Lu Xun Complete Works/zh-ja/Riji

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riji / riji

魯迅 (鲁迅, ルーシュン, 1881-1936)

中日対照翻訳。


第1節

中文 日本語

【“全国木刻联合展览会专辑”序】

【「全国木刻連合展覧会特集」序】

木刻的图画,原是中国早先就有的东西。唐末的佛像,纸牌,以至后来的小说绣像,启蒙小图,我们至今还能够看见实物。而且由此明白;它本来就是大众的,也就是“俗”的。明人曾用之于诗笺,近乎雅了,然而归结是有文人学士在它全体上用大笔一挥,证明了这其实不过是践踏。

木刻の図画は、もともと中国に古くからあるものである。唐末の仏像、紙牌、さらには後世の小説の挿絵、啓蒙用の小図に至るまで、我々は今なお実物を目にすることができる。そしてこのことから明らかなように、それは本来大衆のものであり、すなわち「俗」なるものであった。明代の人々はこれを詩箋に用い、雅に近づいたが、結局のところ文人学士がその全体に大筆を振るい、それが実は蹂躙に過ぎなかったことを証明した。

近五年来骤然兴起的木刻,虽然不能说和古文化无关,但决不是葬中枯骨,换了新装,它乃是作者和社会大众的内心的一致的要求,所以仅有若干青年们的一副铁笔和几块木板,便能发展得如此蓬蓬勃勃。它所表现的是艺术学徒的热诚,因此也常常是现代社会的魂魄。实绩具在,说它“雅”,固然是不可的,但指为“俗”,却又断乎不能。这之前,有木刻了,却未曾有过这境界。

近年五年間に俄かに興起した木刻は、古い文化と無関係とは言えないものの、決して墓中の枯骨に新しい衣を着せたものではない。それは作者と社会大衆の内心の一致した要求であり、それゆえわずかな青年たちの一本の鉄筆と数枚の木板だけで、これほど蓬勃と発展し得たのである。それが表現するのは芸術の学徒の熱誠であり、したがってまた往々にして現代社会の魂魄でもある。実績は明らかであり、「雅」と称するのは無論できないが、「俗」と断ずることもまた断じてできない。それ以前にも木刻はあったが、このような境地に達したことはなかった。

这就是所以为新兴木刻的缘故,也是所以为大众所支持的原因。血脉相通,当然不会被漠视的。所以木刻不但淆乱了雅俗之辨而已,实在还有更光明,更伟大的事业在它的前面。

これこそが新興木刻たる所以であり、大衆に支持される所以でもある。血脈相通ずるものは、当然等閑に付されはしない。木刻は雅俗の弁を混淆させたのみならず、実にさらに輝かしく、偉大な事業がその前途に横たわっているのである。

曾被看作高尚的风景和静物画,在新的木刻上是减少了,然而看起出品来,这二者反显着较优的成绩。因为中国旧画,两者最多,耳濡目染,不觉见其久经摄取的所长了,而现在最需要的,也是作者最着力的人物和故事画,却仍然不免有些逊色,平常的器具和形态,也间有不合实际的。由这事实,一面固足见古文化之裨助着后来,也束缚着后来,但一面也可见入“俗”之不易了。

かつて高尚と見なされた風景画や静物画は、新しい木刻では減少したが、作品を見ると、この二つはかえって優れた成績を示している。中国の旧画においてはこの二つが最も多く、見慣れ聞き慣れて、その長年にわたって摂取してきた長所に気づかなかったのである。一方、今最も必要とされ、作者たちが最も力を注ぐ人物画や物語画は、やはりいささか遜色を免れず、日常の器具や形態にも、時として実際に合わないものがある。この事実から、古い文化が後世を助けもすれば束縛もしていることが分かるが、同時に「俗」に入ることの容易でないことも窺える。

这选集,是聚全国出品的精粹的第一本。但这是开始,不是成功,是几个前哨的进行,愿此后更有无尽的旌旗蔽空的大队。

この選集は、全国の出品の精華を集めた最初の一冊である。しかしこれは始まりであって、成功ではない。数人の前哨の進軍であり、今後さらに旗幟が空を蔽う無尽の大隊が続くことを願う。

一九三五年六月四日记。

一九三五年六月四日記す。

【文坛三户】

【文壇三戸】

二十年来,中国已经有了一些作家,多少作品,而且至今还没有完结,所以有个“文坛”,是毫无可疑的。不过搬出去开博览会,却还得顾虑一下。

二十年来、中国にはすでに若干の作家があり、多少の作品があり、しかも今なお終わっていない以上、「文壇」なるものが存在することは、毫も疑いない。ただし、これを外に持ち出して博覧会を開くとなると、なお顧慮が要る。

因为文字的难,学校的少,我们的作家里面,恐怕未必有村姑变成的才女,牧童化出的文豪。古时候听说有过一面看牛牧羊,一面读经,终于成了学者的人的,但现在恐怕未必有。──我说了两回“恐怕未必”,倘真有例外的天才,尚希鉴原为幸。要之,凡有弄弄笔墨的人们,他先前总有一点凭借:不是祖遗的正在少下去的钱,就是父积的还在多起来的钱。要不然,他就无缘读书识字。现在虽然有了识字运动,我也不相信能够由此运出作家来。所以这文坛,从阴暗这方面看起来,暂时大约还要被两大类子弟,就是“破落户”和“暴发户”所占据。

文字の難しさ、学校の少なさゆえに、我々の作家の中には、村娘が才女に変じたり、牧童が文豪に化したりした者はおそらくいまい。昔は牛を飼い羊を牧しながら経典を読み、ついに学者となった人がいたと聞くが、今はおそらくいまい。──私は二度「おそらくいまい」と言ったが、もし例外的な天才が真にいるならば、ご寛恕を乞う。要するに、およそ筆墨を弄ぶ者は、以前から何らかの拠り所を持っている。祖先から受け継いだ減りつつある金か、父親が蓄えたまだ増えつつある金か、そのいずれかである。そうでなければ、読み書きを学ぶ縁もない。今は識字運動があるとはいえ、そこから作家が生まれ出るとは私は信じない。だからこの文壇は、暗い面から見れば、当分のところ二大類の子弟、すなわち「没落戸」と「成金戸」に占拠され続けるであろう。

已非暴发,又未破落的,自然也颇有出些著作的人,但这并非第三种,不近于甲,即近于乙的,至于掏腰包印书,仗奁资出版者,那是文坛上的捐班,更不在本论范围之内。所以要说专仗笔墨的作者,首先还得求之于破落户中。他先世也许暴发过,但现在是文雅胜于算盘,家景大不如意了,然而又因此看见世态的炎凉,人生的苦乐,于是真的有些抚今追昔,“缠绵悱恻”起来。一叹天时不良,二叹地理可恶,三叹自己无能。但这无能又并非真无能,乃是自己不屑有能,所以这无能的高尚,倒远在有能之上。你们剑拔弩张,汗流浃背,到底做成了些什么呢?惟我的颓唐相,是“十年一觉扬州梦”,惟我的破衣上,是“襟上杭州旧酒痕”,连懒态和污渍,也都有历史的甚深意义的。可惜俗人不懂得,于是他们的杰作上,就大抵放射着一种特别的神彩,是:“顾影自怜”。

成金でもなく、没落でもない者にも、むろん著作を出す人はいるが、これは第三種ではなく、甲に近いか乙に近いかのいずれかであり、自腹を切って本を刷り、持参金で出版する者に至っては、文壇の寄付官であって、本論の範囲外である。筆墨のみを頼りとする作者を求めるなら、まず没落戸の中に探さねばならない。その先祖は成金であったかもしれないが、今は風雅が算盤に優り、家況は甚だ不如意であり、そのためにかえって世態の炎涼、人生の苦楽を見て、真に今昔を撫し追い、「纏綿悱惻」となるのである。一に天時の不良を嘆き、二に地理の不便を嘆き、三に自らの無能を嘆く。しかしこの無能は真の無能ではなく、自ら有能たることを潔しとしないのであるから、この無能の高尚さは、有能のそれをはるかに凌ぐ。諸君は剣を抜き弩を張り、汗を流し背を濡らして、いったい何を成し遂げたのか。ただ我が頽唐の相のみが「十年一覚揚州の夢」であり、ただ我が破衣の上のみが「襟上杭州旧酒の痕」であり、怠惰の態も汚れもすべて歴史の深甚な意義を持つのだ。惜しむらくは俗人には理解できず、かくて彼らの傑作には一種特別な神彩が放たれる、すなわち「顧影自憐」である。

暴发户作家的作品,表面上和破落户的并无不同。因为他意在用墨水洗去铜臭,这才爬上一向为破落户所主宰的文坛来,以自附于“风雅之林”,又并不想另树一帜,因此也决不标新立异。但仔细一看,却是属于别一本户口册上的;他究竟显得浅薄,而且装腔,学样。房里会有断句的诸子,看不懂;案头也会有石印的骈文,读不断。也会嚷“襟上杭州旧酒痕”呀,但一面又怕别人疑心他穿破衣,总得设法表示他所穿的乃是笔挺的洋服或簇新的绸衫;也会说“十年一觉扬州梦”的,但其实倒是并不挥霍的好品行,因为暴发户之于金钱,觉得比懒态和污渍更有历史的甚深的意义。破落户的颓唐,是掉下来的悲声,暴发户的做作的颓唐,却是“爬上去”的手段。所以那些作品,即使摹拟到和破落户的杰作几乎相同,但一定还差一尘:他其实并不“顾影自怜”,倒在“沾沾自喜”。

成金戸の作家の作品は、表面上は没落戸のそれと異ならない。なぜなら彼は墨で銅臭を洗い去ろうと意図し、従来没落戸が主宰してきた文壇に這い上がり、「風雅の林」に自ら付こうとするのであって、別に旗を立てようとは思わず、したがって標新立異もしない。しかし仔細に見れば、別の戸籍簿に属する者であり、やはり浅薄で、気取っていて、真似をしている。部屋には句読を付した諸子があるが読めない。机上には石印の駢文があるが読み通せない。「襟上杭州旧酒の痕」と叫びもするが、一方で人に破衣を着ていると疑われることを恐れ、何とか自分が着ているのはぴしりとした洋服か真新しい絹の衫であることを示そうとする。「十年一覚揚州の夢」とも言うが、実は浪費しないという良い品行であり、なぜなら成金戸にとって金銭は、怠惰や汚れよりもはるかに歴史の深甚な意義を持つからである。没落戸の頽唐は落ちてゆく悲声であり、成金戸の作られた頽唐は「這い上がる」手段である。ゆえにそれらの作品は、没落戸の傑作をほとんど同じに模倣しても、必ず一塵の差がある。彼は実は「顧影自憐」しているのではなく、「沾沾自喜」しているのだ。

这“沾沾自喜”的神情,从破落户的眼睛看来,就是所谓“小家子相”,也就是所谓“俗”。风雅的定律,一个人离开“本色”,是就要“俗”的。不识字人不算俗,他要掉文,又掉不对,就俗;富家儿郎也不算俗,他要做诗,又做不好,就俗了。这在文坛上,向来为破落户所鄙弃。

この「沾沾自喜」の神情は、没落戸の目から見れば、いわゆる「小家の相」であり、いわゆる「俗」である。風雅の定律によれば、人が「本色」を離れれば「俗」になる。無学文盲は俗ではないが、学を衒おうとして衒い損ねれば俗であり、富家の子弟も俗ではないが、詩を作ろうとして作り損ねれば俗となる。これは文壇において、従来没落戸に蔑視されてきたことである。

然而破落户到了破落不堪的时候,这两户却有时可以交融起来的。如果谁有在找“词汇”的《文选》,大可以查一查,我记得里面就有一篇弹文,所弹的乃是一个败落的世家,把女儿嫁给了暴发而冒充世家的满家子:这就足见两户的怎样反拨,也怎样的联合了。文坛上自然也有这现象;但在作品上的影响,却不过使暴发户增添一些得意之色,破落户则对于“俗”变为谦和,向别方面大谈其风雅而已:并不怎么大。

しかし没落戸が没落の極に至ると、この二戸は時として融合し得る。もし誰か「語彙」を探している『文選』があれば、調べてみるとよい。私の記憶では、その中に弾劾文が一篇あり、弾劾されたのは没落した世家が娘を成金でありながら世家を詐称する者に嫁がせたことである。これは二戸がいかに反発し、またいかに連合するかを物語る。文壇にも当然この現象はあるが、作品への影響は、成金戸にいくばくかの得意の色を添え、没落戸が「俗」に対して謙和になり、別の方面で風雅を大いに語るにすぎない。

暴发户爬上文坛,固然未能免俗,历时既久,一面持筹握算,一面诵诗读书,数代以后,就雅起来,待到藏书日多,藏钱日少的时候,便有做真的破落户文学的资格了。然而时势的飞速的变化,有时能不给他这许多修养的工夫,于是暴发不久,破落随之,既“沾沾自喜”,也“顾影自怜”,但却又失去了“沾沾自喜”的确信,可又还没有配得“顾影自怜”的风姿,仅存无聊,连古之所谓雅俗也说不上了。向来无定名,我姑且名之为“破落暴发户”罢。这一户,此后是恐怕要多起来的。但还要有变化:向积极方面走,是恶少;向消极方面走,是瘪三。

成金戸が文壇に這い上がれば、むろん俗を免れないが、時を経て、一方で筹を執り算を握りながら、一方で詩を誦し書を読み、数代の後には雅となり、蔵書は日に多く蔵金は日に少なくなれば、真の没落戸文学を為す資格を得る。しかし時勢の急速な変化は、時としてこれだけの修養の工夫を与えず、成金して間もなく没落が続き、「沾沾自喜」もし「顧影自憐」もするが、「沾沾自喜」の確信は失われ、「顧影自憐」の風姿にもまだ及ばず、ただ無聊が残るのみで、古の雅俗すらも論じ得なくなる。従来定まった名はないが、私は仮に「没落成金戸」と名づけよう。この一戸は、今後おそらく増えてゆくであろう。しかしさらに変化がある。積極的な方面に向かえば悪少となり、消極的な方面に向かえば、ならず者となる。

使中国的文学有起色的人,在这三户之外。

中国の文学を好転させる人は、この三戸の外にいる。

(六月六日。)

(六月六日。)

【从帮忙到扯淡】

【「帮忙」から「出鱈目」へ】

“帮闲文学”曾经算是一个恶毒的贬辞,──但其实是误解的。

「幇閑文学」はかつて悪毒な貶辞とされてきた──しかし実はそれは誤解なのである。

《诗经》是后来的一部经,但春秋时代,其中的有几篇就用之于侑酒;屈原是“楚辞”的开山老祖,而他的《离骚》,却只是不得帮忙的不平。到得宋玉,就现有的作品看起来,他已经毫无不平,是一位纯粹的清客了。然而《诗经》是经,也是伟大的文学作品;屈原、宋玉,在文学史上还是重要的作家。为什么呢?──就因为他究竟有文采。

『詩経』は後世の一部の経典であるが、春秋時代にはその中のいくつかの篇は酒宴の席で用いられた。屈原は「楚辞」の開山の祖であるが、その『離騒』は、ただ帮忙できない不平にすぎなかった。宋玉に至っては、現存の作品から見る限り、彼にはもはや不平はなく、純粋な清客であった。しかし『詩経』は経典であり、偉大な文学作品でもある。屈原、宋玉は文学史上なお重要な作家である。なぜか──つまるところ彼らには文采があったからである。

中国的开国的雄主,是把“帮忙”和“帮闲”分开来的,前者参与国家大事,作为重臣,后者却不过叫他献诗作赋,“俳优蓄之”,只在弄臣之例。不满于后者的待遇的是司马相如,他常常称病,不到武帝面前去献殷勤,却暗暗的作了关于封禅的文章,藏在家里,以见他也有计画大典──帮忙的本领,可惜等到大家知道的时候,他已经“寿终正寝”了。然而虽然并未实际上参与封禅的大典,司马相如在文学史上也还是很重要的作家。为什么呢?就因为他究竟有文采。

中国の開国の雄主は、「帮忙」と「帮閑」を分けていた。前者は国家の大事に参与し重臣となり、後者はただ詩を献じ賦を作らせ、「俳優としてこれを蓄う」のみで、弄臣の類にすぎなかった。後者の待遇に不満であったのは司馬相如で、彼はしばしば病と称して武帝の前に媚びを呈しに行かず、密かに封禅に関する文章を書いて家に蔵し、自分にも大典を計画する──帮忙の才能があることを示そうとした。惜しいことに、皆が知った時には彼はすでに「寿終正寝」していた。しかし実際には封禅の大典に参与していないにもかかわらず、司馬相如は文学史上なお極めて重要な作家である。なぜか、つまるところ彼には文采があったからである。

但到文雅的庸主时,“帮忙”和“帮闲”的可就混起来了,所谓国家的柱石,也常是柔媚的词臣,我们在南朝的几个末代时,可以找出这实例。然而主虽然“庸”,却不“陋”,所以那些帮闲者,文采却究竟还有的,他们的作品,有些也至今不灭。

しかし文雅なる庸主の時代になると、「帮忙」と「帮閑」は混同されるようになり、いわゆる国家の柱石もまた往々にして柔媚なる詞臣であった。南朝の数代の末期にその実例を見出すことができる。しかし主は「庸」であっても「陋」ではなかったから、それらの帮閑者にはやはり文采があり、その作品の中には今日なお滅びないものがある。

谁说“帮闲文学”是一个恶毒的贬辞呢?

誰が「帮閑文学」を悪毒な貶辞だと言うのか。

就是权门的清客,他也得会下几盘棋,写一笔字,画画儿,识古董,懂得些猜拳行令,打趣插科,这才能不失其为清客。也就是说,清客,还要有清客的本领的,虽然是有骨气者所不屑为,却又非搭空架者所能企及。例如李渔的《一家言》,袁枚的《随园诗话》,就不是每个帮闲都做得出来的。必须有帮闲之志,又有帮闲之才,这才是真正的帮闲。如果有其志而无其才,乱点古书,重抄笑话,吹拍名士,拉扯趣闻,而居然不顾脸皮,大摆架子,反自以为得意,──自然也还有人以为有趣,──但按其实,却不过“扯淡”而已。

権門の清客であっても、碁を何番か打てなければならず、一手の書を書き、絵を描き、古董を鑑り、拳遊びや酒令、洒落や滑稽をも心得ていなければ、清客たるを失う。すなわち清客にもまた清客の本領が要るのであって、骨気ある者のなすを潔しとしないところであるが、虚勢を張る者の企て及ぶところでもない。たとえば李漁の『一家言』、袁枚の『随園詩話』は、すべての帮閑にできるものではない。帮閑の志があり、また帮閑の才があってこそ、真の帮閑なのである。もしその志があってその才がなく、古書を出鱈目に引用し、笑い話を書き写し、名士に取り入り、逸話をこじつけ、しかも臆面もなく偉そうに構え、かえって自ら得意がる──むろんそれを面白いと思う者もいるが──実を言えば、それは「出鱈目」にすぎない。

帮闲的盛世是帮忙,到末代就只剩了这扯淡。

帮閑の盛世は帮忙であり、末代に至ってはただこの出鱈目が残るのみである。

(六月六日。)

(六月六日。)

【“中国小说史略”日本译本序】

【「中国小説史略」日本語訳序】

听到了拙著《中国小说史略》的日本译《支那小说史》已经到了出版的机运,非常之高兴,但因此又感到自己的衰退了。

拙著『中国小説史略』の日本語訳『支那小説史』がすでに出版の運びとなったと聞き、非常に喜ばしいが、それと同時にまた自らの衰退を感じるのである。

回忆起来,大约四五年前罢,增田涉君几乎每天到寓斋来商量这一本书,有时也纵谈当时文坛的情形,很为愉快。那时候,我是还有这样的余暇,而且也有再加研究的野心的。但光阴如驶,近来却连一妻一子,也将为累,至于收集书籍之类,更成为身外的长物了。改订《小说史略》的机缘,恐怕也未必有。所以恰如准备辍笔的老人,见了自己的全集的印成而高兴一样,我也因而高兴的罢。

思い返せば、おそらく四、五年前のことであろう、増田渉君がほとんど毎日書斎に来てこの本について相談し、時には当時の文壇の状況を縦横に語り合い、大いに愉快であった。あの頃、私にはまだそれだけの余暇があり、さらに研究を深めようという野心もあった。しかし光陰は矢の如く、近頃は妻子一人ずつすら重荷となりかねず、書籍の蒐集の類に至っては、もはや身外の長物である。『小説史略』を改訂する機縁も、おそらくあるまい。だから、ちょうど筆を擱く準備をしている老人が、自分の全集の刊行を見て喜ぶように、私もまた喜んでいるのであろう。

然而,积习好象也还是难忘的。关于小说史的事情,有时也还加以注意,说起较大的事来,则有今年已成故人的马廉教授,于去年翻印了清平山堂残本,使宋人话本的材料更加丰富;郑振铎教授又证明了《四游记》中的《西游记》是吴承恩《西游记》的摘录,而并非祖本,这是可以订正拙著第十六篇的所说的,那精确的论文,就收录在《痀偻集》里。还有一件,是《金瓶梅词话》被发见于北平,为通行至今的同书的祖本,文章虽比现行本粗率,对话却全用山东的方言所写,确切的证明了这决非江苏人王世贞所作的书。

しかし積年の習いはやはり忘れ難いようで、小説史に関する事柄には、時折なお注意を払っている。やや大きな事を言えば、今年すでに故人となった馬廉教授が、昨年清平山堂の残本を翻刻し、宋人話本の資料をさらに豊富にした。鄭振鐸教授はまた、『四遊記』中の『西遊記』が呉承恩の『西遊記』の摘録であって祖本ではないことを証明した。これは拙著第十六篇の所説を訂正し得るものであり、その精確な論文は『痀僂集』に収められている。さらにもう一件、『金瓶梅詞話』が北平で発見され、通行の同書の祖本であることが判明した。文章は現行本より粗率であるが、対話はすべて山東の方言で書かれており、これが決して江蘇の人・王世貞の著作ではないことを確実に証明している。

但我却并不改订,目睹其不完不备,置之不问,而只对于日本译的出版,自在高兴了。但愿什么时候,还有补这懒惰之过的时机。

しかし私はあえて改訂せず、その不完不備を目のあたりにしながら放置し、ただ日本語訳の出版を自ら喜んでいるのである。いつの日か、この怠惰の過ちを補う機会のあらんことを願う。

这一本书,不消说,是一本有着寂寞的运命的书。然而增田君排除困难,加以翻译,赛棱社主三上於菟吉氏不顾利害,给它出版,这是和将这寂寞的书带到书斋里去的读者诸君,我都真心感谢的。

この本は、言うまでもなく、寂寞たる運命を持つ書である。しかし増田君が困難を排して翻訳し、赛棱社主の三上於菟吉氏が利害を顧みず出版してくださった。これは、この寂寞な書を書斎に携えてくださる読者諸君とともに、私が真心より感謝するところである。

一九三五年六月九日灯下,鲁迅。

一九三五年六月九日、灯下にて、魯迅。

【“题未定”草(一至三)】

【「題未定」草(一より三)】

极平常的豫想,也往往会给实验打破。我向来总以为翻译比创作容易,因为至少是无须构想。但到真的一译,就会遇着难关,譬如一个名词或动词,写不出,创作时候可以回避,翻译上却不成,也还得想,一直弄到头昏眼花,好象在脑子里面摸一个急于要开箱子的钥匙,却没有。严又陵说,“一名之立,旬月踌蹰”,是他的经验之谈,的的确确的。

極めて平凡な予想も、往々にして実験に打ち破られるものである。私はかねてより翻訳は創作より容易であると思っていた。少なくとも構想の必要がないからである。しかしいざ実際に訳してみると、難関に遭遇する。たとえば一つの名詞や動詞が書けない時、創作であれば回避できるが、翻訳ではそうはゆかず、やはり考えねばならない。頭が朦朧とし目が眩むまで考え続け、まるで脳の中で、急いで開けたい箱の鍵を手探りしているのに見つからないようなものである。厳復が「一名の立つるや、旬月踌躇す」と言ったのは、その経験談であり、まさにその通りである。

新近就因为豫想的不对,自己找了一个苦吃。《世界文库》的编者要我译果戈理的《死魂灵》,没有细想,一口答应了。这书我不过曾经草草的看过一遍,觉得写法平直,没有现代作品的希奇古怪,那时的人们还在蜡烛光下跳舞,可见也不会有什么摩登名词,为中国所未有,非译者来闭门生造不可的。我最怕新花样的名词,譬如电灯,其实也不算新花样了,一个电灯的另件,我叫得出六样:花线、灯泡、灯罩、沙袋、扑落、开关。但这是上海话,那后三个,在别处怕就行不通。《一天的工作》里有一篇短篇,讲到铁厂,后来有一位在北方铁厂里的读者给我一封信,说其中的机件名目,没有一个能够使他知道实物是什么的。呜呼,——这里只好呜呼了——其实这些名目,大半乃是十九世纪末我在江南学习挖矿时,得之老师的传授。不知是古今异时,还是南北异地之故呢,隔膜了。在青年文学家靠它修养的《庄子》和《文选》或者明人小品里,也找不出那些名目来。没有法子。“三十六着,走为上着”,最没有弊病的是莫如不沾手。

近頃も予想の誤りから、自ら苦を招いた。『世界文庫』の編者が私にゴーゴリの『死せる魂』の翻訳を依頼し、深く考えもせず二つ返事で引き受けた。この本は以前ざっと一読しただけで、筆致は平直で、現代の作品のような奇々怪々なところはなく、当時の人々はまだ蝋燭の灯の下で踊っていたから、中国にないモダンな名詞もなく、訳者が門を閉ざして造語する必要もあるまいと思ったのである。私が最も恐れるのは新奇な名詞である。たとえば電灯は、実はもう新奇でもないが、一つの電灯の部品だけで六つ呼び名を挙げられる──花線、灯泡、灯罩、沙袋、扑落、開関。しかしこれは上海語であり、後の三つは他所では通じまい。『一日の仕事』の中のある短篇は製鉄所を描いているが、後に北方の製鉄所にいる読者から手紙をもらい、機械部品の名称は一つとして実物が何であるか分からなかったと言われた。嗚呼──ここでは嗚呼と言うほかない──実はこれらの名称の大半は、十九世紀末に私が江南で採鉱を学んでいた頃に先生から伝授されたものである。古今の時代の違いか、南北の地域の違いか、隔たってしまったのだ。青年文学者が修養の拠り所とする『荘子』や『文選』、あるいは明人の小品の中にも、それらの名称は見つからない。どうしようもない。「三十六計、逃げるに如かず」、最も弊害のないのは手を出さないことである。

可恨我还太自大,竟又小觑了《死魂灵》,以为这倒不算什么,担当回来,真的又要翻译了。于是“苦”字上头。仔细一读,不错,写法的确不过平铺直叙,但到处是刺,有的明白,有的却隐藏,要感得到;虽然重译,也得竭力保存它的锋头。里面确没有电灯和汽车,然而十九世纪上半期的菜单,赌具,服装,也都是陌生家伙。这就势必至于字典不离手,冷汗不离身,一面也自然只好怪自己语学程度的不够格。但这一杯偶然自大了一下的罚酒是应该喝干的:硬着头皮译下去。到得烦厌,疲倦了的时候,就随便拉本新出的杂志来翻翻,算是休息。这是我的老脾气,休息之中,也略含幸灾乐祸之意,其意若曰:这回是轮到我舒舒服服的来看你们在闹什么花样了。

恨むらくは私はなお自負心が強すぎ、またもや『死せる魂』を軽く見て、大したことはあるまいと思い、引き受けて帰り、いざ翻訳を始めたのである。かくして「苦」の字が頭上に。仔細に読めば、なるほど筆法はまさに平鋪直叙にすぎないが、到る処に棘がある。明らかなものもあれば隠されたものもあり、感じ取らねばならない。重訳であっても、その鋒鋩を全力で保たねばならない。中には電灯も自動車もないが、十九世紀前半の献立表、賭博具、服装もすべて馴染みのない代物である。こうなると必然的に辞書が手を離れず、冷や汗が身を離れず、一方で自分の語学力の不十分さを恨むほかない。しかしこの一杯の、たまたま自負した罰酒は飲み干さねばならない──頭を硬くして訳し続ける。飽きて疲れた時には、手当たり次第に新しく出た雑誌を引っ張り出して繰る。これが私の旧来の癖であり、休息の中にもいくらか他人の不幸を楽しむ気持ちが含まれている。その心はさながら、今度は私が楽々とお前たちがどんな花形を演じているか見てやろう、というものである。

第2節

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好象华盖运还没有交完,仍旧不得舒服。拉到手的是《文学》四卷六号,一翻开来,卷头就有一幅红印的大广告,其中说是下一号里,要有我的散文了,题目叫作《未定》。往回一想,编辑先生的确曾经给我一封信,叫我寄一点文章,但我最怕的正是所谓做文章,不答。文章而至于要做,其苦可知。不答者,即答曰不做之意。不料一面又登出广告来了,情同绑票,令我为难。但同时又想到这也许还是自己错,我曾经发表过,我的文章,不是涌出,乃是挤出来的。他大约正抓住了这弱点,在用挤出法;而且我遇见编辑先生们时,也间或觉得他们有想挤之状,令人寒心。先前如果说:“我的文章,是挤也挤不出来的”,那恐怕要安全得多了,我佩服陀思妥也夫斯基的少谈自己,以及有些文豪们的专讲别人。

華蓋運がまだ尽きていないかのように、やはり安んじていられない。手に取ったのは『文学』四巻六号で、開いてみると巻頭に赤刷りの大きな広告があり、次号に私の散文が載るという。題は「未定」とある。思い返してみると、確かに以前、編者から原稿を求められたが、題は未定だと言ったのだ。それが題名に化けてしまった。

但是,积习还未尽除,稿费又究竟可以换米,写一点也还不算什么“冤沉海底”。笔,是有点古怪的,它有编辑先生一样的“挤”的本领。袖手坐着,想打盹,笔一在手,面前放一张稿子纸,就往往会莫名其妙的写出些什么来。自然,要好,可不见得。

还是翻译《死魂灵》的事情。躲在书房里,是只有这类事情的。动笔之前,就先得解决一个问题:竭力使它归化,还是尽量保存洋气呢?日本文的译者上田进君,是主张用前一法的。他以为讽刺作品的翻译,第一当求其易懂,愈易懂,效力也愈广大。所以他的译文,有时就化一句为数句,很近于解释。我的意见却两样的。只求易懂,不如创作,或者改作,将事改为中国事,人也化为中国人。如果还是翻译,那么,首先的目的,就在博览外国的作品,不但移情,也要益智,至少是知道何地何时,有这等事,和旅行外国,是很相像的:它必须有异国情调,就是所谓洋气。其实世界上也不会有完全归化的译文,倘有,就是貌合神离,从严辨别起来,它算不得翻译。凡是翻译,必须兼顾着两面,一当然力求其易解,一则保存着原作的丰姿,但这保存,却又常常和易懂相矛盾:看不惯了。不过它原是洋鬼子,当然谁也看不惯,为比较的顺眼起见,只能改换他的衣裳,却不该削低他的鼻子,剜掉他的眼睛。我是不主张削鼻剜眼的,所以有些地方,仍然宁可译得不顺口。只是文句的组织,无须科学理论似的精密了,就随随便便,但副词的“地”字,却还是使用的,因为我觉得现在看惯了这字的读者已经很不少。

しかし、これは実は大したことではない。題は後から変えればよいのだから。問題はそれに続く広告文句であって、いわく「魯迅先生の心境は近年一変し……」云々。思うに私の文章は元来一様ではない。攻撃するものもあれば回顧するものもあり、叙述するものもあれば抒情するものもある。攻撃の文章を書けば闘士と目され、回顧の文章を書けば隠逸と思われる。だが私自身は別に何も変わってはいない。ただ文章の性質が異なるにすぎない。ところが人はとかく一端を捉えて全体を断じたがるものである。

然而“幸乎不幸乎”,我竟因此发见我的新职业了:做西崽。

还是当作休息的翻杂志,这回是在《人间世》二十八期上遇见了林语堂先生的大文,摘录会损精神,还是抄一段──

“……今人一味仿效西洋,自称摩登,甚至不问中国文法,必欲仿效英文,分‘历史地’为形容词,‘历史地的’为状词,以模仿英文之 historc–al–ly,拖一西洋辫子,然则‘快来’何不因‘快’字是状词而改为‘快地的来’?此类把戏,只是洋场孽少怪相,谈文学虽不足,当西崽颇有才。此种流风,其弊在奴,救之之道,在于思。”(《今文八弊》中)

其实是“地”字之类的采用,并非一定从高等华人所擅长的英文而来的。“英文”“英文”,一笑一笑。况且看上文的反问语气,似乎“一味仿效西洋”的“今人”,实际上也并不将“快来”改为“快地的来”,这仅是作者的虚构,所以助成其名文,殆即所谓“保得自身为主,则圆通自在,大畅无比”之例了。不过不切实,倘是“自称摩登”的“今人”所说,就是“其弊在浮”。

この弊は中国に限らない。西洋でも同じことがある。とはいえ中国では特に甚だしい。なぜなら中国人は人を見る時、作品を見ず、逸話を見、仕事を見ず、衣服を見るからである。文人は一度「名士」の帽子を被せられると、どんな雑文を書こうとも「名士の随筆」として読まれる。一度「闘士」の看板を掛けられると、閑話を一つ書いても「戦闘的」と解される。そうなると本人もいささか窮屈になるが、結局のところ自分は自分でしかない。

倘使我至今还住在故乡,看了这一段文章,是懂得,相信的。我们那里只有几个洋教堂,里面想必各有几位西崽,然而很难得遇见。要研究西崽,只能用自己做标本,虽不过“颇”,也够合用了。又是“幸乎不幸乎”,后来竟到了上海,上海住着许多洋人,因此有着许多西崽,因此也给了我许多相见的机会;不但相见,我还得了和他们中的几位谈天的光荣。不错,他们懂洋话,所懂的大抵是“英文”,“英文”,然而这是他们的吃饭家伙,专用于服事洋东家的,他们决不将洋辫子拖进中国话里来,自然更没有捣乱中国文法的意思,有时也用几个音译字,如“那摩温”,“土司”之类,但这也是向来用惯的话,并非标新立异,来表示自己的摩登的。他们倒是国粹家,一有余闲,拉皮胡,唱《探母》;上工穿制服,下工换华装,间或请假出游,有钱的就是缎鞋绸衫子。不过要戴草帽,眼镜也不用玳瑁边的老样色,倘用华洋的“门户之见”看起来,这两样却不免是缺点。

私に言わせれば、文人には一定の面相があるべきだという考えこそが間違いなのである。人間は生きているのであるから、多面的であり、時に応じて異なる表情を見せるのは当然のことである。しかし世間は単純な公式を欲する。ある作家をある一つの類型に当てはめ、その枠から外れた時には「変節」だの「堕落」だのと言い出すのである。

又倘使我要另找职业,能说英文,我可真的肯去做西崽的,因为我以为用工作换钱,西崽和华仆在人格上也并无高下,正如用劳力在外资工厂或华资工厂换得工资,或用学费在外国大学或中国大学取得资格,都没有卑贱和清高之分一样。西崽之可厌不在他的职业,而在他的“西崽相”。这里之所谓“相”,非说相貌,乃是“诚于中而形于外”的,包括着“形式”和“内容”而言。这“相”,是觉得洋人势力,高于群华人,自己懂洋话,近洋人,所以也高于群华人;但自己又系出黄帝,有古文明,深通华情,胜洋鬼子,所以也胜于势力高于群华人的洋人,因此也更胜于还在洋人之下的群华人。租界上的中国巡捕,也常常有这一种“相”。

倚徙华洋之间,往来主奴之界,这就是现在洋场上的“西崽相”。但又并不是骑墙,因为他是流动的,较为“圆通自在”,所以也自得其乐,除非你扫了他的兴头。

由前所说,“西崽相”就该和他的职业有关了,但又不全和职业相关,一部份却来自未有西崽以前的传统。所以这一种相,有时是连清高的士大夫也不能免的。“事大”,历史上有过的,“自大”,事实上也常有的;“事大”和“自大”,虽然不相容,但因“事大”而“自大”,却又为实际上所常见──他足以傲视一切连“事大”也不配的人们。有人佩服得五体投地的《野叟曝言》中,那“居一人之下,在众人之上”的文素臣,就是这标本。他是崇华,抑夷,其实却是“满崽”;古之“满崽”,正犹今之“西崽”也。

むろん、作家の中には確かに変節した者もいる。しかしそれと、同一の作家が異なる題材を書くこととは全く別のことである。一人の人間が笑いもし泣きもし、怒りもし喜びもするのは当然であって、笑った人間が次に泣いたからといって「変節」とは言わない。文章もまた同じことである。

所以虽是我们读书人,自以为胜西崽远甚,而洗伐未净,说话一多,也常常会露出尾巴来的。再抄一段名文在这里──

“……其在文学,今日绍介波兰诗人,明日绍介捷克文豪,而对于已经闻名之英、美、法、德文人,反厌为陈腐,不欲深察,求一究竟。此与妇女新装求入时一样,总是媚字一字不是,自叹女儿身,事人以颜色,其苦不堪言。此种流风,其弊在浮,救之之道,在于学。”(《今文八弊》中)

但是,这种“新装”的开始,想起来却长久了,“绍介波兰诗人”,还在三十年前,始于我的《摩罗诗力说》。那时满清宰华,汉民受制,中国境遇,颇类波兰,读其诗歌,即易于心心相印,不但无事大之意,也不存献媚之心。后来上海的《小说月报》,还曾为弱小民族作品出过专号,这种风气,现在是衰歇了,即偶有存者,也不过一脉的余波。但生长于民国的幸福的青年,是不知道的,至于附势奴才,拜金崽子,当然更不会知道。但即使现在绍介波兰诗人,捷克文豪,怎么便是“媚”呢?他们就没有“已经闻名”的文人吗?况且“已经闻名”,是谁闻其“名”,又何从而“闻”的呢?诚然,“英、美、法、德”在中国有宣教师,在中国现有或曾有租界,几处有驻军,几处有军舰,商人多,用西崽也多,至于使一般人仅知有“大英”,“花旗”,“法兰西”和“茄门”而不知世界上还有波兰和捷克。但世界文学史,是用了文学的眼睛看,而不用势利眼睛看的,所以文学无须用金钱和枪炮作掩护,波兰、捷克,虽然未曾加入八国联军来打过北京,那文学却在,不过有一些人,并未“已经闻名”而已。外国的文人,要在中国闻名,靠作品似乎是不够的,他反要得到轻薄。

だが世の中には「魯迅変了」と言いたがる人々がいるのであって、今回の広告もその一例である。おそらく次号の散文が出れば、そこにはまた「闘争」を探す者もあれば、「閑適」を見出す者もあり、双方が論争を始めるのであろう。私としてはただ黙って見物しているだけである。

所以一样的没有打过中国的国度的文学,如希腊的史诗,印度的寓言,亚剌伯的《天方夜谈》,西班牙的《堂·吉诃德》,纵使在别国“已经闻名”,不下于“英、美、法、德文人”的作品,在中国却被忘记了,他们或则国度已灭,或则无能,再也用不着“媚”字。

对于这情形,我看可以先把上章所引的林语堂先生的训词移到这里来的──

“此种流风,其弊在奴,救之之道,在于思。”

結局、そんな広告の文句はどうでもよいのだが、ただ一つ気になるのは、こうした類の言葉が勝手に私の名の下に掲げられることである。これは本人の預かり知らぬことであって、甚だ迷惑である。

不过后两句不合用,既然“奴”了,“思”亦何益,思来思去,不过“奴”得巧妙一点而已。中国宁可有未“思”的西崽,将来的文学倒较为有望。

但“已经闻名的英、美、法、德文人”,在中国却确是不遇的。中国的立学校来学这四国语,为时已久,开初虽不过意在养成使馆的译员,但后来却展开,盛大了。学德语盛于清末的改革军操,学法语盛于民国的“勤工俭学”。学英语最早,一为了商务,二为了海军,而学英语的人数也最多,为学英语而作的教科书和参考书也最多,由英语起家的学士文人也不少。然而海军不过将军舰送人,绍介“已经闻名”的司各德、迭更斯、狄福、斯惠夫德……的,竟是只知汉文的林纾,连绍介最大的“已经闻名”的莎士比亚的几篇剧本的,也有待于并不专攻英文的田汉。这缘故,可真是非“在于思”则不可了。

然而现在又到了“今日绍介波兰诗人,明日绍介捷克文豪”的危机,弱国文人,将闻名于中国,英、美、法、德的文风,竟还不能和他们的财力武力,深入现在的文林,“狗逐尾巴”者既没有恒心,志在高山的又不屑动手,但见山林映以电灯,语录夹些洋话,“对于已经闻名之英、美、德、法文人”,真不知要待何人,至何时,这才来“求一究竟”。那些文人的作品,当然也是好极了的,然甲则曰不佞望洋而兴叹,乙则曰汝辈何不潜心而探求。旧笑话云:昔有孝子,遇其父病,闻股肉可疗,而自怕痛,执刀出门,执途人臂,悍然割之,途人惊拒,孝子谓曰,割股疗父,乃是大孝,汝竟惊拒,岂是人哉!是好比方;林先生云:“说法虽乖,功效实同”,是好辩解。

思うに中国の文壇では、人の名を借りて自分の商売をする者が少なくない。広告にしても書評にしても、本人の意思とは無関係に、適当な美辞麗句や刺激的な言葉を並べ立てる。読者はそれを作者本人の言葉だと思い込む。こうして誤解が生じ、誤解に基づく批評が生じ、批評に基づく論争が生じるのである。もとを正せば、一枚の広告から始まった滑稽劇にすぎない。

(六月十日。)

【名人和名言】

《太白》二卷七期上有一篇南山先生的《保守文言的第三道策》,他举出:第一道是说“要做白话由于文言做不通”,第二道是说“要白话做好,先须文言弄通”。十年之后,才来了太炎先生的第三道,“他以为你们说文言难,白话更难。理由是现在的口头语,有许多是古语,非深通小学就不知道现在口头语的某音,就是古代的某音,不知道就是古代的某字,就要写错。……”

太炎先生的话是极不错的。现在的口头语,并非一朝一夕,从天而降的语言,里面当然有许多是古语,既有古语,当然会有许多曾见于古书,如果做白话的人,要每字都到《说文解字》里去找本字,那的确比做任用借字的文言要难到不知多少倍。然而自从提倡白话以来,主张者却没有一个以为写白话的主旨,是在从“小学”里寻出本字来的,我们就用约定俗成的借字。诚然,如太炎先生说:“乍见熟人而相寒暄曰‘好呀’,‘呀’即‘乎’字;应人之称曰‘是唉’,‘唉’即‘也’字。”但我们即使知道了这两字,也不用“好乎”或“是也”,还是用“好呀”或“是唉”。因为白话是写给现代的人们看,并非写给商、周、秦、汉的鬼看的,起古人于地下,看了不懂,我们也毫不畏缩。所以太炎先生的第三道策,其实是文不对题的。这缘故,是因为先生把他所专长的小学,用得范围太广了。

しかしこの種の滑稽劇は、中国では日常茶飯事であって、誰も怪しまない。なぜなら、人々は真実よりも話題を好むからである。真実は往々にして平凡であり退屈であるが、話題は刺激的で面白い。文壇とはすなわち話題の市場であり、作品の市場ではないのである。

我们的知识很有限,谁都愿意听听名人的指点,但这时就来了一个问题:听博识家的话好,还是听专门家的话好呢?解答似乎很容易:都好。自然都好;但我由历听了两家的种种指点以后,却觉得必须有相当的警戒。因为是:博识家的话多浅,专门家的话多悖的。

博识家的话多浅,意义自明,惟专门家的话多悖的事,还得加一点申说。他们的悖,未必悖在讲述他们的专门,是悖在倚专家之名,来论他所专门以外的事。社会上崇敬名人,于是以为名人的话就是名言,却忘记了他之所以得名是那一种学问或事业。名人被崇奉所诱惑,也忘记了自己之所以得名是那一种学问或事业,渐以为一切无不胜人,无所不谈,于是乎就悖起来了。其实,专门家除了他的专长之外,许多见识是往往不及博识家或常识者的。太炎先生是革命的先觉,小学的大师,倘谈文献,讲《说文》,当然娓娓可听,但一到攻击现在的白话,便牛头不对马嘴,即其一例。还有江亢虎博士,是先前以讲社会主义出名的名人,他的社会主义到底怎么样呢,我不知道。只是今年忘其所以,谈到小学,说“‘德’之古字为‘悳’,从‘’从‘心’,‘’即直觉之意”,却真不知道悖到那里去了,他竟连那上半并不是曲直的直字这一点都不明白。这种解释,却须听太炎先生了。

このことを考えると、広告の文句に腹を立てるのも馬鹿馬鹿しい。相手はもとより文学を論じているのではなく、商売をしているのだから。

第3節

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不过在社会上,大概总以为名人的话就是名言,既是名人,也就无所不通,无所不晓。所以译一本欧洲史,就请英国话说得漂亮的名人校阅,编一本经济学,又乞古文做得好的名人题签;学界的名人绍介医生,说他“术擅岐、黄”,商界的名人称赞画家,说他“精研六法”。……

这也是一种现在的通病。德国的细胞病理学家维尔晓(Virschow),是医学界的泰斗,举国皆知的名人,在医学史上的位置,是极为重要的,然而他不相信进化论,他那被教徒所利用的几回讲演,据赫克尔(Haeckel)说,很给了大众不少坏影响。因为他学问很深,名甚大,于是自视甚高,以为他所不解的,此后也无人能解,又不深研进化论,便一口归功于上帝了。现在中国屡经绍介的法国昆虫学大家法布耳(Fabre),也颇有这倾向。他的著作还有两种缺点:一是嗤笑解剖学家,二是用人类道德于昆虫界。但倘无解剖,就不能有他那样精到的观察,因为观察的基础,也还是解剖学;农学者根据对于人类的利害,分昆虫为益虫和害虫,是有理可说的,但凭了当时的人类的道德和法律,定昆虫为善虫或坏虫,却是多余了。有些严正的科学者,对于法布耳的有微词,实也并非无故。但倘若对这两点先加警戒,那么,他的大著作《昆虫记》十卷,读起来也还是一部很有趣,也很有益的书。

ただし世間では、おおよそ名人の言葉はすなわち名言であり、名人であれば万事に通じ万事を知ると思われている。だから欧州史の翻訳を一冊出せば、英語が上手な名人に校閲を頼み、経済学の書を編めば、古文の巧みな名人に題辞を乞うのである。そしてその名人も、大抵は怪しまず引き受ける。なぜなら彼もまた、自分は万事に通じていると信じているからである。

不过名人的流毒,在中国却较为利害,这还是科举的余波。那时候,儒生在私塾里揣摩高头讲章,和天下国家何涉,但一登第,真是“一举成名天下知”,他可以修史,可以衡文,可以临民,可以治河;到清朝之末,更可以办学校,开煤矿,练新军,造战舰,条陈新政,出洋考察了。成绩如何呢,不待我多说。

这病根至今还没有除,一成名人,便有“满天飞”之概。我想,自此以后,我们是应该将“名人的话”和“名言”分开来的,名人的话并不都是名言;许多名言,倒出自田夫野老之口。这也就是说,我们应该分别名人之所以名,是由于那一门,而对于他的专门以外的纵谈,却加以警戒。苏州的学子是聪明的,他们请太炎先生讲国学,却不请他讲簿记学或步兵操典,──可惜人们却又不肯想得更细一点了。

しかし万事に通じている人間など、この世にいるはずがない。一人の人間が知り得ることには限りがあり、その限りを超えた事柄について口を出せば、必ず的外れになる。ところが「名人」は的外れを恐れない。なぜなら、たとえ的外れであっても、人々は「名人だから何か深い意味があるのだろう」と忖度してくれるからである。

我很自歉这回时时涉及了太炎先生。但“智者千虑,必有一失”,这大约也无伤于先生的“日月之明”的。至于我的所说,可是我想,“愚者千虑,必有一得”,盖亦“悬诸日月而不刊”之论也。

(七月一日。)

【“靠天吃饭”】

“靠天吃饭说”是我们中国的国宝。清朝中叶就有《靠天吃饭图》的碑,民国初年,状元陆润庠先生也画过一张:一个大“天”字,末一笔的尖端有一位老头子靠着,捧了碗在吃饭。这图曾经石印,信天派或嗜奇派,也许还有收藏的。

而大家也确是实行着这学说,和图不同者,只是没有碗捧而已。这学说总算存在着一半。

前一月,我们曾经听到过嚷着“旱象已成”,现在是梅雨天,连雨了十几日,是每年必有的常事,又并无飓风暴雨,却又到处发现水灾了。植树节所种的几株树,也不足以挽回天意。“五日一风,十日一雨”的唐、虞之世,去今已远,靠天而竟至于不能吃饭,大约为信天派所不及料的罢。到底还是做给俗人读的《幼学琼林》聪明,曰:“轻清者上浮而为天”,“轻清”而又“上浮”,怎么一个“靠”法。

古时候的真话,到现在就有些变成谎话。大约是西洋人说的罢,世界上穷人有份的,只有日光空气和水。这在现在的上海就不适用,卖心卖力的被一天关到夜,他就晒不着日光,吸不到好空气;装不起自来水的,也喝不到干净水。报上往往说:“近来天时不正,疾病盛行”,这岂只是“天时不正”之故,“天何言哉”,它默默地被冤枉了。

この弊害は甚大である。学問には本来、分業がある。それぞれの専門があり、それぞれの方法がある。ところが中国では「名人」一人ですべてを賄おうとする。歴史家に文学を論じさせ、文学者に政治を語らせ、政治家に芸術を評させる。結果として、どの領域においても素人の議論が横行し、専門家の声は埋もれてしまう。

但是,“天”下去就要做不了“人”,沙漠中的居民为了一塘水,争夺起来比我们这里的才子争夺爱人还激烈,他们要拚命,决不肯做一首“阿呀诗”就了事。洋大人斯坦因博士,不是从甘肃敦煌的沙里掘出了许多古董么。那地方原是繁盛之区,靠天的结果,却被天风吹了沙埋没了。为制造将来的古董起见,靠天确也是一种好方法,但为活人计,却是不大值得的。

一到这里,就不免要说征服自然了,但现在谈不到,“带住”可也。

(七月一日。)

【几乎无事的悲剧】

果戈理(Nikolai Gogol)的名字,渐为中国读者所认识了,他的名著《死魂灵》的译本,也已经发表了第一部的一半。那译文虽然不能令人满意,但总算借此知道了从第二至六章,一共写了五个地主的典型,讽刺固多,实则除一个老太婆和吝啬鬼泼留希金外,都各有可爱之处,至于写到农奴,却没有一点可取了,连他们诚心来帮绅士们的忙,也不但无益,反而有害。果戈理自己就是地主。

然而当时的绅士们很不满意,一定的照例的反击,是说书中的典型,多是果戈理自己,而且他也并不知道大俄罗斯地主的情形。这是说得通的,作者是乌克兰人,而看他的家信,有时也简直和书中的地主的意见相类似。然而即使他并不知道大俄罗斯的地主的情形罢,那创作出来的脚色,可真是生动极了,直到现在,纵使时代不同,国度不同,也还使我们象是遇见了有些熟识的人物。讽刺的本领,在这里不及谈,单说那独特之处,尤其是在用平常事,平常话,深刻的显出当时地主的无聊生活。例如第四章里的罗士特来夫,是地方恶少式的地主,赶热闹,爱赌博,撒大谎,要恭维,──但挨打也不要紧。他在酒店里遇到乞乞科夫,夸示自己的好小狗,勒令乞乞科夫摸过狗耳朵之后,还要摸鼻子──

かくて中国では一種奇妙な現象が生じる。すなわち、名前が知識を代替するのである。何を言ったかではなく、誰が言ったかが問題になる。同じ一言でも、名人が言えば至言となり、無名の者が言えば戯言となる。これは中国の知的生活における最大の病弊の一つであり、学問の発展を阻む最大の障害でもある。

“乞乞科夫要和罗士特来夫表示好意,便摸了一下那狗的耳朵。‘是的,会成功一匹好狗的。’他加添着说。

“‘再摸摸它那冰冷的鼻头,拿手来呀!’因为要不使他扫兴,乞乞科夫就又一碰那鼻子,于是说道:‘不是平常的鼻子!’”

这种莽撞而沾沾自喜的主人,和深通世故的客人的圆滑的应酬,是我们现在还随时可以遇见的,有些人简直以此为一世的交际术。“不是平常的鼻子”,是怎样的鼻子呢?说不明的,但听者只要这样也就足够了。后来又同到罗士特来夫的庄园去,历览他所有的田产和东西──

“还去看克理米亚的母狗,已经瞎了眼,据罗士特来夫说,是就要倒毙的。两年以前,却还是一条很好的母狗。大家也来察看这母狗,看起来,它也确乎瞎了眼。”

もっとも、西洋にも同じ傾向がないわけではない。しかし西洋には少なくとも専門領域の区分があり、物理学者が文学を論じれば、人々はその発言を割り引いて聞く。中国ではそうではない。名人はあらゆる領域の最高権威であり、その発言は天来の神託のように扱われる。

这时罗士特来夫并没有说谎,他表扬着瞎了眼的母狗,看起来,也确是瞎了眼的母狗。这和大家有什么关系呢,然而世界上有一些人,却确是嚷闹,表扬,夸示着这一类事,又竭力证实着这一类事,算是忙人和诚实人,在过了他的整一世。

这些极平常的,或者简直近于没有事情的悲剧,正如无声的言语一样,非由诗人画出它的形象来,是很不容易觉察的。然而人们灭亡于英雄的特别的悲剧者少,消磨于极平常的,或者简直近于没有事情的悲剧者却多。

听说果戈理的那些所谓“含泪的微笑”,在他本土,现在是已经无用了,来替代它的有了健康的笑。但在别的地方,也依然有用,因为其中还藏着许多活人的影子。况且健康的笑,在被笑的一方面是悲哀的,所以果戈理的“含泪的微笑”,倘传到了和作者地位不同的读者的脸上,也就成为健康:这是《死魂灵》的伟大处,也正是作者的悲哀处。

(七月十四日。)

【三论“文人相轻”】

《芒种》第八期上有一篇魏金枝先生的《分明的是非和热烈的好恶》,是为以前的《文学论坛》上的《再论“文人相轻”》而发的。他先给了原则上的几乎全体的赞成,说,“人应有分明的是非,和热烈的好恶,这是不错的,文人应更有分明的是非,和更热烈的好恶,这也是不错的。”中间虽说“凡人在落难时节……能与猿鹤为伍,自然最好,否则与鹿豕为伍,也是好的。即到千万没有办法的时候,至于躺在破庙角里,而与麻疯病菌为伍,倘然我的体力,尚能为自然的抗御,因而不至毁灭以死,也比被实际上也做着骗子屠夫的所诱杀脔割,较为心愿。”看起来好象有些微辞,但其实说的是他的憎恶骗子屠夫,远在猿鹤以至麻疯病菌之上,和《论坛》上所说的“从圣贤一直敬到骗子屠夫,从美人香草一直爱到麻疯病菌的文人,在这世界上是找不到的”的话,也并不两样。至于说:“平心而论,彼一是非,此一是非,原非确论。”则在近来的庄子道友中,简直是鹤立鸡群似的卓见了。

これは結局、中国における「名」の伝統に由来するものであろう。中国では古来、「名」は実質に先行する。名が立てば実は後からついてくるものとされた。だから人々は実質を磨くよりも名を立てることに腐心する。一度名が立てば、あとは何を言おうと「名言」になるのだから、これほど効率の良い投資はない。

然而魏先生的大论的主旨,并不专在这一些,他要申明的是:是非难定,于是爱憎就为难。因为“譬如有一种人,……在他自己的心目之中,已先无是非之分。……于是其所谓‘是’,不免似是而实非了。”但“至于非中之是,它的是处,正胜过于似是之非,因为其犹讲交友之道,而无门阀之分”的。到这地步,我们的文人就只好吞吞吐吐,假揩眼泪了。“似是之非”其实就是“非”,倘使已经看穿,不是只要给以热烈的憎恶就成了吗?然而“天下的事情,并没有这么简单”,又不得不爱护“非中之是”,何况还有“似非而是”和“是中之非”,取其大,略其细的方法,于是就不适用了。天下何尝有黑暗,据物理学说,地球上的无论如何的黑暗中,不是总有 X 分之一的光的吗?看起书来,据理就该看见 X 分之一的字的,──我们不能论明暗。

しかし学問は名の力では発展しない。学問の発展には、地道な研究と正直な議論が必要であり、それは「名人」の一言で代替できるものではない。中国の学問が遅々として進まないのは、研究者が少ないからではなく、「名人」が多すぎるからなのかもしれない。

这并非刻薄的比喻,魏先生却正走到“无是非”的结论的。他终于说:“总之,文人相轻,不外乎文的长短,道的是非,文既无长短可言,道又无是非之分,则空谈是非,何补于事!已而已而,手无寸铁的人呵!”人无全德,道无大成,刚说过“非中之是”,胜过“似是之非”,怎么立刻又变成“文既无长短可言,道又无是非之分”了呢?文人的铁,就是文章,魏先生正在大做散文,力施搏击,怎么同时又说是“手无寸铁”了呢?这可见要抬举“非中之是”,却又不肯明说,事实上是怎样的难,所以即使在那大文上列举了许多对手的“排挤”,“大言”,“卖友”的恶谥,而且那大文正可通行无阻,却还是觉得“手无寸铁”,归根结蒂,掉进“无是非”说的深坑里,和自己以为“原非确论”的“彼亦一是非,此亦一是非”说成了“朋友”──这里不说“门阀”──了。

况且,“文既无长短可言,道又无是非之分”,魏先生的文章,就他自己的结论而言,就先没有动笔的必要。不过要说结果,这无须动笔的动笔,却还是有战斗的功效的,中国的有些文人一向谦虚,所以有时简直会自己先躺在地上,说道,“倘然要讲是非,也该去怪追奔逐北的好汉,我等小民,不任其咎。”明明是加入论战中的了,却又立刻肩出一面“小民”旗来,推得干干净净,连肋骨在那里也找不到了。论“文人相轻”竟会到这地步,这真是叫作到了末路!

私はこの頃、翻訳の仕事をしているが、翻訳という作業は名声とは無縁である。一字一句と格闘し、辞書を引き、原文と訳文の間を往復する。この地味な作業には華やかさはないが、少なくとも嘘はつけない。原文はそこにあり、訳文が正確かどうかは検証可能である。名人の権威で誤訳を正訳に変えることはできない。

(七月十五日。)

【【备考】:分明的是非和热烈的好恶 魏金枝  】

人应有分明的是非,和热烈的好恶,这是不错的。文人应更有分明的是非,和更热烈的好恶,这也是不错的。但天下的事情,并没有这么简单,除了是非之外,还有“似是而非”的“是”,和“非中有是”之非,在这当口,我们的好恶,便有些为难了。

譬如有一种人,他们借着一个好看的幌子,做其为所欲为的勾当,不论是非,无分好恶,一概置之在所排挤之列,这叫做玉石俱焚,在他自己的心目之中,已先无是非之分。但他还要大言不惭,自以为是。于是其所谓“是”,不免似是而实非了。这是我们在谈话是非之前,所应最先将它分辩明白的。次则以趣观之,往往有些具着两张面孔的人,对于腰骨硬朗的,他会伏在地下,打拱作揖,对于下一点的,也会装起高不可扳的怪腔,甚至给你当头一脚,拒之千里之外。其时是非,便会煞时分手,各归其主,因之好恶不同,也是常事。在此时际,要谈是非,就得易地而处,平心而论,彼一是非,此一是非,原非确论。

至于非中之是,它的是处,正胜过于似是之非,因为其犹讲交友之道,而无门阀之分。凡人在落难时节,没有朋友,没有六亲,更无是非天道可言,能与猿鹤为伍,自然最好,否则与鹿豕为伍,也是好的,即到千万没有办法的时候,至于躺在破庙角里,而与麻疯病菌为伍,倘然我的体力,尚能为自然的抗御,因而不至毁灭以死,也比被实际上也做着骗子屠夫的所诱杀脔割,较为心愿。所以,倘然要讲是非,也该去怪追奔逐北的好汉,我等小民,不任其咎。但近来那般似是的人,还在那里大登告白,说是“少卿教匈奴为兵”,那个意思,更为凶恶,为他营业,卖他朋友,甚而至于陷井下石,望人万劫不复,那层似是的甜衣,不是糖拌砒霜,是什么呢?

思うに、もし中国の知識人がすべて翻訳者のような謙虚さを持てば、中国の学問はもう少しましになるのではあるまいか。翻訳者は自分の無知を知っている。知らない単語に出会えば辞書を引く。これは当たり前のことのようだが、「名人」にはできないことである。なぜなら「名人」は辞書を引く姿を人に見せるわけにはいかないからである。

第4節

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总之,文人相轻,不外乎文的长短,道的是非,文既无长短可言,道又无是非之分,则空谈是非,何补于事!已而已而,手无寸铁的人呵!

(七月一日,《芒种》第八期。)

【四论“文人相轻”】

前一回没有提到,魏金枝先生的大文《分明的是非和热烈的好恶》里,还有一点很有意思的文章。他以为现在“往往有些具着两张面孔的人”,重甲而轻乙;他自然不至于主张文人应该对谁都打拱作揖,连称久仰久仰的,只因为乙君原是大可钦敬的作者。所以甲乙两位,“此时此际,要谈是非,就得易地而处”,甲说你的甲话,乙呢,就觉得“非中之是,……正胜过于似是之非,因为其犹讲交友之道,而无门阀之分”,把“门阀”留给甲君,自去另找讲交道的“朋友”,即使没有,竟“与麻疯病菌为伍,……也比被实际上也做着骗子屠夫的所诱杀脔割,较为心愿”了。

要するに、文人相軽んずとは、文の長短、道の是非に他ならない。文に長短がなく、道に是非がないとすれば、空しく是非を論じて何の益があろうか。已んぬるかな已んぬるかな、寸鉄も手にせぬ人よ。

这拥护“文人相轻”的情境,是悲壮的,但也正证明了现在一般之所谓“文人相轻”,至少,是魏先生所拥护的“文人相轻”,并不是因为“文”,倒是为了“交道”。朋友乃五常之一名,交道是人间的美德,当然也好得很。不过骗子有屏风,屠夫有帮手,在他们自己之间,却也叫作“朋友”的。

“必也正名乎”,好名目当然也好得很。只可惜美名未必一定包着美德。“翻手为云覆手雨,纷纷轻薄何须数,君不见管鲍贫时交,此道今人弃如土!”这是李太白先生罢,就早已“感慨系之矣”,更何况现在这洋场──古名“彝场”──的上海。最近的《大晚报》的副刊上就有一篇文章在通知我们要在上海交朋友,说话先须漂亮,这才不至于吃亏,见面第一句,是“格位(或‘迪个’)朋友贵姓?”此时此际,这“朋友”两字中还未含有任何利害,但说下去,就要一步紧一步的显出爱憎和取舍,即决定共同玩花样,还是用作“阿木林”之分来了。“朋友,以义合者也。”古人确曾说过的,然而又有古人说:“义,利也。”呜呼!

(七月一日、『芒種』第八期。)

如果在冷路上走走,有时会遇见几个人蹲在地上赌钱,庄家只是输,押的只是赢,然而他们其实是庄家的一伙,就是所谓“屏风”──也就是他们自己之所谓“朋友”──目的是在引得蠢才眼热,也来出手,然后掏空他的腰包。如果你站下来,他们又觉得你并非蠢才,只因为好奇,未必来上当,就会说:“朋友,管自己走,没有什么好看。”这是一种朋友,不妨害骗局的朋友。荒场上又有变戏法的,石块变白鸽,坛子装小孩,本领大抵不很高强,明眼人本极容易看破,于是他们就时时拱手大叫道:“在家靠父母,出家靠朋友!”这并非在要求撒钱,是请托你不要说破。这又是一种朋友,是不戳穿戏法的朋友。把这些识时务的朋友稳住了,他才可以掏呆朋友的腰包;或者手执花枪,来赶走不知趣的走近去窥探底细的傻子,恶狠狠的啐一口道:“……瞎你们的眼睛!”

