Lu Xun Complete Works/zh-ja/Dixiong

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弟兄 / Brothers

中日対訳 / 中日对照

中文 (Chinese) 日本語 (Japanese)

(都暂时等候着。)


金线蛙 那里会为了你们这些东西起来呢。


虫们 让我们来叫罢:




春呀春呀,相思的,


起来罢,为了虫。




花们 不要闹笑话罢,为了你们这些东西是不见得起来的。


蝉 为了蝉!


大众 不行。


蛇 为了蛇!


大众 不行的。


蛙 为虾蟆!


大众 也不行。


蝇 为苍蝇!


大众 更不行了!


蜥蜴 为蜥蜴!


大众 唉唉,不要胡缠下去了罢。


雨蛙 究竟要怎么着,春才起来呢?


大众 真的呵,要怎么着才起来呢?


勿忘草 春姊姊遭魔术的力睡了觉,已经不再起来的事,你们竟都忘记了。然而只有勿忘草是不忘掉的。


大众 的确是的。


雏菊 这怎么好呢,好不烦腻呵。


大众 真是的。


土拨鼠 我再来叫一回罢。


金线蛙 算了罢,已经尽够了,不起来的。


雨蛙 起来的。一定起来的。叫去罢。


金线蛙 多嘴。


(土拨鼠唱歌。)


春呀春,眷恋的春呀,


起来罢,为了桃色的云!




(春微微开眼,于是头略动,于是梦话似的唱歌。)




我的云呀,所爱的云呀,


不要离开我,不要忘掉我,


永是这么着,永是这么着。




(春又睡去。春起来时,通到上面的门略开。上面世界的樱树将积雪从枝上摆落,开起花来。同时,在上面和下面的世界,都听得“高兴呵,高兴呵,春起来了,春起来了。这一种声音。


花卉和昆虫们都向门跑去。


白鹄的斥候递一暗号,白鹄们都飞出。睡在枕边的云雀和燕子之类,也起来飞去了。


在上面的世界里,春的七草唱歌。)




喂,快快的,喂,快快的,朋友们,起来呀。


春是起来了,


虫儿呵,小鸟儿呵,起来呀。


春是起来了,


说是外面冷,诳罢了,风的诳罢了。


春是起来了,


快快出去迎春罢,朋友们呵。




大众 去哩,去哩。(都跑去。)


含羞草 惹着我是不行的呵,不行的呵。







【第六节】




自然母 (极慌张的跳起身,)孩子们,孩子们,这怎的?静下来,不要闹罢。(于是挥动魔术的杖,大众混杂着停住。)


含羞草 惹着我是不行的呵,不行的呵。


破雪草 但是,母亲,春已经来了的。


母 唉唉,这糟了,谁开了门呢?


(听得上面的世界里的歌。)




说是外面的世界冷,诳罢了,


风的诳罢了。




母 (挥着杖,)住口,住口。


(上面世界的歌忽而停止了。)


母 都静静的,还太早呢。谁开了门,谁叫春起来的?


蛇的群 却并不是我们……


蛙的群 也不是我们。


母 (见了土拨鼠,)这是你的淘气罢。


土拨鼠 母亲,这不是淘气。这并非为自己,是为那受了冬的凌虐而冻着的上面的世界,叫起春来的。


破雪草 上面的诸位哥哥正不知道多少冷哩。


雨蛙 这并不是土拨鼠的淘气,我们也都托付他的。


金线蛙 你还是不去辩护好罢。


雨蛙 你默着罢,乏小子。


金线蛙 什么?再说一遍看!


母 静静的。


土拨鼠 母亲,冬是已经尽够了。又冷又暗的冬是已经尽够了,母亲。


大众 已经尽够了,真是已经尽够了。


土拨鼠 要太阳,要温暖光明的太阳,母亲!


大众 母亲,要太阳,要温暖光明的太阳。


母 静静的罢。(对着土拨鼠,)你自己不知道你是不能活在太阳所照的世界上的么,还是明知道,却偏要到那里去呢?


土拨鼠 母亲,即使不能活,死总该能的罢。


雨蛙 母亲!


母 静静的,统统,再睡一会罢。


(自然母向池这一面去,大众都跟着。自然母歇在池边,大众都进了怀中或跳到膝上。白鹄的群也只留下一个斥候,别的都聚在自然母的身边。)


母 (独自说,)我本以为一切规则都定得很正当的了,不知道为什么,一切都不如意。


(春的王女睡着的岛漂到岸边。自然母唱歌。)




睡觉罢,睡觉罢,我的春呀,


我的宝贝,我的心,静静的睡觉罢。


花呀,不要谈罢,将那美的话;


虫呀,不要私语罢,将朋友的梦想;


鸟呀,不要唱罢,恋的歌;


春是睡着做梦呢——桃色的云的梦。


 (一面看着云,)


云呀云,春的云,


桃色的云,不要离开了我的春罢。




大众 不要离开了我的春罢。


母 友呀友,春的友。


  桃色的友,永是这么着,


  无论怎么着,不要离开了我的春罢。


大众 永是这么着,无论怎么着,不要离开了我的春罢。


(牧童的角笛,秋风,合了调和的铃声,细流的幽静的私语,全都睡着了。说不定从那里,听得水车的声音。


冬非常急遽的进了上面的世界。风跟在那后面。)


冬 说是春起来了,不会有这等事的。


风 可是春的花卉们都这么说。


冬 不安分的东西,畜生。(看了樱)这是怎的,早说过教睡着。要给吃一通大苦哩。(抖动氅衣,下雪。)


樱 冬姊姊,原谅我罢。


冬 不要胡说。


春的七草 母亲,母亲!


冬 放心,母亲不会到这里来的,住口。(开了门,走进下面的世界去,吃惊,)花们都怎么了呢!(叫喊着四顾,)门都开了,有谁知道了魔术的句子了。(看见自然母,)原来,一切都是土拨鼠的淘气做的。这样的东西,给吃一通大苦罢。(静静的走近春的处所,)哈哈,桃色的云在这里,我正在这样搜寻着的那桃色的云。现在倘不将这带了去,怕未必再有这样好机会了。(静静的走到岛上,停在云的面前,)是美的人儿呵。(在那额上接吻。)


桃色的云 (睁开眼,)春儿!


冬 我呢。


云 冬姊么?


冬 是的,跟了我去罢。


云 (比较的看着冬和春,)去罢。


冬 那么,去罢。(起身走去。云看着春,还踌躇,)不必担心的。走罢,要爱怜你呢。


云 真的,不骗我么?


(冬笑着走。云跟在那后面。


二人出门走去。春雨如丝的下。这瞬间,春忽然醒来。)


春 我的云,我的桃色的云,我的要紧的云怎么了?(于是跳起。)







【第七节】




(春的门大开。春的昆虫和花卉们都向门跑去。从上面的世界里,听得“朋友们,起来呀,春是起来了”的歌声。)


大众 阿阿,高兴呵,高兴呵,春是起来了,春是起来了。


春 (发狂似的奔走,)母亲,我的云,我的桃色的云!


