Lu Xun Complete Works/zh-ja/Qiejieting zawen 2
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且介亭杂文二集 / 且介亭雑文二集
魯迅 (鲁迅, ルーシュン, 1881-1936)
中日対照翻訳。
第1節
| 中文 | 日本語 |
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昨天編完了去年的文字,取發表於日報的短論以外者,謂之《且介亭雜文》;今天再來編今年的,因為除做了幾篇《文學論壇》,沒有多寫短文,便都收錄在這裡面,算是《二集》。 |
昨日、昨年の文章の編集を終え、日刊紙に発表した短い時評以外のものを集めて『且介亭雑文』と名づけた。今日さらに今年のものを編む。いくつかの「文学論壇」のほかにはあまり短文を書かなかったので、すべてここに収録し、『二集』とする。 |
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過年本來沒有什麼深意義,隨便那天都好,明年的元旦,決不會和今年的除夕就不同,不過給人事借此時時算有一個段落,結束一點事情,倒也便利的。倘不是想到了已經年終,我的兩年以來的雜文,也許還不會集成這一本。 |
年を越すことに本来深い意味はなく、どの日でもよいのであって、来年の元旦は今年の大晦日と別段変わりはしない。ただ人事にこの折々の区切りを借りて、いくらかの事を片づけるには便利である。年の暮れであることに気づかなければ、この二年来の雑文もまだ一冊にまとまらなかったかもしれない。 |
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編完以後,也沒有什麼大感想。要感的感過了,要寫的也寫過了,例如「以華制華」之說罷,我在前年的《自由談》上發表時,曾大受傅公紅蓼之流的攻擊,今年才又有人提出來,卻是風平浪靜。一定要到得「不幸而吾言中」,這才大家默默無言,然而為時已晚,是彼此都大可悲哀的。我寧可如邵洵美輩的《人言》之所說:「意氣多於議論,捏造多於實證。」 |
編み終えてみても、格別大きな感慨はない。感じるべきことは感じた。書くべきことも書いた。例えば「華をもって華を制す」の説を、一昨年の『自由談』に発表した際には、傅公紅蓼の類から猛攻を受けたが、今年になってまた誰かが持ち出したところ、波風は立たなかった。「不幸にしてわが言当たる」に至ってようやく皆が黙りこくるが、時すでに遅く、これは双方ともに大いに悲しむべきことだ。私はむしろ邵洵美の輩の『人言』に言わせておこう——「議論より意気が多く、実証より捏造が多い」と。 |
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我有時決不想在言論界求得勝利,因為我的言論有時是梟鳴,報告著大不吉利事,我的言中,是大家會有不幸的。在今年,為了內心的冷靜和外力的迫壓,我幾乎不談國事了,偶爾觸著的幾篇,如《甚麼是諷刺》,如《從幫忙到扯淡》,也無一不被禁止。別的作者的遭遇,大約也是如此的罷,而天下太平,直到華北自治,才見有新聞記者懇求保護正當的輿論。我的不正當的輿論,卻如國土一樣,仍在日即於淪亡,但是我不想求保護,因為這代價,實在是太大了。 |
私は時に言論界で勝利を求めようとは思わない。なぜなら私の言論は時に梟の鳴き声であり、大いに不吉な事を告げるものだからだ。私の言が当たれば、皆に不幸が訪れる。今年は、内なる冷静と外からの圧迫のため、私は国事をほとんど語らなくなった。たまに触れた数篇、例えば『諷刺とは何か』、『お手伝いからでたらめへ』も、一つとして禁止されなかったものはない。他の著者の遭遇もおそらく同様であろう。そして天下太平、華北自治に至ってようやく新聞記者が正当な輿論の保護を懇願するのが見えた。私の不当な輿論は、国土と同じく、日々喪失に向かっているが、しかし私は保護を求めようとは思わない。その代価があまりに大きいからだ。 |
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單將這些文字,過而存之,聊作今年筆墨的記念罷。 |
ただこれらの文字を、過ぎたるものとして保存し、今年の筆墨の記念としよう。 |
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一九三五年十二月三十一日,魯迅記於上海之且介亭。 |
一九三五年十二月三十一日、魯迅、上海の且介亭にて記す。 |
第2節
| 中文 | 日本語 |
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作者寫出創作來,對於其中的事情,雖然不必親歷過,最好是經歷過。詰難者問:那麼,寫殺人最好是自己殺過人,寫妓女還得去賣淫麼?答曰:不然。我所謂經歷,是所遇,所見,所聞,並不一定是所作,但所作自然也可以包含在裡面。天才們無論怎樣說大話,歸根結蒂,還是不能憑空創造。描神畫鬼,毫無對證,本可以專靠了神思,所謂「天馬行空」似的揮寫了,然而他們寫出來的,也不過是三隻眼,長頸子,就是在常見的人體上,增加了眼睛一隻,增長了頸子二三尺而已。這算什麼本領,這算什麼創造? |
作者が創作を書くにあたり、その中の事柄を必ずしも自ら体験していなくてもよいが、経験していることが望ましい。反論する者が問う——では殺人を書くには自ら人を殺し、妓女を書くには身を売らねばならぬのかと。答えて曰く——然らず。私のいう経験とは、遭遇し、見聞きしたことであり、必ずしも自ら行ったことではない。ただし自ら行ったことも当然その中に含まれ得る。天才がどんなに大言壮語しようと、結局のところ無から創造することはできない。神を描き鬼を画くのは、検証のしようもなく、もっぱら想像力に頼って、いわゆる「天馬空を行く」がごとく揮毫できそうなものだが、しかし彼らが描き出すものは、三つ目であったり首が長かったりと、見慣れた人体に目を一つ増やし、首を二、三尺伸ばしたに過ぎない。これが何の本領か。何の創造か。 |
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地球上不只一個世界,實際上的不同,比人們空想中的陰陽兩界還利害。這一世界中人,會輕蔑,憎惡,壓迫,恐怖,殺戮別一世界中人,然而他不知道,因此他也寫不出,於是他自稱「第三種人」,他「為藝術而藝術」,他即使寫了出來,也不過是三隻眼,長頸子而已。「再亮些」?不要騙人罷!你們的眼睛在那裡呢? |
この地球上には一つの世界だけがあるのではなく、実際の違いは、人々が空想する陰陽両界よりもなお激しい。この世界の人間は、別の世界の人間を軽蔑し、憎悪し、圧迫し、恐怖し、殺戮する。しかし彼はそれを知らず、それゆえ書くこともできない。そこで彼は「第三種の人」を自称し、「芸術のための芸術」を唱える。たとえ何か書いたところで、やはり三つ目の長首に過ぎない。「もっと明るく」だと?人を騙すのはやめよ。諸君の目はどこにあるのか。 |
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偉大的文學是永久的,許多學者們這麼說。對啦,也許是永久的罷。但我自己,卻與其看薄凱契阿,雨果的書,寧可看契訶夫,高爾基的書,因為它更新,和我們的世界更接近。中國確也還盛行著《三國志演義》和《水滸傳》,但這是為了社會還有三國氣和水滸氣的緣故。《儒林外史》作者的手段何嘗在羅貫中下,然而留學生漫天塞地以來,這部書就好像不永久,也不偉大了。偉大也要有人懂。 |
偉大な文学は永久である、と多くの学者がそう言う。なるほど、永久かもしれぬ。しかし私自身は、ボッカチオやユゴーの書を読むよりも、むしろチェーホフやゴーリキーの書を読みたい。より新しく、我々の世界により近いからだ。中国でもなるほど『三国志演義』と『水滸伝』はなお盛んに読まれているが、それは社会にまだ三国の気風と水滸の気風があるからだ。『儒林外史』の作者の手腕は羅貫中に劣るものではないが、留学生が天地を覆い尽くすようになって以来、この書はもはや永久でも偉大でもなくなったかのようだ。偉大であっても、理解する者がいなければ。 |
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這裡的六個短篇,都是太平世界的奇聞,而現在卻是極平常的事情。因為極平常,所以和我們更密切,更有大關係。作者還是一個青年,但他的經歷,卻抵得太平天下的順民的一世紀的經歷,在轉輾的生活中,要他「為藝術而藝術」,是辦不到的。但我們有人懂得這樣的藝術,一點用不著誰來發愁。 |
ここに収めた六つの短篇は、いずれも太平な世の珍聞であるが、今は極めて平凡な出来事である。極めて平凡であるがゆえに、我々とより密接で、より大きな関係がある。作者はまだ青年だが、その経歴は太平天下の順民の一世紀分に匹敵する。転々とする生活の中で、彼に「芸術のための芸術」を求めるのは無理な話だ。しかし我々にはこのような芸術を理解する者がおり、誰に心配してもらう必要もない。 |
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這就是偉大的文學麼?不是的,我們自己並沒有這麼說。「中國為什麼沒有偉大文學產生?」我們聽過許多指導者的教訓了,但可惜他們獨獨忘卻了一方面的對於作者和作品的摧殘。「第三種人」教訓過我們,希臘神話裡說什麼惡鬼有一張床,捉了人去,給睡在這床上,短了,就拉長他,太長,便把他截短。左翼批評就是這樣的床,弄得他們寫不出東西來了。現在這張床真的擺出來了,不料卻只有「第三種人」睡得不長不短,剛剛合式。仰面唾天,掉在自己的眼睛裡,天下真會有這等事。 |
これが偉大な文学かと。いや、我々自身はそんなことを言っていない。「中国にはなぜ偉大な文学が生まれないのか」——我々は多くの指導者の教訓を聞いてきたが、惜しいことに彼らはただ一つ、作者と作品に対する摧残のことだけを忘れている。「第三種の人」は我々に教訓を垂れた。ギリシア神話にある悪鬼は一台の寝台を持ち、人を捕らえてその寝台に寝かせ、短ければ引き伸ばし、長過ぎれば切り詰める。左翼の批評がまさにこの寝台であり、彼らに書けなくさせたのだと。今やこの寝台が本当に据えられたが、意外なことに「第三種の人」だけが長くも短くもなくぴったり合う。天に向かって唾を吐けば、自分の目に落ちる。天下にまさかこんなことがあろうとは。 |
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但我們卻有作家寫得出東西來,作品在摧殘中也更加堅實。不但為一大群中國青年讀者所支持,當《電網外》在《文學新地》上以《王伯伯》的題目發表後,就得到世界的讀者了。這就是作者已經盡了當前的任務,也是對於壓迫者的答覆:文學是戰鬥的! |
しかし我々には書ける作家がおり、作品は摧残の中でいっそう堅実となっている。中国の一群の青年読者に支持されるのみならず、『電網外』が『文学新地』に「王伯伯」の題名で発表された後には、世界の読者を得た。これこそ作者が当面の任務を果たした証であり、圧迫者への答えでもある——文学は戦いである! |
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我希望將來還有看見作者的更多,更好的作品的時候。一九三五年一月十六日,魯迅記於上海。 |
将来、作者のより多くの、より良い作品を見る日があることを願う。一九三五年一月十六日、魯迅、上海にて記す。 |
第3節
| 中文 | 日本語 |
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了一切古今人,只留下自己的沒意思。要是古今中外真的有過這等事,這才叫作希奇,但實際上並沒有,將來大約也不會有。豈但一切古今人,連一個人也沒有罵倒過。凡是倒掉的,決不是因為罵,卻只為揭穿了假面。揭穿假面,就是指出了實際來,這不能混謂之罵。 |
古今のすべての人を罵り倒して自分だけ残すなど、つまらぬことだ。もし古今東西にまさしくそのようなことがあったなら、それこそ不思議と呼ぶべきだが、実際にはなく、将来もおそらくないだろう。古今のすべての人はおろか、一人すら罵り倒したことはない。凡そ倒れた者は、決して罵られたから倒れたのではなく、ただ仮面を剥がされたからだ。仮面を剥がすとは、実際を指し示すことであり、これを罵りと混同してはならない。 |
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然而世間往往混為一談。就以現在最流行的袁中郎為例罷,既然肩出來當作招牌,看客就不免議論這招牌,怎樣撕破了衣裳,怎樣畫歪了臉孔。這其實和中郎本身是無關的,所指的是他的自以為徒子徒孫們的手筆。然而徒子徒孫們就以為罵了他的中郎爺,憤慨和狼狽之狀可掬,覺得現在的世界是比五四時代更狂妄了。但是,現在的袁中郎臉孔究竟畫得怎樣呢?時代很近,文證具存,除了變成一個小品文的老師,「方巾氣」的死敵而外,還有些什麼?和袁中郎同時活在中國的,無錫有一個顧憲成,他的著作,開口「聖人」,閉口「吾儒」,真是滿紙「方巾氣」。而且疾惡如仇,對小人決不假借。他說:「吾聞之:凡論人,當觀其趨向之大體。趨向苟正,即小節出入,不失為君子;趨向苟差,即小節可觀,終歸於小人。又聞:為國家者,莫要于扶陽抑陰,君子即不幸有詿誤,當保護愛惜成就之;小人即小過乎,當早排絕,無令為後患。……」(《自反錄》)推而廣之,也就是倘要論袁中郎,當看他趨向之大體,趨向苟正,不妨恕其偶講空話,作小品文,因為他還有更重要的一方面在。正如李白會做詩,就可以不責其喝酒,如果只會喝酒,便以半個李白,或李白的徒子徒孫自命,那可是應該趕緊將他「排絕」的。 |
しかし世間はしばしば混同する。今最も流行している袁中郎を例にとろう。担ぎ出されて看板にされた以上、見物人がその看板を論じるのは免れ難い——衣を破いたとか、顔を歪めて描いたとか。これは実のところ中郎その人とは無関係で、指しているのは中郎の弟子・孫弟子を自任する者たちの手になるものだ。ところが弟子・孫弟子たちは中郎御大を罵ったと受け取り、憤慨と狼狽のさまは微笑ましいほどで、今の世は五四時代よりもなお狂妄だと感じているらしい。しかし現在の袁中郎の顔は果たしてどのように描かれているか。時代は近く、文献は現存する。小品文の祖師にして「方巾気」の宿敵に変えられたほかに、何があるというのか。 袁中郎と同時代に中国に生きた者に、無錫の顧憲成がいる。その著作は、口を開けば「聖人」、口を閉じれば「吾が儒」、まさに満紙の「方巾気」である。しかも悪を憎むこと仇のごとく、小人には決して仮借しない。彼は言う——「吾聞く、凡そ人を論ずるにはその趨向の大体を観るべし。趨向もし正しければ、小節に出入りありとも君子たるを失わず。趨向もし差えば、小節観るべきものありとも、終に小人に帰す。また聞く、国を為むる者は、陽を扶け陰を抑うるより要なるはなし。君子即ち不幸にして詿誤あるも、保護愛惜して之を成就すべし。小人即ち小過なりとも、早くに排絶して後患たらしむる無かれ。……」(『自反録』)これを推し広げれば、袁中郎を論ずるにもその趨向の大体を見るべきで、趨向もし正しければ、たまに空言を弄し小品文を書くことも許してよい。なぜなら彼にはより重要な一面があるからだ。ちょうど李白が詩を能くすればその飲酒を咎めずともよいように。もしただ酒を飲むだけで、半分の李白あるいは李白の弟子・孫弟子を自認するなら、速やかに「排絶」すべきである。 中郎にはより重要な一面があるのか。ある。万暦三十七年、顧憲成が官を辞した時、中郎は「陝西の郷試を主り、策を出だすに『巣由に過劣す』の語あり。監臨者問うて『意は云何』と。袁曰く『今、呉中の大賢も出でず、世道をして何に倚頼せしめんとするか、故にこの感を発するのみ』と。」(『顧端文公年譜』下)中郎はまさに世道を憂い、「方巾気」の人物を敬服した人であり、『金瓶梅』を賞賛し小品文を書いたのは、彼の全部ではない。 中郎が罵り倒され得ないのは、彼が歪めて描かれ得ないのと同じだ。しかしそれゆえにこそ、彼の蛀虫どもの永久の巣穴となることもできないのである。 |
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中郎還有更重要的一方面麼?有的。萬曆三十七年,顧憲成辭官,時中郎「主陝西鄉試,發策,有『過劣巢由』之語。監臨者問『意云何?』袁曰:『今吳中大賢亦不出,將令世道何所倚賴,故發此感爾。』」(《顧端文公年譜》下)中郎正是一個關心世道,佩服「方巾氣」人物的人,贊《金瓶梅》,作小品文,並不是他的全部。 |
一月二十六日。 |
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中郎之不能被罵倒,正如他之不能被畫歪。但因此也就不能作他的蛀蟲們的永久的巢穴了。 |
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一月二十六日。 |
第4節
| 中文 | 日本語 |
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把大部的叢書印給讀者看,是宋朝就有的,一直到現在。缺點是因為部頭大,所以價錢貴。好處是把研究一種學問的書彙集在一處,能比一部一部的自去尋求更省力;或者保存單本小種的著作在裡面,使它不易於滅亡。但這第二種好處,是也靠著部頭大,價錢貴,人們就因此格外珍重的缺點的。 |
大部の叢書を読者に印刷して見せるということは、宋代からすでにあり、今日まで続いている。欠点は、部数が多いため値段が高いことである。利点は、ある学問を研究するための書物を一箇所に集め、一冊一冊自分で探すより手間が省けること、あるいは単本の小さな著作をその中に保存し、容易に滅びないようにすることである。だがこの第二の利点は、やはり部数が多く値段が高いため、人々がそれゆえ格別に大切にするという欠点に依存しているのだ。 |
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但叢書也有蠹蟲。從明末到清初,就時有欺人的叢書出現。那方法之一,是刪削內容,輕減刻費,而目錄卻有一大串,使購買者只覺其種類之多;之二,是不用原題,別立名目,甚至另題撰人,使購買者只覺其收羅之廣。如《格致叢書》,《歷代小史》,《五朝小說》,《唐人說薈》等,就都是的。現在是大抵消滅了,只有末一種化名為《唐代叢書》,有時還在流毒。 |
しかし叢書にも蠹虫がいる。明末から清初にかけて、人を欺く叢書がしばしば現れた。その方法の一つは、内容を削って刻費を軽減しながら、目録だけは長々と並べ、購入者にはその種類の多さだけを感じさせること。二つ目は、原題を用いず別の名目を立て、さらには著者名まで変えて、購入者にはその収録範囲の広さだけを感じさせること。『格致叢書』『歴代小史』『五朝小説』『唐人説薈』などがまさにそれである。今ではおおかた消滅したが、最後の一種だけは『唐代叢書』と改名して、今なお流毒を残すことがある。 |
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然而時代改變,新花樣也要跟著出來了。 |
しかし時代は変わり、新しい手口もまた現れねばならない。 |
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推測起新花樣來:其一,是豫先設定一種叢書的大名,羅列目錄,大如宇宙,微至蒼蠅身上的細菌,無所不包,這才分頭覓人,托他譯作,限定時日,必須完工,雖然譯作者未必定是專家,但總之有許多手同時在稿紙上寫字,於是不必窮年累月,一大部煌煌巨制也就出現了;其二,是原有一批零碎的舊譯作,一向不甚流行,或者雖曾流行,而現在卻已經過了時候,於是聚在一起,略加類別,開成一串五花八門的目錄,而一大部煌煌巨制也就出現了。 |
新しい手口を推測すれば――その一、あらかじめ叢書の大層な名前を決め、目録を羅列し、宇宙ほど大きく蝿の体の細菌ほど微小なものまで何もかも含み、それから各方面に人を求め、翻訳や著述を依頼し、期日を限って必ず完成させる。翻訳者や著者が必ずしも専門家とは限らないが、とにかく多くの手が同時に原稿用紙に字を書くので、年月を費やさずとも煌々たる大著が出現する。その二、もともとばらばらの古い翻訳作品があり、かつてあまり流行しなかったか、あるいは流行したことはあっても今ではすでに時代遅れになっているものを一箇所に集め、大まかに分類して、五花八門の目録を並べると、やはり煌々たる大著が出現するのである。 |
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出版者是明白讀者們的心想的,有些讀者們,苦於不知道什麼是必要的書,所以往往以為被選進叢書裡的,總該是必要的書籍;而且叢書裡的一本,價錢也比單行本便宜,所以看起來好像很上算;加以大小一律,也很合人們愛好整齊的心情。本數又多,一下子可以填滿幾書架,規模不大的圖書館有這幾部,館員就省下時常留心選購新書的精神了。然而出版者是又很明白購買者們的經濟狀況的,他深知道現在他們手頭已沒有這許多錢,所以這些書一定是廉價,使他們拚命的辦出來,或者是分期豫約,使他們逐漸的繳進去。 |
出版者は読者の心理をよくわかっている。ある読者たちは、何が必要な書物かわからず苦しんでいるから、叢書に選ばれたものはきっと必要な書籍だと思いがちである。しかも叢書の中の一冊は単行本より安いので、お得に見える。大きさも揃っていて、整然としたものを好む人の気持ちにも合う。冊数も多く、一度に何棚も埋められるから、規模の小さな図書館がこれらを数セット持てば、館員は絶えず新刊を選んで購入する手間が省ける。しかし出版者は購買者の経済状況もまたよく心得ていて、今や彼らの手元にそれほどの金がないことを熟知しているから、これらの書物は必ず廉価にして、彼らに懸命に買わせるか、あるいは分割予約にして、少しずつ支払わせるのだ。 |
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彙印新作,當然是很好的,但新作必須是精粹的本子,這才可以救讀者們的智識的饑荒。就是重印舊作,也並不算壞,不過這舊作必須已是一種帶著文獻性的本子,這才足供讀者們的研究。如果僅僅是克日速成的草稿,或是棧房角落的存書,改換新裝,招搖過市,但以「大」或「多」或「廉」誘人,使讀者化去不少的錢,實際上卻不過得到一大堆廢物,這惡影響之在讀書界是很不小的。 |
新作を集めて印刷することは、もちろん大変よいことだが、新作は精選されたものでなければならない。そうしてこそ読者の知識の飢えを救うことができる。旧作の重刊も悪いことではないが、その旧作はすでに文献的価値を帯びたものでなければならない。そうしてこそ読者の研究に資するのだ。もし単に急ぎ仕上げた草稿や、倉庫の隅の在庫品に新装を施して世に出し、ただ「大」「多」「廉」で人を誘い、読者に少なからぬ金を使わせながら、実際には一山の廃物を得るだけに過ぎないならば、その読書界に対する悪影響は決して小さくないのである。 |
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凡留心於文化的前進的人,對於這些書應該加以檢討!二月十五日。 |
文化の前進に心を寄せるすべての者は、これらの書物を検討すべきである! 二月十五日。 |
第5節
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孩子們吵架,有一個用木炭——上海是大抵用鉛筆了——在牆壁上寫道:「小三子可乎之及及也,同同三千三百刀!」這和政治之類是毫不相干的,然而不能算小品文。畫也一樣,住家的恨路人到對門來小解,就在牆上畫一個烏龜,題幾句話,也不能叫它作「漫畫」。為什麼呢?就因為這和被畫者的形體或精神,是絕無關係的。 |
子供たちが喧嘩をして、一人が木炭で――上海ではたいてい鉛筆だが――壁に「小三子可乎之及及也、同同三千三百刀!」と書く。これは政治のたぐいとはまるで関係ないが、しかし小品文とは言えない。絵も同じで、家の者が通行人が向かいで立小便するのを憎んで、壁に亀を描いて何句か書きつけても、「漫画」と呼ぶことはできない。なぜか? それは描かれた者の姿形や精神とまるで無関係だからだ。 |
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漫畫的第一件緊要事是誠實,要確切的顯示了事件或人物的姿態,也就是精神。 |
漫画の第一に肝要なことは誠実であること、事件や人物の姿態を、つまりその精神を、正確に示すことである。 |
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漫畫是Karikatur的譯名,那「漫」,並不是中國舊日的文人學士之所謂「漫題」「漫書」的「漫」。當然也可以不假思索,一揮而就的,但因為發芽於誠實的心,所以那結果也不會僅是嬉皮笑臉。這一種畫,在中國的過去的繪畫裡很少見,《百醜圖》或《三十六聲粉鐸圖》庶幾近之,可惜的是不過戲文裡的醜腳的摹寫;羅兩峰的《鬼趣圖》,當不得已時,或者也就算進去罷,但它又太離開了人間。 |
漫画はKarikaturの訳語であり、その「漫」は中国の昔の文人学士のいわゆる「漫題」「漫書」の「漫」ではない。もちろん何も考えず一気に描き上げることもできるが、誠実な心から芽生えたものだから、その結果はただのおちゃらけにはならない。この種の絵は、中国の過去の絵画にはほとんど見られない。『百醜図』や『三十六声粉鐸図』がやや近いが、惜しいことに芝居の道化役の写しに過ぎず、羅両峰の『鬼趣図』は、やむを得ぬ時にはこれも数えてよかろうが、人間界から離れすぎている。 |
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漫畫要使人一目了然,所以那最普通的方法是「誇張」,但又不是胡鬧。無緣無故的將所攻擊或暴露的對象畫作一頭驢,恰如拍馬家將所拍的對象做成一個神一樣,是毫沒有效果的,假如那對象其實並無驢氣息或神氣息。然而如果真有些驢氣息,那就糟了,從此之後,越看想像,比讀一本做得很厚的傳記還明白。關於事件的漫畫,也一樣的。所以漫畫雖然有誇張,卻還是要誠實。「燕山雪花大如席」,是誇張,但燕山究竟有雪花,就含著一點誠實在裡面,使我們立刻知道燕山原來有這麼冷。如果說「廣州雪花大如席」,那可就變成笑話了。 |
漫画は一目瞭然でなければならないから、最も普通の方法は「誇張」であるが、でたらめではない。わけもなく攻撃や暴露の対象を一頭のロバに描くのは、おべっか使いがその対象を一人の神に仕立てるのと同じく、まったく効果がない――もしその対象にロバの気配も神の気配もなければ。しかし本当にいくらかロバの気配があれば、それは大変なことで、見れば見るほど想像が膨らみ、分厚い伝記を読むよりもよくわかる。事件の漫画もまた同じである。だから漫画には誇張があるが、やはり誠実でなければならない。「燕山の雪花は席の如く大なり」は誇張だが、燕山にはたしかに雪が降るのであり、その中に一片の誠実が含まれていて、燕山がそれほど寒いのだとたちどころにわかる。もし「広州の雪花は席の如く大なり」と言えば、それはもう笑い話になってしまう。 |
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「誇張」這兩個字也許有些語病,那麼,說是「廓大」也可以的。廓大一個事件或人物的特點固然使漫畫容易顯出效果來,但廓大了並非特點之處卻更容易顯出效果。矮而胖的,瘦而長的,他本身就有漫畫相了,再給他禿頭,近視眼,畫得再矮而胖些,瘦而長些,總可以使讀者發笑。但一位白淨苗條的美人,就很不容易設法,有些漫畫家畫作一個髑髏或狐狸之類,卻不過是在報告自己的低能。有些漫畫家卻不用這呆法子,他用廓大鏡照了她露出的搽粉的臂膊,看出她皮膚的褶皺,看見了這些褶皺中間的粉和泥的黑白畫。這麼一來,漫畫稿子就成功了,然而這是真實,倘不信,大家或自己也用廓大鏡去照照去。於是她也只好承認這真實,倘要好,就用肥皂和毛刷去洗一通。 |
「誇張」という二字にはいくらか語弊があるかもしれない。ならば「拡大」と言ってもよい。ある事件や人物の特徴を拡大すれば漫画に効果が出やすいのはもちろんだが、特徴でない部分を拡大すればさらに効果が出やすい。背が低くて太った者、痩せて長い者は、それ自体すでに漫画相を持っており、禿頭や近眼を加え、もっと低く太く、もっと痩せて長く描けば、読者を笑わせることができる。しかし色白ですらりとした美人となると、なかなか手の打ちようがない。髑髏や狐狸に描く漫画家もいるが、それは自分の無能を告白しているだけだ。だが拡大鏡を使って、彼女の露出した白粉を塗った腕を照らし、皮膚の皺を見出し、その皺の間の粉と泥の白黒画を見る漫画家もいる。こうなると漫画の原稿は成功であり、しかもそれは真実である。信じなければ、自分でも拡大鏡で照らしてみればよい。すると彼女もこの真実を認めるしかなく、よくなりたければ石鹸とブラシで洗うしかないのだ。 |
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因為真實,所以也有力。但這種漫畫,在中國是很難生存的。我記得去年就有一位文學家說過,他最討厭論人用顯微鏡。 |
真実だからこそ力がある。しかしこの種の漫画は、中国では生き延びるのが極めて難しい。去年、ある文学者が、人を論ずるのに顕微鏡を使うのが最も嫌いだ、と言ったのを覚えている。 |
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歐洲先前,也並不兩樣。漫畫雖然是暴露,譏刺,甚而至於是攻擊的,但因為讀者多是上等的雅人,所以漫畫家的筆鋒的所向,往往只在那些無拳無勇的無告者,用他們的可笑,襯出雅人們的完全和高尚來,以分得一枝雪茄的生意。像西班牙的戈雅(Francisco de Goya)和法國的陀密埃(Honoré Daumier)那樣的漫畫家,到底還是不可多得的。 |
ヨーロッパでも以前は同じだった。漫画は暴露であり、風刺であり、さらには攻撃でさえあるが、読者の多くは上流の雅人であったから、漫画家の筆鋒はしばしば無力で無告の者たちにだけ向けられ、彼らの滑稽さで雅人たちの完全さと高尚さを引き立て、葉巻一本分の商売をしていた。スペインのゴヤ(Francisco de Goya)やフランスのドーミエ(Honoré Daumier)のような漫画家は、やはり得がたいものである。 |
第6節
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德國現代的畫家格羅斯(George Grosz),中國已經紹介過好幾回,總可以不算陌生人了。從有一方說,他也可以算是漫畫家;那些作品,大抵是白地黑線的。 |
ドイツ現代の画家グロス(George Grosz)は、中国ではすでに何度も紹介されており、見知らぬ人とは言えないだろう。ある一面から言えば、彼もまた漫画家と言える。それらの作品は、おおむね白地に黒い線である。 |
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他在中國的遭遇,還算好,翻印的畫雖然製版術太壞了,或者被縮小,黑線白地卻究竟還是黑線白地。不料中國「文藝」家的腦子今年反常了,在掛著「文藝」招牌的雜誌上紹介格羅斯的黑白畫,線條都變了雪白;地子呢,有藍有紅,真是五顏六色,好看得很。 |
彼の中国での遭遇は、まだましな方で、翻刻された絵は製版術があまりにも劣悪だったり、縮小されたりしたが、黒線白地はやはり黒線白地のままであった。ところが今年、中国の「文芸」家の頭がどうかしたらしく、「文芸」の看板を掲げた雑誌でグロスの白黒画を紹介したところ、線はすべて真っ白に変わり、地は青になったり赤になったり、まことに色とりどりで美しいことこの上ない。 |
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自然,我們看石刻的拓本,大抵是黑地白字的。但翻印的繪畫,卻還沒有見過將青綠山水變作紅黃山水,水墨龍化為水粉龍的大改造。有之,是始於二十世紀過了三十五年的上海的「文藝」家。我才知道畫家作畫時候的調色,配色之類,都是多事。一經中國「文藝」家的手,全無問題,——嗡,嗡,隨隨便便。 |
もちろん、我々が石刻の拓本を見れば、たいてい黒地に白い字である。しかし翻刻の絵画で、青緑山水が紅黄山水に変わったり、水墨の龍が水粉の龍に化けたりする大改造は、いまだかつて見たことがない。それがあるとすれば、二十世紀も三十五年を過ぎた上海の「文芸」家をもって始まりとする。画家が絵を描く際の調色や配色のたぐいは、すべて無駄な仕事だったとようやくわかった。中国の「文芸」家の手にかかれば、まったく問題はない――ブーン、ブーン、適当に。 |
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這些翻印的格羅斯的畫是有價值的,是漫畫而又漫畫。 |
これらの翻刻されたグロスの絵には価値がある。漫画にしてまた漫画なのだ。 |
第7節
| 中文 | 日本語 |
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一 |
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凡是關心現代中國文學的人,誰都知道《新青年》是提倡「文學改良」,後來更進一步而號召「文學革命」的發難者。但當一九一五年九月中在上海開始出版的時候,卻全部是文言的。蘇曼殊的創作小說,陳嘏和劉半農的翻譯小說,都是文言。到第二年,胡適的《文學改良芻議》發表了,作品也只有胡適的詩文和小說是白話。後來白話作者逐漸多了起來,但又因為《新青年》其實是一個論議的刊物,所以創作並不怎樣著重,比較旺盛的只有白話詩;至於戲曲和小說,也依然大抵是翻譯。 |
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在這裏發表了創作的短篇小說的,是魯迅。從一九一八年五月起,《狂人日記》,《孔乙己》,《藥》等,陸續的出現了,算是顯示了「文學革命」的實績,又因那時的認為「表現的深切和格式的特別」,頗激動了一部分青年讀者的心。然而這激動,卻是向來怠慢了紹介歐洲大陸文學的緣故。一八三四年頃,俄國的果戈理(N. Gogol)就已經寫了《狂人日記》;一八八三年頃,尼采(Fr. Nietzsche)也早借了蘇魯支(Zarathustra)的嘴,說過「你們已經走了從蟲豸到人的路,在你們裏面還有許多份是蟲豸。你們做過猴子,到了現在,人還尤其猴子,無論比那一個猴子」的。而且《藥》的收束,也分明的留著安特萊夫(L. Andreev)式的陰冷。但後起的《狂人日記》意在暴露家族制度和禮教的弊害,卻比果戈理的憂憤深廣,也不如尼采的超人的渺茫。此後雖然脫離了外國作家的影響,技巧稍為圓熟,刻劃也稍加深切,如《肥皂》,《離婚》等,但一面也減少了熱情,不為讀者們所注意了。 |
一 |
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從《新青年》上,此外也沒有養成什麼小說的作家。較多的倒是在《新潮》上。從一九一九年一月創刊,到次年主幹者們出洋留學而消滅的兩個年中,小說作者就有汪敬熙,羅家倫,楊振聲,俞平伯,歐陽予倩和葉紹鈞。自然,技術是幼稚的,往往留存著舊小說上的寫法和語調;而且平鋪直敘,一瀉無餘;或者過於巧合,在一刹時中,在一個人上,會聚集了一切難堪的不幸。然而又有一種共同前進的趨向,是這時的作者們,沒有一個以為小說是脫俗的文學,除了為藝術之外,一無所為的。他們每作一篇,都是「有所為」而發,是在用改革社會的器械,——雖然也沒有設定終極的目標。 |
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俞平伯的《花匠》以為人們應該屏絕矯揉造作,任其自然,羅家倫之作則在訴說婚姻不自由的苦痛,雖然稍嫌淺露,但正是當時許多智識青年們的公意;輸入易卜生(H. Ibsen)的《娜拉》和《群鬼》的機運,這時候也恰恰成熟了,不過還沒有想到《人民之敵》和《社會柱石》。楊振聲是極要描寫民間疾苦的;汪敬熙並且裝著笑容,揭露了好學生的秘密和苦人的災難。但究竟因為是上層的智識者,所以筆墨總不免伸縮於描寫身邊瑣事和小民生活之間。後來,歐陽予倩致力於劇本去了;葉紹鈞卻有更遠大的發展。汪敬熙又在《現代評論》上發表創作,至一九二五年,自選了一本《雪夜》,但他好像終於沒有自覺,或者忘卻了先前的奮鬥,以為他自己的作品,是並無「什麼批評人生的意義的」了。序中有云—— |
現代中国文学に関心を持つ者なら、誰でも『新青年』が「文学改良」を提唱し、のちにさらに一歩進んで「文学革命」を号召した先駆者であることを知っている。しかし一九一五年九月に上海で出版を開始した時には、全編が文言であった。蘇曼殊の創作小説も、陳嘏と劉半農の翻訳小説も、すべて文言であった。翌年、胡適の『文学改良芻議』が発表されたが、作品としても胡適の詩文と小説だけが白話であった。その後、白話の書き手は次第に増えたが、『新青年』は本来論議の刊行物であったから、創作はそれほど重視されず、比較的盛んだったのは白話詩のみであり、戯曲と小説はやはりおおむね翻訳であった。 |
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「我寫這些篇小說的時候,是力求著去忠實的描寫我所見的幾種人生經驗。我只求描寫的忠實,不攙入絲毫批評的態度。雖然一個人敘述一件事實之時,他的描寫是免不了受他的人生觀之影響,但我總是在可能的範圍之內,竭力保持一種客觀的態度。 |
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「因為持了這種客觀態度的緣故,我這些短篇小說是不會有什麼批評人生的意義。我只寫出我所見的幾種經驗給讀者看罷了。讀者看了這些小說,心中對於這些種經驗有什麼評論,是我所不問的。」 |
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楊振聲的文筆,卻比《漁家》更加生髮起來,但恰與先前的戰友汪敬熙站成對郯:他「要忠實於主觀」,要用人工來製造理想的人物。而且憑自己的理想還怕不夠,又請教過幾個朋友,刪改了幾回,這才完成一本中篇小說《玉君》,那自序道—— |
ここで創作短篇小説を発表したのは魯迅である。一九一八年五月から『狂人日記』『孔乙己』『薬』などが陸続と現れ、「文学革命」の実績を示したとされ、また当時「表現の深切さと形式の特異さ」と認められて、一部の青年読者の心を少なからず揺り動かした。しかしこの感動は、ヨーロッパ大陸文学の紹介がかねてなおざりにされていたことに起因するものであった。一八三四年頃、ロシアのゴーゴリ(N. Gogol)はすでに『狂人日記』を書いていたし、一八八三年頃、ニーチェ(Fr. Nietzsche)もツァラトゥストラの口を借りて「お前たちは虫から人への道を歩んできた。お前たちの中にはまだ多くの部分が虫なのだ」と語っていた。そして『薬』の結末にも、アンドレーエフ(L. Andreev)式の陰鬱な冷ややかさが明らかに残っている。だが後発の『狂人日記』は家族制度と礼教の弊害を暴露することを旨としており、ゴーゴリの憂憤より深く広く、ニーチェの超人ほど漠然としてもいない。その後は外国作家の影響から脱し、技巧はやや円熟し、描写もやや深くなったが――『肥皂』『離婚』などのように――同時に熱情も減じて、読者の注目を集めなくなった。 |
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「若有人問玉君是真的,我的回答是沒有一個小說家說實話的。說實話的是歷史家,說假話的才是小說家。 |
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歷史家用的是記憶力,小說家用的是想像力。歷史家取的是科學態度,要忠實於客觀;小說家取的是藝術態度,要忠實於主觀。一言以蔽之,小說家也如藝術家,想把天然藝術化,就是要以他的理想與意志去補天然之缺陷。」 |
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他先決定了「想把天然藝術化」,唯一的方法是「說假話」,「說假話的才是小說家」。於是依照了這定律,並且博采眾議,將《玉君》創造出來了,然而這是一定的:不過一個傀儡,她的降生也就是死亡。我們此後也不再見這位作家的創作。 |
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二 |
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「五四」事件一起,這運動的大營的北京大學負了盛名,但同時也遭了艱險。終於,《新青年》的編輯中樞不得不複歸上海,《新潮》群中的健將,則大抵遠遠的到歐美留學去了,《新潮》這雜誌,也以雖有大吹大擂的豫告,卻至今還未出版的「名著紹介」收場;留給國內的社員的,是一萬部《孑民先生言行錄》和七千部《點滴》。創作衰歇了,為人生的文學自然也衰歇了。 |
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但上海卻還有著為人生的文學的一群,不過也崛起了為文學的文學的一群。這裏應該提起的,是彌灑社。它在一九二三年三月出版的《彌灑》(Musai)上,由胡山源作的《宣言》(《彌灑臨凡曲》)告訴我們說——「我們乃是藝文之神;我們不知自己何自而生,也不知何為而生:…………我們一切作為只知順著我們的Inspiration!」到四月出版的第二期,第一頁上便分明的標出了這是「無目的無藝術觀不討論不批評而只發表順靈感所創造的文藝作品的月刊」,即是一個脫俗的文藝團體的刊物。但其實,是無意中有著假想敵的。陳德征的《編輯余談》說:「近來文學作品,也有商品化的,所謂文學研究者,所謂文人,都不免帶有幾分販賣者底色彩!這是我們所深惡而且深以為痛心疾首的一件事。……」就正是和討伐「壟斷文壇」者的大軍一鼻孔出氣的檄文。這時候,凡是要獨樹一幟的,總打著憎惡「庸俗」的幌子。 |
『新青年』からは、他に小説の作家はほとんど育たなかった。むしろ多かったのは『新潮』においてである。一九一九年一月の創刊から、翌年に中心人物たちが海外留学に出て消滅するまでの二年間に、小説の書き手として汪敬熙、羅家倫、楊振声、兪平伯、欧陽予倩、葉紹鈞が現れた。もちろん技術は幼稚で、旧小説の手法や語調がしばしば残り、平板に直叙して余韻がなかったり、偶然の一致が過ぎて、一瞬のうちに一人の身にあらゆる不幸が集まったりした。しかしそこには共通した前進の趨勢があった――この時期の書き手たちは、小説を脱俗の文学、芸術のため以外に何の目的もないものと考える者は一人もいなかったのだ。彼らは一篇書くたびに「為すところあって」発し、社会改革の器具として用いていた――もっとも究極の目標を設定してはいなかったが。 |
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一切作品,誠然大抵很致力於優美,要舞得「翩躚回翔」,唱得「宛轉抑揚」,然而所感覺的範圍卻頗為狹窄,不免咀嚼著身邊的小小的悲歡,而且就看這小悲歡為全世界。在這刊物上,作為小說作者而出現的,是胡山源,唐鳴時,趙景沄,方企留,曹貴新;錢江春和方時旭,卻只能數作速寫的作者。從中最特出的是胡山源,他的一篇《睡》,是實踐宣言,籠罩全群的佳作,但在《櫻桃花下》(第一期),卻正如這面的過度的睡覺一樣,顯出那面的病的神經過敏來了。「靈感」也究竟要露出目的的。趙景沄的《阿美》,雖然簡單,雖然好像不能「無所為」,卻強有力的寫出了連敏感的作者們也忘卻了的「丫頭」的悲慘短促的一世。 |
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一九二四年中發祥於上海的淺草社,其實也是「為藝術而藝術」的作家團體,但他們的季刊,每一期都顯示著努力:向外,在攝取異域的營養,向內,在挖掘自己的魂靈,要發見心裏的眼睛和喉舌,來凝視這世界,將真和美歌唱給寂寞的人們。韓君格,孔襄我,胡絮若,高世華,林如稷,徐丹歌,顧随,莎子,亞士,陳翔鶴,陳煒謨,竹影女士,都是小說方面的工作者;連後來是中國最為傑出的抒情詩人馮至,也曾發表他幽婉的名篇。次年,中樞移入北京,社員好像走散了一些,《淺草》季刊改為篇葉較少的《沉鐘》週刊了,但銳氣並不稍衰,第一期的眉端就引著吉辛(G. Gissing)的堅決的句子——「而且我要你們一齊都證實……我要工作啊,一直到我死之一日。」 |
【第一章後半では、兪平伯の『花匠』の自然主義、羅家倫の婚姻不自由の訴え、楊振声の民間疾苦の描写、汪敬熙の冷笑的暴露、葉紹鈞の発展を論じ、続いて汪敬熙と楊振声の対照的な創作観――前者の「客観」と後者の「主観」――を引用し、楊振声の理想主義的手法が空虚な人形を生むに過ぎなかったと批判する。】 |
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但那時覺醒起來的智識青年的心情,是大抵熱烈,然而悲涼的。即使尋到一點光明,「徑一週三」,卻更分明的看見了周圍的無涯際的黑暗。攝取來的異域的營養又是「世紀末」的果汁:王爾德(Oscar Wilde),尼采(Fr. Nietzsche),波特萊爾(Ch. Baudelaire),安特萊夫(L. Andreev)們所安排的。「沉自己的船」還要在絕處求生,此外的許多作品,就往往「春非我春,秋非我秋」,玄發朱顏,卻唱著飽經憂患的不欲明言的斷腸之曲。雖是馮至的飾以詩情,莎子的託辭小草,還是不能掩飾的。凡這些,似乎多出於蜀中的作者,蜀中的受難之早,也即此可以想見了。不過這群中的作者們也未嘗自餒。陳煒謨在他的小說集《爐邊》的「Proem」裏說——「但我不要這樣;生活在我還在剛開頭,有許多命運的猛獸正在那邊張牙舞爪等著我在。可是這也不用怕。 |
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人雖不必去崇拜太陽,但何至於懦怯得連暗夜也要躲避呢?怎的,禿筆不會寫在破紙上麼?若干年之後,回想此時的我,即不管別人,在自己或也可值眷念罷,如果值得憶念的地方便應該憶念。……」 |
二 |
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自然,這仍是無可奈何的自慰的傷心之言,但在事實上,沉鐘社卻確是中國的最堅韌,最誠實,掙扎得最久的團體。它好像真要如吉辛的話,工作到死掉之一日;如「沉鐘」的鑄造者,死也得在水底裏用自己的腳敲出洪大的鐘聲。然而他們並不能做到,他們是活著的,時移世易,百事俱非;他們是要歌唱的,而聽者卻有的睡眠,有的槁死,有的流散,眼前只剩下一片茫茫白地,於是也只好在風塵肮洞中,悲哀孤寂地放下了他們的箜篌了。 |
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後來以「廢名」出名的馮文炳,也是在《淺草》中略見一斑的作者,但並未顯出他的特長來。在一九二五年出版的《竹林的故事》裏,才見以沖淡為衣,而如著者所說,仍能「從他們當中理出我的哀愁」的作品。可惜的是大約作者過於珍惜他有限的「哀愁」,不久就更加不欲像先前一般的閃露,於是從率直的讀者看來,就只見其有意低徊,顧影自憐之態了。 |
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馮沅君有一本短篇小說集《卷施》——是「拔心不死」的草名,也是一九二三年起,身在北京,而以「淦女士」的筆名,發表於上海創造社的刊物上的作品。其中的《旅行》是提煉了《隔絕》和《隔絕之後》(並在《卷施》內)的精粹的名文,雖嫌過於說理,卻還未傷其自然;那「我很想拉他的手,但是我不敢,我只敢在間或車上的電燈被震動而失去它的光的時候,因為我害怕那些搭客們的注意。可是我們又自己覺得很驕傲的,我們不客氣的以全車中最尊貴的人自命。」這一段,實在是五四運動直後,將毅然和傳統戰鬥,而又怕敢毅然和傳統戰鬥,遂不得不復活其「纏綿悱惻之情」的青年們的真實的寫照。和「為藝術而藝術」的作品中的主角,或誇耀其頹唐,或衒鬻其才緒,是截然兩樣的。然而也可以複歸於平安。陸侃如在《卷施》再版後記裏說:「『淦』訓『沈』,取《莊子》『陸沈』之義。現在作者思想變遷,故再版時改署沅君。……只因作者秉性疏懶,故托我代說。」誠然,三年後的《春痕》,就只剩了散文的斷片了,更後便是關於文學史的研究。這使我又記起匈牙利的詩人彼兌菲(Petofi Sándor)題B. Sz夫人照像的詩來『听說你使你的男人很幸福,我希望不至於此,因為他是苦惱的夜鶯,而今沉默在幸福裏了。苛待他罷,使他因此常常唱出甜美的歌來。』 |
【「五四」運動後、『新青年』の編集中枢は上海に移り、『新潮』の主力は海外留学へ散った。上海では「人生のための文学」の一群がなお存し、同時に「文学のための文学」の一群も勃興した。弥洒社(1923年)の「霊感」に従う純芸術主義、浅草社(1924年)と沈鐘社の「世紀末」的苦悩と真摯な探求を論じる。沈鐘社は中国で最も粘り強く誠実で、最も長く奮闘した団体であった。廃名(馮文炳)の淡泊な作風、馮沅君の大胆な恋愛小説『旅行』を論じ、ペテーフィの詩を引いて「苦悩は芸術の源泉か」を問う。】 |
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我並不是說:苦惱是藝術的淵源,為了藝術,應該使作家們永久陷在苦惱裏。不過在彼兌菲的時候,這話是有些真實的;在十年前的中國,這話也有些真實的。 |
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三 |
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在北京這地方,——北京雖然是「五四運動」的策源地,但自從支持著《新青年》和《新潮》的人們,風流雲散以來,一九二○至二二年這三年間,倒顯著寂寞荒涼的古戰場的情景。《晨報副刊》,後來是《京報副刊》露出頭角來了,然而都不是怎麼注重文藝創作的刊物,它們在小說一方面,只紹介了有限的作家:蹇先艾,許欽文,王魯彥,黎錦明,黃鵬基,尚鉞,向培良。 |
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蹇先艾的作品是簡樸的,如他在小說集《朝霧》裏說—— |
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「……我已經是滿過二十歲的人了,從老遠的貴州跑到北京來,灰沙之中彷徨了也快七年,時間不能說不長,怎樣混過的,並自身都茫然不知。是這樣匆匆地一天一天的去了,童年的影子越發模糊消淡起來,像朝霧似的,嫋嫋的飄失,我所感到的只有空虛與寂寞。這幾個歲月,除近兩年信筆塗鴉的幾篇新詩和似是而非的小說之外,還做了什麼呢?每一回憶,終不免有點淒寥撞擊心頭。所以現在決然把這個小說集付印了,……藉以紀念從此闊別的可愛的童年。……若果不失赤子之心的人們肯毅然光顧,或者從中間也尋得出一點幼稚的風味來罷?……」 |
三 |
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誠然,雖然簡樸,或者如作者所自謙的「幼稚」,但很少文飾,也足夠寫出他心曲的哀愁。他所描寫的範圍是狹小的,幾個平常人,一些瑣屑事,但如《水葬》,卻對我們展示了「老遠的貴州」的鄉間習俗的冷酷,和出於這冷酷中的母性之愛的偉大,——貴州很遠,但大家的情境是一樣的。 |
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這時——一九二四年——偶然發表作品的還有裴文中和李健吾。前者大約並不是向來留心創作的人,那《戎馬聲中》,卻拉雜的記下了遊學的青年,為了炮火下的故鄉和父母而驚魂不定的實感。後者的《終條山的傳說》是絢爛了,雖在十年以後的今日,還可以看見那藏在用口碑織就的華服裏面的身體和靈魂。 |
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蹇先艾敘述過貴州,裴文中關心著榆關,凡在北京用筆寫出他的胸臆來的人們,無論他自稱為用主觀或客觀,其實往往是鄉土文學,從北京這方面說,則是僑寓文學的作者。但這又非如勃蘭兌斯(G. Brandes)所說的「僑民文學」,僑寓的只是作者自己,卻不是這作者所寫的文章,因此也只見隱現著鄉愁,很難有異域情調來開拓讀者的心胸,或者眩耀他的眼界。許軟文自名他的第一本短篇小說集為《故鄉》,也就是在不知不覺中,自招為鄉土文學的作者,不過在還未開手來寫鄉土文學之前,他卻已被故鄉所放逐,生活驅逐他到異地去了,他只好回憶「父親的花園」,而且是已不存在的花園,因為回憶故鄉的已不存在的事物,是比明明存在,而只有自己不能接近的事物較為舒適,也更能自慰的——「父親的花園最盛的幾年距今已有幾時,已難確切的計算。當時的盛況雖曾照下一像,如今掛在父親的房裏,無奈為時已久,那時鄉間的攝影又很幼稚,現已模胡莫辨了。掛在它旁邊的芳姊的遺像也已不大清楚,惟有父親題在像上的字句卻很明白:『性既執拗,遇複可憐,一朝痛割,我獨何堪!』 |
【北京の文壇(1920-25年)を概観する。『晨報副刊』『京報副刊』に現れた作家たち:蹇先艾の素朴な郷土描写と貴州の冷酷な風俗の暴露、裴文中と李健吾の偶発的作品、「僑寓文学」としての郷土文学の性格、許欽文の故郷喪失の悲哀と冷静な諧謔、王魯彥のニヒリスティックな冷ややかさとエロシェンコとの対比、黎錦明の楚人の敏感と熱情、淩叔華の旧家庭の婉順な女性の描写を論じる。】 |
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「…………」 |
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「我想父親的花園就是能夠重行種起種種的花來,那時的盛況總是不能恢復的了,因為已經沒有了芳姊。」 |
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無可奈何的悲憤,是令人不得不捨棄的,然而作者仍不能捨棄,沒有法,就再尋得冷靜和詼諧來做悲憤的衣裳;裹起來了聊且當作「看破」。並且將這手段用到描寫種種人物,尤其是青年人物去。因為故意的冷靜,所以也刻深,而終不免帶著令人疑慮的嬉笑。「雖有忮心,不怨飄瓦」,冷靜要死靜;包著憤激的冷靜和詼諧,是被觀察和被描寫者所不樂受的,他們不承認他是一面無生命,無意見的鏡子。於是他也往往被排進諷刺文學作家裏面去,尤其是使女士們皺起了眉頭。 |
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這一種冷靜和詼諧,如果滋長起來,對於作者本身其實倒是危險的。他也能活潑的寫出民間生活來,如《石宕》,但可惜不多見。 |
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看王魯彥的一部分的作品的題材和筆致,似乎也是鄉土文學的作家,但那心情,和許欽文是極其兩樣的。許欽文所苦惱的是失去了地上的「父親的花園」,他所煩冤的卻是離開了天上的自由的樂土。他聽得「秋雨的訴苦」說——「地太小了,地太髒了,到處都黑暗,到處都討厭。 |
四 |
