Lu Xun Complete Works/ja/Fen
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墳 (坟)
魯迅 (ルーシュン, 1881–1936)
中国語からの日本語翻訳。
第1節
【父親】
M・ショーロホフ
太陽はコサック村の辺りの灰緑色の叢林の向こうで、弱々しく瞬いたところだった。村からさほど遠くないところに渡し船がある。私はこれに乗ってドン河の向こう岸に渡らねばならなかった。湿った砂の上を歩くと、そこから腐敗した臭いが立ち昇ってきた。水に浸った腐れ木のようだった。道はまるで乱れた兎の足跡のように、叢林を縫って蜿蜒と続いていた。膨れて真っ赤な太陽は、すでに村の向こう側の墓地に沈んでいた。私の背後では、枯れた雑木の間を、蒼茫たる黄昏がゆるやかに歩いていた。
渡し船は岸辺に繋がれ、淡い紫色の水がその下から覗いていた。櫓は軽く跳ね、一方に回りながら、櫓臍もきいきいと鳴っていた。
船頭は柄杓で苔の生えた船底を掻き、水を外に汲み出していた。頭を上げ、黄色みがかった斜視の目で私をじっと見て、不機嫌に、罵るように尋ねた。
「渡るのかね? すぐ出すよ、今から纜を解く」
「二人きりで出せるのか?」
「出すしかないさ。すぐ夜になる。誰が来るか分かったもんじゃない」。彼は裾を捲り上げ、また私を一瞥して言った。
「見たところ、あんたはよそ者だな、うちの者じゃない。どこから来た?」
「陣営から帰るところだ」
男は帽子を小舟の中に置き、頭を振って、黒いカフカスの銀のような髪をかき分け、私にウインクし、虫食いの歯を見せた。
「休暇を貰ったのかい、それとも、まあそういうことで――こっそりと?」
「除隊したんだ。年限が満了した」
「ああ……ああ。じゃあのんびりできるわけだ……」
我々は櫓を漕ぎ始めた。だがドン河は冗談でもするかのように、我々を岸辺に浸った森の若木の中へと運び込んでしまう。水が壊れやすい竜骨に当たり、はっきりとした音を立てた。青い血管の浮き出た船頭の赤い裸足は、太い筋肉の束のようだった。冷たさで青ざめた足裏が、滑りやすい斜梁にしっかりと踏みしめられ、腕は長くたくましく、指の関節はどれも太く膨れ上がっていた。彼は痩せて肩が狭く、腰を曲げ、辛抱強く櫓を漕いでいたが、櫓は巧みに波頭を切り開き、深く水に入っていった。
この男の均一で妨げのない呼吸が聞こえた。彼の毛糸のシャツから、汗と煙草と水の淡い味の混じった鼻を突く臭いが湧き出していた。彼は突然櫓を置き、振り返って私に言った。
「どうやら入れそうもないな。この林の中で押し潰されそうだ。参ったな!」
一つの激しい波に打たれ、船は峻険な岩にぶつかった。船は船尾を力いっぱい振り、そのまま傾いて森の中へ進んでいった。
半時間後、我々は浸水した森の木々の間にしっかりと挟まれてしまった。櫓も折れた。櫓臍の上に、折れた破片がゆらゆらと揺れていた。船底の穴から、水が滔々と船の中に湧き入ってきた。我々は木の上で夜を過ごすほかなかった。船頭は足で枝に巻きつき、私のそばに蹲って、パイプを吹かしながら話し、頭上のペースト状の暗がりを切り裂く雁の羽ばたきの音に耳を傾けていた。
「うむ、うむ、あんたは家に帰るところだな。母親がもう家で待っとるよ。知っとるんだ、息子が帰ってきた、養ってくれる者が帰ってきたと。年老いた心が温まるんだ。そうさ……だがあんたも知っとるだろう、母親というものは、昼はあんたのことを心配し、夜は辛い涙を流しとる。だが何でもないことだと思っとる……母親はみなそうだ、自分の可愛い息子のためならば。みなそうなんだ……自分で子供を生んで育ててみなければ、親の苦しい心は分からんものだ。だが父親であれ母親であれ、子供のためにどれほど苦しまねばならんことか!
