Lu Xun Complete Works/zh-ja/Huagaiji

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华盖集 / 華蓋集

魯迅 (鲁迅, ルーシュン, 1881-1936)

中日対照翻訳。


第1節

中文 日本語

【鲁迅全集•第三卷】

【魯迅全集・第三巻】

华盖集

题记

——一九二五年——

咬文嚼字(一至二)

華蓋集

青年必读书

忽然想到(一至四)

題記

通讯

论辩的魂灵

牺牲谟

战士和苍蝇

夏三虫

——一九二五年——

忽然想到(五至六)

杂感

北京通信

导师

咬文嚼字(一より二まで)

长城

忽然想到(七至九)

“碰壁”之后

青年必読書

并非闲话

我的“籍”和“系”

咬文嚼字(三)

忽然想到(一より四まで)

忽然想到(十至十一)

补白

答KS君

通信

“碰壁”之余

并非闲话(二)

十四年的“读经”

論弁の魂霊

评心雕龙

这个与那个

并非闲话(三)

犠牲謨

我观北大

碎话

“公理”的把戏

这回是“多数”的把戏

戦士と蠅

后记

华盖集续编

小引

——一九二六年——

夏の三虫

杂论管闲事·做学问·灰色等

忽然想到(五より六まで)

有趣的消息

学界的三魂

古书与白话

一点比喻

雑感

不是信

我还不能“带住”

送灶日漫笔

北京通信

谈皇帝

无花的蔷薇

无花的蔷薇之二

“死地”

導師

可惨与可笑

记念刘和珍君

空谈

如此“讨赤”

長城

无花的蔷薇之三

新的蔷薇

再来一次

忽然想到(七より九まで)

为半农题记“何典”后,作

马上日记

马上支日记

「壁にぶつかった」後

马上日记之二

记“发薪”

记谈话

閑話にあらず

上海通信

华盖集续编的续编

厦门通信

厦门通信(二)

我が「籍」と「系」

阿Q正传的成因

关于“三藏取经记”等

咬文嚼字(三)

所谓“思想界先驱者”鲁迅启事

忽然想到(十より十一まで)

厦门通信(三)

海上通信

而已集

题辞

——一九二七年——

補白

黄花节的杂感

略论中国人的脸

KS君に答う

革命时代的文学

写在“劳动问题”之前

「壁にぶつかった」余り

略谈香港

读书杂谈

通信

答有恒先生

辞“大义”

閑話にあらず(二)

反“漫谈”

忧“天乳”

革“首领”

十四年の「読経」

谈“激烈”

扣丝杂感

“公理”之所在

可恶罪

評心雕龍

“意表之外”

新时代的放债法

魏晋风度及文章与药及酒之关系

これとあれ

小杂感

再谈香港

閑話にあらず(三)

革命文学

“尘影”题辞

当陶元庆君的绘画展览时

北大を観る

卢梭和胃口

文学和出汗

文艺和革命

砕話

谈所谓“大内档案”

拟豫言

附录

大衍发微

「公理」の手品

【华盖集续编】

【小引】

还不满一整年,所写的杂感的分量,已有去年一年的那么多了。秋来住在海边,目前只见云水,听到的多是风涛声,几乎和社会隔绝。如果环境没有改变,大概今年不见得再有什么废话了罢。灯下无事,便将旧稿编集起来;还豫备付印,以供给要看我的杂感的主顾们。

今度は「多数」の手品

後記

華蓋集続編

小引

——一九二六年——

雑論 管閑事・做学問・灰色等

面白い消息

这里面所讲的仍然并没有宇宙的奥义和人生的真谛。不过是,将我所遇到的,所想到的,所要说的,一任它怎样浅薄,怎样偏激,有时便都用笔写了下来。说得自夸一点,就如悲喜时节的歌哭一般,那时无非借此来释愤抒情,现在更不想和谁去抢夺所谓公理或正义。你要那样,我偏要这样是有的;偏不遵命,偏不磕头是有的;偏要在庄严高尚的假面上拨它一拨也是有的,此外却毫无什么大举。名副其实,“杂感”而已。

学界の三魂

古書と白話

一つの比喩

手紙にあらず

我まだ「手綱を引く」能わず

竈送り日漫筆

皇帝を談ず

花なき薔薇

花なき薔薇の二

「死地」

从一月以来的,大略都在内了;只删去了一篇。那是因为其中开列着许多人,未曾,也不易遍征同意,所以不好擅自发表。

惨むべきと笑うべき

劉和珍君を記念す

空談

书名呢?年月是改了,情形却依旧,就还叫《华盖集》。然而年月究竟是改了,因此只得添上两个字:“续编”。

かくの如き「討赤」

花なき薔薇の三

新しき薔薇

一九二六年十月十四日,鲁迅记于厦门。

もう一度

【附录】

【大衍发微】

半農のために「何典」に題記した後に作る

三月十八日段祺瑞、贾德耀、章士钊们使卫兵枪杀民众,通缉五个所谓“暴徒首领”之后,报上还流传着一张他们想要第二批通缉的名单。对于这名单的编纂者,我现在并不想研究。但将这一批人的籍贯、职务调查开列起来,却觉得取舍是颇为巧妙的。先开前六名,但所任的职务,因为我见闻有限,所以也许有遗漏:

馬上日記

馬上支日記

馬上日記の二

「発薪」を記す

談話を記す

上海通信

華蓋集続編の続編

一 徐谦(安徽)俄国退还庚子赔款委员会委员,中俄大学校长,广东外交团代表主席。

廈門通信

廈門通信(二)

阿Q正伝の成因

二 李大钊(直隶)国立北京大学教授、校长室秘书。

「三蔵取経記」等に関して

三 吴敬恒(江苏)清室善后委员会监理。

いわゆる「思想界の先駆者」魯迅啓事

四 李煜瀛(直隶)俄款委员会委员长,清室善后委员会委员长,中法大学代理校长,北大教授。

廈門通信(三)

海上通信

五 易培基(湖南)前教育总长,现国立北京女子师范大学校长。

而已集

題辞

六 顾兆熊(直隶)俄款委员会委员,北大教务长,北京教育会

——一九二七年——

黄花節の雑感

会长。

四月九日《京报》云:“姓名上尚有圈点等符号,其意不明。……徐、李等五人名上各有三圈,吴稚晖虽列名第三,而仅一点。余或两圈一圈或一点,不记其详。”于是就有人推测,以为吴老先生之所以仅有一点者,因章士钊还想引以为重,以及别的原因云云。案此皆未经开列职务,以及未见陈源《闲话》之故也。只要一看上文,便知道圈点之别,不过表明“差缺”之是否“优美”。监理是点查物件的监督者,又没有什么薪水,所以只配一点;而别人之“差缺”则大矣,自然值得三圈。“不记其详”的余人,依此类推,大约即不至于有大错。将冠冕堂皇的“整顿学风”的盛举,只作如是观,虽然太煞风景,对不住“正人君子”们,然而我的眼光这样,也就无法可想。再写下去罢,计开:

略論中国人の顔

革命時代の文学

「労働問題」の前に書く

略談香港

読書雑談

通信

有恒先生に答う

「大義」を辞す

反「漫談」

「天乳」を憂う

「首領」を革む

「激烈」を談ず

扣絲雑感

「公理」の所在

可悪罪

「意表の外」

新時代の貸付法

七 陈友仁(广东)前《民报》英文记者,现《国民新报》英文

魏晋の風度及び文章と薬及び酒との関係

记者。

小雑感

八 陈启修(四川)中俄大学教务长,北大教授,女师大教授,《国民新报副刊》编辑。

再び香港を談ず

革命文学

九 朱家骅(浙江)北大教授。

「塵影」題辞

十 蒋梦麟(浙江)北大教授,代理校长。

陶元慶君の絵画展覧会に際して

十一 马裕藻(浙江)北大国文系主任,师大教授,前女师大总务长现教授。

ルソーと胃袋

文学と発汗

十二 许寿裳(浙江)教育部编审员,前女师大教务长现教授。

文芸と革命

十三 沈兼士(浙江)北大国文系教授,清室善后委员会委员,女师大教授。

いわゆる「大内档案」を談ず

擬豫言

十四 陈垣(广东)前教育次长,现清室善后委员会委员,北大

附録

大衍発微

导师。

十五 马叙伦(浙江)前教育次长,教育特税督办,现国立师范大学教授,北大讲师。

【華蓋集続編】

【小引】

十六 邵振青(浙江)《京报》总编辑。

まだ一年に満たぬのに、書いた雑感の分量はすでに昨年一年分ほどになった。秋来、海辺に住み、目の前にはただ雲と水が広がり、聞こえるのは多くは風と波の音で、ほとんど社会から隔絶されている。もし環境が変わらなければ、おそらく今年はもう何の無駄話もないであろう。灯下に無事なので、旧稿を編集し、さらに印刷に付す準備をし、私の雑感を読みたいお客様方に供しようとするものである。

十七 林玉堂(福建)北大英文系教授,女师大教务长,《国民新报》英文部编辑,《语丝》撰稿者。

ここに述べられているのはやはり宇宙の奥義でも人生の真諦でもない。ただ、私が遭遇したこと、考えたこと、言いたいことを、それがどれほど浅薄であれ偏激であれ、時に筆を取って書き留めたに過ぎない。少し自惚れて言えば、悲喜の折の歌や泣きのようなもので、その時はただこれによって憤りを解き情を述べたのであり、今さら誰と公理や正義を争おうとは思わない。お前がそうなら、俺は敢えてこうする、ということはある。命に従わず、叩頭せず、ということもある。荘厳高尚な仮面をちょいと引っ掻くこともある。それ以外には何の大事もない。名に副うて、「雑感」のみ。

一月以来のものは、おおよそすべて収めた。ただ一篇だけ削除した。それはその中に多くの人名が列挙されており、いまだ、また容易に一人一人の同意を得ることもできなかったので、勝手に発表するわけにはいかなかったからである。

十八 萧子升(湖南)前《民报》编辑,教育部秘书,《猛进》撰

書名は?年月は改まったが、状況は依然として変わらないから、やはり『華蓋集』と呼ぶ。しかし年月はやはり改まったのだから、やむを得ず二文字を加える。「続編」と。

一九二六年十月十四日、魯迅、廈門にて記す。

稿者。

十九 李玄伯(直隶)北大法文系教授,《猛进》撰稿者。

【附録】

【大衍発微】

二十 徐炳昶(河南)北大哲学系教授,女师大教授,《猛进》撰

三月十八日、段祺瑞・賈徳耀・章士釗らが衛兵をして民衆を射殺せしめ、五人のいわゆる「暴徒首領」を通緝した後、新聞にはなお彼らが第二批として通緝しようとする名簿が流布していた。この名簿の編纂者については、私は今のところ研究するつもりはない。しかしこの一群の人々の出身地・職務を調査して列挙してみると、取捨がなかなか巧妙であることが分かる。まず前六名を挙げる。ただし就いている職務については、私の見聞に限りがあるので、遺漏があるかもしれない。

稿者。

二十一 周树人(浙江)教育部佥事,女师大教授,北大国文系讲师,中国大学讲师,《国副》编辑,《莽原》编辑,《语丝》撰稿者。

一 徐謙(安徽)ロシア返還庚子賠償金委員会委員、中露大学学長、広東外交団代表主席。

二 李大釗(直隷)国立北京大学教授、学長室秘書。

三 呉敬恒(江蘇)清室善後委員会監理。

四 李煜瀛(直隷)露款委員会委員長、清室善後委員会委員長、中仏大学代理学長、北大教授。

二十二 周作人(浙江)北大国文系教授,女师大教授,燕京大学副教授,《语丝》撰稿者。

五 易培基(湖南)前教育総長、現国立北京女子師範大学学長。

六 顧兆熊(直隷)露款委員会委員、北大教務長、北京教育会会長。

二十三 张凤举(江西)北大国文系教授,女师大讲师,《国副》编辑,《猛进》及《语丝》撰稿者。

四月九日『京報』に曰く、「姓名の上になお圏点等の符号があり、その意味は不明。……徐・李等五人の名の上にはそれぞれ三つの丸があり、呉稚暉は第三位に列名されているものの、わずか一つの点のみ。その他は二つの丸、一つの丸、あるいは一つの点で、詳しくは記さず」と。そこで推測する者が出て、呉老先生が一点に過ぎないのは、章士釗がまだ重用しようと考えているため、及びその他の理由であろう云々と。案ずるに、これらはいずれも職務を列挙せず、かつ陳源の『閑話』を見ていないがゆえの推測である。上の記述を一見すれば、圏と点の違いは「差缺」(ポスト)が「優美」であるかどうかを示すに過ぎないと分かる。監理は物品を点検する監督者であり、しかも給料もないのだから、一点で十分である。他の人々の「差缺」は大きいから、当然三つの丸に値する。「詳しくは記さず」のその他の人々も、これに準じて推せば、大きな間違いはなかろう。冠冕堂々たる「学風整頓」の盛挙を、ただこのように見るのは、まことに風景を殺ぐことであり、「正人君子」諸氏に申し訳ないが、しかし私の眼はこのようであるから、どうしようもない。さらに書き続けよう。計開:

七 陳友仁(広東)前『民報』英文記者、現『国民新報』英文記者。

八 陳啓修(四川)中露大学教務長、北大教授、女師大教授、『国民新報副刊』編集。

二十四 陈大齐(浙江)北大哲学系教授,女师大教授。

九 朱家驊(浙江)北大教授。

二十五 丁维汾(山东)国民党。

十 蒋夢麟(浙江)北大教授、代理学長。

二十六 王法勤(直隶)国民党,议员。

十一 馬裕藻(浙江)北大国文系主任、師大教授、前女師大総務長・現教授。

二十七 刘清扬(直隶)国民党妇女部长。

十二 許寿裳(浙江)教育部編審員、前女師大教務長・現教授。

二十八 潘廷干

二十九 高鲁(福建)中央观象台长,北大讲师。

十三 沈兼士(浙江)北大国文系教授、清室善後委員会委員、女師大教授。

十四 陳垣(広東)前教育次長、現清室善後委員会委員、北大導師。

三 十 谭熙鸿(江苏)北大教授,《猛进》撰稿者。

十五 馬叙倫(浙江)前教育次長、教育特税督弁、現国立師範大学教授、北大講師。

三十一 陈彬和(江苏)前平民中学教务长,前天津南开学校总务长,现中俄大学总务长。

十六 邵振青(浙江)『京報』総編集。

十七 林玉堂(福建)北大英文系教授、女師大教務長、『国民新報』英文部編集、『語絲』執筆者。

三十二 孙伏园(浙江)北大讲师,《京报副刊》编辑。

十八 蕭子升(湖南)前『民報』編集、教育部秘書、『猛進』執筆者。

十九 李玄伯(直隷)北大法文系教授、『猛進』執筆者。

三十三 高一涵(安徽)北大教授,中大教授,《现代评论》撰稿者。

二十 徐炳昶(河南)北大哲学系教授、女師大教授、『猛進』執筆者。

三十四 李书华(直隶)北大教授,《猛进》撰稿者。

二十一 周樹人(浙江)教育部僉事、女師大教授、北大国文系講師、中国大学講師、『国副』編集、『莽原』編集、『語絲』執筆者。

二十二 周作人(浙江)北大国文系教授、女師大教授、燕京大学副教授、『語絲』執筆者。

三十五 徐宝璜(江西)北大教授,《猛进》撰稿者。

二十三 張鳳挙(江西)北大国文系教授、女師大講師、『国副』編集、『猛進』及び『語絲』執筆者。

三十六 李麟玉(直隶)北大教授,《猛进》撰稿者。

二十四 陳大斉(浙江)北大哲学系教授、女師大教授。

三十七 成平(湖南)《世界日报》及《晚报》总编辑,女师大讲师。

二十五 丁維汾(山東)国民党。

二十六 王法勤(直隷)国民党、議員。

三十八 潘蕴巢(江苏)《益世报》记者。

二十七 劉清揚(直隷)国民党婦女部長。

三十九 罗敦伟(湖南)《国民晚报》记者。

二十八 潘廷幹

四 十 邓飞黄(湖南)《国民新报》总编辑。

二十九 高魯(福建)中央観象台長、北大講師。

四十一 彭齐群(吉林)中央观象台科长,《猛进》撰稿者。

三十 譚熙鴻(江蘇)北大教授、『猛進』執筆者。

三十一 陳彬和(江蘇)前平民中学教務長、前天津南開学校総務長、現中露大学総務長。

四十二 徐巽(安徽)中俄大学校务委员会委员长。

三十二 孫伏園(浙江)北大講師、『京報副刊』編集。

四十三 高穰(福建)律师,曾担任女师大学生控告章士钊、刘百

三十三 高一涵(安徽)北大教授、中大教授、『現代評論』執筆者。

三十四 李書華(直隷)北大教授、『猛進』執筆者。

昭事。

四十四 梁鼎

四十五 张平江(四川)女师大学生。

三十五 徐宝璜(江西)北大教授、『猛進』執筆者。

四十六 姜绍谟(浙江)前教育部秘书。

三十六 李麟玉(直隷)北大教授、『猛進』執筆者。

四十七 郭春涛(河南)北大学生。

三十七 成平(湖南)『世界日報』及び『晩報』総編集、女師大講師。

四十八 纪人庆(云南)大中公学教员。

三十八 潘蘊巣(江蘇)『益世報』記者。

以上只有四十八人,五十缺二,不知是失抄,还是像九六的制钱似的,这就算是足串了。至于职务,除遗漏外,怕又有错误,并且有几位是为我所一时无从查考的。但即此已经足够了,早可以看出许多秘密来——

三十九 羅敦偉(湖南)『国民晩報』記者。

四十 鄧飛黄(湖南)『国民新報』総編集。

四十一 彭斉群(吉林)中央観象台科長、『猛進』執筆者。

四十二 徐巽(安徽)中露大学校務委員会委員長。

四十三 高穰(福建)弁護士、かつて女師大学生の章士釗・劉百昭告訴を担当。

甲,改组两个机关。

四十四 梁鼎

1.俄国退还庚子赔款委员会。

四十五 張平江(四川)女師大学生。

2.清室善后委员会。

乙,“扫除”三个半学校:

四十六 姜紹謨(浙江)前教育部秘書。

1.中俄大学;

2.中法大学;

四十七 郭春濤(河南)北大学生。

3.女子师范大学;

4.北京大学之一部分。

四十八 紀人慶(雲南)大中公学教員。

丙,扑灭四种报章:

1.《京报》;

以上わずか四十八人、五十に二つ足りない。書き漏らしか、それとも九六の制銭のように、これで足一串としたのか分からない。職務については、遺漏のほかに誤りもあろうし、また数名は私には一時調べようのなかった者もいる。しかしこれだけですでに十分であり、とうに多くの秘密が見て取れる——

2.《世界日报》及《晚报》;

3.《国民新报》;

甲、二つの機関を改組する。

4.《国民晚报》。

丁,“逼死”两种副刊:

1. ロシア返還庚子賠償金委員会。

1.《京报副刊》;

2. 清室善後委員会。

2.《国民新报副刊》。

戊,妨害三种期刊:

乙、三つ半の学校を「掃除」する。

1.《猛进》;

2.《语丝》;

1. 中露大学。

3.《莽原》。

“孤桐先生”是“正人君子”一流人,“党同伐异”怕是不至于的,“睚眦之怨”或者也未必报。但是赵子昂的画马,岂不是据说先对着镜子,摹仿形态的么?据上面的镜子,从我的眼睛,还可以看见一些额外的

2. 中仏大学。

3. 女子師範大学。

4. 北京大学の一部分。

丙、四種の新聞を撲滅する。

1.『京報』。

形态——

1.连替女师大学生控告章士钊的律师都要获罪,上面已经说过了。

2.『世界日報』及び『晩報』。

3.『国民新報』。

2.陈源“流言”中的所谓“某籍”,有十二人,占全数四分之一。

4.『国民晩報』。

丁、二種の副刊を「逼死」する。

3.陈源“流言”中的所谓“某系”(案盖指北大国文系也),计有

1.『京報副刊』。

五人。

2.『国民新報副刊』。

4.曾经发表反章士钊宣言的北大评议员十七人,有十四人在内。

戊、三種の期刊を妨害する。

5.曾经发表反杨荫榆宣言的女师大教员七人,有三人在内,皆

1.『猛進』。

2.『語絲』。

“某籍”。

这通缉如果实行,我是想要逃到东交民巷或天津去的;能不能自然是别一问题。这种举动虽将为“正人君子”所冷笑,但我却不愿意为要博得这些东西的夸奖,便到“孤桐先生”的麾下去投案。但这且待后来再说,因为近几天是“孤桐先生”也如“政客,富人,和革命猛进者及民众的首领”一般,“安居在东交民巷里”了。

3.『莽原』。

「孤桐先生」は「正人君子」の一流の人であるから、「党同伐異」(同類を庇い異類を討つ)はまさかなさるまいし、「睚眦の怨み」も必ずしも報いはしまい。しかし趙子昂の馬の絵は、鏡に向かって姿態を模写したと言われるではないか。上の鏡によって、私の目から、なおいくらかの余分の形態を見ることができる——

1. 女師大学生のために章士釗を告訴した弁護士までも罪を得ることは、上にすでに述べた。

2. 陳源の「流言」にいう「某籍」は十二人、全数の四分の一を占める。

3. 陳源の「流言」にいう「某系」(案ずるに北大国文系を指すものなり)は計五人。

4. かつて反章士釗宣言を発表した北大評議員十七人中、十四人がここに含まれる。

5. かつて反楊蔭楡宣言を発表した女師大教員七人中、三人がここに含まれ、いずれも「某籍」である。

この通緝がもし実行されたなら、私は東交民巷か天津に逃げようと思う。できるかどうかはもちろん別の問題である。このような行動は「正人君子」に冷笑されるであろうが、私はこれらの輩の称讃を得んがために、「孤桐先生」の旗の下に出頭するつもりはない。しかしこれは後日のこととしよう。なぜならここ数日は「孤桐先生」もまた「政客、富人、及び革命猛進者や民衆の首領」と同様に、「東交民巷に安居」しているのだから。

第2節

中文 日本語

【小引】

【小引】

还不满一整年,所写的杂感的分量,已有去年一年的那么多了。秋来住在海边,目前只见云水,听到的多是风涛声,几乎和社会隔绝。如果环境没有改变,大概今年不见得再有什么废话了罢。灯下无事,便将旧稿编集起来;还豫备付印,以供给要看我的杂感的主顾们。

まだ一年に満たぬのに、書いた雑感の分量はすでに昨年一年分ほどになった。秋来、海辺に住み、目の前にはただ雲と水が広がり、聞こえるのは多くは風と波の音で、ほとんど社会から隔絶されている。もし環境が変わらなければ、おそらく今年はもう何の無駄話もないであろう。灯下に無事なので、旧稿を編集し、さらに印刷に付す準備をし、私の雑感を読みたいお客様方に供しようとするものである。

这里面所讲的仍然并没有宇宙的奥义和人生的真谛。不过是,将我所遇到的,所想到的,所要说的,一任它怎样浅薄,怎样偏激,有时便都用笔写了下来。说得自夸一点,就如悲喜时节的歌哭一般,那时无非借此来释愤抒情,现在更不想和谁去抢夺所谓公理或正义。你要那样,我偏要这样是有的;偏不遵命,偏不磕头是有的;偏要在庄严高尚的假面上拨它一拨也是有的,此外却毫无什么大举。名副其实,“杂感”而已。

ここに述べられているのはやはり宇宙の奥義でも人生の真諦でもない。ただ、私が遭遇したこと、考えたこと、言いたいことを、それがどれほど浅薄であれ偏激であれ、時に筆を取って書き留めたに過ぎない。少し自惚れて言えば、悲喜の折の歌や泣きのようなもので、その時はただこれによって憤りを解き情を述べたのであり、今さら誰と公理や正義を争おうとは思わない。お前がそうなら、俺は敢えてこうする、ということはある。命に従わず、叩頭せず、ということもある。荘厳高尚な仮面をちょいと引っ掻くこともある。それ以外には何の大事もない。名に副うて、「雑感」のみ。

从一月以来的,大略都在内了;只删去了一篇。那是因为其中开列着许多人,未曾,也不易遍征同意,所以不好擅自发表。

一月以来のものは、おおよそすべて収めた。ただ一篇だけ削除した。それはその中に多くの人名が列挙されており、いまだ、また容易に一人一人の同意を得ることもできなかったので、勝手に発表するわけにはいかなかったからである。

书名呢?年月是改了,情形却依旧,就还叫《华盖集》。然而年月究竟是改了,因此只得添上两个字:“续编”。

書名は?年月は改まったが、状況は依然として変わらないから、やはり『華蓋集』と呼ぶ。しかし年月はやはり改まったのだから、やむを得ず二文字を加える。「続編」と。

一九二六年十月十四日,鲁迅记于厦门。

一九二六年十月十四日、魯迅、廈門にて記す。

第3節

中文 日本語

【一九二六年】

【一九二六年】

第4節

中文 日本語

【杂论管闲事·做学问·灰色等】

【雑論 管閑事・做学問・灰色等】

1

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听说从今年起,陈源(即西滢)教授要不管闲事了;这豫言就见于《现代评论》五十六期的《闲话》里。惭愧我没有拜读这一期,因此也不知其详。要是确的呢,那么,除了用那照例的客套说声“可惜”之外,真的倒实在很诧异自己之胡涂:年纪这么大了,竟不知道阳历的十二月三十一日和一月一日之交在别人是可以发生这样的大变动。我近来对于年关颇有些神经过钝了,全不觉得怎样。其实,倘要觉得罢,可是也不胜其觉得。大家挂上五色旗,大街上搭起几坐彩坊,中间还有四个字道:“普天同庆”,据说这算是过年。大家关了门,贴上门神,爆竹毕剥砰的放起来,据说这也是过年。要是言行真跟着过年为转移,怕要转移不迭,势必至于成为转圈子。所以,神经过钝虽然有落伍之虑,但有弊必有利,却也很占一点小小的便宜的。

聞くところでは今年から、陳源(すなわち西瀅)教授は閑事に関わらぬことにしたという。この予言は『現代評論』第五十六期の「閑話」に見える。恥ずかしながら私はこの号を拝読していないので、詳しいことは分からない。もし本当であるなら、あの型通りの社交辞令で「惜しいことだ」と一言述べるほか、実のところ自分の愚鈍さにまことに驚くのである。こんな年になっても、陽暦の十二月三十一日と一月一日の境目が、他人にとってはこのような大変動を生じ得るものだとは知らなかった。私は近頃、年の瀬に対していささか神経が鈍くなり、何とも感じない。実のところ、感じようとすれば、感じることが多すぎて堪えられない。皆が五色旗を掲げ、大通りに幾つかのアーチを立て、真ん中に四文字「普天同慶」と書いてある。これが正月だという。皆が門を閉め、門神を貼り、爆竹がパチパチバンバン鳴る。これもまた正月だという。もし言行が本当に正月を境に転換するなら、転換が間に合わず、ぐるぐる回るだけになりかねまい。だから神経が鈍いのは時代遅れの虞はあるが、弊あれば必ず利あり、いくらかの小さな得もあるのだ。

但是,还有些事我终于想不明白:即如天下有闲事,有人管闲事之类。我现在觉得世上是仿佛没有所谓闲事的,有人来管,便都和自己有点关系;即便是爱人类,也因为自己是人。假使我们知道了火星里张龙和赵虎打架,便即大有作为,请酒开会,维持张龙,或否认赵虎,那自然是颇近于管闲事了。然而火星上事,既然能够“知道”,则至少必须已经可以通信,关系也密切起来,算不得闲事了。因为既能通信,也许将来就能交通,他们终于会在我们的头顶上打架。至于咱们地球之上,即无论那一处,事事都和我们相关,然而竟不管者,或因不知道,或因管不着,非以其“闲”也。譬如英国有刘千昭雇了爱尔兰老妈子在伦敦拉出女生,在我们是闲事似的罢,其实并不,也会影响到我们这里来。留学生不是多多,多多了么?倘有合宜之处,就要引以为例,正如在文学上的引用什么莎士比亚呀,塞文狄斯呀,芮恩施呀一般。

しかし、なおいくつか私にはどうしても分からないことがある。すなわち天下に閑事があるとか、人が閑事に関わるとかいう類のことだ。私には今、世の中にいわゆる閑事などないように思える。人が関わればすべて自分と何かしら関係がある。人類を愛するのも、自分が人間だからだ。もし我々が火星で張竜と趙虎が喧嘩していると知って、大いに活躍し、宴会を開き、張竜を支持したり趙虎を否認したりすれば、それはたしかに閑事に関わるに近い。しかし火星の事を「知る」ことができたならば、少なくともすでに通信が可能でなければならず、関係も密接になるから、もはや閑事とは言えない。通信できるなら、将来は往来もできるようになり、彼らはついに我々の頭上で喧嘩することになろう。我々の地球上に至っては、どこであれ、あらゆることが我々に関係しているのだが、関わらないのは、知らないか、あるいは関わりようがないからであって、「閑」だからではない。たとえばイギリスで劉千昭がアイルランド人の女中を雇ってロンドンで女子学生を引っ張り出した件は、我々には閑事のようだが、実はそうではなく、我々のところにも影響が及び得る。留学生は多い、多いのではないか。適当な事例があれば引用するのだ。ちょうど文学上でシェイクスピアだの、セルバンテスだの、ラインシュだのを引用するように。

(不对,错了。芮恩施是美国的驻华公使,不是文学家。我大约因为在讲什么文艺学术的一篇论文上见过他的名字,所以一不小心便带出来了。合即订正于此,尚希读者谅之。)

(いや、間違えた。ラインシュはアメリカの駐華公使であって文学者ではない。おそらく何かの文芸学術論文で名前を見たことがあるため、うっかり口に出してしまったのだろう。ここに訂正する。読者のご了承を乞う。)

即使是动物,也怎能和我们不相干?青蝇的脚上有一个霍乱菌,蚊子的唾沫里有两个疟疾菌,就说不定会钻进谁的血里去。管到“邻猫生子”,很有人以为笑谈,其实却正与自己大有相关。譬如我的院子里,现在就有四匹邻猫常常吵架了,倘使这些太太们之一又诞育四匹,则三四月后,我就得常听到八匹猫们常常吵闹,比现在加倍地心烦。

動物でさえ、どうして我々と無関係であり得ようか。青蠅の脚にはコレラ菌が一匹おり、蚊の唾液にはマラリア原虫が二匹いて、誰の血液に入り込むか分からない。「隣の猫が子を産む」まで管轄すると笑い話にされがちだが、実は自分と大いに関係がある。たとえば今、私の庭には隣の猫が四匹いて常に喧嘩している。もしこの奥方たちの一匹がさらに四匹産めば、三四ヶ月後には八匹の猫が常に騒ぎ立てるのを聞かねばならず、今の倍は心が煩わしくなる。

所以我就有了一种偏见,以为天下本无所谓闲事,只因为没有这许多遍管的精神和力量,于是便只好抓一点来管。为什么独抓这一点呢?自然是最和自己相关的,大则因为同是人类,或是同类,同志;小则,因为是同学,亲戚,同乡,——至少,也大概叨光过什么,虽然自己的显在意识上并不了然,或者其实了然,而故意装痴作傻。

だから私は一種の偏見を持つに至った。天下にもともと閑事などないが、隅々まで管轄する精力と力がないから、やむなく一つだけ掴んで管轄する。なぜその一つだけを掴むか。当然、最も自分と関わりの深いものであり、大きくは同じ人類だから、あるいは同類、同志だから。小さくは同窓だから、親戚だから、同郷だから——少なくとも、おおかた何かの恩恵に与ったことがあるからだ。自分の顕在意識では了然としていなくとも、あるいは実は了然としていながらわざと痴愚を装っているのだ。

但陈源教授据说是去年却管了闲事了,要是我上文所说的并不错,那就确是一个超人。今年不问世事,也委实是可惜之至,真是斯人不管,“如苍生何”了。幸而阴历的过年又快到了,除夕的亥时一过,也许又可望心回意转的罢。

しかし陳源教授は昨年は閑事に関わったそうだ。もし私の上述が間違いでないなら、彼はまことに超人である。今年世事に関わらないとは、まことに惜しいことの極みであり、この人が管轄せずして「蒼生を如何にせん」である。幸い陰暦の正月がまもなく来る。除夜の亥の刻を過ぎれば、あるいはまた心変わりが望めるかもしれない。

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昨天下午我从沙滩回家的时候,知道大琦君来访过我了。这使我很高兴,因为我是猜想他进了病院的了,现在知道并没有。而尤其使我高兴的是他还留赠我一本《现代评论增刊》,只要一看见封面上画着的一枝细长的蜡烛,便明白这是光明之象,更何况还有许多名人学者的著作,更何况其中还有陈源教授的一篇《做学问的工具》呢?这是正论,至少可以赛过“闲话”的;至少,是我觉得赛过“闲话”,因为它给了我许多东西。

昨日の午後、沙灘から帰宅した時、大琦君が私を訪ねてきたと知った。これは嬉しかった。彼は病院に入ったのではないかと推測していたのだが、そうではなかったと分かったからだ。しかも一層嬉しいことに、彼はさらに『現代評論増刊』を一冊置いていってくれた。表紙に描かれた細長い蝋燭を一目見れば、これが光明の象徴であると分かる。まして多くの名士学者の著作があり、さらにはその中に陳源教授の「学問をする道具」が一篇あるのだから。これは正論であり、少なくとも「閑話」には勝る。少なくとも私には「閑話」に勝ると思われる。なぜならそれが多くのものを与えてくれたからだ。

我现在才知道南池子的“政治学会图书馆”去年“因为时局的关系,借书的成绩长进了三至七倍”了,但他“家翰笙”却还“用‘平时不烧香,临时抱佛脚’十个字形容当今学术界大部分的状况”。这很改正了我许多误解。我先已说过,现在的留学生是多多,多多了,但我总疑心他们大部分是在外国租了房子,关起门来炖牛肉吃的,而且在东京实在也看见过。那时我想:炖牛肉吃,在中国就可以,何必路远迢迢,跑到外国来呢?虽然外国讲究畜牧,或者肉里面的寄生虫可以少些,但炖烂了,即使多也就没有关系。所以,我看见回国的学者,头两年穿洋服,后来穿皮袍,昂头而走的,总疑心他是在外国亲手炖过几年牛肉的人物,而且即使有了什么事,连“佛脚”也未必肯抱的。现在知道并不然,至少是“留学欧美归国的人”并不然。但可惜中国的图书馆里的书太少了,据说北京“三十多个大学,不论国立私立,还不及我们私人的书多”云。这“我们”里面,据说第一要数“溥仪先生的教师庄士敦先生”,第二大概是“孤桐先生”即章士钊,因为在德国柏林时候,陈源教授就亲眼看见他两间屋里“几乎满床满架满桌满地,都是关于社会主义的德文书”。 现在呢,想来一定是更多的了。这真教我欣羡佩服。记得自己留学时候,官费每月三十六元,支付衣食学费之外,简直没有赢余,混了几年,所有的书连一壁也遮不满,而且还是杂书,并非专而又专,如“都是关于社会主义的德文书”之类。

私はいま初めて知った。南池子の「政治学会図書館」は昨年「時局の関係で、貸出実績が三倍から七倍に伸びた」そうだが、彼の「家翰笙」はなお「『平時に香を焚かず、急場になって仏の足を抱く』の十字で今日の学術界の大部分の状況を形容する」のだと。これは私の多くの誤解を正してくれた。先に述べたように、今の留学生は多い、多いのだが、私はずっと彼らの大部分は外国で部屋を借り、門を閉めて牛肉を煮て食べているのではないかと疑っていたし、東京でも実際に見かけた。その時私は思った。牛肉を煮て食べるなら中国でもできるのに、なぜわざわざ遠い外国まで来るのかと。外国は畜産が進んでいるから肉の中の寄生虫は少ないかもしれないが、よく煮込めば多くても関係ない。だから帰国した学者が最初の二年は洋服を着、その後は毛皮の袍を着て顎を上げて歩くのを見ると、いつもこの人は外国で数年間自ら牛肉を煮た人物ではないかと疑い、しかも何かあっても「仏の足」さえ抱こうとしないのではないかと。今やそうではないと分かった。少なくとも「欧米留学帰国者」はそうではない。しかし惜しいことに中国の図書館の蔵書は少なすぎる。聞くところでは北京の「三十余の大学、国立私立を問わず、我々私人の蔵書にも及ばない」そうだ。この「我々」の中では、第一に数えるべきは「溥儀氏の教師ジョンストン氏」だそうで、第二はおそらく「孤桐先生」すなわち章士釗であろう。なぜならドイツのベルリンにいた時、陳源教授は親しく彼の二間の部屋で「ほとんどベッドの上にも書架にも机の上にも床にも、すべて社会主義に関するドイツ語の書」が満ちているのを見たからだ。今はさぞかしもっと多いことであろう。まことに羨望と欽佩の至りだ。自分の留学時代を思い出すと、官費は毎月三十六元で、衣食と学費を払えばほとんど余りがなく、数年過ごしても所有する書は壁一面を覆うにも足りず、しかも雑書であって、「すべて社会主義に関するドイツ語の書」の如く専門に徹したものではなかった。

但是很可惜,据说当民众“再毁”这位“孤桐先生”的“寒家”时,“好象他们夫妇两位的藏书都散失了”。想那时一定是拉了几十车,向各处走散,可惜我没有去看,否则倒也是一个壮观。

しかし甚だ惜しいことに、聞くところでは民衆がこの「孤桐先生」の「寒家」を「再び毀した」とき、「御夫妻の蔵書はどうやらすべて散逸してしまったらしい」。その時はきっと何十台もの車に積んであちこちに散っていったのだろうが、惜しいことに見に行かなかった。さもなくば壮観であったろう。

所以“暴民”之为“正人君子”所深恶痛绝,也实在有理由,即如这回之“散失”了“孤桐先生”夫妇的藏书,其加于中国的损失,就在毁坏了三十多个国立及私立大学的图书馆之上。和这一比较,刘百昭司长的失少了家藏的公款八千元,要算小事件了,但我们所引为遗憾的是偏是章士钊、刘百昭有这么多的储藏,而这些储藏偏又全都遭了劫。

だから「暴民」が「正人君子」に深く憎悪されるのも、まことに理由のあることで、たとえば今回の「孤桐先生」夫妻の蔵書の「散逸」が中国にもたらした損失は、三十余の国立及び私立大学の図書館を毀損した以上のものである。これと比較すれば、劉百昭司長が自宅に蔵していた公金八千元を失ったのは小事件で済む。しかし我々が遺憾に思うのは、偏って章士釗と劉百昭にこれほどの蓄積があり、そしてこれらの蓄積が偏ってことごとく災難に遭ったことなのだ。

在幼小时候曾有一个老于世故的长辈告诫过我:你不要和没出息的担子或摊子为难,他会自己摔了,却诬赖你,说不清,也赔不完。这话于我似乎到现在还有影响,我新年去逛火神庙的庙会时,总不敢挤近玉器摊去,即使它不过摆着寥寥的几件。怕的是一不小心,将它碰倒了,或者摔碎了一两件,就要变成宝贝,一辈子赔不完,那罪孽之重,会在毁坏一坐博物馆之上。而且推而广之,连热闹场中也不大去了,那一回的示威运动时,虽有“打落门牙”的“流言”,其实却躺在家里,托福无恙。但那两屋子“关于社会主义的德文书”以及其他从“孤桐先生”府上陆续散出的壮观,却也因此“交臂失之”了。这实在也就是所谓“有一利必有一弊”,无法两全的。

幼い頃、世故に長けた年長者に戒められたことがある。見栄えのしない担ぎ屋台や露店に面倒を起こすな。自分で転んでおきながら、お前のせいだと言いがかりをつけ、弁明もできず弁償も尽きぬぞと。この言葉は今なお私に影響しているようで、正月に火神廟の縁日に行っても、玉器の露店に近づく気になれない。たとえわずか数点しか並んでいなくとも。うっかり倒してしまったり、一つ二つ割ってしまったりすれば、それが宝物に化け、一生かかっても弁償しきれず、その罪業の重さは博物館を一つ毀した以上になりかねない。しかもこれを敷衍して、賑やかな場所にもあまり行かなくなった。あの時のデモ行進の時も、「歯を叩き落とされた」という「流言」はあったものの、実は家で横になっていたおかげで無事だった。しかしあの二部屋分の「社会主義に関するドイツ語の書」やその他「孤桐先生」府邸から続々と散出した壮観も、そのために「すれ違って見逃した」のである。これもまたいわゆる「利あれば必ず弊あり」で、両全の策はないのだ。

现在是收藏洋书之富,私人要数庄士敦先生,公团要推“政治学会图书馆”了,只可惜一个是外国人,一个是靠着美国公使芮恩施竭力提倡出来的。“北京国立图书馆”将要扩张,实在是再好没有的事,但听说所依靠的还是美国退还的赔款,常年经费又不过三万元,每月二千余。要用美国的赔款,也是非同小可的事,第一,馆长就必须学贯中西,世界闻名的学者。据说,这自然只有梁启超先生了,但可惜西学不大贯,所以配上一个北大教授李四光先生做副馆长,凑成一个中外兼通的完人。然而两位的薪水每月就要一千多,所以此后也似乎不大能够多买书籍。这也就是所谓“有利必有弊”罢,想到这里,我们就更不能不痛切地感到“孤桐先生”独力购置的几房子好书惨遭散失之可惜了。

今は洋書の蔵書の豊富さでは、個人ではジョンストン氏を数え、公的団体では「政治学会図書館」を推さねばならないが、惜しいことに一方は外国人であり、他方はアメリカ公使ラインシュの力による提唱に拠っている。「北京国立図書館」が拡張されるのは、まことにこれ以上よいことはないが、聞くところでは依拠するのはやはりアメリカ返還の賠償金であり、常年経費はわずか三万元、毎月二千余元に過ぎない。アメリカの賠償金を使うのも容易ならぬことで、第一に館長は中西に通暁し世界に名高い学者でなければならない。聞くところでは、これはもちろん梁啓超先生しかいないが、惜しいことに西洋の学はあまり通じていないので、北大教授の李四光先生を副館長にして、中外兼通の完人を作り上げたのだ。しかし二人の給料で毎月千元余になるから、今後はあまり書籍を多く買えそうにもない。これもまたいわゆる「利あれば必ず弊あり」というものか。ここまで考えると、「孤桐先生」が独力で購入した数部屋分の良書が惨めに散逸した惜しさを、いっそう痛切に感じずにはいられない。

总之,在近几年中,是未必能有较好的“做学问的工具”的,学者要用功,只好是自己买书读,但又没有钱。听说“孤桐先生”倒是想到了这一节,曾经发表过文章,然而下台了,很可惜。学者们另外还有什么法子呢,自然“也难怪他们除了说说‘闲话’便没有什么可干”,虽然北京三十多个大学还不及他们“私人的书多”。为什么呢?要知道做学问不是容易事,“也许一个小小的题目得参考百十种书”,连“孤桐先生”的藏书也未必够用。陈源教授就举着一个例:“就以‘四书’来说”罢,“不研究汉、宋、明、清许多儒家的注疏理论,‘四书’的真正意义是不易领会的。短短的一部‘四书’,如果细细的研究起来,就得用得了几百几千种参考书”。

つまるところ、ここ数年のうちには、まともな「学問をする道具」は得られそうにない。学者が勉強しようとすれば、自分で本を買って読むしかないが、金がない。聞くところでは「孤桐先生」はこの点に思い至り、かつて文章を発表したことがあるが、下野してしまい、まことに惜しい。学者たちに他にどんな手段があろうか。当然「閑話を言うくらいしかすることがないのも無理はない」のであり、たとえ北京の三十余の大学が彼ら「個人の蔵書にも及ばない」としても。なぜか。知るべし、学問をするのは容易ならぬことで、「小さな一つのテーマでも百種、数十種の本を参考にせねばならないかもしれず」、「孤桐先生」の蔵書でさえ足りないかもしれないのだ。陳源教授は一例を挙げている。「『四書』を例にとると」、「漢・宋・明・清の多くの儒家の注疏や理論を研究しなければ、『四書』の真の意義は容易に領会できない。短い一部の『四書』でも、細かく研究すれば、数百数千種の参考書を使うことになる」と。