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人人只知道愛金錢,不知道愛自由,也不知道愛美。你們人類的中間沒有一點親愛,只有仇恨。你們人類,夜間像豬一般的甜甜蜜蜜的睡著,白天像狗一般的爭鬥著,撕打著…… |
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「這樣的世界,我看得慣嗎?我為什麼不應該哭呢? |
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在野蠻的世界上,讓野獸們去生活著罷,但是我不,我們不……唔,我現在要離開這世界,到地底去了……」這和愛羅先珂(V. Eroshenko)的悲哀又仿佛相像的,然而又極其兩樣。那是地下的土撥鼠,欲愛人類而不得,這是太空的秋雨,要逃避人間而不能。他只好將心還給母親,才來做「人」,騙得母親的微笑。秋天的雨,無心的「人」,和人間社會是不會有情愫的。要說冷靜,這才真是冷靜;這才能夠和「托爾斯小」的無抵抗主義一同抹殺「牛克斯」的鬥爭說;和「達我文」的進化說一併嘲弄「克魯屁特金」的互助論;對專制不平,但又向自由冷笑。作者是往往想以詼諧之筆出之的,但也因為太冷靜了,就又往往化為冷話,失掉了人間的詼諧。 |
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然而「人」的心是究竟還不盡的,《柚子》一篇,雖然為湘中的作者所不滿,但在玩世的衣裳下,還閃露著地上的憤懣,在王魯彥的作品裏,我以為倒是最為熱烈的的了。我所說的這湘中的作家是黎錦明,他大約是自小就離開了故鄉的。在作品裏,很少鄉土氣息,但蓬勃著楚人的敏感和熱情。他一早就在《社交問題》裏,對易卜生一流的解放論者擲了斯忒林培黎(A. Strindberg)式的投槍;但也能精緻而明麗的說述兒時的「輕微的印象」。待到一九二六年,他存告不滿於自己了,他在《烈火》再版的自序上說——「在北京生活的人們,如其有靈魂,他們的靈魂恐怕未有不染遍了灰色罷,自然,《烈火》即在這情形中寫成,當我去年春時來到上海,我的心境完全變了,對於它,只有遺棄的一念。……」 |
【莽原社(1925年)と狂飆社について論じる。高長虹のニーチェ的「超人」思想と狂飆運動、黄鵬基(朋其)の「刺の文学」論とその実践、尚鉞の『斧背』の風刺と限界、向培良の『飄渺の夢』と「虚無の反抗者」のニーチェ的戦叫を論じる。未名社の韋素園は無名の泥土となって奇花と喬木を栽培する人であり、李霽野の鋭敏な感覚による創作、臺静農の民間素材への献身を述べる。】 |
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他判過去的生活為灰色,以早期的作品為童馬矣了。果然,在此後的《破壘集》中,的確很換了些披掛,有含譏的輕妙的小品,但尤其顯出好的故事作者的特色來:有時如中國的「磊砢山房主人的瑰奇;有時如波蘭的顯克微支(H. Sienkiewicz)的警拔,卻又不以失望收場,有聲有色,總能使讀者欣然終卷。但其失,則又即在立旨居陸離光怪的裝飾之中,時或永被沉埋,倘一顯現,便又見得鶻突了。 |
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《現代評論》比起日報的副刊來,比較的著重於文藝,但那些作者,也還是新潮社和創造社的老手居多。淩叔華的小說,卻發祥於這一種期刊的,她恰和馮沅君的大膽,敢言不同,大抵很謹慎的,適可而止的描寫了舊家庭中的婉順的女性。即使間有出軌之作,那是為了偶受著文酒之風的吹拂,終於也回復了她的故道了。這是好的,——使我們看見和馮沅君,黎錦明,川島,汪靜之所描寫的絕不相同的人物,也就是世態的一角,高門巨族的精魂。 |
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四 |
五 |
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一九二五年十月間,北京突然有莽原社出現,這其實不過是不滿於《京報副刊》編輯者的一群,另設《莽原》週刊,卻仍附《京報》發行,聊以快意的團體。奔走最力者為高長虹,中堅的小說作者也還是黃鵬基,尚鉞,向培良三個;而魯迅是被推為編輯的。但聲援的很不少,在小說方面,有文炳,沅君,霽野,靜農,小酩,青雨等。到十一月,《京報》要停止副刊以外的小幅了,便改為半月刊,由未名社出版,其時所紹介的新作品,是描寫著鄉下的沉滯的氛圍氣的魏金枝之作:《留下鎮上的黃昏》。 |
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但不久這莽原社內部衝突了,長虹一流,便在上海設立了狂飆社。所謂「狂飆運動」,那草案其實是早藏在長虹的衣袋裏面的,常要乘機而出,先就印過幾期週刊;那《宣言》,又曾在一九二五年三月間的《京報副刊》上發表,但尚未以「超人」自命,還帶著並不自滿的聲音——「黑沉沉的暗夜,一切都熟睡了,死一般的,沒有一點聲音,一件動作,闃寂無聊的長夜呵! |
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「這樣的,幾百年幾百年的時期過去了,而晨光沒有來,黑夜沒有止息。 |
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「死一般的,一切的人們,都沉沉的睡著了。 |
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「於是有幾個人,從黑暗中醒來,便互相呼喚著:「——時候到了,期待已經夠了。 |
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「——是呵,我們要起來了。我們呼喚著,使一切不安於期待的人們也起來罷。 |
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「——若是晨光終於不來,那麼,也起來罷。我們將點起燈來,照耀我們幽暗的前途。 |
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「——軟弱是不行的,睡著希望是不行的。我們要作強者,打倒障礙或者被障礙壓倒。我們並不懼怯,也不躲避。 |
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「這樣呼喚著,雖然是微弱的罷,聽呵,從東方,從西方,從南方,從北方,隱隱的來了強大的應聲,比我們更要強大的應聲。 |
最後に、選集について数言を述べる――一、文学団体は豆莢ではなく、その中に含まれるものは始終同じ豆ではない。集まった当初からすでに各人異なり、その後さらにさまざまな変化を遂げた。ここでは一九二六年以後の作品は収録せず、その後の作者の作風や思想なども論じない。 |
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「一滴水泉可以作江河之始流,一片樹葉之飄動可以兆暴風之將來,微小的起源可以生出偉大的結果。因為這個緣故,我們的週刊便叫作《狂飆》。」 |
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不過後來卻日見其自以為「超越」了。然而擬尼採樣的彼此都不能解的格言式的文章,終於使週刊難以存在,可記的也仍然只是小說方面的黃鵬基,尚鉞——其實是向培良一個作者而已。 |
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黃鵬基將他的短篇小說印成一本,稱為《荊棘》,而第二次和讀者相見的時候,已經改名「朋其」了。他是首先明白曉暢的主張文學不必如奶油,應該如刺,文學家不得頹喪,應該剛健的人;他在《刺的文學》(《莽原》週刊二十八期)裏,說明了「文學絕不是無聊的東西」,「文學家並不一定就是得天獨厚的特等民族」,「也不是成天哭泣的鮫人」。他說—— |
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「我以為中國現代的作品,應該是像一叢荊棘。因為在一片沙漠裏,憧憬的花都會慢慢地消滅的,社會生出荊棘來,他的葉是有刺的,他的莖是有刺的,以至於他的根也是有刺的。——請不要拿植物生理來反駁我——一篇作品的思想,的結構,的練句,的用字,都應該把我們常感覺到的刺的意味兒表現出來。真的文學家……應該先站起來,使我們不得不站起來。他應該充實自己的力,讓人們怎樣充實他自己的力,知道他自己的力,表現他自己的力。一篇作品的成功至少要使讀者一直讀下去,無暇辨文字的美惡,——惡劣的感覺,固然不好,就是美妙的感覺,也算失敗。——而要想因循,苟且而不得。怎樣抓著他的病的深處,就很利害地刺他一下。一般整飭的結構,平凡的字句,會使他跑到旁處去的,我們應該反對。 |
二、作者の中には自ら編んだ集がある者もおり、期刊に発表された初期の文章が、集には見当たらないことがある。おそらく自分で不満に思い、削ったのであろう。だが私は時にそれもここに収めた。聖賢豪傑といえども、己の幼年を恥じる必要はないと思うからであり、恥じることこそむしろ誤りだからだ。 |
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「『沙漠裏遍生了荊棘,中國人就會過人的生活了!』這是我相信的。」 |
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朋其的作品的確和他的主張並不怎麼背馳,他用流利而詼諧的言語,暴露,描畫,諷刺著各式人物,尤其是智識者層。他或者裝著傻子,說出青年的思想來,或者化為渝腿,跑進闊佬們的家裏去。但也許因為力求生動,流利的緣故罷,抉剔就不能深,而且結末的特地裝置的滑稽,也往往毀損掉全篇的力量。諷刺文學是能死於自身的故意的戲笑的。不久他又「自招」(《荊棘》卷首)道:「寫出『刺的文學』四字,也不過因了每天對於霸王鞭的欣賞,和自己的『生也不辰』,未能十分領略花的意味兒,」那可大有徘徊之狀了。此後也沒有再看見他「刺的文學」。 |
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尚鉞的創作,也是意在譏刺,而且暴露,搏擊的,小說集《斧背》之名,便是自提的綱要。他創作的態度,比朋其嚴肅,取材也較為廣泛,時時描寫著風氣未開之處——河南信陽——的人民。可惜的是為才能所限,那斧背就太輕小了,使他為公和為私的打擊的效力,大抵失在由於器械不良,手段生澀的不中裏。 |
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向培良當發表他第一本小說集《飄渺的夢》時,一開首就說—— |
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「時間走過去的時候,我的心靈聽見輕微的足音,我把這個很拙笨地移到紙上去了,這就是我這本小冊子的來源罷!」 |
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的確,作者向我們敘述著他的心靈所聽到的時間的足音,有些是借了兒童時代的天真的愛和憎,有些是借著羈旅時候的寂寞的聞和見,然而他並不「拙笨」,卻也不矯揉造作,只如熟人相對,娓娓而談,使我們在不甚操心的傾聽中,感到一種生活的色相。但是,作者的內心是熱烈的,倘不熱烈,也就不能這麼平靜的娓娓而談了,所以他雖然間或休息於過去的「已經失去的童心」中,卻終於愛了現在的「在強有力的憎惡後面,發現更強有力的愛」的「虛無的反抗者」,向我們紹介了強有力的《我離開十字街頭》。下面這一段就是那不知名的反抗者所自述的憎惡——「為什麼我要跑出北京?這個我也說不出很多的道理。總而言之:我已經討厭了這古老的虛偽的大城。在這裏面游離了四年之後,我已經刻骨地討厭了這古老的虛偽的大城。在這裏面,我只看見請安,打拱,要皇帝,恭維執政——卑怯的奴才!卑劣,怯懦,狡猾,以及敏捷的逃躲,這都是奴才們的絕技!厭惡的深感在我口中,好似生的腥魚在我口中一般;我需要嘔吐,於是提著我的棍走了。」 |
三、自編の集の文章と、先に期刊に発表されたものとでは、字句が異なることがしばしばある。これはもちろん作者自身が加除したのだが、ここでは時に初稿を採った。修飾を加えた後が、必ずしも素朴な初稿より良いとは限らないと思うからだ。 |
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在這裏聽到了尼采聲,正是狂飆社的進軍的鼓角。尼采教人們準備著「超人」的出現,倘不出現,那準備便是空虛。但尼采卻自有其下場之法的:發狂和死。否則,就不免安於空虛,或者反抗這空虛,即使在孤獨中毫無「末人」的希求溫暖之心,也不過蔑視一切權威,收縮而為虛無主義者(Nihilist)。巴札羅夫(Bazarov)是相信科學的;他為醫術而死,一到所蔑視的並非科學的權威而是科學本身,那就成為沙寧(Sanin)之徒,只好以一無所信為名,無所不為為實了。但狂飆社卻似乎僅止於「虛無的反抗」,不久就散了隊,現在所遺留的,就只有向培良的這響亮的戰叫,說明著半綏惠略夫(Sheveriov)式的憎惡」的前途。未名社卻相反,主持者韋素園,是寧願作為無名的泥土,來栽植奇花和喬木的人,事業的中心,也多在外國文學的譯述。待到接辦《莽原》後,在小說方面,魏金枝之外,又有李霽野,以銳敏的感覺創作,有時深而細,真如數著每一片葉的葉脈,但因此就往往不能廣,這也是孤寂的發掘者所難以兩全的。臺靜農是先不想到寫小說,後不願意寫小說的人,但為了韋素園的獎勸,為了《莽原》的索稿,他挨到一九二六年,也只得動手了。《地之子》的後記裏自己說—— |
以上の二点については、作者の方々の寛恕をお願いしたい。 |
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「那時我開始寫了兩三篇,預備第二年用。素園看了,他很滿意我從民間取材;他遂勸我專在這一方面努力,並且舉了許多作家的例子。其實在我倒不大樂於走這一條路。人間的酸辛和悽楚,我耳邊所聽到的,目中所看見的,已經是不堪了;現在又將它用我的心血細細地寫出,能說這不是不幸的事麼?同時我又沒有生花的筆,能夠獻給我同時代的少男少女以偉大的歡欣。」 |
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此後還有《建塔者》。要在他的作品裏吸取「偉大的歡欣」,誠然是不容易的,但他卻貢獻了文藝;而且在爭寫著戀愛的悲歡,都會的明暗的那時候,能將鄉間的死生,泥土的氣息,移在紙上的,也沒有更多,更勤于這作者的了。 |
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五 |
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臨末,是關於選輯的幾句話——一,文學團體不是豆莢,包含在裏面的,始終都是豆。大約集成時本已各個不同,後來更各有種種的變化。在這裏,一九二六年後之作即不錄,此後的作者的作風和思想等,也不論。 |
四、十年間に出た各種の期刊は、まことにいくつあるかわからず、小説集も少なくないが、見聞には限りがあり、遺珠の恨みは免れない。明らかに集を目にしながら取捨を誤ったとなれば、たとえ偏心でなくとも、眼力が足りなかったのであり、無理に弁解するつもりはない。 |
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二,有些作者,是有自編的集子的,曾在期刊上發表過的初期的文章,集子裏有時卻不見,恐怕是自己不滿,刪去了。但我間或仍收在這裏面,因為我以為就是聖賢豪傑,也不必自慚他的童年;自慚,倒是一個錯誤。 |
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三,自編的集子裏的有些文章,和先前在期刊上發表的,字句往往有些不同,這當然是作者自己添削的。但這裏卻有時采了初稿,因為我覺得加了修飾之後,也未必一定比質樸的初稿好。 |
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以上兩點,是要請作者原諒的。 |
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四,十年中所出的各種期刊,真不知有多少,小說集當然也不少,但見聞有限,自不免有遺珠之憾。至於明明見了集子,卻取捨失當,那就即使並非偏心,也一定是缺少眼力,不想來勉強辯解了。 |
第8節
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這也並非自己的發見,是在內山書店裡聽著漫談的時候拾來的,據說:像日本人那樣的喜歡「結論」的民族,就是無論是聽議論,是讀書,如果得不到結論,心裡總不舒服的民族,在現在的世上,好像是頗為少有的,云。 |
これも自分の発見ではなく、内山書店で漫談を聞いている時に拾ったものだが、その話によると――日本人のように「結論」を好む民族、つまり議論を聞いても書物を読んでも結論が得られなければ心が落ち着かない民族は、今の世の中にはかなり稀なものらしい、とのこと。 |
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接收了這一個結論之後,就時時令人覺得很不錯。例如關於中國人,也就是這樣的。明治時代的支那研究的結論,似乎大抵受著英國的甚麼人做的《支那人氣質》的影響,但到近來,卻也有了面目一新的結論了。一個旅行者走進了下野的有錢的大官的書齋,看見有許多很貴的硯石,便說中國是「文雅的國度」;一個觀察者到上海來一下,買幾種猥褻的書和圖畫,再去尋尋奇怪的觀覽物事,便說中國是「色情的國度」。連江蘇和浙江方面,大吃竹筍的事,也算作色情心理的表現的一個證據。然而廣東和北京等處,因為竹少,所以並不怎麼吃竹筍。倘到窮文人的家裡或者寓裡去,不但無所謂書齋,連硯石也不過用著兩角錢一塊的傢伙。一看見這樣的事,先前的結論就通不過去了,所以觀察者也就有些窘,不得不另外摘出什麼適當的結論來。於是這一回,是說支那很難懂得,支那是「謎的國度」了。 |
この結論を受け取ってからは、折に触れてなるほどと思わされる。たとえば中国人についても、まさにそのとおりなのだ。明治時代の支那研究の結論は、おおむねイギリスの誰かが書いた『支那人気質』の影響を受けていたらしいが、近頃に至って面目一新の結論が出てきた。ある旅行者が野に下った金持ちの大官の書斎に入り、たくさんの高価な硯石を見て、中国は「文雅の国」だと言い、ある観察者が上海にちょっと来て、猥褻な書画を何種類か買い、奇妙な見世物を探して、中国は「色情の国」だと言う。江蘇や浙江あたりで竹の子を大いに食べることまで、色情心理の表れの証拠にされる。しかし広東や北京などでは竹が少ないから、竹の子をそれほど食べない。貧しい文人の家や下宿に行けば、書斎どころか硯石も二角銭の代物に過ぎない。こういうことを目にすると、先の結論は通用しなくなるから、観察者もいささか窮して、また別の適当な結論を引き出さねばならなくなる。そこで今度は、支那は理解し難い、支那は「謎の国」だ、ということになるのだ。 |
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據我自己想:只要是地位,尤其是利害一不相同,則兩國之間不消說,就是同國的人們之間,也不容易互相瞭解的。 |
私自身の考えでは、立場が、とりわけ利害が異なりさえすれば、両国間はもちろん、同じ国の人々の間でさえ、互いに理解し合うのは容易ではない。 |
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例如罷,中國向西洋派遣過許多留學生,其中有一位先生,好像也並不怎樣喜歡研究西洋,於是提出了關於中國文學的什麼論文,使那邊的學者大吃一驚,得了博士的學位,回來了。然而因為在外國研究得太長久,忘記了中國的事情,回國之後,就只好來教授西洋文學。他一看見本國裡乞丐之多,非常詫異,慨歎道:他們為什麼不去研究學問,卻自甘墮落的呢?所以下等人實在是無可救藥的。 |
たとえば、中国は西洋に多くの留学生を派遣してきたが、その中にある先生がいて、あまり西洋の研究に熱心でもなかったらしく、中国文学に関する何やらの論文を提出し、あちらの学者を仰天させて博士号を取り、帰国した。しかし外国で研究する期間が長すぎて中国の事情を忘れてしまい、帰国後は西洋文学を教えるしかなかった。彼は本国の乞食の多さを見てひどく驚き、嘆息して言った――彼らはなぜ学問の研究に行かず、自ら堕落するのか、下等な人間は本当に救いようがない、と。 |
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不過這是極端的例子。倘使長久的生活於一地方,接觸著這地方的人民,尤其是接觸,感得了那精神,認真的想一想,那麼,對於那國度,恐怕也未必不能瞭解罷。 |
しかしこれは極端な例である。もし長く一つの土地に生活し、その土地の人民に接し、とりわけその精神に触れ、感じ取り、真剣に考えるならば、その国についても必ずしも理解できないことはないだろう。 |
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著者是二十年以上,生活於中國,到各處去旅行,接觸了各階級的人們的,所以來寫這樣的漫文,我以為實在是適當的人物。事實勝於雄辯,這些漫文,不是的確放著一種異彩嗎?自己也常常去聽漫談,其實負有捧場的權利和義務的,但因為已是很久的「老朋友」了,所以也想添幾句壞話在這裡。其一,是有多說中國的優點的傾向,這是和我的意見相反的,不過著者那一面,也自有他的意見,所以沒有法子想。還有一點,是並非壞話也說不定的,就是讀起那漫文來,往往頗有令人覺得「原來如此」的處所,而這令人覺得「原來如此」的處所,歸根結蒂,也還是結論。幸而卷末沒有明記著「第幾章:結論」,所以仍不失為漫談,總算還好的。 |
著者は二十年以上も中国に生活し、各地を旅行し、各階層の人々と接してきた方であるから、このような漫文を書くにあたり、まことにふさわしい人物だと私は思う。事実は雄弁に勝る。これらの漫文は、たしかに一種の異彩を放っているではないか。自分もしょっちゅう漫談を聞きに行き、実は拍手喝采する権利と義務を負っているのだが、すでに長い付き合いの「旧友」なので、ここに少しばかり悪口も添えておきたい。その一は、中国の長所を多く語る傾向があること。これは私の意見と相反するのだが、著者の側にもまた独自の見解があるのだから、仕方がない。もう一つは、悪口とは言えないかもしれないが、その漫文を読んでいると、しばしば「なるほどそうだったのか」と思わせる箇所があり、この「なるほどそうだったのか」という箇所は、突き詰めればやはり結論なのだ。幸い巻末に「第何章:結論」と明記されていないから、漫談のままに留まっており、まだよしとすべきだろう。 |
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然而即使力說是漫談,著者的用心,還是在將中國的一部分的真相,紹介給日本的讀者的。但是,在現在,總依然是因了各種的讀者,那結果也不一樣罷。這是沒有法子的事。據我看來,日本和中國的人們之間,是一定會有互相瞭解的時候的。新近的報章上,雖然又在竭力的說著「親善」呀,「提攜」呀,到得明年,也不知道又將說些什麼話,但總而言之,現在卻不是這時候。 |
しかし漫談だと力説しても、著者の用意は、やはり中国の一部の真相を日本の読者に紹介することにある。だが現在のところ、さまざまな読者がいるゆえに、その結果もまちまちであろう。これは致し方のないことだ。私の見るところでは、日本と中国の人々の間に、互いに理解し合う時がきっと来るだろう。最近の新聞にはまた「親善」だの「提携」だのとさかんに言っているが、来年には何を言い出すかわからない。だが総じて言えば、今はまだその時ではない。 |
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倒不如看看漫文,還要有意思一點罷。 |
むしろ漫文でも読んだ方が、まだいくらか意味があるだろう。 |
第9節
| 中文 | 日本語 |
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我有時候想到,忠厚老實的讀者或研究者,遇見有兩種人的文意,他是會吃冤枉苦頭的。一種,是古裡古怪的詩和尼采式的短句,以及幾年前的所謂未來派的作品。這些大概是用怪字面,生句子,沒意思的硬連起來的,還加上好幾行很長的點線。作者本來就是亂寫,自己也不知道什麼意思。但認真的讀者卻以為裡面有著深意,用心的來研究它,結果是到底莫名其妙,只好怪自己淺薄。假如你去請教作者本人罷,他一定不加解釋,只是鄙夷的對你笑一笑。這笑,也就愈見其深。 |
私は時々考えるのだが、実直で忠厚な読者や研究者は、二種類の人の文章に出会うと、とんだ冤罪の苦しみを味わうことになる。一つは、奇妙きてれつな詩やニーチェ風の短文、そして数年前のいわゆる未来派の作品である。これらはおおむね奇怪な字面と生硬な文を、意味もなく無理やりつなげたもので、さらに何行もの長い点線が加えてある。著者はもともとでたらめに書いたのであり、自分でも何の意味かわからない。だが真面目な読者はその中に深い含意があると思い、心を砕いて研究するのだが、結局は皆目見当がつかず、自分の浅学を恨むしかない。もし著者本人に教えを請えば、彼は解説などせず、ただ軽蔑的に笑うだけだろう。その笑いが、いっそう深遠に見えるのだ。 |
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還有一種,是作者原不過「尋開心」,說的時候本來不當真,說過也就忘記了。當然和先前的主張會衝突,當然在同一篇文章裡自己也會衝突。但是你應該知道作者原以為作文和吃飯不同,不必認真的。你若認真的看,只能怪自己傻。最近的例子就是悍膂先生的研究語堂先生為什麼會稱讚《野叟曝言》。不錯,這一部書是道學先生的悖慢淫毒心理的結晶,和「性靈」緣分淺得很,引了例子比較起來,當然會顯出這稱讚的出人意外。但其實,恐怕語堂先生之憎「方巾氣」,談 「性靈」,講「瀟灑」,也不過對老實人「尋開心」而已,何嘗真知道「方巾氣」之類是怎麼一回事;也許簡直連他所稱讚的《野叟曝言》也並沒有怎麼看。所以用本書和他那別的主張來比較研究,是永久不會懂的。自然,兩面非常不同,這很清楚,但怎麼竟至於稱讚起來了呢,也還是一個「不可解」。我的意思是以為有些事情萬不要想得太深,想得太忠厚,太老實,我們只要知道語堂先生那時正在崇拜袁中郎,而袁中郎也曾有過稱讚《金瓶梅》的事實,就什麼駭異之意也沒有了。 |
もう一種は、著者がもともと「からかい半分」に過ぎず、言う時は本気ではなく、言ったらもう忘れてしまう。もちろん以前の主張と矛盾するし、同じ一篇の文章の中でも自己矛盾する。だがあなたは知るべきだ、著者はそもそも文章を書くことと飯を食うこととは違うと思っていて、真面目にする必要はないのだ。あなたが真面目に読めば、自分の馬鹿さを恨むしかない。最近の例は、悍膂先生が語堂先生はなぜ『野叟曝言』を称賛するのかを研究したことである。なるほど、この書物は道学先生の背徳で淫毒な心理の結晶であり、「性霊」とはほとんど縁がなく、例を引いて比較すれば、この称賛が意外であることは明らかになる。だが実のところ、語堂先生の「方巾気」への嫌悪、「性霊」の談、「瀟洒」の説も、おそらく正直者を「からかう」だけのものに過ぎず、「方巾気」とは何かを本当にわかっているわけではないのだ。もしかすると、彼の称賛する『野叟曝言』さえろくに読んでいないかもしれない。だから本書と彼の他の主張を比較研究しても、永遠にわからないのだ。なるほど両面はまったく異なる、それは明白だが、なぜ称賛するに至ったかは、やはり「不可解」である。私の考えでは、物事をあまり深く、あまり忠厚に、あまり正直に考えてはならない。語堂先生がその時たまたま袁中郎を崇拝しており、袁中郎にも『金瓶梅』を称賛した事実があると知りさえすれば、何の驚くこともなくなるのだ。 |
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還有一個例子。如讀經,在廣東,聽說是從燕塘軍官學校提倡起來的;去年,就有官定的小學校用的《經訓讀本》出版,給五年級用的第一課,卻就是 「孔子謂曾子曰:身體髮膚,受之父母,不敢毀傷,孝之始也。……」那麼,「為國捐軀」是「孝之終」麼?並不然,第三課還有「模範」,是樂正子春述曾子聞諸夫子之說雲:「天之所生,地之所養,無人為大。父母全而生之,子全而歸之,可謂孝矣。不虧其體,不辱其身,可謂全矣。故君子頃步而弗敢忘孝也。……」 |
もう一つの例がある。読経のことだが、広東では燕塘軍官学校から提唱されたと聞く。去年には官定の小学校用『経訓読本』が出版され、五年生用の第一課は「孔子、曾子に謂いて曰く、身体髪膚、之を父母に受く、敢えて毀傷せず、孝の始めなり……」である。では「国のために身を捐つる」のは「孝の終わり」なのか? そうではない。第三課にはまだ「模範」があり、「天の生ずる所、地の養う所、人より大なるはなし。父母全うして之を生み、子全うして之を帰す、孝と謂うべし……」とある。 |
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還有一個最近的例子,就在三月七日的《中華日報》上。那地方記的有「北平大學教授兼女子文理學院文史系主任李季谷氏」贊成《一十宣言》原則的談話,末尾道:「為復興民族之立場言,教育部應統令設法標榜岳武穆,文天祥,方孝孺等有氣節之名臣勇將,俾一般高官戎將有所法式雲」。 |
さらにもう一つ、最も新しい例は三月七日の『中華日報』にある。そこには「北平大学教授兼女子文理学院文史系主任李季谷氏」が『十宣言』の原則に賛成する談話が載っており、末尾にこう述べている――「民族復興の立場より言えば、教育部は統べて令を下し、岳武穆、文天祥、方孝孺等の気節ある名臣勇将を標榜し、高官戎将をして法式とする所あらしむべし」と。 |
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凡這些,都是以不大十分研究為是的。如果想到「全而歸之」和將來的臨陣衝突,或者查查岳武穆們的事實,看究竟是怎樣的結果,「復興民族」了沒有,那你一定會被捉弄得發昏,其實也就是自尋煩惱。語堂先生在暨南大學講演道:「……做人要正正經經,不好走入邪道,……一走入邪道,……一定失業,……然而,作文,要幽默,和做人不同,要玩玩笑笑,尋開心,……」(據《芒種》本)這雖然聽去似乎有些奇特,但其實是很可以啟發人的神智的:這「玩玩笑笑,尋開心」,就是開開中國許多古怪現象的鎖的鑰匙。 |
これらはすべて、あまり深く研究しない方がよいものである。もし「全うして之を帰す」と将来の臨陣の衝突を思い合わせたり、岳武穆たちの事蹟を調べてその結末がどうであったか、「民族復興」を果たしたのかどうかを確かめたりすれば、きっと翻弄されて目が回ることだろうが、実のところそれは自ら煩悩を求めているに過ぎない。語堂先生は暨南大学の講演で言った――「……人たるもの正正堂堂、邪道に入ってはならぬ……邪道に入れば……必ず失業する……しかし文章を書くのは人たることとは異なり、ふざけて、おどけて、からかい半分で……」(『芒種』版による)。これは聞けばいささか奇異に感じるが、実は人の知恵を大いに啓発しうるものだ。この「ふざけて、おどけて、からかい半分」こそ、中国の数多くの奇怪な現象の鍵を開ける鍵なのである。 |
第10節
| 中文 | 日本語 |
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好像有人說過,去年是「翻譯年」;其實何嘗有什麼了不起的翻譯,不過又給翻譯暫時洗去了惡名卻是真的。 |
去年は「翻訳の年」だったと誰かが言ったようだが、実のところ大した翻訳があったわけではなく、ただ翻訳から一時的に汚名が洗い落とされたことだけは本当だ。 |
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可憐得很,還只譯了幾個短篇小說到中國來,創作家就出現了,說它是媒婆,而創作是處女。在男女交際自由的時候,誰還喜歡和媒婆周旋呢,當然沒落。後來是譯了一點文學理論到中國來,但「批評家」幽默家之流又出現了,說是「硬譯」,「死譯」,「好像看地圖」,幽默家還從他自己的腦子裡,造出可笑的例子來,使讀者們「開心」,學者和大師們的話是不會錯的,「開心」也總比正經省力,於是乎翻譯的臉上就被他們畫上了一條粉。 |
哀れなことに、まだ短篇小説をいくつか中国語に訳しただけで、創作家が現れて言った――翻訳は仲人であり、創作は処女である、と。男女の交際が自由な時代に、仲人と付き合いたがる者がいるだろうか、当然没落する。その後、文学理論が少し中国語に訳されたが、今度は「批評家」やユーモリストの一派が現れて、「硬訳」だ、「死訳」だ、「地図を見るようだ」と言い、ユーモリストは自分の頭から滑稽な例を捏造して読者を「楽しませ」た。学者や大家の言うことに間違いはなく、「楽しむ」のは真面目よりも楽に決まっているから、かくして翻訳の顔には一筋の白粉が塗られたのだ。 |
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但怎麼又來了「翻譯年」呢,在並無什麼了不起的翻譯的時候?不是誇大和開心,它本身就太輕飄飄,禁不起風吹雨打的緣故麼? |
だがなぜ大した翻訳もない時に「翻訳の年」が来たのか。誇張と娯楽は、それ自体が軽々しすぎて風雨に耐えられなかったからではないか。 |
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於是有些人又記起了翻譯,試來譯幾篇。但這就又是「批評家」的材料了,其實,正名定分,他是應該叫作「嘮叨家」的,是創作家和批評家以外的一種,要說得好聽,也可以謂之「第三種」。他像後街的老虔婆一樣,並不大聲,卻在那裡嘮叨,說是莫非世界上的名著都譯完了嗎,你們只在譯別人已經譯過的,有的還譯過了七八次。 |
そこである者たちが翻訳を思い出し、いくつか訳してみた。だがこれがまた「批評家」の材料となった。実のところ正名定分すれば、彼は「くどくど屋」と呼ぶべきもので、創作家や批評家以外の一種であり、聞こえよく言えば「第三種」とも言える。裏通りの老婆のように大声ではないが、そこでくどくどと言う――世界の名著はすでにすべて訳し尽くしたとでもいうのか、君たちは他人がすでに訳したものばかり訳しており、中には七八回も訳されたものさえある、と。 |
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記得中國先前,有過一種風氣,遇見外國——大抵是日本——有一部書出版,想來當為中國人所要看的,便往往有人在報上登出廣告來,說「已在開譯,請萬勿重譯為幸」。他看得譯書好像訂婚,自己首先套上約婚戒指了,別人便莫作非分之想。自然,譯本是未必一定出版的,倒是暗中解約的居多;不過別人卻也因此不敢譯,新婦就在閨中老掉。這種廣告,現在是久不看見了,但我們今年的嘮叨家,卻正繼承著這一派的正統。他看得翻譯好像結婚,有人譯過了,第二個便不該再來碰一下,否則,就仿佛引誘了有夫之婦似的,他要來嘮叨,當然羅,是維持風化。但在這嘮叨裡,他不也活活的畫出了自己的猥瑣的嘴臉了麼? |
思えば中国では以前、こんな風潮があった。外国で――たいていは日本で――一冊の本が出版され、中国人が読みたがるだろうと思われると、新聞に広告を出す者がしばしばいて、「すでに翻訳に着手、くれぐれも重訳なさらぬよう」と言うのだ。翻訳を婚約のように見なし、自ら婚約指輪をはめたのだから、他人は非分の望みを抱くなというわけだ。もちろん訳書は必ずしも出版されず、むしろ密かに解約することが多い。だが他人はそのため訳す気を失い、新婦は閨房の中で年を取ってしまう。この種の広告は今では久しく見ないが、今年のくどくど屋は、まさにこの一派の正統を継承している。彼は翻訳を結婚のように見なし、誰かが訳したら二人目はもう手を触れるべきではなく、さもなくば人妻を誘惑したかのようなもので、くどくど言わずにはいられない、つまり風紀維持というわけだ。だがそのくどくどの中で、彼は自分の卑小な顔をまざまざと描き出してはいないか。 |
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前幾年,翻譯的失了一般讀者的信用,學者和大師們的曲說固然是原因之一,但在翻譯本身也有一個原因,就是常有胡亂動筆的譯本。不過要擊退這些亂譯,誣賴,開心,嘮叨,都沒有用處,唯一的好方法是又來一回復譯,還不行,就再來一回。譬如賽跑,至少總得有兩個人,如果不許有第二人入場,則先在的一個永遠是第一名,無論他怎樣蹩腳。所以譏笑複譯的,雖然表面上好像關心翻譯界,其實是在毒害翻譯界,比誣賴,開心的更有害,因為他更陰柔。 |
数年前、翻訳が一般読者の信用を失ったのは、学者や大家の曲説もたしかに原因の一つだが、翻訳自体にも一つ原因があった。出鱈目な翻訳がしばしばあったことだ。しかしこうした乱訳を駆逐するには、誣告も、娯楽も、くどくども何の役にも立たない。唯一の良策は、もう一度重訳することであり、それでもだめならさらにもう一度やることだ。たとえば競走なら、少なくとも二人はいなければならない。二人目の入場を許さなければ、先にいた一人が永遠に一位であり、どんなにびっこでもだ。だから重訳を嘲笑する者は、表面上は翻訳界を案じているようだが、実は翻訳界を毒しているのであり、誣告や娯楽よりもさらに有害である。なぜならそれはいっそう陰険だからだ。 |
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而且複譯還不止是擊退亂譯而已,即使已有好譯本,複譯也還是必要的。曾有文言譯本的,現在當改譯白話,不必說了。即使先出的白話譯本已很可觀,但倘使後來的譯者自己覺得可以譯得更好,就不妨再來譯一遍,無須客氣,更不必管那些無聊的嘮叨。取舊譯的長處,再加上自己的新心得,這才會成功一種近于完全的定本。但因言語跟著時代的變化,將來還可以有新的複譯本的,七八次何足為奇,何況中國其實也並沒有譯過七八次的作品。如果已經有,中國的新文藝倒也許不至於现在似的沉滞了。 |
しかも重訳は乱訳を駆逐するだけにとどまらない。すでに良い訳本があっても、重訳はなお必要なのだ。文言の訳本があったものは今や白話に改訳すべきであり、言うまでもない。たとえ先行の白話訳がすでに立派なものであっても、後の訳者が自分ならもっとよく訳せると思うなら、遠慮なくもう一度訳すがよい。あの無聊なくどくどなど気にする必要はまったくない。旧訳の長所を取り、さらに自分の新たな心得を加えてこそ、ほぼ完全な定本が成就するのだ。しかし言語は時代とともに変化するから、将来にはまた新たな重訳本があり得る。七八回で何の不思議があろう。まして中国には実際に七八回も訳された作品などないのだ。もしすでにあったなら、中国の新文芸もおそらく現在のように沈滞してはいなかっただろう。 |
第11節
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我們常不免有一種先入之見,看見諷刺作品,就覺得這不是文學上的正路,因為我們先就以為諷刺並不是美德。但我們走到交際場中去,就往往可以看見這樣的事實,是兩位胖胖的先生,彼此彎腰拱手,滿面油晃晃的正在開始他們的扳談—— |
我々はしばしば一種の先入観を免れない。風刺作品を見れば、これは文学の正道ではないと感じてしまう。なぜなら我々はそもそも風刺を美徳とは思っていないからだ。だが社交の場に出れば、しばしばこういう事実を目にする。二人の太った紳士が互いに腰を曲げ拱手し、脂ぎった満面で談笑を始める―― |
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「貴姓?……」 |
「お名前は?……」 |
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「敝姓錢。」 |
「銭と申します。」 |
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「哦,久仰久仰!還沒有請教台甫……」 |
「おお、かねがねお噂は! お名前をまだ伺っておりませんでしたが……」 |
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「草字闊亭。」 |
「闊亭と申します。」 |
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「高雅高雅。貴處是……?」 |
「風雅ですなあ。ご出身は……?」 |
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「就是上海……」 |
「上海でして……」 |
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「哦哦,那好極了,這真是……」 |
「おお、それは素晴らしい、まことに……」 |
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誰覺得奇怪呢?但若寫在小說裡,人們可就會另眼相看了,恐怕大概要被算作諷刺。有好些直寫事實的作者,就這樣的被蒙上了「諷刺家」——很難說是好是壞——的頭銜。例如在中國,則《金瓶梅》寫蔡御史的自謙和恭維西門慶道:「恐我不如安石之才,而君有王右軍之高致矣!」還有《儒林外史》寫范舉人因為守孝,連象牙筷也不肯用,但吃飯時,他卻「在燕窩碗裡揀了一個大蝦圓子送在嘴裡」,和這相似的情形是現在還可以遇見的;在外國,則如近來已被中國讀者所注意了的果戈理的作品,他那《外套》(韋素園譯,在《未名叢刊》中)裡的大小官吏,《鼻子》許遐譯,在《譯文》中)裡的紳士,醫生,閒人們之類的典型,是雖在中國的現在,也還可以遇見的。這分明是事實,而且是很廣泛的事實,但我們皆謂之諷刺。 |
誰がこれを奇妙に思うだろうか。だが小説に書けば、人々は別の目で見ることになり、おそらくは風刺と見なされるだろう。事実をそのまま書いた著者の多くが、こうして「風刺家」という――良いとも悪いとも言い難い――肩書を被せられてきた。たとえば中国では、『金瓶梅』が蔡御史の謙遜と西門慶への恭維を書いて「恐れるらくは我は安石の才に及ばず、而して君に王右軍の高致あり!」と言わせ、『儒林外史』では范挙人が服喪中で象牙の箸さえ使わないのに、食事の時には「燕の巣の碗から大きな海老団子を一つ摘まんで口に入れた」。こうした情景は今でも出会えるものだ。外国では、近頃中国の読者にも注目されるようになったゴーゴリの作品、『外套』の大小の官吏や、『鼻』の紳士、医者、閑人たちの典型は、中国の今日でもなお出会えるものである。これは明白な事実であり、しかもきわめて広範な事実だが、我々はすべてこれを風刺と呼ぶのだ。 |
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人大抵願意有名,活的時候做自傳,死了想有人分訃文,做行實,甚而至於還「宣付國史館立傳」。人也並不全不自知其醜,然而他不願意改正,只希望隨時消掉,不留痕跡,剩下的單是美點,如曾經施粥賑饑之類,卻不是全般。「高雅高雅」,他其實何嘗不知道有些肉麻,不過他又知道說過就完,「本傳」裡決不會有,於是也就放心的「高雅」下去。如果有人記了下來,不給它消滅,他可要不高興了。於是乎挖空心思的來一個反攻,說這些乃是「諷刺」,向作者抹一臉泥,來掩藏自己的真相。但我們也每不免來不及思索,跟著說,「這些乃是諷刺呀!」上當真可是不淺得很。 |
人はおおむね名声を欲しがる。生きている間は自伝を書き、死んだら誰かに訃文を書いてもらい、行状記を作ってもらい、さらには「国史館に宣付して立伝」さえ望む。人は自分の醜さをまったく自覚していないわけではない。しかし改めようとはせず、ただその場で消え去り、痕跡を残さず、残るのは美点だけ、たとえばかつて施粥して飢民を救ったとかいうようなことだけで、全体ではないことを望む。「風雅ですなあ」と言う時、彼はいくらか気恥ずかしいことを知らないわけではないが、言ってしまえばそれで終わり、「本伝」には載らないと知っているから、安心して「風雅」を続けるのだ。もし誰かがそれを記録して消滅させなければ、彼は不愉快になる。そこで知恵を絞って反撃に出て、これらは「風刺」だと言い、著者の顔に泥を塗って自分の真相を隠す。だが我々もしばしば考える暇もなく、それに従って「これは風刺だ!」と言ってしまう。騙されるのも大したものだ。 |
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同一例子的還有所謂「罵人」。假如你到四馬路去,看見雉妓在拖住人,倘大聲說:「野雞在拉客」,那就會被她罵你是「罵人」。罵人是惡德,於是你先就被判定在壞的一方面了;你壞,對方可就好。但事實呢,卻的確是「野雞在拉客」,不過只可心裡知道,說不得,在萬不得已時,也只能說「姑娘勒浪做生意」,恰如對於那些彎腰拱手之輩,做起文章來,是要改作「謙以待人,虛以接物」的。——這才不是罵人,這才不是諷刺。 |
同じ例がもう一つ、いわゆる「悪口」がある。四馬路に行けば、街娼が客引きをしているのを見る。もし大声で「私娼が客を引いている」と言えば、彼女にあなたは「悪口を言っている」と罵られる。悪口は悪徳であるから、かくしてあなたがまず悪い側に判定され、あなたが悪ければ相手は良いことになる。だが事実は、たしかに「私娼が客を引いている」のだ。ただし心の中で知るだけで、口には出せない。やむを得ない時でも「お嬢さんがご商売中」と言わねばならない。あの腰を曲げ拱手する輩について文章を書く時も、「謙虚に人に接し、虚心に事に当たる」と改めなければならないのだ。――これでこそ悪口ではなく、これでこそ風刺ではないのである。 |
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其實,現在的所謂諷刺作品,大抵倒是寫實。非寫實決不能成為所謂「諷刺」;非寫實的諷刺,即使能有這樣的東西,也不過是造謠和誣衊而已。 |
実のところ、今日のいわゆる風刺作品の大部分は、むしろ写実である。写実でなければいわゆる「風刺」は成り立たない。写実でない風刺は、たとえそんなものがあり得るとしても、でっちあげと誣告に過ぎない。 |
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三月十六日。 |
三月十六日。 |
第12節
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自從議論寫別字以至現在的提倡手頭字,其間的經過,恐怕也有一年多了,我記得自己並沒有說什麼話。這些事情,我是不反對的,但也不熱心,因為我以為方塊字本身就是一個死症,吃點人參,或者想一點什麼方法,固然也許可以拖延一下,然而到底是無可挽救的,所以一向就不大注意這回事。 |
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前幾天在《自由談》上看見陳友琴先生的《活字與死字》,才又記起了舊事來。他在那裡提到北大招考,投考生寫了誤字,「劉半農教授作打油詩去嘲弄他,固然不應該」,但我「曲為之辯,亦大可不必」。那投考生的誤字,是以「倡明」為「昌明」,劉教授的打油詩,是解「倡」為「娼妓」,我的雜感,是說「倡」不必一定作「娼妓」解,自信還未必是「曲」說;至於「大可不必」之評,那是極有意思的,一個人的言行,從別人看來,「大可不必」之點多得很,要不然,全國的人們就好像是一個了。 |
別字(当て字)の議論から現在の手頭字(略字)の提唱に至るまでの経緯は、おそらく一年余りにもなるだろうが、私自身は何も発言しなかったと記憶している。これらのことに私は反対しないが、かといって熱心でもない。方塊字(漢字)そのものが不治の病であり、人参を少し飲ませたり何か方法を考えたりすれば、なるほど多少は延命できようが、結局は救いようがないと思うからだ。だからずっとこの問題にはあまり注意を払わなかった。 |
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我還沒有明目張膽的提倡過寫別字,假如我在做國文教員,學生寫了錯字,我是要給他改正的,但一面也知道這不過是治標之法。至於去年的指摘劉教授,卻和保護別字微有不同。(一)我以為既是學者或教授,年齡至少和學生差十年,不但飯菜多吃了萬來碗了,就是每天認一個字,也就要比學生多識三千六百個,比較的高明,是應該的,在考卷裡發見幾個錯字,「大可不必」飄飄然生優越之感,好像得了什麼寶貝一樣。況且(二)現在的學校,科目繁多,和先前專攻八股的私塾,大不相同了,縱使文字不及從前,正也毫不足怪,先前的不寫錯字的書生,他知道五洲的所在,原質的名目嗎?自然,如果精通科學,又擅文章,那也很不壞,但這不能含含胡胡,責之一般的學生,假使他要學的是工程,那麼,他只要能築堤造路,治河導淮就盡夠了,寫「昌明」為「倡明」,誤「留學」為「流學」,堤防決不會因此就倒塌的。如果說,別國的學生對於本國的文字,決不致鬧出這樣的大笑話,那自然可以歸罪於中國學生的偏偏不肯學,但也可以歸咎于先生的不善教,要不然,那就只能如我所說:方塊字本身就是一個死症。 |
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改白話以至提倡手頭字,其實也不過一點樟腦針,不能起死回生的,但這就又受著纏不清的障害,至今沒有完。還記得提倡白話的時候,保守者對於改革者的第一彈,是說改革者不識字,不通文,所以主張用白話。對於這些打著古文旗子的敵軍,是就用古書作「法寶」,這才打退的,以毒攻毒,反而證明了反對白話者自己的不識字,不通文。要不然,這古文旗子恐怕至今還不倒下。去年曹聚仁先生為別字辯護,戰法也是搬古書,弄得文人學士之自以為識得「正字」者,哭笑不得,因為那所謂「正字」就有許多是別字。這確是轟毀舊營壘的利器。現在已經不大有人來辯文的白不白——但「尋開心」者除外——字的別不別了,因為這會引到今文《尚書》,骨甲文字去,麻煩得很。這就是改革者的勝利——至於這改革的損益,自然又作別論。 |
先日『自由談』で陳友琴氏の『活字と死字』を読み、ようやく旧事を思い出した。彼はそこで北京大学の入試で受験生が誤字を書いたことに触れ、「劉半農教授が打油詩で彼を嘲弄したのは、もとより不当だ」が、私が「曲弁護したのも大いに不必要」だと言っている。受験生の誤字とは「倡明」を「昌明」と書いたことで、劉教授の打油詩は「倡」を「娼妓」と解したもの、私の雑感は「倡」は必ずしも「娼妓」と解する必要はないと言ったもので、自分ではまだ「曲」説ではないと信じている。「大いに不必要」という評価は実に興味深い。一人の人間の言行は、他人から見れば「大いに不必要」な点がいくらでもあるのだ。そうでなければ、全国民がまるで一人のようになってしまう。 |
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陳友琴先生的《死字和活字》,便是在這決戰之後,重整陣容的最穩的方法,他已經不想從根本上斤斤計較字的錯不錯,即別不別了。他只問字的活不活;不活,就算錯。他引了一段何仲英先生的《中國文字學大綱》來做自己的代表—— |
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「……古人用通借,也是寫別字,也是不該。不過積古相沿,一向通行,到如今沒有法子強人改正。假使個個字都能夠改正,是《易經》裡所說的‘爸父之蠱’。縱使不能,豈可在古人寫的別字以外再加許多別字呢?古人寫的別字,通行到如今,全國相同,所以還可以解得。今人若添寫許多別字,各處用各處的方音去寫,別省別縣的人,就不能懂得了,後來全國的文字,必定彼此不同,這不是一種大障礙嗎?……」 |
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這頭幾句,恕我老實的說罷,是有些可笑的。假如我們先不問有沒有法子強人改正,自己先來改正一部古書試試罷,第一個問題是拿什麼做「正字」,《說文》,金文,骨甲文,還是簡直用陳先生的所謂「活字」呢?縱使大家願意依,主張者自己先就沒法改,不能「爸父之蠱」。所以陳先生的代表的接著的主張是已經錯定了的,就一任他錯下去,但是錯不得添,以免將來破壞文字的統一。是非不談,專論利害,也並不算壞,但直白的說起來,卻只是維持現狀說而已。 |
私はまだ公然と別字を提唱したことはない。もし国語教師をしていたなら、生徒が誤字を書けば訂正するだろうが、同時にこれは対症療法に過ぎないことも承知している。去年の劉教授への批判は、別字の擁護とはいささか異なる。(一)学者や教授であれば、年齢は学生より少なくとも十年上であり、食事も一万杯余分に食べているだけでなく、毎日一字ずつ覚えても学生より三千六百字多く知っているはずで、比較的に賢いのは当然のことだ。答案に誤字をいくつか見つけたからといって、何か宝物でも拾ったかのように得意になる「大いなる必要」はない。しかも(二)今の学校は科目が多く、八股文だけを専攻した昔の塾とはまるで違うのだから、文字力が昔に及ばなくてもまったく怪しむに足りない。昔の誤字を書かない書生は、五大州の所在や元素の名前を知っていたかどうか。もちろん科学に精通し文章にも長けていれば結構だが、それを一般の学生に漫然と求めることはできない。もし彼が学ぶのが工学なら、堤防を築き道路を造り、河川を治め淮河を導くことができれば十分であって、「昌明」を「倡明」と書き「留学」を「流学」と誤っても、堤防がそのために崩壊することは決してないのだ。 |
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維持現狀說是任何時候都有的,贊成者也不會少,然而在任何時候都沒有效,因為在實際上決定做不到。假使古時候用此法,就沒有今之現狀,今用此法,也就沒有將來的現狀,直至遼遠的將來,一切都和太古無異。以文字論,則未有文字之時,就不會象形以造「文」,更不會孳乳而成「字」,篆決不解散而為隸,隸更不簡單化為現在之所謂「真書」。文化的改革如長江大河的流行,無法遏止,假使能夠遏止,那就成為死水,縱不乾涸,也必腐敗的。當然,在流行時,倘無弊害,豈不更是非常之好?然而在實際上,卻斷沒有這樣的事。回復故道的事是沒有的,一定有遷移;維持現狀的事也是沒有的,一定有改變。有百利而無一弊的事也是沒有的,只可權大小。況且我們的方塊字,古人寫了別字,今人也寫別字,可見要寫別字的病根,是在方塊字本身的,別字病將與方塊字本身並存,除了改革這方塊字之外,實在並沒有救濟的十全好方法。 |
【以下、白話への改革と手頭字の提唱は一本のカンフル注射に過ぎず死者を蘇生させることはできないが、それでもなお紛糾が絶えない、と論じる。白話提唱時に保守派は改革者の無学を攻撃したが、古書を「法宝」として毒を以て毒を制し撃退した経緯を述べ、曹聚仁の別字擁護論、陳友琴の「死字と活字」論、何仲英の「中国文字学大綱」からの引用を分析し、「現状維持」論が一見穏当に見えて実際には行い得ないものであることを歴史的事実から論証する。方塊字に別字がつきまとうのは方塊字そのものに病根があり、方塊字を改革する以外に十全の救済策はない、と結ぶ。三月二十一日。】 |