【六論「文人相軽」──二つの傷】

孩子的遭遇可是还要危险。现在有许多文章里,不是常在很亲热的叫着“小朋友,小朋友”吗?这是因为要请他做未来的主人公,把一切担子都搁在他肩上了;至少,也得去买儿童画报,杂志,文库之类,据说否则就要落伍。

已成年的作家们所占领的文坛上,当然不至于有这么彰明较著的可笑事,但地方究竟是上海,一面大叫朋友,一面却要他悄悄的纳钱五块,买得“自己的园地”,才有发表作品的权利的“交道”,可也不见得就不会出现的。

中国の文壇で、いわゆる「文人相軽」が問題になるのは今に始まったことではない。曹丕が『典論』でこれを論じて以来、千八百年あまり、事態は少しも改善されていない。否、むしろ悪化しているとすら言えるかもしれない。

(八月十三日。)

【五论“文人相轻”──明术】

“文人相轻”是局外人或假充局外人的话。如果自己是这局面中人之一,那就是非被轻则是轻人,他决不用这对等的“相”字。但到无可奈何的时候,却也可以拿这四个字来遮掩一下。这遮掩是逃路,然而也仍然是战术,所以这口诀还被有一些人所宝爱。

不过这是后来的话。在先,当然是“轻”。

“轻”之术很不少。粗糙的说:大略有三种。一种是自卑,自己先躺在垃圾里,然后来拖敌人,就是“我是畜生,但是我叫你爹爹,你既是畜生的爹爹,可见你也是畜生了”的法子。这形容自然未免过火一点,然而较文雅的现象,文坛上却并不怎么少见的。埋伏之法,是甲乙两人的作品,思想和技术,分明不同,甚而至于相反的,某乙却偏要设法表明,说惟独自己的作品乃是某甲的嫡派;补救之法,是某乙的缺点倘被某甲所指摘,他就说这些事情正是某甲所具备,而且自己也正从某甲那里学了来的。此外,已经把别人评得一钱不值了,临末却又很谦虚的声明自己并非批评家,凡有所说,也许全等于放屁之类,也属于这一派。

しかし冷静に考えてみれば、「文人相軽」は必ずしも悪いことばかりではない。互いに軽んじ合うからこそ競い合い、競い合うからこそ向上する。問題は、その軽蔑が文学の質に基づくものか、それとも文学以外の要素に基づくものかということである。

一种是最正式的,就是自高,一面把不利于自己的批评,统统谓之“漫骂”,一面又竭力宣扬自己的好处,准备跨过别人。但这方法比较的麻烦,因为除“辟谣”之外,自吹自擂是究竟不很雅观的,所以做这些文章时,自己得另用一个笔名,或者邀一些“讲交道”的“朋友”来互助。不过弄得不好,那些“朋友”就会变成保驾的打手或抬驾的轿夫,而使那“朋友”会变成这一类人物的,则这御驾一定不过是有些手势的花花公子,抬来抬去,终于脱不了原形,一年半载之后,花花之上也再添不上什么花头去,而且打手轿夫,要而言之,也究竟要工食,倘非腰包饱满,是没法维持的。如果能用死轿夫,如袁中郎或“晚明二十家”之流来抬,再请一位活名人喝道,自然较为轻而易举,但看过去的成绩和效验,可也并不见佳。

前者であれば、それは健全な批評である。甲が乙の文章を拙いと言い、乙が甲の議論を浅いと言う。これは文学の発展にとって有益な営みであり、非難されるべきではない。しかし後者であれば、それは単なる党派争い、あるいは私怨の発露にすぎず、文学とは何の関係もない。

还有一种是自己连名字也并不抛头露面,只用匿名或由“朋友”给敌人以“批评”──要时髦些,就可以说是“批判”。尤其要紧的是给与一个名称,像一般的“诨名”一样。因为读者大众的对于某一作者,是未必和“批评”或“批判”者同仇敌慨的,一篇文章,纵使题目用头号字印成,他们也不大起劲,现在制出一个简括的诨名,就可以比较的不容易忘记了。在近十年来的中国文坛上,这法术,用是也常用的,但效果却很小。

不幸にして、中国の文壇における「文人相軽」の大半は後者に属する。甲が乙を攻撃するのは、乙の文章が悪いからではなく、乙が甲と異なる派閥に属しているからである。あるいは乙がかつて甲を批評したからである。あるいは単に乙が甲よりも有名だからである。

法术原是极利害,极致命的法术。果戈理夸俄国人之善于给别人起名号──或者也是自夸──说是名号一出,就是你跑到天涯海角,它也要跟着你走,怎么摆也摆不脱。这正如传神的写意画,并不细画须眉,并不写上名字,不过寥寥几笔,而神情毕肖,只要见过被画者的人,一看就知道这是谁;夸张了这人的特长──不论优点或弱点,却更知道这是谁。可惜我们中国人并不怎样擅长这本领。起源,是古的。从汉末到六朝之所谓“品题”,如“关东觥觥郭子横”,“五经纷纶井大春”,就是这法术,但说的是优点居多。梁山泊上一百另八条好汉都有诨名,也是这一类,不过着眼多在形体,如“花和尚鲁智深”和“青面兽杨志”,或者才能,如“浪里白跳张顺”和“鼓上蚤时迁”等,并不能提挈这人的全般。直到后来的讼师,写状之际,还常常给被告加上一个诨名以见他原是流氓地痞一类,然而不久也就拆穿西洋镜,即使毫无才能的师爷,也知道这是不足注意的了。现在的所谓文人,除了改用几个新名词之外,也并无进步,所以那些“批判”,结果还大抵是徒劳。

このような「文人相軽」は、双方を傷つけるのみである。攻撃する側は自分の品位を下げ、攻撃される側は無益な弁護に時間を費やす。読者は真相がどこにあるのか分からず、ただ見世物として楽しむだけである。結局、文学は一歩も前進しない。

这失败之处,是在不切帖。批评一个人,得到结论,加以简括的名称,虽只寥寥数字,却很要明确的判断力和表现的才能的。必须切帖,这才和被批判者不相离,这才会跟了他跑到天涯海角。现在却大抵只是漫然的抓了一时之所谓恶名,摔了过去:或“封建余孽”,或“布尔乔亚”,或“破锣”,或“无政府主义者”,或“利己主义者”……等等;而且怕一个不够致命,又连用些什么“无政府主义封建余孽”或“布尔乔亚破锣利己主义者”;怕一人说没有力,约朋友各给他一个;怕说一回还太少,一年内连给他几个:时时改换,个个不同。这举棋不定,就因为观察不精,因而品题也不确,所以即使用尽死劲,流完大汗,写了出去,也还是和对方不相干,就是用浆糊粘在他身上,不久也就脱落了。汽车夫发怒,便骂洋车夫阿四一声“猪猡”,顽皮孩子高兴,也会在卖炒白果阿五的背上画一个乌龟,虽然也许博得市侩们的一笑,但他们是决不因此就得“猪猡阿四”或“乌龟阿五”的诨名的。此理易明:因为不切帖。

私はかつてこのことを「二つの傷」と呼んだ。すなわち、攻撃する者も傷つき、攻撃される者も傷つくのである。しかし本当に傷つくのはこの二者だけではない。文学そのものもまた傷つくのである。なぜなら、文壇がこのような不毛な論争に明け暮れている間に、真の創造は行われないからである。

五四时代的所谓“桐城谬种”和“选学妖孽”,是指做“载飞载鸣”的文章和抱住《文选》寻字汇的人们的,而某一种人确也是这一流,形容惬当,所以这名目的流传也较为永久。除此之外,恐怕也没有什么还留在大家的记忆里了。到现在,和这八个字可以匹敌的,或者只好推“洋场恶少”和“革命小贩”了罢。前一联出于古之“京”,后一联出于今之“海”。

创作难,就是给人起一个称号或诨名也不易。假使有谁能起颠扑不破的诨名的罢,那么,他如作评论,一定也是严肃正确的批评家,倘弄创作,一定也是深刻博大的作者。

さらに厄介なのは、この種の論争にはしばしば第三者が介入することである。第三者は一見公平な仲裁者のように振る舞うが、実は自分もまた一つの派閥に属しており、仲裁の名の下に自分の派閥の利益を図っているにすぎない。こうして論争はますます複雑になり、ますます不毛になる。

所以,连称号或诨名起得不得法,也还是因为这班“朋友”的不“文”。──“再亮些!”

(八月十四日。)

【“题未定”草(五)】

M君寄给我一封剪下来的报章。这是近十年常有的事情,有时是杂志。闲暇时翻检一下,其中大概有一点和我相关的文章,甚至于还有“生脑膜炎”之类的恶消息。这时候,我就得预备大约一块多钱的邮票,来寄信回答陆续函问的人们。至于寄报的人呢,大约有两类:一是朋友,意思不过说,这刊物上的东西,有些和你相关;二、可就难说了,猜想起来,也许正是作者或编者,“你看,咱们在骂你了!”用的是《三国志演义》上的“三气周瑜”或“骂死王朗”的法子。不过后一种近来少一些了,因为我的战术是暂时搁起,并不给以反应,使他们诸公的刊物很少有因我而蓬蓬勃勃之望,到后来却也许会去拨一拨谁的下巴:这于他们诸公是很不利的。

私は長年この種の論争を見てきたが、そこから何か建設的なものが生まれた例を知らない。生まれるのはいつも怨恨と誤解だけである。しかし人々は懲りない。一つの論争が終われば、すぐにまた次の論争が始まる。まるで中国の文人には、論争なしには生きていけないかのようである。

M君是属于第一类的;剪报是天津《益世报》的《文学副刊》。其中有一篇张露薇先生做的《略论中国文坛》,下有一行小注道:“偷懒,奴性,而忘掉了艺术”。只要看这题目,就知道作者是一位勇敢而记住艺术的批评家了。看起文章来,真的,痛快得很。我以为介绍别人的作品,删节实在是极可惜的,倘有妙文,大家都应该设法流传,万不可听其泯灭。不过纸墨也须顾及,所以只摘录了第二段,就是“永远是日本人的追随者的作家”在这里,也万不能再少,因为我实在舍不得了──

“奴隶性是最‘意识正确’的东西,于是便有许多人跟着别人学口号。特别是对于苏联,在目前的中国,一般所谓作家也者,都怀着好感。可是,我们是人,我们应该有自己的人性,对于苏联的文学,尤其是对于那些由日本的浅薄的知识贩卖者所得来的一知半解的苏联的文学理论家与批评家的话,我们所取的态度决不该是应声虫式的;我们所需要的介绍的和模仿的(其实是只有抄袭和盲目的应声)方式也决不该是完全出于热情的。主观是对于事物的选择,客观才是对于事物的方法,我们有了一般奴隶性极深的作家,于是我们便有无数的空虚的标语和口号。

思うに、これは文学の問題ではなく、社会の問題である。中国の社会では、個人の価値は客観的な業績によって測られるのではなく、他者との比較によって測られる。自分が上がるためには他者を下げなければならない。この零和的な思考法が、「文人相軽」の根源なのである。

“然而我们没有几个懂得苏联的文学的人,只有一堆盲目的赞美者和零碎的翻译者,而赞美者往往是牛头不对马嘴的胡说,翻译者又不配合于他们的工作,不得不草率,不得不‘硬译’,不得不说文不对题的话,一言以蔽之,他们的能力永远是对不起他们的思想;他们的‘意识’虽然正确了,可是他们的工作却永远是不正确的。

“从苏联到中国是很近的,可是为什么就非经过日本人的手不可?我们在日本人的群中并没有发现几个真正了解苏联文学的新精神的人,为什么偏从浅薄的日本知识阶级中去寻我们的食粮?这真是一件可耻的事实。我们为什么不直接的了解?为什么不取一种纯粹客观的工作的态度?为什么人家唱‘新写实主义’,我们跟着喊,人家换了‘社会主义的写实主义’,我们又跟着喊;人家介绍纪德,我们才叫;人家介绍巴尔扎克,我们也号;然而我敢预言,在一千年以内:绝不会见到那些介绍纪德,巴尔扎克的人们会给中国的读者译出一两本纪德、巴尔扎克的重要著作来,全集更不必说。

この弊を矯めるには、文壇の改革だけでは足りない。社会全体の価値観の変革が必要である。しかし社会の変革は一朝一夕には成らない。だから当面のところ、我々にできることは、せめて自分だけは不毛な論争に加わらないようにすることである。

“我们再退一步,对于那些所谓‘文学遗产’,我们并不要求那些跟着人家对喊‘文学遗产’的人们担负把那些‘文学遗产’送给中国的‘大众’的责任。可是我们却要求那些人们有承受那些‘遗产’的义务,这自然又是谈不起来的。我们还记得在庆祝高尔基的四十年的创作生活的时候,中国也有鲁迅,丁玲一般人发了庆祝的电文;这自然是冠冕堂皇的事情。然而那一群签名者中有几个读过高尔基的十分之一的作品?有几个是知道高尔基的伟大在那儿的?……中国的知识阶级就是如此浅薄,做应声虫有余,做一个忠实的,不苟且的,有理性的文学创作者和研究者便不成了。”

もっとも、これは言うは易く行うは難い。なぜなら、人に攻撃されて黙っていることは、臆病と解されるか、あるいは反論できないと解されるからである。だから反論せざるを得ず、反論すればまた反論が返ってくる。かくして論争は果てしなく続くのである。

(五月廿九日天津《益世报》。)

第5節

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我并不想因此来研究“奴隶性是最‘意识正确’的东西”,“主观是对于事物的选择,客观才是对于事物的方法”这些难问题;我只要说,诚如张露薇先生所言,就是在文艺上,我们中国也的确太落后。法国有纪德和巴尔扎克,苏联有高尔基,我们没有;日本叫喊起来了,我们才跟着叫喊,这也许真是“追随”而且“永远”,也就是“奴隶性”,而且是“最‘意识正确’的东西”。但是,并不“追随”的叫喊其实是也有一些的,林语堂先生说过:“……其在文学,今日绍介波兰诗人,明日绍介捷克文豪,而对于已经闻名之英美法德文人,反厌为陈腐,不欲深察,求一究竟。……此种流风,其弊在浮,救之之道,在于学。”(《人间世》二十八期《今文八弊》中)南北两公,眼睛都有些斜视,只看了一面,各骂了一面,独跳犹可,并排跳舞起来,那“勇敢”就未免化为有趣了。

私はこれをもって「奴隷性は最も『意識の正確な』ものである」とか、「主観は事物に対する選択であり、客観こそが事物に対する方法である」といった難問を研究しようとは思わない。私はただ、張露薇氏の言う通り、文芸においてすら、我々はこうした問題に直面せざるを得ないということを言いたいだけである。

不过林先生主张“求一究竟”,张先生要求“直接了解”,这“实事求是”之心,两位是大抵一致的,不过张先生比较的悲观,因为他是“预言”家,断定了“在一千年以内,绝不会见到那些绍介纪德,巴尔扎克的人们会给中国的读者译出一两本纪德,巴尔扎克的重要著作来,全集更不必说”的缘故。照这“预言”看起来,“直接了解”的张露薇先生自己,当然是一定不译的了;别人呢,我还想存疑,但可惜我活不到一千年,决没有目睹的希望。

豫言颇有点难。说得近一些,容易露破绽。还记得我们的批评家成仿吾先生手抡双斧,从“创造”的大旗下,一跃而出的时候,曾经说,他不屑看流行的作品,要从冷落堆里提出作家来。这是好的,虽然勃兰兑斯曾从冷落中提出过伊孛生和尼采,但我们似乎也难以斥他为追随或奴性。不大好的是他的这一张支票,到十多年后的现在还没有兑现。说得远一些罢,又容易成笑柄。江浙人相信风水,富翁往往豫先寻葬地;乡下人知道一个故事:有风水先生给人寻好了坟穴,起誓道:“您百年之后,安葬下去,如果到第三代不发,请打我的嘴巴!”然而他的期限,比张露薇先生的期限还要少到约十分之九的样子。

文芸は決して象牙の塔の中の遊戯ではない。それは社会の中に生き、社会と共に呼吸するものである。したがって文芸を論ずる者は、必然的に社会を論じなければならず、社会を論ずる以上、「意識」の問題を避けて通ることはできない。

然而讲已往的琐事也不易。张露薇先生说庆祝高尔基四十年创作的时候,“中国也有鲁迅,丁玲一般人发了庆祝的电文,……然而那一群签名者中有几个读过高尔基的十分之一的作品?”这质问是极不错的。我只得招供:读得很少,而且连高尔基十分之一的作品究竟是几本也不知道。不过高尔基的全集,却连他本国也还未出全,所以其实也无从计算。至于祝电,我以为打一个是应该的,似乎也并非中国人的耻辱,或者便失了人性,然而我实在却并没有发,也没有在任何电报底稿上签名。这也并非怕有“奴性”,只因没有人来邀,自己也想不到,过去了。发不妨,不发也不要紧,我想:发,高尔基大约不至于说我是“日本人的追随者的作家”,不发,也未必说我是“张露薇的追随者的作家”的。但对于绥拉菲摩维支的祝贺日,我却发过一个祝电,因为我校印过中译的《铁流》。这是在情理之中的,但也较难于想到,还不如测定为对于高尔基发电的容易。当然,随便说说也不要紧,然而,“中国的知识阶级就是如此浅薄,做应声虫有余,做一个忠实的,不苟且的,有理性的文学创作者和研究者便不成了”的话,对于有一些人却大概是真的了。

ところが中国の文壇では、この「意識」なるものが一種の呪文のように使われている。ある作品を褒めたい時には「意識が正確だ」と言い、貶したい時には「意識が不正確だ」と言う。しかし「意識の正確さ」とは何か、誰もはっきり定義しない。結局のところそれは、自分と同じ意見を持っているかどうか、自分と同じ陣営に属しているかどうかの問題に帰着する。

张露薇先生自然也是知识阶级,他在同阶级中发见了这许多奴隶,拿鞭子来抽,我是了解他的心情的。但他和他所谓的奴隶们,也只隔了一张纸。如果有谁看过菲洲的黑奴工头,傲然的拿鞭子乱抽着做苦工的黑奴的电影的,拿来和这《略论中国文坛》的大文一比较,便会禁不住会心之笑。那一个和一群,有这么相近,却又有这么不同,这一张纸真隔得利害:分清了奴隶和奴才。

我在这里,自以为总算又钩下了一种新的伟大人物── 一九三五年度文艺“预言”家──的嘴脸的轮廓了。

(八月十六日。)

【论毛笔之类】

国货也提倡得长久了,虽然上海的国货公司并不发达,“国货城”也早已关了城门,接着就将城墙撤去,日报上却还常见关于国货的专刊。那上面,受劝和挨骂的主角,照例也还是学生,儿童和妇女。

前几天看见一篇关于笔墨的文章,中学生之流,很受了一顿训斥,说他们十分之九,是用钢笔和墨水的,这就使中国的笔墨没有出路。自然,倒并不说这一类人就是什么奸,但至少,恰如摩登妇女的爱用外国脂粉和香水似的,应负“入超”的若干的责任。

これは文芸批評ではない。これは政治的な踏み絵である。作品の芸術的価値を論じるのではなく、作者の政治的立場を検査しているにすぎない。こうした批評が横行するところでは、文学は萎縮するほかない。なぜなら作家は、芸術的な冒険をすることよりも、政治的に「正確」であることを優先せざるを得なくなるからである。

这话也并不错的。不过我想,洋笔墨的用不用,要看我们的闲不闲。我自己是先在私塾里用毛笔,后在学校里用钢笔,后来回到乡下又用毛笔的人,却以为假如我们能够悠悠然,洋洋焉,拂砚伸纸,磨墨挥毫的话,那么,羊毫和松烟当然也很不坏。不过事情要做得快,字要写得多,可就不成功了,这就是说,它敌不过钢笔和墨水。譬如在学校里抄讲义罢,即使改用墨盒,省去临时磨墨之烦,但不久,墨汁也会把毛笔胶住,写不开了,你还得带洗笔的水池,终于弄到在小小的桌子上,摆开“文房四宝”。况且毛笔尖触纸的多少,就是字的粗细,是全靠手腕作主的,因此也容易疲劳,越写越慢。闲人不要紧,一忙,就觉得无论如何,总是墨水和钢笔便当了。

青年里面,当然也不免有洋服上挂一枝万年笔,做做装饰的人,但这究竟是少数,使用者的多,原因还是在便当。便于使用的器具的力量,是决非劝谕,讥刺,痛骂之类的空言所能制止的。假如不信,你倒去劝那些坐汽车的人,在北方改用骡车,在南方改用绿呢大轿试试看。如果说这提议是笑话,那么,劝学生改用毛笔呢?现在的青年,已经成了“庙头鼓”,谁都不妨敲打了。一面有繁重的学科,古书的提倡,一面却又有教育家喟然兴叹,说他们成绩坏,不看报纸,昧于世界的大势。

もっとも、文学と政治が完全に分離し得るとは、私も思わない。すべての文学は何らかの意味で政治的であり、すべての作家は何らかの立場に立っている。しかし、文学の価値を政治的正確さのみで測ることと、文学に政治的側面があることを認めることとは、全く別のことである。

但是,连笔墨也乞灵于外国,那当然是不行的。这一点,却要推前清的官僚聪明,他们在上海立过制造局,想造比笔墨更紧要的器械──虽然为了“积重难返”,终于也造不出什么东西来。欧洲人也聪明,金鸡那原是斐洲的植物,因为去偷种子,还死了几个人,但竟偷到手,在自己这里种起来了,使我们现在如果发了疟疾,可以很便当的大吃金鸡那霜丸,而且还有“糖衣”,连不爱服药的娇小姐们也吃得甜蜜蜜。制造墨水和钢笔的法子,弄弄到手,是没有偷金鸡那子那么危险的。所以与其劝人莫用墨水和钢笔,倒不如自己来造墨水和钢笔;但必须造得好,切莫“挂羊头卖狗肉”。要不然,这一番工夫就又是一个白费。

但我相信,凡有毛笔拥护论者大约也不免以我的提议为空谈:因为这事情不容易。这也是事实;所以典当业只好呈请禁止奇装异服,以免时价早晚不同,笔墨业也只好主张吮墨舐毫,以免国粹渐就沦丧。改造自己,总比禁止别人来得难。然而这办法却是没有好结果的,不是无效,就是使一部分青年又变成旧式的斯文人。

(八月二十三日。)

【逃名】

就在这几天的上海报纸上,有一条广告,题目是四个一寸见方的大字──

前者は文学を政治の道具に貶め、後者は文学の複雑さを正当に評価するものである。不幸にして、中国の文壇で支配的なのは前者の態度である。

“看救命去!”

如果只看题目,恐怕会猜想到这是展览着外科医生对重病人施行大手术,或对淹死的人用人工呼吸,救助触礁船上的人员,挖掘崩坏的矿穴里面的工人的。但其实并不是。还是照例的“筹赈水灾游艺大会”,看陈皮梅沈一呆的独脚戏,月光歌舞团的歌舞之类。诚如广告所说,“化洋五角,救人一命,……一举两得,何乐不为”,钱是要拿去救命的,不过所“看”的却其实还是游艺,并不是“救命”。

有人说中国是“文字国”,有些像,却还不充足,中国倒该说是最不看重文字的“文字游戏国”,一切总爱玩些实际以上花样,把字和词的界说,闹得一团糟,弄到暂时非把“解放”解作“孥戮”,“跳舞”解作“救命”不可。捣一场小乱子,就是伟人,编一本教科书,就是学者,造几条文坛消息,就是作家。于是比较自爱的人,一听到这些冠冕堂皇的名目就骇怕了,竭力逃避。逃名,其实是爱名的,逃的是这一团糟的名,不愿意酱在那里面。

天津《大公报》的副刊《小公园》,近来是标榜了重文不重名的。这见识很确当。不过也偶有“老作家”的作品,那当然为了作品好,不是为了名。然而八月十六日那一张上,却发表了很有意思的“许多前辈作家附在来稿后面的叮嘱”:

私自身もまた、この種の批評の対象になることが少なくない。ある時は「左」に過ぎると言われ、ある時は「右」に偏っていると言われる。同じ一篇の文章が、ある人には「革命的」と映り、別の人には「反動的」と映る。これは私の文章が矛盾しているからではなく、読む人の眼鏡が異なるからである。

“把我这文章放在平日,我愿意那样,我骄傲那样。我和熟人的名字并列得厌倦了,我愿着挤在虎生生的新人群里,因为许多时候他们的东西来得还更新鲜。”

这些“前辈作家”们好象都撒了一点谎。“熟”,是不至于招致“厌倦”的。我们一离乳就吃饭或面,直到现在,可谓熟极了,却还没有厌倦。这一点叮嘱,如果不是编辑先生玩的双簧的花样,也不是前辈作家玩的借此“返老还童”的花样,那么,这所证明的是:所谓“前辈作家”也者,有一批是盗名的,因此使别一批羞与为伍,觉得和“熟人的名字并列得厌倦”,决计逃走了。

从此以后,他们只要“挤在虎生生的新人群里”就舒舒服服,还是作品也就“来得还更新鲜”了呢,现在很难测定。逃名,固然也不能说是豁达,但有去就,有爱憎,究竟总不失为洁身自好之士。《小公园》里,已经有人在现身说法了,而上海滩上,却依然有人在“掏腰包”,造消息,或自称“言行一致”,或大呼“冤哉枉也”,或拖明朝死尸搭台,或请现存古人喝道,或自收自己的大名入辞典中,定为“中国作家”,或自编自己的作品入画集里,名曰“现代杰作”──忙忙碌碌,鬼鬼祟祟,煞是好看。

結局のところ、文芸においても、客観的な基準というものは存在するのであって、それは「意識の正確さ」などという曖昧なものではなく、表現の力、観察の深さ、想像の豊かさ、構成の巧みさといった、具体的で検証可能な要素なのである。

作家一排一排的坐着,将来使人笑,使人怕,还是使人“厌倦”呢?──现在也很难测定。但若据“前车之鉴”,则“后之视今,亦犹今之视昔”,大约也还不免于“悲夫”的了!

(八月二十三日。)

【六论“文人相轻”──二卖】

今年文坛上的战术,有几手是恢复了五六年前的太阳社式,年纪大又成为一种罪状了,叫作“倚老卖老”。

其实呢,罪是并不在“老”,而在于“卖”的,假使他在叉麻酱,念弥陀,一字不写,就决不会惹青年作家的口诛笔伐。如果这推测并不错,文坛上可又要增添各样的罪人了,因为现在的作家,有几位总不免在他的“作品”之外,附送一点特产的赠品,有的卖富,说卖稿的文人的作品,都是要不得的;有人指出了他的诗思不过在太太的奁资中,就有帮闲的来说这人是因为得不到这样的太太,恰如狐狸的吃不到葡萄,所以只好说葡萄酸。有的卖穷,或卖病,说他的作品是挨饿三天,吐血十口,这才做出来的,所以与众不同。有的卖穷和富,说这刊物是因为受了文阀文僚的排挤,自掏腰包,忍痛印出来的,所以又与众不同。有的卖孝,说自己做这样的文章,是因为怕父亲将来吃苦的缘故,那可更了不得,价值简直和李密的《陈情表》不相上下了。有的就是衔烟斗,穿洋服,唉声叹气,顾影自怜,老是记着自己的韶年玉貌的少年哥儿,这里和“卖老”相对,姑且叫他“卖俏”罢。

しかし中国の文壇では、こうした地道な批評は人気がない。人々が好むのは、華々しい論争であり、レッテル貼りであり、陣営の分類である。地味な批評では読者の関心を引けないからであろう。しかし文学の本当の発展は、こうした地味な批評の積み重ねからしか生まれないのである。

不过中国的社会上,“卖老”的真也特别多。女人会穿针,有什么希奇呢,一到一百多岁,就可以开大会,穿给大家看,顺便还捐钱了。说中国人“起码要学狗”,倘是小学生的作文,是会遭先生的板子的,但大了几十年,新闻上就大登特登,还用方体字标题道:“皤然一老莅故都,吴稚晖语妙天下”;劝人解囊赈灾的文章,并不少见,而文中自述年纪曰:“余年九十六岁矣”者,却只有马相伯先生。但普通都不谓之“卖”,另有极好的称呼,叫作“有价值”。

“老作家”的“老”字,就是一宗罪案,这法律在文坛上已经好几年了,不过或者指为落伍,或者说是把持,……总没有指出明白的坏处。这回才由上海的青年作家揭发了要点,是在“卖”他的“老”。

那就不足虑了,很容易扫荡。中国各业,多老牌子,文坛却并不然,创作了几年,就或者做官,或者改业,或者教书,或者卷逃,或者经商,或者造反,或者送命……不见了。“老”在那里的原已寥寥无几,真有些像耆英会里的一百多岁的老太婆,居然会活到现在,连“民之父母”也觉得希奇古怪。而且她还会穿针,就尤其希奇古怪,使街头巷尾弄得闹嚷嚷。然而呀了,这其实是为了奉旨旌表的缘故,如果一个十六七岁的漂亮姑娘登台穿起针来,看的人也决不会少的。

私はこのことを繰り返し述べてきたが、おそらく今後も繰り返し述べ続けなければならないであろう。なぜなら、聞く耳を持つ者が少ないからである。

谁有“卖老”的吗?一遇到少的俏的就倒。

不过中国的文坛虽然幼稚,昏暗,却还没有这么简单;读者虽说被“养成一种‘看热闹’的情趣”,但有辨别力的也不少,而且还在多起来。所以专门“卖老”,是不行的,因为文坛究竟不是养老堂,又所以专门“卖俏”,也不行的,因为文坛究竟也不是妓院。

二卖俱非,由非见是,混沌之辈,以为两伤。

第6節

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(九月十二日。)

【七论“文人相轻”──两伤】

所谓文人,轻个不完,弄得别一些作者摇头叹气了,以为作践了文苑。这自然也说得通。陶渊明先生“采菊东篱下”,心境必须清幽闲适,他这才能够“悠然见南山”,如果篱中篱外,有人大嚷大跳,大骂大打,南山是在的,他却“悠然”不得,只好“愕然见南山”了。现在和晋宋之交有些不同,连“象牙之塔”也已经搬到街头来,似乎颇有“不隔”之意,然而也还得有幽闲,要不然,即无以寄其沉痛,文坛减色,嚷嚷之罪大矣。于是相轻的文人们的处境,就也更加艰难起来,连街头也不再是扰攘的地方了,真是途穷道尽。

(九月十二日。)

然而如果还要相轻又怎么样呢?前清有成例,知县老爷出巡,路遇两人相打,不问青红皂白,谁是谁非,各打屁股五百完事。不相轻的文人们纵有“肃静”“回避”牌,却无小板子,打是自然不至于的,他还是用“笔伐”,说两面都不是好东西。这里有一段炯之先生的《谈谈上海的刊物》为例──

“说到这种争斗,使我们记起《太白》,《文学》,《论语》,《人间世》几年来的争斗成绩。这成绩就是凡骂人的与被骂的一古脑儿变成丑角,等于木偶戏的互相揪打或以头互碰,除了读者养成一种‘看热闹’的情趣以外,别无所有。把读者养成欢喜看‘戏’不欢喜看‘书’的习气,‘文坛消息’的多少,成为刊物销路多少的主要原因。争斗的延长,无结果的延长,实在可说是中国读者的大不幸。我们是不是还有什么方法可以使这种‘私骂’占篇幅少一些?一个时代的代表作,结起账来若只是这些精巧的对骂,这文坛,未免太可怜了。”(天津《大公报》的《小公园》,八月十八日。)

【七論「文人相軽」──両傷】

“这种斗争”,炯之先生还自有一个界说:“即是向异己者用一种琐碎方法,加以无怜悯,不节制的辱骂。(一个术语,便是‘斗争’。)”云。

于是乎这位炯之先生便以怜悯之心,节制之笔,定两造为丑角,觉文坛之可怜了,虽然“我们记起《太白》,《文学》,《论语》,《人间世》几年来”,似乎不但并不以“‘文坛消息’的多少,成为刊物销路多少的主要原因”,而且简直不登什么“文坛消息”。不过“骂”是有的;只“看热闹”的读者,大约一定也有的。试看路上两人相打,他们何尝没有是非曲直之分,但旁观者往往只觉得有趣;就是绑出法场去,也是不问罪状,单看热闹的居多。由这情形,推而广之以至于文坛,真令人有不如逆来顺受,唾面自干之感。到这里来一个“然而”罢,转过来是旁观者或读者,其实又并不全如炯之先生所拟定的混沌,有些是自有各人自己的判断的。所以昔者古典主义者和罗曼主义者相骂,甚而至于相打,他们并不都成为丑角,左拉遭了剧烈的文字和图画的嘲骂,终于不成为丑角;连生前身败名裂的王尔德,现在也不算是丑角。

いわゆる文人が軽蔑し合うこと止むなく、ついに他の作者たちも首を振って嘆くに至り、文苑を汚したと考えるのである。これもまた一理ある。陶潜は「世俗と争はず」と言い、東方朔もまた「世に容れらるるを求めず」と称した。しかしこれらはいずれも自ら高潔を標榜した言葉であって、実際の行いがそうであったかどうかは別の問題である。

自然,他们有作品。但中国也有的。中国的作品“可怜”得很,诚然,但这不只是文坛可怜,也是时代可怜,而且这可怜中,连“看热闹”的读者和论客都在内。凡有可怜的作品,正是代表了可怜的时代。昔之名人说“恕”字诀──但他们说,对于不知恕道的人,是不恕的;──今之名人说“忍”字诀,春天的论客以“文人相轻”混淆黑白,秋天的论客以“凡骂人的与被骂的一古脑儿变成丑角”抹杀是非。冷冰冰阴森森的平安的古冢中,怎么会有生人气?

“我们是不是还有什么方法可以使这种‘私骂’占篇幅少一些?”──炯之先生问。有是有的。纵使名之曰“私骂”,但大约决不会件件都是一面等于二加二,一面等于一加三,在“私”之中,有的较近于“公”,在“骂”之中,有的较合于“理”的,居然来加评论的人,就该放弃了“看热闹的情趣”,加以分析,明白的说出你究以为那一面较“是”,那一面较“非”来。

文壇の論争を観察していると、一つの法則に気づく。すなわち、論争が激しくなればなるほど、双方の品位は下がり、双方の傷は深くなるということである。最初は文学についての議論であったものが、次第に人身攻撃に変わり、ついには相手の私生活にまで及ぶ。こうなると、もはや文学とは何の関係もない。

至于文人,则不但要以热烈的憎,向“异己”者进攻,还得以热烈的憎,向“死的说教者”抗战。在现在这“可怜”的时代,能杀才能生,能憎才能爱,能生与爱,才能文。彼兑飞说得好:

我的爱并不是欢欣安静的人家,

花园似的,将平和一门关住,

其中有“幸福”慈爱地往来,

而抚养那“欢欣”,那娇小的仙女。

我的爱,就如荒凉的沙漠一般──

一个大盗似的有嫉妒在那里霸着:

他的剑是绝望的疯狂,

而每一刺是各样的谋杀!

(九月十二日。)

【萧红作“生死场”序】

记得已是四年前的事了,时维二月,我和妇孺正陷在上海闸北的火线中,眼见中国人的因为逃走或死亡而绝迹。后来仗着几个朋友的帮助,这才得进平和的英租界,难民虽然满路,居人却很安闲。和闸北相距不过四五里罢,就是一个这么不同的世界,──我们又怎么会想到哈尔滨。

しかし当事者たちは往々にしてこのことに気づかない。自分は正義のために戦っていると信じ、相手は悪であると信じている。この確信があるから、どんな手段を用いても正当化できるのである。かくして論争は泥仕合となり、見物人だけが面白がるという図になる。

这本稿子的到了我的桌上,已是今年的春天,我早重回闸北,周围又复熙熙攘攘的时候了。但却看见了五年以前,以及更早的哈尔滨。这自然还不过是略图,叙事和写景,胜于人物的描写,然而北方人民的对于生的坚强,对于死的挣扎,却往往已经力透纸背;女性作者的细致的观察和越轨的笔致,又增加了不少明丽和新鲜。精神是健全的,就是深恶文艺和功利有关的人,如果看起来,他不幸得很,他也难免不能毫无所得。

听说文学社曾经愿意给她付印,稿子呈到中央宣传部书报检查委员会那里去,搁了半年,结果是不许可。人常常会事后才聪明,回想起来,这正是当然的事:对于生的坚强和死的挣扎,恐怕也确是大背“训政”之道的。今年五月,只为了《略谈皇帝》这一篇文章,这一个气焰万丈的委员会就忽然烟消火灭,便是“以身作则”的实地大教训。

私がこれを「両傷」と呼ぶのは、双方がともに傷つくからである。攻撃する側は、攻撃すればするほど自分の本来の仕事から遠ざかる。反論する側も同様である。こうして二人の作家は、本来なら作品を書くべき時間を、互いに罵り合うことに費やすのである。

奴隶社以汗血换来的几文钱,想为这本书出版,却又在我们的上司“以身作则”的半年之后了,还要我写几句序。然而这几天,却又谣言蜂起,闸北的熙熙攘攘的居民,又在抱头鼠窜了,路上是骆驿不绝的行李车和人,路旁是黄白两色的外人,含笑在赏鉴这礼让之邦的盛况。自以为居于安全地带的报馆的报纸,则称这些逃命者为“庸人”或“愚民”。我却以为他们也许是聪明的,至少,是已经凭着经验,知道了煌煌的官样文章之不可信。他们还有些记性。

现在是一九三五年十一月十四的夜里,我在灯下再看完了《生死场》。周围像死一般寂静,听惯的邻人的谈话声没有了,食物的叫卖声也没有了,不过偶有远远的几声犬吠。想起来,英法租界当不是这情形,哈尔滨也不是这情形;我和那里的居人,彼此都怀着不同的心情,住在不同的世界。然而我的心现在却好象古井中水,不生微波,麻木的写了以上那些字。这正是奴隶的心!──但是,如果还是扰乱了读者的心呢?那么,我们还决不是奴才。

さらに厄介なのは、この種の論争が一旦始まると、容易に終わらないことである。一方が黙れば、それは敗北と見なされる。だから黙ることができない。こうして論争は何か月も、時には何年も続くのである。

不过与其听我还在安坐中的牢骚话,不如快看下面的《生死场》,她才会给你们以坚强和挣扎的力气。

鲁迅。

【陀思妥夫斯基的事】

──为日本三笠书房《陀思妥夫斯基全集》普及本作

到了关于陀思妥夫斯基,不能不说一两句话的时候了。说什么呢?他太伟大了,而自己却没有很细心的读过他的作品。

回想起来,在年青时候,读了伟大的文学者的作品,虽然敬服那作者,然而总不能爱的,一共有两个人。一个是但丁,那《神曲》的《炼狱》里,就有我所爱的异端在;有些鬼魂还在把很重的石头,推上峻峭的岩壁去。这是极吃力的工作,但一松手,可就立刻压烂了自己。不知怎地,自己也好象很是疲乏了。于是我就在这地方停住,没有能够走到天国去。

还有一个,就是陀思妥夫斯基。一读他二十四岁时所作的《穷人》,就已经吃惊于他那暮年似的孤寂。到后来,他竟作为罪孽深重的罪人,同时也是残酷的拷问官而出现了。他把小说中的男男女女,放在万难忍受的境遇里,来试炼它们,不但剥去了表面的洁白,拷问出藏在底下的罪恶,而且还要拷问出藏在那罪恶之下的真正的洁白来。而且还不肯爽利的处死,竭力要放它们活得长久。而这陀思妥夫斯基,则仿佛就在和罪人一同苦恼,和拷问官一同高兴着似的。这决不是平常人做得到的事情,总而言之,就因为伟大的缘故。但我自己,却常常想废书不观。

私はかつてある二人の作家の論争を目撃した。最初は一つの翻訳の正確さについての議論であった。それが次第に翻訳方法論の対立となり、さらに文学観の相違となり、最終的には互いの人格を全否定するに至った。両者ともに優れた作家であったが、この論争の後、二人とも以前のような優れた作品を書けなくなった。エネルギーを論争に使い果たしたのかもしれない。

医学者往往用病态来解释陀思妥夫斯基的作品。这伦勃罗梭式的说明,在现今的大多数的国度里,恐怕实在也非常便利,能得一般人们的赞许的。但是,即使他是神经病者,也是俄国专制时代的神经病者,倘若谁身受了和他相类的重压,那么,愈身受,也就会愈懂得他那夹着夸张的真实,热到发冷的热情,快要破裂的忍从,于是爱他起来的罢。

これが「両傷」の典型的な例である。勝者は一人もなく、敗者だけが二人いるのである。

不过作为中国的读者的我——却还不能熟悉陀思妥夫斯基式的忍从──对于横逆之来的真正的忍从。在中国,没有俄国的基督。在中国,君临的是“礼”,不是神。百分之百的忍从,在未嫁就死了定婚的丈夫,坚苦的一直硬活到八十岁的所谓节妇身上,也许偶然可以发见罢,但在一般的人们,却没有。忍从的形式,是有的,然而陀思妥夫斯基式的掘下去,我以为恐怕也还是虚伪。因为压迫者指为被压迫者的不德之一的这虚伪,对于同类,是恶,而对于压迫者,却是道德的。

但是,陀思妥夫斯基式的忍从,终于也并不只成了说教或抗议就完结。因为这是当不住的忍从,太伟大的忍从的缘故。人们也只好带着罪业,一直闯进但丁的天国,在这里这才大家合唱着,再来修练天人的功德了。只有中庸的人,固然并无堕入地狱的危险,但也恐怕进不了天国的罢。

(十一月二十日。)

【孔另境编“当代文人尺牍钞”序】

日记或书信,是向来有些读者的。先前是在看朝章国故,丽句清词,如何抑扬,怎样请托,于是害得名人连写日记和信也不敢随随便便。晋人写信,已经得声明“匆匆不暇草书”,今人作日记,竟日日要防传钞,来不及出版。王尔德的自述,至今还有一部分未曾公开,罗曼罗兰的日记,约在死后十年才可发表,这在我们中国恐怕办不到。

では、どうすればよいのか。文人は相軽んじてはならないのか。そうではない。先に述べたように、文学の質に基づく批評は健全であり、必要である。問題は、批評が批評の域を超えて人身攻撃になることであり、文学の議論が派閥争いになることである。

不过现在的读文人的非文学作品,大约目的已经有些和古之人不同,是比较的欧化了的:远之,在钩稽文坛的故实,近之,在探索作者的生平。而后者似乎要居多数。因为一个人的言行,总有一部分愿意别人知道,或者不妨给别人知道,但有一部分却不然。然而一个人的脾气,又偏爱知道别人不肯给人知道的一部分,于是尺牍就有了出路。这并非等于窥探门缝,意在发人的阴私,实在是因为要知道这人的全般,就是从不注意处,看出这人──社会的一分子的真实。

就是在《文学概论》上有了名目的创作上,作者本来也掩不住自己,无论写的是什么,这个人总还是这个人,不过加了些藻饰,有了些排场,仿佛穿上了制服。写信固然比较的随便,然而做作惯了的,仍不免带些惯性,别人以为他这回是赤条条的上场了罢,他其实还是穿着肉色紧身小衫裤,甚至于用了平常决不应用的奶罩。话虽如此,比起峨冠博带的时候来,这一回可究竟较近于真实。所以从作家的日记或尺牍上,往往能得到比看他的作品更其明晰的意见,也就是他自己的简洁的注释。不过也不能十分当真。有些作者,是连账簿也用心机的,叔本华记账就用梵文,不愿意别人明白。

この一線を守ることは難しいが、不可能ではない。要は、批評する時には常に作品に即して語り、作者の人格には触れないことである。そして反論する時にも同様に、相手の議論に対してのみ反論し、相手の人格には触れないことである。

另境先生的编这部书,我想是为了显示文人的全貌的,好在用心之古奥如叔本华先生者,中国还未必有。只是我的做序,可不比写信,总不免用些做序的拳经:这是要请编者读者,大家心照的。

一九三五年十一月二十五夜,鲁迅记于上海闸北之且介亭。

【杂谈小品文】

自从“小品文”这一个名目流行以来,看看书店广告,连信札,论文,都排在小品文里了,这自然只是生意经,不足为据。一般的意见,第一是在篇幅短。

しかし現実の文壇では、この簡単な原則すら守られていない。なぜなら、作品について論じるよりも、人について論じる方がはるかに容易だからである。

但篇幅短并不是小品文的特征。一条几何定理不过数十字,一部《老子》只有五千言,都不能说是小品。这该像佛经的小乘似的,先看内容,然后讲篇福。讲小道理,或没道理,而又不是长篇的,才可谓之小品。至于有骨力的文章,恐不如谓之“短文”,短当然不及长,寥寥几句,也说不尽森罗万象,然而它并不“小”。

第7節

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《史记》里的《伯夷列传》和《屈原贾谊列传》除去了引用的骚赋,其实也不过是小品,只因为他是“太史公”之作,又常见,所以没有人来选出,翻印。由晋至唐,也很有几个作家;宋文我不知道,但“江湖派”诗,却确是我所谓的小品。现在大家所提倡的,是明清,据说“抒写性灵”是它的特色。那时有一些人,确也只能够抒写性灵的,风气和环境,加上作者的出身和生活,也只能有这样的意思,写这样的文章。虽说抒写性灵,其实后来仍落了窠臼,不过是“赋得性灵”,照例写出那么一套来。当然也有人豫感到危难,后来是身历了危难的,所以小品文中,有时也夹着感愤,但在文字狱时,都被销毁,劈板了,于是我们所见,就只剩了“天马行空”似的超然的性灵。

『史記』中の「伯夷列伝」と「屈原賈誼列伝」は、引用された騒賦を除けば、実は小品にすぎない。ただ「太史公」の作であり、また見慣れているために、誰も選び出して翻刻しようとしないだけのことである。晋より唐に至るまでにも、なかなかの作家が何人かいて、それぞれ文学史上に名を残している。

这经过清朝检选的“性灵”,到得现在,却刚刚相宜,有明末的洒脱,无清初的所谓“悖谬”,有国时是高人,没国时还不失为逸士。逸士也得有资格,首先即在“超然”,“士”所以超庸奴,“逸”所以超责任:现在的特重明清小品,其实是大有理由,毫不足怪的。

不过“高人兼逸士梦”恐怕也不长久。近一年来,就露了大破绽,自以为高一点的,已经满纸空言,甚而至于胡说八道,下流的却成为打诨,和猥鄙丑角,并无不同,主意只在挖公子哥儿们的跳舞之资,和舞女们争生意,可怜之状,已经下于五四运动前后的的鸳鸯蝴蝶派数等了。

为了这小品文的盛行,今年就又有翻印所谓“珍本”的事。有些论者,也以为可虑。我却觉得这是并非无用的。原本价贵,大抵无力购买,现在只用了一元或数角,就可以看见现代名人的祖师,以及先前的性灵,怎样叠床架屋,现在的性灵,怎样看人学样,啃过一堆牛骨头,即使是牛骨头,不也有了识见,可以不再被生炒牛角尖骗去了吗?

不过“珍本”并不就是“善本”,有些是正因为它无聊,没有人要看,这才日就灭亡,少下去;因为少,所以“珍”起来。就是旧书店里必讨大价的所谓“禁书”,也并非都是慷慨激昂,令人奋起的作品,清初,单为了作者也会禁,往往和内容简直不相干。这一层,却要读者有选择的眼光,也希望识者给相当的指点的。

しかし本当のことを言えば、中国の文学史は名前の列挙にすぎないことが多い。ある作家の名前が挙げられ、その代表作が列記され、「文辞雅麗」とか「気韻生動」とかいう常套句が付される。しかし、その作家が何をどのように書いたのか、なぜそのように書いたのか、その作品が当時の社会とどのような関係にあったのか、こうした本質的な問題は大抵省略される。

(十二月二日。)

【“题未定”草(六至九)】

记得T君曾经对我谈起过:我的《集外集》出版之后,施蛰存先生曾在什么刊物上有过批评,以为这本书不值得付印,最好是选一下。我至今没有看到那刊物;但从施先生的推崇《文选》和手定《晚明二十家小品》的功业,以及自标“言行一致”的美德推测起来,这也正像他的话。好在我现在并不要研究他的言行,用不着多管这些事。

《集外集》的不值得付印,无论谁说,都是对的。其实岂只这一本书,将来重开四库馆时,恐怕我的一切译作,全在排除之列;虽是现在,天津图书馆的目录上,在《呐喊》和《彷徨》之下,就注着一个“销”字,“销”者,销毁之谓也;梁实秋教授充当什么图书馆主任时,听说也曾将我的许多译作驱逐出境。但从一般的情形而论,目前的出版界,却实在并不十分谨严,所以印了我的一本《集外集》,似乎也算不得怎么特别糟蹋了纸墨。至于选本,我倒以为是弊多利少的,记得前年就写过一篇《选本》,说明着自己的意见,后来就收在《集外集》中。

自然,如果随便玩玩,那是什么选本都可以的,《文选》好,《古文观止》也可以。不过倘要研究文学或某一作家,所谓“知人论世”,那么,足以应用的选本就很难得。选本所显示的,往往并非作者的特色,倒是选者的眼光。眼光愈锐利,见识愈深广,选本固然愈准确,但可惜的是大抵眼光如豆,抹杀了作者真相的居多,这才是一个“文人浩劫”。例如蔡邕,选家大抵只取他的碑文,使读者仅觉得他是典重文章的作手,必须看见《蔡中郎集》里的《述行赋》(也见于《续古文苑》),那些“穷工巧于台榭兮,民露处而寝湿,委嘉谷于禽兽兮,下糠秕而无粒”(手头无书,也许记错,容后订正)的句子,才明白他并非单单的老学究,也是一个有血性的人,明白那时的情形,明白他确有取死之道。又如被选家录取了《归去来辞》和《桃花源记》,被论客赞赏着“采菊东篱下,悠然见南山”的陶潜先生,在后人的心目中,实在飘逸得太久了,但在全集里,他却有时很摩登,“愿在丝而为履,附素足以周旋,悲行止之有节,空委弃于床前”,竟想摇身一变,化为“阿呀呀,我的爱人呀”的鞋子,虽然后来自说因为“止于礼义”,未能进攻到底,但那些胡思乱想的自白,究竟是大胆的。就是诗,除论客所佩服的“悠然见南山”之外,也还有“精卫衔微木,将以填沧海,形天舞干戚,猛志固常在”之类的“金刚怒目”式,在证明着他并非整天整夜的飘飘然。这“猛志固常在”和“悠然见南山”的是一个人,倘有取舍,即非全人,再加抑扬,更离真实。譬如勇士,也战斗,也休息,也饮食,自然也性交,如果只取他末一点,画起像来,挂在妓院里,尊为性交大师,那当然也不能说是毫无根据的,然而,岂不冤哉!我每见近人的称引陶渊明,往往不禁为古人惋惜。

これは中国の文学研究の伝統的な欠陥である。中国人は古来、文学を鑑賞の対象として扱い、研究の対象としてはあまり扱ってこなかった。「読書百遍、義自ら見る」という格言は、この態度をよく表している。すなわち、繰り返し読めば自然に分かるものであって、あえて分析する必要はないというのである。

しかし実際には、繰り返し読んだだけでは分からないことが山ほどある。たとえば、ある作品が書かれた背景、作者の意図、テクストの変遷、受容の歴史、こうしたことは「百遍読む」だけでは明らかにならない。調査と考証が必要であり、比較と分析が必要なのである。

这也是关于取用文学遗产的问题,潦倒而至于昏聩的人,凡是好的,他总归得不到。前几天,看见《时事新报》的《青光》上,引过林语堂先生的话,原文抛掉了,大意是说:老庄是上流,泼妇骂街之类是下流,他都要看,只有中流,剽上窃下,最无足观。如果我所记忆的并不错,那么,这真不但宣告了宋人语录,明人小品,下至《论语》,《人间世》,《宇宙风》这些“中流”作品的死刑,也透彻的表白了其人的毫无自信。不过这还是空腹高心之谈,因为虽是“中流”,也并不一概,即使同是剽窃,有取了好处的,有取了无用之处的,有取了坏处的,到得“中流”的下流,他就连剽窃也不会,“老庄”不必说了,虽是明、清的文章,又何尝真的看得懂。

标点古文,不但使应试的学生为难,也往往害得有名的学者出丑,乱点词曲,拆散骈文的美谈,已经成为陈迹,也不必回顾了;今年出了许多廉价的所谓珍本书,都有名家标点,关心世道者惄然忧之,以为足煽复古之焰。我却没有这么悲观,化国币一元数角,买了几本,既读古之中流的文章,又看今之中流的标点;今之中流,未必能懂古之中流的文章的结论,就从这里得来的。

例如罢,──这种举例,是很危险的,从古到今,文人的送命,往往并非他的什么“意德沃罗基”的悖谬,倒是为了个人的私仇居多。然而这里仍得举,因为写到这里,必须有例,所谓“箭在弦上,不得不发”者是也。但经再三忖度,决定“姑隐其名”,或者得免于难欤,这是我在利用中国人只顾空面子的缺点。

近年、西洋の文学研究の方法が中国に紹介されて以来、状況はいくらか改善された。しかしまだ不十分である。多くの研究者はなお伝統的な方法に固執し、あるいは西洋の方法を表面的に模倣するにとどまっている。

例如罢,我买的“珍本”之中,有一本是张岱的《琅嬛文集》,“特印本实价四角”;据“乙亥十月,卢前冀野父”跋,是“化峭僻之途为康庄”的,但照标点看下去,却并不十分“康庄”。标点,对于五言或七言诗最容易,不必文学家,只要数学家就行,乐府就不大“康庄”了,所以卷三的《景清刺》里,有了难懂的句子:

“……佩铅刀。藏膝髁。太史奏。机谋破。不称王向前。坐对御衣含血唾。……”

琅琅可诵,韵也押的,不过“不称王向前”这一句总有些费解。看看原序,有云:“清知事不成。跃而询上。大怒曰。毋谓我王。即王敢尔耶。清曰。今日之号。尚称王哉。命抉其齿。王且询。则含血前。淰御衣。上益怒。剥其肤。……”﹙标点悉尊原本﹚那么,诗该是“不称王,向前坐”了,“不称王”者,“尚称王哉”也;“向前坐”者,“则含血前”也。而序文的“跃而询上。大怒曰”,恐怕也该是“跃而询。上大怒曰”才合式,据作文之初阶,观下文之“上益怒”。可知也矣。

纵使明人小品如何“本色”,如何“性灵”,拿它乱玩究竟还是不行的,自误事小,误人可似乎不大好。例如卷六的《琴操·脊令操》序里,有这样的句子:

私が『中国小説史略』を書いた時も、この困難に直面した。中国にはそもそも小説の歴史を体系的に叙述した書物がなく、資料も散逸しており、先行研究もほとんどなかった。すべてを一から始めなければならなかったのである。

“秦府僚属。劝秦王世民。行周公之事。伏兵玄武门。射杀建成元吉魏征。伤亡作。”

文章也很通,不过一翻《唐书》,就不免觉得魏征实在射杀得冤枉,他其实是秦王世民做了皇帝十七年之后,这才病死的。所以我们没有法,这里只好点作“射杀建成元吉,魏征伤亡作”。明明是张岱作的《琴操》,怎么会是魏征作呢,索性也将他射杀干净,固然不能说没有道理,不过“中流”文人,是常有拟作的,例如韩愈先生,就替周文王说过“臣罪当诛兮天王圣明”,所以在这里,也还是以“魏征伤亡作”为稳当。

我在这里也犯了“文人相轻”罪,其罪状曰“吹毛求疵”。但我想“将功折罪”的,是证明了有些名人,连文章也看不懂,点不断,如果选起文章来,说这篇好,那篇坏,实在不免令人有些毛骨悚然,所以认真读书的人,一不可倚仗选本,二不可凭信标点。

还有一样最能引读者入于迷途的,是“摘句”。它往往是衣裳上撕下来的一块绣花,经摘取者一吹嘘或附会,说是怎样超然物外,与尘浊无干,读者没有见过全体,便也被他弄得迷离惝恍。最显著的便是上文说过的“悠然见南山”的例子,忘记了陶潜的《述酒》和《读山海经》等诗,捏成他单是一个飘飘然,就是这摘句作怪。新近在《中学生》的十二月号上,看见了朱光潜先生的《说“曲终人不见,江上数峰青”》的文章,推这两句为诗美的极致,我觉得也未免有以割裂为美的小疵。他说的好处是:

もっとも、一から始めることには利点もある。先入観に縛られないということである。既存の枠組みがないから、自分の目で資料を見、自分の頭で考えることができる。私の『小説史略』に多少の価値があるとすれば、それはこの点にあるかもしれない。

“我爱这两句诗,多少是因为它对于我启示了一种哲学的意蕴。‘曲终人不见’所表现的是消逝,‘江上数峰青’所表现的是永恒。可爱的乐声和奏乐者虽然消逝了,而青山却巍然如旧,永远可以让我们把心情寄托在它上面。人到底是怕凄凉的,要求伴侣的。曲终了,人去了,我们一霎时以前所游目骋怀的世界猛然间好象从脚底倒塌去了。这是人生最难堪的一件事,但是一转眼间我们看到江上青峰,好象又找到另一个可亲的伴侣,另一个可托足的世界,而且它永远是在那里的。‘山穷水尽疑无路,柳暗花明又一村’,此种风味似之。不仅如此,人和曲果真消逝了么;这一曲缠绵悱恻的音乐没有惊动山灵?它没有传出江上青峰的妩媚和严肃?它没有深深地印在这妩媚和严肃里面?反正青山和湘灵的瑟声已发生这么一回的因缘,青山永在,瑟声和鼓瑟的人也就永在了。”

这确已说明了他的所以激赏的原因。但也没有尽。读者是种种不同的,有的爱读《江赋》和《海赋》,有的欣赏《小园》或《枯树》。后者是徘徊于有无生灭之间的文人,对于人生,既惮扰攘,又怕离去,懒于求生,又不乐死,实有太板,寂绝又太空,疲倦得要休息,而休息又太凄凉,所以又必须有一种抚慰。于是“曲终人不见”之外,如“只在此山中,云深不知处”或“笙歌归院落,灯火下楼台”之类,就往往为人所称道。因为眼前不见,而远处却在,如果不在,便悲哀了,这就是道士之所以说“至心归命礼,玉皇大天尊!”也。

しかし同時に、一から始めることの危険もある。見落としや誤りが避けられないということである。先行研究があれば、少なくともそれを踏まえた上で議論を進めることができるが、先行研究がなければ、すべてを自力で検証しなければならない。一人の力には限界があるから、必ず遺漏が生じる。

抚慰劳人的圣药,在诗,用朱先生的话来说,是“静穆”:

“艺术的最高境界都不在热烈。就诗人之所以为人而论,他所感到的欢喜和愁苦也许比常人所感到的更加热烈。就诗人之所以为诗人而论,热烈的欢喜或热烈的愁苦经过诗表现出来以后,都好比黄酒经过长久年代的储藏,失去它的辣性,只剩一味醇朴。我在别的文章里曾经说过这一段话:‘懂得这个道理,我们可以明白古希腊人何以把和平静穆看作诗的极境。把诗神亚波罗摆在蔚蓝的山巅,俯瞰众生扰攘,而眉宇间却常如作甜蜜梦,不露一丝被扰动的神色?’这里所谓‘静穆’(Serenity)自然只是一种最高理想,不是在一般诗里所能找得到的。古希腊──尤其是古希腊的造形艺术──常使我们觉到这种‘静穆’的风味。‘静穆’是一种豁然大悟,得到归依的心情。它好比低眉默想的观音大士,超一切忧喜,同时你也可说它泯化一切忧喜。这种境界在中国诗里不多见。屈原阮籍李白杜甫都不免有些像金刚怒目,愤愤不平的样子。陶潜浑身是‘静穆’,所以他伟大。”

私はこの遺漏を常に意識しており、いつか改訂の機会を得たいと思っていた。しかし時間は瞬く間に過ぎ、気力も衰え、おそらくその機会はもう来ないであろう。

古希腊人,也许把和平静穆看作诗的极境的罢,这一点我毫无知识。但以现存的希腊诗歌而论,荷马的史诗,是雄大而活泼的,沙孚的恋歌,是明白而热烈的,都不静穆。我想,立“静穆”为诗的极境,而此境不见于诗,也许和立蛋形为人体的最高形式,而此形终不见于人一样。至于亚波罗之在山巅,那可因为他是“神”的缘故,无论古今,凡神像,总是放在较高之处的。这像,我曾见过照相,睁着眼睛,神清气爽,并不像“常如作甜蜜梦”。不过看见实物,是否“使我们觉到这种‘静穆’的风味”,在我可就很难断定了,但是,倘使真的觉得,我以为也许有些因为他“古”的缘故。

第8節

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我也是常常徘徊于雅俗之间的人,此刻的话,很近于大煞风景,但有时却自以为颇“雅”的;间或喜欢看看古董。记得十多年前,在北京认识了一个土财主,不知怎么一来,他也忽然“雅”起来了,买了一个鼎,据说是周鼎,真是土花斑驳,古色古香。而不料过不几天,他竟叫铜匠把它的土花和铜绿擦得一干二净,这才摆在客厅里,闪闪的发着铜光。这样的擦得精光的古铜器,我一生中还没有见过第二个。一切“雅士”,听到的无不大笑,我在当时,也不禁由吃惊而失笑了,但接着就变成肃然,好象得了一种启示。这启示并非“哲学的意蕴”,是觉得这才看见了近于真相的周鼎。鼎在周朝,恰如碗之在现代,我们的碗,无整年不洗之理,所以鼎在当时,一定是干干净净,金光灿烂的,换了术语来说,就是它并不“静穆”,倒有些“热烈”。这一种俗气至今未脱,变化了我衡量古美术的眼光,例如希腊雕刻罢,我总以为它现在之见得“只剩一味醇朴”者,原因之一,是在曾埋土中,或久经风雨,失去了锋棱和光泽的缘故,雕造的当时,一定是崭新,雪白,而且发闪的,所以我们现在所见的希腊之美,其实并不准是当时希腊人之所谓美,我们应该悬想它是一件新东西。

私もまた、雅と俗の間を往来することの多い人間であり、今のこの話はいささか興醒ましに近いが、時には自分でもなかなか「雅」だと思うことがあり、ふと古董を見るのを好むこともある。十数年前のことを覚えている。北京で一人の土地成金と知り合いになったが、どういうわけか、彼も突然古董に興味を持ち始めた。ところが彼には鑑識眼がなく、しきりに偽物を掴まされた。しかし彼はそれを気にせず、偽物を本物と信じ、人に自慢して見せるのである。

凡论文艺,虚悬了一个“极境”,是要陷入“绝境”的,在艺术,会迷惘于土花,在文学,则被拘迫而“摘句”。但“摘句”又大足以困人,所以朱先生就只能取钱起的两句,而踢开他的全篇,又用这两句来概括作者的全人,又用这两句来打杀了屈原、阮籍、李白、杜甫等辈,以为“都不免有些像金刚怒目,愤愤不平的样子”。其实是他们四位,都因为垫高朱先生的美学说,做了冤屈的牺牲的。

我们现在先来看一看钱起的全篇罢:

“省试湘灵鼓瑟

善鼓云和瑟,常闻帝子灵。冯夷空自舞,楚客不堪听。苦调凄金石,清音入杳冥。苍梧来怨慕,白芷动芳馨。流水传湘浦,悲风过洞庭。曲终人不见,江上数峰青。”

要证成“醇朴”或“静穆”,这全篇实在是不宜称引的,因为中间的四联,颇近于所谓“衰飒”。但没有上文,末两句便显得含胡,不过这含胡,却也许又是称引者之所谓超妙。现在一看题目,便明白“曲终”者结“鼓瑟”,“人不见”者点“灵”字,“江上数峰青”者做“湘”字,全篇虽不失为唐人的好试帖,但末两句也并不怎么神奇了。况且题上明说是“省试”,当然不会有“愤愤不平的样子”,假使屈原不和椒兰吵架,却上京求取功名,我想,他大约也不至于在考卷上大发牢骚的,他首先要防落第。

我们于是应该再来看看这《湘灵鼓瑟》的作者的另外的诗了。但我手头也没有他的诗集,只有一部《大历诗略》,也是迂夫子的选本,不过篇数却不少,其中有一首是:

これは滑稽な話であるが、しかし考えてみれば、古董の真贋を見分けることは実に難しい。専門家ですら意見が分かれることがあり、まして素人においてをやである。ただ、素人が素人であることを自覚していれば、少なくとも他人に自慢はしない。問題は、素人が自分を玄人だと思い込むことなのであり、これは古董に限らず、あらゆる領域で見られる現象である。

“下第题长安客舍

不遂青云望,愁看黄鸟飞。梨花寒食夜,客子未春衣。世事随时变,交情与我违。空余主人柳,相见却依依。

一落第,在客栈的墙壁上题起诗来,他就不免有些愤愤了,可见那一首《湘灵鼓瑟》,实在是因为题目,又因为省试,所以只好如此圆转活脱。他和屈原、阮籍、李白、杜甫四位有时都不免是怒目金刚,但就全体而论,他长不到丈六。

