Lu Xun Complete Works/zh-ja/Huabian wenxue

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花辺文学(中日対照)

花边文学

魯迅 (1934)

13/61 節翻訳済み



第1節

中文原文 日本語訳

【且介亭杂文】




【序言】




近几年来,所谓“杂文”的产生,比先前多,也比先前更受着攻击。例如自称“诗人”邵洵美,前“第三种人”施蛰存和杜衡即苏汶,还不到一知半解程度的大学生林希隽之流,就都和杂文有切骨之仇,给了种种罪状的。然而没有效,作者多起来,读者也多起来了。


其实“杂文”也不是现在的新货色,是“古已有之”的,凡有文章,倘若分类,都有类可归,如果编年,那就只按作成的年月,不管文体,各种都夹在一处,于是成了“杂”。分类有益于揣摩文章,编年有利于明白时势,倘要知人论世,是非看编年的文集不可的,现在新作的古人年谱的流行,即证明着已经有许多人省悟了此中的消息。况且现在是多么切迫的时候,作者的任务,是在对于有害的事物,立刻给以反响或抗争,是感应的神经,是攻守的手足。潜心于他的鸿篇巨制,为未来的文化设想,固然是很好的,但为现在抗争,却也正是为现在和未来的战斗的作者,因为失掉了现在,也就没有了未来。


战斗一定有倾向。这就是邵、施、杜、林之流的大敌,其实他们所憎恶的是内容,虽然披了文艺的法衣,里面却包藏着“死之说教者”,和生存不能两立。


这一本集子和《花边文学》,是我在去年一年中,在官民的明明暗暗,软软硬硬的围剿“杂文”的笔和刀下的结集,凡是写下来的,全在这里面。当然不敢说是诗史,其中有着时代的眉目,也决不是英雄们的八宝箱,一朝打开,便见光辉灿烂。我只在深夜的街头摆着一个地摊,所有的无非几个小钉,几个瓦碟,但也希望,并且相信有些人会从中寻出合于他的用处的东西。


一九三五年十二月三十日,记于上海之且介亭。

【且介亭雑文】




【序言】




近年来、いわゆる「雑文」の生産は以前よりも多くなり、以前よりもさらに多くの攻撃を受けている。たとえば自称「詩人」の邵洵美、元「第三種人」の施蛰存と杜衡すなわち蘇汶、まだ一知半解にも達しない大学生の林希雋の輩は、いずれも雑文と骨に徹する仇があり、種々の罪状を与えた。しかし効き目はなく、書く者は増え、読む者も増えた。


実は「雑文」なるものは今日の新製品ではなく、「古より已に之あり」なのだ。およそ文章があれば、分類すればいずれも帰すべき類があるが、もし編年にすれば、作成の年月に従うのみで文体を問わず、各種が一所に交じり、かくして「雑」となる。分類は文章の揣摩に益あり、編年は時勢の理解に利あり、もし人を知り世を論ぜんとすれば、編年の文集を見るに如くはなく、今日新たに作られた古人の年譜が流行しているのは、既に多くの人がこの中の消息を省悟したことの証左である。しかも今はいかに切迫した時であることか、作者の任務は、有害な事物に対し直ちに反響あるいは抗争を与えることにある。感応の神経であり、攻守の手足だ。鴻篇巨制に潜心して未来の文化のために構想するのは固より結構だが、現在のために抗争するのもまさに現在と未来のための戦う作者なのだ。現在を失えば、未来もまたないからだ。


戦闘には必ず傾向がある。これこそ邵、施、杜、林の輩の大敵であり、実は彼らが憎悪するのは内容なのだ。文芸の法衣を纏いながら、その内に包蔵するのは「死の説教者」であり、生存とは両立し得ない。


この一冊と『花辺文学』は、私が昨年一年のうちに、官民の明に暗に、軟に硬に「雑文」を囲剿する筆と刀の下で結集したものであり、書いたものはすべてここにある。もとより詩史とは言い難いが、その中には時代の眉目があり、また決して英雄たちの八宝箱のように一朝開ければ光輝燦然とするものでもない。私はただ深夜の街頭に地べたの露店を出しているに過ぎず、並べてあるのは小さな釘と瓦の皿ばかりだが、それでも希望し、また信じている──その中から自分の用途に合うものを見つけ出す人がいることを。


一九三五年十二月三十日、上海の且介亭にて記す。


第2節

中文原文 日本語訳

【序言】



 近几年来,所谓“杂文”的产生,比先前多,也比先前更受着攻击。例如自称“诗人”邵洵美,前“第三种人”施蛰存和杜衡即苏汶,还不到一知半解程度的大学生林希隽之流,就都和杂文有切骨之仇,给了种种罪状的。然而没有效,作者多起来,读者也多起来了。
 其实“杂文”也不是现在的新货色,是“古已有之”的,凡有文章,倘若分类,都有类可归,如果编年,那就只按作成的年月,不管文体,各种都夹在一处,于是成了“杂”。分类有益于揣摩文章,编年有利于明白时势,倘要知人论世,是非看编年的文集不可的,现在新作的古人年谱的流行,即证明着已经有许多人省悟了此中的消息。况且现在是多么切迫的时候,作者的任务,是在对于有害的事物,立刻给以反响或抗争,是感应的神经,是攻守的手足。潜心于他的鸿篇巨制,为未来的文化设想,固然是很好的,但为现在抗争,却也正是为现在和未来的战斗的作者,因为失掉了现在,也就没有了未来。
 战斗一定有倾向。这就是邵、施、杜、林之流的大敌,其实他们所憎恶的是内容,虽然披了文艺的法衣,里面却包藏着“死之说教者”,和生存不能两立。
 这一本集子和《花边文学》,是我在去年一年中,在官民的明明暗暗,软软硬硬的围剿“杂文”的笔和刀下的结集,凡是写下来的,全在这里面。当然不敢说是诗史,其中有着时代的眉目,也决不是英雄们的八宝箱,一朝打开,便见光辉灿烂。我只在深夜的街头摆着一个地摊,所有的无非几个小钉,几个瓦碟,但也希望,并且相信有些人会从中寻出合于他的用处的东西。
 一九三五年十二月三十日,记于上海之且介亭。

【序言】



 近年来、いわゆる「雑文」の生産は以前よりも多くなり、以前よりもさらに多くの攻撃を受けている。たとえば自称「詩人」の邵洵美、元「第三種人」の施蛰存と杜衡すなわち蘇汶、まだ一知半解にも達しない大学生の林希雋の輩は、いずれも雑文と骨に徹する仇があり、種々の罪状を与えた。しかし効き目はなく、書く者は増え、読む者も増えた。

 実は「雑文」なるものは今日の新製品ではなく、「古より已に之あり」なのだ。およそ文章があれば、分類すればいずれも帰すべき類があるが、もし編年にすれば、作成の年月に従うのみで文体を問わず、各種が一所に交じり、かくして「雑」となる。分類は文章の揣摩に益あり、編年は時勢の理解に利あり、もし人を知り世を論ぜんとすれば、編年の文集を見るに如くはなく、今日新たに作られた古人の年譜が流行しているのは、既に多くの人がこの中の消息を省悟したことの証左である。しかも今はいかに切迫した時であることか、作者の任務は、有害な事物に対し直ちに反響あるいは抗争を与えることにある。感応の神経であり、攻守の手足だ。鴻篇巨制に潜心して未来の文化のために構想するのは固より結構だが、現在のために抗争するのもまさに現在と未来のための戦う作者なのだ。現在を失えば、未来もまたないからだ。

 戦闘には必ず傾向がある。これこそ邵、施、杜、林の輩の大敵であり、実は彼らが憎悪するのは内容なのだ。文芸の法衣を纏いながら、その内に包蔵するのは「死の説教者」であり、生存とは両立し得ない。

 この一冊と『花辺文学』は、私が昨年一年のうちに、官民の明に暗に、軟に硬に「雑文」を囲剿する筆と刀の下で結集したものであり、書いたものはすべてここにある。もとより詩史とは言い難いが、その中には時代の眉目があり、また決して英雄たちの八宝箱のように一朝開ければ光輝燦然とするものでもない。私はただ深夜の街頭に地べたの露店を出しているに過ぎず、並べてあるのは小さな釘と瓦の皿ばかりだが、それでも希望し、また信じている──その中から自分の用途に合うものを見つけ出す人がいることを。

