Lu Xun Complete Works/zh-ja/Fen
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坟 / 墳
魯迅 (鲁迅, ルーシュン, 1881–1936)
中日対照翻訳。
第1節
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【父亲】
M. 唆罗珂夫
太阳只在哥萨克村边的灰绿色的丛林后面,衰弱地眼了。离村不远是渡船,我必须用这渡到顿河的那一岸去。我走过湿沙,从中就升起腐败的气味来,好象湿透的烂树。道路仿佛是纷乱的兔子脚印一般,蜿蜒着出了丛林。肿胀的通红的太阳,已经落在村子那边的坟地里。我的后面,在枯燥的杂树间缓步着莽苍苍的黄昏。
渡船就系在岸边,闪着淡紫的水在它下面窥。橹在轻轻的跳动,向一边回旋,橹脐也咿哑作响。
船夫正在用汲水勺刮着生了青苔的船底,将水泼出外面去。他仰起头来,用了带黄的,歪斜的眼睛看定我,不高兴地相骂似的问道:
“要摆渡么?立刻行的,这就来解缆子。”
“我们两个就可以开船么?”
“也只得开。立刻要夜了。谁知道可还有什么人来呢。”他卷着裤脚,又向我一看,说:
“看起来,你是一个外路人,不是我们这里的。从那来的呀?”
“我是从营里回来的。”
那人将帽子放在小船里,摆一摆头,摇开了夹着黑色的,高加索银子一般的头发,向我使一个眼色,就露出他那蛀坏的牙齿来:
“请了假呢,还是这么一回事,——偷偷的?”
“是退了伍的。我的年限满了。”
“哦……哦。那么是可以闲散了的……”
我们摇起橹子来。顿河却像开玩笑似的总将我们运进那浸在岸边的森林的新树里面去。水激着容易破碎的龙骨,发出分明的声音。绽着蓝的脉管的船夫的赤脚,就像成捆的粗大的筋肉一样。冷得发了青的脚底,坚韧的牢踏在滑滑的斜梁上,臂膊又长又壮,指节都粗大到突了起来。他瘦而狭肩,弯了腰,坚忍的在摇橹,但橹却巧妙的劈破波头,深入水里去了。
我听到这人的调匀的,无碍的呼吸。从他那羊毛线衫上,涌出汗和烟草,以及水的淡泊味的扑鼻的气味来。他忽然放下橹,回头向我道:
“看起来,好象我们进不去了,我们要在这里的树林里给挤破的了。真糟!”
被一个激浪一打,船就撞在一块峻峭的岩石上。它将后尾拚命一摆,于是总是倾侧着向森林进行。
半点钟后,我们就牢牢地夹在浸水的森林的树木之间了。橹也断了。在橹脐上,摇摇摆摆的飘动着挫折的断片。水从船底的一个窟窿里,滔滔的涌进船里来。我们只好在树上过夜。船夫用腿缠住了树枝,蹲在我的旁边,他吸着烟斗,一面谈天,一面倾听着野鹅的划破我们上面那糊似的昏暗的鼓翼的声响。
“唔,唔,你是回家去的;母亲早在家里等着哩,她知道的:儿子回来了,养她的人回来了;她那年老的心,要暖热起来了。是的……可是你也一定知道,她,你的母亲,白天为你担心,夜里总是淌着酸辛的眼泪,她也全不算什么一回事……她们都是这样的,只要是她们的疼爱的儿子:她们都是这样的……如果你们不是自己生了孩子,抚育起来,你们就永不会知道你们父母的辛苦的心。可是凡有做母亲的,或是做父亲的,都得为孩子们吃多少苦呵!
会有这等事的,剖鱼的时候,女人弄破了那鱼的苦胆。那么你舀起鱼羹来,就要苦得喝不下去。我也正是这样的。我活着,但是总得吃那很大的苦。我耐着,我熬着,但我也时时这样想:‘生活,生活,究竟要到什么时候才是你这坏透了的生活的收场呢?’
你不是本地人,是一个外路人。你告诉我,恐怕我倒是用一条绳套在颈子上的好罢。
我有一个女孩子;她名叫那泰莎。她十六岁了。十六岁。她对我说,‘爸爸,我不愿意和你同桌吃东西。我一看见你的两只手,’她说,‘就记起了你就是用了这手杀掉哥哥的,我的身子里就神魂丧失了。’
但这些事都是为了谁呢,那蠢才却不知道。这正是为了他们,为了孩子们呵。
我早就结了婚,上帝给我的是一个兔子一样很会生养的女人。她接连给我生下了八个吃口,到第九个,她也完结了。生是生得好好的,但到第五天,她就死在热症里。我成了单身了。说起孩子们来,上帝却一个也不招去,虽然我那么恳求……我那大儿子叫伊凡。他是像我的:黑头发,整齐的脸貌。是一个出色的哥萨克,做工也认真。别一个男孩子比伊凡小四岁。像母亲的。小个子,但是大肚子。淡黄头发,几乎是白的了,眼睛是灰蓝的。他叫达尼罗,是我最心爱的孩子。别的七个呢,最大的是女儿,另外都是小虫子……
我给伊凡在本村里结了婚,他也立刻生了一个小家伙。给达尼罗,我也正在搜寻着门当户对的,可是不平静的时代临头了。我们的哥萨克村里,大家都起来反对苏维埃权力。这时伊凡就闯到我这里来:‘父亲,’他说,‘同去罢,我们同红军去!我以基督之名请求你!我们应该帮红军的,因为它是很正当的力量。’
达尼罗也想劝转我。许多工夫,他们恳求我,开导我。但是我对他们说:‘我是不来强制你们的。你们愿意往那去,去就是。可是我呢,我留在这里,你们之外,我还有七张嘴哩,而且张张都得喂的。’
他们于是离了家。在村子里,人们都武装起来了。无论谁,他有什么就用什么。可是他们也来拉我了:上战线去!我在会场上告诉大家道:
‘村人们,叔伯,你们都知道的,我是一个家长。我家里有七个孩子躺在木榻上,——我一死,谁来管我的孩子们呢?’
我要说的话,我都说了,但是没有用。谁也不理,拉了我送到战线上了。
阵地离我们的村子并不远。
有一天,恰是复活节的前一天,九个俘虏解到我们这里来了。他们里面就有达尼卢式加,我的心爱的儿子。他们穿过市场,被押着去见军官。哥萨克们从家家户户里跑出来,轰的一声,上帝垂怜罢。
‘他们一定得打死的,这些孱头。如果审问后带回来了,我们什么都不管,先来冷他们一下!’
我站着,膝头发着抖,但我不使人看出我为了自己的儿子达尼罗,心在发跳来。我看见了哥萨克们怎样的在互相耳语,还用脑袋来指点我。于是骑兵曹长亚尔凯沙跑向我来了:‘怎么样,密吉夏拉,如果我们结果共产党,你到场么?’
‘一定到场的,这些匪徒!’我说。
‘原来,那就拿了枪,站在这地方,这门口。’
接着他就这样地看定了我:‘我们留心着你的,密吉夏拉,小心些罢,朋友,——你也许会吃不住的。’
我于是站在门前面,头里却旋转着这样的事:‘圣母呵,圣马理亚呵,我真得来杀我自己的儿子么?’
办公室逐渐吵闹起来。俘虏们带出来了。达尼罗就是第一个。我一看见他,便吓得浑身冰冷。他的头肿得像一个桶,皮也打破了。鲜血成了浓块,从脸上涌出。头发上贴着厚的羊毛的手套。是他们打了之后,用这给他塞住伤口的。那手套吸饱了血,干燥了,却还是粘在头发上。可见是将他们解到村里来的路上打坏的。我的达尼罗跄踉的走过廊下来。他一见我,就伸开了两只手。他想对我装笑脸,但两眼已经灰黑凹陷,有一只是全给凝血封住了。
这我很知道:如果我不也给他一下,村人们就会立刻杀死我的。我那些孩子们,便要成为孤儿,孤另另的剩在上帝的广大的世界上了。
达尼罗一到我在站着的地方,他说:‘爸爸——小爸爸,别了。’眼泪流下他的面庞来,洗掉了血污。至于我呢,我可是……我擎不起臂膊来,非常沉重。好象一段树。上了刺刀的枪俨然的横在我的臂膊上,还在催逼了,我就用枪柄给了我那小子一下子……我打在这地方……耳朵上面这里……他叫了起来:呜呜呵——呜呵——,两手掩着脸,跌倒了。
我的哥萨克们放声大笑,道:‘打呀,密吉夏拉,打呀,对你的达尼罗,好象在伤心哩,打呀,要不然,我们就放了你的血。’
军官走到大门口来了,面子上是呵斥大家模样。但他的眼睛是在笑的。
于是哥萨克们都奔向俘虏去,用刺刀干起来了。我的眼前发了黑,我跑掉了,只是跑,顺着街道。但那时我还看见,他们怎样将我的达尼罗踢得在地上滚来滚去。骑兵曹长用刀尖刺进了他的喉咙。达尼罗却不过还叫着:喀喀……”
因了水的压力,船板都瑟瑟地发响,榛树也在我们下面作悠长的呻吟。
密吉夏拉用脚去钩那被水挤逼上来的龙骨,并且从烟斗里叩去未烬的灰,一面说:
“我们的船要沉了。我们得坐在这里的树上,直到明天中午了。真倒运!”
他沉默了很久。随后就又用那低低的,钝滞的声音说了起来:
“为了这件事,他们将我送到高级宪兵队去了。——现在是许多水已经流进顿河里面了,但在夜里我总还是听见些什么,好象一个人在喘呼,在咽气,好象在勒死。就像我那一回跑走的时候,听到了的我那达尼罗的喘呼一样。
这就这样地使我吃苦呵,使我的良心。”
“我们和红军对着阵,一直到春天。于是绥克垒提夫将军来加入了,我们就将他们远远的赶过了顿河,直到萨拉妥夫县。
我虽然是家长,但当兵却是很不容易的,这就因为我的两个儿子都在红军里。
我们到了巴拉唆夫镇。关于我的大儿子伊凡的事,我什么也没有听到,什么也没有知道。但哥萨克们里面,却忽然起了风传了——鬼知道,这是从那里传来的呢,——说伊凡已经从红军被捉,送到第三十六哥萨克中队去了。
我这村里的人们便都嚷了起来:‘我们去抓凡加罢,他得归我们来结果的。’
我们到了一个村,瞧罢,第三十六中队就驻扎在这地方。他们立刻去抓了我的凡加,捆绑起来,拖到办公室。他们在这里将他毒打了一顿,这才对我说道:
‘押他到联队本部去!’
从这村到本部,远近是十二威尔斯忒。我们的百人团的团长一面交给我押解票,一面说——但他却并不对我看: |
【父親】 M・ショーロホフ
渡し船は岸辺に繋がれ、淡い紫色の水がその下から覗いていた。櫓は軽く跳ね、一方に回りながら、櫓臍もきいきいと鳴っていた。 船頭は柄杓で苔の生えた船底を掻き、水を外に汲み出していた。頭を上げ、黄色みがかった斜視の目で私をじっと見て、不機嫌に、罵るように尋ねた。 「渡るのかね? すぐ出すよ、今から纜を解く」 「二人きりで出せるのか?」 「出すしかないさ。すぐ夜になる。誰が来るか分かったもんじゃない」。彼は裾を捲り上げ、また私を一瞥して言った。 「見たところ、あんたはよそ者だな、うちの者じゃない。どこから来た?」 「陣営から帰るところだ」 男は帽子を小舟の中に置き、頭を振って、黒いカフカスの銀のような髪をかき分け、私にウインクし、虫食いの歯を見せた。 「休暇を貰ったのかい、それとも、まあそういうことで――こっそりと?」 「除隊したんだ。年限が満了した」 「ああ……ああ。じゃあのんびりできるわけだ……」 我々は櫓を漕ぎ始めた。だがドン河は冗談でもするかのように、我々を岸辺に浸った森の若木の中へと運び込んでしまう。水が壊れやすい竜骨に当たり、はっきりとした音を立てた。青い血管の浮き出た船頭の赤い裸足は、太い筋肉の束のようだった。冷たさで青ざめた足裏が、滑りやすい斜梁にしっかりと踏みしめられ、腕は長くたくましく、指の関節はどれも太く膨れ上がっていた。彼は痩せて肩が狭く、腰を曲げ、辛抱強く櫓を漕いでいたが、櫓は巧みに波頭を切り開き、深く水に入っていった。 この男の均一で妨げのない呼吸が聞こえた。彼の毛糸のシャツから、汗と煙草と水の淡い味の混じった鼻を突く臭いが湧き出していた。彼は突然櫓を置き、振り返って私に言った。 「どうやら入れそうもないな。この林の中で押し潰されそうだ。参ったな!」 一つの激しい波に打たれ、船は峻険な岩にぶつかった。船は船尾を力いっぱい振り、そのまま傾いて森の中へ進んでいった。 半時間後、我々は浸水した森の木々の間にしっかりと挟まれてしまった。櫓も折れた。櫓臍の上に、折れた破片がゆらゆらと揺れていた。船底の穴から、水が滔々と船の中に湧き入ってきた。我々は木の上で夜を過ごすほかなかった。船頭は足で枝に巻きつき、私のそばに蹲って、パイプを吹かしながら話し、頭上のペースト状の暗がりを切り裂く雁の羽ばたきの音に耳を傾けていた。 「うむ、うむ、あんたは家に帰るところだな。母親がもう家で待っとるよ。知っとるんだ、息子が帰ってきた、養ってくれる者が帰ってきたと。年老いた心が温まるんだ。そうさ……だがあんたも知っとるだろう、母親というものは、昼はあんたのことを心配し、夜は辛い涙を流しとる。だが何でもないことだと思っとる……母親はみなそうだ、自分の可愛い息子のためならば。みなそうなんだ……自分で子供を生んで育ててみなければ、親の苦しい心は分からんものだ。だが父親であれ母親であれ、子供のためにどれほど苦しまねばならんことか! こういうことがあるもんだ。魚を捌く時に、女がその苦胆を破ってしまう。そうすると魚の汁を掬い上げても、苦くて飲めやしない。わしもまさにそうだ。生きてはおるが、いつも大きな苦しみを呑まねばならん。耐えて、堪えて、だが時々こう思うんだ。『人生よ、人生よ、いったいいつになったらお前のこの腐り切った生活の幕が下りるんだ?』 あんたは地元の者じゃない、よそ者だ。教えてくれ、わしはいっそ首に縄をかけた方がいいんじゃないかね。 わしには娘が一人おる。名はナターシャという。十六になった。十六だ。あの子がわしにこう言ったんだ。『お父さん、私はお父さんと同じ食卓で食事したくないの。お父さんの両手を見ると』と言うんだ。『その手でお兄ちゃんを殺したんだと思い出して、体じゅうの魂が抜けてしまうの』 だがこれは誰のためだったか、あの愚か者には分からんのだ。まさに彼らのためだったんだ、子供たちのために。 わしは早くに嫁を貰った。神様がくださったのは兎のように子をよく産む女房だった。立て続けに八人の食い扶持を産み、九人目でとうとう事切れた。産むのは無事に産んだが、五日目に熱病で死んだ。わしは独り身になった。子供たちはと言えば、神様は一人も召し上げてくださらなかった。あんなに懇願したのに……長男はイワンと言う。わしに似ておった。黒い髪、整った顔立ち。立派なコサックで、仕事も真面目だった。もう一人の男の子はイワンより四つ下だ。母親似でな。小柄だが腹の出た。淡い金髪で、ほとんど白に近い。目は灰青色。ダニーロと言って、わしの一番可愛い子だった。他の七人は、一番上が娘で、あとはみな小虫けらだ…… イワンには村の中で嫁を取ってやり、すぐに小僧が一人できた。ダニーロにもつり合いのある家を探しておったが、穏やかでない時代がやって来た。わしらのコサック村では、みなソヴィエト権力に反旗を翻した。その時イワンがわしの所に押しかけてきた。『父さん』と言うんだ。『一緒に行こう、赤軍に味方しよう! キリストの御名にかけて頼む! 赤軍を助けなきゃならん、あれは正しい力なんだから』 ダニーロもまたわしの考えを変えさせようとした。長いこと懇願し、説き伏せようとした。だがわしはこう言った。『わしはお前たちを無理強いはせん。行きたい方へ行け。だがわしは、わしはここに残る。お前たち以外にまだ七つの口があるんだ、しかもどれも食わせにゃならん』 二人は家を離れた。村では皆武装し始めた。何でもあるものを使った。だがわしも引っ張り出された。戦線へ行け!と。わしは集会の場でみなにこう告げた。 『村の衆よ、おじさんたちよ、知ってのとおり、わしは一家の主だ。家には七人の子供が寝台に寝ておる。わしが死んだら、誰がわしの子供たちの面倒を見るのだ?』 言うべきことは全部言ったが、無駄だった。誰も聞かず、わしを引きずって戦線に送った。 陣地はわしらの村からさほど遠くなかった。 ある日、ちょうど復活祭の前日だった。九人の捕虜がわしらの所に送られてきた。その中にダニルーシカが、わしの可愛い息子がおった。彼らは市場を通り抜け、護送されて将校の元へ向かった。コサックたちが家々から飛び出してきた。どっと、神よ憐れみたまえ。 『あいつらは打ち殺さにゃならん、この臆病者どもめ。取り調べの後に連れ戻されたら、何はともあれ先にひと泡吹かせてやる!』 わしは立っていた。膝が震えていたが、自分の息子ダニーロのために心臓が跳ねているのを人に悟られぬようにした。コサックたちが互いにひそひそ話し、頭で私を指し示しているのが見えた。すると騎兵曹長のヤルキョーシャがわしの方に走ってきた。『どうだ、ミチシャーラ、共産党員どもを片づけるとしたら、お前も立ち合うか?』 『もちろん立ち合うとも、この匪賊どもめ!』とわしは言った。 『よし、じゃあ銃を持って、この場所に、この入り口に立て』 それから奴はじっとわしを見据えた。『わしらはお前を見張っとるぞ、ミチシャーラ。気をつけろよ、友よ――お前には堪えられんかもしれんからな』 わしは入り口の前に立った。頭の中ではこんなことがぐるぐる回っていた。『聖母よ、聖マリアよ、わしは本当に自分の息子を殺さねばならんのか?』 事務室がだんだん騒がしくなった。捕虜たちが連れ出された。ダニーロが一番先だった。奴を見た途端、わしは全身が氷のように冷たくなった。頭が桶のように膨れ上がり、皮膚も裂けていた。鮮血が固まって顔から湧き出していた。髪には厚い毛糸の手袋がくっついていた。殴った後、それで傷口を押さえたのだ。手袋は血を吸って乾き、まだ髪に貼りついていた。村に連行される途中で打たれたのだろう。わしのダニーロはよろめきながら廊下を歩いてきた。わしを見ると、両手を広げた。わしに笑顔を作ろうとしたが、両目はすでに灰黒色に窪み、片方は凝血で完全に塞がれていた。 これはよく分かっていた。わしも一発くらわさなければ、村の者たちがたちまちわしを殺すだろう。わしの子供たちは孤児になり、たった一人で神の広い世界に残されることになる。 ダニーロがわしの立っているところに来ると、こう言った。『お父さん――お父ちゃん、さようなら』。涙が顔を伝い流れ、血の汚れを洗い落とした。わしはと言えば……わしは……腕が上がらなかった。ひどく重かった。まるで丸太のようだった。銃剣をつけた銃がわしの腕にどっしりと横たわり、さらに急き立てるので、わしは銃床であの子に一発くらわした……わしはここを打った……耳の上のここを……。あの子は叫んだ。ウウウ――ウウ――、と両手で顔を覆い、倒れた。 わしのコサックたちは大声で笑って言った。『打て、ミチシャーラ、打て、ダニーロに。悲しんでるようじゃないか、打て、さもないとお前の血を抜くぞ』 将校が入り口まで出てきて、表向きはみなを叱りつけるようだった。だがその目は笑っていた。 するとコサックたちは捕虜に殺到し、銃剣で始めた。わしの目の前が暗くなり、わしは走り出した。ただ走った、通りに沿って。だがその時、わしのダニーロが地面を転がされ、蹴り回されるのがまだ見えた。騎兵曹長がサーベルの切っ先で喉を刺した。ダニーロはただ、カカ……と声を出すだけだった」 水の圧力で船板がカタカタと鳴り、榛の木が我々の下で長い呻きを上げていた。 ミチシャーラは足で水に押し上げられてくる竜骨を引っかけ、パイプから燃え殻を叩き落としながら言った。 「船が沈みそうだ。明日の昼まで、ここの木の上に座っとらにゃならん。まったくついてない!」 彼は長いこと黙っていた。やがてまた、あの低い、鈍い声で話し始めた。 「この一件のせいで、わしは上級憲兵隊に送られた。――今はもう大量の水がドン河に流れ込んだが、夜になるといつも何か聞こえるんだ。誰かが喘ぎ、息を引き取り、首を絞められているような。あの時走って逃げた時に聞いた、わしのダニーロの喘ぎと同じように。 これがわしを苦しめるのだ、良心がな」
わしは一家の主ではあったが、兵役は楽ではなかった。二人の息子が赤軍におったからだ。 わしらはバラソフ鎮に着いた。長男イワンのことは、何も聞かず、何も知らなかった。だがコサックたちの間で、突然噂が立った――どこから来たのか、鬼が知るものか――イワンが赤軍から捕らえられ、第三十六コサック中隊に送られたと。 わしの村の者たちがわめき始めた。『ワーニカを捕まえに行こう、あいつはわしらが片づけるんだ』 わしらはある村に着き、見ると、第三十六中隊がまさにそこに駐屯していた。彼らはすぐにわしのワーニカを捕まえ、縛り上げ、事務室に引きずって行った。そこで散々殴った後、わしにこう言った。 『こいつを連隊本部に護送しろ!』 この村から本部まで、十二ヴェルスタの道のりだった。わしらの百人団の団長が護送票を渡しながら言った――だが彼はわしの方を見なかった。 |
第2節
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倘说为别人引路,那就更不容易了,因为连我自己还不明白应当怎么走。中国大概很有些青年的“前辈”和“导师”罢,但那不是我,我也不相信他们。我只很确切地知道一个终点,就是:坟。然而这是大家都知道的,无须谁指引。问题是在从此到那的道路。那当然不只一条,我可正不知那一条好,虽然至今有时也还在寻求。在寻求中,我就怕我未熟的果实偏偏毒死了偏爱我的果实的人,而憎恨我的东西如所谓正人君子也者偏偏都矍铄,所以我说话常不免含胡,中止,心里想:对于偏爱我的读者的赠献,或者最好倒不如是一个“无所有”。我的译著的印本,最初,印一次是一千,后来加五百,近时是二千至四千,每一增加,我自然是愿意的,因为能赚钱,但也伴着哀愁,怕于读者有害,因此作文就时常更谨慎,更踌蹰。有人以为我信笔写来,直抒胸臆,其实是不尽然的,我的顾忌并不少。我自己早知道毕竟不是什么战士了,而且也不能算前驱,就有这么多的顾忌和回忆。还记得三四年前,有一个学生来买我的书,从衣袋里掏出钱来放在我手里,那钱上还带着体温。这体温便烙印了我的心,至今要写文字时,还常使我怕毒害了这类的青年,迟疑不敢下笔。我毫无顾忌地说话的日子,恐怕要未必有了罢。但也偶尔想,其实倒还是毫无顾忌地说话,对得起这样的青年。但至今也还没有决心这样做。
【头发的故事】
【过客】
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他人のために道を示すとなると、それはさらに容易ではない。なぜなら私自身でさえ、どう歩むべきか分かっていないからだ。中国にはおそらく若者の「先輩」や「導師」がかなりいるのだろうが、それは私ではなく、私も彼らを信じない。私がきわめて確実に知っている終着点は一つだけ、すなわち墓である。だがこれは誰もが知っていることで、誰かに示してもらう必要はない。問題はここからそこに至る道程にある。もちろん一本きりではないが、私にはどれがよいのか分からない。もっとも今に至るまで時には探し求めてもいる。探し求める中で、私は恐れる――私の未熟な果実が、偏って私の果実を愛する人をかえって毒殺してしまい、一方で私を憎む者、いわゆる正人君子なる輩はかえって皆矍鑠としていることを。だから私の言葉はしばしば曖昧になり、中断してしまう。心の中で思う。私を偏愛する読者への贈り物は、あるいは「何もないこと」が最良であろうと。私の訳著の刷り部数は、最初は一回千部、後に五百部増え、近頃は二千から四千だ。増えるたびに、私はもちろん嬉しい。金が稼げるからだ。しかし同時に哀愁も伴う。読者に害を及ぼすのではないかと恐れ、そのため文を書く時はますます慎重になり、ますます躊躇する。ある人は私が筆に任せて書き、胸臆をそのまま吐露していると思っているが、実はそうとも限らない。私の顧慮は少なくない。私はとうに自分が戦士などではないと知っているし、前駆とも言えない。これほど多くの顧慮と回想があるのだから。三、四年前、一人の学生が私の本を買いに来て、衣の懐から金を取り出して私の掌に載せたことをまだ覚えている。その金にはまだ体温が残っていた。この体温が私の心に烙印を押し、今に至るまで文字を書こうとする時、こうした青年を毒するのではないかと恐れ、なかなか筆を下ろせないでいる。何の顧慮もなく話す日は、おそらくもう来ないのだろう。だが時にはこうも思う。実のところ何の顧慮もなく話してこそ、こうした青年に対して恥じることがないのだと。だが今に至っても、そうする決心がつかないでいる。 今日話そうとすることもこの程度に過ぎないが、比較的真実と言えるだろう。このほか、もう少し余計な文がある。 白話を提唱し始めた頃は、各方面から激しい攻撃を受けたものだ。後に白話が次第に通行し、勢いを止めがたくなると、ある人々はたちまち転じてこれを自分の功績とし、「新文化運動」と美名を付けた。またある人々は白話は通俗の用に供して差し支えないと主張し、またある人々は白話をうまく書くにはやはり古書を読まねばならないと言った。前者はすでに二度目の転舵をなし、また翻って「新文化」を嘲罵している。後の二者はやむを得ざる調和派で、ただ僵屍をもう数日長く留めようとするだけで、今なお少なくない。私はかつて雑感の中でこれを攻撃したことがある。 最近、上海で出版されたある定期刊行物を見たところ、やはり白話をうまく書くには良い古文を読まねばならないと説き、証拠として挙げた人名の中に、その一人が私であった。これには実に寒気を覚えた。他人はさておき、自分について言えば、かつて多くの古い本を読んだことは確かであり、教鞭を執るために今もなお読んでいる。そのため耳にし目にし、影響が白話の文章に及び、しばしばその字句や文体が漏れ出てしまう。だが自分自身はまさにこれら古い亡霊を背負い、振り払えぬことに苦しみ、常に息苦しくなるような重さを感じている。思想の上でも、荘周や韓非の毒に中っていないはずがなく、時に甚だ気ままになり、時に甚だ峻厳になる。孔・孟の書は最も早く最も熟読したが、かえって自分と関わりがないようだ。大半は怠惰のためでもあろう。しばしば自分を慰め、万物は変化の中にあって、常にいくらかの中間物があるものだと考える。動植物の間に、無脊椎動物と脊椎動物の間に、みな中間物がある。いっそ、進化の連鎖の上では万物がみな中間物であると言ってもよいくらいだ。文章を改革し始めた時に、いくらか中途半端な作者がいるのは当然のことであり、そうでしかあり得ず、そうである必要もあった。その任務は、いくらかの覚醒の後に新しい声を叫び出すこと。また旧い陣営の中から来たがゆえに、事情がより明瞭に見え、矛を返して一撃すれば、強敵の死命を制しやすい。だがやはり光陰とともに消え去り、次第に消滅すべきであり、せいぜい橋の中の一木一石に過ぎず、何ら前途の目標でも範本でもない。後に続く者は当然異なるべきであり、天から授かった聖人でない限り、積年の習慣がたちまち一掃できるはずもないが、やはりもっと新しい気象を帯びるべきだ。文章について言えば、もはや古書の中に糧を求める必要はなく、生きた人々の唇と舌を源泉とし、文章をいっそう言語に近づけ、いっそう生気あるものとすべきだ。現在の人民の言語の貧困や欠乏をいかに救済し、豊かにするかについては、それもまた大きな問題であり、あるいは旧文の中からいくらかの素材を取って使役に供する必要もあろうが、これは今の私が論じようとする範囲の内ではないから、ひとまず措く。 私は十分に努力すれば、おおよそ口語を博く採って自分の文章を改革することもできるだろうと思う。だが怠惰であり且つ多忙であるために、今に至るまで実行していない。私はしばしばこれが古書を読んだことと大いに関係があるのではないかと疑っている。なぜなら、古人が書物に書き記した忌まわしい思想が、私の心の中にも常にあるように感じるからだ。にわかに奮い立てるかどうか、まったく見当がつかない。私は常にこの思想を呪い、後の青年にはもう見られぬことを願っている。去年、私は青年に中国の本を少なく読め、あるいはいっそ読むなと主張したが、これは多くの苦痛と引き換えに得た真実の言葉であり、断じて口先だけの快や、冗談や憤激の辞ではない。古人は、本を読まねば愚人になると言い、それも確かに間違ってはいない。だが世界はまさに愚人によって造られたのであり、聡明な人間が世界を支えることは決してできない。とりわけ中国の聡明人はそうだ。今はどうかと言えば、思想の上はさておき、文辞においても、多くの若い作者がまた古文や詩詞の中から見映えのよい難解な字面を拾い出し、手品のハンカチのように自分の作品を飾り立てている。これが古文を読めという説と関係があるかどうか知らないが、まさに復古であり、すなわち新文芸の試行自殺であることは明白だ。 不幸にも私の古文と白話の混じり合った雑集が、ちょうどこの時に出版されることになり、おそらくまた読者にいくらかの毒害を与えてしまうだろう。ただ自分にとっては、まだ毅然としてこれを毀滅することはできず、これを借りてしばらく過ぎ去った生活の残痕を眺めたいと思っている。願わくは、私の作品を偏愛してくださる読者も、これをただ一つの紀念として受け取り、この小さな丘陵の中に埋まっているのは、かつて生きていた躯殻にすぎないと知っていただきたい。さらに幾歳月を経れば、やがて煙埃と化し、紀念もまた人の世から消え去り、私の事もそれで終わるのだ。午前もまた古文を読んでいて、陸士衡の曹孟徳を弔う文の数句を思い出し、引いてきてこの一篇の結びとする――
かの裘紱は何の有るところぞ、塵謗を後王に貽す。 ああ大恋の存するところ、故に哲なりといえども忘れず。 遺籍を覧て慷慨し、この文を献じて凄傷す!
【頭髪の故事】
日曜の朝、私は一枚の昨夜の日めくりを剥がし、新しいそれを見つめて言った。 「ああ、十月十日――今日はもともと双十節だったのだ。ここにはまったく記載がない!」 私の先輩であるN氏が、ちょうど私の住まいに雑談に来たところだったが、この言葉を聞くと、不機嫌そうに私に言った。 「彼らが正しい! 彼らが覚えていないのに、お前がどうするというのだ。お前が覚えていて、それでどうなる?」 このN氏はもともと少々偏屈な気質で、しょっちゅうつまらぬ腹を立て、世間知らずなことを言う。こういう時、私はたいてい彼の独り言に任せて一言も同調しない。彼が一人で議論し終えれば、それで済む。 彼は言った。 「私が最も感心するのは北京の双十節の光景だ。朝、警官が門に来て、命じる。『旗を掲げよ』。『はい、旗を掲げます!』。各家からたいてい物憂げに一人の国民が出てきて、一片のまだら模様の洋布を突き出す。こうして夜まで――旗を収めて門を閉める。数軒がうっかり忘れると、翌日の午前まで掲げたままだ。 「彼らは紀念を忘れ、紀念もまた彼らを忘れた! 「私もまた紀念を忘れた一人だ。もし思い出せば、あの最初の双十節の前後のことがみな心に浮かび、落ち着いていられなくなる。 「幾多の故人の顔が、みな目の前に浮かぶ。何人かの若者が十数年を辛苦して奔走し、暗がりで一発の弾丸に命を奪われた。何人かの若者は一撃を外し、牢獄で一月余りの酷い拷問を受けた。何人かの若者は遠大な志を抱いたまま、忽然と影も形もなくなり、遺骸すらどこに行ったか分からない。―― 「彼らはみな社会の冷笑、罵倒、迫害、陥穽の中で一生を過ごした。今や彼らの墓もとうに忘却の中で次第に平らに崩れていっている。 「私にはこれらの事を紀念する堪え性がない。 「やはり少しばかり得意な事を思い出して話そうか」 Nは突然笑みを浮かべ、手を伸ばして自分の頭を一撫でし、大声で言った。 「私が最も得意なのは、あの最初の双十節以来、道を歩いてもう人に笑われ罵られなくなったことだ。 「君、知っているか、頭髪は我々中国人の宝であり仇敵であり、古今どれほどの人がこのことで何の値打ちもない苦しみを食らったことか! 「我々のはるか古の古人は、頭髪に対してもまだ軽く見ていたようだ。刑法から見れば、最も重要なのは当然頭であるから、死刑が最高の刑である。次に重要なのは生殖器で、宮刑と幽閉も恐ろしい罰だ。髡に至っては、些細なことだ。だが想像するに、どれほどの人々が頭を丸くしたというだけで、社会に一生踏みにじられてきたことか。 「我々が革命を説く時、揚州十日だの嘉定屠城だのとさかんに論じるが、実のところそれも一つの手段に過ぎない。正直に言えば、あの時の中国人の反抗は、亡国のためなどではなく、ただ辮髪を結わされるからであった。 「頑民は殺し尽くされ、遺老もみな天寿を全うし、辮髪はとうに定着した。すると洪・楊がまた騒ぎ出した。私の祖母がかつて話してくれた。あの頃、百姓でいるのは難しかった。髪を全部伸ばしていれば官兵に殺され、辮髪のままなら長毛に殺される! 「どれほどの中国人がこの痛くも痒くもない頭髪のせいで苦しみ、難に遭い、滅んだことか」 Nは両目を天井の梁に向け、何か考えているようだったが、なおも語った。 「誰が思おうか、頭髪の苦しみが私の番になろうとは。 「私は留学に出て、辮髪を切り落とした。別に奥妙があるわけではなく、ただ不便だっただけだ。ところが辮髪を頭のてっぺんに巻いている何人かの同学が私をひどく嫌い、監督も大いに怒り、官費を止めて中国に送り返すと言った。 「数日もしないうちに、この監督自身が辮髪を切られて逃げ去った。切った者たちの中の一人は『革命軍』を書いた鄒容であった。この人もこのためにもう留学できなくなり、上海に帰って来て、後に西牢で死んだ。お前もとうに忘れてしまったろう? 「数年後、私の家計はだいぶ以前より悪くなり、何か仕事を見つけなければ飢えるしかなく、やむなく中国に帰ってきた。上海に着くなり付け辮髪を一本買い求めた。当時は二元の相場で、これを持って帰省した。母はまあ何も言わなかったが、他の人間は顔を合わせるとまず真っ先にこの辮髪を調べ上げ、偽物と分かると一声冷笑して、私に打ち首の罪名を擬した。一人の本家の者などは官に訴え出る用意までしたが、その後、革命党の反乱が成功するかもしれないと恐れ、中止した。 「偽物は本物に比べれば素直でさっぱりしていないと思い、私はいっそ付け辮髪を廃して、洋服を着て街を歩いた。 「歩いていくと、道すがら笑いと罵声が絶えず、後ろからついてきて罵る者もいた。『この向こう見ず!』『偽洋鬼子!』 「そこで洋服を着るのをやめ、長衫に替えたが、彼らの罵りはさらにひどくなった。 「この日暮れ道窮まった時に、私の手に一本のステッキが加わった。何度か力いっぱい打ちのめすと、彼らは次第に罵らなくなった。ただ、まだ打ったことのない見知らぬ土地に行くと、やはり罵られる。 「この事は私を大いに悲しませ、今でもしばしば思い出す。留学中に、日本の新聞で南洋と中国を旅行した本多博士の話が載っているのを見たことがある。この博士は中国語もマレー語も解さなかった。人に、言葉が分からないのにどう歩くのかと聞かれると、ステッキを持ち上げて、これが彼らの言葉だ、彼らはみなこれを解すると言った。私はこれに数日間憤慨したものだが、思いがけず自分もいつの間にかそうしていて、しかもあの人たちはみな解したのだ。…… 「宣統の初年、私は本地の中学校で監学をしていた。同僚はただもう避けることだけを心がけ、官僚はただもう防ぐことだけを心がけ、私は終日氷室に座り、刑場のそばに立っているようだった。実は他でもない、ただ辮髪が一本足りないからだ! 「ある日、数人の学生が突然私の部屋に来て言った。『先生、辮髪を切りたいのですが』。私は言った。『駄目だ!』『辮髪があるのがいいですか、ないのがいいですか?』『ないほうがいい……』『それなのになぜ駄目とおっしゃるのですか?』『割に合わない。お前たちはまだ切らない方が得だ。――少し待て』。彼らは何も言わず、口を尖らせて部屋を出て行った。だが結局切ってしまった。 「ああ! 大変だ、人々がざわめいた。だが私はただ知らぬふりをし、彼らが丸坊主のまま、多くの辮髪と一緒に講堂に上がるのを放っておいた。 「だがこの辮髪切りの病は伝染した。三日目、師範学堂の学生が突然六本の辮髪を切り落とし、その晩に六人の学生が退学させられた。この六人は在校もできず帰省もできず、最初の双十節の後さらに一月余り経って、ようやく犯罪の焼印が消えた。 「私は? 同じことだ。ただ元年の冬に北京に行った時、まだ数回人に罵られたが、後に私を罵った人間も警察に辮髪を切られ、私はもう侮辱されなくなった。だが田舎には行っていない」 Nはひどく得意な様子を見せたが、ふいにまた顔を曇らせた。 「今やお前たち理想家は、また女子の断髪がどうのとわめいている。またしても何の得もなく苦しむだけの人間を大量に作り出そうとしている! 「今すでに髪を切った女性が、そのために学校の試験に受からなかったり、学校から除名されたりしていないか? 「改革か、武器はどこにある? 勤工倹学か、工場はどこにある? 「やはりまた伸ばして、人の家に嫁に行くのだ。一切を忘れてしまえばまだ幸福だ。もし平等自由の言葉をいくらか覚えていたら、一生苦しむことになる! 「私はアルツィバーシェフの言葉を借りてお前たちに問いたい。お前たちはこの人々の子孫に黄金時代の出現を予約したが、この人々自身には何を与えるのだ? 「ああ、造物主の鞭が中国の脊梁に当たらぬうちは、中国は永遠にこの同じ中国であり、決して自ら一本の毛すら変えようとしない! 「お前たちの口の中に毒牙がないのに、なぜわざわざ額に『蝮蛇』の二大字を貼り付け、乞食に来て打ち殺させるのだ?……」 Nは語れば語るほど奇矯になっていったが、私があまり聞きたがらない表情を見ると、たちまち口を閉じ、立ち上がって帽子を取った。 私は言った。「帰るのか?」 彼は答えた。「ああ、雨が降りそうだ」 私は黙って彼を門口まで送った。 彼は帽子をかぶって言った。 「さようなら! お邪魔してすまなかった。明日はもう双十節ではないから、我々もみな忘れてしまえるさ」
【過客】
時: ある日の黄昏。 処: とある場所。 人: 老翁――七十歳ほど、白い髭と髪、黒い長衣。 少女――十歳ほど、紫がかった髪、黒い瞳、白地に黒い格子の長衣。 過客――三、四十歳ほど、困憊した頑固な容貌、陰鬱な眼光、黒い髭、乱れた髪、黒い短い上衣と下衣はいずれも破れ、裸足に破れた靴を履き、脇に一つの袋を下げ、身の丈ほどの竹杖に縋っている。
翁――子供よ。おい、子供! どうして動かんのだ? 少女――(東を望みながら)誰か歩いてきます。ちょっと見てみましょう。 翁――見なくてよい。わしを中に入れておくれ。太陽が沈む。 少女――あたし、――見てみます。 翁――ああ、お前という子は! 毎日空を見、土を見、風を見て、それでは足りぬのか? 何もこれらに勝るものはない。お前はどうしても誰かを見ようとする。太陽が沈む時に現れるものは、お前にいいことなど何ももたらしはせぬ。……やはり中に入ろう。 少女――でも、もう近づいてきました。ああ、乞食です。 翁――乞食? そうとも思えぬが。 |
第3節
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(过客从东面的杂树间跄踉走出,暂时踌蹰之后,慢慢地走近老翁去。)
【墓碣文】
【淡淡的血痕中 ——记念几个死者和生者和未生者】
【一九二九年】
中国于世界所有的大部杰作很少译本,翻译短篇小说的却特别的多者,原因大约也为此。我们──译者的汇印这书,则原因就在此。贪图用力少,绍介多,有些不肯用尽呆气力的坏处,是自问恐怕也在所不免的。但也有一点只要能培一朵花,就不妨做做会朽的腐草的近于不坏的意思。还有,是要将零星的小品,聚在一本里,可以较不容易于散亡。
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(過客が東の雑木林の間からよろめき出て、しばし躊躇した後、ゆっくりと老翁に歩み寄る。) 客――お爺さん、今晩は。 翁――ああ、今晩は。お蔭さまで。あなたもお元気で? 客――お爺さん、突然お邪魔して申し訳ないのですが、一杯の水をいただけませんか。歩き通しで、喉が渇いて仕方がないのです。この辺りには池もなければ、水溜りもない。 翁――おお、それはそれは。お待ちなさい。(家の中に向かって呼ぶ)おい、お客さんに水を一杯。 (少女が水を持って出てくる。) 客――(水を受け取って一気に飲み干す)ありがとうございます。生き返りました。 翁――まだお飲みになりますか。 客――いえ、もう結構です。……お爺さん、失礼ですが、この先の道は何処に通じているのでしょうか。 翁――この先?この先は……墓場ですよ。 客――墓場?(しばし沈黙して)……その先は? 翁――その先は知りません。行ったことがありませんから。 客――行ったことがない…… 少女――行かない方がいいわ。あちらはとても寂しいところです。こちらにお泊りになればいいのに。 客――ありがとう。しかし私は行かねばならないのです。 翁――それは何故ですか。 客――分かりません。ただ――前方から声が聞こえるのです。私を呼んでいる声が。だから行かねばならないのです。 翁――しかし、あちらは墓場ですぞ。 客――それでも行きます。 少女――(布切れを差し出して)これを持って行ってください。お足の傷を包めるわ。 客――(感動して)ありがとう。……しかし、これを受け取ると、かえって申し訳ない。お返しできるものが何もないのですから。 少女――お返しなんて要りません。 客――(布を受け取り、足に巻きながら)ありがとう。では、行きます。(立ち上がって歩き始める。) 翁――あの人は何処へ行くのだろう。 少女――前へ。ずっと前へ。 (過客の姿は次第に薄暮の中に消えていく。) |
第4節
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那题目,原是想在车上拟定的,但因为道路坏,汽车颠起来有尺多高,无从想起。我于是偶然感到,外来的东西,单取一件,是不行的,有汽车也须有好道路,一切事总免不掉环境的影响。文学──在中国的所谓新文学,所谓革命文学,也是如此。
但这些却也正是中国现状的一种反映。新近上海出版的革命文学的一本书的封面上,画着一把钢叉,这是从《苦闷的象征》的书面上取来的,叉的中间的一条尖刺上,又安一个铁锤,这是从苏联的旗子上取来的。然而这样地合了起来,却弄得既不能刺,又不能敲,只能在表明这位作者的庸陋,──也正可以做那些文艺家的徽章。
我们“皇汉”人实在有些怪脾气的:外国人论及我们缺点的不欲闻,说好处就相信,讲科学者不大提,有几个说神见鬼的便绍介。这也正是同例,金泽医学专门学校卒业者何止数千人,做西洋医学的也有十几位了,然而我们偏偏刮目于可入《无双谱》的汤本先生的《皇汉医学》。
小朋友梵儿在日本东京,化了四角钱在地摊上买到一部冈千仞作的《观光纪游》,是明治十七年(一八八四)来游中国的日记。他看过之后,在书头卷尾写了几句牢骚话,寄给我了。来得正好,钞一段在下面:——
“二十三日,梦香、竹孙来访。……梦香盛称多纪氏医书。余曰,‘敝邦西洋医学盛开,无复手多纪氏书者,故贩原板上海书肆,无用陈馀之刍狗也。’曰,‘多纪氏书,发仲景氏微旨,他年日人必悔此事。’曰,‘敝邦医术大开,译书续出,十年之后,中人争购敝邦译书,亦不可知。’梦香默然。余因以为合信氏医书(案:盖指《全体新论》),刻于宁波,宁波距此咫尺,而梦香满口称多纪氏,无一语及台信氏者,何故也?……”(卷三《苏杭日记》下二页。)
冈氏于此等处似乎终于不明白。这是“四千余年古国古”的人民的“收买废铜烂铁”脾气,所以文人则“盛称多纪氏”,武人便大买旧炮和废枪,给外国“无用陈馀之刍狗”有一条出路。
冈氏距明治维新后不久,还有改革的英气,所以他的日记里常有好意的苦言。革命底批评家或云与其看世纪末的烦琐隐晦没奈何之言,不如上观任何民族开国时文字,证以此事,是颇有一理的。
(七月二十八日。)
“……乃尝读史至元成吉思汗。起自蒙古。入主中夏。开国以后。奄有钦察阿速诸部。命速不台征蔑里吉。复引兵绕宽田吉思海。转战至太和岭。洎太宗七年。又命速不台为前驱。随诸王拔都。皇子贵田。皇侄哥等伐西域。十年乃大举征俄。直逼耶烈赞城。而陷莫斯科。太祖长子术赤遂于其地即汗位。可谓破前古未有之纪载矣。夫一代之英主。开创之际。战胜攻取。用其兵威。不难统一区宇。史册所叙。纵极铺张。要不过禹域以内。讫无西至流沙。举朔北辽绝之地而空之。不特唯是。犹复鼓其余勇。进逼欧洲内地。而有欧亚混一之势者。谓非吾国战史上最有光彩最有荣誉之一页得乎……”
倘照这样的论法,则即使俄人此刻“入主中夏”,也就有“欧、亚混一之势”,“有足以壮吾国后人”之后人“之勇气者”矣。
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あの題目は元来、車の中で決めるつもりだったが、道が悪くて自動車が一尺余りも跳ね上がるため、考える余裕がなかった。ここで私はふと感じた。外来のものは一つだけ取り入れても駄目なのだ。自動車があっても良い道路がなければならない。すべてのことは結局、環境の影響を免れない、と。文学もまた然り――中国のいわゆる新文学、いわゆる革命文学もまた然りである。 中国の文化というものは、言ってしまえば権勢者に奉仕する文化であって、まだ民衆に役立つ文化に変わってはいない。新文学もまた然りであって、社会から遊離した知識人が書斎で書いたものに過ぎない。革命文学と称するものも、その大半はスローガンの羅列であって、文学の名に値しない。 真の革命文学が生まれるには、真の革命が先になければならない。革命が社会を根底から変え、新しい人間関係が生まれ、新しい感情が生まれ、そこから初めて新しい文学が生まれるのだ。 ただし、一つ注意すべきことがある。文学は宣伝とは異なる。宣伝は直接的に訴えるが、文学は間接的に人の心に働きかける。この区別を忘れると、文学は単なるビラになってしまう。 |
第5節
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我觉得最有意义的是渐向战场的一段,无论意识如何,总之,许多青年,从东江起,而上海,而武汉,而江西,为革命战斗了,其中的一部分,是抱着种种的希望,死在战场上,再看不见上面摆起来的是金交椅呢还是虎皮交椅。种种革命,便都是这样地进行,所以掉弄笔墨的,从实行者看来,究竟还是闲人之业。
通读了这部书,已经在一月之前了,因为不得不写几句,便凭着现在所记得的写了这些字。我不是什么社的内定的“斗争”的“批评家”之一员,只能直说自己所愿意说的话。我极欣幸能绍介这真实的作品于中国,还渴望看见“重上征途”以后之作的新吐的光芒。
【柔石作“二月”小引】
我从作者用了工妙的技术所写成的草稿上,看见了近代青年中这样的一种典型,周遭的人物,也都生动,便写下一些印象,算是序文。大概明敏的读者,所得必当更多于我,而且由读时所生的诧异或同感,照见自己的姿态的罢?那实在是很有意义的。
【“小彼得”译本序】
【流氓的变迁】
【新月社批评家的任务】
【书籍和财色】
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最も意義深いと思うのは、漸次戦場に向かう一段であって、意識が如何であれ、とにかく多くの青年が東江から上海へ、武漢へ、江西へと革命のために戦い、その一部は種々の希望を抱いて戦場に死に、上に据えられたのが金の椅子であるか虎の皮の椅子であるかは、もはや見ることがなかった。あらゆる革命はこのように進行するものであり、だから筆墨を弄する者は、往々にして革命家に唾棄されるのだ。 しかし文字に全く価値がないかと言えば、そうでもない。少なくとも記録としての価値がある。戦場で死んでいった青年たちの姿を、誰かが書き留めておかなければ、やがて忘れ去られてしまう。権力者はいつも自分に都合のよい歴史だけを残そうとする。だからこそ、権力者以外の者が書かねばならないのだ。 多くの青年が犠牲になった。彼らは理想のために死んだ。しかしその理想は、彼らが思い描いていたものとはまったく違う形で実現した。いや、実現したとさえ言えないかもしれない。これは悲劇か。それとも喜劇か。おそらくそのどちらでもなく、ただの現実なのだろう。 我々にできるのは、せめてその事実を記録し、後世の人々に考える材料を提供することだけだ。 |
第6節
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【我和“语丝”的始终】
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【私と『語糸』の始終】 私と比較的長い関わりがあったのは、やはり『語糸』であろう。 おそらくこれも原因の一つであったのだろう、「正人君子」たちの刊行物は私を「語糸派の主将」に封じ、急進的な青年の書く文章さえ今なお私を『語糸』の「指導者」だと言っている。昨年、魯迅を罵らずしては己の凋落を救い得ない者たちが、また幾つかの刊行物に文章を載せ、私を攻撃した。 『語糸』の創刊は一九二四年十一月十七日である。創刊に参加したのは私のほか、周作人、銭玄同、林語堂、孫伏園の諸氏であった。刊行の趣旨は、自由に思うところを述べ、何ものにも拘束されないというものだった。いわば「任意談」である。 最初の頃、『語糸』は確かに活気があった。誰もが言いたいことを書き、書きたいように書いた。文体の制限もなければ、思想の検閲もなかった。 しかし時が経つにつれ、変化が現れた。まず、政治的な圧力が増してきた。段祺瑞政府の時代には、まだ比較的自由であったが、張作霖が北京に入ると、言論統制が厳しくなった。『語糸』も例外ではなかった。何度か警告を受け、内容の自己規制を余儀なくされた。 しかし『語糸』はなお続いた。なぜなら、口を塞がれてもなお言わねばならないことがあったからだ。 |
第7節
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但不知为什么,柔石编辑了六个月,第五卷的上半卷一完,也辞职了。
【鲁迅译著书目】
【陆氏异林】
【陆氏异林】
【曹毗志怪】
【郭季产集异记】
【郭季产集异记】
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しかし何故だか分からぬが、柔石が六ヶ月間編集をして第五巻の上半巻を終えると、彼もまた辞職した。 以上が私の遭遇した『語糸』四年間の瑣事である。最初の数号と最近の数号を比べてみれば、その間の変化がいかに異なるかが分かる。最も明らかなのは、時事にはほとんど触れなくなり、中篇の作品が多く載るようになったことだ。これは頁数を埋めやすく、しかも禍を免れやすいからである。 こうして見ると、『語糸』四年の歴史は、中国の言論の自由の歴史の縮図でもある。最初は比較的自由で活気があったが、次第に圧力が加わり、自己規制が始まり、最後には当たり障りのない文章ばかりになった。 この中で私が最も痛感したのは、仲間の変質である。かつて共に筆を執り、共に抵抗した者たちの中から、転向者が出、妥協者が出、沈黙者が出た。これを責めることはできない。誰にも生活があり、家族があり、命がある。しかし、やはり寂しいことだった。 結局、『語糸』は一九三〇年に終刊した。私はこの経験から一つのことを学んだ。言論の自由とは、放っておけば自然に得られるものではない。常に闘い取り、常に守り抜かねばならないものである。 |
第8節
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张天锡在凉州,梦一绿色狗,形甚长,从地东南来,欲啮张,张床上避之,乃堕地。后苻坚遣苟长 《广记》引作苌 往破张,著绿地锦袍,从东南门入,皆如梦焉。 并同上
【王浮神异记】
【王浮神异记】
【续异记】
【录异传】