自然母 (睁开眼,)怎么了,又是孩子们的淘气?


春 母亲,我的桃色的云不见了。谁偷了我的云去了。不知道可是夏姊姊。(跑向夏这里,)姊姊,姊姊,将我的云怎么了?


夏 (惊起,)唉唉!吓了一跳。你的云,我不知道呢。若是我的云,那倒是在这里的罢。


(夏的云微动,雷电俱作。夏的昆虫和花卉们都向门跑去。)


大众 阿阿,高兴呵,高兴呵,夏是起来了,夏是起来了。


春 不知道可是秋姊姊带去的?


夏 不知道呵,快问去罢。


(都向秋这里跑去。


自然母什么都不知道,出惊的看着花卉和昆虫们的扰攘。雷鸣。)


春 姊姊,姊姊,还我罢。


秋 (吃惊,跳起身,)什么呀,还你什么?


春 还了我那桃色的云……


秋 (错愕,)还了桃色的云?


夏 春儿的桃色的云不见了。有谁拐去了似的。姊姊可看见?


秋 没有呢。我这里,只有灰色的云在手头罢了。


(秋的昆虫花卉们都和秋同时起来,向着门走去。)


大众 阿阿,高兴呵,高兴呵,秋是起来了,秋是起来了。


夏 究竟桃色的云怎么了呢?


秋 不知道可是冬姊姊带去了不是?


春 是罢,是罢,一定是冬姊姊了。


夏 那一位姊姊总是恶作剧,好不苦恼人。


自然母 (向了秋这面走,而且说,)你,你怎么了?(看着昆虫和花卉们,)那里去,到那里去?


虫和花 春起来了,夏起来了,秋起来了!


母 阿呀,都发狂了。我的杖呢,谁拿去了?(向着秋和夏,)你们怎么了呢?都睡罢!不是还没有到你们起来的时候么?快快的,赶快睡。(向着花和虫,)站住,不要跑!


(自然母的话,谁也不理,仍然大闹。)


春 母亲,我的云,我的桃色的云。(哭。)


秋和夏 冬姊姊偷了春儿的云哩。


母 阿呀,不得了,睡下,睡下!我的杖,我的杖呢?(向了虫,)停一停,停一停,说是不要跑呵!


(谁也不理。雷鸣。秋的云也动弹起来,扰乱逐渐扩大。)


虫和花 春起来了,夏起来了,秋起来了!


(都向门拥挤着。在上面的世界里,听得歌声。)


母 唉唉,头里很异样了。(向了门,)为了爱,门关上罢。


(秋和夏的场面之前的幕同时垂下。花和虫都停住。)


燕子花 怎的!


向日葵 夏怎么了?


夏蝉 正以为夏是来了的呢。


秋虫们 的确见过秋天了的。


夏花们 不知道可是梦。


大众 是怎样一个奇怪的梦呵。


达理亚 那一伙春的畜生尽闹,所以闹成这样的罢。


春虫们 (也停在门前,)我们也还早呢。


蝇 虽然并没有什么早,然而下着雨哩。


(蛇和蜥蜴也浑身湿淋淋的从上面的世界回来。)


蛇 唉唉,好冷好冷。


蜥蜴 真吃了老大的苦了。


虫们 等一会罢。


黑蛇 不象蛇似的聪明,是不行的。


蜥蜴 然而不象蛇似的淋得稀湿,也不坏呵。


蛇 不要紧,就会干的。


玉蝉花 我们也仿佛还早呢。


牡丹 那自然。


铃兰百合 我们也等一会罢。







【第八节】




(上面的世界里,春的花卉们成排的跳舞着,蛙和土拨鼠也在那里奔走,而且唱歌。)




春雨呀,春雨呀,相思的春雨呀。


 (花的合唱。)


被春雨催起了,谁的根不欢喜!


谁的花不快乐呢?


春的根是相思的;


春的花是美的。


 (蛙的合唱。)


被春雨催起了,谁的胸不低昂,


谁将歌不歌唱呢?


爱之波,相思的爱之波;


恋的歌,美的恋的歌——听着春的雨。


 (大众的合唱。)


被春雨催起了,谁没有朋友呢?


朋友的颜,又有谁不看呢?


春的友,相思的春的友,


友的颜,美的友的颜——春雨下来的时候。




樱 静静的,静静的,冬来哩。


(冬进来,于是转北,向了男爵的府邸这面走。)


冬 唉唉,好大的雨,好大的雨呵。


桃色的云 (跟在那后面,)那却是我的雨呢,实在对不起。


冬 快点,快点。(跑去。)


(花卉们唱歌。)


  云呀云,春的云,


  桃色的云,不要离开了我的春罢。




(云略停,踌躇着。)


冬 畜生,住口!这已经不是春的云了,是我的云了,是我的云了。好,走罢。


(云踌躇着。冬坚决的走去。)


冬 随意罢,不走也可以的。


云 去的去的。


(冬和云俱去。春子只穿一件寝衣,然而赤着脚,从屋里迸跳出来,头发蓬松的散乱着,径奔二人走去的方向。春子的母亲,夏子,秋子,都吃惊的在后面赶。)


春子 还我,还我。冬姊,还我罢。


母 (赶上春子,从背后拖住,)春儿,孩子呵,怎么了?到那里去呢?


春子 (想逃出母亲的手中,挣扎着,)放手罢,母亲,放手。那男爵的女儿冬儿,将我那桃色的云拿走了。放手罢。


母 春儿,孩子呵,这是昏话罢,那里有什么桃色的云呢。


(夏子和秋子也赶到,帮着春子的母亲,不使春子挣出。)


秋子 并没有什么桃色的云的呵。


夏子 这都是发热的昏话罢了。


春子 不的,不的。的确,那男爵的女儿偷了我那要紧的云去了。


夏子 唉唉,好不吓人的昏话。


秋子 (低声,)伯母,那事情春姑娘什么都知道?


母 (也用了低声,)本该还没有知道的。


秋子 总之,还是去请医生来罢?


母 哦哦,就这么罢。


秋子 这就请去。(跑去。)

(みな暫く待っている。)

金線蛙 お前たちのような者のために起きるわけがなかろう。

虫たち われらで呼ぼうではないか——

春よ春よ、恋しき春よ、
起きてくれ、虫のために。

花たち 馬鹿を言うのはよしなさい、お前たちのような者のために起きるはずがない。

蝉 蝉のために!

大衆 だめだ。

蛇 蛇のために!

大衆 だめだよ。

蛙 蛦蟇のために!

大衆 それもだめだ。

蠅 蠅のために!

大衆 なおさらだめだ!

蜥蜴 蜥蜴のために!

大衆 ああ、もうつまらぬことを言い続けるのはよせ。

雨蛙 いったいどうすれば、春は起きるのか?

大衆 ほんとうに、どうすれば起きるのだろう?