 一九三五年十二月三十日、上海の且介亭にて記す。


第3節

中文原文 日本語訳

【一九三四年】

【一九三四年】


第4節

中文原文 日本語訳

【关于中国的两三件事】

【中国に関する二、三の事】


第5節

中文原文 日本語訳

【一 关于中国的火】


 希腊人所用的火,听说是在一直先前,普洛美修斯从天上偷来的,但中国的却和它不同,是燧人氏自家所发见——或者该说是发明罢。因为并非偷儿,所以拴在山上,给老雕去啄的灾难是免掉了,然而也没有普洛美修斯那样的被传扬,被崇拜。
 中国也有火神的。但那可不是燧人氏,而是随意放火的莫名其妙的东西。
 自从燧人氏发见,或者发明了火以来,能够很有味的吃火锅,点起灯来,夜里也可以工作了,但是,真如先哲之所谓“有一利必有一弊”罢,同时也开始了火灾,故意点上火,烧掉那有巢氏所发明的巢的了不起的人物也出现了。
 和善的燧人氏是该被忘却的。即使伤了食,这回是属于神农氏的领域了,所以那神农氏,至今还被人们所记得。至于火灾,虽然不知道那发明家究竟是什么人,但祖师总归是有的,于是没有法,只好漫称之曰火神,而献以敬畏。看他的画像,是红面孔,红胡须,不过祭祀的时候,却须避去一切红色的东西,而代之以绿色。他大约像西班牙的牛一样,一看见红色,便会亢奋起来,做出一种可怕的行动的。
 他因此受着崇祀。在中国,这样的恶神还很多。
 然而,在人世间,倒似乎因了他们而热闹。赛会也只有火神的,燧人氏的却没有。倘有火灾,则被灾的和邻近的没有被灾的人们,都要祭火神,以表感谢之意。被了灾还要来表感谢之意,虽然未免有些出于意外,但若不祭,据说是

【一 中国の火について】


 ギリシア人の用いた火は、聞くところによればはるか昔、プロメテウスが天から盗んできたものだが、中国のそれはこれとは異なり、燧人氏が自ら発見した──あるいは発明と言うべきであろう。盗っ人ではなかったから、山に繋がれて老鷲に啄まれる災難は免れたが、しかしプロメテウスほどに語り伝えられ、崇拝されることもなかった。

 中国にも火の神はいる。しかしそれは燧人氏ではなく、勝手に放火する訳のわからぬ存在だ。

 燧人氏が火を発見、あるいは発明してこのかた、美味なる火鍋を食し、灯を点して夜も仕事ができるようになった。しかし、まさに先哲のいわゆる「一利あれば必ず一弊あり」であろうか、同時に火災も始まり、故意に火を点けて、有巣氏の発明した巣を焼き払う了不起の人物も現れたのだ。

 善良な燧人氏は忘れられるのが当然であった。食傷を起こしたとしても、今度は神農氏の領分になるわけで、ゆえにかの神農氏は今日なお人々に記憶されている。火災については、その発明者が結局何者であるかは知る由もないが、祖師は必ずいるはずであり、やむを得ずこれを漫然と火神と呼び、畏敬を捧げたのだ。その画像を見れば、赤い顔に赤い髭だが、祭祀の折にはすべての赤い物を避け、緑色で代えなければならない。彼はおそらくスペインの牛のように、赤い色を見ると興奮して恐ろしい行動を起こすのであろう。

 かくして彼は崇祀を受けている。中国ではこのような悪神がなお多い。

 しかし人の世では、彼らのおかげでかえって賑やかになっているようだ。祭礼も火神のものはあるが、燧人氏のものはない。もし火災があれば、被災者も近隣の被災していない者も、火神を祭り、感謝の意を表さねばならない。被災してなお感謝の意を表すとは、いささか意外ではあるが、祭らなければ


第6節

中文原文 日本語訳

第二回还会烧,所以还是感谢了的安全。而且也不但对于火神,就是对于人,有时也一样的这么办,我想,大约也是礼仪的一种罢。

 其实,放火,是很可怕的,然而比起烧饭来,却也许更有趣。外国的事情我不知道,若在中国,则无论查检怎样的历史,总寻不出烧饭和点灯的人们的列传来。在社会上,即使怎样的善于烧饭,善于点灯,也毫没有成为名人的希望。然而秦始皇一烧书,至今还俨然做着名人,至于引为希特拉烧书事件的先例。假使希特拉太太善于开电灯,烤面包罢,那么,要在历史上寻一点先例,恐怕可就难了。但是,幸而那样的事,是不会哄动一世的。
 烧掉房子的事,据宋人的笔记说,是开始于蒙古人的。因为他们住着帐篷,不知道住房子,所以就一路的放火。然而,这是诳话。蒙古人中,懂得汉文的很少,所以不来更正的。其实,秦的末年就有着放火的名人项羽在,一烧阿房宫,便天下闻名,至今还会在戏台上出现,连在日本也很有名。然而,在未烧以前的阿房宫里每天点灯的人们,又有谁知道他们的名姓呢?
 现在是爆裂弹呀,烧夷弹呀之类的东西已经做出,加以飞机也很进步,如果要做名人,就更加容易了。而且如果放火比先前放得大,那么,那人就也更加受尊敬,从远处看去,恰如救世主一样,而那火光,便令人以为是光明。

二度目もまた焼かれると言われるので、やはり感謝した方が安全なのだ。しかもこれは火神に対してのみならず、人に対しても時に同じようにするのであり、おそらくこれも一種の礼儀であろうと思う。

 実のところ、放火はまことに恐ろしいが、飯を炊くことに比べれば、あるいはより面白いかもしれぬ。外国の事は知らぬが、中国においては、いかなる歴史を調べても、飯を炊き灯を点す人々の列伝は見つからない。社会においても、いかに飯を炊くのが上手でも、いかに灯を点けるのが上手でも、名人となる望みは毫もない。しかるに秦の始皇帝が一たび書を焼けば、今に至るまで厳然として名人であり、ヒトラーの焚書事件の先例として引かれるに至っている。仮にヒトラー夫人が電灯を点けたりパンを焼いたりするのが上手だったとして、歴史上に先例を求めようとしても、おそらく難しかろう。しかし幸いにも、そのようなことが世を騒がせることはないのだ。

 家屋を焼く事は、宋人の筆記によれば、蒙古人に始まるという。彼らは天幕に住んでおり、家屋に住むことを知らなかったので、手当たり次第に放火した、と。しかしこれは嘘である。蒙古人の中で漢文を解する者は甚だ少なく、ゆえに訂正しに来ないだけだ。実は秦の末年に既に放火の名人項羽がおり、阿房宮を焼いて天下に名を馳せ、今日なお舞台に登場し、日本でもかなり有名だ。しかるにまだ焼かれる前の阿房宮で毎日灯を点していた人々は、誰がその名を知ろうか。

 今日は爆裂弾だの焼夷弾だのの類が既に作られ、加えて飛行機もかなり進歩しているから、名人になろうとすれば一層たやすくなった。しかも以前よりも大きく放火すれば、その人はさらに一層尊敬を受け、遠くから見れば救世主のようであり、その火光は人に光明だと思わせるのだ。


