私を宝物のように扱ってくれ、北京で毎日びくびくしながら危険に備えていた頃と比べると、ずっと平穏だ。自分の心を少し落ち着ければ、一時的には安住できなくもない。ただ、話し相手がいないので、鬱憤をみな手紙の中で君に向かって発散してしまっている。私がここで大変苦しんでいるとは思わないでくれ。実はそうでもないのだ。体はおそらく北京にいた時よりも少しは良いだろう。
君の収入はこんなに少なくて、足りているのか。私に知らせてほしい。
今日の地元紙の報道はとてもよいが、もちろん確かかどうかは分からない。一、武昌はすでに陥落。二、九江はすでに占領。三、陳儀(孫の師団長)らが和平を主張する電報を発信。四、樊鐘秀がすでに開封に入り、呉佩孚は保定に逃走(一説には鄭州)。要するに、たとえ割り引いて考えても、情勢がよいことだけは確かだ。
迅。十月十五日夜。
二十八
広平兄:
今日(十六日)手紙を出したばかりなのに、午後には双十節の手紙を受け取った。私に送ってくれた手紙は、すべて届いている。一日に出した手紙がまだ届いていないなら、おそらく『莽原』と一緒に紛失したのだろう。あの手紙に何を書いたかもう覚えていないが、なくなったものは仕方がない。
私の状況は、君の神経過敏を恐れて隠したわけではない。おおよそ刺激を受けると心が乱れ、事が過ぎればいくらか落ち着く。しかし本校の状況は実にあまりよくない。朱山根の一派は国学院で大いに勢力を占め、□□(□□)もまたここに来て法律学科の主任になろうとしている。これで『現代評論』の色彩が厦大に蔓延するだろう。北京では国文科が対抗していたが、ここの国学院には胡適之・陳源の一派が大勢引き込まれ、まるで望みがない。考えてもみてくれ。兼士はこれほどぼんやりしている。彼が朱山根一人を招いたら、山根が三人を推薦し――田難干、辛家本、田千頃――彼はそれを受け入れた。田千頃がまた二人を推薦し――盧梅、黄梅――彼はまたそれを受け入れた。こうして我々個人は、自然と排斥される。だから私は今、遅くとも本学期末には厦大を離れたいと強く思っている。彼らは本当にここに永住するつもりらしく、状況は北大よりも悪い。
また別の一群の教員が、二つの運動をしている。一つは永久聘書――期限なし――の要求、もう一つは十年二十年後に学校から終身年金を支給させるという要求だ。彼らはここに自分たちの理想郷を築こうとしているようだが、ゴムでできた天国だ。諺に「子を養いて老に備う」というが、厦大でも「老に備える」ことができるとは。
ここではもう一つ不自由なことがある。学生がみな私を知っており、記者の類も訪ねてくる。あるいは私に白話を提唱し旧社会と一騒ぎしてほしいと望み、あるいは週刊を編集して地元の新文芸を鼓吹してほしいと望む。一方で玉堂の類は『国学季刊』に「之乎者也」の文章を書けと言い、さらに学生週会で演説もせよと言う。三面六臂でもなければできない話だ。今日の地元紙に私を訪問した記事が載っており、私の態度について「少しも偉そうにせず、少しも気取らず、少しもよそよそしくなく、服装も気ままで、寝具も気ままで、話し方も気取らない……」と、非常に意外だと書いてある。ここの教員は外国の博士号持ちが多く、彼らは堂々とした態度を見慣れているのだ。
今日はまた朱家驊氏の電報を受け取った。兼士、玉堂、そして私宛で、中山大学は「委」員制に改めた(「職」の誤りだろう)と言い、我々に来て一切を指導してくれと言う。おそらく学制の審議だろう。兼士は北京に帰りたがっており、玉堂は行く気がなさそうだ。私は本来これを機に一度行ってもよいのだが、開講してまだ一月にもならないのに二、三週間も休暇を取るのは口にしにくい。だから十中八九は行けまい。これは惜しいことだ。年末なら都合がよかったのだが。
どんな打撃を受けようと、私が「秘して宣べず」ということはありえないし、打撃を受けても恨むこともない。柚子はもう四、五日食べていない。あまり消化しないように感じたからだ。バナナはまだ食べている。以前は食べるとすぐ腹痛を起こしたものだが、ここでは平気で、むしろ便秘に効くようなので、当分やめないでおこうと思う。しかも一日にせいぜい四、五本だ。
泥人形少々と拓本少々で展覧会を開くのを、笑止だと思うか。もっと笑えることがある。田千頃は自分が撮った写真まで展示した。古壁画の写真なら、まだ「考古」に関係すると言えるが、牡丹の花だの、夜の北京だの、北京の砂嵐だの、葦だの……もし私が主任なら、必ず撤去させるところだが、ここでは誰一人笑止だと思わないのだから、ここには田千頃の類こそふさわしいということだ。また国学院は商科から歴代古銭を一式借りてきたが、私が見たところ、大半が偽物で、展示しない方がよいと主張したが、通らなかった。「では『古銭標本』と表記すべきだ」と言ったが、商科が気分を害するのを恐れるとかで、これも実行されなかった。結局どうなったか。この偽古銭を見る者が最も多かったのだ。
ここの校長は孔子を尊崇している。先週日曜日に週会で私に演説をさせたが、私はやはり「中国の本は少なく読め」主義を述べ、さらに学生は「好事の徒」たるべしと言った。彼は突然大いに賛成し、陳嘉庚もまさに「好事の徒」だから喜んで学校を興すのだと言ったが、自分の孔子尊崇と矛盾していることに気づいていない。ここはかくもでたらめなのだ。
L. S. 十月十六日の夜。
二十九
広平兄:
伏園は今日出発した。十八日に君に手紙を一通出したが、おそらく郵便局でずっと寝ていて、今日伏園と同じ船で広州に着くのだろう。数日前、私もほとんど同行するところだったが、結局やめた。同行しようとした理由の、小さな部分にはたしかにいくらかの私心もあったが、大部分は公のためだ。中山大学が我々の協議を必要としている以上、少しは手を貸すべきだし、しかも厦大もあまりにも鎖国的で、今後は他大学とも交流すべきだと思ったのだ。玉堂はちょうど病気で、医者は三、四日で治ると言う。そこでこの趣旨を説明しに行くと、彼も大いに賛同し、まず私が行き、もし彼が不可欠なら電報を打つ、その頃には病気も治って船に乗れるだろうと約束した。ところが昨日また変化があった。彼は自分が行かないばかりか、私が自ら行くことにも先の合意を翻し、校長に休暇を願い出るのがよいと言い出した。教員の休暇は従来主任の管理下にあるのに、こう言うのは明らかに私に難題を押し付けている。少し考えて、やめにした。もう一つ理由がある。おそらく南洋に近いからだろう、ここは実に金銭にうるさく、「あの人は月いくら」などという話が会話中にしょっちゅう聞こえる。我々がここにいて、当局者も日々我々が早く多くの仕事をし、多くの成果を発表するよう望んでいる。牛を飼って毎日乳を搾るかのようだ。某の日給がいくらか、みな忘れずにいるのだろう。私が二週間も離れれば、多くの人が必ず、半月分の給料をまんまと騙し取ったと思うだろう。玉堂が私の欠勤を嫌がるのも、おそらくこの点を慮ってのことだ。私はすでに三月分の給料を受け取りながら、授業はまだ一月しかしていないのだから、確かに休暇を取るべきではない。しかしもし長期的な計画があるなら、こうした些末なことにこだわる必要はない。将来尽力できる日はまだ長いのだから。しかし彼らは目先のことしか見えず、私も長い将来のことは考えないから、行かないことにし、年内にこの人たちのために季刊に論文を一篇書き、学術講演会で一度講演し、さらに私が編纂した『古小説鉤沈』を献上すれば、学校は金を無駄にしたとは思わないだろうし、私も出入り自由になれる。研究教授の辞職は、もう言い出すまい。辞めたところで、彼らはやはり別の仕事をさせて、国文科教授の給料に見合う成果を上げさせようとするだろうから、そのまま引きずっておく方がましだ。
「現代評論」派の勢力は、ここで膨張しそうだ。当局者の性質もこの連中と合っている。理科も文科をひどく嫉んでおり、北大と同じだ。閩南人と閩北人の感情もあまり融和せず、何人かの学生は私に去ってほしがっているが、私に悪意があるのではなく、学校に災いが降りかかればよいと思っているのだ。
この数日、ここでは二人の名士を歓迎している。一人は太虚和尚が南普陀に来て説経するもので、仏化青年会が提案した。ボーイスカウトに生花を捧げさせ、太虚の行くところに花を撒き、「歩歩蓮花を生ず」の意を示そうというのだ。しかしこの案は結局実行されなかった。さもなくば和尚が潘妃に化けるのも、なかなか面白かったろうに。もう一人は馬寅初博士が厦門に来て講演するもので、いわゆる「北大の同人」たちが頭がぼんやりして、隊列を組んで歓迎している。私もたしかに「北大の同人」の一人であり、銀行で財を成せることも知らぬではないが、「銅貨を毛銭に替え、毛銭を大洋に替える」学説にはまるで興味がないので、いずれにも加わらず、一切なるがままにしておく。
二十日午後。
以上の手紙を書いた後、横になって本を読んでいたら、四時の終業の鐘が聞こえたので、郵便取次所に行くと、十五日の手紙を受け取った。あの日の手紙がすでに届いたなら、それはよかった。横目で見ることさえまだしていないのに、まして「睨む」ことなどできようか。張先生のご高論には私も大いに感服する。もし私が文章を書くなら、おそらくそう言うだろう。しかし実際にはなかなか難しい。もし公にするものがあるとすれば、それは自分にとって不要なものだ。そうでなければ、公にしたくない。自分の心をもって人の心を推し量れば、私有の念が消滅するのはおそらく二十五世紀のことだと分かる。だから今後は断じて「睨まない」ことに決めた。
ここは最近三日ほど涼しくなり、袷の衫が着られる。冬になっても今よりそう寒くはならないそうだが、草はすでに黄ばんだものもある。学生の方は、私に対して相変わらずとても好意的だ。彼らは文芸刊行物を一つ出したいと言い、すでに原稿を見てやった。大抵はまだ幼稚だが、初心者ならこんなものだろう。来月には印刷に出せるかもしれない。仕事については、命を削るほどはしていない。実は以前より怠けるようになり、しょっちゅうぶらぶら遊んで、何もしないでいる。
章程(規約)の起草ができないからといって、能力が弱い証拠にはならない。規約の起草は別種の才能だ。第一に規約の類を多く読まねばならず、第二に法律に趣味がなければならず、第三に各種の事柄に配慮しなければならない。私はこの種のものを書くのが最も苦手だから、おそらく君の得意とするところでもあるまい。しかし人は何も章程を作れなければならぬということがあろうか。たとえできたとしても、「章程作成者」にすぎない。
私の想像では、伏園は政論をするのではなく、副刊を編集するのだろう。孟余たちの考えは、副刊の影響力が大きいので、大いにやろうというものだ。上遂はまだ仕事が見つからず、実に嘆かわしい。やむを得ず、伏園に頼んで孟余に直接お願いしてもらった。
北伐軍の武昌占領、南昌占領は確かだ。浙江もたしかに独立した。上海付近ではまた小規模な戦闘があるかもしれず、建人はまた避難しなければならない。この人も運命に定められたように、なかなか安穏でいられない。しかし数歩歩けば租界だから、おそらく大丈夫だろう。
重陽の日はここでは一日の休みで、私はもともと授業がないから何の恩恵もない。高い所に登る風習は、厦門ではやらないようだ。肉でんぶは食べたくないから、調べに行かないことにした。今買って食べているのは菓子とバナナだけで、時々缶詰も買う。
明日、本を一包み送るつもりだ。雑多な刊行物で、これまで溜まったのを今回まとめて送る。中に一冊の『域外小説集』がある。北新書局が送ってきたもので、夏に君が欲しがった時、私が彼らに頼んで買おうとしたが、北京にはないという返事だった。今回はおそらくたまたま見つけて送ってきたのだろう。しかしあまりきれいではなく、おそらく長く増刷していなかったので新本がなかったのだろう。今は君が国文を教えていないから、もう用はないが、送ってきた以上、一緒に送っておく。自分で要らなければ、人にあげてもよい。
『華蓋集続編』の編集を終え、昨日印刷に出した。
迅。二十日灯下。
三十
広平兄:
今日午前に手紙を一通出したばかりだが、その中で厦門仏化青年会が太虚を歓迎する笑い話に触れたところ、なんと午後には招待状が届いた。南普陀寺と閩南仏学院が太虚に公式宴を催し、私にも陪席を請うというもので、もちろん他の人もいるだろう。行くまいと決めたが、本校の職員が無理に行けと言う。行かなければ本校が彼らを見下していると思われると。個人の行動が全校に関わるとは、実に困りものだ。仕方なく行った。羅庸は太虚を「初日の芙蓉の如し」と評したが、私にはそうは見えず、至って平凡だった。席に着く際、私と太虚を並んで上座に座らせようとしたが、ついに辞退し、哲学教員を一人供え物にして済ませた。太虚はもっぱら仏事を説くのではなく、よく世俗のことを論じたが、陪席の教員たちはあえて仏法を問いたがり、「唯識」だの「涅槃」だの、その愚は及ぶべくもない。だからこそ陪席がお似合いということか。その時また田舎の女たちが見物に来て、結局はひざまずいて大いに頭を打ち、得意満面で帰って行った。
こうして、まんまと精進料理をご馳走になった。ここの宴席はまず甘い料理が出て、途中に塩味の料理、最後にまた甘い料理で終わる。ご飯もお粥もない。何度か食べたが、毎回そうだった。聞くところでは厦門の特別な習慣で、福州ではそうではないらしい。
散会後、ある教員と話していて分かったのだが、今回一緒に来た人物の中で、私を排斥しようとする動きが次第に顕著になっているという。彼らの言葉の端々から、すでにそれが聞き取れるし、彼にも連絡を取ろうとしているらしい。彼はそこで嘆息して言った。「玉堂には敵が少なくないが、国学院に対して手を出せないのは、ひとえに兼士と君の二人がいるからだ。兼士が去っても君がいれば、まだ支えられる。しかし君もまた去れば、敵はもう遠慮するものがなくなり、玉堂の国学院は動揺し始めるだろう。玉堂が失敗すれば、彼らも立っていられなくなる。それなのに彼らは一方で私を排斥しながら、一方ではみな家族を呼び寄せ、長く居座る準備をしている。実に愚かなことだ。」私もそれは確かだと思う。この学校は一座の梁山泊のようなもので、槍と剣が飛び交い、見応えがある。北京の学界は都市の中で押し合い圧し合い、ここは小島の上で押し合い圧し合う。場所は異なれど、押し合いは同じだ。しかし国学院内部の排斥現象は、外敵にはまだ知られていない(彼らはあの連中を兼士と私の部下だと誤解しており、我々が彼らのために地盤を取りに来たと思っている)。将来知れれば、喜びに堪えないだろう。私はここに何の未練もない。苦しんでいるのは玉堂だ。私と玉堂の交情は、まだこれらのことを彼に打ち明けられるほどの程度に達しておらず、たとえ言っても、信じるかどうかも分からない。だから私はただ一言も発せず、自分の仕事をするだけだ。彼らが私を倒そうとしても、すぐには難しい。私がここにいるのは年末か来年まで、自分の気分次第だ。玉堂に対しては、おそらく愛すれども能わずの状況だ。
二十一日灯下。
十九日の手紙と原稿は、どちらも受け取った。文章は使えると思う、私の見るところ。ただし文中の句法に不適切なところがある。これはお嬢さんたちの通病で、その原因は不注意にある。書き終えた後、おそらく自分でもう一度読み返しさえしないのだろう。一両日中に添削して送ろう。
兼士は二十七日に出発して上海に向かう予定で、広州には行かない。伏園はもう発った。陳惺農に聞けば住所は分かるだろう。しかし私が思うに、彼には通訳は必要ない。真面目ともつかず、軽薄ともつかず、ぼんやりとあちこち歩き回り、いわゆる「準」に出会うことは永久にあるまい。しかし彼の行くところ、しばしば長く尾を引く小さな面倒を残して、他人に後始末をさせる。私は使用人を一人雇っただろう。彼はその使用人の友人を紹介して、いわゆる「陳源の門弟」たちの賄い飯を請け負わせた。余計なことをするなと教えても聞かない。今では陳源の門弟たちがしょっちゅう私に飯が不味いと文句を言い、まるで私が料理長のようだ。使用人の方は友人の手伝いに忙しく、私の用事はあまり来なくなった。私はとにかく十二元出して彼らに料理人の助手を一人雇ってやったが、なおも文句を言われる。今日聞いたところでは、彼らはもう賄い飯をやめるそうだ。まことにありがたいことだ。
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上遂的事,除嘱那该死的伏园面达外,昨天又同兼士合写了一封信给孟余他们,可做的事已做,且听下回分解罢。至于我的别处的位置,可从缓议,因为我在此虽无久留之心,但目前也还没有决去之必要,所以倒非常从容。既无“患得患失”的念头,心情也自然安泰,决非欲“骗人安心,所以这样说”的,切祈明鉴为幸。
理科诸公之攻击国学院,这几天已经开始了,因国学院屋未造,借用生物学院屋,所以他们的第一着是讨还房子。此事和我辈毫不相关,就含笑而旁观之,看一大堆泥人儿搬在露天之下,风吹雨打,倒也有趣。此校大约颇与南开相象,而有些教授,则惟校长之喜怒是伺,妒别科之出风头,中伤挑眼,无所不至,妾妇之道也。我以北京为污浊,乃至厦门,现在想来,可谓妄想,大沟不干净,小沟就干净么?此胜于彼者,惟不欠薪水而已。然而“校主”一怒,一怒亦立刻可以关门也。
我所住的这么一所大洋楼上,到夜,就只住着三个人,一张颐教授,一伏园,一即我。张因不便,住到他朋友那里去了,伏园又已走,所以现在就只有我一人。但我却可以静观默念想,所以精神上倒并不感到寂寞。年假之期又已近来,于是就比先前沉静了。我自己计算,到此刚五十天,而恰如过了半年。但这不只我,兼士们也这样说,则生活之单调可知。
我新近想到了一句话,可以形容这学校的,是“硬将一排洋房,摆在荒岛的海边上”。然而虽然是这样的地方,人物却各式俱有,正如一滴水,用显微镜看,也是一个大世界。其中有一班“妾妇”们,上面已经说过了,还有希望得爱,以九元一盒的糖果恭送女教员的老外国教授;有和著名的美人结婚,三月复离的青年教授;有以异性为玩艺儿,每年一定和一个人往来,先引之而终拒之的密斯先生;有打听糖果所在,群往吃之的好事之徒……世事大概差不多,地的繁华和荒僻,人的多少,都没有多大
关系。
浙江独立,是确的了,今天听说陈仪的兵已与卢永祥开仗,那么,陈在徐州也独立了,但究竟确否,却不能知。闽边的消息倒少听见,似乎周荫人是必倒的,而民军则已到漳州。
长虹又在和韦漱园吵闹了,在上海出版的《狂飚》上大骂,又登了一封给我的信,要我说几句话。他们真是吃得闲空,然而我却不愿意奉陪着了,这几年来生命耗去不少,也陪得够了,所以决计置之不理。况且闹的原因据说是为了《莽原》不登向培良的剧本,但培良和漱园在北京发生纠葛,而要在上海的长虹破口大骂,还要在厦门的我出来说话,办法真是离奇得很。我那里知道其中的底细曲折呢。
此地天气凉起来了,可穿夹衣。明天是星期,夜间大约要看影戏,是林肯一生的故事。大家集资招来的,需六十元,我出了一元,可坐特别座。林肯之类的故事,我是不大要看的,但在这里,能有好的影片看吗?大家所知道而以为好看的,至多也不过是林肯的一生之类罢了。
这信将于明天寄出,开学以后,邮政代办所在星期日也办公半日了。
L. S. 十月二十三日灯下。
三十一
广平兄:
廿三日得十九日信及文稿后,廿四日即发一信,想已到。廿二日寄来的信,昨天收到了。闽粤间往来的船,当有许多艘,而邮递信件,似乎被一个公司所包办,惟它的船才带信,所以一星期只有两回,上海也如此,我疑心这公司是太古。
我不得同意,不见得用对付少爷们之法,请放心。但据我想,自己是恐怕决不开口的,真是无法可想。这样食少事烦的生活,怎么持久?但既然决心做一学期,又有人来帮忙,做做也好,不过万不要拚命。人固然应该办“公”,然而总须大家都办,倘人们偷懒,而只有几个人拚命,未免太不“公”了,就该适可而止,可以省下的路少走几趟,可以不管的事少做几件,自己也是国民之一,应该爱惜的,谁也没有要求独独几个人应该做得劳苦而死的权利。
我这几年来,常想给别人出一点力,所以在北京时,拚命地做,忘记吃饭,减少睡觉,吃了药来编辑,校对,作文。谁料结出来的,都是苦果子。有些人将我做广告来自利,不必说了;便是小小的《莽原》,我一走也就闹架。长虹因为社里压下(压下而已)了投稿,和我理论,而社里则时时来信,说没有稿子,催我作文。我实在有些愤愤了,拟至二十四期止,便将《莽原》停刊,没有了刊物,看大家还争持些什么。
我早已有些想到过,你这次出去做事,会有许多莫名其妙的人们来访问你的,或者自称革命家,或者自称文学家,不但访问,还要要求帮忙,我想,你是会去帮的,然而帮忙之后,他们还要大不满足,而且怨恨,因为他们以为你收入甚多,这一点即等于不帮,你说竭力的帮了,乃是你吝啬的谎话。将来或有些失败,便都一哄而散,甚者还要下石,即将访问你时所见的态度、住处等等,作为攻击之资,这是对于先前的吝啬的罚。这种情形,我都曾一一尝过了,现在你大约也正要开始尝着这况味。这很使人苦恼,不平,但尝尝也好,因为知道世事就可以更加真切了。但这状态是永续不得的,经验若干时之后,便须恍然大悟斩钉截铁地将他们撇开,否则,即使将自己全部牺牲了,他们也仍不满足,而且仍不能得救。其实呢,就是你现在见得可怜的所谓“妇孺”,恐怕也不在这例外。
以上是午饭前写的,现在是四点钟,今天没有事了。兼士昨天已走,早上来别。伏园已有信来,云船上大吐,(他上船之前吃了酒,活该!)现寓长堤的广泰来客店,大概我信到时,他也许已走了。浙江独立已失败,外面的报上,虽然说得热闹,但我看见浙江本地报,却很吞吐其词,好象独立之初,本就灰色似的,并不如外间所传的轰轰烈烈。福建事也难明真相,有一种报上说周荫人已为乡团所杀,我看也未必真。
这里可穿夹衣,晚上或者可加棉坎肩,但近几天又无需了,今天下雨,也并不凉。我自从雇了一个工人之后,比较的便当得多。至于工作,其实也并不多,闲工夫尽有,但我总不做什么事,拿本无聊的书,玩玩的时候多,倘连编三四点钟讲义,便觉影响于睡眠,不容易睡着,所以我讲义也编得很慢,而且遇有来催我做文章时,大抵置之不理,做事没有上半年那么急进了,这似乎是退步,但从别一面看,倒是进步也难说。
楼下的后面有一片花圃,用有刺的铁丝拦着,我因为要看它有怎样的拦阻力,前几天跳了一回试试。跳出了,但那刺果然有效,刺了我两个小伤,一股上,一膝旁,可是并不深,至多不过一分。这是下午的事,晚上就全愈了,一点没有什么。恐怕这事会招到诰诫;但这是因为知道没有危险,所以试试的。倘觉可虑,就很谨慎。例如这里颇多小蛇,常见打死着,颚部多不膨大,大抵是没有什么毒的。但到天暗,我便不到草地上走,连夜间小解也不下楼去了,就用磁的唾壶装着,看夜半无人时,即从窗口泼下去。这虽然近于无赖,但学校的设备如此不完全,我也只得如此。
玉堂病已好了。白果已往北京去接家眷,他大概决计要在这里安身立命。我身体是好的,不喝酒,胃口亦佳,心绪比先前较安帖。
迅。十月二十八日。
三十二
广平兄:
前日(廿七)得廿二日的来信后,写一回信,今天上午自己送到邮局去,刚投入邮箱,局员便将二十三发的快信交给我了。这两封信是同船来的,论理本应该先收到快信,但说起来实在可笑,这里的情形是异乎寻常的。普通信件,一到就放在玻璃箱内,我们倒早看见;至于挂号的呢,则秘而不宣,一个局员躲在房里,一封一封上帐,又写通知单,叫人带印章去取。这通知单也并不送来,仍旧供在玻璃箱内,等你自己走过看见。快信也同样办理,所以凡挂号信和“快”信,一定比普通信收到
得迟。
我暂不赴粤的情形,记得又在二十一日的信里说过了;现在伏园已有信来,并未有非我即去不可之概,开学既然在明年三月,则年底去也还不迟。我固然很愿意现在就走一趟,但事实的牵扯也实在太利害,就是,走开三礼拜后,所任的事搁下太多,倘此后一一补做,则工作太重,倘不补,就有占了便宜的嫌疑。假如长在这里,自然可以慢慢地补做,不成问题,但我又并不作长久之计,而况还有玉堂的苦处呢。
至于我下半年那里去,那是不成问题的。上海,北京,我都不去,倘无别处可走,就仍在这里混半年。现在的去留,专在我自己,外界的鬼祟,一时还攻我不倒。我很想尝尝杨桃,其所以熬着者,为己,只有一个经济问题,为人,就只怕我一走,玉堂要立刻被攻击,因此有些彷徨。一个人就能为这样的小问题所牵掣,实在可叹。
才发信,没有什么事了,再谈罢。
迅。十,二九。
三十三
广平兄:
十月廿七日的信,今天收到了;十九,二十二,二十三的,也都收到。我于廿四,廿九,卅日均发信,想已到。至于刊物,则查载在日记上的,是廿一,廿各一回,什么东西,已经忘记,只记得有一回内中有《域外小说集》。至于十月六的刊物,则不见于日记上,不知道是失载,还是其实是廿一所发,而我将月日写错了。只要看你是否收到廿一寄的一包,就知道,倘没有,那是我写错的了;但我仿佛又记得六日的是别一包,似乎并不是包,而是三本书对迭,象普通寄期刊那样的。
伏园已有信来,据说上遂的事很有希望,学校的别的事情却没有提。他大约不久当可回校,我可以知道一点情形,如果中大定要我去,我到后于学校有益,那我便于开学之前到那边去。此处别的都不成问题,只在对不对得住玉堂,但玉堂也太胡涂——不知道还是老实——至今还迷信着他的“襄理”,这里一定要糟的,无药可救。山根先生仍旧专门荐人,图书馆有一缺,又在计画荐人了,是胡适之的书记。但这回好象不大顺手似的。至于学校方面,则这几天正在大敷衍马寅初;昨天浙江学生欢迎他,硬要拖我去同照相,我竭力拒绝,他们颇以为怪。呜呼,我非不知银行之可以发财也,其如“道不同不相为谋”何。明天是校长赐宴,陪客又有我,他们处心积虑,一定要我去和银行家扳谈,苦哉苦哉!但我在知单上只写了一个“知”字,字不去可知矣。
据伏园信说,副刊十二月开手,那么他回校之后,两三礼拜便又须去了,也很好。
十一月一日午后。
但我对于此后的方针,实在很有些徘徊不决,那就是:做文章呢,还是教书?因为这两件事,是势不两立的。作文要热情,教书要冷静。兼做两样时,倘不认真,便两面都油滑浅薄,倘都认真,则一时使热血沸腾,一时使心平气和,精神便不胜困惫,结果也还是两面不讨好。看外国,兼做教授的文学家,是从来很少有的。我自己想,我如写点东西,也许于中国不无小好处,不写也可惜;但如果使我研究一种关于中国文学的事,大概也可以说出一点别人没有见到的话来,所以放下也似乎可惜。但我想,或者还不如做些有益的文章,至于研究,则于余暇时做,不过倘使应酬一多,可又不行了。
此地这几天很冷,可穿夹袍,晚上还可以加棉背心。我是好的,胃口照常,但菜还是不能吃,这在这里是无法可想的。讲义已经一共做了五篇,从明天起想做季刊的文章了。
迅。十一月一日灯下。
三十四
广平兄:
昨天刚发一信,现在也没有什么话要说,不过有一些小闲事,可以随便谈谈。我又在玩,——我这几天不大用功,玩着的时候多——所以就随便写它下来。
今天接到一篇来稿,是上海大学的曹轶欧寄来的,其中讲起我在北京穿着洋布大衫在街上走的事,下面注道:“这是我的朋友P.京的H.M.女校生亲口对我说的。”P.自然是北京,但那校名却奇怪,我总想不出是那一个学校来,莫非就是女师大,和我们所用的是同一意义么?