勿忘草 春姉さまが魔法の力で眠ってしまい、もう起きないことを、みんなすっかり忘れてしまったのか。しかし勿忘草だけは忘れないのだ。

大衆 たしかにそうだ。

雛菊 これはどうしたものか、なんとも煩わしいことだ。

大衆 まったくだ。

土撥鼠 もう一度わたしが呼んでみよう。

金線蛙 よしなさい、もう十分だ、起きはしない。

雨蛙 起きるよ。きっと起きる。呼んでみろ。

金線蛙 おしゃべりめ。

(土撥鼠が歌う。)

春よ春、恋しき春よ、
起きてくれ、桃色の雲のために!

(春がうっすらと目を開け、やがて頭がわずかに動き、やがて寝言のように歌う。)

わたしの雲よ、愛しい雲よ、
わたしを離れないで、わたしを忘れないで、
いつまでもこのままに、いつまでもこのままに。

(春がまた眠る。春が起きた時、上の世界への扉がわずかに開く。上の世界の桜の木が枝から積雪を振り落とし、花を咲かせる。同時に、上と下の世界で、「嬉しい、嬉しい、春が起きた、春が起きた」という声が聞こえる。

花卉と昆虫たちがみな扉へ走ってゆく。

白鵠の斜候が暗号を送ると、白鵠たちがみな飛び出す。枕辺に眠っていた雲雀や燕の類も、起きて飛び去った。

上の世界では、春の七草が歌う。)

おい、早く早く、おい、早く早く、友よ、起きろ。
春は起きたのだ、
虫よ、小鳥よ、起きろ。
春は起きたのだ、
外は寒いというのは嘘だ、風の嘘だ。
春は起きたのだ、
早く出て春を迎えよ、友よ。

大衆 行くぞ、行くぞ。(みな走ってゆく。)
含羞草 わたしに触るのはいけないよ、いけないよ。


【第六節】

自然母 (ひどく慌てて飛び起き、)子供たち、子供たち、これはどうしたの? 静かに、騒がないで。(そして魔法の杖を振ると、大衆が入り混じって立ち止まる。)

含羞草 わたしに触るのはいけないよ、いけないよ。

破雪草 でも、お母さま、春はもう来たのです。

母 ああ、困ったこと、誰が扉を開けたの?

(上の世界の歌が聞こえる。)

外の世界が寒いというのは嘘だ、
風の嘘だ。

母 (杖を振って、)黙りなさい、黙りなさい。
(上の世界の歌が急に止む。)

母 みな静かに、まだ早すぎます。誰が扉を開けたの、誰が春を起こしたの?

蛇の群れ わたしたちではありません……

蛙の群れ わたしたちでもありません。

母 (土撥鼠を見て、)お前のいたずらでしょう。

土撥鼠 お母さま、これはいたずらではありません。自分のためではなく、冬の虐げに凍えている上の世界のために、春を呼び起こしたのです。

破雪草 上のお兄さんたちは、どんなに寒い思いをしていることか。

雨蛙 これは土撥鼠のいたずらではありません、わたしたちもみな彼に頼んだのです。

金線蛙 お前は弁護などしないほうがいい。

雨蛙 黙っていろ、怠け者め。

金線蛙 なんだと? もう一度言ってみろ!

母 静かに。

土撥鼠 お母さま、冬はもう十分です。寒くて暗い冬はもう十分です、お母さま。

大衆 もう十分だ、ほんとうにもう十分だ。

土撥鼠 太陽が欲しい、温かく明るい太陽が欲しい、お母さま!

大衆 お母さま、太陽が欲しい、温かく明るい太陽が。

母 静かにしなさい。(土撥鼠に向かって、)お前は自分が太陽の照る世界では生きられないことを知らないの、それとも知っていて、わざわざそこへ行こうというの?

土撥鼠 お母さま、たとえ生きられなくても、死ぬことならできるでしょう。

雨蛙 お母さま!

母 静かに、みんな、もう少し眠りなさい。

(自然母が池のほうへ行くと、大衆がみな従う。自然母が池のほとりに憩い、大衆がみな懐に入ったり膝の上に飛び乗ったりする。白鵠の群れも斜候を一羽残すだけで、他はみな自然母のそばに集まる。)

母 (独り言を言う、)わたしはすべての規則をきちんと定めたつもりだったのに、なぜか、何もかもうまくゆかない。

(春の王女が眠る島が岸辺に漂い着く。自然母が歌う。)

眠りなさい、眠りなさい、わたしの春よ、
わたしの宝、わたしの心、静かに眠りなさい。
花よ、語るな、その美しい言葉を。
虫よ、囁くな、友の夢想を。
鳥よ、歌うな、恋の歌を。
春は眠って夢を見ている——桃色の雲の夢を。
(雲を見ながら、)
雲よ雲、春の雲、
桃色の雲、わたしの春を離れないで。

大衆 わたしの春を離れないで。

母 友よ友、春の友。
桃色の友、いつまでもこのままに、
何があっても、わたしの春を離れないで。

大衆 いつまでもこのままに、何があっても、わたしの春を離れないで。

(牧童の角笛、秋風、調和した鈴の音、細流のひそやかな囁き、すべてが眠ってしまった。どこからともなく、水車の音が聞こえる。

冬が大急ぎで上の世界に入ってくる。風がその後ろに従う。)

冬 春が起きたというが、そんなことがあるものか。

風 でも春の花卉たちがみなそう言っています。

冬 不届きな奴ら、畜生め。(桜を見て)これはどうしたこと、早くから眠れと言ったのに。ひどい目に遭わせてやるぞ。(外套を振ると、雪が降る。)

桜 冬姉さま、お許しください。

冬 つまらぬことを言うな。

春の七草 お母さま、お母さま!

冬 安心しろ、母はここには来ない、黙れ。(扉を開け、下の世界に入ってゆき、驚いて、)花たちはどうしたというのだ!(叫びながら四方を見回し、)扉がみな開いている、誰かが魔法の呪文を知ったのだ。(自然母を見て、)なるほど、すべては土撥鼠のいたずらだったのか。こんな奴、ひどい目に遭わせてやる。(静かに春のいる場所に近づき、)ははあ、桃色の雲がここにいる、わたしがずっと探していたあの桃色の雲が。今これを連れて行かなければ、二度とこんな好い機会はあるまい。(静かに島に渡り、雲の前に立ち、)美しい人だ。(その額に接吻する。)

桃色の雲 (目を開けて、)春ちゃん!

冬 わたしだよ。

雲 冬姉さま?

冬 そうだ、わたしについておいで。

雲 (冬と春を見比べて、)行きましょう。

冬 では、行こう。(立ち上がって歩き出す。雲は春を見て、まだためらう。)心配はいらない。さあ行こう、可愛がってあげるから。

雲 ほんとうに、嘘じゃないの?

(冬が笑いながら歩く。雲がその後ろに従う。

二人が扉を出て行く。春雨が糸のように降る。この瞬間、春が突然目を覚ます。)

春 わたしの雲、わたしの桃色の雲、わたしの大切な雲はどうなったの?(そして飛び起きる。)


【第七節】

(春の扉が大きく開く。春の昆虫と花卉たちがみな扉へ走ってゆく。上の世界から、「友よ、起きろ、春は起きたのだ」という歌声が聞こえる。)

大衆 ああ、嬉しい、嬉しい、春が起きた、春が起きた。

春 (狂ったように走り回り、)お母さま、わたしの雲、わたしの桃色の雲!