第7節

中文原文 日本語訳

【二 关于中国的王道】


 在前年,曾经拜读过中里介山氏的大作《给支那及支那国民的信》。只记得那里面说,周汉都有着侵略者的资质。而支那人都讴歌他,欢迎他了。连对于朔北的元和清,也加以讴歌了。只要那侵略,有着安定国家之力,保护民生之实,那便是支那人民所渴望的王道,于是对于支那人的执迷不悟之点,愤慨得非常。
 那“信”,在满洲出版的杂志上,是被译载了的,但因为未曾输入中国,所以象是回信的东西,至今一篇也没有见。只在去年的上海报上所载的胡适博士的谈话里,有的说,“只有一个方法可以征服中国,即彻底停止侵略,反过来征服中国民族的心。”不消说,那不过是偶然的,但也有些令人觉得好象是对于那信的答复。
 征服中国民族的心,这是胡适博士给中国之所谓王道所下的定义,然而我想,他自己恐怕也未必相信自己的话的罢。在中国,其实是彻底的未曾有过王道,“有历史癖和考据癖”的胡博士,该是不至于不知道的。
 不错,中国也有过讴歌了元和清的人们,但那是感谢火神之类,并非连心也全被征服了的证据。如果给与一个暗示,说是倘不讴歌,便将更加虐待,那么,即使加以或一程度的虐待,也还可以使人们来讴歌。四五年前,我曾经加盟于一个要求自由的团体,而那时的上海教育局长陈德征氏勃然大怒道,在三民主义的统治之下,还觉得不满么?那可连现在所给与着的一点自由也要收起了。而且,真的是收起了的。每当感到比先前更不自由的时候,我一面佩服着陈氏的精通王道的学识,一面有时也不免想,真该是讴歌三民主义的。然而,现在是已经太晚了。
 在中国的王道,看去虽然好象是和霸道对立的东西,其实却是兄弟,这之前和之后,一定要有霸道跑来的。人民之所讴歌,就为了希望霸道的减轻,或者不更加重的缘故。
 汉的高祖,据历史家说,是龙种,但其实是无赖出身,说是侵略者,恐怕有些不对的。至于周的武王,则以征伐之名入中国,加以和殷似乎连民族也不同,用现代的话来说,那可是侵略者。然而那时的民众的声音,现在已经没有留存了。孔子和孟子确曾大大的宣传过那王道,但先生们不但是周朝的臣民而已,并且周游历国,有所活动,所以恐怕是为了想做官也难说。说得好看一点,就是因为要“行道”,倘做了官,于行道就较为便当,而要做官,则不如称赞周朝之为便当的。然而,看起别的记载来,却虽是那王道的祖师而且专家的周朝,当讨伐之初,也有伯夷和叔齐扣马而谏,非拖开不可;纣的军队也加反抗,非使他们的血流到漂杵不可。接着是殷民又造了反,虽然特别称之曰“顽民”,从王道天下的人民中除开,但总之,似乎究竟有了一种什么破绽似的。好个王道,只消一个顽民,便将它弄得毫无根据了。
 儒士和方士,是中国特产的名物。方士的最高理想是仙道,儒士的便是王道。但可惜的是这两件在中国终于都没有。据长久的历史上的事实所证明,则倘说先前曾有真的王道者,是妄言,说现在还有者,是新药。孟子生于周季,所以以谈霸道为羞,倘使生于今日,则跟着人类的智识范围的展开,怕要羞谈王道的罢。

【二 中国の王道について】


 一昨年、中里介山氏の大作『支那及び支那国民に贈る書』を拝読した。記憶するところでは、その中で周も漢もいずれも侵略者の資質を持ち、しかるに支那人はことごとくこれを讴歌し、歓迎した。北方の元と清に対してすら讴歌したという。ただその侵略に国家を安定させる力があり、民生を保護する実があれば、それこそ支那人民の渇望する王道であると。かくして支那人の執迷不悟に対し、非常に憤慨していた。

 その「書」は満洲で出版された雑誌に訳載されたが、中国には輸入されなかったため、返信の類は今に至るまで一篇も見ていない。ただ去年の上海の新聞に載った胡適博士の談話の中に、「中国を征服するにはただ一つの方法がある。すなわち徹底的に侵略を停止し、翻って中国民族の心を征服することだ」とあった。無論それは偶然に過ぎぬが、あの書への返答のようにも感じられた。

 中国民族の心を征服する──これは胡適博士が中国のいわゆる王道に下した定義だが、しかし私が思うに、彼自身おそらく自分の言葉を信じてはいまい。中国において、実は徹底して王道なるものは存在したことがなく、「歴史癖と考証癖を有する」胡博士がこれを知らぬはずはない。

 なるほど、中国にも元と清を讴歌した者はいた。しかしそれは火神への感謝の類であり、心まで征服されたという証左ではない。もしある暗示を与え、讴歌しなければさらに虐待を加えると言えば、たとえある程度の虐待を加えても、なお人々に讴歌させることができる。四、五年前、私は自由を要求する団体に加盟したが、当時の上海教育局長陳徳征氏が勃然として怒り、三民主義の統治の下でなお不満なのか、それならば現在与えているわずかな自由も取り上げると言った。そして本当に取り上げたのだ。以前よりもさらに不自由を感ずるたびに、私は一方では陳氏の王道の学識に精通せることに感服し、他方では時としてやはり、三民主義を讴歌すべきだったと思わずにはいられない。しかし今はもう遅すぎる。

 中国の王道は、見たところ覇道と対立するもののようだが、実は兄弟であり、その前と後には必ず覇道がやって来る。人民が讴歌するのは、覇道の軽減を、あるいはこれ以上の加重なきことを望むがゆえである。

 漢の高祖は、歴史家によれば龍の血筋だが、実は無頼の出身であり、侵略者というのはいくらか当たらないであろう。周の武王に至っては、征伐の名をもって中国に入り、しかも殷とはおそらく民族さえ異なるから、現代の言葉で言えば侵略者である。しかし当時の民衆の声は、今はもう残っていない。孔子と孟子が確かに大いにかの王道を宣伝したが、先生方は周の臣民であるのみならず、歴国を周遊して活動したのだから、官職を得んがためであったかもしれぬ。聞こえの良い言い方をすれば「道を行わん」がためであり、もし官になれば道を行うに便利であり、官になるには周を称讃するに如くはなかったのだ。しかし別の記載を見れば、王道の祖師にしてかつ専門家たる周も、征伐の初めには伯夷と叔斉が馬を叩いて諫め、引き離さねばならず、紂の軍隊も抵抗し、その血をして杵を漂わしめずばやまなかった。続いて殷の民がまた反乱を起こし、特に「頑民」と称して王道天下の人民から除外したものの、結局のところやはり何らかの破綻があったようだ。よくぞ王道よ、ただ一人の頑民で根拠を失ってしまうとは。

 儒士と方士は中国特産の名物である。方士の最高理想は仙道であり、儒士のそれは王道だ。しかし遺憾なことに、この二つは中国においてついぞ実在しなかった。長い歴史上の事実が証明するところに拠れば、かつて真の王道があったと言うのは妄言であり、今なおあると言うのは新薬だ。孟子は周の末に生まれたがゆえに覇道を語ることを恥としたが、もし今日に生まれたならば、人類の知識の範囲の拡大に伴い、王道を語ることを恥ずるであろう。


第8節

中文原文 日本語訳

【三 关于中国的监狱】


 我想,人们是的确由事实而从新省悟,而事情又由此发生变化的。从宋朝到清朝的末年,许多年间,专以代圣贤立言的“制艺”这一种烦难的文章取士,到得和法国打了败仗,这才省悟了这方法的错误。于是派留学生到西洋,开设兵器制造局,作为那改正的手段。省悟到这还不够,是在和日本打了败仗之后,这回是竭力开起学校来。于是学生们年年大闹了。从清朝倒掉,国民党掌握政权的时候起,才又省悟了这错误,作为那改正的手段的,是除了大造监狱之外,什么也没有了。
 在中国,国粹式的监狱,是早已各处都有的,到清末,就也造了一点西洋式,即所谓文明式的监狱。那是为了示给旅行到此的外国人而建造,应该与为了和外国人好互相应酬,特地派出去,学些文明人的礼节的留学生,属于同一种类的。托了这福,犯人的待遇也还好,给洗澡,也给一定分量的饭吃,所以倒是颇为幸福的地方。但是,就在两三礼拜前,政府因为要行仁政了,还发过一个不准克扣囚粮的命令。从此以后,可更加幸福了。
 至于旧式的监狱,则因为好象是取法于佛教的地狱的,所以不但禁锢犯人,此外还有给他吃苦的职掌。挤取金钱,使犯人的家属穷到透顶的职掌,有时也会兼带的。但大家都以为应该。如果有谁反对罢,那就等于替犯人说话,便要受恶党的嫌疑。然而文明是出奇的进步了,所以去年也有了提倡每年该放犯人回家一趟,给以解决性欲的机会的,颇是人道主义气味之说的官吏。其实,他也并非对于犯人的性欲,特别表着同情,不过因为总不愁竟会实行的,所以也就高声嚷一下,以见自己的作为官吏的存在。然而舆论颇为沸腾了。有一位批评家,还以为这么一来,大家便要不怕牢监,高高兴兴的进去了,很为世道人心愤慨了一下。受了所谓圣贤之教那么久,竟还没有那位官吏的圆滑,固然也令人觉得诚实可靠,然而他的意见,是以为对于犯人,非加虐待不可,却也因此可见了。
 从别一条路想,监狱确也并非没有不像以“安全第一”为标语的人们的理想乡的地方。火灾极少,偷儿不来,土匪也一定不来抢。即使打仗,也决没有以监狱为目标,施行轰炸的傻子;即使革命,有释放囚犯的例,而加以屠戮的是没有的。当福建独立之初,虽有说是释放犯人,而一到外面,和他们自己意见不同的人们倒反而失踪了的谣言,然而这样的例子,以前是未曾有过的。总而言之,似乎也并非很坏的处所。只要准带家眷,则即使不是现在似的大水、饥荒、战争、恐怖的时候,请求搬进去住的人们,也未必一定没有的。于是虐待就成为必不可少了。
 牛兰夫妇,作为赤化宣传者而关在南京的监狱里,也绝食了三四回了,可是什么效力也没有。这是因为他不知道中国的监狱的精神的缘故。有一位官员诧异的说过:他自己不吃,和别人有什么关系呢?岂但和仁政并无关系而已呢,省些食料,倒是于监狱有益的。甘地的把戏,倘不挑选兴行场,就毫无成效了。
 然而,在这样的近于完美的监狱里,却还剩着一种缺点。至今为止,对于思想上的事,都没有很留心。为要弥补这缺点,是在近来新发明的叫作“反省院”的特种监狱里,施着教育。我还没有到那里面去反省过,所以并不知道详情,但要而言之,好象是将三民主义时时讲给犯人听,使他反省着自己的错误。听人说,此外还得做排击共产主义的论文。如果不肯做,或者不能做,那自然,非终身反省不可了,而做得不够格,也还是非反省到死则不可。现在是进去的也有,出来的也有,因为听说还得添造反省院,可见还是进去的多了。考完放出的良民,偶尔也可以遇见,但仿佛大抵是萎靡不振,恐怕是在反省和毕业论文上,将力气使尽了罢。那前途,是在没有希望这一面的。

