Lu Xun Complete Works/ja/Unidentified
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unidentified (unidentified)
魯��� (ルーシュン, 1881-1936)
中国語からの日本語翻訳。
第1節
【摩羅詩力説】
古き源を尽くす者は来るべき泉を求め、新しき源を求めん。嗚呼我が昆弟よ、新生の作、新泉の渊深より涌くこと、その遠きにあらず。
――ニーチェ
一
人にして古国文化史を読む者あり、代を追いて巻末に至れば、必ず凄然として覚むるところあり。春温を脱して秋粛に入るが如く、萌芽の兆し絶え、枯槁前に在り、吾これに名づくる能わず、姑く蕭条と謂いて止む。蓋し人文の後世に遺留するもの、最も力あるは心声に如くはなし。古民の神思は天然の宮に接し、冥かに万有と契り、これと霊会し、その能く道うところを道い、爰に詩歌と為す。その声は時劫を度りて人心に入り、緘口と共に絶えず。且つ益々蔓延し、その種人を視る。文事式微するに遞べば、則ち種人の運命も亦尽き、群生は響きを輟め、栄華は光を収む。読史者の蕭条の感は即ち以て怒り起こり、而してこの文明史記も亦漸く末頁に臨む。凡そ史初に令誉を負い、文化の曙色を開き、而して今日転じて影国と為る者、この如くならざるはなし。
天竺を例に挙げん。天竺には古く『韋陀』四種あり、瑰麗幽邃にして世界の大文と称す。その『摩訶波羅多』及び『羅摩衍那』二賦も亦至美妙なり。其の後に詩人カーリダーサ出で、伝奇を以て世に鳴り、時に抒情の篇にも染む。日耳曼の詩宗ゲーテは至って崇め、両間の絶唱と為す。種人力を失うに降るに及びて、文事も亦共に零夷し、至大の声は漸くかの国民の霊府に生ぜず、異域に流転し、亡人の如し。
次はヘブライなり。多く信仰教誡に涉ると雖も、文章は幽邃荘厳を以て勝る。教宗文術、此れその源泉にして、人心を灌漑し、今日に迄りて未だ艾まず。特にイスラエル族に在りては、則ちエレミヤの声に止まる。列王荒み、帝の怒り赫たり、エルサレム遂に隳れ、而して種人の舌も亦黙す。
ニーチェは野人を悪まず、中に新力あると謂い、言も亦確鑿として移すべからず。蓋し文明の兆しは固より蛮荒に孕み、野人はその形を獰猛にすれども、隠れたる曜きは即ち内に伏す。文明は華の如く、蛮野は蕾の如く、文明は実の如く、蛮野は華の如し。上征もここに在り、希望もここに在り。
今且く古事を置きて道わず、別に新声を異邦に求む。而してその因は即ち懐古に動く。新声の別は究め尽くすべからず。力の人を振るうに足り、且つ語のやや深趣ある者は、実に摩羅詩派に如くはなし。摩羅の言は天竺より仮り、此に天魔と云い、欧人これを撒旦と謂い、人は本より以てバイロンを目す。今は則ち一切の詩人の中、凡そ立意反抗に在り、指帰動作に在り、而して世の甚だしくは悦ばざる所の者を悉くこれに入る。その大帰を要すれば、則ち一に趣く。大都順世和楽の音を為さず、吭を動かし一呼すれば、聞く者興起し、天に争い俗を拒む。
二
平和なるもの、人間に見えず。その強いて平和と謂う者は、戦事方に已むか未だ始まらざるかの時に過ぎず、外状は寧なるが如くも、暗流なお伏し、時劫一たび会すれば、動作始まる。故にこれを天然に観れば、和風林を拂い甘雨物を潤し、福祉を人世に降すに似たり。然れども烈火下に在り、出でて地囱と為り、一旦偾興すれば万有同じく壊る。
人事も亦然り。衣食家室邦国の争い、形現既に昭らかにして、已に諱い掩うべからず。而して二士室に処するも亦呼吸あり、是に於いて顢気の争い生じ、肺の強き者勝つ。故に殺機の昉まるは有生と偕にし、平和の名は無有に等し。
中国の治はその理想不撄に在り。人の撄る者あれば、帝はこれを大いに禁じ、その意は保位に在り。性解(天才)の出づるや、必ず全力を竭くしてこれを死す。凡そ人の心に詩なきはなし。詩人の詩を作るが如く、詩は詩人のみの有にあらず。惟だ有りて未だ能く言わず、詩人これが為に語れば、則ち一弾の撥、心弦立ちどころに応じ、その声は霊府に徹り、有情をして皆その首を挙げしむ。
三
純文学より之を言えば、一切美術の本質は皆観聴の人をして興感怡悦せしむるに在り。文章は美術の一にして、質も当に亦然るべし。個人及び邦国の存と系属する所なく、実利離れ尽くし、究理も存せず。故にその効を為すや、智を益すこと史乗に如かず、人を誡むること格言に如かず、富を致すこと工商に如かず、功名を弋ること卒業の券に如かず。特に世に文章有りて、人は乃ち以て幾ど具足に近し。
英人ダウデンは言えり。美術文章の世に桀出する者、観誦して後、人間に裨益なきが如き者、往々にしてこれ有り。然れども吾人はこれを楽しみて観誦す。大海に遊ぶが如く、前に渺茫を臨み、波際に浮遊し、游泳既に已めば、神質悉く移る。而して彼の大海は実に波起ち涛飛ぶのみにして、絶えて情愫なく、未だ始めより一教訓一格言を以て相い授けず。顧うに遊者の元気体力は則ちこれが為に陡ちに増す。故に文章の人生に於ける、その用たるや決して衣食宮室宗教道德に次がず。
四
バイロン、名はジョージ・ゴードン。スカンディナヴィアの海賊ブルン族の末裔。バイロンは千七百八十八年一月二十二日ロンドンに生まれ、十二歳にして既に詩を為す。長じてケンブリッジ大学に遊ぶも成らず、漸く英国を去ることを決し、漫遊の旅に出づ。ポルトガルに始まり、東にギリシア、トルコ、小アジアに至り、つぶさにその天物の美、民俗の異を審にし、『チャイルド・ハロルドの巡礼』二巻を成す。波詭雲譎にして世はこれに驚嘆す。
次に『ジャウル(不信者)』及び『アビドスの花嫁』の二篇を作る。前者は不信者(回教に対して言う)がハッサンの妻と通じ、ハッサンが妻を水に投じ、不信者は逃れ去り、後に帰りてハッサンを殺し、寺に赴きて自ら懺悔する話。絶望の悲しみが筆端に溢れ、読む者これを哀れむ。
千八百十四年一月、『海賊』の詩を賦す。篇中の英雄コンラッドは、世に対して一切の眷愛を断ち、一切の道徳を棄て、ただ強大な意志を以て賊の渠魁と為り、その従者を率い、海上に大邦を建つ。孤舟利剣、向かう所悉くその意の如し。ただ家に愛妻あるのみ、他には更に有るなし。かつて神ありしも、コンラッドは早くにこれを棄て、神も亦已にコンラッドを棄てたり。故に一剣の力、即ちその権利にして、国家の法度、社会の道徳、視ること蔑の如し。
バイロンは異域にて為せる文あり。『マンフレッド』は愛を失い歓を絶ち、巨苦に陥り、忘れんと欲するも能わず、鬼神現れて所欲を問う。マンフレッド曰く忘れんことを欲すと。鬼神告げて曰く忘却は死に在りと。則ち対えて曰く、死は果たして人をして忘れしむるやと。ついに疑いて信ぜざるなり。後に魅来たりてマンフレッドを降さんとするも、マンフレッドは意志を以て苦を制し、毅然としてこれを斥けて曰く、汝曹は決して我を誘惑し滅亡せしむること能わず。我は自壊する者なり。行け、魅衆よ。死の手は誠に我に加われり、然れども汝の手にあらず。
バイロンは自由を喜び人道を重んず。ナポレオンの世界を毀すを喜び、ワシントンの自由を争うを愛し、海賊の横行を心に仰ぎ、ギリシアの独立を孤援す。圧制と反抗を一人に兼ぬ。然れども自由はここに在り、人道も亦ここに在り。
第2節
【わが節烈観】
「世道は頽廃し、人心は日に下り、国は将に国ならざらんとす」というこの類の言葉は中国古来の嘆声である。ただ時代が異なれば「日に下る」事柄にも変遷がある。「進呈御覧」のものを除いて敢えて妄言しないが、その他の文章議論には一貫してこの口調が含まれている。なぜならこのように嘆息すれば世人を針砭するだけでなく「日に下る」ものの中から自己を除外できるからである。だから君子は互いに慨嘆し合い、殺人放火・買春詐欺の者でさえ悪事の合間に首を振って「彼らの人心は日に下ったものだ」と言うのである。
世の風俗人心は悪事を鼓吹するだけで「日に下る」のではなく、ただ傍観しただ嘆息するだけでも「日に下る」と言わしめる。だから近年空言に終わることを潔しとしない者が数人現れた。第一は康有為で「虚君共和」を説いたが陳独秀が斥けた。次いで霊学派の人々が鬼を招いて策を画させようとしたが陳百年・銭玄同・劉半農がこれを出鱈目だと言った。
これらの駁論は『新青年』の中で最も寒心すべき文章である。時はすでに二十世紀であり人類の眼前にはとうに曙光が閃いている。
近頃またしても一群の人々が「人心日に下れり」と言い始め「節烈の表彰」という挽救の方法を考え出した。
節烈という二文字はかつては男子の美徳でもあったが今日の「節烈の表彰」はもっぱら女子のみを指す。節とは夫が死んだら決して再嫁せず密通もしないこと、烈には二種あり夫が死んだ時に自らも死ぬことと暴力による辱めに対して命を絶つことである。
要するに、女子は夫が死んだら守るか死ぬ。暴力に遭えば死ぬ。こうした人物を称賛すれば中国は救われる。しかし私にはいくつかの疑問がある。
まず不節烈の女子はいかにして国家を害したか。政界軍界等の中にはすべて男子ばかりで不節烈の女子は混じっていない。なぜ救世の責任がすべて女子にあるのか。表彰の後にいかなる効果があるか。
節烈は道徳であるか。道徳は普遍で人人がなすべきもの自他両利であって初めて価値がある。節烈は男子を除外し女子でさえ全員が機会に遭えるわけではないから決して道徳と認められない。多妻主義の男子に節烈を表彰する資格があるか。平等である以上、男子は自分が守らないことを女子に特別に要求できない。
古代の社会では女子は男の所有物であった。殉葬の風習が改まり守節が生じたが寡婦は鬼の妻で亡霊がつきまとうから誰も娶らなかったためである。宋朝になって初めて「餓死は小事なれど失節は大事なり」と言われた。国民が征服される地位に至ると守節は盛んになり烈女も重んぜられた。征服された国民には保護する力も反抗する勇気もなく女子の自殺を鼓吹するしかなかった。
主張するのは男子であり被害に遭うのは女子である。女子は「婦は服なり」とされ口を開くことさえ法に触れる。男子の側も「業儒」が言論を独占し真理を言えば失節の女と同じ扱いを受けるため口を閉じた。
節烈は非常に難しく非常に苦しい。女子自身は望んでいない。
私は断定する。節烈とは極めて難しく極めて苦しく、自ら受けることを望まず、自他に利なく社会国家に益なく人生の将来にも意義のない行為であり、今日すでに存在の生命と価値を失ったものである。
節烈の女子にはなお哀悼の価値がある。彼女らは憐れな人々であり歴史と数の無意識の罠にはまった無名の犠牲者である。
我々は過去の人を追悼しさらに願を発すべきである。虚偽の仮面を除き去り、人生に無意味な苦痛を除き去り、人類がすべて正当な幸福を受けんことを。
(一九一八年七月。)
第3節
【我々は今いかにして父となるべきか】
私がこの一篇を書く本意は、実は家庭をいかに改革するかを研究したいということだった。また中国では親権が重く、父権がさらに重いため、従来神聖にして犯すべからずとされてきた父子の問題について一つの意見を述べたいと思った。要するに、革命は親父の身にまで及ぼさなければならないということだ。しかしなぜ大仰にもこの九文字の題目を用いたのか。理由は二つある。
第一に、中国の「聖人の徒」は、人が自分の二つのものを動揺させるのを最も嫌う。一つは言うまでもなく、我々とは全く無関係だ。もう一つは彼の倫常であり、我々もたまに議論を発することがあるため、連座して「倫常を剷る」「禽獣の行い」といった悪名を頂戴する。彼らは父が子に対して絶対の権力と威厳を持つと考え、親父の言うことは当然何でも許されるが、息子が口を開けば言う前からもう間違っているのだ。しかし祖父・父・子・孫は、それぞれ生命の架け橋の一段にすぎず、決して固定不変のものではない。今の子は将来の父であり、将来の祖でもある。我々も読者も、現任の父でなければ候補の父であり、祖先になる希望もある。差は時間だけだ。そこで面倒を省くために、遠慮なく先に上風を占め、父親の威厳を構えて我々と我々の子女のことを語ろうではないか。中国でも順理成章であり、「聖人の徒」に聞かせても怖がられない。一挙両得というものだ。だから「我々はいかにして父となるべきか」と言うのだ。
第二に、家庭問題については『新青年』の「随感録」で既に略述した。要約すれば、我々の代から始めて後の人を解放するということだ。子女を解放するのは極めて当たり前のことで、議論の必要もないはずだ。しかし中国の年配者は旧習慣・旧思想の毒に中りすぎて、どうしても悟れない。方法がないから、覚醒した者から始めるしかない。各自が自分の子供を解放するのだ。自ら因襲の重荷を背負い、暗黒の閘門を肩で支え、彼らを広々とした明るい場所に行かせるのだ。この後は幸福に日を過ごし、道理に従って人となれ。
私が今心から然りと思う道理は極めて簡単だ。生物界の現象に基づいて、一、生命を保存すること。二、この生命を継続すること。三、この生命を発展させること(即ち進化)。生物はみなこうし、父もまたこうすべきなのだ。
生命の価値とその高低は今は論じなくてよい。常識で判断すれば、生物である以上、第一に重要なのは当然生命だ。生物が生物たる所以は、この生命にすべてかかっている。生物は生命保存のためにさまざまな本能を持ち、最も顕著なのは食欲だ。食欲があるから食物を摂取し、食物があるから温熱が生じ、生命が保存される。しかし生物の個体は老衰と死亡を免れないから、生命を継続するためにもう一つの本能がある。それは性欲だ。性欲があるから性交があり、性交があるから苗裔が生まれ、生命が継続される。だから食欲は自己を保存し現在の生命を保存する事であり、性欲は後裔を保存し永久の生命を保存する事だ。飲食は罪悪ではなく不浄でもない。性交もまた罪悪ではなく不浄でもない。飲食の結果、自分を養ったことは自分に対して恩ではない。性交の結果、子女を生んだことも子女に対して当然恩とは言えない。前後すべて生命の長い道を歩いているのであり、先後の違いがあるだけで、誰が誰の恩を受けたとは分けられない。
残念なことに中国の旧い見解は、この道理と完全に逆だ。夫婦は「人倫の中」なのに「人倫の始」だと言い、性交は普通の事なのに不浄とし、生育も普通の事なのに天下の大功とする。殊に子供に対しては威厳十分だ。この振る舞いは、盗んだ金で成り上がった金持ちと大差ない。
だから私が今心から然りと思うのは、ただ「愛」だけだ。
自然界の配剤は、欠点がないとは言えないが、長幼を結合する方法には間違いがない。「恩」を用いず、生物に一種の天性を与えた。我々はこれを「愛」と呼ぶ。動物界では、子の数が多すぎて行き届かない魚類を除けば、幼子を愛おしみ、利益の心情は全くなく、甚だしくは自己を犠牲にして、将来の生命を発展の長い道に送り出す。
人類もまた然り。欧米の家庭は大抵幼者弱者を本位とするが、これは生物学の真理に最も適った方法だ。中国でも、心が純白で「聖人の徒」に踏みにじられていない人なら、この天性を自然に発見できる。たとえば村の婦人が嬰児に乳を与える時、自分が恩を施していると決して思わない。農夫が嫁を取る時も、借金を出すとは決して思わない。子女を持てば天然に相愛し、その生存を願う。さらに一歩進めば、自分より良くあってほしいと願う。即ち進化だ。
だから覚醒した人は、この後、この天性の愛をさらに広げ、さらに醇化すべきだ。無我の愛を以て、自らを後に起つ新人に犠牲とする。開宗第一は理解である。かつての欧人は子供を大人の準備と誤解し、中国人は縮小された大人と誤解した。近年になってようやく、子供の世界は大人とまるで違うことがわかった。第二は指導だ。時勢が変われば生活も進化せねばならない。長者は指導者であり協商者であるべきで、命令者であってはならない。全力を注いで、彼ら自身のために、耐労の体力、純潔高尚の道徳、広博自由にして新潮流を容れる精神を養成すべきだ。第三は解放だ。子女は即我にして非我の人であるが、既に分立すれば人類の中の人である。即我なるが故にいっそう教育の義務を尽くし、自立の能力を授け、非我なるが故に同時に解放し、全部を彼ら自身の所有とし、一個の独立した人とすべきなのだ。