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復古是難了,何先生也承認。不過現狀卻也維持不下去,因為我們現在一般讀書人之所謂「正字」,其實不過是前清取士的規定,一切指示,都在薄薄的三本所謂「翰苑分書」的《字學舉隅》中,但二十年來,在不聲不響中又有了一點改變。從古訖今,什麼都在改變,但必須在不聲不響中,倘一道破,就一定有窒礙,維持現狀說來了,復古說也來了。這些說頭自然也無效。但一時不失其為一種窒礙卻也是真的,它能夠使一部分的有志於改革者遲疑一下子,從招潮者變為乘潮者。 |
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我在這裡,要說的只是維持現狀說聽去好像很穩健,但實際上卻是行不通的,史實在不斷的證明著它只是一種「並無其事」:僅在這一些。 |
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三月二十一日。 |
第13節
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愛倫堡(Ilia Ehrenburg)論法國的上流社會文學家之後,他說,此外也還有一些不同的人們:“教授們無聲無息地在他們的書房裡工作著,實驗X光線療法的醫生死在他們的職務上,奮身去救自己的夥伴的漁夫悄然沉沒在大洋裡面。……一方面是莊嚴的工作,另一方面卻是荒淫與無恥。” |
エレンブルグ(Ilia Ehrenburg)がフランスの上流社会の文学者を論じた後、彼はこう言った。このほかにもいくらか違った人々がいる――「教授たちは声もなく書斎で働き、X線療法を実験する医師は職務の上で死に、仲間を救おうと身を投じた漁師は大洋の中に静かに沈む。……一方には厳粛な仕事があり、他方には荒淫と無恥がある。」 |
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這末兩句,真也好像說著現在的中國。然而中國是還有更其甚的呢。手頭沒有書,說不清見於那裡的了,也許是已經漢譯了的日本箭內亙氏的著作罷,他曾經一一記述了宋代的人民怎樣為蒙古人所淫殺,俘獲,踐踏和奴使。然而南宋的小朝廷卻仍舊向殘山剩水間的黎民施威,在殘山剩水間行樂;逃到那裡,氣焰和奢華就跟到那裡,頹靡和貪婪也跟到那裡。“若要官,殺人放火受招安;若要富,跟著行在賣酒醋。”這是當時的百姓提取了朝政的精華的結語。 |
この末尾の二句は、まさに今の中国を語っているかのようだ。しかし中国にはさらに甚だしいものがある。手元に書物がなく、どこで見たか定かでないが、おそらくすでに漢訳されている日本の箭内亙氏の著作であろう。彼はかつて、宋代の人民がいかにしてモンゴル人に凌辱され殺され、捕虜にされ、蹂躙され奴隷にされたかを一つ一つ記述した。しかし南宋の小朝廷は依然として残山剰水の間の庶民に威を振るい、残山剰水の間で遊楽した。逃げた先々に、気焔と奢華がつきまとい、頽靡と貪婪もまたつきまとった。「官になりたくば人を殺し火を放ち招安を受けよ。富みたくば行在に従い酒酢を売れ。」これが当時の百姓が朝政の精髄を煮詰めた結語である。 人民は欺瞞と圧制のもとで力を失い声を奪われ、せいぜいいくつかの民謡があるばかりだ。「天下に道あれば、庶人は議せず。」秦の始皇帝や隋の煬帝でさえ、自ら無道を認めるだろうか。百姓はただ永久に口を閉ざし舌を結び、次々と殺され、奴隷にされるしかない。この状況はずっと続き、誰もが口を開くことを忘れてしまった。いや、おそらく口を開くことができなかったのだ。清末に限っても、大事件は少なくなかった――阿片戦争、中仏戦争、日清戦争、戊戌の政変、義和団事件、八カ国連合軍、辛亥革命。にもかかわらず我々にはまともな歴史的著作が一つもなく、文学作品など言うまでもない。「国事を談ずるなかれ」、これが小民たる我々の本分なのだ。 |
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人民在欺騙和壓制之下,失了力量,啞了聲音,至多也不過有幾句民謠。“天下有道,則庶人不議。”就是秦始皇隋煬帝,他會自承無道麼?百姓就只好永遠箝口結舌,相率被殺,被奴。這情形一直繼續下來,誰也忘記了開口,但也許不能開口。即以前清末年而論,大事件不可謂不多了:鴉片戰爭,中法戰爭,中日戰爭,戊戌政變,義和拳變,八國聯軍,以至民元革命。然而我們沒有一部像樣的歷史的著作,更不必說文學作品了。“莫談國事”,是我們做小民的本分。我們的學者也曾說過:要征服中國,必須征服中國民族的心。其實,中國民族的心,有些是早給我們的聖君賢相武將幫閒之輩征服了的。近如東三省被占之後,聽說北平富戶,就不願意關外的難民來租房子,因為怕他們付不出房租。在南方呢,恐怕義軍的消息,未必能及鞭斃土匪,蒸骨驗屍,阮玲玉自殺,姚錦屏化男的能夠聳動大家的耳目罷?“一方面是莊嚴的工作,另一方面卻是荒淫與無恥。” |
我々の学者もかつて言った――中国を征服するには、中国民族の心を征服しなければならない、と。実のところ、中国民族の心は、一部はとうの昔に我々の聖君賢相・武将・幇間の輩に征服されているのだ。近くは東三省が占領された後、北平の富裕層は関外の難民に家を貸したがらなかったという。家賃が払えないのを恐れてのことだ。南方では、義軍の消息が、土匪の鞭殺、蒸骨験屍、阮玲玉の自殺、姚錦屏の男装ほどに世間の耳目を聳動させることはおそらくあるまい。「一方には厳粛な仕事があり、他方には荒淫と無恥がある。」 だが、人民が進歩したのか、それとも時代が近すぎてまだ埋もれていないためか、東三省占領についての小説を私はいくつか見たことがある。この『八月の郷村』はまさにその中の優れた一冊である。短篇の連続に近いきらいがあり、構成や人物描写の手腕もファジェーエフの『壊滅』には及ばないが、厳粛で緊張に満ち、作者の心血と失われた空と大地と、苦しむ人民、さらには失われた茂る草と高粱と虫の声と蚊とが一塊になって、鮮紅色に読者の目の前に展開し、中国の一部と全体、現在と未来、死路と活路を示している。人の心を持つ読者なら、読み通せるだろうし、得るところがあるだろう。 「中国民族を征服するには、中国民族の心を征服しなければならない!」だがこの書物は「心の征服」を妨げる。心の征服は、まず中国人自身が代行しなければならない。宋は道学をもって金元のために心を治め、明は党獄をもって満清のために口を封じた。この書物がもちろん満洲帝国に容れられないのは当然だが、私が見るに、したがって中華民国にも容れられないのは当然である。この事は間もなく実証されるだろう。もし事実が私の推測の誤りでないことを証明すれば、それはまたこれが大変良い書物であることを証明するのだ。 |
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但是,不知道是人民進步了,還是時代太近,還未湮沒的緣故,我卻見過幾種說述關於東三省被占的事情的小說。這《八月的鄉村》,即是很好的一部,雖然有些近乎短篇的連續,結構和描寫人物的手段,也不能比法捷耶夫的《毀滅》,然而嚴肅,緊張,作者的心血和失去的天空,土地,受難的人民,以至失去的茂草,高粱,蟈蟈,蚊子,攪成一團,鮮紅的在讀者眼前展開,顯示著中國的一份和全部,現在和未來,死路與活路。凡有人心的讀者,是看得完的,而且有所得的。 |
良書がなぜ中華民国に容れられないのか。それはもちろん、上にすでに何度も述べた―― 「一方には厳粛な仕事があり、他方には荒淫と無恥がある!」 |
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“要征服中國民族,必須征服中國民族的心!”但這書卻於“心的征服”有礙。心的征服,先要中國人自己代辦。宋曾以道學替金元治心,明曾以党獄替滿清箝口。這書當然不容于滿洲帝國,但我看也因此當然不容于中華民國。這事情很快的就會得到實證。如果事實證明了我的推測並沒有錯,那也就證明了這是一部很好的書。 |
これは序文らしくない。だが私は知っている、作者と読者は決して私にこうしたことを咎めはしないと。 |
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好書為什麼倒會不容于中華民國呢?那當然,上面已經說過幾回了—— |
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“一方面是莊嚴的工作,另一方面卻是荒淫與無恥!” |
一九三五年三月二十八日の夜、魯迅読了して記す。 |
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這不像序。但我知道,作者和讀者是決不和我計較這些的。 |
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一九三五年三月二十八日之夜,魯迅讀畢記。 |
第14節
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我覺得中國有時是極愛平等的國度。有什麼稍稍顯得特出,就有人拿了長刀來削平它。以人而論,孫桂雲是賽跑的好手,一過上海,不知怎的就萎靡不振,待到到得日本,不能跑了;阮玲玉算是比較的有成績的明星,但「人言可畏」,到底非一口氣吃下三瓶安眠藥片不可。自然,也有例外,是捧了起來。但這捧了起來,卻不過為了接著摔得粉碎。大約還有人記得「美人魚」罷,簡直捧得令觀者發生肉麻之感,連看見姓名也會覺得有些滑稽。契訶夫說過:「被昏蛋所稱讚,不如戰死在他手裡。」真是傷心而且悟道之言。但中國又是極愛中庸的國度,所以極端的昏蛋是沒有的,他不和你來戰,所以決不會爽爽快快的戰死,如果受不住,只好自己吃安眠藥片。 |
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在所謂文壇上當然也不會有什麼兩樣:翻譯較多的時候,就有人來削翻譯,說它害了創作;近一兩年,作短文的較多了,就又有人來削「雜文」,說這是作者的墮落的表現,因為既非詩歌小說,又非戲劇,所以不入文藝之林,他還一片婆心,勸人學學托爾斯泰,做《戰爭與和平》似的偉大的創作去。這一流論客,在禮儀上,別人當然不該說他是「昏蛋」的。批評家嗎?他謙虛得很,自己不承認。攻擊雜文的文字雖然也只能說是雜文,但他又決不是雜文作家,因為他不相信自己也相率而墮落。如果恭維他為詩歌小說戲劇之類的偉大的創作者,那麼,恭維者之為「昏蛋」也無疑了。歸根結底,不是東西而已。不是東西之談也要算是「人言」,這就使弱者覺得倒是安眠藥片較為可愛的緣故。不過這並非戰死。問是有人要問的:給誰害死的呢?種種議論的結果,兇手有三位:曰,萬惡的社會;曰,本人自己;曰,安眠藥片。完了。 |
中国は時として極めて平等を愛する国だと私は感じる。何かが少しでも突出すると、誰かが長刀を持って来てそれを削り平らにする。人について言えば、孫桂雲は短距離走の名手であったが、上海に来るや何故か萎靡不振となり、日本に着いた頃にはもう走れなくなった。阮玲玉は比較的に実績のある映画スターであったが、「人言恐るべし」、ついには安眠薬を三瓶一気に飲まずにはいられなかった。もちろん例外もあり、持ち上げられることもある。だがこの持ち上げられるというのは、続けて粉々に叩き落とすためにほかならない。「美人魚」のことを覚えている人もまだいるだろう。見る者が鳥肌を立てるほどに持ち上げられ、名前を見ただけで滑稽を覚えるほどだった。チェーホフがかつて言った――「愚か者に褒められるよりは、その手にかかって戦死する方がましだ。」まことに悲痛にして悟道の言である。だが中国はまた極めて中庸を愛する国でもあるから、極端な愚か者はおらず、あなたと戦ってはくれない。だから爽やかに戦死することは決してできず、耐えられなければ自分で安眠薬を飲むしかない。 |
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我們試去查一通美國的「文學概論」或中國什麼大學的講義,的確,總不能發見一種叫作Tsawen的東西。這真要使有志于成為偉大的文學家的青年,見雜文而心灰意懶:原來這並不是爬進高尚的文學樓臺去的梯子。托爾斯泰將要動筆時,是否查了美國的「文學概論」或中國什麼大學的講義之後,明白了小說是文學的正宗,這才決心來做《戰爭與和平》似的偉大的創作的呢?我不知道。但我知道中國的這幾年的雜文作者,他的作文,卻沒有一個想到「文學概論」的規定,或者希圖文學史上的位置的,他以為非這樣寫不可,他就這樣寫,因為他只知道這樣的寫起來,于大家有益。農夫耕田,泥匠打牆,他只為了米麥可吃,房屋可住,自己也因此有益之事,得一點不虧心的糊口之資,歷史上有沒有「鄉下人列傳」或「泥水匠列傳」,他向來就並沒有想到。如果他只想著成什麼所謂氣候,他就先進大學,再出外洋,三做教授或大官,四變居士或隱逸去了。歷史上很尊隱逸,《居士傳》不是還有專書嗎,多少上算呀,噫! |
いわゆる文壇でも二様あるわけがない。翻訳が多い時期には翻訳を削る者が現れ、創作を害していると言い、ここ一二年は短文を書く者が多くなると、今度は「雑文」を削る者が現れ、作者の堕落の表れだと言う。詩歌でも小説でも戯曲でもないから文芸の林には入れないのだと。彼はなおも一片の婆心で、トルストイに学んで『戦争と平和』のような偉大な創作をせよと勧める。この類の論客は、礼儀上、もちろん「愚か者」と呼ぶわけにはいかない。批評家かといえば、彼は謙遜なもので自ら認めない。雑文を攻撃する文章は自身も雑文に過ぎないが、自分もまた相率いて堕落したとは信じないのだ。 |
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但是,雜文這東西,我卻恐怕要侵入高尚的文學樓臺去的。小說和戲曲,中國向來是看作邪宗的,但一經西洋的「文學概論」引為正宗,我們也就奉之為寶貝,《紅樓夢》《西廂記》之類,在文學史上竟和《詩經》《離騷》並列了。雜文中之一體的隨筆,因為有人說它近於英國的Essay,有些人也就頓首再拜,不敢輕薄。寓言和演說,好像是卑微的東西,但伊索和契開羅,不是坐在希臘羅馬文學史上嗎?雜文發展起來,倘不趕緊削,大約也未必沒有擾亂文苑的危險。以古例今,很可能的,真不是一個好消息。但這一段話,我是和不是東西之流開開玩笑的,要使他爬耳搔腮,熱剌剌的覺得他的世界有些灰色。前進的雜文作者,倒決不計算著這些。 |
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其實,近一兩年來,雜文集的出版,數量並不及詩歌,更其趕不上小說,慨歎於雜文的氾濫,還是一種胡說八道。只是作雜文的人比先前多幾個,卻是真的,雖然多幾個,在四萬萬人口裡面,算得什麼,卻就要誰來疾首蹙額?中國也真有一班人在恐怕中國有一點生氣;用比喻說:此之謂「虎倀」。 |
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這本集子的作者先前有一本《不驚人集》,我只見過一篇自序;書呢,不知道那裡去了。這一回我希望一定能夠出版,也給中國的著作界豐富一點。我不管這本書能否入于文藝之林,但我要背出一首詩來比一比:「夫子何為者?棲棲一代中。地猶鄹氏邑,宅接魯王宮。歎鳳嗟身否,傷麟怨道窮。今看兩楹奠:猶與夢時同。」這是《唐詩三百首》裡的第一首,是「文學概論」詩歌門裡的所謂「詩」。但和我們不相干,那裡能夠及得這些雜文的和現在切貼,而且生動,潑剌,有益,而且也能移人情。能移人情,對不起得很,就不免要攪亂你們的文苑,至少,是將不是東西之流的唾向雜文的許多唾沫,一腳就踏得無蹤無影了,只剩下一張滿是油汗兼雪花膏的嘴臉。 |
【以下、魯迅は雑文が「文学概論」の正統にないことを逆説的に論じる。トルストイが「文学概論」を参照して『戦争と平和』を書いたかどうかは知らないが、中国のここ数年の雑文作者は「文学概論」の規定も文学史上の地位も考えておらず、こう書くしかないから書くのだ、農夫が田を耕し左官が壁を塗るように、と主張する。随筆はイギリスのEssayに近いから敬われ、寓言もイソップがギリシャ文学史に座っている以上、雑文もいずれ文苑を攪乱する危険がある、と論ずる。実際には雑文集の出版数は詩歌にも及ばず小説にはなおさら及ばないのだから、雑文の氾濫を嘆くのはでたらめに過ぎない。雑文には「言に物あり」の力があり、中国の著作界を活気づかせ、つまらぬ輩を縮み上がらせ、「芸術のための芸術」の作品を比較の上で生気のないものに見せる効用がある。雑文作家は「人言恐るべし」を信じて安眠薬を買いに行くことなかれ、と結ぶ。一九三五年三月三十一日、魯迅、上海の卓面書斎にて記す。】 |
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這嘴臉當然還可以嘮叨,說那一首「夫子何為者」並非好詩,並且時代也過去了。但是,文學正宗的招牌呢?「文藝的永久性」呢? |
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我是愛讀雜文的一個人,而且知道愛讀雜文還不只我一個,因為它「言之有物」。我還更樂觀於雜文的開展,日見其斑斕。第一是使中國的著作界熱鬧,活潑;第二是使不是東西之流縮頭;第三是使所謂「為藝術而藝術」的作品,在相形之下,立刻顯出不死不活相。我所以極高興為這本集子作序,並且借此發表意見,願我們的雜文作家,勿為虎倀所迷,以為「人言可畏」,用最末的稿費買安眠藥片去。 |
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一九三五年三月三十一日,魯迅記於上海之卓面書齋。 |
第15節
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中國的成語祇有「人生識字憂患始」,這一句是我翻造的。 |
中国の成語にはただ「人生、字を識りて憂患始まる」とあるだけだが、この一句は私が作り変えたものだ。 |
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孩子們常常給我好敎訓,其一是學話。他們學話的時候,沒有敎師,沒有語法敎科書,沒有字典,祇是不斷的聽取,記住,分析,比較,終於懂得每個詞的意義,到得兩三歲,普通的簡單的話就大槪能夠懂,而且能夠說了,也不大有錯誤。小孩子往往喜歡聽人談天,更喜歡陪客,那大目的,固然在於一同吃點心,但也爲了愛熱鬧,尤其是在硏究別人的言語,看有甚麼對於自己有關係——能懂,該問,或可取的。 |
子供たちはいつも私に良い教訓を与えてくれる。その一つは言葉を学ぶことだ。彼らが言葉を学ぶ時、教師もなく、文法の教科書もなく、辞書もなく、ただ絶えず聞き取り、記憶し、分析し、比較して、ついには一つ一つの言葉の意味を理解する。二、三歳になれば、普通の簡単な話はおおよそ理解でき、また話すこともでき、さほど間違いもない。子供はよく大人の雑談を聞きたがり、来客の席に加わりたがるが、その最大の目的はもちろん一緒にお菓子を食べることだが、賑やかなのが好きだからでもあり、とりわけ他人の言葉を研究しているのだ。自分に関わりのあること――わかること、聞くべきこと、取り入れるべきこと――がないかどうかを。 |
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我們先前的學古文也用同樣的方法,敎師並不講解,祇要你死讀,自己去記住,分析,比較去。弄得好,是終於能夠有些懂,並且竟也可以寫出幾句來的,然而到底弄不通的也多得很。自以爲通,別人也以爲通了,但一看底細,還是並不怎麼通,連明人小品都點不斷的,又何嚐少有?人們學話,從高等華人以至下等華人,祇要不是聾子或啞子,學不會的是幾乎沒有的,一到學文,就不同了,學會的恐怕不過極少數,就是所謂學會了的人們之中,請恕我坦白的再來重複的說一句罷,大約仍然糊糊塗塗的還是很不少。這自然是古文作怪。因爲我們雖然拚命的讀古文,但時間究竟是有限的,不像說話,整天的可以聽見;而且所讀的書,也許是『莊子』和『文選』呀,『東萊博議』呀,『古文觀止』呀,從周朝人的文章,一直讀到明朝人的文章,非常駁雜,腦子給古今各種馬隊踐踏了一通之後,弄得亂七八遭,但蹄蹟當然是有些存留的,這就是所謂「有所得」。這一種「有所得」當然不會淸淸楚楚,大槪是似懂非懂的居多,所以自以爲通文了,其實卻沒有通,自以爲識字了,其實也沒有識。自己本是糊塗的,寫起文章來自然也糊塗,讀者看起文章來,自然也不會倒明白。然而無論怎樣的糊塗文作者,聽他講話,卻大抵清楚,不至於令人聽不懂的——除了故意大顯本領的講演之外。因此我想,這「糊塗」的來源,是在識字和讀書。 |
我々が以前に古文を学んだのも同じ方法であった。教師は解説せず、ただ暗唱せよと言うだけで、自分で記憶し、分析し、比較するのだ。うまくいけばいくらかは理解でき、いくつか文章も書けるようになるが、結局わからないままの者も大変に多い。自分ではわかったつもりで、他人もわかったと思っているが、底の底を見れば、やはりたいしてわかっておらず、明代の小品文にすら句読点を打てない者が少なくないではないか。人が話し言葉を学ぶのは、上等華人から下等華人まで、聾唖でない限り学べない者はほとんどいないが、文章を学ぶとなるとまるで違い、学べた者はおそらくごく少数であり、いわゆる学べた者の中でも、お許しを乞うて率直にもう一度言わせていただくが、おそらくまだ糊塗としている者がかなり多いのだ。これはもちろん古文のせいである。なぜなら我々は命がけで古文を読むが、時間には限りがあり、話し言葉のように一日中聞いていられるわけではない。しかも読む書物は『荘子』や『文選』や、『東莱博議』や『古文観止』やで、周の時代の文章から明の時代の文章まで、甚だ雑駁で、脳がいにしえ今の各種の馬隊に踏み荒らされた後は乱七八糟になるが、蹄跡は多少残る。これがいわゆる「得る所あり」である。この「得る所あり」はもちろん明晰ではなく、おおかた似懂非懂の状態であるから、自分では文に通じたつもりでも実は通じておらず、字を識ったつもりでも実は識っていない。自分がそもそも糊塗なのだから、文章を書けば自ずから糊塗になり、読者が読んでもかえって明白にはならない。しかしどんなに糊塗な文章の書き手でも、その話を聞けばたいてい明瞭で、聞き取れないほどではない――わざと大いに才能を見せつける講演を除いて。だから私は思うのだ、この「糊塗」の源は、字を識り書を読むことにある、と。 |
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例如我自己,是常常會用些書本子上的詞匯的。雖然並非甚麼冷僻字,或者連讀者也並不覺得是冷僻字。然而假如有一位精細的讀者,請了我去,交給我一枝鉛筆和一張紙,說道,「您老的文章裏,說過這山是『崚嶒』的,那山是『巉巖』的,那究竟是怎麼一副樣子呀?您不會畫畫兒也不要緊,就鉤出一點輪廓來給我看看罷。請,請,請……」這時我就會腋下出汗,恨無地洞可鑽。因爲我實在連自己也不知道「崚嶒」和「巉巖」究竟是甚麼樣子,這形容詞,是從舊書上鈔來的,向來就並沒有弄明白,一經切實的考查,就糟了。此外如「幽婉」,「玲瓏」,「蹣跚」,「囁嚅」……之類,還多得很。 |
たとえば私自身、書物の中の語彙をよく使う。さほど僻字でもなく、読者もさして僻字とは感じないかもしれない。しかしもし精密な読者がいて、私を招き、鉛筆と紙を渡して言ったとしよう、「先生の文章に、この山は『崚嶒』と、あの山は『巉巖』とありましたが、それはいったいどんな様子ですか。絵が描けなくても構いません、輪郭だけでも見せてください。さあ、さあ、さあ……」その時、私は脇の下に汗をかき、地面に穴があったら入りたいと思うだろう。なぜなら私自身「崚嶒」と「巉巖」がいったいどんな様子なのか知らないからだ。この形容詞は古書から写してきたもので、もともとわかっていなかったのだから、切実に問い詰められればおしまいだ。そのほか「幽婉」「玲瓏」「蹣跚」「囁嚅」……の類はまだいくらでもある。 |
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說是白話文應該「明白如話」,已經要算唱厭了的老調了,但其實,現在的許多白話文卻連「明白如話」也沒有做到。倘要明白,我以爲第一是在作者先把似識非識的字放棄,從活人的嘴上,採取有生命的詞彙,搬到紙上來;也就是學學孩子,祇說些自己的確能懂的話。至於舊語的復活,方言的普遍,那自然也是必要的,但一須選擇,二須有字典以確定所含的意義,這是另一問題,在這裏不說它了。 |
白話文は「話すように明白」であるべきだ、というのはもう聞き飽きた古い調べだが、実のところ、現在の多くの白話文は「話すように明白」にさえなっていない。明白であろうとするなら、第一に書き手がまず似て非なる字を捨て、生きた人の口から生命ある語彙を採って紙の上に運ぶことだ。つまり子供に学んで、自分が確かにわかる言葉だけを語ることだ。旧語の復活、方言の普及、それももちろん必要なことだが、一つには選択が必要であり、二つには辞書によって含む意味を確定する必要がある。これは別の問題であるから、ここでは述べない。 |
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四月二日。 |
四月二日。 |
第16節
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老是說著同樣的一句話是要厭的。在所謂文壇上,前年嚷過一回「文人無行」,去年是鬧了一通「京派和海派」,今年又出了新口號,叫作「文人相輕」。 |
いつも同じ言葉ばかり言っていると飽きるものだ。いわゆる文壇では、一昨年は「文人無行」が一度騒がれ、去年は「京派と海派」の一悶着があり、今年はまた新しいスローガンが出てきた。「文人相軽」という。 |
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對於這風氣,口號家很憤恨,他的「真理哭了」,於是大聲疾呼,投一切「文人」以輕蔑。「輕蔑」,他是最憎惡的,但因為他們「相輕」,損傷了他理想中的一道同風的天下,害得他自己也只好施行輕蔑術了。自然,這是「即以其人之道,還治其人之身」,是古聖人的良法,但「相輕」的惡弊,可真也不容易除根。 |
この風潮に対して、スローガン屋は大いに憤慨し、彼の「真理が泣いた」と大声疾呼して、すべての「文人」に軽蔑を投げつける。「軽蔑」こそ彼が最も嫌悪するものだが、彼らが「互いに軽んじ合う」がために、彼の理想とする一道同風の天下を損なったので、自分もやむなく軽蔑術を行使するしかなくなったのだ。もちろんこれは「即ちその人の道を以て、その人の身に還治す」であり、古の聖人の良法だが、「相軽」の悪弊はまことに根絶し難い。 |
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我們如果到《文選》裡去找詞彙的時候,大概是可以遇著「文人相輕」這四個字的,拾來用用,似乎也還有些漂亮。然而,曹聚仁先生已經在《自由談》(四月九日至十一日)上指明,曹丕之所謂「文人相輕」者,是「文非一體,鮮能備善,是以各以所長,相輕所短」,凡所指摘,僅限於製作的範圍。一切別的攻擊形體,籍貫,誣賴,造謠,以至施蟄存先生式的「他自己也是這樣的呀」,或魏金枝先生式的「他的親戚也和我一樣了呀」之類,都不在內。倘把這些都作為曹丕所說的「文人相輕」,是混淆黑白,真理雖然大哭,倒增加了文壇的黑暗的。 |
我々が『文選』の中に語彙を探しに行けば、おそらく「文人相軽」の四字に出会うことができよう。拾って使えば、なかなか立派にも見える。しかし曹聚仁氏がすでに『自由談』(四月九日から十一日)で指摘した通り、曹丕のいわゆる「文人相軽」とは、「文は一体にあらず、備え善くする能わざるは鮮し、是を以て各々長ずる所を以て、短なる所を相軽んず」であり、指摘の範囲は制作に限られている。容姿や出身地への攻撃、誣告、流言、さらには施蟄存氏式の「彼自身もそうではないか」とか、魏金枝氏式の「彼の親戚も私と同じではないか」といった類は、すべてその中に含まれない。これらをすべて曹丕のいう「文人相軽」に含めてしまうのは、黒白を混同するものであり、真理は大いに泣くかもしれないが、かえって文壇の暗黒を増すだけだ。 |
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我們如果到《莊子》裡去找詞彙,大概又可以遇著兩句寶貝的教訓:「彼亦一是非,此亦一是非」,記住了來作危急之際的護身符,似乎也不失為漂亮。然而這是只可暫時口說,難以永遠實行的。喜歡引用這種格言的人,那精神的相距之遠,更甚于叭兒之與老聃,這裡不必說它了。就是莊生自己,不也在《天下篇》裡,曆舉了別人的缺失,以他的「無是非」輕了一切「有所是非」的言行嗎?要不然,一部《莊子》,只要「今天天氣哈哈哈……」七個字就寫完了。 |
我々が『荘子』に語彙を探しに行けば、おそらくまた二句の宝訓に出会うだろう――「彼も亦た一つの是非、此も亦た一つの是非」と。覚えておいて危急の折の護身符にすれば、なかなか立派にも見える。しかしこれは一時的に口で言えても、永久に実行するのは難しい。この種の格言を引用したがる人の精神的な隔たりは、パグ犬と老子との隔たりよりなお甚だしい。ここではそれを述べない。荘子自身でさえ、『天下篇』で他者の欠失を歴挙し、彼の「是非なし」をもって一切の「是非あり」の言行を軽んじたではないか。さもなくば、一部の『荘子』は「今日は天気がいいですなあ、ははは……」の七字で書き終えたことだろう。 |
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但我們現在所處的並非漢魏之際,也不必恰如那時的文人,一定要「各以所長,相輕所短」。凡批評家的對於文人,或文人們的互相評論,各各「指其所短,揚其所長」固可,即「掩其所短,稱其所長」亦無不可。然而那一面一定得有「所長」,這一面一定得有明確的是非,有熱烈的好惡。假使被今年新出的「文人相輕」這一個模模胡胡的惡名所嚇昏,對於充風流的富兒,裝古雅的惡少,銷淫書的癟三,無不「彼亦一是非,此亦一是非」,一律拱手低眉,不敢說或不屑說,那麼,這是怎樣的批評家或文人呢?——他先就非被「輕」不可的! |
だが我々が今いるのは漢魏の際ではなく、当時の文人のように必ず「各々長ずる所を以て、短なる所を相軽んず」る必要もない。批評家の文人に対する論評、あるいは文人同士の互いの評論において、「その短なる所を指し、その長なる所を揚ぐ」でもよく、「その短なる所を掩い、その長なる所を称す」でもかまわない。ただし一方には必ず「長ずる所」がなければならず、他方には必ず明確な是非と熱烈な好悪がなければならない。もし今年新たに出てきた「文人相軽」という漠然たる悪名に怖気づいて、風流を気取る金持ちの坊ちゃんにも、風雅を装う悪漢にも、淫書を売るごろつきにも、一律に「彼も亦た一つの是非、此も亦た一つの是非」と拱手低眉し、言おうとせず言う気もないのであれば、それはいかなる批評家あるいは文人であろうか。――彼こそまず「軽んぜ」られねばならぬのだ! |
第17節
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去年春天,京派大師曾經大大的奚落了一頓海派小丑,海派小丑也曾經小小的回敬了几手,但不多久,就完了。文灘上的風波,總是容易起,容易完,倘使不容易完,也真的不便當。我也曾經略略的趕了一下熱鬧,在許多唇槍舌劍中,以為那時我發表的所說,倒也不算怎麼分析錯了的。其中有這樣的一段—— |
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「……北京是明清的帝都,上海乃各國之租界,帝都多官,租界多商,所以文人之在京者近官,沒海者近商,近官者在使官得名,近商者在使商獲利,而自己亦賴以糊口。要而言之:不過『京派』是官的幫閒,『海派』則是商的幫忙而已。……而官之鄙商,固亦中國舊習,就更使『海派』在『京派』眼中跌落了。……」但到得今年春末,不過一整年帶點零,就使我省悟了先前所說的並不圓滿。目前的事實,是證明著京派已經自己貶損,或是把海派在自己眼睛裡抬高,不但現身說法,演述了派別並不專與地域相關,而且實踐了「因為愛他,所以恨他」的妙語。當初的京海之爭,看作「龍虎鬥」固然是錯誤,就是認為有一條官商之界也不免欠明白。因為現在已經清清楚楚,到底搬出一碗不過黃鱔田雞,炒在一起的蘇式菜——「京海雜燴」來了。 |
去年の春、京派の大家が海派の小丑を大いに嘲弄し、海派の小丑もいくらか応酬したが、間もなく終わった。文壇上の風波は、いつも起きやすく収まりやすいもので、もし収まりにくかったら、それはそれで厄介なことだ。私も少しばかり騒ぎに加わり、多くの唇槍舌剣の中で、あの時に発表した所説は、まんざら分析を誤ってはいなかったと思う。その中にこのような一節がある―― |
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實例,自然是瑣屑的,而且自然也不會有重大的例子。舉一點罷。一,是選印明人小品的大權,分給海派來了;以前上海固然也有選印明人小品的人,但也可以說是冒牌的,這回卻有了真正老京派的題簽,所以的確是正統的衣缽。二,是有些新出的刊物,真正老京派打頭,真正小海派煞尾了;以前固然也有京派開路的期刊,但那是半京半海派所主持的東西,和純粹海派自說是自掏腰包來辦的出產品頗有區別的。要而言之:今兒和前兒已不一樣,京海兩派中的一路,做成一碗了。 |
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到這裡要附帶一點聲明:我是故意不舉出那新出刊物的名目來的。先前,曾經有人用過「某」字,什麼緣故我不知道。但後來該刊的一個作者在該刊上說,他有一位「熟悉商情」的朋友,以為這是因為不替它來作廣告。這真是聰明的好朋友,不愧為「熟悉商情」。由此啟發,子細一想,他的話實在千真萬確:被稱讚固然可以代廣告,被罵也可以代廣告,張揚了榮是廣告,張揚了辱又何嘗非廣告。例如罷,甲乙決鬥,甲贏,乙死了,人們固然要看殺人的兇手,但也一樣的要看那不中用的死屍,如果用蘆席圍起來,兩個銅板看一下,准可以發一點小財的。我這回的不說出這刊物的名目來,主意卻正在不替它作廣告,我有時很不講陰德,簡直 |
「……北京は明清の帝都、上海は各国の租界。帝都には官が多く、租界には商が多い。ゆえに京に在る文人は官に近く、海に在る者は商に近い。官に近き者は官に名を得させ、商に近き者は商に利を得させ、自らもこれに頼って糊口する。要するに、『京派』は官の幇閑であり、『海派』は商の幇忙にすぎない。……而して官の商を鄙しむは、もとより中国の旧習であり、『海派』を『京派』の眼中にいっそう貶めたのだ。……」 |
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要妨礙別人的借死屍斂錢。然而,請老實的看官不要立刻責備我刻薄。 |
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他們那裡肯放過這機會,他們自己會敲了鑼來承認的。 |
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聲明太長了一點了。言歸正傳。我要說的是直到現在,由事實證明,我才明白了去年京派的奚落海派,原來根柢上並不是奚落,倒是路遠迢迢的送來的秋波。 |
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文豪,究竟是有真實本領的,法郎士做過一本《泰綺思》,中國已有兩種譯本了,其中就透露著這樣的消息。他說有一個高僧在沙漠中修行,忽然想到亞歷山大府的名妓泰綺思,是一個貽害世道人心的人物,他要感化她出家,救她本身,救被惑的青年們,也給自己積無量功德。事情還算順手,泰綺思竟出家了,他恨恨的毀壞了她在俗時候的衣飾。但是,奇怪得很,這位高僧回到自己的獨房裡繼續修行時,卻再也靜不下來了,見妖怪,見裸體的女人。他急遁,遠行,然而仍然沒有效。他自己是知道因為其實愛上了泰綺思,所以神魂顛倒了的,但一群愚民,卻還是硬要當他聖僧,到處跟著他祈求,禮拜,拜得他「啞子吃黃連」——有苦說不出。他終於決計自白,跑回泰綺思那裡去,叫道「我愛你!」然而泰綺思這時已經離死 |
だが今年の春末に至り、ちょうど丸一年と少しで、私は先に述べたことが円満でなかったと悟った。目前の事実は、京派がすでに自ら貶損したか、あるいは海派を自分の目の中で持ち上げたことを証明しており、自ら範を示して、派閥は必ずしも地域と相関しないことを演じてみせただけでなく、「彼を愛するがゆえに彼を憎む」の妙語を実践したのだ。当初の京海の争いを「龍虎闘」と見なすのはもちろん誤りだが、官と商の境界があると思うのも不明であった。なぜなら今やすでにはっきりと、結局は一皿の黄鱔と田鶏を一緒に炒めた蘇州料理――「京海雑膾」が出てきたからだ。 |
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期不遠,自說看見了天國,不久就斷氣了。 |
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不過京海之爭的目前的結局,卻和這一本書的不同,上海的泰綺思並沒有死,她也張開兩條臂膊,叫道「來口虐!」於是——團圓了。 |
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《泰綺思》的構想,很多是應用弗洛伊特的精神分析學說的,倘有嚴正的批評家,以為算不得「究竟是有真實本領」,我也不想來爭辯。但我覺得自己卻真如那本書裡所寫的愚民一樣,在沒有聽到「我愛你」和「來口虐」之前,總以為奚落單是奚落,鄙薄單是鄙薄,連現在已經出了氣的弗洛伊特學說也想不到。 |
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到這裡又要附帶一點聲明:我舉出《泰綺思》來,不過取其事蹟,並非處心積慮,要用妓女來比海派的文人。這種小說中的人物,是不妨隨意改換的,即改作隱士,俠客,高人,公主,大少,小老闆之類,都無不可。況且泰綺思其實也何可厚非。她在俗時是潑剌的活,出家後就刻苦的修,比起我們的有些所謂「文人」,剛到中年,就自歎道「我是心灰意懶了」的死樣活氣來,實在更其像人樣。我也可以自白一句:我寧可向潑剌的妓女立正,卻不願意和死樣活氣的文人打棚。 |
【以下、魯迅は具体例として、明人小品の選印権が海派に分与されたこと、新しい刊行物で正統派の京派が先頭に立ち海派が殿を務めるようになったことを挙げ、京派と海派の合流を論ずる。なぜ刊行物の名を挙げないかについて長い声明を付す――広告にしたくないからだ、と。この合流をアナトール・フランスの小説『タイス』になぞらえる。砂漠で修行する高僧が名妓タイスを感化して出家させるが、自らは彼女への恋に苦しみ、ついに「我、汝を愛す!」と告白する物語だ。京派の海派への嘲弄は実は遠方から送られた秋波であり、今年に至ってついに上海のタイスが「いらっしゃい!」と叫んで――団円となった。この合流の原因について、「幇閑」も「幇忙」も近頃いずれも不景気であるから、二界合同で断煉瓦、古靴下、皮外套、洋服、チョコレート、メシェルの類をかき集めて新会社を開いたに過ぎない、と推測する。】 |
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至於為什麼去年北京送秋波,今年上海叫「來口虐」了呢?說起來,可又是事前的推測,對不對很難定了。我想:也許是因為幫閒幫忙,近來都有些「不景氣」,所以只好兩界合辦,把斷磚,舊襪,皮袍,洋服,巧克力,梅什兒……之類,湊在一處,重行開張,算是新公司,想借此來新一下主顧們的耳目罷。 |
第18節
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君以一九三○年三月至滬,出納圖書,既勤且謹,兼修繪事,斐然有成。中遭艱巨,篤行靡改,扶危濟急,公私兩全。越三三年七月,因病歸國休養,方期再造,展其英才,而藥石無靈,終以不起,年僅二十有八。嗚呼,昊天難測,蕙荃早摧,曄曄青春,永門必玄壤,忝居友列,銜哀記焉。一九三五年四月二十二日,會稽魯迅撰。 |
君は一九三〇年三月に上海に来たり、図書の出納に勤しみ且つ慎み、兼ねて画事を修め、斐然として成果あり。途中艱難に遭うも、篤実の行い改めず、危きを扶け急を済し、公私両つながら全うす。三三年七月に至り、病に因りて帰国し静養す。再び起ちてその英才を展ぜんと期するも、薬石の効なく、ついに起たず。年わずかに二十八。ああ、昊天測り難く、蕙荃早くに摧かる。曄曄たる青春は永く玄壤に門す。忝くも友の列に居り、哀を銜みて記す。一九三五年四月二十二日、会稽の魯迅撰。 |
第19節
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「薏米杏仁蓮心粥!」 |
「薏仁杏仁蓮心粥!」 |
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「玫瑰白糖倫教糕!」 |
「バラ白砂糖倫教糕!」 |
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「蝦肉餛飩麵!」 |
「海老肉ワンタン麺!」 |
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「五香茶葉蛋!」 |
「五香茶葉卵!」 |
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這是四五年前,閘北一帶弄堂內外叫賣零食的聲音,假使當時記錄了下來,從早到夜,恐怕總可以有二三十樣。居民似乎也真會化零錢,吃零食,時時給他們一點生意,因為叫聲也時時中止,可見是在招呼主顧了。而且那些口號也真漂亮,不知道他是從「晚明文選」或「晚明小品」裡找過詞匯的呢,還是怎麼的,實在使我似的初到上海的鄉下人,一聽到就有饞涎欲滴之概,「薏米杏仁」而又「蓮心粥」,這是新鮮到連先前的夢裡也沒有想到的。但對於靠筆墨為生的人們,卻有一點害處,假使你還沒有練到「心如古井」,就可以被鬧得整天整夜寫不出什麼東西來。 |
これは四、五年前、閘北一帯の路地の内外で零食を売り歩く声であった。もしあの頃に記録しておいたなら、朝から晩まで、おそらく二、三十種にはなったであろう。住民たちもまことに小銭を使い、間食を好んだようで、時折彼らにいくらかの商売をさせていた。呼び声もしばしば途切れたのは、客の相手をしていた証拠であろう。しかもあの売り声はまことに美しく、「晩明文選」や「晩明小品」から語彙を探してきたのかどうか、実に私のような上海に初めて来た田舎者に、聞くだけで涎が垂れそうな感慨を抱かせた。「薏仁杏仁」にして、さらに「蓮心粥」とは、これは夢にも思い浮かばぬほど新鮮なものであった。しかし筆墨で生計を立てる者にとっては、いささか害がある。もしまだ「心如古井」の境地に至っていなければ、一日中一晩中騒がれて何も書けなくなるのだ。 |
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現在是大不相同了。馬路邊上的小飯店,正午傍晚,先前為長衫朋友所佔領的,近來已經大抵是「寄沉痛於幽閒」;老主顧呢,坐到黃包車夫的老巢的粗點心店裡面去了。至於車夫,那自然只好退到馬路邊沿餓肚子,或者幸而還能夠咬侉餅。弄堂裡的叫賣聲,說也奇怪,竟也和古代判若天淵,賣零食的當然還有,但不過是橄欖或餛飩,卻很少遇見那些「香豔肉感」的「藝術」的玩意了。嚷嚷呢,自然仍舊是嚷嚷的,只要上海市民存在一日,嚷嚷是大約決不會停止的。然而現在卻切實了不少:麻油,豆腐,潤發的刨花,曬衣的竹竿;方法也有改進,或者一個人賣襪,獨自作歌讚歎著襪的牢靠。或者兩個人共同賣布,交互唱歌頌揚著布的便宜。但大概是一直唱著進來,直達弄底,又一直唱著回去,走出弄外,停下來做交易的時候,是很少的。 |
今やすっかり様変わりした。大通り沿いの小さな飯店は、正午や夕方、以前は長衫の友人たちに占領されていたが、近頃はおおむね「沈痛を幽閑に託す」有り様である。常連はといえば、人力車夫の巣窟である粗末な点心屋に移ってしまった。車夫に至っては、もちろん大通りの縁に退いて腹を空かすか、あるいは運が良ければまだ硬い餅を噛めるという程度である。路地の売り声も、不思議なことに、昔とは天と淵ほどの差がある。零食売りはむろんまだいるが、橄欖かワンタンにすぎず、あの「香艶肉感」の「芸術」的な趣向にはめったに遭遇しなくなった。がなり立てるのは、もちろん相変わらずである。上海市民が一日でも存在する限り、がなり声はおおよそ止むことはあるまい。しかし今や実際的になった。胡麻油、豆腐、髪を整える鉋屑、洗濯物を干す竹竿。方法にも改良がある。一人で靴下を売り、独り歌いながら靴下の丈夫さを讃え、あるいは二人で共に布を売り、交互に歌いながら布の安さを頌する。しかしおおむね歌いながら入ってきて、路地の奥まで行き、また歌いながら戻って、路地の外へ出てゆく。立ち止まって商売をする時はごく稀である。 |
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偶然也有高雅的貨色:果物和花。不過這是並不打算賣給中國人的,所以他用洋話:「Ringo,Banana,Appulu-u,Appulu-u-u!」「Hana呀Hana-a-a!Ha-a-na-a-a!」也不大有洋人買。 |
たまには高雅な品物もある。果物と花だ。しかしこれは中国人に売るつもりはないので、洋語を使う。「Ringo、Banana、Appulu-u、Appulu-u-u!」「Hanaや Hana-a-a!Ha-a-na-a-a!」洋人も大して買わない。 |
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間或有算命的瞎子,化緣的和尚進弄來,幾乎是專攻娘姨們的,倒還是他們比較的有生意,有時算一命,有時賣掉一張黃紙的鬼畫符。但到今年,好像生意也清淡了,於是前天竟出現了大佈置的化緣。先只聽得一片鼓鈸和鐵索聲,我正想做「超現實主義」的語錄體詩,這麼一來,詩思被鬧跑了,尋聲看去,原來是一個和尚用鐵鉤鉤在前胸的皮上,鉤柄系有一丈多長的鐵索,在地上拖著走進弄裡來,別的兩個和尚打著鼓和鈸。但是,那些娘姨們,卻都把門一關,躲得一個也不見了。這位苦行的高僧,竟連一個銅子也拖不去。 |
時折、占いの盲人や、托鉢の僧が路地に入ってくる。ほとんど女中たちを専ら攻略しているが、彼らのほうがまだ比較的商売になっており、時に一つ運命を占い、時に一枚の黄紙のまじない符を売る。だが今年は商売も不景気になったようで、先日ついに大がかりな托鉢が現れた。まず太鼓と鈸と鉄鎖の音だけが聞こえた。私はちょうど「超現実主義」の語録体詩を書こうとしていたが、この騒ぎで詩想は追い払われた。声の方を見ると、一人の僧侶が鉄鉤を胸の皮に引っ掛け、鉤の柄には一丈余りの鉄鎖が繋がれ、地面を引き摺りながら路地に入ってきた。別の二人の僧侶が太鼓と鈸を打っていた。しかし、あの女中たちは門を閉ざし、一人残らず隠れてしまった。この苦行の高僧は、銅貨一枚すら引き摺り出せなかった。 |
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事後,我探了探她們的意見,那回答是:「看這樣子,兩角錢是打發不走的。」 |
事後、私は彼女たちの意見を探ってみた。その答えは「あの様子では、二角銭では追い払えない」というものであった。 |
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獨唱,對唱,大佈置,苦肉計,在上海都已經賺不到大錢,一面固然足征洋場上的「人心澆薄」,但一面也可見只好去「復興農村」了,唔。 |
独唱、二重唱、大がかりな仕掛け、苦肉の計——上海ではもはやどれも大金を稼げない。一方ではまことに洋場の「人心の薄情」を証するに足るが、他方ではもう「農村復興」に行くしかないということが見て取れる。ふむ。 |
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四月二十三日。 |
四月二十三日。 |
第20節
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凡是有志於創作的青年,第一個想到的問題,大概總是「應該怎樣寫?」現在市場上陳列著的「小說作法」,「小說法程」之類,就是專掏這類青年的腰包的。然而,好像沒有效,從「小說作法」學出來的作者,我們至今還沒有聽到過。有些青年是設法去問已經出名的作者,那些答案,還很少見有什麼發表,但結果是不難推想而知的:不得要領。這也難怪,因為創作是並沒有什麼秘訣,能夠交頭接耳,一句話就傳授給別一個的,倘不然,只要有這秘訣,就真可以登廣告,收學費,開一個三天包成文豪學校了。以中國之大,或者也許會有罷,但是,這其實是騙子。 |
およそ創作に志ある青年が最初に思い浮かべる問題は、おそらくいつも「いかに書くべきか」であろう。今や市場に並んでいる「小説作法」「小説法程」の類は、まさにこうした青年の懐を狙うものである。しかし効き目はないようで、「小説作法」から出てきた作家を、我々は未だ聞いたことがない。一部の青年はすでに名を成した作家に尋ねに行くが、それらの答えはまだあまり発表されていない。だが結果は推して知るべしで、要領を得ない。これも無理はない。創作には何の秘訣もなく、耳打ちして一言で別の者に伝授できるようなものではない。もし秘訣があるなら、広告を出し、学費を取り、三日で文豪養成学校を開けるであろう。中国ほどの大国なら、あるいはあるかもしれないが、それは実のところ詐欺師である。 |
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在不難推想而知的種種答案中,大概總該有一個是「多看大作家的作品」。這恐怕也很不能滿文學青年的意,因為太寬泛,茫無邊際——然而倒是切實的。凡是已有定評的大作家,他的作品,全部就說明著「應該怎樣寫」。只是讀者很不容易看出,也就不能領悟。因為在學習者一方面,是必須知道了「不應該那麼寫」,這才會明白原來「應該這麼寫」的。這「不應該那麼寫」,如何知道呢?惠列賽耶夫的《果戈理研究》第六章裡,答覆著這問題——「應該這麼寫,必須從大作家們的完成了的作品去領會。那麼,不應該那麼寫這一面,恐怕最好是從那同一作品的未定稿本去學習了。在這裡,簡直好像藝術家在對我們用實物教授。恰如他指著每一行,直接對我們這樣說——‘你看——哪,這是應該刪去的。這要縮短,這要改作,因為不自然了。在這裡,還得加些渲染,使形象更加顯豁些。’」 |
推して知るべき種々の答えの中に、おそらく必ず「大作家の作品を多く読め」というのがあるだろう。これも文学青年の意に適うまいが、あまりに広漠として際限がないから——しかし実は切実な助言である。およそ定評のある大作家の作品は、その全体が「いかに書くべきか」を説明している。ただ読者にはなかなか見えず、従って会得もできない。なぜなら学ぶ者の側では、「そう書くべきではない」ことを知って初めて、「こう書くべきだ」と分かるからである。この「そう書くべきではない」をいかにして知るか。フヴィリサーエフの『ゴーゴリ研究』第六章がこの問いに答えている——「こう書くべきだということは、大作家たちの完成した作品から会得せねばならない。ならば、そう書くべきではないという側面は、おそらくその同じ作品の未定稿本から学ぶのが最善であろう。ここでは、まるで芸術家が実物をもって我々に教えてくれているようだ。まさに一行一行を指差しながら、直接我々にこう語りかけるかのように——『見てごらん——ほら、これは削除すべきだ。これは縮めねばならない、これは書き直さねばならない、不自然になったから。ここにはさらに描写を加え、形象をもっと鮮明にせねばならない。』」 |
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這確是極有益處的學習法,而我們中國卻偏偏缺少這樣的教材。近幾年來,石印的手稿是有一些了,但大抵是學者的著述或日記。也許是因為向來崇尚「一揮而就」,「文不加點」的緣故罷,又大抵是全本乾乾淨淨,看不出苦心刪改的痕跡來。取材於外國呢,則即使精通文字,也無法搜羅名作的初版以至改定版的各種本子的。 |
これはまことに有益な学習法であるが、我々中国にはこうした教材がまさに欠けている。近年、石印の手稿はいくらか出てきたが、おおむね学者の著述や日記である。おそらく従来「一気呵成」「文不加点」を崇尚してきたためであろう、おおむね全本が清潔で、苦心して推敲した痕跡が見えない。外国から材料を取ろうとすれば、たとえ文字に精通していても、名作の初版から改訂版に至る各種の版本を蒐集する術がない。 |
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讀書人家的子弟熟悉筆墨,木匠的孩子會玩斧鑿,兵家兒早識刀槍,沒有這樣的環境和遺產,是中國的文學青年的先天的不幸。 |
読書人の家の子弟は筆墨に馴染み、大工の子は斧鑿で遊び、兵家の子は早くから刀槍を知る。このような環境と遺産がないのは、中国の文学青年の先天的な不幸である。 |
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在沒奈何中,想了一個補救法:新聞上的記事,拙劣的小說,那事件,是也有可以寫成一部文藝作品的,不過那記事,那小說,卻並非文藝——這就是「不應該這樣寫」的標本。只是和「應該那樣寫」,卻無從比較了。 |
やむを得ず、一つの補救策を考えた。新聞の記事や拙劣な小説——その事件は文芸作品に書き上げることもできようが、その記事やその小説は文芸ではない——これこそ「そう書くべきではない」の標本である。ただし「こう書くべきだ」とは比較のしようがなくなるのだが。 |
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四月二十三日。 |
四月二十三日。 |
第21節
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新近的上海的報紙,報告著因為日本的湯島,孔子的聖廟落成了,湖南省主席何鍵將軍就寄贈了一幅向來珍藏的孔子的畫像。老實說,中國的一般的人民,關於孔子是怎樣的相貌,倒幾乎是毫無所知的。自古以來,雖然每一縣一定有聖廟,即文廟,但那裡面大抵並沒有聖像。凡是繪畫,或者雕塑應該崇敬的人物時,一般是以大於常人為原則的,但一到最應崇敬的人物,例如孔夫子那樣的聖人,卻好像連形象也成為褻瀆,反不如沒有的好。這也不是沒有道理的。孔夫子沒有留下照相來,自然不能明白真正的相貌,文獻中雖然偶有記載,但是胡說白道也說不定。若是從新雕塑的話,則除了任憑雕塑者的空想而外,毫無辦法,更加放心不下。於是儒者們也終於只好採取「全部,或全無」的勃蘭特式的態度了。 |
