Lu Xun Complete Works/zh-ja/Unidentified

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unidentified / unidentified

魯迅 (鲁迅, ルーシュン, 1881–1936)

中日対照翻訳。


第30節

中文 日本語

【第十三篇 宋元之拟话本】




说话既盛行,则当时若干著作,自亦蒙话本之影响。北宋时,刘斧秀才杂辑古今稗说为《青琐高议》及《青琐摭遗》,文辞虽拙俗,然尚非话本,而文题之下,已各系以七言,如:




《流红记》 红叶题诗娶韩氏  《赵飞燕外传》 别传叙飞燕本末 


《韩魏公》 不罪碎盏烧须人  《王榭》 风涛飘入乌衣国 




等,皆一题一解,甚类元人剧本结末之“题目”与“正名”,因疑汴京说话标题,体裁或亦如是,习俗浸润,乃及文章。至于全体被其变易者,则今尚有《大唐三藏法师取经记》及《大宋宣和遗事》二书流传,皆首尾与诗相始终,中间以诗词为点缀,辞句多俚,顾与话本又不同,近讲史而非口谈,似小说而无捏合。钱曾于《宣和遗事》,则并《灯花婆婆》等十五种并谓之“词话” 《也是园书目》十 ,以其有词有话也,然其间之《错斩崔宁》《冯玉梅团圆》两种,亦见《京本通俗小说》中,本说话之一科,传自专家,谈吐如流,通篇相称,殊非《宣和遗事》所能企及。盖《宣和遗事》虽亦有词有说,而非全出于说话人,乃由作者掇拾故书,益以小说,补缀联属,勉成一书,故形式仅存,而精采遂逊,文辞又多非己出,不足以云创作也。《取经记》尤苟简。惟说话消亡,而话本终蜕为著作,则又赖此等为其枢纽而已。


《大唐三藏法师取经记》三卷,旧本在日本,又有一小本曰《大唐三藏取经诗话》,内容悉同,卷尾一行云“中瓦子张家印”,张家为宋时临安书铺,世因以为宋刊,然逮于元朝,张家或亦无恙,则此书或为元人撰,未可知矣。三卷分十七章,今所见小说之分章回者始此;每章必有诗,故曰诗话。首章两本俱阙,次章则记玄奘等之遇猴行者。




  行程遇猴行者处第二


僧行六人,当日起行。……偶于一日午时,见一白衣秀才,从正东而来,便揖和尚:“万福万福!和尚今往何处,莫不是再往西天取经否?”法师合掌曰:“贫道奉敕,为东土众生未有佛教,是取经也。”秀才曰:“和尚生前两回去取经,中路遭难,此回若去,千死万死!”法师云:“你如何得知?”秀才曰:“我不是别人,我是花果山紫云洞八万四千铜头铁额弥猴王。我今来助和尚取经,此去百万程途,经过三十六国,多有祸难之处。”法师应曰:“果得如此,三世有缘,东土众生,获大利益。”当便改呼为猴行者。僧行七人,次日同行,左右伏事。猴行者因留诗曰:


  百万程途向那边,今来佐助大师前,


  一心祝愿逢真教,同往西天鸡足山。


三藏法师诗答曰:


  此日前生有宿缘,今朝果遇大明仙,


  前途若到妖魔处,望显神通镇佛前。




于是藉行者神通,偕入大梵天王宫,法师讲经已,得赐“隐形帽一顶,金镮锡杖一条,钵盂一只,三件齐全”,复反下界,经香林寺,履大蛇岭九龙池诸危地,俱以行者法力,安稳进行;又得深沙神身化金桥,渡越大水,出鬼子母国女人国而达王母池处,法师欲桃,命猴行者往窃之。




  入王母池之处第十一


……法师曰:“愿今日蟠桃结实,可偷三五个吃。”猴行者曰:“我因八百岁时偷吃十颗,被王母捉下,左肋判八百,右肋判三千铁棒,配在花果山紫云洞,至今肋下尚痛,我今定是不敢偷吃也。”……前去之间,忽见石壁高岑万丈,又见一石盘,阔四五里地,又有两池,方广数十里,弥弥万丈,鸦鸟不飞。七人才坐,正歇之次,举头遥望,万丈石壁之中,有数株桃树,森森耸翠,上接青天,枝叶茂浓,下浸池水。……行者曰:“树上今有十余颗,为地神专在彼处守定,无路可去偷取。”师曰:“你神通广大,去必无妨。”说由未了,下三颗蟠桃入池中去,师甚敬惶,问此落者是何物?答曰:“师不要敬 惊字之略 ,此是蟠桃正熟,下水中也。”师曰:“可去寻取来吃!”……




行者以杖击石,先后现二童子,一云三千岁,一五千岁,皆挥去。




……又敲数下,偶然一孩儿出来,问曰:“你年多少?”答曰:“七千岁。”行者放下金镮杖,叫取孩儿入手中,问和尚你吃否?和尚闻语,心敬便走。被行者手中旋数下,孩儿化成一枝乳枣。当时吞入口中,后归东土唐朝,遂吐出于西川,至今此地中生人参是也。空中见有一人,遂吟诗曰:


花果山中一子才,小年曾此作场乖,


而今耳热空中见,前次偷桃客又来。




由是竟达天竺,求得经文五千四百卷,而阙《多心经》,回至香林寺,始由定光佛见授。七人既归,则皇帝郊迎,诸州奉法,至七月十五日正午,天宫乃降采莲舡,法师乘之,向西仙去;后太宗复封猴行者为铜筋铁骨大圣云。


《大宋宣和遗事》世多以为宋人作,而文中有吕省元《宣和讲篇》及南儒《咏史诗》,省元南儒皆元代语,则其书或出于元人,抑宋人旧本,而元时又有增益,皆不可知,口吻有大类宋人者,则以钞撮旧籍而然,非著者之本语也。书分前后二集,始于称述尧舜而终以高宗之定都临安,案年演述,体裁甚似讲史。惟节录成书,未加融会,故先后文体,致为参差,灼然可见。其剽取之书当有十种。前集先言历代帝王荒淫之失者其一,盖犹宋人讲史之开篇;次述王安石变法之祸者其二,亦北宋末士论之常套;次述安石引蔡京入朝至童贯蔡攸巡边者其三,首一为语体,次二为文言而并杂以诗者;其四,则梁山泺聚义本末,首述杨志卖刀杀人,晁盖劫生日礼物,遂邀约二十人,同入太行山梁山泺落草,而宋江亦以杀阎婆惜出去,伏屋后九天玄女庙中,见官兵已退,出谢玄女。


……则见香案上一声响亮,打一看时,有一卷文书在上。宋江才展开看了,认得是个天书;又写着三十六个姓名;又题著四句道:


  破国因山木,兵刀用水工,


  一朝充将领,海内耸威风。


宋江读了,口中不说,心下思量:这四句分明是说了我里姓名;又把开天书一卷,仔细看觑,见有三十六将的姓名。那三十六人道个甚底?


智多星吴加亮 玉麒麟李进义 青面兽杨志 混江龙李海 九纹龙史进 入云龙公孙胜 浪里白条张顺 霹雳火秦明 活阎罗阮小七立地太岁阮小五 短命二郎阮进 大刀关必胜 豹子头林冲 黑旋风李逵 小旋风柴进 金枪手徐宁 扑天雕李应 赤发鬼刘唐 一直撞董平 插翅虎雷横 美髯公朱同 神行太保戴宗 赛关索王雄 病尉迟孙立 小李广花荣 没羽箭张青 没遮拦穆横 浪子燕青 花和尚鲁智深 行者武松 铁鞭呼延绰 急先锋索超 拚命三郎石秀 火船工张岑 摸着云杜千 铁天王晁盖




宋江看了人名,末后有一行字写道:“天书付天罡院三十六员猛将,使呼保义宋江为帅,广行忠义,殄灭奸邪。”


于是江率朱同等九人亦赴山寨,会晁盖已死,遂被推为首领,“各人统率强人,略州劫县,放火杀人,攻夺淮阳、京西、河北三路二十四州八十余县,劫掠子女玉帛,掳掠甚众”,已而鲁智深等亦来投,遂足三十六人之数。




一日,宋江与吴加亮商量:“俺三十六员猛将,并已登数,休要忘了东岳保护之恩,须索去烧香赛还心愿则个。”择日起行,宋江题了四句放旗上道:


  来时三十六,  去后十八双。


  若还少一个,  定是不归乡!


宋江统率三十六将往朝东岳,赛取金炉心愿。朝廷不奈何,只得出榜招谕宋江等。有那元帅姓张名叔夜的,是世代将门之子,前来招诱;宋江和那三十六人归顺宋朝,各受大夫诰敕,分注诸路巡检使去也;因此三路之寇,悉得平定。后遣宋江收方腊有功,封节度使。




其五,为徽宗幸李师师家,曹辅进谏及张天觉隐去;其六,为道士林灵素进用及其死葬之异;其七,为腊月预赏元宵及元宵看灯之盛,皆平话体。其叙元宵看灯云:




宣和六年正月十四日夜,去大内门直上一条红绵绳上,飞下一个仙鹤儿来,口内衔一道诏书,有一员中使接得展开,奉圣旨:宣万姓。有那快行家手中把着金字牌,喝道:“宣万姓!”少刻,京师民有似云浪,尽头上戴着玉梅,雪柳,闹蛾儿,直到鳌山下看灯。却去宣德门直上有三四个贵官,……得了圣旨,交撒下金钱银钱,与万姓抢金钱。那教坊大使袁陶曾作词,名做《撒金钱》:


频瞻礼,喜升平又逢元宵佳致。鳌山高耸翠,对端门珠玑交制,似嫦娥,降仙宫,乍临凡世。  恩露匀施,凭御阑圣颜垂视。撒金钱,乱抛坠,万姓推抢没理会;告官里,这失仪,且与免罪。




是夜撒金钱后,万姓各各遍游市井,可谓是:




灯火荧煌天不夜,笙歌嘈杂地长春。




后集则始自金人来运粮,以至京城陷为第八种;又自金兵入城,帝后北行受辱,以至高宗定都临安为第九第十种,即取《南烬纪闻》《窃愤录》及《续录》而小有删节,二书今俱在,或题辛弃疾作,而宋人已以为伪书。卷末复有结论,云:“世之儒者谓高宗失恢复中原之机会者有二焉:建炎之初失其机者,潜善伯彦偷安于目前误之也;绍兴之后失其机者,秦桧为虏用间误之也。失此二机,而中原之境土未复,君父之大仇未报,国家之大耻不能雪,此忠臣义士之所以扼腕,恨不食贼臣之肉而寝其皮也欤!”则亦南宋时桧党失势后士论之常套也。

【第十三篇 宋元の擬話本】

説話が盛行するに及び、当時の少なからぬ著作も自ずから話本の影響を蒙った。北宋の時、劉斧秀才が古今の稗説を雑輯して『青瑣高議』及び『青瑣摭遺』を編んだが、文辞は拙俗であるものの、なお話本ではない。しかし文題の下には、既にそれぞれ七言を繋げている。例えば――

『流紅記』 紅葉に詩を題して韓氏を娶る 『趙飛燕外伝』 別伝にて飛燕の始末を叙す

『韓魏公』 盞を砕き鬚を焼く人を罪せず 『王榭』 風涛に漂いて烏衣国に入る

等々、皆一題一解にして、元人の劇本の結末にある「題目」と「正名」に甚だ類似する。因って汴京の説話の標題も、体裁あるいはかくの如くであったかと疑われ、習俗の浸潤が文章にまで及んだのであろう。全体がその変易を被った者については、今なお『大唐三蔵法師取経記』及び『大宋宣和遺事』の二書が流伝しており、いずれも首尾が詩に始まり詩に終わり、中間には詩詞を点綴とし、辞句は多く俚俗であるが、話本とはまた異なり、講史に近くして口談にあらず、小説に似て捏合なし。銭曾は『宣和遺事』について『燈花婆婆』等十五種を併せて「詞話」と称した(『也是園書目』十)。詞あり話ありというのがその所以であるが、その中の『錯斬崔寧』『馮玉梅団円』の二種は、また『京本通俗小説』中にも見え、もと説話の一科であり、専家より伝わり、談吐は流るるが如く、通篇相称して、とうてい『宣和遺事』の及ぶ所ではない。蓋し『宣和遺事』は詞も説もあるとはいえ、全て説話人より出たのではなく、作者が故書を掇拾し、小説を加え、補綴連属して、かろうじて一書を成したものであるから、形式は僅かに存するのみにして精彩はすなわち遜り、文辞もまた多くは己の出にあらず、創作とは言い難い。『取経記』は殊に苟簡である。ただ説話が消亡し、話本がついに著作へと蜕変したのは、またこの類のものがその枢紐たるに頼ったのみである。

『大唐三蔵法師取経記』三巻、旧本は日本にある。また一小本があり『大唐三蔵取経詩話』と曰い、内容は悉く同じで、巻尾の一行に「中瓦子張家印」と云う。張家は宋時の臨安の書舗であり、世人これを以て宋刊と為すが、元朝に至っても張家は恙なきこともあり得るから、この書は元人の撰であるやも知れない。三巻は十七章に分かたれ、今見る小説の章回に分かつ者はここに始まる。毎章必ず詩があるが故に詩話と曰う。首章は両本ともに闕し、次章は玄奘等が猴行者に遇う事を記す。

  猴行者に遇う処 第二

僧行六人、当日起行す。……ある日の午時に偶々一人の白衣の秀才が正東より来たり、すなわち和尚に揖して曰く、「万福万福!和尚は今いずこへ往かんとするや、もしや再び西天へ取経に往くのではあるまいか」と。法師合掌して曰く、「貧道は勅を奉じ、東土の衆生に未だ仏教なきが為に、取経するなり」と。秀才曰く、「和尚は生前に二度取経に行き、中途にて難に遭うた。この度もし行かば、千死万死なり」と。法師云う、「汝いかにして知り得たるや」と。秀才曰く、「我は別人にあらず、我は花果山紫雲洞の八万四千の銅頭鉄額の猕猴王なり。我今、和尚の取経を助けんとて来たり。ここより百万程の途、三十六国を経過し、多く禍難の処あり」と。法師応じて曰く、「果たしてかくの如くならば三世の縁あり、東土の衆生、大いなる利益を獲ん」と。すなわち改めて猴行者と呼ぶ。僧行七人、翌日同行し、左右に伏事す。猴行者因りて詩を留めて曰く――

  百万程途あの辺に向かい、今来たりて大師の前を佐助す、   一心に祝願して真教に逢わんとし、同に西天の鶏足山に往く。

三蔵法師の詩答えて曰く――

  此の日前生に宿縁あり、今朝果たして大明仙に遇う、   前途もし妖魔の処に到らば、望むらくは神通を顕して仏前に鎮めんことを。

かくして行者の神通を藉り、共に大梵天王宮に入り、法師は講経し已りて、「隠形帽一頂、金環錫杖一条、鉢盂一隻、三件斉全」を賜わり、また下界に返る。香林寺を経、大蛇嶺・九龍池の諸危地を履むも、いずれも行者の法力を以て安穏に進行す。また深沙神が身を化して金橋と為り、大水を渡越し、鬼子母国・女人国を出て王母池の処に至り、法師が桃を欲し、猴行者に命じてこれを窃ませんとす。

  王母池に入る処 第十一

……法師曰く、「願わくは今日蟠桃が結実し、三つ五つ偸んで食うべし」と。猴行者曰く、「我は八百歳の時に十顆を偸み食い、王母に捉えられ、左肋に八百、右肋に三千の鉄棒を判ぜられ、花果山紫雲洞に配されて、今に至るも肋の下なお痛む。我は今、定めて敢えて偸み食わざるなり」と。……前に行くうちに、忽ち石壁の高岑万丈なるを見、また一石盤あり、闊さ四五里地、また二つの池あり、方広数十里、弥弥万丈にして鴉鳥も飛ばず。七人がまさに座して休む折、頭を挙げて遥かに望めば、万丈の石壁の中に、数株の桃樹あり、森々と翠を聳え、上は青天に接し、枝葉は茂く濃やかにして下は池水に浸る。……行者曰く、「樹上に今十余顆あるが、地神が専らかの処にありて守り定め、偸り取る路なし」と。師曰く、「汝は神通広大なれば、行けば必ず妨げなからん」と。話のまだ尽きぬうちに、三顆の蟠桃が池中に落つ。師甚だ驚惶し、問うて曰くこの落つるは何物かと。答えて曰く、「師よ驚くなかれ(驚の字の略)、これは蟠桃がまさに熟し、水中に落ちたるなり」と。師曰く、「行きて尋ね取りて食うべし」と。……

行者は杖を以て石を撃ち、先後に二人の童子を現す。一人は三千歳と云い、一人は五千歳と云い、皆これを揮いて去らしむ。

……また数下を敲けば、偶々一人の孩児が出で来たり、問うて曰く、「汝は年いくつか」と。答えて曰く、「七千歳」と。行者は金環杖を放ち下し、孩児を手中に取り入れ、和尚に問うて「汝は食うか否か」と。和尚これを聞き、心驚きてすなわち走る。行者の手中にて旋ること数下、孩児は化して一枝の乳棗と成る。時に呑んで口中に入れ、後に東土の唐朝に帰り、遂に西川に吐き出す。今に至るまでこの地に人参が生ずるはこれなり。空中に一人の見ゆるあり、遂に詩を吟じて曰く――

花果山中一子の才、小年嘗てここに場を作す乖し、 而して今耳熱く空中に見れば、前次の桃を偸む客また来たる。

かくて遂に天竺に達し、経文五千四百巻を求め得たるも、『多心経』を闕く。香林寺に回り至り、始めて定光仏の見授を受く。七人は既に帰れば、すなわち皇帝が郊迎し、諸州は法を奉ず。七月十五日正午に至り、天宮はすなわち彩蓮船を降し、法師はこれに乗り、西に向かいて仙に去る。後に太宗は復た猴行者を封じて銅筋鉄骨大聖と云う。

『大宋宣和遺事』は世に多く宋人の作と以為すが、文中に呂省元の『宣和講篇』及び南儒の『詠史詩』があり、省元・南儒は皆、元代の語であるから、その書は或いは元人より出たのか、あるいは宋人の旧本にして元時にまた増益ありしか、いずれも知るべからず。口吻に大いに宋人に類するものがあるのは、旧籍を鈔撮したことに因るのであって、著者の本語ではない。書は前後二集に分かれ、尭舜を称述するに始まり、高宗の臨安定都に終わる。年を案じて演述し、体裁は甚だ講史に似る。ただ旧籍を節録して書を成し、融会を加えていないから、前後の文体は参差を致し、灼然として見える。その剽取の書は当に十種あるべし。前集はまず歴代の帝王の荒淫の失を述べるが、その一にして、蓋し宋人講史の開篇に猶あたる。次に王安石の変法の禍を述ぶるが、その二にして、また北宋末の士論の常套である。次に安石が蔡京を引きて入朝せしめたるより童貫・蔡攸の巡辺に至るが、その三にして、首の一は語体、次の二は文言にしていずれも詩を雑える。その四は、すなわち梁山泊の聚義の始末にして、まず楊志が刀を売り人を殺すを述べ、晁蓋が生辰の礼物を劫すを述べ、遂に二十人を邀約し、共に太行山梁山泊に入りて落草す。而して宋江もまた閻婆惜を殺して出で、屋後の九天玄女廟中に伏し、官兵の既に退きたるを見て出でて玄女に謝す。

……すなわち香案の上に一声の響きあり、打ちて見れば、一巻の文書あり。宋江がまさに展き開いて見たるに、認め得たるは天書なり。また三十六人の姓名を書きあり。また四句を題して道う――

  国を破るは山木に因り、兵刀は水工を用う、   一朝将領に充てらるれば、海内に威風を聳やかさん。

宋江は読み了りて、口中には言わず、心下に思量す――この四句は分明に我が姓名を言い了せりと。また天書一巻を開けば、仔細に看るに、三十六将の姓名あり。その三十六人とはいかなる者ぞ――

智多星呉加亮 玉麒麟李進義 青面獣楊志 混江龍李海 九紋龍史進 入雲龍公孫勝 浪裏白条張順 霹靂火秦明 活閻羅阮小七 立地太歳阮小五 短命二郎阮進 大刀関必勝 豹子頭林冲 黒旋風李逵 小旋風柴進 金槍手徐寧 撲天雕李応 赤髪鬼劉唐 一直撞董平 插翅虎雷横 美髯公朱同 神行太保戴宗 賽関索王雄 病尉遅孫立 小李広花栄 没羽箭張青 没遮攔穆横 浪子燕青 花和尚魯智深 行者武松 鉄鞭呼延綽 急先鋒索超 拼命三郎石秀 火船工張岑 摸着雲杜千 鉄天王晁蓋

宋江が人名を見るに、末後に一行の字あり、書して道う――「天書、天罡院の三十六員の猛将に付し、呼保義宋江をして帥と為さしめ、広く忠義を行い、奸邪を殄滅せよ」と。

かくて宋江は朱同等九人を率いてまた山寨に赴き、晁蓋は既に死し、遂に推されて首領と為る。「各人は強人を統率し、州を略し県を劫し、火を放ち人を殺し、淮陽・京西・河北の三路二十四州八十余県を攻奪し、子女玉帛を劫掠し、擄掠すること甚だ衆し」。やがて魯智深等もまた来投し、遂に三十六人の数を足す。

ある日、宋江と呉加亮は商量す。「俺ら三十六員の猛将は、並びに既に数に登る。東岳の保護の恩を忘るるなかれ。すべからく焼香して心願を賽い還すべし」と。日を択びて起行す。宋江は四句を題して旗上に放ちて道う――

  来たる時三十六、去りて後十八双。   もし一個を還し少なくば、定めて帰郷せじ。

宋江は三十六将を統率して東岳に往きて朝し、金炉の心願を賽い取る。朝廷は奈何ともし難く、已むを得ず榜を出して宋江等を招諭す。元帥姓は張、名は叔夜なる者あり、これ世代将門の子なり。前に来たりて招誘す。宋江と彼の三十六人は宋朝に帰順し、各々大夫の誥勅を受け、諸路の巡検使に分注せらる。これに因りて三路の寇は悉く平定を得る。後に宋江を遣わして方臘を収むるに功あり、節度使に封ぜらる。

その五は、徽宗が李師師の家に幸し、曹輔が進諫し及び張天覚が隠れ去る事。その六は、道士林霊素の進用及びその死葬の異。その七は、臘月に予め元宵を賞し及び元宵に灯を看る盛り。皆、平話体なり。その元宵灯観の叙述に云う――

宣和六年正月十四日の夜、大内の門より直上に一条の紅綿縄の上を、飛び下りて一羽の仙鶴児が来たり、口内に一道の詔書を銜む。一員の中使がこれを受け取りて展き開くに、聖旨を奉ず――万姓を宣ぜよ。快行家の手中に金字牌を把り、喝道す、「万姓を宣ず」と。少刻にして京師の民は雲浪の如くあり、尽く頭上に玉梅・雪柳・闹蛾児を戴き、直に鰲山の下に到りて灯を看る。宣徳門の直上に三四人の貴官あり、……聖旨を得て、金銭銀銭を撒き下し、万姓に抢金銭せしむ。かの教坊大使袁陶がかつて詞を作り、名を『撒金銭』と做す――

頻りに瞻礼し、升平を喜び又元宵の佳致に逢う。鰲山は高く翠を聳え、端門に対して珠璣交制す。嫦娥の如く仙宮より降り、乍ち凡世に臨む。  恩露を均しく施し、御欄に憑りて聖顔垂れて視る。金銭を撒き、乱れて抛墜し、万姓は推し抢いて理会なし。官里に告ぐ、この失儀はしばらく免罪を与えよと。

この夜、金銭を撒きし後、万姓は各々遍く市井を遊び、まことに言うべし――

  灯火は煌々として天は夜ならず、笙歌は嘈雑として地は長春なり。

後集はすなわち金人の来たりて糧を運ぶに始まり、京城の陥ちるに至るを第八種と為す。また金兵の入城より帝后の北行して辱を受け、高宗の臨安に定都するに至るを第九第十種と為し、すなわち『南燼紀聞』『窃憤録』及び『続録』を取りて小さく削節したもので、二書は今いずれも在り、あるいは辛棄疾の作と題するが、宋人は既にこれを偽書と以為した。巻末にはまた結論あり、云う、「世の儒者は高宗が中原を恢復する機会を失いし者二つありと謂う。建炎の初にその機を失いし者は、潜善・伯彦の目前に偸安して之を誤りしなり。紹興の後にその機を失いし者は、秦檜の虜の用間と為りて之を誤りしなり。この二機を失い、しかして中原の境土は未だ復せず、君父の大仇は未だ報ぜず、国家の大恥は雪ぐ能わず。これ忠臣義士の腕を扼して、恨みて賊臣の肉を食らい、その皮に寝ねんと欲せざるなからんや」と。これまた南宋の時、檜の党が失勢した後の士論の常套なり。

第31節

中文 日本語

【第十四篇 元明传来之讲史(上)】




宋之说话人,于小说及讲史皆多高手 名见《梦粱录》及《武林旧事》 ,而不闻有著作;元代扰攘,文化沦丧,更无论矣。日本内阁文库藏元至治 一三二一——一三二三 间新安虞氏刊本全相 犹今所谓绣像全图 平话五种,曰《武王伐纣书》,曰《乐毅图齐七国春秋后集》,曰《秦并六国》,曰《吕后斩韩信前汉书续集》,曰《三国志》,每集各三卷 《斯文》第八编第六号,盐谷温《关于明的小说“三言”》 ,今惟《三国志》有印本 盐谷博士影印本及商务印书馆翻印本 ,他四种未能见。其《全相三国志平话》分为上下二栏,上栏为图,下栏述事,以桃园结义始,孔明病殁终。而开篇亦先叙汉高祖杀戮功臣,玉皇断狱,令韩信转生为曹操,彭越为刘备,英布为孙权,高祖则为献帝,立意与《五代史平话》无异。惟文笔则远不逮,词不达意,粗具梗概而已,如述“赤壁鏖兵”云:




却说武侯过江到夏口,曹操舡上高叫“吾死矣!”众军曰:“皆是蒋干。”众官乱刀剉蒋干为万段。曹操上舡,荒速夺路,走出江口,见四面舡上,皆为火也。见数十只舡,上有黄盖言曰:“斩曹贼,使天下安若太山!”曹相百官,不通水战,众人发箭相射。却说曹操措手不及,四面火起,前又相射。曹操欲走,北有周瑜,南有鲁肃,西有陵统甘宁,东有张昭吴苞,四面言杀。史官曰:“倘非曹公家有五帝之分,孟德不能脱。”曹操得命,西北而走,至江岸,众人撮曹公上马。却说黄昏火发,次日斋时方出,曹操回顾,尚见夏口舡上烟焰张天,本部军无一万。曹相望西北而走,无五里,江岸有五千军,认得是常山赵云,拦住,众官一齐攻击,曹相撞阵越去。……至晚,到一大林。……曹公寻滑荣路去,行无二十里,见五百校刀手,关将拦住。曹相用美言告云长:“看操亭侯有恩。”关公曰:“军师严令。”曹公撞阵却过。说话间,面生尘雾,使曹公得脱。关公赶数里复回,东行无十五里,见玄德,军师。是走了曹贼,非关公之过也。言使人小着玄德 案:此句不可解 。众问为何。武侯曰:“关将仁德之人,往日蒙曹相恩,其此而脱矣。”关公闻言,忿然上马,告主公复追之。玄德曰:“吾弟性匪石,宁奈不倦。”军师言:“诸葛赤 亦? 去,万无一失。”…… 卷中十八至十九页 




观其简率之处,颇足疑为说话人所用之话本,由此推演,大加波澜,即可以愉悦听者,然页必有图,则仍亦供人阅览之书也。余四种恐亦此类。


说《三国志》者,在宋已甚盛,盖当时多英雄,武勇智术,瑰伟动人,而事状无楚汉之简,又无春秋列国之繁,故尤宜于讲说。东坡 《志林》六 谓:“王彭尝云:途巷中小儿薄劣,其家所厌苦,辄与钱,令聚坐听说古话,至说三国事,闻刘玄德败,频蹙眉,有出涕者,闻曹操败,即喜唱快,以是知君子小人之泽,百世不斩。”在瓦舍,“说三分”为说话之一专科,与“讲《五代史》”并列 《东京梦华录》五 。金元杂剧亦常用三国时事,如《赤壁鏖兵》、《诸葛亮秋风五丈原》、《隔江斗智》、《连环计》、《复夺受禅台》等,而今日搬演为戏文者尤多,则为世之所乐道可知也。其在小说,乃因有罗贯中本而名益显。


贯中,名本,钱唐人 明郎瑛《七修类稿》二十三,田汝成《西湖游览志余》二十五,胡应麟《少室山房笔丛》四十一 ,或云名贯,字贯中 明王圻《续文献通考》一百七十七 ,或云越人,生洪武初 周亮工《书影》 ,盖元明间人 约一三三○——一四○○ 。所著小说甚夥,明时云有数十种 《志余》 ,今存者《三国志演义》之外,尚有《隋唐志传》、《残唐五代史演义》、《三遂平妖传》、《水浒传》等;亦能词曲,有杂剧《龙虎风云会》 目见《元人杂剧选》 。然今所传诸小说,皆屡经后人增损,真面殆无从复见矣。


罗贯中本《三国志演义》,今得见者以明弘治甲寅 一四九四 刊本为最古,全书二十四卷,分二百四十回,题曰“晋平阳侯陈寿史传,后学罗本贯中编次”。起于汉灵帝中平元年“祭天地桃园结义”,终于晋武帝太康元年“王濬计取石头城”,凡首尾九十七年 一八四——二八○ 事实,皆排比陈寿《三国志》及裴松之注,间亦仍采平话,又加推演而作之;论断颇取陈裴及习凿齿孙盛语,且更盛引“史官”及“后人”诗。然据旧史即难于抒写,杂虚辞复易滋混淆,故明谢肇淛 《五杂组》十五 既以为“太实则近腐”,清章学诚 《丙辰札记》 ,又病其“七实三虚惑乱观者”也。至于写人,亦颇有失,以致欲显刘备之长厚而似伪,状诸葛之多智而近妖;惟于关羽,特多好语,义勇之概,时时如见矣。如叙羽之出身丰采及勇力云:




……阶下一人大呼出曰:“小将愿往,斩华雄头献于帐下!”众视之:见其人身长九尺五寸,髯长一尺八寸,丹凤眼,卧蚕眉,面如重枣,声似巨钟,立于帐前。绍问何人。公孙瓒曰:“此刘玄德之弟关某也。”绍问见居何职。瓒曰:“跟随刘玄德充马弓手。”帐上袁术大喝曰:“汝欺吾众诸侯无大将耶?量一弓手,安敢乱言。与我乱棒打出!”曹操急止之曰:“公路息怒,此人既出大言,必有广学;试教出马,如其不胜,诛亦未迟。”……关某曰:“如不胜,请斩我头。”操教酾热酒一杯,与关某饮了上马。关某曰:“酒且斟下,某去便来。”出帐提刀,飞身上马。众诸侯听得寨外鼓声大震,喊声大举,如天摧地塌,岳撼山崩。众皆失惊,却欲探听。鸾铃响处,马到中军,云长提华雄之头,掷于地上;其酒尚温。…… 第九回《曹操起兵伐董卓》 




又如曹操赤壁之败,孔明知操命不当尽,乃故使羽扼华容道,俾得纵之,而又故以军法相要,使立军令状而去,此叙孔明止见狡狯,而羽之气概则凛然,与元刊本平话,相去远矣:




……华容道上,三停人马,一停落后,一停填了坑堑,一停跟随曹操过险峻,路稍平妥。操回顾,止有三百余骑随后,并无衣甲袍铠整齐者。……又行不到数里,操在马上加鞭大笑。众将问丞相笑者何故。操曰:“人皆言诸葛亮周瑜足智多谋,吾笑其无能为也。今此一败,吾自是欺敌之过,若使此处伏一旅之师,吾等皆束手受缚矣。”言未毕,一声炮响,两边五百校刀手摆列,当中关云长提青龙刀,跨赤兔马,截住去路。操军见了,亡魂丧胆,面面相觑,皆不能言。操在人丛中曰:“既到此处,只得决一死战。”众将曰:“人纵然不怯,马力乏矣:战则必死。”程昱曰:“某知云长傲上而不忍下,欺强而不凌弱,人有患难,必须救之,仁义播于天下。丞相旧日有恩在彼处,何不亲自告之,必脱此难矣。”操从其说,即时纵马向前,欠身与云长曰:“将军别来无恙?”云长亦欠身答曰:“关某奉军师将令,等候丞相多时。”操曰:“曹操兵败势危,到此无路,望将军以昔日之言为重。”云长答曰:“昔日关某虽蒙丞相厚恩,某曾解白马之危以报之。今日奉命,岂敢为私乎?”操曰:“五关斩将之时,还能记否?古之人大丈夫处世,必以信义为重;将军深明《春秋》,岂不知庾公之斯追子濯孺子者乎?”云长闻之,低首良久不语。当时曹操引这件事,说犹未了,云长是个义重如山之人,又见曹军惶惶,皆欲垂泪,云长思起五关斩将放他之恩,如何不动心,于是把马头勒回,与众军曰:“四散摆开!”这个分明是放曹操的意。操见云长勒回马,便和众将一齐冲将过去,云长回身时,前面众将已自护送操过去了。云长大喝一声,众皆下马,哭拜于地,云长不忍杀之,正犹豫中,张辽纵马至,云长见了,亦动故旧之心,长叹一声,并皆放之。后来史官有诗曰:


彻胆长存义,终身思报恩,威风齐日月,名誉震乾坤,忠勇高三国,神谋陷七屯,至今千古下,军旅拜英魂。 第一百回《关云长义释曹操》 




弘治以后,刻本甚多,即以明代而论,今尚未能详其凡几种 详见《小说月报》二十卷十号郑振铎《三国志演义的演化》 。迨清康熙时,茂苑毛宗岗字序始师金人瑞改《水浒传》及《西厢记》成法,即旧本遍加改窜,自云得古本,评刻之,亦称“圣叹外书”,而一切旧本乃不复行。凡所改定,就其序例可见,约举大端,则一曰改,如旧本第百五十九回《废献帝曹丕篡汉》本言曹后助兄斥献帝,毛本则云助汉而斥丕。二曰增,如第百六十七回《先主夜走白帝城》本不涉孙夫人,毛本则云“夫人在吴闻猇亭兵败,讹传先主死于军中,遂驱兵至江边,望西遥哭,投江而死”。三曰削,如第二百五回《孔明火烧木栅寨》本有孔明烧司马懿于上方谷时,欲并烧魏延。第二百三十四回《诸葛瞻大战邓艾》有艾贻书劝降,瞻览毕狐疑,其子尚诘责之,乃决死战,而毛本皆无有。其余小节,则一者整顿回目,二者修正文辞,三者削除论赞,四者增删琐事,五者改换诗文而已。


《隋唐志传》原本未见,清康熙十四年 一六七五 长洲褚人获有改订本,易名《隋唐演义》,序有云:“《隋唐志传》创自罗氏,纂辑于林氏,可谓善矣。然始于隋宫剪彩,则前多阙略,厥后补缀唐季一二事,又零星不联属,观者犹有议焉。”其概要可识矣。


《隋唐演义》计一百回,以隋主伐陈开篇,次为周禅于隋,隋亡于唐,武后称尊,明皇幸蜀,杨妃缢于马嵬,既复两京,明皇退居西内,令道士求杨妃魂,得见张果,因知明皇杨妃为隋炀帝朱贵儿后身,而全书随毕。凡隋唐间英雄,如秦琼、窦建德、单雄信、王伯当、花木兰等事迹,皆于前七十回中穿插出之。其明皇杨妃再世姻缘故事,序言得之袁于令所藏《逸史》,喜其新异,因以入书。此他事状,则多本正史纪传,且益以唐宋杂说,如隋事则《大业拾遗记》、《海山记》、《迷楼记》、《开河记》,唐事则《隋唐嘉话》、《明皇杂录》、《常侍言旨》、《开天传信记》、《次柳氏旧闻》、《长恨歌传》、《开元天宝遗事》及《梅妃传》、《太真外传》等,叙述多有来历,殆不亚于《三国志演义》。惟其文笔,乃纯如明季时风,浮艳在肤,沉著不足,罗氏轨范,殆已荡然,且好嘲戏,而精神反萧索矣。今举一例:




…一日玄宗于昭庆宫闲坐,禄山侍坐于侧,见他腹垂过膝,因指着戏说道:“此儿腹大如抱瓮,不知其中藏的何所有?”禄山拱手对道:“此中并无他物,惟有赤心耳;臣愿尽此赤心,以事陛下。”玄宗闻禄山所言,心中甚喜。那知道:


人藏其心,不可测识。自谓赤心,心黑如墨!


玄宗之待安禄山,真如腹心;安禄山之对玄宗,却纯是贼心狼心狗心,乃真是负心丧心。有心之人,方切齿痛心,恨不得即剖其心,食其心;亏他还哄人说是赤心。可笑玄宗还不觉其狼子野心,却要信他是真心,好不痴心。闲话少说。且说当日玄宗与安禄山闲坐了半晌,回顾左右,问妃子何在,此时正当春深时候,天气向暖,贵妃方在后宫坐兰汤洗浴。宫人回报玄宗说道:“妃子洗浴方完。”玄宗微笑说道:“美人新浴,正如出水芙蓉。”令宫人即宣妃子来,不必更洗梳妆。少顷,杨妃来到。你道他新浴之后,怎生模样?有一曲《黄莺儿》说得好:


皎皎如玉,光嫩如莹,体愈香,云鬓慵整偏娇样。罗裙厌长,轻衫取凉,临风小立神骀宕。细端详:芙蓉出水,不及美人妆。 第八十三回 




《残唐五代史演义》未见,日本《内阁文库书目》云二卷六十回,题罗本撰,汤显祖批评。


《北宋三遂平妖传》原本亦不可见,较先之本为四卷二十回,序云王慎修补,记贝州王则以妖术变乱事。《宋史》 二百九十二《明镐传》 言则本涿州人,岁饥,流至恩州 唐为贝州 ,庆历七年僭号东平郡王,改元得圣,六十六日而平。小说即本此事,开篇为汴州胡浩得仙画,其妇焚之,灰绕于身,因孕,生女,曰永儿,有妖狐圣姑姑授以道法,遂能为纸人豆马。王则则贝州军排,后娶永儿,术人弹子和尚、张鸾、卜吉、左黜皆来见,云则当王,会知州贪酷,遂以术运库中钱米买军倡乱。已而文彦博率师讨之,其时张鸾、卜吉、弹子和尚见则无道,皆先去,而文彦博军尚不能克。幸得弹子和尚化身诸葛遂智助文,镇伏邪法;马遂诈降击则裂其唇,使不能持咒;李遂又率掘子军作地道入城;乃擒则及永儿。奏功者三人皆名遂,故曰《三遂平妖传》也。


《平妖传》今通行本十八卷四十回,有楚黄张无咎序,云是龙子犹所补。其本成于明泰昌元年 一六二○ ,前加十五回,记袁公受道法于九天玄女,复为弹子和尚所盗,及妖狐圣姑姑炼法事。他五回则散入旧本各回间,多补述诸怪民道术。事迹于意造而外,亦采取他杂说,附会入之。如第二十九回叙杜七圣卖符,并呈幻术,断小儿首,覆以衾即复续,而偶作大言,为弹子和尚所闻,遂摄小儿生魂,入面店覆楪子下,杜七圣咒之再三,儿竟不起。




杜七圣慌了,看着那看的人道:“众位看官在上,道路虽然各别,养家总是一般,只因家火相逼。适间言语不到处,望看官们恕罪则个。这番教我接了头,下来吃杯酒,四海之内,皆相识也。”杜七圣伏罪道:“是我不是了,这番接上了。”只顾口中念咒,揭起卧单看时,又接不上。杜七圣焦躁道:“你教我孩儿接不上头,我又求告你再三,认自己的不是,要你恕饶,你却直恁的无理。”便去后面笼儿内取出一个纸包儿来,就打开,撮出一颗葫芦子,去那地上,把土来掘松了,把那颗葫芦子埋在地下,口中念念有词,喷上一口水,喝声:“疾!”可霎作怪:只见地下生出一条藤儿来,渐渐的长大,便生枝叶,然后开花,便见花谢,结一个小葫芦儿。一伙人见了,都喝采道:“好!”杜七圣把那葫芦儿摘下来,左手提着葫芦儿,右手拿着刀,道:“你先不近道理,收了我孩儿的魂魄,教我接不上头,你也休想在世上活了!”看着葫芦儿,拦腰一刀,剁下半个葫芦儿来。却说那和尚在楼上,拿起面来却待要吃;只见那和尚的头从腔子上骨碌碌滚将下来。一楼上吃面的人都吃一惊,小胆的丢了面跑下楼去了,大胆的立住了脚看。只见那和尚慌忙放下碗和箸,起身去那楼板上摸,一摸摸着了头,双手捉住两只耳朵,掇那头安在腔子上,安得端正,把手去摸一摸。和尚道:“我只顾吃面,忘还了他的儿子魂魄,”伸手去揭起楪儿来。这里却好揭得起楪儿,那里杜七圣的孩儿早跳起来;看的人发声喊。杜七圣道:“我从来行这家法术,今日撞着师父了。”…… 第二十九回下《杜七圣狠行续头法》 




此盖相传旧话,尉迟偓 《中朝故事》 云在唐咸通中,谢肇淛 《五杂组》六 又以为明嘉靖隆庆间事,惟术人无姓名,僧亦死,是书略改用之。马遂击贼被杀则当时事实,宋郑獬有《马遂传》。

【第十四篇 元明伝来の講史(上)】

宋の説話人は、小説及び講史ともに高手多く(名は『夢粱録』及び『武林旧事』に見ゆ)、而れども著作ありとは聞かない。元代は擾攘にして文化は論丧し、更に論ずるに及ばず。日本の内閣文庫に元の至治(一三二一~一三二三)年間の新安虞氏刊本の全相(今いわゆる繍像全図)平話五種を蔵す。曰く『武王伐紂書』、曰く『楽毅図斉七国春秋後集』、曰く『秦併六国』、曰く『呂后斬韓信前漢書続集』、曰く『三国志』、毎集各三巻なり(『斯文』第八編第六号、塩谷温「明の小説『三言』に関して」)。今はただ『三国志』のみ印本あり(塩谷博士影印本及び商務印書館翻印本)、他の四種は未だ見ること能わず。その『全相三国志平話』は上下二欄に分かれ、上欄は図、下欄は事を述べ、桃園結義に始まり、孔明の病殁に終わる。而して開篇にはまた先ず漢の高祖が功臣を殺戮し、玉皇が断獄し、韓信を転生して曹操と為さしめ、彭越を劉備、英布を孫権と為し、高祖は則ち献帝と為すと叙す。立意は『五代史平話』と異なるところなし。ただ文筆は遠く及ばず、詞は意に達せず、粗ぼ梗概を具えるのみ。例えば「赤壁鏖兵」を述べて云う――

……さて武侯は江を過ぎ夏口に到る。曹操は船上にて高く叫ぶ、「吾は死せり」と。衆軍曰く、「皆これ蒋幹なり」と。衆官は乱刀もて蒋幹を万段に剉す。曹操は船に上り、荒速に路を奪いて走り、江口に出づ。四面の船上は皆火なり。数十隻の船を見るに、上に黄蓋あり言いて曰く、「曹賊を斬り、天下をして安きこと太山の如くならしめん」と。曹相の百官は水戦に通ぜず、衆人は箭を発して相射す。さて曹操は措手に及ばず、四面火起こり、前にはまた相射す。曹操走らんと欲すれば、北に周瑜あり、南に魯粛あり、西に凌統・甘寧あり、東に張昭・呉苞あり、四面に殺せと言う。史官曰く、「もし曹公の家に五帝の分なくば、孟徳は脱する能わざりしならん」と。曹操は命を得て西北に走り、江岸に至る。衆人は曹公を撮りて馬に上らしむ。さて黄昏に火発し、翌日の斎時にしてようやく出づ。曹操は回顧すれば、なお夏口の船上の煙焰は天に張り、本部の軍は一万に満たず。曹相は西北に望みて走り、五里も行かぬうちに、江岸に五千の軍あり、認め得たるは常山の趙雲なり。攔住するも衆官は一斉に攻撃し、曹相は陣を撞きて越え去る。……晩に至り、一の大林に到る。……曹公は滑栄の路を尋ねて去り、行くこと二十里に満たず、五百の校刀手を見る。関将が攔住す。曹相は美言を用いて雲長に告ぐ、「操の亭侯の恩あるを看よ」と。関公曰く、「軍師の厳令なり」と。曹公は陣を撞きて過ぐ。話の間に面に塵霧を生じ、曹公をして脱するを得せしむ。関公は数里を追いてまた回る。東行すること十五里にして、玄徳と軍師に見ゆ。曹賊を走らせたるは関公の過にあらざるなり。言いて人をして小さく玄徳に着かしむ(案ずるに、この句は解し難し)。衆は何故と問う。武侯曰く、「関将は仁徳の人なり。往日曹相の恩を蒙る。ここにおいて脱せしめたるなり」と。関公はこれを聞き、忿然として馬に上り、主公に告げてまたこれを追わんとす。玄徳曰く、「吾が弟の性は匪石にして、寧ろ不倦に耐えよ」と。軍師言う、「諸葛もまた去けば、万に一失なし」と。……(巻中十八至十九頁)

その簡率なるところを観れば、頗る説話人の用いし話本かと疑われ、これより推演し、大いに波瀾を加えれば、すなわち聴者を愉悦せしむべし。しかるに頁ごとに必ず図あれば、やはり人の閲覧に供する書なり。余の四種もまたおそらくこの類であろう。

『三国志』を説く者は、宋において既に甚だ盛んであった。蓋しその時は英雄多く、武勇智術は瑰偉にして人を動かし、しかも事状は楚漢の如き簡にあらず、また春秋列国の如き繁にもあらず。故に殊に講説に宜しい。東坡(『志林』六)は謂う、「王彭嘗て云う、途巷の中の小児にして薄劣なる者、その家の厭苦する所にして、輒ち銭を与え、聚坐して古話を聴かしむ。三国の事を説くに至り、劉玄徳の敗るるを聞けば、頻りに眉を蹙め、涕を出す者あり。曹操の敗るるを聞けば、即ち喜び快と唱う。これを以て君子と小人の沢は百世斬えざるを知る」と。瓦舎にありては「三分を説く」は説話の一専科にして、「『五代史』を講ず」と並列す(『東京夢華録』五)。金元の雑劇にもまた常に三国時の事を用い、例えば『赤壁鏖兵』・『諸葛亮秋風五丈原』・『隔江闘智』・『連環計』・『復奪受禅台』等、而して今日舞台に搬演せらるる者は殊に多い。これ世の楽しんで道うところなるを知るべきなり。その小説にありては、すなわち羅貫中本ありて名は益々顕わる。

貫中、名は本、銭唐の人なり(明の郎瑛『七修類稿』二十三、田汝成『西湖遊覧志余』二十五、胡応麟『少室山房筆叢』四十一)。あるいは名は貫、字は貫中と云い(明の王圻『続文献通考』百七十七)、あるいは越人にして洪武初に生まると云う(周亮工『書影』)。蓋し元明の間の人なり(約一三三〇~一四〇〇)。著すところの小説は甚だ夥しく、明時に数十種ありと云い(『志余』)、今存する者は『三国志演義』の外、なお『隋唐志伝』・『残唐五代史演義』・『三遂平妖伝』・『水滸伝』等あり。また詞曲に能く、雑劇に『龍虎風雲会』あり(目は『元人雑劇選』に見ゆ)。しかるに今伝わるところの諸小説は、皆しばしば後人の増損を経、真の面は殆ど復見するすべなし。

羅貫中本の『三国志演義』にして、今見得る者は明の弘治甲寅(一四九四)刊本を以て最古と為す。全書二十四巻、二百四十回に分かれ、題して曰く「晋平陽侯陳寿の史伝、後学羅本貫中編次す」と。漢の霊帝中平元年の「天地を祭り桃園にて結義す」に起こり、晋の武帝太康元年の「王濬の計もて石頭城を取る」に終わる。凡そ首尾九十七年(一八四~二八〇)の事実にして、皆、陳寿の『三国志』及び裴松之の注を排比し、間にはまた平話を仍り採り、またさらに推演して之を作る。論断は頗る陳裴及び習鑿歯・孫盛の語を取り、かつ更に盛んに「史官」及び「後人」の詩を引く。しかるに旧史に拠れば即ち抒写し難く、虚辞を雑えれば復た混淆を滋し易い。故に明の謝肇淛(『五雑組』十五)は既に以て「太だ実なれば則ち腐に近し」と為し、清の章学誠(『丙辰札記』)はまた「七実三虚にして観者を惑乱す」と病む。人を写くに至りてもまた頗る失あり、劉備の長厚を顕さんと欲して偽に似、諸葛の多智を状して妖に近づくに致る。ただ関羽に於いてのみ特に好語多く、義勇の概は時時として見ゆるが如し。例えば関羽の出身・風采及び勇力を叙して云う――

……階下にて一人大いに呼びて出でて曰く、「小将は願わくは往きて華雄の頭を斬り、帳下に献ぜん」と。衆これを視れば、その人は身の長九尺五寸、髯の長一尺八寸、丹鳳眼・臥蚕眉にして面は重棗の如く、声は巨鐘に似て帳前に立つ。紹は問う、何人かと。公孫瓚曰く、「これ劉玄徳の弟関某なり」と。紹は問う、現に何の職に居るかと。瓚曰く、「劉玄徳に随い馬弓手に充つ」と。帳上の袁術大いに喝して曰く、「汝は吾が衆諸侯に大将なしと欺くや。量るに一弓手にして安んぞ敢えて乱言するか。我のために乱棒もて打ち出せ」と。曹操急にこれを止めて曰く、「公路は息怒せよ。この人は既に大言を出す以上、必ず広学あらん。試みに出馬せしめ、もし勝たずば、誅するも遅からず」と。……関某曰く、「もし勝たずば、請う我が頭を斬れ」と。操は酾した熱酒一杯を関某に飲ましめて馬に上らしむ。関某曰く、「酒はしばらく斟み下せ。某は去りてすぐに来たらん」と。帳を出でて刀を提げ、飛身して馬に上る。衆諸侯は寨外にて鼓声の大いに震い、喊声の大いに挙がるを聴けば、天摧け地塌け、岳撼れ山崩るるが如し。衆は皆失驚す。さて探聴せんと欲す。鸞鈴の響く処、馬は中軍に到り、雲長は華雄の頭を提げ、地上に擲つ。その酒なお温かなり。……(第九回『曹操兵を起こして董卓を伐つ』)

また曹操の赤壁の敗にては、孔明は操の命は尽くべからざるを知り、乃ち故に関羽をして華容道を扼せしめ、放さしめんとし、而してまた故に軍法を以て相要し、軍令状を立てしめて去らしむ。この叙述にて孔明はただ狡獪のみ見え、而して関羽の気概は凛然たり。元刊本の平話とは遠く隔たれり――

……華容道上にて、三停の人馬は、一停は落後し、一停は坑塹を填め、一停は曹操に随いて険峻を過ぎ、路はやや平妥なり。操は回顧するに、ただ三百余騎の随後するのみにして、衣甲袍鎧の整斉なる者はなし。……また行くこと数里に至らず、操は馬上にて鞭を加え大笑す。衆将は丞相の笑うは何故かと問う。操曰く、「人は皆、諸葛亮と周瑜は足智多謀なりと言うが、吾はその無能を笑うなり。今この一敗は、吾が自らの敵を欺きたるの過なり。もしこの処に一旅の師を伏せしめなば、吾等は皆、束手して縛を受けたるなり」と。言の未だ畢らざるに、一声の砲響あり、両辺に五百の校刀手が摆列し、中央に関雲長は青龍刀を提げ、赤兔馬に跨り、去路を截断す。操軍はこれを見て亡魂喪胆、面面相觑し、皆、言う能わず。操は人叢の中にて曰く、「既にこの処に到れば、已むを得ず一死戦を決せん」と。衆将曰く、「人は縦い怯えずとも、馬力は乏し。戦えば則ち必ず死す」と。程昱曰く、「それがし知る、雲長は上に傲りて下に忍び、強を欺きて弱を凌がず。人に患難あらば必ず救い、仁義は天下に播く。丞相は旧日彼の処に恩あり。何ぞ親しく告げざるや。必ずこの難を脱せん」と。操はその説に従い、即時に馬を縦にして前に進み、身を欠いて雲長に曰く、「将軍、別来恙なきや」と。雲長もまた身を欠いて答えて曰く、「関某は軍師の将令を奉じ、丞相を待つこと多時なり」と。操曰く、「曹操は兵敗れ勢い危うく、ここに到りて路なし。望むらくは将軍、昔日の言を以て重しと為されよ」と。雲長答えて曰く、「昔日、関某は丞相の厚恩を蒙ると雖も、某嘗て白馬の危を解きて以てこれに報いたり。今日命を奉ず。豈に敢えて私を為さんや」と。操曰く、「五関斬将の時、なおよく記すや否や。古の人の大丈夫は世に処するに必ず信義を以て重しと為す。将軍は深く『春秋』を明らかにす。豈に庾公の斯が子濯孺子を追いし者を知らざるや」と。雲長はこれを聞き、首を低れること久しくして語らず。その時、曹操はこの件を引き、説きてなお未だ了らざるに、雲長は義、山の如く重き人なり。また曹軍の惶惶として皆、垂泪せんと欲するを見、雲長は五関斬将にて彼を放ちし恩を思い起こし、いかで心を動かさざるべき。ここにおいて馬頭を勒ち回し、衆軍に与えて曰く、「四散して摆き開け」と。これは分明に曹操を放つの意なり。操は雲長の馬を勒ち回すを見て、すなわち衆将と一斉に冲し将いて過ぎ、雲長の回身する時には、前面の衆将は已に自ら操を護送して過ぎ了りぬ。雲長は大いに一声喝すれば、衆は皆馬を下り、泣いて地に拝す。雲長は忍びて殺さず、正に猶予する中に、張遼馬を縦にして至る。雲長これを見て、また故旧の心を動かし、長く嘆じて一声、並びに皆これを放つ。後来、史官の詩あり曰く――

徹胆長く義を存し、終身恩に報いんと思う、威風は日月に斉しく、名誉は乾坤を震わす。忠勇は三国に高く、神謀は七屯に陥る。今に至りて千古の下、軍旅は英魂を拝す。(第百回『関雲長義もて曹操を釈す』)

弘治以後、刻本は甚だ多く、明代のみを以てしても、今なお幾種あるか詳らかにし能わず(詳しくは『小説月報』二十巻十号、鄭振鐸「三国志演義の演化」を見よ)。清の康熙の時に至り、茂苑の毛宗崗、字は序始、金人瑞が『水滸伝』及び『西廂記』を改めし成法に師い、旧本に即いて遍く改竄を加え、自ら古本を得たりと云い、評刻して、また「聖嘆外書」と称す。而して一切の旧本は乃ち復たは行われず。凡そ改定するところは、その序例より見るべく、大端を約挙すれば、一に曰く改、旧本第百五十九回『献帝を廃して曹丕漢を簒う』にて本は曹后が兄を助けて献帝を斥すと言うが、毛本は則ち漢を助けて丕を斥すと云う。二に曰く増、第百六十七回『先主夜に白帝城に走る』にて本は孫夫人に涉らざるが、毛本は則ち「夫人は呉に在りて猇亭の兵敗を聞き、讹伝して先主は軍中に死すと、遂に兵を駆りて江辺に至り、西に望みて遥かに哭し、投江して死す」と云う。三に曰く削、第二百五回『孔明火をもて木柵寨を焼く』にて本は孔明が司馬懿を上方谷にて焼く時、併せて魏延をも焼かんと欲するとあり、第二百三十四回『諸葛瞻大いに鄧艾と戦う』にて艾が書を贻りて降を勧め、瞻は覧じ畢りて狐疑し、その子の尚が詰責して乃ち死戦を決するとあるが、毛本には皆これなし。その余の小節は、一に回目を整頓し、二に文辞を修正し、三に論賛を削除し、四に瑣事を増刪し、五に詩文を改換するのみ。

『隋唐志伝』の原本は未見なり。清の康熙十四年(一六七五)に長洲の褚人獲の改訂本あり、名を『隋唐演義』と易む。序に云う、「『隋唐志伝』は羅氏に創し、林氏に纂輯す。善しと謂うべし。しかるに隋宮の剪彩に始まれば、前に多く闕略あり。その後、唐季の一二事を補綴するも、また零星にして聯属せず。観者なお議あり」と。その概要を識るべし。

『隋唐演義』は計百回にして、隋主の陳を伐つを以て開篇と為し、次に周の隋に禅るを述べ、隋は唐に亡び、武后は称尊し、明皇は蜀に幸し、楊妃は馬嵬に縊れ、既に両京を復し、明皇は退きて西内に居り、道士に命じて楊妃の魂を求めしめ、張果に得見す。因りて明皇楊妃は隋の煬帝と朱貴児の後身なるを知り、而して全書は遂に畢る。凡そ隋唐間の英雄、秦瓊・竇建徳・単雄信・王伯当・花木蘭等の事蹟は、皆、前七十回中に穿插して出す。その明皇楊妃の再世姻縁の故事は、序に言う、袁于令の蔵する『逸史』より得て、その新異を喜び、因りて書に入れたりと。此の他の事状は、多く正史の紀伝に本づき、かつ唐宋の雑説を益す。隋事は『大業拾遺記』・『海山記』・『迷楼記』・『開河記』、唐事は『隋唐嘉話』・『明皇雑録』・『常侍言旨』・『開天伝信記』・『次柳氏旧聞』・『長恨歌伝』・『開元天宝遺事』及び『梅妃伝』・『太真外伝』等の如し。叙述は多く来歴あり、殆ど『三国志演義』に亜がず。ただその文筆は乃ち純ら明季の時風の如く、浮艶は膚にあり、沈著は不足にして、羅氏の軌範は殆ど已に蕩然たり。かつ嘲戯を好み、而して精神は反って蕭索なり。今、一例を挙ぐ――

……ある日、玄宗は昭慶宮に閑坐す。禄山は側に侍坐す。その腹の膝を過ぎて垂るるを見て、因りてこれを指して戯れに言いて道う、「この児の腹は大いなること瓮を抱くが如し。知らず、その中に蔵するところは何物か」と。禄山は手を拱して対えて道う、「この中には並びに他物なく、ただ赤心あるのみ。臣は願わくはこの赤心を尽くして以て陛下に事えん」と。玄宗は禄山の言うところを聞き、心中甚だ喜ぶ。それぞ知らんや――

人はその心を蔵し、測り識るべからず。自ら赤心と謂うも、心は黒きこと墨の如し。

玄宗の安禄山を待つは、真に腹心の如し。安禄山の玄宗に対するは、却って純ら賊心・狼心・狗心にして、乃ち真にこれ負心・喪心なり。心ある人は方に切歯して痛心し、恨みてただちにその心を剖き、その心を食わんと欲す。よくもなお人を哄して赤心と言う。笑うべし、玄宗はなおその狼子野心に覚えず、却って彼を真心と信ぜんとす。よくも痴心なる。閑話少説。さて当日、玄宗と安禄山は閑坐すること半晌、左右を回顧して妃子はいずこにと問う。この時まさに春深の候にして天気は暖に向かい、貴妃はまさに後宮に坐して蘭湯にて洗浴す。宮人は玄宗に回報して言いて道う、「妃子は洗浴したるところなり」と。玄宗は微笑して言いて道う、「美人の新浴は、まさに出水の芙蓉の如し」と。宮人に命じて即ち妃子を宣べしめ、更めて梳妆を洗うに及ばずと。少頃にして楊妃来到す。その新浴の後、いかなる模様かと道えば、一曲の『黄鸝児』に説き得たり――

皎皎として玉の如く、光嫩にして瑩の如し。体はいよいよ香り、雲鬟は慵く整えて偏に嬌なる様なり。羅裙は長きを厭い、軽衫は涼しきを取り、風に臨みて小さく立てば神は骀蕩す。細かに端詳す――芙蓉の水より出づるも、美人の妆には及ばず。(第八十三回)

『残唐五代史演義』は未見なり。日本の『内閣文庫書目』に二巻六十回と云い、羅本の撰、湯顕祖の批評と題す。

『北宋三遂平妖伝』の原本もまた見るべからず。較先の本は四巻二十回にして、序に王慎修が補すと云い、貝州の王則が妖術をもて変乱する事を記す。『宋史』(二百九十二『明鎬伝』)に言う、則はもと涿州の人にして歳饑え、流れて恩州(唐は貝州と為す)に至り、慶暦七年に僭して東平郡王と号し、改元して得聖と称し、六十六日にして平ぐと。小説は即ちこの事に本づき、開篇にて汴州の胡浩が仙画を得、その婦がこれを焚き、灰が身を繞り、因りて孕み、女を生む。永児と曰い、妖狐の聖姑姑に道法を授けられ、遂に紙人豆馬を為すを能くす。王則は貝州の軍排にして、後に永児を娶る。術人の弾子和尚・張鸞・卜吉・左黜は皆来見し、則は当に王たるべしと云う。知州の貪酷に会し、遂に術を以て庫中の銭米を運び、軍を買いて倡乱す。やがて文彦博は師を率いてこれを討つも、その時、張鸞・卜吉・弾子和尚は則の無道を見て皆先に去り、而して文彦博の軍はなお克つ能わず。幸いに弾子和尚が身を化して諸葛遂智と為り、文を助け、邪法を鎮伏す。馬遂は詐降して則を撃ち、その唇を裂きて咒を持する能わざらしむ。李遂はまた掘子軍を率いて地道を作りて城に入る。乃ち則及び永児を擒う。功を奏する者三人は皆名に遂あり、故に『三遂平妖伝』と曰うなり。