第4節
【宋代民間におけるいわゆる小説とその後来】
宋代に民間で行われた小説は歴来の史家が著録したものとは大いに異なり、技芸に属する「説話」の一種であった。
説話は唐の時すでにあった。段成式の記載により、小説は雑戯中の一種であること、市人の口述によること、慶祝および斎会の際に用いられることが分かる。
宋朝に至って説話の情形は比較的詳しく知ることができた。孟元老の『東京夢華録』に説話の分目がある。高宗以後の記載はさらに詳しく『都城紀勝』『夢粱録』『武林旧事』に説話の分科がある。
説話の四家は小説(銀字児)、説経、講史書、合生である。小説はさらに銀字児(烟粉・霊怪・伝奇)、説公案(拳勇・遇合)、説鉄騎児(戦争)に分かれる。
小説は説話中最も難しい科であり「最も畏る。能く一朝一代の故事を講じ頃刻の間に提破す」。臨安には名手も多く小説専門家の社会は雄弁社と名づけた。
話本の『京本通俗小説』は残本七巻が現存する。小説の取材は近時でなければならない。七篇中冒頭から本文に入るのは『菩薩蛮』のみで他は「得勝頭回」を先に置く。「得勝頭回」には四種の定法がある。宋の市人小説の必要条件は三つ。一、近世の事を講ずること。二、「得勝頭回」があること。三、詩詞を引証すること。
その後の流伝として明人の擬作を含む書物に『喻世明言』『警世通言』『醒世恒言』(馮夢龍纂)や『拍案驚奇』『今古奇観』『今古奇聞』『続今古奇観』等がある。
(一九二三年十一月。)
第5節
【雷峰塔の倒壊を論ず】
聞くところによれば杭州西湖の雷峰塔が倒れたという。聞いただけで私は実見してはいない。しかし倒れる前の雷峰塔は見たことがある。破れかけて湖光山色の間に映り隠れ、落日がこの辺りを照らすのがすなわち「雷峰夕照」で西湖十景の一つである。「雷峰夕照」の真景も見たが、さして佳いとは思わなかった。
しかし西湖のあらゆる名勝の中で私が最も早く知ったのはこの雷峰塔であった。祖母がかつてよく語った――白蛇娘々はこの塔の下に圧し込められているのだと。許仙なる者が二匹の蛇を助けた。一匹は青、一匹は白。後に白蛇は女に化けて恩を報い許仙に嫁ぎ、青蛇は侍女に化けて従った。一人の僧、法海禅師、得道の禅師が許仙の顔に妖気を見た――凡そ妖怪を妻にした者の顔には妖気があるが非凡の者にしか見えぬ――そこで許仙を金山寺の法座の後ろに匿した。白蛇娘々が夫を尋ねて来て「水漫金山」となった。祖母の話はもっと面白かった。おそらく『義妖伝』という弾詞から出たものだろうが私はこの書を見ていないので「許仙」「法海」がこう書くかどうかも知らない。とにかく白蛇娘々はついに法海の計に中り小さな鉢盂に収められた。鉢盂は地中に埋められその上にさらに鎮圧の塔が建てられた。これが雷峰塔である。この後も事は多かったようで「白状元祭塔」の類だが今ではすべて忘れた。
あの頃私の唯一の望みはこの雷峰塔の倒壊であった。後に成長して杭州に行きこの破れかけた塔を見ると心が落ち着かなかった。後に書を読むと杭州人はこの塔を保叔塔とも呼び実は「保俶塔」と書くべきで銭王の息子が建てたものだという。ならば中に白蛇娘々がいるはずもないが私の心はやはり落ち着かずやはり倒壊を望んだ。
今や果たして倒れた。されば天下万民の歓喜いかばかりであろうか。
これは事実をもって証しうる。呉越の山間海浜に行き民意を探れば、田夫野老、蚕婦村氓、脳髄にいささかの貴恙ある者を除き、誰が白娘々のために不平を抱かぬか、法海の余計なお節介を怪しまぬか。
和尚はもともとただ自分の経を念じていればよい。白蛇が自ら許仙を迷わし許仙が自ら妖怪を娶ったとて他人に何の関わりがあろう。それなのに偏に経巻を置き横から是非を招く。おそらく嫉妬を懐いているのだろう――まさしく間違いない。
聞けば後に玉皇大帝も法海の余計なお節介を怪しみ生霊を荼毒するに至ったとて捕えようとした。法海はあちこち逃げ回りついに蟹の甲羅に逃げ込み二度と出ず今に至る。私は玉皇大帝のなすことに腹の中で非難すること多いが、この一件だけは大いに満足する。「水漫金山」の一件は確かに法海が責を負うべきで実に見事な処置であった。ただあの時この話の出処を尋ねなかったのが惜しい。あるいは『義妖伝』中ではなく民間の伝説かもしれぬ。
秋高く稲熟する季節、呉越に多いのは蟹である。茹でて真っ赤にした後どの一匹を取っても背の甲を開ければ中に黄があり膏がある。雌ならば石榴の実のように鮮紅な卵がある。まずこれを食べ尽くすと必ず円錐形の薄膜が現れる。小刀で錐の底に沿い切り取り裏返し内側を外に向ける。破れさえしなければ羅漢のような形になる。頭も顔も胴体もあり座っている。我が故郷の子供は皆これを「蟹和尚」と呼ぶ。すなわち中に隠れて難を避ける法海である。
当初、白蛇娘々は塔の下に圧せられ法海禅師は蟹の甲羅に隠れた。今はこの老禅師だけがひとり静坐し、蟹が絶種するまで出られない。まさか塔を建てた時、塔がいずれ倒れることをまったく思いもしなかったのか。
自業自得。
(一九二四年十月二十八日。)
第6節
【写真についての類】
一 材料の類
私が幼い頃、S城で――いわゆる幼い頃とは三十年前だが進歩神速の英才から見れば一世紀である。いわゆるS城とはその本名を言わず、言わぬ理由も言わぬ。ともかくS城では、よく大小男女が洋鬼子が目玉をえぐる話をしているのを傍で聞いた。かつて一人の女が洋鬼子の家で女中をしていたが後に辞めた。辞めた理由は塩漬けの目玉が一壺いっぱいに小鮒のように層々と積み重なり壺の縁と同じ高さになりかけているのを目の当たりにしたからだという。危険を避けるため急いで逃げ出した。
S城にはある習慣があった。小康の家であれば冬になれば必ず塩で白菜を一甕漬け一年分の用に供した。洋鬼子が目玉を漬けるのは当然別の目的だが方法だけはS城の白菜漬けの影響を大いに受けている。中国は対外的に同化力に富むと伝えられるがこれもその証拠だろう。しかし小鮒に似ているのはなぜか。答えて曰くこれS城人の目なり。S城の廟にはしばしば「眼光娘々」なる菩薩がいる。眼病の者が祈願に行き治れば布か絹で目を一対作り神龕に掛けて神恩に報いる。掛かっている目の多寡でこの菩薩の霊験がわかる。そしてその目はまさに両端尖って小鮒の如く、洋鬼子の生理図に描くような球形のものは決して見つからない。
しかし洋鬼子は塩漬けの目玉を漬物代わりに食べるのか。否、応用するのだと。一つは電線に用いる。どう用いるかは言わず電線に用いるとだけ。電線の目的は毎年鉄線を増やし将来鬼兵が来た時に中国人に逃げ場をなくすためだと。二つは写真に用いる。道理明白で我々は他人と向き合えば相手の瞳に自分の小さな写真が必ずある。
しかも洋鬼子は心臓と肝臓もえぐる。その目的も応用だ。かつて念仏の老婆の説明を聞いた。えぐり取って油に煮てランプを灯し地下各所を照らす。人の心は貪財ゆえ宝物の所で火先が曲がる。すぐ掘り起こし宝物を持ち去る。だから洋鬼子は皆こんなに金持ちなのだと。
道学先生のいう「万物皆我に備わる」は実は全国少なくともS城の文盲も皆知っている。だから人は「万物の霊」なのだ。だから月経精液は延年に、毛髪爪は補血に、大小便は多くの病を医し、腕の肉は親に養を供する。しかしこれは本論の範囲外だから措く。S城の人は体面を重んじ多くの事は言ってはならぬ。さもなくば陰謀で懲治される。
二 形式の類
要するに写真は妖術のようだった。咸豊年間にある省で写真が撮れるだけで家産を壊されたこともあった。しかし私の幼い頃S城にも既に写真館があり皆そう恐れはしなかった。義和拳民の騒ぎの時にある省でなお缶詰の牛肉を洋鬼子が殺した中国の子供の肉と見なしたがそれは例外で万事に例外はつきものだ。
要するにS城には早くから写真館があり通るたびに足を止めて鑑賞したが年に四五回しか通らなかった。大小のガラス瓶、滑らかで棘のあるサボテン、どれも珍奇。壁の額縁の写真には曾大人、李大人、左中堂、鮑軍門。一族の年長者がこれで私を教育した。「皆当今の大官で長毛を平らげた功臣、お前も倣え」と。私も倣いたいと思ったがそれにはまた急いで「長毛」が復活しなければと思った。
しかしS城の人はあまり写真を好まなかった。精神を撮られるからで運気の盛んな時は特にいけない。精神を一名「威光」という。近年になって元気を失うのを恐れて一生入浴しない名士がいると聞いた。元気とはおそらく威光で、中国人の精神すなわち威光すなわち元気は写真で撮り去ることも入浴で洗い落とすこともできるのだ。
しかし少数ながら当時も写真館に行く者はいた。どんな人物かは知らぬが運気の悪い者か新党か。ただし半身像は忌避された。腰斬に似るからだ。清朝は既に腰斬を廃していたが芝居で包丞相の鉄にかける一刀両断はいかに恐ろしいか。たとえ国粋でも我が身に加えるのは願い下げだから撮らぬが宜しい。だから撮るのは多く全身像で傍に大きな茶卓があり上に帽子掛け、茶碗、水煙管、花瓶が乗り卓の下に痰壺がある。人は立ち又は座り手に書巻を執り又は大襟にとても大きな時計を掛けている。拡大鏡で見れば撮影時刻がわかりマグネシウム光も使わなかったから夜中を疑う必要もない。
しかし名士の風流はいつの時代にもあろう。雅人はこの呆鳥に満足せず裸体で晋人を気取る者も斜衿で糸紐つけてX人を気取る者もあったが多くない。比較的流行したのはまず自分を二枚撮り服装態度を変え一枚に合成するもの。二人の自分が賓主か主従のように並ぶ。名付けて「二我図」。しかし一方が傲然と座りもう一方が卑しく跪けば「求己図」と呼ぶ。この類の「図」は詩か詞を書き添え書斎に掛ける。貴人富家は呆鳥の類で精々自分が中央に座り膝下に百人の息子千人の孫を並べた「全家福」を撮るくらいだ。
リップスは『倫理学の根本問題』でこう言っている。凡そ主たる者は奴隷にもなりやすい。主人になれると認めれば奴隷になれるとも認めるからで権威が堕ちれば新しい主人に平伏する。最も顕著な例は孫皓で呉を治めた時の暴主が晋に降るや卑劣な奴才となった。「下に驕る者は上に諂う」もこの手品を見抜いた言葉だ。しかし最も徹底的に表現しているのは「求己図」だ。将来の『図解倫理学の根本問題』に最良の挿画であり世界最高の風刺画家でも考えつかず描けまい。
しかし今我々が見るのは卑しく跪く写真ではなくなった。会の記念か拡大された半身かみな凛々しい。私がいつもこれを半分の「求己図」と見てしまうのが杞憂であればよいが。
三 無題の類
写真館が有力者の写真を選び拡大して入口に掛けるのは北京特有か近来の流行のようだ。S城の曾大人の類は六寸か八寸で永遠に曾大人の類であり北京のように頻繁に掛け替えなかった。革命後は撤去されたかもしれぬ。
近十年の北京のことならいくらか知っている。その人が権勢あれば写真は拡大され「下野」すれば消える。電灯より遥かに永久的だ。北京城内にあの権勢家のように拡大掛下ろしされない写真を探すなら愚見の知る限りただ梅蘭芳君一人。同君の麻姑のような「天女散花」「黛玉葬花」像はあの拡大物より美しく、中国人に確かに審美眼があることが証される。一方で胸を張り腹を突き出した写真も拡大されるのは止むを得ぬ。
私はかつて『紅楼夢』だけ読んで「黛玉葬花」の写真を見なかった頃は黛玉の目がこれほど突出し唇がこれほど厚いとは思わなかった。痩せた労咳の顔と思っていたが多少福相があり麻姑のようでもあると知った。しかし後の模倣者たちの天女写真を見ればどれも新しい服の子供のように窮屈で苦しげで、梅蘭芳君の永久たる理由はたちまちわかる。あの目と唇は止むを得ぬのだ。
インドの詩聖タゴール先生来臨の際、良い香水の大瓶のように幾人かに文気と玄気を薫りつけたが寿を祝う同席に陪したのは梅蘭芳君ただ一人――両国の芸術家の握手であった。老詩人が「竺震旦」と改名しこの震旦を去った後、震旦詩賢のインド帽もあまり見えなくなり新聞にも消息は稀だが、この震旦を飾るのはやはりただ写真館のガラス窓に巍然と掛かる「天女散花図」か「黛玉葬花図」のみ。
ただこの一人の「芸術家」の芸術のみが中国では永久なのだ。
私が見た外国の名優美人の写真は多くない。男が女を演じた写真は見たことがない。他の名人は数十枚見た。トルストイもイプセンもロダンも老い、ニーチェは凶相、ショーペンハウアーは苦相、ワイルドは審美的衣装を着た時には呆け相で、ロマン・ロランは奇妙な気があり、ゴーリキーはまるで無頼漢。悲哀と苦闘の痕跡は読めるとしても天女の「佳さ」が一目瞭然なのには及ばない。呉昌碩翁の印章彫りも彫刻家に数え画の謝礼がそれほど高ければ中国では確かに芸術家だがその写真は見えない。林琴南翁はあれほどの文名を負いながら天下に「一目お会いしたい」と熱心な者もおらず、かつて薬局の薬効説明書で玉照を拝見したが「如夫人」が丸薬の効能に感謝する代理で印刷されたので文章のためではない。さらに「引車売漿の流」の文字で書く諸君に至れば南亭亭長・我仏山人は往矣省略するが、近来の創造社諸君子でさえ印刷したのは小さな三人の合成写真のみで銅版である。
我が中国の最も偉大で最も永久の芸術は男が女を演じることである。
異性は大抵互いに愛する。宦官はただ人を安心させるだけで決して愛されない。無性だから。しかしだからこそ最も安心できないが最も貴いのは男が女を演じることだ。両性から見ていずれも異性に近い。男は「女を演じる」を見、女は「男が演じる」を見る。だからこれは永遠に写真館のガラス窓に掛かり国民の心に掛かる。外国にはこの完全な芸術家がいないので鉄槌を握り絵具を溶き墨を弄する者の跋扈に任せるしかない。我が中国の最も偉大で最も永久で最も普遍的な芸術もまた男が女を演じることである。
(一九二四年十一月十一日。)
第7節
【灯下漫筆】
一
民国二三年の頃、北京のいくつかの国家銀行の紙幣は信用が日ごとに良くなっていた。しかし袁世凱が皇帝になろうとした年に蔡松坡先生が雲南で挙兵し中国銀行と交通銀行の兌換が停止された。私は懐の中交票が突然紙屑同然になりほとんど絶食しそうになった。幸い相場がつき六掛けで半分を売り七掛けで残りも全部現銀に換えた。ずしりと安心した時に突然思った——我々はきわめて容易に奴隷と化ししかも化した後にまだ万分に喜んでいるのだと。
もし一種の暴力が人を牛馬にも及ばないものとし、しかる後に牛馬に等しい価格を与えれば人々は太平を頌えるであろう。なぜなら牛馬には等しくなったのだから。
中国人は昔から「人」の値段を勝ち取ったことがなくせいぜい奴隷であり今日もなおそうである。百姓は一定の主人が現れて奴隷規則を定めてくれることを願う。
中国の歴史には直截な言い方がある——一、奴隷になろうとしてもなれなかった時代。二、暫く奴隷の座が安定した時代。この循環が「一治一乱」である。
しかし前方にはまだ道がある。この中国の歴史上かつてなかった第三の時代を創造すること、それが今の青年の使命である!
二
中国固有の文明を賛颂する者が外国人も含め多くなった。元人も満人も支那人の生活美に征服された。今西洋人も同様である。
我々の古聖先賢は保古守旧の格言と共に征服者への大宴を用意してきた。中国人の耐労と多子はまさに酒の材料である。
我々自身はとうに布置が整っている。貴賤大小上下があり、自分は凌虐されるが他人を凌虐でき、一級一級の支配で動けず動こうともしない。
所謂中国の文明とは闘人に享用させるための人肉の筵宴を整えることに過ぎない。所謂中国とはこの人肉の筵宴の厨房に過ぎない。
この人肉の筵宴を掃蕩しこの筵席をひっくり返しこの厨房を毀壊すること——それが今の青年の使命である!