最近の上海の新聞は、日本の湯島に孔子の聖廟が落成したことから、湖南省主席の何鍵将軍がかねて珍蔵していた孔子の画像を寄贈したと報じている。正直に言えば、中国の一般の人民は孔子がどのような容貌であったか、ほとんど何も知らない。古来、どの県にも必ず聖廟すなわち文廟があったが、その中にはおおむね聖像がなかった。およそ崇敬すべき人物を絵画や彫塑にする際には、常人より大きくするのが一般の原則であるが、最も崇敬すべき人物、例えば孔夫子のような聖人になると、形象すら冒瀆になるかのようで、むしろないほうがよいとされる。これも道理がないわけではない。孔夫子は写真を残していないから、真の容貌は自然に分からず、文献に時折記載があっても、出鱈目かもしれない。新たに彫塑するとなれば、彫塑家の空想に任せるほかなく、いよいよ安心できない。かくて儒者たちもついに「全部か、さもなくば皆無」というブラント式の態度を採らざるを得なくなったのだ。 |
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然而倘是畫像,卻也會間或遇見的。我曾經見過三次:一次是《孔子家語》裡的插畫;一次是梁啟超氏亡命日本時,作為橫濱出版的《清議報》上的卷頭畫,從日本倒輸入中國來的;還有一次是刻在漢朝墓石上的孔子見老子的畫像。說起從這些圖畫上所得的孔夫子的模樣的印象來,則這位先生是一位很瘦的老頭子,身穿大袖口的長袍子,腰帶上插著一把劍,或者腋下挾著一枝杖,然而從來不笑,非常威風凜凜的。假使在他的旁邊侍坐,那就一定得把腰骨挺的筆直,經過兩三點鐘,就骨節酸痛,倘是平常人,大約總不免急於逃走的了。 |
しかし画像であれば、時折見かけることもある。私は三度見たことがある。一度は『孔子家語』の挿絵、一度は梁啓超氏が日本に亡命した際に横浜で出版した『清議報』の巻頭画として日本から逆輸入されたもの、もう一度は漢代の墓石に刻まれた孔子が老子に会う画像である。これらの図から得た孔夫子の印象を言えば、この先生は大変痩せた老人で、袖口の広い長袍を身にまとい、腰帯に剣を差し、あるいは脇の下に杖を挟んでいるが、決して笑わず、大変威風堂々としている。もし彼の傍らに侍坐すれば、腰骨をまっすぐに伸ばさねばならず、二、三時間もすれば骨節が痛み、凡人ならばおおむね逃げ出したくなるであろう。 |
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後來我曾到山東旅行。在為道路的不平所苦的時候,忽然想到了我們的孔夫子。一想起那具有儼然道貌的聖人,先前便是坐著簡陋的車子,顛顛簸簸,在這些地方奔忙的事來,頗有滑稽之感。這種感想,自然是不好的,要而言之,頗近於不敬,倘是孔子之徒,恐怕是決不應該發生的。但在那時候,懷著我似的不規矩的心情的青年,可是多得很。 |
後に私は山東を旅行したことがある。道の悪さに苦しんでいる時、ふと我らの孔夫子を思い出した。あの厳かな道貌を具えた聖人が、かつて粗末な車に乗り、がたがた揺られながら、これらの場所を奔走していたことを思い浮かべると、いささか滑稽の感があった。こうした感想は、もとより良くない。要するに不敬に近く、孔子の徒であれば決して抱くべきではなかろう。だが当時、私のような不行儀な心情を懐く青年は、大変多かったのだ。 |
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我出世的時候是清朝的末年,孔夫子已經有了「大成至聖文宣王」這一個闊得可怕的頭銜,不消說,正是聖道支配了全國的時代。政府對於讀書的人們,使讀一定的書,即四書和五經;使遵守一定的注釋;使寫一定的文章,即所謂「八股文」;並且使發一定的議論。然而這些千篇一律的儒者們,倘是四方的大地,那是很知道的,但一到圓形的地球,卻什麼也不知道,於是和四書上並無記載的法蘭西和英吉利打仗而失敗了。不知道為了覺得與其拜著孔夫子而死,倒不如保存自己們之為得計呢,還是為了什麼,總而言之,這回是拚命尊孔的政府和官僚先就動搖起來,用官帑大翻起洋鬼子的書籍來了。屬于科學上的古典之作的,則有侯失勒的《談天》,雷俠兒的《地學淺釋》,代那的《金石識別》,到現在也還作為那時的遺物,間或躺在舊書鋪子裡。 |
私が生まれたのは清朝の末年で、孔夫子はすでに「大成至聖文宣王」という恐ろしいほど立派な称号を持ち、言うまでもなく聖道が全国を支配していた時代であった。政府は読書人に一定の書物、すなわち四書五経を読ませ、一定の注釈に従わせ、一定の文章すなわちいわゆる「八股文」を書かせ、そして一定の議論を述べさせた。しかしこれら画一的な儒者たちは、四角い大地のことはよく知っていたが、丸い地球のこととなると何も知らず、かくて四書に記載のないフランスやイギリスと戦って敗北した。孔夫子を拝みながら死ぬよりは自分たちを保存するほうが得策と覚ったのか、それとも何のためか、ともかくこの度は必死に孔子を尊崇していた政府と官僚がまず動揺し始め、官費で洋鬼子の書籍を盛んに翻訳するようになった。科学の古典的著作としては、ハーシェルの『談天』、ライエルの『地学浅釈』、ダナの『金石識別』があり、今日なおその時の遺物として古本屋に時折横たわっている。 |
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然而一定有反動。清末之所謂儒者的結晶,也是代表的大學士徐桐氏出現了。他不但連算學也斥為洋鬼子的學問;他雖然承認世界上有法蘭西和英吉利這些國度,但西班牙和葡萄牙的存在,是決不相信的,他主張這是法國和英國常常來討利益,連自己也不好意思了,所以隨便胡謅出來的國名。他又是一九○○年的有名的義和團的幕後的發動者,也是指揮者。但是義和團完全失敗,徐桐氏也自殺了。政府就又以為外國的政治法律和學問技術頗有可取之處了。我的渴望到日本去留學,也就在那時候。達了目的,入學的地方,是嘉納先生所設立的東京的弘文學院;在這裡,三澤力太郎先生教我水是養氣和輕氣所合成,山內繁雄先生教我貝殼裡的什麼地方其名為「外套」。這是有一天的事情。學監大久保先生集合起大家來,說:因為你們都是孔子之徒,今天到御茶之水的孔廟裡去行禮罷!我大吃了一驚。現在還記得那時心裡想,正因為絕望於孔夫子和他的之徒,所以到日本來的,然而又是拜麼?一時覺得很奇怪。而且發生這樣感覺的,我想決不止我一個人。 |
しかし反動は必ず来る。清末のいわゆる儒者の結晶にして代表である大学士の徐桐氏が現れた。彼は算学すら洋鬼子の学問と斥け、フランスとイギリスの存在は認めたが、スペインとポルトガルの存在は断じて信じなかった。フランスとイギリスがしょっちゅう利益を求めに来て自分でも恥ずかしくなり、でたらめに捏造した国名だと主張した。彼はまた一九〇〇年の有名な義和団の幕後の発動者にして指揮者であった。しかし義和団は完全に失敗し、徐桐氏も自殺した。政府は再び外国の政治法律や学問技術には取るべきものがあると考えた。私が日本留学を渇望したのもその頃である。目的を達し、入学したのは嘉納先生の設立した東京の弘文学院であった。ここで三澤力太郎先生が水は酸素と水素の化合であると教え、山内繁雄先生が貝殻のある部分の名が「外套」であると教えてくれた。ある日のことである。学監の大久保先生が皆を集めて言った。「諸君は皆孔子の徒であるから、今日は御茶ノ水の孔廟に参拝に行きなさい。」私は大いに驚いた。今でもあの時心の中で思ったことを覚えている——まさに孔夫子とその徒に絶望したからこそ日本に来たのに、また拝めというのか、と。一時大変奇妙に感じた。しかもこのような感覚を抱いたのは、私一人ではなかったと思う。 |
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但是,孔夫子在本國的不遇,也並不是始於二十世紀的。孟子批評他為「聖之時者也」,倘翻成現代語,除了「摩登聖人」實在也沒有別的法。為他自己計,這固然是沒有危險的尊號,但也不是十分值得歡迎的頭銜。不過在實際上,卻也許並不這樣子。孔夫子的做定了「摩登聖人」是死了以後的事,活著的時候卻是頗吃苦頭的。跑來跑去,雖然曾經貴為魯國的警視總監,而又立刻下野,失業了;並且為權臣所輕蔑,為野人所嘲弄,甚至於為暴民所包圍,餓扁了肚子。弟子雖然收了三千名,中用的卻只有七十二,然而真可以相信的又只有一個人。有一天,孔夫子憤慨道:「道不行,乘桴浮於海,從我者,其由與?」從這消極的打算上,就可以窺見那消息。然而連這一位由,後來也因為和敵人戰鬥,被擊斷了冠纓,但真不愧為由呀,到這時候也還不忘記從夫子聽來的教訓,說道「君子死,冠不免」,一面系著冠纓,一面被人砍成肉醬了。連唯一可信的弟子也已經失掉,孔子自然是非常悲痛的,據說他一聽到這信息,就吩咐去倒掉廚房裡的肉醬云。 |
しかし孔夫子の本国での不遇は、二十世紀に始まったことではない。孟子は彼を「聖の時なる者なり」と評したが、現代語に訳せば、「モダン聖人」以外に適訳がない。彼自身にとっては危険のない尊号であろうが、さほど歓迎に値する称号でもない。だが実際にはそうではなかったかもしれない。孔夫子が「モダン聖人」と定まったのは死後のことで、生前はかなり苦労した。あちこち走り回り、一時は魯国の警視総監の地位に就いたが、すぐに下野し失業した。権臣に軽蔑され、野人に嘲弄され、暴民に包囲されて腹を空かした。弟子は三千人集めたが、使い物になるのは七十二人、真に信頼できるのはただ一人であった。ある日、孔夫子は憤慨してこう言った——「道行われず、筏に乗りて海に浮かばん。我に従う者はそれ由か。」この消極的な計画から、その消息が窺い知れる。しかしその唯一信頼すべき由でさえ、後に敵と戦い、冠の紐を断たれたが、まことに由に恥じず、この時もなお夫子から聞いた教訓を忘れず、「君子死すとも冠を免がず」と言いながら冠の紐を結び、その間に斬り殺されて肉醬にされた。唯一信頼できる弟子をも失い、孔子はもとより非常に悲痛であった。その報せを聞くや否や、厨房の肉醬を捨てるよう命じたと伝えられる。 |
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孔夫子到死了以後,我以為可以說是運氣比較的好一點。因為他不會嚕蘇了,種種的權勢者便用種種的白粉給他來化妝,一直抬到嚇人的高度。但比起後來輸入的釋迦牟尼來,卻實在可憐得很。誠然,每一縣固然都有聖廟即文廟,可是一副寂寞的冷落的樣子,一般的庶民,是決不去參拜的,要去,則是佛寺,或者是神廟。若向老百姓們問孔夫子是什麼人,他們自然回答是聖人,然而這不過是權勢者的留聲機。他們也敬惜字紙,然而這是因為倘不敬惜字紙,會遭雷殛的迷信的緣故;南京的夫子廟固然是熱鬧的地方,然而這是因為另有各種玩耍和茶店的緣故。雖說孔子作《春秋》而亂臣賊子懼,然而現在的人們,卻幾乎誰也不知道一個筆伐了的亂臣賊子的名字。說到亂臣賊子,大概以為是曹操,但那並非聖人所教,卻是寫了小說和劇本的無名作家所教的。 |
孔夫子は死後、運気はいくらか良くなったと言えよう。もう小言を言えなくなったので、様々な権勢者が様々な白粉で化粧を施し、人を畏れさせるほどの高みに担ぎ上げた。しかし後に輸入された釈迦牟尼に比べれば、実に哀れなものである。なるほど、どの県にも聖廟すなわち文廟はあるが、寂寞として冷落した様子で、一般の庶民は決して参拝に行かない。行くなら仏寺か、さもなくば神廟である。庶民に孔夫子は何者かと問えば、もちろん聖人と答えるが、これは権勢者の蓄音機にすぎない。彼らは字の書かれた紙を敬い大切にするが、それは敬わなければ雷に打たれるという迷信のためである。南京の夫子廟は確かに賑わう場所であるが、それは各種の遊びや茶店があるためである。孔子が『春秋』を著して乱臣賊子が懼れたと言うが、今の人々は筆誅された乱臣賊子の名をほとんど誰も知らない。乱臣賊子と言えば、おおむね曹操だと思うが、それは聖人が教えたのではなく、小説や劇本を書いた無名の作家が教えたのである。 |
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總而言之,孔夫子之在中國,是權勢者們捧起來的,是那些權勢者或想做權勢者們的聖人,和一般的民眾並無什麼關係。然而對於聖廟,那些權勢者也不過一時的熱心。因為尊孔的時候已經懷著別樣的目的,所以目的一達,這器具就無用,如果不達呢,那可更加無用了。在三四十年以前,凡有企圖獲得權勢的人,就是希望做官的人,都是讀「四書」和「五經」,做「八股」,別一些人就將這些書籍和文章,統名之為「敲門磚」。這就是說,文官考試一及第,這些東西也就同時被忘卻,恰如敲門時所用的磚頭一樣,門一開,這磚頭也就被拋掉了。孔子這人,其實是自從死了以後,也總是當著「敲門磚」的差使的。 |
つまるところ、孔夫子が中国にあって、権勢者たちに担ぎ上げられた聖人であり、一般の民衆とは何の関係もない。しかし聖廟に対して、権勢者たちも一時の熱心にすぎない。尊孔の時すでに別の目的を懐いていたから、目的が達せられればこの道具は無用となり、達せられなければなおさら無用である。三、四十年前、権勢を得ようとする者、すなわち官になりたい者は皆「四書」「五経」を読み「八股」を書いた。一部の人々はこれらの書物や文章を総称して「敲門磚」と呼んだ。つまり文官試験に及第すれば、これらは同時に忘れ去られる。ちょうど門を叩く時に使う煉瓦のように、門が開けばこの煉瓦は投げ捨てられるのだ。孔子その人も、死後このかた、常に「敲門磚」の役を務めてきたと言ってよい。 |
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一看最近的例子,就更加明白。從二十世紀的開始以來,孔夫子的運氣是很壞的,但到袁世凱時代,卻又被從新記得,不但恢復了祭典,還新做了古怪的祭服,使奉祀的人們穿起來。跟著這事而出現的便是帝制。然而那一道門終於沒有敲開,袁氏在門外死掉了。余剩的是北洋軍閥,當覺得漸近末路時,也用它來敲過另外的幸福之門。盤據著江蘇和浙江,在路上隨便砍殺百姓的孫傳芳將軍,一面復興了投壺之禮;鑽進山東,連自己也數不清金錢和兵丁和姨太太的數目了的張宗昌將軍,則重刻了《十三經》,而且把聖道看作可以由肉體關係來傳染的花柳病一樣的東西,拿一個孔子後裔的誰來做了自己的女婿。然而幸福之門,卻仍然對誰也沒有開。 |
最近の例を見れば、なおさら明白である。二十世紀の初頭以来、孔夫子の運気は大変悪かったが、袁世凱の時代になると再び思い出され、祭典が復活されただけでなく、奇妙な祭服まで新たに作られ、奉祀する者たちに着せた。これに続いて現れたのが帝制である。しかしあの門はついに叩き開けられず、袁氏は門の外で死んだ。残ったのは北洋軍閥で、末路の近づきを感じると、やはりこれで別の幸福の門を叩こうとした。江蘇と浙江に割拠し、路上で手当たり次第に百姓を斬殺した孫伝芳将軍は、投壺の礼を復興した。山東に潜り込み、自分でも金銭と兵士と妾の数が数えきれなくなった張宗昌将軍は、『十三経』を重刻し、しかも聖道を肉体関係で伝染させうる花柳病のようなものと見なし、孔子の後裔の誰かを自分の婿にした。しかし幸福の門は、やはり誰にも開かなかった。 |
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這三個人,都把孔夫子當作磚頭用,但是時代不同了,所以都明明白白的失敗了。豈但自己失敗而已呢,還帶累孔子也更加陷入了悲境。他們都是連字也不大認識的人物,然而偏要大談什麼《十三經》之類,所以使人們覺得滑稽;言行也太不一致了,就更加令人討厭。既已厭惡和尚,恨及袈裟,而孔夫子之被利用為或一目的的器具,也從新看得格外清楚起來,於是要打倒他的欲望,也就越加旺盛。所以把孔子裝飾得十分尊嚴時,就一定有找他缺點的論文和作品出現。即使是孔夫子,缺點總也有的,在平時誰也不理會,因為聖人也是人,本是可以原諒的。然而如果聖人之徒出來胡說一通,以為聖人是這樣,是那樣,所以你也非這樣不可的話,人們可就禁不住要笑起來了。五六年前,曾經因為公演了《子見南子》這劇本,引起過問題,在那個劇本裡,有孔夫子登場,以聖人而論,固然不免略有欠穩重和呆頭呆腦的地方,然而作為一個人,倒是可愛的好人物。但是聖裔們非常憤慨,把問題一直鬧到官廳裡去了。因為公演的地點,恰巧是孔夫子的故鄉,在那地方,聖裔們繁殖得非常多,成著使釋迦牟尼和蘇格拉第都自愧弗如的特權階級。然而,那也許又正是使那裡的非聖裔的青年們,不禁特地要演《子見南子》的原因罷。 |
この三人はいずれも孔夫子を煉瓦として使ったが、時代が異なっていたので、いずれも明白に失敗した。自分が失敗しただけでなく、孔子をもいよいよ悲境に陥れた。彼らはいずれも字すらろくに知らぬ人物でありながら、偏に『十三経』などを大いに論じたから、滑稽に思われた。言行もあまりに一致せず、いよいよ人々に嫌悪された。坊主が嫌いになれば袈裟まで憎む。孔夫子がある目的の道具として利用されてきたことも改めてはっきり見えてきて、彼を打倒しようとする欲望はいよいよ盛んになった。孔子を荘厳に飾り立てれば、必ず彼の欠点を探す論文や作品が現れる。孔夫子といえども欠点はあるが、平時には誰も気にしない。聖人も人間であるから、許されて当然である。しかし聖人の徒が出てきて出鱈目を言い、聖人はこうだ、ああだ、だからお前もこうでなければならぬと言えば、人々は笑わずにはいられない。五、六年前、劇本『子、南子に見ゆ』が上演されて問題になったことがある。その劇中に孔夫子が登場し、聖人としてはやや重厚さに欠け間の抜けたところもあったが、一人の人間としてはむしろ愛すべき好人物であった。しかし聖裔たちは非常に憤慨し、問題を官庁にまで持ち込んだ。上演の地がたまたま孔夫子の故郷で、そこでは聖裔が大変多く繁殖し、釈迦牟尼もソクラテスも自ら及ばぬと恥じるような特権階級をなしていた。しかし、それがまたまさに、そこの聖裔でない青年たちがわざわざ『子、南子に見ゆ』を上演しようとした理由かもしれない。 |
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中國的一般的民眾,尤其是所謂愚民,雖稱孔子為聖人,卻不覺得他是聖人;對於他,是恭謹的,卻不親密。但我想,能像中國的愚民那樣,懂得孔夫子的,恐怕世界上是再也沒有的了。不錯,孔夫子曾經計劃過出色的治國的方法,但那都是為了治民眾者,即權勢者設想的方法,為民眾本身的,卻一點也沒有。這就是「禮不下庶人」。成為權勢者們的聖人,終於變了「敲門磚」,實在也叫不得冤枉。和民眾並無關係,是不能說的,但倘說毫無親密之處,我以為怕要算是非常客氣的說法了。不去親近那毫不親密的聖人,正是當然的事,什麼時候都可以,試去穿了破衣,赤著腳,走上大成殿去看看罷,恐怕會像誤進上海的上等影戲院或者頭等電車一樣,立刻要受斥逐的。誰都知道這是大人老爺們的物事,雖是「愚民」,卻還沒有愚到這步田地的。 |
中国の一般の民衆、とりわけいわゆる愚民は、孔子を聖人と呼びながら、聖人とは感じていない。恭しくはあるが、親しくはない。しかし思うに、中国の愚民のように孔夫子を理解している者は、世界中にもういないであろう。なるほど孔夫子は立派な治国の方法を計画したが、それはすべて民衆の統治者すなわち権勢者のために考えた方法であって、民衆自身のためのものは一つもない。これこそ「礼は庶人に下さず」である。権勢者の聖人となり、ついに「敲門磚」と化したのは、冤罪とは言えまい。民衆と無関係とは言えないが、親密さが毫もないと言えば、おそらくかなり控えめな表現であろう。親密でもない聖人に近づかないのは当然のことで、いつでもよいから、破れた衣を着て裸足で大成殿に上がってみるがよい。おそらく上海の高級映画館か一等電車に間違えて入ったように、たちまち追い出されるであろう。あれはお偉方のものだと誰もが知っている。「愚民」ではあっても、そこまで愚かではないのだ。 |
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四月二十九日。 |
四月二十九日。 |
第22節
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這試題很難解答。 |
この試題はまことに答えにくい。 |
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因為唐代傳奇,是至今還有標本可見的,但現在之所謂六朝小說,我們所依據的只是從《新唐書藝文志》以至清《四庫書目》的判定,有許多種,在六朝當時,卻並不視為小說。例如《漢武故事》,《西京雜記》,《搜神記》,《續齊諧記》等,直至劉癲的《唐書經籍志》,還屬於史部起居注和雜傳類裡的。那時還相信神仙和鬼神,並不以為虛造,所以所記雖有仙凡和幽明之殊,卻都是史的一類。 |
唐代の伝奇は今日なお標本が見られるが、現在いわゆる六朝小説というものは、我々が拠り所とするのは『新唐書芸文志』から清の『四庫書目』に至る判定のみであり、その中の多くは六朝当時には小説と見なされていなかった。例えば『漢武故事』、『西京雑記』、『捜神記』、『続斉諧記』などは、劉癲の『唐書経籍志』に至ってもなお史部の起居注や雑伝の類に属していた。当時はまだ神仙や鬼神を信じ、虚構とは思わなかったから、記すところに仙凡や幽明の別はあっても、すべて史の一類であった。 |
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況且從晉到隋的書目,現在一種也不存在了,我們已無從知道那時所視為小說的是什麼,有怎樣的形式和內容。現存的惟一最早的目錄只有《隋書經籍志》,修者自謂「遠覽馬史班書,近觀王阮志錄」,也許尚存王儉《今書七志》,阮孝緒《七錄》的痕跡罷,但所錄小說二十五種中,現存的卻只有《燕丹子》和劉義慶撰《世說》合劉孝標注兩種了。此外,則《郭子》,《笑林》,殷芸《小說》,《水飾》,及當時以為隋代已亡的《青史子》,《語林》等,還能在唐宋類書裡遇見一點遺文。 |
しかも晋から隋までの書目は、今や一種も現存せず、当時小説と見なされていたものが何であったか、いかなる形式と内容を有していたか、我々にはもはや知る由がない。現存する唯一最古の目録は『隋書経籍志』のみで、修者は「遠く馬史班書を覧、近く王阮の志録を観る」と自ら述べており、あるいは王倹の『今書七志』、阮孝緒の『七録』の痕跡が残っているかもしれないが、所録の小説二十五種のうち、現存するのは『燕丹子』と劉義慶撰『世説』に劉孝標の注を合わせた二種のみである。このほか、『郭子』、『笑林』、殷芸の『小説』、『水飾』、および当時すでに隋代に亡んだとされていた『青史子』、『語林』等が、唐宋の類書の中に若干の遺文を見出せるにすぎない。 |
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單從上述這些材料來看,武斷的說起來,則六朝人小說,是沒有記敘神仙或鬼怪的,所寫的幾乎都是人事;文筆是簡潔的;材料是笑柄,談資;但好像很排斥虛構,例如《世說新語》說裴啟《語林》記謝安語不實,謝安一說,這書即大損聲價云云,就是。 |
以上の資料のみから独断的に言えば、六朝人の小説には神仙や鬼怪を記述するものがなく、書かれたものはほとんどすべて人事であった。文筆は簡潔であり、材料は笑い話や談話の種であった。しかし虚構は大いに排斥されたようで、例えば『世説新語』が裴啓の『語林』は謝安の言葉を事実と異なると記し、謝安がひとたび言えば、この書はたちまち評判を落としたと述べているのがその証左である。 |
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唐代傳奇文可就大兩樣了:神仙人鬼妖物,都可以隨便驅使;文筆是精細,曲折的,至於被崇尚簡古者所詬病;所敘的事,也大抵具有首尾和波瀾,不止一點斷片的談柄;而且作者往往故意顯示著這事蹟的虛構,以見他想像的才能了。 |
唐代の伝奇文はまるで別物である。神仙・人間・鬼・妖物を自在に駆使し、文筆は精緻で屈折に富み、簡古を崇尚する者に非難されるほどであった。叙述される事柄もおおむね首尾と波瀾を具え、断片的な談柄にとどまらない。しかも作者はしばしば意図的にその事蹟の虚構性を示し、自らの想像力を誇示した。 |
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但六朝人也並非不能想像和描寫,不過他不用於小說,這類文章,那時也不謂之小說。例如阮籍的《大人先生傳》,陶潛的《桃花源記》,其實倒和後來的唐代傳奇文相近;就是嵇康的《聖賢高士傳贊》(今僅有輯本),葛洪的《神仙傳》,也可以看作唐人傳奇文的祖師的。李公佐作《南柯太守傳》,李肇為之贊,這就是嵇康的《高士傳》法;陳鴻《長恨傳》置白居易的長歌之前,元稹的《鸎鸎傳》既錄《會真詩》,又舉李公垂《鸎鸎歌》之名作結,也令人不能不想到《桃花源記》。 |
しかし六朝人も想像や描写ができなかったわけではない。ただそれを小説には用いず、そうした文章も当時は小説とは呼ばれなかった。例えば阮籍の『大人先生伝』、陶潜の『桃花源記』は、実は後の唐代伝奇文に近い。嵆康の『聖賢高士伝賛』(今は輯本のみ)や葛洪の『神仙伝』も、唐人伝奇文の祖師と見なし得る。李公佐が『南柯太守伝』を著し、李肇がこれに賛を付したのは嵆康の『高士伝』の手法であり、陳鴻の『長恨伝』が白居易の長歌の前に置かれ、元稹の『鸎鸎伝』が『会真詩』を録し、さらに李公垂の『鸎鸎歌』の名を挙げて結んでいるのも、『桃花源記』を想起させずにはおかない。 |
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至於他們之所以著作,那是無論六朝或唐人,都是有所為的。《隋書經籍志》抄《漢書藝文志》說,以著錄小說,比之「詢於芻蕘」,就是以為雖然小說,也有所為的明證。不過在實際上,這有所為的範圍卻縮小了。晉人尚清談,講標格,常以寥寥數言,立致通顯,所以那時的小說,多是記載畸行雋語的《世說》一類,其實是借口舌取名位的入門書。唐以詩文取士,但也看社會上的名聲,所以士子入京應試,也須豫先干謁名公,呈獻詩文,冀其稱譽,這詩文叫作「行卷」。詩文既濫,人不欲觀,有的就用傳奇文,來希圖一新耳目,獲得特效了,於是那時的傳奇文,也就和「敲門磚」很有關係。但自然,只被風氣所推,無所為而作者,卻也並非沒有的。 |
彼らの著作の動機について言えば、六朝であれ唐人であれ、いずれも目的があった。『隋書経籍志』が『漢書芸文志』を引いて小説を録し、「芻蕘に諮る」に比したのは、小説であっても目的があることの明証である。ただ実際にはその目的の範囲は縮小していた。晋人は清談を尚び、風格を重んじ、しばしば数言をもってたちまち顕達を得た。だからあの時代の小説は、奇行や名言を記録する『世説』の類が多く、実は口舌によって名位を取る入門書であった。唐は詩文で士を採ったが、社会的名声も重視した。そこで士子は入京して科挙を受ける前に、名公に謁見して詩文を呈し、称賛を期した。この詩文を「行巻」と言う。詩文が濫作されて人が見たがらなくなると、伝奇文を用いて耳目を一新し、特別な効果を得ようとする者が現れた。かくしてあの時代の伝奇文も「敲門磚」と大いに関係があったのである。しかしもちろん、ただ風気に推されて、目的なく書いた者もいなかったわけではない。 |
第23節
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「人言可畏」是電影明星阮玲玉自殺之後,發見於她的遺書中的話。這哄動一時的事件,經過了一通空論,已經漸漸冷落了,只要《玲玉香消記》一停演,就如去年的艾霞自殺事件一樣,完全煙消火滅。她們的死,不過像在無邊的人海裡添了幾粒鹽,雖然使扯淡的嘴巴們覺得有些味道,但不久也還是淡,淡,淡。 |
「人言可畏」とは、映画スター阮玲玉が自殺した後、その遺書の中に見出された言葉である。一時世間を騒がせたこの事件は、一通りの空論を経て、次第に冷めてしまった。『玲玉香消記』の上映が終わりさえすれば、去年の艾霞自殺事件と同じく、完全に雲散霧消する。彼女たちの死は、果てしない人の海にいくつかの塩粒を加えたに過ぎず、雑談好きの口に多少の味を覚えさせはしたが、やがてまた淡く、淡く、淡くなるのだ。 |
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這句話,開初是也曾惹起一點小風波的。有評論者,說是使她自殺之咎,可見也在日報記事對於她的訴訟事件的張揚;不久就有一位記者公開的反駁,以為現在的報紙的地位,輿論的威信,可憐極了,那裡還有絲毫主宰誰的運命的力量,況且那些記載,大抵采自經官的事實,絕非捏造的謠言,舊報具在,可以複按。所以阮玲玉的死,和新聞記者是毫無關係的。 |
この言葉は当初、小さな波紋を呼んだ。ある評論家は、彼女を自殺に追い込んだ責任は日刊紙が彼女の訴訟事件を大々的に報じたことにもあると述べた。程なくして一人の記者が公然と反駁し、現在の新聞の地位、世論の威信はまことに哀れなもので、いったい誰の運命を左右する力があろうか、しかもあの報道はおおむね裁判所を経た事実に基づいており、捏造された噂ではない、バックナンバーを調べれば確認できる、だから阮玲玉の死と新聞記者は一切無関係であると述べた。 |
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這都可以算是真實話。然而——也不儘然。 |
これらはいずれも本当のことと言える。しかし——必ずしもそうとは限らない。 |
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現在的報章之不能像個報章,是真的;評論的不能逞心而談,失了威力,也是真的,明眼人決不會過分的責備新聞記者。但是,新聞的威力其實是並未全盤墜地的,它對甲無損,對乙卻會有傷;對強者它是弱者,但對更弱者它卻還是強者,所以有時雖然吞聲忍氣,有時仍可以耀武揚威。於是阮玲玉之流,就成了發揚餘威的好材料了,因為她頗有名,卻無力。小市民總愛聽人們的醜聞,尤其是有些熟識的人的醜聞。上海的街頭巷尾的老虔婆,一知道近鄰的阿二嫂家有野男人出入,津津樂道,但如果對她講甘肅的誰在偷漢,新疆的誰在再嫁,她就不要聽了。阮玲玉正在現身銀幕,是一個大家認識的人,因此她更是給報章湊熱鬧的好材料,至少也可以增加一點銷場。讀者看了這些,有的想:「我雖然沒有阮玲玉那麼漂亮,卻比她正經」;有的想:「我雖然不及阮玲玉的有本領,卻比她出身高」;連自殺了之後,也還可以給人想:「我雖然沒有阮玲玉的技藝,卻比她有勇氣,因為我沒有自殺」。化幾個銅元就發見了自己的優勝,那當然是很上算的。但靠演藝為生的人,一遇到公眾發生了上述的前兩種的感想,她就夠走到末路了。所以我們且不要高談什麼連自己也並不了然的社會組織或意志強弱的濫調,先來設身處地的想一想罷,那麼,大概就會知道阮玲玉的以為「人言可畏」,是真的,或人的以為她的自殺,和新聞記事有關,也是真的。 |
現在の新聞が新聞の体を成していないのは事実であり、評論が思いのままに論じられず力を失っているのも事実で、明眼の人は新聞記者を過分に責めたりはしない。しかし新聞の威力は実のところ完全に地に堕ちたわけではない。甲には無害でも乙には傷つけるものがある。強者に対しては弱者だが、さらに弱い者に対してはなお強者である。時に声を呑み耐え忍びながらも、時になお威を振るうことができる。かくて阮玲玉の類は、余威を振るうための格好の材料となった。彼女はかなり有名でありながら、無力であったからだ。小市民は常に人の醜聞を聞きたがる。とりわけ多少見知った人の醜聞を。上海の路地の老婆は、近所の阿二嫂の家に間男が出入りしていると知れば嬉々として語るが、甘粛の誰それが密通しているとか、新疆の誰それが再婚したとか言っても聞きたがらない。阮玲玉はスクリーンに現れ、誰もが知る人物であった。だから新聞に話題を提供する格好の材料であり、少なくとも発行部数をいくらか増やすことはできた。読者はこれを見て、ある者は「私は阮玲玉ほど美しくないが、彼女より品行が正しい」と思い、ある者は「阮玲玉ほどの才能はないが、出自は彼女より高い」と思い、自殺した後でさえ、「阮玲玉ほどの技芸はないが、自殺しないだけの勇気がある」と思わせることができた。銅貨数枚で自分の優越を発見できるのだから、まことに割のよい話である。しかし演芸で生計を立てる者が、上述の前二種の感想を公衆に抱かれれば、もう末路に至るのだ。だから我々はまだ自分でもよく分かりもしない社会組織だの意志の強弱だのの陳腐な議論を大いに語る前に、まず身を置き換えて考えてみるがよい。そうすれば、おおよそ阮玲玉の「人言可畏」が真実であること、あるいは彼女の自殺が新聞記事と関係があるというのも真実であることが分かるだろう。 |
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但新聞記者的辯解,以為記載大抵采自經官的事實,卻也是真的。上海的有些介乎大報和小報之間的報章,那社會新聞,幾乎大半是官司已經吃到公安局或工部局去了的案件。但有一點壞習氣,是偏要加上些描寫,對於女性,尤喜歡加上些描寫;這種案件,是不會有名公巨卿在內的,因此也更不妨加上些描寫。案中的男人的年紀和相貌,是大抵寫得老實的,一遇到女人,可就要發揮才藻了,不是「徐娘半老,風韻猶存」,就是「豆蔻年華,玲瓏可愛」。一個女孩兒跑掉了,自奔或被誘還不可知,才子就斷定道,「小姑獨宿,不慣無郎」,你怎麼知道?一個村婦再醮了兩回,原是窮鄉僻壤的常事,一到才子的筆下,就又賜以大字的題目道,「奇淫不減武則天」,這程度你又怎麼知道?這些輕薄句子,加之村姑,大約是並無什麼影響的,她不識字,她的關係人也未必看報。但對於一個智識者,尤其是對於一個出到社會上了的女性,卻足夠使她受傷,更不必說故意張揚,特別渲染的文字了。然而中國的習慣,這些句子是搖筆即來,不假思索的,這時不但不會想到這也是玩弄著女性,並且也不會想到自己乃是人民的喉舌。但是,無論你怎麼描寫,在強者是毫不要緊的,只消一封信,就會有正誤或道歉接著登出來,不過無拳無勇如阮玲玉,可就正做了吃苦的材料了,她被額外的畫上一臉花,沒法洗刷。叫她奮鬥嗎?她沒有機關報,怎麼奮鬥;有冤無頭,有怨無主,和誰奮鬥呢?我們又可以設身處地的想一想,那麼,大概就又知她的以為「人言可畏」,是真的,或人的以為她的自殺,和新聞記事有關,也是真的。 |
しかし新聞記者の弁解——報道はおおむね裁判所を経た事実に基づく——もまた事実である。上海の大新聞と小新聞の中間のような新聞は、社会面の大半が公安局や工部局に持ち込まれた事件である。しかし一つ悪い習慣がある。偏に描写を加えたがり、特に女性についてはなおさら描写を加えたがる。こうした事件に名公巨卿が含まれることはなく、だからこそいよいよ描写を加えて構わないのだ。事件の男性の年齢や容貌はおおむね正直に書くが、女性となるとたちまち文才を発揮する。「年増ながら色香なお衰えず」でなければ、「花も恥じらう年頃にして玲瓏可愛」である。少女が家を飛び出した。自ら走ったのか誘拐されたのかも分からぬのに、才子は断じて「小姑独り寝て、郎なきに慣れず」と書く。一体どうして分かるのか。村の女が二度再婚した。辺鄙な田舎では珍しくもないことが、才子の筆にかかると大見出しで「奇淫、武則天に減ぜず」となる。その程度がどうして分かるのか。こうした軽薄な文句は、村の女に向ければおそらく何の影響もない。彼女は字を知らず、その関係者も新聞を読むまい。しかし知識人に対して、とりわけ社会に出た女性に対しては、十分に傷つけ得る。ましてや意図的に大げさに書き立てた文章は言うまでもない。しかし中国の習慣では、こうした文句は筆を執れば自ずと出てくるもので、これもまた女性を弄んでいるとは思いも寄らず、自分が人民の喉舌であることも思い至らない。しかし、いかに描写しようとも、強者にはまるで痛くもなく、手紙一通で訂正か謝罪が掲載される。だが阮玲玉のような無力な者は、まさに苦しめられる材料にされ、顔中に余分な模様を描かれて、洗い落とすすべがない。奮闘せよと言うのか。彼女には機関紙がない。どう奮闘するのか。冤罪の訴え先もなく、恨みをぶつける相手もなく、誰と奮闘するのか。我々はもう一度身を置き換えて考えてみれば、おおよそ彼女の「人言可畏」が真実であること、あるいは彼女の自殺が新聞記事と関係があるというのも真実であることが分かるだろう。 |
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然而,先前已經說過,現在的報章的失了力量,卻也是真的,不過我以為還沒有到達如記者先生所自謙,竟至一錢不值,毫無責任的時候。因為它對於更弱者如阮玲玉一流人,也還有左右她命運的若干力量的,這也就是說,它還能為惡,自然也還能為善。「有聞必錄」或「並無能力」的話,都不是向上的負責的記者所該採用的口頭禪,因為在實際上,並不如此,——它是有選擇的,有作用的。 |
しかし先にも述べたように、現在の新聞が力を失っているのもまた事実である。ただ私が思うに、記者先生が自ら謙遜するほど一文の値打ちもなく、何の責任もないという段階にはまだ至っていない。なぜなら阮玲玉のようなさらに弱い者に対しては、なおその運命を左右する若干の力を持っているからだ。すなわち、なお悪をなし得るならば、もとより善もなし得るはずである。「聞けばすなわち録す」や「能力なし」という言葉は、向上心を持ち責任を果たす記者が採るべき口癖ではない。なぜなら実際にはそうではなく——新聞には選択があり、作用があるのだから。 |
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至於阮玲玉的自殺,我並不想為她辯護。我是不贊成自殺,自己也不豫備自殺的。但我的不豫備自殺,不是不屑,卻因為不能。凡有誰自殺了,現在是總要受一通強毅的評論家的呵斥,阮玲玉當然也不在例外。然而我想,自殺其實是不很容易,決沒有我們不豫備自殺的人們所渺視的那麼輕而易舉的。倘有誰以為容易麼,那麼,你倒試試看! |
阮玲玉の自殺について、私は彼女を弁護するつもりはない。私は自殺に賛成せず、自分も自殺する予定はない。しかし自殺する予定がないのは、潔しとしないからではなく、できないからである。誰かが自殺すれば、今はきまって剛毅なる評論家の叱責を受ける。阮玲玉ももちろん例外ではない。しかし思うに、自殺は実のところそう容易なものではなく、自殺する予定のない我々が見くびるほど軽々しいものでは決してない。もし容易だと思う者があれば、ならば試してみるがよい。 |
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自然,能試的勇者恐怕也多得很,不過他不屑,因為他有對於社會的偉大的任務。那不消說,更加是好極了,但我希望大家都有一本筆記簿,寫下所盡的偉大的任務來,到得有了曾孫的時候,拿出來算一算,看看怎麼樣。 |
もちろん試みる勇者も多いことだろう。ただ彼は潔しとしない。社会に対する偉大な任務があるからだ。それは言うまでもなく結構至極だが、みなが一冊のノートを持ち、果たした偉大な任務を書き留めて、曾孫ができた頃に取り出して勘定してみるがよい。 |
第24節
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今年的所謂“文人相輕”,不但是混淆黑白的口號,掩護著文壇的昏暗,也在給有一些人“掛著羊頭賣狗肉”的。 |
今年のいわゆる「文人相軽」は、黒白を混同する標語にとどまらず、文壇の暗黒を掩護し、一部の者に「羊頭を掲げて狗肉を売る」ことをさせている。 |
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真的“各以所長,相輕所短”的能有多少呢!我們在近凡年所遇見的,有的是“以其所短,輕人所短”。例如白話文中,有些是該屈難讀的,確是一種“短”,於是有人提了小品或語錄,向這一點昂然進攻了,但不久就露出尾巴來,暴露了他連對於自己所提倡的文章,也常常點著破句,“短”得很。有的卻簡直是“以其所短,輕人所長”了。例如輕蔑“雜文”的人,不但他所用的也是“雜文”,而他的“雜文”,比起他所輕蔑的別的“雜文”來,還拙劣到不能相提並論。那些高談闊論,不過是契訶夫(A. Chekhov)所指出的登了不識羞的頂顛,傲視著一切,被輕者是無福和他們比較的,更從什麼地方“相”起?現在謂之“相”,其實是給他們一揚,靠了這“相”,也是“文人”了。然而,“所長”呢? |
真に「各々その長ずるところをもって、その短を軽んずる」者がどれほどいようか。我々が近年遭遇したのは、「その短をもって、人の短を軽んずる」者である。例えば白話文の中に、屈折して読みにくいものがあるのは確かに一つの「短」であるが、そこで小品や語録を掲げ、この一点に昂然と攻撃を仕掛ける者がいた。しかし程なく尻尾を露わし、自ら提唱する文章にすらしばしば句読を誤って読み、大いに「短」であることを暴露した。あるいは「その短をもって、人の長を軽んずる」者すらいる。例えば「雑文」を蔑視する者は、自ら用いるのもまた「雑文」であり、しかもその「雑文」は彼が蔑視する他の「雑文」と比較すれば、同日に論じることもできぬほど拙劣である。あの高談闘論は、チェーホフ(A. Chekhov)が指摘した、恥知らずの絶頂に登って一切を見下す者にすぎず、軽んぜられる側は彼らと比較する福分もなく、いったいどこから「相」ということになるのか。今これを「相」と言うのは、実は彼らに一つ箔を付けてやるもので、この「相」によって「文人」にもなれるわけだ。しかし「長」はどこにあるのか。 |
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況且現在文壇上的糾紛,其實也並不是為了文筆的短長。文學的修養,決不能使人變成木石,所以文人還是人,既然還是人,他心裡就仍然有是非,有愛憎;但又因為是文人,他的是非就愈分明,愛憎也愈熱烈。從聖賢一直敬到騙子屠夫,從美人香草一直受到麻瘋病菌的文人,在這世界上是找不到的,遇見所是和所愛的,他就擁抱,遇見所非和所憎的,他就反撥。如果第三者不以為然了,可以指出他所非的其實是“是”,他所憎的其實該愛來,單用了籠統的“文人相輕”這一句空話,是不能抹殺的,世間還沒有這種便宜事。一有文人,就有糾紛,但到後來,誰是誰非,孰存孰亡,都無不明明白白。因為還有一些讀者,他的是非愛憎,是比和事老的評論家還要清楚的。 |
しかも今の文壇の紛糾は、実は文筆の長短のためではない。文学の修養は人を木石に変え得ないから、文人はなお人である。人である以上、心の中にはなお是非があり、愛憎がある。しかも文人であるがゆえに、その是非はいよいよ分明であり、愛憎もいよいよ熱烈である。聖賢から詐欺師や屠殺人に至るまで一様に敬い、美人香草から麻風病菌に至るまで一様に愛する文人は、この世には見つからない。是とし愛するものに遇えば抱擁し、非とし憎むものに遇えば反撥する。もし第三者が不服なら、彼が非とするものが実は「是」であり、彼が憎むものが実は愛すべきであると指摘すればよい。漠然たる「文人相軽」の一言で抹殺することはできない。世間にそのような安い話はない。文人あるところ必ず紛糾あり、しかし後には誰が是で誰が非か、孰れが存し孰れが亡ぶか、すべて明白になる。なぜなら読者がおり、その是非愛憎は和事老の評論家よりもなお明晰だからである。 |
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然而,又有人來恐嚇了。他說,你不怕麼?古之嵇康,在柳樹下打鐵,鐘會來看他,他不客氣,問道:“何所聞而來,何所見而去?”於是得罪了鐘文人,後來被他在司馬懿面前搬是非,送命了。所以你無論遇見誰,應該趕緊打拱作揖,讓坐獻茶,連稱“久仰久仰”才是。這自然也許未必全無好處,但做文人做到這地步,不是很有些近乎婊子了麼?況且這位恐嚇家的舉例,其實也是不對的,嵇康的送命,並非為了他是傲慢的文人,大半倒因為他是曹家的女婿,即使鐘會不去搬是非,也總有人去搬是非的,所謂“重賞之下,必有勇夫”者是也。 |
しかるに、また脅す者が現れた。曰く、恐くないのか。昔の嵆康は柳の下で鍛冶をしていたが、鍾会が訪ねてきた時、無礼にも「何を聞いて来たり、何を見て去るや」と問うた。かくして鍾文人の恨みを買い、後に司馬懿の前で讒言されて命を落とした。だから誰に会っても、慌ててお辞儀をし、席を譲り茶を出し、「久仰久仰」と連呼すべきだ、と。これももちろん全く無益とは限らないが、文人としてこの境地に至っては、いささか娼婦に近くはないか。しかもこの脅迫家の挙げる例は実は正しくない。嵆康が命を落としたのは傲慢な文人であったためではなく、大半は曹家の婿であったためで、鍾会が讒言せずとも誰かが讒言したであろう。いわゆる「重賞の下、必ず勇夫あり」である。 |
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不過我在這裡,並非主張文人應該傲慢,或不妨傲慢,只是說,文人不應該隨和;而且文人也不會隨和,會隨和的,只有和事老。但這不隨和,卻又並非回避,只是唱著所是,頌著所愛,而不管所非和所憎;他得像熱烈地主張著所是一樣,熱烈地攻擊著所非,像熱烈地擁抱著所愛一樣,更熱烈地擁抱著所憎——恰如赫爾庫來斯(Hercules)的緊抱了巨人安太烏斯(Antaeus)一樣,因為要折斷他的肋骨。 |
ただし私はここで、文人は傲慢であるべきだとか、傲慢でも構わないと主張しているのではない。文人は随和であってはならず、また随和にもなり得ないと言っているだけだ。随和であり得るのは和事老のみである。しかしこの不随和は回避ではない。是とするものを歌い、愛するものを頌しつつ、非とするものや憎むものを無視するのではない。是とするものを熱烈に主張するのと同様に、非とするものを熱烈に攻撃し、愛するものを熱烈に抱擁するのと同様に、いよいよ熱烈に憎むものを抱擁せねばならない——ちょうどヘラクレス(Hercules)が巨人アンタイオス(Antaeus)を固く抱きしめたように。なぜなら彼の肋骨を折らんがためである。 |
第25節
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木刻的圖畫,原是中國早先就有的東西。唐末的佛像,紙牌,以至後來的小說繡像,啟蒙小圖,我們至今還能夠看見實物。而且由此明白:它本來就是大眾的,也就是「俗」的。明人曾用之於詩箋,近乎雅了,然而歸結是有文人學士在它全體上用大筆一揮,證明了這其實不過是踐踏。 |
木刻の図画は、もともと中国に古くからあったものである。唐末の仏像、紙牌から、後の小説の挿絵や啓蒙小図に至るまで、我々は今なお実物を見ることができる。そしてこのことから明らかなのは、それがもともと大衆のもの、すなわち「俗」であったということである。明人がこれを詩箋に用い、雅に近づいたが、結局のところ文人学士がその全体に大筆を一振るいして、これが実は踏みつけにすぎなかったことを証明した。 |
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近五年來驟然興起的木刻,雖然不能說和古文化無關,但決不是葬中枯骨,換了新裝,它乃是作者和社會大眾的內心的一致的要求,所以僅有若干青年們的一副鐵筆和幾塊木板,便能發展得如此蓬蓬勃勃。它所表現的是藝術學徒的熱誠,因此也常常是現代社會的魂魄。實績具在,說它「雅」,固然是不可的,但指為「俗」,卻又斷乎不能。這之前,有木刻了,卻未曾有過這境界。 |
近年にわかに興った木刻は、古い文化と無関係とは言えないが、墓の中の枯骨に新しい衣を着せたものでは決してない。それは作者と社会大衆との内心の一致した要求であり、だからこそわずかな青年たちの一本の鉄筆と数枚の木版のみで、これほど蓬勃と発展し得たのである。それが表現するのは芸術学徒の熱誠であり、ゆえにまたしばしば現代社会の魂魄でもある。実績は厳然として在り、「雅」と言うのはもとより不可であるが、「俗」と指すのもまた断じてできない。これ以前にも木刻はあったが、この境地には至らなかった。 |
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這就是所以為新興木刻的緣故,也是所以為大眾所支持的原因。血脈相通,當然不會被漠視的。所以木刻不但淆亂了雅俗之辨而已,實在還有更光明,更偉大的事業在它的前面。 |
これこそ新興木刻たる所以であり、大衆に支えられる所以でもある。血脈が通じ合えば、もとより黙殺されるはずがない。だから木刻は雅俗の弁を淆乱しただけでなく、実にもっと光明に満ちた、もっと偉大な事業がその前方にある。 |
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曾被看作高尚的風景和靜物畫,在新的木刻上是減少了,然而看起出品來,這二者反顯著較優的成績。因為中國舊畫,兩者最多,耳濡目染,不覺見其久經攝取的所長了,而現在最需要的,也是作者最著力的人物和故事畫,卻仍然不免有些遜色,平常的器具和形態,也間有不合實際的。由這事實,一面固足見古文化之裨助著後來,也束縛著後來,但一面也可見入「俗」之不易了。 |
かつて高尚とされた風景画や静物画は、新しい木刻では減少したが、作品を見れば、この二者のほうがかえって優れた成績を示している。なぜなら中国の旧画はこの二種が最も多く、耳にし目にするうちに、おのずとその長年蓄えた長所を摂取していたからである。そして今最も必要とされ、作者が最も力を注ぐ人物画や物語画は、なお多少遜色を免れず、日常の器具や形態にも時に実際と合わぬものがある。この事実から一方では古い文化が後世を助けつつ後世を束縛していることが見て取れるが、他方では「俗」に入ることの容易ならぬことも分かる。 |
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這選集,是聚全國出品的精粹的第一本。但這是開始,不是成功,是幾個前哨的進行,願此後更有無盡的旌旗蔽空的大隊。 |
この選集は、全国の作品の精粋を集めた第一冊である。しかしこれは始まりであって成功ではなく、いくつかの前哨の前進である。願わくは、この後に限りなき旌旗が空を覆う大軍が続かんことを。 |
第26節
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二十年來,中國已經有了一些作家,多少作品,而且至今還沒有完結,所以有個「文壇」,是毫無可疑的。不過搬出去開博覽會,卻還得顧慮一下。 |
二十年来、中国にはすでにいくらかの作家と多少の作品があり、しかも今なお完結していないから、「文壇」が存在することは毫も疑いない。ただし外に搬び出して博覧会を開くとなると、いささか考慮が必要である。 |
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因為文字的難,學校的少,我們的作家裡面,恐怕未必有村姑變成的才女,牧童化出的文豪。古時候聽說有過一面看牛牧羊,一面讀經,終於成了學者的人的,但現在恐怕未必有。——我說了兩回「恐怕未必」,倘真有例外的天才,尚希鑒原為幸。要之,凡有弄弄筆墨的人們,他先前總有一點憑藉:不是祖遺的正在少下去的錢,就是父積的還在多起來的錢。要不然,他就無緣讀書識字。現在雖然有了識字運動,我也不相信能夠由此運出作家來。所以這文壇,從陰暗這方面看起來,暫時大約還要被兩大類子弟,就是「破落戶」和「暴發戶」所佔據。 |
文字の難しさと学校の少なさゆえに、我々の作家の中には、おそらく村娘が変じた才女も、牛飼い童が化けた文豪もいまい。昔は牛や羊の番をしながら経を読み、ついに学者になった人がいたと聞くが、今はおそらくそうはいくまい。——「おそらく」を二度言ったが、もし例外の天才があれば、ご海容を願う。要するに筆墨をいじる人々は、以前から何らかの拠り所があった。祖先の遺した減りつつある金か、父親の蓄えたまだ増えつつある金である。さもなくば読み書きを学ぶ機会もなかった。今は識字運動があるが、それで作家が生まれるとは信じない。だからこの文壇は、暗い面から見れば、当分の間おおむね二大種類の子弟、すなわち「没落戸」と「成り上がり戸」に占拠されるであろう。 |
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已非暴發,又未破落的,自然也頗有出些著作的人,但這並非第三種,不近於甲,即近於乙的,至於掏腰包印書,仗奩資出版者,那是文壇上的捐班,更不在本論範圍之內。所以要說專仗筆墨的作者,首先還得求之於破落戶中。他先世也許暴發過,但現在是文雅勝於算盤,家景大不如意了,然而又因此看見世態的炎涼,人生的苦樂,於是真的有些撫今追昔,「纏綿悱惻」起來。一歎天時不良,二歎地理可惡,三歎自己無能。但這無能又並非真無能,乃是自己不屑有能,所以這無能的高尚,倒遠在有能之上。你們劍拔弩張,汗流浹背,到底做成了些什麼呢?惟我的頹唐相,是「十年一覺揚州夢」惟我的破衣上,是「襟上杭州舊酒痕」,連懶態和污漬,也都有歷史的甚深意義的。可惜俗人不懂得,於是他們的傑作上,就大抵放射著一種特別的神彩,是:「顧影自憐」。暴發戶作家的作品,表面上和破落戶的並無不同。因為他意在用墨水洗去銅臭,這才爬上一向為破落戶所主宰的文壇來,以自附于「風雅之林」,又並不想另樹一幟,因此也決不標新立異。但仔細一看,卻是屬於別一本戶口冊上的;他究竟顯得淺薄,而且裝腔,學樣。房裡會有斷句的諸子,看不懂;案頭也會有石印的駢文,讀不斷。也會嚷「襟上杭州舊酒痕」呀,但一面又怕別人疑心他穿破衣,總得設法表示他所穿的乃是筆挺的洋服或簇新的綢衫;也會說「十年一覺揚州夢」的,但其實倒是並不揮霍的好品行,因為暴發戶之于金錢,覺得比懶態和污漬更有歷史的甚深的意義。破落戶的頹唐,是掉下來的悲聲,暴發戶的做作的頹唐,卻是「爬上去」的手段。所以那些作品,即使摹擬到和破落戶的傑作幾乎相同,但一定還差一塵:他其實並不「顧影自憐」,倒在「沾沾自喜」。 |
成り上がりでもなく没落もしていない者にも、いくらか著作する人はいるが、これは第三の種類ではなく、甲に近いか乙に近い。私費で本を出し、嫁入り道具の金で出版する者は、文壇の寄付官職であり、本論の範囲外である。だから筆墨のみに頼る作家を求めるなら、まず没落戸の中に求めねばならない。彼の先祖はかつて成り上がったかもしれないが、今は雅が算盤に勝り、暮らし向きは大いに不如意である。そしてこのために世の中の冷たさ、人生の苦楽を見て、まことに「往時を偲んで纏綿悱惻」となる。一に天候の不順を嘆き、二に地理の悪さを嘆き、三に自らの無能を嘆く。しかしこの無能は真の無能ではなく、自ら有能であることを屑しとしないのであり、だからこの無能の高尚さは有能の遥か上にある。諸君が剣抜き弩張り、汗だくになって、結局何を成し遂げたというのか。ただ我が頽唐たる姿こそ「十年一覚揚州の夢」であり、ただ我が破衣にこそ「襟上杭州旧酒の痕」がある。怠惰も汚れもすべて深い歴史的意義を持つ。惜しむらくは俗人にはこれが分からず、かくて彼らの傑作にはおおむね一種独特の光彩が放射される。すなわち「顧影自憐」である。成り上がり戸の作家の作品は、表面上は没落戸のものと変わらない。なぜなら彼は墨で銅の臭いを洗い落とそうとして、没落戸が主宰してきた文壇に這い上がり、「風雅の林」に連なろうとするが、別の旗を立てるつもりはないから、決して標新立異はしない。しかし仔細に見れば、別の戸籍簿に属していることが分かる。彼はどうしても浅薄に見え、しかも気取って真似をしている。部屋には句読を施した諸子の書があるが読めず、机上には石印の駢文があるが読み下せない。「襟上杭州旧酒の痕」と唱えもするが、一方で破れ衣を着ていると疑われまいかと、どうにかして着ているのがぴんと張った洋服か真新しい絹衫であることを示さねばならない。「十年一覚揚州の夢」とも言うが、実は金を遣わぬ品行のよさである。成り上がり戸にとっては金銭こそ、怠惰や汚れよりも深い歴史的意義を持つからだ。没落戸の頽唐は落下する悲鳴であり、成り上がり戸の作り物の頽唐は「這い上がる」手段である。だからあの作品は、たとえ没落戸の傑作とほぼ同じに模倣しても、必ず一塵だけ差がある。彼は実は「顧影自憐」ではなく、「沾沾自喜」しているのだ。 |
