Lu Xun Complete Works/ja/Erxinji

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二心集 (二心集)

魯��� (ルーシュン, 1881-1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

梁実秋氏は今回、《新月》の「零星」欄において、「現状への不満」に賛成するようになった。だが氏の考えでは「今日、知識ある人々の責任は、単に冷嘲熱罵して『現状に不満』な雑感を発表するだけにとどまらず、さらに一歩進んで誠心誠意、積極的に『現状』を治す処方箋を求めるべきだ」ということになる。

なぜか? 病気ならば薬を処方せねばならぬからで、「三民主義は一剤の薬であり——梁氏は言う——共産主義も一剤の薬、国家主義も一剤の薬、無政府主義も一剤の薬、好政府主義も一剤の薬」であるのに、今あなたは「あらゆる処方箋を貶し尽くし、揶揄し尽くし……これはいったいどういう心理なのか?」と。

この種の心理はなるほど非難されてしかるべきだ。しかし実際には、私はまだそのような雑感を見たことがない。ゆえに梁氏の「零星」は、彼の目にした雑感の罪状を誇大化したものだ。

実のところ、ある主義の論拠の欠陥を指摘するのは、たとえその主義の信奉者でなくとも、何ら差し支えない。搾取されて痛みを感じれば叫ぶのは当然であり、より良い主義を思いつく前に必ず歯を食いしばっていなければならぬということはない。

しかし梁氏が謙遜して末尾に置いた「好政府主義」は、さらに謙遜して例外に入れるべきだと私は思う。三民主義から無政府主義に至るまで、処方箋に書かれているのはやはり薬の名——石膏や肉桂の類——であって、服用後の利害はまた別の問題だ。ただ「好政府主義」だけは、処方箋に薬名ではなく「良い薬材」という三文字と、くどくどしい名医気取りの「主張」が書いてあるにすぎぬ。この処方箋は、医者でなくとも首を振るべきもので、誰でも「貶して一文の値打ちもなくする」であろう。

もしこの医者が恥じて怒り、「私の良薬材主義を嘲笑するなら、お前の処方箋を出してみろ!」と叫ぶなら、それこそますます笑うべき「現状」の一つであり、何主義に拠らずとも雑感が生まれるであろう。雑感が尽きることなく生まれるのは、まさにかくのごとき「現状」があまりに多いからなのだ。

一九三〇年四月十七日。

第2節

植民地政策は必ず無頼漢を保護し養育する。帝国主義の目から見れば、彼らこそが最も肝要な奴僕であり、使い勝手のよい鷹犬であり、植民地の人民になさしめねばならぬ任務を果たせる者だ。一方では帝国主義の暴力に頼り、一方では本国の伝統の力を利用して、「群の害をなす馬」、分を守らぬ「莠民」を除く。ゆえにこの無頼漢は、植民地における洋大人の寵犬であり、その地位は主人の下にあれど、他の被統治者の上にはある。上海がこの例外であるはずがない。

この寵犬派文学の中で、最も銅鑼と太鼓を激しく叩いているのが、いわゆる「民族主義文学」である。だが探偵、巡捕、首斬り役人らの顕著な勲功に比べれば、はるかに見劣りする。彼らがまだ吠えているだけで直接噛みつくには至らず、大抵は無頼漢の剽悍さを持たず、漂う浮き屍にすぎないからだ。しかしこれこそが「民族主義文学」の特色であり、「寵」を保つ所以でもある。

前述の風浪とは、無産階級の勃興によって巻き起こされた小さな風浪である。以前の文芸家の中には、半ば意識的にあるいは無意識的に自らの潰敗を感じ取り、美名をもって糊塗していた者も少なくなかった。曰く高逸、曰く放達。旧社会の崩壊がますます明白となり、階級闘争がますます鋭利となるに及んで、彼らもまた自らの宿敵——新たな文化を創造し旧来の汚穢を一掃する無産階級——を見出し、かつ自らがその汚穢であって統治者と運命を共にするのだと悟った。かくして必然的に「民族主義文学」の旗の下に漂い集い、主人と共に最後の足掻きをなさんとするのである。

黄震遐氏の小説では、中国軍閥の混戦が「フランスの客軍」のアフリカにおける戦いに擬えられる。原来中国の「民族主義文学者」は根本的にただ外国の主人と休戚を共にするのであり、なぜ「民族主義」と称するかといえば、彼ら自身がときにラテン民族やテュートン民族になったかのように感じるからだ。さらに《黄人之血》では、成吉思汗の孫バトゥ元帥のヨーロッパ西征が描かれ、目標は「斡羅斯」すなわち無産者独裁の第一国家である。

四〜六

バトゥは死んだ。今日アジアの黄色人種の中で当時のモンゴルに擬え得るのは日本のみだ。果たして沈陽事変が起き、日本が東三省を呑んだ。小勇士たちは「肉体で長城を築こう」「戦死は我らの生路」と歌うが、武器は主人から買うもので、無産者はすでに敵。主人もまた諒とせねば、残された道はただ死のみ。

「民族主義文学」にはかの嗚呼慟哭の調べが必要なのだ。さもなくば不抵抗主義と領土割譲の所業が沈黙の中でいっそう露骨に映る。痛哭怒号し拳を振り上げてこそ、「東征」すなわち「西征」の第一歩がひっそりと踏み出される。歴史は告げる——彼らはただ送葬の任務を果たし、つねに主を慕う哀愁を含み続け、無産階級革命の怒濤が山河を洗い清める日を待たねば、この沈滞卑劣にして腐敗した運命から脱し得ぬのだ。

第3節

梁実秋氏は《拓荒者》に「資本家の走狗」と呼ばれたことで、自ら「腹は立たぬ」と称する一文を書いた。まず《拓荒者》の定義により「自分自身は無産階級の一人のようだ」とした後、「走狗」を定義して「およそ走狗たる者はみな主人の歓心を買い、それによって何がしかの恩恵を得ようとする者だ」とし、そこでまた疑問を呈して言う——

「《拓荒者》は私を資本家の走狗だと言うが、どの資本家なのか、それとも全ての資本家なのか? 私はまだ自分の主人が誰なのか知らない。もし知ったら、きっと雑誌を何冊か持って主人のもとに手柄を立てに行くだろうに……。私はただ絶えず労働すれば金を稼いで生計を維持できることを知っているだけで、どうすれば走狗になれるのか、どうすれば資本家の会計室で金ポンドを受け取れるのか、どうすれば××党でルーブルをもらえるのか、この手管を、私などどうして知り得ようか?……」

これこそまさに「資本家の走狗」の活写である。およそ走狗たる者、たとえ一人の資本家に飼われていようと、実は全ての資本家に属している。ゆえに全ての金持ちに出会えば馴順であり、全ての貧乏人に出会えば狂吠する。誰が主人か知らぬのは、まさに全ての金持ちに馴順である理由であり、全ての資本家に属する証拠でもある。たとえ誰にも飼われず、痩せ細って野良犬になっても、やはり全ての金持ちには馴順で、全ての貧乏人には狂吠する。ただこの時にはいよいよ誰が主人かわからなくなるだけだ。

梁氏はいかに辛苦しているかを自ら述べ、「無産階級」のようだと言い、「主人が誰かわからぬ」と言うのだから、後者の類に属する。正確を期するなら、さらに数語を加えて「家を喪った」「資本家の走狗」と称すべきであろう。

しかしこの名称にはまだ些かの欠点がある。梁氏はさすがに知識ある教授であるから、尋常の者とは異なる。氏は「文学に階級性はあるか?」を論じなくなり、《答魯迅先生》の一篇では巧みに、電柱に「武装してソ連を守れ」と書いてあるとか、新聞社のガラスを叩き割るとかいう文を挿み、「××党でルーブルをもらう」と書いて、わざと隠した二つの×が即座に悟られる「共産」の二字を指し、「文学に階級性あり」と主張して梁氏の気に障った者はみな「ソ連擁護」あるいは「ルーブルの受領」をしている輩だと暗示する。段祺瑞の衛兵が素手の群衆を射殺した後に《晨報》が「学生は数個のルーブルのために命を落とした」と報じたのと同じ手口である。梁氏にとっては主人のために匪類を嗅ぎ出すことも一種の「批評」かもしれぬが、この職業は「首斬り役人」と比べてもなお下賤である。

「国共合作」の時代にはソ連を称賛するのが大いに流行したが、今やそうではない。ならば自分の論敵を「ソ連擁護」や「××党」だと指すのはもちろん時勢にかなった流行であり、あるいは主人の「恩恵」にありつけるかもしれぬ。しかし梁氏が「恩恵」を得ようとしているなどと言えば冤罪であり、ただこれによって一臂の力を借り、その「文芸批評」の窮地を救おうとしたにすぎぬ。ゆえに「走狗」の上にもう一つ形容詞を加えねばならぬ——「乏しき」と。

一九三〇年四月十九日。

第4節

聞くところでは、《新月》月刊のグループの人々は、このごろ売れ行きが良くなったと言っているそうだ。おそらく本当であろう。つい頁をめくると、「言論の自由」を争う文章や小説が多い。末尾近くに梁実秋氏の一篇《魯迅先生の「硬訳」を論ず》があり、「死訳に近い」とし、「死訳の風は断じて助長すべからず」と。私の三段の訳文を引き、さらに《文芸と批評》の後記で私が述べた「訳者の力量不足と中国語自体の欠陥のため、訳し終えて見れば晦渋な箇所がまことに多い。仂句をばらせば原文の語気を失う。私としてはなおこのように硬訳するほかに手はなく、残された唯一の望みは読者がなお頭を硬くして読み続けてくれることのみ」という言葉の「硬訳」に二重丸をつけた上で、「厳正」なる「批評」を下す。曰く、「我々は『頭を硬くして読み続けた』が、得るところがなかった。『硬訳』と『死訳』に何の違いがあるのか?」と。

新月社は組織がないと声明しているが、実は組織がある。少なくとも政治論文は互いに「照応」しており、文芸に関しては、この一篇は同じ批評家による《文学に階級性はあるか?》の余波である。

【以下、六節にわたる長大な論文。梁実秋の翻訳批評に対し、魯迅は以下の論点を展開する。

第二節では、新月社の「我々」という複数形の使用を批判し、「我々」があれば「彼ら」もあるのであり、新月社が死訳だと思っても読んで「無所得」ではない読者がいると反論する。自分の翻訳の目的は読者に「爽快」を与えることではないと述べる。

第三節では、翻訳における「順」(読みやすさ)と「信」(忠実さ)の関係を論じ、意訳がいかに原著を歪めるかを実例で示す。中国語の欧化は言語の発展に不可欠だと主張する。

第四節では、翻訳の受け手の問題を論じる。高度な理論書の翻訳と大衆向けの啓蒙読物を混同すべきではないとする。

第五節では、「誤訳は死訳に勝る」という主張を批判し、原著者の思想を正確に伝えることの重要性を説く。

最後に、梁氏がProletaryの語源をローマ時代に求める衒学的誤りを指摘し、真に「不通」なのは誰かと問いかけて結ぶ。】

第5節

少しでも感覚のある者ならば誰でも知っている——今回の学生の請願は、日本が遼吉を占拠し、南京政府が手をこまねいてただ国際連盟に哀願するばかりで、その国際連盟がまさに日本と一蓮托生だからだ。勉強せよ、勉強せよ、なるほど学生は勉強すべきだ。しかし一方で大人方が国土を売り渡すようなことをしないでくれてこそ、安心して勉強できるのだ。新聞に載っていなかったか。東北大学は四散し、馮庸大学も四散し、日本兵は学生らしき者を見れば銃殺すると。書物を置いて請願に来るなど、まことに哀れの極みではないか。しかるに国民党政府は十二月十八日、各地の軍政当局への通電文の中で、彼ら学生に「機関を破壊し、交通を遮断し、中央委員を殴打し」との罪名を着せ、さらに曰く「友邦の人士、驚愕措く能わず、このまま推移すれば国将に国たらざらんとす」と!