世间有所谓“就事论事”的办法,现在就诗论诗,或者也可以说是无碍的罢。不过我总以为倘要论文,最好是顾及全篇,并且顾及作者的全人,以及他所处的社会状态,这才较为确凿。要不然,是很容易近乎说梦的。但我也并非反对说梦,我只主张听者心里明白所听的是说梦,这和我劝那些认真的读者不要专凭选本和标点本为法宝来研究文学的意思,大致并无不同。自己放出眼光看过较多的作品,就知道历来的伟大的作者,是没有一个“浑身是‘静穆’”的。陶潜正因为并非“浑身是‘静穆’,所以他伟大”。现在之所以往往被尊为“静穆”,是因为他被选文家和摘句家所缩小,凌迟了。

现在还在流传的古人文集,汉人的已经没有略存原状的了,魏的嵇康,所存的集子里还有别人的赠答和论难,晋的阮籍,集里也有伏义的来信,大约都是很古的残本,由后人重编的。《谢宣城集》虽然只剩了前半部,但有他的同僚一同赋咏的诗。我以为这样的集子最好,因为一面看作者的文章,一面又可以见他和别人的关系,他的作品,比之同咏者,高下如何,他为什么要说那些话……现在采取这样的编法的,据我所知道,则《独秀文存》,也附有和所存的“文”相关的别人的文字。

文学もまた同じである。文学の真贋を見分けることも、古董のそれに劣らず難しい。しかし古董の場合は、少なくとも科学的な鑑定方法がある。材質を分析し、年代を測定することができる。文学にはそうした客観的な基準がない。だから文学の世界では、偽物が本物として通用することが、古董の世界よりもはるかに多いのである。

那些了不得的作家,谨严入骨,惜墨如金,要把一生的作品,只删存一个或者三四个字,刻之泰山顶上,“传之其人”,那当然听他自己的便,还有鬼蜮似的“作家”,明明有天兵天将保佑,姓名大可公开,他却偏要躲躲闪闪,生怕他的“作品”和自己的原形发生关系,随作随删,删到只剩下一张白纸,到底什么也没有,那当然也听他自己的便。如果多少和社会有些关系的文字,我以为是都应该集印的,其中当然夹杂着许多废料,所谓“榛楛弗剪”,然而这才是深山大泽。现在已经不像古代,要手抄,要木刻,只要用铅字一排就够。虽说排印,糟蹋纸墨自然也还是糟蹋纸墨的,不过只要一想连杨邨人之流的东西也还在排印,那就无论什么都可以闭着眼睛发出去了。中国人常说,“有一利必有一弊”,也就是“有一弊必有一利”:揭起小无耻之旗,固然要引出无耻群,但使谦让者泼剌起来,却是一利。

收回了谦让的人,在实际上也并不少,但又是所谓“爱惜自己”的居多。“爱惜自己”当然并不是坏事情,至少,他不至于无耻,然而有些人往往误认“装点”和“遮掩”为“爱惜”。集子里面,有兼收“少作”的,然而偏去修改一下,在孩子的脸上,种上一撮白胡须;也有兼收别人之作的,然而又大加拣选,决不取谩骂诬蔑的文章,以为无价值。其实是这些东西,一样的和本文都有价值的,即使那力量还不够引出无耻群,但倘和有价值的本文有关,这就是它在当时的价值。中国的史家是早已明白了这一点的,所以历史里大抵有循吏传,隐逸传,却也有酷吏传和佞幸传,有忠臣传,也有奸臣传。因为不如此,便无从知道全般。

私がここで言う「偽物」とは、無論、文学作品の贋作のことではない。内容のない、あるいは内容に乏しい作品が、あたかも深い思想や高い芸術性を備えているかのように持て囃されることを指しているのである。こうした「偽物」は、巧みな文体や華麗な修辞で飾られていることが多く、一見すると立派に見える。しかし中身を吟味してみれば、空疎であり、何も言っていないに等しい。

而且一任鬼蜮的技俩随时消灭,也不能洞晓反鬼蜮者的人和文章。山林隐逸之作不必论,倘使这作者是身在人间,带些战斗性的,那么,他在社会上一定有敌对。只是这些敌对决不肯自承,时时撒娇道“冤乎枉哉,这是他把我当作假想敌了呀!”可是留心一看,他的确在放暗箭,一经指出,这才改为明枪,但又说这是因为被诬为“假想敌”的报复。所用的技俩,也是决不肯任其流传的,不但事后要它消灭,就是临时也在躲闪;而编集子的人又不屑收录。于是到得后来,就只剩了一面的文章了,无可对比,当时的抗战之作,就都好象无的放矢,独个人在向着空中发疯。我尝见人评古人的文章,说谁是“锋棱太露”,谁又是“剑拔弩张”,就因为对面的文章,完全消灭了的缘故,倘在,是也许可以减去评论家几分懵懂的。所以我以为此后该有博采种种所谓无价值的别人的文章,作为附录的集子。以前虽无成例,却是留给后来的宝贝,其功用与铸了魑魅罔两的形状的禹鼎相同。

就是近来的有些期刊,那无聊,无耻与下流,也是世界上不可多得的物事,然而这又确是现代中国的或一群人的“文学”,现在可以知今,将来可以知古,较大的图书馆,都必须保存的。但记得C君曾经告诉我,不但这些,连认真切实的期刊,也保存的很少,大抵只在把外国的杂志,一大本一大本的装起来:还是生着“贵古而贱今,忽近而图远”的老毛病。

仍是上文说过的所谓《珍本丛书》之一的张岱《琅嬛文集》,那卷三的书牍类里,有《又与毅儒八弟》的信,开首说:

“前见吾弟选《明诗存》,有一字不似钟谭者,必弃置不取;今几社诸君子盛称王李,痛骂钟谭,而吾弟选法又与前一变,有一字似钟谭者,必弃置不取。钟谭之诗集,仍此诗集,吾弟手眼,仍此手眼,而乃转若飞蓬,捷如影响,何胸无定识,目无定见,口无定评,乃至斯极耶?盖吾弟喜钟谭时,有钟谭之好处,尽有钟谭之不好处,彼盖玉常带璞,原不该尽视为连城;吾弟恨钟谭时,有钟谭之不好处,仍有钟谭之好处,彼盖瑕不掩瑜,更不可尽弃为瓦砾。吾弟勿以几社君子之言,横据胸中,虚心平气,细细论之,则其妍丑自见,奈何以他人好尚为好尚哉!……”

ところが世間では、こうした「偽物」が往々にして高い評価を受ける。なぜなら、人々は中身よりも外見を重んじるからである。美しい文章は、たとえ何も言っていなくても、読者に一種の満足感を与える。ちょうど美しい器が、何も盛られていなくても、見る者に審美的な快楽を与えるように。

这是分明的画出随风转舵的选家的面目,也指证了选本的难以凭信的。张岱自己,则以为选文造史,须无自己的意见,他在《与李砚翁》的信里说:“弟《石匮》一书,泚笔四十余载,心如止水秦铜,并不自立意见,故下笔描绘,妍媸自见,敢言刻划,亦就物肖形而已。……”然而心究非镜,也不能虚,所以立“虚心平气”为选诗的极境,“并不自立意见”为作史的极境者,也像立“静穆”为诗的极境一样,在事实上不可得。数年前的文坛上所谓“第三种人”杜衡辈,标榜超然,实为群丑,不久即本相毕露,知耻者皆羞称之,无待这里多说了;就令自觉不怀他意,屹然中立如张岱者,其实也还是偏倚的。他在同一信中,论东林云:

“……夫东林自顾泾阳讲学以来,以此名目,祸我国家者八九十年,以其党升沉,用占世数兴败,其党盛则为终南之捷径,其党败则为元祐之党碑。……盖东林首事者实多君子,窜入者不无小人,拥戴者皆为小人,招徕者亦有君子,此其间线索甚清,门户甚迥。……东林之中,其庸庸碌碌者不必置论,如贪婪强横之王图,奸险凶暴之李三才,闯贼首辅之项煜,上笺劝进之周钟,以致窜入东林,乃欲俱奉之以君子,则吾臂可断,决不敢徇情也。东林之尤可丑者,时敏之降闯贼曰,‘吾东林时敏也’,以冀大用。鲁王监国,蕞尔小朝廷,科道任孔当辈犹曰,‘非东林不可进用’。则是东林二字,直与蕞尔鲁国及汝偕亡者。手刃此辈,置之汤镬,出薪真不可不猛也。……”

しかし文学は器ではない。文学は何かを盛るためのものであり、器それ自体が目的ではない。この基本的なことを忘れた時、文学は装飾に堕し、遊戯に堕するのである。

这真可谓“词严义正”。所举的群小,也都确实的,尤其是时敏,虽在三百年后,也何尝无此等人,真令人惊心动魄。然而他的严责东林,是因为东林党中也有小人,古今来无纯一不杂的君子群,于是凡有党社,必为自谓中立者所不满,就大体而言,是好人多还是坏人多,他就置之不论了。或者还更加一转云:东林虽多君子,然亦有小人,反东林者虽多小人,然亦有正士,于是好象两面都有好有坏,并无不同,但因东林世称君子,故有小人即可丑,反东林者本为小人,故有正士则可嘉,苛求君子,宽纵小人,自以为明察秋毫,而实则反助小人张目。倘说:东林中虽亦有小人,然多数为君子,反东林者虽亦有正士,而大抵是小人。那么,斤量就大不相同了。

谢国桢先生作《明清之际党社运动考》,钩索文籍,用力甚勤,叙魏忠贤两次虐杀东林党人毕,说道:“那时候,亲戚朋友,全远远的躲避,无耻的士大夫,早投降到魏党的旗帜底下了。说一两句公道话,想替诸君子帮忙的,只有几个书呆子,还有几个老百姓。”

这说的是魏忠贤使缇骑捕周顺昌,被苏州人民击散的事。诚然,老百姓虽然不读诗书,不明史法,不解在瑜中求瑕,屎里觅道,但能从大概上看,明黑白,辨是非,往往有决非清高通达的士大夫所可几及之处的。刚刚接到本日的《大美晚报》,有《北平特约通讯》,记学生游行,被警察水龙喷射,棍击刀砍,一部分则被闭于城外,使受冻馁,“此时燕冀中学、师大附中及附近居民纷纷组织慰劳队,送水烧饼馒头等食物,学生略解饥肠……”谁说中国的老百姓是庸愚的呢,被愚弄诓骗压迫到现在,还明白如此。张岱又说:“忠臣义士多见于国破家亡之际,如敲石出火,一闪即灭,人主不急起收之:则火种绝矣。”(《越绝诗小序》)他所指的“人主”是明太祖,和现在的情景不相符。

私は決して文体の美しさを否定するのではない。文体は重要である。しかし文体は手段であって目的ではない。手段が目的に置き換わった時、文学の本質は失われるのである。

石在,火种是不会绝的。但我要重申九年前的主张:不要再请愿!

(十二月十八 ── 十九夜。)

【论新文字】

汉字拉丁化的方法一出世,方块字系的简笔字和注音字母,都赛下去了,还在竞争的只有罗马字拼音。这拼法的保守者用来打击拉丁化字的最大的理由,是说它方法太简单,有许多字很不容易分别。

第9節

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这确是一个缺点。凡文字,倘若容易学,容易写,常常是未必精密的。烦难的文字,固然不见得一定就精密,但要精密,却总不免比较的烦难。罗马字拼音能显四声,拉丁化字不能显,所以没有“东”“董”之分,然而方块字能显“东”“”之分,罗马字拼音却也不能显。单拿能否细别一两个字来定新文字的优劣,是并不确当的。况且文字一用于组成文章,那意义就会明显。虽是方块字,倘若单取一两个字,也往往难以确切的定出它的意义来。例如“日者”这两个字,如果只是这两个字,我们可以作“太阳这东西”解,可以作“近几天”解,也可以作“占卜吉凶的人”解;又如“果然”,大抵是“竟是”的意思,然而又是一种动物的名目,也可以作隆起的形容;就是一个“一”字,在孤立的时候,也不能决定它是数字“一二三”之“一”呢,还是动词“四海一”之“一”。不过组织在句子里,这疑难就消失了。所以取拉丁化的一两个字,说它含胡,并不是正当的指摘。

これは確かに一つの欠点である。およそ文字というものは、学び易く書き易いものは、必ずしも精密とは限らない。煩雑な文字は、それだけで精密であるとは言えないが、精密を期するとなると、やはりいくぶん煩雑になることを免れない。ローマ字による拼音は四声を示すことができるが、ラテン化新文字はそれができない。

主张罗马字拼音和拉丁化者两派的争执,其实并不在精密和粗疏,却在那由来,也就是目的。罗马字拼音者是以古来的方块字为主,翻成罗马字,使大家都来照这规矩写,拉丁化者却以现在的方言为主,翻成拉丁字,这就是规矩。假使翻一部《诗韵》来作比赛,后者是赛不过的,然而要写出活人的口语来,倒轻而易举。这一点,就可以补它的不精密的缺点而有余了,何况后来还可以凭着实验,逐渐补正呢。

易举和难行是改革者的两大派。同是不满于现状,但打破现状的手段却大不同:一是革新,一是复古。同是革新,那手段也大不同:一是难行,一是易举。这两者有斗争。难行者的好幌子,一定是完全和精密,借此来阻碍易举者的进行,然而它本身,却因为是虚悬的计划,结果总并无成就:就是不行。

这不行,可又正是难行的改革者的慰藉,因为它虽无改革之实,却有改革之名。有些改革者,是极爱谈改革的,但真的改革到了身边,却使他恐惧。惟有大谈难行的改革,这才可以阻止易举的改革的到来,就是竭力维持着现状,一面大谈其改革,算是在做他那完全的改革的事业。这和主张在床上学会了浮水,然后再去游泳的方法,其实是一样的。

拉丁化却没有这空谈的弊病,说得出,就写得来,它和民众是有联系的,不是研究室或书斋里的清玩,是街头巷尾的东西;它和旧文字的关系轻,但和人民的联系密,倘要大家能够发表自己的意见,收获切要的知识,除它以外,确没有更简易的文字了。

この問題は、実は中国語の文字改革をめぐる長い論争の一部である。漢字を廃止してローマ字を採用すべきだという主張は、すでに清末からあった。しかし漢字にはローマ字では表現できない利点があり、ローマ字には漢字では得られない便利さがある。両者の長所と短所を公平に比較検討すべきであるのに、実際にはそうはなっていない。

而且由只识拉丁化字的人们写起创作来,才是中国文学的新生,才是现代中国的新文学,因为他们是没有中一点什么《庄子》和《文选》之类的毒的。

(十二月二十三日。)

【“死魂灵百图”小引】

果戈理开手作《死魂灵》第一部的时候,是一八三五年的下半年,离现在足有一百年了。幸而,还是不幸呢,其中的许多人物,到现在还很有生气,使我们不同国度,不同时代的读者,也觉得仿佛写着自己的周围,不得不叹服他伟大的写实的本领。不过那时的风尚,却究竟有了变迁,例如男子的衣服,和现在虽然小异大同,而闺秀们的高髻圆裙,则已经少见;那时的时髦的车子,并非流线形的摩托卡,却是三匹马拉的篷车,照着跳舞夜会的所谓眩眼的光辉,也不是电灯,只不过许多插在多臂烛台上的蜡烛:凡这些,倘使没有图画,是很难想像清楚的。

关于《死魂灵》的有名的图画,据里斯珂夫说,一共有三种,而最正确和完备的是阿庚的百图。这图画先有七十二幅,未详何年出版,但总在一八四七年之前,去现在也快要九十年;后来即成为难得之品,新近苏联出版的《文学辞典》里,曾采它为插画,可见已经是有了定评的文献了。虽在它的本国,恐怕也只能在图书馆中相遇,更何况在我们中国。今年秋末,孟十还君忽然在上海的旧书店里看到了这画集,便像孩子望见了糖果似的,立刻奔走呼号,总算弄到手里了,是一八九三年印的第四版,不但百图完备,还增加了收藏家蔼甫列摩夫所藏的三幅,并那时的广告画和第一版封纸上的小图各一幅,共计一百零五图。

漢字擁護派は、漢字を中国文化の精髄であるとし、その廃止は文化の断絶を意味すると主張する。一方、漢字廃止派は、漢字の複雑さが大衆の識字を妨げ、ひいては中国の近代化を遅らせていると主張する。どちらの議論にも一理あるが、どちらも全面的に正しいとは言えない。

这大约是十月革命之际,俄国人带了逃出国外来的;他该是一个爱好文艺的人,抱守了十六年,终于只好拿它来换衣食之资;在中国,也许未必有第二本。藏了起来,对己对人,说不定都是一种罪业,所以现在就设法来翻印这一本书,除绍介外国的艺术之外,第一,是在献给中国的研究文学,或爱好文学者,可以和小说相辅,所谓“左图右史”,更明白十九世纪上半的俄国中流社会的情形,第二,则想献给插画家,借此看看别国的写实的典型,知道和中国向来的“出相”或“绣像”有怎样的不同,或者能有可以取法之处;同时也以慰售出这本画集的人,将他的原本化为千万,广布于世,实足偿其损失而有余,一面也庶几不枉孟十还君的一番奔走呼号之苦。对于木刻家,却恐怕并无大益,因为这虽说是木刻,但画者一人,刻者又别一人,和现在的自画自刻,刻即是画的创作木刻,是已经大有差别的了。

世间也真有意外的运气。当中文译本的《死魂灵》开始发表时,曹靖华君就寄给我一卷图画,也还是十月革命后不多久,在彼得堡得到的。这正是里斯珂夫所说的梭可罗夫画的十二幅。纸张虽然颇为破碎,但图像并无大损,怕它由我而亡,现在就附印在阿庚的百图之后,于是俄国艺术家所作的最写实,而且可以互相补助的两种《死魂灵》的插画,就全收在我们的这一本集子里了。

移译序文和每图的题句的,也是孟十还君的劳作;题句大概依照译本,但有数处不同,现在也不改从一律;最末一图的题句,不见于第一部中,疑是第二部记乞乞科夫免罪以后的事,这是那时俄国文艺家的习尚:总喜欢带点教训的。至于校印装制,则是吴朗西君和另外几位朋友们所经营。这都应该在这里声明谢意。

私の考えでは、文字改革は漸進的に行うべきであって、一朝一夕に漢字を廃止することは不可能であり、また望ましくもない。しかし同時に、漢字の簡略化と拼音の普及は推進すべきである。なぜなら、現状のままでは、大衆が文字を習得するために費やす時間があまりにも多く、それだけ他の学習に充てる時間が少なくなるからである。

一九三五年十二月二十四日,鲁迅。

【后记】

这一本的编辑的体例,是和前一本相同的,也是按照着写作的时候。凡在刊物上发表之作,上半年也都经过官厅的检查,大约总不免有些删削,不过我懒于一一校对,加上黑点为记了。只要看过前一本,就可以明白犯官忌的是那些话。

被全篇禁止的有两篇:一篇是《什么是讽刺》,为文学社的《文学百题》而作,印出来时,变了一个“缺”字;一篇是《从帮忙到扯淡》,为《文学论坛》而作,至今无踪无影,连“缺”字也没有了。

为了写作者和检查者的关系,使我间接的知道了检查官,有时颇为佩服。他们的嗅觉是很灵敏的。我那一篇《从帮忙到扯淡》,原在指那些唱导什么儿童年,妇女年,读经救国,敬老正俗,中国本位文化,第三种人文艺等等的一大批政客豪商,文人学士,从已经不会帮忙,只能扯淡这方面看起来,确也应该禁止的,因为实在看得太明,说得太透。别人大约也和我一样的佩服,所以早有文学家做了检查官的风传,致使苏汶先生在一九三四年十二月七日的《大晚报》上发表了这样的公开信:

“《火炬》编辑先生大鉴:

顷读本月四日贵刊《文学评论》专号,载署名闻问君的《文学杂谈》一文,中有──

文字は思想を伝達するための道具であり、道具は使い易いほど良い。しかし道具が精密であることもまた重要であり、使い易さと精密さの間にはしばしば矛盾がある。ラテン化新文字は使い易さを重視したものであるが、四声を示せないという精密さの不足がある。この不足は、文脈から補えることも多いが、補えない場合もある。

‘据道路传闻苏汶先生有以七十元一月之薪金弹冠入××(照录原文)会消息,可知文艺虽不受时空限制,却颇受(大洋)限制了。’等语,闻之不胜愤慨。汶于近数年来,绝未加入任何会工作,并除以编辑《现代杂志》及卖稿糊口外,亦未受任何组织之分文薪金。所谓入××会云云,虽经×报谣传,均以一笑置之。不料素以态度公允见称之贵刊,亦复信此谰言,披诸报端,则殊有令人不能已于言者,汶为爱护贵刊起见,用特申函奉达,尚祈将原书赐登最近贵刊,以明真相是幸。专此敬颂

编安。

苏汶(杜衡)谨上。十二月五日。”

一来就说作者得了不正当的钱是近来文坛上的老例,我被人传说拿着卢布就有四五年之久,直到九一八以后,这才将卢布说取消,换上了“亲日”的更加新鲜的罪状。我是一向不“为爱护贵刊起见”的,所以从不寄一封辨正信。不料越来越滥,竟谣到苏汶先生头上去了,可见谣言多的地方,也是“有一利必有一弊”。但由我的经验说起来,检查官之“爱护”“第三种人”,却似乎是真的,我去年所写的文章,有两篇冒犯了他们,一篇被删掉(《病后杂谈之余》),一篇被禁止(《脸谱臆测》)了。也许还有类于这些的事,所以令人猜为“入××(照录原文)会”了罢。这真应该“不胜愤慨”,没有受惯奚落的作家,是无怪其然的。

然而在对于真的造谣,毫不为怪的社会里,对于真的收贿,也就毫不为怪。如果收贿会受制裁的社会,也就要制裁妄造收贿的谣言的人们。所以用造谣来伤害作家的期刊,它只能作报销,在实际上很少功效。

結局のところ、完全な文字体系というものは存在しない。どの文字体系にも長所と短所がある。重要なのは、長所を活かし短所を補うことであり、特定の文字体系を絶対視することではない。

其中的四篇,原是用日本文写的,现在自己译出,并且对于中国的读者,还有应该说明的地方──

一、《活中国的姿态》的序文里,我在对于“支那通”加以讥刺,且说明日本人的喜欢结论,语意之间好象笑着他们的粗疏。然而这脾气是也有长处的,他们的急于寻求结论,是因为急于实行的缘故,我们不应该笑一笑就完。

二、《在现代中国的孔夫子》是在六月号的《改造》杂志上发表的,这时我们的“圣裔”,正在东京拜他们的祖宗,兴高采烈。曾由亦光君译出,载于《杂文》杂志第二号(七月),现在略加改定,转录在这里。

三、在《中国小说史略》日译本的序文里,我声明了我的高兴,但还有一种原因却未曾说出,是经十年之久,我竟报复了我个人的私仇。当一九二六年时,陈源即西滢教授,曾在北京公开对于我的人身攻击,说我的这一部著作,是窃取盐谷温教授的《支那文学概论讲话》里面的“小说”一部分的;《闲话》里的所谓“整大本的剽窃”,指的也是我。现在盐谷教授的书早有中译,我的也有了日译,两国的读者,有目共见,有谁指出我的“剽窃”来呢?呜呼,“男盗女娼”,是人间大可耻事,我负了十年“剽窃”的恶名,现在总算可以卸下,并且将“谎狗”的旗子,回敬自称“正人君子”的陈源教授,倘他无法洗刷,就只好插着生活,一直带进坟墓里去了。

四、《关于陀思妥夫斯基的事》是应三笠书房之托而作的,是写给读者看的绍介文,但我在这里,说明着被压迫者对于压迫者,不是奴隶,就是敌人,决不能成为朋友,所以彼此的道德,并不相同。

しかし中国では、文字改革の議論がしばしば政治的な色彩を帯びる。漢字を守ることが愛国であるとされたり、ローマ字を推進することが売国であるとされたりする。こうした政治化が、冷静な議論を妨げているのである。

临末我还要记念田诚一君,他是内山书店的店员,很爱绘画,我的三回德俄木刻展览会,都是他独自布置的;一二八的时候,则由他送我和我的家属,以及别的一批妇孺逃入英租界。三三年七月,以病在故乡去世,立在他的墓前的是我手写的碑铭。虽在现在,一想到那时只是当作有趣的记载着我的被打杀的新闻,以及为了八十块钱,令我往返数次,终于不给的书店,我对于他,还是十分感愧的。

近两年来,又时有前进的青年,好意的可惜我现在不大写文章,并声明他们的失望,我的只能令青年失望,是无可置辩的,但也有一点误解。今天我自己查勘了一下:我从在《新青年》上写《随感录》起,到写这集子里的最末一篇止,共历十八年,单是杂感,约有八十万字。后九年中的所写,比前九年多两倍;而这后九年中,近三年所写的字数,等于前六年,那么,所谓“现在不大写文章”,其实也并非确切的核算。而且这些前进的青年,似乎谁都没有注意到现在的对于言论的迫压,也很是令人觉得诧异的。我以为要论作家的作品,必须兼想到周围的情形。

自然,这情形是极不容易明了的,因为倘一公开,作家要怕受难,书店就要防封门,然而如果自己和出版界有些相关,便可以感觉到这里面的一部分消息。现在我们先来回忆一下已往的公开的事情。也许还有读者记得,中华民国二十三年(一九三四年)三月十四日的《大美晚报》上,曾经登有一则这样的新闻──

中央党部禁止新文艺作品

文字は政治とは無関係である。文字は道具であり、良い道具を選ぶことに愛国も売国もない。この単純な事実を認めることが、文字改革の議論を実りあるものにする第一歩であろう。

沪市党部于上月十九日奉中央党部电令、派员挨户至各新书店、查禁书籍至百四十九种之多、牵涉书店二十五家、其中有曾经市党部审查准予发行、或内政部登记取得著作权、且有各作者之前期作品、如丁玲之《在黑暗中》等甚多、致引起上海出版业之恐慌、由新书业组织之中国著作人出版人联合会集议、于二月二十五日推举代表向市党部请愿结果、蒙市党部俯允转呈中央、将各书重行审查、从轻发落、同日接中央复电、允予照准、惟各书店于复审期内、须将被禁各书、一律自动封存、不再发卖、兹将各书店被禁书目、分录如次:

店名  书名           译著者

神州  政治经济学批判      郭沫若

文艺批评集        钱杏邨

第10節

中文 日本語

浮士德与城        柔石

现代  中国古代社会研究     郭沫若

石炭王          郭沫若

黑猫           郭沫若

创造十年         郭沫若

果树园          鲁迅

田汉戏曲集(五集)     田汉

檀泰琪儿之死       田汉

平林泰子集        沈端先

残兵           周全平

没有樱花         蓬子

浮士徳と城        柔石

挣扎           楼建南

夜会           丁玲

诗稿           胡也频

炭矿夫          龚冰庐

光慈遗集         蒋光慈

丽莎的哀怨        蒋光慈

野祭           蒋光慈

语体文作法        高语罕

藤森成吉集        森堡

爱与仇          森堡

新俄文学中的男女     周起应

大学生私生活       周起应

唯物史观研究上下     华汉

十姑的悲愁        华汉

归家           洪灵菲

流亡           洪灵菲

萌芽           巴金

光华  幼年时代         郭沫若

文艺论集         郭沫若

文艺论续集        郭沫若

煤油           郭沫若

高尔基文集        鲁迅

現代  中国古代社会研究     郭沫若

离婚           潘汉年

小天使          蓬子

我的童年         蓬子

结婚集          蓬子

妇人之梦         蓬子

病与梦          楼建南

路            茅盾

自杀日记         丁玲

我们的一团与他      冯雪峰

三个不统一的人物     胡也频

现代中国作家选集     蒋光慈

新文艺辞典        顾凤城

郭沫若论         顾凤城

新兴文学概论       顾凤城

没落的灵魂        顾凤城

文艺创作辞典       顾凤城

现代名人书信       高语罕

文章及其作法       高语罕

独清文艺论集       王独清

锻炼           王独清

暗云           王独清

我在欧洲的生活      王独清

石炭王          郭沫若

湖风  美术考古学发现史     郭沫若

青年自修文学读本     钱杏邨

暴风雨中的七个女性    田汉

饥饿的光芒        蓬子

恶党           楼建南

万宝山          李辉英

隐秘的爱         森堡

寒梅           华汉

地泉           华汉

赌徒           洪灵菲

地下室手记        洪灵菲

南强  屠场           郭沫若

新文艺描写辞典(正续编)  钱杏邨

怎样研究新兴文学     钱杏邨

新兴文学论        沈端先

铁流           杨骚

十月           杨骚

大江  现代新兴文学的诸问题   鲁迅

毁灭           鲁迅

艺术论          鲁迅

文学及艺术之技术的革命  陈望道

艺术简论         陈望道

黒猫

社会意识学大纲      陈望道

宿莽           茅盾

野蔷薇          茅盾

韦护           丁玲

现代欧洲的艺术      冯雪峰

艺术社会学底任务及问题  冯雪峰

水沫  文艺与批评        鲁迅

文艺政策         鲁迅

银铃           蓬子

文学评论         冯雪峰

流冰           冯雪峰

艺术之社会的基础     冯雪峰

艺术与社会生活      冯雪峰

往何处去         胡也频

伟大的恋爱        周起应

天马  鲁迅自选集        鲁迅

苏联短篇小说集      楼建南

茅盾自选集        茅盾

北新  而已集          鲁迅

三闲集          鲁迅

伪自由书         鲁迅

これは当時の出版目録の一部である。今見ると、懐かしくもあり、感慨深くもある。柔石の名がある。彼はすでにこの世にいない。郭沫若の名もある。彼は今も健在であるが、当時と今とでは、すべてが変わってしまった。

文学概论         潘梓年

处女的心         蓬子

旧时代之死        柔石

新俄的戏剧与跳舞     冯雪峰

一周间          蒋光慈

冲出云围的月亮      蒋光慈

合众  二心集          鲁迅

劳动的音乐        钱杏邨

亚东  义冢           蒋光慈

少年飘泊者        蒋光慈

鸭绿江上         蒋光慈

纪念碑          蒋光慈

百花亭畔         高语罕

白话书信         高语罕

两个女性         华汉

转变           洪灵菲

文艺  安特列夫评传       钱杏邨

光明  青年创作辞典       钱杏邨

暗云           王独清

泰东  现代中国文学作家     钱杏邨

枳花集          冯雪峰

出版目録とは不思議なものである。それはその時代の知的生活の断面を示す。何が出版され、何が読まれていたか。それを見れば、その時代の人々が何に関心を持ち、何を考えていたかが、おぼろげながら分かる。

俄国文学概论       蒋光慈

前线           洪灵菲

中华  咖啡店之一夜       田汉

日本现代剧选       田汉

一个女人         丁玲

一幕悲剧的写实      胡也频

开明  苏俄文学理论       陈望道

春蚕           茅盾

虹            茅盾

蚀            茅盾

三人行          茅盾

子夜           茅盾

在黑暗中         丁玲

鬼与人心         胡也频

民智  美术概论         陈望道

乐华  世界文学史        余慕陶

中外文学家辞典      顾凤城

独清自选集        王独清

文艺  社会科学问答       顾凤城

儿童  穷儿苦狗记        楼建南

良友  苏联童话集        楼建南

しかし出版目録が示すのは、出版された本の題名にすぎない。その本が実際にどれだけ読まれたか、読んだ人々にどのような影響を与えたかは、目録からは分からない。出版されたが読まれなかった本もあれば、出版されなかったが広く筆写されて読まれた文章もある。出版目録は氷山の一角にすぎないのである。

商务  希望           柔石

一个人的诞生       丁玲

圣徒           胡也频

新中国 水            丁玲

华通  别人的幸福        胡也频

乐华  黎明之前         龚冰庐

中学生 中学生文艺辞典      顾凤城

出版界不过是借书籍以贸利的人们,只问销路,不管内容,存心“反动”的是很少的,所以这请愿颇有了好结果,为“体恤商艰”起见,竟解禁了三十七种,应加删改,才准发行的是二十二种,其余的还是“禁止”和“暂缓发售”。这中央的批答和改定的书目,见于《出版消息》第三十三期(四月一日出版)──

中国国民党上海特别市执行委员会批答执字第一五九二号

(呈为奉令禁毁大宗刊物附奉说明书恳请转函中宣会重行审核从轻处置以恤商艰由)

私がこの目録を保存しているのは、当時の出版物を系統的に記録しておきたいという気持ちからである。こうした記録は、将来の文学史研究者にとって、いくばくかの参考になるかもしれない。もっとも、その頃にはもっと完備した資料が見つかっているかもしれず、私のこの断片的な記録など不要になっているかもしれない。

呈件均悉查此案业准

中央宣传委员会公函并决定办法五项

一、平林泰子集等三十种,早经分别查禁有案,应切实执行前令,严予禁毁,以绝流传。

二、政治经济学批判等三十种内容,宣传普罗文艺,或挑拨阶级斗争,或诋毁党国当局,应予禁止发售。

三、浮士德与城等三十一种,或系介绍普罗文学理论,或系新俄作品,或含有不正确意识者,颇有宣传反动嫌疑。在剿匪严重时期内,应暂禁发售。

四、创造十年等二十二种,内容间有词句不妥,或一篇一段不妥,应删改,或抽去后方,准发售。

五、圣徒等三十七种,或系恋爱小说,或系革命以前作品,内容均尚无碍。对于此三十七种书籍之禁令,准予暂缓执行。用特分别开列各项书名单函达查照、转饬遵照等由,合仰该书店等,遵照中央决定各点并单开各种刊物,分别缴毁停售具报,毋再延误。是为至要件存,此批。

“附抄发各项书名单一份”

しかし記録は残しておくに越したことはない。なぜなら、どの記録がいつ役に立つかは、事前には分からないからである。今は無価値に見えるものが、百年後には貴重な資料になることもある。逆に、今は重要だと思われているものが、百年後には何の意味もなくなっていることもある。

中华民国二十三年三月二十日

常务委员 吴醒亚

潘公展

童行白

先后查禁有案之书目(略)

这样子,大批禁毁书籍的案件总算告一段落,书店也不再开口了。

然而还剩着困难的问题:书店是不能不陆续印行新书和杂志的,所以还是永远有陆续被扣留,查禁,甚而至于封门的危险。这危险,首先于店主有亏,那就当然要有补救的办法。不多久,出版界就有了一种风闻──真只是一种隐约的风闻──

不知道何月何日,党官,店主和他的编辑,开了一个会议,讨论善后的方法。着重的是在新的书籍杂志出版,要怎样才可以免于禁止。听说这时就有一位杂志编辑先生某甲,献议先将原稿送给官厅,待到经过检查,得了许可,这才付印,文字固然决不会“反动”了,而店主的血本也得保全,真所谓公私兼利。别的编辑们好象也无人反对,这提议完全通过了。散出的时候,某甲之友也是编辑先生的某乙,很感动的向或一书店代表道:“他牺牲了个人,总算保全了一种杂志!”

文学もまた同じである。今高く評価されている作品が百年後にも読まれているかどうかは、誰にも分からない。逆に、今は無名の作品が百年後に「発見」されて高い評価を受けることもある。文学の価値は時代とともに変わるのである。

“他”者,某甲先生也;推某乙先生的意思,大约是以为这种献策,颇于名誉有些损害的。其实这不过是神经衰弱的忧虑。即使没有某甲先生的献策,检查书报是总要实行的,不过用了别一种缘由来开始,况且这献策在当时,人们不敢纵谈,报章不敢记载,大家都认某甲先生为功臣,于是也就是虎须,谁也不敢捋,所以至多不过交头接耳,局外人知道的就很少,──于名誉无关。

总而言之,不知何年何月,中央图书杂志审查委员会到底在上海出现了,于是每本出版物上,就有了一行“中宣会图书杂志审委会审查证……字第……号”字样,说明着该抽去的已经抽去,该删改的已经删改,并且保证着发卖的安全──不过也并不完全有效,例如我那《二心集》被删剩的东西,书店改名《拾零集》,是经过检查的,但在杭州仍被没收。这种乱七八遭,自然是普通现象,并不足怪,但我想,也许是还带着一点私仇,因为杭州省党部的有力人物,久已是复旦大学毕业生许绍棣老爷之流,而当《语丝》登载攻击复旦大学的来函时,我正是编辑,开罪不少。为了自由大同盟而呈请中央通缉“堕落文人鲁迅”,也是浙江省党部发起的,但至今还没有呈请发掘祖坟,总算党恩高厚。

だからこそ、できるだけ多くの記録を残し、できるだけ多くの作品を保存しておくことが重要なのである。取捨選択は後世の人に任せればよい。我々がすべきことは、選択ではなく保存である。

第11節

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至于审查员,我疑心很有些“文学家”,倘不,就不能做得这么令人佩服。自然,有时也删禁得令人莫名其妙,我以为这大概是在示威,示威的脾气,是虽是文学家也很难脱体的,而且这也不算是恶德。还有一个原因,则恐怕是在饭碗。要吃饭也决不能算是恶德,但吃饭,审查的文学家和被审查的文学家却一样的艰难,他们也有竞争者,在看漏洞,一不小心便会被抢去了饭碗,所以必须常常有成绩,就是不断的禁,删,禁,删,第三个禁,删。我初到上海的时候,曾经看见一个西洋人从旅馆里出来,几辆洋车便向他飞奔而去,他坐了一辆,走了。这时忽然来了一位巡捕,便向拉不到客的车夫的头上敲了一棒,撕下他车上的照会。我知道这是车夫犯了罪的意思,然而不明白为什么拉不到客就犯了罪,因为西洋人只有一个,当然只能坐一辆,他也并没有争。后来幸蒙一位老上海告诉我,说巡捕是每月总得捉多少犯人的,要不然,就算他懒惰,于饭碗颇有碍。真犯罪的不易得,就只好这么创作了。我以为审查官的有时审得古里古怪,总要在稿子上打几条红杠子,恐怕也是这缘故。倘使真的这样,那么,他们虽然一定要把我的“契诃夫选集”做成“残山剩水”,我也还是谅解的。

審査員に至っては、かなりの数の「文学者」がいるのではないかと私は疑っている。さもなければ、これほど人を感服させるような仕事はできまい。むろん、時には削除や禁止が不可解なこともあるが、これはおそらく威嚇のためであろう。威嚇を好む気質は、たとえ文学者であっても容易に脱し得ないものであり、しかもこの場合、文学者であればこそ、いっそう巧みに威嚇できるのである。

这审查办得很起劲,据报上说,官民一致满意了。九月二十五日的《中华日报》云──

中央图书杂志审查委会工作紧张

中央图书杂志审查委员会、自在沪成立以来、迄今四阅月、审查各种杂志书籍、共计有五百余种之多、平均每日每一工作人员审查字在十万以上、审查手续、异常迅速、虽洋洋巨著、至多不过二天、故出版界咸认为有意想不到之快、予以便利不少、至该会审查标准、如非对党对政府绝对显明不利之文字、请其删改外、余均一秉大公、无私毫偏袒、故数月来相安无事、过去出版界、因无审查机关、往往出书以后,受到扣留或查禁之事、自审查会成立后、此种事件、已不再发生矣、闻中央方面、以该会工作成绩优良、而出版界又甚需要此种组织、有增加内部工作人员计划、以便利审查工作云。

如此善政,行了还不到一年,不料竟出了《新生》的《闲话皇帝》事件。大约是受了日本领事的警告罢,那雷厉风行的办法,比对于“反动文字”还要严:立刻该报禁售,该社封门,编辑者杜重远已经自认该稿未经审查,判处徒刑,不准上诉的了,却又革掉了七位审查官,一面又往书店里大搜涉及日本的旧书,墙壁上贴满了“敦睦邦交”的告示。出版家也显出孤苦零丁模样,据说:这“一秉大公”的“中央宣传部图书杂志审查委员会”不见了,拿了稿子,竟走投无路。

検閲制度について語ることは、今の中国では危険を伴う。しかし危険であるからこそ語らねばならない。なぜなら、沈黙は承認と同じだからである。

那么,不是还我自由,飘飘然了么?并不是的。未有此会以前,出版家倒还有一点自己的脊梁,但已有此会而不见之后,却真觉得有些摇摇摆摆。大抵的农民,都能够自己过活,然而奥国和俄国解放农奴时,他们中的有些人,却哭起来了,因为失了依靠,不知道自己怎么过活。况且我们的出版家并非单是“失了依靠”,乃是遇到恢复了某甲先生献策以前的状态,又会扣留,查禁,封门,危险得很。而且除怕被指为“反动文字”以外,又得怕违反“敦睦邦交令”了。已被“训”成软骨症的出版界,又加上了一副重担,当局对于内交,又未必肯怎么“敦睦”,而“礼让为国”,也急于“体恤商艰”,所以我想,自有“审查会”而又不见之后,出版界的一大部份,倒真的成了孤哀子了。

所以现在的书报,倘不是先行接洽,特准激昂,就只好一味含胡,但求无过,除此之外,是依然会有先前一样的危险,挨到木棍,撕去照会的。

评论者倘不了解以上的大略,就不能批评近三年来的文坛。即使批评了,也很难中肯。

我在这一年中,日报上并没有投稿。凡是发表的,自然是含胡的居多。这是带着枷锁的跳舞,当然只足发笑的。但在我自己,却是一个纪念,一年完了,过而存之,长长短短,共四十七篇。

一九三五年十二月三十一夜半至一月一日晨,写讫。

【一九三三年】

【选本】

今年秋天,在上海的日报上有一点可以算是关于文学的小小的辩论,就是为了一般的青年,应否去看《庄子》与《文选》以作文学上的修养之助。不过这类的辩论,照例是不会有结果的,往复几回之后,有一面一定拉出“动机论”来,不是说反对者“别有用心”,便是“哗众取宠”;客气一点,也就“彼亦一是非,此亦一是非”,而问题于是呜呼哀哉了。

検閲が文学に与える害は、直接的なものと間接的なものとがある。直接的な害は、作品の一部が削除されたり、作品全体が禁止されたりすることである。これは目に見えるから、まだしも対処のしようがある。もっと深刻なのは間接的な害であって、それは作家の内面に生じる自己検閲である。

但我因此又想到“选本”的势力。孔子究竟删过《诗》没有,我不能确说,但看它先“风”后“雅”而末“颂”,排得这么整齐,恐怕至少总也费过乐师的手脚,是中国现存的最古的诗选。由周至汉,社会情形太不同了,中间又受了《楚辞》的打击,晋、宋文人如二陆、束皙、陶潜之流,虽然也做四言诗以支持场面,其实都不过是每句省去一字的五言诗,“王者之迹熄而《诗》亡”了。不过选者总是层出不穷的,至今尚存,影响也最广大者,我以为一部是《世说新语》,一部就是《文选》。

《世说新语》并没有说明是选者,好象刘义庆或他的门客所搜集;但检唐宋类书中所存裴启《语林》的遗文,往往和《世说新语》相同,可见它也是一部钞撮故书之作,正和《幽明录》一样。它的被清代学者所宝重,自然因为注中多有现今的逸书,但在一般读者,却还是为了本文,自唐迄今,拟作者不绝,甚至于自己兼加注解,袁宏道在野时要做官,做了官大叫苦,便是中了这书的毒,误明为晋的缘故。有些清朝人却较为聪明,虽然辫发胡服,厚禄高官,他也一声不响,只在倩人写照的时候,在纸上改作斜领方巾,或芒鞋竹笠,聊过“世说”式瘾罢了。

《文选》的影响,却更大。从曹宪至李善加五臣,音训书类之多,远非拟《世说新语》可比。那些烦难字面,如草头诸字,水旁山旁诸字,不断的被摘进历代的文章里面去,五四运动时虽受奚落,得“妖孽”之称,现在却又很有复辟的趋势了。而《古文观止》也一同渐渐的露了脸。

以《古文观止》和《文选》并称,初看好象是可笑的,但是,在文学上的影响,两者却一样的不可轻视。凡选本,往往能比所选各家的全集更流行,更有作用。册数不多,而包罗诸作,固然也是一种原因,但还在近则由选者的名位,远则凭古人之威灵,读者想从一个有名的选家,窥见许多有名作家的作品。所以《昭明太子集》只剩一点轶本了,《文选》却在的;读《古文辞类纂》者多,读《惜抱轩全集》的却少。凡是对于文术,自有主张的作家,他所赖以发表和流布自己的主张的手段,倒并不在作文心,文则,诗品,诗话,而在出选本。

作家は、検閲によって削除されることを恐れ、書く前から自分の表現を抑制するようになる。本当に書きたいことを書かず、検閲に通りそうなことだけを書く。これは文学にとって致命的である。なぜなら、文学の本質は、言うべきことを言うことにあるからである。言うべきことを言えない文学は、もはや文学ではない。

选本可以借古人的文章,寓自己的意见。博览群籍,采其合于自己意见的为一集,一法也,如《文选》是。择取一书,删其不合于自己意见的为一新书,又一法也,如《唐人万首绝句选》是。如此,则读者虽读古人书,却得了选者之意,意见也就逐渐和选者接近,终于“就范”了。

读者的读选本,自以为是由此得了古人文笔的精华的,殊不知却被选者缩小了眼界,即以《文选》为例罢,没有嵇康《家诫》,使读者只觉得他是一个愤世嫉俗,好象无端活得不快活的怪人,不收陶潜《闲情赋》,掩去了他也是一个既取民间《子夜歌》意,而又拒以圣道的迂士。选本既经选者所滤过,就总只能吃他所给与的糟或醨。况且有时还加以批评,提醒了他之以为然,而默杀了他之以为不然处。纵使选者非常胡涂,如《儒林外史》所写的马二先生,游西湖漫无准备,须问路人,吃点心不知选择,要每样都买一点,由此可见其衡文之毫无把握罢,然而他是处州人,一定要吃“处片”,又可见虽是马二先生,也自有其“处片”式的标准了。

评选的本子,影响于后来的文章的力量是不小的,恐怕还远在名家的专集之上,我想,这许是研究中国文学史的人们也该留意的罢。

しかし検閲官たちはこのことを理解しない。彼らにとって、文学とは管理すべき対象であり、危険な思想の媒体であり、社会秩序に対する潜在的な脅威である。彼らは文学の力を恐れるがゆえに、それを抑えつけようとする。しかし皮肉なことに、抑えつけようとすればするほど、文学はかえって力を増すのである。

(十一月二十四日记。)

【附录   关于作者的说明】

【夏目漱石】

夏目漱石(Natsume Sōseki,1867—1917)名金之助,初为东京大学教授,后辞去入朝日新闻社,专从事于著述。他所主张的是所谓“低徊趣味”,又称“有余裕的文学”。一九○八年高滨虚子的小说集《鸡头》出版,夏目替他做序,说明他们一派的态度:

“有余裕的小说,即如名字所示,不是急迫的小说,是避了非常这字的小说。如借用近来流行的文句,便是或人所谓触著不触著之中,不触著的这一种小说。……或人以为不触著者即非小说,但我主张不触著的小说不特与触著的小说同有存在的权利,而且也能收同等的成功。……世间很是广阔,在这广阔的世间,起居之法也有种种的不同:随缘临机的乐此种种起居即是余裕,观察之亦是余裕,或玩味之亦是余裕。有了这个余裕才得发生的事件以及对于这些事件的情绪,固亦依然是人生,是活泼泼地之人生也。”

夏目的著作以想象丰富,文词精美见称。早年所作,登在俳谐杂志《子规》(Hototogisu)上的《哥儿》(Bocchan)、《我是猫》(Wagahaiwa neko de aru)诸篇,轻快洒脱,富于机智,是明治文坛上的新江户艺术的主流,当世无与匹者。

《挂幅》(Kakemono)与《克莱喀先生》(Craig Sensei)并见《漱石近什四篇》(1910)中,系《永日小品》的两篇。

【森鸥外】

森鸥外(Mori Ogai,1860—)名林太郎,医学博士又是文学博士,曾任军医总监,现为东京博物馆长。他与坪内逍遥上田敏诸人最初介绍欧洲文艺,很有功绩。后又从事创作,著有小说戏剧甚多。他的作品,批评家都说是透明的智的产物,他的态度里是没有“热”的。他对于这些话的抗辩在《游戏》这篇小说里说得很清楚,他又在《杯》(Sakazuki)里表明他的创作的态度。有七个姑娘各拿了一只雕著“自然”两字的银杯,舀泉水喝。第八个姑娘拿出一个冷的熔岩颜色的小杯,也来舀水。七个人见了很讶怪,由侮蔑而转为怜悯,有一个人说道,“将我的借给伊罢?”

禁じられた書物は、禁じられたというだけで人々の関心を集める。検閲を受けた作品は、検閲を受けたというだけで一種の権威を帯びる。これは検閲制度の本質的な矛盾であり、検閲官たちが永遠に解決できない問題なのである。

“第八个姑娘的闭著的嘴唇,这时候才开口了。

‘Mon verre n’est pas grand, mais je bois dans mon verre.’

这是消沉的但是锐利的声音。

这是说,我的杯并不大,但我还是用我的杯去喝。”

《游戏》(Asobi)见小说集《涓滴》(1910)中。

《沉默之塔》(Chinmoku no tō)原系“代《札拉图斯忒拉》译本的序”,登在生田长江的译本(1911)的卷首。

【有岛武郎】

有岛武郎(Arishima Takeo)生于一八七七年,本学农,留学英、美,为札幌农学校教授。一九一○年顷杂志《白桦》发刊,有岛寄稿其中,渐为世间所知,历年编集作品为《有岛武郎著作集》,至今已出到第十四辑了。关于他的创作的要求与态度,他在《著作集》第十一辑里有一篇《四件事》的文章,略有说明。

“第一,我因为寂寞,所以创作。在我的周围,习惯与传说,时间与空间,筑了十重二十重的墙,有时候觉得几乎要气闭了。但是从那威严而且高大的墙的隙间,时时望见惊心动魄般的生活或自然,忽隐忽现。得见这个的时候的惊喜,与看不见这个了的时候的寂寞,与分明的觉到这看不见了的东西决不能再在自己面前出现了的时候的寂寞呵!在这时候,能够将这看不见了的东西确实的还我,确实的纯粹的还我者,除艺术之外再没有别的了。我从幼小的时候,不知不识的住在这境地里,那便取了所谓文学的形式。

私自身の作品もまた、少なからず検閲の被害を受けてきた。しかし私はそのことを恨んでいるわけではない。むしろ、検閲された箇所こそが、私が本当に言いたかったことであることを、検閲官が証明してくれたと思っている。彼らは敵のつもりで、実は味方をしてくれているのである。

“第二,我因为爱著,所以创作。这或者听去似乎是高慢的话。但是生为人间而不爱者,一个都没有。因了爱而无收入的若干的生活的人,也一个都没有。这个生活,常从一个人的胸中,想尽量的扩充到多人的胸中去。我是被这扩充性所克服了。爱者不得不怀孕,怀孕者不得不产生。有时产生的是活的小儿,有时是死的小儿,有时是双生儿,有时是月分不足的儿,而且有时是母体自身的死。

第12節

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“第三,我因为欲爱,所以创作。我的爱被那想要如实的攫住在墙的那边隐现著的生活或自然的冲动所驱使。因此我尽量的高揭我的旗帜,尽量的力挥我的手巾。这个信号被人家接应的机会,自然是不多,在我这样孤独的性格更自然不多了。但是两回也罢,一回也罢,我如能够发见我的信号被人家的没有错误的信号所接应,我的生活便达于幸福的绝顶了。为想要遇著这喜悦的缘故,所以创作的。

“第四,我又因为欲鞭策自己的生活,所以创作。如何蠢笨而且缺向上性的我的生活呵!我厌了这个了。应该蜕弃的壳,在我已有几个了。我的作品做了鞭策,严重的给我抽打那顽固的壳。我愿我的生活因了作品而得改造!”

《与幼小者》(Chīsaki monoe)见《著作集》第七辑,也收入罗马字的日本小说集中。

《阿末之死》(Osue no shi)见《著作集》第一辑。

「第三に、私は愛することを欲するがゆえに創作する。私の愛は、壁の向こう側に隠見する生活あるいは自然を、あるがままに掴もうとする衝動に駆られている。それゆえ私は力の限り旗を高く掲げ、力の限り手巾を振るう。この信号が相手に受け取られるか否かは、私の知ったことではない。」

【江口涣】

江口涣(Eguchi Kan)生于一八八七年,东京大学英文学科出身,曾加入社会主义者同盟。

《峡谷的夜》(Kyokoku no yoru)见《红的矢帆》(1919)中。

【菊池宽】

菊池宽(Kikuchi Kan)生于一八八九年,东京大学英文学科出身。他自己说,在高等学校时代,是只想研究文学,不豫备做创作家的,但后来偶做小说,意外的得了朋友和评论界的赞许,便做下去了。他的创作,是竭力的要掘出人间性的真实来。一得真实,他却又怃然的发了感叹,所以他的思想是近于厌世的,但又时时凝视著遥远的黎明,于是又不失为奋斗者。南部修太郎在《菊池宽论》(《新潮》一七四号)上说:

“Here is also a man——这正是说尽了菊池的作品中一切人物的话。……他们都有最像人样的人间相,愿意活在最像人样的人间界。他们有时为冷酷的利己家,有时为惨淡的背德者,有时又为犯了残忍的杀人行为的人,但无论使他们中间的谁站在我眼前,我不能憎恶他们,不能呵骂他们。这就因为他们的恶的性格或丑的感情,愈是深锐的显露出来时,那藏在背后的更深更锐的活动著的他们的质素可爱的人间性,打动了我的缘故,引近了我的缘故。换一句话,便是愈玩菊池的作品,我便被唤醒了对于人间的爱的感情,而且不能不和他同吐Here is also a man这一句话了。”

《三浦右卫门的最后》(Miura Uemon no saigo)见《无名作家的日记》(1918)中。

《报仇的话》(Aru Katakiuchi no hanashi)见《报恩的故事》(1918)中。

これはある外国の作家の言葉であるが、中国の文壇にも当てはまる部分がある。創作の動機について、中国の作家たちは実にさまざまなことを言う。社会のために書くという者もあれば、自分のために書くという者もあり、芸術のために書くという者もあれば、革命のために書くという者もある。

【芥川龙之介】

芥川龙之介(Akutagawa Riunosuke)生于一八九二年,也是东京大学英文学科的出身。田中纯评论他说:“在芥川的作品上,可以看出他用了性格的全体,支配尽所用的材料的模样来。这事实便使我们起了这感觉,就是感得这作品是完成的。”他的作品所用的主题,最多的是希望已达之后的不安,或者正不安时的心情。他又多用旧材料,有时近于故事的翻译。但他的复述古事并不专是好奇,还有他的更深的根据:他想从含在这些材料里的古人的生活当中,寻出与自己的心情能够贴切的触著的或物,因此那些古代的故事经他改作之后,都注进新的生命去,便与现代人生出干系来了。他在小说集《烟草与恶魔》(1917)的序文上说明自己创作态度道:

“材料是向来多从旧的东西里取来的。……但是材料即使有了,我如不能进到这材料里去,——便是材料与我的心情倘若不能贴切的合而为一,小说便写不成。勉强的写下去,就成功了支离灭裂的东西了。

“说到著作着的时候的心情,与其说是造作着的气分,还不如说养育著的气分〔更为适合〕。人物也罢,事件也罢,他的本来的动法只是一个。我便这边那边的搜索著这只有一个的东西,一面写著。倘若这个寻不到的时候,那就再也不能前进了。再往前进,必定做出勉强的东西来了。”

《鼻子》(Hana)见小说集《鼻》(1918)中,又登在罗马字小说集内。内道场供奉禅智和尚的长鼻子的事,是日本的旧传说。

《罗生门》(Rashōmon)也见前书,原来的出典是在平安朝的故事集《今昔物语》里。

しかし本当のところ、創作の動機は一つに限定できるものではない。一人の作家の中に、これらすべての動機が同時に存在し得るのであり、作品ごとに異なる動機が前面に出ることもある。動機の単一性を主張する者は、自分自身を欺いているか、あるいは他人を欺こうとしているかのどちらかである。

【记剧中人物的译名】

我因为十分不得已,对于植物的名字,只好采取了不一律的用法。那大旨是:

一、用见于书上的中国名的。如蒲公英(Taraxacum officinale),紫地丁(Viola Patrinii var.chinensis),鬼灯檠(Rodgersia podophylla),胡枝子(Lespedeza sieboldi),燕子花(Iris laevigata),玉蝉花(Iris sibirica var.orientalis)等。此外尚多。

二、用未见于书上的中国名的。如月下香(Oenothera biennis var.Lamarckiana),日本称为月见草,我们的许多译籍都沿用了,但现在却照着北京的名称。

三、中国虽有名称而仍用日本名的。这因为美丑太相悬殊,一翻便损了作品的美。如女郎花(Patrinia scabiosaefolia)就是败酱,铃兰(Convallaria majalis)就是鹿蹄草,都不翻。还有朝颜(Pharbitis hederacea)是早上开花的,昼颜(Calystegia sepium)日里开,夕颜(Lagenaria vulgaris)晚开,若改作牵牛花,旋花,匏,便索然无味了,也不翻。至于福寿草(Adonis opennina var.davurica)之为侧金盏花或元日草,樱草(Primula cortusoides)之为莲馨花,本来也还可译,但因为太累坠及一样的偏僻,所以竟也不翻了。

四、中国无名而袭用日本名的。如钓钟草(Clematis heracleifolia var.stans)雏菊(Bellis perennis)是。但其一却译了意,即破雪草本来是雪割草(Primula Fauriae)。生造了一个,即白苇就是日本之所谓刈萱(Themeda Forskalli var.japonica)。

しかし中国では、創作の動機をめぐる議論がしばしば行われる。これは一見すると理論的な問題のように見えるが、実は政治的な問題である。「社会のために書く」者は進歩的であり、「自分のために書く」者は個人主義的であり、「芸術のために書く」者はブルジョア的であるという図式が暗黙のうちに想定されているのである。

五、译西洋名称的意的。如勿忘草(Myosotis palustris)是。

六、译西洋名称的音的。如风信子(Hyacinthus orienralis)珂斯摩(Cosmos bipinnatus)是,达理亚(Dahlia variabilis)在中国南方也称为大理菊,现在因为怕人误认为云南省大理县出产的菊花,所以也译了音。

动物的名称较为没有什么问题,但也用了一个日本名:就是雨蛙(Hyla arborea)。雨蛙者,很小的身子,碧绿色或灰色,也会变成灰褐色,趾尖有黑泡,能用以上树,将雨时必鸣。中国书上称为雨蛤或树蛤,但太不普通了,倒不如雨蛙容易懂。

土拨鼠(Talpa europaea)我不知道是否即中国古书上所谓“饮河不过满腹”的鼹鼠,或谓就是北京尊为“仓神”的田鼠,那可是不对的。总之,这是鼠属,身子扁而且肥,有淡红色的尖嘴和淡红色的脚,脚前小后大,拨着土前进,住在近于田圃的土中,吃蚯蚓,也害草木的根,一遇到太阳光,便看不见东西,不能动弹了。作者在《天明前之歌》的序文上,自说在《桃色的云》的人物中最爱的是土拨鼠,足见这在本书中是一个重要脚色了。

七草在日本有两样,是春天的和秋天的。春的七草为芹、荠、鼠曲草、繁缕、鸡肠草、菘、萝卜,都可食。秋的七草本于《万叶集》的歌辞,是胡枝子、芒茅、葛瞿麦、女郎花、兰草、朝颜,近来或换以桔梗,则全都是赏玩的植物了。他们旧时用春的七草来煮粥,以为喝了可避病,惟这时有几个用别名:鼠曲草称为御行,鸡肠草称为佛座,萝卜称为清白。但在本书却不过用作春天的植物的一群,和故事没有关系了。秋的七草也一样。

この図式は単純すぎて話にならないが、しかし中国の文壇ではなお根強い影響力を持っている。作家たちは自分の動機を「正しく」説明するために苦心し、時には本当の動機を隠して「正しい」動機を掲げる。こうして文壇は偽善の場となるのである。

所谓递送夫者,专做分送报章、信件、电报、牛乳之类的人,大抵年青,其中出产不良少年很不少,中国还没有这一类人。

一九二二年五月四日记,七月一日改定。

【出了象牙之塔】

【一 自己表现】

为什么不能再随便些,没有做作地说话的呢,即使并不俨乎其然地摆架子,并不玩逻辑的花把戏,并不抡着那并没有这么一回事的学问来显聪明,而再淳朴些,再天真些,率直些,而且就照本来面目地说了话,也未必便跌了价罢。

我读别人所写的东西,无论是日本人的,是西洋人的,时时这样想。不但如此,就是读自己所写的东西,也往往这样想。为什么要这样说法的呢?有时竟至于气忿起来。就是这回所写的东西,到了后来,也许还要这样想的罢;虽然执笔的时候,是著著留神,想使将来不至于有这样思想的。

从早到夜,以虚伪和伶俐凝住了的俗汉自然在论外,但虽是十分留心,使自己不装假的人们,称为“人”的动物既然穿上衣服,则纵使剥了衣服,一丝不挂,看起来,那心脏也还在骨呀皮呀肉呀的里面的里面。一一剥去这些,将纯真无杂的生命之火红焰焰地燃烧着的自己,就照本来面目地投给世间,真是难中的难事。本来,精神病人之中,有一种喜欢将自己身体的隐藏处所给别人看的所谓肉体曝露狂(Exhibitionist)的,然而倘有自己的心的生活的曝露狂,则我以为即使将这当作一种的艺术底天才,也无所不可罢。

私は創作の動機について、あまり議論する必要はないと思う。重要なのは動機ではなく結果である。どんな動機で書かれたものであれ、良い作品は良い作品であり、悪い作品は悪い作品である。動機が「正しく」ても作品が悪ければ意味がないし、動機が「不純」でも作品が優れていれば、それは文学に対する貢献である。

我近今在学校给人讲勃朗宁(Robert Browning)的题作《再进一言》(One Word More)的诗,就细细地想了一回这些事。先前在学生时代,读了这诗的时候,是并没有很想过这些事的,但自从做恶文,弄滥辩,经验过一点对于世间说话的事情之后,再来读这篇著作,就有了各样正中胸怀的地方。勃朗宁做这一首诗,是将自己的诗呈献给最爱的妻,女诗人伊利沙伯·巴列德(Elizabeth Barrett)的时候,作为跋歌的。那作意是这样:无论是谁,在自己本身上都有两个面。宛如月亮一般,其一面虽为世界之人所见,而其他,却还有背后的一面在。这隐蔽着的一面,是只可以给自己献了身心相爱的情人看看的。画圣拉斐罗(Raffaello)为给世间的人看,很画了几幅圣母像,但为自己的情人却舍了画笔而作小诗。但丁(Dante)做那示给世间的人们的《神曲》(Divina Commedia)这大著作,但在《新生》(Vita Nuova)上所记,则当情人的命名日,却取画笔而画了一个天使图。将所谓“世间”这东西不放在眼中,以纯真的隐着的自己的半面单给自己的情人观看的时候,画圣就特意执了诗笔,诗圣就特意执了画笔,都染指于和通常惯用于自己表现的东西不同的别的姊妹艺术上。勃朗宁还说,我是不能画,也不能雕刻,另外没有技艺的,所以呈献于至爱的你的,也仍然用诗歌。但是,写了和常时的诗风稍稍两样的东西来赠给你。

しかしこの単純な真理を受け入れることは、中国の文壇では容易ではない。なぜなら、作品の質を論じることは、動機を論じることよりもはるかに難しいからである。動機は言葉で説明できるが、作品の質は感受性と知識と経験がなければ判断できない。大多数の批評家は、この困難を避けて、もっぱら動機を論じるのである。

情人的事姑且作为别问题。无论怎样卓绝的艺术上的天才,将真的自己赤条条地表出者,是意外地少有的。就是不论意识地或无意识地,将所谓读者呀看客呀批评家呀之类,全不放在眼中,而从事于制作的人,也极其少有。仿佛看了对手的脸色来说话似的讨人厌的模样,在专门的诗人和画家和小说家中尤其多。这结果即成了匠气,在以自己表现为生命的艺术家,就是最可厌的倾向。尤其是老练的著作家们,这人的初期作品上所有的纯真老实的处所就逐渐稀薄,生出可以说是什么气味似的东西来。我们每看作家的全集,比之小说,却在尺牍或诗歌上面更能看见其“人”;与其看时行的画家的画,倒是从这人的余技的文章中,反而发见别样的趣致。我想,这些就都由于上文所说那样的理由的。

第13節

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人们用嘴来说,用笔来写的事,都是或一意义上的自己告白,自己辩护。所以一面说起来,则说得愈多,写得愈多,也就是愈加出丑了。这样一想,文学家们就仿佛非常诚实似的罢,而其实决不然。开手就将自己告白做货色,做招牌的裴伦(G. G. Byron)那样的人,确是炫气满满的脚色。说到卢梭的《忏悔录》(J. J. Rousseau’s Confessions)则是日本也已经译出,得了多数的读者的近代的名著,但便是那书,究竟那里为止是纯真的,也就有些可疑。至于瞿提的《真与诗》(W.von Goethe’s Wahrheit und Dichtung)则早有非难,说是那事实已经就不精确的了。此外,无论是古时候的圣奥古斯丁(St. Augustine)的,近代的托尔斯泰(L. Tolstoi)的,也不能说,因为是忏悔录,便老实囫囵地吞下去。嘉勒尔(Th. Carlyle)的论文说,古往今来,最率直地坦白地表现了自己者,独有诗人朋士(R. Burns)而已。这话,也不能一定以为单是夸张罢。

人がロで語り、筆で書くことは、いずれもある意味での自己告白であり、自己弁護である。だから一方では、語れば語るほど、書けば書くほど、それだけいっそう醜態を晒すことになる。こう考えると、文学者たちは非常に誠実であるかのように見えるかもしれないが、実はそうではない。

至于日本文学,告白录之类即更其少。明治以后的新文学且作别论,新井白石的《折焚柴之记》文章虽巧,但那并非自己告白,而是自家广告。倒不如远溯往古,平安朝才女的日记类这一面,反富于这类文章罢。和泉式部与紫色部的日记,是谁都知道的;右大将道纲的母亲的《蜻蛉日记》,就英国文学而言,则可与仕于乔治三世(George III.)的皇后的那女作家巴纳(Frances Burney)的相比,可以作东西才女的日记的双璧观。但是叙事都太多,作为内生活的告白录,自然很有不足之感。至于自叙传之类,则不论东西,作为告白文学,是全都无聊的。

【二 Essay】

“执笔则为文。”

先前还是大阪寻常中学校——那时,对于现在的府立第一中学校,是这样的称呼的学生时代之际,在日本文法的举例上或者别的什么上见过的这毫不奇特的句子,也不明白为什么,到现在还剩在脑的角落上。因为正月的放假,有了一点闲暇了,想写些什么,便和原稿纸相对。一拿钢笔,该会写出什么来似的。当这样的时候,最好便是取essay的体裁。

和小说戏曲诗歌一起,也算是文艺作品之一体的这essay,并不是议论呀论说呀似的麻烦类的东西。况乎,倘以为就是从称为“参考书”的那些别人所作的东西里,随便借光,聚了起来的百家米似的论文之类,则这就大错而特错了。

有人译essay为“随笔”,但也不对。德川时代的随笔一流,大抵是博雅先生的札记,或者炫学家的研究断片那样的东西,不过现今的学徒所谓Arbeit之小者罢了。

文学者の誠実さとは何であろうか。自分の内面をありのままに表現することであろうか。しかし「ありのまま」とは何か。人間の内面は複雑であり、矛盾に満ちている。「ありのまま」を表現するということは、この複雑さと矛盾を余すところなく描き出すことを意味する。しかしそれは不可能に近い。

如果是冬天,便坐在暖炉旁边的安乐椅子上,倘在夏天,则披浴衣,啜苦茗,随随便便,和好友任心闲话,将这些话照样地移在纸上的东西,就是essay。兴之所至,也说些以不至于头痛为度的道理罢。也有冷嘲,也有警句罢。既有humor(滑稽)也有pathos(感愤)。所谈的题目,天下国家的大事不待言,还有市井的琐事,书籍的批评,相识者的消息,以及自己的过去的追怀,想到什么就纵谈什么,而托于即兴之笔者,是这一类的文章。

在essay,比什么都紧要的要件,就是作者将自己的个人底人格的色采,浓厚地表现出来。从那本质上说,是既非记述,也非说明,又不是议论,以报道为主眼的新闻记事,是应该非人格底(impersonal)地,力避记者这人的个人底主观底的调子(note)的,essay却正相反,乃是将作者的自我极端地扩大了夸张了而写出的东西,其兴味全在于人格底调子(personal note)。有一个学者,所以,评这文体,说是将诗歌中的抒情诗,行以散文的东西。倘没有作者这人的神情浮动者,就无聊。作为自己告白的文学,用这体裁是最为便当的。既不象在戏曲和小说那样,要操心于结构和作中人物的性格描写之类,也无须象做诗歌似的,劳精敝神于艺术的技巧。为表现不伪不饰的真的自己计,选用了这一种既是费话也是闲话的essay体的小说家和诗人和批评家,历来就很多的原因即在此。西洋,尤其是英国,专门的essayist向来就很不少,而戈特斯密(O. Goldsmith)和斯提芬生(R. L. Stevenson)的,则有不亚于其诗和小说的杰作。即在近代,女诗人美纳尔(Alice Meynell)女士的essay集《生之色采》(Color of Life)里所载的诸篇,几乎美到如散文诗,将诚然是女性的纤细和敏感,毫无遗憾地发挥出来的处所,也非常之好。我读女士的散文的essay,觉得比读那短歌(Sonnet)之类还有趣得多。

では、文学者は嘘をついているのか。必ずしもそうではない。彼は選択しているのである。複雑な内面のある一面を選び出し、それを表現する。この選択の過程において、意識的であれ無意識的であれ、美化や誇張が行われる。これは嘘とは言えないが、真実そのものでもない。

诗人,学者和创作家,所以染笔于essay者,岂不是因为也如上述的但丁作画,拉斐罗作诗一样,就在表现自己的隐藏着的半面的缘故么?岂不是因为要行爽利的直截简明的自己表现,则用这体裁最为顺手的缘故么?