自然母 (目を開けて、)どうしたの、またあの子たちのいたずら?

春 お母さま、わたしの桃色の雲がいなくなった。誰かがわたしの雲を盗んでいった。夏姉さまかしら。(夏のところへ走ってゆき、)お姉さま、お姉さま、わたしの雲をどうしたの?

夏 (驚いて起き、)ああ! びっくりした。あなたの雲なら、わたしは知らないわ。わたしの雲なら、ここにあるけど。

(夏の雲がわずかに動き、雷電が起こる。夏の昆虫と花卉たちがみな扉へ走ってゆく。)

大衆 ああ、嬉しい、嬉しい、夏が起きた、夏が起きた。

春 秋姉さまが持っていったのかしら?

夏 わからないわ、早く聞きに行きなさい。

(みなが秋のところへ走ってゆく。

自然母は何も知らず、驚いて花卉と昆虫たちの騒ぎを見ている。雷鳴。)

春 お姉さま、お姉さま、返してください。

秋 (驚いて飛び起き、)何のこと、何を返すの?

春 桃色の雲を返してください……

秋 (当惑して、)桃色の雲を返す?

夏 春ちゃんの桃色の雲がいなくなったの。誰かに連れ去られたみたい。お姉さまは見なかった?

秋 見なかったわ。わたしのところには、灰色の雲しかないわ。

(秋の昆虫と花卉たちもみな秋と同時に起きて、扉に向かって歩いてゆく。)

大衆 ああ、嬉しい、嬉しい、秋が起きた、秋が起きた。

夏 いったい桃色の雲はどうなったのかしら?

秋 冬姉さまが持っていったのではない?

春 そうだわ、そうだわ、きっと冬姉さまよ。

夏 あのお姉さまはいつも意地悪ばかりして、ほんとに困るわ。

自然母 (秋のほうへ歩きながら言う、)お前、お前はどうしたの?(昆虫と花卉たちを見て、)どこへ行くの、どこへ行くのだ?

虫と花 春が起きた、夏が起きた、秋が起きた!

母 まあ、みな気が狂ったのか。わたしの杖はどこ、誰が持っていった?(秋と夏に向かって、)お前たちはどうしたの? みな眠りなさい! まだお前たちが起きる時ではないでしょう? 早く、早く眠りなさい。(花と虫に向かって、)止まれ、走るな!

(自然母の言葉を、誰も聞かず、依然として大騒ぎしている。)

春 お母さま、わたしの雲、わたしの桃色の雲。(泣く。)

秋と夏 冬姉さまが春ちゃんの雲を盗んだのよ。

母 ああ、大変だ、眠りなさい、眠りなさい! わたしの杖、わたしの杖はどこ?(虫に向かって、)ちょっと待ちなさい、ちょっと待ちなさい、走るなと言っているでしょう!

(誰も聞かない。雷鳴。秋の雲も動き出し、混乱がしだいに広がる。)

虫と花 春が起きた、夏が起きた、秋が起きた!

(みなが扉に押し合っている。上の世界から歌声が聞こえる。)

母 ああ、頭がおかしくなりそうだ。(扉に向かって、)愛のために、扉を閉じなさい。

(秋と夏の場面の前の幕が同時に下りる。花と虫がみな立ち止まる。)

燕子花 どうしたの!

向日葵 夏はどうなったの?

夏蝉 夏が来たと思っていたのに。

秋虫たち たしかに秋を見たのだが。

夏花たち 夢だったのかしら。

大衆 なんと不思議な夢だったことか。

ダリア あの春の畜生どもが騒ぐから、こんなことになったのだ。

春虫たち (扉の前で立ち止まったまま、)わたしたちもまだ早いようだ。

蠅 別に早くはないが、雨が降っている。

(蛇と蜥蜴もびしょ濡れで上の世界から戻ってくる。)

蛇 ああ、寒い寒い。

蜥蜴 ひどい目に遭った。

虫たち もう少し待とう。

黒蛇 蛇のように賢くなければ、だめだ。

蜥蜴 しかし蛇のようにびしょ濡れにならないのも、悪くないぞ。

蛇 大丈夫、すぐ乾く。

玉蝉花 わたしたちもまだ早いようだ。

牡丹 当然だ。

鈴蘭百合 わたしたちも少し待とう。


【第八節】

(上の世界では、春の花卉たちが列を作って踊り、蛙と土撥鼠もそこを走り回り、歌っている。)

春雨よ、春雨よ、恋しき春雨よ。
(花の合唱。)
春雨に起こされて、誰の根が喜ばぬか!
誰の花が楽しまぬか?
春の根は恋しきもの、
春の花は美しきもの。
(蛙の合唱。)
春雨に起こされて、誰の胸が高鳴らぬか、
誰が歌わずにいられようか?
愛の波、恋しき愛の波、
恋の歌、美しき恋の歌——春の雨を聽きながら。
(大衆の合唱。)
春雨に起こされて、誰に友がいないか?
友の顔を、誰が見ずにおられようか?
春の友、恋しき春の友、
友の顔、美しき友の顔——春雨の降る時に。

桜 静かに、静かに、冬が来る。
(冬が入ってきて、北へ向かい、男爵の邸宅のほうへ歩いてゆく。)

冬 ああ、ひどい雨だ、ひどい雨だ。

桃色の雲 (その後ろに従いながら、)それはわたしの雨なのです、まことに申し訳ありません。

冬 早く、早く。(走ってゆく。)

(花卉たちが歌う。)
雲よ雲、春の雲、
桃色の雲、わたしの春を離れないで。

(雲が少し立ち止まり、ためらっている。)

冬 畜生め、黙れ! これはもう春の雲ではない、わたしの雲だ、わたしの雲だ。さあ、行こう。

(雲がためらっている。冬が毅然として歩いてゆく。)

冬 勝手にしろ、行かなくてもいいのだぞ。

雲 行きます、行きます。

(冬と雲が去る。春子は寝間着一枚で、裸足のまま、家から飛び出してくる。髪はぼさぼさに乱れ、二人が去った方角へまっすぐに走る。春子の母、夏子、秋子が、みな驚いて後を追う。)

春子 返して、返して。冬姉さま、返してください。

母 (春子に追いつき、後ろから抱きとめて、)春や、坊や、どうしたの? どこへ行くの?

春子 (母の手から逃れようともがきながら、)放してください、お母さま、放して。あの男爵の娘の冬が、わたしの桃色の雲を連れ去ったのです。放してください。

母 春や、坊や、これはうわ言でしょう、桃色の雲なんてどこにあるの。

(夏子と秋子も追いつき、春子の母を助けて、春子が逃げ出さないようにする。)

秋子 桃色の雲なんてありませんよ。

夏子 これはみな熱のうわ言よ。

春子 違う、違う。たしかに、あの男爵の娘がわたしの大切な雲を盗んでいったのだ。

夏子 まあ、なんという恐ろしいうわ言。

秋子 (小声で、)伯母さま、あのことを春さんはみんな知っているのでしょうか?