よくぞ言った、「友邦の人士」! 日本帝国主義の軍隊が遼吉を強占し、機関を砲撃しても、彼らは驚かない。鉄道を遮断し、客車を追撃爆破し、人民を銃殺しても、彼らは驚かない。中国国民党治下の連年の内戦、空前の水害、子を売り、首を斬って見せしめにし、秘密に殺戮し、電気拷問で自白を迫っても、彼らは驚かない。学生の請願の中で少し混乱があっただけで、驚いたのだ!

よくぞ言った、国民党政府の「友邦の人士」! いったい何者だ! たとえ挙げられた罪状がすべて真実だとしても、これらの事はどの「友邦」にもあることで、彼らが「秩序」を維持する監獄こそが、彼らの「文明」の仮面を引き剥がしているのだ。

しかし「友邦の人士」が驚くと、我が国府はたちまち恐れおののき、「このまま推移すれば国将に国たらざらんとす」と言う。まるで東三省を失っても党国はますます国らしく、東三省を失っても誰も声を上げず党国はますます国らしく、「友邦の人士」の賞賛を博して永遠に「国」であり続けられるかのようだ。

数行の電文が明白極まりなく語っている——いかなる党国か、いかなる「友邦」か。「友邦」は我が人民がおとなしく屠殺に甘んじ、沈黙を守ることを望み、少しでも「逸脱」すれば屠殺を加える。党国は我々にこの「友邦の人士」の望みに従うよう求め、さもなくば「各地の軍政当局に通電」して「直ちに緊急措置を取れ」と!

なぜなら「友邦の人士」は知っているからだ——日兵を「制止不能」であるのに、学生が「制止不能」であるはずがない。毎月一千八百万の軍事費、四百万の政費は何のためなのだ、「軍政当局」よ?

この文を書いた翌日、二十一日の《申報》に南京特電が載った。張以寛は重傷ではなく、行政院の秘書も失踪していないと。一方「教育消息」欄には上海の学生の死傷確定数が載った。「中公死亡二名、負傷三十名、復旦負傷二名……」。学生は国府通電の言うように「社会秩序を悉く破壊」したのではなく、国府はなお依然として弾圧でき、なお依然として誣告し殺戮できるのだ。「友邦の人士」よ、もはや「驚愕」するに及ばず、安心して瓜分しに来ればよい。

第6節

「労働者」という言葉が「罪人」の代名詞となって、もう丸四年になる。弾圧しても、誰も声を上げない。殺戮しても、誰も声を上げない。文学の上でこの言葉を口にしようものなら、たちまち多くの「文人学士」や「正人君子」が嘲り罵り、続いてまた多くの弟子や孫弟子が嘲り罵る。労働者よ、労働者よ、まことに永遠に浮かぶ瀬はないのか。

ところが思いがけず、また汝を思い出す者が現れた。

ところが帝国主義の御大尽たちは、党国の殺戮が手ぬるいと見て、自ら手を下してきた。爆撃するものは爆撃し、砲撃するものは砲撃する。「人民」を「反動分子」と呼ぶのは党国のお家芸だが、帝国主義の御大尽にもこの妙法があろうとは。抵抗もせず従順な党国の官軍をまで「賊匪」と呼び、大いに「膺懲」するとは! ああ冤罪なるかな、まことに「順逆」の弁別もつかぬ玉石俱焚の嘆である!

かくしてまた労働者を思い出した。

かくして久しく聞かなかった「親愛なる労働者よ!」という甘い呼びかけが文章の上にも見えるようになり、久しく見かけなかった「知識労働者」なる奇妙な肩書きも新聞に発見され、さらには「連絡の必要を感じて」「協会」が組織され、幹事に樊仲雲、汪馥泉といった新任の「知識労働者」の諸先生方が選ばれた。

何の「知識」か? 何の「労働」か? 「連絡」して何をするのか? 「必要」はどこにあるのか? これらのことは、しばらく措こう。「知識」なき体力労働者の関知するところでもない。

「親愛なる労働者」よ! 汝らよ、もう一度これらの高貴なる「知識労働者」のために立ち上がってくれ! 彼らをして依然として部屋の中に座り、その高貴なる「知識」を「労働」させ続けてやれ。たとえ敗れても、敗れるのは「体力」にすぎず、「知識」はなお健在なのだ!

「知識」労働者万歳!

第7節

これは訳者がこの十年間に翻訳した百篇近い文章の中から、あまり専門的でなく広く読まれうるものを選び出し一書にまとめたもので、流布がいくらかでも広まることを願ってのことである。一には最新の進化学説の状況を示し、二には中国人の将来の運命を示さんとする。

進化学説の中国への輸入はかなり早く、遠く厳復がハクスリーの《天演論》を訳述したことに始まる。だが結局一つの空疎な名詞を残したにすぎず、今日に至ってはその名目さえ奄奄として息も絶え絶えである。その間、学説は幾度も変遷し、ド・フリースの突然変異説は興って衰え、ラマルクの環境説は廃れてまた振るった。我々は自然の中に生息しながら、かくのごとき自然の大法の研究にはほとんど意を用いなかった。本書の冒頭と末尾のそれぞれ二篇は新ラマルク主義の立場から論じたもので、大略を窺い欠憾を補い得よう。

だが最も肝要なのは末尾の二篇である。砂漠の漸次の南下、栄養の維持困難、これらはいずれも中国人にとって極めて重要かつ切実な問題であり、解決しなければ得られるのは滅亡の結末だけだ。林木は伐り尽くされ、水沢は涸れ果て、将来の一滴の水は血液と同じ価値を持つであろう。もしこの事が現在と将来の青年の記憶にとどまるなら、本書の得た報酬もまた甚だ大きいと言えよう。

しかし自然科学の範囲においてはここまでしか言えず、与えられる解答もただ治水と造林のみである。これは一見きわめて簡単で容易な事のようだが、実はそうではない。私はスメドレー女史の《中国農村生活断片》の中の二段を引いて証としよう——

ゆえにこのような樹木保護法は、かえって樹皮を剥ぎ草の根を掘る人民を増やし、砂漠の出現を促進する結果となる。しかし本書は自然科学を範囲としているため、そこまでは顧みなかった。この自然科学の論ずる事実に続いて、さらに一歩進んで解決を加えるものとして、社会科学がある。

一九三〇年五月五日。

第8節

マーク・トウェイン(Mark Twain)については多言を要しない。アメリカ文学史をひとたび繙けば、彼が前世紀末から今世紀初頭にかけての著名なユーモリスト(Humorist)であることがわかる。その作品を読めば眉を開いて笑わずにはいられぬのみならず、あの筆名にさえ滑稽の感がこもっている。

本名はクレメンズ(Samuel Langhorne Clemens, 1835-1910)。もとは水先案内人で、作品を発表する際に測水時の掛け声の訛りを筆名に用いた。作品は当時大いに歓迎され、笑い話の名手と見なされた。しかし一九一六年に遺著《The Mysterious Stranger》が出版されるに及び、彼がきわめて深い厭世思想の持ち主であったことが紛れもなく証明された。

哀怨を含みながら嬉笑する——なぜこうなったのか?

我々は知っている。アメリカはアラン・ポーを生み、ホーソーンを生み、ホイットマンを生んだが、彼らはこれほど表裏の異なる者ではなかった。しかしそれは南北戦争以前のことだ。その後、ホイットマンはまず歌えなくなった。アメリカは産業主義の社会となり、個性はすべて一つの鋳型に嵌められ、自我を主張すれば迫害を受ける。この時の作家が意を注いだのはいかに書けば人に読まれ原稿が売れるかであった。かくして野性の馴致されぬ者は立つ場を失い、外国へ逃げた者もいた——ヘンリー・ジェイムズのように。笑い話を語った者もいた——それがマーク・トウェインだ。

彼がユーモリストとなったのは生活のためであり、ユーモアの中に哀怨と諷刺を含んだのは、この生活に甘んじなかったからだ。この一片の反抗のゆえにこそ、今なお新天地の子供たちが笑いながら言うのだ——「マーク・トウェインは僕たちのものだ」と。

この《イヴの日記》(Eve's Diary)は一九〇六年の出版、晩年の作であり、一篇の小品にすぎぬとはいえ、天真の中に弱点を露わにし、叙述の中に譏評を交え、当時のアメリカの娘の姿を描き出している。さらに訳者がその風韻を伝え、素朴にして華を衒わぬがゆえに、もしイヴが中国語で日記を書いたなら、おそらくこうなるであろうかとさえ思わせるほどで、いよいよ一読に値する。

ラルフ(Lester Ralph)の五十余幅の白描の挿絵は、柔らかくも清新で、構図を見ればおそらく中国清末の任渭長の作を思い起こす者もあろうが、任の描いたのは仙人や侠客で、痩削怪誕なこと遠くこれらの健康さに及ばない。しかも中国の今日、斜め目の撫で肩の美人画を見慣れた目には、澄清の益あること大なるものがある。

一九三一年九月二十七日夜、記す。

第9節

馮Y.S.氏がその友人を介して、《野草》の英文訳本を私に見せ、一言述べてほしいと言う。残念ながら私は英語がわからず、ただ自ら数言を述べるほかない。しかし、訳者が望んだことの半分しかしなかったとて、嫌われぬことを願う。

この二十余篇の小品は、各篇の末尾に記してある通り、一九二四年から二六年にかけて北京で書かれ、順次、雑誌《語絲》に発表されたものである。おおむねその時々の小さな感想にすぎない。当時は率直に言うことが難しかったため、措辞がいくらか曖昧になっている箇所もある。

いくつかの例を挙げよう。当時盛行していた失恋詩を諷刺して《我が失恋》を書き、社会に傍観者があまりに多いことを憎んで《復讐》第一篇を書き、また青年の消沈に驚いて《希望》を書いた。《このような戦士》は、文人学士が軍閥を助けるのに感じて書いたもの。《臘葉》は、私を愛する者が私を保存しようとしたことのために書いたもの。段祺瑞政府が素手の民衆を銃撃した後に《淡い血痕の中で》を書いたが、その時私はすでに他所に身を避けていた。奉天派と直隷派の軍閥戦争の折に《一つの目覚め》を書き、この後は北京に住むことができなくなった。

ゆえに、これはまた、おおかた廃れた地獄の辺縁に咲く蒼白い小花と言えよう。もちろん美しくはない。しかしこの地獄もまた失われねばならない。これは、雄弁と辣腕を持ちながらその時まだ志を得ていなかった数人の英雄の顔色と口調が私に告げたことだ。かくして《失われた好い地獄》を書いた。

その後、私はもはやこの手の文を書かなくなった。日々に変化する時代は、もはやかくのごとき文章を、甚だしくはかくのごとき感想さえも存在させなくなった。これはかえって善いことかもしれぬ、と私は思う。英訳本のための序文も、ここで結ぶべきであろう。十一月五日。