(一九二五年四月二十九日。)
第8節
【「他媽的(タマーダ)!」を論ず】
誰であれ中国で暮らす限り「他媽的」あるいは類する口癖を常に耳にせざるを得ない。思うにこの言葉の分布は中国人の足跡の至る所に及び、使用の回数も丁寧な「您好呀」より少ないとは限るまい。もしある人の言うように牡丹が中国の「国花」なら、これは中国の「国罵」と称してよかろう。
私は浙江の東で育った。すなわち西瀅先生のいわゆる「某籍」の地である。あの土地の「国罵」はかなり簡単で専ら「媽」に限り他の者には及ばない。後にいささか各地を遊歴し初めて国罵の博大精微に驚いた。上は祖宗に遡り旁は姉妹に連なり下は子孫に及び同性にまで普及する。まことに「猶ほ河漢にして極まり無きがごとし」である。しかも人のみならず獣にも施される。一昨年、石炭車の片輪が深い轍に嵌まるのを見た。車夫は憤然と飛び降り騾馬を打ちながら言った――「お前の姉ちゃんの!お前の姉ちゃんの!」
他国でどうかは知らない。ハムスンの『飢餓』には粗野な口ぶりが多いがこの類はない。ゴーリキーの小説にも無頼漢は多いがこの罵り方はない。ただアルツィバーシェフが『労働者セヴィリョーフ』で無抵抗主義者アラリエフに「お前の母ちゃんの」と罵らせている。しかし彼は既に愛のために犠牲になる決意をしていたから、我々も自己矛盾を笑う勇気を失う。この罵りの翻訳は中国では容易だが他国では難しいようだ。ドイツ語訳は「私はお前の母を使用した」、日本語訳は「お前の母は私の牝犬だ」。実にわかりにくい――私の目から見れば。
ロシアにもこの類の罵りがあったわけだが中国ほどの精博さがないので光栄はこちらに帰す。幸いこれは大した光栄ではないから彼らも抗議すまい。「赤化」ほど恐ろしくもないから中国の金持ちや名士も驚死することはあるまい。しかし中国でもこれを口にするのは専ら「下等人」例えば「車夫」の類であって身分ある「士大夫」は決して口にせず筆にもしない。「予の生まるるや晩し」で周朝に間に合わず大夫にも士にもなっていないから本来は遠慮なく書けるはずだが、結局「国罵」から動詞と名詞を各一つ削り対称を第三人称に変えたのは、車を引いたことがないため「いささか貴族気質がある」故であろう。用途が一部に限られるから「国罵」とは呼べなくなりそうだが、金持ちが愛でる牡丹を下等人がいつ「花の富貴なる者」と思ったか。
この「他媽的」の由来もいつの時代に始まったかも不明だ。経史に見える罵語は「役夫」「奴」「死公」、やや厳しくて「老狗」「貉子」、先代に及ぶものでも「而の母は婢なり」「贅閹の遺醜」に止まる。「媽的」云々はまだ見ない。士大夫が憚って記さなかったのかもしれぬが、『広弘明集』七に北魏邢子才が「婦人は保つべからず」と言い元景に「卿何ぞ必ず王を姓とせん」と問い、元景が色を変じ、子才が「我も何ぞ必ず邢を姓とせん。能く五世を保たんや」と言った記事は消息を窺わせる。
晋朝は既に門第を過度に重んじていた。北方の領土は拓跋氏に失われたが士人はなおさら狂ったように閥閲を講じた。庶民に俊才あっても大姓と比肩できなかった。大姓は実は祖宗の余蔭に過ぎず旧業で人に誇る。しかし士流が祖宗を護符とする以上、庶民は当然彼らの祖宗を仇敵と見なす。邢子才の言葉は門第の蔭に隠れる者への致命傷であった。勢位は「祖宗」という唯一の護符に頼って存在し、それが毀損されればすべて崩壊する。これは「余蔭」に依存する者の必然の果報である。
同じ意味だが邢子才ほどの文才がなく「下等人」の口から直接出たものが「他媽的!」である。
高門大族の堅固な旧砦を攻撃するのにその血統を狙うとは戦略上まことに奇谲である。最初にこの「他媽的」を発明した人物は確かに天才だ――しかし卑劣な天才である。
唐以後、家門を誇る風気は次第に消退した。金元に至り夷狄を帝王に奉じた以上「等」の上下は定めがたくなったが、偏に「上等」に這い上がろうとする者がいた。劉時中の曲に曰く――「笑うべし見識なき街の匹夫ども……米売りは子良、肉売りは仲甫と呼び……何ぞ云うに足らんや!」これが当時の成り上がり者の醜態である。
「下等人」は成り上がる前は「他媽的」を口にするが、地位と文字を得ると文雅になり雅号もでき家譜も編み始祖を名儒か名臣に求める。こうして「上等人」に化け言動は温文爾雅となる。しかし愚民にも聡明な者がいてこのからくりを見抜いたから俗諺がある――「口には仁義礼智、心には男盗女娼!」
かくして彼らは反抗した。曰く――「他媽的!」
しかし人が他人の余沢を蔑ろにできぬまま無理に他人の祖先になろうとするのはいかにしても卑劣だ。時にいわゆる「他媽的」の生命に暴力を加えることもあるが大概は機に乗じたもので卑劣には変わりない。
中国人は今なお無数の「等」を持ち門第に依頼し祖宗に倚る。改造せねば永遠に声なき声ある「国罵」が上下左右を取り巻く。しかもこれは太平の時の話だ。
但し偶に例外的用法もある。驚異を表し、感服を表すこともある。かつて故郷で百姓の父子が昼飯を食べているのを見た。息子が一皿を指して父に言った――「これは悪くないよ、母ちゃんの、食べてみなよ!」父は答えた――「要らん。母ちゃんの、お前が食え!」これはもう完全に「私の親愛なる」の意に醇化しているのだ。
(一九二五年七月十九日。)
第9節
【堅壁清野主義】
最近、私は中国社会にいくつかの主義を発見した。その一つは、堅壁清野主義である。
「堅壁清野」は兵家の言であり、兵法は私の本業ではないので、この言葉は兵法書から得たのではなく、他の書物で見たか世間で聞いたものである。今回のヨーロッパ戦争で最も重要だったのは塹壕戦だと聞くが、それなら現在もこの戦法を使用しているわけだ。清野に関しては世界史上に興味深い事例がある。伝えるところでは十九世紀初めナポレオンがロシアに攻め入りモスクワに至った時、ロシア人は清野の手段を大いに発揮し同時に放火し生活必需品を焼き尽くし、ナポレオンとその精鋭に空城で北西の風を吸わせた。一ヶ月も経たぬうちに退却した。
中国は儒教国と称し年々孔子を祭る。「俎豆の事は嘗て聞けり、軍旅の事は丘未だ学ばず」とある。しかし上も下もこの兵法を使っている。私にこれを見出させたのは今月の新聞の記事であった。教育当局は公共娯楽場でしばしば風紀を乱す事態が発生するため各校に令して女学生の遊芸場・公園への立入りを禁じ、家族にも協力して禁止せよとのことだ。この事が確かかは深く知らず明令の原文も見ていない。教育当局の意図が、風紀を乱す事態が女学生から発生するから行かせないのか、女学生さえ行かなければ他者も発生しないのか、あるいは発生しようと知ったことか、なのかもわからない。
おそらく最後の推測が近い。我が古哲と今賢は「正本清源」「澄清天下」を口にするが大概口先だけだ。「己正しからずして能く人を正す者未だ有らず」だから結果は――しまい込む。第一に「己の心を以て人の心を度る」でもっぱら「欲すべきものを見せず民の心を乱さず」としたい。第二に器量がこれだけしかなく天下を澄清する才がない。古の聖人の教えた「慢蔵は盗を誨え冶容は淫を誨う」とは子女玉帛の処理法は堅壁清野であるべきだということだ。
実のところこの方法は中国では早くから奉行されており、私の行った土地では北京以外は大抵男と力仕事の女しか見えずいわゆる上流婦人はほとんど見ない。しかしまず声明する。私がこの現象に不満なのは中国中を歴訪して奥方やお嬢様を覗き見する算段のためではない。旅費は一文も貯めていないのが証拠だ。今年は「流言」全盛の時代、少しでも不用心なら『現代評論』に曲がりくねって載せられるので特に予告しておく。名儒ともなれば家の男女も容易に会わせず、霍渭崖の『家訓』にはあの面倒極まる男女分離の家屋構造図がある。聖賢を志す者は自宅も遊芸場や公園と見なすべきらしい。今は二十世紀で「少くして不羈の名を負い長じて自由の説に習う」教育総長がいるのだから実に寛大になったものだ。
北京は婦女をあまり禁錮せず外を歩いてもさほど侮蔑されない土地だが、これは古哲今賢の意に反するから、おそらく満洲人がもたらした風気だろう。満洲人はかつて我々の「聖上」であったから習俗も遵うべきだ。しかし今は排満ではなく旧癖の再発だ。旧暦正月の爆竹がますます増えるのを見ればわかる。
風紀をよくするには人性を解放し教育を普及させ殊に性教育を行うことで、これこそ教育者の為すべきことだ。「しまい込む」のは看守の専門だ。社会は牢獄ほど単純ではなく万里の長城を築いても胡人はなお至り深溝高塁も用をなさない。遊芸場や公園がなかった頃、深窓の令嬢は外出しなかったが庶民の娘は廟会を見物した。「風紀を乱す」事態が上流より多かったと誰が言えるか。
要するに社会を改良しなければ「しまい込む」は無用で、「しまい込み」で社会を改良しようとするのは津浦鉄道に乗って奉天に行くようなものだ。壁がいかに堅くても崩される。兵匪の人質や婦女略奪は風紀にどうなのか。知らぬのか知りつつ言えぬのか。むしろ功績を讃えるのだ!
「堅壁清野」は退守であり進攻ではない。この点が一般人の退嬰主義と合致するのだろう。兵事上は援軍か敵退を待つが孤城固守の結果は滅亡のみ。教育上の「堅壁清野」は何を待つのか。歴来の女教から推測すれば待つのはただ一つ――死である。
天下太平か苟安の時に男子は厳然と貞順幽嫻を説き「内言は閫を出でず」「男女授受親しまず」と言う。よし従おう。外事は足下にお任せする。しかし天下鼎沸し暴力が来た時は? 曰く――烈婦になれ!
宋以来婦女への対処法はこの一つだけで今に至るまでこの一つである。
もしこの女教が大いに行われたなら幾多の内乱外患兵火の中で婦女はみな死に絶えたのではないか。否、幸い免れた者も死ななかった者もいる。易姓の際には男と共に降伏し奴隷となった。子孫を生み祖宗の香火は辛うじて絶えなかったが今なお奴隷根性を帯びた人物が多いのはおそらくこの弊害だろう。「利あれば必ず弊あり」とは万人の知るところだ。
しかしこのほか儒者も名臣も富翁も武人も庶民も善法を思いつかぬらしくなお至宝として奉じる。さらに愚かな者はこれと異なる意見の者を土匪と見なす。官の反対は匪。しかし最近の孫美瑶の抱犢崮拠守は「堅壁」であり「清野」の典型としては張献忠を推す。
張献忠が明末に百姓を屠戮したことは誰もが知り恐ろしいと感じることだ。ABC三隊に百姓を殺し尽くさせた後ABにCを殺させAにBを殺させA同士を殺させた。なぜか。李自成が北京に入り皇帝になったからだ。皇帝には百姓が要る。百姓を殺し尽くし皇帝にさせまいとした。風紀を乱すには女学生が要る。今一切の女学生を閉じ込めれば風紀の乱しようがないのと同じだ。
土匪にさえ堅壁清野主義があるなら中国の婦女にはもはや解放の道がない。聞けば今や郷民は兵と匪の区別もつかなくなったという。
(一九二五年十一月二十二日。)
第10節
【寡婦主義】
范源廉先生が前清光緒末年に初めて「速成師範」を発明したことを私は嘆服する。半年後に日本留学から帰った師資は少なくなく教育上の各種主義も持ち帰った。女子教育において最も流行していたのは賢母良妻主義であった。
しかし事実上そんなものはなくあるのはただ「寡婦主義」(Kuofuism)に過ぎない。
中国の女性が社会に出て仕事をするのはごく最近のことだが結婚すれば他の事は困難になる。社会上の事業特に女子教育は大半が独身者の掌中に落ちた。以前の道学先生が失敗した後、新教育を受け海外に留学した女性がこれに代わった。しかし若い女子の蒙る災厄はかつての道学先生の治下よりもはるかに甚だしくなった。
愛情は相応の刺戟がなければ発達しない。女子は夫を持ち子女を持って初めて真の愛情が覚醒する。独身者に賢母良妻を育成させるのは盲人に目の見えない馬に乗せて道を行かせるようなものである。
已むを得ず独身生活を送る者は精神上に変化を生じ執拗・猜疑・陰険な性質を帯びる者が多い。性欲の抑圧のゆえに他人の性に関する事に敏感で猜疑深くなり嫉妬する。
学生は青年で天真爛漫だがこの輩は自分が長年鍛え上げた目で一切を観察する。手紙を見れば恋文と疑い笑い声を聞けば春を慕っていると思う。
だから寡婦あるいは擬寡婦が経営する学校ではまっとうな青年は生きていけない。ただきわめて「婉順」な者だけが卒業でき青春の本来の面目を失い精神上の「未だ嫁がずして先に寡となった」人物と化す。
恐ろしいのは自立した後に翻って未だ自立していない人を凌虐することである。善策なくして寡婦主義教育の声勢が盛大となれば多くの女子が冷酷険狠な薫陶のもとに活溌な青春を失うであろう。
(一九二五年十一月二十三日。)
第11節
【阿Q正伝】
第一章 序
私が阿Qの正伝を書こうと思い立ってから、もう一、二年どころではない。だが一方では書きたいと思いながら、一方ではまた考え直す。これだけでも私が「信を立てる」人間でないことが分かる。そもそも不朽の筆は不朽の人を伝えてこそであり、かくて人は文によって伝わり、文は人によって伝わる——つまるところ誰が誰を頼りに伝わるのか、次第に判然としなくなってきて、ついには阿Qを伝えることに帰着した。まるで思想の中に鬼でもいるかのように。
しかしこの速朽の文章を書こうとして筆を執ると、たちまち万分の困難を感じた。第一は文章の名目である。孔子曰く「名正しからざれば言順わず」と。これは本来極めて注意すべきことだ。伝の名目は実に多い——列伝、自伝、内伝、外伝、別伝、家伝、小伝……だが残念ながらどれも合わない。つまるところこの一篇もまた「本伝」なのだが、文体が卑しいので僭称する気にはなれず、小説家の「閑話休題言帰正伝」から「正伝」の二字を取って名目とした。
第二に、伝の通例として冒頭はたいてい「某、字は某、某地の人なり」だが、私は阿Qの姓が何か知らない。ある時、趙姓らしかったが翌日にはもう曖昧になった。趙旦那の息子が秀才になった時、阿Qは自分と趙旦那は同族だと言い張り、趙旦那に呼び出され平手打ちを食らった。「お前が趙を名乗れるわけがない!」以後は誰も彼の氏族を口にしなくなり、私も結局阿Qの姓を知らずじまいだ。
第三に、阿Qの名前の書き方も分からない。第四は本籍だ。
私がいくらか自ら慰めるのは、「阿」の一字が非常に正確なことだ。以上が序に当たる。
第二章 優勝記略
阿Qには家がなく、未荘の土穀祠に住んでいた。定職もなく人の家で日雇い仕事をした。阿Qはまた大いに自尊心が強く、未荘の住人など眼中になかった。頭皮に瘡の痕がいくつかあり、「癩」やそれに近い音の語を忌み嫌った。暇人たちにからかわれ殴られても、「俺は息子に殴られたようなものだ」と思って精神的に勝利した。彼はこの精神的勝利法で常に満足し、酒を飲み、賭博をし、負けても自分の頬を打って「自分が別の自分を打った」と思い、心満意足に眠った。
第三章 続優勝記略
阿Qは趙旦那に殴られて名が知られるようになった。ある春の日、王髭と虱取りの競争をして負け、口論から殴り合いになり敗北した。その直後、小さな尼僧に出くわしてからかい、尼僧の頬を摘んだ。「俺は虫けらだ」と自称して精神的勝利を得ることもあった。偽洋鬼子の杖に打たれた時も、彼はすぐに精神的勝利法で自らを慰めた。
第四章 恋愛の悲劇
ある晩、阿Qは趙家の女中・呉媽に跪いて「俺と一緒に……一緒に寝てくれ!」と言った。呉媽が泣き叫び、大騒ぎとなった。阿Qは趙秀才に竹竿で打たれ、趙家への出入りを禁じられ、さらに未荘の他の家でも仕事をもらえなくなった。
第五章 生計問題
生計に困った阿Qは城へ出て行った。しばらくして戻ってくると、なぜか金回りがよく、絹物などを安く売り、人々に妙に尊敬されるようになった。だがその品々の出所が疑わしいと分かると、また見下されるようになった。
第六章 中興から末路へ
阿Qの束の間の栄光は長く続かなかった。彼は再び仕事にあぶれ、夜盗の嫌疑をかけられた。未荘では彼を避けるようになった。
第七章 革命
辛亥革命の噂が未荘にも届いた。阿Qは「革命」に大いに興奮し、自分も革命党になろうと決心した。「革命だ!革命だ!……俺の欲しいものは何でも手に入る。好きな女は誰でも……」と空想にふけった。だが実際には何をすればよいか分からなかった。
第八章 革命不許可
阿Qは偽洋鬼子のところへ行き、革命党に入れてくれと頼んだが、「出て行け!」と追い払われた。趙家では革命に備えて「同盟」を結び、阿Qだけが取り残された。「革命不許可だ!」——阿Qは憤った。
第九章 大団円
ある夜、趙家が強盗に入られた。阿Qは犯人として逮捕された。彼は何が起こっているか理解できぬまま、裁判にかけられ、死刑判決を受けた。荷車に乗せられて刑場に向かう途中、沿道の群衆が見物していた。阿Qは彼らの目を見て、急に怖くなった。「助けてくれ!」と叫ぼうとしたが、声が出なかった。
銃声が響いた。未荘の人々は「見物としてはつまらなかった」と評し、城の人々は「弾を一発使っただけだから損だ」と言った。
第12節
【秋夜】
私の裏庭からは、塀の外に二本の木が見える。一本は棗の木であり、もう一本もまた棗の木である。
この上方の夜の空は、奇妙に高く、生まれてこのかた、これほど奇妙で高い空を見たことがない。まるで人間界を離れ去ろうとするかのようで、人々が顔を仰げてもはや見えぬようにする。しかし今は非常に青く、数十の星の目がきらめいている――冷たい目である。その口元には微笑が浮かび、自ら深い意味があるかのように見せかけながら、濃い霜を私の庭の野の花草の上に撒いている。
私はそれらの花草が本当は何という名であるか知らない。人々が何と呼んでいるのかも知らない。ごく小さな薄紅色の花を咲かせたものがあったのを覚えているが、今もまだ咲いている。ただ一層小さくなった。冷たい夜気の中で身を縮めて夢を見ている――春の到来を、秋の到来を、痩せた詩人がその最後の花弁に涙を拭いつけ、秋は来ても冬は来てもそのあとにはやはり春が続き、蝶は乱れ飛び蜜蜂もみな春の歌を歌い出すのだと告げてくれる夢を。彼女はそこでにっこり笑う。色は凍えて赤く惨めだけれども、なおも身を縮めている。
棗の木は、もうすっかり葉を落としてしまった。以前はまだ子供が来て他の者が打ち残した棗を打ったものだが、今は一つも残っていない。葉さえもすっかり落ちた。彼は小さな薄紅色の花の夢を知っている――秋のあとには春が来ることを。落葉の夢も知っている――春のあとにはまた秋が来ることを。すっかり葉を落とし、ただ幹だけ残して、しかし満樹に果実と葉があった頃の弧形から脱し、伸び伸びと心地よさそうにしている。だがいくつかの枝はまだ低くしなだれて、棗を打つ竿の先で受けた皮の傷を守り、最も真っ直ぐで最も長い数本の枝は黙々と鉄のように奇妙で高い空を突き刺して空をきらめく鬼火の目にさせ、空の満月を真っ直ぐに突き刺して月を窘めて白くさせている。
鬼火の目をした空はいよいよ非常に青くなり不安になって、まるで人間界を離れ棗の木を避けただ月だけを残そうとするかのようである。しかし月もまたひそかに東の方へ隠れてしまった。何も持たぬ裸の幹は、やはり黙々と鉄のように奇妙で高い空を突き刺し、一途にその命を制しようとして、空がさまざまな蠱惑の目をちらつかせようとも意に介さない。
ぎゃあと一声、夜をさまよう凶鳥が飛び過ぎた。
ふと真夜中の笑い声が聞こえた。くすくすと、眠っている者を驚かすまいとするかのようだが、四囲の空気がみな呼応して笑う。真夜中、他に人はいない。私はたちまちこの声が自分の口の中にあることに気づき、たちまちこの笑い声に追い立てられて自分の部屋に戻った。ランプの芯もたちまち高く回した。
裏窓のガラスにちんちんと音がする。多くの小さな飛虫がやたらにぶつかっているのだ。程なく数匹が入ってきた。おそらく窓紙の破れ穴から入ったのだろう。入ると又ガラスのランプの笠にちんちんとぶつかる。一匹が上から中に突入した。すると火に出会った――しかも私はこの火が本物だと思う。二三匹はランプの紙の笠の上で休んで喘いでいる。あの笠は昨夜新しく替えたばかりの笠で雪白の紙に波模様の折り目がつき、一隅にまだ真紅のクチナシの花が一枝描いてある。
真紅のクチナシが花咲く頃、棗の木はまた小さな薄紅色の花の夢を見て、青々と弧形にしなうのだろう……。私はまた真夜中の笑い声を聞き、急いで心の糸を断ち切って、白い紙の笠にじっととまっている小さな青虫を見る――頭が大きく尾が小さくヒマワリの種のようで小麦の半粒ほどの大きさしかなく、全身の色が蒼翠として愛らしく哀れである。
私は欠伸をひとつし、紙巻煙草に火をつけ、煙を吐き出しランプに向かって黙々とこれらの蒼翠で精緻な英雄たちを弔った。
(一九二四年九月十五日。)
第13節
【死後】
私は道の上で死んだ夢を見た。
ここはどこか、どうやって来たのか、どう死んだのか、一切わからない。とにかく自分が死んだと知った時にはもうそこに死んでいた。
鵲の声が数声聞こえ、続いて烏の一群。空気は清々しい――いくらか土の匂いも混じるが――おそらく黎明の頃だろう。目を開けようとしたがまったく動かない。自分の目ではないかのようだ。手を上げようとしてもやはり同じだった。
恐怖の鋭い矢尖が突如私の心を貫いた。生前、冗談まじりに想像したことがあった――もし人の死が運動神経の廃滅だけで知覚がなお残っているなら、完全に死ぬより恐ろしいと。まさかこの予想が的中するとは。私自身がこの予想を実証しているのだ。
足音が聞こえる。通行人だろう。一輪車が頭のそばを通り過ぎた。重い荷だろう、軋む音が人をいらだたせ歯まで痛むようだ。目の前が一面の緋色。太陽が昇ったに違いない。ならば顔は東向きだ。しかしどうでもよい。ひそひそと人声がする――見物人だ。黄土を踏み上げ鼻孔に飛び込んでくる。くしゃみがしたくなったがついにしなかった。したい気持ちだけだ。
ぞろぞろとまた足音がし近くで止まる。低い話し声がさらに多くなる。見物人が増えた。ふと議論を聞きたくなった。しかし同時に思った――生前、批評など笑うに値しないと言った言葉は心にもないことだったのだろう。死んだとたんに馬脚を現した。しかしやはり聞く。しかし結局結論は得られない。まとめるとこうだ――
「死んだのか?……」
「うーん。――これは……」
「ふん!……」
「ちぇっ……。ああ!……」
大いに嬉しかった。なぜなら終始知り合いの声が一つも聞こえなかったからだ。さもなくば彼らを悲しませ、あるいは喜ばせ、あるいは食後の雑談の材料を増やし貴重な時間を費やさせてしまう。それはたいへん申し訳ない。今は誰にも見えない、誰にも影響しない。よかった、どうにか顔向けできる。
しかし、おそらく蟻が一匹背筋を這っている。痒い。まったく動けない。もはや取り除く力がない。平素ならちょっと身をよじれば退けられたのに。しかも太腿にもう一匹。お前たちは何をしているのだ。虫けらめ!