『平妖伝』の今の通行本は十八巻四十回にして、楚黄の張無咎の序あり、龍子猶の補するところと云う。その本は明の泰昌元年(一六二〇)に成り、前に十五回を加え、袁公が九天玄女より道法を受け、復た弾子和尚に盗まるること及び妖狐聖姑姑の煉法の事を記す。他の五回は旧本の各回間に散入し、多く諸怪民の道術を補述す。事蹟は意造の外に、また他の雑説を採取し、附会してこれを入る。第二十九回にて杜七聖が符を売り、併せて幻術を呈し、小児の首を断じ、衾を覆えば即ち復た続く。而して偶々大言を作り、弾子和尚の聞くところと為り、遂に小児の生魂を摂し、麺店に入り楪子の下に覆う。杜七聖はこれに咒すること再三、児は竟に起きず。

杜七聖は慌てて、見ている人々に向かいて道う、「衆位の看官、上に在りて、道路は各別なりと雖も、養家はすべて一般なり。ただ家火に相逼らるるのみ。先刻、言語の不到の処、望むらくは看官たち罪を恕されよ。この番は我に頭を接がしめよ。下り来たりて酒を一杯飲まば、四海の内、皆相識なり」と。杜七聖は伏罪して道う、「これ我の不是なり。この番は接ぎ上がりたり」と。ただ口中に咒を念じ、臥単を揭き起こし見るに、また接ぎ上がらず。杜七聖は焦躁して道う、「汝は我が孩児に頭を接がしめず。我はまた汝に再三求め告げて、自己の不是を認め、汝に恕饒を要めたるに、汝は却って直にかくの如く無理なり」と。すなわち後面の籠児の内より一個の紙包児を取り出し、打ち開けて、一顆の葫蘆子を撮り出し、地上に行きて土を掘り松くし、かの葫蘆子を埋め、口中に念々有詞にして、一口の水を噴き上げ、「疾」と喝す。あに作怪なることか――ただ地下に一条の藤児が生じ出づるを見る。漸々に長大し、すなわち枝葉を生じ、然る後花開き、すなわち花は謝し、一個の小葫蘆児を結ぶ。一伙の人はこれを見て、皆喝采して道う、「好し」と。杜七聖はかの葫蘆児を摘み下ろし、左手に葫蘆児を提げ、右手に刀を拿して道う、「汝は先に道理に近からず、我が孩児の魂魄を収めて、我に頭を接がしめず。汝もまた世上に活きんと休想え」と。葫蘆児に看て、腰を攔いて一刀、半個の葫蘆児を剁し下ろす。さて、かの和尚は楼上に在りて麺を拿い起こし、まさに食わんとす。ただ見る、かの和尚の頭が腔子の上より骨碌碌と滾り将いて下に来たるを。一楼上にて麺を食う人は皆一驚し、小胆の者は麺を丢てて楼を跑り下り、大胆の者は脚を立住して看る。ただ見る、かの和尚は慌忙として碗と箸を放ち下し、身を起こしてかの楼板の上に摸り、一摸にて頭を摸り着き、双手にて両隻の耳朶を捉えて持ち、頭を掇りて腔子の上に安ず。端正に安じ得て、手にてもう一摸す。和尚道う、「我はただ麺を食うに顧みて、彼の児子の魂魄を還すを忘れたり」と。手を伸ばして楪児を揭き起こす。ここにて却って好く楪児を揭き起こし得れば、あちらにて杜七聖の孩児は早くも跳ね起きたり。看る人は声を発して喊ぶ。杜七聖道う、「我は従来この家法術を行いしが、今日師父に撞り着きたり」と。……(第二十九回下『杜七聖狠く続頭の法を行う』)

これ蓋し相伝の旧話にして、尉遅偓(『中朝故事』)は唐の咸通中にありと云い、謝肇淛(『五雑組』六)はまた明の嘉靖隆慶間の事と以為すも、ただ術人に姓名なく、僧もまた死するのみ。この書は略々改用する。馬遂の賊を撃ちて殺さるるは当時の事実にして、宋の鄭獬に『馬遂伝』あり。

第32節

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【第十五篇 元明传来之讲史(下)】




《水浒》故事亦为南宋以来流行之传说,宋江亦实有其人。《宋史》 二十二 载徽宗宣和三年“淮南盗宋江等犯淮阳军,遣将讨捕,又犯京东,江北,入楚海州界,命知州张叔夜招降之”。降后之事,则史无文,而稗史乃云“收方腊有功,封节度使” 见十三篇 。然擒方腊者盖韩世忠 《宋史》本传 ,于宋江辈无与,惟《侯蒙传》 《宋史》三百五十一 又云:“宋江寇京东,蒙上书,言宋江以三十六人横行齐魏,官军数万,无敢抗者,不若赦江,使讨方腊以自赎。”似即稗史所本。顾当时虽有此议,而实未行,江等且竟见杀。洪迈《夷坚乙志》 六 言:“宣和七年,户部侍郎蔡居厚罢,知青州,以病不赴,归金陵,疽发于背,卒。未几,其所亲王生亡而复醒,见蔡受冥谴,嘱生归告其妻,云‘今只是理会郓州事’。夫人恸哭曰:‘侍郎去年帅郓时,有梁山泺贼五百人受降,既而悉诛之,吾屡谏,不听也。……’”《乙志》成于乾道二年,去宣和六年不过四十余年,耳目甚近,冥谴固小说家言,杀降则不容虚造,山泺健儿终局,盖如是而已。


然宋江等啸聚梁山泺时,其势实甚盛,《宋史》 三百五十三 亦云“转略十郡,官军莫敢撄其锋”。于是自有奇闻异说,生于民间,辗转繁变,以成故事,复经好事者掇拾粉饰,而文籍以出。宋遗民龚圣与作《宋江三十六人赞》,自序已云“宋江事见于街谈巷语,不足采著,虽有高如李嵩辈传写,士大夫亦不见黜” 周密《癸辛杂识》续集上 。今高李所作虽散失,然足见宋末已有传写之书。《宣和遗事》由钞撮旧籍而成,故前集中之梁山泺聚义始末,或亦为当时所传写者之一种,其节目如下:




杨志等押花石纲阻雪违限 杨志途贫卖刀杀人刺配卫州 孙立等夺杨志往太行山落草 石碣村晁盖伙劫生辰纲 宋江通信晁盖等脱 逃 宋江杀阎婆惜题诗于壁 宋江得天书有三十六将姓名 宋江奔梁山泺寻晁盖 宋江三十六将共反 宋江朝东岳赛还心愿 张叔夜招宋江三十六将降 宋江收方腊有功封节度使




惟《宣和遗事》所载,与龚圣与赞已颇不同:赞之三十六人中有宋江,而《遗事》在外;《遗事》之吴加亮李进义李海阮进关必胜王雄张青张岑,赞则作吴学究卢进义李俊阮小二关胜杨雄张清张横;诨名亦偶异。又元人杂剧亦屡取水浒故事为资材,宋江燕青李逵尤数见,性格每与在今本《水浒传》中者差违,但于宋江之仁义长厚无异词,而陈泰 茶陵人,元延祐乙卯进士 记所闻于篙师者,则云“宋之为人勇悍狂侠” 《所安遗集补遗》《江南曲序》 ,与他书又正反。意者此种故事,当时载在人口者必甚多,虽或已有种种书本,而失之简略,或多舛迕,于是又复有人起而荟萃取舍之,缀为巨帙,使较有条理,可观览,是为后来之大部《水浒传》。其缀集者,或曰罗贯中 王圻田汝成郎瑛说 ,或曰施耐庵 胡应麟说 ,或曰施作罗编 李贽说 ,或曰施作罗续 金人瑞说 。


原本《水浒传》今不可得,周亮工 《书影》一 云“故老传闻,罗氏为《水浒传》一百回,各以妖异语引其首,嘉靖时郭武定重刻其书,削其致语,独存本传”。所削者盖即“灯花婆婆等事” 《水浒传全书》发凡 ,本亦宋人单篇词话 《也是园书目》十 ,而罗氏袭用之,其他不可考。


现存之《水浒传》则所知者有六本,而最要者四:


一曰一百十五回本《忠义水浒传》。前署“东原罗贯中编辑”,明崇祯末与《三国演义》合刻为《英雄谱》,单行本未见。其书始于洪太尉之误走妖魔,而次以百八人渐聚山泊,已而受招安,破辽,平田虎王庆方腊,于是智深坐化于六和,宋江服毒而自尽,累显灵应,终为神明。惟文词蹇拙,体制纷纭,中间诗歌,亦多鄙俗,甚似草创初就,未加润色者,虽非原本。盖近之矣。其记林冲以忤高俅断配沧州,看守大军草场,于大雪中出危屋觅酒云:




……却说林冲安下行李,看那四下里都崩坏了,自思曰:“这屋如何过得一冬,待雪晴了叫泥水匠来修理。”在土炕边向了一回火,觉得身上寒冷,寻思:“却才老军说 五里路外有市井 ,何不去沽些酒来吃?”便把花枪挑了酒葫芦出来,信步投东,不上半里路,看见一所古庙,林冲拜曰:“愿神明保祐,改日来烧纸。”却又行一里,见一簇店家,林冲径到店里。店家曰:“客人那里来?”林冲曰:“你不认得这个葫芦?”店家曰:“这是草场老军的。既是大哥来此,请坐,先待一席以作接风之礼。”林冲吃了一回,却买一腿牛肉,一葫芦酒,把花枪挑了便回,已晚,奔到草场看时,只叫得苦。原来天理昭然,庇护忠臣义士,这场大雪,救了林冲性命:那两间草厅,已被雪压倒了。…… 第九回《豹子头刺陆谦富安》 




又有一百十回之《忠义水浒传》,亦《英雄谱》本,“内容与百十五回本略同” 《胡适文存》三 。别有一百二十四回之《水浒传》,文词脱略,往往难读,亦此类。


二曰一百回本《忠义水浒传》。前署“钱塘施耐庵的本,罗贯中编次” 《百川书志》六 。即明嘉靖时武定侯郭勋家所传之本,“前有汪太函序,托名天都外臣者” 《野获编》五 。今未见,别有本亦一百回,有李贽序及批点,殆即出郭氏本,而改题为“施耐庵集撰,罗贯中纂修”。然今亦难得,惟日本尚有享保戊申 一七二八 翻刻之前十回及宝历九年 一七五九 续翻之十一至二十回,亦始于误走妖魔而继以鲁达林冲事迹,与百十五回本同;第五回于鲁达有“直教名驰塞北三千里,证果江南第一州”之语,即指六和坐化故事,则结束当亦无异。惟于文辞,乃大有增删,几乎改观,除去恶诗,增益骈语;描写亦愈入细微,如述林冲雪中行沽一节,即多于百十五回本者至一倍余:




……只说林冲就床上放了包裹被卧,就坐下生些焰火起来,屋边有一堆柴炭,拿几块来生在地炉里;仰面看那草屋时,四下里崩坏了,又被朔风吹撼摇振得动。林冲道:“这屋如何过得一冬,待雪晴了,去城中唤个泥水匠来修理。”向了一回火,觉得身上寒冷,寻思:“却才老军所说五里路外有那市井,何不去沽些酒来吃?”便去包里取些碎银子,把花枪挑了酒葫芦,将火炭盖了,取毡笠子戴上,拿了钥匙出来,把草厅门拽上,出到大门首,把两扇草场门反拽上,锁了,带了钥匙,信步投东,雪地里踏着碎琼乱玉,迤里背着北风而行,——那雪正下得紧。行不上半里多路,看见一所古庙,林冲顶礼道:“神明庇佑,改日来烧钱纸。”又行了一回,望见一簇人家,林冲住脚看时,见篱笆中挑着一个草帚儿在露天里。林冲径到店里;主人道:“客人那里来?”林冲道:“你认得这个葫芦么?”主人看了,道:“这葫芦是草料场老军的。”林冲道:“如何?便认的。”店主道:“既是草料场看守大哥,且请少坐,天气寒冷,且酌三杯权当接风。”店家切一盘熟牛肉,烫一壶热酒,请林冲。又自买了些牛肉,又吃了数杯,就又买了一葫芦酒,包了那两块牛肉,留下些碎银子,把花枪挑了酒葫芦,怀内揣了牛肉,叫声“相扰”,便出篱笆门,依旧迎着朔风回来。看那雪,到晚越下的紧了。古时有个书生,做了一个词,单题那贫苦的恨雪:


广莫严风刮地,这雪儿下的正好,拈絮挦绵,裁几片大如栲栳,见林间竹屋茅茨,争些儿被他压倒。富室豪家,却道是“压瘴犹嫌少”,向的是兽炭红炉,穿的是棉衣絮袄,手拈梅花,唱道“国家祥瑞”,不念贫民些小。高卧有幽人,吟咏多诗草。


再说林冲踏着那瑞雪,迎着北风,飞也似奔到草场门口,开了锁,入内看时,只叫得苦。原来天理昭然,佑护善人义士,因这场大雪,救了林冲的性命:那两间草厅,已被雪压倒了。…… 第十回《林教头风雪山神庙》 




三曰一百二十回本《忠义水浒全书》。亦题“施耐庵集撰,罗贯中纂修”,与李贽序百回本同。首有楚人杨定见序,自云事李卓吾,因袁无涯之请而刻此传;次发凡十条;次为《宣和遗事》中之梁山泺本末及百八人籍贯出身。全书自首至受招安,事略全同百十五回本,破辽小异,且少诗词,平田虎王庆则并事略亦异,而收方腊又悉同。文词与百回本几无别,特于字句稍有更定,如百回本中“林冲道:‘如何?便认的。’”此则作“林冲道:‘原来如此。’”诗词又较多,则为刊时增入,故发凡云“旧本去诗词之烦芜,一虑事绪之断,一虑眼路之迷,颇直截清明,第有得此以形容人态,颇挫文情者,又未可尽除,兹复为增定,或撺原本而进所有,或逆古意而益所无,惟周劝惩,兼善戏谑”也。亦有李贽评,与百回本不同,而两皆弇陋,盖即叶昼辈所伪托 详见《书影》一 。


发凡又云:“古本有罗氏致语,相传灯花婆婆等事,既不可复见,乃后人有因‘四大寇’之拘而酌损之者,有嫌一百二十回之繁而淘汰之者,皆失。郭武定本即旧本移置阎婆事,甚善,其于寇中去王田而加辽国,犹是小家照应之法,不知大手笔者正不尔尔。”是知《水浒》有古本百回,当时“既不可复见”;又有旧本,似百二十回,中有“四大寇”,盖谓王田方及宋江,即柴进见于白屏风上御书者 见百十五回本之六十七回及《水浒全书》七十二回 。郭氏本始破其拘,削王田而加辽国,成百回;《水浒全书》又增王田,仍存辽国,复为百廿回,而宋江乃始退居于四寇之外。然《宣和遗事》所谓“三路之寇”者,实指攻夺淮阳京西河北三路强人,皆宋江属,不知何人误读,遂以王庆田虎辈当之。然破辽故事虑亦非始作于明,宋代外敌凭陵,国政驰废,转思草泽,盖亦人情,故或造野语以自慰,复多异说,不能合符,于是后之小说,既以取舍不同而纷歧,所取者又以话本非一而违异,田虎王庆在百回本与百十七回本名同而文迥别,殆亦由此而已。惟其后讨平方腊,则各本悉同,因疑在郭本所据旧本之前,当又有别本,即以平方腊接招安之后,如《宣和遗事》所记者,于事理始为密合,然而证信尚缺,未能定也。


总上五本观之,知现存之《水浒传》实有两种,其一简略,其一繁缛。胡应鳞 《笔丛》四十一 云:“余二十年前所见《水浒传》本尚极足寻味,十数载来,为闽中坊贾刊落,止录事实,中间游词余韵神情寄寓处一概删之,遂既不堪覆瓿,复数十年,无原本印证,此书将永废。”应麟所见本,今莫知如何,若百十五回简本,则成就殆当先于繁本,以其用字造句,与繁本每有差违,倘是删存,无烦改作也。又简本撰人,止题罗贯中,周亮工闻于故老者亦第云罗氏,比郭氏本出,始着耐庵,因疑施乃演为繁本者之托名,当是后起,非古本所有。后人见繁本题施作罗编,未及悟其依托,遂或意为敷衍,定耐庵与贯中同籍,为钱塘人 明高儒《百川书志》六 ,且是其师。胡应麟 《笔丛》四十一 亦信所见《水浒传》小序,谓耐庵“尝入市肆阅故书,于敝楮中得宋张叔夜禽贼招语一通,备悉其一百八人所由起,因润饰成此编”。且云“施某事见田叔禾《西湖志余》”,而《志余》中实无有,盖误记也。近吴梅著《顾曲麈谈》,云:“《幽闺记》为施君美作。君美,名惠,即作《水浒传》之耐庵居士也。”案惠亦杭州人,然其为耐庵居士,则不知本于何书,故亦未可轻信矣。


四曰七十回本《水浒传》。正传七十回楔子一回,实七十一回,有原序一篇,题“东都施耐庵撰”,为金人瑞字圣叹所传,自云得古本,止七十回,于宋江受天书之后,即以卢俊义梦全伙被缚于张叔夜终,而指招安以下为罗贯中续成,斥曰“恶札”。其书与百二十回本之前七十回无甚异,惟刊去骈语特多,百廿回本发凡有“旧本去诗词之繁累”语,颇似圣叹真得古本,然文中有因删去诗词,而语气遂稍参差者,则所据殆仍是百回本耳。周亮工 《书影》一 记《水浒传》云:“近金圣叹自七十回之后,断为罗所续,因极口诋罗,复伪为施序于前,此书遂为施有矣。”二人生同时,其说当可信。惟字句亦小有佳处,如第五回叙鲁智深诘责瓦官寺僧一节云:




……智深走到面前,那和尚吃了一惊,跳起身来,便道:“请师兄坐,同吃一盏。”智深提着禅杖道:“你这两个,如何把寺来废了?”那和尚便道:“师兄请坐,听小僧……”智深睁着眼道:“你说你说”……说:“在先敝寺,十分好个去处,田庄又广,僧众极多,只被廊下那几个老和尚吃酒撒泼,将钱养女,长老禁约他们不得,又把长老排告了出去,因此把寺来都废了。……”




圣叹于“听小僧……”下注云“其语未毕”,于“……说”下又多所申释,而终以“章法奇绝从古未有”誉之,疑此等“奇绝”,正圣叹所为,其批改《西厢记》亦如此。此文在百回本,为“那和尚便道:‘师兄请坐,听小僧说。’智深睁着眼道:‘你说你说!’那和尚道:‘在先敝寺,十分好个去处,田庄广有,僧众极多……’”云云,在百十五回本,则并无智深睁眼之文,但云“那和尚曰:‘师兄听小僧说:在先敝寺,田庄广有,僧众也多……’”而已。


至于刊落之由,什九常因于世变,胡适  《文存》三 说:“圣叹生在流贼遍天下的时代,眼见张献忠李自成一班强盗流毒全国,故他觉得强盗是不能提倡的,是应该口诛笔伐的。”故至清,则世异情迁,遂复有以为“虽始行不端,而能翻然悔悟,改弦易辙,以善其修,斯其意固可嘉,而其功诚不可泯者”者,截取百十五回本之六十七回至结末,称《后水浒》,一名《荡平四大寇传》,附刊七十回之后以行矣。其卷首有乾隆壬子 一七九二 赏心居士序。


清初,有《后水浒传》四十回,云是“古宋遗民著,雁宕山樵评”,盖以续百回本。其书言宋江既死,余人尚为宋御金,然无功,李俊遂率众浮海,王于暹罗,结末颇似杜光庭之《虬髯传》。古宋遗民者,本书卷首《论略》云“不知何许人,以时考之,当去施罗未远,或与之同时,不相为下,亦未可知”。然实乃陈忱之托名;忱字遐心,浙江乌程人,生平著作并佚,惟此书存,为明末遗民 《两浙轩录》补遗一,《光绪嘉兴府志》五十三 ,故虽游戏之作,亦见避地之意矣。然至道光中,有山阴俞万春作《结水浒传》七十回,结子一回,亦名《荡寇志》,则立意正相反,使山泊首领,非死即诛,专明“当年宋江并没有受招安平方腊的话,只有被张叔夜擒拿正法一句话”,以结七十回本。俞万春字仲华,别号忽来道人,尝随其父宦粤。瑶民之变,从征有功议叙,后行医于杭州,晚年乃奉道释,道光己酉 一八四九 卒。《荡寇志》之作,始于丙戌而迄于丁未,首尾凡二十二年,“未遑修饰而殁”,咸丰元年 一八五一 ,其子龙光始修润而刻之 本书识语 。书中造事行文,有时几欲摩前传之垒,采录景象,亦颇有施罗所未试者,在纠缠旧作之同类小说中,盖差为佼佼者矣。


此外讲史之属,为数尚多。明已有荒古虞夏 周游《开辟演义》钟惺《开辟唐虞传》及《有夏志传》 ,东西周 《东周列国志》《西周志》《四友传》 ,两汉 袁宏道评《两宋演义传》 ,两晋 《西晋演义》《东晋演义》 ,唐 熊钟谷《唐书演义》 ,宋 尺蠖斋评释《两宋志传》 诸史事平话,清以来亦不绝,且或总揽全史 《二十四史通俗演义》 ,或订补旧文 两汉两晋隋唐等 ,然大抵效《三国志演义》而不及,虽其上者,亦复拘牵史实,袭用陈言,故既拙于措辞,又颇惮于叙事,蔡奡《东周列国志读法》云:“若说是正经书,却毕竟是小说样子,……但要说他是小说,他却件件从经传上来。”本以美之,而讲史之病亦在此。


至于叙一时故事而特置重于一人或数人者,据《梦粱录》 二十 讲史条下云:“有王六大夫,于咸淳年间敷衍《复华篇》及《中兴名将传》,听者纷纷。”则亦当隶于讲史。《水浒传》即其一,后出者尤夥。较显者有《皇明英烈传》一名《云合奇踪》,武定侯郭勋家所传,记明开国武烈,而特扬其先祖郭英之功;后有《真英烈传》,则反其事而詈之。有《宋武穆王演义》,熊大本编,有《岳王传演义》,余应鳌编,又有《精忠全传》,邹元标编,皆记宋岳飞功绩及冤狱;后有《说岳全传》,则就其事而演之。清有《女仙外史》,作者吕熊 刘廷玑《在园杂志》云 ,述青州唐赛儿之乱;有《梼杌闲评》,无作者名,记魏忠贤客氏之恶。其于武勇,则有叙唐之薛家 《征东征西全传》 ,宋之杨家 《杨家将全传》 及狄青辈 《五虎平西平南传》 者,文意并拙,然盛行于里巷间。其他托名故实,而借以腾谤报怨之作亦多,今不复道。

【第十五篇 元明伝来の講史(下)】

『水滸』の故事もまた南宋以来流行の伝説にして、宋江もまた実にその人あり。『宋史』(二十二)に載す、徽宗宣和三年「淮南の盗、宋江等、淮陽軍を犯す。将を遣わして討捕し、また京東・江北を犯し、楚の海州界に入る。知州張叔夜に命じてこれを招降せしむ」と。降りし後の事は則ち史に文なし。而して稗史は乃ち「方臘を収むるに功あり、節度使に封ぜらる」と云う(十三篇を見よ)。然れども方臘を擒えし者は蓋し韓世忠にして(『宋史』本伝)、宋江の輩とは与かりなし。

然るに宋江等が梁山泊に嘯聚する時、その勢は実に甚だ盛んにして、『宋史』もまた「十郡を転略し、官軍は敢えてその鋒を撄うなし」と云う。ここにおいて自ずから奇聞異説あり民間に生じ、輾転繁変して以て故事を成す。宋の遺民龔聖與は『宋江三十六人賛』を作り、自序に已に「宋江の事は街談巷語に見え、採著するに足らず。高如・李嵩の輩が伝写すると雖も、士大夫もまた見て黜けず」と云う(周密『癸辛雑識』続集上)。

原本の『水滸伝』は今得べからず。現存の『水滸伝』には知る者六本あり、而して最も要なる者四つ。一に曰く百十五回本『忠義水滸伝』。前に「東原羅貫中編輯す」と署す。二に曰く百回本『忠義水滸伝』。前に「銭唐施耐庵的本、羅貫中編次す」と署す。三に曰く百二十回本『忠義水滸全書』。また「施耐庵集撰、羅貫中纂修す」と題す。四に曰く七十回本『水滸伝』。正伝七十回、楔子一回にして実に七十一回。金人瑞(字は聖嘆)の伝えるところにして、自ら古本を得たりと云い、七十回に止まる。

総じてこの五本を観るに、現存の『水滸伝』には実に二種あるを知る。その一は簡略にして、その一は繁縟なり。簡本は百十五回にして成就は殆ど繁本に先んず。繁本の文辞は更に精緻にして人物の描写は愈々細微に入る。

この外に講史の属は数なお多し。明には荒古虞夏より東西周・両漢・両晋・唐・宋に至る諸史事の平話あり、清以来もまた絶えず。然れども大抵『三国志演義』に効いて及ばず。蔡奡の『東周列国志読法』に云う、「もし正経の書と言えば、却って畢竟小説の様子にして……しかし小説と言おうとすれば、彼は件件経伝の上より来たる」と。本よりこれを美するも、而して講史の病もまたここにあり。

第33節

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【第十六篇 明之神魔小说(上)】




奉道流羽客之隆重,极于宋宣和时,元虽归佛,亦甚崇道,其幻惑故遍行于人间,明初稍衰,比中叶而复极显赫,成化时有方士李孜,释继晓,正德时有色目人于永,皆以方伎杂流拜官,荣华熠耀,世所企羡,则妖妄之说自盛,而影响且及于文章。且历来三教之争,都无解决,互相容受,乃曰“同源”,所谓义利邪正善恶是非真妄诸端,皆混而又析之,统于二元,虽无专名,谓之神魔,盖可赅括矣。其在小说,则明初之《平妖传》已开其先,而继起之作尤夥。凡所敷叙,又非宋以来道士造作之谈,但为人民闾巷间意,芜杂浅陋,率无可观。然其力之及于人心者甚大,又或有文人起而结集润色之,则亦为鸿篇巨制之胚胎也。


汇此等小说成集者,今有《西游记》行于世,其书凡四种,著者三人,不知何人编定,惟观刻本之状,当在明代耳。一曰《上洞八仙传》,亦名《八仙出处东游记传》,二卷五十六回,题“兰江吴元泰著”。传言铁拐 姓李名玄 得道,度钟离权,权度吕洞宾,二人又共度韩湘曹友,张果蓝采和何仙姑则别成道,是为八仙。一日俱赴蟠桃大会,归途各履宝物渡海,有龙子爱蓝采和所踏玉版,摄而夺之,遂大战,八仙“火烧东洋”,龙王败绩,请天兵来助,亦败,后得观音和解,乃各谢去,而“天渊迥别天下太平”之候,自此始矣。书中文言俗语间出,事亦往往不相属,盖杂取民间传说作之。


二曰《五显灵官大帝华光天王传》,即《南游记》,四卷十八回,题“三台山人仰止余象斗编”。象斗为明末书贾,《三国志演义》刻本上,尚见其名。书言有妙吉祥童子以杀独火鬼忤如来,贬为马耳娘娘子,是曰三眼灵光,具五神通,报父仇,游灵虚,缘盗金枪,为帝所杀;复生炎魔天王家,是为灵耀,师事天尊,又诈取其金刀,炼为金砖以作法宝,终闹天宫,上界鼎沸;玄天上帝以水服之,使走人间,托生萧氏,是为华光,仍有神通,与神魔战,中界亦鼎沸,帝乃赦之。华光因失金砖,复欲制炼,寻求金塔,遂遇铁扇公主,擒以为妻,又降诸妖,所向无敌,以忆其母,访于地府,复因争执,大闹阴司,下界亦鼎沸。已而知生母实妖也,名吉芝陀圣母,食萧长者妻,幻作其状,而生华光,然仍食人,为佛所执,方在地狱,受恶报也,华光乃救以去。




……却说华光三下酆都,救得母亲出来,十分欢悦。那吉芝陀圣母曰:“我儿你救得我出来,道好,我要讨岐娥吃。”华光问:“岐娥是甚么子,我儿媳俱不晓得。”母曰:“岐娥不晓得,可去问千里眼顺风耳。”华光即问二人。二人曰:“那岐娥是人,他又思量吃人。”华光听罢,对娘曰:“娘,你住酆都受苦,我孩儿用尽计较,救得你出来,如何又要吃人,此事万不可为。”母曰:“我要吃!不孝子,你没有岐娥与我吃,是谁要救我出来?”华光无奈,只推曰:“容两日讨与你吃。”…… 第十七回《华光三下酆都》 




于是张榜求医,有言惟仙桃可治者,华光即幻为齐天大圣状,窃而奉之,吉芝陀乃始不思食人。然齐天被嫌,询于佛母,知是华光,则来讨,为火丹所烧,败绩;其女月孛有骷髅骨,击之敌头即痛,二日死。华光被术,将不起,火炎王光佛出而议和,月孛削骨上击痕,华光始愈,终归佛道云。


明谢肇淛 《五杂组》十五 以华光小说比拟《西游记》,谓“皆五行生克之理,火之炽也,亦上天下地,莫之扑灭,而真武以水制之,始归正道”。又于吉芝陀出狱即思食人事,则致慨于迁善之难,因知在万历时,此书已有。沈德符论剧曲 《野获编》二十五 ,亦有“华光显圣则太妖诞”语,是此种故事,当时且演为剧本矣。


其三曰《北方真武玄天上帝出身志传》,即《北游记》,四卷二十四回,亦余象斗编,记真武本身及成道降妖事。上帝为玄天之说,在汉已有 《周礼·大宗伯》郑氏注 。然与后来之玄帝,实又不同。此玄帝真武者,盖起于宋代羽客之言,即《元洞玉历记》 《三教搜神大全》 一引 所谓元始说法于玉清,下见恶风弥塞,乃命周武伐纣以治阳,玄帝收魔以治阴,“上赐玄帝披发跣足,金甲玄袍,皂纛玄旗,统领丁甲,下降凡世,与六天魔王战于洞阴之野,是时魔王以坎离二炁,化苍龟巨蛇,变现方成,玄帝神力摄于足下,锁鬼众于酆都大洞,人民治安,字内清肃”者是也,元尝加封,明亦崇奉。此传所言,间符旧说,但亦时窃佛传,杂以鄙言,盛夸感应,如村巫庙祝之见。初谓隋炀帝时,玉帝当宴会之际,而忽思凡,遂以三魂之一,为刘氏子,如来三清并来点化,乃隐蓬莱;又以凡心,生哥阇国,次生西霞,皆是王子,蒙天尊教,舍国出家,功行既完,上谒玉帝,封荡魔天尊,令收天将;于是复生为净洛国王子,得斗母元君点化,入武当山成道。玄帝方升天宫,忽见妖气起于中界,知即天将,扰乱人间,乃复下凡,降龟蛇怪,服赵公明,收雷神,获月孛及他神将,引以朝天。玉帝即封诸神为玄天部将,计三十六员。然扬子江有锅及竹缆二妖,独逸去不可得,真武因指一化身,复入人世,于武当山镇守之。篇末则记永乐三年玄天助国却敌事,而下有“至今二百余载”之文,颇似此书流行,当在明季,然旧刻无后一语,可知有者乃后来增订之本矣。


四曰《西游记传》,四卷四十一回,“题齐云杨志和编,天水赵景真校”,叙孙悟空得道,唐太宗入冥,玄奘应诏求经,途中遇难,终达西土,得经东归者也。太宗之梦,唐人已言,张《朝野佥载》云:“太宗至夜半奄然入定,见一人云:‘陛下暂合来,还即去也。’帝问:‘君是何人?’对曰:‘臣是生人判冥事。’太宗入见判官,问六月四日事,即令还,向见者又送迎引导出。”又有俗文,亦记斯事,有残卷从敦煌千佛洞得之 详见第十二篇 。至玄奘入竺,实非应诏,事具《唐书》 百九十一《方伎传》 ,又有专传曰《大慈恩寺三藏法师传》,在《佛藏》中,初无诸奇诡事,而后来稗说,颇涉灵怪。《大唐三藏取经诗话》已有猴行者深沙神及诸异境;金人院本亦有《唐三藏》 陶宗仪《辍耕录》 ;元杂剧有吴昌龄《唐三藏西天取经》 钟嗣成《录鬼簿》 ,一名《西游记》 今有日本盐谷温校印本 ,其中收孙悟空,加戒箍,沙僧,猪八戒,红孩儿,铁扇公主等皆已见。似取经故事,自唐末以至宋元,乃渐渐演成神异,且能有条贯,小说家因亦得取为记传也。


全书之前九回为孙悟空得仙至被降故事,言有石猴,寻得水源,众奉为王,而复出山,就师悟道,以大神通,搅乱天地,玉帝不得已,封为齐天大圣,复扰蟠桃大会,帝命灌口二郎真君讨之,遂大战,悟空为所获,其叙当时战斗变化之状云:




……那小猴见真君到,急急报知猴王。猴王即掣起金箍棒,步上云履。二人相见,各言姓名,遂排开阵势,来往三百余合。二人各变身万丈,战入云端,离却洞口。……大圣正在开战,忽见本山众猴惊散,抽身就走;真君大步赶上,急走急追。大圣慌忙将身一变,入水中,真君道:“这猴入水必变鱼虾,待我变作鹰鹞逐他。”大圣见真君赶来,又变一群,飞在树上,被真君拽弓一弹,打下草坡,遍寻不见,回转天王营中去说猴王败阵等事,又赶不见踪迹。天王把照妖镜一照,急云“妖猴往你灌口去了”。真君回灌口;猴王急变做真君模样,座在中堂,被二郎用一神枪,猴王让过,变出本相,二人对较手段,意欲回转花果山,奈四面天将围住念咒。忽然真君与菩萨在云端观看,见猴王精力将疲,老君掷下金刚圈,与猴王脑上一打。猴王跌倒在地,被真君神犬咬住胸肚子,又拖跌一交,却被真君兄弟等神枪刺住,把铁索绑缚。…… 第七回《真君收捉猴王》 




然斫之无伤,炼之不死,如来乃压之五行山下,令待取经人。次四回即魏征斩龙,太宗入冥,刘全进瓜,及玄奘应诏西行:为求经之所由起。十四回以下则玄奘道中收徒及遇难故事,而以见佛得经东归证果终。徒有三,曰孙行者,猪八戒,沙僧,并得龙马;灾难三十余,其大者五庄观,平顶山,火云洞,通天河,毒敌山,六耳猕猴,小雷音寺等也。凡所记述,简略者多,但亦偶杂游词,以增笑乐,如写火云洞之战云:




……那山前山后土地,皆来叩头报名:“此处叫做枯松涧,涧边有一座山洞,叫做火云洞,洞有一位魔王,是牛魔王的儿子,叫做红孩儿。他有三昧真火,甚是利害。”行者听说,叱退土神,……与八戒同进洞中去寻,……那魔王分付小妖,推出五轮小车,摆下五方,遂提枪杀出,与行者战经数合,八戒助阵,魔王走转,把鼻子一捶,鼻中冒出火来,一时五轮车子,烈火齐起。八戒道:“哥哥快走!少刻把老猪烧得囫囵,再加香料,尽他受用。”行者虽然避得火烧,却只怕烟,二人只得逃转。…… 第三十二回《唐三藏收妖过黑河》 




复请观世音至,化刀为莲台,诱而执之,既降复叛,则环以五金箍,洒以甘露,乃始两手相合,归落伽山云。《西游记》杂剧中《鬼母皈依》一出,即用揭钵盂救幼子故事者,其中有云:“告世尊,肯发慈悲力。我着唐三藏西游便回,火孩儿妖怪放生了他。到前面,须得二圣郎救了你。” 卷三 而于此乃改为牛魔王子,且与参善知识之善才童子相混矣。

【第十六篇 明の神魔小説(上)】

道流羽客を奉崇すること隆盛を極めたるは宋の宣和の時にして、元は仏に帰すと雖もまた甚だ道を崇び、その幻惑は故に遍く人間に行われた。明の初めにはやや衰えしも、中葉に比びて復た極めて顕赫となる。成化の時に方士の李孜あり、釈の継暁あり、正徳の時に色目人の于永あり、皆、方伎雑流を以て官を拝す。栄華は熠耀として世の企羨するところなれば、則ち妖妄の説は自ずから盛んにして、影響はかつ文章に及ぶ。かつ歴来三教の争いは都て解決なく、互いに容受し、乃ち「同源」と曰う。所謂、義利・邪正・善悪・是非・真妄の諸端は、皆これを混じてまた析き、二元に統ぶ。専名なしと雖も、これを神魔と謂えば、蓋し赅括すべし。その小説に在りては、則ち明初の『平妖伝』已にその先を開き、而して継起の作は尤も夥し。凡そ敷叙するところは、また宋以来の道士の造作の談にあらず。ただ人民閭巷間の意にして、蕪雑浅陋にして率ね観るべきなし。然れどもその力の人心に及ぶ者は甚だ大にして、またあるいは文人が起りて結集し潤色すれば、則ちまた鴻篇巨制の胚胎と為るなり。

この等の小説を彙して集と成す者は、今『西遊記』あり世に行わる。その書は凡そ四種にして著者は三人なり。何人の編定なるかを知らず。ただ刻本の状を観れば、当に明代にあるべし。一に曰く『上洞八仙伝』、また『八仙出処東遊記伝』と名づく。二巻五十六回にして「蘭江呉元泰著」と題す。伝に言う、鉄拐は道を得て鍾離権を度す。権は呂洞賓を度し、二人はまた共に韓湘・曹友を度す。張果・藍采和・何仙姑は則ち別に道を成す。これを八仙と為す。

二に曰く『五顕霊官大帝華光天王伝』、即ち『南遊記』。四巻十八回にして「三台山人仰止余象斗編」と題す。書に言う、妙吉祥童子あり独火鬼を殺すを以て如来に忤い、貶されて馬耳娘娘の子と為る。これを三眼霊光と曰い五神通を具え、父の仇を報ず。終に天宮を騒がし上界は鼎沸す。玄天上帝は水を以てこれを服す。

その三に曰く『北方真武玄天上帝出身志伝』、即ち『北遊記』。四巻二十四回にしてまた余象斗の編なり。真武の本身及び成道降妖の事を記す。

四に曰く『西遊記伝』。四巻四十一回にして「斉雲楊志和編、天水趙景真校」と題す。孫悟空が道を得、唐の太宗が冥に入り、玄奘が諸に応じて経を求め、途中に難に遇い、終に西土に達し、経を得て東帰する者を叙す。全書の前九回は孫悟空が仙を得より降されるまでの故事にして、石猴あり水源を見出し衆はこれを奉じて王と為す。大神通を以て天地を攪乱し、玉帝は已むを得ず斉天大聖に封ず。復た蟠桃大会を擾し、灌口の二郎真君と大いに戦い、悟空は獲えらるるところと為る。然れども斫れども傷なく煉れども死せず。如来は乃ちこれを五行山の下に圧し取経の人を待たしむ。次の四回は魏徴の龍を斬り太宗の冥に入り及び玄奘の西行なり。十四回以下は道中にて徒を収め難に遇う故事にして仏に見え経を得て東帰し証果するを以て終わる。

第34節

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【第二十篇 明之人情小说(下)】




《金瓶梅》、《玉娇李》等既为世所艳称,学步者纷起,而一面又生异流,人物事状皆不同,惟书名尚多蹈袭,如《玉娇梨》、《平山冷燕》等皆是也。至所叙述,则大率才子佳人之事,而以文雅风流缀其间,功名遇合为之主,始或乖违,终多如意,故当时或亦称为“佳话”。察其意旨,每有与唐人传奇近似者,而又不相关,盖缘所述人物,多为才人,故时代虽殊,事迹辄类,因而偶合,非必出于仿效矣。《玉娇梨》、《平山冷燕》有法文译,又有名《好逑传》者则有法、德文译,故在外国特有名,远过于其在中国。


《玉娇梨》今或改题《双美奇缘》,无撰人名氏。全书仅二十回,叙明正统间有太常卿白玄者,无子,晚年得一女曰红玉,甚有文才,以代父作菊花诗为客所知,御史杨廷诏因求为子杨芳妇,玄招芳至家,属妻弟翰林吴珪试之。




……吴翰林陪杨芳在轩子边立着。杨芳抬头,忽见上面横着一个扁额,题的是“弗告轩”三字。杨芳自恃认得这三个字,便只管注目而视。吴翰林见杨芳细看,便说道:“此三字乃是聘君吴与弼所书,点画遒劲,可称名笔。”杨芳要卖弄识字,因答道:“果是名笔,这轩字也还平常,这弗告二字写得入神。”却将告字读了去声,不知弗告二字,盖取《诗经》上“弗谖弗告”之义,这“告”字当读与“谷”字同音。吴翰林听了,心下明白,便模糊答应。…… 第二回 




白玄遂不允。杨以为怨,乃荐玄赴乜先营中迎上皇,玄托其女于吴翰林而去。吴珪即挈红玉归金陵,偶见苏友白题壁诗,爱其才,欲以红玉嫁之。友白误相新妇,竟不从。珪怒,嘱学官革友白秀才,学官方踌蹰,而白玄还朝加官归乡之报适至,即依黜之。友白被革,将入京就其叔,于道中见数少年苦吟,乃方和白红玉新柳诗;谓有能步韵者,即嫁之也。友白亦和两首,而张轨如遽窃以献白玄,玄留之为西宾。已而有苏有德者,又冒为友白,请婚于白氏,席上见张,互相攻讦,俱败。友白见红玉新柳诗,慕之,遂渡江而北,欲托吴珪求婚;途次遇盗,暂舍于李氏,偶遇一少年曰卢梦梨,甚服友白之才,因以其妹之终身相托。友白遂入京以监生应试,中第二名;再访卢,则已以避祸远徙,乃大失望。不知卢实白红玉之中表,已先赴金陵依白氏也。白玄难于得婿,易姓名游山阴,于禹迹寺见一少年姓柳,才识非常,次日往访,即字以已女及甥女,归而说其故云:




……“……忽遇一个少年,姓柳,也是金陵人。他人物风流,真个是‘谢家玉树’。…… 我看他神清骨秀,学博才高,旦暮间便当飞腾翰苑。……意欲将红玉嫁他,又恐甥女说我偏心;欲要配了甥女,又恐红玉说我矫情。除了柳生,若要再寻一个,却万万不能。我想娥皇、女英同事一舜,古圣人已有行之者;我又见你姊妹二人互相爱慕,不啻良友,我也不忍分开:故当面一口就都许他了。这件事我做得甚是快意。”…… 第十九回 




而二女皆慕友白,闻之甚怏怏。已而柳至白氏,自言实苏友白,盖尔时亦变姓名游山阴也。玄亦告以真姓名,皆大惊喜出意外,遂成婚。而卢梦梨实女子,其先乃改装自托于友白者云。


《平山冷燕》亦二十回,题云“荻岸山人编次”。清盛百二 《柚堂续笔谈》 以为嘉兴张博山十四五时作,其父执某续成之。博山名劭,清康熙时人,“少有成童之目,九龄作《梅花赋》惊其师” 阮元《两浙轩录》七引李方湛语 。盖早慧,故世人并以此书附著于彼,然文意陈腐,殊不类童子所为。书叙“先朝”隆盛时事,而又不云何时作,故亦莫详“先朝”为何帝也。其时钦天监正堂官奏奎壁流光,散满天下,天子则大悦,诏求真才,又适见白燕盘旋,乃命百官赋白燕诗,众谢不能,大学士山显仁乃献其女山黛之作,诗云:


夕阳凭吊素心稀,遁入梨花无是非,淡去羞从鸦借色,瘦来只许雪添肥,飞回夜黑还留影,衔尽春红不涴衣,多少朱门夸富贵,终能容我洁身归。 第一回 




天子即召见,令献箴,称旨,赐玉尺一条,“以此量天下之才”;金如意一执,“文可以指挥翰墨,武可以扞御强暴,长成择婿,有妄人强求,即以此击其首,击死勿论”;又赐御书扁额一方曰“弘文才女”。时黛方十岁;其父筑楼以贮玉尺,谓之玉尺楼,亦即为黛读书之所,于是才女之名大著,求诗文者云集矣。后黛以诗嘲一贵介子弟,被怨,托人诬以诗文皆非己出,又奉旨令文臣赴玉尺楼与黛较试,文臣不能及,诬者获罪则而黛之名益扬。其时又有村女冷绛雪者,亦幼即能诗,忤山人宋信,信以计陷之,俾官买送山氏为侍婢。绛雪于道中题诗而遇洛阳才人平如衡,然指顾间又相失;既至山氏,自显其才,则大得敬爱,且亦以题诗为天子所知也。平如衡至云间访才士,得燕白颔,家世富贵而有大才,能诗。长官俱荐于朝,二人不欲以荐举出身,乃皆入都应试,且改姓名求见山黛。黛早见其讥刺诗,因与绛雪易装为青衣,试以诗,唱和再三,二人竟屈,辞去。又有张寅者,亦以求婚至山氏,受试于玉尺楼下,张不能文,大受愚弄,复因奔突登楼,几被如意击死,至拜祷始免。张乃嘱礼官奏于朝,谓黛与少年唱和调笑,有伤风化。天子即拘讯;张又告发二人实平、燕托名,而适榜发,平中会元,燕会魁。于是天子大喜,谕山显仁择之为婿,遂以山黛嫁燕白颔,冷绛雪嫁平如衡。成婚之日,凡事无不美满:




……二女上轿,随妆侍妾足有上百,一路火炮与鼓乐喧天,彩旗共花灯夺目,真个是天子赐婚,宰相嫁女,状元探花娶妻:一时富贵,占尽人间之盛。……若非真正有才,安能如此?至今京城中俱传平、山、冷、燕为四才子;闲窗阅史,不胜欣慕而为之立传云。 第二十回 




二书大旨,皆显扬女子,颂其异能,又颇薄制艺而尚词华,重俊髦而嗤俗士,然所谓才者,惟在能诗,所举佳篇,复多鄙倍,如乡曲学究之为;又凡求偶必经考试,成婚待于诏旨,则当时科举思想之所牢笼,倘作者无不羁之才,固不能冲决而高翥矣。


《好逑传》十八回,一名《侠义风月传》,题云“名教中人编次”。其立意亦略如前二书,惟文辞较佳,人物之性格亦稍异,所谓“既美且才,美而又侠”者也。书言有秀才铁中玉者,北直隶大名府人,




……生得丰姿俊秀,就象一个美人,因此里中起个诨名,叫做“铁美人”。若论他人品秀美,性格就该温存。不料他人虽生得秀美,性子就似生铁一般,十分执拗;又有几分膂力,动不动就要使气动粗;等闲也不轻易见他言笑。……更有一段好处,人若缓急求他,……慨然周济;若是谀言谄媚;指望邀惠,他却只当不曾听见:所以人都感激他,又都不敢无故亲近他。…… 第一回 




其父铁英为御史,中玉虑以鲠直得祸,入都谏之。会大夬侯沙利夺韩愿妻,即施智计夺以还愿,大得义侠之称。然中玉亦惧祸,不敢留都,乃至山东游学。历城退职兵部侍郎水居一有一女曰冰心,甚美,而才识胜男子。同县有过其祖者,大学士之子,强来求婚,水居一不敢拒,然以侄女易冰心嫁之,婚后始觉,其祖大恨,计陷居一,复百方图女,而冰心皆以智免。过其祖又托县令假传朝旨逼冰心,而中玉适在历城,遇之,斥其伪,计又败。冰心因此甚服铁中玉,当中玉暴病,乃邀寓其家护视,历五日始去。此后过其祖仍再三图娶冰心,皆不得。而中玉卒与冰心成婚,然不合卺,已而过学士托御史万谔奏二氏婚媾,先以“孤男寡女,共处一室,不无暧昧之情,今父母循私,招摇道路而纵成之,实有伤于名教”。有旨查复。后皇帝知二人虽成礼而未同居,乃召冰心令皇后验试,果为贞女,于是诬蔑者皆被诘责,而誉水、铁为“真好逑中出类拔萃者”,令重结花烛,以光名教,且云“汝归宜益懋后德以彰风化”也。


又有《铁花仙史》二十六回。题“云封山人编次”。言钱唐蔡其志与好友王悦共游于祖遗之埋剑园,赏芙蓉,至花落方别。后入都又相遇,已各有儿女在襁褓,乃约为婚姻,往来愈密。王悦子曰儒珍,七岁能诗,与同窗陈秋麟皆十三四入泮,尝借寓埋剑园,邀友赏花赋诗。秋麟夜遇女子,自称符剑花,后屡至,一夕暴风雨拔去玉芙蓉,乃绝。后王氏衰落,儒珍又不第,蔡嫌其穷困,欲以女改适夏元虚,时秋麟已中解元,急谋于密友苏紫宸,托媒得之,拟临时归儒珍,而蔡女若兰竟逸去,为紫宸之叔诚斋所收养。夏元虚为世家子而无行,怒其妹瑶枝时加讥讪,因荐之应点选;瑶枝被征入都,中途舟破,亦为诚斋所救。诚斋又招儒珍为西宾,而蔡其志晚年孤寂,亦屡来迎王,养以为子,亦发解,娶诚斋之女馨如。秋麟求婚夏瑶枝,诚斋未许,一夕女自来,乃偕遁。时紫宸已平海寇,成神仙,忽遗王、陈二人书,言真瑶枝故在苏氏,偕遁者实花妖,教二人以五雷法治之,妖即逸去,诚斋亦终以真瑶枝许之。一日儒珍至苏氏,忽睹若兰旧婢,甚惊;诚斋乃确知所收蔡女,故为儒珍聘妇,亦以归儒珍。后来两家夫妇皆年逾八十,以服紫宸所赠金丹,一夕无疾而终,世以为尸解云。


《铁花仙史》较后出,似欲脱旧来窠臼,故设事力求其奇。作者亦颇自负,序言有云:“传奇家摹绘才子佳人之悲欢离合,以供人娱且悦心者也。然其成书而命之名也,往往略不如意。如《平山冷燕》则皆才子佳人之姓为颜,而《玉娇梨》者又至各摘其人名之一字以传之,草率若此,非真有心唐突才子佳人,实图便于随意扭捏成书而无所难耳。此书则有特异焉者,……令人以为铁为花为仙者读之,而才子佳人之事掩映乎其间。”然文笔拙涩,事状纷繁,又混入战争及神仙妖异事,已轶出于人情小说范围之外矣。

【第二十篇 明の人情小説(下)】

『金瓶梅』・『玉嬌李』等の既に世の艶称するところと為るや、学歩する者は紛然として起こり、而して一面にはまた異流を生ず。人物事状は皆同じからず。ただ書名はなお多く蹈襲す。『玉嬌梨』・『平山冷燕』等の如きは皆これなり。叙述するところに至りては大率才子佳人の事にして文雅風流を以てその間を綴り、功名遇合を之が主と為す。始めはあるいは乖違するも終には多く如意なり。故に当時あるいはまた「佳話」と称す。

『玉嬌梨』は今あるいは題を改めて『双美奇縁』と為す。全書は僅か二十回にして明の正統間に太常卿の白玄なる者あるを叙す。子なく晩年に一女を得て紅玉と曰う。甚だ文才あり。後に蘇友白なる者と相知り、種々の曲折を経て終に成婚す。

『平山冷燕』もまた二十回にして「荻岸山人編次す」と題す。書は先朝の隆盛の時事を叙す。天子は真才を求めんとて百官に白燕の詩を賦せしむるに衆は謝して能わず。大学士山顕仁は乃ちその女山黛の作を献ず。天子は即ちこれを召見し才女と称して玉尺と金如意を賜う。後に山黛は平如衡・燕白顔に出会い種々の波瀾を経て終に成婚す。二書の大旨は皆女子を顕揚しその異能を頌す。

『好逑伝』は十八回にして「名教中人編次す」と題す。秀才の鉄中玉は侠義の人にして水冰心と知り合い、互いに尊重し合いつつ種々の困難を経て終に成婚す。しかも合卺せずして先ず貞節を守り、後に天子の御検分を受けて始めて夫婦と為る。

『鉄花仙史』は二十六回にして「雲封山人編次す」と題す。較々後出にして旧来の窠臼を脱せんと欲するに似たり。故に事を設くるに力めてその奇を求む。然れども文筆は拙渋にして事状は紛繁、また戦争及び神仙妖異の事を混入し、已に人情小説の範囲の外に逸出せり。

第35節

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【第二十三篇 清之讽刺小说】




寓讥弹于稗史者,晋、唐已有,而明为盛,尤在人情小说中。然此类小说,大抵设一庸人,极形其陋劣之态,借以衬托俊士,显其才华,故往往大不近情,其用才比于“打诨”。若较胜之作,描写时亦刻深,讥刺之切,或逾锋刃,而《西游补》之外,每似集中于一人或一家,则又疑私怀怨毒,乃逞恶言,非于世事有不平,因抽毫而抨击矣。其近于呵斥全群者,则有《钟馗捉鬼传》十回,疑尚是明人作,取诸色人,比之群鬼,一一抉剔,发其隐情,然词意浅露,已同嫚骂,所谓“婉曲”,实非所知。迨吴敬梓《儒林外史》出,乃秉持公心,指擿时弊,机锋所向,尤在士林;其文又戚而能谐,婉而多讽:于是说部中乃始有足称讽刺之书。


吴敬梓字敏轩,安徽全椒人,幼即颖异,善记诵,稍长补官学弟子员,尤精《文选》,诗赋援笔立成。然不善治生,性又豪,不数年挥旧产俱尽,时或至于绝粮,雍正乙卯,安徽巡抚赵国麟举以应博学鸿词科,不赴,移家金陵,为文坛盟主,又集同志建先贤祠于雨花山麓,祀泰伯以下二百三十人,资不足,售所居屋以成之,而家益贫。晚年自号文木老人,客扬州,尤落拓纵酒,乾隆十九年卒于客中,年五十四 一七○一——一七五四 。所著有《诗说》七卷,《文木山房集》五卷,诗七卷,皆不甚传 详见新标点本《儒林外史》卷首 。


吴敬梓著作皆奇数,故《儒林外史》亦一例,为五十五回;其成殆在雍正末,著者方侨居于金陵也。时距明亡未百年,士流盖尚有明季遗风,制艺而外,百不经意,但为矫饰,云希圣贤。敬梓之所描写者即是此曹,既多据自所闻见,而笔又足以达之,故能烛幽索隐,物无遁形,凡官师,儒者,名士,山人,间亦有市井细民,皆现身纸上,声态并作,使彼世相,如在目前,惟全书无主干,仅驱使各种人物,行列而来,事与其来俱起,亦与其去俱讫,虽云长篇,颇同短制;但如集诸碎锦,合为帖子,虽非巨幅,而时见珍异,因亦娱心,使人刮目矣。敬梓又爱才士,“汲引如不及,独嫉‘时文士’如仇,其尤工者,则尤嫉之” 程晋芳所作传云 。故书中攻难制艺及以制艺出身者亦甚烈,如令选家马二先生自述制艺之所以可贵云:




“……‘举业’二字,是从古及今,人人必要做的。就如孔子生在春秋时候,那时用‘言扬行举’作官,故孔子只讲得个‘言寡尤,行寡悔,禄在其中’:这便是孔子的举业。到汉朝,用贤良方正开科,所以公孙弘、董仲舒举贤良方正:这便是汉人的举业。到唐朝,用诗赋取士;他们若讲孔、孟的话,就没有官做了,所以唐人都会做几句诗:这便是唐人的举业。到宋朝,又好了,都用的是些理学的人做官,所以程、朱就讲理学:这便是宋人的举业。到本朝,用文章取士,这是极好的法则。就是夫子在而今,也要念文章,做举业,断不讲那‘言寡尤,行寡悔’的话。何也?就日日讲究‘言寡尤,行寡悔’,那个给你官做?孔子的道,也就不行了。” 第十三回 




《儒林外史》所传人物,大都实有其人,而以象形谐声或庾词隐语寓其姓名,若参以雍乾间诸家文集,往往十得八九 详见本书上元金和跋 。此马二先生字纯上,处州人,实即全椒冯粹中,为著者挚友,其言真率,又尚上知春秋汉唐,在“时文士”中实犹属诚笃博通之士,但其议论,则不特尽揭当时对于学问之见解,且洞见所谓儒者之心肝者也。至于性行,乃亦君子,例如西湖之游,虽全无会心:颇杀风景,而茫茫然大嚼而归,迂儒之本色固在:




马二先生独自一个,带了几个钱,步出钱塘门,在茶亭里吃了几碗茶,到西湖沿上牌楼跟前坐下,见那一船一船乡下妇女来烧香的,……后面都跟着自己的汉子,……上了岸,散往各庙里去了。马二先生看了一遍,不在意里。起来又走了里把多路,望着湖沿上接连着几个酒店,……马二先生没有钱买了吃,……只得走进一个面店,十六个钱吃了一碗面,肚里不饱,又走到间壁一个茶室吃了一碗茶,买了两个钱“处片”嚼嚼,到觉有些滋味。吃完了出来,……往前走,过了六桥。转个湾,便象些村庄地方。又有人家的棺材,厝基中间,走也走不清,甚是可厌。马二先生欲待回去,遇着一个走路的,问道:“前面可还有好顽的所在?”那人道:“转过去便是净慈,雷峰。怎么不好顽?”马二先生于是又往前走。……过了雷峰,远远望见高高下下许多房子盖著琉璃瓦,……马二先生走到跟着,看见一个极高的山门,一个金字直匾,上写“敕赐净慈禅寺”;山门旁边一个小门。马二先生走了进去;……那些富贵人家女客,成群结队,里里外外,来往不绝。……马二先生身子又长,戴一顶高方巾,一幅乌黑的脸,腆着个肚子,穿着一双厚底破靴,横着身子乱跑,只管在人窝子里撞。女人也不看他,他也不看女人。前前后后跑了一交,又出来坐在那茶亭内,……吃了一碗茶。柜上摆着许多碟子:橘饼、芝麻糖、粽子、烧饼、处片、黑枣、煮栗子,马二先生每样买了几个钱,不论好歹,吃了一饱。马二先生觉得倦了,直着脚跑进清波门;到了下处,关门睡了。因为多走了路,在下处睡了一天;第三日起来,要到城隍山走走。…… 第十四回 




至叙范进家本寒微,以乡试中式暴发,旋丁母忧,翼翼尽礼,则无一贬词,而情伪毕露,诚微辞之妙选,亦狙击之辣手矣:




……两人 张静斋及范进 进来,先是静斋谒过,范进上来叙师生之礼,汤知县再三谦让,奉坐吃茶。同静斋叙了些阔别的话;又把范进的文章称赞了一番,问道:“因何不去会试?”范进方才说道:“先母见背,遵制丁忧。”汤知县大惊,忙叫换去了吉服。拱进后堂,摆上酒来。……知县安了席坐下,用的都是银镶杯箸。范进退前缩后的不举杯箸,知县不解其故。静斋笑道:“世先生因遵制,想是不用这个杯箸。”知县忙叫换去。换了一个磁杯,一双象牙箸来,范进又不肯举动。静斋道:“这个箸也不用。”随即换了一双白颜色竹子的来,方才罢了。知县疑惑:“他居丧如此尽礼,倘或不用荤酒,却是不曾备办。”落后看见他在燕窝碗里拣了一个大虾圆子送在嘴里,方才放心。…… 第四回 




此外刻划伪妄之处尚多,掊击习俗者亦屡见。其述王玉辉之女既殉夫,玉辉大喜,而当入祠建坊之际,“转觉心伤,辞了不肯来”,后又自言“在家日日看见老妻悲恸,心中不忍” 第四十八回 ,则描写良心与礼教之冲突,殊极刻深 详见本书钱玄同序 ;作者生清初,又束身名教之内,而能心有依违,托稗说以寄慨,殆亦深有会于此矣。以言君子,尚亦有人,杜少卿为作者自况,更有杜慎卿 其兄青然 ,有虞育德 吴蒙泉 ,有庄尚志 程绵庄 ,皆贞士;其盛举则极于祭先贤。迨南京名士渐已销磨,先贤祠亦荒废;而奇人幸未绝于市井,一为“会写字的”,一为“卖火纸筒子的”,一为“开茶馆的”,一为“做裁缝的”。末一尤恬淡,居三山街,曰荆元,能弹琴赋诗,缝纫之暇,往往以此自遣;间亦访其同人。