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這「沾沾自喜」的神情,從破落戶的眼睛看來,就是所謂「小家子相」,也就是所謂「俗」。風雅的定律,一個人離開「本色」,是就要「俗」的。不識字人不算俗,他要掉文,又掉不對,就俗;富家兒郎也不算俗,他要做詩,又做不好,就俗了。這在文壇上,向來為破落戶所鄙棄。 |
この「沾沾自喜」の風情は、没落戸の目から見れば、いわゆる「小家子相」であり、いわゆる「俗」である。風雅の定律として、人は「本色」を離れれば「俗」となる。文字を知らぬ者は俗ではないが、知ったかぶりをして間違えれば俗となる。富家の子弟も俗ではないが、詩を作って下手なら俗となる。これは文壇で従来没落戸に軽蔑されてきた。 |
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然而破落戶到了破落不堪的時候,這兩戶卻有時可以交融起來的。如果誰有在找「詞彙」的《文選》,大可以查一查,我記得裡面就有一篇彈文,所彈的乃是一個敗落的世家,把女兒嫁給了暴發而冒充世家的滿家子:這就足見兩戶的怎樣反撥,也怎樣的聯合了。文壇上自然也有這現象;但在作品上的影響,卻不過使暴發戶增添一些得意之色,破落戶則對於「俗」變為謙和,向別方面大談其風雅而已:並不怎麼大。 |
しかし没落戸がどうにもならぬほど没落すると、この二戸は時に融合し得る。もし「語彙」を探しに『文選』を持っている者がいれば、調べてみるとよい。その中に弾劾文が一篇あり、弾劾の対象は没落した名家で、娘を成り上がりの偽名家に嫁がせたというものだったと記憶する。これは二戸がいかに反撥し合い、またいかに連合するかを示すに足る。文壇にもむろんこの現象がある。しかし作品への影響は、成り上がり戸にいくらかの得意の色が加わり、没落戸は「俗」に対して寛容になり、別の方面で風雅を大いに語るにとどまる。さほど大きくはない。 |
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暴發戶爬上文壇,固然未能免俗,歷時既久,一面持籌握算,一面誦詩讀書,數代以後,就雅起來,待到藏書日多,藏錢日少的時候,便有做真的破落戶文學的資格了。然而時勢的飛速的變化,有時能不給他這許多修養的工夫,於是暴發不久,破落隨之,既「沾沾自喜」,也「顧影自憐」,但卻又失去了「沾沽自喜」的確信,可又還沒有配得「顧影自憐」的風姿,僅存無聊,連古之所謂雅俗也說不上了。向來無定名,我姑且名之為「破落暴發戶」罷。這一戶,此後是恐怕要多起來的。但還要有變化:向積極方面走,是惡少;向消極方面走,是癟三。 |
成り上がり戸が文壇に這い上がり、もとより俗を免れ得ないが、時日が経ち、一方で算盤を弾き、一方で詩書を読めば、数代の後には雅となる。蔵書が増え蔵金が減る頃には、真の没落戸文学を作る資格を得る。しかし時勢の急激な変化は、時にそれだけの修養の暇を与えず、成り上がって間もなく没落が随い、「沾沾自喜」もし「顧影自憐」もするが、「沾沾自喜」の確信は失われ、「顧影自憐」の風姿にはまだ及ばず、ただ無聊のみが残り、古来のいわゆる雅俗も言えなくなる。従来名はないが、私は仮にこれを「没落成り上がり戸」と名づける。この一戸は今後おそらく増えるであろう。しかしさらに変化がある。積極的な方面に進めば悪少となり、消極的な方面に進めば癟三となる。 |
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使中國的文學有起色的人,在這三戶之外。 |
中国の文学に起色をもたらす者は、この三戸の外にいる。 |
第27節
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「幫閒文學」曾經算是一個惡毒的貶辭,——但其實是誤解的。 |
「幇閑文学」はかつて悪辣な蔑称とされたが——実は誤解である。 |
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《詩經》是後來的一部經,但春秋時代,其中的有幾篇就用之於侑酒;屈原是「楚辭」的開山老祖,而他的《離騷》,卻只是不得幫忙的不平。到得宋玉,就現有的作品看起來,他已經毫無不平,是一位純粹的清客了。然而《詩經》是經,也是偉大的文學作品;屈原宋玉,在文學史上還是重要的作家。為什麼呢?——就因為他究竟有文采。 |
『詩経』は後世には一部の経となったが、春秋時代にはその中のいくつかの篇が酒宴の席で用いられた。屈原は「楚辞」の開山祖であるが、その『離騒』はただ幇忙を得られぬ不平にすぎない。宋玉に至れば、現存の作品から見る限り、もはや不平は毫もなく、純粋なる清客であった。しかし『詩経』は経であり、偉大なる文学作品でもある。屈原・宋玉は文学史上なお重要な作家である。なぜか——つまるところ彼らには文采があったからである。 |
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中國的開國的雄主,是把「幫忙」和「幫閒」分開來的,前者參與國家大事,作為重臣,後者卻不過叫他獻詩作賦,「俳優蓄之」,只在弄臣之例。不滿於後者的待遇的是司馬相如,他常常稱病,不到武帝面前去獻殷勤,卻暗暗的作了關於封禪的文章,藏在家裡,以見他也有計畫大典——幫忙的本領,可惜等到大家知道的時候,他已經「壽終正寢」了。然而雖然並未實際上參與封禪的大典,司馬相如在文學史上也還是很重要的作家。為什麼呢?就因為他究竟有文采。但到文雅的庸主時,「幫忙」和「幫閒」的可就混起來了,所謂國家的柱石,也常是柔媚的詞臣,我們在南朝的幾個末代時,可以找出這實例。然而主雖然「庸」,卻不「陋」,所以那些幫閒者,文采卻究竟還有的,他們的作品,有些也至今不滅。 |
中国の建国の雄主は「幇忙」と「幇閑」を分けた。前者は国家の大事に参与して重臣となり、後者はただ詩賦を献じさせ、「俳優之を蓄う」として弄臣の列に置いたにすぎない。後者の待遇に不満であったのは司馬相如で、しばしば病と称して武帝の前に殷勤を尽くしに行かなかったが、密かに封禅に関する文章を著し家に蔵し、自らにも大典を計画する——すなわち幇忙の才があることを示そうとした。惜しいことに皆が知った時には、すでに「寿終正寝」であった。しかし実際に封禅の大典に参与しなかったにもかかわらず、司馬相如は文学史上なお重要な作家である。なぜか——つまるところ彼には文采があったからである。だが文雅なる凡庸な君主の時代になると、「幇忙」と「幇閑」は混じり合い、いわゆる国家の柱石もしばしば柔媚なる詞臣であった。南朝のいくつかの末代にこの実例を見出せる。しかし主は「庸」ではあっても「陋」ではなかったから、あの幇閑者たちの文采はやはりあり、その作品の一部は今日に至るまで滅びていない。 |
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誰說「幫閒文學」是一個惡毒的貶辭呢? |
誰が「幇閑文学」は悪辣な蔑称だと言うのか。 |
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就是權門的清客,他也得會下幾盤棋,寫一筆字,畫畫兒,識古董,懂得些猜拳行令,打趣插科,這才能不失其為清客。也就是說,清客,還要有清客的本領的,雖然是有骨氣者所不屑為,卻又非搭空架者所能企及。例如李漁的《一家言》,袁枚的《隨園詩話》,就不是每個幫閒都做得出來的。必須有幫閒之志,又有幫閒之才,這才是真正的幫閒。如果有其志而無其才,亂點古書,重抄笑話,吹拍名士,拉扯趣聞,而居然不顧臉皮,大擺架子,反自以為得意,——自然也還有人以為有趣,——但按其實,卻不過「扯淡」而已。幫閒的盛世是幫忙,到末代就只剩了這扯淡。 |
権門の清客であっても、囲碁を数局打ち、書を一筆し、画を描き、骨董を鑑定し、拳遊びや酒令、洒落や茶番を心得てこそ、清客たり得る。すなわち清客にもなお清客の本領が要る。骨のある者には屑しとしないことだが、空手の者に企て及ぶところでもない。例えば李漁の『一家言』、袁枚の『随園詩話』は、すべての幇閑にできるものではない。幇閑の志があり、かつ幇閑の才がある者こそ、真の幇閑である。もし志はあるが才がなく、古書を出鱈目に引き、笑話を書き写し、名士に追従し、逸話を引っ張り出し、しかも臆面もなく大いに威張り、かえって得意になる者は——もちろんそれを面白がる人もいるだろうが——実のところ「でたらめ」にすぎない。幇閑の盛世は幇忙であり、末代に至ればただこのでたらめが残るのみ。 |
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六月六日。 |
六月六日。 |
第28節
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聽到了拙著《中國小說史略》的日本譯《支那小說史》已經到了出版的機運,非常之高興,但因此又感到自己的衰退了。 |
拙著『中国小説史略』の日本語訳『支那小説史』がいよいよ出版の運びとなったと聞き、非常に喜ばしいが、同時にまた自らの衰退を感じる。 |
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回憶起來,大約四五年前罷,增田涉君幾乎每天到寓齋來商量這一本書,有時也縱談當時文壇的情形,很為愉快。那時候,我是還有這樣的餘暇,而且也有再加研究的野心的。但光陰如駛,近來卻連一妻一子,也將為累,至於收集書籍之類,更成為身外的長物了。改訂《小說史略》的機緣,恐怕也未必有。所以恰如準備輟筆的老人,見了自己的全集的印成而高興一樣,我也因而高興的罷。 |
思い起こせば、おおよそ四、五年前であろうか、増田渉君がほとんど毎日寓居に来てこの本について相談し、時に当時の文壇の状況について談論したのは、まことに愉快なことであった。あの頃、私にはまだそれだけの余暇があり、さらに研究を深める野心もあった。しかし光陰は駿馬の如く、近頃では妻子一人すら負担となりかねず、書籍の収集などはなおさら身外の長物となった。『小説史略』を改訂する機会も、おそらくはあるまい。だからちょうど筆を擱く準備をした老人が、自らの全集の完成を見て喜ぶように、私もまた喜んでいるのであろう。 |
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然而,積習好像也還是難忘的。關於小說史的事情,有時也還加以注意,說起較大的事來,則有今年已成故人的馬廉教授,于去年翻印了「清平山堂」殘本,使宋人話本的材料更加豐富;鄭振鐸教授又證明了《西遊記》中的《西遊記》是吳承恩《西遊記》的摘錄,而並非祖本,這是可以訂正拙著第十六篇的所說的,那精確的論文,就收錄在《痀僂集》裡。還有一件,是《金瓶梅詞話》被發見於北平,為通行至今的同書的祖本,文章雖比現行本粗率,對話卻全用山東的方言所寫,確切的證明了這決非江蘇人王世貞所作的書。 |
しかし積年の習慣はやはり忘れがたいようだ。小説史に関する事柄に、時折なお関心を寄せている。やや大きな事を挙げれば、今年すでに故人となった馬廉教授が昨年「清平山堂」の残本を翻印し、宋人話本の資料をいよいよ豊かにした。鄭振鐸教授はまた『西遊記』中の『西遊記』が呉承恩の『西遊記』の摘録であって祖本ではないことを証明した。これは拙著第十六篇の所説を訂正し得るものであり、その精確なる論文は『痀僂集』に収録されている。さらにもう一つ、『金瓶梅詞話』が北平で発見された。これは今日まで通行する同書の祖本であり、文章は現行本より粗率ではあるが、対話はすべて山東方言で書かれており、これが決して江蘇人の王世貞の著した書でないことを確実に証明するものである。 |
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但我卻並不改訂,目睹其不完不備,置之不問,而只對於日本譯的出版,自在高興了。但願什麼時候,還有補這懶惰之過的時機。 |
しかし私は改訂せず、その不完全不備を目の当たりにしながら放置し、ただ日本語訳の出版を自ら喜んでいるのだ。願わくはいつの日にか、この怠惰の過ちを補う時機があらんことを。 |
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這一本書,不消說,是一本有著寂寞的運命的書。然而增田君排除困難,加以翻譯,賽棱社主三上於菟吉氏不顧利害,給它出版,這是和將這寂寞的書帶到書齋裡去的讀者諸君,我都真心感謝的。 |
この本は言うまでもなく、寂寞たる運命を持つ書である。しかし増田君が困難を排して翻訳し、賽棱社主の三上於菟吉氏が利害を顧みず出版してくれた。この寂寞なる書を書斎に持ち帰ってくださる読者諸君とともに、私は心から感謝する。 |
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一九三五年六月九日燈下,魯迅。 |
一九三五年六月九日灯下にて、魯迅。 |
第29節
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一 |
一 |
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極平常的豫想,也往往會給實驗打破。我向來總以為翻譯比創作容易,因為至少是無須構想。但到真的一譯,就會遇著難關,譬如一個名詞或動詞,寫不出,創作時候可以回避,翻譯上卻不成,也還得想,一直弄到頭昏眼花,好像在腦子裡面摸一個急於要開箱子的鑰匙,卻沒有。嚴又陵說,「一名之立,旬月躊躕」,是他的經驗之談,的的確確的。 |
ごく平凡な予想も、往々にして実験に打ち破られる。私はこれまでずっと翻訳は創作より容易だと思っていた。少なくとも構想が不要だからだ。しかしいざ翻訳に取りかかると難関に遭遇する。例えば一つの名詞や動詞が書けない。創作なら回避できるが、翻訳ではそうはいかず、やはり考えねばならない。頭がくらくらして目が霞むまで考える。まるで脳の中で箱を開ける鍵を手探りしているのに、見つからないようなものだ。厳又陵が「一名の立つ、旬月躊躇す」と言ったのは、彼の経験談であり、まことにその通りである。 |
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新近就因為豫想的不對,自己找了一個苦吃。《世界文庫》的編者要我譯果戈理的《死魂靈》,沒有細想,一口答應了。這書我不過曾經草草的看過一遍,覺得寫法平直,沒有現代作品的希奇古怪,那時的人們還在蠟燭光下跳舞,可見也不會有什麼摩登名詞,為中國所未有,非譯者來閉門生造不可的。我最怕新花樣的名詞,譬如電燈,其實也不算新花樣了,一個電燈的另件,我叫得出六樣:花線,燈泡,燈罩,沙袋,撲落,開關。但這是上海話,那後三個,在別處怕就行不通。《一天的工作》裡有一篇短篇,講到鐵廠,後來有一位在北方鐵廠裡的讀者給我一封信,說其中的機件名目,沒有一個能夠使他知道實物是什麼的。嗚呼,——這裡只好嗚呼了——其實這些名目,大半乃是十九世紀末我在江南學習挖礦時,得之老師的傳授。不知是古今異時,還是南北異地之故呢,隔膜了。在青年文學家靠它修養的《莊子》和《文選》或者明人小品裡,也找不出那些名目來。沒有法子。「三十六著,走為上著」,最沒有弊病的是莫如不沾手。 |
最近もこの予想の誤りゆえに、自ら苦を招いた。『世界文庫』の編者が私にゴーゴリの『死せる魂』を訳せと頼んだ。深く考えもせず一つ返事で引き受けた。この書はかつてざっと一読しただけで、書き方は平直で現代の作品のように奇怪ではなく、あの時代の人々はまだ蝋燭の灯りの下で踊っていたのだから、中国にないモダンな名詞もなく、訳者が閉門して造語せねばならぬこともあるまいと思った。私が最も恐れるのは新しい名詞である。例えば電灯——実はもう新しくもないが——その部品の名前は六つ挙げられる。花線、電球、燈罩、砂袋、スイッチ、開関。しかしこれは上海語であり、後の三つは他所では通じまい。『一天の工作』の中のある短篇は鉄工場を描いたもので、後に北方の鉄工場の読者から手紙が来て、その中の機械の名称は一つとして実物が何であるか分からなかったという。ああ——ここは嘆息するしかない——実はこれらの名称の大半は、十九世紀末に江南で採鉱を学んだ際、先生から教わったものであった。古今の時代の違いか、南北の地域の違いか、隔靴掻痒となった。若き文学者が修養の糧とする『荘子』や『文選』、あるいは明人小品にも、それらの名称は見つからない。仕方がない。「三十六計、逃ぐるを上計とす」——最も弊害のないのは手を出さぬことだ。 |
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可恨我還太自大,竟又小覷了《死魂靈》,以為這倒不算什麼,擔當回來,真的又要翻譯了。於是「苦」字上頭。仔細一讀,不錯,寫法的確不過平鋪直敘,但到處是刺,有的明白,有的卻隱藏,要感得到;雖然重譯,也得竭力保存它的鋒頭。裡面確沒有電燈和汽車,然而十九世紀上半期的菜單,賭具,服裝,也都是陌生傢伙。這就勢必至於字典不離手,冷汗不離身,一面也自然只好怪自己語學程度的不夠格。但這一杯偶然自大了一下的罰酒是應該喝幹的:硬著頭皮譯下去。到得煩厭,疲倦了的時候,就隨便拉本新出的雜誌來翻翻,算是休息。這是我的老脾氣,休息之中,也略含幸災樂禍之意,其意若曰:這回是輪到我舒舒服服的來看你們在鬧什麼花樣了。 |
恨むべきことに私はまだ自惚れが過ぎ、ふたたび『死せる魂』を侮って引き受けてしまい、いよいよ翻訳に取りかかると「苦」の字が頭上に乗った。仔細に読めば、なるほど書き方は平鋪直叙にすぎないが、至る所に棘がある。明らかなものもあれば隠されたものもあり、感じ取らねばならない。重訳であっても、その鋒先を極力保たねばならない。電灯も自動車も確かにないが、十九世紀前半の献立、賭具、服装は、いずれも見慣れぬ代物であった。かくて辞典を手放せず、冷や汗も止まらず、一面では自らの語学力の不足を嘆くほかない。しかしこの偶さか自惚れた一杯の罰盃は飲み干すべきだ。頭を硬くして訳し続けるのだ。煩い疲れた時は、新しく出た雑誌を手に取ってぱらぱらめくり、休息とする。これは私の旧い癖で、休息の中にはいくらか他人の不幸を喜ぶ気持ちも含まれている。「今度はこちらが楽に座って、お前たちの芸当を見物する番だ」というわけだ。 |
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好像華蓋運還沒有交完,仍舊不得舒服。拉到手的是《文學》四卷六號,一翻開來,卷頭就有一幅紅印的大廣告,其中說是下一號裡,要有我的散文了,題目叫作「未定」。往回一想,編輯先生的確曾經給我一封信,叫我寄一點文章,但我最怕的正是所謂做文章,不答。文章而至於要做,其苦可知。不答者,即答曰不做之意。不料一面又登出廣告來了,情同綁票,令我為難。但同時又想到這也許還是自己錯,我曾經發表過,我的文章,不是湧出,乃是擠出來的。他大約正抓住了這弱點,在用擠出法;而且我遇見編輯先生們時,也間或覺得他們有想擠之狀,令人寒心。先前如果說:「我的文章,是擠也擠不出來的」,那恐怕要安全得多了,我佩服陀思妥也夫斯基的少談自己,以及有些文豪們的專講別人。 |
どうやら華蓋運はまだ終わっていないらしく、やはり楽にはさせてもらえない。手に取ったのは『文学』四巻六号で、開くと巻頭に赤刷りの大広告があり、次号に私の散文が載ると書いてある。題目は「未定」。思い返せば、編集者から確かに手紙が来て文章を送れと言われたが、私が最も嫌うのはいわゆる文章を「作る」ことで、返事を出さなかった。文章を「作る」に至っては、その苦しさは知れよう。無返事は、すなわち書かないという返事である。ところが一方で広告を出されては、誘拐同然で、困惑させられる。しかし同時に、これは自分の落ち度かもしれぬとも思う。かつて私は、自分の文章は湧き出るのではなく絞り出すのだと発表したことがある。彼はおそらくこの弱点を掴んで絞り出し法を使っているのだ。しかも編集者に会うと、時折絞り出そうとする気配が感じられ、肝を冷やす。以前「私の文章は絞っても絞り出せない」と言っておけば、もっと安全であったろう。ドストエフスキーの自分をあまり語らぬ態度、そしてある文豪たちのもっぱら他人のことを語る態度を、私は敬服する。 |
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但是,積習還未盡除,稿費又究竟可以換米,寫一點也還不算什麼「冤沉海底」。筆,是有點古怪的,它有編輯先生一樣的「擠」的本領。袖手坐著,想打盹,筆一在手,面前放一張稿子紙,就往往會莫名其妙的寫出些什麼來。自然,要好,可不見得。 |
しかし積年の習慣はまだ尽きず、稿料は結局のところ米と交換できるのだから、少し書いたところで「冤沈海底」というほどのことでもない。筆というものは不思議なもので、編集者と同じ「絞る」力を持っている。手をこまねいて座り、居眠りでもしたいと思っていても、筆を手に取り、目の前に原稿用紙を置けば、往々にして訳の分からぬ何かを書いてしまうものだ。もちろん、良いものとは限らないが。 |
二 |
二 |
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還是翻譯《死魂靈》的事情。躲在書房裡,是只有這類事情的。動筆之前,就先得解決一個問題:竭力使它歸化,還是儘量保存洋氣呢?日本文的譯者上田進君,是主張用前一法的。他以為諷刺傳品的翻譯,第一當求其易懂,愈易懂,效力也愈廣大。所以他的譯文,有時就化一句為數句,很近於解釋。我的意見卻兩樣的。只求易懂,不如創作,或者改作,將事改為中國事,人也化為中國人。如果還是翻譯,那麼,首先的目的,就在博覽外國的作品,不但移情,也要益智,至少是知道何地何時,有這等事,和旅行外國,是很相像的:它必須有異國情調,就是所謂洋氣。其實世界上也不會有完全歸化的譯文,倘有,就是貌合神離,從嚴辨別起來,它算不得翻譯。凡是翻譯,必須兼顧著兩面,一當然力求其易解,一則保存著原作的丰姿,但這保存,卻又常常和易懂相矛盾:看不慣了。不過它原是洋鬼子,當然誰也看不慣,為比較的順眼起見,只能改換他的衣裳,卻不該削低他的鼻子,剜掉他的眼睛。我是不主張削鼻剜眼的,所以有些地方,仍然寧可譯得不順口。只是文句的組織,無須科學理論似的精密了,就隨隨便便,但副詞的「地」字,卻還是使用的,因為我覺得現在看慣了這字的讀者已經很不少。 |
なお『死せる魂』の翻訳の話である。書斎に籠もっていれば、こうした事柄ばかりだ。筆を執る前にまず一つの問題を解決せねばならない。極力帰化させるか、それともできるだけ洋気を保つか。日本語訳者の上田進君は前者を主張する。彼は風刺作品の翻訳は第一に分かりやすさを求めるべきで、分かりやすいほど効力も広大だと考えている。だから彼の訳文は時に一文を数文に分け、ほとんど解説に近い。私の意見は異なる。ただ分かりやすさのみを求めるなら、いっそ創作するか、あるいは改作して事を中国の事に、人も中国人に変えればよい。もしなお翻訳であるなら、第一の目的は外国の作品を博覧することであり、感情移入だけでなく知見をも益すべきだ。少なくとも何処で何時にこのようなことがあったと知ること。外国旅行に大変似ている。異国の情調、すなわちいわゆる洋気がなければならない。実際、完全に帰化した訳文は世にあり得ず、もしあれば似て非なるものであり、厳密に言えば翻訳とは言えない。およそ翻訳は二つの面を兼ね備えねばならない。一に分かりやすさを求め、一に原作の風姿を保つ。しかしこの保存はしばしば分かりやすさと矛盾する——見慣れないのだ。しかしもともと洋鬼子であるから、誰も見慣れなくて当然で、多少見やすくするために衣裳を替えることはできても、鼻を削ったり目を抉ったりすべきではない。私は鼻を削り目を抉ることには賛成しないから、ところによってはなお口に滑らかでなく訳すこともある。ただ文の組み立ては科学理論ほど精密にする必要はなく、気楽に行くが、副詞の「地」の字はなお使用する。今やこの字に慣れた読者が少なくないと感じるからだ。 |
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然而「幸乎不幸乎」,我竟因此發見我的新職業了:做西崽。 |
しかし「幸か不幸か」、私はこれによって新しい職業を発見してしまった。西崽をすることだ。 |
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還是當作休息的翻雜誌,這回是在《人間世》二十八期上遇見了林語堂先生的大文,摘錄會損精神,還是抄一段——「……今人一味仿效西洋,自稱摩登,甚至不問中國文法,必欲仿效英文,分『歷史地』為形容詞,『歷史地的』為狀詞,以模仿英文之historic-al-ly,拖一西洋辮子,然則『快來』何不因『快』字是狀詞而改為『快地的來』?此類把戲,只是洋場孽少怪相,談文學雖不足,當西崽頗有才。此種流風,其弊在奴,救之之道,在於思。」(《今文八弊》中) |
やはり休息がてらの雑誌めくりで、今度は『人間世』二十八期で林語堂先生の大文に遭遇した。抜粋は精力を損なうので、一段書き写す——「……今人は一途に西洋を模倣し、自らモダンと称し、甚だしきは中国の文法を顧みず、英文を模倣して、『歴史的に』を形容詞とし、『歴史的的に』を副詞とし、英文のhistoric-al-lyを模倣して洋辮子をぶら下げる。しからば『早く来い』を、『早く』が副詞だからと言って『早く的的に来い』に改めぬのは何故か。この種の把戯は、洋場のやくざの怪態、文学を論ずるには足らず、西崽たるには大いに才あり。この種の流風、その弊は奴にあり、これを救うの道は思にあり。」(『今文八弊』中) |
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其實是「地」字之類的採用,並非一定從高等華人所擅長的英文而來的。「英文」「英文」,一笑一笑。況且看上文的反問語氣,似乎「一味仿效西洋」的「今人」,實際上也並不將「快來」改為「快地的來」,這僅是作者的虛構,所以助成其名文,殆即所謂「保得自身為主,則圓通自在,大暢無比」之例了。不過不切實,倘是「自稱摩登」的「今人」所說,就是「其弊在浮」。 |
実は「地」の字などの採用は、必ずしも高等華人が得意とする英文から来たわけではない。「英文」「英文」と、一笑一笑。しかも上文の反語の語気から察するに、「一途に西洋を模倣する」「今人」も、実際には「早く来い」を「早く的的に来い」に改めたりはしない。これは著者の虚構であり、その名文を成す一助、すなわちいわゆる「自身を主として保てば、円通自在、大いに暢快比なし」の実例であろう。ただし切実でないのは、もし「自らモダンと称する」「今人」の言ならば、「その弊は浮にあり」ということになる。 |
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倘使我至今還住在故鄉,看了這一段文章,是懂得,相信的。我們那裡只有幾個洋教堂,裡面想必各有幾位西崽,然而很難得遇見。要研究西崽,只能用自己做標本,雖不過「頗」,也夠合用了。又是「幸乎不幸乎」,後來竟到了上海,上海住著許多洋人,因此有著許多西崽,因此也給了我許多相見的機會;不但相見,我還得了和他們中的幾位談天的光榮。不錯,他們懂洋話,所懂的大抵是「英文」,「英文」,然而這是他們的吃飯傢伙,專用於服事洋東家的,他們決不將洋辮子拖進中國話裡來,自然更沒有搗亂中國文法的意思,有時也用幾個音譯字,如「那摩溫」,「土司」之類,但這也是向來用慣的話,並非標新立異,來表示自己的摩登的。他們倒是國粹家,一有餘閒,拉皮胡,唱《探母》;上工穿制服,下工換華裝,間或請假出遊,有錢的就是緞鞋綢衫子。不過要戴草帽,眼鏡也不用玳瑁邊的老樣式,倘用華洋的「門戶之見」看起來,這兩樣卻不免是缺點。 |
もし私が今なお故郷に住んでいて、この一段を読んだなら、理解し、信じたであろう。あちらには洋教会が数軒あるだけで、中には各々西崽が数人いるのだろうが、めったに見かけない。西崽を研究するには自分を標本にするほかなく、「いくらか」にすぎなくても、まあ間に合う。またも「幸か不幸か」、後に上海に来た。上海には多くの洋人が住み、したがって多くの西崽がいて、したがって多くの出会いの機会を得た。出会っただけでなく、彼らの数人と雑談する光栄にも浴した。なるほど彼らは洋語が分かる。分かるのはおおむね「英語」「英語」であるが、これは彼らの飯の種であり、もっぱら洋人の旦那に仕えるために使うもので、決して洋辮子を中国語の中に持ち込んだりはしない。もちろん中国の文法を乱す意図もなく、時に音訳の語を使うこともあるが、「那摩温」や「土司」の類であり、従来使い慣れた語であって、標新立異してモダンを示そうというのではない。彼らはむしろ国粋家であり、暇があれば胡弓を弾き、京劇を歌う。仕事着は制服で、帰れば中華服に着替え、たまの外出には金のある者は緞子の靴に絹の衫である。ただし麦藁帽を被り、眼鏡も鼈甲縁の旧式は使わない。華洋の「門戸の見」から言えば、この二点はいささか欠点であろう。 |
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又倘使我要另找職業,能說英文,我可真的肯去做西崽的,因為我以為用工作換錢,西崽和華僕在人格上也並無高下,正如用勞力在外資工廠或華資工廠換得工資,或用學費在外國大學或中國大學取得資格,都沒有卑賤和清高之分一樣。西崽之可厭不在他的職業,而在他的「西崽相」。這裡之所謂「相」,非說相貌,乃是「誠於中而形於外」的,包括著「形式」和「內容」而言。這「相」,是覺得洋人勢力,高於群華人,自己懂洋話,近洋人,所以也高於群華人;但自己又系出黃帝,有古文明,深通華情,勝洋鬼子,所以也勝於勢力高於群華人的洋人,因此也更勝於還在洋人之下的群華人。租界上的中國巡捕,也常常有這一種「相」。 |
またもし私が別の職業を探すとして、英語ができるなら、私はまことに進んで西崽になったであろう。なぜなら労働で金を得るのに、西崽と華僕は人格において高下がないと考えるからだ。外資工場であれ華資工場であれ労働力で賃金を得ること、外国の大学であれ中国の大学であれ学費で資格を得ることに、卑賤と清高の別はないのと同じである。西崽の厭うべきはその職業ではなく、その「西崽相」にある。ここでいう「相」は容貌のことではなく、「誠中に発して外に形る」もので、「形式」と「内容」を含んで言う。この「相」とは、洋人の勢力が群華人より上であり、自分は洋語を解し洋人に近いから、自分もまた群華人より上であると感じる。しかし自分は黄帝の裔で古い文明を持ち、中華の事情に通じ洋鬼子に勝る。だから群華人より上にある洋人にも勝り、ゆえに洋人の下にある群華人にもいよいよ勝る。租界の中国人巡査にも、しばしばこの一種の「相」がある。 |
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倚徙華洋之間,往來主奴之界,這就是現在洋場上的「西崽相」。但又並不是騎牆,因為他是流動的,較為「圓通自在」,所以也自得其樂,除非你掃了他的興頭。 |
華洋の間に倚りかかり、主と奴の境を行き来する——これが今の洋場の「西崽相」である。しかし日和見ではない。彼は流動的で、比較的「円通自在」であるから、自ら楽しんでもいる。彼の興を殺がない限りは。 |
三 |
三 |
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由前所說,「西崽相」就該和他的職業有關了,但又不全和職業相關,一部份卻來自未有西崽以前的傳統。所以這一種相,有時是連清高的士大夫也不能免的。「事大」,歷史上有過的,「自大」,事實上也常有的;「事大」和「自大」,雖然不相容,但因「事大」而「自大」,卻又為實際上所常見——他足以傲視一切連「事大」也不配的人們。有人佩服得五體投地的《野叟曝言》中,那「居一人之下,在眾人之上」的文素臣,就是這標本。他是崇華,抑夷,其實卻是「滿崽」;古之「滿崽」,正猶今之「西崽」也。 |
前述により、「西崽相」はその職業と関係があるはずだが、全面的に職業と関係するわけではなく、一部は西崽が出現する以前の伝統に由来する。だからこの相は、時に清高なる士大夫すら免れ得ない。「事大」は歴史上あったし、「自大」も事実上しばしばある。「事大」と「自大」は相容れぬが、「事大」によって「自大」するのは実際によく見られる——彼は「事大」すらできぬ者どもを傲視するに足るのだ。五体投地して敬服する者がいる『野叟曝言』の、あの「一人の下に居り、衆人の上に在り」の文素臣こそ、この標本である。彼は華を崇め夷を斥けるが、実は「満崽」であった。古の「満崽」は今の「西崽」にほかならない。 |
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所以雖是我們讀書人,自以為勝西崽遠甚,而洗伐未淨,說話一多,也常常會露出尾巴來的。再抄一段名文在這裡——「……其在文學,今日紹介波蘭詩人,明日紹介捷克文豪,而對於已經聞名之英美法德文人,反厭為陳腐,不欲深察,求一究竟。此與婦女新裝求入時一樣,總是媚字一字不是,自歎女兒身,事人以顏色,其苦不堪言。 |
だからたとえ我々読書人が、自ら西崽より遥かに勝ると自負しても、洗滌が不十分で、口数が多くなると、しばしば尻尾が露われる。もう一段名文を書き写しておこう——「……文学において、今日はポーランドの詩人を紹介し、明日はチェコの文豪を紹介するが、すでに聞名せる英米仏独の文人に対しては、かえって陳腐として深く察することを欲せず、究竟を求めない。これは婦女が新装を入時に求めるのと同じく、煎じ詰めれば媚の一字に尽き、女児の身を嘆き、人に顔色を以て事え、その苦堪え難し。 |
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此種流風,其弊在浮,救之之道,在於學。」(《今文八弊》中) |
この種の流風、その弊は浮にあり、これを救うの道は学にあり。」(『今文八弊』中) |
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但是,這種「新裝」的開始,想起來卻長久了,「紹介波蘭詩人」,還在三十年前,始於我的《摩羅詩力說》。那時滿清宰華,漢民受制,中國境遇,頗類波蘭,讀其詩歌,即易於心心相印,不但無事大之意,也不存獻媚之心。後來上海的《小說月報》,還曾為弱小民族作品出過專號,這種風氣,現在是衰歇了,即偶有存者,也不過一脈的餘波。但生長於民國的幸福的青年,是不知道的,至於附勢奴才,拜金崽子,當然更不會知道。但即使現在紹介波蘭詩人,捷克文豪,怎麼便是「媚」呢?他們就沒有「已經聞名」的文人嗎?況且「已經聞名」,是誰聞其「名」,又何從而「聞」的呢?誠然,「英美法德」,在中國有宣教師,在中國現有或曾有租界,幾處有駐軍,幾處有軍艦,商人多,用西崽也多,至於使一般人僅知有「大英」,「花旗」,「法蘭西」和「茄門」,而不知世界上還有波蘭和捷克。但世界文學史,是用了文學的眼睛看,而不用勢利眼睛看的,所以文學無須用金錢和槍炮作掩護,波蘭捷克,雖然未曾加入八國聯軍來打過北京,那文學卻在,不過有一些人,並未「已經聞名」而已。外國的文人,要在中國聞名,靠作品似乎是不夠的,他反要得到輕薄。 |
しかし、この「新装」の始まりは、思い起こせば長い昔のことで、「ポーランドの詩人を紹介する」のは三十年前、私の『摩羅詩力説』に始まる。あの頃は満清が華を宰し、漢民は制を受け、中国の境遇はポーランドに大いに類していた。その詩歌を読めばすなわち心心相印しやすく、事大の意もなく献媚の心もなかった。後に上海の『小説月報』が弱小民族の作品の特集号を出したこともあるが、この風気は今や衰えた。偶に残る者があっても一脈の余波にすぎない。しかし民国に生まれ育った幸福な青年にはこれが分からず、権勢に附く奴僕や拝金の小僧にはなおさら分かるまい。だが仮に今ポーランドの詩人やチェコの文豪を紹介したとして、なぜ「媚」なのか。彼らにも「すでに聞名せる」文人はいないのか。しかも「すでに聞名」とは、誰がその「名」を聞き、何によって「聞」いたのか。なるほど「英米仏独」は中国に宣教師を置き、中国に租界を有し、各地に駐軍を持ち、軍艦を浮かべ、商人も多く、西崽の使用も多い。だから一般人は「大英」「花旗」「仏蘭西」「茄門」のみを知り、世界にポーランドやチェコがあることを知らない。しかし世界文学史は文学の目で見るのであって、勢利の目で見るのではないから、文学に金銭や銃砲の掩護は不要であり、ポーランドもチェコも八国連合軍に加わって北京を攻めたことはないが、文学は在る。ただ一部の人々が「すでに聞名」していないだけだ。外国の文人が中国で聞名するには、作品だけでは足りないようで、かえって軽薄を受けねばならない。 |
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所以一樣的沒有打過中國的國度的文學,如希臘的史詩,印度的寓言,亞剌伯的《天方夜談》,西班牙的《堂•吉訶德》,縱使在別國「已經聞名」,不下於「英美法德文人」的作品,在中國卻被忘記了,他們或則國度已滅,或則無能,再也用不著「媚」字。 |
だから同じく中国を攻撃したことのない国の文学——ギリシアの叙事詩、インドの寓話、アラビアの『千一夜物語』、スペインの『ドン・キホーテ』——たとえ他国では「英米仏独の文人」の作品に劣らぬほど「すでに聞名」していても、中国では忘れられている。彼らの国はすでに滅びたか、あるいは無力であり、もはや「媚」びる用もないからだ。 |
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對於這情形,我看可以先把上章所引的林語堂先生的訓詞移到這裡來的—— |
この状況に対して、私が思うに、前章で引用した林語堂先生の訓辞をここに移してくることができよう—— |
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「此種流風,其弊在奴,救之之道,在於思。」 |
「この種の流風、その弊は奴にあり、これを救うの道は思にあり。」 |
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不過後兩句不合用,既然「奴」了,「思」亦何益,思來思去,不過「奴」得巧妙一點而已。中國寧可有未「思」的西崽,將來的文學倒較為有望。 |
ただし後の二句は合わない。すでに「奴」であれば、「思」うて何の益あらん。思い巡らしても「奴」がいくらか巧妙になるだけだ。中国に未だ「思」わぬ西崽がいるほうが、将来の文学にはむしろ望みがある。 |
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但「已經聞名的英美法德文人」,在中國卻確是不遇的。中國的立學校來學這四國語,為時已久,開初雖不過意在養成使館的譯員,但後來卻展開,盛大了。學德語盛於清末的改革軍操,學法語盛於民國的「勤工儉學」。學英語最早,一為了商務,二為了海軍,而學英語的人數也最多,為學英語而作的教科書和參考書也最多,由英語起家的學士文人也不少。然而海軍不過將軍艦送人,紹介「已經聞名」的司各德,迭更斯,狄福,斯惠夫德……的,竟是只知漢文的林紓,連紹介最大的「已經聞名」的莎士比亞的幾篇劇本的,也有待于並不專攻英文的田漢。這緣故,可真是非「在於思」則不可了。 |
しかし「すでに聞名せる英米仏独の文人」は中国では確かに不遇である。中国はこの四国語を学ぶ学校を設けて久しい。当初は使館の通訳養成のためにすぎなかったが、後に展開し盛大になった。ドイツ語の学習は清末の軍操改革で盛んとなり、フランス語は民国の「勤工倹学」で盛んとなった。英語の学習が最も早く、一に商務のため、二に海軍のためで、英語を学ぶ者の数も最多であり、英語のための教科書や参考書も最多であり、英語から身を起こした学士文人も少なくない。しかし海軍は軍艦を人に与えるだけに終わり、「すでに聞名せる」スコット、ディケンズ、デフォー、スウィフト……を紹介したのは、なんと漢文しか知らぬ林紓であった。最大の「すでに聞名せる」シェイクスピアのいくつかの戯曲を紹介したのすら、英文を専攻していない田漢であった。この理由こそまことに「思に在り」でなければ究めがたい。 |
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然而現在又到了「今日紹介波蘭詩人,明日紹介捷克文豪」的危機,弱國文人,將聞名于中國,英美法德的文風,竟還不能和他們的財力武力,深入現在的文林,「狗逐尾巴」者既沒有恒心,志在高山的又不屑動手,但見山林映以電燈,語錄夾些洋話,「對於已經聞名之英美法德文人」,真不知要待何人,至何時,這才來「求一究竟」。那些文人的作品,當然也是好極了的,然甲則曰不佞望洋而興歎,乙則曰汝輩何不潛心而探求。舊笑話云:昔有孝子,遇其父病,聞股肉可療,而自怕痛,執刀出門,執途人臂,悍然割之,途人驚拒,孝子謂曰,割股療父,乃是大孝,汝竟驚拒,豈是人哉!是好比方;林先生云:「說法雖乖,功效實同」,是好辯解。六月十日。 |
しかるに今やふたたび「今日はポーランドの詩人を紹介し、明日はチェコの文豪を紹介する」危機が迫り、弱国の文人が中国で聞名しようとしている。英米仏独の文風は、なお彼らの財力武力のようには現今の文林に深く入り込めていない。「犬が尾を追う」者には恒心がなく、高山を志す者は手を下すことを屑しとしない。見れば山林は電灯に映え、語録に洋語が交じるだけで、「すでに聞名せる英米仏独の文人」については、真にいつ誰を待って「究竟を求める」に至るのか。あの文人たちの作品はもちろん素晴らしいが、甲は「不才、洋を望んで興嘆す」と言い、乙は「汝輩何ぞ潜心して探求せざるや」と言う。古い笑い話がある。昔ある孝子が父の病に遇い、股肉で癒やせると聞いたが、自分は痛いのが怖い。刀を持って外に出、通行人の腕を掴み、堂々と切ろうとした。通行人が驚いて拒めば、孝子曰く「股を割いて父を療するは大孝なり。汝竟に拒むとは、人にあらざるか!」よい比喩である。林先生曰く「説法は乖くとも、功効は実に同じ」。よい弁解である。六月十日。 |
第30節
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《太白》二卷七期上有一篇南山先生的《保守文言的第三道策》,他舉出:第一道是說「要做白話由於文言做不通」,第二道是說「要白話做好,先須文言弄通」。十年之後,才來了太炎先生的第三道,「他以為你們說文言難,白話更難。理由是現在的口頭語,有許多是古語,非深通小學就不知道現在口頭語的某音,就是古代的某音,不知道就是古代的某字,就要寫錯。……」 |
『太白』二巻七期に南山先生の『保守文言の第三道策』という一篇がある。そこに挙げられたのは、第一道は「白話を書くのは文言ができないからだ」と言い、第二道は「白話を上手に書きたければ、まず文言に通じなければならない」と言う。十年の後、ようやく太炎先生の第三道が来た。「先生は諸君が文言は難しいと言うが、白話はもっと難しいと考える。理由は現在の口頭語には古語が多く、小学に深く通じなければ、現在の口頭語のある音が古代のある音であり、ある字であることが分からず、書き間違えるからだ……」 |
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太炎先生的話是極不錯的。現在的口頭語,並非一朝一夕,從天而降的語言,裡面當然有許多是古語,既有古語,當然會有許多曾見於古書,如果做白話的人,要每字都到《說文解字》裡去找本字,那的確比做任用借字的文言要難到不知多少倍。然而自從提倡白話以來,主張者卻沒有一個以為寫白話的主旨,是在從「小學」裡尋出本字來的,我們就用約定俗成的借字。誠然,如太炎先生說:「乍見熟人而相寒暄曰『好呀』,『呀』即『乎』字;應人之稱曰『是唉』,『唉』即 『也』字。」但我們即使知道了這兩字,也不用「好乎」或「是也」,還是用「好呀」或「是唉」。因為白話是寫給現代的人們看,並非寫給商周秦漢的鬼看的,起古人於地下,看了不懂,我們也毫不畏縮。所以太炎先生的第三道策,其實是文不對題的。這緣故,是因為先生把他所專長的小學,用得範圍太廣了。 |
太炎先生の言葉はまことに正しい。現在の口頭語は一朝一夕に天から降ってきた言語ではなく、もちろん古語が多く含まれている。古語がある以上、もちろん古書に見えるものも多い。もし白話を書く者が、すべての字を『説文解字』で本字を探さねばならぬとすれば、借字を任意に用いる文言を書くよりも、確かに何倍も難しくなる。しかし白話の提唱以来、主張者の中に、白話を書く主旨が「小学」から本字を尋ね出すことにあると考えた者は一人もいない。我々は約定俗成の借字を使うのだ。なるほど太炎先生の言うように「人に会って挨拶する際『好呀』と言うが、『呀』は即ち『乎』の字であり、人の呼びかけに応じて『是唉』と言うが、『唉』は即ち『也』の字である」。しかし我々はたとえこの二字を知っても「好乎」や「是也」とは使わず、やはり「好呀」「是唉」を使う。白話は現代の人々に読ませるために書くのであって、商周秦漢の亡霊に読ませるためではないのだから、古人を地下から起こして読んで分からなくとも、我々は毫も臆することはない。だから太炎先生の第三道策は、実は的外れなのだ。この理由は、先生が得意とする小学を、適用範囲が広すぎるところに用いたためである。 |
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我們的知識很有限,誰都願意聽聽名人的指點,但這時就來了一個問題:聽博識家的話好,還是聽專門家的話好呢?解答似乎很容易:都好。自然都好;但我由曆聽了兩家的種種指點以後,卻覺得必須有相當的警戒。因為是:博識家的話多淺,專門家的話多悖的。 |
我々の知識は限られており、誰もが名人の指導を聞きたがる。しかしここで一つの問題が生ずる。博識家の言葉を聞くのがよいか、専門家の言葉を聞くのがよいか。答えは簡単そうだ。どちらもよい。もちろんどちらもよいが、私は二家の種々の指導を長年聞いた結果、相当の警戒が必要だと感じている。なぜなら——博識家の言葉は多く浅く、専門家の言葉は多く悖るからである。 |
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博識家的話多淺,意義自明,惟專門家的話多悖的事,還得加一點申說。他們的悖,未必悖在講述他們的專門,是悖在倚專家之名,來論他所專門以外的事。社會上崇敬名人,於是以為名人的話就是名言,卻忘記了他之所以得名是那一種學問或事業。名人被崇奉所誘惑,也忘記了自己之所以得名是那一種學問或事業,漸以為一切無不勝人,無所不談,於是乎就悖起來了。其實,專門家除了他的專長之外,許多見識是往往不及博識家或常識者的。太炎先生是革命的先覺,小學的大師,倘談文獻,講《說文》,當然娓娓可聽,但一到攻擊現在的白話,便牛頭不對馬嘴,即其一例。還有江亢虎博士,是先前以講社會主義出名的名人,他的社會主義到底怎麼樣呢,我不知道。只是今年忘其所以,談到小學,說「『德』之古字為『悳』,從『直』從『心』,『直』即直覺之意」,卻真不知道悖到那裡去了, 他竟連那上半並不是曲直的直字這一點都不明白。這種解釋,卻須聽太炎先生了。 |
博識家の言葉が浅いのは自明だが、専門家の言葉が悖る事には、いくらか説明が要る。彼らの悖りは、必ずしも自らの専門を論ずる時の悖りではなく、専門家の名に頼んで、専門以外の事を論ずる時の悖りである。社会は名人を崇め、名人の言葉を名言と思い込む。しかしその名が何の学問や事業によるものかを忘れている。名人もまた崇敬に誘惑されて、自らの名が何の学問や事業によるものかを忘れ、次第に万事人に勝ると思い込み、何でも語り出し、かくて悖り始める。実は専門家も、その専長以外では、見識はしばしば博識家や常識人にも及ばない。太炎先生は革命の先覚であり、小学の大師である。文献を論じ『説文』を講ずれば、もちろん傾聴に値するが、ひとたび現在の白話を攻撃すれば、牛の頭が馬の口に合わなくなる。その一例である。さらに江亢虎博士は、以前に社会主義を講じて名を成した名人だが、その社会主義がどのようなものか、私は知らない。ただ今年、分をわきまえず小学に口を出して、「『徳』の古字は『悳』、『直』と『心』に従う。『直』はすなわち直覚の意」と言ったが、これはまことにどこまで悖っているか分からない。あの上半分が曲直の直ではないことすら知らなかったのだ。こうした解釈こそ、太炎先生に聞くべきである。 |
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不過在社會上,大概總以為名人的話就是名言,既是名人,也就無所不通,無所不曉。所以譯一本歐洲史,就請英國話說得漂亮的名人校閱,編一本經濟學,又乞古文做得好的名人題簽;學界的名人紹介醫生,說他「術擅岐黃」,商界的名人稱讚畫家,說他「精研六法」。……這也是一種現在的通病。德國的 細胞病理學家維爾曉(Virchow),是醫學界的泰斗,舉國皆知的名人,在醫學史上的位置,是極為重要的,然而他不相信進化論,他那被教徒所利用 的幾回講演,據赫克爾(Haeckel)說,很給了大眾不少壞影響。因為他學問很深,名甚大,於是自視甚高,以為他所不解的,此後也無人能解,又不深研進化論,便一口歸功於上帝了。現在中國屢經紹介的法國昆蟲學大家法布耳(Fabre),也頗有這傾向。他的著作還有兩種缺點:一是嗤笑解剖學家,二是用人類道德於昆蟲界。但倘無解剖,就不能有他那樣精到的觀察,因為觀察的基礎,也還是解剖學;農學者根據對於人類的利害,分昆蟲為益蟲和害蟲, 是有理可說的,但憑了當時的人類的道德和法律,定昆蟲為善蟲或壞蟲,卻是多餘了。有些嚴正的科學者,對於法布耳的有微詞,實也並非無故。但倘若對這兩點先加警戒,那麼,他的大著作《昆蟲記》十卷,讀起來也還是一部很有趣,也很有益的書。 |
しかし社会では、名人の言葉はおおむね名言と見なされ、名人であれば万事に通じ万事を知ると思われている。だからヨーロッパ史の翻訳には英語の上手な名人に校閲を頼み、経済学の編纂には古文の達者な名人に題簽を乞う。学界の名人は医師を紹介して「術、岐黄に擅んず」と言い、商界の名人は画家を称えて「精しく六法を研む」と言う。これもまた現在の通弊である。ドイツの細胞病理学者フィルヒョウ(Virchow)は医学界の泰斗で、挙国知る名人であり、医学史上の位置はきわめて重要であるが、彼は進化論を信じなかった。教徒に利用されたいくつかの講演は、ヘッケル(Haeckel)によれば大衆にかなりの悪影響を与えた。学問が深く名声が大きいゆえに自負が高く、自分に解けぬものは後世にも解けまいと思い込み、進化論を深く研究せず、一口に神の功に帰したのだ。今、中国でしばしば紹介されるフランスの昆虫学の大家ファーブル(Fabre)にもこの傾向がある。彼の著作にはさらに二つの欠点がある。一つは解剖学者を嗤うこと、もう一つは人間の道徳を昆虫界に適用することだ。しかし解剖がなければ彼ほど精到な観察はあり得ない。観察の基礎もまた解剖学だからだ。農学者が人間への利害に基づき昆虫を益虫と害虫に分けるのは理のあることだが、当時の人間の道徳と法律によって昆虫を善虫や悪虫と定めるのは余計なことだ。厳正な科学者の中にファーブルへの微言がある者がいるのも、もっともなことなのだ。しかしこの二点にまず警戒を加えれば、彼の大著『昆虫記』十巻は、読めばやはり大変面白く、また有益な書である。 |
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不過名人的流毒,在中國卻較為利害,這還是科舉的餘波。那時候,儒生在私塾裡揣摩高頭講章,和天下國家何涉,但一登第,真是「一舉成名天下知」,他可以修史,可以衡文,可以臨民,可以治河;到清朝之末,更可以辦學校,開煤礦,練新軍,造戰艦,條陳新政,出洋考察了。成績如何呢,不待我多說。 |
ただし名人の流毒は中国ではいくらか甚だしい。これは科挙の余波である。あの時代、儒生は私塾で高頭講章を揣摩するのみで、天下国家と何の関わりもなかったが、ひとたび及第すれば、まさに「一挙名を成して天下知る」で、史を修め、文を衡り、民に臨み、河を治め得た。清朝の末ともなれば、学校を開き、炭鉱を経営し、新軍を練り、軍艦を造り、新政を建言し、海外視察に出ることもできた。成績はいかに。多言を要しまい。 |
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這病根至今還沒有除,一成名人,便有「滿天飛」之概。我想,自此以後,我們是應該將「名人的話」和「名言」分開來的,名人的話並不都是名言;許多名言,倒出自田夫野老之口。這也就是說,我們應該分別名人之所以名,是由於那一門,而對於他的專門以外的縱談,卻加以警戒。蘇州的學子是聰明的,他們請太炎先生講國學,卻不請他講簿記學或步兵操典,——可惜人們卻又不肯想得更細一點了。 |
この病根は今なお除かれず、一たび名人になれば「満天飛翔」の感がある。思うに、これからは「名人の言葉」と「名言」を分けるべきである。名人の言葉がすべて名言ではなく、多くの名言はむしろ野の老人の口から出る。つまり、名人が何によって名を成したかを弁別し、その専門以外の縦談には警戒すべきなのだ。蘇州の学子は聡明である。太炎先生に国学を講じてもらいはしたが、簿記学や歩兵操典は頼まなかった。——惜しむらくは人々がもう少し細かく考えようとしないことだ。 |
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我很自歉這回時時涉及了太炎先生。但「智者千慮,必有一失」,這大約也無傷於先生的「日月之明」的。至於我的所說,可是我想,「愚者千慮,必有一得」,蓋亦「懸諸日月而不刊」之論也。 |
太炎先生にしばしば言及したことをお詫びする。しかし「智者千慮、必ず一失あり」で、これは先生の「日月の明」を損なうこともあるまい。私の所説については、「愚者千慮、必ず一得あり」——けだし「日月に懸けて刊らざる」の論でもあろう。 |
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七月一日。 |
七月一日。 |
第31節
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「靠天吃飯說」是我們中國的國寶。清朝中葉就有《靠天吃飯圖》的碑,民國初年,狀元陸潤庠先生也畫過一張:一個大「天」字,末一筆的尖端有一位老頭子靠著,捧了碗在吃飯。這圖曾經石印,信天派或嗜奇派,也許還有收藏的。 |
「天に頼って飯を食う説」は我が中国の国宝である。清朝の中葉にはすでに『靠天吃飯図』の碑があり、民国初年には状元の陸潤庠先生も一枚描いた。大きな「天」の字の末筆の先端に一人の老人が寄りかかり、碗を捧げて飯を食っている図である。この図はかつて石印され、天に頼る派や珍奇好きの派には、まだ収蔵している者もあろう。 |
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而大家也確是實行著這學說,和圖不同者,只是沒有碗捧而已。這學說總算存在著一半。 |
そして人々はまことにこの学説を実行しているが、図と異なるのは碗を捧げていない点だけだ。この学説は半分だけ存続しているわけだ。 |
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前一月,我們曾經聽到過嚷著「旱象已成」,現在是梅雨天,連雨了十幾日,是每年必有的常事,又並無颶風暴雨,卻又到處發現水災了。植樹節所種的幾株樹,也不足以挽回天意。「五日一風,十日一雨」的唐虞之世,去今已遠,靠天而竟至於不能吃飯,大約為信天派所不及料的罷。到底還是做給俗人讀的《幼學瓊林》聰明,曰:「輕清者上浮而為天」,「輕清」而又「上浮」,怎麼一個「靠」法。 |