就近世文学而论,说起essay的始祖来,即大家都知道,是十六世纪的法兰西的怀疑思想家蒙泰奴(M. E. de Montaigne)。引用古典之多,至于可厌这一节,姑且作为别论,而那不得要领的写法,则大约确乎做了后来的蔼玛生(R. W. Emerson)这些人们的范本。这蒙泰奴的essay就转到英国,则为哲人培根(F. Bacon)的那个。后来最富于此种文字的英吉利文学上,就以这培根为始祖。然而在欧罗巴的古代文学中,也不能说这essay竟没有。例如有名的《英雄传》(英译Lives of Noble Greeks and Romans)的作者布鲁泰珂斯(Ploutarkhos通作Plutarch)的《道德论》(Moralia)之类,从今日看来,就具有堂皇的essay的体裁的。

虽然笼统地说道essay,而既有培根似的,简洁直捷,可以称为汉文口调的艰难的东西,也有象兰勃(Ch. Lamb)的《伊里亚杂笔》(Essays of Elia)两卷中所载的那样,很明细,多滑稽,而且情趣盎然的感想追怀的漫录。因时代,因人,各有不同的体裁的。在日本文学上,倘说清少纳言的《枕草纸》稍稍近之,则一到兼好法师的《徒然草》,就不妨说是俨然的essay了罢。又在德川时代的俳文中,Hototogis派的写生文中,这样的写法的东西也不少。

しかし世間では、文学者の書くものはすべてその人の真実の姿であると思いがちである。小説の主人公は作者自身であり、詩の中の感情は作者の本当の感情であると思い込む。これは大きな誤解である。文学は虚構であり、虚構の中に真実があるとしても、それは直接的な真実ではなく、間接的な、変容された真実なのである。

【三 Essay与新闻杂志】

起于法兰西,繁荣于英国的essay的文学,是和journalism(新闻杂志事业)保着密接的关系而发达的。十八世纪的爱迪生(J. Addison)斯台尔(R. Steele)的时代不待言,前世纪中,兰勃,亨德(L. Hunt),哈兹列德(Wm. Hazlitt)那些人们的超拔的作品,也大抵为定期刊行物而作。尤其是在目下的英吉利文坛上,倘是带着文笔的人,不为新闻杂志作essay者,简直可以说少有。极其佩服法兰西的培洛克(H. Belloc),开口就以天外的奇想惊人的契斯透敦(G. K. Chesterton)等,其实就单以这样的文章风动天下的,所以了不得。恰如近代的短篇小说的流行,和journalism的发达有密接的关系一样,两三栏就读完的简短的文章,于定期刊行物很便当,也就是流行起来的原因之一。

然而,在日本的新闻杂志上,这类的文字却比较地不热闹。近年的,则夏目先生的小品,杉村楚人冠氏,内田鲁庵氏,与谢野夫人的作品里,都有着有趣的东西,此外也没有什么使人忘不掉的文字。这因为,第一,作者这一面,既须很富于诗才学殖,而对于人生的各样的现象,又有奇警的锐敏的透察力才对,否则,要做essayist,到底不成功。但我想,在读者这一面也有原因的。其一,就是要鉴赏真的essay,倘也象看那些称为什么romance的故事一样,在火车或电车中,跑着看跳着看,便不中用的缘故。一眼看去,虽然仿佛很容易,没有什么似的滔滔地有趣地写着,然而一到兰勃的《伊里亚杂笔》那样的逸品,则不但言语就用了伊利沙伯朝的古雅的辞令,而且文字里面也有美的“诗”,也有锐利的讥刺。刚以为正在从正面骂人,而却向着那边独自莞尔微笑着的样子,也有的。那写法,是将作者的思索体验的世界,只暗示于细心的注意深微的读者们。装着随便的涂鸦模样,其实却是用了雕心刻骨的苦心的文章。没有兰勃那样头脑的我们凡人,单是看过一遍,怎么会够到那样的作品的鉴赏呢。

もっとも、この区別を理解しない読者を責めることはできない。なぜなら、多くの文学者自身が、自分の作品は真実であると主張するからである。「私は見たままを書いた」「私は感じたままを書いた」──こうした言葉はよく聞くが、しかし「見たまま」を書くことも「感じたまま」を書くことも、実は不可能なのである。書く行為それ自体が、見たものや感じたものを変容させるからである。

然而就是英国的新闻杂志的读者,在今日,也并非专喜欢兰勃似的超拔的文章。essay也很成了轻易的东西了。所以少微顽固的批评家之中,还有人愤慨,说是今日的journalism,是使essay堕落了。然则在日本,却并这轻易的essay也不受读者的欢迎,又是什么缘故呢。

在日本人,第一就全不懂所谓humor这东西的真价值。从古以来,日本的文学中虽然有戏言,有机锋(wit),而类乎humor的却很少。到这里,就知道虽在议论天下国家的大事,当危急存亡之际。极其严肃的紧张了的心情的时候,尚且不忘记这humor;有了什么质问之类,渐渐地烦难起来了的危机一发的处所,就用这humor一下子打通;互相争辩着的人们,立刻又破颜微笑着的风韵,乃是盎格鲁索逊人种的特色,在日本人中是全然看不见的。一说到议论什么事,倘不是成了青呀黑呀的脸,“固也,然则,”或者“夫然,岂其然哉”,则说的一面固然觉得口气不伟大,听的一面也不答应。什么不谨慎呀,不正经呀这些批评,就是日本人这东西的不足与语的所以。如果摆开了许许多多的学问上的术语,将明明白白的事情,也不明明白白地写出来,因为是“之乎者也”,便以为写着什么了不得的事情,高兴地去读。读起来,自己也就觉得似乎有些了不得起来了罢。将极其难解的深邃的思想或者感情,毫不费力地用了巧妙的暗示力,咽了下去的essay,其不合于日本的读者的尊意,就该说是“不为无理”罢。

結局のところ、文学における誠実さとは、真実をそのまま書くことではなく、書くことの限界を自覚しながら、なおかつ真実に迫ろうとすることである。この自覚と努力がある作品は、たとえ事実に反していても、誠実であると言える。逆に、この自覚と努力のない作品は、たとえ事実に忠実であっても、不誠実なのである。

还有一个原因,是日本的读者总想靠了新闻杂志得智识,求学问。我想,现代的日本人的对于学艺和智识,是怎么轻浮,浅薄,冷淡,这就证明了。学艺者,何待再说,倘不是去听这一门的学者的讲义,或者细读相当的书籍,是决定得不到真的理解的。纵使将所谓“杂志学问”这一些薄薄的智识作为基址,张开逾量的嘴来,也不过单招识者的嗤笑。因为有统一的系统底组织底的头脑,靠着杂志和新闻是得不到的。

但是定期刊行物既然是商品,即势不能不迎合读者的要求。于是日本的杂志,——不,便是新闻的或一部分的也一样,——便不得不成为全象通信教授的讲义一般的东西了。试去一检点近来出得很多的杂志的内容去,先是小说和情话,其次是照例的所谓论文或论说的“固也然则”式的名文,接着的就是这讲义录。除掉这些,则庞然数百叶的巨册,剩下的便不过二十叶,多则三四十叶,所以要算稀奇。在普通的英美的评论杂志上一定具备的诗歌呀,essay呀,轻易寻不到,那是不胜古怪之至的。

不觉笔尖滑开去了,写了这样傲慢的话放在前头,倘说,那么,我要做essay了,则即使白村这人怎样厚脸,也该诚恳地向了读者谢妄语之罪,并请宽容。为什么呢?因为真象 essay的东西,到底不是我这等人所能做的。

Essay者,语源是法兰西语的essayer(试)。即所谓“试笔”之意罢。孩子时候,在正月间常写过“元旦试笔”的。倘说因为今年是申年,所以来做模拟的事,固然太俗气,但我是作为正月的试笔,就将历来许多文人学士所做过的essay这东西,真不过姑且仿作一回的。要写什么,连自己也还没有把握。如果缺了时间,或者烦厌了,无论什么时候,就收场。

しかし中国の文壇では、この種の微妙な区別はあまり重視されない。誠実か不誠実かは、作品の内容ではなく、作者の態度によって判断される。態度が「正しい」作家は誠実であり、態度が「間違っている」作家は不誠実である。これもまた、先に述べた「意識の正確さ」の問題と根を同じくするものである。

【四 缺陷之美】

在绚烂的舞蹈会,或者戏剧,歌剧的夜间,凝了妆,笑语着的许多女人的脸上,带着的小小的黑点,颇是惹人的眼睛。虽说是西洋,有痣的人们也不会多到这地步的。刚看见黑的点躲在颊红的影子里时,却又在因舞衣而半裸了的脖颈上也看见一个黑点。这里那里,这样的妇女多得很。这是日本的女人还没有做的化妆法,恰如古时候的女人的眉黛一样,特地点了黑色,做出来的人工的黑子。名之曰beautiful spot(美人的黡子),漂亮透了。

也许有人想:这大概是,妓女,或者女优,舞女所做的事罢。堂堂乎穿着robe décolleté的礼装的lady们就这样。

第14節

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故意在美的女人的脸上,做一点黑子的缘故,和日本的重视门牙上有些黑的瑕疵,以为可以增添少女的可爱相,是一样的。

如果摆出学者相,说这是应用了对照(contrast)的法则的,自然就不过如此。白东西的旁边放点黑的,悲剧中间夹些喜剧的分子,便映得那调子更加强有力起来。美学者来说明,道是effect(效果)增加了之故云。悲剧《玛克培斯》(Macbeth)的门丁这一场就是好例。并不粉饰也就美的白晰人种的皮肤上,既用了白粉和燕支加工,这上面又点上浓的黑色的beautiful spot去。粉汁之中,放一撮盐,以增强那甜味,这也就是异曲同工罢。

“浑然如玉”这类的话,是有的,其实是无论看怎样的人物,在那性格上,什么地方一定有些缺点。于是假想出,或者理想化出一个全无缺点的人格来,名之曰神,然而所谓神这东西,似乎在人类一伙儿里是没有的。还有,看起各人的境遇来,也一定总有些什么缺陷。有钱,却生病;身体很好,然而穷。一面赚着钱,则一面在赔本。刚以为这样就好了,而还没有好的事立刻跟着一件一件地出来。人类所做的事,无瑕的事是没有的,譬如即使极其愉快的旅行,在长路中,一定要带一两件失策,或者什么苦恼,不舒服的事。于是人类就假想了毫无这样缺陷的圆满具足之境,试造出天国或极乐世界来,但是这样的东西,在这地上,是没有的。

わざと美しい女の顔に黒子をつける理由は、日本で門歯にいくらかの黒い瑕疵があることを重んじ、それが少女の愛らしさを増すと見なすのと同じことである。

在真爱人生,而加以享乐,赏味,要彻到人间味的底里的艺术家,则这样各种的缺陷,不就是一种beautiful spot么?

性格上,境遇上,社会上,都有各样的缺陷。缺陷所在的处所,一定现出不相容的两种力的纠葛和冲突来。将这纠葛这冲突,从纵,从横,从上,从下,观看了,描写出来的,就是戏曲,就是小说。倘使没有这样的缺陷,人生固然是太平无事了,但同时也就再没有兴味,再没有生活的功效了罢。正因为有暗的影,明的光这才更加显著的。

有一种社会改良论者,有一种道德家,有一种宗教家,是无法可救的。他们除了厌恶缺陷,诅咒罪恶之外,什么也不知道。因为对于缺陷和罪恶如何给人生以兴味,在人生有怎样的大的necessity(必要)的事,都没有觉察出。是不懂得在粉汁里加盐的味道的。

酸素和水素造成的纯一无杂的水,这样的东西,如果是有生命的活的自然界中,是不存在的。倘是科学家在试验管中造出来的那样的水,我们可是不愿意尝。水之所以有甘露似的神液(nectar)似的可贵的味道者,岂不是正因为含着细菌和杂质的缘故么?不懂得缺陷和罪恶之美的人们,甚至于用了牵强的计策,单将蒸馏水一般淡而无味的饮料,要到我们这里来硬卖,而且想从人生抢了“味道”去。可恶哉他们,可诅咒哉他们!

もし学者然として、これは対照(contrast)の手法を応用したものだと言えば、それもまた一つの説明になるであろう。完全な美よりも、わずかに不完全な美の方が、かえって人の心を打つことがある。これは東洋に限らず、西洋でも認められている美学の原理である。

听说,在急速地发达起来的新的都会里,刑事上的案件就最多。这就因为那样的地方,跳跃着的生命的力,正在强烈地活动着的缘故。我们是与其睡在天下太平的死的都会中,倒不如活在罪的都会而动弹着的。月有丛云,花有风,月和花这才有兴趣。叹这云的心,嗟这风的心,从此就涌出人生的兴味,也生出“诗”来。兼好法师喝破了“仅看花好月圆者耶”之后,还说——

男女之情,亦岂独谓良会耶?怀终不得见之忧;山盟竟破;独守长夜;遥念远天;忆旧事于芜家:乃始可云好色。(《徒然草》第一百三十七段)

不料这和尚,却是一个很可谈谈的人。

小心地不触着罪恶和缺陷,悄悄地回避着走的消极主义,禁欲主义,保守思想等,在人类的生活方法上,其所以为极卑怯,极孱头,而且无聊的态度者,就是这缘故。说是因为要受寒,便不敢出门的半病人似的一生,岂不是谁也不愿意送的么?

因为路上有失策,有为难,所以旅行才有趣。正在不如意这处所,有着称为“人生”这长旅的兴味的。正因为人类是满是缺陷的永久的未成品,所以这才好。一看见小结构地整顿成就了的贤明的人们之类,我们有时竟至于倒有反感会发生。比起天衣无缝来,鹑衣百结的一边,真不知道要有趣多少哩。

しかし私がここで問題にしたいのは、美学の理論ではない。文学における「瑕疵」の問題である。すなわち、文学作品における欠点は、時としてその作品の魅力を増すことがあるのではないか、ということである。

【五 诗人勃朗宁】

你们中间,可有谁可以拿石头来打这犯了奸淫的妇人的么?这样说的基督,是认得了活的真的人类了的诗人,艺术家;而且也是可为百世之师的大的思想家。较之一听到女教员和人私通,便仿佛教育界也已堕落了似的,嚷嚷起来的那些贤明的伪善者等辈,是差得远的殊胜伟大的人物。

人是活物;正因为是活着的,所以便不完全,有缺陷。一到完全之域,生命已经就灭亡。说出“创造的进化”来的哲学者也曾说过这事,诗人勃朗宁也反反复复地将这意思咏叹了许多次了。

善和恶是相对的话,因为有恶,所以有善的。因为有缺陷,所以有发达;惟其有恶,而善这才可贵。倘没有善和恶的冲突,又怎么会有进化,怎么会有向上呢?“现在的生活,是我们的结局,或者还是显示或爬或攀的人们的脚的出发点呢?看起来,这里有着各样的障碍。要在从低跳向高,却将绊脚的石头当作阶段的人,罪恶和障碍是不足惧的。”(勃朗宁作《环与书》第十卷《教王篇》,四○七行以下。)因为有黑暗,故有光明;有夜,故有昼。惟其有恶,这才有善。没有破坏,也就没有建设的。现在的缺陷和不完全,在这样的意义上,确是人生的光荣。勃朗宁这样地想。对于人生的事实,始终总不是静底地看,而要动底地看的人,不失信于流动无碍的生命现象的勇猛精进的人,所当达到的结论,岂非正是这个么?

完璧な文章は、往々にして退屈である。一点の非の打ちどころもない文章は、読者に安心感を与えるが、興奮は与えない。むしろ多少の粗さ、多少のぎこちなさがある文章の方が、生命力を感じさせることがある。なぜなら、粗さやぎこちなさは、作者が表現の限界に挑戦している証拠だからである。

光愈强,就和强度相应,那影也更其暗。美的脸上的beautiful spot,用淡墨是不行的,总须比漆还要黑。人的性,是因为于善强,所以于恶也强。我们的生命,是经过着这善恶明暗之境,不断地无休无息地进转着的。

我不犯罪,所以好;诱惑是不敢接近的。说着这类的话,始终仅安于消极的态度的人们,使勃朗宁说起来,就是比恶人更其无聊得多的下等的人类。还有,无论在东洋,在西洋,教人“知足”的人们都不少,但是一到知足了的时候,或则其人真是满足了的时候,生命之泉可就早经干涸了。必须有不安于现在的缺陷和不完全,而不住地神往的心,希求的心,在人生才始有意义。在《弗罗连斯的古画》(Old Pictures in Florence)这一篇中,咏吉倭多(Giotto)道,“到了完全之域者,只有灭亡而已。”咏乐人孚格勒尔(Abt Vogler)则云,“地有破片的弧,全圆是在天上。”咏文艺复兴期的学者则云,“将‘现在’给狗子罢,给人则以‘永劫。’”这作者勃朗宁,在英国近代诸诗人中,是抱着最为男性底的壮快的人生观的人。和他同时的诗人而受了神明一般敬重的迪仪生(A. Tennyson)等辈,早经忘却了的今日,勃朗宁的作品虽然那辞句很是晦涩难解,而崇拜的人却日见其多者,就因为一个勇猛的理想主义的战士的态度,惹动了飞跃着的今人的心的缘故。

一不经意,拉出了勃朗宁这些人来,笔墨出轨到莫名其妙的地方去了,但是总而言之,正因为在“现在”有缺陷,大家嚷着“怎么办”这一点上,有着生活的意义的。即使明知是徒然,而还要希求的心,虽然苦恼,虽然惨痛,但倘没有这心,人生即无意味。缺陷的难得之味,也就在此。便是旅行去访名胜,名胜也许无聊到出于意料之外,然而在走到为止的路上,是有旅行的真味的。便是恋爱,也正在相思和下泪的中途有意味,一到了称为结婚这一个处所,则竟有人至于说,这已经是恋爱的坟墓了。与谢野夫人的新歌集《火之鸟》中有句云:

もっとも、これは欠点を弁護しているのではない。欠点は欠点であり、できるならば避けるべきである。しかし欠点を恐れるあまり、冒険を避け、安全な表現だけを選ぶならば、文学はたちまち生命力を失ってしまう。

并微青的悲哀也收了进去,挣得丰饶了的爱的赋彩。

想到人间身之苦呀的时候,落下来的泪的甜味。

使雩俄(V. Hugo)说起来,则所谓人者,都受着五十年或六十年的死刑的缓办的,这缓办的期间,就是我们的一生。一休禅师也说过使人耽心的事,以为门松是冥途的行旅的一里冢,但在一个一个经过这些一里冢的路程上,不就有人生的兴味么?(译者注:门松是日本新年的门外装饰;一里冢是古时记里数的土堠,一里一个,或用树;今已无。)

艺术之类也如此。完成了的艺术,没有瑕疵,但也没有生命,只有死而已。因为已经嵌在定规里,一动也不能动的缘故。根本底改造的要求,即由此发生。去看雁治郎这些人的技艺,觉得巧是巧的。然而那也只能终于那么样,已经到了尽头的事,不是谁都看得出来么?砚友社以来的明治小说,被自然主义绝不费力地取而代之者,就因为尾崎红叶的作品已经成了完璧了。

【六 近代的文艺】

将文艺上的古典派和罗曼派之差,亚克特美(académie)风和近代风之异,都用了这缺陷之美的事来一想,颇有趣的。

中国の文壇には、この二つの極端がある。一方には、文法も論理も無視して、ただ勢いだけで書く者がいる。これは「瑕疵」どころの話ではなく、根本的な怠惰である。他方には、一字一句を吟味し、推敲に推敲を重ね、完璧を期するあまり、何年経っても一篇の作品も仕上がらない者がいる。これは完璧主義の名の下の、別の種類の怠惰である。

以希腊、罗马的艺术为模范的古典派,是有着绝对美的理想的。那作品,是在寻求那不失整齐和均衡,严整的一丝不乱的完璧。是用了冷的理智来抑制情热,著重于艺术上的规范和法则的无瑕的作品。和这反对而起来的罗曼派的文艺,则是不认一切法则和权威的自由奔放的艺术。从古典派的见地说,则这是连形制之类也全不整顿的满是瑕疵的杂乱的艺术品。罗曼派的头儿沙士比亚(W. Shakespeare)的戏曲,就和希腊的古典剧正反对,是形制歪斜的不整的作品。“解放”的艺术,前途当然在这里;缺点是多的,唯其多,生命的力也显现得比较的强;其中所描写的自然和人生,都更加鲜明地跃动着。

与其是无瑕而完美的水晶,倒不如寻求满是瑕疵的金刚石的,是罗曼派。好在光的强烈。岂但闹beautiful spot的乱子而已么,说是无论是痘疤,是痣,是瞎眼,是独眼,什么都无妨,只愿意有那洋溢着“生命感”的有着活活泼泼的力的面貌。

然而一到比罗曼派更进一步的近代派的文艺,则就来宝贵这瑕疵,宝贵这缺陷,就要将这作为出售的货色,所以彻底得很。亚克特美风的人们装出不以为然的脸相,也非无故的。

心醉之后看人,虽痘疤也是笑靥。将痘疤单看作痘疤的时候,就是还没有彻骨地心醉着的证据。在真爱人生,要彻到人间味的底里去的近代人,则就在这丑秽的黑暗面和罪恶里,也有美,看见诗。因为在较之先前的古典派的人们,专以美呀善呀这些一部分的东西为理想,而不与丑和恶对面者尤其深远的意义上,就被人生的缺陷这东西惹动了心的缘故。以生命感,以现实感为根柢的前世纪后半以后的近代文艺,倘不竟至于此,是不满足的。

理想はこの二つの極端の間にある。十分な注意を払いつつも、完璧を求めすぎない。欠点を恐れずに、しかし欠点を放置もしない。この均衡を保つことは容易ではないが、優れた作家はみな、意識するとしないとにかかわらず、この均衡を保っているのである。

所以,自然派就将丑猥的性欲的事实,毫无顾忌地写了出来,赞美那罪和恶和丑,在文艺上创始了新的战栗的“恶之华”的诗人波特来尔(C. Baudelaire),被奉为恶魔派的头领了。确是斐列特力克哈理生(Frederic Harrison)罢,见了罗丹(A. Rodin)的巴尔札克(H. de Balzac)像,嘲为“污秽的崇拜”(Faulkult)。倘给他看了后期印象派的绘画,不知道会说出什么来。

石头都要用毛刷来扫得干干净净的西洋人,未必懂得庭石的妙味罢。倘不是乖僻得出奇,并且将不干净的苔藓,当作宝贝的日本人,便不能领会得真的庭石的趣味。社会的缺陷和人类的罪恶,不就是这不干净的苔藓的妙味么?

所谓饮馔的通人,是都爱吃有臭味的东西的。倘若对于有臭味的东西不见得吃得得意,则无论是日本肴馔,是西洋肴馔,都未必真实地赏味着罢。

听说从日本向西洋私运东西的时候,曾有将货物装在泽庵渍物(译者注:用糠加盐所腌之萝卜。泽庵和尚所发明,故云。)的桶的底里的奸人。因为西洋的税关吏对于那泽庵渍物的异臭,即掩鼻辟易,桶底这一面就不再检查了。不能赏味那糠糟和泽庵渍物的气味者,纵使谈论些日本肴馔,也属无聊。还有,在西洋人,也吃各种有臭味的东西。便是caviare(译者注:盐渍的鱼子,)大抵的日本人也就挡不住。我想,倘不能对于那一看就觉得脏的称为Roquefort的干酪(cheese)之类,味之若有余甘者,是未必有共论西洋饮馔的资格的。

翻訳においても同じことが言える。原文に忠実であろうとするあまり、訳文が不自然になることがある。逆に、訳文の自然さを重視するあまり、原文の意味が歪められることもある。忠実さと自然さの間の均衡、これが翻訳の最も困難な課題であり、最も重要な課題でもある。

文艺家者,乃是活的人间味的大通人。倘不能赏鉴罪恶和缺陷那样的有着臭味的东西,即不足与之共语人间。四近的官僚呀教育家呀和尚呀这一辈,应该知道,倘不再去略略修业,则对于文艺的作品等,是没有张嘴的资格的。

【七 聪明人】

我所趁着的火车,拥挤得很利害。因为几个不懂事的车客没有让出坐位来的意思,遂有了站着的人了。这是炎热的八月的正午。

第15節

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我的邻席上是刚从避暑地回来似的两个品格很好的老夫妇。火车到了一个大站,老人要在这里下车去,便取了颇重的皮包,站立起来。看车窗外面,则有一班不成样子的群众互相推排,竞奔车门,要到这车子里来乘坐。

老人将皮包搁在窗框上,正要呼唤搬运夫的时候,本在竞奔车门的群众后面的一个三十岁上下的洋装的男人,便橐橐地走近车窗下,要从老人的手里来接皮包。我刚以为该是迎接的人了,而老人却有些踌躇,仿佛不愿意将行李交给漠不相识的这男子似的。忽然,那洋装男人就用左手一招呼那边望得见的搬运夫,用右手除下自己戴着的草帽来,轻舒猿臂,将这放在老人原先所坐的位置上。老人对着代叫搬运夫的这男人道了谢,夫妇于是下车去了。

私の隣の席には、避暑地から帰ってきたばかりのような、品の良い老夫婦がいた。汽車がある大きな駅に着くと、老人はここで降りるのだと言い、かなり重い皮革鞄を取って立ち上がった。車窓の外を見ると、見苦しい群衆が互いに押し合い圧し合いしている。

车里面,现在是因为争先恐后地拥挤进来的许多车客之故,正在扰嚷和混乱,但坐位总是不够,下车的人不过五六个,但上来的却有二三十人罢。

于是,那洋服的三十岁的男人,随后悠悠然进来了。我的隔邻而原是老人的坐位上,本来早已堂堂乎放着一顶草帽的,所以即使怎样混杂,大家也对于那草帽表着敬意,只有这一处还是空位。三十岁男人便不慌不忙将草帽搁在自己的头上,使同来的两个艺妓坐在这地方。说一句“多谢”或者什么,便坐了下去的艺妓的发油的异臭,即刻纷纷地扑进我的鼻子来。

踏人的脚,脚被人踏,推人,被人推,拚死命挤了进来的诸公,都鹄立着。

也许有些读者,要以为写些无聊的事罢,但是人间的世界,始终如此,我想,再没有别的,能比在火车和电车中所造成的社会的缩图更巧妙的了。

奋斗的结果,终于遭了鹄立之难的人们,也许要大受攻击,以为捣乱,或者不知道礼仪。假使那时误伤了谁,就碰在称为“法律”这一种机器上,恐怕还要问罪。而洋装的三十岁男人却正相反,也见得是悠扬不迫的绅士底态度罢,也可以说是帮助老人的大可佩服的男儿罢,而且在艺妓的意中也许尊为恳切的大少罢。将帽子飞进车窗去,于法律呀规则呀这些东西,都毫无抵触。他就这样子,巧妙地使那应该唾弃的利己心得了满足了。诚然是聪明人!

我对于这样的聪明人,始终总不能不抱着强烈的反感。

これは外国での見聞であるが、私は思わず中国のことを考えた。中国の駅でも、同じ光景が見られるからである。否、中国の方がもっとひどいかもしれない。なぜなら中国では、列に並ぶという習慣がまだ十分に根づいていないからである。

嚷着劳动问题呀,社会问题呀,从正面尽推尽挤的时候,就在这些近旁,不会有什么政客呀资本家呀的旧草帽辗转着的么?

我常常这样想:抡了厨刀,做了强盗,而陷于罪者,其实是质朴,而且可爱的善人;至少也是纯真的人。可恶得远的东西,真真可憎的东西,岂不是做了大臣,成了富翁,做了经理,尤其甚者,还被那所谓“世间”这昏瞆东西称为名流么?伊孛生(H. Ibsen)写在《社会之柱》(英译The Pillars of Society)里的培尔涅克似的人物,日本的社会里是很多;但是培尔涅克似的将罪恶告白于群众之前者,可有一个么?他们不入牢狱,而在金殿玉楼中扬威。倘以为这是由于各人的贤愚和力量之差,那可大错了;也不独是运的好坏之差。其实,是因为人类的社会里,有大缺陷,有大漏洞的缘故。

所谓“盖棺论定”这等话,诳人罢了。如果那判断者仍是人们,仍是世间的时候,也还是不行。用了往昔的宗教信徒的口吻说起来,则倘不是到了最后的审判这一日,站在神的法庭上,会明白什么呢?

对于我们的彻底底本质底的第一义底生活,真能够完完全全地,作为准则的道德,法律,制度和宗教,在人类的文化发达的现今的程度上,是还未成就的。或者永远不成就也难说。就用随时敷衍的东西,姑且对付过去的,是现在的人类生活。劳工资本关系,治安警察法,陪审制度,妇女问题,将这些东西玩一通,能成什么事?倘不是再费上帝的手,就请将“人”这东西从新改造一通,是到底不见得能成气候的。

しかし私がここで問題にしたいのは、駅の秩序ではない。あの老夫婦の品格である。群衆が押し合いへし合いしている中を、老人は泰然として歩いていった。彼の態度には、群衆を軽蔑するところも、群衆を恐れるところもなかった。ただ静かに、自分のペースで歩いていっただけである。

虽然这样,——不,惟其这样,人生是有趣的,有意味的。于我们,有着生活的功效的。思想生活和艺术生活的根源,也即从这里发生。再说一回:看缺陷之美罢!

【八 呆子】

将“好人物”,“正直者”,这样体面的称呼,当作“愚物”,“无能者”这些极其轻蔑的意义来使用的国语,大约只有日本话罢。我们还应该羞,还应该夸呢,恰如home或gentleman这类言语,英语以外就没有,而盎格鲁索逊人种即以此为夸耀似的?

想起来,现今的日本,是可怕的国度。倘不象前回所说那样,去坐火车时,将旧草帽先行滚进去,就会如我辈一样困穷,或则受人欺侮;尤其甚者,还有被打进监牢里去的呢。我想,真是当祸祟的时代,生在祸祟的国度里了。

无论看那里,全是绝顶聪明人。日本今日第一必要的人物,也不是谋土,也不是敏腕家,也不是博识家,这样的多到要霉烂了。最望其有的,只是一直条的热烈而无底的呆子。倘使迭阿该纳斯(Diogenes)而在现今的日本,就要大白天点了怀中电灯,遍寻这样的呆子了罢。

特地出了王宫,弃了妻子,走进檀特山去的释迦,是大大的呆子。被加略的犹大所卖,遭着给家狗咬了手似的事情之后,终于处了磔刑的基督,也是颇大的呆子。然而这样的呆子之大者,不独在日本,就是现今的世界上,也到底没有的。纵使有,也一动不得动罢。不过从乡党受一些那是怪人呀偏人呀疯子呀之类的尊称,驯良地深藏起来而已罢。然而,我想,不得已,则但愿有个嘉勒尔(Th. Carlyle),或伊孛生,或者托尔斯泰那样程度的呆子。不,即使不过一半的也好,倘有两三个,则现今的日本,就象样地改造了罢,成了更好的国度了罢,我想。

この態度は、教養というものの本質を示しているように思う。教養とは、知識の多寡ではなく、どんな状況にあっても自分を失わないことである。群衆の中にあっても群衆に流されず、孤独の中にあっても孤独に押し潰されない。これが真の教養であり、これは書物からだけでは得られない。

所谓呆子者,其真解,就是踢开利害的打算,专凭不伪不饰的自己的本心而动的人;是决不能姑且妥协,姑且敷衍,就算完事的人。是本质底地,彻底底地,第一义底地来思索事物,而能将这实现于自己的生活的人。是在炎炎地烧着的烈火似的内部生命的火焰里,常常加添新柴,而不怠于自我的充实的人。从聪明人的眼睛看来,也可以见得愚蠢罢,也可以当作任性罢。单以为无可磋商的古怪东西还算好,也会被用auto—da—fé的火来烧杀,也会象尼采(F. Nietzsche) 一样给关进疯人院。这就因为他们是改造的人,是反抗的人,是先觉的人的缘故。是为人类而战斗的Prometheus的缘故。是见得是极其危险的恶党了的缘故。是因为没有在因袭和偶像之前,将七曲的膝,折成八曲的智慧的缘故。是因为超越了所谓“常识”这一种无聊东西了的缘故。是因为人说右则道左,人指东则向西,真是没法收拾了的缘故。而这也就是豫言者之所以为豫言者,大思想家之所以为大思想家;而且委实也是伟大的呆子之所以为伟大的呆子的缘故。

中国には教養のある人間が少ないと言われるが、私はそうは思わない。ただ、中国では教養のある人間が目立たないのである。なぜなら、中国の社会は声の大きい者が支配するところであり、静かに自分の道を歩む者は、存在しないかのように扱われるからである。

这样的大的呆子,未必能充公司人员;倘去做买卖,只好专门折本罢。官吏之类,即使半日也怎么做?要当冥顽到几乎难于超度的现今的教育家,那是全然不可能的。然而试想起来,世界总专靠着那样的大的呆子的呆力量而被改造。人类在现今进到这地步者,就因为有那样的许多呆子之大者拚了命给做事的缘故。宝贵的大的呆子呀!凡翻检文化发达的历史者,无论是谁,都要将深的感谢,从衷心捧献给这些呆子的!

并且又想,democratic的时代,决不是天才和英雄和豫言者的时代了。现在是群集的时代;是多众的时代;是将古时候的几个或一个大人物所做的事业,聚了百人千人万人来做的时代。我们在现今这样的时代里,徒然翘望着释迦和基督似的超绝的大呆子的出现,也是无谓的事。应该大家自己各各打定主意,不得已,也要做那千分之一或者万分之一的呆子。这就是自己认真地以自己来深深地思索事物;认真地看那象书样子的书;认真地学那象学问样子的学问,而竭了全力去做那变成呆子的修业去。倘不然,现今的日本那样的国度,是无可救的。

我虽然自己这样地写;虽然从别人,承蒙抬举,也正被居然蔑视为呆子,受着当作愚物的待遇;悲哀亦广哉,在自己,却还觉得似乎还剩着许多聪明的分子。很想将这些分子,刮垢除痂一般扫尽,从此拚了满身的力,即使是小小的呆子也可以,试去做一番变成呆子的工夫。倘不然,当这样无聊的时代,在这样无聊的国度里,徒然苟活,就成为无意义的事了。

しかし真の教養は、声の大きさとは無関係である。むしろ声を低くすることが、教養の証であることが多い。なぜなら、声を低くするということは、自分の意見を押しつけないということであり、相手の言葉に耳を傾けるということだからである。

【九 现今的日本】

“与其遇见做着呆事的呆子,不如遇见失窃了小熊的牝熊”。这是《旧约》的《箴言》中的句子。日本的古时候的英雄,也曾说:再没有比呆子更可怕的东西。在世间,不是还至于有“呆气力”这一句俗谚么?

有小手段,长于技巧的小能干的人;钻来钻去,耗子似的便当的汉子;赶先察出上司的颜色,而是什么办事的“本领”的汉子。在这样的人物,要之,是没有内生活的充实,没有深的反省,也没有思索的。轻浮,肤浅,浅薄,没有腰没有腹也没有头,全然象是人的影子。因为不发底光,也没有底力,当然不会发出什么使英雄失色的呆气力来。无论什么时候,总是恍恍忽忽,摇摇荡荡,跄跄踉踉的。假使有谁来评论现代的日本人,指出这恍恍忽忽摇摇荡荡的事的时候,则我们可确有否认这话的资格么?我想,没有把握。

近日的日本,这摇摇荡荡跄跄踉踉尤其凶。先前,说是米贵一点,闹过了。然而,在比那时只隔了两年的今日,虽然比闹事时候,又贵上两三百钱,而为我们物质生活的根本的那食物的价目,竟并不成为集注全国民的注意的大问题;或者还至于显出完全忘却了似的脸相。接着,就嚷起所谓劳动问题来了,然而连一个的劳工联合还未满足地办好之间;这问题的火势也似乎已经低了下去。democracy这句话,格言似的连山陬海澨都传遍,则就在近几时。然而便是紧要的普通选举的问题,前途不也渺茫么?彼一时此一时,倘有对于宛然小户娘儿们的歇斯底里似的这现象,用了陈腐平凡的话,伶俐似的评为什么易热故亦易冷之类者,那全然是错的。虽说“易热”,但最近四五十年来,除了战争时候,日本人可曾有一回,为了真的文化生活,当真热过么?真的热,并不是花炮一般劈劈拍拍闹着玩的。总而言之,就因为轻浮,肤浅的缘故。单是眼前漂亮,并没有达到彻底的地方。挂在中间,微温,妥协底,敷衍着,都是为此。换了话说,就是没有呆子的缘故;蠢人和怪人太少的缘故。

この点において、あの老人は私の理想に近い。彼は何も言わず、何も主張せず、ただ静かに自分の道を歩いた。しかしその静かさの中に、確固たる人格があった。私はわずかな時間しか彼を見なかったが、その印象は今も鮮やかである。

然而,这也可以解作都人和村人之差。正如将东京人和东北人,或者将京阪人之所谓“上方者”和九州人一比较,也就知道一样,都人的轻快敏捷的那一面,却可以看见可厌的浮薄的倾向。村人虽有钝重迂愚的短处,而其间却有狂热性,也有执着力,也有彻底性,就象童话的兔和龟的比较似的。

思想活动和实行运动是内生命的跃进和充实的结果,所以,这些动作,是出于极端地文化进步了的民族,否则,就出于极端地带着野性的村野的国民。两个极端,常是相等的。(但野蛮人又作别论,因为和还没有自己思索事物的力量的孩子一样,所以放在论外。)向现今世界的文明国看起来,最俨然地发挥着都人的风气和性格者,是在今还递传着腊丁文明的正系的法兰西人。所以从法兰西大革命以来,法国人总常是世界的新思潮新倾向的主动者,指导者,看见巴黎的风俗,便下些淫靡呀颓废呀之类的批评的那一辈,其实是什么也不懂的。

思うに、文学もまたこのようでありたいものである。声高に主張するのではなく、静かに語る。読者を圧倒するのではなく、読者に考えさせる。これが文学の本来の姿であると、私は信じている。

但是,和这全然正反对,说起文明国中带得野性最多的村人来,究竟是那一国呢?

【十 俄罗斯】

这不消说,是俄罗斯。从地理上说,是在欧洲的一角,从历史上说,是有了真的文化以来不过百年。斯拉夫人种,确是文明世界的田夫野人也。这村民被西欧诸国的思潮所启发,所诱导,发挥出村民的真象村民,而且呆子的真象呆子的特色,于是产生了许多陀思妥夫斯奇(F. Dostoyevski),产生了许多托尔斯泰了。

第16節

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在我,俄文是一字也不识,不过靠着不完全的法译和英译,将前世纪的有名的戏曲和小说,看了一点点,所以议论俄罗斯的资格,当然是没有的。虽是当作专门买卖的文学,而对于俄罗斯最近的作品,也完全不知道。看看新闻纸上的外国电报,总有些什么叫作过激派的莫名其妙的话,但都是似乎毫不足信,而且统统是断片底的报道,一点也看不出什么究竟是什么来。俄国人现在所想,所做的事,究竟是善的还是恶的,是正当还是不正当,在一个学究的我,也还是连判断,连什么,都一点没有法。现下,bolsheviki这字,记得在一本用英文写的书里面,曾说那意义是more即“更多”。但在日本语,为什么却译作过激派了呢?第一从那理由起首,我就不明白。想起来,也未必有因为别有作用,便来乱用误译曲译的横暴脚色罢,竟不知道是怎么一回事。总说,对于bolsheviki还有mensheviki(少数党,)是民主底社会主义的稳和派,但其中的事情,也知道得不详细。然而,倘若将多数党这一个字译作过激派要算正当,则在日本,也将多数党称为过激派,如何?听说,近来在支那,采用日本的译语很不少。而独于bolsheviki,却不取过激派这一个希奇古怪的译语,老老实实地就用音译的。

私に関して言えば、ロシア語は一字も知らない。ただ不完全なフランス語訳と英語訳に頼って、前世紀の有名な戯曲や小説をわずかに読んだにすぎない。だからロシアを論じる資格は、むろん私にはない。たとえ専門の商売としての文学であっても、ロシア文学に対する私の知識はきわめて限られている。

象我似的多年研究着外国语的人,是对于这样无聊的言语的解释,也常要非常拘执的,但这且不论,独有俄罗斯,却真是看不准的国度。就是去读英、美的杂志,独于俄国的记事和论说,也看不分明。前天也读了一种英国的评论杂志,议论过激派的文章两篇并列着,而前一篇和后一篇,所论的事却正相反对的。这样子,当然不会有知道真相的道理。

然而在这里,独有一个,为我所知道的正确的事实。这就是,称为世界的强国而耀武扬威的各国度,不料竟很怕俄国人的思想和活动这一个事实。就是很怕那既无金钱,也没了武力的俄国人这一个不可解不可思议的事实。其中,有如几乎要吐出自己的国度是世界唯一的这些大言壮语的某国,岂不是单听到俄罗斯,也就索索地发抖,失了血色么?仅从俄国前世纪的思想和艺术推测起来,我想,这也还是村民发挥着那特有的野性,呆子发挥着那呆里呆气和呆力量罢。所可惜者,那内容和实际,却有如早经聪明慧敏的几个日本的论者所推断一般,竟掉下那离开文明发达的路的邪道去,陷入了畜生道了罢。也许是苟为忠君爱国之民,即不该挂诸齿颊的事。此中的消息,在我这样迂远的村夫子,是什么也不懂的。

我不知道政治,然而在那国度里,于音乐生了格令加(M. I. Glinka)路宾斯坦因(Rubinstein)兄弟,卡伊珂夫斯奇(P. I. Tchaikovsky)似的天才,于文学出了都介涅夫(I. Turgeniev)戈理奇(Maxim Gorky)阿尔志跋绥夫(M. Artzibashev)等,一时风动了全世界的艺术界者,其原因,我自信有一层可以十足地断言,就是在这村民的呆气力。

しかし限られた知識であっても、ロシア文学から受けた印象は深い。それは何よりもまず、その徹底した真摯さである。ロシアの作家たちは、文学を遊戯とは考えなかった。彼らにとって文学は、人間の存在そのものに関わる真剣な営みであった。

【十一 村绅的日本呀】

都人和村民,这样一想,现今的日本人原也还与后者为近。近是近的,但并非纯粹的村民。要之,承了德川文明之后,而五十年间又受着西洋文明的皮相的感化,而且在近时,托世界大战的福,国富也增加一点了。说起来,就是村民的略略开通一点的,也可以叫作村落绅士似的气味的东西。就象乡下人进了都会,出手来买空卖空或者屯股票,赚了五万十万的钱,得意之至模样。既无都人的高雅,也没有纯村民的热性和呆气力。中心依然是霉气土气的村民,而口吻和服装却只想学先进国的样。朝朝夜夜,演着时代错误的喜剧,而本人却得意洋洋,那样子多么惨不忍见呵。唉唉,村绅的日本呀,在白皱纱之流的兵儿带上拖着的金索子,在泥土气还未褪尽的指节凸出的手指上发闪的雕着名印的金戒指,这些东西,是极其雄辩地讲着你现在的生活的。

唉唉,村绅的日本呀,村绅的特色,是在凡事都中途半道敷衍完,用竹来接木。象呆子而不呆,似伶俐而也不伶俐,正漂亮时而胡涂着。那生活,宛如穿洋服而着屐子者,就是村绅。

唉唉,村绅的日本呀,向你谈些新思想和新艺术,我以为还太早了。假使一谈,单在嘴上,则如克鲁巴金(P. Kropotkin)呀,罗素(B. Russell)呀,马克斯(K. Marx)呀等类西洋人的姓氏,也会记得的罢;内行似口气,也会小聪明地卖弄的罢。但在肚子里,无论何时,你总礼拜着偶像。你的心,无论怎样,总离不开因袭。你并不想将Taboo忘掉罢。怀中的深处还暗藏着生霉的祖传的淀屋桥的烟袋,即使在大众面前吸了埃及的金口烟卷给人看,会有谁吃惊么?

この真摯さは、時として重苦しさにもなる。ロシア文学には、フランス文学のような軽やかさがない。しかしその重苦しさの中に、人間の魂を揺さぶる力がある。ドストエフスキーを読んだ後では、大抵のフランス小説は軽薄に見えてしまう。もっとも、これは公平な比較ではないかもしれない。

唉唉,村绅的日本呀,说是你不懂思想和宗教和艺术,因而愤慨者,也许倒是自己错。想起来,做些下流的政治运动,弄到一个议员,也就是过分的光荣了。然而象你那样,便是政治,真的政治岂不是也不行么?惘然算了世界五大强国之一,显出确是村绅似的荣耀来,虽然好,但碰着或种问题,却突然塌台,受了和未开国一样看待了。这不是你将还不能在世界的文化生活里入伙的事,俨然招供了么?巧妙地满口忠君爱国的人们,却不以这为国耻,是莫名其妙的事。

我就忠告你罢。并不说死掉了再投胎,但是决了心,回到村民的往昔去。而且将小伶俐地彷徨徘徊的事一切中止,根本底地,彻底底地,本质底地,再将自己从新反省过,再将事物从新思索过才是。而且倘不将想好的事,出了村民似的呆子的呆气力,努力来实现于自己的生活上,是不中用的。股票,买空卖空,金戒指,都摔掉罢!

唉唉,村绅的日本呀,你如果连这些事也不能,那么再来教你罢:回到孩子的往昔去。自己秉了谦虚之心,想想八十的初学,而去从师去。学些真学问,请他指点出英、法的先辈们所走的道路来。不要再弄杂志学问的半生不熟学问了,热心地真实地去用功罢。而且,什么外来思想是这般的那般的,在并不懂得之前,就摆出内行模样的调嘴学舌,也还是断然停止了好。

中国文学に最も欠けているのは、この真摯さであると私は思う。中国の文人は、古来、文学をある種の遊戯と見なしてきた。「詩は言志」と言いながらも、実際には言葉の遊びに耽ることが多かった。形式の美しさを追求し、典故の巧みな使用を誇り、しかし人間の存在の根本的な問題に正面から取り組むことは少なかった。

唉唉,村绅的日本呀,倘不然,你就无可救。你的生活改造是没有把握的。前途已经看得见了。

写着之间,不提防滑了笔,成了非常的气势了。重读一遍,连自己也禁不住苦笑,但这样的笔法,在意以为essay这一种文学是四角八面的论文,意以为村学究者,乃是从早到夜,总抡着三段论法的脚色的诸公,真也不容易看下去罢。我还有要换了调子,写添的事在这里。

【十二 生命力】

日本人比起西洋人来,影子总是淡。这就因为生命之火的热度不足的缘故。恰有贱价的木炭和上等的石炭那样的不同。做的事,成的事,一切都不彻底,微温,挂在中间者,就是为此。无论什么事,也有一点扼要的,但没有深,没有力,既无耐久力,也没有持久性。可以说“其淡如水”罢。

可以用到五年十年的铁打的叉子(fork)不使用,却用每日三回,都换新的算做不错的杉箸者,是日本流。代手帕的是纸,代玻璃门的是纸隔扇之类,一切东西都没有耐久性。日本品的粗制滥造,也并不一定单是商业道德的问题,怕是邦人的这特性之所致的罢。

在西洋看见日本人,就使人索然兴尽,也并非单指皮肤的白色和黄色之差。正如一个德国人评为Schmutzig gelb(污秽的黄色)那样,全然显着土色,而血色很淡,所以不堪。身矮脚短,就象耗子似的,但那举止动作既没有魄力,也没有重量。男子尚且如此,所以一提起日本妇人,就真是惨不忍睹,完全象是人影子或者傀儡在走路。而且,男的和女的,在日本人,也都没有西洋人所有的那种活泼丰饶的表情之美;辨不出是死了还是活着,就如见了蜜蜡做的假面具一般。这固然因为从古以来,受了所谓武士道之类的所谓“喜怒哀乐不形于色”这些抑制底消极底的无聊的训练之故罢,但泼剌的生气在内部燃烧的不足,也就证明着。

もちろん例外はある。杜甫は例外であり、白居易は例外であり、近くは龔自珍もまた例外である。しかしこれらは文字通り「例外」であって、中国文学の主流ではなかった。主流はあくまでも「風雅」であり、「閑適」であり、人生の深刻な問題からは距離を置くことが、文人の美徳とされてきたのである。

欧洲的战争,那么样费了人命和财币,一面将那面打倒,击翻,直战到英语的所谓to the knock—out(给站不起)这地步了。诚然有着毒辣的彻底性。一看战后法兰西对德国的态度,此感即尤其分明。然而,日俄战争的日本,则虽然赶先开火,毕毕剥剥地闹了起来,到后来,两三年就完了。战争是中途半道。悬军长驱,直薄敌人的牙城么,就在连敌人的大门口还没有到的奉天这些地方收梢。也并非单因为国力的不支而已,是小聪明地目前漂亮,看到差不多的地方就收场,回转。象那世界战争似的呆样,无论如何,总是学不到的是日本人。因为是将敌人半生半杀着就放下的态度,所以俄罗斯倘没有成为现在这样状态,也许就在今日,正重演着第二回的日、俄战争了。

战争那样的野蛮行为,可以置之不论,但我们在精神生活社会生活上,一碰到什么问题的时候,也还是将这半生半杀着就算完。打进那彻底底的解决去的,必须的生命力,是在根本上就欠缺的。

日本人总想到处肩了历史摆架子,然而在日本,不是向来就没有真的宗教么?不是也没有真的哲学么?其似乎宗教,似乎哲学的东西,都不过是从支那人和印度人得来的佛教和儒教的外来思想。其实,是借贷,是改本。要发出彻底底地解决的努力来,则相当的生命力和呆气力都不够,只好小伶俐地小能干地半生半杀了就算完,在这样的国民里,怎么能产生那震动世界的大思想,哲学,宗教呵!又怎么会有给与人类永远的幸福的大发明,大发见呵!

今也,正当世界的改造期了,日本人也还要反复这半生半杀主义么?也还不肯切实,诚恳,而就用妥协和敷衍来了事么?

ロシア文学は、この中国文学の伝統に対する一つの挑戦である。ロシアの作家たちは、苦痛から目を逸らさない。醜悪から目を逸らさない。人間の弱さ、愚かさ、残酷さを、容赦なく描き出す。しかしそこには常に、人間に対する深い愛がある。人間を愛するからこそ、その欠点を直視するのであり、直視するからこそ、作品に力があるのである。

【十三 思想生活】

伤寒病菌侵入人体,于是其人的肉体的生活力,即与这魔障物相接触而战争。因战争,遂发热。所以生活力愈强的人,这热也愈高,那结果,却是体质强健者倒容易丧命。的确与否不得而知,但我却曾经听到过这样的话,并且以为很有趣。

生命力旺盛的人,遇着或一“问题”。问题者,就是横在生命的跃进的路上的魔障。生命力和这魔障相冲突,因而发生的热就是“思想”。生命力强盛的人,为了这思想而受磔刑,被火刑,舍了性命的例子就很不少。而这思想却又使火花迸散,或者好花怒开,于是文学即被产生,艺术即被长育了。

在生命力的贫弱者,所以,就没有深的思想生活。思想不深的处所,怎么会产出大的文学和大的艺术来呢?仅盛着一二分深的泥土的花盆里,不是不会有开出又大又美的花的道理的么?

去年暮秋的或一晚,看过冈崎公园的帝国美术展览会的归途中,来访我的书斋的一个友人说:“一想到现今的日本所产生的最高的艺术,不过是那样的东西,就使人要丧气。”

我回答说:“即使怎样丧气,花盆里缺少泥土,没有法子的。而且,想大加培植的人,不是一个也没有么?假使有之,但不与这样的呆子来周旋,不正是现在的日本人的生活么?单是浮面上的聪明人特别多……。”

只要驯良地做着数学和哲学的教员就完事了,却偏要将本分以外的事,去思索,去饶舌,以致在战时关到监牢里去的罗素,从聪明人的眼睛看起来,也许不见得是很聪明的脚色罢。然而他那近著《社会改造的根本义》(Principles of Social Reconstruction),却如日本也已流传着那样,确是很有意味的书。罗素所用的是非常简单的论法,将人间所做的一切,都以冲动来说明。诚不愧为英吉利的思想家,那不说迂曲模胡的话这一点,是极痛快的。

中国の若い作家たちが、ロシア文学から学ぶべきことは多い。技法よりも、この真摯さを学ぶべきであると私は思う。

“我们的活动的若干,是趋向于创作未有的事物,其余的则趋向于获得或保持已有的事物。创作冲动的代表,是艺术家的冲动;占有冲动的代表,是财产的冲动。所以,创作冲动做着最紧要的任务,而占有冲动成为最小了的生活,就是最上的生活。” (罗素《社会改造的根本义》二三四页。)

用了罗素的口吻说,则日本人等辈,冲动性是萎缩着的。而其微弱的冲动性,又独向财产的占有冲动那一面,动作得最多;至于代表创作冲动的艺术活动等,却脉搏已经减少了。使罗素说起来,这是最坏的生活,这就是村绅之所以为村绅的原因。

第17節

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不独是文学和艺术,现在世界的大势,是政治和外交也已经进步,不象先前似的,单是手段和眼力了。劳动问题已非工场法之类所能解决,国际联盟也难于仅以外交公文的往复完事了。因为文化生活的一切活动,都以思想生活这东西做着基础的缘故。责备日、俄战争前后的日本的外交,以为拙劣者,只有那时的日本的新闻,我们却屡次看见外国的批评家称赞着以前的日本外交的巧妙。是的,巧妙者,因为不过是手段,敏捷者,因为不过是眼力的缘故。因为照例的小聪明人的小手艺,很奏了一点功效的缘故。看见了这回讲和会议的失败,也有人评论,以为是日本人不善于宣传运动之所致的。但并无思想者,又宣传些甚么呢?即使要宣传,岂不是也并无可以宣传的思想么?没有可说的肚子和头的东西,即使单将嘴巴一开一闭地给人看,不是也无聊得很么?

ひとり文学と芸術のみならず、今や世界の大勢として、政治も外交もすでに進歩し、以前のように、ただ手段と眼力だけでは済まなくなっている。労働問題はもはや工場法の類では解決できず、国際連盟も単なる外交公文の往復だけでは終えられなくなっている。

将在公众之前弄广长舌这些事,当作恶德者,是日本的习惯。倘要在小房子里敷衍,那是很有些有着大本领的。所谓在集会上议决,单是表面的话,其实不过是几个阴谋家在密室中配好了的菜单。好在是几百年来相信着“口为祸之门”而生活下来的日本人,是在专制政治之下,夺去了言论的自由,而几世纪间,毫不以此为苦痛的不可思议的人种。那结果,第一,日本语这东西就先不发达,不适于作为公开演说的言语了。在这一点上,最发达的是世界上最重民权自由的盎格鲁索逊人种的国语。意在养成gentleman的古风的堪勃烈其和恶斯佛大学等,当作最紧要的训练的是讨论。在日本,将发表思想的演说和文章,当作主要课目的学校,在过去,在现在,可曾有一个呢?便是在今日,不是还至于说,倘在演说会上太饶舌了,教师的尊意就要不以为然么?无论什么东西,在不必要的地方就不发达。日本语之不适于演说,日本之少有雄辩家者,就因为没有这必要的缘故。和英语之类一比较,这一点,我想,实在是可以惭愧的。(别项英语讲演《英语之研究》参照。)

日本语这东西,即此一点,就须改造了。向着用这日本语的日本人,催他到巴黎的中央这类地方,以外国语作宣传运动去,那也许是催他去的倒反无理罢。

思想是和金钱相反的,愈是用出去,内容就愈丰饶;如果不发表,源泉便涸竭了。单从这一点看起来,日本人的思想生活岂不是也就非贫弱不可么?

これは何を意味するか。すなわち、世界がますます複雑になり、従来の方法ではもはや対応できなくなったということである。単純な問題には単純な解決策で足りたが、複雑な問題には複雑な理解が必要であり、複雑な理解には幅広い知識と深い洞察が必要なのである。

日本人不以真的意义读书,也是思想生活贫弱的一个原因罢。倘以为读书是因为要成博学家之类,那是无药可医。为什么不去多读些文学书那样的无用之书的?

【十四 改造与国民性】

为了“但愿平安”主义的德川氏三百年的政策之故,日本人成为去骨泥鳅了。小聪明人愈加小聪明,而不许呆子存在的国度,于是成就了。单是擅长于笔端的技巧者,即在艺术界称雄,连一篇演说尚且不甚高明者,即在政党中拜帅的不可思议的立宪国,于是成就了。

我说:这是因为德川政策的缘故。为什么呢?因为一查战国时代的事,日本人原是直截爽快得多的;原是更彻底底地,并不敷衍的。

但是,概括地说起来,则无论怎么说,日本人的内生活的热总不足。这也许并非一朝一夕之故罢。以和歌俳句为中心,以简单的故事为主要作品的日本文学,不就是这事的明证么?我尝读东京大学的芳贺教授之所说,以乐天洒脱,淡泊萧洒,纤丽巧致等,为我国的国民性,辄以为诚然。(芳贺教授著《国民性十论》一一七至一八二页参照。)过去和现在的日本人,确有这样的特性。从这样的日本人里面,即使现在怎么嚷,是不会忽然生出托尔斯泰和尼采和伊孛生来的。而况沙士比亚和但丁和弥耳敦,那里会有呢。

世间也有些论客,以为这是国民性,所以没有法。如果象一种宿命论者似的,简直说是没有法了,这才是没有法呵。绝对难于移动的不变的国民性,究竟有没有这样的东西,姑且作为别一问题,而对于国民性竭力加以大改造,则正是生活于新时代的人们的任务。喊着改造改造,而只嚷些社会问题呀,妇女问题呀,什么问题呀之类,岂不是本末倒置么?没有将国民性这东西改造,我们的生活改造能成功的么?

文学もまた例外ではない。かつて文学は、ただ美しい文章を書けばよかった。読者を感動させ、あるいは楽しませることが文学の目的であった。しかし今や文学は、社会の問題、人間の問題と深く結びつかざるを得なくなっている。文学が社会から遊離すれば、文学はその存在意義を失う。

我说:再多读些。我说:再多吃些;再多说些。我说:再多吃些可口的好东西。我说:并且成了更呆更呆的呆子,深深地思索去。这些事情,先该是生活改造的第一步。根本不培植,会生出什么来呢!