母 (やはり小声で、)まだ知らないはずなのだけど。

秋子 とにかく、お医者さまを呼びに行ったほうがよいでしょう?

母 ああ、そうしましょう。

秋子 すぐに行ってまいります。(走り去る。)

夏子 给金儿打一个电报,不行?


母 唔,那么,就这么罢。


夏子 这就打去。(跑去。)


(母亲象抱小孩似的抱了春子,走进家里去。)


春子 我的云,我的桃色的云!(哭。)

【西班牙剧坛的将星 厨川白村  】







【一 罗曼底】




读了二叶亭所作的《其面影》的英译本,彼国的一个批评家就吃惊地说道,在日本,竟也有近代生活的苦恼么?英美的人们,似乎至今还以为日本是花魁(译者注:谓妓女)和武士道的国度。和这正一样,我们也以为西班牙是在欧洲的唯一的“古”国;以为也不投在大战的旋涡里,也不被世界改造的涛头所卷去,至今还是正在走着美丽的罗曼底的梦路的别世界中。这就因为西班牙的人们,也如日本人的爱看裸体角力一样,到现在还狂奔于残忍野蛮的斗牛戏;也如日本人的喜欢舞妓的傀儡模样一样,心赏那色采浓艳的西班牙特有的舞姿;而其将女人幽禁起来,也和日本没有什么大差的缘故。


罗曼主义是南欧腊丁系诸国的特有物。中欧北欧的诸国,早从罗曼底的梦里醒过来了的现在,然而在生活上,在艺术上,还是照旧的做着罗曼斯的梦者,也不但西班牙;意大利也如此。近便的例,则有如但农契阿(D’Annunzio)在斐麦问题的行动,虽然使一部分冥顽的日本人有些佩服了,而其实是出于极陈腐的过时的思想的。即不外乎不值一顾的旧罗曼主义。这样看来,便是但农契阿的艺术,如《死之胜利》,如《火焰》,如《快乐儿》,尤其是他的抒情诗,也都是极其罗曼底的作品。显现于实行的世界的时候,便成为斐麦事件似的很无聊的状况的罗曼主义了。只有披了永久地,新的永久地,有着华美的永远的生命的“艺术”的衣服,而被表现的时候,还有很可以打动现代的人心的魅力。所以我们之敬服他的作品者,即与我们现在还为陈旧的雩俄(Hugo)的罗曼主义所动,读了《哀史》和《我后寺》而下泪的时候正相同。对于旧时代的武士道毫无兴趣的人们,看了戏剧化的《忠臣藏》的戏文,却也觉得有趣。因为在这里是有着艺术表现的永远性,不朽性的。总之,用飞机来闹嚷一通的但农契阿的态度,即可以当作那客死在靡梭伦基的拜伦(Byron)的罗曼主义观。然而我现在的主意,却并不在议论意大利。







【二 西班牙剧】




无论如何,西班牙总是凯尔绵(Carmen)的国度。西班牙趣味里面,总带着过度的浓艳的色采,藏着中世骑士时代的面影。在昔加勒兑隆(Calderon)以来的所谓“意气”和“名誉”之类的理想主义,直到现在,还和那国度纠结着。对于难挨的“近代”的风潮全不管;在劳动问题,宗教问题,妇女问题这些上,搅乱人心的事,也极其少有的。


然而桃源似的生活,是不会永久继续下去的。倘将外来思想当作不相干的事,便从脚跟,从鼻尖,都会发火。现实的许多“问题”,便毫不客气,焦眉之急地逼来了。在西班牙,这样的从罗曼主义到现实主义的思想的推移,在文艺中含着民众艺术的性质最多的演剧上,出现得最明显。尤其是从外国人的眼光看来的西班牙文学,自加勒兑隆以来,戏曲就占着最为重要的地位,乃是不可动摇的事情。


前世纪以来西班牙最大的戏曲家的那遏契喀黎(Echegaray),恐怕是垂亡的罗曼主义剩下来的最后的闪光罢。虽是他,也分明地受了伊孛生(Ibsen)的问题剧的影响。然而,便是和伊孛生的《游魂》最相象,取遗传作为材料的杰作《敦凡之子》,也还是罗曼底的作品;至于《马利亚那》和《喀来阿德》,则内容和外形,都和近代底倾向远得多。他在五年前已经去世了。


然而衍这遏契喀黎一脉的新人物迭扇多的戏曲,则虽然也还是罗曼底,而同情却已移到无产阶级去。他那最有名的著作《凡贺绥》(一八九五年作)中,就将阶级争斗和劳资冲突作为背景描写着。剧中的主角凡贺绥,杀却了夺去自己的情人的那雇主波珂的惨剧,比起寻常一样的恋爱悲剧来,已经颇异其趣了。但以近代剧而论,则因为还带着太多的歌舞风的古老的罗曼底分子,所以总不能看作社会剧问题剧一类性质的东西。







【三 培那文德】




但是,现在作为这国度里最伟大的一个戏曲家,见知于全欧洲者,是培那文德(Jacinto Benavente)独有他是纯粹的现实主义者,又是新机运的代表人。作为罗曼主义破坏者的他的地位,大概可以比培那特萧(Bernard Shaw)之在英文学罢。将那些讨厌地装着斯文,摆出贵人架子,而其实是无智,游惰,浮滑的西班牙上流社会的脸皮,爽爽快快地剥了下来的他的滑稽剧中,有着一种轻妙的趣致,比起挖苦而且痛快的北欧作品来,自然地很两样。尤其是将那擅长的锐利的解剖刀,向着虚伪较多的女性的生活的时候,那手段之高,是格外使人刮目的。


培那文德是著名的医生的儿子,一千八百六十六年八月十二日生的,所以现在是五十五岁(译者注:此文一九二一年作。)先在马特立的大学修法律,因为觉得无味,便献身于文字之业,先做起抒情诗和小说来;听说以诗集而论,也有出色的作品。到一千八百九十三年以后,便完全成了剧坛的人。但到以剧曲作家成名时,也曾出台爨演;便是现在,也时时自己来扮自作剧本中的脚色。他的开手的作品叫《在别人的窠里》的,在马特立的喜剧剧场开演,是一千八百九十四年。然而尽量地站在现实主义的地位上,来描写时世的他那近代底作风,最初的时候,是很受了些世人,尤其是旧思想家的很利害的迫害和冷遇。然而新思潮的大势,终于使他成为今日欧洲文艺界的第一人了。最先成名的是《出名的人们,野兽的食料》等,都是对于西班牙上流社会的讽骂。尤其是前一篇,将一个贵族的穷苦的女儿作为中心人物,用几个在她周围的奸恶的利己的人物来对照,描出贵族社会的内幕来,这是以他的杰作之一出名的。


培那文德的戏剧,不消说,是社会批评。但和伊孛生,勃里欧,遏尔维这些人的问题剧,却又稍稍异趣,绝没有什么类乎宣传者的气味,是用尽量地将现实照样描写,就在其中暗示着问题,使人自行思想,自行反省的自然的方法的。虽然也说是写实剧,但在此人的作品里,却总带着西班牙式的华丽的诗趣和热情。近来又一转而作可以说是象征剧的作品,竟也成功了。