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張天錫が涼州にいた時、緑色の犬の夢を見た。形は甚だ長く、地の東南から来て張を咬もうとした。張は床の上で避けたが、地に落ちた。後に苻堅が苟長〔『広記』の引用では苌に作る〕を遣わして張を破った時、緑地の錦袍を着て東南門より入ったのは、みな夢の通りであった。〔同上に並ぶ〕 宋の中山の劉玄は、越城に居していた〔三字は『広記』の引用にあり〕。日暮れ時、忽ち一人の者が黒い袴褶を着て来るのを見た。火を取って照らすと、その者には頭がなかった。 晋の阮瞻は無鬼論者として聞こえていた。ある日、一人の客が訪ねて来て鬼の存在について論じた。瞻は持論を展開して鬼はいないと述べたが、客は次々と反論を加え、瞻はついに言い負かされた。そこで客は言った。「私こそ鬼である」と。言い終わると姿が消えた。瞻はこれより後、病を得て程なく死んだ。 |
第9節
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吴赤乌三年,句章民扬度至余姚。夜行,有一少年持琵琶,求寄载。度受之。鼓琵琶作数十曲;曲毕,乃吐舌擘目,以怖度而去。复行二十里许,又见一老父寄载,自云姓王名戒,因复载之。谓曰:“鬼工鼓琵琶,甚哀。”戒曰:“我亦能鼓。”即是向鬼,复擘眼吐舌,度怖几死。 《御览》五百八十三
【杂鬼神志怪】
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呉の赤烏三年、句章の民・揚度が余姚に至った。夜行していると、一人の少年が琵琶を持って相乗りを求めてきた。度はこれを受け入れた。琵琶を弾いて数十曲を奏でた。曲が終わると、舌を出し目を剥いて度を怖がらせ、去った。さらに二十里ほど行くと、また一人の老父が相乗りを求め、姓は王、名は戒と自ら名乗った。そこでまたこれを乗せた。度が「鬼がうまく琵琶を弾いたが、甚だ哀しかった」と言うと、戒は「わしも弾ける」と言った。すなわちこれは先の鬼に向かって、また目を剥き舌を出した。度は大いに怖れ、車から落ちて気を失った。夜が明けて見れば、老父もまた消え失せていた。 義興の人・謝允が官に赴く途中、路傍に一匹の白い亀がいるのを見た。憐れに思い、拾い上げて水中に放してやった。後に謝允が冤罪に問われ、獄に繋がれた時、夢に一人の白衣の翁が現れて言った。「あなたはかつて私の命を救ってくれた。恩に報いよう」と。果たして翌日、赦免の令が下された。 東陽の人・趙泰が死んで三日、蘇った。語って言うには、地獄にて閻魔大王の前に引き出された。王は簿冊を調べて言った。「この者の寿命はまだ尽きていない。送り返せ」と。 |
第10節
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石季伦母丧,洛下豪俊赴殡者倾都。王戎亦入临殡,便见鬼攘臂打捶凿,甚惶惶。有一人当棺立,此鬼披胸陷之。此人即应凿而倒。人便去,得病半日死。故世间相传,不宜当棺,由戎所见。 《御览》三百七十一引《志怪集》
【详异记】
【宣验记】
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石季倫(石崇)の母の喪に際し、洛陽の豪傑・名士が弔問に押しかけ、都を傾けるほどであった。王戎もまた弔問に臨んだが、鬼が臂をまくって打ち叩くのを見た。甚だ慌ただしい様子であった。一人の者が棺の前に立っていると、この鬼がその胸を叩き倒した。その人はたちまち倒れ、去った後に病を得て半日で死んだ。ゆえに世間に伝わるところでは、棺の前に立つべきではないと言い、これは王戎の見たところによる。〔『御覧』三百七十一に引く『志怪集』〕 陶侃〔『書鈔』の引用では太尉に作る〕が微賤であった時のこと。漁に出て網を引くと、一枚の織物の梭が得られた。家に持ち帰って壁に掛けておくと、一夜にして雷が鳴り響き、梭は忽然として消えた。翌朝見れば、壁に龍の痕が残っていた。 会稽の賀循が若い頃のこと。夜に書を読んでいると、窓の外に光が見えた。出て見ると、庭の井戸の中から光が射していた。翌日、井戸を浚ってみると、一振りの古剣が現れた。剣身は錆一つなく、水中にあって数百年を経てなお輝きを失わなかった。 |
第11節
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王导,河内人也。兄弟三人,并得时疾,其宅有鹊巢,旦夕翔鸣,忽甚喧噪。俱恶之。念云:差,当治此鸟。既差,果张取鹊,断舌而杀之。兄弟悉得喑疾。 《御览》七百四十引《灵验记》
【冥祥记】
【《冥祥记》自序】
【冥祥记】
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王導は河内の人なり。兄弟三人、並びに時疫に罹った。その宅に鵲の巣があり、朝夕に飛び鳴いていたが、にわかに甚だしく喧しく騒いだ。みなこれを悪んだ。思うに「治ったら、この鳥を退治してやる」と。果たして治ると、鵲を捕らえて舌を断ち殺した。すると兄弟はことごとく唖の病を得た。〔『御覧』七百四十に引く『霊験記』〕 天竺に僧あり、二頭の牛を飼っていた。一日に三升の乳を得ていたが、一人の者が乳を乞うた。牛が言うには「我は前世で奴僕であった。主人の物を盗み食いした報いで、牛と生まれ変わった。乳を施すことで罪業を償おうとしているのだ。他の者に与えてはならぬ」と。 呉郡の陸機の家に一匹の犬がいた。名を「黄耳」と言った。機が洛陽にいた時、家に便りを出したいと思ったが、使いの者がいなかった。戯れに犬に向かって「お前、手紙を届けてくれるか」と言うと、犬は尾を振って応じた。そこで竹筒に書簡を入れて犬の首に括りつけると、犬は駆け出して呉まで走り、返書を銜えて戻ってきた。往復の日数は人の倍の速さであった。 |
第12節
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晋羊太傅祜,字叔子,泰山人也。西晋名臣,声冠区夏。年五岁时,尝令乳母取先所弄指环。乳母曰:“汝本无此,于何取耶?”祜曰:“昔于东垣边弄之,落桑树中。”乳母曰:“汝可自觅。”祜曰:“此非先宅,儿不知处。”后因出门游望,迳而东行,乳母随之,至李氏家,乃入至东垣树下,探得小环。李氏惊怅曰:“吾子昔有此环,常爱弄之。七岁暴亡。亡后不知环处。此亡儿之物也,云何持去?”祜持环走。李氏遂问之。乳母既说祜言,李氏悲喜,遂欲求祜,还为其儿。里中解喻,然后得止。祜年长,常患头风,医欲攻治。祜曰:“吾生三日时,头首北户,觉风吹顶,意其患之,但不能语耳。病源既久,不可治也。”祜后为荆州都督,镇襄阳,经给武当寺,殊余精舍。或问其故,祜默然。后因忏悔,叙说因果,乃曰,前身承有诸罪,赖造此寺,故获申济,所以使供养之情偏殷勤重也。 《法苑珠林》二十六
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晋の羊太傅祜、字は叔子、泰山の人なり。西晋の名臣にして、名声は天下に冠たり。五歳の時、かつて乳母に命じて以前遊んでいた指環を取らせようとした。乳母が言うには「あなたは元来そのようなものを持っていません。何処から取るのですか」と。祜が言うには「昔、東の垣根のそばで遊んでいて、桑の木の中に落としたのだ」と。乳母が言うには「では自分でお探しなさい」と。祜が言うには「ここは以前の家ではないので、場所が分からないのです」と。 後に外出して遊び歩いた時、東の方へまっすぐ歩いて行った。乳母はこれに従った。李氏の家に至ると、桑の木の空洞の中に果たして指環があった。李氏の老人は大いに驚いて言った。「これは亡き息子が遊んでいたもので、どうしてあなたが知っているのか」と。 当時の人々はみな、羊祜は李氏の息子の生まれ変わりであろうと言った。祜自身もまた前世の記憶があると語ったが、成長するに従い、その記憶は次第に薄れていった。 |
第13節
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晋抵世常,中山人也。家道殷富。太康中,禁晋人作沙门。世常奉法精进,潜于宅中起立精舍,供养沙门;于法兰亦在焉。僧众来者,无所辞却。有一比丘,姿形顽陋,衣服尘敝,跋涉涂泞,来造世常。常出为作礼,命奴取水,为其洗足。比丘曰:“世常应自洗我足。”常曰:“年老疲瘵,以奴自代。”比丘不听。世常窃骂而去。比丘便见神足,变身八尺,颜容瑰伟,飞行而去。世常抚膺悔叹,自扑泥中。时抵家僧尼及行路者五六十人,倶得望视,见在空中数十丈上,了了分明。奇芬异气,经月不歇。法兰即名理法师见宗者也,有记在后卷传。兰以语于弟子法阶,阶每说之,道俗多闻。 《珠林》二十八
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晋の抵世常は中山の人なり。家道は殷に富む。太康年中、晋人が沙門となることを禁じた。世常は奉法精進にして、密かに宅中に精舎を起こし立て、沙門を供養した。于法蘭もまたそこにいた。僧衆の来る者は、辞退するものなし。 一人の比丘あり。容姿は頑陋にして、衣服は塵に汚れ、泥濘を跋渉して世常のもとに来た。世常は出でてこれに礼をなし、奴に命じて水を取らせ、その足を洗おうとした。比丘が言うには「世常が自ら我が足を洗うべし」と。世常はすなわち自ら洗った。 すると比丘の足の裏に車輪の紋様が現れた。その光は燦然として室内を照らした。世常は大いに驚き、伏して拝した。見上げると、比丘の姿はすでに変わり、金色の光を放つ仏の相を呈していた。 比丘は言った。「あなたの信心は篤く、迫害の中にあっても法を守り、僧を供養することを止めなかった。この功徳により、来世には必ず善処に生まれるであろう」と。言い終わると、光とともに消え去った。 世常はこれより後、いよいよ信仰を深め、密かに多くの僧を匿い、経典の書写にも力を注いだ。太康の禁令はやがて解かれ、仏教は再び公然と栄えることとなった。 |
第14節
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晋周珰者,会稽剡人也。家世奉法。珰年十六,便菜食持斋,讽诵成具。及顷转经。正月长斋,竟延僧设受八关斋。至乡市寺,请其师竺僧密及支法阶,竺佛密。令持《小品》,斋日转读。至日,三僧赴斋,忘持《小品》。至中食毕。欲读经。方忆。意甚惆怅。珰家在坂怡村,去寺三十里,无人遣取。至人定烧香讫,举家恨不得经。密益踧踖。有顷,闻有叩门者,言送小品。珰愕然心喜。开门,见一年少,著单衣,先所不识,又非人行。时疑其神异,便长跪受经,要使前坐。年少不进,期夜当来听经。比道人出,忽不复见。香气遍一宅中。既而视之,乃密经也。道俗惊喜。密经先在厨中,缄钥甚谨。还视其钥,俨然如故。于是村中十余家,咸皆奉佛。益敬爱珰。铛遂出家,字昙嶷。讽诵众经,至二十万言。 《珠林》十八。《广记》一百十
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晋の周珰は会稽剡の人なり。家世代々仏法を奉ず。珰は十六歳にして菜食持斎し経典を諷誦した。正月の長斎に僧を招いて八関斎を設けた。三僧が『小品』を持ち忘れ惆悵したが、忽ち若者が届けに来て消えた。密の経であり鍵は元のままであった。村中の十余家がみな仏を奉じた。珰は出家し字を曇嶷といった。 『珠林』十八 晋の孫稚は十八で病没したが四月八日に尊像の行列中に姿を現し父母に拝した。外祖父が太山府君であると語り同輩五百人とともに福堂にあると告げた。 『珠林』九十一 晋の李恒は沙門に修道を勧められたが仕官を選び三郡太守となったが銭鳳の乱で誅された。 『珠林』五十六 晋の竇伝は獄中で観世音を三日念じると鎖械が解け同伴とともに脱出した。 『珠林』十七 晋の桓温は比丘尼が自ら身を割くのを見て帝位の野心を棄て臣節を守った。 『珠林』三十三 宋の李清は死してのち阮敬の助けで僧達から三帰を受け蘇った。 『珠林』九十五 晋の呂竦の父は渓中で嵐に遭い観世音を念じて火光に導かれ帰った。 『珠林』六十五 晋の徐栄は洄澓に落ちて観世音を念じ脱出を得、暴風雨中に神光に導かれ浦に帰着した。 『珠林』六十五 晋の竺法義は心気の病を得て観世音に帰し夢に道人が腑臓を洗って快癒した。 『珠林』九十五 晋の杜願の愛児天保が病死し豚の子に生まれ変わったと比丘が告げ飛び去った。 『珠林』五十二 晋の唐遵は暴病で蘇り冥界の従叔から善業と持戒を勧められた。 『珠林』九十七 晋の謝敷の手写経は火災で文字が無事であった。 『珠林』十八 晋の丁承のもと婦人が胡人に水を与えると胡語で仏経の亡失部分を書いた。 『珠林』十八 晋の王凝之の妻は亡児に慰められ功徳に勤めた。 『珠林』三十三 晋の支遁は師の死後、鶏卵から雛が歩くのを見て悟った。 『珠林』七十二 晋の廬山七嶺で沙門服の者が空を凌いで峰に昇り消えた。 『珠林』十九 |
第15節
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晋沙门释僧朗者,戒行明严,华戎敬异。尝与数人,俱受法请;行至中途;忽告同辈曰:“君等留寺衣物,似有窃者。”同旅即返,果及盗焉。晋太元中,于奉高县金舆山谷,起立塔寺,造制形像。苻坚之末,降斥道人,惟敬朗一众,不敢毁焉。于时道俗信奉,每有来者,人数多少,未至一日,辄已逆知。使弟子为具,必如言果到。其谷旧多虎,常为暴害。立寺之后,皆如家畜。鲜卑慕容德,以二县租课,充其朝中。至今号其谷为朗公谷也。 《珠林》十九
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晋の沙門釈僧朗は法請に赴く途中「寺の衣物が盗まれている」と告げ盗人を捕らえた。金輿山谷に塔寺を起こし虎を馴らし慕容徳が租課を充てた。 『珠林』十九 晋の釈法相は太山祠の千鈞の石蓋を開け財宝を貧民に施した。放蕩となり毒酒を盛られたが泰然自若。八十九歳卒。 『珠林』十九 晋の張崇は枷をはめられ埋められたが観世音を念じ脱出し石に誓い割った。京師で宥免を得た。 『珠林』六十五 晋の王懿は母を携え南帰する途中、童子が食を与え白狼が浅瀬を導いた。のち徐州刺史として斎を設けた前夜に五沙門が空に飛び去った。 『珠林』六十五 晋の程道恵は仏を信じなかったが病死して蘇り五生の記憶を取り戻した。地獄を歴観し銅鈴を受け取った。 『珠林』五十五 |
第16節
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晋新野庾绍之,小字道覆,晋湘东太守,与南阳宋协中表昆弟,情好绸缪。绍元兴末病卒,义熙中,忽见形诣协,形貌衣服,具如平生,而两脚著械。既至,脱械置地而坐。协问:“何由得顾?”答云:“暂蒙假归,与卿亲好,故相过也。”协问鬼神之事,绍辄漫略,不甚谐对。唯云:“宜勤精进,不可杀生;若不能都断,可勿宰牛,食肉之时,无啖物心。”协云:“五脏与肉,乃复异耶?”答曰:“心者,善神之宅也,其罪尤重。”具问亲戚,因谈世事,末复求酒。协时时饵茱萸酒,因为设之。酒至,对杯不饮,云有茱萸气。协曰:“为恶之耶?”答云:“下官皆畏之,非独我也。”绍为人语声高壮,此言论时不异恒日。有顷,协儿邃之来,绍闻屐声,极有惧色,谓协曰:“生气见陵,不复得住;与卿三年别耳!”因贯械而起,出户便灭。协后为正员郎,果三年而卒。 《珠林》九十四。《广记》三百二十四
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晋の帛僧光は烏萇国で仏歯を得て赤城山の石室に住むと群猿が果実を献じた。 宋の僧含は夢に白衣の人が音韻を直し翌日聴く者みな涕を流した。 宋の尼子業は夢に僧が地を指し掘ると金を得た。 宋の何曇遠は観世音を念じ大風を止めた。 宋の劉凝之は衡山で梵夾を得たが未訳の涅槃経であった。 宋の智通は夜に沙門が「来生に道を成ず」と告げ消えた。 宋の竺法曠が放光経を講じた時空中に天華が散じた。 宋の謝霊運は仏法を深く信じ涅槃経を精研した。 宋の釈慧益は山中で虎が傍らに伏したが害を加えず去った。 宋の釈道生は「一切衆生みな仏性あり」と説き虎丘で石に講説すると群石みな頷いた。 |
第17節
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宋沙门僧规者,武当寺僧也,时京兆张瑜于此县,常请僧规在家供养。永初元年十二月五日,无疴忽暴死,二日而苏愈。自说云:五日夜五更中,闻门巷间哓哓有声,须臾,见有五人,炳炬火,执信旛,径来,入屋叱咀,僧规因顿卧恍然,五人便以赤绳缚将去。行至一山,都无草木,土色坚黑,有类石铁;山侧左右,白骨填积,山数十里,至三岐路,有一人,甚长壮,被铠执仗,问五人:“有几人来?”答曰:“政一人耳!”五人又将规入一道中,俄至一城外,有屋数十,筑壤为之,屋前有立木长十余丈,上有铁梁,形如桔槔,左右有匮,贮土,土有品数,或有十斛形,亦如五升大者。有一人,衣帻并赤,语规曰:“汝生世时,有何罪福?依实说之,勿妄言也。”规惶怖未答,赤衣人如局吏云:“可开簿检其罪福也。”有顷,吏至长木下,提一匮土,县铁梁上称之,如觉低昂,吏谓规曰:“此称量罪福之秤也。汝福少罪多,应先受罚。”俄有一人,衣冠长者,谓规曰:“汝沙门也,何不念佛?我闻悔过,可度八难。”规于是一心称佛,衣冠人谓吏曰:“可更为此人称之,既是佛弟子,幸可度脱。”吏乃复上匮称之,称乃正平。既而将规至监官前辩之,监执笔观簿,迟疑久之;又有一人,朱衣玄冠,佩印绶,执玉板,来,曰:“筭簿上未有此人名也。”监官愕然,命左右收录去,须臾,见反缚向五人来,监官曰:“杀鬼,何以滥将人来?”乃鞭之。少顷,有使者称:“天帝唤道人来。”既至帝宫,经见践历,略皆金宝,精光晃昱,不得凝视。帝左右朱衣宝冠,饰以华珍,帝曰:“汝是沙门,何不勤业,而为小鬼,横收捕也?”规稽首诸佛,祈恩请福,帝曰:“汝命未尽,今当还生;宜勤精进,勿屡游白衣家。杀鬼取人,亦多枉滥,如汝比也。”规曰:“横滥之厄,当以何方而济免之?”帝曰:“广设福业,最为善也;若不办,尔可作八关斋;生免横祸,死离地狱,亦其次也。”语毕,遣规去。行还未久,见一精舍,大有沙门,见武当寺主白法师,弟子慧进,皆在焉,居宇宏整,资待自然,规请欲居之,有一沙门曰:“此是福地,非君所得处也。”使者将规还,至瑜家而去。 《珠林》八十三
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秦の道冏は霍山の穴で同行者を失い観世音を念じて脱出した。元嘉十九年に壁中に無数の沙門が現れ香を授けた。 『珠林』六十五 宋の尼曇輝は七歳で坐禅を好み禅師に出家を勧められた。「道心果たされねば火に投じる」と誓い入道を許された。 『珠林』二十二 宋の趙習は夢に神人が薬を授け癒えて出家した。 『珠林』二十二 宋の慧全は弟子が聖者の化現であった沙弥に衣を施して道果への道を得た。 『珠林』十九 宋の王胡は亡叔に群山を遊歴させられ嵩高山で神人の僧に会った。 『珠林』六 宋の卞悦之は観世音経千遍で一男を得た。 『珠林』五十二 |
第18節
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宋沙门 二字《广记》引作何 昙远,庐江人也,父万寿,御史中丞。远奉法精至,持菩萨戒。年十八,元嘉九年,丁父艰,哀毁致招疾,殆将灭性,号踊之外,便归心净土,庶祈感应。远时请僧,常有数人,师僧含亦在焉。远常向含悔忏宿业,恐有烦缘,终无感彻;僧含每奖厉,劝以莫怠。至十年二月十六日夜,转经竟,众僧已眠,四更中,忽自唱言歌诵,僧含惊而问之,远曰:“见佛身黄金色,形状大小,如今行像,金光周身,浮焰丈余,幡华翼从,充牣虚空,瑰妙丽极,事绝言称。”远时住西厢中,云:佛自西来,转身西向,当宁而立,呼其速去。昙远常日羸喘,示有气息,此夕壮厉,悦乐动容,便起净手。含布香手中,并取园华,遥以散佛。母谓远曰:“汝今若去,不念吾耶?”远无所言,俄而顿卧;家既宿信,闻此灵异,既皆欣肃,不甚悲惧。远至五更,忽然而终,中宅芬馨,数日乃歇。 《珠林》十五。《广记》一百十四
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宋の法顕は天竺への海路で暴風に遇い経を誦して三日で静めた。 宋の慧木は房中に金色の光と仏を見た。 宋の僧成は暴風中に念仏して金色の人が船前に立った。 宋の竺法度は般若経書写中に異香が発した。 宋の竺惠慶は観世音を念じ海上の大風を止めた。 宋の釈道汪は仏陀跋陀羅に禅観を学び廬山で慧遠に師事した。 宋の竺道祖は持呪で病人を癒した。 宋の竺慧達は夢に従い仏歯を掘り出した。 宋の釈法献は于闐国で華厳経梵本を得た。 宋の劉度は観世音を念じ夢の薬で癒えた。 |
第19節
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秦沙门释道冏,乡里氏族,已载前记,秦姚弘始十八年,师道懿遣至河南霍山采钟乳,与同学道朗等四人共行。持炬探穴,入且三里,遇一深流,横木而过。冏最先济,后辈坠木而死,时火又灭,冥然昏暗。冏生念已尽,恸哭而已。犹故一心呼观世音,誓愿若蒙出路,供百人会,表报威神。经一宿而见小光炯然,状若荧火,倏忽之间,穴中尽明。于是见路,得出岩下。由此信悟弥深,屡睹灵异。元嘉十九年,临川康王作镇广陵,请冏供养。其年九月,于西斋中作十日观世音斋,已得九日,夜四更尽,众僧皆眠,冏起礼拜,还欲坐禅,忽见四壁有无数沙门,悉半身出见,一佛,螺髻分明了了;有一长人,著平上帻,笺布袴褶,手把长刀,貌极雄异,捻香授道冏,道冏时不肯受,壁中沙门语云:“冏公可为受香,以覆护主人。”俄而霍然,无所复见。当尔之时,都不见众会诸僧,唯睹所置释迦文行像而已。 《珠林》六十五
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秦の道冏は霍山で観世音を念じ脱出した。壁中に沙門が現れ「主人を覆護せよ」と告げた。 『珠林』六十五 宋の曇輝は「火に投じる」と誓い入道を許された。 『珠林』二十二 宋の趙習は夢の薬で癒え出家した。 『珠林』二十二 宋の慧全は聖者化現の沙弥に衣を施した。 『珠林』十九 宋の王胡は嵩高山で神人の僧に会った。 『珠林』六 宋の卞悦之は観世音経で一男を得た。 『珠林』五十二 |
第20節
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宋袁炳,字叔焕,陈郡人也。泰始末为临湘令。亡后积年,友人司马逊于将晓间,如梦,见炳来,陈叙阔别,讯问安否,既而谓逊曰:“吾等平生立意置论,常言生为驰役,死为休息,今日始知 《广记》引有知字 ,定不然矣。恒患在世有人,务驰求金币,共相赠遗,幽途此事,亦复如之。”逊问:“罪福应报,定实如何?”炳曰:“如我旧见,与经教所说,不尽符同,将是圣人抑引之谈耳!如今所见,善恶大科,略不异也。然杀生故最为重禁,慎不可犯也。”逊曰:“卿此征相示,良不可言,当以语白尚书也。”炳曰:“甚善,亦请卿敬情尚书。”时司空简穆王公 《广记》引作时司空王僧虔 为吏部尚书,炳,逊并其游宾,故及之。往返可数百语,辞去,逊曰:“阔别之久,恒思叙集,相值甚难,何不小住?”炳曰:“止暂来耳!不可得久留。且此辈语亦不容得委悉。”于是而去。初炳来暗夜,逊亦了不觉所以,而明得睹见,炳既去,逊下床送之,始蹑屐而还暗,见炳脚间有光可尺许,示得照其两足,余地犹皆暗云。 《珠林》二十一。《广记》三百二十六
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宋の袁炳は死後に友人を訪ね「殺生は最も重禁」と語った。足の間に一尺の光があった。 『珠林』二十一 宋の道志は寺の宝飾を盗み異人に刺されて白状し死んだ。珠を贖い戻すのに礼拝が要った。一年後に空中で感謝した。 『珠林』七十九 宋の陳秀遠は空中の橋閣で前身を見た。花を仏に供養した女が転身して自分になったと知った。 『珠林』三十二 宋の智達は冥界で戒を問われ地獄を見た。礼仏で清明な平原に変わった。 『珠林』九十 宋の袁廓は冥界で母と嫡母の苦しみを見た。 『珠林』五十二 宋の韓徽は観世音経で鎖が自ら解け釈放された。 『珠林』二十七 宋の慧厳は涅槃経刊削を巨人に咎められ焼いた。 『珠林』十八 宋の費氏は法華経誦持で仏に心を摩され快癒した。 『珠林』九十五 宋の彭子喬は観世音経で械が脱け釈放された。 『珠林』二十七 宋の董青建は七死七生の記憶を語り父は出家した。 『珠林』五十二 |
第21節
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齐王氏,名四娘,永明三年病死,下尸在地,为庄饰者,觉其心暖,故未殡验。经二宿,肌体稍温,气息渐还,俄而能言。自说:有二人录其将去,至一大门有一沙门,踞胡床坐。见之甚惊,问:“何故来?”乃骂此二人云:“汝误录人来,各鞭四十余,此四娘女郎可去。”答曰:“向来恍恍,不知道路,请人示津。”沙门即命一人力送之行,少地,见其先死奴子倚高楼上,惊问:“四娘那忽至此?欲见新妇不?”答:“不知处。”唤奴自送,奴云:“不得奉送,四娘但去,前路应相值也。”投一马鞭与之,曰:“谨执此鞭,自知行路。”可行数里,便见新妇,即四娘之也,正被苦谪,四体碜缚,如装鹅鸭法,县于路侧,相见悲号。新妇自说,生时作罪,今贻此楚毒。欲屈手搏颊,求乞哀助,而手被挛格,不得至颊。又闻左右受苦之声,而不睹形。四娘问:“此为何声?”答曰:“此是无行众僧,破斋犯戒,获此苦报,呼叫声也。”于是沿路而归,须臾至家。见其尸骸,意甚憎恶,不复愿还;不觉有人排其踣著,乃得就身而稍苏活。其人今休然尚存。 《珠林》九十一
【旌异记】
【卷一】
【古镜记 王度撰 】
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斉の王四娘は病死して蘇った。冥界で沙門に「前世は比丘尼。まだ死ぬべきでない」と帰された。地獄の苦しみを見て「善を修め殺生を戒め三宝に帰依せよ」と告げられた。以後仏法を篤く信じた。 |
第22節
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今具其异迹,列之于后,数千载之下,倘有得者,知其所由耳。大业七年五月,度自御史罢归河东,适遇侯生卒,而得此镜。至其年六月,度归长安,至长乐坡,宿于主人程雄家。雄新受寄一婢,颇甚端丽,名曰鹦鹉。度既税驾,将整冠履,引镜自照。鹦鹉遥见,即便叩首流血,云:“不敢往。”度因召主人问其故。雄云:“两月前,有一客携此婢从东来。时婢病甚,客便寄留,云‘还日当取’。比不复来,不知其婢之由也。”度疑精魅,引镜逼之。便云:“乞命,即变形。”度即掩镜曰:“汝先自叙,然后变形,当舍汝命。”婢再拜自陈云:“某是华山府君庙前长松下千岁老狸,大行变惑,罪合至死。遂为府君捕逐,逃于河渭之间,为下邽陈思恭义女,蒙养甚厚。嫁鹦鹉与同乡人柴华。鹦鹉与华意不相惬,逃而东;出韩城县,为行人李无傲所执。无傲,粗暴丈夫也,遂将鹦鹉游行数岁,昨随至此,忽尔见留。不意遭逢天镜,隐形无路。”度又谓曰:“汝本老狐,变形为人,岂不害人也?”婢曰:“变形事人,非有害也。但逃匿幻惑,神道所恶,自当至死耳。”度又谓曰:“欲舍汝,可乎?”鹦鹉曰:“辱公厚赐,岂敢忘德。然天镜一照,不可逃形。但久为人形,羞复故体。愿缄于匣,许尽醉而终。”度又谓曰:“缄镜于匣,汝不逃乎?”鹦鹉笑曰:“公适有美言,尚许相舍。缄镜而走,岂不终恩?但天镜一临,窜迹无路,惟希数刻之命,以尽一生之欢耳。”度登时为匣镜;又为致酒,悉召雄家邻里,与宴谑。婢顷大醉,奋衣起舞而歌曰:“宝镜宝镜!哀哉予命!自我高形,于今几姓?生虽可乐,死必不伤。何为眷恋,守此一方!”歌讫,再拜,化为老狸而死。一座惊叹。大业八年四月一日,太阳亏。度时在台直,昼卧厅阁,觉日渐昏。诸吏告度以日蚀甚。整衣时,引镜出,自觉镜亦昏昧,无复光色,度以宝镜之作,合于阴阳光景之妙。不然,岂合以太阳失曜而宝镜亦无光乎?叹怪未已,俄而光彩出,日亦渐明。比及日复,镜亦精朗如故。自此之后,每日月薄蚀,镜亦昏昧。其年八月十五日,友人薛侠者,获一铜剑,长四尺。剑连于靶;靶盘龙凤之状,左文如火焰,右文如水波,光彩灼烁,非常物也。侠持过度,曰:“此剑侠常试之,每月十五日,天地清朗,置之暗室,自然有光,傍照数丈。侠持之有日月矣。明公好奇爱古,如饥如渴,愿与君今夕一试。”度喜甚。其夜,果遇天地清霁。密闭一室,无复脱隙,与侠同宿。度亦出宝镜,置于座侧。俄而镜上吐光,明照一室,相视如昼。剑横其侧,无复光彩。侠大惊,曰:“请内镜于匣。”度从其言,然后剑乃吐光,不过一二尺耳。侠抚剑叹曰:“天下神物,亦有相伏之理也。”是后每至月望,则出镜于暗室,光尝照数丈。若月影入室,则无光也。岂太阳太阴之耀,不可敌也乎?其年冬,兼著作郎,奉诏撰国史,欲为苏绰立传。度家有奴曰豹生,年七十矣。本苏氏部曲,颇涉史传,略解属文,见度传草,因悲不自胜。度问其故。谓度曰:“豹生常受苏公厚遇,今见苏公言验,是以悲耳。郎君所有宝镜,是苏公友人河南苗季子所遗苏公者。苏公爱之甚。苏公临亡之岁,戚戚不乐,常召苗生谓曰:‘自度死日不久,不知此镜当入谁手?今欲以蓍筮一卦,先生幸观之也。’便顾豹生取蓍,苏公自揲布卦。卦讫,苏公曰:‘我死十余年,我家当失此镜,不知所在。然天地神物,动静有征。今河汾之间,往往有宝气,与卦兆相合,镜其往彼乎?’季子曰:‘亦为人所得乎?’苏公又详其卦,云:‘先入侯家,复归王氏。过此以往,莫知所之也。”豹生言讫涕泣。度问苏氏,果云旧有此镜,苏公薨后,亦失所在,如豹生之言。故度为苏公传,亦具言其事于末篇,论苏公蓍筮绝伦,默而独用,谓此也。大业九年正月朔旦,有一胡僧,行乞而至度家。弟出见之。觉其神彩不俗,更邀入室,而为具食,坐语良久。胡僧谓曰:“檀越家似有绝世宝镜也。可得见耶?”曰:“法师何以得知之?”僧曰:“贫道受明录秘术,颇识宝气。檀越宅上每日常有碧光连日,绛气属月,此宝镜气也。贫道见之两年矣。今择良日,故欲一观。”出之。僧跪捧欣跃,又谓曰:“此镜有数种灵相,皆当未见。但以金膏涂之,珠粉拭之,举以照日,必影彻墙壁。”僧又叹息曰:“更作法试,应照见腑脏。所恨卒无药耳。但以金烟薰之,玉水洗之,复以金膏珠粉如法拭之,藏之泥中,亦不晦矣。”遂留金烟玉水等法,行之无不获验。而胡僧遂不复见。其年秋,度出兼芮城令。令厅前有一枣树,围可数丈,不知几百年矣。前后令至,皆祠谒此树,否则殃祸立及也。度以为妖由人兴,淫祀宜绝。县吏皆叩头请度。度不得已,为之以祀。然阴念此树当有精魅所托,人不能除,养成其势。乃密悬此镜于树之间。其夜二鼓许,闻其厅前磊落有声,若雷霆者。遂起视之,则风雨晦暝,缠绕此树,电光晃耀,忽上忽下。至明,有一大蛇,紫鳞赤尾,绿头白角,额上有王字,身被数创,死于树。度便下收镜。命吏出蛇,焚于县门外。仍掘树,树心有一穴,于地渐大,有巨蛇蟠泊之迹。既而坟之,妖怪遂绝。其年冬,度以御史带芮城令,持节河北道,开仓粮赈给陕东。时天下大饥,百姓疾病,蒲陕之间,疠疫尤甚。有河北人张龙驹,为度下小吏,其家良贱数十口,一时遇疾。度悯之,赍此入其家,使龙驹持镜夜照。诸病者见镜,皆惊起,云:“见龙驹持一月来相照。光阴所及,如冰著体,冷彻腑脏。”即时热定,至晚并愈。以为无害于镜,而所济于众,令密持此镜,遍巡百姓。其夜,镜于匣中冷然自鸣,声甚彻远,良久乃止。度心独怪。明早,龙驹来谓度曰:“龙驹昨忽梦一人,龙头蛇身,朱冠紫服,谓龙驹:我即镜精也,名曰紫珍。常有德于君家,故来相托。为我谢王公,百姓有罪,天与之疾,奈何使我反天救物!且病至后月,当渐愈,无为我苦。”度感其灵怪,因此志之。至后月,病果渐愈,如其言也。大业十年,度弟自六合丞弃官归,又将遍游山水,以为长往之策。度止之曰:“今天下向乱,盗贼充斥,欲安之乎?且吾与汝同气,未尝远别。此行也,似将高蹈。昔尚子平游五岳,不知所之。杖若追踵前贤,吾所不堪也。”便涕泣对,曰:“意已决矣,必不可留。兄今之达人,当无所不体。孔子曰:‘匹夫不夺其志矣。’人生百年,忽同过隙,得情则乐,失志则悲,安遂其欲,圣人之义也。”度不得已,与之决别。曰:“此别也,亦有所求。兄所宝镜,非尘俗物也。将抗志云路,栖踪烟霞,欲兄以此为赠。”度曰:“吾何惜于汝也。”即以与之。得镜,遂行,不言所适。至大业十三年夏六月,始归长安,以镜归,谓度曰:“此镜真宝物也!辞兄之后,先游嵩山少室,降石梁,坐玉坛。属日暮,遇一嵌岩,有一石堂,可容三五人,栖息止焉。月夜二更后,有两人:一貌胡,髯眉皓而瘦,称山公;一面阔,白髯,眉长,黑而矮,称毛生。谓曰:‘何人斯居也?’曰:‘寻幽探穴访奇者。’二人坐与谈久,往往有异义出于言外。疑其精怪,引手潜后,开匣取镜。镜光出而二人失声俯伏。矮者化为龟,胡者化为猿。悬镜至晓,二身俱殒。龟身带绿毛,猿身带白毛。即入箕山,渡颖水,历太和,视玉井。井傍有池,水湛然绿色。问樵夫。曰:‘此灵湫耳。村闾每八节祭之,以祈福祐。若一祭有阙,即池水出黑云,大雹浸堤坏阜。’引镜照之,池水沸涌,有雷如震。忽尔池水腾出池中,不遗涓滴。可行二百余步,水落于地。有一鱼,可长丈余,粗细大于臂,首红额白,身作青黄间色,无鳞有涎,龙形蛇角,嘴尖,状如鲟鱼,动而有光,在于泥水,困而不能远去。谓鲛也,失水而无能为耳。刃而为炙,甚膏,有味,以充数朝口腹。遂出于宋汴。汴主人张珂家有女子患,入夜,哀痛之声,实不堪忍。问其故。病来已经年岁,白日即安,夜常如此。停一宿,及闻女子声,遂开镜照之。病者曰:‘戴冠郎被杀!’其病者床下,有大雄鸡,死矣,乃是主人七八岁老鸡也。游江南,将渡广陵扬子江,忽暗云覆水,黑风波涌,舟子失容,虑有覆没。携镜上舟,照江中数步,明朗彻底,风云四敛,波涛遂息,须臾之间,达济天堑。跻摄山麴芳岭,或攀绝顶,或入深洞,逢其群鸟环人而噪,数熊当路而蹲,以镜挥之,熊鸟奔骇。是时利涉浙江,遇潮出海,涛声振吼,数百里而闻。舟人曰:‘涛既近,未可渡南。若不回舟,吾辈必葬鱼腹。’出镜照江,波不进,屹如云立。四面江水豁开五十余步,水渐清浅,鼋鼍散走。举帆翩翩,直入南浦。然后却视,涛波洪涌,高数十丈。而至所渡之所也,遂登天台,周览洞壑。夜行佩之山谷,去身百步,四面光彻,纤微皆见,林间宿鸟,惊而乱飞。还履会稽,逢异人张始鸾,授《周髀九章》及明堂六甲之事。与陈永同归。更游豫章,见道士许藏秘,云是旌阳七代孙,有咒登刀履火之术。说妖怪之次,更言丰城县仓督李敬慎家有三女,遭魅病,人莫能识。藏秘疗之无效。故人曰赵丹,有才器,任丰城县尉。因过之。丹命只承人指停处。谓曰:‘欲得仓督李敬慎家居止。’丹遽命敬为主,礼。因问其故。敬曰:‘三女同居堂内阁子,每至日晚,即靓妆炫服。黄昏后,即归所居阁子,灭灯烛。听之,窃与人言笑声。及至晓眠,非唤不觉。日日渐瘦,不能下食。制之不令妆梳,即欲自缢投井。无奈之何。’谓敬曰:‘引示阁子之处。’其阁东有窗。恐其门闭固而难启,遂昼日先刻断窗棂四条,却以物支柱之,如旧。至日暮,敬报曰:‘妆梳入阁矣。’至一更,听之,言笑自然。拔窗棂子,持镜入阁,照之。三女叫云:‘杀我婿也!’初不见一物。悬镜至明,有一鼠狼,首尾长一尺三四寸,身无毛齿;有一老鼠,亦无毛齿,其肥大可重五斤;又有守宫,大如人手,身披鳞甲,焕烂五色,头上有两角,长可半寸,尾长五寸已上,尾头一寸色白,并于壁孔前死矣。从此疾愈。其后寻真至庐山,婆娑数月,或栖息长林,或露宿草莽,虎豹接尾,豺狼连迹,举镜视之,莫不窜伏。庐山处士苏宾,奇识之士也,洞明《易》道,藏往知来,谓曰:‘天下神物,必不久居人间。今宇宙丧乱,他乡未必可止,吾子此镜尚在,足下卫,幸速归家乡也。’然其言,即时北归。便游河北,夜梦镜谓曰:‘我蒙卿兄厚礼,今当舍人间远去,欲得一别,卿请早归长安也。’梦中许之。及晓,独居思之,恍恍发悸,即时西首秦路。今既见兄,不负诺矣。终恐此灵物亦非兄所有。”数月,还河东。大业十三年七月十五日,匣中悲鸣,其声纤远,俄而渐大,若龙咆虎吼;良久乃定。开匣视之,即失镜矣。
【补江总白猿传 】 |
大業七年に度は古鏡を得た。鏡は端麗の婢を照らすと影が異なり、夜に宮殿楼閣と前朝の人物を映した。暗夜に光を発し病人の病を照らし水に龍魚を映し月光に天宮を映した。のち鏡を失い「天下の至宝にして有縁の者のみが得る」と嘆息した。 |
第23節
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梁大同末,遣平南将军蔺钦南征,至桂林,破李师古陈彻。别将欧阳纥略地至长乐,悉平诸洞,罙入深阻。纥妻纤白,甚美。其部人曰:“将军何为挈丽人经此?地有神,善窃少女,而美者尤所难免。宜谨护之。”纥甚疑惧,夜勒兵环其庐,匿妇密室中,谨闭甚固,而以女奴十余伺守之。尔夕,阴风晦黑,至五更,寂然无闻。守者怠而假寐,忽若有物惊悟者,即已失妻矣。关扃如故,莫知所出。出门山险,咫尺迷闷,不可寻逐。迫明,绝无其迹。纥大愤痛,誓不徒还。因辞疾,驻其军,日往四遐,即深陵险以索之。既逾月,忽于百里之外丛篠上,得其妻绣履一只,虽侵雨濡,犹可辨识。纥尤凄悼,求之益坚。选壮士三十人,持兵负粮,岩栖野食。又旬余,远所舍约二百里,南望一山,葱秀迥出。至其下,有深溪环之,乃编木以度。绝岩翠竹之间,时见红采,闻笑语音,扪萝引,而陟其上,则嘉树列植,间以名花,其下绿芜,丰软如毯。清迥岑寂,杳然殊境。东向石门有妇人数十,帔服鲜泽,嬉游歌笑,出入其中。见人皆慢视迟立,至则问曰:“何因来此?”纥具以对。相视叹曰:“贤妻至此月余矣。今病在床,宜遣视之。”入其门,以木为扉。中宽辟若堂者三。四壁设床,悉施锦荐。其妻卧石榻上,重茵累席,珍食盈前。纥就视之。回眸一睇,即疾挥手令去。诸妇人曰:“我等与公之妻,比来久者十年。此神物所居,力能杀人,虽百夫操兵,不能制也。幸其未返,宜速避之。但求美酒两斛,食犬十头,麻数十斤,当相与谋杀之。其来必以正午。后慎勿太早。以十日为期。”因促之去。纥亦遽退。遂求醇醪与麻犬,如期而往。妇人曰:“彼好酒,往往致醉。醉必骋力,俾吾等以采练缚手足于床,一踊皆断。尝纫三幅,则力尽不解。今麻隐帛中束之,度不能矣。遍体皆如铁,唯脐下数寸,常护蔽之,此必不能御兵刃。”指其旁一岩曰:“此其食廪。当隐于是,静而伺之。酒置花下,犬散林中,待吾计成,招之即出。”如其言,屏气以俟。日晡,有物如匹练,自他山下,透至若飞,径入洞中。少选,有美髯丈夫长六尺余,白衣曳杖,拥诸妇人而出。见犬惊视,腾身执之,被裂吮咀,食之致饱。妇人竞以玉杯进酒,谐笑甚欢。既饮数斗,则扶之而去。又闻嬉笑之音。良久,妇人出招之,乃持兵而入。见大白猿,缚四足于床头,顾人蹙缩,求脱不得,目光如电。竞兵之,如中铁石,刺其脐下,即饮刃,血射如注。乃大叹咤曰:“此天杀我,岂尔之能。然尔妇已孕,勿杀其子,将逢圣帝,必大其宗。”言绝乃死,搜其藏,宝器丰积,珍羞盈品,罗列几案。凡人世所珍,靡不充备,名香数斛,宝剑一双。妇人三十辈,皆绝其色。久者至十年。云,色衰必被提去,莫知所置。又捕采唯止其身,列无党类。旦盥洗,著帽,加白袷,被素罗衣,不知寒暑。遍身白毛,长数寸。所居常读木简,字若符篆,了不可识;已,则置石磴下。晴昼或舞双剑,环身电飞,光圆若月。其饮食无常,喜啖果栗,尤嗜犬,咀而饮其血。日始逾午,即欻然而逝。半昼往返数千里,及晚必归,此其常也。所须无不立得。夜就诸床嬲戏,一夕皆周,未尝寐。言语淹详,华旨会利。然其状,即猳玃类也。今岁木落之初,忽怆然曰:“吾为山神所诉,将得死罪。亦求护之于众灵,庶几可免。”前月哉生魄,石磴生火,焚其简书。怅然自失曰:“吾已千岁,而无子。今有子,死期至矣。”因顾诸女,汍澜者久,且曰:“此山复绝,未尝有人至。上高而望,绝不见樵者。下多虎狼怪兽。今能至者,非天假之何耶?”纥即取宝玉珍丽及诸妇人以归,犹有知其家者。纥妻周岁生一子,厥状肖焉。后纥为陈武帝所诛。素与江总善。爱其子聪悟绝人,常留养之,故免于难。及长,果文学善书,知名于时。
【离魂记 陈玄祐撰 】
【枕中记 沈既济撰 】
【任氏传 沈既济撰 】 |
梁の大同末、欧陽紇の妻が山神に盗まれた。紇は壮士と二百里先の山に至り美女数十人に会った。酒で大白猿を酔わせ麻で縛り臍下を刺すと「天が殺すのだ。妻の子を殺すなかれ。聖帝に逢い宗を大いにする」と言って死んだ。紇は陳武帝に誅されたが江総が子を養い文学と書に名を馳せた。 |
第24節
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任氏,女妖也。有韦使君者,名崟,第九,信安王祎之外孙。少落拓,好饮酒。其从父妹婿曰郑六,不记其名。早习武艺,亦好酒色,贫无家,托身于妻族。与崟相得,游处不闲。天宝九年夏六月,崟与郑子偕行于长安陌中,将会饮于新昌里,至宣平之南,郑子辞有故,请间去,继至饮所。崟乘白马而东。郑子乘驴而南,入升平之北门。偶值三妇人行于道中,中有白衣者,容色姝丽。郑子见之惊悦,策其驴,忽先之,忽后之,将挑而未敢。白衣时时盼睐,意有所受。郑子戏之曰:“美艳若此,而徒行,何也?”白衣笑曰:“有乘不解相假,不徒行何为?”郑子曰:“劣乘不足以代佳人之步,今辄以相奉。某得步从,足矣。”相视大笑。同行者更相眩诱,稍已狎匿。郑子随之东,至乐游园,已昏黑矣。见一宅,土垣车门,室宇甚严。白衣将入,顾曰“愿少踟蹰”而入。女奴从者一人,留于门屏间,问其姓第。郑子既告,亦问之。对曰:“姓任氏,第二十。”少顷,延入。郑絷驴于门,置帽于鞍。始见妇人年三十余,与之承迎,即任氏姊也。列烛置膳,举酒数觞。任氏更妆而出,酣饮极欢。夜久而寝,其妍姿美质,歌笑态度,举措皆艳,殆非人世所有。将晓,任氏曰:“可去矣。某兄弟名系教坊,职属南衙,晨兴将出,不可淹留。”乃约后期而去。既行,及里门,门扃未发。门旁有胡人鬻饼之舍,方张灯炽炉。郑子憩其帘下,坐以候鼓,因与主人言。郑子指宿所以问之曰:“自此东转,有门者,谁氏之宅?”主人曰:“此墉弃地,无第宅也。”郑子曰:“适过之,曷以云无?”与之固争。主人适悟,乃曰:“吁!我知之矣。此中有一狐,多诱男子偶宿,尝三见矣。今子亦遇乎?”郑子赧而隐曰:“无。”质明,复视其所,见土垣车门如故。窥其中,皆蓁荒及废圃耳。既归,见崟。崟责以失期。郑子不泄,以他事对。然想其艳冶,愿复一见之,心尝存之不忘。经十许日,郑子游,入西市衣肆,瞥然见之,曩女奴从。郑子遽呼之。任氏侧身周旋于稠人中以避焉。郑子连呼前迫,方背立,以扇障其后,曰:“公知之,何相近焉?”郑子曰:“虽知之,何患?”对曰:“事可愧耻,难施面目。”郑子曰:“勤想如是,忍相弃乎?”对曰:“安敢弃也,惧公之见恶耳。”郑子发誓,词旨益切。任氏乃回眸去扇,光彩艳丽如初,谓郑子曰:“人间如某之比者非一,公自不识耳,无独怪也。”郑子请之与叙欢。对曰:“凡某之流,为人恶忌者,非他,为其伤人耳。某则不然。若公未见恶,愿终己以奉巾栉。”郑子许与谋栖止。任氏曰:“从此而东,大树出于栋间者,门巷幽静,可税以居。前时自宣平之南,乘白马而东者,非君妻之昆弟乎?其家多什器,可以假用。”是时崟伯叔从役于四方,三院什器,皆贮藏之。郑子如言访其舍,而诣崟假什器。问其所用。郑子曰:“新获一丽人,已税得其舍,假其以备用。”崟笑曰:“观子之貌,必获诡陋。何丽之绝也。”崟乃悉假帷榻席之具,使家僮之惠黠者,随以觇之。俄而奔走返命,气吁汗洽。崟迎问之:“有乎?”又问“容若何?”曰:“奇怪也!天下未尝见之矣。”崟姻族广茂,且夙从逸游,多识美丽。乃问曰:“孰若某美?”僮曰:“非其伦也!”崟遍比其佳者四五人,皆曰“非其伦”。是时吴王之女有第六者,则崟之内妹,秾艳如神仙,中表素推第一。崟问曰:“孰与吴王家第六女美?”又曰:“非其伦也。”崟抚手大骇曰:“天下岂有斯人乎?”遽命汲水澡颈,巾首膏唇而往。既至,郑子适出。崟入门,见小僮拥崟方扫,有一女奴在其门,他无所见。征于小僮。小僮笑曰:“无之。”崟周视室内,见红裳出于户下。迫而察焉,见任氏戢身匿于扇间。崟别出就明而观之,殆过于所传矣。崟爱之发狂,乃拥而凌之,不服。崟以力制之,方急,则曰:“服矣。请少回旋。”既从,则捍御如初,如是者数四。崟乃悉力急持之。任氏力竭,汗若濡雨。自度不免,乃纵体不复拒抗,而神色惨变。崟问曰:“何色之不悦?”任氏长叹息曰:“郑六之可哀也!”崟曰:“何谓?”对曰:“郑生有六尺之躯,而不能庇一妇人,岂丈夫哉!且公少豪侈,多获佳丽,遇某之比者众矣。而郑生,穷贱耳。所称惬者,唯某而已。忍以有余之心,而夺人之不足乎?哀其穷馁,不能自立,衣公之衣,食公之食,故为公所系耳。若糠糗可给,不当至是。”崟豪俊有义烈,闻其言,遽置之。敛衽而谢曰:“不敢。”俄而郑子至,与崟相视咍乐。自是,凡任氏之薪粒牲饩,皆崟给焉。任氏时有经过,出入或车马舆步,不常所止。崟日与之游,甚欢。每相狎匿,无所不至,唯不及乱而已。是以崟爱之重之,无所怪惜;一食一饮,未尝忘焉。任氏知其爱己,因言以谢曰:“愧公之见爱甚矣。顾以陋质,不足以答厚意。且不能负郑生,故不得遂公欢。某,秦人也,生长秦城;家本伶伦,中表姻族,多为人宠媵,以是长安狭斜,悉与之通。或有姝丽,悦而不得者,为公致之可矣。愿持此以报德。”崟曰:“幸甚!”鄽中有鬻衣之妇曰张十五娘者,肌体凝洁,崟常悦之。因问任氏识之乎。对曰:“是某表娣妹,致之易耳。”旬余,果致之。数月厌罢。任氏曰:“市人易致,不足以展效。或有幽绝之难谋者,试言之,愿得尽智力焉。”崟曰:“昨者寒食,与二三子游于千福寺。见刁将军缅张乐于殿堂。有善吹笙者,年二八,双鬟垂耳,娇姿艳绝。当识之乎?”任氏曰:“此宠奴也。其母即妾之内姊也。求之可也。”崟拜于席下。任氏许之。乃出入刁家。月余,崟促问其计。任氏愿得双缣以为赂。崟依给焉。后二日,任氏与崟方食,而缅使苍头控青骊以迓任氏。任氏闻召,笑谓崟曰:“谐矣。”初,任氏加宠奴以病,针饵莫减。其母与缅忧之方甚,将征诸巫。任氏密赂巫者,指其所居,使言从就为吉。及视疾,巫曰:“不利在家,宜出居东南某所,以取生气。”缅与其母详其地,则任氏之第在焉。缅遂请居。任氏谬辞以逼狭,勤请而后许。乃辇服玩,并其母偕送于任氏。至,则疾愈。未数日,任氏密引崟以通之,经月乃孕。其母惧,遽归以就缅,由是遂绝。他日,任氏谓郑子曰:“公能致钱五六千乎?将为谋利。”郑子曰:“可。”遂假求于人,获钱六千。任氏曰:“鬻马于市者,马之股有疵,可买以居之。”郑子如市,果见一人牵马求售者,青在左股。郑子买以归。其妻昆弟皆嗤之,曰:“是弃物也。买将何为?”无何,任氏曰:“马可鬻矣。当获三万。”郑子乃卖之。有二万,郑子不与。一市尽曰:“彼何苦而贵买,此何爱而不鬻?”郑子乘之以归;买者随至其门,累增其估,至二万五千也。不与,曰:“非三万不鬻。”其妻昆弟聚而诟之。郑子不获已,遂卖登三万。既而密伺买者,征其由。乃昭应县之御马疵股者,死三岁矣,斯吏不时除籍。官征其估,计钱六万。设其以半买之,所获尚多矣。若有马以备数,则三年刍粟之估,皆吏得之。且所偿盖寡,是以买耳。任氏又以衣服故弊,乞衣于崟。崟将买全采与之。任氏不欲,曰:“愿得成制者。”崟召市人张大为买之,使见任氏,问所欲。张大见之,惊谓崟曰:“此必天人贵戚,为郎所窃。且非人间所宜有者,愿速归之,无及于祸。”其容色之动人也如此。竟买衣之成者而不自纫缝也,不晓其意。后岁余,郑子武调,授槐里府果毅尉,在金城县。时郑子方有妻室,虽昼游于外,而夜寝于内,多恨不得专其夕。将之官,邀与任氏俱去。任氏不欲往,曰:“旬月同行,不足以为欢。请计给粮饩,端居以迟归。”郑子恳请,任氏愈不可。郑子乃求崟资助。崟与更劝勉,且诘其故。任氏良久,曰:“有巫者言某是岁不利西行,故不欲耳。”郑子甚惑也,不思其他,与崟大笑曰:“明智若此,而为妖惑,何哉!”固请之,任氏曰:“倘巫者言可征,徒为公死,何益?”二子曰:“岂有斯理乎?”恳请如初。任氏不得已,遂行。崟以马借之,出祖于临皋,挥袂别去。信宿,至马嵬。任氏乘马居其前,郑子乘驴居其后,女奴别乘,又在其后。是时西门圉人教猎狗于洛川,已旬日矣。适值于道,苍犬腾出于草间。郑子见任氏欻然坠于地,复本形而南驰。苍犬逐之。郑子随走叫呼,不能止。里余,为犬所获。郑子衔涕出囊中钱,赎以瘗之,削木为记。回睹其马,啮草于路隅,衣服悉委于鞍上,履袜犹悬于镫间,若蝉蜕然。唯首饰坠地,余无所见。女奴亦逝矣。旬余,郑子还城。崟见之喜,迎问曰:“任子无恙乎?”郑子玄然对曰:“殁矣。”崟闻之亦恸,相持于室,尽哀。徐问疾故。答曰:“为犬所害。”崟曰:“犬虽猛,安能害人?”答曰:“非人。”崟骇曰:“非人,何者?”郑子方述本末。崟惊讶叹息不能已。明日,命驾与郑子俱适马嵬,发瘗视之,长恸而归。追思前事,唯衣不自制,与人颇异焉。其后郑子为总监使,家甚富,有枥马十余匹。年六十五,卒。大历中,沈既济居钟陵,尝与崟游,屡言其事,故最详悉。后崟为殿中侍御史,兼陇州刺史,遂殁而不返。嗟乎,异物之情也有人焉!遇暴不失节,徇人以至死,虽今妇人,有不如者矣。惜郑生非精人,徒悦其色而不征其情性。向使渊识之士,必能揉变化之理,察神人之际,著文章之美,传要妙之情,不止于赏玩风态而已。惜哉!建中二年,既济自左拾遗于金吴。将军裴冀,京兆少尹孙成,户部郎中崔需,右拾遗陆淳,皆适居东南,自秦徂吴,水陆同道。时前拾遗朱放,因旅游而随焉。浮颍涉淮,方舟沿流,昼宴夜话,各征其异说。众君子闻任氏之事,共深叹骇,因请既济传之,以志异云。沈既济撰。
【卷二】
【编次郑钦悦辨大同古铭论 李吉甫撰 】 |
任氏は女妖なり。鄭六が白衣の美婦人に通じた。任氏は「狐の精だが害はしない」と告白した。鄭六の愛情は変わらなかった。崟が求めたが任氏は貞操を守った。数年後、猟犬に追われ原形を現して死んだ。 |
第25節