现在还铺排些这样陈腐平凡的话,我很觉得羞惭,也以为遗憾。我决不是得意地写出来的。

追忆起来,千八百六十年之春,约翰洛斯庚(John Ruskin)搁了他那不朽的大著《近代画家论》(Modern Painters)之笔了。从千八百四十三年第一卷的属稿起,至此十七年,第五卷遂成就。在这十七年中,又作了《建筑的七灯》(Seven Lamps of Architecture);又作了《威尼斯之石》(Stones of Venice);又作了《拉斐罗前派》(Pre—Raphaelitism),大为当时的新艺术吐气。此外公表的议论和讲演还很多。他的不断的努力终于获报,那时艺术批评家洛斯庚的名声,就见重于英国文坛了。这是洛斯庚四十岁的时候。

他突然转了眼光。他暂时离开“艺术之宫”,出了“象牙之塔”,谈起社会问题和经济问题来了,开手就将essay四篇载在《康锡耳杂志》(Cornhill Magazine)上,这就是《寄后至者》(Unto this Last)的名著。近时,我的友人石田宪次君已经将这忠实地译出,和他一手所译的嘉勒尔的《过去和现在》(Past and Present),一同行世了。

しかしここに難しい問題がある。文学が社会の問題を扱うとき、文学はどこまで「文学」でありつづけられるのか。社会の問題をあまりに直接的に扱えば、文学は宣伝に堕する。かといって、社会の問題から距離を置きすぎれば、文学は象牙の塔に籠もることになる。

洛斯庚在这四篇文字中,和当时的风潮反抗,解说“富”是怎样的东西。并说灵的生活,以示富与人生的关系。洛斯庚是想到了艺术的民众化,社会化,又觉得当社会昏蒙丑恶时候,仅谈艺术之无谓,所以写这四篇的。但世间都不理。俗众且报之以嘲骂,书店遂谢绝他续稿的印行。这和他此后为劳动问题而作的各种书,洛斯庚还至于不能不从当时的俗众们受了“危险的革新论者”(dangerous innovator)这一个不甚好听的徽号。

然而洛斯庚的经济说,却有千古的卓见,含着永久的真理的。但使对于经济问题毫没有什么素养和心得的我来说,我却劝读者不如去看英国的以现代经济学者称一方之雄的荷勃生(J. A. Hobson)的研究《社会改良家洛斯庚》(John Ruskin,Social Reformer)去。这正月,我也四十岁了。就是近世英国最大思想家之一的洛斯庚做了《寄后至者》的那四十岁。但因为生来的钝根和懒惰,在我,竟一件象样的事也没有做。既不能写洛斯庚似的出色的文章,也没有以那么伟大的头脑来观照自然和人生的力量,仍然不过是一个村夫子而已。幸而还有自知之明,所以仍准备永远钻在所谓“文艺研究”这小天地里。准备固然是准备的,然而一看现在的日本的社会,也还是时时要生气,心里想:如果这模样,须到什么时候,才生出大的文学和艺术来呢?无端愤慨,以为根本不加改善,则终究归于无成者,也就为了这缘故。象我辈似的,即使怎样跳出“象牙之塔”来,伎俩也不过如此,那是自己万分了然的,但是看了那些将思想当作危险品,以演剧为乞儿的游戏,脱不出顽冥保守的旧思想的人们,却实在从心底里气忿。所以虽然明知道比起洛斯庚之流所做的事来,及不到百分之一,千分之一,不,并且还及不到万分之一,也要从“象牙之塔”里暂时一伸颈子,来写这样的东西了。

この問題に対する唯一の解答は、私の見るところ、文学は文学の方法で社会の問題に取り組むべきだということである。すなわち、抽象的な議論ではなく、具体的な人間の姿を通して、社会の問題を描くということである。

【十五 诗三篇】

我不想讲什么道理,还是谈诗罢。

诗三篇,都是勃朗宁的作品。作为根柢的中心思想是同一的,这诗圣的刚健而勇猛,而又极其壮快的人生观,就在其中显现着。

在《青春和艺术》(Youth and Art)里所说的,是女的音乐家和男的雕塑家两个,当青年时,私心窃相爱恋,而两皆犹豫逡巡,终于没有披沥各人的相思之情的末路的惨状。说的是女人,是追忆年青的往日,对于男的抱怨之言。

还在修业的少年雕塑家,正当独自制作着的时候,却从隔路的对面的家里,传出女的歌唱和钢琴声来。那女子的模样,是隔窗依稀可见的,但没有会过面。这事不知怎样,很打动了这寂寞的青年的心了。女的那一面,也以为如果掷进花朵来,即可以用眼光相报。春天虽到,而两人的心都寂寞。女的是前年秋季到伦敦来修业,豫备在乐坛取得盛大的荣名的。

藏着缠绵之情,两人都踌蹰着,而时光却逝去了。男的又到意大利研究美术去,后来大有声名,列为王立美术院之一员。且至于荷了授爵的荣耀。

良い文学作品は、特定の時代の特定の人間を描きながら、同時に人間一般の普遍的な問題を提起する。チェーホフの短篇は、十九世紀末のロシアの田舎を描いているが、そこに描かれた人間の孤独や倦怠は、時代と場所を超えて、あらゆる読者の胸に響く。これが文学の力であり、宣伝や論文にはない文学固有の力なのである。

女的后来也成了不凡的音乐家,有名于交际界,其间有一个侯爵很相爱,不管女的正在踌蹰着,强制地结了婚了。

这侯爵夫人和声名盖世的雕刻家,在交际场中会见了。这时候,女的羞得象一个处女。

世间都激赏这两人的艺术好,然而两人的生活是不充实的,即使叹息,也并不深,即使欢笑,心底里也并不笑。他们的生活是补钉,是断片。

Each life’s unfulfilled,you see;

It hangs still,patchy and scrappy.

——Youth and Art XVI.

他们两个的艺术里面,所以,缺少力量;总有着什么不足的东西。这就因为应该决心的事情,没有决心的缘故;奋然直前,鬼神也避易的,而他们竟没有直前的缘故。到了现在,青春的机会可已经不知道消失在那里了。

勃朗宁还有刺取罗马古诗人的句子,题曰《神未必这样想》(Dis Aliter Visum)的一篇诗,也有一样的意思。这是愤怒的女子,谴责先前的恋人的话。正如今夜一样,十年以前,他们俩在水滨会见了。女的还年青,男的却大得多,因此也多有了所谓“思虑”“较量”这些赘物。男的也曾经想求婚,但还因为想着种种事,踌躇着。例如这女子还不识世故呀,年纪差得远,将来也有可虑呀之类,怀了无谓的杞忧,男的一面,竟没有决行结婚的勇气。事情就此完结了。待到十年后的今日,男的还是单身,但和ballet(舞曲)的女伶结识着;女的却以并无爱情的结婚,做了人妻了。岂但因为男的一面有了思虑较量这些东西,这两人的生活永被破坏了呢,其实是现在相牵连的四人的灵魂,也统统为此沦灭。在男人,固然自以为思虑较量着罢,但诗圣却用题目示意道:“神未必这样想。”

中国の文壇で、この力を持った作品はまだ少ない。多くの作品は、社会の問題を扱ってはいるが、その扱い方が直接的すぎるか、あるいは表面的すぎる。人間の内面に深く入り込み、そこから社会を照射するという方法を、まだ十分に習得していないのである。

凡有读这两篇诗的人们,该可以即刻想起作者勃朗宁这人的传记的一种异采罢。

诗人勃朗宁是通达的人,是信念的人;有着尽够将自己的生活,堂皇地真实地来艺术化的力量,总不使“为人的生活”和“为艺术家的生活”分成两样的。这就因为在他一生的传记中,并没有所谓“自己分裂”那样的惨淡的阴影的缘故。当初和女诗人伊利沙伯巴列德相爱恋,而伊利沙伯的父亲不许他们结婚。于是两人就随便行了结婚式,从法兰西向意大利走失了。虽说这病弱的女诗人比丈夫短命,但勃朗宁夫妻在意大利的十六年间的结婚生活,却真是无上之乐的幸福者。和遭着三次丧妻的不幸的弥耳敦相对照,其为幸福者,是至于传为古今文艺史上的佳话的。试一翻夫妻两诗人的诗集,又去看汇集着两人的情书的两卷《书翰集》,则无论是谁,都能觉到这结婚生活的幸福,是根本于勃朗宁的雄健的人生观的罢。在怀着不上不下的杞忧,斤斤于思虑较量的聪明人,那“走失”,也就是万万做不出来的技艺。

较之上文所举的两篇更痛快,更大胆,可以窥见勇决的勃朗宁对于人生的态度者,是那一篇《立像和胸像》(The Statue and the Bust)。每当论勃朗宁之为宗教诗人,为思想家的时候,道学先生派的批评家往往苦于解释者,就是这一篇。

しかし希望がないわけではない。若い作家たちの中には、この方法を模索している者もいる。彼らはまだ未熟であり、作品にはまだ多くの欠点がある。しかし方向は正しい。彼らが成熟すれば、中国の文学も新しい段階に入るであろう。

事情要回到三百多年的往昔去。意大利弗罗连斯的望族力凯尔提(Riccardi)家迎娶新妇了。

在高楼的东窗,侍女们护卫着,俯瞰着街上广场的是新妇。忽然间,瞥见了缓缓地加策前行的白马银鞍的贵公子了。

“那品格高华的马上人是谁呢?” 新妇赧着颜这样问。侍女低声回答说,“是飞迪南特(Ferdinand)大公呵。”

过路的大公也诧异地向窗仰视,探问她是什么人,从者答道,“那是新近结婚的力凯尔提家的新妇。”

当大公用恋人的眼,仰看楼窗的时候,宛如初醒的人似的,新妇的眼也发了光,——她的“过去”是沉睡。她的“生,”从这时候才开始。从因爱生辉的四目相交的这刹那起,她这才苏醒了。

第18節

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是夕,大张新婚的飨宴,大公也在场。大公看见华美的新夫妇近来了。这瞬间,大公和新妇觌面了。依那时的宫庭的礼仪,大公遂赐臣僚力凯尔提家的新妇以接吻。

这真不过是一瞬间。在这瞬息中,两人该不能乘隙交谈的,但在垂头伫立的新郎,却仿佛听到一句什么言语了。

是夜,新郎新妇在卧室的灯影下相对的时候,男的便宣言:到死为止,不得走出宅外一步去;只准从东窗下瞰人世,象那寺中的编年记者似的。

“遵命,”口头是回答了,但新妇的心中,却有别的回答在:和这恶魔,再来共这夜么?在晚祷的钟声未作之前,脱离此间罢,扮作侍从者模样,逃走是很容易的。——但是,明日却不可。(这样想着的时候,她的眼光凝滞了。)父亲也在这里,为了父亲,再停一日罢。单是只一日。大公的经过,明天也一定可以看见的罢。

その夕べ、新婚の盛大な饗宴が催され、大公もまた列席していた。大公は華やかな新婚の夫妻が近づいてくるのを見た。その瞬間、大公と新婦は面と向かった。当時の宮廷の礼儀に従い、大公は臣僚リカルティ家の新婦に接吻を賜った。

在床上这样想,她翻一个身,便睡去了。谁都如此,事情决定,说是明天,便睡去,这新妇也如此的。

这一夜,大公那一面也在想:纵使这幸福的杯,在精神和肉体上怎样地价贵,或怎样地价廉,也还是一饮而尽罢。明日,便召了趋殿的新郎,请新妇到沛忒拉雅(Petraya)的别邸中,去度新婚的佳日。但新郎却冠冕地辞谢了。他说,在己固然是分外的光荣,但对于南方生长的妻,北的山风足以伤体,医生是禁其出外的。

大公也不强邀,就此中止了,但暗想,那么,今夜就决行非常手段,诱出新妇来罢。然而且住,今夜姑且罢休。须迎从法兰西来的使节去,不能做。无法可想,暂停一日罢。而且单以经过那里,仰窥窗里的容颜,来消停这一日罢。

的确,那一天经过广场的时候,因爱生辉的大公的眼波,——真心给以接吻的口唇,窗里的女人一一看见了。

说是明日,又说是明日,这样踌躇起来,一日成为一周,一周成为一月,一月又延为一年。在犹豫逡巡中,时光逝去了。爱的热会冷却罢,老境会临头罢。说着且住且住,以送敷衍的月日,而迎新年。生活的新境界,总不能开拓。幽囚之身,则从东窗的栏影里下窥恋人,经过广场的大公,则照例仰眺窗中的女子,每日每日,都说着明日明日地虚度过去。用了不彻底的敷衍和妥协,来装饰对于世间的体面的几何年,就这样地过去了。

她有一天,在自己的头发中发见了几丝的白发。她知道“青春”的逝去了。两颊瘦损,额上已有皱纹。以前默然对镜的她,便急召乐比亚(Robbia)的陶工,命造自己的胸像,并教将这胸像放在俯瞰那恰恰经过广场的恋人的位置上,聊存年青时候的余韵的姿容。

これは実にただの礼儀にすぎなかったのだが、しかしこの一瞬が運命を変えた。大公は新婦の美しさに心を奪われ、新婦もまた大公の威厳に打たれた。こうして宮廷の中に秘密の恋が芽生えたのである。

大公也叹息道,“青春呀——我的梦消去了!要留下他的铭记罢?”于是召唤婆罗革那(Bologna)的名工,使仿照自己的骑马丰姿,造一个黄铜的立像,放在常常经过的广场中。

这两人的“立像和胸像”留在地上,但两人在地下,现在正静候着神的最后的审判罢。今日说着明日,送了“想要努力的懒惰”的每日每日,终于不能决行那人生一大事的他们俩,神大概未必嘉许罢。诗人勃朗宁说。

诗人说,“也许有人这么说着来责备罢。因为迟延了,所以正好,一做,不就犯了罪恶么?”这虔敬的宗教诗人,是决不来奖劝和有夫之妇的背义之爱的。只是,人生者,乃是试练。这试练,正如可以用善来施行一般,也可以用恶。决胜负者,无须定是赌钱。筹马也不妨,只要切实地诚恳地做,就是真胜负。即使目的是罪恶罢,但度着虚饰敷衍的生活的事,就误了人生的第一义了。冲动的生命,跃进的生命,除此以外,在人生还有什么意义呢?

《立像和胸像》的作者既述了这意思,在最末,更以古诗人荷拉调斯(Horatius)诗集里的名句结之。曰,“不是别人的事呵!”(De te,fabula!)

西洋的书籍里常常看见的这有名的警世的句子,也在马克斯的《资本论》(Karl Marx: Das Kapital)中,因日本的翻译者而被误译了。

私がこの逸話を紹介するのは、西洋の宮廷恋愛の風俗を描写するためではない。これは翻訳の問題に関わるのである。すなわち、こうした異文化の場面を中国語に訳す際の困難さについて、考えてみたいのである。

【十六 尚早论】

勃朗宁并非教人以道德上的anarchism(无治主义)或是什么。在人生,是还有比平常的形式道德和用了法律家的道理所做的法则更大,更深,而且更高的道德和法则的。在还未达到这样的第一义底生活以前,我们也还是办事员,是贤母良妻,是学问研究职工,是投机者,是道学先生。而且,并不是“人”。在想要抓住这真的“人”的地方,就有着文艺的意义,有着艺术家的使命。

呵呀,又将笔滑到文艺那边去了。这样的事,现在是并不想写的。

勃朗宁说,恶也不打紧,想做,便做去。在两可之间,用了思虑和较量,犹豫逡巡,送着敷衍的微温的每日每日,倒是比什么都更大的罪恶。然而世上有一种尚早论者。在日本,尤其是特多的特产物。说道,普通选举是好的,但还早。说道,工人联合也赞成的,但在现今的日本的劳动者,还早。说道,女子参政也不坏,但在现今的日本的妇人,还太早。每逢一个问题发生,这尚早论者的聪明人,便出来阻挠。说道凡事都不要着急。且住且住地挽留。天下也许有些太平罢,但以这么畏葸的妥协和姑息的态度,生活改造听了不要目瞪口呆么?

勃朗宁说的是恶也不妨,去做去。古来的谚语也教人“善则赶先。”然而尚早论者,却道善也不必急。明日,后日,明年,十年之后,这么说着,要踏进终于在明镜中看见几丝银发的力凯尔提家的夫人的辙里去。倘若单是自己踏进去,那自然是请便,但还要拉着别人去,这真教人忍不住了。

「大公が新婦に接吻を賜った」──この一文を訳すことは簡単である。しかしこの場面が持つ意味を中国の読者に伝えることは、はるかに難しい。なぜなら、中国には宮廷における接吻の儀礼がなく、大公という称号もなく、臣僚の新婦に対する君主の振る舞いに関する文化的コードもないからである。

游泳,原是好的,但在年纪未到的人是危险的,满口还早还早,始终在地板上练浮水,怕未必会有能够游泳的日子罢。为什么不跳到水里去,给淹一淹的?在并无淹过的经验的人,能会浮水的么?在浅水中拍浮着,用了但愿平安主义,却道就要浮水,那是胡涂的聪明人的办法。只因为关于游泳的事,我的父母是尚早论者,因此直到顶发已秃的现今,我不知道浮水。后来又割去了一条腿,所以这个我,是将以永远不识游泳的兴味完结的了。

不淹,即不会游泳。不试去冲撞墙壁,即不会发见出路。在暗中静思默坐,也许是安全第一罢,但这样子,岂不是即使经过多少年,也不能走出光明的世界去的么?不是彻底地误了的人,也不能彻底地悟。便是在日本,向来称为高僧大德的这些人们之中,就有非常的游荡者。岂不是惟在勤修中且至于有了私生儿的圣奥古斯丁,这才能有那样的宗教底经验么?

莽撞地,说道碰碎罢了者,是村夫式呆子式,乃是日本人多数之所不欲为的。无论何时,无论何地,在这国度里,尚早论占着多数者,就是那结果。

在内燃烧的生命之火的热是微弱的,影是淡薄的,创作冲动的力是缺乏的日本人,无论要动作,要前进,所需的生命力都不够。用了微温,姑息,平板,来敷衍每日每日的手段,确也可以显出办事家风的思虑较量罢。这样子,天下也许是颇为泰平无事的,但是,那使人听得要饱了的叫喊改造的声音,是空虚的音响么,还是模学别国人的口吻呢?

翻訳者は言葉を訳すだけでなく、文化を訳さなければならない。しかし文化を訳すことは、言葉を訳すことよりもはるかに困難であり、場合によっては不可能ですらある。なぜなら、文化は言葉の背後にあるものであり、言葉だけでは伝えきれないからである。

俗语说,穷则通。在动作和前进,生命力都不够者,固然不会走到穷的地步去,但因此也不会通。是用因袭和姑息来固结住,走着安全第一的路的,所以教人不可耐。

偶而有一个要动作前进的出来,大家就扑上去,什么危险思想家呀,外来思想的宣传者呀,加上各样的坏话,想将他打倒。虽然不过是跄跄踉踉摇摇荡荡之辈,但多数就是大势,所以很难当。倘没有很韧性的呆子出来,要支持不下去了。好个有趣的国度!

有人说些伶俐话,以为政府是官僚式的。在日本,民众这东西,不已经就是官僚式的么?其实,在现今的文明国中,象日本的bourgeois(中产阶级)似的官僚式的bourgeois,别地方不见其比:这是我不惮于断定的。

生命之泉已经干涸者,早老是当然的事,但日本似的惟老头子独为阔气的国度,也未必会再有。在教育界等处,二十岁的老头子决不希罕,也是实情。一进公司,做了资本家的走狗,则才出学校未久的脚色,已经成为老练,老狯,老巧了:能不使人惊绝。正如树木从枝梢枯起一样,日本人也从头上老下去。假使勃朗宁似的,到七十七岁了,而在《至上善》(Summum Bonum)这一篇歌中,还赞美少女的接吻,或如新近死去了的法兰西的卢诺亚尔(A. Renoir)似的,成了龙钟的老翁,还画那么清新鲜活的画,倘在日本,不知道要被人说些甚么话呢。我每听到“到了那么年纪了……”这一句日本人的常套语,便往往要想起这样的七十岁八十岁的青年之可以宝贵来。说道“还年青还年青,”在“年青”这话里,甚至于还含有极其侮蔑的意思者,是日本人。这也是国粹之一么?

このことは、単に翻訳技術の問題にとどまらない。異文化理解という、より広い問題に関わっている。我々は外国の文学を読むことによって、外国の文化を理解しようとする。しかし文学を通じて理解できる文化は、あくまでも文学という窓を通して見た文化にすぎない。窓は現実の一部しか映さないのである。

【书斋生活与其危险】

【一】

我们的过活,是一面悟,一面迷。无论怎样的圣僧,要二六时中继续着纯一无垢的心境,是不能够的。何况是凡虑之浅者。有时悲,有时愤,而有时则骄。这无穷的内心的变化,我们不但羞于告诉人,还怕敢写在日记上。便是被赞为政治家中所少见的高德的格兰斯敦,日记上也只写一点简单的事:这是很有意味的。

虽是以英国政界的正直者出名的穆来,那回忆录也每一页中,总有使读者不能餍足的处所。尤其是例如他劝首相格兰斯敦引退,而推罗思培黎卿为后任这事,他的心里可有自己来做将来的首相的希望,抬了头的呢,就很使读者觉得怀疑,这是因为凡有对于人生的诸相,赤裸裸地,正直地加以观察者,深知道人间内心的动机,是复杂到至于自己也意识不到的。

我所熟识的一个有名的美国的学者,有一天突然对我说:——

“食和性的欲求,满足了之后,实在会有复杂的可讶的各种动机,在人心上动作起来的。”

这是意味深长的话,现在还留存在我的耳朵中。倘将沁透着自己内心的这可讶的各种动机的存在,加以检讨,便使我们非常谦逊。如果是深深地修行了自己反省的人,会对着别人说些什么我是单为爱国心所支配的,单为义务心所驱使的那样大胆的话的么?

然而太深的内省,却使人成为怀疑底和冷嘲底。对于别人大声疾呼的国家论和修身讲话之类,觉得很象呆气的把戏,甚至于以为深刻的伪善和欺骗。于是就总想衔着烟卷,静看着那些人们的缎幕戏文。这在头脑优良的人,尤其是容易堕进去的陷阱。

だからといって、翻訳や異文化理解の試みが無意味であるとは思わない。不完全ではあっても、窓を通して見ることは、何も見ないよりもましである。重要なのは、窓を通して見ているということを常に意識し、自分が見ているものが現実の全体ではないことを忘れないことである。

专制主义使人们变成冷嘲,约翰穆勒所说的这话,可以用了新的意思再来想一想。专制治下的人民,没有行动的自由,也没有言论的自由。于是以为世间都是虚伪,但倘想矫正它,便被人指为过激等等。生命先就危险。强的人们,毅然反抗,得了悲惨的末路了。然而中人以下的人们,便以这世间为“浮世”,吸着烟卷,讲点小笑话,敷衍过去,但是,当深夜中,涌上心来的痛愤之情,是抑制不住的。独居时则愤慨,在人们之前则欢笑,于是他便成为极其冷嘲的人而老去了。生活在书斋里,沉潜于内心的人们,一定是昼夜要和这样的诱惑战斗的。

【二】

但是,比起这个来,还有一种平凡的危险,在书斋生活者的身边打漩涡。我们对于自己本身,总有着两样的评价。一样是自己对于自己的评价,还有一样是别人对于自己本身所下的评价。这两样评价间的矛盾,是多么苦恼着人间之心呵。对于所谓“世评”这东西,毫不关心者,从古以来果有几人呢?听说便是希腊的圣人梭格拉第斯,当将要服毒而死的那一夜,还笑对着周围的门徒们道,“我死后,雅典的市民便不再说梭格拉第斯是丑男人了罢”。在这一点,便可以窥见他没有虚饰的人样子,令人对于这老人有所怀念。虽是那么解脱了的哲人,对于世评,也是不能漠不关心的。

しかし多くの読者は、この意識を欠いている。翻訳を通じて得た知識を、そのまま現実の全体であると思い込む。こうして誤解が生じるのであるが、この誤解は、翻訳がなければ生じなかったものでもある。翻訳は理解を促すと同時に、誤解をも生むのである。これは翻訳の宿命であり、翻訳者はこの宿命を引き受けて仕事をするほかない。

这所谓世评,然而却能使我们非常谦逊,给与深的反省的机缘。动辄易陷于自以为是的我们,因为在世上的评价之小,反而多么刺戟了精进之心呵。所谓“经过磨炼的人”者,在或一意义上,就是凭着世间的评价,加减了自己的评价的人。然而度着和实生活相隔绝的生活的人们,却和这世间的评价毫无交涉,一生只是正视着自己的内心。所以他对于自己本身,只有惟一无二的评价,好坏都是自己所给与的评价。这评价过大时,我们便给加上一个“夸大妄想狂”的冠称,将这些人们结束掉。这样的自挂招牌的人们,并不一定发生于书斋里,自然是不消说得的。然而书斋生活者的不绝的危险,却就在此。

第19節

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这样的书斋生活者的缺点,有两层。就是:他本身的修业上的影响,和及于社会一般的影响。第一层姑且勿论,第二层我却痛切地感得。凡书斋生活者,大抵是作为学者、思想家、文艺家等,有效力及于实社会的。因此,他所有的缺点,便不是他个人的缺点,而是他之及于社会上的缺点。于是书斋生活者所有的这样的唯我独尊底倾向,乃至独善的性癖,对于社会一般,就有两种恶影响,一种,是他们的思想本身的缺点,即容易变成和社会毫无关系的思想。还有一种,是社会对于他们的思想的感想,即社会轻视了这些自以为是的思想家的言论。其结果,是成了思想家和实社会的隔绝。思想和实生活的这样的隔绝,自然并非单是思想家之罪,在专制政治之下,这事就更甚。因为反正是说了也不能行,思想家便容易流于空谈放论了。

このような書斎生活者の欠点には、二つの面がある。すなわち、彼自身の修業への影響と、社会一般に及ぼす影響である。第一の面はさておき、第二の面を私は痛切に感じる。およそ書斎生活者は、おおむね学者、思想家、文学者として社会に接する。

如果我们人类生活的目的,是在文化的发达,则有贡献于这文化的发达的这些思想家们的努力,我们是应该尊重,感谢的。但若书斋生活者因了上述的缺点,和实生活完全隔绝,则在社会的文化发达上,反有重大的障碍。因此,社会也就有省察一番的必要了。

这是,在乎两面的接近。不过我现在却只说书斋生活者这一面走过来。也就是说,书斋生活者要有和实生活,实世间相接触的努力。我的这种意见,是不为书斋生活者所欢迎的。然而尊敬着盎格鲁撒逊人的文化的我,却很钦仰他们的在书斋生活和街头生活之间,常保着圆满的调和。新近物故的穆来卿,一面是那么样的思想家,而同时又是实际政治家,我总是感到无穷的兴味。并且以为对于这样的人,能够容认,包容,在这一点上就有着盎格鲁撒逊人的伟大的。读了穆来卿的文籍,我所感的是他总凭那实生活的教训,来矫正了独善底态度。

【三】

曾是美国的大统领的威尔逊,也是思想家兼实际政治家这一层,是相象的。然而威尔逊的晚年,思想家的独断底倾向,却逐渐显著起来了。这是因为他在书斋中不知不觉地得来的缺点。侃思教授的名著《平和的经济底诸效果》里面,这样地写着:——

“他没有一件连细目都具备了的计划。他不但如此不知世事,心的作用也迟钝,不会通融的。所以他一遇见鲁意乔治似的敏捷而变通自在的人,便不知所措了。他于咄嗟之间,提出改正案之类的智慧,丝毫也没有。偶尔只有一种本领,是预先在地面上掘了洞,拚命忍耐着。然而这要应急,是往往来不及的。那么,为补充这样的缺点起见,问问带来的顾问们的意见罢。这也不做。在华盛顿,也持续着讨人厌的他的超然底态度。他的出格的顾忌癖,致使不容周围放着一个同格的人。(中略)加以发了他的神学癖和师长癖,就更加危险了。他是不妥协的。他的良心所不许的。即使必须让步的时候,他也以主义之人而坚守着。于是欧洲的政治家们便表面上装作尊重他的主义模样,实则用了微妙的纤细的蛛丝,将他的手脚重重捆住了。完全背反着他的主义一样的平和条约做出来了。然而他离开巴黎的时候,一定是诚心诚意,自以为贯彻了自己之所信的。不,便是现在,一定也还在这样想。”

書斎に籠もることの最大の問題は、現実からの乖離である。書物の中の世界は、現実の世界とは異なる。書物は現実を反映しているが、現実そのものではない。書物を通じてのみ世界を知る者は、現実について語る資格があるのか。この問いは、すべての知識人が自らに問うべきものである。

这侃思教授的威尔逊评,在我,全部是不能首肯的。他自己就是书斋中人的侃思教授,将实际政治的表里,太用了平面底的论理来批评了。但在这威尔逊评中,却将书斋生活者的性格底弱点,非常鲜明地,而且演剧底地描出着。

使我来说,则威尔逊在书斋生活者之中,是少有的事务家,政略家。然而虽是这非凡的实务底思想家,也终于不免书斋生活者的缺陷。在这一点上,是使我们味得无限的教训的。在日本的历史上,则新井白石,在支那的历史上,则王安石,倘将他们的性格之类研究起来,一定可以发见,是因为这样的缺点,致使九仞之功,亏于一篑的罢。

我的结论,是:所以书斋生活是有着这样的自以为是的缺点的,而在东洋却比英、美尤有更多的危险,所以要收纳思想家的思想,应该十分注意。还有,一面因着社会一般的切望,书斋生活者应加反省;而一面也应该造出使思想家可以更容易地和实社会相接触的社会来。

もっとも、書斎を出て現実に触れればすべてが解決するわけでもない。現実に触れる方法にも、さまざまなものがある。観察する者と参加する者とでは、得られるものが異なる。表面を撫でる者と深く潜る者とでは、見えるものが異なる。

【论办事法】

一说到英雄之流,就似乎是很大方,很杂驳似的,但我们从他们的日记之类来仔细地一研究,实在倒是颇为用意周到的,细心的,不胡涂的人们。凡有读拿破仑的传记的人,就知道他虽至粮秣之微,也怎样地注意。无论是家康,是赖朝,是秀吉,都是小心于细事的。不过他们的眼量在毫厘之末,其心却常不忘记大处高处的达观罢了。

说到底,就是英雄都是办事家。但在不觉其为办事家之处,即有他们的非凡的用意。那么,他们怎样地处置他们身边的事务的呢?这一事,应该是后世史家的很有兴味的题目。只因史家自己大抵不是办事家,所以英雄之为办事家的一方面,便往往被闲却了。

在这意义上,则去今百年,英国的官吏显理泰洛尔(Sir Henry Taylor)所记的,题为《经世家的用心》这一篇,乃是颇有兴味的文章了。而且对于日对繁忙的事务的现代活社会的人们,所作参考之处也不少。作者是久作英国殖民部的官吏,有捷才之誉,且是出名的诗人。那大要曰:——

一、文件的分类。

凡办理事务的人,一经收到文件,须立加检点,分别应行急速的处置与否,将这分开,而加以整理。

二、不无端摩弄。

既经分类之后,则除了已有办理此案的决断时以外,决不得摩弄这些文件。因为养起了懵然凝视文件,或无端摩弄的习惯,则不但浪费时间,且至于渐渐觉得这案件似乎有些棘手,渐成畏缩,转而发生寡断的性质。又,反复着一样的事,不加决断,也要成为抑制活动底精神的结果的。

しかし少なくとも、書斎の外に出ようとする意志は必要である。出てみて初めて、書物の知識がいかに不完全であるかが分かるからである。そしてこの不完全さの自覚こそが、真の知識への第一歩なのである。

而且要行文件的裁决,也须当这事件的新出之际。因为文件久置几上,则为尘埃所封,给见者以宛然失了时机的古董一般的印象,所以虽行办理,也觉不快,而有不适意之感了。

这泰洛尔的一言,是凡有略有办事经验的人,谁都感到的。尤其是,生活于日本官场的人们,都熟知久经搁置而变了灰色的旧文件,是怎样给人以不快的印象。这一点。和亚美利加的公署和公司等,横在几上的文件,是如何崭新,鲜明,活泼的相比较,颇为遗憾的。

三、于心无所凝滞。

又,凡欲作经世家的人们,当养自制之念。这所谓自制,乃动和静的自由的心境之谓也。就是,欲办理一事,则全心集中于此者,动也。与此事无关时,将一切从念头忘却者,静也。在经世家,最当戒慎者,是既非决定,也非不决,有一件事凝滞于心中。

四、整顿。

经世家所最当避忌者,是终年度着忙碌似的,混乱的生活。经世家须常度着整顿的生活。

五、写字的时候要慢慢地写。

凡当办事之际,有急遽的性癖的人,那矫正法,是在学习以身制心的方法。就是使日常的身体的举动,舒缓起来。这就因为身体也可以称为精神的把柄的缘故。然则,所当时时留意者,是决不匆促写字。慢慢地写字的习惯,是使精神沉静的。

六、整顿文件要自己动手。

整理文件,做得干净,实在是必要的事。而将这些文件安排,束缚,以及摘要等的工作,必须自己亲手做去,决不可委托秘书那些人。为什么呢?因为文件的整理,同时也是自己的精神的整顿的缘故。

中国の知識人には、書斎に籠もりがちな者が多い。これは中国の知識人の伝統であり、必ずしも彼ら個人の怠慢ではない。中国では古来、「学」と「行」は分離していた。学ぶことと行うことは別のことであり、学ぶ者は必ずしも行わず、行う者は必ずしも学ばなかった。この分離が、中国の知識人を書斎に閉じ込めてきたのである。

七、集中心。

当养成常将我心集中于一事的习惯。在办理一事的中途,忽然想起那怠慢了回复的信件等,是最宜戒慎的。

八、冥想时间的隔离。

经世家虽有于每一周中,以或一日作为休息日,加以隔离的必要;但倘能够,则将一日之中的或时间,作为冥想时间,隔离起来的事,也是紧要的。

以上,是泰洛尔所说的大要。可见粗看好象鲁钝的英国人,对于那各种设施,用意的周到。所说诸点,要当作经世家的要件,原是不可以的。但在经世家的资格中,算进这样见得琐屑的事情去,却惹了我们的兴味。

(一九二三年八月廿六日。)

【闲谈】

世间忙碌起来,所谓闲谈者,就要逐渐消灭下去么,那是决不然的。倒是越忙碌,我们却越要寻求有趣的闲谈。那证据,是凡有闲谈的名人,大抵是忙碌的人,或者经过了忙碌的生活的人。

听说,在西洋,谈天的洗炼,是起于巴黎的客厅的。人说,法兰西人为了交换有趣的谈话而访问人,英吉利人为了办事而访问人。巴黎的马丹阿培尔农的客厅,至今还是脍炙人口。这是有名的文人政客,聚在夫人的客厅里,大家倾其才藻,谈着闲天的。

在这样的闲谈里受了洗炼,所以法兰西语的纯粹,更加醇化了罢。

英国政治家的闲谈的记录中,也有一种使人倾慕之处。昨年物故的穆来卿,在做格兰斯敦第三次内阁的爱尔兰事务大臣,住在达勃林的时候,同事的亚斯圭斯,文人的来雅尔,来访问他。就在凤凰公园左近的官舍中,一直闲谈到深夜。其时是初秋,夜暗中微风拂拂之际罢。忽然,亚斯圭斯从嘴上取去雪茄烟,问道:——

しかし今や時代は変わった。書斎に籠もっていては、社会の急速な変化についていけない。知識人は書斎を出て、現実の中に身を置かなければならない。さもなくば、彼らの学問は化石となり、彼らの言葉は空論となるであろう。

“假如现在骤然要被流放到无人岛里去了,而只准有一个人,带一部或一作家的全集,那么,你带谁的书去呢?”

大家便举出样样的作家的名字来。亚斯圭斯却道:——

“我是带了巴尔札克(Balzac)的传记去。”

于是谈到巴尔札克的天才的多方面。穆来说,真的天才,倘做了伦敦的流行儿,便不中用了。于是还谈到无论是迭仪生,是渥特渥思,都离开了世间过活。裴伦(G. Byron)却相反,身虽在流窜的境地中,而心则常在伦敦的社交界,因此将作品的价值下降了。蔼里渥德(George Eliot)是每星期只见客一次的等等。

这时候,是穆来为了爱尔兰问题,正在困苦中的时候。他和这些远远地从伦敦来访问的友人食前食后闲谈之后,仿佛是得了无限的慰藉似的。

在十月二十五日的日记上,他这样写着:——

“晚餐前后约一小时,亚斯圭斯、来雅尔和自己,作极其愉快的闲谈。亚斯圭斯后来对吾妻说,从来没有那么愉快的谈天过。那时我们谈到穆勒和斯宾塞,还大家讲些回忆和轶话。谈话从我的心里流水似的涌出。一月以来,没有遇见过这样的气氛。而且因为晚餐,去换衣服的时候,忽然在自己的胸中,泛出了这些友而兼师的先导者的清白的人们的事,顷日来的政治上的重荷,便一时从肩上脱然滑下了。”

私自身もまた書斎生活者の一人であり、この欠点を免れていない。しかし少なくとも、この欠点を自覚はしている。自覚しているからといって欠点が消えるわけではないが、自覚しないよりはましであろう。

这一句,可谓简而道破了闲谈的价值。

没有闲谈的世间,是难住的世间;不知闲谈之可贵的社会,是局促的社会。而不知道尊重闲谈的妙手的国民,是不在文化发达的路上的国民。

(一九二四年六月三十日。)

【小约翰】

荷兰

F·望·蔼覃 作

【引言】

在我那《马上支日记》里,有这样的一段:——

“到中央公园,径向约定的一个僻静处所,寿山已先到,略一休息,便开手对译《小约翰》。这是一本好书,然而得来却是偶然的事。大约二十年前罢,我在日本东京的旧书店头买到几十本旧的德文文学杂志,内中有着这书的绍介和作者的评传,因为那时刚译成德文。觉得有趣,便托丸善书店去买来了;想译,没有这力。后来也常常想到,但是总被别的事情岔开。直到去年,才决计在暑假中将它译好,并且登出广告去,而不料那一暑假过得比别的时候还艰难。今年又记得起来,翻检一过,疑难之处很不少,还是没有这力。问寿山可肯同译,他答应了,于是就开手,并且约定,必须在这暑假期中译完。”

这是去年,即一九二六年七月六日的事。那么,二十年前自然是一九○六年。所谓文学杂志,绍介着《小约翰》的,是一八九九年八月一日出版的《文学的反响》(Das literarische Echo),现在是大概早成了旧派文学的机关了,但那一本却还是第一卷的第二十一期。原作的发表在一八八七年,作者只二十八岁;后十三年,德文译本才印出,译成还在其前,而翻作中文是在发表的四十整年之后,他已经六十八岁了。

書斎を出ることは、必ずしも物理的に外に出ることだけを意味しない。書斎の中にいても、窓を開け、外の風を入れることはできる。すなわち、書物だけでなく、新聞を読み、人の話を聞き、社会の動きに注意を払うことである。これだけでも、完全に閉じ籠もるよりはましである。

日记上的话写得很简单,但包含的琐事却多。留学时候,除了听讲教科书,及抄写和教科书同种的讲义之外,也自有些乐趣,在我,其一是看看神田区一带的旧书坊。日本大地震后,想必很是两样了罢,那时是这一带书店颇不少,每当夏晚,常常猬集着一群破衣旧帽的学生。店的左右两壁和中央的大床上都是书,里面深处大抵跪坐着一个精明的掌柜,双目炯炯,从我看去很象一个静踞网上的大蜘蛛,在等候自投罗网者的有限的学费。但我总不免也如别人一样,不觉逡巡而入,去看一通,到底是买几本,弄得很觉得怀里有些空虚。但那破旧的半月刊《文学的反响》,却也从这样的处所得到的。

第20節

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我还记得那时买它的目标是很可笑的,不过想看看他们每半月所出版的书名和各国文坛的消息,总算过屠门而大嚼,比不过屠门而空咽者好一些,至于进而购读群书的野心,却连梦中也未尝有。但偶然看见其中所载《小约翰》译本的标本,即本书的第五章,却使我非常神往了。几天以后,便跑到南江堂去买,没有这书,又跑到丸善书店,也没有,只好就托他向德国去定购。大约三个月之后,这书居然在我手里了,是茀垒斯(Anna Fles)女士的译笔,卷头有赉赫博士(Dr. Paul Raché)的序文,《内外国文学丛书》(Bibliothek die Gesamt-Literatur des In-und Auslandes,Verlag von Otto Hendel,Halle a. d. S.)之一,价只七十五芬涅,即我们的四角,而且还是布面的!

私はまだ覚えている、あの頃それを買った目的はまことに滑稽なもので、ただ彼らが半月ごとに出版する書名と各国の文壇の消息を見たかっただけである。いわば屠門を過ぎて大いに嚼むようなもので、屠門を過ぎても空しく嚥むだけの者よりはいくらかましであったが、進んで群書を購読しようという野心に至っては、夢の中ですら思い及ばなかったのである。

这诚如序文所说,是一篇“象征写实底童话诗”。无韵的诗,成人的童话。因为作者的博识和敏感,或者竟已超过了一般成人的童话了。其中如金虫的生平,菌类的言行,火萤的理想,蚂蚁的平和论,都是实际和幻想的混合。我有些怕,倘不甚留心于生物界现象的,会因此减少若干兴趣。但我豫觉也有人爱,只要不失赤子之心,而感到什么地方有着“人性和他们的悲痛之所在的大都市”的人们。

这也诚然是人性的矛盾,而祸福纠缠的悲欢。人在稚齿,追随“旋儿”,与造化为友。福乎祸乎,稍长而竟求知:怎么样,是什么,为什么?于是招来了智识欲之具象化:小鬼头“将知”;逐渐还遇到科学研究的冷酷的精灵:“穿凿”。童年的梦幻撕成粉碎了;科学的研究呢,“所学的一切的开端,是很好的,——只是他钻研得越深,那一切也就越凄凉,越黯淡”。——惟有“号码博士”是幸福者,只要一切的结果,在纸张上变成数目字,他便满足,算是见了光明了。谁想更进,便得苦痛。为什么呢?原因就在他知道若干,却未曾知道一切,遂终于是“人类”之一,不能和自然合体,以天地之心为心。约翰正是寻求着这样一本一看便知一切的书,然而因此反得“将知”,反遇“穿凿”,终不过以“号码博士”为师,增加更多的苦痛。直到他在自身中看见神,将径向“人性和他们的悲痛之所在的大都市”时,才明白这书不在人间,惟从两处可以觅得:一是“旋儿”,已失的原与自然合体的混沌;一是“永终”——死,未到的复与自然合体的混沌。而且分明看见,他们俩本是同舟……。

これは私の若い頃の話であるが、今振り返ってみると、あの頃の私の読書態度は、ある意味で正しかったのかもしれない。すなわち、まず何が出版されているかを知り、全体の見取り図を描いた上で、自分に必要なものを選んで読むという方法である。これは闇雲に手当たり次第に読むよりも、はるかに効率的である。

假如我们在异乡讲演,因为言语不同,有人口译,那是没有法子的,至多,不过怕他遗漏,错误,失了精神。但若译者另外加些解释,申明,摘要,甚而至于阐发,我想,大概是讲者和听者都要讨厌的罢。因此,我也不想再说关于内容的话。

我也不愿意别人劝我去吃他所爱吃的东西,然而我所爱吃的,却往往不自觉地劝人吃。看的东西也一样,《小约翰》即是其一,是自己爱看,又愿意别人也看的书,于是不知不觉,遂有了翻成中文的意思。这意思的发生,大约是很早的,因为我久已觉得仿佛对于作者和读者,负着一宗很大的债了。

然而为什么早不开手的呢?“忙”者,饰辞;大原因仍在很有不懂的处所。看去似乎已经懂,一到拔出笔来要译的时候,却又疑惑起来了,总而言之,就是外国语的实力不充足。前年我确曾决心,要利用暑假中的光阴,仗着一本辞典来走通这条路,而不料并无光阴,我的至少两三个月的生命,都死在“正人君子”和“学者”们的围攻里了。到去年夏,将离北京,先又记得了这书,便和我多年共事的朋友,曾经帮我译过《工人绥惠略夫》的齐宗颐君,躲在中央公园的一间红墙的小屋里,先译成一部草稿。

我们的翻译是每日下午,一定不缺的是身边一壶好茶叶的茶和身上一大片汗。有时进行得很快,有时争执得很凶,有时商量,有时谁也想不出适当的译法。译得头昏眼花时,便看看小窗外的日光和绿荫,心绪渐静,慢慢地听到高树上的蝉鸣,这样地约有一个月。不久我便带着草稿到厦门大学,想在那里抽空整理,然而没有工夫;也就住不下去了,那里也有“学者”。于是又带到广州的中山大学,想在那里抽空整理,然而又没有工夫;而且也就住不下去了,那里又来了“学者”。结果是带着逃进自己的寓所——刚刚租定不到一月的,很阔,然而很热的房子——白云楼。

しかし問題は、あの頃の私には、「自分に必要なもの」を選ぶ基準がなかったことである。何が必要で何が不必要かを判断するには、ある程度の知識と経験が必要であり、知識と経験を得るためには読まなければならない。これは一種の循環であり、この循環を断ち切るためには、結局のところ手当たり次第に読むしかないのかもしれない。

荷兰海边的沙冈风景,单就本书所描写,已足令人神往了。我这楼外却不同:满天炎热的阳光,时而如绳的暴雨;前面的小港中是十几只蜑户的船,一船一家,一家一世界,谈笑哭骂,具有大都市中的悲欢。也仿佛觉得不知那里有青春的生命沦亡,或者正被杀戮,或者正在呻吟,或者正在“经营腐烂事业”和作这事业的材料。然而我却渐渐知道这虽然沉默的都市中,还有我的生命存在,纵已节节败退,我实未尝沦亡。只是不见“火云”,时窘阴雨,若明若昧,已象整理这译稿的时候了。于是以五月二日开手,稍加修正,并且誊清,月底才完,费时又一个月。

可惜我的老同事齐君现不知漫游何方,自去年分别以来,迄今未通消息,虽有疑难,也无从商酌或争论了。倘有误译,负责自然由我。加以虽然沉默的都市,而时有侦察的眼光,或扮演的函件,或京式的流言,来扰耳目,因此执笔又时时流于草率。务欲直译,文句也反成蹇涩;欧文清晰,我的力量实不足以达之。《小约翰》虽如波勒兑蒙德说,所用的是“近于儿童的简单的语言”,但翻译起来,却已够感困难,而仍得不如意的结果。例如末尾的紧要而有力的一句:“Und mit seinem Begleiter ging er den frostigen Nachtwinde entgegen,den schweren Weg nach der grossen,finstern Stadt,wo die Menschheit war und ihr Weh.”那下半,被我译成这样拙劣的“上了走向那大而黑暗的都市即人性和他们的悲痛之所在的艰难的路”了,冗长而且费解,但我别无更好的译法,因为倘一解散,精神和力量就很不同。然而原译是极清楚的:上了艰难的路,这路是走向大而黑暗的都市去的,而这都市是人性和他们的悲痛之所在。

読書の方法については、古来さまざまなことが言われてきた。精読を勧める者もあれば、多読を勧める者もある。しかし私の経験では、精読と多読は矛盾するものではない。ある本は精読すべきであり、ある本は多読の一冊として速読すべきである。問題は、どの本を精読し、どの本を速読するかの判断である。

动植物的名字也使我感到不少的困难。我的身边只有一本《新独和辞书》,从中查出日本名,再从一本《辞林》里去查中国字。然而查不出的还有二十余,这些的译成,我要感谢周建人君在上海给我查考较详的辞典。但是,我们和自然一向太疏远了,即使查出了见于书上的名,也不知道实物是怎样。菊呀松呀,我们是明白的,紫花地丁便有些模胡,莲馨花(Primel)则连译者也不知道究竟是怎样的形色,虽然已经依着字典写下来。有许多是生息在荷兰沙地上的东西,难怪我们不熟悉,但是,例如虫类中的鼠妇(Kellerassel)和马陆(Lauferkäfer),我记得在我的故乡是只要翻开一块湿地上的断砖或碎石来就会遇见的。我们称后一种为“臭婆娘”,因为它浑身发着恶臭;前一种我未曾听到有人叫过它,似乎在我乡的民间还没有给它定出名字;广州却有:“地猪”。

この判断もまた、読書経験の蓄積なしには下せない。初めのうちは判断を誤ることも多い。精読すべき本を速読してしまったり、速読すべき本に時間を費やしてしまったりする。しかしこうした試行錯誤を繰り返すうちに、次第に判断力が養われていくのである。

和文字的务欲近于直译相反,人物名却意译,因为它是象征。小鬼头Wistik去年商定的是“盖然”,现因“盖”者疑词,稍有不妥,索性擅改作“将知”了。科学研究的冷酷的精灵Pleuzer即德译的Klauber,本来最好是译作“挑剔者”,挑谓挑选,剔谓吹求。但自从陈源教授造出“挑剔风潮”这一句妙语以来,我即敬避不用,因为恐怕“闲话”的教导力十分伟大,这译名也将蓦地被解为“挑拨”,以此为学者的别名,则行同刀笔,于是又有重罪了,不如简直译作“穿凿”。况且中国之所谓“日凿一窍而混沌死”,也很象他的将约翰从自然中拉开。小姑娘Robinetta我久久不解其意,想译音;本月中旬托江绍原先生设法作最末的查考,几天后就有回信:——

ROBINETTA 一名,韦氏大字典人名录未收入。我因为疑心她与ROBIN是一阴一阳,所以又查ROBIN,看见下面的解释:——

ROBIN:是ROBERT的亲热的称呼,

而ROBERT的本训是“令名赫赫”(!)

那么,好了,就译作“荣儿”。

英国的民间传说里,有叫作Robin good fellow的,是一种喜欢恶作剧的妖怪。如果荷兰也有此说,则小姑娘之所以称为Robinetta者,大概就和这相关。因为她实在和小约翰开了一个可怕的大玩笑。

《约翰跋妥尔》一名《爱之书》,是《小约翰》的续编,也是结束。我不知道别国可有译本;但据他同国的波勒兑蒙德说,则“这是一篇象征底散文诗,其中并非叙述或描写,而是号哭和欢呼”;而且便是他,也“不大懂得”。

もう一つ重要なのは、読書は受動的な行為ではなく、能動的な行為であるということである。本を読むとは、著者の思考を追うだけでなく、著者と対話し、著者に反論し、著者を超えていくことである。この能動性がなければ、どれだけ多くの本を読んでも、それは単なる知識の蓄積にすぎず、真の教養にはならない。

原译本上赉赫博士的序文,虽然所说的关于本书并不多,但可以略见十九世纪八十年代的荷兰文学的大概,所以就译出了。此外我还将两篇文字作为附录。一即本书作者拂来特力克望蔼覃的评传,载在《文学的反响》一卷二十一期上的。评传的作者波勒兑蒙德,是那时荷兰著名的诗人,赉赫的序文上就说及他,但于他的诗颇致不满。他的文字也奇特,使我译得很有些害怕,想中止了,但因为究竟可以知道一点望蔼覃的那时为止的经历和作品,便索性将它译完,算是一种徒劳的工作。末一篇是我的关于翻译动植物名的小记,没有多大关系的。

评传所讲以外及以后的作者的事情,我一点不知道。仅隐约还记得欧洲大战的时候,精神底劳动者们有一篇反对战争的宣言,中国也曾译载在《新青年》上,其中确有一个他的署名。

一九二七年五月三十日,鲁迅于广州东堤寓楼之西窗下记。

【原序】

在我所译的科贝路斯的《运命》(Couperus’ Noodlot)出版后不数月,能给现代荷兰文学的第二种作品以一篇导言,公之于世,这是我所欢喜的。在德国迄今对于荷兰的少年文学的漠视,似乎逐渐消灭,且以正当的尊重和深的同情的地位,给与这较之其他民族的文学,所获并不更少的荷兰文学了。

人们于荷兰的著作,只给以仅少的注重,而一面于凡有从法国、俄国、北欧来的一切,则热烈地向往,最先的原因,大概是由于久已习惯了的成见。自从十七世纪前叶,那伟大的诗人英雄约思忒望覃蓬兑勒(Joost van den Bondel,1587–1679)以他的圆满的表现,获得荷兰文学的花期之后,荷兰的文学底发达便入于静止状态,这在时光的流驶里,其意义即与长久的退化相同了。凡荷兰人的可骇的保守的精神,旧习的拘泥,得意的自满,因而对于进步的完全的漠视,永不愿有所动摇——这些都忠实地在文学上反映出来,也便将她做成了一个无聊的文学。他们的讲道德和教导的苦吟的横溢,不可忍受的宽泛,温暖和深入的心声的全缺,荷兰文学是久为站在Mynheer和Mevouw (译者注:荷兰语,先生和夫人)的狭隘细小的感觉范围之外的人们所不能消受的。

しかし中国の読書の伝統は、概して受動的である。古人の言葉を金科玉条として暗記し、それを引用することが学問であるとされてきた。古人に反論することは不遜とされ、古人を超えようとすることは僭越とされた。この伝統が、中国の知的発展を長く妨げてきたのである。

在几个成功的尝试之后,至八十年代的开头,荷兰文学上才发生了新鲜活泼的潮流,将她从古老的旧弊中撕出了。我在这里应该简略地记起几个人,在荷兰著作界上,他们是取得旧和新倾向之间的中间位置的,并且也可以看作现代理想的智力的提倡者,在最后的几年,他们都在荷兰读者的文学底见解上,唤起了一种很大的转变来。

这里首先应该称道的是天才的台凯尔(Eduard Douwes Dekker,1820–87),他用了谟勒泰都黎(Multatuli)这一个名号作文,而他一八 六○年所发表的传奇小说“Max Havelaar”,在文学上也造成了分明的变动。这书是将崭新的材料输入于文学的,此外还因为描写的特殊体格,那荷兰散文的温暖生动的心声,便突然付与了迄今所不识的圆熟和转移,所以这也算作荷兰的文学底发达上的一块界石。谟勒泰都黎之次,在此所当列举的是两个批评家兼美学家蒲司堪海忒(C.Busken–Huet,1826–86)和孚斯美尔(Karl Vosmaer,1826–88)。虽然孚斯美尔晚年时,当新倾向发展起来的时候,对之颇为漠视,遂在青年中造成许多敌人,然而他确有不可纷争的劳绩,曾给新倾向开路,直到一个一定之点,于是他们能够从此前进了。新理想的更勇敢的先锋是蒲司堪海忒,他在《文学底幻想和批评》这标题之中,所集成的论著,是在凡有荷兰底精神所表出的一切中,最为圆满的了。

今、中国には新しい読書の方法が必要である。古人を尊重しつつも、盲従しない。外国の書物を学びつつも、鵜呑みにしない。すべてを自分の頭で考え、自分の言葉で語る。これが、今の中国の知識人に最も求められていることであると、私は思う。

第21節

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人也可以举出波士本图珊夫人(Gertrude Bosboom-Toussaint,1812-86)作为一个新倾向的前驱,她的最初的传奇小说和人情小说,是还站在盘旋于自满的宽泛中的范围里和应用普通材料的旧荷兰史诗上的,但后来却转向社会底和心理学底问题,以甚大的熟练,运用于几种传奇小说上,如“Major Frans”及“Raymond de Schrijnwerker”。

ボスボーム=トゥーサン夫人(Gertrude Bosboom-Toussaint、1812-86)もまた、新傾向の先駆者として挙げることができる。彼女の初期の伝奇小説と人情小説は、なお自己満足の広漠たる範囲に盤桓し、通常の素材を用いた旧来のオランダ史詩の上に立っていたが、やがて社会的・心理学的問題へと転じ、甚だしき熟練をもって数種の伝奇小説に応用した。例えば「Major Frans」や「Raymond de Schrijnwerker」の如きである。

继八十年代初的新倾向之后,首先的努力,是表面的,对于形式。人们为韵文和散文寻求新的表现法,这就给荷兰语的拙笨弄到了流动和生命。于是先行试验,将那已经全没在近两世纪由冷的回想所成的诗的尘芥之中的,直到那时很被忽略了的抒情诗,再给以荣誉。直到那时候,几乎没有一篇荷兰的抒情诗可言,现在则这些不惮于和别民族的相比较的抒情诗,已占得强有力的地位了。

八十年代初頭の新傾向に続いて、まず表面的な形式に対する努力がなされた。人々は韻文と散文のために新たな表現法を追い求め、これがオランダ語の拙劣さに流動と生命をもたらした。かくして近二世紀にわたる冷たき回想より成れる詩の塵芥の中に完全に埋没し、甚だ閑却されていた抒情詩に、再び栄誉が与えられた。それまではオランダの抒情詩と称すべきものは殆ど一篇もなかったが、今やこれら他民族のそれとの比較を憚らぬ抒情詩が、強固なる地位を占めるに至った。

在这里,那青年夭死的沛克(Jacques Perk,1860–81)首先值得声叙,他那一八八三年出版的诗,始将一切的优秀联合起来,以极短的时期,助荷兰的抒情诗在世界文学上得了光荣的位置。

少年荷兰的抒情诗人中,安忒卫普(Antwerp)人波勒兑蒙德(Pol de Mont,geb.1859)实最著名于德国。他那在许多结集上所发表的诗,因为思想的新颖和勇敢,还因为异常的形式的圆满,遂以显见。他对于无可非议的外形的努力,过于一切,往往大不利于他的诗。加以他的偏爱最烦重最复杂的韵律,致使他的诗颇失掉些表现的简单和自然,而这些是抒情底诗类的第一等的必要。

ここで、夭折の青年ペルク(Jacques Perk、1860-81)をまず称えねばならない。一八八三年に出版された彼の詩は、あらゆる優秀を結合し、極めて短期間のうちに、オランダの抒情詩が世界文学において光栄ある地位を得る助けとなった。

一切的形式圆满,而有表现的自然者,从一八五九年生于亚摩斯达登(Amsterdam)的斯华司(Helene Swarth)可以觅得。她受教育于勃吕舍勒(Brüssel),较之故乡的语言,却是法兰西语差堪自信,因此她最初发表的两本诗集,“FLeurs du Rêve”(1879)和“Les Printannières”(1881),也用法兰西语的。后来她才和荷兰文学做了亲近的相识,但她于此却觉得熟悉不如德文。这特在她的精神生活上,加了深而持久的效力。她怎样地在极短时期中,闯入了幼时本曾熟习,而现在这才较为深信了的荷兰语的精神里,是她用这种语言的第一种著作“Eenzame Bloemen”(1883)就显示着的,在次年的续集“Blauwe Bloemen”里便更甚了。后来她还发表了许多小本子的诗,其中以“Sneeuwvlohken”(1888)和“Passiebloemen”(1892)为最有凡新荷兰的抒情诗所能表见的圆满。

若きオランダの抒情詩人の中で、アントワープ人ポル・ド・モン(Pol de Mont、geb.1859)はドイツにおいて最も著名である。多くの詩集に発表された詩は、思想の新奇さと大胆さゆえに、また異常なる形式の円満さゆえに顕著であった。非の打ちどころなき外形への努力はすべてに優先し、往々にしてその詩に大いに不利であった。最も煩雑にして最も複雑な韻律を偏愛したため、その詩は表現の簡潔さと自然さをかなり失った。これらは抒情詩の第一等の必要であるのに。

あらゆる形式の円満を備え、表現の自然さを有する者は、一八五九年にアムステルダムに生まれたスワルト(Helene Swarth)に見出される。ブリュッセルで教育を受け、故郷の言語よりもフランス語に自信を持っていたため、最初に発表した二冊の詩集「Fleurs du Reve」(1879)と「Les Printannieres」(1881)もフランス語であった。後にオランダ文学との親密な知己を得たが、その熟達はドイツ語に及ばなかった。これは特に彼女の精神生活に深く持続的な影響を与えた。幼時に習熟し、今やより深く信頼するに至ったオランダ語の精神に、いかに短期間で闖入したかは、最初の著作「Eenzame Bloemen」(1883)が示しており、翌年の続編「Blauwe Bloemen」ではさらに顕著であった。その後も多くの小詩集を発表し、中でも「Sneeuwvlokken」(1888)と「Passiebloemen」(1892)は、およそ新オランダの抒情詩が表し得る最も円満なるものであった。

繁盛地开着花的荷兰抒情诗的别的代表者,还可称道的是普林思

(J. Winkker Prins)、科贝路斯(Louis Couperus)、跋尔卫(Albert Verwey)、望蔼覃(Frederik van Eeden)、戈尔台尔(Simon Gorter)、珂斯台尔(E. B. Koster)及其他等等。

繁栄せるオランダ抒情詩の他の代表者としては、プリンス、コーペルス(Louis Couperus)、フェルヴェイ(Albert Verwey)、ファン・エーデン(Frederik van Eeden)、ゴルテル(Simon Gorter)、コステル(E. B. Koster)その他を称え得る。

固有的现代的印记,即在最近时代通过一切文学而赋给以新的理想和见解的大变动,一到荷兰文学上,其效力在抒情诗却较在起于八十年代后半的小说为少。外来的影响,是无可否认的。显著的是法兰西,荷兰和它向来就有活泼的精神的往还,这便在少年文学上收了效果。弗罗培尔(Flaubert)、左拉(Zola)、恭果尔们(Goncourts),一部分也有蒲尔治(Bourget)和舒士曼(Huysmans),联合了屡被翻译的俄国和北欧的诗人,在现代荷兰小说的发达上加了一个广远的影响。

固有の近代的刻印、すなわち最近の時代にあらゆる文学を通じて新たな理想と見解を賦与した大変動が、オランダ文学に至っては、その効力は抒情詩においてよりも八十年代後半に始まる小説においてより少なかった。外来の影響は否定し得ない。顕著なるはフランスであり、オランダとは活発なる精神的往来があり、若きオランダ文学に効果を収めた。フローベール、ゾラ、ゴンクール兄弟、一部にはブルジェとユイスマンスも、屡々翻訳されたロシアおよび北欧の詩人と連合して、近代オランダ小説の発達に広遠なる影響を加えた。

现代荷兰散文作家的圆舞烈契尔(Frans Retscher),以他的两部小说集《裸体模特儿之研究》和《我们周围的人们》揭晓。这些小说,因为它们的苦闷的实况的描写,往往至于无聊。其余则不坏,除了第一本结集使人猜作以广告为务的名目。

实况的描写较为质实的是蒂谟(Alberdingk Thym),以望兑舍勒(L. van Deyssel)的假名写作,那两本小说《爱》和《小共和国》,都立了强有力的才士的证明,虽然他的小说得到一般的趣味时,他也还很站在模仿的区域里。

近代オランダ散文作家のレッチャー(Frans Retscher)は、二部の小説集『裸体模型の研究』と『我々の周囲の人々』をもって登場した。これらの小説は苦悶の写実的描写ゆえに往々にして退屈に至る。その余は悪くないが、第一の集の題名は広告を務めとするかの如き推測を人に抱かせる。

在新近的荷兰的诗家世代之中,最年青而同时又最显著的,是那已经说过的科贝路斯(Louis Couperus),生于一八六三年。当他已以诗人出名之后,在一八九○年公表了一种传奇小说“Eline Vere”。在那里,他给我们从荷兰首都的社会世界里,提出巧妙的典型来。落于心理学底小说的领域内较甚者,是他两种后来的公布,一八九一年的“Noodlot”(《运命》)和一八九二年的“Extaze”。在凡有现代荷兰文学迄今所能做到的一切中,“Noodlot”确是最独立和最艺术的优秀的创作。

写実の描写がより質実なるはティム(Alberdingk Thym)であり、ファン・ダイッセル(L. van Deyssel)の偽名で執筆した二冊の小説『愛』と『小共和国』は、いずれも強力なる才士の証明を立てた。

已经称道的之外,还有一大列现代的叙事诗人在劳作,我要从他们中略叙其最显著者。

一个特殊的有望的才士是兑斯丕(Vosmeer de Spie),他那往年发表的心理学底小说“Een Passie”(《伤感》),激起了相当的注视。蔼曼兹(Marcellus Emants)以蒲尔治的模仿者出名,曾公布了不少的可取的小说。同时,什普干斯(Emilo Scipgens)也以人情小说家显达。作为传奇小说作家,还可称道的是望格罗宁干(van Groeningen)和亚莱德里诺(A. Aletrino),他们的小说“Martha de Bruin”和“Zuster Bertha”,可算作现代荷兰文学中的最好的作品。倘我临末还说及兑美斯台尔(Johan de Meester),他的小说“Een Huwelijk”(《嫁娶》)正如他的巴黎的影画“Parijsche Schimmen”,证明着优秀的观察才能,则我以为已将现代文学,凭其卓越的代表者们而敬叙了。

新しきオランダの詩家世代の中で最も若くして最も顕著なのは、先に述べたコーペルス(Louis Couperus)であり、一八六三年に生まれた。詩人として名を成した後、一八九〇年に伝奇小説「Eline Vere」を公にした。心理学的小説の領域にさらに深く入るのは後の二つの公刊、一八九一年の「Noodlot」(『運命』)と一八九二年の「Extaze」である。近代オランダ文学がなし得たあらゆるものの中で「Noodlot」は最も独立にして最も芸術的な優秀な創作である。

既に称えた以外にも多くの近代の叙事詩人が労作しており、その中から最も顕著な者を略述する。

在一八八五年,新倾向也创立了一种机关,“de Nieuwe Gids”(《新前导》),这样立名,是因为对待旧的荷兰的月刊“de Gids”。这新的期刊是一种战斗和革命的机关,对于文学上的琐屑和陈腐,锋利而且毫无顾虑地布成战线,还给新理想勇敢地开出道路来。现今是新倾向在荷兰也闯通了,最高贵的期刊也为他们开了栏,而那旧的《前导》,那后来一如既往,止为荷兰的最著名的文学机关的,是成了那样的期刊,即将科贝路斯的小说,首先提出于荷兰的读者了。

特殊にして有望なる才士はデ・スピー(Vosmeer de Spie)であり、先年発表の心理学的小説「Een Passie」(『傷感』)は相当の注目を惹いた。エマンツ(Marcellus Emants)はブルジェの模倣者として知られ、少なからぬ佳作を公にした。同時にシプヘンス(Emilo Scipgens)も人情小説家として顕達した。伝奇小説家としてはファン・フローニンゲン(van Groeningen)とアレトリーノ(A. Aletrino)を称え得、彼らの小説「Martha de Bruin」と「Zuster Bertha」は近代オランダ文学中の最良の作品に数え得る。最後にデ・メースター(Johan de Meester)に言及すれば、彼の小説「Een Huwelijk」(『婚姻』)はそのパリの影画「Parijsche Schimmen」と同様に優れた観察力を証明している。

可以看作群集于《新前导》周围的青年著作家的精神的领袖的,是拂来特力克·望·蔼覃(Frederik van Eeden),象征写实底童话诗《小约翰》的作者,那新的期刊即和它一同出世,并且由德文的翻译,使读者得以接近了。我在下面,将应用了译者给我的样样的说明,为这全体世界文学中不见其比的,如此完全奇特的,纯诗的故事的作者交出一二切近的报告。

一八八五年に新傾向もまた一つの機関「de Nieuwe Gids」(『新前導』)を創立した。文学上の瑣末と陳腐に対して鋭くかつ容赦なく戦線を布き、新たなる理想のために勇敢に道を開いた。今や新傾向はオランダにおいても闘い通され、最も高貴なる雑誌もそのために欄を開いた。

一八六○年生于哈来谟(Haarlem),望·蔼覃从事于医学的研究,以一八八六年毕业。他为富裕的父母的儿子,他遂可以和他的本业,在课余时一同研习他向来爱好的文学。

当大学生时,他已以几篇趣剧的作者出名,其中的两篇,曾开演于亚摩斯达登和洛泰登(Rotterdam)的剧场,得了大的功效。《小约翰》的发表,在一八八五年,只一下,便将他置身于荷兰诗人的最前列了。他的智识的广博,在他的各种小篇文字中,明白地表示着。那他所共同建立的机关,也逐年一律揭出论著来,论荷兰的,法兰西的或英吉利的文学,论社会问题,论科学的对象,无不异常分明,因了他所表出的分明的论证。他也以抒情诗人显,在荷兰迄今所到达的抒情诗里,他的诗也可以算是最好的。一八九○年他发表了一篇较大的诗,《爱伦,苦痛之歌》,(德译“Ellen,ein Lied des Schmerzes”),远胜于他先前的著作,并且在近数十年的一切同类作品中占了光荣的地位。一八八六年受了学位之后,蔼覃便到南希(Naucy),在有名的力波尔(Liébaul)的学校里研究催眠医术(Hypnotische Heilmethode)。此后不久,他在亚摩斯达登设立了一所现在很是繁忙的心理治疗法(Psychotherapie)的施医院。在接近亚摩斯达登的一处小地方蒲松(Bussum),他造起一所幽静的艺术家住所来,他在他的眷属中间,可以休息他的努力的职务,并且不搅乱地生活于他的艺术。在那里,在乡村的寂寞的沉静中,新近他完成了一种较大的作品,《约翰跋妥尔,爱之书》(德译“Johannes Viator,das Buch von der Liebe”)。在这密接下文的诗的作品中,那成熟的艺术家,将凡有《小约翰》的作者使人期待的事都圆满了。

『新前導』の周囲に群集する若き著述家の精神的指導者と見なし得るのは、フレデリク・ファン・エーデン(Frederik van Eeden)であり、象徴的写実的童話詩『小さなヨハネス』の作者であって、この新雑誌と共に世に出た。一八六〇年にハールレムに生まれ、医学を研究し一八八六年に卒業した。裕福な両親の子であったため、本業の傍ら文学を研究することができた。大学時代に既に数篇の喜劇の作者として名を成し、アムステルダムとロッテルダムの劇場で上演された。一八八五年の『小さなヨハネス』の発表は一挙に彼をオランダ詩人の最前列に置いた。一八九〇年には『エレン、苦痛の歌』を発表し先の著作を遥かに凌駕した。一八八六年に学位を得た後、ナンシーで催眠療法を研究し、アムステルダムに心理療法の施療院を設立した。近郊のブッスムに幽静な住居を構え、芸術に専念した。田園の寂寞の中で『ヨハネス・ヴィアートル、愛の書』を完成した。

願わくはこの訳本もドイツに新たなる友人を増やし、オランダ文学に対する我々の興味を堅固と進歩に至らしめんことを。

一八九二年七月、マイン河畔フランクフルトにて。パウル・ライヘ。

愿这译本也在德国增加新朋友,并且帮助了我们对于荷兰文学的渐渐苏醒的兴趣,至于稳固和进步。

一八九二年七月,在美因河边之法兰克福(Frankfurt am Main)。

【小さなヨハネス】

保罗·赉赫。

【小约翰】

【一】

我要对你们讲一点小约翰。我的故事,那韵调好象一篇童话,然而一切全是曾经实现的。设使你们不再相信了,你们就无须看下去,因为那就是我并非为你们而作。倘或你们遇见小约翰了,你们对他也不可提起那件事,因为这使他痛苦,而且我便要后悔,向你们讲说这一切了。

约翰住在有大花园的一所老房子里。那里面是很不容易明白的,因为那房子里是许多黑暗的路,扶梯,小屋子,还有一个很大的仓库,花园里又到处是保护墙和温室。这在约翰就是全世界。他在那里面能够作长远的散步,凡他所发见的,他就给与一个名字。为了房间,他所发明的名字是出于动物界的:毛虫库,因为他在那里养过虫;鸡小房,因为他在那里寻着过一只母鸡。但这母鸡却并非自己跑去的,倒是约翰的母亲关在那里使它孵卵的。为了园,他从植物界里选出名字来,特别着重的,是于他紧要的出产。他就区别为一个覆盆子山,一个梨树林,一个地莓谷。园的最后面是一块小地方,就是他所称为天堂的,那自然是美观的罗。那里有一片浩大的水,是一个池,其中浮生着白色的睡莲,芦苇和风也常在那里絮语。那一边站着几个沙冈。这天堂原是一块小草地在岸的这一边,由丛莽环绕,野凯白勒茂盛地生在那中间。约翰在那里,常常躺在高大的草中,从波动的芦苇叶间,向着水那边的冈上眺望。当炎热的夏天的晚上,他是总在那里的,并且凝视许多时光,自己并不觉得厌倦。他想着又静又清的水的深处,在那奇特的夕照中的水草之间,有多么太平,他于是又想着远的,浮在冈上的,光怪陆离地著了色的云彩,——那后面是怎样的呢,那地方是否好看的呢,倘能够飞到那里去。太阳一落,这些云彩就堆积到这么高,至于象一所洞府的进口,在洞府的深处还照出一种淡红的光来。这正是约翰所期望的。“我能够飞到那里去么!”他想。“那后面是怎样的呢?我将来真,真能够到那里去么?”