听说他的著作一总有二十卷,近日已经开手于全集的印行。剧本的篇数是八十,创作之外,在翻译上也动笔,曾将沙士比亚的《空闹》和《十二夜》等,译成西班牙文。最近十年来,名声益见其大,他的作品若干种,已经在和腊丁亚美利加诸国关系最深的美国,译成英文出版了。其中如以客观底描写最见成功的《知县之妻》和《土曜之夜》;对于莱阿那陀名画《约孔陀》的千古不可解的谜的微笑,给了一个新解释的《穆那理沙的微笑》。以及美丽的童话一般的《从书中学了一切的王子》这些杰作,现在是据了英译本,虽是不懂西班牙文的我们,也可以赏鉴了。已经英译的诸作品中,《热情之花》曾经在美国开演,都知道是收效最多的杰作。


在最近这几年,为了大战而衰微已极了的欧洲文学之中,独有不涉战场而得专心于艺术创作的西班牙文坛上,秀拔的作品颇不少。以小说家而为现在欧洲最大的作家之一的迦尔陀思,也在戏曲上动笔,而且得了成功;昆提罗斯弟兄,玛尔圭那,里筏斯这些新作家,又接连的出现,使剧坛更加热闹。在小说一方面,近来欧洲诸国读得最多的东西,也就是这国里的作家伊本纳兹的用欧战的惨剧来作材料的《默示录的四骑士》(死,战争,瘟疫和饥饿)。这作家,是写实底的,且至于称为西班牙的左拉。然而他那描写上的罗曼底的色采之还很浓厚,则只要并读他的《伽蓝之影》这类的作品,便谁也一定觉得的罢。







【四 戏曲二篇】


 


凡听讲戏曲的梗概的,比起那听讲宴会的事情的来,尤为无趣味。但我为要介绍培那文德的作风,姑且选出他的两篇名作,演一回这无趣味的技艺罢。


培那文德的杰作里面,用农民生活和乡下小市镇的上流人物的内幕来做材料的东西是很多的。我现在就将《玛耳开达》(一九一三年作)和《寡妇之夫》(一九○八年开演)这两篇,作为属于这一类作品的代表者,来简单地说一说。


《玛耳开达》是相传的血腥的杀人悲剧,几乎可以说是西班牙特有的出名的东西。一个乡下人的寡妇雷孟台,和第二回的年青的丈夫伊思邦过活,但有一个和前夫所生的女儿叫亚加西亚。雷孟台想给这女儿得一个好女婿,来昵近的男人也很多,而女儿都不理。这也无怪,因为那女儿已经暗地里和母亲的现在的丈夫伊思邦落在恋爱里了;旁人虽然都知道,独有母亲雷孟台却未曾觉察出。在第三幕上,雷孟台向着女儿,命她称自己的丈夫伊思邦为父亲。女儿给伊思邦接吻,然而总不能叫出父亲来。母亲到这里,这才明白事情的真相了。当剧烈地责备丈夫的时候,那女儿的热烈的回答,却是出于意外的事:——




雷孟台 但是你不叫他做父亲。她昏迷了吗?哦!嘴唇对嘴唇,而你紧抱她在你臂上!去,去!现在我知道为什么你不肯叫他做父亲了。现在我知道这是你的过失——我咒诅你!


亚加西亚 是的,这是我的。杀我!这是真的,这是真的!他是我所爱的唯一的男子。




女儿是十足的西班牙式的热情的女人。这热情的女人的热烈的言语,遂作为悲剧的结末,在今则已经野兽一样,没有父亲,也没有母亲,没有女儿,只有火焰似的恋爱了。伊思邦遂用枪打杀雷孟台。


题目的La Malquerda,即英语的Passion Flower(热情之花),就是西番莲。这剧本的第二幕里,有“爱那住在风车近旁的女子的人,将恋爱在恶时;因为她用了她所爱的爱情而爱,所以有人称她为热情之花”这些意思的歌。雷孟台听了这歌,就说:




“我们是住在风车近旁的人,那是他们都这样说我们的。而住于风车近旁的女子一定是亚加西亚,是我的女儿。他们称她为热情之花?就是这样,是那样吗?但是谁是不正当地爱她的?……”




爱她的是谁,雷孟台是不知道的。因为不知道,所以能达到上文所说似的这悲剧的大团圆。作者先将这歌放在第二幕作为伏线,并且也就用作这剧曲的题目了。(译者注:所引剧文,用的都就是张闻天先生的译本。)


《寡妇之夫》是纯粹的喜剧。凡有极其写实的风俗剧,是往往很受上流先生们的非难和攻击的;这也一样,而却是颇得一般社会欢迎的戏文。女的主角加罗里那,是一个国务大臣而且负过一世的重望的政治家的寡妻,但她现在已经和亡夫的同志弗罗连勖成了夫妇了。那事情,是明天就要到亡夫的铜像除幕式的日期了的前一天的事。


加罗里那正在为难,以为倘和现在的丈夫弗罗连勖相携而赴铜像除幕式,不知要受世人怎样的非议。而铜像建设委员那一面,也因为和这铜像一同,要立起“真理”“商业”“工业”这三个女神的裸体像的事,有着各种的反对,争论正纷纭。


这时,对于加罗里那没有好感的亡夫的妹子们,便趁着明天的除幕式的机会,将新出版的亡夫的评传给她看。翻开这书的第二百十四叶来,可登着故人的可惊的信札。这是叙述自己的身世,悲观将来的述怀,就寄给这书的编纂者凯萨伦喀的。信上说:——




“人生是可悲的。我自有生以来,只有过一回恋爱。只记得爱过一个女人。这就是我的妻。而且只相信一个朋友。这就是友人弗罗连勖。而这妻和这朋友,我虽然献了生命而不惜的这两个……唉,我怎样告白这事呢?虽然连我自己也难以相信,其实是那两人恋爱着。秘密地,两面都发狂似的恋爱着的。”




这政治家亡故以后,便成了夫妇的寡妇加罗里那和好友弗罗连勖这两个人,其实是当他生前,已经陷了这样的不义的恋爱的事,由了这信札,都被揭破了。弗罗连勖却主张这信是伪造的,要去作诽毁的控诉,并且还说须向凯萨伦喀去要求他决斗。

夏子 金さんに電報を打ったらどうでしょう?