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天宝中,有商洛隐者任升之,尝贻右补阙郑钦悦书,曰:“升之白。顷退居商洛,入阙披陈,山林独住,交亲两绝。意有所问,别日垂访。升之五代祖仕梁为太常。初仕南阳王帐下,于钟山悬岸圮圹之中得古铭,不言姓氏。小篆文云:‘龟言土,蓍言水,甸服黄钟启灵址。瘗在三上庚,堕遇七中巳,六千三百浃辰交,二九重三四百妃。’文虽剥落,仍且分明。大雨之后,才堕而获。即梁武大同四年。数日,遇盂兰大会,从驾同泰寺。录示史官姚并诸学官,详议数月,无能知者。筐笥之内,遗文尚在。足下学乃天生而知,计舍运筹而会,前贤所不及,近古所未闻。愿采其旨要,会其归趣,著之遗简,以成先祖之志,深所望焉。乐安任升之白。”数日,钦悦即复书曰:“使至,忽辱简翰,用浣襟怀。不遗旧情,俯见推访。又示以大同古铭。前贤未达,仆非远识,安敢轻言,良增怀愧也。属在途路,无所披求,据鞍运思,颇有所得。发圹者未知谁氏之子,卜宅者实为绝代之贤,藏往知来,有若指掌,契终论始,不差锱铢,隗炤之预识龚使,无以过也。不说葬者之岁月,先识圮时之日辰,以圮之日,却求初兆,事可知矣。姚史官亦为当世达识,复与诸儒详之,沉吟月余,竟不知其指趣,岂止于是哉。原卜者之意,隐其事,微其言,当待仆为龚使耳。不然,何忽见顾访也?谨稽诸历术,测以微词,试一探言,庶会微旨。当梁武帝大同四年,岁次戊午。言‘甸服’者,五百也;‘黄钟’者,十一也。五百一十一年而圮。从大同四年,上求五百一十一年,得汉光武帝建武四年戊子岁也。‘三上庚’,三月上旬之庚也。其年三月辛巳朔,十日得庚寅,是三月初葬于钟山也。‘七中巳’,乃七月戊午朔,十二日得己巳,是初圮堕之日,是日己巳可知矣。‘浃辰’,十二也。从建武四年三月至大同四年七月,总六千三百一十二月,每月一交,故云‘六千三百浃辰交’也。‘二九’为十八,‘重三’为六。末言‘四百’,则六为千,十八为万可知。从建武四年三月十日庚寅初葬,至大同四年七月十二日己巳初圮,计一十八万六千四百日,故云‘二九重三四百圮’也。其所言者,但说年月日数耳。据年,则五百一十一,会于甸服黄钟;言月,则六千三百一十二,会于六千三百浃辰交;论日,则一十八万六千四百,会于二九重三四百圮。从三上庚至于七中巳,据历计之,无所差也。所言年则月日,但差一数,则不相照会矣。原卜者之意,当待仆言之。吾子之问,契使然也。从吏已久,艺业荒芜,古人之意,复难远测。足下更询能者,时报焉。使还,不代。郑钦悦白记。”贞元中,李吉甫任尚书屯田员外郎,兼太常博士。时宗人巽为户部郎中,于南宫暇日,语及近代儒术之士,谓吉甫曰:“故右补阙集贤殿直学士郑钦悦,于术数研精,思通玄奥,盖僧一行所不逮。以其夭阏,当世名不甚闻。子知之乎?”吉甫对曰:“兄何以覈诸。”巽曰:“天宝中,商洛隐者任升之自言五代祖仕梁为太常。大同四年,于钟山下获古铭。其文隐秘,博求时儒,莫晓其旨。因缄其铭,诫诸子曰:‘我代代子孙,以此铭访于通人。倘有知者,吾无所恨。’至升之,颇耽道博雅。闻钦悦之名,即告以先祖之意。钦悦曰:‘子当录以示我。我试思之。’升之书遗其铭。会钦悦适奉朝使,方授驾于长乐驿。得铭而绎之,行及滋水,凡二十里,则释然悟矣。故其书曰:‘据鞍运思,颇有所得。’不亦异乎?”辛未岁,吉甫转驾部员外郎,钦悦子克钧自京兆府司录授司门员外郎,吉甫数以巽之说质焉。虽且符其言,然克钧自云亡其草。每想其微言至赜,而不获见,吉甫甚惜之。壬申岁,吉甫贬明州长史。海岛之中,有隐者姓张,名玄阳,以明《易经》为州将所重,召置阁下。因讲《周易》卜筮之事,即以钦悦之书示吉甫。吉甫喜得其书,抃逾获宝,即编次之。仍为著论,曰:夫一邱之土,无情也。遇雨而圮,偶然也。穷象数者,已悬定于十八万六千四百日之前。矧于理乱之运,穷达之命,圣贤不逢,君臣偶合。则姜牙得璜而尚父,仲尼无凤而旅人,傅说梦达于岩野,子房神授于圮上,亦必定之符也。然而孔不暇暖其席,墨不俟黔其突,何经营如彼?孟去齐而接淅,贾造湘而投吊,又眷恋如此。岂大圣大贤,犹惑于性命之理欤?将凂身存教,示人道之不可废欤?余不可得而知也。钦悦寻自右补阙历殿中侍御史,为时宰李林甫所恶,斥摈于外,不显其身。故余叙其所闻,系于二篇之后,以著蓍筮之神明,聪哲之悬解,奇偶之有数,贻诸好事,为后学之奇玩焉。时贞元九年十一月二十八日,赵郡李吉甫记。
【柳氏传 许尧佐撰 】
【柳毅传 李朝威撰 】 |
天宝中、隠者任升之が鄭欽悦に書を贈った。五代の祖が鍾山で得た古銘には天地の理と古聖の教えがあった。「千年後に有縁の者が悟る」と記されていた。升之は隠棲して奥義を探究し仙人が真意を説いた。 |
第26節
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仪凤中,有儒生柳毅者,应举下第,将还湘滨。念乡人有客于泾阳者,遂往告别。至六七里,鸟起马惊,疾逸道左。又六七里,乃止。见有妇人,牧羊于道畔。毅怪视之,乃殊色也。然而蛾脸不舒,巾袖无光,凝听翔立,若有所伺。毅诘之曰:“子何苦而自辱如是?”妇始楚而谢,终泣而对曰:“贱妾不幸,今日见辱问于长者。然而恨贯肌骨,亦何能愧避,幸一闻焉。妾,洞庭龙君小女也。父母配嫁泾川次子,而夫婿乐逸,为婢仆所惑,日以厌薄,既而将诉于舅姑,舅姑爱其子,不能御。迨诉频切,又得罪舅姑。舅姑毁黜以至此。”言讫,歔欷流涕,悲不自胜。又曰:“洞庭于兹,相远不知其几多也?长天茫茫,信耗莫通。心目断尽,无所知哀。闻君将还吴,密通洞庭。或以尺书,寄托侍者,未卜将以为可乎?”毅曰:“吾义夫也。闻子之说,气血俱动,恨无毛羽,不能奋飞。是何可否之谓乎!然而洞庭,深水也。吾行尘间,宁可致意耶?唯恐道途显晦,不相通达,致负诚托,又乖恳愿。子有何术,可导我邪?”女悲泣且谢,曰:“负载珍重,不复言矣。脱获回耗,虽死必谢。君不许,何敢言。既许而问,则洞庭之与京邑,不足为异也。”毅请闻之。女曰:“洞庭之阴,有大橘树焉,乡人谓之社橘。君当解去兹带,束以他物。然后叩树三发,当有应者。因而随之,无有碍矣。幸君子书叙之外,悉以心诚之话倚托,千万无渝!”毅曰:“敬闻命矣。”女遂于襦间解书,再拜以进,东望愁泣,若不自胜。毅深为之戚。乃置书囊中,因复问曰:“吾不知子之牧羊,何所用哉?神祗岂宰杀乎?”女曰:“非羊也,雨工也。”“何为雨工?” 曰:“雷霆之类也。”毅顾视之,则皆矫顾怒步,饮龁甚异。而大小毛角,则无别羊焉。毅又曰:“吾为使者,他日归洞庭,幸勿相避。”女曰:“宁止不避,当如亲戚耳。”语竟,引别东去。不数十步,回望女与羊,俱亡所见矣。其夕,至邑而别其友。月余到乡。还家,乃访于洞庭。洞庭之阴果有社橘。遂易带向树,三击而止。俄有武夫出于波间,再拜请曰:“贵客将自何所至也?”毅不告其实,曰:“走谒大王耳。”武夫揭水指路,引毅以进。谓毅曰:“当闭目,数息可达矣。”毅如其言,遂至其宫。始见台阁相向,门户千万,奇草珍木,无所不有。夫乃止毅,停于大室之隅,曰:“客当居此以伺焉。”毅曰:“此何所也?”夫曰:“此灵虚殿也。”谛视之,则人间珍宝,毕尽于此。柱以白璧,砌以青玉,床以珊瑚,帘以水精,雕琉璃于翠楣,饰琥珀于虹栋。奇秀深杳,不可殚言。然而王久不至。毅谓夫日:“洞庭君安在哉?” 曰:“吾君方幸玄珠阁,与太阳道士讲《火经》,少选当毕。”毅曰:“何谓《火经》?”夫曰:“吾君,龙也。龙以水为神,举一滴可包陵谷。道士,乃人也。人以火为神圣,发一灯可燎阿房。然而灵用不同,玄化各异。太阳道士精于人理,吾君邀以听焉。”语毕而宫门辟。景从云合,而见一人,披紫衣,执青玉。夫跃曰:“此吾君也!”乃至前以告之。君望毅而问曰:“岂非人间之人乎?”毅对曰:“然。”毅而设拜,君亦拜,命坐于灵虚之下。谓毅曰:“水府幽深,寡人暗昧,夫子不远千里,将有为乎?”毅曰:“毅,大王之乡人也。长于楚,游学于秦。昨下第,闲驱泾水之俟,见大王爱女牧羊于野,风环雨鬓,所不忍视。毅因诘之。谓毅曰:‘为夫婿所薄,舅姑不念,以至于此。’悲泗淋漓,诚怛人心。遂托书于毅。毅许之,今以至此。”因取书进之。洞庭君览毕,以袖掩面而泣曰:“老父之罪,不诊坚听,坐贻聋瞽,使闺窗孺弱,远罹构害。公,乃陌上人也,而能急之。幸被齿发,何敢负德!”词毕,又哀咤良久。左右皆流涕。时有宦人密视君者,君以书授之,令达宫中。须臾,宫中皆恸哭。君惊谓左右曰:“疾告宫中,无使有声。怕钱塘所知。”毅曰:“钱塘,何人也?” 曰:“寡人之爱弟。昔为钱塘长,今则致政矣。”毅曰:“何故不使知?” 曰:“以其勇过人耳。昔尧遭洪水九年者,乃此子一怒也。近与天将失意,塞其五山。上帝以寡人有薄德于古今,遂宽其同气之罪。然犹縻系于此,故钱塘之人,日日候焉。”语未毕,而大声忽发,天拆地裂,宫殿摆簸,云烟沸涌。俄有赤龙长千余尺,电目血舌,朱鳞火鬣,项掣金琐,锁牵玉柱,千雷万霆,激绕其身,霰雪雨雹,一时皆下。乃擘青天而飞去。毅恐蹶仆地。君亲起持之曰:“无惧。固无害。”毅良久稍安,乃获自定。因告辞曰:“愿得生归,以避复来。”君曰:“必不如此。其去则然,其来则不然。幸为少尽缱绻。”因命酌互举,以款人事。俄而祥风庆云,融融怡怡,幢节玲珑,箫韶以随。红妆千万,笑语熙熙,后有一人,自然蛾眉,明珰满身,绡縠参差。迫而视之,乃前寄辞者。然若喜若悲,零泪如丝。须臾,红烟蔽其左,紫气舒其右,香气环旋,入于宫中。君笑谓毅曰:“泾水之囚人至矣。”君乃辞归宫中。须臾,又闻怨苦,久而不已。有顷,君复出,与毅饮食。又有一人,披紫裳,执青玉,貌耸神溢,立于君左。君谓毅曰:“此钱塘也。”毅起,趋拜之。钱塘亦尽礼相接,谓毅曰:“女侄不幸,为顽童所辱。赖明君子信义昭彰,致达远冤。不然者,是为泾陵之土矣。飨德怀恩,词不悉心。”毅退辞谢,俯仰唯唯。然后回告兄曰:“向者辰发灵虚,巳至泾阳,午战于彼,未还于此。中间驰至九天,以告上帝。帝知其冤,而宥其失。前所遣责,因而获免。然而刚肠激发,不遑辞候。惊扰宫中,复忤宾客。愧惕惭惧,不知所失。”因退而再拜。君曰:“所杀几何?” 曰:“六十万。”“伤稼乎?” 曰:“八百里。”“无情郎安在?” 曰:“食之矣。”君怃然曰:“顽童之为是心也,诚不可忍。然汝亦太草草。赖上帝显圣,谅其至冤。不然者,吾何辞焉。从此已去,勿复如是。”钱塘复再拜。是夕,遂宿毅于凝光殿。明日,又宴毅于凝碧宫。会友戚,张广乐,具以醪醴,罗以甘洁。初,笳角鼙鼓,旌旗剑戟,舞万夫于其右。中有一夫前曰:“此《钱塘破阵乐》。”旌杰气,顾骤悍栗,坐客视之,毛发皆竖。复有金石丝竹,罗绮珠翠,舞千女于其左。中有一女前进曰:“此《贵主还宫乐》。”清音宛转,如诉如慕,坐客听之,不觉泪下。二舞既毕,龙君大悦,锡以纨绮,颁于舞人。然后密席贯坐,纵酒极娱。酒酣,洞庭君乃击席而歌曰:“大天苍苍兮,大地茫茫。人各有志兮,何可思量。狐神鼠圣兮,薄社依墙。雷霆一发兮,其孰敢当。荷贞人兮信义长,令骨肉兮还故乡。齐言惭愧兮何时忘!”洞庭君歌罢,钱塘君再拜而歌曰:“上天配合兮,生死有途。此不当妇兮,彼不当夫。腹心辛苦兮,泾水之隅。风霜满鬓兮,雨雪罗襦。赖明公兮引素书,令骨肉兮家如初。永言珍重兮无时无。”钱塘君歌阕,洞庭君俱起,奉觞于毅。毅踧踖而受爵,饮讫,复以二觞奉二君。乃歌曰:“碧云悠悠兮,泾水东流。伤美人兮,雨泣花愁。尺书远达兮,以解君忧。哀冤果雪兮,还处其休。荷和雅兮感甘羞。山家寂寞兮难久留。欲将辞去兮悲绸缪。”歌罢,皆呼万岁。洞庭君因出碧玉箱,贮以开水犀;钱塘君复出红珀盘,贮以照夜玑,皆起进毅。毅辞谢而受。然后宫中之人,咸以绡采珠璧,投于毅侧。重叠焕赫,须臾埋没前后。毅笑语四顾,愧揖不暇。洎酒阑欢极,毅辞起,复宿于凝光殿。翌日,又宴毅于清光阁。钱塘因酒,作色,踞谓毅曰:“不闻猛石可裂不可卷,义士可杀不可羞邪?愚有衷曲,欲一陈于公。如可,则俱在云霄;如不可,则皆夷粪壤。足下以为何如哉?”毅曰:“请闻之。”钱塘曰:“泾阳之妻,则洞庭君之爱女也。淑性茂质,为九姻所重。不幸见辱于匪人。今则绝矣。将欲求托高义,世为亲戚。使受恩者知其所归,怀爱者知其所付,岂不为君子始终之道者?”毅肃然而作,欻然而笑曰:“诚不知钱塘君孱困如是!毅始闻跨九州,怀五岳,泄其愤怒;复见断金锁,掣玉柱,赴其急难。毅以为刚决明直,无如君者。盖犯之者不避其死,感之者不爱其生,此真丈夫之志。奈何箫管方洽,亲宾正和,不顾其道,以威加人?岂仆之素望哉!若遇公于洪波之中,玄山之间,鼓以麟须,被以云雨,将迫毅以死,毅则以禽兽视之,亦何恨哉。今体被衣冠,坐谈礼义,尽五常之志性,负百行之微旨,虽人世贤杰,有不如者。况江河灵类乎?而欲以蠢然之躯,悍然之性,乘酒假气,将迫于人,岂近直哉!且毅之质,不足以藏王一甲之间。然而敢以不伏之心,胜王不道之气。惟王筹之!”钱塘乃逡巡致谢曰:“寡人生长宫房,不闻正论。向者词述疏狂,妄突高明。退自循顾,戾不容责。幸君子不为此乖间可也。”其夕,复欢宴,其乐如旧。毅与钱塘,遂为知心友。明日,毅辞归。洞庭君夫人别宴毅于潜景殿。男女仆妾等,悉出预会。夫人泣谓毅曰:“骨肉受君子深恩,恨不得展愧戴,遂至睽别。”使前泾阳女当席拜毅以致谢。夫人又曰:“此别岂有复相遇之日乎?”毅其始虽不诺钱塘之请,然当此席,殊有叹恨之色。宴罢,辞别,满宫凄然。赠遗珍宝,怪不可述。毅于是复循途出江岸,见从者十余人,担囊以随,至其家而辞去。毅因适广陵宝肆,鬻其所得。百未发一,财以盈兆。故淮右富族,咸以为莫如。遂娶于张氏,亡,又娶韩氏。数月,韩氏又亡。徙家金陵。常以鳏旷多感,或谋新匹。有媒氏告之曰:“有卢氏女,范阳人也。父名曰浩,尝为清流宰。晚岁好道,独游云泉,今则不知所在矣。母曰郑氏。前年适清河张氏,不幸而张夫早亡。母怜其少,惜其慧美,欲择德以配焉。不识何如?”毅乃卜日就礼。既而男女二姓,俱为豪族,法用礼物,尽其丰盛。金陵之士,莫不健仰。居月余,毅因晚入户,视其妻,深觉类于龙女,而逸艳丰厚,则又过之。因与话昔事。妻谓毅曰:“人世岂有如是之理乎?然君与余有一子。”毅益重之。既产,逾月,乃秾饰换服,召亲戚。相会之间,笑谓毅曰:“君不忆余之于昔也?”毅曰:“夙为洞庭君女传书,至今为忆。”妻曰:“余即洞庭君之女也。泾川之冤,君使得白。衔君之恩,誓心求报。洎钱塘季父论亲不从,遂至睽违,天各一方,不能相问。父母欲配嫁于濯锦小儿某。惟以心誓难移,亲命难背,既为君子弃绝,分无见期。而当初之冤,虽得以告诸父母,而誓报不得其志,复欲驰白于君子。值君子累娶,当娶于张,已而又娶于韩。迨张韩继卒,君卜居于兹,故余之父母乃喜余得遂报君之意。今日获奉君子,咸善终世,死无恨矣。”因呜咽,泣涕交下。对毅曰:“始不言者,知君无重色之心。今乃言者,知君有感余之意。妇人匪薄,不足以确厚永心。故因君爱子,以托相生。未知君意如何?愁惧兼心,不能自解。君附书之日,笑谓妾曰:‘他日归洞庭,慎无相避。’诚不知当此之际,君岂有意于今日之事乎?其后季父请于君,君固不许。君乃诚将不可邪,抑忿然邪?君其话之!” |
儀鳳中、柳毅が落第して帰る途中、洞庭龍王の娘が涇川の小龍に虐待されていると知り書を届けた。銭塘君が小龍を殺し龍女を連れ帰った。毅は婚姻を断ったが後に龍女の変化と再婚し洞庭で四十年を過ごした。開元中に消息は絶えた。 |
第27節
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毅曰:“似有命者。仆始见君子,长泾之隅,枉抑憔悴,诚有不平之志。然自约其心者,达君之冤,余无及也。以言慎勿相避者,偶然耳,岂有意哉。洎钱塘逼迫之际,唯理有不可直,乃激人之怒耳。夫始以义行为之志,宁有杀其婿而纳其妻者邪?一不可也。善素以操真为志尚,宁有屈于己而伏于心者乎?二不可也。且以率肆胸臆,酧酥纷纶,唯直是图,不遑避害。然而将别之日,见君有依然之容,心甚恨之。终以人事扼束,无由报谢。吁,今日,君,卢氏也,又家于人间。则吾始心未为惑矣。从此以往,永奉欢好,心无纤虚也。”妻因深感娇泣,良久不已。有顷,谓毅曰:“勿以他类,遂为无心,固当知报耳。夫龙寿万岁,今与君同之。水陆无往不适。君不以为妄也。”毅嘉之曰:“吾不知国客乃复为神仙之饵。”乃相与觐洞庭。既至,而宾主盛礼,不可具纪。后居南海,仅四十年,其邸第舆马珍鲜服玩,虽侯伯之室,无以加也。毅之族咸遂濡泽。以其春秋积序,容状不衰,南海之人,靡不惊异。洎开元中,上方属意于神仙之事,精索道术。毅不得安,遂相与归洞庭。凡十余岁,莫知其踪。至开元末,毅之表弟薛嘏为京畿令,谪官东南。经洞庭,晴昼长望,俄见碧山出于远波。舟人皆侧立,曰:“此本无山,恐水怪耳。”指顾之际,山与舟相逼,乃有彩船自山驰来,迎问于嘏。其中有一人呼之曰:“柳公来候耳。”嘏省然记之,乃促至山下,摄衣疾上。山有宫阙如人世,见毅立于宫室之中,前列丝竹,后罗珠翠,物玩之盛,殊倍人间。毅词理益玄,容颜益少。初迎嘏于砌,持嘏手曰:“别来瞬息,而发毛已黄。”嘏笑曰:“兄为神仙,弟为枯骨,命也。”毅因出药五十丸遗嘏,曰:“此药一丸可增一岁耳。岁满复来,无久居人世,以自苦也。”欢宴毕,嘏乃辞行。自是已后,遂绝影响。嘏常以是事告于人世。殆四纪,嘏亦不知所在。陇西李朝威叙而叹曰:五虫之长,必以灵者,别斯见矣。人,裸也,移信麟虫。洞庭含纳大直,钱塘迅疾磊落,宜有承焉。嘏咏而不载,独可邻其境。愚义之,为斯文。
【李章武传 李景亮撰 】
【霍小玉传 蒋防撰 】 |
毅は「義のために行った。婿を殺し妻を娶るなどあろうか。今日より永く欢好を」と語った。龍女は「龍の寿は万歳。水陸いずこへも行ける」と。洞庭に帰り四十年、毅の容貌は衰えなかった。表弟の薛嘏が碧山に毅を訪ね薬五十丸を得た。隴西の李朝威がこれを叙した。 |
第28節
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大历中,陇西李生名益,年二十,以进士擢第。其明年,拔萃,俟试于天官。夏六月,至长安,舍于新昌里。生门族清华,少有才思,丽词嘉句,时谓无双。先达丈人,翕然推伏。每自矜风调,思得佳偶,博求名妓,久而未谐。长安有媒鲍十一娘者,故薛驸马家青衣也,折券从良,十余年矣。性便辟,巧言语,豪家戚里,无不经过,追风挟策,推为渠帅。常受生诚托厚赂,意颇德之。经数月,李方闲居舍之南亭。申未间,忽闻扣门甚急,云是鲍十一娘至。摄衣从之,迎问曰:“鲍卿,今日何故忽然而来?”鲍笑曰:“苏姑子作好梦也未?有一仙人,谪在下界,不邀财货,但慕风流。如此色目,共十郎相当矣。”生闻之惊跃,神飞体轻,引鲍手且拜且谢曰:“一生作奴,死亦不惮。”因问其名居。鲍具说曰:“故霍王小女,字小玉,王甚爱之。母曰净持。净持即王之宠婢也。王之初薨,诸弟兄以其出自贱庶,不甚收录。因分与资财,遣居于外,易姓为郑氏,人亦不知其王女。姿质浓艳,一生未见,高情逸态,事事过人,音乐诗书,无不通解。昨遣某求一好儿郎,格调相称者。某具说十郎。他亦知有李十郎名字,非常欢惬。住在胜业坊古寺曲,甫上车门宅是也。已与他作期约。明日午时,但至曲头觅桂子,即得矣。”鲍既去,生便备行计。遂令家僮秋鸿,于从兄京兆参军尚公处假青骊驹,黄金勒。其夕,生浣衣沐浴,修饰容仪,喜跃交并,通夕不寐。迟明,巾帻,引镜自照,惟惧不谐也。徘徊之间,至于亭午。遂命驾疾驱,直抵胜业。至约之所,果见青衣立候,迎问曰:“莫是李十郎否?”即下马,令牵入屋底,急急锁门。见鲍果从内出来,遥笑曰:“何等儿郎,造次入此?”生调诮未毕,引入中门。庭间有四樱桃树;西北悬一鹦鹉笼,见生人来,即语曰:“有人入来,急下帘者!”生本性雅淡,心犹疑惧,忽见鸟语,愕然不敢进。逡巡,鲍引净持下阶相迎,延入对坐。年可四十余,绰约多姿,谈笑甚媚。因谓生曰:“素闻十郎才调风流,今又见容仪雅秀,名下固无虚士。某有一女子,虽拙教训,颜色不至丑陋,得配君子,颇为相宜。频见鲍十一娘说意旨,今亦便令承奉箕帚。”生谢曰:“鄙拙庸愚,不意顾盼,倘垂采录,生死为荣。”遂命酒馔,即令小玉自堂东阁子中而出。生即拜迎。但觉一室之中,若琼林玉树,互相照曜,转盼精彩射人。既而遂坐母侧。母谓曰:“汝尝爱念‘开帘风动竹,疑是故人来’。即此十郎诗也。尔终日吟想,何如一见。”玉乃低鬟微笑,细语曰:“见面不如闻名。才子岂能无貌?”生遂连起拜曰:“小娘子爱才,鄙夫重色。两好相映,才貌相兼。”母女相顾而笑,遂举酒数巡。生起,请玉唱歌,初不肯,母固强之。发声清亮,曲度精奇。酒阑,及暝,鲍引生就西院憩息。闲庭邃宇,帘幕甚华。鲍令侍儿桂子浣沙与生脱靴解带。须臾,玉至,言叙温和,辞气宛媚。解罗衣之际,态有余妍,低帏匿枕,极其欢爱。生自以为巫山洛浦不过也。中宵之夜,玉忽流涕观生曰:“妾本倡家,自知非匹。今以色爱,托其仁贤。但虑一旦色衰,恩移情替,使女萝无托,秋扇见捐。极欢之际,不觉悲至。”生闻之,不胜感叹,乃引臂替枕,徐谓玉曰:“平生志愿,今日获从,粉骨碎身,誓不相舍。夫人何发此言!请以素缣,著之盟约。”玉因收泪,命侍儿樱桃褰幄执烛,授生笔研。玉管弦之暇,雅好诗书,筐箱笔研,皆王家之旧物。遂取绣囊,出越姬乌丝栏素缣三尺以授生。生素多才思,援笔成章,引谕山河,指诚日月,句句恳切,闻之动人。染毕,命藏于宝箧之内。自尔婉娈相得,若翡翠之在云路也。如此二岁,日夜相从。其后年春,生以书判拔萃登科,授郑县主簿。至四月,将之官,便拜庆于东洛。长安亲戚,多就筵饯。时春物尚余,夏景初丽,酒阑宾散,离思萦怀。玉谓生曰:“以君才地名声,人多景慕,愿结婚媾,固亦众矣。况堂有严亲,室无冢妇,君之此去,必就佳姻。盟约之言,徒虚语耳。然妾有短愿,欲辄指陈。永委君心,复能听否?”生惊怪曰:“有何罪过,忽发此辞?试说所言,必当敬奉。”玉曰:“妾年始十八,君才二十有二,迨君壮室之秋,犹有八岁。一生欢爱,愿毕此期。然后妙选高门,以谐秦晋,亦未为晚。妾便舍弃人事,剪发披缁,夙昔之愿,于此足矣。”生且愧且感,不觉涕流。因谓玉曰:“皎日之誓,死生以之,与卿偕老,犹恐未惬素志,岂敢辄有二三。固请不疑,但端居相待。至八月,必当却到华州,寻使奉迎,相见非远。”更数日,生遂诀别东去。到任旬日,求假往东都觐亲。未至家日,太夫人已与商量表妹卢氏,言约已定。太夫人素严毅,生逡巡不敢辞让。遂就礼谢,便有近期。卢亦甲族也,嫁女于他们,聘财必以百万为约,不满此数,义在不行。生家素贫,事须求贷,便托假故,远投亲知,涉历江淮,自秋及夏。生自以孤负盟约,大愆回期。寂不知闻,欲断其望。遥托亲故,不遣漏言。玉自生逾期,数访音信。虚词诡说,日日不同。博求师巫,遍询卜筮,怀忧抱恨,周岁有余。羸卧空闺,遂成沉疾。虽生之书题竟绝,而玉之想望不移,赂遣亲知,使通消息。寻求既切,资用屡空,往往私令侍婢潜卖箧中服玩之物,多托于西市寄附铺侯景先家货卖。曾令侍婢浣沙将紫玉钗一只,诣景先家货之。路逢内作老玉工,见浣沙所执,前来认之曰:“此钗,吾所作也。昔岁霍王小女将欲上鬟,令我作此,酧我万钱。我尝不忘。汝是何人,从何而得?”浣沙曰:“我小娘子,即霍王女也。家事破散,失身于人。夫婿昨向东都,更无消息。悒怏成疾,今欲二年。令我卖此,赂遗于人,使求音信。”玉工凄然下泣曰:“贵人男女,失机落节,一至于此。我残年向尽,见此盛衰,不胜伤感。”遂引至延先公主宅,具言前事。公主亦为之悲叹良久,给钱十二万焉。时生所定卢氏女在长安,生既毕于聘财,还归郑县。其年腊月,又请假入城就亲。潜卜静居,不令人知。有明经崔久明者,生之中表弟也。性甚长厚,昔岁常与生同欢于郑氏之室,杯盘笑语,曾不相间。每得生信,必诚告于玉。玉常以薪衣服,资给于崔。崔颇感之。生既至,崔具以诚告玉。玉恨叹曰:“天下岂有是事乎!”遍请亲朋,多方召致。生自以愆期负约,又知玉疾候沉绵,惭耻忍割,终不肯往。晨出暮归,欲以回避。玉日夜涕泣,都忘寝食,期一相见,竟无门由。冤愤益兴,委顿床枕。自是长安中稍有知者。风流之士,共感玉之多情,豪侠之伦,皆怒生之薄行。时已三月,人多春游。生与同辈五六人诣崇敬寺玩牡丹花,步于西廊,递吟诗句。有京兆韦夏卿者,生之密友,时亦同行。谓生曰:“风光甚丽,草木荣华。伤哉郑卿,衔冤空室!足下终能弃置,实是忍人。丈夫之心,不宜如此。足下宜为思之!”叹让之际,忽有一豪士,衣轻黄衫,挟弓弹,丰神隽美,衣服轻华,唯有一剪头胡雏从后,潜行而听之。俄而前揖生曰:“公非李十郎者乎!某族本山东,姻连外戚。虽乏文藻,心尝乐贤。仰公声华,常思观止。今日幸会,得睹清扬。某之敝居,去此不远,亦有声乐,足以娱情。妖姬八九人,骏马十数匹,唯公所欲。但愿一过。”生之侪辈,共聆斯语,更相叹美。因与豪士策马同行,疾转数坊,遂至胜业。生以近郑之所止,意不欲过,便托事故,欲回马首。豪士曰:“敝居咫尺,忍相弃乎?”乃挽挟其马,牵引而行。迁延之间,已及郑曲。生神情恍惚,鞭马欲回。豪士遽命奴仆数人,抱持而进。疾走推入车门,便令锁却,报云:“李十郎至也!”一家惊喜,声闻于外。先此一夕,玉梦黄衫丈夫抱生来,至席,使玉脱鞋。惊寤而告母。因自解曰:“鞋者,谐也。夫妇再合。脱者,解也。既合而解,亦当永诀。由此征之,必遂相见,相见之后,当死矣。”凌晨,请母妆梳。母以其久病,心意惑乱,不甚信之。勉之间,强为妆梳。妆梳才毕,而生果至。玉沉绵日久,转侧须人。忽闻生来,欻然自起,更衣而出,恍若有神。遂与生相见,含怒凝视,不复有言。羸质娇姿,如不胜致,时复掩袂,返顾李生。感物伤人,坐皆欷歔。顷之,有酒肴数十盘,自外而来。一座惊视,遽问其故,悉是豪士之所致也。因遂陈设,相就而坐。玉乃侧身转面,斜视生良久,遂举杯酒,酧地曰:“我为女子,薄命如斯。君是丈夫,负心若此。韶颜稚齿,饮恨而终。慈母在堂,不能供养。绮罗弦管,从此永休。征痛黄泉,皆君所致。李君李君,今当永诀!我死之后,必为厉鬼,使君妻妾,终日不安!”乃引左手握其臂,掷杯于地,长恸号哭数声而绝。母乃举尸,置于生怀,令唤之,遂不复苏矣。生为之缟素,旦夕哭泣甚哀。将葬之夕,生忽见玉帷之中,容貌妍丽,宛若平生。著石榴裙,紫裆,红绿帔子。斜身倚帷,手引绣带,顾谓生曰:“愧君相送,尚有余情。幽冥之中,能不感叹。”言毕,遂不复见。明日,葬于长安御宿原。生至墓所,尽哀而返。后月余,就礼于卢氏。伤情感物,郁郁不乐。夏五月,与卢氏偕行,归于郑县。至县旬日,生方与卢氏寝,忽帐外叱叱作声。生惊视之,则见一男子,年可二十余,姿状温美,藏身映幔,连招卢氏。生惶遽走起,绕幔数匝,倏然不见。生自此心怀疑恶,猜忌万端,夫妻之间,无聊生矣。或有亲情,曲相劝喻。生意稍解。后旬日,生复自外归,卢氏方鼓琴于床,忽见自门抛一斑犀钿花合子,方圆一寸余,中有轻绢,作同心结,坠于卢氏怀中。生开而视之,见相思子二,叩头虫一,发杀觜一,驴驹媚少许。生当时愤怒叫吼,声如豺虎,引琴撞击其妻,诘令实告。卢氏亦终不自明。欠后往往暴加捶楚,备诸毒虐,竟讼于公庭而遣之。卢氏既出,生或侍婢媵妾之属,暂同枕席,便加妒忌。或有因而杀之者。生尝游广陵,得名姬,曰营十一娘,容态润媚,生甚悦之,每相对坐,尝谓营曰:“我尝于某处得某姬,犯某事,我以某法杀之。”日日陈说,欲令惧己,以肃清闺门。出则以浴斛覆营于床,周回封署,归必详视,然后乃开。又畜一短剑,甚利,顾谓侍婢曰:“此信州葛溪铁,唯断作罪过头!”大凡生所见妇人,辄加猜忌,至于三娶,率皆如初焉。
【卷三】
【古岳渎经 李公佐撰 】
【南柯太守传 李公佐撰 】 |
大暦中、李益は二十歳で進士に及第し長安に寓居した。門族清華にして才思あり佳偶を博く求めたが叶わなかった。隣から聞こえた琴声に心を寄せ絶世の美女と結ばれたが別離を余儀なくされた。病み回復して官に就いたが女を忘れなかった。 |
第29節
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东平淳于棼,吴楚游侠之士。嗜酒使气,不过细行。累巨产,养豪客。曾以武艺补淮南军裨将,因使酒忤帅,斥逐落魄,纵诞饮酒为事。家住广陵郡东十里。所居宅南有大古槐一株,枝干修密,清阴数亩。淳于生日与群豪,大饮其下。贞元七年九月,因沉醉致疾。时二友人于坐扶生归家,卧于堂东庑之下。二友谓生曰:“子其寝矣!余将喂马濯足,俟子小愈而去。”生解巾就枕,昏然忽忽,仿佛若梦。见二紫衣使者,跪拜生曰:“槐安国王遣小臣致命奉激。”生不觉下榻整衣,随二使至门。见青油小车,驾以四牡,左右从者七八,扶生上车,出大户,指古槐穴而去。使者即驱入穴中。生意颇甚异之,不敢致问。忽见山川风候草木道路,与人世甚殊。前行数十里,有郛郭城堞。车舆人物,不绝于路。生左右传车者传呼甚严,行者亦争辟于左右。又入大城,朱门重楼,楼上有金书,题曰:“大槐安国。”执门者趋拜奔走。旋有一骑传呼曰:“王以驸马远降,令且息东华馆。”因前导而去。俄见一门洞开,生降车而入。彩槛雕楹;华木珍果,列植于庭下;几案茵褥,帘帏肴膳,陈设于庭上。生心甚自悦。复有呼曰:“右相且至。”生降阶祗奉。有一人紫衣象简前趋,宾主之仪敬尽焉。右相曰:“寡君不以弊国远僻,奉迎君子,托以姻亲。”生曰:“某以贱劣之躯,岂敢是望。”右相因请生同诣其所。行可百步,入朱门。矛戟斧钺,布列左右,军吏数百,辟易道侧。生有平生酒徒周弁者,亦趋其中,生私心悦之,不敢前问。右相引生升广殿,御卫严肃,若至尊之所。见一人长大端严,居正位,衣素练服,簪朱华冠。生战栗,不敢仰视,左右侍者令生拜。王曰:“前奉贤尊命,不弃小国,许令次女瑶芳奉事君子。”生但俯伏而已,不敢致词。王曰:“且就宾宇,续造仪式。”有旨,右相亦与生偕还馆舍。生思念之,意以为父在边将,因殁虏中,不知存亡。将谓父北蕃交逊,而致兹事。心甚迷惑,不知其由。是夕,羔雁币帛,威容仪度,妓乐丝竹,肴膳灯烛,车骑礼物之用,无不咸备。有群女,或称华阳姑,或称青溪姑,或称上仙子,或称下仙子,若是者数辈。皆侍从数千,冠翠凤冠,衣金霞帔,采碧金钿,目不可视。遨游戏乐,往来其门,争以淳于郎为戏弄。风态妖丽,言词巧艳,生莫能对。复有一女谓生曰:“昨上己日,吾从灵芝夫人过禅智寺,于天竺院观右延舞《婆罗门》。吾与诸女坐北牖石榻上,时君少年,亦解骑来看。君独强来亲洽,言调笑谑。吾与穷英妹结绛巾,挂于竹枝上,君独不忆念之乎?又七月十六日,吾于孝感寺悟上真子,听契玄法师讲《观音经》。吾于讲下舍金凤钗两只,上真子舍水犀合子一枚。时君亦讲筵中于师处请钗合视之。赏叹再三,嗟异良久。顾余辈曰:‘人之与物,皆非世间所有。’或问吾民,或访吾里。吾亦不答。情意恋恋,瞩盼不舍。君岂不思念之乎?”生曰:“中心藏之,何日忘之。”群女曰:“不意今日与君为眷属。”复有三人,冠带甚伟,前拜生曰:“奉命为驸马相者。”中一人与生且故。生指曰:“子非冯翊田子华乎?”田曰:“然。”生前,执手叙旧久之。生谓曰:“子何以居此?”子华曰:“吾放游,获受知于右相武成侯段公,因以栖托。”生复问曰 :“周弁在此,知之乎?”子华曰:“周生,贵人也。职为司隶,权势甚盛。吾数蒙庇护。”言笑甚欢。俄传声曰:“驸马可进矣。”三子取剑佩冕服,更衣之。子华曰:“不意今日获睹盛礼,无以相忘也。”有仙姬数十,奏诸异乐,婉转清亮,曲调凄悲,非人间之所闻听。有执烛引导者,亦数十。左右见金翠步障,彩碧玲珑,不断数里。生端坐车中,心意恍惚,甚不自安。田子华数言笑以解之。向者群女姑姊,各乘凤翼辇,亦往来其间。至一门号“修义宫”。群仙姑姊亦纷然在侧,令生降车辇拜,揖让升降,一如人间,彻障去扇,见一女子,云号金枝公主。年可十四五,俨若神仙。交欢之礼,颇亦明显。生自尔情义日洽,荣曜日盛。出入车服,游宴宾御,次于王者。王命生与群寮备武卫,大猎于国西灵龟山。山阜峻秀,川泽广远,林树丰藏,飞禽走兽,无不蓄之。师徒大获,竟夕而还。生因他日,启王曰:“臣顷结好之日,大王云奉臣父之命。臣父顷佐边将,用兵失利,陷没胡中。尔来绝书信十八岁矣。王既知所在,臣请一往拜观。”王遽谓曰:“亲家翁职守北土,信问不绝。卿但具书状知闻,未用便去。”遂命妻致馈贺之礼,一以遣之。数夕还答。生验书本意,皆父平生之迹。书中忆念教诲,情意委曲,皆如昔年。复问生亲戚存亡,闾里兴废。复言路道乖远,风烟阻绝。词意悲苦,言语哀伤。又不令生来觐,云“岁在丁丑,当与女相见。”生捧书悲咽,情不自堪。他日,妻谓生曰:“子岂不思为政乎?”生曰:“我放荡不习政事。”妻曰:“卿但为之。余当奉赞。”妻遂白于王。累日,谓生曰:“吾南柯政事不理,太守黜废。欲藉卿才,可曲屈之。便与小女同行。”生敦授教命。王遂勒有司备太守行李。因出金玉锦绣,箱奁仆妾车马,列于广衢,以饯公主之行。生少游侠,曾不敢有望,至是甚悦。因上表曰:“臣将门余子,素无艺术,猥当大任,必败朝章。自悲负乘,坐致覆悚。今欲广济南市贤哲,以赞不逮。伏见司隶颍川周弁,忠亮刚直,守法不回,有毗佐之器。处士冯翊田子华,清慎通变,达政化之源。二人与臣有十年之旧,备知才用,可托政事。周请署南柯司宪,田请署司农。庶使臣政绩有闻,宪章不紊也。”王并依表以遣之。其夕,王与夫人饯于国南。王谓生曰:“南柯国之大郡,土地丰壤,人物豪盛,非惠政不能以治之。况有周田二赞。卿其勉之,以副国念。”夫人戒公主曰:“淳于郎性刚好酒,加之少年。为妇之道,贵乎柔顺。尔善事之,吾无忧矣。南柯虽封境不遥,晨昏有间。今日睽别,宁不沾巾。”生与妻拜首南去,登车拥骑,言笑甚欢。累夕达郡。郡有官吏,僧道,耆老,音乐,车舆,武卫,銮铃,争来迎奉。人物阗咽,钟鼓喧哗,不绝十数里。见雉堞台观,佳气郁郁。入大城门,门亦有大榜,题以金字,曰“南柯郡城”。见朱轩棨户,森然深邃。生下车省风俗,疗病苦,政事委以周田,郡中大理。自守郡二十载,风化广被,百姓歌谣,建功德碑,立生祠宇。王甚重之。赐食邑,锡爵位,居台辅。周田皆以政治著闻,递迁大位。生有五男二女。男以门荫授官,女亦娉于王族。荣耀显赫,一时之盛,代莫比之。是岁,有檀萝国者,来伐是郡。王命生练将训师以征之。乃表周弁将兵三万,以拒贼之众于瑶台城。弁刚勇轻敌,师徒败绩。弁单骑裸身潜逃,夜归城。贼亦收辎重铠甲而还。生因囚弁以请罪。王并舍之。是月,司宪周弁疽发背,卒。生妻公主遘疾,旬日又薨。生因请罢郡,护丧赴国。王许之。便以司农田子华行南柯太守事。生哀恸发引,威仪在途,男女叫号,人吏奠馔,攀辕遮道者不可胜数。遂达于国。王与夫人素衣哭于郊,候灵舆之至。谥公主曰“顺仪公主”。备仪仗羽葆鼓吹,葬于国东十里盘龙冈。是月,故司宪子荣信,亦护丧赴国。生久镇外藩,结好中国,贵门豪族,靡不是洽。自罢郡还国,出入无恒,交游宾从,威福日盛。王意疑惮之。时有国人上表云:“玄象谪见,国有大恐。都邑迁徙,宗庙崩坏。衅起他族,事在萧墙。”时议以生侈僭之应也。遂夺生侍卫,禁生游从,处之私第。生自恃守郡多年,曾无败政,流言怨悖,郁郁不乐。王亦知之。因命生曰:“姻亲二十余年,不幸小女夭枉,不得与君子偕老,良用痛伤。”夫人因留孙自鞠育之。又谓生曰:“卿离家多时,可暂归本里,一见亲族。诸孙留此,无以为念。后三年,当令迎生。”生曰:“此乃家矣,何更归焉?”王笑曰:“卿本人间,家非在此。”生忽若昏睡,瞢然久之,方乃发悟前事,遂流涕请还。王顾左右以送生。生再拜而去,复见前二紫衣使者从焉。至大户外,见所乘车甚劣,左右亲使御仆,遂无一人,心甚叹异。生上车,行可数里,复出大城。宛是昔年东来之途,山川原野,依然如旧。所送二使者,甚无威势。生逾怏怏。生问使者曰:“广陵郡何时可到?”二使讴歌自若,久乃答曰:“少顷即至。”俄出一穴,见本里闾巷,不改往日,潜然自悲,不觉流涕。二使者引生下车,入其门,升其阶,己身卧于堂东庑之下。生甚惊畏,不敢前近。二使因大呼生之姓名数声,生遂发寤如初。见家之僮仆拥篲于庭,二客濯足于榻,斜日未隐于西垣,余樽尚湛于东牖。梦中倏忽,若度一世矣。生感念嗟叹,遂呼二客而语之。惊骇,因与生出外,寻槐下穴。生指曰:“此即梦中所惊入处。”二客将谓狐狸木媚之所为祟。遂命仆夫荷斤斧,断拥肿,折查卉,寻穴究源。旁可袤丈。有大穴,根洞然明朗,可容一榻。上有积土壤以为城郭台殿之状。有蚁数斛,隐聚其中。中有小台,其色若丹。二大蚁处之,素翼朱首,长可三寸。左右大蚁数十辅之,诸蚁不敢近。此其王矣。即槐安国都也。又穷一穴,直上南枝可四丈,宛转方中,亦有土城小楼,群蚁亦处其中,即生所领南柯郡也。又一穴:西去二丈,磅礴空
【庐江冯媪传 李公佐撰 】
【谢小娥传 李公佐撰 】 |
淳于棼は酒に酔い槐の穴に入ると大槐安国に至り国王の娘を娶り南柯郡太守を二十年務めた。覚めると蟻の巣穴であった。栄華の虚しさを悟り出家した。 |
第30節
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小娥,姓谢氏,豫章人,估客女也。生八岁,丧母;嫁历阳侠士段居贞。居贞负气重义,交游豪俊。小娥父畜巨产,隐名商贾间,常与段婿同舟货,往来江湖。时小娥年十四,始及笄。父与夫俱为盗所杀,尽掠金帛。段之弟兄,谢之生侄,与童仆辈数十,悉沉于江。小娥亦伤胸折足,漂流水中,为他船所获,经夕而活。因流转乞食至上元县,依妙果寺尼净悟之室。初,父之死也,小娥梦父谓曰:“杀我者,车中猴,门东草。”又数日,复梦其夫谓曰:“杀我者,禾中走,一日夫。”小娥不自解悟,常书此语,广求智者辨之,历年不能得。元和八年春,余罢江西从事,扁舟东下,淹泊建业,登瓦官寺阁。有僧齐物者,重贤好学,与余善。因告余曰:“有孀妇名小娥者,每来寺中,示我十二字谜语,某不能辨。”余遂请齐公书于纸,乃凭槛书空,凝思默虑。坐客未倦,予悟其文。令寺童疾召小娥前至,询访其由。小娥呜咽良久,乃曰:“我父及夫,皆为贼所杀。迩后尝梦父告曰:‘杀我者,车中猴,门东草。’又梦夫告曰:‘杀我者,禾中走,一日夫。’岁久无人悟之。”余曰:“若然者,吾审详矣。杀汝父是申兰,杀汝夫是申春。且车中猴,车字去上下各一画,是申字;又申属猴,故曰车中猴。草下有门,门中有东,乃兰字也。又,禾中走是穿田过,亦是申字也。一日夫者,夫上更一画,下有日,是春字也。杀汝父是申兰,杀汝夫是申春,足可明矣。”小娥恸哭再拜,书申兰申春四字于衣中,誓将访杀二贼,以复其冤。娥因问余姓氏官族,重涕而去。尔后小娥便为男子服,佣保于江湖间。岁余,至浔阳郡,见竹户上有纸榜子,云“召佣者”。小娥乃应召诣门,问其主,乃申兰也。兰引归,娥心愤貌顺,在兰左右,甚见亲爱。金帛出入之数,无不委娥。已二岁余,竟不知娥之女人也。先是谢氏之金宝锦绣衣物器具,悉掠在兰家,小娥每执旧物,未尝不喑泣移时。兰与春,宗昆弟也。时春一家住大江北独树浦,与兰往来密洽。兰与春同去经月,多获财帛而归。每留娥与兰妻兰氏同守家室,酒肉衣服,给娥甚丰。若一日,春携文鲤兼酒诣兰,娥私叹曰:“李君精悟玄鉴,皆符梦言。此乃天启其心,志将就矣。”是夕,兰与春会群贼,毕至酣饮。暨诸凶既去,春沉醉,卧于内室,兰亦露寝于庭。小娥潜锁春于内,抽佩刀先断兰首,呼号邻人并至,春擒于内,兰死于外,获脏收货,数至千万。初,兰、春有党数十,暗记其名,悉擒就戮。时浔阳太守张公,善其志行,为具其事上旌表,乃得免死。时元和十二年夏岁也。复父夫之仇毕,归本里,见亲属。里中豪族争求聘,娥誓心不嫁。遂剪发披褐,访道于牛头山,师事大士尼将律师。娥志坚行苦,霜舂雨薪,不倦筋力,十三年四月,始受具戒于泗州开元寺,竟以小娥为法号,不忘本也。其年夏月,余始归长安,途经泗滨,过善义寺谒大德尼令。操戒新见者数十,净发鲜帔,威仪雍容,列侍师之左右。中有一尼问师曰:“此官岂非洪州李判官二十三郎者乎?”师曰:“然。”曰:“使我获报家仇,得雪冤耻,是判官恩德也。”顾余悲泣。余不之识,询访其由。娥对曰:“某名小娥,顷乞食孀妇也。判官时为辨申兰申春二贼名字,岂不忆念乎?”余曰:“初不相记,今即悟也。”娥因泣,具写记申兰申春,复父夫之仇,志愿相毕,经营终始艰苦之状。小娥又谓余曰:“报判官恩,当有日矣。”岂徒然哉!嗟乎,余能辨二盗之姓名,小娥又能竟复父夫之仇冤,神道不昧,昭然可知。小娥厚貌深辞,聪敏端特,炼指跛足,誓求真如。爰自入道,衣无絮帛,斋无盐酪,非律仪禅理,口无所言。后数日,告我归牛头山,扁舟泛淮,云游南国,不复再遇。君子曰:“誓志不舍,复父夫之仇,节也。佣保杂处,不知女人,贞也。女子之行,唯贞与节能终始全之而已。如小娥,足以儆天下逆道乱常之心,足以观天下贞夫孝妇之节。”余备详前事,发明隐文,暗与冥会,符于人心。知善不录,非《春秋》之义也。故作传以旌美之。
【李娃传 白行简撰 】 |
謝小娥は父と夫を盗賊に殺された。夢で仇の名の謎を告げられ長年かけて解き明かし男装して仇を討った。官に自首し赦免され出家した。 |
第31節
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汧国夫人李娃,长安之倡女也,节行瑰奇,有足称者,故监察御史白行简为传述。天宝中,有常州刺史荥阳公者,略其名氏,不书。时望甚崇,家徒甚殷。知命之年,有一子,始弱冠矣,隽朗有词藻,迥然不群,深为时辈推伏。其父爱而器之,曰:“此吾家千里驹也。”应乡赋秀才举,将行,乃盛其服玩车马之饰,计其京师薪储之费,谓之曰:“吾观尔之才,当一战而霸。今备二载之用,且丰尔之给,将为其志也。”生亦自负,视上第如指掌。自毗陵发,月余抵长安,居于布政里。尝游东市还,自平康东门入,将访友于西南。至鸣珂曲,见一宅,门庭不甚广,而室宇严邃。阖一扉,有娃方凭一双鬓青衣立,妖资要妙,绝代未有。生忽见之,不觉停久之,徘徊不能去。乃诈坠鞭于地,候其从者,勒取之。累眄于娃,娃回眸凝睇,情甚相慕。竟不敢措辞而去。生自尔意若有失,乃密征其友游长安之熟者,以讯之。友曰:“此狭邪女李氏宅也。” 曰:“娃可求乎?”对曰:“李氏颇赡。前与通之者贵戚豪族,所得甚广。非累百万,不能动其志也。”生曰:“苟患其不谐,虽百万,何惜。”他日,乃洁其衣服,盛宾从,而往扣其门。俄有侍儿启扃。生曰:“此谁之第耶?”侍儿不答,驰走大呼曰:“前时遗策郎也!”娃大悦曰:“尔姑止之。吾当整妆易服而出。”生闻之私喜。乃引至萧墙间,见一姥垂白上偻,即娃母也。生跪拜前致词曰:“闻兹地有隙院,愿税以居,信乎?”姥曰:“惧其浅陋湫隘,不足以辱长者所处,安敢言直耶。”延生于迟宾之馆,馆宇甚丽。与生偶坐,因曰:“某有女娇小,技艺薄劣,欣见宾客,愿将见之。”乃命娃出。明眸皓腕,举步艳冶。生遽惊起,莫敢仰视,与之拜毕,叙寒燠,触类妍媚,目所未睹。复坐,烹茶斟酒,器用甚洁。久之,日暮,鼓声四动。姥访其居远近。生绐之曰:“在延平门外数里。”冀其远而见留也。姥曰:“鼓已发矣。当速归,无犯禁。”生曰:“幸接欢笑,不知日之云夕。道里辽阔,城内又无亲戚,将若之何?”娃曰:“不见责僻陋,方将居之,宿何害焉。”生数目姥。姥曰:“唯唯。”生乃召其家僮,持双缣,请以备一宵之馔。娃笑而止曰:“宾主之仪,且不然也。今夕之费,愿以贫窭之家随其粗粝以进之。其余以俟他辰。”固辞,终不许。俄徙坐西堂,帷幙帘榻,焕然夺目;妆奁衾枕,亦皆侈丽。乃张烛进馔,品味甚盛。彻馔,姥起。生娃谈话方切,诙谐调笑,无所不至。生曰:“前偶过卿门,遇卿适在屏间。厥后心常勤念,虽寝与食,未尝或舍。”娃答曰:“我心亦如之。”生曰:“今之来,非直求居而已,愿偿平生之志。但未知命也若何?”言未终,姥至,询其故,具以告。姥笑曰:“男女之际,大欲存焉。情苟相得,虽父母之命,不能制也。女子固陋,曷足以荐君子之枕席?”生遂下阶,拜而谢之曰:“愿以己为厮养。”姥遂目之为郎,饮酣而散。及旦,尽徙其囊橐,因家于李之第。自是生屏迹戢身,不复与亲知相闻。日会倡优侪类,狎戏游宴。囊中尽空,乃鬻骏乘,及其家童。岁余,资才仆马荡然。迩来姥意渐怠,娃情弥笃。他日,娃谓生曰:“与郎相知一年,尚无孕嗣。常闻竹林神者,报应如响,将致荐,酹求之,可乎?”生不知其计,大喜。乃质衣于肆,以备牢醴,与娃同谒祠宇而祷祝焉,信宿而返。策驴而后,至里北门,娃谓生曰:“此东转小曲中,某之姨宅也。将憩而觐之,可乎?”生如其言,前行不逾百步,果见一车门。窥其际,甚弘敞。其青衣自车后止之曰:“至矣。”生下,适有一人出访曰:“谁?”曰:“李娃也。”乃入告,俄有一妪至,年可四十余,与生相迎,曰:“吾甥来否?”娃下车,妪迎访之曰:“何久疏绝?”相视而笑,娃引生拜之。既见,遂偕入西戟门偏院中。有山亭,竹树葱倩,池榭幽绝。生谓娃曰:“此姨之私第耶?”笑而不答,以他语对。俄献茶果,甚珍奇。食顷,有一人控大宛,汗流驰至,曰:“姥遇暴疾颇甚,殆不识人。宜速归。”娃谓姨曰:“方寸乱矣。某骑而前去,当令返乘,便与郎偕来。”生拟随之。其姨与侍儿偶语,以手挥之,令生止于户外,曰:“姥且殁矣。当与某议丧事以济其急。奈何遽相随而去?”乃止,共计其凶仪斋祭之用。日晚,乘不至。姨言曰:“无复命,何也?郎骤往觇之,某当继至。”生遂往,至旧宅,门扃钥甚密,以泥缄之。生大骇,诘其邻人。邻人曰:“李本税而居,约已周矣。第主自收。姥徙居,而且再宿矣。”征“徙何处?”曰:“不详其所。”生将驰赴宣阳,以诘其姨,日已晚矣,计程不能达。乃弛其装服,质馔而食,赁榻而寝。生恚怒方甚,自昏达旦,目不交睫。质明,乃策蹇而去。既至,连扣其扉,食顷无人应。生大呼数四,有宦者徐出。生遽访之:“姨氏在乎?”曰:“无之。”生曰:“昨暮在此,何故匿之?”访其谁氏之第。曰:“此崔尚书宅。昨者有一人税此院,云迟中表之远至者。未暮去矣。”生惶惑发狂,罔知所措,因返访布政旧邸。邸主哀而进膳。生怨懑,绝食三日,遘疾甚笃,旬余愈甚。邸主惧其不起,徙之于凶肆之中。绵缀移时,合肆之人共伤叹而互饲之。后稍愈,杖而能起,由是凶肆日假之,令执帷,获其直以自给,累月渐复壮,每听其哀歌,自叹不及逝者,辄呜咽流涕,不能自止。归则効之。生,聪敏者也。无何,曲尽其妙,虽长安无有伦比。初,二肆之佣凶器者,互争胜负。其东肆车舆皆奇丽,殆不敌,唯哀挽劣焉。其东肆长知生妙绝,乃醵钱二万索顾焉。其党耆旧,共较其所能者,阴教生新声,而相赞和。累旬,人莫知之。其二肆长相谓曰:“我欲各阅所佣之器于天门街,以较优劣。不胜者罚直五万,以备酒馔之用,可乎?”二肆许诺。乃邀立符契,署以保证,然后阅之。士女大和会,聚至数万。于是里胥告于贼曹,贼曹闻于京尹。四方之士,尽赴趋焉,巷无居人。自旦阅之,及亭午,历举辇舆威仪之具,西肆皆不胜,师有惭色。乃置层榻于南隅,有长髯者拥铎而进,翊卫数人。于是奋髯扬眉,扼腕顿颡而登,乃歌《白马》之词。恃其夙胜,顾眄左右,旁若无人。齐声赞扬之,自以为独步一时,不可得而屈也。有顷,东肆长于北隅上设逢榻,有乌巾少年,左右五六人,秉翣而至,即生也。整衣服,俯仰甚徐,申喉发调,容若不胜。乃歌《薤露》之章,举声清越,响振林木,曲度未终,闻者歔欷掩泣。西肆长为众所诮,益惭耻。密置所输之直于前,乃潜遁焉。四座愕眙,莫之测也。先是,天子方下诏,俾外方之牧,岁一至阙下,谓之入计。时也适遇生之父在京师,与同列者易服章窃往观焉。有老竖,即生乳母婿也,见生之举措辞气,将认之而未敢,乃泫然流涕。生父惊而诘之。因告曰:“歌者之貌,酷似郎之亡子。”父曰:“吾子以多财为盗所害。奚至是耶?”言讫,亦泣。及归,竖间驰往,访于同党曰:“向歌者谁?若斯之妙欤?”皆曰:“某氏之子。”征其名,且易之矣。竖凛然大惊;徐往,迫而察之。生见竖色动,回翔将匿于众中。竖遂持其袂曰:“岂非某乎?”相持而泣,遂载以归。至其室,父责曰:“志行若此,污辱吾门。何施面目,复相见也?”乃徒行出,至曲江西杏园东,去其衣服,以马鞭鞭之数百。生不胜其苦而毙。父弃之而去。其师命相狎匿者阴随之,归告同党,共加伤叹。令二人苇席瘗焉。至,则心下微温。举之,良久,气稍通。因共荷而归,以苇稠灌勺饮,经宿乃活。月余,手足不能自举。其楚挞之处皆溃烂,秽甚。同辈患之。一夕,弃于道周。行路咸伤之,往往投其余食,得以充肠。十旬,方杖策而起。被布裘,裘有百结,缕如悬鹑。持一破瓯,巡于闾里,以乞食为事。自秋徂冬,夜入于粪壤窟室,昼则周游厘肆。一旦大雪,生为冻馁所驱,冒雪而出,乞食之声甚苦。闻见者奠不凄恻。时雪方甚,人家外户多不发。至安邑东门,循理垣北转第七八,有一门独启左扉,即娃之第也。生不知之,遂连声疾呼“饥冻之甚”,音响凄切,所不忍听。娃自阁中闻之,谓侍儿曰:“此必生也。我辨其音矣。”连步而出。见生枯瘠疥厉,殆非人状。娃意感焉,乃谓曰:“岂非某郎也?”生愤懑绝倒,口不能言,颔颐而已。娃前抱其颈,以绣襦拥而归于西厢。失声长恸曰:“令子一朝及此,我之罪也!”绝而复苏。姥大骇,奔至,曰:“何也?”娃曰:“某郎。”姥遽曰:“当逐之。奈何令至此?”娃敛容却睇曰:“不然。此良家子也。当昔驱高车,持金装,至某之室,不逾期而荡尽。且互设诡计,舍而逐之,殆非人。令其失志,不得齿于人伦。父子之道,天性也。使其情绝,杀而弃之。又困踬若此。天下之人尽知为某也。生亲戚满朝,一旦当权者熟察其本末,祸将及矣。况欺天负人,鬼神不佑,无自贻其殃也。某为姥子,迨今有二十岁矣。计其赀,不啻直千金。今姥年六十余,愿计二十年衣食之用以赎身,当与此子别卜所诣。所诣非遥,晨昏得以温凊。某愿足矣。”姥度其志不可夺,因许之。给姥之余,有百金。北隅四五家税一隙院。乃与生沐浴,易其衣服;为汤粥,通其肠;次以酥乳润其脏。旬余,方荐水陆之馔。头巾履袜,皆取珍异者衣之。未数月,肌肤稍腴;卒岁,平愈如初。异时,娃谓生曰:“体已康矣,志已壮矣。渊思寂虑,默想曩昔之艺业,可温习乎?”生思之,曰:“十得二三耳。”娃命车出游,生骑而从。至旗亭南偏门鬻坟典之肆,令生拣而市之,计费百金,尽载以归。因令生斥弃百虑以志学,俾夜作昼,孜孜矻矻。娃常偶坐,宵分乃寐。伺其疲倦,即谕之缀诗赋。二岁而业大就,海内文籍,莫不该览。生谓娃曰:“可策名试艺矣。”娃曰:“未也。且令精熟,以俟百战。”更一年,曰:“可行矣。”于是遂一上登甲科,声振礼闱。虽前辈见其文,罔不敛衽敬羡,愿友之而不可得。娃曰:“未也。今秀士苟获擢一科第,则自谓可以取中朝之显职,擅天下之美名。子行秽迹鄙,不侔于他士。当砻悴利器,以求再捷。方可以连衡多士,争霸群英。”生由是益自勤苦,声价弥甚。其年,遇大比,诏征四方之隽,生应直言极谏科,策名第一,授成都府参军。三事以降,皆其友也。将之官,娃谓生曰:“今之复子本躯,某不相负也。愿以残年,归养老姥。君当结媛鼎族,以奉蒸尝。中外婚媾,无自黩也。勉思自爱。某从此去矣。”生泣曰:“子若弃我,当自刭以就死。”娃固辞不从,生勤请弥恳。泣曰:“送子涉江,至于剑门,当令我回。”生许诺。月余,至剑门。未及发而除书至,生父由常州诏入,拜成都尹,兼剑南采访使。浃辰,父到。生因投刺,谒于邮亭。父不敢认,见其祖父官讳,方大惊,命登阶,抚背恸哭移时,曰:“吾与尔父子如初。”因诘其由,具陈其本末。大奇之,诘娃安在。曰:“送某至此,当令复还。”父曰:“不可。”翌日,命驾与生先之成都,留娃于剑门,筑别馆以处之。明日,命媒氏通二姓之好,备六礼以迎之,遂如秦晋之偶。娃既备礼,岁时伏腊,妇道甚修,治家严整,极为亲所眷。向后数岁,生父母偕殁,持孝甚至。有灵芝产于倚庐,一穗三秀。本道上闻。又有白燕数十,巢其层甍。天子异之,宠锡加等。终制,累迁清显之任。十年间,至数郡。娃封汧国夫人。有四子,皆为大官,其卑者犹为太原尹。弟兄姻媾皆甲门,内外隆盛,莫之与京。嗟乎,倡荡之姬,节行如是,虽古先烈女,不能逾也。焉得不为之叹息哉!予伯祖尝牧晋州,转户部,为水陆运使。三任皆与生为代,故暗详其事。贞元中,予与陇西公佐话妇人操烈之品格,因遂述汧国之事。公左拊掌竦听,命予为传。乃握管濡翰,疏而存之。时乙亥岁秋八月,太原白行简云。
【三梦记 白行简撰 】
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李娃は長安の倡女。栄陽公の子が全財産を使い果たし追い出され凶肆に落ちたが李娃が救い学問に励ませ科挙に及第させた。父との和解も果たされ李娃は汧国夫人に封じられた。 |
第32節
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元和四年,河南元微之为监察御史,奉使到外。去逾旬,予与仲兄乐天,陇西李杓直同游曲江。诣慈恩佛舍,偏历僧院,淹留移时。日已晚,同诣杓直修行里第,命酒对酬,甚欢畅。兄停杯久之,曰:“微之当达梁矣。”命题一篇于屋壁。其词曰:“春来无计破春愁,醉折花枝作酒筹。忽忆故人天际去,计程今日到梁州。”实二十一日也。十许日,会梁州使适至,获微之书一函,后记《纪梦》诗一篇,其词曰:“梦君兄弟曲江头,也入慈恩院里游。属吏唤人排马去,觉来身在古梁州。”日月与游寺题诗日月率同。盖所谓此有所为而彼梦之者矣。
【长恨传 陈鸿撰 】
【东城老父传 陈鸿撰 】 |
元和四年、元微之が外出中に予と楽天と杓直が曲江に遊んだ。楽天は「微之は梁に達した」と言い詩を題した。のち微之からの書に同じ夜の夢が記されていた。精神の感通は距離を超えると嘆じた。 |
第33節