【一】

君たちに小さなヨハネスのことを少し話そう。私の物語は童話のように聞こえるが、すべては実際にあったことだ。もし信じないなら、先を読む必要はない。ヨハネスに出会っても、あの件を持ち出してはならない。それは彼を苦しめるから。

ヨハネスは大きな庭のある古い家に住んでいた。多くの暗い廊下、階段、小部屋、大きな倉庫があり、庭にはいたるところに防護壁と温室があった。これが彼の全世界であった。発見したものにはすべて名前を付けた。部屋には動物界から名を取り——毛虫倉庫、鶏小屋。庭には植物界から——木苺山、梨樹林、苺谷。庭の最奥に天国と呼ぶ場所があった。池があり白い睡蓮が浮かび、葦と風が囁き合っていた。向こうに砂丘がそびえていた。ヨハネスはしばしば高い草の中に横たわり、葦の葉の間から丘を眺めた。炎熱の夏の夕べにはいつもそこにいて、静かで清い水の深処を思い、遠くの色とりどりの雲を思った。太陽が沈むと雲は高く積み上がり、洞窟の入口のようになって、奥から淡紅色の光が射した。「あそこまで飛んでゆけないものか!」と思った。

他虽然时常这样地想望,但这洞府总是散作浓浓淡淡的小云片,他到底也没有能够靠近它一点。于是池边就寒冷起来,潮湿起来了,他又得去访问老屋子里的他的昏暗的小屋子。

しかしこの洞窟はいつも小さな雲片に散じ、近づくことはできなかった。池の辺りは寒く湿り始め、彼は暗い小部屋に戻った。

他在那里住得并不十分寂寞;他有一个父亲,是好好地抚养他的,一只狗,名叫普烈斯多,一只猫,叫西蒙。他自然最爱他的父亲,然而普烈斯多和西蒙在他的估量上却并不这么很低下,象在成人的那样。他还相信普烈斯多比他的父亲更有很多的秘密,对于西蒙,他是怀着极深的敬畏的。但这也不足为奇!西蒙是一匹大的猫,有着光亮乌黑的皮毛,还有粗尾巴。人们可以看出,它颇自负它自己的伟大和聪明。在它的景况中,它总能保持它的成算和尊严,即使它自己屈尊,和一个打滚的木塞子游嬉,或者在树后面吞下一个遗弃的沙定鱼头去。当普烈斯多不驯良的胡闹的时候,它便用碧绿的眼睛轻蔑地瞋视它,并且想:哈哈,这呆畜生此外不再懂得什么了。

父がよく養ってくれ、犬のプレストと猫のシモンがいた。シモンは大きな猫で漆黒の毛皮と太い尻尾を持ち、自らの偉大さと聡明さを自負していた。いかなる状況でも落ち着きと威厳を保ち、プレストが不躾にふざける時には碧緑の目で軽蔑して睨みつけた。

第22節

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约翰对它怀着敬畏的事,你们现在懂得了么?和这小小的棕色的普烈斯多,他却交际得极其情投意合。它并非美丽或高贵的,然而是一匹出格的诚恳而明白的动物,人总不能使它和约翰离开两步,而且它于它主人的讲话是耐心地谨听的。我很难于告诉你们,约翰怎样地挚爱这普烈斯多。但在他的心里,却还剩着许多空间,为别的物事。他的带着小玻璃窗的昏暗的小房间,在那里也占着一个重要的位置,你们觉得奇怪罢?他爱那地毯,那带着大的花纹的,在那里面他认得脸面,还有它的形式,他也察看过许多回,如果他生了病,或者早晨醒了躺在床上的时候;——他爱那惟一的挂在那里的小画,上面是做出不动的游人,在尤其不动的园中散步,顺着平滑的池边,那里面喷出齐天的喷泉,还有媚人的天鹅正在游泳。然而他最爱的是时钟。他总以极大的谨慎去开它;倘若它敲起来了,就看它,以为这算是隆重的责任。但这自然只限于约翰还未睡去的时候。假使这钟因为他的疏忽而停住了,约翰就觉得很抱歉,他于是千百次的请它宽容。你们大概是要笑的,倘你们听到了他和他的钟或他的房间在谈话。然而留心罢,你们和你们自己怎样地时常谈话呵。这在你们全不以为可笑。此外约翰还相信,他的对手是完全懂得的,而且并不要求回答。虽然如此,他暗地里也还偶尔等候着钟或地毯的回音。

ヨハネスがシモンに畏敬を抱いている理由が、君たちには分かっただろうか。この小さな茶色のプレストとは、実に意気投合して付き合っていた。美しくも高貴でもなかったが、格別に誠実で賢い動物であって、ヨハネスから二歩と離れることなく、主人の話を辛抱強く傾聴するのであった。ヨハネスがどれほどプレストを愛していたかは言い難い。しかし彼の心にはなお多くの余地が他の物事のために残されていた。小さなガラス窓のある薄暗い小部屋もまた重要な位置を占めていた。彼はあの絨毯を愛していた——大きな模様の中に顔を認めた。壁に唯一掛かっている小さな絵を愛した——動かぬ遊歩者が動かぬ庭を散歩し、噴水が噴き上げ、白鳥が泳いでいた。しかし最も愛したのは時計であった。極めて慎重に操作し、時を打つと見つめて厳粛な責務と考えた。時計が不注意で止まれば何百回もその寛容を請うた。彼が時計や部屋と話しているのを聞いたなら、君たちはきっと笑うだろう。しかし君たち自身もしばしば自分と話しているではないか。さらにヨハネスは相手が完全に理解しており答えを要求していないと信じていたが、密かに時計や絨毯の返事を待つこともあった。

学校に仲間はいたが友人ではなかった。校内では遊び協力し、外では盗賊団を結成したが、プレストと二人きりの時だけ本当の安らぎを感じた。

父は賢明にして懇切な人で、しばしばヨハネスを連れて森や丘を越えて遠くまで散歩した。あまり語り合わず、ヨハネスは父の十歩後ろについてゆき、花に出会えば挨拶し、小さな手で老木の粗い樹皮を撫でた。善意ある巨木たちはさらさらと音を立てて感謝を示した。途中で父は砂に文字を書き、ヨハネスはそれを読み上げた。父は植物や動物の名を教えた。

约翰在学校里虽然还有伙伴,但这却并非朋友。在校内他和他们玩耍和合伙,在外面还结成强盗团[1],——然而只有单和普烈斯多在一起,他才觉得实在的舒服。于是他不愿意孩子们走近,自己觉得完全的自在和平安。

ヨハネスもしばしば問うた。なぜ世界はこのようであるのか、なぜ動物や植物は死なねばならないのか、奇蹟は出現し得るのか。しかし父は賢い人であり、知っていることのすべてを語りはしなかった。

他的父亲是一个智慧的、恳切的人,时常带着约翰向远处游行,经过树林和冈阜。他们就不很交谈,约翰跟在他的父亲的十步之后,遇见花朵,他便问安,并且友爱地用了小手,抚摩那永远不移的老树,在粗糙的皮质上。于是这好意的巨物们便在瑟瑟作响中向他表示它们的感谢。

在途中,父亲时常在沙土上写字母,一个又一个,约翰就拼出它们所造成的字来,——父亲也时常站定,并且教给约翰一个植物或动物的名字。

夕べ、眠りに就く前にいつも長い祈りを唱えた。父とプレストのために祈った。シモンには必要ないと思った。自分のためにも長く祈り、最後にはいつか奇蹟が現れるだろうという希望が生じた。「アーメン」と言った後、半暗い部屋を見回した——絨毯の模様、ドアの取っ手、時計。しかし時計はカチカチと刻み、取っ手は動かず、すっかり暗くなり、ヨハネスもぐっすり眠り、奇蹟は現れなかった。しかしいつかは必ず現れる、これを彼は知っていた。

约翰也时常发问,因为他看见和听到许多谜。呆问题是常有的;他问何以世界是这样,象现在似的,何以动物和植物都得死,还有奇迹是否也能出现。然而约翰的父亲是智慧的人,他并不都说出他所知道的一切。这于约翰是好的。

晚上,当他躺下睡觉之前,约翰总要说一篇长长的祷告。这是管理孩子的姑娘这样教他的。他为他父亲和普烈斯多祷告。西蒙用不着这样,他想。他也为他自己祷告得很长,临末,几乎永是发生那个希望,将来总会有奇迹出现的。他说过“亚门”之后,便满怀期望地在半暗的屋子中环视,到那在轻微的黄昏里,比平时显得更其奇特的地毯上的花纹,到门的把手,到时钟,从那里是很可以出现奇迹的。但那钟总是这么镝鞳镝鞳地走,把手是不动的;天全暗了,约翰也酣睡了,没有到奇迹的出现。然而总有一次得出现的,这他知道。

【二】

【二】

池边是闷热和死静。太阳因为白天的工作,显得通红而疲倦了,当未落以前,暂时在远处的冈头休息。光滑的水面,几乎全映出它炽烈的面貌来。垂在池上的山毛榉树的叶子,趁着平静,在镜中留神地端相着自己。孤寂的苍鹭,那用一足站在睡莲的阔叶之间的,也忘却了它曾经出去捉过虾蟆,只沉在遐想中凝视着前面。

池のほとりは蒸し暑く死んだように静かであった。太陽は昼の仕事に真っ赤に疲れ果て、沈む前にしばし遠くの丘で休んでいた。水面はその灼熱の面影をほとんどすべて映し出し、池の上に垂れる山毛欅の葉は鏡の中の自分をしげしげと眺め、孤独な蒼鷺は睡蓮の葉の間に片足で立ち、遐想の中に凝視していた。

这时约翰来到草地上了,为的是看看云彩的洞府。扑通,扑通!虾蟆从岸上跳下去了。水镜起了波纹,太阳的象裂成宽阔的绦带,山毛榉树的叶子也不高兴地颤动,因为他的自己观察还没有完。

ヨハネスが草地にやって来た。雲の洞窟を眺めるためである。ぽちゃん、ぽちゃん!蛙が岸から飛び込んだ。水鏡に波紋が立ち、太陽の像が帯に裂けた。

山毛榉树的露出的根上系着一只旧的,小小的船。约翰自己上去坐,是被严厉地禁止的。唉!今晚的诱惑是多么强呵!云彩已经造成一个很大的门;太阳一定是要到那后面去安息。辉煌的小云排列成行,象一队全甲的卫士。水面也发出光闪,红的火星在芦苇间飞射,箭也似的。

约翰慢慢地从山毛榉树的根上解开船缆来。浮到那里去,那光怪陆离的中间!普烈斯多当它的主人还未准备之先,已经跳上船去了,芦苇的秆子便分头弯曲,将他们俩徐徐赶出,到那用了它最末的光照射着他们的夕阳那里去。

山毛欅の根に古い小さな舟が繋がれていた。乗ることは厳しく禁じられていた。しかし今宵の誘惑はなんと強いことか。雲はすでに大きな門を作り、太陽はその奥に安息に入るに違いない。

约翰倚在前舱,观览那光的洞府的深处。——“翅子!”他想,“现在,翅子,往那边去!”——太阳消失了。云彩还在发光。东方的天作深蓝色。柳树沿着岸站立成行。它们不动地将那狭的,白色的叶子伸在空气里。这垂着,由暗色的后面的衬托,如同华美的浅绿的花边。

ヨハネスはゆっくりと舫綱を解いた。プレストは既に舟に飛び乗り、葦の茎が二人を夕陽の方へ送り出した。ヨハネスは前舱にもたれ光の洞窟の奥を眺めた。「翼を!今こそ翼を、あの方へ!」太陽は消えた。雲はなお輝き、東の空は濃紺に染まった。柳が岸に沿って立ち、細い白い葉を空に伸ばしていた。

静着!这是什么呢?水面上象是起了一个吹动——象是将水劈成一道深沟的微风的一触。这是来自沙冈,来自云的洞府的。

当约翰四顾的时候,船沿上坐着一个大的蓝色的水蜻蜒,这么大的一个是他向来没有见过的。它安静地坐着,但它的翅子抖成一个大的圈。这在约翰,似乎它的翅子的尖端形成了一枚发光的戒指。

“这是一个蛾儿罢,”他想,“这是很少见的。”

静かに!水面に微風が吹いた。見回すと、舟縁に大きな青い蜻蛉が止まっていた。翅が大きな輪に震え、翅の先端が光る指輪を形作っているように見えた。やがて霧の中から漆黒の二つの目が光り出し、華奢な体が淡い青の衣を着て座っていた。白い朝顔の冠が金色の髪に載り、透明な翅が石鹸の泡のように千色に輝いていた。ヨハネスは身震いした。

指环只是增大起来,它的翅子又抖得这样快,至使约翰只能看见一片雾。而且慢慢地觉得它,仿佛从雾中亮出两个漆黑的眼睛来,并且一个娇小的,苗条的身躯,穿着浅蓝的衣裳,坐在大蜻蜓的处所。白的旋花的冠戴在金黄的头发上,肩旁还垂着透明的翅子,肥皂泡似的千色地发光。约翰战栗了。这是一个奇迹!

“你要做我的朋友么?”他低声说。

对生客讲话,这虽是一种异样的仪节,但此地一切是全不寻常的。他又觉得,似乎这陌生的蓝东西在他是早就熟识的了。

「僕の友達になってくれる?」と小声で言った。

“是的,约翰!”他这样地听到,那声音如芦苇在晚风中作响,或是淅沥地洒在树林的叶上的雨声。

“我怎样称呼你呢?”约翰问道。

“我生在一朵旋花的花托里,叫我旋儿罢!”

旋儿微笑着,并且很相信地看着约翰的眼睛,致使他心情觉得异样地安乐。

“今天是我的生日,”旋儿说,“我就生在这处所,从月亮的最初的光线和太阳的最末的。人说,太阳是女性的,但他并不是,他是我的父亲!”

「うん、ヨハネス!」夕風に鳴る葦のような声がした。

约翰便慨诺,明天在学校里去说太阳是男性的。

“看哪!母亲的圆圆的白的脸已经出来了。——谢天,母亲!唉!不,她怎么又晦暗了呢!”

旋儿指着东方。在灰色的天际,在柳树的暗黑地垂在晴明的空中的尖叶之后,月亮大而灿烂地上升,并且装着一副很不高兴的脸。

“唉,唉,母亲!——这不要紧。我能够相信他!”

「旋児と呼んでくれ!」旋児は微笑み、信頼に満ちた目で見つめた。

那美丽的东西高兴地颤动着翅子,还用他捏在手里的燕子花来打约翰,轻轻地在面庞上。

“我到你这里来,在她是不以为然的。你是第一个。但我相信你,约翰。你永不可在谁的面前提起我的名字,或者讲说我。你允许么?”

“可以,旋儿,”约翰说。这一切于他还很生疏。他感到莫可名言的幸福,然而怕,他的幸福是笑话。他做梦么?靠近他在船沿上躺着普烈斯多,安静地睡着。他的小狗的温暖的呼吸使他宁帖。蚊虻们盘旋水面上,并且在菩提树空气中跳舞,也如平日一般。周围的一切都这样清楚而且分明;这应该是真实的。他又总觉得旋儿的深信的眼光,怎样地停留在他这里。于是那腴润的声音又发响了:

「今日は僕の誕生日。月の最初の光と太陽の最後の光から生まれた。太陽は僕の父さんだよ!」

“我时常在这里看见你,约翰。你知道我在什么地方么?——我大抵坐在池的沙地上,繁密的水草之间,而且仰视你,当你为了喝水或者来看水甲虫和鲵鱼,在水上弯腰的时候。然而你永是看不见我。我也往往从茂密的芦苇中窥看你。我是常在那里的。天一热,我总在那里睡觉,在一个空的鸟巢中。是呵,这是很柔软的。”

ヨハネスは明日学校で太陽は男性だと言おうと快諾した。旋児は東を指した。月が大きく輝きながら昇り、不機嫌な顔をしていた。

旋儿高兴地在船沿上摇幌,还用他的花去扑飞蚊。

“现在我要和你作一个小聚会。你平常的生活是这么简单。我们要做好朋友,我还要讲给你许多事。比学校教师给你捆上去的好得多。他们什么都不知道。我有好得远远的来源,比书本子好得远。你倘若不信我,我就教你自己去看,去听去。我要携带你。”

旋児は手に持った燕子花でヨハネスの顔をそっと打った。「僕が君のところに来るのは母さんは賛成していない。誰にも僕の名前を出してはだめだ。約束してくれる?」

“阿,旋儿,爱的旋儿!你能带我往那里去么?”约翰嚷着,一面指着那边,是落日的紫光正在黄金的云门里放光的处所。——这华美的巨像已经怕要散作苍黄的烟雾了。但从最深处,总还是冲出淡红的光来。

旋儿凝视着那光,那将他美丽的脸和他的金黄的头发镀上金色的,并且慢慢地摇头。

“现在不!现在不,约翰。你不可立刻要求得太多。我自己就从来没有到过父亲那里哩。”

「いいよ、旋児」。すべてがまだ不慣れであった。言いようのない幸福を感じながらも夢ではないかと恐れた。プレストが傍で静かに眠り、蚋が水面を旋回していた。周囲のすべてが鮮明であった。

“我是总在我的父亲那里的,”约翰说。

“不!那不是你的父亲。我们是弟兄,我的父亲也是你的。但你的母亲是地,我们因此就很各别了。你又生在一个家庭里,在人类中,而我是在一朵旋花的花托上。这自然是好得多。然而我们仍然能够很谅解。”

于是旋儿轻轻一跳,到了在轻装之下,毫不摇动的船的那边,一吻约翰的额。

但这于约翰是一种奇特的感觉。这是,似乎周围一切完全改变了。他觉得,这时他看得一切都更好,更分明。他看见,月亮现在怎样更加友爱地向他看,他又看见,睡莲怎样地有着面目,这都在诧异地沉思地观察他。现在他顿然懂得,蚊虻们为什么这样欢乐地上下跳舞,总是互相环绕,高高低低,直到它们用它们的长腿触着水面。他于此早就仔细地思量过,但这时却自然懂得了。

旋児は語った。「僕はよくここで君を見ていた。池の砂地に座って、水草の間から見上げていた。でも君は決して僕を見つけなかった。これから僕たちは良い友達になる。学校の先生より良いことを教える。僕が連れて行く。」

他又听得,芦苇絮语些什么,岸边的树木如何低声叹息,说是太阳下去了。

「ああ旋児!あそこへ連れて行ってくれる?」と落日の輝く彼方を指した。

“阿,旋儿!我感谢你,这确是可观。是的,我们将要很了解了。”

“将你的手交给我,”旋儿说,一面展开彩色的翅子来。他于是拉着船里的约翰,经过了在月光下发亮的水蔷薇的叶子,走到水上去。

处处有一匹虾蟆坐在叶子上。但这时它已不象约翰来的时候似的跳下水去了。它只向他略略鞠躬,并且说:“阁阁!”约翰也用了同等的鞠躬,回报这敬礼。他毫不愿意显出一点傲慢来。

于是他们到了芦苇旁,——这很广阔,他们还未到岸的时候,全船就隐没在那里面了。但约翰却紧牵着他的同伴,他们就从高大的秆子之间爬到陆地上。

旋児はゆっくりと首を振った。「今はだめだ。僕自身、父のところへ行ったことがない。」

约翰很明白,他变为很小而轻了,然而这大概不过是想象。他能够在一枝芦秆上爬上去,他却是未曾想到的。

“留神罢,”旋儿说,“你就要看见好看的事了。”

他们在偶然透过几条明亮的月光的,昏暗的丛莽之下,穿着丰草前行。

“你晚上曾在冈子上听到过蟋蟀么,约翰?是不是呢,它们象是在合奏,而你总不能听出,那声音是从什么地方来的。唔,它们唱,并非为了快乐,你所听到的那声音,是来自蟋蟀学校的,成百的蟋蟀们就在那里练习它们的功课。静静的罢,我们就要到了。”

「我々は兄弟で、僕の父は君のでもある。でも君の母は大地だ」と旋児は言い、軽く跳んでヨハネスの額に口づけした。

嘶尔尔!嘶尔尔!

丛莽露出光来了,当旋儿用花推开草茎的时候,约翰看见一片明亮的,开阔的地面,小蟋蟀们就在那里做着那些事,在薄的,狭的冈草上练习它们的功课。

すると周囲のすべてが変わった。月が親しげに見え、睡蓮が顔を持ち、蚋たちの踊りの意味が自然に分かった。葦の囁きや岸辺の木の嘆息も聞こえた。

嘶尔尔!嘶尔尔!

一个大的,肥胖的蟋蟀是教员,监视着学课。学生们一个跟着一个的,向它跳过去,总是一跳就到,又一跳回到原地方。有谁跳错了,便该站在地菌上受罚。

“好好地听着罢,约翰!你也许能在这里学一点。”旋儿说。

蟋蟀怎样地回答,约翰很懂得。但那和教员在学校里的讲说,是全不相同的。最先是地理。它们不知道世界的各部分。它们只要熟悉二十六个沙冈和两个池。凡有较远的,就没有人能够知道一点点。那教师说,凡讲起这些的,不过是一种幻想罢了。

旋児が手を引いて月光に輝く睡蓮の葉の上を水の上を歩いた。蛙たちは飛び込まず、軽くお辞儀をした。葦の間を抜けて陸に上がった。ヨハネスはとても小さくなっていた。

这回轮到植物学了。它们于此都学得不错,并且分给了许多奖赏:各样长的,特别嫩的,脆的草秆子。但约翰最为惊奇的是动物学。动物被区分为跳的,飞的和爬的。蟋蟀能够跳和飞,就站在最高位;其次是虾蟆。鸟类被它们用了种种愤激的表示,说成最大的祸害和危险。最末也讲到人类。那是一种大的,无用而有害的动物,是站在进化的很低的阶级上的,因为这既不能跳,也不能飞,但幸而还少见。一个小蟋蟀,还没有见过一个人,误将人类数在无害的动物里面了,就得了草秆子的三下责打。

薄暗い茂みの下を進み、コオロギ学校に着いた。太った教師が授業を監督し、生徒たちは跳躍練習をしていた。地理、植物学、動物学を学んでいた。人類は大きくて無用にして有害な動物で、進化の極めて低い段階にあるとされた。ヨハネスは滑稽すぎて手を叩いてしまい、全校が四散した。

约翰从来没有听到过这等事!

教师忽然高呼道:“静着!练跳!”

一切蟋蟀们便立刻停了学习,很敏捷很勤快地翻起筋斗来。胖教员带领着。

这是很滑稽的美观,致使约翰愉快得拍手。它们一听到,全校便骤然在冈上迸散,草地上也即成了死静了。

「人間の中で育ったのがばれてしまう」と旋児は言った。「滑稽なことはもっとあるよ。」

“唉,这是你呀,约翰!你举动不要这么粗蛮!大家会看出,你是生在人类中的。”

“我很难过,下回我要好好地留心,但那也实在太滑稽了。”

“滑稽的还多哩。”旋儿说。

第23節

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他们经过草地,就从那一边走到冈上。呸!这是厚的沙土里面的工作;——但待到约翰抓住旋儿的透明的蓝衣,他便轻易地,迅速地飞上去了。冈头的中途是一匹野兔的窠。在那里住家的兔子,用头和爪躺在洞口,以享受这佳美的夜气。冈蔷薇还在蓓蕾,而它那细腻的,娇柔的香气,是混和着生在冈上的麝香草的花香。

约翰常看见野兔躲进它的洞里去,一面就自己问:“那里面是什么情形呢?能有多少聚在那里呢?它们不担心么?”

待到他听见他的同伴在问野兔,是否可以参观一回洞穴,他就非常高兴了。

“在我是可以的,”那兔说。“但适值不凑巧,我今晚正把我的洞穴交出,去开一个慈善事业的典礼了,因此在自己的家里便并不是主人。”

彼らは草地を通り、向こう側から丘に登った。厚い砂の中は骨が折れたが、ヨハネスが旋児の透明な青い衣を掴むと軽々と飛び上がった。丘の中腹に野兎の巣穴があり、兎が頭と前脚を穴の入口に置いて夜気を楽しんでいた。野薔薇はまだ蕾で、繊細な香りが麝香草の花香と混ざり合っていた。

“哦,哦,是出了不幸的事么?”

“唉,是呵!”野兔伤感地说。“一个大大的打击,我们要几年痛不完。从这里一千跳之外,造起一所人类的住所来了。这么大,这么大!——人们便搬到那里去了,带着狗。我家的七个分子,就在那里被祸,而无家可归的还有三倍之多。于老鼠这一伙和土拨鼠的家属尤为不利,癞虾蟆也大受侵害了。于是我们便为着遗族们开一个会,各人能什么,他就做什么;我是交出我的洞来。大家总该给它们的同类留下一点什么的。”

富于同情的野兔叹息着,并且用它的右前爪将长耳朵从头上拉过来,来拭干一滴泪。这样的是它的手巾。

冈草里索索地响起来,一个肥胖的,笨重的身躯来到洞穴。

“看哪!”旋儿大声说,“硕鼠伯伯来了。”

那硕鼠并不留心旋儿的话,将一枝用干叶包好的整谷穗,安详地放在洞口,就灵敏地跳过野兔的脊梁,进洞去了。

“我们可以进去么?”实在好奇的约翰问。“我也愿意捐一点东西。”

他记得衣袋里还有一个饼干。当他拿了出来时,这才确实觉到,他变得怎样地小了。他用了两只手才能将这捧起来,还诧异在他的衣袋里怎么会容得下。

“这是很少见,很宝贵的!”野兔嚷着……“好阔绰的礼物!”

旋児が野兎に洞穴を見学できるか尋ねると、兎は言った。「私のところはいいですが、今晩は慈善事業の式典のために貸し出しています。」不幸があったのかと問うと、「ここから千跳びの所に人間の住居が建てられ、犬を連れた人々が来て、私の家族の七人が災難に遭いました。遺族のために集会を開き、私は洞穴を提供したのです。」同情に富む野兎は前足で長い耳を引っ張り涙を拭った。

它十分恭敬地允许两个进门。洞里很黑暗;约翰愿意使旋儿在前面走。但即刻他们看见一点淡绿的小光,向他们近来了。这是一个火萤,为要使他们满意,来照他们的。

“今天晚上看来是要极其漂亮的,”火萤前导着说。“这里早有许多来客了。我觉得你们是妖精,对不对?”那火萤一面看定了约翰,有些怀疑。

“你将我们当作妖精去禀报就是了。”旋儿回答说。

“你们可知道,你们的王也在赴会么?”火萤接着道。

“上首在这里么?这使我非常喜欢!”旋儿大声说,“我本身和他认识的。”

“呵呀!”火萤说,——“我不知道我有光荣。”因为惊讶,它的小光几乎消灭了。“是呵,陛下平时最爱的是自由空气,但为了慈善的目的,他倒是什么都可以的。这要成为一个很有光彩的会罢。”

那也的确。兔子建筑里的大堂,是辉煌地装饰了。地面踏得很坚实,还撒上含香的麝香草;进口的前面用后脚斜挂着一只蝙蝠;它禀报来客,同时又当着帘幕的差。这是一种节省的办法。大堂的墙上都用了枯叶,蛛网,以及小小的,挂着的小蝙蝠极有趣致地装璜着。无数的火萤往来其间,还在顶上盘旋,造成一个动心的活动的照耀。大堂上面是朽烂的树干所做的宝座,放着光,弄出金刚石一般的结果来。这是一个辉煌的情景!

大鼠がやって来て穀穗を洞口に置いた。ヨハネスもビスケットを寄付したいと言った。取り出してみると自分がどれほど小さくなったか実感した。「なんと豪勢な贈り物!」と野兎は叫んだ。

早有了许多来客了。约翰在这生疏的环境中,觉得只象在家里的一半,惟有紧紧地靠着旋儿。他看见稀奇的东西。一匹土拨鼠极有兴会地和野鼠议论着美观的灯和装饰。一个角落里坐着两个肥胖的癞虾蟆,还摇着头诉说长久的旱天。一个虾蟆想挽着手引一个蝎虎穿过大堂去,这于它很为难,因为它是略有些神经兴奋和躁急的,所以它每一回总将墙上的装饰弄得非常凌乱了。

宝座上坐着上首,妖的王,围绕着一小群妖精的侍从,有几个轻蔑地俯视着周围。王本身是照着王模样,出格地和蔼,并且和各种来客亲睦地交谈。他是从东方旅行来的,穿一件奇特的衣服,用美观的,各色的花叶制成。这里并不生长这样的花,约翰想。他头上戴一个深蓝的花托,散出新鲜的香气,象新折一般。在手里他拿着莲花的一条花须,当作御杖。

一切与会的都受着他的恩泽。他称赞这里的月光,还说,本地的火萤也美丽,几乎和东方的飞萤相同。他又很合意地看了墙上的装饰,一个土拨鼠还看出陛下曾经休憩,惬意地点着头。

“同我走,”旋儿对约翰说,“我要引见你。”于是他们直冲到王的座前。

上首一认出旋儿,便高兴地伸开两臂,并且和他接吻。这在宾客之间搅起了私语,妖精的侍从中是嫉妒的眼光。那在角落里的两个肥胖的癞虾蟆,絮说些“谄媚者”、“乞怜者”和“不会长久的”而且别有用意地点头。旋儿和上首谈得很久,用了异样的话,于是就将约翰招过去。

洞穴の中で蛍が照らしてくれた。「妖精の王もご出席です」と蛍は言った。兎の大広間は見事に飾られ、枯葉と蛛の巣と小さな蝙蝠で装飾されていた。無数の蛍が動く照明を作り、朽ちた木の宝座が金剛石のように輝いていた。

“给我手,约翰!”那王说。“旋儿的朋友就是我的朋友。凡我能够的,我都愿意帮助你。我要给你我们这一党的表记。”

上首从他的项链上解下一个小小的金的锁匙来,递给约翰。他十分恭敬地接受了,紧紧地捏在手里。

“这匙儿能是你的幸福,”王接着说,“这能开一个金的小箱,藏些高贵的至宝的。然而谁有这箱,我却不能告诉你。你只要热心地寻求。倘使你和我和旋儿长做好朋友而且忠实,那于你就要成功了。”

妖王于是和蔼地点着他美丽的头,约翰喜出望外地向他致谢。

坐在湿的莓苔的略高处的三个虾蟆,联成慢圆舞的领导,对偶也配搭起来了。有谁不跳舞,便被一个绿色的蜥蜴,这是充当司仪,并且奔忙于职务的,推到旁边去,那两个癞虾蟆就大烦恼,一齐诉苦,说它们不能看见了。这时跳舞已经开头。

但这确是可笑!各个都用了它的本相跳舞,并且自然地摆出那一种态度,以为它所做的比别个好得多。老鼠和虾蟆站起后脚高高地跳着,一个年老的硕鼠旋得如此粗野,使所有跳舞者都从它的前面躲向旁边,还有一匹惟一的肥胖的树蜗牛,敢于和土拨鼠来转一圈,但不久便被抛弃了,在前墙之下,以致她(译者按:蜗牛)因此得了腰胁痛,那实在的原因,倒是因为她不很懂得那些事。

宝座に妖精の王が座り、東方から来た奇妙な花葉の衣を纏い、蓮の花蕊を御杖代わりに持っていた。旋児は王に紹介し、王はヨハネスに金の小さな鍵を授けた。「この鍵は金の小箱を開く。高貴な至宝が蔵されている。熱心に探し求めよ。」

然而一切都做得很诚实而庄严。大家很有几分将这些看作荣耀,并且惴惴地窥伺王,想在他的脸上看出一点赞赏的表示。王却怕惹起不满,只是凝视着前方。他的侍从人等,那看重它们的技艺的品格,来参与跳舞的,是高傲地旁观着。

约翰熬得很久了。待到他看见,一匹大的蜥蜴怎样地抡着一个小小的癞虾蟆,时常将这可怜的癞虾蟆从地面高高举起,并且在空中抡一个半圆,便在响亮的哄笑里,发泄出他的兴致来了。

这惹起了一个激动。音乐喑哑了。王严厉地四顾。司仪员向笑者飞奔过去,并且严重地申斥他,举动须要合礼。

“跳舞是一件最庄重的事,”它说,“毫没有什么可笑的。这里是一个高尚的集会,大家在这里跳舞并非单为了游戏。各显各的特长,没有一个会希望被笑的,这是大不敬。除此之外,大家在这里是一个悲哀的仪节,为了重大的原因。在这里举动务须合礼,也不要做在人类里面似的事!”

这使约翰害怕起来了。他到处看见仇视的眼光。他和王的亲密给他招了许多的仇敌。旋儿将他拉在旁边:

“我们还是走的好罢,约翰!”他低声说,“你将这又闹坏了。是呵,是呵,如果从人类中教育出来的,就那样!”

踊りが始まった。各々本来の姿で踊り、自分が一番上手だと思い込んでいた。大きな蜥蜴が小さな蟾蜍を振り回すのを見てヨハネスは大笑いしてしまい、騒動となった。司儀が厳しく叱り、「踊りは最も荘重なことであり、人間のような振る舞いはするな!」と言った。

他们慌忙从蝙蝠门房的翅子下潜行,走到黑暗的路上。恭敬的火萤等着他们。“你们好好地行乐了么?”它问。“你们和上首大王扳谈了么?”

“唉,是的!那是一个有趣的会,”约翰说,“你必须永站在这暗路上么?”

“这是本身的自由的选择,”火萤用了悲苦的声音说。“我再不能参与这样无聊的集会了。”

“去罢!”旋儿说,“你并不这样想。”

“然而这是实情。早先——早先有一时,我也曾参与过各种的会,跳舞,徘徊。但现在我是被忧愁扫荡了,现在……”它还这样的激动,至于消失了它的光。

幸而他们已近洞口,野兔听得他们临近,略向旁边一躲,放进月光来。

他们一到外面野兔的旁边,约翰说:“那么,就给我讲你的故事罢,火萤!”

“唉!”火萤叹息,“这事是简单而且悲伤。这不使你们高兴。”

“讲罢,讲它就是!”大家都嚷起来。

“那么,你们都知道,我们火萤是极其异乎寻常的东西。是呵,我觉得,谁也不能否认,我们火萤是一切生物中最有天禀的。”

“何以呢?这我却愿意知道。”野兔说。

火萤渺视地回答道:“你们能发光么?”

“不,这正不然。”野兔只得赞成。

“那么,我们发光,我们大家!我们还能够随意发光或者熄灭。光是最高的天赋,而一个生物能发最高的光。还有谁要和我们竞争前列么?我们男的此外还有翅子,并且能够飞到几里远。”

旋児がヨハネスを連れ出した。暗い通路で蛍が身の上話をした——かつて愛する者がいたが、人間に捕らえられ、以来孤独になったと。「あの上で愛する者に再び会える」と星空を仰ぎ見た。

“这我也不能。”野兔谦逊地自白。

“就因为我们有发光的天赋,”火萤接着说,“别的动物也哀矜我们,没有鸟来攻击我们。只有一种动物,是一切中最低级的那个,搜寻我们,还捉了我们去。那就是人,是造物的最蛮横的出产。”

说到这里,约翰注视着旋儿,似乎不懂它。旋儿只微笑,并且示意他,教他不开口。

“有一回,我也往来飞翔,一个明亮的迷光,高兴地在黑暗的丛莽里。在寂寞的潮湿的草上,在沟的岸边。这里生活着她,她的存在,和我的幸福是分不开的。她华美地在蓝的碧玉光中灿烂着,当她顺着草爬行的时候,很强烈地蛊惑了我的少年的心。我绕着她飞翔,还竭力用了颜色的变换来牵引她的注意。幸而我看出,她已经怎样地收受了我的敬礼,觍地将她的光儿韬晦了。因为感动而发着抖,我知道收敛起我的翅子,降到我的爱者那里去,其时正有一种强大的声响弥满着空中。暗黑的形体近来了。那是人类。我骇怕得奔逃。他们追赶我,还用一种沉重的,乌黑的东西照着我打。但我的翅子担着我是比他们的笨重的腿要快一点的。待到我回来的时候……”

讲故事的至此停止说话了。先是寂静的刺激一刹那,——这时三个听的都惴惴地沉默着,——它才接着说:

丘の斜面で旋児の小さな外套に包まれ、野兎を枕に、ヨハネスは金の鍵を握りしめて眠った。

“你们早经料到了。我的娇嫩的未婚妻,——一切中最灿烂和最光明的,——她是消失了,给恶意的人们捉去了。闲静的,潮湿的小草地是踏坏了,而她那在沟沿的心爱的住所是惨淡和荒凉。我在世界上是孤独了。”

多感的野兔仍旧拉过耳朵来,从眼里拭去一滴泪。

“从此以后我就改变了。一切轻浮的娱乐我都反对。我只记得我所失掉的她,还想着我和她再会的时候。”

“这样么?你还有这样的希望么?”野兔高兴地问。

“比希望还要切实,我有把握的。在那上面我将再会我的爱者。”

“然而……”野兔想反驳。

“兔儿,”火萤严肃地说,“我知道,只有应该在昏暗里彷徨的,才会怀疑。然而如果是看得见的,如果是用自己的眼来看的,那就凡有不确的事于我是一个疑案。那边!”光虫说,并且敬畏地仰看着种满星星的天空,“我在那边看见她!一切我的祖先,一切我的朋友,以及她,我看见较之在这地上,更其分明地发着威严的光辉。唉唉,什么时候我才能蓦地离开这空虚的生活,飞到那诱引着招致我的她那里去呢?唉唉!什么时候,什么时候?……”

光虫叹息着,离开它的听者,又爬进黑暗的洞里去了。

“可怜的东西!”野兔说,“我盼望,它不错。”

【三】

“我也盼望。”约翰赞同着。

“我以为未必,”旋儿说,“然而那倒很动人。”

“爱的旋儿,”约翰说,“我很疲倦,也要睡了。”

“那么来罢,你躺在这里我的旁边,我要用我的氅衣盖着你。”

旋儿取了他的蓝色的小氅衣,盖了约翰和自己。他们就这样躺在冈坡的发香的草上,彼此紧紧地拥抱着。

“你们将头放得这么平,”野兔大声说,“你们愿意枕着我么?”

这一个贡献他们不能拒绝。

“好晚上,母亲。”旋儿对月亮说。

于是约翰将金的小锁匙紧握在手中,将头靠在好心的野兔的蒙茸的毛上,静静地酣睡了。

【三】

第24節

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他在那里呢,普烈斯多?——你的小主人在那里呢?——在船上,在芦苇间醒来的时候,怎样地吃惊呵!——只剩了自己,——主人是无踪无影地消失了。这可教人担心和害怕。——你现在已经奔波得很久,并且不住地奋亢的呜呜着寻觅他罢?——可怜的普烈斯多。你怎么也能睡得这样熟,且不留心你的主人离了船呢?平常是只要他一动,你就醒了的。你平常这样灵敏的鼻子,今天不为你所用了。你几乎辨不出主人从那里上岸,在这沙冈上也完全失掉了踪迹。你的热心的齅也不帮助你。唉,这绝望!主人去了!无踪无影地去了!——那么,寻罢,普烈斯多,寻他罢!且住,正在你前面,在冈坡上,——那边不是躺着一点小小的,暗黑的东西么?你好好地看一看罢!

プレストよ、お前の小さな主人はどこにいるのだ?舟の上、葦の間で目覚めた時の驚き!一人きりだ——主人は跡形もなく消えていた。長く駆け回り唸りながら探したが、鋭い鼻も役に立たなかった。しかし丘の斜面に小さな暗いものを見つけ、全力で走った。

那小狗屹立着倾听了一些时,并且凝视着远处。于是它忽然抬起头来,用了它四条细腿的全力,跑向冈坡上的暗黑的小点那里去了。

一寻到,却确是那苦痛的失踪的小主人,于是它尽力设法,表出它的一切高兴和感谢来,似乎还不够。它摇尾,跳跃,呜呜,吠叫,并且向多时寻觅的人齅着,舔着,将冷鼻子搁在脸面上。

見つけたのはまさしく小さな主人であり、歓喜と感謝のすべてを表し、尾を振り跳び唸り吠え舐めた。「静かにしろ、プレスト、寝床に行け!」とヨハネスは半睡の中で言った。見渡す限り寝床はない。

“静静的罢,普烈斯多,到你的窠里去!”约翰在半睡中大声说。

主人有多么胡涂呵!凡是望得见的地方,没有一个窠在近处。

小小的睡眠者的精神逐渐清楚起来了。普烈斯多的齅,——这是他每早晨习惯了的。但在他的灵魂之前,还挂着妖精和月光的轻微的梦影,正如丘冈景色上的晓雾一般。他生怕清晨的凉快的呼吸会将这些驱走。“合上眼睛,”他想,“要不然,我又将看见时钟和地毯,象平日似的。”

但他也躺得很异样。他觉得他没有被。慢慢地他小心着将眼睛睁开了一线。

明亮的光!蓝的天!云!

于是约翰睁大了眼睛,并且说:“那是真的么?”是呀!他躺在冈的中间。清朗的日光温暖他;他吸进新鲜的朝气去,在他的眼前还有一层薄雾环绕着远处的山林。他只看见池边的高的山毛榉树和自家的屋顶伸出在丛碧的上面。蜜蜂和甲虫绕着他飞鸣;头上唱着高飞的云雀,远处传来犬吠和远隔的城市的喧嚣。这些都是纯粹的事实。

徐々に目覚めた。妖精と月光の夢影がなお魂の前にかかっていた。目を細く開けると——明るい光!碧空!雲!丘の真ん中に横たわっていた。蜜蜂と甲虫が飛び、雲雀が歌い、遠くに犬の吠え声が聞こえた。

然而他曾经梦见了什么还是没有什么呢?旋儿在那里呢?还有那野兔?

两个他都不见。只有普烈斯多坐在他身边,久候了似的摇着尾巴向他看。

“我真成了梦游者了么?”约翰自己问。

他的近旁是一个兔窟。这在冈上倒是常有的。他站起来,要去看它个仔细。在他紧握的手里他觉得什么呢?

他摊开手,他从脊骨到脚跟都震悚了。是灿烂着一个小小的,黄金的锁匙。

他默默地坐了许多时。

“普烈斯多!”他于是说,几乎要哭出来,普烈斯多,这也还是实在的!

普烈斯多一跃而起,试用吠叫来指示它的主人,它饥饿了,它要回家去。

しっかり握った手を開くと——背骨から踵まで震えが走った。小さな黄金の鍵が燦然と輝いていた。「プレスト、これもやはり現実だ!」

回家么?是的,约翰没有想到这一层,他于此也很少挂念。但他即刻听到几种声音叫着他的名字了。他便明白,他的举动,大家是全不能当作驯良和规矩的,他还须等候那很不和气的话。

只一刹时,高兴的眼泪化为恐怖和后悔的眼泪了。但他就想着现是他的朋友和心腹的旋儿,想着妖王的赠品,还想着过去一切的华美的不能否认的真实,他静静地,被诸事羁绊着,向回家的路上走。

那遭际是比他所豫料的还不利。他想不到他的家属有这样地恐怖和不安。他应该郑重地认可,永不再是这么顽皮和大意了。这又给他一个羁绊。“这我不能。”他坚决地说。人们很诧异。他被讯问,恳求,恫吓。但他却只想着旋儿,坚持着。只要能保住旋儿的友情,他怕什么责罚呢——为了旋儿,他有什么不能忍受呢。他将小锁匙紧紧地按在胸前,并且紧闭了嘴唇,每一问,都只用耸肩来作回答。“我不能一定,”他永是说。

帰宅すると家族の恐怖と不安に厳しく叱られた。しかし旋児のことを思い、頑として譲らず、「約束できません」と答え続けた。鍵を窓掛けの紐に結び首にかけた。

但他的父亲却道:“那就不管他罢,这于他太严紧了。他必是遇到了什么出奇的事情。将来总会有讲给我们的时候的。”

约翰微笑,沉默着吃了他的奶油面包,就潜进自己的小屋去。他剪下一段窗幔的绳子系了那宝贵的锁匙,帖身挂在胸前。于是他放心去上学校了。

这一天他在学校里确是很不行。他做不出他的学课,而且也全不经意。他的思想总是飞向池边和昨夜的奇异的事件去。他几乎想不明白,怎么一个妖王的朋友现在须负做算术和变化动词的义务了。然而这一切都是真实,周围的人们于此谁也不知道,谁也不能够相信或相疑,连那教员都不,虽然他也深刻地瞥着眼,并且也轻蔑地将约翰叫作懒东西。他欣然承受了这不好的品评,还做着惩罚的工作,这是他的疏忽拉给他的。

学校ではまったく駄目であった。思考はいつも池辺と前夜の出来事に飛んだ。教師が人類は神から理性を与えられすべての動物の上に置かれたと語った時、笑ってしまった。隣の席の者が「太陽は女性代名詞」と読んだ時、「『彼の』だ!」と叫び、百回書かせられた。

“他们谁都猜不到。他们要怎样呵斥我,都随意罢。旋儿总是我的朋友,而且旋儿于我,胜过所有他们的全群,连先生都算上。”

约翰的这是不大恭敬的。对于他的同胞的敬意,自从他前晚听到议论他们的一切劣点之后,却是没有加增。

当教员讲述着,怎样只有人类是由上帝给与了理性,并且置于一切动物之上,作为主人的时候,他笑起来了。这又给他博得一个不好的品评和严厉的指摘。待到他的邻座者在课本上读着下面的话:“我的任性的叔母的年龄是大的,然而较之太阳,没有伊的那么大,”——约翰便赶快大声地叫道:“他的!”[2]

居残り中、小さな鼠が壁に沿って忍び寄り、机の上に乗った。「旋児のところから来ました。先生が正しく、罰も相当です。こんな繊細なことを人間に語ってはなりません」と鼠は言った。

大家都笑他,连那教员,对于他所说那样的自负的胡涂,觉得诧异,教约翰留下,并且写一百回:“我的任性的叔母的年龄是大的,然而较之太阳,没有伊的那么大,——较之两个更大的,然而是我的胡涂。”

学生们都去了,约翰孤独地坐在广大的校区里面写。太阳光愉快地映射进来,在它的经过的路上使无数白色的尘埃发闪,还在白涂的墙上形成明亮的点,和时间的代谢慢慢地迁移。教员走了,高声地关了门。当约翰写到第二十五任性的叔母的时候,一匹小小的,敏捷的小鼠,有着乌黑的珠子眼和绸缎似的小耳朵,无声地从班级的最远的角上沿着壁偷偷走来了。约翰一声不响,怕赶走了那有趣的小动物。但这并不胆怯,径到约翰的座前。它用细小的明亮的眼睛暂时锋利地四顾,便敏捷地一跳,到了椅子上,再一跳就上了约翰在写着字的书桌。

「鍵をどうすればいい?土曜日にシャツを替える時に見つかるかもしれない」とヨハネスが尋ねると、鼠は「地中に埋めなさい。向こうの丘に。従姉の野鼠に知らせます」と答えた。先生が戻り、鼠は消えた。

“阿,阿,”他半是自言自语地说,“你倒是一匹勇敢的鼠子。”

“我却也不知道,我须怕谁。”一种微细的声音说,那小鼠还微笑似的露出雪白的小牙。

约翰曾经阅历过许多奇异的事,——但这时却还是圆睁了眼睛。这样地在白天而且在学校里,——这是不可信的。

“在我这里你无须恐怖,”他低声说,仍然是怕惊吓了那小鼠,——“你是从旋儿那里来的么?”

“我正从那里来,来告诉你,那教员完全有理,你的惩罚是恰恰相当的。”

二日間心配の中で過ごし、金曜の夕べ、窓辺で「旋児!助けて」と呟くと、旋児が窓枠に現れた。手を握ると蒲公英の種のように軽くなり夕空を漂った。「君のためなら、すべての人間もプレストも捨てられる」とヨハネスは言った。

“但是旋儿说的呵,太阳盖是男性,太阳是我们的父亲。”

“是的,然而此外用不着谁知道。这和人类有什么相干呢。你永不必将这么精微的事去对人类讲。他们太粗。人是一种可骇的恶劣和蛮野的东西,只要什么到了他的范围之内,他最喜欢将一切擒拿和蹂躏。这是我们鼠族从经验上识得的。”

“但是,小鼠,你为什么停在他们的四近的呢,你为什么不远远地躲到山林里去呢?”

“唉,我们现在不再能够了。我们太惯于都市风味了。如果小心着,并且时时注意,避开他们的捕机和他们的沉重的脚,在人类里也就可以支撑。幸而我们也还算敏捷的。最坏的是人类和猫结了一个联盟,借此来补救他们自己的蠢笨,——这是大不幸。但山林里却有枭和鹰,我们会一时都死完。好,约翰,记着我的忠告罢,教员来了!”

丘の野薔薇の根の下に野鼠が穴を掘り、鍵を埋めた。薔薇は棘の枝を編み合わせ忠実に守ることを約束した。蝶たちが証人であった。

“小鼠,小鼠,不要走。问问旋儿,我将我的匙儿怎么办呢。我将这帖胸挂在颈子上。土曜日我要换干净的小衫,我很怕有谁会看见。告诉我吧,我藏在那里最是稳当呢,爱的小鼠。”

“在地里,永久在地里,这是最为稳当的。要我给你收藏起来么?”

“不,不要在这里学校里!”

“那就埋在那边冈子上。我要通知我的表姊,那野鼠去,教她必须留神些。”

“多谢,小鼠。”

蓬,蓬!教员到来了。这时候,约翰正将他的笔尖浸在墨水里,那小鼠是消失了。自己想要回家的教员,就赦免了约翰四十八行字。

两日之久,约翰在不断的忧惧中过活。他受了严重的监视,凡有溜到冈上去的机会,都被剥夺了。已经是金曜日,他还在带着那宝贵的匙儿往来。明天晚上他便须换穿干净的小衫,人会发见这匙儿,而且拿了去,——他为了这思想而战栗。家里或园里他都不敢藏:他觉得没有一处是够安稳的。

翌朝、自分のベッドで目覚めた。首の紐は消えていた。

金曜日的晚上了,黄昏已经闯进来。约翰坐在他卧室的窗前,出神地从园子的碧绿的丛草中,眺望着远处的冈阜。

“旋儿!旋儿!帮助我。”他忧闷地絮叨着。

近旁响着一种轻轻的拍翅声,他闻到铃兰的香味,还忽然听得熟识的,甜美的声音。

旋儿靠近他坐在窗沿上,摇动着一枝长梗的铃兰。

“你到底来了!——我是这么渴想你!”约翰说。

“同我走,约翰,我们要埋起你的匙儿。”

“我不能。”约翰惨淡地叹息说。

然而旋儿握了他的手,他便觉得他轻得正如一粒蒲公英的带着羽毛的种子,在静穆的晚天里,飘浮而去了。

【四】

“旋儿,”约翰飘浮着说,“我这样地爱你。我相信,我能为你放下一切的人们,连普烈斯多!”

旋儿吻他,问道:“连西蒙?”

“阿,我喜欢西蒙与否,这于它不算什么。我想,它以为这是孩子气的。西蒙就只喜欢那卖鱼的女人,而且这也只在它肚饿的时候。从你看来,西蒙是一匹平常的猫么,旋儿?”

“不,它先前是一个人。”

呼——蓬!——一个金虫[3]向约翰撞来了。

“你们不能看清楚一点么,”金虫不平地说,“妖精族纷飞着,好象他们将全部的空气都租去了!会无用到这样,总是单为了自己的快乐飘来飘去,——而我辈,尽着自己的义务,永是追求着食物,只要能吃多少,便尽量吃多少的,却被他们赶到路旁去了。”

「夏はなんて退屈なんだ!」と倉庫の暖炉が嘆いた。約翰がこの倉庫に来た。旋児と会えず三週間が過ぎていた。鍵もなくなり、夢でなかった証拠がなくなった。沈黙がちになった。

它呶呶着飞了开去。

“我们不吃,它以为不好么?”约翰问。

“是呵,金虫类是这样的。金虫以为这是它们的最高的义务,大嚼得多。要我给你讲一个幼小的金虫的故事么?”

“好,讲罢,旋儿!”

“曾经有一个好看的幼小的金虫,是刚从地里钻出来的。唔,这是大奇事。它坐在黑暗的地下一整年,等候着第一个温暖的夜晚。待到它从地皮里伸出头来的时候,所有的绿叶和鸣禽,都使它非常慌张了。它不知道它究竟应该怎样开手。它用了它的触角,去摸近地的小草茎,并且扇子似的将这伸开去。于是它觉得,它是雄的。它是它种族中的一个美丽的模范,有着灿烂的乌黑的前足,厚积尘埃的后腹,和一个胸甲,镜子似的放光。幸而不久它在近处看见了一个别的金虫,那虽然没有这样美,然而前一天已经飞出,因此确是有了年纪的。因为它这样地年青,它便极其谦恭地去叫那一个。

ある日、鳩の群れが窓前に飛んできた。一羽が赤い羽根を渡し、ヨハネスは鳩のように軽く速くなって飛び立った。森の梢で旋児が待っていた。「これからずっと一緒にいられる」と旋児は言った。

“‘什么事,朋友?’那一个从上面问,因为它看出这一个是新家伙了,‘你要问我道路么?’

“‘不,请你原谅,’幼小的谦恭地说,‘我先不知道,这里我必须怎样开头。做金虫是应该怎么办的?’

“‘哦,原来,’那一个说,‘那你不知道么?我明白你,我也曾经这样的。好好地听罢,我就要告诉你了。金虫生活的最要义是大嚼。离此不远有一片贵重的菩提树林,那是为我们而种的,将它竭力地勤勉地大嚼,是我们所有的义务。’

“‘谁将这菩提树林安置在那里的呢?’年幼的甲虫问。

森で蟻の巣を訪ね、年老い蟻がアブラムシを見守っていた。まもなく別の蟻群への軍事行動があると話した。「我々は平和蟻だ。最初の平和蟻を噛み砕いた者たちがやがて平和蟻と名乗り、異論者を引き裂いた。十二の部族を既に殲滅し、今は第十三を攻撃する」。ヨハネスは「注目に値する!」と言った。

“‘阿,一个大东西,是给我们办得很好的。每早晨这就走过树林,有谁大嚼得最多的,这就带它去,到一所华美的屋子里。那屋子是放着清朗的光,一切金虫都在那里幸福地团聚着的。但要是谁不大嚼,反而整夜向各处纷飞的,他就要被蝙蝠捉住了。’

“‘那是谁呢?’新家伙问。

“‘这是一种可怕的怪物,有着锋利的牙,它从我们的后面突然飞来,用残酷的一嘎咭便吃尽了。’

“甲虫正在这么说,它们听得上面有清亮的霍的一声,透了它们的心髓。‘呵,那就是!’长辈大声说。‘你要小心它,青年朋友。感谢罢,恰巧我通知你了。你的前面有一个整夜,不要耽误罢。你吃得越少,祸事就越多,会被蝙蝠吞掉的。只有能够挑选那正经的生活的本分的,才到有着清朗的光的屋子去。记着罢!正经的生活的本分!’

旋児は森のあらゆる神秘を示した。忍冬の茂みで休んでいると、大勢の人間がやって来た。黒い服の男女が灌木を押し開き、花を踏み潰し、白いハンカチを敷いた。蒼白い男が立ち上がり、自然と神について大声で語ったが、旋児は「すべて嘘だ」と言った。

“年纪大了一整天的那甲虫,于是在草梗之间爬开去了,并且将这一个惘然地留下。——你知道么,什么是生活的本分,约翰?不罢?那幼小的甲虫也正不知道。这事和大嚼相连,它是懂得的。然而它须怎样,才可以到那菩提树林呢?

第25節

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“它近旁竖着一枝瘦长的,有力的草梗,轻轻地在晚风中摇摆。它就用它六条弯曲的腿,很坚牢地抓住它。从下面望去,它觉得仿佛一个高大的巨灵而且很险峻。但那金虫还要往上走。这是生活的本分,它想,并且怯怯地开始了升进。这是缓慢的,它屡次滑回去,然而它向前;当它终于爬到最高的梢头,在那上面动荡和摇摆的时候,它觉得满足和幸福。它在那里望见什么呢?这在它,似乎看见了全世界。各方面都由空气环绕着,这是多么极乐呵!它尽量鼓起后腹来。它兴致很稀奇!它总想要升上去!它在大欢喜中掀起了翅鞘,暂时抖动着网翅。——它要升上去,永是升上去,——又抖动着它的翅子,爪子放掉了草梗,而且——阿,高兴呀!……呼——呼——它飞起来了——自由而且快乐——到那静穆的,温暖的晚空中。”——

「痩せた草の茎に六本の曲がった脚でしがみつき、下から見上げると高く険しい巨人のようであった。しかし金虫はなお上へ行きたかった。これが生活の本分だと思い、おずおずと登り始めた。ついに最高の梢に辿り着き、満足と幸福を感じた。全世界を見たような気がした。大喜びの中で鞘翅を開き——飛び立った——自由にして快活に——温かき夕空の中へ。」

“以后呢?”约翰问。

“后文并不有趣,我下回再给你讲罢。”

他们飞过池子了,两只迁延的白胡蝶和他们一同翩跹着。

“这一程往那里去呀,妖精们?”它们问。

“往大的冈蔷薇那里去,那在那边坡上开着花的。”

“我们和你们一路去!”

从远处早就分明看见,她有着她的许多嫩黄的,绵软的花。小蓓蕾已经染得通红,开了的花还显着红色的条纹,作为那一时的记号,那时她们是还是蓓蕾的。在寂寞的宁静中开着野生的冈蔷薇,并且将四近满注了她们的奇甜的香味。这是有如此华美,至使冈妖们的食养,就只靠着她们。胡蝶是在她们上面盘旋,还一朵一朵地去接吻。

“我们这来,是有一件宝贝要托付你们,”旋儿大声说,“你们肯给我们看管这个么?”