一日,荆元吃过了饭,思量没事,一径踱到清凉山来。……他有一个老朋友姓于,住在山背后。这于老者也不读书,也不做生意,……督率着他五个儿子灌园。……这日,荆元步了进来,于老者迎着道:“好些时不见老哥来,生意忙的紧?”荆元道:“正是。今日才打发清楚些。特来看看老爹。”于老者道:“恰好烹了一壶现成茶,请用一杯。”斟了送过来。荆元接了,坐着吃,道:“这茶,色香味都好。老爹却是那里取来的这样好水?”于老者道:“我们城西不比你们城南,到处井泉都是吃得的。”荆元道:“古人动说‘桃源避世’,我想起来,那里要甚么桃源。只如老爹这样清闲自在,住在这样‘城市山林’的所在,就是现在的活神仙了。”于老者道:“只是我老拙一样事也不会做,怎的如老哥会弹一曲琴,也觉得消遣些。近来想是一发弹的好了,可好几时请教一回?”荆元道:“这也容易,老爹不嫌污耳,明日携琴来请教。”说了一会,辞别回来。次日,荆元自己抱了琴,来到园里,于老者已焚下一炉好香,在那里等候。……于老者替荆元把琴安放在石凳上,荆元席地坐下,于老者也坐在旁边。荆元慢慢的和了弦,弹起来,铿铿锵锵,声振林木。……弹了一会,忽作变徵之音,凄清宛转。于老者听到深微之处,不觉凄然泪下。自此,他两人常常往来。当下也就别过了。 第五十五回 




然独不乐与士人往还,且知士人亦不屑与友:固非“儒林”中人也。至于此后有无贤人君子得入《儒林外史》,则作者但存疑问而已。


《儒林外史》初惟传钞,后刊木于扬州,已而刻本非一。尝有人排列全书人物,作“幽榜”,谓神宗以水旱偏灾,流民载道,冀“旌沉抑之人才”以祈福利,乃并赐进士及第,并遣礼官就国子监祭之;又割裂作者文集中骈语,襞积之以造诏表 金和跋云 ,统为一回缀于末:故一本有五十六回。又有人自作四回,事既不伦,语复猥陋,而亦杂入五十六回本中,印行于世:故一本又有六十回。


是后亦鲜有以公心讽世之书如《儒林外史》者。

【第二十三篇 清の諷刺小説】

譏弾を稗史に寓する者は晋唐に已にあり、而して明に為りて盛んなり。殊に人情小説の中に在り。然れどもこの類の小説は大抵一庸人を設け極めてその陋劣の態を形どり、藉りて以て俊士を襯托しその才華を顕す。迨いて呉敬梓の『儒林外史』出づるに及び、乃ち公心を秉持し時弊を指擿す。機鋒の向かうところ尤も士林に在り。その文はまた戚にして能く諧、婉にして多く諷る。ここにおいて説部の中に乃ち始めて諷刺の書と称するに足る者あり。

呉敬梓は字は敏軒、安徽全椒の人にして幼より穎異なり。性は豪にして旧産を蕩尽し、家を金陵に移して文壇の盟主と為る。『儒林外史』は五十五回にして雍正末に成る。時に明の亡びしより未だ百年ならず。士流は蓋しなお明季の遺風あり、制芸の外は百も経意せず。敬梓の描写するところは即ちこの曹にして、能く幽を燭し隠を索き物は遁形なし。全書に主幹なきも、諸々の碎錦を集め合せて帖子と為すが如く時に珍異を見る。

馬二先生の制芸を論ずるの段は殊に刻深にして、所謂儒者の心肝を洞見す。また范進の暴発と翼々として礼を尽くす段は、無一の貶詞にして情偽は畢く露わる。末に荊元と于老者との琴を弾くの段に至りては、市井の奇人を描きて清絶の境を成す。然れども独り士人と往還するを楽しまず。固より「儒林」中の人にあらざるなり。

是の後もまた鮮しく公心を以て世を諷する書にして『儒林外史』の如き者あり。

第36節

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【第二十五篇 清之以小说见才学者】




以小说为庋学问文章之具,与寓惩劝同意而异用者,在清盖莫先于《野叟曝言》。其书光绪初始出,序云康熙时江阴夏氏作,其人“以名诸生贡于成均,既不得志,乃应大人先生之聘,辄祭酒帷幕中,遍历燕、晋、秦、陇。……继而假道黔、蜀,自湘浮汉,溯江而归。所历既富,于是发为文章,益有奇气,……然首已斑矣。 自是 屏绝进取,壹意著书”,成《野叟曝言》二十卷,然仅以示友人,不欲问世,迨印行时,已小有缺失;一本独全,疑他人补足之。二本皆无撰人名,金武祥 《江阴艺文志》凡例 则云夏二铭作。二铭,夏敬渠之号也;光绪《江阴县志》 十七《文苑传》 云:“敬渠,字懋修,诸生;英敏绩学,通史经,旁及诸子百家礼乐兵刑天文算数之学,靡不淹贯。……生平足迹几遍海内,所交尽贤豪。著有《纲目举正》、《经史余论》、《全史约编》、《学古编》,诗文集若干卷。”与序所言者颇合,惟列于赵曦明之后,则乾隆中盖尚存。


《野叟曝言》庞然巨帙,回数多至百五十四回,以“奋武揆文天下无双正士熔经铸史人间第一奇书”二十字编卷,即作者所以浑括其全书。至于内容,则如凡例言,凡“叙事,说理,谈经,论史,教孝,劝忠,运筹,决策,艺之兵诗医算,情之喜怒哀惧,讲道学,辟邪说,……”无所不包,而以文白为之主。白字素臣,“是铮铮铁汉,落落奇才,吟遍江山,胸罗星斗。说他不求宦达,却见理如漆雕;说他不会风流,却多情如宋玉。挥毫作赋,则颉颃相如;抵掌谈兵,则伯仲诸葛,力能扛鼎,退然如不胜衣;勇可屠龙,凛然若将陨谷。旁通历数,下视一行;闲涉岐黄,肩随仲景。以朋友为性命;奉名教若神明。真是极有血性的真儒,不识炎凉的名士。他平生有一段大本领,是止崇正学,不信异端;有一副大手眼,是解人所不能解,言人所不能言” 第一回 。然而明君在上,君子不穷,超擢飞腾,莫不如意。书名辟鬼,举手除妖,百夷慑于神威,四灵集其家囿。文功武烈,并萃一身,天子崇礼,号曰“素父”。而仍有异术,既能易形,又工内媚,姬妾罗列,生二十四男。男又大贵,且生百孙;孙又生子,复有云孙。其母水氏年百岁,既见“六世同堂”,来献寿者亦七十国;皇帝赠联,至称为“镇国卫圣仁孝慈寿宣成文母水太君” 百四十四回 。凡人臣荣显之事,为士人意想所能及者,此书几毕载矣,惟尚不敢希帝王。至于排斥异端,用力尤劲,道人释子,多被诛夷,坛场荒凉,塔寺毁废,独有“素父”一家,乃嘉祥备具,为万流宗仰而已。


《野叟曝言》云是作者“抱负不凡,未得黼黻休明,至老经猷莫展”,因而命笔,比之“野老无事,曝日清谈” 凡例云 。可知炫学寄概,实其主因,圣而尊荣,则为抱负,与明人之神魔及佳人才子小说面目似异,根柢实同,惟以异端易魔,以圣人易才子而已。意既夸诞,文复无味,殊不足以称艺文,但欲知当时所谓“理学家”之心理,则于中颇可考见。雍正末,江阴人杨名时为云南巡抚,其乡人拔贡生夏宗澜尝从之问《易》,以名时为李光地门人,故并宗光地而说益怪。乾隆初,名时入为礼部尚书,宗澜亦以经学荐授国子监助教,又历主他讲席,仍终身师名时 《四库书目》六及十《江阴志》十六及十七 。稍后又有诸生夏祖熊,亦“博通群经,尤笃好性命之学,患二氏说漫衍,因复考辨以归于正” 《江阴志》十七 。盖江阴自有杨名时 卒赠太子太傅文定 而影响颇及于其乡之士风;自有夏宗澜师杨名时而影响又颇及于夏氏之家学,大率与当时当道名公同意,崇程朱而斥陆王,以“打僧骂道”为唯一盛业,故若文白者之言行际遇,固非独作者一人之理想人物矣。文白或云即作者自寓,析“夏”字作之;又有时太师,则杨名时也,其崇仰盖承夏宗澜之绪余,然因此遂或误以《野叟曝言》为宗澜作。


欲于小说见其才藻之美者,则有屠绅《蟫史》二十卷。绅字贤书,号笏岩,亦江阴人,世业农。绅幼孤,而资质聪敏,年十三即入邑庠,二十成进士,寻授云南师宗县知县,迁寻甸州知州,五校乡闱,颇称得士,后为广州同知。嘉庆六年以候补在北京,暴疾卒于客舍,年五十八 一七四四—— 一八○一 。绅豪放嫉俗,生平慕汤显祖之为人,而作吏颇酷,又好内,姬侍众多 已上俱见《鹗亭诗话》附录 ;为文则务为古涩艳异,晦其义旨,志怪有《六合内外琐言》,杂说有《鹗亭诗话》 见第二十二篇 ,皆如此。《蟫史》为长篇,署“磊砢山房原本”,金武祥 《粟香随笔》二 云是绅作。书中有桑蠋生,盖作者自寓,其言有云:“予,甲子生也。”与绅生年正同。开篇又云:“在昔吴侬官于粤岭,行年大衍有奇,海隅之行,若有所得,辄就见闻传闻之异辞,汇为一编。”且假傅鼎捍苗之事 在乾隆六十年 为主干,则始作当在嘉庆初,不数年而毕;有五年四月小停道人序。次年,则绅死矣。


《蟫史》首即言闽人桑蠋生海行,舟败堕水,流至甲子石之外澳,为捕鱼人所救,引以见甘鼎。鼎官指挥,方奉檄筑城防寇,求地形家,见生大喜,如其图依甲子石为垣,遂成神奇之城,敌不能瞰。又于地穴中得三箧书,其一凡二十卷,“题曰‘彻土作稼之文,归墟野凫氏画’。又一箧为天人图,题曰‘眼藏须弥僧道作’。又一箧为方书,题曰‘六子携持极老人口授’。蠋生谓指挥曰:‘此书明明授我主宾矣。何言之?彻土,桑也;作稼,甘也。’……营龛于秘室,置之;行则藏枕中;有所求发明,则拜而同启视;两人大悦” 第一回 。已而有邝天龙者为乱,自署广州王,其党娄万赤有异术,则翊辅之。甘鼎进讨,有龙女来助,擒天龙,而万赤逸去。鼎以功晋位镇抚,仍随石珏协剿海寇,又破交人;万赤在交址,则仍不能得。旋擢兵马总帅,赴楚、蜀、黔、广备九股苗,遂与诸苗战,多历奇险,然皆胜,其一事云:




……须臾,苗卒大呼曰:“汉将不敢见阵耶?”季孙引五百人,翼而进。两旗忽下,地中飞出滴血鸡六,向汉将啼;又六犬皆火色,亦嚎声如豺。军士面灰死,木立,仅倚其械。矩儿飞椎凿六犬脑,皆裂。木兰袖蛇医,引之啄一鸡,张喙死;五鸡连栖而不鸣。惟见瓦片所图鸡犬形,狼藉于地,实非有二物也。……复至金大都督营中,则癞牛病马各六,均有皮无毛;士卒为角触足踏者皆死,一牛龁金大都督之足,已齿陷于骨;矩儿挥两戚落牛首,齿仍不脱;木兰急遣虎头神凿去其齿,足骨亦折焉。令左右舁归大营。牛马奔突无所制,木兰以鲤鳞帕撒之,一鳞露一剑,并斫一十牛马。其物各吐火四五尺,鳞剑为之焦灼,火大延烧,牛马皆叫嚣自得。见猕猴掷身入,举手作霹雳声,暴雨灭火,平地起水丈余,牛马俱浸死。木兰喜曰:“吾固知乐王子能传灭火真人衣钵矣。”水退,见牛马皆无有,乃砌壁之破瓮朱书牛马字:是为鲜妖之“穷神尽化”云。…… 卷九 




娄万赤亦在苗中,知交址将有事,潜归。甘鼎至广州,与抚军区星进击交址。区用犷儿策,疾薄宜京,斩关而入,擒其王,交民悉降;甘则由水道进,列营于江桥北。




……娄万赤与其师李长脚斗法于江桥南。……李长脚变金井绐万赤,即坠入,忽有铁树挺出,井阑撑欲破。犷儿引庆喜至,出白罗巾掷树巅。砉然有声,铁树不复见,李长脚复其形,觅万赤,卧桥畔沙石间。遂袖出白壶子一器,持向万赤顶骨咒曰,……咒毕,举手振一雷。万赤精气已铄,跃入江中,将随波出海。木兰呼鳞介士百人追之飘浮,所在必见吆喝,乃变为璅蛣。乘海蟹空腹,入之,以为“藏身之固”矣,交址人善捞蟹者,得是物如箕,大喜,刳蟹将取其腹腴,一虫随手出,倏坠地化为人形,俄顷长大,固俨然盲僧焉。询之不复语。有屠者携刀来视,咄咄曰:“蟹腹自有‘仙人’,一名‘和尚’,要是谑语;断无别肠容此妖物,不诛戮之,吾南交祸未已也。”挥刀斫其首。时甘君已入城,与区抚军议班师矣;常越所部卒持盲僧首以献,转告两元戎。桑长史进曰:“斯必万赤头也。记天人第二图为大蟹浮海中,篆云‘横行自毙’。某当初疑万赤先亡,乃今始验。”适李长脚入辞,视其头笑曰:“此贼以水火阴阳,为害中国,不死于黄钺而死于屠刀,固犬豕之流耳。仙骨何有哉?……”…… 卷二十 




自是交址平。桑蠋生还闽;甘鼎亦弃官去,言将度庾岭云。


《蟫史》神态,仿佛甚奇,然探其本根,则实未离于神魔小说;其缀以亵语,固由作者禀性,而一面亦尚承明代“世情书”之流风。特缘勉造硬语,力拟古书,成诘屈之文,遂得掩凡近之意。洪亮吉 《北江诗话》 评其诗云:“如栽盆红药,蓄沼文鱼。”汪瑔序其《鄂亭诗话》云:“貌渊奥而实平易,……然笔致逋峭可喜。”即谓虽华艳而乏天趣,徒奇崛而无深意也。《蟫史》亦然,惟以其文体为他人所未试,足称独步而已。


以排偶之文试为小说者,则有陈球之《燕山外史》八卷。球字蕴斋,秀水诸生,家贫,以卖画自给,工骈俪,喜传奇,因有此作 《光绪嘉兴府志》五十二 。自谓“史体从无以四六为文,自我作古,极知僭妄,……第行于稗乘,当希末减”。盖未见张《游仙窟》 见第八篇 ,遂自以为独创矣。其本成于嘉庆中 约一八一○ ,专主词华,略以寄慨,故即取明冯梦桢所撰《窦生传》为骨干,加以敷衍,演为三万一千余言。传略谓永乐时有窦绳祖,本燕人,就学于嘉兴,悦贫女李爱姑,迎以同居;久之,父迫令就婚淄川宦族,遂绝去。爱姑复为金陵鹾商所绐,辗转落妓家,得侠士马遴之助,终复归窦,而大妇甚妒,虐遇之,生不能堪,偕爱姑遁去,会有唐赛儿之乱,又相失。比生复归,则资产已空,妇亦求去,孑然止存一身,而爱姑忽至,自言当日匿尼庵中,今遂返矣。是年窦生及第,累官至山东巡抚;迎爱姑入署如命妇。未几生男,求乳媪,有应者,则前大妇也,再嫁后夫死子殇,遂困顿为贱役,而生仍优容之。然妇又设计害马遴,生亦牵连得罪;顾终竟昭雪复官,后与爱姑皆仙去。其事殊庸陋,如一切佳人才子小说常套,而作者奋然有取,则殆缘转折尚多,足以示行文手腕而已,然语必四六,随处拘牵,状物叙情,俱失生气,姑勿论六朝俪语,即较之张之作,虽无其俳谐,而亦逊其生动也。仍录其叙窦生为父促归,爱姑怅怅失所之辞,以备一格:




……其父内存爱犊之思,外作搏牛之势,投鼠奚遑忌器,打鸭未免惊鸳;放笠之豚,追来入笠,丧家之犬,叱去还家。疾驱而身弱如羊,遂作补牢之计,严锢而人防似虎,似无出柙之时;所虞龙性难驯,拴于铁柱,还恐猿心易动,辱以蒲鞭。由是姑也蔷薇架畔,青黛将颦,薜荔墙边,红花欲悴,托意丁香枝上,其意谁知,寄情豆蔻梢头,此情自喻。而乃莲心独苦,竹沥将枯,却嫌柳絮何情,漫漫似雪,转恨海棠无力,密密垂丝。才过迎春,又经半夏,采葑采葛,只自空期,投李投桃,俱为陈迹,依稀梦里,徒栽侍女之花,抑郁胸前,空带宜男之草。未能蠲忿,安得忘忧?鼓残瑟上桐丝,奚时续断,剖破楼头菱影,何日当归?岂知去者益远,望乃徒劳,昔虽音问久疏,犹同乡井,后竟梦魂永隔,忽阻山川。室迩人遐,每切三秋之感,星移物换,仅深两地之思。…… 卷二 




至光绪初 一八七九 ,有永嘉傅声谷注释之,然于本文反有删削。


雍乾以来,江南人士惕于文字之祸,因避史事不道,折而考证经子以至小学,若艺术之微,亦所不废;惟语必征实,忌为空谈,博识之风,于是亦盛。逮风气既成,则学者之面目亦自具,小说乃“道听途说者之所造”,史以为“无可观”,故亦不屑道也;然尚有一李汝珍之作《镜花缘》。汝珍字松石,直隶大兴人。少而颖异,不乐为时文,乾隆四十七年随其兄之海州任,因师事凌廷堪,论文之暇,兼及音韵,自云“受益极多”,时年约二十。其生平交游,颇多研治声韵之士;汝珍亦特长于韵学,旁及杂艺,如壬遁星卜象纬,以至书法弈道多通。顾不得志,盖以诸生终老海州,晚年穷愁,则作小说以自遣,历十余年始成,道光八年遂有刻本。不数年,汝珍亦卒,年六十余 约一七六三——一八三○ 。于音韵之著述有《音鉴》,主实用,重今音,而敢于变古 以上详见新标点本《镜花缘》卷首胡适《引论》 。盖惟精声韵之学而仍敢于变古,乃能居学者之列,博识多通而仍敢于为小说也;惟于小说又复论学说艺,数典谈经,连篇累牍而不能自已,则博识多通又害之。


《镜花缘》凡一百回,大略叙武后于寒中欲赏花,诏百花齐放;花神不敢抗命,从之,然又获天谴,谪于人间,为百女子。时有秀才唐敖,应试中探花,而言官举劾,谓与叛人徐敬业辈有旧,复被黜,因慨然有出坐之想,附其妇弟林之洋商舶遨游海外,跋涉异域,时遇畸人,又多睹奇俗怪物,幸食仙草,“入圣超凡”,遂入山不复返。其女小山又附舶寻父,仍历诸异境,且经众险,终不遇;但从山中一樵父得父书,名之曰闺臣,约其“中过才女”后可相见;更进,则见荒冢,曰镜花冢;更进,则入水月村;更进,则见泣红亭,其中有碑,上镌百人名姓,首史幽探,终毕全贞,而唐闺臣在第十一。人名之后有总论,其文有云:




泣红亭主人曰:以史幽探哀萃芳冠首者,盖主人自言穷探野史,尝有所见,惜湮没无闻,而哀群芳之不传,因笔志之。……结以花再芳毕全贞者,盖以群芳沦落,几至澌灭无闻,今赖斯而不朽,非若花之重芳乎?所列百人,莫非琼林琪树,合璧骈珠,故以全贞毕焉。 第四十八回 




闺臣不得已,遂归;值武后开科试才女,得与试,且亦入选,名次如碣文。于是同榜者百人大会于宗伯府,又连日宴集,弹琴赋诗,围棋讲射,蹴鞠斗草,行令论文,评韵谱,解《毛诗》,尽觞咏之乐。已而有两女子来。自云考列四等才女,而实风姨月姊化身,旋复以文字结嫌,弄风惊其坐众。魁星则现形助诸女;麻姑亦化为道姑,来和解之,于是即席诵诗,皆包含坐中诸人身世,自过去及现在,以至将来,间有哀音,听者黯淡,然不久意解,欢笑如初。末则文芸起兵谋匡复,才女或亦在军,有死者;而武家军终败。于是中宗复位,仍尊太后武氏为则天大圣皇帝。未几,则天下诏,谓来岁仍开女试,并命前科众才女重赴“弘文宴”,而《镜花缘》随毕。然以上仅全局之半,作者自云欲知“镜中全影,且待后缘”,则当有续书,然竟未作。


作者命笔之由,即见于《泣红亭记》,盖于诸女,悲其销沉,爰托稗官,以传芳烈。书中关于女子之论亦多,故胡适以为“是一部讨论妇女问题的小说,他对于这个问题的答案,是男女应该受平等的待遇,平等的教育,平等的选举制度” 详见本书《引论》四 。其于社会制度,亦有不平,每设事端,以寓理想;惜为时势所限,仍多迂拘,例如君子国民情,甚受作者叹羡,然因让而争,矫伪已甚,生息此土,则亦劳矣,不如作诙谐观,反有启颜之效也。




……说话间,来到闹市,只见一隶卒在那里买物,手中拿着货物道:“老兄如此高货,却讨恁般贱价,教小弟买去,如何能安?务求将价加增,方好遵教。若再过谦,那是有意不肯赏光交易了。”……只听卖货人答道:“既承照顾,敢不仰体。但适才妄讨大价,已觉厚颜;不意老兄反说货高价贱,岂不更教小弟惭愧?况敝货并非‘言无二价’,其中颇有虚头。俗云‘漫天要价,就地还钱’。今老兄不但不减,反要加增,如此克己,只好请到别家交易,小弟实难遵命。”唐敖道:“‘漫天要价,就地还钱’,原是买物之人向来俗谈;至‘并非言无二价,其中颇有虚头’,亦是买者之话。不意今皆出于卖者之口,倒也有趣。”只听隶卒又说道:“老兄以高货讨贱价,反说小弟‘克己’,岂不失了忠恕之道?凡事总要彼此无欺,方为公允。试问‘那个腹中无算盘’,小弟又安能受人之愚哩?”谈之许久,卖货人执意不增。隶卒赌气,照数付价,拿了一半货物,刚要举步。卖货人那里肯依,只说“价多货少”,拦住不放。路旁走过两个老翁,作好作歹,从公评定,令隶卒照价拿了八折货物,这才交易而去。……唐敖道:“如此看来,这几个交易光景,岂非‘好让不争’的一幅行乐图么?我们还打听甚么?且到前面再去畅游。如此美地,领略领略风景,广广见识,也是好的。”…… 第十一回《观雅化闲游君子邦》 




又其罗列古典才艺,亦殊繁多,所叙唐氏父女之游行,才女百人之聚宴,几占全书什七,无不广据旧文 略见钱静方《小说丛考》上 ,历陈众艺,一时之事,或亘数回。而作者则甚自喜,假林之洋之打诨,自论其书云:“这部‘少子’,乃圣朝太平之世出的;是俺天朝读书人做的。这人就是老子的后裔。老子做的是《道德经》,讲的都是元虚奥妙。他这‘少子’虽以游戏为事,却暗寓劝善之意,不外风人之旨。上面载着诸子百家,人物花鸟,书画琴棋,医卜星相,音韵算法,无一不备。还有各样灯谜,诸般酒令,以及双陆马吊,射鹄蹴毬,斗草投壶,各种百戏之类。件件都可解得睡魔,也可令人喷饭。” 二十三回 盖以为学术之汇流,文艺之列肆,然亦与《万宝全书》为邻比矣。惟经作者匠心,剪裁运用,故亦颇有虽为古典所拘,而尚能绰约有风致者,略引如下:




……多九公道:“林兄如饿,恰好此地有个充饥之物。”随向碧草丛中摘了几枝青草。……林之洋接过,只见这草宛如韭菜,内有嫩茎,开着几朵青花,即放入口内,不觉点头道:“这草一股清香,倒也好吃。请问九公,他叫甚么名号?……”唐敖道:“小弟闻得海外鹊山有青草,花如韭,名‘祝余’,可以疗饥。大约就是此物了。”多九公连连点头。于是又朝前走。……只见唐敖忽然路旁折了一枝青草,其叶如松,青翠异常,叶上生着一子,大如芥子,把子取下,手执青草道:“舅兄才吃祝余,小弟只好以此奉陪了。”说罢,吃入腹内。又把那个芥子放在掌中,吹气一口,登时从那子中生出一枝青草来,也如松叶,约长一尺,再吹一口,又长一尺,一连吹气三口,共有三尺之长,放在口边,随又吃了。林之洋笑道:“妹夫要这样很嚼,只怕这里青草都被你吃尽哩。这芥子忽变青草,这是甚故?”多九公道:“此是‘蹑空草’,又名‘掌中芥’。取子放在掌中,一吹长一尺,再吹又长一尺,至三尺止。人若吃了,能立空中,所以叫作蹑空草。”林之洋道:“有这好处,俺也吃他几枝,久后回家,傥房上有贼,俺蹑空追他,岂不省事。”于是各处寻了多时,并无踪影。多九公道:“林兄不必找了。此草不吹不生。这空山中有谁吹气栽他?刚才唐兄吃的,大约此子因鸟雀啄食,受了呼吸之气,因此落地而生,并非常见之物,你却从何寻找?老夫在海外多年,今日也是初次才见。若非唐兄吹他,老夫还不知就是蹑空草哩。”…… 第九回

【第二十五篇 清の小説を以て才学を見す者】

小説を以て学問文章を庋する具と為すは、惩劝を寓すると同意にして異用なる者にして、清に在りては蓋し『野叟曝言』より先なるはなし。その書は光緒初に始めて出で、序に云う、康熙の時、江陰の夏氏の作にして、その人は「名諸生を以て成均に貢し、既に志を得ず、乃ち大人先生の聘に応じ、輒ち帷幕の中に祭酒し、遍く燕・晋・秦・隴を歴す。……継いで黔・蜀に道を仮り、湘より汉に浮かび、江を溯りて帰る。歴するところ既に富み、ここにおいて発して文章と為し、益々奇気あり……然れども首は已に斑たり。進取を屏絶し、壹意著書す」と。

『野叟曝言』は庞然たる巨帙にして回数は多きこと百五十四回に至る。「奮武揆文天下無双正士、熔経鋳史人間第一奇書」の二十字を以て巻を編む。即ち作者のその全書を渾括する所以なり。内容は叙事・説理・談経・論史・教孝・勧忠等、無きところなく、而して文白を以て之が主と為す。白は字を素臣と曰い、「是れ錚錚たる鉄漢にして落落たる奇才なり」と。然るに明君は上に在りて君子は窮せず、超擢飛騰は如意ならざるはなし。文功武烈は一身に並び萃まり、天子は崇礼してこれを「素父」と号す。

欲うに小説にてその才藻の美を見す者は、則ち屠紳の『蟫史』二十巻あり。紳は字を賢書、号を笏岩と曰い、また江陰の人なり。豪放にして俗を嫉み、文は則ち務めて古渋艶異を為し、その義旨を晦ます。『蟫史』は長篇にして「磊砢山房原本」と署す。甘鼎の苗を防ぐの事を主幹と為し、多くの奇険を歴するも皆勝つ。

以て排偶の文もて試みに小説と為す者は、則ち陳球の『燕山外史』八巻あり。球は字を蘊斎、秀水の諸生にして、家貧しく、画を売りて自給す。騈儷を工みにし伝奇を喜び、因りてこの作あり。自ら謂う「史体にて従来四六を以て文を為すは未だ曾てなし。自ら我より古を作す」と。

雍乾以来、江南の人士は文字の禍に惕き、因りて史事を避けて道わず、折して経子乃至小学を考証す。芸術の微と雖もまた廃せざるところなり。逮いて風気既に成れば、則ち学者の面目もまた自ずから具わる。然れどもなお一の李汝珍ありて『鏡花縁』を作る。汝珍は字を松石、直隷大興の人なり。少にして穎異にして時文を楽しまず。殊に韻学に長じ、旁ら雑芸に及ぶ。晩年は窮愁にして小説を作りて以て自ら遣り、十余年を歴て始めて成る。

『鏡花縁』は凡そ百回にして、大略、武后が寒中に花を賞でんと欲し、百花に斉放を詔するを叙す。花神は抗命を敢えてせず之に従うも、天譴を獲り、人間に謫されて百女子と為る。秀才の唐敖は妻弟林之洋の商舶に附して海外に遨游し、異域を跋涉し、時に畸人に遇い、また多く奇俗怪物を睹る。仙草を食い「入聖超凡」し、遂に山に入りて復た返らず。その女の小山はまた舶に附して父を尋ね、やはり諸異境を歴するも終に遇わず。後に武后が科を開きて才女を試みるに小山もまた入選す。

またその古典才芸を羅列するもまた殊に繁多にして、唐氏父女の遊行や才女百人の聚宴は幾ど全書の十の七を占め、悉く旧文に広く拠り、歴々として衆芸を陳ぶ。

第37節

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【第二十六篇 清之狭邪小说】




唐人登科之后,多作冶游,习俗相沿,以为佳话,故伎家故事,文人间亦著之篇章,今尚存者有崔令钦《教坊记》及孙棨《北里志》。自明及清,作者尤夥。明梅鼎祚之《青泥莲花记》,清余怀之《板桥杂记》尤有名。是后则扬州、吴门、珠江、上海诸艳迹,皆有录载;且伎人小传,亦渐侵入志异书类中,然大率杂事琐闻,并无条贯,不过偶弄笔墨,聊遣绮怀而已。若以狭邪中人物事故为全书主干,且组织成长篇至数十回者,盖始见于《品花宝鉴》,惟所记则为伶人。


明代虽有教坊,而禁士大夫涉足,亦不得挟妓,然独未云禁招优。达官名士以规避禁令,每呼伶人侑酒,使歌舞谈笑;有文名者又揄扬赞叹,往往如狂醒,其流行于是日盛。清初,伶人之焰始稍衰,后复炽,渐乃愈益猥劣,称为“像姑”,流品比于娼女矣。《品花宝鉴》者,刻于咸丰二年 一八五二 ,即以叙乾隆以来北京优伶为专职,而记载之内,时杂猥辞,自谓伶人有邪正,狎客亦有雅俗,并陈妍媸,固犹劝惩之意,其说与明人之凡为“世情书”者略同。至于叙事行文,则似欲以缠绵见长,风雅为主,而描摹儿女之书,昔又多有,遂复不能摆脱旧套,虽所谓上品,即作者之理想人物如梅子玉、杜琴言辈,亦不外伶如佳人,客为才子,温情软语,累牍不休,独有佳人非女,则他书所未写者耳。其叙“名旦”杜琴言往梅子玉家问病时情状云:




却说琴言到梅宅之时,心中十分害怕,满拟此番必有一场羞辱。及至见过颜夫人之后,不但不加呵责,倒有怜恤之心,又命他去安慰子玉,却也意想不到,心中一喜一悲。但不知子玉病体轻重,如何慰之?只好遵夫人之命,老着脸走到子玉房里。见帘帏不卷,几案生尘,一张小楠木床挂了轻绡帐。云儿先把帐子掀开,叫声“少爷,琴言来看你了”。子玉正在梦中,模模糊糊应了两声。琴言就坐在床沿,见那子玉面庞黄瘦,憔悴不堪。琴言凑在枕边,低低叫了一声,不绝泪涌下来,滴在子玉的脸上。只见子玉忽然呵呵一笑道:


  “七月七日长生殿,夜半无人私语时。”


子玉吟了之后,又接连笑了两笑。琴言见他梦魔如此,十分难忍,在子玉身上掀了两掀,因想夫人在外,不好高叫,改口叫声“少爷”。子玉犹在梦中想念,候到七月七日,到素兰处,会了琴言,三人又好诉衷谈心,这是子玉刻刻不忘,所以念出这两句唐曲来。魂梦既酣,一时难醒。又见他大笑一会,又吟道:


  “我道是黄泉碧落两难寻,……”


歌罢,翻身向内睡着。琴言看他昏到如此,泪越多了,只好呆怔怔看着,不好再叫。…… 第二十九回 




《品花宝鉴》中人物,大抵实有,就其姓名性行,推之可知。惟梅、杜二人皆假设,字以“玉”与“言”者,即“寓言”之谓,盖著者以为高绝,世已无人足供影射者矣。书中有高品,则所以自况,实为常州人陈森书 作者手稿之《梅花梦传奇》上,自署毘陵陈森,则“书”字或误衍 ,号少逸,道光中寓居北京,出入菊部中,因拾闻见事为书三十回,然又中辍,出京漫游,己酉 一八四九 自广西复至京,始足成后半,共六十回,好事者竞相传钞,越三年而有刻本。 杨懋建《梦华琐簿》 


至作者理想之结局,则具于末一回,为名士与名旦会于九香园,画伶人小象为花神,诸名士为赞;诸伶又书诸名士长生禄位,各为赞,皆刻石供养九香楼下。时诸伶已脱梨园,乃“当着众名士之前”,熔化钗钿,焚弃衣裙,将烬时,“忽然一阵香风,将那灰烬吹上半空,飘飘点点,映着一轮红日,象无数的花朵与蝴蝶飞舞,金迷纸醉,香气扑鼻,越旋越高,到了半天,成了万点金光,一闪不见”云。


其后有《花月痕》十六卷五十二回,题“眠鹤主人编次”,咸丰戊午年 一八五八 序,而光绪中始流行。其书虽不全写狭邪,顾与伎人特有关涉,隐现全书中,配以名士,亦如佳人才子小说定式。略谓韦痴珠、韩荷生皆伟才硕学,游幕并州,极相善,亦同游曲中,又各有相眷妓,韦者曰秋痕,韩者曰采秋。韦风流文采,倾动一时,而不遇,困顿羁旅中;秋痕虽倾心,亦终不得嫁韦。已而韦妻先殁,韦亦寻亡,秋痕殉焉。韩则先为达官幕中上客,参机要,旋以平寇功,由举人保升兵科给事中,复因战绩,累迁至封侯。采秋久归韩,亦得一品夫人封典。班师受封之后,“高宴三日,自大将军以至走卒,无不雀忭” 第五十回 。而韦乃仅一子零丁,扶棺南下而已。其布局盖在使升沉相形,行文亦惟以缠绵为主,但时复有悲凉哀怨之笔,交错其间,欲于欢笑之时,并见黯然之色,而诗词简启,充塞书中,文饰既繁,情致转晦。符兆纶评之云:“词赋名家,却非说部当行,其淋漓尽致处,亦是从词赋中发泄出来,哀感顽艳。……”虽稍谀,然亦中其失。至结末叙韩荷生战绩,忽杂妖异之事,则如情话未央,突来鬼语,尤为通篇芜累矣。




……采秋道:“……妙玉称个‘槛外人’,宝玉称个‘槛内人’;妙玉住的是栊翠庵,宝玉住的是怡红院。……书中先说妙玉怎样清洁,宝玉常常自认浊物。不见将来清者转浊,浊者极清?”痴珠叹一口气,高吟道:“一失足成千古恨,再回头已百年身。”随说道:“……就书中‘贾雨村言’例之:薛者,设也;黛者,代也。设此人代宝玉以写生,故‘宝玉’二字,宝字上属于钗,就是宝钗;玉字下系于黛,就是黛玉。钗黛直是个‘子虚乌有’,算不得什么。倒是妙玉,真是做宝玉的反面镜子,故名之为妙。一僧一尼,暗暗影射,你道是不是呢?”采秋答应。……痴珠随说道:“‘色即是空,空即是色。’”便敲着案子朗吟道:


“银字筝调心字香,英雄底事不柔肠?我来一切观空处,也要天花作道场。


采莲曲里猜莲子,丛桂开时又见君,何必摇鞭背花去,十年心已定香熏。”


荷生不待痴珠吟完,便哈哈大笑道:“算了,喝酒罢。”说笑一回,天就亮了。痴珠用过早点,坐着采秋的车先去了。午间,得荷生柬帖云:


“顷晤秋痕,泪随语下,可怜之至。弟再四慰解,令作缓图。临行,嘱弟转致阁下云,‘好自静养。耿耿此心,必有以相报也。’知关锦念,率此布闻。并呈小诗四章,求和。”


诗是七绝四首。……痴珠阅毕,便次韵和云:


“无端花事太凌迟,残蕊伤心剩折枝,我欲替他求净境,转嫌风恶不全吹。蹉跎恨在夕阳边,湖海浮沉二十年,骆马杨枝都去也,……”


正往下写,秃头回道:“菜市街李家着人来请,说是刘姑娘病得不好。”痴珠惊讶,便坐车赴秋心院来。秋痕头上包着绉帕,趺坐床上,身边放着数本书,凝眸若有所思,突见痴珠,便含笑低声说道:“我料得你挨不上十天。其实何苦呢?”痴珠说道:“他们说你病着,叫我怎忍不来呢?”秋痕叹道:“你如今一请就来,往后又是纠缠不清。”痴珠笑道:“往后再商量罢。”自此,痴珠又照旧往来了。是夜,痴珠续成和韵诗,末一章有“博得蛾眉甘一死,果然知己属倾城”之句,至今犹诵人口。…… 第二十五回 




长乐谢章铤《赌棋山庄诗集》有《题魏子安所著书后》五绝三首,一为《石经考》,一为《陔南山馆诗话》,一即《花月痕》 蒋瑞藻《小说考证》八引《雷颠笔记》 ,因知此书为魏子安作。子安名秀仁,福建侯官人,少负文名,而年二十余始入泮,即连举丙午 一八四六 乡试,然屡应进士试不第,乃游山西、陕西、四川,终为成都芙蓉书院院长,因乱逃归,卒,年五十六 一八一九——一八七四 ,著作满家,而世独传其《花月痕》 《赌棋山庄文集》五 。秀仁寓山西时,为太原知府保眠琴教子,所入颇丰,且多暇,而苦无聊,乃作小说,以韦痴珠自况,保偶见之,大喜,力奖其成,遂为巨帙云 谢章铤《课余续录》一 。然所托似不止此,卷首有太原歌妓《刘栩凤传》,谓“倾心于逋客,欲委身焉”,以索值昂中止,将抑郁憔悴死矣。则秋痕盖即此人影子,而逋客实魏。韦、韩,又逋客之影子也,设穷达两途,各拟想其所能至,穷或类韦,达当如韩,故虽自寓一己,亦遂离而二之矣。


全书以伎女为主题者,有《青楼梦》六十四回,题“釐峰慕真山人著”,序则云俞吟香。吟香名达,江苏长洲人,中年颇作冶游,后欲出离,而世事牵缠,又不能遽去,光绪十年 一八八四 以风疾卒,所著尚有《醉红轩笔话》、《花间棒》、《吴中考古录》及《闲鸥集》等 邹弢《三借庐笔谈》四 。《青楼梦》成于光绪四年,则取吴中倡女,以发挥其“游花国,护美人,采芹香,掇巍科,任政事,报亲恩,全友谊,敦琴瑟,抚子女,睦亲邻,谢繁华,求慕道” 第一回 之大理想,所写非实,从可知矣。略谓金挹香字企真,苏州府长洲县人,幼即工文,长更慧美,然不娶,谓欲得“有情人”,而“当世滔滔,斯人谁与?竟使一介寒儒,怀才不遇,公卿大夫竟无一识我之人,反不若青楼女子,竟有慧眼识英雄于未遇时也” 本书《题纲》 。故挹香游狭邪,特受伎人爱重,指挥如意,犹南面王。例如:




…… 挹香与二友及十二妓女 至轩中,三人重复观玩,见其中修饰,别有巧思。轩外名花绮丽,草木精神。正中摆了筵席,月素定了位次,三人居中,众美人亦序次而坐:


第一位鸳鸯馆主人褚爱芳 第二位烟柳山人王湘云 第三位铁笛仙袁巧云 第四位爱雏女史朱素卿 第五位惜花春起早使者陆丽春 第六位探梅女士郑素卿 第七位浣花仙史陆文卿……第十一位梅雪争先客何月娟


末位护芳楼主人自己坐了;两旁四对侍儿斟酒。众美人传杯弄盏,极尽绸缪。挹香向慧琼道:“今日如此盛会,宜举一觞令,庶不负此良辰。”月素道:“君言诚是,即请赐令。”挹香说道:“请主人自己开令。”月素道:“岂有此理,还请你来。”挹香被推不过,只得说道:“有占了。”众美人道:“令官必须先饮门面杯起令,才是。”于是十二位美人俱各斟酒一杯,奉与挹香,挹香一饮而尽,乃启口道:“酒令胜于军令,违者罚酒三巨觥!”众美人唯唯听命。…… 第五回 




挹香亦深于情,侍疾服劳不厌,如:




……一日,挹香至留香阁,爱卿适发胃气,饮食不进。挹香十分不舍,忽想着过青田著有《医门宝》四卷,尚在馆中书架内,其中胃气丹方颇多,遂到馆取而复至,查到“香郁散”最宜,令侍儿配了回来,亲侍药炉茶灶;又解了几天馆,朝夕在留香阁陪伴。爱卿更加感激,乃口占一绝,以报挹香。…… 第二十一回 




后乃终“掇巍科”,纳五妓,一妻四妾。又为养亲计,捐职仕余杭,即迁知府,则“任政事”矣。已而父母皆在府衙中跨鹤仙去;挹香亦悟道,将入山,




……心中思想道:“我欲勘破红尘,不能明告他们知道,只得一个私自瞒了他们,踱了出去的了。”次日写了三封信,寄与拜林、梦仙、仲英,无非与他们留书志别的事情,又嘱拜林早日代吟梅完其姻事。过了几天,挹香又带了几十两银子,自己去置办了道袍道服草帽凉鞋,寄在人家,重归家里。又到梅花馆来,恰巧五美俱在,挹香见他们不识不知,仍旧笑嘻嘻在着那里,觉心中还有些对他们不起的念头。想了一回,叹道:“既解情关,有何恋恋!”…… 第六十回 




遂去,羽化于天台山,又归家,悉度其妻妾,于是“金氏门中两代白日升天” 第六十一回 。其子则早抡元;旧友亦因挹香汲引,皆仙去;而曩昔所识三十六伎,亦一一“归班”,缘此辈“多是散花苑主坐下司花的仙女,因为偶触思凡之念,所以谪降红尘,如今尘缘已满,应该重入仙班” 第六十四回 也。


《红楼梦》方板行,续作及翻案者即奋起,各竭智巧,使之团圆,久之,乃渐兴尽,盖至道光末而始不甚作此等书。然其余波,则所被尚广远,惟常人之家,人数鲜少,事故无多,纵有波澜,亦不适于《红楼梦》笔意,故遂一变,即由叙男女杂沓之狭邪以发泄之。如上述三书,虽意度有高下,文笔有妍媸,而皆摹绘柔情,敷陈艳迹,精神所在,实无不同,特以谈钗、黛而生厌,因改求佳人于倡优,知大观园者已多,则别辟情场于北里而已。然自《海上花列传》出,乃始实写妓家,暴其奸谲,谓“以过来人现身说法”,欲使阅者“按迹寻踪,心通其意,见当前之媚于西子,即可知背后之泼于夜叉,见今日之密于糟糠,即可卜他年之毒于蛇蝎” 第一回 。则开宗明义,已异前人,而《红楼梦》在狭邪小说之泽,亦自此而斩也。


《海上花列传》今有六十四回,题“云间花也怜侬著”,或谓其人即松江韩子云,善弈棋,嗜鸦片,旅居上海甚久,曾充报馆编辑,所得笔墨之资,悉挥霍于花丛中,阅历既深,遂洞悉此中伎俩 《小说考证》八引《谈瀛室笔记》 ;而未详其名,自署云间,则华亭人也。其书出于光绪十八年 一八九二 ,每七日印二回,遍鬻于市,颇风行。大略以赵朴斋为全书线索,言赵年十七,以访母舅洪善卿至上海,遂游青楼,少不更事,沉溺至大困顿,旋被洪送令还。而赵又潜返,愈益沦落,至“拉洋车”。书至此为第二十八回,忽不复印。作者虽目光始终不离于赵,顾事迹则仅此,惟因赵又牵连租界商人及浪游子弟,杂述其沉湎征逐之状,并及烟花,自“长三”至“花烟间”具有;略如《儒林外史》,若断若续,缀为长篇。其訾倡女之无深情,虽责善于非所,而记载如实,绝少夸张,则固能自践其“写照传神,属辞比事,点缀渲染,跃跃如生” 第一回 之约者矣。如述赵朴斋初至上海,与张小村同赴“花烟间”时情状云:




……王阿二一见小村,便撺上去嚷道:“耐好啊!骗我,阿是?耐说转去两三个月啘,直到仔故歇坎坎来。阿是两三个月嗄?只怕有两三年哉!……”小村忙陪笑央告道:“耐覅动气,我搭耐说。”便凑着王阿二耳朵边,轻轻的说话。说不到四句,王阿二忽跳起来,沉下脸道:“耐倒乖杀。耐想拿件湿布衫拨来别人着仔,耐未脱体哉,阿是?”小村发急道:“勿是呀,耐也等我说完仔了。”王阿二便又爬在小村怀里去听,也不知咕咕唧唧说些甚么,只见小村说着,又努嘴,王阿二即回头把赵朴斋瞟了一眼,接着小村又说了几句。王阿二道:“耐末那价呢?”小村道:“我是原照旧啘。”王阿二方才罢了;立起身来,剔亮了灯台;问朴斋尊姓;又自头至足,细细打量。朴斋别转脸去,装做看单条。只见一个半老娘姨,一手提水铫子,一手托两盒烟膏,……蹭上楼来,……把烟盒放在烟盘里,点了烟灯,冲了茶碗,仍提铫子下楼自去。王阿二靠在小村身旁烧起烟来,见朴斋独自坐着,便说,“榻床浪来。”朴斋巴不得一声,随向烟榻下手躺下,看着王阿二烧好一口烟,装在枪上,授于小村,飕直吸到底。……至第三口,小村说,“覅吃哉。”王阿二调过枪来,授与朴斋。朴斋吸不惯,不到半口,斗门噎住。……王阿二将签子打通烟眼,替他把火。朴斋趁势捏他手腕,王阿二夺过手,把朴斋腿膀尽力摔了一把,摔得朴斋又痠又痛又爽快。朴斋吸完烟,却偷眼去看小村,见小村闭着眼,朦朦胧胧,似睡非睡光景,朴斋低声叫“小村哥”。连叫两声,小村只摇手,不答应。王阿二道:“烟迷呀,随俚去罢。”朴斋便不叫了。…… 第二回 




至光绪二十年,则第一至六十回俱出,进叙洪善卿于无意中见赵拉车。即寄书于姊,述其状。洪氏无计;惟其女曰二宝者颇能,乃与母赴上海来访,得之,而又皆留连不遽返。洪善卿力劝令归,不听,乃绝去。三人资斧渐尽,驯至不能归,二宝遂为倡,名甚噪。已而遇史三公子,云是巨富,极爱二宝,迎之至别墅消夏,谓将娶以为妻,特须返南京略一屏当,始来迓,遂别。二宝由是谢绝他客,且贷金盛制衣饰,备作嫁资,而史三公子竟不至。使朴斋往南京询得消息,则云公子新订婚,方赴扬州亲迎去矣。二宝闻信昏绝,救之始苏,而负债至三四千金,非重理旧业不能偿,于是复揽客,见噩梦而书止。自跋谓将续作,然不成。后半于所谓海上名流之雅集,记叙特详,但稍失实;至描写他人之征逐,挥霍,及互相欺谩之状,乃不稍逊于前三十回。有述赖公子赏女优一节,甚得当时世态:




……文君改装登场,一个门客凑趣,先喊声“好!”不料接接连连,你也喊好,我也喊好,一片声嚷得天崩地塌,海搅江翻。……只有赖公子捧腹大笑,极其得意。唱过半出,就令当差的放赏。那当差的将一卷洋钱散放在巴斗内,呈赖公子过目,望台上只一撒,但闻索郎一声响,便见许多晶莹焜耀的东西,满台乱滚;台下这些帮闲门客又齐声一号。文君揣知赖公子其欲逐逐,心上一急,倒急出个计较来,当场依然用心的唱,唱罢落场,……含笑入席。不提防赖公子一手将文君拦入怀中;文君慌的推开立起,佯作怒色,却又爬在赖公子肩膀,悄悄的附耳说了几句,赖公子连连点头道:“晓得哉。”…… 第四十四回 




书中人物,亦多实有,而悉隐其真姓名,惟不为赵朴斋讳。相传赵本作者挚友,时济以金,久而厌绝,韩遂撰此书以谤之,印卖至第二十八回,赵急致重赂,始辍笔,而书已风行;已而赵死,乃续作贸利,且放笔至写其妹为倡云。然二宝沦落,实作者豫定之局,故当开篇赵朴斋初见洪善卿时,即叙洪问:“耐有个令妹,……阿曾受茶?”答则曰:“勿曾。今年也十五岁哉。”已为后文伏线也。光绪末至宣统初,上海此类小说之出尤多,往往数回辄中止,殆得赂矣;而无所营求,仅欲摘发伎家罪恶之书亦兴起,惟大都巧为罗织,故作已甚之辞,冀震耸世间耳目,终未有如《海上花列传》之平淡而近自然者。

【第二十六篇 清の狭邪小説】

唐人は登科の後、多く冶遊を作す。習俗相沿えて以て佳話と為す。故に伎家の故事は文人の間にもまたこれを篇章に著す。明及び清に自りて作者は尤も夥し。もし狭邪中の人物事故を以て全書の主幹と為し、かつ組織して長篇と成し数十回に至る者は、蓋し始めて『品花宝鑑』に見ゆ。ただ記するところは則ち伶人なり。

『品花宝鑑』は咸豊二年(一八五二)に刻せられ、乾隆以来の北京の優伶を叙するを専職と為す。記載の内に時に猥辞を雑え、自ら謂う、伶人に邪正あり、狎客にもまた雅俗あり、妍媸を並陳するは固より勧懲の意なりと。

その後に『花月痕』十六巻五十二回あり。韋痴珠・韓荷生は皆偉才にして並州に游幕す。各々相眷の妓あり、韋は秋痕、韓は采秋なり。韋は不遇にして困頓し、秋痕もまた終に嫁すを得ず。韋は亡じ秋痕は殉ず。韓は則ち顕達して侯に封ぜらる。升沈相形ずるの布局なり。

全書にて伎女を主題とする者は『青楼夢』六十四回あり。金挹香なる者が青楼に遊び、伎人に特に愛重せられ、後に科挙に及第して五妓を納め、終に悟道して仙と成るを叙す。

然れども『海上花列伝』出づるに自り、乃ち始めて実に妓家を写し、その奸譎を暴く。「過来人が現身して説法す」と謂い、阅する者をして「跡を按じ踪を尋ね、心にその意を通ぜしめ」んと欲す。則ち開宗明義にして已に前人と異なり、而して『紅楼夢』の狭邪小説に於ける沢もまたここに自りて斬たり。

『海上花列伝』は今六十四回あり、「雲間花也憐儂著」と題す。その書は光緒十八年(一八九二)に出で、毎七日に二回を印し遍く市に鬻ぎ、頗る風行す。大略、趙朴斎を以て全書の線索と為し、趙が上海に至りて青楼に遊び、沈溺して大いに困頓するに至る事を言う。書中の叙述は記載如実にして絶えて誇張少なし。その妓女の書く所と狎客の態とは歴々として紙上に在り。

第38節

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【第二十七篇 清之侠义小说及公案】




明季以来,世目《三国》、《水浒》、《西游》、《金瓶梅》为“四大奇书”,居说部上首,比清乾隆中,《红楼梦》盛行,遂夺《三国》之席,而尤见称于文人。惟细民所嗜,则仍在《三国》、《水浒》。时势屡更,人情日异于昔,久亦稍厌,渐生别流,虽故发源于前数书,而精神或至正反,大旨在揄扬勇侠,赞美粗豪,然又必不背于忠义。其所以然者,即一缘文人或有憾于《红楼》,其代表为《儿女英雄传》;一缘民心已不通于《水浒》,其代表为《三侠五义》。


《儿女英雄传评话》本五十三回,今残存四十回,题“燕北闲人著”。马从善序云出文康手,盖定稿于道光中。文康,费莫氏,字铁仙,满洲镶红旗人,大学士勒保次孙也,“以资为理藩院郎中,出为郡守,洊擢观察,丁忧旋里,特起为驻藏大臣,以疾不果行,卒于家”。家本贵盛,而诸子不肖,遂中落且至困惫。文康晚年块处一室,笔墨仅存,因著此书以自遣。升降盛衰,俱所亲历,“故于世运之变迁,人情之反覆,三致意焉” 并序语 。荣华已落,怆然有怀,命笔留辞,其情况盖与曹雪芹颇类。惟彼为写实,为自叙,此为理想,为叙他,加以经历复殊,而成就遂迥异矣。书首有雍正甲寅观鉴我斋序,谓为“格致之书”,反《西游》等之“怪力乱神”而正之;次乾隆甲寅东海吾了翁识,谓得于春明市上,不知作者何人,研读数四,“更于没字处求之”,始知言皆有物,因补其阙失,弁以数言云云:皆作者假托。开篇则谓“这部评话……初名《金玉缘》;因所传的是首善京都一桩公案,又名《日下新书》。篇中立旨立言,虽然无当于文,却还一洗秽语淫词,不乖于正,因又名《正法眼藏五十三参》,初非释家言也。后来东海吾了翁重订,题曰《儿女英雄传评话》。……” 首回 多立异名,摇曳见态,亦仍为《红楼梦》家数也。


所谓“京都一桩公案”者,为有侠女曰何玉凤,本出名门,而智慧骁勇绝世,其父先为人所害,因奉母避居山林,欲伺间报仇。其怨家曰纪献唐,有大勋劳于国,势甚盛。何玉凤急切不得当,变姓名曰十三妹,往来市井间,颇拓弛玩世;偶于旅次见孝子安骥困厄,救之,以是相识,后渐稔。已而纪献唐为朝廷所诛,何虽未手刃其仇而父仇则已报,欲出家,然卒为劝沮者所动,嫁安骥。骥又有妻曰张金凤,亦尝为玉凤所拯,乃相睦如姊妹,后各有孕,故此书初名《金玉缘》。


书中人物亦常取同时人为蓝本;或取前人,如纪献唐,蒋瑞藻 《小说考证》八 云:“吾之意,以为纪者,年也;献者,《曲礼》云:“犬名羹献”;唐为帝尧年号:合之则年羹尧也。……其事迹与本传所记悉合。”安骥殆以自寓,或者有慨于子而反写之。十三妹未详,当纯出作者意造,缘欲使英雄儿女之概,备于一身,遂致性格失常,言动绝异,矫揉之态,触目皆是矣。如叙安骥初遇何于旅舍,虑其入室,呼人抬石杜门,众不能动,而何反为之运以入,即其例也:




……那女子又说道:“弄这块石头,何至于闹的这等马仰人翻的呀?”张三手里拿着镢头,看了一眼,接口说:“怎么‘马仰人翻’呢?瞧这家伙,不这么弄,问得动他吗?打谅顽儿呢。”那女子走到跟前,把那块石头端相了端相,……约莫也有个二百四五十斤重,原是一个碾粮食的碌碡;上面靠边,却有个凿通了的关眼儿。……他先挽了挽袖子,……把那石头撂倒在平地上,用右手推着一转,找着那个关眼儿,伸进两个指头去勾住了,往上只一悠,就把那二百多斤的石头碌碡,单撒手儿提了起来。向着张三、李四说道:“你们两个也别闲着,把这石头上的土给我拂落净了。”两个屁滚尿流,答应了一声,连忙用手拂落了一阵,说:“得了。”那女子才回过头来,满面含春的向安公子道:“尊客,这石头放在哪里?”安公子羞得面红过耳,眼观鼻鼻观心的答应了一声,说:“有劳,就放在屋里罢。”那女子听了,便一手提着石头,款动一双小脚儿,上了台阶儿,那只手撩起了布帘,跨进门去,轻轻的把那块石头放在屋里南墙根儿底下;回转头来,气不喘,面不红,心不跳。众人伸头探脑的向屋里看了,无不咤异。…… 第四回 




结末言安骥以探花及第,复由国子监祭酒简放乌里雅苏台参赞大臣,未赴,又“改为学政,陛辞后即行赴任,办了些疑难大案,政声载道,位极人臣,不能尽述”。因此复有人作续书三十二回,文意并拙,且未完,云有二续,序题“不计年月无名氏”,盖光绪二十年顷北京书估之所造也。


《三侠五义》出于光绪五年 一八七九 ,原名《忠烈侠义传》,百二十回,首署“石玉昆述”,而序则云问竹主人原藏,入迷道人编订,皆不详为何如人。凡此流著作,虽意在叙勇侠之土,游行村市,安良除暴,为国立功,而必以一名臣大吏为中枢,以总领一切豪俊,其在《三侠五义》者曰包拯。拯字希仁,以进士官至礼部侍郎,其间尝除天章阁待制,又除龙图阁学士,权知开封府,立朝刚毅,关节不到,世人比之阎罗,有传在《宋史》 三百十六 。而民间所传,则行事率怪异,元人杂剧中已有包公“断立太后”及“审乌盆鬼”诸异说;明人又作短书十卷曰《龙图公案》,亦名《包公案》,记拯借私访梦兆鬼语等以断奇案六十三事,然文意甚拙,盖仅识文字者所为。后又演为大部,仍称《龙图公案》,则组织加密,首尾通连,即为《三侠五义》蓝本矣。


《三侠五义》开篇,即叙宋真宗未有子,而刘、李二妃俱娠,约立举子者为正宫。刘乃与宫监郭槐密谋,俟李生子,即易以剥皮之狸猫,谓生怪物。太子则付宫人寇珠,命缢而弃诸水,寇珠不忍,窃授陈林,匿八大王所,云是第三子,始得长育。刘又谗李妃去之,忠宦多死。真宗无子,既崩,八王第三子乃入承大统,即仁宗也。书由是即进叙包拯降生,惟以前案为下文伏线而已。复次,则述拯婚宦及断案事迹,往往取他人故事,并附著之。比知开封,乃于民间遇李妃,发“狸猫换子”旧案,时仁宗始知李为真母,迎以归。拯又以忠诚之行,感化豪客,如三侠,即南侠展昭,北侠欧阳春,双侠丁兆兰、丁兆蕙,以及五鼠,为钻天鼠卢方,彻地鼠韩彰,穿山鼠徐庆,翻江鼠蒋平,锦毛鼠白玉堂等,率为盗侠,纵横江湖间,或则偶入京师,戏盗御物,人亦莫能制,顾皆先后倾心,投诚受职,协诛强暴,人民大安。后襄阳王赵珏谋反,匿其党之盟书于冲霄楼,五鼠从巡按颜查散探访,而白玉堂遽独往盗之,遂坠铜网阵而死;书至此亦完。其中人物之见于史者,惟包拯八王等数人;故事亦多非实有,五鼠虽明人之《龙图公案》及《西洋记》皆载及,而并云物怪,与此之为义士者不同,宗藩谋反,仁宗时实未有,此殆因明宸濠事而影响附会之矣。至于构设事端,颇伤稚弱,而独于写草野豪杰,辄奕奕有神,间或衬以世态,杂以诙谐,亦每令莽夫分外生色。值世间方饱于妖异之说,脂粉之谈,而此遂以粗豪脱略见长,于说部中露头角也。




……马汉道:“喝酒是小事,但不知锦毛鼠是怎么个人?”……展爷便将陷空岛的众人说出,又将绰号儿说与众人听了。公孙先生在旁,听得明白,猛然省悟道:“此人来找大哥,却是要与大哥合气的。”展爷道:“他与我素无仇隙,与我合什么气呢?”公孙策道:“大哥,你自想想,他们五人号称‘五鼠’,你却号称‘御猫’,焉有猫儿不捕鼠之理?这明是嗔大哥号称御猫之故,所以知道他要与大哥合气。”展爷道:“贤弟所说,似乎有理。但我这‘御猫’,乃圣上所赐,非是劣兄有意称‘猫’,要欺压朋友。他若真个为此事而来,劣兄甘拜下风,从此后不称御猫,也未为不可。”众人尚未答言,惟赵虎正在豪饮之间,……却有些不服气,拿着酒杯,立起身来道:“大哥,你老素昔胆量过人,今日何自馁如此?这‘御猫’二字,乃圣上所赐,如何改得?傥若是那个甚么白糖咧,黑糖咧,他不来便罢,他若来时,我烧一壶开开的水,把他冲着喝了,也去去我的滞气。”展爷连忙摆手说:“四弟悄言。岂不闻‘窗外有耳’?”刚说至此,只听得拍的一声,从外面飞进一物,不偏不歪,正打在赵虎擎的那个酒杯之上,只听当啷啷一声,将酒杯打了个粉碎。赵爷唬了一跳,众人无不惊骇。只见展爷早已出席,将扇虚掩,回身复又将灯吹灭,便把外衣脱下,里面却是早已结束停当的。暗暗将宝剑拿在手中,却把扇假做一开,只听拍的一声,又是一物打在扇上。展爷这才把扇一开,随着劲一伏身蹿将出去。只觉得迎面一股寒风,嗖的就是一刀。展爷将剑扁着,往上一迎,随招随架,用目在星光之下仔细观瞧,见来人穿着簇青的夜行衣靠,脚步伶俐:依稀是前在苗家集见的那人。二人也不言语,惟听刀剑之声,叮当乱响。展爷不过招架,并不还手,见他刀刀逼紧,门路精奇,南侠暗暗喝采;又想道:“这朋友好不知进退。我让着你,不肯伤你。又何必赶尽杀绝?难道我还怕你不成?”暗道:“也叫他知道知道。”便把宝剑一横,等刀临近,用个“鹤唳长空势”,用力往上一削。只听得噌的一声,那人的刀已分为两段,不敢进步,只见他将身一纵,已上了墙头。展爷一跃身,也跟上去。…… 第三十九回 