こういうことがあるもんだ。魚を捌く時に、女がその苦胆を破ってしまう。そうすると魚の汁を掬い上げても、苦くて飲めやしない。わしもまさにそうだ。生きてはおるが、いつも大きな苦しみを呑まねばならん。耐えて、堪えて、だが時々こう思うんだ。『人生よ、人生よ、いったいいつになったらお前のこの腐り切った生活の幕が下りるんだ?』
あんたは地元の者じゃない、よそ者だ。教えてくれ、わしはいっそ首に縄をかけた方がいいんじゃないかね。
わしには娘が一人おる。名はナターシャという。十六になった。十六だ。あの子がわしにこう言ったんだ。『お父さん、私はお父さんと同じ食卓で食事したくないの。お父さんの両手を見ると』と言うんだ。『その手でお兄ちゃんを殺したんだと思い出して、体じゅうの魂が抜けてしまうの』
だがこれは誰のためだったか、あの愚か者には分からんのだ。まさに彼らのためだったんだ、子供たちのために。
わしは早くに嫁を貰った。神様がくださったのは兎のように子をよく産む女房だった。立て続けに八人の食い扶持を産み、九人目でとうとう事切れた。産むのは無事に産んだが、五日目に熱病で死んだ。わしは独り身になった。子供たちはと言えば、神様は一人も召し上げてくださらなかった。あんなに懇願したのに……長男はイワンと言う。わしに似ておった。黒い髪、整った顔立ち。立派なコサックで、仕事も真面目だった。もう一人の男の子はイワンより四つ下だ。母親似でな。小柄だが腹の出た。淡い金髪で、ほとんど白に近い。目は灰青色。ダニーロと言って、わしの一番可愛い子だった。他の七人は、一番上が娘で、あとはみな小虫けらだ……
イワンには村の中で嫁を取ってやり、すぐに小僧が一人できた。ダニーロにもつり合いのある家を探しておったが、穏やかでない時代がやって来た。わしらのコサック村では、みなソヴィエト権力に反旗を翻した。その時イワンがわしの所に押しかけてきた。『父さん』と言うんだ。『一緒に行こう、赤軍に味方しよう! キリストの御名にかけて頼む! 赤軍を助けなきゃならん、あれは正しい力なんだから』
ダニーロもまたわしの考えを変えさせようとした。長いこと懇願し、説き伏せようとした。だがわしはこう言った。『わしはお前たちを無理強いはせん。行きたい方へ行け。だがわしは、わしはここに残る。お前たち以外にまだ七つの口があるんだ、しかもどれも食わせにゃならん』
二人は家を離れた。村では皆武装し始めた。何でもあるものを使った。だがわしも引っ張り出された。戦線へ行け!と。わしは集会の場でみなにこう告げた。
『村の衆よ、おじさんたちよ、知ってのとおり、わしは一家の主だ。家には七人の子供が寝台に寝ておる。わしが死んだら、誰がわしの子供たちの面倒を見るのだ?』
言うべきことは全部言ったが、無駄だった。誰も聞かず、わしを引きずって戦線に送った。
陣地はわしらの村からさほど遠くなかった。
ある日、ちょうど復活祭の前日だった。九人の捕虜がわしらの所に送られてきた。その中にダニルーシカが、わしの可愛い息子がおった。彼らは市場を通り抜け、護送されて将校の元へ向かった。コサックたちが家々から飛び出してきた。どっと、神よ憐れみたまえ。
『あいつらは打ち殺さにゃならん、この臆病者どもめ。取り調べの後に連れ戻されたら、何はともあれ先にひと泡吹かせてやる!』
わしは立っていた。膝が震えていたが、自分の息子ダニーロのために心臓が跳ねているのを人に悟られぬようにした。コサックたちが互いにひそひそ話し、頭で私を指し示しているのが見えた。すると騎兵曹長のヤルキョーシャがわしの方に走ってきた。『どうだ、ミチシャーラ、共産党員どもを片づけるとしたら、お前も立ち合うか?』
『もちろん立ち合うとも、この匪賊どもめ!』とわしは言った。
『よし、じゃあ銃を持って、この場所に、この入り口に立て』
それから奴はじっとわしを見据えた。『わしらはお前を見張っとるぞ、ミチシャーラ。気をつけろよ、友よ――お前には堪えられんかもしれんからな』
わしは入り口の前に立った。頭の中ではこんなことがぐるぐる回っていた。『聖母よ、聖マリアよ、わしは本当に自分の息子を殺さねばならんのか?』
事務室がだんだん騒がしくなった。捕虜たちが連れ出された。ダニーロが一番先だった。奴を見た途端、わしは全身が氷のように冷たくなった。頭が桶のように膨れ上がり、皮膚も裂けていた。鮮血が固まって顔から湧き出していた。髪には厚い毛糸の手袋がくっついていた。殴った後、それで傷口を押さえたのだ。手袋は血を吸って乾き、まだ髪に貼りついていた。村に連行される途中で打たれたのだろう。わしのダニーロはよろめきながら廊下を歩いてきた。わしを見ると、両手を広げた。わしに笑顔を作ろうとしたが、両目はすでに灰黒色に窪み、片方は凝血で完全に塞がれていた。
これはよく分かっていた。わしも一発くらわさなければ、村の者たちがたちまちわしを殺すだろう。わしの子供たちは孤児になり、たった一人で神の広い世界に残されることになる。
ダニーロがわしの立っているところに来ると、こう言った。『お父さん――お父ちゃん、さようなら』。涙が顔を伝い流れ、血の汚れを洗い落とした。わしはと言えば……わしは……腕が上がらなかった。ひどく重かった。まるで丸太のようだった。銃剣をつけた銃がわしの腕にどっしりと横たわり、さらに急き立てるので、わしは銃床であの子に一発くらわした……わしはここを打った……耳の上のここを……。あの子は叫んだ。ウウウ――ウウ――、と両手で顔を覆い、倒れた。
わしのコサックたちは大声で笑って言った。『打て、ミチシャーラ、打て、ダニーロに。悲しんでるようじゃないか、打て、さもないとお前の血を抜くぞ』
将校が入り口まで出てきて、表向きはみなを叱りつけるようだった。だがその目は笑っていた。