“为什么不呢?为什么不呢?”冈蔷薇细声说,“我是不以守候为苦的,——如果人不将我移去,我并不要走动。我又有锋利的刺。”

「それからどうなったの」とヨハネスは尋ねた。「後文は面白くないから次に話す」と旋児は言った。

于是野鼠到了,学校里的小鼠的表姊,在蔷薇的根下掘了一条路。它就运进锁匙去。

“如果你要取回去,就应该再叫我。那么,你就用不着使蔷薇为难。”

蔷薇将她的带刺的枝条交织在进口上,并且郑重允许,忠实地看管着。胡蝶是见证。

第二天的早晨,约翰在自己的床上醒来了,在普烈斯多的旁边,在钟和地毯的旁边。那系着锁匙的挂在他颈上的绳子是消失了。

【四】

“煞派门![4]夏天是多么讨厌的无聊呵!”在老屋子的仓库里,很懊恼地一同站着的三个火炉中的一个叹息说,——“许多星期以来,我见不到活的东西,也听不到合理的话。而且这久远的内部的空虚!实在可怕!”

“我这里满是蜘蛛网,”第二个说,“这在冬天也不会有的。”

“我并且到处是灰尘,如果那黑的人再来的时候,一定要使我羞死。”

几个灯和火钩,那些,是因为豫防生锈,用纸包着,散躺在地上各处的,对于这样轻率的语气,都毫无疑义地宣布抗争。

但谈论突然沉默了,因为吊窗已被拉起,冲进一条光线来,直到最暗的角上,而且将全社会都显出在它们的尘封的混乱里面了。

池の上を飛ぶと二匹の白い蝶が一緒に舞った。丘の斜面に咲く大きな野薔薇のところに着いた。淡黄色の花が咲き誇り、甘美な香りを満たしていた。「宝物を預けに来た」と旋児は言った。野鼠が薔薇の根の下に穴を掘り鍵を運び入れた。薔薇は棘の枝を編み合わせ忠実に守ることを約束した。

那是约翰,他来了,而且搅扰了它们的谈话。这仓库常给约翰以强烈的刺激。现在,自从出了最近的奇事以来,他屡屡逃到那里去。他于此发见安静和寂寞。那地方也有一个窗,是用抽替关起来的,也望见冈阜的一面。忽然拉开窗抽替,并且在满是秘密的仓库之后,蓦地看见眼前有遥远的,明亮的景色,直到那白色的,软软地起伏着的连冈,是一种很大的享用。

从那天金曜日的晚上起,早过了三星期了,约翰全没有见到他的朋友。小锁匙也去了,他更缺少了并非做梦的证据。他常怕一切不过是幻想。他就沉静起来,他的父亲忧闷地想,约翰从在冈上的那晚以来,一定是得了病。然而约翰是神往于旋儿。

“他的爱我,不及我的爱他么?”当他站在屋顶窗的旁边,眺望着绿叶繁花的园中时,他琐屑地猜想着,“他为什么不常到我这里来,而且已经很久了呢?倘使我能够……。但他也许有许多朋友罢。比起我来,他该是更爱那些罢?……我没有别的朋友,——一个也没有。我只爱他。爱得很!唉,爱得很!”

翌朝、自分のベッドで目覚めた。首の紐は消えていた。

他看见,一群雪白的鸽子的飞翔,怎样地由蔚蓝的天空中降下,这原是以可闻的鼓翼声,在房屋上面盘旋的。那仿佛有一种思想驱遣着它们,每一瞬息便变换方向,宛如要在它们所浮游着的夏光和夏气的大海里,成了排豪饮似的。

它们忽然飞向约翰的屋顶窗前来了,用了各种的鼓翼和抖翅,停在房檐上,在那里它们便忙碌地格磔着,细步往来。其中一匹的翅上有一枝红色的小翎。它拔而又拔,拔得很长久,待到它拔到嘴里的时候,它便飞向约翰,将这交给他。

约翰一接取,便觉得他这样地轻而且快了,正如一个鸽子。他伸开四肢,鸽子飞式的飞起来,约翰并且漂浮在它们的中央,在自由的空气中和清朗的日光里。环绕着他的更无别物,除了纯净的蓝碧和洁白的鸽翅的闪闪的光辉。

他们飞过了林中的大花园,那茂密的树梢在远处波动,象是碧海里的波涛。约翰向下看,看见他父亲坐在住房的畅开的窗边;西蒙是拳着前爪坐在窗台上,并且晒太阳取暖。

“他们看见我没有?”他想,然而叫呢他却不敢。

普烈斯多在园子里奔波,遍齅着各处的草丛,各坐的墙后,还抓着各个温室的门户,想寻出小主人来。

【四】

“普烈斯多!普烈斯多!”约翰叫着。小狗仰视,便摇尾,而且诉苦地呻吟。

“我回来,普烈斯多!等着就是!”约翰大声说,然而他已经离得太远了。

他们飘过树林去,乌鸦在有着它们的窠的高的枝梢上,哑哑地叫着飞翔。这正是盛夏,满开的菩提树花的香气,云一般从碧林中升腾起来。在一枚高的菩提树梢的一个空巢里,坐着旋儿,额上的他的冠是旋花的花托,向约翰点点头。

“你到这里了?这很好,”他说,“我教迎取你去了。我们就可以长在一处,——如果你愿意。”

“我早愿意。”约翰说。

他于是谢了给他引导的友爱的鸽子,和旋儿一同降到树林中。

那地方是凉爽而且多荫。鹪鹩几乎永是唿哨着这一套,但也微有一些分别。

“可怜的鸟儿,”旋儿说,“先前它是天堂鸟。这你还可以从它那特别的黄色的翅子上认出来,——但它改变了,而且被逐出天堂了。有一句话,这句话能够还给它原先的华美的衣衫,并且使它再回天堂去。然而它忘却了这句话。现在它天天在试验,想再觅得它。虽然有一两句的类似,但都不是正对的。”

倉庫の三つの暖炉が夏の退屈を嘆いた。ヨハネスは倉庫に逃げ込み、窓から遠くの丘を眺めた。旋児に三週間会えなかった。「彼は僕を愛する程度が及ばないのか」と推し量った。

无数飞蝇在穿过浓阴的日光中,飞扬的晶粒似的营营着。人如果留神倾听,便可以听出,它们的营营,宛如一场大的,单调的合奏,充满了全树林,仿佛是日光的歌唱。

繁密的深绿的莓苔盖着地面,而约翰又变得这么小了,他见得这象是大森林区域里的一座新林。干子是多么精美,丛生是多么茂密。要走通是不容易的,而且苔林也显得非常之大。

于是他们到了一座蚂蚁的桥梁。成百的蚂蚁忙忙碌碌地在四处走,——有几个在颚间衔着小树枝,小叶片或小草梗。这是有如此杂沓,至使约翰几乎头晕了。

许多工夫之后,他们才遇到一个蚂蚁,愿意和他们来谈天。它们全体都忙于工作。他们终于遇见一个年老的蚂蚁,那差使是,为着看守细小的蚜虫的,蚂蚁们由此得到它们的甘露。因为它的畜群很安静,它已经可以顾及外人了,还将那大的窠指示给他们。窠是在一株大树的根上盖造起来的,很宽广,而且包含着百数的道路和房间。蚜虫牧者加以说明,还引了访问者往各处,直到那有着稚弱的幼虫,从白色的襁褓中匍匐而出的儿童室。约翰是惊讶而且狂喜了。

ある日、鳩の群れの一羽が赤い羽根を渡し、ヨハネスは鳩のように飛んだ。森の梢で旋児が「迎えをやった。ずっと一緒にいよう」と言った。

年老的蚂蚁讲起,为了就要发生的军事,大家正在强大的激动里。对于离此不远的别一蚁群,要用大的强力去袭击,扫荡窠巢,劫夺幼虫或者杀戮;这是要尽全力的,大家就必须豫先准备那最为切要的工作。

“为什么要有军事呢?”约翰说,“这我觉得不美。”

“不然,不然!”看守者说,“这是很美的可以赞颂的军事。想罢,我们要去攻取的,是战斗蚂蚁呵;我们去,只为歼灭它们这一族,这是很好的事业。”

“你们不是战斗蚂蚁么?”

“自然不是!你在怎样想呢?我们是平和蚂蚁。”

“这是什么意思呢?”

“你不知道这事么?我要告诉你。有那么一个时候,因为一切蚂蚁常常战争,免于大战的日子是没有的。于是出了一位好的有智慧的蚂蚁,它发见,如果蚂蚁们彼此约定,从此不再战争,便将省去许多的劳力。待到它一说,大家觉得这特别,并且就因为这原因,大家开始将它咬成小块了。后来又有别的蚂蚁们,也象它一样的意思。这些也都被咬成了小块。然而终于,这样的是这么多,致使这咬断的事,在别个也成了太忙的工作。从此它们便自称平和蚂蚁,而且都主张,那第一个平和蚂蚁是不错的;有谁来争辩,它们这边便将它撕成小块子。这模样,所有蚂蚁就几乎都成了平和蚂蚁了,那第一个平和蚂蚁的残体,还被慎重而敬畏地保存起来。我们有着头颅,是真正的。我们已经将别的十二个自以为有真头的部落毁坏,并且屠戮了。它们自称平和蚁,然而自然倒是战斗蚁,因为真的头为我们所有,而平和蚂蚁是只有一个头的。现在我们就要动手,去歼除那第十三个。这确是一件好事业。”

蟻の巣を訪ね、年老い蟻が蟻の戦争を語った——「平和蟻」と名乗りながら異論者を引き裂き、既に十二の部族を殲滅した。忍冬の茂みで休んでいると大勢の人間がやって来て、花を踏み潰し、葉巻の煙を撒き散らした。蒼白い男が自然について語ったが旋児は「すべて嘘だ」と言った。

“是呵,是呵,”约翰说,“这很值得注意!”

他本有些怕起来了,但当他们谢了恳切的牧者并且作过别,远离了蚂蚁民族,在羊齿草丛的阴凉之下,休息在一枝美丽的弯曲的草梗上的时候,他便觉得安静得许多了。

“阿!”约翰叹息,“那是一个渴血的胡涂的社会!”

旋儿笑着,一上一下地低昂着他所坐的草梗。

“阿!”他说,“你不必责备它们胡涂。人们若要聪明起来,还须到蚂蚁那里去。”

于是旋儿指示约翰以树林的所有的神奇,——他们俩飞向树梢的禽鸟们,又进茂密的丛莽,下到土拨鼠的美术的住所,还看老树腔里的蜂房。

太った婦人が青い鈴蘭の上に座った。旋児は仲間を召集して攻撃を開始した。蛙、青虫、蜘蛛、蝿、蟻の大群が人間たちを襲い、混乱と恐慌を引き起こした。雨が降り始め、人々は撤退し、紙と空き瓶とオレンジの皮だけが残った。

末后,它们到了一个围着树丛的处所。成堆成阜地生着忍冬藤。繁茂的枝条到处蔓延在灌木之上,群绿里盛装着馥郁的花冠。一只吵闹的白颊鸟,高声地唧唧足足着,在嫩枝间跳跃而且鼓翼。

“给我们在这里过一会罢,”约翰请托,“这里是美观的。”

“好,”旋儿说,“你也就要看见一点可笑的。”

地上的草里,站着蓝色的铃兰。约翰坐在其中的一株的近旁,并且开始议论那蜜蜂和胡蝶。这些是铃兰的好朋友,因此这谈天就象河流一般。

但是,那是什么呢?一个大影子来到草上,还有仿佛白云似的东西在铃兰上面飘下来。约翰几乎来不及免于粉身碎骨,——他飞向那坐在盛开的忍冬花里的旋儿。他这才看出,那白云是一块手巾,——并且,蓬!——在手巾上,也在底下的可怜的铃兰上,坐下了一个肥胖的太太。

他无暇怜惜它,因为声音的喧哗和树枝的骚扰充满了林中的隙地,而且,来了一大堆人们。

“那就,我们要笑了。”旋儿说。

于是他们来了,那人类,——女人们手里拿着篮子和伞,男人们头上戴着高而硬的黑帽子。他们几乎统是黑的,漆黑的。他们在晴明的碧绿的树林里,很显得特殊,正如一个大而且丑的墨污,在一幅华美的图画上。

「人間を僕以上に愛するのか」と旋児が問うと、ヨハネスは「いや、ここに残る」と答えた。旋児はすべてを捨てて一緒に森や砂丘や池辺で暮らし、妖精の宮殿や小鬼頭の住処を訪ね、花の香りで暮らし月光の中で踊ろうと誘った。

灌木被四散冲开,花朵踏坏了。又摊开了许多白手巾,柔顺的草茎和忍耐的莓苔是叹息着在底下担负,还恐怕遭了这样的打击,从此不能复元。

雪茄的烟气在忍冬丛上蜿蜒着,凶恶地赶走它们的花的柔香。粗大的声音吓退了欢乐的白颊鸟的鸣噪,这在恐怖和忿怒中唧唧地叫着,逃向近旁的树上去了。

一个男人从那堆中站起来,并且安在冈尖上。他有着长的,金色的头发和苍白的脸。他说了几句,大家便都大张着嘴,唱起歌来,有这么高声,致使乌鸦们都嘎嘎地从它们的窠巢飞到高处,还有好奇的野兔,本是从冈边上过来看一看的,也吃惊地跑走,并且直跑至整一刻钟之久,才又安全地到了沙冈。

旋儿笑了,用一片羊齿叶抵御着雪茄的烟气;约翰的眼里含了泪,却并不是因为烟。

“旋儿,”他说,“我要走开,有这么讨厌和喧闹。”

“不,我们还该停留。你就要笑,还有许多好玩的呢。”

唱歌停止了,那苍白男人便起来说话。他大声嚷,要使大家都懂得,但他所说的,却过于亲爱。他称人们为兄弟和姊妹,并且议论那华美的天然,还议论造化的奇迹,论上帝的日光,论花和禽鸟。

白頭鳥が落日のために歌い、旋児は言った。「これは人間の声より美しくないか。ここではすべてが調和している。しかし人間を忘れなければならない。」

“这叫什么?”约翰问,“他怎么说起这个来呢?他认识你么?他是你的朋友么?”

旋儿轻蔑地摇那戴冠的头。

“他不认识我,——太阳,禽鸟,花,也一样地很少。凡他所说的,都是谎。”

人们十分虔敬地听着,那坐在蓝的铃兰上面的胖太太,还哭出来了好几回,用她的衣角来拭泪,因为她没有可使的手巾。

第26節

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苍白的男人说,上帝为了他们的聚会,使太阳这样快活地照临。旋儿便讪笑他,并且从密叶中将一颗槲树子掷在他的鼻子上。

“他要换一个别的意见,”他说,“我的父亲须为他们照临,——他究竟妄想着什么!”

但那苍白的男人,却因为要防这仿佛从空中落下来似的槲树子,正在冒火了。他说得很长久,越久,声音就越高。末后,他脸上是青一阵红一阵,他捏起拳头,而且嚷得这样响,至于树叶都发抖,野草也吓得往来动摇。待到他终于再平静下去的时候,大家却又歌唱起来了。

蒼白い男は神が彼らのために太陽を照臨させたと言った。旋児はそれを嘲笑し、樫の実を投げて鼻に当てた。「僕の父が彼らのために照らすだなんて!」

“呸,”一只白头鸟,是从高树上下来看看热闹的,说,“这是可惊的胡闹!倘是一群牛们来到树林里,我倒还要喜欢些。听一下子罢,呸!”

唔,那白头鸟是懂事的,也有精微的鉴别。

歌唱之后,大家便从篮子,盒子和纸兜里拉出各种食物来。许多纸张摊开了,小面包和香橙分散了。也看见瓶子。

于是旋儿便召集他的同志们,并且开手,进攻这宴乐的团体。

一匹大胆的虾蟆跳到一个年老的小姐的大腿上,紧靠着她正要咀嚼的小面包,并且停在那里,似乎在惊异它自己的冒险。这小姐发一声大叫,惊愕地凝视着攻击者,自己却不敢去触它。这勇敢的例子得了仿效。碧绿的青虫们大无畏地爬上了帽子,手巾和小面包,到处散布着愁闷和惊疑,大而胖的十字蜘蛛将灿烂的丝放在麦酒杯上,头上以及颈子上,而且在它们的袭击之后,总接着一声尖锐的叫喊;无数的蝇直冲到人们的脸上来,还为着好东西牺牲了它们的性命,它们倒栽在食品和饮料里,因为它们的身体连东西也弄得不能享用了。临末,是来了看不分明的成堆的蚂蚁,随处成百地攻击那敌人,不放一个人在这里做梦。这却惹起了混乱和惊惶!男人们和女人们都慌忙从压得那么久了的莓苔和小草上跳起来;——那可怜的小蓝铃儿也被解放了,靠着两匹蚂蚁在胖太太的大腿上的成功的袭击。绝望更加厉害了。人们旋转着,跳跃着,想在很奇特的态度中,来避开他们的追击者。苍白的男人抵抗了许多时,还用一枝黑色的小棍,愤愤地向各处打;然而两匹勇敢的蚂蚁,那是什么兵器都会用的,和一个胡蜂,钻进他的黑裤子,在腿肚上一刺,使他失了战斗的能力。

蒼白い男は怒り、ますます大声で語り、顔は青くなったり赤くなったりした。歌が終わると人々は食べ物を取り出した。旋児は仲間を召集し攻撃を開始した。蛙が婦人の膝に跳び乗り、青虫が帽子やパンを這い回り、蜘蛛が糸を張り、蝿が食べ物に飛び込み、蟻の大群が至る所で人間を攻撃した。蒼白い男は黒い棒で打ったが、蟻と胡蜂がズボンに潜り込み脹脛を刺して戦闘不能にした。

大雨が降り始め、雨傘の森が生えた。人々は撤退し、紙と空き瓶だけが残った。

这快活的太阳也就不能久驻,将他的脸藏在一片云后面了。大雨淋着这战斗的两党。仿佛是因为雨,地面上突然生出大的黑的地菌的森林来似的。这是张开的雨伞。几个女人将衣裳盖在头上,于是分明看见白的小衫,白袜的腿和不带高跟的鞋子。不,旋儿觉得多么好玩呵!他笑得必须紧抓着花梗了。

雨越下越密了,它开始将树林罩在一个灰色的发光的网里。纷纷的水霤,从伞上,从高帽子上,以及水甲虫的甲壳一般发着闪的黑衣服上直流下来,鞋在湿透的地上劈劈拍拍地响。人们于是交卸了,并且成了小群默默地退走。只留下一堆纸,空瓶子和橙子皮,当作他们访问的无味的遗踪。树林中的空旷的小草地上,便又寂寂与安静起来,即刻只听得独有雨的单调的淅沥。

“唔,约翰,我们也见过人类了,你为什么不也讥笑他们呢?”

“唉,旋儿,所有人们都这样的么?”

「すべての人間がこうなのか」とヨハネスは尋ねた。「もっとひどい者もいる」と旋児は答え、人間は木を伐り花を踏み動物を殺し、都市は汚濁に満ちていると語った。

“阿!有些个还要恶得多,坏得多呢。他们常常狂躁和胡闹,凡有美丽和华贵的,便毁灭它。他们砍倒树木,在他们的地方造起笨重的四角的房子来。他们任性踏坏花朵们,还为了他们的高兴,杀戮那凡有在他们的范围之内的各动物。他们一同盘据着的城市里,是全都污秽和乌黑,空气是浑浊的,且被尘埃和烟气毒掉了。他们是太疏远了天然和他们的同类,所以一回到天然这里,他们便做出这样的疯颠和凄惨的模样来。”

“唉,旋儿,旋儿!”

“你为什么哭呢,约翰?你不必因为你是生在人类中的,便哭。我爱你,我是从一切别的里面,将你选出来的。我已经教你懂得禽鸟和胡蝶和花的观察了。月亮认识你,而这好的柔和的大地,也爱你如它的最爱的孩子一般。我是你的朋友,你为什么不高兴的呢?”

“阿,旋儿!我高兴,我高兴的!但我仍要哭,为着一切的这人类!”

「人間の中に生まれたからって泣く必要はない。僕は君を選んだのだ」と旋児は言い、最も深い森、砂丘、池辺で共に暮らし、水底の妖精の宮殿や小鬼頭の住処を訪ね、花の香りで暮らし月光で踊ろうと誘った。

“为什么呢?——如果这使你忧愁,你用不着和他们在一处。你可以住在这里,并且永久追随着我。我们要在最密的树林里盘桓,在寂寞的,明朗的沙冈上,或者在池边的芦苇里。我要带你到各处去,到水底里,在水草之间,到妖精的宫阙里,到小鬼头[5]的住所里。我要同你飘泛,在旷野和森林上,在远方的陆地和海面上。我要使蜘蛛给你织一件衣裳,并且给你翅子,象我所生着的似的。我们要靠花香为生,还在月光中和妖精们跳舞。秋天一近,我们便和夏天一同迁徙,到那繁生着高大的椰树的地方,彩色的花伞挂在峰头,还有深蓝的海面在日光中灿烂,而且我要永久讲给你童话。你愿意么,约翰?”

“那我就可以永不住在人类里面了么?”

“在人类里忍受着你的无穷的悲哀,烦恼,艰窘和忧愁。每天每天,你将使你苦辛,而且在生活的重担底下叹息。他们会用了他们的粗犷,来损伤或窘迫你柔弱的灵魂。他们将使你无聊和苦恼到死。你爱人类过于爱我么?”

「人間を僕以上に愛するのか?」「いや、ここに残る!」

“不,不!旋儿,我要留在你这里!”

他就可以对旋儿表示,他怎样地很爱他。他愿意将一切和所有自己这一面的抛弃和遗忘:他的小房子,他的父亲和普烈斯多。高兴而坚决地他重述他的愿望。

雨停止了,在灰色的云底下,闪出一片欢喜的微笑的太阳光,经过树林,照着湿而发光的树叶,还照着在所有枝梗上闪烁,并且装饰着张在槲树枝间的蛛网的水珠。从丛草中的湿地上,腾起一道淡淡的雾气来,夹带着千数甘美的梦幻的香味。白头鸟这时飞上了最高的枝梢,用着简短的,亲密的音节,为落日歌唱,——仿佛它要试一试,怎样的歌,才适宜于这严肃的晚静,和为下堕的水珠作温柔的同伴。

“这不比人声还美么,约翰?是的,白头鸟早知道敲出恰当的音韵了。这里一切都是谐和,一个如此完全的,你在人类中永远得不到。”

雨が止み、陽光が森を照らした。白頭鳥が落日のために歌った。「ここではすべてが調和している」と旋児は言った。「調和とは何?」「幸福と同じことだ。」

“什么是谐和,旋儿?”

“这和幸福是一件事。一切都向着它努力。人类也这样。但他们总是弄得象那想捉胡蝶的儿童。正因为他们的拙笨的努力,却将它惊走了。”

“我会在你这里得到谐和么?”

“是的,约翰!——那你就应该将人类忘却。生在人类里,是一个恶劣的开端,然而你还幼小,——你必须将在你记忆上的先前的人间生活,一一除去;这些都会使你迷惑和错乱,纷争,零落;那你就要象我所讲的幼小的金虫一样了。”

“它后来怎样了呢?

“它看见明亮的光,那老甲虫说起过的;它想,除了即刻飞往那里之外,它不能做什么较好的事了。它直线地飞到一间屋,并且落在人手里。它在那里受苦至三日之久;它坐在纸匣里,——人用一条线系在它腿上,还使它这样地飞,——于是它挣脱了,并且失去了一个翅子和一条腿,而且终于——其间它无助地在地毯上四处爬,也徒劳地试着往那园里去——被一只沉重的脚踏碎了。一切动物,约翰,凡是在夜里到处彷徨的,正如我们一样,是太阳的孩子。它们虽然从来没有见过它们的晃耀的父亲,却仍然永是引起一种不知不觉的记忆,向往着发光的一切。千数可怜的幽暗的生物,就从这对于久已迁移和疏远了的太阳的爱,得到极悲惨的死亡。一个不可解的,不能抗的冲动,就引着人类向那毁坏,向那警起他们而他们所不识的大光的幻象那里去。”

「しかし人間を忘れなければならない。さもなくば、あの金虫のようになる。」金虫は明るい光を見て飛び込み、人間の手に落ち、紙の箱に入れられ糸をつけられ、翅と脚を失い、ついに踏み潰された。

约翰想要发问似的仰视旋儿的眼。但那眼却幽深而神秘,一如众星之间的黑暗的天。

“你想上帝么?”他终于战战兢兢地问。

“上帝?”——这幽深的眼睛温和地微笑。——“只要你说出话来,约翰,我便知道你所想的是什么。你想那床前的椅子,你每晚上在它前面说那长的祷告的,——想那教堂窗上的绿绒的帏幔,你每日曜日的早晨看得它这么长久的,——想那你的赞美歌书的花纹字母,——想那带着长柄的铃包,[6]——想那坏的歌唱和薰蒸的人气。你用了那一个名称所表示的,约翰,是一个可笑的幻象,——不是太阳而是一盏大的煤油灯,成千成百的飞虫儿在那上面无助地紧粘着。”

ヨハネスは「神のことを考えているの?」と尋ねた。旋児の深い目が微笑んだ。「君がその名で表すものは滑稽な幻影にすぎない——太陽ではなく大きな石油ランプだ。」「祈ることなら教えてあげたい。」

“但这大光是怎么称呼呢,旋儿?我应该向谁祷告呢?”

“约翰,这就象一个霉菌问我,这带着它旋转着的大地,应当怎样称呼。如果对于你的询问有回答,那你就将懂得它,有如蚯蚓之于群星的音乐了。祷告呢,倒我是愿意教给你的。”

旋儿和那在沉静的惊愕中,深思着他的话的小约翰,飞出树林,这样高,至于沿着冈边,分明见得是长的金闪闪的一线。他们再飞远去,变幻的成影的丘冈景色都在他们的眼下飞逝,而光的线是逐渐宽广起来。沙冈的绿色消失了,岸边的芦苇见得黯淡,也如特别的浅蓝的植物,生长其间。又是一排连冈,一条伸长的,狭窄的沙线,于是就是那广远的雄伟的海。——蓝的是宽大的水面,直到远处的地平线,在太阳下,却有一条狭的线发着光,闪出通红的晃耀。

二人は高く飛び、海に至った。碧色の水面が遠くの地平線まで広がり、一条の光が真紅に輝いていた。小さなヨハネスは砂丘に座って眺め、宇宙の大いなる黄金の門が厳かに開くかのように感じた。目から溢れる涙が太陽を覆い隠すまで。「このように祈るのだ!」と旋児は言った。

一条长的,白的飞沫的边镶着海面,宛如黄鼬皮上,镶了蓝色的天鹅绒。

地平线上分出一条柔和的,天和水的奇异的界线。这象是一个奇迹:直的,且是弯的,截然的,且是游移的,分明的,且是不可捉摸的。这有如曼长而梦幻地响着的琴声,似乎绕缭着,然而且是消歇的。

于是小约翰坐在沙阜边上眺望——长久地不动地沉默着眺望,——一直到他仿佛应该死,仿佛这宇宙的大的黄金的门庄严地开开了,而且仿佛他的小小的灵魂,径飘向无穷的最初的光线去。

【五】

一直到从他那圆睁的眼里涌出的人世的泪,幕住了美丽的太阳,并且使那天和地的豪华,回向那暗淡的,颤动的黄昏里……

“你须这样地祷告!”其时旋儿说。

【五】

你当晴明的秋日,在树林里徘徊没有?当太阳如此沉静和明朗,在染色的叶子上发光,当树枝萧骚着,枯叶在你的脚下颤抖着的时候。

于是树林显得很疲倦,——它只是还能够沉思,并且生活在古老的记忆里。一片蓝色的雾围住它,有如一个梦挟着满是神秘的绚烂。还有那明晃晃的秋丝,飘泛在空气里懒懒地回旋,象是美丽的,沉静的梦。

单在莓苔和枯叶之间的湿地上,这时就骤然而且暧昧地射出菌类的奇异的形象来。许多胖的,不成样子而且多肉,此外是长的,还是瘦长,带着有箍的柄和染得亮晶晶的帽子。这是树林的奇特的梦。

于是在朽烂的树身上,也看见无数小小的白色的小干,都有黑的小尖子,象烧过似的。有几个聪明人以为这是一种香菌。约翰却学得一个更好的:

晴朗なる秋の日に森の中を歩いたことがあるか。苔と枯葉の間の湿った地面に茸の奇異な姿が射出した。朽ちた木の幹の小さな白い柄に黒い尖端を持つもの——それは蝋燭であり、秋の夜に小鬼頭たちがその傍で書物を読むのだ。

那是烛。它们在沉静的秋夜燃烧着,小鬼头们便坐在旁边,读着细小的小书。

这是在一个极其沉静的秋日,旋儿教给他的,而且约翰还饮着梦兴,其中含有从林地中升腾起来的熏蒸的气息。

“为什么这槲树的叶子带着这样的黑斑的呢?”

“是呵,这也是小鬼头们弄的,”旋儿说,“倘若他们夜里写了字,就将他们小墨水瓶里的剩余洒在叶子上。他们不能容忍这树。人从槲树的木材做出十字架和铃包的柄来。”

对于这细小的精勤的小鬼头们,约翰觉得新奇了,他还请旋儿允许,领他去见他们之中的一个去。

他已经和旋儿久在一处了,他在他的新生活中,非常幸福,使他对于忘却一切旧事物的誓约,很少什么后悔。他没有寂寞的一刹那,一寂寞是常会后悔的。旋儿永不离开他,跟着他就到处都是乡里。他安静地在挂在碧绿的芦干之间的,苇雀的摇动的窠巢里睡眠,虽然苇雀也大叫,或者乌鸦报凶似的哑哑着。他在潇潇的大雨或怒吼的狂风中,并不觉得恐怖,他就躲进空树或野兔的洞里去,或者他钻在旋儿的小氅衣下,如果他讲童话,他还倾听他的声音。

ヨハネスは旋児と長く一緒にいて幸福であった。旋児は決して離れず、葦雀の巣で眠り、大雨や暴風の中でも恐れなかった。

于是他就要看见小鬼头了。

这是适宜的日子。太沉静,太沉静。约翰似乎已经听到他们的细语和足音了,然而还是正午。禽鸟们是走了,都走了,只有嗌雀还馋着深红的莓果。一匹是落在圈套里被捕了,它张了翅子挂在那里,而且挣扎着,直到那紧紧夹住的爪子几乎撕开。约翰即刻去放了它,高兴地啾唧着,它迅速地飞去了。

菌类是彼此都陷在热烈的交谈中。

“看看我罢,”一个肥胖的鬼菌说,“你们见过这样的么?看罢,我的柄是多么肥,多么白呀,我的帽子是多么亮呀。我是一切中最大的。而且在一夜里。”

小鬼頭に会おうとした。鶸が罠に掛かっているのを放してやった。太った毒茸と赤い毒蠅茸が互いに自慢し合い、ヨハネスが「二つとも毒だ」と言うと、毒蠅茸は「それは品性です」と答えた。

“哼!”红色的捕蝇菌说,“你真蠢。这样棕色和粗糙。而我却在芦秆一般的我的苗条的柄上摇摆。我华美地红得象鸟莓,还美丽地加了点。我比一切都美。”

“住口!”早就认识它们的约翰说,“你们俩都是毒的。”

“这是操守。”捕蝇菌说。

“你大概是人罢?”肥胖者讥笑地唠叨着,“那我早就愿意了,你吃掉我!”

第27節

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约翰果然不吃。他拿起一条枯枝来,插进那多肉的帽里去。这见得很滑稽,其余的一切都笑了。还有一群微弱的小菌,有着棕色的小头,是大约两小时内一同钻出来的,并且往外直冲,为要观察这世界。那鬼菌因为愤怒变成蓝色了。这也正表白了它是有毒的种类。

地星在四尖的脚凳上,伸起它们的圆而肿起的小头。有时就用那圆的小头上的嘴里的极细的尘土,喷成一朵棕色的小云彩。那尘土落在湿地上,就有黑土组成的线,而且第二年便生出成百的新的地星来。

ヨハネスは毒茸に枯枝を刺した。地星が尘の小さな雲を吹き出しながら「塵を揚げることこそ生の最高の目的」と言った。旋児は「彼らにはこれ以上高いところがない。多くの幸福を求めはしない」と答えた。

“怎样的一个美的生存呵!”它们彼此说,“扬尘是最高的生活目的。生活几多时,就扬尘几多时,是怎样的幸福呵!”

于是它们用了深信的向往,将小小的尘云驱到空气中。

“它们对么,旋儿?”

“为什么不呢?它们那里还能够更高一点呢?它们并不多要求幸福,因为此外它们再不能够了。”

夜已深,树影都飞进了一律的黑暗里的时候,充满秘密的树林的震动没有停。在草和丛莽中间,处处有小枝们瑟瑟着,格格着,枯的小叶子们簌簌着。约翰感觉着不可闻的鼓翼的风动,且知道不可辨的东西来到近旁了。现在他却听得有分明的声音在细语,还有脚在细步地跳跃了。看哪,丛莽的黑暗的深处,正有一粒小小的蓝的火星在发光,而且消失了。那边又一粒,而且又一粒!静着!……倘若他留神倾听,便听得树叶里有一种簌簌声,就在他极近旁,——靠近那黑暗的树干的所在。这蓝的小光就从它后面起来,并且停在尖上了。

现在约翰看见到处闪着火光;它们在黑暗的枝柯间飘浮,小跳着吹到地面,还有大的闪烁的一堆,如一个愉快的火,在众星间发亮。

夜が更けると森の震動が止まなかった。至る所に青い火花が光り消えた。やがて暗い木の幹により大きな光が輝いた。

“这是什么火呢?”约翰问。“这烧得辉煌。”

“这是一个朽烂的树干。”旋儿说。

他们走向一粒沉静的,明亮的小光去。

“那我就要给你介绍将知[7]了。他是小鬼头们中最年老,且最伶俐的。”

约翰临近的时候,他看见他坐在他的小光旁边。在蓝色的照映中,可以分明地辨别打皱的脸带着灰色的胡须;他蹙着眉头,高声地诵读着。小头上戴一顶槲斗的小帽还插一枝小翎,——前面坐着一个十字蜘蛛,并且对他倾听。

待到他们俩接近时,小鬼头便扬起眉毛来看,却不从他的小书上抬头。十字蜘蛛爬去了。

“好晚上,”小鬼头说,“我是将知。你们俩是谁呢?”

“我叫约翰。我很愿意和你相识。你在那里读什么呢?”

“这不合于你的耳朵,”将知说,“这仅只是为那十字蜘蛛的。”

“也给我看一看罢,爱的将知。”约翰恳求说。

“这我不可以。这是蜘蛛的圣书,我替它们保存着的,并且永不得交在别一个的手里。我有神圣的文件,那甲虫的和胡蝶的,刺猬的,土拨鼠的,以及凡有生活在这里的一切的。它们不能都读,倘它们想要知道一些,我便读给它们听。这于我是一个大大的光荣,一个信任的职位,你懂么?”

旋児は将知を紹介した——小鬼頭の中で最も年老いて利口な者。灰色の髭のある皺だらけの顔で、大声で朗読していた。樫の実の帽子を被り、目の前に十字蜘蛛が座って聞いていた。

那小男人屡次十分诚恳地点头,且向高处伸上一个示指去。

“你刚才做了什么了呢?”

“讲那涂鸦泼剌的故事。那是十字蜘蛛中的大英雄,很久以前活着的,而且有一个网,张在三颗大树上,它还在那里一日里捉获过一千二百匹飞蝇们。在涂鸦泼剌时代以前,蜘蛛们是都不结网,单靠着草和死动物营生的;涂鸦泼剌却是一个明晰的头脑,并且指出,活的动物也都为着蜘蛛的食料而创造。其时涂鸦泼剌又靠着繁难的计算,发明了十分精美的网,因为它是一位伟大的数学家。于是十字蜘蛛才结它的网,线交线,正如它所传授的一样,只是小得多。因为蜘蛛的族类也很变种了。涂鸦泼剌曾在它的网上捉获过大禽鸟,还杀害过成千的它自己的孩子们,——这曾是一个大的蜘蛛呵!末后,来了一阵大风,便拖着涂鸦泼剌和它的网带着紧结着网的三颗树,都穿过空中,到了远方的树林里,在那里它便永被崇拜了,因了它的大凶心和它的机巧。”

将知は蜘蛛の聖典を保管しており、涂鸦泼剌の物語を語っていた——十字蜘蛛の大英雄で三本の大木に網を張り一日に千二百匹の蝿を捕まえた。「他の動物の聖典では剽悍にして卑劣な怪物と呼ばれている。私は可否を言わない」と将知は言った。

“这都是真实么?”约翰问。

“那是载在这书儿上的,”将知说。

“你相信这些么?”

小鬼头细着一只眼,且将示指放在鼻子上。

“在别种动物的圣书里,也曾讲过涂鸦泼剌的,它被称为一个剽悍的和卑劣的怪物。我于此不加可否。”

“可也有一本地祇的书儿呢,将知?”

将知微微怀疑地看定了约翰。

“你究竟是一个什么东西呢,约翰?你有点——有点是人似的,我可以说。”

“不是,不是!放心罢,将知,”旋儿说,“我们是妖。约翰虽然先前常在人类里往来,但你可以相信他。这于他无损的。”

“是呵,是呵!那很好,然而我倒是地祇中的最贤明的,我并且长久而勤勉地研究过,直到知道了我现今所知道的一切。因了我的智慧,我就必须谨慎。如果我讲得太多,就毁损我的名声。”

「真の書物があるはずだ。それは大いなる幸福と太平をもたらし、なぜすべてがこのようであるかが記されている。見つかれば、生活は永遠に晴朗な秋の日のようになる」と将知は言った。

“你以为在什么书儿上,是记着正确的事的呢?”

“我曾经读得很不少,但我却不信我读过这些书。那须不是妖精书,也不是地祇书。然而那样的书儿是应该存在的。”

“那是人类书么?”

“那我不知道,但我不大相信,因为真的书儿是应该能致大幸福和大太平的——在那上面,应该详细地记载着,为什么一切是这样的,象现状这样。那就谁也不能再多问或多希望了。人类还没有到这地步,我相信。”

“阿,实在的。”旋儿笑着说。

“然而也真有这样的一本书儿么?”约翰切望地问。

“有,有!”小鬼头低声说,“那我知道,——从古老的,古老的传说。静着呀!我又知道,它在那里,谁能够觅得它。”

“阿,将知!将知!”

“为什么你还没有呢?”旋儿问。

“只要耐心,——这就要来了。几个条件我还没有知道。但不久我就要觅得了。我曾毕生为此工作而且向此寻求。因为一觅得,则生活将如晴明的秋日,上是蓝色的天而周围是蓝色的雾;但没有落叶簌簌着,没有小枝格格着,也没有水珠点滴着;阴影将永不变化,树梢的金光将永不惨淡。谁曾读过这书,则凡是于我们显得明的,将是黑暗,凡是于我们显得幸福的,将是忧愁。是的,我都知道,而且我也总有一回要觅得它。”

突然猛烈な風が吹き、大きく黒い影が射過ぎた——梟であった。将知は書物ごと木の幹の穴に飛び込んだ。

那山鬼很高地扬起眉毛,并且将手指搁在嘴上。

“将知,你许能教给我罢。”约翰提议道,但他还未说完,便觉得有猛烈的风的一突,还看见一个又大又黑的形象,在自己前面迅速而无声地射过去了。

他回顾将知时,他还及见一只细小的脚怎样地消没在树干里,噗哧!小鬼头连那书儿都跳进他的洞里去了。小光烧得渐渐地微弱了,而且忽然消灭了。那是非常奇特的烛。

“那是什么?”在暗中紧握着旋儿的约翰问。

“一个猫头鹰。”旋儿说。

两个都沉默了好些时。约翰于是问道:“将知所说的,你相信么?”

“将知却并不如他所自负似的伶俐。那样的书他永远觅不到,你也觅不到的。”

“然而有是有的罢?”

“那书儿的存在,就如你的影子的存在,约翰。你怎样地飞跑,你怎样地四顾着想攫取,也总不能抓住或拿回。而且你终于觉着,你是在寻觅自己呢。不要做呆子,并且忘掉了那山鬼的胡说罢!我愿意给你讲一百个更好的故事呢。同我来,我们不如到林边去,看我们的好父亲怎样地从睡觉的草上,揭起那洁白的,绵软的露被来罢。同来呵!”

「将知は自負するほど利口ではない。あんな書物は永遠に見つからない」と旋児は言ったが、ヨハネスは忘れられなかった。燦然たる秋の朝が明けるのを見ながら小声で繰り返した。「将知!将知!」

约翰走着,然而他不懂旋儿的话,也不从他的忠告。他看见灿烂的秋晨一到黎明,便想那书儿,在那上面,是写着为什么一切是这样,象现状这样的,——他并且低声自己反复着说道:“将知!将知!”

【六】

从此以后,他在树林中和沙阜上,旋儿的旁边,似乎不再那么高兴和自得了。凡有旋儿所讲述和指示的,都不能满足他的思想。他每次必想那小书,但议论却不敢。他所看见的,也不再先前似的美丽和神奇了。云是这样地黑而重,使他恐怖,仿佛就要从头上压下来。倘秋风不歇地摇撼和鞭扑这可怜的疲倦的林木,致使浅绿的叶腹,翻向上边以及黄色的柯叶和枯枝在空气中飘摇时,也使他觉得悲痛。

【六】

旋儿所说的,于他不满足。许多是他不懂,即使提出一个,他所日夜操心的问题来,他也永是得不到圆满分明的答案。他于是又想那一切全都这样清楚和简单地写着的小书,想那将来的永是晴明而沉静的秋日。

“将知!将知!”

“约翰,我怕你终于还是一个人,你的友情也正如人类的一样,——在我之后和你说话的第一个,将你的信任全都夺去了。唉,我的母亲一点也不错。”

“不,旋儿!你却聪明过于将知,你也聪明如同小书。你为什么不告诉我一切的呢?就看罢!为什么风吹树木,致使它们必须弯而又弯呢?它们不能再,——最美的枝条折断,成百的叶儿纷坠,纵然它们也还碧绿和新鲜。它们都这样地疲乏,也不再能够支撑了,但仍然从这粗野的恶意的风,永是从新的摇动和打击。为什么这样的呢?风要怎样呢?”

“可怜的约翰!这是人的议论呵!”

“使它静着罢,旋儿。我要安静和日光。”

“你的质问和愿望都很象一个人,因此既没有回答,更没有满足。如果你不去学学质问和希望些较好的事,那秋日便将永不为你黎明,而你也将如说起将知的成千的人们一样了。”

それ以来、旋児の傍にいても以前ほど幸福ではなくなった。いつもあの小さな書物を思ったが議論する勇気はなかった。旋児の言葉は彼を満足させなかった。

“有这么多的人们么?”

“是的,成千的!将知做得很秘密,但他仍然是一个永不能沉默他的秘密的胡涂的饶舌者。他希望在人间觅得那小书,且向每个或者能够帮助他的人,宣传他的智慧。他并且已经将许多人们因此弄得不幸了。人们相信他,想自己觅得那书,正如几个试验炼金的一样地热烈。他们牺牲一切,——忘却了所有他们的工作和他们的幸福,而自己监禁在厚的书籍,奇特的工具和装置之间。他们将生活和健康抛在一旁,他们忘却了蔚蓝的天和这温和的慈惠的天然——以及他们的同类。有时他们也觅得紧要和有用的东西,有如从他们的洞穴里,掷上明朗的地面来的金块似的;他们自己和这不相干,让别人去享用,而自己却奋发地无休无息地在黑暗里更向远处掘和挖。他们并非寻金,倒是寻小书,他们沉沦得越深,离花和光就越远,由此他们希望得越多,而他们的期待也越滋长。有几个却因这工作而昏聩了,忘其所以,一直捣乱到苦恼的儿戏。于是那山鬼便将他们变得稚气。人看见,他们怎样地用沙来造小塔,并且计算,到它落成为止,要用多少粒沙;他们做小瀑布,并且细算那水所形成的各个涡和各个浪;他们掘小沟,还应用所有他们的坚忍和才智,为的是将这掘得光滑,而且没有小石头。倘有谁来搅扰了在他们工作上的这昏迷,并且问,他们做着什么事;他们便正经地重要地看定你,还喃喃道:‘将知!将知!’

「ヨハネス、君はやはり人間だ。僕の後に話しかけた最初の者が君の信頼をすべて奪い去った」と旋児は言った。「将知は多くの人間を不幸にした。人間は彼を信じ、すべてを犠牲にして暗闇の中を掘り続けた。正気を失った者たちは砂で塔を作り『将知!将知!』と呟くようになった。」

“是的,一切都是那幺么的可恶的山鬼的罪!你要小心他,约翰!”

但约翰却凝视着对面的摇动和呼哨的树木;在他明澈的孩童眼上,嫩皮肤都打起皱来了。他从来没有这样严正地凝视过。

“而仍然,——你自己说过,——那书儿是存在的!阿,我确实知道,那上面也载着你所不愿意说出名字来的那大光。”

“可怜的,可怜的约翰!”旋儿说,他的声音如超出于暴风雨声之上的平和的歌颂。“爱我,以你的全存在爱我罢。在我这里,你所觅得的会比你所希望的还要多。凡你所不能想象的,你将了然,凡你所希望知道的,你将是自己。天和地将是你的亲信,群星将是你的同胞,无穷将是你的住所。”

しかしヨハネスは「あの書物は存在すると君自身が言った!」と主張した。旋児は「全存在をもって僕を愛してくれ。僕のところにのみ安らぎがある」と言った。

“爱我,爱我——霍布草蔓之于树似的围抱我,海之于地似的忠于我,——只有在我这里是安宁,约翰!”

旋儿的话销歇了,然而颂歌似的袅袅着。它从远处飘荡而来,匀整而且庄严,透过了风的吹拂和呼啸,——平和如月色,那从相逐的云间穿射出来的。

旋儿伸开臂膊,约翰睡在他的胸前,用蓝的小氅衣保护着。

他夜里却醒来了。沉静是蓦地不知不觉地笼罩了地面,月亮已经沉没在地平线下。不动地垂着疲倦的枝叶,沉默的黑暗掩盖着树林。

于是问题来了,迅速而阴森地接续着,回到约翰的头里来,并且将还很稚弱的信任驱逐了。为什么人类是这样子的?为什么他应该抛掉他们而且失了他们的爱?为什么要有冬天?为什么叶应该落而花应该死?为什么?为什么?

夜中に目覚め、問いが次々と戻ってきた。茂みの奥で青い光が跳ねていた。旋児はぐっすり眠っていた。ヨハネスは外套から滑り出て将知のところへ行った。「あの書物を見つけるのは誰ですか」と尋ねた。

于是深深地在丛莽里,又跳着那蓝色的小光。它们来来去去。约翰严密地注视着它们。他看见较大的明亮的小光在黑暗的树干上发亮。旋儿酣睡得很安静。

“还有一个问,”约翰想,并且溜出了蓝色的小氅衣,去了。

“你又来了?”将知说,还诚意地点头。“这我很喜欢。你的朋友在那里呢?”

“那边!我只还想问一下。你肯回答我么?”

“你曾在人类里,实在的么?你去办我的秘密么?”

“谁会觅得那书儿呢,将知?”

第28節

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“是呵,是呵!这正是那个,这正是!——你愿意帮助我么,倘我告诉了你?”

“如果我能够,当然!”

“那就听着,约翰!”将知将眼睛张得可怕地大,还将他的眉毛扬得比平常更其高。于是他伸手向前,小声说:“人类存着金箱子,妖精存着金锁匙,妖敌觅不得,妖友独开之。春夜正其时,红膆鸟深知。”

“这是真的么,这是真的么?”约翰嚷着,并且想着他的小锁匙。

“真的!”将知说。

“为什么还没有人得到呢?有这么多的人们寻觅它。”

「人間が金の箱を持ち、妖精が金の鍵を持つ。妖の敵には見つからず、妖の友のみ開く。春の夜こそ好機、赤い喉の鳥がよく知る」と将知は言った。

“凡我所托付你的,我没有告诉过一个人,一个也不。”

“我有着,将知!我能够帮助你!”约翰欢呼起来,并且拍着手。“我去问问旋儿。”

他从莓苔和枯叶上飞回去。但他颠踬了许多回,他的脚步是沉重了。粗枝在他的脚下索索地响,往常是连小草梗也不弯曲的。

这里是茂盛的羊齿草丛,他曾在底下睡过觉。这于他显得多么矮小了呵。

“旋儿!”他呼唤。他就害怕了他自己的声音。

“旋儿!”这就如一个人类的声音似的发响,一匹胆怯的夜莺叫喊着飞去了。

羊齿丛下是空的,——约翰看见一无所有。

蓝色的小光消失了,围绕着他的是寒冷和无底的幽暗。他向前看,只见树梢的黑影,散布在星夜的空中。

他再叫了一回。于是他不再敢了。他的声音,响出来象是对于安静的天然的亵黩,对于旋儿的名字的讥嘲。

可怜的小约翰于是仆倒,在绝望的后悔里呜咽起来了。

【关于绥蒙诺夫及其代表作“饥饿”日本 黑田辰男  】

【一】

ヨハネスは小さな鍵のことを思い出し「持っています!助けられます!」と歓声を上げた。苔と枯葉の上を飛ぶように戻ったが、何度もつまずいた。足取りが重くなっていた。

小说《饥饿》的作者绥蒙诺夫(Sergei Alexandrovitch Semionov),据他的自传,是在一八九三年的十月,生为彼得堡的旋盘工人的次男。兄弟姊妹很多,连死掉的也算上去,说是竟有十三个。他的父亲,是在一个工厂里,连做了四十年的工人,但于一九一九年“为了饥饿”死掉了。

绥蒙诺夫是在喧嚷的,湫隘的家庭中,和兄弟们争闹,受着母亲的打扑,过了那少年时代的。他从孩子时候以来,似乎就很活泼,爱吵闹,出了初级学校,四年制的高等科一毕业,他便在喀筏尼大野上,闹了一场人数在五百人以上的大争吵。这十年之后,喜欢争闹的他,便跳在“国家战争”这真的争闹里了。争闹了三年,因为负伤——打击伤,就被送到克隆司泰特的冰浴场去。复籍于赤军的时候,右眼是坏了的。十月革命之于他,说是“向炫耀轰动的生活去的不可制驭的飞跃。”是“空间开辟了”——而且“在那空间中,是闪烁着饥饿和人们和工作的奇怪的几年。”冰浴以后,生了很重的肋膜炎。既经医好,则被任命在彼得堡的地方委员会里,做改良工人生活的工作;但几个月后,旧病复发了,被送入萨契来尼的疗养院。在这里,他的作为著作家的生活开头了。其时是二十八岁。

「旋児!」と呼んだ。自分の声に怯えた。それは人間の声のように響き、夜鶯が鳴き声を上げて飛び去った。羊歯の下は空であった。青い光は消え、周囲は寒くて底知れぬ暗闇であった。

【二】

他的处女作,是细叙伤寒症的流行的小说《伤寒》,登在一九二二年的《赤色新地》一月号上。其次发表的是《战争道上》,第三种是写明是日记小说的《饥饿》,这是登在年报《我们的时代》一月号上的。这小说,忽然在读书界——尤其是共产党员之间,引起了颇大的兴味。而这兴味,说是对于作品本身呢,似乎倒是对于工人出身的作者为较多。但是作品,毕究是被指为绥蒙诺夫的代表作的,已经翻成英文和布喀维亚文,听说还翻成了捷克文,或正在翻译——

《饥饿》也如《伤寒》一样,是生活记录的小说。借了十六岁的少女菲亚的日记的形式,来记录一九一九年的饥馑年间,在彼得堡的一个工人的家族的生活的。

可哀想な小さなヨハネスはその場に倒れ伏し、絶望の後悔の中で嗚咽した。

一九一九年——这是施行新经济政策的大前年,苏维埃俄罗斯于政治革命是成功了,但接着是国内战争和反动,所以很疲乏;而经济方面,尤当重大的危机,又加以可怕的饥馑袭来了的“艰苦的时期”。在这时期中,俄国的劳动者是过着怎样的生活,共产党员是怎样地,市民是怎样地——那生活的一部分——是有限得很的一部分,但这却恳切地在这小说里面描写着。

然而,当描写这艰苦的生活之际,作者却并不深求那生活的不幸的原因,那《饥饿》的悲剧的缘起。而对于那原因的批判之类,自然就更不做了。这小说,在这一点,实在是无意志,无批判似的。有工人(——菲亚的父亲),有少女菲亚的哥哥叫作亚历山大的利己主义底小资产阶级的职员,有叫作舍尔该的哥哥的共产党员。但他们全不表明那意志,那意识。而作者对于他们的存在,也实在很寡言。他们的行为,是恳切地(并且干练地,以颇为艺术底完成)描写着的。然而他们的魂灵,的情绪,的观念形态,却并不以强大的力,来肉薄读者。——这对于生活的现实的无意志性——这,是我们常在“同路人”那里会看见的,而且岂不是正为此,所以我们难于就将他们看作真的无产阶级作家的么?绥蒙诺夫呢,正是工人出身,赤军出身的作家。然而要从他那里看出那特异性和优越性来,却似乎不容易。

【セミョーノフ及びその代表作「飢餓」について 日本 黒田辰男】

但是,用这样的眼光来看他,是错的。他是自然主义者,他的作品,应该作为自然主义的作品看,——如果说得过去——那时候,便自然只得说——是了,对的,他是自然主义者——了。然而对于他的我们的不满,岂不是委实也就在此么?

绥蒙诺夫是不消说,不象有产者作家那样,受过组织底的文学教育的。表现——这事情,似乎很辛苦了他。他说过——

“象出现于现代的许多无产者作家们一样,我在三年前走进俄国文坛的时候,是并无一点作家所必需的修养的暗示,也全不知道想想艺术作品上的形式的意义;精勤地来写作品的事,是全不知道,也并不愿意的。在短的时期之间,我投身于Proletcult(无产者教育处)了,然而那地方什么也没有教给我。我先前是学习于俄国的古典作家们(并含戈理基在内),现在也还在学习着。但较之这些,从革命以后的俄国的现代作家们(但那作家们之中,我们是也将‘同路人’的不正当而不必要的书籍放在里面的)学习,以及正在学习之处,却更其多。”

小説『飢餓』の作者セミョーノフは一八九三年十月、ペテルブルグの旋盤工の次男として生まれた。喧噪に満ちた狭隘な家庭で育ち、幼い頃から活発で騒がしかった。十月革命は「華々しく轟く生活への制御し難い飛躍」であった。

他大约是太过于“学习”了——在这一端,他大约也是体验了过渡期的无产者作家的不幸之一罢。

《饥饿》的梗概——要讲这个,是烦难的。这是日记,是生活记录。其中并无一贯的,小说的线索似的东西。如果一定要简单地讲起这小说的内容来,那么——一个少女菲亚,怀着对于修学的憧憬,到彼得堡去。但在那里等候她的,却并非实现这憧憬的幸福,而是利己主义和饥饿的黑暗的现实。可怜的少女的幻影,在一到彼得堡的第一天,便被破坏了。于是环绕着这少女,而展开了由父母、兄弟所形成的家庭生活,展开了这少女在办事的邮政局的生活。然而一贯这一切生活,投给不幸和悲惨的阴影者,是“饥饿”。为了“饥饿”,父亲和亲生的孩子和妻隔离,变成冷酷,于是为了“饥饿”死下去。为了“饥饿”,女儿憎恶父亲,妻憎恶夫。为了“饥饿”,幼儿的心也被可怕的悲惨所扭曲。——一切为了“饥饿”,为了“饥饿”而人的生活悲惨,偏向,堕落,衰亡。这便是这部小说的主题。这战时共产时代的心理生活,便是这部小说的主题。在这里,有可怕的现实。有虽然狭,然而恳切地描写出来的生活。而这作品的艺术底价值,大约也就应该在这一点上论定的了。

処女作『腸チフス』は一九二二年に発表された。『飢餓』は十六歳の少女フィアの日記形式で、一九一九年の飢饉の年にペテルブルグのある労働者家族の生活を記録している。「飢餓」のために父は冷酷になり死んでゆき、娘は父を憎み、妻は夫を憎む。幼児の心も恐るべき悲惨にねじ曲げられる。

【三】

临末,就将他的著作,顺便列举出来罢——

1单行本

《家政妇玛希加》 一九二二年

《百万人中的一个女人》(小说集) 一九二二年

《饥饿》(小说) 一九二二年

《兵丁和小队长》(手记) 一九二四年

《裸体的人》(小说集) 一九二四年

セミョーノフは自然主義者であり、生活の現実に対して無意志的である。組織的な文学教育を受けておらず、「表現」に苦しんだ。「プロレトクルトでは何も教えてくれなかった。ロシアの古典作家から学び、今も学んでいる」と述べた。

《是的,有罪》(小说集) 一九二五年

小说集二卷(集印着绝版的作品的) 一九二五年

2载在杂志上的

《阶前》—“Mor Gvardja”     一九二二年,四—五号

《顺着旧路》—“Nash Dni”       一九二三年,三号

《萨克莱对我说了什么?》—“Zvezda”  一九二四年,一号

《同一的包的轮索》—“Kovsh”     一九二五年,一号

《饥饿》这一部书,中国已有两种译本,一由北新书局印行,一载《东方杂志》。并且《小说月报》上又还有很长的批评了,这一篇是见于日本《新兴文学全集》附录第五号里的,虽然字数不多,却简洁明白,这才可以知道一点要领,恰有余暇,便译以饷曾见《饥饿》的读者们。

十月二日,译者识。

(一九二八年十一月一日《北新》第二卷第二十三号所载。)

【LEOV TOLSTOI 俄国 Lvov-Rogachevski  】

—“最近俄国文学史略的”一章

著作一覧:『家政婦マシガ』『百万人中の一人の女』『飢餓』『兵卒と小隊長』『裸体の人』『然り、有罪なり』等。

Leov Tolstoi——俄国文学的长老——生存八十二年,从事于文学五十八年,比及暮年,而成为“两半球的偶象”了。他获得吾俄文士所不能遭逢的幸福,他处女作一成就,我们的第一流的艺术家、诗人、批评家等,对于他之出现,无不加以欢迎。

一八五二年九月,在高加索青年军官的处女作《幼年时代》,以L. N. T. 三字的署名,出现于《现代人》杂志上,次月二十一日,那编辑者Nekrasov就写信给Turgeniev(都介涅夫)道:“倘有兴致,请一读《现代人》第九号所载的小说《幼年时代》罢,这是新的活泼的天才的杰作。”

一八五四年《少年时代》发表后,Turgeniev便函告Karbashin(美文家兼评论家)道:“我见了《少年时代》之成功,非常欣喜,惟祝Tolstoi的长生。我在坚候,他将再使我们惊骇的罢,——这是第一流的天才。”更两年后,作了《奇袭》、《森林采伐》、《舍伐斯多波里战记》时,Turgeniev写给Druzhinin(文人兼批评家)的信里,有云:“这新酒倘能精炼,会成可献神明的饮品的。”

【レフ・トルストイ ロシア リヴォフ=ロガチェフスキー】

以上,是未能圆满的断片发表之际,就已得了这样的称扬。《舍伐斯多波里战记》不独在文士之间,也使Tolstoi出名于广大的读书社会里。

描摹戴雪群峦的秀气的未完之作《哥萨克兵》,象是合着Beethoven(贝多芬)的音乐而动笔的温雅华丽的诗底长篇《家庭的幸福》,作者自称为俄国的“Iliad”的大作《战争与平和》,受Pushkin的影响而且随处发着Pushkin气息的悲剧小说“Anna Karenina”等,都是伟大的天才的大飞跃,又使Tolstoi成为十九世纪后半的思潮的主宰者的。《我的忏悔》、“Kreutzerova Sonata”、《复活》等,则全欧的杂志报章,视同世界底事件,评以非常的热情。

レフ・トルストイ——ロシア文学の長老——八十二年を生き、五十八年間文学に従事し、「両半球の偶像」となった。処女作が成るや一流の芸術家らがこぞって歓迎した。一八五二年、コーカサスの青年将校の『幼年時代』が発表されると、ネクラーソフは「新しい天才の傑作」と称え、ツルゲーネフは「第一流の天才」と讃えた。

Pushkin(普式庚)在生存中,仅见自己的文集第一卷的刊行,Turgeniev见了那文集的第三版,Dostoievski全集,则在其死后渐得刊行的,而Tolstoi全集,却在他生存时,已印到十一版。作品印行的册数,他死后数年间,达于空前的数目,在一九一一年,卖出四、六一○、一二○本(据托尔斯泰纪念馆的统计)。更将从一九一○年十一月七日至一九一二年十一月七日之间的卖出本数,合计起来,实有六百万本,而其书目,是六百种。

这数字,即在显示Tolstoi的作品的全民众底,世界底意义,在俄国,则苟识文字,便虽是七龄的儿童,也是Tolstoi的爱读者。

但自《战争与平和》和《我的忏悔》发表以来,Tolstoi的名声和势力,便远越了俄罗斯的界域。倘说,Turgeniev是使欧洲的读者,和俄国接近的人,则Tolstoi不但使西欧,且使东亚的注意,也顾到俄国文学。和Tolstoi通信的,不仅英、法、美的读者,连印度、中国、日本的思想家,也在其中。Katiusha Maslova的小曲,且为日本的民众所爱唱。恰如约翰·藉克·卢梭(Jean Jacques Rousseau)曾为世界所注目一样,Iasnaia Poliana的圣者,是成为享受着现代最高文化的人们的注意的焦点的。Iasnaia Poliana,是成了真理探究者的圣地了。

『コサック兵』『家庭の幸福』『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』等は偉大な天才の大飛躍であり、トルストイを十九世紀後半の思潮の主宰者とした。生存中に全集は第十一版を重ね、死後数年で六百万冊が売れた。七歳の児童でもトルストイの愛読者であった。

第29節

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及于全世界的文人,尤其是俄国文人的Tolstoi的影响,非常之大,迦尔洵(Garshin)、莱斯珂夫(Leskov)、蔼尔台黎(Ertel)、契诃夫(Chekhov)、库普林(Kuprin)、威垒赛耶夫( Veresaev)、阿尔志跋绥夫(Arzybashev)、戈理基(Maxim Gorki)、希美略夫(Shmelev)、舍而该也夫·专斯基(Sergeiev–Zenski)等,皆各异其时代,各受着各样的印象,玩味了这文豪之在那社会观,写实主义,Tolstoi式表现法上,所以动人的大才能的。而俄国的文人,且视Tolstoi为宗教底偶像,虽是自爱心深的Dostoievski,读完“Anna Karenina”后,也绝叫为“这是艺术之神”;Maxim Gorki也称Tolstoi为俄国的神,坐于金菩提树下的玉座上。

“这青年军官,使我们一切都失了颜色”者,是Grigorovitch的半开玩笑的苦言。这青年军官,是成为我们的荷马(Homeros),我们的国宝,成为十九世纪末及二十世纪初的新卢梭,在他面前,全世界的文人,洋溢着不杂羡望的纯净的欢喜之情,无不俯首了。

トルストイの影響は全世界の文人に及んだ。ガルシン、レスコフ、チェーホフ、クプリン、ゴーリキー等がその社会観、写実主義、トルストイ的表現法の大才能を味わった。ドストエフスキーは『アンナ・カレーニナ』を「芸術の神」と称し、ゴーリキーはトルストイを「ロシアの神、金の菩提樹の下の玉座に座す」と讃えた。

这卓绝的文豪,即继续着竭尽精力的劳作,在后世遗留了美文的宝玉。Tolstoi的文学底遗产,至今还难以精确地计算,虽当现在,尚在无数的文籍中,发见重要价值的断章;在那日记和信札之中,则潜藏着可以惊叹的文学。关于Tolstoi的各国语的评传,肖像及遗物,是搜集于在墨斯科、列宁格勒及Iasnaia Poliana的托尔斯泰纪念馆中,而惟这些纪念馆,乃是说明着否定了不平等的旧世界的,真理的伟大的探求者,且是永久不忘的生死的表现者的他的一生和创作,为俄国和世界,是有怎样的价值的。

Leov Tolstoi并非借著述为业以营生的职业底文学者,他可以不急急于作品的刊布。关于所作《幼年时代》,他在一八五二年写给姑母Iergolskaia的信里,有云,“我将久已开手了的这小说,改作过几回了,为得自己的满意计,还想改定一回。大约这就是所谓Penelopa(译者按:Ulysses之妻,出荷马史诗)的工作罢,然而我是不厌其劳的。我并不求名,是乘兴而作的。在我,写作是愉快而有益,所以写作的。”

他的情热的大部分,即耗费于用以表白内在思想的这愉快的创作事业上……。热狂的猎人,热狂的赌客,Tsigan(译者按:民族名)歌的热狂底爱好者的他,一转而成为乘兴挥毫的热狂底文士,以著作之际,涌于内心的善良而宽容的感情为乐的人了。

他,在文章的每一行中,都注进新生活的渴望和喷溢似的精力去,一面利用闲暇,从事著作,逐年加以修正。他在《关于战争与平和》这一篇的冒头上,就写着“当刊行我费了在最良的生活状态中,五年间不绝的努力的作品……”的辞句,但这样的事,不消说,是须在得了物质底安定的Iasnaia Poliana,这才做得到的。

和Tolstoi完全不同的社会的出身者Dostoievski,曾经告诉自己的弟弟说,“没有钱,须急于起草。所以文章上是有瑕疵的。”Dostoievski所作的《博徒》,以一个月脱稿,那是因为怕付对于完成期限的迟延罚款,而且那时,他为债主所逼,不得不走外国了。那时候,Dostoievski急于作品的完成,从亲友之劝,雇了速记者,作为一月告成的助手,但倘是Tolstoi,则这样的作品,大概是要乘着感兴,利用闲暇,在一年之间徐徐写好的罢。

辅助了Dostoievski的女速记者Anna Grigorievna Snittkina,成为他的妻,Iasnaia Poliana邻村的地主的孙女Sophia Andreievna Bers,是做了Tolstoi的夫人了。前者是为履行那契约期限之故,做了速记,后者是为大文豪要发表杰作,将二千余页的《战争与平和》誊清过七回。如《战争与平和》、“Anna Karenina”、《复活》那样的大作,大概惟在得了生活的安定的时候,这才始是可能。

トルストイは職業的文学者ではなく、「興に乗じて書く」と述べた。文章の一行一行に新しい生活への渇望を注ぎ込み、閑暇を利用して年を追うて修正した。ドストエフスキーが「金がなく急いで起草せねばならない」と弟に語ったのとは対照的に、トルストイは悠々と書き上げた。

Tolstoi是陶醉于自然之美和生活的欢乐的,他叙述结构雄大的光景,且描写地主的庄园的如梦的生活。

在“Anna Karenina”里,描出一百五十个人物来,而毫无纷乱撞着之处,各人有各样的特殊的性格和态度;篇中的一切事物,都应了脉络相通的思想群的要求而表现着,那一丝不紊的脉络之力,是使我们视为艺术上的神秘,加以惊叹的。

“艺术上的作品的善恶,是由从心底说出的程度之差而生的”,这是Tolstoi写给Golzev的话。他所要求于艺术家者,是在和时代相调和,通晓隶属于人类的一切事物,不但通晓而已,还须是人类的共同生活的参加者。他又要求着表现自己的思想的技巧和才能,且以为凡艺术家,尤当爱自己的天职,关于可以缄默的事物,不可漫为文章,惟在不能沉默时,乃可挥其钢笔云。他是要求着口的发动,当以溢于心的思想为本的。而他自己,便是这样的艺术家。

他是当时最有教育的人物,只由Iasnaia Poliana的图书室里有着书籍一万四千卷的事,便足以证明。而这些书籍的一半,为外国语所写,他是通晓希腊语,以及英、法、德语的。他所自加标注的许多书,便在说明他以如何深邃的趣味,研究了人类的思想。他站在那时代的最高智识的水平上,又常是一般人类生活的参加者。创造了又素朴,又纯正,然而壮丽的文章的他,是决不以浓艳的辞句和华丽的文体为念的,但他所描写的人物及其他,却备有不可干犯的尊严和令人感动的崇丽。如Bordina战斗的叙述,《战争与平和》中的Andrei Bolkonski之死,Kitty的诞生及Anna Karenina和儿子的会见,记在《复活》里的 Katiusha的爱的醒来和教会的仪式的描写,在世界的文学里,不能见其匹俦。我们的眼前,有实现了美的世界的一个大文豪在。

描写在《哥萨克兵》或《家庭的幸福》中的自然的光景,《战争与平和》里的Bolkonski的爱情的发生及逢春老橡的开花,盛大的狩猎,Natasha Rostova,Maria Bolkonskaia,Pierre Bezukhov和别的人物的形容,是镌刻在读者的胸中的……。而充满在作者Tolstoi两眼中的赞叹,同情和欢喜之泪,也盈盈于读者的眼里。这是因为相信着“无爱之处,不能生诗”的作者的热情,以爱和诗的力量,打动读者了。以“不能沉默”为动机的他的文章,是震撼我们的,但这是因为,例如当描写死刑的光景之际,想象了“浸过了服皂水的绳子,绕上他的又老又皱的颈子了”的他那一句一言,乃是充溢于同情的心的叫喊的缘故。

『アンナ・カレーニナ』では百五十人を描き出しながら混乱がなく、「芸術作品の善悪は心底から語られる程度の差によって生じる」と信じた。当時最も教養ある人物であり、書斎に一万四千巻を蔵し、ギリシア語、英語、フランス語、ドイツ語に通じた。

Tolstoi常写些破格的文句,恰如喜欢有特色的破格的人物一样,他也喜欢破格的文句的,那一言一语,是活的魂灵。Gorki在追怀Tolstoi的一篇文章里说,“要懂得他的文章的有特色的卓越之美,则他那以同一语的许多破格的卑俗的调子,用于叙述之处,是必须注意的。”这是适切的评语。

Tolstoi在那处女作《幼年时代》的序文上,载着关于自己修辞上的粗野和没有技巧的说明,以为这是因为不用喉咙,而用肚子唱歌的缘故。据他自己说,则从喉所发的声音,较之腹声,虽颇婉曲,而不感动人。腹声却反是,粗野则有之,但彻底于人的精神。Tolstoi说:“在文学亦然,有脑和腹的写法。用脑写时,那文辞是婉转滑脱的,但用腹来写,则脑中的思想,集如蝟毛,思念的物象,现如山岳,过去的忆想,益加繁多,因而抒写之法,缺划一,欠畅达,成拮倔了。或者我的见解也许是错误的罢,但当用脑写了的时候,我是常常抑制自己,努力于仅仅用腹来写的。”

由这尊贵的告白,不但Tolstoi的文质,连那魅人的句子之所以产出的原因,也明白了。 Tolstoi之所有的,不是“脑的思想”,而是“腹的思想”。他有惊人的腹的记忆力,他的创作,常包着温暖的感情,响着牵惹我们的腹声。“一读你的作品,每行都洋溢着活活泼泼的感情。令人恍忽的你的辞句的本质就在此”者,是评论家Strakhov给与Tolstoi的言语。

Tolstoi是从小就现了锐利的敏感性的,曾得“薄皮孩子”的绰号。他的《狂人日记》,带着自传底性质无疑,其中便载着他的敏感性的显著的实例。这性质,似乎是从母亲得来的,他自己尊重着这特质,在寄给姑母Iergolskaia的热烈的信里,常常讲起它。

ボロジノの戦闘の叙述、アンドレイ・ボルコンスキーの死、カチューシャの愛の覚醒は世界文学にその比を見ない。処女作の序文で「喉ではなく腹で歌う」と述べ、「脳の思想」ではなく「腹の思想」で書くと説明した。

他在《幼年时代》的序文上,便说着愿读者先须是敏感。他的创作中,毫无遮掩,露出着这敏感性的,是《幼年时代》、“Albert”、“Lucerne”、《计数人(撞球的)日记》等。到了中年,他将敏感性自行抑制,得了大结果,但及暮年,则这特质,又使重之一如他的意志的我们,为之感动了。

Tolstoi喜欢那赞叹之泪,忏悔之泪,同情之泪,一九○九所作的《路人的故事》,是用这样的句了开端的——

“早晨,一早到外面去。心情是壮快的。是美丽的早晨。太阳刚从茂林里出来。露水在草上,树上发亮。一切都和婉,一切物象都依然。实在很舒服,不愿意死了。”

其次,是接着遇见老农,和关于吸烟之害及思索之益的叙述,又这样地写道——

“我还想说话,但喉咙里有什么塞住了。我很容易哭了。不能再说话,便别了那老人,也别了欢乐的和婉的感情,含泪走掉了。住在这样的人们之间,怎会有不高兴的道理呢,也怎能有不从这样的人们,期待那最出色的工作的道理呢?”