今天又知道一件事,一个留学生在东京自称我的代表去见盐谷温氏,向他索取他所印的《三国志平话》,但因为书尚未装成,没有拿去。他怕将来盐谷氏直接寄我将事情弄穿,使托C.T.写信给我,要我追认他为代表,还说,否则,于中国人之名誉有关。你看,“中国人的名誉”是建立在他和我的说谎之上了。
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上遂の件は、あの憎たらしい伏園に直接伝えるよう頼んだほか、昨日はまた兼士と連名で孟余たちに手紙を書いた。できることはやったので、あとは次回のお楽しみだ。私の他所での地位については、急ぐ必要はない。ここに長く留まるつもりはないが、今のところ断固去らねばならない理由もないから、むしろ非常にゆったりしている。「得んことを患い、失わんことを患う」という考えがないので、心持ちも自然と穏やかだ。「人を安心させるために嘘をついてこう言っている」のでは決してないので、どうかご明察いただきたい。
理科の諸氏の国学院攻撃は、ここ数日始まった。国学院の建物が未完成で生物学院の建物を借りているため、彼らのまず第一手は部屋の返還要求だ。この件は我々とは全く関係がないから、微笑んで傍観し、大量の泥人形が露天に運び出され、風雨にさらされるのを見るのも一興だ。この学校はおそらく南開大学によく似ているのだろう。そして一部の教授は、校長の喜怒のみを窺い、他科が脚光を浴びるのを嫉み、中傷、あら探し、あらゆる手を尽くす。まさに妾婦の道だ。私は北京を汚濁だと思って厦門に来たが、今思えば、それは妄想だった。大きな溝が汚ければ、小さな溝がきれいなものか。ここが北京に勝るのは、ただ給料の未払いがないことだけだ。しかし「校主」がひとたび怒れば、即座に閉校もありうるのだ。
私がこの大きな洋館に住んでいるが、夜になると住んでいるのはたった三人だ。張頤教授と伏園と私。張は不便のため友人のところに移り、伏園はすでに去ったので、今は私一人きりだ。しかし私は静かに観じ黙って考えることができるので、精神的にはむしろ孤独を感じない。年末の休暇も近づいてきて、以前より沈静になった。自分で計算すると、ここに来てちょうど五十日だが、まるで半年も過ぎたようだ。しかしこれは私だけでなく、兼士たちも同じことを言うのだから、生活の単調さが分かろうというものだ。
最近一つの言葉を思いついた。この学校を形容できると思う。それは「荒島の海辺に、無理やり洋風建築を一列に並べている」というものだ。しかしこのような場所でありながら、人物はあらゆる類型が揃っており、一滴の水を顕微鏡で見れば、それもまた一つの大世界であるのと同じだ。その中には、上述の「妾婦」たちがおり、さらに愛を得たくて九元もする菓子箱を恭しく女教員に贈る老外国人教授がいる。有名な美人と結婚して三月で離婚した若い教授がいる。異性を玩具にし、毎年必ず一人の人と交際し、まず惹きつけておいて最後には拒む、ミス先生がいる。菓子のありかを探り出して群がって食べる好事の徒がいる……世の中はどこもだいたい同じで、土地の繁華や寂寥、人の多寡は、大した関係がない。
浙江の独立は確かだったようだ。今日聞いたところでは、陳儀の兵がすでに盧永祥と交戦している。それなら陳は徐州でも独立したのだが、果たして確かかどうかは分からない。福建方面の消息はあまり聞こえてこないが、周蔭人は必ず倒れるだろうし、民軍はすでに漳州に到着しているようだ。
長虹がまた韋漱園と喧嘩している。上海で出版された『狂飆』で大いに罵り、さらに私への手紙を掲載して、私に一言言ってくれと求めている。彼らは実に暇を持て余している。しかし私はもう付き合う気がない。この数年、命を随分と削ってきたし、付き合いもたくさんだ。だから断固放っておくことにする。しかも喧嘩の原因は、『莽原』が向培良の戯曲の投稿を掲載しなかった(掲載しなかっただけだ)ことだそうだが、培良と漱園が北京で紛糾を起こし、上海の長虹に口汚く罵らせ、さらに厦門の私に出てきて発言させようとは、やり方が実に奇怪だ。私がその中の事情の曲折をどうして知りえよう。
ここの天気は涼しくなってきて、袷の服が着られる。明日は日曜日で、夜はおそらく映画を見るだろう。リンカーンの一生の物語だ。みなで金を出し合って呼び寄せたもので、六十元かかる。私は一元出したので、特別席に座れる。リンカーンの類の物語は、私はあまり見たくないが、ここでよい映画が見られるだろうか。みなが知っていて面白いと思うのは、せいぜいリンカーンの一生の類がいいところだろう。
この手紙は明日出す。開学後、郵便取次所は日曜日も半日営業するようになった。
L. S. 十月二十三日灯下。
三十一
広平兄:
二十三日に十九日の手紙と原稿を受け取り、二十四日にすぐ返信を出したが、もう届いただろう。二十二日に出された手紙は昨日届いた。閩粤間を往来する船は多いはずだが、郵便物の配達は一つの会社に独占されているらしく、その会社の船だけが手紙を運ぶので、一週間に二回しかない。上海もそうで、おそらくこの会社は太古洋行ではないかと疑っている。
同意しないからといって、若旦那たちに対するやり方で来るとは限らない。ご安心を。しかし私の考えでは、自分からは恐らく口を開くまい。本当にどうしようもない。こんな食事は少なく仕事は多い生活が、どうして長続きしよう。しかし一学期やると決めた以上、しかも手伝ってくれる人もいるのだから、やるのもよいだろう。ただし決して命を削ってはならない。人はたしかに「公」のために働くべきだが、みなが働かなければならない。他の人が怠けて、ごく少数の人だけが命を削っているのでは、あまりにも「公」ではない。適当なところで止めるべきだ。省ける道は少し歩かず、構わなくてよいことは少し手を出さない。自分もまた国民の一人であり、大事にすべきだ。ごく少数の人だけが過労死すべきだなどと要求する権利は、誰にもないのだから。
この数年、私は常に人のために少しでも力になりたいと思い、北京にいた頃は命を削って仕事をした。食事を忘れ、睡眠を削り、薬を飲みながら編集し、校正し、執筆した。ところが実ったのは、みな苦い果実ばかりだった。私を宣伝に利用して自分の利益を図った者がいたのは言うまでもない。小さな『莽原』でさえ、私が去ったとたんに喧嘩が始まった。長虹は、同人が彼の投稿を掲載しなかった(掲載しなかっただけだ)ことで私に理論をぶつけ、一方の同人は始終手紙を寄こして原稿がないと言い、私に書けと催促する。私は実にいくらか憤慨しており、第二十四号で『莽原』を廃刊するつもりだ。刊行物がなくなれば、みなまだ何を争うのか見ものだ。
以前からいくらか予想していたのだが、君が今度の仕事に出かけると、多くの訳の分からない人々が訪ねてくるだろう。あるいは革命家を自称し、あるいは文学者を自称し、訪問するだけでなく、助けも求める。君はきっと助けるだろう。しかし助けた後、彼らはなお大いに不満で、しかも恨みさえする。なぜなら彼らは君の収入が多いと思い込んでおり、この程度のことは助けないのと同じだと思うからだ。君が全力で助けたと言っても、それは君のけちな嘘だと思うのだ。やがて何か失敗すれば、一斉に蜘蛛の子を散らすように去り、ひどい場合は落ちた犬に石まで投げる。すなわち訪問した時に見た態度、住居などを攻撃の材料にする。これは先のけちに対する罰だというのだ。この種の状況を、私はすべて一つ一つ味わってきた。今、君もおそらくこの味を味わい始めているところだろう。これは人を苦しめ、不平にさせるが、味わうのも悪くはない。世の中のことをより切実に知ることができるからだ。しかしこの状態は永続するものではない。しばらく経験した後は、はっと悟り、きっぱりと彼らを振り払わねばならない。さもなくば、たとえ自分のすべてを犠牲にしても、彼らはなお満足せず、しかもなお救われない。実を言えば、君が今哀れだと思っているいわゆる「婦女子供」も、おそらくこの例外ではあるまい。
以上は昼食前に書いた。今は四時で、今日はもう用事がない。兼士は昨日もう発ち、朝に別れを告げに来た。伏園からはすでに手紙が来て、船中で大いに吐いたとのこと(乗船前に酒を飲んだのだから自業自得だ)。今は長堤の広泰来旅館に泊まっているが、おそらく私の手紙が届く頃にはもう発っているだろう。浙江の独立はすでに失敗した。外の新聞では華々しく報じていたが、浙江の地元紙を見ると、かなり歯切れが悪く、独立の当初からしてすでに灰色だったようで、外聞のような轟々たるものではなかったらしい。福建の事も真相がよく分からない。ある新聞には周蔭人がすでに郷団に殺されたとあるが、おそらく本当ではあるまい。
ここでは袷の服が着られ、夜は綿入れのチョッキを足してもよいが、最近数日はまた不要で、今日は雨だが、さほど涼しくもない。使用人を雇ってからは、比較的便利になった。仕事については、実はそう多くなく、暇はいくらでもある。しかし何もせず、つまらない本を手に取って遊んでいることの方が多い。講義録を三、四時間続けて編纂すると、睡眠に影響が出て、寝付きが悪くなる。だから講義録の編纂も非常にゆっくりで、原稿を催促されてもたいてい無視している。上半期ほどがむしゃらに仕事をしなくなった。これは退歩のように見えるが、別の面から見れば、むしろ進歩かもしれない。
階下の裏手に花壇があり、有刺鉄線で囲ってある。どの程度の阻止力があるか試そうと思い、数日前に一度飛び越えてみた。越えられた。しかしあの棘はやはり効き目があり、小さな傷を二つつけられた。一つは股、一つは膝のそばで、しかし深くはなく、せいぜい一分(三ミリ)ほどだ。これは午後のことで、夜にはもう全治し、何ともなかった。おそらくこの件は戒めを受けるだろう。しかしこれは危険がないと分かった上で試したのだ。もし危険を感じれば、非常に慎重にする。例えばここには小さな蛇がかなり多く、よく打ち殺されたのを見かける。顎の部分が膨らんでいないものが多いから、大して毒はないのだろう。しかし暗くなると、草地を歩かなくなった。夜間の小便でさえ階下には降りず、磁器の痰壺に溜めておき、夜中に人がいない時を見計らって窓から放り出す。無頼に近いやり方だが、学校の設備がこれほど不完全では、こうするしかない。
玉堂の病気はもう治った。白果は北京に家族を迎えに行った。ここで一生を定める決意らしい。私の体は元気だ。酒は飲まず、食欲も良好で、気持ちは以前よりいくらか落ち着いている。
迅。十月二十八日。
三十二
広平兄:
一昨日(二十七日)二十二日の手紙を受け取って返事を書き、今日午前に自分で郵便局に持って行った。ポストに投函した途端、局員が二十三日発の速達を渡してくれた。この二通は同じ船で来たので、道理から言えば速達の方を先に受け取るべきなのだが、ここの事情は異常なのだ。普通の手紙は届くとすぐガラス箱に入れてくれるので、我々は早く目にする。ところが書留になると、秘密にして、局員一人が部屋に籠もって一通ずつ帳簿をつけ、また通知書を書いて、印鑑を持って取りに来いと言う。この通知書も届けに来るのではなく、やはりガラス箱の中に供えてあるだけで、自分で通りがかりに見つけるのを待つ。速達も同じ扱いだ。だから書留と「速達」は、必ず普通の手紙より遅く届く。
私がさしあたり広州に行かない事情は、二十一日の手紙にも書いた覚えがある。今、伏園からの手紙が来ているが、私がどうしてもすぐ行かねばならぬという様子はないし、開学が来年三月なら、年末に行っても遅くはない。今すぐにでも一度行きたいのは山々だが、事実上の束縛があまりにも強い。つまり三週間離れると、担当する仕事を放置しすぎることになり、その後一つ一つ埋め合わせをすれば仕事が重すぎるし、しなければ得をしたという嫌疑をかけられる。もしここに長くいるなら、当然ゆっくり補えばよく、問題はないのだが、私はまた長く留まるつもりはないのだ。ましてや玉堂の苦境もある。
下半期にどこに行くかは、問題ではない。上海にも北京にも行かない。他に行く場所がなければ、ここでもう半年をだらだら過ごすだけだ。今の去就は、もっぱら自分次第で、外界の策謀は、当分私を倒せない。楊桃(スターフルーツ)をぜひ味わってみたい。こうして耐えている理由は、自分のためには経済的問題だけであり、人のためには、私が去ったらすぐ玉堂が攻撃されるだろうと恐れるからで、それで少し彷徨しているのだ。一人の人間がこんな些細な問題に引っ張られるとは、実に嘆かわしい。
出したばかりだから、もう話すことはない。では、また。
迅。十月二十九日。
三十三
広平兄:
十月二十七日の手紙は今日届いた。十九日、二十二日、二十三日のも、すべて届いている。私は二十四日、二十九日、三十日にそれぞれ手紙を出したが、届いただろう。刊行物については、日記に記録してあるのを調べると、二十一日と二十日にそれぞれ一回あり、何だったかはもう忘れた。ただ一回の中に『域外小説集』があったことだけは覚えている。十月六日の刊行物については日記に記載がなく、記し忘れたのか、それとも実は二十一日に発送したのを私が月日を書き間違えたのか。君が二十一日発送の一包みを受け取ったかどうかを見れば分かる。もし届いていなければ、私の書き間違いだろう。しかしまた六日のは別の包みで、包みというよりは三冊の本を重ねた普通の雑誌送りのような形だったような気もする。
伏園からはすでに手紙が来ている。上遂の件はかなり望みがあるとのことだが、学校の他の事は何も触れていない。おそらく間もなく戻るだろうから、私もいくらか状況が分かるだろう。もし中大が本当に私を必要とし、行けば学校のためになるなら、開学前にあちらに行こう。ここのことは他に何も問題はなく、ただ玉堂に申し訳が立つかどうかだけだ。しかし玉堂もあまりに愚かで――知らないのか、それともお人よしなのか――今に至るまで自分の「副理」を盲信している。ここはきっとだめになる。救いようがない。山根先生は相変わらず人の推薦ばかりしており、図書館に一つ欠員があると聞けば、また人を推薦する計画を立てている。胡適之の書記だそうだ。しかし今回はあまりうまくいっていないようだ。学校の方は、この数日馬寅初を大いにもてなしている。昨日は浙江出身の学生が彼を歓迎し、無理やり私も一緒に記念撮影に入れようとしたが、必死に断った。彼らはかなり怪訝がった。ああ、私は銀行で金が儲かることを知らぬわけではないが、「道同じからざれば相ために謀らず」なのだ。明日は校長主催の宴会で、陪客にまた私がいる。彼らは策を巡らし、何としても私を銀行家と親しく語らせたいのだ。苦しいかな、苦しいかな。しかし私は案内の紙に「知」の一字だけ書いた。行かないことは分かるだろう。
伏園の手紙によると、副刊は十二月に開始するそうで、それなら彼は学校に戻った後、二、三週間でまた行かねばならない。それもまたよかろう。
十一月一日午後。
しかし私は今後の方針について、実にかなり迷っている。つまり、文章を書くか、それとも教壇に立つか、ということだ。この二つは両立しないのだ。文を書くには情熱が要り、教壇に立つには冷静さが要る。両方を兼ねて、もし手を抜けば、両方とも油滑浅薄になる。もし両方とも真剣にやれば、一方では熱血沸騰させ、他方では心を平穏にさせるのだから、精神が疲弊しきって、結局やはり両方ともうまくいかない。外国を見ても、教授を兼ねた文学者はもともとごく稀だ。自分で考えるに、もし少し文章を書けば、中国にとって多少の益があるかもしれず、書かなければ惜しい。しかし中国文学に関するある研究に打ち込めば、おそらく他人が気づかなかったことをいくらか言えるだろうから、やめてしまうのも惜しいようだ。しかし思うに、やはり有益な文章を書く方がよく、研究は余暇にする。ただし付き合いが多くなると、それもまただめだ。
ここは最近かなり寒く、袷の長袍が着られ、夜は綿の背心を足してもよい。私は元気で、食欲は通常通りだが、おかずはやはり美味くない。ここではどうしようもない。講義録はもう全部で五篇仕上げた。明日からは季刊の論文に取りかかるつもりだ。
迅。十一月一日灯下。
三十四
広平兄:
昨日手紙を出したばかりで、今は特に言うこともないが、些細な暇つぶしの話を気ままに書こう。またぶらぶらしている――この数日はあまり勉強せず、遊んでいる方が多い――ので、適当に書き連ねる。
今日一篇の投稿を受け取った。上海大学の曹軼欧からので、その中に、私が北京で洋布の大きな上着を着て通りを歩いている話があり、下に注がある。「これは私の友人P.京のH.M.女子学校の学生が直接私に話したことです」と。P.はもちろん北京だが、あの学校名が奇妙で、どうしてもどこの学校か思い出せない。まさか女子師範大学で、我々が使っているのと同じ意味なのだろうか。
今日もう一つ分かったことがある。ある留学生が東京で私の代理を名乗り、塩谷温氏を訪ねて、彼が印刷した『三国志平話』を求めた。しかし本はまだ製本が済んでおらず、持って行けなかった。彼は将来塩谷氏が直接私に送って話がばれるのを恐れ、C.T.に託して私に手紙を書かせ、彼を代理として追認してくれと頼んでいる。さもないと「中国人の名誉」に関わると言うのだ。見たまえ、「中国人の名誉」が、彼と私の嘘の上に成り立つとは。
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今天又知道一件事。先前朱山根要荐一个人到国学院,但没有成。现在这人终于来了,住在南普陀寺。为什么住到那里去的呢?因为伏园在那寺里的佛学院有几点钟功课(每月五十元),现在请人代着,他们就想挖取这地方。从昨天起,山根已在大施宣传手段,说伏园假期已满(实则未满)而不来,乃是在那边已经就职,不来的了。今天又另派探子,到我这里来探听伏园消息。我不禁好笑,答得极其神出鬼没,似乎不来,似乎并非不来,而且立刻要来,于是乎终于莫名其妙而去。你看“现代”派下的小卒就这么阴鸷,无孔不入,真是可怕可厌。不过我想这实在难对付,譬如要我去和此辈周旋,就必须将别的事情放下,另用一番心机,本业抛荒,所得的成绩就有限了。“现代”派学者之无不浅薄,即因为分心于此等下流事情之故也。
迅。十一月三日大风之夜。
十月卅日的信,今天收到了。马又要发脾气,我也无可奈何。事情也只得这样办,索性解决一下,较之天天对付,劳而无功的当然好得多。教我看戏目,我就看戏目;在这里也只能看戏目;不过总希望勿太做得力尽神疲,一时养不转。
今天有从中大寄给伏园的信到来,那么,他已经离开广州,但尚未到,也许到汕头或福州游观去了罢。他走后给我两封信,关于我的事,一字不提。今天看见中大的考试委员名单,文科中人多得很,他也在内,郭沫若,郁达夫也在,那么我的去不去也似乎没有多大关系,可以不必急急赶到了。
关于我所用的听差的事,说起来话长了。初来时确是好的,现在也许还不坏。但自从伏园要他的朋友给大家包饭之后,他就忙得很,不大见面。后来他的朋友因为有几个人不大肯付钱(这是据听差说的),一怒而去,几个人就算了,而还有几个人却要他接办,此事由伏园开端,我也没法禁止,也无从一一去接洽,劝他们另寻别人。现在这听差是忙,钱不够,我的饭钱和他的工钱都已豫支一月以上,又伏园临走宣言:自己不在时仍付饭钱。然而只是一句话,现在这一笔帐也在向我索取。我本来不善于管这些琐事,所以常常弄得头昏眼花。这些代付和豫支的款,不消说是不能收回的,所以在十月这一个月中,我就是每日早上得一盆脸水,吃两顿饭,共需大洋约五十元。这样贵的听差,用得下去的么?解铃还仗系铃人,所以这回伏园回来,我仍要他将事情弄清楚,否则,我大概只能不再雇人了。
明天是季刊交稿的日期,所以昨夜我写信一张后,即开手做文章,别的东西不想动手研究了,便将先前弄过的东西东抄西撮,到半夜,并今天一上午,做好了,有四千字,并不吃力,从此就又玩几天。
这里已可穿棉坎肩,似乎比广州冷。我先前同兼士往市上,见他买鱼肝油,便趁热闹也买了一瓶。近来散拿吐瑾吃完了,就试服鱼肝油,这几天胃口仿佛渐渐好起来似的,我想再试几天看,将来或者就改吃这鱼肝油(麦精的,即“帕勒塔”)也说不定。
迅。十一月四日灯下。
三十五
广平兄:
昨上午寄出一信,想已到。下午伏园就回来了,关于学校的事,他不说什么,问了的结果,所知道的是(1)学校想我去教书,但并无聘书;(2)上遂的事尚无结果,最后的答复是“总有法子想”;(3)他自己除编副刊外,也是教授,已有聘书;(4)学校又另电请几个人,内有“现代”派。这样看来,我的行止,当看以后的情形再定,但总当于阴历年假去走一回,这里阳历只放几天,阴历却有三礼拜。
李逄吉前有信来,说访友不遇,要我给他设法绍介,我即寄了一封绍介于陈惺农的信,从此无消息。这回伏园说遇诸途,他早在中大做职员了,也并不去见惺农,这些事真不知是怎么的,我如在做梦。他寄一封信来,并不提起何以不去见陈,但说我如往广州,创造社的人们很喜欢云云,似乎又与他们在一处,真是莫名其妙。
伏园带了杨桃回来,昨晚吃过了。我以为味并不十分好,而汁多可取,最好是那香气,出于各种水果之上。又有“桂花蝉”和“龙虱”,样子实在好看,但没有一个人敢吃;厦门也有这两种东西,但不吃。你吃过么?什么味道?