するとコサックたちは捕虜に殺到し、銃剣で始めた。わしの目の前が暗くなり、わしは走り出した。ただ走った、通りに沿って。だがその時、わしのダニーロが地面を転がされ、蹴り回されるのがまだ見えた。騎兵曹長がサーベルの切っ先で喉を刺した。ダニーロはただ、カカ……と声を出すだけだった」
水の圧力で船板がカタカタと鳴り、榛の木が我々の下で長い呻きを上げていた。
ミチシャーラは足で水に押し上げられてくる竜骨を引っかけ、パイプから燃え殻を叩き落としながら言った。
「船が沈みそうだ。明日の昼まで、ここの木の上に座っとらにゃならん。まったくついてない!」
彼は長いこと黙っていた。やがてまた、あの低い、鈍い声で話し始めた。
「この一件のせいで、わしは上級憲兵隊に送られた。――今はもう大量の水がドン河に流れ込んだが、夜になるといつも何か聞こえるんだ。誰かが喘ぎ、息を引き取り、首を絞められているような。あの時走って逃げた時に聞いた、わしのダニーロの喘ぎと同じように。
これがわしを苦しめるのだ、良心がな」
「わしらは春まで赤軍と対峙しておった。それからセクレティヨフ将軍が加わって、わしらは彼らをドン河のはるか向こう、サラトフ県まで追い払った。
わしは一家の主ではあったが、兵役は楽ではなかった。二人の息子が赤軍におったからだ。
わしらはバラソフ鎮に着いた。長男イワンのことは、何も聞かず、何も知らなかった。だがコサックたちの間で、突然噂が立った――どこから来たのか、鬼が知るものか――イワンが赤軍から捕らえられ、第三十六コサック中隊に送られたと。
わしの村の者たちがわめき始めた。『ワーニカを捕まえに行こう、あいつはわしらが片づけるんだ』
わしらはある村に着き、見ると、第三十六中隊がまさにそこに駐屯していた。彼らはすぐにわしのワーニカを捕まえ、縛り上げ、事務室に引きずって行った。そこで散々殴った後、わしにこう言った。
『こいつを連隊本部に護送しろ!』
この村から本部まで、十二ヴェルスタの道のりだった。わしらの百人団の団長が護送票を渡しながら言った――だが彼はわしの方を見なかった。
第2節
他人のために道を示すとなると、それはさらに容易ではない。なぜなら私自身でさえ、どう歩むべきか分かっていないからだ。中国にはおそらく若者の「先輩」や「導師」がかなりいるのだろうが、それは私ではなく、私も彼らを信じない。私がきわめて確実に知っている終着点は一つだけ、すなわち墓である。だがこれは誰もが知っていることで、誰かに示してもらう必要はない。問題はここからそこに至る道程にある。もちろん一本きりではないが、私にはどれがよいのか分からない。もっとも今に至るまで時には探し求めてもいる。探し求める中で、私は恐れる――私の未熟な果実が、偏って私の果実を愛する人をかえって毒殺してしまい、一方で私を憎む者、いわゆる正人君子なる輩はかえって皆矍鑠としていることを。だから私の言葉はしばしば曖昧になり、中断してしまう。心の中で思う。私を偏愛する読者への贈り物は、あるいは「何もないこと」が最良であろうと。私の訳著の刷り部数は、最初は一回千部、後に五百部増え、近頃は二千から四千だ。増えるたびに、私はもちろん嬉しい。金が稼げるからだ。しかし同時に哀愁も伴う。読者に害を及ぼすのではないかと恐れ、そのため文を書く時はますます慎重になり、ますます躊躇する。ある人は私が筆に任せて書き、胸臆をそのまま吐露していると思っているが、実はそうとも限らない。私の顧慮は少なくない。私はとうに自分が戦士などではないと知っているし、前駆とも言えない。これほど多くの顧慮と回想があるのだから。三、四年前、一人の学生が私の本を買いに来て、衣の懐から金を取り出して私の掌に載せたことをまだ覚えている。その金にはまだ体温が残っていた。この体温が私の心に烙印を押し、今に至るまで文字を書こうとする時、こうした青年を毒するのではないかと恐れ、なかなか筆を下ろせないでいる。何の顧慮もなく話す日は、おそらくもう来ないのだろう。だが時にはこうも思う。実のところ何の顧慮もなく話してこそ、こうした青年に対して恥じることがないのだと。だが今に至っても、そうする決心がつかないでいる。
今日話そうとすることもこの程度に過ぎないが、比較的真実と言えるだろう。このほか、もう少し余計な文がある。
白話を提唱し始めた頃は、各方面から激しい攻撃を受けたものだ。後に白話が次第に通行し、勢いを止めがたくなると、ある人々はたちまち転じてこれを自分の功績とし、「新文化運動」と美名を付けた。またある人々は白話は通俗の用に供して差し支えないと主張し、またある人々は白話をうまく書くにはやはり古書を読まねばならないと言った。前者はすでに二度目の転舵をなし、また翻って「新文化」を嘲罵している。後の二者はやむを得ざる調和派で、ただ僵屍をもう数日長く留めようとするだけで、今なお少なくない。私はかつて雑感の中でこれを攻撃したことがある。
最近、上海で出版されたある定期刊行物を見たところ、やはり白話をうまく書くには良い古文を読まねばならないと説き、証拠として挙げた人名の中に、その一人が私であった。これには実に寒気を覚えた。他人はさておき、自分について言えば、かつて多くの古い本を読んだことは確かであり、教鞭を執るために今もなお読んでいる。そのため耳にし目にし、影響が白話の文章に及び、しばしばその字句や文体が漏れ出てしまう。だが自分自身はまさにこれら古い亡霊を背負い、振り払えぬことに苦しみ、常に息苦しくなるような重さを感じている。思想の上でも、荘周や韓非の毒に中っていないはずがなく、時に甚だ気ままになり、時に甚だ峻厳になる。孔・孟の書は最も早く最も熟読したが、かえって自分と関わりがないようだ。大半は怠惰のためでもあろう。しばしば自分を慰め、万物は変化の中にあって、常にいくらかの中間物があるものだと考える。