Lu Xun Complete Works/ja/Huabian wenxue

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花辺文学

花边文学

魯迅 (1934)

13/61 節翻訳済み



第1節

【且介亭雑文】




【序言】




近年来、いわゆる「雑文」の生産は以前よりも多くなり、以前よりもさらに多くの攻撃を受けている。たとえば自称「詩人」の邵洵美、元「第三種人」の施蛰存と杜衡すなわち蘇汶、まだ一知半解にも達しない大学生の林希雋の輩は、いずれも雑文と骨に徹する仇があり、種々の罪状を与えた。しかし効き目はなく、書く者は増え、読む者も増えた。


実は「雑文」なるものは今日の新製品ではなく、「古より已に之あり」なのだ。およそ文章があれば、分類すればいずれも帰すべき類があるが、もし編年にすれば、作成の年月に従うのみで文体を問わず、各種が一所に交じり、かくして「雑」となる。分類は文章の揣摩に益あり、編年は時勢の理解に利あり、もし人を知り世を論ぜんとすれば、編年の文集を見るに如くはなく、今日新たに作られた古人の年譜が流行しているのは、既に多くの人がこの中の消息を省悟したことの証左である。しかも今はいかに切迫した時であることか、作者の任務は、有害な事物に対し直ちに反響あるいは抗争を与えることにある。感応の神経であり、攻守の手足だ。鴻篇巨制に潜心して未来の文化のために構想するのは固より結構だが、現在のために抗争するのもまさに現在と未来のための戦う作者なのだ。現在を失えば、未来もまたないからだ。


戦闘には必ず傾向がある。これこそ邵、施、杜、林の輩の大敵であり、実は彼らが憎悪するのは内容なのだ。文芸の法衣を纏いながら、その内に包蔵するのは「死の説教者」であり、生存とは両立し得ない。


この一冊と『花辺文学』は、私が昨年一年のうちに、官民の明に暗に、軟に硬に「雑文」を囲剿する筆と刀の下で結集したものであり、書いたものはすべてここにある。もとより詩史とは言い難いが、その中には時代の眉目があり、また決して英雄たちの八宝箱のように一朝開ければ光輝燦然とするものでもない。私はただ深夜の街頭に地べたの露店を出しているに過ぎず、並べてあるのは小さな釘と瓦の皿ばかりだが、それでも希望し、また信じている──その中から自分の用途に合うものを見つけ出す人がいることを。


一九三五年十二月三十日、上海の且介亭にて記す。


第2節

【序言】



 近年来、いわゆる「雑文」の生産は以前よりも多くなり、以前よりもさらに多くの攻撃を受けている。たとえば自称「詩人」の邵洵美、元「第三種人」の施蛰存と杜衡すなわち蘇汶、まだ一知半解にも達しない大学生の林希雋の輩は、いずれも雑文と骨に徹する仇があり、種々の罪状を与えた。しかし効き目はなく、書く者は増え、読む者も増えた。

 実は「雑文」なるものは今日の新製品ではなく、「古より已に之あり」なのだ。およそ文章があれば、分類すればいずれも帰すべき類があるが、もし編年にすれば、作成の年月に従うのみで文体を問わず、各種が一所に交じり、かくして「雑」となる。分類は文章の揣摩に益あり、編年は時勢の理解に利あり、もし人を知り世を論ぜんとすれば、編年の文集を見るに如くはなく、今日新たに作られた古人の年譜が流行しているのは、既に多くの人がこの中の消息を省悟したことの証左である。しかも今はいかに切迫した時であることか、作者の任務は、有害な事物に対し直ちに反響あるいは抗争を与えることにある。感応の神経であり、攻守の手足だ。鴻篇巨制に潜心して未来の文化のために構想するのは固より結構だが、現在のために抗争するのもまさに現在と未来のための戦う作者なのだ。現在を失えば、未来もまたないからだ。

 戦闘には必ず傾向がある。これこそ邵、施、杜、林の輩の大敵であり、実は彼らが憎悪するのは内容なのだ。文芸の法衣を纏いながら、その内に包蔵するのは「死の説教者」であり、生存とは両立し得ない。

 この一冊と『花辺文学』は、私が昨年一年のうちに、官民の明に暗に、軟に硬に「雑文」を囲剿する筆と刀の下で結集したものであり、書いたものはすべてここにある。もとより詩史とは言い難いが、その中には時代の眉目があり、また決して英雄たちの八宝箱のように一朝開ければ光輝燦然とするものでもない。私はただ深夜の街頭に地べたの露店を出しているに過ぎず、並べてあるのは小さな釘と瓦の皿ばかりだが、それでも希望し、また信じている──その中から自分の用途に合うものを見つけ出す人がいることを。