母 うん、では、そうしましょう。

夏子 すぐに打ってまいります。(走り去る。)

(母親は赤子を抱くように春子を抱いて、家の中へ入ってゆく。)

春子 わたしの雲、わたしの桃色の雲!(泣く。)

【スペイン劇壇の新星 厨川白村】


【一 ロマンティシズム】

二葉亭の書いた『其面影』の英訳本を読んで、かの国のある批評家は驚いて言った、日本にも近代生活の苦悩があるのかと。英米の人々は、今なお日本を花魁(訳者注:遊女のこと)と武士道の国と思っているようだ。これとまったく同様に、われわれもスペインをヨーロッパにおける唯一の「古い」国と思っている。大戦の渦中にも巻き込まれず、世界改造の波頭にも攫われず、今なお美しいロマンティシズムの夢路を歩む別世界だと思い込んでいる。それはスペインの人々が、日本人が裸体の角力を好んで見るように、今なお残忍野蛮な闘牛戯に狂奔し、日本人が舞妓の人形めいた姿を愛でるように、色彩濃艶なるスペイン特有の舞踊を心賞し、また女性を幽閉することにおいても日本とさほど変わらぬためである。

ロマンティシズムは南欧ラテン系諸国の特有物である。中欧北欧の諸国がとうにロマンティシズムの夢から覚めた今日、なお生活においても芸術においても依然としてロマンスの夢を見ているのは、ひとりスペインのみではない。イタリアもまた然りである。近い例を挙げれば、ダヌンツィオ(D'Annunzio)のフィウメ問題における行動は、一部の頑迷な日本人をいささか感服させたものの、実のところ極めて陳腐な時代遅れの思想から出たものである。すなわち顧みるに値しない旧ロマンティシズムにほかならない。かく見来れば、ダヌンツィオの芸術もまた、『死の勝利』にせよ、『炎』にせよ、『快楽の子』にせよ、とりわけ彼の抒情詩は、すべて極めてロマンティックな作品である。実行の世界に現れた時には、フィウメ事件のごとき甚だ無聊な状況のロマンティシズムとなる。ただ永遠に新しく、華美なる永遠の生命を持つ「芸術」の衣を纏って表現された時にのみ、なお現代人の心を打つ魅力がある。ゆえにわれわれが彼の作品を敬服するのは、われわれが今なお陳旧なるユゴー(Hugo)のロマンティシズムに心動かされ、『レ・ミゼラブル』や『ノートル・ダム・ド・パリ』を読んで涙するのとまったく同じことである。旧時代の武士道に何の興味もない人々が、劇化された『忠臣蔵』の芝居を見て面白いと感ずるのも、そこに芸術的表現の永遠性、不朽性があるからにほかならない。要するに、飛行機で大騒ぎしたダヌンツィオの態度は、ミソロンギに客死したバイロン(Byron)のロマンティシズムと見なすことができよう。しかし今の私の主旨は、イタリアを論ずることにはない。


【二 スペイン劇】

いずれにせよ、スペインはカルメン(Carmen)の国である。スペイン趣味には常に過度に濃艶な色彩が伴い、中世騎士時代の面影が潜んでいる。かつてカルデロン(Calderon)以来のいわゆる「意気」と「名誉」の類の理想主義は、今日に至るまでなおこの国と絡み合っている。耐え難い「近代」の風潮にはまったく頓着せず、労働問題、宗教問題、婦人問題といったもので人心を攪乱することも極めて稀である。

しかし桃源郷のような生活は、永久に続くはずがない。外来思想を無関係なこととして退ければ、足元から、鼻先から、火を噴くことになる。現実の多くの「問題」が、容赦なく、焦眉の急で迫ってくるのだ。スペインにおいて、このロマンティシズムからリアリズムへの思想の推移は、文芸の中で民衆芸術の性質を最も多く含む演劇において、最も明瞭に現れている。とりわけ外国人の目から見たスペイン文学は、カルデロン以来、戯曲が最も重要な地位を占めていることは、動かし難い事実である。

前世紀以来スペイン最大の戯曲家であるエチェガライ(Echegaray)は、おそらく滅びゆくロマンティシズムが残した最後の閃光であろう。彼とてもイプセン(Ibsen)の問題劇の影響を明らかに受けている。しかし、イプセンの『幽霊』に最も似た、遺伝を題材とした傑作『ドン・ファンの子』でさえも、なおロマンティックな作品であり、『マリアナ』や『カレアード』に至っては、内容も外形も近代的傾向からはるかに遠い。彼は五年前にすでに世を去った。

しかしこのエチェガライの系譜を継ぐ新人物ディセンタの戯曲は、なおロマンティックではあるが、共感はすでに無産階級へと移っている。彼のもっとも有名な著作『ファン・ホセ』(一八九五年作)では、階級闘争と労資の衝突を背景として描いている。劇中の主人公ファン・ホセが、自分の恋人を奪った雇主ポコを殺す惨劇は、ありふれた恋愛悲劇に比べれば、すでにかなり趣を異にしている。だが近代劇としては、古風な歌舞的ロマンティシズムの要素をまだ多く帯びているため、社会劇や問題劇の類とは見なしがたい。


【三 ベナベンテ】

だが、現在この国で最も偉大な戯曲家として全ヨーロッパに知られているのは、ベナベンテ(Jacinto Benavente)ただ一人である。彼こそは純粋なリアリストであり、また新時代の代表者である。ロマンティシズムの破壊者としての彼の地位は、おそらくバーナード・ショー(Bernard Shaw)の英文学における位置に比すべきであろう。嫌味たらしく上品ぶり、貴人気取りで、実は無知、遊惰、軽薄なスペイン上流社会の仮面を、痛快に剥ぎ取る彼の喜劇には、一種軽妙な趣があり、辛辣かつ痛快な北欧作品とは自ずと趣を異にしている。とりわけ鋭利な解剖刀を、虚偽の多い女性の生活に向ける時、その手腕の高さはことさら人を瞠目させるものがある。

ベナベンテは著名な医師の子で、千八百六十六年八月十二日の生まれ、ゆえに今は五十五歳である(訳者注:この文は一九二一年の作)。まずマドリードの大学で法律を修めたが、味気なく感じて文筆に身を投じ、初めは抒情詩と小説を書いた。詩集にも秀れた作品があるという。千八百九十三年以後は完全に劇壇の人となった。だが劇作家として名を成す前には、自ら舞台にも立った。今でも時々自作の劇中の役を演じている。彼の処女作『他人の巣の中で』は、マドリードの喜劇劇場で初演され、千八百九十四年のことであった。しかし徹底してリアリズムの立場から時世を描く彼の近代的作風は、当初、世間の人々、とりわけ旧思想家たちから甚だしい迫害と冷遇を受けた。しかし新思潮の大勢は、ついに彼を今日のヨーロッパ文芸界の第一人者とならしめた。最初に名を成したのは『有名な人々、野獣の餌食』等で、いずれもスペイン上流社会への諷罵である。とりわけ前者は、貧しい貴族の娘を中心人物に据え、周囲の姦悪で利己的な人物を対照させて貴族社会の内幕を描き出したもので、彼の傑作の一つとして名高い。

ベナベンテの戯曲は、言うまでもなく社会批評である。だがイプセン、ブリュー、エルヴィユーといった人々の問題劇とはやや趣を異にし、宣伝者めいた気配はまったくなく、現実をありのまま描写することで暗にそこに問題を示唆し、人に自ら考えさせ、自ら反省させる自然な方法をとっている。写実劇と言われながらも、この人の作品にはスペイン式の華麗な詩趣と情熱が常に漂っている。近年はさらに転じて象徴劇とも言うべき作品を書き、これもまた成功を収めた。