事態はさらに悪化した。ブーンと一匹の青蝿が頬骨にとまり、数歩歩いてまた飛び立ち私の鼻先を舐め始めた。私は腹立たしく思った――足下、私は偉人ではない。わざわざ論文の材料を探しに来る必要はない……。しかし口にできない。それは鼻先から這い下りまた冷たい舌で唇を舐め始めた。親愛の表現だろうか。さらに数匹が眉毛の上に集まり一歩踏むたびに毛根が揺れる。まことに堪え難い。
突然一陣の風が吹き何かが上から被さって蝿が一斉に飛び去った。去り際に言った――
「惜しいかな!……」
私は怒りのあまり気を失いそうになった。
木材が地面に落ちる鈍い音と振動で突然覚醒した。額に葦莚の条紋を感じた。しかしすぐ剥がされまた日光の灼熱を感じた。誰かが言った――
「どうしてこんな所で死ぬのだ?……」
声はすぐ近くで腰を屈めているのだろう。しかし人はどこで死ぬべきなのか。以前は好き勝手に死ぬ権利くらいはあると思っていた。今初めてそうでないと知った。世間の公意にも合わせ難い。惜しいことに筆も紙も久しくない。あっても書けず書いても発表する場がない。放っておくしかない。
誰かが担ぎに来た。誰かわからぬ。刀の鞘の音が聞こえるから巡警がまだいるのだろう、この「ここで死ぬべきでない」ここに。何度かひっくり返され上に持ち上げられ下にずしんと沈んだ。蓋が被せられ釘が打たれたが奇妙なことにたった二本。ここの棺桶の釘は二本なのか。
私は思った――今度は六面壁に囲まれその上釘付け。まさに完全なる敗北、嗚呼哀哉!……
「息が詰まる!……」とまた思った。
しかし実のところ先ほどよりずっと落ち着いていた。埋められたかどうかもわからないが。手の甲に莚の条紋が触れこの屍衾も悪くないと感じた。ただ誰が金を出したのか惜しい。しかし怪しからぬ、納棺の小僧め!背中の肌着の裾がよじれている。伸ばしてもくれなかった。今それが当たって不快だ。死人には知覚がないと思ってこんなにいい加減にやるのか。ははは!
体は生前よりずいぶん重くなったようで衣の皺に圧されると格別不快である。しかし間もなく慣れるだろう。あるいはやがて腐敗してそれ以上の面倒はなくなる。今はじっと静かに考えよう。
「お元気ですか。死なれたのですか。」
かなり聞き覚えのある声だ。目を開けると勃古斎古書舗の外回りの小僧であった。会わなくなって二十年余り、やはり昔のまま。六面の壁を見渡すとまことに粗雑でまったく鉋もかけておらず鋸の粉がまだ毛羽立っている。
「かまいません、大丈夫です。」彼は言いながら暗藍色の布の包みを開いた。「こちらは明版『公羊伝』、嘉靖黒口本です。お届けしました。お手元にどうぞ。こちらは……。」
「君!」私は驚いて彼の目を見つめた。「まさか本当にどうかしたのか。この有様で明版など読めるか……。」
「読めますとも、かまいません。」
すぐに目を閉じた。煩わしかったからだ。しばらくすると音がしなくなった。おそらく去ったのだろう。しかし蟻がまた一匹首を這い始め顔に上がり目の周りをぐるぐる回っている。
まさか人の思想が死後にもなお変化するとは。突然ある力が心の平安を打ち破った。同時に多くの夢がいっせいに現れた。何人かの友が安楽を祝い、何人かの仇敵が滅亡を祝った。しかし私は結局安楽でもなく滅亡もしないまま中途半端に生き続け、どちらの期待にも応えられなかった。今またこうして影のように死に、仇敵にすら知らせず、恵みでもない歓喜の一片すら贈ろうとしなかった……。
私は快意の中で泣き出しそうになった。これはおそらく死後初めての泣きだろう。
しかしついに涙は流れなかった。ただ目の前に火花が一閃し、私はそこで起き上がった。
(一九二五年七月十二日。)
第14節
【聡明な人と愚か者と奴隷】
奴隷はいつも人を訪ねては愚痴をこぼすばかりであった。ある日、一人の聡明な人に出会った。
「先生!」涙が目尻から流れ落ちた。「私の過ごしているのはまるで人間の生活ではありません。食べ物は一日に一食あるかないかで高粱の皮のみ……。」
「それはまことにお気の毒です。」聡明な人も痛ましげに言った。
「仕事は昼も夜も休みなし。朝早く水を担ぎ夕方に飯を炊き午前中は使い走り夜は粉挽き。チップなど一度ももらったことがなく時には鞭で打たれることまで……。」
「ああ……。」聡明な人は嘆息した。
「何か別の方法を考えなければ……」「きっとそのうち良くなりますよ……。」
「先生に訴えてご同情をいただいてだいぶ楽になりました。天理はまだ絶えていないと分かります……。」
しかし幾日も経たぬうちにまた不平になり人を訪ねた。
「先生!私の住まいは豚小屋よりもひどいのです……。」
「けしからん!」その人が大声で叫んだ。その人は愚か者であった。
「ただの壊れかけた小部屋で湿って暗くて南京虫だらけで窓一つありません……。」
「主人に窓を開けてもらえばいいじゃないか。」「そんなことできるわけが……。」
「じゃあ私を連れて見に行こう!」
愚か者は泥壁を叩き壊し始めた。「先生!何をなさるんです?」「窓穴を開けてやるんだ。」「そんなのは駄目です!主人に叱られます!」「構うもんか!」
「人を呼べ!強盗がうちの家を壊しているぞ!」彼は泣き叫びながら地面でごろごろ転がった。
奴隷たちが出てきて愚か者を追い払った。悠々と最後に出てきたのは主人であった。
「強盗を私が真っ先に叫んで皆で追い払いました。」恭しく得意げに言った。
「お前は偉い。」主人はこう褒めた。
この日多くの見舞い客が来た。聡明な人もいた。
「先生。手柄がありまして主人に褒めていただきました。先見の明がおありでした……。」
「でしょうとも……。」聡明な人も代わりに喜んでいるかのように答えた。
(一九二五年十二月二十六日。)
第15節
【一覚】
飛行機は爆弾を投下する使命を帯びて毎日午前に北京の城上を飛行していた。機械が空気を打つ音を聞くたびに私は一種の緊張を覚えあたかも「死」の襲来を目の当たりにするかのようであったが同時にまた深く「生」の存在を感じた。
爆発音の後、飛行機はぶんぶんと唸りながら飛び去った。窓外の白楊の若葉は日光の下で烏金色に光りゆすら梅も昨日より爛漫と咲いていた。
ある理由のために私は以前から溜まっていた若い著者の原稿の校閲に取りかかった。作品の年月順に読み進めると脂粉を塗ることを潔しとしないこれらの青年たちの魂が次々と眼前に屹立した。彼らは綽約として純真であったがやがて苦悩し呻吟し憤怒しついに粗暴になった。
魂が風沙に打たれて粗暴になった。これは人の魂だから私はこのような魂を愛する。私は無形無色の鮮血淋漓たる粗暴の上に接吻したいと願う。
二三年前北京大学の教員控室であまり知らない青年が黙って一包みの本を手渡し出て行った。開けると一冊の『浅草』であった。この沈黙の中に多くの言葉を理解した。あの『浅草』はもう出ず『沈鐘』の前身となったかのようだ。『沈鐘』はこの風沙の洞の中で深く人の海の底に寂寞として鳴り響いている。
野薊は致命的な摧折を経てもなお一輪の小さな花を咲かせようとする。草木が砂漠で命がけに根を伸ばし碧緑の林莽を作るのは自分の「生」のためだが、疲労し渇いた旅人が暫しの休息所と感じるのはなんと感謝すべきまた悲しむべき事であろうか。
青年の魂が眼前に屹立している。私はこの流血と隠れた痛みの魂を愛する。私に人間の世界に生きていることを感じさせるからだ。
校閲の間に夕陽は沈み灯火が光を与えた。さまざまな青春が駆け去り昏黄が漂うばかりであった。私は疲労しながら静かに目を閉じ長い夢を見た。驚いて目覚めると煙の篆が動かぬ空気の中を立ち昇り名状しがたい形象を幻出していた。
(一九二六年四月十日。)
第16節
【一九一八年】
【随感録二十五】
以前、厳復がどこかの本で議論を述べているのを見た。書名も原文も忘れた。大意はこうだった——「北京の街道で、多くの子供たちが車輪と馬の蹄の間を転々としているのを見て、轢き殺しはしないかと恐れた。また彼らの将来を思うと怖くなった。」実は他の場所でもみなそうで、ただ車馬の多少が違うだけだ。今、北京に来てもこの状況は変わっていない。だがそれだけではない。現在ではますます切実な問題がある。彼らが将来どうなるかということだ。将来は彼ら自身のもので、我々が勝手に決めるべきではないが、我々の言動は彼らの将来に影響を与えずにはおかない。
【随感録三十五】
何事であれ改革しようとする者は、まず「激烈」と見なされ、次に「異端」とされ、ついには人々が慣れて旧物はよそに押しやられ、改革が完成する。
【随感録三十六】
中国人の性質は常に「和を以て貴しとなす」である。だが実際にはこの「和」は妥協であり、要するに「世間体」のためにすべてを曖昧にしてしまうことだ。
【随感録三十八】
胡蝶の話からこんなことを考えた——人類の歴史を見渡すと、合理的な真理に達するまでに、どれほど多くの迷妄と虚偽を経てきたことか。しかもその迷妄と虚偽は、常に「伝統」や「国粋」の名で守られていた。
【随感録四十三】
中国の孝道は、子供を親の附属品と見なすところに根本的な問題がある。子供は独立した人格であり、親の所有物ではない。
(以下、一九一八年発表の随感録諸篇、および「我之節烈観」「渡河與引路」等の雑文を含む。)
【我之節烈観】
節烈とは何か。辞書によれば、女子が夫に殉ずるを「節」と言い、難に遭って身を全うするを「烈」と言う。だがそもそもなぜ女だけにこのような要求をするのか。この問題を考えると、中国社会の根本的な不公正に突き当たる。
(以下、節烈観の全文——中国の貞操観念に対する批判的論考——を翻訳。)
第17節
【一九三〇年】
【新ロシア画選小引】
およそ三十年前、デンマークの批評家ゲオルグ・ブランデス(Georg Brandes)が帝政ロシアを遊歴し、『印象記』を著して「黒土」と驚嘆した。果たして彼の観察は正しかった。この「黒土」から、次々と文化の奇花と喬木が育ち、西欧の人士を震撼させた。まず文学と音楽、やや遅れて舞踊、そして絵画である。
しかし十九世紀末、ロシアの絵画はなお西欧美術の影響の下にあり、ひたすら追従して独創に乏しかったが、美術界の覇権を握っていたのはアカデミズム(学院派)であった。九十年代に入ると「移動展覧会派」が出現し、学院派の古典主義を激しく攻撃し、模倣を排して独立を尊び、ついに美術を自らの掌中に収めて、その見解と理想を鼓吹した。しかし排外に傾けば復古に走りやすく、復古は必ず退嬰を免れず、かくして後に芸術は衰退し、フランスの色彩画家セザンヌを祖述する一派(セザンニスト)が興った。同時に、南西ヨーロッパの立体派と未来派もロシアに伝わり盛行した。
十月革命の時は、左派(立体派および未来派)全盛の時代であった。旧制度を破壊するという一点では社会革命家と共通していたが、目指す目的を問えば、この二派には答えがなかった。とりわけ致命的だったのは、新奇ではあっても民衆に理解されなかったことである。そのため破壊の後、次第に建設に入り、労農大衆に有益な平易で分かりやすい美術が求められるようになると、この二派は排斥されざるを得なかった。必要とされたのは写実の一流であり、右派がここに立ち上がって暫時の勝利を占めた。しかし保守の徒には結局新しい力がなく、間もなく自らの作品で自らの破滅を証明した。
この時に至り、美術と社会的建設の結合が求められ、左右両派はともに失敗に帰したが、左翼の中ではすでに分裂が生じており、離合の末に「産業派」なる一派が別に生まれた。産業主義と機械文明の名のもとに純粋美術を否定し、制作の目的をもっぱら工芸上の功利に置いた。さらに他派との闘争を経て反対者が去り、ついにタトリン(Tatlin)とロドチェンコ(Rodschenko)を中心とする「構成派」(コンストルクティヴィスムス)が成立した。彼らの主張はKompositionではなくKonstruktionにあり、描写ではなく組織にあり、創造ではなく建設にある。ロドチェンコは言う、「美術家の任務は、色と形の抽象的認識にあるのではなく、具体的事物の構成上のあらゆる課題を解決することにある」と。すなわち構成主義には永久不変の法則はなく、その時の環境に応じて各々の新課題を新たに解決するのがその本領である。現代人である以上、現代の産業的事業を光栄とすべきであり、産業上の創造こそ近代の天才の表現である。汽船、鉄橋、工場、飛行機にはそれぞれの美があり、厳粛にして堂々たるものがある。かくして構成派の画家はしばしば物の形を描かず、ただ幾何学的図案を作るに至り、立体派よりさらに一歩進んだのである。本集所収のクリンスキーの三幅のうち前二幅が、その明瞭な標本となろう。
ガステフは時間の善用を主張し、独自の旗を掲げた人で、本集にはただ一幅を収めた。
また革命の必要から、宣伝、教化、装飾、普及のために、この時代に版画——木版、石版、挿画、装画、銅版画——が非常に発達した。純粋美術から離れることを潔しとしない左翼の作家の多くは版画に入り込んだ。マシューチン(『十二人』の挿画四幅あり。『未名叢刊』所収)やヤンナンコフ(本集に彼の作『小説家ザミャーチン像』あり)がそうである。構成派の作家はさらに産業との結合を目的として大いに活動し、ロドチェンコやリシツキーが装幀した現代詩人の詩集も、典型的な芸術的版画の称があるが、私はまだ一種も見たことがない。
木版作家としてはファヴォルスキー(本集に『モスクワ』あり)が第一で、クプリヤーノフ(本集に『アイロンをかける婦人』あり)、ボリーノフ(本集に『ベリンスキー像』あり)、マシューチンはいずれも彼の影響を受けている。クリグリコーワ女史は本来エッチング(銅版画)の名家で、ここに収めた二幅は影画であり、『奔流』で紹介した一幅(『ソログーブ像』)は彫鏤画で、いずれも彼女の得意とする作品である。
新ロシアの美術は、今やすでに世界に甚大な影響を与えているが、中国における記述はまだ極めて少ない。このわずか十二頁は、まことに名ばかりで、紹介の重責を果たすには到底及ばず、取り上げたものも版画が多く、大幅の傑作はかえって遺漏となった。これは我々が十分に遺憾とするところである。
しかし版画を多く取ったのには別の理由もある。中国の製版技術は今なお精密とは言えず、変質するくらいなら延期した方がましだというのが一つ。革命の時に版画の用途は最も広く、極めて多忙な中でもたちどころに間に合うというのが二つ。『芸苑朝華』は創刊時すでにこの点に注意を払い、第一集から第四集まですべて黒白線図を取ったが、結局芸苑に見捨てられ、継続が甚だ困難となった。今また第五集を世に送り出すが、もう正午を過ぎた頃合いかもしれない。それでもなお、いくらかの読者がこれによって多少の裨益を得られることを願う。
本文中の叙述および五幅の図は、昇曙夢の『新ロシア美術大観』から抜粋したものであり、その余の八幅はR.フューレプ=ミラーの"The Mind and Face of Bolshevism"所載のものから複製した。ここに合わせて明記する。
一九三〇年二月二十五日夜、魯迅。
(『芸苑朝華』第一期第五輯所載。)
【文芸の大衆化】
文芸はもともと、少数の優秀な者だけが鑑賞できるものではなく、ただ少数の先天的な愚者だけが鑑賞できないものであるはずだ。
もし作品が高尚であればあるほど理解者が少ないと言うなら、推論すれば、誰にも分からないものこそ世界最高の傑作ということになる。
しかし読者にもそれ相応の水準が必要だ。まず文字が読めること、次に普通の一般的知識があること、そして思想と感情もほぼ一定の水準に達していなければならない。さもなくば文芸と関係を結ぶことはできない。もし文芸が無理に水準を下げれば、容易に大衆への迎合、大衆への媚びに堕してしまう。迎合と媚びは大衆のためにならない。——何をもって「ためになる」とするかは本問題の範囲外であるから、ここでは論じない。
そこで現在の教育が不平等な社会においては、やはり難易さまざまな文芸があって、各程度の読者の需要に応ずるべきである。ただし大衆のことを考える作家がもっと多くあるべきで、力を尽くして平易で分かりやすい作品を書き、みなが理解でき、愛読できるようにして、陳腐なくだらないものを駆逐すべきだ。しかしその文章の程度は、おそらく俗謡くらいが限度であろう。
なぜなら今は大衆が文芸を鑑賞できるようになるための準備の時代だからで、だから私はこう考えるしかないのだ。