 一九三五年十二月三十日、上海の且介亭にて記す。


第3節

【一九三四年】


第4節

【中国に関する二、三の事】


第5節

【一 中国の火について】


 ギリシア人の用いた火は、聞くところによればはるか昔、プロメテウスが天から盗んできたものだが、中国のそれはこれとは異なり、燧人氏が自ら発見した──あるいは発明と言うべきであろう。盗っ人ではなかったから、山に繋がれて老鷲に啄まれる災難は免れたが、しかしプロメテウスほどに語り伝えられ、崇拝されることもなかった。

 中国にも火の神はいる。しかしそれは燧人氏ではなく、勝手に放火する訳のわからぬ存在だ。

 燧人氏が火を発見、あるいは発明してこのかた、美味なる火鍋を食し、灯を点して夜も仕事ができるようになった。しかし、まさに先哲のいわゆる「一利あれば必ず一弊あり」であろうか、同時に火災も始まり、故意に火を点けて、有巣氏の発明した巣を焼き払う了不起の人物も現れたのだ。

 善良な燧人氏は忘れられるのが当然であった。食傷を起こしたとしても、今度は神農氏の領分になるわけで、ゆえにかの神農氏は今日なお人々に記憶されている。火災については、その発明者が結局何者であるかは知る由もないが、祖師は必ずいるはずであり、やむを得ずこれを漫然と火神と呼び、畏敬を捧げたのだ。その画像を見れば、赤い顔に赤い髭だが、祭祀の折にはすべての赤い物を避け、緑色で代えなければならない。彼はおそらくスペインの牛のように、赤い色を見ると興奮して恐ろしい行動を起こすのであろう。

 かくして彼は崇祀を受けている。中国ではこのような悪神がなお多い。

 しかし人の世では、彼らのおかげでかえって賑やかになっているようだ。祭礼も火神のものはあるが、燧人氏のものはない。もし火災があれば、被災者も近隣の被災していない者も、火神を祭り、感謝の意を表さねばならない。被災してなお感謝の意を表すとは、いささか意外ではあるが、祭らなければ


第6節

二度目もまた焼かれると言われるので、やはり感謝した方が安全なのだ。しかもこれは火神に対してのみならず、人に対しても時に同じようにするのであり、おそらくこれも一種の礼儀であろうと思う。

 実のところ、放火はまことに恐ろしいが、飯を炊くことに比べれば、あるいはより面白いかもしれぬ。外国の事は知らぬが、中国においては、いかなる歴史を調べても、飯を炊き灯を点す人々の列伝は見つからない。社会においても、いかに飯を炊くのが上手でも、いかに灯を点けるのが上手でも、名人となる望みは毫もない。しかるに秦の始皇帝が一たび書を焼けば、今に至るまで厳然として名人であり、ヒトラーの焚書事件の先例として引かれるに至っている。仮にヒトラー夫人が電灯を点けたりパンを焼いたりするのが上手だったとして、歴史上に先例を求めようとしても、おそらく難しかろう。しかし幸いにも、そのようなことが世を騒がせることはないのだ。

 家屋を焼く事は、宋人の筆記によれば、蒙古人に始まるという。彼らは天幕に住んでおり、家屋に住むことを知らなかったので、手当たり次第に放火した、と。しかしこれは嘘である。蒙古人の中で漢文を解する者は甚だ少なく、ゆえに訂正しに来ないだけだ。実は秦の末年に既に放火の名人項羽がおり、阿房宮を焼いて天下に名を馳せ、今日なお舞台に登場し、日本でもかなり有名だ。しかるにまだ焼かれる前の阿房宮で毎日灯を点していた人々は、誰がその名を知ろうか。

 今日は爆裂弾だの焼夷弾だのの類が既に作られ、加えて飛行機もかなり進歩しているから、名人になろうとすれば一層たやすくなった。しかも以前よりも大きく放火すれば、その人はさらに一層尊敬を受け、遠くから見れば救世主のようであり、その火光は人に光明だと思わせるのだ。


第7節

【二 中国の王道について】


 一昨年、中里介山氏の大作『支那及び支那国民に贈る書』を拝読した。記憶するところでは、その中で周も漢もいずれも侵略者の資質を持ち、しかるに支那人はことごとくこれを讴歌し、歓迎した。北方の元と清に対してすら讴歌したという。ただその侵略に国家を安定させる力があり、民生を保護する実があれば、それこそ支那人民の渇望する王道であると。かくして支那人の執迷不悟に対し、非常に憤慨していた。

 その「書」は満洲で出版された雑誌に訳載されたが、中国には輸入されなかったため、返信の類は今に至るまで一篇も見ていない。ただ去年の上海の新聞に載った胡適博士の談話の中に、「中国を征服するにはただ一つの方法がある。すなわち徹底的に侵略を停止し、翻って中国民族の心を征服することだ」とあった。無論それは偶然に過ぎぬが、あの書への返答のようにも感じられた。