这就足见“学问之道,浩如烟海”了,那“短短的一部‘四书’”,我是读过的,至于汉人的“四书”注疏或理论,却连听也没有听到过。陈源教授所推许为“那样提倡风雅的封藩大臣”之一张之洞先生在做给“束发小生”们看的《书目答问》上曾经说:“‘四书’,南宋以后之名。”我向来就相信他的话,此后翻翻《汉书艺文志》,《隋书经籍志》之类,也只有“五经”,“六经”,“七经”,“六艺”,却没有“四书”,更何况汉人所做的注疏和理论。但我所参考的,自然不过是通常书,北京大学的图书馆里就有,见闻寡陋,也未可知,然而也只得这样就算了,因为即使要“抱”,却连“佛脚”都没有。由此想来,那能“抱佛脚”的,肯“抱佛脚”的,的确还是真正的福人,真正的学者了。他“家翰笙”还慨乎言之,大约是“《春秋》责备贤者”之意罢。

これだけでも「学問の道は浩として煙海の如し」と分かる。あの「短い一部の『四書』」は私も読んだが、漢人の「四書」注疏あるいは理論に至っては、聞いたことさえない。陳源教授が「あのように風雅を提唱した封藩大臣」の一人として推挙する張之洞先生は、「束髪の小生」たちのために書いた『書目答問』で「『四書』は南宋以後の名称なり」と述べている。私はかねてから彼の言を信じており、その後『漢書芸文志』や『隋書経籍志』の類を繰ってみても、「五経」、「六経」、「七経」、「六芸」はあるが「四書」はない。まして漢人が作った注疏や理論など。しかし私が参考にしたのはもちろん通常の書であり、北京大学の図書館にあるもので、見聞が乏しいのかもしれないが、やむを得ずこれで済ませた。なぜなら「抱こう」にも「仏の足」さえないのだから。これから思えば、「仏の足」を抱ける者、「仏の足」を抱こうとする者は、確かに真の福人であり、真の学者なのだ。彼の「家翰笙」がなお慨嘆するのは、おそらく「春秋は賢者を責む」の意であろう。

现在不高兴写下去了,只好就此完结。总之:将《现代评论增刊》略翻一遍,就觉得五光十色,正如看见有一回广告上所开列的作者的名单。例如李仲揆教授的《生命的研究》呀,胡适教授的《译诗三首》呀,徐志摩先生的译诗一首呀,西林氏的《压迫》呀,陶孟和教授的要到二○二五年才发表而必须我们的玄孙才能全部拜读的大著作的一部分呀……。但是,翻下去时,不知怎的我的眼睛却看见灰色了,于是乎抛开。

今はこれ以上書く気にならないので、ここで終わりにするしかない。要するに『現代評論増刊』を一通りめくると、五色に輝いて、ちょうどある広告に列記されていた著者名簿を見るようである。たとえば李仲揆教授の「生命の研究」だの、胡適教授の「訳詩三首」だの、徐志摩先生の訳詩一首だの、西林氏の「圧迫」だの、陶孟和教授の二〇二五年にならねば発表されず、我々の玄孫でなければ全部を拝読できない大著作の一部分だの……。しかしめくっていくうちに、どういうわけか私の目には灰色が映り、そこで放り出した。

现在的小学生就能玩七色板,将七种颜色涂在圆板上,停着的时候,是好看的,一转,便变成灰色,——本该是白色的罢,可是涂得不得法,变成灰色了。收罗许多著名学者的大著作的大报,自然是光怪陆离,但也是转不得,转一周,就不免要显出灰色来,虽然也许这倒正是它的特色。

今の小学生でも七色の円盤を回して遊べる。七色を円盤に塗り、止まっている時は美しいが、回すと灰色になる——本来は白色のはずだが、塗り方が悪くて灰色になったのだ。多くの著名学者の大著を集めた大きな雑誌は、もちろん奇怪陸離たるものだが、やはり回してはならない。一回転すれば灰色を呈さざるを得ない。もっとも、これこそがその特色なのかもしれないが。

(一月三日。)

(一月三日。)

第5節

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【有趣的消息】

【面白い消息】

虽说北京像一片大沙漠,青年们却还向这里跑;老年们也不大走,即或有到别处去走一趟的,不久就转回来了,仿佛倒是北京还很有什么可以留恋。厌世诗人的怨人生,真是“感慨系之矣”,然而他总活着;连祖述释迦牟尼先生的哲人勖本华尔也不免暗地里吃一种医治什么病症的药,不肯轻易“涅槃”。俗语说:“好死不如恶活”,这当然不过是俗人的俗见罢了,可是文人学者之流也何尝不这样。所不同的,只是他总有一面辞严义正的军旗,还有一条尤其义正辞严的逃路。真的,倘不这样,人生可真要无聊透顶,无话可说了。

北京は大砂漠のようだと言われながら、青年たちはなおここに走ってくる。年寄りもあまり去らず、たとえ余所に出かけても、間もなく戻ってくる。あたかも北京にはまだ何か留恋すべきものがあるかのようだ。厭世詩人が人生を怨むのは、まことに「感慨これに繋ぐ」であるが、しかし彼はやはり生きている。釈迦牟尼先生を祖述する哲人ショーペンハウエルさえ、密かにある病症を治す薬を服用し、容易に「涅槃」しようとはしなかった。俗語に「よく死ぬより悪く生きよ」と言うが、これはもちろん俗人の俗見に過ぎまい。しかし文人学者の輩も、何ぞこれと異ならん。違いはただ、彼にはいつも辞厳義正の軍旗が一本あり、さらにいっそう義正辞厳の逃げ道が一筋あることだけだ。まことに、もしそうでなければ、人生は本当に退屈の極みで、言うべき言葉もなくなるだろう。

北京就是一天一天地百物昂贵起来;自己的“区区佥事”,又因为“妄有主张”,被章士钊先生革掉了。向来所遭遇的呢,借了安特来夫的话来说,是“没有花,没有诗”,就只有百物昂贵。然而也还是“妄有主张”,没法回头;倘使有一个妹子,如《晨报副刊》上所艳称的“闲话先生”的家事似的,叫道:“阿哥!”那声音正如“银铃之响于幽谷”,向我求告,“你不要再做文章得罪人家了,好不好?”我也许可以借此拨转马头,躲到别墅里去研究汉朝人所做的《四书》注疏和理论去。然而,惜哉,没有这样的好妹子;“女嬃之婵媛兮,申申其詈予,曰:鲧婞直以亡身兮,终然夭乎羽之野。”连有一个那样凶姊姊的幸福也不及屈灵均。我的终于“妄有主张”,或者也许是无可推托之故罢。然而这关系非同小可,将来怕要遭殃了,因为我知道,得罪人是要得到报应的。

北京は日に日に万物が高騰してくる。自分の「わずかな僉事」の職も、「妄りに主張あり」として章士釗先生に革免された。これまで遭遇してきたことは、アンドレーエフの言葉を借りれば「花もなく、詩もなく」、ただ万物高騰があるだけだ。それでもなお「妄りに主張あり」で、引き返しようがない。もし妹が一人いて、『晨報副刊』で美しく語られる「閑話先生」の家庭のように、「お兄ちゃん!」と呼び、その声がまさに「銀の鈴が幽谷に響く」如くに私に訴え、「もう文章を書いて人を怒らせるのはやめてくれない?」と言うなら、私もこれを機に馬首を転じ、別荘に引きこもって漢朝の人が書いた「四書」の注疏と理論を研究しに行けるかもしれない。しかし惜しいかな、そのような良い妹はいない。「女嬃の婵媛たるや、申申として予を詈り、曰く、鯀は婞直にして以て身を亡ぼし、終に然して羽の野に夭せりと」。あのような恐い姉がいる幸福さえ、屈霊均には及ばない。私が結局「妄りに主張」し続けるのも、おそらくは推托のしようがないためであろう。しかしこれは並大抵のことではなく、将来禍を被りそうだ。なぜなら私は知っている、人を怒らせれば報いを受けるのだと。

话要回到释迦先生的教训去了,据说:活在人间,还不如下地狱的稳妥。做人有“作”就是动作(=造孽),下地狱却只有“报”(=报应)了;所以生活是下地狱的原因,而下地狱倒是出地狱的起点。这样说来,实在令人有些想做和尚,但这自然也只限于“有根”(据说,这是“一句天津话”)的大人物,我却不大相信这一类鬼画符。活在沙漠似的北京城里,枯燥当然是枯燥的,但偶然看看世态,除了百物昂贵之外,究竟还是五花八门,创造艺术的也有,制造流言的也有,肉麻的也有,有趣的也有……这大概就是北京之所以为北京的缘故,也就是人们总还要奔凑聚集的缘故。可惜的是只有一些小玩意,老实一点的朋友就难于给自己竖起一杆辞严义正的军旗来。

話は釈迦先生の教訓に戻る。曰く、人間に生きるのは地獄に落ちるよりも安穏ではない。人間には「作」すなわち動作(=造業)があるが、地獄には「報」(=報い)だけがある。だから生活は地獄に落ちる原因であり、地獄に落ちることはかえって地獄を出る起点なのだ。こう言われると、まことに坊主になりたくなるが、これはもちろん「根」のある(「天津の一句」だそうだ)大人物に限ったことで、私はこの種のまじないをあまり信じない。砂漠のような北京城に暮らし、枯燥は確かに枯燥だが、折に触れて世態を眺めれば、万物高騰を除いても、やはり五花八門で、芸術を創造する者もあり、流言を製造する者もあり、鳥肌が立つようなものもあり、面白いものもある……。これがおそらく北京が北京たる所以であり、人々がなお奔走集結する所以であろう。惜しいことにただ些細な遊びしかなく、実直な友人には辞厳義正の軍旗を自ら掲げるのが難しいのだ。

我一向以为下地狱的事,待死后再对付,只有目前的生活的枯燥是最可怕的,于是便不免于有时得罪人,有时则寻些小玩意儿来开开笑口,但这也就是得罪人。得罪人当然要受报,那也只好准备着,因为寻些小玩意儿来开开笑口的是更不能竖起辞严义正的军旗来的。其实,这里也何尝没有国家大事的消息呢,“关外战事不日将发生”呀,“国军一致拥段”哪,有些报纸上都用了头号字煌煌地排印着,可以刺得人们头昏,但于我却都没有什么鸟趣味。人的眼界之狭是不大有药可救的,我近来觉得有趣的倒要算看见那在德国手格盗匪若干人,在北京率领三河县老妈子一大队的武士刘百昭校长居然做骈文,大有偃武修文之意了;而且“百昭海邦求学,教部备员,多艺之誉愧不如人,审美之情差堪自信”,还是一位文武全才,我先前实在没有料想到。第二,就是去年肯管闲事的“学者”,今年不管闲事了,在年底结清帐目的办法,原来不止是掌柜之于流水簿,也可以适用于“正人君子”的行为的。或者,“阿哥!”这一声叫,正在中华民国十四年十二月卅一日的夜间十二点钟罢。

私はかねてから地獄のことは死んでから対処すればよいと考え、ただ目前の生活の枯燥こそ最も恐ろしいと思ってきた。そこでやむを得ず時に人を怒らせ、時にちょっとした遊びを見つけて笑ってみるのだが、これもまた人を怒らせることになる。人を怒らせれば当然報いを受ける。それも覚悟するしかない。なぜなら些細な遊びで笑おうとする者には、なおさら辞厳義正の軍旗を掲げようがないからだ。実のところ、ここにも国家の大事の消息がないわけではない。「関外の戦事が間もなく勃発する」とか、「国軍一致して段氏を擁す」とか、新聞によっては大見出しで煌々と印刷し、人の目を眩ませるが、私にとっては何の面白味もない。人の視野の狭さには薬がないもので、私が近頃面白いと思ったのは、ドイツで盗賊若干人を素手で打ち倒し、北京で三河県の女中を大隊引き連れた武人・劉百昭校長が、なんと駢文を書いたことだ。まさに偃武修文の趣がある。しかも「百昭は海邦に学を求め、教部に員を備え、多芸の誉れ愧ずること人に如かず、審美の情はいささか自信あり」とは、文武全才の人物で、以前はまったく予想もしなかった。第二には、昨年閑事に関わった「学者」が今年は関わらなくなったことだ。年末に帳簿を締める方法は、もとは番頭の出納帳だけではなく、「正人君子」の行為にも適用できるのだった。あるいは「お兄ちゃん!」のあの一声は、中華民国十四年十二月三十一日の夜の十二時だったのかもしれない。

但是,这些趣味,刹那间也即消失了,就是我自己的思想的变动,也诚然是可恨。我想,照着境遇,思想言行当然要迁移,一迁移,当然会有所以迁移的道理。况且世界上的国庆很不少,古今中外名流尤其多,他们的军旗,是全都早经竖定了的。前人之勤,后人之乐,要做事的时候可以援引孔丘墨翟,不做事的时候另外有老聃,要被杀的时候我是关龙逄,要杀人的时候他是少正卯,有些力气的时候看看达尔文赫胥黎的书,要人帮忙就有克鲁巴金的《互助论》,勃朗宁夫妇岂不是讲恋爱的模范么,勖本华尔和尼采又是咒诅女人的名人,……归根结蒂,如果杨荫榆或章士钊可以比附到犹太人特莱孚斯去,则他的篾片就可以等于左拉等辈了。这个时候,可怜的左拉要被中国人背出来;幸而杨荫榆或章士钊是否等于特莱孚斯,也还是一个大疑问。

しかし、これらの面白味も一瞬にして消え去るし、自分自身の思想の変動もまことに憎むべきものだ。境遇に従って思想や言行が遷移するのは当然であり、遷移すれば当然その理由がある。しかも世界には国慶日が少なくなく、古今東西の名流はとりわけ多い。彼らの軍旗はすべてとうに掲げ終えている。先人の勤勉は後人の楽しみ。事を為す時には孔丘・墨翟を援引し、事を為さぬ時には別に老聃がいる。殺される時には自分は関龍逄であり、殺す時には相手は少正卯だ。力のある時にはダーウィンやハクスリーの書を読み、人の助けが要れば クロポトキンの『相互扶助論』がある。ブラウニング夫妻こそ恋愛の模範ではないか、ショーペンハウエルとニーチェはまた女を呪う名人だ……。帰するところ、もし楊蔭楡や章士釗をユダヤ人ドレフュスに擬えることができるなら、その太鼓持ちはゾラに等しいことになろう。その時、哀れなゾラは中国人に担ぎ出される。幸いなことに、楊蔭楡や章士釗がドレフュスに等しいかどうかは、なお大いに疑問である。

然而事情还没有这么简单,中国的坏人(如水平线下的文人和学棍学匪之类),似乎将来要大吃其苦了,虽然也许要在身后,像下地狱一般。但是,深谋远虑的人,总还以从此小心,不要多说为稳妥。你以为“闲话先生”真是不管闲事了么?并不然的。据说他是要“到那天这班出锋头的人们脱尽了锐气的日子,我们这位闲话先生正在从容的从事他那‘完工的拂拭’(The finishing touch),笑吟吟的擎着他那枝从铁杠磨成的绣针,讽刺我们情急是多么不经济的一个态度,反面说只有无限的耐心才是天才唯一的凭证”。(《晨报副刊》一四二三)

しかし事はそう簡単ではない。中国の悪人(水平線以下の文人や学棍・学匪の類)は、将来大いに苦しむことになりそうだ。たとえ死後であっても、地獄に落ちるように。しかし深謀遠慮の人は、やはりこれからは慎重に、あまり物を言わないのが穏当であろう。「閑話先生」が本当に閑事に関わらなくなったと思うか。そうではない。聞くところでは彼は「あの鋒先を争う連中の鋭気がすっかり脱け落ちた日に、我らの閑話先生はゆうゆうと『最後の仕上げ』(The finishing touch)に従事し、にこにこと鉄の棒から磨き上げた刺繍針を掲げ、我々の焦りがいかに不経済な態度であるかを諷刺するのだ。裏を返せば、無限の忍耐のみが天才の唯一の証であると」。(『晨報副刊』一四二三)

后出者胜于前者,本是天下的平常事情,但除了堕落的民族。即以衣服而论,也是由裸体而用会阴带或围裙,于是有衣裳,衮冕。我们将来的天才却特异的,别人系了围裙狂跳时,他却躲在绣房里刺绣,——不,磨绣针。待到别人的围裙全数破旧,他却穿了绣花衫子站出来了。大家只好说道“阿!”可怜的性急的野蛮人,竟连围裙也不知道换一条,怪不得锐气终于脱尽;脱尽犹可,还要看那“笑吟吟”的“讽刺”的“天才”脸哩,这实在是对于灵魂的鞭责,虽说还在辽远的将来。

後から出る者が先に出た者に勝るのは天下の常事だが、堕落した民族を除いての話だ。衣服を例にとっても、裸体から陰部覆いや前掛けとなり、やがて衣裳となり、袞冕となる。しかし我々の将来の天才は特異である。他の者が前掛けを締めて狂い踊っている時、彼は閨房に隠れて刺繍をしている——いや、刺繍針を磨いているのだ。他の者の前掛けがすっかり擦り切れた頃、彼は刺繍の衣を着て立ち現れる。皆は「ああ!」と言うしかない。哀れな性急な野蛮人は、前掛けの一枚も取り替えることを知らず、鋭気が尽きるのも無理はない。尽きただけならまだしも、あの「にこにこした」「諷刺する」「天才」の顔を見せられるのだ。これはまことに魂への鞭撻であり、たとえまだ遥か将来のこととはいえ。

还有更可怕的,是我们风闻二○二五年一到,陶孟和教授要发表一部著作。内容如何,只有百年后的我们的曾孙或玄孙们知道罢了,但幸而在《现代评论增刊》上提前发表了几节,所以我们竟还能“管中窥豹”似的,略见这一部新书的大概。那是讲“现代教育界的特色”的,连教员的“兼课”之多也说在内。他问:“我的议论太悲观,太刻薄,太荒诞吗?我深愿受这个批评,假使事实可以证明。”这些批评我们且俟之百年之后,虽然那时也许无从知道事实;典籍呢,大概也只有“笑吟吟的”佳作留传。要是当真这样,那大半是“英雄所见略同”的,后人总不至于以为刻薄罢。但我们也难于悬揣,不过就今论今,似乎颇有些“孔子作《春秋》,而乱臣贼子惧”之意了。人们不逢如此盛事者,盖已将二千四百年云。

さらに恐ろしいことがある。風の便りに聞くところでは、二〇二五年になると陶孟和教授が一部の著作を発表するという。内容は百年後の我々の曾孫か玄孫しか知りえまいが、幸い『現代評論増刊』に数節が前倒しで発表されたので、我々もなお「管より豹を窺う」如くに、この新著の概要をいくらか知ることができる。それは「現代教育界の特色」を論じたもので、教員の「兼任」の多さにまで及んでいる。彼は問う、「私の議論は悲観すぎ、刻薄すぎ、荒唐すぎるだろうか。事実がそれを証明できるなら、この批判を喜んで受けよう」と。これらの批評は百年後に譲ろう。もっともその時には事実を知る術がないかもしれない。典籍も、おそらく「にこにこした」傑作だけが伝わるだろう。もし本当にそうなら、大半は「英雄の所見は略ぼ同じ」で、後人もまさか刻薄とは思うまい。しかし我々にも臆測し難いことで、今の今を論じれば、いささか「孔子『春秋』を作り、乱臣賊子懼る」の趣がある。人々がこのような盛事に遭遇しなかったのは、すでに二千四百年余りになるという。

总之:百年以内,将有陈源教授的许多(?)书,百年以后,将有陶孟和教授的一部书出现。内容虽然不知道怎样,但据目下所走漏的风声看起来,大概总是讽刺“那班出锋头的人们”,或“驰驱九城”的教授的。

つまるところ、百年以内には陳源教授の多くの(?)書が、百年後には陶孟和教授の一部の書が出現するであろう。内容はどうか分からないが、現在漏れ聞こえる風声から見るに、おおむね「あの鋒先を争う連中」あるいは「九城を馳駆する」教授を諷刺するものであろう。

我常常感叹,印度小乘教的方法何等厉害:它立了地狱之说,借着和尚,尼姑,念佛老妪的嘴来宣扬,恐吓异端,使心志不坚定者害怕。那诀窍是在说报应并非眼前,却在将来百年之后,至少也须到锐气脱尽之时。这时候你已经不能动弹了,只好听别人摆布,流下鬼泪,深悔生前之妄出锋头;而且这时候,这才认识阎罗大王的尊严和伟大。

私はしばしば嘆じる。インドの小乗教の方法は何と厲害であるかと。地獄の説を立て、僧侶・尼僧・念仏の老婆の口を借りて宣布し、異端を脅し、志の堅固でない者を恐れさせる。その秘訣は、報いは眼前ではなく将来百年の後にあると言うことだ。少なくとも鋭気が脱け落ちた時にと。その時にはもう身動きできず、他人のなすがままに、鬼の涙を流し、生前の鋒先を争った妄りを深く悔いるしかない。しかもその時こそ、閻魔大王の尊厳と偉大を認識するのだ。

这些信仰,也许是迷信罢,但神道设教,于“挽世道而正人心”的事,或者也还是不无裨益。况且,未能将坏人“投界豺虎”于生前,当然也只好口诛笔伐之于身后,孔子一车两马,倦游各国以还,抽出钢笔来作《春秋》,盖亦此志也。

これらの信仰は迷信かもしれないが、神道設教は「世道を挽し人心を正す」事に、あるいはなお裨益なくはなかろう。まして悪人を生前に「豺虎に投ず」ることができなければ、当然、死後に口誅筆伐するしかない。孔子は一車二馬、各国の遊歴に倦んで帰還し、鋼筆を抜いて『春秋』を作った。おそらくまたこの志であったろう。

但是,时代迁流了,到现在,我以为这些老玩意,也只好骗骗极端老实人。连闹这些玩意儿的人们自己尚且未必信,更何况所谓坏人们。得罪人要受报应,平平常常,并不见得怎样奇特,有时说些宛转的话,是姑且客气客气的,何尝想借此免于下地狱。这是无法可想的,在我们不从容的人们的世界中,实在没有那许多工夫来摆臭绅士的臭架子了,要做就做,与其说明年喝酒,不如立刻喝水;待廿一世纪的剖拨戮尸,倒不如马上就给他一个嘴巴。至于将来,自有后起的人们,决不是现在人即将来所谓古人的世界,如果还是现在的世界,中国就会完!

しかし時代は遷り流れ、今日に至って、私はこれらの古い手管は、極端に実直な人を騙せるだけだと思う。この手管を弄する当人でさえ必ずしも信じていまい。まして悪人においてをや。人を怒らせれば報いを受ける。ごく平凡なことで、別段奇特でもない。時に婉曲な物言いをするのは、ひとまず礼を尽くしているだけで、これによって地獄行きを免れようなどとは思っていない。どうしようもないことだ。我々のような「ゆとり」のない人間の世界では、臭い紳士の臭い格好をつけている暇は本当にないのだ。やるならやる。来年酒を飲むと言うよりは、すぐさま水を飲むがよい。二十一世紀の剖判戮屍を待つよりは、今すぐ一発張り手を食らわすがよい。将来のことには、後に続く人々がいる。現在の世界が将来のいわゆる古人の世界であるのは決してなく、もしなお今の世界のままであるなら、中国は滅びるであろう!

(一月十四日。)

(一月十四日。)

第6節

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【学界的三魂】

从《京报副刊》上知道有一种叫《国魂》的期刊,曾有一篇文章说章士钊固然不好,然而反对章士钊的“学匪”们也应该打倒。我不知道大意是否真如我所记得?但这也没有什么关系,因为不过引起我想到一个题目,和那原文是不相干的。意思是,中国旧说,本以为人有三魂六魄,或云七魄;国魂也该这样。而这三魂之中,似乎一是“官魂”,一是“匪魂”,还有一个是什么呢?也许是“民魂”罢,我不很能够决定。又因为我的见闻很偏隘,所以未敢悉指中国全社会,只好缩而小之曰“学界”。

【学界の三魂】

中国人的官瘾实在深,汉重孝廉而有埋儿刻木,宋重理学而有高帽破靴,清重帖括而有“且夫”“然则”。总而言之:那魂灵就在做官,——行官势,摆官腔,打官话。顶着一个皇帝做傀儡,得罪了官就是得罪了皇帝,于是那些人就得了雅号曰“匪徒”。学界的打官话是始于去年,凡反对章士钊的都得了“土匪”、“学匪”、“学棍”的称号,但仍然不知道从谁的口中说出,所以还不外乎一种“流言”。

『京報副刊』から、『国魂』という名の定期刊行物があると知った。そこに一篇の文章があり、章士釗はもちろんよくないが、章士釗に反対する「学匪」たちもまた打倒すべきだと述べていたという。私の記憶した大意が正しいかどうか分からないが、これは大した関係ではない。ただ私に一つの題目を思いつかせただけで、あの原文とは無関係だからだ。つまり、中国の旧説によれば人には三魂六魄、あるいは七魄があるとされるが、国魂もそのようであるべきだ。そしてこの三魂のうち、一つは「官魂」、一つは「匪魂」、あと一つは何か。おそらく「民魂」であろうが、はっきりとは定めかねる。しかも私の見聞は偏狭であるから、中国の社会全体を指す大胆さはなく、やむなく縮めて「学界」と言うことにする。

但这也足见去年学界之糟了,竟破天荒的有了学匪。以大点的国事来比罢,太平盛世,是没有匪的;待到群盗如毛时,看旧史,一定是外戚,宦官,奸臣,小人当国,即使大打一通官话,那结果也还是“呜呼哀哉”。当这“呜呼哀哉”之前,小民便大抵相率而为盗,所以我相信源增先生的话:“表面上看只是些土匪与强盗,其实是些农民革命军。”(《国民新报副刊》四三)那么,社会不是改进了么?并不,我虽然也是被为“土匪”之一,却并不想为老前辈们饰非掩过。农民是不来夺取政权的,源增先生又道:“任三五热心家乘势将皇帝推倒,自己过皇帝瘾去。”但这时候,匪便被称为帝,除遗老外,文人学者却都来恭维,又称反对他的为匪了。

中国人の官僚への執着は実に深い。漢は孝廉を重んじて埋児刻木が現れ、宋は理学を重んじて高帽破靴が現れ、清は帖括を重んじて「且つ夫れ」「然れば則ち」が現れた。つまるところ、その魂は官をすることにあり——官の威勢を振るい、官の調子で物を言い、官話を打つのだ。皇帝を一人頂いて傀儡にし、官を怒らせれば皇帝を怒らせたことになり、そこでそれらの人々は「匪徒」なる雅号を頂戴する。学界に官話が始まったのは昨年からで、およそ章士釗に反対する者はすべて「土匪」「学匪」「学棍」の称号を得たが、誰の口から出たのかはなお分からず、やはり一種の「流言」に過ぎない。

しかしこれだけでも昨年の学界のひどさが分かる。前代未聞の学匪が出現したのだから。もう少し大きな国事に喩えれば、太平の世には匪はいない。群盗が毛の如く蔓延する時、旧史を見れば、必ず外戚、宦官、奸臣、小人が国を専らにしているのであって、たとえ大いに官話を打っても、その結末はやはり「嗚呼哀哉」だ。この「嗚呼哀哉」の前に、小民はおおむね相率いて盗賊となる。だから私は源増先生の言を信じる。「表面上はただの土匪や強盗に見えるが、実は農民革命軍なのだ」と。(『国民新報副刊』四三)では社会は改善されたのか。否、私もまた「土匪」にされた一人ではあるが、先輩方のために非を飾り過ちを隠す気はない。農民は政権を奪取しに来ないのだ。源増先生はまた言う。「三五の熱心家が勢いに乗じて皇帝を倒し、自分が皇帝の味をしゃぶりに行くのだ」と。しかしこの時、匪は帝と呼ばれ、遺老を除いて、文人学者はみな恭しく媚び、また反対する者を匪と呼ぶのである。

所以中国的国魂里大概总有这两种魂:官魂和匪魂。这也并非硬要将我辈的魂挤进国魂里去,贪图与教授名流的魂为伍,只因为事实仿佛是这样。社会诸色人等,爱看《双官诰》,也爱看《四杰村》,望偏安巴蜀的刘玄德成功,也愿意打家劫舍的宋公明得法;至少,是受了官的恩惠时候则艳羡官僚,受了官的剥削时候便同情匪类。但这也是人情之常;倘使连这一点反抗心都没有,岂不就成为万劫不复的奴才了?

だから中国の国魂にはおおむねこの二種の魂がある。官魂と匪魂だ。これは無理に我々の輩の魂を国魂に押し込み、教授や名流の魂と仲間になりたいからではなく、ただ事実がそのように見えるからだ。社会の様々な人々は、『双官誥』を見るのも好きだし、『四傑村』を見るのも好きだ。巴蜀に偏安した劉玄徳の成功を望みつつ、押し込み強盗の宋公明がうまくいくのも願う。少なくとも、官の恩恵を受けている時には官僚を羨望し、官の搾取を受けている時には匪類に同情する。しかしこれも人情の常であり、もしこの一片の反抗心さえなければ、永劫不復の奴隷になってしまうではないか。

然而国情不同,国魂也就两样。记得在日本留学时候,有些同学问我在中国最有大利的买卖是什么,我答道:“造反。”他们便大骇怪。在万世一系的国度里,那时听到皇帝可以一脚踢落,就如我们听说父母可以一棒打杀一般。为一部分士女所心悦诚服的李景林先生,可就深知此意了,要是报纸上所传非虚。今天的《京报》即载着他对某外交官的谈话道:“予预计于旧历正月间,当能与君在天津晤谈;若天津攻击竟至失败,则拟俟三四月间卷土重来,若再失败,则暂投土匪,徐养兵力,以待时机”云。但他所希望的不是做皇帝,那大概是因为中华民国之故罢。

しかし国情が異なれば国魂も別物だ。日本に留学していた頃、同学の数人が中国で最も大きな利益の得られる商売は何かと問うたので、私は「謀反だ」と答えた。彼らは大いに驚いた。万世一系の国では、その時、皇帝を一蹴りで転がせると聞くのは、我々が親を一棒で打ち殺せると聞くに等しかったのだ。一部の男女に心から帰服された李景林先生は、この意を深く知っていたようだ。新聞の伝えるところが虚でなければ。今日の『京報』にはまさに、彼がある外交官に語ったとされる言葉が載っている。「旧暦正月頃には天津で面談できるはずだが、もし天津攻撃が失敗に終われば、三四月頃に巻土重来を期す。もし再び失敗すれば、暫く土匪に投じ、徐ろに兵力を養い、時機を待つ」云々と。しかし彼の望みは皇帝になることではない。それはおそらく中華民国であるがゆえであろう。

いわゆる学界は比較的新しく生じた階級であり、本来ならば旧い魂をいくらか洗い清める望みがあるはずだったが、「学官」の官話と「学匪」の新名を聞くと、なお旧い道を歩んでいるようだ。であれば、当然また打倒されねばならない。これを打倒しにくるのが「民魂」、国魂の第三種である。以前はあまり発揚されなかったので、一騒ぎの後、結局は自ら政権を取らず、ただ「三五の熱心家に皇帝を倒させ、自分で皇帝の味をしゃぶりに行かせた」のである。

所谓学界,是一种发生较新的阶级,本该可以有将旧魂灵略加湔洗之望了,但听到“学官”的官话,和“学匪”的新名,则似乎还走着旧道路。那末,当然也得打倒的。这来打倒他的是“民魂”,是国魂的第三种。先前不很发扬,所以一闹之后,终不自取政权,而只“任三五热心家将皇帝推倒,自己过皇帝瘾去”了。

ただ民魂のみが宝貴に値する。ただそれが発揚してこそ、中国に真の進歩がある。しかし、学界さえ旧路を逆行しているこの時に、どうして容易に発揮できようか。瘴気の立ち込める中に、官の所謂「匪」と民の所謂匪がある。官の所謂「民」と民の所謂民がある。官が「匪」と見なすが実は真の国民である者があり、官が「民」と見なすが実は衙役や馬弁である者がある。だから「民魂」に見えるものも、時としてなお「官魂」であることを免れない。魂を鑑別する者が十分に注意すべき点である。

惟有民魂是值得宝贵的,惟有他发扬起来,中国才有真进步。但是,当此连学界也倒走旧路的时候,怎能轻易地发挥得出来呢?在乌烟瘴气之中,有官之所谓“匪”和民之所谓匪;有官之所谓“民”和民之所谓民;有官以为“匪”而其实是真的国民,有官以为“民”而其实是衙役和马弁。所以貌似“民魂”的,有时仍不免为“官魂”,这是鉴别魂灵者所应该十分注意的。

話がまた遠くなった。本題に戻ろう。昨年、章士釗が「学風整頓」の看板を掲げて教育総長の大任に就いて以来、学界には官気が充満し、「我に順う者は通、我に逆らう者は匪」となり、官腔官話の余韻は今なお尽きていない。しかし学界はまた幸いにもこれによって色分けが明瞭になった。ただ官魂を代表するのはなお章士釗ではない。上にはまだ「減膳」の執政がいるのだから。彼はせいぜい官魄の一つを演じたに過ぎない。今は天津で「徐ろに兵力を養い、時機を待つ」のだ。私は『甲寅』を読まないので、何を言っているか分からない。官話か、匪話か、民話か、衙役馬弁の話か?……

话又说远了,回到本题去。去年,自从章士钊提了“整顿学风”的招牌,上了教育总长的大任之后,学界里就官气弥漫,顺我者“通”,逆我者“匪”,官腔官话的余气,至今还没有完。但学界却也幸而因此分清了颜色;只是代表官魂的还不是章士钊,因为上头还有“减膳”执政在,他至多不过做了一个官魄;现在是在天津“徐养兵力,以待时机”了。我不看《甲寅》,不知道说些什么话:官话呢,匪话呢,民话呢,衙役马弁

(一月二十四日。)

话呢?……

(一月二十四日。)

第7節

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【古书与白话】

【古書と白話】

记得提倡白话那时,受了许多谣诼诬谤,而白话终于没有跌倒的时候,就有些人改口说:然而不读古书,白话是做不好的。我们自然应该曲谅这些保古家的苦心,但也不能不悯笑他们这祖传的成法。凡有读过一点古书的人都有这一种老手段:新起的思想,就是“异端”,必须歼灭的,待到它奋斗之后,自己站住了,这才寻出它原来与“圣教同源”;外来的事物,都要“用夷变夏”,必须排除的,但待到这“夷”入主中夏,却考订出来了,原来连这“夷”也还是黄帝的子孙。这岂非出人意料之外的事呢?无论什么,在我们的“古”里竟无不包函了!

白話を提唱した頃、多くの謡諑や誣謗を受けたが、白話がついに倒れなかった時、ある人々は言い換えた。しかし古書を読まなければ、よい白話文は書けない、と。我々はもちろんこれら復古家の苦心を斟酌すべきだが、彼らの先祖伝来のやり口に対して憐れみの笑いを禁じ得ない。およそ古書を少しでも読んだことのある人は皆この古い手管を心得ている。新たに起こった思想は「異端」であり、殲滅すべきものだが、それが奮闘の末に自ら立脚した暁には、もともと「聖教と同源」であったと見出す。外来の事物はすべて「夷を以て夏を変ず」るものであり、排除すべきだが、この「夷」が中夏に入主すると、考証して、もともとこの「夷」も黄帝の子孫であったと判明させる。これは意表を突くことではないか。何であれ、我々の「古」の中にすべて含まれていないものはないのだ!

用老手段的自然不会长进,到现在仍是说非“读破几百卷书者”即做不出好白话文,于是硬拉吴稚晖先生为例。可是竟又会有“肉麻当有趣”,述说得津津有味的,天下事真是千奇百怪。其实吴先生的“用讲话体为文”,即“其貌”也何尝与“黄口小儿所作若同”。不是“纵笔所之,辄数万言”么?其中自然有古典,为“黄口小儿”所不知,尤有新典,为“束发小生”所不晓。清光绪末,我初到日本东京时,这位吴稚晖先生已在和公使蔡钧大战了,其战史就有这么长,则见闻之多,自然非现在的“黄口小儿”所能企及。所以他的遣辞用典,有许多地方是惟独熟于大小故事的人物才能够了然,从青年看来,第一是惊异于那文辞的滂沛。这或者就是名流学者们所认为长处的罢,但是,那生命却不在于此。甚至于竟和名流学者们所拉拢恭维的相反,而在自己并不故意显出长处,也无法灭去名流学者们的所谓长处;只将所说所写,作为改革道中的桥梁,或者竟并不想到作为改革道中的桥梁。

古い手管を用いる者は当然進歩しない。今に至っても、「数百巻の書を読破せざる者」にはよい白話文は書けないと言い、呉稚暉先生を強引に例に引く。しかし「鳥肌を面白がり」、さも嬉しそうに述べ立てる者がまたいるとは、天下のことはまことに千奇百怪である。実のところ呉先生の「話し言葉体で文を為す」ことは、「その貌」さえ何ぞ「黄口の小児の作と同じ」ことがあろう。「筆のおもむくまま、たちまち数万言」ではないか。その中には当然古典があって「黄口の小児」の知らぬところであり、さらに新典があって「束髪の小生」の知らぬところである。清の光緒末年、私が初めて日本の東京に着いた時、この呉稚暉先生はすでに公使蔡鈞と大いに戦っていた。その戦史はそのように長く、見聞の多さは当然今の「黄口の小児」の及ぶところではない。だから彼の言辞用典には、大小の故事に通暁した人物でなければ了然としない箇所が多く、青年から見れば、第一にその文辞の滂沛さに驚くのである。これがおそらく名流学者たちが長所と認めるところであろうが、しかし、その生命はそこにはない。名流学者たちが取り込み媚びる点とはむしろ逆であり、自ら故意に長所を示さず、また名流学者たちの言う長所を消すこともできないのだが、ただ語り書くものを改革の道の橋とする、あるいはそもそも改革の道の橋にしようとさえ思っていないのだ。

愈是无聊赖,没出息的脚色,愈想长寿,想不朽,愈喜欢多照自己的照相,愈要占据别人的心,愈善于摆臭架子。但是,似乎“下意识”里,究竟也觉得自己之无聊的罢,便只好将还未朽尽的“古”一口咬住,希图做着肠子里的寄生虫,一同传世;或者在白话文之类里找出一点古气,反过来替古董增加宠荣。如果“不朽之大业”不过这样,那未免太可怜了罢。而且,到了二九二五年,“黄口小儿”们还要看什么《甲寅》之流,也未免过于可惨罢,即使它“自从孤桐先生下台之后,……也渐渐的有了生气了”。

退屈で見込みのない輩ほど、長寿を望み不朽を望み、自分の写真を多く撮りたがり、他人の心を占めたがり、臭い格好をつけるのが巧みである。しかし「下意識」においてはやはり自分の無聊を感じているのだろうから、やむを得ず、まだ朽ち尽くしていない「古」に噛みつき、腸の中の寄生虫となって一緒に後世に伝わろうとする。あるいは白話文の類の中に少しの古風を見出し、逆に骨董の寵栄を増そうとする。もし「不朽の大業」がこの程度のものならば、あまりに哀れではないか。しかも二九二五年になって「黄口の小児」がなお『甲寅』の類を読まねばならないとすれば、あまりにも惨ではないか。たとえそれが「孤桐先生の下野以後……次第に生気を帯びてきた」としても。

菲薄古书者,惟读过古书者最有力,这是的确的。因为他洞知弊病,能“以子之矛攻子之盾”,正如要说明吸雅片的弊害,大概惟吸过雅片者最为深知,最为痛切一般。但即使“束发小生”,也何至于说,要做戒绝雅片的文章,也得先吸尽几百两雅片才好呢。

古書を菲薄する者で、古書を読んだ者が最も有力なのは、確かである。なぜなら弊害を洞知し、「子の矛を以て子の盾を攻む」ることができるからだ。ちょうど阿片吸引の弊害を説明するには、阿片を吸ったことのある者が最もよく知り、最も痛切であるのと同様だ。しかし「束髪の小生」でさえ、阿片を断つ文章を書くにも、まず数百両の阿片を吸い尽くさねばならないなどと言うだろうか。

古文已经死掉了;白话文还是改革道上的桥梁,因为人类还在进化。便是文章,也未必独有万古不磨的典则。虽然据说美国的某处已经禁讲进化论了,但在实际上,恐怕也终于没有效的。

古文はすでに死んだ。白話文はなお改革の道の橋である。なぜなら人類はまだ進化しているからだ。文章にしても、万古不磨の典則だけがあるわけではなかろう。聞くところではアメリカのある地方ではすでに進化論の講義が禁じられたそうだが、実際には結局効果はあるまい。

(一月二十五日。)

(一月二十五日。)

第8節

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【一点比喻】

【一つの比喩】

在我的故乡不大通行吃羊肉,阖城里,每天大约不过杀几匹山羊。北京真是人海,情形可大不相同了,单是羊肉铺就触目皆是。雪白的群羊也常常满街走,但都是胡羊,在我们那里称绵羊的。山羊很少见;听说这在北京却颇名贵了,因为比胡羊聪明,能够率领羊群,悉依它的进止,所以畜牧家虽然偶而养几匹,却只用作胡羊们的领导,并不杀掉它。

私の故郷では羊肉を食べる習慣はあまり普及しておらず、城中で一日に屠る山羊はおおよそ数匹に過ぎない。北京はまさに人の海で、事情は大いに異なる。羊肉屋だけでも至る所にある。真っ白な羊の群れもしばしば街を歩き回るが、いずれも胡羊で、我々のところでは綿羊と呼ぶものだ。山羊はめったに見かけない。聞くところでは北京ではかなり珍重されるそうだ。胡羊より聡明で、羊の群れを率い、すべてその進退に従わせることができるため、牧畜家はたまに数匹飼うものの、胡羊の嚮導としてのみ用い、殺すことはしないのだ。

这样的山羊我只见过一回,确是走在一群胡羊的前面,脖子上还挂着一个小铃铎,作为智识阶级的徽章。通常,领的赶的却多是牧人,胡羊们便成了一长串,挨挨挤挤,浩浩荡荡,凝着柔顺有余的眼色,跟定他匆匆地竞奔它们的前程。我看见这种认真的忙迫的情形时,心里总想开口向它们发一句愚不可及的疑问——

このような山羊を私は一度だけ見たことがある。確かに胡羊の群れの先頭を歩いており、首に小さな鈴を下げていた。知識階級の徽章のように。通常、導き追い立てるのは多くは牧人であり���胡羊たちは一列の長い行列をなし、ぎゅうぎゅうと押し合い、堂々と、柔順そのものの眼差しを凝らして、牧人について急ぎ、自分たちの前途を競い走る。この真剣で慌ただしい様を見ると、私はいつも心の中で、愚にもつかぬ問いを一言発したくなるのだ——

“往那里去?!”

「どこへ行くのだ?!」

人群中也很有这样的山羊,能领了群众稳妥平静地走去,直到他们应该走到的所在。袁世凯明白一点这种事,可惜用得不大巧,大概因为他是不很读书的,所以也就难于熟悉运用那些的奥妙。后来的武人可更蠢了,只会自己乱打乱割,乱得哀号之声,洋洋盈耳,结果是除了残虐百姓之外,还加上轻视学问,荒废教育的恶名。然而“经一事,长一智”,二十世纪已过了四分之一,脖子上挂着小铃铎的聪明人是总要交到红运的,虽然现在表面上还不免有些小挫折。

人の群れの中にもこのような山羊がいて、群衆を率いて穏やかに平静に歩ませ、彼らが到るべき所まで導くことができる。袁世凱はこの種のことを少し分かっていたが、惜しいことに使い方がそう巧みではなかった。おそらく彼はあまり読書しなかったので、その奥妙を熟知し運用するのが難しかったのだろう。後の武人はさらに愚かで、ただ自分で乱暴に斬ったり割ったりするだけ。哀号の声が耳に満ち溢れ、結果は百姓を残虐にした上に、学問を軽視し教育を荒廃させた悪名まで加わった。しかし「一事を経て一智を長ず」、二十世紀はすでに四分の一を過ぎ、首に小さな鈴を下げた聡明な人は必ず幸運に巡り合うだろう。たとえ今は表面上なお少々の挫折を免れないとしても。

那时候,人们,尤其是青年,就都循规蹈矩,既不嚣张,也不浮动,一心向着“正路”前进了,只要没有人问——

その時、人々、とりわけ青年は、みな規矩に循い矩を蹈み、騒がず浮つかず、ひたすら「正路」に向かって前進するだろう。誰も問わない限りは——

“往那里去?!”