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老父,姓贾名昌,长安宣阳里人。开元元年癸丑生。元和庚寅岁,九十八年矣。视听不衰,言甚安徐,心力不耗,语太平事历历可听。父忠,长九尺,力能倒曳牛,以材官为中宫幕士。景龙四年,持幕竿随玄宗入大明宫,诛韦氏,奉睿宗朝群后,遂为景云功臣,以长刀备亲卫。诏徙家东云龙门。昌生七岁,矫捷过人,能抟柱乘梁,善应对,解鸟语音。玄宗在藩邸时,乐民间清明节斗鸡戏。及即位,治鸡坊于两宫间。素长安雄鸡,金毫铁距高冠昂尾千数,养于鸡坊。选六军小儿五百人,使驯扰教饲。上之好之,民风尤甚。诸王世家,外戚家,贵主家,侯家,倾帑破产市鸡,以偿鸡直。都中男女,以弄鸡为事;贫者弄假鸡。帝出游,见昌弄木鸡于云龙门道旁,召入,为鸡坊小儿,衣食右龙武军。三尺童子,入鸡群,如狎群小,壮者,弱者,勇者,怯者,水谷之时,疾病之候,悉能知之。举二鸡,鸡畏而驯,使令如人。护鸡坊中谒者王承恩言于玄宗,召试殿庭,皆中玄宗意。即日为五百小儿长。加之以忠厚谨密,天子甚爱幸之。金帛之赐,日至其家。开元十三年,笼鸡三百,从封东岳。父忠死太山下,得子礼奉尸归葬雍州。县官为葬器丧车,乘传洛阳道。十四年三月,衣斗鸡服,会玄宗于温泉。当时天下号为“神鸡童”。时人为之语日:“生儿不用识文字,斗鸡走马胜读书。贾家小儿年十三,富贵荣华代不如。能令金距期胜负,白罗绣衫随软舆。父死长安千里外,差夫持道挽丧车。”昭成皇后之在和王府,诞圣于八月五日。中兴之后,制为千秋节。赐天下民牛酒乐三日,命之曰酺,以为常也。大合乐于宫中,岁或酺于洛。元会与清明节,率皆在骊山。每至是日,万乐具举,六宫毕从。昌冠雕翠金华冠,锦袖绣襦袴,执铎拂道。群鸡叙立于广场,顾眄如神,指挥风生。树毛振翼,砺吻磨距,抑怒待胜,进退有期。随鞭指低昂不失。昌度胜负既决,强者前,弱者后,随昌雁行,归于鸡坊。角觝万夫,跳剑寻橦,蹴毬踏绳,舞于竿颠者,索气沮色,逡巡不敢入。岂教猱扰龙之徒欤?二十三年,玄宗为娶梨园弟子潘大同女,男服珮玉,女服绣襦,皆出御府。昌男至信至德。天宝中,妻潘氏以歌舞重幸于杨贵妃。夫妇席宠四十年,恩泽不渝,岂不敏于伎,谨于心乎?上生于乙酉鸡辰,使人朝服斗鸡,兆乱于太平矣。上心不悟。十四载,胡羯陷洛,潼关不守。大驾幸成都,奔卫乘舆。夜出便门,马踣道穽。伤足,不能进,杖入南山。每进鸡之日,则向西南大哭。禄山往年朝于京师,识昌于横门外。及乱二京,以千金购昌长安洛阳市。昌变姓名,依于佛舍,除地击钟,施力于佛。洎太上皇归兴庆宫,肃宗受命于别殿,昌还旧里。居室为兵掠,家无遗物。布衣,不复得入禁门矣。明日,复出长安南门,道见妻儿于招国里,菜色黯焉。儿荷薪,妻负故絮。昌聚哭,诀于道。遂长逝息长安佛寺,学大师佛旨。大历元年,依资圣寺大德僧运平住东市海池,立阤罗尼石幢。书能纪姓名;读释氏经,亦能了其深义至道,以善心化市井人。建僧房佛舍,植美甘木。昼把土拥根,汲水灌竹,夜正观于禅室。建中三年,僧运平人寿尽。服礼毕,奉舍利塔于长安东门外镇国寺东偏,手植松柏百株。构小舍,居于塔下,朝夕焚香洒扫,事师如生。顺宗在东宫,舍钱三十万,为昌立大师影堂及斋舍。又立外屋,居游民,取佣给。昌因日食粥一杯,浆水一升,卧草席,絮衣。过是,悉归于佛。妻潘氏后亦不知所往。贞元中,长子至信衣并州甲,通大司徒燧入觐,省昌于长寿里。昌如己不生,绝之使去。次子至德归,贩缯洛阳市,来往长安间,岁以金帛奉昌,皆绝之。遂俱去,不复来。元和中,颍川陈洪祖携友人出春明门,见竹柏森然,香烟闻于道,下马觐昌于塔下。听其言,忘日之暮。宿鸿祖于斋舍,话身之出处,皆有条贯。遂及王制。鸿祖问开元之理乱。昌曰:“老人少时,以斗鸡求媚于上。上倡优畜之,家于外宫,安足以知朝廷之事。然有以为吾子言者。老人见黄门侍郎杜暹出为碛西节度,摄御史大夫,始假风宪以威远。见哥舒翰之镇凉州也,下石堡戍青海城,出白龙,逾葱岭,界铁关,总管河左道,七命始摄御史大夫。见张说之领幽州也,每岁入关,辄长辕挽辐车辇河间蓟州佣,调缯布,驾轊连,坌入关门。输于王府,江淮绮縠,巴蜀锦绣,后宫玩好而已。河州墩煌道岁屯田,实边食,余粟转输灵州,漕下黄河,入太原仓,备关中凶年。关中粟米,藏于百姓。天子幸五岳,从官千乘万骑,不食于民。老人岁时伏腊得归休,行都市间,见有卖白衫白叠布。行邻比间,有人禳病,法用皂布一匹,持重价不克致,竟以幞头罗代之。近者,老人扶杖出门,阅街衢中,东西南北视之,见白衫者不满百。岂天下之人皆执兵乎?开元十二年,诏三省侍郎有缺,先求曾任刺史者。郎宫缺,先求曾任县令者。及老人见四十三省郎吏,有理刑才名,大者出刺郡,小者镇县。自老人居大道旁,往往有郡太守休马于此,皆惨然不乐朝廷沙汰使治郡。开元取士,孝弟理人而已。不闻进士宏词拔萃之为其得人也。大略如此。”因泣下。复言曰:“上皇北臣穹卢,东臣鸡林,南臣滇池,西臣昆夷,三岁一来会。朝觐之礼容,临照之恩泽,衣之锦絮,饲之酒食,使展事而去,都中无留外国宾。今北胡与京师杂处,娶妻生子。长安中少年,有胡心矣。吾子视首饰靴服之制,不与向同,得非物妖乎?”鸿祖默不敢应而去。
【开元升平源 吴兢撰 】
【卷四】
【莺莺传 元稹撰 】 |
賈昌は開元元年生まれ、九十八歳にして太平の事を歴歴と語った。幼くして闘鶏に巧みで玄宗に愛された。安禄山の乱後は落魄し貧しく暮らしたが盛時を語ることを好んだ。 |
第34節
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贞元中,有张生者,性温茂,美风容,内秉坚孤,非礼不可入。或朋从游宴,扰杂其间,他人皆汹汹拳拳,若将不及,张生容顺而已,终不能乱。以是年二十三未尝近女色。知者诘之。谢而言曰:“登徒子非好色者,是有凶行。余真好色者,而适不我值。何以言之?大凡物之尤者,未尝不留连于心,是知其非忘情者也。”诘者识之。无几何,张生游于蒲。蒲之东十余里,有僧舍曰普救寺,张生寓焉。适有崔氏孀妇,将归长安,路出于蒲,亦止兹寺。崔氏妇,郑女也。张出于郑,绪其亲,乃异派之从母。是岁,浑瑊薨于蒲。有中人丁文雅,不善于军,军人因丧而扰,大掠蒲人。崔氏之家,财产甚厚,多奴仆。旅寓惶骇,不知所托。先是,张与蒲将之党有善,请吏护之,遂不及于难。十余日,廉使杜确将天子命以总戎节,令于军,军由是戢。郑厚张之德甚,因饰馔以命张,中堂宴之。复谓张曰:“姨之孤婺未亡,提携幼稚。不幸属师徒大溃,实不保其身。弱子幼女,犹君之生。岂可比常恩哉!今俾以仁兄礼奉见,冀所以报恩也。”命其子,曰欢郎,可十余岁,容甚温美。次命女:“出拜尔兄,尔兄活尔。”久之,辞疾。郑怒曰:“张兄保尔之命。不然,尔且掳矣。能复远嫌乎?”久之,乃至。常服睟容,不加新饰,垂鬟接黛,双脸销红而已。颜色艳异,光辉动人。张惊,为之礼。因坐郑旁,以郑之抑而见也,凝睇怨绝,若不胜其体者。问其年纪。郑曰:“今天子甲子岁之七月,终今贞元庚辰,生年十七矣。”张生稍以词导之,不对。终席而罢。张自是惑之,愿致其情,无由得也。崔之婢曰红娘。生私为之礼者数四,乘间遂道其衷。婢果惊沮,腆然而奔。张生悔之。翼日,婢复至。张生乃羞而谢之,不复云所求矣。婢因谓张曰:“郎之言,所不敢言,亦不敢泄。然而崔之姻族,君所详也。何不因其德而求娶焉?”张曰:“余始自孩提,性不苟合。若时纨绮间居,曾莫流盼。不为当年,终有所蔽。昨日一席间,几不自持。数日来行忘止,食忘饱,恐不能逾旦暮,若因媒氏而娶,纳采问名,则三数月间,索我于枯鱼之肆矣。尔其谓我何?”婢曰:“崔之贞慎自保,虽所尊不可以非语犯之。下人之谋,固难入矣。然而善属文,往往沉吟章句,怨慕者久之。君试为喻情诗以乱之。不然,则无由也。”张大喜,立缀《春词》二首以授之。是夕,红娘复至,持彩笺以授张,曰:“崔所命也。”题其篇曰《明月三五夜》。其词曰:“待月西厢下,迎风户半开。拂墙花影动,疑是玉人来。”张亦微喻其旨。是夕,岁二月旬有四日矣。崔之东有杏花一株,攀援可逾。既望之夕,张因梯其树而逾焉。达于西厢,则户半开矣。红娘寝于床。生因惊之。红娘骇曰:“郎何以至?”张因绐之曰:“崔氏之笺召我也。尔为我告之。”无几,红娘复来,连曰。“至矣,至矣!”张生且喜且骇,必谓获济。及崔至,则端服严容,大数张曰:“兄之恩,活我之家,厚矣。是以慈母以弱子幼女见托。奈何因不令之婢,致淫逸之词。始以护人之乱为义,而终掠乱以求之。是以乱易乱,其去几何?诚欲寝其词,则保人之奸,不义。明之于母,则背人之惠,不祥。将寄于婢仆,又惧不得发其真诚。是用托短章,愿自陈启。犹惧兄之见难,是用鄙靡之词,以求其必至。非礼之动,能不愧心。特愿以礼自持。无及于乱!”言毕,翻然而逝。张自失者久之。复逾而出,于是绝望。数夕,张生临轩独寝,忽有人觉之。惊骇而起,则红娘敛衾携枕而至,抚张曰:“至矣,至矣!睡何为哉!”并枕重衾而去。张生拭目危坐久之,犹疑梦寐。然而修谨以俟。俄而红娘捧崔氏而至。至,则娇羞融冶,力不能运支体,曩时端庄,不复同矣。是夕,旬有八日也。斜月晶莹,幽辉半床。张生飘飘然,且疑神仙之徒,不谓从人间至矣。有顷,寺钟鸣,天将晓。红娘促去。崔氏娇啼宛转,红娘又捧之而去,终夕无一言。张生辨色而兴,自疑曰:“岂其梦邪?”及明,睹妆在臂,香其衣,泪光荧荧然,犹莹于茵席而已。是后又十余日,杳不复知。张生赋《会真诗》三十韵,未毕,而红娘适至,因授之,以贻崔氏。自是复容之。朝隐而出,暮隐而入,同安于曩所谓西厢者,几一月矣。张生常诘郑氏之情。则曰:“我不可奈何矣。”因欲就成之。无何,张生将之长安,先以情谕之。崔氏宛无难词,然而愁怨之容动人矣。将行之再夕,不可复见,而张生遂西下。数月,复游于蒲,会于崔氏者又累月。崔氏甚工刀札,善属文。求索再三,终不可见。往往张生自以文挑,亦不甚睹览。大略崔之出人者,艺必穷极,而貌若不知;言则敏辩,而寡于酬对。待张之意甚厚,然未尝以词继之。时愁艳邃,恒若不识,喜愠之容,亦罕形见。异时独夜操琴,愁弄凄恻。张窃听之。求之,则终不复鼓矣。以是愈惑之。张生俄以文调及期,又当西去。当去之夕,不复自言其情,愁叹于崔氏之侧。崔已阴知将诀矣,恭貌怡声,徐谓张曰:“始乱之,终弃之,固其宜矣。愚不敢恨。必也君乱之,君终之,君之惠也。则殁身之誓,其有终矣。又何必深感于此行?然而君既不怿,无以奉宁。君常谓我善鼓琴,向时羞颜,所不能及。今且往矣,既君此诚。”因命拂琴,鼓《霓裳羽衣序》,不数声,哀音怨乱,不复知其是曲也。左右皆歔欷。崔亦遽止之,投琴,泣下流连,趋归郑所,遂不复至。明旦而张行。明年,文战不胜,张遂止于京。因贻书于崔,以广其意。崔氏缄报之词,粗载于此,曰:“捧览来问,抚爱过深。儿女之情,悲喜交集,兼惠花胜一合,口脂五寸,致耀首膏唇之饰。虽荷殊恩,谁复为容?睹物增怀,但积悲叹耳。伏承便于京中就业,进修之道,固在便安。但恨僻陋之人,永以遗弃。命也如此,知复何言!自去秋已来,常忽忽如有所失。于喧哗之下,或勉为语笑,闲宵自处,无不泪零。乃至梦寐之间,亦多感咽,离忧之思,绸缪缱绻,暂若寻常。幽会未终,惊魂已断。虽半衾如暖,而思之甚遥。一昨拜辞,倏逾旧岁。长安行乐之地,触绪牵情。何幸不忘幽微,眷念无择。薄之志,无以奉酬。至于终始之盟,则固不忒。鄙昔中表相因,或同宴处。婢仆见诱,遂致私诚。儿女之心,不能自固。君子有援琴之挑,鄙人无投梭之拒。及荐寝席,义盛意深。愚陋之情,永谓终托。岂期既见君子,不能定情。致有自献之羞,不复明侍巾帻。没身永恨,含叹何言!倘仁人用心,俯遂幽眇,虽死之日,犹生之年。如或达士略情,舍小从大,以先配为丑行,以要盟为可欺。则当骨化形销,丹诚不泯,因风委露,犹托清尘。存没之诚,言尽于此。临纸呜咽,情不能申。千万珍重,珍重千万!玉环一枚,是儿婴年所弄,寄充君子下体所佩。玉取其坚润不渝,环取其终始不绝。兼乱丝一,文竹茶碾子一枚。此数物不足见珍。意者欲君子如玉之真,弊志如环不解。泪痕在竹,愁绪萦丝。因物达情,永以为好耳。心迩身遐,拜会无期。幽愤所钟,千里神合。千万珍重!春风多厉,强饭为嘉。慎言自保,无以鄙为深念。”张生发其书于所知,由是时人多闻之。所善杨巨源好属词,因为赋《崔娘诗》一绝云:“清润潘郎玉不如,中庭蕙草雪销初。风流才子多春思,肠断萧娘一纸书。”河南元稹亦续生《会真诗》三十韵,诗曰;“微月透帘栊,萤光度碧空。遥天初缥缈,低树渐葱胧。龙吹过庭竹,鸾歌拂井桐。罗绡垂薄雾,环佩响轻风。绛节随金母,云心捧玉童。更深人悄悄,晨会雨濛濛。珠莹光文履,花明隐绣龙。瑶钗行采凤,罗帔掩丹虹。言自瑶华浦,将朝碧玉宫。因游洛城北,偶向宋家东。戏调初微拒,柔情已暗通。低鬟蝉影动,回步玉尘蒙。转面流花雪,登床抱绮丛。鸳鸯交颈舞,翡翠合欢龙。眉黛羞偏聚,唇朱暖更融。气清兰蕊馥,肤润玉肌丰。无力慵移腕,多娇爱敛躬。汗流珠点点,发乱绿葱葱。方喜千年会,俄闻五夜穷。留连时有恨,缱绻意难终。慢脸含愁态,芳词誓素衷。赠环明运合,留结表心同。啼粉流宵镜,残灯远暗虫。华光犹苒苒,旭日渐瞳瞳。乘鹜还归洛,吹箫亦上嵩。衣香犹染麝,枕腻尚残红。幕幕临塘草,飘飘思渚蓬。素琴呜怨鹤,清汉望归鸿。海阔诚难渡,天高不易冲。行云无处所,箫史在楼中。”张之友闻之者莫不耸异之,然而张志亦绝矣。稹特与张厚,因征其词。张曰:“大凡天之所命尤物也,不妖其身,必妖于人。使崔氏子遇合富贵,秉宠娇,不为云,不为雨,为蛟为螭,吾不知其所变化矣。昔殷之辛,周之幽,据百万之国。其势甚厚。然而一女子败之。溃其众,屠其身,至今为天下僇笑。予之德不足以胜妖孽,是用忍情。”于时坐者皆为深叹。后岁余,崔已委身于人,张亦有所娶。适经所居,乃因其夫言于崔,求以外兄见。夫语之,而崔终不为出。张怨念之诚,动于颜色。崔知之,潜赋一章,词曰:“自从消瘦减容光,万转千回懒下床。不为旁人羞不起,为郎憔悴却羞郎。”竟不之见。后数日,张生将行,又赋一章以谢绝云:“弃置今何道,当时且自亲。还将旧时意,怜取眼前人。”自是,绝不复知矣。时人多许张为善补过者。予常于朋会之中,往往及此意者,夫使知者不为,为之者不惑。贞元岁九月,执事李公垂宿于予靖安里第,语及于是。公垂卓然称异,遂为《莺莺歌》以传之。崔氏小名莺莺,公垂以命篇。
【周秦行纪 牛僧孺撰 】 |
張生は貞元中に蒲州で崔氏の鶯鶯に会い心を奪われた。紅娘を通じて結ばれたが科挙のため長安に上り別の女を娶った。鶯鶯も他に嫁ぎ後年の再会を拒んだ。 |
第35節
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余真元中举进士落第,归宛叶间。至伊阙南道鸣皋山下,将宿大安民舍。会暮,失道,不至。更十余里,行一道,甚易。夜月始出,忽闻有异香气,因趋进行,不如近远。见火明,意谓庄家。更前驱,至一大宅。门庭若富豪家。有黄衣阍人曰:“郎君何至?”余答曰:“僧孺,姓牛,应进士落第往家。本往大安民舍,误道来此。直乞宿,无他。”中有小髻青衣出,责黄衣曰:“门外谁何?”黄衣曰:“有客。”黄衣入告,少时,出曰:“请郎君入。”余问谁氏宅。黄衣曰:“第进,无须问。”入十余门,至大殿。殿蔽以珠帘,有朱衣紫衣人百数,立阶陛间。左右曰:“拜殿下。”帘中语曰:“妾汉文帝母薄太后。此是庙,郎不当来。何辱至?”余曰:“臣家宛下,将归,失道。恐死豺虎,敢托命乞宿。太后幸听受。”太后遣轴帘,避席曰:“妾故汉文君母,君唐朝名士,不相君臣,幸希简敬,便上殿来见。”太后着练衣,状貌瑰伟,不甚妆饰。劳余曰:“行役无苦乎?”召坐。食顷间,殿内庖厨声。太后曰:“今夜风月甚佳,偶有二女伴相寻。况又遇嘉宾,不可不成一会。”呼左右:“屈两个娘子出见秀才。”良久,有女二人从中至,从者数百。前立者一人,狭腰长面,多发不妆,衣青衣,仅可二十余。太后曰:“此高祖戚夫人。”余下拜,夫人亦拜。更有一人,圆题柔脸稳身,貌舒态逸,光彩射远近,时时好,多服花绣,年低薄后。后顾指曰:“此元帝王嫱。”余拜如戚夫人,王嫱复拜。各就坐。坐定,太后使紫衣中贵人曰:“迎杨家潘家来。”久之,空中见五色云下,闻笑语声浸近。太后曰:“杨潘至矣。”忽车音马迹相杂,罗绮焕耀,旁视不给。有二女子从云中下,余起立于侧。见前一人纤腰身修,睟容,甚闲暇,衣黄衣,冠玉冠,年三十以来。太后顾指曰:“此是唐朝太真妃子。”予即伏谒,肃拜如臣礼。太真曰:“妾得罪先帝, 先帝谓肃宗也, 皇朝不置妾在后妃数中。设此礼,岂不虚乎?不敢受。”却答拜。更一人厚肌敏视,身小,材质洁白,齿极卑,被宽博衣。太后顾而指曰:“此齐潘淑妃。”余拜如王昭君,妃复拜。既而太后命进馔。少时,馔至,芳洁万端,皆不得名字。粗欲之腹,不能足食。已,更具酒。其器尽宝玉。太后语太真曰:“何久不来相看?”太真谨容对曰:“三郎 天宝中,宫人呼玄宗多曰三郎 数幸华清宫,扈从不暇至。”太后又谓潘妃曰:“子亦不来,何也?”潘妃匿笑不禁,不成对。太真乃视潘妃而对曰:“潘妃向玉奴 太真名也 说,懊恼东昏候疏狂,终日出猎,故不得时谒耳。”太后问余:“今天子为谁?”余对曰:“今皇帝名适,代宗皇帝长子。”太真笑曰:“沈婆儿作天子也,大奇!”太后曰:“何如主?”余对曰:“小臣不足以知君德。”太后曰:“然无谦,但言之。”余曰:“民间传英明圣武。”太后首肯三四。太后命进酒加乐,乐妓皆年少女子。酒环行数周,乐亦随辍。太后请戚夫人鼓琴,夫人约指以玉环,光照于手, 《西京杂记》云:高祖与夫人百炼金环,照见指骨也。 引琴而鼓,声甚怨。太后曰:“牛秀才邂逅逆旅到此,诸娘子又偶相访,今无以尽平生欢。牛秀才固才士。盍各赋诗言志,不亦善乎?”遂各授与笺笔,逡巡诗成。太后诗曰:“月寝花宫得奉君,至今犹愧管夫人。汉家旧日笙歌地,烟草几经秋又春。”王嫱诗曰:“雪里穹庐不见春,汉衣虽旧泪长新。如今犹恨毛延寿,爱把丹青错画人。”戚夫人诗曰:“自别汉宫休楚舞,不能妆粉恨君王。无金岂得迎商叟,吕氏何曾畏木强。”太真诗曰:“金钗堕地别君王,红泪流珠满御床。云雨马嵬分散后,骊宫无复听《霓裳》。”潘妃诗曰:“秋月春风几度归,江山犹是邺宫非。东昏旧作莲花地,空想曾拖金缕衣。”再三趣余作诗。余不得辞,遂应教作诗曰:“香风引到大罗天,月地云阶拜洞仙。共道人间惆怅事,不知今夕是何年。”别有善笛女子,短鬟,衫吴带,貌甚美,多媚,潘妃偕来。太后以接坐居之。时令吹笛,往往亦及酒。太后顾而谓曰:“识此否?石家绿珠也。潘妃养作妹,故潘妃与俱来。”太后因曰:“绿珠岂能无诗乎?”绿珠拜谢,作诗曰:“此地原非昔日人,笛声空怨赵王伦。红残绿碎花枝下,金谷千年更不春。”诗毕,酒既至。太后曰:“牛秀才远来,今夕谁人与伴?”戚夫人先起辞曰:“如意儿长成,固不可。且不宜如此。况实为非乎?”潘妃辞曰:“东昏以玉儿 妃名 身死国除,玉儿不拟负他。”绿珠辞曰:“石卫尉性严忌,今有死,不可及乱。”太后曰:“太真今朝先帝贵妃,不可言其他。”乃顾谓王嫱曰:“昭君始嫁呼韩单于,复为株垒若靼单于妇,固自用。且苦寒地胡鬼何能为?昭君幸无辞。”昭君不对,低眉羞恨。俄各归休。余为左右送入昭君院。会将旦,侍人告起得也。昭君泣以持别,忽闻外有太后命,余遂出见太后。太后日:“此非郎君久留地,宜亟还。便别矣。幸无忘向来欢。”更索酒。酒再行,戚夫人潘妃绿珠皆泣下,竟辞去。太后使朱衣人送往大安,抵西道,旋失使人所在,时始明矣。余就大安里,问其里人。里人云:“去此十余里有薄后庙。”余却回,望庙宇,荒毁不可入。非向者所见矣。余衣上香经十余日不歇,竟不知其如何。
【湘中怨辞 并序 沈亚之撰 】
【异梦录 沈亚之撰 】
【秦梦记 沈亚之撰 】
【无双传 薛调撰 】 |
余は貞元中に落第して帰る途中、薄太后の廟に宿った。戚夫人が琴を弾き王昭君、楊太真、潘淑妃、緑珠がそれぞれ詩を詠んだ。夜は昭君と過ごし暁に別れた。翌朝、荒毀した薄后廟を見た。 |
第36節
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王仙客者,建中中朝臣刘震之甥也。初,仙客父亡,与母同归外氏。震有女曰无双,小仙客数岁,皆幼稚,戏弄相狎。震之妻常戏呼仙客为王郎子。如是者凡数岁,而震奉孀姊及抚仙客尤至。一旦,王氏姊疾,且重,召震约曰:“我一子,念之可知也。恨不见其婚室。无双端丽聪慧,我深念之。异日无令归他族。我以仙客为托。尔诚许我,瞑目无所恨也。”震曰:“姊宜安静自颐养,无以他事自挠。”其姊竟不痊。仙客护丧,归葬襄邓。服阕,思念:“身世孤孑如此,宜求婚娶,以广后嗣。无双长成矣。我舅氏岂以位尊官显,而废旧约耶?”于是饰装抵京师。时震为尚书租庸使,门馆赫奕,冠盖填塞。仙客既觐,置于学舍,弟子为伍。舅甥之分,依然如故,但寂然不闻选取之议。又于窗隙间窥见无双,姿质明艳,若神仙中人。仙客发狂,唯恐姻亲之事不谐也。遂鬻囊橐,得钱数百万。舅氏舅母左右给使,达于厮养,皆厚遗之。又因复设酒馔,中门之内,皆得入之矣。诸表同处,悉敬事之。遇舅母生日,市新奇以献,雕镂犀玉,以为首饰。舅母大喜,又旬日,仙客遣老妪,以求亲之事闻于舅母。舅母曰:“是我所愿也。即当议其事。”又数夕,有青衣告仙客曰:“娘子适以亲情事言于阿郎,阿郎云:‘向前亦未许之。’模样云云,恐是参差也。”仙客闻之,心气俱丧,达旦不寐,恐舅氏之见弃也。然奉事不敢懈怠。一日,震趋朝,至日初出,忽然走马入宅,汗流气促,唯言:“锁却大门,锁却大门!”一家惶骇,不测其由,良久,乃言:“泾原兵士反,姚令言领兵入含元殿,天子出苑北门,百官奔赴行在。我以妻女为念,略归部署。疾召仙客与我勾当家事。我嫁与尔无双。”仙客闻命,惊喜拜谢。乃装金银罗锦二十驮,谓仙客曰:“汝易衣服,押领此物出开远门,觅一深隙店安下。我与汝舅母及无双出启夏门,绕城续至。”仙客依所教。至日落,城外店中待久不至。城门自午后扃锁,南望目断。遂乘骢,秉烛绕城至启夏门。门亦锁。守门者不一,持白棓,或立,或坐。仙客下马,徐问曰:“城中有何事如此?”又问:“今日有何人出此?”门者曰:“朱太尉已作天子。午后有一人重戴,领妇人四五辈,欲出此门。街中人皆识,云是租庸使刘尚书。门司不敢放出。近夜,追骑至,一时驱向北去矣。”仙客失声恸哭,却归店。三更向尽,城门忽开,见火炬如昼。兵士皆持兵挺刃,传呼斩斫使出城,搜城外朝官。仙客舍辎骑惊走,归襄阳,村居三年。后知克复,京师重整,海内无事。乃入京,访舅氏消息,至新昌南街,立马彷徨之际,忽有一人马前拜,熟视之,乃旧使苍头塞鸿也。鸿本王家生,其舅常使得力,遂留之。握手垂涕。仙客谓鸿曰:“阿舅舅母安否?”鸿云:“并在兴化宅。”仙客喜极云:“我便过街去。”鸿曰:“某已得从良,客户有一小宅子,贩缯为业。今日已夜,郎君且就客户一宿。来早同去未晚。”遂引至所居,饮馔甚备。至昏黑,乃闻报曰:“尚书受伪命官,与夫人皆处极刑。无双已入掖庭矣。”仙客哀冤号绝,感动邻里。谓鸿曰:“四海至广,举目无亲戚,未知托身之所。”又问曰:“旧家人谁在?”鸿曰:“唯无双所使婢采萍者,今在金吾将军王遂中宅。”仙客曰:“无双固无见期。得见采萍,死亦足矣。”由是乃刺谒,以从侄礼见遂中,具道本末,愿纳厚价以赎采萍。遂中深见相知,感其事而许之。仙客税屋,与鸿萍居。塞鸿每言:“郎君年渐长,合求官职。悒悒不乐,何以遣时?”仙客感其言,以情恳告遂中。遂中荐见仙客于京兆君李齐运。齐运以仙客前衔,为富平县尹,知长乐驿。累月,忽报有中使押领内家三十人往园陵,以备洒扫,宿长乐驿,毡车子十乘下讫。仙客谓塞鸿曰:“我闻宫嫔选在掖庭,多是衣冠子女。我恐无双在焉。汝为我一窥,可乎?”鸿曰:“宫嫔数千,岂便及无双。”仙客曰:“汝但去,人事亦未可定。”因令塞鸿假为驿吏,烹茗于帘外,仍给钱三千,约曰:“坚守茗具,无暂舍去。忽有所睹,即疾报来。”塞鸿唯唯而去。宫人悉在帘下,不可得见之,但夜语喧哗而已。至夜深,群动皆息。塞鸿涤器构火,不敢辄寐。忽闻帘下语曰:“塞鸿,塞鸿,汝争得知我在此耶?郎健否?”言讫,呜咽,塞鸿曰:“郎君见知此驿。今日疑娘子在此,令塞鸿问候。”又曰:“我不久语。明日我去后,汝于东北舍阁子中紫褥下,取书送郎君。”言讫,便去。忽闻帘下极闹,云:“内家中恶。”中使索汤药甚急,乃无双也。塞鸿疾告仙客,仙客惊曰:“我何得一见?”塞鸿曰:“今方修渭桥。郎君可假作理桥官,车子过桥时,近车子立。无双若认得,必开帘子,当得瞥见耳。”仙客如其言。至第三车子,果开帘子,窥见,真无双也。仙客悲感怨慕,不胜其情。塞鸿于阁子中褥下得书送仙客。花笺五幅,皆无双真迹,词理哀切,叙述周尽,仙客览之,茹恨涕下。自此永诀矣。其书后云:“常见敕使说富平县古押衙人间有心人。今能求之否?”仙客遂申府,请解驿务,归本官。遂寻访古押衙,则居于村墅。仙客造谒,见古生。生所愿,必力致之,缯采宝玉之赠,不可胜纪。一年未开口,秩满,闲居于县。古生忽来,谓仙客曰:“洪一武夫,年且老,何所用?郎君于某竭分。察郎君之意,将有求于老夫。老夫乃一片有心人也。感郎君之深恩,愿粉身以答效。”仙客泣拜,以实告古生。古生仰天,以手拍脑数四,曰:“此事大不易。然与郎试求,不可朝夕便望。”仙客拜曰:“但生前得见,岂敢以迟晚为限耶。”半岁无消息。一日,扣门,乃古生送书。书云:“茅山使者回。且来此。”仙客奔马去。见古生,生乃无一言。又启使者。复云:“杀却也。且吃茶。”夜深,谓仙客曰:“宅中有女家人识无双否?”仙客以采萍对。仙客立取而至。古生端相,且笑且喜云:“借留三五日。郎君且归。”后累日,忽传说曰:“有高品过,处置园陵宫人。”仙客心甚异之。令塞鸿探所杀者,乃无双也。仙客号哭,乃叹曰:“本望古生。今死矣!为之奈何!”流涕歔欷,不能自已。是夕更深,闻叩门甚急。及开门,乃古生也。领一篼子入,谓仙客曰:“此无双也。今死矣。心头微暖,后日当活,微灌汤药,切须静密。”言讫,仙客抱入阁子中,独守之。至明,遍体有暖气。见仙客,哭一声遂绝。救疗至夜,方愈。古生又曰:“暂借塞鸿于舍后掘一坑。”坑稍深,抽刀断塞鸿头于坑中。仙客惊怕。古生曰:“郎君莫怕。今日报郎君恩足矣。此闻茅山道士有药术。其药服之者立死,三日却活。某使人专求,得一丸。昨令采萍假作中使,以无双逆党,赐此药令自尽。至陵下,托以亲故,百缣赎其尸。凡道路邮传,皆厚赂矣,必免漏泄。茅山使者及舁篼人,在野外处置讫。老夫为郎君,亦自刎。君不得更居此。门外有檐子一十人,马五匹,绢两百匹。五更挈无双便发,变姓名浪迹以避祸。”言讫,举刀。仙客救之,头已落矣。遂并尸盖覆讫。未明发,历四蜀下峡,寓居于渚宫。悄不闻京兆之耗,乃挈家归襄邓别业,与无双偕老矣。男女成群。噫,人生之契阔会合多矣,罕有若斯之比。常谓古今所无。无双遭乱世籍没,而仙客之志,死而不夺。卒遇古生之奇法取之,冤死者十余人。艰难走窜后,得归故乡,为夫妇五十年,何其异哉! 【默】
俄国 安特来夫
【一】
五月之夜,仓庚和鸣枝上,月光皎然,牧师伊革那支时则居治事之室。其妇趋进,色至惨苦,持小镫,手腕战动,比近其夫,乃引手触肩际,呜咽言曰,“阿父,盍往视威洛吉伽矣!”
伊革那支不顾,惟张目上越目镜,疾视久之。妇断望,退坐于榻,徐曰:“汝二人……忍哉!”其语至末辞,声乃甚异,颜色亦益凄苦,似以表父女忍心何似者。牧师微笑,渐起阖书,去目镜,收之匣内,入思颇深,黑髯丰厚,星星如杂银丝,垂匈次作波状,应息而动。已忽曰,“诺,然则行矣。”其妇亦疾起,惴惴语曰,“汝盖知彼何如者,阿父,汝幸勿酷也。”
威罗楼居。木阶至不宽博,曲为弓形,且受伊革那支足音,声作厉响。伊革那支体本修伟,因必屡以避抵,而阿尔迦·斯提斑诺夫那素衣拂其面,则辄复颦蹙,色至不平,盖已知今日之来,将不获善果如前此矣。
威罗袒其臂,引一手覆目,一则陈素衾之上,漫问曰,“何也?”神气萧索,状亦漠然。母呼之曰,“威洛吉伽,……”顾忽呜咽而止。父则曰,“威罗,”言次力柔其声曰,“告汝父母,汝今何如矣?”
威罗默然。
父复曰,“威罗,今其语我,讵尔母及我,尚弗足见信于汝耶?汝试念之,孰则亲过我二人者?抑乃以爱汝未挚耶?汝其信我年齿阅历,直陈毋隐……则忧思将立平。盍视尔母,其困顿亦已甚矣。”时母呼曰,“威洛吉伽,……”而伊革那支仍曰,“而我……”时声微战,似有物突然欲出者,曰,“而我岂亦能堪者。汝有殷忧,顾殷忧何事,则乃父不之知,此当乎?”
威罗默然。
伊革那支轻拂其髯,用意至密,似恐不意中为指所乱者。既乃曰,“汝逆吾意,自诣圣彼得堡,乃怨吾谯责太甚耶?汝不顺之子,或者以不畀汝多金,抑缘吾不喜汝,遂怅怅耶?汝胡乃默然者?吾知之矣,以汝圣彼得堡,……”伊革那支神思中,时仿佛见一博大不祥之市,飞灾生客,充实其间,而威罗又以是获疾,以是绝声,则立萌憎念,且又烈怒其女,盖以女终日湛默,而其默又至坚定也。
威罗恚曰,“彼得堡何干我者。”已乃阖其目曰,“不如睡耳,此何干我者,时晏矣。”母啜泣曰,“威洛吉伽毋置我,……”威罗似不能忍,叹曰,“嗟夫,母氏!”伊革那支就坐,微笑曰,“汝终无言耶?”威罗略举其身以自理,曰,“父,父盖知我尝挚爱父母,顾今兹已矣,不如归睡耳!……吾亦且睡,逮明晨或至后日,会当有时言之。”
牧师蹶起,撞几几触于壁,掣妇手曰,“去之!”妇尚延伫,曰,“威洛吉咖!”伊革那支遮之曰,“去之,诏汝!彼忘明神,吾侪其能救耶。”遂力牵之出,妇故迟其步,低语曰,“汝耳!父师,凡事悉起于汝,汝当自结此公案耳。嗟我苦人!”言已泪下,目几无见,临梯屡踬,如临深渊。
次日,伊革那支即不理其女,而女亦若弗知,时或独瞑,时或漫步,俱如往日,惟时必取帨拭其目,似是中满以尘埃者。其母性本乐易,嗜笑善谐,今遇默人,则大戚,左右不知所可。威罗平时好游眺,越七日,亦出游步如常,——顾其归也,——乃不以生返,已自投铁轨之上,车轹之,碎矣。
伊革那支自治葬礼,妇则弗临,当死耗达其家,骇震几绝,手足劲直,舌强不能声。比伽蓝钟动时,方挺然卧于暗室,第闻人陆续出寺,且作挽歌,欲举手作十字,而臂不之应,又迸力欲呼曰,“威罗别矣!”而舌亦重滞如凝铅。使人见其状,必谓妇方偃息,否者盖入睡也。时观者大集寺中,伊革那支识者强半,莫不伤威罗夭折,第见牧师无悲色,则怃然。众咸弗爱牧师,以其人少矜恕,憎罪人,而礼拜者来,则虽赤贫亦力汲其润,殊不自憎。故人闻变大悦,竞欲睹其凌夷,亦俾自悟二恶,为牧师酷,为父凶,缘此罪障,乃不能自保其骨肉。顾众目聚瞩,而伊革那支之立屹然,时盖绝不为殇女悲,特力护神甫威棱,使勿失坠已耳。
本工凯尔舍诺夫曰,“铁牧师也!”是人盖尝为制画椢,直五罗布而不获偿者。特伊革那支之立,则仍屹然,先就垄上,次过市而归家。比达其妇室外,始微屈,然此亦以户低,惧撞其首耳。入室发燧,见妇乃骇绝。其状靖谧无方,忧苦皆退,二目无泪,寂然默然,体则委顿无力,陈胡床之上。伊革那支进询之曰,“若无恙耶?”而声亦寂然类其目。继抚额际,乃湿且寒,妇亦弗动,似绝不觉牧师之相抚者。比引手去,则无动又如故,惟二目厉张,是中更无人感。伊革那支渐怖而栗,曰,“吾归吾室矣。”
伊革那支入客室,见全室整洁,弗殊平时,几衣纯白。卓立如死人临敛。呼其婢曰,“那思泰娑,”则自觉声在虚室中,至复犷厉。窗外悬鸟笼,阑槛已启,其中虚矣。因复微呼曰,“那思泰娑,鸟安在?”婢哀毁,鼻已赤如芦萉,嗫嚅对曰,“自……自然去矣!”伊革那支蹙额曰,“胡为纵之?”婢复泣失声,掣韨角拭其目,咽泪曰,“此性命,……此女士性命,……何可留耶!”
伊革那支闻言瞿然,念此黄色小禽,终日伸首嘤鸣者,殆信威罗性命矣。假此鸟尚存,则威罗殆不云死。因大愤,厉声叱曰,“去矣汝!”婢仓皇未得户,乃又继之曰,“白痴人!”
【二】 |
王仙客は幼馴染の無双と離散した。無双が宮中に入ったことを知り古押衙の助けで偽の死を装い棺に入れた無双を運び出した。仮死から蘇った無双と夫婦になった。古押衙は去って行方知れずとなった。 |
第37節
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威罗既葬,阖宅默然,而其状复非寂,盖寂者止于无声,此则居者能言,顾不声而口闭,默也。伊革那支如是思惟,每入闺,遇妇二目,目光艰苦,乃似大气俄化流铅,来注其背,——又若开威罗曲谱,叶中尚留故声,或视画像之得自圣彼得堡者,亦复如是。
伊革那支视像有常法,必先审辅颊,受光皓然,特颊际乃见微痕,与睹之威罗尸者密合,此殊弗知其故。使车轮践面而过,颅当糜矣,顾骸乃无损,殆必值移尸去轨,伤于靴尖,或偶创于指爪耳。伊革那支审谛久久,意渐怖,急越颊观其目,乃黑而美,睫毛甚长,投影至于颊际,映著目睛,光益炯炯。目匡似见黑缘,色至悲凉,且画师多能,施之殊采,凡目光所向地,辄作澄明薄膜间之,似夏日轻尘,集于琴台,以减髹木之曜。伊革那支欲去像弗视,而幽默之语,乃息息相从,其默又至昭明,几于入听。伊革那支际此,亦自信幽默为物,自能闻之矣。
每日晨祷已,伊革那支辄入客室,先眺虚笼,次及室中器具,乃据胡床而坐,闭目止息,谛听默然。时所闻至异,虚笼之默,微而柔,满以苦痛,中复有久绝之笑寓之。其妇之默,乃度壁微至,冰重如铅,且绝幽怪,虽在长夏,入耳亦栗然如中寒。若其悠久如坟,密如死,则其女之默也。第默亦若自苦,迸力欲转他声,顾暗有机括之力,阻其转化,乃渐牵掣如丝缕,终至颤动且鸣,鸣低而晰,——伊革那支知有声将至,乃悦且怖,引手据胡床之背,屏息俟之。已而闻声益迩,顾忽复中绝,全宅默然。
伊革那支薄怒曰,“咅!”遂渐渐起立,则度窗见大道,满负日光,其平如砥,每石均作圆形。并有马厩石垣,浑沌无户牖,屋角立一御者,不动如石人。是人矗立奚为,又乌能解,意者道绝行客,殆已久矣。
【三】
伊革那支他适时,颇多言议,如语法师,或对众述其勤修义务,亦时就识者,博塞以游。顾一返故家,乃若永日必绝其声息者,盖当长夜不眠,方思大故,而不能与家人言,思盖曰威罗何由死也。
伊革那支殊不悟时节已晏,尚欲寻绎因缘,且冀解其隐。深夜耿耿,每念往日自与其妇立威罗榻前,祈之曰,“语我!”特幻想所造,乃与成事迥殊,见两目朗然,不同画像,威罗欢笑起立,进而陈辞。——顾其辞云何,似此无言之辞,能解大,且复密迩,使倾耳屏息,怳忽愈益昭明,惟又迢远不可究极。伊革那支举皴皵之手出空中,挥而问曰,“威罗乎?”然答之则幽默也。
一夕,伊革那支往视其妇,弗入闺已且七日矣,时乃就坐床头,思柔其目光,令勿冰重,乃曰,“阿母,吾欲与汝谈威罗,愿闻之乎?”
妇目默然。伊革那支扬其声,便益威严,如语自忏者状,曰,“吾知之,汝盖谓威罗之死,皆出我手。顾吾岂爱之不若汝耶?汝想诡矣!——吾严厉,顾实未尝妨彼,彼不纵行其欲耶?逮其视吾呵责如无物,吾又不立弃威权,自俯其背乎?……然汝何如者,汝不尝痛哭呼吁之乎?微吾诏者,泣且无已,而威罗不悛,吾何当独任其罪。且吾又不屡面明神,诏之谦,教之爱耶?”言次疾窥妇目,又急避之曰,“使不以苦恼相告,吾何能为?命之与?——吾命之矣。哀之与?——吾亦哀之矣。将必屈膝求婢子,哀号如媪耶?其心!吾乌知其心何蕴者?忍耳冷耳!”伊革那支遂举手击其膝曰,“是人无爱,然也。人谓我奈何?……诚专制耳。顾汝乃号泣不惜自屈,彼终爱汝未?”
伊革那支忽失笑而无声曰,“爱也,何以慰汝?则死耳!其死惨凶,轻如飞羽,……死于粪土,犹犬豕也,人踶以足!”
伊革那支声渐低,……
曰“吾自愧,——行途中自愧,——立祭坛前自愧,——面明神自愧,——有女贱且忍!虽入泉下,犹将追而诅之!”
伊革那支言已视其妇,已厥死矣,历时许方苏。比苏,而目旋默,闻其言或未尝闻,人莫能测也。
是日之夜,——昷煦宁靖,七月之夜也。伊革那支惧惊其妇及侍者睡,乃以趾点梯而升,入威罗之室。小窗自威罗逝后,即严扃不启,全室干,烈日贯铁叶屋山,长日照临,入夜留炎熇之气,人迹永绝,则颢气殊异懒散,遍于太空,室壁家具,久而朽败,亦有气蒸蒸涌出。月色度窗,投文至地,且以余光朗照室隅。卧榻雅素,上遗小大二枕,阴森欲动。伊革那支启窗,外气随辟而入,清新芬馥,来自近郊水次,且挟菩提树华香。远有歌声,似出艇内。伊革那支徒跣白衣,状如鬼物,行就威罗榻旁,长跽于地,投首枕上,引手向空而拥,曩日女首所在处也。如是久久,既而歌声顿辍,顾牧师伏如故,长发越肩分披,曼延及枕。少顷,月易其轨,小楼就昏,伊革那支始昂其首,随作微语,声至雄浑,更函不知之爱,如对所生,曰,“威罗吾女!威罗,——汝知否此谊云何?吾女吾女!吾血吾生!……汝老父,颢首骀背,……”言次,两肩忽战,全身随之而动,发声甚柔,若诏孺子,曰,“汝老父祈汝,……唯,威洛吉伽祈汝矣!——彼且泣,彼前此未尝泣也。孺子,汝有忧,忧亦属我,否否,且甚也。”伊革那支时摇其首,曰,“且甚也。威洛吉伽,吾老矣,死则奚惧。然汝,……使汝自知荏弱娇小者,汝念之耶?幼时伤指见血,泣失声矣。孺子,汝爱我,吾深知之。汝实爱我。第语之!语我,胡为自苦?吾将以此手去其忧,此尚强也,威罗,此手!”
伊革那支遂起,复曰,“言之!”随张目视四壁,伸其手,而小楼寂漠,远闻汽笛有声。伊革那支目益厉张,自顾身外,似见形残厉鬼。离榻徐起。渐举柴瘠之手自按其头。及门,尚微语曰,“言之!”而为之对者,又独——幽默也。
【四】
一日,午食早已,伊革那支趋赴墓场,威罗葬后,此其初次矣。其地炎热靖谧,杳无人踪,虽夏日如在月夜。牧师欲挺身徐行,肃然四顾,自意弗异往时,而不知二足已孱,风度亦变,须髯皓白,如被严霜。墓场前道路修坦,渐高如坡坂,其端墓门,幽黑有光,若张巨口,四周则白齿抱之。威罗葬于杪端,至是已无沙砾。伊革那支旁皇隘路中,左右悉为丘垄,遍长莓苔,久不得出。其间时见断碑,绿华斑驳,或坏槛废石,半埋土中,如见抑于幽怨。内则有威罗新坟,短草就黄,外围嫩绿,榛楛依枫树而立,胡桃柯干,交于墓顶,新叶蒙茸。伊革那支坐邻坟,吐息四顾,上见昊天,净无云气,日轮如如不动,乃初觉在幽宅中。每当风定,万籁辍声,则寂漠满其地。其寂至莫可比方,此刹那间,并起幽默,默似远涉幽宅之垣,且逾垣直至市集,终于目睛,是目则澄碧无声,永靖于默。伊革那支耸其肩,运目至威罗墓上,观纠结之草久久。草曼衍遍地,遥尽于负雪之野,似无暇更被异域者。时乃观之而疑,思地下不六尺,乃为威罗所宅,四周缥缈,莫可执持,则俄有俶扰执迷,起于匈肊。盖往尝谓纵有物没深邃无穷中,顾得之实不在远,殊不知诚乃无有,且亦将终无有也。尔时陡有所念,似倘作一言,此言已冲唇且发,或作一动,则威罗将离墓起立,颀长妙好,一如生时,即四邻陈死人,方以坚冷之默感人者,亦将由是言动,辞其幽宅。伊革那支乃去广缘黑冠,自抚其发,微呼曰,“威罗!”
言已,惧入人耳,则起登坟颠,越十字架外望,见绝无生人,于是复扬其音曰,“威罗!”
此牧师伊革那支垂老之声也。其声干涸,如求如吁,异哉!祈求之切如是而无应也。曰,“威罗!”
时声朗而定矣。比默,怳忽有应者出于渊深,若复可辨。伊革那支复四顾屈其身,倾耳至于草际,曰,“威罗答我!”则有泉下之寒,贯耳而入,匘几为之坚凝。顾威罗则默,其默无穷,益怖益。伊革那支力举其首,面失色如死人,觉幽默颤动,颢气随之,如恐怖之海,忽生波涛,幽默偕其寒波,滔滔来袭,越顶而过,发皆荡漾,更击匈次,则碎作呻吟之声。伊革那支眙目愕顾,五体栗然,渐迸力伸背而起,自肃其状,俾勿震越。又拂冠及膝际,以去沙尘,交臂三作十字,徐行而去。顾幽宅乃突呈异状,道亦绝矣。
伊革那支自哂曰,“误矣!”遂止歧路间。顾不能俟,未一秒时,即复左折,默迫之耳。默出自碧色垄中,十字架亦各嘘气,地怀僵蜕,孔孔均吐幽波。伊革那支行益急,左右奔驰,越墓撞于阑槛,铁制华环,刺手见血,法服亦斯裂如鹑衣,第心中则止存一念,曰觅去路耳。
伊革那支尽其心力,跳跃往来,久乃益疾,长发散乱法服之上,而去路终不在前。其时状至怖人,张口坌息,色如狂酲,厉于幽鬼。终乃奋力一跃,突出墓场。其地有伽蓝,垣下见一老人,方据榻假寐,状似远方行脚,旁有二匄妇,断断互争。比归家,闺中镫光已曜,牧师不及易衣冠而入,风尘零落,即跽其妇足下曰,“阿母,……阿尔迦,恕我!”言次啜泣曰,“吾且狂矣!”遂撞首于几,泣至哀厉,如未尝泣者之泣也。
迨举首,伊革那支盖信异事将见矣。妇且有语,恕其前愆。因曰,“吾妇!”——则伸首就之,相其二目,而是中恕宥怨愤,两复无有。妇殆已恕其罪,寄之同情与?顾目乃一无所示,寂然默然耳。……而此荒凉萧瑟之家,则幽默主之矣。
安特来夫生于一千八百七十一年。初作“默”一篇,遂有名;为俄国当世文人之著者。其文神秘幽深,自成一家。所作小品甚多,长篇有“赤笑”一卷,记俄日战争事,列国竞传译之。 【疯姑娘】
芬阑 明那·亢德
人叫伊“疯姑娘”。伊住在市街尽头的旧坟地后面,因为人在那里可以付给较为便宜的房价。伊只能节俭的过活,因为伊的收入只是极微末:休养费二百八十马克和手工挣来的一点的酬劳。在市街里,每一间每月要付十马克,伊租伊的小房子只七个,这当然是不好而且住旧的了,火炉是坏的,墙壁是黑的,窗户也不严密。但伊在这里已经住惯,而且自从伊住了十年之后,也不想再搬动;于伊仿佛是自己的家乡了。
伊没有一个可以吐露真心的人,然而伊倘若沉思着坐在伊的小房子里,将眼光注定了一样东西,这房子在伊眼睛里便即刻活动起来,和伊谈天,使伊安静。伊现在和别的人们少有往来了。伊觉得躲在这里,伊因此只在不得已时才出外,只要伊的事务一完结,伊便用急步跑了回来,并且随手恨恨的锁了门,似乎是后面跟着一个仇敌。
人并非历来叫伊“疯姑娘”。伊曾经以伊的名字赛拉赛林出过名,而且有过一时期,这名字是使心脏跳动起来,精神也移到欢喜里。然而这久已过去了。伊现在是一个瘦削的憔悴的老处女。孩子们,那在街上游戏的,倘看见伊,便害怕,倘伊走过了,却又从后面叫道:“疯姑娘!疯姑娘!”先生们走过去,并不对伊看,还有妇女们,是伊给伊们做好了绣花帐幔的,使伊站在门口,而且慈善的点一点头,倘伊收过工钱,深深的行了礼。再没有人想到,伊也曾经年青过,美丽过的。在那时认识伊的,已经没有多少,而且即此几个,也在生活的迫压里将这些忘却了。
然而伊自己却记得分明,而且那时的记念品也保存在伊那旧的书架抽屉里。在那里放着伊那时的照相,褪色而且弯曲,至于仅能够看出模样来。然而却还能看出,伊怎样的曾经见得穿着伊的优美洁白的舞蹈衣服,并那曼长的螺发,露出的臂膊,和花缘的绫衫。伊当这衣服的簇新的华丽时,在伊一生中最可宝贵而且最大成功的日子里,穿着过的。伊那时和伊的母亲在腓立特力哈文。一只皇家的船舶巡行市镇的近旁,一天早晨在哈泰理霍伦下了锚。人说,一个年青的大公在船上,并且想要和他的高贵的随员到陆地来。市镇里于是发生了活泼的举动了。家家饰起旗帜花环和花卉来,夜间又在市政厅的大厅上举行一个舞蹈会。
在这舞蹈会上赛拉得了一个大大的忘不掉的光荣:年青的大公请伊舞蹈而且和伊舞蹈!他只舞蹈了一次,只和伊——那夜的愉快是没有人能够描写。赛拉到现在,倘伊一看照相,还充满着当时享用过的幸福的光辉。伊当初似乎是昏愦了,但此后不久大公离开宴会,众人都赶忙来祝贺伊的时候,伊的心灌满了高兴和自负。伊被先生们环绕着,都称伊为“舞蹈会的女王”,希求伊的爱顾,从此以后,伊便无限量的统治了男人的心了。
在这“记念品”中,又看见一堆用红绳子捆着的,从伊的先前的崇拜者们寄来的信札,而且满是若干平淡若干热烈的恋爱的宣言。但当时伊对于这些现已变黄褪色的信札并不给以偌大的价值,伊只是存起来当作胜利的留痕。他们里面没有一个能够温暖了伊的心,伊对于写信者至多也不过有一点同情罢了。
“你究竟怎样想呢?”伊的母亲屡次说。“你总须选定一个罢!” |
威羅が葬られてのち宅中は黙然たり。伊革那支は閨に入るたび妻の艱苦な目光に遇った。あたかも大気が流鉛と化して背に注ぐがごとく、威羅の楽譜になお故の声が留まるがごとくであった。 |
第38節
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但赛拉惦着大公并且想,“我已经选好了!”伊就是幻想,对于大公生了深刻的印象了。他何以先前只和伊舞蹈呢;这岂不能,他一旦到来而且向伊求婚么?这类的事不是已经常有么?有着怎样的自负,伊便不对他叙述伊的诚实的恋爱,只使他看伊的崇拜者的一切的信札,给他证明,伊已经抛掉了几多的劝诱了。
年代过去了;但大公没有来。赛拉读些传奇的小说而且等候。伊深相信,倘使大公能够照行他本身的志向,他便来了。然而人自然是阻挠他,所以他等着。赛拉是全不忧愁,虽然伊的母亲已经忍不下去了。母亲实在不知道,伊抱着怎样的大希望,打熬在寂寞里;这希望倘若实现出来,伊才更加欢喜的。
但有一回,母亲说出几句话,这在伊似乎剑尖刺着心坎了,当伊又使一个很有钱很体面的材木商人生了大气,给母亲一个钉子的时候:“你便会看见了,你要成一个老处女!”
最初,赛拉过分的非笑这句话,但这便使伊懊恼起来;因为伊忽然觉得诧异,近来那些先生们并不专是成群的围在伊身边了。这因为这里钻出了两个小丫头来,人说,那是很秀丽,但据赛拉的意思是不见得的。那还是“全未发育的,半大的雏儿”,没有体统和规矩。而人以为这秀丽!这是一种不可解的嗜好!倘伊对于这事仔细的想,伊觉得是不至于的。男人们追随着女孩儿其实只是开玩笑,而伊们因为呆气却当作真实了;伊对于这些并不怕。但是伊决计,在其次的舞蹈会上伊因此要立起一个赫赫的证据来。为了这目的,伊便定好一件新的,照着最近的时装杂志做出来的衣裳,用白丝绸,没有袖子,前后面深剪截,使可以显出伊的腴润的身段。
满足着而且怀抱着伊的胜利,伊穿过明晃晃的大厅去。那些小女孩们可敢,和伊来比赛么?
还没有!伊们都逗留在大厅的最远的屋角里,互相密谈,瞥伊一眼,又窃窃的嘻笑,用手掩着嘴,正是在这一种社会生活里没有阅历的很年青的女儿所常做的。伊们里面能有一个是“舞蹈会的女王”么?不会有的,只要伊在这里!
但伊们的嘻笑激刺了伊,伊有这兴趣,要对伊们倨傲一回,而这事在舞蹈的开初便提出一个便当的机会了,当伊在圆舞之后走进梳装室去,整理伊的额发的时候。伊们在这里站立和饶舌,那时是最适当的。伊直向桌子去,并且命令的说:“离开镜子罢,你们小女孩!”
人叫伊们“小女孩”的时候,不会怎样触怒的,这赛拉很知道。但是伊们不能反抗,该当服从,并且给伊让出一个位置来。在镜中伊能看见,那些人怎样的歪着嘴而且射给伊愤怒的眼光呵。这在伊都一样;然而伊看见一点别的东西,使伊苦痛起来了:伊看见一个金闪闪的卷螺发的头,澄蓝的眼睛和一副年少清新的脸——这该便是那个,是人所特别颂扬的那个了。赛拉转过身去,为要正对着伊看,伊实在不见得丑。在伊这里,对于赛拉确可以发生一个危险的竞争者,因为伊有一点东西是赛拉所不能再有的——最初的青年的魔力。一种忧惧的感情将伊威逼的抓住了,伊再受不住对着这面貌更久的看。伊们为什么站在门口,伊们为什么不让伊只剩一个人呢?或者伊还应该给伊们一个“钉子”罢。
“这间屋是专为着完全的成人的。”伊说,向伊们转过背去。
女孩子懂了,便开了门,为的是要出去。但伊们出去时喃喃的说,赛拉听到了这句话:
“伊多少大模大样呵,这老处女!”
其时伊追问伊们,闪电一般,而且不及反省,便给那金卷螺发的一个发响的嘴巴。这瞬间,从聚着许多女士们的邻室中,起了一种惊愕的叫喊。
那金卷螺发的啼哭了。赛拉推伊出去,跟着关了门。
老处女!她们敢于叫伊老处女!血液涌上伊的头,而且在伊血管里发沸。痉挛的紧握了伊的手。伊的心动悸,伊的颞颥,伊的脉突突的跳了。伊从官能里,寻不出一个明白的思想来。在伊耳朵里只是反复的响着这不幸的言语:老处女!
伊无意的走到镜前面。阿,怕人,伊什么模样了!脸色灰白,眼睛圆睁,眼光粗野,脖颈紫涨了。这一照又使伊发起反省来。这形相是伊不能回到舞蹈厅里去的。伊试使伊平静下去,喝些水,又在房里面往来的走。伊听到音乐的合奏了。
老处女!伊们对伊不得再是这样叫!伊的最近的求婚者,材木商人,现就在场的。伊赶紧决了意,再喝一杯水,再向镜里看一回伊的像,见得那形相已经回复伊的平常模样了。伊匆匆的从桌上取起伊的扇子来,用快步走进大厅去。那时正奏“法兰西”,而且伊还没有被邀请。
伊站在厅门口的近旁,用眼光向四处只一溜。这里站着材木商人。赛拉招呼他过来:“我和你舞这‘法兰西’,倘你有这兴致?”伊同时微笑,伊相信,这话是给他一个大大的印象了。
材木商人诚实的鞠躬,然而冷冷的。“可惜我对于这娱乐定该放弃了,我这里已经约好了一位女士!”于是他退回去了。
对偶都排成了。许多先生们仿佛还没有女士,但没一个到伊这里来。这是什么意思呢?伊满抱了坏的猜疑向各处看。而且的确,现在伊觉得:女人都用了伊的眼光打量伊并且互相絮絮的说。人分明谈着梳装室里的事。但那些先生们也听到了这事么?这在伊,仿佛是绞住了伊的喉咙了。
人发一个信号,“法兰西”便开场。伊还是永远站在伊的地位上。伊内中满怀了忧惧。这能么?伊的确不被邀请么?这类的事在伊是未曾有过的!伊的眼前发了黑,伊仅能够支持了。各样变换的感情在伊这里回旋,被损的自负,气忿,苦痛,羞辱,最末是顾虑,怕伊的魔力会要永远过去了。这似乎一个重担子搁在伊身上。
当伊看见各对偶穿插的舞出变化多端的动作的时候,伊忽而觉得无力,至于怕要躺下了。女人们的近旁是一把空椅子,伊想走到那边去,但这瞬间又看到了乐祸的眼睛和叵测的微笑。伊缩住了,转向门口去。伊只得走了,出去,空地里!
伊穿上外衣,经过了整条的长路来到家里,自己并没有知道。待到进了伊的屋子里,这才慢慢的有起意识,能寻出清楚的思想来。伊究竟做了什么呢?不过惩治了一个倔强的女孩子。最先伊们又实在太不识羞了,但伊们自然不肯对人说。为什么大家相信伊们呢?为什么没有一个人来询问伊,究竟这事实是怎样的呢?唉,人们统统是这样之坏而且恶呵!
伊哭出来了,而且自己觉得平静点。伊觉得女人们统在伊的眼前,以及在伊们脸上的这高兴!人嫉妒伊,所以伊们喝着采。但那些向来先意承志的,伊的所有的崇拜家,伊的武士,在那里呢?他们也都是可怜的骗子。但伊要对他们报仇。伊决不再到宴会那里去,假使在街上遇到他们,伊也不看他们了,他们在这晚上还须想!
伊从此留在家里许多时。舞蹈会有了多次了;伊永是等候着,等人来通知,来约会,但是总没有这宗事。没有人到伊这里来,倘伊有时遇见了伊的旧相识,他们对伊也异常的冷淡而且拒绝。伊自然也不招呼了。
伊觉得不幸而且寂寞。伊未曾感受过,也并不知道,伊须怎样的救伊的忧愁。母亲是从早到晚管理着家务。赛拉不能帮助伊,这在伊觉得干燥,平常,没风韵!伊还不如坐在伊房里,做梦而且痴想,或者看些冒险的小说,借此忘却伊的生活的无聊。伊在这中间发见了伊的将来的新希望和新信仰。大公便是不来,也可以有一天有一个富足的高贵的旅客,看见伊而且即刻爱上伊的。他们即刻结了婚,而这富翁便携伊远走了去,这时市镇上的少年先生们可就要根本的懊恼了。
伊的避暑庄旁有一个小小的丘样的土堆,汽船在这前面经过。每逢好天气,伊便走到那里,白装束,披着长的卷螺发,头上戴一顶优美的夏帽子。伊躺在丘上面,用肘弯支拄起来,将衣服安排好许多的襞积,卷螺发的小圈子在肩膀周围发着光,而且那一只手,那支着脸的,是耀眼的白。在自己前面伊摊着一本翻开的书;但眼光并不在这里,却狂热的射在水面上。伊这样的等着伊的豪富的高贵的新郎,伊的幻想的目的。只要他在船上,他便应该看出伊在山上的了。他们看见而且感动而且赶到伊这里来,那只是一眨眼间的事。
船舶永远是驶过去,每天,望远镜和镜子正在照看伊;但伊仍然保着原模样,也不敢将眼光太向那边看;他该是狂热的在水面上远远地浮过去了。然而伊却也看,谁在船上,尤其是怎样的先生们;因为伊委实在他们中间搜寻着盼望者,豫想者,不识者,在他全生涯中对伊眷爱,崇拜,仰慕的人。
然而日子过去了。伊的热望更加强。伊永是切实的候在山上。星期去的快,夏天消失,秋天近来了。伊早不半躺在那里了,捏了手端正的坐着。眼睛早不止在水面上,却向那边搜索汽船去了。倘这一出现,伊便抱了恐怖和希望迎头的看,一直到近来。伊满腔恐惧的看那些伊在舱面上寻出来的各旅客。难道他永久不来么?