以上是午前写的,写到那地方,须往外面的小饭店去吃饭。因为我的听差不包饭了,说是本校的厨房要打他(这是他的话,确否殊不可知),我们这里虽吃一口饭也就如此麻烦。在饭店里遇见容肇祖(东莞人,本校讲师)和他的满口广东话的太太。对于桂花蝉之类,他们俩的主张就不同,容说好吃的,他的太太说不好吃的。
六日灯下。
从昨天起,吃饭又发生问题了,须上小馆子或买面包来,这种问题都得自己时时操心,所以也不大静得下。我本可以于年底将此地决然舍去,我所迟疑的是怕广州比这里还烦劳,认识我的人们也多,不几天就忙得如在北京一样。
中大的薪水比厦大少,这我倒并不在意。所虑的是功课多,听说每周最多可至十二小时,而做文章一定也万不能免,即如伏园所办的副刊,就非投稿不可,倘再加上别的事情,我就又须吃药做文章了。在这几年中,我很遇见了些文学青年,由经验的结果,觉他们之于我大抵是可以使役时便竭力使役,可以诘责时便竭力诘责,可以攻击时自然是竭力攻击,因此我于进退去就,颇有戒心,这或者也是颓唐之一端,但我觉得也是环境造成的。
其实我也还有一点野心,也想到广州后,对于“绅士”们仍然加以打击,至多无非我不能到北京去,并不在意;第二是与创造社联合起来,造一条战线,更向旧社会进攻,我再勉力写些文字。但不知怎的,看见伏园回来吞吞吐吐之后,便又不作此想了。然而这也不过是近一两天如此,究竟如何,还当看后来的情形的。
今天大风,仍为吃饭而奔忙;又是礼拜,陪了半天客,无聊得头昏眼花了,所以心绪不大好,发了一通牢骚。望勿以为虑,静一静又会好的。
明天想寄给你一包书,没有什么好的,自己如不要,可以分给别人。
迅。十一月七日灯下。
昨天在信上发了一通牢骚后,又给《语丝》做了一点《厦门通信》,牢骚已经发完,舒服得多了。今天又已约定了一个厨子包饭,每月十元,饭菜还过得去,大概可以敷衍半月一月罢。
昨夜玉堂来打听广东的情形,我们因劝其将此处放弃,明春同赴广州,他想了一会说,我来时提出条件,学校一一允许,怎能忽然不干呢?他大约决不离开这里的了,但我看现在的一批人物,国学院是一定没有希望的,至多只能小小补苴,混下去而已。
浙江独立早已灰色,夏超确已死了,是为自己的兵所杀的,浙江的警备队,全不中用。今天看报,知九江已克,周凤岐(浙兵师长)降,也已见于路透电,定是确的,则孙传芳仍当声势日蹙耳,我想浙江或当还有点变化。
L. S. 十一月八日午后。
三十六
广平兄:
昨天上午寄出一包书并一封信,下午即得五日的来信。我想如果再等信来而后写,恐怕要隔许多天了。所以索性再写几句,明天付邮,任它和前信相接,或一同寄到罢。
对于学校也只能这么办。但不知近来如何?如忙,则无必详叙,因为我也并不怎样放在心里,情形已和对杨荫榆时不同也。
伏园已回厦门,大约十二月中再去。逄吉只托他带给我含含胡胡的信,但我已推测出,他前信说在广州无人认识是假的。《语丝》第百一期上徐耀辰所做的《送南行的爱而君》的L就是他,他给他好几封信,绍介给熟人(=创造社中人),所以他和创造社人在一处了,突然遇见伏园,乃是意外之事,因此对我便只好吞吞吐吐。“老实”与否,可研究之。
忽而匿名写信来骂,忽而又自来取消的乌文光也和他在一处,另外还有些包以认识的人们。我这几天忽而对于到广州教书的事,很有些踌躇了,恐怕情形会和在北京时相象,厦门当然难以久留,此外也无处可走,实在有些焦躁。我其实还敢站在前线上,但发见当面称为“同道”的暗中将我作傀儡或从背后枪击我,却比被敌人所伤更其悲哀。我的生命,碎割在给人改稿子,看稿子,编书,校字,陪坐这些事情上者已经很不少,而有些人因此竟以主子自居,稍不合意就责难纷起,我此后颇想不再蹈这覆辙了。
忽又发起牢骚来,这回的牢骚似乎发得日子长一点,已经有两三天,但我想明后天就要平复了,不要紧的。
这里还是照先前一样,并没有什么;只听说漳州是民军就要入城了。克复九江,则其事当甚确。昨天又听到一消息,说陈仪入浙后,也独立了,这使我很高兴,但今天无续得之消息,必须再过几天,才能知道
真假。
中国学生学什么意大利,以趋奉北政府,还说什么“树的党”,可笑可恨。别的人就不能用更粗的棍子对打么?伏园回来说广州学生情形,真很出我意外。
迅。十一月九日灯下。
三十七
广平兄:
十日寄出一信,次日即得七日来信,略略一懒,便迟到今天才写回信了。
对于侄子的帮助,你的话是对的。我愤激的话多,有时几乎说:“宁我负人,毋人负我。”然而自己也往往觉得太过,实行上或者且正与所说的相反。人也不能将别人都作坏人看,看能帮也还是帮,不过最好是“量力”,不要拼命就是了。
“急进”问题,我已经不大记得清楚了,这意思,大概是指“管事”而言,上半年还不能不管事者,并非因为有人和我淘气,乃是身在北京,不得不尔,譬如挤在戏台面前,想不看而退出,是不很容易的。至于不以别人为中心,也很难说,因为一个人的中心并不一定在自己,有时别人倒是他的中心,所以虽说为人,其实也是为己,所以不能“以自己定夺”的事,也就往往有之。
我先前为北京为文学青年打杂,耗去生命不少,自己是知道的。但到这里,又有几个学生办了一种月刊,叫作《波艇》,我却仍然去打杂。这也还是上文所说,不能因为遇见过几个坏人便将人们都作坏人看的意思。但先前利用过我的人,现在见我偃旗息鼓遁迹海滨,无从再来利用,就开始攻击了。长虹在《狂飙》第五期上尽力攻击,自称见过我不下百回,知道得很清楚,并捏造了许多会话(如说我骂郭沫若之类)。其意盖在推倒《莽原》,一方面则推广《狂飙》销路,其实还是利用,不过方法不同。他们那时的种种利用我,我是明白的,但但还料不到他看出活着他不能吸血了,就要打杀了煮吃,有如此恶毒。我现在姑且置之不理,看看他技俩发挥到如何。总之,他戴着见了我“不下百回”的假面具,现在是除下来了,我不要子细的看看。
校事不知如何,如少暇,简略的告知几句就好。我已收到中大聘书,月薪二百八,无年限的,大约那计画是将以教授治校,所以认为非军阀帮闲的,就不立年限。但我的行止,一时也还不能决定。此地空气恶劣,当然不愿久居,而到广州也有不合的几点。(一)我对于行政方面,素不留心,治校恐非所长;(二)听说政府将移武昌,则熟人必多离粤,我独以“外江佬”留在校内,大约未必有味;而况(三)我的一个朋友,或者将往汕头,则我虽至广州,与在厦门何异。所以究竟如何,当看情形再定了,好在开学还在明年三月初,很有考量的余地。
我在静夜中回忆先前的经历,觉得现在的社会,大抵是可利用时则竭力利用,可打击时则竭力打击,只要于他有利。我在北京这么忙,来客不绝,但一受段祺瑞、章士钊们的压迫,有些人就立刻来索还原稿,不要我选定,作序了。其甚还要乘机下石,连我请他吃过饭也是罪状了,这是我在运动他;请他喝过好茶也是罪状了,这是我奢侈铁证据。借自己的升沉,看看人们的嘴脸的变化,虽然很有益,也有趣,但我的涵养工夫太浅了,有时总还不免有些愤激,因此又常迟疑于此后所走的路:(1)死了心,积几文钱,将来什么事都不做,顾自己苦苦过活;(2)再不顾自己,为人们做些事将来饿肚也不妨,也一任别人唾骂;(3)再做一些事倘连所谓同人也都从背后枪击我了,为生存和报复起见,我便什么事都敢做,但不愿失了我的朋友。第二条我已行过两年了,终于觉得太傻。前一条当先托庇于资本家,恐怕熬不住;末一条则颇险,也无把握(于生活),而且略有所不忍,所以实在难于下一决心,我也就想写信和我的朋友商议,给我一条光。
昨天今天此地都下雨,天气稍凉。我仍然好的,也不怎么忙。
迅。十一月十五日灯下。
三十八
广平兄:
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今日もう一つ分かったことがある。以前、朱山根が国学院に一人推薦しようとしたが、うまくいかなかった。今その人がついにやって来て、南普陀寺に住んでいる。なぜあそこに住むことになったのか。伏園がその寺の仏学院で数時間の授業を持っており(月給五十元)、今は人に代わりを頼んでいるが、彼らはこのポジションを奪おうとしているのだ。昨日から、山根は大いに宣伝工作を展開し始めた。伏園は休暇がすでに終わった(実はまだ終わっていない)のに来ないのは、あちらですでに就職したからで、もう来ないのだと言っている。今日はまた別のスパイを私のところに送ってきて、伏園の消息を探らせた。私は思わず笑ってしまい、神出鬼没の答え方をした。来ないようでもあり、来ないのではないようでもあり、しかもすぐにも来るかのようで、結局相手は訳が分からなくなって帰って行った。「現代」派の手先がこれほど陰険で、あらゆる隙に入り込んでくるとは、実に恐ろしく厭わしい。しかし思うに、これは本当に対処が難しい。例えば私がこの連中と渡り合おうとすれば、他の仕事を全部放り出して、別の心機を用いなければならない。本業を荒廃させ、得られる成果は知れたものだ。「現代」派の学者が一人残らず浅薄なのは、まさにこの種の下劣な事に心を分散させているからなのだ。
迅。十一月三日大風の夜。
十月三十日の手紙は今日届いた。馬がまた癇癪を起こそうとしているが、私にはどうしようもない。こうなったらいっそ一度片付けてしまう方が、毎日対処して労して功なしよりはるかにましだ。芝居の演目を見ろと言うのなら、見よう。ここでは演目しか見られないのだから。ただ、あまり力尽き疲れ果てるほどにはしないでほしい。一度では回復できなくなる。
今日、中大から伏園宛の手紙が届いた。それなら彼はすでに広州を離れたが、まだ着いていない。おそらく汕頭か福州に立ち寄って見物しているのだろう。彼が発ってから手紙を二通くれたが、私のことには一字も触れていない。今日、中大の試験委員の名簿を見たが、文科には人が大勢おり、彼もいる。郭沫若、郁達夫もいる。それなら私が行くかどうかもそう大した問題ではなさそうで、急いで駆けつける必要もない。
私が使っている使用人の件は、話せば長くなる。来た当初は確かによかったし、今もおそらくまだ悪くはないだろう。しかし伏園が彼の友人にみなの賄い飯を請け負わせてからは、彼はとても忙しくなり、あまり姿を見せなくなった。その後、友人の方は何人かの者がなかなか金を払おうとしなかったため(これは使用人の話だが)、怒って去った。何人かはそれで終わりにしたが、まだ何人かは使用人に引き継がせようとした。伏園が始めたことなので、私も禁じようがなく、一人一人当たって別の人を探すよう勧めることもできない。今この使用人は忙しく、金が足りず、私の食費も彼の給料も一月以上前払いしている上、伏園は立つ際に「自分がいない間も食費は払い続ける」と宣言した。しかし口約束だけで、今ではこの勘定も私に請求が来る。私はもともとこういう些事の管理が不得手で、しょっちゅう目が回る。これらの立替金や前払い金は、言うまでもなく回収できない。だから十月のひと月で、私は毎朝洗面の水一盆と食事二回のために、大洋約五十元も要した。こんな高い使用人を使い続けられるものか。鈴を解くにはなお鈴をつけた者に頼らねばならない。だから今度伏園が戻ったら、事の始末をきちんとつけさせる。さもなくば、もう人を雇わないことにするしかあるまい。
明日が季刊の原稿締切なので、昨晩手紙を一枚書いた後、すぐに原稿に取りかかった。別のものを研究する気にはなれず、以前やったものをあちこちから抜き書きし寄せ集めて、深夜までかかり、さらに今日の午前中で仕上げた。四千字で、さほど骨は折れなかった。これでまた数日遊べる。
ここではもう綿のチョッキが着られ、広州より寒いようだ。以前、兼士と一緒に市街に行った時、彼が肝油を買うのを見て、つられて私も一瓶買った。最近サナトゲンを飲み終わり、試しに肝油を飲んでいるが、この数日食欲が次第に出てきたような気がする。もう数日試してみて、将来はあるいはこの肝油(麦精の、すなわち「パルタ」)に替えるかもしれない。
迅。十一月四日灯下。
三十五
広平兄:
昨日午前に手紙を一通出したが、もう届いただろう。午後に伏園が戻ってきた。学校の件については何も言わず、聞き出した結果分かったのは、(一)学校は私に教えに来てほしいと思っているが、辞令はないこと。(二)上遂の件はまだ結果が出ておらず、最後の返事は「何とかする方法はある」というものだったこと。(三)伏園自身は副刊の編集のほか、教授にもなり、すでに辞令があること。(四)学校はまた別の何人かに電報で招聘しており、「現代」派もその中にいること。こう見ると、私の去就は今後の状況を見て決めるべきだが、少なくとも旧暦の年末休暇には一度行ってみるつもりだ。ここは陽暦は数日しか休まないが、旧暦は三週間ある。
李逄吉から以前手紙が来て、友人を訪ねたが会えず、私に紹介を手配してくれと言うので、陳惺農への紹介状を一通送った。それきり音沙汰がない。今回伏園が途中で彼に会ったと言い、彼は早くから中大で職員をしていたそうだ。しかも陳には会いに行かなかったという。これらの事は本当にどうなっているのか、夢を見ているようだ。彼から手紙が一通来たが、なぜ陳に会いに行かなかったかには一切触れず、ただ私が広州に行けば創造社の人々が大いに喜ぶ云々と書いてあり、どうやら彼らと一緒にいるらしい。本当に訳が分からない。
伏園がスターフルーツを持って帰ってきたので、昨晩食べてみた。味はそう大したことはないと思うが、汁が多いのは取り柄で、最もよいのはあの香りで、あらゆる果物の上を行く。また「桂花蝉」(タガメ)と「龍蝨」(ゲンゴロウ)もあるが、見た目はなかなか立派なのに、誰一人食べる勇気がない。厦門にもこの二つはあるが、食べない。君は食べたことがあるか。どんな味だ。
以上は午前中に書いた。書いているうちに、外の小さな食堂に食事に行かねばならなくなった。使用人が賄い飯をやめたからだ。本校の厨房が自分を殴ろうとするのだと言うが(これは彼の言い分で、真偽は分からない)、ここでは一口の飯を食べるにもこれほど面倒なのだ。食堂で容肇祖(東莞の人、本校の講師)とその広東語しか話さない奥さんに会った。桂花蝉の類について、夫婦の意見は食い違い、容は美味いと言い、奥さんは不味いと言う。
六日灯下。
昨日からまた食事の問題が発生し、小さな食堂に行くかパンを買ってこなければならない。この種の問題を自分で始終気にかけていなければならないから、あまり落ち着けない。年末にはここをきっぱりと捨てることもできるのだが、躊躇しているのは、広州がここよりもっと煩わしいのではないかと恐れているからだ。私を知る人も多く、数日もすれば北京にいた時と同じくらい忙しくなるだろう。
中大の給料は厦大より少ないが、これは私は気にしない。心配なのは授業時間が多いことで、聞くところでは週に最大十二時間にもなりうるという。しかも文章を書くことも絶対に免れられない。例えば伏園が編集する副刊には、投稿しないわけにはいかない。さらに他の事が加われば、私はまた薬を飲みながら文章を書かねばならなくなる。この数年、文学青年にかなり出会ってきたが、経験の結果として感じるのは、彼らは私に対して、大抵は使える時には全力で使い、詰責できる時には全力で詰責し、攻撃できる時にはもちろん全力で攻撃するということだ。だから私は進退去就に対して、かなり警戒心を持っている。これもまた頽廃の一端かもしれないが、環境が作り出したものでもあると思う。
実は私にもいくらかの野心がある。広州に行ったら、「紳士」たちに対してやはり打撃を加えたい。最悪の場合でも北京に行けなくなるだけで、気にはしない。第二に、創造社と連合して戦線を築き、さらに旧社会に攻撃を仕掛けたい。私ももう少し文章を書こう。しかしどうしたものか、伏園が戻ってきて口ごもるのを見てからは、またこの考えを捨ててしまった。しかしこれもここ一、二日のことで、結局どうするかは、やはり今後の状況次第だ。
今日は大風で、相変わらず食事のために走り回っている。また日曜日で、半日客の相手をし、退屈で目が回った。だから気分がよくない。愚痴を一くさりこぼしてしまった。心配しないでほしい。少し落ち着けばまたよくなる。
明日、本を一包み送るつもりだ。大したものはないが、自分で要らなければ人に分けてもよい。
迅。十一月七日灯下。
昨日手紙で愚痴を一くさりこぼした後、『語糸』のために「厦門通信」を少し書いたので、愚痴は出し切り、ずっと楽になった。今日はまた料理人と賄いの契約をした。月十元で、料理はまあまあだ。おそらく半月か一月はしのげるだろう。
昨晩、玉堂が広東の状況を聞きに来たので、我々はここを放棄し、来春一緒に広州に行くよう勧めた。彼は少し考えてから言った。「来る時に条件を出して、学校が一つ一つ承諾した。どうして突然やめられよう」。彼はおそらくここを絶対に離れないだろう。しかし私の見るところ、今の一群の人物では、国学院には絶対に望みがない。せいぜい小手先の修繕をしながら、だらだら続けるだけだ。
浙江の独立はとうに灰色だった。夏超は確かに死んだ。自分の兵に殺されたのだ。浙江の警備隊は全く役に立たなかった。今日の新聞を見ると、九江はすでに陥落し、周鳳岐(浙江兵の師団長)が降伏したとあり、ロイター電にも出ているから、確かだろう。孫伝芳の勢力はなお日に日に追い詰められているはずで、浙江にはまた何か変化があるかもしれないと思う。
L. S. 十一月八日午後。
三十六
広平兄:
昨日午前に本を一包みと手紙を一通出したが、午後にはもう五日の手紙を受け取った。もし手紙が来るのを待ってから書けば、おそらく何日も空いてしまうだろう。だからいっそ一筆したためて明日出すことにする。前の手紙と続けて届くか、一緒に届くかは、なるがままに任せよう。
学校に対してもそうするしかない。しかし最近はどうだ。忙しければ詳しく書く必要はない。私もそう気にかけてはいないからだ。状況はすでに楊蔭楡の時とは違う。
伏園はすでに厦門に戻り、おそらく十二月中にまた行くだろう。逄吉は伏園に託して、曖昧な手紙を一通寄こしただけだが、私はもう推測がつく。前の手紙で広州に知人がいないと言ったのは嘘だ。『語糸』第百一号に徐耀辰が書いた「南行する愛而君を送る」の中のLがまさに彼で、彼に何通もの手紙を書いて知人(=創造社の人々)に紹介してやったのだから、彼が創造社の人々と一緒にいるのは当然だ。偶然伏園に出くわしたのは予想外のことで、だから私に対しては口ごもるしかなかったのだ。「正直」かどうか、研究の余地がある。
突然匿名で罵りの手紙を送ってきたかと思えば、突然また自ら取り消しに来た烏文光もまた彼と一緒におり、他にも面識があると称する人々がいる。私はこの数日、広州に教えに行く件について、かなり躊躇するようになった。状況が北京にいた時と似通うのではないかと恐れている。厦門にはもちろん長くはいられないし、他に行く場所もなく、実にいくらか焦燥を覚える。私は実はまだ前線に立つ覚悟はある。しかし面と向かって「同志」を称しながら、陰では私を操り人形にし、背後から銃撃してくる者がいると分かった時、敵に傷つけられるよりもっと悲しい。私の生命は、人の原稿の手直し、原稿の閲覧、本の編集、校正、付き合いといった事柄にすでに随分と細切れにされてきた。そしてある者たちはそのことで主人面をし、少しでも意に沿わなければ非難が噴出する。今後はもうこの轍を踏むまいと強く思う。
またしても愚痴が出てしまった。今回の愚痴はいくらか長く、もう二、三日続いているが、明日か明後日には治まると思う。心配は無用だ。
ここは相変わらず以前と同じで、特に変わったことはない。ただ漳州には民軍がまもなく入城するらしいと聞く。九江の陥落は相当確かだろう。昨日またある消息を耳にした。陳儀が浙江に入った後、独立したとのことで、私は大いに喜んだ。しかし今日はその続報がなく、あと数日しないと真偽が分からない。
中国人の学生がイタリア語を学んで北方政府に媚びを売り、まだ「ファシスト党」だのと言っているとは、笑止千万、憎むべきことだ。他の者はもっと太い棒で殴り返せないのか。伏園が戻って来て話した広州の学生の状況は、実に意外だった。
迅。十一月九日灯下。
三十七
広平兄:
十日に手紙を一通出し、翌日には七日の手紙を受け取った。少し怠けたせいで、今日になってようやく返事を書いている。
甥への援助については、君の言葉が正しい。私の憤激の言葉は多く、時には「寧ろ我れ人に背くとも、人をして我れに背かしむる勿れ」とまで言いかねない。しかし自分でもしばしば行き過ぎだと感じるし、実際の行動はあるいは言葉とは正反対かもしれない。人は他人をみな悪人として見ることもできない。助けられるなら助けるべきだが、ただ「力を量って」、命を削らないようにするのがよい。
「がむしゃら」の問題は、もうよく覚えていないが、おそらく「事に首を突っ込む」ことを指しているのだろう。上半期まだ首を突っ込まざるを得なかったのは、誰かに絡まれたからではなく、北京にいてはそうせざるを得なかったのだ。例えば芝居の舞台の前に押しかけられて、見たくないのに引き下がるのは容易ではないようなものだ。他人を中心にしないというのも言いにくい。一人の人間の中心は必ずしも自分にあるとは限らず、時には他人がその人の中心になることもある。だから人のためと言いつつ実は自分のためであり、「自分で決められない」ことも往々にしてあるのだ。
以前、北京で文学青年のために雑用をして命を削ったことは、自分でも分かっている。しかしここに来て、何人かの学生が『波艇』という月刊を始め、私はやはりまた雑用係をしている。これも上述の、何人かの悪人に出会ったからといって人をみな悪人として見ることはできないという意味だ。しかし以前私を利用した人々は、今や私が旗を倒し海辺に隠遁してもう利用できなくなったのを見て、攻撃を始めた。長虹は『狂飆』第五号で力の限り攻撃し、私と百回は会っていると自称し、よく知っていると言い、多くの会話を捏造している(私が郭沫若を罵ったと言うなど)。その意図は『莽原』を打倒し、一方で『狂飆』の販売を伸ばすことにあり、結局はやはり利用なのだが、方法が違うだけだ。当時の彼らの私に対する種々の利用を、私は承知していた。しかし、生きている間は血を吸えないと分かると、殺して煮て食おうとするとは、これほどの悪意があろうとはさすがに見通せなかった。今はとりあえず放っておいて、彼の手管がどこまで発揮されるか見よう。要するに彼は「百回以上会った」という仮面を被り、今それを脱いだのだから、私はよく見てやらねばなるまい。
学校のことはどうか。暇が少なければ、簡潔に一言知らせてくれればよい。私はすでに中大の辞令を受け取った。月給二百八十元、期限なしだ。おそらくの計画は教授による大学自治で、軍閥の御用でない者には期限を設けないということらしい。しかし私の去就は、まだしばらく決められない。ここの空気は悪いから、もちろん長く居たくはないが、広州に行くにも合わない点がいくつかある。(一)私は行政方面には元来無関心で、大学運営は得意とするところではない。(二)政府が武昌に移ると聞くが、そうなれば知人の多くは広東を離れ、私一人が「外省人」として校内に残ることになり、おそらく面白くはあるまい。しかも(三)私の一人の友人が、あるいは汕頭に行くかもしれない。それなら広州に行っても、厦門にいるのと何が違おう。だから結局どうするかは、状況を見て決める。幸い開学はまだ来年三月初めだから、考える余裕は十分にある。
静かな夜に過去の経験を振り返ると、今の社会は大抵、利用できる時には全力で利用し、打撃できる時には全力で打撃する。自分に利さえあれば、というものだと感じる。北京であれほど忙しく、来客が絶えなかったのに、段祺瑞や章士釗らの圧迫を受けたとたん、原稿を返してくれと言い出す者がいて、選定も序文も要らないと言う。甚だしきは機に乗じて石を投げ、私が彼に食事をおごったことまで罪状にする。それは私が彼を抱き込もうとしたのだと。良いお茶を飲ませたことも罪状にする。私の贅沢の確たる証拠だと。自分の浮沈を借りて人々の表情の変化を見るのは、なかなか有益で面白くもあるが、私の修養が浅すぎて、時にどうしてもいくらかの憤激を禁じ得ず、そのためまた今後の進路について迷うことがしばしばだ。(一)諦めて少しばかり金を貯め、将来は何もせず、一人で辛く暮らしていく。(二)もう自分を顧みず、人のために何かをする。将来腹が減っても構わないし、他人に罵られるのもなすがまま。(三)もう少し何かをして、もしいわゆる同志までもが背後から銃撃してくるなら、生存と復讐のために、どんなことでもやる覚悟だ。ただし友人を失いたくはない。第二の道はもう二年実行したが、ついに愚かだと悟った。第一の道は先に資本家の庇護を求めなければならず、おそらく耐えられない。最後の道はかなり危険で、(生活の)見通しもなく、しかもいささか忍びないところがある。だから本当に決心がつかない。そこで手紙を書いて友人と相談し、一条の光を与えてもらいたいと思ったのだ。
昨日も今日もここは雨で、少し涼しくなった。私は相変わらず元気で、それほど忙しくもない。
迅。十一月十五日灯下。
三十八
広平兄:
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十六日寄出一信,想已到。十二日发的信,今天收到了。校事已见头绪,很好,总算结束了一件事。至于你此后所去的地方,却教我很难代下断语。你初出来办事,到各处看看,历练历练,本来也很好的,但到太不熟悉的地方去,或兼任的事情太多,或在一个小地方拜帅,却并无益处,甚至会变成浅薄的政客之流。我不知道你自己是否仍旧愿在广州,抑非走开不可,倘非决欲离开,则伏园下月中旬当赴粤,看中大女生指导员之类有无缺额,他一定肯绍介的。上遂的事,我也要托他办。
曹轶欧大约不是男生假托的,因为回信的住址是女生宿舍,但这些都不成问题,由它去罢。中山生日的情形,我以为和他本身是无关的,只是给大家看热闹;要是我,实在是“身后名,不如即时一杯酒,”恐怕连盛大的提灯会也激不起来的了。但在这里,却也太没有生气,只见和尚自做水陆道场,男男女女上庙拜佛,真令人看得索然气尽。我近来只做了几篇付印的书的序跋,虽多牢骚,却有不少真话。还想做一篇记事,将五年来我和种种文学团体的关涉讲一个大略,但究竟做否,现在还未决定。至于真正的用功,却难,这里无须用功,也不是用功的地方。国学院也无非装门面,不要实际。对于教员的成绩,常要查问,上星期我气起来,就对校长说,我原已辑好了古小说十本,只须略加整理,学校既如此急急,月内便去付印,就是了。于是他们就从此没有后文了。你没有稿子,他们就天天催,一有,却并不真准备付印的。
我虽然早已决定不在此校,但时期是本学期末抑明年夏天,却没有定。现在是至迟至本学期末非走不可了。昨天出了一件可笑可叹的事。下午有校员恳亲会,我是向来不到那种会的,而一个同事硬拉我去。我不得已,去了。不料会中竟有人演说,先感谢校长给我们吃点心,次说教员吃得多么好,住得多么舒服,薪水又这么多,应该大发良心,拚命做事。而校长之如此体贴我们,真如父母一样……我真要跳起来,但已有别一个教员上前驳斥他了,闹得不欢而散。
还有希奇的事情。是教员里面,竟有对于驳斥他的教员,不以为然的。他说,在西洋,父子和朋友不大两样,所以倘说谁和谁如父子,也就是谁和谁如朋友的意思。这人是西洋留学生,你看他看西洋一番,竟学得了这样的大识见。
昨天的恳亲会,是第三次,我却初次到,见是男女分房的,不但分坐。
我才知道在金钱下的人们是这样的,我决定要走了,但我不想以这一件事为口实,且仍于学期之类作一结束。至于到那里去,一时也难定,总之无论如何,年假中我必到广州走一遭,即使无啖饭处,厦门也决不住下去的了。又我近来忽然对于做教员发生厌恶,于学生也不愿意亲近起来,接见这里的学生时,自己觉得很不热心,不诚恳。
我还要忠告玉堂一回,劝他离开这里,到武昌或广州做事。但看来大大半是无效的,这里是他的故乡,他不肯定轻易决绝,同来的鬼祟又遮住了他的眼睛,一定要弄到大失败才罢。我的计划,也不过聊尽同事一场的交情而已。
迅。十八,夜。
三十九
广平兄:
十九日寄出一信;今天收到十三,六,七日来信了,一同到的。看来广州有事做,所以你这么忙,这里是死气沉沉,也不能改革,学生也太沉静,数年前闹过一次,激烈的都走出,在上海另立大夏大学了。我决计至迟于本学期末(阳历正月底)离开这里,到中山大学去。
中大的薪水是二百八十元,可以不搭库券。朱骝先还对伏园说,也可以另觅兼差,照我现在的收入之数,但我却并不计较这一层,实收百余元,大概已经够用,只要不在不死不活的空气里就好了。我想我还不至于完在这样的空气里,到中大后也许不难择一并不空耗精力,而较有益于学校或社会的事。至于厦大,其实是不必请我的,因为我虽颓唐,而他们还比我颓唐得利害。
玉堂今天辞职了,因为减缩豫算的事。但只辞国学院秘书,未辞文科主任。我已托伏园转达我的意见,劝他不必烂在这里,他无回话。我还要自己对他说一回。但我看他的辞职是不会准的。
从昨天起,我的心又很冷静了。一是因为决定赴粤,二是因为决定对长虹们给一打击。你的话大抵不错的;但我之所以愤慨,却并非因为他们使我失望,而在觉得了他先前日日吮血,一看见不能再吮了,便想一棒打杀,还将肉作罐头卖以获利。这回长虹笑我对章士钊的失败道,“于是遂戴其纸糊的‘思想界的权威者’之假冠,而入于身心交病之状态矣”。但他八月间在《新女性》登广告,却云“与思想先驱者鲁迅合办《莽原》”,一面自己加我“假冠”以欺人,一面又因别人所加之“假冠”而骂我,真是轻薄卑劣,不成人样。有青年攻击或讥笑我,我是向来不去还手的,他们还脆弱,珲是我比较的禁得起践踏。然而他竟得步进步,骂个不完,好象我即使避到棺材里去,也还要戮尸的样子。所以我昨天就决定,无论什么青年,我也不再留情面,先作一个启事,将他利用我的名字,而对于别人用我名字,则加笑骂等情状,揭露出来,比他的唠唠叨叨的长文要刻毒得多。即送登《语丝》,《莽原》,《新女性》,《北新》四种刊物。我已决定不再彷徨,拳来拳对,刀来刀当,所以心里也很舒服了。
我大约也终于不见得为了小障碍而不走路,不过因为神经不好,所以容易说愤话。小障碍能绊倒我,我不至于要离开厦门了。但我也很想走坦途,但目前还不能,非不愿,势不可也。至于你的来厦,我以为大可不必,“劳民伤财,”都无益处;况且我也并不觉得“孤独,”没有什么
“悲哀。”
你说我受学生的欢迎,足以自慰么?我对于他们不大敢有希望,我觉得特出者很少,或者竟没有。但我做事是还要做的,希望全在未见面的人们,或者如你所说:“不要认真”。我其实毫不懈怠,一面发牢骚,一面编好《华盖集续编》,做完《旧事重提》,编好《争自由的波浪》(董秋芳译的小说),看完《卷葹》,都分头寄出去了。至于还有人和我同道,那自然足以自慰的,并且因此使我自勉,但我有时总还虑他为我而牺牲。而“推及一二以至无穷”,我也不能够。有这样多的么?我倒不要这样多,有一个就好了。
提起《卷葹》,又想到了一件事了。这是王品青送来的,淦女士所作,共四篇,皆在《创造》上发表过。这回送来要印入《乌合丛书》,据我看来是因为创造社不往作者同意,将这些印成小丛书,自行发卖,所以这边也出版,借谋抵制的,凡未在那边发表过者,一篇都不在内,我要求再添几篇新的,品青也不肯。创造社量狭而多疑,一定要以为我在和他们捣乱,结束是成仿理借别的事来骂一通。但我给她编定了,不添就不添罢,要骂就骂去罢。