【三 中国の監獄について】


 人々は確かに事実によって改めて覚醒し、事柄もまたそこから変化を生ずるものだと思う。宋朝から清朝末年までの多くの年月、もっぱら聖賢に代わって言を立てる「制芸」なるいかにも煩雑な文章をもって士を取ったが、フランスに敗れてようやくこの方法の誤りを覚った。そこで留学生を西洋に送り、兵器製造局を開設して、その改正の手段とした。これでもまだ足りぬと覚ったのは、日本に敗れた後のことで、今度は懸命に学校を開いた。するとこんどは学生が年々大騒ぎをした。清朝が倒れて国民党が政権を掌握してから、ようやくこの誤りを覚り、その改正の手段としたのは、監獄を大いに造ること以外には何もなかったのだ。

 中国では、国粋式の監獄は早くからあらゆる所にあったが、清末にはいくらか西洋式、すなわちいわゆる文明式の監獄も造られた。これは旅行でやって来る外国人に見せるために建造されたもので、外国人とうまく交際するために特に派遣して文明人の礼節を学ばせた留学生と、同じ種類に属すべきものだ。この恩恵のおかげで、囚人の待遇もなかなか良く、入浴させてもらえ、一定量の食事も与えられるから、かなり幸福な場所であった。しかし、つい二、三週間前にも、政府は仁政を行うべくさらに一つの命令を出し、囚糧の横領を禁じた。今後はいっそう幸福になるだろう。

 旧式の監獄に至っては、仏教の地獄をお手本にしたようなもので、囚人を禁錮するだけでなく、苦しめる職掌も兼ねていた。金銭を搾り取り、囚人の家族を窮乏の極みに追い込む職掌も、時に兼帯される。しかし誰もが当然と思っていた。もし反対する者がいれば、囚人の肩を持つことに等しく、悪党の嫌疑を受ける。しかし文明は驚くほど進歩したので、去年にはまた、毎年囚人を家に帰し、性欲解消の機会を与えるべしという、かなり人道主義の匂いのする説を唱える官吏も現れた。実は彼も囚人の性欲に特段の同情を寄せているわけではなく、どうせ実行されることはないとわかっているから、大声で一声叫んでおき、官吏としての自分の存在を示そうというだけだ。しかし世論はかなり沸騰した。ある批評家は、こうなれば皆が監獄を恐れなくなり、喜び勇んで入るだろうと、世道人心のために大いに憤慨した。いわゆる聖賢の教えをあれほど久しく受けながら、あの官吏ほどの円滑さも身につけていないのは、固より誠実で信頼に足るとも言えるが、しかし彼の見解は、囚人に対して虐待を加えざるべからずというものであったことも、これによってわかる。

 別の道筋から考えれば、監獄も確かに「安全第一」を標語とする人々の理想郷と言えなくもない面がある。火災は極めて稀であり、泥棒は来ず、土匪もまず来て奪うことはあるまい。戦争が起きても、監獄を目標にして爆撃するような馬鹿はおらず、革命が起きても、囚人を釈放する例はあるが、虐殺する例はない。福建独立の際には、囚人を釈放したと言いつつ、外に出ると自分たちと意見の異なる者がかえって失踪したという噂もあったが、このような例は以前には無かった。つまるところ、さほど悪い場所でもないようだ。家族の同伴さえ許されれば、今のように大水、飢饉、戦争、恐怖の時代でなくとも、引っ越して住みたいと申し出る者が必ずしも一人もいないとは限るまい。かくして虐待は必要不可欠となるのだ。

 牛蘭夫妻が赤化宣伝の罪で南京の監獄に繋がれ、既に三、四回ハンガーストライキをしたが、何の効果もない。これは彼が中国の監獄の精神を知らぬがゆえである。ある官吏が驚いてこう言った。彼が自分で食べないのと、他人に何の関係があるのか? 仁政と関係ないどころか、食料の節約になり、監獄にとってはむしろ有益だ。ガンジーの芝居も、興行の場所を選ばなければ、何の効果もないのだ。

 しかし、このように完璧に近い監獄にも、なお一つの欠点が残されていた。今に至るまで、思想上の事には十分な注意が払われていなかったのだ。この欠点を補うため、近年新たに発明された「反省院」なる特殊監獄で、教育が施されている。私はまだそこに入って反省したことがないので詳しくは知らぬが、要するに三民主義を絶えず囚人に講じ聞かせ、自分の過ちを反省させるらしい。聞くところでは、さらに共産主義を排撃する論文を書かされるという。もし書くことを拒めば、あるいは書けなければ、むろん終身反省するしかなく、書いたものが及第点に達しなくとも、やはり死ぬまで反省するしかない。今は入る者も出る者もいるが、なお反省院を増設しなければならぬと聞けば、やはり入る者の方が多いのだ。試験に合格して放免された良民に偶々会うこともあるが、大抵萎靡不振の様子で、反省と卒業論文に力を使い果たしたのであろう。その前途は、希望なき方に属する。


第9節

中文原文 日本語訳

【答国际文学社问】


 原问──
 一、苏联的存在与成功,对于你怎样?(苏维埃建设的十月革命,对于你的思想的路径和创作的性质,有什么改变?)
 二、你对于苏维埃文学的意见怎样?
 三、在资本主义的各国,什么事件和种种文化上的进行,特别引起你的注意?


 一、先前,旧社会的腐败,我是觉到了的,我希望着新的社会的起来,但不知道这“新的”该是什么,而且也不知道“新的”起来以后,是否一定就好。待到十月革命后,我才知道这“新的”社会的创造者是无产阶级,但因为资本主义各国的反宣传,对于十月革命还有些冷淡,并且怀疑。现在苏联的存在和成功,使我确切的相信无阶级社会一定要出现,不但完全扫除了怀疑,而且增加许多勇气了。但在创作上,则因为我不在革命的旋涡中心,而且久不能到各处去考察,所以我大约仍然只能暴露旧社会的坏处。
 二、我只能看别国──德国、日本──的译本。我觉得现在的讲建设的,还是先前的讲战斗的──如《铁甲列车》、《毁灭》、《铁流》等──于我有兴趣,并且有益。我看苏维埃文学,是大半因为想绍介给中国,而对于中国,现在也还是战斗的作品更为紧要。
 三、我在中国,看不见资本主义各国之所谓“文化”;我单知道他们和他们的奴才们,在中国正在用力学和化学的方法,还有电气机械,以拷问革命者,并且用飞机和炸弹以屠杀革命群众。

【国際文学社への回答】


 原問──

 一、ソ連の存在と成功は、あなたにとってどのようなものですか。(ソヴィエト建設の十月革命は、あなたの思想の道筋と創作の性質に、何か変化をもたらしましたか。)