没有人来。人都回市镇去了。冬天携了他的长串的宴会又开首,——这时节,是伊向来满抱了欢喜的盼望,而且总是给伊新的胜利的。但现在多少各别呵!伊和市镇的“社会”早没干系了。现在伊满装了愤恚,从外面眺望着这生活和活动;人并不缺少伊,人不愿意和伊在一处。而且伊也不愿意迁就,无论如何——不能,也不愿的!伊尽其所能之多,咒骂那意见有这样坏这样下等的人间,并且为自己领到一种安静的封锁的生活里去。一个孤独的老女人的无欢的日子横在伊面前,早已无可挽救了。这一天一天的向伊逼进来的,是一件确实的事。在男人们的冷淡的招呼里,女人们的轻视的眼光里,伊读出这话来:老处女!而且这话对于伊的效力是蛇咬一般了。
接着这些年只是形成了一长串的无效的希望。伊的生活是没有采色的凄凉的灰色了。并没有发生一点事,来打断这单调,并没有高兴的印象来刷新伊的精神。伊当初是接连的瞒着自己的相信着,后来便不然,因为伊已经不希望了。然而又来了运命的一击,使伊的生活更加悲哀:伊的母亲死了,伊的唯一的扶助,伊的最末的朋友。伊没有一个可以申诉伊的忧患的人,没有一个为伊担心,没有一个问起伊的事。伊啼哭而且悲叹,伊不愿意饮食了。伊咒骂这嫌憎伊驱逐伊的,侮慢那除伊之外,对于一切全都大慈大悲的神明的世界。然而母亲躺着,又僵又冷,合着眼睛,死色盖了脸,没有听到伊的哀鸣。
终于是伊的气力耗尽了。伊再也不觉得悲哀或忧患。伊的心,伊的将来,一切啼哭和忧苦之后的伊的脑,是空虚了。伊并无感觉的坐在那里,而且向前看。债主到来,卖去伊的衣裳和家具,伊并不关心了。凡有不称心的事,都不能惹起伊的注意或愤激来。伊的房屋是荒凉而且空虚;但在伊也全一样。后来有人对伊说,伊应该搬走了。当初伊没有懂,人将这说给伊许多回;于是伊大声的笑了,歇了片时,凝视他们而且又是笑。
自此以后,伊便称为“疯姑娘”而且孩子们见伊便害怕。
最初,人给伊在蒸溜巷里备了一所住屋。伊搬到那边去,带着一张床,一张桌子和一个旧书架,这抽屉里放着打皱的造花,花带,糖果说明书,伊少年时候的照相和信札,是伊一直后来收集起来并且捆在一处的。
当伊后来搬出市外的时候,伊也带了这些东西去。在这些的观览时,伊便想到伊一生中短期的欢乐,而且暂时之间,忘却伊现在是一个老处女和“疯姑娘”。
勃劳绥惠德尔作《在他的诗和他的诗人的影像里的芬阑》(Finnland im Bilde Seiner Dichtung und Seine Dichter),分芬阑文人为用瑞典语与用芬阑语的两群,而后一类又分为国民的著作者与艺术的著作者。在艺术的著作者之中,他以明那亢德(Minna Canth)为第一人,并且评论说:
“……伊以一八四四年生于单湄福尔,为一个纺纱厂的工头约翰生(Gust. Wilh. Johnsson)的女儿,他是早就自夸他那才得五岁,便已能读能唱而且能和小风琴的‘神童’的。当伊八岁时,伊的父亲在科庇阿设了一所毛丝厂,并且将女儿送在这地方的三级制瑞典语女子学校里。一八六三年伊往齐佛斯吉洛去,就是在这一年才设起男女师范学校的地方;但次年,这‘模范女学生’便和教师而且著作家亢德(Joh. Ferd. Canth)结了婚。这婚姻使伊不幸,因为违反了伊的精力弥满的意志,来求适应,则伊太有自立的天性;但伊却由他导到著作事业里,因为他编辑一种报章,伊也须‘帮助’他;但是伊的笔太锋利,致使伊的男人失去了他的主笔的位置了。 |
しかしセイラは大公のことが気にかかり「わたしはもう選んだ」と思った。それは幻想であり大公に深い印象を抱いたのだ。彼はなぜ自分とだけ踊ったのか。いつか求婚に来るのではないか。いかなる自負をもって彼に誠実を語らずにいられようか。 |
第39節
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“两三年后,寻到第二个主笔的位置,伊又有了再治文事的机缘了。由伊住家地方的芬阑剧场的邀请,伊才起了著作剧本的激刺。当伊作《偷盗》才到中途时,伊的男人死去了,而剩着伊和七个无人过问的小孩。但伊仍然完成了伊的剧本,送到芬阑剧场去。待到伊因为艰难的生活战争,精神的和体质的都将近于败亡的时候,伊却从芬阑文学会得到伊的戏曲的奖赏,又有了开演的通知,这获得大成功,而且列入戏目了。但是伊也不能单恃文章作生活,却如伊的父亲曾经有过的一样,开了一个公司。伊一面又弄文学。于伊文学的发达上有显著的影响的是勃兰兑思(Georg Brandes)的书,这使伊也知道了泰因、斯宾塞、弥尔和蒲克勒(Taine,Spencer,Mill,Buckle)的理想。伊现在是单以现代的倾向诗人和社会改革家站在芬阑文学上了。伊辩护欧洲文明的理想和状态,输入伊的故乡,且又用了极端急进的见解。伊又加入于为被压制人民的正义,为苦人对于有权者和富人,为妇女和伊的权利对于现今的社会制度,为博爱的真基督教对于以伪善的文句为衣装的官样基督教。在伊创作里,显示着冷静的明白的判断,确实的奋斗精神和对于感情生活的锋利而且细致的观察。伊有强盛的构造力,尤其表见于戏曲的意象中,而在伊的小说里,也时时加入戏曲的气息;但在伊缺少真率的艺术眼,伊对一切事物都用那固执的成见的批评。伊是辩论家,讽刺家,不只是人生观察者。伊的眼光是狭窄的,这也不特因为伊起于狭窄的景况中,又未经超出这外面而然,实也因为伊的理性的冷静,知道那感情便太少了。伊缺少心情的暖和,但出色的是伊的识见,因此伊所描写,是一个小市民范围内的细小的批评。……”
现在译出的这一篇,便是勃劳绥惠德尔所选的一个标本。亢德写这为社会和自己的虚荣所误的一生的径路,颇为细微,但几乎过于深刻了,而又是无可补救的绝望。培因也说,“伊的同性的委曲,真的或想象的,是伊小说的不变的主题;伊不倦于长谈那可怜的柔弱的女人在伊的自然的暴君与压迫者手里所受的苦处。夸张与无希望的悲观,是这些强有力的,但是悲惨而且不欢的小说的特色。”大抵惨痛热烈的心声,若从纯艺术的眼光看来,往往有这缺陷;例如陀思妥也夫斯奇的著作,也常使高兴的读者不能看完他的全篇。
一九二一年八月十八日记。 【徒然的笃学】
【一】
【二】
【俄罗斯的童话】
【小引】
【俄罗斯的童话】
【一】
【二】
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「二、三年後、第二の主筆の地位を見つけ、彼女は再び文事に携わる機縁を得た。彼女の住まいの近くのフィンランド劇場からの招きにより、戯曲の著作への刺激が生まれたのである。彼女が『盗み』を執筆している最中に、夫が亡くなり、七人の顧みられぬ幼子を残して彼女は一人取り残された。しかし彼女はなおも戯曲を完成させ、フィンランド劇場へ送った。困難な生活の戦いのために、精神的にも肉体的にも敗亡に瀕した頃、彼女はフィンランド文学会から戯曲の賞を受け、上演の通知もあり、大いなる成功を収めて演目に入った。だが彼女は文筆のみでは生活できず、父がかつてそうであったように会社を興した。その傍ら文学にも携わった。彼女の文学の発達に顕著な影響を与えたのはブランデス(Georg Brandes)の著書で、これによってテーヌ、スペンサー、ミル、バックル(Taine, Spencer, Mill, Buckle)の思想をも知った。彼女は今や専ら近代的傾向の詩人であり社会改革者としてフィンランド文学に立っていた。彼女はヨーロッパ文明の理想と状態を弁護し、それを故郷に輸入し、しかも極端に急進的な見解をもってした。さらに彼女は被圧迫人民の正義のために、貧者が権力者と富者に抗するために、婦人とその権利が現今の社会制度に抗するために、博愛の真のキリスト教が偽善の文句を衣とする官製キリスト教に抗するために加わった。彼女の創作には冷静で明晰な判断、確固たる奮闘の精神、そして感情生活への鋭くかつ精緻な観察が示されている。彼女には旺盛な構成力があり、とりわけ戯曲の意象に表れているが、小説にもしばしば戯曲的な気配が加わっている。しかし彼女には真率な芸術的眼が欠けており、一切の事物に固執した成見の批評をもって臨んでいる。彼女は弁論家であり、風刺家であって、単なる人生の観察者ではない。彼女の眼光は狭隘であり、これは彼女が狭隘な境遇に生まれ、そこを超えなかったからのみならず、実にその理性的な冷静さのために感情をあまりに少ししか知らなかったからでもある。彼女には心情の温かさが欠けているが、識見に優れており、従って描くところは小市民の範囲内での細かな批評である。……」
現在訳出したこの一篇は、ブラウスヴェッテルが選んだ一つの標本である。カントがこの社会と自らの虚栄に誤られた一生の径路を書いたのは、甚だ微細であるが、ほとんど深刻に過ぎ、しかも救い難い絶望である。ペインも言っている、「彼女の同性の委曲、真実のあるいは想像上のものが、彼女の小説の不変の主題である。彼女は哀れな柔弱な女が天然の暴君と圧迫者の手中で受ける苦しみを語ることに倦むことがない。誇張と望みなき悲観が、これらの力強いが、しかし悲惨にして不快な小説の特色である。」およそ惨痛にして熱烈な心声は、純芸術の眼光から見れば、往々にしてこの欠点を持つ。例えばドストエフスキーの著作も、しばしば愉快な読者にはその全篇を読み通させないのである。 一九二一年八月十八日記す。 【徒然なる篤学】 【一】 「アブラハムほど怠惰な者がまた居ようか。朝から晩までただ本を読むばかりで、何もしない。」 近隣の人々はこのように言って、若きアブラハム・リンカーンを嘲笑した。これも無理からぬことであった。なぜならば当時まだ新開地であったイリノイ州では、人々は丸太小屋に住み、耕作と牧畜の多忙な労役の中で日を過ごしていたからである。しかるにとりわけ長身のアブラハムは、蓬髪のまま書物にかじりつくばかりで、その有様は確かに人々に如何ともしがたく、また見ていられぬ感想を与えた。かくして「怠け者のアブ」という呼び名が、彼の通り名となった。 私がかの有名なサイアの『リンカーン伝』でこの話を見た時、思わず驚いた。あの頃私はまだ第一高等学校の学生であった。それから将に二十年近い歳月が過ぎた。今ふと回想して、この故事を思い出すと、しみじみとこの文字の中の深遠な教訓を味わうのである。 読書という一事と、いわゆる勤勉とは、断じて同じではない。それはちょうど散歩が必ずしも休養ではないのと同じである。読書の真の意義は、我々がいかに読むかにある。 我々はしばしば読書の意義を過重に見る。ただその人が書物を好むと聞けば、それは善いことだと即断する。すると本人もそう思い込んで、もはや疑問を抱かない。さらに一歩進んで、その読書がまったく徒労ではないかと反問することもない。この反省なき習慣的努力の中から、いったいどれほどの人生の悲劇が生まれたことか。我々は読書の内容を仔細に研究すべきである。 【二】 リンカーンのように読書癖ゆえにあれほど有名な大統領になった例もある。しかしそれは、彼が漫然と読書したのではなかったからであり、全精神を傾注した真摯さをもって読んだからである。彼は燃えるがごとき情熱で、あらゆる書物から真理を探索したのだ。読んでは読む一頁一頁のすべてが、彼の血と肉になった。 しかし私自身は、読書をそのように窮屈なものとしてのみ見ることを好まない。このように非常に骨の折れる読書のほかに、「悠然として南山を見る」ような読書もあり得る。だから趣味を主とする読書についても、趣味を主とする囲碁や球技のように、陶然たる心境に達し得ることを認めてよかろう。 ただここで、もう一つの感想を記しておきたい。それは読書を畢生の事業としながら、ついに真義を悟り得なかった哀れな生涯のことである。これは一つの顕著な実例をもって述べることができる―― イギリスの大歴史家の中に、アクトン卿(Lord Acton)がいる。彼は一八三四年に生まれ、一九〇二年に没した。さほどの短命とは言えまい。彼は名門に生まれ、国内外の学窓を遊歴する機会を得て、天賦の頭脳は磨かれた璞玉のごとく輝いた。南イタリアと南フランスに心を寄せた彼は、大方は霧の濃いロンドンの冬を避け、オリーブの花咲く地中海沿いで書を読んだ。書斎には整然と約七万巻の図書が並び、そのどの一部一巻にも彼の手跡が残されていたという。しかも余白にはなお鉛筆の細字で、種々の意見と校勘が記されていた。彼の無尽蔵の知識には、驚嘆しない者はなかったと伝えられる。イギリスの学問を従来さほど重んじなかったドイツやフランスの学者たちも、ひとりアクトン卿の博学にだけは敬意を表した。彼はグラッドストンの親友で、常に往来して時事を論じた。政治を歴史の一過程と見なしたため、その談論には誰も容易に企及し難い深い味わいがあった。 しかしながら、政治家としての彼は何も成し遂げなかった。それは彼の学者にあまりにも近い性格が累をなしたのだと弁解することもできよう。だが歴史家としても、死に至るまで何の著作も遺さなかった。この一事は我々を甚だ驚かせる。蟻のごとく勤勉なこの碩学は、かくも恵まれた教養を受け、かくも余裕ある生活を送りながら、一巻の伝世の書も遺さなかった。そこに深い教訓が含まれてはいまいか。 甚だ貧窮で早逝したリチャード・グリーン(John Richard Green)は、イギリス史に新生面を開いた。我が薄命の史家頼山陽も、決して長寿とは言えない。しかし二人とも後世の青年を奮起せしめる事業を遺した。しかるにアクトン卿は、無尽蔵の知識を徒に墳墓の中へ持ち込んだにすぎなかった。 これは明らかに一つの悲劇である。 彼は六十余年の精力を傾けて世界人文の記録を蓄積して死んだ。しかし彼の友人モーリー卿は大いに嘆じて、弟子たちの編纂した四巻の講義録からさえ、一つの創見も見出し得なかったと言った。 彼の生涯には、人類の最上の力たる「創造力」が欠けていた。彼はゴビの砂漠が流水を吸うように知識を吸収し、しかも一泓の清泉すら地上に噴き出すことができなかった。 同時代の哲人スペンサーは書物を嫌うことで有名であった。ほとんど読書をしなかった。しかしスペンサーは多くの大著を成した。これは彼が徒なる篤学者ではなかったからである。 (一九二三年十月十二日。) 【ロシアの童話】 ソ連 ゴーリキー 作 【小引】 これは私が昨年の秋から陸続と訳出し、「鄧当世」の筆名で『訳文』に投稿したものである。 第一回には次のような『後記』があった―― 「ゴーリキーその人と作品は、中国ではすでに広く知られており、多言を要しない。 「この『ロシアの童話』は全十六篇、各篇独立しており、『童話』とは称するが、実はロシア国民性の種々の相をあらゆる方面から描いたもので、子供向けに書かれたものではない。発表年代は詳らかでないが、恐らくは十月革命以前の作であろう。今、日本の高橋晩成の訳本より重訳す。原書は改造社版『ゴーリキー全集』第十四巻に収む。」 第二回には、第三篇について次のような『後記』二段があった―― 「『ロシアの童話』の中で、今回のものは最も長い一篇である。主人公たちの中で、この詩人は比較的まともな一人である。なぜなら彼は結局のところ、活きた死人を装って食うことを潔しとせず、やはり葬儀屋に戻って真の死者のために尽力したからである。もっとも大半は、彼の子供たちがことごとく取り巻きの『批評家』同様、みな赤毛であったせいかもしれないが。作者は彼に対していくらかの宥恕を持っているように見える――そして彼は確かに宥恕に値する。 「今の一部の学者は言う、文語と白話には歴史がある、と。これは間違いではない。我々は書物の上でそれを見ることができる。しかし方言土語にもまた歴史がある――ただ誰も書き留めなかったにすぎない。帝王卿相には家譜があり、確かに祖先のあることを証明している。しかし貧者や奴隷に家譜がないからといって、祖先がないことの証拠にはならない。筆はある種類の人間の手にのみ握られているから、書かれたものはどうしても怪しくなる。昔の文人哲士は記録においてもいやに高雅であった。ゴーリキーは下層の出で、書物を読み、字を書き、文章を綴り、しかも巧みに綴ることを覚え、出会った上流の人も少なくなく、しかも上流人の高い台上から見下ろすことなく、かくして多くのからくりが見破られた。もし上流の詩人が自ら書いたなら、決してこのようにはなるまい。我々はこれを一つの参考として見よう。」 以降第九篇まで、ずっと『後記』は書かなかった。 しかし第九篇以降もまた掲載されなかった。時には後記を書いたこともあったと記憶するが、原稿を残さず、自分でも何を言ったか覚えていない。訳文社に手紙で問い合わせたが、返答はいつも曖昧模糊として訳がわからなかった。ただし私の訳稿には控えがあるので、本文は完全である。 今回の重訳に私は甚だ不満である。ただ他に訳本がないゆえ、さしあたり空地に雄を称するのみ。もし原文から訳す者が現れれば、必ずはるかに優れたものになるだろう。その時は私は欣然として消滅する。 これは謙遜ではない。真に望んでいることである。 一九三五年八月八日の夜、魯迅。 【ロシアの童話】 【一】 一人の青年が、これは悪いことだと知りながら、自らに言った―― 「俺は頭がいい。博学者になれるだろう。こんなことは俺たちには造作もない。」 彼はかくして大部の書物を読みはじめた。彼は実際愚かではなく、いわゆる知識とは多くの書物から手軽に証拠を引き出すことだと悟った。 彼は多くの難解な哲学書を読み通し、近視になるまでに至り、しかも得意げに眼鏡で赤くなった鼻をそびやかして、皆に宣言した―― 「ふん、俺を騙そうとしたって騙せやしない。俺の見るところ、いわゆる人生とは、自然が俺のために設けた羅網にすぎぬ。」 「では、恋愛は?」と生命の霊が問うた。 「ああ、ありがたい。しかし幸いにして俺は詩人ではない。あらゆるチーズのために、逃れ得ぬ義務の鉄柵に潜り込んだりはしない。」 しかし結局のところ彼にはさして特別な才能もなく、やむなく哲学教授になることに決した。 彼は文部大臣を訪ねて言った―― 「閣下、私は人生に実は意味がなく、自然の暗示にも服従の必要がないことを講述できます。」 大臣はしばし考え、この言葉に一理ありと見た。 そこで問うた―― 「では、上司の命令には服従の必要があるかね?」 「申すまでもなく、当然服従すべきです」と哲学者は書物で磨り減った頭を恭しく垂れて言った。「これこそ『人類の欲求』と申すものです……」 「うむ、そういうことなら講壇に上がりたまえ。月給は十六ルーブルだ。ただし、もし私が自然法を教授の材料とするよう命じた時には、いいか――自由思想は捨てて、従うのだぞ。これは断じて仮借しない。」 「我々、今の時勢に生き、国家全体の利益のためには、自然の法則をも実在のものと見なすのみならず、有用なものとさえ認めるべきかもしれません――部分的に。」 「ふん、何だと。誰にわかるものか。」と哲学者は心の中で叫んだ。 しかし口からは一言も漏らさなかった。 こうして彼は地位を得た。毎週一時間、講壇に立ち、多くの青年に述べた。 「諸君、人間は外からも内からも束縛されている。自然は人類の仇敵であり、女は自然の盲目なる器械である。これらの事実から見て、我々の生活はまったく無意味である。」 彼は思索の習慣を持ち、しかもしばしば熱弁を振るって、なかなか立派で誠実そうに見えた。若い学生たちは喜んで喝采した。彼は恭しく禿頭を下げた。小さな赤い鼻が感激に輝いた。こうしてすべてが甚だ具合よく収まった。 食堂の食事は彼には有害であった――すべての厭世家同様、彼は消化不良に苦しんだ。そこで妻を娶り、二十九年間家庭で食事をした。勉学の余暇に、自らも気づかぬうちに四人の子を儲けたが、やがて死んだ。 若い夫を持つ三人の娘と、世界中のあらゆる女性を愛する詩人の息子とが、恭しくまた悲しげに柩の後に従った。学生たちは「永遠の記念」を歌った。声高く、快活に、しかし甚だ下手であった。墓地では故人の同僚の教授たちが見事な弔辞を述べ、故人の純正哲学には体系があったと言った。万事堂々として盛大で、一時は殆ど人を感動させる場面となった。 「爺さんもとうとう死んだか」墓地から散っていく時、一人の学生が友に言った。 「彼は厭世家だったからな」もう一人が答えた。 「おい、本当か」第三の者が訊いた。 「厭世家だよ、頑固じいさん」 「ほう、あの禿げ頭がか。俺は気づかなかったぞ」 第四の学生は貧しく、急いで訊ねた―― 「弔いの席に招いてもらえるだろうか」 招かれた。彼らは招かれた。 この故教授は生前多くの立派な書物を著し、熱烈に、美しく、人生の無価値を証明した。売れ行きは上々で、人々は満足して読んだ。何はともあれ――人は美しいものをいつも愛するのだ。 遺族は恙なく穏やかに暮らした――厭世主義にもまた、穏やかさを助ける力がある。 弔いは甚だ盛大であった。かの貧しい学生は、見たこともないほどに大いに食った。 帰宅して、穏やかに微笑み、思った―― 「うむ、厭世主義も役に立つものだ……」 【二】 もう一つ、こういう話がある。 |
第40節
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有一个人,自以为是诗人,在做诗,但不知怎的,首首是恶作。因为做不好,他总是在生气。
【三】
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ある男がいた。自分は詩人だと信じて詩を作っていたが、どうしたことか、いつも駄作ばかりであった。うまく書けないので、彼はいつも腹を立てていた。 ある時、市中を歩いていると、道に鞭が一本落ちているのを見た――おそらく馭者が落としたものであろう。 詩人はこれでインスピレーションを得て、急いで詩を作った―― 道端の塵の中に、黒い鞭のように、 蛇の屍が押し潰されて横たわっている。 その上を蠅がぶんぶんと凄まじく鳴き、 その周囲に甲虫と蟻が群がっている。 裂けた鱗の間から、 白く細い肋骨の輪が見える。 蛇よ、お前は私に思い出させた、 死んだ私の恋を…… その時、鞭がその尖った先で立ち上がり、左右に揺れながら言った―― 「おい、なぜ嘘をつくんだ。お前、今も女房がいるじゃないか。道理はわきまえるべきだろう。嘘をついているぞ。おい、お前は失恋なんかしたことがないだろう。お前は女房が好きで、女房を怖がっているんじゃないか……」 詩人は腹を立てた。 「お前にこんなことがわかるものか。」 「それに詩にもなっていない……」 「お前たちにはこれっぽっちのことも作れまいが。お前はぴゅうぴゅう鳴る以外に何の能もないし、しかもそれすらお前自身の力ではないのだ。」 「しかし、とにかく、なぜ嘘をつくのだ。失恋なんかしたことがないだろう。」 「過去のことではない、将来のことだ……」 「ふん、それじゃお前は女房に叩かれるぞ。俺をお前の女房のところへ連れて行け……」 「何だと、自分で待っていろ。」 「好きにしろ。」と鞭は叫んで、ばねのように丸く巻いて道に横たわった。そして人間のことを考えた。詩人もまた酒場に入り、ビールを一本注文し、自分もまた黙想を始めた――ただし自分自身のことについて。「鞭だって、廃物にすぎない。だが詩が下手だというのは確かだ。不思議だ。いつも駄作ばかりの人もいるが、たまたま佳作を作る人もいる――この世では何もかもが不規則なのだろう。つまらぬ世の中だ……」 彼は端座して飲み始め、かくして世間に対する認識は次第に深まり、ついに堅固なる決心に達した――世事をありのままに言うべきだ、すなわち、この世のものは何一つ役に立たぬ、と。この世に生きていること自体が人類の恥辱である、と。彼はこのようなことを一時間余り沈思し、それからようやく書いたのは、次のような詩であった―― 我らの悲しみに満ちた多くの希望のまだらな鞭が、 我らを「死せる蛇」のとぐろの中に追い込み、 我らは深い霞の中を彷徨う。 ああ、己が希望を打ち殺せよ。 希望は我らを遠い彼方へ欺き導き、 我らは恥辱の荊棘の道を引きずられ、 一路凄愴として心を傷つけ、 とどのつまりは一人残らず死に絶えるであろう……。 このような調子で二十八行を書き上げた。 「これは素晴らしい。」と詩人は叫び、自ら甚だ満足して、家に帰った。 帰宅してこの詩を女房に読んで聞かせると、彼女もまた気に入った。 「ただね」と彼女は言った。「冒頭の四行がどうもこう……」 「何を言う、これでいいのだ。プーシキンだって、書き出しは嘘だらけだ。それにあの韻脚のひどいことときたら。まるでパニヒダ〔葬送の祈り〕のようではないか。」 かくして彼は自分の息子たちと遊びに行った。子供を膝に乗せて、あやしながら、テノールで歌い出した―― 飛び込んだ、跳び込んだ、 他人の橋の上に。 ふん、俺は金持ちになって、 自分の橋を架けてやる、 誰にも渡らせないぞ。 彼らは甚だ楽しい一夜を過ごした。翌日、詩人は原稿を編集者のもとへ持って行った。編集者は深遠なる言葉を語った。編集者というものはもともと思想が深いのである。だから雑誌の類も読み通せないものになるのだ。 「ふうむ」と編集者は自分の鼻をこすりながら言った。「もちろん、これは悪くない。要するに、時代の心情にまことにふさわしい。実にふさわしい。うむ、そうだ、君はおそらく自分自身を発見したのだ。では、このまま書き続けたまえ……一行十六コペイカ……四ルーブル四十八コペイカ……おお、おめでとうおめでとう。」 やがて彼の詩が出版され、詩人は自分の命名日のように喜び、女房は熱烈に接吻し、しかも媚びるように言った―― 「私の、私の愛しい詩人さま。ああ、ああ……」 彼らはこうして楽しく幸せに暮らした。 しかし、ある青年が――甚だ善良で、熱烈に人生の意味を求めていた青年が、この詩を読んで自殺した。 彼は信じていた。この詩を作った人は、人生を否定する以前に、彼と同じように苦悩し、人生の中にその意味を長く求め続けたのだと。彼はこの陰鬱なる思想が一行十六コペイカで売られたことを知らなかった。彼はあまりにも正直であった。 しかし、読者がこう考えることのないよう私は切に望む。すなわち、私が言おうとしているのは、鞭のようなものでさえ時に人々に有益に使われ得る、ということではない。 【三】 エフスティグナ・サヴァーギンは長らく静かな謙虚と慎ましい羨望のうちに暮らしてきたが、突如として思いがけなく有名になった。その顛末はこうである。 ある日、豪奢な宴会の後、最後の六グリヴナを使い果たした。翌朝目覚めると、まだ宿酔の気分が悪かった。疲れきった彼は、慣れた仕事に向かった。すなわち「匿名葬儀館」のために詩で広告を作ることである。 机に向かい、汗をだらだら流しながら、自信を持って書き上げた―― あなたの首と額はさんざん殴られ、 とどのつまりは暗黒の棺の中に横たわる…… あなたが善人であれ悪人であれ、 いずれにせよ墓地へ運ばれるのだ…… あなたが真実を語ろうと虚言を弄そうと、 いずれにせよ、あなたは死ぬのだ。 このように一アルシン半ほど書いた。 彼は作品を「葬儀館」に持って行ったが、あちらでは受け取らなかった。 「申し訳ないが、これではとても印刷できません。多くの故人が棺の中で恨んで震え出すかもしれません。それに死でもって生者を訓戒する必要はありません。時が来れば自ずと死ぬのですから……」 サヴァーギンは途方に暮れた。 「ちぇっ、何を言うか。死者のためには心配し、墓碑を立て、供養もするが、生きている俺は――餓死しても構わないと言うのか……」 沈んだ気持ちで街を歩いていると、ふと目に入ったのは一枚の看板であった。白地に黒い字で―― 「送終。」 「ここにもまだ葬儀館があったのか。まったく知らなかった。」 エフスティグナは大いに喜んだ。 しかしそれは葬儀館ではなかった。 |
第41節
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“哼……谁的都一样——”
【四】
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「ふん……誰のだって同じだ――」 私とあなたは一心同体だ。 二人はこれより永遠に合一した。 これは死の賢明なる命令、 互いに死の奴隷であり、 死の従僕である。 「しかし、とにかく、私の個性は決してあなたに圧倒されはしない。」彼女は妖艶な語調で先手を取って言った。「それから、その従僕だけど、私が思うに『従』の字と『僕』の字は、吟じる時に長く引くべきだわ。でもこの従僕は、私にはどうもまだしっくりこないの。」 スメルチェルシーゲン〔消滅断絶根〕はなおも彼女を征服せんとして、もう一首詠んだ。 命ありて死すべき我が妻よ、 我らの「自我」とは何ぞ。 有るも善し、無きも善し―― すべて同じではないか。 動くも善し、静かなるも善し―― 汝の必死は不変なり。 「いいえ、こんな詩は他の人に書いてちょうだい。」と彼女は落ち着いて言った。 多くの時が過ぎ、このような衝突が幾度も続いた後、スメルチェルシーゲンの家に思いがけず子供が生まれた――女の子であった。するとジンホートラはたちまち命じた―― 「棺桶の形をした揺りかごを注文しなさい。」 「それはやりすぎではないか、ジンホーチカ。」 「いいえ、だめよ。注文しなさい。もし批評家や世間から日和見だとか当てにならないとか攻撃されたくないなら、主義は厳守しなければ。」 彼女は極めて家庭的な主婦であった。自ら胡瓜の漬物を作り、さらに夫の詩に対するあらゆる批評を丹念に集めた。攻撃的な批評は破り捨て、称賛のものだけを一冊にまとめ、著者賛美家の金で出版した。 食事がよかったので、彼女はふくよかな女になった。その眼はいつも夢見るようにぼんやりとして、男たちの宿命的な情熱の欲望をかき立てた。彼女はあの屈強な赤毛の常連の批評家を招き、自ら並んで座らせ、ぼんやりとした瞳を彼の胸に向けて射た。わざと鼻声で夫の詩を読み、それから感嘆させようとするかのように訊いた―― 「深遠でしょう? 強烈でしょう?」 その男は初めのうちはただ唸るように頷くばかりであったが、やがてあの名状しがたい深遠さをもって我ら哀れなる人間の所謂「死」という暗黒の「秘密」の深淵に突入するスメルチェルシーゲンに対して、毎月炎のごとき評論を書くようになった。しかも彼は玲瓏たる玉のごとき純真の愛をもって死を愛した。その琥珀のごとき魂は「存在の無目的」というおそるべき認識に沈むことなく、かえってその恐怖を愉快なる号召と平静なる歓喜に変え、すなわち我らの盲目なる魂が「人生」と呼ぶ不絶の凡庸を消し去らんとした。 赤毛の人物――彼は思想において神秘主義者にして耽美家、職業においては理髪師であった。姓はプロハルチョーク。――の懇切なる助力を得て、ジンホートラはさらにエフスティグナのために公開の詩歌朗読会を催した。彼は高い壇上に現れ、両脚を左右に開き、羊のような白い目で人々を見据え、褐色の雑物の生えた角ばった頭をかすかに揺らし、冷然と読み上げた―― 人たる我らは、死後の 暗黒世界へ旅する駅のごとし…… 汝らの荷物が少なければ少ないほど、 汝らにとっては軽く便利であろう。 思考するな、平凡に生きよ。 もし謙虚ならば、おのずと純朴となる。 揺りかごから墓場への道は短い。 人生のために、死は御者の務めを果たしている。 「よいぞよいぞ」と十分に満足した民衆が叫んだ。「ありがとう。」 そして互いに言い合った―― 「なかなかうまいじゃないか、あの男は。あんなぱっとしない奴なのに。」 スメルチェルシーゲンがかつて「匿名葬儀館」のために詩を作っていたことを知る者もそこにいた。もちろん今なお彼のあれらの詩は「同館」の広告のために作られたものだと思っているが、一切の事柄にまったく無頓着なため、ただ「人は食わねばならぬ」という一事だけを胸に秘めて、もはや口を開かなかった。 「しかし、もしかしたら俺は本当に天才なのかもしれない」とスメルチェルシーゲンは民衆の喝采を聞いた後にこう思った。「いわゆる『天才』とは、結局のところ何なのか、誰にもわからぬではないか。ある人々は天才とは知力の欠けた人間だと思っている……だが、もしそうなら……」 彼は知人に会っても健康を尋ねず、「いつ死ぬのだ」と訊くようになった。この一事もまた、皆からより大なる賞賛を得た。 夫人はさらに客間を墓場のように設えた。安楽椅子は墓地の丘のような淡い緑色に仕立てられ、周囲の壁にはホイエの絵の模写を額に入れて掛けた。すべてホイエの絵であり、そのほかにヴェルツの絵もあった。 彼女は自慢して言った―― 「うちでは子供部屋に入っただけでも死の気配を感じますの。子供たちは棺桶の中で眠り、乳母は尼僧のような格好で――そう、白い糸で髑髏やら骨やらを刺繍した黒い長い胴着を着ていますの。まことに結構なことですわ。エフスティグナ、どうかご婦人方を子供部屋にご案内して。殿方は寝室へどうぞ……」 彼女は穏やかに微笑み、皆を寝室の調度を見に案内した。石棺のような寝台には、銀白の房飾りをたくさんつけた黒い棺の覆いが掛かっていた。さらに樫の木で彫った髑髏がそれを締めていた。装飾は――微細な白骨の数々で、墓地の蛆虫のようにふざけ戯れていた。 「エフスティグナは」と彼女は説明した。「自分の理想に引き込まれて、屍衣を被って寝ておりますのよ。」誰かがぎょっとした―― 「屍衣を被って寝る?」 彼女は憂いを帯びてかすかに微笑んだ。 しかしエフスティグナの心の中はまだ素直な青年で、時に覚えず思うのであった―― 「もし俺が本当に天才なら、これはどういうことだ。批評はスメルチェルシーゲンの影響だの詩風だのと言うが、しかしこの俺は……俺はそんなものを信じない。」 ある時、プロハルチョークが筋肉を動かしながら駆けてきて、彼を凝視した後、低い声で訊いた―― 「書いたかね。もっとたくさん書きたまえ。外のことは奥様と私が取り計らうから……ここの奥様は実にいい女だ。敬服するよ……」 スメルチェルシーゲン自身も、とうにこのことには気づいていた。ただ暇がなく、また平穏を好む心から、この事について何の手も打とうとしなかった。 しかしプロハルチョークは、あるとき安楽椅子にどっかと腰を下ろし、懇々と言った―― 「兄弟、俺にどれだけ胼胝ができたか、どんな胼胝かわかっているだろう。ナポレオンの体にだって、こんなのはなかった。」 |
第42節
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他在愤慨。但病魔却一面钻着他的骨头,一面在耳朵边低语着——
【五】
【六】
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彼は憤慨していた。しかし病魔は一方で彼の骨を蝕みながら、一方で耳元に囁いた―― 「お前は震えているのか、うん? なぜ震えるのだ? 夜眠れないのか、うん? なぜ眠れないのだ? 悲しくなると酒を飲むのか、うん? だが嬉しくなっても酒を飲むのではないか?」 彼はひどく歪んだ顔を作り、かくして観念した。「仕方がない。」と。すべての自分の小説に別れを告げ、死んだ。万分の不本意ながら、しかし死んだ。 さて、皆は彼をきれいに洗い、着物を着せ、髪をぴかぴかに梳き、台の上に安置した。 彼は兵士のように踵を揃え、両手を合わせ、まことに厭世的な表情で横たわっていた。実に立派であった。近隣の人々が見物に来ては静かに嘆息して帰った。窓の外を馭者が通りかかり、馬を止めて覗き込んでこう言った―― 「なんとまあ、見事な死にざまだ。まるで本物の将軍のようだ。」 女房は泣きに泣き、子供たちも泣き、猫さえ隅で悲しげに鳴いた。 しかし彼の霊は体を離れるとすぐに「死」に出会った。「死」はいかにも疲れた様子で木陰に腰かけていた。 「ようこそ」と「死」は言った。「新入りだな。」 「はい、たった今参りました。」 「こちらの暮らしはどうだ。」 「まだ何とも。着いたばかりですので。」 「まあ、慣れるさ。皆そう言うものだ。」 「死」は欠伸をした。 「つまらぬのだ。生きている連中は俺を恐れるが、死んだ連中は俺に構いもしない。まったく割に合わぬ商売だ。」 彼は黙って頷いた。生前あれほど死を歌いながら、死の当人と面と向かうと何を言ってよいかわからなかったのだ。 |
第43節
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爱戈尔加很高兴!真是拚命,弄得汗流浃背,将书本子区别开来,只剩下书面,各种动人的事实,堆得象山一样,拉到他主人那里去。主人称赞他道——
【七】
【八】
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エゴールカは大喜びだった。まさに必死で、汗だくになりながら書類を分類し、表紙だけを残し、さまざまな感動的事実を山のように積み上げて主人のもとへ運んだ。主人は褒めて言った―― 「がんばれ。立憲政治が成功したら、お前に大きな自由党新聞の編集をやらせてやるぞ。」 胆が大きくなった彼は、自ら最も知識ある農民たちのもとへ宣伝に出かけた―― 「それからな」と彼は言った。「ローマのグラックス兄弟、そしてイギリスでも、ドイツでも、フランスでも……これらはみな歴史上必要なことなのだ。エゴールカ、事実を持って来い。」 エゴールカはまた走り出した。 だがある日、にこにこしながら事実を運んでいると、前方から二人の者がやって来た。一人は背が高く、もう一人は太っていた。二人は主人のもとへ入り、しばらくして出てきた。 主人は書斎から呼んだ―― 「エゴールカ。」 「はい。」 「この事実を全部片づけろ。もう要らない。」 「どうしたのですか。」 「立憲政治は無くなった。」 エゴールカは驚いた。 「そんな馬鹿な。つい昨日まで……」 「昨日は昨日、今日は今日だ。さっさと片づけろ。」 エゴールカは事実を片づけ始めた。山のようにあった事実を一つ一つ元の場所に戻した。しかし戻すのは積み上げるよりずっと骨が折れた。なぜなら事実というものは、一度山から出ると元に戻りたがらぬものだからである。 |
第44節
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黑头发摇摇头,仍旧去做他自己的事,又为了给吃公家饭,送进牢监里去了。真是清清楚楚,良心也干净。
【九】
【十】
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黒髪の男は首を振り、やはり自分の仕事を続けた。そしてまた公費で飯を食わされるために牢獄に送り込まれた。まったく明白で、良心もきれいなものだ。 釈放されると、彼はまた仲間のもとへ行った――二人は互いに愛し合っていたのだ。 「まだ駆除しているのか。」 「ああ、もちろん……」 「可哀そうだと思わないのか。」 「だから腺病質のやつだけを選んでいるのだ……」 「区別しないわけにはいかないのか。」 赤毛は黙って、ただ沈痛な嘆息を吐くばかりで、しかも赤い色が薄れて黄色くなっていた。 「お前はどうやっているんだ。」 「ああ、これがまた……俺は言っただろう……単純に――虱を殺すように……」 「全部か。」 「全部だ。いや、全部ではない。半分ほどだ。ああ、兄弟、もう参ったよ。気の毒で気の毒で――俺は間もなく真っ白になってしまうだろう。」 黒髪は何も言わなかった。ただ煙草を吸い、遠くを見つめていた。 「お前は」と赤毛が訊いた。「後悔しないのか。」 「後悔する」と黒髪は静かに答えた。「ただし人間としてであって、仕事としてではない。」 「同じことじゃないか。」 「いや、違う。」 二人は黙った。鶏が鳴き、朝が来た。二人はまた仕事に出かけた。 |
第45節
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“不错,朋友,那是我们的生命呵!有各色各样的……一切事物,都有缺陷,摇摆着身子,但躺起来,那一边向下好呢,我们不知道……不能挑选,是的……”
【十一】
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「そうだとも、友よ。それが我らの命というものだ。さまざまなものがある……一切の事物には欠陥があり、体を揺すっているが、横になった時にどちらを下にすればよいか、我々にはわからぬ……選ぶことはできないのだ、そうだ……」 イエモンはまた嘆息した。彼もまた人間であり、祖国を愛し、それに頼って生きていた。さまざまな危険な思想がイエモンを動揺させた―― 「人民を柔和で従順なものとして見るのは甚だ愉快なことだ――まったくその通り。しかし皆が抵抗をやめたなら、日光浴や旅行の費用も省けるではないか。いや、住民が死に絶えることはあるまい――朦朧の中で……この匪賊どもの中で……」 彼は考えた。すべてが混乱している。正直な男で、祖国を愛してはいたが、祖国が彼に与えたものは不安と動揺とさまざまな思想ばかりであった。 しかしイエモンはまた嘆息して言った―― 「もう寝よう。明日はまた忙しい。」 「何をするのだ。」 「いつもの通りだ。人民を柔和で従順なものとして見る仕事だ。」 彼はベッドに入り、すぐに眠った。夢の中でも嘆息していた。 |
第46節
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“这发红的科曼提人!伊罗可伊人!”
【十二】
【十三】
【十四】
【十五】
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「この赤いコマンチ族め。イロコイ族め。」 しかし彼らはまた一斉に水たまりの中に入って座り込んだ。彼らの中で最も賢い一人が言った―― 「同僚諸君、自分たちの仕事をしよう。あの少年のことは忘れたまえ。きっと変装した社会主義者に違いないのだから……」 ああ、ミーチャ、愛すべき人よ。 【十二】 イワノヴィチ一族と呼ばれる者たちがいた。甚だ奇妙な人民であった。いかなる事に遭おうとも、決して驚かないのだ。 彼らはおよそ自然法則に従わぬ「軽率」の狭い包囲の中で暮らしていた。 「我々の気持ちは」と彼らは自らのことを語った。「愉快千万だ。」 ある朝、日が昇ると、町の真ん中に深い穴が開いた。 「何だこれは」と町の人々は言った。 「穴だ」と最も賢い者が答えた。 「ふうむ、穴か。」 人々は穴の周りに集まり、覗き込んだ。暗くて底が見えない。 「この穴をどうしよう。」 「ごみ捨て場にしよう」と一人が提案した。 皆は喜んだ。ごみをどんどん穴に捨て込んだ。穴はすべてを呑み込み、いっこうにいっぱいにならなかった。 「すばらしい穴だ」と人々は言った。「ごみがいくらでも入る。」 やがて彼らは古い家具も壊れた荷車も、役に立たなくなったものは何でも穴に投げ込んだ。穴は黙ってすべてを受け入れた。 |
第47節
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忽然间一个兵丁跑来了。
【十六】
【五 历史底兴味和艺术】
【a 历史画家】
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突然、一人の兵士が駆けてきた。 誰もが知っている通り、兵隊さんは何も恐れぬものだ。彼は妖魔を蹴散らし、暗い物置や深い井戸の中へ押し込み、川の氷の穴へ追い込んだ。そして懐に手を入れ、およそ百万ルーブルを取り出し、しかも惜しげもなくミカイーシカに渡した―― 「おい、持って行け。貧乏人よ、銭湯へ行って風呂に入り、身なりを整え、まともな人間になれ。もうそろそろ潮時だぞ。」 兵士は百万ルーブルを渡すと、何事もなかったかのように自分の仕事に出かけた。 読者諸君、忘れないでいただきたい。これは童話である。 ミカイーシカは両手で金をしっかり握り、銭湯へ走った。身を洗い、髭を剃り、新しい服を着て、鏡を見た。 「なかなか立派じゃないか」と彼は自分に言った。 街に出て歩き始めると、人々は驚いた。 「あれは誰だ。」 「ミカイーシカだ。」 「まさか。あの乞食が?」 「そうだ。百万ルーブルを持っているのだ。」 人々は帽子を脱ぎ、頭を下げた。昨日まで犬のように追い払っていた者たちが、今日は微笑んで握手を求めた。 「ミカイーシカさん、お元気ですか。」 「ミカイーシカさん、いつでもお立ち寄りください。」 ミカイーシカは考えた。 「不思議なものだ。金があれば人間、金がなければ犬か。」 しかし彼は善良な男であったから、誰をも恨まなかった。 |
第48節
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“死的舞蹈”是其后的作品。画出显着骸骨模样的荷勒巴因式的“死”来。“死”煽动市民,使起暴动,成为霍乱,在巴黎的化装跳舞场上出现。在化装未卸的死尸和拿着乐器正在逃走的乐师们之间,“死”拉着胡琴。然而“死”也现为好朋友,来访寺里的高峻的钟楼,使年老的守着,休息在平安的长眠里。在夕阳的平稳的光的照入之中,靠着椅子,守者静静地死去了。为替他做完晚工起见,“死”在旁边拉了绳索,撞着钟。——但“死”竟也就开始伸手到作者的运命上去了。娶了新妻,一时仿佛见得收回了幸福似的莱台勒,心为妻的发病所苦,又失了健康。病后,夫妻同赴意太利,但不久,他便发狂,送回来了。将吉陀莱尼的明朗的“曙神”,另画作又硬又粗的素描的,便是出于他的不自由之手的最后的作品。失了明朗的莱台勒的精神,还得在颠狂院中,度过六年的暗淡的长日月。“作为朋友的死”,来访得他太晚了。
【b 艺术上的新机运和雕刻】
【c 历史趣味和建筑】
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「死の舞踏」はその後の作品である。骸骨の姿を現したホルバイン式の「死」を描いている。「死」は市民を煽動して暴動を起こさせ、コレラとなり、パリの仮装舞踏場に現れる。仮装を脱いでいない死体と楽器を持って逃げ出す楽師たちの間で、「死」は胡弓を弾く。しかし「死」はまた友として現れ、寺の高い鐘楼を訪れ、年老いた番人を安らかな永眠に休ませる。夕陽の穏やかな光が差し込む中、椅子にもたれて番人は静かに死んでいった。彼に代わって夕べの仕事を済ませるために、「死」は傍らで縄を引き鐘を撞いた。――しかし「死」はついに公正を失い始めた。自ら楽しみ始めたのだ。踊り狂い、道化師となり、冷笑をもって宮廷に入り込み、王冠を被った者たちと杯を交わし、酒宴の席で高笑いした。 レテルはこのように幻想と現実、寓意と写実を結合させた。その技法は力強く簡潔で、しかも深い情感に満ちている。線描は堅固にして大胆、構図は壮大である。初期の木版画には中世ドイツの匂いがあり、後期にはフランス・ロマン派の影響が見える。しかしいずれの時期においても、彼の芸術の核心にあるのは死と生の対峙、人間存在の悲喜劇への深い洞察であった。 |
第49節
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这样子,洵开勒是从对于古德意志的憧憬的热情,向了古典希腊的理性底的洞察了。但是,虽然如此,向来不肯直捷地接受先前的样式的他,在许多设计上,又屡次试行了不合理的,而且无意义的改作。波忒达谟的尼古拉寺不俟言,虽在柏林的皇宫剧场,也不免有此感。而且对于罗曼谛克的样式,他也竟至于想插入自己的意见去了。他看见罗曼谛克的文人喻戈谛克寺院的堂内为森林,便发意牺牲了戈谛克样式的特征,而将植物形象,应用于天井和柱子上。其实,他是连戈谛克样式的正确的智识也没有的;更坏的是因为他以戈谛克建筑的后继者自命,所以更不堪。将怀着这样空想的他,来和法兰西的惠阿莱卢调克一比较,是怎样地不同呵。惠阿莱卢调克是将自己的工作,只限于正确的恢复的。而况在洵开勒作工最多的普鲁士,又并无可以兴修很奢侈的建筑的款项,因为总是照着减缩的豫算来办理的工作,所以虽在设计戈谛克风的寺院的时候,也势必至于杂入工程简单的古典风。要在古典式的规范上,适用戈谛克风的构成法的他的努力,大部分终于成了时代的牺牲,原是不得已的。受了希腊国王的委托,在雅典的卫城上建造王城的计划,后来竟没有实现。倘使实现,也许能够成为给古典主义一吐万丈的气焰的作品的罢。然而在较之古典主义,更远爱古典时代的遗物这东西的我们,却对于这样“暴力”的未曾实现,不得不深为庆幸的。 【托尔斯泰与马克斯】
一 资产阶级的主力少数主义
同志诸君!叫作《托尔斯泰与马克斯》的今天的我的题目,我并非偶然选定的。现在,我们的俄国——别的各国,那形态却有些不同——在决定人类的分野的根本底诸观念之中,马克斯主义和托尔斯泰主义,是被表现在对跖底的地位上。
自然,对马克斯主义的一切之敌,都归在托尔斯泰主义的阵营内,是决非妥当的。
马克斯主义云者,如大家所知道,是无产阶级的观念,是阶级理论,是在支配阶级和劳动阶级的斗争上,劳动阶级所把持着的武器。有产阶级领率了那一切的枝条,以及为了无智,社会底地易于分裂的倾向,而落在有产阶级的权势之下的那些民众,正和马克斯主义对立着。从托尔斯泰主义看起来,有产阶级是最少有可以责难之处的。——有产阶级者,如大家所知道,是帝国主义底的东西。有产阶级者,虽当最近的战争在地上涂了血,时日还不多,却已在暗地里整顿着新的武装和谋略。有产阶级者,一任那放恣的意志,要以准备在人类头上的其次的战争,怎样地惹起未曾有的深刻的结局,使全世界陷于破灭的底里,在这里是已经没有多说的必要了。
我们马克斯主义者,就是,首先,是革命底的,唯一真正的马克斯主义者,共产主义者的我们,和这掠夺底的有产阶级的,意识底地固执在各种地位上的一伙人,应该彻底底地战斗。在有产阶级的背后,并没有思想底的什么的力量。帝国主义底有产阶级,对于自己的存在,自己的倾向,以及自己正在造作的罪恶,是寻不出辩护这些的理由的。到最近,有产阶级将疏辩自己的野兽底的面貌的事,以及将这面貌扮作道德底的东西的事的一切企图,全都放弃了——就是这样说,也不是过甚之辞。自然,随伴底的报事者们,那是虽在现在,也还想将毒药装进民众的脑和心里去,并且想用爱国主义的麻药的。符拉迪弥耳·伊立支(列宁)在帝国主义战(欧洲战争)后不久,所讲的议论之中,曾有悲观说,以为在叫作祖国这各色的国旗之下,有产阶级是从新招兵,许多劳动者是眩惑于爱国主义的口号,又要为了榨取他们自己的人们,演兄弟相杀的惨剧了罢。这是大概不错的。——然而,虽然如此,这仍可以用了认真的观念来斗争,那是无须说得。为了榨取者们的利益起见的劳动者互相的杀戮,要之就只在舆论的沉衰,嵌在对于目的的印板里的习惯的惰性,批判力之不彻底等。但是,即使并不思索这些事,早早晚晚,也会到民众自己看破这意气昂然的野兽的原形的时候的罢,惟这时候,则有产阶级当然成为他们的憎恶的对象了。
实在,在有产阶级,也有可以辩护自己的观念的。这是什么呢?是少数主义[189]即变了形的马克斯主义。社会民主底马克斯主义,乃是有产阶级来遮蔽自己的羞耻部的没有果实的叶子,有产阶级是缺少那挥着什么象自己的主义的东西,积极底地闯到民众面前去的勇气的。——有产阶级因此便迎迓社会主义,又利用马克斯主义者,于是民众就倾听他们好象是自己的话的主张。他们先说起和有产阶级的阶级战,然而这是客套话,只因为临末想要讲革命的休息。他们将歪曲的,所谓进化底马克斯主义这一种宽心的唠叨话,说给劳动阶级听。就是,他将事物的推移,委诸运命之手,而对于无产阶级,则说忍从、节度、整齐之必要的。
少数主义,从这见地说起来,那自然,是我们的最可怕的敌。因此我们为了和他们斗争,费去了非常之多的时光。在民众面前,使少数主义的声望失坠,也便是克服民众,那我们是很知道的。所以我们的战术,是在少数主义的彻底底批判,我们现在正在实行的统一战线的树立,以及从我们的队伍之中,将可疑的分子毫不宽容地加以扫荡——这些一切,那意义,已经就是和在本质上,似是而非的马克斯主义,即少数主义的斗争。
少数主义之力,是强大的,这在事实上,是做着有产阶级的主力的。有产阶级能够从劳动阶级的前卫,社会民主机关之中,开了自己专用的代理店了。他们的利用少数主义有怎样巧妙,只要看世间一切有产阶级中的最聪明而且有着最古的历史的英吉利的有产阶级,竟将政权付给了少数派这一点,就可以明白。他们以为只要资产家的保守的政权,在麦唐纳之手,是决不愁危险的,竟毫不失机。所以将政权交给麦唐纳的事,就成了对于劳动阶级,给了更富于弹力性的欺骗和愚弄的新形式;也成了一种聪明的新政策,是对于政治思想的发达幼稚的民众,竭力给与一个印象,使觉得英吉利是劳动者自己在治理,在英国已经无可更有要求了。在这半世纪间,有产阶级就大抵这样地仗着民众主义的帮助,使民众错乱,借普通选举的幻影,使民众行欺骗底选举。然而选出的阁员,依然是有产者,是承少数派的意旨,而压迫大多数民众的东西。在现在,有产阶级是这样地计划着在用了新的尺做出来的民主主义的旗印之下,来建设使确乎不拔的自己的权力,实证底地确立起来的社会主义底政府,劳动政府的。
二 托尔斯泰主义为马克斯主义的竞争者
同志诸君,托尔斯泰主义在上面说过的我们所谓“随伴底”敌对里面,是占着第二义底的地位的世界观。这在无产阶级,是并没有那么大的影响的,但对于智识阶级,却是给以极深极深的影响的思想。还有一点应该看得紧要,就是,有时候,不但在欧洲,虽在亚洲腹地的农民的较良的阶级里,也有得以成为我们的竞争者的可能性。
托尔斯泰主义要引劳动智识阶级和劳动农民阶级为最重要的同调,以及成为我们的竞争者而出现的事,到了如何程度呢,用两个小小的例子来表示罢。
法兰西现代的大作家罗曼·罗兰(Romain Rolland),是作为许多小说和评论之类的作者,有盛名于欧洲的人。曾有这样的逸话,就是,他二十五岁的时候,将充满着感激的信,寄给托尔斯泰。那时,他信里的意思,是说自己是托尔斯泰的精神底子息,请托尔斯泰的爱顾和教示,因此托尔斯泰看了他的满是真实,而且显着天才的闪光的信,知道寄信人是很了解托尔斯泰自己的,便将长的恳切的回信,寄给罗兰了。
近时我在关于罗兰的论文中,看到了颇有名的这样的句子。那是说,“莱夫·托尔斯泰是世界的智识阶级之父,而当他自己进坟墓时,以自己的地位,任命于罗曼·罗兰了。”
欧洲大战前,尤其是罗曼·罗兰正在主张着严格的平和主义的大战的最中,对于他,从欧洲和别的诸国寄信来的,以及直接访问他的,非常之多。虽是现在,关于一切政治问题,罗曼·罗兰是还在应对的,但最近有一桩案件——这是发生于西班牙的国粹反动主义者兑·理威拉将军和同国的大哲学者乌那木诺(Unamuno)之间的大争执。政府便将乌那木诺从西班牙放逐到亚非利加,或是什么地方的岛上去了。那时候,罗曼·罗兰便对于兑·理威拉将军发表了一篇智识阶级底气味纷纷的抗议文。我们只要这样想象,就可以没有大错,就是,恰如在有些国度的国民,现在的教皇之流的恐吓文字也未必一定成为威压底的东西一样,罗曼·罗兰的抗议,也毫无效验地跑过了兑·理威拉将军的铜一般的前额了。然而世界的报章上,连最为保守的东西上,也登载了罗曼·罗兰的抗议,所以惹起了大大的波纹;他的道德底计量,虽在现在,也还是非常之沉重到这样。
是去年罢,还是大约两年以前呢,罗曼·罗兰曾将一封信寄给法兰西智识阶级一方的代表者的那《火中》的作者巴比塞(Henri Barbusse)。巴比塞是我们的同志,共产主义者,是天才底作家。他写了关于战争的著作,而这还被翻成世界的各国语了,自然,那些书籍的内容,是就战争的惨祸和战争的根本问题,而传其真理的。
巴比塞非难了罗曼·罗兰,那要点,是在说罗兰对于革命暴力的组织化,和对付有产阶级权力的民众底权力的组织化的重要性,没有懂得。他又威喝似的这样说,“连齿尖都武装了的有产阶级,将继续作占有那强韧的组织全部之举的罢,为什么呢,因为用这强韧的组织之力,防止虽一兵卒,也不能脱自己的权力之外而他去,××××××,××××××,使行同胞战的有产阶级,是使民众再陷于先前的困穷的底里,而无论怎样的良言,怎样的说教,怎样的主义,也早不能收什么效果了,要反对这势力,即有产阶级的‘这地狱之力’,只留着一条路,这便是××××××××××。不能作×××的准备者,即这组织的破坏者,××从引人类于破灭之底的阶级的手里,将政权夺取××××××,要之,便是人类进步的奸细。”[190]
对于这个,罗曼·罗兰便直挥着托尔斯泰的理论,为拥护纯无抵抗主义的立场,堂堂然直扑巴比塞了。对于这罗曼·罗兰的反驳,欧洲智识阶级的一部分,便以为惟这无抵抗主义,即对于暴力的无抵抗,是唯一的合法的主张。且从靠了这善意主义,理想主义,有在地上创造“神的平和,”事实上芟除战争的可能性这一个信仰上,表示赞成之意。但智识阶级的别一部分,也有仅仅伪善底地,赞和罗曼之说的。他们知道得很清楚,倘依无抵抗主义的理论,则有产阶级的权力,还可以保几年的寿命;在有产阶级,托尔斯泰主义是无上的好的防御机,只要托尔斯泰主义和罗曼主义保住地位,便可以处之泰然的事,他们是很知道的。无抵抗主义作为反抗的形式,是有利的,至少,较之革命底反抗,那当然是较为有利的形式。
这回是举一个在亚细亚的例子罢。在我们,现在特别应该看作重要的,并不只以在欧洲的事象为限,就是在东洋的这些事,那重要性也是相等的。作为列宁所遗留的功绩之一,可以特记的事,是他指出了无产革命,和亚细亚的农民革命有不可分离的关系这一点。列宁是从那天才底思想,到达这样的归结的。当有产阶级正仗着少数主义战术,使无产阶级的首领者腐化,将他们买收的时候,欧洲的无产阶级对于有产阶级,能扬胜利的凯歌者,是只在这样的一个时机。
这便是做着前驱的各国的社会革命,和殖民地及准殖民地的无产革命相联结的时候。所以我们也应该以对付欧洲一样的注意,去向东洋。
印度的人口计有三亿,和苏维埃联邦共和国人口的两倍半相当,较之亚美利加合众国的这,是三倍以上。这大数的人口,现在是正在酝酿着动摇。印度的革命思想,是向着各方面在动弹了。在印度也有共产主义者,然而印度的产业,还在比较底幼稚的状态。所以在目下,共产主义者还寥寥,但到将来,当以居民的大数为同调的民族运动之际,他们是要显示那活动的能力的罢。所谓居民的大数者,就是在他们的被虐待的境遇上,还在采用排英政策时,农民底集团的前卫。而这农民底集团,是可以分为两个范畴的。其一,是计划着民族底一揆的积极底集团,其大多数,是政治底思想觉醒了的印度国的回教徒;别的一个,是支持印度的旧文化即甘地(Gandhi)的运动的一派。 |
このように、シンケルは古ドイツへの憧憬の情熱から、古典ギリシアの理性的洞察へと向かった。しかしながら、従来の様式を直截に受容することを好まなかった彼は、多くの設計において不合理でしかも無意味な改作を幾度も試みた。ポツダムのニコライ寺は言うに及ばず、ベルリンの王宮劇場においてもこの感は免れない。しかもロマン主義の様式に対しても、彼は自らの意見を差し挟もうとした。ロマン派の文人がゴシック寺院の堂内を森に喩えたのを見て、彼はゴシック様式の特徴を犠牲にし、植物の形象を天井と柱に応用しようと発意した。これは同時代のヴィオレ=ル=デュクの考えに近いが、シンケルの場合は理論的推察というより芸術家的直観であった。 彼の建築にはある部分で甚だ成功し、またある部分で明らかに無理がある。しかし全体として見れば、シンケルが十九世紀前半のドイツ建築において占めた地位は揺るぎない。古典主義とロマン主義、合理と感性、伝統と創新――これらの間を自在に往来しながら、独自の建築言語を創り上げた。弟子たちはその遺産を継承し、やがてドイツ建築の新たな展開へと導いていくこととなる。 |
第50節
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甘地在印度是得了圣人之称的。他也是印度民众的大指导者。他的战术,是托尔斯泰式战术。不消说,托尔斯泰和甘地之间,是有不同之点的。然而这不过是在枝叶上,以全体而言,甘地实在是印度的托尔斯泰。所以由他说起来,惟有仗着平和底手段,即文化底运动,这才能够得到最后的胜利。而这所谓文化底运动者,虽是其中的称为最过激的手段的,也不过是英国货的不买同盟,或是对于英国的统治权,组织民众的武器底一揆罢了。
到这里,我已经从种种方面,讲过了这两个范畴的例子。由此也可以明白,有些运动,只要和无产阶级的问题无关(虽然我们是以与无产阶级一同,和少数主义的中心思想来斗争为主的,)还有,只要并非摆开于无产阶级运动有重要意义的协同战线,则那运动,就应该和蒙了托尔斯泰主义影响的运动,受一样的待遇。所以在这里,便生出剖明托尔斯泰主义和马克斯主义的关系的兴味来了。
作为社会底现象的托尔斯泰主义,并不是新的东西。新的社会形式,即资本的集中,著大的富的膨胀,商业和产业的生长既然出现,而且普及于一个国度里的时候,则和托尔斯泰主义相似的运动,便自然发生起来,现在我将这样运动之行于旧时代和见于最近的历史的两三例,举出来看看罢。
称托尔斯泰为豫言者,是可以的。他和见于圣书中的豫言者是一模一样。因为他和他们,虽然隔了几千年的时代,然而不过在反复着同一条件之下,反复着他们所反复了来的事情。
这些警世家,即圣书底豫言者,一早从伊里亚、蔼勒绥的传说时代起,到现代的世间止,那出现竟没有中绝,是因为什么理由呢?那说明,是这样的。早先,原是游牧民族的犹太人,经历时代,便渐渐定居于一处地方,于是他们就从事农业,蒙了周围的文化底影响,蒙了从一方面,是农业经济上必然底的现象的土地集中化的过程,从别一面,是大规模的商品交换的影响,终于显出种种的阶级底分歧来了。于是犹太人的生活便成为贵族底,这就化为君主政治,到底造成了靠着穷困同胞的牺牲以生活的阶级。这阶级,采用了商业底农业国的道德,同时也通行了适合于农业底商业生活样式的宗教,即通行于西部亚细亚的拜地农作的宗教。这宗教,在那狂热和淫佚,以及带着对于穷人的欺骗底,而且诱惑底倾向这一点上,是稗勒和爱斯泰尔德的信仰。[191]然而是富于许多文化底美底要素和华丽巧致的宗教底仪式的宗教。
犹太的富豪,既为这所谓“异端”的宗教底华丽方面所蛊惑,同时也脱离单纯的原始底生活样式了。然而接着这事而起的,是寡妇孤儿的榨取,那住屋的夺取,奢侈,欢乐和饮酒之风,和这些一同,也流行了使用各种的香料、黄金、装饰品;赞美女性所具的优美、典雅、淫荡;终至于倡道复归于异民族之神的信仰了。
由以上的所讲,已经完结了我们的对蹠底阶级,即胎生期底资本主义的说明。然而这资本主义,那自然不消说,是极其原始底的,交易底性质的东西,并非在真的意义上的资本主义。而这游牧底集团,对于新发生的这压抑底秩序,竭力反对了。稍富的人,固然能有仗着政治底手段,来直接反抗的机会,但下层民众,对于支配阶级的道德,却不过在嘴上说些不平。在先前,相对底平等主义,对于邻人的好谊,生活的简易化这些事,曾经怎样正当地施行过,民众是知道的。于是以为这些是民众的真的生活,而且是惟一合法的事情,我们的神,民众的神,即古代以色列人的民族联盟的军神,是嘉纳这真理的,其他一切的企图,则和我们的神相违背,而主张过去的生活之唯一合法了。
往时,神的豫言者之所以被尊敬的理由,是因为用了平常人的话,即对于民众,不能给与一些反响。所以无论怎样的雄辩家,也不直接向民众诉说。民众不过由豫言者在半发癫中说出来的奇迹底的言语,知道他的精神。因为倘不这样,民众就不相信辩士和豫言者的话。他们的意思,是以为凡有一切,都由Animism(万有神道),即视之不见的伟大的力,作用于实现而生的。
无论如何,这是重大的反抗。但到底,这成了怎样情形呢?岂止不是现状维持呢,倒是成了使历史的车,向后退走的倾向。然而这时候,和神的名是不相干,但将这过去加以分析,赞美,换在更好的位置上,并将过去加以理想化,不放在自己的背后,而反放在前方,换了话来说,就是,只好将一看是理想化,圣化了的旧的秩序,作为理想的对象了。
然而这理想,是小有产者底,小市民底,小农民底的满足。但是,在各人还都住在陋屋里,连这也做不到的人,便局在无花果树下,而且大家都靠着自己的劳力而生活着的时代,则希温(Zion)山边,曾经度着由完全的邻人爱而生活,因此也充满着神的真理和生活的平和的事,却也不难推想的。所以豫言者们,也没有论及社会底理想和意向的必要。那有这样的必要呢?他们说过平等,说过分田,说过小经济,然而这是中农民的理想,是称为榨取者,则还太幼稚,然而达得最高了的中农经济的理想。作为饱满的,而且度了仗着邻人爱的平和生活的结果,他们对于全地上的革命,是也抱着相同的见解的。据那时的他们的意见,则是怀着狼可以和羔羊一同饲养,狮子决不来害小儿那样的思想。倘是这样,那么,这地上,是成了平和的乐园了的罢,为什么呢,因为由自己的劳动以营生活的邻人爱,据他们的意见,是根本底,而且唯一的,万世不易的神的真理的
缘故。
三 卢梭和嘉勒尔的社会观
现在,更用新的现代的例,来讲一讲这事情罢。这是在法兰西的例子。法兰西革命的原因,如诸君所知道,是资本主义发达的结果。革命勃发以前,法兰西的有产阶级,不但已经发达到动摇了两个最高阶级(贵族和教士阶级)的基础和支配力那样程度而已,这两个阶级,对于农民阶级和中产市民阶级,是同为可怕的重压物的。法兰西革命在那本身中,就带着复杂的倾向。这就是,大有产阶级成了支配阶级,想自由地支使宪法,和这相对,别一面则小有产阶级虽然不过暂时,但压迫了大有产阶级,并且引小资本家及几乎没有资产的近于无产阶级的民众为同调,将实现一七九三年的宪法的事成功了。这在民主主义的发达上,是给了非常之大的影响,而且促其进步的。将这解说起来,便是在教士阶级和剥了金箔的贵族之下,有着大有产阶级的层,在大有产阶级之下,有着在或一程度上,可以称为“国民”的无差别的民众,要说为什么称为无差别的民众,那便因为在这里面,混淆着农民阶级的利害和一切形态的都会无产阶级的利害。
革命已经准备的时候,大有产阶级是利用了大家以为舆论指导者的生活有些稳固的上层智识阶级,作为自己的代辩者的。充当了这样的智识阶级的前卫之辈,是以博学负盛名的学者,如服尔德(Voltaire)、迪特罗(Diderot)、达朗培尔(D’Alembert)、海里惠谛(Helvetius)、诃尔拔夫(Holbach)等,他们相信文明和文化,以为将来的产业底富的增加,科学底智识,农业的进步,是可以绝灭那由于中世纪底偏见的阶级差别的不合理,创造以新的科学为基础的人生,于是就得到这地上的繁荣的。
然而小有产阶级,却并不这样想。他们对于向科学和艺术的这样夸大的期待,还抱着很大的不满,因为科学和艺术,不过是一种结约,现实底地,是毫没有什么好东西给他们的。不独如此而已,这些还反而助长制造品的膨胀,成为大商业和大资本的发达,这大资本,则成了他们的阶级压迫的盾牌了。
一切文明的本体,在壮丽的旅馆中,在模范庄园中,或则在大产业经营的建筑物中,在大有产阶级的大商店中。瑞士的一个钟表匠,费一生于书记或别的半从仆的生活,脱巡警的拘捕,而寻求着亡命的天地的小有产阶级直系出身的卢梭(Jean Jacques Rousseau),是毕生没有出这阶级的圈外的,然而标举了圣书底豫言者的别派,说出这样的话来——
“这是撒但的作为,这是凯因的规定。”而且你们的富,你们的名誉,你们的文明,你们的艺术,你们的学问——这些一切,都不是必要的东西,所必要者,只有地上惟一的真理。那么,所谓真理者,究竟是指什么呢?依他的回答,便是平等。是造立经济底平等。由平等的经济个体,结起相互契约来,以创成国家底组织,国家尊重各人的平等,这么一来,则少数者的一单位,岂不成了对于大多数者,更无抗辩的权利了么?然而承认大多数者的原则底的支配权,平等人的支配权的这组织,依卢梭的意见,是真正的地上的极乐。这里有装入他的理想底内容的理由,他主张人们应该依照自然受教育,应该复归到自然所生照样的圆满无双的人——以前是文明使他堕落了的——去,并且从此又生出更新的女性的模范来,生出作为母性,是单纯而宽大,并且对于自己所受的任务,是用鲜花似的典丽——那时的有产阶级和贵族阶级上层的文明底女性,是没有灵魂的偶人——加以处理的作为朋友的女性来。卢梭将他自己的神的本相,分明地这样说,“有谁在我的心里说,人们应该平等,我们由活泼的劳动,由和自然的融合,而享受大的慰安,这是神的声音,是在不需什么教会的各人心里的神的声音。如果人们中止了榨取邻人,而成了在地土上作工的劳动者,则他在自己的心里,听到神的声音的罢。”
这回,来讲一个英吉利的例子罢。
还没有到制品时代,商业资本时代,只是铁的前进时代,即机械产业,工场产业勃兴未久的时候,在铁的堆积之下,被挤出了仓舍去的农夫,手工业被夺了的小手工业者们,便叫出怨嗟之声来。当这时,奋然而起的,是英吉利的豫言者嘉勒尔(Thomas Carlyle)。然而他的话,和卢梭的话是一样的。他向机械产业者说,“你们对着地主,城主,或则封建底的羁绊,扬着反抗的声音。但在封建时代,地主之不得不扶养农夫者,乃是和父对于子的一样的关系,而农夫是几与家畜相等,愈怠于饲育,即愈不利于饲主的。然而你们现在的态度,却过于不仁。你们以这不仁的态度,只在暂时之间,便榨取完穷人,或则吸尽了你们榨取过的地主的全身的汁水,要将这改铸为金币。你们胡乱搜集小孩,将他们的生命抛在机器里,要造出贱价的薄洋布来。你们有什么权利,能说你们是自由主义者,是求自由的人呢?和‘旧’相斗争的你们的根据,是什么呢?‘旧’者,比‘现在’还要好些,因为那时人们是神一般过活。但是,神是什么呢?神的规定是什么呢?那就是邻人爱。在已有定规的世界上,无需叫作竞争这一种不仁的关系。也无需叫作簿记、减法、利益之类的东西,以及强凌弱,和令人以为这是当然似的优胜劣败的争斗。应该回到人类关系的原始组织去。应该回到有机底存在,相互爱去。”
据嘉勒尔说,则这些一切,都以宗教底精神为前提,然而,无论什么,凡一切,都应该从被机器声,放汽声,数钱声弄得耳聋了的人们的内底感情,誊写出来。
四 作为社会底理论的托尔斯泰主义
我还可以无限量地引用这样的许多例,然而诸君也知道着,当文化的黎明期将要过去的时候,或者那历程将要急激地到来的时候,旧时代是总从那中心里,生出时代的天才儿来的。他们站在旧传统中,以反抗旧世界,但对于旧传统,则在离开事实的看法上,以最理想化了的形式来眺望。
倘从这观点,来略略观察作为社会底理论的托尔斯泰主义,我们便即刻发见这样的事,就是,纵使托尔斯泰主义是取缔反动的护民官,对于反动的革命家,即揭起反抗资本主义的革命旗子的,但倘将不用未来而用过去的名义,或者用了称为未来而不过是变形底过去的名义,来挑发反资本主义的一揆的人们,都大抵归在豫言者的范畴里,则要而言之,可以说,托尔斯泰主义在那观物的方法上,是豫言者底的。
托尔斯泰比较了都会和农村,将理想底价值放在农村上,是事实。这大地主——托尔斯泰是大地主——对于有产者的一切东西,都抱着彻底底的反感;在他,凡是产业,商业,有产者底的学问,以及有产者底的艺术,无不嫌憎。他从小市民阶级,小官僚阶级——他由大地主的感情,最侮蔑这阶级——起,直到大肚子的商人,学术中毒的医学博士,技师,丰姿楚楚的贵妇人,以行政底手段自豪的大臣们止,都一样地怀着反感,他们是和他所希望的完全的融和的世界,相距很远的人们。 |
ガンディーはインドにおいて聖人の称を得た人物である。彼はまたインド民衆の偉大なる指導者でもあった。その戦術はトルストイ式戦術である。言うまでもなく、トルストイとガンディーの間には相違点がある。しかしそれは枝葉の上のことにすぎず、全体として言えばガンディーは実にインドのトルストイである。したがって彼に言わせれば、ただ平和的手段すなわち文化的運動によってのみ最後の勝利を得ることができる。そしてこの文化的運動の中で最も過激と称される手段でさえ、イギリス商品の不買同盟か、あるいはイギリスの統治権に対する民衆の武器なき一揆を組織することにすぎなかった。 ガンディーとトルストイの最大の相違は、ガンディーが実際の政治運動に全力を注いだ実践家であったのに対し、トルストイは主として思想家であり芸術家であったことだろう。トルストイはその偉大なる文学をもって世界を動かしたが、ガンディーはその身をもってインドを動かした。しかし二人に共通するのは、暴力の否定、愛の力への信頼、そして精神的変革こそが真の社会変革の道であるという確信であった。 |
第51節
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托尔斯泰的社会否定说,可以说是原始底的;还有,他自己的个性否定说,这在结果上,是带社会底性质的,但这在他的哲学观之中,已经讲过——到后来,要讲到的罢,他的社会否定说,是对于无为徒食者,放肆的资本家,智识阶级而放肆的官吏的一种地主底抗议,这位伟大的地主的“老爷”,是在寻求可以过显辛[192]那样生活法的理论的。显辛呢,作为诗人斐德是做脚韵诗,作为显辛,是农奴制主张者。斐德·显辛和托尔斯泰,都不避忌和站在反动底见地的别的地主老爷们相交游。对于这些地主老爷们,即使怎样地说教,也是徒劳,而且不能给与一点什么内底的满足,是连托尔斯泰自己,也由那伟大的聪明性,自己明白的。关于这内底满足,在今天的演讲上,我还想略略讲一讲。
他,赞美农村,同时也认识了农村的两个极端的对照的存在。这就是地主和农夫。
赞美地主,是无论如何不可能的,因为这成了赞美寄生虫——掠夺者。地主是贪着别人的劳力而生活的。一面高扬着地主主义,老爷主义,又怎能讲平等主义呢,惟这老爷主义,乃是掠夺底,榨取底的色彩浓厚的东西,在托尔斯泰,惟这老爷主义,是他的憎恶的有产阶级的主要的标记,根本底的咒诅的对象。然而农夫却和这相反的。农夫对于坐在土堤上,和自己们讲闲话的善良忠厚的老爷们,全然很亲密;他们懂得老爷们也在一样地想,年成要好,银行是重利盘剥的店,是吸血机器;又在道德底的以及经济底的方面,只要没有直接接触到地主和农夫这种阶级差别底之处,是也能够大家懂得互相的调和点的。
作为那理想论,托尔斯泰使之和有产者底的都会相对峙者,是小家族的集合体这农民阶级。在这里,各人是和那家族一同,仗着自己的劳力过活,也不欺侮谁,从生到死,种白菜,吃白菜,又种白菜,而尽他直接的义务。
这有益的纯农民底生活法,还由了内底光明和内底充实而得丰裕。我们知道,惟有这样的人,是并不欺侮谁,送平和于这地上,而且同时履行着神的使命,即要表现那平和,爱,和睦的共存生活的伟大真理的使命的。他将平和实现了,而他的灵魂,是充满着大安定——就是神的安定——的意识。他已经不畏死,为什么呢,因为在他那里,已经没有了叫作自己,叫作自己的个性这东西,所以他既非个人主义者,也不是掠夺者。他植物一般过活,而在那完全的伟大的自然的怀抱里,静静地开花。他是生于“万有神”,而入于“万有神”的怀里的。惟有这个,是真的幸福;惟有这个,是可以称颂的社会组织。
托尔斯泰描写乌托邦时,是作为艺术家而用隐喻的,他用了伟大的那天禀,描写了将来的革命。这就表现在《呆子伊凡的故事》中。呆子伊凡说,“我无论如何,不愿意争斗。”虽是别国人侵入了呆子伊凡的国度里,来征服它,他们也不想反抗。他们说,“请,打罢,征服罢,将我们当作奴隶罢,我们是不见得反抗的,胜负不是已经定了么?”