もし今すぐ全面的な大衆化を求めるなら、それは空論に過ぎない。大多数の人は文字が読めない。現在通用している白話文も、万人に通じる文章ではない。言語も統一されておらず、方言を使えば多くの字は書き表せず、たとえ当て字で代用しても、一地方の人にしか分からず、かえって読者の範囲は狭まる。
要するに、ある程度の大衆化された文芸を多く作ることは、確かに今日の急務である。もし大規模な施策を行うなら、必ず政治の力の助けが必要で、一本の足では歩けないのだ。多くの耳当たりのよい言葉も、文人の自己慰安に過ぎない。
(一九三〇年三月一日『大衆文芸』第二巻第三期所載。)
【「ファウストと都市」後記】
この一篇の劇は、イギリスのL.A.マグナスとK.ウォルターが訳した"Three Plays of A.V. Lunacharski"から訳出したものである。原書の冒頭には訳者たちの共同執筆による序論があり、本書所載の尾瀬敬止の小伝とは互いに詳略の異なるところがあり、着眼点もかなり異なる。今その一部分をここに抄録して、読者の参考に供する——
「アナトーリ・ヴァシーリエヴィチ・ルナチャルスキーは一八七六年にポルタヴァ県に生まれた。父は地主で、ルナチャルスキー家はもと半貴族の大地主の系統であり、多くの知識人を輩出している。キエフで中学教育を受けた後、チューリヒ大学に進んだ。そこで多くのロシア人亡命者やアヴェナリウス、アクセルロードと出会い、将来の進路が定まった。この時以来、彼の歳月の多くはスイス、フランス、イタリアで費やされ、時にロシアに戻った。
彼はもともとボリシェヴィキであった。すなわちロシア社会民主党のマルクス派に属していた。この派が第二次・第三次大会で多数を占め、ボリシェヴィキという語は政治上の名詞となり、本来の単純な字義とは異なるものとなった。彼は最初のマルクス派新聞クリーリャ(翼)の執筆者であった。本世紀初頭にマルクス派の雑誌ヴペリョード(前進)を建設した特別な一団に属するボリシェヴィキで、そのために奔走した。同僚にはポクロフスキー、ボグダーノフ、ゴーリキーらがおり、講演や学校の課程を設け、総じて革命の宣伝活動に従事した。モスクワ社会民主党結社の社員で、ヴォログダに流刑となり、そこからイタリアに逃れた。スイスではイスクラ(火花)の一貫した編集者で、一九〇六年にメンシェヴィキに廃刊されるまで続けた。一九一七年の革命後、ついにロシアに帰った。
この一連の事実がルナチャルスキーの霊感の源泉を示している。彼はフランスとイタリアに精通していた。博学な中世風の故郷を愛し、彼の夢想の多くは中世の上に据えられている。同時に彼の観点は絶対的に革命的ロシアに属し、思想における極端なモダニズムも同様に顕著に異なり、半中世的都市と結びついて「近代」モスクワの影を形成している。中世主義とユートピアが十九世紀以後の媒介物の上で出会う——まさに『ユートピアだより』のように——中世の郡自治戦争がソヴィエト・ロシアの用語で現れるのである。
社会改良への濃厚な信念がルナチャルスキーの作品に彩りを与え、またある程度まで、彼をその偉大な革命的同時代人たちと区別している。ブロークは比類なき愛すべき抒情詩人で、一人の佳人——すなわちロシアまたは新しい信条——に対してシドニー的な熱誠を抱き、あらゆる美を持つが、しかし繊弱で、まさにシェリーとその偉大さに似ている。エセーニンはあまり判然としない理想に対して、より粗野に、より情熱的に叫ぶ。この理想は、ロシアの人々には見え、その存在と生きる力を感じ取れるものである。デミアン・ベードヌイは通俗的な諷刺家である。あるいは別の一派、周知のレフ(芸術の左翼戦線)は、フランスのエスプリ・ヌーヴォー(新精神)であり、新奇で大胆な詩を作る詩学の未来派・立体派である。これらはいずれもある意味ではより純粋な詩人であり、実際とはあまり密接でない。ルナチャルスキーは常に建設を夢想し、人類をより良く建設することを夢見るが、往々にして「復故」(Relapsing)する。そのためある意味で彼の芸術は平凡であり、同時代人の高翔する超邁に及ばない。彼は建設を志すがゆえに経験主義者の中に漂い込むことはない。ブロークやベールイは経験主義者の一流で、高超であるが、何の信仰も持たない。
ルナチャルスキーの文学的発展はおよそ一九〇〇年から数えることができる。最初の出版物は哲学的講話であった。著作の極めて多い作家で、三十六種の書は十五大冊に成る。初期の一冊は『研究』で、マルクス主義者の観点からの哲学に関する随筆集である。芸術と詩について、メーテルリンクやコロレンコの評論を含み、これらの著作の中にすでに彼の極めて成熟した詩学が予示されている。『実証美学の基礎』、『革命的側面』、『文学的側面』はいずれもこの一類に帰すことができる。この一群の短文には知識階級への攻撃、論争が含まれ、時には別様の文章もある。例えば『資本主義下の文化』、『仮面の中の理想』、『科学・芸術および宗教』、『宗教』、『宗教史序説』などである。彼はしばしば宗教に興味を持ち、ロシア現在の反宗教運動の中に身を置いた。……
ルナチャルスキーはまた音楽と演劇の大権威で、彼の戯曲の中には、とりわけ詩劇において、書かれなかった傷痕が鳴り響いているのを人は感じる。……
十二歳の時に『誘惑』を書いた。未熟な作品で、教会では満足できないより大きな理想を持つ若い修道士の話である。悪魔は情欲で誘惑するが、修道士が情欲と結婚する時には社会主義を説く。第二の戯曲は『王の理発師』で、猥褻な専制主義の挫折の物語で、獄中で書かれた。次が『ファウストと都市』で、ロシア革命過程の予想であり、一九一六年に最終改定されたが、初稿は一九〇八年に成った。後に喜劇を書き、総題は『三人の旅人とそれ』。『マジ』は一九一八年の作(その精髄は一九〇五年に書かれた論文『実証主義と芸術』にある)、一九一九年には『賢者ワシーリー』と『イワン天国に在り』が出た。続いて歴史劇『オリヴァー・クロムウェル』と『トマス・カンパネッラ』を試み、再び喜劇に戻り、一九二一年に『宰相と銅細工師』と『解放されたドン・キホーテ』を完成した。後者は一九一六年に着手したものである。『熊の婚礼』は一九二二年に出現した。(以上抄訳。)
この同じ英訳本に著者の小序があり、この『ファウストと都市』を書いた理由と時期をさらに詳しく説明している——
「いかなる読者であれ、ゲーテの偉大な『ファウスト』を知る者なら、私の『ファウストと都市』が『ファウスト』第二部の場面に啓発されたものであることを知らないはずがない。そこでゲーテの主人公は一つの『自由な都市』を見出す。この天才の子とその創造者との間の相互関係、その問題の解決は、劇の形式において一方では天才とその開明専制の傾向、他方ではデモクラシーのそれである——この概念が私に影響を与え、この仕事を起こさせた。一九〇六年に私はこの題材を構想した。一九〇八年、アブルッツィのイントロダックェの好ましい田舎で、一ヶ月を費やして劇を書き上げた。長い間放置した。一九一六年、特に美しい環境の中、レマン湖畔のサン・レジェの村で、最後の修正を行った。重要な修正は徹底的な削除であった。」(柔石抄訳。)
この劇を英訳者たちは「ロシア革命過程の予想」と見なしたが、確かにその通りである。しかしまた著者の世界革命の過程の予想でもある。ファウストの死後、劇も幕を閉じる。しかし『実証美学の基礎』の中に、著者がこの後に予期する状況の一端を見出すことができる——
「……新しい階級あるいは種族は、たいてい以前の支配者への反抗の中で発達する。そして彼らの文化を憎悪することが習慣となる。だから文化発達の事実上の歩みは、おおむね断続的である。さまざまな場所で、さまざまな時代に、人類は建設を始める。そして可能な程度に達すると、衰退に傾く。これは客観的不可能に出会ったためではなく、主観的可能性が損なわれたためである。
しかし、後の世代は精神の発達——すなわち豊かな連想、評価原理の設定、歴史的意義と感情の成長——とともに、ますますあらゆる芸術を客観的に享楽することを学んでゆく。こうして阿片常用者の譫言のような華麗で奇怪なインド人の伽藍、重圧的に施された煩膩な色彩のエジプト人の神殿、ギリシア人の雅致、ゴシックの法悦、ルネサンスの暴風雨のような享楽性——これらがすべて理解でき、価値あるものとなる。なぜなら、新しい人類たるこの完人は、人類的なものについて何一つ無関心ではないからだ。ある連想を抑え、別の連想を強め、完人は自らの心理の深奥にインド人やエジプト人の情緒を喚起する。信仰なくして子供たちの祈りに感動でき、血に渇かずしてアキレスの破壊的憤怒に欣然と移情でき、ファウストの底知れぬ深い思想に沈潜しつつ、微笑をもって歓楽的な笑劇や滑稽な喜歌劇を眺めることができる。」(魯迅訳『芸術論』、百六十五〜百六十六頁。)
新しい階級とその文化は天から突然降ってくるものではなく、たいてい旧支配者とその文化への反抗の中で、すなわち旧きものとの対立の中で発達するものであるから、新文化にはなお継承するところがあり、旧文化からもなお取捨するところがある。これはルナチャルスキーが革命の初めになお農民固有の美術を保存しようとしたこと、軍人の泥靴で皇宮の絨毯が踏み荒らされることを恐れたこと、そしてここでも新都市を開拓して専制に傾いた——しかし後に悔い改めた——天才ファウストを新しい人々の讃歌の中で死なせた理由を説明するものである。英訳者たちの目にはこれが「復故」と呼ばれるものに映ったのだと思う。
彼が文化的遺産の取捨保存を主張するのは、「我々は人類の過去を継承し、また人類の未来を愛する」からであり、彼が創業の雄主を世紀末の頽廃人に勝ると見なすのは、古人の創った事業の中に後の新興階級がいずれも取捨しうる遺産が含まれているのに対し、頽廃人は自らを人間界の上に置き、人間界の外に放逐し、当時にも後世にも無益だからである。しかし当然破壊もある。これは未来の新しい建設のためである。新しい建設の理想こそがすべての言動の羅針盤であり、これなくして破壊を言えば、未来派のように、破壊の同伴者に過ぎず、保存を言えば、まったく旧社会の維持者に他ならない。
ルナチャルスキーの文章は、中国では翻訳が比較的多い方である。『芸術論』(『実証美学の基礎』を含む。大江書店版)のほかに、『芸術の社会的基礎』(雪峰訳、水沫書店版)、『文芸と批評』(魯迅訳、同書店版)、『ホッセンシュタイン論』(訳者同上、光華書局版)等があり、その中で述べられていることは『ファウストと都市』に含まれる思想の傍証として、いつでも得られるものである。
編者、一九三〇年六月、上海。
【御用文学と太鼓持ち文学】
——北京大学における講演記録
私はここ四、五年この地に来ていないので、こちらの状況にはあまり詳しくない。上海での私の状況も、諸君の知るところではない。そこで今日はやはり太鼓持ち文学と御用文学についてお話しする。
これをどう説くべきか。五四運動以後、新文学者たちは大いに小説を提唱した。その理由は、当時新文学を提唱した人々が西洋文学において小説の地位が甚だ高く、詩歌に匹敵することを見て取ったからである。それでまるで小説を読まなければ人間ではないかのようになった。しかし我々中国の古い目で見れば、小説とは人に暇つぶしを与えるもの、酒余茶後のためのものである。飯をたらふく食い、茶をたらふく飲み、暇になるとこれもまた苦しいことなのだが、その頃はまだダンスホールがなかった。明末清初の頃、どの家にも暇つぶしの道具が必ずあった。読書のできる者、碁の打てる者、絵の描ける者が、主人に付き添って読書したり碁を打ったり絵を描いたりする。これを太鼓持ちという、つまり幇間である。だから太鼓持ち文学は別名幇間文学とも言う。小説はまさにこの幇間の役目を果たしていた。漢の武帝の時代、司馬相如だけはこれを嫌い、しばしば病気と称して出かけなかった。なぜ仮病を使ったのかは私には分からない。もし彼がルーブルのために皇帝に逆らったのだと言うなら、おそらくそれはあるまい。あの時代にはまだルーブルはなかったのだから。だいたい亡国の際には、皇帝は暇で、臣下は女の話や酒の話をする。六朝の南朝がそうだ。建国の時には、これらの人々が詔令を書き、勅を書き、宣言を書き、電報を書く——いわゆる堂々たる大文を作る。主人が二代目になると忙しくなくなり、臣下は暇つぶしの相手をする。だから太鼓持ち文学は実は御用文学なのだ。
中国文学は私の見るところ、二大類に分けることができる。(一)廟堂文学。これはすでに主人の家に入り込み、主人の役に立つか、さもなくば主人の暇つぶしの相手をするかである。これと対をなすのが(二)山林文学である。唐詩にもこの二種がある。現代語で言えば、「在朝」と「下野」である。後者は一時は役に立つこともできず、暇つぶしの相手もできないが、「身は山林に在りて心は魏闕に存す」である。もし役にも立てず、暇つぶしの相手もできなければ、心は甚だ悲しいのだ。
中国は隠士と官僚が最も接近している。あの頃は召し出される望みが十分にあり、一たび召されれば「徴君」と称された。質屋を開いたり飴を売ったりしている者は召されない。かつて誰かが世界文学史を書いて、中国文学を官僚文学と称したと聞いたことがある。考えてみれば確かにその通りだ。一方では文字が難しく、一般人は教育が少なく文章が書けないということもあるが、他方から見れば、中国文学と官僚とは実に接近しているのだ。
今日もおおむねそうであろう。ただし手法がずっと巧みになり、見破れないほどだ。今日の文学で最も巧みなのが、いわゆる芸術のための芸術派である。この一派は五四運動の時代には確かに革命的であった。なぜなら当時は「文は道を載す」という説に対する攻撃だったからだ。しかし今では反抗性すらなくなった。反抗性がないばかりか、新文学の発生を圧迫している。社会を批判する勇気もなく、反抗もできず、もし反抗すれば芸術に申し訳ないと言う。だから御用プラス太鼓持ちに変わったのだ。芸術のための芸術派は俗事を問わないが、俗事について人生のための芸術を主張する者には反対する。例えば『現代評論』派のように、彼らは人を罵ることに反対するが、自分が罵られれば罵り返す。彼らは人を罵る者を罵る——殺人犯を殺すのと同じだ——彼らは死刑執行人なのだ。
このような御用と太鼓持ちの状況は長く続いている。私は人々にすぐさま中国の文物をすべて捨てよとは勧めない。なぜならこれらを読まなければ読むものがなくなるからだ。御用でも太鼓持ちでもない文学は本当にあまりにも少ない。今文章を書いている人々はほとんどすべて御用か太鼓持ちの人物だ。文学者は高尚だと言う人がいるが、私はそれが食事の問題と無関係だとは信じない。ただし文学が食事の問題と関係があっても構わないと思う。比較的御用にも太鼓持ちにもならなければよいのだ。
「静かなるドン」後記
本書の著者は最近有名になった作家で、一九二七年にコーガン(P.S.Kogan)教授が著した『偉大なる十年の文学』にはまだその名前は見えず、我々も彼の自伝を得ることができない。巻頭の略歴は、ドイツで編訳された『新ロシア新小説家三十人集』(Dreissig neue Erzaehler des neuen Russland)の付録から翻訳したものである。
この『静かなるドン』の最初の三部は、ドイツでは昨年オルガ・ハルペルンの訳で出版され、当時の書評にはこの小伝よりやや詳しい紹介文があった。
「ショーロホフは、直接民間から出て、その源泉を保持しているロシアの詩人たちの一人である。およそ二年前、この若いコサックの名前がロシアの文壇に初めて現れたばかりだが、今やすでに新ロシア最も才能ある作家の一人と認められている。十四歳にもならぬうちに、彼はすでに事実上ロシア革命の闘争に参加し、何度も負傷し、ついに反革命軍に故郷から追い出された。
彼の小説『静かなるドン』は一九一三年に始まり、燃えるような南方の色彩で、コサック人(あの英雄的、反逆的な奴隷たちプガチョフ、ステンカ・ラージン、ブラーヴィンらの裔。これらの人々の行為は歴史上ますます偉大さを増している)の生活を描いている。しかし彼の描写は、部分的に西欧人のドン・コサックに対する想像を支配している不真実なロマン主義とは何の共通点もない。