動植物の間に、無脊椎動物と脊椎動物の間に、みな中間物がある。いっそ、進化の連鎖の上では万物がみな中間物であると言ってもよいくらいだ。文章を改革し始めた時に、いくらか中途半端な作者がいるのは当然のことであり、そうでしかあり得ず、そうである必要もあった。その任務は、いくらかの覚醒の後に新しい声を叫び出すこと。また旧い陣営の中から来たがゆえに、事情がより明瞭に見え、矛を返して一撃すれば、強敵の死命を制しやすい。だがやはり光陰とともに消え去り、次第に消滅すべきであり、せいぜい橋の中の一木一石に過ぎず、何ら前途の目標でも範本でもない。後に続く者は当然異なるべきであり、天から授かった聖人でない限り、積年の習慣がたちまち一掃できるはずもないが、やはりもっと新しい気象を帯びるべきだ。文章について言えば、もはや古書の中に糧を求める必要はなく、生きた人々の唇と舌を源泉とし、文章をいっそう言語に近づけ、いっそう生気あるものとすべきだ。現在の人民の言語の貧困や欠乏をいかに救済し、豊かにするかについては、それもまた大きな問題であり、あるいは旧文の中からいくらかの素材を取って使役に供する必要もあろうが、これは今の私が論じようとする範囲の内ではないから、ひとまず措く。
私は十分に努力すれば、おおよそ口語を博く採って自分の文章を改革することもできるだろうと思う。だが怠惰であり且つ多忙であるために、今に至るまで実行していない。私はしばしばこれが古書を読んだことと大いに関係があるのではないかと疑っている。なぜなら、古人が書物に書き記した忌まわしい思想が、私の心の中にも常にあるように感じるからだ。にわかに奮い立てるかどうか、まったく見当がつかない。私は常にこの思想を呪い、後の青年にはもう見られぬことを願っている。去年、私は青年に中国の本を少なく読め、あるいはいっそ読むなと主張したが、これは多くの苦痛と引き換えに得た真実の言葉であり、断じて口先だけの快や、冗談や憤激の辞ではない。古人は、本を読まねば愚人になると言い、それも確かに間違ってはいない。だが世界はまさに愚人によって造られたのであり、聡明な人間が世界を支えることは決してできない。とりわけ中国の聡明人はそうだ。今はどうかと言えば、思想の上はさておき、文辞においても、多くの若い作者がまた古文や詩詞の中から見映えのよい難解な字面を拾い出し、手品のハンカチのように自分の作品を飾り立てている。これが古文を読めという説と関係があるかどうか知らないが、まさに復古であり、すなわち新文芸の試行自殺であることは明白だ。
不幸にも私の古文と白話の混じり合った雑集が、ちょうどこの時に出版されることになり、おそらくまた読者にいくらかの毒害を与えてしまうだろう。ただ自分にとっては、まだ毅然としてこれを毀滅することはできず、これを借りてしばらく過ぎ去った生活の残痕を眺めたいと思っている。願わくは、私の作品を偏愛してくださる読者も、これをただ一つの紀念として受け取り、この小さな丘陵の中に埋まっているのは、かつて生きていた躯殻にすぎないと知っていただきたい。さらに幾歳月を経れば、やがて煙埃と化し、紀念もまた人の世から消え去り、私の事もそれで終わるのだ。午前もまた古文を読んでいて、陸士衡の曹孟徳を弔う文の数句を思い出し、引いてきてこの一篇の結びとする――
既に古に睎うて累を遺し、信に礼を簡にして葬を薄くす。
かの裘紱は何の有るところぞ、塵謗を後王に貽す。
ああ大恋の存するところ、故に哲なりといえども忘れず。
遺籍を覧て慷慨し、この文を献じて凄傷す!
(一九二六年十一月十一日夜 魯迅。)
【頭髪の故事】
日曜の朝、私は一枚の昨夜の日めくりを剥がし、新しいそれを見つめて言った。
「ああ、十月十日――今日はもともと双十節だったのだ。ここにはまったく記載がない!」
私の先輩であるN氏が、ちょうど私の住まいに雑談に来たところだったが、この言葉を聞くと、不機嫌そうに私に言った。
「彼らが正しい! 彼らが覚えていないのに、お前がどうするというのだ。お前が覚えていて、それでどうなる?」
このN氏はもともと少々偏屈な気質で、しょっちゅうつまらぬ腹を立て、世間知らずなことを言う。こういう時、私はたいてい彼の独り言に任せて一言も同調しない。彼が一人で議論し終えれば、それで済む。
彼は言った。
「私が最も感心するのは北京の双十節の光景だ。朝、警官が門に来て、命じる。『旗を掲げよ』。『はい、旗を掲げます!』。各家からたいてい物憂げに一人の国民が出てきて、一片のまだら模様の洋布を突き出す。こうして夜まで――旗を収めて門を閉める。数軒がうっかり忘れると、翌日の午前まで掲げたままだ。
「彼らは紀念を忘れ、紀念もまた彼らを忘れた!
「私もまた紀念を忘れた一人だ。もし思い出せば、あの最初の双十節の前後のことがみな心に浮かび、落ち着いていられなくなる。
「幾多の故人の顔が、みな目の前に浮かぶ。何人かの若者が十数年を辛苦して奔走し、暗がりで一発の弾丸に命を奪われた。何人かの若者は一撃を外し、牢獄で一月余りの酷い拷問を受けた。何人かの若者は遠大な志を抱いたまま、忽然と影も形もなくなり、遺骸すらどこに行ったか分からない。――
「彼らはみな社会の冷笑、罵倒、迫害、陥穽の中で一生を過ごした。今や彼らの墓もとうに忘却の中で次第に平らに崩れていっている。
「私にはこれらの事を紀念する堪え性がない。
「やはり少しばかり得意な事を思い出して話そうか」
Nは突然笑みを浮かべ、手を伸ばして自分の頭を一撫でし、大声で言った。
「私が最も得意なのは、あの最初の双十節以来、道を歩いてもう人に笑われ罵られなくなったことだ。
「君、知っているか、頭髪は我々中国人の宝であり仇敵であり、古今どれほどの人がこのことで何の値打ちもない苦しみを食らったことか!