当俞樾寓吴下时,潘祖荫归自北京,出示此本,初以为寻常俗书耳,及阅毕,乃叹其“事迹新奇,笔意酣恣,描写既细入毫芒,点染又曲中筋节,正如柳麻子说‘武松打店’,初到店内无人,蓦地一吼,店中空缸空甏,皆瓮瓮有声:闲中着色,精神百倍” 俞序语 。而颇病开篇“狸猫换太子”之不经,乃别撰第一回,“援据史传,订正俗说”。又以书中南侠、北侠、双侠,其数已四,非三能包,加小侠艾虎,则又成五,“而黑妖狐智化者,小侠之师也,小诸葛沈仲元者,第一百回中盛称其从游戏中生出侠义来,然则此两人非侠而何?”因复改名《七侠五义》,于光绪己丑 一八八九 序而传之,乃与初本并行,在江、浙特盛。


其年五月,复有《小五义》出于北京,十月,又出《续小五义》,皆一百二十四回。序谓与《三侠五义》皆石玉昆原稿,得之其徒。“本三千多篇,分上中下三部,总名《忠烈侠义传》,原无大小之说,因上部三侠五义为创始之人,故谓之大五义,中下二部五义即其后人出世,故谓之小五义。”《小五义》虽续上部,而又自白玉堂盗盟单起,略当上部之百一回;全书则以襄阳王谋反,义侠之士竞谋探其隐事为线索。是时白玉堂早被害,余亦渐衰老,而后辈继起,并有父风。卢方之子珍,韩彰之子天锦,徐庆之子良,白玉堂之侄芸生,皆意外凑聚于客舍,益以小侠艾虎,遂结为兄弟。诸人奔走道路,颇诛豪强,终集武昌,拟共破铜网阵,未陷而书毕。《续小五义》即接叙前案,铜网先破,叛王遂逃,而诸侠仍在江湖间诛锄盗贼。已而襄阳王成擒,天子论功,侠义之士皆受封赏,于是全书完。序虽云二书皆石玉昆旧本,而较之上部,则中部荒率殊甚,入下又稍细,因疑草创或出一人,润色则由众手,其伎俩有工拙,故正续遂差异也。




且说徐庆天然的性气一冲的性情,永不思前想后,一时不顺,他就变脸,把桌子一扳,哗喇一声,碗盏皆碎。钟雄是泥人,还有个土性情,拿住了你们,好眼相看,摆酒款待,你倒如此,难怪他怒发。指着三爷道:“你这是怎样了?”三爷说:“这是好的哪。”寨主说:“不好便当怎样?”三爷说:“打你!”话言未了,就是一拳。钟雄就用指尖往三爷肋下一点。“哎哟!”噗咚!三爷就躺于地下。焉知晓钟寨主用的是“十二支讲关法”,又叫“闭血法”,俗语就叫“点穴”。三爷心里明白,不能动转。钟雄拿脚一踢,吩咐绑起来。三爷周身这才活动,又教人捆上了五花大绑。展南侠自己把二臂往后一背,说:“你们把我捆上!”众人有些不肯,又不能不捆。钟雄传令,推在丹凤桥枭首。内中有人嚷道:“刀下留人!”…… 《小五义》第十七回 


且说黑妖狐智化与小诸葛沈仲元二人暗地商议,独出己见,要去上王府盗取盟单。…… 智化 爬伏在悬龛之上,晃千里火照明:下面是一个方匣子,……上头有一个长方的硬木匣子,两边有个如意金环。伸手揪住两个金环,往怀中一带,只听上面瞌一声,下来了一口月牙式铡刀。智化把眼睛一闭,也不敢往前蹿,也不敢往后缩,正在腰脊骨中当啷的一声。智化以为是腰断两截,慢慢睁开眼睛一看,却不觉着疼痛,就是不能动转。列公,这是什么缘故?皆因他是月牙式样;若要是铡草的铡刀,那可就把人铡为两段。此刀当中有一个过陇儿,也不至于甚大;又对着智爷的腰细;又对着解了百宝囊,底下没有东西垫着;又有背后背着这一口刀,连皮鞘带刀尖,正把腰脊骨护住。……总而言之:智化命不该绝。可把沈仲元吓了个胆裂魂飞。…… 《续小五义》第一回 




大小五义之书既尽出,乃即见《正续小五义全传》刊行,凡十五卷六十回,前有光绪壬辰 一八九二 绣谷居士序。其本即取《小五义》及续书,合为一部,去其复重,又汰其铺叙,省略成十三卷五十二回。末二卷八回则谓襄阳王将就擒,而又逸去,至红罗山,举兵复战,乃始败亡,是二书之所无,实为蛇足。行文叙事,亦虽简明有加,而原有之游词余韵,刊落甚多,故神采则转逊矣。


包拯、颜查散而外,以他人为全书枢轴者,在先亦已尝有。道光十八年 一八三八 ,有《施公案》八卷九十七回,一名《百断奇观》,记康熙时施仕纶 当作世纶 为泰州知州至漕运总督时行事,文意俱拙,略如明人之《包公案》,而稍加曲折,一案或亘数回;且断案之外,又有遇险,已为侠义小说先导。至光绪十七年 一八九一 ,则有《彭公案》二十四卷一百回,为贪梦道人作,述彭朋 当作鹏 于康熙中为三河县知县,洊擢河南巡抚,回京出查大同要案等故事,亦不外贤臣微行,豪杰盗宝之类,而字句拙劣,几不成文。


其他类似《三侠五义》之书尚甚夥,通行者有《永庆升平》九十七回,为潞河郭广瑞录哈辅源演说,叙康熙帝变装私访,及除邪教,平逆匪诸案;寻有续一百回,亦贪梦道人作。又有《圣朝鼎盛万年青》八集,共七十六回,无撰人名,则记康熙帝以大政付刘墉、陈宏谋,自游江南,历遇奸徒骫法,英杰效忠之事。余如《英雄大八义》、《英雄小八义》、《七剑十三侠》、《七剑十八义》等,其类尚多,大率出光绪二十年顷。后又有《刘公案》 刘墉 ,《李公案》 李丙寅当作秉衡 ;而《施公案》亦续至十集,《彭公案》续至十七集;《七侠五义》则续至二十四集,千篇一律,语多不通,甚至一人之性格,亦先后顿异,盖历经众手,共成恶书,漫不加察,遂多矛盾矣。


《三侠五义》及其续书,绘声状物,甚有平话习气,《儿女英雄传》亦然。郭广瑞序《永庆升平》云:“余少游四海,常听评词演《永庆升平》一书,……国初以来,有此实事流传。咸丰年间有姜振名先生,乃评谈今古之人,尝演说此书,未能有人刊刻,传流于世。余长听哈辅源先生演说,熟记在心,闲暇之时,录成四卷。……”《小五义》序亦谓与《三侠五义》皆石玉昆原稿,得之其徒,则石玉昆殆亦咸丰时说话人,与姜振名各专一种故事。文康习闻说书,拟其口吻,于是《儿女英雄传》遂亦特有“演说”流风。是侠义小说之在清,正接宋人话本正脉,固平民文学之历七百余年而再兴者也。惟后来仅有拟作及续书,且多滥恶,而此道又衰落。


清初,流寇悉平,遗民未忘旧君,遂渐念草泽英雄之为明宣力者,故陈忱作《后水浒传》,则使李俊去国而王于暹罗 见第十五篇 。历康熙至乾隆百三十余年,威力广被,人民慑服,即士人亦无贰心,故道光时俞万春作《结水浒传》,则使一百八人无一幸免 亦见第十五篇 ,然此尚为僚佐之见也。《三侠五义》为市井细民写心,乃似较有《水浒》余韵,然亦仅其外貌,而非精神。时去明亡已久远,说书之地又为北京,其先又屡平内乱,游民辄以从军得功名,归耀其乡里,亦甚动野人歆羡,故凡侠义小说中之英雄,在民间每极粗豪,大有绿林结习,而终必为一大僚隶卒,供使令奔走以为宠荣,此盖非心悦诚服,乐为臣仆之时不办也。然当时于此等书,则以为“善人必获福报,恶人总有祸临,邪者定遭凶殃,正者终逢吉庇,报应分明,昭彰不爽,使读者有拍案称快之乐,无废书长叹之时。……” 《三侠五义》及《永庆升平》序 云。


而其时欧人之力又侵入中国。

【第二十七篇 清の侠義小説及び公案】

明季以来、世は『三国』・『水滸』・『西遊』・『金瓶梅』を目して「四大奇書」と為し、説部の上首に居す。清の乾隆中に比びて『紅楼夢』盛行し、遂に『三国』の席を奪い、尤も文人に称せらる。ただ細民の嗜むところは則ちなお『三国』・『水滸』に在り。時勢は屢々更り人情は日に昔と異なり、久しくしてまたやや厌き、漸く別流を生ず。大旨は勇侠を揄揚し粗豪を賛美するに在り。然れどもまた必ず忠義に背かず。

『児女英雄伝評話』は本と五十三回にして今は残りて四十回を存す。「燕北閑人著」と題す。文康の手より出づ。蓋し道光中に定稿す。文康は費莫氏にして字は鉄仙、満洲鑲紅旗の人、大学士勒保の次孫なり。家は本より貴盛にして諸子は不肖、遂に中落して困憊に至る。文康は晩年に筆墨を弄し因りてこの書を著して以て自ら遣る。書中に侠女の何玉鳳あり、智慧骁勇絶世にして、安骥を救いて後に之に嫁す。

『三侠五義』は光緒五年(一八七九)に出づ。原名を『忠烈侠義伝』と曰い百二十回なり。首に「石玉昆述」と署す。凡そこの流の著作は意は勇侠の士を叙するに在り、村市を遊行し安良除暴し国の為に功を立つ。而して必ず一の名臣大吏を以て中枢と為し以て一切の豪俊を総領す。その『三侠五義』に在る者は包拯と曰う。

開篇は即ち宋の真宗に未だ子なきを叙す。劉妃と李妃の争いから狸猫換太子の事に至る。復た包拯の降生・婚宦及び断案の事蹟を述ぶ。比いて開封を知るに及び乃ち民間にて李妃に遇い旧案を発す。拯はまた忠誠の行を以て豪客を感化し、南侠展昭・北侠欧陽春・双侠丁兆蘭丁兆蕙及び五鼠の如き者は皆先後に傾心して投誠し職を受け、協力して強暴を誅し、人民は大いに安んず。

その構設は稚弱に傷むところありと雖も、独り草野豪傑を写くに至りては輒ち奕奕として神あり、間にはまた世態を襯し諙諧を雑え、莽夫をして分外に生色あらしむ。時に世間は妖異の説・脂粉の談に飽き、而してこれ遂に粗豪脱略を以て長と見え、説部の中に頭角を露すなり。

当に俞樾の呉下に寓する時、潘祖蔭は北京より帰りてこの本を出示す。初めは以て尋常の俗書と為すも、閲し畢りて乃ちその「事蹟は新奇にして筆意は酣恣、描写は既に細やかにして毫芒に入り、点染はまた曲がりて筋節に中る」を嘆ず。而して頗る開篇の「狸猫換太子」の不経を病む。乃ち別に第一回を撰し「援拠して史伝に基づき俗説を訂正す」。また書名を『七侠五義』と改む。

是の後にまた擬作及び続書ありと雖も多く濫悪にして、この道はまた衰落す。清初に流寇は悉く平らぎ、遺民は旧君を忘れず。而して時去りて明の亡ぶこと已に久遠にして、凡そ侠義小説中の英雄は民間にて毎に極めて粗豪にして大いに緑林の結習あるも、而して終に必ず一大僚の隷卒と為りて使令奔走に供し以て寵栄と為す。これ蓋し心悦誠服にして楽みて臣僕と為るの時にあらざれば弁ぜざるなり。

而してその時、欧人の力はまた中国に侵入す。

第39節

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【序言】




昔尝治理小说,于其史实,有所钩稽。时蒋氏瑞藻《小说考证》已版行,取以检寻,颇获裨助;独惜其并收传奇,未曾理析,校以原本,字句又时有异同。于是凡值涉猎故记,偶得旧闻,足为参证者,辄复别行移写。历时既久,所积渐多;而二年已前又复废置,纸札丛杂,委之蟫尘。其所以不即焚弃者,盖缘事虽猥琐,究尝用心,取舍两穷,有如鸡肋焉尔。今年之春,有所枨触,更发旧稿,杂陈案头。一二小友以为此虽不足以饷名家,或尚非无裨于初学,助之编定,斐然成章,遂亦印行,即为此本。自愧读书不多,疏陋殊甚,空灾楮墨,贻痛评坛。然皆摭自本书,未尝转贩;而通卷俱论小说,如《小浮梅闲话》、《小说丛考》、《石头记索隐》、《红楼梦辨》等,则以本为专著,无烦披拣,冀省篇幅,亦不复采也。凡所录载,本拟力汰复重,以便观览,然有破格,可得而言:在《水浒传》、《聊斋志异》、《阅微草堂笔记》下有复重者,著俗说流传之迹也;在《西游记》下有复重者,揭此书不著录于地志之渐也;在《源流篇》中有复重者,明札记肊说稗贩之多也。无稽甚者,亦在所删,而独留《消夏闲记》、《扬州梦》各一则,则以见悠谬之谈,故书中盖常有,且复至于此耳。翻检之书,别为目录附于末;然亦未尝通观全部者,如王圻《续文献通考》,实仅阅其《经籍考》而已。


一千九百二十六年八月一日,校讫记。鲁迅。

【序言】

かつて小説を研究し、その史実について鉤稽するところがあった。時に蒋氏瑞藻の『小説考証』が既に出版されており、取りて検尋し、裨助を得ること頗る多かった。ただ惜しむらくは伝奇をも併せ収め、未だ理析せず、原本と校するに字句にまた時に異同あるを惜しむ。ここにおいて凡そ故記を涉猟し、偶々旧聞を得、参証に足る者に値えば、輒ちまた別に移写した。時を歴ること既に久しく、積むところ漸く多くなったが、二年前にまた廃置し、紙札は叢雑にして蟫の塵に委ねた。その焚棄を即さざる所以は、蓋し事は猥瑣なりと雖も、究めて嘗て心を用い、取捨ともに窮まり、鶏肋の如きあればなり。今年の春、枨触するところあり、更に旧稿を発き、案頭に雑陳す。一二の小友は、これは名家に饗するに足らずと雖も、あるいはなお初学に裨するところなきにしもあらずと以為し、これを助けて編定し、斐然として章を成し、遂にまた印行す。すなわちこの本なり。自ら読書の多からざるを愧じ、疏陋殊だ甚だし。空しく楮墨を災し、評壇に痛みを遺す。しかれども皆、本書より摭い取りしもの、未だ嘗て転販せず。而して通巻ともに小説を論ず。『小浮梅閑話』・『小説叢考』・『石頭記索隠』・『紅楼夢弁』等の如きは、すなわち本より専著たるを以て、披拣するに煩わしく、篇幅を省かんと冀し、またこれを採らざるなり。凡そ録載するところは、本より力めて復重を汰し、観覧に便ならしめんと擬したが、しかるに破格あり、言い得べし。『水滸伝』・『聊斎志異』・『閲微草堂筆記』の下に復重あるは、俗説流伝の迹を著すなり。『西遊記』の下に復重あるは、この書が地志に著録せられざるの漸を揭くなり。『源流篇』中に復重あるは、札記臆説の稗販の多きを明かすなり。無稽の甚だしき者もまた削るところなるも、独り『消夏閑記』・『揚州夢』各一則を留むるは、すなわち悠謬の談が故書中に蓋し常にあり、かつまたここに至ることを見せんためなり。翻検の書は別に目録を為して末に附す。しかれどもまた未だ嘗て全部を通観せし者にあらず。王圻の『続文献通考』の如きは、実にただその『経籍考』を閲したるのみ。

一千九百二十六年八月一日、校了して記す。魯迅。

第41節

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【唐宋传奇集】




【序例】




东越胡应麟在明代,博涉四部,尝云:“凡变异之谈,盛于六朝,然多是传录舛讹,未必尽幻设语。至唐人,乃作意好奇,假小说以寄笔端。如《毛颖》《南柯》之类尚可,若《东阳夜怪》称成自虚,《玄怪录》元无有,皆但可付之一笑,其文气亦卑下亡足论。宋人所记,乃多有近实者,而文彩无足观。”其言盖几是也。餍于诗赋,旁求新途,藻思横流,小说斯灿。而后贤秉正,视同土沙,仅赖《太平广记》等之所包容,得存什一。顾复缘贾人贸利,撮拾雕镌,如《说海》,如《古今逸史》,如《五朝小说》,如《龙威秘书》,如《唐人说荟》,如《艺苑捃华》,为欲总目烂然,见者眩惑,往往妄制篇目,改题撰人,晋唐稗传,黥劓几尽。夫蚁子惜鼻,固犹香象,嫫母护面,讵逊毛嫱,则彼虽小说,夙称卑卑不足厕九流之列者乎,而换头削足,仍亦骇心之厄也。昔尝病之,发意匡正。先辑自汉至隋小说,为《钩沉》五部讫;渐复录唐宋传奇之作,将欲汇为一编,较之通行本子,稍足凭信。而屡更颠沛,不遑理董,委诸行箧,分饱蟫蠹而已。今夏失业,幽居南中,偶见郑振铎君所编《中国短篇小说集》,埽荡烟埃,斥伪返本,积年堙郁,一旦霍然。惜《夜怪录》尚题王洙,《灵应传》未删于逖,盖于故旧,犹存眷恋。继复读大兴徐松《登科记考》,积微成昭,钩稽渊密,而于李徵及第,乃引李景亮《人虎传》作证。此明人妄署,非景亮文。弥叹虽短书俚说,一遭篡乱,固贻害于谈文,亦飞灾于考史也。顿忆旧稿,发箧谛观,黯澹有加,渝敝则未。乃略依时代次第,循览一周。谅哉,王度《古镜》,犹有六朝志怪余风,而大增华艳。千里《杨倡》,柳珵《上清》,遂极庳弱,与诗运同。宋好劝惩,摭实而泥,飞动之致,眇不可期,传奇命脉,至斯以绝。惟自大历以至大中中,作者云蒸,郁术文苑,沈既济许尧佐擢秀于前,蒋防元稹振采于后,而李公佐白行简陈鸿沈亚之辈,则其卓异也。特《夜怪》一录,显托空无,逮今允成陈言,在唐实犹新意,胡君顾贬之至此,窃未能同耳。自审所录,虽无秘文,而曩曾用心,仍自珍惜。复念近数年中,能恳恳顾及唐宋传奇者,当不多有。持此涓滴,注彼说渊,献我同流,比之芹子,或亦将稍减其考索之劳,而得玩绎之乐耶。于是杜门摊书,重加勘定,匝月始就,凡八卷,可校印。结愿知幸,方欣已欷:顾旧乡而不行,弄飞光于有尽,嗟夫,此亦岂所以善吾生,然而不得已也。犹有杂例,并缀左方:


一、本集所取资者,为明刊本《文苑英华》;清黄晟刊本《太平广记》,校以明许自昌刻本;涵芬楼影印宋本《资治通鉴考异》;董康刻士礼居本《青琐高议》,校以明张梦锡刊本及旧钞本;明翻宋本《百川学海》;明钞本原本《说郛》;明顾元庆刊本《文房小说》;清胡珽排印本《琳琅秘室丛书》等。


一、本集所取,专在单篇。若一书中之一篇,则虽事极煊赫,或本书已亡,亦不收采。如袁郊《甘泽谣》之《红线》,李复言《续玄怪录》之《杜子春》,裴铏《传奇》之《昆仑奴》《聂隐娘》等是也。皇甫枚《飞烟传》,虽亦是《三水小牍》逸文,然《太平广记》引则不云出于何书,似曾单行,故仍入录。


一、本集所取,唐文从宽,宋制则颇加决择。凡明清人所辑丛刊,有妄作者,辄加审正,黜其伪欺,非敢刊落,以求信也。日本有《游仙窟》,为唐张文成作,本当置《白猿传》之次,以章矛尘君方图版行,故不编入。


一、本集所取文章,有复见于不同之书,或不同之本,得以互校者,则互校之。字句有异,惟从其是。亦不历举某字某本作某,以省纷烦。倘读者更欲详知,则卷末具记某篇出于何书何卷,自可覆检原书,得其究竟。


一、向来涉猎杂书,遇有关于唐宋传奇,足资参证者,时亦写取,以备遗忘。比因奔驰,颇复散失。客中又不易得书,殊无可作。今但会集丛残,稍益以近来所见,并为一卷,缀之末简,聊存旧闻。


一、唐人传奇,大为金元以来曲家所取资,耳目所及,亦举一二。第于词曲之事,素未用心,转贩故书,谅多讹略,精研博考,以俟专家。


一、本集篇卷无多,而成就颇亦匪易。先经许广平君为之选录,最多者《太平广记》中文。惟所据仅黄晟本,甚虑讹误。去年由魏建功君校以北京大学图书馆所藏明长洲许自昌刊本,乃始释然。逮今缀缉杂札,拟置卷末,而旧稿潦草,复多沮疑,蒋径三君为致书籍十余种,俾得检寻,遂以就绪。至陶元庆君所作书衣,则已贻我于年余之前者矣。广赖众力,才成此编,谨藉空言,普铭高谊云尔。


中华民国十有六年九月十日,鲁迅校毕题记。时大夜弥天,璧月澄照,饕蚊遥叹,余在广州。

【唐宋伝奇集】

【序例】

東越の胡応麟は明代にありて博く四部に渉り、嘗て云う、「凡そ変異の談は六朝に盛んなり。しかれども多くはこれ伝録の舛訛にして、必ずしも尽く幻設の語にあらず。唐人に至りて乃ち作意して奇を好み、小説を仮りて筆端に寄す。『毛穎』『南柯』の類の如きはなお可なり。『東陽夜怪』の如きは成自虚と称し、『玄怪録』は元無有なり。皆ただこれを一笑に付すべく、その文気もまた卑下にして論ずるに足らず。宋人の記するところは乃ち多く実に近き者あり。而して文彩は観るに足るなし」と。その言は蓋しほぼ是なり。詩賦に餍き、旁ら新途を求め、藻思横流して小説はここに燦たり。而して後賢は正を秉り、土沙と同視し、ただ『太平広記』等の包容するところに頼りて、什一を存するを得たり。顧みるに復た賈人の利を貿うが縁にて、撮拾して雕鐫す。『説海』の如く、『古今逸史』の如く、『五朝小説』の如く、『龍威秘書』の如く、『唐人説薈』の如く、『芸苑捃華』の如く、総目をして爛然たらしめ、見る者を眩惑せんと欲し、往々にして妄りに篇目を制し、撰人を改題す。晋唐の稗伝は黥劓殆ど尽く。夫れ蟻子は鼻を惜しむに、固より猶お香象の如し。嫫母は面を護るに、豈に毛嫱に遜らんや。則ち彼は小説なりと雖も、夙に卑卑にして九流の列に厕るに足らずと称せらるる者なれど、頭を換え足を削ること、仍お駭心の厄たるなり。昔嘗てこれを病み、意を発して匡正せんとす。先ず漢より隋に至る小説を輯め、『鉤沈』五部を為し讖る。漸く復た唐宋伝奇の作を録し、将に一編に彙せんとし、通行本に較すれば、稍々信を憑むに足らんとす。而して屡々顛沛に更り、理董するに遑あらず、行篋に委ね、蟫蠹を飽かしむるのみ。今夏は失業し、幽かに南中に居り、偶々鄭振鐸君の編する『中国短篇小説集』を見る。煙埃を埽蕩し、偽を斥けて本に返す。積年の堙鬱、一旦霍然たり。惜しむらくは『夜怪録』はなお王洙と題し、『霊応伝』は未だ于逖を削らず。継いで復た大興の徐松の『登科記考』を読む。微を積みて昭と成し、鉤稽は淵密なるも、李徵の及第に至りて、乃ち李景亮の『人虎伝』を引きて証と作す。これ明人の妄署にして、景亮の文にあらず。弥々嘆ず、短書俚説と雖も、一たび篡乱に遭えば、固より害を談文に遺し、また災を考史に飛ばすなりと。頓ちに旧稿を憶い、篋を発きて諦観すれば、黯澹は加わるも、渝敝は則ち未だし。乃ち略々時代の次第に依り、循覧して一周す。王度の『古鏡』は猶お六朝志怪の余風あり、而して大いに華艶を増す。千里の『楊倡』、柳珵の『上清』は、遂に極めて庳弱にして、詩運と同じ。宋は勧懲を好み、実を摭いて泥み、飛動の致は眇として期すべからず。伝奇の命脈はここに至りて絶ゆ。ただ大暦より大中中に至り、作者は雲蒸し、文苑に郁術す。沈既済・許堯佐は前に秀を擢で、蒋防・元稹は後に采を振るい、而して李公佐・白行簡・陳鴻・沈亜之の輩は則ちその卓異なり。特に『夜怪』一録は顕かに空無に託すも、唐に在りては実になお新意にして、胡君のこれを貶して此に至るは、窃かに同ずる能わず。自ら審するに録するところは、秘文なしと雖も、曩に嘗て心を用い、仍お自ら珍惜す。この涓滴を持して彼の説淵に注ぎ、我が同流に献じ、之を芹子に比す。ここにおいて門を杜じ書を攤べ、重ねて勘定を加え、匝月にしてようやく就り、凡そ八巻、校印すべし。旧郷を顧みて行かず、飛光を弄して尽くるところあり。嗟夫、これまた豈に吾が生を善くする所以ならんや、しかれども已むを得ざるなり。なお雑例あり、併せて左方に綴る。

一、本集の取資するところは、明刊本『文苑英華』、清黄晟刊本『太平広記』(明許自昌刻本を以て校す)、涵芬楼影印宋本『資治通鑑考異』、董康刻士礼居本『青瑣高議』(明張夢錫刊本及旧鈔本を以て校す)、明翻宋本『百川学海』、明鈔本原本『説郛』、明顧元慶刊本『文房小説』、清胡珽排印本『琳琅秘室叢書』等なり。

一、本集の取るところは専ら単篇にあり。もし一書中の一篇ならば、事極めて煊赫なるも、あるいは本書は既に亡ずるも、また収採せず。袁郊『甘沢謡』の『紅線』、李復言『続玄怪録』の『杜子春』、裴鉶『伝奇』の『崑崙奴』『聶隠娘』等の如きこれなり。皇甫枚の『飛煙伝』は、また『三水小牘』の逸文なりと雖も、『太平広記』の引くところは何書より出づるかを云わず、曾て単行せしに似たり。故になお入録す。

一、唐文は寛に従い、宋制は則ち頗る決択を加う。凡そ明清人の輯する叢刊に妄作する者あれば、輒ち審正を加え、その偽欺を黜く。日本に『遊仙窟』あり、唐の張文成の作と為す。本と当に『白猿伝』の次に置くべきも、章矛塵君が版行を図るを以て編入せず。

一、取るところの文章に不同の書あるいは不同の本に見え、互いに校すべき者あれば、互校す。字句に異あらば、ただその是に従う。

一、向来、雑書を涉猟し、唐宋伝奇に関し参証に資する者に遇えば、時にまた写取して遺忘に備う。今ただ叢残を会集し、併せて一巻と為し末簡に綴じ、聊か旧聞を存す。

一、唐人の伝奇は大いに金元以来の曲家の取資するところと為る。ただ詞曲の事に於いては素より未だ心を用いず。精研博考は以て専家を俟つ。

一、本集の成就は頗る匪易なり。先ず許広平君にこれが選録を為さしめ、最も多き者は『太平広記』中の文なり。去年、魏建功君に北京大学図書館蔵の明許自昌刊本を以て校せしめ、乃ち釈然たり。蒋径三君に書籍十余種を致さしめ、検尋するを得、遂に就緒す。陶元慶君の書衣は年余前に贻りしものなり。広く衆力に頼りて才にこの編を成す。謹みて高誼を銘ず。

第43節

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【科学小说月界旅行辨言】








在昔人智未辟,天然擅权,积山长波,皆足为阻。递有刳木剡木之智,乃胎交通;而浆而讽[1],日益衍进。惟遥望重洋,水天相接,则犹魄悸体栗,谢不敏也。既而驱铁使汽,车舰风驰,人治日张,天行自逊,五州同室,交贻文明,以成今日之世界。然造化不仁,限制是乐,山水之险,虽失其力,复有吸力空气,束缚群生,使难越雷池一步,以与诸星球人类相交际。沉沦黑狱,耳窒目朦,夔以相欺,日颂至德,斯固造物所乐,而人类所羞者矣。然人类者,有希望进步之生物也,故其一部分,略得光明,犹不知餍,发大希望,思斥吸力,胜空气,泠然神行,无有障碍。若培伦氏,实以其尚武之精神,写此希望之进化者也。凡事以理想为因,实行为果,既莳厥种,乃亦有秋。尔后殖民星球,旅行月界,虽贩夫稚子,必然夷然视之,习不为诧。据理以推,有固然也。如是,则虽地球之大同可期,而星球之战祸又起。呜呼!琼孙之“福地”,弥尔之“乐园”,遍觅尘球,竟成幻想;冥冥黄族,可以兴矣。


培伦者,名查理士,美国硕儒也。学术既覃,理想复富。默揣世界将来之进步,独抒奇想,托之说部。经以科学,纬以人情。离合悲欢,谈故涉险,均综错其中。间杂讥弹,亦复谭言微中。十九世纪时之说月界者,允以是为巨擘矣。然因比事属词,必洽学理,非徒摭山川动植,侈为诡辩者比。故当觥觥大谈之际,或不免微露遁辞,人智有涯,天则甚奥,无如何也。至小说家积习,多借女性之魔力,以增读者之美感,此书独借三雄,自成组织,绝无一女子厕足其间,而仍光怪陆离,不感寂寞,尤为超俗。


盖胪陈科学,常人厌之,阅不终篇,辄欲睡去,强人所难,势必然矣。惟假小说之能力,被优孟之衣冠,则虽析理谭玄,亦能浸淫脑筋,不生厌倦。彼纤儿俗子,《山海经》、《三国志》诸书,未尝梦见,而亦能津津然识长股、奇肱之域,道周郎、葛亮之名者,实《镜花缘》及《三国演义》之赐也。故掇取学理,去庄而谐,使读者触目会心,不劳思索,则必能于不知不觉间,获一斑之智识,破遗传之迷信,改良思想,补助文明,势力之伟,有如此者!我国说部,若言情谈故刺时志怪者,架栋汗牛,而独于科学小说,乃如麟角。智识荒隘,此实一端。故苟欲弥今日译界之缺点,导中国人群以进行,必自科学小说始。


《月界旅行》原书,为日本井上勤氏译本,凡二十八章,例若杂记。今截长补短,得十四回。初拟译以俗语,稍逸读者之思索,然纯用俗语,复嫌冗繁,因参用文言,以省篇页。其措辞无味,不适于我国人者,删易少许。体杂言庞之讥,知难幸免。书名原属“自地球至月球在九十七小时二十分间”意,今亦简略之曰《月界旅行》。


癸卯新秋,译者识于日本古江户之旅舍。

【科学小説月界旅行弁言】

昔、人智の未だ開けざるに、天然は権を擅にし、積山長波は皆阻と為すに足りた。逓いに刳木剡木の智あるに及び、乃ち交通を胎し、而して櫂を漕ぎ帆を張り、日に益々衍進す。ただ遥かに重洋を望み、水天相接すれば、則ちなお魄は悸え体は栗き、敏ならざるを謝するなり。既にして鉄を駆り汽を使い、車艦は風馳し、人治は日に張り、天行は自ら遜り、五洲は同室にして、互いに文明を贈り、以て今日の世界を成す。然れども造化は不仁にして、是の楽を限制す。山水の険は、その力を失いたりと雖も、復た吸力と空気あり、群生を束縛し、雷池を一歩も越え難からしめ、以て諸星球の人類と相交わるを得ず。嗟呼、此の世界は豈にまさに絶対のものならんや。

往古より人は天に対して疑問と空想を抱き、嫦娥の奔月の如き、羽衣の飛天の如き、皆この渇望の発露にして、蓋し今に至りて科学の力は漸くこれを実現せんとす。余はこの一篇を訳し、読者に供して、以て科学の偉大なる力と人間の不屈なる精神とを示さんと欲す。蓋しジュール・ヴェルヌの科学小説は、空想にして空想にあらず。今日の科学は已に月界旅行の可能を暗示す。願わくはこの書を読む者、奮起して科学に志し、以て吾が邦の文明を進めんことを。

第44節

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【第八回 温素互和调剂人生    天行就降改良地轴】






却说汽船到着的翌日,便是大会。社长怕来听者好丑不齐,有妨亚电演说,想只准有学问的,入场辩论,其余一概屏绝。无奈人心汹汹,比火焰还烈,要是防止他,真比遏尼格拉大瀑布还难几倍。社长设法,只得拣一块大平原,约距天波市一里,想张许多帆布,遮盖日光,不料次日黎明,大平原上已无容足之地,那里还能张什么帆布呢!社长商议道:“你看此等人,太阳未出的时候,我们去张帆布,他便连说‘不要不要’,好象我们多事似的。到了上午,却要翻转面来,骂我们不周到哩!”果然,一到上午,日光渐烈,众人焦热不堪,便一齐责骂社长,其声如雷,轰轰地不绝。其人数不下三十余万,在前面的,尚能观听一切,其余则只听得喧哗的声音,看着无数的帽顶,宛如落在大旋涡中,转来转去,头晕耳鸣,却连那演坛的形式也看不见一点。少顷,忽然大众向两面闪开,让出一条大路,那边缓缓行来的,便是亚电。右有社长巴比堪,左是社员麦思敦,各著礼服,映着日光光线,缤纷四射,夺人目睛。三人徐上演坛,举目一望,但见无量黑帽,簇拥如波。亚电虽十分欢喜,却如平日一般,略无仓皇之色。此时大众微发欢声,赞美其志。亚电忙脱帽鞠躬作礼,又举手向下一按,是表明请众人镇静之意,便操英语说道:




“诸君不厌炎天,辱临兹地,余实荣幸无量!余既非雄辩者流,又未尝以博物家名于世,何敢在博闻多识的诸彦之前,摇唇弄舌耶!然窃闻吾友巴比堪氏所言,知诸君颇不以余为不足共语,故不揣冒渎,谨呈片言,以慰诸君子热望之盛情于万一。倘言语之间,偶有纰谬,尚乞勿罪!……诸君若闻余言,必以为不辨难易的大愚公,出现于世。然以余观之,则驾弹丸,作月界旅行的事业,征之理论实际,皆易成功。不见人事进化的法则么?其初为步行,继而以人力挽轻车,继而易之以马,遂有迅速的汽车,横行于世界;据此推之,当必有以弹为车之一日。及尔时,则诸惑星与地球上通信之法,甚易处置了。然诸君至此,必曰奈弹丸之速力何?而余则以为如此速力,一无足畏,请观彼众星的速力,岂非远胜弹丸速力么?又此地球之载吾人以运行于太阳之周围也,实速于弹丸三倍,而与他惑星相较,则宛如老人策杖徐步,与骏马之驰驱,其差异为何如?……”




说至此,有人大呼道:“惑星的速力,将来是增加抑是减却呢?”亚电道:




“其速力渐渐减却的。……诸君!或人脑小如芥,禁锢于地球之内,遂谓除此一块土外,必难转移他处,真是偏执已极了!此等人物,在今日虽呐呐诽议,而至将来,必如从烈伯布儿至纽约一般,有迅速、容易、安全三事,以得有彼月界于惑星及他众星之自由。”




大众寂然无声,倾[11]法国侠男儿的雄辩。至此忽现惊异之色,如疑亚电之好为大言,故造奇语者。亚电早知其意,面含微笑,从容说道:




“诸君颇有疑虑之意么?假令余言皆虚,则所疑固非无理。然诸君曷不试算以临时汽车从地球至月球之日数乎?不过三百日耳。两球间之距离,不过地球周围之九倍耳。毫无可异者在,乃已如听《天方夜谭》,骇怪至此!设有人欲向太阳二十七亿二千余万里而运转的奈布青星以旅行,则君等将何如?且以爱克佉斯星距我数千万里之距离,想象地球与月球之距离,则君等又将何如?噫,近若比邻,而妄人乃曰何星与地球之距离凡几许,地球与太阳之距离凡几许,频说天体各个之距离,岂非背理之至么?……余就太阳系思之,此太阳系者,系坚固之实质体,组织之众惑星,皆互相密接,所谓存在其间之空间,仅如金、银、铜、铂等至微极细的空间而已。故彼等所谓何星与地球之距离几何,太阳与何星之距离几何者,果何为乎?其间无真距离之可言也。诸君其思之否?诸君其思之否?”




语声未绝,忽有大呼者道:“道星与地球间,无空间之存在耶!”则麦思敦也。亚电正想着下文演说,不备防忽地霹雳般的大声,直冲耳膜,大吃一惊,几乎从演坛落下,幸而连忙扶住,方免于难。若竟跌落演坛,则身负重伤,是不消说;便是喋喋辩论的无空间说,也可借从演坛落至地面的实有空间,而大悟彻底了。听众口虽不言,而眉目间却显出嘲笑的影子。亚电知道人有嘲我之态,整一整衣,泰然说道:




“听众诸君,适所论地球与月球之距离,惟一细事,殊无足深思者。总之:不越二十年,我地球上人民之半,必能旅行月中,一新耳目。所憾余孤陋乏识,不能解释此极大问题,深用自愧!今乃屡蒙垂问,余不觉忻喜欲狂,遂至失仪,有渎诸颜,罪诚无赦矣。诸君若宥其罪,而再赐以问难,则余必竭所识以对诸君。”




演说者既表明解释疑问之意,社长见他勇气凛凛,力敌万人,十分敬爱,想把实验上的疑问,提出几条,互相问难,以鼓其气,便肃然起立,先述发明之事,令亚电注意,才说道:“我新交之良友乎,君以为月世界及他惑星中,必有人类栖住的么?”亚电微笑答道:




“社长阁下,蒙君不弃,垂询极大疑问,余幸何如!抑此疑问,虽布留佗、瑞典、巴格波儿等诸硕儒,犹不能究其蕴奥,况不学无术如余者乎!然仅就余所见言之,则当从穷理学者之说,以下见解,即由‘宇宙间废物无形’一语想来,则彼世界必可供人类之栖居;既能栖居,则所栖居当必有人类。”




社长道:“此疑问未经确定,亦不能援引定理,惟由个人思之,自不能不生月球及惑星中,能否栖居之问题耳。故余之独断,则窃以为月球及惑星,乃人类可居之处也。”亚电道:“余意亦复如是。”两人问难之间,坛下众人,也各纷纷议论,甲发论,乙驳击,丙折衷,声如鼎沸,而其多数,则皆执月界及惑星中无可居人类之理。其说道:“若人类欲栖居他世界中,则天授的性质,必当随惑星与太阳的距离而大行变革,否则或为大热力所炙,或为大寒威所虐,断无生存之理的。”亚电答道:




“余适与社长言,未及细听诸君之说,敢谢诸君,并乞少令会场静肃,余将表明反对之意见矣。盖余实将主张,彼世界适于人类之说,以搅破诸君之迷梦者也!余虽非穷理家,然亦略通其义。穷理家云:接近太阳的诸惑星,皆各含少许温素,其温素于轨道上回转之际,与远离太阳诸惑星的多温素,因运转之力,互相均和,得热力平均,以成适于有机体如吾人者可栖居的温度。设余真为穷理学者,余将曰:造化于地球上动物中,示特别生活状态之例甚多,如鱼,如水陆两栖类,其理均难索解。如栖居海中的一种动物,居极深之水底,受与五十或六十气压相等向[12]海水压力,而身体毫无破碎之患。又如栖居水中的一种微虫,于温度全无所感,或在蒸腾如沸的温泉中,或在固结如石的冰海下,像鱼一般,游泳自得。彼造化制造动物,令之生活的方法,千汇万状,固非无理;而为吾人微智所能测者,仅可屈指数耳。然谓因惑星中热力,而动物遂难栖居,则余虽不敏,敢独排众议,力斥其诬者也。使余为化学者,余将曰:世有称雷石者,地球外物也,若分析之,其物质中,含炭素少许,据拉赫来排夫氏之精细试验,知其根源为有机体,且有生命之动物也。使余为神学者,余将曰:信圣保罗言,则神之救援人类的至爱,不仅在此地球,无量世界,无不普遍。然不幸而余非神学者,非化学者,非穷理学者,复非论理学家,不能知造化调和宇宙间物之大法,而惟想象于冥冥之中而已。以是于月世界及他惑星中,适否人类栖居之问题,遂难解决。以不能解决故,余所以汲汲以求之者也!”




右演说才毕,大众已发声狂吼,轰然震天,恐虽两军交战,杀人如麻的时候,也未必有此壮观。其中有几个反对的,高声驳击,却被众人的声音遮断,亚电并没听到一句。其后叫声渐歇,那反对的也就不语了。亚电见无人出来反对,便又慢慢的说道:




“听众诸君,余以浅识,不足释社长之问,只就所见者略言一二而已。然余今所欲言者,非复惑星中能否栖居人类之问题,尚乞垂听之!……余将对固守惑星非人类可居之僻说者,略抒所见。夫诸君以细小之精神,指地球为至良无上的世界,岂不惧大背于理的么?即如诸君所熟知的,地球卫星,只有一个,而裘辟陀、乌拉纽、撒达恩、那布青等星的卫星,却有数个,那有劣于地球之理呢?抑此地球,因其轨道之平面二轴的倾向,而生昼夜长短之差,以苦吾人;又因其倾向,而生四季之差,以苦吾人。吾人所居的不幸之大球面,时而烈寒,时而酷暑。约言之:即交冬令,则僵冻欲死;入夏季,则头脑如灼。其尤不幸者,若骨节痛,若咳嗽,若气喘,若癞,病种万状,以苦吾人,甚至有苦不欲生,以早入鬼箓为快者。而如裘辟陀星等的平面则不然,回转之际,倾斜甚微,设有居民,则必因各带气候,终年相同,而得无垠之乐康,以消岁月。至其气候,此处常春,而卉木明媚;彼处恒夏,而炎阳逼人;甲部分则落叶瑟瑟,时打庭除;乙部分则积雪皑皑,永封溪谷。故裘辟陀星之居民,喜春阳者至春地,宜夏景者适热带,好秋气者居秋地,爱冬日者之寒带,各从所好,以养其生,岂非极大的幸福么!诸君试思余言,即可知裘辟陀星实优于地球远甚,而栖居其中的人类,与吾曹不幸之人类较,其才智体力,必当优胜之理,也就毫无疑义了。今于他事,姑不措问,吾人若欲如裘辟陀星一般,达于圆满之域,则不可缺者惟一事,即令回转之地轴,轨道上之倾斜减少而已。”




此时只听得大呼一声,宛如夏日白雨之先,起个霹雳,其中有人道:







“若吾人人力所及,盍协力发明一大机械,以改良地轴回转的方法何如!”








说还未了,赞叹的声音,又如雷动。发言者为谁?则名轰美国的大滑稽家麦思敦也。凡美国人性质,假使果略有改良地轴法的理,他必凝无量功夫,造调理地球的巨大杠杆,扛举地球,改良方向,所惜者吾人尚未发见此理,虽长于机械学如美国人,亦只得付之无可如何而已。噫!正是:







天则不仁,四时攸异;盲谭改良,聊且快意!








此次大演说,究竟如何情形,如何结果,下回再表。

【第八回 温素互いに和して人生を調剤す 天行就降して地軸を改良す】

さて汽船が着いた翌日は、すなわち大会であった。社長は聴きに来る者の善し悪しが揃わず、亜電の演説に妨げがあるのを怖れ、学問のある者のみを入場させて弁論させ、その余は一概に屏絶しようと思った。如何せん人心は洶洶として、火焔よりもなお烈しく、もしこれを防止せんとすれば、真にナイアガラの大瀑布を堰くよりもなお幾倍も難い。社長は策を設け、やむを得ず一つの大平原を選んだ。天波市より約一里の距たりにして、多くの帆布を張り日光を遮蔽せんと思うたが、不料にも翌日の黎明には大平原の上には已に足を容るる地もなく、どこに何の帆布を張ることができようか。社長は議して道う――

「此の計は行い難し。いっそ露天にて演説を行わんのみ」と。

かくして亜電は壇上に登り、声高く朗々として月界旅行の計画を述べたり。聴衆は数万人にして、皆、耳を傾け、静まり返る。亜電は先ず弾丸の速度と地球の引力との関係を説き、次に砲弾の構造と材料とを論じ、一々科学の原理に照らして証明せり。その弁舌は流るるが如く、理路は整然として、聴く者をして心服せしめざるはなし。温素と互いに和してこそ人生を調剤し得べく、天行は自ずから就降して地軸をも改良し得ると説く。その雄弁は実に壮観にして、聴衆は歓呼して止まず。

第45節

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【第九回 侠男儿演坛奏凯    老社长人海逢仇】






却说麦思敦说了一句笑话,又闹了许久,才觉渐渐镇定。有人说道:“雄辩的演说者乎,闻君所言,已明白许多想象之说了。乞说入本旨,把月界旅行的疑问,实地上研究一研究罢。”其人说完,渐挤近演坛,睁眼看着亚电,见并没有回答,又高声说道:“我等来此,非欲议论地球,我等不是因议月界旅行一事而来的么?”众视其人,则躯干短小,鬓如羚羊,即美国所谓“哥佉髯”也。目灼灼直视坛上,众人挨挤,都置不问。亚电听了大喜道:“君言甚善!此时议论,已入歧路,以后当谈月界之事。”说未毕,即有人喊道:“君言地球的卫星,适于人类之栖居,果如此,则人类必全无气息而后可,盖月球之表面,实无如空气等小分子之物质也。余以此告君者,系发于慈意,且以警……”亚电把头一摇,赤发散乱,大有争斗之态。既而以锐利的眼光,直睨其人,厉声道:“汝言月球全无空气,惟假定之说耳。至其真实,则谁敢任之?”答道:“达于学术的人任之。”亚电道:“真么?”那人道:“真的。”亚电昂头笑道:“噫,阁下,余素爱学者,然金玉其外,败絮其中的伪学者,却深恶之。请君勿复言!”又有人问道:“君知伪学者为何状乎?”亚电曰:“余固知之,如我法兰西以学士自命的先生,乃谓由算术上言,鸟无能飞翔空中之理。又有自许超伦轶群的大人物,乃谓由论理上言,鱼无游泳水中之能。呜呼!此种人物,非狂而何!余实不欲与言,且亦不足与言。”亚电才说完,有人大声叫道:“汝学不修,乃敢论人不学么!”其语势大含轻薄之意。亚电亦大声答道:“余素不学,一无所知;然此身却有敌泰山当北海之勇!”那人道:“然则暴虎凭河之勇而已,非愚即狂。”亚电听了,肃然正色道:“听众诸君,余此来非争学者之徽号,苟月界旅行的事业告成,即我事已毕,其他细故,何必喋喋为!”社长及同盟社员,都注目亚电,见其挺孤身以敌万众,协助鸿业,略无畏葸之概,叹赏不迭。所虑者亚电既是外国人,与众人毫不相谂,今又论议一变,将成争斗,或有险象,也未可知。心中颇怀疑惧。少顷,听得又有人反对道:“演说先生,据余所知,足证月球周围,全无空气之说者甚多。即偶有之,亦必为地球吸力所吸,而被夺于地球。且余尚将引证他说以……”亚电忙道:“可尽君所有,一一言之!”反对者道:“如君所知,光线为气体所横截,则直的光线,必屈折而变方向,故于有星从月后行来时,注视月球,则自星发射的光线,皆直过月球平面的缘端,毫无屈折变向之状。若有空气,何至有如此现象呢?”亚电微笑道:“君言殊似有理,即真修学术之徒,恐亦未免结舌。而余则大不为然。因其系牵强附会之说也。君颇似辩士,请为余略言月中有无火山之事。”其人答道:“有是有的,然今已不喷火了。”亚电道:“然则火山惟一时喷火,而今则仅留遗迹耶?”答道:“然而此不足为空气存在之证。”亚电道:“若惟偏于理论,恐遂无决定之时。今更进一步,略论实验上的事罢。纪元千七百十五年,有著名天文学士路比及哈累二人,察看五月三日的月蚀,于月球中发见奇异的火光,两学士遂确定为月球中由空气而生之电火。”反对者道:“那两人视察时,以地球上从水气发生之现象,误为月球之现象,当时即知其非,大受哂笑,这是经他学士所证明的。”亚电答道:“余犹有说。千七百八十七年时,哈沙氏于月球之表面,发见无数光点,天下咸知之,君辈乃不知么?”那人道:“知之。然君于实论未下注释,余今为注释之:盖因哈沙氏发见之光点,遂谓可推论月球不应缺乏空气之理,余未有闻也。且波亚及埋读夫,岂非研究月球的专门名家么?此两人均主月球无气之说,而其说则若合符节的。”此时大众静听二人讨论,愈出愈奇,都精神发扬,四处乱涌,如大海的波澜一般。虽默不一语,而自有一种奔腾澎湃的声音,弥漫坛下。少顷,亚电又说道:“余请更进一步论之。若著名之法国天文家罗色陀氏,于纪元千八百六十年七月十八日月蚀时,明见新月尖处至凹部间,有横截月球面空气的太阳光线屈折形状,不是个铁证么!阁下还有何说?”那人不能再驳,默然退去。不复有人再来反对。此时亚电恰如大将凯还一般,兵士的欢声,洋洋盈耳,亚电也喜色满面,徐徐说道:“诸君,今虽有非议月球表面空气存在说者,全属谬想,无足与辩。然彼世界的空气,较为稀薄,则容或有之。”有人问道:“设空气稀薄,如君所言,则大山之巅,必无空气,人将何以登山巅呢?”亚电微笑道:“实然。空气汇在山间之平地,其高不过四五百尺而已。”那人又道:“恐有时竟与全无相等,故至月世界时,不可不豫备此事,君以为何如?”亚电道:“先生所言,极合于理。然空气虽薄,必足养人,设忽遇变故,空气竟非常稀薄,则余有一节俭之法,即除特别不可缺时外,全不呼吸是也。”说至此,众人大笑,亚电不能再说,待了许久,笑声才歇,又说道:“诸君于余所言,既无异议,则于月球间空气存在说,谅必亦无疑义了。如此则月球表面,又必有水;若果有水,实余之极大幸福也。且反对诸君……余犹有说,吾辈所见者,仅月球之一面而已。此面既有少许空气,则不能见之一面,必含空气更多。”有人忙问道:“这是什么理呢?”亚电道:“其理么?月球受地球吸力之作用,成鸡卵形,我等所见者,为卵形之尖顶。据荷然氏之测算,则重力中心,应在我们不能见的他半球,故那一半月球,必有更多之水与空气。”亚电说完,颇有人疑为架空想象之说者。亚电道:“此乃纯粹的理论,而发源于机械之定则者。那有可容攻击之理呢!然而我等在可生活的月世界中,能否保全生命的问题,却还要质之听众诸君子。”此时三十余万的听众,忽发赞叹之声,远近相和,虽有几个反对的发论驳击,而如失水的鱼一般,只见他唇腮开阖,声音则并无一丝,传入亚电之耳,那反对的,便着急起来,极力大叫不已。当时激恼了众人,把许多人推出场外,口里喊道:“赶出这些反对的狂人!赶出这些狂人!!”反对的且行且说道:“演说的先生,不欲闻余二三疑问么?”亚电招手道:“汝说汝说,余甚好之!”反对的得了亚电的许可,才立住脚,喘吁吁的说道:“君何故不留意至此耶!驾圆锥形弹丸而至月界,噫,不幸哉!……发射之际,因反动力而有粉身碎骨之祸……君以为何如?”亚电笑道:“我的反对先生,所言亦非无理,然余思美国人以刚强不挠的精神任事,必有免此奇险的良法。君其勿疑!”那人又道:“弹丸飞过空气时,飞力极速,不至发生大热力么?”亚电道:“不然不然!弹丸极厚,且我等当疾飞以出空气之外。”那人道:“食物呢?”亚电道:“余以算术测定,贮足支十二个月之量,而旅行时,只得四日,惟用其少许而已。”那人问道:“弹丸中空气不虑缺乏么?”亚电道:“余以化学之法制造之。”那人又道:“弹丸能恰落在月长[13]之上么?”亚电道:“落于月球中,与落于地球上相较,其力只六分之一耳。故弹丸重量,较在地球时,必减轻六分之一。”反对论者略想一想,又道:“然以余所见,当弹丸堕落时,因重力所激,君的躯体,必至如掷琉璃于石上一般,纷纷四散而不可见……今假令凡诸危难,诸阻碍,均有趋避之法,如君豫想,驾大弹丸,安然以达月中,其后将用何方法,再归地球呢?”亚电道:“余固无再归地球之志。”众人听了,骤不解亚电之意,愕然噤不发语。有几个反对的,趁着空闲,便说:“什么?如此则于学术,仍无裨益;如此则与横死无殊!”其中一人大呼道:“君辈言太过,待我问之。”亚电厉声道:“谁复敢与亚电言者!”有人答道:“欲与君言者,系以人为诞妄不足取,以事为虚伪不能成,而不学无识之一人也。”社长静观亚电与众人讨论,容貌肃然,大有不顾一切之概。至此时,忽见发语的是个社员,便忍不住立起身来,想分开众人,走下去把那人的言语禁止。不料才近众人,已被抑留,一齐举手,把社长擎起,又把亚电擎起,发声呐喊,以表扬两人的名誉。众人争来擎举,杂踏不可言状,其中虽有许多反对的,只是张开两臂,防为他人推倒不迭,那里还有工夫再来驳击。但见万头攒动之间,社长并亚电两人,夹着呐喊声音,忽在此处,忽在彼处,摇动运转之状,宛如狂涛无际的海中,浮着一叶,倏起倏落,见之魂悸!两人乘着有足的船,一剗[14]那时,已到天波地方。天波居民,又有擎举两人,表扬荣誉之意。亚电晓得了,忙逃入茀兰克林旅馆,觉疲劳已极,亟拣一处最好卧室,倒头便睡。惟有社长仍在众人之间,挤来挤去,见还有反对的,遂大声喊道:“有反对会社的大业者,请随我来!来!!”说还未了,已有一人,直跟着社长向捷温司福尔码头而去。其地甚为寥寂,绝无行人。社长立住问道:“君是谁?”其人答道:“余臬科尔也。”社长大声道:“余欲见君,已非一日,今乃相遇于此,何幸如之!”臬科尔道:“余亦如是,故来见君。”社长道:“君曾侮我。”臬科尔道:“然。”社长道:“余将举轻侮三条件以问君,君能答乎!”臬科尔道:“谓立时能答否耶?”社长道:“否否!余欲与君言者,乃重大事,不可令外人知,故当秘密一切,不可不择一寥寂之地,互相决议。去天波市一二里许,有大森林,名曰斯慨挠森林,汝知之否?”臬科尔道:“余夙知之。”社长道:“乞君于明日入森林中待我。……君如与余同意,则余亦来觅君。……且勿忘携汝之旋条枪。”臬科尔道:“汝亦勿忘携汝之旋条枪。”两人谈毕,约期而别。唉,诸君,这一回,有分教:




硝药影中灰大业,暗云堆里泣雄魂。




要知明日在斯慨挠森林,两人演出什么惨[15],且听下回分解。

【第九回 侠男児は演壇に凱を奏す 老社長は人海に仇に逢う】

さて麦思敦が一句の笑話を言いてまた久しく騒いだ後、ようやく漸く鎮まりぬ。ある人言いて道う、「雄弁の演説者よ、君の言を聞き、已に多くの想像の説を明白にせり。乞う、本旨に入り、月界旅行の疑問を実地に研究し給え」と。その人は言い終りて漸く演壇に近づき、目を睜いて亜電を看るに、答える様子もなし。また高声に言いて道う、「我等がここに来たるは、地球を議論せんと欲するにあらず。我等は月界旅行の一事を議せんが為に来たるにあらずや」と。衆はその人を視るに、躯幹は短小にして鬢は羚の如し。

亜電は初めてゆるりと口を開き、月に到る方法を一つ一つ述べ始めたり。先ず大砲を以て弾丸を打ち上げる案を説き、砲身の長さと火薬の量とを計算し、聴衆をして驚嘆せしむ。その侠気と学識とは、まさに侠男児と呼ぶに相応しく、演壇に凱旋の歌を奏するが如し。

第46節

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【第三回 助探险壮士识途    纾贫辛荒村驻马】






前回说亚蓠士自得了法国朋友观剧探幽,颇免羁旅之苦。然华年易逝,不觉又过几时,行期益迫,汤珊氏便送了三封绍介书,一致雷加惠克府长官,一致大教正,一致府尹,嘱其善为招待。至初二日清晨,将所有行李,均搬入华利吉猎舰内,舰长引两人进了船室,虽小仅容膝,然种种装饰,却精美绝伦,颇堪娱目。少顷,汽笛磔磔然鸣了几声,飞沫激舷,遗烟如绠,已向茫漠海原间驶去。亚蓠士登高远眺,极目无垠,白云在天,波静成縠。景色伟大,嗒焉若忘。然偶入船室,则即闻老叔父狺狺然的声音,促膝相对,愈无聊赖。好容易过了两周间,已抵哈卹呵图港口,哈卹呵图者,衣兰岬首府雷加惠克之郊外也。其北有峰,上凌天末,积雪皑皑,绕以游云;列曼望见之大喜,指谓亚蓠士道:“此即火山斯捺勿黎!斯捺勿黎也!!汝盍视之。”亚蓠士那有如许工夫,来看火山,只管招呼行李,舍舟上陆。又把三封绍介书,交了邮局,诸人知之,皆大欢迎,款待忧渥。其中雷加惠克府的博物博士茀力克孙,与亚蓠士尤契。博士善腊丁语,负盛名,好宾客;而亚蓠士则寂寞寡俦。殆将匝月,略一跳荡,老叔父辄呵责随之。今不意得博士,一见如故,羁思为春,天涯游子,喜可知也。


雷加惠克府者,为火山脉地,以繁庶称。彼都人士,熙熙有古风。纪元八百六十一年顷,有海盗曰那独治者,漂流至此,遂率从卒与土蛮战,歼之。筚蕗褴褛,以启山林,渐而占有全岛,名之曰衣兰岬。今之尽力以教岛民开文化为己任者,即茀力克孙博士。风土习俗,知之最深。列曼及亚蓠士就之请益者,日必涉数时间。一日,列曼乘间劝道:“君能从我作地底游乎?”茀力克孙怅然道:“固所愿也。无奈土人留余,逆之恐不利。”列曼道:“君隐遁于未辟之区,余深为君惜。”茀力克孙微笑不答,荐一猎师为两人作导者。列曼称谢而别。次日,果有一壮士,气象威猛,自称猎夫梗斯,踵门求见。亚蓠士见其仪表非凡,叹[30]喜不迭,忙出来应接。无奈这人操着丁抹语言,亚蓠士毫不能解,面面相觑,默然无言;只得请出老叔父来,咭咭  的谭了良久,才知雷加惠克府中,虽有水路,却无舟楫。欲至火山左近,必须陆行。此时送行之人,已拥挤了满屋,列曼也不暇应酬,只管摒挡一切,检了各种器械,及磁石、显微镜、轻便电光镫等,并六个月的食物,装入马车,与诸人作过别,跨马登程。梗斯徒步向前,登山越岭,如履平地。然衣兰岬种的健马,也不劣于梗斯。无论积雪暴风,危岩峻坂,都无畏怖。三人两骑,如离弦的弩箭一般,蹴衰草,逾薮泽,沿寂寞之海岸,入阴郁之森林,渐与叫怀黎吉留的寺院相近。驰驱终日,大觉疲劳。然衣兰岬地方,与欧洲大都不同。每逢六七月间,则杲杲皎鸟,终夜不没。故虽近午后七时,仍如白昼。惟烈风砭骨,渐觉肌肤生粟而已。少时,抵一古村,向民家借了宿。村中民情淳朴,古道犹存。款客者虽无非蔬食菜羹,而其意却十分周挚。小儿绕膝,驯不避人。女子行觞,嫣然劝客。亚蓠士睹此情景,疑入桃源,欢喜无量。叹道:“文明之欧洲,此风坠地久矣!”翌日,列曼报以金,拒不受。三人遂殷勤道谢,策马趱行。


列曼等一行三人,晓行夜宿,看看渐近火山,走路也十分艰苦,沮洳没体,荆棘钩衣,人马皆为劳瘁;然都勇猛前进,不萌退心。又数日,竟到所谓四无人踪,惟石岧峣的所在。但见幽泉暗流,鸣禽巧啭。许多火石岩,更为奇绝:有似鬼怪的,有似美人的,有似动植的,有似刀斧的。怪章诡质,栩栩欲生。凡诸草木,诸金石,无不殊特珍奇,震骇心目。列曼鹗顾四面,不暇究详。口里说着什么:“伟哉夫造化!”大有流连忘返之状。既而怀黎吉留寺院已在目前。寺中住持,衣垢衣,履敝舄,扶杖出迓,盖此寺中僧侣,皆或猎或佃,自食其力;与自称持斋念佛之混帐行子不同,故衣履亦不遑修饰。然其性行却皆坚苦清白,迩于神人。道气盎然,现乎其面。昔衣兰岬岛有诗人曰大罗克逊者,曾幽栖于此。有诗云:“我生七十年,未离乞者相。”力田自食,冲淡无为。至一千八百二十一年,溘然蜕化。四邻居民,亦均有遗世独立之概。其地之高尚可知。亚蓠士等三人,即驻马于此寺。雇了几个土人,令搬着行李,向火山口进发。途中列曼与梗斯两人,纵论火山诸事,渐涉危险。列曼笑问道:“君能从我游乎?”梗斯大笑道:“上穷碧落下黄泉,吾犹不惧!况区区火山口乎?吾往矣!”亚蓠士突然问道:“叔父不怕失道么?此地险甚。”列曼道:“胡说!你随我走!不必怕的!”亚蓠士默然,极目所见,除草木鹿豕外,几无别物,忧惧殊甚。只得又问道:“火山喷火之前,是呈如何征候,须问明土人才是。”列曼怒叱道:“你平日的学问都忘了么?不信我的话么?我已说过,不会错的。”两人且语且行,已至一峡。火山飞灰,漫山皆是。余气勃勃,蒸成白云。列曼道:“这不是已经喷火过的凭据么?决无危险的!”亚蓠士口虽应是,心中终难释然。递夜息旅馆中,忧思过深,屡见噩梦,大呼而醒者数次,此六月二十三日事也。

【第三回 探検を助けて壮士は途を識る 貧辛を纾べて荒村に馬を駐む】

前回に説きし亜蓠士は、フランスの友人を得て観劇探幽し、頗る羈旅の苦を免れたり。然れども華年は逝き易く、覚えず又幾時か過ぎ、行期は益々迫る。湯珊氏はすなわち三封の紹介書を送る。一つは雷加惠克の府長官に致し、一つは大教正に致し、一つは府尹に致す。善く招待せよと嘱す。初二日の清晨に至り、所有の行李をすべて華利吉猟艦の内に搬び入れ、艦長は二人を引いて船室に進む。小さくして僅かに膝を容るるのみなれど、然れども種々の装飾は精美絶倫にして頗る目を娯しませるに堪えたり。少頃にして汽笛は磔磔然と数声鳴り、飛沫は舷を激す。

第47節

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【第四回 拚生命奋身入火口    择中道联步向地心】






这斯捺勿黎火山,高五千仞,戴雪负云,每逢喷火时,照耀四方,虽深夜亦如白昼。亚蓠士及列曼两人,跟着梗斯,彳亍前进,路细如绠,不能容足。亚蓠士至此,始将物理及测地学之原则,参照所见,获益甚多。又察地质,知衣兰岬岛往古必潜海底,火力郁盘,一激而上,遂为陆地。更不知经几何的人治天行,乃成此境。点首太息,徘徊不前。此时路道大难,危险无匹。凝结的火石,光滑如玻璃一般,不能托足。二人口里呼着“滑!滑!”连爬带走,紧随梗斯,不肯稍退。无奈越高越滑,列曼一不留心,忽向下滚。幸而所持铁杖,钩住了火石阶级,始免坠至山脚之祸。到三点钟时,已抵三千二百仞的高处。冷气如冰,拂面欲裂。亚蓠士血色已失,寸步难移。连列曼的老好汉,也气喘不止,身如负重,大呼道:“梗斯!梗斯!暂且歇息罢!”梗斯向前指道:“将到绝顶了,略耐一刻,快走罢!”列曼无法,只得缒着梗斯拄着杖,佝偻再走。忽见尘埃石块,乘着旋风,如大铁柱一般,当面扑到。梗斯大惊,忙麾两人躲在山窈里面,才能避出;旋风已蓬蓬然向前飞去。梗斯道:“这是常有的,倘若躲避不迭,我等都不免化成齑粉。”亚蓠士闻言,心甚惊惧,豫计行程,约须五个时间,始达绝顶,骑虎难下,暗自担忧。加之空气渐稀,呼吸亦迫,宛如失水的鱼,张着口喘息不已。幸而夜间十二点钟,竟至火口左近,向下一望,仅见浮云。足底的太阳,青光荧荧,不能普照。睹其阴森惨憺的情形,几疑非复人间世界。梗斯取出面包,各饱餐了一顿,卧地歇息。岩石之冷,冰人欲僵。片刻后,又向南方进发。偶瞰下界,邃谷如盂,大河如丝,而广厦重楼,则已不可复辨。列曼遥指西方道:“此格林兰角岛也。”亚蓠士抬头看时,果见西方仿佛有若云点者,闪闪天际。惊问道:“这就是格林兰角岛么?”列曼道:“正是。然与此处仅距三十五万尺而已。”亚蓠士再取望远镜细视,大喜道:“果然!果然!我连在水边游泳的白熊,都看见了。”列曼指一高峰,从前曾由此经过者,问梗斯道:“此峰何名?”梗斯端详了一会,答道:“名曰斯恺忒烈者,即此是也。”


是时,斯捺勿黎火山,已在目前。光泽莹然,形如覆釜。周围直径凡五千尺,深约二万方尺。探首俯视,杳如黄泉。梗斯从囊中取出绳索,系在两人腰间,叫道:“小心!小心!!”竟引入杳杳冥冥的黑狱之内。到十二点钟,已达中央,偶一举首,惟见青天一规,蔚蓝澄寂,寒星炯炯,微生芒角而已。洞中复分三岔,直径约各百“趺得”,深浅不知,昼夜莫辨。列曼站在中央的岩石上,放声大呼,四壁震应。亚蓠士骤闻之,疑其坠入深坑之内,高呼救命,战栗不知所为。列曼冷笑道:“我好好的在此,你喊救做甚?”亚蓠士才觉放心,急走近列曼身傍,两手在列曼头上乱摸。列曼笑道:“我说在此,你还不相信么?然梗斯如何了?”梗斯忽冷然答道:“我倦欲眠,略纾辛苦,君等盍亦少安乎?”亚蓠士、列曼两人,便也摸索至梗斯身边,曲肱而卧。然洞穴之中,风声如啸。辗转终夜,难入睡乡。迨第二日,忽遇霖雨,淅淅不止,直至廿八日晌午,始见赫赫日光,射入洞穴之内。列曼忻然指着中央一穴,大声道:“此即达地球中央之道也。亚蓠士乎,梗斯乎,其从我来!”于是两人亦摸索而行,到了洞口,测其直径,约百“趺得”,周围三百“趺得”,偻身一窥,深杳不知所届,毛发为之悚然。亚蓠士战战兢兢,捉着梗斯的手腕,暗自悔恨道:“余当初偶登谯楼,便生厌恶,早知如此,倒不如多登几次的好了。”列曼忽说道:“你们各把行李分开,负在背上,然后下降。”亚蓠士道:“若粮食诸物,则我能背负的。然衣服、绳索、梯子,将如何处置呢?”列曼道:“把他摔下去,就是了。”亚蓠士大惊道:“摔下去么?”列曼见他又发呆问,便大声道:“这何足为奇?你何必如此大惊小怪呢!你看,你看!”遂命梗斯,将粗重物件,都摔下洞去,刹时而尽。惟留下轻便的家伙、粮食,分作三包,各负于背。梗斯在前,列曼及亚蓠士后继,徐徐走入深奥。虽有电光镫,然发光如豆,仅足照见方寸,仍是黑魆魆的,不辨路径高低。渐走至百“趺得”的所在,则阴气萧森,竖人毛发,土石崩坠,窸窣有声,崄巇不可言状。约半点钟,忽听得梗斯大呼道:“不要进来!诸君不要进来!!”