第10節

プレハーノフ(George Valentinovitch Plekhanov)は一八五七年、タムボフ省の貴族の家に生まれた。彼の出生から成年に至る間、ロシア革命運動史においては、知識階級が提唱した民衆主義(ナロードニキ)が興隆から凋落へと向かう時期にあたる。彼らの当初の見解では、ロシアの民衆、すなわち大多数の農民は、すでに社会主義を会得し、精神的には無自覚の社会主義者となっているのであり、ゆえに民衆主義者の使命はただ「民間へ行き」、その境遇を説明し、善導することにあると考えられていた。

【以下、プレハーノフの生涯と思想的発展を六節にわたって論じる長篇序文。

第一節では、ナロードニキ運動の挫折——農民への啓蒙活動が期待に反して実を結ばなかった経緯を述べ、やがて「土地と自由」党から急進派「人民の意志」党とプレハーノフ率いる「黒い割り当て」派への分裂を描く。

第二節では、プレハーノフのマルクス主義への転向を詳述する。一八八三年にジュネーヴで「労働解放」団を創設し、ロシアにおけるマルクス主義の理論的基礎を築いた過程が語られる。

第三節では、プレハーノフの文芸理論——芸術と社会的存在の関係、功利主義と芸術至上主義の止揚としての唯物弁証法的美学——が概観される。

第四節では、プレハーノフとレーニンの関係、メンシェヴィキとボリシェヴィキの分裂における彼の立場の変遷が論じられる。

第五節では、一九一七年の革命に対するプレハーノフの態度——社会主義革命の時機尚早という彼の判断と、それにもかかわらずロシア・マルクス主義の父としての不朽の貢献——が記される。

第六節では、一九一八年の死とその遺産、とりわけ文芸理論と美学における功績が総括される。魯迅はプレハーノフの著作の中国語翻訳の意義を説き、中国の読者がこの理論から学ぶべきことを述べて結ぶ。】

第11節

日本が東三省を占拠した後の上海一帯の反応を、新聞は「国難声中」と呼んだ。この「国難声中」は、まるで棒で何年も淀んでいた池をかき回したようなもので、古い澱も新しい澱も、みな宙返りしながら浮かび上がり、水面でひと回りして、この機に乗じて自らの存在を誇示しようとしたのである。

今こそ戦えると自認する者たちは、久しく忘れていた洋銃の操練を始めようとしていた。しかし戦おうとは言い出さない者もおり、そうした者は欧州大戦時のドイツ帝国に倣って「頭脳動員」を行い、「国民の一員」としての義務を果たそうとした。ある者は『唐書』を繙いて日本の古名が「倭奴」であると言い、ある者は字典を引いて倭は矮小の意だと言い、ある者は文天祥や岳飛や林則徐を思い出した――だが当然、より積極的だったのは新しい文芸界であった。

まず別の話をしよう。これは「和平声中」と呼ばれるものだ。この声の中に、「胡展堂先生」が上海にやって来て、青年に訓戒を垂れ、「力」を養い「気」を泄らすなと教えたという。霊薬はたちまち現れた。翌日の新聞広告にはこうあった。「胡漢民先生曰く、対日外交は堅強なる原則を確定すべし。また青年に勧めて力を養い、気を泄らすなかれと。力を養うとは身を強くすること、気を泄らすとは悲観すること、身を強くし悲観を去るには、まず心花怒放して大いに一笑すべし。」だがこの宝物とは何か。アメリカの一本の古い映画、冒険をコメディ化して小市民に一笑を博す『両親家遊非洲』であった。

真の「国難声中の興奮剤」といえば、「愛国歌舞公演」であった。自ら「民族性の躍動、歌舞界の精髄、同胞の努力を促進し、最後の勝利に達する」ものだと称していた。この即効の大スターが誰か御存知か。曰く、王人美、薛玲仙、黎莉莉である。

しかし遂に「上海文芸界大団結」が実現した。『草野』(六巻七号)にその盛況が記されている。「上海文芸界の同人は、平素ほとんど連絡がないが、この重大な時期に……謝六逸、朱応鵬、徐蔚南の三名が発起し……集会して討論した。十月六日午後三時、続々と東亜食堂に集まり……茶菓子を少々つまんでから討論を始め、大いに発揮し……最後に上海文芸界救国会と命名した」云々。

「発揮」の内容はまだ知る由もないが、目の前の方法を見る限り、まず『両親家遊非洲』を観て力を養い、次に「愛国歌舞公演」を観て興奮し、さらに『日本小品文選』と『芸術三家言』を読みつつ茶菓子を少々つまんで発揮する。それで中国は救われるというのだ。

だめだ。これは文学青年どころか文学幼児でさえ信じまい。仕方なく、もう二つ別の良い知らせを付け加えなければならない。それは目下の愛国文芸家が主宰する『申報』が発表したものである。十月五日の『自由談』で葉華女士曰く、「辦法なき国民に、辦法ある政府など有り得ようか。国際連盟は絶望せり。……全国国民は各々志を立て……余も不才なれど、謹んで軍用犬の問題を国人に商わん。……各犬中、ドイツの警察犬最も称職なり、余は我が国はこの犬を選ぶべしと強く主張す……」

同月二十五日の同じく『自由談』に「蘇民、漢口より寄す」として曰く、友人に病状を書き送り義勇軍に身を投じられぬことを嘆いたところ、友人が培生製薬の益金草という肺癆に効く薬を送ってくれ、服用したら咳が止まり体力も回復し、国に一旦事あれば必ず従軍せんと決意したと。

なんと病人すら即座に兵になれ、警察犬も共に愛国する。愛国文芸家の指導の下、まことに楽観すべきで、「滅此朝食」の日も近い。ただ惜しいことに、文学青年どころか文学幼児でも、読んでいけば、「広告」と名乗らぬものも結局は古い商品を売るための新しい広告に過ぎず、「国難声中」あるいは「和平声中」に乗じて利益をさらに多く自分の手に搾り取ろうとしているのだと気づくだろう。

こうしようとするからこそ、みなこの時を利用して表面に浮かんでくる。スターもいれば文芸家もいる、警察犬も薬もある……機に乗じるから浮かび上がるのも格別容易い。だが浮かび上がったのは澱であり、澱は所詮澱に過ぎない。この一度の浮上によって彼らの本性はかえってはっきり見え、最後の運命もやはり再び沈んでいくだけなのである。

十月二十九日。

第12節

――創作はいかにすれば良くなるか?

編集者殿、

お手紙のご質問は、アメリカの作家や中国上海の教授たちにお尋ねになるべきもので、彼らは「小説法程」や「小説作法」で腹が一杯です。私はたしかに二十篇あまりの短篇小説を書きましたが、これまで「定見」を持ったことがありません。中国語を話せても「中国語法入門」を書けないのと同じことです。しかしご厚情にはお断りしかねますので、自分の経験した些細なことを少しばかり以下に記します――

一、あらゆる事柄に注意し、多く観察すること。少し見ただけで書いてはならない。

二、書けないときは無理に書かない。

三、モデルは特定の一人を使わない。多く見て、組み合わせるのだ。四、書き上げたら少なくとも二度は読み返し、あってもなくてもよい字・句・段を力の限り削ること。惜しんではならない。小説になり得る材料をスケッチに縮めるのはよいが、スケッチの材料を引き延ばして小説にしてはならない。

五、外国の短篇小説を読むこと。ほとんど東欧・北欧の作品であり、日本の作品も読む。

六、自分以外誰にもわからない形容詞の類を勝手に造らない。

七、「小説作法」の類の話を信じない。

八、中国のいわゆる「批評家」の類の話を信じず、信頼できる外国の批評家の評論を読む。

今申し上げられることは以上です。敬具。

十二月二十七日。

第13節

――日本が東三省を占領した意味

一方では、日本帝国主義がその僕婢たる中国軍閥を「膺懲」しているのであり、すなわち中国民衆を「膺懲」しているのである。なぜなら中国民衆は軍閥の奴隷だからだ。もう一方では、ソ連進攻の端緒であり、世界の労苦する大衆に永遠に奴隷の苦しみを受けさせようとする方針の第一歩なのである。

九月二十一日。

第14節

「もし先生の前に一人の中学生が立っていて、内憂外患が迫るこの非常の時代に、彼にどのような言葉をかけ、努力の方針とされますか。」

編集者殿、

先生にもお許しいただいて、逆に一つお尋ねしたい。すなわち、我々は今、言論の自由があるでしょうか? もし先生が「ない」とおっしゃるなら、私が口をつぐんでも咎められはしないと思います。もし先生が「目の前に一人の中学生が立っている」という名目で、どうしても一言述べよと迫られるのでしたら、私はこう申します――第一歩として言論の自由の獲得に努力すべきです。

第15節

多くのことについては、先に他の人が非常に詳しく論じているので、私が繰り返す必要はない。私の考えでは、現在、「左翼」作家が「右翼」作家に変わるのは実に容易なことである。なぜか。第一に、もし実際の社会闘争と接触せず、ガラス窓の中に閉じこもって文章を書き問題を研究するだけならば、どれほど激烈であろうと「左」であろうと、それは容易にできる。しかし現実にぶつかれば、たちまち砕け散る。部屋に閉じこもっている者は、最も徹底的な主義を高談するが、最も「右傾」しやすい。西洋でいう「サロンの社会主義者」とは、まさにこのことを指す。

第二に、革命の実際の状況を理解しなければ、「右翼」に変わりやすい。革命は苦痛であり、その中には必然的に汚穢と血が混在する。ロシアの詩人エセーニンは当初十月革命を歓迎し「万歳、天上と地上の革命よ!」と叫んだが、革命後の実際は想像と全く違い、遂に失望し頽廃し自殺した。我々の辛亥革命の際にも同様の例があった。「南社」の人々は満洲人を追い出せば「漢官の威儀」が復すると信じていたが、民国成立後の現実に失望し、新運動の反動者になった者さえいる。

さらに、詩人や文学者が万人の上にあるという考えも正しくない。ハイネは詩人が最も高貴で死後は神が砂糖菓子を振る舞ってくれると考えた。今日そんなことを信じる者はいないが、将来革命が成功すれば労働者がバターパンを捧げてくれると期待するのも正しくない。ロシア革命後の一、二年はバターパンどころか黒パンすらなかった。

さて、今後我々が注意すべき点を述べよう。第一に、旧社会と旧勢力との闘争は断固として持続的に行い実力を重視すべきである。第二に、戦線は拡大すべきである。第三に、我々は大挙して新たな戦士を育成すべきである。同時に文学戦線上の人間には「靭さ」が必要である。前清の八股文を「敲門磚」のようにしてはならない。文化において成果を挙げるには靭さなくしては不可能だ。

最後に、統一戦線は共通の目的を持つことが必要条件である。もし目的がみな労農大衆にあるならば、戦線はおのずと統一されるのである。

第16節

もし、およそ革命軍の大隊たるもの、すべての戦士の意識が十分に正確明瞭でなければ真の革命軍ではなく一笑にも値しないと言うなら、この言論は一見もっともらしく徹底しているようだが、実は達成不可能な難題であり、空疎な高論であり、革命を毒する甘い薬である。

帝国主義の支配下で大衆をことごとく「人類愛」の意識に訓練させ「大同世界」に変えることなど許されないのと同じく、革命者たちが抗う勢力の下では大多数の人間にことごとく正確な意識を持たせることなど決して許されない。だからどの革命部隊の蜂起にあっても、戦士たちは大抵、現状に反抗するという一点で大まかに共通するだけで、最終的な目的は実に多様である。社会のためという者もあれば、小集団のため、一人の恋人のため、自分自身のため、あるいはただ自殺のためという者さえいる。しかし革命軍はなお前進できる。なぜなら進軍の途上、個人主義者の放つ弾丸も集団主義者の放つ弾丸も等しく敵を仕留めることができるからだ。もちろん最終目的の違いから、行進中に退伍・落伍・頽唐・叛変する者が時々出る。しかし前進に支障がない限り、後になるほどこの隊伍はいよいよ純粋で精鋭なものになるのだ。