「我々のはるか古の古人は、頭髪に対してもまだ軽く見ていたようだ。刑法から見れば、最も重要なのは当然頭であるから、死刑が最高の刑である。次に重要なのは生殖器で、宮刑と幽閉も恐ろしい罰だ。髡に至っては、些細なことだ。だが想像するに、どれほどの人々が頭を丸くしたというだけで、社会に一生踏みにじられてきたことか。
「我々が革命を説く時、揚州十日だの嘉定屠城だのとさかんに論じるが、実のところそれも一つの手段に過ぎない。正直に言えば、あの時の中国人の反抗は、亡国のためなどではなく、ただ辮髪を結わされるからであった。
「頑民は殺し尽くされ、遺老もみな天寿を全うし、辮髪はとうに定着した。すると洪・楊がまた騒ぎ出した。私の祖母がかつて話してくれた。あの頃、百姓でいるのは難しかった。髪を全部伸ばしていれば官兵に殺され、辮髪のままなら長毛に殺される!
「どれほどの中国人がこの痛くも痒くもない頭髪のせいで苦しみ、難に遭い、滅んだことか」
Nは両目を天井の梁に向け、何か考えているようだったが、なおも語った。
「誰が思おうか、頭髪の苦しみが私の番になろうとは。
「私は留学に出て、辮髪を切り落とした。別に奥妙があるわけではなく、ただ不便だっただけだ。ところが辮髪を頭のてっぺんに巻いている何人かの同学が私をひどく嫌い、監督も大いに怒り、官費を止めて中国に送り返すと言った。
「数日もしないうちに、この監督自身が辮髪を切られて逃げ去った。切った者たちの中の一人は『革命軍』を書いた鄒容であった。この人もこのためにもう留学できなくなり、上海に帰って来て、後に西牢で死んだ。お前もとうに忘れてしまったろう?
「数年後、私の家計はだいぶ以前より悪くなり、何か仕事を見つけなければ飢えるしかなく、やむなく中国に帰ってきた。上海に着くなり付け辮髪を一本買い求めた。当時は二元の相場で、これを持って帰省した。母はまあ何も言わなかったが、他の人間は顔を合わせるとまず真っ先にこの辮髪を調べ上げ、偽物と分かると一声冷笑して、私に打ち首の罪名を擬した。一人の本家の者などは官に訴え出る用意までしたが、その後、革命党の反乱が成功するかもしれないと恐れ、中止した。
「偽物は本物に比べれば素直でさっぱりしていないと思い、私はいっそ付け辮髪を廃して、洋服を着て街を歩いた。
「歩いていくと、道すがら笑いと罵声が絶えず、後ろからついてきて罵る者もいた。『この向こう見ず!』『偽洋鬼子!』
「そこで洋服を着るのをやめ、長衫に替えたが、彼らの罵りはさらにひどくなった。
「この日暮れ道窮まった時に、私の手に一本のステッキが加わった。何度か力いっぱい打ちのめすと、彼らは次第に罵らなくなった。ただ、まだ打ったことのない見知らぬ土地に行くと、やはり罵られる。
「この事は私を大いに悲しませ、今でもしばしば思い出す。留学中に、日本の新聞で南洋と中国を旅行した本多博士の話が載っているのを見たことがある。この博士は中国語もマレー語も解さなかった。人に、言葉が分からないのにどう歩くのかと聞かれると、ステッキを持ち上げて、これが彼らの言葉だ、彼らはみなこれを解すると言った。私はこれに数日間憤慨したものだが、思いがけず自分もいつの間にかそうしていて、しかもあの人たちはみな解したのだ。……
「宣統の初年、私は本地の中学校で監学をしていた。同僚はただもう避けることだけを心がけ、官僚はただもう防ぐことだけを心がけ、私は終日氷室に座り、刑場のそばに立っているようだった。実は他でもない、ただ辮髪が一本足りないからだ!
「ある日、数人の学生が突然私の部屋に来て言った。『先生、辮髪を切りたいのですが』。私は言った。『駄目だ!』『辮髪があるのがいいですか、ないのがいいですか?』『ないほうがいい……』『それなのになぜ駄目とおっしゃるのですか?』『割に合わない。お前たちはまだ切らない方が得だ。――少し待て』。彼らは何も言わず、口を尖らせて部屋を出て行った。だが結局切ってしまった。
「ああ! 大変だ、人々がざわめいた。だが私はただ知らぬふりをし、彼らが丸坊主のまま、多くの辮髪と一緒に講堂に上がるのを放っておいた。
「だがこの辮髪切りの病は伝染した。三日目、師範学堂の学生が突然六本の辮髪を切り落とし、その晩に六人の学生が退学させられた。この六人は在校もできず帰省もできず、最初の双十節の後さらに一月余り経って、ようやく犯罪の焼印が消えた。
「私は? 同じことだ。ただ元年の冬に北京に行った時、まだ数回人に罵られたが、後に私を罵った人間も警察に辮髪を切られ、私はもう侮辱されなくなった。だが田舎には行っていない」
Nはひどく得意な様子を見せたが、ふいにまた顔を曇らせた。
「今やお前たち理想家は、また女子の断髪がどうのとわめいている。またしても何の得もなく苦しむだけの人間を大量に作り出そうとしている!