【第四回 生命を拚して奮身して火口に入る 中道を択びて聯歩して地心に向かう】

このスナエフェルス火山は高さ五千仞にして、雪を戴き雲を負う。噴火の時に逢えば四方を照らし、深夜と雖も白昼の如し。亜蓠士及び列曼の両人は、梗斯に跟いて彳亍として前進す。路は細きこと紲の如く、足を容るる能わず。亜蓠士はここに至りて始めて物理及び測地学の原則を、見るところに参照し、益を獲ること甚だ多し。また地質を察するに、衣蘭岬島は往古必ず海底に潜みしを知る。火力は郁盤し、一激して上がり、遂に陸地と為る。更にいかばかりの人治天行を経てか、乃ちこの境を成す。首を点じて太息し、徘徊して前に進まず。

第48節

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【第五回 假光明造物欺人    大侥幸灵泉医渴】






却说亚蓠士及列曼闻梗斯之言,慌忙立住,梗斯道:“呵!你看前面是甚么东西?莫是妖魔窟么?”两人定睛看时,果见远处,仿佛有光,闪闪作怪。列曼大声道:“莫慌,决不要紧的。明日一看,便知底细。”亚蓠士亦大声道:“不是出路么?”列曼道:“或者有之,亦难豫料。今日姑休息于此。清晨再走罢。”梗斯遂取出食物,罗列地下,三人围坐而食。食毕就睡不表。次日醒来,越觉前途似有一线光明,照破黑暗世界。面目衣服,依稀可辨。心中皆甚愉快。列曼途中安慰亚蓠士道:“你看幽寂如此,在家乡刚勃迦时,遇得着如此佳境么?”亚蓠士答道:“幽寂果然幽寂,然未免有凄凉的样子。”列曼道:“你怕么?以后不许再说这宗议论,前路正长,不可自伤锐气的!”亚蓠士道:“叔父,你开口便说前路,究竟这前路何时能到?何时才息呢?”列曼傲然道:“据理讲来,这洞穴之底,必与海面平行。故能探见蕴奥,便可遄返了。”列曼左手提着电镫,右手执杖,且行且语,已出了一道长廊,大笑道:“所谓出路,居然到了。”亚蓠士大失所望,狂叫道:“唉!所见光明,乃即此物耶?”原来前面石壁间,排列着许多天然结晶的石片,棱角修整,如加琢磨;光怪陆离,互相掩映,宛然七宝装成的世界。加以映着电光,愈显得十色五花,缤纷夺目。三人赏观良久,复向前行,踏着从岩上坠落的疏土,足下苏苏有声,疑行秋径。到夜间五点钟,检一地方,豫备安息。穴中虽空气颇稀,不够呼吸,然时有微风吹拂,披襟当之,倒觉满身愉快。于不知不觉间,入了睡乡。次日临行,亚蓠士取出水囊,饮了几掬。忽然埋怨道,“我久已说过,多带些水来,而叔父偏说地中必有石泉,不消携去。今我们已走了这许多日子,可有一滴石泉看见么?此番便不烧死,也一定要渴死的了。”列曼道:“不消着急,你怕没水吃么?囊中的水,饮用五日,尚绰绰有余。那时更行向前,石泉不知多少,谅你还吃他不尽哩!”亚蓠士道:“向前?前面难道与后面不同?未必有罢!”列曼道:“再进深处时,觉温度渐增,必遇泉水。倘若没有,你回去就是了。”亚蓠士见列曼发怒,不敢再说,却曲而行;盖尔时已在深六千“趺得”之处矣。


至七月二日,忽遇十字隧道,三人毫不犹疑,仍向前进。其地既无微光,又甚狭窄,亚蓠士大惧,问道:“毕竟往那一方走,才是?”列曼不答,折而东行,两人只得跟着。或佝偻,或匍匐,难易莫择,艰辛万状。盖地中旅行,既无先导,复无把握,不同在地面上,有地图罗盘,指示方向,只凭着列曼指挥,向前乱撞。倘偶然大意,不消说是难免有性命之忧。然梗斯是个猎夫,不晓得忧深虑远,惟亚蓠士思前想后,步步生愁,将四面石壁,端详了一会,对列曼道:“观此洞穴的两傍岩石,大有渐近地面之状了。”列曼道:“你莫乱想!我们极难的地方,已经过了不知多少,便是渐近地面,有何可怕呢?”亚蓠士大声道:“真的!真的!我们此刻走路,不是像登山一般么?”列曼怒叱道:“胡说!”亚蓠士争道:“胡说?是山!一定是山!”列曼置之不理,纵身飞跑。亚蓠士没法,也只得拚命疾走。忽见电镫的光,返照稍薄,知岩石之质,已与前者不同。便大叫道:“啊!地球第二变革时代的岩石到了。”列曼道:“你又来胡说!”亚蓠士道:“我是在此考察学问!你莫听错了!”便提起电镫,照着岩上的石灰沙土,给列曼看。列曼默然。亚蓠士暗想道:“你也有闭口的时候的么?”然终日说话不止,又觉口干,便向列曼要水。列曼道:“囊中已无滴水,待前面觅得时再饮罢!”亚蓠士不语。过了半日,大叫道:“口又渴,足又痠,不能走了!”列曼大怒道:“你故意纾滞,想回去么?已走了这许多路,能回去的么?”便来搀着亚蓠士的手,挽之前行。亚蓠士且走且说道:“昔哥仑波之探亚美利加也,在舟中合掌誓神,以慰愤懑不平之麦多罗士曰:‘汝姑忍之,若三日后不遇新洲,则誓归故国。’今我亦誓于神,告我叔父曰:‘若一日之后,尚无泉水,我也只得回去的。’”列曼应道:“甚好!甚好!若再无泉水,我亦偕汝言归!汝姑忍之!”此时疾行如飞,又进了一条隧道。久之久之,仍不见有泉水的形迹,连强项的列曼,也只可叹一口气,翻身卧倒,束手待毙了。三人张着口,渴不能耐,喉痛欲裂。亚蓠士伏在列曼身边,喘息不止。梗斯则四处乱钻,寻觅泉水,忽然不知所往。今也两人希望已穷,焦渴欲死。僵卧饮泣,惨不可言!倏见梗斯从对面跑来,尽平生之力,大呼道:“域颠!域颠!!”列曼闻之,一跃而起,曳着亚蓠士,没命的飞奔。原来“域颠”为衣兰岬岛方言,即“水”的意思。所以列曼闻之,如得神托一般,欢喜无尽。忙问道:“在那里!?”梗斯向前乱指,遂随之行。约二千“趺得”,已听得淙淙然的声音,料不在远。列曼大喜,额手道:“此正石泉也!”亚蓠士至此,神色稍定,声嘶道:“流水么?”列曼抚其背,答道:“正是!正是!”然觅了良久,终不见石泉的所在。子细听时,却在后面,越走越远,水声越微。三人十分忧闷,只得返身回来。梗斯静听片时,忽从腰间取出铁锥,向石壁击去。亚蓠士大惊道:“危险!危险!倘凿开石壁,积水涌出,我们不要溺死的么?”列曼道:“不妨!不妨!……泉伏石中,我竟未曾想到,真昏瞆极了!”梗斯神色从容,穿了两“趺得”,已达泉脉。飞泉如弩箭一般,直向外射。亚蓠士急用手去掬,忽大叫一声,退了几步,滑倒在地。列曼大惊道:“为何?为何?”亚蓠士呻吟道:“痛甚,这水是沸的!”列曼回头看时,则水中蒸气,已向上冒,袅袅如雾,弥漫穴中。梗斯取出器具,接了泉水,放在地上,尚未冷透。亚蓠士已爬过来,牛饮而尽。三人又另饮了数盂。列曼道:“此铁矿泉也。故臭味如此!”梗斯又将水囊装满,就近搬了土石,把孔塞住。然流水已汤汤遍地,复从穴间渗出不止。三人至此,始复人色,惘然久之。列曼道:“此水任其自然就下之性,不必理会。亦无什么危险。我们权息于此,待明日再走罢!”于是检了一处干燥地面,一同休息。是日过于疲劳,一卧倒便都酣然睡去,虽水声潺潺,不复能惊梦寐了。

【第五回 光明を仮りて造物は人を欺く 大侥倖にして霊泉は渇を医す】

さて亜蓠士及び列曼は梗斯の言を聞き、慌忙として立ち住む。梗斯道う、「ああ、前面を見よ、あれは何物か。妖魔の窟にあらずや」と。二人は定めて目を睜いて見るに、果たして遠処に仿佛として光あり、閃閃として怪を作す。列曼大声に道う、「慌つるなかれ、決して大事なからん。明日一たび見れば底細を知らん」と。亜蓠士もまた大声に道う、「出路にあらずや」と。列曼道う、「或いはこれあらん。しかれども予料し難し。今日はしばらくここに休息し、清晨にまた歩まん」と。梗斯は遂に食物を取り出し、地下に羅列す。三人は囲み坐して食す。

第49節

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【第十一回 秉热潮入火出火    堕乐土舍生得生】






却说三人一筏,刹时已趁着盘涡,直入叫唤大地狱。血液内凝,烈焰外炽,焦热苦闷,不可名言。亚蓠士如死如生,每觉化为死灰,散布六合。忽觉随了木筏,飞升九天。恍惚自思道:“这是北方么?还是衣兰岬的地下呢?还是恺噶儿火山的下面呢?西边隔亚美利加西岸五百‘密黎’,有火山山脉。至于东方,则纬八十度处,亦有央曼岛的爱士克火山。可怜这筏,不知向那边的火山去寻死哩!”想了一会,便又惘然。至翌朝,觉身体震荡更甚,挣起来向下一瞰,则木筏早已离海,惟见下皆立石,烟焰赫然,傍有略阔的两条隧道,色如泼墨,蒸汽盘旋,火光如金蛇,下照幽谷。亚蓠士惊极,只叫得一声:“叔父!”列曼泰然道:“这又何足为奇呢!火山喷火的时候,硫黄并燃,青光明灭,是常有的。”亚蓠士道:“我固知道,然这烟焰如此利害,万一卷了筏,……”列曼道:“决不至此,你放心罢!”两人问答未终,火焰竟较前稍杀。惟筏下浓厚物质,滚滚如潮,寒暖计已升至百度。列曼道:“啊!”亚蓠士忙道:“怎了?”列曼道:“筏停了!”亚蓠士道:“喷火歇了么?”列曼笑道:“哈!哈!正是!正是!我等也歇了。”亚蓠士再定神看时,则灰石乱飞,轻于蛱蝶。游烟缕缕,夭矫若神龙。亚蓠士又大嚷道:“叔父!叔父!又上去了!”列曼道:“你嚷作甚?你直想歇在这里么?”不过两分时,却又停止。列曼便从怀里掏出时表,看定指针,自语道:“再有十分。”亚蓠士道:“每过十分,停止一次么?”列曼点头道:“正是!这火山喷火,是间歇的。故我等亦略得休憩。”话未毕,果然如弩箭离弦一般,又向上直射。亚蓠士深恐堕落,竭力抱定木筏,目眩头晕,如登云雾。那木筏忽止忽行,也不知几次。只在朦胧间,觉四体不仁,喉舌欲裂。时而闻雷音大震,时而见石液狂飞,几疑有牛首阿旁,将扇煽火,火化无量蛇舌,围着木筏,伸缩吓人。而面目奇魄的梗斯,却犹隐见于烟火盘旋之中,齿粲目圆,如怒如笑。尔时亚蓠士,怀无量恐怖苦闷,也不暇顾列曼,也不能看梗斯,双目复瞑,昏瞀罔觉。不知何时,忽闻有狮子吼,天地震荡,两耳亦自嗡嗡作声。欲待挣扎,却又如被梦魇,动不得分寸。少顷,又觉有人把左臂一提,才得苏醒,睁目看时,梗斯正屹立身旁。列曼欲立又伏,口中大嚷道:“这是那里!这是那里!!”亚蓠士重定了神,张目四顾,知已僵仆山间。不远有一巨穴,便点首会意,叫道:“我等喷出火口了,这是衣兰岬么?”梗斯笑道:“不是,不是。”亚蓠士道:“不是么?”随声仰首,则当初戴雪耀光的高山,更不可见。但有烈日光线,直射童岩,地底地表,不能辨识。亚蓠士沉思良久,忽道:“必不是地底了!然又不是衣兰岬央曼岛么?还是息毕哈侃呢?”列曼道:“总之不是衣兰岬。”亚蓠士道:“央曼岛么?”列曼道:“也不然。你看这火山,非与北方终年负雪,由花刚石所成立者不同么?啊!亚蓠士,你看,……你留心,……”便向上一指,亚蓠士的眼光,即随着列曼指尖,直向上射。但见绝顶的巨穴,每隔十五分时,辄火光赫然,火石烟灰,蓬蓬上舞。亚蓠士忆及前事,张口结舌,不知所云。三人静息良久,气力稍复,始放眼观察这火山的形势。原来此山形如覆釜,高约三百“赛寻”,山麓郁苍,有“阿黎夫卡”、“佛额”、葡萄诸植物,交柯结叶,敻与冱寒的北方不同。数里以外,有湖水湛然,远树森森,如排青荠,仿佛是一座岛屿一般。再望东方,则飞甍参差,居然一大都会。后面有小船坞,奇形殊状的船舶,泛泛碧波间,樯棹成林,帆动疑蝶。再向远处望去,又有无数小屿浅渚,簇然似蚁垤。西惟大海,一碧无垠;水天相接处,露出一座漏斗形的火山,时吐烟雾。北方则仅见沙渚一弯,轻帆几叶而已。亚蓠士喜极,顿忘劳苦,乱跑乱嚷道:“这毕竟是什么所在!乐土!乐土!不是梦么?!”列曼、梗斯,皆不知所对。亚蓠士又独自跑了一个圈子,才见梗斯开口道:“我虽不知是甚么地方,然炎热异常,震荡不息,恐必不是善地。走罢!走罢!免得给飞来的灰石打死了!”亚蓠士也不理会,又张着两手,跑了出去。远眺许久,忽见列曼等两人,已徐步下山。没奈何,也只得追踪而往。回思前事,不异梦游。四面景色,皆平生所未曾梦见。自忖道:“入黄泉隔天日之我,为甚忽到如此乐土呢!?”且走且想,越想越奇。不一会,大声说道:“是亚细亚!已经过印度海岸马拉斯几岛之下了!我等此时,不是正与在欧洲本国的同胞足迹相对么?”列曼愕然,只说得一句:“磁针!”亚蓠士忙应道:“磁针么?……磁针么?据磁针,是明明向北去的!”列曼道:“今日何故却到了热带呢?那个磁针竟如此捉弄人么?”亚蓠士侧着头,默然不答。列曼又道:“此地难道是北极!”亚蓠士大惊道:“北极?不然……然是北极,到也未可料的。”

【第十一回 熱潮を秉りて火に入り火より出づ 楽土に堕ちて生を舍て生を得】

さて三人一筏にして、刹時に已に盤渦に乗じて、直ちに叫喚の大地獄に入る。血液は内に凝り、烈焔は外に炽え、焦熱苦悶は名状すべからず。亜蓠士は死の如く生の如く、毎に己が化して死灰と為り六合に散布するを覚ゆ。忽ち覚えるに木筏に随いて九天に飛升す。恍惚として自ら思いて道う、「これは北方なるか、それとも衣蘭岬の地下なるか、それともカイガル火山の下面なるか。西方はアメリカ西岸より五百マイルを隔て、火山山脈あり。東方に至りては、緯度八十度の処にもまたヤンマイエン島のエスク火山あり」と。

第50節

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【序言】






《域外小说集》为书,词致朴讷,不足方近世名人译本。特收录至审慎,迻译亦期弗失文情。异域文术新宗,自此始入华土。使有士卓特,不为常俗所囿,必将犁然有当于心,按邦国时期,籀读其心声,以相度神思之所在。则此虽大涛之微沤与,而性解思惟,实寓于此。中国译界,亦由是无迟莫之感矣。


己酉正月十五日。

【序言】

『域外小説集』は書と為りて、詞致は朴訥にして、近世の名人の訳本に方ぶるに足らず。特に収録は至って審慎にして、迻訳もまた文情を失わざらんことを期す。異域の文術の新宗は、ここより始めて華土に入る。もし卓特の士あらば、常俗の囿する所と為らず、必ずや犁然として心に当たるところあり、邦国と時期とに按じて、その心声を籀読し、以て神思の在る所を相度せん。すなわちこれは大涛の微漚なりと雖も、性解と思惟は実にここに寓す。中国の訳界もまたこれに由りて遅暮の感なからん。

己酉正月十五日。

第51節

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【略例】






一、集中所录,以近世小品为多,后当渐及十九世纪以前名作。又以近世文潮,北欧最盛,故采译自有偏至。惟累卷既多,则以次及南欧暨泰东诸邦,使符域外一言之实。   


一、装钉均从新式,三面任其本然,不施切削;故虽翻阅数次绝无污染。前后篇首尾,各不相衔,他日能视其邦国古今之别,类聚成书。且纸之四周,皆极广博,故订定时亦不病隘陋。


一、人地名悉如原音,不加省节者,缘音译本以代殊域之言,留其同响;任情删易,即为不诚。故宁拂戾时人,迻徙具足耳。地名无他奥谊。人名则德、法、意、英、美诸国,大氐二言,首名次氏。俄三言,首本名,次父名加子谊,次氏。二人相呼,多举上二名,曰某之子某,而不举其氏。匈加利独先氏后名,大同华土;第近时效法他国,间亦逆施。


一、!表大声,?表问难,近已习见,不俟诠释。此他有虚线以表语不尽,或语中辍。有直线以表略停顿,或在句之上下,则为用同于括弧。如“名门之儿僮——年十四五耳——亦至”者,犹云名门之儿僮亦至;而儿僮之年,乃十四五也。


一、文中典故,间以括弧注其下。此他不关鸿旨者,则与著者小传及未译原文等,并录卷末杂识中。读时幸检视之。




案:知堂先生《关于鲁迅之二》云:“豫才在仙台的医学专门学校退了学,……再到东京的目的……简单的一句话就是欲救中国须从文学始。他的第一步的运动是办杂志。……办杂志不成功,第二部的计画是来译书。……总算印出了两册《域外小说集》。……过了十一个年头,民国九年春天上海群益书社愿意重印,豫才又加了一篇新序,(此文系署我的名字,但实豫才所作,……)头几节是叙述当初的情形的,可以抄在这里:




‘我们在日本留学时候,有一种茫漠的希望:以为文艺是可以转移性情,改造社会的。因为这意见,便自然而然的想到介绍外国新文学这一件事。但做这事业,一要学问,二要同志,三要工夫,四要资本,五要读者。第五样逆料不得,上四样在我们却几乎全无:于是又自然而然的只能小本经营,姑且尝试,这结果便是译印《域外小说集》。


当初的计划,是筹办了连印两册的资本,待到卖回本钱,再印第三第四,以至第X册的。如此继续下去,积少成多,也可以约略绍介了各国名家的著作了。于是准备清楚,在一九○九年的二月,印出第一册,到六月间,又印出了第二册。寄售的地方,是上海和东京。


半年过去了,先在就近的东京寄售处结了帐。计第一册卖去了二十一本,第二册是二十本,以后可再也没有人买了。那第一册何以多卖一本呢?就因为有一位极熟的友人,怕寄售处不遵定价,额外需索,所以亲去试验一回,果然划一不二,就放了心,第二本不再试验了。——但由此看来,足见那二十位读者,是有出必看,没有一人中止的,我们至今很感谢。


至于上海,是至今还没有详细知道。听说也不过卖出了二十册上下,以后再没有人买了。于是第三册只好停板,已成的书,便都堆在上海寄售处堆货的屋子里。过了四五年,这寄售处不幸被了火,我们的书和纸板,都连同化成灰烬,我们这过去的梦幻似的无用的劳力,在中国也就完全消灭了。’”




以上是印书的经过。很难得的机会,能够找到在东京印刷的初版本上册,后又承蒯斯曛先生将下册见赠。内共三篇末署树人名字,即先生手译。那时先生正从章太炎先生受小学,多喜用古字,如渴作,胸作匈,腦作匘,啓作启,氣作气,號作号,尸屍并用;现在将这些古字以及似乎句子难懂的地方,都仍存其旧,盖亦保存一时好尚。即原书《略例》各则,以其足以窥见先生当时对翻译和版本的意见,故虽非全书,亦仍收入,并可作为文化史料之一也。




广平识。

【略例】

一、集中に録するところは、近世の小品を以て多しと為し、後に当に漸く十九世紀以前の名作に及ぶべし。また近世の文潮は北欧最も盛んなるを以て、故に採訳は自ずから偏至あり。ただ累巻既に多くなれば、則ち次を以て南欧及び泰東の諸邦に及び、域外の一言の実に符せしむ。

一、装釘は均しく新式に従い、三面はその本然に任せ、切削を施さず。故に翻閲すること数次なるも絶えて汚染なし。前後の篇の首尾は各々相銜ぜず、他日その邦国古今の別に視て、類聚して書を成すべし。かつ紙の四周は皆極めて広博なるが故に、訂定する時もまた隘陋を病とせず。

一、人名地名は原音を音写し、なるべく原語に近づけんとす。

第52節

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【谩 】


俄国 安特来夫






【一】


吾曰,“汝谩耳!吾知汝谩。”


曰,“汝何事狂呼,必使人闻之耶?”


此亦谩也。吾固未狂呼,特作低语,低极咠咠然,执其手,而此含毒之字曰谩者,乃尚鸣如短蛇。


女复次曰,“吾爱君,汝宜信我。此言未足信汝耶?”遂吻我。顾吾欲牵之就抱,则又逝矣。其逝出薄暗回廊间,有盛宴将已,吾亦从之行。是地何地,吾又安知者。惟以女祈吾莅止,则遂来,观彼舞偶如何婆娑至终夜。众不顾我,亦弗交言,吾离其群,独茕然坐室隅,与乐工次。巨角之口,正当吾坐,自是中发滞声,而每二分时,辄有作野笑者曰,呵——呵——呵!


白云馥郁,时复近我,则彼人也。吾不知胡以能辟除众目,来贡媚于吾一人。顾一刹那间,乃觉其肩与吾倚。一刹那间,吾下其目,乃见颈色皎洁,露素衣华缝中。上其目,乃见辅颊,其白如象齿,发亦盛制。计惟天神,屈膝幽垄之上,为见忘于世之人悲者,始有之也。吾又视其目,则美大而靖,憬于流光,目睛蔚蓝,抱黑瞳子。方吾相度时,其为黑常尔,为深邃不可彻常尔。特能视者又止一时,恐且不逾吾心一跃。惟所感至悠之久,至大之力,皆不前经。吾为之恂栗痛苦,似全生命自化微光,见摄于眸子,以至丧我,——空虚无力,几死矣。而彼人复去,运吾生俱行。偕一伟美傲岸者舞,吾因得审谛其纤微,凡履之形,膊之广,以至鬈发回旋同一之状皆悉。时是人忽目我,初不经意,而几迫吾入于壁。吾受目,亦自平坦无有,若室壁也。


众渐灭火,吾始进就之曰,“时至矣,请导君归。”女愕然曰,“第吾偕斯人往耳。”随指一高华美丽,目不瞬及吾辈者相示。次入虚室,乃复吻我。吾低语曰,“汝谩耳。”而女对曰,“今日尚当相见,君其访我矣。”


*    *    *    *


及吾就归路时,碧色霜晨,已见屋山之背,而全衢止二生物,其一御者,一我也。御者坐而沉思,首前屈,吾坐其后,亦垂首至匈。御者自有其思,吾亦自有,而吾辈所过长衢垣后,睡者百千,又莫不自具所思,自见所梦。吾方思彼人,思彼人谩,复思吾死,时则若崇垣之浴曙色者,实已前见吾死,故其森然鹄立有如此也。吾殊不识御者何思,亦不识睡垣阴者何梦,而吾何思何梦,人亦弗能知。时经大道,既长且直,晨光登于屋脊,万物未动,其色皓然,有冷云馥郁,忽来近我,接耳则闻笑作滞声曰,呵——呵——呵!




【二】


彼人竟弗至,吾期虚矣,暮色降自旻天,而吾殊弗知如何自昏入夕,夕复入夜,一切特如一遥夜,思之栗然。吾惟运期人之步,反复往来,第又不敢近吾欢所居,仅往来相对地而止。每当面进,目必注琉璃小窗,退则又延伫反顾者屡。雪华如针,因刺吾面,而针复铦冷且长,深入心曲,以愆期之嗔恚苦恼,来伤吾心。寒风起于白朔,径趣玄南,拂负冰屋山,则挟雪沙俱下,乱打人首;复扑路次虚镫,镫方有黄焰茕茕,负寒而伏。伤哉焰也!黎明而死耳。以是则得吾怜,念彼乃必以孤生留此道上,况吾亦且去矣。居孤虚凛冽中,焰颤未已,而雪华互逐,正满天下也。


吾待彼矣,而彼乃弗至,时思孤焰与我,殆有甚仿佛者,独吾镫未虚已耳。前此往来大道,已见行人。往往窃起吾后,渐过吾前,状巨且黯,次忽没入白色大宅之隅,旋灭如影。而隅次行人复见,益益密迩,终又入缁色寒空而隐。人悉重裹,弗辨其形,且寂然,甚与吾肖。意往来者十余人,盖无不类我矣。皆有待,皆寒冻,皆寂然,又方深思,悲哀而。


吾待彼矣,而彼乃弗至!


吾不知陷苦恼中,胡为不泣且呼也!


吾不知胡以时复大乐,破颜而笑,指则拳曲如鹰爪,中执一小者,毒者,鸣者,——厥状如蛇,——谩也。谩蜿蜒夺手出,进啮吾心,以此啮之毒,而吾首遂眩。嗟夫,一切谩耳!——


既往方在,方在将来之界域泯矣。时劫之识,如吾未生,与吾生方始,其在我同然,无不似吾常生,或未生,或常生既者。——盖吾未生与吾生方始时,彼实已君我。而思之尤殊异者,乃以彼为有名与质,有始与终。然不也,彼安有名,彼特常谩,彼特常令人待而弗至耳。吾不知吾何忽破颜而笑,时雪镞方刺吾心,接耳则有笑作滞声者,曰,呵——呵——呵!


逮吾张目,乃见巨室明窗出青赤舌作微语曰,“汝见诳矣。当汝孤行期待惆怅时中,彼方在是,妖冶谩,与伟美丈夫之侮汝者语。使汝能疾入杀之,则甚善;缘汝所杀,特谩而已。”吾力握匕首,莞尔答曰,“诺,誓杀之。”而窗愀然目我,又愀然言曰,“汝弗能杀,盖汝手中匕首,谩亦犹彼肳也。”时吾影已失,独小黄焰尚战栗于冽寒断望中,与吾并留道上。寺钟忽动,声泣且颤。雪华方狂踊,则排之直度皓气。吾计其数,乃哑然,钟凡十五击,盖萧寺已古,钟亦如之,其指时虽诚,击乃恒妄,每迫守伺者疾登,急掣其痉挛之槌止之。嗟此耆艾战栗悲凉之音,自且制于严霜,抑又为谁谩者?如是徒谩,不甚愚且惨耶!


末击已,宅门随辟,有华美者降阶,吾仅见其背,顾立识之,此骄蹇之状,昨已视之审矣。吾又识其步,视昨益轻,且有胜态。因念昔者自出此门,步亦常尔,盖凡有男子,使方自善谩女子之唇,得其唼,则步之为状皆然矣。






【三】




吾切齿迫之曰,“语我诚!”而面目依然如冰雪,惊扬其眉,顾盼亦复幽不可彻,曰,“吾尝谩耶?”彼知吾不能示之谩,则仅以一言,——以一新谩,——摧吾覃思弘构,俾无孑遗。吾固期之,彼亦终尔。其外满敷诚色,而内乃暗然,曰,“吾爱君,——吾悉属汝,非耶?”


吾居遥在市外,大野被雪,进瞰幽窗,环野皆黮黯,此外亦惟黮黯屹立,茂密无声。野乃自发清光,如死人面目之在深夜。——巨室盛热,一烛方然,其红焰中,死野又投以碧采。吾曰,“求诚良苦,苟知此,吾其死矣。顾亦何伤,死良胜于罔识。今在汝拥抱唼中,独觉谩存,……吾且见诸汝眸子,……幸语我诚,则吾亦从此别矣。”顾彼默然,目睒睒直贯吾心,斯裂吾神魂,第以探奇之心视我。吾乃呼曰,“答之,不者杀汝。”曰,“趣杀我,吾生亦太久矣。特汝以迫拶求诚,误亦甚哉。”吾闻言长跽,握其手,泣祈相感,——并以求诚,彼则加手吾顶曰,“可怜哉!”吾曰,“幸柔汝心,吾但欲知诚耳。”遂视其额,思此薄壁之后,诚乃攸居,因不觉作异念,顿欲披其头颅,俾得见诚于此。而跃然隐匈次者,心房也,——又安得以此爪裂其匈,俾一观人心何状。时红焰突发悲光,下然及跋,四壁渐入暗中,寂漠悲凉,怖人欲绝。


女低语曰,“可怜哉!”


黄焰忽转作青赤光,一闪而灭,全室黯然。吾已不见彼人颜色,特觉有纤手触肤,遂亦并忘其谩。吾阖目,去想离生,只觉其手,而手乃诚甚。在幽靖中,独闻私语怅然曰,“君拥我,吾甚怖也。”——次复幽靖,次私语怅然又继之,——曰,“君求诚耶?顾我岂知诚者?吾岂自不欲知诚耶?幸护我,吾甚怖也。”逮吾张目,而微黯已苍皇离罘罳,渐集垣上,继乃自匿于屋角。有巨物作死色,临窗来窥,似死人二目,冷如坚冰,来相踪迹。吾辈乃战栗互抱,女则低语曰,“吁,吾甚怖也。”






【四】




吾杀彼矣。吾既杀彼,且目击其僵死,当窗横陈,白野外曜,则加足尸上,笑屑屑然。


咄,此笑岂狂人耶!吾所为笑,以匈肊朗然,呼吸顿适,且中心闿彻,蛊之啮吾心者亦坠耳。吾乃屈身临彼人之上,观其目,此巨而憬于流光者,时已洞辟,既大且浊,状如蜡人,吾能以指开阖之,绝不生怖。盖此幽黑瞳子中,已无复药叉,司谩訑疑忌,且啜吾血者寓之矣。比人牵我行,吾复失笑,众遂恟惧,多毕瑟退去,或则先来相吓,顾其目一与吾目大欢喜光遇,辄又变色止立,足若丁于大地者。


曰,“狂人也!”吾知众作是言,盖自谓已解幽隐之半,而一人独不然。其人肥壮和易,颊如渥丹,乃以他辞目我。顾此辞也,则沉我九渊,目亦弗睹光曜矣。曰,“此可怜人也!”言时至有情,不为恶谑,盖吾已前言之,是人固肥壮而和易者耳。


曰,“此可怜人也!”


吾呼曰,“否否,汝不当以是名我!”吾不知胡为狂呼,则自缘不欲令斯人怅恨耳。而众鲰生之谓吾狂者,乃又大怖而叫,吾视之咥然。


迨众牵吾出陈尸之室,吾即迹得此肥壮和易人,龂龂作大声曰,“吾实福人!唯唯,福人也!”


而此诚甚……






【五】




吾幼尝见豹动物苑中,致碍构思之力,且梗塞吾思久久。此豹甚异他兽,状不惘然,或怒目睨观者,特往来两隅间,由此涉彼,行迹反复相同,合于数术。胁黄金色,每行必触槛阑之一,不及他阑,其首下锐,而行,目不旁睐。槛前聚观者,或谈或笑,而豹往来自如,视众人蔑尔。众对此阴沉不可救之生象,哂者二三,其太半状乃甚虔,色甚,喟然径行,次复反顾而叹,若已悟世所谓自由人,阴实有类于柙兽者。迨吾长而读书,且闻人言无穷之事,则陡念此豹,似无穷暨其苦恼,吾已蚤识之矣。


而今者己亦往来石柙中,弗殊此豹矣。吾行且思,……行两隅间,由此涉彼,思路至促,所思亦苦不能申,似大千世界,已仔吾肩,而世界又止成于一字,是字伟大惨苦,谩其音也。时则匍匐出四隅,蜿蜒绕我魂魄,顾鳞甲灿烂,已为巴蛇。巴蛇啮我,又纠结如铁环,吾大痛而呼,则出吾口者,乃复与蛇鸣酷肖,似吾营卫中已满蛇血矣。曰“谩耳”。


吾行且思,足次缁色之地,俄乃化为深渊,其底不可极,吾足若蹈虚,身亦越烟雾昏冥,出于天外。匈作一息,则深处徐起反响,闻之栗然。响既徐且嘶,似本历劫相传,而每一刹那,辄留其力少许于烟雾质点中者。吾知其物固如迅风,能拔大木,顾入吾耳,乃不过一低语,曰“谩耳”。


低语怒我,顿足叱之曰,“讵复有谩,吾杀之矣。”言已疾退,冀答不入吾耳,而答仍徐出深渊中,曰“谩耳”。


嗟夫,吾误矣!吾杀女子,而使谩乃弗死。吁,使未以祈求讯鞫,煔诚火于汝心,则慎毋杀女子矣!吾往来柙之两隅,由此涉彼,反复思且行。






【六】




彼人之判分诚谩也,幽暗而怖人,然吾亦将从之,得诸天魔坐前,长跪哀之曰,“幸语我诚也!”


嗟夫,惟是亦谩,其地独幽暗耳。劫波与无穷之空虚,欠申于斯,而诚不在此,诚无所在也。顾谩乃永存,谩实不死。大气阿屯,无不含谩。当吾一吸,则鸣而疾入,斯裂吾匈。嗟乎,特人耳,而欲求诚,抑何愚矣!伤哉!


援我!咄,援我来!

【欺瞞】

ロシア アンドレーエフ

【一】

我曰く、「汝は欺くのみ。我は汝が欺くを知る」と。

曰く、「汝は何事ぞ狂呼して、必ず人をしてこれを聞かしむるや」と。

これもまた欺瞞なり。我は固より未だ狂呼せず、特に低語を作すのみ。低きこと極めて咠咠然たり。その手を執るに、而してこの含毒の字なる「欺瞞」なる者は、乃ちなお短蛇の如く鳴る。

女は復た次に曰く、「我は君を愛す。汝は宜しく我を信ずべし。この言は未だ汝を信ぜしむるに足らざるや」と。遂に我に吻す。顧みるに我はこれを牽きて抱に就かしめんと欲するも、則ちまた逝けり。その逝くや、薄暗の回廊の間を出づ。盛宴の将に已まんとするところあり、我もまたこれに従う。

第54節

中文 日本語

【书籍】


俄国 安特来夫






【一】


医生在病人的裸露的胸前,安上听诊筒,静心的听——大的,过于扩张的心脏,发出空虚的声音,撞着肋骨,啼哭似的响,吱吱的轧。这是表示活不长久的凶征候,医生“唔”的侧一侧他的头,但口头却这样说,——


“你应该竭力的避去感动的事才好。看起来,你是在做什么容易疲劳的事务的罢?”


“我是文学者,”病人回答说,微笑着。“怎样,危险么?”


医生一耸眉,摊开了两手。


“危险呵,自然说不定因为什么病……然而再十五年二十年是稳当的,这还不够么?”他说着笑话,因为对于文学的敬意,帮病人穿好了小衫。穿好小衫之后,文学者的脸便显出苍白颜色来,看不清他是年青还是很年老了。他的口唇上,却还含着温和的不安的微笑。


“阿,多谢之至,”他说。  . 


胆怯似的从医生离开了眼光,他许多时光,用眼睛搜寻着可以安放看资的处所,好容易寻到了——办事桌上的墨水瓶和笔架之间,正有着合宜的雅避的好地方。就在这地方,他轻轻的放下了旧的褪色的打皱的三卢布的绿纸币。


“近时似乎没有印出新的来。”医生看着绿纸币,一面想,不知为什么,凄凉的摇一摇头。


五分钟之后,医生在那里诊察其次的病人;文学者却在路上走,对了春天的日光细着眼睛,并且想——为什么红毛发的人,春天走日荫,夏天却走日下的呢?医生也是一个红毛发的。这人倘若说是五年或十年,那还像,现在却说是二十年——总而言之,我是不久的了。这有些怕人,不不,非常怕人,然而……


他窥向自己的胸中,幸福的微笑。


阿阿,太阳的晃耀呵!这如壮盛者,又如含笑而欲下临地面者。






【二】




原稿非常厚,那页数非常多。每页上,都密密的填满了细字的行列,这行列,便全是作者的滴滴的精神。他用了瘦得露骨的手,慎重的翻书。纸面的反射,光明似的雪白的映着他的脸。身旁跪着他的妻,轻轻的接吻于他的那一只骨出细瘦的手上,而且啼哭着。


“喂,不要哭了罢,”他恳求说。“何必哭呢,岂不是并没有要哭的事么?”


“你的心脏,……而且我在世界上要剩了孤身了。剩了孤身,唉唉,上帝呵!”


文学者一手摩着伏在他那膝上的妻的头,并且说,——


“你看!”


眼泪昏了伊的眼力了,原稿的细密的横列在伊眼睛里,波浪似的动摇,断续,低昂。


“你看!”他重复说。“这是我的心脏!这是和你永远存留的。”


垂死的人想活在自己的著作上,是太可伤心的事了。妻的眼泪更其多,更浓厚了,伊所要的是活的心。一切的人们,——无缘无故的人们,冷淡的人们,没有爱的人们,这些一切人们无论谁何所读的死书籍,在伊是用不着的。






【三】




书籍交给印刷所了。这名曰《为了不幸的人们》。


排字匠们一帖一帖的拆散原稿来,他们各人单将自己所担任的一部分去排板。拆散的原稿里,常有着一语的中途起首,不成意义的东西。例如“亲爱”这一字,“亲”留在这一人的手里,“爱”却交在别一个的手里了。然而这完全没有碍。因为他们是决不读自己所排的文句的。


“这半文不值的文人!这胡里胡涂的字是什么!”一个絮叨着说,因为愤怒和讨厌装了嫌脸,用一手遮着眼睛。手指被铅色染得乌黑,那年青的脸上也横着铅色的影,而且一吐痰唾,这也一样的染着死人似的昏暗的颜色。


别一个排字匠,也是年青的男人,——这里是没有老人的,——以猿类的敏捷和灵巧,检出需用的文字来,便低声的开始了哼曲子,——




唉唉,这是我们的黑的运命么,


在我是铁的重担呵重担呵!……




以后的句子他不知道了。调子也是这人随意的捏造,——是一种单调的,吹嘘秋叶的风的低语似的,无可寄托的声音。


别的人都沉默,或者咳嗽,或者吐出暗色的唾沫。各人的上面,电灯发着光,前面的铁网栏的那边,模胡的现出停着的机器的昏暗的形象,机器都等候得疲倦了一般伸出他漆黑的手,显一副沉重的烦难的模样,压着土沥青的地面。机器的数目很不少。而充满着含蓄的精力和隐藏的音响与力量的沉默的黑暗,怯怯的包住了这周围。






【四】




书籍成了杂色的列,站在书架上,看不见后面的墙壁了。书籍又堆在地板上,又积在店后的昏暗的两间屋子里,排得无容足之地了。而且迭在其间的人类的思想,在沉默里向外面颤动而且迸流,似乎在书籍的域中,是全不能有真的平安和真的寂静。


上等似的脸和留了颊须的男人立在电话口,和谁恭敬的交谈。于是低声的骂了“昏虫!”然后大叫道。——


“密式加!”


走进一个孩子来,他便突然间变了冷酷的厉害的严紧的脸,指斥说:“你要叫几次才好?废料!”


孩子吃了惊,着眼,这时胡子的气也平下去了。他并用了手和脚,推出一个书籍的沉重的包来,本想单用手来提,但有点不如意,便摔在原处的地板上。


“拿这个送到雅戈尔·伊凡诺微支那里去。”


孩子用两手去捧包,但那包不听话。


“好好的拿!”那男人大声说。


孩子好容易捧起包来,搬出去了。






【五】




在步道上,密式加挤开了往来的行人。他泥沙似的涂满了雪,被赶到灰色的街心里。沉重的包压在他脊梁上,他跄踉了。马车夫呵斥他。他这时一想那路的远近;便觉得害怕,以为这就要死了。他将沉重的包溜下脊梁来。一面看,一面禁不住欷歔的哭。


“你为什么哭着的?”路过的人问。


密式加呜呜的哭了。群众立刻围上来,走到一个带着腰刀和手枪的性急似的巡警,将密式加和书籍都装在零雇马车上,拉到派出所去了。


“怎么的?”当值的警官从正在写字的簿子上抬起脸来问。


“是背着太大的包裹的。”性急似的巡警回答说,将密式加推到前面去。


警官擎起一只手来,关节格格的响了;其次又擎起了那一只。于是交互的伸直了他登着宽阔的漆长靴的脚。斜了眼睛,从头到脚看一遍这孩子,他然后发出许多的问题,——


“你甚么人?那里来的?姓名呢?什么事?”


密式加一一答应了。


“密式加。百姓。十二岁。主人的差遣。”


警官走着,又复欠伸一回,迈开步,挺着胸脯,走近包裹,嘘一口气,然后伸手轻轻的去摸书籍。


“阿呵!”他用了满足似的口吻说。


包皮的一角已经破损了,警官拨了开来,读那书名——《为了不幸的人们》。


“那么,你,”他用手指招着密式加说,“读读瞧。”


“我认不得字。”


警官笑起来了——


“哈哈哈!”


走进一个络腮胡子的专管护照的人来,烧酒和洋葱的气息喷着密式加,也一样的笑——


“ 哈哈哈!”


此后他们便做起案卷来,而密式加在末尾押了一个小小的十字。




这一篇是一九○一年作,意义很明显,是颜色黯澹的铅一般的滑稽,二十年之后,才译成中国语,安特来夫已经死了三年了。


一九二一年九月十一日,译者记。

【書籍】

ロシア アンドレーエフ

【一】

医者は病人の裸露の胸前に聴診筒を安じ、静心に聴く。大きく、過度に拡張された心臓は空虚の声音を発し、肋骨に撞ち当たり、啼哭するが如く響き、吱吱と軋む。これは活き長からざるの凶徴候を表す。医者は「唔」とその頭を側に一つ傾くるも、口頭にては却ってかく言う――

「あなたは竭力して感動の事を避けるがよろしい。見たところ、あなたは何か疲労し易い事務をしているようですが」

「私は文学者です」と、病人は答えたり。

第55節

中文 日本語

【连翘】


俄国 契里珂夫  






阿阿,春天一清早,连翘花香得怎样的芬芳呵,当太阳还未赶散那残夜的清凉,从夜的花草上吸尽了露水的时候!


是年青时候的一个早晨。我和一个温文美丽的少女,正在野外散步之后的归途。愉快的小鸟的队伙似的,我们跳出小船,便两个两个的分开,各因为送女人回家去,都在街上纷纷走散了。


太阳才照着街市,那金色的光线,正闪闪的晃耀在教会的屋顶和十字架以及高的房屋的窗间。道路还静默而且风凉,人家的窗户里都垂着帷幔。……那窗后面的人们还都落在沉睡中。……我们的足音在早晨的寂静里便听得高声的发响……


从密密的攒着铁钉的长围墙上,沉钿钿的垂着湿润的,盛开着紫的和白的球花的连翘。


阿阿,春天一清早,连翘花香得怎样的非常呵!当你才二十岁,和温文美丽的少女同了道,每一互相瞥视,互相微笑,便喜孜孜的发抖的时候。……


“给我拗一枝那连翘花罢。……”


我们立住了。围墙又高又滑。而且簇着钉。想用手杖钩下那著花最盛的枝条,终于不如意。下雨一般,在我们上,连翘洒下了香露的珠玑。……


“一枝也可以!……”


“白的?”


“就是,……不不,——紫的!……”


我为了温文美丽的少女,去偷连翘花,将自做了牺牲,爬上围墙去了。我被锈的钉刺破了手腕,然而我绝不留心;因为我丝毫没有觉得痛。香气很强烈,我的头便不由的转向了旁边。露滴从枝头直洒在我脸上,捏着的手杖唧唧的响,少女欣然的微笑着,我在伊头上,香雨似的降下了凌晨的清露。……我想将凡是著花的连翘,尽折给伊,白的,以及紫的。……


“已经够了!……”


我便勇士一般的跳下围墙来。那高兴快活的含着爱情的眼睛,以沉默的感谢向了我晃耀。


“这给你……做个……记念。……”


伊不说了,而且将红晕起来的脸藏在连翘里。


“记念!什么的?”


“今朝的散步的记念呵!……连翘的,……而且,一清早,这花怎样的香得非常的事。……”伊说着,向我的脸这一面,递过那润泽的连翘的花束来。


“你的手怎么了?那血?……”


这时我才知道,自己的腕上有着渗出鲜血的伤痕。


“痛么?”


“并不,……这也是记念罢。……”


伊给我一块小小的绢手巾。我用这包了手。于是仿佛为了爱人的名誉的战斗,因而受伤的勇士似的前进了。我们站住,刚要话别的时候,伊讨回手巾去。……


“将这个还了我罢。……”


“不。这存在我这里,……做记念。……”


我还给伊了,是让了步的。这手巾不是已经被我的血染得通红了的么?……


然而,唉唉,所谓人生这一种卑下的散文,……这常常干涉我们的生活,我们向着辽远的太空的莽苍苍的高处,刚刚作势要飞,正在这瞬间,这便来打断了我们的翅子了。


 我在眼睛里,浮着心的弛放和幸福的颜色,捏着那纤细的发抖的少女的手,没有放,以为数秒钟也好,总想拖延一点离别的时光。我凝视着两颊通红的,一半遮在连翘的花束里的少女的脸;而且仿佛觉得酩酊了。但不知道,这是因为连翘的香气,还因为少女的红晕的两颊和娇怯的双眸。……睡得太多的懒洋洋的门丁出来了,而且搔着脑后说:


“唉唉,先生,裤子撕破了,……得缝缝,……这不好……”


我回头向背后看。少女挣出了捏着的手,高声笑着,跑进院子的里面去了。


“伊逃掉了,这是怎的?喂,管门的,你刚才怎么说?你没有怎么样么?”


 门丁委细的说明了理由:


“挂在钉子上了似的!……这不好……”


我一看自己的衣服。于是因为惭愧和屈辱和卑下,脸上仿佛冒出火来……全然,在我那白的连翘花上,似乎被谁唾了一口唾沫。……我向着家,静静的在街上走。早晨的祷告的钟发响了。虽然很少,却已有杂坐马车在石路上飞跑。大门的探望扉开合着,……现世的生活已经开始了。……


便到现在,我还记得那一个春天的早晨,……攒着铁钉的围墙,垂下的连翘的盛开的枝条,馥郁的露水的瀑布,掩映在紫的和白的连翘花间的娇怯的少女的脸。……


而且便到现在,在我的耳朵里,也还听得赶走了幻想和春日清晨的香气的,那粗卤的门丁的声音。


阿阿,一清早,连翘怎样的香得非常呵,在太阳还未从连翘上吸尽了露水的时候,而且你才二十岁,一个温文美丽的少女和你并肩而立的时候!




契里珂夫(Evgeni Tshirikov)的名字,在我们心目中还很生疏,但在俄国,却早算一个契呵夫以后的智识阶级的代表著作者,全集十七本,已经重印过几次了。


契里珂夫以一八六四年生于凯山,从小住在村落里,朋友都是农夫和穷人的孩儿;后来离乡入中学,将毕业,便已有了革命思想了。所以他著作里,往往描出乡间的黑暗来,也常用革命的背景。他很贫困,最初寄稿于乡下的新闻,到一八八六年,才得发表于大日报,他自己说:这才是他文事行动的开端。


他最擅长于戏剧,很自然,多变化,而紧凑又不下于契呵夫。做从军记者也有名,集成本子的有《巴尔干战记》和取材于这回欧战的短篇小说《战争的反响》。


他的著作,虽然稍缺深沉的思想,然而率直,生动,清新。他又有善于心理描写之称,纵不及别人的复杂,而大抵取自实生活,颇富于讽刺和诙谐。这篇《连翘》也是一个小标本。


他是艺术家,又是革命家;而他又是民众教导者,这几乎是俄国文人的通有性,可以无须多说了。


一九二一年十一月二日,译者记。

【連翹】

ロシア チリコフ

ああ、春の一清早、連翹の花のなんと芬芳に香ることか。太陽がまだ残夜の清涼を追い散らさず、夜の花草の上から露水を吸い尽くした時に。

それは年若き時の一つの朝であった。私は一人の温文にして美しき少女と、まさに野外の散歩の後の帰途にあった。愉快な小鳥の隊伍の如く、我々は小船を跳び出し、二人ずつに分かれ、各々女人を送りて家に帰るために、皆街上に紛々と歩み散った。

太陽はようやく街市を照らし、その金色の光は……

第57節

中文 日本語

【幸福】


俄国 阿尔志跋绥夫  






自从妓女赛式加霉掉了鼻子,伊的标致的顽皮的脸正像一个腐烂的贝壳以来,伊的生命的一切,凡有伊自己能称为生命的,统统失掉了。


留在伊这里的,只是一种异样的讨厌的生存,白天并不给伊光明,变了无穷无尽的夜,夜又变作无穷无尽的苦闷的白天。


饿与冻磨灭伊的羸弱的身体,这上面只还挂着两个打皱的乳房与骨出的手脚,仿佛一匹半死的畜生。伊不得不从大街移到偏僻的地方,而且做起手,将自己献与最龌龊最惹厌的男人了。


一晚上,是下霜的月夜,伊来到一条新街,是秋末才造好的。这街在铁路后面,已经是市的尽头,一直通到遍地窟窿的荒凉的所在,在这里几乎没有人家。这地方绝无声响。街灯的列,混着平等静肃的落在死一般的建筑物上的月光,只是微微的发亮。


黑影,那从地洞里爬出来的,咄咄逼人的横在地上,还有电报柱,由电线连结着,白白的蒙了霜,月神一般闪烁。空气是干燥的,但因为严霜,刺得人皮肤烧热。


这宛然是,在这寒冷之下,全世界都已凝结,而且身上的各圆部都用着烧红的铁刺穿。于是身体碎了,皮肤的小片,全从身上离开。从口中呼出的气,像一片云,略略升作青色的亮光,便又凝冻了隐去。


赛式加已经是第五日没有生意了。在这以前,伊就被人从伊的旧寓里打出,并且扣下了伊的最末的好看的腰带。


缓缓的怯怯的动着伊瘦小低弯的形体,在空虚的月下的路边;伊很觉得,仿佛伊在全世界上已经成了孤身,而且早不能通过这荒凉的境地了。伊的脚冻得一刻一刻的加凶,在索索作响的雪上,每一步都引起伊痛楚,似乎露出了鲜血淋漓的骨骼在石头上行走似的。


走到这惨澹的区处中间,赛式加才悟到了伊的没意义的生存的恐怖,伊于是哭了。眼泪从伊的发红的冷定的眼睛里迸出,凝结在暗的烂洞里面,就是以前安着伊的鼻子的地方。没有人看见这眼泪,月亮也同先前一样在大野上亮晶晶的浮着,散布出一样的明朗的青色的光辉。


没有人到来。说不出的感情,在伊只是增高增强起来,而且已经达到了这境界,就是以为人们际此,便要陷入野兽的绝望,用了急迫的声音,狂叫起来。叫彻全原野,叫彻全世界。然而人是默着,只是痉挛的咬紧了牙关。


赛式加祈愿说:“我愿意死,只是死,”但伊忽又沉默了。


这时候,在白色的路上,忽地现出一个男人的黑魆魆的形象,很快的近前,不久便听到雪野踏实的声音,也看见月亮照在他羔皮领上发闪。


赛式加知道,那是在道路尽头的工厂里的一个仆人。


伊在路旁站定,等候着他,用麻木的手交换的拽着袖口,将头埋在肩膀中间,脚是一上一下的顿着。伊的嘴唇似乎是橡皮做的了,只能牵扯的钝滞的动。伊很怕,怕要说不出一句话来。


“大爷,[43]”伊才能听到的低声说。


走来的人略略转过脸来,便又决然的赶快走了。赛式加奋起绝望的勇气,直向前奔,伊跟住他走,一面逼出不自然的亲热的声音劝他说:


“大爷……你同来,……真的。……好罢,就去……我们去罢。我给你看一件东西,会笑断你的肚肠的。……好,我们去。……总之,一定,我什么都做给你看,……我们去罢,爱的人。……”


过客仍旧只是走,对伊并不给一点什么注意。在他板着的脸上圆睁着眼睛,很不生动,似乎是玻璃做的。


赛式加从他的前面跳到后面,又紧缩了双肩,声音里是钝滞的呻吟,而且冷得只是喘气:


“你不要单看这,大爷,我现在这模样了,……我的身子是干净的。……我的住家并不远,我们去罢。……怎?……”


月亮高高的站在平野上,赛式加的声音在霜气的月光中异样的微弱的响。


“好,我们去罢,”赛式加喘息着又踢绊着说,但还是用了跳步在他前面走。“好,你不愿意,……那就求你给两个格利威涅克[44]就是了。买点面包,我整一日还没有吃呢。……你给罢。……好,一个格利威涅克,大爷……爱的人。……”


他们来到一处极冷静的地方的时候,那过客默默的和伊走近了。他的异样的玻璃似的眼睛还是毫无生气的睁在月光里。


“好,你就只给一个格利威涅克,……我的好大爷      ……这在你算什么呢。”


一个最末的绝望的思想,忽然在伊的脑里想到了。


“我做,什么你乐意的。……真的,……我给你看这么一件东西,……我是会想法儿的。……你愿意,我揭起衣服来,……便坐在雪里;……我坐五分钟,……你可以自己瞧着表,……真的,……我只要十戈贝克就坐了。……你真会好笑哩,大爷”


这过客站住了,他的玻璃样的眼睛也因为一种感觉而生动起来,他用了短的断续的声音笑了。


赛式加正对他站着,冷得发抖,伊的眼睛紧紧的钉住他手上或脸上,竭力的陪笑。


“但你可愿意,我却给五卢布,不是十戈贝克么?”过客四顾着说。


赛式加冷得发抖;不信他,也不开口。


“你……听着,……脱光了衣服站在这里。我打你十下。——每一下半卢布,你愿么?”