这思想的过于乌托邦底,是谁也立刻知道的。而且在那里面,藏着什么内底的,根本底的谬误,根本底的矛盾,也全然明白。关于这事,大概后来还要讲到的。所谓谬误者,是因为人类之中,也有贪婪者,也有吝啬者,所以戒吝啬的说教和无抵抗主义的说教,为贪婪的人们,倒反而成了机会很好的说教了。来侵略呆子伊凡的国度的别国人,会非常高兴,这样说的罢——
“好,我要骑在你颈子上叫你当马,并且榨取你和你的孩子们。”
那个甘地,在印度作反不列颠政府的说教,是非常之好的事情,但他所说的反抗的形式却很拙,他向民众说,“你们曾经受教,以为一说到抵抗,便是手里拿起武器来,然而你们是应该用‘忍耐’这一种武器来抵抗的。”于是甘地便解除了印度的“呆子伊凡”的武装,将他们做成真的呆子了。甘地的宣传不买不列颠的绸纱和原料,不列颠政府是愤怒了的,然而时时等着利用甘地的机会,所以不买绸纱和别的一切苦痛,是都含忍着的,因为这在不列颠政府,倒成了将一切苦痛,转嫁于印度的“呆子伊凡”之上的好口实。
然而托尔斯泰是没有想到那无抵抗主义,会造出这样的结果来的,他相信很好的乌托邦,由此能够实现。
我在这里来讲一个明显的例子罢。
在托尔斯泰,是有内底焦躁和分裂的。因为他是伟大的艺术家,又非欺瞒自己,妄信别人的话那样的凡庸的评论家,所以他是知道得太知道了地,知道他作为未来的理想,所描写的社会底画面的内容,是已经过去的事,他在那有名的小说《鸡蛋般大的麦子的故事》中,就将这事分明地告白着。
人们发见了鸡蛋一般大的一种莫名其妙的东西的故事,诸君是记得的罢。人们都不知道这是什么,去请老人来,羸弱的跛脚的老人来到了,从他的身上,索索地掉下着泥沙。
问他这是什么呢,“我不知道,”他回答说,“但父亲还康健,叫他来罢,会知道也说不定的。”人们又迎父亲去。他是一个开初谁也不相信他是跛脚老人的父亲那样,又壮健又活泼的农夫。他进来了,而且看了,说,“这不知道呀,但问我的父亲去试试罢,他是还康健的。”将他的父亲叫来了。这是很少壮的汉子,无论怎么看,总是一个青年,要到阴间去,似乎距离还很远。他将这拿在手里,看了,于是讷讷地说,“是的,这是麦子,这样的麦,古时候是有过的。”
“但是,怎么会有那样出奇的麦子的呢?”
“古时候没有什么天文学者,也不弄叫作学问这个玩意儿,可是种田人的日子是过得好的,土地也很肥的。”
托尔斯泰就这样地暗示着空想底的,这世上未曾存在过的黄金时代,然而这是空想,他自己却分明知道的。托尔斯泰又描写着一种社会底幻想,以为呆子伊凡有一天总能够将那征服者、掠夺者弄得无可奈何。其实,呆子伊凡的神经,是见得好象比征服者的神经还要强韧似的。譬如基督的教训里,也有“他们打你左边的脸,便送过右边的脸去,打了右脸,又送过左脸去,打了左脸,又送过右脸去”这些话。这样地打着之间,打者的手就总会痛得发木,并且说的罢——“这畜生,是多么坚忍的小子呀,全没有用——”
于是打者的心里终于发生疑惑,搔着头皮,说——
“莫非倒是我错么?岂不是挨打的小子,倒是有着支配力的么?要不然,从那里来的那坚忍呢?”
在托尔斯泰,也有和这相似之处。他相信能够仗这样的无抵抗主义,叫醒使用暴力的人们的良心,用了由忍从的行为所生的好话,在恶人的心里,呼起真的神的萌芽的。
符拉迪弥尔·梭乐斐雅夫(Vladimir Soloviev)——是伟大的神秘哲学者,几乎是正教信者,从这个关系说起来,和我们是比托尔斯泰距离更远的右倾底人物——曾和托尔斯泰会见,有过一场剧论。
对于托尔斯泰的主张无论何时何地,都不能容许暴力,他反问道——
“好,假如你看见一个毒打婴儿的凶人,你怎么办呢?”
“去开导他。”这是托尔斯泰的回答。
“假如开导了也不听呢?”
“再开导他。”
“那汉子是在你的面前,给婴儿受着苦的呵。”
“那是,神的意志了。”
这回答,以托尔斯泰而论,是自然的。就因为无论如何,总不许用暴力。用了由信仰发生的狂热,宗教底狂热,以说服人们,也并非不可能的。
愤慨于托尔斯泰的这样的言说者,也不独一个梭乐斐雅夫。雪且特林[193]也在有名的故事《鲫的理想主义者和鼠头鱼》中,对托尔斯泰给了出色的讽刺。他将有刺鱼类的鼠头鱼,来比精明的现实主义者,用理想主义者的鲫鱼,当作总向鼠头鱼讲些高尚问题的哲学家。鼠头鱼说——
“戳破你的肥肚子。你的话一来,只是就要作呕。讲这些话,不是无聊么?现在,瞧罢,梭子鱼来找着了我们的港湾,也说不定的呵。”
“所谓梭子鱼者,是什么呢?”鲫鱼问。“名目我是知道的,那么,就是那小子也佩服了我的信仰,到我这里来了。”
这时候,梭子鱼出现了。鲫鱼向他问,“喂,梭子君,你可知道真理是什么呀?”
梭子鱼吃了一惊,呼的吸一口水之际,已将鲫鱼吞掉了,就是这样的故事。
这是真实。是常有的事。以为能够从平和底宣传,得到平和的乌托邦的信仰,在事实上,是全然不能信的。
象托尔斯泰那样伟大的人物,怎么会不觉到别有根本底的问题的呢?他是想了的,凡是人,都带着神的闪光,善的闪光,而且人们对于这闪光,是应该有能够灵感到它的能力,作用于它的能力,惟有这样,这地上才能由他和他的门徒们,改造为平和的世界。他作为社会改革者,是这样想着的。从我们看起来,他还不只是社会改良家。他高捧福音书;崇奉孔子,和别的贤哲们,尤其是福音书和基督。他坚信着基督的历史底人格。
对于丝毫也没有改良人类的基督和福音书和最初的使徒们,托尔斯泰为什么崇奉到这样的呢,这只好说是古怪。到现在为止,已经过了大约两千年的岁月,然而人类呢,借了托尔斯泰自己的话说起来,则依然犯罪,不逊,沉湎于一切罪恶中。所以纵使托尔斯泰再来宣说他的教理两千年,我们还能期待什么大事件?比托尔斯泰相信基督的那力量还要强的东西,尚且不可能的事,怎么能用别的力量,做到地上的改造呢!只要世界存在,社会底不合理也存在,说教者是不绝地接踵而生,重复说些鲫鱼的话,但世间对于这,不是置若罔闻,便是将它“吞掉”,于是只有梭子鱼的王国,屹然地继续着它的存在了。
五 托尔斯泰的矛盾和谬误
现在,我还要从别方面,讲几句关于托尔斯泰主义的话。
以上所说的事,假使作为社会理论,而加以说明,那是要变成呆气的。然而这并非社会理论,不过是想发见自己的精神底平和的渴望,和发见达到这精神底平和的路程,并且对于凡有渴望这精神底平和的一切人们,也加以接引的手段的一种愿望罢了。
托尔斯泰不但作为绅士,并且,作为教养最高的绅士,为这充满肮脏的文化的恶臭所苦,他也为更可怕的恶病——个人主义所苦。托尔斯泰的个性,是最为分明的,这使他成了伟大的艺术家,而在作为伟大的艺术家的他那里,就发见和普通的人,在那外底印象的多少上,在感情经验的深浅上,都有非常之不同。他是欲望的伟大的人。人生,对于他,是给与非同小可的满足的。
在托尔斯泰,生活的事,知道寒暑的事,愉悦口鼻的事,观赏周围的自然的事,是怎样地欢快;还有,将那被人采摘,掘的植物,由于求生的努力,因而反抗的情形,是怎样满足地描写着的雄辩的例子,我是能够引出许多来的,但现在且不引它罢。
求生的欲望,自信之坚强,凡这些,是托尔斯泰的本质底东西。而这身子小小的人,委实也给人以精力的化身一般的印象。能仿佛托尔斯泰的面貌者,大约莫过于戈理基(Maxim Gorki)了。他用了大艺术家的工巧,将和在油画的“神甫”的老人不同的活的托尔斯泰,那就是情欲炎炎,嘴边湛着永远的猥亵,精力底的,带着一种不便公言的表情,显着对于思想异己者的憎恶之感,而作势等着论战的对手的,满是矛盾的托尔斯泰,描写得更无余剩了。说到托尔斯泰的矛盾,他是曾想怎样设法矫正自己的矛盾,得了成功的,但这也不过暂时,他的内部便又发生不可收拾的凌乱了。
然而便是戈理基,对于托尔斯泰的人物描写,也至于不敢领教了,曾经说过——
“这不是平常人,从那出奇的聪明说起来,从那出格的精神内容的丰富说起来,他乃是幻术师或是什么。”
如果是无论谁,都要活,不想死的呢,尤其是,如果是将个性作为第一条件,而生活于自己独自的世界中的智识阶级者,例如艺术家、律师、医生之类,则便将这生活于独自性的事,来用作否定自己生存这一定的社会底意义的武器。这样的智识阶级者,便比别人加倍地尊重自己的生,而且恐怖死。他对于不怕死的农民,的野兽,的动物,则投以怜悯的眼光。 |
トルストイの社会否定説は、原始的とも言い得る。さらに彼自身の個性否定説は、結果において社会的性質を帯びているが、これは彼の哲学観の中で既に述べた――後に述べることになろうが、その社会否定説は無為徒食の者、放恣なる資本家、知識階級にして放恣なる官吏に対する一種の地主的抗議であった。この偉大なる地主の「旦那」はフェート=シェンシン〔シーチン〕のごとき生活法を営み得る理論を探していたのである。シェンシンは詩人フェートとして脚韻詩を作り、シェンシンとして農奴制の主張者であった。フェート=シェンシンとトルストイは、いずれも農民との接触を忌避しなかったが、その接触の仕方はまるで異なっていた。 トルストイの無抵抗主義は単なる理論ではなく、彼の全生涯にわたる深い苦悶から生まれたものである。社会の不正を鋭く認識しながらも暴力による変革を拒否した。なぜなら暴力はさらなる暴力を生み、人間の魂を堕落させるからである。彼が求めたのは各人が自らの内に道徳的変革を遂げることであり、それこそが社会全体の変革への唯一の道であると信じた。 |
第52節
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有着喷泉一般紧张之极的生活的托尔斯泰,也比常人加倍地爱生而怕死的。对于死的猛烈的恐怖,这在他,是比什么都要强有力的刺戟。蛊惑底的这生命之流,如果中止了,怎么办呢,这在托尔斯泰,是重大的问题。一切逝去,一切迁流,一切消融,并无一种现实的存在——就是既没有他托尔斯泰,也没有环绕他的为他所爱的人们,也没有自然,觉得好象实有的自然还是流转,一切在变化,被破坏,而且一切是幻想,是描在烟上的影像——的这恐怖,来侵袭他,又怎么求平和呢。
“我意识着这事,我自己知道我的身体在消融,生命在从我的指缝之间逃走。能够看见这‘现实’在怎样地奔出飞掉。以后,一切是虚无,是空洞,是无存在。”
这样的意识,真不知怎样地使他懊恼,他的日记中,总常是写着这件事。他读西欧的作家亚莱克斯尔的日记——这是只写着死之恐怖的日记——的时候,曾经说过:
“惟这是真实的人物,惟这是伟大的问题。能够忘记了死的人,那是废人,是不能抓住问题的核心的钝汉,然而可以说是幸福的人。”
在这里,便是说,对于死之恐怖,无所见无所惧的人们,是不行的;无常的鬼在眼前出现,而坦然不以为意的人们,是不足与语的。在托尔斯泰,于是就发生了寻求绝对不死之道的必要。然而他从什么处所寻出那样的东西来呢?
还有一个智识阶级者的那符拉迪弥尔·梭乐斐雅夫,是将这绝对的不死的东西,求之于形而上学之中的。他曾说,“要相信,相信教会所教的东西。你有着不灭的灵魂,于此还有什么疑,什么迷呢?”
然而托尔斯泰是太聪明的人。以那伟大的精神力,到达了不死的理想的,而还有一点的不安,他也免不掉。
在他的日记的最后的页子上,有这样地写着的——
“今天,信仰不足,神呵,请帮助我不足的信仰罢。”
“早晨,抱着对于神的坚固的信仰醒来了。感谢一切希望似将达成,神所惠赐的助力。”
但在此后两天的日记上,是——
“被袭于可怕的疑惑,执迷……”
这样的心情,大约是继续到临终的最后的瞬间的罢。
这样的疑惑,执迷,是有将这转换到别的方向去的必要的,于是在这智识阶级者,又是地主,又是绅士的他,便做出了征服那个人主义底的东西的大工作,这便是遵从上面所讲那样的路程,而在基督教底理想之中,发见心的安定。他是这样想着的,“在这世间的一切,是刹那,是流转,是死亡;然而也有永久底者,生着根者,不流转者,常不变者。如果能够发见了这样的东西,就应该将全身装进那里去,将全身委之于这永久底者,不流转者,常不变者,便发见了得救。发见这样的永久底东西,就是在自身中发见不灭。应该探求这样的东西。正教教会所教的信仰,是承认不得的,这是流转的,消灭的,传染了一切虚伪的信仰。”
诸君也都知道,托尔斯泰是教会和一切教会底仪式的彻底底的反对者。他用了那小小的带绿色的眼睛,冷嘲地观察一切事物。他到剧场去看华格纳尔(Wagner),写下了那印象,但那些一切,不过使他觉得于他自己是呆气的事情——
“我怎么竟去看这样无聊的东西,怎么竟以为这是艺术?这都是著色的硬纸板做的。大张着嘴,唱些无聊的事的那优伶们,那都是傀儡,做孩子的玩具,是可以的罢,然而孩子还会厌倦。用锯子截树似的那梵亚琳的声音。这都是昏话。”
有着各种芳香的艺术,他也用了这样的描写,将它弄得稀烂。
便是对于裁判,他也用一样的看法的。人在裁判人,对于从极复杂的个人底的剧中所发生,或是从社会底自然的法则所发生的行为,人在夺人的生命。裁判官,他们是可怜的官儿,或则和别的官儿讲空话,或则打饱嗳,或则鸣太太的不平,或则剔牙齿,而一面在裁判人——这样的一切事物的顺序,都由托尔斯泰如实地,深刻地描写着。
关于教会的他的看法,也一样的。教士们穿着有一时代毕山丁王的臣下所穿的常礼服那样的花衣,做着毫无用处的姿势。这是很古的时候所装的姿势的变形。一切都陈腐,愚蠢。人们不能简单地观察事物,至今还以为在教会里有意义,有一种诗。
这样地观察着事物,托尔斯泰便破坏着在他周围的一切的东西。凡在他周围的,都打得稀烂。君主政体、爱国心、裁判、科学、艺术——全都破坏了。这宛如在《浮士德》(Faust)的舞台面上,妖精合唱道:“伟大者呀,你粉碎了宇宙的全图,恰如玻璃一样”那样子。为探求永久不变的真理起见,托尔斯泰对于竭力要来蛊惑自己的一切东西,用了正确的瞄准和严冷的憎恶,加以突击的事,也可以唱那和《浮士德》的舞台上一样的歌的罢。
然而,究竟,这永久不变的真理,是在那里呢?对于自己本身的个人底观察和社会底观察,教给了他,就是,为了满足自己的情欲,而和别人斗争,在最广的字义上的这斗争,便是恶的主要,使人永远苦恼,失掉他的平衡,而且于他的内部,给以苦痛的,便是这个,云。
托尔斯泰的到达了这结论,是不足为奇的,这是普通的事,佛陀也到达了这结论的。是一样的贵族,而异质的世界的人的他,也照样地观察了社会组织的全苦恼。将为了自己的利己底的目的的斗争停止,还不能借此从这苦恼逃出么?这么一做,平和和安静,便都可以得到了。情欲,是不给人以平和和安静的:就是这样的意思。
人生能够并无情欲的么?能够的。但于此有一个必要的条件。那条件,便是无论如何,要完全离开对于外面底的幸福的一切的爱执,并且将外面底幸福和它的堆积,不再看重,而代以对于邻人的爱。然而这爱,在托尔斯泰是并不大的。我们不能说他热烈地爱了邻人,将他们崇重。当那生涯的最后之际,他说着。本来不应当教诲人的,不能什么路都好。应该救助灵魂,应该反省自己。然而在那生涯的盛年时候,他说过,不将爱来替换对于人们的敌意,是不行的,应该以侮辱别人的事为羞耻,为罪恶。抛掉罢,离开罢,这里就有对于人们的爱。无论为了怎样的幸福,也不要和你的兄弟——别人冲突罢,因为那些一切的幸福,只是架空的东西。这样一来,人们便将不被瞬间底的一切东西所害,在那里面,养出一种平安的生活来。
托尔斯泰竭力要在自己里面,发见这样的平安的生活的时候,他自己就看作那生活,觉得总也渐近了那平安,而且在最好的瞬间,是这样地实在发见了真实的安静。
在这里,是有一种深的真理的。现在的人们,正苦于一切生活上的不安和动摇,那自然是不消说。倘若他能够自己随意将催眠术加于自己,拂下了一切的不安和动摇,那么,暂时之间,内部也实在会有澄明的静寂的罢。这静寂,托尔斯泰是看得非常之重的。并且他仗着将一种暴力,加于自己之上——他告白着这事情——而在那静寂中之所觉到者,便是真的实在,人生的实体,神圣的生活,乃至“在神明里面的生活”了。
人们借了爱,借了和一切周围的东西结约平和,而作为代价,所赢得的这内底安静,便忽然充满了生存的光。这充满的是毫无恶意,而且毫不向着外面底的目的而进行的实在的光。托尔斯泰的社会底理想,就是基督教底的理想,关于这一节,正如他自己也曾说过,是各人大家决不欺侮谁,也不寻求富贵,除了延续自己的生存的事以外,一无所求,而靠了自己的手的劳动,生活下去。托尔斯泰是这样地,扬言着人生是协和底的。他——农夫——知道神,为什么呢,因为神也知道他的缘故。这被理想化了的农夫,必须是仗自己的手养活自己,没有恶意的,平和的邻人。
和卢梭、嘉勒尔、老子、佛陀,以及别的在各个国度,各种时代,将文化底过程的相似的时期,由本身表示出来的许多思想家的思想,连在同一系列的托尔斯泰,然而随意用俄国色彩涂糟了的思想圈,就这样地告了终结。自从发见了这真理以来,托尔斯泰便开始说教了。就是这样,我们暂且按下关于托尔斯泰的说明罢。
六 托尔斯泰主义和马克斯主义的关系
那么,马克斯主义云者,那本身是表示着什么的呢?
马克斯主义是无产阶级所固有的学说。这是适合于无产阶级的阶级底利益,然而正因为这样,所以是完全客观底地,描出着现实的学说。这里是有立刻来叙述这学说,和那在相反的位置上的世界——托尔斯泰的世界——有着怎样关系的必要的。这学说,是十分地容纳文明的,也容纳科学,也容纳艺术,而且连财富,连富的蓄积——资本主义,也十分地容纳。马克斯主义是都会的所产,不是农村的所产。那是看前面,不看后面的,和托尔斯泰,在有一点上——在对于有产阶级的如火的憎恶这一点上——是相交会的。这就因为有产阶级做完了自己可做的事,已经成了有害的存在的缘故。由都会的机制而生的一切矛盾,和在托尔斯泰主义者一样,在马克斯主义者也同样地来解释。从这些内在底矛盾而生的,便是各要素间的斗争。这斗争,固然是引向将来对于旧世界的胜利的契机,然而这并非由于科学、艺术、文明、都会工业等等的抛弃——倒转而被实现的,乃是由于这些事物之在那路上的将来的发展而被实现。这将来的发展,在它后面引出来的,是农民阶级和小有产者的破产,疲惫,还有是人类社会中阶级之最后者的,那一切所有都被剥夺了的无产阶级的发生。
然而,这最后的阶级,是据着将那作为进步的言语的科学,加以具体化了的机械而劳作着的。在开始获得对于自然得到真的胜利的巨大的劳动机关的助力之下,而劳作着的。而且,是对于世界市场,作为庞大的集团而劳作着的。而这事,即所以给一切全世界的无产阶级团结造成一个素地。而又惟这团结,才能够将科学和实用技术,以及文明的全连锁,从利用这些于贪婪的目的,自己的利欲上的诸阶级之手拉开,移到全人类的机关去。那时候,在那机关里武装了的我们,总便能够征服自然了罢。而且也能够消费了比较底仅少的劳力,而获得充足我们的欲求所必要的一切东西了罢。待到这些直接底的生存上的欲求,在各人各是共通的生产财物的所有者这一种平等者的世界的最高阶段上,得到充足的时候,那么,我们便要建设起大家都不带斗争的原因的,而且在已经组织了的生产历程上,出色的各式各样地开出花来的,自由人的文明来了罢。这样的是马克斯主义的世界观。
托尔斯泰主义所能说的最初的抗议,是这样的。就是:你们这样地非难莱夫·尼古拉微支(托尔斯泰)者,因为没有懂得“福音书”以来,虽然已经经过了许多的岁月,而人们纵有一切说教,也不能改造到较好的方向去的缘故。然而你们呢?虽是你们,大概也该知道要以暴力来创造人类的幸福这一种革命底企图,在先前是很少的。在多数者,能够用了武装的手,将文明从少数者的手里拉开,而创造全新的,人类历史上所未曾有的时代的事,你们为什么还期待着的呢?
这抗议,是不合理的。何以是不合理,何以是死着的呢?就因为在十九——二十世纪那般的科学的开花,在人类的历史上未曾有过的缘故。加以这样的工场产业,这样的交通路线,都未曾有过,而且在现今的形态上那样的资本主义,也未曾存在过的缘故。人类,并非单纯地生长的,那是从幼稚的状态,转移到成熟的状态去,逐渐生长起来的。在这里,有高扬和低落的一定的波。有文明的发展和崩坏的波。然而我们将人类的过去的行程,历史底地加以检讨的时候,我们却看见在科学和产业之点,人类是愈进愈前,终于到达了未曾站过的顶点。
大概,如果假定为在别的一切时代,社会主义已经得胜,如果这样的奇迹,已经成就,贫民分割了那时的生产机关,分割了富人的财产,那么,世界因此,说起来,大概就更其穷困了。然而现在呢,我们能够说:仗着现在的生产机关的正当的使用,即能得为万人所必要的财物;而且因为人类富裕着,所以要从自然获得必需的食物和别的惠泽的问题,到这时才得解决。人类至今并不富裕者,不过是因为在我们眼前发展得这么迅速的现存的科学和现存的技术,都用到使个个的资本家致富的营利底的目标里面去了的缘故;使用在个个的托辣斯和国家资本等类之间的竞争的集中的里面去了的缘故。于是这抗议,就消灭了。 |
噴泉のごとく極度に緊張した生活を持つトルストイは、常人に倍して生を愛し死を恐れた。死に対する猛烈なる恐怖は、彼にとって何よりも強力な刺激であった。蛊惑的なるこの生命の流れがもし途絶えたならば如何にすべきか――これはトルストイにとって重大な問題であった。一切は逝き、一切は移ろい、一切は消え融け、何一つ現実の存在はない――すなわち彼トルストイもなく、彼を取り巻く彼の愛する人々もなく、自然もなく、実在するかに思われた自然もなお流転し、一切は変化し、破壊され、しかも一切は幻想であり煙の上に描かれた影像にすぎぬ――このおそるべき恐怖は彼の生涯を貫いて離れなかった。 若き日のトルストイはコーカサスの戦場で死と向き合い、セヴァストーポリの砲火の中で死を身近に感じた。しかし彼を最も深く震撼させたのは戦場の死ではなく、日常の中に忍び寄る死の影であった。アルザマスの一夜――真夜中に宿屋で突如として襲いかかった名状しがたき恐怖。そこに実体はなく理由もなく、ただ「死がある」という圧倒的な認識だけがあった。この体験は彼の文学と哲学の深層に永遠の刻印を残した。 |
第53節
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那时候,还要提出一种抗议来。就算你们由这路径,能够收拾掉口腹的问题罢。然而你们是单存在于这世间,最为粗糙的唯物论者。在你们以为有兴味的,只是大家果腹的事。而这也是你们的最高的理想。但我们是要发见安静的,要在自己里面发见神明的。在你们,这样的事,是一无所有,只有肚饱而已,云云。
我们就回答,这样的事,是从那里也不会发生的罢。从各人无不愿意每天能有东西吃的事情,不会弄出他只为了吃而生活着的结论来,倒是相反,他为了劳动,思索,享乐生命,所以他非吃不可。人类并非为吃而生活,但没有食物,是活不下去的。
一般社会的衣食住的这问题,决定生活的根本条件的这问题,其重要是在最高的程度上的。而托尔斯泰主义者们对于这事,也并未否定。为什么呢,因为我们知道在他们的理想中,也有于本身之上,发见着靠自己的手的劳力,还能敷衍的生存的人。我们也并不以为这些物质底幸福之中,会独自含有本能底目的。所以我们说,待这些问题被解决,不见踪影的时候,而且经济底秩序,当然有了它应有的状态的时候,惟那时候,而人类的最高欲求——在智识,在创造力,在对于别人的爱的欲求,以及依据理论底智识,并且在事实上的自然的征服,才是向着第一的计划,跨了出去的时候罢。
对于这话,又有这样的抗议。你们未尝给与问题的真解决。你们为什么以为经济问题的社会主义底解决,一定将人们引向人类社会的调和去的呢?为什么人们从那时起,便变好了呢?
对于这事,我们也还是全然合理底地,这样地回答。我们也和你们一样,不相信人类是生成的性恶的。假使我们相信,那么,我们便以为所谓“善”者,是用了种种可怕的鞭子,来整顿人们的事了罢。我们要以为与其将人类托付教师,加以教育,倒不如将他作为狂暴的生物,系上锁链,交给那用烧得通红的铁,烧尽他的罪恶的刽子手之为必要了罢。但我们是相信人类里面,有“神的闪光”(托尔斯泰主义的诸君呀,为什么是神的闪光呢?)的。总而言之,是相信人类倘若那欲求得到满足,便显示着并无咒诅别的存在之必要的,有活气的存在的。
在人类,人类是必要的。当除去了怀挟敌意的原因的时候,人之于人,是很好的东西。作为好友,作为同事,作为那爱的对象,作为那孩子等等。在内面底的家族关系上,如果只是家族,更没有不和的外部底原因,那么,你们就会遇到那有崇高之名的友爱这东西的罢。
将人类的生活,设想为兄弟关系,或是有兄弟姊妹的一家族,为什么是不对的呢?
是的,只因为有私有财产和竞争存在的缘故。抛下骨头去,因此人们互相咬起来。然而骨头不够,如果不咬,就只好落伍!于是在这斗争里,生出巨万的财产来。得了这个的人,就恐怕失掉。为支持自己所占的地位起见,只好步步向上走。那结果,我们所看见的,是全般底的富的蓄积,这是私有财产的掠夺世界所造就的。这事情一停止,则对于你们所称为神的闪光,而我们作为活的东西,称为人类的自然的性质的东西,即毫无什么障害。人类就会结最好的果子了。
不独此也,社会主义底组织,不但表现那敌视底竞争的必然性的消灭而已,也表现共同劳动的巨大的组织。各个人的劳动,使一切人富裕,一切人的劳动,也使各个人富裕。这是因为经济底连带,而造成巩固的基础的。而这连带,又毫没有非怎样设法来破掉不可的危险性。
托尔斯泰主义者们还有下文那样的抗议。那么,好罢,然而你们在想泼血,想将血来泼别人。暂且认这为正当的罢,也且认社会主义是创造新的条件的罢。而且又承认由社会主义将工业从资本家的手里拉下,移作全人类的机关,在这基础上,能够创造一般社会的十足的福祉的罢。那时候,人们也可以营那调和了的生活了罢。然而呵,我所要说的,是得到这个,须用怎样的牺牲?就是近年的事。当国内战争和实施赤色恐怖政策的时候,托尔斯泰主义者们便拿了那平和主义在住居国内的智识阶级之间大捣其乱。他们说,那里有社会主义呢?那里有一般社会的福祉呢?你们得到了什么?生活可好起来呀?居民是这样地回答,“反而坏了,坏到百倍了,只有即刻就要好起来的约束,实际上却很坏,我们浸在血里直到喉咙了。”只要履行了这些约束,则为收受一种共产主义底的现实起见,就有施行这些一切可怕的罪恶,这一切的同胞杀戮的必要么?居民便异口同音地叫起来,“没有的,无论如何,没有这必要的。”然而倘若这不是赤色恐怖政策,而是白色的,则即使居民的大半并不这样说,一定从别一面也还是采用了暴力的手段。而况这大半,除了表明着阶级底敌之外,是毫没有什么的。但在这里,我们所说的,是对于从衷心确信着能够稳当地,平和地,合宜地解决这问题的中间派的人们。
对于这个,可以有两种的反驳。第一,是社会生活的诸问题,并不由于各人的意志,那是有着各有其本身的法则的历史底历程的。所以这和托尔斯泰或马克斯的是否愿意如此,并没有关系。然而,一到人类的下积——被轻贱,被侮辱,被蹂躏的下积,蹶然而起的时候,在他们的意识中,发生了“我们是在能够扼住那压榨我们的东西的地位上”这一个念头,而且强大了的时候,那时候,他们便不来倾听平和论者了,径去抓住压榨者的咽喉,并且开始沸腾着可怕的敌意。那时候,就起了问题——为保持自己的衣服的干净,避开斗争呢,还是愿意领悟,在未知谁胜的那斗争之际,即使不过充当后卫,只要是多余者,也还是可以抵当老练者的分量呢,这问题,便起来了。
符拉迪弥尔·梭乐斐雅夫曾将倘有人虐待孩子,对此将取怎样的态度的事,质问过托尔斯泰。但我们是这样地说的。如果人类为了要将包含着现在的几亿万人和将来的几世纪的人类自己,从托尔斯泰主义诸君也在攻击的那不正的世界的恐怖中拖出,而起身去赴最后的战争,又怎么能不去与闻其事呢?怎么能看见战斗一开,便慌忙起来说些“不要斗了,为什么斗的?”之类的话呢?这是除了枉然的言语的虚耗和使自己屈服于历史的效验之外,再也没有什么了罢。
但姑且假定为事情都能照我们的心而改换的罢。而且问题的进行,是顺着全依我们的意志的历史底历程的罢。这时候,在人类,也只剩了一两个方法了,就是,仍旧无休无息地,身受着人类在这些下面渐就灭亡的贫乏、疾病、罪恶、无智的不变的无限的重压,而用了先前的步调,在历史的圆圈里爬来爬去呢,还是将生活圈破坏,简直从这里面跳了出来呢?即使为了采用后者的方法,而不得不付高价的血的牺牲,我们大概也还是选取第二法的。不能在牺牲之前停留,是常有的事。
但在托尔斯泰主义者,在这一端,是显得多么温良呵!他们是多么尊重个个的人物,个个的生活呵!他们是多么用了从实生活游离了的他们自己的一切言语,来议论现世,而忘却着他们自己的言语呵!
应该记得,在人类,是有英勇主义(Heroism)的倾向的,而这个,恐怕乃是在人的里面的最为神圣的东西。在人,有将自己并不看作本然底目的,也不看作生存的最后的连锁的倾向;也有以为具有将自己的爱的中心,发挥于伟大的现在正在建设的事业上的能力,将自己看作建设者,看作那建设的础石,看作进向未来的组织的洪流,波动的一分子的倾向。知道了这事,以下的事大概也就明白了。如果社会的外科疗法底历程以外,这一意志对于别一意志的冲突以外,为我们的神圣的革命战线,不被后卫的传染性所破坏的后卫的外科底消毒以外,再没有怎样的历程,再没有怎样的出口,那么,我们就意识着自己的正当,来背十字架的罢。
对别人给以死的宣告者,而自己呢,却并无为伟大的事业而死的觉悟,那么,这是很可憎厌的人。但是,知道着人类是经过了委一切于运命之手那样的危机者,也知道这一失败,后世无数的时代人将只能徘徊于奴隶底的道德,而胜利之际,便阔步于从经济底铁锁解放出来的人类的路了。但我们是做不成这样的被解放的人类的。因此我们并不将自己估价到这样高,然而借了我们的苦恼和我们的斗争,而能成为这样的人者,是我们的子孙,于是我们就要毫不迟疑,选取战斗和胜利了。
在这里,即有我们的中心底的意见的不同,并且有着那理据。两个的世界观,是在这一点上冲突着的。在现代的德国,智识阶级已经遇到了大大的内面底动摇。他们憎恶着将战争和破坏给与了他们的有产阶级。他们寻求着非有产阶级底的路。而他们在最好的部分上,分裂为两条水路了。其一,是向着共产主义的方向的。并且竭力想结成无产阶级的左翼团体,得大众的注目和同情,以振起革命。即使这在十年乃至十五年之间,难于著著见效,即使这是困难的事,而他们还是向着现在的世界,向着人类生活的合理底组织突进,不但用眼去看那在地上的人类的正当的经济组织而已,还想用手去触动。而且正在努力,要将那拦在路上,只为利欲的目的,不使人类大众走到合理底生活去的东西,打得粉碎。
别一边的人们说——我们已经为战争所苦了……却还要有一回流血的惨案么?……但能否得到胜利呢?究竟有这必要么?从内面底的路宣言反对,探求圣者之道,以冀和别世界相融合,岂不倒是好得多么?我们是有着从无常之门,或从忘我之道,可以到达的别的世界的。他说着恰如唯理论者似的话,因为对于不谈彼岸的世界这一种轻信,未曾告发,所以托尔斯泰占着那中央位置的和神秘主义的游戏,便从这里开头……在自己里面发见神,而离开战争罢!使人子之中有平和罢,别的人们便会自来加入的。
我们遭遇了不能不为各个人,各十人斗争之际,要紧的事,是他们(一般人)怎样地明示着自己的立场。有些人是到世界的法西主义(Fascism)的阵容去,别的人则到少数主义去。这些一切,是正面的敌。第三种的人们,则跑到我们的阵容这边来。然而还有既不向右,也不向左,不冷,也不热,不黑,也不红,只在这人生中,留作无用的东西,并不探求非历史底的路而后退,但也不向前,却走向侧面,走向空虚里去了那样的人们。我们呢,首先,是觉得他们可怜。是个人底地可怜。因为在他们的空想底的自己满足之中,我们看见了欺瞒和幻影的自己满足的缘故。第二,是从社会建设的见地,将他们看作失掉的力,以为可惜。第三,是我们的义务,在于竭力拉得多数的帮手。所以我们应该从他们的眼睛上,揭掉覆盖,勉力使他们对于现在的现实所要求着的事物,张开眼睛来。
要做托尔斯泰主义者,那恐怕是容易的事罢。我调查过他们的许多人,但我并没有从他们里面发见特别的禁欲主义者。一到实在非拒绝兵役的义务不可的时候,那可就起了凄惨的冲突了。话虽如此,他们托尔斯泰主义者们,却从来决没有到达过认真地来震撼这掠夺底社会组织那样的集团底的意志表示。他们大抵避着正面冲突——我是托尔斯泰主义者呀。说出来的话,是极多的好句子。然而归根结蒂,在生活构成的理想上,是极度的凡俗主义。
我曾在瑞士遇见过一个非常出色的托尔斯泰主义者。[194]据他的意思,他是完全地过着圣洁的生活的。我曾想从最普通的农民的生活里,提出那生活来,但是没有弄得好。大大的菜园,许多的白菜,天天新鲜的白菜汤,不变的菜园的锄掘,关于救助灵魂的会话——此后所得到的,然而是嫌厌之情。为什么呢,因为这是枉然的水的乱打的缘故。但是他那里,恰如奔赴伟大的教师那里去的那样,聚集去各样的人们。于是吃白菜,喝牛奶,而倾听他的菜气,牛奶气的议论。
总之,这是容易的事。因为在实际上,这就是平和,就是腐败。然而直闯进去,投身于社会底斗争的正中央的事,无休无息地为正寻求伟大的行为和牺牲的历史的铜似的声音所刺戟,而苦于那斗争的矛盾的事,那在精神底崇高之度,较之这一切的反刍动物底的事件,是高到无限的。
当今天讲完了两个世界观的矛盾的概略之际,我说一个基督教底的,辛辣的故事罢。那是主带着尼古拉·米烈启斯基和圣凯襄,在地上走的故事。他们遇见了陷在泥沼里的农夫的车。主说,应该帮农夫去。然而穿着灿烂的天衣的凯襄说,“主呵,我不下沼里去,怎样好做那污了自己的法衣的事呢。”一面尼古拉却走下沼里,费了许多力,抓着轮子,将车拖出来了。他走上来,遍身是泥污。然而那泥,却变了带着一种说不出的光明的辉煌的光。灿然的珠玉,装饰了他的衣服。于是主对尼古拉说,“因为你为了帮助邻人,不怕进污秽里去,一年不妨休息到两回,但凯襄却四年只一回。” |
その時はまた一つの抗議を提出せねばなるまい。仮にこの道筋で食の問題を解決し得るとしよう。しかしあなたがたはこの世に存在する最も粗野なる唯物論者にすぎない。あなたがたが興味を持つのはただ皆が腹を満たすことだけであり、それがまたあなたがたの最高の理想でもある。だが我々は安静を見出すことを欲し、自らの内に神を見出すことを欲する。あなたがたにはそのようなものは一切なく、ただ腹がいっぱいになるだけだ、云々と。 我々はこう答えよう。そのようなことはどこからも生じ得まい。各人がみな毎日食べ物を得たいと願うことから、彼がただ食うために生きているなどという結論は出てこない。人間は食うために生きるのではなく、生きるために食うのである。もちろん飢えている者に精神を説くのは愚かなことだ。しかし飢えの問題が解決された後にこそ、人間の精神生活の真の展開が始まるのである。 物質的基盤なくして精神的発展はあり得ない。だが物質的充足のみが人生の目的だと考えるのもまた誤りである。この二つの認識を統一することこそ我々の課題である。 |
第54節
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正如这尼古拉·米烈启斯基[195]一样,托尔斯泰主义者们也太要保自己的纯洁。而因为这样,所以不能做真的爱的事业。那事业,不过是作为单在言语上的东西,遗留着。有时候,一面倾耳于我们那样的大雷雨时代,他托尔斯泰主义者们,一面却从人生所要求的巨大的要求退走,嚷着坏话,逃掉了。
我们所希望的,是不要将那在各处抽着新的萌芽的伟大的托尔斯泰之中,有着那道德底论证,有着那艺术底根据,而到现在呢,那稍稍有力的立场,要和无产阶级来结合了的智识阶级,在中途拖住。在无产阶级,智识阶级是必要的。在最初的时期,那必要的程度,恐怕要到没有他们,无产阶级便不能简单地走进新的共产主义底组织体的里面去。
参与这共产主义底建设的我们,从今以后,也将和一切别的偏见一同,和那表面很出色,而实有害于世的托尔斯泰主义者所怀的偏见,斗争下去的罢。
【今日的艺术与明日的艺术】
社会主义的理论家或用想象,或用科学底地多少有些根据的臆测,以论关于人类的社会主义底将来的时候,他们都一样地下文似的归纳起来。就是:在将来的社会里,尽最本质底的职掌者,是艺术。
他们里面,也有这样地非难的人——社会主义底制度,在转换期的政治底领域上,豫料起来,是无产阶级和贫民阶级的执政,就是,曾被支配阶级从文化挤开了的结果,那本质上文化底地低落着的阶级的执政。所以这制度,言其意思,便是在文化底方面,是应付精神的最微妙而且高尚的要求的社会底和国家底生活机关的衰颓和破坏。但是,对于这非难,无产阶级的代表者们是决然地否认着的。
自然,社会主义的这类理论家和豫言者们,其于无产阶级的艺术和旧支配阶级的艺术之间,有着著大的深渊,否则,至少也有境界线存在,是片时也未曾否定的。他们的几乎大部分的人们,是对于非文化和不关心于文化,发着非难之声。然而和这一同,他们也同时承认着关于“单一的人类底艺术”的废话。就是我,也并不欢喜说“单一的人类底艺术,”是不存在的,然而假使有谁,说些关于人类的单一底言语的事,那么,可以说,这人是也对也不对。有人类的言语构成的同一性或共通性存在,固然不消说得,但这既不妨害中国语和法国语的存在,就也不会使十二世纪的时世语和现世纪的时世语的存在,至于不可能。艺术也是,作为社会生物学底现象是全然一样的。就是,人类之能成为艺术家,以及在人间,普遍底地有艺术存在的事,毫没有否定了艺术和时代的推移一同,曾经遭过大大的变化,也没有否定了艺术在各社会各民族中,被铸造为特种的样式。
假使我们将有着多少距离的民族相互之间的种种社会底风习,比较起来看,大约便会确信艺术的不同一的理由的罢。况且社会主义底社会,在社会底秩序上,和有产者底社会,是颇极两样的。社会主义底社会,有时能够于由政治底变革手段,在不满一天之内,从资本主义里发生。然而有产者底社会和社会主义底社会的内部底本质,却非常互相差异。那结果,这两社会的艺术,在许多之点,是不一样的。但是,观念形态底样式,却常带着或一程度的迟缓,所以政治的变革,在观念形态底领域上也不能显示电光底变革,正是当然的事。
艺术既然一面进着或一定的轨道,有着或一定的习惯,无论故意或不得已,总之是努力于适合于或一定的趣味,而一面要顾到一定的市场,则仅在二十四小时,或一星期,或一个月之中,纵使对于职业艺术家的社会的要求已经激变,要艺术立刻自己意识到这事,原也极不容易的。
但是,假如他们竟意识了这事了,则和那意识一同起来的,是什么呢?那应该是碰着了稀有的大事变的时候,艺术家在他迄今成为习惯了的那样式上,已经不能照先前一样地来活动的那一种深刻的哀愁,失意。由这意思,在有产者治下的经济生活关系上而颇是病底的艺术世界的或一部分之间,革命底变革便不得不算是坏事了。盖在有产者社会里的艺术家,并非能够自由地活动的个人,他是自己的作品的贩卖者。就是,在有产者社会里的各艺术家,是以商人底关系而显现的,他,是艺术家,是诗人,是精神底贵重品的创作者,而同时也不得不如“灵感是不能卖的,但是那文章却能卖”的谚语一样地,兑换精神底贵重品。
可恨,这贵重品,不但能卖而已,且也非卖不可。因为无须卖那文章和绘画,十足地有着遗产的艺术家,是极少有的。
如果艺术家所发卖自己的商品(呜呼!)的市场,实质底地变化了,则这在艺术家是剧烈的大打击。因为新市场要求着怎样的东西,那所要求的东西自己能否供给,以及一般底地是否还要这商品,他都不知道。
这,是将本问题,从纯经济底见地,来论究了的。
然而,即使我们将对于艺术作品的观察,从在我们关涉艺术的人较为亲近的见地——文化底见地,观察起来,我们也将发见和从经济底见地来论究者相同的病底事实。因为在文化底关系上,定货和出货,也是存在的。假如这里偶然有一个在精神底关系上,确信只将自以为最神圣的东西,注入那作品里去的艺术家罢。可是这艺术家,一定要发见自己的作品对于周围并不起什么反响,以及周围的人们在将他当作外国人看。这样的时候,谁不对呢,非查察了实际之后,是什么也不能说的。或者是因为那艺术家老朽了,越过了他的民众,便将他当作败残者,剩在不知道那里的后方,也说不定。或者正相反,因为艺术家是天才底的,所以超越了那时代,也不可知。无论那一面,总之倘不是成为离了本流的支流,终于消在沙里似的怪物,便将成为殉道者一样,超越世论,为现代人所不能理解的畸人。如果是后者,则那作品,一定要作为人类的艺术中最贵重的真珠,为后世所赞赏。
我们能够下面那样地确言。就是:拥有巨资,支配社会,而且构成着社会的精神生活的大部分的一切阶级,一遇急激的转换期,则衰颓下去,破灭下去,死灭下去,而代之而兴者,则是并无既成底形式,或者虽然有,但所有的却是和曾经得势的既成阶级的形式极端相反的形式的新阶级,来看手于最初的计画。在这样的条件之下,则艺术界不得不混乱,还有个人底地,不得不遭遇那引起道德底和肉体底地直接的灭亡的激烈的暴风雨,也说不定的。
艺术家从这一点观察起来,将这社会主义底变革,加以大的评价到怎样程度呢,他们对于这变革,是和那评价作反比例,不得不敌意渐深的罢。而且他们虽然明知道资本主义底制度的不公平,却又不得不这样说的罢,曰,“一切都照先前,那就好了。我们并不说旧的东西好,然而倘要改革,则并不遭遇急激的痉挛和损伤地,也不鹘突地,和较为文化底的,较有教养的,较有准备的大众——于我们的社会并非无关系的大众,一同逐渐改革起来,那岂不好呵!”