「どこへ行くのだ?!」

君子若曰:“羊总是羊,不成了一长串顺从地走,还有什么别的法子呢?君不见夫猪乎?拖延着,逃着,喊着,奔突着,终于也还是被捉到非去不可的地方去,那些暴动,不过是空费力气而已矣。”

君子は言うであろう。「羊はしょせん羊だ。一列に並んで従順に歩かなければ、他にどんな手段があるか。君は豚を見ないか。引き延ばし、逃げ、叫び、暴れまわって、結局はやはり行かねばならない所に捕まえられてしまう。あの暴動は力の空費に過ぎないのだ。」

这是说:虽死也应该如羊,使天下太平,彼此省力。

つまり、死ぬにしても羊のように死ね、天下太平、互いに手間が省ける、ということだ。

这计划当然是很妥帖,大可佩服的。然而,君不见夫野猪乎?它以两个牙,使老猎人也不免于退避。这牙,只要猪脱出了牧豕奴所造的猪圈,走入山野,不久就会长出来。

この計画はもちろん周到であり、大いに感服すべきものだ。しかし、君は野猪を見ないか。二本の牙を以て、老練な猟師さえ退避せずにはいられない。この牙は、豚が豚飼い奴隷の作った豚小屋を脱出し、山野に入りさえすれば、間もなく生えてくるものだ。

Schopenhauer先生曾将绅士们比作豪猪,我想,这实在有些失体统。但在他,自然是并没有什么别的恶意的,不过拉扯来作一个比喻。《Parerga und Paralipomena》里有着这样意思的话:有一群豪猪,在冬天想用了大家的体温来御寒冷,紧靠起来了,但它们彼此即刻又觉得刺的疼痛,于是乎又离开。然而温暖的必要,再使它们靠近时,却又吃了照样的苦。但它们在这两种困难中,终于发见了彼此之间的适宜的间隔,以这距离,它们能够过得最平安。人们因为社交的要求,聚在一处,又因为各有可厌的许多性质和难堪的缺陷,再使他们分离。他们最后所发见的距离,——使他们得以聚在一处的中庸的距离,就是“礼让”和“上流的风习”。有不守这距离的,在英国就这样叫,“Keep you disatance”

ショーペンハウエル先生はかつて紳士たちを豪猪に喩えた。これは少々体統を失するものと思うが、しかし彼にはもちろん別段の悪意はなく、ただ引っ張ってきて比喩としたに過ぎない。『Parerga und Paralipomena』にこういう趣旨の話がある。一群の豪猪が冬に互いの体温で寒さを凌ごうとして、ぴったりと寄り添った。しかしたちまち互いの針が痛く、また離れた。しかし温かさの必要がまた彼らを近づけると、やはり同じ苦しみを味わった。この二つの困難の中で、彼らはついに互いの適切な間隔を発見した。この距離で最も平穏に過ごせるのだ。人間も社交の欲求から一所に集まるが、各自の厭うべき多くの性質と��え難い欠点のために、再び離散���る。彼らが最後に発見した距離——一所に集まっていられる中庸の距離が、すなわち「礼譲」と「上流の風習」である。この距離を守らない者に対して、イギリスではこう言う。"Keep your distance"と。

但即使这样叫,恐怕也只能在豪猪和豪猪之间才有效力罢,因为它们彼此的守着距离,原因是在于痛而不在于叫的。假使豪猪们中夹着一个别的,并没有刺,则无论怎么叫,它们总还是挤过来。孔子说:礼不下庶人。照现在的情形看,该是并非庶人不得接近豪猪,却是豪猪可以任意刺着庶人而取得温暖。受伤是当然要受伤的,但这也只能怪你自己独独没有刺,不足以让他守定适当的距离。孔子又说:刑不上大夫。这就又难怪人们的要做绅士。

しかしこう言ったところで、おそらく豪猪と豪���の間でのみ効力があるのだろう。なぜなら互いに距離を守るのは、呼びかけによるのではなく、痛みによるのだから。もし豪猪たちの中に針のない別のものが一匹混じっていれば、どんなに叫んでも、豪猪たちはやはり寄ってくるだろう。孔子は言った、「礼は庶人に下さず」と。今の状況を見ると、庶人が豪猪に近づいてはならないのではなく、豪猪が庶人を好きなだけ刺して温もりを得てよいということらしい。傷つくのは当然傷つくが、これもお前自身がひとり針を持たないのが悪い。適切な距離を守らせるに足りないのだと。孔子はまた言った、「刑は大夫に上さず」と。紳士になりたがる人が多いのも無理はない。

这些豪猪们,自然也可以用牙角或棍棒来抵御的,但至少必须拼出背一条豪猪社会所制定的罪名:“下流”或“无礼”。

これらの豪猪たちは、もちろん牙や角や棍棒で防ぐこともできるが、少なくとも、豪猪社会の定めた罪名——「下流」あるいは「無礼」——を背負う覚悟がなければならない。

(一月二十五日。)

(一月二十五日。)

第9節

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【不是信】

一个朋友忽然寄给我一张《晨报副刊》,我就觉得有些特别,因为他是知道我懒得看这种东西的。但既然特别寄来了,姑且看题目罢:《关于下面一束通信告读者们》。署名是:志摩。哈哈,这是寄来和我开玩笑的,我想;赶紧翻转,便是几封信,这寄那,那寄这,看了几行,才知道似乎还是什么“闲话……闲话”问题。这问题我仅知道一点儿,就是曾在新潮社看见陈源教授即西滢先生的信,说及我“捏造的事实,传布的‘流言’,本来已经说不胜说”。不禁好笑;人就苦于不能将自己的灵魂砍成酱,因此能有记忆,也因此而有感慨或滑稽。记得首先根据了“流言”,来判决杨荫榆事件即女师大风潮的,正是这位西滢先生,那大文便登在去年五月三十日发行的《现代评论》上。我不该生长“某籍”又在“某系”教书,所以也被归入“暗中挑剔风潮”者之列,虽然他说还不相信,不过觉得可惜。在这里声明一句罢,以免读者的误解:“某系”云者,大约是指国文系,不是说研究系。那时我见了“流言”字样,曾经很愤然,立刻加以驳正,虽然也很自愧没有“十年读书十年养气的工夫”。不料过了半年,这些“流言”却变成由我传布的了,自造自己的“流言”,这真是自己掘坑埋自己,不必说聪明人,便是傻子也想不通。倘说这回的所谓“流言”,并非关于“某籍某系”的,乃是关于不信“流言”的陈源教授的了,则我实在不知道陈教授有怎样的被捏造的事实和流言在社会上传布。说起来惭愧煞人,我不赴宴会,很少往来,也不奔走,也不结什么文艺学术的社团,实在最不合式于做捏造事实和传布流言的枢纽。只是弄弄笔墨是在所不免的,但也不肯以流言为根据,故意给它传布开来,虽然偶有些“耳食之言”,又大抵是无关大体的事;要是错了,即使月久年深,也决不惜追加订正,例如对于汪原放先生“已作古人”一案,其间竟隔了几乎有两年。——但这自然是只对于看过《热风》的读者说的。

【信にあらず】

这几天,我的“捏……言”罪案,仿佛只等于昙花一现了,《一束通信》的主要部分中,似乎也承情没有将我“流”进去,不过在后屁股的《西滢致志摩》是附带的对我的专论,虽然并非一案,却因为亲属关系而灭族,或文字狱的株连一般。灭族呀,株连呀,又有点“刑名师爷”口吻了,其实这是事实,法家不过给他起了一个名,所谓“正人君子”是不肯说的,虽然不妨这样做。此外如甲对乙先用流言,后来却说乙制造流言这一类事,“刑名师爷”的笔下就简括到只有两个字:“反噬”。呜呼,这实在形容得痛快淋漓。然而古语说,“察见渊鱼者不祥”,所以“刑名师爷”总没有好结果,这是我早经知道的。

我猜想那位寄给我《晨报副刊》的朋友的意思了:来刺激我,讥讽我,通知我的,还是要我也说几句话呢?终于不得而知。好,好在现在正须还笔债,就用这一点事来搪塞一通罢,说话最方便的题目是《鲁迅致□□》,既非根据学理和事实的论文,也不是“笑吟吟”的天才的讽刺,不过是私人通信而已,自己何尝愿意发表;无论怎么说,粪坑也好,毛厕也好,决定与“人气”无关。即不然,也是因为生气发热,被别人逼成的,正如别的副刊将被《晨报副刊》“逼死”一样。我的镜子真可恨,照出来的总是要使陈源教授呕吐的东西,但若以赵子昂——“是不是他?”——画马为例,自然恐怕正是我自己。自己是没有什么要紧的,不过总得替□□想一想。现在不是要谈到《西滢致志摩》么,那可是极其危险的事,一不小心就要跌入“泥潭中”,遇到“悻悻的狗”,暂时再也看不见“笑吟吟”。至少,一关涉陈源两个字,你总不免要被公理家认为“某籍”,“某系”,“某党”,“喽罗”,“重女轻男”……等;而且还得小心记住,倘有人说过他是文士,是法兰斯,你便万不可再用“文士”或“法兰斯”字样,否则,——自然,当然又有“某籍”……等等的嫌疑了,我何必如此陷害无辜,《鲁迅致□□》决计不用,所以一直写到这里,还没有题目,且待写下去看罢。

ある友人が突然『晨報副刊』を一部送ってきた。何やら特別な思いがした。彼は私がこの手のものを読むのを面倒がることを知っているからだ。しかしわざわざ送ってきたのだから、とりあえず題名だけ見てみよう。「以下の一束の通信について読者諸氏に告ぐ」。署名は志摩。ハハ、これは私をからかうために送ってきたのだ、と思った。急いで裏返すと数通の手紙があり、あちらからこちらへ、こちらからあちらへ。数行読んで、どうやらまた例の「閑話……閑話」問題らしいとわかった。この問題について私はほんの少しだけ知っていた。つまり新潮社で陳源教授すなわち西瀅氏の手紙を見たことがあり、そこに私が「捏造した事実、流布した『流言』は、本来すでに言い尽くせないほどだ」と書いてあった。思わず苦笑した。人間は自分の魂を細切れにできないのが辛いところで、それゆえに記憶を持ち、それゆえに感慨や滑稽を覚えるのだ。思い出すに、まず「流言」に基づいて楊蔭楡事件すなわち女師大の騒動を裁断したのは、まさにこの西瀅氏であり、あの大論文は去年五月三十日発行の『現代評論』に掲載された。私は「某省」出身で「某学科」で教えているのがいけなかったので、「陰で紛争を煽っている」者の列に入れられた。もっとも彼はまだ信じないと言い、ただ惜しいと思っているだけだと述べたが。ここで一つ明言しておく。読者の誤解を避けるためだ。「某学科」とはおそらく国文系を指し、研究系を指しているのではない。あの時「流言」の二字を見て、私は大いに憤り、直ちに反駁した。もっとも「十年読書し十年気を養う修養」がないことを恥じはしたが。ところが半年過ぎると、これらの「流言」はいつの間にか私が流布したものに変わっていた。自分で自分の「流言」を捏造するとは、まさに自分で穴を掘って自分を埋めるようなもので、聡明人はもちろん、愚者でも理解できまい。もし今回のいわゆる「流言」が「某省某学科」に関するものではなく、「流言」を信じない陳源教授に関するものだというなら、私は実のところ陳教授にどのような捏造された事実や流言が社会に流布しているのか知らないのだ。恥ずかしいことだが、私は宴会に出ず、往来も少なく、奔走もせず、文芸学術の社団も結ばない。事実の捏造と流言の流布の要となるのは実にふさわしくない。ただ筆墨をいじることは免れないが、流言を根拠にして故意にそれを広めようとはしない。偶に「伝聞」はあるが、大体は大したことではない。もし間違いがあれば、たとえ月日が経っていても、追加訂正を惜しまない。例えば汪原放氏「すでに故人となる」の一件は、その間ほとんど二年の隔たりがあった。——しかしこれはもちろん、『熱風』を読んだことのある読者に対して言っているのだが。

我先前不是刚说我没有“捏造事实”么?那封信里举的却有。说是我说他“同杨荫榆女士有亲戚朋友的关系,并且吃了她许多酒饭”了,其实都不对。杨荫榆女士的善于请酒,我说过的,或者别人也说过,并且偶见于新闻上。现在的有些公论家,自以为中立,其实却偏,或者和事主倒有亲戚,朋友,同学,同乡,……等等关系,甚至于叨光了酒饭,我也说过的。这不是明明白白的么,报社收津贴,连同业中也互讦过,但大家仍都自称为公论。至于陈教授和杨女士是亲戚而且吃了酒饭,那是陈教授自己连结起来的,我没有说曾经吃酒饭,也不能保证未曾吃酒饭,没有说他们是亲戚,也不能保证他们不是亲戚,大概不过是同乡罢,但只要不是“某籍”,同乡有什么要紧呢。绍兴有“刑名师爷”,绍兴人便都是“刑名师爷”的例,是只适用于绍兴的人们的。

我有时泛论一般现状,而无意中触着了别人的伤疤,实在是非常抱歉的事。但这也是没法补救,除非我真去读书养气,一共廿年,被人们骗得老死牖下;或者自己甘心倒掉;或者遭了阴谋。即如上文虽然说明了他们是亲戚并不是我说的话,但因为列举的名词太多了,“同乡”两字,也足以招人“生气”,只要看自己愤然于“流言”中的“某籍”两字,就可想而知。照此看来,这一回的说“叭儿狗”,(《莽原半月刊》第一期)怕又有人猜想我是指着他自己,在那里“悻悻”了。其实我不过是泛论,说社会上有神似这个东西的人,因此多说些它的主人:阔人,太监,太太,小姐。本以为这足见我是泛论了,名人们现在那里还有肯跟太监的呢,但是有些人怕仍要忽略了这一层,各各认定了其中的主人之一,而以“叭儿狗”自命。时势实在艰难,我似乎只有专讲上帝,才可以免于危险,而这事又非我所长。但是,倘使所有的只是暴戾之气,还是让它尽量发出来罢,“一群悻悻的狗”,在后面也好,在对面也好。我也知道将什么之气都放在心里,脸上笔下却全都“笑吟吟”,是极其好看的;可是掘不得,小小的挖一个洞,便什么之气都出来了。但其实这倒是真面目。

ここ数日、私の「捏……言」の罪状は、あたかも曇花一現のようになった。「一束の通信」の主要部分にも、おかげさまで私は「流」し込まれていないようだが、末尾の「西瀅より志摩へ」は私に対する附帯的な専論で、同じ事件ではないが、親族関係による族滅、あるいは文字の獄の連坐のようなものだ。族滅だの連坐だの、また少し「刑名師爺」の口調になったが、実はこれは事実で、法家が名を付けただけだ。いわゆる「正人君子」は口にしないが、やることはやる。このほか甲が乙に対して先に流言を用い、後になって乙が流言を製造したと言うような事を、「刑名師爺」の筆にかかれば二字に括れる——「反噬」。ああ、これはまことに痛快淋漓な形容だ。しかし古語に曰く「淵魚を察見する者は不祥なり」。だから「刑名師爷」には良い末路がない。これは私がとうに知っていることだ。

第二种罪案是“近一些的一个例”,陈教授曾“泛论图书馆的重要”,“说孤桐先生在他未下台以前发表的两篇文章里,这一层‘他似乎没看到’。”我却轻轻地改为“听说孤桐先生倒是想到了这一节,曾经发表过文章,然而下台了,很可惜”了。而且还问道:“你看见吗,那刀笔吏的笔尖?”“刀笔吏”是不会有漏洞的,我却与陈教授的原文不合,所以成了罪案,或者也就不成其为“刀笔吏”了罢。《现代评论》早已不见,全文无从查考,现在就据这一回的话,敬谨改正,为“据说孤桐先生在未下台以前发表的文章里竟也没想到;现在又下了台,目前无法补救了,很可惜”罢。这里附带地声明,我的文字中,大概是用别人的原文用引号,举大意用“据说”,述听来的类似“流言”的用“听说”,和《晨报》大将文例不相同。

第三种罪案是关于我说“北大教授兼京师图书馆副馆长月薪至少五六百元的李四光”的事,据说已告了一年的假,假期内不支薪,副馆长的月薪又不过二百五十元。别一张《晨副》上又有本人的声明,话也差不多,不过说月薪确有五百元,只是他“只拿二百五十元”,其余的“捐予图书馆购买某种书籍”了。此外还给我许多忠告,这使我非常感谢,但愿意奉还“文士”的称号,我是不属于这一类的。只是我以为告假和辞职不同,无论支薪与否,教授也仍然是教授,这是不待“刀笔吏”才能知道的。至于图书馆的月薪,我确信李教授(或副馆长)现在每月“只拿二百五十元”的现钱,是美国那面的;中国这面的一半,真说不定要拖欠到什么时候才有。但欠帐究竟也是钱,别人的兼差,大抵多是欠帐,连一半现钱也没有,可是早成了有些论客的口实了,虽然其缺点是在不肯及早捐出去。我想,如果此后每月必发,而以学校欠薪作比例,中国的一半是明年的正月间会有的,倘以教育部欠俸作比例,则须十七年正月间才有,那时购买书籍来,我一定就更正,只要我还在做“官僚”,因为这容易得知,我也自信还有这样的记性,不至于今年忘了去年事。但是,倘若又被章士钊们革掉,那就莫明其妙,更正的事也只好作罢了。可是我所说的职衔和钱数,在今日却是事实。

あの友人が『晨報副刊』を送ってきた意図を推察する。私を刺激し、皮肉り、通報するためか、それとも私にも何か言わせたいのか?ついに知ることができない。よし、ちょうど筆の借りを返さねばならないところだから、この一件でお茶を濁そう。話すのに最も都合のよい題名は「魯迅より某某へ」だが、学理と事実に基づく論文でもなく、「にこにこ」した天才の諷刺でもない。ただの私信に過ぎず、もとより自分から発表したくはない。どう言おうと、糞壺でもいい、便所でもいい、「人気」とは絶対に無関係だ。そうでなくても、怒りで頭に血が上り、他人に追い詰められたのだ。ちょうど他の副刊が『晨報副刊』に「追い殺される」のと同じだ。私の鏡はまことに忌々しい。映し出すのはいつも陳源教授に嘔吐させるようなものばかりだ。しかし趙子昂——「彼だったかな?」——が馬を描いた例に倣えば、もちろん恐らくまさに私自身だろう。自分のことはどうでもよいが、某某のことはやはり考えてやらねばなるまい。今これから「西瀅より志摩へ」に言及しようとしているが、それは極めて危険なことで、ちょっと足を滑らせれば「泥沼の中」に落ち、「怒り狂った犬」に出くわし、当分「にこにこ」の顔は見られなくなる。少なくとも陳源の二字に関わっただけで、公理家に「某省」、「某学科」、「某党」、「手下」、「女を重んじ男を軽んじる」……等と決めつけられる。しかも、もし誰かが彼を文士と呼んだなら、フランスと呼んだなら、決して再び「文士」や「フランス」の語を用いてはならない。さもなければ——当然、また「某省」……云々の嫌疑がかかる。なぜわざわざ無辜を陥れようか。「魯迅より某某へ」は断じて使わない。だからここまで書いてきてまだ題名がない。書き続けながら考えよう。

第四种的罪案是……。陈源教授说,“好了,不举例了。”为什么呢?大约是因为“本来已经说不胜说”,或者是在矫正“打笔墨官司的时候,谁写得多,骂得下流,捏造得新奇就是谁的理由大”的恶习之故罢,所以就用三个例来概其全般,正如中国戏上用四个兵卒来象征十万大军一样。此后,就可以结束,漫骂——“正人君子”一定另有名称,但我不知道,只好暂用这加于“下流”人等的行为上的话——了。原文很可以做“正人君子”的真相的标本,删之可惜,扯下来粘在后面罢——

“有人同我说,鲁迅先生缺乏的是一面大镜子,所以永远见不到他的尊容。我说他说错了。鲁迅先生的所以这样,正因为他有了一面大镜子。你听见过赵子昂——是不是他?——画马的故事罢?他要画一个姿势,就对镜伏地做出那个姿势来。鲁迅先生的文章也是对了他的大镜子写的,没有一句骂人的话不能应用在他自己的身上。要是你不信,我可以同你打一个赌。”

这一段意思很了然,犹言我写马则自己就是马,写狗自己就是狗,说别人的缺点就是自己的缺点,写法兰斯自己就是法兰斯,说“臭毛厕”自己就是臭毛厕,说别人和杨荫榆女士同乡,就是自己和她同乡。赵子昂也实在可笑,要画马,看看真马就够了,何必定作畜生的姿势;他终于还是人,并不沦入马类,总算是侥幸的。不过赵子昂也是“某籍”,所以这也许还是一种“流言”,或自造,或那时的“正人君子”所造都说不定。这只能看作一种无稽之谈。倘若陈源教授似的信以为真,自己也照样做,则写法兰斯的时候坐下做一个法姿势,讲“孤桐先生”的时候立起作一个孤姿势,倒还堂哉皇哉;可是讲“粪车”也就得伏地变成粪车,说“毛厕”即须翻身充当便所,未免连臭架子也有些失掉罢,虽然肚子里本来满是这样的货色。

先ほど私は自分が「事実を捏造していない」と言ったばかりではないか? しかしあの手紙に挙げられた例にはそれがある。私が陳源氏を「楊蔭楡女史と親戚・友人の関係にあり、しかも彼女にたくさん酒飯をご馳走になった」と言ったそうだが、実はどちらも違う。楊蔭楡女史が宴席を好むことは私も言ったし、あるいは他の人も言ったし、新聞にも見えたことがある。今日のある公論家は自ら中立を称しているが、実は偏っていて、あるいは当事者と親戚・友人・同窓・同郷……等の関係があり、さらには酒飯のご馳走に与ったことさえある。これも私が言ったことだ。明白ではないか。新聞社が補助金を受け取っていることは同業者間でも暴き合ってきたが、それでもみな自ら公論と称している。陳教授と楊女史が親戚でしかも酒飯をご馳走になったというのは、陳教授自身が結びつけたのであって、私は酒飯をご馳走になったとは言っていないし、ご馳走になっていないとも保証できない。親戚だとは言っていないし、親戚でないとも保証できない。おそらくただの同郷だろうが、「某省」でさえなければ、同郷がどうしたというのだ。紹興に「刑名師爺」がいるから、紹興人はすべて「刑名師爺」だという例は、紹興の人々にしか適用されないのだ。

“不是有一次一个报馆访员称我们为‘文士’吗?鲁迅先生为了那名字几乎笑掉了牙。可是后来某报天天鼓吹他是‘思想界的权威者’他倒又不笑了。

“他没有一篇文章里不放几枝冷箭,但是他自己常常的说人‘放冷箭’,并且说‘放冷箭’是卑劣的行为。

“他常常‘散布流言’和‘捏造事实’,如上面举出来的几个例,但是他自己又常常的骂人‘散布流言’‘捏造事实’,并且承认那样是‘下流’。

“他常常的无故骂人,要是那人生气,他就说人家没有‘幽默’。可是要是有人侵犯了他一言半语,他就跳到半天空,骂得你体无完肤——还不肯罢休。”

这是根据了三条例和一个赵子昂故事的结论。其实是称别个为“文士”我也笑,称我为“思想界的权威者”我也笑,但牙却并非“笑掉”,据说是“打掉”的,这较可以使他们快意些。至于“思想界的权威者”等等,我连夜梦里也没有想做过,无奈我和“鼓吹”的人不相识,无从劝止他,不像唱双簧的朋友,可以彼此心照;况且自然会有“文士”来骂倒,更无须自己费力。我也不想借这些头衔去发财发福,有了它于实利上是并无什么好处的。我也曾反对过将自己的小说采入教科书,怕的是教错了青年,记得曾在报上发表;不过这本不是对上流人说的,他们当然不知道。冷箭呢,先是不肯的,后来也放过几枝,但总是对于先“放冷箭”用“流言”的如陈源教授之辈,“请君入瓮”,也给他尝尝这滋味。不过虽然对于他们,也还是明说的时候多,例如《语丝》上的《音乐》就说明是指徐志摩先生,《我的籍和系》和《并非闲话》也分明对西滢即陈源教授而发;此后也还要射,并无悔祸之心。至于署名,则去年以来只用一个,就是陈教授之所谓“鲁迅,即教育部佥事周树人”就是。但在下半年,应将“教育部佥事”五字删去,因为被“孤桐先生”所革;今年却又变了“暂署佥事”了,还未去做,然而豫备去做的,目的是在弄几文俸钱,因为我祖宗没有遗产,老婆没有奁田,文章又不值钱,只好以此暂且糊口。还有一个小目的,是在对于以我去年的免官为“痛快”者,给他一个不舒服,使他恨得扒耳搔腮,忍不住露出本相。至于“流言”,则先已说过,正是陈源教授首先发明的专卖品,独有他听到过许多;在我呢,心术是看不见的东西,且勿说,我的躲在家里的生活即不利于作“捏……言”的枢纽。剩下的只有“幽默”问题了,我又没有说过这些话,也没有主张过“幽默”,也许将这两字连写,今天还算

(以下省略)

第10節

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第一回。我对人是“骂人”,人对我是“侵犯了一言半语”,这真使我记起我的同乡“刑名师爷”来,而且还是弄着不正经的“出重出轻”的玩意儿的时候。这样看来,一面镜子确是该有的,无论生在那一县。还有罪状哩——

第一回。私が人に対するのは「罵倒」であり、人が私に対するのは「一言半句を侵したにすぎない」。これはまことに同郷の「刑名師爺」を思い起こさせる。しかも不正な「軽重を操る」手管を弄している時の師爺を。こう見ると、鏡は一面確かにあるべきもので、どの県に生まれようと。さらに罪状がある——

“他常常挖苦别人家抄袭。有一个学生钞了沫若的几句诗,他老先生骂得刻骨镂心的痛快,可是他自己的《中国小说史略》,却就是根据日本人盐谷温的《支那文学概论讲话》里面的‘小说’一部分。其实拿人家的著述做你自己的蓝本,本可以原谅,只要你在书中有那样的声明,可是鲁迅先生就没有那样的声明。在我们看来,你自己做了不正当的事也就罢了,何苦再去挖苦一个可怜的学生,可是他还尽量的把人家刻薄。‘窃钩者诛,窃国者侯’,本是自古已有的道理。”

「彼はしばしば他人の剽窃を皮肉る。ある学生が沫若の詩を数句書き写したところ、この御大人は刻骨銘心の痛快さで罵った。しかし彼自身の『中国小説史略』は、日本人塩谷温の『支那文学概論講話』の中の『小説』の部分に基づいているのだ。実のところ、人の著述を自分の底本にするのは、もとより許されることだ。書中にそのような明言があれば。しかし魯迅先生にはそのような明言がなかった。我々から見れば、自分が不正なことをしたのはまあよいとして、何も哀れな学生を皮肉りに行かなくてもよいのに、彼はなお力の限り人を刻薄にする。『鉤を窃む者は誅せられ、国を窃む者は侯となる』とは、もとより古来の道理なのだ。」

这“流言”早听到过了;后来见于《闲话》,说是“整大本的摽窃”,但不直指我,而同时有些人的口头上,却相传是指我的《中国小说史略》。我相信陈源教授是一定会干这样勾当的。但他既不指名,我也就只回敬他一通骂街,这可实在不止“侵犯了他一言半语”。这回说出来了;我的“以小人之心”也没有猜错了“君子之腹”。但那罪名却改为“做你自己的蓝本”了,比先前轻得多,仿佛比自谦为“一言半语”的“冷箭”钝了一点似的。盐谷氏的书,确是我的参考书之一,我的《小说史略》二十八篇的

この「流言」はとうに聞いていた。後に『閑話』に現れ、「丸ごと一冊の剽窃」と言ったが、私を直接名指しはせず、しかし同時に一部の人々の口の端では、私の『中国小説史略』を指しているとされた。私は陳源教授がきっとこのような仕業をすると信じている。しかし彼が名指ししない以上、私もただ罵りの一くさりで返礼したのみだが、これはまことに「彼の一言半句を侵した」だけでは済まなかった。今回はっきり言い出した。私の「小人の心」も「君子の腹」を読み違えてはいなかったわけだ。しかし罪名は「自分の底本にした」と改められ、以前よりずっと軽くなった。自ら「一言半句」と謙遜した「冷箭」(暗い矢)より少し鈍くなったかのようだ。塩谷氏の書は確かに私の参考書の一つであり、私の『小説史略』二十八篇の

第11節

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第二篇,是根据它的,还有论《红楼梦》的几点和一张《贾氏系图》,也是根据它的,但不过是大意,次序和意见就很不同。其他二十六篇,我都有我独立的准备,证据是和他的所说还时常相反。例如现有的汉人小说,他以为真,我以为假;唐人小说的分类他据森槐南,我却用我法。六朝小说他据《汉魏丛书》,我据别本及自己的辑本,这工夫曾经费去两年多,稿本有十册在这里;唐人小说他据谬误最多的《唐人说荟》,我是用《太平广记》的,此外还一本一本搜起来……。其余分量,取舍,考证的不同,尤难枚举。自然,大致是不能不同的,例如他说汉后有唐,唐后有宋,我也这样说,因为都以中国史实为“蓝本”。我无法“捏造得新奇”,虽然塞文狄斯的事实和“四书”合成的时代也不妨创造。但我的意见,却以为似乎不可,因为历史和诗歌小说是两样的。诗歌小说虽有人说同是天才即不妨所见略同,所作相像,但我以为究竟也以独创为贵;历史则是纪事,固然不当偷成书,但也不必全两样。说诗歌、小说相类不妨,历史有几点近似便是“剽窃”,那是“正人君子”的特别意见,只在以“一言半语”“侵犯”“鲁迅先生”时才适用的。好在盐谷氏的书听说(!)已有人译成(?)中文,两书的异点如何,怎样“整大本的摽窃”,还是做“蓝本”,不久(?)就可以明白了。在这以前,我以为恐怕连陈源教授自己也不知道这些底细,因为不过是听来的“耳食之言”。不知道对不对?(盐谷教授的《支那文学概论讲话》的译本,今年夏天看见了,将五百余页的原书,译成了薄薄的一本,那小说一部份,和我的也无从对比了。广告上却道“选译”。措辞实在聪明得很。十月十四日补记。)

第二篇は、それに基づいたものであり、さらに『紅楼夢』を論じた数点と「賈氏系図」一枚もそれに基づいている。しかし大意に過ぎず、順序も見解もかなり異なる。その他の二十六篇は、すべて私独自の準備があり、その証拠は彼の所説とはしばしば相反する点にある。たとえば現存する漢人の小説を、彼は真作と考え、私は偽作と考える。唐人小説の分類は、彼は森槐南に拠り、私は自分の方法を用いる。六朝小説は彼が『漢魏叢書』に拠るのに対し、私は別本及び自分の輯本に拠った。この仕事には二年余りの歳月を費やし、稿本十冊がここにある。唐人小説は彼が誤りの最も多い『唐人説薈』に拠るのに対し、私は『太平広記』を用い、さらに一冊一冊蒐集した……。その他の分量、取捨、考証の違いはなおさら枚挙し難い。もちろん、大筋は同じにならざるを得ない。たとえば彼が漢の後に唐あり、唐の後に宋ありと言えば、私もそう言う。いずれも中国の史実を「底本」にしているからだ。私には「奇抜に捏造する」術がない。セルバンテスの事実と「四書」を合成した時代を創造しても構わないとしても。しかし私の意見では、やはりそうすべ���でないと思う。なぜなら歴史と詩歌小説は別物だからだ。詩歌小説は同じ天才なら所見が略ぼ同じで作品が似ていても構わないと言う人もいるが、私はやはり独創をこそ貴しとする。歴史は事を記すものであるから、もちろん既成書を盗むべきではないが、すべてが異なっている必要もない。詩歌・小説が似ていても構わないが、歴史が数点近似していれば「剽窃」だとするのは「正人君子」の特別な意見であり、「一言半句」で「魯迅先生」を「侵す」時にのみ適用されるものだ。幸い塩谷氏の書は聞くところでは(!)すでに人が中国語に訳した(?)そうで、両書の相違点がどうか、いかに「丸ごと一冊の剽窃」か、それとも「底本」にしたのか、間もなく(?)明らかになるだろう。それ以前には、おそらく陳源教授自身もこれらの内幕を知らないと思う。ただの「耳食の言」にすぎないからだ。間違っていたらご指摘を。��塩谷教授の『支那文学概論講話』の訳本は、今年の夏に見かけた。五百余頁の原書が薄い一冊に訳されており、あの小説の部分は私のものと対比しようもなかった。広告には「選訳」とある。措辞は実に巧みである。十月十四日追記。)

しかし私はなお「ある学生が沫若の詩を数句書き写した」件について一言せねばならない。「刻骨銘心の痛快さで罵った」のは、どうやら私ではなかったようだ。なぜなら私は詩にはかねて関心がなく、だから「沫若の詩」も読んだことがなく、したがって他人が剽窃したかどうかはなおさら知らない。陳源教授のあの言葉を、悪く言えば「事実の捏造」であり、わざと他人の私に対する悪感を挑発しているのだから、まさにその本領を発揮していると言える。穏やかに言えば、彼自身がこの手紙を書いた時「発熱」していたと言うのだから、きっと熱が高すぎてうわ言を言い、格好をつけるのを忘れ、不幸にも本性を露呈し、しかも自分が這っているので私が「半天空に跳んだ」ように感じ、自分で皮膚を掻き破ったか、あるいはもともと破れていたのを、私に「罵られて」破れたと思い込んだのだろう。——しかし、私が有意か無意かに紙製の紳士服の一角を破いたことは、おそらくあったかもしれない。今後もないとは保証できない。互いに正面からすれ違えば、擦れたりぶつかったりするのは避けられず、「まだ止めようとしない」わけでもな���。

紳士の跳梁ぶりの醜態は実に格別に見応えがある。久しく隠し蓄えてきたために、一旦発すると下等人よりも濃厚なのだ。今回の発散のおかげで、私はようやく悟った���陳源教授はおそらく、叔華女史の小説挿絵の剽窃を暴いた文章も私が書いたと思い、だからとうに「大盗」の二字を「冷箭」に結びつけて「思想界の権威者」に射かけていた��だ。あいにくこれも私の書いたものではなく、私はそれらの小説を読んでいない。「ビアズリー」の画は好きで見ていたが、本がなかった。あの「剽窃」問題が起きてから、刺激されて Art of A. Beardsley を一冊買った。一元七銭だった。哀れにも教授の心眼に映っていたのは私の影ではなく、叫び跳ねたのはすべて無駄であった。出会った「糞車」もまた心境の産物で、まさに自分の脳裏の品物なのだ。吐きたい唾液は、黙って呑み込むがよかろう。

但我还要对于“一个学生钞了沫若的几句诗”这事说几句话;“骂得刻骨镂心的痛快”的,似乎并不是我。因为我于诗向不留心,所以也没有看过“沫若的诗”,因此即更不知道别人的是否钞袭。陈源教授的那些话,说得坏一点,就是“捏造事实”,故意挑拨别人对我的恶感,真可以说发挥着他的真本领。说得客气一点呢,他自说写这信时是在“发热”,那一定是热度太高,发了昏,忘记装腔了,不幸显出本相;并且因为自己爬着。所以觉得我“跳到半天空”,自己抓破了皮肤或者一向就破着,却以为被我“骂”破了。——但是,我在有意或无意中碰破了一角纸糊绅士服,那也许倒是有的;此后也保不定。彼此迎面而来,总不免要挤擦,碰磕,也并非“还不肯罢休”。

紙面を取りすぎた。私は発熱するほど嬌貴ではないが、急いで締めくくらねばならない。しかしなお大罪状を一つ貼り付けておく——

绅士的跳踉丑态,实在特别好看,因为历来隐藏蕴蓄着,所以一来就比下等人更浓厚。因这一回的放泄,我才悟到陈源教授大概是以为揭发叔华女士的剽窃小说图画的文章,也是我做的,所以早就将“大盗”两字挂在“冷箭”上,射向“思想界的权威者”。殊不知这也不是我做的,我并不看这些小说。“琵亚词侣”的画,我是爱看的,但是没有书,直到那“剽窃”问题发生后,才刺激我去买了一本Art of A. Beardsley来,化钱一元七。可怜教授的心目中所看见的并不是我的影,叫跳竟都白费了。遇见的“粪车”,也是境由心造的,正是自己脑子里的货色,要吐的唾沫,还是静静的咽下去罢。

「彼自身の自伝によれば、民国元年から教育部の官僚となり、一度も離れたことがない。だから袁世凱が帝位を僭称した時も教育部にいたし、曹錕が賄選した時も教育部にいたし、『無恥を代表する彭允彝』が総長になった時も教育部にいた。甚だしくは『無恥を代表する章士釗』に免職された後も、なお大声で『僉事なる官職はさして「些々たる」ものでもない』と喚き、誰かが後任のポストを画策していると言い、軽視された者は『他人の慨りを慨る』のだと言い、かくかくしかじか……これが『青年叛徒の領袖』に見えるか?

太费纸张了,虽然我不至于娇贵到会发热,但也得赶紧的收梢,然而还得粘上一段大罪状——

「実のところ官僚になることはそう大したことではないが、官僚になった上でこんな顔つきを装うのは、少々胸が悪くなる。

“据他自己的自传,他从民国元年便做了教育部的官,从没脱离过。所以袁世凯称帝,他在教育部,曹锟贿选,他在教育部,‘代表无耻的彭允彝’做总长,他也在教育部,甚而至于‘代表无耻的章士钊’免了他的职后,他还大嚷‘佥事这一个官儿倒也并不算怎样的“区区”’,怎样有人在那里钻谋补他的缺,怎样以为无足轻重的人是‘慷他人之慨’,如是如是,这样这样……这像‘青年叛徒的领

袖’吗?