 中国民族の心を征服する──これは胡適博士が中国のいわゆる王道に下した定義だが、しかし私が思うに、彼自身おそらく自分の言葉を信じてはいまい。中国において、実は徹底して王道なるものは存在したことがなく、「歴史癖と考証癖を有する」胡博士がこれを知らぬはずはない。

 なるほど、中国にも元と清を讴歌した者はいた。しかしそれは火神への感謝の類であり、心まで征服されたという証左ではない。もしある暗示を与え、讴歌しなければさらに虐待を加えると言えば、たとえある程度の虐待を加えても、なお人々に讴歌させることができる。四、五年前、私は自由を要求する団体に加盟したが、当時の上海教育局長陳徳征氏が勃然として怒り、三民主義の統治の下でなお不満なのか、それならば現在与えているわずかな自由も取り上げると言った。そして本当に取り上げたのだ。以前よりもさらに不自由を感ずるたびに、私は一方では陳氏の王道の学識に精通せることに感服し、他方では時としてやはり、三民主義を讴歌すべきだったと思わずにはいられない。しかし今はもう遅すぎる。

 中国の王道は、見たところ覇道と対立するもののようだが、実は兄弟であり、その前と後には必ず覇道がやって来る。人民が讴歌するのは、覇道の軽減を、あるいはこれ以上の加重なきことを望むがゆえである。

 漢の高祖は、歴史家によれば龍の血筋だが、実は無頼の出身であり、侵略者というのはいくらか当たらないであろう。周の武王に至っては、征伐の名をもって中国に入り、しかも殷とはおそらく民族さえ異なるから、現代の言葉で言えば侵略者である。しかし当時の民衆の声は、今はもう残っていない。孔子と孟子が確かに大いにかの王道を宣伝したが、先生方は周の臣民であるのみならず、歴国を周遊して活動したのだから、官職を得んがためであったかもしれぬ。聞こえの良い言い方をすれば「道を行わん」がためであり、もし官になれば道を行うに便利であり、官になるには周を称讃するに如くはなかったのだ。しかし別の記載を見れば、王道の祖師にしてかつ専門家たる周も、征伐の初めには伯夷と叔斉が馬を叩いて諫め、引き離さねばならず、紂の軍隊も抵抗し、その血をして杵を漂わしめずばやまなかった。続いて殷の民がまた反乱を起こし、特に「頑民」と称して王道天下の人民から除外したものの、結局のところやはり何らかの破綻があったようだ。よくぞ王道よ、ただ一人の頑民で根拠を失ってしまうとは。

 儒士と方士は中国特産の名物である。方士の最高理想は仙道であり、儒士のそれは王道だ。しかし遺憾なことに、この二つは中国においてついぞ実在しなかった。長い歴史上の事実が証明するところに拠れば、かつて真の王道があったと言うのは妄言であり、今なおあると言うのは新薬だ。孟子は周の末に生まれたがゆえに覇道を語ることを恥としたが、もし今日に生まれたならば、人類の知識の範囲の拡大に伴い、王道を語ることを恥ずるであろう。


第8節

【三 中国の監獄について】


 人々は確かに事実によって改めて覚醒し、事柄もまたそこから変化を生ずるものだと思う。宋朝から清朝末年までの多くの年月、もっぱら聖賢に代わって言を立てる「制芸」なるいかにも煩雑な文章をもって士を取ったが、フランスに敗れてようやくこの方法の誤りを覚った。そこで留学生を西洋に送り、兵器製造局を開設して、その改正の手段とした。これでもまだ足りぬと覚ったのは、日本に敗れた後のことで、今度は懸命に学校を開いた。するとこんどは学生が年々大騒ぎをした。清朝が倒れて国民党が政権を掌握してから、ようやくこの誤りを覚り、その改正の手段としたのは、監獄を大いに造ること以外には何もなかったのだ。

 中国では、国粋式の監獄は早くからあらゆる所にあったが、清末にはいくらか西洋式、すなわちいわゆる文明式の監獄も造られた。これは旅行でやって来る外国人に見せるために建造されたもので、外国人とうまく交際するために特に派遣して文明人の礼節を学ばせた留学生と、同じ種類に属すべきものだ。この恩恵のおかげで、囚人の待遇もなかなか良く、入浴させてもらえ、一定量の食事も与えられるから、かなり幸福な場所であった。しかし、つい二、三週間前にも、政府は仁政を行うべくさらに一つの命令を出し、囚糧の横領を禁じた。今後はいっそう幸福になるだろう。