 二、ソヴィエト文学についてのご意見はいかがですか。

 三、資本主義諸国において、何の事件やさまざまな文化上の進行が、とりわけあなたの注意を引きますか。


 一、以前、旧社会の腐敗は私も感じていたし、新しい社会の出現を希望していたが、この「新しいもの」が何であるべきか知らず、しかも「新しいもの」が現れた後に必ず良くなるかどうかもわからなかった。十月革命の後になって初めて、この「新しい」社会の創造者が無産階級であることを知ったが、資本主義各国の反宣伝のために、十月革命に対してなおいくらか冷淡であり、しかも懐疑的であった。今やソ連の存在と成功は、無階級社会が必ず出現するとの私の確信を固め、懐疑を完全に払拭したのみならず、多くの勇気をも加えてくれた。ただし創作においては、私は革命の渦中にはおらず、しかも久しく各地を視察することもできぬゆえ、おそらくやはり旧社会の弊害を暴露することしかできぬであろう。

 二、私は他国──ドイツ、日本──の訳本でしか読めない。現在の建設を語るものよりも、以前の戦闘を語るもの──たとえば『装甲列車』『壊滅』『鉄の流れ』等──の方が私には興味深く、かつ有益だと感じている。私がソヴィエト文学を読むのは、大半は中国に紹介するためであり、中国にとっては、現在もなお戦闘的な作品の方がより切要である。

 三、私は中国にいて、資本主義各国のいわゆる「文化」なるものを見ることができない。ただ知っているのは、彼らとその奴僕たちが中国において力学と化学の方法、さらには電気機械を用いて革命者を拷問し、飛行機と爆弾をもって革命的民衆を虐殺していることだ。


第10節

中文原文 日本語訳

【“草鞋脚”英译中国短篇小说集 小引】


 在中国,小说是向来不算文学的。在轻视的眼光下,自从十八世纪末的《红楼梦》以后,实在也没有产生什么较伟大的作品。小说家的侵入文坛,仅是开始“文学革命”运动,即一九一七年以来的事。自然,一方面是由于社会的要求的,一方面则是受了西洋文学的影响。
 但这新的小说的生存,却总在不断的战斗中。最初,文学革命者的要求是人性的解放,他们以为只要扫荡了旧的成法,剩下来的便是原来的人,好的社会了,于是就遇到保守家们的迫压和陷害。大约十年之后,阶级意识觉醒了起来,前进的作家,就都成了革命文学者,而迫害也更加厉害,禁止出版,烧掉书籍,杀戮作家,有许多青年,竟至于在黑暗中,将生命殉了他的工作了。
 这一本书,便是十五年来的,“文学革命”以后的短篇小说的选集。因为在我们还算是新的尝试,自然不免幼稚,但恐怕也可以看见它恰如压在大石下面的植物一般,虽然并不繁荣,它却在曲曲折折地生长。
 至今为止,西洋人讲中国的著作,大约比中国人民讲自己的还要多。不过这些总不免只是西洋人的看法,中国有一句古谚,说:“肺腑而能语,医师面如土。”我想,假使肺腑真能说话,怕也未必一定完全可靠的罢,然而,也一定能有医师所诊察不到,出乎意外,而其实是十分真实的地方。
 一九三四年三月二十三日,鲁迅记于上海。

【「草鞋脚」英訳中国短篇小説集 小引】


 中国において、小説はもとから文学に数えられていなかった。軽蔑の目の下で、十八世紀末の『紅楼夢』以来、実にこれといった偉大な作品を産み出していない。小説家の文壇への侵入は、「文学革命」運動の開始、すなわち一九一七年以来のことに過ぎない。無論、一方では社会の要求によるものであり、他方では西洋文学の影響を受けたものだ。

 しかしこの新しい小説の生存は、常に絶え間なき戦闘の中にあった。最初、文学革命者が求めたのは人間性の解放であり、古い成法を一掃しさえすれば、残るのは本来の人間であり、よき社会であると考え、かくして保守派の圧迫と陥害に遭った。約十年後、階級意識が覚醒し、前進的な作家はことごとく革命文学者となったが、迫害はさらに厳しくなり、出版禁止、書籍焚毀、作家殺戮──多くの青年が暗闇の中でその仕事に命を殉じたのだ。

 この一冊は十五年来の、「文学革命」以後の短篇小説の選集である。我々にとってはまだ新しい試みであるがゆえ、自ずと幼稚を免れ得ないが、しかしおそらくそれが大石の下に圧し潰された植物のように、繁茂こそしないものの、曲がりくねりながらも成長しつつあることを見て取れよう。

 今日に至るまで、西洋人が中国について書いた著作は、おそらく中国人自身が自分について語ったものよりも多い。しかしこれらは畢竟西洋人の見方に過ぎない。中国に古い諺がある。「肺腑にしてよく語らば、医師面土の如くならん。」思うに、仮に肺腑が本当に話せたとしても、必ずしも完全に信頼できるとは限るまいが、しかし医師が診察し得ぬ、意想外の、しかしながら十分に真実なところが必ずあろう。

 一九三四年三月二十三日、魯迅、上海にて記す。


第11節

中文原文 日本語訳

【论“旧形式的采用”】


 “旧形式的采用”的问题,如果平心静气的讨论起来,在现在,我想是很有意义的,但开首便遭到了耳耶先生的笔伐。“类乎投降”,“机会主义”,这是近十年来“新形式的探求”的结果,是克敌的咒文,至少先使你惹一身不干不净。但耳耶先生是正直的,因为他同时也在译《艺术底内容和形式》,一经登完,便会洗净他激烈的责罚;而且有几句话也正确的,是他说新形式的探求不能和旧形式的采用机械的地分开。
 不过这几句话已经可以说是常识;就是说内容和形式不能机械的地分开,也已经是常识;还有,知道作品和大众不能机械的地分开,也当然是常识。旧形式为什么只是“采用”──但耳耶先生却指为“为整个(!)旧艺术捧场”──就是为了新形式的探求。采取若干,和“整个”捧来是不同的,前进的艺术家不能有这思想(内容)。然而他会想到采取旧艺术,因为他明白了作品和大众不能机械的地分开。以为艺术是艺术家的“灵感”的爆发,像鼻子发痒的人,只要打出喷嚏来就浑身舒服,一了百了的时候已经过去了,现在想到,而且关心了大众。这是一个新思想(内容),由此而在探求新形式,首先提出的是旧形式的采取,这采取的主张,正是新形式的发端,也就是旧形式的蜕变,在我看来,是既没有将内容和形式机械的地分开,更没有看得《姊妹花》叫座,于是也来学一套的投机主义的罪案的。
 自然,旧形式的采取,或者必须说新形式的探求,都必须艺术学徒的努力的实践,但理论家或批评家是同有指导,评论,商量的责任的,不能只斥他交代未清之后,便可逍遥事外。我们有艺术史,而且生在中国,即必须翻开中国的艺术史来。采取什么呢?我想,唐以前的真迹,我们无从目睹了,但还能知道大抵以故事为题材,这是可以取法的;在唐,可取佛画的灿烂,线画的空实和明快,宋的院画,萎靡柔媚之处当舍,周密不苟之处是可取的,米点山水,则毫无用处。后来的写意画(文人画)有无用处,我此刻不敢确说,恐怕也许还有可用之点的罢。这些采取,并非断片的古董的杂陈,必须溶化于新作品中,那是不必赘说的事,恰如吃用牛羊,弃去蹄毛,留其精粹,以滋养及发达新的生体,决不因此就会“类乎”牛羊的。
 只是上文所举的,亦即我们现在所能看见的,都是消费的艺术。它一向独得有力者的宠爱,所以还有许多存留。但既有消费者,必有生产者,所以一面有消费者的艺术,一面也有生产者的艺术。古代的东西,因为无人保护,除小说的插画以外,我们几乎什么也看不见了。至于现在,却还有市上新年的花纸,和猛克先生所指出的连环图画。这些虽未必是真正的生产者的艺术,但和高等有闲者的艺术对立,是无疑的。但虽然如此,它还是大受着消费者艺术的影响,例如在文学上,则民歌大抵脱不开七言的范围,在图画上,则题材多是士大夫的部事,然而已经加以提炼,成为明快,简捷的东西了。这也就是蜕变,一向则谓之“俗”。注意于大众的艺术家,来注意于这些东西,大约也未必错,至于仍要加以提炼,那也是无须赘说的。
 但中国的两者的艺术,也有形似而实不同的地方,例如佛画的满幅云烟,是豪华的装璜,花纸也有一种硬填到几乎不见白纸的,却是惜纸的节俭;唐伯虎画的细腰纤手的美人,是他一类人们的欲得之物,花纸上也有这一种,在赏玩者却只以为世间有这一类人物,聊资博识,或满足好奇心而已。为大众的画家,都无须避忌。
 至于谓连环图画不过图画的种类之一,与文学中之有诗歌,戏曲,小说相同,那自然是不错的。但这种类之别,也仍然与社会条件相关联,则我们只要看有时盛行诗歌,有时大出小说,有时独多短篇的史实便可以知道。因此,也可以知道即与内容相关联。现在社会上的流行连环图画,即因为它有流行的可能,且有流行的必要,着眼于此,因而加以导引,正是前进的艺术家的正确的任务;为了大众,力求易懂,也正是前进的艺术家正确的努力。旧形式是采取,必有所删除,既有删除,必有所增益,这结果是新形式的出现,也就是变革。而且,这工作是决不如旁观者所想的容易的。
 但就是立有了新形式罢,当然不会就是很高的艺术。艺术的前进,还要别的文化工作的协助,某一文化部门,要某一专家唱独脚戏来提得特别高,是不妨空谈,却难做到的事,所以专责个人,那立论的偏颇和偏重环境的是一样的。