我过了明天礼拜,便又要编讲义,余闲就玩玩。待明年换了空气,再好好做事。今天来客太多,无工夫可写信,写了这两张,已经夜十二点
半了。
和这信同时,我还想寄一束杂志,其中的《语丝》九七和九八,前回曾经寄去,但因为那是切边的,所以这回补寄毛边者两本,你大概是不管这些的,不过我的脾气如此,所以仍寄。
迅。十一月廿日。
四十
广平兄:
二十一日寄一信,想已到。十七日所发之又一简信,二十二日收到了;包裹还未来,大约包裹及书籍之类,照例比普通信件迟,我想明天也许要到,或者还有信,我等着。我还想从上海买一合较好的印色来,印在我到厦后所得的书上。
近日因为校长要减少国学院豫算,玉堂颇愤慨,要辞去主任,我因劝其离开此地,他极以为然。今天和校长开谈话会,我即提出强硬之抗议,以去留为孤注,不料校长竟取消前议了,别人自然大满足,玉堂亦软化,反一转而留我,谓至少维持一年,因为教员中途难请云云。又我将赴中大消息,此地报上亦经揭载,大约是从广州报上抄来的,学生因亦有劝我教满他们一年者。这样看来,我年底大概未必能走了,虽然校长的维持预算之说十之九不久又会取消,问题正多得很。
我自然要从速离开此地,但什么时候,殊不可知。我想H.M.不如不管我怎样,而到自己觉得相宜的地方去,否则也许去做很牵就,非意所愿的事务,比现在的事情还无聊。至于我,再在这里熬半年,也还做得到的,以后如何,那自然此时还无从说起。
今天本地报上的消息很好,泉州已得,浙陈仪又独立,商震反戈攻张家口,国民一军将至潼关,此地报纸大概是民党色采,消息或倾于宣传,但我想,至少泉州攻下总是确的。本校学生中民党不过三十左右,其中不少是新加入者,昨夜开会,我觉他们都没有历练,不深沉,连设法取得学生会以供我用的事情都不知道,真是奈何奈何。开一回会,空嚷一通,徒令当局者因此注意,那夜反民党的职员却在门外窃听。
二十五日之夜,大风时。
写了一张之(刚写了这五个字,就来了一个客,一直坐到十二点)后,另写了一张应酬信,还不想睡,再写一点罢。伏园下月准走,十二月十五左右,一定可到广州了。上遂的事,则至今尚无消息,不知何故,我同兼士曾合写一信,又托伏园面说,又写一信,都无回音,其实上遂的办事能力,比我高得多。
我想H.M.正要为社会做事,为了我的牢骚而不安,实在不好,想到这里,忽然静下来了,没有什么牢骚了。其实我在这里的不方便,仔细想起来,大半是由于言语不通,例如前天厨房又不包饭了,我竟无法查问是厨房自己不愿做了呢,还是听差和他冲突,叫我不要他做了。不包则不包亦可。乃同伏园去到一个福州馆,要他包饭,而馆中只有面,问以饭,曰无有,废然而返。今天我托一个福州学生去打听,才知道无饭者,乃适值那时无饭,并非永远无饭也。为之大笑。大约明天起,当在这一个福州馆包饭了。
仍是二十五日之夜,十二点半。
此刻是上午十一时,到邮务代办处去看了一回,没有信;而我这信要寄出了,因为明天大约有从厦门赴粤之船,倘不寄,便须待下星期三这一艘了。但我疑心此信一寄,明天便要收到来信,那时再写罢。
记得约十天以前,见报载新宁轮由沪赴粤,在汕头被盗劫,纵火。不知道我的信可有被烧在内。我的信是十日之后,有十六,十九,二十一等三封。
此外没有什么事了,下回再谈罢。
迅。十一月二十六日。
午后一时经过邮局门口,见有别人的东莞来信,而我无有,那么,今天是没有信的了,就将此发出。
四十一
广平兄:
二十六日寄出一信,想当已到。次日即得二十三日来信,包裹的通知书,也一并送到了,即向邮政代办处取得收据,星期六下午已来不及,星期日不办事,下星期一(廿九日)可以取来,这里的邮政,就是如此费事。星期六这一天,我同玉堂往集美学校讲演,以小汽船来往,还耗去了一整天;夜间会客,又耗去了许多工夫,客去正想写信,间壁的礼堂里走了电,校役吵嚷,校警吹哨,闹得石破天惊,究竟还是物理学教授有本领,走进去关住了总电门,才得无事,只烧焦了几块木头。我虽住在并排的楼上,但因为墙是石造的,知道不会延烧,所以并不搬动,也没有损失,不过因为电灯俱熄,洋烛的光摇摇而昏暗,于是也不能写信了。
我一生的失计,即在向来并不为自己生活打算,一切听人安排,因为那时豫料是活不久的。后来豫料并不确中,仍须生活下去,遂至弊病百出,十分无聊。再后来思想改变了,而还是多所顾忌,这些顾忌,大部分自然是为生活,几分也为地位,所谓地位者,就是指我历来的一点小小工作而言,怕因我的行为的剧变而失去力量。这些瞻前顾后,其实也是很可笑的,这样下去,更将不能动弹。第三法最为直截了当,而细心一点,也可以比较的安全,所以一时也决不定。总之我先前的办法,已是不妥,在厦大就行不通,我也决计不再敷衍了,第一步我一定于年底离开这里,就中大教授职。但我极希望H.M.也在同地,至少可以时常谈谈,鼓励我再做些有益于人的工作。
昨天我向玉堂提出以本学期为止,即须他去的正式要求,并劝他同走。对于我走这一层,略有商量的话,终于他无话可说了,他自己呢,我看未必走,再碰几个钉子,则明年夏天可以离开。
此地无甚可为,近来组织了一种期刊,而作者不过寥寥数人,或则受创造社影响,过于颓唐,或则象狂飙社嘴脸大言无实;又在日报上添了一种文艺周刊,恐怕不见得有什么好结果。大学生都很沉静,本地人文章,则“之乎者也”居多,他们一面请马寅初写字,一面要我做序,真是一视同仁,不加分别。有几个学生因为我和兼士在此而来的,我们一走,大约也要转学到中大去。
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十六日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。十二日発の手紙は今日届いた。学校の事は目途がついたようで、結構なことだ。一つの案件がようやく片付いた。君がこれからどこに行くかということになると、私には断言しにくい。初めて社会に出て各地を見て回り、経験を積むのは、もちろんよいことだ。しかしあまりに不慣れな場所に行くとか、兼任の仕事が多すぎるとか、小さなところで大将になるとかは、かえって益にならず、浅薄な政治屋の類になりかねない。君自身がなお広州にいたいのか、それとも離れなければならないのか分からないが、もし離れるつもりがないなら、伏園が来月中旬に広東に行くから、中大の女子学生指導員の類に空きがないか、彼はきっと紹介してくれるだろう。上遂の件も、彼に頼むつもりだ。
曹軼欧はおそらく男子学生の偽名ではあるまい。返信の住所が女子寮だからだ。しかしこれらはみな問題ではない。放っておこう。孫中山の誕生日の催しは、彼本人とは無関係で、ただみなに見世物を提供しているだけだ。もし私なら、実に「死後の名より生前の一杯の酒」で、おそらく盛大な提灯行列すら催す気になるまい。しかしここでは、あまりにも活気がなく、坊主が自分で水陸道場を営み、老若男女が寺に参詣するばかりで、見ていると本当に気が抜ける。最近は印刷する本の序跋をいくつか書いただけだ。愚痴は多いが、少なからぬ本音がある。もう一篇、この五年間の私と各種の文学団体との関わりのあらましを記す文章を書きたいと思っているが、結局書くかどうか、まだ決めていない。本格的な学問に打ち込むのは難しい。ここではその必要もなく、またそういう場所でもない。国学院も見せかけにすぎず、実質は求められていない。教員の業績についてはしょっちゅう問い合わせてくるが、先週私は腹を立て、校長にこう言った。私はすでに古小説十巻を輯して整理してあるのだから、少し手を入れて出せばよい。学校がそんなに急ぐなら、月内に印刷に回す、それでよいだろうと。すると彼らはそれきり何も言わなくなった。原稿がなければ毎日催促するが、あれば実際には印刷する気などないのだ。
この学校に残らないことはとうに決めていたが、時期が本学期末か来年の夏かは決めていなかった。今は遅くとも本学期末には去らなければならない。昨日、笑うべく嘆くべき事件があった。午後に教職員の懇親会があり、私は普段そういう会には出ないのだが、ある同僚が無理やり連れて行った。仕方なく行くと、なんと会場で演説する者がおり、まず校長が菓子を振る舞ってくれることに感謝し、次に教員がいかによい食事をし、いかに快適に暮らし、給料もこんなに多いのだから、大いに良心を発揮して死に物狂いで仕事すべきだと述べた。そして校長がこれほど我々を思いやってくれるのは、まさに父母のようだと……。私は飛び上がりそうになったが、すでに別の教員が前に出てこの男を反駁しており、気まずい雰囲気のまま散会した。
さらに不思議なことがある。教員の中に、反駁した教員に対して不賛成の者がいたのだ。彼はこう言った。西洋では父子と友人にさほど違いはないから、誰と誰が父子のようだと言えば、誰と誰が友人のようだという意味にもなると。この人物は西洋留学帰りだが、西洋を見てきた結果がこの程度の大見識とは。
昨日の懇親会は三回目だが、私は初めて出席した。男女別室で、別席どころではなかった。
金銭の下に生きる人々がこういうものだと今さら知った。断固去ることに決めた。ただしこの一件を口実にはしたくないので、なお学期末まで一つの区切りをつけるつもりだ。どこに行くかは一時に決められないが、いずれにせよ年末の休暇中に必ず広州に一度行く。たとえ飯の食い場所がなくても、厦門には断じてもう住まない。さらに最近、教員であることに突然嫌気がさし、学生にも近づきたくなくなった。ここの学生に会う時、自分でも熱意がなく、誠実でないと感じる。
玉堂にはもう一度忠告するつもりだ。ここを離れて武昌か広州で仕事をするよう勧める。しかしおそらく大半は無駄だろう。ここは彼の故郷で、容易には決別しまい。一緒に来た陰険な連中が彼の目を覆い、大失敗に至るまでやめないだろう。私の計画も、同僚としての情誼を尽くすだけのことだ。
迅。十八日夜。
三十九
広平兄:
十九日に手紙を一通出した。今日、十三日、六日、七日の手紙を受け取った。一度に届いたのだ。広州には仕事があるようで、だから君はそんなに忙しいのだ。ここは死気沈々で改革もできず、学生もおとなしすぎる。数年前に一度騒動を起こしたが、激しい者はみな出て行き、上海に別に大夏大学を設立した。私は遅くとも本学期末(陽暦一月末)にはここを離れ、中山大学に行くと決めた。
中大の給料は二百八十元で、軍票を混ぜずに済むそうだ。朱騮先はさらに伏園に、兼務先を別に見つけて私の現在の収入と同額にできるとも言ったが、私はその点にはこだわらない。手取り百余元もあればおそらく足りる。ただ死にも生きにもつかぬ空気の中にさえいなければよいのだ。まだこのような空気の中で終わるほど落ちぶれてはいまい。中大に行けば、精力を空費せず、学校や社会にいくらか益のある仕事を選ぶのはさほど難しくないだろう。厦大に至っては、実は私を招く必要がなかったのだ。私は頽廃してはいるが、彼らは私よりさらにひどく頽廃しているのだから。
玉堂は今日辞職した。予算削減の件で。ただし国学院秘書のみを辞し、文科主任は辞していない。私は伏園を通じて意見を伝え、ここで腐る必要はないと勧めたが、返事はなかった。自分で直接もう一度言うつもりだ。しかし彼の辞職はおそらく受理されまい。
昨日から、私の心はまた非常に冷静になった。一つには広東行きを決めたから、もう一つには長虹たちに一撃を加えることを決めたからだ。君の言葉は大体正しい。しかし私が憤慨する理由は、彼らに失望させられたからではなく、彼がそれまで日々血を吸い、もう吸えないと分かると一棒で打ち殺し、肉を缶詰にして売って利を得ようとする、その悪辣さに気づいたからだ。今回、長虹は章士釗に対する私の失敗を笑ってこう書いた。「かくして紙で作った『思想界の権威者』の偽冠を戴き、心身ともに病む状態に陥ったのである」。しかし彼は八月に『新女性』に広告を出した時には「思想の先駆者魯迅と『莽原』を共同主宰」と書いていた。一方では自分で私に「偽冠」をかぶせて人を欺き、他方では他人がかぶせた「偽冠」のために私を罵る。実に軽薄卑劣で、人の形をなしていない。青年が私を攻撃したり嘲笑したりしても、私はもともと反撃しない。彼らはまだ脆弱で、むしろ私の方が比較的踏みつけに耐えられるからだ。しかし彼はどんどんつけあがり、罵りが止まない。まるで私が棺桶に逃げ込んでも、なお屍を戮さんとするかのようだ。だから昨日決めた。どんな青年であろうと、もう容赦しない。まず声明を一つ出し、彼が私の名前を利用しておきながら、他人が私の名前を使うと笑い罵るという所業を暴露する。彼の長ったらしい文章よりずっと辛辣なものにする。『語糸』『莽原』『新女性』『北新』の四誌に同時に掲載させる。もう彷徨しないと決めた。拳には拳で、刀には刀で応じる。だから心もすっきりした。
私はおそらく結局、小さな障害のために道を歩かなくなるということはあるまい。ただ神経が良くないので、つい激しい言葉が出るのだ。小さな障害に躓くようでは、厦門を離れるまでに至るまい。しかし私も平坦な道を歩きたいと切に思う。ただ今はまだできない。望まないのではなく、形勢が許さないのだ。君が厦門に来るのは、大いに不要だと思う。「民を労し財を傷つけ」、何の益にもならない。しかも私は「孤独」を感じてはいないし、何の「悲哀」もない。
学生に歓迎されているのだから自ら慰めるに足るだろうと君は言うが、私は彼らにあまり期待する気になれない。傑出した者はごく少ないか、あるいはまるでいないと感じる。しかし仕事はやはりやるつもりだ。希望はまだ会ったことのない人々にすべてかかっている。あるいは君が言うように「真剣になりすぎるな」ということか。実は私は決して怠けてはいない。一方で愚痴をこぼしながら、一方で『華蓋集続編』をまとめ、『旧事重提』を書き終え、『自由を求める波浪』(董秋芳訳の小説)を編み、『巻葹』に目を通し、みなそれぞれ送り出した。私と同じ道を行く者がいるなら、それは確かに自ら慰めるに足り、しかもそのおかげで自ら励ましもする。しかし時として、その人が私のために犠牲になるのではないかと懸念する。そして「一、二を推して無限に及ぼす」ことは、私にはできない。そんなに多くいるのか。そんなに多くは要らない。一人いれば十分だ。
『巻葹』のことに触れて、もう一つ思い出した。これは王品青が持ってきたもので、淦女史の作、全四篇、すべて『創造』に発表済みだ。今回『烏合叢書』に入れて出版したいと送ってきたのだが、私が見るところ、創造社が著者の同意なくこれらを小叢書にして自ら販売しているので、こちらでも出版して対抗しようということらしい。あちらで発表されていないものは一篇も含まれておらず、私が新作を何篇か追加するよう求めても、品青は承知しない。創造社は器量が狭く猜疑心が強いから、きっと私が彼らに対して妨害工作をしていると思い、結局は成仿吾が別の事にかこつけて一通り罵るだろう。しかし私は彼女のために編集し終えた。追加しないなら追加しないでよい。罵りたければ罵るがよい。
明日の日曜日が過ぎたら、また講義録の編纂に取りかからねばならない。残りの暇は遊ぶ。旧暦の年明けに空気が変わったら、また真面目に仕事をしよう。今日は来客が多すぎて手紙を書く暇がなかった。この二枚を書いただけで、もう夜の十二時半だ。
この手紙と一緒に雑誌を一束送るつもりだ。そのうちの『語糸』九七号と九八号は以前送ったことがあるが、あれは断裁済みだったので、今回は未裁断のものを二冊補送する。君はおそらくそんなことは気にしないだろうが、私の性分がそうなので、やはり送る。
迅。十一月二十日。
四十
広平兄:
二十一日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。十七日発のもう一通の短い手紙は、二十二日に届いた。小包はまだ届いていないが、小包や書籍の類は、通例普通の手紙より遅いものだ。明日には届くかもしれないし、あるいはまた手紙もあるだろう。待っている。上海からいくらかましい印肉を買い、厦門に来てから入手した本に押したいとも思っている。
最近、校長が国学院の予算を削減しようとしたため、玉堂はかなり憤慨し、主任を辞任しようとした。私はこの際ここを離れるよう勧めたところ、彼も大いにもっともだと思った。今日校長と話し合いの会を開き、私はすかさず強硬な抗議を行い、去就を賭けた。ところが校長はまさかの前言撤回で、他の者はもちろん大満足し、玉堂も態度を軟化させ、逆に私を引き留めにかかった。少なくとも一年は残ってほしい、年度途中では教員を招くのが難しいから云々と。また私の中大赴任の報道が地元紙にも掲載された。おそらく広州の新聞からの転載だろう。学生の中にも一年間教え終えてくれと勧める者がいる。こう見ると、年末にはおそらく去れまい。もっとも校長の予算維持の話も十中八九すぐにまた撤回されるだろうし、問題は山積している。
もちろんできるだけ早くここを離れるつもりだが、いつになるかは全く分からない。H.M.は私のことなど構わず、自分に合ったと思う場所に行った方がよいと思う。さもなくば、かなり無理をして、本意でない仕事をさせられ、今の仕事より退屈なことになるかもしれない。私はここでもう半年耐えることはできる。それ以後のことは、今からはまだ何とも言えない。
今日の地元紙の報道はとてもよい。泉州はすでに陥落、浙江の陳儀はまた独立し、商震は反旗を翻して張家口を攻撃、国民一軍は潼関に迫りつつある。地元の新聞はおそらく国民党寄りで、報道はいくらか宣伝を含んでいるかもしれないが、少なくとも泉州の陥落は確かだろう。本校の学生で国民党員は三十人ほどにすぎず、その中の少なからぬ数が新入党員だ。昨夜彼らが集会を開いたが、みな経験が浅く、深みがなく、学生会を掌握して自分たちの用に供するという方法さえ知らない。まったくどうしようもない。集会を一回開いて空騒ぎするだけで、かえって当局の注意を引き、その夜、反国民党の職員が扉の外で立ち聞きしていた。
二十五日の夜、大風の中。
一枚書いた後(この五文字を書いたところで客が来て、十二時まで居座った)、もう一枚社交の手紙を書き、まだ眠る気がしないので、もう少し書こう。伏園は来月確実に発つ。十二月十五日前後には必ず広州に着くだろう。上遂の件は今に至るまで音沙汰がなく、どういうわけか分からない。私は兼士と連名で手紙を書き、伏園にも直接頼み、さらに手紙も書いたが、いずれも返事がない。実は上遂の実務能力は私よりずっと上なのだが。
H.M.はまさに社会のために仕事をしようとしているところだから、私の愚痴のせいで不安になるのは実によくない。そう考えたら、突然静かになって、愚痴が出なくなった。実はここでの不便は、よくよく考えてみると、大半は言葉が通じないことに起因している。例えば一昨日、厨房がまた賄い飯をやめたのだが、私には厨房が自分でやめたくなったのか、それとも使用人と衝突して、私にやめさせろと言ったのか、尋ねることさえできなかった。やめるならやめるでもよい。そこで伏園と一緒に福州料理屋に行き、賄い飯を頼んだが、店には麺しかなく、ご飯はあるかと聞くと、ないと言う。がっかりして帰ってきた。今日福州出身の学生に頼んで聞いてもらったところ、ご飯がなかったのはたまたまその時なかっただけで、永久にないわけではないと分かった。思わず大笑いした。おそらく明日からこの福州料理屋で賄い飯を頼むことになるだろう。
やはり二十五日の夜、十二時半。
ただいま午前十一時、郵便取次所に行ってみたが、手紙はなかった。この手紙は出さなければならない。明日おそらく厦門から広東行きの船が出るからで、今日出さなければ来週水曜日の船まで待たねばならない。しかし出したとたん、明日手紙が届くような気がする。その時にまた書こう。
十日ほど前だったか、新聞に新寧号が上海から広東に向かう途中、汕頭で盗賊に襲われ放火されたとあった。私の手紙がその中で焼かれたかもしれない。私が十日以降に出したのは、十六日、十九日、二十一日の三通だ。
他に特に変わったことはない。次の機会にまた。
迅。十一月二十六日。
午後一時、郵便局の前を通りかかり、他の人の東莞からの手紙が来ているのを見たが、私にはなかった。それなら今日は手紙がないのだ。これを出す。
四十一
広平兄:
二十六日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。翌日すぐに二十三日の手紙を受け取り、小包の通知書も一緒に届いた。すぐに郵便取次所に行って受取書を入手した。土曜日の午後ではもう間に合わず、日曜は休業、来週月曜日(二十九日)に受け取れる。ここの郵便はこれほど手間がかかるのだ。土曜日のこの日、私は玉堂と一緒に集美学校に講演に行き、小型汽船で往復して丸一日費やした。夜は接客でまた多くの時間を取られ、客が帰ってさあ手紙を書こうとしたら、隣の講堂で漏電があり、校務員が騒ぎ、校警が笛を吹き、天地を揺るがすような騒ぎになった。結局は物理学の教授がさすがの腕前で、中に入ってメインブレーカーを切ったので、事なきを得た。木材を数本焦がしただけだ。私は隣接する建物の二階に住んでいるが、壁が石造りで延焼しないと分かっていたから、物を動かすこともせず、損害もなかった。ただ電灯がすべて消え、蝋燭の光が揺れて薄暗いので、手紙を書くこともできなくなった。
私の一生の失策は、これまで自分の生活設計というものをまるでしなかったことだ。すべて人任せにしていた。なぜなら当時は長くは生きられまいと予想していたからだ。ところがその予想は当たらず、なお生きていかねばならなくなり、弊害が百出して十分に退屈した。さらにその後考え方が変わったが、やはり多くの顧慮があった。その顧慮の大部分は当然生活のためだが、いくらかは地位のためでもある。いわゆる地位とは、私がこれまでやってきた小さな仕事のことを指し、私の行動の激変によってその力を失うのが怖いのだ。こうした前後の顧慮は、実はなかなか滑稽で、このまま行けばますます身動きが取れなくなる。第三の方法が最も直截で、注意さえすれば比較的安全でもあるから、一時的にまだ決心がつかないのだ。要するに、これまでの私のやり方はすでにまずかった。厦大では通用せず、もう取り繕うまいと決めた。第一歩として年末に必ずここを離れ、中大の教授職に就く。しかしH.M.も同じ場所にいてくれることを切に望む。少なくとも頻繁に話ができれば、私が人のためになる仕事をもう少し続ける励みになる。
昨日、玉堂に正式に本学期限りで去りたいと申し出、一緒に行くよう勧めた。私が去ることについてはいくらか交渉の言葉があったが、結局彼は反論できなくなった。彼自身については、おそらく去るまい。もう何本か釘を刺されれば、来年夏には離れるだろう。
ここでは大したことはできない。最近ある刊行物を組織したが、書き手はほんの数人にすぎない。あるいは創造社の影響を受けて頽廃に過ぎ、あるいは狂飆社のように大言壮語で中身がない。さらに日刊紙に文芸週刊を増設したが、おそらく大した成果は出まい。大学生はみなおとなしく、地元の人の文章は「之乎者也」が多い。彼らは一方で馬寅初に題字を頼み、他方で私に序文を書けと言う。まさに一視同仁、区別なしだ。何人かの学生は私と兼士がここにいるから来たのであり、我々が去れば、おそらく中大に転学するだろう。
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离开此地之后,我必须改变我的农奴生活;为社会方面,则我想除教书外,仍然继续作文艺运动,或其他更好的工作,俟那时再定。我觉得现在H.M.比我有决断得多,我自到此地以后,仿佛全感空虚,不再有什么意见,而且有时也有莫名其妙的悲哀,曾经作了一篇我的杂文集的跋,就写着那时的心情,十二月末的《语丝》上可以发表,一看就知道。自己也知道这是应该改变的,但现在无法,明年从新来过罢。
逄吉既知通信的地方,何以又须详询住址,举动颇为离奇,我想他是在研究H.M.是否真在广州办事,说说不定。因他们一群中流言甚多,或者会有H.M.亦在厦门之说也。
女师校长给三主任的信,我在报上早见过了,现在未知如何?无米之炊,是人力所做不到的。能别有较好之地,自以从速走开为宜。但在这个时候,不知道可有这样凑巧的处所?
迅。十一月廿八日十二时。
四十二
广平兄:
上月廿九日寄一信,想已收到了。廿七日发来的信,今天已到。同时伏园也得接陈惺农信,知道政府将移武昌,他和孟余都将出发,报也移去,改名《中央日报》。叫伏园直接往那边去,因为十二月下旬须出版,所以伏园大约不再赴广州。广州情状,恐怕比较地要不及先前热闹了。
至于我呢,仍然决计于本学期末离开这里而往广州中大,教半年书看看再说。一则换换空气,二则看看风景,三则……。教不下去时,明年夏天又走,如果住得便,多教几时也可以。不过“指导员”一节,无人先为打听了。
其实,你的事情,我想还是教几点钟书好。要豫备足,则钟点不宜多。办事与教书,在目下都是淘气之事,但我们舍此亦无可为。我觉得教书与办别事实在不能并行,即使没有风潮,也往往顾此失彼。不知你此后可有教书之处(国文之类),有则可以教几点钟,不必多,每日匀出三四点钟来看书,也算豫备,也算是自己的享乐,就好了;暂时也算是一种职业。你大约世故没有我这么深,思想虽较简单,却也较为明快,研究一种东西,不会困难的,不过那粗心要纠正。还有一种吃亏之处是不能看别国书,我想较为便利的是来学日本文,从明年起我当勒令学习,反抗就打
手心。
至于中央政府迁移而我到广州,于我倒并没有什么。我并不在追踪政府,许多人和政府一同移去,我或者反而可以闲暇些,不至于又大欠文章债,所以无论如何,我还是到中大去的。
包裹已经取来了,背心已穿在小衫外,很暖,我看这样就可以过冬,无需棉袍了。印章很好,其实这大概就是称为“金星石”的,并不是玻璃。我已经写信到上海去买印泥,因为旧有的一盒油太多,印在书上是不合适的。
计算起来,我在此至多也只有两个月了,其间编编讲义,烧烧开水,也容易混过去。厨子的菜又变为不能吃了,现在是单买饭,伏园自己做一点汤,且吃罐头。他十五左右当去,我是什么菜也不会做的,那时只好仍包菜,但好在其时离放学已只四十多天了。
阅报,知北京女师大失火,焚烧不多,原因是学生自己做菜,烧伤了两个人:杨立侃,廖敏。姓名很生,大约是新生,你知道么?她们后来都死了。
以上是午后四点钟写的,因琐事放下,接着是吃饭,陪客,现在已是夜九点钟了。在金钱下呼吸,实在太苦,苦还罢了,受气却难耐。大约中国在最近几十年内,怕未必能够做若干事,即得若干相当的报酬,干干净净。(写到这里,又放下了,因为有客来,我这里是毫无躲避处,有人要进来就直冲进来的,你看如此住处,岂能用功。)往往须费额外的力,受无谓的气,无论做什么事,都是如此。我想此后只要能以工作赚得生活费,不受意外的气,又有一点自己玩玩的余暇,就可以算是万分幸福了。
我现在对于做文章的青年,实在有些失望,我看有希望的青年恐怕大抵打仗去了,至于弄弄笔墨的,却还未遇着真有几分为社会的,他们多是挂新招牌的利己主义者;而他们竟自以为比我新一二十年,我真觉得他们无自知之明,这也就是他们之所以“小”的地方。
上午寄出一束刊物,是《语丝》《北新》各两本,《莽原》一本。《语丝》上有我的一篇文章,不是我前信所说发牢骚的那一篇;那一篇还未登出,大概当在一○八期。
迅。十二月二日之夜半。
四十三
广平兄:
今天刚发一信,也许这信要一同寄到罢。你初看或者会以为又有甚么要事了,其实并不,不过是闲谈。前回的信,我半夜投在邮筒中;这里邮筒中;这里邮筒有两个,一在所内,五点后就进不去了,夜间便只能投入所外的一个。而近日邮政代办所里的伙计是新换的,满脸呆气,我觉得他连所外的一个邮筒也未必记得开,我的信不知送往总局否,所以再写几句,俟明天上午投到所内的一个邮筒里去。
我昨夜的信里是说:伏园也得惺农信,说国民政府要搬了,叫他直接上武昌去,所以他不再往广州。至于我,则无论如何,仍于学期之末离开厦门而往中大,因为我倒并不一定要跟随政府,熟人较少,或者反而可以清闲些。但你如离开师范,不知在本地可有做事之处,我想还不如教一点国文,钟点以少为妙,可以多豫备。大略不过如此。
政府一搬,广东的“外江佬”要减少了,广东被“外江佬”刮了许多天,此后也许要向“遗佬”报仇,连累我未曾搜刮的外江佬吃苦,但有害马保镳,所以不妨胆大。《幻洲》上有一篇文章,很称赞广东人,使我更愿意去看看,至少也住到夏季。大约说话是一点不懂,和在此盖相同,但总不至于连买饭的处所也没有。我还想吃一回蛇,尝一点龙虱。
到我这里来空谈的人太多,即此一端也就不宜久居于此。我到中大后,拟静一静,暂时少与别人往来,或用点功,或玩玩。我现在身体是好的,能吃能睡,但今天我发见我的手指有点抖,这是吸烟太多了之故,近来我吸到每天三十支了,从此必须减少。我回忆在北京的时候,曾因节制吸烟而给人大碰钉子,想起来心里很不安,自觉脾气实在坏得可以。但不知怎的,我于这一事自制力会如此薄弱,总是戒不掉。但愿明年能够渐渐矫正,并且不至于再闹脾气的了。
我明年的事,自然是教一点书;但我觉得教书和创作,是不能并立的,近来郭沫若郁达夫之不大有文章发表,其故盖亦由于此。所以我此后的路还当选择,研究而教书呢,还是仍作游民而创作?倘须兼顾,即两皆没有好成绩。或者研究一两年,将文学史编好,此后教书无须豫备,则有余暇,再从事于创作之类也可以。但这也并非紧要问题. 不过随便说说。
《阿Q正传》的英译本已经出版了,译得似乎并不坏,但也有几个小错处,你要否?如要,当寄上,因为商务印书馆有送给我的。
写到这里还不到五点钟,也没有什么别的事了,就此封入信封,赶今天寄出罢。
迅。十二月三日下午。
四十四
广平兄:
三日寄出一信,并刊物一束,系《语丝》等五本,想已到。今天得二日来信,可谓快矣。对于廿六日函中的一段话,我于廿九日即发一函,想当我接到此信时,那边必亦已到,现在我也无须再说了。其实我这半年来并不发生什么“奇异感想”,不过“我不太将人当作牺牲么”这一种思想——这是我向来常常想到的思想——却还有时起来,一起来,便沉闷下去,就是所谓“静下去”,而间或形于词色。但也就悟出并不尽然,故往往立即恢复,二日得中央政府迁移消息后,便连夜发一信(次日又发一信),说明我的意思与廿九日信中所说并无变更,实未有愿你“终生颠倒于其中而不自拔”之意,当初仅以为在社会上阅历几时,可以得较多之经验而已,并非我将永远静着,以至于冷眼旁观,将H.M.卖掉,而自以为在孤岛中度寂寞生活,咀嚼着寂寞,即足以自慰自赎也。
但廿六日信中的事,已成往事,也不必多说了。广大的钟点虽然较多,但我想总可以设法教一点担子较轻的功课,以求有休息的余暇。况且抄录材料等等,又可有帮我的人,所以钟点倒不成问题,每周二十时左右者,大抵是纸面文章,也未必实做的。
你们的学校,真是好象“湿手捏了干面粉”,粘缠极了。虽说“天下兴亡,匹夫有责”,但在位者不讲信用,专责“匹夫”,使几个人挑着重担,未免太任意将人来做无谓的牺牲。我想事到如此,该以自己为主了,觉得耐不住,便即离开;倘因生计或别的关系,非暂时敷衍不可,便在敷衍它几日,“以德感”“以情系”这些老话,只好置之度外,只有几个人是做不好的。还傻什么泥?“匹夫匹妇之为谅也,自经于沟渎而莫之知也!”