“其实一个人做官也不大要紧,做了官再装出这样的面孔来可叫人有些恶心吧了。

「今また『土匪』の名号を贈られた。よくも言ったものだ、『土匪』とは。」

“现在又有人送他‘土匪’的名号了。好一个‘土匪’。”

苦心孤诣给我加了上去的“土匪”的恶名,这一回忽又否认了,可见唾沫还是静静的咽下去好,免得后来自己舐回去。但是,“文士”别有慧心,那里会给我便宜呢,自然即代以自“袁世凯称帝”以来的罪恶,仿佛“称帝”“贿选”那类事,我既在教育部,即等于全由我一手包办似的。这是真的,从那时以来,我确没有带兵独立过,但我也没有冷笑云南起义,也没有希望国民军失败;对于教育部,其实是脱离过两回,一是张勋复辟时,一就是章士钊长部时,前一回以教授的一点才力自然不知道,后一回却忘却得有些离奇。我向来就“装出这样的面孔”,不但毫不顾忌陈源教授可“有些恶心”,对于“孤桐先生”也一样。要在我的面孔上寻出些有趣来,本来是没头脑的妄想,还是去看别的面孔罢。

苦心惨憺して私にかぶせた「土匪」の悪名を、今回突然また否認した。やはり唾液は黙って呑み込むのがよい。後で自分で舐め戻さずに済むから。しかし「文士」には別の慧眼があり、私に安い思いはさせまい。自然ただちに「袁世凱帝位僭称」以来の罪悪を代わりに持ち出す。あたかも「僭称」「賄選」の類は、私が教育部にいた以上、すべて私が一手に取り仕切ったかのようだ。確かにその時以来、私は兵を率いて独立宣言をしたことはない。しかし雲南起義を冷笑したこともなく、国民軍の失敗を望んだこともない。教育部からは実は二度離れている。一度は張勲の復辟の時、もう一度が章士釗が長官の時だ。前の一度は教授の才力では当然ご存じなかったろうが、後の一度を忘れるのはいささか不思議で���る。私はかねてより「こういう顔つきを装って」いた。陳源教授が「少々胸が悪くな」ろうと毫も意に介さず、「孤桐先生」に対しても同様であった。私の顔に何か面白いものを探そうとするのは、もとより愚かな妄想であり、余所の顔を見に行くがよい。

这类误解似乎不止陈源教授,有些人也往往如此,以为教员清高,官僚是卑下的。真所谓“得意忘形”,“官僚官僚”的骂着。可悲的就在此,现在的骂官僚的人里面,到外国去炸大过一回而且做教员的就很多:所谓“钻谋补他的缺”的也就是这一流,那时我说“佥事这一个官儿倒也并不算怎样的‘区区’”,就为此人的乘机想做官而发,刺他一针,聊且快意,不提防竟又被陈教授“刻骨镂心”的记住了,也许又疑心我向他在“放冷箭”了罢。

この種の誤解は陳源教授だけではなく、一部の人々もしばしばそうである。教員は清高で官僚は卑下だと思い込む。まさに「得意忘形」、「官僚、官僚」と罵る。悲しむべきはここにある。今、官僚を罵る者の中に、外国に行って一度大きく騒いだことがあり、しかも教員をしている者は実に多い。いわゆる「ポストを画策する」者もまさにこの一流であり、あの時私が「僉事なる官職はさして『些々たる』ものでもない」と言ったのは、この人物が機に乗じて官になろうとしたことを刺したのであり、一針刺して溜飲を下げたに過ぎな��。思いがけず陳教授に「刻骨銘心」に記憶されてしまい、おそらくまた私が彼に「冷箭を放った」と疑ったのであろう。

我并非因为自己是官僚,定要上侪于清高的教授之列,官僚的高下也因人而异,如所谓“孤桐先生”,做官时办《甲寅》,佩服的人就很多,下台之后,听说更有生气了。而我“下台”时所做的文章,岂不是不但并不更有生气,还招了陈源教授的一顿“教训”,而且罪孽深重,延祸“面孔”了么?这是以文才和面孔言;至于从别一方面看,则官僚与教授就有“一丘之貉”之叹,这就是说:钱的来源。国家行政机关的事务官所得的所谓俸钱,国立学校的教授所得的所谓薪水,还不是同一来源,出于国库的么?在曹锟政府下做国立学校的教员,和做官的没有大区别。难道教员的是捐给了学校,所以特别清高了?袁世凯称帝时代,陈源教授或者还在外国的研究室里,是到了曹锟贿选前后才做教授的,比我到北京迟得多,福气也比我好得多。曹锟贿选,他做教授,“代表无耻的彭允彝做总长”,他做教授,“甚而至于‘代表无耻的章士钊’做总长”,他自然做教授,我可是被革掉了,甚而至于待到那“甚而至于‘代表无耻的章士钊’”不做总长了,他自然还做教授,归国以来,一帆风顺,一个小钉子也没有碰。这当然是因为有适宜的面孔,不“叫人有些恶心”之故喽。看他脸上既无我一样的可厌的“八字胡子”,也可以说没有“官僚的神情”,所以对于他的面孔,却连我也并没有什么大“恶心”,而且仿佛还觉得有趣。这一类的面孔,只要再白胖一点,也许在中国就不可多得了。

私は自分が官僚だからと言って、清高な教授の列に加わりたいのでは決してない。官僚の高下も人によって異なる。いわゆる「孤桐���生」は在官中に『甲寅』を出し、佩服する人が多かったが、下野後にはさらに生気が出たそうだ。ところが私が「下野」した時に書いた文章は、生気が増すどころか、陳源教授の一頓の「教訓」を招き、しかも罪業深重にして「顔」にまで禍が及んだではないか。これは文才と面相についての話だが、別の面から見れば、官僚と教授には「一丘の貉」の嘆がある。つまり、金の出所のことだ。国家行政機関の事務官が得るいわゆる俸給も、国立学校の教授が得るいわゆる給料も、同じ出所、国庫から出ているのではないか。曹錕政府下で国立学校の教員をするのは、官僚をするのと大差ない。教員は寄付したから特に清高だとでも言うのか。袁世凱帝位僭称の時代、陳源教授はおそらくまだ外国の研究室にいたのであろう。曹錕の賄選の前後に教授になったのだから、私が北京に来た時よりずっと遅く、福分も私よりずっとよい。曹錕が賄選した時、彼は教授をし、「無恥を代表する彭允彝が総長をした」時、彼は教授をし、「甚だしくは『無恥を代表する章士釗』が総長をした」時、彼はもちろん教授をし、私は革免されたのだ。甚だしくは、あの「甚だしくは『無恥を代表する章��釗』」が総長でなくなった後も、彼はもちろんなお教授をしていた。帰国以来一帆風順、小さな釘一本踏んだこともない。これはもちろん適切な顔つきをしていて「人の胸を悪くさせない」からであろう。彼の顔を見れば、私のような厭わしい「八の字髭」もなく、「官僚的な神情」もないと言える。だから彼の顔に対しては、私でさえ別段「胸が悪くなる」こともなく、むしろなかなか面白いとさえ感じる。この種の顔は、もう少し白くふっくらすれば、中国では得難いものかもしれない。

私に余計な言葉を言わせたのは、ただ���が鏡に向かって作った姿勢と「爆発」した蓄積に過ぎないが、たちまちまた隠して大門を閉じ、聞くところでは「おそらくもうこのような筆墨の訴訟はしまい」とのことだ。前の美しい車はすでに杳として、私も門を叩くことはすまい。なぜならこの頃出会うのはおおむね数人の家丁に過ぎないからだ。しかも「国立北京女子師範大学復校記念会」に向かう時間となったので、これにて締めくくることにする。

不免招我说几句费话的不过是他对镜装成的姿势和“爆发”出来的蕴蓄,但又即刻掩了起来,关上大门,据说“大约不再打这样的笔墨官司”了。前面的香车既经杳然,我且不做叫门的事,因为这些时候所遇到的大概不过几个家丁;而且已是往“国立北京女子师范大学复校纪念会”的时候了,就这样的算收束。

(二月一日。)

(二月一日。)

第12節

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【我还不能“带住”】

【私はまだ「手綱を引く」ことができない】

一月三十日《晨报副刊》上满载着一些东西,现在有人称它为“攻周专号”,真是些有趣的玩意儿,倒可以看见绅士的本色。不知怎的,今天的《晨副》忽然将这事结束,照例用通信,李四光教授开场白,徐志摩“诗哲”接后段,一唱一和,甩道“带住!让我们对着混斗的双方猛喝一声,带住!”了。还“声明一句,本刊此后不登载对人攻击的文字”云。

一月三十日の『晨報副刊』にはある種のものが満載されていた。今ではこれを「周攻撃専号」と呼ぶ者もいる。まことに面白い代物で、紳士の本色が見て取れる。どういうわけか、今日の『晨副』は突然この件を終結させ、例によって通信形式で、李四光教授が口火を切り、徐志摩「詩哲」が後段を受け持ち、一唱一和して、「手綱を引け!混闘する双方に向かって一喝しよう、手綱を引け!」と投げかけた。さらに「声明する。本刊は今後、個人攻撃の文章を掲載しない」云々。

他们的什么“闲话……闲话”问题,本与我没有什么鸟相干,“带住”也好,放开也好,拉拢也好,自然大可以随便玩把戏。但是,前几天不是因为“令兄”关系,连我的“面孔”都攻击过了么?我本没有去“混斗”,倒是株连了我。现在我还没有怎样开口呢,怎么忽然又要“带住”了?从绅士们看来,这自然不过是“侵犯”了我“一言半语”,正无须“跳到半天空”,然而我其实也并没有“跳到半天空”,只是还不能这样地谨听指挥,你要“带住”了,我也就“带住”。

彼らの何やら「閑話……閑話」の問題なるものは、もとより私とは何の関わりもない。「手綱を引く」もよし、放すもよし、取り込むもよし、もちろん好きなように芝居をすればよい。しかし数日前、「お兄様」との関係で、私の「顔」まで攻撃されたのではなかったか。私はもともと「混闘」に加わっていなかったのに、とばっちりを受けたのだ。今、私がまだろくに口を開いていないのに、なぜ突然「手綱を引け」なのか。紳士方から見れば、これは「一言半句を侵した」に過ぎず、「半天空に跳び上がる」には及ばない。しかし私も実際「半天空に跳び上がった」のではなく、ただこのように謹んで指揮に従い、あなた方が「手綱を引け」と言えば私も「手綱を引く」という具合にはまだなれないだけだ。

对不起,那些文字我无心细看,“诗哲”所说的要点,似乎是这样闹下去,要失了大学教授的体统,丢了“负有指导青年重责的前辈”的丑,使学生不相信,青年不耐烦了。可怜可怜,有臭赶紧遮起来。“负有指导青年重责的前辈”,有这么多的丑可丢,有那么多的丑怕丢么?用绅士服将“丑”层层包裹,装着好面孔,就是教授,就是青年的导师么?中国的青年不要高帽皮袍,装腔作势的导师;要并无伪饰,——倘没有,也得少有伪饰的导师。倘有戴着假面,以导师自居的,就得叫他除下来,否则,便将它撕下来,互相撕下来。撕得鲜血淋漓,臭架子打得粉碎,然后可以谈后话。这时候,即使只值半文钱,却是真价值;即使丑得要使人“恶心”,却是真面目。略一揭开,便又赶忙装进缎子盒里去,虽然可以使人疑是钻石,也可以猜作粪土,纵使外面满贴着好招牌,法兰斯呀,萧伯讷呀,……毫不中用的!

申し訳ないが、あの文章を私は注意して読む気がなかった。「詩哲」の言う要点は、こう続ければ大学教授の体統を失い、「青年を指導する重責を負う先輩」の恥を晒し、学生に信じてもらえず、青年に愛想を尽かされるということらしい。哀れなことよ、臭いなら急いで覆い隠せ、と。「青年を指導する重責を負う先輩」には、これほど多くの恥があり、これほど恐れる恥があるのか。紳士服で「恥」を幾重にも包み、よい顔つきを装えば、それが教授であり、青年の導師なのか。中国の青年が求めるのは、高帽に毛皮の袍を着て格好をつける導師ではない。偽飾のない——なくとも、偽飾の少ない導師だ。もし仮面をかぶって導師を気取る者がいれば、それを脱がせねばならず、さもなくば引き剥がすのだ。互いに引き剥がすのだ。血まみれに引き裂き、臭い格好を粉々に打ち砕いて、それから後の話ができる。その時、たとえ半文の価値しかなくとも、それは真の価値である。たとえ醜くて「吐き気がする」ほどでも、それは真の姿である。ちょいと蓋を開けてすぐまた緞子の箱に仕舞えば、ダイヤモンドかとも思わせ、糞土かとも推させ得るが、たとえ外側に立派な看板を貼り並べても、フランスだの、バーナード・ショーだの……何の役にも立たないのだ!

李四光教授先劝我“十年读书十年养气”。还一句绅士话罢:盛意可感。书是读过的,不止十年,气也养过的,不到十年,可是读也读不好,养也养不好。我是李教授所早认为应当“投畀豺虎”者之一,此时本已不必温言劝谕,说什么“弄到人家无故受累”,难道真以为自己是“公理”的化身,判我以这样巨罚之后,还要我叩谢天恩么?还有,李教授以为我“东方文学家的风味,似乎格外的充足,……所以总要写到露骨到底,才尽他的兴会。”我自己的意见却绝不同。我正因为生在东方,而且生在中国,所以“中庸”“稳妥”的余毒,还沦肌浃髓,比起法国的勃罗亚——他简直称大报的记者为“蛆虫”——来,真是“小巫见大巫”,使我自惭究竟不及白人之毒辣勇猛。即以李教授的事为例罢:一,因为我知道李教授是科学家,不很“打笔墨官司”的,所以只要可以不提,便不提;只因为要回敬贵会友一杯酒,这才说出“兼差”的事来。二,关于兼差和薪水一节,已在《语丝》(六五)上答复了,但也还没有“写到露骨到底”。

李四光教授はまず私に「十年読書し十年気を養え」と勧めた。もう一言、紳士語でお返しする。ご厚意痛み入る。書は読んだ、十年以上。気も養った、十年には足りないが。しかし読んでもよく読めず、養ってもよく養えなかった。私は李教授がとうに「豺虎に投ぜよ」と認めている者の一人であり、この上温言で諭す必要もなかろう。「人を無辜の累に巻き込んだ」などと、まさか自分を「公理」の化身と思い、この巨罰を下した上に、なお天恩に叩謝せよとでも言うのか。さらに李教授は、私が「東方文学者の風味がことのほか充実しているようで……だからいつも露骨の極みまで書いて、ようやく興が尽きる」と言う。私自身の意見はまったく異なる。私はまさに東方に、しかも中国に生まれたがゆえに、「中庸」「穏当」の余毒がなお肌に沁み骨に浸み、フランスのブロワ——彼は大新聞の記者を端的に「蛆虫」と呼んだ——に比べれば、まさに「小巫が大巫に見えた」であり、つくづく白人の毒辣さ勇猛さに及ばぬことを恥じるのだ。李教授の件を例に取ろう。一、私は李教授が科学者であり、あまり「筆墨の訴訟」をしない人だと知っているので、言わずに済むなら言わなかった。ただ貴会友に一杯返盃するために、ようやく「兼任」の件を言い出したのだ。二、兼任と給料の一節は、すでに『語絲』(六五)で回答したが、まだ「露骨の極みまで書いて」はいない。

我自己也知道,在中国,我的笔要算较为尖刻的,说话有时也不留情面。但我又知道人们怎样地用了公理正义的美名,正人君子的徽号,温良敦厚的假脸,流言公论的武器,吞吐曲折的文字,行私利己,使无刀无笔的弱者不得喘息。倘使我没有这笔,也就是被欺侮到赴诉无门的一个;我觉悟了,所以要常用,尤其是用于使麒麟皮下露出马脚。万一那些虚伪者居然觉得一点痛苦,有些省悟,知道技俩也有穷时,少装些假面目,则用了陈源教授的话来说,就是一个“教训”。只要谁露出真价值来,即使只值半文,我决不敢轻薄半句。但是,想用了串戏的方法来哄骗,那是不行的;我知道的,不和你们来敷衍。

私自身も知っている。中国では、私の筆はかなり辛辣なほうであり、物言いも時に容赦しないと。しかし私はまた知っている。人々がいかに公理正義の美名、正人君子の徽号、温良敦厚の偽面、流言公論の武器、吞吐曲折の文字を用いて、私利を行い私欲を遂げ、刀も筆も持たぬ弱者に息つく暇を与えないかを。もし私にこの筆がなければ、私もまた訴えるすべのないまま虐げられる一人であっただろう。私は覚悟したのだ。だから常に用いる。とりわけ麒麟の皮の下の馬脚を露わにするために。万が一あの偽善者たちが少しでも痛みを感じ、いくらかの省悟を得て、手管にも窮する時があると知り、偽面を少しは減らすなら、陳源教授の言葉を借りれば、それが一つの「教訓」だ。誰でも真の価値を見せてくれさえすれば、たとえ半文の値打ちしかなくとも、私は決して半句たりとも軽蔑しない。しかし芝居の手法で誤魔化そうとするなら、それは通らない。私は分かっている。あなた方に調子を合わせる気はない。

“诗哲”为援助陈源教授起见,似乎引过罗曼罗兰的话,大意是各人的身上都有鬼,但人却只知道打别人身上的鬼。没有细看,说不清了,要是差不多,那就是一并承认了陈源教授的身上也有鬼,李四光教授自然也难逃。他们先前是自以为没有鬼的。假使真知道了自己身上也有鬼,“带住”的事可就容易办了。只要不再串戏,不再摆臭架子,忘却了你们的教授的头衔,且不做指导青年的前辈,将你们的“公理”的旗插到“粪车”上去,将你们的绅士衣装抛到“臭毛厕”里去,除下假面具,赤条条地站出来说几句真话就够了!

「詩哲」は陳源教授を援護するために、ロマン・ロランの言葉を引いたようだ。大意は、誰の身にも鬼がいるが、人は他人の身の鬼を打つことしか知らない、と。よく見なかったので正確には言えないが、もし大体そうなら、陳源教授の身にも鬼がいることを一緒に認めたことになり、李四光教授も当然逃れ難い。彼らは以前、自分には鬼がいないと思っていた。もし本当に自分の身にも鬼がいると知ったなら、「手綱を引く」ことは容易になる。ただ芝居を止め、臭い格好をつけるのを止め、教授の肩書きを忘れ、しばし青年を指導する先輩を気取るのを止め、あなた方の「公理」の旗を「糞車」に挿し、あなた方の紳士の衣装を「臭い便所」に投げ込み、仮面を脱ぎ、裸のまま立ち上がって真実の言葉を数句語ればそれで十分だ!

(二月三日。)

(二月三日。)

第13節

中文 日本語

【送灶日漫笔】

坐听着远远近近的爆竹声,知道灶君先生们都在陆续上天,向玉皇大帝讲他的东家的坏话去了,但是他大概终于没有讲,否则,中国人一定比现在要更倒楣。

灶君升天的那日,街上还卖着一种糖,有柑子那么大小,在我们那里也有这东西,然而扁的,像一个厚厚的小烙饼。那就是所谓“胶牙饧”了。本意是在请灶君吃了,粘住他的牙,使他不能调嘴学舌,对玉帝说坏话。我们中国人意中的神鬼,似乎比活人要老实些,所以对鬼神要用这样的强硬手段,而于活人却只好请吃饭。

【竈送りの日の漫筆】

今之君子往往讳言吃饭,尤其是请吃饭。那自然是无足怪的,的确不大好听。只是北京的饭店那么多,饭局那么多,莫非都在食蛤蜊,谈风月,“酒酣耳热而歌呜呜”么?不尽然的,的确也有许多“公论”从这些地方播种,只因为公论和请帖之间看不出蛛丝马迹,所以议论便堂哉皇哉了。但我的意见,却以为还是酒后的公论有情。人非木石,岂能一味谈理,碍于情面而偏过去了,在这里正有着人气息。况且中国是一向重情面的。何谓情面?明朝就有人解释过,曰:“情面者,面情之谓也。”自然不知道他说什么,但也就可以懂得他说什么。在现今的世上,要有不偏不倚的公论,本来是一种梦想;即使是饭后的公评,酒后的宏议,也何尝不可姑妄听之呢。然而,倘以为那是真正老牌的公论,却一定上当,——但这也不能独归罪于公论家,社会上风行请吃饭而讳言请吃饭,使人们不得不虚假,那自然也应该分任其咎的。

遠近の爆竹の音を座って聞いていると、竈の神様たちが続々と天に昇り、玉皇大帝に自分の主人の悪口を言いに行ったのだとわかる。しかし結局は言わなかったのだろう。さもなければ中国人は今よりもっと運が悪くなっているはずだ。

记得好几年前,是“兵谏”之后,有枪阶级专喜欢在天津会议的时候,有一个青年愤愤地告诉我道:他们那里是会议呢,在酒席上,在赌桌上,带着说几句就决定了。他就是受了“公论不发源于酒饭说”之骗的一个,所以永远是愤然,殊不知他那理想中的情形,怕要到二九二五年才会出现呢,或者竟许到三九二五年。

竈の神が天に昇る日には、街でまだ一種の飴が売られていた。蜜柑ほどの大きさで、我々のところにもあったが、平たくて、厚めの小さな焼き餅のようだった。それがいわゆる「膠牙餳」(歯を粘らせる飴)である。本来の意図は竈の神に食べさせて歯をくっつけ、口がきけないようにして、玉帝に悪口を言わせないようにすることだ。我々中国人の心の中の神仏は、どうやら生きた人間よりも正直らしい。だから神仏にはこのような強硬手段を用い、生きた人間にはただ宴会に招くしかないのだ。

然而不以酒饭为重的老实人,却是的确也有的,要不然,中国自然还要坏。有些会议,从午后二时起,讨论问题,研究章程,此问彼难,风起云涌,一直到七八点,大家就无端觉得有些焦躁不安,脾气愈大了,议论愈纠纷了,章程愈渺茫了,虽说我们到讨论完毕后才散罢,但终于一哄而散,无结果。这就是轻视了吃饭的报应,六七点钟时分的焦躁不安,就是肚子对于本身和别人的警告,而大家误信了吃饭与讲公理无关的妖言,毫不瞅睬,所以肚子就使你演说也没精采,宣言也——连草稿都没有。

今の君子はしばしば食事の話を避ける。とりわけ招待する食事の話を。それは無理もないことで、確かに体裁のよいものではない。ただ北京のレストランがあれほど多く、宴会があれほど多いのは、まさかみな蛤蜊を食べて風月を語り、「酒酣にして耳熱し、歌うたうこと嗚呜」としているだけなのか?そうとは限らない。確かに多くの「公論」がこれらの場所から種を蒔かれているのだが、公論と招待状の間にはくもの糸の痕跡も見えないから、議論は堂々としたものとなる。しかし私の意見では、やはり酒の後の公論の方が情がある。人は木石ではない。一方的に理屈だけを語ることなどできようか。面子に障って偏るのは、そこにこそ人間味がある。しかも中国はもともと面子を重んじる国だ。面子とは何か?明代にすでに解釈した人がいる。曰く、「面子とは、面の情というものなり。」もちろん何を言っているのかわからないが、しかしまた何を言っているかわかるのだ。今の世に偏りのない公論があるなどということは、もとより夢想に過ぎない。たとえ食後の公評、酒後の宏議であっても、仮にそう聞いてみてもよいではないか。しかしもしそれを本物の由緒正しい公論だと思えば、きっと痛い目にあう。——しかしこれを公論家だけの罪に帰すこともできない。社会全体が宴会招待を流行させながらそれを口にしないのだから、人々が虚偽にならざるを得ず、その咎を分担すべきなのだ。

但我并不说凡有一点事情,总得到什么太平湖饭店、撷英番菜馆之类里去开大宴;我于那些店里都没有股本,犯不上替他们来拉主顾,人们也不见得都有这么多的钱。我不过说,发议论和请吃饭,现在还是有关系的;请吃饭之于发议论,现在也还是有益处的;虽然,这也是人情之常,无足深怪的。

顺便还要给热心而老实的青年们进一个忠告,就是没酒没饭的开会,时候不要开得太长,倘若时候已晚了,那么,买几个烧饼来吃了再说。这么一办,总可以比空着肚子的讨论容易有结果,容易得收场。

もう何年も前、「兵諫」の後の、銃を持つ階級がもっぱら天津で会議を好んだ頃のことだが、ある青年が憤慨して私に言った。彼らのあれは会議なんかじゃない、酒席の上で、賭博台の上で、ついでに数句交わして決めてしまうのだ、と。彼はまさに「公論は酒飯から生まれるものではない」という説に騙された一人であり、だからいつまでも憤然としていたのだが、彼の理想とする状況が実現するのは、おそらく二九二五年まで待たねばなるまい。あるいは三九二五年かもしれない。

胶牙饧的强硬办法,用在灶君身上我不管它怎样,用之于活人是不大好的。倘是活人,莫妙于给他醉饱一次,使他自己不开口,却不是胶住他。中国人对人的手段颇高明,对鬼神却总有些特别,二十三夜的捉弄灶君即其一例,但说起来也奇怪,灶君竟至于到了现在,还仿佛没有省悟

似的。

道士们的对付“三尸神”,可是更利害了。我也没有做过道士,详细是不知道的,但据“耳食之言”,则道士们以为人身中有三尸神,到有一日,便乘人熟睡时,偷偷地上天去奏本身的过恶。这实在是人体本身中的奸细,《封神传演义》常说的“三尸神暴躁,七窍生烟”的三尸神,也就是这东西。但据说要抵制他却不难,因为他上天的日子是有一定的,只要这一日不睡觉,他便无隙可乘,只好将过恶都放在肚子里,再看明年的机会了。连胶牙饧都没得吃,他实在比灶君还不幸,值得同情。

しかし酒飯を重んじない正直な人は確かにいる。さもなければ中国はもっと悪くなっているだろう。ある種の会議では午後二時から始まり、問題を討論し、規則を研究し、こちらが問えばあちらが難じ、風起こり雲湧き、七時八時になると、みんなわけもなくいくらか苛立ちを覚え、気性がますます荒くなり、議論がますます紛糾し、規則がますます漠然としてくる。「討論が終わるまで散会しない」と言いながら、結局は蜂の巣をつついたように散会し、結果なし。これが食事を軽視した報いだ。六七時頃の苛立ちこそ、腹が自分自身と他人に対して発した警告であり、みんなが食事と公理の議論は無関係だという妖言を信じ、まったく取り合わなかったから、腹は演説をしても精彩なく、宣言も——草稿すらないという有様にさせたのだ。

三尸神不上天,罪状都放在肚子里;灶君虽上天,满嘴是糖,在玉皇大帝面前含含胡胡地说了一通,又下来了。对于下界的情形,玉皇大帝一点也听不懂,一点也不知道,于是我们今年当然还是一切照旧,天下

太平。

我们中国人对于鬼神也有这样的手段。

しかし私はちょっとした事があれば必ず太平湖飯店だの撷英番菜館だのの類に行かねばならないと言っているのではない。

我们中国人虽然敬信鬼神;却以为鬼神总比人们傻,所以就用了特别的方法来处治他。至于对人,那自然是不同的了,但还是用了特别的方法来处治,只是不肯说;你一说,据说你就是卑视了他了。诚然,自以为看穿了的话,有时也的确反不免于浅薄。

(二月五日。)

第14節

中文 日本語

【谈皇帝】

中国人的对付鬼神,凶恶的是奉承,如瘟神和火神之类,老实一点的就要欺侮,例如对于土地或灶君。待遇皇帝也有类似的意思。君民本是同一民族,乱世时“成则为王败则为贼”,平常是一个照例做皇帝,许多个照例做平民;两者之间,思想本没有什么大差别。所以皇帝和大臣有“愚民政策”,百姓们也自有其“愚君政策”。

【皇帝を談ず】

中国人の鬼神に対する態度は、凶悪なものにはへつらい、疫病神や火神の類がそうだが、大人しいものには虐げる。土地神や竈神に対するのがそうだ。皇帝に対する待遇にも似たところがある。君主と民はもとより同じ民族であり、乱世には「成れば王、敗れれば賊」、平時には一人が例によって皇帝をし、多くの者が例によって平民をする。両者の間に、思想の大きな差はもとよりない。だから皇帝と大臣には「愚民政策」があり、百姓たちにもまた自前の「愚君政策」がある。

往昔的我家,曾有一个老仆妇,告诉过我她所知道,而且相信的对付皇帝的方法。她说——

昔、我が家にいた年老いた下女が、彼女の知っている、そして信じている皇帝への対処法を教えてくれたことがある。彼女は言った——

“皇帝是很可怕的。他坐在龙位上,一不高兴,就要杀人;不容易对付的。所以吃的东西也不能随便给他吃,倘是不容易办到的,他吃了又要,一时办不到;——譬如他冬天想到瓜,秋天要吃桃子,办不到,他就生气,杀人了。现在是一年到头给他吃波菜,一要就有,毫不为难。但是倘说是波菜,他又要生气的,因为这是便宜货,所以大家对他就不称为波菜,另外起一个名字,叫作‘红嘴绿鹦哥’。”

「皇帝はとても恐ろしいのよ。龍の御座にお座りになって、少しでもご機嫌が悪いと人を殺す。扱いにくいの。だから食べ物もうかつなものを差し上げられない。手に入りにくいものを召し上がって、またお望みになり、すぐに調達できなければ——たとえば冬に瓜を思いつき、秋に桃を食べたいと仰っても調達できなければ、お怒りになって人を殺すの。だから一年中ホウレンソウを差し上げるの。お望みになればすぐあるし、何の面倒もない。でもホウレンソウと言ったらまたお怒りになるの。安物だから。だから皆、ホウレンソウとは呼ばず、別の名前をつけて『赤嘴緑鸚哥』と申し上げるの。」

私の故郷では、ホウレンソウは一年中ある。根がとても赤く、まさに鸚鵡の嘴のようだ。

在我的故乡,是通年有波菜的,根很红,正如鹦哥的嘴一样。

这样的连愚妇人看来,也是呆不可言的皇帝,似乎大可以不要了。然而并不,她以为要有的,而且应该听凭他作威作福。至于用处,仿佛在靠他来镇压比自己更强梁的别人,所以随便杀人,正是非备不可的要件。然而倘使自己遇到,且须侍奉呢?可又觉得有些危险了,因此只好又将他练成傻子,终年耐心地专吃着“红嘴绿鹦哥”。

このように愚かな婦人が見ても愚鈍極まりない皇帝なら、もういらないだろうと思いそうなものだ。しかしそうではなく、彼女はいるべきだと考え、しかも好き放題に威を振るわせるべきだと思っていた。その用途はと言えば、自分よりも強い他の者を鎮圧してもらうためらしく、だから勝手に人を殺すのは、まさに備えておかねばならない要件なのだ。しかしもし自分が遭遇し、しかも仕えねばならないとなると、いささか危険を感じるので、やむを得ず彼を馬鹿に仕立て上げ、年がら年中辛抱強く「赤嘴緑鸚哥」だけを食べさせるのだ。

実のところ、彼の名位を利用して「天子を挟んで諸侯に令す」者も、我が老いた下女と意図も方法も同じである。ただし一方では弱くあってほしく、他方では愚かであってほしいのだ。儒家が「聖君」に頼って道を行おうとするのもこの手管であり、「頼る」からには威重にして位高くあってほしく、操縦に便なるために、かなり実直で言うことを聞いてほしいのだ。

其实利用了他的名位,“挟天子以令诸侯”的,和我那老仆妇的意思和方法都相同,不过一则又要他弱,一则又要他愚。儒家的靠了“圣君”来行道也就是这玩意,因为要“靠”,所以要他威重,位高;因为要便于操纵,所以又要他颇老实,听话。

皇帝が一たび自己の無上の威権を自覚すると、面倒なことになる。「普天の下、皇土にあらざるはなし」だから、彼は好き放題をし始め、しかも「我より得て、我より失う、我また何をか恨まん」と言うのだ! そこで聖人の徒もやむなく「赤嘴緑鸚哥」を召し上がっていただくしかない。これがいわゆる「天」である。天子の行いはすべて天意を体得し、勝手なことをしてはならないとされるが、この「天意」なるものは、あいにく儒者たちだけが知っているのだ。

かくして決まった。皇帝たらんとすれば、彼らに教えを請わねばならないと。

皇帝一自觉自己的无上威权,这就难办了。既然“普天之下,莫非皇土”,他就胡闹起来,还说是“自我得之,自我失之,我又何恨”哩!于是圣人之徒也只好请他吃“红嘴绿鹦哥”了,这就是所谓“天”。据说天子的行事,是都应该体帖天意,不能胡闹的;而这“天意”也者,又偏只有儒者们知道着。

ところが分をわきまえぬ皇帝がまた好き放題を始める。「天」を説いても、彼は言う、「我が生、命は天にあるにあらずや?!」と。天意を仰ぎ体するどころか、天に逆らい、天に背き、「天を射る」。まさに国をめちゃくちゃにし、天を頼りに飯を食う聖賢君子たちを、泣くに泣けず笑うに笑えなくさせる。

这样,就决定了:要做皇帝就非请教他们不可。

そこで彼らはやむを得ず著書立説して一通り罵り、百年後——すなわち自分の死後——に大いに世に行われるだろうと予期し、これで大したものだと自負する。

然而不安分的皇帝又胡闹起来了。你对他说“天”么,他却道,“我生不有命在天?!”岂但不仰体上天之意而已,还逆天,背天,“射天”,简直将国家闹完,使靠天吃饭的圣贤君子们,哭不得,也笑不得。

しかしそれらの書物に記されているのは、せいぜい「愚民政策」も「愚君政策」もすべて成功しなかったということだけである。

于是乎他们只好去著书立说,将他骂一通,豫计百年之后,即身殁之后,大行于时,自以为这就了不得。

但那些书上,至多就止记着“愚民政策”和“愚君政策”全都不

(二月十七日。)

成功。

(二月十七日。)

第15節

中文 日本語

【无花的蔷薇】

又是Schopenhauer先生的话——

“无刺的蔷薇是没有的。——然而没有蔷薇的刺却很多。”

题目改变了一点,较为好看了。

“无花的蔷薇”也还是爱好看。

2

去年,不知怎的这位勖本华尔先生忽然合于我们国度里的绅士们的脾胃了,便拉扯了他的一点《女人论》;我也就夹七夹八地来称引了好几回,可惜都是刺,失了蔷薇,实在大煞风景,对不起绅士们。

【花なき薔薇】

记得幼小时候看过一出戏,名目忘却了,一家正在结婚,而勾魂的无常鬼已到。夹在婚仪中间,一同拜堂,一同进房,一同坐床……实在大煞风景,我希望我还不至于这样。

3

有人说我是“放冷箭者”。

我对于“放冷箭”的解释,颇有些和他们一流不同,是说有人受伤,而不知这箭从什么地方射出。所谓“流言”者,庶几近之。但是我,却明明站在这里。

但是我,有时虽射而不说明靶子是谁,这是因为初无“与众共弃”之心,只要该靶子独自知道,知道有了洞,再不要面皮鼓得急绷绷,我的事就完了。

4

蔡孑民先生一到上海,《晨报》就据国闻社电报郑重地发表他的谈话,而且加以按语,以为“当为历年潜心研究与冷眼观察之结果,大足诏示国人,且为知识阶级所注意也。”

我很疑心那是胡适之先生的谈话,国闻社的电码有些错误了。

5

豫言者,即先觉,每为故国所不容,也每受同时人的迫害,大人物也时常这样。他要得人们的恭维赞叹时,必须死掉,或者沉默,或者不在

面前。

总而言之,第一要难于质证。

如果孔丘,释迦,耶稣基督还活着,那些教徒难免要恐慌。对于他们的行为,真不知道教主先生要怎样慨叹。

所以,如果活着,只得迫害他。

待到伟大的人物成为化石,人们都称他伟人时,他已经变了傀儡了。

有一流人之所谓伟大与渺小,是指他可给自己利用的效果的大小

而言。

法国罗曼罗兰先生今年满六十岁了。晨报社为此征文,徐志摩先生于介绍之余,发感慨道:“……但如其有人拿一些时行的口号,什么打倒帝国主义等等,或是分裂与猜忌的现象,去报告罗兰先生说这是新中国,我再也不能预料他的感想了。”(《晨副》一二九九)

またもショーペンハウアー先生の言葉——

他住得远,我们一时无从质证,莫非从“诗哲”的眼光看来,罗兰先生的意思,是以为新中国应该欢迎帝国主义的么?

“诗哲”又到西湖看梅花去了,一时也无从质证。不知孤山的古梅,著花也未,可也在那里反对中国人“打倒帝国主义”?

7

志摩先生曰:“我很少夸奖人的。但西滢就他学法郎士的文章说,我敢说,已经当得起一句天津话:‘有根’了。”而且“像西滢这样,在我看来,才当得起‘学者’的名词。”(《晨副》一四二三)

西滢教授曰:“中国的新文学运动,方在萌芽,可是稍有贡献的人,如胡适之,徐志摩,郭沫若,郁达夫,丁西林,周氏兄弟等等都是曾经研究过他国文学的人。尤其是志摩他非但在思想方面,就是在体制方面,他的诗及散文,都已经有一种中国文学里从来不曾有过的风格。”(《现代》六三)

「棘のない薔薇はない。——しかし薔薇のない棘は実に多い。」

虽然抄得麻烦,但中国现今“有根”的“学者”和“尤其”的思想家及文人,总算已经互相选出了。

志摩先生曰:“鲁迅先生的作品,说来大不敬得很,我拜读过很少,就只《呐喊》集里两三篇小说,以及新近因为有人尊他是中国的尼采他的《热风》集里的几页。他平常零星的东西,我即使看也等于白看,没有看进去或是没有看懂。”(《晨副》一四三三)

西滢教授曰:“鲁迅先生一下笔就构陷人家的罪状。……可是他的文章,我看过了就放进了应该去的地方——说句体己话,我觉得它们就不应该从那里出来——手边却没有。”(同上)

題名を少し変えた方が見栄えがよくなった。

虽然抄得麻烦,但我总算已经被中国现在“有根”的“学者”和“尤其”的思想家及文人协力踏倒了。

9

但我愿奉还“曾经研究过他国文学”的荣名。“周氏兄弟”之一,一定又是我了。我何尝研究过什么呢,做学生时候看几本外国小说和文人传记,就能算“研究过他国文学”么?

该教授——恕我打一句“官话”——说过,我笑别人称他们为“文士”,而不笑“某报天天鼓吹”我是“思想界的权威者”。现在不了,不但笑,简直唾弃它。

10

其实呢,被毁则报,被誉则默,正是人情之常。谁能说人的左颊既受爱人接吻而不作一声,就得援此为例,必须默默地将右颊给仇人咬一

口呢?

我这回的竟不要那些西滢教授所颁赏陪衬的荣名,“说句体己话”罢,实在是不得已。我的同乡不是有“刑名师爷”的么?他们都知道,有些东西,为要显示他伤害你的时候的公正,在不相干的地方就称赞你几句,似乎有赏有罚,使别人看去,很像无私……。

「花なき薔薇」——しかし棘はある。すなわち棘のみで花がない——しかし花がないことを怒ることはできない。花を栽培する人間が花を摘み取ったのだから。

“带住!”又要“构陷人家的罪状”了。只是这一点,就已经够使人“即使看也等于白看”,或者“看过了就放进了应该去的地方”了。

(二月二十七日。)

第16節

中文 日本語

【无花的蔷薇之二】

英国勃尔根贵族曰:“中国学生只知阅英文报纸,而忘却孔子之教。英帝国之大敌,即此种极力诅咒帝国而幸灾乐祸之学生。……中国为过激党之最好活动场……。”(一九二五年六月三十日伦敦路透电。)

南京通信云:“基督教城中会堂聘金大教授某种学博士讲演,中有谓孔子乃耶稣之信徒,因孔子吃睡时皆祷告上帝。当有听众……质问何所据而云然;博士语塞。时乃有教徒数人,突紧闭大门,声言‘发问者,乃苏俄卢布买收来者’。当呼警捕之。……”(三月十一日《国民公报》。)

【花なき薔薇 その二】

苏俄的神通真是广大,竟能买收叔梁纥,使生孔子于耶稣之前,则“忘却孔子之教”和“质问何所据而云然”者,当然都受着卢布的驱使无疑了。

2

西滢教授曰:“听说在‘联合战线’中,关于我的流言特别多,并且据说我一个人每月可以领到三千元。‘流言’是在口上流的,在纸上到也不大见。”(《现代》六十五。)

该教授去年是只听到关于别人的流言的,却由他在纸上发表;据说今年却听到关于自己的流言了,也由他在纸上发表。“一个人每月可以领到三千元”,实在特别荒唐,可见关于自己的“流言”都不可信。但我以为关于别人的似乎倒是近理者居多。

3

据说“孤桐先生”下台之后,他的什么《甲寅》居然渐渐的有了活气了。可见官是做不得的。

然而他又做了临时执政府秘书长了,不知《甲寅》可仍然还有活气?如果还有,官也还是做得的……。

4

已不是写什么“无花的蔷薇”的时候了。

虽然写的多是刺,也还要些和平的心。

现在,听说北京城中,已经施行了大杀戮了。当我写出上面这些无聊的文字的时候,正是许多青年受弹饮刃的时候。呜呼,人和人的魂灵,是不相通的。

5

中华民国十五年三月十八日,段祺瑞政府使卫兵用步枪大刀,在国务院门前包围虐杀徒手请愿,意在援助外交之青年男女,至数百人之多。还要下令,诬之曰“暴徒”!

如此残虐险狠的行为,不但在禽兽中所未曾见,便是在人类中也极少有的,除却俄皇尼古拉二世使可萨克兵击杀民众的事,仅有一点相像。

中国只任虎狼侵食,谁也不管。管的只有几个年青的学生,他们本应该安心读书的,而时局漂摇得他们安心不下。假如当局者稍有良心,应如何反躬自责,激发一点天良?

然而竟将他们虐杀了!

7

假如这样的青年一杀就完,要知道屠杀者也决不是胜利者。

中国要和爱国者的灭亡一同灭亡。屠杀者虽然因为积有金资,可以比较长久地养育子孙,然而必至的结果是一定要到的。“子孙绳绳”又何足喜呢?灭亡自然较迟,但他们要住最不适于居住的不毛之地,要做最深的矿洞的矿工,要操最下贱的生业……。

イギリスのバーゲン貴族曰く、「中国の学生はただ英文新聞を読むのみにして、孔子の教えを忘却せり。大英帝国の大敵とは、すなわちかくの如き帝国を呪詛し幸災楽禍する学生なり。……中国は過激派の最も好き活動場なり……。」

8

如果中国还不至于灭亡,则已往的史实示教过我们,将来的事便要大出于屠杀者的意料之外——

这不是一件事的结束,是一件事的开头。

墨写的谎说,决掩不住血写的事实。

血债必须用同物偿还。拖欠得愈久,就要付更大的利息!

9

以上都是空话。笔写的,有什么相干?

实弹打出来的却是青年的血。血不但不掩于墨写的谎语,不醉于墨写的挽歌;威力也压它不住,因为它已经骗不过,打不死了。

(三月十八日,民国以来最黑暗的一天,写。)

第17節

中文 日本語

【“死地”】

从一般人,尤其是久受异族及其奴仆鹰犬的蹂躏的中国人看来,杀人者常是胜利者,被杀者常是劣败者。而眼前的事实也确是这样。

【「死地」】

三月十八日段政府惨杀徒手请愿的市民和学生的事,本已言语道断,只使我们觉得所住的并非人间。但北京的所谓言论界,总算还有评论,虽然纸笔喉舌,不能使洒满府前的青年的热血逆流入体,仍复苏生转来。无非空口的呼号,和被杀的事实一同逐渐冷落。

一般の人々、とりわけ長く異民族とその奴僕・鷹犬の蹂躙を受けてきた中国人から見れば、殺す者は常に勝利者であり、殺される者は常に劣敗者である。そして目の前の事実も確かにそうである。

但各种评论中,我觉得有一些比刀枪更可以惊心动魄者在。这就是几个论客,以为学生们本不应当自蹈死地。那就中国人真将死无葬身之所,除非是心悦诚服地充当奴子,“没齿而无怨言”。不过我还不知道中国人的大多数人的意见究竟如何。假使也这样,则岂但执政府前,便是全中国,也无一处不是死地了。

三月十八日、段政府が徒手で請願する市民と学生を惨殺した事件は、もはや言語道断であり、我々に自分の住む所が人間界ではないと感じさせるだけだった。しかし北京のいわゆる言論界は、まだしも評論があった。紙筆と喉舌によって、府前に撒き散らされた青年の熱血を逆流させて体に戻し、蘇生させることはできないにしても。空虚な叫びに過ぎず、殺戮の事実とともに次第に冷め落ちていくだけだ。

しかし様々な評論の中に、私は刀や銃よりもなお人の心胆を驚かすものがあると感じた。すなわち、数人の論客が、学生たちはもともと自ら死地に赴くべきではなかったと論じたことだ。それならば中国人はまことに葬身の地さえなくなり、心悦誠服して奴隷となり、「歯尽きるまで怨みの言なし」とする以外にない。もっとも、中国人の大多数の意見が実際はどうなのか、私にはまだ分からない。もしそうであるなら、執政府の前どころか、全中国、どこ一つとして死地でないところはなくなる。

人们的苦痛是不容易相通的。因为不易相通,杀人者便以杀人为唯一要道,甚至于还当作快乐。然而也因为不容易相通,所以杀人者所显示的“死之恐怖”,仍然不能够儆戒后来,使人民永远变作牛马。历史上所记的关于改革的事,总是先仆后继者,大部分自然是由于公义,但人们的未经“死之恐怖”,即不容易为“死之恐怖”所慑,我以为也是一个很大的

人々の苦痛は容易に通じ合わない。通じ合わないがゆえに、殺す者は殺すことを唯一の要道とし、さらには快楽とさえ思う。しかしまた容易に通じ合わないがゆえに、殺す者が示す「死の恐怖」は、なお後来を戒め、人民を永遠に牛馬に変えることはできないのだ。歴史に記される改革に関する事は、つねに先に倒れた者の後に続く者があり、大部分はもちろん公義によるものだが、人々がまだ「死の恐怖」を経験していないがゆえに、容易に「死の恐怖」に怯まないのも、大きな原因の一つだと私は思う。

しかし私は切に希望する。「請願」という事は、これをもって終わりにしてほしい。もしこれほど多くの血を以て、ついにこのような覚悟と決意を得、しかも永遠に記念するなら、まだそれほど大きな損失とは言えまい。

原因。

但我却恳切地希望:“请愿”的事,从此可以停止了。倘用了这许多血,竟换得一个这样的觉悟和决心,而且永远纪念着,则似乎还不算是很大的折本。

世界の進歩は、もちろんおおむね流血から得られる。しかしこれは血の量とは関係がない。なぜなら世にはまた、血を多く流しながら民族がかえって次第に滅亡に向かった先例もあるからだ。今回にしても、これほど多くの生命の損失で、わずかに「自ら死地に赴いた」との批判を得ただけだが、それだけですでに一部の人心の機微を我々に示し、中国の死地がいかに広大であるかを知らしめた。

世界的进步,当然大抵是从流血得来。但这和血的数量,是没有关系的,因为世上也尽有流血很多,而民族反而渐就灭亡的先例。即如这一回,以这许多生命的损失,仅博得“自蹈死地”的批判,便已将一部分人心的机微示给我们,知道在中国的死地是极其广博。

いまちょうどロマン・ロランの『Le Jeu de L'Amour et de La Mort』が手元にある。その中でこう述べている。ガルは、人類が進歩のためには少々の汚点があっても構わず、万やむを得なければ多少の罪悪があっても構わないと主張した。しかし彼らはクルバジを殺すことを欲しなかった。なぜなら共和国は腕に彼の死体を抱くことを好まないからだ。あまりに重すぎるから。

现在恰有一本罗曼罗兰的《Le Jeu de L’Amour et de La Mort》在我面前,其中说:加尔是主张人类为进步计,即不妨有少许污点,万不得已,也不妨有一点罪恶的;但他们却不愿意杀库尔跋齐,因为共和国不喜欢在臂膊上抱着他的死尸,因为这过于沉重。

死体の重さを感じ、抱持することを欲しない民族にあっては、先烈の「死」は後人の「生」の唯一の霊薬である。しかし死体の重さを感じなくなった民族にあっては、ともに沈没を圧しつける物に過ぎない。

中国の改革を志す青年は、死体の重さを知っている。だからいつも「請願」するのだ。あいにく別に、死体の重さを感じない人々がおり、しかも「死体の重さを知る」心もろとも屠殺してしまうのだ。

会觉得死尸的沉重,不愿抱持的民族里,先烈的“死”是后人的“生”的唯一的灵药,但倘在不再觉得沉重的民族里,却不过是压得一同沦灭的东西。

死地は確かにすでに前方にある。中国のために、覚悟した青年は軽々しく死を選ぶべきでなくなったであろう。

中国的有志于改革的青年,是知道死尸的沉重的,所以总是“请愿”。殊不知别有不觉得死尸的沉重的人们在,而且一并屠杀了“知道死尸的沉重”的心。

(三月二十五日。)

死地确乎已在前面。为中国计,觉悟的青年应该不肯轻死了罢。

(三月二十五日。)

第18節

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【可惨与可笑】

三月十八日的惨杀事件,在事后看来,分明是政府布成的罗网,纯洁的青年们竟不幸而陷下去了,死伤至于三百多人。这罗网之所以布成,其关键就全在于“流言”的奏了功效。

【惨むべきと笑うべき】

这是中国的老例,读书人的心里大抵含着杀机,对于异己者总给他安排下一点可死之道。就我所眼见的而论,凡阴谋家攻击别一派,光绪年间用“康党”,宣统年间用“革党”,民二以后用“乱党”,现在自然要用“共产党”了。其实,去年有些“正人君子”们称别人为“学棍”“学匪”的时候,就有杀机存在,因为这类诨号,和“臭绅士”“文士”之类不同,在“棍”“匪”字里,就藏着可死之道的。但这也许是“刀笔吏”式的深文周纳。

三月十八日の惨殺事件は、事後に見れば、明らかに政府が張り巡らした羅網であり、純潔な青年たちが不幸にもそこに陥ったのだ。死傷者は三百余人に及んだ。この羅網が張り巡らされた鍵は、すべて「流言」が功を奏したことにある。

これは中国の旧例で、読書人の心の中にはおおむね殺機が含まれており、意見の異なる者にはいつでも一つの死に道を用意しておく。私が目の当たりにしたところでは、およそ陰謀家が別の一派を攻撃するのに、光緒年間は「康有為の党」を用い、宣統年間は「革命党」を用い、民国二年以後は「乱党」を用い、今は当然「共産党」を用いるのだ。実のところ、昨年一部の「正人君子」が他人を「学棍」「学匪」と呼んだ時にも、すでに殺機は存在していた。なぜならこの種の渾名は、「臭い紳士」「文士」の類とは異なり、「棍」「匪」の字の中にすでに死に道が潜んでいるからだ。もっともこれは「刀筆吏」式の深文周納かもしれない。

去年,为“整顿学风”计,大传播学风怎样不良的流言,学匪怎样可恶的流言,居然很奏了效。今年,为“整顿学风”计,又大传播共产党怎样活动,怎样可恶的流言,又居然很奏了效。于是便将请愿者作共产党论,三百多人死伤了,如果有一个所谓共产党的首领死在里面,就更足以证明这请愿就是“暴动”。

昨年、「学風整頓」のために、学風がいかに不良かという流言、学匪がいかに忌々しいかという流言を盛んに流布し、見事に功を奏した。今年もまた「学風整頓」のために、共産党がいかに活動しているか、いかに忌々しいかという流言を盛んに流布し、またしても見事に功を奏した。かくして請願者を共産党として論じ、三百余人が死傷した。もしいわゆる共産党の首領の一人が死者の中にいれば、この請願が「暴動」であることがいっそう証明されたであろう。

可惜竟没有。这该不是共产党了罢。据说也还是的,但他们全都逃跑了,所以更可恶。而这请愿也还是暴动,做证据的有一根木棍,两支手枪,三瓶煤油。姑勿论这些是否群众所携去的东西;即使真是,而死伤三百多人所携的武器竟不过这一点,这是怎样可怜的暴动呵!