 旧式の監獄に至っては、仏教の地獄をお手本にしたようなもので、囚人を禁錮するだけでなく、苦しめる職掌も兼ねていた。金銭を搾り取り、囚人の家族を窮乏の極みに追い込む職掌も、時に兼帯される。しかし誰もが当然と思っていた。もし反対する者がいれば、囚人の肩を持つことに等しく、悪党の嫌疑を受ける。しかし文明は驚くほど進歩したので、去年にはまた、毎年囚人を家に帰し、性欲解消の機会を与えるべしという、かなり人道主義の匂いのする説を唱える官吏も現れた。実は彼も囚人の性欲に特段の同情を寄せているわけではなく、どうせ実行されることはないとわかっているから、大声で一声叫んでおき、官吏としての自分の存在を示そうというだけだ。しかし世論はかなり沸騰した。ある批評家は、こうなれば皆が監獄を恐れなくなり、喜び勇んで入るだろうと、世道人心のために大いに憤慨した。いわゆる聖賢の教えをあれほど久しく受けながら、あの官吏ほどの円滑さも身につけていないのは、固より誠実で信頼に足るとも言えるが、しかし彼の見解は、囚人に対して虐待を加えざるべからずというものであったことも、これによってわかる。

 別の道筋から考えれば、監獄も確かに「安全第一」を標語とする人々の理想郷と言えなくもない面がある。火災は極めて稀であり、泥棒は来ず、土匪もまず来て奪うことはあるまい。戦争が起きても、監獄を目標にして爆撃するような馬鹿はおらず、革命が起きても、囚人を釈放する例はあるが、虐殺する例はない。福建独立の際には、囚人を釈放したと言いつつ、外に出ると自分たちと意見の異なる者がかえって失踪したという噂もあったが、このような例は以前には無かった。つまるところ、さほど悪い場所でもないようだ。家族の同伴さえ許されれば、今のように大水、飢饉、戦争、恐怖の時代でなくとも、引っ越して住みたいと申し出る者が必ずしも一人もいないとは限るまい。かくして虐待は必要不可欠となるのだ。

 牛蘭夫妻が赤化宣伝の罪で南京の監獄に繋がれ、既に三、四回ハンガーストライキをしたが、何の効果もない。これは彼が中国の監獄の精神を知らぬがゆえである。ある官吏が驚いてこう言った。彼が自分で食べないのと、他人に何の関係があるのか? 仁政と関係ないどころか、食料の節約になり、監獄にとってはむしろ有益だ。ガンジーの芝居も、興行の場所を選ばなければ、何の効果もないのだ。

 しかし、このように完璧に近い監獄にも、なお一つの欠点が残されていた。今に至るまで、思想上の事には十分な注意が払われていなかったのだ。この欠点を補うため、近年新たに発明された「反省院」なる特殊監獄で、教育が施されている。私はまだそこに入って反省したことがないので詳しくは知らぬが、要するに三民主義を絶えず囚人に講じ聞かせ、自分の過ちを反省させるらしい。聞くところでは、さらに共産主義を排撃する論文を書かされるという。もし書くことを拒めば、あるいは書けなければ、むろん終身反省するしかなく、書いたものが及第点に達しなくとも、やはり死ぬまで反省するしかない。今は入る者も出る者もいるが、なお反省院を増設しなければならぬと聞けば、やはり入る者の方が多いのだ。試験に合格して放免された良民に偶々会うこともあるが、大抵萎靡不振の様子で、反省と卒業論文に力を使い果たしたのであろう。その前途は、希望なき方に属する。


第9節

【国際文学社への回答】


 原問──

 一、ソ連の存在と成功は、あなたにとってどのようなものですか。(ソヴィエト建設の十月革命は、あなたの思想の道筋と創作の性質に、何か変化をもたらしましたか。)

 二、ソヴィエト文学についてのご意見はいかがですか。

 三、資本主義諸国において、何の事件やさまざまな文化上の進行が、とりわけあなたの注意を引きますか。


 一、以前、旧社会の腐敗は私も感じていたし、新しい社会の出現を希望していたが、この「新しいもの」が何であるべきか知らず、しかも「新しいもの」が現れた後に必ず良くなるかどうかもわからなかった。十月革命の後になって初めて、この「新しい」社会の創造者が無産階級であることを知ったが、資本主義各国の反宣伝のために、十月革命に対してなおいくらか冷淡であり、しかも懐疑的であった。今やソ連の存在と成功は、無階級社会が必ず出現するとの私の確信を固め、懐疑を完全に払拭したのみならず、多くの勇気をも加えてくれた。ただし創作においては、私は革命の渦中にはおらず、しかも久しく各地を視察することもできぬゆえ、おそらくやはり旧社会の弊害を暴露することしかできぬであろう。