彼の著作は全部で二十巻に及ぶといい、近頃すでに全集の刊行に着手している。戯曲の数は八十篇、創作のほかに翻訳にも筆を染め、シェイクスピアの『空騒ぎ』や『十二夜』等をスペイン語に訳している。近年十年来、名声はいよいよ高まり、彼のいくつかの作品は、ラテンアメリカ諸国と最も関係の深いアメリカにおいて英訳出版されている。その中には、客観的描写で最も成功した『知事の妻』や『土曜の夜』、レオナルドの名画『ラ・ジョコンダ』の千古不可解の謎の微笑に新解釈を与えた『モナ・リザの微笑』、そして美しい童話のような『書物からすべてを学んだ王子』といった傑作がある。今やこれらの英訳によって、スペイン語を解さぬわれわれでも鑑賞できるようになった。英訳された諸作品のうち、『情熱の花』はアメリカで上演され、もっとも好評を博した傑作として知られている。

ここ数年、大戦のために極度に衰微したヨーロッパ文学の中にあって、ひとり戦場に関わることなく芸術創作に専心し得たスペイン文壇には、秀抜な作品が少なくない。小説家として現在ヨーロッパ最大の作家の一人であるガルドスも、戯曲に筆を染めて成功を収め、キンテーロ兄弟、マルキーナ、リバスといった新作家が続々と現れて、劇壇をいっそう賑わせている。小説の方面でも、近年ヨーロッパ諸国で最も多く読まれているのは、この国の作家イバニェスが欧州大戦の惨劇を題材にした『黙示録の四騎士』(死、戦争、疫病、飢饉)である。この作家は写実的であり、スペインのゾラとまで称されている。しかし彼の描写におけるロマンティックな色彩がなお濃厚であることは、彼の『伽藍の影』のような作品を併せ読めば、誰もがきっと感じるであろう。


【四 戯曲二篇】

およそ戯曲の梗概を聞くのは、宴会の話を聞くのにも増して興味に乏しい。だが私はベナベンテの作風を紹介するため、あえて彼の二つの名作を選び、この興味に乏しい芸当を一度演じてみよう。

ベナベンテの傑作には、農民生活や田舎の小市鎮の上流人物の内幕を題材にしたものが多い。ここでは『マルケーダ』(一九一三年作)と『寡婦の夫』(一九〇八年初演)の二篇を、この種の作品の代表として簡単に紹介する。

『マルケーダ』は、伝統的な血なまぐさい殺人悲劇で、ほとんどスペイン特有の有名な題材と言ってよい。田舎者の寡婦レモンタは、二度目の若い夫エステバンと暮らしているが、前夫との間に生まれた娘アカシアがいる。レモンタはこの娘によい婿を得ようと思い、言い寄る男も多いが、娘はすべて相手にしない。それも無理はない、娘はすでに密かに母の現在の夫エステバンと恋に落ちていたのだ。他の人々はみな知っていたが、母レモンタだけは気づいていなかった。第三幕で、レモンタは娘に向かって、夫エステバンを父と呼べと命ずる。娘はエステバンに接吻するが、どうしても「父」と呼ぶことができない。母はここに至って初めて事の真相を悟る。激しく夫を責める時、娘の熱烈な返答は意外なものであった——

レモンタ だがお前はあの人を父と呼ばない。この子は気でも狂ったのか? ああ! 唇を合わせ、腕に抱きしめて! 出て行け、出て行け! 今わかった、なぜお前が父と呼ばなかったか。今わかった、これはお前の罪だ——呪ってやる!

アカシア そう、わたしの罪です。殺してください! ほんとうです、ほんとうです! この人こそわたしが愛するただ一人の男なのです。

娘は生粋のスペイン式の情熱的な女である。この情熱的な女の激烈な言葉が、悲劇の結末となる。今やまさに野獣のごとく、父もなく母もなく娘もなく、ただ炎のような恋愛があるのみである。エステバンは銃でレモンタを撃ち殺す。

題名の La Malquerida、すなわち英語の Passion Flower(情熱の花)とは、トケイソウのことである。この戯曲の第二幕に、「風車のそばに住む女を愛する者は、不吉な時に恋をする。なぜなら彼女は自分の愛する愛情で愛するから、人は彼女を情熱の花と呼ぶ」という意味の歌がある。レモンタはこの歌を聞いて言う——

「わたしたちは風車のそばに住む者だ、みなそう言っている。風車のそばに住む女はきっとアカシア、わたしの娘だ。みなはあの子を情熱の花と呼んでいるのか? そうなのか、そうだったのか? だが、誰があの子を不当に愛しているのだ?……」

愛しているのは誰か、レモンタは知らない。知らないがゆえに、上に述べたような悲劇の大団円に至るのである。作者はこの歌を第二幕に伏線として置き、それをそのままこの戯曲の題名にも用いたのだ。(訳者注:引用した劇文は、張聞天氏の訳本をそのまま用いた。)

『寡婦の夫』は純粋な喜劇である。およそ極めて写実的な風俗劇は、しばしば上流の紳士諸氏の非難と攻撃を受けるものだが、これも同様で、しかし一般社会にはかなりの好評を博した芝居である。女主人公カロリーナは、国務大臣にして一世の重望を負った政治家の未亡人であるが、今では亡夫の同志フロレンシオと再婚している。その事件は、翌日がちょうど亡夫の銅像除幕式の日という、その前日のことである。

カロリーナは困惑していた。現在の夫フロレンシオと連れ立って銅像の除幕式に出れば、世間からどんな非難を受けるかわからないと思って。一方、銅像建設委員のほうでも、この銅像とともに「真理」「商業」「工業」という三体の女神の裸体像を建てることについて、さまざまな反対があり、論争が紛糾していた。

この時、カロリーナに好意を持たない亡夫の妹たちが、翌日の除幕式の機に乗じて、新しく出版された亡夫の評伝を彼女に見せる。この本の二百十四頁を開くと、故人の驚くべき書簡が載っている。これは自分の身の上を述べ、将来を悲観した述懐で、この本の編纂者カイサレンカに宛てたものであった。手紙にはこう書かれている——

「人生は悲しいものだ。わたしは生まれて以来、一度しか恋をしたことがない。一人の女だけを愛した記憶がある。それがわたしの妻だ。そして一人の友だけを信じた。それが友人フロレンシオだ。しかしこの妻とこの友、わたしが命を捧げても惜しくないこの二人が……ああ、どうしてこのことを告白できようか? 自分でも信じがたいことだが、実はあの二人は恋愛していたのだ。密かに、互いに狂ったように恋愛していたのだ。」

この政治家の死後、夫婦となった寡婦カロリーナと親友フロレンシオの二人が、実は彼の存命中にすでにこのような不義の恋に陥っていたことが、この書簡によってすべて暴露されたのである。フロレンシオはこの手紙は偽造だと主張し、名誉毀損の訴えを起こすと言い、さらにカイサレンカに決闘を申し込まねばならぬとまで言う。