 (五月二日。)

【「旧形式の採用」を論ず】


 「旧形式の採用」の問題は、もし平心静気に討論するならば、現在において甚だ意義があると思うが、冒頭から耳耶先生の筆伐に遭った。「投降に類す」「機会主義」──これは近十年来の「新形式の探求」の結果であり、敵を克する呪文であって、少なくともまず一身に不潔を被らせる。しかし耳耶先生は正直であり、なぜなら彼は同時に『芸術の内容と形式』を翻訳しており、ひとたび連載が終われば自らの激烈な責罰を洗い流すことになろう。しかも幾句かの話は正確であり、新形式の探求と旧形式の採用は機械的に分けられぬと言っていることだ。

 しかしこの数句は既に常識と言える。内容と形式が機械的に分けられぬというのも既に常識であり、作品と大衆が機械的に分けられぬと知ることもまた当然常識だ。旧形式をなぜただ「採用」するに過ぎないか──しかし耳耶先生はこれを「旧芸術丸ごと(!)の賛美」と指す──それは新形式の探求のためだ。若干を採り取ることと「丸ごと」持ってくることは異なり、前進的な芸術家にこのような思想(内容)はあり得ない。しかし彼が旧芸術を採り取ることを思いつくのは、作品と大衆が機械的に分けられぬと理解したからだ。芸術は芸術家の「霊感」の爆発であり、鼻がむずむずする者が一つ嚔をすれば全身さっぱりし、それですべて片付くという時代は既に過ぎた。今は大衆のことを思い、しかも関心を持つに至った。これは一つの新思想(内容)であり、ここから新形式を探求し、まず提出されたのが旧形式の採取であり、この採取の主張はまさに新形式の端緒にして、旧形式の脱皮でもある。私の見るところ、内容と形式を機械的に分けたのでもなければ、『姉妹花』の客入りを見て自分も一手真似ようという投機主義の罪案でもない。

 無論、旧形式の採取、あるいは新形式の探求と言うべきか、いずれにせよ芸術学徒の努力と実践が必要だが、理論家や批評家にも指導、評論、商量の責任が等しくあり、「まだ説明が足りぬ」と叱りつけただけで逍遥事外というわけにはいかない。我々には芸術史があり、しかも中国に生まれたからには、中国の芸術史を繙かねばならぬ。何を採取するか。思うに、唐以前の真蹟は目にする由もないが、大抵故事を題材としたことはなお知り得る。これは取法し得る。唐においては仏画の燦爛たること、線画の空実と明快さを取るべく、宋の院画は萎靡柔媚の処は捨て、周密不苟の処は取るべきだ。米点山水は全く無用。後の写意画(文人画)に用処があるか否かは今にわかに断言し難いが、おそらくなお可用の点があるかもしれぬ。これらの採取は断片的な古董の陳列ではなく、必ず新作品の中に溶化させねばならぬことは贅言を要せぬ。ちょうど牛羊を食して蹄と毛を棄て、精髄を留めて新しい生体を滋養し発達させるのであり、これをもって牛羊「に類する」ことには決してなるまい。

 ただし以上に挙げたもの、すなわち我々が今見ることのできるものは、すべて消費の芸術だ。それは一貫して有力者の寵愛を独占してきたがゆえに、なお多くが存留している。しかし消費者があれば必ず生産者があり、ゆえに一方に消費者の芸術があれば他方に生産者の芸術がある。古代のものは保護する者がなかったため、小説の挿画以外、我々はほとんど何も見ることができない。現在においてはなお市中の正月の花紙があり、また猛克先生の指摘した連環図画がある。これらは必ずしも真の生産者の芸術とは言えぬが、上等有閑者の芸術と対立するものであることは疑いない。とはいえこれもまた大いに消費者の芸術の影響を受けており、たとえば文学において民歌が大抵七言の範囲を脱し得ず、図画において題材の多くが士大夫の物語であるのがそれだ。しかし既に精錬を加え、明快簡潔なものとなっている。これもまた脱皮であり、従来これを「俗」と謂う。大衆に注目する芸術家がこれらに注目するのもおそらく誤りではあるまい。なおも精錬を加えるべきことは贅言を要せぬ。

 しかし中国の両者の芸術にも、形は似て実は異なるところがある。たとえば仏画の画面いっぱいの雲煙は豪華な装飾だが、花紙にも白紙がほとんど見えぬほど硬く詰め込んだ種類があり、これは紙を惜しむ節約だ。唐伯虎の描く細腰繊手の美人は、彼の同類の人々の欲するところだが、花紙にもこの種のものがあり、鑑賞者にとってはただ世間にこのような人物がいると知って博識を資し、あるいは好奇心を満たすに過ぎない。大衆のための画家はいずれも避忌するに及ばない。

 連環図画は図画の種類の一つに過ぎず、文学における詩歌、戯曲、小説と同様であるというのは、無論正しい。しかしこの種類の別もまた社会条件と関連しており、時に詩歌が盛行し、時に小説が多出し、時に短篇のみが多い史実を見ればわかる。ここから、すなわち内容とも関連していることがわかる。現在社会に連環図画が流行しているのは、それに流行の可能性があり、かつ流行の必要性があるからであり、ここに着眼して導引するのはまさに前進的な芸術家の正しい任務であり、大衆のために努めてわかりやすくするのもまさに前進的な芸術家の正しい努力だ。旧形式は採取であり、必ず削除するところがあり、削除があれば必ず増益があり、その結果は新形式の出現であり、すなわち変革だ。しかもこの仕事は決して傍観者が想像するほど容易ではない。

 しかし仮に新形式が確立されたとしても、もちろんそれだけで甚だ高い芸術とはなるまい。芸術の前進にはなお他の文化事業の協助が必要であり、ある文化部門を一人の専門家に独り芝居で特別に高めさせようとするのは、空論としては構わぬが実行は難しい。ゆえに個人のみを責めるのは、偏重環境と同様に論の偏頗なるものだ。


 (五月二日。)


第12節

中文原文 日本語訳

【连环图画琐谈】


 “连环图画”的拥护者,看现在的议论,是“启蒙”之意居多的。
 古人“左图右史”,现在只剩下一句话,看不见真相了,宋元小说,有的是每页上图下说,却至今还有存留,就是所谓“出相”;明、清以来,有卷头只画书中人物的,称为“绣像”。有画每回故事的,称为“全图”。那目的,大概是在诱引未读者的购读,增加阅读者的兴趣和理解。
 但民间另有一种《智灯难字》或《日用杂字》,是一字一像,两相对照,虽可看图,主意却在帮助识字的东西,略加变通,便是现在的《看图识字》。文字较多的是《圣谕像解》,《二十四孝图》等,都是借图画以启蒙,又因中国文字太难,只得用图画来济文字之穷的产物。
 “连环图画”便是取“出相”的格式,收《智灯难字》的功效的,倘要启蒙,实在也是一种利器。
 但要启蒙,即必须能懂。懂的标准,当然不能俯就低能儿或白痴,但应该着眼于一般的大众,譬如罢,中国画是一向没有阴影的,我所遇见的农民,十之九不赞成西洋画及照相,他们说:人脸那有两边颜色不同的呢?西洋人的看画,是观者作为站在一定之处的,但中国的观者,却向不站在定点上,所以他说的话也是真实。那么,作“连环图画”而没有阴影,我以为是可以的;人物旁边写上名字,也可以的,甚至于表示做梦从人头上放出一道毫光来,也无所不可。观者懂得了内容之后,他就会自己删去帮助理解的记号。这也不能谓之失真,因为观者既经会得了内容,便是有了艺术上的真,倘必如实物之真,则人物只有二三寸,就不真了,而没有和地球一样大小的纸张,地球便无法绘画。
 艾思奇先生说:“若能够触到大众真正的切身问题,那恐怕愈是新的,才愈能流行。”这话也并不错。不过要商量的是怎样才能够触到,触到之法,“懂”是最要紧的,而且能懂的图画,也可以仍然是艺术。