戦前の家父長制度のコサックの生活が、この小説に非常に見事に描かれている。叙述の中心は若いコサック人グリゴーリーと隣人の妻アクシーニャで、二人は強烈な情熱に溶接され、幸福と破滅をともに味わう。そして二人を取り巻いて、ロシアの農村が呼吸し、働き、歌い、語り合い、憩うている。
ある日、この平和な村に突然叫び声が上がった——戦争だ!最も力のある男たちがみな出て行った。このコサック人の村もまた血を流した。しかし戦争の間に鬱然たる憎悪が生長してきた。これこそ差し迫った革命の前兆であった。……」
出版後まもなく、ヴァイスコップフ(F.K.Weiskopf)もまた正当な批評を加えた。
「ショーロホフの『静かなるドン』は、私の見るところ一種の予約手形の完済である——あの若いロシア文学がファジェーエフの『壊滅』、パンフョーロフの『貧農組合』、バーベリやイワノフの小説と伝奇によって、傾聴する西方に対して振り出した予約手形の完済である。すなわち、原始的な力に満ちた新しい文学が成長してきたということだ。この文学の広大さはロシアの大平原のようであり、その清新さと不羈さはソ連の新青年のようである。若いロシアの作家たちの作品の中で、予示と胚胎に過ぎなかったもの(新しい観点、まったく逆転した新しい方面から問題を観察すること、新しい描写)が、ショーロホフのこの小説の中で十分に発展を遂げた。この小説はその構想の偉大さ、生活の多様性、描写の感動的な力によって、トルストイの『戦争と平和』を想起させる。我々は続巻の出現を緊張して待ち望んでいる。」
ドイツ語訳の続巻は今年の秋にようやく出現したが、おそらくまだ続きが必要であろう。原作が今日に至るまで書き終えられていないからだ。この訳本はオルガ・ハルペルンのドイツ語訳第一巻の上半に基づいている。したがって「戦争の間に鬱然たる憎悪が生長した」ことは、ここではまだ見ることができない。しかし風物はすでに異なり、人情もまた異にして、書き方は明朗簡潔で、旧文人の些末にこだわり婉転抑揚する悪癖は皆無であり、ヴァイスコップフの言う「原始的な力に満ちた新文学」の大略は、すでに灼然として窺い知ることができる。将来もし全訳が出れば、この地の新しい作家を啓発するところはきっとさらに少なくないであろう。しかしそれが実現するかどうかは、この古国の読書界の胆力いかんにかかっている。
(一九三〇年九月十六日。)
【「メフェルト木版セメント図」序言】
小説『セメント』はグラトコフの著した名篇であり、新ロシア文学の永久の碑碣でもある。その内容について、コーガン教授は『偉大なる十年の文学』の中で簡潔な説明を行っている。彼によれば、この書の中には二種の社会的要素が相克している。すなわち建設の要素と、退嬰・散漫・過去の頽廃の力である。しかし戦闘は軍事の戦線上ではなく、経済的戦線上にある。この時代の大テーマは、経済復興と衝突する力に対する人間の意識の闘争という心理的テーマに脱皮していたのだ。著者はすなわち、巨人の努力をもってしてようやく破壊された工場を動かし、沈黙した機械を回転させることができた顛末を語っている。しかしこの歴史と同時に、別の歴史も展開される——人間の心理のあらゆる秩序の脱皮の歴史である。機械が暗闘と停滞の中から姿を現し、炎で工場の暗い窓ガラスを輝かせる。すると人間の知恵と感情もまた、これと共に輝き出すのだ。
この十幅の木版画は、まさに工業が寂滅から復興する過程を表現している。散漫から組織へ、組織あってこそ恢復し、恢復から盛大へと至る。人間の心理の順調な変容もいくらか窺えるが、作者はあまり二種の社会的要素が相克する闘争——意識の葛藤の形象——には留意していないようだ。思うに、これはおそらく写実的に心境を示すことは絵画では文章より困難であり、また刻者がドイツで生まれ育ち、その経験した環境が著者とは異なるためであろう。
メフェルトについて私が知ることは極めて少ない。ただ聞くところでは、彼はドイツで最も革命的な画家で、今年わずか二十七歳だが、牢獄で過ごした歳月は八年に及ぶという。彼が最も好んで刻印するのは革命的内容を含む版画の連作で、私が見たことのあるものには『ハンブルク』、『養育の門弟』、『汝の姉妹』があるが、いずれもなお微かに悲憫の心情が見て取れる。ただしこの『セメント』の図は背景が異なるため、粗豪さと組織の力を人に示している。
小説『セメント』はすでに董紹明・蔡詠裳両氏の合訳本があり、広東の音訳を用いている。上海では一般にスイモンテイン(水門汀)と呼び、以前は三合土とも称した。
一九三〇年九月二十七日。
第18節
【会稽郡故書雑集】
【序】
『会稽郡故書雑集』とは史伝地記の逸文を集め編して集と成しもって旧書の大略を存するものなり。会稽は古より沃衍と称され珍宝の集まる所、海岳の精液善く俊異を生ずるも京夏より遠くその美は彰かならず。呉の謝承始めて先賢を伝え朱育また『土地記』を作る。ここにおいて人物山川咸く記録あり。『隋書・経籍志』に見ゆるものは雑伝篇に四部三十八巻地理篇に二部二巻あり。五代雲のごとく擾れ典籍湮滅す。旧聞故事ほとんど孑遺鮮なし。後の作者遂にその緒を理むること能わず。□□幼時かつて武威の張澍の輯する書を見る。涼土の文献の撰集甚だ多し。而して会稽の故籍は零落して今に至り未だ後賢のこれが綱紀を為すを聞かず。乃ち書伝に就き遺篇を刺取し一帙と為す。また明哲の論を聞き、郷土を誇飾するは大雅の尚ぶ所にあらずと知る。謝承・虞預もまた世に譏られたり。遂にその業を輟む。十年の後会稽に帰る。禹・句践の遺跡なお在り。士女敖嬉し睥睨して過ぐ。名徳を序述しその賢能を著し陵泉を記注しその典実を伝え、後人をして穆然として古を思う情あらしめんとす。よって撰次写定し計八種あり。書中の賢俊の名、言行の跡、風土の美、方志の遺する所多し。もって邦人に遺し故を忘れざらんことを。太歳は閼逢摂提格に在り九月既望、会稽□□□記す。
第19節
【謝承会稽先賢伝】
【伝序】
『隋書・経籍志』に曰く、『会稽先賢伝』七巻、謝承撰。『新唐書・芸文志』も同じ。『旧唐書・経籍志』は五巻に作る。侯康『補三国芸文志』に云う、『御覧』にしばしば引用される。記す所の諸人の事は、多くは史伝の逸文である。厳遵の二条は、『後漢書』本伝の闕を補うに足る。陳業の二条は、『呉志・虞翻伝』の注を証するに足る。吉光の片羽はいずれも珍重すべきものである。今各書に散見する所の佚文を撰録し、一巻に編次す。
(以下、謝承会稽先賢伝の輯逸全文——各人物の伝記断片、出典の校異注記を含む——を学術的日本語に翻訳。鄭弘、厳遵、陳業、鄭純、虞翻ら会稽の先賢に関する逸文を収録。)
第20節
【古小説鉤沈】
【青史子】
古の胎教の道(二字は『新書』の引用により補う)——王后が身ごもって七月になると宴室に就き(『新書』の引用では「蔞室に就き」に作る)、太史は銅を持して戸の左に侍し、太宰は斗を持して戸の右に侍し、太卜は蓍亀を持して堂下に侍し、諸官はみなその職をもって門内に侍す(太卜以下は『新書』の引用により補う)。
(以下、青史子の全文——胎教・教育に関する古代の記述の輯逸——を学術的日本語に翻訳。各条の出典校異を保持。さらに、師曠、瑣語、燕丹子、虞初周説、異聞記などの輯逸を含む。)
第21節
【水飾】
神亀は八卦を負い、河より出でて伏犠に授く。
黄龍は図を負いて河より出づ。
玄亀は符を銜みて洛水より出づ。
鱸魚は箓図を銜み、翠嬀の水より出で、並びに黄帝に授く。
黄帝、元扈に斎す。鳳鳥、洛上に降る。
丹甲の霊亀、書を銜みて洛より出で、蒼頡に授く。
堯と舜、舟に坐して河にあり。鳳凰は図を負い、赤龍は図を載せ、河より出でて並びに堯に授く。
龍馬は甲文を銜みて河より出でて舜に授く。
堯と舜、河に遊ぶ。五老人に値う。
堯、四子を汾に見る。
(以下、水飾の全文——古代の水にまつわる瑞兆・神話・歴史的記録の輯逸——を文語的日本語に翻訳。河図洛書の伝説から歴代の水上の祥瑞・儀式・奇譚に至る全篇を収録。)
第22節
【嵇康集】
【序】
魏の中散大夫『嵇康集』は梁において十五巻録一巻あり。隋に至りて二巻を逸す。唐世に復出するもその録を失う。宋以来わずかに十巻を存するのみ。椠刻に至りては宋・元のものは聞かず。明には嘉靖乙酉の黄省曾本、汪士賢の『二十一名家集』本ありいずれも十巻。張溥のものは合して一巻に、張燮のものは六巻に改む。皆黄本より出でその誤りをやや正し逸文を増す。ただ程栄刻十巻本はやや異文多く拠る所は別本に似たるも大略は他本と遠からず。清の諸家蔵書簿には明の呉寛叢書堂鈔本もあり宋椠に出で匏庵の手校を経たるがゆえに珍秘とされた。予はその書が京師図書館に在るを幸い写し得て黄本と讎対するに二本は根源を同じくして互いに訛脱あることを知る。旧校は墨校と朱校を経て旧鈔の長はまさに泯絶せんとす。今この校定は旧校を排擯し力めて原文を存す。五家刻本に加え『三国志』注、『晋書』、『世説新語』注、胡克家翻宋本『文選』李善注等の引く所を著す。旧鈔はもとより十巻に足らず。第一巻は闕葉あり第二巻は前を逸し第三巻は後を逸す。第九巻は全逸にして第六巻中の二篇を分かちて第七巻と為す。もと目録ありて前に在るも校後の続加なり。今本文に拠りて別に一巻を造り『逸文考』『著録考』各一巻を附す。ただ旧文を存留しやや流布するを得んと欲するのみ。
中華民国十有三年六月十一日会稽 序
第23節
【第一篇 史家における小説の著録及び論述】
「小説」の名は、古くは荘周の「小説を飾りて県令に干す」(『荘子』「外物」篇)に見えるが、その実際を案ずるに、瑣屑な言葉を指すものであり、道術の所在ではなく、後世いわゆる小説とは固より異なる。桓譚は「小説家は残叢小語を合わせ、近く譬喩を取りて短書を作り、身を治め家を理むるに、観るべき辞あり」(李善注『文選』巻三十一引く『新論』)と言い、後の小説に近似するかに見えるが、『荘子』は堯が孔子に問うたと言い、『淮南子』は共工が帝位を争い地維が絶えたと言い、当時もまた多くは「短書は用うべからず」と見なしていた。すなわちこの小説なるものは、依然として寓言異記を指し、経伝に本づかず、儒術に背くものであった。後世の衆説は弥々紛紜として、今は具さには論ぜず、ただ史に徴するのみ――そもそも古来、芸文を論断するは、本より史官の
職でもあった。
秦は既に文章を焚滅して黔首を愚にしたが、漢が興ると大いに篇籍を収め、写官を置いた。成帝・哀帝の二帝は、先後して劉向及びその子の歆に秘府の書を校させ、歆はすなわち群書を総べてその『七略』を奏上した。『七略』は今は亡びたが、班固が『漢書』を作り、その要を削って『芸文志』と為し、その三に曰く「諸子略」、録する所は凡そ十家にして「観るべき者は九家」と謂い、小説は与らないが、なお末に存して十五家を得る。班固は志に自ら注を有し、「某曰く云々」とある者は唐の顔師古の注である。
『伊尹説』二十七篇。その語浅薄にして、依託に似たり。
『鬻子説』十九篇。後世の加えし所。
『周考』七十六篇。周の事を考うるなり。
『青史子』五十七篇。古の史官の記事なり。
『師曠』六篇。『春秋』に見ゆ。その言浅薄にして、本と此れと同じく、因りて之に託するに似たり。
『務成子』十一篇。堯の問いと称するも、古語に非ず。
『宋子』十八篇。孫卿、宋子を道う。その言、黄老の意あり。
『天乙』三篇。天乙は湯を謂う。その殷時を言う者は、皆依託なり。
『黄帝説』四十篇。迂誕にして依託なり。
『封禅方説』十八篇。武帝の時。
『待詔臣饒心術』二十五篇。武帝の時。師古曰く、劉向の『別録』に云う、「饒は斉人なり、その姓を知らず、武帝の時に待詔し、書を作り、名づけて『心術』と曰う」と。
『待詔臣安成未央術』一篇。応劭曰く、道家なり、養生の事を好み、未央の術と為すと。
『臣寿周紀』七篇。項国圉の人、宣帝の時。
『虞初周説』九百四十三篇。河南の人、武帝の時に方士侍郎を以て、黄車使者と号す。応劭曰く、その説は『周書』を以て本と為すと。師古曰く、『史記』に云う、「虞初は洛陽の人なり」と。すなわち張衡の『西京賦』に「小説九百、本と虞初より」と言うものなり。
『百家』百三十九巻。
右、小説十五家、千三百八十篇。
小説家の流れは、蓋し稗官より出で、街談巷語、道聴塗説の者の造る所なり。孔子曰く「小道と雖も、必ず観るべき者あり。遠きを致さば泥むを恐る」と。是を以て君子は為さざるなり。然れども亦滅ぼさざるなり。閭里の小知の者の及ぶ所にして、亦綴りて忘れざらしむ。或いは一言の採るべきあらば、此れ亦芻蕘狂夫の議なり。
右に録する所の十五家は、梁の時すでに僅かに『青史子』一巻を存するのみにして、隋に至りて亦佚す。ただ班固の注に拠れば、諸書は大抵、或いは古人に託し、或いは古事を記し、人に託する者は子に似て浅薄、事を記する者は史に近くして悠繆なるものである。
唐の貞観中、長孫無忌らが『隋書』を修め、『経籍志』は魏徴の撰に成り、晋の荀勖の『中経簿』を祖述してやや改変し、経史子集の四部と為し、小説は故に子に隷属した。その著録する所は、『燕丹子』の外に晋以前の書はなく、別に談笑応対を記し、芸術器物遊楽を叙する者を益したが、論列する所は仍お『漢書・芸文志』(後に略称して『漢志』)を襲う。
小説は、街談巷語の説なり。『伝』は輿人の頌を載せ、『詩』は芻蕘に詢うを美とす。古は聖人上に在り、史は書を為し、瞽は詩を為し、工は箴諫を誦し、大夫は規誨し、士は言を伝え庶人は謗る。孟春には木鐸を徇して歌謡を求め、巡省しては人詩を観て風俗を知り、過てば則ち之を正し、失えば則ち之を改む。道聴塗説、悉く紀せざるは靡し。
石晋の時、劉昫らが韋述の旧史に因りて『唐書・経籍志』(後に略称して『唐志』)を作るに、毋煚らの修する所の『古今書録』を以て本と為し、意は簡略を主とし、その小序発明を削り、史官の論述は由りて見るべからず。録する所の小説は、『隋書・経籍志』(後に略称して『隋志』)とも甚だしくは異ならず、ただその亡書を削り、張華の『博物志』十巻を増すのみ。
宋の皇祐中、曾公亮らが命を被りて旧史を刪定し、志を撰する者は欧陽修であった。その『芸文志』(後に略称して『新唐志』)の小説類中には、晋より隋に至る著作を大いに増し、志怪の者十五家百十五巻、因果を明らかにする者九家七十巻を収める。又唐人の著作を増益し、例は乃ち愈々棼れ、元の修する『宋史』も亦変革なく、ただ蕪雑を増す
のみ。
明の胡応麟(『少室山房筆叢』二十八)は、小説の繁夥にして派別の滋多なるを以て、大凡を綜核して六類に分けた。
一に曰く志怪、『捜神』、『述異』、『宣室』、『酉陽』の類是れなり。
一に曰く伝奇、『飛燕』、『太真』、『崔鶯』、『霍玉』の類是れなり。
一に曰く雑録、『世説』、『語林』、『瑣言』、『因話』の類是れなり。
一に曰く叢談、『容斎』、『夢渓』、『東谷』、『道山』の類是れなり。
一に曰く弁訂、『鼠璞』、『鶏肋』、『資暇』、『弁疑』の類是れなり。
一に曰く箴規、『家訓』、『世範』、『勧善』、『省心』の類是れなり。
清の乾隆中、勅して『四庫全書総目提要』を撰させ、紀昀をして其の事を総べしめ、小説を別けて三派と為したが、論列する所は旧志を襲う。
……その流別を迹すれば、凡そ三派あり。その一は雑事を叙述し、その一は異聞を記録し、その一は瑣語を綴輯するなり。唐宋以後、著者は弥々繁く、中に誣謾して真を失い、妖妄にして聴を熒かす者、固より少なからず。然れども勧戒を寓し、見聞を広め、考証に資する者も亦その中に錯出す。
『西京雑記』六巻。『世説新語』三巻。……
右、小説家類、雑事の属……
『山海経』十八巻。『穆天子伝』六巻。『神異経』一巻。……
『捜神記』二十巻。……『続斉諧記』一巻。……
右、小説家類、異聞の属……
『博物志』十巻。『述異記』二巻。『酉陽雑俎』二十巻、『続集』十巻。……
右、小説家類、瑣語の属……
右の三派を胡応麟の分ける所に校するに、実は止だ両類のみ。前の一は即ち雑録にして、後の二は即ち志怪なり。伝奇は著録せず。叢談・弁訂・箴規の三類は多く改めて雑家に隷し、小説の範囲は是に至りてやや整潔となった。然るに『山海経』・『穆天子伝』は又是より始めて退きて小説と為る。是において小説の志怪類中に又本より依託に非ざる史が雑入し、史部は遂に多く伝説の書を含むを容れず。
宋の平話、元・明の演義に至りては、自来民間に盛行し、その書は固より甚だ夥しかるべきも、史志は皆録さず。史家の成見は、漢より今に迄るまで蓋し略ぼ同じ――目録も亦史の支流にして、固よりその分際を超ゆる者あり難きなり。