 二、私は他国──ドイツ、日本──の訳本でしか読めない。現在の建設を語るものよりも、以前の戦闘を語るもの──たとえば『装甲列車』『壊滅』『鉄の流れ』等──の方が私には興味深く、かつ有益だと感じている。私がソヴィエト文学を読むのは、大半は中国に紹介するためであり、中国にとっては、現在もなお戦闘的な作品の方がより切要である。

 三、私は中国にいて、資本主義各国のいわゆる「文化」なるものを見ることができない。ただ知っているのは、彼らとその奴僕たちが中国において力学と化学の方法、さらには電気機械を用いて革命者を拷問し、飛行機と爆弾をもって革命的民衆を虐殺していることだ。


第10節

【「草鞋脚」英訳中国短篇小説集 小引】


 中国において、小説はもとから文学に数えられていなかった。軽蔑の目の下で、十八世紀末の『紅楼夢』以来、実にこれといった偉大な作品を産み出していない。小説家の文壇への侵入は、「文学革命」運動の開始、すなわち一九一七年以来のことに過ぎない。無論、一方では社会の要求によるものであり、他方では西洋文学の影響を受けたものだ。

 しかしこの新しい小説の生存は、常に絶え間なき戦闘の中にあった。最初、文学革命者が求めたのは人間性の解放であり、古い成法を一掃しさえすれば、残るのは本来の人間であり、よき社会であると考え、かくして保守派の圧迫と陥害に遭った。約十年後、階級意識が覚醒し、前進的な作家はことごとく革命文学者となったが、迫害はさらに厳しくなり、出版禁止、書籍焚毀、作家殺戮──多くの青年が暗闇の中でその仕事に命を殉じたのだ。

 この一冊は十五年来の、「文学革命」以後の短篇小説の選集である。我々にとってはまだ新しい試みであるがゆえ、自ずと幼稚を免れ得ないが、しかしおそらくそれが大石の下に圧し潰された植物のように、繁茂こそしないものの、曲がりくねりながらも成長しつつあることを見て取れよう。

 今日に至るまで、西洋人が中国について書いた著作は、おそらく中国人自身が自分について語ったものよりも多い。しかしこれらは畢竟西洋人の見方に過ぎない。中国に古い諺がある。「肺腑にしてよく語らば、医師面土の如くならん。」思うに、仮に肺腑が本当に話せたとしても、必ずしも完全に信頼できるとは限るまいが、しかし医師が診察し得ぬ、意想外の、しかしながら十分に真実なところが必ずあろう。

 一九三四年三月二十三日、魯迅、上海にて記す。


第11節

【「旧形式の採用」を論ず】


 「旧形式の採用」の問題は、もし平心静気に討論するならば、現在において甚だ意義があると思うが、冒頭から耳耶先生の筆伐に遭った。「投降に類す」「機会主義」──これは近十年来の「新形式の探求」の結果であり、敵を克する呪文であって、少なくともまず一身に不潔を被らせる。しかし耳耶先生は正直であり、なぜなら彼は同時に『芸術の内容と形式』を翻訳しており、ひとたび連載が終われば自らの激烈な責罰を洗い流すことになろう。しかも幾句かの話は正確であり、新形式の探求と旧形式の採用は機械的に分けられぬと言っていることだ。

 しかしこの数句は既に常識と言える。内容と形式が機械的に分けられぬというのも既に常識であり、作品と大衆が機械的に分けられぬと知ることもまた当然常識だ。旧形式をなぜただ「採用」するに過ぎないか──しかし耳耶先生はこれを「旧芸術丸ごと(!)の賛美」と指す──それは新形式の探求のためだ。若干を採り取ることと「丸ごと」持ってくることは異なり、前進的な芸術家にこのような思想(内容)はあり得ない。しかし彼が旧芸術を採り取ることを思いつくのは、作品と大衆が機械的に分けられぬと理解したからだ。芸術は芸術家の「霊感」の爆発であり、鼻がむずむずする者が一つ嚔をすれば全身さっぱりし、それですべて片付くという時代は既に過ぎた。今は大衆のことを思い、しかも関心を持つに至った。これは一つの新思想(内容)であり、ここから新形式を探求し、まず提出されたのが旧形式の採取であり、この採取の主張はまさに新形式の端緒にして、旧形式の脱皮でもある。私の見るところ、内容と形式を機械的に分けたのでもなければ、『姉妹花』の客入りを見て自分も一手真似ようという投機主義の罪案でもない。