私は以前、葉永蓁君の『小小十年』に序文を書いた。書中の主人公はともかくも前線に赴き歩哨に立ったのであり、ただ膝を抱えて哀歌し筆を握って憤嘆するだけの文豪たちに比べれば遥かに切実であった。今の戦士がみな意識正確にして鋼鉄より堅い戦士であることを要求するのは、ユートピアの空想であり情理に外れた苛酷な要求でもある。

だが後に『申報』でさらに厳しい批評を見た。主人公の従軍動機が自分のためだからと深く不満を表明していた。ここで私は、徹底した革命者を装いながら実は極めて非革命的な個人主義的論客を指摘したい。

その一つは頽廃者である。自ら理想を持たず無力であるから刹那の享楽を求め、新たな刺激を絶えず求める。革命もまた頽廃者にとっての新たな刺激の一つである。ボードレールは革命を歓迎したが、革命が彼の頽廃生活を妨げるようになると途端に革命を憎んだ。

もう一つは、一切の定見を持たず世の中に正しいことは一つもなく自分に間違いは一つもないと感じ、結局は現状維持が最善だと考える人々だ。互助説を駁する時は生存競争説を用い、生存競争説を駁する時は互助説を用い、平和論に反対する時は階級闘争説を用い、闘争に反対する時は人類愛を主張する。要するに英尺で露里を測り仏尺でメートルを測って一つも合わないことを発見する人間だ。

『申報』の批評家は『小小十年』に徹底的な革命的主人公を要求したが、社会科学の翻訳には刻毒な冷笑を加えた。だからその魂は後者の流れであり、わずかに頽廃者の人生に対する無聊の気配を帯びているのだ。

第17節

「順にして信ならず」の訳法を主張する大将、趙景深先生は、近頃さしたる大作を訳しておらず、もっぱら『小説月報』で「海外文壇消息」を紹介してくれている。出典が大抵示されておらず検証のしようがないが、「順にして信ならず」を主張する趙先生にとっては気にする必要もないのだ。

二月号の『小説月報』で、趙先生は「グロッパーは曲馬の絵物語『Alay Oop』を脱稿した」と伝えた。これは極めて「順」であるが、英語辞典で調べると「曲馬」の物語ではなく「曲馬師たち」の物語だとわかった。十一月号では「セイス四部作完成」を報じ「最後の一冊『半人半牛怪』(Der Zentaur)も今年出版された」と伝えた。この語はギリシア語起源で、上半身が人で下半身は馬であり、牛ではない。馬は奇蹄類、牛は偶蹄類であり、やはり区別した方がよい。

「牛」が入ったことで、趙先生の有名な「牛乳路」の誤訳を思い出した。ギリシア神話の大神ゼウスの妻の乳汁が天空に飛散して銀河となった。すなわち「牛乳路」――いや実は「神乳路」なのだ。だが白人は一切の「乳」を"Milk"と呼び、我々は缶入り牛乳の文字に見慣れているから時に誤訳するのも無理はない。

しかし翻訳に大いに一家言ある名人でありながら、馬に遇えば惑い牛を愛すること性のごとく、いささか「牛頭馬嘴に合わぬ」翻訳があるのは、まあ談助にはなろう。趙先生の「信にして不順ならんよりは、順にして不信なるにしかず」という格言には、いささかの損害もない。これぞ「乱訳万歳!」というものだ。

第18節

『唐三蔵取経詩話』の版本について――開明書店中学生雑誌社編集者殿へ

この手紙を『中学生』に掲載していただけるかどうか。事の次第はこうである――

『中学生』新年号に、鄭振鐸先生の大作「宋人話本」の中に『唐三蔵取経詩話』に関して次のような一節がある。「この話本の時代は知り得ないが、王国維氏が書末の『中瓦子張家印』の数文字に拠ってこれを宋槧と断定した語は頗る信ずべし。ゆえにこの話本もまた必ず宋代の産物であろう。」

私は以前『中国小説史略』を著した折にこの書を元槧ではないかと疑い、収蔵者の徳富蘇峰氏の不満を大いに買った。だが考証は荒唐であってはならないが墨守もまた宜しくない。蔵書家はその蔵本が古いことを欲するが、史家はそうではない。欠筆で時代を定めず、地名だけで時代を定めず、文意の華朴巧拙だけで時代を定めない。

ゆえに積極的な確証がない限り、『唐三蔵取経詩話』はなお元槧の疑いを免れないように思われる。鄭振鐸先生が引用した同じ「王国維氏」の『両浙古刊本考』の「杭州府刊版」の「辛、元雑本」項に『京本通俗小説』と『大唐三蔵取経詩話』三巻が含まれている。これは『取経詩話』を元槧と定めるのみならず『通俗小説』をも元本としているのだ。

魯迅拝上。一月十九日夜。

第19節

来信

敬愛なる同志へ、

あなたの訳した『壊滅』の出版は、中国の文芸生活における極めて記念すべき事跡です。世界のプロレタリア革命文学の名著を翻訳し体系的に中国の読者に紹介すること――これは中国のプロレタリア文学者の重要な任務の一つです。あなたの訳文は確かに非常に忠実であり、「決して読者を欺かない」という言葉は決して広告ではありません。

翻訳は原本の内容紹介以外にもう一つの重要な作用があります。すなわち新しい中国の現代言語の創造を助けることです。中国の言語はあまりにも貧弱であり、日用品にすら名のないものがあります。細膩な区別や複雑な関係を表す形容詞・動詞・前置詞はほとんど存在しません。

【以下、来信は翻訳理論を詳論する。要旨:(1)厳復の「信・雅・達」の翻訳論を批判し「雅」が「信」と「達」を犠牲にしたと指摘。(2)趙景深の「信よりも順を取る」という主張を愚民政策・学閥主義と断じる。(3)翻訳の基準は「絶対的な正確さと絶対的な白話」であるべきと主張。(4)『壊滅』のフリーチェ序文からの引用を校訂し訳文の具体的誤りを九箇所指摘。特に「人」と「人類」の訳し分けの問題を論じ、『壊滅』の主題は「新しい人間の誕生」であり「人類」ではなく個々の「新しい型の人間」の鍛造であると強調する。】

J. K. 一九三一年十二月五日。

回信

敬愛なるJ. K. 同志、

翻訳に関するあなたの手紙を読み非常に喜びました。趙景深教授を例にとれば、一方では科学的文芸論の翻訳の不通を専ら攻撃し、他方では大いに慈悲を垂れてそのような翻訳は大衆にわかるまいと言う。私の見るところ厳復と趙景深には虎と狗ほどの差があります。厳復は翻訳のために漢晋六朝の仏典翻訳法を研究しましたが、趙景深は厳復の訳書すら読んでおりません。

【以下、回信は翻訳理論について応答する。要旨:(1)翻訳の対象読者を甲・乙・丙の三つに分け、甲向けには「信を取り順を犠牲にする」直訳を主張。(2)新しい句法や語彙の導入は言語の豊饒化に不可欠と論じる。(3)来信が指摘した『壊滅』訳文の誤りを率直に認め、特に「人」を「人類」と訳した誤りについて独訳・日訳の影響と自身の過剰な深読みが原因だったと分析。(4)今後は記念碑的文学作品を八~十種翻訳・紹介したいと展望する。】

魯迅 一九三一年十二月二十八日。

第20節

小説の題材に関する通信(Y及びTの来信を併せて)

L. S. 先生、

このように先生のお心を煩わせるのは長らく抑えてきたことですが、私たちの心目に映る先生であれば一人の熱心な青年の教えを求める声を冷淡にはなさるまいと思います。こうして何度も思案した末、遂に僭越ながら文芸上の迷いと逡巡を先生に申し上げる次第です。

私たちの取った題材は二種で、一つは熟知する小資産階級の青年の弱点を風刺するもの、もう一つは下層の人物の生存への朧げな反抗の衝動を刻むものです。こうした作品が現代に貢献の意義を持ちうるかどうか。

Ts-c. Y. 及び Y-f. T. 拝上。十一月二十九日。

回信

Y及びT両君、

お二人のお尋ねは短篇小説の材料の問題です。もし戦闘的な無産者であれば、書いたものが芸術作品たり得る限り、何を描こうと貢献の意義を持ちます。なぜなら作者自身が戦闘者だからです。しかしお二人はその階級に属さないから疑問が生じたのです。

私の考えでは、これは現在の時代になお意義を持ちますが、いつまでもこの傾向にとどまるなら妥当とは言えません。別の階級の文芸作品は大抵無産者とは無関係です。しかし今の中国では、お二人の二つの題材にはなお存在の意義があります。第一のものは同じ階級でなければ深く知り得ず仮面を剥ぐ攻撃は有力です。第二のものは生活状態が時代とともに変わるから随時記録しておくことはこの時代の記録になります。

つまり私の意見は、今書けるものを書き時流に迎合する必要はなく、突然変異的な革命英雄を造り上げてはならないが、同時にこの一点に安住して改革を怠ってもならないということです。

L. S. 拝。十二月二十五日。

第21節

――アメリカ『ニュー・マッシズ』誌のために

現在、中国においてプロレタリア革命の文芸運動は実は唯一の文芸運動である。これは荒野の中の萌芽であり、これを除けば中国にはもはや他の文芸は存在しない。統治階級のいわゆる「文芸家」はとうに腐敗し果てて「芸術のための芸術」はおろか「頽廃」の作品すら生み出す力がなく、左翼文芸に対抗するには誣蔑、弾圧、投獄、殺戮があるのみである。

一昨年プレハーノフやルナチャルスキーの文芸理論が初めて中国に紹介された時、まずバビット先生の門弟が憤慨した。文芸はプロレタリアのものではなく、プロレタリアが文芸を望むなら資産階級に這い上がるべきだと。さらにプロレタリア文学の主張者はソ連のルーブルを受け取っていると流言を作った。

統治階級の官僚は昨年いよいよ弾圧を加えた。期刊を禁じ書籍を禁じ、チェーホフやアンドレーエフの小説の一部すら禁止された。今年は五人の左翼作家が行方不明になり、後に「解放」された――「死刑」の嘲弄的呼称――と知らされた。書店が閉鎖され、多い日には一日五軒に及んだ。

統治階級は積極的な建設も試みた。書店の店主を入れ替え、雑誌を発行したが、主宰者が市政府委員と偵緝隊長であったため悉く失敗した。既に名のある作家に強制的に寄稿させようとしたが大多数は筆を執らなかった。

こうした状況下でも革命的青年の大部分は依然として左翼文芸を熱烈に要求し発展させている。左翼文芸はなお成長している。だが大石の下に圧された萌芽のように屈曲しながら成長しているのだ。

惜しいのは左翼作家の中にまだ農工出身の作家がいないことだ。しかしこの刀を振るう「文芸」は、左翼作家がプロレタリアと同一の運命を背負っていることを証明した。左翼文芸が今プロレタリアとともに受難しているならば、将来もまたプロレタリアとともに立ち上がるであろう。

第22節

ここ数年、「硬訳」を命がけで攻撃する名人はすでに三代を数える。祖師の梁実秋教授、弟子の趙景深教授、孫弟子の楊晋豪大学生である。趙教授の主張が最も明白かつ徹底しており、その精髄は「信にして不順ならんよりは、順にして不信なるにしかず」である。