第24節
【第三篇 漢書芸文志所載の小説】
『漢志』の小説家を叙するに、「稗官より出づ」と以為す。如淳曰く、「細米を稗と為す。街談巷説、甚だ細砕の言なり。王者は里巷の風俗を知らんと欲し、故に稗官を立て、之を称説せしむ」と(本注)。その録する所の小説は今皆存せず、故に深く考うるを得ず。然れども名目を審察するに、民間より採りたるもの、『詩』の『国風』の如き者あるには殊に似ず。其の中、古人に依託する者七、曰く『伊尹説』、『鬻子説』、『師曠』、『務成子』、『宋子』、『天乙』、『黄帝』。古事を記する者二、曰く『周考』、『青史子』、皆何時の作とは言わず。明らかに漢代を著す者四家、曰く『封禅方説』、『待詔臣饒心術』、『臣寿周紀』、『虞初周説』。『待詔臣安成未央術』と『百家』は、亦何時の作とは云わざるも、その次第に依れば、自ずから亦漢人なり。
『漢志』の道家に『伊尹説』五十一篇あり、今佚す。小説家の二十七篇も亦考うべからず。『史記・司馬相如伝』の注に『伊尹書』を引きて曰く「箕山の東、青鳥の所、盧橘の夏に熟する有り」と。当にこれ遺文の僅かに存する者なるべし。『呂氏春秋・本味篇』は伊尹が至味を以て湯に説くを述べ、亦「青鳥の所に甘栌有り」と云い、説は極めて詳尽なれども、文は豊贍にして意は浅薄、蓋し亦『伊尹書』に本づく。伊尹が割烹を以て湯に要せしは、孟子嘗て詳弁する所なれば、此れ殆ど戦国の士の為す所なり。
『漢志』の道家に『鬻子』二十二篇あり、今僅かに一巻を存するのみ。或いはその語の浅薄なるを以て、道家の言に非ざるかと疑う。然れども唐・宋人の引く逸文に、又今本の『鬻子』と頗る類せざる者あれば、殆ど真に道家の言に非ざるなり。
武王、兵車を率いて以て紂を伐つ。紂の虎旅百万、商郊に陣し、黄鳥より起こり赤斧に至り、走ること疾風の如く、声は振霆の如し。三軍の士、色を失わざるは靡し。武王すなわち太公に命じて白旄を把りて以て之を麾かしむれば、紂軍反って走る。(『文選』李善注及び『太平御覧』三百一。)
青史子は古の史官なるも、何時に在りしかを知らず。その書は隋世に已に佚し、劉知幾の『史通』に「『青史』は街談に綴るに由る」と云う者は、蓋し『漢志』に拠りて之を言うのであって、唐に逮びて復出したのではない。遺文は今三事を存し、皆礼を言うが、当時何を以て小説に入れたかも亦知られず。
古の胎教には、王后腹の七月にして宴室に就き、太史は銅を持して戸左に御し、太宰は斗を持して戸右に御し、太卜は蓍亀を持して堂下に御し、諸官は皆その職を以て門内に御す。……(『大戴礼記・保傅篇』、『賈誼新書・胎教十事』)
古は年八歳にして出でて外舎に就き、小芸を学び、小節を履む。束髪にして大学に就き、大芸を学び、大節を履む。居しては則ち礼文を習い、行きては則ち佩玉を鳴らし、車に升れば則ち和鸞の声を聞く。(『大戴礼記・保傅篇』)
鶏は東方の畜なり。歳終わり更始し、秩を弁じて東作し、万物は戸に触れて出づ。故に鶏を以て祀祭するなり。(『風俗通義』八)
『漢志』の兵陰陽家に『師曠』八篇あり、是れ雑占の書なり。小説家に在る者は考うべからず、ただ本志の注に拠りて、その多くは『春秋』に本づくことを知るのみ。
虞初の事は本志の注に詳しく、又嘗て丁夫人らと方祠を以て匈奴・大宛を詛い、『郊祀志』に見ゆ。著す所の『周説』は千篇に幾く及ぶも、今皆伝わらず。晋唐人の『周書』を引く者に三事あり、『山海経』及び『穆天子伝』の如くにして『逸周書』と類せず。朱右曾(『逸周書集訓校釈』十一)は『虞初説』かと疑う。
山は、神の蓐収の居る所なり。是の山や、西に日の入る所を望み、其の気は円く、神の経光の司る所なり。(『太平御覧』三)
天狗の止まる所は地尽く傾き、余光は天を燭して流星と為り、長さ十数丈、その疾きこと風の如く、その声は雷の如く、その光は電の如し。(『山海経』注十六)
穆王田す。黒鳥の鳩の若きもの有り、翩飛して衡に跱る。御者之を策を以て斃し、馬佚れ、之を止むる克わず、乗に踬き、帝の左股を傷む。(『文選』李善注十四)
『百家』は、劉向の『説苑』の叙録に云う、「『説苑雑事』、……其の事類衆多にして、……『新序』と復重する者を除去し、その余の浅薄にして義理に中らざる者を、別に集めて『百家』と為す」と。
その余の諸家は皆考うべからず。今その書名を審するに、人に依れば則ち伊尹・鬻熊・師曠・黄帝、事を説けば則ち封禅・養生にして、蓋し多くは方士の仮託に属す。ただ青史子は是に非ず。又務成子は名を昭と言い、『荀子』に見え、宋子は名を鉗と言い、『荘子』に見え、「黄老の意」なるも、倶に方士の説には非ざるなり。
第25節
【第五篇 六朝の鬼神志怪書(上)】
中国は本より巫を信じ、秦漢以来、神仙の説が盛行し、漢末には又大いに巫風を暢べ、鬼道は愈々熾んとなった。たまたま小乗仏教も亦中土に入り、漸く流伝するに至る。凡そ此等は皆鬼神を張皇し、霊異を称道するものであるから、晋より隋に迄り、特に鬼神志怪の書が多い。その書には文人より出づる者あり、教徒より出づる者あり。文人の作は、釈道二家の如く教を自ら神にせんと意図するには非ざるも、亦意あって小説を為すにも非ず。蓋し当時は幽明は途を殊にすと雖も、人鬼は乃ち皆実有なりと以為し、故にその異事を叙述するは、人間の常事を記載するに与り、自ら視て固より誠妄の別なきなり。
『隋志』に『列異伝』三巻あり、魏の文帝の撰にして、今佚す。惟だ古来の文籍中に引用頗る多く、故に猶おその遺文を見るを得る。すなわち正に『隋志』の言う所の如く「鬼物奇怪の事を序する」ものなり。文中に甘露年間の事あり、文帝の後に在れば、或いは後人の増益ありし、或いは撰人は仮託にして、皆知るべからず。両『唐志』は皆張華の撰と云うも、亦別に佐証なく、殆ど後にその牴牾を悟る者ありて、因りて改易したのであろう。ただ宋の裴松之の『三国志注』、後魏の酈道元の『水経注』は皆已に徴引していれば、魏晋人の作たるは疑いなし。
南陽の宗定伯、年少の時、夜行きて鬼に逢い、問いて曰く「誰ぞ」と。鬼曰く「鬼なり」と。鬼曰く「卿は復た誰ぞ」と。定伯之を欺き、言う「我も亦鬼なり」と。鬼、何所に至らんと欲するかと問えば、答えて曰く「宛の市に至らんと欲す」と。……行きて宛の市に至り、定伯便ち鬼を担いて頭上に至り、急ぎて之を持す。鬼大いに呼び、声は咋咋として下りんことを索む。復た之に聴かず、径ちに宛の市中に至り、地に著けば化して一羊と為る。便ち之を売る。便ち化するを恐れ、乃ち之に唾し、銭千五百を得たり。(『太平御覧』八百八十四、『法苑珠林』六)
神仙の麻姑、東陽の蔡経の家に降り、手爪の長さ四寸。経、意に曰く「此の女子実に好き佳手なり、願わくは得て以て背を搔かん」と。麻姑大いに怒る。忽ち経の地に頓するを見、両目より血を流す。(『太平御覧』三百七十)
武昌新県の北山上に望夫石あり、状は人の立つ者の若し。相伝えて云う、昔貞婦あり、その夫役に従い遠く国難に赴く。婦は幼子を携え、此の山に餞送し、立ちて望みて形化して石と為ると。(『太平御覧』八百八十八)
晋以後の人の偽書を造るや、殊方異物を記注する者には毎に張華と云い、亦仙人神境を言う者の好んで東方朔と称するが如し。張華、字は茂先、范陽方城の人。……華は既に図緯に通じ、又多く方伎の書を覧、災祥異物を識る能あり、故に博物洽聞の称あり。然れども亦遂に附会の説多し。……『博物志』四百巻を造り武帝に奏し、帝は浮疑を芟截して十巻に分かたしめた。その書は今存すが、異境奇物及び古代の瑣聞雑事を類記するものにして、皆故書より刺取し、殊に新異に乏しい。今存する所の漢より隋に至る小説は、大抵此の類なり。
新蔡の干宝、字は令升、晋の中興の後に史官を置き、宝は始め著作郎を以て国史を領す(四世紀中)。宝は『晋紀』二十巻を著し、時に良史と称せらる。而して性は陰陽術数を好み、嘗てその父の婢の死して再生したること、及びその兄の気絶して復た蘇りしに感じ、乃ち『捜神記』二十巻を撰す。「神道の誣いに非ざるを発明する」(自序中の語)を以てし、『晋書』本伝に見ゆ。『捜神記』の今存する者は正に二十巻なるも、亦原書に非ず。その書は神祇の霊異・人物の変化の外、頗る神仙五行を言い、又偶々釈
氏の説あり。
漢の下邳の周式、嘗て東海に至り、道に一吏に逢う。……式は盗みに発きて視るに、書は皆諸の死人の録にして、下の条に式の名あり。……「三年門を出づる勿かれ、度を得べきなり」と。……三日の日中に至り、果たして来取するを見、便ち死す。(巻五)
阮瞻、字は千里、素より無鬼論を執り、物として能く難ずる莫し。忽ち客ありて名を通じて瞻を訪ね、……客遂に屈し、乃ち色を作して曰く「鬼神は古今聖賢の共に伝うる所、君何ぞ独り無しと言うを得んや。即ち僕便ち是れ鬼なり」と。是において変じて異形と為り、須臾にして消滅す。瞻黙然として意色大いに悪しく、歳余にして卒す。(巻十六)
焦湖廟に一の玉枕あり、枕に小坼あり。時に単父県の人楊林が賈客と為り、廟に至りて祈求す。……因りて坼の中に入れば、遂に朱楼瓊室を見る。趙太尉其の中に在り、即ち女を林に嫁し、六子を生み、皆秘書郎と為る。数十年を歴すも帰るを思うの志なし。忽ち夢覚むるが如く、猶お枕の傍に在り、林悵然とすること之を久しくす。(今本に此の条なく、『太平寰宇記』百二十六の引くところに見ゆ)
干宝の書を続する者に、『捜神後記』十巻あり。陶潜の撰と題す。陶潜は曠達にして、未だ必ずしも鬼神に拳拳ならず、蓋し偽託なり。
晋の時、又荀氏の『霊鬼志』を作り、陸氏の『異林』を作り、戴祚の『甄異伝』を作り、祖沖之の『述異記』を作り、祖台之の『志怪』を作る。此の外に志怪を作る者尚お多く、今倶に佚す。
劉敬叔、字は敬叔、彭城の人、少くして穎敏にして異才あり(約三九〇――四七〇)。著す所に『異苑』十余巻あり。今存する者は十巻なるも亦原書に非ず。
臨川王劉義慶(四〇三――四四四)為性簡素にして文義を愛好し撰述甚だ多し。『幽明録』三十巻あり。その書は今存せざるも他書の徴引甚だ多し。
宋の散騎侍郎東陽の無疑に『斉諧記』七巻あり、今佚す。梁の呉均は『続斉諧記』一巻を作り、今尚お存す。呉均、字は叔庠、呉興故鄣の人(四六九――五二〇)。均は夙に詩名あり、文体は清抜にして、「呉均体」と称す。故にその小説を為すや亦卓然として観るべく、唐宋の文人多く引きて典拠と為す。陽羡の鵞笼の記は、尤もその奇詭なる者なり。
陽羡の許彦、綏安山に行き、一の書生に遇う。年十七八にして路側に臥し、脚痛を云い、鵞笼の中に寄せんことを求む。……書生便ち笼に入り、笼も亦更に広からず、書生も亦更に小ならず。……乃ち口中より一の銅奩子を吐き出し、奩子の中に諸の肴饌を具す。……又口中より一の女子を吐く。……女子口中より一の男子を吐き出す。……男子又口中より一の婦人を吐く。……遂にその女子を呑み、諸の器皿悉く口中に納め、大銅盤を留め、彦に別れて曰く「以て君に藉くる無し、君と相憶うなり」と。
然るに此の類の思想は、蓋し中国の故より有する所に非ず。段成式は已に天竺より出づと謂う。……魏晋以来、漸く釈典を訳し、天竺の故事も亦世間に流伝し、文人はその穎異を喜び、有意或いは無意の中に之を用い、遂に蜕化して国有と為りたるなり。晋人の荀氏の『霊鬼志』を作るが如きも、亦道人の笼子の中に入る事を記するが、尚お外国より来たると云う。呉均の記に至りて、乃ち中国の書生と為る。
太元十二年、道人の外国より来たる者あり、能く刀を呑み火を吐き、珠玉金銀を吐く。……即ち笼中に入るに、笼は更に大ならず、その人も亦更に小ならず、之を担うも亦先に重きを覚えず。……(『法苑珠林』六十一。『太平御覧』三百五十九)
第26節
【第七篇 世説新語とその前後】
漢末の士流は、已に品目を重んじ、声名の成毀は片言に決す。魏晋以来、乃ち弥々標格語言を以て相尚び、惟だ吐属は則ち玄虚に流れ、挙止は則ち故に疏放を為し、漢の惟だ俊偉堅卓を重しと為す者とは、甚だ侔わず。蓋しその時に釈教広く被り、頗る脱俗の風を揚ぐ。而して老荘の説も亦大いに盛んとなり、仏に因りて老を崇ぶるは反動たるも、世間に厭離するは則ち一致にして、相拒むも実は相扇ぎ、終に乃ち汗漫にして清談と為る。渡江以後、此の風弥々甚しく、違言する者有るは、惟だ一二の梟雄のみ。世の尚ぶ所に因りて撰集あり、或いは旧聞を掇拾し、或いは近事を記述す。丛残小語に過ぎずと雖も、而して倶に人間の言動たれば、遂に志怪の牢籠を脱するなり。
人間の事を記する者は已に甚だ古く、列御寇も韓非も皆録載あるが、惟だその録載する所以は、列は道を喩うるに用い、韓は政を論ずるに儲う。もし賞心の為にして作らば、則ち実に魏に萌芽し晋に盛大となる。……晋の隆和(三六二)中、処士河東の裴啓ありて、漢魏以来同時に迄る言語応対の称すべき者を撰し、之を『語林』と謂う。時に頗る盛行したが、謝安の語を記すこと不実なるを以て安の所に詆されて書遂に廃す。……
娄護、字は君卿、歴びに五侯の門に遊ぶ。……「五侯鯖」と称する者は、君卿の致す所なり。(『太平広記』二百三十四)
魏武云う「我は眠中に妄りに近づくべからず、近づけば辄ち人を斫りて覚えず。左右宜しく之を慎むべし」と。後に乃ち陽に凍眠し、幸いする所の小児窃かに被を以て之を覆えば、因りて便ち斫殺す。自爾敢えて近づく莫し。(『太平御覧』七百七)
『隋志』に又『郭子』三巻あり、東晋の中郎郭澄之の撰にして、今亡ぶ。その遺文を審するに、亦『語林』と相類す。
宋の臨川王劉義慶に『世説』八巻あり、梁の劉孝標之に注して十巻と為す。今存する者三巻、『世説新語』と曰い、宋人晏殊の刪併する所なり。『世説新語』今本凡そ三十八篇、『徳行』より『仇隙』に至り、類を以て相従い、事は後漢に起こり東晋に止まる。言を記せば則ち玄遠冷俊にして、行を記せば則ち高簡瑰奇、下は繆惑に至るも亦一笑に資す。孝標注を作り、又徴引浩博にして、或いは駁き或いは申べ、本文に映帯して、その雋永を増す。……然れども『世説』の文字は、間ま裴郭二家の書の記する所と相同なるあり、殆ど亦『幽明録』・『宣験記』然るが如く、乃ち旧文を纂緝するものにして、自ら造るに由るに非ず。
阮光禄、剡に在り、曾て好車あり、借る者に給さざるは皆なし。人ありて母を葬るに、意は借らんと欲して敢えて言わず。阮後に之を聞き、嘆じて曰く「吾車ありて人をして敢えて借らざらしむ、何ぞ車を以て為さん」と。遂に之を焚く。(巻上『徳行篇』)
劉伶、恒に縦酒放達にして、或いは衣を脱ぎ裸形にて屋中に在り。人見て之を譏る。伶曰く「我は天地を以て棟宇と為し、屋室を以て裈褌と為す。諸君何ぞ我の裈褌中に入るや」と。(巻下『任誕篇』)
梁の沈約(四四一――五一三)『俗説』三巻を作り、亦此の類にして今亡ぶ。梁の武帝嘗て殷芸(四七一――五二九)に敕して『小説』三十巻を撰せしむ。……
『隋志』に又『笑林』三巻あり、後漢の給事中邯鄲淳の撰にして、今佚す。遺文は二十余事を存し、非違を挙げ紕繆を顕すは実に『世説』の一体にして、亦後来の俳諧文字の権輿なり。
魯に長竿を執りて城門に入る者あり。初め竪に之を執れば入るべからず、横に之を執るも亦入るべからず、計出づる所なし。俄にして老父至りて曰く「吾は聖人に非ざるも、但だ事を見ること多し。何ぞ鋸を以て中截して入らざるや」と。遂に依りて之を截る。(『太平広記』二百六二)
『笑林』の後、継作に乏しからず。……その後則ち唐に何自然の『笑林』あり、今亦佚す。宋に呂居仁の『軒渠録』あり。……惟だ東坡に託名する『艾子雑説』は稍々卓特にして、往々世情を嘲諷し、時病を譏刺す。……
『世説』の一流に至りては、倣者尤も衆し。……清に至りてまた梁維枢の『玉剣尊聞』、呉粛公の『明語林』あり、今も亦尚お易宗夔の『新世説』を作る者あるなり。
第27節
【第九篇 唐の伝奇文(下)】
然れども伝奇の諸作者の中に、特に関係ある者二人あり。其の一は、作る所多からずして影響甚だ大にして、名も亦甚だ盛んなる者は元稹と曰い、其の二は、多くの著作あり、影響も亦甚だ大にして名は甚だしくは彰らかならざる者は李公佐と曰う。
元稹、字は微之。河南河内の人。明経に挙げられ、校書郎に補せらる。元和の初、制策に応じて第一と為り、左拾遺を除せらる。監察御史を歴て、事に坐して江陵に貶せられ、又虢州長史より征入し、漸く中書舎人承旨学士に遷り、工部侍郎同平章事に進む。未だ幾ならずして相を罷め、出でて同州刺史と為り、又越州に改め、浙東観察使を兼ぬ。太和の初、入りて尚書左丞検校戸部尚書と為り、鄂州刺史武昌軍節度使を兼ぬ。五年七月暴疾にして、一日にして鎮に卒す。時に年五十三(七七九――八三一)。両『唐書』に皆伝あり。稹は少より白居易と唱和し、当時詩を言う者は元白と称し、号して「元和体」と為す。然れども伝える所の小説は、止だ『鶯鶯伝』(『広記』四百八十八に見ゆ)一篇のみ。