 無論、旧形式の採取、あるいは新形式の探求と言うべきか、いずれにせよ芸術学徒の努力と実践が必要だが、理論家や批評家にも指導、評論、商量の責任が等しくあり、「まだ説明が足りぬ」と叱りつけただけで逍遥事外というわけにはいかない。我々には芸術史があり、しかも中国に生まれたからには、中国の芸術史を繙かねばならぬ。何を採取するか。思うに、唐以前の真蹟は目にする由もないが、大抵故事を題材としたことはなお知り得る。これは取法し得る。唐においては仏画の燦爛たること、線画の空実と明快さを取るべく、宋の院画は萎靡柔媚の処は捨て、周密不苟の処は取るべきだ。米点山水は全く無用。後の写意画(文人画)に用処があるか否かは今にわかに断言し難いが、おそらくなお可用の点があるかもしれぬ。これらの採取は断片的な古董の陳列ではなく、必ず新作品の中に溶化させねばならぬことは贅言を要せぬ。ちょうど牛羊を食して蹄と毛を棄て、精髄を留めて新しい生体を滋養し発達させるのであり、これをもって牛羊「に類する」ことには決してなるまい。

 ただし以上に挙げたもの、すなわち我々が今見ることのできるものは、すべて消費の芸術だ。それは一貫して有力者の寵愛を独占してきたがゆえに、なお多くが存留している。しかし消費者があれば必ず生産者があり、ゆえに一方に消費者の芸術があれば他方に生産者の芸術がある。古代のものは保護する者がなかったため、小説の挿画以外、我々はほとんど何も見ることができない。現在においてはなお市中の正月の花紙があり、また猛克先生の指摘した連環図画がある。これらは必ずしも真の生産者の芸術とは言えぬが、上等有閑者の芸術と対立するものであることは疑いない。とはいえこれもまた大いに消費者の芸術の影響を受けており、たとえば文学において民歌が大抵七言の範囲を脱し得ず、図画において題材の多くが士大夫の物語であるのがそれだ。しかし既に精錬を加え、明快簡潔なものとなっている。これもまた脱皮であり、従来これを「俗」と謂う。大衆に注目する芸術家がこれらに注目するのもおそらく誤りではあるまい。なおも精錬を加えるべきことは贅言を要せぬ。

 しかし中国の両者の芸術にも、形は似て実は異なるところがある。たとえば仏画の画面いっぱいの雲煙は豪華な装飾だが、花紙にも白紙がほとんど見えぬほど硬く詰め込んだ種類があり、これは紙を惜しむ節約だ。唐伯虎の描く細腰繊手の美人は、彼の同類の人々の欲するところだが、花紙にもこの種のものがあり、鑑賞者にとってはただ世間にこのような人物がいると知って博識を資し、あるいは好奇心を満たすに過ぎない。大衆のための画家はいずれも避忌するに及ばない。

 連環図画は図画の種類の一つに過ぎず、文学における詩歌、戯曲、小説と同様であるというのは、無論正しい。しかしこの種類の別もまた社会条件と関連しており、時に詩歌が盛行し、時に小説が多出し、時に短篇のみが多い史実を見ればわかる。ここから、すなわち内容とも関連していることがわかる。現在社会に連環図画が流行しているのは、それに流行の可能性があり、かつ流行の必要性があるからであり、ここに着眼して導引するのはまさに前進的な芸術家の正しい任務であり、大衆のために努めてわかりやすくするのもまさに前進的な芸術家の正しい努力だ。旧形式は採取であり、必ず削除するところがあり、削除があれば必ず増益があり、その結果は新形式の出現であり、すなわち変革だ。しかもこの仕事は決して傍観者が想像するほど容易ではない。

 しかし仮に新形式が確立されたとしても、もちろんそれだけで甚だ高い芸術とはなるまい。芸術の前進にはなお他の文化事業の協助が必要であり、ある文化部門を一人の専門家に独り芝居で特別に高めさせようとするのは、空論としては構わぬが実行は難しい。ゆえに個人のみを責めるのは、偏重環境と同様に論の偏頗なるものだ。


 (五月二日。)


第12節

【連環図画瑣談】


 「連環図画」の擁護者は、今の議論を見ると、「啓蒙」の意が多いようだ。

 古人の「左図右史」は今やただ一句の言葉だけが残り、実態を見ることはできぬが、宋元の小説には上に図、下に説の形式を持つものがあり、今日なお残存している。これがいわゆる「出相」だ。明清以来、巻頭に書中の人物のみを描くものがあり、「繡像」と称する。各回の物語を描くものがあり、「全図」と称する。その目的はおそらく、未読者を購読に誘い、既読者の興味と理解を増すためだ。

 しかし民間にはまた別に『智燈難字』あるいは『日用雑字』があり、一字一像で両々対照し、図も見られるが、主意は識字を助けるものであり、いくらか変通を加えれば現在の『図を見て字を識る』になる。文字の較多いのは『聖諭像解』『二十四孝図』等で、いずれも図画を借りて啓蒙するものであり、また中国の文字があまりに難しいために図画をもって文字の窮を救う産物だ。