「信にして不順」の訳文は一見するだけで骨が折れるから読者は趙教授の格言を敬服する。「順にして不信」の訳文は原文と対照しなければ「不信」がどこにあるかすらわからない。読者は訳者よりさらに多くを知っていなければ誤りを見抜けない。

私は科学についてはほとんど知らず翻訳を読むしかないが、近頃しばしば疑わしい箇所に出くわす。『万有文庫』の『生物学浅説』で「ニール及びエール両氏」とあるがNilsson-Ehleは一人で二つの姓を持つ。『小説月報』の『老人』で「腸チフスから流行性感冒の重病に変わった」とあるが、一方は呼吸器系、他方は消化器系であり変わりようがない。『遺伝と環境』では「髄質の晶体」「代晶質」「蛋白質精を透視」など理解不能な訳語が並ぶ。

「信にして不順」の訳文はせいぜい理解しにくいだけで少し考えればわかるかもしれないが、「順にして不信」の訳文は人を迷わせ、もし理解したつもりになっているならまさに迷路に入り込んでいるのだと断じることができる。

第23節

柔石、本名は平復、姓は趙、一九〇一年に浙江省台州寧海県の市門頭に生まれた。先祖数代は読書人であったが父の代には家計が支えきれなくなり小さな商いを営んだ。十歳になってようやく小学に入り、一九一七年に杭州の第一師範学校に入学、杭州晨光社の一員として新文学運動に従事した。卒業後は慈渓などで小学教師を務めつつ創作を続け、短篇小説集『瘋人』を寧波で出版した。一九二三年に北京大学の聴講生となった。

帰郷後、一九二五年春に鎮海中学の校務主任となり北洋軍閥の圧迫に力強く抵抗した。秋に喀血したが寧海中学の創設に奔走し翌年には校舎を建設、教育局長として全県の教育改革にも取り組んだ。

一九二八年四月の農村暴動失敗後、寧海中学は解散させられ柔石は単身上海に赴き文芸研究に打ち込んだ。『語糸』の編集者となり友人と朝華社を設立、『朝華』週刊二十期、旬刊十二期、『芸苑朝華』五冊を出版した。

一九三〇年春、自由運動大同盟と左翼作家連盟の発起人・基本構成員となりプロレタリア文学運動に尽力。執行委員、常務委員・編輯部主任を歴任した。

一九三一年一月十七日逮捕、二月七日夜に竜華警備司令部で秘密裏に銃殺。十発の弾丸が体を貫いた。

男児二人、女児一人あり。創作に詩劇『人間の喜劇』(未刊)、小説『旧時代の死』『三姉妹』『二月』『希望』、翻訳にルナチャルスキー『ファウストと都市』、ゴーリキー『アルタモーノフ家の事業』、『デンマーク短篇小説集』等がある。

第24節

上海の過去の文芸は『申報』に始まる。『申報』を語るには六十年前にまで遡らねばならないが、そのことは私は知らない。私が記憶しているのは三十年前のことで、あの頃の『申報』はまだ中国の竹紙を使い片面刷りで、そこに文章を書いていたのは多くは他所からやって来た「才子」たちであった。

当時の読書人は、おおよそ君子と才子に分けられた。君子は四書五経を読み八股文を作るだけの規矩正しい人間。才子はそれ以外にさらに『紅楼夢』を読み科挙に役立たない詩を作ったりする。上海に租界ができると一部の才子たちがやって来た。才子は曠達だからどこへでも行くが、君子は外国人のものを嫌い正道の功名を求めていた。

才子は上海に来ると妓女に出会い、十人二十人の若い娘を集めたさまが『紅楼夢』に似て、自分を賈宝玉のように感じた。自分は才子ならば妓女は佳人、かくして才子佳人の小説が生まれた。

【以下、この長大な講演は上海文芸史を六つの段階に分けて論じる。(1)才子+佳人小説の隆盛とその衰退。(2)才子+流氓(ゴロツキ)小説の出現。呉友如の『点石斎画報』と流氓的画風の伝統、葉霊鳳のビアズリー模倣にまで至る。(3)翻訳小説『迦因小伝』の衝撃と鴛鴦胡蝶派の隆盛、『新青年』とイプセンの「ノラ」によって打撃を受ける。(4)創造社と文学研究会の対立。天才主義・芸術のための芸術を掲げる創造社と、人生のための芸術を重視する文学研究会。創造社の商業化と挫折。(5)革命文学運動の勃興と挫折。方法論の誤り、機械的なソヴィエト方式の適用を批判。小資産階級文学者の「突変」説の虚偽性を水の凝固の比喩で論破。向培良のような転向者を批判。(6)左翼作家連盟の成立と意義。プレハーノフ・ルナチャルスキーの理論導入。真の革命文学は作家自身が革命と共に生きねば書けない。統治者の文芸弾圧の実態を暴露して結ぶ。】

これ以外にも民族主義文学や武侠小説なども解剖すべきだが、今日は時間がなくなったので将来機会があればまた論じたい。今日はここまでとする。

第25節

上海のモダンな若旦那がモダンなお嬢さんに言い寄ろうとする時、まず第一歩はどこまでもつきまとうことであり、専門用語で「釘梢」という。「釘」とはしっかりくっついて離れないこと、「梢」とは末、後の意で、文語に訳せばおおよそ「追躡」と言えよう。釘梢の専門家によれば第二歩は「扳談」(話しかけ)であるという。たとえ罵られても大いに望みあり、なぜなら罵れば言葉のやり取りが生じ「扳談」の端緒となるからだ。私はかねてこれを現代の洋場だけのことと思っていたが、『花間集』を見るに唐代にすでにこのようなことがあったとわかった。張泌の「浣渓紗」十首のその九に曰く、

晩く香車を逐いて鳳城に入れば、東風斜めに繡簾を揭げて軽く、慢く嬌眼を回せば笑い盈盈たり。

消息未だ通ぜず何の計かある、便ち須く佯り酔いて且つ随行すべし、依稀として聞く「太だ狂生なり」と。

これは明らかに現代の釘梢法と一致している。白話詩に訳せばおおよそこうなろう。

夜、人力車を追いかけて道を飛び、東風がインド綢の衫子を吹き上げれば太腿のふくよかさが見え、色っぽい目を乱れ投げて笑い迷迷。

話しかけられぬのにどうしよう、油を売るような調子でとにかくつきまとうしかない、ほのかに罵る声が聞こえた「この人殺し!」と。

しかし古書の上にはもっと古い例も見つかるかもしれない。博学の方々のご教示を切に望む。これは「釘梢史」を研究する者にとって極めて有用だからだ。

第26節

大まかな情勢を見れば(我々のところでは確実な統計は得られないが)、昨年以来、「革命的」の看板を掲げた創作小説の読者はすでに減少し、出版界の趨勢はすでに社会科学へと転じている。これは良い現象と言わざるを得ない。当初、青年の読者たちは広告めいた批評の呪文に惑わされ、「革命的」創作を読めば活路があり、自分も社会も救われると信じて、手当たり次第に大口で呑み込んだ。ところが、その多くは滋養などではなく、新しい袋に入った酸っぱい酒、赤い紙に包まれた腐った肉であった。その結果、胸のあたりがむずむずして、嘔吐しそうになった。

この苦い教訓を得た後、根本的で着実な社会科学に治療を求めるようになったのは、当然ながら正当な前進である。

しかし、大部分は市場の需要により、社会科学の翻訳著作がまた蜂の巣を突いたように湧き出し、比較的まともなものとひどいものとが書店の棚に雑然と並び、正確な知識を求め始めた読者たちはすでに途方に暮れている。しかるに新しい批評家は口を開かず、批評家もどきの連中が勢いに乗じて一筆で抹殺する——「犬も猫も同然」と。

ここに至って、我々が必要とするのは、やはり数人の堅実で明晰な、社会科学とその文芸理論を真に理解する批評家にほかならない。

批評家の出現は、中国ではもうずいぶん前からのことである。どの文学団体にも、大抵一組の文学的人物がいる。少なくとも詩人が一人、小説家が一人、そして自分たちの団体の栄光と功績を宣伝する批評家が一人。これらの団体はいずれも改革を志し、旧い砦に攻勢をかけると称しているが、まだ道半ばにして旧い砦の下で互いに取っ組み合いを始め、皆が疲れ果ててようやく手を放す。ただの「取っ組み合い」に過ぎないから大した傷はなく、ただ息を切らしているだけだ。息を切らしながら、各々が勝利したと信じ、凱歌を歌う。旧い砦の上では守兵など一人もいる必要がない。ただ腕を組んで見下ろし、これら新たな敵がみずから演じる喜劇を眺めていれば十分なのだ。彼は声を発しないが、勝利したのは彼である。

この二年間、とりわけ優れた創作はなかったが、私の見たところ、単行本になったものでは、李守章の『跋渉の人々』、台静農の『地の子』、葉永蓁の『小さな十年』の前半部、柔石の『二月』および『旧時代の死』、魏金枝の『七通の手紙の自伝』、劉一夢の『失業以後』は、いずれも優秀な作品であった。惜しむらくは、我々の名高い批評家たち——梁実秋氏はまだ陳西瀅と呼応しており、ここでは言及しない。成仿吾氏は創造社の過去の栄光を懐かしんだ後、身を翻して「石厚生」となり、続いて流星のごとく消え去った。銭杏邨氏は近頃また『拓荒者』誌上で、蔵原惟人を引き合いに出しつつ、一節また一節と茅盾と取っ組み合いをしている。各文学団体以外の作品は、このように多忙あるいは閑散たる戦場において、すべて「片付けられる」か黙殺されてしまった。

今回の読書界の社会科学への転向は、良い正当な転機であり、他の方面に益あるのみならず、文芸に対しても正確で前進的な道へと促すことができる。しかし、出品の雑然たる状態と傍観者の冷笑の中では、極めて容易に凋落してしまう。だから今最も必要なのは、やはり——数人の堅実で明晰な、社会科学とその文芸理論を真に理解する批評家なのである。

第27節

体質も精神もすでに硬化した人民は、どんなにささやかな改革に対しても妨害を加えずにはおかない。表面上は自分に不便だからと恐れているように見えるが、実は自分に不利だと恐れているのだ。しかし、掲げる口実は往々にして極めて公正かつ堂々としたものである。今年の旧暦使用禁止も、本来はつまらぬ、大勢に関わりのないことであるが、商家はもちろん苦情の雨を降らせた。それだけではない。上海の無職の遊民や会社の雇い人までもが、しばしば慨然と長嘆し、あるいはこれでは農家の耕作に不便だと言い、あるいは船が潮を待つのに不便だと言う。彼らはこのことゆえに、久しく縁のなかった田舎の農夫や海上の船乗りのことまで思い出したのだ。実にいかにも博愛の趣がある。

旧暦の十二月二十三日になると、爆竹がそこかしこでパチパチと鳴り始める。私がある店の店員に「今年はまだ旧暦の正月を祝えるが、来年は必ず新暦の正月を祝うのか」と訊ねると、答えはこうだった。「来年はまた来年のこと、来年になってから考えますよ。」彼は来年に新暦の正月を祝わねばならぬとは信じていないのだ。しかし暦の上では確かに旧暦は削除され、節気のみが残された。ところがその一方で、新聞には『百二十年陰陽合暦』の広告が現れた。なるほど、彼らは曾孫・玄孫の時代の旧暦まで、すでに準備万端整えてしまったのだ——百二十年分を!