他不出声的笑而且发抖。


“这冷呢,”赛式加哀诉似的说,惊讶和饿极和疑惑的恐怖,也神经的痉挛的穿透了伊的全身。


“这算什么,……你因此就赚到五卢布,就因为冷。”


“这也很痛罢,你的打,”赛式加含含胡胡的并且十分苦恼的吞吐着说。


“唔,什么,什么——痛?你只要熬着,你就赚到五卢布。”


这过客往前走去了。


赛式加愈抖愈厉害:


“你……那就给五戈贝克罢。……”


这过客往前走去了。


赛式加想拉住他的手,但他擎上来便要打,而且忽然大怒起来,吓得伊倒跳。


这过客已经走远了两三步了。


赛式加哀诉的叫道,“大爷……大爷……这就是了,大爷。”


那人站住了,回过身来。


他从齿缝里简截的说道,“唔。”


赛式加迷迷惑惑的站着。于是伊慢慢的解了身上的结束。伊的冻着的手指,在伊仿佛是别人的了,而且自己也不知道,为什么缘故,伊的眼光总不能离开了那玻璃似的眼睛。


“喂,你……赶快,……有人会来,……”过客从齿缝里不耐烦的说。


寒气四面八方的包围了赛式加的裸体。伊的呼吸要堵住了,似乎有烧得通红的铁忽然粘着了伊的全身,冰冻的皮肤,都撕裂下来了。


“你快打罢,”赛式加喃喃的说,便自己转过背来向着男人;伊的牙齿格格的厮打。


伊一丝不挂的站在他面前,这精赤的小小的身体,在月光寒气和夜里的大野中间,皎洁的雪上,显得非常别致。


“喂,”他鸣动着喉咙喘吁吁的说,“瞧这……要是你能熬,……在这里,五卢布;……要是不能,你叫了,那就到鬼里去!……”


“是了,……你打。……”伊的冻坏的嘴唇喃喃的说;伊全身因为寒冷,都痉挛蜷缩起来了。


过客走到身旁便打,突然间举起他细的手杖,使了全力,落在赛式加的瘦削伶仃的脊梁上。刀割似的创伤从伊身上直钻到脑子里。伊的周围的一切仿佛都成了怕人的痛楚的感觉,合凑着奔流。


“阿,”赛式加的嘴唇里迸出一个短的惊怖的声音来。伊前走了两三步,用伊的两手痉挛的去按那遭打的处所。


“拿开手,……拿开手!……”他跟在伊后面,喘吁吁的叫喊说。


赛式加抽回膊肘,第二下便忽然的又将一样的难当的痛楚烙着伊了。伊呻吟倒地,两手支拄着。正倒下去时,又在伊裸体上,加上了白热的刀剜似的打扑。伊的裸露的肚子便匍在地面,并且几乎失了知觉的咬着积雪。


“九,”有钝滞的喉鸣的声音计着数;同时在伊的身体上又飞过了新的闪电,发出一个新的湿的响声。有东西迸裂了,极象是冰冻的芜菁,于是鲜血喷在雪上。赛式加辗转着像一条蛇,翻过脊梁去,积雪都染了血;伊的洼下的肚皮,在月光底下发亮。正在这一刻,又打着伊左边的胸脯,噗的破了。


“十,”有人在远地里叫。于是赛式加失了神。


但伊又即刻苏醒过来了。


“喂,起来,你这死尸,拿去,”一个急躁不过的声音叫喊说,“我去了,……唔?”


裸体的赛式加将发抖的手痉挛的爬着地面,跄跄踉踉的想站起身,鲜血顺了伊的身子往下滴。伊已经不很觉得寒冷,只在伊所有的肢节里,都有一种未尝经历过的衰弱,不快,苦闷的颤抖,和拉开。


伊惘惘的摸着打过的湿的处所,去穿伊的衣裳。待到伊穿上那冰着的褴褛衣服,很费却许多工夫;伊在月光皎洁的大原野上静静的蠢动。


当过客的黑影已经消灭,伊穿好了衣裳之后,伊才摊开伊捏着拳头的手来。在血污的手掌上,金圆像火花一般灿烂。


——五个,伊想,伊便抱了大的轻松的欢喜的感情了。伊迈开发抖的腿向市上走去,金圆在捏紧的手中。衣服擦着伊身体,给伊非常的痛楚。但伊并不理会这件事。伊的全存在已经充满了幸福的感情,……吃,暖,安心和烧酒。不一刻,伊早忘却,伊方才被人毒打了。


——现在好了;不这么冷了——伊喜孜孜的想,向狭路转过弯去,在那里是夜茶馆的明灯,忽然在伊面前辉煌起来了。




阿尔志跋绥夫(Mikhail Artsybashev)的经历,有一篇自叙传说得很简明:




一八七八年生。生地不知道。进爱孚托尔斯克中学校,升到五年级,全不知道在那里教些甚么事。决计要做美术家,进哈尔科夫绘画学校去了。在那地方学了一整年缺一礼拜,便到彼得堡,头两年是做地方事务官的书记。动笔是十六岁的时候,登在乡下的日报上。要说出日报的名目来,却有些惭愧。开首的著作是V Sljozh,载在 Ruskoje Bagastvo里。此后做小说直到现在。




阿尔志跋绥夫虽然没有托尔斯泰(Tolstoi)和戈里奇(Gorkij)这样伟大,然而是俄国新兴文学的典型的代表作家的一人;他的著作,自然不过是写实派,但表现的深刻,到他却算达了极致。使他出名的小说是《阑兑的死》(Smert Lande),使他更出名而得种种攻难的小说是《沙宁》(Sanin)。


阿尔志跋绥夫的著作是厌世的,主我的;而且每每带着肉的气息。但我们要知道,他只是如实描出,虽然不免主观,却并非主张和煽动;他的作风,也并非因为“写实主义大盛之后,进为唯我”,却只是时代的肖像:我们不要忘记他是描写现代生活的作家。对于他的《沙宁》的攻难,他寄给比拉尔特的信里,以比先前都介涅夫 (Turgenev)的《父与子》,我以为不错的。攻难者这一流人,满口是玄想和神,高雅固然高雅了,但现实尚且茫然,还说什么玄想和神呢?


阿尔志跋绥夫的本领尤在小品;这一篇也便是出色的纯艺术品,毫不多费笔墨,而将“爱憎不相离,不但不离而且相争的无意识的本能”,浑然写出,可惜我的译笔不能传达罢了。


这一篇,写雪地上沦落的妓女和色情狂的仆人,几乎美丑泯绝,如看罗丹 (Rodin)的雕刻;便以事实而论,也描尽了“不惟所谓幸福者终生胡闹,便是不幸者们,也在别一方面各糟蹋他们自己的生涯。”赛式加标致时候,以肉体供人的娱乐,及至烂了鼻子,只能而且还要以肉体供人残酷的娱乐,而且路人也并非幸福者,别有将他作为娱乐的资料的人。凡有太饱的以及饿过的人们,自己一想,至少在精神上,曾否因为生存而取过这类的娱乐与娱乐过路人,只要脑子清楚的,一定会觉得战栗!


现在有几位批评家很说写实主义可厌了,不厌事实而厌写出,实在是一件万分古怪的事。人们每因为偶然见“夜茶馆的明灯在面前辉煌”便忘却了雪地上的毒打,这也正是使有血的文人趋向厌世的主我的一种原因。


一九二○年十月三十日记。

【幸福】

ロシア アルツィバーシェフ

妓女のセシカが鼻を黴してよりこのかた、その標致にして頑皮なる顔はまさに一つの腐爛せる貝殻の如くなりてより、その生命の一切は、凡そ自ら生命と称し得るものは、統べて失われてしまった。

残されたのは、ただ一種の異様に厭わしき生存にして、昼は光明を与えず、変じて無窮無尽の夜と成り、夜はまた変じて無窮無尽の苦悶の昼と成る。

飢えと凍えとがその羸弱なる身体を磨滅す。その上にはただなお二つの皺みたる乳房と、骨の突き出たる手とが掛かるのみ。

第59節

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【挂幅】


夏目漱石














大刀老人决计在亡妻的三周年忌日为止,一定给竖一块石碑。然而靠着儿子的瘦腕,才能顾得今朝,此外再不能有一文的积蓄。又是春天了,摆着赴诉一般的脸,对儿子说道,那忌日也正是三月八日哩。便只答道,哦,是呵,再没有别的话。大刀老人终于决定了卖去祖遗的珍贵的一幅画,拿来做用度。向儿子商量道,好么?儿子便淡漠到令人愤恨的赞成道,这好罢。儿子是在内务省的社寺局里做事的,拿着四十圆的月给。有妻子和两个小孩子,而且对大刀老人还要尽孝养,所以很吃力。假使老人不在,这珍贵的挂幅,也早变了便于融通的东西了。


这挂幅是一尺见方的绢本,因为有了年月,显着红黑颜色了。倘挂在暗的屋子里,黯淡到辨不出画着什么东西来。老人则称之为王若水所画的葵花。而且每月两三次,从柜子里取了出来,拂去桐箱上的尘埃,又郑重的取出里面的东西,立刻挂在三尺的墙壁上,于是定睛的看。诚然,定睛的看着时,那红黑之中,却有瘀血似的颇大的花样。有几处,也还微微的剩着疑是青绿的脱落的瘢痕,老人对了这模糊的唐画的古迹,就忘却了似乎住得太久了的住旧了的人间。有时候,望着挂幅,一面吸烟,或者喝茶。否则单是定睛的看。祖父,这什么,孩子说着走来,想用指头去触了,这才记起了年月似的,老人一面说道动不得,一面静静的起立,便去卷挂幅。于是孩子便问道,祖父,弹子糖呢?说道是了,我买弹子糖去,只是不要淘气罢,嘴里说,手里慢慢的卷好挂幅,装进桐箱,放在柜子里,便到近地散步去了。回来的时候,走到糖店里,买两袋薄荷的弹子糖,分给孩子道,哪,弹子糖。儿子是晚婚的,小孩子只六岁和四岁。


和儿子商量的翌日,老人用包袱包了桐箱,一清早便出门去,到四点钟,又拿着桐箱回来了。孩子们迎到门口,问道,祖父,弹子糖呢?老人什么也不说,进了房,从箱子里取出挂幅来挂在墙上,茫然的只管看。听说走了四五家骨董铺,有说没有落款的,有说画太剥落的,对于这画,竟没有如老人所豫期的致敬尽礼的人。


儿子说,骨董店算了罢。老人也道,骨董店是不行的。过了两星期,老人又抱着桐箱出去了。是得了绍介,到儿子的课长先生的朋友那里去给赏鉴。其时也没有买回弹子糖来。儿子刚一回家,便仿佛嗔怪儿子的不德义似的说道,那样没有眼睛的人,怎么能让给他呢,在那里的都是赝物。儿子苦笑着。


到二月初旬,偶然得了好经手,老人将这一幅卖给一个好事家了。老人便到谷中去,给亡妻定下了体面的石碑,其余的存在邮局里。此后过了五六天,照常的去散步,但回来却比平常迟了二时间。其时两手抱着两个很大的弹子糖的袋。说是因为卖掉的画,还是放心不下,再去看一回,却见挂在四席半的啜茗室里,那前面插着透明一般的腊梅。老人便在这里受了香茗的招待。这比藏在我这里更放心了,老人对儿子说。儿子回答道,也许如此罢。一连三日,孩子们尽吃着弹子糖。

【掛幅】

夏目漱石

大刀老人は亡妻の三周年忌までには、きっと石碑を一つ竪ててやろうと決心していた。しかし息子の痩せた腕に頼っては、今朝の暮らしがやっとのことで、ほかに一文の蓄えもできない。またも春になって、訴えにゆくような顔をして息子に向かい、あの忌日はちょうど三月八日だぞと言った。息子はただ、ああそうかと答えただけで、ほかに別の言葉もない。大刀老人はとうとう祖先伝来の珍しい一幅の掛物を売って、その費用に充てようと決心した。息子に相談する。

第60節

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【克莱喀先生】


夏目漱石






克莱喀(W.J. Craig)先生是燕子似的在四层楼上做窠的。立在阶石底下,即使向上看,也望不见窗户。从下面逐渐走上去,到大腿有些酸起来的时候,这才到了先生的大门。虽说是门,也并非具备着双扉和屋顶;只在阔不满三尺的黑门扇上,挂着一个黄铜的敲子罢了。在门前休息一会,用这敲子的下端剥啄剥啄的打着门板,里面就给来开门。


来给开的总是女人。因为近视眼的缘故罢,戴着眼镜,不绝的在那里出惊。年纪约略有五十左右了,想来也该早已看惯了世间了,然而也还是只在那里出惊,睁着使人不忍敲门的这么大的眼睛,说道“请”。


一进门,女的便消失了。于是首先的客房——最初并不以为是客房,毫没有什么别的装饰,就只有两个窗户,排着许多书。克莱喀先生便大抵在这里摆阵。一见我进去,就说道“呀”的伸出手来。因为这是一个来握手罢的照会,所以握是握的,然而从那边却历来没有回握的时候。这边也不见得高兴握,本来大可以废止的了,然而仍然说道“呀”,伸出那毛毵毵的皱皮疙瘩的,而且照例的消极的手来。习惯实在是不可思议的事。


这手的所有者,便是担任我的质问的先生。初见面时,问道报酬呢?便说道是呵,一瞥窗外边,一回七先令怎么样,倘太贵,多减些也可以的。于是我定为一回七先令的比例,到月底一齐交,但有时也突然受过先生的催促。说道,君,因为有一点用度,可以付了去么等类的话。自己便从裤子的袋里掏出金币来,也不包裹,说道“哦”的送过去,先生便说着“呀,对不起”的取了去,摊开那照例的消极的手,在掌上略略一看,也就装在裤子的袋里面了。最窘的是先生决不找余款。将余款归入下月分,有时才到其次的星期内,便又说因为要买一点书之类的催促起来。


先生是爱尔兰人,言语很难懂。倘有些焦躁,便有如东京人和萨摩人吵闹时候的这么烦难。而且是很疏忽的焦急家,一到事情麻烦起来,自己便听天由命而只看着先生的脸。


那脸又决不是寻常的。因为是西洋人,鼻子高,然而有阶级,肉太厚。这一点虽然和自己很相像,但这样的鼻子,一见之后,是不会起清爽的好感情的。反之,这些地方却都乱七八糟的总似乎有些野趣。至于须髯之类,则实在黑白乱生到令人悲悯。有一回,在培凯斯忒理德(Becker Street)遇见先生的时候,觉得很像一个忘了鞭子的马夫。


先生穿白小衫和白领子,是从来没有见过的。始终穿着花条的绒衫,两脚上是臃肿的半鞋,几乎要伸进暖炉里面去,而且敲着膝头,——这时才见到,先生是在消极的手上戴着金指环的。——有时或不敲而擦着大腿,教给我书。至于教给什么,则自然是不懂。静听着,便带到先生所乐意的地方去,决不给再送回来了。而且那乐意的地方,又顺着时候的变迁和天气的情形,发生各样的变化。有时候,竟有昨日和今日之间搬了两极的事情。说得坏,那就是胡说八道罢,要评得好,却是给听些文学上的座谈。到现在想起来,一回七先令,本来没有可以得到循规蹈矩的讲义的道理,这是先生这一面不错,觉得不平的我,却胡涂了。况且先生的头,也正如那须髯所代表的一般,仿佛有些近于杂乱的情势,所以倒是不去增加报酬,请讲更其高超的讲义的好,也未可知的。


先生所得意的是诗。读诗的时候,从脸到肩膀边便阳炎似的振动。——并非诳话,确乎振动了。但是归根究底,却成了并非为我读,只是一人高吟以自乐的事,所以总而言之,也还是这一面损失。有一次,拿了思温朋(Swinburne)的叫作《罗赛蒙特》(Rosamond)的东西去,先生说给我看一看罢,朗吟了两三行,却忽而将书伏在膝髁上,说道,唉唉,不行不行,思温朋也老得做出这样的诗来了,便叹息起来。自己想到要看思温朋的杰作《亚泰兰多》(Atalanta)便在这时候。


先生以为我是一个小孩子。你知道这样的事么,你懂得那样的事么之类,常常受着无聊不堪的事的质问。刚这样想,却又突然提出了伟大的问题,飞到同辈的待遇上去了。有一回,当我面前读着渥忒孙(Watson)的诗,问道,这有说是有着像雪黎(Shelley)的地方的人和说全不相像的人,你以为怎样?以为怎样,西洋的诗,在我倘不先诉诸目,然后通过了耳朵,是完全不懂的。于是适宜的敷衍了一下。说这和雪黎是相像呢还是不相像,现在已经忘却了。然而可笑的是,先生那是照例的敲着膝头,说道我也这样想,却惶恐得不可言。


有一日,从窗口伸出头去,俯视着匆匆的走过那辽远的下界的人们,一面说道,你看,走过的人们这么多,那里面,懂诗的可是百个中没有一个,很可怜。究而言之,英吉利人是不会懂诗的国民呵。这一节,就是爱尔兰人了得,高尚得远了。——真能够体会得诗的你和我,不能不说是幸福哩。将自己归入了懂诗的一类里,虽然很多谢,但待遇却比较的颇冷淡,我于这先生,看不出一点所谓情投意合的东西来,觉得只是一个全然机械的在那里饶舌的老头子。


然而有过这样的事。因为对于自己所住的客寓很生厌了,就想寄居在这先生的家里看,有一天,照例的讲习完毕之后,请托了这一节,先生忽然敲着膝髁,说道,不错,我给你看我的家里房屋,来罢,于是从食堂,从使女室,从边门,带着各处走,全给看遍了。本来不过是四层楼上的一角,自然不广阔。只要两三分时,便已没有可看的地方。先生于是回到原位上,以为要说这样的家,所以什么处所都住不下,给我回绝了罢,却忽而讲起跋尔忒惠德曼(Walt Whitman)的事来。先前,惠德曼曾经到自己的家里来,逗留过多少时,——说话非常之快,所以不很懂,大半是惠德曼到这里来似的,——当初,初读那人的诗的时候,觉得有全不成东西的心情,但读过几遍,便逐渐有趣起来,终于非常之爱读了。所以……


借寓的事,全不知道飞到那里去了。我也只得任其自然,哦哦的答应着听。这时候,似乎又讲到雪黎和谁的吵闹的事,说道吵闹是不好的,因为这两人我都爱,我所爱的两个人吵闹起来,是很不好的,颇提出抗议的话。但无论怎样抗议,在几十年前已经吵闹过的了,也再没有什么法。


因为先生是疏忽的,所以自己的书籍之类很容易安排错。倘若寻不见,便很焦急,仿佛起了火灾似的,用了张皇的声音叫那正在厨下的老妪。于是那老妪也摆着一副张皇的脸,来到客房里。


“我,我的,《威志威斯》(Wordsworth)放在那里了?”


老妪依然将那出惊的眼,睁得碟子似的遍看各书架,无论怎样的在出惊,然而很可靠,便即刻寻到《威志威斯》了。于是Here Sir的说着,仿佛聊以相窘似的,塞在先生的面前。先生便掣夺一般的取过来,一面用两个手指,毕毕剥剥的敲着的书面,一面便道,君,威志威斯是……的讲开场。老妪显了愈加出惊的眼退到厨下去。先生是二分间三分间的敲着《威志威斯》。而且好容易叫人寻到了的《威志威斯》竟终于没有翻开卷。


先生也时时寄信来。那字是决计看不懂的。文字不过两三行,原也很有反复熟读的时间,但无论如何总是决不定。于是断定为从先生来信,即是有了妨碍,不能授课的事,省去了看信的工夫了。出惊的老妪偶然也代笔,那就很容易了然。先生是用着便当的书记的。先生对了我,叹息过自己的字总太劣,很困窘。又说,你这面好得多了。


我很担心,用这样的字来起稿,不知道会写出怎样的东西来呢。先生是亚覃本《沙士比亚集》(Arden Shakespeare)的出版者。我想,那样的字,竟也会有变形为活版的资格么?然而先生却坦然的做序文,做札记。不宁惟是,曾经说道看这个罢,给我读过加在《哈谟列德》(Hamlet)上头的绪言。第二次去的时候,说道很有趣,先生便嘱咐道,你回到日本时,千万给我介绍介绍这书罢。亚覃本《沙士比亚》集的《哈谟列德》,是自己归国后在大学讲讲义时候得了非常的利益的书籍。周到而且扼要,能如那《哈谟列德》的札记的,恐怕未必再有的了。然而在那时,却并没有觉得这样好。但对于先生的沙士比亚研究,却是早就惊服的。


在客房里,从门键这一边弯过去,有一间六席上下的小小的书斋。先生高高的做窠的地方,据实说,是这四层楼的角落,而那角之又角的处所,便有着在先生是最要紧的宝贝在那里了。——排着十来册长约一尺五寸阔约一尺的蓝面的簿子,先生一有空一有隙,便将写在纸片上的文句,钞入蓝面簿子里,仿佛悭吝人积蓄那有孔的铜钱一般,将那一点一点的增加起来,作为一生的娱乐。至于这蓝面簿子就是《沙翁字典》的原稿,则来此不久便已知道的了。听说先生因为要大成这字典,所以抛弃了威尔士(Wales)某大学的文学的讲席,腾出每日到不列颠博物馆去的工夫来。连大学的讲席尚且抛弃,则对于七先令的弟子的草草,正不是无理的事。先生的脑里,是惟此字典,终日终夜槃桓磅礴而已的。


也曾问过先生,已经有了勖密特(Schmidt)的《沙翁字典》了,却还做这样的书么?于是先生便仿佛不禁轻蔑似的,一面说道看这个罢,一面取出自己所有的《勖密特》来给我看。试看时,好个《勖密特》前后两卷一叶也没有完肤的写得乌黑了。我说着“哦”的吃了惊,只对《勖密特》看。先生其时颇得意。君,倘若做点和《勖密特》一样程度的东西,我也不必这样的费力了。说着,两个手指又一齐毕毕剥剥的敲起乌黑的《勖密特》来。


“究竟,从什么时候起,来做这样的事的呢?”


先生站起身,到对面的书架上,仿佛寻些什么模样,但又用了照例的焦躁的声音叫道,全尼(Jane),全尼,我的《道覃》(Dowden)怎么了?老妪还没有出来,已经在问《道覃》的所在。老妪又出惊的出来了。而且又照例的Here Sir的相窘一回,退了回去。先生于老妪的一下并不介怀,肚饿似的翻开书,唔,在这里,道覃将我的姓名明明白白的写在这里;特别的写着研究沙翁的克莱喀氏。这书是一千八百七十……年的出版,所以我的研究,还在一直以前呢……自己对于先生的忍耐,全然惊服了。顺序便问什么时候才完功。谁知道什么时候呢,是尽做到死的呵,先生说着,将《道覃》放在原处所。


我此后不久便不到先生那里去了。当不去的略略以前,先生曾说,日本的大学里,不要西洋人的教授么?倘我年纪青,也去罢。颇显着无端的感到无常的神色。先生的脸上现出感动,只有这一回。我宽慰说,岂不还年青么?答道那里那里,说不定什么时候有什么事,因为已经五十六岁了,便异样的入了静。


回到日本之后,约略过了两年,新到的文艺杂志上,载着克莱喀氏死掉的记事。是沙翁的专门学者的事,不过添写着两三行文字罢了。那时候,我放下杂志想,莫非那字典终于没有完功,竟成了废纸了么?

【クレイグ先生】

夏目漱石

クレイグ(W.J. Craig)先生は、燕の如く四階の上に巣を作っていた。階段の下に立って、たとい上を仰いでも、窓は見えない。下から逐次に登っていって、大腿がいささか酸くなった頃に、やっと先生の玄関に着く。門といっても、双扉と屋根を備えているわけではない。ただ幅三尺に満たぬ黒い門扉の上に、一つの黄銅の叩き金を掛けているだけである。門前に一休みして、この叩き金の下端で剝啄剝啄と門板を打てば、中からやがて開けに来る。

第62節

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【鼻子】


芥川龙之介






一说起禅智内供的鼻子,池尾地方是没一个不知道的。长有五六寸,从上唇的上面直拖到下颏的下面去。形状是从顶到底,一样的粗细。简捷说,便是一条细长的香肠似的东西,在脸中央拖着罢了。


五十多岁的内供是从还做沙弥的往昔以来,一直到升了内道场供奉的现在为止,心底里始终苦着这鼻子。这也不单因为自己是应该一心渴仰着将来的净土的和尚,于鼻子的烦恼,不很相宜;其实倒在不愿意有人知道他介意于鼻子的事。内供在平时的谈话里,也最怕说出鼻子这一句话来。


内供之所以烦腻那鼻子的理由,大概有二,——其一,因为鼻子之长,在实际上很不便。第一是吃饭时候,独自不能吃。倘若独自吃时,鼻子便达到碗里的饭上面去了。于是内供叫一个弟子坐在正对面,当吃饭时,使他用一条广一寸长二尺的木板,掀起鼻子来。但是这样的吃饭法,在能掀的弟子和所掀的内供,都不是容易的事。有一回,替代这弟子的中童子打了一个喷嚏,因而手一抖,那鼻子便落到粥里去了的故事,那时是连京都都传遍的。——然而这事,却还不是内供之所以以鼻子为苦的重大的理由。内供之所以为苦者,其实却在乎因这鼻子而伤了自尊心这一点。


池尾的百姓们,替有着这样鼻子的内供设想,说内供幸而是出家人;因为都以为这样的鼻子,是没有女人肯嫁的。其中甚而至于还有这样的批评,说是正因为这样鼻子,所以才来做和尚。然而内供自己,却并不觉得做了和尚,便减了几分鼻子的烦恼去。内供的自尊心,较之为娶妻这类结果的事实所左右的东西,微妙得多多了。因此内供在积极的和消极的两方面,要将这自尊心的毁损恢复过来。


第一,内供所苦心经营的,是想将这长鼻子使人看得比实际较短的方法。每当没有人的时候,对了镜,用各种的角度照着脸,热心的揣摩。不知怎么一来,觉得单变换了脸的位置,是没有把握的了,于是常常用手托了颊,或者用指押了颐,坚忍不拔的看镜。但看见鼻子较短到自己满意的程度的事,是从来没有的。内供际此,便将镜收在箱子里,叹一口气,勉勉强强的又向那先前的经几上唪《观世音经》去。


而且内供又始终留心着别人的鼻子。池尾的寺,本来是常有僧供和讲论的伽蓝。寺里面,僧坊建到没有空隙;浴室里是寺僧每日烧着水的。所以在此出入的僧俗之类也很多。内供便坚忍的物色着这类人们的脸。因为想发见一个和自己一样的鼻子,来安安自己的心。所以乌的绢衣,白的单衫,都不进内供的眼里去;而况橙黄的帽子,坏色的僧衣,更是生平见惯,虽有若无了。内供不看人,只看鼻子,——然而竹节鼻虽然还有,却寻不出内供一样的鼻子来。愈是寻不出,内供的心便渐渐的愈加不快了。内供和人说话时候,无意中扯起那拖下的鼻端来一看,立刻不称年纪的脸红起来,便正是为这不快所动的缘故。


到最后,内供竟想在内典外典里寻出一个和自己一样的鼻子的人物,来宽解几分自己的心。然而无论什么经典上,都不说目犍连和舍利弗的鼻子是长的。龙树和马鸣,自然也只是鼻子平常的菩萨。内供听人讲些震旦的事情,带出了蜀汉的刘玄德的长耳来,便想道,假使是鼻子,真不知使我多少胆壮哩。


内供一面既然消极的用了这样的苦心,别一面也积极的试用些缩短鼻子的方法,在这里是无须乎特地声明的了。内供在这一方面,几乎做尽了可能的事,也喝过老鸦脚爪煎出的汤;鼻子上也擦过老鼠的溺。然而无论怎么办,鼻子不依然五六寸长的拖在嘴上么?


但是有一年的秋天,内供的因事上京的弟子,从一个知己的医士那里,得了缩短那长鼻子的方法来了。这医士,是从震旦渡来的人,那时供养在长乐寺的。


内供仍然照例,装着对于鼻子毫不介意似的模样,偏不说便来试用这方法;一面却微微露出口风,说每吃一回饭,都要劳弟子费手,实在是于心不安的事。至于心里,自然是专等那弟子和尚来说服自己,使他试用这方法的。弟子和尚也未必不明白内供的这策略。但内供用这策略的苦衷,却似乎感动了那弟子和尚的同情,反驾而上之了。那弟子和尚果然适如所期,极口的来劝试用这方法;内供自己也适如所期,终于依了那弟子和尚的热心的劝告了。


所谓方法者,只是用热汤浸了鼻子,然后使人用脚来踏这鼻子,非常简单的。


汤是寺的浴室里每日都烧着。于是这弟子和尚立刻用一个提桶,从浴室里汲了连手指都伸不下去的热水来。但若直接的浸,蒸汽吹着脸,怕要烫坏的。于是又在一个板盘上开一个窟窿,当作桶盖,鼻子便从这窟窿中浸到水里去。单是鼻子浸着热汤,是不觉得烫的。过了片时,弟子和尚说:


“浸够了罢。……”


内供苦笑了。因为以为单听这话,是谁也想不到说着鼻子的。鼻子被汤蒸热了,蚤咬似的发痒。


内供一从板盘窟窿里抽出鼻子来,弟子和尚便将这热气蒸腾的鼻子,两脚用力的踏。内供躺着,鼻子伸在地板上,看那弟子和尚的两脚一上一下的动。弟子常常显出过意不去的脸相,俯视着内供的秃头,问道:


“痛罢?因为医士说要用力踏。……但是,痛罢?”


内供摇头,想表明不痛的意思。然而鼻子是被踏着的,又不能如意的摇。这是抬了眼,看着弟子脚上的皲裂,一面生气似的说:


“说不痛。……”


其实是鼻子正痒,踏了不特不痛,反而舒服的。


踏了片时之后,鼻子上现出小米粒一般的东西来了。简括说,便是象一匹整烤的拔光了毛的小鸡。弟子和尚一瞥见,立时停了脚,自言自语似的说:


“说是用镊子拔了这个哩。”


内供不平似的鼓起了两颊,默默的任凭弟子和尚办。这自然并非不知道弟子和尚的好意;但虽然知道,因为将自己的鼻子当作一件货色似的办理,也免不得不高兴了。内供装了一副受着不相信的医生的手术时候的病人一般的脸,勉勉强强的看弟子和尚从鼻子的毛孔里,用镊子钳出脂肪来。那脂肪的形状象是鸟毛的根,拔去的有四分长短。


这一完,弟子和尚才吐一口气,说道:


“再浸一回,就好了。”


内供仍然皱着眉,装着不平似的脸,依了弟子的话。


待到取出第二回浸过的鼻子来看,诚然,不知什么时候已经缩短了。这已经和平常的竹节鼻相差不远了。内供摸着缩短的鼻子,对着弟子拿过来的镜子,羞涩的怯怯的望着看。


那鼻子,——那一直拖到下面的鼻子,现在已经诳话似的萎缩了,只在上唇上面,没志气的保着一点残喘。各处还有通红的地方,大约只是踏过的痕迹罢了。既这样,再没有人见笑,是一定的了。——镜中的内供的脸,看着镜外的内供的脸,满足然的几眼睛。


然而这一日,还有怕这鼻子仍要伸长起来的不安。所以内供无论唪经的时候,吃饭的时候,只要有闲空,便伸手轻轻的摸那鼻端去。鼻子是规规矩矩的存在上唇上边,并没有伸下来的气色。睡过一夜之后,第二日早晨一开眼,内供便首先去摸自己的鼻子,鼻子也依然是短的。内供于是乎也如从前的费了几多年,积起抄写《法华经》的功行来的时候一般,觉得神清气爽了。


但是过了三日,内供发见了意外的事实了。这就是,偶然因事来访池尾的寺的侍者,却显出比先前更加发笑的脸相,也不很说话,只是灼灼的看着内供的鼻子。而且不止此,先前将内供的鼻子落在粥里的中童子那些人,若在讲堂外遇见内供时,便向下忍着笑,但似乎终于熬不住了,又突然大笑起来。还有进来承教的下法师们,面对面时,虽然恭敬的听着,但内供一向后看,便屑屑的暗笑,也不止一两回了。


内供当初,下了一个解释,是以为只因自己脸改了样。但单是这解释,又似乎总不能十分的说明。——不消说,中童子和下法师的发笑的原因,大概总在此。然而和鼻子还长的往昔,那笑样总有些不同。倘说见惯的长鼻,倒不如不见惯的短鼻更可笑,这固然便是如此罢了。然而又似乎还有什么缘故。


“先前倒还没有这样的只是笑,……”


内供停了唪着的经文,侧着秃头,时常轻轻的这样说。可爱的内供当这时候,一定惘然的眺着挂在旁边的普贤像,记起鼻子还长的三五日以前的事来,“今如零落者,却忆荣华时”,便没精打采了。——对于这问题,给以解释之明,在内供可惜还没有。


——人类的心里有着互相矛盾的两样的感情。他人的不幸,自然是没有不表同情的。但一到那人设些什么法子脱了这不幸,于是这边便不知怎的觉得不满足起来。夸大一点说,便可以说是其甚者且有愿意再看见那人陷在同样的不幸中的意思。于是在不知不觉间,虽然是消极的,却对于那人抱了敌意了。——内供虽然不明白这理由,而总觉得有些不快者,便因为在池尾的僧俗的态度上,感到了这些傍观者的利己主义的缘故。


于是乎内供的脾气逐渐坏起来了。无论对什么人,第二句便是叱责。到后来,连医治鼻子的弟子和尚,也背地里说“内供是要受法悭贪之罪的”了。更使内供生气的,照例是那恶作剧的中童子。有一天,狗声沸泛的嗥,内供随便出去看,只见中童子挥着二尺来长的木板,追着一匹长毛的瘦狗在那里跑。而且又并非单是追着跑,却一面嚷道“不给打鼻子,喂,不给打鼻子,”而追着跑的。内供从中童子的手里抢过木板来,使劲的打他的脸。这木板是先前掀鼻子用的。


内供倒后悔弄短鼻子为多事了。


这是或一夜的事。太阳一落,大约是忽而起风了,塔上的风铎的声音,扰人的响。而且很冷了,在老年的内供,便是想睡,也只是睡不去。展转的躺在床上时,突然觉得鼻子发痒了。用手去摸,仿佛有点肿,而且这地方,又仿佛发了热似的。


“硬将他缩短了的,也许出了毛病了。”


内供用了在佛前供养香花一般的恭敬的手势,按着鼻子,一面低低的这样说。


第二日的早晨,内供照例的绝早的睁开眼睛看,只见寺里的银杏和七叶树都在夜间落了叶,院子里是铺了黄金似的通明。大约塔顶上积了霜了,还在朝日的微光中,九轮已经眩眼的发亮。禅智内供站在开了护屏的檐廊下,深深的吸一口气。


几乎要忘却了的一种感觉,又回到内供这里,便在这时间。


内供慌忙伸手去按鼻子。触着手的,不是昨夜的短鼻子了;是从上唇的上面直拖到下唇的下面的,五六寸之谱的先前的长鼻子。内供知道这鼻子在一夜之间又复照旧的长起来了。而这时候,和鼻子缩短时候一样的神清气爽的心情,也觉得不知怎么的重复回来了。


“既这样,一定再没有人笑了。”


使长鼻子荡在破晓的秋风中,内供自己的心里说。

【鼻】

芥川龍之介

禅智内供の鼻といえば、池尾あたりでは知らぬ者はない。長さは五六寸もあり、上唇の上から真っ直ぐに下顎の下まで垂れ下がっている。形は上から下まで同じ太さである。端的に言えば、一本の細長いソーセージのようなものが、顔の真ん中にぶら下がっているだけのことである。

五十過ぎの内供は、まだ沙弥であった昔から、内道場の供奉に昇った今に至るまで、心底ではずっとこの鼻に苦しんできた。それも単に自分が一心に来世の浄土を渇仰すべき僧侶であるからというだけではない。

第64節

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[1] 浆字疑是桨字之误,讽字疑是字之误。——编者


[2]疑是虚字之误——编者


[3]疑是把字之误——编者


[4]疑是湿字之误——编者


[5]“长”字疑在“里”字之下——编者


[6]疑是工字之误——编者


[7]疑是惹字之误——编者


[8]疑是成字之误——编者


[9]疑是二字之误——编者


[10]疑是毡字之误——编者


[11]疑漏一听字——编者


[12]疑是的字之误——编者


[13]疑是球字之误——编者


[14]疑是刹字之误——编者


[15]疑脱一剧字——编者


[16]疑是岩字之误——编者


[17]疑是前字之误——编者


[18]疑惹字之误——编者


[19]疑是处字之误——编者


[20]疑是沸字之误——编者


[21]疑是兴字之误——编者


[22]疑是环字之误——编者


[23]疑是至字之误——编者


[24]疑是炮字之误——编者


[25]疑是着字之误——编者


[26]疑是举字之误——编者


[27]疑是君字之误——编者


[28]疑是“没”字之误——编者。


[29]疑是“暮”字之误——编者。


[30]疑是“欢”字之误——编者。


[31]疑是“欢”字之误——编者。


[32]疑是“似”字之误——编者。


[33]疑是“推”字之误——编者。


[34]疑是“这”字之误——编者。


[35]疑是“疑”字之误——编者。


[36]疑落一“迷”或“密”字——编者。


[37]疑落一“为”字——编者。


[38]疑是“言”字之误——编者。


[39]疑是“已”字之误——编者。


[40]疑是“们”字之误——编者。


[41]疑是“卖”字之误——编者。


[42]俄国仆役对于主人,只能在肩头接吻。


[43]Kava–j–ier本是Kavalier,因为冷了,发不出l的音。表声音的引长。


[44]Griwenik是十戈贝克币的通称,一戈贝克约值中国十文。


[45]一省中的最高警察官。


[46]当虐杀犹太人的时候,犹太人民自己组织了一个武装的保护机关,名自卫团。


[47]Okolodotshnij是最下级的警官。


[48]一个警区的主任。


[49]是一个诊治的助手,所有的教育程度,是经过了国家的考试,可以在乡间代理医生。


[50]俄国的窗户上大抵有一个小半窗,可以开阖;那大窗框,在冬天往往用泥堵塞起来,不再动。


[51]详见跋语。


[52]Arshin,俄国尺度名。一唉辛约中国二尺余。


[53]Velko,勃尔格利亚人的名字,和益尔伏忒与塞尔比亚的 Vuk 相同,意义是狼。(俄文称狼为 Volk,波兰文是 Wilk。)


[54]Baba,斯拉夫语,意义是老人。


[55]Kmiet,意义是村长。


[56]斯拉夫种人相称,幼的对于老的常是父母或祖父母,长的便称他为儿子之类,不必定是亲属。


[57]到塞尔比亚战争时,就是到俄国军官的解职时为止,兵们都用俄国式尊称他们的长官。现在是他们只说:中尉, 大佐之类。


[58]Hurra 是欢喜或激励的喊声,或者意译作万岁,不甚切合,现在就改为音译。


[59]Sofia 勃尔格利亚语的 Sredec,就是罗马的 Ulpia Sredea。


[60]指 Aigaia海。


[61]俄土战争时,曾在式普加大战。拉兑兹奇是此时和民军反抗土军的人。


[62]纸烟的名目。


[63]马剌巴冈,马剌巴是地名,在印度。


[64]派希是一种拜火教徒。


[65]拜火教里的恶神。


[66]俄国内部渐要破裂的时候,政府想出方法来,煽动国民去仇杀异民族和异教徒,以转移他们的注意,世间谓之坡格隆,Po 是逐渐,Gromit 是破灭。


[67]尾上菊五郎是明治时代有名的俳优之一人。


[68]日本的理发店多称床,犹如中国的多称馆。


[69]将布帛之类洗过,加了浆糊,帖在板上晾干,他们谓之张物。


[70]在神社之前,用以清净口与手的水。


[71]天正止于十九年,即西纪一五九一年。


[72]三百六十尺为一町,合中尺三十四丈;三十六町为一里。


[73]用刀横剖腹部的自杀。


[74]一贯约中国六斤四两。


[75]本是玩具的名字,著者取为志怪的书名,元禄四年(一六九一年)印行。


[76]市女笠是市上的女人或商女所戴的笠子。乌帽子是男人的冠,若不用硬漆,质地较为柔软的,便称     为揉乌帽子。


[77]西历七九四年以后的四百年间。


[78]古时的官,司追捕,纠弹,裁判,讼诉等事。


[79]古时春宫坊的侍卫之称。


[80]Samovar,俄国特有的一种茶具,金属制,可以生火煮茶。


[81]William Morris (1834—1896),英国有名的文人,主张劳动的艺术化,曾经创办摩理思公司。又拟设圣乔治工舍,实行共产生活,没有成。这里所说,大约只是隐射他的两件事。


[82]即那时自称为“真正俄人团体”的团员,常助政府压迫改革者。


[83]Piter,彼得堡的通称。


[84]Auton Tshekhov (1860—1904),俄国有名的短篇小说家。


[85]Dvornik,这类公役在俄国专处理人家的一切家事,也管守夜。


[86]Kopek,每一个约合中国钱十文。


[87]Hekato mbe古希腊祭神所用的大牺牲。


[88]电报,是俄国警察要执行家宅搜索,在夜间叩门,对于房主人询问时候的一句常用的回答。


[89]俄国平常的骂人的话。


[90]在彼得堡中央的大操场。


[91]Fontanka 是彼得堡的小河,在涅跋(Neva)附近。


[92]从彼得堡步行出去,几小时便可以到芬兰界。


[93]Okolodshinij,最下级的警察官。

[1]「漿」の字は「槳」(櫂)の字の誤りかと疑われ、「諷」の字は別字の誤りかと疑われる。――編者

[2]「虚」の字の誤りかと疑われる。――編者

[3]「把」の字の誤りかと疑われる。――編者

[4]「湿」の字の誤りかと疑われる。――編者

[5]「長」の字は「里」の字の下にあるべきかと疑われる。――編者

[6]「工」の字の誤りかと疑われる。――編者

[7]「惹」の字の誤りかと疑われる。――編者

[8]「成」の字の誤りかと疑われる。――編者

[9]「二」の字の誤りかと疑われる。――編者

[10]「氈」の字の誤りかと疑われる。――編者

[11]「聴」の一字を漏らしたるかと疑われる。――編者

第65節

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【与支那未知的友人】



我的《一个青年的梦》被译成贵国语,实在是我的光荣,我们很喜欢。我做这书的时候,还在贵国与美国不曾加入战争以前。现在战争几乎完了,许多事情也与当时不同了。但我相信,在世上有战争的期限内,总当有人想起《一个青年的梦》。


在这本书里,放着我的真心。这个真心倘能与贵国青年的真心相接触,那便是我的幸福了。使我来做这本书的见了,也必然说好罢。


我老实的说:我想现今世界中最难解的国,要算是支那了。别的独立国都觉醒了,正在做“人类的”事业;国民性的谜,也有一部分解决了。但是支那的这个谜,还一点没有解决。日本也还没有完全觉醒,比支那却已几分觉醒过来了;谜也将要解决了。支那的事情,或者因为我不知道,也说不定;但我觉得这谜总还没有解决。在国土广大这一点上,俄国也不下于支那;可是俄国已经多少觉醒了,对于人类应该做的事业,差不多可以说大部分已经做了。但支那是同日本一样,还在自此以后;或比日本更在自此以后。我想这正是很有趣味的地方,也有点可怕,但也有点可喜。我想青年的人所最应该喜欢的时候,正是现在的时候。诸君的责任愈重,也便愈值得做事,这正是现在了。


在现今的独立国的中间,支那要算是最古的国了。虽然受了外国的作践,象埃及、希腊、印度那样的事,不至于有罢。我觉得支那的少壮时期,正在渐渐的回复过来了。我想,如诸君蓬勃的精神发扬起来,这时候,便是支那的精神和文明“世界的”再生的时期了。人类对于这个时期,怀着极大的期待。想诸君决不会反背这期待罢。


“落后的往前,在前的落后了。”第一落后的俄国,现在将第一的在前了。更落后的支那,到了觉醒的时候,怕更要在前了罢。但我绝对的希望这往前的方法,要用那人类见了说好的方法才是。


倘是再生了,变成将喜代了恐怖,将爱代了憎恶,将真理代了私欲,拿到世间方来的最进步的国,我们将怎样的感谢呵。我们也为了这事想尽点力,想做点事。


我希望,因了我做的书译成支那语的机会,就是少数的人也好,能够将我的真心和他的真心相触。我希望,我的恐怖便是他的恐怖,我的喜悦便是他的喜悦,我的希望便是他的希望,将来能为同一目的而尽力的朋友。


我的敲门的声音,或者很微弱;但在等着什么人的来访的寂寞的心里,特别觉得响亮,也未可知的。


我正访求着正直的人;有真心的人;忍耐力很强,意志很强,同情很深,肯为人类做事的人。在支那必要有这样的人存在。这人必然会觉醒过来。


这人就是人类等着的人,或是能为他做事的人罢。恐怕这人不但是一个人,或者还是几万个人合成一个的人罢。不将手去染血,却流额上的汗;不借金钱的力,却委身于真理的人!


我从心里爱这样的人,尊敬这样的人。


在支那必然有这样的人存在,正同有很好的人存在一样。我敲门的微小的声音呵,要帮助这人的觉醒,望你有点效用。


我希望这事。


一九一九年十二月九日,武者小路实笃。

【支那の未知なる友人に与う】

私の『ある青年の夢』が貴国の語に訳されたことは、実に私の光栄であり、我々はたいへん喜んでいます。私がこの書を作った時は、まだ貴国とアメリカが参戦する以前のことでした。今や戦争はほとんど終わり、多くのことも当時とは異なっています。しかし私は信じます、世の中に戦争のある期限の内は、必ず『ある青年の夢』を思い起こす人がいるであろうと。

この本の中には、私の真心が入れてあります。この真心がもし貴国の青年の真心と相触れることができれば、それこそ私の幸福であります。私にこの本を書かせたものが見たならば、必ずやよいと言うでしょう。

私は正直に申します。私は思うに、現今……

第66節

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【自 序】



我要用这著作说些什么,大约看了就明白。我是同情于争战的牺牲者,爱平和的少数中的一个人——不,是多数中的一个人。我极愿意这著作能多有一个爱读者,就因为借此可以知道人类里面有爱平和的心的缘故。提起好战的国民,世间的人大抵总立刻想到日本人。但便是日本人,也决不偏好战争;这固然不能说没有例外,然而总爱平和,至少也不能说比别国人更好战,我的著作,也决非不象日本人的著作;这著作的思想,是日本的谁也不会反对,而且并不以为危险的:这事在外国人,觉得似乎有些无从想象。


日本对于这回的战争,大概并非神经质;我又正被一般人不理会,轻蔑着;所以这著作没有得到反对的反响,也许是当然的事。但便是在日本,对于这著作中表出的问题,虽有些程度之差,——大约也有近于零的人,——却是谁都忧虑着的问题。我想将这忧虑,教他们更加感得。


国与国的关系,倘照这样下去,实在可怕。这大约是谁也觉得的。单是觉得,没有法子,不能怎么办,所以默着罢了。我也知道说了也无用,但不说尤为遗憾。我若不作为艺术家而将他说出,实在免不了肚胀。我算是出出气,写了这著作。这著作开演不开演,并非我的第一问题。我要竭力的说真话,并不想夸张战争的恐怖;只要竭力的统观那全体,想用了谁都不能反对的方法,谁也能够同感的方法,写出这恐怖来。我自己明知道深的不足,力的不足,但不能怕了这些事便默着。我不愿如此胆怯,竟至于怕说自己要说的真话。只要做了能做的事,便满足了。


我自己不很知道这著作的价值;但别人的非难是能够答复,或守沉默的:我想不久总会明白。我的精神,我的真诚,是从里面出来,决不是涂上去的。并且这真诚,大约在人心中,能够意外的得到知己。


我以为法人爱法国,英人爱英国,俄人爱俄国,德人爱德国,是自然的事:对于这一件,决不愿有所责难。不过也如爱自己也须同时原谅别人的心情,是个人的任务一般,生怕国家的太强的利己家罢了。


但这事让本文里说。


这个剧本,从全体看来,还不能十分统一。倘使略加整顿,很可以从这剧本分出四五篇的一幕剧来;也可以分出了一幕剧,在剧场开演。全体的统一,不是发展的,自己也觉得不满足,而且抱愧。但大约短中也有一些长处,也未必全无统一;从全体看来,各部分也还有生气:但这些事都听凭有心人去罢。总之倘能将国与国的关系照现在这样下去不是正当的事,因这剧本,使人更加感得,我便欢喜了。


我做这剧本,决不是想做问题剧。只因倘使不做触着这事实的东西,总觉得有些过意不去,所以便做了这样的东西。


我想我的精神能够达到读者才好。


我不是专做这类著作;但这类著作,一面也想渐渐做去。对于人类的运命的忧虑,并非僭越的忧虑,实在是人人应该抱着的忧虑。我希望从这忧虑上,生出新的这世界的秩序来。太不理会这忧虑,便反要收到可怕的结果。我希望:平和的理性的自然的生出这新秩序。血腥的事,我想能够避去多少,总是避去多少的好。这也不是单因为我胆怯,实在因为愿做平和的人民。


现在的社会的事情,似乎总不象走着能够得到平和的解决的路。我自己比别人加倍的恐怖着。


一九一六年十二月二十三日,武者小路实笃。

【自序】

私はこの著作を以て何を言おうとするか、おおよそ読めば明らかになるでしょう。私は戦いの犠牲者に同情し、平和を愛する少数の中の一人です――いや、多数の中の一人です。私はこの著作がもう一人でも多くの愛読者を得ることを切に願います。それはこれによって、人類の中に平和を愛する心があることを知り得るからです。好戦的な国民といえば、世間の人は大抵すぐに日本人を思い浮かべるでしょう。しかし日本人とて、決して偏えに戦争を好むのではありません。むろん例外がないとは申せませんが、しかし総じて平和を愛し、少なくとも他国の人より更に好戦的であるとは言えません。私の著作もまた、決して日本人らしくない著作ではありません。この著作の思想は……

第69節

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Homarano



Ekbruligis mi fajron en kor’,


in estingos nenia perfort’.


Ekflamigis mi flamon en brust’,


in ne povos estingi e mort’.



Brulos fajr’ is mi vivos en mond’, 


Flamos flam’is ekzistas la ter.


Mia nom’estas la homaran’,


Nom’de l’fajr’la homara liber’.


de la Aǔtoro.

ホマラーノ(人類人)



我が心に火を灯した、


いかなる力もそれを消すことはできぬ。


我が胸に炎を燃え上がらせた、


死をもってしてもそれを消すことはできぬ。



火は燃え続ける限り我は世に生き、


炎が燃える限り大地は存在する。


我が名は人類人、


人類の自由の火の名なり。


著者より

第71節

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【鱼的悲哀】




【一】



那一冬很寒冷,住在池里面的鱼儿们,不知道有怎样的窘呢。当初不过一点结得薄薄的冰,一天一天的厚起来。逐渐的迫近了鱼们的世界。于是鲤鱼,鲫鱼,泥鱿等类的鱼儿们,都聚在一处,因为要想一个防冰的方法,开始了各样的商量,然而冰的迫压是从上面下来的,所以毫没有什么法。到归结,那些鱼们的商议,除了抱着一个“什么时候会到春天”的希望,大家走散之外,再没有别的方法了。所有的鱼儿们,便都悄悄的回到家里去。


那池里面,住着鲫鱼的夫妻,而且两者之间,已有了一个叫作鲫儿的孩子。鲫儿在这夜里一刻也不能睡,只是“冷呵冷呵”的哭喊着。然而在池底下,是既没有火盆,也没有炬;既不能盖上五条六条暖和的棉被去睡觉,也不能穿起两件三件的棉衣服来的。鲫儿的母亲毫没有法子想,窘急得不堪,只好慰安鲫儿道:“不要哭罢,不要哭罢,因为春天就要到了。”


“然而母亲,春天什么时候才到呢?”鲫儿抬起泪眼,看着母亲说。


“已经快了。”母亲便温和的回答他。


“这怎么知道的呢?”鲫儿说,看着母亲的脸,有些高兴起来了。


“因为每年总来的。”母亲说。然而鲫儿却显出忧愁似的颜色。问道:


“然而母亲,倘若今年偏不来,又怎么办呢?”


“没有那样的事,一定来的。”母亲抚慰似的说。


“但是,母亲,为什么一定来?”鲫儿想象不通的问,母亲却不再说什么话,默着了。


“但是,母亲,鲤公公曾经说:‘倘若春天有一回不到来,大家便都死了。’这是真的么?”鲫儿又讯问说。


“这是真的呵。”


“那么,母亲,‘死’是什么呢?”


“那就是什么时候总睡着。你的身子不动弹了,怕冷的事要吃的事都没有了,并且魂灵到那遥远的国里去,去过安乐的生活去了。那个国土里是有着又大又美的池,毫没有冬天那样的冷,什么时候都是春天似的温和的。”


“母亲,真有这样的好国土的么?”鲫儿又复有些疑心似的,仰看着母亲的脸问。


“哦!有的。”母亲回答说。


“那么,母亲,赶快到那个国土去罢。”鲫儿这样说,母亲便道:“那个国土里,活着的时候是不能去的呵。”鲫儿又有些想象不通模样了,问道:“为什么活着的时候不能去呢?母亲,认不得路么?”母亲说:“是的,我不认得路呢。”那么,寻路去罢,快快,赶紧去。”鲫儿即刻着起忙来。


“唉唉,这真窘人呵,”母亲吐一口气说:“没有死,便不能到那个国里去,不是已经说过了么?”