 「連環図画」とは「出相」の格式を取り、『智燈難字』の功効を収めるもので、もし啓蒙せんとするなら、実にまた一種の利器である。

 しかし啓蒙せんとするならば、理解できなければならぬ。理解の基準は、むろん低能児や白痴に合わせる必要はないが、一般の大衆に着眼すべきだ。たとえば、中国画にはもとから陰影がないが、私が出会った農民の十に九人までが西洋画や写真を良しとしなかった。彼らは言う、人の顔の両側が色が違うなんてことがあるか、と。西洋人の絵の見方は、観者が一定の位置に立つことを前提としているが、中国の観者は一定の位置に立たぬのが常であるから、彼の言うことも真実なのだ。ならば、「連環図画」を描いて陰影がなくとも構わぬと私は思う。人物の傍らに名前を書くのもよい。夢を見ることを表すのに人の頭上から一条の光芒を出すのすら、不可はない。観者が内容を理解すれば、理解を助ける記号は自ら削除するであろう。これを真実でないとは言えぬ。観者が既に内容を会得すれば、芸術上の真はあるのであり、もし実物の通りでなければならぬとすれば、人物はわずか二、三寸では真実でなくなるし、地球と同じ大きさの紙がなければ地球は描けぬことになる。

 艾思奇先生は言う、「もし大衆の真の切身の問題に触れることができれば、おそらくより新しいものであればあるほど、より流行するであろう。」これもまた誤りではない。ただし相談すべきは、いかにすれば触れることができるかであり、触れる方法として「わかる」ことが最も肝要であり、しかもわかる図画はなおも芸術たり得るのだ。


 (五月九日。)


第13節

【儒術】


 元遺山は金、元の際にあって、文宗たり、遺献たり、野史を修め旧章を保存せんとする有心の人であり、明清以来かなりの人士に愛重されてきた。しかし彼の生涯には一つの疑案がある。すなわち叛将崔立のために功徳を頌えた者が、果たして彼と無関係であるか、あるいは彼の手筆に出る文章であるかということだ。

 金の天興元年(一二三二年)、蒙古兵が洛陽を包囲し、翌年、安平都尉にして京城西面元帥の崔立が二丞相を殺し、自ら鄭王と立って元に降った。悪名を加えられることを恐れ、群小が意を承けて、碑を立てて功徳を頌えることを議した。かくして文臣の間に甚大な恐慌が生じた。これは一生の名節に関わり、個人にとっては十分に重大な事だったからだ。

 当時の情況を、『金史』の「王若虚伝」はこう記している──


 「天興元年、哀宗帰徳に走る。翌年の春、崔立変を起こし、群小これに附和して、立のために功徳碑を建てんことを請う。翟奕、尚書省の命をもって若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩、勢を恃みて威を作し、人もし少しく忤えば、讒構して立ちどころに屠滅せらる。若虚、自ら必ず死すと分かち、私に左右司員外郎元好問に謂いて曰く、『今、我を召して碑を作らしむ。従わざれば死す、之を作れば名節地を掃う。死するに若かず。然りと雖も、我、姑く理を以て之を諭さん。』……奕の輩奪う能わず、乃ち太学生劉祁、麻革の輩を召して省に赴かしむ。好問、張信之、碑を立つるの事を以て之に喻して曰く、『衆議二君に属す。且つ已に鄭王に白したり。二君其れ辞すること勿かれ。』と。祁等固辞して別る。数日、促迫已まず、祁即ち草定して好問に付す。好問意惬わず、乃ち自ら之を為す。成るに及び、以て若虚に示す。乃ち共に数字を削定す。然れども止だ直にその事を叙するのみ。後に兵城に入り、果たさず。」


 碑は「果たさず」ではあったが、当時既に「名節」の問題が発生しており、あるいは元好問の作と言い、あるいは劉祁の作と言う。文証は清の凌廷堪が輯めた『元遺山先生年譜』中に具わっており、ここには多くは録さぬ。その推勘を経て、先に出した「王若虚伝」の文は、前半は元好問の『内翰王公墓表』に拠り、後半は劉祁自作の『帰潜志』を全く採っており、誣攀の説に蒙蔽されたことが判明している。凌氏はこれを弁じて曰く、「それ当時碑を立て文を撰するは、崔立の禍を畏るるに過ぎず、必ずしも文辞の工を取るにあらず。京叔の草を属するあらば、已に立の請を塞ぐに足る。何ぞ更に之を為す所を取らんや。」されば劉祁が王若虚の如く決死せざりしは、固より一生の大玷なれど、さらに他に推し委ねて「塞責」の具と成らしむるを能わざりしは、十分に不運であったとも言えよう。