梁実秋先生たちは多数派を大変嫌うが、多数の力は偉大であり、肝要なのだ。改革を志す者がもし民衆の心を深く知り、利に導き改善する方策を講じなければ、どんな高邁な議論も、浪漫派も古典派も、彼らとは無関係で、数人が書斎の中で互いに嘆賞し合い、自己満足を得るだけに終わる。もし仮に「善人政府」が出来て改革の令を発したところで、ほどなく彼らに旧い道へ引き戻されてしまうだろう。

真の革命家には独自の見識がある。例えばウリヤノフ氏は「風俗」と「習慣」を「文化」の範疇に含め、かつこれらの改革は甚だ困難であると考えた。私が思うに、もしこれらを改革しなければ、その革命は無に等しく、砂上の楼閣のごとくたちまち崩れ去る。中国の最初の排満革命が容易に呼応を得たのは、スローガンが「旧物の光復」すなわち「復古」であり、保守的な人民の同意を得やすかったからである。しかし後になって、歴史上定例の開国初頭の盛世は遂に訪れず、ただ辮髪一本を失っただけで、大いに不満を買うこととなった。

以後のより新しい改革は、ことごとく失敗し、一両の改革に対して十斤の反動が返ってくる。例えば前述の一年間の暦に旧暦の記載を禁じたところ、百二十年分の陰陽合暦が登場したのだ。

この種の合暦は、歓迎する者が必ず多い。なぜなら風俗と習慣がこれを擁護し、風俗と習慣の後援があるからだ。他のことも同様で、もし民衆の大きな層の中に深く入り込み、彼らの風俗習慣を研究し、解剖し、良し悪しを区別し、存廃の基準を立て、存続させるにも廃止するにも慎重に実行の方法を選ばなければ、いかなる改革も習慣という岩石に押し潰されるか、あるいは表面を少しの間漂うだけに終わるだろう。

今はもう書斎にこもって書物を掲げ、宗教、法律、文芸、美術……等々を高論する時ではない。たとえこれらを論じようとしても、まず習慣と風俗を知り、かつその暗黒面を直視する勇猛さと毅力がなければならない。なぜなら、見極めなければ改革のしようがないからだ。ただ未来の光明を叫ぶだけでは、怠惰な自分自身と怠惰な聴衆を欺くことにしかならないのである。

第28節

上海では製版が他所よりも便利で、出来もいくらか良いようであるから、日刊紙の日曜付録画報やら、書店の何々月刊画報やら、他所よりも盛んに刊行されている。これらの画報には、一列一列に並んで座るお偉方たちの何々会の開会式や閉会式の記念写真のほかに、必ず「女士」が載っている。

「女士」の御尊顔を、なぜ社会に紹介するのか。その説明を見れば、すぐにわかる。例えば——

「A女士、B女学校の女王、音楽を好む。」

「C女士、D女学校の秀才、ちん犬を飼うのが好き。」

「E女士、F大学中退、G氏の第五令嬢。」

さらに装いを見れば、春はみな流行の衣装で身体にぴったりとした細い袖。夏になるとズボンの裾も袖も取り払い、海辺に座って「海水浴」と称する。暑いのだから当然のことだ。秋になり涼しくなると、折悪しく日本軍がまさに東三省に侵入し、すると画報には白い長衫の看護服や、銃を手にした軍装の女士たちが現れた。

これは読者を喜ばせることができる。なぜなら芝居がかっているからだ。中国は元来芝居好きで、田舎の舞台にはよくこんな対聯が掛かっている。一方は「戯場は小さな天地」、もう一方は「天地は大きな戯場」と。芝居を演じるにあたり、田舎ゆえまだ『乾隆帝江南下り』の類はなく、たいてい『双陽公主の狄青追撃』や『薛仁貴の婿入り』で、その中の女戦士を観客は「女将」と呼ぶ。彼女が雉の尾羽を頭に挿し、双刀(あるいは両端に穂先のある長槍)を手にして登場すれば、観客はいっそう熱心に見る。芝居に過ぎないと知りつつも、いっそう熱心に見入るのだ。

長年訓練を積んだ軍人が、太鼓一つで突如として無抵抗主義者に変わった。すると遠方の文人学士たちは「乞食が敵を斬る」「屠殺人が忠義を成す」「奇女子が国を救う」といった伝奇風の古典を大いに語り、どら一つで意表を突く人物が現れて「国の光栄を増す」ことを夢想する。同時に、画報にもこれら伝奇の挿絵が現れた。ただし剣仙の一条の白光にまでは言及していないから、まだしも現実的と言えよう。

誤解のないよう願いたい。私は「女士」たちを皆、閨房に閉じ込めておけと言っているのではない。勇猛な兵士が甲を脱ぎ、ミスが銃を手にするのは、芝居がかっている、とただそれだけを言っているのだ。

事実がこれを証明する。第一に、日本の「懲膺中国軍」の看護隊の写真を誰も見たことがない。第二に、日本軍に女将はいない。しかし確かにすでに事を起こしている。これは日本人が、事をなすことと芝居をすることとを、決して混同しないからである。

第29節

先ほど述べたその日本人だが、彼らが文章で中国の国民性を論ずる際、その中にしばしば「宣伝に長ける」という一条がある。その説明を見ると、この「宣伝」の二字は通常の「プロパガンダ」とは異なり、「対外的に嘘をつく」という意味のようだ。

この言葉には、確かに多少の根拠がある。例えば、教育費を使い果たしても、なお数校の学堂を開いて体裁を繕う。全国の人々の十中八九は文字を知らぬのに、それでも何人かの博士を招き、西洋人に向かって中国の精神文明を講じさせる。今なお勝手に拷問し、勝手に首を刎ねながら、一方では洋式の「模範監獄」を幾つか何とか維持して、外国人に見せている。さらに、前線から遥か遠くにいる将軍が、大々的に電報を打ち「国のために先駆けとなる」と言い、体操の授業すら嫌がる学生のお坊ちゃんが、わざわざ軍服を着て「この敵を滅ぼしてから朝飯だ」と言う。

ただし、これらにはまだいくらかの実体がある。学堂が数校、博士が数人、模範監獄が数か所、通電が数通、軍服が数着はある。だから「嘘をつく」というのは正しくない。これこそ私のいわゆる「芝居をする」ということだ。

しかし、この普遍的な芝居は、本物の芝居よりもなお質が悪い。本物の芝居はその時だけのこと。役者は芝居が終われば普通の状態に戻る。楊小楼が『単刀赴会』を演じ、梅蘭芳が『黛玉葬花』を演じても、舞台の上にいる時だけ関雲長であり林黛玉であって、舞台を降りれば普通の人に戻る。だから大した弊害はない。もし彼らが一度演じた後、永遠に青龍偃月刀や鋤を提げ、関羽どの、林妹妹を自任して、奇声を上げ唱い続けるなら、それはもう熱に浮かされたと言うほかない。

不幸なことに「天地は大きな戯場」であるがゆえに、普遍的に芝居ができる者は、なかなか舞台を降りる時がない。例えば楊縵華女士が自分の天足で、小国ベルギーの女たちの「中国女性は纏足する」という説を蹴り飛ばし、面子のために権術で窮地を脱したのは、まだ許されよう。しかし、ここで終わりにすべきだった。今、宿に戻って文章に仕立て上げるのは、楽屋に入ってもなお青龍偃月刀を手放さないのと同じだ。しかもその文章を中国の『申報』に送って発表するとなれば、これはもう青龍偃月刀を提げたまま唱いながら自宅へ帰ったようなものだ。著者は中国の女性がかつて纏足をし、今なお纏足をしている者がいることを本当に忘れたのか。それとも中国人は皆すでに自己催眠にかかり、全国の女性がみなハイヒールの革靴を履いていると思い込んでいるとでもいうのか。

これは一つの例に過ぎず、似たような話はいくらでもあるが、おそらく遠からず夜も明けるだろう。

第30節

今、大いに見識があると自負する人々が「人類のための芸術」を唱えている。しかしそのような芸術は、現在の社会には断じて存在しない。見るがよい、「人類のための芸術」を唱えるその人々もまた、すでに人類を正しい者と誤った者、あるいは良い者と悪い者に分け、いわゆる誤った者や悪い者に噛みついているではないか。

だから現在の芸術は、常に一方では蔑視、冷遇、迫害を受け、他方では同情、擁護、支持を得る。

一八芸社もこの例から逃れることはできまい。なぜならそれは、この旧い社会の中にあって、新しく、若く、前進的であるからだ。

中国には近頃、実のところ芸術家と呼べる者はいない。「芸術家」を名乗る者たちの名声は、芸術によるというよりも、その経歴と作品の題名によるものだ——わざと艶めかしく、縹緲として、奇怪に、あるいは雄渾深遠につけて、半ば騙し半ば脅し、何やらただならぬものと思わせる。しかし時代は絶え間なく進行し、今、新しく、若く、無名の作家たちの作品がここに立っている。醒めた意識と堅固な努力をもって、荊棘の中から日に日に成長する健やかな新芽を現したのだ。

もちろん、これはまだごく幼い。しかし、幼いからこそ、希望はまさにこちらの側にある。

私の言葉も、ただこちらの側に向けて述べたものである。以上。

一九三一年五月二十二日。

第31節

今年八月三十一日、『申報』の『自由談』に、「寄萍」の署名で『楊縵華女士の欧州旅行雑感』がまた載っていた。その中の一段が実に面白いので、そのまま書き写す。「……ある日、我々はベルギーの田舎村へ行った。多くの女たちが争って私の足を見に来た。私は足を伸ばして見せてやった。ようやく彼女たちの好奇心を鎮めた。一人の女が言った。『私たちも中国人を見たことがなかった。

でも小さい頃から、中国人には尻尾がある(すなわち辮髪のこと)、みんな妾を持つ、女はみな纏足で、走ると揺れながら歩く、と聞いていた。今になってこの話が正しくないとわかった。どうか我々の思い違いを許してほしい。』また一人、東亜の事情に詳しいつもりの者が、嘲笑を帯びた態度で言った。『中国の軍閥はいかに専横か。到る所で兵匪が騒ぎ、人民は地獄のような暮らしをしている。』こういう似て非なる話をひとしきり並べた。私は『そのような伝聞はまったく根拠がない』と言った。同行の某君も滑稽な言葉で応酬した。『あなた方に建国数千年の大中華民国がわかるものですか。我々の革命が成功した暁には、顕微鏡であなた方のベルギーを覗くことになりますよ。』こうして一笑に付して散会した。」

我らが楊女士はその御足でベルギーの女たちを征服し、国の光栄を増したが、二つの「思い違い」がある。第一に、中国人には確かにかつて尻尾(すなわち辮髪)があり、纏足をし、妾を持ち——今も持っている。第二に、楊女士の足はすべての中国女性の足を代表し得ない。ちょうど留学中の女学生がすべての中国女性を代表し得ないのと同じだ。留学生の大多数は実家が裕福か政府の派遣であり、将来一族や国家の光栄を増すためのものだ。貧しく教育も受けられぬ女性とどうして同日に論じられよう。だから今でも実際には纏足をし、「走ると揺れながら歩く」女性は少なくない。

困苦については多言を要しない。同じ『申報』を見れば、どれほど多くの「和平を訴える」電文、どれほど多くの義捐金募集の広告、どれほど多くの兵変や誘拐の記事が載っているか。外国留学中のお坊ちゃんお嬢さんたちは遠く離れているから知らぬと言えるかもしれぬが、顕微鏡を思いつくなら、望遠鏡を思いつかぬはずがあろうか。いわんや望遠鏡など必要あるまい。同じ『楊縵華女士の欧州旅行雑感』にこうもある——