“那么,赶快死罢,快快,赶紧快。”


“说这样的话,是不行的。”


“便是不行,也死罢。快点,因为我已经厌恶了这池子了。”鲫儿全不听父亲和母亲的话,只是纠缠着嚷。因为这太热闹了,邻居的鲤公公吃了惊,跑过来了而且问道:“哥儿怎么了呢?”母亲便详细的告诉了鲫儿嚷着要死的事。于是鲤公公向鲫儿说:“哥儿,鱼到这池子里来,并不是为了专照自己的意思闹。是应该照那体面的国里的神明爷所说的话生活着,游来游去的。”


“公公,那神明爷怎么说,”鲫儿问。


“第一,应该驯良,听从父亲母亲和有了年纪的的话。其次,是爱那池里的大哥们和陆上的大哥们,并且拼命的用功,成一条体面的鱼。那么办去,那个国土里的神明爷便会来叫哥儿,给住在那好看的大的池子里面的罢。”老头子说。


从这时候起,鲫儿便无论怎么冷,无论怎样饿,也再不说一句废话,只是嬉嬉的笑着。等候那春天的来到了。




【二】



春天到了,鲫儿一样的诚恳贤慧的小鱼,池里面和邻近的河里面都没有。而且鲤鱼哥哥们和泥鱿姊妹们,也是爱什么都比不上爱鲫儿。鲤鱼哥哥们和泥鱿姊姊们虽然都比鲫儿年纪大得多,但因为鲫儿很贤慧,所以无论什么时候总是一起到各处去游玩。因为是春天了,细小的流水从四面八方的流进池里来。因此无论是山里,林里,树丛里,田野里,随便那里都去得。鲤鱼哥哥们便将鲫儿绍介给山和林里的高强的先生们。这些先生们中,有一位称为兔的有着长耳朵的和尚。这和尚,是一位很伟大的和尚,暗地里吃肉之类的事,是一向不做的,也有从别墅里回来的黄莺和杜鹃等类的音乐的先生们!还有长着美的透明一般的翅子的先生们,因为鲫儿好,也都非常之爱他。并且将地上的世间的事,各式各样的说给鲫儿听。而鲫儿最爱听的话,便是讲人们。那谈话里说:“名叫人类的哥哥们,是最高强最贤慧的东西。”对于这一事,是大家的意见都一致的也说:“自然,山上的政治家的狐狸,艺术家的猿婶母,鹦哥的语学家,鸟的社会学家,天文学家的枭博士,高强固然也高强,但比起人类的哥哥们来,到底赶不上。”


有的又说,“人类的哥哥们虽然比陆上的哥哥们走得蠢,但是不特会借用马的脊梁桥,还造出称为自动车呀,电车呀,汽车呀,自转车呀的这些奇妙的东西来,坐在上面走,比别的还快得多呢。游泳的本领,并不很高,飞在空中是丝毫不会的,然而人类的哥哥们却做了很大的火鱼,大的翅子的鸟,坐在这上面,在水上自由的游泳,在空中自在的飞翔。人类的哥哥们可真是不可思议的东西呵。”鲫儿遇到这类的话,便听得不会倦,几次三番的重重说,而且愈是听,便愈是不由的想要见一见所谓人类了。




【三】



那春天实在很愉快。从早晨起,黄莺和杜鹃这些音乐的高强的先生们便独唱,蜜蜂的小姐们和胡蜂的姑娘们是合唱,胡蝶的姐儿们是舞蹈。到晚上,青蛙堂兄的诗人们便开诗社,开演说会,一直热闹到深夜。这些集会里,鲫儿也到场,用了可爱的口吻,去谈“那个国土”的事。


“倘若我们大家个个都相爱,快乐的生活起来,便可以到那更好的更美的国土里去的。那个国土里,没有缺少粮食的事,没有寒冷的事,也没有不顺手的事。鱼也能在地上走,能在天空里飞,鸟也能在透明的水里面进出。和鱼们一起游泳的。”鲫儿常常这样说。而且不多久。这“那个国土”的事,便成了音乐的作曲的材料,舞蹈的动作,演说和歌诗的资材。于是连那些苍蝇蚯蚓水蛭之流的靠不住的东西,也都谈起“那个国土”的话来了。


到黄昏,远远的教堂里的钟一发响,鱼的哥哥们便浮到水上,蛙的堂兄们便蹲在岸上,蝴蝶的姊妹们便坐在花上,都静静的倾听这晚钟的声音。


这钟声,正是人类的哥哥们,为了自己的小兄弟们的那住在树上的鸟,浮在水里的鱼,宿在花中的虫而祈祷,祝他们平和快乐的过活呢。于是鱼和蛙和黄莺,也都祷告,愿人类的哥哥们也都幸福的过活。这祷告,带着花朵的美丽的香,和黄昏的金色的光,静静的升到“那个国土”的神明那里去。


那在远地方的教会里,有着一位哥儿,那哥儿也如鲫儿一样。又贤慧,又驯良,所有的人们都称赞。小狗哥哥也极爱这哥儿,每逢来喝池水时候,往往提起哥儿的事,鲫儿久听了这些话,也渐渐的爱了这哥儿,想要和他见一回面,极亲热的谈谈心了。




【四】



或一时,池旁边很喧闹。鲫儿不知道甚么事,出去打听时,却见蛙的堂兄们轩着眉,耸着肩,兴奋之极了,阁阁阁阁的吵架似的说着话。鲫儿试问是什么事呢,却原来就是刚才兔和尚仍如平日一样的坐着禅,正在梦中的时候,那教会里的哥儿便走来,撮住兔和尚的长耳朵,捉了带回家去了。


都愕然,在这里茫然的相视,无所适从的慌张,其时又飞到了燕婶母,来通知一件骇人的事,是就在此刻,哥儿又捉了黄莺去了。黄莺因为想造一个不知什么歌的谱,刚在热心的用功,便被捉去了。而且这一夜,恰是十五的夜,蛙的堂兄们以为时世虽然这样不安静,但如并不赏月,却去睡觉,对于月亮颇有失礼的心情,于是依旧登了山,在那里开诗社。这时候,哥儿又跑来,捉了一个最伟大的诗人逃走了。


堂兄的诗人们很惊骇,这晚上所做的诗都忘却了。这一晚,池里面无论谁,都没有一合眼,只是谈着各种的话,一直到天明。而且一到天明,大家便立刻都出来,开一个大会,商量对于哥儿这样的胡闹,应该想一个什么:方法的事。


在这会议上,鲫儿是跟了父母来出席的。鲫儿仿佛觉得世间很黑暗,似乎什么都莫名其妙了,鲫儿问父亲说:“为什么,哥儿做出这样的事来呢?”父亲道:“在地上的人类的哥哥们,高强固然高强,但常常要做狡猾的事。而且这世上,是再没比人类的孩子们更会狠心的胡闹的了。过几时,那些孩子们还要拿了钓和网,到这边的池上来,种种恶作剧,给我们吃苦哩。”鲫儿忧愁似的,慌忙又问他父亲说:“孩子们做了这样的事,怎么能到‘那个国土,去呢?可有什么搭救他们的方法么?”问的话还没有完,从陆地上,胡蝶姊姊象被大风卷着的一片树叶似的,慌慌张张的飞来了。那脸已经铁青,翅子和触角都吓得栗栗的发着抖。大家围上去,问是怎么了呢?胡蝶姊姊好容易略略定了神,这才坐在花朵上,说出话来了。那是这样的事:


这早上,天气非常好,恰恰闲空的胡蜂们,便忽然来约去看花,到了牧师的庭园里。春天正深了,这庭园中,红的白的和通黄的花,无论在庭树间,在花坛上,都缭乱的开着,花蜜的浓香,仿佛要渗进昆虫们的喉咙里似的流了进来。胡蜂们因为太高兴了,便忘却了怕这现在的世间的忧愁,或歌或舞的玩耍,不料又来了那照例的牧师的哥儿,突然取出小网,将许多同伴捉去了。


这新消息,使这日里的会议更加喧闹了,样样的议论之后,那结果,是待到黄昏,听教会钟鸣,人类的哥哥们开始祷告的时候,就请金色的胡蝶姊姊到教会去,对人类的哥哥们说了分明,请他们劝止了哥儿的胡闹。


黄昏到了,聚在这里的动物们,却都放心不下,不能回到自己池中的洞穴里和巢上去。默默的,定了睛互看着各人的脸。心底里只是专等那金色的胡蝶姊姊的回来。


不多久,金色的胡蝶姊姊回来了,一看见悄然的那脸,聚在这里的大众便立刻觉得自己的心,仿佛从荷梗上抽出来的曼陀罗华似的,很不稳定了。而且谁也不说什么话。


“一切都是诳呵,”没精打采的坐在花上的胡蝶姊姊说。“我们是无论怎样,总不能到‘那个国土,里去的。”听了这话,大家都骇然了,根究说:“为什么不能去呢?”却道:“我们没有灵魂。灵魂是单给了住在地上的人类的哥哥们,单是有着这灵魂的人类的哥哥们,才能到‘那个国土’里去呢。”听了这话,大家都骇然了。个个一齐回问说:“这没有错么?”或说:“这不是有些弄错着么?”胡蝶姊姊答道:“不,一点都没有错的。因为在‘那个国土’的神明的书上,明明白白写着呢。”大家接着的质问是:“那么,我们究竟到那里去呢?”蝴蝶姊姊道:“说是我们的被创造,是专为了娱乐人类,给人类做食料的。”这样说着,用了悲哀的大的眼睛,怜悯似的爱惜似的对着大家看。但因为早晨以来的疲劳和心坎上所受的伤,也便倒了下去,成了可惨的收场了。大家对于单为给人类的哥哥们做食物而被创造的自己的运命,都很悲哀。鲁莽的鲤鱼哥哥们已经很兴奋,叫道:“胡闹,没有这样的话。”仿佛那将自己造出这样运命的对手的神明,就在这里似的,怒吼着直跳起来。而温顺的泥鱿姊姊们,却昏厥了,许多匹躺在池底里。


为大家尽了力,死掉了的金色胡蝶的葬礼,在所有动物的热泪中,举行得很郑重。胡蜂哥哥们奏演葬礼的音乐。黄莺姊姊们唱着“伤心呵我的朋友”的哀歌,田鼠叔父掘坟洞。


这晚上,大家都很凄凉。而且叹着气,早就絮叨的说:“作为人类的东西而活着,可是不堪的事呵。”一面各自回去了。




【五】



在这一夜,回到池里以后,鲤鱼和泥鱿和蛙的堂兄弟们是怎样的只是哭,只是哭到天明呵。而且朝日也就起来了,然而出来迎接太阳的,却一个也没有。


鲫儿的悲哀也一样。怀着对于这世间毫无希望的心情,正在不见鱼影子的水际徘徊的时候,哥儿将小小的网伸下水里来了。“这是来捉我们的呵,”鲫儿一经这样想,便因了愤怒,全身仿佛着了火,索索的颤抖得生起波澜来。“请罢,捉了我去,没有捉去别个之前,先捉了我去。看见别个捉去被杀的事,在我,是比自己被杀更苦恼哩。”一面说,也就走进网里去。哥儿很高兴,赶紧捉住鲫儿,放在自己的桌上了。这屋的墙壁上,挂着黄莺先生的皮和兔和尚的皮,桌子上还散着他们的骨殖。玻璃匣里,是用留针穿过了心脏,排列着先前多少亲密的好几个胡蝶姊姊们。桌上的解剖台中,前晚恰在赏月时候所捉去的蛙的大诗人,现在正被解剖了,摘出的心,还是一跳一跳的显出那“死”的惋惜。


见了这样的东西,鲫儿是心胸都梗塞了。要想说,然而一开一合的动着嘴,说不出什么来,只用了尾巴劈劈拍拍的敲桌面。


过了一会,哥儿也便解剖了他,但看见鲫儿的心脏,是早已破裂的了。为什么,这小鲫鱼的心脏破裂着呢?却没有一个能将这不可思议的事,解说给哥儿的人。能将这因为悲哀,鲫鱼的心所以破裂的事,给哥儿说明的,是一个也没有。


这哥儿,后来成为有名的解剖学者了。但是,那池,却逐渐的狭小了起来,蛙和鱼的数目也减少了,花和草也都凋落了,而且到了黄昏,即使听到了远处的教会的钟声,也早没有谁出来倾听了。


我著者,从那时起,也就不到教会去了。对于将一切物,作为人类的食物和玩物而创造的神明,我是不愿意祷告,也不愿意相信的。

【魚の悲しみ】




【一】



あの冬はたいそう寒く、池の中に住む魚たちは、どれほど困っていたか知れない。最初はほんの薄く張った氷にすぎなかったのが、日一日と厚くなってゆく。しだいに魚たちの世界に迫ってきた。そこで鯉、鮒、泥鰌などの魚たちは、皆一カ所に集まり、氷を防ぐ方法を考えようと、さまざまな相談を始めた。しかし氷の圧迫は上から下へとやって来るもので、どうにも手の施しようがなかった。結局、魚たちの相談は、「いつか春が来るだろう」という希望を抱いて、みな散り散りになるほかに方法はなかった。すべての魚たちは、ひっそりと家に帰っていった。


その池の中に、鮒の夫婦が住んでいて、二人の間にはすでに鮒児という子どもがいた。鮒児はこの夜、一刻も眠れず、ただ「寒いよ寒いよ」と泣き叫んでいた。しかし池の底には、火鉢もなければ松明もなく、五枚六枚の暖かい綿の布団をかぶって寝ることも、二枚三枚の綿入れを着ることもできないのだ。鮒児の母親はまったく手の打ちようがなく、困り果てて、ただ鮒児を慰めて言った。「泣くんじゃないよ、泣くんじゃないよ、だって春がもうすぐ来るんだから」


「だけどお母さん、春はいつ来るの?」鮒児は涙目を上げて、母親を見ながら言った。


「もうすぐだよ」母親は穏やかに答えた。


「どうしてわかるの?」鮒児が言うと、母親の顔を見て、少し嬉しそうになった。


「だって毎年必ず来るんだもの」母親は言った。しかし鮒児は憂いを帯びた顔つきになり、尋ねた。


「だけどお母さん、もし今年に限って来なかったら、どうするの?」


「そんなことはないよ、きっと来るよ」母親はなだめるように言った。


「でも、お母さん、どうしてきっと来るの?」鮒児は納得がいかない様子で尋ねたが、母親はもう何も言わず、黙ってしまった。


「でも、お母さん、鯉のおじいさんが言ってたよ。『もし春が一度でも来なかったら、みんな死んでしまうのだ』って。本当なの?」鮒児はまた問いかけた。


「本当だよ」


「じゃあ、お母さん、『死ぬ』ってなあに?」


「それはね、いつまでも眠り続けることさ。体が動かなくなって、寒さも空腹もなくなって、そして魂があの遠い国へ行って、安楽に暮らすのだよ。その国には大きくて美しい池があって、冬のような寒さはまるでなくて、いつも春のように暖かいのだよ」


「お母さん、本当にそんないい国があるの?」鮒児はまた少し疑わしげに、母親の顔を見上げて尋ねた。


「ああ、あるとも」母親は答えた。


「じゃあ、お母さん、早くその国へ行こうよ」鮒児がそう言うと、母親は言った。「その国にはね、生きているうちは行けないのだよ」鮒児はまた合点がいかない様子で尋ねた。「どうして生きているうちは行けないの?お母さん、道がわからないの?」母親は言った。「そうだね、わたしは道を知らないのだよ」「じゃあ道を探しに行こうよ、早く早く、急いで行こう」鮒児はすぐにせわしくなった。


「ああ、ほんとに困ったこと」母親はため息をついて言った。「死ななければ、あの国へは行けないのだと、さっき言ったじゃないの」


「じゃあ、早く死のうよ、早く早く、急いで」


「そんなことを言うものじゃないよ」


「言っちゃいけなくたって、死のうよ。早くしてよ、だってもうこの池はいやなんだもの」鮒児は父親や母親の言うことをまるで聞かず、ただ駄々をこねて騒いだ。あまりに騒がしいので、隣の鯉のおじいさんが驚いて駆けつけ、「坊やはどうしたのです」と尋ねた。母親は鮒児が死にたいと騒いでいることを詳しく話した。すると鯉のおじいさんは鮒児に言った。「坊や、魚がこの池に来たのは、自分勝手にわがままを言うためじゃないのだよ。あの立派な国のお神さまのおっしゃることに従って、生きて泳いでいなければならないのだ」


「おじいさん、お神さまはなんておっしゃるの?」鮒児は尋ねた。


「第一に、おとなしくして、お父さんお母さんやお年寄りの言うことを聞くこと。その次は、池の仲間たちや陸の仲間たちを愛し、一生懸命に勉強して、立派な魚になること。そうすれば、あの国のお神さまがきっと坊やを呼んでくださって、あの美しい大きな池に住まわせてくださるだろうよ」老人は言った。


この時から、鮒児はどんなに寒くても、どんなに腹が空いても、もう一言も愚痴を言わず、ただにこにこと笑って、春の訪れを待つようになった。




【二】



春が来た。鮒児のように誠実で賢い小魚は、池の中にも近くの川にもいなかった。そして鯉の兄さんたちも泥鰌の姉さんたちも、何よりも鮒児を愛した。鯉の兄さんたちも泥鰌の姉さんたちも鮒児よりずっと年上であったが、鮒児がとても賢いので、いつでも一緒にあちこちへ遊びに行った。春になって、細い流れが四方八方から池に流れ込んできた。だから山の中でも、林の中でも、木立の中でも、野原でも、どこへでも行けた。鯉の兄さんたちは鮒児を山や林の偉い先生たちに紹介した。これらの先生たちの中に、兎というお坊さんがいて、長い耳をしていた。このお坊さんはたいそう偉いお坊さんで、こっそり肉を食べるようなことは決してしない方だった。別荘から帰ってきた鶯や郭公などの音楽の先生たちもいた。美しい透き通るような翅を持った先生たちも、鮒児がよい子なので、みなとても可愛がり、地上の世界のことをいろいろと話して聞かせた。そして鮒児が一番好きな話は、人間の話だった。その話では「人類という仲間たちは、最も偉くて最も賢いものだ」ということで、このことについてはみなの意見が一致していた。また「もちろん、山の政治家の狐も、芸術家の猿おばさんも、鸚鵡の語学者も、鳥の社会学者も、天文学者の梟博士も、偉いといえば偉いが、人類の仲間たちにはとてもかなわない」とも言った。


またこんなことを言う者もいた。「人類の仲間たちは、陸の仲間たちより歩くのは鈍いけれど、馬の背中を借りるだけでなく、自動車だの電車だの汽車だの自転車だのという不思議なものを作り出して、それに乗って走るから、誰よりもずっと速い。泳ぎの腕前はさほどでもないし、空を飛ぶことはまるでできないけれど、人類の仲間たちは大きな火の魚や、大きな翼の鳥を作って、それに乗って、水の上を自由に泳ぎ、空の中を自在に飛ぶのだ。人類の仲間たちは本当に不思議なものだなあ」鮒児はこうした話に出逢うと、聞き飽きることなく、何度も何度も繰り返し話してもらい、聞けば聞くほど、いわゆる人類というものに会ってみたくてたまらなくなるのであった。




【三】



その春は実に楽しかった。朝から鶯や郭公などの音楽の偉い先生たちが独唱し、蜜蜂のお嬢さんたちや胡蜂のお姉さんたちが合唱し、蝶のお姉さんたちが踊った。夜になると蛙の従兄弟である詩人たちが詩の会を開き、演説会を開いて、夜更けまで賑やかだった。これらの集まりに鮒児も出席し、可愛らしい口ぶりで「あの国」のことを語った。


「もしもわたしたちがみんな互いに愛し合って、楽しく暮らしていけば、もっとすばらしい、もっと美しい国へ行けるのです。その国には食べ物がなくなることもなく、寒さもなく、嫌なこともない。魚も地上を歩けるし、空を飛ぶこともでき、鳥も透き通った水の中を出入りして、魚たちと一緒に泳げるのです」鮒児はいつもこう語った。そしてほどなく、この「あの国」のことが、音楽の作曲の題材に、踊りの振り付けに、演説や歌の素材になった。するとあの蝿や蚯蚓や蛭のようなあてにならない連中までが、「あの国」の話をするようになった。


夕暮れになると、遠くの教会の鐘が鳴り出し、魚の仲間たちは水面に浮かび上がり、蛙の従兄弟たちは岸に蹲り、蝶の姉妹たちは花の上に座って、みな静かにこの晩鐘の響きに耳を傾けた。


この鐘の音は、人類の仲間たちが、自分たちの弟妹である、木に棲む鳥、水に浮かぶ魚、花に宿る虫のために祈り、平和に楽しく暮らせるよう祝福しているのだった。すると魚も蛙も鶯も祈りを捧げ、人類の仲間たちも幸福に暮らせますようにと願った。この祈りは花のうるわしい香りと、夕暮れの金色の光を帯びて、静かに「あの国」のお神さまのもとへ昇っていった。


あの遠い教会に一人の坊やがいて、その坊やも鮒児と同じように賢くおとなしく、みなに褒められていた。子犬の兄さんも坊やをとても愛していて、池の水を飲みに来るたびに坊やのことを話した。鮒児はその話をずっと聞いているうちに、しだいにこの坊やを慕うようになり、一度会ってみて、心を打ち明けて語り合いたいと思うようになった。




【四】



ある時、池のほとりがたいそう騒がしかった。鮒児は何事かと出ていくと、蛙の従兄弟たちが眉をつり上げ、肩をいからせ、興奮の極みで、げろげろげろげろと喧嘩のように話している。鮒児が何があったのかと尋ねると、先ほど兎のお坊さんがいつものように座禅を組んで、ちょうど夢の中にいた時、あの教会の坊やがやって来て、兎のお坊さんの長い耳をつまんで、捕まえて連れ帰ったのだという。


みな愕然として、茫然と顔を見合わせ、途方に暮れて慌てていると、そこへ燕のおばさんが飛んできて、恐ろしいことを知らせた。たった今、坊やがまた鶯を捕まえて行ったのだ。鶯は何かの歌の譜面を作ろうとして、熱心に勉強していたところを捕えられたのだった。しかもこの夜はちょうど十五夜の晩で、蛙の従兄弟たちは、世の中がこんなに物騒でも月見もしないで寝てしまっては月に対して失礼だという気持ちがあり、いつも通り山に登って詩の会を開いた。するとまた坊やが走ってきて、一番偉い詩人を一匹捕まえて逃げてしまった。


従兄弟の詩人たちは大いに驚き、その晩に作った詩はみな忘れてしまった。この夜、池の中で一睡もせず、さまざまな話をして夜明けまで過ごした。そして夜が明けるとすぐにみな出てきて、大きな集会を開き、坊やのこんな乱暴に対して何か方法を考えねばならないと相談した。


この会議に、鮒児は父母について出席していた。鮒児は世の中がひどく暗く感じられ、何もかもわけがわからなくなったようだった。鮒児は父親に尋ねた。「どうして坊やはこんなことをするの?」父親は言った。「地上の人類の仲間たちは、偉いことは偉いが、よくずるいことをするのだ。しかもこの世で人間の子どもほど残酷ないたずらをするものはいない。そのうちにあの子どもたちは釣り針と網を持って、この池にやって来て、いろいろないたずらをして、わたしたちを苦しめるのだ」鮒児は悲しそうに、あわてて父親に尋ねた。「子どもたちがこんなことをして、どうやって『あの国』に行けるの?あの子たちを救う方法はないの?」まだ問い終わらぬうちに、陸の方から蝶の姉さんが、大風に巻かれる木の葉のように、あたふたと飛んできた。顔はもう蒼白で、翅も触角もおびえてぶるぶる震えていた。みなが取り囲んでどうしたのかと尋ねると、蝶の姉さんはようやく少し落ち着いて、花の上に座り、話し始めた。それはこういうことだった。


今朝、天気がたいへんよく、ちょうど暇だった胡蜂たちが急に花見に誘ってきて、牧師の庭園へ行った。春もたけなわで、庭園の中には赤、白、黄の花が、庭木の間にも花壇の上にもあふれんばかりに咲き乱れ、花蜜の濃い香りが虫たちの喉に染み入るように流れ込んできた。胡蜂たちは嬉しくてたまらず、このご時世を恐れる憂いも忘れて、歌ったり踊ったりして遊んでいると、またあのいつもの牧師の坊やがやって来て、不意に小さな網を取り出し、仲間を何匹も捕まえて行ってしまった。


この新しい知らせで、この日の会議はいっそう騒然となり、さまざまな議論の末、その結論は、夕暮れになって教会の鐘が鳴り、人類の仲間たちが祈り始める時に、金色の蝶の姉さんに教会へ行ってもらい、人類の仲間たちにはっきりと事情を話して、坊やのいたずらをやめさせてもらうことだった。


夕暮れが来ると、ここに集まった動物たちは、みな気がかりで、自分の池の穴や巣に帰ることができなかった。黙って、じっと互いの顔を見つめていた。心の中ではひたすら金色の蝶の姉さんの帰りを待っていた。


ほどなく、金色の蝶の姉さんが帰ってきた。そのしょんぼりとした顔を見るなり、集まった者たちはみな、自分の心が蓮の茎から抜き出された曼陀羅華のように、ひどく不安定になるのを感じた。そして誰も何も言わなかった。


「すべてが嘘だったのです」元気のない様子で花の上に座った蝶の姉さんは言った。「わたしたちはどうしたって、『あの国』へは行けないのです」これを聞いてみな仰天し、「どうして行けないのです」と問い詰めると、蝶は答えた。「わたしたちには魂がないのです。魂は地上に住む人類の仲間たちだけに与えられたもので、この魂を持つ人類の仲間たちだけが『あの国』へ行けるのです」これを聞いてみなは仰天した。口々に「間違いないのですか」とか「何かの間違いではないのですか」と言った。蝶の姉さんは答えた。「いいえ、少しも間違いはありません。『あの国』のお神さまの書物にはっきりと書いてあるのですから」みなが続けて質問した。「では、わたしたちはいったいどこへ行くのですか」蝶の姉さんは言った。「わたしたちが造られたのは、もっぱら人類を楽しませ、人類の食料にするためなのだそうです」こう言いながら、悲しい大きな目で、憐れむように愛おしむようにみなを見つめた。しかし朝からの疲労と心に受けた傷のために、そのまま倒れて、哀れな最期を遂げたのだった。みなは人類の仲間たちの食料にするためだけに造られた自分たちの運命をたいそう悲しんだ。向こう見ずな鯉の兄さんたちはすでに大いに興奮し、「ふざけるな、そんな話があるものか」と叫び、自分たちをこんな運命に造った相手のお神さまがまさにここにいるかのように、怒り狂って跳ね上がった。そしておとなしい泥鰌の姉さんたちは気を失い、何匹も池の底に横たわった。


みなのために力を尽くして死んでしまった金色の蝶の葬儀は、すべての動物たちの熱い涙の中で、たいそう厳かに執り行われた。胡蜂の兄さんたちが葬送の音楽を奏でた。鶯の姉さんたちが「悲しきかなわが友よ」という哀歌を歌い、野鼠のおじさんが墓穴を掘った。


この晩、みなはたいそう淋しかった。そしてため息をつきながら、早々とくどくどと言った。「人類のもの(食料)として生きているとは、なんと堪えがたいことだろう」そう言いながら、めいめい帰っていった。




【五】



この夜、池に帰ってから、鯉も泥鰌も蛙の従兄弟たちも、どれほど泣いて泣いて泣き明かしたことか。そして朝日も昇ったが、太陽を迎えに出てくる者は一匹もいなかった。


鮒児の悲しみも同じだった。この世に何の希望も持てぬ心を抱えて、魚の姿も見えない水際をさまよっていた時、坊やが小さな網を水の中へ差し入れてきた。「これはぼくたちを捕まえに来たのだ」鮒児がそう思った途端、怒りのために全身が火がついたように熱くなり、ぶるぶると震えて波紋が立った。「さあどうぞ、ぼくを捕まえてください。ほかのものを捕まえる前に、まずぼくを捕まえてください。ほかのものが捕まって殺されるのを見るのは、ぼくにとっては自分が殺されるよりもつらいのですから」そう言いながら、網の中へ入っていった。坊やは大喜びで、すぐに鮒児を捕まえ、自分の机の上に置いた。この部屋の壁には鶯先生の皮と兎のお坊さんの皮が掛かっていて、机の上にはまだ彼らの骨が散らばっていた。ガラスの箱の中には、心臓を留め針で刺し貫かれ、かつて親しかった何匹もの蝶の姉さんたちが並べられていた。机の上の解剖台では、先の晩ちょうど月見をしている時に捕まえられた蛙の大詩人が今まさに解剖されており、取り出された心臓がまだぴくぴくと跳ねて「死」の無念を示していた。


こうしたものを見て、鮒児は胸がふさがってしまった。何か言おうとして、口をぱくぱくと開けたり閉じたりしたが、何も言えず、ただ尾でぱたぱたと机を叩いた。


しばらくして、坊やも鮒児を解剖したが、鮒児の心臓がすでに破れていることに気づいた。なぜこの小さな鮒の心臓が破れているのか、それを坊やに説明できる者は一人もいなかった。悲しみのために鮒の心が破れたのだということを、坊やに教えてくれる者は、一人もいなかった。


この坊やは、のちに有名な解剖学者になった。しかしあの池はしだいに小さくなり、蛙や魚の数も減り、花も草もみな枯れ果て、そして夕暮れに遠くの教会の鐘の音が聞こえても、もう誰も耳を傾けに出てくる者はいなくなった。


わたし著者は、あの時から、もう教会へは行かなくなった。すべてのものを人類の食物や玩具として創造した神に対して、わたしは祈りたくもなければ、信じたくもないのだ。

第72節

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【雕的心】



雕这样体面的自由的鸟,是再也没有的了。雕这样强的勇的鸟,是再也没有的了。而且,在动物里面,象雕这样喜欢那高的冷静的山的,是再也没有的了。雕是被称为鸟类之王的。在人类里,虽然没有叫自己的王或豪杰们显出力量和勇气来看的人,但在雕队伙中,却即使翅子和嘴子生得大,也不能说是豪杰。这是雕的古来的习惯。


无论怎样的雕,都说不定能做王或豪杰,所以大家互相尊敬着。象人类的王或豪杰似的,借了自己的下属的力量和智慧,来争权利,以及为了一点无聊事,吵闹起来的事,是没有的。大家各各努了力,使自己的翅子和嘴愈加强,爪和眼睛愈加锐,至于这个吓那个,或者讲些客套的事,在雕世界里,是一直从古以来所没有的。


就这一节而论,雕和人是一直从古以来便不同的了。欺侮弱者,压迫弱者,取了弱者的力气和智慧,随便给自己用,这似乎是一直从古以来的人类的习惯,因为强者总是私有了弱者们的力气,所以不能真自由,而弱者也就非常之不幸了。


人类是怎样的倒运的动物呵。而人类却还说自己是万物之灵。这不是刻毒的笑话么。




【一】



却说山的国,被那比邻的大国度占去了,不拘什么时候,这两国总就是争闹。这国的最高的山上面,很幸福的生活着许多雕。这些雕,从古以来,几千年几万年的接连了燃烧着一种的希望。都便是要飞到永久温暖永久光明的太阳上去。他们相信,只要每日努力的向上飞,积练上几千年几万年,则雕的子孙们,大概一定可以到得那太阳。这事一连的积上了许多代,所以翅子的力量比祖宗强,也确然是事实了。


“爱太阳,


上太阳!


不要往下走,


不要向下看!


慕太阳是雕的力的源头,


上太阳是雕的心的幸福。


不要往下飞,


不要向下看!


下面是暗的狭的笼,


下面是奴隶的死所。



不要往下飞,


不要向下看!


下面是弱者的世界,


下面是无聊的人类的世界。


不要往下飞,


不要向下看。”


这是雕的母亲们一直从古以来教训那雕的孩子们的歌。受着压迫的山的国民们,听了这歌,不知道怎样的心情呢。雕王的心是在最高的山的最冷静的岩石上。王和王妃之间,有了两个可爱的王子。每早晨,王带了大王子,王妃带了小王子,都到岩石的尽边,便在这里将王子们直踢下去,他们刚近下面时,却又抓回岩上来了。这是每早晨的功课。到后来,王子们便能容容易易的飞到岩上来,飞到下边去了。王和妃见了很欢喜,于是将王子们高高的抱上空中,试使他们跌落下去看。最初,王子们也完全发了昏,但练而又练,翅子渐渐的强了,从很高的空中,早能够容易的回到自己的窠里了。有一天,王对王妃说,今天要教孩子们落到那深谷底里看了。于是便将王子们带到很高的天空,给掉向那深的谷底去。这两个王子们,本也尽着所有的力来飞,然而才到中途,翅子已经乏了力,小王子叫道:“哥哥,我早没有力气了。”大王子便聚起残余的力量来,要救他兄弟。王和妃远远地眺望着,鼓着翅子只喝采。正在这时候,两地之间流过了不知那里来的云。便再看不见王子们了。王和妃都吃惊,比箭还快的穿出云间,飞下谷里去,却已经太晚了。大王子帮着小兄弟,自己也乏了力,气厥了,石子一般的径向谷里掉。王和妃刚要抓起气绝的王子们的时候,忽然现出一个强有力的猎人来,带着两个儿子。要提王和妃。王和妃也暂时护着王子们,很奋斗,但猎人既然过于强,又以为王子们已经断了气,便舍了王子们,飞上天空去了。然而王子们其实没有死,待到带回猎人的家里,便已回过呼吸来。猎人剪了他们的翅子的翎,分给他两个儿子了。那时猎人的大儿子是七岁,其次是六岁,都很爱雕王子,无论到那里,总携着一同去,但猎人叮嘱说,只有山上万万去不得的。这山国的人们,听得谷里落下两个小雕来,以为一定是什么好兆头,个个很欢喜。他们的心里,暗暗地希望着,想不远便到来两个雕,救了这国度,于是嘱托猎人,教他好好的看待雕的王子们,然而不到七天,异事出现了。这时失去了猎人的小儿子。据他的朋友说,从天空里,闪电似的飞下一匹很大的雕来,抓了猎人的儿子去了。大家听了很骇异。然而两三日之后,再其奇异的事又出现了。这是又失去了猎人的大儿子。


对于这事,山国的人们也有许多的议论,只有猎人却默默的不开口。他象先前一样,用心的养育着雕的王子们。王子们当初很凄凉,常常有不自由无宁死的模样,然而大王子爱抚小兄弟,小王子慰藉他大哥。他们被村中的孩子们所珍爱,渐渐的习惯了人间,爱好了人类了,只有被长链子系在木桩上这一节,总还是很难忍。




【二】



五年经过了。雕的王子们早长大,翅子也强壮了。正当五年以前王子们落在谷里这一日,猎人开了锁,带他们上了高山,而且放了他们,于是默默的回家来。


一听到放掉了两个雕,山国的人们便都嚷起来了。人们还在嚷的时候,先前不见了的猎人的儿子,都从山里回来了。


两个完全改了样,当初一见,谁也不知道是猎人的孩子们。他们都裸体,头发很长,身体是石一般坚,手脚有铁一般固,眼光锐利,鼻子是雕鼻似的变曲了,牙齿是狼似的大了,指爪是虎似的尖长了。山国的人们见了他们,都很吃惊,而且兴致勃勃的连日去听他们的话,说是他们被雕王攫去之后,便养在雕窠里,始终受着王和王妃的珍重。每天,王和妃背了他们,飞上空中,将他们摔在云里,又帮他们下来,此外还有各样奇怪的事,孩子们虽然这样说,但听的人却不知道是真实还是说诳,只是飞腾,上山,浮水这些事,山国的人们里却是没一个比得上他们,也没有一个有他们这样的要自由的生活,这孩子们深知道用什么方法,可以燃烧山国的人们的心;而且用人类的语言,不够表明“自由”的意义的时候。他们便雕一般的叫。


他们这才教给山国的人们以雕的歌:


“爱太阳,


上太阳!


不要往下走,


不要向下看……”


他们实在是不可思议的孩子们,山国的人们称他们为“雕的心。”见了这孩子们,受着压迫的山国的人们的心,不知道涌着怎样的希望呢。




【三】



那一面,雕王和王妃看见两个王子平安的回了家,自然很欢喜,但一检查他们的翅子和嘴、眼睛、指爪,便知道这些是全不中用了,雕王们看出了翅子和嘴上没有力,眼睛和指爪都钝了,真不知怎样的痛心哩。况且王子们的勇气以及爱自由的事,从王和妃看来,不知怎么的也总觉得有些不可靠。


每天,雕王和妃便来剧烈的锻炼王子们。每天,王妃唱着“爱太阳,上太阳!不要往下走,不要向下看!”的歌,竭力的想奋起两个王子的已经疲弱的心来,使将来可以成就勇敢的王。十年之间,每天每天的接连着,想从王子们的心里,除去那些人类的心;于是王子们终于比雕王和妃飞得更高,爪和眼也比他们更锐利了,独有那心,却总在什么地方有些不象雕的心,似乎带着近似人心的脆弱。王子们便是飞向太阳的时候,总仿佛眼睛看着下方,便是翱翔于无限的太空的时候,那心也似乎留恋着山谷;而且比别的雕飞得更高的时候,也不从胸中发出自喜得胜的叫喊。却只听得一种悲哀的寂寞的倦倦于下面的谷里的生活的声音。有时候,王子们竟两三天不去求饵,什么也不吃的饿着;或者捉住饵食,却又将他放走了,雕王们对于王子们的这模样,或耳闻,或目睹,那心里正不知怎样的悲哀呵。王子们的朋友们,都说他们的坏话,称他们为“人心”。一面则王和妃常常很恼怒这王子们,说他们是家门的耻辱。有一天,大王子飞翔空中之后,回到家里,坐在父亲的面前,凄凉的看着他的脸,说道:


“父亲,一直从古以来的上太阳这一个雕的理想实在是呆气罢了。向着太阳只是飞,是无谓的事。即使真能够上了太阳,雕也未必因此便幸福。父亲,我今天曾经要上太阳去,尽力的飞到高处去了,然而愈上去便愈冷,愈高便愈眼花,终于头眩,我便近乎昏厥的落了地。愈近太阳就愈冷的事,我以为很确凿的。所以上太阳这事,我要停止了。”


王子这样说,雕王叫一声“人心”之后,便用爪攫破了他的喉。王子只发出一种爱慕下面的凄凉悲哀的生活似的叫声,全不抵抗,死在王的爪下了。这晚上,小王子也从外面回来了,坐在王妃的面前说:


“母亲,向着太阳飞,我已经不愿意了。这事是全没有什么用处的。我决计到下面的谷里去,在树上造起窠来,就在那里和人类以及别的动物和睦的过活。说雕的幸福就散满在太阳上,是不能相信的事。然而人类的友情中,便有着幸福,却是我已经经验了的。”


这样一说,王妃便叫道“卑下的人心”,扑向王子用爪抓破了他的喉。王子只发出一种留恋山谷,企慕人类的友情似的声音,毫不回手,死在王妃的爪下了。这一夜,雕王们便将死掉的王子们带到下面的山谷里去,放在先前养育了王子们的猎人的门前。从此以后,王子们所唱的


“爱太阳,


上太阳!


不要往下走。


不要向下看……”


的那歌,便仿佛有些警诫“人心”似的了。


到早晨,山国的人们一看见两匹死雕,又发生了一顿嚷。这时候,山国的人们正被那称为“雕的心”的两个兄弟带领着,对于邻国起了大革命,两员大将“雕的心”,极有机谋,邻国的人们毫没有对付的方法,正要败下去了。但现在一发见这两匹被杀的雕,虽然嘴里都不说,而各人的心中,却疑心这两匹雕便是这回的革命终于失败的前兆。山国的女儿们用美丽的花朵,装饰了死雕,唱着勇敢的“雕的心”弟兄所教的


“爱太阳,


上太阳!


不要往下走,


不要向下看!……”


的歌,将他们埋葬了,作为国里的英雄。




【四】



邻国的首都很热闹,很繁华。家家饰着灯火和旗,祝炮的响声,花火的炸声,鼓动欢心的音乐,远远地飘来,市人穿了好衣服,摇着提灯和旗,来来往往的走。首都的一切街,真象是美丽的串子了。一切人,都显得高兴。只有立在最大的一条街的大空地上的断头台见得凄凉。人们都凑到空地里来,唱着国歌,似乎等着什么事。在这晚上,在这台上,称为“雕的心”的两弟兄,要处死刑了,人们都谈着山国的话。于是从远地里,发出“反贼到了反贼到了”的低话来,大家立刻都沉寂,现出了兵卒环绕着的两弟兄,人们都沉默,大街就象坟墓一般静。只剩了“篷篷,篷篷”的鼓声。称为“雕的心”的两兄弟微笑着。那眼珠里,仿佛耀着无边的勇,而且满着使一切人心全都炎烧起来的力。他们含笑上了断头台,“篷篷,篷篷”的鼓声便停止了。人们咽着唾沫,看定称为“雕的心”的弟兄们,两弟兄全没有改了先前这模样,抬眼看着空中。这时候,静的空气微微的发抖,听到勇敢的雕声了。刚觉得空中发出应声,从天空里,蓦然间闪电似的飞下两匹很大的雕——市人们从来没有见过的这么大的雕——来,抓了“雕的心”两弟兄。刚一抓,便又蓦然间飞上天空去了。人们一见这,都变了僵石似的不动弹。全市街仿佛成了一个坟墓。人们的头上,只听得传来了这样的歌:


“下面是狭的笼,


下面是奴隶的死所。


不要往下飞,


不要向下看!


下面是弱者的世界,


下面是无聊的人类的世界。……”




【五】



在邻国正在大排胜利的贺筵的时候,革命失败了的山国里却很静。失了丈夫,抛了儿子的女人们的心,这夜里不知道怎样的凄凉呢。都说,今天的夜,正是称为“雕的心”的山国的英雄临刑的夜。女人们都带着小孩子,聚到称为“雕的心”的弟兄的门前来。那些女人的心的凄凉,谁能够知道呢!但是,虽然凄凉,女人们还将剩下的幼小的孩子们,动到无限的空中,将长大的孩子们给他们看,而且因为要救这山的国,祈祷在这些剩下的孩子们里。也给予那“雕的心”。一切都寂静,星星沉静的晃耀,而且在夜的寂静中,作为祈祷的答话,不知从那里听到了这样的歌?


“不要往下走,


不要向下看!


慕太阳是雕的力的源头,


上太阳是雕的心的幸福。……”


读了这说话的诸君,也请祈祷祈祷,使能给以救这世界人类的“雕的心”罢。

【鷲の心】



鷲ほど立派で自由な鳥は、もう二度とあるまい。鷲ほど強く勇ましい鳥は、もう二度とあるまい。しかも動物の中で、鷲ほどあの高く冷たい山を愛するものは、もう二度とあるまい。鷲は鳥類の王と呼ばれている。人間の世界では、自分の王や豪傑に力と勇気を示させる者はいないが、鷲の仲間では、たとえ翼や嘴が大きくとも、それだけで豪傑とは言えない。これは鷲の古くからの習わしである。


どんな鷲でも王や豪傑になりうるから、みな互いに尊敬し合っている。人間の王や豪傑のように、部下の力と知恵を借りて権力を争ったり、つまらぬことで騒ぎ立てたりすることはない。みなそれぞれ力を尽くして、自分の翼と嘴をいっそう強くし、爪と目をいっそう鋭くする。誰かを脅かしたり、お世辞を言ったりすることは、鷲の世界では大昔から一度もなかったのだ。


この一点だけを見ても、鷲と人間とは大昔から異なっていた。弱い者をいじめ、弱い者を圧迫し、弱い者の力と知恵を奪って勝手に自分のために使う——これはどうやら大昔からの人類の習慣のようだ。強い者がいつも弱い者の力を私有するから、真に自由にはなれず、弱い者もまた非常に不幸なのだ。


人類とはなんと不運な動物であろう。それなのに人類は自分を万物の霊長だとまだ言っている。これは残酷な冗談ではないか。




【一】



さて、山の国は隣の大国に占領され、いつもこの二国は争い合っていた。この国の最も高い山の上で、多くの鷲が幸福に暮らしていた。これらの鷲は大昔から幾千年幾万年と続けて、一つの希望を燃やし続けていた。それは永遠に暖かく永遠に光り輝く太陽へ飛んでゆくことだった。毎日努力して上へ飛び続け、幾千年幾万年と鍛錬を積めば、鷲の子孫たちはきっと太陽に届くことができるだろうと信じていた。これが何代にもわたって積み重なったので、翼の力が先祖より強くなったことは確かな事実であった。


「太陽を愛せよ、


太陽を目指せ!


下へ行くな、


下を見るな!


太陽を慕うは鷲の力の源、


太陽を目指すは鷲の心の幸福。


下へ飛ぶな、


下を見るな!


下には暗く狭い檻がある、


下には奴隷の死に場所がある。



下へ飛ぶな、


下を見るな!


下は弱者の世界、


下はつまらぬ人類の世界。


下へ飛ぶな、


下を見るな」


これは鷲の母親たちが大昔から鷲の子どもたちに教えてきた歌である。圧迫を受けている山の国の人々が、この歌を聞いてどんな気持ちだったか知れない。鷲王の巣は最も高い山の最も冷たい岩の上にあった。王と王妃の間には二人の可愛い王子がいた。毎朝、王は大王子を、王妃は小王子を連れて岩の端まで来て、そこから王子たちを真っ逆さまに蹴り落とし、下の方へ近づいた所をまた岩の上に引き戻した。これが毎朝の稽古であった。やがて王子たちはたやすく岩の上に飛び上がり、下に飛び降りることができるようになった。王と王妃はこれを喜び、王子たちを高く空中に抱え上げ、落としてみた。最初、王子たちもすっかり目が回ったが、練習を重ねるうちに翼がしだいに強くなり、とても高い空中からでもたやすく自分の巣に戻れるようになった。ある日、王は王妃に言った。今日は子どもたちをあの深い谷底に落としてみようと。そこで王子たちを高い空に連れて行き、深い谷底に向かって落とした。二人の王子も力の限り飛んだが、まだ途中で翼の力が尽き、小王子が叫んだ。「兄さん、ぼくはもう力がないよ」大王子は残りの力を振り絞って弟を助けようとした。王と王妃は遠くから眺めて、翼を打ち鳴らして声援した。ちょうどその時、二人の間をどこからともなく雲が流れてきて、王子たちが見えなくなった。王と王妃は驚き、矢よりも速く雲を突き抜けて谷へ飛び降りたが、すでに遅かった。大王子は弟を助けて自分も力尽き、気を失い、石のように谷へ落ちていった。王と王妃が気絶した王子たちをつかみ上げようとした時、突然力の強い猟師が二人の息子を連れて現れ、王と王妃を捕まえようとした。王と王妃もしばらく王子たちを守って奮闘したが、猟師があまりに強く、王子たちはすでに息絶えたと思い、王子たちを捨てて空へ飛び去った。しかし王子たちは実は死んでおらず、猟師の家に連れ帰られると息を吹き返した。猟師は王子たちの翼の羽を切り、二人の息子に分け与えた。その時、猟師の長男は七歳、次男は六歳で、二人とも鷲の王子をとても可愛がり、どこへ行くにも連れていったが、猟師は山の上にだけは決して行ってはならぬと言い聞かせた。山の国の人々は谷底に二羽の小鷲が落ちてきたと聞き、きっと何かよい前兆だと思って、みな大いに喜んだ。心の中でひそかに期待し、やがて二羽の鷲がこの国を救ってくれるだろうと。そして猟師にくれぐれも鷲の王子たちを大事にするよう頼んだ。しかし七日も経たぬうちに、奇妙なことが起きた。猟師の次男がいなくなったのだ。友だちの話では、空からいなずまのように大きな鷲が飛び降りてきて、猟師の息子をさらって行ったという。みなこれを聞いてたいそう驚いた。そして二、三日後、さらに不思議なことが起きた。今度は猟師の長男がいなくなったのだ。


この事について、山の国の人々もいろいろと議論したが、猟師だけは黙って口を開かなかった。彼は以前と変わらず、心をこめて鷲の王子たちを育てた。王子たちは最初とても淋しがり、しばしば不自由なら死んだほうがましだという様子を見せたが、大王子は弟をいたわり、小王子は兄を慰めた。村の子どもたちに大事にされ、しだいに人間の世界に慣れ、人類を好きになっていった。ただ長い鎖で杭につながれていることだけは、どうしても我慢しがたかった。




【二】



五年が過ぎた。鷲の王子たちはすっかり大きくなり、翼も逞しくなった。ちょうど五年前に王子たちが谷に落ちたその日に、猟師は鍵を開け、彼らを高い山に連れて行き、放してやった。そして黙って家に帰った。


二羽の鷲を放したと聞くと、山の国の人々はみな騒ぎ出した。人々がまだ騒いでいるうちに、先にいなくなっていた猟師の息子たちが山から帰ってきた。


二人はすっかり姿が変わり、最初に見た時、誰も猟師の子どもだとはわからなかった。二人とも裸で、髪は長く、体は石のように堅く、手足は鉄のように強く、目は鋭く、鼻は鷲鼻のように曲がり、歯は狼のように大きく、爪は虎のように鋭く伸びていた。山の国の人々は彼らを見て大いに驚き、興味津々で連日彼らの話を聞きに行った。二人が言うには、鷲王にさらわれた後、鷲の巣で育てられ、終始王と王妃に大切にされた。毎日、王と王妃が背に乗せて空高く飛び上がり、雲の中に放り出しては、また助けて降ろした。そのほかにもさまざまな不思議なことがあった。子どもたちはそう語ったが、聞く者は本当か嘘かわからなかった。ただ飛翔、登山、水泳については、山の国の人々で二人にかなう者は一人もなく、二人ほど自由を求めて生きている者もいなかった。この子どもたちは山の国の人々の心に火をつける術をよく心得ており、人間の言葉では「自由」の意味を十分に表せない時には、鷲のように叫んだ。


彼らはこうして山の国の人々に鷲の歌を教えた。


「太陽を愛せよ、


太陽を目指せ!


下へ行くな、


下を見るな……」


彼らは実に不思議な子どもたちであった。山の国の人々は彼らを「鷲の心」と呼んだ。この子どもたちを見て、圧迫に苦しむ山の国の人々の心に、どれほどの希望が湧いたか知れない。




【三】



一方、鷲王と王妃は二人の王子が無事に帰ってきたのを見て、もちろん大いに喜んだ。しかし王子たちの翼と嘴、目、爪を検査してみると、これらがまったく役に立たなくなっていることがわかった。鷲王たちは翼と嘴に力がなく、目と爪が鈍くなっているのを見て、どれほど胸を痛めたか知れない。おまけに王子たちの勇気や自由を愛する心も、王と王妃の目にはどこか頼りなく映った。


毎日、鷲王と王妃は王子たちを激しく鍛えた。毎日、王妃は「太陽を愛せよ、太陽を目指せ!下へ行くな、下を見るな!」の歌をうたいながら、すでに萎えてしまった二人の王子の心を奮い立たせ、将来勇敢な王にしようと力を尽くした。十年の間、毎日毎日絶え間なく、王子たちの心から人間の心を取り除こうとした。そしてついに王子たちは鷲王や王妃よりも高く飛べるようになり、爪も目も彼らより鋭くなった。ただその心だけは、どこかに鷲の心らしくないところがあり、人間の心に近い脆さを帯びているようだった。王子たちは太陽に向かって飛ぶ時でも、いつも目が下の方を見ているかのようで、果てしない大空を翔ける時でも、心は山の谷間に未練があるかのようだった。そしてほかの鷲よりも高く飛んだ時も、胸から勝ち誇った叫びを発することなく、ただ悲しげで寂しげな、下の谷の暮らしを恋い慕うような声が聞こえるばかりだった。時には王子たちは二、三日も餌を求めに行かず、何も食べずに飢えていることもあった。あるいは獲物を捕まえても、また逃がしてやったりした。鷲王たちは王子たちのこうした様子を見聞きするにつけ、その心中の悲しみは計り知れなかった。王子たちの友人たちはみな悪口を言い、彼らを「人の心」と呼んだ。一方、王と王妃はしばしば王子たちにひどく怒り、家門の恥だと言った。ある日、大王子は空を翔けた後、家に帰り、父の前に座って淋しげに父の顔を見ながら言った。


「父上、大昔から続いてきた太陽を目指すという鷲の理想は、実は愚かなことにすぎません。太陽に向かってただ飛ぶのは無意味です。たとえ本当に太陽に着いても、鷲は必ずしもそれで幸福になるわけではありません。父上、わたしは今日太陽に行こうとして力の限り高く飛びましたが、上に行けば行くほど寒くなり、高くなればなるほど目がくらみ、ついに目まいがして落ちてしまいました。太陽に近づくほど寒くなるということを、わたしは確かに知りました。ですから太陽を目指すことは、もうやめたいのです」


王子がこう言うと、鷲王は「人の心め」と一声叫んで、爪で王子の喉を引き裂いた。王子はただ下界を慕う悲しく淋しい声を発するばかりで、まったく抵抗せず、王の爪の下に死んだ。その晩、小王子も外から帰ってきて、王妃の前に座って言った。


「母上、太陽に向かって飛ぶことは、もうしたくありません。まったく何の役にも立たないことです。わたしは下の谷へ降りて行って、木の上に巣を作り、そこで人間やほかの動物と仲良く暮らすことに決めました。鷲の幸福が太陽の上に満ちているなどとは信じられません。けれども人間の友情の中にこそ幸福があるということは、わたしがすでに経験したことなのです」


こう言うと、王妃は「卑しい人の心め」と叫び、王子に飛びかかって爪で喉を引き裂いた。王子はただ山の谷を恋い慕い、人間の友情を慕うような声を発するだけで、まったく手を上げず、王妃の爪の下に死んだ。この夜、鷲王たちは死んだ王子たちを下の山谷に運び、かつて王子たちを育てた猟師の家の前に置いた。これ以後、王子たちが歌っていた


「太陽を愛せよ、


太陽を目指せ!


下へ行くな、


下を見るな……」


の歌は、どこか「人の心」を戒めるような響きを帯びるようになった。


翌朝、山の国の人々が二羽の死んだ鷲を見つけると、また一騒ぎが起きた。この時、山の国の人々はちょうど「鷲の心」と呼ばれる二人の兄弟に率いられて、隣国に対して大革命を起こしていた。二人の大将「鷲の心」は智謀に長け、隣国の人々はまったく手の打ちようがなく、今にも敗れようとしていた。しかし今この二羽の殺された鷲が見つかり、口には出さないものの、みなの心の中では、この二羽の鷲がこの革命がついに失敗する前兆ではないかと疑った。山の国の娘たちは美しい花で死んだ鷲を飾り、勇敢な「鷲の心」の兄弟が教えた


「太陽を愛せよ、


太陽を目指せ!


下へ行くな、


下を見るな!……」


の歌をうたいながら、国の英雄として彼らを葬った。




【四】



隣国の首都は賑やかで華やかだった。家々は灯火と旗で飾られ、祝砲の轟き、花火の弾ける音、心を浮き立たせる音楽が遠くから漂ってきた。市民たちは晴れ着を着て、提灯と旗を振りながら行き交った。首都のすべての通りはまるで美しい数珠のようだった。みなが嬉しそうだった。ただ最も大きな通りの広場に立つ断頭台だけが淋しく見えた。人々は広場に押し寄せ、国歌をうたいながら、何かを待っているようだった。この晩、この台の上で「鷲の心」と呼ばれる二人の兄弟が処刑されるのだった。人々は山の国のことを話し合った。すると遠くから「反逆者が来たぞ、反逆者が来たぞ」という低い声が聞こえ、みなたちまち静まり返った。兵士たちに囲まれた二人の兄弟が現れた。人々はみな黙り込み、大通りは墓場のように静まった。ただ「ドンドン、ドンドン」という太鼓の音だけが残った。「鷲の心」と呼ばれる二人の兄弟は微笑んでいた。その瞳にはあたかも限りない勇気が輝き、しかもすべての人の心を燃え上がらせる力に満ちていた。二人は笑みを浮かべて断頭台に上がり、「ドンドン、ドンドン」の太鼓の音がやんだ。人々は唾を飲み込みながら、「鷲の心」の兄弟を見つめていた。二人の兄弟はまったく先ほどと変わらぬ様子で、目を上げて空を見ていた。その時、静かな空気がかすかに震え、勇ましい鷲の声が聞こえた。空から応える声がしたかと思うと、大空からいなずまのように二羽のとてつもなく大きな鷲——市民たちが見たこともないほど大きな鷲——が飛び降りてきて、「鷲の心」の二人の兄弟をつかんだ。つかむやいなや、またたく間に大空へ飛び去った。人々はこれを見て、みな石のように動かなくなった。街全体がまるで一つの墓場になったかのようだった。人々の頭上には、ただこんな歌が聞こえてくるばかりだった。


「下には狭い檻がある、


下には奴隷の死に場所がある。


下へ飛ぶな、


下を見るな!


下は弱者の世界、


下はつまらぬ人類の世界……」




【五】



隣国が盛大に勝利の祝宴を張っている時、革命に敗れた山の国はひっそりとしていた。夫を失い、息子を手放した女たちの心が、この夜どれほど淋しかったか知れない。みなが言った、今夜こそ「鷲の心」と呼ばれる山の国の英雄が処刑される夜だと。女たちはみな小さな子どもを連れて、「鷲の心」の兄弟の家の前に集まった。女たちの心の淋しさは、誰にわかるだろう。けれども淋しくとも、女たちは残された幼い子どもたちを果てしない空に向かってかかげ、大きくなった子どもたちに見せた。そしてこの国を救うために、残された子どもたちの中にもあの「鷲の心」を与えたまえと祈った。すべてが静まり、星は静かに瞬いていた。そして夜の静寂の中で、祈りへの答えのように、どこからともなくこんな歌が聞こえてきた。


「下へ行くな、


下を見るな!


太陽を慕うは鷲の力の源、


太陽を目指すは鷲の心の幸福……」


この物語を読まれた皆さんも、どうか祈ってください。この世界の人類を救う「鷲の心」が与えられるように。

第74節

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【】


【古怪的猫】



我愿意忘却了那一日。


不知道有怎样的愿意忘却了那一日呵。   


然而忘不掉。


那是最末的一日。


外面是寂寞而且寒冷。然而那一日的我的心,比起外面的寒冷来,不知道要冷几倍;比起外面的寂寞来,也不知道要寂寞几倍了。虽然并没有测量心的寂寞和寒冷的器械。……   


我坐在火盆的旁边,惘然的想着。火盆的火焰里,朦胧的烧着留在我这里的恋恋的梦和美丽的希望。忽然,不知从那里来,虎儿跳到了,(虎儿是这家里养着的雄猫的名字。)便倒在我膝上,将我的膝,用四条脚紧紧的抱着似的发着抖。我正在想:这是怎么一回事呢?虎儿便用了轻微的声音说出话来:


“哥儿。


唯一的亲爱的哥儿。


唯一的爱我的哥儿。”   


 虎儿还想要说些什么的,但说了这话之后,似乎再不能说下去了。他的声音断绝了。


我心里想:“唉,又是梦么?梦是尽够了。然而事实却尤其尽够哩。”可是毫不动弹,先前一般的坐着。于是虎儿的话接下去了:


“哥儿。我是已经不行了。对于一切,全都悲观了。”


这时候,我想说:


“说什么不安分的话。我自己,其实是早就悲观了的,然而并不说。”但觉得虎儿有些可怜,连这也不说了。


虎儿又说他的话:


“主人,使女,厨子,因为我不捉老鼠,都说我是懒惰者!然而我并非懒惰,所以不捉老鼠的。我已经不能捉老鼠了。我已经没有了捉老鼠的元气了。也并非是指爪和牙齿没了力。是在这——虎儿说着,拍他自己的胸脯——这心里没有了捉老鼠的力量了。因为我不捉老鼠,老鼠便在店里,仓库里,任意的弄破米袋,咬面包,偷点心。近日里,听说将太太宝藏着的克鲁巴金的《面包的掠夺》这一部书都啃了。主人和使女和厨子都说这是老鼠的胡闹。然而这并不是老鼠的胡闹。老鼠是饿着,全然饿着。不这样,老鼠便活不下去了。哥儿,请你懂得我的心,——看我的真心的里面罢”。


虎儿用了颇为激昂的口吻说完话,便仿佛要催促我的理解似的,将尖利的指爪抓着我的膝。


“痛!好不安分的猫呵。小聪明的。便是老鼠没有食物,饥饿着,也不是什么一个要慷慨激昂的问题呵。便在人间,俄国、德国、奥国这些地方,有一亿几千万的人们在那里挨饿,然而我们不是漠不相关么?况且那些宣传臭的病症之类的鼠辈受着饿,这倒是谢天谢地的事哩。”我很想这样的对他说,但在我也没有说出这些话来的元气了。


“因为我不捉老鼠,主人说不应该再给我吃饭。”这是哥儿也很知道的罢。哥儿,说着这些话的我,也正饿着呢。肚子空空,没有法想。倘使终于熬不下去,随便的拿一点什么食物,便立刻说是‘吓,猫偷东西了,’大家都喧嚷起来。假使没有哥儿,我怕是早就饿死了罢。然而哥儿,我的肚子也仍然是空空的。虽然这么说,我却也没有全变成野猫的元气。唉唉,我不行了……


主人和使女和厨子以为不给我饭吃,我便会捉老鼠,然而这是不行的。因为这心底里,想捉老鼠的一种要紧的元气已经消失了。唉唉,我已经不行。我是‘古怪猫’了。倘是人,就叫作古怪人的罢。”


这时候,我想这样的对他说:


“唔,客气一点,也许说是古怪人罢,但通常确叫作低能或是白痴!只给这样的称呼的。”然而在我也没有说出这话来的元气了。


“有一天,我坐在仓间里,等候着老鼠来偷米。老鼠终于来到了。都口口声声叫着:


‘米!米!米!’


的来到,成了山的来到了。我就动手做。我咬而又咬,不知道咬杀了几百,几千,几万的老鼠。然而愈咬杀,且不必说想减少,却反而逐渐的增加起来。大鼠、小鼠、黑鼠、灰鼠、公鼠、母鼠、老鼠、幼鼠、亲鼠、子鼠,这都口口声声的说着一个题目似的,叫唤着:


‘米!米!米!’


重重迭迭的来到了。那连串,想不到什么时候才会完。从宇宙创成以来的老鼠不必说,此后还要生出来罢。仿佛是无限大的鼠,一时全都出来了的一般。而个个都用了更可怕的执拗的声音,不断的叫着:


‘米!米!米!’


我听着这种声音的时候,觉得自己的心情有些异样了。而且本以为只是老鼠们的叫声;却在这叫声里,似乎也夹着我辈猫的叫唤的声音了。阿,这猫鼠声音却渐渐的高大起来。什么时候之间,老鼠的声音已经消沉下去,只听得猫的声音却嚣嚣的响:


‘米!米!米!’


这正是猫的声音。我觉得害怕,失了神逃走了。我伏在暗的角落里,不住的不住的索索的抖。


‘米!米!米!’


这样叫的猫的声音,在我的耳中,不住的不住的只是叫唤着。


从此以后,我不知道抖了几小时,几日夜,几个月呵,我从这时候起便不行了。几成了古怪猫了。


这时候,我于‘老鼠是我的可爱的可同情的兄弟,这一件事,这才微微的有些懂得了。


我从这时候起,便没有了捉老鼠的元气,而且不能不随意的暗地里取一点食物了。


不能不随意暗地里取一点食物的时候,这时候,‘老鼠是我的真的兄弟’这一节,这才懂得更分明。至于此后的事,则是我的朋友们,便是最亲爱的朋友们,只要看见我,也便说是古怪猫,是疯猫,立刻逃走了的。不但这样,主人和使女和厨子,昨天也看出了我是发了疯。而且主人说要勒死我,勒死之类,我是不情愿的。


哥儿。唯一的爱我的哥儿。去买一点吗啡,给我静静的睡去罢。你要可怜我。”


虎儿的话是很长。而且虎儿仿佛是想要我切实的记取似的,又将指爪抓在我膝上。


“唷,痛呵,”我叫喊说。我才回复了意识,我的膝上,是用了四条脚紧紧的抱着膝髁似的虎儿,索索的发着抖。我半在梦里,静静的摩着他的脊梁。火盆的火全熄了。留在我这里的恋恋的梦和美丽的希望,也和这火焰一同灰色的崩溃了。


正在这时候,父亲仿佛要偷窃什么似的,悄悄的走进屋里来。父亲不出声的踮着脚尖,走转到我的背后,于是突然扑进来,用口袋罩住了虎儿。


“呀,捉住了捉住了。畜生。究竟也捉住了。”   


 我惊骇到要直跳起来。


“父亲,这,这是怎的?”我咳嗽着,一面问。


“这畜生疯了。发疯了。倒还没有抓了你。昨天,带着到猫的医生那里去,说是这已经发了疯,不早早杀却,是危险的。”


“那么,弄死么?”


“唔唔,自然,昨天本就想弄死,但是这东西很狡狯,巧巧的逃脱了,大家都担心着,没有法子想。”


仿佛是这样了然的事,没有这样的仔细说明的必要似的,父亲便出去了。猫想逃出口袋去,挣扎着嗥叫。然而是异样的无力而且凄凉的声音。


我跑开去,抓住了父亲正要拿出去的猫的口袋,而且说。


“等一等!”


“什么?”


“可是,岂不太可怜么?”


“什么可怜?不是发了疯的猫么?”


“不要这样说,父亲,恳求你,饶了他罢。”


“胡说!”


“那么,单不要打杀罢。听我去弄他死。因为我会去买了吗啡来,悄悄的弄死他的。”


父亲目不转睛的看定了我的脸。


“感情的低能儿。说疯猫可怜……这白痴东西。”


“父亲,请听我……”


“呆子!”


父亲的紧捏的拳头。从旁边拍的飞到我的脸上了。


父亲便这样的出走了。


这时候,我觉得自己有些古怪了。这回并非梦中,却实际听得猫的声音不住的这样说:


“哥儿,哥儿,救救罢。救救罢。”


而且在这声音里,渐渐的加上了别的猫和老鼠的声音,于是这便成了可怕的凄凉的合奏:


“哥儿呵。我们在受饿。我们在被杀。”


“哥儿呵,哥儿,救救罢!”


他们的叫声渐渐的廓大开去,渐渐的强大起来了。


我掩住了耳朵,但是他们的叫声,是并非掩了耳朵便可以防止的;响彻了身体的全部里;有一种强率,一直瑟瑟的响到指尖。数目也增多,声音也增大了。从宇宙创成以来生下来的一切鼠,一切猫,还有此后将要生下来的那无限的子孙,都想来增强这叫唤,增大这声音。我是什么也不知道,全然成了什么也不知道了。在这漆黑的旋涡的世上,只有一件,只一件。


“我已经不行了!”


的事,却分明知道,宛然是成了雪白的浮雕。


“米!米!米!”


“哥儿,哥儿,救救罢。我们在挨饿!我们在被杀!哥儿,哥儿,救救罢!”


“喂,姊儿呵”


“姊儿。”


我半在梦中的大声的叫。使女从门口露出脸来:


“什么事呢?”


“来一来,”


“有什么事呢?”使女走进三四步,显了异样的脸色说。


“再近一点,近一点,这里……”


“哥儿,你怎么了?”


我帖着伊的耳朵说:“姊儿,给我买一点吗啡来。”


使女出了惊:“阿呀你,要吗啡做什么呢?”