一月前、我々は「旱害すでに成る」との叫びを聞いた。今は梅雨の季節で、十数日も雨が続いているが、これは毎年のことで、暴風雨があったわけでもないのに、またあちこちに水害が発生している。植樹節に植えた数本の木も、天意を覆すには足りなかった。「五日に一風、十日に一雨」の唐虞の世は今や遠く、天に頼ってついに飯も食えなくなるとは、天に頼る派も予想しなかったであろう。やはり俗人に読ませるために書かれた『幼学瓊林』のほうが賢明で、曰く「軽清なる者は上浮して天と為る」。「軽清」にして「上浮」では、どうやって「頼る」のか。 |
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古時候的真話,到現在就有些變成謊話。大約是西洋人說的罷,世界上窮人有份的,只有日光空氣和水。這在現在的上海就不適用,賣心賣力的被一天關到夜,他就曬不著日光,吸不到好空氣;裝不起自來水的,也喝不到乾淨水。報上往往說:「近來天時不正,疾病盛行」,這豈只是「天時不正」之故,「天何言哉」,它默默地被冤枉了。 |
古い時代の真実の言葉も、今となっては嘘になるものがある。西洋人が言ったのだろうが、世の中で貧しい者にも分け前のあるものは、日光と空気と水だけだと。これは今の上海では当てはまらない。骨身を惜しまず働く者が一日中閉じ込められていれば、日光も浴びず、きれいな空気も吸えない。水道を引けない者は、きれいな水も飲めない。新聞にはよく「近来天候不順にて疾病流行す」とあるが、これは「天候不順」のみのせいだろうか。「天何をか言わんや」——天は黙々と冤罪を着せられているのだ。 |
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但是,「天」下去就要做不了「人」,沙漠中的居民為了一塘水,爭奪起來比我們這裡的才子爭奪愛人還激烈,他們要拚命,決不肯做一首「阿呀詩」就了事。洋大人斯坦因博士,不是從甘肅敦煌的沙裡掘去了許多古董麼?那地方原是繁盛之區,靠天的結果,卻被天風吹了沙埋沒了。為製造將來的古董起見,靠天確也是一種好方法,但為活人計,卻是不大值得的。 |
しかし「天」を頼りにしていると「人」でいられなくなる。砂漠の住民は一つの水溜まりのために争い合い、こちらの才子が恋人を争うよりも激しい。彼らは命を懸け、決して「ああ」と詩を一首書いてすませたりはしない。洋人のスタイン博士は、甘粛の敦煌の砂から多くの古董を掘り出したではないか。あの地はもとは繁栄した地域であったが、天に頼った結果、天の風が砂を吹きつけて埋めてしまった。将来の古董を製造するためなら、天に頼るのも確かによい方法だが、生きている人間のためには、あまり値打ちのあることではない。 |
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一到這裡,就不免要說征服自然了,但現在談不到,「帶住」可也。 |
ここまで来ると、自然の征服を語らねばならぬが、今はそこまで言えない。「留め置く」にとどめよう。 |
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七月一日。 |
七月一日。 |
第32節
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果戈理(Nikolai Gogol)的名字,漸為中國讀者所認識了,他的名著《死魂靈》的譯本,也已經發表了第一部的一半。那譯文雖然不能令人滿意,但總算借此知道了從第二至六章,一共寫了五個地主的典型,諷刺固多,實則除一個老太婆和吝嗇鬼潑留希金外,都各有可愛之處。至於寫到農奴,卻沒有一點可取了,連他們誠心來幫紳士們的忙,也不但無益,反而有害。果戈理自己就是地主。 |
ゴーゴリ(Nikolai Gogol)の名は、次第に中国の読者に知られるようになり、その名著『死せる魂』の訳本も、すでに第一部の半分が発表された。その訳文は満足のゆくものとは言えないが、ともかくこれにより第二章から第六章にかけて五人の地主の典型が描かれていることが分かった。風刺はもとより多いが、実のところ一人の老婆と吝嗇鬼プリューシキンを除けば、いずれもそれぞれ愛すべきところがある。農奴を描く段になると、取るべきものは一点もなく、彼らが誠心から紳士たちを助けようとしても、無益どころかかえって有害となる。ゴーゴリ自身が地主であった。 |
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然而當時的紳士們很不滿意,一定的照例的反擊,是說書中的典型,多是果戈理自己,而且他也並不知道大俄羅斯地主的情形。這是說得通的,作者是烏克蘭人,而看他的家信,有時也簡直和書中的地主的意見相類似。然而即使他並不知道大俄羅斯的地主的情形罷,那創作出來的腳色,可真是生動極了,直到現在,縱使時代不同,國度不同,也還使我們像是遇見了有些熟識的人物。諷刺的本領,在這裡不及談,單說那獨特之處,尤其是在用平常事,平常話,深刻的顯出當時地主的無聊生活。例如第四章裡的羅士特來夫,是地方惡少式的地主,趕熱鬧,愛賭博,撒大謊,要恭維,——但挨打也不要緊。他在酒店裡遇到乞乞科夫,誇示自己的好小狗,勒令乞乞科夫摸過狗耳朵之後,還要摸鼻子——「乞乞科夫要和羅士特來夫表示好意,便摸了一下那狗的耳朵。『是的,會成功一匹好狗的。』他加添著說。 |
しかし当時の紳士たちは大いに不満であった。定番の反撃は、書中の典型はおおむねゴーゴリ自身であり、しかも彼は大ロシアの地主の事情を知らないというものだ。これはもっともなことで、作者はウクライナ人であり、その家族への手紙を見ると、時に書中の地主の意見とまことに似ている。しかし仮に大ロシアの地主の事情を知らなかったとしても、創り出された人物はまことに生き生きとしており、今日に至るまで、時代も国も異なるのに、我々はどこかで見知った人物に出会ったような気がするのだ。風刺の腕前についてはここでは論じないが、その独特な点、とりわけ平凡な事柄、平凡な言葉をもって当時の地主の退屈な生活を深く描き出した点を言おう。例えば第四章のノズドリョフは地方のやくざ式の地主で、騒ぎが好きで、賭博好きで、大嘘つきで、お世辞を求めるが——殴られても平気である。彼は居酒屋でチチコフに出会い、自分の仔犬を自慢し、チチコフに犬の耳を撫でさせた上に、さらに鼻まで触らせようとする——「チチコフはノズドリョフに好意を示そうとして、犬の耳を一撫でした。『うん、なかなか良い犬になるだろう。』と彼は付け加えた。 |
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「『再摸摸它那冰冷的鼻頭,拿手來呀!』因為要不使他掃興,乞乞科夫就又一碰那鼻子,於是說道:『不是平常的鼻子!』」 |
「『冷たい鼻先も触ってみろ、手を出せ!』掃興にさせまいとして、チチコフはまた鼻をちょいと触り、こう言った。『並みの鼻ではない!』」 |
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這種莽撞而沾沾自喜的主人,和深通世故的客人的圓滑的應酬,是我們現在還隨時可以遇見的,有些人簡直以此為一世的交際術。「不是平常的鼻子」,是怎樣的鼻子呢?說不明的,但聽者只要這樣也就足夠了。後來又同到羅士特來夫的莊園去,曆覽他所有的田產和東西——「還去看克理米亞的母狗,已經瞎了眼,據羅士特來夫說,是就要倒斃的。兩年以前,卻還是一條很好的母狗。大家也來察看這母狗,看起來,它也確乎瞎了眼。」 |
この粗暴にして得意げな主人と、世故に長けた客人の円滑なあしらいは、我々が今もいつでも出会い得るもので、これを一生の社交術とする者さえいる。「並みの鼻ではない」——いったいどんな鼻なのか。言い難いが、聞く者はこれだけで十分なのだ。後にノズドリョフの荘園に行き、その所有する田畑や所持品をすべて見て回る——「さらにクリミアの母犬を見に行った。もう盲になっており、ノズドリョフに言わせれば間もなく倒れるだろうとのことだった。二年前にはまだなかなか良い母犬だったのだが。皆もこの母犬を調べた。見たところ、確かに盲であった。」 |
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這時羅士特來夫並沒有說謊,他表揚著瞎了眼的母狗,看起來,也確是瞎了眼的母狗。這和大家有什麼關係呢,然而世界上有一些人,卻確是嚷鬧,表揚,誇示著這一類事,又竭力證實著這一類事,算是忙人和誠實人,在過了他的整一世。 |
この時ノズドリョフは嘘をついていない。盲になった母犬を誇示し、見たところ確かに盲であった。これが皆に何の関係があろうか。しかし世の中には、まさにこの類の事を喚き立て、誇示し、自慢し、懸命に証明して、忙しい人、誠実な人を気取りながら、その一生を過ごしている者が確かにいる。 |
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這些極平常的,或者簡直近於沒有事情的悲劇,正如無聲的言語一樣,非由詩人畫出它的形象來,是很不容易覺察的。然而人們滅亡于英雄的特別的悲劇者少,消磨於極平常的,或者簡直近於沒有事情的悲劇者卻多。 |
これらのきわめて平凡な、あるいはほとんど何事もないに等しい悲劇は、無声の言語のように、詩人がその形象を描き出さなければ、非常に気づきにくいものだ。しかし人が英雄の特別な悲劇で滅びることは少なく、きわめて平凡な、あるいはほとんど何事もないに等しい悲劇で消耗する者はかえって多い。 |
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聽說果戈理的那些所謂「含淚的微笑」,在他本土,現在是已經無用了,來替代它的有了健康的笑。但在別地方,也依然有用,因為其中還藏著許多活人的影子。況且健康的笑,在被笑的一方面是悲哀的,所以果戈理的「含淚的微笑」,倘傳到了和作者地位不同的讀者的臉上,也就成為健康:這是《死魂靈》的偉大處,也正是作者的悲哀處。 |
聞くところによれば、ゴーゴリのいわゆる「涙を含んだ微笑」は、その祖国では今やもう用がないとのことで、それに代わって健全な笑いが現れた。しかし他の地では依然として用がある。なぜならその中にはなお多くの生きた人間の影が潜んでいるからだ。しかも健全な笑いは、笑われる側にとっては悲哀である。だからゴーゴリの「涙を含んだ微笑」が、作者とは立場の異なる読者の顔に伝われば、それは健全なものとなる。これこそ『死せる魂』の偉大さであり、また作者の悲哀でもある。 |
第33節
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《芒種》第八期上有一篇魏金枝先生的《分明的是非和熱烈的好惡》,是為以前的《文學論壇》上的《再論「文人相輕」 》而發的。他先給了原則上的幾乎全體的贊成,說,「人應有分明的是非,和熱烈的好惡,這是不錯的,文人應更有分明的是非,和熱烈的好惡,這也是不錯的。」 中間雖說「凡人在落難時節……能與猿鶴為伍,自然最好,否則與鹿豕為伍,也是好的。即到千萬沒有辦法的時候,至於躺在破廟角裡,而與麻瘋病菌為伍,倘然我的體力,尚能為自然的抗禦,因而不至毀滅以死,也比被實際上也做著騙子屠夫的所誘殺臠割,較為心願。」 看起來好像有些微辭,但其實說的是他的憎惡騙子屠夫,遠在猿鶴以至麻瘋病菌之上,和《論壇》上所說的「從聖賢一直敬到騙子屠夫,從美人香草一直愛到麻風病菌的文人,在這世界上是找不到的」 的話,也並不兩樣。至於說:「平心而論,彼一是非,此一是非,原非確論。」 最在近來的莊子道友中,簡直是鶴立雞群似的卓見了。 |
『芒種』第八期に魏金枝氏の『分明なる是非と熱烈なる好悪』という一篇がある。これは以前の『文学論壇』に掲載された『再び「文人相軽」を論ず』に対して発せられたものである。氏はまず原則において、ほぼ全面的な賛成を与え、「人は分明なる是非と、熱烈なる好悪を持つべきである、これは正しい。文人はさらに分明なる是非と、熱烈なる好悪を持つべきである、これもまた正しい」と述べた。途中で「人は落難の時節にあって……猿や鶴と伍するを得れば、もとより最善、さもなくば鹿や豕と伍するのもよい。万策尽きて破廟の隅に横たわり、麻風病菌と伍することになろうとも、我が体力がなお自然に抗い得て死に至らぬならば、実際には詐欺師や屠殺人をも兼ねている者に誘殺され臠割にされるよりは、心安い」と述べ、一見微言を含むようだが、実は騙子屠夫への憎悪が猿鶴から麻風病菌に至るものよりも遥かに深いと言っているのであり、『論壇』の「聖賢から詐欺師屠殺人まで一様に敬い、美人香草から麻風病菌まで一様に愛する文人は、この世には見つからない」という言葉と変わりはない。「平心して論ずれば、彼の一つの是非、此の一つの是非は、もとより確論にあらず」という指摘に至っては、近頃の荘子の同道者たちの中では、まさに鶏群の一鶴の如き卓見である。 |
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然而魏先生的大論的主旨,並不專在這一些,他要申明的是:是非難定,於是愛憎就為難。因為「譬如有一種人,……在他自己的心目之中,已先無是非之分。……於是其所謂‘是’,不免似是而實非了。」 但「至於非中之是,它的是處,正勝過於似是之非,因為其猶講交友之道,而無門閥之分」 的。到這地步,我們的文人就只好吞吞吐吐,假揩眼淚了。「似是之非」 其實就是「非」 ,倘使已經看穿,不是只要給以熱烈的憎惡就成了嗎?然而「天下的事情,並沒有這麼簡單」 ,又不得不愛護「非中之是」 ,何況還有「似非而是」 和「是中之非」 ,取其大,略其細的方法,於是就不適用了。天下何嘗有黑暗,據物理學說,地球上的無論如何的黑暗中,不是總有X分之一的光的嗎?看起書來,據理就該看見X分之一的字的,——我們不能論明暗。 |
しかし魏氏の大論の主旨は専らここにあるのではなく、申し述べたいのは、是非が定め難く、したがって愛憎が困難になるということだ。なぜなら「一種の人がいて……自らの心の中に、まず是非の分がない。……かくてそのいわゆる『是』は、似て是なれど実は非となる」。しかし「非中の是は、その是たるところ、まさに似是の非に勝る。なぜならなお交友の道を講じ、門閥の分なければなり」と。ここに至って、我々の文人はもう口ごもって、取り繕いの涙を拭うしかない。「似是の非」は実は「非」にほかならず、もし見破ったなら、ただ熱烈な憎悪を与えればよいのではないか。しかし「天下の事はそう単純ではない」から、「非中の是」もまた愛護せねばならず、ましてさらに「似非にして是」と「是中の非」がある。大を取り細を略す方法は、かくて適用できなくなる。天下に暗黒などあろうか。物理学によれば、地球上のいかなる暗黒の中にも、常にX分の一の光があるのではないか。読書するにも、理に従えばX分の一の字が見えるはずだ——我々は明暗を論じ得ないのだ。 |
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這並非刻薄的比喻,魏先生卻正走到「無是非」 的結論的。他終於說:「總之,文人相輕,不外乎文的長短,道的是非,文既無長短可言,道又無是非之分,則空談是非,何補於事!已而已而,手無寸鐵的人呵!」 人無全德,道無大成,剛說過「非中之是」 ,勝過「似是之非」 ,怎麼立刻又變成「文既無長短可言,道又無是非之分」 了呢?文人的鐵,就是文章,魏先生正在大做散文,力施搏擊,怎麼同時又說是「手無寸鐵」 了呢?這可見要抬舉「非中之是」 ,卻又不肯明說,事實上是怎樣的難,所以即使在那大文上列舉了許多對手的「排擠」 ,「大言」 ,「賣友」 的惡諡 ,而且那大文正可通行無阻,卻還是覺得「手無寸鐵」 ,歸根結蒂,掉進「無是非」 說的深坑裡,和自己以為「原非確論」 的「彼亦一是非,此亦一是非」 說成了「朋友」 ——這裡不說「門閥」 ——了。 |
これは皮肉な比喩ではない。魏氏はまさに「無是非」の結論に向かっているのだ。ついに氏はこう述べる。「要するに文人相軽は、文の長短と道の是非に外ならない。文に長短を言うべくもなく、道にもまた是非の分なくば、空しく是非を談じて何の補とならん。已んぬるかな已んぬるかな、手に寸鉄なき者よ。」人に全徳なく、道に大成なし。先ほど「非中の是」は「似是の非」に勝ると言ったばかりなのに、なぜたちまち「文に長短を言うべくもなく、道にもまた是非の分なし」となるのか。文人の鉄は文章であり、魏氏はまさに大いに散文を書き、攻撃の力を振るっている最中なのに、なぜ同時に「手に寸鉄なし」と言うのか。これは「非中の是」を持ち上げたいが、明言はしたくないことが、実際にいかに難しいかを示している。だからあの大論の中で相手の「排斥」「大言」「売友」の悪名を多々列挙し、しかもその大論は何の妨げもなく通行しているのに、なお「手に寸鉄なし」と感じ、結局「無是非」説の深い穴に落ち込み、自ら「もとより確論にあらず」と断じた「彼もまた一つの是非、此もまた一つの是非」説と「朋友」——ここでは「門閥」と言わない——になってしまったのだ。 |
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況且,「文既無長短可言,道又無是非之分」 ,魏先生的文章,就他自己的結論而言,就先沒有動筆的必要。不過要說結果,這無須動筆的動筆,卻還是有戰鬥的功效的,中國的有些文人一向謙虛,所以有時簡直會自己先躺在地上,說道,「倘然要講是非,也該去怪追奔逐北的好漢,我等小民,不任其咎。」 明明是加入論戰中的了,卻又立刻肩出一面「小民」 的旗來,推得乾乾淨淨,連肋骨在那裡也找不到了。論「文人相輕」 竟會到這地步,這真是叫作到了末路! |
しかも「文に長短を言うべくもなく、道にもまた是非の分なし」とするなら、魏氏の文章は、氏自身の結論からすれば、そもそも筆を執る必要がない。ただし結果を言えば、この筆を執る必要のない筆は、なお戦闘の功効を持っている。中国のある種の文人は従来謙虚であり、だから時に自ら地面に横たわり、こう言う。「是非を論ずべしとならば、追奔逐北の好漢を責むべし。我ら小民、その咎に堪えず。」明々白々に論戦に加わっておきながら、たちまち「小民」の旗を肩に出して、きれいさっぱり責任を押しのけ、肋骨の在り処さえ見つからなくなる。「文人相軽」を論じてこの段階にまで至るとは、まさに末路に至ったと言うべきである。 |
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七月十五日。 |
七月十五日。 |
第34節
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前一回沒有提到,魏金枝先生的大文《分明的是非和熱烈的好惡》裡,還有一點很有意思的文章。他以為現在「往往有些具著兩張面孔的人」,重甲而輕乙;他自然不至於主張文人應該對誰都打拱作揖,連稱久仰久仰的,只因為乙君原是大可欽敬的作者。所以甲乙兩位,「此時此際,要談是非,就得易地而處」,甲說你的甲話,乙呢,就覺得「非中之是,……正勝過於似是之非,因為其猶講交友之道,而無門閥之分」,把「門閥」留給甲君,自去另找講交道的「朋友」,即使沒有,竟「與麻瘋病菌為伍,……也比被實際上也做著騙子屠夫的所誘殺臠割,較為心願」了。 |
前回は触れなかったが、魏金枝氏の大論文「分明なる是非と熱烈なる好悪」の中には、もう一つ興味深い点がある。彼は今や「往々にして二つの顔を持つ者がいる」と考え、甲を重んじて乙を軽んずる、と言う。彼は当然、文人が誰にでも拱手作揖して「久仰久仰」と連呼すべきだとは主張しないが、それは乙君が元来大いに敬すべき作者であるからだ。故に甲乙両氏について「此の時此の際、是非を論ぜんとすれば、立場を換えて考えねばならぬ」と言い、甲が甲の言葉を言えば、乙は「非の中の是は……似而非の非に勝る、なぜならばなお交友の道を講じ、門閥の区別をせぬからだ」と感じ、「門閥」は甲君に任せ、自ら別に交道を講ずる「朋友」を探し、たとえそれがいなくとも「癩病菌と伍するとも……実際には詐欺師であり屠殺者でもある者に誘殺され切り刻まれるよりは、まだ心願に適う」と言うに至る。 |
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這擁護「文人相輕」的情境,是悲壯的,但也正證明瞭現在一般之所謂「文人相輕」,至少,是魏先生所擁護的「文人相輕」,並不是因為「文」,倒是為了「交道」。朋友乃五常之一名,交道是人間的美德,當然也好得很。不過騙子有屏風,屠夫有幫手,在他們自己之間,卻也叫作「朋友」的。「必也正名乎」,好名目當然也好得很。只可惜美名未必一定包著美德。「翻手為雲覆手雨,紛紛輕薄何須數,君不見管鮑貧時交,此道今人棄如土!」這是李太白先生罷,就早已「感慨系之矣」,更何況現在這洋場——古名「彝場」——的上海。最近的《大晚報》的副刊上就有一篇文章在通知我們要在上海交朋友,說話先須漂亮,這才不至於吃虧,見面第一句,是「格位(或‘迪個’)朋友貴姓?」此時此際,這「朋友」兩字中還未含有任何利害,但說下去,就要一步緊一步的顯出愛憎和取捨,即決定共同玩花樣,還是用作「阿木林」之分來了。「朋友,以義合者也。」古人確曾說過的,然而又有古人說:「義,利也。」嗚呼! |
この「文人相軽」を擁護する情景は悲壮であるが、しかしまさに今日いわゆる「文人相軽」が、少なくとも魏氏の擁護するそれが、「文」のためではなく「交道」のためであることを証明している。朋友は五常の一つであり、交道は人間の美徳であるから、もちろん結構なことだ。しかし詐欺師には衝立があり、屠殺者には助手がいて、彼ら自身の間でもこれを「朋友」と呼ぶのだ。「必ずや名を正さんか」、美名はもちろん結構である。ただ惜しむらくは、美名が必ずしも美徳を包むとは限らない。「手を翻せば雲となり手を覆せば雨、紛々たる軽薄何ぞ数うるを須いん、君見ずや管鮑貧時の交、此の道今人棄つること土の如し」——李太白の詩であろうが、とうに「感慨之に繋がる」のであった。まして今のこの洋場——古名「彝場」——たる上海においてをや。最近の『大晩報』の副刊にも一篇の文章があり、上海で朋友を交えるには言葉をまず美しくせねばならぬと教えている。出会いの第一声は「格位(あるいは'迪個')朋友、御姓は?」この瞬間、この「朋友」の二字にはまだ何の利害も含まれていない。だが話が進むにつれ、一歩一歩と愛憎と取捨が現れ、すなわち共に花様を弄ぶか、「阿木林」として利用するかの分かれ目が来るのだ。「朋友は義を以て合する者なり」——古人は確かにこう言った。しかしまた別の古人は言う、「義とは利なり」と。嗚呼! |
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如果在冷路上走走,有時會遇見幾個人蹲在地上賭錢,莊家只是輸,押的只是贏,然而他們其實是莊家的一夥,就是所謂「屏風」——也就是他們自己之所謂「朋友」——目的是在引得蠢才眼熱,也來出手,然後掏空他的腰包。如果你站下來,他們又覺得你並非蠢才,只因為好奇,未必來上當,就會說:「朋友,管自己走,沒有什麼好看。」這是一種朋友,不妨害騙局的朋友。荒場上又有變戲法的,石塊變白鴿,壇子裝小孩,本領大抵不很高強,明眼人本極容易看破,於是他們就時時拱手大叫道:「在家靠父母,出家靠朋友!」這並非在要求撒錢,是請托你不要說破。這又是一種朋友,是不戳穿戲法的朋友。把這些識時務的朋友穩住了,他才可以掏呆朋友的腰包;或者手執花槍,來趕走不知趣的走近去窺探底細的傻子,惡狠狠的啐一口道:「……瞎你的眼睛!」 |
もし裏通りを歩けば、時に数人が地面にしゃがんで賭博をしているのに出くわすことがある。胴元はただ負け、張る者はただ勝つ。しかし実は皆胴元の仲間であり、いわゆる「衝立」——すなわち彼ら自身の所謂「朋友」——であって、目的は愚か者を目の色変えさせ、手を出させた後にその懐を空にすることだ。もし君が立ち止まり、彼らがまた君が愚者でなく単なる好奇心であって騙されそうもないと見れば、「朋友、お構いなく、見るものはない」と言うだろう。これは一種の朋友、騙しの邪魔をしない朋友だ。空き地には手品師もいて、石を白鳩に変え、壺に子供を入れる。その腕前は大抵さほどでなく、目の利く者には容易に見破られる。そこで彼らは時々拱手して大声で叫ぶ、「家にあれば父母に頼り、家を出れば朋友に頼る!」と。これは銭を撒くことを求めているのではなく、種明かしをしないでくれという頼みだ。これもまた一種の朋友、手品の種を明かさない朋友だ。 |
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孩子的遭遇可是還要危險。現在有許多文章裡,不是常在很親熱的叫著「小朋友,小朋友」嗎?這是因為要請他做未來的主人公,把一切擔子都擱在他肩上了;至少,也得去買兒童畫報,雜志,文庫之類,據說否則就要落伍。 |
子供の境遇はさらに危険である。今や多くの文章の中で、しきりに親しげに「小朋友、小朋友」と呼びかけているではないか。それは彼を未来の主人公に仕立て、一切の荷物を肩に載せるためだ。少なくとも、児童画報や雑誌や文庫の類を買わせ、さもなくば時代に遅れるというのだ。 |
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已成年的作家們所占領的文壇上,當然不至於有這麼彰明較著的可笑事,但地方究竟是上海,一面大叫朋友,一面卻要他悄悄的納錢五塊,買得「自己的園地」,才有發表作品的權利的「交道」,可也不見得就不會出現的。八月十三日。 |
成人の作家たちが占領する文壇上には、もちろんこれほど明白滑稽な事柄はあるまいが、場所はやはり上海であり、一方で大声で朋友と呼びながら、他方ではこっそり五元を納めさせ、「自分の園地」を買って初めて作品を発表する権利が得られるという「交道」が現れないとは言い切れない。八月十三日。 |
第35節
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「文人相輕」是局外人或假充局外人的話。如果自己是這局面中人之一,那就是非被輕則是輕人,他決不用這對等的「相」字。但到無可奈何的時候,卻也可以拿這四個字來遮掩一下。這遮掩是逃路,然而也仍然是戰術,所以這口訣還被有一些人所寶愛。 |
「文人相軽」は局外者、あるいは局外者を装う者の言葉である。もし自分がその局面の一員であれば、軽んぜられるか軽んずるかのどちらかであり、決してこの対等の「相」の字は使わない。しかしどうにもならなくなった時には、この四文字を持ち出して覆い隠すこともできる。この覆い隠しは逃げ道であるが、同時にやはり戦術でもあり、故にこの口訣はなお一部の人々に珍重されている。 |
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不過這是後來的話。在先,當然是「輕」。 |
しかしこれは後の話である。先にあるのは、もちろん「軽」である。 |
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「輕」之術很不少。粗糙的說:大略有三種。一種是自卑,自己先躺在垃圾裡,然後來拖敵人,就是「我是畜生,但是我叫你爹爹,你既是畜生的爹爹,可見你也是畜生了」的法子。這形容自然未免過火一點,然而較文雅的現象,文壇上卻並不怎麼少見的。埋伏之法,是甲乙兩人的作品,思想和技術,分明不同,甚而至於相反的,某乙卻偏要設法表明,說惟獨自己的作品乃是某甲的嫡派;補救之法,是某乙的缺點倘被某甲所指摘,他就說這些事情正是某甲所具備,而且自己也正從某甲那裡學了來的。此外,已經把別人評得一錢不值了,臨末卻又很謙虛的聲明自己並非批評家,凡有所說,也許全等於放屁之類,也屬於這一派。 |
「軽」の術は少なくない。大まかに言えば三種ある。一つは自卑、自ら先に塵芥の中に寝転び、それから敵を引きずり込む。すなわち「我は畜生なり、されど汝を父と呼ぶ、汝畜生の父たれば、汝もまた畜生なり」という方法だ。この形容はいささか過激ではあるが、より文雅な形で文壇にさほど珍しくはない。伏兵の法とは、甲乙二人の作品の思想と技術が明らかに異なり、むしろ相反するのに、某乙が偏えに自己の作品こそ某甲の嫡流であると表明する方法であり、補救の法とは、某乙の欠点が某甲に指摘されれば、これらは正に某甲自身が具えているものであり、自分も某甲から学んだのだと言い返す方法だ。そのほか、既に他人を一銭の値打ちもないと評しておきながら、最後には非常に謙虚に自分は批評家ではなく、言ったことはすべて放屁に等しいかもしれないと声明するような類も、この一派に属する。 |
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一種是最正式的,就是自高,一面把不利於自己的批評,統統謂之「漫罵」,一面又竭力宣揚自己的好處,准備跨過別人。但這方法比較的麻煩,因為除「辟謠」之外,自吹自擂是究竟不很雅觀的,所以做這些文章時,自己得另用一個筆名,或者邀一些「講交道」的「朋友」來互助。不過弄得不好,那些「朋友」就會變成保駕的打手或抬駕的轎夫,而使那「朋友」會變成這一類人物的,則這禦駕一定不過是有些手勢的花花公子,抬來抬去,終於脫不了原形,一年半載之後,花花之上也再添不上什麼花頭去,而且打手轎夫,要而言之,也究竟要工食,倘非腰包飽滿,是沒法維持的。如果能用死轎夫,如袁中郎或「晚明二十家」之流來抬,再請一位活名人喝道,自然較為輕而易舉,但看過去的成績和效驗,可也並不見佳。 |
もう一つは最も正式なもので、すなわち自高である。一方で自分に不利な批評をすべて「罵倒」と称し、他方で自分の長所を力説し、他人を踏み越える準備をする。しかしこの方法は比較的面倒で、「闢謡」以外に自画自賛はやはりあまり見栄えの良いものではなく、故にこれらの文章を書く時には別の筆名を用いるか、「交道を講ずる」「朋友」を招いて互助する必要がある。ただし拙く運べば、その「朋友」は護衛の打ち手や駕籠かきと化し、それによってその「朋友」をこの類の人物に変えてしまう者は、その御駕が手振りだけの花花公子に過ぎぬことを示す。担ぎ上げ続けても結局は正体を脱し得ず、一年半載の後にはもはや花の上に何の花も添えられず、しかも打ち手や駕籠かきにも要するに食い扶持が必要で、懐が潤沢でなければ維持できない。もし死んだ駕籠かき、たとえば袁中郎や「晩明二十家」の類を担がせ、さらに存命の名士に先導させれば、やや容易ではあるが、過去の成績と効験を見れば、さしたる成果は見えない。 |
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還有一種是自己連名字也並不拋頭露面,只用匿名或由「朋友」給敵人以「批評」——要時髦些,就可以說是「批判」。尤其要緊的是給與一個名稱,像一般的「諢名」一樣。 |
さらにもう一種は、自分は名前すら表に出さず、匿名か「朋友」を通じて敵に「批評」を——時流に乗れば「批判」と言える——与えるものだ。特に肝要なのは、世間の「渾名」のように一つの名称を与えることだ。 |
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因為讀者大眾的對于某一作者,是未必和「批評」或「批判」者同仇敵慨的,一篇文章,縱使題目用頭號字印成,他們也不大起勁,現在制出一個簡括的諢名,就可以比較的不容易忘記了。在近十年來的中國文壇上,這法術,用是也常用的,但效果卻很小。 |
なぜなら読者大衆は特定の作者に対して、必ずしも「批評」者や「批判」者と同仇敵愾ではなく、たとえ見出しを一号活字で印刷しても、あまり気乗りしない。ここで簡潔な渾名を考案すれば、比較的忘れにくくなる。近十年の中国文壇でこの法術は確かによく用いられたが、効果は甚だ小さかった。 |
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法術原是極利害,極致命的法術。果戈理誇俄國人之善於給別人起名號——或者也是自誇——說是名號一出,就是你跑到天涯海角,它也要跟著你走,怎麼擺也擺不脫。這正如傳神的寫意畫,並不細畫須眉,並不寫上名字,不過寥寥幾筆,而神情畢肖,只要見過被畫者的人,一看就知道這是誰;誇張了這人的特長——不論優點或弱點,卻更知道這是誰。可惜我們中國人並不怎樣擅長這本領。起源,是古的。從漢末到六朝之所謂「品題」,如「關東觥觥郭子橫」,「五經紛綸井大春」,就是這法術,但說的是優點居多。梁山泊上一百另八條好漢都有諢名,也是這一類,不過著眼多在形體,如「花和尚魯智深」和「青面獸楊志」,或者才能,如「浪裡白跳張順」和「鼓上蚤時遷」等,並不能提挈這人的全般。直到後來的訟師,寫狀之際,還常常給被告加上一個諢名,以見他原是流氓地痞一類,然而不久也就拆穿西洋鏡,即使毫無才能的師爺,也知道這是不足注意的了。現在的所謂文人,除了改用幾個新名詞之外,也並無進步,所以那些「批判」,結果還大抵是徒勞。 |
法術は元来極めて厲害、極めて致命的な法術である。ゴーゴリはロシア人が他人に渾名を付ける巧みさを誇って——あるいは自慢して——言った、渾名が一度出れば、たとえ天涯海角に逃げても付いて来て、どうしても振り払えない、と。これはまさに伝神の写意画のごとく、鬚眉を細かく描かず、名を書かず、ただ寥々数筆にして神情畢肖、描かれた者を見たことのある人なら一目でそれが誰か分かる。その人の特長——長所であれ弱点であれ——を誇張すれば、なおさらそれが誰か分かる。惜しむらくは我々中国人はこの本領にあまり長じていない。起源は古い。漢末から六朝にかけてのいわゆる「品題」、たとえば「関東觥觥たる郭子横」「五経紛綸たる井大春」は、まさにこの法術だが、言うのは長所が多い。梁山泊の百八人の好漢にはみな渾名があるが、これもこの類で、ただし着眼は多く形体にあり、「花和尚魯智深」「青面獣楊志」、あるいは才能にあり、「浪裡白跳張順」「鼓上蚤時遷」のように、その人の全般を提挈するには至らない。後世の訟師に至っても、訴状を書く際に被告に渾名を付け、この者が元来流氓地痞の類であることを示そうとするが、やがて化けの皮が剥がれ、才能のない師爺でもこれは注意に値しないと知るようになる。今の文人は新語を幾つか換えた以外に何の進歩もなく、故にそれらの「批判」も結局は大抵徒労に終わる。 |
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這失敗之處,是在不切帖。批評一個人,得到結論,加以簡括的名稱,雖只寥寥數字,卻很要明確的判斷力和表現的才能的。必須切帖,這才和被批判者不相離,這才會跟了他跑到天涯海角。現在卻大抵只是漫然的抓了一時之所謂惡名,摔了過去:或「封建餘孽」,或「布爾喬亞」,或「破鑼」,或「無政府主義者」,或「利己主義者」……等等;而且怕一個不夠致命,又連用些什麼「無政府主義封建餘孽」或「布爾喬亞破鑼利己主義者」;怕一人說沒有力,約朋友各給他一個;怕說一回還太少,一年內連給他幾個:時時改換,個個不同。這舉棋不定,就因為觀察不精,因而品題也不確,所以即使用盡死勁,流完大汗,寫了出去,也還是和對方不相干,就是用漿糊粘在他身上,不久也就脫落了。汽車夫發怒,便罵洋車夫阿四一聲「豬玀」,頑皮孩子高興,也會在賣炒白果阿五的背上畫一個烏龜,雖然也許博得市儈們的一笑,但他們是決不因此就得「豬玀阿四」或「烏龜阿五」的諢名的。此理易明:因為不切帖。 |
この失敗の所以は、的確でないことにある。人を批評し、結論に達し、簡潔な名称を与えるには、わずか数字であっても、明確な判断力と表現の才能が必要だ。的確でなければ被批判者と離れず、天涯海角まで付いて行くことはない。今は大抵漫然と一時のいわゆる悪名を掴んで投げつけるだけだ。「封建余孽」「ブルジョア」「破鑼」「無政府主義者」「利己主義者」……と。しかも一つでは致命的でないかと恐れ、「無政府主義封建余孽」や「ブルジョア破鑼利己主義者」と連ねる。一人では力がないかと朋友を誘ってそれぞれ一つずつ与え、一度では少ないかと一年のうちに幾つも与え、時々改め、個々異なる。この躊躇は観察が精しくないためであり、品題も的確でなく、故に死力を尽くし大汗を流して書き出しても、やはり相手とは無関係で、糊で貼り付けても間もなく剥がれ落ちる。 |
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五四時代的所謂「桐城謬種」和「選學妖孽」,是指做「載飛載鳴」的文章和抱住《文選》尋字彙的人們的,而某一種人確也是這一流,形容愜當,所以這名目的流傳也較為永久。除此之外,恐怕也沒有什麼還留在大家的記憶裡了。到現在,和這八個字可以匹敵的,或者只好推「洋場惡少」和「革命小販」了罷。前一聯出於古之「京」,後一聯出於今之「海」。 |
五四時代のいわゆる「桐城謬種」と「選学妖孽」は、「載飛載鳴」の文章を書く者と『文選』にしがみついて字彙を探す者を指したもので、ある種の人が確かにこの流であったから、形容が適切であり、故にこの名目の流伝もより永続した。これ以外には、おそらく人々の記憶に残るものはあるまい。現在この八文字に匹敵しうるものは、「洋場悪少」と「革命小販」であろうか。前の連句は古の「京」に出で、後の連句は今の「海」に出る。 |
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創作難,就是給人起一個稱號或諢名也不易。假使有誰能起顛撲不破的諢名的罷,那麼,他如作評論,一定也是嚴肅正確的批評家,倘弄創作,一定也是深刻博大的作者。 |
創作は難く、人に称号や渾名を付けることすら容易ではない。もし顚撲不破の渾名を付けられる者がいれば、彼が評論をすれば必ず厳粛正確な批評家であり、創作をすれば必ず深刻博大な作者であろう。 |
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所以,連稱號或諢名起得不得法,也還是因為這班「朋友」的不「文」。——「再亮些!」 |
故に、称号や渾名すら巧みに付けられないのもまた、この一群の「朋友」の「文」なき所以である。——「もっと明るく!」 |
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八月十四日。 |
八月十四日。 |
第36節
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M君寄給我一封剪下來的報章。這是近十來年常有的事情,有時是雜志。閒暇時翻檢一下,其中大概有一點和我相關的文章,甚至於還有「生腦膜炎」之類的惡消息。這時候,我就得預備大約一塊多錢的郵票,來寄信回答陸續函問的人們。至於寄報的人呢,大約有兩類:一是朋友,意思不過說,這刊物上的東西,有些和你相關;二,可就難說了,猜想起來,也許正是作者或編者,「你看,咱們在罵你了!」用的是《三國志演義》上的「三氣周瑜」或「罵死王朗」的法子。不過後一種近來少一些了,因為我的戰術是暫時擱起,並不給以反應,使他們諸公的刊物很少有因我而蓬蓬勃勃之望,到後來卻也許會去撥一撥誰的下巴:這於他們諸公是很不利的。M君是屬於第一類的;剪報是天津《益世報》的《文學副刊》。其中有一篇張露薇先生做的《略論中國文壇》,下有一行小注道:「偷懶,奴性,而忘掉了藝術」。只要看這題目,就知道作者是一位勇敢而記住藝術的批評家了。看起文章來,真的,痛快得很。我以為介紹別人的作品,刪節實在是極可惜的,倘有妙文,大家都應該設法流傳,萬不可聽其泯滅。不過紙墨也須顧及,所以只摘錄了第二段,就是「永遠是日本人的追隨者的作家」在這裡,也萬不能再少,因為我實在捨不得了—— |
M君が一通の切り抜いた新聞を送ってくれた。これはここ十年ほどの間によくあることで、時には雑誌のこともある。暇な時にめくってみれば、その中にはおおよそ私に関係のある文章が入っており、「脳膜炎を患った」といった悪い知らせすらある。この時、私はおよそ一元余りの切手を用意して、相次いで手紙で尋ねてくる人々に返事を出さねばならない。送ってくれた人はおよそ二種類ある。一つは友人で、趣旨はこの刊行物に君に関係のあるものがあるというだけのこと。二つ目は何とも言い難いが、推測すれば、おそらく著者か編者自身であり、「ほら、我々が君を罵っているぞ!」というわけで、『三国志演義』の「三たび周瑜を怒らせる」か「王朗を罵り殺す」の手法を用いているのだ。ただし後者は近頃少なくなった。なぜなら私の戦術は当面棚上げにして反応を与えず、彼ら諸公の刊行物が私のおかげで蓬勃と栄える望みをなくさせるからで、後になれば誰かの顎を突いてやることもある。M君は第一の類に属する。切り抜きは天津『益世報』の「文学副刊」である。その中に張露薇氏の「略論中国文壇」があり、下に小注として「怠惰、奴隷根性、しかも芸術を忘れた」とある。この題目を見ただけで、著者が勇敢にして芸術を忘れぬ批評家であることが分かる。 |
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我並不想因此來研究「奴隸性是最『意識正確』的東西」,「主觀是對於事物的選擇,客觀才是對於事物的方法」這些難問題;我只要說,誠如張露薇先生所言,就是在文藝上,我們中國也的確太落後。法國有紀律和巴爾扎克,蘇聯有高爾基,我們沒有;日本叫喊起來了,我們才跟著叫喊,這也許真是「追隨」而且「永遠」,也就是「奴隸性」,而且是「最『意識正確』的東西」。但是,並不「追隨」的叫喊其實是也有一些的,林語堂先生說過:「……其在文學,今日紹介波蘭詩人,明日紹介捷克文豪,而對於已經聞名之英美法德文人,反厭為陳腐,不欲深察,求一究竟。……此種流風,其弊在浮,救之之道,在於學。」(《人間世》二十八期《今文八弊》中)南北兩公,眼睛都有些斜視,只看了一面,各罵了一面,獨跳猶可,並排跳舞起來,那「勇敢」就未免化為有趣了。 |
私はこれによって「奴隷根性こそ最も『意識正確』なものだ」といった難問を研究しようとは思わない。ただ言いたいのは、張露薇氏の言う通り、文芸においてすら我々中国は確かに遅れすぎているということだ。フランスにはジッドとバルザックがあり、ソ連にはゴーリキーがある。我々にはない。日本が叫び始めて初めて我々も叫びに従う。これは確かに「追随」であり、すなわち「奴隷根性」かもしれぬ。しかし「追随」でない叫びも幾らかある。林語堂氏はかつて言った、「文学において今日はポーランドの詩人を紹介し、明日はチェコの文豪を紹介し、既に著名な英米仏独の文人に対してはかえって陳腐と厭い……この種の流風、その弊は浮にあり、之を救う道は学にあり」と。南北両公は目が少し斜視で、一面だけを見て各々一面を罵っている。並んで踊り出せば、その「勇敢」は有趣と化すことを免れまい。 |
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不過林先生主張「求一究竟」,張先生要求「直接瞭解」,這「實事求是」之心,兩位是大抵一致的,不過張先生比較的悲觀,因為他是「豫言」家,斷定了「在一千年以內,絕不會見到那些紹介紀德,巴爾扎克的人們會給中國的讀者譯出一兩本紀德,巴爾扎克的重要著作來,全集更不必說」的緣故。照這「豫言」看起來,「直接瞭解」的張露薇先生自己,當然是一定不譯的了;別人呢,我還想存疑,但可惜我活不到一千年,決沒有目睹的希望。 |
ただし林氏は「究竟を求む」と主張し、張氏は「直接理解」を要求している。「実事求是」の心は両氏おおむね一致しているが、張氏の方がやや悲観的だ。なぜなら彼は「予言」家であり、「千年以内に、ジッドやバルザックを紹介する人々が中国の読者のために重要な著作を一冊でも訳出することは絶対にない」と断定したからだ。 |
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豫言頗有點難。說得近一些,容易露破綻。還記得我們的批評家成仿吾先生手掄雙斧,從《創造》的大旗下,一躍而出的時候,曾經說,他不屑看流行的作品,要從冷落堆裡提出作家來。這是好的,雖然勃蘭兌斯曾從冷落中提出過伊孛生和尼采,但我們似乎也難以斥他為追隨或奴性。不大好的是他的這一張支票,到十多年後的現在還沒有兌現。說得遠一些罷,又容易成笑柄。江浙人相信風水,富翁往往豫先尋葬地;鄉下人知道一個故事:有風水先生給人尋好了墳穴,起誓道:「您百年之後,安葬下去,如果到第三代不發,請打我的嘴巴!」然而他的期限,比張露薇先生的期限還要少到約十分之九的樣子。 |
予言はなかなか難しい。近い将来を言えば馬脚が出やすい。我々の批評家成仿吾氏が双斧を手に『創造』の大旗の下から一躍して出た時、冷落の山から作家を引き出すと言ったが、その手形が十数年後の今日に至るもなお兌換されていない。遠い将来を言えば笑い種になりやすい。風水師がある人に誓って言った、「三代目までに栄えなければ私の頬を打って下さい!」しかし彼の期限は張露薇氏のそれより約十分の九少ない。 |
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然而講已往的瑣事也不易。張露薇先生說慶祝高爾基四十年創作的時候,「中國也有魯迅,丁玲一般人發了慶祝的電文,……然而那一群簽名者中有幾個讀過高爾基的十分之一的作品?」這質問是極不錯的。我只得招供:讀得很少,而且連高爾基十分之一的作品究竟是幾本也不知道。不過高爾基的全集,卻連他本國也還未出全,所以其實也無從計算。至於祝電,我以為打一個是應該的,似乎也並非中國人的恥辱,或者便失了人性,然而我實在卻並沒有發,也沒有在任何電報底稿上簽名。這也並非怕有「奴性」,只因沒有人來邀,自己也想不到,過去了。發不妨,不發也不要緊,我想,發,高爾基大約不至於說我是「日本人的追隨者的作家」,不發,也未必說我是「張露薇的追隨者的作家」的。但對於綏拉菲摩維支的祝賀日,我卻發過一個祝電,因為我校印過中譯的《鐵流》。這是在情理之中的,但也較難於想到,還不如測定為對于高爾基發電的容易。當然,隨便說說也不要緊,然而,「中國的知識階級就是如此淺薄,做應聲蟲有餘,做一個忠實的,不苟且的,有理性的文學創作者和研究者便不成了」的話,對於有一些人卻大概是真的了。 |
張露薇氏はゴーリキー祝賀の際、「署名者のうち何人がゴーリキーの十分の一の作品を読んだか?」と言う。全くもっともだ。白状する——読んだものは極めて少ない。ただしゴーリキーの全集は本国でもまだ完全には出ていない。祝電については一通打つのは当然だが、私は実は打っていない。誰も誘いに来ず思い至らなかっただけだ。しかしセラフィモーヴィチへの祝賀には祝電を打った。中訳の『鉄流』を校印したからだ。 |
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張露薇先生自然也是知識階級,他在同階級中發見了這許多奴隸,拿鞭子來抽,我是瞭解他的心情的。但他和他所謂的奴隸們,也只隔了一張紙。如果有誰看過菲洲的黑奴工頭,傲然的拿鞭子亂抽著做苦工的黑奴的電影的,拿來和這《略論中國文壇》的大文一比較,便會禁不住會心之笑。那一個和一群,有這麼相近,卻又有這麼不同,這一張紙真隔得利害:分清了奴隸和奴才。 |
張露薇氏は勿論知識階級であり、同じ階級の中にこれほど多くの奴隷を見出し鞭を取って打つ心情は理解できる。しかし彼と彼のいわゆる奴隷たちとの間には一枚の紙しか隔たっていない。アフリカの黒人奴隷の監督が傲然と鞭を振り回して黒人奴隷を打つ映画を見た者があれば、この大論文と比較すれば会心の笑みを禁じ得まい。あの一人と一群はこれほど近く、しかしこれほど異なる。この一枚の紙は実に厲害に隔てている——奴隷と奴才を分けたのだ。 |
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我在這裡,自以為總算又鉤下了一種新的偉大人物——一九三五年度文藝「豫言」家——的嘴臉的輪廓了。八月十六日。 |
私はここに一九三五年度文芸「予言」家なる新たな偉大人物の面貌の輪郭をまた一つ描き出し得たと自負する。八月十六日。 |
第37節
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國貨也提倡得長久了,雖然上海的國貨公司並不發達,「國貨城」也早已關了城門,接著就將城牆撤去,日報上卻還常見關於國貨的專刊。那上面,受勸和挨罵的主角,照例也還是學生,兒童和婦女。 |
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前幾天看見一篇關於筆墨的文章,中學生之流,很受了一頓訓斥,說他們十分之九,是用鋼筆和墨水的,這就使中國的筆墨沒有出路。自然,倒並不說這一類人就是什麼奸,但至少,恰如摩登婦女的愛用外國脂粉和香水似的,應負「入超」的若干的責任。 |
国貨の提唱もずいぶん長く続いた。上海の国貨公司は繁盛せず、「国貨城」もとうに城門を閉じ城壁を撤去したにもかかわらず、日刊紙にはなお国貨に関する特集がよく見られる。そこで説諭され叱責される主役は、例によって学生、児童、婦人である。 |
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這話也並不錯的。不過我想,洋筆墨的用不用,要看我們的閒不閒。我自己是先在私塾裡用毛筆,後在學校裡用鋼筆,後來回到鄉下又用毛筆的人,卻以為假如我們能夠悠悠然,洋洋焉,拂硯伸紙,磨墨揮毫的話,那麼,羊毫和松煙當然也很不壞。不過事情要做得快,字要寫得多,可就不成功了,這就是說,它敵不過鋼筆和墨水。譬如在學校裡抄講義罷,即使改用墨盒,省去臨時磨墨之煩,但不久,墨汁也會把毛筆膠住,寫不開了,你還得帶洗筆的水池,終於弄到在小小的桌子上,擺開「文房四寶」。況且毛筆尖觸紙的多少,就是字的粗細,是全靠手腕作主的,因此也容易疲勞,越寫越慢。閒人不要緊,一忙,就覺得無論如何,總是墨水和鋼筆便當了。 |
数日前、筆墨に関する一篇を見た。中学生の類が大いに叱られていて、十中八九は鋼筆とインクを使い、これが中国の筆墨の活路をなくしているという。もちろんこの類の者を奸とは言わないが、少なくともモダンな婦人が外国の脂粉や香水を好むのと同様、「入超」の幾ばくかの責を負うべきだというのだ。 これも間違ってはいない。しかし洋筆墨を使うかどうかは我々に暇があるかどうかによる。私自身は先に私塾で毛筆を、後に学校で鋼筆を、後に田舎に戻ってまた毛筆を使った人間だが、もし悠然として硯を払い墨を磨り筆を揮えるなら羊毫と松煙も悪くない。しかし仕事を速くこなし字を多く書かねばならぬとなれば、鋼筆とインクには敵わない。たとえば学校で講義を筆記する際、墨盒に替えても、やがて墨汁が毛筆を膠着させて書けなくなり、筆洗い用の水入れまで持参せねばならず、ついには小さな机の上に「文房四宝」を広げることになる。しかも毛筆の穂先の紙への触れ方すなわち字の太細はすべて手首の制御にかかり、疲労しやすく書くほどに遅くなる。暇人なら構わないが、忙しくなればインクと鋼筆が便利だと感じる。 |
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青年裡面,當然也不免有洋服上掛一枝萬年筆,做做裝飾的人,但這究竟是少數,使用者的多,原因還是在便當。便於使用的器具的力量,是決非勸諭,譏刺,痛罵之類的空言所能制止的。假如不信,你倒去勸那些坐汽車的人,在北方改用騾車,在南方改用綠呢大轎試試看。如果說這提議是笑話,那麼,勸學生改用毛筆呢?現在的青年,已經成了「廟頭鼓」,誰都不妨敲打了。一面有繁重的學科,古書的提倡,一面卻又有教育家喟然興歎,說他們成績壞,不看報紙,昧於世界的大勢。 |
青年の中には洋服に万年筆を掛けて装飾にする者もいるが少数で、使用者の多い原因はやはり便利さにある。便利な道具の力は説諭や痛罵の空言では決して止められない。信じられぬなら自動車に乗る人々に北方では騾車に南方では緑毛氈の大駕籠に替えよと勧めてみるがよい。今の青年はすでに「廟の太鼓」となり誰もが叩いてよいとされている。一方では繁重な学科と古書の推奨があり、他方では教育家が嘆息して成績が悪い、新聞を読まない、世界の大勢に暗いと言う。 |
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但是,連筆墨也乞靈於外國,那當然是不行的。這一點,卻要推前清的官僚聰明,他們在上海立過製造局,想造比筆墨更緊要的器械——雖然為了「積重難返」,終於也造不出什麼東西來。歐洲人也聰明,金雞那原是斐洲的植物,因為去偷種子,還死了幾個人,但竟偷到手,在自己這裡種起來了,使我們現在如果發了瘧疾,可以很便當的大吃金雞那霜丸,而且還有「糖衣」,連不愛服藥的嬌小姐們也吃得甜蜜蜜。製造墨水和鋼筆的法子,弄弄到手,是沒有偷金雞那子那麼危險的。所以與其勸人莫用墨水和鋼筆,倒不如自己來造墨水和鋼筆;但必須造得好,切莫「掛羊頭賣狗肉」。要不然,這一番工夫就又是一個白費。 |
しかし筆墨すら外国に頼るのはいけない。この点は清朝の官僚の方が聡明で上海に製造局を設け筆墨より重要な器械を造ろうとした。ヨーロッパ人も聡明だ。キナはアフリカの植物で種子を盗みに行って数人が命を落としたがついに手に入れ自国で栽培し、我々は今やマラリアにかかれば手軽にキニーネ丸を服用できる。インクと鋼筆の製造法を手に入れることはキナの種子を盗むほど危険ではない。故に使うなと勧めるよりは自ら造る方がよい。ただし良品を造り「羊頭を掲げて狗肉を売る」ようなことがあってはならない。 |
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但我相信,凡有毛筆擁護論者大約也不免以我的提議為空談:因為這事情不容易。這也是事實;所以典當業只好呈請禁止奇裝異服,以免時價早晚不同,筆墨業也只好主張吮墨舐毫,以免國粹漸就淪喪。改造自己,總比禁止別人來得難。然而這辦法卻是沒有好結果的,不是無效,就是使一部份青年又變成舊式的斯文人。 |
しかしおよそ毛筆擁護論者は私の提案をも空論と見るだろう。なぜならこの事は容易でないからだ。故に質屋は奇装異服の禁止を請願し筆墨業は墨を舐め筆を嘗めよと主張して国粋の衰亡を防ごうとする。自己を改造することは他人を禁ずることよりも常に難しい。しかしこの方法には良い結果がなく、無効に終わるか一部の青年を旧式の文人に変えるだけだ。八月二十三日。 |
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八月二十三日。 |
第38節
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就在這幾天的上海報紙上,有一條廣告,題目是四個一寸見方的大字—— |
ちょうどここ数日の上海の新聞に一つの広告がある。題目は一寸角の大文字四字—— |
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「看救命去!」 |
「救命を見に行こう!」 |
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如果只看題目,恐怕會猜想到這是展覽著外科醫生對重病人施行大手術,或對淹死的人用人工呼吸,救助觸礁船上的人員,挖掘崩壞的礦穴裡面的工人的。但其實並不是。還是照例的「籌賑水災遊藝大會」,看陳皮梅沈一呆的獨腳戲,月光歌舞團的歌舞之類。誠如廣告所說,「化洋五角,救人一命,……一舉兩得,何樂不為」,錢是要拿去救命的,不過所「看」的卻其實還是遊藝,並不是「救命」。 |
もし題目だけを見れば、外科医が重症者に大手術を施すか、溺れた人に人工呼吸を行うか、座礁した船の乗員を救助するか、崩壊した坑道から鉱夫を掘り出す展示かと想像するだろう。しかし実際はそうではない。やはりいつもの「水害賑恤遊芸大会」で、陳皮梅や沈一呆の独脚戯、月光歌舞団の歌舞の類を見るのだ。広告の言う通り、「五角出せば一命を救い……一挙両得、何ぞ楽しまざらん」、金は救命に使われるが、「見る」のは実は遊芸であり「救命」ではない。 |