惜しいことに一人もいなかった。共産党ではなかったのだろう。聞くところでは、それでもやはり共産党だが、彼らは全員逃げたのだという。だからなおさら忌々しいのだそうだ。そしてこの請願もやはり暴動であり、証拠として一本の木の棒、二挺の拳銃、三瓶の石油がある。これらが群衆の持参したものかどうかはさて措くとして、たとえ本当であったとしても、三百余人の死傷者が携えた武器がたったこれだけとは、何と哀れな暴動であることか!

但次日,徐谦,李大钊,李煜瀛,易培基,顾兆熊的通缉令发表了。因为他们“啸聚群众”,像去年女子师范大学生的“啸聚男生”(章士钊解散女子师范大学呈文语)一样,“啸聚”了带着一根木棍,两支手枪,三瓶煤油的群众。以这样的群众来颠覆政府,当然要死伤三百多人;而徐谦们以人命为儿戏到这地步,那当然应该负杀人之罪了;而况自己又不到场,或者全都逃跑了呢?

しかし翌日、徐謙、李大釗、李煜瀛、易培基、顧兆熊の通緝令が発布された。彼らが「群衆を嘯聚した」からだ。昨年の女子師範大学の学生が「男子学生を嘯聚した」(章士釗の女子師範大学解散上申文の語)のと同様に、一本の木の棒、二挺の拳銃、三瓶の石油を持った群衆を「嘯聚した」のだと。このような群衆で政府を転覆しようとすれば、もちろん三百余人が死傷する。そして徐謙らが人命をこれほどまでに児戯にしたなら、もちろん殺人の罪を負うべきである。まして自分は現場に行かず、あるいは全員逃げたのだから。

以上は政治上のことで、私にはよく分からない。しかし別の面から見ると、いわゆる「厳しく逮捕する」とは、実は追い出すことのようであり、暴徒を「厳しく逮捕する」とは、北京中仏大学学長兼清室善後委員会委員長(李)、中露大学学長(徐)、北京大学教授(李大釗)、北京大学教務長(顧)、女子師範大学学長(易)を追い出すことに過ぎないようだ。そのうち三人はさらに露款委員会委員でもある。合わせて九つの「優美なるポスト」が空くのだ。

以上是政治上的事,我其实不很了然。但从别一方面看来,所谓“严拿”者,似乎倒是赶走;所谓“严拿”暴徒者,似乎不过是赶走北京中法大学校长兼清室善后委员会委员长(李),中俄大学校长(徐),北京大学教授(李大钊),北京大学教务长(顾),女子师范大学校长(易);其中的三个又是俄款委员会委员:一共空出九个“优美的差缺”也。

同日にまた一種の謡言があり、さらに五十余人を通緝するという。しかしその姓名の一部が分かったのは、今日になって『京報』を見てからである。この種の計画は、目下の段祺瑞政府の秘書長章士釗の如き輩の頭の中には、確かにあり得る。国事犯が五十余人に及ぶのも中華民国の一つの壮観である。しかもおそらく多くは教員であろう。もし一斉に五十余の「優美なるポスト」を棄てて北京を脱出し、別の地で学校を開いたなら、それもまた中華民国の一つの趣事であろう。

同日就又有一种谣言,便是说还要通缉五十多人;但那姓名的一部分,却至今日才见于《京报》。这种计画,在目下的段祺瑞政府的秘书长章士钊之流的脑子里,是确实会有的。国事犯多至五十余人,也是中华民国的一个壮观;而且大概多是教员罢,倘使一同放下五十多个“优美的差缺”,逃出北京,在别的地方开起一个学校来,倒也是中华民国的一件

その学校の名称は、「嘯聚」学校と呼ぶべきであろう。

(三月二十六日。)

趣事。

那学校的名称,就应该叫作“啸聚”学校。

(三月二十六日。)

第19節

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【记念刘和珍君】

中华民国十五年三月二十五日,就是国立北京女子师范大学为十八日在段祺瑞执政府前遇害的刘和珍杨德群两君开追悼会的那一天,我独在礼堂外徘徊,遇见程君,前来问我道,“先生可曾为刘和珍写了一点什么没有?”我说“没有”。她就正告我,“先生还是写一点罢;刘和珍生前就很爱看先生的文章。”

这是我知道的,凡我所编辑的期刊,大概是因为往往有始无终之故罢,销行一向就甚为寥落,然而在这样的生活艰难中,毅然预定了《莽原》全年的就有她。我也早觉得有写一点东西的必要了,这虽然于死者毫不相干,但在生者,却大抵只能如此而已。倘使我能够相信真有所谓“在天之灵”,那自然可以得到更大的安慰,——但是,现在,却只能如此

而已。

可是我实在无话可说。我只觉得所住的并非人间。四十多个青年的血,洋溢在我的周围,使我艰于呼吸视听,那里还能有什么言语?长歌当哭,是必须在痛定之后的。而此后几个所谓学者文人的阴险的论调,尤使我觉得悲哀。我已经出离愤怒了。我将深味这非人间的浓黑的悲凉;以我的最大哀痛显示于非人间,使它们快意于我的苦痛,就将这作为后死者的菲薄的祭品,奉献于逝者的灵前。

【劉和珍君を記念す】

真的猛士,敢于直面惨淡的人生,敢于正视淋漓的鲜血。这是怎样的哀痛者和幸福者?然而造化又常常为庸人设计,以时间的流驶,来洗涤旧迹,仅使留下淡红的血色和微漠的悲哀。在这淡红的血色和微漠的悲哀中,又给人暂得偷生,维持着这似人非人的世界。我不知道这样的世界何时是一个尽头!

我们还在这样的世上活着;我也早觉得有写一点东西的必要了。离三月十八日也已有两星期,忘却的救主快要降临了罢,我正有写一点东西的必要了。

在四十余被害的青年之中,刘和珍君是我的学生。学生云者,我向来这样想,这样说,现在却觉得有些踌躇了,我应该对她奉献我的悲哀与尊敬。她不是“苟活到现在的我”的学生,是为了中国而死的中国的青年。

她的姓名第一次为我所见,是在去年夏初杨荫榆女士做女子师范大学校长,开除校中六个学生自治会职员的时候。其中的一个就是她;但是我不认识。直到后来,也许已经是刘百昭率领男女武将,强拖出校之后了,才有人指着一个学生告诉我,说:这就是刘和珍。其时我才能将姓名和实体联合起来,心中却暗自诧异。我平素想,能够不为势利所屈,反抗一广有羽翼的校长的学生,无论如何,总该是有些桀骜锋利的,但她却常常微笑着,态度很温和。待到偏安于宗帽胡同,赁屋授课之后,她才始来听我的讲义,于是见面的回数就较多了,也还是始终微笑着,态度很温和。待到学校恢复旧观,往日的教职员以为责任已尽,准备陆续引退的时候,我才见她虑及母校前途,黯然至于泣下。此后似乎就不相见。总之,在我的记忆上,那一次就是永别了。

我在十八日早晨,才知道上午有群众向执政府请愿的事;下午便得到噩耗,说卫队居然开枪,死伤至数百人,而刘和珍君即在遇害者之列。但我对于这些传说,竟至于颇为怀疑。我向来是不惮以最坏的恶意,来推测中国人的,然而我还不料,也不信竟会下劣凶残到这地步。况且始终微笑着的和蔼的刘和珍君,更何至于无端在府门前喋血呢?

然而即日证明是事实了,作证的便是她自己的尸骸。还有一具,是杨德群君的。而且又证明着这不但是杀害,简直是虐杀,因为身体上还有棍棒的伤痕。

但段政府就有令,说她们是“暴徒”!

但接着就有流言,说她们是受人利用的。

惨象,已使我目不忍视了;流言,尤使我耳不忍闻。我还有什么话可说呢?我懂得衰亡民族之所以默无声息的缘由了。沉默呵,沉默呵!不在沉默中爆发,就在沉默中灭亡。

但是,我还有要说的话。

我没有亲见;听说,她,刘和珍君,那时是欣然前往的。自然,请愿而已,稍有人心者,谁也不会料到有这样的罗网。但竟在执政府前中弹了,从背部入,斜穿心肺,已是致命的创伤,只是没有便死。同去的张静淑君想扶起她,中了四弹,其一是手枪,立仆;同去的杨德群君又想去扶起她,也被击,弹从左肩入,穿胸偏右出,也立仆。但她还能坐起来,一个兵在她头部及胸部猛击两棍,于是死掉了。

始终微笑的和蔼的刘和珍君确是死掉了,这是真的,有她自己的尸骸为证;沉勇而友爱的杨德群君也死掉了,有她自己的尸骸为证;只有一样沉勇而友爱的张静淑君还在医院里呻吟。当三个女子从容地转辗于文明人所发明的枪弹的攒射中的时候,这是怎样的一个惊心动魄的伟大呵!中国军人的屠戮妇婴的伟绩,八国联军的惩创学生的武功,不幸全被这几缕血痕抹杀了。

但是中外的杀人者却居然昂起头来,不知道个个脸上有着血污……。

时间永是流驶,街市依旧太平,有限的几个生命,在中国是不算什么的,至多,不过供无恶意的闲人以饭后的谈资,或者给有恶意的闲人作“流言”的种子。至于此外的深的意义,我总觉得很寥寥,因为这实在不过是徒手的请愿。人类的血战前行的历史,正如煤的形成,当时用大量的木材,结果却只是一小块,但请愿是不在其中的,更何况是徒手。

中華民国十五年三月二十五日、すなわち国立北京女子師範大学が、十八日に段祺瑞執政府前で遇害した劉和珍・楊徳群両君のために追悼会を開いた日、私は一人で礼堂の外を徘徊していて、程君に出会った。程君が前に来て尋ねた。

然而既然有了血痕了,当然不觉要扩大。至少,也当浸渍了亲族,师友,爱人的心,纵使时光流驶,洗成绯红,也会在微漠的悲哀中永存微笑的和蔼的旧影。陶潜说过,“亲戚或余悲,他人亦已歌,死去何所道,托体同山阿。”倘能如此,这也就够了。

我已经说过:我向来是不惮以最坏的恶意来推测中国人的。但这回却很有几点出于我的意外。一是当局者竟会这样地凶残,一是流言家竟至如此之下劣,一是中国的女性临难竟能如是之从容。

我目睹中国女子的办事,是始于去年的,虽然是少数,但看那干练坚决,百折不回的气概,曾经屡次为之感叹。至于这一回在弹雨中互相救助,虽殒身不恤的事实,则更足为中国女子的勇毅,虽遭阴谋秘计,压抑至数千年,而终于没有消亡的明证了。倘要寻求这一次死伤者对于将来的意义,意义就在此罢。

苟活者在淡红的血色中,会依稀看见微茫的希望;真的猛士,将更奋然而前行。

呜呼,我说不出话,但以此记念刘和珍君!

(四月一日。)

第20節

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【空谈】

请愿的事,我一向就不以为然的,但并非因为怕有三月十八日那样的惨杀。那样的惨杀,我实在没有梦想到,虽然我向来常以“刀笔吏”的意思来窥测我们中国人。我只知道他们麻木,没有良心,不足与言,而况是请愿,而况又是徒手,却没有料到有这么阴毒与凶残。能逆料的,大概只有段祺瑞,贾德耀,章士钊和他们的同类罢。四十七个男女青年的生命,完全是被骗去的,简直是诱杀。

【空談】

請願ということを、私はかねてよしとしなかった。しかしそれは三月十八日のような惨殺を恐れたからではない。あのような惨殺は、私は夢にも思わなかった。かねてから「刀筆吏」の思考で中国人を窺い見ることを常としていたけれども。彼らが麻痺しており、良心がなく、語るに足りないことは知っていた。まして請願であり、まして徒手であるのに、これほどの陰毒と凶残があるとは思いもよらなかった。逆料できたのは、おそらく段祺瑞、賈徳耀、章士釗とその同類だけであろう。四十七人の男女青年の生命は、完全に騙し取られたのであり、まさしく誘殺である。

有些东西——我称之为什么呢,我想不出——说:群众领袖应负道义上的责任。这些东西仿佛就承认了对徒手群众应该开枪,执政府前原是“死地”,死者就如自投罗网一般。群众领袖本没有和段祺瑞等辈心心相印,也未曾互相钩通,怎么能够料到这阴险的辣手。这样的辣手,只要略有人气者,是万万豫想不到的。

ある者たち——何と呼べばよいか、思いつかない——が言う。群衆の指導者は道義上の責任を負うべきだと。これらの者たちはあたかも、徒手の群衆に発砲するのは当然であり、執政府の前はもとより「死地」であり、死者は自ら網に投じたも同然だと認めているかのようだ。群衆の指導者は段祺瑞らと心心相印でもなく、互いに通謀してもいないのに、どうしてこの陰険な毒手を料り得ようか。このような毒手は、少しでも人の気のある者なら、万万予想し得ないのだ。

私が思うに、もし群衆の指導者の過ちを鍛造しようとすれば、二点しかない。一つは、なお請願を有用と信じたこと。二つは、相手をよく見すぎたことだ。

我以为倘要锻炼群众领袖的错处,只有两点:一是还以请愿为有用;二是将对手看得太好了。

但以上也仍然是事后的话。我想,当这事实没有发生以前,恐怕谁也不会料到要演这般的惨剧,至多,也不过获得照例的徒劳罢了。只有有学问的聪明人能够先料到,承认凡请愿就是送死。

陈源教授的《闲话》说:“我们要是劝告女志士们,以后少加入群众运动,她们一定要说我们轻视她们,所以我们也不敢来多嘴。可是对于未成年的男女孩童,我们不能不希望他们以后不再参加任何运动。”(《现代评论》六十八)为什么呢?因为参加各种运动,是甚至于像这次一样,要“冒枪林弹雨的险,受践踏死伤之苦”的。

しかし以上もやはり事後の話だ。この事実が起こる以前には、おそらく誰もこのような惨劇が演じられるとは予想しなかったと思う。せいぜい、例によって徒労に終わるだけだと。ただ学問ある聡明な人だけが、およそ請願はすなわち死に行くことだと先に見抜き、認めることができたのだ。

陳源教授の『閑話』に曰く。「もし我々が女志士たちに、今後は群衆運動に加わるのを控えよと忠告すれば、彼女たちはきっと我々が女性を軽視していると言うだろう。だから我々も口出しはしない。しかし未成年の男女の子供たちに対しては、今後いかなる運動にも参加しないよう望まずにはいられない。」(『現代評論』六十八)なぜか。なぜなら各種の運動に参加すれば、甚だしくは今回のように「銃林弾雨の険を冒し、践踏による死傷の苦を受ける」からだ。

这次用了四十七条性命,只购得一种见识:本国的执政府前是“枪林弹雨”的地方,要去送死,应该待到成年,出于自愿的才是。

今回、四十七の命を費やして購い得たのは、ただ一つの見識だけだ。本国の執政府前は「銃林弾雨」の場所であり、死にに行くのは成年に達し、自発的な者に限るべきだと。

我以为“女志士”和“未成年的男女孩童”,参加学校运动会,大概倒还不至于有很大的危险的。至于“枪林弹雨”中的请愿,则虽是成年的男志士们,也应该切切记住,从此罢休!

私の考えでは、「女志士」も「未成年の男女の子供」も、学校の運動会に参加するくらいなら、おおよそそれほど大きな危険はなかろう。「銃林弾雨」の中の請願に至っては、成年の男の志士たちでさえ、切に銘記して、これをもって終わりにすべきだ!

看现在竟如何。不过多了几篇诗文,多了若干谈助。几个名人和什么当局者在接洽葬地,由大请愿改为小请愿了。埋葬自然是最妥当的收场。然而很奇怪,仿佛这四十七个死者,是因为怕老来死后无处埋葬,特来挣一点官地似的。万生园多么近,而四烈士坟前还有三块墓碑不镌一字,更何况僻远如圆明园。

今、実際はどうか見よ。数篇の詩文が増えただけ、幾許かの談話の種が増えただけだ。数人の名士とやらの当局者が墓地について交渉し、大請願は小請願に変わった。埋葬がもちろん最も穏当な結末だ。しかし甚だ奇妙なことに、あたかもこの四十七人の死者が、老いて死後に埋葬する場所がないことを恐れ、わざわざ官地の一片を稼ぎに来たかのようだ。万生園はあれほど近いのに、四烈士の墓前にはなお三基の墓碑に一字も刻まれていない。まして辺鄙な円明園においてをや。

死者がもし生者の心の中に葬られなければ、それは本当に死んだのだ。

死者倘不埋在活人的心中,那就真真死掉了。

改革自然常不免于流血,但流血非即等于改革。血的应用,正如金钱一般,吝啬固然是不行的,浪费也大大的失算。我对于这回的牺牲者,非常觉得哀伤。

改革はもちろん常に流血を免れ難いが、流血はすなわち改革に等しいのではない。血の使い方は、金銭と同様、吝嗇ではいけないが、浪費もまた大いなる失算である。私はこの度の犠牲者に対して、非常に哀傷を覚える。

但愿这样的请愿,从此停止就好。

请愿虽然是无论那一国度里常有的事,不至于死的事,但我们已经知道中国是例外,除非你能将“枪林弹雨”消除。正规的战法,也必须对手是英雄才适用。汉末总算还是人心很古的时候罢,恕我引一个小说上的典故:许褚赤体上阵,也就很中了好几箭。而金圣叹还笑他道:“谁叫你

願わくば、このような請願はこれをもって終わりにしてほしい。

請願はいかなる国にもある常事であり、死に至るほどのことではないはずだが、我々はすでに中国が例外であることを知った。「銃林弾雨」を除去できない限りは。正規の戦法も、相手が英雄でなければ適用し得ない。漢末はまだしも人心が古朴な時代であったろうが、小説の典故を一つ引くのをお許し願いたい。許褚が裸体で陣に臨み、何本もの矢を受けた。金聖嘆はなお笑って言った。「裸になるのが悪い」と。

赤膊?”

至于现在似的发明了许多火器的时代,交兵就都用壕堑战。这并非吝惜生命,乃是不肯虚掷生命,因为战士的生命是宝贵的。在战士不多的地方,这生命就愈宝贵。所谓宝贵者,并非“珍藏于家”,乃是要以小本钱换得极大的利息,至少,也必须卖买相当。以血的洪流淹死一个敌人,以同胞的尸体填满一个缺陷,已经是陈腐的话了。从最新的战术的眼光看起来,这是多么大的损失。

まして今日のように多くの火器が発明された時代には、交戦すればすべて壕塹戦を用いる。これは生命を惜しむのではなく、生命を虚しく棄てまいとするのだ。なぜなら戦士の生命は貴重だからだ。戦士の少ない地方では、その生命はなおいっそう貴重である。貴重というのは「家に珍蔵する」のではなく、小さな元手で極めて大きな利息を換え取ること、少なくとも売買相当でなければならないということだ。血の洪水で一人の敵を溺れさせ、同胞の屍体で一つの欠陥を埋める——これはもはや陳腐な話だ。最新の戦術の眼から見れば、これはいかに大きな損失であることか。

この度の死者が後来に遺した功徳は、多くの者の人面を引き剥がし、予想外の陰毒な心を露わにし、戦い続ける者に別の戦い方を教えたことにある。

这回死者的遗给后来的功德,是在撕去了许多东西的人相,露出那出于意料之外的阴毒的心,教给继续战斗者以别种方法的战斗。

(四月二日。)

(四月二日。)

第21節

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【如此“讨赤”】

京津间许多次大小战争,战死了不知多少人,为“讨赤”也;执政府前开排枪,打死请愿者四十七,伤百余,通缉“率领暴徒”之徐谦等人五,为“讨赤”也;奉天飞机三临北京之空中,掷下炸弹,杀两妇人,伤一小黄狗,为“讨赤”也。

【かくの如き「討赤」】

京津間で幾度もの大小の戦争が繰り広げられ、何人が戦死したかも知れず、「討赤」のためだという。執政府前で整列射撃が行われ、請願者四十七名が射殺され、百余名が負傷し、「暴徒を率いた」徐謙ら五名が指名手配された。これも「討赤」のためだという。奉天の飛行機が三度北京の上空に飛来し、爆弾を投下して婦人二名を殺し、小さな黄色い犬一匹を負傷させた。これも「討赤」のためだという。

京津间战死之兵士和北京中被炸死之两妇人和被炸伤之一小黄狗,是否即“赤”,尚无“明令”,下民不得而知。至于府前枪杀之四十七人,则第一“明令”已云有“误伤”矣;京师地方检察厅公函又云“此次集会请愿宗旨尚属正当,又无不正之行为”矣;而国务院会议又将“从优拟恤”矣。然则徐谦们所率领的“暴徒”那里去了呢?他们都有符咒,能避枪炮的么?

京津間で戦死した兵士と、北京で爆死した二人の婦人と、爆撃で負傷した一匹の小さな黄色い犬が、果たして「赤」であるかどうか、未だ「明令」は出ておらず、下民には知る由もない。執政府前で銃殺された四十七名については、第一の「明令」で「誤傷」があったと述べられ、京師地方検察庁の公函にも「今回の集会請願の趣旨はなお正当であり、不正の行為もなかった」と記され、さらに国務院会議では「優遇して撫恤する」こととなった。しからば、徐謙らが率いたとされる「暴徒」はどこへ行ったのか。彼らは皆護符を持ち、銃砲を避ける術でもあったのか。

要するに、「討」は確かに「討」じたのだが、「赤」はいったいどこにいるのか。

总而言之:“讨”则“讨”矣了,而“赤”安在呢?

「赤」がどこにいるかは、さておく。結局のところ、「烈士」は埋葬され、徐謙らは逃亡し、二つのロシア款委員会の委員が欠員となった。六日付『京報』によれば、「昨日九校の教職員連席会議代表が法政大学で開催され、査良釗が議長となり、まずロシア款委員会改組の件について教育長胡仁源との折衝の経緯を報告した。次にある代表が発言し、要旨は次の通りである。政府が今回、外交・教育・財政三部の事務官を委員に充てようとしていることに、我々は絶対に反対すべきである。当該人員の人格に反対するのではなく、ロシア款の金額は甚大であり、中国の教育界はこれに深く依存しているからである……」

而“赤”安在,姑且勿论。归根结蒂,“烈士”落葬,徐谦们逃亡,两个俄款委员会委员出缺。六日《京报》云:“昨日九校教职员联席会议代表在法政大学开会,查良钊主席,先报告前日因俄款委员会改组事,与教长胡仁源接洽之情形;次某代表发言,略云,政府此次拟以外教财三部事务官接充委员,同人应绝对反对,并非反对该项人员人格,实因俄款数目甚大,中国教育界仰赖甚深……。”

またもう一つの記事があり、見出しは「五私立大学もロシア款委員会に注目」という。

四十七名の死は、「中国の教育界」に対する功績、決して浅からずと言うべきである。「優遇して撫恤する」とは、誰がこれを不当と言おうか。

又有一条新闻,题目是“五私大亦注意俄款委员会”云。

今後は、「中国教育界」の中で、異論を唱える者を「ルーブル党」と呼ぶことも、もはやなくなるであろうか。

四十七人之死,有功于“中国教育界”良非浅鲜也。“从优拟恤”,谁曰不宜!?

而今而后,庶几“中国教育界”中,不至于再称异己者为“卢布

(四月六日。)

党”欤?

(四月六日。)

第22節

中文 日本語

【无花的蔷薇之三】

积在天津的纸张运不到北京,连印书也颇受战争的影响,我的旧杂感的结集《华盖集》付印两月了,排校还不到一半。可惜先登了一个预告,以致引出陈源教授的“反广告”来——

【花なき薔薇 その三】

“我不能因为我不尊敬鲁迅先生的人格,就不说他的小说好,我也不能因为佩服他的小说,就称赞他其余的文章。我觉得他的杂感,除了《热风》中二三篇外,实在没有一读之价值。”(《现代评论》七十一,《闲话》。)

天津に滞留している紙が北京に届かず、書籍の印刷も戦争の影響をかなり受けている。私の旧い雑感の集成『華蓋集』は印刷に回して二ヶ月になるが、校正はまだ半分にも達していない。残念ながら先に予告を出してしまったため、陳源教授の「逆広告」を招いてしまった——

「私は魯迅氏の人格を尊敬しないからといって、彼の小説を良いと言えないわけではないし、彼の小説に感服しているからといって、他の文章まで称賛するわけにはいかない。彼の雑感は、『熱風』の中の二、三篇を除けば、実のところ一読の価値もないと思う。」(『現代評論』七十一号、「閑話」。)

这多么公平!原来我也是“今不如古”了;《华盖集》的销路,比起《热风》来,恐怕要较为悲观。而且,我的作小说,竟不料是和“人格”无关的。“非人格”的一种文字,像新闻记事一般的,倒会使教授“佩服”,中国又仿佛日见其光怪陆离了似的,然则“实在没有一读之价值”的杂感,也许还要存在罢。

なんと公平なことか!なるほど私も「今は昔に如かず」ということか。『華蓋集』の売れ行きは、『熱風』に比べれば、おそらく悲観的なものになるだろう。しかも、私の小説を書くことが「人格」とは無関係だったとは。「非人格」的な文章、新聞記事のようなものが、かえって教授を「感服」させるとは、中国はますます奇怪千万になってきたようだ。しからば「実のところ一読の価値もない」雑感も、まだしばらくは存在し続けることだろう。

2

做那有名的小说《Don Quijote》的M.de Cervantes先生,穷则有之,说他像叫化子,可不过是一种特别流行于中国学者间的流言。他说Don Quijote看游侠小说看疯了,便自己去做侠客,打不平。他的亲人知道是书籍作的怪,就请了间壁的理发匠来检查;理发匠选出几部好的留下来,其余的便都烧掉了。

かの有名な小説『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテス氏は、貧しかったことは確かだが、乞食のようだと言うのは、中国の学者の間で特に流行している流言に過ぎない。彼が書いたのは、ドン・キホーテが騎士道小説を読み過ぎて狂い、自ら騎士となって正義の味方をしようとした物語である。親族は書物のせいだと知り、隣の理髪師を呼んで検査させた。理髪師は良書を数冊選び出して残し、その他はすべて焼き捨てた。

焼いたのだったと思うが、はっきりとは覚えていない。何種類だったかも忘れた。思うに、選ばれた「良書」の作者たちは、この小説の中の書目を見て、恥ずかしさで顔を赤らめながら苦笑せずにはいられなかったことだろう。

中国はますます奇怪千万になってきたようだが、ああ哀しいかな、我々は「苦笑」さえ手に入れることができない。

大概是烧掉的罢,记不清楚了;也忘了是多少种。想来,那些入选的“好书”的作家们当时看了这小说里的书单,怕总免不了要面红耳赤地苦笑的罢。

外省からある人が速達で私の安否を尋ねてきた。北京の事情に疎く、流言に惑わされたのだ。

中国虽然似乎日见其光怪陆离了。然而,乌乎哀哉!我们连“苦笑”也得不到。

3

有人从外省寄快信来问我平安否。他不熟于北京的情形,上了流言的当了。

北京の流言報は、袁世凱の帝制、張勲の復辟、章士釗の「学風粛正」以来、一脈相承、歴来このようなものである。今もむろん同じことだ。

北京的流言报,是从袁世凯称帝,张勋复辟,章士钊“整顿学风”以还,一脉相传,历来如此的。现在自然也如此。

第一段階、曰く——ある筋がある学校を閉鎖し、某某を逮捕しようとしている。これはある学校の某人に見せて脅すためのものだ。

第一步曰:某方要封闭某校,捕拿某人某人了。这是造给某校某人看,恐吓恐吓的。

第二段階、曰く——ある学校は既に空になり、某人は既に逃亡した。これはある筋に見せて扇動するためのものだ。

第二步曰:某校已空虚,某人已逃走了。这是造给某方看,煽动煽

动的。

又一步曰:某方已搜检甲校,将搜检乙校了。这是恐吓乙校,煽动某方的。

さらに一段階、曰く——ある筋が甲校を捜索し、次に乙校を捜索する予定である。これは乙校を脅し、ある筋を扇動するためのものだ。

“平生不作亏心事,夜半敲门不吃惊。”乙校不自心虚,怎能给恐吓呢?然而,少安毋躁罢。还有一步曰:乙校昨夜通宵达旦,将赤化书籍完全焚烧矣。

「平生やましいことをしなければ、真夜中に戸を叩かれても驚かない。」乙校がやましくなければ、脅されるはずがないではないか。しかし、まあ焦らずに。もう一段階ある、曰く——乙校は昨夜徹夜で赤化書籍を完全に焼却した。

于是甲校更正,说并未搜检;乙校更正,说并无此项书籍云。

かくして甲校は訂正し、捜索はなかったと言い、乙校も訂正し、そのような書籍はないと言う。

于是连卫道的新闻记者,圆稳的大学校长也住进六国饭店,讲公理的大报也摘去招牌,学校的号房也不卖《现代评论》:大有“火炎昆冈,玉石俱焚”之概了。

其实是不至于此的,我想。不过,谣言这东西,却确是造谣者本心所希望的事实,我们可以借此看看一部分人的思想和行为。

かくして護道の新聞記者さえ、円満な大学学長さえ六国飯店に泊まり込み、公理を説く大新聞も看板を外し、学校の門番も『現代評論』を売らなくなった。まさに「火は崑崗を焼き、玉石倶に焚く」の趣である。

5

中华民国九年七月直皖战争开手;八月,皖军溃灭,徐树铮等九人避入日本公使馆。这时还点缀着一点小玩意,是有一些正人君子——不是现在的一些正人君子——去游说直派武人,请他杀戮改革论者了。终于没有结果;便是这事也早从人们的记忆上消去。但试去翻那年八月的《北京日报》,还可以看见一个大广告,里面是什么大英雄得胜之后,必须廓清邪说,诛戮异端等类古色古香的名言。

実際にはそこまでには至るまい、と私は思う。ただし、噂というものは、確かに噂を流す者が心から望んでいる事実なのであって、我々はこれによって一部の人々の思想と行動を窺い知ることができる。

中華民国九年七月、直皖戦争が開始された。八月、皖軍は壊滅し、徐樹錚ら九名が日本公使館に避難した。この時もう一つ小さな趣向が添えられていた。ある正人君子たち——今の正人君子たちとは別の——が直派の武人を遊説し、改革論者を殺戮するよう頼んだのだ。結局は何の成果もなく、この件も人々の記憶から早くに消えた。しかし、その年の八月の『北京日報』を繰ってみれば、大きな広告がまだ見られるだろう。大英雄が勝利した後は必ず邪説を一掃し、異端を誅戮せねばならぬ云々という、いかにも古色蒼然たる名言が並んでいる。

那广告是有署名的,在此也无须提出。但是,较之现在专躲在暗中的流言家,却又不免令人有“今不如古”之感了。我想,百年前比现在好,千年前比百年前好,万年前比千年前好……特别在中国或者是确凿的。

あの広告には署名があったが、ここに挙げるまでもない。だが、今もっぱら暗闘に徹している流言家と比べれば、「今は昔に如かず」の感を禁じ得ない。思うに、百年前は今より良く、千年前は百年前より良く、万年前は千年前より良かったのだろう……特に中国においてはおそらく確実なことだ。

6

在报章的角落里常看见对青年们的谆谆的教诫:敬惜字纸咧;留心国学咧;伊卜生这样,罗曼罗兰那样咧。时候和文字是两样了,但含义却使我觉得很耳熟:正如我年幼时所听过的耆宿的教诫一般。

新聞の片隅に、青年たちへの懇切なる教訓をよく目にする。字紙を大切にせよだの、国学に留意せよだの、イプセンはこうだ、ロマン・ロランはああだ、等々。時代と文体は変わったが、その含意はどうも聞き覚えがある。ちょうど幼い頃に聞いた長老の教訓と同じだ。

これは「今は昔に如かず」の反証のようにも見える。だが世の中には例外があるもので、前節で述べた事柄に対しても、これを一つの例外と見なしておこう。

这可仿佛是“今不如古”的反证了。但是,世事都有例外,对于上一节所说的事,这也算作一个例外罢。

(五月六日。)

(五月六日。)

第23節

中文 日本語

【新的蔷薇】

——然而还是无花的

因为《语丝》在形式上要改成中本了,我也不想再用老题目,所以破格地奋发,要写出“新的蔷薇”来。

【新しき薔薇】

——这回可要开花了?

——しかしやはり花なき——

——嗡嗡,——不见得罢。

我早有点知道:我是大概以自己为主的。所谈的道理是“我以为”的道理,所记的情状是我所见的情状。听说一月以前,杏花和碧桃都开过了。我没有见,我就不以为有杏花和碧桃。

『語糸』が体裁として中判に変わるので、私も旧い題目を使い続けるのは止めようと思い、格別に奮発して「新しき薔薇」を書こうとする。

——今度こそ花が咲くのかな。

——然而那些东西是存在的。——学者们怕要说。

——好!那么,由它去罢。——这是我敬谨回禀学者们的话。

——ブンブン、——さあどうだか。

有些讲“公理”的,说我的杂感没有一看的价值。那是一定的。其实,他来看我的杂感,先就自己失了魂了,——假如也有魂。我的话倘会合于讲“公理”者的胃口,我不也成了“公理维持会”会员了么?我不也成了他,和其余的一切会员了么?我的话不就等于他们的话了么?许多人和许多话不就等于一个人和一番话了么?

私は以前から少し分かっていた。私はおおむね自分を中心にしている。語る道理は「私が思う」道理であり、記す情景は私が見た情景である。聞くところによれば一ヶ月前、杏の花も碧桃も咲いたそうだ。私は見なかったから、杏の花も碧桃もあったとは思わない。

——しかしそれらは存在しているのだ。——学者たちはこう言うだろう。

——結構!では、そのままにしておきましょう。——これが学者方に謹んで申し上げる私の返答である。

公理是只有一个的。然而听说这早被他们拿去了,所以我已经一无

「公理」を説くある人々が、私の雑感には一読の価値もないと言う。それは当然だ。実のところ、彼が私の雑感を読みに来ること自体、まず自分の魂を失っているのだ——もし魂があるとすればだが。私の言葉がもし「公理」を説く者の口に合うなら、私も「公理維持会」の会員になってしまうではないか。私も彼と、そしてその他すべての会員と同じになってしまうではないか。私の言葉は彼らの言葉と等しくなってしまうではないか。多くの人々と多くの言葉が、一人の人間と一つの言葉に等しくなってしまうではないか。

所有。

这回“北京城内的外国旗”,大约特别地多罢,竟使学者为之愤慨:“……至于东交民巷界线以外,无论中国人外国人,那就不能借插用外国国旗,以为保护生命财产的护符。”

公理はただ一つしかない。しかし聞くところでは、それはとうに彼らに持ち去られたそうだ。だから私はもう一無所有である。

这是的确的。“保护生命财产的护符”,我们自有“法律”在。

今回の「北京城内の外国旗」は、おそらく特に多かったのだろう。学者をして憤慨せしめるほどに。「……東交民巷の境界線以外では、中国人であれ外国人であれ、外国国旗を借りて掲げ、生命財産の護符とすることはできない。」

如果还不放心呢,那么,就用一种更稳妥的旗子:红字旗。介乎中外之间,超于“无耻”和有耻之外,——确是好旗子!

その通りである。「生命財産の護符」は、我々には「法律」がある。

从清末以来,“莫谈国事”的条子帖在酒楼饭馆里,至今还没有跟着辫子取消。所以,有些时候,难煞了执笔的人。

もしそれでも安心できないなら、もっと確実な旗を使えばよい——赤十字旗だ。中外の間にあり、「恥知らず」と恥を知る者の外に超然として立つ——確かに良い旗だ!

但这时却可以看见一种有趣的东西,是:希望别人以文字得祸的人所做的文字。

清末以来、「国事を語るなかれ」の貼り紙が料亭や飯店に貼られ、今に至っても辮髪と共に撤廃されてはいない。だから時として、筆を執る者を困らせることがある。

聪明人的谈吐也日见其聪明了。说三月十八日被害的学生是值得同情的,因为她本不愿去而受了教职员的怂恿。说“那些直接或间接用苏俄的金钱的人”是情有可原的,因为“他们自己可以挨饿,老婆子女却不能不吃饭呵!”

しかしこの時、一つの興味深いものを見ることができる。それは——他人が文字によって禍を被ることを望む者が書いた文字である。

聡明な人々の話しぶりも日増しに聡明になってきた。三月十八日に犠牲になった学生は同情に値すると言い、なぜなら本人は行きたくなかったのに教職員に唆されたからだと。「ソ連の金を直接または間接に使っている人々」は情状酌量の余地があると言い、なぜなら「彼ら自身は飢えに耐えられても、妻子は食べないわけにはいかないではないか!」と。

推开了甲而陷没了乙,原谅了情而坐实了罪;尤其是他们的行动和主张,都见得一钱不值了。

甲を押しのけて乙を陥れ、情を許して罪を確定する。とりわけ彼らの行動と主張が、一文の価値もないものとされる。

然而听说赵子昂的画马,却又是镜中照出来的自己的形相哩。

しかし聞くところでは、趙子昂の馬の絵は、鏡に映った自分自身の姿だったそうだ。

因为“老婆子女却不能不吃饭”,于是自然要发生“节育问题”了。但是先前山格夫人来华的时候,“有些志士”却又大发牢骚,说她要使中国人灭种。

「妻子は食べないわけにはいかない」から、当然「産児制限問題」が生じるわけだ。しかし以前マーガレット・サンガー夫人が来華した時、「ある志士たち」は大いに不平を鳴らし、中国人を絶滅させようとしていると言った。

独身主义现今尚为许多人所反对,节育也行不通。为赤贫的绅士计,目前最好的方法,我以为莫如弄一个有钱的女人做老婆。

独身主義は今なお多くの人の反対を受け、産児制限も行き詰まっている。赤貧の紳士のために申せば、目下最良の方法は、金持ちの女を妻にすることだろう。

いっそ完全にこの秘訣を伝授しよう——口先では、必ず「愛」のためだと言わねばならない。

我索性完全传授了这个秘诀罢:口头上,可必须说是为了“爱”。

“苏俄的金钱”十万元,这回竟弄得教育部和教育界发生纠葛了,因为大家都要一点。

「ソ連の金」十万元が、今回は教育部と教育界の紛糾を引き起こした。皆が少しずつ欲しがったからだ。

这也许还是因为“老婆子女”之故罢。但这批卢布和那批卢布却不一样的。这是归还的庚子赔款;是拳匪“扶清灭洋”,各国联军入京的余泽。

これもおそらく「妻子」のゆえであろう。だがこのルーブルとあのルーブルとは同じものではない。これは返還された庚子賠償金である。義和団の「清を扶け洋を滅ぼす」運動、各国連合軍の北京入城の余沢なのだ。

あの年代は覚えやすい。十九世紀末、一九〇〇年。二十六年後、我々は「間接的に」義和団の金を使って「妻子」に飯を食わせている。もし大師兄に霊があるならば、きっと唖然として気が抜けることだろう。

那年代很容易记:十九世纪末,一九○○年。二十六年之后,我们却“间接”用了拳匪的金钱来给“老婆子女”吃饭;如果大师兄有灵,必将爽然若失者欤。

なお、各国が中国での「文化事業」に使っているのも、この同じ金である……。

还有,各国用到中国来做“文化事业”的,也是这一笔款……。

(五月二十三日。)

(五月二十三日。)

第24節

中文 日本語

【再来一次】

【もう一度】

去年编定《热风》时,还有绅士们所谓“存心忠厚”之意,很删削了好几篇。但有一篇,却原想编进去的,因为失掉了稿子,便只好从缺。现在居然寻出来了;待《热风》再版时,添上这篇,登一个广告,使迷信我的文字的读者们再买一本,于我倒不无裨益。但是,算了罢,这实在不很有趣。不如再登一次,将来收入杂感第三集,也就算作补遗罢。

昨年『熱風』を編纂した折、まだ紳士方のいわゆる「存心忠厚」の意があって、かなりの篇を削除した。だが一篇は元来編入するつもりだったのに、原稿を紛失したため、やむなく割愛した。それが今になって見つかった。『熱風』の再版時にこの一篇を追加し、広告を出せば、私の文章を信奉する読者に再び一冊買わせることができ、私にとっても少なからぬ利益となる。だが、もうよそう。これは実のところあまり面白い話ではない。もう一度掲載し、将来雑感第三集に収録して、補遺としよう。

这是关于章士钊先生的——

これは章士釗氏に関するものである——

“两个桃子杀了三个读书人”

「二つの桃が三人の読書人を殺した」

章行严先生在上海批评他之所谓“新文化”说,“二桃杀三士”怎样好,“两个桃子杀了三个读书人”便怎样坏,而归结到新文化之“是亦不可以已乎?”