 しかし元遺山の生涯にはなお一つの大事がある。『元史』の「張徳輝伝」に見える──


 「世祖潜邸にありし時、……中国の人材を訪ぬ。徳輝、魏璠、元裕、李冶等二十余人を挙ぐ。……壬子、徳輝元裕と北に覲え、世祖に儒教大宗師たらんことを請う。世祖悦びて之を受く。因りて啓す、累朝の旨にて儒戸の兵賦を蠲免すとあり、乞うらくは有司をして遵行せしめよ、と。之に従う。」


 拓跋魏の後裔と徳輝とが、蒙古の小酋長に「漢児」の「儒教大宗師」たることを請うたのは、今から見れば些か滑稽であるが、当時は格別の非難もなかったようだ。蓋し兵賦の蠲免により「儒戸」は等しく利益を受け、清議は士の手中にあったものの、利益を受けてしまえば、既に「儒教」を献上したことについてもはや口を開く気にはなれなかったのだ。

 これにより士大夫は漸次出世するようになったが、畢竟実用に適わぬため、また漸次見棄てられた。しかし仕途は日に塞がり、南北の士の相争うことはまた日に甚だしくなった。余闕の『青陽先生文集』巻四「楊君顕民詩集序」に曰く──


 「我が国初め金宋を有するや、天下の人は才あるを用うるのみにして、専ら主する所なく、然れども儒者を用うる者居多なり。至元以下より始めて浸く吏を用い、執政大臣と雖も亦た吏を以て之を為す。……而して中州の士、見て用いらるる者遂に浸く寡し。況んや南方の地遠く、士多くは自ら京師に至る能わず、其の才を抱く蘊する者、又往々にして吏と為るを屑しとせず。故に其の見て用いらるる者尤も寡なり。其の久しきに及ぶや、南北の士亦た自ら町畦して以て相い訾り、甚だしきは晋の秦に於けるが若く、与に中国に同ずべからず。故に南方の士微なり。」


 しかし南方において、士人は実は冷遇されていたわけでもなかった。同書「范立中を襄陽に赴くに送るの詩序」に曰く──


 「宋の高宗南遷し、合肥遂に辺地と為る。守臣多く武臣を以て之に当つ。……故に民の豪傑なる者、皆去りて将校と為り、功を累ねて多く節制に至る。郡中衣冠の族は、惟だ范氏、商氏、葛氏三家のみ。……皇元命を受け、兵革を包裹し、……諸武臣の子弟、其の能を用うる所なく、多く伏匿して出でず。春秋月朔、郡太守、学に事有らば、深衣を衣、烏角巾を戴き、笾豆罍爵を執り、唱賛道引する者は、皆三家の子孫なり。故に其の材皆成就する所あり、学校の官に至る者累々として有り。……天道は満を忌み盈を悪むと雖も、儒者の沢は深く且つ遠く、古より然り。」


 これが「中国の人材」たちが教を献じ、経を売ってこのかた、「儒戸」の食した佳果である。王者の師と為り得ずとも、しかも吏よりも数等下にありながら、やはり将門や平民よりは一等勝っており、「唱賛道引」は「伏匿」する者の望み得るところではなかったのだ。

 中華民国二十三年五月二十日及び翌日、上海の無線放送にて馮明権先生が我々に一つの奇書を講じてくれた。『抱経堂勉学家訓』(『大美晩報』に拠る)。これは未だ嘗て耳にしたことのない書だが、下の署名に「顔子推」とあるのを見れば、顔之推の『家訓』中の「勉学篇」であることが悟られよう。「抱経堂」と曰うのは、かつて盧文弨の『抱経堂叢書』中に印入されたことに因るものであろう。その講義にこのような一節がある──


 「学芸ある者は、地に触れて安んず。荒乱より以来、諸々俘虜と為るを見るに、百世の小人と雖も、『論語』『孝経』を読むを知る者は、尚お人の師と為り得、千載の冠冕と雖も、書記を暁らざる者は、田を耕し馬を養わざるはなし。此を以て之を観れば、汝自ら勉めざるべけんや。若し能く常に数百巻の書を保たば、千載終に小人と為らざるなり。……諺に曰く、『財を積むこと千万、薄伎の身に在るに如かず。』と。伎の習い易くして貴ぶべき者は、読書に過ぐるはなし。」


 これは実に透徹している。習い易き伎は読書に如くはなく、ただ『論語』『孝経』を読むことを知るだけでも、たとえ俘虜となろうとなお人の師たり得、他のすべての俘虜の上に居るのだ。この種の教訓は当時の事実から推断されたものだが、金元に施して準じ、明清の際に按じてもまた準ずる。今にわかに放送をもって聴衆を「訓」ずるに至ったのは、あるいは選講者が既に来たるべきものに大いに感ずるところあり、未雨に綢繆するのであろうか。

 「儒者の沢は深く且つ遠し」──小を即きて大を見れば、我々はここから「儒術」を明らかにし、「儒効」を知ることができるのだ。


 (五月二十七日。)