伏园须直往武昌去了,不再转广州,前信似已说过。昨有人来(据云系民党)从汕头来,说陈启修因为泄漏机密,已被党部捕治了。我和伏园正惊疑,拟电询,今日得你信,知二日曾经看见他,以日期算来,则此人是造谣言的,但何以要造如此谣言,殊不可解。
前一束刊物不知到否?记得先前也有一次,久不到,而终在学校的邮件中寻来。三日又寄一束,到否也是问题。此后寄书,殆非挂号不可。《桃色之云》再版已出了,拟寄上一册,但想写上几个字,并用新印,而印泥才向上海去带,大约须十日后才来,那时再寄罢。
迅。十二月六日之夜。
四十五
广平兄:
本月六日接到三日来信后,次日(七日)即发一信,想已到。我猜想昨今两日当有信来,但没有;明天是星期,没有信件到校的了。我想或者是你校事太忙没有发,或者是轮船误了期。
计算从今天到一月底,只有了五十天,我到这里已经三个月又一星期了。现在倒没有什么事。我每天能睡八九小时,然而仍然懒;有人说我胖了一点了,也不知确否?恐怕也未必。对于学生,我已经说明了学期末要离开。有几个因我在此而来的,大约也要走。至于有一部分,那简直无药可医,他们整天的读《古文观止》。
伏园就要动身,仍然十五左右;但也许仍从广州,取陆路往武昌去。
我想一两日内,当有信来,我的廿九日信的回信也应该就到了。那时再写罢。
迅。十二月十一日之夜。
四十六
广平兄:
今天早上寄了一封信。现在是虽在星期日,邮政代办所也开半天了。我今天也起得早,因为平民学校的成立大会要我演说,我去说了五分钟,又恭听校长辈之胡说至十一时。有一曾经留学西洋之教授曰:这学校之有益于平民也,例如底下人认识了字,送信不再会送错,主人就喜欢他,要用他,有饭吃……。我感佩之极,溜出会场,再到代办所去一看,果然已有三封信在:两封是七日发的,一封是八日发的。
金星石虽然中国也有,但看印匣的样子,还是日本做的,不过这也没有什么关系。“随便叫它曰玻璃”,则可谓胡涂,玻璃何至于这样脆?又岂可“随便”到这样?若夫“落地必碎”,则一切印石,大抵如斯,岂独玻璃为然。特买印泥,亦非多事,因为不如此,则不舒服也。
近来对于厦大一切,什么都不过问了,但他们还常要来找我演说,一演说,则与当局者的意见,一定相反,真是无聊。玉堂现在亦深知其不可为,有相当机会,什九是可以走的。我手已不抖,前信竟未说明。至于寄给《语丝》的那篇文章,因由未名社转寄,被社中截留了,登在《莽原》第廿三期上。其中倒没有什么未尽之处。当时动笔的原因,一是恨自己为生活起见,不能不暂戴假面;二是感到了有什么青年之于我,见可利用则尽情利用,倘觉不能利用则了便想一棒打杀,所以很有些悲愤之言。不过这种心情,现在早已过去了。我时时觉得自己很渺小;但看他们的著作,竟没有一个如我,敢自说是戴着假面和承认“党同伐异”的,他们说到底总必以“公平”或“中立”自居。因此,我又觉得我或者并不渺小;现在拚命要蔑视我和骂倒我的人们的眼前,终于黑的恶鬼似的站着“鲁迅”这两个字,恐怕就为此。
我离厦门后,有几个学生要随我转学,还有一个助教也想同我走,他说我对于金石的知识于他有帮助。我在这里常有客来谈空天,弄得自己的事无暇做;这样下去,是不行的。我将来拟在校中取得一间屋,算是住室,作为豫备功课及会客之用,另在外面觅一相当的地方,作为创作及休息之用,庶几不至于起居无节,饮食不时,再蹈在北京时之覆辙。但这可俟到粤后再说,无须“未雨绸缪”。总之:我的主意,是在想少陪无聊之客而已。倘在学校,谁都可以直冲而入,并无可谈,而东拉西扯,坐着不走,殊讨厌也。
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ここを離れた後、私は自分の農奴のような生活を変えなければならない。社会的な面では、教壇に立つ以外に、引き続き文芸運動か、あるいは他のよりよい仕事を続けたいと思う。それはその時になって決めよう。今、H.M.の方が私よりずっと決断力があると感じる。私はこの地に来て以来、すべてが空虚に感じられ、もう何の意見も持てなくなった。しかも時に理由の分からぬ悲哀を覚えることもある。以前、雑文集の跋を書いた時、そのときの心境を記したが、十二月末の『語糸』に掲載されるだろう。読めば分かる。こんな状態は変えるべきだと自分でも分かっているが、今はどうにもならない。来年また出直そう。
逄吉は通信先を知っているのに、なぜまた詳しい住所を聞くのか。行動がかなり奇妙だ。思うに、彼はH.M.が本当に広州で仕事をしているかどうか調べているのだろう。彼らの仲間では流言が非常に多く、あるいはH.M.もまた厦門にいるという噂があるのかもしれない。
女子師範学校の校長が三人の主任に送った手紙は、新聞で早くに見た。今どうなっているのだろう。米のない炊事は人力の及ぶところではない。もし別によりよい場所があるなら、早く移った方がよい。しかしこの時期に、そう都合よく見つかるだろうか。
迅。十一月二十八日十二時。
四十二
広平兄:
先月二十九日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。二十七日発の手紙は今日届いた。同時に伏園も陳惺農の手紙を受け取り、政府が武昌に移ること、彼と孟余もともに出発すること、新聞も移転して『中央日報』と改名することが分かった。伏園には直接武昌に来いとのことで、だから伏園はもう広州には行かないだろう。広州の状況は、おそらく以前ほどの活気はなくなるだろう。
私はといえば、やはり本学期末にここを離れて広州の中大に行くと決めている。半年教えてみてからまた考える。一つには空気を変え、二つには風景を見、三つには……。教え続けられなければ、来年夏にまた移ればよい。居心地がよければ、もう少し長く教えてもよい。ただし「指導員」の件は、先に調べてくれる人がいなくなった。
実は、君の仕事としては、やはり数時間教壇に立つのがよいと思う。十分に準備するには、時間数は多くない方がよい。仕事をすることも教えることも、今の時勢ではどちらも面倒なことだが、これ以外に我々にできることはない。教えることと他の仕事を同時にこなすのは本当に無理だと感じる。風波がなくても、あちらを立てればこちらが立たない。今後君に教壇に立てる場所(国語の類)があるかどうか分からないが、あれば数時間教え、多くする必要はない。毎日三、四時間を読書に充てれば、準備にもなるし、自分の楽しみにもなる。それでよい。当面の一つの職業にもなる。君は私ほど世慣れしていないだろうが、考え方は比較的単純ながらも明快で、何か一つのことを研究するのにさほど困難は感じないだろう。ただしあの粗忽さは直さねばならない。もう一つの不利な点は外国語の本が読めないことだ。比較的便利なのは日本語を学ぶことだと思う。来年から私が厳しく学ばせる。反抗したら手の平を打つ。
中央政府が移転するのに私が広州に行くことについては、私には何の差し障りもない。私は政府の後を追っているのではない。多くの人が政府と一緒に移って行けば、私はかえって暇ができるかもしれず、また大量の原稿の借りを作らずに済むだろう。だからいずれにせよ、中大には行く。
小包はすでに受け取った。チョッキはもう肌着の上に着ている。暖かい。これで冬を越せると思う。綿入れの長袍は要るまい。印章はとても良い。実はこれはおそらく「金星石」と呼ばれるもので、ガラスではない。上海に手紙を出して印肉を買い求めている。手持ちの古いのは油が多すぎて、本に押すには不向きだからだ。
計算すると、私がここにいられるのはせいぜいあと二月だ。その間、講義録を編み、お湯を沸かしていれば、やり過ごすのは容易だ。料理人の菜もまた食べられなくなった。今はご飯だけを買い、伏園が自分でスープを少し作り、あとは缶詰を食べている。彼は十五日頃に発つだろうが、私は何一つ料理ができないから、その時はまた賄いを頼むしかない。幸いその頃には学期末まであと四十数日しかない。
新聞を読むと、北京の女子師範大学で火事があったが、被害は大きくなかったという。原因は学生が自炊していたことで、二人が火傷をした。楊立侃と廖敏。名前に覚えがないから、おそらく新入生だろう。知っているか。彼女たちはその後亡くなった。
以上は午後四時に書いた。些事のために中断し、続いて夕食、接客、今はもう夜九時だ。金銭の下で呼吸するのは、実に苦しい。苦しいだけならまだしも、嫌な目に遭わされるのは耐えがたい。おそらく中国はこの先数十年のうちに、何かの仕事をしてそれ相応の報酬をきれいに得る、ということはなかなかできまいと思う。(ここまで書いたところで、また中断した。客が来たのだ。私のところには隠れる場所など一切なく、入りたい者はずかずか入ってくる。こんな住まいで、どうして勉強できよう。)往々にして余分の力を費やし、無意味な屈辱を受ける。何をするにもそうだ。今後は仕事で生活費を稼ぎ、理不尽な目に遭わず、少し自分で遊ぶ余暇があれば、それだけでこの上ない幸福と言えると思う。
私は今、文章を書く青年たちにいくらか失望している。有望な青年はおそらく大半が戦場に行ってしまい、筆を弄ぶ者となると、まだ社会のために本気でやろうとする者に出会っていない。彼らの多くは新しい看板を掲げた利己主義者だ。しかも彼ら自身は私より一、二十年新しいと自負しているが、私は本当に彼らに自覚がないと感じる。これもまた彼らの「小さい」ゆえんだ。
午前中に刊行物を一束送った。『語糸』と『北新』が各二冊、『莽原』が一冊だ。『語糸』に私の文章が一篇載っているが、前の手紙で言った愚痴をこぼした文ではない。あれはまだ掲載されておらず、おそらく百八号になるだろう。
迅。十二月二日の深夜。
四十三
広平兄:
今日ちょうど手紙を出したばかりなので、この手紙も一緒に届くかもしれない。初めは何か大事でもあったかと思うかもしれないが、実は何もない。ただの雑談だ。前回の手紙は真夜中にポストに投函した。ここにはポストが二つあり、一つは局内にあるが五時以降は入れなくなり、夜は局外のものに入れるしかない。しかし最近郵便取次所の係員が新しく替わり、満面のぼんやり顔で、局外のポストさえ開けるのを忘れるのではないかと疑わしい。私の手紙が本局に届けられるか分からないので、もう数行書いて、明日午前に局内のポストに投函しよう。
昨夜の手紙で言ったのは、伏園も惺農の手紙を受け取り、国民政府が移転するので直接武昌に来いとのことで、だから彼はもう広州には行かないということだ。私はいずれにせよ学期末に厦門を離れて中大に行く。政府の後を追う必要はないし、知人が少なければかえって閑になれるかもしれない。しかし君が師範学校を離れるなら、地元で仕事が見つかるかどうか。やはり少し国語を教える方がよいと思う。時間数は少ないに越したことはない。十分に準備ができるから。大略こんなところだ。
政府が移れば、広東の「外省人」は減るだろう。広東は「外省人」に随分と搾り取られてきたから、今後はおそらく「残留者」に仕返しするかもしれず、搾取していない外省人まで巻き添えを食うかもしれない。しかし護衛の士がいるから、大胆でいてよい。『幻洲』に一篇の文章があり、広東人をとても褒めている。ますます行ってみたくなった。少なくとも夏までは住もう。おそらく言葉は一言も分からず、ここと大差ないだろうが、ご飯を買う場所さえないということはあるまい。蛇を一度食べてみたいし、ゲンゴロウも少し味わいたい。
空談をしに来る人が多すぎる。この一点だけでもここに長くいるべきではない。中大に着いたら、静かにして、しばらくは人との付き合いを減らし、少し勉強するか、遊ぶかしようと思う。今、体は元気で、よく食べよく眠れる。しかし今日、手の指が少し震えているのに気づいた。煙草の吸いすぎだ。最近は一日三十本にもなっている。これからは減らさなければならない。北京にいた頃、禁煙しようとして人にひどく叱られたことを思い出すと、心が落ち着かない。自分でも気性が実にひどいと自覚している。しかしなぜか、この一事に関して自制力がこれほど弱く、どうしてもやめられない。来年は次第に矯正でき、もう癇癪を起こさなくなることを願うばかりだ。
来年の仕事は、当然少し教壇に立つことだ。しかし教えることと創作は両立しないと感じる。最近郭沫若や郁達夫があまり文章を発表しないのも、おそらくこのためだろう。だから今後の道はまだ選ばねばならない。研究しながら教えるのか、それとも依然として浮浪者として創作するのか。兼ねようとすれば、どちらもよい成果を出せない。あるいは一、二年研究して文学史を書き上げれば、その後は教える際に準備が要らなくなり、余暇ができて、それから創作等に取りかかることもできるだろう。しかしこれも緊急の問題ではない。ただの雑談だ。
『阿Q正伝』の英訳本がすでに出版された。訳は悪くないようだが、小さな誤りもいくつかある。欲しいか。欲しければ送る。商務印書館が私に贈ってくれたものだから。
ここまで書いてまだ五時にもなっていない。他に特に用事もない。封筒に入れて、今日中に出そう。
迅。十二月三日午後。
四十四
広平兄:
三日に手紙一通と刊行物一束(『語糸』等五冊)を出したが、もう届いただろう。今日二日の手紙を受け取った。早いものだ。二十六日の手紙の中のある一節について、私は二十九日にすぐ返信を出した。この手紙が届く頃には、あちらにもすでに届いているはずだから、今さら繰り返す必要はない。実はこの半年、私に何か「奇異な感想」が生じたわけではない。ただ「私は人を犠牲にしすぎていないだろうか」という思い――これは私がいつも考えてきた思いだ――がやはり時折湧いてくる。湧いてくると沈鬱になり、いわゆる「静かになる」ということで、時に言葉や表情に表れる。しかしまた必ずしもそうとは限らないと悟り、すぐに回復することが多い。二日に中央政府移転の報を受けた後、直ちにその夜一通(翌日さらに一通)出し、私の意思は二十九日の手紙に述べた通り変わりがないこと、君に「一生その中で転倒して自ら抜け出せずにいる」ことを望んだのでは決してないことを説明した。そもそもの考えは、社会の中でしばらく経験を積めば、より多くの経験が得られるだろうということにすぎず、私が永遠に静まり返り、冷ややかに傍観して、H.M.を売り渡し、自分は孤島で寂寞の生活を送り、寂寞を咀嚼するだけで自慰自贖に足りるなどと思っているのではない。
しかし二十六日の手紙の件は、もう過ぎたことだ。多く言う必要もない。広州の時間数は確かに多いが、比較的負担の軽い科目を教える工夫は何とかなるだろうし、休息の余暇も確保できよう。しかも資料の書き写し等は手伝ってくれる人もいるから、時間数は問題にならない。週二十時間前後というのは、大抵紙の上の話で、実際にはそこまでやるわけでもあるまい。
君たちの学校は、まるで「濡れた手で乾いた小麦粉を掴む」ようで、べったりと纏わりついてくる。「天下の興亡、匹夫に責あり」と言うが、為政者が信義を守らず、ただ「匹夫」に責任を押し付け、数人に重荷を担がせるのは、あまりにも勝手に人を無意味な犠牲にしすぎる。ここまで来たら、自分を主にすべきだ。耐えられないと思えば即座に離れる。もし生計その他の関係で一時取り繕わねばならないなら、数日取り繕えばよい。「徳をもって感化する」「情をもって繋ぐ」といった古い言い回しは度外に置くしかない。ほんの数人では何もうまくいかない。何を馬鹿なことを。「匹夫匹婦の諒為すは、自ら溝渎に縊りて知る者莫し」だ。
伏園は直接武昌に行かねばならなくなり、広州には回らない。前の手紙でも言ったようだ。昨日ある人が来た(民党員だという)。汕頭からで、陳啓修が機密を漏洩したため党部に逮捕されたと言う。私と伏園は驚き怪しみ、電報で問い合わせようとしたが、今日君の手紙を受け取り、二日に彼に会ったと分かった。日付から計算すると、この人物は嘘をついていたことになる。しかしなぜこのような嘘をつくのか、全く理解できない。
前に送った刊行物の束は届いただろうか。以前にも一度、長く届かず、結局学校の郵便物の中から見つけ出したことがあった。三日にまた一束送ったが、届くかどうかも問題だ。今後本を送る時は書留にしなければなるまい。『桃色の雲』の再版が出たので一冊送るつもりだが、数行書き入れて新しい印を押したい。印肉は上海に取り寄せを頼んだところで、届くのはおそらく十日後だ。届いたら送ろう。
迅。十二月六日の夜。
四十五
広平兄:
本月六日に三日の手紙を受け取った後、翌日(七日)にすぐ返信を出したが、もう届いただろう。昨日今日あたり手紙が来るだろうと予想していたが、来なかった。明日は日曜日で、学校には郵便物が届かない。おそらく君が学校の仕事で忙しくて出せなかったか、船が遅れたのだろう。
今日から一月末まで計算すると、あと五十日しかない。ここに来てもう三月と一週間だ。今は特にやることもない。毎日八、九時間眠れるが、それでもなお怠い。誰かが少し太ったと言ったが、確かかどうか分からない。おそらくそうでもあるまい。学生には学期末で去ることをすでに伝えた。私がいるから来た何人かは、おそらく同じく去るだろう。一部の者に至っては全く救いようがなく、毎日『古文観止』を読み耽っている。
伏園はまもなく出発する。やはり十五日前後だ。ただしあるいはまだ広州を経由し、陸路で武昌に向かうかもしれない。
一、二日中に手紙が来るだろうし、私の二十九日の手紙への返事もそろそろ届くはずだ。その時にまた書こう。
迅。十二月十一日の夜。
四十六
広平兄:
今朝手紙を一通出した。日曜日だが郵便取次所は半日営業するようになった。今日は早起きした。平民学校の設立記念式で演説を頼まれたからだ。五分間話し、それから校長らの空論を十一時まで恭しく拝聴した。西洋留学帰りのある教授はこう言った。この学校が平民のためになるのは、例えば使用人が字を覚えれば手紙の配達を間違えなくなり、主人が喜んで雇い続け、飯が食えるようになる……と。私は深く感服し、会場をこっそり抜け出して、もう一度取次所に行ってみると、果たして三通の手紙があった。二通は七日発、一通は八日発だ。
金星石は中国にもあるが、印匣の作りからすると、やはり日本製だろう。もっともそんなことはどうでもよい。「適当にガラスと呼ぶ」とはいくらぼんやりしている。ガラスがこれほど脆いものか。そもそも「適当に」もほどがある。「落とせば必ず割れる」というなら、どんな印石でも大抵はそうで、何もガラスに限ったことではない。わざわざ印肉を買うのも余計な事ではない。そうしなければ気が済まないのだから。
最近は厦大の一切に対して何も口出ししなくなったが、彼らは相変わらず演説をさせに来る。演説すれば当局の意見と必ず食い違うのだから、実に退屈なことだ。玉堂も今やここではどうにもならぬと痛感しており、適当な機会があれば、十中八九去るだろう。手の震えはもう止まったが、前の手紙で言い忘れた。『語糸』に寄せたあの文章は、未名社経由で転送したところ、社の方で差し止めて『莽原』第二十三号に載せた。中身に言い残したことは特にない。筆を執った動機は、一つには生活のためにやむなく仮面を被っている自分への憎しみ、もう一つには、利用できる間は存分に利用し、利用できないと分かれば一棒で打ち殺そうとするある種の青年の存在を痛感したことで、だからかなり悲憤の言葉がある。しかしそういう心境はもうとっくに過ぎ去った。私は常に自分をとるに足りない存在だと感じている。しかし彼らの著作を見ると、私のように仮面を被っていることや「党同伐異」を敢えて自ら認める者は一人もいない。彼らは結局どこまで行っても「公平」だの「中立」だのと自称するのだ。そう思うと、私はあるいはそれほどとるに足りなくはないのかもしれない。今必死になって私を蔑み罵倒しようとしている人々の目の前に、結局黒い悪鬼のように「魯迅」の二文字が立ちはだかっているのは、おそらくこのためだろう。
厦門を離れた後、何人かの学生が私について転学したいと言っている。助教の一人も一緒に行きたいと言い、私の金石の知識が彼の役に立つからだそうだ。ここでは始終空談の客が来て、自分の仕事をする暇がない。このまま続けるわけにはいかない。将来は校内に一部屋を得て居室とし、授業の準備や接客に使い、校外に別に適当な場所を見つけて、創作と休息に充てるつもりだ。そうすれば起居に節がなく飲食に時なしという、北京時代の轍を踏まずに済むだろう。しかしこれは広州に着いてから考えればよく、「未だ雨ならざるに綢繆す」の必要はない。要するに、私の主意は、つまらない客の相手をする時間を減らしたいだけだ。学校にいれば誰でもずかずか入ってきて、別に話すこともないのに東から西へと話題を引っ張り、座ったまま帰ろうとしない。実にうっとうしい。
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现在我们的饭是可笑极了,外面仍无好的包饭处,所以还是从本校厨房买饭,每人每月三元半,伏园做菜,辅以罐头。而厨房屡次宣言:不买菜,他要连饭也不卖了。那么,我们为买饭计,必须月出十元,一并买他毫不能吃之菜。现在还敷衍着,伏园走后,我想索性一并买菜,以省麻烦,好在日子也已经有限了。工人则欠我二十元,其中二元,是他兄弟急病时借去的,我以为他穷,说这二元不要他还了,算是欠我十八元;他即于次日又借去二元,仍凑足二十元之数。厦门之于“外江佬”,好象也颇要愚弄似的。
以中国人一般的脾气而论,失败之后的著作,是没有人看的,他们见可役使则尽量地役使,可笑骂则尽量地笑骂,虽一向怎样常常往来,也即刻翻脸不识,看和我往来最久的少爷们的举动,便可推知。只要作品好,大概十年或数十年后,就又有人看了,不过这只是书坊老板得益,至于作者,则也许早被逼死,不再有什么相干。遇到这样的时候,为省事计,则改业也行,走外国也行;为赌气计,则无所不为也行,倒行逆施也行;但我还没有细想过,因为这还不是急切的问题,此刻不过发发空议论。
“能食能睡”,是的确的,现在还如此,每天可睡至八九小时,然而人还是懒,这大约是气候之故。我想厦门的气候,水土,似乎于居民都不宜,我所见的本地人,胖子很少,十之九都黄瘦,女性也很少有丰满活泼的,加以街道污秽,空地上就都是坟,所以人寿保险的价格,居厦门者比别处贵。我想国学院倒大可以缓办,不如作卫生运动,一面将水,土壤,都分析分析,讲一个改善之方。
此刻已经夜一时了,本来还可以投到所外的箱子里去,但既有命令,就待至明晨罢,真是可惧,“我着实为难”。
迅。十二月十二日。
四十七
广平兄:
昨(十三日)寄一信,今天则寄出期刊一束,怕失少,所以挂号,非因特别宝贵也。束中有《新女性》一本,大作在内又《语丝》两期,即登着我之发牢骚文,盖先为未名社截留,到底又被小峰夺过去了,所以仍在《语丝》上。
慨自寄了二十三日之信,几乎大不得了,伟大之钉子,迎面碰来,幸而上帝保佑,早有廿九日之信发出,声明前此一函,实属大逆不道,应即取消,于是始蒙褒为“傻子”,赐以“命令”,作善者降之百祥,幸何如之。现在对于校事,以悉不问,专编讲义,作一结束;授课只余五星期,此后便是考试了。但离校恐当在二月初,因为一月份薪水,是要等着拿
走的。
中大又有信来,催我速去,且云教员薪水,当设法增加。但我还是只能于二月初出发。至于伏园,却在二十左右要走了,大约先至粤,再从陆路入武汉。今晚语堂饯行,亦颇有活动之意,而其太太则不大谓然,以为带着两个孩子,常常搬家,如何是好。其实站在她的地位上来观察,的确也困苦的,旅行式的家庭,教管理家政的女性如何措手。然而语堂殊激昂,后事如何,只得“且听下回分解”了。
狂飙中人,一面骂我,一面又要用我了。培良要我在厦门或广州寻地方,尚钺要将小说编入《乌合丛书》去。并谓前系误骂,后当停止,附寄未发表的骂我之文稿,请看毕烧掉云。我想,我先前的种种不客气,大抵施之于同年辈或地位相同者,对于青年则必退让,或默然甘受损失。不料他们竟以为可欺,或纠缠,或奴役,或责骂,或诬蔑,得步进步闹个不完。我常叹中国无“好事之徒”,所以什么也没有人管,现在看来,做好事之徒实在也不大容易,我略管闲事,便弄得这么麻烦。现在是方针要改变了,地方也不寻,丛书也不编。文稿也不看,也不烧,回信也不写关门大吉,自己看书,吸烟,睡觉。
《妇女之友》第五期上,有沄沁给你的一封公开信,见了没有?内中也没有什么,不过是对于女师大再被毁坏的牢骚。我看《世界日报》,似乎程干云仍在校;罗静轩却只得滚出了,报上有一封她的公开信,说卖文也可以过活。我想:怕很难罢。
今天白天有雾,器具都有点潮湿;蚊子很多,过于夏天,真是奇怪。叮得可以,要躲进帐子里去了。下次再写。
十四日灯下。
天气今天仍热,但大风,蚊子忽而很少了,不知道是怎么一回事。于是编了一篇讲义。印泥已从上海寄来,此刻就在《桃色的云》上写了几个字,将那“玻璃”印和印泥都第一次用在这上面;豫备等《莽原》第二十三期到来时,一同寄出。因为天气热,印泥软,所以印得不大好,但那也不要紧。必须如此办理,才觉舒服,虽被斥为“多事”,亦不再辩,横竖受攻击惯了的,听点申斥又算得什么。
本校并无新事发生。惟山根先生仍是日日夜夜布置安插私人;白果从北京到了,一个太太,四个小孩,两个用人,四十件行李,大有“山河永固”之意。不知怎地我忽而记起了“燕巢危幕”的故事,看到这一大堆人物,不禁为之凄然。
十五夜。
十二日的来信,今天(十六)就到了,也算快的。我想广州厦门间的邮信船大约每周有二次,假如星期二五开的罢,那么,星期一四发的信便快,三六发的就慢了,但我终于研究不出那船期是星期几。
贵校的情形,实在不大高妙,也如别处的学校一样,恐怕不过是不死不活,不上不下。一沾手,一定为难。倘使直截痛快,或改革,或被攻倒,爽快,或苦痛,那倒好了,然而大抵不如此。就是办也办不好,放也放不下,不爽快,也并不大苦痛,只是终日浑身不舒服,那种感觉,我们那里有一句俗语,叫作“穿‘湿布衫’”,就是恰如将没有晒干的小衫,穿在身体上。我所经过的事,几乎无不如此,近来的作文印书,即是其一。我想接手之后,随俗敷衍,你一定不能;改革呢,能办到固然好,即使自己因此失败也不妨,但看你来信所说,是恐怕没有改革之望的。那就最好是不接手,倘难却,则仿“前校长”的方法:躲起来。待有结束后再出来另觅事情做。
政治经济,我晓得你是没有研究的,幸而只有三星期。我也有这类苦恼,常不免被逼去做“非所长”“非所好”的事。然而往往只得做,如在戏台下一般,被挤在中间,退不开去了,不但于己有损,事情也做不好;而别人见推辞,却以为谦虚或偷懒,仍然坚执要你去做。这样地玩“杂耍”一两年,就只剩下些油滑学问,失了专长,而也逐渐被社会所弃,变了“药渣”了,虽然也曾煎熬了请人喝过汁。一变药渣,便什么人都来践踏,连先前喝过汁的人也来践踏;不但践踏,还要冷笑。
牺牲论究竟是谁的“不通”而该打手心,还是一个疑问。人们有自志取舍,和牛羊不同,仆虽不敏,是知道的。然而这“自志”又岂出于本来,还不是很受一时代的学说和别人的言动的影响的么?那么,那学说的是否真实,那人的是否确当,就是一个问题。我先前何尝不出于自愿,在生活的路上,将血一滴一滴地滴过去,以饲别人,虽自觉渐渐瘦弱,也以为快活。而现在呢,人们笑我瘦弱了。连饮过我的血的人,也来嘲笑我的瘦弱了,我听得甚至有人说:“他一世过着这样无聊的生活,本早可以死了的,但还要活着,可见他没出息。”于是也乘我困苦的时候,竭力给我一下闷棍,然而,这是他们在替社会除去无用的废物呵!这实在使我愤怒,怨恨了,有时简直想报复。我并没有略存求得称誉,报答之心,不过以为喝过血的人们,看见没有血喝了就该走散,不要记着我是血的债主,临走时还要打杀我,并且为消灭债券计,放火烧掉我的一间可怜的灰棚。我其实并不以债主自居,也没有债券。他们的这种办法,是太过的。我近来的渐渐倾向个人主义,就是为此;常常想到象我先前那样以为“自所甘愿即非牺牲”的人,也就是为此;常常劝别人要一并顾及自己,也就是为此。但这是我的意思,至于行为,和这矛盾的却很多,所以终于是言行不一致,恐怕不足以服足下之心,好在不久便有面谈的机会,那时再辩
论罢。
我离厦门的日子,还有四十多天,说三十多,少算了十天了,然则性粗而傻,似乎也和“傻气的傻子”差不多,“半斤八两相等也”。伏园大约一两日内启行,此信或者也和他同船出发。从今天起,我们兼包饭菜了;先前单包饭的时候,每人只得一碗半(中小碗),饭量大的人,兼吃两人的也不够,今天是多一点了,你看厨子多么利害。这里的工役,似乎都与当权者有些关系,换不掉的,所以无论如何,只好教员吃苦。即如这厨子,原是国学院听差中之最懒而最狡猾的,兼士费了许多力,才将他弄走,而他的地位却更好了。他那时的主张是:他是国学院的听差,所以别人不能使他做事。你想,国学院是一所房子,会开口叫他做事的么?