章行厳氏が上海で彼のいう「新文化」を批評して言うには、「二桃三士を殺す」がいかに素晴らしいか、「二つの桃が三人の読書人を殺した」がいかに拙いかを論じ、結論として新文化に対し「これもまた已むべからずや」と。

是亦大可以已者也!“二桃杀三士”并非僻典,旧文化书中常见的。但既然是“谁能为此谋?相国齐晏子。”我们便看看《晏子春秋》罢。

「これもまた大いに已むべし」である!「二桃三士を殺す」は僻典ではなく、旧文化の書物に常見のものだ。だが「誰かよくこの謀を為す?相国斉の晏子なり」とあるからには、『晏子春秋』を見てみよう。

《晏子春秋》现有上海石印本,容易入手的了,这古典就在该石印本的卷二之内。大意是“公孙接田开疆古冶子事景公,以勇力搏虎闻,晏子过而趋,三子者不起,”于是晏老先生以为无礼,和景公说,要除去他们了。那方法是请景公使人送他们两个桃子,说道,“你三位就照着功劳吃桃罢。”呵,这可就闹起来了:

『晏子春秋』は今や上海の石印本があり、容易に入手できる。この故事は当該石印本の巻二にある。大意は、「公孫接・田開疆・古冶子、景公に仕え、勇力をもって虎を搏つことで聞こゆ。晏子過ぎて趨るも、三子は起たず」。そこで晏老先生は無礼と見なし、景公と相談して除こうとした。その方法は、景公に二つの桃を贈らせ、「汝ら三人、功績に応じて桃を食せよ」と言わせることだった。さあ、ここから騒ぎになった——

“公孙接仰天而叹曰,‘晏子,智人也,夫使公之计吾功者,不受桃,是无勇也。士众而桃寡,何不计功而食桃矣?接一搏猏而再搏虎,若接之功,可以食桃而无与人同矣。’援桃而起。

「公孫接、天を仰いで嘆じて曰く、『晏子は智者なり。公をして吾が功を計らしむるに、桃を受けざるは勇なきなり。士は衆にして桃は寡し、何ぞ功を計りて桃を食せざるや。接、一たび猏を搏ち、再び虎を搏つ。接の功の如きは、桃を食して人と同じうする無かるべし。』桃を援きて起つ。」

“田开疆曰,‘吾仗兵而却三军者再。若开疆之功,可以食桃而无与人同矣。’援桃而起。

「田開疆曰く、『吾、兵を杖きて三軍を却くること再びなり。開疆の功の如きは、桃を食して人と同じうする無かるべし。』桃を援きて起つ。」

“古冶子曰,‘吾尝从君济于河,鼋衔左骖以入砥柱之流。当是时也,冶少不能游,潜行逆流百步,顺流九里,得鼋杀之,左操骖尾,右挈鼋头,鹤跃而出。津人皆曰,河伯也;若冶视之,则大鼋之首。若冶之功,可以食桃而无与人同矣!二子何不反桃?’抽剑而起。”

「古冶子曰く、『吾かつて君に従いて河を済る。鼋、左驂を銜みて以て砥柱の流に入る。是の時に当たりてや、冶少くして游ぐ能わず、潜行して流れに逆らうこと百歩、流れに順うこと九里。鼋を得て之を殺し、左に驂の尾を操り、右に鼋の頭を挈げ、鶴躍して出づ。津人皆曰く、河伯なり、と。冶の如き之を視れば、則ち大鼋の首なり。冶の功の如きは、桃を食して人と同じうする無かるべし。二子何ぞ桃を反さざる。』剣を抽きて起つ。」

钞书太讨厌。总而言之,后来那二士自愧功不如古冶子,自杀了;古冶子不愿独生,也自杀了:于是乎就成了“二桃杀三士”。

書き写しは面倒である。要するに、後に二士は古冶子に功が及ばぬことを恥じて自殺し、古冶子も独り生きるを潔しとせず自殺した。かくして「二桃三士を殺す」となった。

我们虽然不知道这三士于旧文化有无心得,但既然书上说是“以勇力闻”,便不能说他们是“读书人”。倘使《梁父吟》说是“二桃杀三勇士”,自然更可了然,可惜那是五言诗,不能增字,所以不得不作“二桃杀三士”,于是也就害了章行严先生解作“两个桃子杀了三个读书人”。

この三士が旧文化に造詣があったかどうかは知らないが、書物に「勇力を以て聞こゆ」とある以上、「読書人」とは言えまい。もし『梁父吟』に「二桃三勇士を殺す」とあれば一目瞭然だが、あいにく五言詩ゆえに字を増やせず「二桃三士を殺す」としたのであり、これが章行厳氏に「二つの桃が三人の読書人を殺した」と解させるに至ったのだ。

旧文化也实在太难解,古典也诚然太难记,而那两个旧桃子也未免太作怪:不但那时使三个读书人因此送命,到现在还使一个读书人因此出丑,“是亦不可以已乎”!

旧文化も実に解し難く、古典も確かに覚え難く、あの二つの旧い桃もまた厄介きわまりない。あの時三人の読書人を死なせたのみならず、今に至って一人の読書人に恥をかかせている。「これもまた已むべからずや」!

去年,因为“每下愈况”问题,我曾经很受了些自以为公平的青年的教训,说是因为他革去了我的“签事”,我便那么奚落他。现在我在此只得特别声明:这还是一九二三年九月所作,登在《晨报副刊》上的。那时的《晨报副刊》,编辑尚不是陪过泰戈尔先生的“诗哲”,也还未负有逼死别人,掐死自己的使命,所以间或也登一点我似的俗人的文章;而我那时和这位后来称为“孤桐先生”的,也毫无“睚眦之怨”。那“动机”,大概不过是想给白话的流行帮点忙。

昨年、「毎況愈下」の問題で、公平を自任する青年たちからかなりの教訓を受けた。私が彼の「簽事」を免職されたから奚落するのだ、と。ここで特に声明しておく。これは一九二三年九月に書いたもので、『晨報副刊』に掲載された。当時の『晨報副刊』の編集者はまだタゴール先生に随行した「詩哲」ではなく、人を死に追いやり自らを窒息させる使命も帯びていなかったため、時に私のような俗人の文章も載せたのだ。当時の私とこの後に「孤桐先生」と称される人物との間には、いかなる「睚眦の怨み」もなかった。その「動機」は、おそらく白話の普及を少し手助けしようとしたに過ぎない。

在这样“祸从口出”之秋,给自己也辩护得周到一点罢。或者将曰,且夫这次来补遗,却有“打落水狗”之嫌,“动机”就很“不纯洁”了。然而我以为也并不。自然,和不多时以前,士钊秘长运筹帷幄,假公济私,谋杀学生,通缉异己之际,“正人君子”时而相帮讥笑着被缉诸人的逃亡,时而“孤桐先生”“孤桐先生”叫得热剌剌地的时候一比较,目下诚不免有落寞之感。但据我看来,他其实并未落水,不过“安住”在租界里而已:北京依旧是他所豢养过的东西在张牙舞爪,他所勾结着的报馆在颠倒是非,他所栽培成的女校在兴风作浪:依然是他的世界。

このように「禍は口より出ず」の時節、自分自身の弁護も周到にしておこう。あるいは、今回補遺をするのは「落水の犬を打つ」嫌いがあり、「動機」が「純潔でない」と言われるかもしれない。しかし私はそうではないと思う。むろん、つい先日まで士釗秘書長が帷幄の中で策を巡らし、公を仮りて私を済し、学生を殺害し、異己を指名手配していた折——「正人君子」たちが時に手配された人々の逃亡を嘲笑し、時に「孤桐先生」「孤桐先生」と熱っぽく呼んでいた時と比べれば——今やまことに落寞の感を禁じ得まい。だが私の見るところ、彼は実のところ落水してはおらず、ただ租界に「安住」しているに過ぎない。北京では依然として彼が養った輩が跋扈し、彼と結託した新聞が是非を顚倒させ、彼が育て上げた女子学校が波風を立てている。依然として彼の天下なのだ。

在“桃子”上给一下小打击,岂遂可与“打落水狗”同日而语哉?!

「桃」のことで小さな一撃を加えることが、どうして「落水の犬を打つ」と同日の談となろうか。

但不知怎的,这位“孤桐先生”竟在《甲寅》上辩起来了,以为这不过是小事。这是真的,不过是小事。弄错一点,又何伤乎?即使不知道晏子,不知道齐国,于中国也无损。农民谁懂得《梁父吟》呢,农业也仍然可以救国的。但我以为攻击白话的豪举,可也大可以不必了;将白话来代文言,即使有点不妥,反正也不过是小事情。

だが不思議なことに、この「孤桐先生」は『甲寅』誌上で弁解を始め、これは小事に過ぎないと言った。確かに小事だ。少し間違えたところで何ほどのことがあろうか。晏子を知らずとも斉国を知らずとも、中国に損害はない。農民に『梁父吟』を解する者がいようか。それでも農業は依然として国を救えるのだ。だが白話を攻撃する壮挙も、大いにその必要はなかろう。白話で文言を代えることが多少不妥当だとしても、どのみち小事に過ぎないのだから。

我虽然未曾在“孤桐先生”门下钻,没有看见满桌满床满地的什么德文书的荣幸,但偶然见到他所发表的“文言”,知道他于法律的不可恃,道德习惯的并非一成不变,文字语言的必有变迁,其实倒是懂得的。懂得而照直说出来的,便成为改革者;懂得而不说,反要利用以欺瞒别人的,便成为“孤桐先生”及其“之流”。他的保护文言,内骨子也不过是这样。

私は「孤桐先生」の門下に潜り込んだことはなく、机の上にも寝台の上にも床の上にも溢れるドイツ語の書物を拝見する栄に浴したことはない。だが偶然目にした彼が発表する「文言」によれば、法律の頼りにならぬこと、道徳習慣が不変ではないこと、文字言語に必ず変遷があること——実は彼にも分かっているのだ。分かっていてそのまま言えば改革者となり、分かっていながら言わず、かえってそれを利用して他人を欺く者は「孤桐先生」およびその「輩」となる。彼の文言擁護の内実も、結局そういうことだ。

如果我的检验是确的,那么,“孤桐先生”大概也就染了《闲话》所谓“有些志士”的通病,为“老婆子女”所累了,此后似乎应该另买几本德文书,来讲究“节育”。

もし私の検証が正しければ、「孤桐先生」もおそらく『閑話』の言う「ある志士」の通病に罹り、「妻子」に累されたのだろう。今後はドイツ語の書物をもう数冊買って、「産児制限」を研究すべきであろう。

(五月二十四日。)

(五月二十四日。)

第25節

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【为半农题记“何典”后,作】

【半農のために『何典』を題して記す、その後に作る】

还是两三年前,偶然在光绪五年(1879)印的《申报馆书目续集》上看见《何典》题要,这样说:

二、三年前のことになるが、偶然、光緒五年(一八七九年)刊の『申報館書目続集』で『何典』の解題を目にした。それにはこう記されている。

《何典》十回。是书为过路人编定,缠夹二先生评,而太平客人为之序。书中引用诸人,有曰活鬼者,有曰穷鬼者,有曰活死人者,有曰臭花娘者,有曰畔房小姐者:阅之已堪喷饭。况阅其所记,无一非三家村俗语;无中生有,忙里偷闲。其言,则鬼话也;其人,则鬼名也;其事,则开鬼心,扮鬼脸,钓鬼火,做鬼戏,搭鬼棚也。语曰,‘出于何典’?而今而后,有人以俗语为文者,曰‘出于《何典》’而已矣。”

『何典』十回。本書は過路人が編定し、纏夾二先生が評し、太平客人がこれに序を寄せた。書中に引用される人物には、活鬼、窮鬼、活死人、臭花娘、畔房小姐などがある。閲するだけでも噴飯ものである。まして記される内容を見れば、三家村の俗語ならざるものはなく、無中生有、忙裡偸閑。その言は鬼話であり、その人は鬼名であり、その事は鬼心を開き、鬼面を装い、鬼火を釣り、鬼戯を演じ、鬼棚を立てるものである。語に曰く「何の典に出づるか」と。今後、俗語をもって文を為す者あらば、「『何典』に出づ」と言えば足りよう。

疑其颇别致,于是留心访求,但不得;常维钧多识旧书肆中人,因托他搜寻,仍不得。今年半农告我已在厂甸庙市中无意得之,且将校点付印;听了甚喜。此后半农便将校样陆续寄来,并且说希望我做一篇短序,他知道我是至多也只能做短序的。然而我还很踌躇,我总觉得没有这种本领。我以为许多事是做的人必须有这一门特长的,这才做得好。譬如,标点只能让汪原放,做序只能推胡适之,出版只能由亚东图书馆;刘半农,李小峰,我,皆非其选也。然而我却决定要写几句。为什么呢?只因为我终于决定要写几句了。

その奇抜さに興味を覚え、探し求めたが見つからなかった。常維鈞は古書店に知り合いが多いので探索を託したが、やはり見つからなかった。今年、半農から、廠甸の廟市で偶然手に入れ、校訂して出版する旨を告げられた。聞いて大いに喜んだ。その後、半農はゲラを次々と送ってきて、短い序文を書いてほしいとも言った。私がせいぜい短い序文しか書けないことを知っているのだ。だが私はなお躊躇していた。こうした仕事にはその方面の特技が必要だと常々思っているからだ。たとえば、句読点は汪原放でなければならず、序文は胡適之に任せるべきであり、出版は亜東図書館によるべきである。劉半農も李小峰も私も、その任ではない。しかし私は結局数句を書くことに決めた。なぜか。ただ最終的にそう決めたからだ。

还未开手,而躬逢战争,在炮声和流言当中,很不宁帖,没有执笔的心思。夹着是得知又有文士之徒在什么报上骂半农了,说《何典》广告怎样不高尚,不料大学教授而竟堕落至于斯。这颇使我凄然,因为由此记起了别的事,而且也以为“不料大学教授而竟堕落至于斯”。从此一见《何典》,便感到苦痛,再也说不出一句话。

まだ筆を執らぬうちに戦争に遭い、砲声と流言の中で落ち着かず、書く気になれなかった。その合間に、また文人の徒がどこかの新聞で半農を罵倒しているのを知った。『何典』の広告が品位に欠けるとか、大学教授がまさかここまで堕落するとは、とか。これには悲しくなった。別のことを思い出したし、私自身も「大学教授がまさかここまで堕落するとは」と思ったからだ。それ以来、『何典』を見るたびに苦痛を感じ、もう一言も口にできなくなった。

是的,大学教授要堕落下去。无论高的或矮的,白的或黑的,或灰的。不过有些是别人谓之堕落,而我谓之困苦。我所谓困苦之一端,便是失了身分。我曾经做过《论“他妈的!”》早有青年道德家乌烟瘴气地浩叹过了,还讲身分么?但是也还有些讲身分。我虽然“深恶而痛绝之”于那些戴着面具的绅士,却究竟不是“学匪”世家;见了所谓“正人君子”固然决定摇头,但和歪人奴子相处恐怕也未必融洽。用了无差别的眼光看,大学教授做一个滑稽的,或者甚而至于夸张的广告何足为奇?就是做一个满嘴“他妈的”的广告也何足为奇?然而呀,这里用得着然而了,我是究竟生在十九世纪的,又做过几年官,和所谓“孤桐先生”同部,官——上等人——气骤不易退,所以有时也觉得教授最相宜的也还是上讲台。又要然而了,然而必须有够活的薪水,兼差倒可以。这主张在教育界大概现在已经有一致赞成之望,去年在什么公理会上一致攻击兼差的公理维持家,今年也颇有一声不响地去兼差的了,不过“大报”上决不会登出来,自己自然更未必做广告。

そうだ、大学教授は堕落していくのだ。背の高い者も低い者も、白い者も黒い者も、灰色の者も。ただし、他人がこれを堕落と言うものの中に、私が困苦と呼ぶべきものがある。私の言う困苦の一端は、体面を失うことだ。かつて「『他媽的!』を論ず」を書いたことで、青年の道徳家たちが烏煙瘴気の嘆きを発した。今さら体面を論じるのかと。だが、それでもなお少しは体面を気にしている。仮面を被った紳士を「深く悪み痛く絶つ」者ではあるが、「学匪」の名門出身ではない。いわゆる「正人君子」を見れば首を横に振るのは確かだが、邪な者や奴隷と付き合って円満にやれるかと言えば、おそらくそうでもあるまい。無差別の目で見れば、大学教授が滑稽な、あるいは誇張的な広告を出したところで何の不思議があろう。「他媽的」だらけの広告を出しても何の不思議があろう。しかしだ——ここで「しかし」が活きる——私はやはり十九世紀の生まれであり、数年官吏も務め、いわゆる「孤桐先生」と同じ省に属していたのだ。官僚的——上等人的——気風はにわかには抜けず、教授にはやはり講壇が最もふさわしいと感じることがある。またしかしである。しかし、十分な俸給がなければならないし、兼業は許される。この主張は教育界ではすでに一致賛成の望みがあり、昨年のある公理会で兼業を一斉に攻撃した公理維持家も、今年はひっそりと兼業に出かけているようだ。ただし「大新聞」に載ることは決してなく、自ら広告を出すこともないだろう。

半农到德法研究了音韵好几年,我虽然不懂他所做的法文书,只知道里面很夹些中国字和高高低低的曲线,但总而言之,书籍具在,势必有人懂得。所以他的正业,我以为也还是将这些曲线教给学生们。可是北京大学快要关门大吉了;他兼差又没有。那么,即使我是怎样的十足上等人,也不能反对他印卖书。既要印卖,自然想多销,既想多销,自然要做广告,既做广告,自然要说好。难道有自己印了书,却发广告说这书很无聊,请列位不必看的么?说我的杂感无一读之价值的广告,那是西滢(即陈源)做的。——顺便在此给自己登一个广告罢:陈源何以给我登这样的反广告的呢,只要一看我的《华盖集》就明白。主顾诸公,看呀!快看呀!每本大洋六角,北新书局发行。

半農はドイツとフランスで音韻学を何年も研究した。彼のフランス語の著書は私には分からないが、中国語の文字と高低の曲線が挟み込まれていることだけは分かる。要するに、書物は現存し、必ずや理解する者がいるだろう。だから彼の本業は、私の考えでは、やはりこれらの曲線を学生に教えることだ。ところが北京大学はまもなく閉校の憂き目に遭いそうだし、彼には兼職もない。ならば、たとえ私がいかに十全の上等人であろうとも、彼が書物を印刷して売ることに反対はできない。印刷して売る以上、当然よく売りたい。よく売りたい以上、当然広告を出す。広告を出す以上、当然良いと言う。自分で書物を印刷しながら、この書はつまらないから御覧に及ばず、と広告を出す者がいるだろうか。私の雑感に一読の価値なしという広告——あれは西瀅(すなわち陳源)が出したのだ。——ここで自分の広告も出しておこう。陳源はなぜ私にこのような逆広告を出したのか。私の『華蓋集』を読めば分かる。お客様方、ご覧あれ!お早く!一冊大洋六角、北新書局発行。

想起来已经有二十多年了,以革命为事的陶焕卿,穷得不堪,在上海自称会稽先生,教人催眠术以糊口。有一天他问我,可有什么药能使人一嗅便睡去的呢?我明知道他怕施术不验,求助于药物了。其实呢,在大众中试验催眠,本来是不容易成功的。我又不知道他所寻求的妙药,爱莫能助。两三月后,报章上就有投书(也许是广告)出现,说会稽先生不懂催眠术,以此欺人。清政府却比这干鸟人灵敏得多,所以通缉他的时候,有一联对句道:“著《中国权力史》,学日本催眠术。”

思い起こせばもう二十年余り前のこと、革命を事とした陶煥卿は貧窮のどん底にあり、上海で会稽先生と自称し、催眠術を教えて糊口を凌いでいた。ある日彼が私に尋ねた。一嗅ぎで人を眠らせる薬はないだろうかと。施術がうまくいかないのを恐れ、薬に助けを求めようとしたのは明らかだった。実のところ、大勢の前で催眠術を試みるのは元来成功しにくいものだ。彼が求める妙薬を私も知らず、力及ばなかった。二、三ヶ月後、新聞に投書(あるいは広告)が現れ、会稽先生は催眠術を解さず、これをもって人を欺いていると述べていた。清政府は彼らよりずっと敏感だったから、彼を指名手配した際には、対句を添えていた。「『中国権力史』を著し、日本の催眠術を学ぶ」と。

《何典》快要出版了,短序也已经迫近交卷的时候。夜雨潇潇地下着,提起笔,忽而又想到用麻绳做腰带的困苦的陶焕卿,还夹杂些和《何典》不相干的思想。但序文已经迫近了交卷的时候,只得写出来,而且还要印上去。我并非将半农比附“乱党”,——现在的中华民国虽由革命造成,但许多中华民国国民,都仍以那时的革命者为乱党,是明明白白的,——不过说,在此时,使我回忆从前,念及几个朋友,并感到自己的依然无力而已。

『何典』はまもなく出版され、短い序文も提出の期限が迫っている。夜雨が蕭蕭と降る中、筆を執ると、ふと麻縄を帯にしていた困苦の陶煥卿を思い出し、『何典』とは無関係な思念も混じる。だが序文の締め切りが迫っているので、書き出さざるを得ず、しかも印刷に付さねばならない。私は半農を「乱党」に比しているのではない——現在の中華民国は革命によって成立したが、多くの中華民国国民は今なお当時の革命家を乱党と見なしている。それは明々白々だ——ただ、この時にあたり、往時を回想し、幾人かの友を思い、自らの依然たる無力を感じるばかりだと言いたいのだ。

但短序总算已经写成,虽然不像东西,却究竟结束了一件事。我还将此时的别的心情写下,并且发表出去,也作为《何典》的广告。

だが短い序文はともかく書き上げた。出来栄えはともかく、一つの仕事に区切りがついた。今の心情をさらに書き記し、発表する。『何典』の広告としても。

(五月二十五日之夜,碰着东壁下,书。)

(五月二十五日の夜、東壁の下にて、記す。)

第26節

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【马上日记】

豫序

在日记还未写上一字之前,先做序文,谓之豫序。

我本来每天写日记,是写给自己看的;大约天地间写着这样日记的人们很不少。假使写的人成了名人,死了之后便也会印出;看的人也格外有趣味,因为他写的时候不像做《内感篇》、外冒篇似的须摆空架子,所以反而可以看出真的面目来。我想,这是日记的正宗嫡派。

我的日记却不是那样。写的是信札往来,银钱收付,无所谓面目,更无所谓真假。例如:二月二日晴,得A信;B来。三月三日雨,收C校薪水X元,复D信。一行满了,然而还有事,因为纸张也颇可惜,便将后来的事写入前一天的空白中。总而言之:是不很可靠的。但我以为B来是在二月一,或者二月二,其实不甚有关系,即便不写也无妨;而实际上,不写的时候也常有。我的目的,只在记上谁有来信,以便答复,或者何时答复过,尤其是学校的薪水,收到何年何月的几成几了,零零星星,总是记不清楚,必须有一笔帐,以便检查,庶几乎两不含胡,我也知道自己有多少债放在外面,万一将来收清之后,要成为怎样的一个小富翁。此外呢,什么野心也没有了。

【馬上日記】

吾乡的李慈铭先生,是就以日记为著述的,上自朝章,中至学问,下迄相骂,都记录在那里面。果然,现在已有人将那手迹用石印印出了,每部五十元,在这样的年头,不必说学生,就是先生也无从买起。那日记上就记着,当他每装成一函的时候,早就有人借来借去的传钞了,正不必老远的等待“身后”。这虽然不像日记的正脉,但若有志在立言,意存褒贬,欲人知而又畏人知的,却不妨模仿着试试。什么做了一点白话,便说是要在一百年后发表的书里面的一篇,真是其蠢臭为不可及也。

予序

我这回的日记,却不是那样的“有厚望焉”的,也不是原先的很简单的,现在还没有,想要写起来。四五天以前看见半农,说是要编《世界日报》的副刊去,你得寄一点稿。那自然是可以的喽。然而稿子呢?这可着实为难。看副刊的大抵是学生,都是过来人,做过什么“学而时习之不亦说乎论”或“人心不古议”的,一定知道做文章是怎样的味道。有人说我是“文学家”,其实并不是的,不要相信他们的话,那证据,就是我也最怕做文章。

日記がまだ一字も書かれぬうちに、先に序文を書く。これを予序と言う。

然而既然答应了,总得想点法。想来想去,觉得感想倒偶尔也有一点的,平时接着一懒,便搁下,忘掉了。如果马上写出,恐怕倒也是杂感一类的东西。于是乎我就决计:一想到,就马上写下来,马上寄出去,算作我的画到簿。因为这是开首就准备给第三者看的,所以恐怕也未必很有真面目,至少,不利于己的事,现在总还要藏起来。愿读者先明白这一点。

如果写不出,或者不能写了,马上就收场。所以这日记要有多么长,现在一点不知道。

一九二六年六月二十五日,记于东壁下。

六月二十五日

晴。

生病。——今天还写这个,仿佛有点多事似的。因为这是十天以前的事,现在倒已经可以算得好起来了。不过余波还没有完,所以也只好将这作为开宗明义章第一。谨案才子立言,总须大嚷三大苦难:一曰穷,二曰病,三曰社会迫害我。那结果,便是失掉了爱人;若用专门名词,则谓之失恋。我的开宗明义虽然近似第二大苦难,实际上却不然,倒是因为端午节前收了几文稿费,吃东西吃坏了,从此就不消化,胃痛。我的胃的八字不见佳,向来就担不起福泽的。也很想看医生。中医,虽然有人说是玄妙无穷,内科尤为独步,我可总是不相信。西医呢,有名的看资贵,事情忙,诊视也潦草,无名的自然便宜些,然而我总还有些踌躇。事情既然到了这样,当然只好听凭敝胃隐隐地痛着了。

私はもともと毎日日記を付けている。自分で読むためのものだ。おそらく天下にこのような日記を書いている人は少なくあるまい。もし書いた人が名士となり、死後に出版されれば、読む者にも格別の趣が感じられるだろう。書く時に「内感篇」や「外冒篇」のように虚勢を張る必要がないから、かえって本当の素顔が見えるというわけだ。これが日記の正統嫡流であろう。

自从西医割掉了梁启超的一个腰子以后,责难之声就风起云涌了,连对于腰子不很有研究的文学家也都“仗义执言”。同时,“中医了不得论”也就应运而起;腰子有病,何不服黄蓍欤?什么有病,何不吃鹿茸欤?但西医的病院里确也常有死尸抬出。我曾经忠告过G先生:你要开医院,万不可收留些看来无法挽回的病人;治好了走出,没有人知道,死掉了抬出,就哄动一时了,尤其是死掉的如果是“名流”。我的本意是在设法推行新医学,但G先生却似乎以为我良心坏。这也未始不可以那么想,——由他去罢。

私の日記はそうではない。書いてあるのは書簡の往来、金銭の出納で、素顔とも言えず、ましてや真偽とも言えない。たとえば——二月二日、晴、Aより手紙あり。B来訪。三月三日、雨、C校より俸給X元受領。Dに返信。一行が埋まっても用事が残る。紙ももったいないので、後の用事は前日の空白に書き込む。要するに、あまり信用できない。だがBの来訪が二月一日か二日かは大した問題ではなく、書かなくとも構わない。実際、書かないことも多い。私の目的はただ、誰から手紙が来たかを記録して返信に備え、いつ返信したかを知り、とりわけ学校の俸給がいつの何割まで届いたかを把握することだ。端数が多く、どうしても帳簿がなければ検証できない。双方に食い違いがないように、自分が外にどれだけ債権を持っているか、将来すべて回収したらどれほどの小金持ちになるかを知るためだ。それ以外に野心はない。

但据我看来,实行我所说的方法的医院可很有,只是他们的本意却并不在要使新医学通行。新的本国的西医又大抵模模胡胡,一出手便先学了中医一样的江湖诀,和水的龙胆丁几两日份八角;漱口的淡硼酸水每瓶一元。至于诊断学呢,我似的门外汉可不得而知。总之,西方的医学在中国还未萌芽,便已近于腐败。我虽然只相信西医,近来也颇有些望而却

わが郷里の李慈銘先生は日記をもって著述としていた。朝廷の典章から、学問、果ては口喧嘩に至るまで、すべてその中に記録されていた。なるほど、今やあの手跡が石印で出版されており、一部五十元だ。こんなご時世、学生はおろか先生でさえ買えまい。あの日記には、一函ずつ装丁するたびに、早くも人が借りては写し伝えていたと記されている。なにも遠い「没後」を待つまでもなかった。これは日記の正流とは言えないが、もし立言を志し、褒貶の意を込め、人に知られたくもあり知られたくもないなら、真似てみても差し支えあるまい。ちょっと白話を書いただけで、百年後に発表する本の一篇だなどと言うのは、その愚昧なること言うに及ばず。

步了。

前几天和季茀谈起这些事,并且说,我的病,只要有熟人开一个方就好,用不着向什么博士化冤钱。第二天,他就给我请了正在继续研究的Dr.H.来了。开了一个方,自然要用稀盐酸,还有两样这里无须说;我所最感谢的是又加些Sirup Simpel使我喝得甜甜的,不为难。向药房去配药,可又成为问题了,因为药房也不免有模模胡胡的,他所没有的药品,也许就替换,或者竟删除。结果是托Fraeulein H.远远地跑到较大的药房去。

这样一办,加上车钱,也还要比医院的药价便宜到四分之三。

胃酸得了外来的生力军,强盛起来,一瓶药还未喝完,痛就停止了。我决定多喝它几天。但是,第二瓶却奇怪,同一的药房,同一的药方,药味可是不同一了;不像前一回的甜,也不酸。我检查我自己,并不发热,舌苔也不厚,这分明是药水有些蹊跷。喝了两回,坏处倒也没有;幸而不是急病,不大要紧,便照例将它喝完。去买第三瓶时,却附带了严重的质问;那回答是:也许糖分少了一点罢。这意思就是说紧要的药品没有错。中国的事情真是稀奇,糖分少一点,不但不甜,连酸也不酸了,的确是“特别国情”。

私の今回の日記は、そのような「厚望を寄せる」ものでもなければ、元来の簡潔なものでもない。まだ存在せず、これから書こうとしているのだ。四、五日前に半農に会うと、『世界日報』の副刊を編集するので原稿を少し寄せてくれ、と言う。もちろん構わない。しかし原稿はどうするか。これはまことに困る。副刊の読者はおおむね学生で、皆経験者だ。「学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや」論だの「人心不古」議だのを書いたことがあるから、文章を書くとはどういうものか分かっているはずだ。私を「文学者」と言う人がいるが、実はそうではない。彼らの言葉を信じてはいけない。その証拠に、私も文章を書くのが一番嫌いなのだ。

现在多攻击大医院对于病人的冷漠,我想,这些医院,将病人当作研究品,大概是有的,还有在院里的“高等华人”,将病人看作下等研究品,大概也是有的。不愿意的,只好上私人所开的医院去,可是诊金药价都很贵。请熟人开了方去买药呢,药水也会先后不同起来。

しかし引き受けた以上、何か方法を考えねばならない。考えに考え、感想ならたまには浮かぶと気づいた。いつもは怠けて放っておき、忘れてしまう。思いついたらすぐ書き留めれば、おそらく雑感の類になるだろう。そこで決心した。思いつくや馬上に書き留め、馬上に送り出し、スケッチ帳とする。最初から第三者に読ませるつもりで書くのだから、あまり本当の素顔にはなるまい。少なくとも自分に不利なことは今のところ隠しておく。読者にまずこの点をご了解いただきたい。

这是人的问题。做事不切实,便什么都可疑。吕端大事不胡涂,犹言小事不妨胡涂点,这自然很足以显示我们中国人的雅量,然而我的胃痛却因此延长了。在宇宙的森罗万象中,我的胃痛当然不过是小事,或者简直不算事。

质问之后的第三瓶药水,药味就同第一瓶一样了。先前的闷胡卢,到此就很容易打破,就是那第二瓶里,是只有一日分的药,却加了两日分的水的,所以药味比正当的要薄一半。

虽然连吃药也那么蹭蹬,病却也居然好起来了。病略见好,H就攻击我头发长,说为什么不赶快去剪发。

这种攻击是听惯的,照例“着毋庸议”。但也不想用功,只是清理抽屉。翻翻废纸,其中有一束纸条,是前几年钞写的;这很使我觉得自己也日懒一日了,现在早不想做这类事。那时大概是想要做一篇攻击近时印书,胡乱标点之谬的文章的,废纸中就钞有很奇妙的例子。要塞进字纸篓里时,觉得有几条总还是爱不忍释,现在钞几条在这里,马上印出,以便“有目共赏”罢。其余的便作为换取火柴之助——

書けなくなったり、書けない状況になったりしたら、即座に終わりにする。だからこの日記がどれほどの長さになるか、今のところまったく分からない。

“国朝陈锡路黄嬭余话云。唐傅奕考核道经众本。有项羽妾。本齐武平五年彭城人。开项羽妾冢。得之。”(上海进步书局石印本《茶香室丛钞》卷四第二叶。)

“国朝欧阳泉点勘记云。欧阳修醉翁亭。记让泉也。本集及滁州石刻。并同诸选本。作酿泉。误也。”(同上卷八第七叶。)

“袁石公典试秦中。后颇自悔。其少作诗文。皆粹然一出于正。”(上海士林精舍石印本《书影》卷一第四叶。)

“考……顺治中,秀水又有一陈忱,……著诚斋诗集,不出户庭,录读史随笔,同姓名录诸书。”(上海亚东图书馆排印本《水浒续集两种序》第七叶。)

一九二六年六月二十五日、東壁の下にて記す。

标点古文,确是一种小小的难事,往往无从下笔;有许多处,我常疑心即使请作者自己来标点,怕也不免于迟疑。但上列的几条,却还不至于那么无从索解。末两条的意义尤显豁,而标点也弄得更聪明。

六月二十六日

晴。

上午,得霁野从他家乡寄来的信,话并不多,说家里有病人,别的一切人也都在毫无防备的将被疾病袭击的恐怖中;末尾还有几句感慨。

午后,织芳从河南来,谈了几句,匆匆忙忙地就走了,放下两个包,说这是“方糖”,送你吃的,怕不见得好。织芳这一回有点发胖,又这么忙,又穿着方马褂,我恐怕他将要做官了。

打开包来看时,何尝是“方”的,却是圆圆的小薄片,黄棕色。吃起来又凉又细腻,确是好东西。但我不明白织芳为什么叫它“方糖”?但这也就可以作为他将要做官的一证。

六月二十五日

景宋说这是河南一处什么地方的名产,是用柿霜做成的;性凉,如果嘴角上生些小疮之类,用这一搽,便会好。怪不得有这么细腻,原来是凭了造化的妙手,用柿皮来滤过的。可惜到他说明的时候,我已经吃了一大半了。连忙将所余的收起,豫备将来嘴角上生疮的时候,好用这来搽。

夜间,又将藏着的柿霜糖吃了一大半,因为我忽而又以为嘴角上生疮的时候究竟不很多,还不如现在趁新鲜吃一点。不料一吃,就又吃了一大半了。

六月二十八日

晴,大风。

上午出门,主意是在买药,看见满街挂着五色国旗;军警林立。走到丰盛胡同中段,被军警驱入一条小胡同中。少顷,看见大路上黄尘滚滚,一辆摩托车驰过;少顷,又是一辆;少顷,又是一辆;又是一辆;又是一辆……。车中人看不分明,但见金边帽。车边上挂着兵,有的背着扎红绸的板刀;小胡同中人都肃然有敬畏之意。又少顷,摩托车没有了,我们渐渐溜出,军警也不作声。

晴。

溜到西单牌楼大街,也是满街挂着五色国旗,军警林立。一群破衣孩子,各各拿着一把小纸片,叫道:欢迎吴玉帅号外呀!一个来叫我买,我没有买。

将近宣武门口,一个黄色制服,汗流满面的汉子从外面走进来,忽而大声道:草你妈!许多人都对他看,但他走过去了,许多人也就不看了。走进宣武门城洞下,又是一个破衣孩子拿着一把小纸片,但却默默地将一张塞给我,接来一看,是石印的李国恒先生的传单,内中大意,是说他的多年痔疮,已蒙一个国手叫作什么先生的医好了。

病気。——今日これを書くのは少し余計なことのようだ。十日前のことだから、今ではもう回復に向かっていると言えよう。ただし余波は収まっていないので、やむなくこれを冒頭の一章とする。思うに、才子が立言するには、必ず三大苦難を大声で叫ばねばならない。一に貧、二に病、三に社会の迫害。その結果、恋人を失う。専門用語では失恋と言う。私の冒頭は二番目の苦難に似ているが、実は違う。端午節の前に稿料を少々もらい、食べ過ぎて消化不良になり、以来胃痛に悩まされているのだ。私の胃は巡り合わせが悪く、もとから福を担えぬ体質なのだ。医者にも診てもらいたいと思った。漢方は、玄妙無窮、内科はとりわけ独歩と言う人もいるが、私はどうしても信じられない。西洋医学は、有名な医者は診察料が高く、多忙で診察も粗雑だ。無名の医者はもちろん安いが、やはり躊躇する。こうなった以上、この胃がひそかに痛むのに任せるしかない。

到了目的地的药房时,外面正有一群人围着看两个人的口角;一柄浅蓝色的旧洋伞正挡住药房门。我推那洋伞时,斤量很不轻;终于伞底下回过一个头来,问我“干什么?”我答说进去买药。他不作声,又回头去看口角去了,洋伞的位置依旧。我只好下了十二分的决心,猛力冲锋;一冲,可就冲进去了。

药房里只有帐桌上坐着一个外国人,其余的店伙都是年青的同胞,服饰干净漂亮。不知怎地,我忽而觉得十年以后,他们便都要变为高等华人,而自己却现在就有下等人之感。于是乎恭恭敬敬地将药方和瓶子捧呈给一位分开头发的同胞。

“八毛五分。”他接了,一面走,一面说。

“喂!”我实在耐不住,下等脾气又发作了。药价八毛,瓶子钱照例五分,我是知道的。现在自己带了瓶子,怎么还要付五分钱呢?这一个“喂”字的功用就和国骂的“他妈的”相同,其中含有这么多的意义。

西洋医学が梁啓超の腎臓を一つ切除して以来、非難の声が沸き起こり、腎臓にさほど造詣のない文学者まで「義を以て言を執る」有様だ。同時に「漢方は大したもの論」が時を得て勃興した。腎臓が悪い?黄耆を飲めばよいではないか。何が悪い?鹿茸を食えばよいではないか。だが西洋医学の病院からも確かに死体が運び出される。かつてG先生に忠告したことがある。病院を開くなら、どう見ても助からない患者を絶対に受け入れてはならない。治って退院しても誰も知らないが、死んで運び出されれば大騒ぎになる。まして死んだのが「名流」であればなおさらだ、と。本意は新医学の普及を図ることだったが、G先生には良心が悪いと思われたようだ。そう思われても仕方ないかもしれないが——放っておこう。

“八毛!”他也立刻懂得,将五分钱让去,真是“从善如流”,有正人君子的风度。

我付了八毛钱,等候一会,药就拿出来了。我想,对付这一种同胞,有时是不宜于太客气的。于是打开瓶塞,当面尝了一尝。

“没有错的。”他很聪明,知道我不信任他。

“唔。”我点头表示赞成。其实是,还是不对,我的味觉不至于很麻木,这回觉得太酸了一点了,他连量杯也懒得用,那稀盐酸分明已经过量。然而这于我倒毫无妨碍的,我可以每回少喝些,或者对上水,多喝它几回。所以说“唔”;“唔”者,介乎两可之间,莫明其真意之所在之答

话也。

“回见回见!”我取了瓶子,走着说。

だが私の見るところ、私の言った方法を実行している病院はかなりある。ただ彼らの本意は新医学を普及させることにはない。新しい本国の西洋医もおおむね曖昧で、手をつけるや漢方同様の江湖の秘訣を学んでしまう。薄めた龍胆チンキ二日分で八角。うがい用の薄い硼酸水一瓶で一元。診断学に至っては、私のような門外漢には知る由もない。要するに、西洋医学は中国ではまだ芽を出さぬうちから腐りかけている。西洋医学しか信じない私も、近頃はいささか二の足を踏むようになった。

“回见。不喝水么?”