「今すでに髪を切った女性が、そのために学校の試験に受からなかったり、学校から除名されたりしていないか?
「改革か、武器はどこにある? 勤工倹学か、工場はどこにある?
「やはりまた伸ばして、人の家に嫁に行くのだ。一切を忘れてしまえばまだ幸福だ。もし平等自由の言葉をいくらか覚えていたら、一生苦しむことになる!
「私はアルツィバーシェフの言葉を借りてお前たちに問いたい。お前たちはこの人々の子孫に黄金時代の出現を予約したが、この人々自身には何を与えるのだ?
「ああ、造物主の鞭が中国の脊梁に当たらぬうちは、中国は永遠にこの同じ中国であり、決して自ら一本の毛すら変えようとしない!
「お前たちの口の中に毒牙がないのに、なぜわざわざ額に『蝮蛇』の二大字を貼り付け、乞食に来て打ち殺させるのだ?……」
Nは語れば語るほど奇矯になっていったが、私があまり聞きたがらない表情を見ると、たちまち口を閉じ、立ち上がって帽子を取った。
私は言った。「帰るのか?」
彼は答えた。「ああ、雨が降りそうだ」
私は黙って彼を門口まで送った。
彼は帽子をかぶって言った。
「さようなら! お邪魔してすまなかった。明日はもう双十節ではないから、我々もみな忘れてしまえるさ」
(一九二〇年十月。)
【過客】
時: ある日の黄昏。
処: とある場所。
人: 老翁――七十歳ほど、白い髭と髪、黒い長衣。 少女――十歳ほど、紫がかった髪、黒い瞳、白地に黒い格子の長衣。 過客――三、四十歳ほど、困憊した頑固な容貌、陰鬱な眼光、黒い髭、乱れた髪、黒い短い上衣と下衣はいずれも破れ、裸足に破れた靴を履き、脇に一つの袋を下げ、身の丈ほどの竹杖に縋っている。
東には数株の雑木と瓦礫。西には荒涼と荒れ果てた叢。その間に一条の道のような道でないような痕跡がある。小さな土の小屋がこの痕跡に向かって一枚の扉を開いている。扉の傍らに一段の枯れた木の根がある。
(少女が、木の根に座っていた老翁をまさに扶け起こそうとしている。)
翁――子供よ。おい、子供! どうして動かんのだ?
少女――(東を望みながら)誰か歩いてきます。ちょっと見てみましょう。
翁――見なくてよい。わしを中に入れておくれ。太陽が沈む。
少女――あたし、――見てみます。
翁――ああ、お前という子は! 毎日空を見、土を見、風を見て、それでは足りぬのか? 何もこれらに勝るものはない。お前はどうしても誰かを見ようとする。太陽が沈む時に現れるものは、お前にいいことなど何ももたらしはせぬ。……やはり中に入ろう。
少女――でも、もう近づいてきました。ああ、乞食です。
翁――乞食? そうとも思えぬが。
第3節
(過客が東の雑木林の間からよろめき出て、しばし躊躇した後、ゆっくりと老翁に歩み寄る。)
客――お爺さん、今晩は。
翁――ああ、今晩は。お蔭さまで。あなたもお元気で?
客――お爺さん、突然お邪魔して申し訳ないのですが、一杯の水をいただけませんか。歩き通しで、喉が渇いて仕方がないのです。この辺りには池もなければ、水溜りもない。
翁――おお、それはそれは。お待ちなさい。(家の中に向かって呼ぶ)おい、お客さんに水を一杯。
(少女が水を持って出てくる。)
客――(水を受け取って一気に飲み干す)ありがとうございます。生き返りました。
翁――まだお飲みになりますか。
客――いえ、もう結構です。……お爺さん、失礼ですが、この先の道は何処に通じているのでしょうか。
翁――この先?この先は……墓場ですよ。
客――墓場?(しばし沈黙して)……その先は?
翁――その先は知りません。行ったことがありませんから。
客――行ったことがない……
少女――行かない方がいいわ。あちらはとても寂しいところです。こちらにお泊りになればいいのに。
客――ありがとう。しかし私は行かねばならないのです。
翁――それは何故ですか。
客――分かりません。ただ――前方から声が聞こえるのです。私を呼んでいる声が。だから行かねばならないのです。
翁――しかし、あちらは墓場ですぞ。
客――それでも行きます。
少女――(布切れを差し出して)これを持って行ってください。お足の傷を包めるわ。
客――(感動して)ありがとう。……しかし、これを受け取ると、かえって申し訳ない。お返しできるものが何もないのですから。
少女――お返しなんて要りません。
客――(布を受け取り、足に巻きながら)ありがとう。では、行きます。(立ち上がって歩き始める。)
翁――あの人は何処へ行くのだろう。
少女――前へ。ずっと前へ。
(過客の姿は次第に薄暮の中に消えていく。)
第4節
あの題目は元来、車の中で決めるつもりだったが、道が悪くて自動車が一尺余りも跳ね上がるため、考える余裕がなかった。ここで私はふと感じた。外来のものは一つだけ取り入れても駄目なのだ。自動車があっても良い道路がなければならない。すべてのことは結局、環境の影響を免れない、と。文学もまた然り――中国のいわゆる新文学、いわゆる革命文学もまた然りである。
中国の文化というものは、言ってしまえば権勢者に奉仕する文化であって、まだ民衆に役立つ文化に変わってはいない。新文学もまた然りであって、社会から遊離した知識人が書斎で書いたものに過ぎない。革命文学と称するものも、その大半はスローガンの羅列であって、文学の名に値しない。