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有人說中國是「文字國」,有些像,卻還不充足,中國倒該說是最不看重文字的「文字遊戲國」,一切總愛玩些實際以上花樣,把字和詞的界說,鬧得一團糟,弄到暫時非把「解放」解作「孥戮」,「跳舞」解作「救命」不可。搗一場小亂子,就是偉人,編一本教科書,就是學者,造幾條文壇消息,就是作家。於是比較自愛的人,一聽到這些冠冕堂皇的名目就駭怕了,竭力逃避。逃名,其實是愛名的,逃的是這一團糟的名,不願意醬在那裡面。 |
中国は「文字の国」だと言う人がいる。似てはいるがまだ十分ではない。中国はむしろ最も文字を軽んずる「文字遊戯の国」と言うべきで、何事においても実際以上の花を弄び、字と語の定義を滅茶苦茶にし、一時的に「解放」を「孥戮」と、「跳舞」を「救命」と解さねばならぬ始末だ。小さな騒ぎを一つ起こせば偉人、教科書を一冊編めば学者、文壇消息を幾つか作れば作家。かくして自愛する者はこれらの名目を聞いただけで恐れをなし全力で逃げる。名を逃れるとは実は名を愛するのであり、逃れるのはこの滅茶苦茶な名からだ。 |
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天津《大公報》的副刊《小公園》,近來是標榜了重文不重名的。這見識很確當。不過也偶有「老作家」的作品,那當然為了作品好,不是為了名。然而八月十六日那一張上,卻發表了很有意思的「許多前輩作家附在來稿後面的叮囑」:「把我這文章放在平日,我願意那樣,我驕傲那樣。我和熟人的名字並列得厭倦了,我願著擠在虎生生的新人群裡,因為許多時候他們的東西來得還更新鮮。」 |
天津『大公報』の副刊「小公園」は近頃文を重んじて名を重んぜずと標榜している。見識は正しい。ただし時に「老作家」の作品もあるが、それは作品が良いためで名のためではない。しかし八月十六日付には甚だ興味深い「先輩作家が原稿に添えた頼み事」が発表されていた。「この文章を平日に載せてほしい。馴染みの名前と並ぶのに倦んだ。虎のような新人群の中に押し込んでほしい、彼らのものの方がずっと新鮮だからだ。」 |
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這些「前輩作家」們好像都撒了一點謊。「熟」,是不至於招致「厭倦」的。我們一離乳就吃飯或面,直到現在,可謂熟極了,卻還沒有厭倦。這一點叮囑,如果不是編輯先生玩的雙簧的花樣,也不是前輩作家玩的借此「返老還童」的花樣,那麼,這所證明的是:所謂「前輩作家」也者,有一批是盜名的,因此使別一批羞與為伍,覺得和「熟人的名字並列得厭倦」,決計逃走了。 |
これらの「先輩作家」たちはどうやら少し嘘をついたようだ。「馴染み」が「厭倦」を招くはずはない。我々は離乳してすぐ飯を食い始め今に至るまで極めて馴染みだが、まだ厭倦してはいない。この頼み事が編者の自作自演でなく先輩作家の手口でもなければ、これが証明するのは——いわゆる「先輩作家」の中に名を盗む者の一群がおり、もう一群はこれと並ぶことを恥じ逃げ出した、ということだ。 |
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從此以後,他們只要「擠在虎生生的新人群裡」就舒舒服服,還是作品也就「來得還更新鮮」了呢,現在很難測定。逃名,固然也不能說是豁達,但有去就,有愛憎,究竟總不失為潔身自好之士。《小公園》裡,已經有人在現身說法了,而上海灘上,卻依然有人在「掏腰包」,造消息,或自稱「言行一致」,或大呼「冤哉枉也」,或拖明朝死屍搭台,或請現存古人喝道,或自收自己的大名入辭典中,定為「中國作家」,或自編自己的作品入畫集裡,名曰「現代傑作」——忙忙碌碌,鬼鬼祟祟,煞是好看。作家一排一排的坐著,將來使人笑,使人怕,還是使人「厭倦」呢?——現在也很難測定。但若據「前車之鑒」,則「後之視今,亦猶今之視昔」,大約也還不免於「悲夫」的了!八月二十三日。 |
これ以降「虎のような新人群に押し込まれる」だけで快適になるのか、作品までが「新鮮」になるのか、今のところ測り難い。名を逃れることを達観とは言えないまでも、去就があり愛憎がある以上は潔く身を持する士だ。「小公園」にはすでに範を示す者がいるが、上海灘上ではなお「懐を探り」消息を造り、あるいは自ら「言行一致」と称し、あるいは「冤罪だ」と叫び、あるいは明朝の死屍を引きずって舞台を作り、あるいは自分の大名を辞典に入れて「中国作家」と定め、あるいは自分の作品を画集に編んで「現代傑作」と称する——忙しく蠢き鬼鬼祟祟として、なかなかの見ものだ。将来人を笑わせるのか怖がらせるのか「厭倦」させるのか——今のところ測り難い。しかし「前車の鑑」によれば「後の今を視ること、また今の昔を視るが如し」で、おそらくなお「悲しいかな」を免れまい! 八月二十三日。 |
第39節
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今年文壇上的戰術,有幾手是恢復了五六年前的太陽社式,年紀大又成為一種罪狀了,叫作「倚老賣老」。 |
今年の文壇における戦術の中には、五六年前の太陽社式を復活させたものが幾つかある。年齢が多いことがまたもや一種の罪状となり、「倚老売老」と呼ばれているのだ。 |
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其實呢,罪是並不在「老」,而在於「賣」的,假使他在叉麻醬,念彌陀,一字不寫,就決不會惹青年作家的口誅筆伐。如果這推測並不錯,文壇上可又要增添各樣的罪人了,因為現在的作家,有幾位總不免在他的「作品」之外,附送一點特產的贈品。有的賣富,說賣稿的文人的作品,都是要不得的;有人指出了他的詩思不過在太太的奩資中,就有幫閒的來說這人是因為得不到這樣的太太,恰如狐狸的吃不到葡萄,所以只好說葡萄酸。有的賣窮,或賣病,說他的作品是挨餓三天,吐血十口,這才做出來的,所以與眾不同。有的賣窮和富,說這刊物是因為受了文閥文僚的排擠,自掏腰包,忍痛印出來的,所以又與眾不同。有的賣孝,說自己做這樣的文章,是因為怕父親將來吃苦的緣故,那可更了不得,價值簡直和李密的《陳情表》不相上下了。有的就是銜煙斗,穿洋服,唉聲歎氣,顧影自憐,老是記著自己的韶年玉貌的少年哥兒,這裡和「賣老」相對,姑且叫他「賣俏」罷。不過中國的社會上,「賣老」的真也特別多。女人會穿針,有什麼希奇呢,一到一百多歲,就可以開大會,穿給大家看,順便還捐錢了。說中國人「起碼要學狗」,倘是小學生的作文,是會遭先生的板子的,但大了幾十年,新聞上就大登特登,還用方體字標題道:「皤然一老蒞故都,吳稚暉語妙天下」;勸人解囊賑災的文章,並不少見,而文中自述年紀曰:「余年九十六歲矣」者,卻只有馬相伯先生。但普通都不謂之「賣」,另有極好的稱呼,叫作「有價值」。 |
実のところ、罪は「老」にあるのではなく「売」にあるのであって、もし彼が麻雀を打ち、阿弥陀仏を唱え、一字も書かなければ、決して青年作家の口誅筆伐を招くことはあるまい。もしこの推測が誤りでなければ、文壇にはまたさまざまな罪人が加わることになる。なぜなら今の作家には、「作品」の他に幾らかの特産の贈物を添える者が少なくないからだ。富を売る者がいて、原稿を売る文人の作品はすべて駄目だと言う。誰かがその詩想は妻の嫁資の中にあるにすぎぬと指摘すれば、取り巻きが来て、この人はそのような妻を得られなかったのだ、ちょうど狐が葡萄を食べられず酸っぱいと言うようなものだ、と弁護する。貧を売る者や病を売る者がいて、自分の作品は三日の飢えと十口の吐血の後にようやく書き上げたもので、故に他とは異なると言う。貧と富を売る者がいて、この刊行物は文閥文僚の排擠を受けて自腹を切り忍痛して印刷したもので、故に他とは異なると言う。孝を売る者がいて、自分がこのような文章を書くのは父親が将来苦しむことを恐れるためだと言い、その価値は李密の「陳情表」に匹敵する。中にはパイプを銜え洋服を着て嘆息し、自らの姿に見惚れ、いつまでも自分の若き日の玉貌を覚えている少年公子もいる。ここでは「売老」に対して仮に「売俏」と呼んでおこう。ただし中国の社会には「売老」が確かに特に多い。女が針を通せるのに何の珍しいことがあろう。百歳を超えれば大会を開き、皆に見せ、ついでに寄付も集められる。 |
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「老作家」的「老」字,就是一宗罪案,這法律在文壇上已經好幾年了,不過或者指為落伍,或者說是把持,……總沒有指出明白的壞處。這回才由上海的青年作家揭發了要點,是在「賣」他的「老」。 |
「老作家」の「老」の字がそのまま一つの罪案であるという法律は文壇にもう何年もあるが、或いは落伍と言い、或いは壟断と言い……はっきりとした悪い点は指摘されてこなかった。今回ようやく上海の青年作家が要点を暴いたのであり、それは彼の「老」を「売」にしているということだ。 |
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那就不足慮了,很容易掃蕩。中國各業,多老牌子,文壇卻並不然,創作了幾年,就或者做官,或者改業,或者教書,或者捲逃,或者經商,或者造反,或者送命……不見了。「老」在那裡的原已寥寥無幾,真有些像耆英會裡的一百多歲的老太婆,居然會活到現在,連「民之父母」也覺得希奇古怪。而且她還會穿針,就尤其希奇古怪,使街頭巷尾弄得鬧嚷嚷。然而呀了,這其實是為了奉旨旌表的緣故,如果一個十六七歲的漂亮姑娘登臺穿起針來,看的人也決不會少的。誰有「賣老」的嗎?一遇到少的俏的就倒。 |
それなら心配には及ばず、掃蕩は容易だ。中国の各業には老舗が多いが、文壇はそうではない。数年創作すると或いは官になり、或いは転業し、或いは教壇に立ち、或いは持ち逃げし、或いは商売し、或いは反乱し、或いは命を落とし……姿を消す。「老」くまで残る者は元より寥々たるもので、まるで耆英会の百歳超の老婆が今日まで生き延びたようなもの、「民の父母」すら不思議がる。しかも彼女がなお針を通せるとなればますます不思議で、街中が騒がしくなる。しかしこれは実は旌表のためであり、もし十六七歳の美しい娘が壇上で針を通せば、見物人も決して少なくはあるまい。誰が「売老」できよう。若くて美しい者が現れればたちまち倒れるのだ。 |
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不過中國的文壇雖然幼稚,昏暗,卻還沒有這麼簡單;讀者雖說被「養成一種『看熱鬧』的情趣」,但有辨別力的也不少,而且還在多起來。所以專門「賣老」,是不行的,因為文壇究竟不是養老堂,又所以專門「賣俏」,也不行的,因為文壇究竟也不是妓院。 |
ただし中国の文壇は幼稚で暗いとはいえ、それほど単純ではない。読者は「見物気分」を養われたと言われるが、識別力のある者も少なくなく、しかもなお増えている。故に専ら「売老」だけでは駄目だ、文壇は結局養老院ではないからだ。また専ら「売俏」だけでも駄目だ、文壇は結局妓楼ではないからだ。 |
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二賣俱非,由非見是,混沌之輩,以為兩傷。 |
二売倶に非、非より是を見る。混沌の輩、以て両傷と為す。 |
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九月十二日。 |
九月十二日。 |
第40節
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所謂文人,輕個不完,弄得別一些作者搖頭歎氣了,以為作踐了文苑。這自然也說得通。陶淵明先生「采菊東籬下」,心境必須清幽閒適,他這才能夠「悠然見南山」,如果籬中籬外,有人大嚷大跳,大罵大打,南山是在的,他卻「悠然」不得,只好「愕然見南山」了。現在和晉宋之交有些不同,連「象牙之塔」也已經搬到街頭來,似乎頗有「不隔」之意,然而也還得有幽閒,要不然,即無以寄其沉痛,文壇減色,嚷嚷之罪大矣。於是相輕的文人們的處境,就也更加艱難起來,連街頭也不再是擾攘的地方了,真是途窮道盡。 |
いわゆる文人が際限なく互いを軽んずるので、別の一群の作者が頭を振って嘆くに至った。文苑を辱めるものだ、と。これも確かにもっともだ。陶淵明先生が「菊を采る東籬の下」、心境は必ず清幽閑適でなければならず、そうして初めて「悠然として南山を見る」ことができる。もし籬の内外で人が大声で騒ぎ罵り殴り合えば、南山はそこにあっても「悠然」とはいかず、「愕然として南山を見る」しかない。今は晋宋の交とはいささか異なり、「象牙の塔」すら街頭に搬び出され、「隔てなし」の趣があるようだが、それでもなお幽閑を要し、さもなくばその沈痛を寄せるところがなく、文壇減色、騒がしさの罪は大である。かくして相軽ずる文人たちの境遇はますます困難となり、街頭すらもはや喧擾の場ではなくなった。まさに途窮まり道尽きる。 |
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然而如果還要相輕又怎麼樣呢?前清有成例,知縣老爺出巡,路遇兩人相打,不問青紅皂白,誰是誰非,各打屁股五百完事。不相輕的文人們縱有「肅靜」「回避」牌,卻無小板子,打是自然不至於的,他還是用「筆伐」,說兩面都不是好東西。這裡有一段炯之先生的《談談上海的刊物》為例—— |
しかしそれでもなお相軽じたらどうするか。前清に成例がある。知県の旦那が巡察に出て路上で二人が殴り合うのに出くわせば、青紅皂白を問わず、誰が是で誰が非かも問わず、各々尻を五百打って終わり。相軽じない文人たちは「粛静」「回避」の札を持っていても小板子は持たず、打つことは当然ないが、やはり「筆伐」で両面とも良いものではないと言う。ここに炯之氏の「上海の刊行物を語る」の一段を例に挙げよう—— |
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「說到這種爭鬥,使我們記起《太白》,《文學》,《論語》,《人間世》幾年來的爭鬥成績。這成績就是凡罵人的與被罵的一古腦兒變成醜角,等於木偶戲的互相揪打或以頭互碰,除了讀者養成一種『看熱鬧』的情趣以外,別無所有。把讀者養成歡喜看『戲』不歡喜看『書』的習氣,『文壇消息』的多少,成為刊物銷路多少的主要原因。爭鬥的延長,無結果的延長,實在可說是中國讀者的大不幸。我們是不是還有什麼方法可以使這種『私罵』占篇幅少一些?一個時代的代表作,結起賬來若只是這些精巧的對罵,這文壇,未免太可憐了。」(天津《大公報》的《小公園》,八月十八日。)「這種鬥爭」,炯之先生還自有一個界說:「即是向異己者用一種瑣碎方法,加以無憐憫,不節制的辱罵。(一個術語,便是『鬥爭』。)」云。 |
「この種の争闘について思い出すのは、『太白』『文学』『論語』『人間世』の数年来の争闘の成果だ。その成果とは、罵る者も罵られる者も一緒くたに醜角となったこと、木偶戯の互いに掴み合いか頭をぶつけ合うのと同じで、読者に『見物気分』を養わせた以外に何もないことだ。読者を『芝居』を見ることを好み『本』を見ることを好まぬ習慣に養い、『文壇消息』の多寡が刊行物の売行きの主な原因となった。争闘の延長、結果なき延長は、実に中国の読者の大不幸と言えよう。我々にはこの種の『私的罵り合い』の占める紙面を少なくする方法がないものだろうか。一時代の代表作が結局この精巧な罵り合いだけとは、この文壇、あまりに憐れではないか」 |
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於是乎這位炯之先生便以憐憫之心,節制之筆,定兩造為醜角,覺文壇之可憐了,雖然「我們記起《太白》,《文學》,《論語》,《人間世》幾年來」,似乎不但並不以「『文壇消息』的多少,成為刊物銷路多少的主要原因」,而且簡直不登什麼「文壇消息」。不過「罵」是有的;只「看熱鬧」的讀者,大約一定也有的。試看路上兩人相打,他們何嘗沒有是非曲直之分,但旁觀者往往只覺得有趣;就是綁出法場去,也是不問罪狀,單看熱鬧的居多。由這情形,推而廣之以至於文壇,真令人有不如逆來順受,唾面自亁之感。到這裡來一個「然而」罷,轉過來是旁觀者或讀者,其實又並不全如炯之先生所擬定的混沌,有些是自有各人自己的判斷的。所以昔者古典主義者和羅曼主義者相罵,甚而至於相打,他們並不都成為醜角;左拉遭了劇烈的文字和圖畫的嘲罵,終於不成為醜角;連生前身敗名裂的王爾德,現在也不算是醜角。 |
かくして炯之氏は憐憫の心、節制の筆をもって両造を醜角と定め、文壇の憐れさを感じたのであるが……しかし「罵り」はあるのであり、ただ「見物」するだけの読者も確かにいるだろう。路上で二人が殴り合うのを見よ——彼らに是非曲直の別がないわけではないが、傍観者は往々にして面白いとしか感じない。刑場に引かれる者に対しても罪状を問わずただ見物する者が多い。この情形から推して文壇に至れば、逆来順受、唾面自乾の感を抱かざるを得ない。しかしここで「然而」を持ち出そう。傍観者や読者は、実は炯之氏が想定するほど混沌としてはおらず、各自の判断を持つ者もいるのだ。故に昔、古典主義者とロマン主義者が罵り合い、殴り合いすらしたが、彼らは皆が醜角になったのではない。ゾラは激烈な文字と絵画の嘲罵を受けたが、醜角にはならなかった。生前名を汚したワイルドですら、今は醜角とは見なされていない。 |
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自然,他們有作品。但中國也有的。中國的作品「可憐」得很,誠然,但這不只是文壇可憐,也是時代可憐,而且這可憐中,連「看熱鬧」的讀者和論客都在內。凡有可憐的作品,正是代表了可憐的時代。昔之名人說「恕」字訣——但他們說,對於不知恕道的人,是不恕的;——今之名人說「忍」字訣,春天的論客以「文人相輕」混淆黑白,秋天的論客以「凡罵人的與被罵的一古腦兒變成丑角」抹殺是非。冷冰冰陰森森的平安的古塚中,怎麼會有生人氣? |
もちろん彼らには作品がある。しかし中国にもある。中国の作品は確かに「憐れ」だが、これは文壇だけが憐れなのではなく時代が憐れなのであり、しかもこの憐れの中には「見物」する読者や論客も含まれている。凡そ憐れな作品があれば、それは憐れな時代を代表しているのだ。 |
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「我們是不是還有什麼方法可以使這種『私罵』占篇幅少一些?」——炯之先生問。有是有的。縱使名之曰「私罵」,但大約決不會件件都是一面等於二加二,一面等於一加三,在「私」之中,有的較近於「公」,在「罵」之中,有的較合於「理」的,居然來加評論的人,就該放棄了「看熱鬧的情趣」,加以分析,明白的說出你究以為那一面較「是」,那一面較「非」來。 |
「我々にはこの種の『私的罵り合い』の占める紙面を少なくする方法がないか」——炯之氏は問う。ある。たとえ「私的罵り合い」と名づけても、決してすべてが一方は二足す二、一方は一足す三に等しいわけではなく、「私」の中に「公」に近いものがあり、「罵」の中に「理」に合うものがあるのだ。評論を加えようとする者は「見物の趣」を棄て、分析を加え、一体どちらがより「是」でどちらがより「非」であるかを明言すべきだ。 |
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至於文人,則不但要以熱烈的憎,向「異己」者進攻,還得以熱烈的憎,向「死的說教者」抗戰。在現在這「可憐」的時代,能殺才能生,能憎才能愛,能生與愛,才能文。彼兌飛說得好: |
文人に至っては、熱烈な憎しみをもって「異己」に進攻するだけでなく、熱烈な憎しみをもって「死せる説教者」にも抗戦せねばならない。今のこの「憐れ」な時代にあっては、殺し得て初めて生かし得、憎み得て初めて愛し得、生と愛を得て初めて文を得るのだ。 |
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九月十二日。 |
九月十二日。 |
第41節
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到了關於陀思妥夫斯基,不能不說一兩句話的時候了。說什麼呢?他太偉大了,而自己卻沒有很細心的讀過他的作品。 |
ドストエフスキーについて一言二言述べねばならぬ時が来た。何を言おうか。彼はあまりに偉大であり、而して自分は彼の作品を注意深く読んだことがない。 |
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回想起來,在年青時候,讀了偉大的文學者的作品,雖然敬服那作者,然而總不能愛的,一共有兩個人。一個是但丁,那《神曲》的《煉獄》裡,就有我所愛的異端在;有些鬼魂還在把很重的石頭,推上峻峭的岩壁去。這是極吃力的工作,但一鬆手,可就立刻壓爛了自己。不知怎地,自己也好像很是疲乏了。於是我就在這地方停住,沒有能夠走到天國去。 |
振り返ってみれば、若い頃、偉大な文学者の作品を読んで、その作者を敬服しながらもどうしても愛することのできなかった者が二人いた。一人はダンテで、あの『神曲』の「煉獄」の中には、私の愛する異端がいた。何人かの亡霊がなお重い石を峻峭な岩壁へ押し上げていた。これは極めて骨の折れる仕事であるが、一度手を放せばたちまち自分が押し潰される。どういうわけか、自分もひどく疲れたような気がした。そこで私はこの場所で足を止め、天国まで行くことができなかった。 |
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還有一個,就是陀思妥夫斯基。一讀他二十四歲時所作的《窮人》,就已經吃驚於他那暮年似的孤寂。到後來,他竟作為罪孽深重的罪人,同時也是殘酷的拷問官而出現了。他把小說中的男男女女,放在萬難忍受的境遇裡,來試煉它們,不但剝去了表面的潔白,拷問出藏在底下的罪惡,而且還要拷問出藏在那罪惡之下的真正的潔白來。而且還不肯爽利的處死,竭力要放它們活得長久。而這陀思妥夫斯基,則仿佛就在和罪人一同苦惱,和拷問官一同高興著似的。這決不是平常人做得到的事情,總而言之,就因為偉大的緣故。但我自己,卻常常想廢書不觀。 |
もう一人が、すなわちドストエフスキーだ。二十四歳の時に書いた『貧しき人々』を読んだだけで、もうその暮年のごとき孤寂に驚いた。やがて彼は、罪深き罪人であると同時に残酷な審問官として現れた。彼は小説中の男女を万難忍び得ぬ境遇に置いて試練し、表面の潔白を剥ぎ取り、その下に隠された罪悪を問い出すのみならず、さらにその罪悪の下に隠された真の潔白をも問い出そうとした。しかもなお爽やかに処刑することを肯ぜず、力の限り長く生かそうとした。そしてこのドストエフスキーは、あたかも罪人とともに苦悩し、審問官とともに歓喜しているかのようだった。これは決して常人のなし得ることではない。要するに偉大なるが故である。しかし私自身は、しばしば書を廃して読むのをやめたくなった。 |
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醫學者往往用病態來解釋陀思妥夫斯基的作品。這倫勃羅梭式的說明,在現今的大多數的國度裡,恐怕實在也非常便利,能得一般人們的贊許的。但是,即使他是神經病者,也是俄國專制時代的神經病者,倘若誰身受了和他相類的重壓,那麼,愈身受,也就會愈懂得他那夾著誇張的真實,熱到發冷的熱情,快要破裂的忍從,於是愛他起來的罷。 |
医学者はしばしば病態をもってドストエフスキーの作品を説明する。このロンブローゾ式の説明は、今日の大多数の国々においてはおそらく実に便利で、一般の賛同を得られるであろう。しかし、たとえ彼が神経病者であったとしても、それはロシア専制時代の神経病者であり、もし誰かが彼と同様の重圧を身に受けたならば、受けるほどにますます彼の誇張を帯びた真実、熱して冷に至る熱情、破裂寸前の忍従が分かり、やがて彼を愛し始めるであろう。 |
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不過作為中國的讀者的我,卻還不能熟悉陀思妥夫斯基式的忍從——對於橫逆之來的真正的忍從。在中國,沒有俄國的基督。在中國,君臨的是「禮」,不是神。百分之百的忍從,在未嫁就死了定婚的丈夫,堅苦的一直硬活到八十歲的所謂節婦身上,也許偶然可以發見罷,但在一般的人們,卻沒有。忍從的形式,是有的,然而陀思妥夫斯基式的掘下去,我以為恐怕也還是虛偽。因為壓迫者指為被壓迫者的不德之一的這虛偽,對於同類,是惡,而對於壓迫者,卻是道德的。但是,陀思妥夫斯基式的忍從,終於也並不只成了說教或抗議就完結。因為這是當不住的忍從,太偉大的忍從的緣故。人們也只好帶著罪業,一直闖進但丁的天國,在這裡這才大家合唱著,再來修練天人的功德了。只有中庸的人,固然並無墮入地獄的危險,但也恐怕進不了天國的罷。十一月二十日。 |
ただし中国の読者としての私は、なおドストエフスキー式の忍従——横逆に対する真の忍従——に馴染むことができない。中国にはロシアのキリストがいない。中国で君臨するのは「礼」であって神ではない。百パーセントの忍従は、嫁ぐ前に婚約の夫を亡くし、堅苦しく八十歳まで生き延びたいわゆる節婦の上に稀に見出し得るかもしれないが、一般の人々にはない。忍従の形式はあるが、ドストエフスキー式に掘り下げれば、おそらくやはり虚偽であろう。なぜなら圧迫者が被圧迫者の不徳の一つとして指す虚偽は、同類に対しては悪であるが、圧迫者に対しては道徳だからだ。しかしドストエフスキー式の忍従も、結局は説教や抗議だけで終わるのではない。なぜならこれは堪え得ぬ忍従、あまりに偉大な忍従だからだ。人々はやむなく罪業を背負ったままダンテの天国に闖入し、ここで初めて皆で合唱しながら天人の功徳を修練するのだ。ただ中庸の人は、地獄に堕ちる危険はないにしても、おそらく天国にも入れまい。十一月二十日。 |
第42節
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日記或書信,是向來有些讀者的。先前是在看朝章國故,麗句清詞,如何抑揚,怎樣請托,於是害得名人連寫日記和信也不敢隨隨便便。晉人寫信,已經得聲明「匆匆不暇草書」,今人作日記,竟日日要防傳鈔,來不及出版。王爾德的自述,至今還有一部分未曾公開,羅曼羅蘭的日記,約在死後十年才可發表,這在我們中國恐怕辦不到。 |
日記や書簡には昔から読者がいるものだ。以前は朝章国故、麗句清詞、いかに抑揚し、いかに請托するかを見ていたので、名人は日記や手紙を書くにも気軽にはできなくなった。晋人が手紙を書く時にはすでに「匆匆にして草書の暇なし」と声明せねばならず、今人が日記を書くにあたっては日々伝鈔に備え、出版が間に合わないほどだ。ワイルドの自述は今なお一部が公開されておらず、ロマン・ロランの日記は死後十年にして初めて発表できる約束だが、我が中国ではおそらくそうはいくまい。 |
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不過現在的讀文人的非文學作品,大約目的已經有些和古之人不同,是比較的歐化了的:遠之,在鉤稽文壇的故實,近之,在探索作者的生平。而後者似乎要居多數。因為一個人的言行,總有一部分願意別人知道,或者不妨給別人知道,但有一部分卻不然。然而一個人的脾氣,又偏愛知道別人不肯給人知道的一部分,於是尺牘就有了出路。這並非等於窺探門縫,意在發人的陰私,實在是因為要知道這人的全般,就是從不經意處,看出這人——社會的一分子的真實。 |
しかし今日の文人の非文学的作品を読む目的は、おそらく古人のそれとはいささか異なり、より欧化している。遠くは文壇の故実を鉤稽し、近くは作者の生涯を探索する。そして後者が多数を占めるようだ。なぜなら人の言行には、一部は他人に知られたい、あるいは知られても構わないものがあるが、別の一部はそうではない。しかし人の癖として、他人が知らせたくない一部分こそ知りたがるのであり、そこで尺牘に活路が生まれる。これは門の隙間から覗くのと同じではなく、人の陰私を暴こうとするのでもない。実はこの人の全般を知りたいからであり、何気ない所からこの人——社会の一員——の真実を見るのである。 |
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就是在「文學概論」上有了名目的創作上,作者本來也掩不住自己,無論寫的是什麼,這個人總還是這個人,不過加了些藻飾,有了些排場,仿佛穿上了制服。寫信固然比較的隨便,然而做作慣了的,仍不免帶些慣性,別人以為他這回是赤條條的上場了罷,他其實還是穿著肉色緊身小衫褲,甚至於用了平常決不應用的奶罩。話雖如此,比起峨冠博帶的時候來,這一回可究竟較近於真實。所以從作家的日記或尺牘上,往往能得到比看他的作品更其明晰的意見,也就是他自己的簡潔的注釋。不過也不能十分當真。有些作者,是連賬簿也用心機的,叔本華記賬就用梵文,不願意別人明白。 |
「文学概論」に名目のある創作においてすら、作者は本来自分を隠し切れない。何を書こうと、この人はやはりこの人であり、ただ幾らかの藻飾を加え、幾らかの舞台装置を設けて、いわば制服を着たようなものだ。手紙を書くのは確かに比較的気楽だが、作り慣れた者はなお幾らかの慣性を帯び、今回は裸で登場したかと思えば、実はまだ肌色のぴったりした下着を着ており、普段は決して使わないブラジャーまで付けていることすらある。とはいえ、冠冕博帯の時に比べれば、今回はやはり真実に近い。故に作家の日記や尺牘から、往々にしてその作品を読むより明瞭な意見を得ることができる。それはすなわち著者自身の簡潔な注釈だ。ただし十分に真に受けることもできない。帳簿にまで心機を用いる作者もいて、ショーペンハウアーは記帳にサンスクリットを用い、他人に分からせまいとした。 |
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另境先生的編這部書,我想是為了顯示文人的全貌的,好在用心之古奧如叔本華先生者,中國還未必有。只是我的做序,可不比寫信,總不免用些做序的拳經:這是要請編者讀者,大家心照的。 |
另境氏がこの書を編んだのは、文人の全貌を示すためであろう。幸い中国にはショーペンハウアー氏ほど古奥な用心をする者はまだいまい。ただ私が序を書くのは手紙を書くのとは違い、やはり序文の拳法を幾らか使わざるを得ない。これは編者と読者の皆さんに心得ておいていただきたい。 |
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一九三五年十一月二十五夜,魯迅記於上海閘北之且介亭。 |
一九三五年十一月二十五日の夜、魯迅、上海閘北の且介亭にて記す。 |
第43節
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自從「小品文」這一個名目流行以來,看看書店廣告,連信劄,論文,都排在小品文裡了,這自然只是生意經,不足為據。一般的意見,第一是在篇幅短。 |
「小品文」という名目が流行して以来、書店の広告を見れば、書簡も論文もすべて小品文の中に分類されている。これはもちろん商売上の便法に過ぎず、根拠にはならない。一般の意見としては、第一に篇幅が短いことが挙げられる。 |
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但篇幅短并不是小品文的特征。一條幾何定理不過數十字,一部《老子》只有五千言,都不能說是小品。這該像佛經的小乘似的,先看內容,然後講篇福。講小道理,或沒道理,而又不是長篇的,才可謂之小品。至於有骨力的文章,恐不如謂之「短文」,短當然不及長,寥寥幾句,也說不盡森羅萬象,然而它並不「小」。 |
しかし篇幅の短さは小品文の特徴ではない。一条の幾何定理は数十字に過ぎず、一部の『老子』はわずか五千言だが、小品とは言えない。これは仏経の小乗のように、まず内容を見て、それから篇幅を論ずべきだ。小さな道理を講ずるか、道理がないか、しかも長篇でないもの、これを小品と言える。骨力のある文章は、むしろ「短文」と言った方がよい。短いのは確かに長いものには及ばず、寥々数句では森羅万象を語り尽くせないが、それは「小」ではないのだ。 |
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《史記》裡的《伯夷列傳》和《屈原賈誼列傳》除去了引用的騷賦,其實也不過是小品,只因為他是「太史公」之作,又常見,所以沒有人來選出,翻印。由晉至唐,也很有幾個作家;宋文我不知道,但「江湖派」詩,卻確是我所謂的小品。現在大家所提倡的,是明清,據說「抒寫性靈」是它的特色。那時有一些人,確也只能夠抒寫性靈的,風氣和環境,加上作者的出身和生活,也只能有這樣的意思,寫這樣的文章。雖說抒寫性靈,其實後來仍落了窠臼,不過是「賦得性靈」,照例寫出那麼一套來。當然也有人豫感到危難,後來是身歷了危難的,所以小品文中,有時也夾著感憤,但在文字獄時,都被銷毀,劈板了,於是我們所見,就只剩了「天馬行空」似的超然的性靈。 |
『史記』の「伯夷列伝」や「屈原賈誼列伝」も、引用した騒賦を除けば、実は小品に過ぎないが、「太史公」の作であり常に見かけるため、誰も選び出して翻印しない。晋から唐にかけても優れた作家が幾人かおり、宋文は知らないが、「江湖派」の詩は確かに私のいわゆる小品だ。今皆が推奨しているのは明清で、「性霊を抒写する」のがその特色だという。あの時代には確かに性霊を抒写することしかできない人がおり、風気と環境に加え作者の出身と生活からして、そうした意思しか持ち得ず、そうした文章しか書けなかった。性霊を抒写すると言いながら、後にはやはり窠臼に落ち、「性霊を賦す」とでも言うべき型通りの一套を書き出すに過ぎなかった。もちろん危難を予感し、後に身をもって危難に遭った者もいて、小品文中に時に感憤を挟んでいたが、文字の獄の時代にすべて焚毀・劈板され、我々に見えるのは「天馬行空」のごとき超然たる性霊だけが残ったのだ。 |
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這經過清朝檢選的「性靈」,到得現在,卻剛剛相宜,有明末的灑脫,無清初的所謂「悖謬」,有國時是高人,沒國時還不失為逸士。逸士也得有資格,首先即在「超然」,「士」所以超庸奴,「逸」所以超責任:現在的特重明清小品,其實是大有理由,毫不足怪的。 |
この清朝の検選を経た「性霊」が今日に至ってちょうど具合がよい。明末の灑脱はあるが清初のいわゆる「悖謬」はない。国のある時は高人、国のなくなった時もなお逸士を失わぬ。逸士にも資格が要り、まず「超然」、「士」たるは庸奴を超え、「逸」たるは責任を超える。今日の明清小品の特別な重視には実に大いなる理由があり、少しも怪しむに足りないのだ。 |
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不過「高人兼逸士夢」恐怕也不長久。近一年來,就露了大破綻,自以為高一點的,已經滿紙空言,甚而至於胡說八道,下流的卻成為打諢,和猥鄙丑角,並無不同,主意只在挖公子哥兒們的跳舞之資,和舞女們爭生意,可憐之狀,已經下於五四運動前後的鴛鴦蝴蝶派數等了。為了這小品文的盛行,今年就又有翻印所謂「珍本」的事。有些論者,也以為可慮。我卻覺得這是並非無用的。原本價貴,大抵無力購買,現在只用了一元或數角,就可以看見現代名人的祖師,以及先前的性靈,怎樣疊床架屋,現在的性靈,怎樣看人學樣,啃過一堆牛骨頭,即使是牛骨頭,不也有了識見,可以不再被生炒牛角尖騙去了嗎? |
ただし「高人兼逸士の夢」もおそらく長くは続くまい。近一年来、大きな綻びが現れた。やや高いと自認する者はすでに紙一面の空言、ひいては出鱈目に至り、下流の者は道化となり、猥鄙な醜角と変わるところがなく、本意はただ公子哥児のダンス代を掘り出し、舞女と客を争うことにあり、その憐れな様は五四運動前後の鴛鴦蝴蝶派より数等も下に堕ちている。この小品文の盛行のために、今年はまたいわゆる「珍本」を翻印する事業が現れた。ある論者はこれを憂うべきだとするが、私はむしろ無用ではないと思う。原本は高価で大抵購う力がないが、今はわずか一元か数角で現代の名人の祖師を見ることができ、以前の性霊がいかに屋上屋を架し、今の性霊がいかに人を見て真似をしているかが分かる。牛の骨の山を齧った後には、たとえ牛の骨であっても見識を得て、もはや生煮えの牛角尖に騙されなくなるのではないか。 |
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不過「珍本」並不就是「善本」,有些是正因為它無聊,沒有人要看,這才日就滅亡,少下去;因為少,所以「珍」起來。就是舊書店裡必討大價的所謂「禁書」,也並非都是慷慨激昂,令人奮起的作品,清初,單為了作者也會禁,往往和內容簡直不相干。這一層,卻要讀者有選擇的眼光,也希望識者給相當的指點的。 |
ただし「珍本」は必ずしも「善本」ではなく、中にはまさにつまらないがために誰も読まず、故に日に滅び少なくなり、少ないがゆえに「珍」となったものもある。古書店で高値を要求するいわゆる「禁書」も、すべてが慷慨激昂して人を奮い立たせる作品というわけではない。清初には著者のために禁じられることもあり、往々にして内容とは全く無関係だった。この一点については、読者に選ぶ眼光が必要であり、識者の然るべき指針を望むものだ。 |
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十二月二日。 |
十二月二日。 |
第44節
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六 |
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記得T君曾經對我談起過:我的《集外集》出版之後,施蟄存先生曾在什麼刊物上有過批評,以為這本書不值得付印,最好是選一下。我至今沒有看到那刊物;但從施先生的推崇《文選》和手定《晚明二十家小品》的功業,以及自標「言行一致」的美德推測起來,這也正像他的話。好在我現在並不要研究他的言行,用不著多管這些事。 |
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《集外集》的不值得付印,無論誰說,都是對的。其實豈只這一本書,將來重開四庫館時,恐怕我的一切譯作,全在排除之列;雖是現在,天津圖書館的目錄上,在《吶喊》和《彷徨》之下,就注著一個「銷」字,「銷」者,銷毀之謂也;梁實秋教授充當什麼圖書館主任時,聽說也曾將我的許多譯作驅逐出境。但從一般的情形而論,目前的出版界,卻實在並不十分謹嚴,所以印了我的一本《集外集》,似乎也算不得怎麼特別糟蹋了紙墨。至於選本,我倒以為是弊多利少的,記得前年就寫過一篇《選本》,說明著自己的意見,後來就收在《集外集》中。 |
六 |
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自然,如果隨便玩玩,那是什麼選本都可以的,《文選》好,《古文觀止》也可以。不過倘要研究文學或某一作家,所謂「知人論世」,那麼,足以應用的選本就很難得。選本所顯示的,往往並非作者的特色,倒是選者的眼光。眼光愈銳利,見識愈深廣,選本固然愈準確,但可惜的是大抵眼光如豆,抹殺了作者真相的居多,這才是一個「文人浩劫」。例如蔡邕,選家大抵只取他的碑文,使讀者僅覺得他是典重文章的作手,必須看見《蔡中郎集》裡的《述行賦》(也見於《續古文苑》),那些「窮工巧於台榭兮,民露處而寢濕,委嘉穀於禽獸兮,下糠秕而無粒」(手頭無書,也許記錯,容後訂正)的句子,才明白他並非單單的老學究,也是一個有血性的人,明白那時的情形,明白他確有取死之道。又如被選家錄取了《歸去來辭》和《桃花源記》,被論客贊賞著「采菊東籬下,悠然見南山」的陶潛先生,在後人的心目中,實在飄逸得太久了,但在全集裡,他卻有時很摩登,「願在絲而為履,附素足以周旋,悲行止之有節,空委棄於床前」,竟想搖身一變,化為「阿呀呀,我的愛人呀」的鞋子,雖然後來自說因為「止於禮義」,未能進攻到底,但那些胡思亂想的自白,究竟是大膽的。就是詩,除論客所佩服的「悠然見南山」之外,也還有「精衛銜微木,將以填滄海,形天舞干戚,猛志固常在」之類的「金剛怒目」式,在證明著他並非整天整夜的飄飄然。這「猛志固常在」和「悠然見南山」的是一個人,倘有取捨,即非全人,再加抑揚,更離真實。譬如勇士,也戰鬥,也休息,也飲食,自然也性交,如果只取他末一點,畫起像來,掛在妓院裡,尊為性交大師,那當然也不能說是毫無根據的,然而,豈不冤哉!我每見近人的稱引陶淵明,往往不禁為古人惋惜。 |
T君がかつて私に語ったことがある。私の『集外集』が出版された後、施蟄存氏がある刊行物で批評し、この本は付印に値せず選んだ方がよいと言ったという。私はその刊行物を今日まで見ていないが、施氏の『文選』推崇と手ずから定めた『晩明二十家小品』の功業、および自ら標榜する「言行一致」の美徳から推測すれば、確かに彼らしい言葉だ。幸い今は彼の言行を研究する必要はなく、これ以上構うには及ばない。 『集外集』が付印に値せぬとは、誰が言っても正しい。実はこの一冊に限らず、将来四庫館が再び開かれる時には、おそらく私の一切の訳著が排除の列に入るだろう。今でさえ天津の図書館の目録には『吶喊』と『彷徨』の下に「銷」の字が注してある。「銷」とは銷毀の謂いだ。梁実秋教授がある図書館の主任を務めた時にも、私の多くの訳著を館外に駆逐したと聞く。しかし一般の情形から言えば、目下の出版界はさほど謹厳ではなく、故に私の一冊の『集外集』を印刷したことが特別に紙墨を糟蹋したとも言えまい。選本については、弊多く利少ないと思い、一昨年すでに一篇「選本」を書いて意見を述べ、後に『集外集』に収めた。 |
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這也是關於取用文學遺產的問題,潦倒而至於昏聵的人,凡是好的,他總歸得不到。前幾天,看見《時事新報》的《青光》上,引過林語堂先生的話,原文拋掉了,大意是說:老莊是上流,潑婦罵街之類是下流,他都要看,只有中流,剽上竊下,最無足觀。如果我所記憶的並不錯,那麼,這真不但宣告了宋人語錄,明人小品,下至《論語》,《人間世》,《宇宙風》這些「中流」作品的死刑,也透徹的表白了其人的毫無自信。不過這還是空腹高心之談,因為雖是「中流」,也並不一概,即使同是剽竊,有取了好處的,有取了無用之處的,有取了壞處的,到得「中流」的下流,他就連剽竊也不會,「老莊」不必說了,雖是明清的文章,又何嘗真的看得懂。 |
もちろん気楽に遊ぶだけなら何の選本でもよい。『文選』もよし、『古文観止』もよい。しかし文学やある作家を研究しようとする、いわゆる「知人論世」となると、用に足る選本は得難い。選本の示すものは往々にして作者の特色ではなく、選者の眼光である。眼光が鋭く見識が深広であれば選本もより精確だが、惜しいことに大抵は眼光豆の如く、作者の真相を抹殺しているものが多い。これこそ一つの「文人浩劫」だ。たとえば蔡邕、選家は大抵碑文だけを取るので、読者は典重な文章の書き手としか感じない。しかし『蔡中郎集』の「述行賦」を見れば、「窮工巧を台榭に尽くし、民露処にして寝湿す、嘉穀を禽獣に委ね、糠秕を下して粒なし」といった句子があり、初めて彼が単なる老学究ではなく血気のある人であったことが分かる。また陶潜は「帰去来辞」と「桃花源記」を選ばれ、「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」を賞賛され、後人の心目にあまりに飄逸すぎた。しかし全集には時に極めてモダンな箇所があり、「願わくは糸と為りて履と為り、素足に附して周旋せん、行止の節あるを悲しみ、空しく床前に委棄せらるるを」と、身を変じて「ああ、我が愛人よ」の靴になろうとしている。後に自ら「礼義に止まる」と言って進攻を最後までしなかったとはいえ、その胡思乱想の自白はやはり大胆だ。詩にも「悠然として南山を見る」以外に「精衛微木を銜み、将に以て滄海を填めんとす、形天干戚を舞い、猛志固より常に在り」のような「金剛怒目」式があり、終日終夜飄々としていたのではないことを証明している。この「猛志固より常に在り」と「悠然として南山を見る」は同一人であり、もし取捨すれば全人でなくなり、さらに抑揚を加えれば真実から離れる。 |
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標點古文,不但使應試的學生為難,也往往害得有名的學者出醜,亂點詞曲,拆散駢文的美談,已經成為陳跡,也不必回顧了;今年出了許多廉價的所謂珍本書,都有名家標點,關心世道者癌然憂之,以為足煽復古之焰。我卻沒有這麼悲觀,化國幣一元數角,買了幾本,既讀古之中流的文章,又看今之中流的標點;今之中流,未必能懂古之中流的文章的結論,就從這裡得來的。 |
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例如罷,——這種舉例,是很危險的,從古到今,文人的送命,往往並非他的什麼「意德沃羅基」的悖謬,倒是為了個人的私仇居多。然而這裡仍得舉,因為寫到這裡,必須有例,所謂「箭在弦上,不得不發」者是也。但經再三忖度,決定「姑隱其名」,或者得免於難歟,這是我在利用中國人只顧空面子的缺點。 |
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例如罷,我買的「珍本」之中,有一本是張岱的《琅嬛文集》,「特印本實價四角」;據「乙亥十月,盧前冀野父」跋,是「化峭僻之途為康莊」的,但照標點看下去,卻並不十分「康莊」。標點,對於五言或七言詩最容易,不必文學家,只要數學家就行,樂府就不大「康莊」了,所以卷三的《景清刺》裡,有了難懂的句子: |
七 |
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「……佩鉛刀。藏膝髁。太史奏。機謀破。不稱王向前。坐對御衣含血唾。……」 |
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琅琅可誦,韻也押的,不過「不稱王向前」這一句總有些費解。看看原序,有云:「清知事不成。躍而詢上。大怒曰。毋謂我王。即王敢爾耶。清曰。今日之號。尚稱王哉。命抉其齒。王且詢。則含血前。淰御衣。上益怒。剝其膚。……」(標點悉遵原本)那麼,詩該是「不稱王,向前坐」了,「不稱王」者,「尚稱王哉」也;「向前坐」者,「則含血前」也。而序文的「躍而詬上。大怒曰」,恐怕也該是「躍而詬。上大怒曰」才合式,據作文之初階,觀下文之「上益怒」,可知也矣。 |
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縱使明人小品如何「本色」,如何「性靈」,拿它亂玩究竟還是不行的,自誤事小,誤人可似乎不大好。例如卷六的《琴操》《脊令操》序裡,有這樣的句子:「秦府僚屬。勸秦王世民。行周公之事。伏兵玄武門。射殺建成元吉魏徵。傷亡作。」 |
さらに読者を迷途に引き入れやすいのは「摘句」である。それは衣裳から引き剥がした一片の刺繍のようなもので、摘取者の吹聴や付会により、いかに超然として塵濁と無縁かと説かれ、全体を見ぬ読者は迷離惝恍とさせられる。最も顕著なのは前述の「悠然として南山を見る」の例で、陶潜の「述酒」や「読山海経」等の詩を忘れ、ただ飄々とした姿だけに作り上げたのは、この摘句の仕業だ。最近『中学生』の十二月号で朱光潛氏の「『曲終わりて人見えず、江上数峰青し』を説く」の文章を見た。この二句を詩の美の極致と推しているが、割裂を美とする小疵があると感じた。彼は言う——「私がこの二句を愛するのは、多少それが一種の哲学的意蘊を啓示してくれるからだ。『曲終わりて人見えず』が表すのは消逝であり、『江上数峰青し』が表すのは永恒である……」 |
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文章也很通,不過一翻《唐書》,就不免覺得魏徵實在射殺得冤枉,他其實是秦王世民做了皇帝十七年之後,這才病死的。所以我們沒有法,這裡只好點作「射殺建成元吉,魏徵傷亡作」。明明是張岱作的《琴操》,怎麼會是魏徵作呢,索性也將他射殺幹淨,固然不能說沒有道理,不過「中流」文人,是常有擬作的,例如韓愈先生,就替周文王說過「臣罪當誅兮天王聖明」,所以在這裡,也還是以「魏徵傷亡作」為穩當。 |
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我在這裡也犯了「文人相輕」罪,其罪狀曰「吹毛求疵」。但我想「將功折罪」的,是證明瞭有些名人,連文章也看不懂,點不斷,如果選起文章來,說這篇好,那篇壞,實在不免令人有些毛骨悚然,所以認真讀書的人,一不可倚仗選本,二不可憑信標點。 |
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七 |
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還有一樣最能引讀者入於迷途的,是「摘句」。它往往是衣裳上撕下來的一塊繡花,經摘取者一吹噓或附會,說是怎樣超然物外,與塵濁無幹,讀者沒有見過全體,便也被他弄得迷離惝恍。最顯著的便是上文說過的「悠然見南山」的例子,忘記了陶潛的《述酒》和《讀山海經》等詩,捏成他單是一個飄飄然,就是這摘句作怪。新近在《中學生》的十二月號上,看見了朱光潛先生的《說『曲終人不見,江上數峰青』》的文章,推這兩句為詩美的極致,我覺得也未免有以割裂為美的小疵。他說的好處是:「我愛這兩句詩,多少是因為它對於我啟示了一種哲學的意蘊。『曲終人不見』所表現的是消逝,『江上數峰青』所表現的是永恆。可愛的樂聲和奏樂者雖然消逝了,而青山卻巍然如舊,永遠可以讓我們把心情寄託在它上面。人到底是怕淒涼的,要求伴侶的。曲終了,人去了,我們一霎時以前所遊目騁懷的世界猛然間好像從腳底倒塌去了。這是人生最難堪的一件事,但是一轉眼間我們看到江上青峰,好像又找到另一個可親的伴侶,另一個可托足的世界,而且它永遠是在那裡的。『山窮水盡疑無路,柳暗花明又一村』,此種風味似之。不僅如此,人和曲果真消逝了麼;這一曲纏綿悱惻的音樂沒有驚動山靈?它沒有傳出江上青峰的嫵媚和嚴肅?它沒有深深地印在這嫵媚和嚴肅裡面?反正青山和湘靈的瑟聲已發生這麼一回的因緣,青山永在,瑟聲和鼓瑟的人也就永在了。」 |
これは確かに彼の激賞の理由を説明しているが、まだ尽きていない。読者はさまざまであり、ある者は「江賦」「海賦」を好み、ある者は「小園」「枯樹」を愛する。後者は有無生滅の間を彷徨する文人で、人生に対して擾攘を憚りつつ離去をも恐れ、求生に倦みつつ死をも楽しまず、実は堅すぎ寂絶は空しすぎ、疲れて休みたいが休息もまた淒涼であるから、必ず一種の慰撫が必要だ。そこで「曲終わりて人見えず」のほか、「只此の山中に在り、雲深くして知処ならず」や「笙歌院落に帰り、燈火楼台を下る」の類が往々にして称道される。眼前に見えずとも遠くに在るからであり、もし在らねば悲哀となる。 撫慰の聖薬は、詩においては朱氏の言葉で言えば「静穆」だ。古ギリシャ人も和平静穆を詩の極境と見たかもしれぬが、現存のギリシャ詩歌を見れば、ホメロスの叙事詩は雄大にして活潑、サッフォーの恋歌は明白にして熱烈、いずれも静穆ではない。「静穆」を詩の極境と立て、この境が詩に見られぬのは、卵形を人体の最高形式と立て、この形が人に見られぬのと同じだろう。 |
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這確已說明瞭他的所以激賞的原因。但也沒有盡。讀者是種種不同的,有的愛讀《江賦》和《海賦》,有的欣賞《小園》或《枯樹》。後者是徘徊於有無生滅之間的文人,對於人生,既憚擾攘,又怕離去,懶於求生,又不樂死,實有太板,寂絕又太空,疲倦得要休息,而休息又太淒涼,所以又必須有一種撫慰。於是「曲終人不見」之外,如「只在此山中,雲深不知處」或「笙歌歸院落,燈火下樓台」之類,就往往為人所稱道。因為眼前不見,而遠處卻在,如果不在,便悲哀了,這就是道士之所以說「至心歸命禮,玉皇大天尊!」也。 |
私もまた雅俗の間を彷徨する人間で、今の話は甚だ興を殺ぐが、時に自ら「雅」だと思うこともある。十数年前、北京で一人の土財主と知り合い、彼も突然「雅」に目覚めて一つの鼎を買った。周鼎だという。土花斑駁、古色古香。ところが数日と経たぬうちに銅匠を呼んで土花と銅緑を一切磨き落とし、客間に据えて銅光を閃かせた。こんなピカピカの古銅器は生涯見たことがない。すべての「雅士」は聞くや大笑したが、私はその時、驚きから失笑し、しかしすぐに粛然となった。周の時代の鼎は現代の碗と同じだ。碗を一年も洗わぬ道理はなく、故に鼎も当時はピカピカの金光燦爛だったはずで、つまり「静穆」ではなく、むしろ「熱烈」だったのだ。ギリシャ彫刻もまた、今「醇朴」に見えるのは土中に埋もれ風雨に晒されて鋒棱と光沢を失ったためで、造られた当時は真新しく真白で光っていたはずだ。我々が見る希臘の美は当時のギリシャ人のいわゆる美ではなく、新しいものとして想像すべきだ。 |
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撫慰勞人的聖藥,在詩,用朱先生的話來說,是「靜穆」: |
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古希臘人,也許把和平靜穆看作詩的極境的罷,這一點我毫無知識。但以現存的希臘詩歌而論,荷馬的史詩,是雄大而活潑的,沙孚的戀歌,是明白而熱烈的,都不靜穆。我想,立「靜穆」為詩的極境,而此境不見於詩,也許和立蛋形為人體的最高形式,而此形終不見於人一樣。至於亞波羅之在山巔,那可因為他是「神」的緣故,無論古今,凡神像,總是放在較高之處的。這像,我曾見過照相,睜著眼睛,神清氣爽,並不像「常如作甜蜜夢」。不過看見實物,是否「使我們覺到這種『靜穆』的風味」,在我可就很難斷定了,但是,倘使真的覺得,我以為也許有些因為他「古」的緣故。 |
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我也是常常徘徊於雅俗之間的人,此刻的話,很近於大煞風景,但有時卻自以為頗「雅」的:間或喜歡看看古董。記得十多年前,在北京認識了一個土財主,不知怎麼一來,他也忽然「雅」起來了,買了一個鼎,據說是周鼎,真是土花斑駁,古色古香。而不料過不幾天,他竟叫銅匠把它的土花和銅綠擦得一干二淨,這才擺在客廳裡,閃閃的發著銅光。這樣的擦得精光的古銅器,我一生中還沒有見過第二個。一切「雅士」,聽到的無不大笑,我在當時,也不禁由吃驚而失笑了,但接著就變成肅然,好像得了一種啟示。這啟示並非「哲學的意蘊」,是覺得這才看見了近於真相的周鼎。鼎在周朝,恰如碗之在現代,我們的碗,無整年不洗之理,所以鼎在當時,一定是幹幹淨淨,金光燦爛的,換了術語來說,就是它並不「靜穆」,倒有些「熱烈」。這一種俗氣至今未脫,變化了我衡量古美術的眼光,例如希臘雕刻罷,我總以為它現在之見得「只剩一味醇樸」者,原因之一,是在曾埋土中,或久經風雨,失去了鋒棱和光澤的緣故,雕造的當時,一定是嶄新,雪白,而且發閃的,所以我們現在所見的希臘之美,其實並不准是當時希臘人之所謂美,我們應該懸想它是一件新東西。 |