“不喝了。回见。”

我们究竟是礼教之邦的国民,归根结蒂,还是礼让。让出了玻璃门之后,在大毒日头底下的尘土中趱行,行到东长安街左近,又是军警林立。我正想横穿过去,一个巡警伸手拦住道:不成!我说只要走十几步,到对面就好了。他的回答仍然是:不成!那结果,是从别的道路绕。

第27節

中文 日本語

绕到L君的寓所前,便打门,打出一个小使来,说L君出去了,须得午饭时候才回家。我说,也快到这个时候了,我在这里等一等罢。他说:不成!你贵姓呀?这使我很狼狈,路既这么远,走路又这么难,白走一遭,实在有些可惜。我想了十秒钟,便从衣袋里挖出一张名片来,叫他进去禀告太太,说有这么一个人,要在这里等一等,可以不?约有半刻钟,他出来了,结果是:也不成!先生要三点钟才回来哩,你三点钟再来罢。

六月二十六日

又想了十秒钟,只好决计去访C君,仍在大毒日头底下的尘土中趱行,这回总算一路无阻,到了。打门一问,来开门的答道:去看一看可在家。我想:这一次是大有希望了。果然,即刻领我进客厅,C君也跑出来。我首先就要求他请我吃午饭。于是请我吃面包,还有葡萄酒;主人自己却吃面。那结果是一盘面包被我吃得精光,虽然另有奶油,可是四碟菜也所余无几了。

曇り。

吃饱了就讲闲话,直到五点钟。

齊宗頤氏が来訪した。

客厅外是很大的一块空地方,种着许多树。一株频果树下常有孩子们徘徊;C君说,那是在等候频果落下来的;因为有定律:谁拾得就归谁所有。我很笑孩子们耐心,肯做这样的迂远事。然而奇怪,到我辞别出去时,我看见三个孩子手里已经各有一个频果了。

午後、車夫の張媽の住む所を探しに行く。かつて私の家で車夫をしていた男の母で、彼は病死した。その後彼女は物乞いをして暮らしていたが、ある人に引き取られて面倒を見てもらっているということだった。しかし訪ねてみると、引き取った人はとうに引っ越してしまい、行き先は分からなかった。近所の人に尋ねても誰も知らない。もう一つの心当たりを訪ねたが、やはり分からなかった。思うに、北京ではこのような人がどれほどいることか。だが私の知る限り、たった一人のことでさえ行方がつかめない。

回家看日报,上面说:“……吴在长辛店留宿一宵。除上述原因外,尚有一事,系吴由保定启程后,张其锽曾为吴卜一课,谓二十八日入京大利,必可平定西北。二十七日入京欠佳。吴颇以为然。此亦吴氏迟一日入京之由来也。”因此又想起我今天“不成”了大半天,运气殊属欠佳,不如也卜一课,以觇晚上的休咎罢。但我不明卜法,又无筮龟,实在无从措手。后来发明了一种新法,就是随便拉过一本书来,闭了眼睛,翻开,用手指指下去,然后张开眼,看指着的两句,就算是卜辞。

もし見つかったら、少しばかりの金を渡そうと思っていた。だが見つからなかったので、そのまま帰宅した。

用的是《陶渊明集》,如法泡制,那两句是:“寄意一言外,兹契谁能别。”详了一会,竟不知道是怎么一回事。

夜、原稿の校正をした。

第28節

中文 日本語

【马上支日记】

前几天会见小峰,谈到自己要在半农所编的副刊上投点稿,那名目是《马上日记》。小峰怃然曰,回忆归在《旧事重提》中,目下的杂感就写进这日记里面去……。意思之间,似乎是说:你在《语丝》上做什么呢?——但这也许是我自己的疑心病。我那时可暗暗地想:生长在敢于吃河豚的地方的人,怎么也会这样拘泥?政党会设支部,银行会开支店,我就不会写支日记的么?因为《语丝》上须投稿,而这暗想马上就实行了,于是乎作支日记。

六月二十七日

六月二十九日

晴。

早晨被一个小蝇子在脸上爬来爬去爬醒,赶开,又来;赶开,又来;而且一定要在脸上的一定的地方爬。打了一回,打它不死,只得改变方针:自己起来。

记得前年夏天路过S州,那客店里的蝇群却着实使人惊心动魄。饭菜搬来时,它们先追逐着赏鉴;夜间就停得满屋,我们就枕,必须慢慢地,小心地放下头去,倘若猛然一躺,惊动了它们,便轰的一声,飞得你头昏眼花,一败涂地。到黎明,青年们所希望的黎明,那自然就照例地到你脸上来爬来爬去了。但我经过街上,看见一个孩子睡着,五六个蝇子在他脸上爬,他却睡得甜甜的,连皮肤也不牵动一下。在中国过活,这样的训练和涵养工夫是万不可少的。与其鼓吹什么“捕蝇”,倒不如练习这一种本领来得切实。

晴。

什么事都不想做。不知道是胃病没有全好呢,还是缺少了睡眠时间。仍旧懒懒地翻翻废纸,又看见几条《茶香室丛钞》式的东西。已经团入字纸篓里的了,又觉得“弃之不甘”,挑一点关于《水浒传》的,移录在这里罢——

宋洪迈《夷坚甲志》十四云:“绍兴二十五年,吴傅朋说除守安丰军,自番阳遣一卒往呼吏士,行至舒州境,见村民穰穰,十百相聚,因弛担观之。其人曰,吾村有妇人为虎衔去,其夫不胜愤,独携刀往探虎穴,移时不反,今谋往救也。久之,民负死妻归,云,初寻迹至穴,虎牝牡皆不在,有二子戏岩窦下,即杀之,而隐其中以俟。少顷,望牝者衔一人至,倒身入穴,不知人藏其中也。吾急持尾,断其一足。虎弃所衔人,踉而窜;徐出视之,果吾妻也,死矣。虎曳足行数十步,堕涧中。吾复入窦伺,牡者俄咆跃而至,亦以尾先入,又如前法杀之。妻冤已报,无憾矣。乃邀邻里往视,舆四虎以归,分烹之。”案《水浒传》叙李逵沂岭杀四虎事,情状极相类,疑即本此等传说作之。《夷坚甲志》成于乾道初(1165),此条题云《舒民杀

三日間で日記が三日分たまった。平時なら面倒でとても書く気にならないが、これが人に見せるためとなると、やはり書かないわけにいかない。世の中の多くの事柄がこれと同じだ。自分のためなら適当に済ませるが、人に見せるとなると立派に仕立てなければならない。日記もまたこのようである。

四虎》。

宋庄季裕《鸡肋编》中云:“浙人以鸭儿为大讳。北人但知鸭羹虽甚热,亦无气。后至南方,乃始知鸭若只一雄,则虽合而无卵,须二三始有子,其以为讳者,盖为是耳,不在于无气也。”案《水浒传》叙郓哥向武大索麦稃,“武大道:‘我屋里又不养鹅鸭,那里有这麦稃?’郓哥道:‘你说没麦稃,怎地栈得肥地,便颠倒提起你来也不妨,煮你在锅里也没气?’武大道:‘含鸟猢狲!倒骂得我好。我的老婆又不偷汉子,我如何是鸭?’……”鸭必多雄始孕,盖宋时浙中俗说,今已不知。然由此可知《水浒传》确为旧本,其著者则浙人;虽庄季裕,亦仅知鸭羹无气而已。《鸡肋编》有绍兴三年(1133)序,去今已将八百年。

午前、伊東医師のところへ歯の治療に行く。待合室で少し退屈した。壁には織物の絵一幅と対聯二組が掛かっているだけだった。一組は江朝宗のもの、もう一組は王芝祥のもの。署名の下に各々印が二つあり、一つは姓名、一つは肩書きである。江のは「迪威将軍」、王のは「仏門弟子」。

元陈泰《所安遗集》《江南曲序》云:“余童丱时,闻长老言宋江事,未究其详。至治癸亥秋九月十六日,过梁山泊,舟遥见一峰,雄跨,问之篙师,曰,此安山也,昔宋江事处,绝湖为池,阔九十里,皆蕖荷菱芡,相传以为宋妻所植。宋之为人,勇悍狂侠,其党如宋者三十六人。至今山下有分赃台,置石座三十六所,俗所谓‘去时三十六,归时十八双’,意者其自誓之辞也。始予过此,荷花弥望,今无复存者,惟残香相送耳。因记王荆公诗云:‘三十六陂春水,白头想见江南。’味其词,作《江南曲》以叙游历,且以慰宋妻种荷之意云。(原注:曲因蠹损无存。)”案宋江有妻在梁山泺中,且植芰荷,仅见于此;而谓江勇悍狂侠,亦与今所传性格绝殊,知《水浒》故事,宋元来异说多矣。泰字志同,号所安,茶陵人,延祐甲寅(1314),以《天马赋》中省试第十二名,会试赐乙卯科张起岩榜进士第,由翰林庶吉士改授龙南令,卒官。至曾孙朴,始集其遗文为一卷。成化丁未,来孙铨等又并补遗重刊之。《江南曲》即在补遗中,而失其诗。近《涵芬楼秘笈》第十集收金侃手写本,则并序失之矣。“舟遥见一峰”及“昔宋江事处”二句,当有脱误,未见别本,无以正之。

午後、ミス・コウが訪ねてきたが、あいにく菓子の持ち合わせがなく、やむなく秘蔵の柿霜糖——口角の瘡に効くという——を皿に盛って出した。私は普段少し菓子を常備していて、客が来れば勧める。最初は「ミス」も「ミスター」も平等だったが、ミスターは時に手強く、きれいに平らげて一つも残さないことがある。自分が食べたい時にはまた買いに出なければならない。そこで警戒心が芽生え、方針を変えて、やむを得ない時は落花生で代用することにした。これが功を奏し、いつも少量しか食べない。食べる量が少ないので勧め始めると、時には織芳のような者が落花生を恐れて退散することさえある。昨年の夏にこの落花生政策を発明して以来、今なお厳格に施行している。だがミスたちは別だ。彼女たちの胃は男性より五分の四ほど小さいか、消化力が十分の八ほど弱いようで、小さな菓子でもたいてい半分は残し、飴玉一つでも一角は残す。皿に並べてしばらく置き、少し食べてもらっても、私の損失は微々たるもので、「何ぞ改むるを要せんや」。

ミス・コウは滅多に来ない客なので、落花生政策は適用しにくい。あいにく他の菓子もなく、柿霜糖を差し出すしかなかった。遠路はるばる持ち帰った名物の飴だから、もちろん鄭重さは示せる。

七月一日

晴。

上午,空六来谈;全谈些报纸上所载的事,真伪莫辨。许多工夫之后,他走了,他所谈的我几乎都忘记了,等于不谈。只记得一件:据说吴佩孚大帅在一处宴会的席上发表,查得赤化的始祖乃是蚩尤,因为“蚩”“赤”同音,所以蚩尤即“赤尤”,“赤尤”者,就是“赤化之尤”的意思;说毕,合座为之“欢然”云。

太阳很烈,几盆小草花的叶子有些垂下来了,浇了一点水。田妈忠告我:浇花的时候是每天必须一定的,不能乱;一乱,就有害。我觉得有理,便踌躇起来;但又想,没有人在一定的时候来浇花,我又没有一定的浇花的时候,如果遵照她的学说,那些小花可只好晒死罢了。即使乱浇,总胜于不浇,即使有害,总胜于晒死罢。便继续浇下去,但心里自然也不大踊跃。下午,叶子都直起来了,似乎不甚有害,这才放了心。

この飴はあまり一般的でないから、まず産地と効能を説明すべきだろうと思った。ところがミス・コウは一目で分かったのだ。彼女が言うには、河南の汜水県の産で、柿霜から作られる。色は濃い黄色が最上で、薄い黄色なら純粋の柿霜ではない。大変涼性があり、口角などに瘡ができた時にこれを含み、徐々に口角から流し出すと、瘡が治ると。

灯下太热,夜间便在暗中呆坐着,凉风微动,不觉也有些“欢然”。人倘能够“超然象外”,看看报章,倒也是一种清福。我对于报章,向来就不是博览家,然而这半年来,已经很遇见了些铭心绝品。远之,则如段祺瑞执政的《二感篇》,张之江督办的《整顿学风电》,陈源教授的《闲话》;近之,则如丁文江督办(?)的自称“书呆子”演说,胡适之博士的英国庚款答问,牛荣声先生的“开倒车”论(见《现代评论》七十八期),孙传芳督军的与刘海粟先生论美术书。但这些比起赤化源流考来,却又相去不可以道里计。今年春天,张之江督办明明有电报来赞成枪毙赤化嫌疑的学生,而弄到底自己还是逃不出赤化。这很使我莫明其妙;现在既知道蚩尤是赤化的祖师,那疑团可就冰释了。蚩尤曾打炎帝,炎帝也是“赤魁”。炎者,火德也,火色赤;帝不就是首领么?所以三一八惨案,即等于以赤讨赤,无论那一面,都还是逃不脱赤化的名称。

彼女は私の聞きかじりよりも詳しかった。私は黙るしかなく、この時になって初めて彼女が河南の人だったことを思い出した。河南の人に柿霜糖を数枚ご馳走するのは、私に小さな杯の紹興酒を一杯飲ませるようなもので、まさに「その愚、及ぶべからず」である。

这样巧妙的考证天地间委实不很多,只记得先前在日本东京时,看见《读卖新闻》上逐日登载着一种大著作,其中有黄帝即亚伯拉罕的考据。大意是日本称油为“阿蒲拉”(Abura),油的颜色大概是黄的,所以“亚伯拉”就是“黄”。至于“帝”,是与“罕”形近,还是与“可汗”音近呢,我现在可记不真确了,总之:阿伯拉罕即油帝,油帝就是黄帝而已。篇名和作者,现在也都忘却,只记得后来还印成一本书,而且还只是上卷。但这考据究竟还过于弯曲,不深究也好。

茭白の芯に黒い点のあるものを、私の故郷では灰茭と呼び、田舎の者でも食べたがらないが、北京では立派な宴席に出る。白菜の巻いたものは北京では斤単位・車単位で売られるが、南方に行くと根に紐をつけて果物屋の店先に逆さに吊るされ、両単位か半株単位で売られる。用途は高級な火鍋に入れるか、フカヒレの下に敷くかだ。だが北京で特に灰茭をご馳走し、あるいは北京の人を南方に連れて行って煮白菜をご馳走すれば、「愚か者」とは言われないまでも、いささか奇矯ではあるまいか。

七月二日

晴。

午后,在前门外买药后,绕到东单牌楼的东亚公司闲看。这虽然不过是带便贩卖一点日本书,可是关于研究中国的就已经很不少。因为或种限制,只买了一本安冈秀夫所作的《从小说看来的支那民族性》就走了,是薄薄的一本书,用大红深黄做装饰的,价一元二角。

だがミス・コウは一枚食べてくれた。主人の面子を少し立ててくれたのかもしれない。夜、私は手持ち無沙汰で考えた。これは河南以外の他省の人にご馳走すべきだったのだ。考えながら食べていると、思いがけずすべて食べ尽くしてしまった。

傍晚坐在灯下,就看看那本书,他所引用的小说有三十四种,但其中也有其实并非小说和分一部为几种的。蚊子来叮了好几口,虽然似乎不过一两个,但是坐不住了,点起蚊烟香来,这才总算渐渐太平下去。

安冈氏虽然很客气,在绪言上说,“这样的也不仅只支那人,便是在日本,怕也有难于漏网的。”但是,“一测那程度的高下和范围的广狭,则即使夸称为支那的民族性,也毫无应该顾忌的处所,”所以从支那人的我看来,的确不免汗流浃背。只要看目录就明白了;一,总说;二,过度置重于体面和仪容;三,安运命而肯罢休;四,能耐能忍;五,乏同情心多残忍性;六,个人主义和事大主义;七,过度的俭省和不正的贪财;八,泥虚礼而尚虚文;九,迷信深;十,耽享乐而淫风炽盛。

およそ物は希少であるほど貴ばれる。もし欧米に留学するなら、卒業論文は李太白、楊朱、張三を論じるのが最も良い。バーナード・ショーやウェルズを研究するのはあまり適切ではなく、ましてダンテの類はなおさらだ。『ダンテ伝』の著者バトラー(A.J.Butler)も、ダンテに関する文献は読みきれないと言っている。中国に帰ってからなら、ショーやウェルズ、果てはシェイクスピアを論じることもできる。何年何月にキャサリン・マンスフィールドの墓前で慟哭しただの、何月何日何時にどこでアナトール・フランスと頷き合っただの、彼は私の肩を叩いて「君は将来私に似てくるだろう」と言っただの。「四書」「五経」の類は、地元ではやはり語らぬが得策のようだ。多少の「流言」を交えたとしても、「学理と事実」にさほどの妨げにはなるまい。

他似乎很相信Smith的《Chinese Characteristies》常常引为典据。这书在他们,二十年前就有译本,叫作《支那人气质》;但是支那人的我们却不大有人留心它。

第29節

中文 日本語

第一章就是Smith说,以为支那人是颇有点做戏气味的民族,精神略有亢奋,就成了戏子样,一字一句,一举手一投足,都装模装样,出于本心的分量,倒还是撑场面的分量多。这就是因为太重体面了,总想将自己的体面弄得十足,所以敢于做出这样的言语动作来。总而言之,支那人的重要的国民性所成的复合关键,便是这“体面”。

六月二十八日

我们试来博观和内省,便可以知道这话并不过于刻毒。相传为戏台上的好对联,是“戏场小天地,天地大戏场”。大家本来看得一切事不过是一出戏,有谁认真的,就是蠢物。但这也并非专由积极的体面,心有不平而怯于报复,也便以万事是戏的思想了之。万事既然是戏,则不平也非真,而不报也非怯了。所以即使路见不平,不能拔刀相助,也还不失其为一个老牌的正人君子。

晴。

我所遇见的外国人,不知道可是受了Smith的影响,还是自己实验出来的,就很有几个留心研究着中国人之所谓“体面”或“面子”。但我觉得,他们实在是已经早有心得,而且应用了,倘若更加精深圆熟起来,则不但外交上一定胜利,还要取得上等“支那人”的好感情。这时须连“支那人”三个字也不说,代以“华人”,因为这也是关于“华人”的体面的。

午前、中央公園に行き、C君と少し仕事をした。午後は家にいた。

我还记得民国初年到北京时,邮局门口的扁额是写着“邮政局”的,后来外人不干涉中国内政的叫声高起来,不知道是偶然还是什么,不几天,都一律改了“邮务局”了。外国人管理一点邮“务”,实在和内“政”不相干,这一出戏就一直唱到现在。

向来,我总不相信国粹家道德家之类的痛哭流涕是真心,即使眼角上确有珠泪横流,也须检查他手巾上可浸着辣椒水或生姜汁。什么保存国故,什么振兴道德,什么维持公理,什么整顿学风……心里可真是这样想?一做戏,则前台的架子,总与在后台的面目不相同。但看客虽然明知是戏,只要做得像,也仍然能够为它悲喜,于是这出戏就做下去了;有谁来揭穿的,他们反以为扫兴。

夜、K君が来訪し、明後日から講演をする予定があるという。国語統一の問題について話してほしいとのことだった。引き受けた。

中国人先前听到俄国的“虚无党”三个字,便吓得屁滚尿流,不下于现在之所谓“赤化”。其实是何尝有这么一个“党”;只是“虚无主义者”或“虚无思想者”却是有的。是都介涅夫(I.Turgeniev)给创立出来的名目,指不信神,不信宗教,否定一切传统和权威,要复归那出于自由意志的生活的人物而言。但是,这样的人物,从中国人看来也就已经可恶了。然而看看中国的一些人,至少是上等人,他们的对于神,宗教,传统的权威,是“信”和“从”呢,还是“怕”和“利用”?只要看他们的善于变化,毫无特操,是什么也不信从的,但总要摆出和内心两样的架子来。要寻虚无党,在中国实在很不少;和俄国的不同的处所,只在他们这么想,便这么说,这么做,我们的却虽然这么想,却是那么说,在后台这么做,到前台又那么做……。将这种特别人物,另称为“做戏的虚无党”或“体面的虚无党”以示区别罢,虽然这个形容词和下面的名词万万联不起来。

六月二十九日

晴。

上午中、S氏が原稿を持ってきた。

夜,寄品青信,托他向孔德学校去代借《闾邱辨囿》。

夜半,在决计睡觉之前,从日历上将今天的一张撕去,下面这一张是红印的。我想,明天还是星期六,怎么便用红字了呢?仔细看时,有两行小字道:“马厂誓师再造共和纪念”。我又想,明天可挂国旗呢?……于是,不想什么,睡下了。

七月三日

晴。

热极,上半天玩,下半天睡觉。

午後、学校に行ったが、何も特別なことはなかった。

晚饭后在院子里乘凉,忽而记起万牲园,因此说:那地方在夏天倒也很可看,可惜现在进不去了。田妈就谈到那管门的两个长人,说最长的一个是她的邻居,现在已经被美国人雇去,往美国了,薪水每月有一千元。

这话给了我一个很大的启示。我先前看见《现代评论》上保举十一种好著作,杨振声先生的小说《玉君》即是其中的一种,理由之一是因为做得“长”。我于这理由一向总有些隔膜,到七月三日即“马厂誓师再造共和纪念”的晚上这才明白了:“长”,是确有价值的。《现代评论》的以“学理和事实”并重自许,确也说得出,做得到。

夜、明日の講演のための準備をした。この講演は以前から頼まれていたもので、国語の統一——北京語を標準語にすべきかどうかという問題について述べるつもりだ。

今天到我的睡觉时为止,似乎并没有挂国旗,后半夜补挂与否,我不知道。

七月四日

晴。

早晨,仍然被一个蝇子在脸上爬来爬去爬醒,仍然赶不走,仍然只得自己起来。品青的回信来了,说孔德学校没有《闾邱辨囿》。

六月三十日

也还是因为那一本《从小说看来的支那民族性》。因为那里面讲到中国的肴馔,所以也就想查一查中国的肴馔。我于此道向来不留心,所见过的旧记,只有《礼记》里的所谓“八珍”,《酉阳杂俎》里的一张御赐菜帐和袁枚名士的《随园食单》。元朝有和斯辉的《饮馔正要》,只站在旧书店头翻了一翻,大概是元版的,所以买不起。唐朝的呢,有杨煜的《膳夫经手录》,就收在《闾邱辨囿》中。现在这书既然借不到,只好拉倒了。

晴。

近年尝听到本国人和外国人颂扬中国菜,说是怎样可口,怎样卫生,世界上第一,宇宙间第n。但我实在不知道怎样的是中国菜。我们有几处是嚼葱蒜和杂合麦饼,有几处是用醋,辣椒,腌菜下饭;还有许多人是只能舐黑盐,还有许多人是连黑盐也没得舐。中外人士以为可口,卫生,第一而第n的,当然不是这些;应该是阔人,上等人所吃的肴馔。但我总觉得不能因为他们这么吃,便将中国菜考列一等,正如去年虽然出了两三位“高等华人”,而别的人们也还是“下等”的一般。

講演に行った。聴衆は学生が多かった。

安冈氏的论中国菜,所引据的是威廉士的《中国》(《Middle King-dom by Williams》),在最末《耽享乐而淫风炽盛》这一篇中。其中有这么一段——

“这好色的国民,便在寻求食物的原料时,也大概以所想像的性欲底效能为目的。从国外输入的特殊产物的最多数,就是认为含有这种效能的东西。……在大宴会中,许多菜单的最大部分,即是想像为含有或种特殊的强壮剂底性质的奇妙的原料所做。……”

国語統一の問題は実のところ非常に複雑だ。北京語を標準語にするという主張があるが、私の考えでは、方言にはそれぞれの価値があり、一つの言語で統一するのは容易ではない。しかし文字を通じた意思疎通は必要であり、白話文がその役割を果たし得る。

我自己想,我对于外国人的指摘本国的缺失,是不很发生反感的,但看到这里却不能不失笑。筵席上的中国菜诚然大抵浓厚,然而并非国民的常食;中国的阔人诚然很多淫昏,但还不至于将肴馔和壮阳药并合。“纣虽不善,不如是之甚也。”研究中国的外国人,想得太深,感得太敏,便常常得到这样——比“支那人”更有性底敏感——的结果。

講演を終えて帰宅した。特に反応はなかったが、学生たちは真剣に聞いていたようだった。

安冈氏又自己说——

“笋和支那人的关系,也与虾正相同。彼国人的嗜笋,可谓在日本人以上。虽然是可笑的话,也许是因为那挺然翘然的姿势,引起想像来

的罢。”

会稽至今多竹。竹,古人是很宝贵的,所以曾有“会稽竹箭”的话。然而宝贵它的原因是在可以做箭,用于战斗,并非因为它“挺然翘然”像男根。多竹,即多笋;因为多,那价钱就和北京的白菜差不多。我在故乡,就吃了十多年笋,现在回想,自省,无论如何,总是丝毫也寻不出吃笋时,爱它“挺然翘然”的思想的影子来。因为姿势而想像它的效能的东西是有一种的,就是肉苁蓉,然而那是药,不是菜。总之,笋虽然常见于南边的竹林中和食桌上,正如街头的电干和屋里的柱子一般,虽“挺然翘然”,和色欲的大小大概是没有什么关系的。

七月一日

晴。

然而洗刷了这一点,并不足证明中国人是正经的国民。要得结论,还很费周折罢。可是中国人偏不肯研究自己。安冈氏又说,“去今十余年前,有……称为《留东外史》这一种不知作者的小说,似乎是记事实,大概是以恶意地描写日本人的性底不道德为目的的。然而通读全篇,较之攻击日本人,倒是不识不知地将支那留学生的不品行,特地费了力招供出来的地方更其多,是滑稽的事。”这是真的,要证明中国人的不正经,倒在自以为正经地禁止男女同学,禁止模特儿这些事件上。

特に何事もなし。原稿の校正をした。

我没有恭逢过奉陪“大宴会”的光荣,只是经历了几回中宴会,吃些燕窝鱼翅。现在回想,宴中宴后,倒也并不特别发生好色之心。但至今觉得奇怪的,是在炖,蒸,煨的烂熟的肴馔中间,夹着一盘活活的醉虾。据安冈氏说,虾也是与性欲有关系的;不但从他,我在中国也听到过这类话。然而我所以为奇怪的,是在这两极端的错杂,宛如文明烂熟的社会里,忽然分明现出茹毛饮血的蛮风来。而这蛮风,又并非将由蛮野进向文明,乃是已由文明落向蛮野,假如比前者为白纸,将由此开始写字,则后者便是涂满了字的黑纸罢。一面制礼作乐,尊孔读经,“四千年声明文物之邦”,真是火候恰到好处了,而一面又坦然地放火杀人,奸淫掳掠,做着虽蛮人对于同族也还不肯做的事……全个中国,就是这样的一席大

近頃、戦争の噂がまた盛んだ。京津間の戦闘がどうなるか、誰にも分からない。こういう時期には、人々はいっそう流言に敏感になる。

七月二日

宴会!

我以为中国人的食物,应该去掉煮得烂熟,萎靡不振的;也去掉全生,或全活的。应该吃些虽然熟,然而还有些生的带着鲜血的肉类……。

正午,照例要吃午饭了,讨论中止。菜是:干菜,已不“挺然翘然”的,笋干,粉丝,腌菜。对于绍兴,陈源教授所憎恶的是“师爷”和“刀笔吏的笔尖”,我所憎恶的是饭菜。《嘉泰会稽志》已在石印了,但还未出版,我将来很想查一查,究竟绍兴遇着过多少回大饥馑,竟这样地吓怕了居民,仿佛明天便要到世界末日似的,专喜欢储藏干物品。有菜,就晒干;有鱼,也晒干;有豆,又晒干;有笋,又晒得它不像样;菱角是以富于水分,肉嫩而脆为特色的,也还要将它风干……。听说探险北极的人,因为只吃罐头食物,得不到新东西,常常要生坏血病;倘若绍兴人肯带了干菜之类去探险,恐怕可以走得更远一点罢。

曇り、午後から雨。

R氏から手紙が来た。返信した。

晚,得乔峰信并丛芜所译的布宁的短篇《轻微的欷歔》稿,在上海的一个书店里默默地躺了半年,这回总算设法讨回来了。

中国人总不肯研究自己。从小说来看民族性,也就是一个好题目。此外,则道士思想(不是道教,是方士)与历史上大事件的关系,在现今社会上的势力;孔教徒怎样使“圣道”变得和自己的无所不为相宜;战国游士说动人主的所谓“利”“害”是怎样的,和现今的政客有无不同;中国从古到今有多少文字狱;历来“流言”的制造散布法和效验等等……可以研究的新方面实在多。

夜、読書。ドストエフスキーの小説を読み返していると、ロシアと中国の状況が奇妙に重なって感じられる。改革者の苦悩、社会の冷淡さ、知識人の無力感——どこも同じだ。

七月五日

晴。

晨,景宋将《小说旧闻钞》的一部分理清送来。自己再看了一遍,到下午才毕,寄给小峰付印。天气实在热得可以。

觉得疲劳。晚上,眼睛怕见灯光,熄了灯躺着,仿佛在享福。听得有人打门,连忙出去开,却是谁也没有,跨出门去根究,一个小孩子已在暗中逃远了。

七月三日

关了门,回来,又躺下,又仿佛在享福。一个行人唱着戏文走过去,余音袅袅,道,“咿,咿,咿!”不知怎地忽然想起今天校过的《小说旧闻钞》里的强汝询老先生的议论来。这位先生的书斋就叫作求有益斋,则在那斋中写出来的文章的内容,也就可想而知。他自己说,诚不解一个人何以无聊到要做小说,看小说。但于古小说的判决却从宽,因为他古,而且昔人已经著录了。

晴。

憎恶小说的也不只是这位强先生,诸如此类的高论,随在可以闻见。但我们国民的学问,大多数却实在靠着小说,甚至于还靠着从小说编出来的戏文。虽是崇奉关岳的大人先生们,倘问他心目中的这两位“武圣”的仪表,怕总不免是细着眼睛的红脸大汉和五绺长须的白面书生,或者还穿着绣金的缎甲,脊梁上还插着四张尖角旗。

午前、T氏来訪。雑誌の原稿について相談。

近来确是上下同心,提倡着忠孝节义了,新年到庙市上去看年画,便可以看见许多新制的关于这类美德的图。然而所画的古人,却没有一个不是老生,小生,老旦,小旦,末,外,花旦……。

七月六日

晴。

午后,到前门外去买药。配好之后,付过钱,就站在柜台前喝了一回份。其理由有三:一,已经停了一天了,应该早喝;二,尝尝味道,是否不错的;三,天气太热,实在有点口渴了。

午後、L氏から電話。明日の会合のことだった。

不料有一个买客却看得奇怪起来。我不解这有什么可以奇怪的;然而他竟奇怪起来了,悄悄地向店伙道:

“那是戒烟药水罢?”

“不是的!”店伙替我维持名誉。

“这是戒大烟的罢?”他于是直接地问我了。

我觉得倘不将这药认作“戒烟药水”,他大概是死不瞑目的。人生几何,何必固执,我便似点非点的将头一动,同时请出我那“介乎两可之间”的好回答来:

何事もなく一日が過ぎる。だが「何事もない」日々こそ、実は最も恐ろしいのかもしれない。何事かが起こることを皆が待ち望み、同時に恐れている。この不安定な空気の中で、人々は日常を装いながら暮らしている。

“唔唔……。”

这既不伤店伙的好意,又可以聊慰他热烈的期望,该是一帖妙药。果然,从此万籁无声,天下太平,我在安静中塞好瓶塞,走到街上了。

第30節

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到中央公园,径向约定的一个僻静处所,寿山已先到,略一休息,便开手对译《小约翰》。这是一本好书,然而得来却是偶然的事。大约二十年前,我在日本东京的旧书店头买到几十本旧的德文文学杂志,内中有着这书的绍介和作者的评传,因为那时刚译成德文。觉得有趣,便托丸善书店去买来了;想译,没有这力。后来也常常想到,但总为别的事情岔开;直到去年,才决计在暑假中将它译好,并且登出广告去,而不料那一暑假过得比别的时候还艰难。今年又记得起来,翻检一过,疑难之处很不少,还是没有这力。问寿山可肯同译,他答应了,于是开手;并且约定,必须在这暑假期中译完。

七月四日

曇り。

午前、なにもせず。午後、公園に行った。

このごろの北京は、なんとなく落ち着かない気配がある。戦争の噂がとぎれない。だが不思議なことに、人々の日常生活はさほど変わっていない。茶館にも食堂にも客がいて、商売は続いている。

七月五日

晚上回家,吃了一点饭,就坐在院子里乘凉。田妈告诉我,今天下午,斜对门的谁家的婆婆和儿媳大吵了一通嘴。据她看来,婆婆自然有些错,但究竟是儿媳妇太不合道理了。问我的意思,以为何如。我先就没有听清吵嘴的是谁家,也不知道是怎样地两个婆媳,更没有听到她们的来言去语,明白她们的旧恨新仇。现在要我加以裁判,委实有点不敢自信,况且我又向来并不是批评家。我于是只得说:这事我无从断定。

晴。

午前中、原稿を書いた。午後はK君と会った。

七月六日

但是这句话的结果很坏。在昏暗中,虽然看不见脸色,耳朵中却听到:一切声音都寂然了。静,沉闷的静;后来还有人站起,走开。

晴。

我也无聊地慢慢地站起,走进自己的屋子里,点了灯,躺在床上看晚报;看了几行,又无聊起来了,便碰到东壁下去写日记,就是这《马上支日记》。

今日は格別に書くことがない。こういう日もある。日記を約束した以上、何か書かねばならないのだが、書くことがないのだから仕方がない。

しかし考えてみれば、書くことがないということ自体が、すでに一つの記録なのかもしれない。世の中には実に多くのことが起こっているのに、自分にとって書くべきことがないとは——これは自分の怠慢か、それとも世間との距離のためか。

院子里又渐渐地有了谈笑声,谠论声。

今天的运气似乎很不佳:路人冤我喝“戒烟药水”,田妈说我……。她怎么说,我不知道。但愿从明天起,不再这样。

(以上、馬上日記。)

第31節

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【马上日记之二】

七月七日

晴。

每日的阴晴,实在写得自己也有些不耐烦了,从此想不写。好在北京的天气,大概总是晴的时候多;如果是梅雨期内,那就上午晴,午后阴,下午大雨一阵,听到泥墙倒塌声。不写也罢,又好在我这日记,将来决不会有气象学家拿去做参考资料的。

【馬上日記 その二】

上午访素园,谈谈闲天,他说俄国有名的文学者毕力涅克(Boris Piliniak)上月已经到过北京,现在是走了。

七月七日

我单知道他曾到日本,却不知道他也到中国来。

这两年中,就我所听到的而言,有名的文学家来到中国的有四个。第一个自然是那最有名的泰戈尔即“竺震旦”,可惜被戴印度帽子的震旦人弄得一榻胡涂,终于莫名其妙而去;后来病倒在意大利,还电召震旦“诗哲”前往,然而也不知道“后事如何”。现在听说又有人要将甘地扛到中国来了,这坚苦卓绝的伟人,只在印度能生,在英国治下的印度能活的伟人,又要在震旦印下他伟大的足迹。但当他精光的脚还未踏着华土时,恐怕乌云已在出岫了。

晴。

毎日の天気を記すのも、自分でもいささかうんざりしてきた。今後は書かぬことにしよう。北京の天気はだいたい晴れが多い。梅雨の時期なら午前は晴れ、午後は曇り、夕方に大雨が一降りして泥壁の崩れる音が聞こえる。書かなくとも構わない。どうせ私の日記を将来気象学者が参考資料にすることはあるまいから。

其次是西班牙的伊本纳兹(Blasco Ibáñez),中国倒也早有人绍介过;但他当欧战时,是高唱人类爱和世界主义的,从今年全国教育联合会的议案看来,他实在很不适宜于中国,当然谁也不理他,因为我们的教育家要提倡民族主义了。

午前、素園を訪ね、雑談した。彼によれば、ロシアの著名な文学者ビリニャーク(ボリス・ピリニャーク)が先月北京に来て、今はもう去ったという。

还有两个都是俄国人。一个是斯吉泰烈支(Skitalez),一个就是毕力涅克。两个都是假名字。斯吉泰烈支是流亡在外的。毕力涅克却是苏联的作家,但据他自传,从革命的第一年起,就为着买面包粉忙了一年多。以后,便做小说,还吸过鱼油,这种生活,在中国大概便是整日叫穷的文学家也未必梦想到。

日本に行ったことは知っていたが、中国にも来たとは知らなかった。

他的名字,任国桢君辑译的《苏俄的文艺论战》里是出现过的,作品的译本却一点也没有。日本有一本《伊凡和马理》(Ivan and Maria),格式很特别,单是这一点,在中国的眼睛——中庸的眼睛——里就看不惯。文法有些欧化,有些人尚且如同眼睛里著了玻璃粉,何况体式更奇于欧化。悄悄地自来自去,实在要算是造化的。

この二年間、私が聞いた限りでは、著名な文学者で中国に来たのは四人いる。最初はもちろん、あの最も有名なタゴール、すなわち「竺震旦」だが、残念ながらインドの帽子を被った震旦人たちに振り回され、ついに訳の分からぬまま去った。後にイタリアで病に倒れ、震旦の「詩哲」に電報で来るよう召したが、「後日談」は知らない。今また誰かがガンジーを中国に担ぎ込もうとしているそうだ。この堅忍卓絶の偉人、インドでしか生まれ得ず、英国統治下のインドでしか生きられぬ偉人が、再び震旦に偉大な足跡を刻もうとしている。だが彼の素足がまだ華土を踏まぬうちに、暗雲はすでに山を出始めているだろう。

次はスペインのイバニェス(ブラスコ・イバニェス)で、中国でも早くから紹介されていた。だが彼は欧州大戦中、人類愛と世界主義を高唱した人物であり、今年の全国教育連合会の議案から見れば、中国にはまったくそぐわない。誰も相手にしなかったのは当然だ。我々の教育者は民族主義を提唱しようとしているのだから。

还有,在中国,姓名仅仅一见于《苏俄的文艺论战》里的里培进司基(U.Libodinsky),日本却也有他的小说译出了,名曰《一周间》。他们的介绍之速而且多实在可骇。我们的武人以他们的武人为祖师,我们的文人却毫不学他们文人的榜样,这就可预卜中国将来一定比日本太平。

残る二人はともにロシア人だ。一人はスキタレーツ(Skitalez)、もう一人がビリニャークだ。どちらも筆名である。スキタレーツは流亡の身だ。ビリニャークはソ連の作家だが、自伝によれば革命の第一年目からパン粉を買うのに一年余り奔走した。その後小説を書き、魚油まで飲んだ。このような生活は、中国では毎日貧乏を嘆く文学者でさえ夢にも思うまい。

但据《伊凡和马理》的译者尾濑敬止氏说,则作者的意思,是以为“频果的花,在旧院落中也开放,大地存在间,总是开放”的。那么,他还是不免于念旧。然而他眼见,身历了革命了,知道这里面有破坏,有流血,有矛盾,但也并非无创造,所以他决没有绝望之心。这正是革命时代的活着的人的心。诗人勃洛克(Alexander Block)也如此。他们自然是苏联的诗人,但若用了纯马克斯流的眼光来批评,当然也还是很有可议的处所。不过我觉得托罗兹基(Trotsky)的文艺批评,倒还不至于如此

彼の名前は、任国楨君が訳編した『ソビエトロシアの文芸論争』に出てくるが、作品の翻訳は一つもない。日本には『イワンとマリヤ』(Ivan and Maria)の一冊があり、体裁がかなり特異だ。この一点だけでも、中国の目——中庸の目——には合わない。文法が多少欧化されただけで目に砂が入ったようになる者もいるのに、ましてや体裁が欧化以上に奇抜となれば。ひっそりと来てひっそりと去ったのは、まことに天の配剤というべきか。

さらに、中国では姓名が『ソビエトロシアの文芸論争』に一度現れただけのリベジンスキー(U.Libedinsky)の小説も、日本では既に翻訳されている。題して『一週間』。彼らの紹介の速さと量は驚くべきものだ。我々の軍人は彼らの軍人を師と仰ぐのに、我々の文人は彼らの文人を手本にしようとしない。これにより中国は将来日本よりずっと太平であることが予見できる。

森严。

可惜我还没有看过他们最新的作者的作品《一周间》。

革命时代总要有许多文艺家萎黄,有许多文艺家向新的山崩地塌般的大波冲进去,乃仍被吞没,或者受伤。被吞没的消灭了;受伤的生活着,开拓着自己的生活,唱着苦痛和愉悦之歌。待到这些逝去了,于是现出一个较新的新时代,产出更新的文艺来。

だが『イワンとマリヤ』の訳者・尾瀬敬止氏によれば、作者の意図は「林檎の花は、古い屋敷の庭にも咲き、大地の存する限り、常に咲き続ける」ということだそうだ。ならば彼もやはり懐旧の念を免れない。しかし彼は革命を目の当たりにし、身をもって経験した。そこに破壊があり、流血があり、矛盾があることを知っている。だが創造がないわけでもないことを知っているから、絶望の心は決して抱かない。これこそ革命の時代を生きる人間の心だ。詩人ブローク(アレクサンドル・ブローク)もそうだ。彼らはもちろんソ連の詩人だが、純粋なマルクス主義の目で批評すれば、当然まだ議論の余地がある。だが私はトロツキーの文芸批評はそれほど厳格ではないと感じている。

中国自民元革命以来,所谓文艺家,没有萎黄的,也没有受伤的,自然更没有消灭,也没有苦痛和愉悦之歌。这就是因为没有新的山崩地塌般的大波,也就是因为没有革命。

残念ながら彼らの最新の作品『一週間』をまだ読んでいない。

七月八日

上午,往伊东医士寓去补牙,等在客厅里,有些无聊。四壁只挂着一幅织出的画和两副对,一副是江朝宗的,一副是王芝祥的。署名之下,各有两颗印,一颗是姓名,一颗是头衔;江的是“迪威将军”,王的是“佛门弟子”。

革命の時代には必ず多くの文芸家が萎黄し、多くの文芸家が新しい山崩地裂の大波に突き進み、なお呑み込まれるか負傷する。呑み込まれた者は消滅し、負傷した者は生き続け、自らの生を切り拓き、苦痛と歓喜の歌を歌う。これらが過ぎ去った後に、より新しい新時代が現れ、さらに新しい文芸が生まれる。

午后,密斯高来,适值毫无点心,只得将宝藏着的搽嘴角生疮有效的柿霜糖装在碟子里拿出去。我时常有点心,有客来便请他吃点心;最初是“密斯”和“密斯得”一视同仁,但密斯得有时委实利害,往往吃得很彻底,一个不留,我自己倒反有“向隅”之感。如果想吃,又须出去买来。于是很有戒心了,只得改变方针,有万不得已时,则以落花生代之。这一著很有效,总是吃得不多,既然吃不多,我便开始敦劝了,有时竟劝得怕吃落花生如织芳之流,至于因此逡巡逃走。从去年夏天发明了这一种花生政策以后,至今还在继续厉行。但密斯们却不在此限,她们的胃似乎比他们要小五分之四,或者消化力要弱到十分之八,很小的一个点心,也大抵要留下一半,倘是一片糖,就剩下一角。拿出来陈列片时,吃去一点,于我的损失是极微的,“何必改作”!

中国は民元革命以来、いわゆる文芸家の中に萎黄した者はなく、負傷した者もなく、もちろん消滅した者もなく、苦痛も歓喜の歌もない。これは新しい山崩地裂の大波がなかったからであり、すなわち革命がなかったからである。

七月八日

午前、伊東医師の住居に歯の治療に行く。待合室で少し退屈した。壁には織物の絵が一枚と対聯が二組掛かっているだけだ。一組は江朝宗のもので、もう一組は王芝祥のもの。署名の下に各々印が二つ、一つは姓名、一つは肩書き。江のは「迪威将軍」、王のは「仏門弟子」。

密斯高是很少来的客人,有点难于执行花生政策。恰巧又没有别的点心,只好献出柿霜糖去了。这是远道携来的名糖,当然可以见得郑重。

午後、ミス・コウが来たが、あいにく茶菓子がまったくなく、秘蔵していた柿霜糖——口角の瘡に効く——を皿に盛って出すしかなかった。私はいつも多少の茶菓子を用意していて、客が来れば勧める。最初は「ミス」も「ミスター」も平等に扱っていたが、ミスターは時に手強く、すっかり平らげて一つも残さないことがある。自分が食べたくなったら、また買いに行かねばならない。そこで警戒心を抱き、方針を変えた。やむを得ない時は落花生で代用する。これが奏功し、いつも少量しか食べない。少量しか食べないので勧め始め、時には織芳のような者が落花生を恐れて退散することもある。昨年の夏にこの落花生政策を発明して以来、今なお厳格に施行中だ。だがミスたちは対象外で、彼女たちの胃は男性より五分の四小さいか、消化力が十分の八弱いようだ。小さな菓子でもたいてい半分残し、飴一枚でも一角を残す。皿に並べてしばらく置き、少し食べてもらっても損失は微々たるもの。「何ぞ改むるを要せんや」。

我想,这糖不大普通,应该先说明来源和功用。但是,密斯高却已经一目了然了。她说:这是出在河南汜水县的;用柿霜做成。颜色最好是深黄;倘是淡黄,那便不是纯柿霜。这很凉,如果嘴角这些地方生疮的时候,便含着,使它渐渐从嘴角流出,疮就好了。

ミス・コウは滅多に来ない客で、落花生政策は適用しにくい。あいにく他の菓子もなく、柿霜糖を出すことにした。遠路はるばる持ち帰った名菓だから、鄭重さを示せる。

她比我耳食所得的知道得更清楚,我只好不作声,而且这时才记起她是河南人。请河南人吃几片柿霜糖,正如请我喝一小杯黄酒一样,真可谓“其愚不可及也”。

この飴はあまり一般的でないから、まず産地と効能を説明すべきだと思った。ところがミス・コウは一目瞭然だった。曰く、河南汜水県の産で、柿霜で作る。色は濃黄が最上で、薄黄なら純粋の柿霜ではない。大変涼性があり、口角の瘡ができた時にこれを含んで徐々に口角から流し出すと治る、と。

茭白的心里有黑点的,我们那里称为灰茭,虽是乡下人也不愿意吃,北京却用在大酒席上。卷心白菜在北京论斤论车地卖,一到南边,便根上系着绳,倒挂在水果铺子的门前了,买时论两,或者半株,用处是放在阔气的火锅中,或者给鱼翅垫底。但假如有谁在北京特地请我吃灰茭,或北京人到南边时请他吃煮白菜,则即使不至于称为“笨伯”,也未免有些乖张罢。

彼女は私の聞きかじりよりも詳しく、私は黙るしかなかった。そしてこの時はじめて彼女が河南人だったことを思い出した。河南人に柿霜糖を数枚ご馳走するとは、私に紹興酒を一杯飲ませるようなもので、まさに「その愚及ぶべからず」である。

但密斯高居然吃了一片,也许是聊以敷衍主人的面子的。到晚上我空口坐着,想:这应该请河南以外的别省人吃的,一面想,一面吃,不料这样就吃完了。

茭白の芯に黒い点があるものを、私の故郷では灰茭と呼び、田舎者でさえ食べないが、北京では高級宴席に出る。白菜の巻いたものは北京で斤や車単位で売られるが、南方に行くと根に縄をつけて果物屋の軒先に逆さに吊るされ、両単位か半株で買う。用途は高級火鍋に入れるか、フカヒレの下敷きだ。だがもし北京で私に特に灰茭をご馳走し、あるいは北京人を南方に連れて行って煮白菜をご馳走すれば、「愚か者」とは言われないまでも、いささか奇矯だろう。

凡物总是以希为贵。假如在欧美留学,毕业论文最好是讲李太白,杨朱,张三;研究萧伯讷,威尔士就不大妥当,何况但丁之类。《但丁传》的作者跋忒莱尔(A.J.Butler)就说关于但丁的文献实在看不完。待到回了中国,可就可以讲讲萧伯讷,威尔士,甚而至于莎士比亚了,何年何月自己曾在曼殊斐儿墓前痛哭,何月何日何时曾在何处和法兰斯点头,他还拍着自己的肩头说道:你将来要有些像我的!至于“四书”“五经”之类,在本地似乎究以少谈为是。虽然夹些“流言”在内,也未必便于“学理和事实”有妨。

だがミス・コウは一枚食べてくれた。おそらく主人の面子を立てたのだろう。夜、手持ち無沙汰で考えた。これは河南以外の人にご馳走すべきだったのだ、と。考えながら食べ、いつの間にか食べ尽くしてしまった。

およそ物は珍しいほど貴ばれる。欧米に留学するなら、卒業論文は李太白・楊朱・張三を論じるのが最も良い。バーナード・ショーやウェルズを研究するのは不適切で、ましてやダンテの類はなおのこと。『ダンテ伝』著者バトラー(A.J.Butler)も、ダンテ関連の文献は読み切れないと言う。中国に帰ってからなら、ショーやウェルズ、果てはシェイクスピアまで論じられる。何年何月にマンスフィールドの墓前で慟哭しただの、何月何日何時にアナトール・フランスと頷き合っただの、彼が肩を叩いて「君は将来私に似てくるよ」と言っただの。「四書」「五経」の類は、地元ではやはり触れぬが吉。多少「流言」を交えても、「学理と事実」にさほどの害はあるまい。

第32節

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【记“发薪”】

【「俸給支給」を記す】

下午,在中央公园里和C君做点小工作,突然得到一位好意的老同事的警报,说,部里今天发给薪水了,计三成;但必须本人亲身去领,而且须在三天以内。

午後、中央公園でC君と小さな仕事をしていると、突然、好意ある旧同僚から急報が入った。部(省庁)で今日俸給が支給されたという。三割分で、本人が直接受け取りに行かねばならず、しかも三日以内だと。

否则?