在逝世的三个月前,他将从一个农家青年得来的感情,写在日记上,用了和上文一样的言语,证明着自己的敏感性。那日记是这样写着的——

“为了欣喜,为了生病,还是为了两样相合的原因呢,我很容易下同情和喜悦之泪了。这可爱的,思想坚固的,强有力而愿做善事的孤独的青年的单纯的话,动了我的心,呜咽之声几乎出口,我便一句话也不能说,离开他的旁边了。”

然而这善感的禀性,是现于Tolstoi 一生中的特色,读者是不看见这眼泪的罢,但他却常抱着甚深的感慨。

Tolstoi的母亲,爱读卢梭,《爱弥儿》是她的案头的书籍,Tolstoi最所爱好的人物,乃是使感情的诗美,来对抗拟古典主义的批判的约翰·藉克·卢梭其人者,实在并非无故的。

Tolstoi在一九○一年,向在巴黎的俄语教授M. Boyer这样说——

“我将《卢梭全集》二十卷熟看了,其中最喜欢的是《音乐字典》,我感谢卢梭。”

“我十五年间,帖身挂着雕出卢梭肖像的牌子,以代“十字架”。而卢梭的著作的大半,是恰如我自己所写一般,于我非常亲切的。”

一九○五年Tolstoi应允推选为日内瓦的卢梭协会会员的通告,寄信到日内瓦云,“卢梭是十五岁时代以来的我的教师。于我一生中,给与一大裨益的,是卢梭和《旧约》。”

トルストイは幼少より鋭い敏感性を示し「薄皮の子」の綽名を得た。母はルソーを愛読し、『エミール』はその机上の書であった。トルストイは「ルソーは十五歳以来の教師」「十五年間ルソーの肖像を十字架の代わりに肌身につけた」と語った。ルソー協会の会員は「レフ・トルストイは十九世紀のルソー」と論じた。天賦の敏感性が現代文明社会の虚偽を洞察し、自然の法則と自然人を愛好せしめたのである。

那协会的会员班尔裨,在协会年报上,载《托尔斯泰是卢梭的后继者》一文(一九○七年),论云——

“Leov Tolstoi是十九世纪的卢梭,或是具体化的爱弥儿。卢梭的精神,透彻于Tolstoi的全创作里。Tolstoi是现代人的评释者。恰如卢梭是十八世纪的或者一般,Tolstoi是现世纪的或者。”

从托尔斯泰协会,赠给卢梭协会的答文云——

“Jean Jacques Rousseau所理想的思想的独立,人类的平等,诸国民之统一,以及对于自然美之爱,是和我们颇为近密的。我国民底智识的代表者的Tolstoi,将全生涯,贡献于上述的理想之发扬和宣传了。”

赞叹,同情或忏悔之泪,是表象Tolstoi的社会观的,昂奋的敏感之泪,则湿透着他的世界观。那天禀的敏感性,洞察了发荣于榨取的条件上的现代文明社会的虚伪,且促他爱好自然的法则和自然人了。他是作为卢梭的后继者,而用卢梭以上的情热和真挚和确信,抉剔了一切虚伪和不诚实的现象的。

他将对于人生的爱情,对于正义和朴素的憧憬,对于虚伪的愤怒与其敏感性,织在和真挚自然相融合的真挚的自己的构想之中了。

第30節

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然而,为十九世纪的卢梭的Tolstoi,是观察了纷乱的世纪的后半期的社会底矛盾的现象的。诗圣Pushkin,未曾知道这样的大矛盾,据Bielinski所说,则“阶级的原则,乃永久的真理”云。但Tolstoi却并不相信自己的阶级的一定不动性。他目睹Sevastopol之陷落,遇见尼古拉一世之死,观察革新时代的情形,知道那砍断了的大连锁的一端,打着地主阶级,而别一端,则吓了贱农(Muzhik)。他又目击了所谓民众启蒙运动,经验过和都市的发达一同激增的可惊的矛盾的现象,而他自己,则成为最后的贵族了。他于一八七○及八○年代,宣说那将其生活状态,加以诗化,美化而讴歌了的庄园的没落,恰如Gogol的杰作(译者按:“Taras Bulba”中的人物Bulba,向Andrei(译者按:Bulba的儿子)所说的“我做成了你,这我也来杀掉你”一样,也说给了庄园。于是他将自己的思想一变,成为一向遮着艺术的华服的丑秽现象的曝露者了。

十九世紀のルソーたるトルストイは、世紀後半の社会的矛盾を観察した。セヴァストポリの陥落を目睹し、革新時代を観察し、大連鎖の断片が地主階級を打ち農民を脅かすのを見た。一八七〇年代と八〇年代に、その庄園の没落を宣言した。

《忏悔录》、《爱弥儿》、《新蔼罗若》的著作者卢梭,生于小资产阶级的手工业者的家庭里,历经辛苦而生长,感到十八世纪的虚伪底生活,遂如古代罗马的贱民似的,向贵族阶级宣战了。

《幼年时代》、《哥萨克兵》、“Lucerne”、《我的忏悔》的著者,则生于贵族人家,父系是德意志人,那母系,是远发于留烈克(俄国的始祖)的。

而这白马金鞍的贵公子,遂和自己抗争,经思索多年的结果,竟曝露了贵族阶级的腐败。所以那抗争是戏曲底的事,是谁都可以直觉到的。

Tolstoi 一离母胎,便即包围在旧贵族的氛围气里,为许多男女侍从所环绕,在Iasnaia Poliana的幸福的生活,是全靠着七百个农奴的劳动的。至于教育未来的文豪者,则是长留姓名于《幼年时代》里的德国人和法国人,他的父亲的图书室中,也如在Pushkin的父亲的图书室中一样,有许多十八世纪的法国人的著作。从十三岁到十九岁之间(一八四一——一八四七),他受着Kazan知事之女,退职胸甲骑兵大佐之妻,他的姑母Perageia Ilinishna Iushkova的监督,住在那家里。这家庭,是常是佳节般的热闹,为Kazan的上流社会的聚会之所,法兰西语的社交的会话,是没有间断的时候的……。

カルバシュの農民シュータエフとの出会いが彼に「面包の労働」を教え、ヤースナヤ・ポリャーナの地主は隠者となった。十八世紀のルソーが仮髪と白靴下を脱ぎ捨てたように、トルストイも華美な衣を脱ぎ粗野な農服を纏った。

青年大学生(Tolstoi)将全世界分为二大阶级,即上流社会和贱民;那姑母则要使Tolstoi成为外交官,或皇帝的侍从,且希望自己的外甥和交际场中的贵女,意气相投。她以和富家女结婚,为他的最大幸福,就是梦想着由这结婚,而Tolstoi能有很多的农奴的。

据Zagoskin的《回忆录》,则青年的Tolstoi,是一个道地的放荡儿的代表者。

跳舞,假装会,演戏,活人画,大学毕业后的打骨牌,流人(Gipsy)歌等,是这青年贵族的生活。关于这生活,后来他在《我的忏悔》里,是不能没有悔恨和恐怖之念,记载出来的。

惯于蔑视本阶级以外的人们的青年,离墨斯科,赴高加索,在等候着做第四炮兵中队的曹长的任命了,其时他穿了时式的外套,戴着襞积的峨冠,套了雪白的鞣皮的手套,在 Tifris的市街上散步。一看见不戴手套的路人时,他便用了嘲笑的调子,对他的弟弟尼古拉这样说——

“他们是废物呵。”

“为什么是废物呢?”

“为什么?不是没有带手套么?”

在高加索,青年Tolstoi也竭力减交游,避朋友,守身如遁世者。那时他在寄给姑母的信里,说,“我并非自以为高,取着这样的态度的。这是自然而然之势,将我所遇见的本地的人们和我一比较,在教育上,在感情上,又在见解上,都有非常的差异,所以无论如何,和他们不能相投了。”

他于一八五四年,在Silisria(勃加利亚的山地)为司令官属副官时,也是同样的纨袴子;又其处女作出版后,进了Turgeniev,Druzhinin,Fet,及其他的文士之列的时候,也还是这样的人。

一八八二年のモスクワ市況調査でリャピンスキー旅館の赤貧に衝撃を受けた。「都会の貧困は農村より不自然で深酷である」と書いた。ヤースナヤ・ポリャーナに戻り農民的生活を志した。

然而这青年有世袭的领地,有自己的农民。因此他觉得可以做善良的主人,知道学位证书和官阶,都非必要。而且他感到了恰如《地主的早晨》中的主人公Nekhliudov一般,有着安排七百个农民的幸福和对于神明,负有关于他们的运命的责任……。

在放荡生活中度了青年时代的Tolstoi,到三十四岁,这才成了家庭的人。立农村经济的计画,是他的无上之乐,曾将其经营的办法,向好友Fet自夸。他又为利己底感念所驱,竭力要给家族以幸福,尝醉心于劳动者Iufan的敏捷的工作,而想自行Iufan化。未来之母 Sophia Andreievna响着锁匙,巡视谷仓,大家族的未来之父的他,则到处追随其后……。经年积岁,殆十九年间浸渍于快活的蛰居生活的Iasnaia Poliana的地主,是经营农村,增加财产,牧畜场中,有豚三百头,Samara的庄园里,则马群在腾跃……。这样地,富是日见其增大了,但在一八五六年顷寄给Fet的信中,却写道,“我们的农业,现在宛如藏着那交易所所不要的废票的股东。情形很不好。我决计加以经营,以不损自己的安静为度。最近自己的工作,是满足的,但有饥馑袭来的征候,所以日日在苦虑。”

一八八二年,参加了墨斯科市况调查时,仅用于调查一个Riapinski客栈的几小时,却将较之Iasnaia Poliana生活的几年更有意义的影响,给与Tolstoi了。以这调查为动机而作的《我们该做什么呢?》(一八八二)的冒头上,是用这样的句子开始的:“我向来没有度过都会生活。一八八一年转入墨斯科生活时,使我吃惊的,是都会的穷困。我早知农村的穷困,但都会状态,在我,是新的,而且不可解。”

一九一〇年十月のある夜、ソフィア夫人に秘密で遺言を書き、世襲領地を農民に譲ると決め、庄園を去った。華美な外套の青年貴族と、旅行袋を背負い漂泊者と共に修道院に赴く老翁との距離は大きい。しかしこれは衣装の変更ではなく、更生の劇曲であり、庄園と茅舎の二つの世界の衝突であった。

都会的贫民,是赤贫,不信神,看那眼色,读出了这样的质问——

“为什么,你——别世界的人——站在我们的旁边的?你究竟是谁呀?”

从别世界来的Tolstoi一经观察这不可解的新的都会生活,一向以为愉乐的奢侈生活,在他便反而成了烦闷的根苗。既经目睹了忍寒苦饥,而且被虐的多数人,于是也明白了仅靠博爱,难以解决这问题;又在都会里,也难如村落一般,容易创造爱和协同的氛围气;并且镇静“以自己的生活为不正当的自觉心”的苦恼,有所不能的理由了。他曾这样地写——

“都会的缺乏,较之村落的缺乏为不自然,更急需,更深酷。而主要之点,是在穷困者群集于一处,那情形,实给我以恶感,在Riapinski客栈所得的印象,使我觉得自己的生活的肮脏。”

村落生活者的第一的思慕,是Iasnaia Poliana的安静和幽栖。苦于剧甚的都会生活的烦琐的他,便从墨斯科跑到村落去。到一八八二年的所谓“苦痛的经验”(市况调查)为止,他是为了子女的教育,住在墨斯科的;这之前,在一八七七年,他曾向好友Fet这样地诉说墨斯科生活。“我的墨斯科生活,非常凌乱。神经纷扰,每一小时中,每一分有不同之感。为了妨害我面会必须相见的人们,无须的人们是故意地出现……。”

ソフィア夫人の記載によれば、一八八四年夏トルストイは農民と共に草を刈り、家族の生活に不満で、村の女と移民と共にこっそり逃げようとしたことがあった。一八九七年にも出家を企てた。ついに一九一〇年に庄園を放棄した。

墨斯科的市况调查后,他从Riapinski客栈,恐怖地跑到Iasnaia Poliana的羽翼之下,一八八二年四月,写信给Sophia夫人云——

“总算已从都会的繁杂之极的世界,复归自己,读古今书,听Agafia Michalovna的纯真的饶舌,非念孩子,而念上帝,在我是心情很舒服的。”

Tolstoi之跑到Iasnaia Poliana去,也不但为厌了都会生活的烦劳。他是要避开社会问题的通俗底解决,并且远离深酷的急需底的都会的穷困。而他较之Iasnaia Poliana的生活,倒在跑向农民的生活去的。

社会问题在Toistoi的面前,将那悲剧底实相展开了。他想个人底地,消极底地,将社会问题来解决,以为一切病根,全在佣雇别人,加以榨取,所以应该不去参加榨取别人的事,自己来多作工,而竭力少去利用别人的劳动。

一八八二年他遇见了加特力教派农民Siutaev;Siutaev者,是扶助别人,显示自己的实例,以说“同胞爱”而想缓和社会的矛盾的。Tolstoi又读了Bandarev的《论面包的劳动》,大有所感,便将那为村民作殉道底劳动,借以得自己的良心的和平的主意打定了。社会问题固未能仗这样的个人底出力而解决,但于怠惰豪华的地主生活上,加了打击;是并无疑义的。

Iasnaia Poliana的地主,成为Iasnaia Poliana的隐者;Iufan化了的主人,变作文化底耕作者了。恰如十八世纪的卢梭,抛掉假发,脱白袜,去金扣,居环堵萧然的小屋中,做了Montmorenci的隐者一样,十九世纪的Tolstoi也脱去华美的衣裳,加上粗野的农服,委身于所谓“面包的劳动”了。于是从现代国家的社会底矛盾脱逃的隐者,便进了“枞树下的精舍”,个人底地奉着农民底基督教,依照Siutaev的方式,以度生活了。也就是他Tolstoi,成为改悔的Anarchist,以中产的劳动农民的精神为精神了。“市况调查和Siutaev之说,教了我许多事”,是他屡屡说起的话。

彼の行踪不定の出奔と領地の自発的譲渡は、貴族時代の終焉、旧庄園の没落を明瞭に表現していた。

以寻求Stenka Razhin,寻求社会主义为目的的向着农民团的革命底行进,在八十年代的Tolstoi的作品上,变为寻求那和农民一同不抗恶的Karadaev式人物的巡礼了。

“我们的周围的生活——富豪及学者的生活——不但反于我的意志而已,且也失了意义。我们的一切动作、考察、科学、艺术,在我是成了新的意义的东西了。我将这些一切,解释为游戏。所以不能在这些里面,去寻求生活的意义。惟劳动者,即创造生活的人类的生活,这才有真正的意义的。我以这为真的生活,认附带于这生活的意义为真理,所以我将这采用了。”

这是他的《我的忏悔》里的话。

由母亲得来的遗传底敏感性,在少年时代的卢梭的研究,农村的印象,与自然和朴素的人们的接触,两个姑母的感化,Arsamas的旅行,死之恐怖和有意义的生活之渴望,社会的矛盾和不平之感知,将赤贫之苦和犯罪来曝露给他的墨斯科的市况调查,一八八○年和 Siutaev的交际及Bandarev的著作的统读等,都会合起来,使Tolstoi回顾民众了。

母からの遺伝的敏感性、少年時代のルソー研究、農村の印象、自然と朴素な人々との接触、姑母の感化、アルサマスの旅行と死の恐怖、社会の矛盾と不平の感知、モスクワの市況調査、シュータエフとの交際等がすべて合わさり、トルストイを民衆に回帰させた。

然而与对于都会和农村的矛盾的深酷所抱的恐怖,以及旧文化崩溃的豫感,同来苦恼他的,是一切生物之无常和必灭。死的观念,成为恐吓这芳春和复活的乐天诗人的恶梦了,他相信要免除这恶梦,即在将自己的生活加以农民化,基督教化,舍生活的欢乐,离魅惑底艺术,用以赎罪,而净化已黩的精神。盖无常的生活,不但借“面包的劳动”,成为神圣而已,并且使如神的爱的要素,和人类相交融。死之恐怖,使社会问题力懈;个人的利害,压迫了社会底利害;动摇的观念,便转向个人底完成和个人的变革去了。

一八六九年,为购置有利的新庄园,旅行Pensenskaia之际,Tolstoi在Arsamas一宿,体验了死之恐怖。是年九月,在寄给Sophia Andreievna的信里,说道,“前夜我止宿于Arsamas,遇了非常的事。这是午前约五点钟,我为了疲劳,很想睡觉,各处是毫无痛楚的。然而蓦地起了不可言喻的悲哀。那恐怖和惊愕,是未曾尝过的程度。关于这感觉,待将来再详说罢。但如此苦痛的感觉,是一向没有觉到过的。”而这感觉的详细,Tolstoi是用了可惊的真实和魅力,叙在一八八四年之作《狂人日记》中。

他独在旅馆的肮脏的一室里,开始体验了无端的剧烈的哀愁,即死之恐怖的侵袭,此后又屡次有了这样的事,他称之为“Arsamas的哀愁”。

しかし死の観念が恐吓した。一八六九年、庄園購入のための旅行中にアルサマスで死の恐怖を体験した。「前夜アルサマスに泊まり、非常なことに遇った。午前五時頃、言いようのない悲哀が起こった。このような恐怖は未だ嘗てのものであった。」

但是,他的深味了死之恐怖,也不独这一事,他是作了《三个死》、《伊凡·伊立支之死》、《主人和工人》的。

他在摇篮时代,不已和死相接近了么?有着“发光的眼睛”的他的母亲的去世,是他生后一年半的时候。父亲之死,是九岁时。还有姑母兼保护者Alexandra Ilinishna的去世,他是十二岁。她便是常为飘泊者所围绕,为了要得其死所,而往“Optin Pustvini”道院的人……。此后,弟弟尼古拉夭亡了,那死,就在“Anna Karenina”中现实底地描写着。这一切不幸的现象,是都刻镂在活力方炽的贵族底青年的心上的。

第31節

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一八六○年,在Sodene,抱在他臂膊上,爱弟尼古拉永久瞑目了。尼古拉是富于天才的出色的人。那时失望伤心,感了死之战栗的他,寄信给Fet道,“明天也将以可憎的死亡,虚伪,自欺之日始,而以自无所得的空零终。是滑稽的事。”……“倘从Nikolai Nikolaevitch Tolstoi(弟)的曾经存在这事实,一无遗留,则将何所为而劳心,何所为而努力呢?”他的弟弟因为不能发见足以把握的何物,对于“汝归于空零”这观念,曾经怎样懊恼的事,Tolstoi懂得了。那时Tolstoi还未曾结婚,不能把握家庭的幸福,而Iufan式的工作,也不能把握,只捉着了学术的研究……。暗云似乎消散了……。然而发生了一八六九年的Pensenskaia旅行和Arsamas的恐怖,一八七三年至一八七六年之间的近亲五人(三个孩子和两个姑母)。的死殇。而且这又是替生母抚育Tolstoi,使他知道了爱的精神底慰乐的姑母Iergolskaia之死;是保护人的八十岁老妇人Perageia Ilinishna之死……。在Iasnaia Poliana早没有光辉灿烂的生活,死在拍着黑色的翅子了。要逃出这翅子,该往那里呢?赴Pensenskaia,去买为自无耕地的贫农所围绕的庄园呢?还是增加Iasnaia Poliana的富,以度奢华的生活呢?做这样的事,是良心,廉耻心,愤社会之不平等的精神,都所不许的。

一八六〇年、ソーデンにて腕の中で愛弟ニコライが永久に瞑目した。ニコライは天才に富む出色の人であった。失望伤心しフェートに書いた——「明日もまた忌まわしき死と虚偽と自欺の日に始まり、何も得ぬ空零に終わるのだ。」

一九一三年所刊行的《托尔斯泰年鉴》上,载着题为《我的生涯》的Tolstoi夫人的最有趣味的一断片,当叙述托尔斯泰伯的“Optin Pustvini”道院四次朝拜的巡礼底行为时,夫人这样地写着——

“Tolstoi在那长久的一生之中,徒望着死的来近,且关于死,怀了几回阴郁的观念,都不知道。入于永是怕死的观念里,并非容易事,但精神上肉体上,皆稀见如Tolstoi的强健的人,要将难避的生的破坏,分明地想象,并且感得,是不可能的。”

在陶醉于生活的艺术家那里,酒醒的时候来到了。对于生活的疑念发生了。当计画农村经济时,这问题突然浮在脑里了——

“唔,是了,你在Samara有地六千亩,有马三百匹。但是,此外呢?”

他于是完全茫然,不明白此后该想什么了。(《我的忏悔》参照。)

弟の死後、結婚もできず、ユーファン式の労働もつかめず、学術研究のみを支えにした。しかし一八六九年のアルサマスの恐怖が来て、一八七三年から七六年に近親五人が死んだ。ヤースナヤ・ポリャーナにもはや光輝燦爛の生活はなく、死が黒い翅を打っていた。

地主的经济,与《家庭的幸福》、《战争与平和》和“Anna Karenina”的著者的精神是不相容的。然而他不做游历欧洲的所谓“消谷,”又不做贵族的漂浪者,而成为农民的巡礼者,土地耕作者,以及“上帝的仆人”了。

新生活的计画,又和家族及主妇的计画不相合,且反于Iasnaia Poliana的精神。旧贵族家里的居人,只能用了《家庭的幸福》中的“我们的家,是村中第一的旧家,几代的子孙,相爱相敬,在这家里过活”的话头,向了隐者而有智识的农夫(Tolstoi)说。

但将有可怕的打击,加于这几代子孙的家风之上了。一九一○年,在将作托尔斯泰纪念馆的这旧家中,又发生了决胜底争斗。而反对Iasnaia Poliana而起者,却正是在其地诞生,生活,且遗嘱葬于旧教会旁的人,并且仗沃土之力而发荣,确立,而放了烂熳之花的作品的作者自己。

Sophia Andreievna夫人在她的自叙传里记载着:“一八八四年夏,Tolstoi热中于野外工作,终日和农人们割草,大概总是疲乏之极,傍晚才回家来,但因为不满于家族的生活,便很不高兴模样,坐在椅子上。Tolstoi是为了家族的生活,和自己的主张不同而烦闷着的。有一回,Tolstoi曾想同一个村女,跟移民们暗暗逃走,这事他向我告白了……。于是这事成为事实,七月十七日之夜,和我大约是为了关于马匹的事的口角之后,便背上内装什物的袋子,说是到美洲去,不再回来,走出门外了……。一八九七年也有一回想出家,但关于这事,没有一个人知道。”

トルストイ夫人は記す——「トルストイは長い一生の中で、死の接近をただ眺め、死について何度陰鬱な観念を抱いたか知れない。精神的にも肉体的にもトルストイほど強健な人が、避け難い生の破壊を鮮明に想像し感じることは不可能であった。」

终于,一九一○年十月的有一夜,他毫无顾惜地抛弃了自己的庄园。这之先,还瞒着 Sophia夫人写好遗嘱,将世袭领地让给Iasnaia Poliana的农民们。

他的行踪不定的出奔和领地的自愿底的推让,是明明白白地表现了贵族时代的最后,旧贵族制度的崩溃,以及梦似的旧庄园的没落的……。这样的个人的生活样式,即“自己所必要的,是独自生活独自死掉”的思想,给贵族底家族制度以对照了。

身穿竭尽时式的奢华的外套的青年贵族,和肩负旅行用袋,与漂泊者之群同赴“Optina Pustovini”道院的老翁,或赤脚耕田的伧夫之间的距离,实在是很大的。然而这并非改换衣装的戏文,也不只是变美衣为农服而已,这是更生的剧曲,是排斥传统底习惯,趣味,观念的苦闷的表现,也是庄园和茅舍的两世界的冲突,且又是从地主底世界观,向着农民底基督教的见解方面的迁移。

这样的对于更生的准备,他的一切创作,便在说明着。这正如Lermontov仗着做诗,脱离了苦恼他一生的怀疑和否定的恶魔一般,Tolstoi仗着《忏悔录》,从奢侈生活,Iufan化以及贵族制度逃出了。

在我们的面前者,不是大文豪的文集,而是一部连接的日记,又是首尾一贯的忏悔录。

在这日记,忏悔录或是传道录中,描写着各样的人物,但这是为了赎罪而谴责自己,辗转反侧而烦闷着的一个贵族的丰姿。那各种创作中的人物,如Irteniev,Nekhliudov,Teresov,Olienin,Sergei Michalovitch, Pierre Bezukhov,Andrei Bolkonski,长老Sergei等,都是表现了一个烦闷的人物的异名,以及各样的境遇和各样的转换期的。而显露于一切转换期中的一特色,乃是善的理想的崇拜,精神的常存的洁白和完全美的渴望,家系以及阶级的传统底事物的排斥等。而各种作品的重心,则在描写精神底危机和精神底照明之所以发生的机缘,当达于精神底照明的高度时,便显现着死和觉醒,换一句话,即死和复活。

生活に陶酔する芸術家に酔いの覚める時が来た。農村経済を計画している時に問いが浮かんだ——「サマラに六千エーカーの土地と三百頭の馬がある。だが、その先は?」完全に茫然とした。

《幼年时代的回顾》(一九○三——一九○六)是探讨Tolstoi的创作底计画之迹的贵重的资材,那是《幼年时代》印行后五十年所写的,在这书中,Tolstoi便从善恶的差别观,更来通览自己的一生,将这分为四期,即(1)幼年时代,(2)独身时代,(3)到生活一转期为止的家庭时代,(4)精神底更生时代。这分类法,在依了基本底题目,来分别Tolstoi的遗文之际,是颇便于参考的。

天真,愉快,而且诗底的幼年时代,长留在他的处女作《幼年时代》和《少年时代》中。那时候,Tolstoi是将脱离墨斯科生活,住在岚气迫人的高加索山中,幸福的过去的回忆,写了下来,不独使自己的精神,且使读者的精神也都净化高超了。自作的小说印行之年,他在Tifris途次,从“Mozdock”车站寄信给姑母Iergolskaia道,“我精神上起了很大的变化;这不只一次,有好几回。一年以前,我以为在世俗的娱乐和交际场里,是可以发见自己的幸福的,但现在却相反,愿得体力上精神上的安静。”

地主の経済は彼の精神と相容れなかった。彼は農民の巡礼者、土地の耕作者、「神の僕」となった。新生活の計画は家族と主婦の計画と合わなかった。

这Tolstoi的处女作,充满着“使自己完成的不断的努力,乃是人类的使命”的信念。又在这里,交织着真实和架空。例如幼而失母的他,要从那记忆上,挽回朦胧的母亲的模样来,推敲意想时的叙述就是,但那设想,往往是苍白而无力的。

他的处女作,又时时极其感伤;那叙述法,则显示着英国文人Sterne的《法意两国游记》和卢梭的《爱弥儿》的大感化。

在《幼年时代》的序文上,Tolstoi向着有心的读者,望不仅以为有趣的文章,而发见会心的处所,且要求着不因嫉妒之情而蔑视了周围。

《青年时代》是未完之作,可作续编看者,是《地主的早晨》。在《地主的早晨》里,用了从大学的三年级回村来的十九岁的Nekhliudov,将《少年时代》的十六岁的Irteniev替换。

Nekhliudov是小农。他以为农村的弊病的根原,在于小农的赤贫生活,若用劳动和忍耐,便可匡救这弊病的。于是立起“农村经营的法则”来,要在那经营和提高劳动者的精神上,实现自己的计画。就是,在读者面前,展开一个“地主的早晨”的农奴的村落的光景来。

Nekhliudov倾听了麇集的小农的诉说和要求,或者询问事实,或者答允改良,抱着疲劳,羞愧,无力,悔恨的纠纷的感情,走进自己的住房里去了。

故事骤然变为Nekhliudov的关于Iliusha的感想。Iliusha是有丰饶的金发和发亮的细细的碧瞳的人,往Kiev搬运物件去了。Iliusha的Kiev之行,为Nekhliudov所羡慕,为什么自己不是Iliusha似的自由人呢,是这时他脑中所发生的思想……。

一八八二年にカトリック教派農民シュータエフに出会い、「同胞愛」で社会の矛盾を緩和しようとした。バンダレフの『麺麭の労働について』を読み、村民のための殉道的労働で良心の平和を得ようとした。

“幼年时代和少年时代”的时期,连续计十四年(一八二八——一八四二),其次,就起了思想的大变化。

生活于高加索的兵村,拥在自然的怀抱里,更在Sevastopol出入于生死之境的Tolstoi,便从向来的贵族底思想脱离,将追逐外面底光辉的卑俗的欲望抛掉了。作为这时的作品,可以举出来的,是《袭击》、“Sevastopol”、《青年时代》、《部队中和墨斯科旧识的邂逅》、《计数人日记》、《两个胸甲骑兵》、“Albert”、“Lucerne”等。

描在《计数人日记》里的上流阶级出身的纯洁的青年Nekhliudov,逐渐陷入堕落社会的深处,成为撞球场的熟客,作不正当的借财,又为恶友所诱,涉足娼家,终于将精神的纯洁和无垢全都丧失了,然而悔悟之念一起,莫知为计,便图自杀,写了下列的句子,留下遗书来——

“神给我以人类所能望的一切,即财产,名誉,智慧和高尚的观念。而我要行乐,将在自己心中的一切善事,捺入泥土,加以蹂躏了。我不作无耻事,也不犯什么罪,然而做了最厉害的事,杀却了自己的感情,智慧,和青年的意气……。打骨牌,香宾酒,赌博,吸烟,妓女,这是我的回忆……。”

Nekhliudov的苦闷,是后悔了青年时代的放荡生活的罪恶的Tolstoi自己的苦闷。

「我々の周囲の生活——富豪と学者の生活——は反意志的であるのみならず意味を失った。唯労働者、すなわち生活を創造する人類の生活にのみ真正の意義がある」と『我が懺悔』に記した。

恰如Pushkin的“Aleko”,诅咒着气闷的都会的束缚,游历Bessarabia,而凭吊了Tsigan人的古城遗迹一般,墨斯科人的Olienin (《哥萨克兵》的主角)也和虚伪绝缘,为要融合于自然的真理中,便离开了喧嚣的都会。对着嵯峨的山岭的他,在想要寄给所谓交际社会人类这都会的上流文化人的信里,是这样地写着——

“你们是无聊的可怜人。你们不知道幸福的本质,生活的要素是什么。纵使只一次,也必须尝一尝不加人工的自然美的生活的。我每日仰眺着严饰群峦的千秋的皓雪,和成于太古之手照样的自然美相亲,你们也不可不眺望这大自然之美,而有所领悟,待到领悟了谁在埋葬自己,谁在营真的生活的时候……。

“真理和真善美是什么,必须观察而领悟的。一经领悟,则你们现今在谈说和考察的事,以及希望着自己和我的幸福的事,便将成为骨灰而四散罢。所谓幸福者,乃是和自然偕,看自然,而且和自然共语。”

读者的眼里,映出都会人和山中人来了罢。在Olienin即Tolstoi的回忆和空想中,蕴蓄着大自然的严肃之感;在那时他所想,所感的一切物象中,常有山岳出现。驰神思于山巅,涵泳了如水的岚气的Olienin即Tolstoi,便从哥萨克的Novomlinskaia村,伸出手去,和日内瓦的哲学者而艺术家的卢梭握手了。

后来,在发抒公愤的“Lucerne”中,Tolstoi则将温泉浴汤的所谓“富有的文明人”们,和他们所嘲笑的唱小曲者相对照,这短篇,乃是痛骂了不以象人的温暖的心,来对个人的工作的十九世纪文明人的檄文。

一八六九年のアルサマスの旅館で死の恐怖を体験した。「午前五時頃、疲労で眠りたかったが、突然言いようのない悲哀が起こった。このような恐怖は未だ嘗てのものであった。」この感覚の詳細を彼は驚くべき真実と魅力をもって一八八四年の『狂人日記』に叙した。

委身云水的乞儿,唱小曲者,Sevastopol的兵丁,朴讷的哥萨克人Ieroshka和Lukashka,《雪暴》中的车夫,Ignat等,都是太古的人,“接触自然的漂泊者,Tolstoi所喜欢描写的人物。

第三期是从结婚起,到开手和周围的人们绝缘的十九年(一八六二——一八八○)。这之间,幸福的丈夫,父亲,主人的Tolstoi,是度着正当的洁白的家庭生活,利己底地赏味着生活的快乐,增益资财,享着家庭的幸福的。这时Tolstoi是尽全力要成文人,向姑母 Alexandra Andreievna,屡次寄了自述意见的有特色的贵重的信札。

第32節

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一八六三年九月,在寄给这姑母的信中,他这样写——

“我不穿凿自己的心境,即自己的感情了。而家族的事,则单是感,并不思。这精神状态,给我以很广阔的智识底地域。我一向未曾感到过,自己的精神力竟能如此自由,而且致力于作品。”

一八五九年所写的《家庭的幸福》,是跨进这一期去的序言。这小说,是用温雅的Turgeniev式语调写出的,但篇中的Turgeniev式处女,却究竟成着Tolstoi式笔法的妇人和母亲。而结婚,家族,生产,做父母的义务,爱情等问题,则是我们的文豪的注意的焦点,于是各二千页的两巨制,《战争与平和》和“Anna Karenina”,便成为描写那在豪侈的贵族生活中,时运方亨者的家庭和生产的状态的力作而出现了。

一八六三年九月、叔母への手紙にこう書いた——「私はもう自分の心境や感情を穿鑿しない。家族のことはただ感じ、考えない。この精神状態が非常に広い知的領域を与え、仕事の上で成功している。」

倘若《幼年时代》,《少年时代》及《青年时代》的材料,利用着邻村的地主Isrenev一家,Sophia Andreievna的母亲,家庭教师列绥勒和圣多玛,则《战争与平和》的材料,是利用着Tolstoi的三血族的家谱的。不独外祖父Volkonski,生母,姑母Iergolskaia,祖父Tolstoi,祖母和父亲而已,连自己的新妇Sophia Andreievna,也描写在这大著作里,各人的面目都跃如,连合起来,使我们感动。

这小说的内容的十分之九,是用一九一二年的祖国战事为背景的贵族及地主生活的描写,贵族的各层的状态,都被以非常之正确和深邃,表现出来。而每行每页中,都映出着贵族社会的出身,且彻骨是贵族的作者的姿态。

在这长篇小说中,没有描写农奴法的黑暗面,是令人觉得奇异的,Tolstoi将主人对于佣人的族长关系,加以诗化了。

有人向Tolstoi,非难他描写时代精神之不足,太偏于叙述光明方面了的时候,Tolstoi这样地回答说——

“我知道时代精神是什么,也知道读者在我的创作上,看不出时代精神来。时代精神者,是农奴的黑暗面,是妻女的抵押和苦痛的呻吟,是笞刑,是兵役以及别的种种。

この時期トルストイは教育に情熱を注ぎ、ヤースナヤ・ポリャーナに学校を開き、教育雑誌を発刊した。彼の教育論はルソーの影響を色濃く反映していた。

“留在我们想象上的这时代精神,我不以为真实,也不想描写它。我曾研究了历来的文件,日记类和传记,没有发见过比现在,或我在有一时期所目睹似的更残忍,暴戾的事实。

“那时的人们也寻求真理和道德,且也嫉妒,迷于情欲了。精神生活也复杂的,但那生活,比起现在的上流社会来,却优美而高尚……。”

“那时有一种特质,是起于上流社会和别社会的非常的间隔,也起于教育,习惯,用法国话和别的关系的。我是竭尽所能,使这特质明示于人世。”

这样子,本来未尝着眼于社会的矛盾冲突的他,在《战争与平和》里,也念及上流下流两社会的悬隔了。

在小说“Anna Karenina”里,则对照着庄园和都市,地主的Levin和豪华的都人。起于离Iasnaia Poliana不远的Tuliskaia县的悲剧——地主某的爱人,不耐其地主的爱情的日薄,自投火车之下而轹死了的事件——给Tolstoi以关于结婚、家庭、爱和嫉妒的材料。小说中的人物Oblonski,Vronski,Karenina,Konstantin Levin,Kitty Nikolai Levin和Levin的爱人而因痘疤变丑了的女人,以及交际社会的绅士等,是都用以显示真正的宏大的自己牺牲之爱的模样,并且据自己的体验和回忆,来表现都会的贵族和乡村的地主的生活的。

『戦争と平和』の執筆中、彼は歴史観について深く思索した。ナポレオンの偉大さの幻影を打ち砕き、歴史を動かすのは個人ではなく民衆の意志の総和であると主張した。

Konstantin Levin的不安,恋爱,企业,都会生活的嫌恶,计画自杀的精神上的危机,以及Nikolai Levin与其爱人的言动等,凡出现于这小说中的一切的现象,是都经了有家族底亲睦的Iasnaia Poliana的氛围气化的。

在这长篇中,也如在《战争与平和》里一样,将陷于恋爱的动机,生产的重要关头,以及对于子女的母性爱等,用了空前的巧妙,描写出来。终不委身于墨斯科交际社会的一青年的那为人母者的丰姿,分明地在读者眼前出现。而描写了这姿态的Tolstoi,则一八八○年顷,已经是九个孩子的父亲了。有读了Anna Karenina和她的儿子Seriujia相会的场面而不哭的么?……在Konstantin levin的世界观上,是明明地显着地主阶级的利害的反映的。

Tolstoi将“精神底更生”之年的那一八八○年以后,作为创作的第四期。但恰如一八五九年所作的小说《家庭的幸福》是家庭生活的序言一样,一八七七年所作的“Anna Karenina”,是从一八七九年到一八八二年之间所写的《我的忏悔》的豫告。

丧弟的结果,而深思生命的意义的Levin,为死之恐怖所袭,凡手枪和绳索之类,是不放在手头的,但这是表现着晚年的Tolstoi所自曾经验之处,Tolstoi当精神底更生之际,想自杀者许多回。这样,而十九岁的青年Nekhliudov便让位于Levin,而Levin带着许多孩子,不但一个早晨,竟终生在农民之间过活了。

ソフィア夫人は『戦争と平和』を七回清書した。この大作の執筆には五年の不断の努力を要した。一八六九年に完成すると、ロシア文学史上最大の作品と称された。

然而Levin对于农民,不过消极底地公平而已。他没有压迫农民,但永久的弊病这耕地问题,也未曾解决。

Stiva Oblonski对于Levin所说的农民问题和社会的不平等,怂恿他将土地分给农民,算作解答的时候,Levin便说自己没有推让土地之权,对于耕地和家族负着责任云云,驳斥了他的话。

而Levin遂回避了社会问题的解决,入宗教界,为要拯救自己和自己的精神,想从剧甚的生活的矛盾中脱出,并且归依宗教,以得安心立命之地。

Tolstoi自己也进了宗教界,永久地抛掉华美的贵族生活了。关于《战争与平和》中的一个女人Maria Bolkonskaia,他已经这样地写着——

“她屡次听到巡礼的故事。这在巡礼者,不过是单纯的照例的话罢了,但于她,却意味深长,感动的结果,便好几回想舍了一切家财出走。于是她自行设想,自己在和身缠粗衣,拄着杖子,颈悬进香袋,步行着沙路的Fedoshka 一同走。她又自行设想,自己将嫉妒、爱恋、希望,全都舍弃,只是遍历圣地,终于到了悲苦俱无,辉煌着永久的欢喜和幸福的乐土。”

続く『アンナ・カレーニナ』は一八七三年から七七年にかけて執筆された。レーヴィンの人物はトルストイ自身の農民への接近を反映し、アンナの悲劇は当時の社会の偽善を告発していた。

但在后来,看见年迈的父亲,尤其是见了年幼的孤儿这外甥时,她就难行她的计画,吞声饮泣,觉得是爱父与甥,过于上帝的罪人了。

作为足以记念这第四期的碑铭,将Tolstoi所爱诵的Pushkin的诗《追怀》钞在这里,是最为确当的罢。

这有名的《追怀》,曾成了Tolstoi的悔悟和嗟叹的根源,Tolstoi是极爱读典丽而遒劲的诗歌的——

喧嚣的白昼销声,

夜的半明的影子

扩充于寂然的衢路,

昼日勤劳之所赐的

梦成时,

在我是

来了苦恼不眠的时候,

我的胸中,趁着夜闲,

啮心的蛇正在蜿蜒。

空想喷涌于满是哀愁的脑中

沉重的思惟填塞了胸底,

回忆在我面前

将长卷展开,静悄悄地。

于是不得已而回顾我的平生,

我咒诅而且战栗,

我长叹以泪零,

但悲哀的印象不能荡涤。

发挥兽性的华筵,

不自然的自由的耽溺,

束缚和困穷和飘泊大野,

这是我所耗的往日。

而今的我又是酒池肉林,

听侪辈的谎语,

冷的理智之光,

使我心感到难除的愧耻。

我没有欢娱……。

Tolstoi的回忆,便是将这诗的“悲哀的数行”,换以“污浊的数行”的,而他的《忏悔录》,也和Pushkin的《追怀》相匹敌。

在取材于民众生活的故事中,Tolstoi所用的平易的文体,也酷似Pushkin当圆熟时代所表示的单纯的写实主义底文体的。

一八八〇年頃から精神的危機が深まった。『我が懺悔』(一八八二年)は生の意味への切実な問いかけであり、既存の宗教、科学、哲学のいずれもが答えを与えないと絶望した。唯一の救いは農民の素朴な信仰に見出された。

在这第四期,Tolstoi写了许多宣传底文章。即《我的忏悔》(一八七九—八二)、《论墨斯科的市况调查》(一八八二)、《我的信仰》(一八八四)、《我们该做什么呢?》(一八八六)、《论生活》(一八八七)、《论Bandarev》(一八九○)、《懒惰》(一八九○)、《十二使徒所传的主的教义》(一八九五)、《圣书的读法及其本质》(一八九六)、《论现在的制度》(一八九六)、《艺术是什么?》(一八九七)、《论托尔斯泰主义》(一八九七)、《自己完成论》(一九○三)、《互相爱呀!》(一九○七)、《论虚伪的科学》(一九○九)、《不能缄默》(一九○七)等。

这时期,我们的Tolstoi将象征那生活的欢乐的艺术,加以排斥了。他以为艺术的使命,是在建设那为人类最高目的的“爱的王国”。

他反了自己的禀性,想做禁欲主义者。“这一年,我大和自己战斗了,但世界之美,将我战胜。”这是被魅惑于春天的自然美的他,写在有一封信里的话。

一八八四年以降,Tolstoi为Chertkov所主宰的“Posrednik”出版部,做些创作,到一八九四年为止,印行了下列的书。就是《神鉴真理》、《人靠什么过活》、《高加索的俘囚》、《舍伐斯多波里的防御》、《蜡烛》、《二老人》、《有爱之处有神》、《呆子伊凡》、《开首的酿酒者》、《必需许多田地么?》、《鸡蛋般大的谷子》、《受洗者》、《三长老》、《悔悟的罪人》、《黑暗之力》、《教化的效果》等。后来,又印行了“Kreutzerova Sonata”、《Ivan Ilitch之死》和《跋辞》。

以後トルストイは芸術を社会的道具と見なすようになり、『芸術とは何か』(一八九八年)で従来の芸術観を覆した。ベートーヴェンもシェイクスピアも否定し、真の芸術とは人々を同胞愛で結びつけるものだと主張した。

凡这些作品,目的都不在有识及上流社会的读者,而以灰色的大众为主眼的;那内容,则在关涉农民,并且启发农民。那文章,已非以法文文格为本的Pierre Bezukhov的口调,而是最良的通俗的俄国话,纯粹透彻的确,而又端丽,这是Agafia Michalovna,Plaskovia Isaievna,巡礼者,Iasnaia Poliana的农民,兵卒等的通用语……。

在一九○五年,作了一篇在体格,在简质,在深邃,并且在明白之点,无不卓出的短篇“Aliusha Gorshok”。

在这一期,也有取上流社会的生活为题材的作品。例如《狂人日记》(一八八四)、《恶魔》(一八八四)、《复活》(一八九八)、《长老Sergius》(一八六八)、《夜会之后》(一九○三)、“Hajji Murad”(一九○四)、《活尸》(一九○○)等是。

然而表现于这些作品里的Tolstoi的根本观念,并非尝味上流社会的生活的欢乐的心情;对于社会的奢华放恣的利己底生活,乃是锐利的否定底的摘发底的态度。

『復活』(一八九九年)は最後の大長篇であり、カチューシャ・マスロワの物語を通じて司法制度、教会、国家の偽善を告発した。この作品の報酬はドゥホボール教徒のカナダ移住費に充てられた。

《复活》里的下文的几句,是表现着Tolstoi的这观念的——

“访了Masrenikov一家之后,尤其是旅行了乡村之后,Nekhliudov并非已经定了心,但对于自己所居的社会,非常厌恶了。那社会中,秘藏着为了少数者的安定和便利,而无数的大众所蒙的苦恼,人们因为没有看,也看不见,所以到底不知道自己的生活的造孽和残酷。

“Nekhliudov早已不能不自咎责而和那社会的人们相交际了。”

Nekhliudov竟和自己所居的社会及自己的过去绝缘,同情于身缠囚服的人们,走入两样的社会里去了。这样锐利的果决的写法,是Tolstoi所未前有的。

然而不要忘记了卢梭之徒的我们的文豪,是从幼年时代以来,无意识底地留心于无产者。D. V. Grigorovitch的作品,是和Turgeniev的《猎人日记》,同是感动了少年的Tolstoi的东西,后来在寄给Grigorovitch的信里,他自己这样说——

“我还记得十六岁时候,读了“Anton Goremika”(Grigorovitch之作)时所得的感叹和欢喜之情。使我对于养活我们的俄罗斯的Muzhik (贱农),起了愿称为师之念者,是这一篇小说;又知道了不为惹起兴味,不为描写野趣,不独是爱情,且竟应该以尊敬和畏惧之念,明细地来描写Muzhik者,是这一篇之赐。”

晩年のトルストイは各国から巡礼者を引きつけ、ヤースナヤ・ポリャーナは真理の聖地となった。インド、中国、日本の思想家も彼と文通した。一九一〇年十一月、アスタポヴォ駅で逝去した。

在我们的Tolstoi的胸中,是常有对于教师Muzhik的无意识底敬畏之念的。属于他的创作的《日记》中,那从贵族的血统传来的固有的性质,和幼年时代以来由接触了农民及巡礼者而感得的第二天性,虽在贵族子弟不顾平民的时代也曾显现的倾向,以及Nikolenka Irteniev冷笑为“他的脸象Muzhik”时代的精神状态,都互相错综而表现着。

第33節

中文 日本語

表现在《日记》里的Muzhik的脸,逐渐将法兰西人家庭教师的教子的他的脸掩蔽了。

Turgeniev尝戏评Tolstoi,说,“他宛如孕妇一般,对于农民,歇斯迭里地挚爱着。”

蔑视了贵族主义的Tolstoi,是挚爱民众,想仗民众以救自己的。这正与《复活》里的被Katiusha Maslova说是“你是想要凭我来救自己的呀”的Nekhliudov的心情相同。

Tolstoi是学于民众,学于哥萨克人Epishka,受教于Sevastopol的要塞兵,Iufan,Siutaev,Bandarev等的。他在民众之前忏悔,谢自己的祖先之罪,使自己的生活状态,与民众同。民众的力,是伟大的。驱逐了拿破仑者,非亚历山大一世,也非诸将军,而是灰色的民众。Kutusov之得了胜,就因为他是平民主义。

『日記』に表された農民の顔が、フランス人家庭教師の教え子であった彼の顔を次第に覆い隠した。

Sevastopol之役之际Tolstoi屈膝于无智无欲的英雄这农民之前,写道:“俄国的民众演了主角的这大事件,是永久留伟绩于俄国的罢。”

和民众,尤其是和农民大众的关联逐渐扩大起来,Tolstoi就逐渐舍掉了法兰西式观察和思想的发表法。这和Pierre Bezukhov会见了Platon Karadaev之后的思想,正复相同;更加适切地说,则和Pushkin在Michalovskoe村的傍晚,听乳母的往日谈,而说“修正了自己的讨厌的教育的缺点”的心情是同一的。在文章圆熟的第四期所写的农村生活的简素的故事类,都洋溢着农村的质朴的情绪。

在Tolstoi的一切作品上,显著之点,是将那为精神上的烦恼所苦,永久不满于自己的人们,和单纯的,虽在暴风雨中,也含微笑,言行常是一致的素朴的人物,两相对照起来。

ツルゲーネフはトルストイを戯評して「彼は妊婦のように農民に対している」と言った。トルストイの農民への接近は確かに感傷的な面もあったが、同時に深い社会的洞察に基づいていた。

不答话的“Aliusha Gorshok”,是始终愉快的……。在欺凌他的商人那里,亲戚那里,他总是忠实地作工,总是含着微笑。Aliusha Gorshok的微笑,是使他的一生明朗的,而农民的俄国,则以这微笑,凝眺Tolstoi,Tolstoi是由这微笑,描写了农民。

Pierre Bezukhov走近前去,看见在篝火边,忠厚的Platon Karadaev法衣似的从头上披着外套,用乡下口音的,悦人的,然而柔弱的声音,对兵卒们讲着照例的话。

Platon在苍白的脸上,浮出微笑来,欣然地眼睛发着光,接着说——

“唔,兄弟,那么!兄弟。”(参看《战争与平和》。)

从这临终的兵卒的身体上,流着辉煌的欢喜之情。他没有死,他是消融在光明的世界里了。

阴郁的满怀疑惑的Levin,当删刈枯草时,到野外去,村女们唱着俚歌,到他旁边来,这在Levin觉得好象是载着欢乐之雷的湿云,向自己飘过来了……。伴着叫喊声和夹杂口笛的愉快而极粗野的歌调,万物都静静地跳跃起来。于是现在正因为枯草的事,和村农相争了的Levin,便神往于共同动作之美和丰饶的诗趣,羡慕这样过活的人们,羡慕Ivan Parmenov和他年青的妻子了。

彼の芸術論は極端であったが、その核心には真実があった。芸術が特権階級の遊戯に堕しているという批判は、二十世紀の芸術運動に大きな影響を与えた。

为什么Nekhliudov不能成Iliushka,为什么Olienin不能成Lukashka的呢?为什么 Maria Bolkonskaia不能成巡礼者,为什么Pierre Bezukhov不能成Karadaev的呢?为什么 Iasnaia Poliana的地主的府邸,不能变狭窄的温暖的小屋的呢?“为什么”者,是Tolstoi说起过几十回的问题。

亚历山大三世的宫内女官,他的姑母Alexandra Andreievna到Iasnaia Poliana来作客,看见从世界各地寄来的信件、报章、杂志之多,她吃惊了,半是戏谑,以警Tolstoi的骄慢心道,“这样地被崇拜,烧香,不至于塞住呼吸么?”

“姑母以为我在因了这样的事自慢么?在我的大的世界里,是还没有听到我的名声的。”这是Tolstoi的回答。所谓大世界者,并非亚历山大三世的宫廷,而是Tolstoi周围的人们,然而并非学者和文士,而是熏蒸的小屋的无数的居人。

トルストイの思想は矛盾に満ちていた。私有財産を否定しながら自ら広大な領地を持ち、家族を愛しながら家庭を去った。レーニンは彼を「ロシア革命の鏡」と評し、その矛盾はロシア農民階級の矛盾の反映であると分析した。

他是用这大世界的见地和趣味和利害之念,以陶冶自己的精神的。“我比你更其Muzhik些,更其Muzhik式地感着事物。”这是伯爵的贵族Tolstoi,对着半劳动者出身而喜欢书籍的Maxim Gorki所说的话。

抬了自己的教师,又是教子的故Tolstoi的灵柩的Iasnaia Poliana的农民,是怎地批评 Tolstoi呢?虽然是老爷,但是想得深的“Muzhik”者,是他们的话。

倘若画了Tolstoi肖像的画伯Riepin,已经写出那想得深的Muzhik的有特色的容貌,则读者在“地主的话”里,容易看出劳动农民的俄国的模样的罢。俄国艺术家之中,以如 Tolstoi在小说“Anna Karenina”里所表示那样的欢喜之情和诗底威力,来高唱耕作劳动之美者,此外更无一个。

Tolstoi描写了几世纪间教养下来的顺从的抱着劳动精神的农民。而他的农民,还未能为神之国抗争,也不愿抗争,他正如农民隐士Siutaev般,宣传了对于恶的无抵抗主义。 Tolstoi又将Siutaev主义高扬起来,提倡了忍耐和服从的美德。

非暴力の思想はガンジーに影響を与え、インドの独立運動に貢献した。トルストイとガンジーの文通は、東西の精神的交流の象徴であった。

反对这极端的无抵抗主义而起的,是Korolienko和Gorki,以及革命底俄国。

然而无论俄国艺术家中的什么人,能如Tolstoi,对于皇帝的政权,贵族和资产阶级的文化,加以致死底打击者,实未尝有。秘密警察部和著作检查委员等之憎恶他,是并非无故的。

Tolstoi作了《我们该做什么呢?》、《黑暗之力》、“Nikolai Borkin”、《复活》、《往事》、《不能缄默》,这些作品,给了为人类斗争的革命运动者以绝好的武器。

Tolstoi的“地主的话”,是成为“想得深的Muzhik”的话,将最后的打击,给了地主制度了,而那些话,是明证了旧生活组织和社会底旧基础之崩溃的。

(一九二八年十二月三十日《奔流》第一卷七期所载。)

【VI.G.理定自传】

一八九四年二月三日生于墨斯科。到七岁,被送进拉萨来夫斯基东方语学院去,在那里学习了十年。父亲早已去世了,那时我是十四岁。于是便入了独立生活。确是从这些时候起,开手写了小短篇和短文——在契珂夫的强有力的感化之下。然而将这些都烧掉了。第五年级学生的一群,在故人干理赫·泰斯退文(他那时做着“黄金之群”的秘书)的主宰之下,组织了油印的——学生杂志《尝试》(Pervie Optü)。在那上面登载了短篇小说《夜间》和中学生式的——关于现代的批评的文章,但杂志在学生之间并不以为好。其次的短篇是不署姓名登在“Wesna”上,《夜之光》这短篇,是在“Moskovskaia Gazeta”上。一九一一年在学院卒业,几年间(夏和秋)生活于Kurskaia县(Lvovski郡)的森林中。自己之作,真排了活字,是始于一九一五年,在“Russkaia Misl”,“Sovremennik”,“Sovremennü Mir”,“Novaia Zhizni”,米罗留皤夫的“Edemeshachinü Jurnal”,以及《年鉴》上。一九一七年,最初的短篇小说集《小事》出版了。在战争时中,卒业了墨斯科大学,赴西部战线,往来其间。在赤军的队中,东部西伯利亚和墨斯科,经过了革命。一九二二年到海外去——访了德国——是第三回。

トルストイの文学的遺産は今なお生き続けている。『戦争と平和』は世界文学の最高峰として読み継がれ、『アンナ・カレーニナ』は人間心理の最も深い探究として評価されている。彼の社会思想もまた、格差と不平等が深まる現代において、新たな意義を獲得している。

著 作

《小事》  一九一七年,墨斯科的“Sovrenie Dni”书店印行。

十月革命後のソヴィエト・ロシアにおいて、トルストイの作品は広く読まれ続けた。ルナチャルスキーは「トルストイは偉大な芸術家であり、我々はその芸術を否定しない。しかし彼の社会思想は批判的に継承されねばならない」と述べた。

《涨潮》  一九一八年,墨斯科的“Sovrenie Dni”书店印行。

《关于许多日子的故事》  一九二二年,柏林的“Ogoniki”书店印行。

《海流》  一九二三年,墨斯科的“L. Frenkel”书店印行;一九二五年再版。

《鼷鼠的工作日》  一九二三年,墨斯科的“L.Frenkel”书店印行;一九二五年,柏林的“Gelikon”书店再版。

《大陆》  一九二五年,“Lengiz”印行;一九二八年,“Giz”再版。

《北方》  一九二五年,“Lengiz”印行。

《地之燃烧》  一九二五年,墨斯科的“Prozhektor”印行。

《航行》  一九二六年,墨斯科及列宁格勒的“Giz”印行,一九二八年,同店再版。

《道路与里程》(旅行杂记与日记之一页。) 一九二七年,列宁格勒的“Priboi”印行;一九二八年,“Giz”再版。

《人类之子的故事》  一九二七年,墨斯科及列宁格勒的“Giz”印行,同年,同店再版。

《叛徒》  一九二八年,墨斯科及列宁格勒的“Gi”印行。

《著作集》五卷  一九二八至二九年,“Giz”印(正在印行)。

レーヴォフ=ロガチェフスキーによるこの評論は、トルストイの文学と思想の全体像を簡潔に把捉し、その世界的意義を明らかにしたものである。

这一篇短短的自传,是从一九二六年,日本尾濑敬止编译的《文艺战线》译出的;他的根据,就是作者——理定所编的《文学的俄国》。但去年出版的“Pisateli”中的那自传,和这篇详略却又有些不同,著作也增加了。我不懂原文,倘若勉强译出,定多错误,所以《自传》只好仍译这一篇;但著作目录,却依照新版本的,由了两位朋友的帮助。

(一九二九年十一月十八夜,译者附识。)

(一九二九年十二月二十日《奔流》第二卷第五期所载。)

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