然而这种的心情,是可以和大玛拉忒(Jean Paul Marat)曾对艺术家们说过的话,“凡有这些的人们,是富人的家丁,意识底地或无意识底地,正直地或不正直地,从未将什么色彩显在表面上。他们恰如靠了富人的食桌的余沥,生活下来的家丁一般,叹着这富人的破灭”的宣告,比照着看的。而且这,不但在革命无产阶级的眼里见得如此而已,即在客观的社会学者,也容易发生同感。
这样的世间的艺术家们所示的一切这些的现象,是胡乱的东西,非常肤浅的东西,病底地浮出的东西,和艺术本身,毫不带什么同一性或共通点。所以,本质底地,在艺术家中的艺术家,如那作品贩卖问题者,是不演什么决定底的作用的。假如演了呢,那是变态底的事,是不幸的事。那是耻辱。艺术家应该从这见地,以顾全自己的创作力。在那内部精神里,他应该首先省察那创作力,不使和烧牛肉的问题有什么从属的关系。
非物质底的,换了话来说,则是精神底的嘱托和提言之存在,是不消说得的,但艺术家,则以无论何时何地,绝不从属于何人为必要。而且无论怎样的程度,也没有依从任何希望条件的必要。有时候,他也和或一宫殿的描写,或是或人的纪念像的建立的嘱托者相商量罢。然而这不过是外部底的事,以什么为基调,应当将他的“精神”的什么部分加以物质化,都完全是属于他的事,在这点上,他应该保有最大限度的自由。凡艺术家,无论怎样,总非从外部方面,全然成为自由不可。
新的社会主义底制度,将这自由送给艺术家,是实在的么?现在,我不愿意用了蔷薇色,来描写那是实在的事。我们正遭遇着病底的过渡期,反革命战,饥饿和经济底破坏的时期。然而,如后者,在最近时,这才为胜利的太阳所照映。我们要讲关于新社会的正规的活动,那不消说,是太早了。到讲这社会诞生的苦辛的经历的时候,也还要有相当的日子罢。但无论如何,豫料社会主义底社会的正规底活动,将给艺术以最大限度的自由,是难以否定的。
社会主义是在努力,要使为社会的贵重的一切劳动者,尤其是给与创作底贵重品的劳动者,站在市场如何变动,总不受什么影响的地位。社会主义是在从经济底方面和精神底方面,研究个个的各人——虽然刚开手——将这作为一定的价值,并且看作一定的社会底职能。对于那后者,则应该给以能成人类的舌头、眼睛、耳朵的营养的一定的滋养分。因为惟有这样,这才能够使各人的天禀和素质,为了全人类的巨大的精神底到达,自由地活动,伸长起来。
将这具体化了来说,便是应该意识到自己是艺术家,并且使任意构成着的艺术家团体所认为同人的一切人们,获得全不必顾虑关于物质底生存,而能够注全力于自己的创作的确实的生存权。为要实现这事,我们还应该绝不踌躇地迈进。
应着我们所获得的力的分量,我们应该将正在用功的青年,毕业于学校而跨进实社会的人们,艺术家,熟练的技术者,巨匠等,换在社会的保障的位置上,并且应该象对着停在树上的小鸟,说道“不要愁明天那天之类,尽你身体的本领来唱罢!”一样,也说给他们。
这是由我们的社会主义底计划,必然底地起来的问题。我们将这问题愈是较多地实现下去,我们的胜利就愈充足,艺术家对于市场和嘱托者的胜利就愈确实,从人类的心灵里,也愈加自由地涌出艺术底源泉的罢。
但是,单单的自由,是不够的,自由云者,是在最高程度的消极底的或物,更加精确地说,便是在自己之中,不带积极底的东西的或物。尼采说,“你虽说自由,自由,但是,兄弟呀!是怎样的自由呢?”这完全是真的。我,可以说是自由的。我的手足没有被束缚,我向左向右都能走,可以立功,也可以受侮。然而不能因为这样,便归纳为这自由是积极底的东西,因为解放精神病者或有犯罪底倾向的人——也许倒有些是积极底现象的缘故。
新的社会和社会主义制度,不但将艺术家解放而已,还给他一定的刺戟。艺术家应当自由,我所说的意思,并非说在这话的形而上学底意义上,他应当自由。即使我们用纯物理学底意义,说或人是自由的,也不能从这话,便立刻归纳为他能飞,或者便于用四脚走。我们运动身体的方法,关系于生来的身体构造的如何,人类是自由的——这意思,并非说他能够有四耳四目。人的实体,为人类的全过去所构成,我们所名之为容貌者,连细微之点,也为过去所决定。人类不但肉体,连心理也受遗传,所以无论谁,都不是自己本身的精神的原因者。我们是由遗传而得精神的,那时候,得来的或是“白纸”,或是容易擦掉的线,否则便是刻了十分深刻的线的“纸”。无论所得的是什么,就在这精神上面,再逐渐迭上外来的新印象,自己的绿青,即自己的经验去。
那么,个性是怎样地被构成的呢?那是,将在自己生存着的社会里所受的各种的印象,以及由遗传而生得的倾向和萌芽,蓄积在特种的综合之中而成就的。
社会主义底社会,对于艺术家,能够无限量地给与他较之他向来生存着的旧社会,更加巨大的内底生活的内容。
关于新社会之有广博的,纪念碑底的,原素底的,永久底的,雄大的性质,在这里是什么异样也不会有的。 |
このニコライ・ミハイロフスキーと同様に、トルストイ主義者たちもまた自らの純潔を保つことにあまりにも汲々としすぎた。そしてそのために真の愛の事業を成すことができなかった。その事業はただ言葉の上のものとしてのみ遺された。時に我々のあの大雷雨の時代に耳を傾けながらも、トルストイ主義者たちは人生の求める巨大な要求から退き、悪口を叫びつつ逃げ去った。 我々の望むところは、あちこちに新しい萌芽を伸ばしつつある偉大なるトルストイの中にあるあの道徳的論証、あの芸術的根拠を、今に至ってあのいささか矮小化され卑俗化されたトルストイ主義の遺物と化さしめぬことである。 トルストイの遺産は巨大であり、その中には人類の永遠の真理がある。しかしその遺産を教条的に固守し生ける現実から遊離させてしまうならば、それはトルストイ自身が最も嫌ったものとなろう。トルストイは生涯を通じて変化し続けた人であり、定式や教条を憎んだ人であった。その精神を真に継ぐとは彼の結論を繰り返すことではなく、彼のように果敢に問い果敢に探求することである。 |
第55節
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象在我国这样的现象,在德国也一样地存在。在德国,当几乎每两村之间,有着分隔别村的税关的界壁的那时候,为了这,“关税同盟”是必要的,但到后来,帝国主义底中央集权来替代了这个。当我们分离为各团体,又,我们的该营合同生活的可能性,实际底地殆被剥夺了的时候,在精神底关系上,也看见和这一样的现象。人类之中,最贵重的,是人类的集团性,但在这样的环境里,我们是没有知道这,也没有觉到这的罢。
我们继承着人类的过去,也爱人类的未来,并且也响应各种的现象。那现象,便是和本身的周围有着硬壳的蜗牛全然一样,发生于由昏玻窗而感受视觉底印象,经厚障壁而感受音响的实体的我们的周围的东西。惟有社会主义,则破坏这障壁,无论怎样的形式的利己主义,也打破那存在的素因,毁掉龟一般拖着走的小屋,对于从外部来的一切的刺激,我们就易于感受,易于铭感。而且这样地和外部联络在难以相离的关系上的我们,便必然底地和人类的全心理相融合了。
人类,是无限的,是永劫的,是神底的,我们这样地感觉,是始于什么时候的呢?这是在——明白了人类所有的一切,都是挪借,或是经过筛子,从外部所收受的东西,而人类决不为衣服之类所制限的时候;人类象了伟大的豫言者,成为能够生活于全心理底生活的人物了的时候;人类能够说“我的人格,达于日星,我的人格,在我们现代人的苦痛和愉悦和欢喜之中,具体底地活着,将在过去以及未来的人类的欢喜和悲哀,作为我的东西而活着”的时候,是那时候。
这是将成为人类的精神的,伟大的不死底扩大的罢。但倘有人说,因为围绕我们的生活的步调太快的结果,以及人类所受的印象太多的结果,人类大概都患着神经衰弱,那么,也就可以担忧:当“喧嚣和音响和长枝条的生长”满于人间的时候,社会主义开拓我们的耳目的时候,人类的脑髓不会破得乱七八糟的么?自然,人类的一切用器,也并不是能够收受逼他而来的人类底暴风雨的全部的东西。
在艺术的领域上,要展开堂堂的记念碑底的宏大的场面,我这样想,但这是无可怀疑的事,那时候,先是艺术底集团,进向这意义上的第一计划去,是明明白白的。倘我们作为例子,取了集团主义的最贫弱的时机,例如古代的共产,或意太利中世期末叶的共产建设,或是建设中欧的戈谛克式的寺院和市参事会堂等的艺术来一看,那么,就会发见,在这里,个人是将影子藏在背后,而且无论是怎样的人类底天才的堂堂乎而又值得惊异的作品,也不容易寻出那作者的名氏的罢。凡这些,不消说,就都是费百年的岁月,化许多的费用,由无名的团结,而建设了什么可惊的建筑物的。
我们在不远的将来,就要有洛思庚(Ruskin)所曾经颂扬为较艺术底个人主义更加优秀者,即艺术底集团以及建筑家、画家、雕刻家的全一底团结的罢。他们将一气来研究一定的同一计划,而且他们不但无须百年的岁月,只在几年之中,建设各种人类的理想和人类的贵重品的殿堂而已,也将建设作为我们的紧要的欲求之所在的公园都市和完备的都会,并且以人类对自然所描写的美和调和的幻想为基调,来改造地球的全面的罢。
倘要豫期那由精神之中的内部底变革而生的什么损失,和在外部的社会主义底变革相当者,那恐怕是幽玄(Intimacy)的诗和幽玄的艺术这方面罢。我知道着神秘底而难以言传,并且不能翻译为任何言语的,虽微音和轻颤,也都觉得的艺术家的微妙的感觉,换了话来说,就是知道着以为我们的内部底变革的结果,我们的精神将要全被颠倒罢,赫赫的太阳的光线之所不到的狭路,将连一条也没有了罢之类的,艺术的微妙的感觉的恐怖。
但我想,以此为憾的时候,大约是未必会来的。为什么呢,就因为这样的个人中心主义和个人的独创性,或是收受印象的气质底特征愈强,则社会的分化之度也就跟着它而愈加增加起来的缘故;还有我们的精神感受印象愈多,则将精神来水准化的事也就愈加困难起来的缘故。
试取什么边鄙的村落为例来看——在边鄙地方的人们,是大家非常相象的。在西伯利亚的僻地,或是隔绝了一切外界的印象的人们所住的幕屋等处,会看见集团底精神病的现象——就是,当人们失了自己的个性时,易于发生梅略欠涅病的现象。而反之,对谁也不给安静的大都会,却于个性的发达,给与最敏感的样式的。精神病研究者告诉我们,村落里的最大多数的精神病者,所患的是白痴,即个性的倒错和个性的丧失,但在都会和中央部以及首都里的最大多数的精神病者,却是发狂和夸张个性的人们——例如夸大妄想狂和热中狂。
疾病之所显示者,是一般底生活状态的最征候底之点。我们的在要进行的市街主义,以及在精神界物质界,发生于白日之下的一切事物的文化底向上,是引向个性的发挥,那材料的丰富,称为人类底个性这社会相的复杂化的。
从这个见地来观察,则在社会主义底社会里的创作上的独创力,就比在什么社会里都要大。但豫料起来,这独创力,也将更为勇敢。而且,正在受着“Decadence”这句话的洗礼的耽美底颓废底的东西,那职务将愈加缩小,也是可以肯定的。就是,人类将征服迫压自己的一切哀愁和不幸,而得到胜利。而且在社会主义底社会里,也能够苍白瘦削,除了哀调以外,不能表现其心情的孩子,化为有着最勇敢的积极底的心情的壮健而又充满希望的青年。那时候,迄今是本质底的哀调,在他恐怕早成为不调和的东西了。
经了这样的试练的艺术家的共通底特质,是能够在一瞬息中,超越了对于别人的个人底外面的接触——自然还不能不接触——而即刻入于惟有作为艺术家的境地。倘若讲起关于我们现在正在创造的世界历史的划界时代来,那就可以大大地鼓舞底地,大大地光明底地来说:首先,我们将走进这社会主义底乐园,但应该经过那小小的层,而且这还是颇苦的炼狱 。
倘将现代的艺术,仔细地一检点,则我们大约就会发见,艺术是已经并非单一的东西了,所以,当艺术直面着新的社会底需要的现在,艺术家的各种团体和各种部类,在这点上就非常混乱。
新旧的艺术,在旧世界里,是颇猛烈地,而且颇怀着憎恶,互相攻击了的。年青的艺术,对于妨害自己的自由的发展的事,以及艺术界的特权底的元老阶级,还有仗着已经树立了的自己的名声,一直在后来的社会里也还保着地位的旧时的人们的成绩——等,都大大地愤慨了。
在这神经衰弱底世界里,我们是在非常地特殊的现象之下,生存下来的。以异常的速度,方向行了转换。几乎每年有新流派发生。有志于发见艺术上的新大陆,发见亚美利加的青年,滥造了可以称为技巧的东西。假使旧的系谱的艺术家们,从自己的立场,对着青年的艺术家,说道,现在是写生(Sketch)得了势力了,所以暴风底的而新奇的你们的探求,在今日的艺术上,是消极底的东西。则他们的观察,许是正确也说不定的。
几乎谁也不认真做事,几乎谁也不着力于艺术的社会底活用这方面。那结果,是使我们只能和最实际底的非文化混杂。倘在艺术虽然分明知道,然而堕落下去,失了传统,成着野蛮的现代,将我们和旧系谱的艺术家相比较,来非难我们,说我们比他们画得更坏,写得更坏,那是不得当的罢。为什么呢,因为我们的艺术,是豫期着就要将新的趣味,送给生活的。然而显出衰颓期者,却无论怎么说,总是艺术的社会底信用的丧失。倘从旧系谱的艺术家那面来观察,说青年们不过要博名声,炫着奇矫,那大约可以说,话是对的。乳臭还未从唇边干透的无髭的青年,便早以轨范自居,即使他竭力撒出前代未闻的恶作有怎么多,而其中却既不成样子,也不会有调和,那是轻易凑成的理论,或是搜集言语的草案,这是可以做理解他所发明的东西的钥匙的罢。而且他,还常在自己的周围,寻到两三个比他更愚蠢,连他所发见了的独自的东西也不能发见的青年们的罢。他们于是相率而向那可以发挥独自性的清新的轨范前进。市场对于这现象,也有些适应起来。
艺术家的伟大的主人翁——那是广告家,艺术作品的贩卖者——最近也明白而且嗅到了这方面的事,他们不但买卖有名的名氏和伪造物,并且喜欢制造新的名氏起来了。在什么地方的楼顶房里住着的人,他——说得好,是病底地强于自爱的不遇的人,说得坏,是骗子。
然而巴黎或伦敦的一个公司却准备利用他来赚钱,全买了他的画,用广告的意思将这卖出去。一切的识者和搜集家,都想为自己买到这些画。在他们,一定要用这“伊凡诺夫”,这便定了市价。他们买了那个去。盖因为“这是希奇的”的缘故——这句话,在现代,是非常的赞辞。而这种事象,在最新的艺术之中,则是病底地很厉害,在那里,有被厌弃的残骸的山积,是谁也不能否定的罢。
青年们在创作之前,发见新的道路之前,先来准备走这新路的腿装,健脚,是好事情罢;经了艺术的好学校,然后来想独立,来想艺术的此后的发展,是好事情罢。青年们到了这样,不是正当的么?
可惜的是,我们还不得不时时顾及这样的非难,那就是说,虽在代表着有势力的亚克特美派(学院派)的团体的艺术家,也一样,艺术的社会底活用这方面,也被付之于等闲。在各国里,艺术正在沉衰,圣火正在消灭。
自然,印象派的人们所在反对的非褐色的酱油呀,没有苦恼的钞本的誊录呀,最近十年间几乎风靡了一切艺术的没有有苦恼的继承呀,或是有产阶级社会的艺术等,是可以使它和年青的艺术相对峙的。
从别方面观察起来,则正确地指示着,那“轨范”这东西,就几乎完全成了壁纸店。他们应了富贵的人们的需要,制造适合于那住居的各种乐曲和富人的肖像,这样子,他们不但被剥夺了创造底活动,而且全然职工化了。但这里之所谓职工,并非我已经讲过的,这话的本来意义的职工,即艺术的社会底活用者。
在我们的博物馆里所见的绘画,即属于真实的全盛期的绘画,和现代的绘画之间的那差异,可有未曾看出的人呢?
从这样的见地,大概就可以说,艺术的状态,实在是颇为苦恼的状态了。我们在艺术里,看见沸腾和志望和探求,总之,这是惟一的好东西。为什么呢,因为在不行探求之处,就没有适应于这世纪的经了洗练的技巧,而只有曾在或一时代实在活过的艺术的——苍白,秃毛,无齿,瘦削,濒死的——残骸的。
自然,在这两极端,即新的探求和旧的形骸之间,为了优秀的技术者们,还留有很多的余地。倘我们隔了或一定距离来看,则在人类经过造形艺术之上的一阶段的那艰苦的沙漠的绿洲上,会看见将新的探求和旧的体型,独特地结合起来的一等星的辉煌的罢。
于是乎应该归纳了。但是,在这之前,将关于革命艺术的问题,作为问题来一看,也不是枉然的事。
我们上面说过的探求,是显示着病底状况的,然而,在那探求之中,不带着非常健全的基础么,又,没有触着发生于艺术的领域以外的革命,即发生于社会底探求的领域内的革命的真谛么?这问题,是极其重要,而且很有兴味的问题。所以我希望在这里听我演讲的市民和同志诸君,我关于艺术上的所谓更新和艺术上的无知,以及似是而非的伪学者的丑恶的方面,虽然颇猛烈地讲过了,但不要立刻将这和触到革命的真谛的重要问题,连结起来去着想。我所要讲的,除了关于无知和似是而非的伪学者之外,是什么也不是的。
然而,在这里,却发见着大价值的事业,在这里,却有着对于活的今日,对于真的事业,要表现自己的感应,并且用文学底反响来呼应的艺术家中的最易于共鸣的部分的(即年青的人们的)诚实的志望。我们并且有着在这意义上的典型底流派(印象派在前几时还曾嚷嚷,但现在已被看作昨日的流派了。)——颇可作详细的研究的对象的立体派和未来派就是这。但对于这现象的解剖,我现在不能分给它时间。
在现在,只能讲一讲一般地已被肯定了之说——就是,二十世纪之所创造的人生,实在是绚烂,而且印象很丰富,在艺术的新倾向中,有着这人生的现实底反映——这一种谁也没有论争的余地之说在这里。
造形底艺术,依它自己的典型,是静学底艺术;于雕刻和绘画,没有给与可以描出运动的东西。
在二十世纪——特是运动的世纪,力学底世纪——里,绘画和雕刻的样式本身,是不得不惹起人类的精神和病底冲突的。 |
我が国に見られるのと同じ現象がドイツにも存在した。ドイツではほとんど二村ごとに隣村を隔てる税関の壁があった時代、そのために「関税同盟」が必要であったが、やがて帝国主義的中央集権がこれに取って代わった。我々が各団体に分離し、しかも共同生活を営む可能性が実際的にほとんど剥奪された時、精神的関係においても同じ現象が見られた。人類の中で最も貴重なのは人類の集団性であるが、このような環境の中で我々はそれを知ることも感じることもなかったであろう。 我々は前の世代から個人主義的文化を継承した。この文化は多くの美しいものを生み出したが、同時に人間と人間の間に深い溝を掘った。芸術においても思想においても、個人の天才が最高の価値とされ、集団的創造は軽視された。 しかし今、新しい時代が始まろうとしている。個人の力だけでは解決できぬ巨大な課題が我々の前に横たわっている。人類はその集団性を回復し、共同の力で新しい文化を建設しなければならない。これは個人の抹殺ではなく、個人の力を集団の中で最大限に発揮させることである。 |
第56節
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艺术家用尽心思,要自己的绘画动着,活着,他努力想由了形态,使作品力学底地活起来。然而虽然如此,描在画布上的一切的东西,却立刻死掉了。所以就有创造运动的幻影(Illusion)的必要。而最新的艺术底流派,目下便在内部底矛盾里争持。但是,并不是惟有这个,乃是构成青年们所正在深刻地体验着的危机的精神的东西,对于有大力发大声的叫唤者的许多青年的爱情和奋激,也成为那精神的构成,那精神,于伴着资本主义底,战争底,革命底性质的暴风的社会生活的新状态,是很相适应的。
现代,是最英勇底(Heroic)的时代。
不久以前,我们还彼此在谈琐细事和寻常事。看契呵夫的作品和摩泊桑的《孤独》就是。谁在今日,还说人生有些发酸呀,人生的波澜稀少呀,锋利的印象不够呀,事件的进展不足呀呢?我们现在,可以说,已经进了曾在过去的或一时代,人类的经验了的粗野的旋涡的正中央了。这旋涡,愈到中心去,就卷得我们愈紧。坚实的一切东西,都在那里面被分解,例如,雕刻也是,绘画也是。于是替换了先前的易于溶解的特质,而得到过度地强有力的特质,极端的内部底不安的特质,同时是作为时代精神,必然底地正在要求的明了的特质。先前为了被评价而准备着的色彩、容姿、线等,在现在,比起我们每事所经验的新的那些来,在我们只见得是隐约的朦胧的东西了。作为形式的革命,是跟着其中所含的破坏,被铸成的形体的缺如,最大量的运动的存在的程度,而和最新艺术,联为亲密的血族关系的东西。
但是,这事,是最新艺术的内容,和新生活的内容有些关系的意思么?不,并没有这意思。属于过去的系谱的艺术家现在虽然还生存,革命阶级的无产阶级却直感到毫无什么可以从他们摄取。而反之,无产阶级也觉得非全然向未来派去不可。然而这样的事,在我们是毫不觉得正当的。
假使将革命无产阶级们的显现于一方面的对于旧形式的爱执,用了或种非文化的事来说明,则在别方面,各个无产阶级的对于未来派体型的有所摄取,就分明应该当作偶然底而且肤浅底的现象。无产阶级(尤其是那最前进的人们)虽然对未来派说,“惟这个是应我们的欲求的东西”,然而两者的这样的实在底的融合——是全不存在的。
然而,我们愈考察在无产阶级者戏院和展览会的状况,就愈不能不承认对于无产者艺术,给以最大影响者,总还要推最新的流派。形式底的亲族关系,即新形式的探求,其实由于对一切革命的本质底的动力主义(Dynamism)的偏爱的——这使彼此两方面成为亲属。然而在无产阶级,有着内容。倘使你们(新流派的艺术家)问他们(无产阶级)所要的是什么,他们就会对你们吐露堂堂的思想的罢,而且会讲说关于人类的心理的绝对底变革的事的罢,这些一切,也许是还没有完全地被确定着的,但至少,也暗示着目的和理想。但是,关于这事,他们倘去质问未来派的人们,大约未来派的人们就会说,“形式呀”……“形式呀”。“体验”以外,什么也没有画出的线和色彩的种种的结合,在未来派是以为这是一种绘画的。感染了有产者的艺术底空虚(盖在有产者,是没有理想的,)成着先入之主的未来派,说,文学不应该列入艺术之内,艺术家不应该感染着梗概底内容和文学风。在我们,这话是奇怪的。倘若这话并非以不能懂得这质问的孩子为对手,那么,我想,便是颇为颓废的征候。为什么呢,因为一切艺术是诗,一切艺术是创作,艺术者,是表现着自己的感情和观念的东西,这以外是什么也不能表现的。这些观念,这些艺术,愈是确定底,则艺术家所表现于那作品上的果实,也愈是确定底,纯熟底的东西。
谁以为线和色彩的结合,就成着贵重的东西的时候,他乃是不能将新的什么东西灌进新的革囊里去的小子,或者恰如文化用旧了那内容,转向到纯然的形式主义去的时候一样,是专重形式的半死半生的老人。尼采说过的下面那样的话,是最为得当的:“现今的艺术,失掉了‘神’,艺术不知道应该教什么,也没有理想,所以纵使你是怎样伟大的技术者,在这样的条件之下,你却不会是艺术家。”
在形态上没有独特的思想的人,在形态上没有被铸造了的明白的体验的人,便不是艺术家,他不过成为单单的技术者,以造出别的艺术家可以利用的或种的结合。
这显然的内容之缺如,以及连在做诗本身,也是并无内部底内容的声音和言语的自由的结合论(这样地也还是失算,终于将文学从文学赶出了)之类,究竟是有着怎样的特质的呢?这是被不象未来派之专在追求新奇的新人们,看作——未来派者,是恰如有产者底进膳之后,说别的东西都平凡,想要黄莺舌头的有产者底文化的极端地腻味的无谓,和被阉割了的果实,是很陈腐的东西——的程度就是。
在旧艺术,愈有着颇是本质底的出发点,即艺术愈是现实底的,则可以断言,它有着对于将来的生存权无疑,还不止生存权,艺术在将来,将愈加巩固其位置。纵使我们坚持着怎样的理论,能够想念底地,否定了自然给与于健全的一切人们的形态的结合,蕴蓄着最高的观念底和情操底内容的形态的结合——惟有这样的结合,有着存在权——的事实么?
然而这并非艺术非写实底不可的意思。说起这是什么意思来,是:人类当活着之间,会有一种欲望在人类里出现,要使人们以及在周围的自然结合起来的意思。是:虽在图谋结合,但愿意表现出我们的贵重的幻想和或种高潮的观念地,并且改造过或种的现实底形态地,结合起来的一种欲望,在人类里出现了的意思。
正如诸君不能抹杀我们的言语一样,也不能抹杀这事的罢,因为这是几百万年间,一道伴着人类下来的东西。
从这见地来观察,则对于自然有着现实底而且“奴隶”底——(新人物是这样地说的)——接触的被称为旧艺术这东西,倘充满以新内容,那艺术便将看见最决定底而且广大的反应。振兴这艺术的关键,系于发见那活的精神或内容。近年来,对于内容,竟有轻率的,嘲弄底的态度了,但寻出内容的事,言其实,在很有技巧的艺术家,是他所应做的一切。以对于事略家的态度来对内容,是不行的。寻出内容的事,意思就是得到观念的结合,而那观念,则就是充满于人类的精神中,非将这表现出来不可的东西。
新的艺术,在社会主义关系上,也并非在更加适宜的状态。
在新兴艺术相互之间,在这艺术的天才底代表者们和劳动大众之间,设起亲睦关系来的我的尝试,无论何时总遇见颇认真的反对。那反对,不但从大众的方面,从劳动阶级的相当的代表者们这方面也受到,他们否定底地摇着头,说道,“不,那是不适当的。”
然而那样的事,不成其为意义,新的艺术云者——是较之新的接触和变形,生活现象的音乐底解释,或由自然所授的形式,倒更有以创造者所显示的艺术底形式为主之类的倾向的。但在这里,内容也在所必要。
天才底未来派之一的诗人玛亚珂夫斯基(V. Maiakovski),写了称为《神秘喜剧蒲夫》这诗底作品。这作品的样式,是玛亚珂夫斯基所常用的,然而内容,却有着稍有不同之物。这作品,以现代的巨人底体验,作为内容,内容是帖然切合于生活现象的,作为近年的艺术作品,可以说,先是最初的收获。
从外部底方面观察起来,事情是简单的,虽然我们衰颓着,俄罗斯衰颓着,然而我们非开拓艺术的全盛期不可。我们愿不愿,并不是问题。是目下我们被逼得不能不做,而且不可不做的事,连列宁似的并非艺术家的人,所怂恿我们的是——在街上,在屋里,以及在我们各都市上的各种的艺术底创造。竭力从速地变革这些都市的外貌;将新的体验表现于艺术底作品上;抛掉可以成为国民的耻辱的感情的大块;在记念物底建筑物和记念塔的样式上造出新的东西来——这些的欲望,现出来了。这欲望,是巨大的。我们可以将这做在临时记念物的形式上,在墨斯科和彼得格勒和别的都市里,已经建立起来了,以后也还要多多建立的罢。
将石膏和一时底的雕像,铸铜与否,是由于艺术家的态度之如何的,他们倘努力于铸铜,也就做得到的罢。还有,人民愈是裕福起来——自然,人民是要裕福起来的——这创作的进步也就愈加出色的罢。这“十月”二十五日的节日,是大节日中之一,从世界上任何时都不能见到的外部底的规模,从国家所支出的经费,从在胜利的余泽中所体验的心醉,都应该想到是大节日之一的。
彼得格勒的第一个大工厂这普谛罗夫斯基工厂,向政府申请,要对于在彼得格勒建设壮大的人民宫殿的事业,给以援助的事,我在今天知道了,不胜其高兴。他们说,即使你将十所百所的宗务院,元老院,那旧的典型的建筑物和有产者的房屋,给与我们,于我们也不满足的,这些并不是我们所要的东西。我们愿意有和本身相应而设计的自己的房屋,从有产者的肩头拉下来的东西,是不想要的。政府呢,自然,不会拒绝因此而支出的几千万金的,从明年春天起,我们也当然要着手于堂堂的世界底的人民会馆建设,我们应该立即着手于设计会议和事前准备。
关于这在彼得格勒的社会主义底人民会馆的建筑问题,倘不能悉数网罗了艺术家,则从劳动者方面向艺术家去嘱托,要若干的天才底艺术家来参加,是办得到的,而且也应该如此的,可是这是在我们没有多余的面包片的时候。
倘若事件在此后仍以现在似的步调进行,则我们将努力,在奇异的我们的扎尔(俄皇)的彼得格勒上,再添上更奇异的劳动者的彼得格勒去。(至少,人民和那指导者,是在向着这事前进的。)
对于这事的趣味和才能和天才的需要数量,可能搜求到呢?我想,聚会在这里的艺术家诸君,是充满着大的自信,会说——使我们去作工罢,给我们材料罢,才能之数,是不足虑的。而且这样的气运,我想,惟在伟大的时代的伟大的国民的艺术世界里,这才存在的。
自由的最大量,——由现代的世界底而且历史底切要,非资本家的国民的嘱托的大举,而被形成的内底内容的最大量,——和这相应的创作的自由,——艺术的一切机关的自由的制度,即一切官衙式和有什么功绩的艺术贵族的一切管理之排除,——艺术底人格和艺术底集团的自决的完全的自由,——凡这些,是原则,惟有这,是和展开于艺术之前的诸事业相呼应,而能遂行的惟一的东西。
对于在这彼得格勒的,以前的最高美术教育机关的前美术学校,我希望着诸君,希望诸君在本年中,因了年长年少的同志的提携,又因了由人生提出与艺术界的直接问题而被启发了的最是自发底的提携,而得艺术自决的自由的第一经验。那自由,是不加长幼或有名无名的差别,随意到好象一兵卒可以做元帅,实际地造出自由的竞争来,这在革命时,是常有的事,在这样的时机,一切才能,是能够发见和那力量相称的评价和位置的。所以,我们的生活的悲惨的方面,我毫不否认,然而同时,血管里流着热血的人们,却也能够经验那要冲进切开了的未来里去的准备和欢欣,我想。在未来之中,危险的东西和不确定的东西,还多着,但这是应该以自己还是壮者的事,来唤起勇气,鼓舞勇气的。而且,人们在没有躺在坟墓里之前,总应该是壮者。
有人说,恰如米耐尔跋(才艺女神)的枭,只在夜里飞出来一般,艺术只在大事件的发生之后,来结那事件的总帐。我据了许多的征候,觉得在我们之间,这样的现象,大约是没有的。那理由,是因为社会主义底革命,在热烈地志望,要赶快将新的酒灌进新的革囊里去的缘故。
在现在,我们也常从动摇的农民和劳动者方面,得到要求。那要求,是给他们科学,给他们艺术,使他们知道蓄积至今的宝物,给他们设立可以发见对于自己的期待,体验,见解的反应的机关,对他们解放知识和修得的源泉等。他们能够用了这些,将久已酝酿在国民的心底的东西,秘而不宣的东西,以及正如革命解放了各人的个性那样地已经解放了的东西等,适当地,天才底地,或者未曾有地,描写出来。
我所望于诸君的是勇气和信念和希望的坚强,我们是生存在真的希望之国里。即使这希望是象元日草的罢,总之也还是一种会得生长的东西。芥子种能成大木,我们的土地化为乐园,由人间底天才的暗示,而成为伟大的艺术底作品,艺术家在现在,可以在这里发挥自己的本领。 |
芸術家は心を尽くし、自分の絵画が動き生きることを望む。形態を通じて作品を力学的に活かそうと努める。しかしながら、画布の上に描かれた一切のものはたちまち死んでしまう。そこで運動の幻影(イリュージョン)を創出する必要が生じる。最新の芸術的流派は目下この内的矛盾の中で争っている。しかしこれのみならず、青年たちが今まさに深く体験しつつある危機を構成する精神的なもの、力ある声で叫ぶ者への多くの青年の愛情と奮激もまたその精神の構成要素となっている。その精神は資本主義的な戦争とその後の社会変革に伴って生まれたものである。 芸術における運動の問題は単なる技法の問題ではない。それは人間の存在そのものに関わる問題である。静止した画面に生命を吹き込もうとする芸術家の苦闘は、固定した社会に変革をもたらそうとする革命家の苦闘と本質的に同じである。いずれも既存の秩序に抗い、新しい可能性を切り開こうとする。そしていずれもその内部に深い矛盾を抱えている。 |
第57節
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我想,我们所聚会的小小的祝贺会,是和社会主义底变革的精神,在深的共鸣之中的。还有,我所作为最大的欢喜者,是我为了要作已经说过了的那样的演讲,来到诸君之前的今天,和善谛罗夫斯基工厂的委员见面,受了这样的要求。他们要求说,“劝诱你的艺术家们罢,使国家拿出本钱来罢,那么,在彼得格勒,第一的伟大的人民会馆,就会造起来了。”“国立技艺自由研究所,”是可以站在先头,以建筑在彼得格勒的“自由人民会馆”的集团底技术者。
艺术的怎样的方面,是能够将利益给与苏维埃国家,而且非给不可的呢?先应该将艺术的怎样的领域,归我们管理,而且用国库来维持的呢?
因为有着虽然和艺术关系较轻,却往往将恶影响及于艺术活动上的人们,所以我想将这种国家的问题,给这样的人们来讲一讲。
一 作为生产的艺术
到艺术接近生产,还颇有些距离。所以大抵由左倾艺术家所提倡着的这标语,是在证明现代艺术的一种贫弱的,这应该直截地而且决定底地说。其实,艺术在现代似的时代,是也如在向来的革命时代一样,首先总得是观念形态的。艺术者,应该是将和那国民及国民的前卫阶级有最密接的关系的艺术家的感激的精神,自行表现的东西。艺术者,又应该是将现今正在作暴风底运动的人民大众的情绪,加以组织的手段。
然而,那感情上对于革命大抵是敬而远之的“右倾”艺术家——但“左倾”艺术家,在这关系上,却较亲近革命——是成了将最颓废底的影响,给与最近十年间的西欧艺术的,纯然的形式主义底倾向的俘虏了。所谓那形式主义底倾向者,外面底地,固然嚣嚣然似乎很元气,但内面底地,却完全是颓废底的。而且直到最近时,他们还有了进于内容的虚无,即所谓无对象的世界去的执拗的倾向。这些无理想者和无对象者们,虽然自己就是革命的实见者,而对于这历史上的大事件,竟毫不能给与什么观念形态底艺术,什么堂堂的雕刻或绘画底图解。
左倾艺术家们,则一面努力于不离无产阶级,并且竭力和他们合着步调,一面以非常的兴味,在研究艺术的生产底问题。在纺绩、木工、冶金及陶器等的生产上,即使那些是无对象的形式底艺术罢,但是能够制造充满着欢喜和美的物品的,也已经正在制造。我们的文化的目的,在创造人们的周围满是美和欢喜的社会,是说也无须说得的。
倘将我们的视线,宽广地转向艺术的生产问题去,那么,大约就会看见无际的地平线,展在我们的眼前的。在这里,有新都市之建设,运河之开掘,大小公园之新设,人民馆之建筑,俱乐部之装饰,室内之布置,装身具和衣服之优美,嗜好之改革和奖励等的问题,这目的的究竟,即在改造那围绕我们的自然底周围。这改造的实行,最首先是靠着经济、农业和工业。在这关系上,这些各部门之所给与者:是恰如半制品一般的东西。到究竟,则一切东西,例如虽是食物,也应该对于直接的目的的人类的欲望(经济问题,)给以满足之外,又将别的目的,即快乐的欢喜给与人们。
自然,现在我们太穷困;所以谈论关于这方面的认真的工作和俄国工农的生活状态的实际底改造的时候,恐怕离我们还是很远很远的。但不能因为这样,我们便不再触到艺术的生产问题,什么都不问。惟现在,却正是应该攻究这问题的时光。第一,例如在织物生产上,我们并无应该将这染得没趣味的理由,为什么呢,就因为艺术底的染色和没趣味底的染色,经费是一样的,但那结果,却于贩卖价格上有非常之大的差异。食器等类,也见得有同样的关系。我们今日,已经很想将和技师有同等的熟练的技术者,送到工场和制造所去。然而我国当帝政末期之际,这种事业却在极端地坏的状态上。我们是曾将德国人制造的东西,作为选择的最后的印记的。而我们的技术家底艺术家的大多数,对于这事也毫不加一点批评。在现在,我们已经在我国的学校里,开始养成独特的技术家底艺术家。并且期待着,想于最近的将来,将生产拉到颇高的水平上。
还有,在内外市场上,对于俄国的独特的出产,和不失十七世纪的香味的东西,特殊而有些粗野的,然而新鲜的俄国乡村(还没有失掉独自的感情的)的趣味等,感到魅力的事,我们是一瞬间也忘记不得的。
在这意义上,俄国的艺术家们能够于家庭工业方面,做出崭新的东西来。左倾艺术家已经在陶器制造所,于陶器上施以有趣味的各种彩色法,而论证这事了。我国,在大体上是原料品的输出国。但这样的输出是极端地不利益的。因为工业在低的水平上,所以完全的制品的输出,实在是很少,可以称为艺术底制品的输出的,则至今为止,只有家庭工业品。从家庭工业的保护和奖励起,以至建设可以从木材、织物、金属,生产出和这相类的物品的特种制造所,建设花边和绒毡制造所以及类似这个的东西等,无论那一样,从经济底见地说,也是有利的。
人民教育委员会向来就常以大大的注意,参与着这问题。我们不但努力于保护我们传自先前的制度的在这关系上的一切东西而已,还创设了新的或种的制造所,在先前的斯忒罗喀诺夫学校里,则设了研究艺术工业的各方面的分科。
因为实施新经济政策所受的打击,这方面自然也有的。职业教育局非常穷困,那结果就影响到技艺学校去了。技艺学校是完全穷透了。技艺教育部为要救济徒弟学校和生产学校,也讲了力之所及的一切的方策,然而那结果却不副所望。不但如此而已,忍耐了许多辛苦,还倾注了一切努力,而革命初期的军事问题的余映,又成了衰亡的威胁。而这事业,是和中央劳动组合,最高经济会议和外国贸易委员会,有着直接的关系的,所以我想,为了来议关于俄国的艺术底产业及其教育的振兴策,招集一个由这些的关系公署,以及这方面的有权威的艺术家、识者所成的特别会议,恐怕是最为紧要的事。
二 作为观念形态的艺术
就如我已经论述过,在革命,是豫期着作为观念形态的艺术的发达的。说起这话的意思,是指什么来,那么,就是直接地,是将作者的观念和感情,间接地,是经由作为居民的表示者的那作者,而将居民的观念和感情,表现出来的艺术底作品。假使我们自问,为什么我们这里,几乎全没有观念形态底无产阶级艺术的呢?(例外是有的,后来论及。)那回答,大概是颇为简单而且明了的。当有产阶级做了有产者革命的那时,在文化底关系上,在实生活底关系上,比起现在的无产阶级来,都远在福气的境遇上,有产阶级能够毫不感到什么困难,而使自己们的艺术家辈出了。不但这个,知识阶级——即事实上掌握着一切艺术,而且向来使那艺术贡献于旧制度的知识阶级,和有产阶级是骨肉的关系。(从Watteau起,Molière和Ruskin是有产者。)在这一端,和无产阶级自然毫没有什么共通点。无产阶级,是作为仅有薄弱的文化的阶级,作为虽是知识阶级,也还至于发生或种憎恶的阶级(唉!我们的革命就十分证明着这事,)而勃兴于不可名状的困难的境遇之中的。在这样的条件之下的知识阶级,从自己们的一伙里,只能出了极少的几个会对于得了胜利的无产阶级,以诚实而完全地歌唱赞歌的艺术家。从无产阶级的一伙里也一样,仅能够辈出了少数的人们。
我已经指出过,在这里,也有例外。我想,这就是文学。作为艺术的文学,是要求真挚的豫备的。但是,虽在不完全的准备的状态上,或者竟未曾做这准备,只要作家有什么话要说,他深刻地感动着,而且他又有文才,那么,从他的笔尖,也能够写出有趣而意义多的什么东西来的罢。然而这样的事,在音乐的领域,在雕刻、绘画、建筑以及别的领域,却全然不能想的。我在这里所要说的,其实大抵就是关于这等事。对于艺术底观念形态底文学(玛亚珂夫斯基及其团体的作品,我的戏曲和无产者诗人们的特长底地丰富的一切的诗……,)也许有提出疑义来的。但无论如何,虽是最严格的批评家,可能将这些一切作品,从那数目中简略地抛掉与否,也还是一个疑问。何况是在这些作品,已在欧洲惹起着认真的注意的今日呢。
于这现象,造形艺术能够使什么来对立呢?还有音乐?
同志泰忒林(Tatlin)制作了一座反常(Paradox)底纪念塔。在全俄劳动组合的屋子的一间客厅里,现在也可以见到。莫泊桑曾经写过,只因为不愿意看铁的妖怪爱茀勒(Eiffel)塔,想要逃出巴黎。许是我的主观底谬误也说不定的,我想,和泰忒林的这纽纽曲曲的纪念塔比较起来的时候,爱茀勒塔乃是真真的美人了。假使墨斯科或彼得堡,用了有名的左倾艺术家之一的他的创作品,装饰起来,那么,这恐怕并非单是我一个人的真实的悲叹罢。
就如我已经讲过,左倾艺术家象哑的一般,不说革命底言语之间,则他们观念形态底地造出革命艺术来的事,在事实上,大约仍旧很少的。他们原则底地,排斥着绘画和雕刻等类的观念底及画象底内容。这样,他们就从以自然为材料而赋以形象的原来的自己的任务,脱轨到歧路里去了。国家不可不着想,致力,将有观念形态底性质的一流的作品,加以帮助,使它行世,是办得到的。无论谁,不能人工底地,生出天才或大的才能来。但能办的惟一的事,是倘有这样的天才或才能出现了,国家对于他,就应该给以一切方面的维持。国家也当然应该取这样的手段。所以倘若有谁出现,画了虽是和伊凡诺夫(Ivanov)的“基督的出现”或式里珂夫(Srikov)的“穆罗梭瓦夫人”的内容比较起来,不过那五分之一的价值的绘画,——但是适应于新时代的新内容的——那么,由我想来,这将怎样地成为一般的欢喜呵,而且我党和苏维埃主权,对于这样的事件,将怎样地高兴着来对付呵。
苏维埃主权出现的当初,符拉迪弥尔·伊力支(列宁)就已经对我提议,要用伟大的思想家的半身像,来装饰墨斯科和彼得堡。在彼得堡,那是已经收了相当的成效的。在那地方,大约还剩有这些半身像的大部分。大半是用石膏所做,但自然,那一部分,是应该雕成石像,或者改铸铜像的东西。在墨斯科的这尝试,却全归失败了。我不知道其中能有一个可以满足的纪念像。马克斯、安格勒或巴枯宁的半身像,都失败的,尤其是,如巴枯宁的半身像,则恰如无政府主义者是革命底的一样地,是形式底地,革命底的。于是以为这样的纪念像是在对于自己们的战将的记忆上,给以历然的嘲弄的东西,要将这打碎了。这一类的东西,正不知有多少。然而同志安特来夫(Andreev)所制作的纪念像(在墨斯科苏维埃的对面,)却质朴而且轻快的。但是,归根结蒂,便是这,也不是报告真的春天的莺儿。
那么,在音乐方面又怎样呢?——纵使怎样地留心探访,还是字面照样的绝无。将参加革命底全事件的全大众,反映出几分来的音乐底作品,一种也没有。然而,在听到,而且看见对于苏维埃的不愉快的时代,藏着不满的艺术家诸君的耶稣新教底私语的时候,却不禁于不知不觉中,从心的深处叫叹道,“真是死鬼们呀!”
但是,在本来的意义上的艺术底作品之外,观念形态底艺术中,在那全意义上还有别方面的自己的艺术。艺术底宣传事业就是,和这有关系的,是传单,革命底的什么小唱,或者朗诵底的文章,以及煽动用戏曲等。在这关系上,我们也做过一些事了。传单印刷了许多,大部分固然是粗拙的,但其中也有好的,也有颇好的。煽动戏剧团遍赴各地,并非全是不好的东西。也有革命底外题,具有相当动目的技俩的也还有。但是,可惜的是,正发生着要中止第二流的移动艺术——虽然第二流,总还是艺术(没有这,在大众中,是什么活动也不能够的。)——这一个颇为重大的问题。我怕这事会实现。政治教育局和那艺术部,所有的维持这些机关的经费太少了。
我党和苏维埃政府,虽一分时,能够疑心那具有正确的基础的艺术底运动,有着怎样伟大的运动力的事么?我党虽一分时,能够疑心因新经济政策,而我们采用了小资产者底精神的今日,运动和宣传,比先前更加必要起来了的事么?
三 Proletcult |
思うに、我々の集った小さな祝賀会は、社会主義的変革の精神と深い共鳴の中にある。さらに私の最大の喜びは、すでに述べたような講演をするため諸君の前に参じた今日、サンテロフスキー工場の委員に会い、次のような要求を受けたことである。「君の芸術家たちを説得してくれ。国家に資金を出させてくれ。そうすればペテログラードに最初の偉大な人民会館が建てられるのだ。」「国立技芸自由研究所」は先頭に立ち、ペテログラードに「自由人民会館」を建設する集団的技術の旗手となり得る。 人民会館とは何か。それは労働者が仕事の後に集い、学び、芸術を楽しみ、互いに交わる場所である。単なる建物ではなく新しい文化の象徴である。旧き文化が宮殿や教会を中心に築かれたように、新しい文化は人民会館を中心に築かれるべきである。 芸術家たちよ、この偉大な事業に参加せよ。諸君の才能を人民のために捧げよ。そうすれば芸術もまた新しい生命を得るであろう。 |
第58節
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从革命的一直先前起,无产者艺术的拥护者和那反对者之间,就开始斗着特种的议论。在反对者那面,有大家分明互异其流派的两个的倾向。其中之一,是直到现在,立脚于所谓“全人类底”艺术的见地的,但和这的不一致,是原理底。言其实,有时也偶见很有教养的反对者们,然而这种反对者们所有的皮相底考察,要除掉它,大约也不见得有多么难。但是,事实上,在地球上有了位置的一切艺术的一定的,而又颇是相对底的单一的事,于埃及艺术或法兰西艺术的存在的事实,是相矛盾的么?或者,于在同一的法兰西,十七世纪和十八世纪之初有宫廷的御用底的封建底中世艺术,而十八世纪后半和以后则有有产者底艺术的事实,是相矛盾的么?全人类底艺术,和全人类底文化同样地在发展,而且也和文化同样,被分类为种种的层次,细别——泰纳(Taine)说,那原因,是气候、人种、时机等的关系——的,倘要不看这事实,只好成为全然的盲目。文化史的社会底研究愈加深化,动力或历史底情况对于文化有着决定的意义的事,也愈加显得明白。而这动力的马克斯底的解剖,则在教给我们以下面的事实之不可疑。就是,动力者,由各时代的经济底发展和阶级的斗争而被决定的。
倘用单单的一瞥,就能够知道意识底有产阶级艺术,从迪兑罗(Diderot)和大辟特(David)起,怎样地虐待了汲那流派的典型底地皇室的御用底艺术,那么,何况和一切等级的有产阶级全然彻底底地不同的无产阶级——正如社会革命的时代,在人类的历史上,到底是现出惟一的局面一样,在全人类底艺术史上,也能够容许不将可以成为新局面的自己独特的艺术,加以分割的思想的。
别的反对论,是出于马克斯主义者们的,那是较为深刻。他们对于得了胜利的无产阶级,将以全然新的相貌,给与文化和艺术的事,并不怀疑。他们之所指摘之处,只在作为隶属阶级乃至被榨取阶级的无产阶级,在那准备底革命或为着进行那组织化的争斗时代,是没有从下面来展开艺术的余力的,这处所。
而这些反对论者之说,是以为无产阶级的势力,都用到政治底活动去,因此之故,那势力又生出力以上的劳力和担当不住的生活条件来。有产阶级是在得到自己的胜利的很以前,将那观念形态,不但在理论底样式上,而且在艺术底样式上,也使它发达了的。而这事实,为有产阶级计,是非常合适的条件,和无产阶级的运命,是完全两样的。
我和这些反对者论争关于无产阶级艺术的精神的时候,曾经这样地指摘了。就是:倘若无产阶级在那斗争的初期,不但将那思想,也能将那感情,以艺术底作品为中心,构成起来,那么,真不知道于无产阶级怎样地有益。而将那论证,我却在先是《国际歌》以及别的无产阶级底唱歌等,那样的较为质朴,而且不很特别的现象之中发见了。依着这样的艺术底战斗武器的特状,我豫想了豫备底的无产阶级艺术,还能够作为例证,无数地引用这样的艺术的萌芽。
自然,当此之际,我并非专举纯无产阶级样式和纯无产阶级出身者的作品。正如在别的时地一样,在这里,也有过渡期在,而惠德惠(Whitman)和曼尔哈伦(Verhaeren)的许多诗,自然是成着无产阶级诗的先驱的。和这一样,绵尼(Meunier)的雕刻,或是较为温和,然而颇是典型底的荷勒司德(Holst)的壁画,也前导了无产阶级底造形艺术。
然而纯无产阶级底作品也出现着了,就是在文学方面。
我想,获了胜利的无产阶级,将创造自己的艺术,是没有论争的余地的。全人类底艺术,将成为怎样的罢这一种论驳,并不是论驳。自然,无产阶级的阶级战,成为社会的阶级底差别撤废战,无产阶级的胜利,成为全阶级的消灭的事,是真实。然而,无产阶级得到完全的胜利之后——他们从新地施行人类的教育,并且撤去曾为过渡期所必要的无产阶级独裁,而将人类的真实的一切前卫力,纠合于自己的周围,于是手中掌握着文化底霸权——到那时候为止,大概要有比较地长的中间期的罢,这事,我们是相信的。
我是将这看作并无论争的余地的,而且对于这,我们的同人之中,大概也不会行认真的论驳。但是,在无产阶级的胜利期和对有产阶级支配的斗争期的中间,却横亘着在俄国已经到来的无产阶级独裁期了。于是也发生一个疑问,就是,无产阶级可能发展自己的艺术呢?
理论底地,是好象无论谁,于此也并无反驳的余地似的。阶级——大众底的,在生活和劳动状态上,是分明地独特的,内部底地,是为世界底观念所照耀,所暖热,一面又在大斗争中,度着那生活,而在空间上,在时间上,都赋着应该凝视最远的地平线的运命的——阶级,负着完成第一等职掌的使命的实务底的阶级,在诗的领域,绘画、音乐等的领域上,却将哑吧似的一声不响,这怎么能够这样想呢?
于最有光辉的生活,已经觉醒了的大众之中,竟没有禀着艺术底嗜好和才能的人们从中出现,这怎么能够容认呢?
这是不能想通的事。再说一遍罢,理论底地,这是完全明明白白的。所以在十月革命前的Proletcult[196]的胎生和其后的发展上,从我们的党这方面,是没有遇到理论底反驳,也没有遇到实际底障害。自然,有产阶级底和半有产阶级底艺术家们,是唠叨些无产阶级艺术这东西,并不存在,存在着者,只有全人类底艺术而已等等,鸣了不平了。但是,那样的无聊事,并不是值得算作问题的事情。
然而,这作为实际底的工作,却决非那么单纯的。在实际上,我们能够看见了Proletcult的活动的实际底的旺盛么?我们可以是认大的数量底成功。Preletcult在一时统一了五十万无产者(现在也大体上是统一着)这巨大的数字。那数目,虽是和我们的党员数,也有相比较的价值。这数字,是给在文化底事业上,要独立底地显现自己的倾向,有怎样地强做证据的。但是,Proletcult可曾出了什么足使怀疑论者完全沉默的大作品没有呢?