さもなければ?

否则怎样,他却没有说。但这是“洞若观火”的,否则,就不给。

さもなければどうなるかは、彼は言わなかった。だがそれは「火を見るより明らか」で、さもなければ支給されないのだ。

只要有银钱在手里经过,即使并非檀越的布施,人是也总爱逞逞威风的,要不然,他们也许要觉到自己的无聊,渺小。明明有物品去抵押,当铺却用这样的势利脸和高柜台;明明用银元去换铜元,钱摊却帖着“收买现洋”的纸条,隐然以“买主”自命。钱票当然应该可以到负责的地方去换现钱,而有时却规定了极短的时间,还要领签,排班,等候,受气;军警督压着,手里还有国粹的皮鞭。

金が手を通過するだけでも、たとえ檀越の布施でなくとも、人は総じて威張りたがるものだ。さもなくば、自分の無聊と卑小さを感じかねない。質屋は品物を持ち込んでも横柄な顔と高い帳場を構え、銅貨の両替店は「現洋買い取り」の札を貼って暗に「買い手」を自任する。紙幣は当然しかるべき場所で現金に換えられるべきだが、時に極めて短い期限を定め、整理券を取らせ、列に並ばせ、待たせ、辱めを受けさせる。軍警が監視し、手には伝統の革鞭。

不听话么?不但不得钱,而且要打了!

従わないなら?金がもらえないどころか、鞭で打つぞ!

我曾经说过,中华民国的官,都是平民出身,并非特别种族。虽然高尚的文人学士或新闻记者们将他们看作异类,以为比自己格外奇怪,可鄙可嗤;然而从我这几年的经验看来,却委实不很特别,一切脾气,却与普通的同胞差不多,所以一到经手银钱的时候,也还是照例有一点借此威风一下的嗜好。

かつて私は言った——中華民国の官吏は皆平民の出身で、特別な種族ではないと。高尚な文人学士や新聞記者は彼らを異類と見なし、自分より格別に奇怪で蔑むべき存在だと考えるが、私のここ数年の経験からすれば、実のところさほど特別ではなく、あらゆる気性が普通の同胞とほぼ同じだ。だから金を扱う機会には、やはり少し威張りたがる癖がある。

“亲领”问题的历史,是起源颇古的,中华民国十一年,就因此引起过方玄绰的牢骚,我便将这写了一篇《端午节》。但历史虽说如同螺旋,却究竟并非印板,所以今之与昔,也还是小有不同。在昔盛世,主张“亲领”的是“索薪会”——呜呼,这些专门名词,恕我不暇一一解释了,而且纸张也可惜。——的骁将,昼夜奔走,向国务院呼号,向财政部坐讨,一旦到手,对于没有一同去索的人的无功受禄,心有不甘,用此给吃一点小苦头的。其意若曰,这钱是我们讨来的,就同我们的一样;你要,必得到这里来领布施。你看施衣施粥,有施主亲自送到受惠者的家里去的么?

「本人受領」問題の歴史は起源が古い。中華民国十一年には、このために方玄綽が不平を洩らし、私はそれを『端午節』という一篇に書いた。だが歴史は螺旋のようでありながら印板ではないので、今と昔にはやはり多少の違いがある。かつての盛時、「本人受領」を主張したのは「索薪会」——ああ、これらの専門用語を一々解説する暇はなく、紙ももったいない——の勇将たちだった。昼夜奔走し、国務院に叫び、財政部に座り込んで催促し、いったん手に入れると、一緒に催促に行かなかった者が功なくして禄を受けることに忍びず、多少の苦労を味わわせようとしたのだ。その心は——この金は我々が勝ち取ったもので、我々のものも同然だ。欲しければここまで布施を受けに来い。施衣や施粥で施主が受益者の家まで届けに行くものか、と。

然而那是盛世的事。现在是无论怎么“索”,早已一文也不给了,如果偶然“发薪”,那是意外的上头的嘉惠,和什么“索”丝毫无关。不过临时发布“亲领”命令的施主却还有,只是已非善于索薪的骁将,而是天天“画到”,未曾另谋生活的“不贰之臣”了。所以,先前的“亲领”是对于没有同去索薪的人们的罚,现在的“亲领”是对于不能空着肚子,天天到部的人们的罚。

だがそれは盛時の話だ。今はどんなに「催促」しても一文もくれず、偶然「支給」があればお上の恩恵であり、「催促」とは毛ほどの関係もない。ただし「本人受領」を布告する施主は今もいるが、もはや催促に長けた勇将ではなく、毎日「出勤の判」を押し、他の生活手段を持たぬ「不弐の臣」だ。つまり、かつての「本人受領」は催促に参加しなかった者への罰であり、今の「本人受領」は空腹のまま毎日部署に通えない者への罰なのだ。

但这不过是一个大意,此外的事,倘非身临其境,实在有些说不清。譬如一碗酸辣汤,耳闻口讲的,总不如亲自呷一口的明白。近来有几个心怀叵测的名人间接忠告我,说我去年作文,专和几个人闹意见,不再论及文学艺术,天下国家,是可惜的。殊不知我近来倒是明白了,身历其境的小事,尚且参不透,说不清,更何况那些高尚伟大,不甚了然的事业?我现在只能说说较为切己的私事,至于冠冕堂皇如所谓“公理”之类,就让公理专家去消遣罢。

だがこれは大意に過ぎず、それ以外の事情は身をもって体験しなければ説明しにくい。たとえば酸辣湯は、聞いたり語ったりするより自分で一口啜る方がよく分かるように。近頃、何人かの心底が怪しい名士が遠回しに忠告してきた。昨年の文章は数人と揉めるばかりで、文学芸術や天下国家を論じなくなったのは惜しい、と。しかし私は近頃むしろ悟ったのだ。身をもって経験した小事でさえ見通せず語り尽くせないのに、ましてや高尚壮大で判然としない事業をや。今の私は比較的身近な私事を語るしかない。冠冕堂皇なるいわゆる「公理」の類は、公理の専門家に任せておこう。

总之,我以为现在的“亲领”主张家,已颇不如先前了,这就是“孤桐先生”之所谓“每况愈下”。而且便是空牢骚如方玄绰者,似乎也已经很寥寥了。

要するに、今の「本人受領」主張家はかつてに遥かに及ばない。これこそ「孤桐先生」の言うところの「毎況愈下」だ。しかも方玄綽のような空しい不平を洩らす者さえ、もう稀になったようだ。

“去!”我一得警报,便走出公园,跳上车,径奔衙门去。

「行くぞ!」急報を受けるや、私は公園を飛び出し、車に飛び乗り、まっすぐ役所に向かった。

一进门,巡警就给我一个立正举手的敬礼,可见做官要做得较大,虽然阔别多日,他们也还是认识的。到里面,不见什么人,因为办公时间已经改在上午,大概都已亲领了回家了。觅得一位听差,问明了“亲领”的规则,是先到会计科去取得条子,然后拿了这条子,到花厅里去领钱。

門を入ると、巡査が直立敬礼してくれた。やはりある程度の地位の官吏であれば、久しく御無沙汰でも覚えているものだ。奥に入ると人影は少ない。勤務時間が午前に変わったので、皆すでに受け取って帰宅したのだろう。給仕を一人捕まえ、「本人受領」の手続きを確認した。まず会計科で証書を受け取り、その証書を持って花庁で金を受け取るという。

就到会计科,一个部员看了一看我的脸,便翻出条子来。我知道他是老部员,熟识同人,负着“验明正身”的重大责任的;接过条子之后,我便特别多点了两个头,以表示告别和感谢之至意。

会計科に行くと、一人の部員が私の顔を見て証書を出してくれた。古参の部員で同僚の顔に精通しており、「本人確認」の重責を担っている。証書を受け取った後、私は特に深くお辞儀を二度して、感謝と別れの意を示した。

其次是花厅了,先经过一个边门,只见上帖纸条道:“丙组”,又有一行小注是“不满百元”。我看自己的条子上,写的是九十九元,心里想,这真是“人生不满百,常怀千岁忧。……”同时便直撞进去。看见一个和我差不多大的官,说道这“不满百元”是指全俸而言,我的并不在这里,是在里间。

次は花庁だ。まず脇の入口を通ると「丙組」と貼紙があり、「百元未満」との小書きがある。自分の証書を見ると九十九元と記されており、心の中で思った。まさに「人生百に満たず、常に千歳の憂いを懐く……」と。そのまま中に入ると、私と同格くらいの官吏がいて、この「百元未満」は全俸のことで、私の分はここではなく奥の間だと言う。

就到里间,那里有两张大桌子,桌旁坐着几个人,一个熟识的老同事就招呼我了;拿出条子去,签了名,换得钱票,总算一帆风顺。这组的旁边还坐着一位很胖的官,大概是监督者,因为他敢于解开了官纱——也许是纺绸,我不大认识这些东西。——小衫,露着胖得拥成折迭的胸肚,使汗珠雍容地越过了折叠往下流。

奥の間に入ると大きな机が二つあり、数人が座っている。顔見知りの旧同僚が声をかけてくれた。証書を出し、署名して紙幣と交換。一帆風順だ。この組の傍らにはとても太った官吏が座っていて、おそらく監督者だろう。官紗の——あるいは紡綢か、私にはこの手のものがよく分からない——肌着のボタンを外し、脂肪で折り重なった胸腹を露わにして、汗の粒が悠然と皺を越えて流れ落ちていた。

这时我无端有些感慨,心里想,大家现在都说“灾官”“灾官”,殊不知“心广体胖”的还不在少呢。便是两三年前教员正嚷索薪的时候,学校的教员豫备室里也还有人因为吃得太饱了,咳的一声,胃中的气体从嘴里反叛出来。

この時、わけもなく感慨を覚えた。皆が今「災官」「災官」と言うが、「心広ければ体胖す」の者も少なくないではないか。二、三年前、教員が俸給の催促に騒いでいた頃でさえ、学校の教員控室で食べ過ぎて「ゲプッ」と胃のガスを口から逆流させている者がいた。

走出外间,那一位和我差不多大的官还在,便拉住他发牢骚。

外の間に出ると、先ほどの同格くらいの官吏がまだいたので、つかまえて不平を言った。

“你们怎么又闹这些玩艺儿了?”我说。

「また何でこんなことをやるんだ。」と私。

“这是他的意思……。”他和气地回答,而且笑嘻嘻的。

「あの方のお考えで……」と彼は穏やかに、しかもにこにこしながら答えた。

“生病的怎么办呢?放在门板上抬来么?”

「病人はどうする?戸板に乗せて担いで来るのか。」

“他说:这些都另法办理。……”

「あの方が言うには、それらは別途処理する、と……」

我是一听便了然的,只是在“门——衙门之门——外汉”怕不易懂,最好是再加上一点注解。这所谓“他”者,是指总长或次长而言。此时虽然似乎所指颇蒙胧,但再掘下去,便可以得到指实,但如果再掘下去,也许又要更蒙胧。总而言之,薪水既经到手,这些事便应该“适可而止,毋贪心也”的,否则,怕难免有些危机。即如我的说了这些话,其实就已经不大妥。

私はすぐに理解したが、「門——役所の門——外漢」には分かりにくいだろうから、少し注釈を加えよう。ここで言う「あの方」とは総長または次長を指す。この時は指し示す対象がいささか曖昧だが、もう少し掘り下げれば特定できる。だがさらに掘り下げれば、また曖昧になるかもしれない。要するに、俸給を手にした以上、これらの事は「ほどほどにして、欲張るなかれ」であり、さもなくば多少の危険がある。私がこれだけ言ったことも、実はあまり穏当ではない。

于是我退出花厅,却又遇见几个旧同事,闲谈了一回。知道还有“戊组”,是发给已经死了的人的薪水的,这一组大概无须“亲领”。又知道这一回提出“亲领”律者,不但“他”,也有“他们”在内。所谓“他们”者,粗粗一听,很像“索薪会”的头领们,但其实也不然,因为衙门里早就没有什么“索薪会”,所以这一回当然是别一批新人物了。

そこで花庁を退出したが、旧同僚数人に出会い、しばし雑談した。まだ「戊組」があり、それは既に死亡した者の俸給を支給する組だそうで、この組はおそらく「本人受領」の必要がない。さらに今回の「本人受領」令を出したのは、「あの方」だけでなく「あの方々」もいるとのこと。「あの方々」は一聴すると「索薪会」の頭目のようだが、実はそうではない。役所にはとうに「索薪会」などなく、今回はもちろん別の新しい人物だ。

我们这回“亲领”的薪水,是中华民国十三年二月份的。因此,事前就有了两种学说。一,即作为十三年二月的薪水发给。然而还有新来的和新近加俸的呢,可就不免有向隅之感。于是第二种新学说自然起来:不管先前,只作为本年六月份的薪水发给。不过这学说也不大妥,只是“不管先前”这一句,就很有些疵病。

我々が今回「本人受領」した俸給は、中華民国十三年二月分のものだ。そこで事前に二つの学説が生まれた。一、十三年二月の俸給としてそのまま支給する。だが新任者や最近昇給した者は取り分がなく、不満が出る。そこで第二の新学説が当然のように起こった。以前のことは不問にし、今年六月分の俸給として支給する、と。だがこの説も不都合で、「以前のことは不問」の一句だけでもかなりの瑕疵がある。

这个办法,先前也早有人苦心经营过。去年章士钊将我免职之后,自以为在地位上已经给了一个打击,连有些文人学士们也喜得手舞足蹈。然而他们究竟是聪明人,看过“满床满桌满地”的德文书的,即刻又悟到我单是抛了官,还不至于一败涂地,因为我还可以得欠薪,在北京生活。于是他们的司长刘百昭便在部务会议席上提出,要不发欠薪,何月领来,便作为何月的薪水。这办法如果实行,我的受打击是颇大的,因为就受着经济的迫压。然而终于也没有通过。那致命伤,就在“不管先前”上;而刘百昭们又不肯自称革命党,主张不管什么,都从新来一回。

この方法は以前にも苦心経営した者がいた。昨年、章士釗が私を免職した後、地位の上で打撃を与えたと自負し、文人学士たちの中にも手を叩いて喜ぶ者がいた。だが彼らはやはり聡明で、「机の上にも寝台の上にも床の上にも」溢れるドイツ語の書物を読んだ人々だ。即座に気づいた——私は官を失っただけでは凋落せず、未払い俸給を受け取って北京で暮らせると。そこで彼らの司長・劉百昭が部務会議で提案した。未払い俸給は支給せず、何月に受領しようと、その月の俸給とせよと。この方法が実行されれば、私への打撃は相当なもので、経済的圧迫を受けることになる。だが結局は通らなかった。致命傷は「以前のことは不問」という点にあり、劉百昭らは自ら革命党を名乗って何もかも新たにやり直すとは言えなかったからだ。

所以现在每一领到政费,所发的也还是先前的钱;即使有人今年不在北京了,十三年二月间却在,实在也有些难于说是现今不在,连那时的曾经在此也不算了。但是,既然又有新的学说起来,总得采纳一点,这采纳一点,也就是调和一些。因此,我们这回的收条上,年月是十三年二月的,钱的数目是十五年六月的。

だから今でも政費が届くたびに支給されるのは以前の金であり、たとえ今年北京にいなくとも、十三年二月にはいたのだから、今いないからといって当時いたことまで否定するわけにはいかない。だが新学説が出た以上、多少は取り入れねばならず、多少取り入れることは多少の調和でもある。かくして今回の領収書は年月が十三年二月で、金額は十五年六月のものだ。

这么一来,既然并非“不管先前”,而新近升官或加俸的又可以多得一点钱,可谓比较的周到。于我是无益也无损,只要还在北京,拿得出“正身”来。

こうすれば、「以前のことを不問」にしたわけではなく、最近昇進や昇給した者も少し多く貰える。比較的周到と言えよう。私には損もなければ得もなく、北京にいて「本人」を示せさえすればよい。

翻开我的简单日记一查,我今年已经收了四回俸钱了:第一次三元;第二次六元;第三次八十二元五角,即二成五,端午节的夜里收到的;第四次三成,九十九元,就是这一次。再算欠我的薪水,是大约还有九千二百四十元,七月份还不算。

簡単な日記をめくって調べると、今年すでに四回俸給を受け取っている。第一回は三元。第二回は六元。第三回は八十二元五角、すなわち二割五分で、端午節の夜に届いた。第四回は三割の九十九元、今回だ。さらに未払い俸給を計算すると、大約九千二百四十元、七月分は含めず。

我觉得已是一个精神上的财主;只可惜这“精神文明”是不很可靠的,刘百昭就来动摇过。将来遇见善于理财的人,怕还要设立一个“欠薪整理会”,里面坐着几个人物,外面挂着一块招牌,使凡有欠薪的人们都到那里去接洽。几天或几月之后,人不见了,接着连招牌也不见了;于是精神上的财主就变了物质上的穷人了。

私はすでに精神上の財主だと感じる。ただしこの「精神文明」はあまり頼りにならず、劉百昭が揺さぶりをかけてきた前例もある。将来、財務に長けた者が現れれば、「未払俸給整理会」なるものを設立するかもしれない。中に数人が座り、外に看板を掛け、未払い俸給のある者はみなそこへ交渉に行く。数日か数ヶ月後に人は消え、続いて看板も消え、精神上の財主は物質上の貧者に変わるのだ。

但现在却还的确收了九十九元,对于生活又较为放心,趁闲空来发一点议论再说。

だが今はまことに九十九元を受け取り、生活にまた少し安心した。暇に乗じて少し議論をしておこう。

(七月二十一日。)

(七月二十一日。)

第33節

中文 日本語

【记谈话】

【談話を記す】

鲁迅先生快到厦门去了,虽然他自己说或者因天气之故而不能在那里久住,但至少总有半年或一年不在北京,这实在是我们认为很使人留恋的一件事。八月二十二日,女子师范大学学生会举行毁校周年纪念,鲁迅先生到会,曾有一番演说,我恐怕这是他此次在京最后的一回公开讲演,因此把它记下来,表示我一点微弱的纪念的意思。人们一提到鲁迅先生,或者不免觉得他稍微有一点过于冷静,过于默视的样子,而其实他是无时不充满着热烈的希望,发挥着丰富的感情的。在这一次谈话里,尤其可以显明地看出他的主张;那么,我把他这一次的谈话记下,作为他出京的纪念,也许不是完全没有重大的意义罢。我自己,为免得老实人费心起见,应该声明一下:那天的会,我是以一个小小的办事员的资格参加的。

魯迅先生はまもなく廈門に行かれる。ご本人は気候の関係で長く留まれないかもしれないと言っておられるが、少なくとも半年か一年は北京におられない。これは実に名残惜しいことだと我々は感じている。八月二十二日、女子師範大学学生会が毀校周年記念を挙行し、魯迅先生が出席して一つの演説をされた。今回の在京中、最後の公開講演ではないかと思い、それを記録して、ささやかな記念の意を表したい。魯迅先生と言えば、やや冷静に過ぎ、やや傍観しているように感じる人もあろうが、実は常に熱烈な希望に満ち、豊かな感情を発揮しておられるのだ。今回の談話では、その主張が特に明瞭に見て取れる。ならば、この談話を記録して出京の記念とすることも、まったく重大な意義がないとは言えまい。私自身について、正直な人に心配をかけないよう申し添えておけば、当日の会に一人の小さな事務員として参加したのである。

〔培良〕

〔培良〕

我昨晚上在校《工人绥惠略夫》,想要另印一回,睡得太迟了,到现在还没有很醒;正在校的时候,忽然想到一些事情,弄得脑子里很混乱,一直到现在还是很混乱,所以今天恐怕不能有什么多的话可说。

昨晩、『労働者シュヴィリガイロフ』を校正していて——もう一度刷り直すつもりで——就寝が遅くなり、今もまだ十分に覚めていない。校正中にふと幾つかの事が頭に浮かび、頭の中がひどく混乱したまま今に至っているので、今日はあまり多くを語れそうにない。

提到我翻译《工人绥惠略夫》的历史,倒有点有趣。十二年前,欧洲大混战开始了,后来我们中国也参加战事,就是所谓“对德宣战”;派了许多工人到欧洲去帮忙;以后就打胜了,就是所谓“公理战胜”。中国自然也要分得战利品,——有一种是在上海的德国商人的俱乐部里的德文书,总数很不少,文学居多,都搬来放在午门的门楼上。教育部得到这些书,便要整理一下,分类一下,——其实是他们本来分类好了的,然而有些人以为分得不好,所以要从新分一下。——当时派了许多人,我也是其中的一个。后来,总长要看看那些书是什么书了。怎样看法呢?叫我们用中文将书名译出来,有义译义,无义译音,该撒呀,克来阿派忒拉呀,大马色呀……。每人每月有十块钱的车费,我也拿了百来块钱,因为那时还有一点所谓行政费。这样的几里古鲁了一年多,花了几千块钱,对德和约成立了,后来德国来取还,便仍由点收的我们全盘交付,——也许少了几本罢。至于“克来阿派忒拉”之类,总长看了没有,我可不得而知了。

『労働者シュヴィリガイロフ』を翻訳した経緯には、少し面白い話がある。十二年前、ヨーロッパの大混戦が始まり、後に中国も参戦した。いわゆる「対独宣戦」である。多くの労働者をヨーロッパに派遣して助力させ、そして勝利した。いわゆる「公理の勝利」だ。中国も当然戦利品を分け前に預かる——上海にあったドイツ商人の倶楽部のドイツ語書籍もその一つで、総数は相当なもの、文学書が多く、すべて午門の門楼に運び込まれた。教育部がこれらの書籍を整理・分類しようとした——実は元々分類されていたのだが、分類が悪いと考える人がいて、改めて分類することになった。多くの人が派遣され、私もその一人だった。後に総長がこれらの書籍がどのようなものか見たいと言い出した。どうやって見るかと言えば、我々に中国語で書名を訳させた。意味が訳せれば意訳し、訳せなければ音訳した。カエサルだのクレオパトラだのダマスカスだの……。一人月十元の交通費があり、私も百元ほど受け取った。当時はまだ多少の事務費があったからだ。こうして一年余りの間に数千元を費やし、対独講和条約が成立した後、ドイツが返還を求め、検収した我々がそのまま全部引き渡した——数冊減っていたかもしれないが。「クレオパトラ」云々を総長が見たかどうかは、私は知らない。

据我所知道的说,“对德宣战”的结果,在中国有一座中央公园里的“公理战胜”的牌坊,在我就只有一篇这《工人绥惠略夫》的译本,因为那底本,就是从那时整理着的德文书里挑出来的。

私の知る限りでは、「対独宣戦」の結果、中国には中央公園の「公理戦勝」の牌坊が一つ残り、私にはこの『労働者シュヴィリガイロフ』の訳本が一篇残っただけだ。底本はまさにあの整理していたドイツ語書籍の中から選び出したものだから。

那一堆书里文学书多得很,为什么那时偏要挑中这一篇呢?那意思,我现在有点记不真切了。大概,觉得民国以前,以后,我们也有许多改革者,境遇和绥惠略夫很相像,所以借借他人的酒杯罢。然而昨晚上一看,岂但那时,譬如其中的改革者的被迫,代表的吃苦,便是现在,——便是将来,便是几十年以后,我想,还要有许多改革者的境遇和他相像的。所以我打算将它重印一下……。

あの山のような書物の中に文学書は多かったのに、なぜ当時この一篇を選んだのか。その意図は今ではやや曖昧だ。おそらく、民国以前も以後も、我々にも多くの改革者がいて、その境遇がシュヴィリガイロフと酷似しているから、他人の酒杯を借りたのだろう。だが昨夜読み返してみると、あの当時だけでなく、たとえばその中の改革者の迫害や代表者の苦しみは、今でも——将来でも——数十年後でも、なお多くの改革者がこれと同じ境遇にあるだろうと思う。だから刷り直そうと思ったのだ……。

《工人绥惠略夫》的作者阿尔志跋绥夫是俄国人。现在一提到俄国,似乎就使人心惊胆战。但是,这是大可以不必的,阿尔志跋绥夫并非共产党,他的作品现在在苏俄也并不受人欢迎。听说他已经瞎了眼睛,很在吃苦,那当然更不会送我一个卢布……。总而言之:和苏俄是毫不相干。但奇怪的是有许多事情竟和中国很相像,譬如,改革者,代表者的受苦,不消说了;便是教人要安本分的老婆子,也正如我们的文人学士一般。有一个教员因为不受上司的辱骂而被革职了,她背地里责备他,说他“高傲”得可恶,“你看,我以前被我的主人打过两个嘴巴,可是我一句话都不说,忍耐着。究竟后来他们知道我冤枉了,就亲手赏了我一百卢布。”自然,我们的文人学士措辞决不至于如此拙直,文字也还要华赡得多。

『労働者シュヴィリガイロフ』の作者アルツィバーシェフはロシア人だ。今やロシアと言えば人々を震え上がらせるようだが、それは大いに不要なことだ。アルツィバーシェフは共産党ではなく、彼の作品は今のソビエトロシアでも歓迎されていない。聞くところでは失明して大変苦しんでいるそうで、当然私に一ルーブルも送ってくれはしない……。要するに、ソビエトロシアとは何の関係もない。だが奇妙なことに、多くのことが中国と酷似している。改革者や代表者の苦しみは言うまでもなく、人に分を守れと教える老婆にしても、我々の文人学士とそっくりだ。ある教員が上司の罵倒を受けず免職になると、彼女は陰で責めて言った。「高慢」で可悪い、「ご覧なさい、私は以前ご主人に頬を二度叩かれましたが、一言も言わずに耐えました。結局彼らも私の冤罪を知り、親しく百ルーブルを下さったのです」と。もちろん我々の文人学士の措辞はこれほど拙直ではなく、文章ももっと華麗だが。

然而绥惠略夫临末的思想却太可怕。他先是为社会做事,社会倒迫害他,甚至于要杀害他,他于是一变而为向社会复仇了,一切是仇,一切都破坏。中国这样破坏一切的人还不见有,大约也不会有的,我也并不希望其有。但中国向来有别一种破坏的人,所以我们不去破坏的,便常常受破坏。我们一面被破坏,一面修缮着,辛辛苦苦地再过下去。所以我们的生活,便成了一面受破坏,一面修补,一面受破坏,一面修补的生活了。这个学校,也就是受了杨荫榆章士钊们的破坏之后,修补修补,整理整理,再过下去的。

だがシュヴィリガイロフの最後の思想はあまりにも恐ろしい。彼は初め社会のために働いたが、社会は彼を迫害し、殺そうとさえした。そこで一変して社会への復讐に転じ、一切が仇、一切を破壊する。中国にはこのように一切を破壊する人はまだいないし、おそらくいないだろう。私もそうあることを望まない。だが中国には昔から別種の破壊者がいるため、我々が破壊しなければ、常に破壊される側になる。我々は一方で破壊され、一方で修繕しながら、辛苦の日々を送る。だから我々の生活は、破壊されては修繕し、破壊されては修繕する生活となった。この学校もまた、楊蔭楡・章士釗らの破壊を受けた後、修繕に修繕を重ねて続けてきたのだ。

俄国老婆子式的文人学士也许说,这是“高傲”得可恶了,该得惩罚。这话自然很像不错的,但也不尽然。我的家里还住着一个乡下人,因为战事,她的家没有了,只好逃进城里来。她实在并不“高傲”,也没有反对过杨荫榆,然而她的家没有了,受了破坏。战事一完,她一定要回去的,即使屋子破了,器具抛了,田地荒了,她也还要活下去。她大概只好搜集一点剩下的东西,修补修补,整理整理,再来活下去。

ロシアの老婆のような文人学士はおそらく言うだろう——これは「高慢」で可悪い、罰を受けて当然だ、と。この言葉はもっともらしいが、必ずしもそうではない。私の家にはある田舎の女が住んでいる。戦争で家を失い、やむなく城内に逃げてきたのだ。彼女は決して「高慢」ではないし、楊蔭楡に反対したこともない。だが家を失い、破壊されたのだ。戦争が終われば必ず帰るだろう。家が壊れ、器物が散り、田畑が荒れていても、なお生きていかねばならない。おそらく残った僅かなものを集め、修繕に修繕を重ね、再び生きていくしかあるまい。

中国的文明,就是这样破坏了又修补,破坏了又修补的疲乏伤残可怜的东西。但是很有人夸耀它,甚至于连破坏者也夸耀它。便是破坏本校的人,假如你派他到万国妇女的什么会里去,请他叙述中国女学的情形,他一定说,我们中国有一个国立北京女子师范大学在。

中国の文明とは、こうして破壊されては修繕し、破壊されては修繕する、疲弊し傷つき哀れなものなのだ。だがこれを誇る者は多く、破壊者でさえ誇る。本校を破壊した者も、もし万国婦人のなにかの会に派遣され、中国の女子教育の状況を述べよと言われれば、必ずこう言うだろう——わが中国には国立北京女子師範大学がある、と。

这真是万分可惜的事,我们中国人对于不是自己的东西,或者将不为自己所有的东西,总要破坏了才快活的。杨荫榆知道要做不成这校长,便文事用文士的“流言”,武功用三河的老妈,总非将一班“毛鸦头”赶尽杀绝不可。先前我看见记载上说的张献忠屠戮川民的事,我总想不通他是什么意思;后来看到别一本书,这才明白了:他原是想做皇帝的,但是李自成先进北京,做了皇帝了,他便要破坏李自成的帝位,怎样破坏法呢?做皇帝必须有百姓;他杀尽了百姓,皇帝也就谁都做不成了。既无百姓,便无所谓皇帝,于是只剩了一个李自成,在白地上出丑,宛如学校解散后的校长一般。这虽然是一个可笑的极端的例,但有这一类的思想的,实在并不止张献忠一个人。

これはまことに惜しむべきことだ。我々中国人は、自分のものでないもの、あるいは自分のものでなくなるものは、破壊してしまわなければ気が済まないのだ。楊蔭楡は学長の座を追われると分かるや、文にはの文士の「流言」を用い、武には三河の老媽を使い、「小娘ども」を一人残らず追い払わずにはおかなかった。かつて記録で張献忠の四川民殺戮を読んだ時、彼の意図がどうしても分からなかった。後に別の本を読んで初めて分かった——彼はもともと皇帝になろうとしたが、李自成が先に北京に入って皇帝になってしまった。そこで李自成の帝位を破壊しようとした。どうやって?皇帝には臣民が必要だ。臣民を殺し尽くせば、皇帝も誰にもなれない。臣民がいなければ皇帝も存在せず、残るのは李自成一人、白地の上で醜態を晒すのみ。あたかも学校解散後の学長のように。これは滑稽な極端な例だが、このような考え方をする者は決して張献忠一人ではない。

我们总是中国人,我们总要遇见中国事,但我们不是中国式的破坏者,所以我们是过着受破坏了又修补,受破坏了又修补的生活。我们的许多寿命白费了。我们所可以自慰的,想来想去,也还是所谓对于将来的希望。希望是附丽于存在的,有存在,便有希望,有希望,便是光明,如果历史家的话不是诳话,则世界上的事物可还没有因为黑暗而长存的先例。黑暗只能附丽于渐就灭亡的事物,一灭亡,黑暗也就一同灭亡了,它不永久。然而将来是永远要有的,并且总要光明起来;只要不做黑暗的附着物,为光明而灭亡,则我们一定有悠久的将来,而且一定是光明的将来。

我々はやはり中国人であり、中国の事に遭遇し続ける。だが我々は中国式の破壊者ではないから、破壊されては修繕し、破壊されては修繕する生活を送ることになる。我々の多くの寿命は無駄に費やされる。我々が自ら慰めとし得るもの、考えに考えて思い当たるのは、やはり将来への希望というものだ。希望は存在に付随する。存在があれば希望があり、希望があれば光明がある。もし歴史家の言葉が嘘でなければ、世の中の事物で暗黒のゆえに長く存在した前例はまだない。暗黒はただ滅びゆくものに付随し、それが滅びれば暗黒もともに滅ぶ。永久ではない。だが将来は永遠に来るべきものであり、必ず光明に向かう。暗黒の付着物とならず、光明のために滅びるならば、我々には必ず悠久の将来があり、しかもそれは必ず光明の将来だ。

我赴这会的后四日,就出北京了。在上海看见日报,知道女师大已改为女子学院的师范部,教育总长任可澄自做院长,师范部的学长是林素园。后来看见北京九月五日的晚报,有一条道:“今日下午一时半,任可澄特同林氏,并率有警察厅保安队及军督察处兵士共四十左右,驰赴女师大,武装接收。……”原来刚一周年,又看见用兵了。不知明年这日,还是带兵的开得校纪念呢,还是被兵的开毁校纪念?现在姑且将培良君的这一篇转录在这里,先作一个本年的纪念罢。

私がこの会に赴いた四日後に北京を発った。上海で新聞を見ると、女師大は既に女子学院の師範部に改組され、教育総長の任可澄が自ら院長となり、師範部の学長は林素園だと知った。後に北京九月五日の夕刊で一条の記事を目にした。「本日午後一時半、任可澄は特に林氏を伴い、警察庁保安隊および軍督察処の兵士計約四十名を率いて女師大に急行し、武装接収した……」。なんと一周年にして再び兵を用いるのを目にした。来年のこの日は、兵を率いる者が開校記念を開くのか、兵を受ける者が毀校記念を開くのか。今はひとまず培良君のこの一篇をここに転録し、今年の記念としよう。

一九二六年十月十四日,鲁迅附记。

一九二六年十月十四日、魯迅附記。

第34節

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【上海通信】

【上海通信】

小峰兄:

小峰兄へ:

别后之次日,我便上车,当晚到天津。途中什么事也没有,不过刚出天津车站,却有一个穿制服的,大概是税吏之流罢,突然将我的提篮拉住,问道“什么?”我刚答说“零用什物”时,他已经将篮摇了两摇,扬长而去了。幸而我的篮里并无人参汤榨菜汤或玻璃器皿,所以毫无损失,请勿念。

お別れの翌日、列車に乗り、その晩天津に着いた。道中は何事もなかったが、天津駅を出た途端、制服を着た男——おそらく税関吏の類だろう——が突然私の手提げ籠を引っ張り、「何だ?」と問うた。「身の回りの品です」と答える間もなく、彼は既に籠を二、三度揺すって、意気揚々と去って行った。幸い籠の中に朝鮮人参のスープもザーサイのスープもガラス器もなかったので、何の損害もなかった。ご心配なく。

从天津向浦口,我坐的是特别快车,所以并不嚣杂,但挤是挤的,我从七年前护送家眷到北京以后,便没有坐过这车;现在似乎男女分坐了,间壁的一室中本是一男三女的一家,这回却将男的逐出,另外请进一个女的去。将近浦口,又发生一点小风潮,因为那四口的一家给茶房的茶资太少了,一个长壮伟大的茶房便到我们这里来演说,“使之闻之”。其略曰:钱是自然要的。一个人不为钱为什么?然而自己只做茶房图几文茶资,是因为良心还在中间,没有到这边(指腋下介)去!自己也还能卖掉田地去买枪,招集了土匪,做个头目;好好地一玩,就可以升官,发财了。然而良心还在这里(指胸骨介),所以甘心做茶房,赚点小钱,给儿女念念书,将来好好过活。……但,如果太给自己下不去了,什么不是人做的事要做也会做出来!我们一堆共有六个人,谁也没有反驳他。听说后来是添了一块钱完事。

天津から浦口へは特別快速に乗ったので喧しくはなかったが、混んではいた。七年前に家族を北京へ送って以来、この列車には乗っていなかった。今はどうやら男女別席のようで、隣の個室は元々男一人女三人の一家だったが、男は追い出され、代わりに別の女性が入った。浦口の手前でまた小さな悶着が起きた。あの四人家族がボーイへのチップが少な過ぎたためで、長身偉丈夫のボーイが我々の個室に来て演説を始めた。「聞かせる」ためだ。その要旨は——金は当然要る。人が金のためでなくて何のためだ。だが自分がボーイをして幾ばくかのチップを稼ぐのは、良心がまだここ(胸を指す)にあるからだ、あっち(脇の下を指す)に行ってはいない。自分だって田畑を売り払って鉄砲を買い、匪賊を集めて頭目になることもできる。うまくやれば昇進も蓄財もできる。だが良心がまだここにあるから、甘んじてボーイをして小銭を稼ぎ、子供に勉強させて、将来まともに暮らさせたいのだ。……だが、あまり自分を侮辱されると、人がやらぬことだって何でもやりかねない! 我々六人、誰も反論しなかった。後で聞いたところ、一元追加して決着がついたそうだ。

我并不想步勇敢的文人学士们的后尘,在北京出版的周刊上斥骂孙传芳大帅。不过一到下关,记起这是投壶的礼义之邦的事来,总不免有些滑稽之感。在我的眼睛里,下关也还是七年前的下关,无非那时是大风雨,这回却是晴天。赶不上特别快车了,只好趁夜车,便在客寓里暂息。挑夫(即本地之所谓“夫子”)和茶房还是照旧地老实;板鸭,插烧,油鸡等类,也依然价廉物美。喝了二两高粱酒,也比北京的好。这当然只是“我以为”;但也并非毫无理由:就因为它有一点生的高粱气味,喝后合上眼,就如身在雨后的田野里一般。

私は勇敢な文人学士の後塵を拝して、北京刊行の週刊誌で孫伝芳大元帥を罵倒するつもりはない。だが下関に着き、ここが投壺の礼儀の国であることを思い出すと、やはり滑稽の感を禁じ得ない。私の目には下関はまだ七年前の下関で、ただあの時は暴風雨、今回は晴天だったというだけだ。特別快速には間に合わず、夜行を待つことにして、旅館で暫く休んだ。担ぎ人夫(当地のいわゆる「夫子」)もボーイも相変わらず正直で、板鴨・叉焼・油鶏などの類も依然として安くて旨い。高粱酒を二合飲んだが、北京のより旨い。もちろんこれは「私が思う」に過ぎないが、理由がないわけでもない。わずかに生の高粱の匂いがして、飲んだ後に目を閉じると、雨上がりの野原にいるようなのだ。

正在田野里的时候,茶房来说有人要我出去说话了。出去看时,是几个人和三四个兵背着枪,究竟几个,我没有细数;总之是一大群。其中的一个说要看我的行李。问他先看那一个呢?他指定了一个麻布套的皮箱。给他解了绳,开了锁,揭开盖,他才蹲下去在衣服中间摸索。摸索了一会,似乎便灰心了,站起来将手一摆,一群兵便都“向后转”,往外走出去了。那指挥的临走时还对我点点头,非常客气。我和现任的“有枪阶级”接洽,民国以来这是

野原にいるところへ、ボーイが来て外で人が話したいと言う。出てみると、数人と三、四人の兵が銃を背負っている。正確に何人かは数えなかったが、とにかく大勢だ。その中の一人が荷物を見たいと言う。どれを先に見るかと聞くと、麻布で包んだ革の鞄を指した。縄を解き、鍵を開け、蓋を開けると、彼は膝をついて衣服の間を探り始めた。しばらく探ってがっかりしたらしく、立ち上がって手を振ると、兵士たちは一斉に「回れ右」して出て行った。指揮していた男は去り際に私に頷き、非常に丁寧だった。現在の「有銃階級」との接触は、民国以来これが

第35節

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第一回。我觉得他们倒并不坏;假使他们也如自称“无枪阶级”的善造“流言”,我就要连路也不能走。

初めてだ。彼らは決して悪くないと感じた。もし彼らも「無銃階級」を自称する者たちのように巧みに「流言」を作るなら、私は道を歩くこともできまい。

向上海的夜车是十一点钟开的,客很少,大可以躺下睡觉,可惜椅子太短,身子必须弯起来。这车里的茶是好极了,装在玻璃杯里,色香味都好,也许因为我喝了多年井水茶,所以容易大惊小怪了罢,然而大概确是很好的。因此一共喝了两杯,看看窗外的夜的江南,几乎没有睡觉。

上海行きの夜行は十一時発で、客は少なく、横になって寝られるはずだったが、あいにく椅子が短く、体を曲げなければならなかった。この列車のお茶は素晴らしく、ガラスのコップに注がれ、色も香りも味も良い。何年も井戸水の茶を飲んできた私が大袈裟に騒いでいるだけかもしれないが、おそらく確かに旨いのだ。そこで計二杯飲み、窓の外の夜の江南を眺め、ほとんど眠らなかった。

在这车上,才遇见满口英语的学生,才听到“无线电”“海底电”这类话。也在这车上,才看见弱不胜衣的少爷,绸衫尖头鞋,口嗑南瓜子,手里是一张《消闲录》之类的小报,而且永远看不完。这一类人似乎江浙特别多,恐怕投壶的日子正长久哩。

この列車で初めて英語を連発する学生に出会い、「無線電信」「海底電報」といった言葉を耳にした。またこの列車で初めて、ひ弱そうな若旦那を見た。絹の衫に先の尖った靴、口で南瓜の種を嚙りながら、手には『消閑録』の類の小新聞を持ち、しかもいつまでも読み終わらない。この手合いは江浙に特に多いようで、投壺の日々はまだ長く続きそうだ。

现在是住在上海的客寓里了;急于想走。走了几天,走得高兴起来了,很想总是走来走去。先前听说欧洲有一种民族,叫作“吉柏希”的,乐于迁徙,不肯安居,私心窃以为他们脾气太古怪,现在才知道他们自有他们的道理,倒是我胡涂。

今は上海の旅館にいる。早く出発したい。数日歩いたら、歩くのが楽しくなってきた。いつまでも歩き回っていたい。以前ヨーロッパに「ジプシー」という民族がいると聞いた。移動を好み、定住を嫌う。ひそかに彼らの気性は奇妙だと思っていたが、今になって彼らには彼らなりの道理があると分かった。愚かだったのは私の方だ。

这里在下雨,不算很热了。

ここは雨で、さほど暑くはない。

鲁迅。八月三十日,上海。

魯迅。八月三十日、上海にて。

这半年我又看见了许多血和许多泪,

この半年、私はまた多くの血と多くの涙を見た。

然而我只有杂感而已。

しかし私にはただ雑感があるのみ。

泪揩了,血消了;

涙は拭われ、血は消えた。

屠伯们逍遥复逍遥,

虐殺者たちは悠々とまた悠々と、

用钢刀的,用软刀的。

鋼の刀を使う者も、柔らかい刀を使う者も。

然而我只有“杂感”而已。

しかし私にはただ「雑感」があるのみ。

连“杂感”也被“放进了应该去的地方”时,

「雑感」さえも「然るべき場所に放り込まれた」時、

我于是只有“而已”而已!

私にはただ「のみ」があるのみ!

(十月十四夜,校讫记。)

(十月十四日夜、校了に記す。)

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