我向上海买书很便当,那两本当即去带,并遵来命,年底面呈。
迅。十六日下午。
四十八
广平兄:
十六日得十二日信后,即复一函,想已到。我猜想一两日内当有信到,但此刻还没有,就先写几句,豫备明天发出。
伏园前天晚上走了,昨晨开船。现在你也许已经看见过。中大有无可做的事,我已托他探问,但不知结果如何。上遂南归,杳无消息,真是奇怪,所以他的事情也无从计划。
我这里是什么事也没有发生,不过前几天很阔了一通。将伏园的火腿用江瑶柱煮了一大锅,吃了。我又从杭州带来茶叶两斤,每斤二元,喝着。伏园走后,庶务科便派人来和我商量,要我搬到他所住过的半间小屋子里去。我即和气的回答他:一定可以,不过可否再缓一个月的样子,那时我一定搬。他们满意而去了。
其实教员的薪水,少一点倒不妨的,只是必须顾到他的居住饮食,并给以相当的尊重。可怜他们全不知道,看人如一把椅子或一个箱子,搬来搬去,弄不完。幸而我就要搬出,否则要成为旅行式的教授的。
朱山根已经知道我必走,较先前安静得多了,但听说他的学问好象也已讲完,渐渐讲不出来,在课堂上愈加装口吃。田千顷是只能在会场上唱昆腔,真是到了所谓“俳优畜之”的境遇。但此辈也正和此地相宜。
我很好,手指早已不抖,前信已经声明。厨房的饭又克减了,每餐复归于一碗半,幸而我还够吃,又幸而只有四十天了。北京上海的信虽有来的,而印刷物多日不到,不知其故何也。再谈。
迅。十二月二十日午后。
现已夜十一时,终不得信,此信明天寄出罢。
二十日夜。
四十九
广平兄:
十九日信今天到,十六的信没有收到,怕是遗失了,所以终于不知寄信的地方,此信也不知能收到否?我于十二上午寄一信,此外尚有十六,廿一两信,均寄学校。
前日得郁达夫和逄吉信,十四日发的,似于中大颇不满,都走了。次日又得中大委员会十五来信,言所定“正教授”只我一人,催我速往。那么,恐怕是主任了。不过我仍只能结束了学期再走,拟即复信说明,但伏园大概已经替我说过。至于主任,我想不做,只要教教书就够了。
这里一月十五考起,阅卷完毕,当在廿五左右,等薪水,所以至早恐怕要在一月廿八才可以动身罢。我想先住客栈,此后如何,看情形再定,现在可以不必豫先酌定。
电灯坏了,洋烛所余无几,只得睡了。倘信能收到,可告我更详细的地址,以便写信面。
迅。十二月廿三夜。
怕此信失落,另写一信寄学校。
五十
广平兄:
今日得十九来信,十六日信终于未到,所以我不知你住址,但照信面所写的发了一信,不知能到否?因此另写一信,挂号寄学校,冀两信中有一信可到。
前日得郁达夫及逄吉信,说当于十五离粤,似于中大颇不满。又得中大委员会信,十五发,催我速往,言正教授只我一人。然则当是主任。拟即作复,说一月底才可以离厦,但也许伏园已经替我说明了。
我想不做主任,只教书。
厦校一月十五考试,阅卷及等候薪水等,恐至早须廿八九才能动身。我想先住客栈,此后则看情形再定。
我除十二,十三,各寄一信外,十六,二十一,又俱发信,不知收到否?
电灯坏了,洋烛已短,又无处买添,只得睡觉,这学校真是不便
极了。
此地现颇冷,我白天穿夹袍,夜穿皮袍,其实棉被已够,而我懒于取出。
迅。十二月廿三夜。
告我通信地址。
五十一
广平兄:
昨(廿三)得十九日信,而十六信待到今晨还没有到,以为一定遗失的了,因写两信,一寄高第街,一挂号寄学校,内容是一样的,上午发出,想该有一封可以收到。但到下午,十六日发的一封信竟收到了,一共走了九天,真是奇特的邮政。
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今、我々の食事は実に笑止だ。外にまともな賄い飯の場所がないので、やはり本校の厨房からご飯を買っている。一人月三元半で、伏園が料理を作り、缶詰で補っている。しかし厨房は何度も宣言した。おかずを買ってくれなければ、ご飯も売らないと。それなら我々はご飯を買うために月十元出し、全く食べられないおかずも一緒に買わねばならない。今はまだ取り繕っているが、伏園が去った後は、いっそおかずも一緒に買ってしまい、面倒を省くつもりだ。幸い日数ももう限られている。使用人の方は私に二十元の借金がある。そのうち二元は彼の兄弟が急病になった時に貸したもので、彼が貧しいと思い、この二元は返さなくてよいと言い、借金は十八元ということにした。すると彼は翌日すぐにまた二元借り、二十元にちょうど戻した。厦門の「外省人」に対する態度は、どうやらいくらか愚弄しようとしているようだ。
中国人一般の気質からすれば、失敗した後の著作は誰も読まない。彼らは使役できれば存分に使役し、嘲笑できれば存分に嘲笑する。たとえどんなに親しく付き合っていても、たちまち手の平を返す。私と最も長く付き合ってきた若旦那たちの振る舞いを見れば、推して知るべしだ。作品さえよければ、おそらく十年か数十年後にはまた読む人が出るだろう。しかし利益を得るのは本屋の主人だけで、著者はおそらくとっくに逼り殺されており、もう何の関係もない。こういう時に当たって、手間を省くなら転業するもよし、外国に行くもよし。意地を張るなら何でもやるもよし、逆行するもよし。しかし私はまだじっくり考えていない。差し迫った問題ではないからだ。今はただの空論だ。
「よく食べよく眠れる」のは確かだ。今もそうで、毎日八、九時間眠れる。しかし人はやはり怠い。おそらく気候のせいだろう。厦門の気候・風土は住民にも適していないようだ。私の見た限りでは地元の人に太った者はほとんどなく、十中八九は黄色く痩せている。女性にもふくよかで活発な人はめったにいない。しかも街路は汚く、空き地にはみな墓が並んでいる。だから人寿保険の掛け金も、厦門居住者は他所より高い。国学院などは急いで設ける必要はなく、むしろ衛生運動を起こし、水と土壌を分析して改善策を講じた方がよい。
今はもう夜の一時だ。本来なら局外のポストにまだ投函できるのだが、命令が出ている以上、明朝まで待とう。まったく恐るべきことだ。「私は実に困っている」。
迅。十二月十二日。
四十七
広平兄:
昨日(十三日)手紙を一通出した。今日は刊行物を一束送り出す。紛失を恐れて書留にしたが、特に貴重だからではない。束の中に『新女性』一冊があり、大作が掲載されている。また『語糸』二号分には、まさに私の愚痴文が載っている。もともと未名社に差し止められていたが、結局は小峰に奪い取られたので、やはり『語糸』に載った。
二十三日の手紙を出して以来、実に大変なことになりかけた。巨大な釘が正面からぶつかってきたのだが、幸いにも天のご加護で、すでに二十九日の手紙を出してあり、先の手紙は実に大逆不道であったので直ちに取り消すべしと声明してあった。そこで「おばかさん」と褒められ、「命令」を賜り、善を為す者には百祥が降るとのことで、何という幸いか。今は学校のことには一切口を出さず、もっぱら講義録を編んで締めくくりとしている。授業はあと五週間しかなく、その後は試験だ。しかし退校はおそらく二月初旬になるだろう。一月分の給料は待って受け取って行くのだから。
中大からまたも手紙が来て、早く来いと催促し、しかも教員の給料を増額する方法を考えるとのこと。しかし私はやはり二月初旬にしか出発できない。伏園の方は二十日前後に発つだろう。おそらくまず広州に行き、それから陸路で武漢に入るのだろう。今晩は語堂が送別の宴を開く。彼もかなり活動する気でいるが、奥方はあまり賛成しない。二人の子供を連れて始終引っ越しをしてはどうなるかと。実際、奥方の立場に立てば、確かに苦しいことだ。旅行式の家庭では、家政を切り盛りする女性はどう手を付ければよいのか。しかし語堂は大いに意気込んでいる。後事いかんは「次回のお楽しみに」。
狂飆の連中は、一方で私を罵りながら、一方でまた私を利用しようとしている。培良は厦門か広州で仕事を見つけてくれと頼み、尚鉞は小説を『烏合叢書』に入れてくれと言う。以前のは誤って罵ったので今後はやめると言い、まだ発表していない私を罵った原稿を同封し、読んだら焼いてくれと言う。思えば、私のこれまでの種々の遠慮のなさは、大抵は同年輩か同等の立場の者に対するもので、青年に対しては必ず譲歩し、あるいは黙って損を甘受してきた。ところが彼らは侮りやすいと思い込み、あるいは纏わりつき、あるいは奴隷のように使い、あるいは責め、あるいは中傷し、つけあがって止まるところを知らない。私は常に中国に「好事の徒」がいないことを嘆いてきた。だから何事も管理する者がいないのだ。今見ると、好事の徒になるのも実に容易ではない。少しおせっかいを焼いただけで、こんな面倒を背負い込む。今後は方針を変える。仕事の口も探さない。叢書も編まない。原稿も読まない。焼きもしない。返事も書かない。門を閉ざして大吉とし、自分で本を読み、煙草を吸い、眠る。
『婦女之友』第五号に、沄沁が君に宛てた公開書簡が載っている。見ただろうか。中身は大したことはなく、女子師範大学がまた壊されたことへの愚痴にすぎない。『世界日報』を見ると、程干雲はまだ在職のようだ。羅静軒は追い出されたらしく、紙面に彼女の公開書簡が載っていて、文筆で食べていけると言っている。おそらく相当難しかろう。
今日は昼間霧がかかり、器具が少し湿っている。蚊が非常に多く、夏よりひどい。実に不思議だ。刺されてたまらないので、蚊帳の中に逃げ込まなければ。次に書こう。
十四日灯下。
今日もなお暑いが大風で、蚊が突然とても少なくなった。どういうわけか分からない。そこで講義録を一篇編んだ。印肉が上海から届いた。さっそく『桃色の雲』に数行書き入れ、あの「ガラス」の印と印肉を初めてこの本に使った。天気が暑くて印肉が柔らかいので、あまりうまく押せなかったが、大したことではない。こうしなければ気が済まないのだ。「余計な事」と叱られようとも、もう弁解はしない。どうせ攻撃には慣れているのだから、少々の叱責など何でもない。
本校に特に新しいことはない。ただ山根先生は相変わらず日夜、私的な人物の配置と安排に余念がない。白果が北京から着いた。奥方一人、子供四人、使用人二人、荷物四十個。大いに「山河永固」の趣だ。なぜか急に「燕、幕に巣くう」の故事を思い出し、この一大群の人物を見て、思わず凄然とした。
十五日夜。
十二日の手紙が今日(十六日)届いた。これもまあ早い方だ。広州と厦門の間の郵便船はおそらく週二回あるのだろう。仮に火曜と金曜に出るとすれば、月曜と木曜に出した手紙は早く着き、水曜と土曜に出したのは遅くなる。しかし結局その船が何曜日かは突き止められなかった。
貴校の状況は、実にあまり芳しくない。他の学校と同様、おそらく死にも生きにもつかず、上にも下にも行けないだけだろう。手を出せば必ず困る。もしすっぱりと改革するなり、攻め倒されるなりすれば、爽快であれ苦痛であれ、かえってましだ。しかし大抵はそうはいかない。やってもうまくいかず、手を引くこともできず、爽快でもなく、大した苦痛でもなく、ただ終日全身が不快なだけだ。その感覚を、私たちの故郷では「湿った肌着を着る」という俗語で表す。まだ乾いていない肌着をそのまま体に着るのとそっくりなのだ。私が経験してきた事は、ほとんどすべてこの通りで、最近の原稿書きと出版もその一つだ。引き継いだ以上、世の習いに従って取り繕うことは、君にはきっとできないだろう。改革するにしても、うまくいけばもちろんよいし、そのために自分が失敗しても構わない。しかし君の手紙によれば、改革の望みはなさそうだ。それならば一番よいのは手を出さないことで、もし断りにくければ「前校長」の方法を真似て、姿を隠す。決着がついてから出てきて、別の仕事を探す。
政治経済については、君が研究していないのは知っている。幸い三週間だけだ。私にもこの種の苦しみがあり、しばしば「得意でない」「好きでない」事を無理やりやらされる。しかも往々にしてやるしかない。芝居小屋の前で、真ん中に押し込まれて退けないようなものだ。自分にとって損なだけでなく、仕事もうまくいかない。断っても、相手は謙遜か怠惰だと思い、やはり頑としてやらせようとする。こうやって一、二年「曲芸」をやっていると、残るのは油滑な学問だけで、専門を失い、次第に社会にも見捨てられて「薬滓」になる。煎じ詰めて人に飲ませたのに。薬滓になれば誰もが踏みつけに来る。以前汁を飲んだ者までもが踏みつけに来る。踏みつけるだけでなく、冷笑までする。
犠牲論は結局誰の「筋違い」で手の平を打たれるべきか、それはまだ疑問だ。人には自由意志があり、牛や羊とは違う。私はそれを知っている。しかしその「自由意志」は果たして生来のものか。一時代の学説や他人の言動の影響を大いに受けているのではないか。それなら、その学説が真実かどうか、その人物が正しかったかどうかが問題になる。私も以前は自らの意志で、生活の道の上に血を一滴一滴滴らせて他人を養い、次第に痩せ衰えていくと自覚しながらも、楽しいと思っていた。しかし今はどうだ。人々は私の痩せ衰えを嘲笑する。私の血を飲んだ者までもが、私の痩せ衰えを嘲笑する。こんな声さえ聞こえてくる。「彼は一生こんなつまらない生活を送っていた。とっくに死んでいてもよかったのに、まだ生きている。見込みがないことが分かる」。そして私が困窮している時を見計らって、力一杯悶棍を食らわせる。しかしこれは社会から無用の廃物を除去しているのだと。これは本当に私を憤怒させ、怨恨させた。時にはまさに復讐したいとさえ思う。私は称賛や報恩を求める心など微塵もない。ただ血を飲んだ人々は、もう飲む血がなくなったら去って行くべきで、私が血の債権者であることを覚えておいて、去り際になお私を打ち殺し、しかも債券を消滅させるために、私の惨めな灰色の小屋に火をつけることはしないでくれと思うだけだ。私は実は自分を債権者だとは思っていないし、債券もない。彼らのこのやり方はあまりにもひどすぎる。私が最近次第に個人主義に傾いていくのはこのためであり、以前の私のように「自ら甘んずるものは犠牲にあらず」と考える人のことをしきりに思うのもこのためであり、他人にも自分のことを顧みるよう常々勧めるのもこのためだ。しかしこれは私の考えであって、行動となると、矛盾していることが非常に多い。だから結局は言行不一致で、おそらく足下の心を服させるには足りまい。幸い間もなく直接会って話す機会がある。その時にまた論じよう。
厦門を離れるまであと四十数日だ。三十数日と言ったのは十日少なく数えていた。してみると大雑把で間の抜けたところは、「間抜けなおばかさん」と大差ないようだ。「五十歩百歩」だ。伏園はおそらく一、二日中に出発する。この手紙も彼と同じ船で着くかもしれない。今日から我々はおかずも一緒に賄いを頼むことにした。以前ご飯だけを頼んでいた時は、一人に中小碗一杯半しかもらえず、食欲の旺盛な者は二人分食べても足りなかった。今日はいくらか多くなった。料理人がいかに巧みか分かろうというものだ。ここの使用人たちは、みな当局者と何らかの縁があるらしく、替えが利かない。だから何がどうあれ、教員が割を食うしかない。例えばこの料理人は、もともと国学院の使用人の中で最も怠惰で最も狡猾な男で、兼士が大変な苦労をしてようやく追い出したのに、彼の地位はむしろ良くなった。当時の彼の主張はこうだ。自分は国学院の使用人だから、他の者に仕事を言いつけられる筋合いはない、と。考えてもみてくれ。国学院は一棟の建物だ。建物が口を開いて仕事をさせるとでも言うのか。
上海から本を取り寄せるのはとても便利だ。あの二冊はすぐに取り寄せ、ご命令に従い、年末に直接お目にかけよう。
迅。十六日午後。
四十八
広平兄:
十六日に十二日の手紙を受け取り、すぐに返信したが、もう届いただろう。一、二日中に手紙が来ると予想していたが、今のところまだ届いていない。先に数行書いて、明日出す準備をしておこう。
伏園は一昨日の夜に発ち、昨朝出帆した。君ももう会っただろう。中大に何かできる仕事がないか、探るよう彼に頼んだが、結果はまだ分からない。上遂の南帰は杳として消息がなく、実に不思議だ。だから彼の件も計画のしようがない。
ここでは何も起こっていないが、数日前にはかなり贅沢をした。伏園のハムを干し貝柱と一緒に大鍋で煮て食べた。また杭州から持ってきた茶葉が二斤あり、一斤二元で、飲んでいる。伏園が去った後、庶務課がすぐに人を寄こして相談を持ちかけてきた。伏園が住んでいた小部屋の半間に引っ越してくれないかと。私はにこやかにこう答えた。もちろんいいですとも。ただあと一月ほど猶予をいただけないでしょうか。その時には必ず引っ越しますから。彼らは満足して帰って行った。
実は教員の給料は少し減らしても構わないのだが、その住居と飲食に配慮し、相応の敬意を払うことは必要だ。可哀想に彼らは全く分かっておらず、人を椅子か箱のように見て、あちこち運び回す。際限がない。幸い私はもうすぐ出て行く。さもなくば旅行式の教授になるところだ。
朱山根は私が必ず去ることを知り、以前よりずっと大人しくなった。しかし聞くところでは、彼の学問ももう話し尽くしたらしく、次第に話す事がなくなり、教室でますます吃音を装っているという。田千頃は会場で崑曲を歌えるだけで、まさに「俳優之を畜う」の境遇に至っている。しかしこの手合いはこの地にこそふさわしい。
私は元気だ。手の震えはとっくに止まったことは前の手紙ですでに述べた。厨房のご飯はまた減らされ、毎食また一杯半に戻った。幸い私にはまだ足りるし、幸いあと四十日しかない。北京や上海からの手紙は来るが、印刷物は何日も届かない。原因は分からない。では、また。
迅。十二月二十日午後。
今はもう夜十一時だが、結局手紙は来なかった。この手紙は明日出そう。
二十日夜。
四十九
広平兄:
十九日の手紙が今日届いた。十六日の手紙は届いておらず、紛失が怖い。だから結局送り先の住所が分からないままで、この手紙が届くかどうかも分からない。私が十二日午前に出した手紙のほか、十六日と二十一日にも手紙を出しており、いずれも学校宛だ。
一昨日、郁達夫と逄吉から手紙を受け取った。十四日発で、中大にかなり不満のようで、二人とも去った。翌日また中大の委員会から十五日付の手紙が来て、決定した「正教授」は私一人だけだから早く来いと催促している。それなら、おそらく主任ということだろう。しかし私はやはり学期を終えてからしか行けない。すぐに返信して説明するつもりだが、おそらく伏園がすでに私の代わりに伝えてくれたことだろう。主任は引き受けたくない。教壇に立つだけで十分だ。
ここは一月十五日から試験が始まり、採点が終わるのは二十五日頃だろう。給料を待つから、最も早くても一月二十八日にしか出発できまい。まず旅館に泊まり、その後のことは状況を見て決める。今から先に決めておく必要はない。
電灯が壊れた。蝋燭の残りもわずかだ。寝るしかない。手紙が届いたら、もっと詳しい住所を知らせてほしい。宛先を書けるように。
迅。十二月二十三日夜。
この手紙が紛失するのを恐れ、別に一通学校宛に書く。
五十
広平兄:
今日十九日の手紙を受け取った。十六日の手紙は結局届かず、だから君の住所が分からない。しかし封筒に書いてあった通りの宛先で一通出した。届くかどうか分からない。だから別に一通、書留で学校宛に出す。二通のうち一通でも届くことを期して。
一昨日、郁達夫と逄吉から手紙が来て、十五日に広州を離れるとのこと。中大にかなり不満のようだ。また中大委員会から十五日発の手紙があり、早く来いと催促し、正教授は私一人だけだと言う。それなら主任ということだろう。すぐに返信して、一月末にしか厦門を離れられないと述べるつもりだが、おそらく伏園がすでに説明してくれただろう。
主任は引き受けたくない。教えるだけでよい。
厦門の学校は一月十五日に試験、採点と給料の受け取り待ちで、最も早くて二十八、九日にしか出発できまい。まず旅館に泊まり、その後は状況次第。
私が十二日、十三日にそれぞれ手紙を出したほか、十六日、二十一日にもそれぞれ出したが、届いただろうか。
電灯が壊れ、蝋燭ももう短い。買い足す場所もない。寝るしかない。この学校は本当に不便極まりない。
ここはかなり寒くなった。昼は袷の長袍、夜は毛皮の長袍を着ている。実は綿の掛け布団で十分だが、出すのが面倒なのだ。
迅。十二月二十三日夜。
通信先を教えてくれ。
五十一
広平兄:
昨日(二十三日)十九日の手紙を受け取ったが、十六日の手紙は今朝になっても届かず、きっと紛失したと思い、二通の手紙を書いた。一通は高第街宛、一通は書留で学校宛で、内容は同じだ。午前に出したので、どちらか一通は届くだろう。ところが午後になって、十六日発の手紙がなんと届いた。まる九日もかかったのだ。実に珍妙な郵便だ。
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学校现状,可见学生之无望,和教职员之聪明,独做傻子,实在不值得,还不如暂逃回家,不闻不问。这种事我也遇到过好几次,所以世故日深,而有量力为之,不拼死命之说。因为别人太巧,看得生气也。伏园想早到粤,已见过否?他曾说要为你向中大一问。
郁达夫已走了,有信来。又听说成仿吾也要走。创造社中人,似乎和中大有什么不对似的,但这不过是我的猜测。达夫遇安则信上确有愤言。我且不管,旧历年底仍往粤,算起来只有一个多月了。
现在这里还没有什么不舒服,因为横竖不远要走,什么都心平气和了。今晚去看了一回电影。川岛夫妇已到,他们还只有看见山水花木的新奇。我这里常有不宪政来,也不大能看书;有几个还要转学广州,他们总是迷信我,具是无法可想。
玉堂恐怕总弄不下去,但国学院是一时不会倒的,不过不死不活。“学者”和白果,已在联络校长了,他们就会弄下去。然而我们走后,不久他们也要滚出的。为什么呢,这里所要的人物,是:学者皮而奴才骨。他们却连皮也太奴才了,这又使校长看不起,非走不可。
再谈。
迅。十二月二十四日灯下。(电灯修好了。)
五十二
广平兄:
廿五日寄一函,想已到。今天以为当得来信,而竟没有,别的粤信,都到了。伏园已寄来一函,今附上,可借知中大情形。上遂与你的地方,大概都极易设法。我已写信通知上遂,他本在杭州,目下不知怎样。
看来中大似乎等我很急,所以我想就与玉堂商量,能早走则早走,况且我在厦大他们并不以为必要为之收束学期与否,不成什么问题也。但你信只管发,即我已走,也有人代收寄回。
厦大我只得抛开了。中大如有可为,我还想为之尽一点力,但自然以不损自己之身心为限。我来厦门,虽是为了暂避军阀官僚“正人君子”们的迫害。然而小半也在休息几时,及有些准备,不料有些人遽以为我被夺掉笔墨了,不再有开口的的可能,便即翻脸攻击,想踏着死尸站上来,以显他的英雄,并报他自己心造的仇恨。北京似乎也有流言,和在上海所闻者相似,且云长虹之拚命攻击我,乃为此。这真出我意外,但无论如何,用这样的手段,想来征服我,是不行的。我先前对于青年的唯唯听命乃是退让,何尝是无力战斗。现既逼迫不完,我就偏又出来做些事,而且偏在广州,住得更近点,看他们躲在黑暗里的诸公其奈我何?然而这也许是适逢其会的借口,其实是即使并无他们的闲话,我也还是要到广州的。
再谈。
迅。十二月廿九日灯下。
五十三
广平兄:
自从十二月廿三,四日得十九,六日信后,久不得信,真是好等,今天(一月二日)上午总算接到十二月廿四的来信了。伏园想或已见过,他到粤所问的事情,我已于三十日函中将他的信附上,收到了罢。至于刊物,则十一月廿一之后,我又寄过两次,一是十二月三日,恐已遗失;一是十四日,挂号的,也许还会到。学校门房连公物都据为己有,真可叹,所以工人地位升高的时候,总还须有教育才行。
前天,十二月卅一日,我已将正式的辞职书提出,截至当日止,辞去一切职务。这事很给学校当局一点苦闷,为虚名计,想留我,为干净,省事计,愿放走我。所以颇为难。但我和厦大根本冲突,无可调和,故无论如何,总是收得后者的结果的。今日学生会也举代表来留。自然是具文而已。接着大概是送别会,有恭维和愤慨的演说。学生对于学校并不满足,但风潮是不会有的,因为四年前曾经失败过一次。
上月的薪水,听说后天可发;我现在是在看试卷,两三天即完。此后我便收拾行李,至迟于十四五以前,离开厦门,但其时恐怕已有转学的学生同走了,须为之交涉安顿。所以此信到后,不必再寄信来,其已经寄出的,也无妨,因为有人代收。至于器具,我除几种铝制的东西和火酒炉而外,没有什么,当带着,恭呈钧览。
想来二十日以前,总可以到广州了。你的工作的地方,那时当能设法,我想即同在一校也无妨,偏要同在一校,管他妈的。
今天照了一个相,是在草莽丛中,坐在一个洋灰的坟的祭桌上,但照得好否,要后天才知道。
迅。一月二日下午。
五十四
广平兄:
伏园想已见过了,他于十二月廿九日给我一封信,今裁出一部分附上,未知以为何如。我想助教是不难做的,并不必讲授功课,而给我做助教,尤其容易,我可以少摆教授架子。
这几天“名人”做得太苦了,赴了几处送别会,都要演说,照想。我原以为这里是死海,不料,经这一搅,居然也了些波动,许多学生因此而颇愤慨,有些人颇恼怒。有些人则借此来攻击学校或人们,而被攻击者是竭力要将我之为人说得坏些,以减轻自己的伤害。所以近来谣言颇多,我但袖手旁观,煞是有趣。然而这些事故于学校,是仍无益的,这学校除全盘改造之外,没有第二法。
学生至少有二十个也要走。我确也非走不可了,因为我在这里,竟有从河南中州大学转学而来的,而学校的实际又是这模样,我若再帮同来招徕,岂不是误人子弟?所以我一面又做了一篇通信,去登《语丝》,表明我已离开厦门。我好象也已经成了偶像了,记得先前有几个学生力拿了狂飙来,劝我回骂长虹,说道,你不是你自己的了,许多青年等着听你的话。我曾为之吃惊,心里想我成了大家的公物,那是不得了的,我不愿意。还不如倒下去,舒服得多。
现在看来,还得再硬做“名人”若干时,这才能够罢手。但也并无大志,只要中大的文科办得还象样,我的目的就达了,此外都不管。我近来改变了一点态度,诸事都随手应付,不计利害,然而也不很认真,倒觉得办事很容易,也不疲劳。
此信以后,我在厦门大约不再发信了。
迅。一月五日午后。
五十五
广平兄:
五日寄一信,想当先到了。今天得十二月卅日信,所以再来写几句。
中大拟请你作助教,并非伏园故意谋来,和你开玩笑的,看我前次附上的两信便知,因为这原是李逄吉的遗缺,现在正空着。北大和厦大的助教,平时并不授课;厦大是教授请假半年或几月时,间或由助教代课,但这样的事是极少见的,我想大中的规定当不至于特别罢,况且教授编而助教讲,也太不近情理,足下所闻,殆谣言也。即非谣言,亦有法想,似乎无须神经过敏。未发聘书,想也不至于中变,其于上遂亦然,我想中学职员可不必去做,即有中变,我当托人另行设法。
至于引为同事,恐因谣言而牵连自己,——我真奇怪,这是你因为碰了钉子,变成神经过敏,还是广州情形,确是如此的呢?倘是后者,那么,在广州做人,要比北京还难了。不过我是不管这些的,我被各色人物用各色名号相加,由来久矣,所以被怎么说都可以。这回去厦,这里也有各种谣言,我都不管,专用大总统哲学:听其自然。