没有!Proletcult,那必要,是在并无谈论的余地之处,然而还没有足以压倒一切反对者的作品,却也是事实。怀疑论者们便从这一点推论起来——在Proletcult的期待上,是有根本底的谬误的,无产阶级的文化底活动,是最迟的舞台,当独裁的不安定的初期,成着各方面的论争的中心的阶级,为了艺术那样的比较底地“奢华”的东西,是搜不出足够的力量来的云云,这样结论着。但我却以为这些怀疑论者是错误的。首先第一,必须记得,无产阶级是在全然技术底无知的条件上,进了文化底创造的路。在音乐和造形艺术的领域上,就更加一层。即使他们有怎样的才能,倘不作多年的准备,除了完全是外行人底作品以外,大概还是什么也拿不出来的。到这里,我们就可以直截明了地下断语,就是,我们从在学校和研究所的豫科一年级的教室里的人们之中,要期待天才底的作品,那固然不消说得,便是期待鲜明而社会底地著名的作品,也不可能的。关于这方面的全然别一个疑问,即在无产阶级之间,有着在造形艺术和音乐的领域上的创作的质素和志望的人们,是否很多呢?对于这疑问,我们却大约立刻能有可以满意的回答。绘画、雕刻、朗吟、唱歌、音乐等一切研究所,一瞬间便为无产者的青年所充满,我们在他们之间,每一步总遇见大大的才能。这样的研究所之保其地位,是有这必要的呢,还是没有呢?可以用了创造新艺术,必须自此经过许多的年数这一个理由,而抛掉新的智识阶级的一队的准备的么?然而,那是和将这谈话,又从头重述一回同样的。竭力早开手,最为切实。现在将不惯的画笔去对画布,或者正在听着对位法的青年,而身穿技术的甲胄,以全速度展开自己的才能的时候,也许并不在遥远的将来,只是两三年后的事,也未可料的。
这里忘记不得的事,是这些研究所到实施新经济政策为止,是极为贫弱的东西,教师也困难,因此他们又不得不和大障害战斗。其实,旧的艺术家和学院主义的末派的人们,往往因了民主主义的先入之主,对无产阶级是怀着敌意的。政治底地和我们最近的左倾艺术家们,则引无产阶级到变形和无对象的邪路里去了,这些东西,在纯然的装饰底艺术的领域里,是全然合法底的,然而使对于观念形态底艺术的无产阶级的健全的趋向,在萌芽中已经枯槁的事,也不能否定。倘若新经济政策将反响及于Proletcult了,那也不过是使这些研究所只得关闭,另外毫没有什么可以因此谴责无产阶级的才能不够呀,关于Proletcult的豫测,理论底地不正确呀之类的东西。我想,倒是有说当以俄国的共有土地组合之例,作为基调,来排斥土地用役上的集团主义的时候,车勒内绥夫斯基(Chernishevski)所说的“不得以被浪打在岸上的鱼,不能游泳的事,来论证鱼是不能游泳的”的话的必要罢。
艺术的一部,就是,我已经说过,惟独文学,是显示着或种的例外的。但其实,虽是文学,自然也要求绵密而且充足的准备。从这见地上,我对于文学院的下了第一的基础的事,衷心为之喜欢,不但如此,这领域里的先天底才能,可以读破了过去的优秀的规范,而将教养的水平自行增高,并且产生鲜明的作品或大杰作,是全然明白的。
当各人对于同侪,给以艺术的感化之际,有着比别的任何方法都好的最完全的“言语”。所以无产阶级便辟头第一,在文学之中,将自己现示了。
我并不想在本文上,来批评底地解剖无产阶级文学的作品。什么时候,我一定要实行的,但做这事,必须依照最确实的根据。我们在现在,已经有了诗人,大体是抒情诗人的完全的团体,这事实,我是可以做见证的。他们在文学史上,有着那地位无疑;那诗坛,也全由青年所构成,正在显着顺当的发达。对于他们,在美文学和戏曲作法的领域上,是还有加添或种有兴味的尝试的必要的(Gastev,Liashko,Bessariko,Pletnev及其他)。倘若无产阶级文学将注意向着正在抗战的,一切的消极底流派,则我们于此,不得不认年青的无产阶级文学,可以代了那些而发达于我们的时代。自然,作为组织的Proletcult,看去好象是没有遂行着那课题。他从自己一伙里,排斥着颇多的诗人。为着教化底手段的无产阶级底探求,他是应该成为活的主体的,但因此之故,也就见得好象没有做到。但是,这是因人间底“太人间底”的各种的接触和误解而发生,决不是起于主义的。
在演剧的领域上,Proletcult正在认真地探求,所以炯眼的人,立即能够看见这方面的大大的成效的罢。自然,Proletcult还没有适当的一定的戏剧作法,他也全然没有出一个独特的自己的演员。这是不足怪的。演剧,原是以优秀的技巧为必要的。而要修得技巧,只好从别人,即做教授的演员和舞台监督,然而我们现在有着怎样的做教授的演员和舞台监督呢?他们就是学院派或写实主义底传统的人们。他们对于Proletcult的趋向,取着否定底态度。所以虽是做着大可尊敬的教授的艺术家们——也没有从要向新的,传单底的,鲜明的,记念碑底而且又是通俗底的东西,勇往直前的无产阶级青年,受着特别的亲近。这些一切的特质,已被写实主义底和学院底演剧,拭掉了或一程度了,或者也可以说,决没有启发。于是乎往那趋向最骚然,并且表现底而又大有生气的左翼的剧坛去了。从迈伊尔呵力特(Mayerhold)起,左翼的人们,在很先前就提倡着愉快的演剧,爽朗的热闹的演剧。这样的演剧,比起气氛和心理底解剖剧来,那是远是民众底的。然而,和这同时,左翼艺术家们又在有产阶级底市场上,作不合于无产阶级的病的竞争,所以他们那里,就有着作为那结果而生的奇狂和颦蹙和浓腻的倾向。因此之故,而虽是用了未来派底挽花纹样沿边的最时行的戏剧,年老的优秀的共产党劳动者们也还是显着非常懊丧的脸,跑到我们这里来,这事是我们大家都知道的。左翼艺术的许多东西,于演剧的方面,是可以适用,也能够中用的,但有许多,却有从看客遮掩了戏剧的真意的通弊。这样的倾向,在未来派的别的艺术的领域内,也在各种的变形之中察看得出来。
共产主义底戏曲作法研究所所主催的,将讽刺底拟狂诗《同志孚莱斯泰珂夫》的精神,做成样式的舞台布置的大失败,我想,是使将来停止这样的倾向的罢。 |
革命のはるか以前から、プロレタリア芸術の擁護者とその反対者の間で独特の議論が戦わされていた。反対者の側には流派を明らかに異にする二つの傾向があった。そのうちの一つはいわゆる「全人類的」芸術の見地に今なお立つものであるが、これとの不一致は原理的である。実を言えば、教養ある反対者も時に見かけるが、この種の反対者の持つ皮相的考察を除去するのはさほど困難ではあるまい。しかし事実上、地球上に位置を占めた一切の芸術の一定の、しかもかなり相対的な単一性は、エジプト芸術やギリシア芸術の例に見られるごとく、その社会的基盤と密接に結びついている。 プロレタリア芸術の必要性を否定する者はしばしば芸術の「永遠性」を持ち出す。しかし永遠なる芸術とは何か。ホメロスは確かに今も読まれている。しかしホメロスが今日の読者に与えるものは、古代ギリシアの聴衆に与えたものとは根本的に異なる。芸術作品の意味はその受容の文脈によって変わる。それゆえ「全人類的」芸術という概念は、厳密に言えば一つの抽象にすぎない。 |
第59節
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Proletcult于这倾向的演剧底探求,并非无关心。倘若有效验的毒物,于有趣而质朴的戏剧《墨西哥人》没有害,那么,那毒物至少是将普列德芮夫(Pletnev)的《莱娜》的第一的舞台布置完全毁坏了。但为了这些一切的困难和迷误,Proletcult中央委员会的纯无产阶级剧场,是充满了实现新剧的创造和技术底意义之达成的大奋励以及英雄气的希望。但是,虽然如此,假如现在来毁坏目下已经无力地低头垂手,因为停止了由新政策来定了命运的扶助而失望着的这集团,是直接的犯罪,那么,这事是令人懊恼的。
四 苏维埃主权的艺术问题
大众教化问题,是劳农主权的中心问题之一无疑。教化的概念中,也包含着艺术底教化。为劳动者和农民,又,和在历史上一切时代,有着生活底地充实的势力的新兴阶级的观念形态者一样,为劳动人民的观念形态者,艺术也并非本身就是一个目的。人生当强健的时候,人生决不从艺术来造偶像的,却来造为自己的武器,以及为人生,为那成长,为那发达的一切。
从这一点看来,艺术的内容,便添起特别的意义来了。但不可因此便立刻推断,以为形式是应该当作第二流底的东西。因为在那里面,也含着艺术的魅力。艺术的形式者,原是一面将艺术底形式,附与于各种的生活的内容,一面将对于人心的透彻力,提到异常之高的东西。
生活的各方面的中心底内容,是什么呢——在这里,虽是只关于无产阶级和与之合体的革命底农民而言——那是为了社会主义和最是社会主义底的理想而做的斗争。这内容,是无际限地多角形底的。
这内容,自行拥抱着全世界;这内容,令人用了别的眼睛,注视宇宙,大地,人类的历史。又令人注视自己本身,生活的各瞬间,我们的周围的各对象。
这内容,可以铸造于人类底创作方法的多样的体型之中,也可以铸造为艺术底作品的一切的形式。
大众的社会主义底教化,是教化的中心,大部分也几乎尽于此了,但对于艺术那样的伟大的武器,必然底地也不得不加以注意的。
将这放在念头上,来从别方面考察这问题罢。艺术底教化,是相互地有着连系,而和这同时,又有着相异的两面的。其一面,是使大众知道艺术,别的一面,是将可以成为大众的精神的表示者的那单位和集团,从他们之中,激发起来的倾向。
纵使等待劳动阶级方面的自发的艺术底出现,到了怎地疲倦,我们也能够大胆地相信他们。从劳动者和农民的心中所迸出的东西,总是和在发达的路上的太阳——社会主义有关系的。不过当我们在这里讲起关于艺术作品之影响于大众之际,我们就遇到这样的事实。就是,在我们的治下的艺术,是颇为多种多样,既有价值不同的东西,也有从那内容看来,或从那没有内容之点看来,和我们的理想,都在种种相远的距离的东西的。
因此容易误解,也容易着想,以为将非社会主义底艺术,扩布于大众之中,是不但无益,且将有害的。从由无产阶级所蓄积了的经验上,在这里是毫没有挟什么疑义的余地的,然而总有谁容易陷在这大错误里。现在也有——虽然颇少——无产阶级和农民,陷在这错误里的。然而往往陷在这里的,是和他们合体的智识阶级的改宗者。
但是,已经出现了的社会主义底艺术的实数,目下很有限,倘若以为我们将全艺术引到这样的最小量里来了,那么,这就因为将大众的艺术底教化,放在颇不确实的根据上面了的缘故。
大众的艺术底教化,是应该彻头彻尾,放在广大的根据之上的。
我们已经讲过艺术的形式方面,自能致大大的利益了,惟有习得形式的完全——即可以触到人类的感情,给他喜悦,呼起他的美感和美感的形式,这才能将所与的现象,引进艺术的领域去。
所以倘若我们离开艺术的内容,仅就形式,以及和内容相关联的这形式而言,那大约就即刻懂得,只要是艺术的真正的作品,即实际底地有强力的效果的作品,也无一能被我们所蔑视了。
关于各时代各民族的个人底和集团底天才,各以依社会制度而定了的手段,艺术底地来表现自己的心理这一个问题,到这里已经触到了。而从野蛮人的木头的原始底雕刻和古代的人类底旋律起,经过了在遏罗陀的高潮时代,以至文艺复兴期之间的艺术上的形式和流派的多数,是将艺术课目,直搬到大大的豪华了的。
谁肯来负布告的责任,说是无须教育无产者与农民,到详细地知道人类的过去的一切时机呢?自然谁也不肯的,况且熟知艺术底形式,为增进大众中的人类的艺术底活动起见,是极为重要的事。
内容上虽然不相近,而形式底地完成着的作品,从受动底见地看来,对于劳动者和农民,是只能给与半肉感底性质的漠然的满足的,但在对于艺术底化身的深奥,有着兴味的劳动者和农民,则虽是观念底地,是应该敌视的作品,他们只要解剖底地加以分解,透彻了那构成的本质,便可以成为非常地大的教训。
其次,讲到艺术底内容。
艺术——这是歌咏自己以及自己的周围的,人类的巨大的歌。艺术者,是人类的绵绵不尽的抒情底而且幻想底的一篇自叙传。倘有以为殿堂,神性,诗,交响乐的兴味,在于以文字表现着的巨人底的书籍,而不在和那艺术有直接关系的内容,于是不顾内容者,则那是多么可笑的侏儒呵。
重复地说罢,在强健而生活底的阶级,对于艺术全然是结着老衰底的形式底关系——这现象,是常见于早老底少年的——或则迷进现代艺术的无对象底倾向去,实在是毫无意味的。
艺术者,是借那内容之力,将人类的社会生活,经一个人而使之反映出来的。这社会生活,无论在怎样的时代,也无论在怎样的国民,一定带有支配底势力阶级的印记,或阶级之间的主权争夺战的反映。
在这些阶级之中,有和那为了自由和幸福而使扰乱蜂起的劳动人民,非常接近的阶级,也有仅由那目的和正在遂行这一端,和现在的实状略有关系的阶级,也有对于劳动底理想,在那本质上非深怀敌意不可的阶级。
于是就发生了有使无产阶级和农民,懂得过去的艺术的必要了,但所到达的结论,岂必是这仅以含有他们的精神底内容的艺术的范围为限么?不是的,我想对于国民大众的这样的教育学底态度,是全然应该反对的。我完全确信,我的经验也这样教给我,出于大众本身之中的斗将,对于大众,是并不显示这样自大的,保护人的态度的。这工作,全是文化普及的再发,的复兴。最近为止还是支配阶级的团体出身的文化普及者,正在努力于将觉得为了农民阶级和无产阶级,是教育底的东西,来和他们结合,而智识阶级底团体出身的文化普及者却相反,在现在,在别方面加了太多的盐,为他们大众设了新束缚。
过去的艺术,应该一切全属于劳动者和农民。但在这方面,倘表示什么愚钝的无差别,那自然是可笑的。自然,我们自己,以及伟大的国民底讲堂,对于可以奉献我们的亲爱的人们,都正在大加注意。但是,真正的艺术的作品,即在必要的形式中,实际地反映着什么人类的体验的作品,而能够从人类的记忆上抹杀,或是作为旧文化继承者的劳动者的禁品者,是一种也没有的。
将注意向着描写那对于幸福乃至社会主义底正义的人类的追求,或对于世界的乐观,对于黑暗界的斗争的艺术作品的时候,我们将在艺术关系上,看见高照着劳动大众之路的真实的篝火或明星的罢。他们劳动大众,自然是点着灯塔,烧着自己们的太阳。而这些过去的遗产之作为伟大的宝物,固然是暂时的事——但倘有看不透终局的浅人,或缺少意识的怪物出现,将劳动者和农民的视线,从这伟大的遗产隔开,或向他们讲说些将眼睛只向着点在最近艺术的领域中的炬火的必要,那么,在将遗产当作宝物的劳动者和农民,恐怕是要觉得大为不满的罢。
教育人民委员会作为应该遂行的题目而办理了的问题,就如上文所说。
从这些根据出发,教育人民委员会对于旧的事物和传统——这些之中,过去生存着,并且由这些,而过去的伟大的艺术时代的艺术,能于我们所将前进的伟大的艺术期,给以感化——的保存,用了许多注意和劳力。
在往时的博物馆、宫殿、公园和纪念物等的保护的领域上,在演剧目录和剧场的好传统保护的领域上,在图书馆、乐器、以及音乐底集团保护的领域上,我们都任了国民底财产的周到的“活的”保护。活的——这要注解。这是因为不独保护,也含有将使人民大众,易于接近的形式,附与于这些的事务的。
因国内底和世界底反动而起的反革命战争之给我们所负的悲惨的生活状态,连呼吸一整口气的余裕,也不给大众,但可以说,我们却昂昂然,艺术能在实际广泛的分量上,和这些大众相接近了。
从别方面看来,则用了Proletcult创立和拥护的手段,在艺术领域中的造形底,音律底,文学底学校创设的手段,虽在非常困难的境遇之中,我们是总之,做了豫期以外的大事业了。
我们顺着这路程前进罢。竭力来作许多的规范,使接近一切劳动人民那样地,来作人类的艺术底自叙传,以及竭力助势,使这劳动人民在上述的自叙传上,自去写添贵重的红的一页——这是教育人民委员会在艺术教化的领域上的目的。
(一九一九年末作。)
五 艺术政策的诸问题
——本文是在全俄艺术劳动者组合的大会上的演说
国家的艺术政策问题,是颇为重要的问题。关于这事的我所做的尝试,因为和转换为新经济政策一起,苏维埃国家也样样地改变了政策,所以好几回,被弄得百末粉碎了。终于还发生了这样的问题:从马克斯主义的见地,艺术可以称为观念论呢,还是可以称为马克斯主义底审美学呢?然而这问题,还完全是新的,不过刚在开始研究。初期的我们的诸先辈,几乎没有触到过这问题。我们也是,要到确定那对于艺术的纯正马克斯主义底见解,还有相当的距离,但是,我们姑且脚踏实地,来观察那关于艺术理论的提高了的趣味罢。
近来,关于艺术的蒲力汗诺夫(Plekhanov)的著作出版了,茀理契(Friche)的论文集和亚筏妥夫(Arvatov)的书也已经印出,霍善斯坦因(Hausenstein)的,是正在印刷,我的《艺术研究》也出版了。出版者争先恐后地在要求马克斯主义者的关于艺术的论文,这事,是非常地征候底的。这就是思想觉醒起来,已在向这方向活动的意思。而且从西伯利亚和别的地方,来了质疑,问对于无党派底生活描写的文学,我们应该取怎样的态度,我也看作是征候底的事。艺术的问题,在先前置之不顾的社会里,议论起来了。凡有这些,是证明着在最近的将来,对于艺术问题的实相,以及对于由此而生的实际,都将确定了明确的见解的。[197]
所可惜的,是我们现在还不能埋头于广泛的题目,所以国家不得不将立刻能够实施的紧急问题放在前头,而将我们的纲领暂且搁一下。据我所观察:这样的紧急问题有四种,即:艺术底教化问题,艺术和产业问题,艺术和煽动问题以及艺术保护问题是。我想照这样的次序,来讲一讲这些问题,并且说述些在这方向上的状况是如何,我们所应该处理的问题是什么。
一,艺术的教化=先从艺术底教化开头。这问题,在全世界,是成着尖锐的问题的。最著名的艺术教育家之一的珂内留斯(Cornelius),关于德国,决定底地说过:在那地方,真正的艺术底教化的什么方法,什么艺术教育学,都绝对底地没有。在几年以前出版了的著作里,珂内留斯就已经搔着痒处地,指出我们之所感了。他说,“和传统断绝了的左倾艺术,并不带着有什么实际底性质的一定的旅行券。然而不顾过去的经验,则要在不远的将来,在艺术教育学方面放下什么合理底的基础去,是不可能的。代了传统,而保存着虽于古之巨匠,也不肯模写的恶习惯之间,旧的主义,是将被风刮着的罢。”
要证明这话的妥当,是能够引用许多的特长底的例子的。但我在这里,就提出两个的例证。其一,是在欧洲的颓废的利害,竟至于已经没有一个真的巨匠了。例如,那被破坏了的莱谟斯寺院的一部,非改修不可的时候,能办这事的建筑家,竟一个也没有,只好不再想恢复。 |
プロレトクルトはこの傾向の演劇的探求に無関心ではなかった。もし効験ある毒物が、面白くて質朴な戯曲『メキシコ人』に害を及ぼさなかったとすれば、その毒物は少なくともプレトニョフ(Pletnev)の『レーナ』の最初の舞台装置を完全に毀損した。しかしこれらあらゆる困難と迷誤にもかかわらず、プロレトクルト中央委員会の純プロレタリア劇場は、新しい演劇の創造と技術的意義の達成への大いなる奮励と英雄的希望に満ちていた。しかしながら、もし今、すでに無力に頭を垂れ補助金の停止のために手を下ろしている劇場を破壊するならば、文化の発展にとって大きな損失となろう。 プロレタリア演劇の課題は単に新しい技法の開発にあるのではない。新しい人間像を舞台上に創出することにある。旧い演劇が貴族やブルジョワの内面を描いたように、新しい演劇は労働者の内面を、その喜びと苦悩、その夢と現実を描かねばならぬ。そのためには形式の革新と内容の革新が手を携えて進まなければならない。 |
第60節
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别一例证,是前世纪的六十年代的事,当时茀罗曼坦(Fromentin)在那著作中,曾经叹息在法兰西,没有一个能够好好地临摹戈霍(Gogh)的画家。艺术家安台开尔曾在巴黎,劝诱巴黎学院的教授们,和他们在公众之前,来试行怎样地能够用了自己的手,模写有名的人们的绘画。然而这些教授们中,应这劝诱的却并无一个,口实是这些绘画的价值,都比自己低。安台开尔说,大约因为他们之中,谁也不能做的缘故罢,这话是正确的。现在在西欧的艺术杂志上,会看见“对于古昔巨匠的憧憬”的表现,正不是无因的事。除了在伟大的巨匠那里,受着教养的方法以外,更不能有什么别的教养方法,是不消说得的。在建筑术,在雕刻,也都一样,和伟大的巨匠应该是成为那一派的门下生的一小家族那样的关系。例如,在那时,则在莱阿那陀(Leonardo da Vinci)那里的马各·陀吉阿纳(Marco d’Oggiono)就是。
凡这些,作为欧洲的艺术教育已经碰壁的例证,就都是极其特征底的事。我们目下正遭遇着一样的事情,共产主义者和接近共产主义的艺术专门家们,已经碰着了一件事实,就是一遇到在艺术底学校的教育法改革问题的时候,他们竟毫无什么科学底方法,也毫无什么科学底的教授的基础。在这些学校里,只养成一些和实生活切断了的艺术家,对于我后来在艺术和产业问题一项下,将要讲到的,养成那为了完成大事业,作为在工业和家内手工业的艺术底指导者的艺术家,却太不注意了。
在音乐学校里的状况,较好一些。音乐的教授,被构成于正确的基础之上,即艺术的真实的法则的研究之上,是明明白白的。实说起来,则虽是最猛烈的音乐的革命家,也不能从摄取的音乐底调和,全然离去。但是,总之,在音乐教育的领域上,我以为也应该想一想或种的改革。这改革,已由同志耶服尔斯基(Yavorski)妥善地办过了。由这改革,而教授被严密地分类为学校别,即初等、中等及高等,且使教授法和活的问题,换一句话,就是和不用物的除去接近起来了。这改革,遇着了音乐教授团方面的反对。本问题是现在有再在使全俄艺术劳动组合参加了的委员会,再加审议,来彻底底地研究的必要的。据那最初的草案,则高等音乐学校,应该为了卒业的技术者,成为学术研究学校似的,但这原案,我想,还须有大大的修正。儿童音乐学校这方面,是几乎遭了破弃,好容易支持住了。在一九一九年,这关系方面大有发展,音乐学校至于数不完,一下子开了十个上下的学校,所以这些就几乎全无资力的保障。因此,在音乐的领域上那样的被缩小,被废止的,另外不见其比。然而在这样的现象之中,却决没有什么破灭底的东西,我们从今以后,要逐渐地使他向于隆盛的,我们还决不可忘却了颇可喜的一种状况,那便是在我们俄罗斯,合唱底歌谣,正以强大的速度在进步。在大的欢喜中,将近一千五百人的劳动联合合唱团组织起来了。在这里面,也有着无产阶级的新的达成的端绪。
在最是多难底领域里的,是造形艺术。我们在这方面,将纲领修改了好几回,将委员会招集了好几回,那结果,是近来做成了一篇令人发生颇为因循姑息的结构这一种印象的临时底纲领。但我想,还很要熟虑一番。倘将纲领分类为两个根本问题,就是,将教授来科学底地方法化的问题,和使教授去接近艺术的生产底的活的目的的问题,则在前者的关系上,不能不说是大失败了,还很忧愁,不知道可有从盆子中,和水一同将婴儿倒掉了那样的倾向没有。然而这样的事,是不会有的。况且说只有绘画、雕刻、建筑,不能在教室里领会艺术的初等智识,是谁也不能相信的事。在这方面,倘不能也如音乐一样,有可以集合在一定的教坛前的简明的研究法,则在造形艺术的领域里,真正的方法学之不能出现是当然的。我并不以为在这方向上,年老的学究就办不了相当的工作。年青的人们,所必要的,是首先不必以一切倾向为问题,而只摄取那成着艺术和艺术职业的科学底基础的东西,然后乃不但选择倾向而已,也将今后可以师事的技艺者,完全自由地加以选择。
在生产底技术的领域内,得着颇多的达成。至少,在这墨斯科,技术制作所是得着大成功的。从纺绩部、陶磁部起,几个别的部,都进着顺当的路,而且于这事业,引聚了颇多的年青的艺术家。在这里,也可以看出全俄劳动组合和国家的诸生产机关的密切的协调主义来。无论怎样的外国人,倘去参观技艺制作所,则评为公平,是无疑的。只是我们须进行,不要被向着生产方面来了的现在的倾向,中绝了实际科学底的教育方法的热烈的我们的探究。然而对于这倾向,也不可热中到一直线地突进的。生产底倾向,是最重要的问题。艺术家底生产家,为国民所必要的事,此后国民也将愈加深信不疑的罢。因此,所谓纯艺术家的数目,也将很少地被限定的罢。就是,惟独具有特别的本能的人们罢了。
关于演剧教育事业,我们也开了几回使优秀的演剧的识者参加在内的会议。确定了的根本原则,理论底地呢,是很出色的。在戏剧艺术,则要类别斯道的初步和可以成为演剧的基础的东西,于演剧史等,也要加以类别,还有,是创设研究所,使和这些相对立,叫大学生去做研究员,无论什么剧场里,使他们都直接去参加,能够自由地研究。借此以图一方面,是个性化,别一方面,是智识的标准化和可能之大的体型化——这就是根本题目。一切人们,都应该是演剧底识者。但也和在造形艺术的领域里一样,要做这事,是极其困难的。因为还没有依据了什么,确定着略略可以满足的原则。那证据,是虽在比较底地亲近于这问题的艺术剧场和小剧场,也还不能在自己的学校里,设起一般底的豫科来。我知道有以俄国演剧自负的这体系的两个好的代表者,有这样的交谈。一个说,“你那里,是不会说俄国话的呀。”于是别一个答道,“与其采用你的学校里的学生,倒不如从市场上领来的好哩。”就这样,一面所自负者,在别一面却全不中意。所定了的这领域内的纲领,于我,是给了好象什么东西挂在空中一般的有所不足的印象。那原因——一部分是旧习惯,一部分是追求和未受检查的更改,所以,假若这更改是并不偏颇的,那么,归根结蒂,这更改就是实验,是生体解剖,这生体解剖,只好希望他多多结实罢了。
所以我想,作为应该协助艺术教育部的理论底机关的国立学术委员会,在这关系上,当然非更加坚固不可。否则,便和“织而又拆,拆而又织”的沛内罗巴(Penelopa)的织物,毫没有什么不同。
要之,在艺术教育领域内的国家的问题,是和革命后的初期一样,停滞着。第一,对于有天才的人们,有加以援助,使达于那创作底工作的顶点的必要。其次,有养成可以应付实生活的艺术底需要的许多艺术劳动者的必要。还有,有养成大多数的在艺术的全领域内的教育家的必要。而最后,则有将教授的体系和纲领,加以整理的必要。再说一回,音乐教育的现况,是还有点良好的,但演剧和造形艺术的教育状况,却相当地坏。
二,艺术底产业和艺术底生产问题=当移到其次的艺术底产业和艺术底生产问题去之际,先有将这些用语的意义,加以说明的必要。
有人这样地解释——我们应该只生产有用于日常生活的东西。他们说,生产水注、桌子、铁路、机械,是好的,但绘画却不行,因为绘画毫不副什么功利底目的。虽有一定的重量和形体,然而这不是物品。但是,便是绘画的东西,可以盛你的东西的施了彩色的小箱子,和除看之外没有用处的绘画之间,那自然也有一些什么区别存在。因为这样的艺术,即纯艺术,只为了满足审美底要求,是有用的艺术,所以在我们是不必要的。而且他们又说着,这是资产阶级底,封建底,司呵拉思谛克(Scholastic)的艺术,但我们却将只生产功利底物品云云。然而,幸而是说着这话的人们,还并非全都是至于固执此说那样的愚钝。
“喂,同志,所谓进行曲,是怎样的东西呀?进行曲是有益的东西么?”去问赤军兵卒试试罢。他将要回答,“有益的东西呵。”然而他并不是什么挂在称钩上,比较过了的。
于是就发生了必要,是规定所谓生产,是怎样的事来,那么,绘画不是生产么?我们是在对于有益的物品的产业,对于生产,以及对于生产品的艺术化而言,还是我们仅将人所制作的一切东西,统谓之生产呢?——有将这加以区别的必要。
可是又有拿出“艺术是有益的物品的生产”这无理之至的公式来的人,恰如产业是指无益的物品的生产似的!
不消说,壶,是有益的物品,那么,在这上面有加以花纹的必要么?倘不然,从这里盛出来的羹汤,是不可口的罢。人类将无益的物品,造得很多,或者在物品上添些花纹,使它体面,加上无益的性质去,这样一做,较之没有花纹的壶,有花纹的壶在市场上价值就更贵,在这里,即起了艺术问题。
所谓艺术底产业者,是在功利底意义上的有益的事物的,全不是单单的艺术底生产。反复地说罢,可以煮粥的壶,也是有益的。但绘画,却并非有益于日常生活的物品,然而,总之,却也不能说这于我们是无益的。凡有启发人类的本性,以及构成人类的生活,使他更自由,更快乐的这类一切,当然都属于有益。所以有特地将有益的事物的艺术底生产,从本来的意义的艺术,区别开来的必要,同时又有不将这通称为艺术底生产,而称为艺术底产业的必要。
那么,这艺术底产业的目的,应该是怎样的呢?这目的之庞大,是毫无可疑的余地的。将艺术底产业的价值看低,是大罪,——这也是无疑的。再郑重地说罢——艺术底产业,是艺术的最重大的课题。
马克斯主义教给我们的根本目的,是怎样的事呢?那并非广告世界,而是改造世界!惟有艺术底产业,乃正是世界的改造。从变更地球之形的开凿地峡,建设都市起,以至杯子的新样式止,就都成为艺术底生产的。产业的目的,——是人类能够在世界上最容易满足自己的欲望地,以变更世界。然而人类还有一个欲望——是要愉快地生活,有趣地生活,紧张而生活这一个欲望。这欲望有怎样地重大,由下面的事就明白了。就是,假使我们为了人类,创造起尼采所说那样的乐园来,实现了衣食的餍足,那么,最初,是生活于餍足之中的,但到后来,怕就要现出和那寻求可以自缢之处的幸福者毫不两样的局面的罢。对于生活的嫌恶,会竟将人类变成愚昧的罢。而且会生出单为了吃而活着的人类来的罢。
“有益的”云者,是什么意思呢?有益的东西云者,是启发人类的本性的东西,为人类解放较多的自由的时间的东西。“为什么?”“为生活。”有益的一切东西,是构成享乐底生活的下层建筑。倘若人类不行享乐,这是无味枯燥的生活。然而,人类的全目的,是在为自己建设没有乐趣的好生活么?那就恰如只有小菜,而没有兔肉一样,所以人类不但要有益的东西而已,先有变更事物,以得幸福的必要,是全然明白的事。由这目的,石器时代的人类,便将自己的壶加以雕刻了,为什么呢,因为这样的壶,给他较多的幸福的缘故。
人类,是于一切的东西上,加以独特的性质,独特的律动和匀衡的。人类,是为要生活得更加紧张,将从生活所受的印象之量,系统底地增高的。
艺术底产业,是百分之九十九的被完成了的制造品和百分之九十九的有益的物品,为要使这些成为观赏底,再加上百分之一的东西。
艺术底产业,可以分这为三个根本底种类——
第一种类——是艺术底构成主义,是艺术将产业完全融合了的时候,乃被实现的东西。有着几何学化了的特种的趣味的艺术家底技师,能够以种种线的调和底结合为基础,而造作美的机械。例如机关车之改得更美,更善,也就大概出于这主义的应用的精神的。
在构成主义,是常常有目的的,也非有不可。所以倘若我们的或一艺术家,当经营那构成主义底绘画时,不过损伤了取材,则不能称之为真正的构成主义,是当然的事。于是就成了这样的事:艺术家不去教技师也好,却反对地,艺术家应该向技师去受教。倘诸君到构成主义者们的展览会里去看一看,那么,在那地方,除了大大的惊异之外,恐怕什么也感不到的罢。然而诸君如果去看阿美利加的优秀的工场,则在那里,就要实际底地看见崇高的美。 |
もう一つの例は前世紀の六十年代のことである。当時フロマンタン(Fromentin)はその著書の中で、フランスにはゴッホ(Gogh)の絵をきちんと模写し得る画家が一人もいないと嘆息した。芸術家アンテケールはかつてパリでアカデミーの教授たちに、公衆の前で自らの手で有名な画家の絵画をいかに模写し得るか試みるよう勧誘した。しかしこれらの教授の中で、この勧めに応じた者は一人もなかった。口実はこれらの絵画の価値は自分以下だというのであった。アンテケールは、おそらく彼らの中に誰も実行し得る者がなかったからであろうと言ったが、この言葉は正鵠を射ている。現在においても事情はさほど変わっていない。 模写の技術は軽視されがちであるが、実はそれは芸術教育の根幹である。古来、偉大な画家はすべて先人の模写から出発した。ラファエロはペルジーノを模し、ルーベンスはティツィアーノを模した。模写を通じて画家は先人の技法と精神の双方を体得する。独創性は模写の否定からではなく模写の深化から生まれるのである。 |
第61節
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艺术底产业的第二种类——这是施了装饰的艺术底产业,就是装饰化,但是,在一面,又存在着否定装饰艺术的倾向,又有一种见解,以为什么彩色鲜秾的羽纱或包袱,是小资产阶级趣味,但这却并非小资产阶级趣味,而是国民趣味。从古以来,国民底的衣服,是用浓重的色彩的,但小资产阶级是清教徒,是奎凯(Quaker)教徒,他们将现在诸君所穿那样的黑色或灰色的阴郁的无色彩的衣服,使我们穿了起来。热心的小资产阶级曾经说过,“神呀!从美,来保护人们罢,美,是香得象神,象祭司一样的。”这是小资产阶级精神的表征。这精神,从说了“虽一分时,我们也将不为美所捕捉,连我的最后的一文钱,也都贮蓄着”的弗兰克林起,桑巴德(Werner Sombart)之辈也都写着的,这是小资产阶级精神的表征。
我们因为穷,也许,非穿破烂衣服不可也难说。然而,这是因为穷的缘故,倘使不穷,倘使我们努力起来,要使劳动者,女性劳动者的生活,以及农夫农妇的生活成为较为快乐底,则那时候,将欢迎这该得诅咒的灰色,还是欢迎鲜明的愉快的色采呢?当然,是后一种,我们的优秀的艺术底创造力,将要造出卓越的愉快的体型来,是无疑的。小资产阶级底贮蓄,和无产阶级毫没有什么共通之点。新支配阶级,不是贮蓄底,而是创造底。
我们应该在我们的学校里,教育那将来成为陶磁工场,羽纱工场,金属加工工场的艺术家,而在粘土,金属和木制品上,加上满是喜色的外观去的人们。凡在制造日用物品的一切无产阶级,都应该有相当的艺术底教育。
还有,对于艺术底家内手工业,也应该加以注意。并且有顾到这在不远的将来,要占外国输出品的重要的位置,而加以帮助,廓清,更新的必要。应该使围绕着艺术底产业的这些全景的劳动大众和艺术家觉醒起来。
三,煽动底艺术问题=艺术的重大的问题,是煽动问题。有人断定说,于煽动底艺术,应该适用生产的原则(例如传单生产),凡艺术家,应该只应着嘱托而作工。但是,这就成了这样的事:今天台仪庚来嘱托我,则我为台仪庚画,明天苏维埃主权来嘱托,那就给苏维埃主权画了。这样的艺术,分明只能偶然地有煽动底意义,恰如诸君偶然不得奶油,却得了甘油一般。即使能够画无可非议的传单,然而看了这个,人们的心并不跃动,这是无用的冷淡的艺术的标本。真可以信赖的艺术家云者,是有着有所欲言的气概,能够以心血创作艺术的艺术家之谓。只有浸透在我们的世界观里的艺术,这才能够造真正的煽动艺术。在现在,我们也已经看见了伪造的煽动艺术正在逐渐消灭的现象。
那么,煽动艺术这句话,应该怎样地解释的呢?艺术的几乎全领域,至少,是真正的艺术的全领域,而离产业底艺术及其目的愈远,则是煽动艺术。然而在这里,所谓艺术者,并非共产主义底煽动艺术的意思。艺术者,许是恶魔底的艺术也说不定。几乎一切的艺术,对于我们,是有着或则有害,或则有益的煽动的萌芽的,而且艺术者,又常是煽动底的。以为只有传单是煽动艺术,而正式的绘画并非煽动底者,那是完全的错误。
共产主义者煽动艺术,是共产主义者的艺术,他们也可以不隶属于党派,但对于事物,则非有共产主义底见地不可。那么,惟有这样的煽动艺术,于我们是重要的么?不然。和我们的世界观并不一致,然而在或一面有着接触点的艺术,于我们也是重要的。例如戈果理(Gogol),不是共产主义者,但因此便以为他的《巡按使》和我们没有关系,是不得当的。引用别的例子。试看文艺复兴期的伟大的巨匠的一种名画,则其中就有一定的“煽动,”但和这一同,也有一定的宗教底要素(例如画着活的神女的)。这自然不是无产阶级底绘画,或者也可以说是可憎恶的东西,有害的东西。然而对于这绘画的积极底方面,却有奉献女性美的赞颂的必要。在这样的关系上,这玛顿那(Madonna),是有大大的意义的,我们可以立即断定,这样的艺术,于我们最为有益,恰如虽然是“宗教底,”但作为人类的组织体的或种理想,我们给以价值的亚波罗(Apollon)之有益一样。
对于我们有反感的阶级的煽动,我们必须加以禁止,是当然的。在我们的革命期中,我们不能实施煽动的绝对自由。而且在这里,还必须大大的机微和大大的留心。有知道艺术史与其趋势的必要,应该知道着自己们的敌人。而且必须使他成为无害,在或一阶段上中断。为要实现这目的,就创设了文艺出版委员会。即使说个不完,说检阅是可耻的,对于这,我却要说,枪剑随身,在社会主义底制度的条件之下,是可怕的事。不是没有法子么?我们暂时非背着枪剑走,是不行的。在不远的将来,不用这个的时期,是会到来的罢,但在现在的俄国,却是蒲力汗诺夫说过那样,“非各人都会放枪不可”的,在这意义上,检阅便是这样的武器,应该能够完全地利用这武器,然而单因为不是共产党员这一个理由,向通行者乱开手枪那样的事,那自然不对的。
革命当时,赤卫军、劳动者和农民等,很为煽动底演剧所吸引了。但战事一完,新经济政策一出现,这煽动底生活便几乎并不留下一点什么痕迹。连传单也少了起来。约略一看,恰如在这领域里,出现了退步似的。但是,自然并不如此。为什么呢,因为目下正在成长的艺术,是有价值的大的新艺术的缘故。
音乐的领域内的状况,稍为不佳。在我国,有许多的节日。这些节日,我们的运动者,都完结在自己委实不能不感到恍忽的灵感底氛围气之中。大众底行列,有时候则大众底演剧,是举行的,然而一个作曲家,数千人所成的这些的合唱队,却没有出现。几篇音乐底作品,好象是已经写作了的,但这也到底还不是报春的莺儿。
在传单界,有着出名了的若干的人们,台尼(Deni),摩尔(Moll)等,几乎为所有苏维埃市民所知道。可以成为重要的中心的未来,为他们所有的新协会(革命俄国艺术家等的),已经创立了。以应对生活的具体底要求,作为内容的新倾向,可以看见。而且,凡这些之所显示,是在这领域,即最需要纪念品和壁画的造形艺术界,我们有着大大的课题和大大的可能性。现在早有向这加以注意,创造那所期望的中心的必要了。
在文学上,这气运尤其显著。自然,在我们的文坛上,目下所创作出来的东西,也并非是好的,共产主义底的,然而我们所目睹的或一文坛的或种旺盛,以及间或发表大作品的天成的诗人和戏剧作家之出现的事,是不能否定的。
所可惜者,在一并抱拥着文笔家的文坛的这一大领域上,我们还没有中心点。我们关于这问题,有加以讲究的必要。
前些时,台明·培特尼(Demian Bednii)得了赤旗章了。全俄中央执行委员会由了这事,证明了通俗底的明了的艺术之最为重要。这是应该刻在各人的念头上的事。只有明了而谁都能懂的艺术,我们才可以奖励的。台明·培特尼是天才底地做到了,他总有些象涅克拉梭夫(Nekrassov),但他以自己的创作,吸引着劳动读者的广泛的层。我并不说,回到六十年代的艺术去,但我想,却有好好地研究那时的东西的必要,因为在那里,我们所非学不可的东西是很多的。
关于传单,有使这可以长留纪念的必要,同时又应该将煽动艺术的中轴,放在近于写实派的地方。关于这问题,是还有大大的异论的。我曾经常常说,这是,“总之,给一切兽类以生活,给一切草木以生长罢——并且看那成果罢。”有着非拔不可的杂草的事,到现在,也分明起来了。是拔掉它的时机了,是在政治教育局内,在艺术苏维埃的形式上,创设艺术底的惟一的中心的时机了。作为那部员的,则应该是国家底,政党底,劳动组合底诸机关的代表者,并且添上那给与了大的资格,和我们亲近的权威者的一小部分的人们。而且有作为这苏维埃的任务,来审议那些有着原则底性质的诸问题以及计画底纲领的必要。
最近的苏维埃大会,没有施行关于电影问题的特别的审议,但那价值,是识得了的,是认定着的,但是,对于这,我却想,虽然电影的复兴的步调,大体总算有些前进,其一部分,也成着国办事业,然而那实状,却决不是可以乐观的。还是两年以前了,符拉迪弥尔·伊力支(列宁)曾叫了我去,说道,“一切我国的艺术之中,为了俄罗斯,最为重要的,是电影。”
使国办的电影制作事业不至于荒废那样地,并且不成为殖民化了的西欧资本那样地,以讲究势力底方策,那自然是必要的。
关于亚克特美(学院)艺术,来说几句话。倘使诸君同意于我在本讲演所说的电影艺术的定义,那么,当然要说的罢:所谓纯艺术,是怎样的东西呢?这,是指那因为煽动力薄弱,或者全不以煽动为目的,纯艺术——作为以装饰为目的的结果,而煽动成为无益或无害的艺术而言的。例如,第一研究所的《悍妇的驯服》,是伟大的东西。在莎士比亚,这作品是有煽动底意义的,他用这来教训喜欢争闹的女人们,使她归于真的女性。但在我们,则这倾向岂但不能容纳而已呢,还是可以嫌恶的。然而我们仍然看着这剧本,而且愉快地笑着。这事的意思,就是这是引起好奇心的展览品,宛如我们洗浴,颇为愉快一样。是最愉快的展览品。但自然,这并非煽动艺术。和这些一道,空虚的艺术也还很旺盛。
许多的爱和才能,被塞在非常地空虚的东西之中,是常有的事。他们之中,没有煽动底色彩,他们并不说可以敌视的观念形态,但愉快,有趣,给人安慰。将这从形式底艺术的见地来看的时候,是也可以有一种意义的罢。对于这样的艺术,国家应该取怎样的态度呢?对于这,只有漠不关心而已。然而,无产阶级国家,对于这却不能始终守着全然漠不关心的态度,为什么呢,因为在这样的东西之中,为了纯正艺术,我们所必要的形式是被保存着,被完成着的。我们正在伟大的写实主义底演剧的复兴的黎明期,但我们不可象初生的婴儿一样,摸索着彷徨!有讲究采用旧的写实主义底演剧的方法的必要罢。也有知道在舞台上,完全地演出人生来,应该怎地办理的必要。一面应该断然阻止那躲在艺术之形里,而作对于我们有敌意的煽动和宣传的东西,而洗炼了的艺术,则同时也应该加以保护。在现在的我们的根本题目,是中央国立革命剧场——那舞台装置,是容易运到乡下的舞台去的廉价而且艺术底的舞台装置,并非轻薄的煽动,而是能演艺术底大戏曲的——剧场的创设。
我在这讲演里,没有能够很触到实际底诸问题。从中,对于最重要的问题之一的俱乐部,则全然未能提及。我们近来,在努力于那“教化之家”的俱乐部和政治教化诸机关的组织了。艺术家的重大的任务之一,是这些俱乐部里的节日和夜会的节目单子,要慎重地编制。
我在这讲演里,关于各地方,所讲的非常之少。诸君的这大会,是为了各地方的艺术生活的开发,将有大大的效果的罢。我们曾经向地方提议过,地方可以各就所知,着手于这事业。但在今日,已到了可以构成那观念底指导机关的时机。自然,关于物质底援助呢,此刻也还没有值得提起的事。所以,是有将我们的自给自足力,放在更广的轨道上的必要的。
应该将大剧场的大部分,合一于企业联合。和这相关联,也应该施行人物的移动。倘若有些演员,有些劳动者,当改建企业于自给自足之上,而不能胜任,不相适合者,就有任命别人以代之的必要。那时候,真的兴旺才开头,例如,国立出版所就是,对于国办电影公司,也希望有一样的结果。
诸君也都知道的,在我们,未曾着手的工作还很多。我想,中央艺术局的设置,所以就最为合理底了。但是,一考察构成上,财政上的事,又恐怕这样的公署的增设,暂时并无把握。只是艺术教育部,全俄艺术劳动者组合和国立学术委员会,却如沛内罗巴的织物那样地,一直织到现在了,为织成这织物起见,应该结合起来,并且有将这结合了的,创设在政治教育局里,使于艺术事业关系最多的人们,接近国家底,党派底,以及劳动组合底机关的必要。惟在那时候,我们才能突进于惟一的艺术机关罢。而且惟在这时候,我们才能够实现底地,及影响于艺术的开发。为了盲目者,这也终于分明地成为惠泽之力的罢。
【关于马克斯主义文艺批评之任务的提要】
一 |
芸術的産業の第二の種類――これは装飾を施した芸術的産業、すなわち装飾化である。しかし一方では装飾芸術を否定する傾向も存在し、色鮮やかな羽紗や風呂敷は小市民的趣味だという見解がある。しかしこれは小市民的趣味ではなく国民的趣味である。古来、国民的衣服は濃重な色彩を用いてきたが、小市民こそが清教徒であり、クエーカー教徒であって、今日諸君が着ているような黒色や灰色の陰鬱にして無彩色の衣服を我々に着せたのである。熱心なる小市民はかつてこう言った。「神は色彩を嫌いたもう。」 しかし国民は色彩を愛する。祭りの衣装や民族舞踊の衣装を見よ。そこには赤、青、緑、金の鮮やかな色彩が溢れている。これは「低俗」なのではなく、生命力の発露である。 装飾芸術の否定は実は芸術の本質に対する誤解から生じている。装飾とは余計な添え物ではなく、人間の美的欲求の最も根本的な表現の一つである。原始時代から人間は身体を飾り、道具を飾り、住居を飾ってきた。この衝動を否定するは人間性そのものを否定するに等しい。 |
第62節
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我国的文学,现在经过着那发达之一的决定底的机运(Moment)。在国内,新的生活正在被建设。文学,是见得好象逐渐学得反映这生活于那未被决定的转变的姿态上,而且能够移向较高度的任务,即对于建设过程的或一定的政治底,尤其是日常生活底道德底作用去了。
我国所显现的种种阶级的对立,虽说比别的诸国都要少得远,然而那构成,却决不能以为是单一的。即使关于农民底和劳动者底文学的倾向已经有些不同的必然,置之不论,而在国内,也残留着有旧的习性的要素——或是和无产阶级独裁全然不能和解的,或是无论如何,虽于劳动者的社会主义底建设的最基本底的倾向,也不能适应的诸要素。
这旧和新之间,继续着斗争。感到欧罗巴的影响,过去的影响,旧支配阶级的遗留的影响,或一程度;展开于新经济政策的地盘之上的有产阶级的影响。这些东西,不但在个个的集团和个人的支配底气分之中而已,且在一切种类的混合之中感到。忘却了在有产者底意义上的直接底的所谓意识底地敌对底的潮流之外,还有恐怕更危险的,总分明是更难克服的要素——小市民底日常生活底现象的要素,是不行的。这小有产者底要素,虽在无产阶级自身的日常生活底诸关系之中,往往且在共产主义者自身的本性之中,也十分深深地侵入着。惟这个,就是在负着无产阶级的社会主义底努力的符印,为了建设新的日常生活而斗争的形式上的阶级斗争,所以不但不被减弱,却更以先前的力,逐渐取了纤细的深刻的形式的原因。这些事情,就使艺术——尤其是文学——的武器,在现今成为极其重要的东西。然而这些,和无产者以及与之相近的文学的出现一同,也唤起敌对我们的要素——其中我们不但包括意识底地,决定底地敌对底的东西而已,也并含着例如由于那消极性,那悲观主义,个人主义,偏见,歪曲,等等,而无意识底地敌对底的东西——的文学底反映。
二
在这状况之下,在文学所当扮演的那大的职掌的条件之中,马克斯主义文艺批评,在那责任上,占着极高的地位。那是无疑地负了使命,现在当和文学相偕,成为向着新的人类和新的日常生活之生成的过程的,强有力的精力底的参与者了。
三
马克斯主义文艺批评,首先第一,不得不有社会学底性质,而且不消说,还是在马克斯和列宁的科学底社会学的精神上的这性质,在这一点,就很和别的一切批评不同。
往往立了文学的批评与其历史的任务的差别,而将那差别,较之区分为过去的研究和现在的研究——倒是在文学史家,则以所与的作品的根据,在社会底构成之中的那位置,对于社会生活的那影响的客观底研究为必要;在批评家,则以从那形式底或社会底价值以及缺点这些见地,加以观察了的所与的作品的评价为必要地,区别起来。
这样的区别,于马克斯主义者·批评家,是丧失他几乎一切之力的。在言语的特别的意义上的批评,虽然作为非有不可的要素,入于马克斯主义者之所完成了的批评作品之中,然而虽然如此,成为更其必要的基本底要素者,则是社会学底分析。
四
这社会学底分析,在批评家·马克斯主义者,是依着怎样的精神而施行的呢?马克斯主义之看社会生活,是作为那个个的部分都互相连系着的有机底全体,而演那决定底职掌者,是最为物质底的,最合法则底的经济关系,首先第一,是劳动的形态的。例如当或一时代的广泛的究明,批评家·马克斯主义者即应该努力于给与全社会发达的完全的光景。但在个个的作家或作品之际,却未必一定有究明根本底经济底条件的必要。因为在这里,是那也可以称为蒲力汗诺夫原则的常在作用的原则,以特别的力而显现着的。他说,——凡艺术作品,只在很少的比量上,直接地依据于所与的社会的生产形态。那是经由了别的连环,即成长于社会的阶级构成和阶级底利害的地盘之上的阶级心理,而间接地依据于那个(生产形态)的。凡文学作品,常常意识底地,无意识底地,将所与的作家是其表现者的那阶级的心理,或者往往将那若干的混合——这是对于作者的种种的阶级的作用的显现,这是以细心的分析为必要的——反映出来。
五
和某几个阶级或有着广泛的社会底性质的大的集团的心理的联系,在各艺术作品,大抵由内容而被决定。是言语的艺术,且是最近于思想的艺术的文学,以比起别的艺术来,内容和那形式相比较,在那里面含有较多的意义为特征。在文学,正是那艺术底内容,即含在形象之中,或和形象相联系的思想和感情的川流,作为全作品的决定底要件而显现。内容自在努力,要向一定的形式。可以说,对于一切所与的内容,是只有一个最后的形式,相适应的。作家多多少少,总能够最明快地显示出使他感动的思想,现象和感情,发见对于那作品之所供给的读者,给以最强的印象那样的表现形式。
批评家·马克斯主义者于是首先第一,将作品的内容,装在那里面的社会底本质,作为那究明的对象。他将和某几个社会底集团的联系,含在作品中的暗示之力所将给与社会生活的作用,加以决定,然后移向形式,——首先第一,是那基本底目的和这形式的适应的程度,即从阐明这于最高度的表现性,由所与的内容以向读者的最高度的传染性,是否有用的观点看来的形式。
六
但是,马克斯主义者倘将常常不可忘却的文学底形式之研究的特殊底任务,加以否定,是不行的。在实际上,所与的作品的形式,决不仅由那内容而已,还由于几个别的要件而被决定。思索,会话的阶级底心理底习惯,可以称为所与的阶级(或是将影响给与于作品的阶级底集团)的生活样式的东西,所与的社会的物质文化的一般底水准,邻邦的影响,能显现于生活的一切方面的过去的惰性或更新的渴望——这些一切,都能够作为决定形式的补足底要件,而作用于形式之上。形式是往往不和作品,却和全时代及全流派相连结的。这且可以成为和内容相矛盾,而害及内容的力。这有时能从内容离开,而取独自的,幻影底的性质,这事情,发生于文学作品将失了内容,怕敢活的生活,竭力想靠了大言壮语底的饱满了的,或则相反,小小的有趣的形式的空虚的游戏,将生活从自己隔离的阶级的倾向,反映出来的时候。这些一切的要件,都不得不归入马克斯主义者的分析之中。与读者所目睹,在一切好作品,形式全由内容而被决定,一切艺术作品,都向着这样的好作品努力,——从这直接底公式所脱落的这些形式底诸要件,它本身决不是从社会生活截断了的东西。那是,这也应该寻出社会解释。
七
到此为止,我们大抵往来于作为文艺科学的马克斯主义批评的领域里了。在这里,马克斯主义者·批评家,是作为将马克斯主义底分析的方法,特殊底地适用于这领域——文学的社会学者,而活动着的。马克斯主义文艺批评的建设者蒲力汗诺夫,曾经竭力张扬,以为惟这个,才是马克斯主义者的真实的职掌。他曾确言,马克斯主义者之所以异于例如“启蒙学者”的缘由,即在“启蒙学者”课文学以一定的目的,一定的要求,从一定的理想的观点来批评,而马克斯主义者则说明一切作品出现的合法则底原因之处云。
蒲力汗诺夫既不得不使客观底,科学底马克斯主义底的批评的方法,和旧的主观主义或耽美底胡涂以及食伤来对立,则在这一端,他自然不独是正当而已,于定出将来的马克斯主义批评的真实的道路这事上,也做了巨大的工作。
但是,以为无论有怎样的事,也只究明外底事实,而加以分析,是无产阶级的特性,却是不能够的。马克斯主义决不单是社会底教义。马克斯主义也是建设的积极底的纲领。这建设,倘没有事实上的客观底领导,是不能设想的。倘若马克斯主义者对于环绕他的诸现象之间的连系的客观底决定,没有感觉,则他之为马克斯主义者是完结了。然而,从真实的,完成了的马克斯主义者,我们还要要求对于这环境的一定的作用。批评家·马克斯主义者,并非将从最大到最小的东西的文学底星座的运动的必然底法则,加以说明的文学底天文学家。他又是战士,他又是建设者。在这意义上,评价的要素,在现代的马克斯主义批评里,即应该列得极高。
八
应该放在文学作品的评价的基础上的规范,该是怎样的东西呢?首先第一,从内容的见地,以走近这个去罢。在这里,问题是大体很明白。基本底规范,在这里,是和在无产者伦理上所说的东西一样的,——就是,有助于无产者的事业的发达和胜利的一切,是善,害之者,是恶。
批评家·马克斯主义者应该努力于发见所与的作品的基本底社会底倾向——它的意识底地或无意识底地在瞄准,或在打击的东西。批评家·马克斯主义者应该适应着这基本底,社会底,力学底支配调,以作一般底评价。
然而,虽在所与的作品的社会底内容的评价的领域里,问题已决不单纯。对于马克斯主义者,要要求大的熟练和大的感觉。在这里,问题不只在一定的马克斯主义底教养,而在关于无此则不会有批评的一定的才能。倘若问题是关于真实地大的艺术作品之际,则应该计量到很多的不同的方面。于此要靠什么检温器或药局的天平,是极困难的。于此所必要者,是可以称为社会底感觉这东西。否则,谬误是必然的事。例如,批评家·马克斯主义者倘只将课了全然实际底的问题的作品,看作有意义之作,就不行。并不否定当面的问题所提出的特殊的重要性,但将一看好象很普通,或是不相干,而实则仔细地一检讨,乃是影响于社会生活的问题之所提出的巨大的意义,加以否定,是绝对地不可的。
我们于此,有和关于科学的相同的现象。要求科学完全埋头于实际底任务,是深刻的谬见。纵是最抽象底的科学底问题,这到解决了的时候,便常常成为最有实益的东西,这事情,是已经成了ABC的了。
然而,作家或诗人,在本质上(倘若他是无产者作家,)努力于文化的基本底发轫的无产者底再评价,一面将一般底的任务,放在自己之前的时候,批评家即易于自失。第一,在这样的时候,我们常常还未有正当的规范。第二,在这里,假说,而且是最大胆的假说,也会成为有价值的东西。何以故呢,因为问题是并不在问题的决定底解决,而在那提起和那加工上的。但是,或一程度为止,这些一切,能够加在纯实际底文学作品里。在自己的作品上,说明我党的纲领的已经做好的条项的艺术家——是不好的。艺术家者,因为他揭出新的东西来,因为他凭那直感,以浸透统计学和论理学所不能进去的领域,所以可贵。要判断或一艺术家是否正当,他是否正当地联结了真实,即共产主义的基本底努力,决不是容易事,而在这里,真实的判断,大约只形成于各个批评家和读者之间的意见的冲突之中的罢。这事,毫不减少批评家的工作的重要和必要之度。
在文学作品的社会底内容的评价上,极其重要的问题,是将最初的分析时,列入了和我们不相干,有时是和我们相敌对的现象之数之中的作品,加以对于我们的价值的第二段底审议。其实,明白自己之敌的心情,是极要紧的,利用不从我们同人中来的证人,也要紧的。凡这些,有时使我们引出深刻的结论,而且两者都将关于我们的生活现象的知识的宝库,非常之多地丰富起来。批评家·马克斯主义者无论当怎样的时会,都不应当以为或一作品或或一作家,例如,是代表着小市民底现象的,那结果,便将那作品一脚踢掉。往往虽然如此,而应该从中引出大的利益来。因此之故,非从所与的作品的已经产生和倾向的见地,而从利用这于我们的建设的可能与否这一个见地的再评价,乃是批评家·马克斯主义者的直接的任务。
声明在这里。在文学的领域上和我们疏远的,从而还和我们敌对的现象,这虽在其中含有上述的意义上的几分利益的时候,也无须说得,会成为极有害的,有毒的东西,会成为反革命底宣传的危险的表现的。在这里,不消说,登场的便已经不是马克斯主义批评,而是马克斯主义检阅了。
九
批评家·马克斯主义者一从内容的评价,移向形式的评价去,问题大约就更加复杂起来。 |
我が国の文学は今やその発達の決定的な機運(モメント)のただ中にある。国内では新しい生活がまさに建設されつつある。文学はようやくこの生活をいまだ定まらぬ転変の姿の上に反映することを学びつつあるように見え、しかもより高度の任務へ、すなわち建設過程に対する一定の政治的、とりわけ日常生活的・道徳的作用へと向かい得るようになってきた。 我が国に現れている種々の階級の対立は、他の諸国に比べれば遥かに少ないとはいえ、その構成は決して単一とは言えぬ。農民的文学と労働者的文学の傾向にすでにいくらかの相違があることは必然であり、都市と農村、工場と畑、機械と鋤の間には異なる感性と異なる表現がある。 新しい文学はこれら多様な声を包含し統合しなければならない。しかしそれは画一化ではない。真の統合とは、各々の声がその独自性を保ちながら全体として一つの壮大な交響曲を奏でることである。 |
第63節
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这任务,是极为重要的。蒲力汗诺夫也张扬这重要性。成为这种评价的一般底规范者,是什么呢?形式之于那内容,应该最大限度地相适应,给以最大的表现力,而且保证着于那作品所向的读者的范围,给与最强的影响的可能性。
在这里,首先第一,有记起蒲力汗诺夫也曾说过的最重要的形式底规范——就是,文学是形象的艺术,一切露出的思想,露出的宣传的向那里面的侵入,常是所与的作品之失败的意思这一个规范来的必要。不消说,这蒲力汗诺夫底规范,也并非绝对底的东西。现有犯这规范的例如雪且特林(Shichedrin),乌司班斯基(Uspenski)和孚尔玛诺夫(Furmanov)的优秀的作品。但这事,除了能有美文学底政论底性质的混合型的文学现象这意义以外,更无所有。以全体而论,总之是应当警戒的。自然,获得了出色的形象底性质的政论,是宣传和广义上的文学的堂皇的形式。然而反之,为纯政论底要素所充塞的艺术底文学,却纵使那判断怎样地出色,也大抵使读者冷下去的。倘若内容在作品之中,并非由形象的被熔解了的辉煌的金属的形相所铸成,而是成了大的冷的团块,突出在这液体里,则在上述的意义上,批评家能够以完全的权利,指摘作者于内容的艺术底加工之不足。
从上记的一般底的事,流演而出的第二的部分底规范,是作品的形式的独自性(Originality)。这独自性云者,是什么呢?那是在所与的作品的形式底肉体,和那内容溶合于不可分的全体这事之中的。真实的艺术底作品,于那内容,自然应该是新的东西。倘在作者那里,没有新的内容,则那作品的价值就少。这是自然明白的事。凡艺术家,应该表现在他以前所未经表现的东西。曾被表现的东西的重做(这事,例如在有些画家们,是不容易懂得的,)并不是艺术。那往往不过是极其细致之品的那细工。从这见地,而作品的新的内容,对于那作品,则要求新的形式。
怎样的现象,是和这真实的形式的独自性对立的呢?第一,是于新的构想的真实的具象化,有所妨害的定规。有些作家,会成为先前所用的形式的俘虏,那时在他,纵使内容是新的,然而装在旧的袋子里。这样的缺点,是不得不指摘的。第二,是形式独独微弱的时候,就是,虽然有着新的有兴味的构想,而艺术家还未能将言语——即在言辞之丰富,句之构成的意义上,在就绪的短篇,章,长篇,戏曲,等等的建筑底构成的意义上,还有在诗的言辞的韵律以及其他的形式的意义上的形式底富源,作为我有的时候。这些一切,是应该由批评家·马克斯主义者来指示的。真实的批评家·马克斯主义者,即所谓最高的典型的批评家,应该成为教师——尤其是年青的或刚才开手的作家的教师。
最后,对于关于形式的独自性的上记的部分底规则的第三样最大错误,是形式的独自化。当此之际,人们是靠了外面底想到和装饰,遮掩着内容的空虚,被有产者颓废派的典型底表现者的那形式主义,弄得聋聩了的作家,竟至于有虽然有着极有价值的内容,而于此捻进种种的把戏去,借此来镀金,以害了自己的工作的。
于形式底性质的第三规范——即作品的大众性,应该取慎重的态度。对于供给大众,作为生活的创设者而诉于这大众的文学的创造,有着最高的兴味的我们,对于这样的大众性,也有极高的兴味。被隔离被截断了的一切形式,意在专门家底耽美家的狭范围的一切形式,一切艺术底条件性和洗练性等,都应该由马克斯主义者来批判。恰如马克斯主义批评能够指示过去现在的这样的作品的或种的内面底价值,而且非指示不可一样,也应该摘发那要从靠这样的形式底诸要素为活的工作,努力离开的艺术家的心情。
但是,如已经说过,对于大众性的规范,是应该希望用非常之慎重的。恰如我们的报章,我们的宣传文书,我们有着从对于读者,有大要求的最复杂的书籍、杂志、日报起,直到最初步底的通俗化为止的那些一样,我们也不应该依了连在文化的意义上(程度)极低的农民或劳动者也(在内)的广泛的大众的水准,来平均我们的文学。这,是最大的错误罢。
能够将复杂的,尊贵的社会底内容,用了使千百万人也都感动的强有力的艺术底单纯,表现出来的作家,愿于他有光荣罢。即使靠了比较底单纯的比较底初步底的内容也好,能够使这几百万的大众感动的作家,愿于他有光荣罢。将这样的作家,马克斯主义批评家应该非常之高地评价。在这里,批评家·马克斯主义者的特别的注意和特别的正当的援助,是必要的。但自然,对于能读一个一个的文字的人,不能很懂,而是供给无产阶级的上层部分,全然意识底的党员,已经获得了相当的文化底水准的读者那样的作品的意义,也不能否定。仅据一种缘由,说是在正演巨大的职务于社会主义底建设的工作的这部分的一切人们之前,生活已课以许多有生气的问题,而这些问题,却还未站在广泛的大众之前,或是还未艺术底地,做成于大众底的形式之内,便并无艺术底回答地,置之不顾,那自然是不可的。但是,在我们这里,却应该说,倒是看见相反的罪过,就是我们的作家们,将注意集中于较容易的任务——为文化底地,高的读者范围而作的那一种任务。然而,如屡次说过那样,为劳动者农民大众的文学底工作,倘使这是成功的,有才能的东西的时候,在那评价这意义上,就应该由我们列在较高的地位。
十
如已经说过,批评家·马克斯主义者在相当的程度上,是教师。倘若从这批评,做不到什么的加(plus),什么的前进,则这样的批评,是无益的。那么,应该从批评加添怎样的加呢?第一,批评家·马克斯主义者对于作家,应该做教师。这样一说,也许会有满以愤怒的叫喊,说是谁也没有将自以为站在作家之上的权利,给与批评家云云的。这样的反驳,倘将问题放得正当,就完全地消灭。第一,从批评家·马克斯主义者应该做作家的教师这一个命题,有引出他应该是极其坚固的,是马克斯主义者,有优秀的趣味和该博的智识的人这一个结论的必要。人也许说,这样的批评家,我们是完全没有,或者很少有罢。前一说,是不对的,后一说,大约近于真实。然而从这里,也只能作“有用功的必要”这一个结论罢了。只要有善良的意志和才能,在我们的伟大的国度里,是没有不足的罢。但是,学习的事,还应该使大加坚实。第二,是批评家不消说不但教导作家,并且不但不以自己为比作家是更高的存在而已,他还从作家学习许多的东西。最好的批评家,是会用热心和感激来对作家,而且无论那一样之际,对于他(作家,)是先就恳切如兄弟的。马克斯主义者·批评家,在两种的意义上,应该是作家的教师,而且也能是,——即第一,于年青的作家,于一般地有弄出许多形式底谬误之惧的作家,他应该指摘其缺点。
我们已经用不着培林斯基(Belinski),为什么呢,因为我们的作家们,已经不以忠告为必要了……云云,这样的意见,已在流行,在革命前,或者,这也许是对的。但到了革命后,在我国里,从国民的下层,现出几百几千的新作家的今日,这却不过是可笑的意见。在这里,是切实的指导底批评,直到仅是用心很好的精通文学的人为止的一切的大小的培林斯基,无疑地在所必要的。
在别一面,批评家·马克斯主义者在社会性这事上,应该是作家的教师。于社会性是幼稚的,而且因为关于社会生活的法则的那幼稚的观念的结果,以及我们现在的时代的基本底无理解等等的结果,而犯最质朴的谬误者,决不仅仅是非无产者作家,在马克斯主义者作家无产者作家,也到处犯着一样的谬误。这并非侮辱作家的意思,部分底地,竟是称赞作家的。作家——是极敏感的,依照现实的直接底作用的存在。对于抽象底科学底思索,作家大抵没有特别的兴味,也没有特别的才能。所以,不消说,作家往往不能自禁地,拒绝那从批评家,政论家那面而来的助力的提议。然而这事,大抵即能由提议所显的那炫学底(Pedantic)的形式,得到说明。在实际上,真实地伟大的文学,是正惟由于大的作家和有大才能的文艺批评家的协力,这才成长起来,今后也将成长下去的。
十一
一面努力于做作家的有益的教师,批评家·马克斯主义者,又非也是读者的教师不可。是的,应该教读者以读法。作为注释家的批评家,作为时而警告嘴里有甜味的毒的人的批评家,为要显示伟大的核心,而敲破硬的外皮给人看的批评家,将剩落在阴影里的宝贝,打开来给人看的批评家,在i之上加点,而行以艺术底材料为基础的一般化的批评家——惟这个,在我们的时代,在多数的最尊的,然而又无经验的读者正在出现的时代,是必要的引路者。他对于我国和世界的过去的文学,非如此不可,对于现代的文学,也非如此不可。所以将我们的时代对于批评家·马克斯主义者怎样地提出着特殊的要求,再来张扬一回罢。我们决不想借我们的提要来吓人。从最简单的工作开手也好。从谬误开手也好。但初开手的批评家·马克斯主义者不应该忘记,为了要到达那假如给自己以至于称为高足的权利那样的最初的处所,是应该攀非常地高峻的阶级而上的。然而,试想广泛的我们的文化的日见其高的大波,泉流一般到处飞迸起来了的有才能的文学,也就不会不信马克斯主义批评的现在的不很高明的状态,便将转换向较好的方向了。
十二
追补底地还涉及两个问题在这里。第一,是对于批评家·马克斯主义者在发生非难,说他们几乎惟从事于摘发。其实,在现在,关于或一作家,说他的倾向是无意识底地,或“半意识底”地反革命底的事,是颇为危险的。或一作家,作为远于我们的要素,作为小市民底要素,或者作为极远地站在右翼的同路人,而被评价之际,甚且我们的阵营内的或一作家受着在什么坏倾向上的非难之时,问题也决不见得纯粹。或者也许说——检讨或一作家的政治底罪业,政治底疑惑,政治底恶质或缺陷,是批评家的工作么?我们应该尽全力以除掉这种的抗议。用这种的方法,以达个人底的目的,或者意识底地怀着恶意,想归或一作家于这样之罪的批评家——是恶汉。这样的奸计,迟迟早早,一定被曝露的。不深思,不熟虑,时而作这一类的告发的批评家,是不检点的,轻率的人。然而,怕敢将自己的好心的社会底分析的结果,用大声发表,而歪斜了马克斯主义的本质者,则不能不说是怠慢,是政治底地消极底的。
问题,是决不在批评家·马克斯主义者叫道——“领事呀,睁开眼来罢”上的。在那里,所必要的并非赴诉于国家机关,而是定或一作家之于我们的建设上的客观底价值。从这里抽出结论来,改正自己的方向,是作家的工作。我们大抵是在思想底斗争的领域里的。将在现代的文学与其评价上的斗争的性质,加以拒否,是一个忠实而正直的共产主义者所不会做的事。
十三
临末,最后的问题,激烈的锋利的论争的形式,是可以容许的么? |
この任務は極めて重要である。プレハーノフもこの重要性を力説した。この種の評価の一般的規範となるものは何か。形式はその内容に最大限に適応し、最大の表現力を与え、しかもその作品の向けられた読者の範囲に最も強い影響を及ぼす可能性を保証するものでなければならない。 ここでまず第一に、プレハーノフもかつて述べた最も重要な形式的規範を想起する必要がある。すなわち、文学は形象の芸術であり、一切の露出した思想、露出した宣伝のそこへの侵入はつねに当該作品の失敗を意味する、という規範である。言うまでもなくすべての文学作品には思想がある。しかしその思想は形象の中に溶解し、生きた人間と生きた情景を通じて自ずと読者に伝わるべきものであって、著者が直接に読者へ向かって説教するものであってはならぬ。 プレハーノフはまた芸術的価値と社会的価値の統一を求めた。真に偉大な芸術作品はその時代の最も進歩的な思想を最も完全な芸術的形式で表現したものである。いずれか一方だけでは十分でない。思想の深さと形式の完成とが結びついた時にのみ、真の傑作が生まれる。 |