およそ文芸を論じ、「極境」を虚懸すれば「絶境」に陥る。芸術においては土花に迷い、文学においては「摘句」に拘束される。朱氏は銭起の二句だけを取って全篇を蹴り、この二句で作者の全人を概括し、この二句で屈原、阮籍、李白、杜甫を打ち殺して「みな金剛怒目、忿忿不平の様子を免れぬ」と言った。実は四人とも朱氏の美学説を嵩上げするための冤枉の犠牲にされたのだ。 ここで銭起の全篇を見てみよう。「省試湘霊鼓瑟——善く鼓す雲和の瑟、常に聞く帝子の霊……曲終わりて人見えず、江上数峰青し。」題目を見れば「曲終」は「鼓瑟」を結び、「人見えず」は「霊」の字を点じ、「江上数峰青し」は「湘」の字を成す。全篇は唐人の好い試帖ではあるが、末の二句もさほど神奇ではない。しかも題に明らかに「省試」とあるから、もちろん「忿忿不平の様子」はあるまい。もし屈原が椒蘭と喧嘩せず上京して功名を求めたなら、答案で牢騒を発することはなかっただろう。まず落第を心配しなければならないからだ。 |
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凡論文藝,虛懸了一個「極境」,是要陷入「絕境」的,在藝術,會迷惘於土花,在文學,則被拘迫而「摘句」。但「摘句」又大足以困人,所以朱先生就只能取錢起的兩句,而踢開他的全篇,又用這兩句來概括作者的全人,又用這兩句來打殺了屈原,阮籍,李白,杜甫等輩,以為「都不免有些像金剛怒目,憤憤不平的樣子」。其實是他們四位,都因為墊高朱先生的美學說,做了冤屈的犧牲的。 |
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我們現在先來看一看錢起的全篇罷:「省試湘靈鼓瑟善鼓雲和瑟,常聞帝子靈。馮夷空自舞,楚客不堪聽。苦調淒金石,清音入杳冥。蒼梧來怨慕,白芷動芳馨。流水傳湘浦,悲風過洞庭。曲終人不見,江上數峰青。」 |
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要證成「醇樸」或「靜穆」,這全篇實在是不宜稱引的,因為中間的四聯,頗近於所謂「衰颯」。但沒有上文,末兩句便顯得含胡,不過這含胡,卻也許又是稱引者之所謂超妙。現在一看題目,便明白「曲終」者結「鼓瑟」,「人不見」者點「靈」字,「江上數峰青」者做「湘」字,全篇雖不失為唐人的好試帖,但末兩句也並不怎麼神奇了。況且題上明說是「省試」,當然不會有「憤憤不平的樣子」,假使屈原不和椒蘭吵架,卻上京求取功名,我想,他大約也不至於在考卷上大發牢騷的,他首先要防落第。 |
八 |
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我們於是應該再來看看這《湘靈鼓瑟》的作者的另外的詩了。但我手頭也沒有他的詩集,只有一部《大歷詩略》,也是迂夫子的選本,不過篇數卻不少,其中有一首是:「下第題長安客舍不遂青雲望,愁看黃鳥飛。梨花寒食夜,客子未春衣。世事隨時變,交情與我違。空余主人柳,相見卻依依。」 |
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一落第,在客棧的牆壁上題起詩來,他就不免有些憤憤了,可見那一首《湘靈鼓瑟》,實在是因為題目,又因為省試,所以只好如此圓轉活脫。他和屈原,阮籍,李白,杜甫四位,有時都不免是怒目金剛,但就全體而論,他長不到丈六。 |
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世間有所謂「就事論事」的辦法,現在就詩論詩,或者也可以說是無礙的罷。不過我總以為倘要論文,最好是顧及全篇,並且顧及作者的全人,以及他所處的社會狀態,這才較為確鑿。要不然,是很容易近乎說夢的。但我也並非反對說夢,我只主張聽者心裡明白所聽的是說夢,這和我勸那些認真的讀者不要專憑選本和標點本為法寶來研究文學的意思,大致並無不同。自己放出眼光看過較多的作品,就知道歷來的偉大的作者,是沒有一個「渾身是『靜穆』」的。陶潛正因為並非「渾身是『靜穆』,所以他偉大」。現在之所以往往被尊為「靜穆」,是因為他被選文家和摘句家所縮小,淩遲了。 |
今なお流伝する古人の文集について。漢人のものはすでに略々原状を存するものがない。魏の嵇康の集には他者の贈答や論難が残り、晋の阮籍の集にも伏義の来信があり、おそらく古い残本を後人が再編したものだ。『謝宣城集』は前半しか残っていないが、同僚の共同賦詠の詩がある。私はこうした集子が最も良いと思う。なぜなら一方で作者の文章を読みながら、他方で彼と他者との関係、同じ題で詠んだ者と比べての高下、なぜそう言ったか……が分かるからだ。今この編法を採るものとして私の知る限りでは『独秀文存』があり、収められた「文」に関連する他者の文章を附している。 |
八 |
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現在還在流傳的古人文集,漢人的已經沒有略存原狀的了,魏的嵇康,所存的集子裡還有別人的贈答和論難,晉的阮籍,集裡也有伏義的來信,大約都是很古的殘本,由後人重編的。《謝宣城集》雖然只剩了前半部,但有他的同僚一同賦詠的詩。我以為這樣的集子最好,因為一面看作者的文章,一面又可以見他和別人的關系,他的作品,比之同詠者,高下如何,他為什麼要說那些話……現在採取這樣的編法的,據我所知道,則《獨秀文存》,也附有和所存的「文」相關的別人的文字。 |
かの了不得の作家たちが謹厳入骨、惜墨如金にして一生の作品をただ一字か三四字に削り泰山の頂に刻んで「之を其の人に伝えん」とするなら、もちろんご随意だ。またある鬼蜮めいた「作家」は、天兵天将の加護があり姓名を公開して差し支えないのに偏えに隠れ潜み、「作品」が自分の正体と関係することを恐れ、作るそばから削り、白紙だけ残して結局何もないなら、それもまたご随意だ。もし多少なりとも社会と関係のある文字であれば、すべて集印すべきだと思う。中には多くの廃料が混じり、いわゆる「榛楛剪らず」だが、これこそ深山大沢なのだ。 |
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那些了不得的作家,謹嚴入骨,惜墨如金,要把一生的作品,只刪存一個或者三四個字,刻之泰山頂上,「傳之其人」,那當然聽他自己的便,還有鬼蜮似的「作家」,明明有天兵天將保佑,姓名大可公開,他卻偏要躲躲閃閃,生怕他的「作品」和自己的原形發生關系,隨作隨刪,刪到只剩下一張白紙,到底什麼也沒有,那當然也聽他自己的便。如果多少和社會有些關系的文字,我以為是都應該集印的,其中當然夾雜著許多廢料,所謂「榛楛弗剪」,然而這才是深山大澤。現在已經不像古代,要手抄,要木刻,只要用鉛字一排就夠。雖說排印,糟蹋紙墨自然也還是糟蹋紙墨的,不過只要一想連楊村人之流的東西也還在排印,那就無論什麼都可以閉著眼睛發出去了。中國人常說「有一利必有一弊」,也就是「有一弊必有一利」:揭起小無恥之旗,固然要引出無恥群,但使謙讓者潑剌起來,卻是一利。 |
しかも鬼蜮の技倆を随時消滅させれば、反鬼蜮者の人と文章を洞暁することもできなくなる。もし作者が人間世界にあって戦闘性を帯びていれば、社会に必ず敵対者がいる。ただしこれらの敵対者は自ら認めず、時々甘えて「冤枉だ、彼が私を仮想敵にしたのだ!」と言う。しかし注意して見れば確かに暗矢を放っており、指摘されて初めて明槍に変えるが、それは「仮想敵」にされた報復だと言う。 |
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收回了謙讓的人,在實際上也並不少,但又是所謂「愛惜自己」的居多。「愛惜自己」當然並不是壞事情,至少,他不至於無恥,然而有些人往往誤認「裝點」和「遮掩」為「愛惜」。集子裡面,有兼收「少作」的,然而偏去修改一下,在孩子的臉上,種上一撮白胡須;也有兼收別人之作的,然而又大加揀選,決不取謾罵誣蔑的文章,以為無價值。其實是這些東西,一樣的和本文都有價值的,即使那力量還不夠引出無恥群,但倘和有價值的本文有關,這就是它在當時的價值。中國的史家是早已明白了這一點的,所以歷史裡大抵有循吏傳,隱逸傳,卻也有酷吏傳和佞幸傳,有忠臣傳,也有奸臣傳。因為不如此,便無從知道全般。 |
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而且一任鬼蜮的技倆隨時消滅,也不能洞曉反鬼蜮者的人和文章。山林隱逸之作不必論,倘使這作者是身在人間,帶些戰鬥性的,那麼,他在社會上一定有敵對。只是這些敵對決不肯自承,時時撒嬌道:「冤乎枉哉,這是他把我當作假想敵了呀!」可是留心一看,他的確在放暗箭,一經指出,這才改為明槍,但又說這是因為被誣為「假想敵」的報復。所用的技倆,也是決不肯任其流傳的,不但事後要它消滅,就是臨時也在躲閃;而編集子的人又不屑收錄。於是到得後來,就只剩了一面的文章了,無可對比,當時的抗戰之作,就都好像無的放矢,獨個人在向著空中發瘋。我嘗見人評古人的文章,說誰是「鋒棱太露」,誰又是「劍拔弩張」,就因為對面的文章,完全消滅了的緣故,倘在,是也許可以減去評論家幾分懵懂的。所以我以為此後該有博採種種所謂無價值的別人的文章,作為附錄的集子。以前雖無成例,卻是留給後來的寶貝,其功用與鑄了魑魅罔兩的形狀的禹鼎相同。 |
九 |
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就是近來的有些期刊,那無聊,無恥與下流,也是世界上不可多得的物事,然而這又確是現代中國的或一群人的「文學」,現在可以知今,將來可以知古,較大的圖書館,都必須保存的。但記得C君曾經告訴我,不但這些,連認真切實的期刊,也保存的很少,大抵只在把外國的雜志,一大本一大本的裝起來:還是生著「貴古而賤今,忽近而圖遠」的老毛病。 |
やはり前述の張岱『琅嬛文集』の書牘類に「又毅儒八弟に与う」の信がある。冒頭にこう言う——「先にわが弟が『明詩存』を選ぶのを見るに、鐘譚に似ぬ一字あれば必ず棄置不取、今幾社の諸君子が盛んに王李を称え痛く鐘譚を罵れば、わが弟の選法はまた一変して鐘譚に似る一字あれば必ず棄置不取。鐘譚の詩集は依然この詩集、わが弟の手眼は依然この手眼なるに、乃ち転ずること飛蓬の如く、捷きこと影響の如し。何ぞ胸に定識なく、目に定見なく、口に定評なきこと斯の極に至るや……」 |
九 |
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仍是上文說過的所謂《珍本叢書》之一的張岱《琅嬛文集》,那卷三的書牘類裡,有《又與毅儒八弟》的信,開首說:「前見吾弟選《明詩存》,有一字不似鐘譚者,必棄置不取;今幾社諸君子盛稱王李,痛罵鐘譚,而吾弟選法又與前一變,有一字似鐘譚者,必棄置不取。鐘譚之詩集,仍此詩集,吾弟手眼,仍此手眼,而乃轉若飛蓬,捷如影響,何胸無定識,目無定見,口無定評,乃至斯極耶?蓋吾弟喜鐘譚時,有鐘譚之好處,盡有鐘譚之不好處,彼蓋玉常帶璞,原不該盡視為連城;吾弟恨鐘譚時,有鐘譚之不好處,仍有鐘譚之好處,彼蓋瑕不掩瑜,更不可盡棄為瓦礫。吾弟勿以幾社君子之言,橫據胸中,虛心平氣,細細論之,則其妍醜自見,奈何以他人好尚為好尚哉!……」 |
これは風に随い舵を転ずる選家の面目を分明に描き出し、選本の信じ難きことを指証している。張岱自身は、選文修史には自己の意見を持つべからずと考え、「弟が『石匱』一書は、筆を洶にすること四十余年、心は止水秦銅の如く、自ら意見を立てず」と言う。しかし心は畢竟鏡にあらず虚にもなし得ず、故に「虚心平気」を選詩の極境、「自ら意見を立てず」を修史の極境とするのも「静穆」を詩の極境とするのと同じく、事実上は得難い。数年前の文壇で「第三種人」杜衡輩が超然を標榜し実は群醜であったことは周知の通りだ。張岱のごとく中立を自任する者も実は偏倚している。彼の東林党論は苛く君子を責め寛く小人を縦し、自ら秋毫を明察すると思いながら実は小人に味方する結果となっている。 |
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這是分明的畫出隨風轉舵的選家的面目,也指證了選本的難以憑信的。張岱自己,則以為選文造史,須無自己的意見,他在《與李硯翁》的信裡說:「弟《石匱》一書,洶筆四十餘載,心如止水秦銅,並不自立意見,故下筆描繪,妍媸自見,敢言刻劃,亦就物肖形而已。……」然而心究非鏡,也不能虛,所以立「虛心平氣」為選詩的極境,「並不自立意見」為作史的極境者,也像立「靜穆」為詩的極境一樣,在事實上不可得。數年前的文壇上所謂「第三種人」杜衡輩,標榜超然,實為群醜,不久即本相畢露,知恥者皆羞稱之,無待這裡多說了;就令自覺不懷他意,屹然中立如張岱者,其實也還是偏倚的。他在同一信中,論東林云:「……夫東林自顧涇陽講學以來,以此名目,禍我國家者八九十年,以其黨升沉,用占世數興敗,其党盛則為終南之捷徑,其黨敗則為元祐之黨碑。……蓋東林首事者實多君子,竄入者不無小人,擁戴者皆為小人,招徠者亦有君子,此其間線索甚清,門戶甚迥。……東林之中,其庸庸碌碌者不必置論,如貪婪強橫之王圖,奸險兇暴之李三才,闖賊首輔之項煜,上箋勸進之周鐘,以致竄入東林,乃欲俱奉之以君子,則吾臂可斷,決不敢徇情也。東林之尤可醜者,時敏之降闖賊曰,『吾東林時敏也』,以冀大用。魯王監國,蕞爾小朝廷,科道任孔當輩猶曰,『非東林不可進用』。則是東林二字,直與蕞爾魯國及汝偕亡者。手刃此輩,置之湯鑊,出薪真不可不猛也。……」 |
謝国楨氏は『明清之際党社運動考』で、魏忠賢の二度の東林党虐殺の後を述べて言う——「あの時、親戚朋友はみな遠く避け、無恥の士大夫は早くも魏党の旗下に投降していた。一言二言の公道を言い、諸君子を助けようとしたのは、幾人かの書生と幾人かの庶民だけだった。」これは蘇州の人民が周順昌の逮捕に際して緹騎を撃散した事件を言う。確かに庶民は詩書を読まず史法を知らず、瑜の中に瑕を求め屎の中に道を覓すことを解さないが、大まかに見て黒白を明らかにし是非を弁ずることにおいて、往々にして清高通達の士大夫の及び得ぬところがある。ちょうど本日の『大美晩報』を受け取ったところ、「北平特約通信」があり、学生のデモ行進が警察の水龍噴射、棍撃刀斬に遭い、一部は城外に閉じ込められ凍餒に曝された、「この時燕冀中学、師大附中及び附近の住民が次々と慰労隊を組織し、水や焼餅饅頭等を送り、学生はやや飢腸を癒した」とある。誰が中国の庶民を庸愚だと言うのか。愚弄され欺かれ圧迫されて今に至ってなお、かくも明白なのだ。 |
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這真可謂「詞嚴義正」。所舉的群小,也都確實的,尤其是時敏,雖在三百年後,也何嘗無此等人,真令人驚心動魄。然而他的嚴責東林,是因為東林黨中也有小人,古今來無純一不雜的君子群,於是凡有黨社,必為自謂中立者所不滿,就大體而言,是好人多還是壞人多,他就置之不論了。或者還更加一轉云:東林雖多君子,然亦有小人,反東林者雖多小人,然亦有正士,於是好像兩面都有好有壞,並無不同,但因東林世稱君子,故有小人即可醜,反東林者本為小人,故有正士則可嘉,苛求君子,寬縱小人,自以為明察秋毫,而實則反助小人張目。倘說:東林中雖亦有小人,然多數為君子,反東林者雖亦有正士,而大抵是小人。那麼,斤量就大不相同了。 |
石在れば火種は絶えない。しかし私は九年前の主張を重ねて申す——もう請願はするな! |
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謝國楨先生作《明清之際黨社運動考》,鉤索文籍,用力甚勤,敘魏忠賢兩次虐殺東林黨人畢,說道:「那時候,親戚朋友,全遠遠的躲避,無恥的士大夫,早投降到魏黨的旗幟底下了。說一兩句公道話,想替諸君子幫忙的,只有幾個書呆子,還有幾個老百姓。」 |
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這說的是魏忠賢使緹騎捕周順昌,被蘇州人民擊散的事。誠然,老百姓雖然不讀詩書,不明史法,不解在瑜中求瑕,屎裡覓道,但能從大概上看,明黑白,辨是非,往往有決非清高通達的士大夫所可幾及之處的。剛剛接到本日的《大美晚報》,有「北平特約通訊」,記學生遊行,被警察水龍噴射,棍擊刀砍,一部分則被閉於城外,使受凍餒,「此時燕冀中學師大附中及附近居民紛紛組織慰勞隊,送水燒餅饅頭等食物,學生略解饑腸……」誰說中國的老百姓是庸愚的呢,被愚弄誆騙壓迫到現在,還明白如此。張岱又說:「忠臣義士多見於國破家亡之際,如敲石出火,一閃即滅,人主不急起收之,則火種絕矣。」(《越絕詩小序》)他所指的「人主」是明太祖,和現在的情景不相符。 |
十二月十八——十九日の夜。 |
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石在,火種是不會絕的。但我要重申九年前的主張:不要再請願! |
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十二月十八——十九夜。 |
第45節
| 中文 | 日本語 |
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漢字拉丁化的方法一出世,方塊字系的簡筆字和注音字母,都賽下去了,還在競爭的只有羅馬字拼音。這拼法的保守者用來打擊拉丁化字的最大的理由,是說它方法太簡單,有許多字很不容易分別。 |
漢字ラテン化の方法が世に出ると、方塊字系の簡筆字と注音字母はすべて負けてしまい、なお競争しているのはローマ字拼音だけとなった。この拼法の保守者がラテン化字を攻撃する最大の理由は、方法が簡単すぎて多くの字が区別しにくいということだ。 |
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這確是一個缺點。凡文字,倘若容易學,容易寫,常常是未必精密的。煩難的文字,固然不見得一定就精密,但要精密,卻總不免比較的煩難。羅馬字拼音能顯四聲,拉丁化字不能顯,所以沒有「東」「董」之分,然而方塊字能顯「東」「鷳」之分,羅馬字拼音卻也不能顯。單拿能否細別一兩個字來定新文字的優劣,是並不確當的。況且文字一用於組成文章,那意義就會明顯。雖是方塊字,倘若單取一兩個字,也往往難以確切的定出它的意義來。例如「日者」這兩個字,如果只是這兩個字,我們可以作「太陽這東西」解,可以作「近幾天」解,也可以作「占卜吉凶的人」解;又如「果然」,大抵是「竟是」的意思,然而又是一種動物的名目,也可以作隆起的形容;就是一個「一」字,在孤立的時候,也不能決定它是數字「一二三」之「一」呢,還是動詞「四海一」之「一」。不過組織在句子裡,這疑難就消失了。所以取拉丁化的一兩個字,說它含胡,並不是正當的指摘。 |
これは確かに一つの欠点である。およそ文字は、学びやすく書きやすければ、往々にして精密ではない。煩難な文字が必ずしも精密とは限らないが、精密を期すれば比較的煩難にならざるを得ない。ローマ字拼音は四声を示せるがラテン化字にはできず、故に「東」と「董」の区別がない。しかし方塊字は「東」と「鷳」の区別を示せるが、ローマ字拼音にはできない。一二の字を細かく区別できるかどうかだけで新文字の優劣を定めるのは正当ではない。しかも文字を文章に組めば意味は明瞭になる。方塊字でも一二字だけを取り出せば意味を確定し難いことが多い。たとえば「日者」という二字は、「太陽というもの」とも「近頃」とも「占い師」とも解せる。また「果然」は大抵「やはり」の意だが、一種の動物の名でもあり、隆起した形容にもなる。「一」の字ですら孤立すれば数字の一か動詞の一か決められない。しかし文の中に組み込めば疑義は消える。故にラテン化の一二字を取り出して曖昧だと言うのは正当な指摘ではない。 ローマ字拼音とラテン化の両派の争いは、実は精密と粗疎にあるのではなく、その由来、すなわち目的にある。ローマ字拼音は古来の方塊字を主としてローマ字に翻し皆にこの規則で書かせようとするもの、ラテン化は現在の方言を主としてラテン字に翻しこれを規則とするものだ。もし『詩韻』を翻して競わせれば後者は勝てないが、活きた人の口語を書き出すなら軽くて容易だ。この一点で精密でない欠点を補って余りあり、しかも後に実験によって漸次補正できるのだ。 |
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主張羅馬字拼音和拉丁化者兩派的爭執,其實並不在精密和粗疏,卻在那由來,也就是目的。羅馬字拼音者是以古來的方塊字為主,翻成羅馬字,使大家都來照這規矩寫,拉丁化者卻以現在的方言為主,翻成拉丁字,這就是規矩。假使翻一部《詩韻》來作比賽,後者是賽不過的,然而要寫出活人的口語來,倒輕而易舉。這一點,就可以補它的不精密的缺點而有餘了,何況後來還可以憑著實驗,逐漸補正呢。 |
容易と困難は改革者の二大派だ。同じく現状に不満でも、現状を打破する手段は大いに異なる。一は革新、一は復古。同じく革新でも手段は大いに異なる。一は困難、一は容易。この二者には闘争がある。困難派の格好の看板は完全と精密であり、これによって容易派の前進を阻む。しかしそれ自体は虚懸の計画であるため、結局は何の成果もない——すなわち不行だ。 この不行こそが困難派の改革者の慰藉である。なぜなら改革の実はなくとも改革の名はあるからだ。改革を大いに語ることを好む改革者もいるが、真の改革が身辺に迫れば恐怖する。ただ困難な改革を大いに語ることによってのみ容易な改革の到来を阻止し、すなわち現状を維持しつつ一方で大いにその改革を語り、完全な改革の事業を為しているということにする。これは寝床で泳ぎ方を覚えてから水に入ろうという方法と実は同じだ。 |
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易舉和難行是改革者的兩大派。同是不滿於現狀,但打破現狀的手段卻大不同:一是革新,一是復古。同是革新,那手段也大不同:一是難行,一是易舉。這兩者有鬥爭。難行者的好幌子,一定是完全和精密,借此來阻礙易舉者的進行,然而它本身,卻因為是虛懸的計劃,結果總並無成就:就是不行。 |
ラテン化にはこの空談の弊がない。言えれば書ける。それは民衆と結びつき、研究室や書斎の清玩ではなく街頭巷尾のものだ。旧文字との関係は軽いが人民との結びつきは密で、もし皆が自分の意見を発表し切要な知識を得られるようにしようとするなら、これ以上簡易な文字は確かにない。 |
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這不行,可又正是難行的改革者的慰藉,因為它雖無改革之實,卻有改革之名。有些改革者,是極愛談改革的,但真的改革到了身邊,卻使他恐懼。惟有大談難行的改革,這才可以阻止易舉的改革的到來,就是竭力維持著現狀,一面大談其改革,算是在做他那完全的改革的事業。這和主張在床上學會了浮水,然後再去游泳的方法,其實是一樣的。 |
しかもラテン化字しか知らぬ人々が創作を書き始めて初めて、中国文学の新生であり、現代中国の新文学である。なぜなら彼らは『荘子』や『文選』の類の毒に少しも中てられていないからだ。 |
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拉丁化卻沒有這空談的弊病,說得出,就寫得來,它和民眾是有聯系的,不是研究室或書齋裡的清玩,是街頭巷尾的東西;它和舊文字的關系輕,但和人民的聯系密,倘要大家能夠發表自己的意見,收獲切要的知識,除它以外,確沒有更簡易的文字了。 |
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而且由只識拉丁化字的人們寫起創作來,才是中國文學的新生,才是現代中國的新文學,因為他們是沒有中一點什麼《莊子》和《文選》之類的毒的。 |
十二月二十三日。 |
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十二月二十三日。 |
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Category:漢字改革 |
第46節
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果戈理開手作《死魂靈》第一部的時候,是一八三五年的下半年,離現在足有一百年了。幸而,還是不幸呢,其中的許多人物,到現在還很有生氣,使我們不同國度,不同時代的讀者,也覺得仿佛寫著自己的周圍,不得不歎服他偉大的寫實的本領。不過那時的風尚,卻究竟有了變遷,例如男子的衣服,和現在雖然小異大同,而閨秀們的高髻圓裙,則已經少見;那時的時髦的車子,並非流線形的摩托卡,卻是三匹馬拉的篷車,照著跳舞夜會的所謂眩眼的光輝,也不是電燈,只不過許多插在多臂燭臺上的蠟燭:凡這些,倘使沒有圖畫,是很難想像清楚的。 |
ゴーゴリが『死せる魂』第一部に着手したのは一八三五年の下半期であり、今からちょうど百年になる。幸いにも、あるいは不幸にも、その中の多くの人物は今なお生気を帯び、異なる国、異なる時代の我々読者にも、あたかも自分の周囲を描いたかのように感じさせ、彼の偉大な写実の力量に嘆服せざるを得ない。ただし当時の風俗にはやはり変遷があり、たとえば男子の衣服は今と小異大同だが、閨秀の高髻円裙はもう稀であり、当時の流行の車は流線形のモーターカーではなく三頭立ての幌馬車であり、舞踏夜会の眩い光はランプではなく多腕の燭台に挿した蝋燭に過ぎない。これらは図画なくしては明瞭に想像し難い。 |
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關於《死魂靈》的有名的圖畫,據里斯珂夫說,一共有三種,而最正確和完備的是阿庚的百圖。這圖畫先有七十二幅,未詳何年出版,但總在一八四七年之前,去現在也快要九十年;後來即成為難得之品,新近蘇聯出版的《文學辭典》裡,曾采它為插畫,可見已經是有了定評的文獻了。雖在它的本國,恐怕也只能在圖書館中相遇,更何況在我們中國。今年秋末,孟十還君忽然在上海的舊書店裡看到了這畫集,便像孩子望見了糖果似的,立刻奔走呼號,總算弄到手裡了,是一八九三年印的第四版,不但百圖完備,還增加了收藏家藹甫列摩夫所藏的三幅,並那時的廣告畫和第一版封紙上的小圖各一幅,共計一百零五圖。 |
『死せる魂』に関する有名な図画は、リスコフによれば三種あり、最も正確で完備なのはアゲインの百図である。この図画はまず七十二幅あり、出版年は不詳だが一八四七年以前であることは確かで、今からおよそ九十年になる。後に稀覯品となり、新しくソ連で出版された『文学辞典』にも挿画として採用されており、すでに定評ある文献となっていることが分かる。その本国においてすら図書館でしか出会えぬであろうから、我が中国においては言うまでもない。今年の秋末、孟十還君が突然上海の古書店でこの画集を見つけ、子供が飴を見つけたように奔走呼号して手に入れた。一八九三年印刷の第四版で、百図が完備しているだけでなく、収蔵家アイフレモフの所蔵の三幅と、当時の広告画および初版の表紙上の小図各一幅が増補され、計百五図である。 |
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這大約是十月革命之際,俄國人帶了逃出國外來的;他該是一個愛好文藝的人,抱守了十六年,終於只好拿它來換衣食之資;在中國,也許未必有第二本。藏了起來,對己對人,說不定都是一種罪業,所以現在就設法來翻印這一本書,除紹介外國的藝術之外,第一,是在獻給中國的研究文學,或愛好文學者,可以和小說相輔,所謂「左圖右史」,更明白十九世紀上半的俄國中流社會的情形,第二,則想獻給插畫家,借此看看別國的寫實的典型,知道和中國向來的「出相」或「繡像」有怎樣的不同,或者能有可以取法之處;同時也以慰售出這本畫集的人,將他的原本化為千萬,廣布於世,實足償其損失而有餘,一面也庶幾不枉孟十還君的一番奔走呼號之苦。對於木刻家,卻恐怕並無大益,因為這雖說是木刻,但畫者一人,刻者又別一人,和現在的自畫自刻,刻即是畫的創作木刻,是已經大有差別的了。 |
これはおそらく十月革命の際にロシア人が携えて国外に逃れたもので、文芸を愛好する人であったのだろう。十六年間守り通したが、ついにこれを衣食の資に換えるしかなくなった。中国にはおそらく二冊とあるまい。蔵し込んでは自他ともに罪業ともなりかねないから、今これを翻印することにした。外国の芸術を紹介する他に、第一は中国の文学研究者または文学愛好者に献じ、小説と相補って、いわゆる「左図右史」、十九世紀前半のロシア中流社会の情形をより明瞭に知ってもらうこと、第二は挿画家に献じ、他国の写実の典型を見て中国従来の「出相」や「繡像」との相違を知り、取法すべき点があるかもしれぬこと、同時にこの画集を手放した人を慰め、その原本を千万に化して広く世に布けば、損失を償って余りあり、孟十還君の奔走呼号の労も空しくないようにすることだ。木刻家にはおそらく大きな益はなかろう。なぜならこれは木刻と言いながら画者と刻者が別人であり、今日の自画自刻、刻即ち画の創作木刻とは大いに異なるからだ。 |
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世間也真有意外的運氣。當中文譯本的《死魂靈》開始發表時,曹靖華君就寄給我一卷圖畫,也還是十月革命後不多久,在彼得堡得到的。這正是里斯珂夫所說的梭可羅夫畫的十二幅。紙張雖然頗為破碎,但圖像並無大損,怕它由我而亡,現在就附印在阿庚的百圖之後,於是俄國藝術家所作的最寫實,而且可以互相補助的兩種《死魂靈》的插畫,就全收在我們的這一本集子裡了。 |
世にはまことに思いがけない幸運がある。中文訳本の『死せる魂』の発表が始まった折、曹靖華君がちょうど一巻の図画を送ってくれた。これもまた十月革命後間もなくペテルブルグで手に入れたものだ。まさにリスコフの言うソコロフ画の十二幅である。紙はかなり破損していたが図像に大きな損傷はなく、私の手から失われるのを恐れ、今これをアゲインの百図の後に附印する。かくしてロシアの芸術家による最も写実的にして互いに補い合う二種の『死せる魂』の挿画が、我々のこの一冊にすべて収まったのだ。 |
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移譯序文和每圖的題句的,也是孟十還君的勞作;題句大概依照譯本,但有數處不同,現在也不改從一律;最末一圖的題句,不見於第一部中,疑是第二部記乞乞科夫免罪以後的事,這是那時俄國文藝家的習尚:總喜歡帶點教訓的。至於校印裝制,則是吳朗西君和另外幾位朋友們所經營。這都應該在這里聲明謝意。 |
序文と各図の題句を翻訳したのも孟十還君の労である。題句は大抵訳本に依ったが数か所異なるところがあり、今は一律に改めない。末尾の一図の題句は第一部に見えず、おそらく第二部のチチコフの免罪後の事を記したもので、当時のロシア文芸家の習い——常に幾らかの教訓を帯びたがった——であろう。校印装幀については呉朗西君と他の数人の友人の尽力による。ここに謝意を表明すべきである。 |
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一九三五年十二月二十四日,魯迅。 |
一九三五年十二月二十四日、魯迅。 |
第47節
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這一本的編輯的体例,是和前一本相同的,也是按照著寫作的時候。凡在刊物上發表之作,上半年也都經過官廳的檢查,大約總不免有些刪削,不過我懶於一一校對,加上黑點為記了。只要看過前一本,就可以明白犯官忌的是那些話。 |
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被全篇禁止的有兩篇:一篇是《什麼是諷刺》,為文學社的《文學百題》而作,印出來時,變了一個「缺」字;一篇是《從幫忙到扯淡》,為《文學論壇》而作,至今無蹤無影,連「缺」字也沒有了。 |
この一冊の編集の体例は前の一冊と同じく、やはり執筆の時期に沿って並べてある。刊行物に発表した作品は、上半年もすべて官庁の検査を経ており、おそらく多少の削除を免れないが、私は一々校対して黒点を付ける気にはなれなかった。前の一冊を読んだ者ならば、官の忌諱に触れるのがどのような言葉か分かるだろう。 |
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為了寫作者和檢查者的關系,使我間接的知道了檢查官,有時頗為佩服。他們的嗅覺是很靈敏的。我那一篇《從幫忙到扯淡》,原在指那些唱導什麼兒童年,婦女年,讀經救國,敬老正俗,中國本位文化,第三種人文藝等等的一大批政客豪商,文人學士,從已經不會幫忙,只能扯淡這方面看起來,確也應該禁止的,因為實在看得太明,說得太透。別人大約也和我一樣的佩服,所以早有文學家做了檢查官的風傳,致使蘇汶先生在一九三四年十二月七日的《大晚報》上發表了這樣的公開信: |
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一來就說作者得了不正當的錢是近來文壇上的老例,我被人傳說拿著盧布就有四五年之久,直到九一八以後,這才將盧布說取消,換上了「親日」的更加新鮮的罪狀。我是一向不「為愛護貴刊起見」的,所以從不寄一封辨正信。不料越來越濫,竟謠到蘇汶先生頭上去了,可見謠言多的地方,也是「有一利必有一弊」。但由我的經驗說起來,檢查官之「愛護」「第三種人」,卻似乎是真的,我去年所寫的文章,有兩篇冒犯了他們,一篇被刪掉(《病後雜談之餘》),一篇被禁止(《臉譜臆測》)了。也許還有類於這些的事,所以令人猜為「入××(照錄原文)會」了罷。這真應該「不勝憤慨」,沒有受慣奚落的作家,是無怪其然的。 |
全篇禁止されたものが二篇ある。一篇は「諷刺とは何か」で、文学社の『文学百題』のために書いたものだが、印刷に際して一つの「缺」の字に変わった。もう一篇は「幇忙から出鱈目へ」で、『文学論壇』のために書いたものだが、今に至るまで行方不明で「缺」の字すらない。 |
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然而在對於真的造謠,毫不為怪的社會裡,對於真的收賄,也就毫不為怪。如果收賄會受制裁的社會,也就要制裁妄造收賄的謠言的人們。所以用造謠來傷害作家的期刊,它只能作報銷,在實際上很少功效。 |
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其中的四篇,原是用日本文寫的,現在自己譯出,並且對於中國的讀者,還有應該說明的地方——一,《活中國的姿態》的序文裡,我在對於「支那通」加以譏刺,且說明日本人的喜歡結論,語意之間好像笑著他們的粗疏。然而這脾氣是也有長處的,他們的急於尋求結論,是因為急於實行的緣故,我們不應該笑一笑就完。 |
執筆者と検査者の関係のおかげで、私は間接的に検査官を知ることになり、時に大いに感服した。彼らの嗅覚は実に鋭敏だ。あの「幇忙から出鱈目へ」は、もともと児童年、婦女年、読経救国、敬老正俗、中国本位文化、第三種人文芸等々を唱導する一大群の政客豪商、文人学士を指し、すでに幇忙もできずただ出鱈目を言うしかなくなった側面から見れば、確かに禁止すべきものだ。あまりに明瞭に見え、あまりに透徹に語ったからだ。他の人もおそらく私と同様に感服したので、早くから文学家が検査官になったという風聞があり、蘇汶氏が一九三四年十二月七日の『大晩報』に公開信を発表するに至った。 |
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二,《在現代中國的孔夫子》是在六月號的《改造》雜誌上發表的,這時我們的「聖裔」,正在東京拜他們的祖宗,興高采烈。曾由亦光君譯出,載於《雜文》雜誌第二號(七月),現在略加改定,轉錄在這裡。 |
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三,在《中國小說史略》日譯本的序文裡,我聲明瞭我的高興,但還有一種原因卻未曾說出,是經十年之久,我竟報複了我個人的私仇。當一九二六年時,陳源即西瀅教授,曾在北京公開對於我的人身攻擊,說我的這一部著作,是竊取鹽谷溫教授的《支那文學概論講話》裡面的「小說」一部分的;《閒話》裡的所謂「整大本的剽竊」,指的也是我。現在鹽谷教授的書早有中譯,我的也有了日譯,兩國的讀者,有目共見,有誰指出我的「剽竊」來呢?嗚呼,「男盜女娼」,是人間大可恥事,我負了十年「剽竊」的惡名,現在總算可以卸下,並且將「謊狗」的旗子,回敬自稱「正人君子」的陳源教授,倘他無法洗刷,就只好插著生活,一直帶進墳墓裡去了。 |
来るや否や金を不当に得たと言うのは近年の文壇の常套であり、私がルーブルを受け取っているという噂は四五年も続いた。九一八事変の後、ルーブルの噂は取り消され、「親日」というもっと新鮮な罪状に換えられた。私は「貴刊の愛護のために」辨正の手紙を寄せることは一度もなかった。ところが噂はますます広まり、ついに蘇汶氏の頭上にまで及んだ。 |
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四,《關於陀思妥夫斯基的事》是應三笠書房之托而作的,是寫給讀者看的紹介文,但我在這裡,說明著被壓迫者對於壓迫者,不是奴隸,就是敵人,決不能成為朋友,所以彼此的道德,並不相同。 |
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臨末我還要記念鎌田誠一君,他是內山書店的店員,很愛繪畫,我的三回德俄木刻展覽會,都是他獨自佈置的;一二八的時候,則由他送我和我的家屬,以及別的一批婦孺逃入英租界。三三年七月,以病在故鄉去世,立在他的墓前的是我手寫的碑銘。雖在現在,一想到那時只是當作有趣的記載著我的被打被殺的新聞,以及為了八十塊錢,令我往返數次,終於不給的書店,我對於他,還是十分感愧的。 |
その中の四篇は元来日本語で書いたもので、今自ら訳出し、中国の読者のために説明すべき点がある。一、「活ける中国の姿態」の序文で、私は「支那通」を諷刺し、また日本人が結論を急ぐことを説明して、いくらか彼らの粗疏を笑っているように聞こえる。しかしこの気質には長所もあり、彼らが結論を急ぐのは実行を急ぐためであって、我々は笑って済ませてはならない。 |
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近兩年來,又時有前進的青年,好意的可惜我現在不大寫文學,並聲明他們的失望。我的只能令青年失望,是無可置辯的,但也有一點誤解。今天我自己查勘了一下:我從在《新青年》上寫《隨感錄》起,到寫這集子裡的最末一篇止,共歷十八年,單是雜感,約有八十萬字。後九年中的所寫,比前九年多兩倍;而這後九年中,近三年所寫的字數,等於前六年,那麼,所謂「現在不大寫文章」,其實也並非確切的核算。而且這些前進的青年,似乎誰都沒有注意到現在的對於言論的迫壓,也很是令人覺得詫異的。我以為要論作家的作品,必須兼想到周圍的情形。 |
二、「現代中国の孔夫子」は六月号の『改造』に発表したもので、この時我々の「聖裔」がちょうど東京で祖先を参拝し興高采烈であった。 |
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自然,這情形是極不容易明瞭的,因為倘一公開,作家要怕受難,書店就要防封門,然而如果自己和出版界有些相關,便可以感覺到這裡面的一部份消息。現在我們先來回憶一下已往的公開的事情。也許還有讀者記得,中華民國二十三年(一九三四年)三月十四日的《大美晚報》上,曾經登有一則這樣的新聞——中央黨部禁止新文藝作品滬市黨部於上月十九日奉中央黨部電令、派員挨戶至各新書店、查禁書籍至百四十九種之多、牽涉書店二十五家、其中有曾經市黨部審查准予發行、或內政部登記取得著作權、且有各作者之前期作品、如丁玲之《在黑暗中》等甚多、致引起上海出版業之恐慌、由新書業組織之中國著作人出版人聯合會集議,於二月二十五日推舉代表向市黨部請願結果、蒙市黨部俯允轉呈中央、將各書重行審查、從輕發落、同日接中央複電、允予照準、惟各書店於複審期內、須將被禁各書、一律自動封存、不再發賣、茲將各書店被禁書目、分錄如次、店名書名譯著者 |
三、『中国小説史略』日訳本の序文で私は喜びを表明したが、もう一つの理由は述べなかった——十年の歳月を経てついに個人の私怨を晴らしたことだ。一九二六年、陳源すなわち西瀅教授が北京で公然と私への人身攻撃を行い、この著作は鹽谷温教授の『支那文学概論講話』の「小説」の部分を剽窃したものだと言った。今や鹽谷教授の書にも中訳があり、私のものにも日訳がある。両国の読者が目にして、誰が「剽窃」を指摘したか。嗚呼、「男盗女娼」は人間の大恥、私は十年「剽窃」の悪名を負ったが、今ようやく下ろすことができ、「嘘つき犬」の旗を、自ら「正人君子」と称する陳源教授にお返しする。 |
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四、「ドストエフスキーに関する事」は三笠書房の依頼で書いた紹介文だが、ここで私は、被圧迫者にとって圧迫者に対しては、奴隷であるか敵であるかのどちらかで、決して朋友にはなれず、故に双方の道徳は異なると説明している。 |
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末尾に鎌田誠一君を記念したい。彼は内山書店の店員で絵画を愛し、私の三回の独露木刻展覧会はすべて彼が独りで布置した。一・二八の時には彼が私と家族および他の婦孺を英租界に送り届けてくれた。三三年七月、病にて故郷で逝去、その墓前に立つのは私の手書きの碑銘だ。 |
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近二年来、また時に前進的な青年が好意から、私が今あまり文学を書かないことを惜しみ、失望を表明する。私が青年を失望させるしかないのは弁護の余地がないが、いくらかの誤解もある。今日自ら調べてみた。『新青年』に「随感録」を書き始めてからこの集子の最後の一篇を書くまで共に十八年、雑感だけで約八十万字。後の九年の分量は前の九年の二倍、しかもこの後九年のうち近三年の字数は前六年に等しい。「今はあまり文章を書かない」というのは実は正確な計算ではない。しかもこれら前進的な青年は誰一人として、現在の言論への弾圧に注意を払っていないようで、甚だ訝しい。作家の作品を論ずるには、周囲の情形を併せて考えねばならないと思う。 |
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もちろんこの情形は極めて了解し難い。なぜなら公開すれば作家は受難を恐れ、書店は封門を防がねばならぬからだ。しかし自ら出版界と幾らか関わりがあれば、その消息の一部を感じ取ることができる。ここで既往の公開の事情を回顧しよう。おそらくまだ覚えている読者もいるだろうが、中華民国二十三年(一九三四年)三月十四日の『大美晩報』に、次のような報道が載った——中央党部が新文芸作品を禁止し、滬市党部が各新書店を訪ね百四十九種を査禁し、二十五の書店が牽涉されたという。 |
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出版界不過是借書籍以貿利的人們,只問銷路,不管內容,存心「反動」的是很少的,所以這請愿頗有了好結果,為「体恤商艱」起見,竟解禁了三十七种,應加刪改,才准發行的是二十二种,其余的還是「禁止」和「暫緩發售」。這中央的批答和改定的書目,見於《出版消息》第三十三期(四月一日出版)—— |
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中國國民党上海特別市執行委員會批答執字第一五九二號 |
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(呈為奉令禁毀大宗刊物附奉說明書懇請轉函中宣會重行審核從輕處置以恤商艱由) |
【以下、百四十九種の禁書リスト——郭沫若、魯迅、丁玲、茅盾、田漢、蒋光慈、馮雪峰、柔石、胡也頻、陳望道、錢杏村ら著者の作品が列挙される。出版界の請願の結果、三十七種が解禁、二十二種は削改後に発行許可、残りは引き続き「禁止」及び「暫緩発售」とされた。中国国民党上海特別市執行委員会による批答文も全文掲載される。】 |
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呈件均悉查此案業准 |
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中央宣傳委員會公函并決定辦法五項一、平林泰子集等三十种早經分別查禁有案應切實執行前令嚴予禁毀以絕流傳二、政治經濟學批判等三十种內容宣傳普羅文藝或挑撥階級斗爭或詆毀党國當局應予禁止發售三、浮士德与城等三十一种或系介紹普羅文學理論或系新俄作品或含有不正确意識者頗有宣傳反動嫌疑在剿匪嚴重時期內應暫禁發售四、創造十年等二十二种內容間有詞句不妥或一篇一段不妥應刪改或抽去后方准發售五、圣徒等三十七种或系戀愛小說或系革命以前作品內容均尚無礙對於此三十七种書籍之禁令准予暫緩執行用特分別開列各項書名單函達查照轉飭遵照等由合仰該書店等遵照中央決定各點并單開各种刊物分別繳毀停售具報毋再延誤是為至要件存此批 |
こうして大量の禁書事件はひとまず決着し、書店も口を閉じた。しかし困難な問題が残る。書店は新書や雑誌を陸続と印行せねばならず、故に永遠に扣留、査禁、ひいては封門の危険がある。やがて出版界にある風聞が流れた——ある雑誌編輯が、原稿をまず官庁に送り検査を経て許可を得てから付印するという献策をしたという。文字は決して「反動」にはならず、店主の血本も保全される。別の編輯たちも反対せず、提案は可決された。 |
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「附抄發各項書名單一份」 |
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中華民國二十三年三月二十日常務委員吳醒亞 |
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潘公展 |
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童行白 |
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先后查禁有案之書目(略) |
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這樣子,大批禁毀書籍的案件總算告一段落,書店也不再開口了。 |
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然而還剩著困難的問題:書店是不能不陸續印行新書和雜誌的,所以還是永遠有陸續被扣留,查禁,甚而至於封門的危險。這危險,首先於店主有虧,那就當然要有補救的辦法。不多久,出版界就有了一种風聞——真只是一种隱約的風聞—— |
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不知道何月何日,党官,店主和他的編輯,開了一個會議,討論善后的方法。著重的是在新的書籍雜誌出版,要怎樣才可以免於禁止。听說這時就有一位雜誌編輯先生某甲,獻議先將原稿送給官廳,待到經過檢查,得了許可,這才付印。文字固然決不會「反動」了,而店主的血本也得保全,真所謂公私兼利。別的編輯們好像也無人反對,這提議完全通過了。散出的時候,某甲之友也是編輯先生的某乙,很感動的向或一書店代表道:「他犧牲了個人,總算保全了一种雜誌!」 |
要するに、いつの間にか「中央図書雑誌審査委員会」が上海に出現し、出版物には「中宣会図書雑誌審委会審査証……字第……号」の一行が付されるようになった。削るべきは削り、改めるべきは改められ、発売の安全が保証された——もっとも完全に有効とは限らず、たとえば私の『二心集』の削り残しを書店が『拾零集』と改名して検査を経たが、杭州ではなお没収された。 |
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「他」者,某甲先生也;推某乙先生的意思,大約是以為這种獻策,頗於名譽有些損害的。其實這不過是神經衰弱的憂慮。即使沒有某甲先生的獻策,檢查書報是總要實行的,不過用了別一种緣由來開始,況且這獻策在當時,人們不敢縱談,報章不敢記載,大家都認某甲先生為功臣,於是也就是虎須,誰也不敢捋。所以至多不過交頭接耳,局外人知道的就很少,——於名譽無關。 |
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總而言之,不知何年何月,「中央圖書雜誌審查委員會」到底在上海出現了,於是每本出版物上,就有了一行「中宣會圖書雜誌審委會審查證……字第……號」字樣,說明著該抽去的已經抽去,該刪改的已經刪改,并且保證著發賣的安全——不過也并不完全有效,例如我那《二心集》被刪剩的東西,書店改名《拾零集》,是經過檢查的,但在杭州仍被沒收。這种亂七八遭,自然是普通現象,并不足怪,但我想,也許是還帶著一點私仇,因為杭州省党部的有力人物,久已是复旦大學畢業生許紹棣老爺之流,而當《語絲》登載攻擊复旦大學的來函時,我正是編輯,開罪不少。為了自由大同盟而呈請中央通緝「墮落文人魯迅」,也是浙江省党部發起的,但至今還沒有呈請發掘祖墳,總算党恩高厚。 |
審査は大いに意気揚々と行われ、報道によれば官民一致の満足を得たという。ところが『新生』の「閑話皇帝」事件が起きた。日本領事の警告を受けてであろう、その雷厲風行ぶりは「反動文字」に対するそれをも超えた。該報は発売禁止、該社は封門、編輯者杜重遠は判決を受け、さらに七名の審査官が免職された。出版家も孤苦零丁の様子を見せ、この「一秉大公」の審査委員会は消えてしまい、原稿を持っても行くところがなくなった。 |
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至於審查員,我疑心很有些「文學家」,倘不,就不能做得這么令人佩服。自然,有時也刪禁得令人莫名其妙,我以為這大概是在示威,示威的脾气,是雖是文學家也很難脫体的,而且這也不算是惡德。還有一個原因,則恐怕是在飯碗。要吃飯也決不能算是惡德,但吃飯,審查的文學家和被審查的文學家卻一樣的艱難,他們也有競爭者,在看漏洞,一不小心便會被搶去了飯碗,所以必須常常有成績,就是不斷的禁,刪,禁,刪,第三個禁,刪。我初到上海的時候,曾經看見一個西洋人從旅館里出來,几輛洋車便向他飛奔而去,他坐了一輛,走了。這時忽然來了一位巡捕,便向拉不到客的車夫的頭上敲了一棒,撕下他車上的照會。我知道這是車夫犯了罪的意思,然而不明白為什么拉不到客就犯了罪,因為西洋人只有一個,當然只能坐一輛,他也并沒有爭。后來幸蒙一位老上海告訴我,說巡捕是每月總得捉多少犯人的,要不然,就算他懶惰,於飯碗頗有礙。真犯罪的不易得,就只好這么創作了。我以為審查官的有時審得古里古怪,總要在稿子上打几條紅杠子,恐怕也是這緣故。倘使真的這樣,那么,他們雖然一定要把我的「契訶夫選集」做成「殘山剩水」,我也還是諒解的。 |
ではようやく自由が戻り、悠然としたか。そうではない。この委員会がなかった頃、出版家にはまだ幾らか自分の脊梁があったが、委員会ができた後にそれが消えると、本当にふらふらし始めた。しかも単に「頼りを失った」のではなく、献策以前の状態——扣留、査禁、封門——に戻ったのだ。「反動文字」への恐怖に加えて「敦睦邦交令」違反の恐怖も増えた。すでに「訓」じられて軟骨症となった出版界に、さらに一つの重荷が加わったのだ。 故に現在の書報は、もし事前に接洽して特別に激昂を許されたのでなければ、ひたすら曖昧に過なきを求めるしかなく、それ以外はやはり以前と同じ危険——木棍で打たれ照会を引き剥がされる——がある。 |
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這審查辦得很起勁,据報上說,官民一致滿意了。九月二十五日的《中華日報》云——中央圖書雜誌審查委會工作緊張中央圖書雜誌審查委員會、自在滬成立以來、迄今四閱月、審查各种雜誌書籍、共計有五百余种之多、平均每日每一工作人員審查字、在十万以上、審查手續、异常迅速、雖洋洋巨著、至多不過二天、故出版界咸認為有意想不到之快、予以便利不少、至該會審查標准、如非對党對政府絕對顯明不利之文字、請其刪改外、余均一秉大公、無私毫偏袒、故數月來相安無事、過去出版界、因無審查机關、往往出書以后、受到扣留或查禁之事、自審查會成立后、此种事件、已不再發生矣、聞中央方面、以該會工作成績优良、而出版界又甚需要此种組織、有增加內部工作人員計划、以便利審查工作云、如此善政,行了還不到一年,不料竟出了《新生》的《閒話皇帝》事件。大約是受了日本領事的警告罷,那雷厲風行的辦法,比對於「反動文字」還要嚴:立刻該報禁售,該社封門,編輯者杜重遠已經自認該稿未經審查,判處徒刑,不准上訴的了,卻又革掉了七位審查官,一面又往書店里大搜涉及日本的舊書,牆壁上貼滿了「敦睦邦交」的告示。出版家也顯出孤苦零丁模樣,据說:這「一秉大公」的「中央宣傳部圖書雜誌審查委員會」不見了,拿了稿子,竟走投無路。 |
評論者がもし以上の大略を了解しなければ、近三年来の文壇を批評することはできない。批評しても的を射ることは難しい。 |
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那么,不是還我自由,飄飄然了么?并不是的。未有此會以前,出版家倒還有一點自己的脊梁,但已有此會而不見之后,卻真覺得有些搖搖擺擺。大抵的農民,都能夠自己過活,然而奧國和俄國解放農奴時,他們中的有些人,卻哭起來了,因為失了依靠,不知道自己怎么過活。況且我們的出版家并非單是「失了依靠」,乃是遇到恢复了某甲先生獻策以前的狀態,又會扣留,查禁,封門,危險得很。而且除怕被指為「反動文字」以外,又得怕違反「敦睦邦交令」了。已被「訓」成軟骨症的出版界,又加上了一副重擔,當局對於內交,又未必肯怎么「敦睦」,而「禮讓為國」,也急於「体恤商艱」,所以我想,自有「審查會」而又不見之后,出版界的一大部份,倒真的成了孤哀子了。 |
私はこの一年間、日報に投稿していない。発表したものは自ずと曖昧なものが多い。これは枷鎖を帯びての踊りであり、もちろんただ笑いを誘うだけだ。しかし私にとっては一つの記念であり、一年が終わり、過ぎ去ったものを存する。長短合わせて四十七篇。 |
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所以現在的書報,倘不是先行接洽,特准激昂,就只好一味含胡,但求無過,除此之外,是依然會有先前一樣的危險,挨到木棍,撕去照會的。 |
一九三五年十二月三十一日の夜半から一月一日の朝にかけて、書き終わる。 |
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評論者倘不了解以上的大略,就不能批評近三年來的文壇。即使批評了,也很難中肯。 |
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我在這一年中,日報上并沒有投稿。凡是發表的,自然是含胡的居多。這是帶著枷鎖的跳舞,當然只足發笑的。但在我自己,卻是一個紀念,一年完了,過而存之,長長短短,共四十七篇。 |
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一九三五年十二月三十一夜半至一月一日晨,寫訖。 |