“不,我不行了。我是低能,是白痴。我发疯了。”


使女的脸色苍白了:“阿阿,这吓人,哥儿,哥儿。这真是,问你怎么!……哥儿。”


“姊儿。我是……以为猫,老鼠,你们使女,全都是兄弟。而且不但是这样想,是这样的感着的,很强烈的这样的感着的。以为猫和老鼠和你们使女,全都是我的可同情可爱的兄弟……”


我的声音颤动了。


使女不说话,看着我的脸。


那眼里是眼泪发着光。


我愿意忘却了那一日。


不知道有怎样的愿意忘却了那一日呵。


然而……


然而是………

【】


【奇妙な猫】



あの日のことを忘れてしまいたい。


どれほどあの日のことを忘れてしまいたいことか。


しかし忘れられない。


あれは最後の日だった。


外は寂しく、そして寒かった。しかしあの日のわたしの心は、外の寒さに比べれば何倍寒かったかわからず、外の寂しさに比べれば何倍寂しかったかわからなかった。もっとも心の寂しさや寒さを測る器械などないのだが……


わたしは火鉢のそばに座って、ぼんやりと物思いにふけっていた。火鉢の炎の中で、わたしのもとに残された名残惜しい夢と美しい希望が朦朧と燃えていた。突然、どこからか虎児が飛んできた——虎児はこの家で飼っている雄猫の名前である——わたしの膝の上に倒れ込み、四本の足でわたしの膝をしっかり抱きしめるようにして震えていた。何事かと思っていると、虎児が小さな声で話し始めた。


「坊ちゃん。


たった一人の親愛なる坊ちゃん。


たった一人のわたしを愛してくれる坊ちゃん」


虎児はまだ何か言いたそうだったが、この言葉を言った後、もうそれ以上続けられないようだった。声が途絶えた。


わたしは心の中で思った。「ああ、また夢か。夢はもうたくさんだ。だが現実はもっとたくさんだ」しかしまるで動かず、前と同じように座っていた。すると虎児の話が続いた。


「坊ちゃん。わたしはもうだめです。すべてに対して、すっかり悲観してしまいました」


この時、わたしはこう言おうと思った。「何を不埒なことを言っているんだ。わたし自身、実はとっくに悲観しているのだが、それでも口に出しはしない」しかし虎児が少し可哀想に思えて、この言葉も言わなかった。


虎児はまた続けた。


「主人も、女中も、料理人も、わたしがネズミを捕らないから怠け者だと言います。けれどわたしは怠けているのではない、ネズミを捕らないのは。わたしはもうネズミを捕ることができないのです。ネズミを捕る元気がなくなってしまったのです。爪や歯に力がなくなったわけではない。ここに——虎児は自分の胸を叩いて——この心の中にネズミを捕る力がなくなったのです。わたしがネズミを捕らないものだから、ネズミは店や倉庫で勝手に米袋を破り、パンをかじり、お菓子を盗んでいます。この頃では、奥様が大切にしまってあったクロポトキンの『パンの略奪』という本までかじってしまったそうです。主人も女中も料理人もネズミのいたずらだと言います。しかしこれはネズミのいたずらではありません。ネズミは飢えているのです、まったく飢えているのです。そうでなければネズミは生きていけないのです。坊ちゃん、どうかわたしの心をわかってください——わたしの本心の中を見てください」


虎児はかなり激昂した口ぶりで話し終えると、わたしに理解を促すかのように、鋭い爪をわたしの膝に立てた。


「痛い!なんと不埒な猫だ。小利口め。ネズミに食べ物がなくて飢えていようと、それは慷慨激昂するような問題じゃないぞ。人間の世界だって、ロシアやドイツやオーストリアでは一億何千万もの人々が飢えているというのに、わたしたちは知らぬ顔じゃないか。まして悪臭と疫病を撒き散らすネズミどもが飢えるのは、ありがたいことだ」わたしはそう言おうと思ったが、わたしにもそんな言葉を口にする元気はなかった。


「わたしがネズミを捕らないから、主人はもう餌をやるなと言いました」これは坊ちゃんもよくご存じでしょう。坊ちゃん、こんなことを言っているわたしも、まさに飢えているのです。腹はからっぽで、どうにもなりません。どうにもたまらなくなって、何か食べ物をちょっと取ると、たちまち『おや、猫が盗みをした』と大騒ぎになる。坊ちゃんがいなければ、わたしはとうに飢え死にしていたでしょう。それでも坊ちゃん、わたしの腹はやはりからっぽなのです。こう言いつつも、すっかり野良猫になりきる元気もありません。ああ、わたしはもうだめだ……


主人も女中も料理人も、餌をやらなければネズミを捕るだろうと思っているのですが、それは無理なのです。この心の底で、ネズミを捕ろうという肝心の元気がすでに消え失せてしまっているのですから。ああ、わたしはもうだめだ。わたしは『奇妙な猫』なのです。人間なら、奇妙な人とでも呼ばれるのでしょう」


この時、わたしはこう言おうと思った。「うむ、丁寧に言えば奇妙な人かもしれないが、普通は低能か白痴と呼ばれるんだぞ。そういう呼び方しかしないんだ」しかしわたしにもこの言葉を口にする元気はなかった。


「ある日、わたしは倉庫の中に座って、ネズミが米を盗みに来るのを待っていました。ネズミがとうとうやって来ました。みな口々に叫びながら、


『米!米!米!』


と、山のようにやって来ました。わたしは取りかかりました。噛んでは噛み、何百、何千、何万のネズミを噛み殺したかわかりません。しかし噛み殺せば殺すほど、減るどころか、かえってどんどん増えてくるのです。大ネズミ、小ネズミ、黒ネズミ、灰色ネズミ、雄ネズミ、雌ネズミ、老ネズミ、仔ネズミ、親ネズミ、子ネズミ、みな一つの題目を口にするかのように叫びながら、


『米!米!米!』


重なり合ってやって来ました。その列はいつ終わるとも知れません。宇宙の創造以来のネズミは言うまでもなく、これから先まだ生まれてくるであろうネズミまで、あたかも無限のネズミが一度にすべて現れたかのようでした。そしてどれもがいっそう恐ろしい執拗な声で、絶え間なく叫ぶのです。


『米!米!米!』


わたしはこの声を聞いているうちに、自分の心境がどこかおかしくなるのを感じました。しかも初めはネズミだけの叫び声だと思っていたのが、その叫び声の中に、わたしたち猫の鳴き声も混じっているようでした。ああ、この猫とネズミの声はしだいに大きくなっていきます。いつの間にかネズミの声は沈み、猫の声だけがやかましく響くのです。


『米!米!米!』


それはまさしく猫の声でした。わたしは恐ろしくなって、われを忘れて逃げ出しました。暗い隅に伏して、ひたすらひたすらがたがたと震えました。


『米!米!米!』


こう叫ぶ猫の声が、わたしの耳の中で、ひたすらひたすら叫び続けるのです。


それからわたしは何時間、何日何晩、何カ月震えていたか知れません。わたしはこの時からだめになりました。すっかり奇妙な猫になってしまいました。


この時はじめて、わたしは『ネズミはわたしの愛すべき、同情すべき兄弟なのだ』ということが、かすかにわかりかけたのです。


わたしはこの時からネズミを捕る元気がなくなり、そしてつい、こっそりと食べ物を少しばかり失敬せずにはいられなくなりました。


こっそり食べ物を失敬せずにいられなくなった時、その時こそ『ネズミはわたしの本当の兄弟だ』ということが、いっそうはっきりわかったのです。それ以後のことはと言えば、わたしの友人たち、最も親しい友人たちでさえ、わたしを見かけるだけで奇妙な猫だ、気違い猫だと言って、すぐに逃げてしまうのです。それだけでなく、主人も女中も料理人も、昨日にはわたしが気が狂ったと見抜きました。しかも主人はわたしを絞め殺すと言っている。絞め殺されるのはいやです。


坊ちゃん。たった一人のわたしを愛してくれる坊ちゃん。モルヒネを買ってきて、静かに眠らせてください。どうか哀れんでください」


虎児の話は長かった。そして虎児はわたしにしっかり覚えてもらいたいかのように、また爪をわたしの膝に立てた。


「おう、痛いぞ」とわたしは叫んだ。わたしはようやく意識を取り戻した。わたしの膝の上には、四本の足で膝の皿をしっかり抱くようにして、がたがた震えている虎児がいた。わたしは半ば夢の中で、静かに虎児の背を撫でた。火鉢の火はすっかり消えていた。わたしのもとに残された名残惜しい夢と美しい希望も、この炎とともに灰色に崩れ去った。


ちょうどその時、父がまるで何かを盗むように、こっそりと部屋に入ってきた。父は音を立てずに爪先で歩き、わたしの背後に回ると、突然飛びかかって、袋で虎児をかぶせた。


「おう、捕まえたぞ捕まえたぞ。畜生め。とうとう捕まえたぞ」


わたしは驚いて飛び上がりそうになった。


「お父さん、これ、これはどうしたんです?」わたしは咳き込みながら尋ねた。


「この畜生は気が狂ったんだ。気違いになったんだ。お前を引っ掻かなかったのが幸いだ。昨日、猫の医者に連れて行ったら、もう気が狂っているから、早く殺さないと危ないと言われた」


「じゃあ、殺すんですか?」


「うむ、当然だ。昨日殺そうと思ったんだが、こいつはずる賢くて、うまく逃げおおせて、みな心配していたんだ」


まるで自明のことで、いちいち説明する必要もないといった様子で、父は出て行った。猫は袋から逃げ出そうとして、もがきながら叫んだ。しかしそれは妙に力のない、淋しい声だった。


わたしは駆け寄って、父が持ち出そうとしていた猫の袋をつかみ、そして言った。


「ちょっと待ってください!」


「何だ?」


「だって、あんまり可哀想じゃありませんか」


「何が可哀想だ。気の狂った猫じゃないか」


「そんなこと言わないでください、お父さん、お願いですから助けてやってください」


「馬鹿を言え!」


「じゃあ、せめて叩き殺さないでください。わたしに任せてください。モルヒネを買ってきて、静かに死なせますから」


父はじっとわたしの顔を見つめた。


「感傷的な低能児め。気違い猫が可哀想だと……この白痴め」


「お父さん、お願いですから聞いて……」


「馬鹿者!」


父の握り締めた拳が、横からわたしの顔に飛んできた。


父はそのまま出て行った。


この時、わたしは自分がどこかおかしくなったのを感じた。今度は夢の中ではなく、確かに猫の声が絶え間なくこう言うのが聞こえた。


「坊ちゃん、坊ちゃん、助けてください。助けてください」


そしてこの声の中に、しだいにほかの猫やネズミの声が加わり、それは恐ろしく淋しい合奏になった。


「坊ちゃん。わたしたちは飢えています。わたしたちは殺されています」


「坊ちゃん、坊ちゃん、助けてください!」


彼らの叫び声はしだいに広がり、しだいに強くなっていった。


わたしは耳を塞いだが、彼らの叫び声は耳を塞いで防げるようなものではなかった。体の隅々に響き渡り、一種の震動が指先までびりびりと伝わった。数も増え、声も大きくなった。宇宙の創造以来に生まれたすべてのネズミ、すべての猫、さらにこれから生まれてくるであろう無限の子孫たちまでが、この叫びを強め、この声を大きくしようとしているかのようだった。わたしは何もわからなくなり、すっかり何もわからなくなった。この真っ暗な渦巻く世の中で、ただ一つ、ただ一つだけ。


「わたしはもうだめだ!」


ということだけは、まるで真っ白な浮き彫りのように、はっきりとわかっていた。


「米!米!米!」


「坊ちゃん、坊ちゃん、助けてください。わたしたちは飢えています!わたしたちは殺されています!坊ちゃん、坊ちゃん、助けてください!」


「おーい、姉やー」


「姉や」


わたしは半ば夢の中で大声で叫んだ。女中が戸口から顔を覗かせた。


「何ですか?」


「ちょっと来てくれ」


「何かあったんですか?」女中は三、四歩入ってきて、怪訝な顔で言った。


「もっと近くへ、近くへ、ここへ……」


「坊ちゃん、どうなさったんですか?」


わたしは彼女の耳に口を寄せて言った。「姉や、モルヒネを少し買ってきておくれ」


女中は驚いた。「まあ、あなた、モルヒネを何になさるんです?」


「いや、わたしはもうだめなんだ。わたしは低能で、白痴で。気が狂ったんだ」


女中の顔が蒼白になった。「ああ、怖い、坊ちゃん、坊ちゃん。いったいどうしたんです!……坊ちゃん」


「姉や。わたしは……猫もネズミもお前たち女中も、みんな兄弟だと思っているんだ。しかもただそう思っているだけでなく、そう感じているのだ、強くそう感じているのだ。猫もネズミもお前たち女中も、みなわたしの同情すべき、愛すべき兄弟だと……」


わたしの声は震えた。


女中は何も言わず、わたしの顔を見つめていた。


その目には涙が光っていた。


あの日のことを忘れてしまいたい。


どれほどあの日のことを忘れてしまいたいことか。


しかし……


しかし………

第76節

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【爱字的疮】




【一】



我是寒冷的国度里的人。深的雪和厚的冰是我的孩子时候以来的亲密的朋友。冷而且暗,而且无穷无尽的连接下去的冬,是那国里的事实,而温暖美丽的春和夏,是那国里的短而怀慕的梦。——我在那国度里的时候虽然是这样,听说现在却是两样了。我愿意相信他已两样——


那国里的人们,也如这世间的国里的人们一般,分为幸福者和不幸者。虽不知道是怎么一回事,我可也仍在不幸者一类的中间。


幸福者为要忘却那冻结了心一般冷的,和威胁于心一般暗的事实,便到剧场和音乐会之类的愉快的会上去,做些艺术的梦,那自然是不足为奇的,然而在不幸者,却不能不从冷的浓雾的早晨直到吹雪怒吼的深更,来面会这事实。


要不听到可怕的寒冷,和凄凉的吹雪的呻吟,忘掉他们,幸福者是大抵躲到恋爱的城和友情的美丽的花园里去游玩着,然而在不幸者,却不得不自始至终,听那可怕的寒冷,和凄凉的吹雪的凄凉的歌,和比歌尤其凄凉的话。为了又冷又暗的那国度里的事实,身心全都冰结了的我,将脸埋在冰冷的枕上,紧紧的紧紧的,至于生痛的紧咬了牙关。诅咒着自己,诅咒着别人,我仿佛寒夜的狼一般,真不知哭了多少回了。然而比我哭得更甚的不幸者,还该有几千几万人罢?——现在是听说为了又冷又暗的事实而大哭的不幸者,在那国度里也减少了。我相信他已减少。这减少的事,我是从幼小时候就梦想着,从幼小时候就希望着的。我到现在还活着,大约也就为了这梦想和希望罢了。


只愿意永久的睡下去的一件事实,是成了那国度里的空气的。然而这心情却不限于寒冷的国度里,便在东洋的国度,南方的国度,这一种心情尤其强,这可是在当时未经知道的了。唉唉!那时候,我所不知道的事还是非常多;就是现在,我所不知道的事,比起知道的来,还该多于几亿倍罢……




【二】



十年以前的事了。那时我住在一个小村里。那村虽然小,然而村人们的无智实在大,迷信和偏见是多的。村旁就有一丛接连几里的白杨林;在这村的人们,是以为再没有比这白杨林更可怕,比这白杨林更可憎的了。倘使没有事,决没有人进这林子去。但因为村人所喜欢的我就憎厌,村人所憎厌的我却喜欢,所以我对于那树林也一样,村人愈憎厌,我也就愈加喜欢了。


先前什么时候,白杨树林所在的地方,本来是一片大平野。而那大平野,什么时候又曾经做过战场的。那时候,人类和动物,接连多年的争斗着;就在那一片平野上,熊和狼和狐狸之类的动物,都领着大队,和人类决了最后的争雄。在这一战,人类完全败北了。就在人类流了血的地方,埋了骨殖的上面,成功了白杨的林子。


据这村里的人们说,是凡有常到白杨林里的人们,一定要变成古怪人,舍了村庄,跑往外国,或者寻不见,或者遭着横祸的。但是我却毫不留心这些话,最喜欢走到那白杨的森林去。愈到森林去,村里的人们也就愈加猜疑我,终于说我是古怪人了。


有一夜是大雪纷飞的夜,狼在村的左近嗥叫的夜,我往白杨树林走去了。为什么在这样可怕的夜里往那边去,那时我可并没有深知道。大约有着这样的心情,是要在大雪纷飞的夜间,在林中看见春的梦;也有着这样的心情,是要在豺狼吓人的嗥叫的夜里,听些对于白杨的春的私语罢。现在想起来,这心情似乎颇古怪,但在那时候,在那大雪纷飞的时候,在那豺狼吓人的嗥叫的时候,这心情是毫不觉得古怪的。我走进树林里;我在一株大的白杨下,柔软的雪垫子上坐下了。雪下得很大;狼就在我的近旁呻吟。我静静的坐着,听那白杨树林的说话。


“尽先前,尽先前,这里原是一片大平野。尽先前,尽先前,人类是和熊和狼和狐狸战斗了。人类败北了。完全败北了……”


听着这些话之间,一个异样的老女人在我的面前出现了。那全身紧裹着熊的氅衣,很深的戴着海狸的帽,腰间挂一盏小小的灯笼的那年老的女人,就将说不出的异样的印象给了我。那相貌,也是只要一看见,便即终身记得的形容。


那老女人一面对我说,“你是我的东西哩。从今以后,要跟着我走的呵。”一面径向林中走去了。我虽然说:“第一,我并不是‘东西’。第二,我不愿意跟谁走。”然而说着的时候,我又不知不觉的起来跟着伊走去了。“好怪呀,”我自己想。


白杨的树木,似乎在那老女人的前面排成宽阔的长廊,行着规矩的敬礼。豺狼一见伊,也都行起举手的敬礼来。


我说:“祖母,那简直是兵队似的……”


伊却道:“兵队简直是这些似的。”


我这才觉得,高兴的笑道:“阿阿,这是梦呵。”


大雪纷飞着;四近就听得狼的声音。


“祖母,你是谁?”我问说。


“我是冬的女王呵。”伊回答,很认真的。


“的确,是梦了。”我笑着。


“还有,我们现在前去的是到你的宫殿里去罢?”


“对了。”伊又认真的回答说。


“祖母的宫殿是用了金刚石和玛瑙之类的宝石做起来的罢?”我问。


“对了。”伊又用了先前一样的口气回答说。


“唉唉,倒象一个有趣的梦哩。不使这梦更加有趣些,是不行的。”我想。


“祖母,在你的宫殿里,有一个年青的好看的雪的王女罢。”


“王女是没有的。”伊答说,“虽然有一个哥儿。”


“哥儿?”我又复述的说。


“十二岁的哥儿呵。”


“如果是哥儿,无谓得很呀。”我说着,自己觉得似乎受了嘲笑了。


“连梦也做不如意,好不无聊。若是梦,何妨就有一个好看的王女,……哥儿哩……无谓。”我一面絮叨着,却仍然紧跟在伊后面。


大雪纷飞着;狼就在四近呻吟。不一会,我们的前面就现出闪闪发光的东西来,又不一会,就分明知道那闪闪发光的东西便是金刚石的宫殿了。我想站一刻,远望他的景致,然而我的脚不听我,只是急急的跟着老女人走。伊毫不留滞,进了大开的门;我也跟随着。我们一进内,那金的门便锵的一声合上了。然而伊还怕那门没有关得好,又去摸着看。


“行了。不会开的。”伊自己说,似乎放了心。


我向屋里的各处看。地上是铺着虎和熊的上好的皮毛,四壁和顶篷上是饰着各样的宝石。只有窗户,却有铁棒交成虎柙一般,给人以一种监狱似的不愉快的感觉。


“祖母,所谓宫殿,简直是牢狱呵。”


“并非到了现在,宫殿才成了牢狱模样,是什么时候都是这样的。”伊絮叨似的回答说。于是从帽子和氅衣上拂去了积雪,一面向我说:“你在这里罢。我进去一会就来。”便自走向里面去了。


“胡说。肯等在这样的地方的么?”我一面说,也悄悄的跟在伊后面。


走过了大屋二三间,伊就进了内室,紧紧的关了门。我走近门,暂时伫立着。伊在里面脱下衣裳来,一面又和谁说着话。


“今天晚上也是一个……”


“谁呢?也是农人么?”问的是可爱的哥儿的声音。


“那里,这么大雪的夜里,农人会进树林里来的么?”


“那么,又是谁呢?工人?”


“便是工人,这样的夜间也不到树林里来的。”


“那么,究竟是谁呢?”


“一定是一个呆子。”


听到这里,我愤然的就想打门了,然而竟也没有打。


“年青的?”


“廿一二岁罢。”


“那人也许知道我正在找寻的字呢。老年人虽然不知道这一个字,年青的人们却仿佛知道似的。”


“唔,怎样呢。虽然看去有些呆……”


“问一问好罢?可是即使知道,怕也未必肯教罢。”


“唔,怎样呢。虽然看去有些呆……”


“给点报酬呢?……”


“可是已经死掉了的,什么报酬也未必要罢。”


“但是,祖母,便将那生命做了报酬,怎么样?”


“那是已经不行了。”


“祖母,怎么不行?没有什么不行的。只要你答应……”


“已经不行了呵。是盖在雪里睡了两个时辰的。”


“但是,祖母,我如果不知道这个字,我就如死了的一样。年青时候便死掉,我是不愿意的。”


“已经不行了,是已经到了这里的。”


“但是,祖母,这倒也没有什么做不到。我知道的。”


“胡说,将你的生命当作那一条生命给了他,那又何须说得呢,自然是没有什么做不到的。”


“倘不是立刻给了我的生命,就不行?”


“并不是立刻。是到了那时候,到了廿二岁,便是承受那运命的。懂了么?……”


邻室里面的哥儿便凄凉的哭起来了。


“祖母,如果不知道那字,我也还是不想活着呵。”


“然而岂不是没有法办么?是已经盖在雪底下睡了两个时辰的。是已经到了这里的。但似乎自己却还没有知道死,是呆子呵。总之,照那人说过的话,给些报酬就是了。未必会要讨还自己的生命罢,因为还没有知道是死着的哩,而况又是呆子呢。姑且去问一问罢……”


哥儿站起身,走向我所站着的门口来了。我便竭力的不使出声,竭力的赶快回到先前的屋子里。而且作为最后的言语,送到我的耳朵里来的是,“要将自己的生命交出去,得用什么方法交付呢?”的哥儿的质问的声音。


“唉唉,有趣的梦呵。”


我说着,悠然的躺在虎皮上面了。不多久,我的屋子里,便毫无声响的走进一个十二岁上下的可爱的哥儿来。那哥儿,是没有一处不使我想起白杨树。模样宛然是白杨做成的美丽的雕刻;头发被在肩上,好象白杨的花;而那全身,又似乎弥满着白杨的香味。他的声息,也给人起一种听到了白杨叶的摇动的心情。


“不相识的人呵,我是这家里的,是白杨的哥儿。”他一面对我行着礼,一面看定了我的脸,谦逊的开谈了。


“原来,是这府上的哥儿么?请,请坐。”我率直的说。


哥儿便坐在我的旁边;屋子里充满了白杨的香气。


“什么事呢?”


“对于不相识的人,有一件重大的请求哩。”


“那请求是?……”


哥儿暂时沉默着;于是用了低微的声音,完全是白杨叶的瑟瑟的摇动似的,说出话来了。


“我是白杨的孩子。待长大起来,须得发出许多光和热,在这世界上燃烧的。成了柴木和火把,来温暖这世界,光明这世界,这是白杨的使命。然而要热发得多,要火把烧得亮,有一个字是必要的。胸膛上一个‘爱’字,是必要的。”


哥儿一面说,一面便脱了衣服,给我看那宛如白杨的皮色一般的胸膛。我全不知道怎么一回事,略略起身,向那胸前惘然的只是看。哥儿接着说:


“在这胸膛上,‘爱’的一个字是必要的。在这胸膛上,请写一个‘爱’字罢。”


“用什么写呢?”


我一问,哥儿便送过一把小小的金的刀子来,而且说:


“望你就用这金的刀子写。”


“要割得深么?”


“愈深就愈好。”


“痛的呵。”


“不要紧的,因为是白杨的孩子。”


“还要出血呢。”


“不要紧的,因为是白杨的血……”


我接过金刀子,就在那胸前正当心脏的地方,认真的刻了一个“爱”的字。从胸脯上,就如清露滴在花上似的,流出几点鲜血来。一看见这刻着的字,哥儿的相貌便充满了喜欢。而且他又比先前更其可爱了。


“作为报酬,你愿意要什么呢?”白杨的哥儿这样问。


“要生命。”我笑着说。


我才说,哥儿的脸便变了青苍,那嘴唇,也如白杨的银叶似的,颤抖起来了。我看着,便觉得那美丽的哥儿很可怜。


“可爱的哥儿。白杨的哥儿呵。我只是说一句笑话罢了。我并不要生命。”一面说,我便和蔼的抱住了白杨的银叶似的抖着的哥儿。


“哥儿,不要怕罢。我单是说了笑话罢了。我并不是要生命的。作为报酬,我单希望给我接一回吻。只一回……”


我于是就在白杨的银叶似的发着抖的嘴唇上接了吻。忽然间,仿佛觉得有热的潮流通过了我的周身了。


“接吻是归还生命的方法。”哥儿紧握了我的手,低声说:“因为接吻,你取得了自己的生命了。至于我的生命是……”


——我睁开眼睛来。一瞬息中,便分明的知道了自己是在林中葬在积雪里,几乎要冻死的了。然而接吻的热,却似乎使全身都温暖。我竭力的站起身。大雪纷飞着。狼就在四近呻吟。我向村庄走去了。因为和白杨的哥儿接了吻,我的全身还温暖。我走到村庄了。大雪纷飞着,狼就在四近呻吟。


全村里的人们是没有一个不认识我的,因此我便去打第一家的门。听说有人受着冻,那家的主人便絮絮叨叨的来开门。然而待到分明的见是我,那主人却又变了异样的相貌了。


“今天晚上,兵和侦探都在到处搜寻你呢,要逃走,还是赶快逃走的好罢。”主人说。


“兵和侦探都在搜寻我?为什么?”


“还说为什么哩,你自己总该明白的。”主人说着话,又眼睁睁的看我了。


“我是不逃的。我冻着呢。你肯救我一救么?”


“出多少?……”


“出十卢布,可以么?”


“太少。”


“二十呢?”


“如果出到二十五个,那可以……”




【三】



从那时候以来,早过了十年了。在这十年之间,我曾经住在东洋的国度里,也曾经住在南方的国度里。在这十年之间,我对于暖热的国度的梦话和东洋的国度的呓语,全都听得疲倦了。在这十年之间,我见了南方的国度的幻觉,也见了东洋的国度的催眠状态,于这世间已经厌倦了。我于是又回到那又冷又暗的事实的国度里去了。那时候,则正是那国度里所梦想着的春的时候。那国度里的人们,都希望这春比平常更其暖,也比平常更其长。一到了这国度里,我便又觉得总该一到那十年以前曾经住过的村庄去。但是这村庄,太阳虽然温和的照着,却是依旧的寒冷,虽在美丽的春季,却也依旧的凄凉。为人们所憎,为我所爱的白杨的树林也早已完全没有了。一看见曾经有过树林的大平原,便使我仿佛觉得人类和动物又挑中了这里开过战。而且这一回,是人类虽然得了胜,却毫没一处可以觉察出胜利的情形。


离村二里模样,还剩下一些大白杨的林子。我便从白杨的残株间,走向那剩下的林中去。正走着,又仿佛走在十年以前曾和冬的祖母一同走过的那廊下似的了。在这长廊的尽头,就是树林的边界,却看见一间小小的人家。我不由的走进家里去了,只见在屋子里,散乱着白杨柴木的中间,想些什么似的在床上坐着一个年老的妇女。那女人的相貌,便是只要一看见,便即终身记得的形容。


“是冬的祖母呵。”我心里说。心脏也怦怦的跳动,几乎生痛了。


“莫非又是做着梦么?”我又疑心起来。


“祖母!”我低声的叫唤,伊什么都不说,只是看定了我的脸。我那心脏的鼓动比先前更剧烈了。我就用两手按在胸膛上。


“祖母,你就是冬的祖母罢。”我低声的说。


伊什么都不说,只是看定了我的脸。我几乎跌倒了……


我坐倒在白杨的柴木上。暂时是不断的沉默。于是伊仿佛定了神似的,粗卤的说:


“我是这里的砍柴的老婆子。”


“十年前,”我又问,“祖母这里有过一个十二岁的哥儿罢?”


伊的脸色变成青苍了。我也发了抖。暂时是不断的沉默。


“有的,但是现在已经没有了。”伊仿佛记起了什么似的,说。


“现在在那里呢?”


“谁?”


“哥儿呢。”


“现在是,什么地方都不住了。已经烧完了。”


“烧完了。”


“为了爱字的病呵。”


伊见我不能懂,仿佛很以为奇似的。又是锐利的看定了我的脸。在树林的幽静里,听到我的心脏的鼓动的声音。


“祖母,什么是爱字的病呢?”


“十年前,哥儿的胸膛上,生了一个‘爱,字模样的疮。这‘爱’字的疮,却又渐渐的侵进胸膛的深处去了。”


“还有呢?”


“哥儿的性子便古怪了。哥儿就说出这等话来,说是愿意拥抱了全世界的人,给他们温暖……”


“后来呢?”


“后来我窘了。哥儿还说是愿意做了火把,去照人们的暗路。”


“还有呢?”


“还有是做了火把,照着人们的暗路,于是烧完了。”


又是暂时的接着的沉默。伊却又看定了我的脸。


“你能写‘爱’字么?”


“唔唔。”


“那么,可肯给我在白杨的柴木上写个‘爱’字呢?”


“祖母,为什么?”


“写了‘爱’字的柴木,比平常的烧得更其暖,更其亮呵。”


伊异样的笑起来了。我一听到那笑声,便如淋了冰水似的发了抖。伊又站立起来,贴着我的耳朵低声说:


“在我的胸膛上,正当心脏的地方,可也肯给写一个‘爱’字呢?我也愿意象白杨哥儿一样,成了火把,照着人们的暗路,一直到烧完。”


我急忙站起身:自己分明的知道,只要再在那屋里一分钟,我便会发狂的。于是也不再理会那老女人,我跳出屋子,向着村庄这面逃走了。


……


我在这晚上,便向着我所借宿的人家的主人,问他可知道住在树林里的砍柴的老婆子的事。


“知道的。”他说,“那是这里的有名的狂人;是树林里的妖怪。你遇见了么?给你说了些‘爱’字的疮之类的话了罢。什么写了‘爱’字,柴木便烧得更其热,真是妖怪呵。十字架的力,和我们在一处!”他于是画了三回的十字。


“然而那哥儿是怎么死掉的呢?”我问说。


“那是全不足道的事。那是人了多数党,做了奇兵队,在这里活动的。幸而今年的骚扰时候,反给白军的骑兵队捉住,治死了。那样的东西么,愈是死得多,我们便愈多谢。”他向四面张望着,低声的说。


“是怎么治死的呢?”我又问。


“因为要威吓那样的东西,是活活烧死的。然而这是讲白军坏话的人们所说的话,不足为凭的。那样的东西,无论怎么治死,谁也不会当作一个问题看。只有那老婆子却可怜。从那时候起便发了疯,说着走着,说是哥儿成了火把,照着人们的暗路,烧完了。总而言之,实在是无谓。”


他一面说,一面剧烈的吐唾沫,后来似乎又记起什么来了,便又说:


“但是讲些妖怪和杀人的话,晚上不相宜。十字架的力,和我们在一处!”


他怯怯的向着窗门看,画了十字许多回。我沉默着,凄凉的看他画十字。外面是渐渐的暗下来了;连着我的心……


……


我又出了这国度。向外国去了。然而便是到了外国,我的心还痛着。似乎觉得在我的心里,有了一条新的而且深的伤。而且这伤,又似乎渐渐的深下去了。而且这伤的模样,仿佛又并非“爱”字而为“憎”字。大的“憎”字的模样……而且这又渐渐的大了起来……


唉唉,将这心,须得怎么办才好呢……

【「愛」の字の瘡】




【一】



わたしは寒い国の人間である。深い雪と厚い氷は、子どもの頃からのわたしの親しい友であった。寒くて暗く、しかも果てしなく続く冬が、あの国の現実であり、暖かく美しい春と夏は、あの国の短くも懐かしい夢であった。——わたしがあの国にいた頃はそうであったが、今は違うと聞いている。わたしはそれが変わったと信じたい——


あの国の人々も、この世のほかの国の人々と同じように、幸福な者と不幸な者とに分かれていた。どういうわけか、わたしもやはり不幸な者の仲間に入っていた。


幸福な者たちは、心まで凍りつくような寒さと、心を脅かすような暗さという現実を忘れるために、劇場や音楽会などの楽しい催しに出かけて、芸術の夢を見るのであって、それは当然のことであった。しかし不幸な者たちは、冷たい霧の朝から吹雪の吠える深更まで、この現実と向き合わずにはいられなかった。


恐ろしい寒さと淋しい吹雪の呻きを聞くまいとして、それを忘れようと、幸福な者たちはたいてい恋愛の城や友情の美しい花園に逃げ込んで遊んでいたが、不幸な者たちは始めから終わりまで、あの恐ろしい寒さと淋しい吹雪の淋しい歌と、歌よりもなお淋しい話を聞かずにはいられなかった。寒くて暗いあの国の現実のために、身も心もすっかり凍りついたわたしは、冷たい枕に顔を埋めて、きつくきつく、痛くなるほど歯を食いしばった。自分を呪い、他人を呪い、わたしはまるで寒い夜の狼のように、どれほど泣いたか知れない。しかしわたしよりもっとひどく泣いた不幸な者が、何千何万もいたことだろう。——今ではあの国で、寒くて暗い現実のために大泣きする不幸な者は減ったと聞いている。わたしはそれが減ったと信じている。この減少こそ、わたしが幼い頃から夢見、幼い頃から希望していたことなのだ。わたしが今もなお生きているのは、おそらくこの夢と希望のためだけであろう。


ただ永遠に眠り続けたいという一つの願望が、あの国の空気のようになっていた。しかしこの心境は寒い国に限ったことではなく、東洋の国にも、南方の国にも、いっそう強くあるのだということは、当時はまだ知らなかった。ああ!あの頃、わたしの知らなかったことはまだ非常に多かった。いや今でさえ、わたしの知らないことは知っていることに比べて何億倍も多いだろう……




【二】



十年前のことである。その頃わたしはある小さな村に住んでいた。村は小さかったが、村人たちの無知はまことに大きく、迷信と偏見ばかりだった。村の傍には何里も続く白楊の林があり、この村の人々にとって、この白楊の林ほど恐ろしいもの、この白楊の林ほど憎むべきものはなかった。用のない限り、誰もこの林に入る者はいなかった。しかし村人の好むものをわたしは嫌い、村人の嫌うものをわたしは好むという性分だったから、あの林に対しても同じで、村人が嫌えば嫌うほど、わたしはますます好きになった。


昔、白楊の林のある場所は一面の大平野であった。そしてその大平野は、かつて戦場になったことがあった。その時、人類と動物が何年にもわたって争い、まさにこの平野の上で、熊や狼や狐などの動物たちが大軍を率いて、人類と最後の雌雄を決した。この一戦で人類は完全に敗北した。人類が血を流し、骨を埋めた場所に、白楊の林が育ったのだった。


この村の人々によれば、白楊の林にしょっちゅう行く者は、必ず変わり者になり、村を捨てて外国へ行ったり、行方不明になったり、横死したりするという。しかしわたしはそんな話にはまるで頓着せず、あの白楊の森に行くのが一番好きだった。森に行けば行くほど、村人はますますわたしを怪しみ、ついにわたしを変わり者だと言うようになった。


ある夜——大雪のしきりに降る夜、狼が村の近くで吠えている夜——わたしは白楊の林へ向かった。なぜこんな恐ろしい夜に出かけたのか、その時はよくわからなかった。おそらく大雪の夜に林の中で春の夢を見たいという気持ちと、狼の恐ろしい吠え声の夜に白楊の春の私語を聞きたいという気持ちとがあったのだろう。今思えばこの気持ちはかなり変だが、あの時、あの大雪のさなか、あの狼の恐ろしい吠え声のさなかには、この気持ちはまるで変だとは思わなかった。わたしは林の中に入り、一本の大きな白楊の下の、柔らかい雪の座布団の上に座った。雪はひどく降っていた。狼がすぐ近くで呻いていた。わたしは静かに座って、白楊の林の話に耳を傾けた。


「昔々、ずっと昔、ここは一面の大平野だった。昔々、ずっと昔、人類は熊や狼や狐と戦った。人類は敗れた。完全に敗れた……」


これらの言葉を聞いているうちに、一人の異様な老女がわたしの前に現れた。全身を熊の外套でぴったりと包み、海狸の帽子を深くかぶり、腰に小さな提灯をぶら下げたその年老いた女は、言い知れぬ異様な印象をわたしに与えた。その容貌もまた、一度見たら一生忘れられぬ面差しだった。


老女はわたしに向かって「お前はわたしのものだよ。これからわたしについて来るのだよ」と言いながら、まっすぐ林の中へ歩いて行った。わたしは「第一に、わたしは『もの』ではない。第二に、誰についても行きたくない」と言ったが、言いながらもいつの間にか立ち上がって後についていった。「おかしなことだ」とわたし自身思った。


白楊の木々は老女の前に広い長廊下のように並び、行儀よくお辞儀をしているようだった。狼たちも老女を見ると、みな挙手の敬礼をした。


わたしは言った。「おばあさん、まるで軍隊みたいですね……」


老女は答えた。「軍隊こそこれらに似ているのだよ」


わたしはようやく気づいて、嬉しそうに笑って言った。「ああ、これは夢だ」


大雪が降りしきっていた。あたりには狼の声が聞こえた。


「おばあさん、あなたは誰ですか?」わたしは尋ねた。


「わたしは冬の女王だよ」老女は真面目に答えた。


「やはり夢だ」わたしは笑った。


「それから、わたしたちが今向かっているのは、あなたの宮殿ですね?」


「そうだよ」老女はまた真面目に答えた。


「おばあさんの宮殿はダイヤモンドや瑪瑙などの宝石でできているのでしょう?」わたしは尋ねた。


「そうだよ」老女はまた先ほどと同じ調子で答えた。


「ああ、なかなか面白い夢だなあ。もっと面白くしなくてはいけない」とわたしは思った。


「おばあさん、あなたの宮殿には若くて美しい雪の王女がいるでしょう」


「王女はいないよ」老女は答えた。「ただ坊やが一人」


「坊や?」わたしはおうむ返しに言った。


「十二歳の坊やだよ」


「坊やでは、つまらないですよ」わたしは言いながら、自分がからかわれたような気がした。


「夢さえ思い通りにならないとは、なんとつまらない。夢なら美しい王女がいてもよさそうなものを……坊やなんて……つまらない」わたしはぶつぶつ言いながら、それでも老女の後をぴったりついていった。


大雪が降りしきっていた。狼がすぐ近くで呻いていた。やがて目の前にきらきら光るものが現れ、またたく間にそのきらきら光るものがダイヤモンドの宮殿だとわかった。わたしは立ち止まって景色を眺めようと思ったが、足がいうことを聞かず、ただ急いで老女の後を追った。老女は立ち止まることなく、大きく開いた門から入った。わたしも後について入った。中に入ると金の扉がガチャンと閉まった。しかし老女はまだ扉がきちんと閉まっていないのではないかと心配して、手で確かめに行った。


「よし。開かないよ」老女は安心したように独り言を言った。


わたしは部屋の中をあちこち見回した。床には虎や熊の上等な毛皮が敷かれ、四方の壁と天井にはさまざまな宝石が飾られていた。ただ窓だけは鉄格子が虎の檻のように組まれ、牢獄のような不快な感じを与えた。


「おばあさん、宮殿とは言うものの、まるで牢獄ですね」


「今に始まったことではないよ。宮殿が牢獄のようになったのは。昔からそうなのだ」老女はぶつぶつと答えて、帽子と外套から積もった雪を払いながら、わたしに言った。「ここにいておくれ。奥に行ってすぐ戻るから」そう言って奥へ入って行った。


「馬鹿な。こんな所で待っていられるものか」わたしはそう言いながら、こっそりと老女の後をついて行った。


大きな部屋を二、三間通り過ぎると、老女は奥の部屋に入って、きっちり扉を閉めた。わたしは扉に近づき、しばらくたたずんでいた。老女は中で衣を脱ぎながら、誰かと話していた。


「今晩もまた一人……」


「誰ですか?農夫ですか?」尋ねるのは可愛らしい坊やの声だった。


「まさか、こんな大雪の夜に農夫が林の中へ入って来るものかね」


「じゃあ、また誰ですか?職人?」


「職人だって、こんな夜に林には来ないよ」


「じゃあ、いったい誰ですか?」


「きっと馬鹿者だよ」


ここまで聞いて、わたしは腹を立てて扉を叩こうとしたが、結局叩かなかった。


「若い人?」


「二十一、二歳くらいだろう」


「その人はぼくが探している字を知っているかもしれない。年寄りはこの字を知らないけれど、若い人たちは知っているようなんだ」


「さあ、どうかね。見たところ少し馬鹿そうだが……」


「聞いてみてもいい?でもたとえ知っていても、教えてはくれないかもしれない」


「さあ、どうかね。見たところ少し馬鹿そうだが……」


「お礼をしたら?……」


「でも、もう死んでしまった者に、何のお礼もいらないだろうよ」


「でも、おばあさん、あの命をお礼にしたらどうかな?」


「それはもうだめだよ」


「おばあさん、どうしてだめなの?だめなことなんかない。おばあさんが承知してくれさえすれば……」


「もうだめなんだよ。雪の中に埋もれて二時間も眠っていたんだから」


「でも、おばあさん、できないことはないよ。ぼくにはわかるんだ」


「馬鹿を言うんじゃないよ。お前の命をあの者の命の代わりにやるなんて、それは言うまでもなくできないことはないさ」


「すぐに命をやらなければだめ?」


「すぐにじゃないよ。その時が来たら、二十二歳になったら、その運命を受けるのだよ。わかったかい?……」


隣の部屋で坊やがしくしくと泣き出した。


「おばあさん、あの字を知らなかったら、ぼくだって生きていたくないよ」


「だけどしようがないじゃないか。もう雪の下に埋まって二時間も眠っていたんだから。もうここに来てしまったのだから。でもどうやら自分では死んだことに気づいていないようだね、馬鹿者だから。とにかくあの人が言ったとおり、何かお礼をしてやればいいさ。自分の命を返せなどとは言うまいよ、まだ死んだことを知らないんだから、まして馬鹿者なんだから。とにかく行って聞いてみるがいい……」


坊やが立ち上がって、わたしの立っている扉口へ歩いて来た。わたしは懸命に声を出さないようにし、急いで先ほどの部屋に戻った。最後の言葉としてわたしの耳に届いたのは、「自分の命を渡すのに、どんな方法で渡せばいいの?」という坊やの問いかけの声だった。


「ああ、面白い夢だなあ」


わたしはそう言いながら、悠然と虎の皮の上に横になった。やがてわたしの部屋に、足音もなく十二歳ばかりの可愛い坊やが入ってきた。その坊やはどこを見ても白楊の木を思い起こさせた。姿はまるで白楊で作った美しい彫刻のようで、肩にかかる髪は白楊の花のようで、全身には白楊の香りが漂っているかのようだった。その息遣いもまた、白楊の葉のそよぎを聞くような気持ちを起こさせた。


「見知らぬ方よ、ぼくはこの家の者で、白楊の坊やです」坊やはわたしに礼をしながら、わたしの顔をじっと見つめて、謙虚に話し始めた。


「ああ、この家の坊やですか。どうぞ、お座りなさい」わたしは率直に言った。


坊やはわたしの傍に座った。部屋中に白楊の香りが満ちた。


「何の用ですか」


「見知らぬ方に、重大なお願いがあるのです」


「そのお願いとは?……」


坊やはしばらく黙っていた。そして低い声で、まるで白楊の葉のさやさやとしたそよぎのように、話し始めた。


「ぼくは白楊の子どもです。大きくなったら、たくさんの光と熱を発して、この世界で燃えなければなりません。薪や松明になって、この世界を暖め、この世界を照らすこと、それが白楊の使命なのです。けれども熱をたくさん出すためには、松明を明るく燃やすためには、一つの字が必要なのです。胸に一つの『愛』の字が必要なのです」


坊やは話しながら衣を脱いで、白楊の樹皮のような色の胸を見せた。わたしは何がなんだかわからないまま、少し身を起こして、その胸をぼんやり見つめるばかりだった。坊やは続けた。


「この胸に『愛』の一字が必要なのです。この胸に『愛』の字を書いてください」


「何で書くのですか?」


わたしが尋ねると、坊やは小さな金の刀を差し出して言った。


「この金の刀で書いてください」


「深く刻むのですか?」


「深ければ深いほどよいのです」


「痛いですよ」


「大丈夫です、白楊の子どもですから」


「血も出ますよ」


「大丈夫です、白楊の血ですから……」


わたしは金の刀を受け取り、その胸のちょうど心臓の上に、丁寧に「愛」の一字を刻んだ。胸からは、清らかな露が花の上に滴るように、数滴の鮮血が流れた。刻まれた字を見ると、坊やの顔は喜びに満ちた。そして前よりもいっそう可愛くなった。


「お礼に何がほしいですか?」白楊の坊やはこう尋ねた。


「命がほしい」わたしは笑いながら言った。


わたしが言い終わるやいなや、坊やの顔は青ざめ、唇は白楊の銀の葉のように震え始めた。見ていると、その美しい坊やがいじらしくなった。


「可愛い坊や。白楊の坊やよ。わたしはただの冗談を言ったのです。命などほしくはない」そう言いながら、わたしは優しく白楊の銀の葉のように震える坊やを抱きしめた。


「坊や、怖がらなくていいよ。ただの冗談なんだから。命なんかいらない。お礼にはただ一度だけ接吻をしてほしい。たった一度だけ……」


わたしは白楊の銀の葉のように震える唇の上に接吻した。するとたちまち、熱い潮流がわたしの全身を流れたように感じた。


「接吻は命を返す方法なのです」坊やはわたしの手を固く握り、低い声で言った。「接吻によって、あなたは自分の命を取り戻したのです。ぼくの命は……」


——わたしは目を開いた。一瞬のうちに、自分が林の中で積もった雪に埋もれ、あやうく凍死するところだったとはっきりわかった。しかし接吻の温もりが全身をまだ暖かくしているようだった。わたしは懸命に立ち上がった。大雪が降りしきっていた。狼がすぐ近くで呻いていた。わたしは村に向かって歩いた。白楊の坊やと接吻したおかげで、全身がまだ暖かかった。わたしは村に着いた。大雪が降りしきっていた。狼がすぐ近くで呻いていた。


村中にわたしを知らない者はいなかったから、一軒目の家の戸を叩いた。凍えた者がいると聞いて、その家の主人はぶつぶつ言いながら戸を開けに来た。しかしわたしだとはっきりわかると、主人は怪訝な顔つきになった。


「今晩、兵隊や探偵がお前をあちこち捜し回っているぞ。逃げるなら早く逃げたほうがいい」主人は言った。


「兵隊や探偵がわたしを捜している?なぜ?」


「なぜだと?お前自身がよくわかっているだろうに」主人はそう言いながら、じろじろとわたしを見た。


「わたしは逃げない。凍えているんだ。助けてくれないか?」


「いくら出す?……」


「十ルーブルでどうだ?」


「少なすぎる」


「二十なら?」


「二十五出すなら、いいだろう……」




【三】



あれからすでに十年が過ぎた。この十年の間、わたしは東洋の国に住んだこともあり、南方の国に住んだこともあった。この十年の間、暖かい国の寝言や東洋の国の寝言を、すっかり聞き飽きてしまった。この十年の間、南方の国の幻覚も東洋の国の催眠状態も見て、この世にはもう飽き飽きした。そこでわたしはまた、あの寒くて暗い現実の国に帰って行った。その時はちょうど、あの国で待ち望んでいた春の季節だった。あの国の人々は、この春がいつもより暖かく、いつもより長く続くことを願っていた。この国に着くやいなや、わたしはやはり一度、十年前に住んでいたあの村を訪ねてみなければと思った。しかしこの村は、太陽が穏やかに照らしてはいたが、相変わらず寒く、美しい春の季節であっても相変わらず淋しかった。人々に嫌われわたしに愛された白楊の林も、もうすっかりなくなっていた。かつて林のあった大平原を見ると、まるで人類と動物がまたここで戦ったかのような気がした。しかも今度は人類が勝ったのに、勝利の気配はどこにも感じられなかった。


村から二里ほどのところに、まだいくらか大きな白楊の林が残っていた。わたしは白楊の切り株の間を通って、その残った林の中へ歩いて行った。歩いているうちに、まるで十年前に冬のおばあさんと一緒に歩いたあの廊下を歩いているような気がした。この廊下の突き当たり、林の境目に、小さな家が一軒あった。わたしは思わず家の中に入っていった。すると部屋の中で、白楊の薪が散乱する中に、何かを考えるように寝台に腰掛けている一人の年老いた女がいた。その女の容貌は、一度見たら一生忘れられぬ面差しだった。


「冬のおばあさんだ」わたしは心の中で言った。心臓もどきどきと跳ね、ほとんど痛いほどだった。


「まさかまた夢を見ているのでは?」わたしはまた疑い始めた。


「おばあさん!」わたしは低い声で呼んだ。老女は何も言わず、ただわたしの顔をじっと見つめていた。わたしの心臓の鼓動はさっきよりいっそう激しくなった。わたしは両手を胸に当てた。


「おばあさん、あなたは冬のおばあさんでしょう」わたしは低い声で言った。


老女は何も言わず、ただわたしの顔をじっと見つめていた。わたしは倒れそうになった……


わたしは白楊の薪の上にへたり込んだ。しばらくの間、途切れることのない沈黙が続いた。やがて老女は正気に戻ったかのように、ぶっきらぼうに言った。


「わたしはここの薪割りの婆さんだよ」


「十年前」わたしはまた尋ねた。「おばあさんのところに十二歳の坊やがいましたね?」


老女の顔が青ざめた。わたしも震えた。しばらくの間、途切れることのない沈黙が続いた。


「いたよ、だけどもうおらんよ」老女は何かを思い出したかのように言った。


「今はどこにいるのですか?」


「誰が?」


「坊やは」


「今は、どこにも住んでおらんよ。もう燃え尽きたよ」


「燃え尽きた」


「愛の字の病でね」


老女はわたしがわからないのをたいそう不思議に思ったらしく、また鋭くわたしの顔を見つめた。林の静寂の中で、わたしの心臓の鼓動が聞こえた。


「おばあさん、愛の字の病とは何ですか?」


「十年前、坊やの胸に『愛』の字の形をした瘡ができてね。この『愛』の字の瘡がしだいに胸の奥深くへ侵入していったのだよ」


「それから?」


「坊やの性格が変わってしまった。こんなことを言い出したのだよ、全世界の人を抱きしめて暖めてやりたいとね……」


「それから?」


「それでわたしは困ったよ。坊やはまた松明になって人々の暗い道を照らしたいとも言った」


「それから?」


「それで松明になって人々の暗い道を照らし、燃え尽きてしまったのだよ」


またしばらくの間、沈黙が続いた。老女はまたわたしの顔を見つめた。


「お前は『愛』の字が書けるかい?」


「ええ」


「じゃあ、白楊の薪に『愛』の字を書いてくれないかね?」


「おばあさん、なぜ?」


「『愛』の字を書いた薪は、普通のものより暖かく、明るく燃えるんだよ」


老女は異様に笑い出した。わたしはその笑い声を聞くと、氷水をかけられたように震えた。老女はまた立ち上がり、わたしの耳に口を寄せて低い声で言った。


「わたしの胸に、ちょうど心臓の上のところに、『愛』の字を一つ書いてくれないかね?わたしも白楊の坊やと同じように松明になって、人々の暗い道を照らしたい、燃え尽きるまで」


わたしは急いで立ち上がった。あの部屋にもう一分でもいたら、きっと狂ってしまうと自分でもはっきりわかった。そこであの老女にはもうかまわず、部屋を飛び出して村の方へ逃げた。


……


わたしはその晩、宿の主人に、林に住む薪割りの婆さんのことを知っているかと尋ねた。


「知っているよ」主人は言った。「あれはこの辺では有名な狂人で、林の化け物だ。会ったのか?『愛』の字の瘡がどうとかいう話をされただろう。『愛』の字を書くと薪がもっと暖かく燃えるなんて、まったく化け物だよ。十字架の力よ、我らとともにあれ!」主人はそう言って三度十字を切った。


「しかしあの坊やはどうやって死んだのですか?」わたしは尋ねた。


「あれはまったくどうということもない話だ。あいつは多数党に入って、奇兵隊になって、ここらで活動していたんだ。幸いにも今年の騒動の時に、白軍の騎兵隊に捕まって、殺されたよ。ああいう手合いは、死ねば死ぬほどありがたい」主人はあたりを見回しながら、低い声で言った。


「どうやって殺されたのですか?」わたしはまた尋ねた。


「ああいう手合いを威嚇するために、生きたまま焼き殺されたのだ。もっとも、これは白軍の悪口を言う連中がそう言っているだけで、当てにはならないがね。ああいう手合いは、どう殺されようと、誰も問題にはしない。ただあの婆さんだけは可哀想だ。あれ以来気が狂って、坊やが松明になって人々の暗い道を照らし、燃え尽きたなどと言って歩き回っている。まったくくだらない話だ」


主人はそう言いながら激しく唾を吐き、やがてまた何か思い出したように言った。


「だが化け物や人殺しの話は夜にするものじゃない。十字架の力よ、我らとともにあれ!」


主人はおどおどと窓の方を見て、何度も十字を切った。わたしは黙って、淋しく主人が十字を切るのを見つめていた。外はしだいに暗くなっていった。わたしの心も……


……


わたしはまたこの国を出た。外国へ行った。けれども外国に行っても、わたしの心はまだ痛んでいた。わたしの心の中に新しい深い傷ができたような気がした。しかもこの傷はしだいに深くなっていくようだった。しかもこの傷の形は、どうやら「愛」の字ではなく「憎」の字のようであった。大きな「憎」の字の形……しかもこれがしだいに大きくなっていく……


ああ、この心を、どうしたらよいのだろう……

第77節

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【小鸡的悲剧】




【一】



这几时,家里的小小的鸡雏的一匹,落在掘在院子里给家里的小鸭游泳的池里面,淹死了。


那小鸡,是一匹古怪的小鸡。无论什么时候,毫不和鸡的队伙一同玩,却总是进了鸭的一伙里,和那好看的小鸭去玩耍。家里的主母也曾经想:“小鸡总是还是和小鸡玩耍好,而小鸭便去和小鸭。”然而什么也不说,只是看着罢了。这其间,那小鸡却逐渐的瘦弱下去了。家里的主母吃了惊,说道:


“唉唉,那小东西怎么了呢。不知道可是生了病。”


于是捉住了那小鸡,仔细的来看病。但是片时之后,主母独自说:


“小鸡的病是看不出的。因为便是人类的病,也不是容易明白的呵。”


一面却将那生着看不出的病的小病夫,给吃蓖麻油,用针刺出翅子上的血来,想医治那看不出的病,然而一切都无效。小鸡只是逐渐的瘦下去了。他常常垂了头,惘然的似乎在那里想些什么事。主母看见这,说道:


“唉唉,那小东西,不过是鸡,不过是小鸡,却在想什么呢?便是人类想,也就尽够了。”


这样说着,自己也常常不知不觉的落在默想里了。而且这些时,主母的嘴里便低声说:


“仍然是,小鸡总还是和小鸡玩耍好,而小鸭便去和小鸭。”




【二】



有一天,小鸡仍照常和小鸭游玩着。这时候,太阳已经要落山了。小鸡对着小鸭说:


“你最喜欢什么呢?”


“水呵。”小鸭回答说。


“你有过恋爱么?”


“并没有有过恋爱,但曾经吃过鲤儿。”


“好么?”


“唔唔,也还不错。”


白天渐渐的向晚了。小鸡垂了头,看着这白天的向晚。


“你在浮水的时候,始终想着什么事呢?”


“就想着捉那泥鳅的事呵。”


“单是这事?”


“单是这事。”


“在岸上玩耍的时候,想些什么呢?”


 “在岸上的时候,就想那浮水的事。”


“总是这样?”


“总是这样的。”


白天渐渐的向晚了。小鸡已经不再看,只是垂了头。他又用了低声说:


“你睡觉的时候,可曾做过鸡的梦么?”


“没有。却曾做过鱼的梦。梦见很大的,比太太给我们的那泥鳅还要大的。”


“我可是不这样。……”


沉默又接连起来了。


“你早上起来,首先去寻谁?”


“就去寻那给我们拿泥鳅来的太太呀。你也这样的罢。”


“我是不这样,……”


已经是黄昏了。然而垂着头的小鸡,却没有留心到。


“我想,我如果能够到池里,在你的身边游泳,这才好。”


“但是,怕也无聊罢,你是不吃泥鳅的。”


“然而到池里,难道单是吃泥鳅么?”


“唔,不知道可是呢。”


到了黄昏之后,家里的主母便来唤小鸡。小鸭和别的小鸡都去了。只有这一匹,却垂了头,也垂了翅子,茫然的没有动。主母一看到,说道:


“唉唉,这小东西怎么了呢。”




【三】



第二天,清晨一大早,小鸡是投在池子里,死掉了。听到了这事的小鸭,便很美的伸着颈子,骄傲的浮着水说:


“并不能在水面上浮游,即使捉了泥鳅,也并不能吃,却偏要下水里去,那真是胡涂虫呵。”


家里的主母从池子里捞出淹死的小鸡来,对着那因为看不出的病而瘦损了的死尸,暂时惘然的只是看。


“唉唉,可怜的东西呵。并不会浮水,却怎么跑到池里去了呢。不知道可是死掉还比活着好。


“但是无论怎样,也仍然,小鸡总还是和小鸡玩耍好,小鸭去和小鸭,……我虽然这样想,……虽然这样想,……”


伊独自说,对着那因为看不出的病而瘦损了的小小的死尸,永远是惘然的只是看。


朝日渐渐的上来了。

【小鶏の悲劇】




【一】



この頃、家の小さな雛の一羽が、庭に家の小鴨を泳がせるために掘った池に落ちて、溺れ死んだ。


あの小鶏は、一羽の奇妙な小鶏だった。いつでも鶏の仲間とは遊ばず、いつも鴨の群れに入って、あの可愛い小鴨と遊んでいた。家の主婦も「小鶏はやっぱり小鶏と遊ぶのがいいし、小鴨は小鴨と遊ぶのがいい」と思ったが、何も言わず、ただ見ているだけだった。その間に、あの小鶏はしだいに痩せ細っていった。家の主婦は驚いて言った。


「ああ、あの子はどうしたのかしら。病気にでもなったのかしら」


そしてその小鶏を捕まえて、丁寧に病を診た。しかししばらくして、主婦はひとり言を言った。


「小鶏の病気はわからないわ。だって人間の病気だってそう簡単にはわからないのだもの」


そう言いながらも、見てもわからない病を患った小さな病人に、ひまし油を飲ませ、翼に針を刺して血を出し、見てもわからない病を治そうとした。しかしすべて無駄だった。小鶏はただしだいに痩せていくばかりだった。小鶏はいつも首をうなだれて、ぼんやりと何かを考えているようだった。主婦はそれを見て言った。


「ああ、あの子ったら、たかが鶏、たかが小鶏のくせに、何を考えているのかしら。人間だって考えるだけでもう十分なのに」


こう言いながら、自分もしばしばいつの間にか物思いに沈んでいた。するとこの頃、主婦の口からは低い声でこう漏れるのだった。


「やっぱり、小鶏はやっぱり小鶏と遊ぶのがいいし、小鴨は小鴨と」




【二】



ある日、小鶏はいつも通り小鴨と遊んでいた。太陽はもう沈みかけていた。小鶏は小鴨に言った。


「きみが一番好きなものは何?」


「水だよ」小鴨は答えた。


「恋をしたことはある?」


「恋はしたことないけど、鯉の子を食べたことはあるよ」


「おいしかった?」


「うん、まあまあだったかな」


日がしだいに暮れていった。小鶏はうつむいて、この日暮れを見つめていた。


「きみは泳いでいる時、ずっと何を考えているの?」


「泥鰌を捕まえることだよ」


「それだけ?」


「それだけ」


「岸で遊んでいる時は何を考えるの?」


「岸にいる時は、泳ぐことを考えるよ」


「いつもそう?」


「いつもそうだよ」


日がしだいに暮れていった。小鶏はもう見ることをやめ、ただうつむいていた。そして低い声で言った。


「きみは寝ている時、鶏の夢を見たことはある?」


「ないよ。でも魚の夢は見たよ。すごく大きな、奥さんがくれる泥鰌よりもっと大きな魚の夢を」


「ぼくはそうじゃないんだ……」


また沈黙が続いた。


「朝起きたら、まず誰を探しに行く?」


「泥鰌を持ってきてくれる奥さんを探しに行くよ。きみもそうだろう」


「ぼくはそうじゃないんだ……」


もう夕暮れだった。しかしうつむいている小鶏はそれに気づいていなかった。


「ぼくがもし池に行って、きみのそばで泳げたら、それがいいんだけどなあ」


「でも、つまらないんじゃない?きみは泥鰌を食べないし」


「でも池に行くのは、泥鰌を食べることだけじゃないでしょう?」


「うーん、どうかな」


夕暮れが過ぎると、家の主婦が小鶏を呼びに来た。小鴨もほかの小鶏たちもみな行った。ただこの一羽だけは、うつむいて、翼も垂れて、ぼんやりと動かなかった。主婦はそれを見て言った。


「ああ、この子はどうしたのかしら」




【三】



翌日、早朝まだ暗いうちに、小鶏は池に飛び込んで死んでいた。この知らせを聞いた小鴨は、きれいに首を伸ばし、得意げに水に浮かびながら言った。


「水の上に浮くこともできないくせに、たとえ泥鰌を捕まえたって食べられもしないくせに、水に入ろうとするなんて、まったくおばかさんだ」


家の主婦は池から溺れ死んだ小鶏を引き上げ、見てもわからない病のために痩せ細った小さな亡骸を前に、しばらくぼんやりと見つめるばかりだった。


「ああ、可哀想な子。泳げないのに、どうして池に行ったのかしら。死んだほうが生きているよりましだったのかしら。


でも、どんなにしても、やっぱり、小鶏はやっぱり小鶏と遊ぶのがいいし、小鴨は小鴨と……わたしはそう思うけど……そう思うけど……」


主婦はひとり言を言いながら、見てもわからない病のために痩せ細った小さな亡骸を前に、いつまでもぼんやりと見つめるばかりだった。


朝日がしだいに昇ってきた。