「……聞くところによれば、大使館や領事館の困窮は今に始まったことではない。ただ近年は毎況愈下の趨勢にある。例えば我が国の国慶日や重大な記念日には、慣例により外賓を招き盛典を催す。国運の隆盛を祝し、

友邦との感情を結ぶためである。以前は大使館・領事館は必ず盛大な宴を設け、貴賓を款待した。ところが昨年は館費が逼迫し、茶会に改めた。現在の趨勢から推すに、将来は茶会すら開けなくなるかもしれない。国際上で最も体面を重んじるのは日本国で、政府の行政費の予算は特に節約しても、駐外大使館・領事館の経費だけは十分に充てる。この一点だけを比べても、我々はすでに見劣りしている。」

大使館と領事館は本国を代表し、楊女士の言う「国運の隆盛を祝す」べきものでありながら、「毎況愈下の趨勢」にあるのだ。孟子曰く「百姓足らずんば、君誰と与にか足らん」——ならば人民がどのような暮らしをしているかは推して知るべしだ。しかし小国ベルギーの女たちは結局のところ素朴で、ついに許しを請うた。もし彼女たちが「建国数千年の大中華民国」の国民にしばしば自欺欺人の不治の病があると本当に知ったなら、それこそ面目丸つぶれであろう。

もしそうなったら、どうするか。思うに、やはり「一笑に付して散会」するほかあるまい。

第32節

この「意訳」が世に出たのは、もうずいぶん前のことで、しかも大文学者や大翻訳理論家は誰も顧みようとしなかった。ただ偶然、私が集めている「意訳模範文大成」の稿本の中でこの一条を見つけたので、もう一度取り上げてみよう。

さてこの一条は、中華民国十九年八月三日の『時報』に出たもので、大見出しの「針で両手を貫く……」という題名の下に、こんな記事を載せている。

「共産党に捕らえられ金で身を贖い長沙より逃れ出でたる中国商人、従者二名と共に、昨日漢口に避難到着。彼等主従はいずれも鮮血淋漓たり。その友人に語りて曰く、長沙には共産党の密偵あり、故に多数の資産階級は二十九日の朝捕らえられたり。予等は二十八日夜捕らわれ、即ち針にて手を貫き、秤にてこれを秤りたりと。言いつつその両手を出し、布を解きてその穿たれし穴を示す。なお鮮血淋漓たり。……(漢口二日電通電)」

これはもちろん「読みやすい」訳だが、少し注意すれば多少疑わしい点が生じるかもしれない。例えば、その一、主人は資産階級だから当然「鮮血淋漓」であろうが、二人の従者はおそらく貧乏人で、なぜ彼らまで同様に「鮮血淋漓」なのか。その二、「針で手を貫き、秤で秤る」とは何のためか。まさか重さで罪名を決めるのか。しかしそうであっても、文章はやはり「読みやすい」。なぜなら世間では元来、共産党の行いは奇妙奇天烈と言われているし、しかも『玉暦鈔伝』を読みさえすれば、十殿閻王のある殿に天秤で罪人を秤る方法があると誰でも知っている。だから「秤で秤る」のもさして不思議ではない。ただ秤る際に秤の鉤ではなく「針」を使うのは、いささか特殊に思えるくらいだ。幸い、私は同日の日本語新聞『上海日報』で電通社の同じ電報を偶然見かけ、ようやく『時報』の訳者が「硬訳」にこだわらず「読みやすさ」を求めたために、いささか「信」を欠いたのだとわかった。

もし「信にして読みにくく」訳すなら、おおよそこうなるはずだ。「……彼等主従は、恐怖と鮮血に染められた体験談を、当地の中国人に語りて曰く、共産軍の中に長沙の事情に精通する者あり、……予等は二十八日の真夜中に捕らえられ、引きずり出される際、手首に穴を穿ち鉄線を通し、数人あるいは数十人を一繋ぎにせり。言いつつ血の滲みたる布に包まれし手をこれに示す……」

これでようやくはっきりする。「鮮血淋漓」なのは「彼等主従」ではなく、彼らの「体験談」であり、二人の従者の手には実際には穴などなかった。手を貫いたものは、日本語では「針金」と書くが、訳す際には「鉄線」でなければならず、「針」ではない。針は裁縫に使うものだ。「秤で秤る」に至っては、影も形もない。

我々の「友邦」の友人たちは、中国の奇怪な事件を宣伝するのが大好きで、とりわけ「共産党」のことを。四年前には「裸体行進」をさも真実のように語り、中国人もそれに続いて何か月も騒いだ。実のところ、警察が鉄線で植民地の革命党員の手を貫き、一繋ぎにして引っ張って行くのは、いわゆる「文明」国民の所業であり、中国人はまだこの方法を知らぬ。鉄線もまた農業社会の産物ではない。唐から宋にかけて迷信のため「妖人」に対し鉄の鎖で鎖骨を貫いて変化を防ぐ方法があったが、久しく用いられず、知る者もほぼいなくなった。文明国の人々は自分たちが用いる文明的な方法を中国に押し付けたが、あいにく中国人はまだそこまで文明化していない。上海の翻訳家すら理解できず、鉄線で貫くことなどせず、ただ閻魔殿の方法に倣って「秤った」だけで事を済ませたのだ。

デマを作る者と、デマの片棒を担ぐ者が、一度にその正体を露わにした。

第33節

張資平氏は「最も進歩的」な「プロレタリア作家」だそうだ。諸君がまだ「萌芽」の段階にあり、まだ「開拓」の最中にいる間に、彼はもう収穫しているのだ。これこそ進歩、飛ぶように駆け出し、とても追いつけない。しかし追跡していくと、彼が駆け込んだのは「楽群書店」の中であった。

張資平氏はかつて三角恋愛小説の作家であり、しかもその中で女の性欲は男よりも堪えがたく、女の方から男を求めに来る——卑しい女め、苦しんで当然だ、と描いていた。これは当然プロレタリア小説ではない。しかし作者がひとたび方向転換すれば、一人得道すれば鶏犬も天に昇る、まして神仙の抜け殻をや、というわけで、『張資平全集』はまだ読むべきものということになる。これが収穫だ、おわかりか。

まだ収穫がある。『申報』の報ずるところによれば、今年の大夏大学の学生たちは「青年に崇拝される張資平先生」をお招きして「小説学」を教わることになった。中国の古い慣例では、英語の先生は必ず外国史も教え、国語の先生は必ず倫理学も教えるのだから、まして小説の先生が小説学を教えるのは当然だ。でなければ書けるはずがない。ホメロスに「叙事詩作法」がなかったと、シェイクスピアに「戯曲学概論」がなかったと、断言できようか。

ああ、これで三角恋愛のいかにと、恋愛のいかにとがわかるであろう。だが最も気の毒なのは上海にいないため、遙かに「崇拝」するだけで門下に列する能わぬ青年たちで、この偉大なる「小説学」を拝聴できない。ここに『張資平全集』と「小説学」の精華を煮詰めて以下に掲げ、遙かにこれら崇拝家に献じ、「梅を望んで渇きを止める」の趣とする。すなわち——二月二十二日。

第34節

中国の古来の慣例では、皇帝が安泰な時と窮地に陥った時に、必ず文人学士と少しばかり親しくする。安泰な時は「武を偃せ文を修める」粉飾であり、窮地に陥った時は彼らに本当に「国を治め天下を平らぐ」大道があると思い込み、もう一度訊いてみようというわけだ。率直に言えば、『紅楼夢』にいうところの「病篤くして乱りに医を求む」である。

「宣統皇帝」が退位に退位を重ね、座っているのにも飽き飽きした頃、我らが胡適之博士はかかる任務を果たしたことがある。謁見の後、不思議なことに、人々はどういうわけかまず互いの呼び方を訊ねた。博士曰く——

「彼は私を先生と呼び、私は彼を皇上と呼んだ。」

あの頃は何ら国家の大計を論じた様子もなく、この「皇上」はその後いくつか打油白話詩を作っただけで、結局は退屈し、しかも金鑾殿から追い出される羽目になった。今度は大きくなるそうで、東三省に行って再び皇帝をやるつもりだという。一方、上海では「蒋、胡適之・丁文江を召見」と報ぜられた。「南京特電:丁文江、胡適、来京して蒋に謁す。この来京は蒋の召しに応じてのもので、大局について御下問あり。……」(十月十四日『申報』。)今度は誰もその呼び方を訊ねない。

なぜか。知れているからだ。今度は「私は彼を主席と呼んだ……」!

安徽大学学長の劉文典教授は「主席」と呼ばなかったがために何日も拘留され、ようやく保釈で出られた。旧い同郷、元の同僚のこと、博士はもちろん知っている。だから「私は彼を主席と呼んだ」!

「御下問」の内容を訊ねる者もいない。

なぜか。これもまた知れているからで、「大局」だという。しかもこの「大局」には「国民党専政」と「英国式自由」の論争の面倒もなく、「知難行易」と「知易行難」の論争の面倒もない。だから博士は出馬したのだ。

「新月派」の羅隆基博士曰く——「根本的に政府を改組し、……全国の各種人材を容れ各種の政見を代表する政府を、……政治的意見は犠牲にできるものであり、犠牲にすべきものである。」(『瀋陽事件』。)

各種の政見を代表する人材で政府を組織し、さらに政治的意見を犠牲にする——かくの如き「政府」は実に神妙の極みである。しかし「知難行易」がまさか「知も難く行もまた易からず」に御下問するとは、一つの前兆とも言えよう。

第35節

中国のプロレタリア革命文学は、今日と明日の狭間に生まれ、誣蔑と圧迫の中で育ち、ついに最も暗い闇の中で、我々の同志の鮮血をもって最初の一篇を書いた。

我々の労苦する大衆は、歴来ただ最も苛烈な圧迫と搾取を受けるのみで、識字教育の施しすら得られず、ただ黙々と屠殺と滅亡を身に受けてきた。繁雑な象形文字は、彼らから独学の機会をも奪った。知識ある青年たちは自らの先駆者としての使命を意識し、まず戦いの叫びを発した。この叫びは、労苦する大衆自身の反逆の叫び声と等しく支配者を恐怖させ、走狗たる文人どもは群れをなして攻撃に転じた。あるいは流言を製造し、あるいはみずから密偵となった。しかしいずれも陰でなし、いずれも匿名であり、ただ自らが暗黒の動物であることを証明したに過ぎない。

支配者もまた、走狗の文人ではプロレタリア革命文学に抗し得ないことを知り、一方では書籍・新聞を禁じ、書店を封鎖し、悪しき出版法を布き、著作家を指名手配し、他方では最後の手段として左翼作家を逮捕・拘禁し、秘密裏に死刑に処した。今に至るも公にされていない。これは一面において彼らが滅亡しつつある暗黒の動物であることを証明し、他面において中国プロレタリア革命文学陣営の力を実証している。なぜなら略伝に列挙されているとおり、我々の遇害した数名の同志の年齢、勇気、とりわけ日頃の作品の成果は、走狗の全群を沈黙させるに十分だからである。しかし我々のこの数名の同志は暗殺された。これは当然プロレタリア革命文学のいくばくかの損失であり、我々の甚大な悲痛である。しかしプロレタリア革命文学はなお成長を続ける。なぜならこれは革命的な広大な労苦大衆に属するものであり、大衆が一日存在すれば一日壮大となり、プロレタリア革命文学もまた一日成長するからだ。我々の同志の血は、プロレタリア革命文学と革命的な労苦大衆が同じ圧迫、同じ殺戮を受け、同じ戦いを戦い、同じ運命を有し、革命的な労苦大衆の文学であることを証明した。