我十日以前走不成了,因为上月的薪水,至今还没有付给我,说是还得等几天。但无论怎样,我十五日以前总要动身的。我看这是他们的一点小玩艺,无非使我不能早走,在这里白白的等几天。不过这种小巧,恐怕反而失策了。校内大约要有风潮,现在正在酝酿,两三日内怕要爆发,但已由挽留运动转为改革学校运动,本已与我不相干。不过我早走,则学生少一刺戟,或者不再举动,但拖下去可不行了。那时一定又有人归罪于我指为“放火者”,然而也只得听其自然,放火者就放火者罢。
这几天全是,赴会和饯行,说话和喝酒,大概这样的还有两三天。这种无聊的应酬真是和生命有仇,即如这封信,就是夜里三点钟写的,因为赴席后回来是十点钟,睡了一觉起来,已是三点了。
那些请吃饭的人,蓄意也是种种不同,所以席上的情形,倒也煞是好看。我在这里是许多人觉得讨厌的,但要走了却又都恭维为大人物。中国老例,无论谁,只要死了,挽联上不都说活着的时候多么好,没有了又多么可惜么?于是连白果也称我为“吾师”了,并且对人说道,“我是他的学生呀,感情当然很好的。”他今天还要办酒给我饯行,你想这酒是多么难喝下去。
这里的惰气,是积四五年之久而弥漫的,现在有些学生们要借我的四个月的魔力来打破它,我看不过是一个幻想。
迅。一月六日灯下。
五十六
广平兄:
五日与七日的两函,今天(十一)上午一同收到了。这封挂号信,却并无要事,不过我因为想发几句议论,倘被遗失,未免可惜,所以宁可做得稳当些。
这里的风潮似乎还在蔓延,但结果是决不会好的。有几个人已在想利用这机会高升,或则向学生方面讨好,或则向校长方面讨好,真令人看得可叹。我的事情大略已了,本可以动身了,今天有一只船,来不及坐,其次,只有星期六有船,所以于十五日才能走。这封信大约要和我同船到粤,但姑且先行发出。我大概十五日上船,也许要到十六才开,则到广州当在十九或二十日。我拟先住广泰来栈,和学校接洽之后,便暂且搬入学校,房子是大钟楼,据伏园来信说,他所住的一间就留给我。
助教是伏园出力,中大聘请的,俺何敢自以为给呢?至于其余等等,则“爆发”也好,发爆也好,我就是这么干,横竖种种谨慎,也还是重重逼迫,好象是负罪无穷。现在我就来自画招供,自卸甲胄,看着他们的第二拳是怎样的打法。我对于“来者”,先是抱着博施于众的心情,但现在我不独于其一,抱了独自求得的心情了。(这一段也许我误解了原意,但已经写下,不再改了。)这即使是对头,是敌手,是枭蛇鬼怪,我都不问;要推我下来,我即甘心跌下来,我何尝高兴站在台上?我对于名声,地位,什么都不要,只要枭蛇鬼怪够了。对于这样的,我就叫作“朋友”。谁有什么法子呢?但现在之所以还只(!)说了有限的肖息者:一为己,是总还想到生计问题;二、为人,是可以暂借我已成之地位,而作改革运动。但要我兢兢业业,专为这两事牺牲,是不行了。我牺牲得不少了,而享受者还不够,必要我奉献全部的性命。我现在不肯了,我爱“对头”,我反抗他们。
这是你知道的,单在这三四年中,我对于熟识的和初初相识的文学青年是怎么样,只要有可以尽力之处就尽力,并没有什么坏心思。然而男的呢,他们自己之间也掩不住嫉妒,到底争起来了,一方面于心不满足,就想打杀我,给那方面也失了助力。看见我有女生在坐,他们便造流言。这些流言,无论事之有无,他们是在所必造的,除非我和女人不见面。他们不抵是貌作新思想,骨子里都是暴君酷吏,侦探,小人。如果我再隐忍退让,他们更要得步进步不会完的。我蔑视他们了。我先前偶一想到爱,总立刻自己惭愧,怕不配因而也不敢爱某一个人;但看清了他们的言行思想的内幕,便使我自信我决不是必须自己贬抑到那么样的人了,我可以爱。
那流言,是直到去年十一月,从韦漱园的信里才知道的。他说,由沉钟社里听来,长虹的拚命攻击是我为了一个女性,狂飙上有一首诗,太阳是自比,我是夜,月是她。他还问我这事可是真的,要知道一点详细。我这才明白长虹原来在害“单相思病”,以及川流不息的到我这里来的原因,他并不是为莽原,却在等月亮。但对我竟毫不表示一些敌对的态度,直待我到了厦门,才从背后骂得我一个莫名其妙,真是卑怯得可以。我是夜,则当然要有月亮的,还要做什么诗,也低能得很。那时就做了一篇小说,和他开了一些小玩笑,寄到未名社去了。
那时我又写信去打听孤灵,才知道这种流言,早已有之,传播的是品青、伏园、亥倩、微风、宴太。有些人又说我将她带到厦门去了,这大约伏园不在内,是送我上车的人们所流布的。白果从北京接家眷来此,又将这带到厦门,为攻击我起见,便和田千顷且故意当众发表,意图中伤。不料完全无效,风潮并不稍减,因为此次风潮,根柢甚深,并非由我一人而起,而他们还要玩些这样的小巧,真可谓“至死不悟”了。
现在是夜二时,校中暗暗的熄了电灯,帖出放假布告,当即学生发见,撕掉了。此后怕风潮还要扩大一点。
我现在真自笑我说话往往刻薄,而对人则太厚道,我竟从不疑及玄情之流到我这里来是在侦探我;虽然他的目光如鼠各处乱翻,我有时也有些觉得讨厌。并且今天才知道我有时请他们在客厅里坐,他们也不高兴,说我在房里藏了月亮,不容他们进去了。你看这是多么难以伺候的大人先生啊。我托令弟买了几株柳,种在后园,拔去了几株玉蜀黍,母亲很可惜,有些不高兴,而宴太即大放谣诼,说我在纵容着学生虐待她。力求清宁,偏多滓秽,我早先说,呜呼老家,能否复返,是一问题,实非神经过敏之谈也。
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学校の現状からして、学生の見込みのなさと教職員の抜け目なさが分かる。一人だけお人よしをやっているのは、本当に割に合わない。いっそ一旦家に逃げ帰って、見て見ぬふりをした方がましだ。こういうことは私も何度か経験してきたから、ますます世慣れして、力を量ってやること、命を賭けないことを唱えるようになった。他人があまりにも抜け目なく、見ていて腹が立つからだ。伏園は早く広州に着きたがっていたが、もう会っただろうか。中大のことを君のために聞いてみると言っていた。
郁達夫はもう行ってしまった。手紙が来た。また成仿吾も去ると聞く。創造社の連中は中大と何か軋轢があるようだが、これは私の推測にすぎない。達夫は遇安の手紙の中で確かに怒りの言葉を書いている。私はとりあえず構わず、旧暦の年末にはやはり広州に行く。数えればあと一月余りだ。
今のところここでは特に不快なことはない。どのみちもうすぐ去るのだから、何事も心穏やかだ。今晩は映画を見に行った。川島夫妻がすでに到着している。彼らにはまだ山水草木の新鮮さしか目に入らないようだ。ここには始終「非合憲的な」客が来て、あまり本も読めない。何人かは広州に転学したがっており、彼らはどうしても私を信奉してやまない。まったくどうしようもない。
玉堂はおそらくもうやっていけないだろうが、国学院は当面はつぶれまい。死にも生きにもつかぬままだ。「学者」たちと白果はすでに校長と連絡を取り合っている。彼らならやっていけるだろう。しかし我々が去った後、ほどなく彼らも追い出されるだろう。なぜか。ここで求められる人物は、「学者の皮をかぶった奴隷の骨」だ。しかし彼らは皮まで奴隷すぎて、校長からも見下され、去らざるを得なくなるのだ。
では、また。
迅。十二月二十四日灯下。(電灯は直った。)
五十二
広平兄:
二十五日に手紙を一通出したが、もう届いただろう。今日は手紙が来ると思ったが、来なかった。他の広東からの手紙はみな届いているのに。伏園からはすでに手紙が一通来ている。同封するので、中大の状況が分かるだろう。上遂と君の件は、おそらくどちらもごく簡単に手配できる。上遂にはもう手紙で知らせた。彼は杭州にいるはずだが、今どうしているか分からない。
どうやら中大は私を非常に急いで待っているようだ。だから玉堂と相談し、早く行けるなら早く行こうと思う。しかも厦大では私がいてもいなくても学期を終えるかどうかは問題にならないのだから。ただし手紙はそのまま出し続けてくれ。たとえ私がすでに発っていても、代わりに受け取って転送してくれる者がいる。
厦大はもう捨て置くしかない。中大でやれることがあれば、少しは力を尽くしたいと思うが、もちろん自分の心身を損なわない範囲で。私が厦門に来たのは、軍閥官僚や「正人君子」たちの迫害を一時的に避けるためだったが、少しは休息し、いくらか準備もしたかった。ところがある者たちは、私がもう筆を奪われ発言の可能性がなくなったと早合点し、さっそく手の平を返して攻撃にかかり、死体を踏み台にして自分が英雄面をし、自分で作り上げた恨みを晴らそうとした。北京にも流言があるようで、上海で聞いたのと似ている。しかも長虹が必死に私を攻撃するのはそのためだと言う。まったく意外だが、いずれにせよ、このような手段で私を征服しようとしても、だめだ。以前私が青年に唯々諾々と従っていたのは譲歩であって、決して戦う力がなかったのではない。今、迫害がやまないのなら、私は意地でもまた出てきて何かする。しかも意地でも広州で、もっと近くに住んで、闇に隠れている諸君が私をどうするか見届けてやる。しかしこれはたまたま巡り合わせた口実に過ぎないかもしれない。実のところ、彼らの陰口がなくても、やはり広州に行くつもりだったのだ。
では、また。
迅。十二月二十九日灯下。
五十三
広平兄:
十二月二十三、四日に十九日と六日の手紙を受け取って以来、久しく手紙が来ず、本当に待ち遠しかった。今日(一月二日)午前にようやく十二月二十四日の手紙を受け取った。伏園にはもう会っただろうか。彼が広州で聞いた事柄については、三十日の手紙に彼の手紙を同封したが、届いただろうか。刊行物については、十一月二十一日以降さらに二回送った。一回は十二月三日で、おそらく紛失した。もう一回は十四日、書留だから、まだ届くかもしれない。学校の門番は公の物まで横領するとは、実に嘆かわしい。だから労働者の地位が向上する時にも、やはり教育が必要なのだ。
一昨日、十二月三十一日に正式の辞職願を提出した。同日をもって一切の職務を辞する。この件は学校当局をいくらか苦しめた。虚名のためには引き留めたいが、すっきり手間をかけずに済ませるためには行かせたい。だからかなり困っている。しかし私と厦大は根本的に相容れず、調和の余地はないから、いずれにせよ後者の結果に落ち着くだろう。今日は学生会も代表を送って慰留に来た。もちろん形式的なものにすぎない。続いておそらく送別会で、お世辞と憤慨の演説があるだろう。学生は学校に不満だが、風潮は起きまい。四年前に一度失敗しているからだ。
先月の給料は明後日には出ると聞く。今は試験の答案を見ているところで、二、三日で終わる。その後荷物をまとめ、遅くとも十四、五日までには厦門を離れるが、その時にはおそらく転学の学生も一緒に行くことになり、彼らの交渉や手配もしなければならない。だからこの手紙が届いた後は、もう手紙を寄こさなくてよい。すでに出した分は構わない。代わりに受け取ってくれる者がいる。家具については、アルミ製の物とアルコールランプ以外には大したものはない。持って行き、謹んでご覧に入れる。
二十日前には広州に着けるだろう。君の仕事場については、その時に何とかする。同じ大学にいても構わないと思う。意地でも同じ大学にする。どうとでもなれ。
今日写真を一枚撮った。草叢の中で、コンクリートの墓の供え台の上に座って。しかし写りが良いかどうかは明後日にならないと分からない。
迅。一月二日午後。
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但这些都由它去,我自走我的路。不过这次厦大风潮之后,许多学生,或要同我到广州,或想转学到武昌,去为他们计,在这一年半载之中,是否还应该暂留几片铁甲在身上,此刻却还不能骤然决定。这只好于见到时再商量。不过不必连助教都怕做,同事都避忌,倘如此,可真成了流言的囚人,中了流言家的诡计了。
迅。一月十一日。
五十七
广平兄:
现在是十七夜十时,我在“苏州”船中,泊在香港海上。此船大约明晨九时开,午后四时可到黄埔,再坐小船到长堤,怕要八九点钟了。
这回一点没有风浪,平稳如在长江船上,明天是内海,更不成问题。想起来真奇怪,我在海上,竟历来不遇到风波;但昨天也有人躺下不能起来的,或者我比较的不晕船也难说。
我坐的是“唐餐间”,两人一房,一个人到香港上去了,所以此刻是独霸一间。至于到广州后先住那一家客栈,现在不能决定。因为有一个侦探性的学生跟住我。此人大概是厦大当局所派,探听消息的,因为那边的风潮未平,他怕我帮助学生,在广州活动。我在船上用各种方法拒斥,至于恶声厉色,令他不堪。但是不成功,他终于嬉皮笑脸,谬托知己,并不远离。大约此后的手段是和我住同一客栈,时时在我房中,打听中大情形。我虽并不怀挟秘密,而尾随着这么一个东西,却也讨厌,所以明天我当相机行事,能将他撇下便撇下,否则再设法。
此外还有三个学生,是广东人,要进中大的,我已通知他们一律戒严,所以此人在船上,也探不到什么消息。
迅。
【北平——上海(一九二九年五月至六月)】
五十八
H.M.D.:
在沪宁车上,总算得了一个坐位;渡江上了平浦通车,也居然定着一张卧床。这就好了。吃过夜饭,十一点睡觉,从此一直睡到第二天十二点,醒来时,不但已出江苏境,并且通过了安徽界蚌埠,到山东界了。不知道你可能如此大睡,恐怕不能这样罢。
车上和渡江的船上,遇见许多熟人,如幼渔的侄,寿山之友,未名社的人物;还有几个阔人,自说是我的学生,但我不认识他们了。
今天午后到前门站,一切大抵如旧,因为正值妙峰山香市,所以倒并不冷静。正大风,饱餐了三年未吃的灰尘。下午发一电,我想,倘快,则十六日下午可达上海了。
家里一切也如旧,母亲精神容貌仍如三年前,但关心的范围好象减少了不少,谈的都是邻近的琐事,和我毫不相干的。以前似乎似常常有客来住,久至三四个月,连我的日记本子也都翻过了,这很讨厌,莫非他以为我一定死在外面,不再回家了么?
不过这种情形,我倒并不气恼,自然也不喜欢,久说必须回家一趟,现在是回来了,了却一件事,总是好的。此刻是夜十二点,静得很,和上海大不相同。我不知她睡了没有?我觉得她一定还未睡着,以为我正在大谈三年来的经历了,其实并未大谈,却在写这封信。
今天就是这样罢,下回再谈。
EL.五月十五夜
五十九
H.D:
昨天寄上一函,想已到。今天下午我访了未名社一趟,又去看幼渔,他未回,马珏是因病进了病院许多日子了。一路所见,倒并不怎样萧条,大约所减少的不过是南方籍的官僚而已。
关于咱们的事,闻南北统一后,此地忽然盛传,研究者也颇多,但大抵知不确切。我想,这忽然盛传的缘故,大约与与小鹿之由沪入京有关的。前日到家,母亲即问我“害马”为什么不一同回来,我正在付车钱,匆忙中即答以有些不舒服,昨天才告诉她火车震动,不宜于孩子的事,她很高兴,说,我想也应该有了,因为这屋子里早应该有小孩子走来走去了。这种“应该”的理由,虽然和我们的意见很不同,但总之她非常高兴。
这里很暖,可穿单衣了。明天拟去访徐旭生。此外再看几个熟人,别的也无事可做。尹默凤举,似已倾心于政治。尹默之汽车,昨天和电车相撞,他臂膊也碰肿了,明天也想去看他,并还草帽。静为了一朋友,听说天天在查号码忙不可当。林振鹏在西山医胃病。
附笺一纸,可交与赵公。又通知老三,我当于日内寄书一包(约四五本)给他,其实是托他转交赵公的,到时即交去。
我的身体是好的,和在上海时一样。勿念,但H.也应该善目保养,使我放心。我相信她正是如此。
迅。五月十七夜。
六十
D.H:
听说上海北平之间的信件,最快是六天,但我于昨天(十八)晚上姑且去看看信箱——这是我们出京后新设的——竟得到了十四日发来的信,这使我怎样意外地高兴呀。未曾四条胡同,尤其令我放心,我还希望你善自消遣,能食能睡。
母亲的记忆力坏了些了,观察力注意力也略减,有些脾气,颇近于小孩子了。对于我们的感情是很好的。也希望老三回来,但其实是毫无事情。
前天幼渔来看我,要我往北大教书,当即婉谢。同日又看见执中他万不料我也在京,非常高兴。他们明天在来今雨轩结婚,我想,于上午去一趟,已托羡苏买了绸子衣料一件,作为贺礼带去。新人是女子大学学生,音乐系。
昨晚得到你的来信后,正在看,车家的男女突然又来了,见我已归,大吃一惊,男的便到客栈去,女的今天也走了。我对他们很冷淡,因为我又知道了车男住客厅时,不但乱翻日记,并且将书厨的锁弄破,并无书籍也查抄了一通。
(以上十九日之夜十一点写。)
二十日上午,你十六日所发的信也收到了,也很快。你的生活法,据报告,很使我放心。我也好的,看见的人,都说我精神比在北京时好,这里天气很热,已穿纱衣,我于空气中的灰尘,已不习惯,大约就如鱼之在浑水里一般,此外却并无什么不舒服。
昨天下午往中央公园贺李执中,新人一到,我就走了。她比李执中短一点,相貌适中。下午访沈尹默,略谈了一些时,又访兼士,耀辰徐旭生,都没有会见。就这样的过了一天。夜九点钟,就睡着了,直至今天七点才醒。上午想择取些书籍,但头绪纷繁,无从下手,也许终于没有结果的,恐怕《中国字体变迁史》也不是在上海所能作罢。
今天下午我仍要出去访人,明天是往燕大演讲,我这回本来想决不多说话,但因为有一些学生渴望我去,所以只得去讲几句。我于月初要走了,但决不冒险,千万不要担心,《冰块》留下两本,其余可分送赵公们。《奔流》稿,可请赵公写回信寄还他们,措辞和上次一样。
愿你好好保养,下回再谈。
以上二十一日午后一时写。
ELEF.
六十一
D.H.M:
二十一日午后发了一封信,晚上便收到十七日来信,今天上午又收到十八日来信,每信五天,好象交通十分准确似的。但我赴沪时想坐船,据凤举说,日本船并不坏,二等六十元,不过比火车为慢而已。至于风浪,则夏期一向很平静。但究竟如何,还须俟十天以后看情形决定。不过我是总想于六月四五日动身的,所以此信到时,倘是廿八九,那就不必写信
来了。
我到北平,已一星期,其间无非是吃饭睡觉,访人,陪客,此外什么也不做。文章是没有一句。昨天访了几个教育部旧同事,都穷透了,没有事做,又不能回家。今天和张凤举谈了两点钟天,傍晚往燕京大学讲演了一点钟,照例说些成仿吾徐志摩之类,听的人颇不少——不过也不是都为了来听讲演的,这天有一个人对我说,燕大是有钱而请不到好教员,你可以来此教书了。我即答以我奔波了几年,已经心粗气浮,不能教书了。D.H.,我想,这些好地方,还是请他们绅士们去占有罢,咱们还是漂流几时的好。沈士远也在那里做教授,听说全家住在那里,但我没有工夫去看他。
今天寄到一本《红玫瑰》,陈西滢和凌叔华的照片都登上了,胡适之的诗载于《礼拜六》,他们的像见于《红玫瑰》,时光老人的力量,真能逐渐的显出“物以类聚”的真实。
云南腿已将吃完,很好,肉多,油也足,可惜这里的做法千篇一律,总是蒸。带回来的鱼肝油已吃完,新买了一瓶,价钱是二元二角。
云章未到西三条来,所以不知道她住在何处;小鹿也没有来过。
北平久不下雨,比之南方的梅雨天,真有霄壤之别所有带来的夹衣,都已无用,何况绒衫。我从明天起,想去医牙齿,大约有一星期,总可以补好了。至于时局,若以询人,则因其人之派别,而所答不同,所以我也不加深究,总之,到下月初,京津车总该是可走的,那么,就可以了。
这里的空气,真是沉静,和上海的烦扰险恶,大不相同,所以我是平安的;然而也静不下,惟看来信,知道你在上海都好,也就暂自宽慰了。但愿能够这样继续下去,不再疏懈才好。
L.五月廿二夜一时。
六十二
D.H.M:
此刻是二十三日之夜十点半,我独自坐在靠壁的桌前,这旁边,先前是有人屡次坐过的,而她此刻却远在上海。我只好来写信算作谈天了。
今天上午,来了六个北大国文系学生的代表,要我去教书,我即谢绝了。后来他们承认我回上海,只要豫定下几门功课,何时来京,便何时开始,我也没有答应他们。他们只得回去,而希望我有一回讲演,我已约于下星期三去讲。
午后出街,将寄给你的信投入邮箱中。其次是往牙医寓,拔去一齿,毫不疼痛,他约我于廿七上午去补好,大约只要一次就可以了。其次是走了三家纸铺,集得中国纸印的信笺数十种,化钱约七元,也并无什么妙品,如这信所用的一种,要算是很漂亮的了。还有两三家未去,便中当再去走一趟,大约再用四五元,即将琉璃厂略佳之笺收备了。
计到北平,已将十日,除车钱外,自己只化了十五元,一半买信笺,一半是买碑帖的。至于旧书,则仍然很贵,所以一本也不买。
明天仍当出门,为士衡的饭碗去设设法;将来又想往西山看看漱园,听他朋友的口气,恐怕总是医不好的了。韦丛芜却长大了一点。待廿九日往北大讲演后,便当作回沪之准备,听说日本船有一只名“天津丸”的,是从天津直航上海,并不绕来绕去,但不知在我赴沪的时候,能否相值耳。
今天路过前门车站,看见很扎着些素彩牌坊了,但这些典礼,似乎只有少数人在忙。
我这次回来,正值暑假将近,所以很有几处想送我饭碗,但我对于此种地位,总是毫无兴趣。为安闲计,往北平是不坏的,但因为和南方太不同了,所以几乎有世外桃源之感,我来此虽已十天,劫毫不感到什么刺戟,略不小心,确有落伍之惧的。上海虽烦扰,但也别有生气。
下次再谈罢。我是很好的。
L.五月二十三日。
六十三
H.D.:
昨天上午寄上一函,想已到。十点左右有沉钟社的人来访我,至午邀我至中央公园去吃饭,一直谈到五点才散。内有一人名郝荫潭,是女师大学生,但是新的,我想你未必认识罢。中央公园昨天是开放的,但到下午为止,游人不多,风景大略如旧,芍药已开过,将谢了,此外则“公理战胜”的牌坊上,添了许多蓝地白字的标语。
从公园回来之后,未名社的人来访我了,谈了一点钟。他们去后,就接到你的十九,二十所写的两函。我毫不“拼命的写,做,干,想……”至今为止,什么也不想,干,写……昨天因为说话太多了,十点钟便睡觉,一点醒了一次,即刻又睡,再醒已是早上七点钟,躺到九点,便是现在,就起来写这信。
绍平的信,吞吞吐吐,初看颇难解,但一细看就知道那意思是想他的译稿,由我为之设法出售,或给北新,或登《奔流》,而又要居高临下,不肯自己开口。于是就写成了那样子。但我是决不来做这样傻子的了,莫管目前闲事,免惹他日是非。
今天尚无客来,这信安安静静的写到这里,本可以永远写下去,但要说的也大略说过了,下次再谈罢。
L. 五月廿五日上午十点钟
六十四
H.D:
此刻是二十五日之夜的一点钟,我是十点钟睡着的,十二点醒来了,喝了两碗茶,还不想睡,就来写几句。
今天下午,我出门时,将寄你的一封信,投入邮筒,接着看见邮局门外帖着条子道:“奉安典礼放假两天”。那么,我的那一封信,须在二十七日才会上车的了。所以我明天不再寄信,且待“奉安典礼”完毕之后罢。刚才我是被炮声惊醒的,数起来共有百余响,亦“奉安典礼”之一也。
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伏園にはもう会っただろうか。彼が十二月二十九日にくれた手紙の一部を切り取って同封する。どう思うか。助教はさほど難しくないと思う。授業をする必要はなく、しかも私の助教ならとりわけ容易だ。私は教授面をあまりしなければよいのだから。
この数日「名人」を演じるのが辛かった。送別会をいくつもはしごし、どこでも演説をし、写真を撮らされた。ここは死海だと思っていたのに、こうかき回すと案外いくらか波が立つものだ。多くの学生がそのためにかなり憤慨し、腹を立てた者もいる。一方ではこの機に乗じて学校や人を攻撃しようとする者もおり、攻撃される側は私の人物をできるだけ悪く言って、自分の受ける被害を軽くしようとしている。だから最近は流言がかなり多いが、私はただ手をこまねいて傍観している。なかなか面白い。しかしこうした騒動も学校のためにはやはり無益だ。この学校は全面的に作り直す以外に方法はない。
少なくとも二十人の学生も去りたがっている。私も確かに去らなければならない。なぜなら私がここにいるがために、河南の中州大学から転学してくる者までいる。しかし学校の実態がこの有様では、私がなおも学生の勧誘を手伝えば、子弟を誤らせることにならないか。だから私は一方でもう一篇通信を書いて『語糸』に載せ、厦門を離れたことを表明した。どうやら私も偶像になってしまったらしい。以前、何人かの学生が『狂飆』を手に持って来て、長虹に反論を書いてくれと勧め、こう言った。「あなたはもうあなた自身のものではありません。多くの青年があなたの言葉を待っているのです」。私はぎくりとした。みなの共有物になるとは大変なことだ。そんなのは嫌だ。いっそ倒れてしまった方がずっと楽だ。
今のところ見れば、まだしばらくは無理をして「名人」をやり続けねばならず、それでようやくやめられるのだろう。しかし大それた志があるわけでもない。中大の文科がまともに運営されさえすれば、私の目的は達する。その他はすべて構わない。最近少し態度を変えた。何事も手当たり次第に対処し、利害を計算せず、しかし真剣にもなりすぎない。すると仕事が案外容易で、疲れもしないと感じるようになった。
この手紙以後、厦門からはおそらくもう手紙を出さない。
迅。一月五日午後。
五十五
広平兄:
五日に手紙を一通出したが、先に届いただろう。今日十二月三十日の手紙を受け取った。だからもう少し書く。
中大が君を助教に招こうとしているのは、伏園がわざわざ策を弄して冗談を言っているのではない。前回同封した二通の手紙を見れば分かる。もともと李逄吉の空席だったのだ。北大でも厦大でも助教は普段授業をしない。厦大では教授が半年や数月休暇を取った時に、まれに助教が代講するが、そんなことは極めて稀だ。中大の規定もまさか特別ということはあるまい。しかも教授が教案を作り助教が講義するなど、あまりに理に合わない。君が聞いたのはおそらく流言だろう。流言でなくても対処法はある。神経過敏になる必要はないようだ。辞令がまだ出ていなくても、おそらく変更にはなるまい。上遂の件も同様で、中学の職員はやらなくてよいと思う。万一変更があっても、私が人に頼んで別に手配する。
同僚にすると流言のせいで自分に累が及ぶのではないか――私は本当に不思議に思う。これは君が釘を刺されて神経過敏になったのか、それとも広州の状況が実際にそうなのか。後者なら、広州で人として生きるのは北京よりさらに難しいことになる。しかし私はそんなことは気にしない。私はさまざまな人物からさまざまな名で呼ばれてきた歴は長い。だからどう言われようと構わない。今回厦門に行った時も、ここでも各種の流言があったが、すべて放っておき、もっぱら大総統哲学を用いた。すなわち「自然に任せる」だ。
十日までには出発できなくなった。先月の給料がまだ支払われず、あと数日待てと言われている。しかし何があっても十五日までには出発する。おそらく彼らのちょっとした小細工だろう。早く行かせまいとして、ここで何日か無駄に待たせるのだ。しかしこの小賢しさは、おそらくかえって裏目に出る。校内にはおそらく風潮が起きる。今まさに醞醸中で、二、三日中に爆発するかもしれない。しかしすでに慰留運動から学校改革運動に転じており、本来は私とは無関係だ。ただ私が早く行けば、学生は刺激が一つ減り、あるいは行動を起こさないかもしれないが、こうずるずる引き延ばされてはどうにもならない。その時きっとまた私のせいにして「放火犯」と名指しする者が出るだろうが、自然に任せるしかない。放火犯なら放火犯でよい。
この数日は送別会と宴会、話と酒ばかりで、おそらくあと二、三日はこの調子が続く。こうしたつまらない付き合いは、まさに生命の敵だ。この手紙のように、夜中の三時に書いているのも、宴会から帰ったのが十時で、一眠りして起きたらもう三時だったからだ。