真の革命文学が生まれるには、真の革命が先になければならない。革命が社会を根底から変え、新しい人間関係が生まれ、新しい感情が生まれ、そこから初めて新しい文学が生まれるのだ。
ただし、一つ注意すべきことがある。文学は宣伝とは異なる。宣伝は直接的に訴えるが、文学は間接的に人の心に働きかける。この区別を忘れると、文学は単なるビラになってしまう。
第5節
最も意義深いと思うのは、漸次戦場に向かう一段であって、意識が如何であれ、とにかく多くの青年が東江から上海へ、武漢へ、江西へと革命のために戦い、その一部は種々の希望を抱いて戦場に死に、上に据えられたのが金の椅子であるか虎の皮の椅子であるかは、もはや見ることがなかった。あらゆる革命はこのように進行するものであり、だから筆墨を弄する者は、往々にして革命家に唾棄されるのだ。
しかし文字に全く価値がないかと言えば、そうでもない。少なくとも記録としての価値がある。戦場で死んでいった青年たちの姿を、誰かが書き留めておかなければ、やがて忘れ去られてしまう。権力者はいつも自分に都合のよい歴史だけを残そうとする。だからこそ、権力者以外の者が書かねばならないのだ。
多くの青年が犠牲になった。彼らは理想のために死んだ。しかしその理想は、彼らが思い描いていたものとはまったく違う形で実現した。いや、実現したとさえ言えないかもしれない。これは悲劇か。それとも喜劇か。おそらくそのどちらでもなく、ただの現実なのだろう。
我々にできるのは、せめてその事実を記録し、後世の人々に考える材料を提供することだけだ。
第6節
【私と『語糸』の始終】
私と比較的長い関わりがあったのは、やはり『語糸』であろう。
おそらくこれも原因の一つであったのだろう、「正人君子」たちの刊行物は私を「語糸派の主将」に封じ、急進的な青年の書く文章さえ今なお私を『語糸』の「指導者」だと言っている。昨年、魯迅を罵らずしては己の凋落を救い得ない者たちが、また幾つかの刊行物に文章を載せ、私を攻撃した。
『語糸』の創刊は一九二四年十一月十七日である。創刊に参加したのは私のほか、周作人、銭玄同、林語堂、孫伏園の諸氏であった。刊行の趣旨は、自由に思うところを述べ、何ものにも拘束されないというものだった。いわば「任意談」である。
最初の頃、『語糸』は確かに活気があった。誰もが言いたいことを書き、書きたいように書いた。文体の制限もなければ、思想の検閲もなかった。
しかし時が経つにつれ、変化が現れた。まず、政治的な圧力が増してきた。段祺瑞政府の時代には、まだ比較的自由であったが、張作霖が北京に入ると、言論統制が厳しくなった。『語糸』も例外ではなかった。何度か警告を受け、内容の自己規制を余儀なくされた。
しかし『語糸』はなお続いた。なぜなら、口を塞がれてもなお言わねばならないことがあったからだ。
第7節
しかし何故だか分からぬが、柔石が六ヶ月間編集をして第五巻の上半巻を終えると、彼もまた辞職した。
以上が私の遭遇した『語糸』四年間の瑣事である。最初の数号と最近の数号を比べてみれば、その間の変化がいかに異なるかが分かる。最も明らかなのは、時事にはほとんど触れなくなり、中篇の作品が多く載るようになったことだ。これは頁数を埋めやすく、しかも禍を免れやすいからである。
こうして見ると、『語糸』四年の歴史は、中国の言論の自由の歴史の縮図でもある。最初は比較的自由で活気があったが、次第に圧力が加わり、自己規制が始まり、最後には当たり障りのない文章ばかりになった。
この中で私が最も痛感したのは、仲間の変質である。かつて共に筆を執り、共に抵抗した者たちの中から、転向者が出、妥協者が出、沈黙者が出た。これを責めることはできない。誰にも生活があり、家族があり、命がある。しかし、やはり寂しいことだった。
結局、『語糸』は一九三〇年に終刊した。私はこの経験から一つのことを学んだ。言論の自由とは、放っておけば自然に得られるものではない。常に闘い取り、常に守り抜かねばならないものである。
第8節
張天錫が涼州にいた時、緑色の犬の夢を見た。形は甚だ長く、地の東南から来て張を咬もうとした。張は床の上で避けたが、地に落ちた。後に苻堅が苟長〔『広記』の引用では苌に作る〕を遣わして張を破った時、緑地の錦袍を着て東南門より入ったのは、みな夢の通りであった。〔同上に並ぶ〕
宋の中山の劉玄は、越城に居していた〔三字は『広記』の引用にあり〕。日暮れ時、忽ち一人の者が黒い袴褶を着て来るのを見た。火を取って照らすと、その者には頭がなかった。
晋の阮瞻は無鬼論者として聞こえていた。ある日、一人の客が訪ねて来て鬼の存在について論じた。瞻は持論を展開して鬼はいないと述べたが、客は次々と反論を加え、瞻はついに言い負かされた。そこで客は言った。「私こそ鬼である」と。言い終わると姿が消えた。瞻はこれより後、病を得て程なく死んだ。
第9節