 (五月九日。)

【連環図画瑣談】


 「連環図画」の擁護者は、今の議論を見ると、「啓蒙」の意が多いようだ。

 古人の「左図右史」は今やただ一句の言葉だけが残り、実態を見ることはできぬが、宋元の小説には上に図、下に説の形式を持つものがあり、今日なお残存している。これがいわゆる「出相」だ。明清以来、巻頭に書中の人物のみを描くものがあり、「繡像」と称する。各回の物語を描くものがあり、「全図」と称する。その目的はおそらく、未読者を購読に誘い、既読者の興味と理解を増すためだ。

 しかし民間にはまた別に『智燈難字』あるいは『日用雑字』があり、一字一像で両々対照し、図も見られるが、主意は識字を助けるものであり、いくらか変通を加えれば現在の『図を見て字を識る』になる。文字の較多いのは『聖諭像解』『二十四孝図』等で、いずれも図画を借りて啓蒙するものであり、また中国の文字があまりに難しいために図画をもって文字の窮を救う産物だ。

 「連環図画」とは「出相」の格式を取り、『智燈難字』の功効を収めるもので、もし啓蒙せんとするなら、実にまた一種の利器である。

 しかし啓蒙せんとするならば、理解できなければならぬ。理解の基準は、むろん低能児や白痴に合わせる必要はないが、一般の大衆に着眼すべきだ。たとえば、中国画にはもとから陰影がないが、私が出会った農民の十に九人までが西洋画や写真を良しとしなかった。彼らは言う、人の顔の両側が色が違うなんてことがあるか、と。西洋人の絵の見方は、観者が一定の位置に立つことを前提としているが、中国の観者は一定の位置に立たぬのが常であるから、彼の言うことも真実なのだ。ならば、「連環図画」を描いて陰影がなくとも構わぬと私は思う。人物の傍らに名前を書くのもよい。夢を見ることを表すのに人の頭上から一条の光芒を出すのすら、不可はない。観者が内容を理解すれば、理解を助ける記号は自ら削除するであろう。これを真実でないとは言えぬ。観者が既に内容を会得すれば、芸術上の真はあるのであり、もし実物の通りでなければならぬとすれば、人物はわずか二、三寸では真実でなくなるし、地球と同じ大きさの紙がなければ地球は描けぬことになる。

 艾思奇先生は言う、「もし大衆の真の切身の問題に触れることができれば、おそらくより新しいものであればあるほど、より流行するであろう。」これもまた誤りではない。ただし相談すべきは、いかにすれば触れることができるかであり、触れる方法として「わかる」ことが最も肝要であり、しかもわかる図画はなおも芸術たり得るのだ。


 (五月九日。)


第13節

中文原文 日本語訳

【儒术】


 元遗山在金、元之际,为文宗,为遗献,为愿修野史,保存旧章的有心人,明清以来颇为一部分人士所爱重。然而他生平有一宗疑案,就是为叛将崔立颂德者,是否确实与他无涉,或竟是出于他的手笔的文章。
 金天兴元年(一二三二),蒙古兵围洛阳;次年,安平都尉京城西面元帅崔立杀二丞相,自立为郑王,降于元。惧或加以恶名,群小承旨,议立碑颂功德,于是在文臣间,遂发生了极大的惶恐,因为这与一生的名节相关,在个人是十分重要的。
 当时的情状,《金史》《王若虚传》这样说──


 “天兴元年,哀宗走归德。明年春,崔立变,群小附和,请为立建功德碑。翟奕以尚书省命,召若虚为文。时奕辈恃势作威,人或少忤,则谗搆立见屠灭。若虚自分必死,私谓左右司员外郎元好问曰,‘今召我作碑,不从则死,作之则名节扫地,不若死之为愈。虽然,我姑以理谕之。’……奕辈不能夺,乃召太学生刘祁麻革辈赴省,好问张信之喻以立碑事曰,‘众议属二君,且已白郑王矣!二君其无让。’祁等固辞而别。数日,促迫不已,祁即为草定,以付好问。好问意未惬,乃自为之,既成,以示若虚,乃共删定数字,然止直叙其事而已。后兵入城,不果立也。”


 碑虽然“不果立”,但当时却已经发生了“名节”的问题,或谓元好问作,或谓刘祁作,文证具在清凌廷堪所辑的《元遗山先生年谱》中,兹不多录。经其推勘,已知前出的《王若虚传》文,上半据元好问《内翰王公墓表》,后半却全取刘祁自作的《归潜志》,被诬攀之说所蒙蔽了。凌氏辩之云,“夫当时立碑撰文,不过畏崔立之祸,非必取文辞之工,有京叔属草,已足塞立之请,何取更为之耶?”然则刘祁之未尝决死如王若虚,固为一生大玷,但不能更有所推诿,以致成为“塞责”之具,却也可以说是十分晦气的。
 然而,元遗山生平还有一宗大事,见于《元史》《张德辉》传──


 “世祖在潜邸,……访中国人材。德辉举魏璠、元裕、李冶等二十余人。……壬子,德辉与元裕北觐,请世祖为儒教大宗师,世祖悦而受之。因启:累朝有旨蠲儒户兵赋,乞令有司遵行。从之。”


 以拓跋魏的后人与德辉,请蒙古小酋长为“汉儿”的“儒教大宗师”,在现在看来,未免有些滑稽,但当时却似乎并无訾议。盖蠲除兵赋,“儒户”均沾利益,清议操之于士,利益既沾,虽已将“儒教”呈献,也不想再来开口了。
 由此士大夫便渐渐的进身,然终因不切实用,又渐渐的见弃。但仕路日塞,而南北之士的相争却也日甚了。余阙的《青阳先生文集》卷四《杨君显民诗集序》云──


 “我国初有金宋,天下之人,惟才是用之,无所专主,然用儒者为居多也。自至元以下,始浸用吏,虽执政大臣,亦以吏为之,……而中州之士,见用者遂浸寡。况南方之地远,士多不能自至于京师,其抱才缊者,又往往不屑为吏,故其见用者尤寡也。及其久也,则南北之士亦自町畦以相訾,甚若晋之与秦,不可与同中国,故夫南方之士微矣。”


 然在南方,士人其实亦并不冷落。同书《送范立中赴襄阳诗序》云——


 “宋高宗南迁,合淝遂为边地,守臣多以武臣为之。……故民之豪杰者,皆去而为将校,累功多至节制。郡中衣冠之族,惟范氏,商氏,葛氏三家而已。……皇元受命,包裹兵革,……诸武臣之子弟,无所用其能,多伏匿而不出。春秋月朔,郡太守有事于学,衣深衣,戴乌角巾,执笾豆罍爵,唱赞道引者,皆三家之子孙也,故其材皆有所成就,至学校官,累累有焉。……虽天道忌满恶盈,而儒者之泽深且远,从古然也。”


 这是“中国人才”们献教,卖经以来,“儒户”所食的佳果。虽不能为王者师,且次于吏者数等,而究亦胜于将门和平民者一等,“唱赞道引”,非“伏匿”者所敢望了。
 中华民国二十三年五月二十日及次日,上海无线电播音由冯明权先生讲给我们一种奇书:《抱经堂勉学家训》(据《大美晚报》)。这是从未前闻的书,但看见下署“颜子推”,便可以悟出是颜之推《家训》中的《勉学篇》了。曰“抱经堂”者,当是因为曾被卢文弨印入《抱经堂丛书》中的缘故。所讲有这样的一段──


 “有学艺者,触地而安。自荒乱已来,诸见俘虏,虽百世小人,知读《论语》、《孝经》者,尚为人师;虽千载冠冕,不晓书记者,莫不耕田养马。以此观之,汝可不自勉耶?若能常保数百卷书,千载终不为小人也。……谚曰,‘积财千万,不如薄伎在身。’伎之易习而可贵者,无过读书也。”