今や軍閥の報告は、六十歳の老婆ですら「邪説」に染まったと言い、租界の巡査は小学生の児童に対してすら時に検査を加える。彼らは帝国主義から得た銃砲と数匹の走狗のほかには、もはや何も持っていない。持っているのはただ老幼——青年は言うまでもなく——の敵ばかりだ。そして彼らのこれらの敵は、すべて我々の側にいる。

我々は今、十分の哀悼と銘記をもって、我々の戦死者を追悼する。すなわち中国プロレタリア革命文学の歴史の第一頁が同志の鮮血によって記録されたことを胸に刻み、永遠に敵の卑劣なる凶暴を示し、我々の絶えざる闘争を啓示するものとするのである。

第36節

十六世紀の末、スペインの文人セルバンテスが一大長編小説を著し、『ドン・キホーテ』と名づけた。この吉先生、武侠小説を読み耽って頭がおかしくなり、どうしても古代の遊侠に倣おうとして、ぼろぼろの鎧を着、痩せ馬に騎り、従者一人を連れ、あちこち遍歴して妖怪を斬り悪を退け弱きを助けようとした。ところが当時はもはやそのような古風な時代ではなく、多くの笑い話を演じ、多くの辛酸を嘗め、ついに大きな罠にかかり重傷を負い、狼狽して帰宅し、家で死んだ。臨終にようやく自分がただの凡人に過ぎず、何ら大侠客などではないと悟った。

この一つの典故は、昨年中国で盛んに引用された。この諡号を奉られた名士は、いささか不愉快な様子であったようだ。実のところ、この種の書物に溺れた痴者はスペインの痴者であり、もとより「中庸」を好んで説く中国には存在し得ない。スペイン人は恋をすれば毎日女の窓の下で歌い、旧教を信ずれば異端を焼き殺し、革命すれば教会を叩き壊し皇帝を追い出す。しかし我々中国の文人学子は、女の方から誘ったと常に言い、諸教は同源だと言い、廟の財産を保全し、宣統は革命の後もなお何年も宮中で皇帝を続けることを許されたではないか。

以前、新聞で数軒の店の小僧が剣侠小説に夢中になり、突然武当山へ道を学びに行こうとした事件が報じられたことを覚えている。これはなかなか「ドン・キホーテ」に似ている。しかしその後、後日談はまったく見えず、多くの奇跡を演じたのか、それともほどなく家に帰ったのかもわからない。「中庸」の慣例から推察すれば、おそらく帰宅したのが穏当であろう。

この後に現れた中国式「ドン・キホーテ」は「青年援馬団」である。兵でもないのに戦場へ行こうとし、政府が国際連盟に訴えようとしているのに自分で手を下そうとし、政府が行くなと言うのに行こうとし、中国には今やいくらか鉄道があるのに一歩一歩歩いて行こうとし、北方は寒いのに袷の上着だけで、戦闘において兵器が最も肝要なのに精神ばかりを重んずる。これら一切は、確かにまことに「ドン・キホーテ」的である。しかしやはり中国の「ドン・キホーテ」なのだ。彼は一人だが、彼らは一団。彼を送るのは嘲笑だが、彼らを送るのは歓呼。彼を迎えるのは驚きだが、彼らを迎えるのもまた歓呼。彼は深山に駐屯したが、彼らは真茹鎮に駐屯する。彼は風車小屋で風車と戦ったが、彼らは常州で櫛を弄び、さらに美女に出会う。何たる幸運か(十二月『申報・自由談』参照)。その苦楽の相違はかくのごとし。ああ!

たしかに、古今東西の小説は多過ぎる。その中に「棺を輿に載せる」があり、「指を切る」があり、「秦の宮廷に哭す」があり、「天に向かって誓う」がある。耳目に染み、棺を担ぎ、指を斬り、孫陵に哭し、出征の宣誓をすることもなくはない。しかし五四運動の時、胡適之博士が文学革命を説いた際には、すでに「古典を用いるな」と言っていた。今や行動においても、なおさら用いずに済ませるべきであろう。

二十世紀の戦争を描いた小説を見れば、古いものではレマルクの『西部戦線異状なし』、ルンの『戦争』、新しいものではセラフィモーヴィチの『鉄の流れ』、ファジェーエフの『壊滅』がある。いずれの中にもこのような「青年団」は登場しない。だから彼らは実際に戦ったのだ。

第37節

昨年以来一年半の間、我々に対するいわゆる批評の文章の中で、最も息苦しく、かつ滑稽に感じたのは、常燕生氏が『長夜』という月刊に公正な顔つきで臨み、私の作品には少なくとも十年の生命があると述べたことだ。数年前、『狂飆』の廃刊時、同じ常燕生氏が文章を発表し、大意は、『狂飆』は魯迅を攻撃したが今や書店が出版を拒んだ、あるいは(!)魯迅が書店の主人に工作して迫害したのではないかと述べ、続いて北洋軍閥の度量の寛大さを大いに讃えた。私には多少記憶力があるので、今回の公正な顔にもなお、あの鍛錬された文章がうっすらと刺青のように透けて見える。同時に陳源教授の批評法をも思い出す——まずいくつかの美点を挙げて公平を示し、しかる後に数々の大罪状を並べる——公平な衡量から得られた大罪状を。功罪を相殺し帰するところは結局「学匪」であり、首を刎ねて「正人君子」の旗の下に晒すべしという。だから私の経験では、毀謗は無害かもしれぬが、賞賛こそ恐るべきもので、時には極めて「汲々として殆うし」なのだ。まして常燕生氏は全身に五色旗の匂いを纏っており、たとえ本心から私の作品の不朽を認めたとしても、それは宣統皇帝が突然龍心大悦し、死後に「文忠」の諡号を欽許するようなものだ。満腹の憤懣の中の滑稽に加えて、なおただ恐惶恐懼し、特に帽子を脱いで一礼し、「恐れ多くも辞退申し上げる」ほかなかった。

しかし同じ『長夜』の別の号に、劉大傑氏の文章があった——これらの文章は『中国の文芸論戦』には未収録のようだが——私はこれを感謝しつつ読了した。これはおそらく著者自身が述べるとおり、私とは面識もなく私的な恩怨も介在しないからであろう。しかし私に最も有益と感じられたのは、著者が私のために策を設け、この四面楚歌の中では筆を措いてしばらく洋行すべしと勧め、かつ忠告して曰く、一人の生活史に白紙が数枚あっても何ら差し支えないと。たった一人の生活史に白紙が数枚あろうと、全巻が白紙であろうと、あるいはいっそ全巻が黒紙に塗りつぶされようと、地球は決してそのために爆発しない、ということは私もとうに知っていた。今回思いがけず得た益は、三十年来いくらか悟りつつもなお簡明な要領を述べ得なかった古文の書き方と善人の振る舞い方が、これによってはたと手綱を掴んだかのように明瞭になったことだ。

その口訣は——古文を書き善人たらんとするなら、一通り書いた後なお白紙同然でなければならぬ。

昔、我々に作文を教えた先生は、何ら『馬氏文通』や『文章作法』の類を伝授せず、一日中ただ読んでは書き、読んでは書かせた。出来が悪ければまた読ませ、また書かせる。しかし悪い所がどこかは決して言わず、文章はどう書くべきかも言わない。暗い路地を手探りで進ませ、通り抜けられるか否かは天命に任せた。しかし偶然のうちに——本当に「偶然のうちに」しかも「なぜだかわからぬまま」に——答案の文章が添削される箇所が少なくなり、残される箇所、さらには圏点を付けられる箇所が多くなった。すると学生は大喜びし、このとおり——本当に自分でも訳がわからぬが、ただ「このとおり」——書き続け、年月を経て先生はもう文章を削除修正しなくなり、篇末に「書あり筆あり、蔓延せず枝分かれせず」などと批評するだけになる。この段階に至れば「通」と見なしてよい。——もちろん高等批評家の梁実秋氏に言わせれば不通かもしれぬが、私は世俗一般について言っているので、姑く俗に従う。

この類の文章は、立意はもちろん明晰でなければならぬが、どのような意見であるかは二の次だ。例えば「工その事を善くせんと欲せば、必ずまずその器を利くす」という題で論じるとして、正面から「器利からずんば工事善からず」と述べてもよく、逆に「工は技を先とす、技純ならずんば器利くとも事また善からず」と述べてもよい。皇帝に関することですら、「天皇聖明、臣の罪誅に当たる」と言ってもよく、皇帝が悪ければ一刀のもとに斬っても構わない。なぜなら我らが孟夫子がすでに言っている——「独夫紂を誅せりとは聞けるも、君を弒せりとは聞かず」と。今、聖人の徒たる我々もまさにこの趣旨だ。しかし要するに、最初から最後まで一層一層論じ、明明白白にしなければならぬ。天皇聖明なのか、一刀のもとに斬るのか、あるいはどちらにも賛成しないなら、末尾に「窮淫虐の威を極むるも、究に君臣の分あり、君子は已甚だしきをなさず、竊かに以為らく四裔に放逐すれば可なり」と声明すればよい。この書き方なら、先生も必ずしも不可とはすまい。「中庸」もまた我らが古の聖賢の教えなのだから。

ただし以上は清末の話で、もし清初であれば、誰かが密告でもしようものなら「滅族」にされかねず、「四裔に放逐」の主張すら通らぬ。その時彼らは孟子も孔子も持ち出しはしない。今、革命が成功したばかりの情勢は、おおよそ清朝開国の初期に似ている。(未完)

これは「夜記」之五の半篇である。「夜記」なるものは、一九二七年に始めた、折にふれての感想を灯下に記し一集として残そうとしたもので、その年に二篇を発表した。上海に到り、屠殺の凄惨に感じて更に一篇半を書き、「虐殺」と題した。まず日本の幕府のキリシタン磔刑、ロシア皇帝の革命党員に対する酷い仕打ちなどを述べたが、まもなく人道主義を大罵する風潮にぶつかり、これに便乗して怠けて書くのをやめ、今では原稿も見当たらない。

一昨年のこと、柔石がある書店で雑誌の編集をすることになり、私に気楽に読めてあまり頭の痛くならぬ文章を書いてくれと頼みに来た。その夜、私はまた「夜記」を書こうと思い、この題目を立てた。大意は、中国では作文も処世も古来の先例が必要で、しかし丸ごと書き写してはならず、あちこちからつぎはぎして縫い目が見えぬようにする、これぞ至上の吉とされる。だから一通り書いてもなお何も書かなかったに等しく、批評家はこれを好文章あるいは善人と呼ぶ。社会の一切が少しも進歩しない病根はここにある。その夜は書き終えず、寝てしまった。翌日柔石が訪ねて来、書いたものを見せると、彼は眉をひそめ、いささか冗長で誌面を取り過ぎると恐れた。そこで私は別に短い翻訳をしようと約束し、これを措いた。

今、柔石が遇害してから一年余りが過ぎ、偶然散乱した紙の中からこの原稿を見つけ、まことに悲痛に堪えない。全文を補完しようとしたが、ついに果たせず、筆を執ろうとすればたちまち別のことに思いが飛んでしまう。いわゆる「人琴ともに亡ぶ」とは、おおよそこのようなことであろう。今はただこの半篇をここに附録し、柔石の記念とする。

一九三二年四月二十六日の夜、記す。

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