呉の赤烏三年、句章の民・揚度が余姚に至った。夜行していると、一人の少年が琵琶を持って相乗りを求めてきた。度はこれを受け入れた。琵琶を弾いて数十曲を奏でた。曲が終わると、舌を出し目を剥いて度を怖がらせ、去った。さらに二十里ほど行くと、また一人の老父が相乗りを求め、姓は王、名は戒と自ら名乗った。そこでまたこれを乗せた。度が「鬼がうまく琵琶を弾いたが、甚だ哀しかった」と言うと、戒は「わしも弾ける」と言った。すなわちこれは先の鬼に向かって、また目を剥き舌を出した。度は大いに怖れ、車から落ちて気を失った。夜が明けて見れば、老父もまた消え失せていた。
義興の人・謝允が官に赴く途中、路傍に一匹の白い亀がいるのを見た。憐れに思い、拾い上げて水中に放してやった。後に謝允が冤罪に問われ、獄に繋がれた時、夢に一人の白衣の翁が現れて言った。「あなたはかつて私の命を救ってくれた。恩に報いよう」と。果たして翌日、赦免の令が下された。
東陽の人・趙泰が死んで三日、蘇った。語って言うには、地獄にて閻魔大王の前に引き出された。王は簿冊を調べて言った。「この者の寿命はまだ尽きていない。送り返せ」と。
第10節
石季倫(石崇)の母の喪に際し、洛陽の豪傑・名士が弔問に押しかけ、都を傾けるほどであった。王戎もまた弔問に臨んだが、鬼が臂をまくって打ち叩くのを見た。甚だ慌ただしい様子であった。一人の者が棺の前に立っていると、この鬼がその胸を叩き倒した。その人はたちまち倒れ、去った後に病を得て半日で死んだ。ゆえに世間に伝わるところでは、棺の前に立つべきではないと言い、これは王戎の見たところによる。〔『御覧』三百七十一に引く『志怪集』〕
陶侃〔『書鈔』の引用では太尉に作る〕が微賤であった時のこと。漁に出て網を引くと、一枚の織物の梭が得られた。家に持ち帰って壁に掛けておくと、一夜にして雷が鳴り響き、梭は忽然として消えた。翌朝見れば、壁に龍の痕が残っていた。
会稽の賀循が若い頃のこと。夜に書を読んでいると、窓の外に光が見えた。出て見ると、庭の井戸の中から光が射していた。翌日、井戸を浚ってみると、一振りの古剣が現れた。剣身は錆一つなく、水中にあって数百年を経てなお輝きを失わなかった。
第11節
王導は河内の人なり。兄弟三人、並びに時疫に罹った。その宅に鵲の巣があり、朝夕に飛び鳴いていたが、にわかに甚だしく喧しく騒いだ。みなこれを悪んだ。思うに「治ったら、この鳥を退治してやる」と。果たして治ると、鵲を捕らえて舌を断ち殺した。すると兄弟はことごとく唖の病を得た。〔『御覧』七百四十に引く『霊験記』〕
天竺に僧あり、二頭の牛を飼っていた。一日に三升の乳を得ていたが、一人の者が乳を乞うた。牛が言うには「我は前世で奴僕であった。主人の物を盗み食いした報いで、牛と生まれ変わった。乳を施すことで罪業を償おうとしているのだ。他の者に与えてはならぬ」と。
呉郡の陸機の家に一匹の犬がいた。名を「黄耳」と言った。機が洛陽にいた時、家に便りを出したいと思ったが、使いの者がいなかった。戯れに犬に向かって「お前、手紙を届けてくれるか」と言うと、犬は尾を振って応じた。そこで竹筒に書簡を入れて犬の首に括りつけると、犬は駆け出して呉まで走り、返書を銜えて戻ってきた。往復の日数は人の倍の速さであった。
第12節
晋の羊太傅祜、字は叔子、泰山の人なり。西晋の名臣にして、名声は天下に冠たり。五歳の時、かつて乳母に命じて以前遊んでいた指環を取らせようとした。乳母が言うには「あなたは元来そのようなものを持っていません。何処から取るのですか」と。祜が言うには「昔、東の垣根のそばで遊んでいて、桑の木の中に落としたのだ」と。乳母が言うには「では自分でお探しなさい」と。祜が言うには「ここは以前の家ではないので、場所が分からないのです」と。
後に外出して遊び歩いた時、東の方へまっすぐ歩いて行った。乳母はこれに従った。李氏の家に至ると、桑の木の空洞の中に果たして指環があった。李氏の老人は大いに驚いて言った。「これは亡き息子が遊んでいたもので、どうしてあなたが知っているのか」と。
当時の人々はみな、羊祜は李氏の息子の生まれ変わりであろうと言った。祜自身もまた前世の記憶があると語ったが、成長するに従い、その記憶は次第に薄れていった。
第13節
晋の抵世常は中山の人なり。家道は殷に富む。太康年中、晋人が沙門となることを禁じた。世常は奉法精進にして、密かに宅中に精舎を起こし立て、沙門を供養した。于法蘭もまたそこにいた。僧衆の来る者は、辞退するものなし。
一人の比丘あり。容姿は頑陋にして、衣服は塵に汚れ、泥濘を跋渉して世常のもとに来た。世常は出でてこれに礼をなし、奴に命じて水を取らせ、その足を洗おうとした。比丘が言うには「世常が自ら我が足を洗うべし」と。世常はすなわち自ら洗った。
すると比丘の足の裏に車輪の紋様が現れた。その光は燦然として室内を照らした。世常は大いに驚き、伏して拝した。見上げると、比丘の姿はすでに変わり、金色の光を放つ仏の相を呈していた。
比丘は言った。「あなたの信心は篤く、迫害の中にあっても法を守り、僧を供養することを止めなかった。この功徳により、来世には必ず善処に生まれるであろう」と。言い終わると、光とともに消え去った。
世常はこれより後、いよいよ信仰を深め、密かに多くの僧を匿い、経典の書写にも力を注いだ。太康の禁令はやがて解かれ、仏教は再び公然と栄えることとなった。