 这说得很透彻:易习之伎,莫如读书,但知读《论语》、《孝经》,则虽被俘虏,犹能为人师,居一切别的俘虏之上。这种教训,是从当时的事实推断出来的,但施之于金元而准,按之于明清之际而亦准。现在忽由播音,以“训”听众,莫非选讲者已大有感于方来,遂绸缪于未雨么?
 “儒者之泽深且远”,即小见大,我们由此可以明白“儒术”,知道“儒效”了。


 (五月二十七日。)

【儒術】


 元遺山は金、元の際にあって、文宗たり、遺献たり、野史を修め旧章を保存せんとする有心の人であり、明清以来かなりの人士に愛重されてきた。しかし彼の生涯には一つの疑案がある。すなわち叛将崔立のために功徳を頌えた者が、果たして彼と無関係であるか、あるいは彼の手筆に出る文章であるかということだ。

 金の天興元年(一二三二年)、蒙古兵が洛陽を包囲し、翌年、安平都尉にして京城西面元帥の崔立が二丞相を殺し、自ら鄭王と立って元に降った。悪名を加えられることを恐れ、群小が意を承けて、碑を立てて功徳を頌えることを議した。かくして文臣の間に甚大な恐慌が生じた。これは一生の名節に関わり、個人にとっては十分に重大な事だったからだ。

 当時の情況を、『金史』の「王若虚伝」はこう記している──


 「天興元年、哀宗帰徳に走る。翌年の春、崔立変を起こし、群小これに附和して、立のために功徳碑を建てんことを請う。翟奕、尚書省の命をもって若虚を召して文を作らしむ。時に奕の輩、勢を恃みて威を作し、人もし少しく忤えば、讒構して立ちどころに屠滅せらる。若虚、自ら必ず死すと分かち、私に左右司員外郎元好問に謂いて曰く、『今、我を召して碑を作らしむ。従わざれば死す、之を作れば名節地を掃う。死するに若かず。然りと雖も、我、姑く理を以て之を諭さん。』……奕の輩奪う能わず、乃ち太学生劉祁、麻革の輩を召して省に赴かしむ。好問、張信之、碑を立つるの事を以て之に喻して曰く、『衆議二君に属す。且つ已に鄭王に白したり。二君其れ辞すること勿かれ。』と。祁等固辞して別る。数日、促迫已まず、祁即ち草定して好問に付す。好問意惬わず、乃ち自ら之を為す。成るに及び、以て若虚に示す。乃ち共に数字を削定す。然れども止だ直にその事を叙するのみ。後に兵城に入り、果たさず。」


 碑は「果たさず」ではあったが、当時既に「名節」の問題が発生しており、あるいは元好問の作と言い、あるいは劉祁の作と言う。文証は清の凌廷堪が輯めた『元遺山先生年譜』中に具わっており、ここには多くは録さぬ。その推勘を経て、先に出した「王若虚伝」の文は、前半は元好問の『内翰王公墓表』に拠り、後半は劉祁自作の『帰潜志』を全く採っており、誣攀の説に蒙蔽されたことが判明している。凌氏はこれを弁じて曰く、「それ当時碑を立て文を撰するは、崔立の禍を畏るるに過ぎず、必ずしも文辞の工を取るにあらず。京叔の草を属するあらば、已に立の請を塞ぐに足る。何ぞ更に之を為す所を取らんや。」されば劉祁が王若虚の如く決死せざりしは、固より一生の大玷なれど、さらに他に推し委ねて「塞責」の具と成らしむるを能わざりしは、十分に不運であったとも言えよう。

 しかし元遺山の生涯にはなお一つの大事がある。『元史』の「張徳輝伝」に見える──


 「世祖潜邸にありし時、……中国の人材を訪ぬ。徳輝、魏璠、元裕、李冶等二十余人を挙ぐ。……壬子、徳輝元裕と北に覲え、世祖に儒教大宗師たらんことを請う。世祖悦びて之を受く。因りて啓す、累朝の旨にて儒戸の兵賦を蠲免すとあり、乞うらくは有司をして遵行せしめよ、と。之に従う。」


 拓跋魏の後裔と徳輝とが、蒙古の小酋長に「漢児」の「儒教大宗師」たることを請うたのは、今から見れば些か滑稽であるが、当時は格別の非難もなかったようだ。蓋し兵賦の蠲免により「儒戸」は等しく利益を受け、清議は士の手中にあったものの、利益を受けてしまえば、既に「儒教」を献上したことについてもはや口を開く気にはなれなかったのだ。

 これにより士大夫は漸次出世するようになったが、畢竟実用に適わぬため、また漸次見棄てられた。しかし仕途は日に塞がり、南北の士の相争うことはまた日に甚だしくなった。余闕の『青陽先生文集』巻四「楊君顕民詩集序」に曰く──


 「我が国初め金宋を有するや、天下の人は才あるを用うるのみにして、専ら主する所なく、然れども儒者を用うる者居多なり。至元以下より始めて浸く吏を用い、執政大臣と雖も亦た吏を以て之を為す。……而して中州の士、見て用いらるる者遂に浸く寡し。況んや南方の地遠く、士多くは自ら京師に至る能わず、其の才を抱く蘊する者、又往々にして吏と為るを屑しとせず。故に其の見て用いらるる者尤も寡なり。其の久しきに及ぶや、南北の士亦た自ら町畦して以て相い訾り、甚だしきは晋の秦に於けるが若く、与に中国に同ずべからず。故に南方の士微なり。」


 しかし南方において、士人は実は冷遇されていたわけでもなかった。同書「范立中を襄陽に赴くに送るの詩序」に曰く──


 「宋の高宗南遷し、合肥遂に辺地と為る。守臣多く武臣を以て之に当つ。……故に民の豪傑なる者、皆去りて将校と為り、功を累ねて多く節制に至る。郡中衣冠の族は、惟だ范氏、商氏、葛氏三家のみ。……皇元命を受け、兵革を包裹し、……諸武臣の子弟、其の能を用うる所なく、多く伏匿して出でず。春秋月朔、郡太守、学に事有らば、深衣を衣、烏角巾を戴き、笾豆罍爵を執り、唱賛道引する者は、皆三家の子孫なり。故に其の材皆成就する所あり、学校の官に至る者累々として有り。……天道は満を忌み盈を悪むと雖も、儒者の沢は深く且つ遠く、古より然り。」


 これが「中国の人材」たちが教を献じ、経を売ってこのかた、「儒戸」の食した佳果である。王者の師と為り得ずとも、しかも吏よりも数等下にありながら、やはり将門や平民よりは一等勝っており、「唱賛道引」は「伏匿」する者の望み得るところではなかったのだ。

 中華民国二十三年五月二十日及び翌日、上海の無線放送にて馮明権先生が我々に一つの奇書を講じてくれた。『抱経堂勉学家訓』(『大美晩報』に拠る)。これは未だ嘗て耳にしたことのない書だが、下の署名に「顔子推」とあるのを見れば、顔之推の『家訓』中の「勉学篇」であることが悟られよう。「抱経堂」と曰うのは、かつて盧文弨の『抱経堂叢書』中に印入されたことに因るものであろう。その講義にこのような一節がある──


 「学芸ある者は、地に触れて安んず。荒乱より以来、諸々俘虜と為るを見るに、百世の小人と雖も、『論語』『孝経』を読むを知る者は、尚お人の師と為り得、千載の冠冕と雖も、書記を暁らざる者は、田を耕し馬を養わざるはなし。此を以て之を観れば、汝自ら勉めざるべけんや。若し能く常に数百巻の書を保たば、千載終に小人と為らざるなり。……諺に曰く、『財を積むこと千万、薄伎の身に在るに如かず。』と。伎の習い易くして貴ぶべき者は、読書に過ぐるはなし。」


 これは実に透徹している。習い易き伎は読書に如くはなく、ただ『論語』『孝経』を読むことを知るだけでも、たとえ俘虜となろうとなお人の師たり得、他のすべての俘虜の上に居るのだ。この種の教訓は当時の事実から推断されたものだが、金元に施して準じ、明清の際に按じてもまた準ずる。今にわかに放送をもって聴衆を「訓」ずるに至ったのは、あるいは選講者が既に来たるべきものに大いに感ずるところあり、未雨に綢繆するのであろうか。

 「儒者の沢は深く且つ遠し」──小を即きて大を見れば、我々はここから「儒術」を明らかにし、「儒効」を知ることができるのだ。


 (五月二十七日。)