食事に招いてくれる人々の思惑もさまざまで、だから席上の光景もなかなか見応えがある。私はここでは多くの人に疎まれているのだが、去るとなると一転してみな大人物だと持ち上げる。中国の古来の慣わしで、誰であれ死にさえすれば、弔辞には生前がいかに素晴らしかったか、亡くなってどんなに惜しいかと書くではないか。そこであの白果までが私を「吾が師」と呼び、しかも人にこう言っている。「私は彼の教え子ですよ。情誼はもちろん深いものです」と。彼は今日もまた私のために送別の宴を催すと言う。この酒がどれほど飲みにくいか、想像がつくだろう。
ここの惰気は四、五年も積もって蔓延しており、今何人かの学生が私の四月間の魔力でそれを打破しようとしている。私の見るところ、それは一つの幻想にすぎない。
迅。一月六日灯下。
五十六
広平兄:
五日と七日の二通の手紙は、今日(十一日)午前に一度に届いた。この書留には特に大事があるわけではない。ただ少し議論をぶちたいと思い、紛失したら惜しいので、念のため確実を期しただけだ。
ここの風潮はまだ広がっているようだが、結果は良くなるはずがない。何人かはこの機に乗じて出世しようとしており、あるいは学生側に取り入り、あるいは校長側に取り入っている。見ていて嘆かわしい限りだ。私の方の事はおおかた片付いた。本来もう出発できるのだが、今日一隻の船があったが間に合わなかった。次は土曜日にしか船がないので、十五日にしか出発できない。この手紙はおそらく私と同じ船で広州に着くだろうが、とりあえず先に出しておく。おそらく十五日に乗船し、あるいは十六日出帆となれば、広州到着は十九日か二十日だろう。まず広泰来旅館に泊まるつもりだ。学校との打ち合わせが済んだら、ひとまず学校に入る。部屋は大鐘楼で、伏園の手紙によると、彼の住んでいた部屋をそのまま私に残してくれるそうだ。
助教は伏園が骨を折り、中大が招聘したもので、私がどうして自分が与えたなどとうぬぼれよう。その他もろもろについては、「爆発」でも「発爆」でも構わない。私はこうやるだけだ。どんなに慎重にしても、やはり圧迫は幾重にも加えられ、まるで無限の罪を背負っているかのようだ。今ここで自ら供述し、自ら甲冑を脱ぐことにする。彼らの第二拳がどう打ってくるか、見届けてやろう。私は「来る者」に対して、初めは博く施す心でいたが、今はそのうちの一人に対してだけ、独自に求め得た心情を抱いている。(この一節は原意を誤解しているかもしれないが、すでに書いてしまったから直さない。)たとえそれが敵であれ、仇であれ、梟蛇鬼怪であれ、私は問わない。私を引き下ろそうとするなら、喜んで落ちよう。台の上に立っているのが楽しいとでも思っているのか。名声も地位も何もいらない。ただ梟蛇鬼怪があればそれで十分だ。そういう者を、私は「朋友」と呼ぶ。誰に何の文句があろう。しかし今のところまだ限られた消息しか漏らさないのは、第一に自分のため、生計の問題がまだ頭にあるからであり、第二に人のため、私がすでに得た地位を一時借りて改革運動を進めることができるからだ。しかし私にこの二つのことだけのために汲々として犠牲になれと言うなら、もうだめだ。犠牲はもう十分に払った。しかし享受する側はまだ足りず、私の全生命を捧げよと言う。もう嫌だ。私は「敵」を愛し、彼らに反抗する。
ご存知の通り、この三、四年だけを取っても、私は親しい者にも初対面の文学青年にも、力を尽くせるところでは尽くし、何の悪意もなかった。しかし男性の方はと言えば、彼ら自身の間でさえ嫉妬を隠しきれず、ついに争い始めた。一方では心が満たされず、私を打ち殺そうとし、あちら側の援助も失わせる。私のところに女子学生がいるのを見れば、流言を作り出す。その流言は、事の有無にかかわらず、彼らが必ず作り出すものだ。私が女性と一切会わない限りは。彼らは新思想を装っているにすぎず、骨の髄は暴君・酷吏・スパイ・小人だ。もし私がなおも忍耐し譲歩すれば、彼らはさらにつけあがって止まるところを知るまい。私は彼らを蔑視する。以前、ふと愛のことを考えると、いつもすぐに自分を恥じ、ふさわしくないと恐れて、ある人を愛する勇気がなかった。しかし彼らの言行思想の裏を見透かしてしまうと、自分はそこまで身を落とさねばならぬ人間ではないと自信が持てるようになった。私は愛することができる。
あの流言は、去年十一月になって初めて韋漱園の手紙から知った。沈鐘社の方から聞いたそうで、長虹が必死に攻撃するのは私がある女性のためであり、『狂飆』にある詩で太陽は自分、夜は私、月は彼女だと。彼は私にその事が本当か、詳しく教えてくれと聞いた。そこで初めて長虹が「片想い」をしていたことが分かった。絶え間なく私のところに来ていたのもそのためで、決して『莽原』のためではなく、月を待っていたのだ。しかし私に対しては一切敵意を見せず、私が厦門に行ってから初めて背後からさんざん罵り、私を訳の分からぬ目に遭わせた。実に卑怯極まりない。私が夜なら、当然月があるはずで、何を今さら詩にする必要がある。能力も低い。その時すぐに小説を一篇書いて、彼を少しからかい、未名社に送った。
その頃また手紙を出して孤灵のことを聞き合わせたところ、この種の流言はとうの昔からあったと分かった。広めたのは品青、伏園、亥倩、微風、宴太だ。彼女を厦門に連れて行ったという者もいるが、これにはおそらく伏園は含まれず、私を車まで見送った人々が流布したのだろう。白果が北京から家族を連れてここに来て、またこの流言を持ち込み、私を攻撃するために田千頃とわざと大勢の前で公表した。中傷の意図だ。ところが全く効果がなく、風潮はいささかも収まらなかった。今回の風潮は根が深く、私一人のためではないのに、彼らはなおこんな小賢しいことをやっている。まさに「死に至るも悟らず」だ。
今は夜二時、校内はこっそりと電灯を消し、休暇の告示を貼り出した。すぐに学生が発見し、引き剥がした。今後風潮はもう少し拡大するだろう。
今つくづく思うのは、私は口では辛辣なことを言うくせに、人に対してはお人よしすぎたということだ。玄情の類が私のところに来ていたのがスパイ行為だったとは、全く疑わなかった。もっとも彼の鼠のようにきょろきょろする目つきに、時々いくらか不快を感じることはあったが。しかも今日になって初めて分かったのだが、時に客間で待ってもらうと、彼らはそれさえ不満だったそうだ。私が部屋に月を隠していて、入れてくれないのだと。この大層な殿方たちのご機嫌を取るのが、いかに難しいか見よ。私は弟御に頼んで柳を数本買い、裏庭に植えた。トウモロコシを数本抜いたところ、母はもったいないと少し不機嫌だった。すると宴太がすかさず流言を大いにまき散らした。私が学生をけしかけて母を虐待させているのだと。静穏を求めてもかえって汚濁が増す。以前私が「ああ、故郷よ、再び帰れるかどうかは一つの問題だ」と言ったのは、決して神経過敏の言葉ではなかったのだ。
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一
秋天的后半夜,月亮下去了,太阳还没有出,只剩下一片乌蓝的天;除了夜游的东西,什么都睡着。华老栓忽然坐起身。擦着火柴,点上遍身油腻的灯盏,茶馆的两间屋子里,便弥满了青白的光。
"小栓的爹,你就去么?"是一个老女人的声音。里边的小屋子里,也发出一阵咳嗽。
"唔。"老栓一面听,一面应,一面扣上衣服;伸手过去说,"你给我罢。"
华大妈在枕头底下掏了半天,掏出一包洋钱,交给老栓,老栓接了,抖抖的装入衣袋,又在外面按了两下;便点上灯笼,吹熄灯盏,走向里屋子去了。那屋子里面,正在窸窸窣窣的响,接着便是一通咳嗽。老栓候他平静下去,才低低的叫道:"小栓……你不要起来。……店么?你娘会安排的。"
老栓听得儿子不再说话,料他安心睡了;便出了门,走到街上。街上黑沉沉的一无所有,只有一条灰白的路,看得分明。灯光照着他的两脚,一前一后的走。有时也遇到几只狗,可是一只也没有叫。天气比屋子里冷得多了;老栓倒觉爽快,仿佛一旦变了少年,得了神通,有给人生命的本领似的,跨步格外高远。而且路也愈走愈分明,天也愈走愈亮了。
老栓正在专心走路,忽然吃了一惊,远远里看见一条丁字街,明明白白横着。他便退了几步,寻到一家关着门的铺子,蹩进檐下,靠门立住了。好一会,身上觉得有些发冷。
"哼,老头子。"
"倒高兴。……"
老栓又吃一惊,睁眼看时,几个人从他面前过去了。一个还回头看他,样子不甚分明,但很像久饿的人见了食物一般,眼里闪出一种攫取的光。老栓看看灯笼,已经熄了。按一按衣袋,硬硬的还在。仰起头两面一望,只见许多古怪的人,三三两两,鬼似的在那里徘徊;定睛再看,却也看不出什么别的奇怪。
没有多久,又见几个兵,在那边走动;衣服前后的一个大白圆圈,远地里也看得清楚,走过面前的,并且看出号衣上暗红色的镶边。——一阵脚步声响,一眨眼,已经拥过了一大簇人。那三三两两的人,也忽然合作一堆,潮一般向前赶;将到丁字街口,便突然立住,簇成一个半圆。
老栓也向那边看,却只见一堆人的后背;颈项都伸得很长,仿佛许多鸭,被无形的手捏住了的,向上提着。静了一会,似乎有点声音,便又动摇起来,轰的一声,都向后退;一直散到老栓立着的地方,几乎将他挤倒了。
"喂!一手交钱,一手交货!"一个浑身黑色的人,站在老栓面前,眼光正像两把刀。刺得老栓缩小了一半。那人一只大手,向他摊着;一只手却撮着一个鲜红的馒头,那红的还是一点一点的往下滴。
老栓慌忙摸出洋钱,抖抖的想交给他,却又不敢去接他的东西。那人便焦急起来,嚷道,"怕什么!怎的不拿!"老栓还踌躇着;黑的人便抢过灯笼,一把扯下纸罩,裹了馒头,塞与老栓;一手抓过洋钱,捏一捏,转身去了。嘴里哼着说:"这老东西……。"
"这给谁治病的呀?"老栓也似乎听得有人问他,但他并不答应;他的精神,现在只在一个包上,仿佛抱着一个十世单传的婴儿,别的事情,都已置之度外了。他现在要将这包里的新的生命,移植到他家里,收获许多幸福。太阳也出来了;在他面前,显出一条大道,直到他家中,后面也照见丁字街头破匾上"古□亭□"这四个黯淡的金字。
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一
秋の夜更け、月は沈み、太陽はまだ昇らず、残るは一面の暗藍の空ばかりであった。夜を歩く生き物のほかは、何もかもが眠っていた。華老栓は突然起き上がった。燐寸(マッチ)を擦り、油まみれの灯盞に火を点けると、茶館の二間の部屋に青白い光が満ちた。
「小栓のお父さん、もう行くのかい?」老女の声であった。奥の小部屋からはまた一しきり咳の音がした。
「うむ。」老栓は聞きながら返事をし、身支度を整え、手を伸ばして言った。「おくれ。」
華大媽は枕の下をしばらく探り、洋銀の包みを取り出して老栓に渡した。老栓はそれを受け取り、震えながら懐に収め、外からもう一度二度押さえた。それから提灯に火を点け、灯盞を吹き消して、奥の部屋へ行った。その部屋の中でがさがさと音がし、続いて一しきり咳が起こった。老栓は治まるのを待ってから、低い声で呼びかけた。「小栓……起きなくていい。……店か? 母さんが何とかしてくれる。」
老栓は息子がもう何も言わぬのを聞いて、安心して眠ったものと見て、門を出て街へ出た。街は真っ暗で何もなく、ただ一条の灰白い道だけがはっきり見えた。提灯の光が彼の両足を照らし、一歩また一歩と進んだ。時おり犬に行き会ったが、一匹も吠えなかった。外の寒気は部屋の中よりよほど厳しかったが、老栓はかえって爽快に感じた。まるで一朝にして若者に戻り、神通力を得て、人に命を与える力を持ったかのように、足取りは格別に大きく、遠くまで踏み出した。そして道はいよいよ明るく、空もいよいよ白んできた。
老栓が一心に歩いていると、不意にぎくりとした。遠くに丁字路がくっきりと横たわっているのが見えたのだ。彼は数歩退き、閉ざされた一軒の店を見つけて、軒下に身を寄せ、戸口に立ち止まった。しばらくして、身体がいくぶん冷えてくるのを覚えた。
「ふん、爺さんか。」
「ご機嫌だな……。」
老栓はまたぎくりとして目を凝らすと、何人かの者が目の前を通り過ぎた。一人は振り返って彼を見たが、顔はよく見えなかった。ただ、長く飢えた者が食物を見つけたように、目に一種の奪い取るような光が閃いた。老栓が提灯を見ると、もう消えていた。懐を押さえると、硬いものがまだあった。顔を上げて両方を見回すと、大勢の奇妙な者たちが三々五々、亡霊のようにさまよっていたが、目を凝らしてもそれ以上変わったことは見えなかった。
やがてまた何人かの兵士が向こうを行き来するのが見えた。衣服の前後に大きな白い丸い印があり、遠くからもはっきり見えた。すぐ前を通り過ぎた者の号衣には暗紅色の縁飾りも見えた。——足音がどっと響き、瞬く間に大勢の人が押し寄せてきた。三々五々の者たちも突然一塊となり、潮のように前へ駆け出し、丁字路の角に至ると突然止まり、半円形に群がった。
老栓もそちらを見たが、ただ人垣の背中が見えるばかりであった。首はみな長く伸び、まるで多くの鶩(あひる)が見えない手に首を掴まれて上に引き上げられているようであった。しばし静まった後、かすかに物音がしたかと思うと、また動揺し始め、轟と一斉に後退した。ずっと老栓の立っている所まで散ってきて、彼を押し倒さんばかりであった。
「おい! 片手で銭を、片手で品物を渡せ!」全身黒ずくめの男が老栓の前に立ち、目つきはまさに二本の刃のようであった。老栓は射竦められて半分に縮んだ。その男は片方の大きな手を彼に差し出し、もう片方の手には鮮紅の饅頭を摘んでいた。その紅いものはまだぽたぽたと滴り落ちていた。
老栓は慌てて洋銀を探り出し、震えながら渡そうとしたが、相手のものを受け取る勇気がなかった。すると男は苛立ち、怒鳴った。「何を怖がっている! なぜ受け取らない!」老栓がなおためらっていると、黒い男は提灯をひったくり、紙の覆いを剥ぎ取って饅頭を包み、老栓に押しつけた。片手で洋銀をさらい取り、ぐっと握って立ち去った。口の中で呟いた。「この老いぼれめ……。」
「これは誰の病気を治すのですか?」老栓にも誰かに聞かれた気がしたが、彼は答えなかった。彼の心は今やただ一つの包みにのみ注がれていた。まるで十代の一粒種の赤子を抱いているかのように、他のことはすべて眼中になかった。彼は今、この包みの中の新しい命を自分の家に移植し、多くの幸福を収穫するのだ。太陽も昇ってきた。彼の前に一条の大道が現れ、まっすぐに家まで続いていた。振り返ると、丁字路の角の朽ちた扁額に「古□亭□」の四つの暗い金文字が照らし出されていた。
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二
老栓走到家,店面早经收拾干净,一排一排的茶桌,滑溜溜的发光。但是没有客人;只有小栓坐在里排的桌前吃饭,大粒的汗,从额上滚下,夹袄也帖住了脊心,两块肩胛骨高高凸出,印成一个阳文的"八"字。老栓见这样子,不免皱一皱展开的眉心。他的女人,从灶下急急走出,睁着眼睛,嘴唇有些发抖。
"得了么?"
"得了。"
两个人一齐走进灶下,商量了一会;华大妈便出去了,不多时,拿着一片老荷叶回来,摊在桌上。老栓也打开灯笼罩,用荷叶重新包了那红的馒头。小栓也吃完饭,他的母亲慌忙说:——
"小栓——你坐着,不要到这里来。"
一面整顿了灶火,老栓便把一个碧绿的包,一个红红白白的破灯笼,一同塞在灶里;一阵红黑的火焰过去时,店屋里散满了一种奇怪的香味。
"好香!你们吃什么点心呀?"这是驼背五少爷到了。这人每天总在茶馆里过日,来得最早,去得最迟,此时恰恰蹩到临街的壁角的桌边,便坐下问话,然而没有人答应他。"炒米粥么?"仍然没有人应。老栓匆匆走出,给他泡上茶。
"小栓进来罢!"华大妈叫小栓进了里面的屋子,中间放好一条凳,小栓坐了。他的母亲端过一碟乌黑的圆东西,轻轻说:——
"吃下去罢,——病便好了。"
小栓撮起这黑东西,看了一会,似乎拿着自己的性命一般,心里说不出的奇怪。十分小心的拗开了,焦皮里面窜出一道白气,白气散了,是两半个白面的馒头。——不多工夫,已经全在肚里了,却全忘了什么味;面前只剩下一张空盘。他的旁边,一面立着他的父亲,一面立着他的母亲,两人的眼光,都仿佛要在他身里注进什么又要取出什么似的;便禁不住心跳起来,按着胸膛,又是一阵咳嗽。
"睡一会罢,——便好了。"
小栓依他母亲的话,咳着睡了。华大妈候他喘气平静,才轻轻的给他盖上了满幅补钉的夹被。
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二
老栓が家に着くと、店先はとうに片付けられ、一列また一列と並んだ茶卓がつるつると光っていた。しかし客はいない。ただ小栓だけが奥の列の卓の前に座って飯を食べていた。大粒の汗が額から転がり落ち、袷(あわせ)の着物も背中にぴたりと貼りつき、二つの肩胛骨が高く突き出て、陽刻の「八」の字を成していた。老栓はその様を見て、思わず開きかけた眉間をまた顰めた。彼の女房が竈の下から急いで出てきて、目を見開き、唇がいくぶん震えていた。
「手に入ったかい?」
「手に入った。」
二人は一緒に竈の下に入り、しばらく相談した。やがて華大媽が出て行き、まもなく古い蓮の葉を一枚持って戻り、卓の上に広げた。老栓も提灯の覆いを開け、蓮の葉であの紅い饅頭を包み直した。小栓も飯を食べ終え、母親が慌てて言った——
「小栓——お前はそこに座っていなさい。こっちに来てはいけないよ。」
一方で竈の火を整え、老栓は碧緑の包みと赤白まだらの破れた提灯を一緒に竈に押し込んだ。紅黒い炎がさっと過ぎると、店中に一種奇妙な香りが漂った。
「いい匂いだな! 何の点心を食っているんだ?」これは猫背の五旦那が来たのだ。この人は毎日茶館で過ごし、最も早く来て最も遅く帰るのだが、この時ちょうど街に面した壁際の卓の傍にやってきて、座って尋ねた。が、誰も答えなかった。「炒米粥かい?」やはり誰も答えない。老栓が慌てて出てきて茶を淹れた。
「小栓、こっちにおいで!」華大媽は小栓を奥の部屋に呼び入れ、真ん中に長椅子を据えて小栓を座らせた。母親が真っ黒な丸いものの載った皿を運んできて、そっと言った——
「食べておしまい——そうすれば病気が治るよ。」
小栓はその黒い物を摘み上げ、しばらく眺めた。まるで自分の命を手に持っているようで、心の中では言い表しようのない奇妙な思いがした。恐る恐る割ると、焦げた皮の中から白い湯気が一筋立ち昇り、湯気が散ると、中は二つに割れた白い饅頭であった。——ほどなくすっかり腹の中に収まったが、どんな味であったかはまったく覚えていなかった。目の前には空の皿だけが残った。その傍らには片側に父が、片側に母が立ち、二人の目つきはまるで彼の体の中に何かを注ぎ込み、また何かを取り出そうとするかのようであった。小栓は思わず胸が高鳴り、胸を押さえると、またひとしきり咳が出た。
「少し眠りなさい——そうすれば良くなるよ。」
小栓は母の言葉に従い、咳をしながら眠った。華大媽は息づかいが静まるのを待ってから、そっと継ぎ接ぎだらけの掛け布団をかけてやった。
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四
西关外靠着城根的地面,本是一块官地;中间歪歪斜斜一条细路,是贪走便道的人,用鞋底造成的,但却成了自然的界限。路的左边,都埋着死刑和瘐毙的人,右边是穷人的丛冢。两面都已埋到层层迭迭,宛然阔人家里祝寿时候的馒头。
这一年的清明,分外寒冷;杨柳才吐出半粒米大的新芽。天明未久,华大妈已在右边的一坐新坟前面,排出四碟菜,一碗饭,哭了一场。化过纸,呆呆的坐在地上;仿佛等候什么似的,但自己也说不出等候什么。微风起来,吹动他短发,确乎比去年白得多了。
小路上又来了一个女人,也是半白头发,褴褛的衣裙;提一个破旧的朱漆圆篮,外挂一串纸锭,三步一歇的走。忽然见华大妈坐在地上看他,便有些踌躇,惨白的脸上,现出些羞愧的颜色;但终于硬着头皮,走到左边的一坐坟前,放下了篮子。
那坟与小栓的坟,一字儿排着,中间只隔一条小路。华大妈看他排好四碟菜,一碗饭,立着哭了一通,化过纸锭;心里暗暗地想,"这坟里的也是儿子了。"那老女人徘徊观望了一回,忽然手脚有些发抖,跄跄踉踉退下几步,瞪着眼只是发怔。
华大妈见这样子,生怕他伤心到快要发狂了;便忍不住立起身,跨过小路,低声对他说,"你这位老奶奶不要伤心了,——我们还是回去罢。"
那人点一点头,眼睛仍然向上瞪着;也低声吃吃的说道,"你看。——看这是什么呢?"
华大妈跟了他指头看去,眼光便到了前面的坟,这坟上草根还没有全合,露出一块一块的黄土,煞是难看。再往上仔细看时,却不觉也吃一惊;——分明有一圈红白的花,围着那尖圆的坟顶。
他们的眼睛都已老花多年了,但望这红白的花,却还能明白看见。花也不很多,圆圆的排成一个圆,不很精神,倒也整齐。华大妈忙看他儿子和别人的坟,却只有不怕冷的几点青白小花,零星开着;便觉得心里忽然感到一种不足和空虚,不愿意根究。那老女人又走近几步,细看了一遍,自言自语的说,"这没有根,不像自己开的。——这地方有谁来呢?孩子不会来玩;——亲戚本家早不来了。——这是怎么一回事呢?"他想了又想,忽又流下泪来,大声说道:——
"瑜儿,他们都冤枉了你,你还是忘不了,伤心不过,今天特意显点灵,要我知道么?"他四面一看,只见一只乌鸦,站在一株没有叶的树上,便接着说,"我知道了。——瑜儿,可怜他们坑了你,他们将来总有报应,天都知道;你闭了眼睛就是了。——你如果真在这里,听到我的话,——便教这乌鸦飞上你的坟顶,给我看罢。"
微风早经停息了;枯草支支直立,有如铜丝。一丝发抖的声音,在空气中愈颤愈细,细到没有,周围便都是死一般静。两人站在枯草丛里,仰面看那乌鸦;那乌鸦也在笔直的树枝间,缩着头,铁铸一般站着。
许多的工夫过去了;上坟的人渐渐增多,几个老的小的,在土坟间出没。
华大妈不知怎的,似乎卸下了一挑重担,便想到要走;一面劝着说,"我们还是回去罢。"
那老女人叹一口气。无精打采的收起饭菜;又迟疑了一刻,终于慢慢地走了。嘴里自言自语的说,"这是怎么一回事呢?……"
他们走不上二三十步远,忽听得背后"哑——"的一声大叫;两个人都竦然的回过头,只见那乌鸦张开两翅,一挫身,直向着远处的天空,箭也似的飞去了。
(一九一九年四月。)
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四
西関の外、城壁の根元に沿った地面はもともと官有地であった。その真ん中を歪み曲がった一本の細い道が通っていたが、それは近道をしようとする者たちが靴底で踏み固めてできたもので、しかし自然の境界となっていた。道の左側には死刑囚や獄死者が埋葬され、右側は貧者の合葬墓であった。どちらも幾重にも積み重なって埋葬され、さながら裕福な家の祝宴の折の饅頭のようであった。
この年の清明節はことのほか寒く、楊柳がようやく半粒の米ほどの新芽を吹き出したばかりであった。夜が明けて間もなく、華大媽はすでに右手の新しい墳の前に四皿の菜と一碗の飯を並べ、ひとしきり泣いた。紙銭を焼いた後、ぼんやりと地面に座っていた。何かを待っているかのようであったが、何を待っているのか自分でも言えなかった。微風が起こり、彼女の短い髪を揺らした。確かに去年よりずっと白くなっていた。
小道にまたもう一人の女が来た。やはり半白の髪で、襤褸の衣裙をまとい、破旧の朱漆の丸籠を提げ、紙錠を一連ぶら下げて、三歩ごとに休みながら歩いてきた。ふと華大媽が地面に座っているのを見て、いくぶんためらった。蒼白い顔に羞愧の色が浮かんだが、ついには意を決して左側の墳の前まで行き、籠を下ろした。
その墳は小栓の墳と一列に並び、間には一本の小道があるのみであった。華大媽はその女が四皿の菜と一碗の飯を並べ、立ったままひとしきり泣き、紙錠を焼くのを見ていた。心の中でひそかに思った。「この墓の中のも息子なのだろう。」その老女は暫く彷徨い見回した後、突然手足が震え出し、よろよろと数歩退き、目を見開いてただ茫然としていた。
華大媽はその様を見て、悲しみのあまり発狂しかけるのではないかと恐れ、思わず立ち上がり、小道を越えて、低い声で語りかけた。「お婆さん、あまり悲しまないでください。——さあ、帰りましょう。」
その女はうなずいたが、目はなおも上を凝視し、同じく低い声でたどたどしく言った。「ご覧ください。——これは何でしょうね?」
華大媽はその指の先を追って見ると、視線は向こうの墳に至った。その墳の上は草の根がまだ覆い切れず、黄色い土がところどころ剥き出しで、見るに堪えなかった。さらに上の方をよく見ると、思わずぎくりとした。——明らかに紅白の花が一輪、あの尖った丸い墳の頂を囲んでいたのだ。
二人の目はもう何年も老眼であったが、この紅白の花はまだはっきりと見えた。花はそれほど多くはなく、丸く輪になって並び、あまり生き生きとはしていなかったが、整然としていた。華大媽は急いで自分の息子や他の墓を見たが、寒さに強い青白い小さな花が幾つかまばらに咲いているだけであった。すると心の中に突然一種の不足と空虚を感じ、深く追究する気にはなれなかった。あの老女はまた数歩近づき、子細に一巡り見てから、独り言を言った。「根がない、自然に咲いたのでもなさそうだ。——こんな所に誰が来るというのだろう? 子供が遊びに来るはずもない。——親戚もとうに来なくなった。——一体どういうことだろう?」考えに考えたが、突然また涙を流し、大声で言った——
「瑜児よ、みんなお前に濡れ衣を着せたのに、お前はまだ忘れられず、悲しくてたまらず、今日わざわざ霊験を見せて、私に知らせようとしているのかい?」四方を見回すと、一羽の鴉が葉のない木の枝に止まっていたので、続けて言った。「分かったよ。——瑜児、可哀想に、あいつらがお前を陥れたが、いずれ報いを受けるのだ。天が知っているのだから。お前は目を閉じておいで。——もし本当にここにいて、私の言葉が聞こえるなら、——あの鴉をお前の墳の上に飛んで来させて、見せておくれ。」
微風はとうに止んでいた。枯草はまっすぐに立ち、銅線のようであった。かすかに震える声が空気の中でいよいよ細く、細くなり、ついに消え、あたりはすべて死のような静寂であった。二人は枯草の叢の中に立ち、仰いであの鴉を見つめた。鴉もまた真っ直ぐな枝の間で、首を縮め、鉄で鋳たように動かず止まっていた。
長い時間が過ぎた。墓参りの人が次第に増え、老人や子供が土の墳の間を行き来した。
華大媽はどうしたことか、まるで重い荷を下ろしたように感じ、帰ろうと思った。傍らの女に勧めて言った。「さあ、帰りましょう。」
老女はため息をつき、元気なく菜や飯を片付けた。しばらくためらった後、ようやくゆっくりと歩き出した。口の中で独り言を言っていた。「一体どういうことだろう?……」
二人が二三十歩も行かぬうちに、背後で「ガア——」と一声大きな鳴き声がした。二人とも身を竦めて振り返ると、あの鴉が両翼を広げ、身を一ひねりして、遠くの天空に向かって矢のように飛び去るところであった。
(一九一九年四月。)
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