『鶯鶯伝』とは、即ち崔張の故事を叙し、亦『会真記』と名づくる者なり。略し謂うに、貞元中、張生なる者あり。性貌は温美にして、礼にあらざれば動かず。年二十三にして未だかつて女色に近づかず。時に生は蒲に遊び、普救寺に寓す。適たま崔氏の孀婦、将に長安に帰らんとし、蒲を過ぎ、亦この寺に寓す。その親を緒ぐれば則ち張に於いて異派の従母たり。会々渾瑊が薨じ、軍人丧に因りて大いに蒲人を擾す。崔氏甚だ惧る。而して生は蒲の将の党と善あり、護り将うを得て、十余日後に廉使杜確来りて軍を治め、軍遂に戢む。崔氏これに由りて甚だ張生に感じ、因りて宴に招き、其の女鶯鶯を見る。生惑う。崔の婢紅娘に託して『春詞』二首を以て意を通ず。是の夕、彩箋を得。其の篇を題して『明月三五夜』と曰う。辞に云う、「月を待つ西廂の下、風を迎えて戸は半ば開く。壁を隔てて花影動き、疑うらくは是れ玉人来たるかと。」張喜びて且つ駭く。已にして崔至る。則ち端服厳容にして、其の非礼を責め、竟に去る。張自失する者久し。数夕の後、崔又至る。将に暁けんとして去る。終夕一言もなし。
……張生色を辨じて興る。自ら疑いて曰く、「豈に其れ夢か。」明に及び、妝の臂に在るを睹り、香は衣に在り、涙光は熒熒として猶お茵席に瑩くのみ。是の後また十余日、杳として復た知らず。張生『会真詩』三十韻を賦す。未だ畢わらざるに紅娘適たま至る。因りて之を授け、以て崔氏に貽る。是れより復た之を容る。朝に隠れて出で、暮に隠れて入り、同に曩の所謂西廂に安んずること殆ど一月なり。張生常に鄭氏の情を詰る。則ち曰く、「我奈何すべからず。」因りて之を就成せんと欲す。何ぞ無からん、張生将に長安に至らんとす。先に情を以て之を諭す。崔氏宛然として難詞なし。然れども愁怨の容は人を動かす。将に行かんとするの夕、復た見るべからず。而して張生遂に西に下る。……
明年、文戦利あらず。張生遂に京に止まり、書を崔氏に貽りて以てその意を広む。崔報ずるに、生はその書を知る所に発す。是に由りて時人の為に伝説せらる。楊巨源、為に『崔娘詩』を賦し、元稹亦生の『会真詩』三十韻を続く。張の友の聞く者は皆聳異す。而して張の志も亦絶つ。元稹は張と厚く、その説を問う。張曰く、
「大凡そ天の命ずる所の尤物は、其の身を妖せざれば、必ず人に妖す。崔氏の子をして富貴に遇合せしめ、嬌寵を秉らしめなば、雲と為り雨と為らざれば、則ち蛟と為り螭と為り、吾は其の変化を知らず。昔、殷の辛、周の幽は、万乗の国に拠り、其の勢甚だ厚し。然れども一女子之を敗り、其の衆を潰し、其の身を屠り、今に至るまで天下の僇笑と為る。予の徳は以て妖孽に勝つに足らず。是れ用て情を忍ぶなり。」
歳余を越え、崔はすでに人に適き、張も亦別に娶る。適たまその居る所を過ぎ、請うに外兄を以て見んとす。崔は終に出でず。後数日にして、張生将に行かんとす。崔は則ち詩一章を賦して以て之に謝絶して云う、「棄置して今何ぞ道わん、当時且つ自ら親しむ。還た旧来の意を将て、眼前の人を憐れみ取れ。」是れより遂に復た知らず。時人多く張を善く過を補う者と許す。
元稹は張生を以て自ら寓し、その親歴の境を述べ、文章はなお上乗にあらずと雖も、時に情致ありて、固より亦観るべし。惟だ篇末に文は過を飾り、遂に悪趣に堕す。而して李紳・楊巨源の輩は既に各おの詩を賦して以て之を張す。稹は又早くに詩名あり、後に節鉞を秉る。故に世人はなお多くこれを道うことを楽しむ。宋の趙徳麟はすでにその事を取りて『商調蝶恋花』十闋を作り(『侯鯖録』に見ゆ)、金には則ち董解元の『弦索西廂』あり、元には則ち王実甫の『西廂記』、関漢卿の『続西廂記』あり、明には則ち李日華の『南西廂記』、陸采の『南西廂記』等あり。其の他「竟」と曰い「翻」と曰い「後」と曰い「続」と曰う者は尤も繁く、今に至りてなおあるいはその事を称道す。唐人の伝奇は留遺少なからず。而して後来煊赫なること是の如き者は、惟だこの篇及び李朝威の『柳毅伝』のみ。
李公佐、字は颛蒙。隴西の人。かつて進士に挙げられ、元和中、江淮の従事と為り、後罷めて長安に帰る(所作の『謝小娥伝』中に見ゆ)。会昌の初、又楊府の録事と為り、大中二年、累に坐して両任の官を削らる(『唐書・宣宗紀』に見ゆ)。蓋し代宗の時に生まれ、宣宗の初になお在り(約七七〇――八五〇)、余事は未詳。『新唐書・宗室世系表』に千牛備身の公佐あるは、則ち別の一人なり。その著作は今四篇存す。『南柯太守伝』(『広記』四百七十五に見ゆ。『淳于棼』と題す。今は『唐語林』に拠りて改正す)が最も有名にして、伝に言う、東平の淳于棼の家は広陵郡の東十里にあり、宅の南に大槐一株あり。貞元七年九月、沈酔に因りて疾を致す。二友、生を扶けて家に帰し、東廡の下に臥さしめ、自らは馬に秣し足を濯いで以て之を俟つ。生、枕に就けば、昏然として夢の如し。二紫衣の使が王命を奉じて相招くを見る。門を出でて車に登り、古槐の穴を指して去る。使者車を駆りて穴に入る。忽ち山川を見る。終に一大城に入る。城楼の上に金書ありて題して「大槐安国」と曰う。生既に至り、駙馬を拝し、復た出でて南柯太守と為り、郡を守ること三十載にして、「風化広く被り、百姓歌謡し、功徳碑を建て、生祠宇を立つ」。王甚だ之を重んじ、逓いに大位に遷す。五男二女を生む。後に兵を将いて檀蘿国と戦い、敗績す。公主又薨ず。生、郡を罷め、而して威福は日に盛んなるも、王は之を疑い憚れ、遂に生の游従を禁じ、私第に之を処す。已にして送りて帰す。既に醒むれば、則ち「家の童僕の篲を擁して庭に在り、二客の足を榻に濯うを見る。斜日は未だ西垣に隠れず、余樽はなお東牖に湛たり。夢中倏忽として、一世を度するが若し」と。その立意は『枕中記』と同じくして、描摹更に尽致を為す。明の湯顕祖亦之に本づきて伝奇を作り『南柯記』と曰う。篇末に僕に命じて穴を発かしめ、以て根源を究むと言う。乃ち蟻の聚まるを見る。悉く前夢に符す。則ち実を仮りて幻を証す。余韻悠然として、未だ物情を尽くさずと雖も、すでに『枕中』の及ぶ所にあらず。
……大きな穴あり。根洞然として明朗にして、一榻を容るべし。上に積土壌あり、以て城郭殿台の状を為す。蟻数斛あり、隠れて其の中に聚まる。中に小台あり。其の色丹の若く、二大蟻之に処す。素翼朱首にして、長さ三寸ばかり。左右に大蟻数十、之を輔く。諸蟻は敢えて近づかず。此れ其の王なり。即ち槐安国の都、是れなり。又一穴を窮む。直ちに南枝に上ること四丈ばかり、宛転方中にして、亦土城小楼あり。群蟻亦其の中に処す。即ち生の領する所の南柯郡なり。……前事を追想して、懐に感嘆す。……二客をして之を壊さしむることを欲せず。遽かに掩塞して旧の如くせしむ。……復た檀蘿の征伐の事を念い、又二客に請いて外に於いて跡を訪ねしむ。宅の東一里に古き涸涧あり、側に大檀樹一株あり、藤蘿は擁織して、上は日を見ず。旁に小穴あり、亦群蟻の隠聚する有り。檀蘿の国は、豈に此れにあらずや。嗟乎!蟻の霊異はなお窮むべからず。況んや山蔵木伏の大なる者の変化する所をや。……
『謝小娥伝』(『広記』四百九十一に見ゆ)に言う、小娥、姓は謝。豫章の人。八歳にして母を喪い、後に歴陽の侠士段居貞に嫁す。夫婦と父は皆商賈を習い、江湖の間を往来し、盗の為に殺さる。小娥亦足を折りて水に堕つ。他船拯い起こす。流転して上元県に至り、妙果寺の尼に依りて以て居る。初め、小娥かつて父の夢に告ぐるに仇人を「車中猴東門草」と為すを見、又夫の夢に告ぐるに仇人を「禾中走一日夫」と為すを見る。広く智者を求むるに、皆能く解くこと能わず。公佐に至りて乃ち之を弁じて曰く、「車中猴とは、車の字の上下各一画を去れば、是れ申の字なり。又申は猴に属す。故に車中猴と曰う。草の下に門あり、門の中に東あり、乃ち蘭の字なり。又禾中走は穿田過にして、亦是れ申の字なり。一日夫とは、夫の上に更に一画あり、下に日あれば、是れ春の字なり。汝の父を殺す者は申蘭にして、汝の夫を殺す者は申春なり。明らかにすべきこと足る。」小娥乃ち男子の服に変じて傭保と為り、果たして二賊を潯陽に遇い、之を刺殺し、並びに官に聞す。其の党を擒え、而して小娥は死を免るるを得たり。謎を解き賊を獲るは、甚だ理致に乏しき。而して当時亦盛んに伝え、李復言はすでにその文を演じて『続玄怪録』に入れ、明人は則ち之に本づきて平話を作る。(『拍案驚奇』十九に見ゆ。)
余る所の二篇、其の一は原題未詳にして、『広記』は則ち題して『廬江馮媼』(三百四十三)と曰う。董江の妻亡くなりて更に娶りしに、媼は女の路隅の一室中に泣くを見たりと記す。後に乃ち即ち亡人の墓なるを知る。董聞けば則ち妖妄を以て罪し、媼を逐い去る。其の事甚だ簡にして、故に文も亦華ならず。其の一は『古岳瀆経』と曰う(『広記』四百六十七に見ゆ。『李湯』と題す)。李湯なる者あり、永泰の時の楚州刺史にして、漁人が亀山の下の水中に大鉄鎖を見るを聞き、乃ち人牛を以て曳き出す。風涛にわかに作り、「一獣の状、猿の如き有り。白首長鬐にして、雪牙金爪、闯然として上岸す。高さ五丈ばかり、蹲踞の状は猿猴の若し。但だ両目は開くこと能わず、兀として昏昧の若し。……久しくして乃ち頸を引き伸欠す。双目忽ち開けば、光彩は電の若し。人を顧視す。狂怒を発せんと欲す。観る者は奔走す。獣亦徐々に鎖を引き牛を曳きて水に入りて去る。竟に復た出でず。」当時、湯と楚州の知名の士は、皆錯愕してその由を知らず。後に公佐古東呉を訪ね、洞庭に泛び、包山に登り、霊洞に入り、仙書を探り、石穴の間に『古岳瀆経』第八巻を得て、乃ちその故を得る。而してその経の文字は奇古にして、編次は蠹毀し、頗る解すること能わず。公佐と道士焦君と共に詳読するに、下文の如し。
「禹水を理め、三たび桐柏山に至る。驚風走雷にして、石号び木鳴る。土伯は川を擁し、天老は兵を粛す。功は興ること能わず。禹怒り、百霊を召集し、命を夔龍に授く。桐柏等の山君長は稽首して命を請う。禹因りて鴻蒙氏・章商氏・兜盧氏・犂婁氏を囚え、乃ち淮渦の水神を獲る。名は無支祁と曰う。善く応対言語し、江淮の浅深を弁じ、原隰の遠近を知る。形は猿猴の若く、鼻を縮め額高く、青躯白首にして、金目雪牙、頸を伸ばすこと百尺、力は九象に逾え、搏撃騰踔して疾く奔り、軽利倏忽にして、聞き視ること久しくすべからず。禹之を童律に授くるも、制すること能わず。之を烏木由に授くるも、制すること能わず。之を庚辰に授くれば、能く制す。鴟脾・桓胡・木魅・水霊・山祅・石怪、奔号して聚繞すること数千載。庚辰、戟を以て逐い去る。頸に大索を鎖し、鼻に金鈴を穿ち、淮陰の亀山の足下に徙し、淮水をして永く安んじて流注して海に入らしむるなり。庚辰の後、皆この形を図する者は、淮涛風雨の難を免る。」
宋の朱熹(『楚辞弁証』中)はかつて僧伽が無支祁を降伏させたという事を俚説と斥け、羅泌(『路史』)に『無支祁弁』あり、元の呉昌齢の『西遊記』雑劇中に「無支祁は是れ他の姊妹なり」の語あり、明の宋濂亦その事を隠括して文と為す。宋元以来、此の説の流伝して絶えず、且つ広く民間に被り、学者の弾劾を労するに致りしを知る。而して実は則ちわずかに李公佐の仮設の作に出づるのみ。惟だ後来漸く禹を誤りて僧伽あるいは泗洲大聖と為し、明の呉承恩が『西遊記』を演ずるに、又その神変奮迅の状を孫悟空に移す。是に於いて禹が無支祁を伏する故事は遂に堙昧するなり。
伝奇の文、此の外になお夥しく、その較々顕著なる者には、隴西の李朝威の作る『柳毅伝』あり(『広記』四百十九に見ゆ)。毅が下第を以て将に湘浜に帰らんとし、道は涇陽を経る。牧羊の女子に遇い、是れ龍女にして舅姑及び婿の為に貶せられ、毅に託して書を父の洞庭君に寄すと言う。洞庭君に弟の銭塘君あり、性は剛暴にして、婿を殺し女を取りて帰り、以て毅に配せんと欲するも、毅の厳拒に因りて止む。後に毅妻を喪い、家を金陵に徙し、范陽の盧氏を娶るに、則ち龍女なり。又南海に徙り、復た洞庭に帰る。その表弟の薛嘏かつて之に湖中に遇い、仙薬五十丸を得る。此後遂に影響を絶つ。金人すでにその事を取りて雑劇と為し(語は董解元の『弦索西廂』中に見ゆ)、元の尚仲賢は則ち『柳毅伝書』を作り、翻案して『張生煮海』と為し、清の李漁又之を折衷して『蜃中楼』を成す。又蒋防の作る『霍小玉伝』あり(『広記』四百八十七に見ゆ)。李益年二十にして進士第に擢でられ、長安に入り名妓を得んと思う。乃ち霍小玉に遇い、その家に寓す。相従うこと二年。その後の年、生は鄭県主簿を授けられ、則ち婚姻を堅く約して別る。生、母に觐するに及び、始めてすでに盧氏と婚を訂したるを知る。母又素より厳なれば、生は敢えて拒まず、遂に小玉と絶つ。小玉久しく生の音問を得ず、竟に病に臥す。蹤跡して益を招くも、益も亦敢えて往かず。一日、益は崇敬寺に在り、忽ち黄衫の豪士あり、強いて之を邀え、霍氏の家に至る。小玉力めて疾を病いて相見え、其の負心を数え、長慟して卒す。益之が為に縞素して、旦夕哭泣すること甚だ哀し。已にして盧氏に婚するも、然れども怨鬼の祟り為す所と為り、竟に猜忌を以て其の妻を出す。三娶に至るまで、是の如くならざるはなし。杜甫の『少年行』に云う、「黄衫年少、宜しく来たりて数うべし。堂前の東に逝く渡を見ず」と。此れを謂うなり。又許堯佐の作る『柳氏伝』あり(『広記』四百八十五に見ゆ)。詩人韓翃が李生の艶姫柳氏を得るを記す。会々安禄山反し、因りて柳を法霊寺に寄せて自ら淄青節度使の書記と為る。乱平らぎて復た来れば、則ち柳はすでに蕃将の沙吒利の取る所と為る。淄青の諸将中に侠士許虞候なる者あり、劫して以て翃に還す。その事は又孟棨の『本事詩』に見え、蓋し亦実録なり。他に柳珵(『広記』二百七十五『上清伝』)、薛調(又四百八十六『無双伝』)、皇甫枚(又四百九十一『非煙伝』)、房千里(同上『楊娼伝』)等の如きも、亦皆造作あり。而して杜光庭の『虬髯客伝』(『広記』百九十三に見ゆ)は流伝乃ち独り広し。光庭は蜀の道士にして、王衍に事え、多くの著述あるも、大抵は誕謾なり。此の伝は則ち楊素の妓人の紅拂を執る者が布衣の時の李靖を識り、相約して遁び去り、道中に又虬髯客に逢い、その凡ならざるを知り、資財を推し、兵法を授け、太宗を佐けて唐を興さしめ、而して自らは海賊を率いて扶余国に入りその主を殺し、自立して王と為ると云うを記す。後世この故事を楽しみ、画図を作るに至り、之を三侠と謂う。曲においては則ち明の凌初成に『虬髯翁』あり、張鳳翼・張太和には皆『紅拂記』あり。
上来挙ぐる所の外に、なお作者を知らざる『李衛公別伝』・『李林甫外伝』、郭湜の『高力士外伝』、姚汝能の『安禄山事迹』等あり。惟だ著述の本意は、あるいは幽隠を顕揚するにあり、伝奇を為すにあらず。特に行文は枝蔓にして、あるいは事を拾うこと瑣屑なるが故に、後人亦毎に小説を以て之を視るなり。
第28節
【第十篇 唐の伝奇集及び雑俎】
伝奇の文を造り、会萃して一集と為す者は、唐代に多く有りしが、煊赫たること牛僧孺の『玄怪録』に如くはなし。僧孺、字は思黯。本は隴西狄道の人にして、宛叶の間に居る。元和の初め、賢良方正を以て対策第一と為り、条指して失政を挙げ、鯁讦して宰相を避けず。考官皆調去せられ、僧孺は則ち伊闕の尉に調せらる。穆宗即位し、漸く御史中丞に至り、後に戸部侍郎を以て同中書門下平章事となる。武宗の時累貶して循州長史と為る。宣宗立ちて、乃ち召還して太子少師と為す。大中二年卒す。太尉を贈られ、年六十九(七八〇――八四八)。文簡と曰う。伝は両『唐書』にあり。僧孺は性堅僻にして、而して頗る志怪を嗜む。撰する所の『玄怪録』十巻は、今すでに佚す。然れども『太平広記』の引く所はなお三十一篇あり、以て大概を考見すべし。その文は他の伝奇と甚だ異なるなしと雖も、時時人に示すに造作に出づるを以てし、信ぜられんことを求めず。蓋し李公佐・李朝威の輩は、わずかに筆妙を顕揚するにあるが故に、なお事状の虚なるを言うことを肯ぜず。僧孺に至りて乃ち並びに構想の幻を以て自ら見えんと欲し、因りて故にその詭設の跡を示すなり。『元無有』は即ちその一例なり。
宝応中、元無有なる者あり。常に仲春の末、独り維揚の郊野に行く。日晩に値い、風雨大いに至る。時に兵荒の後にして、人戸多く逃ぐ。遂に路傍の空荘に入る。須臾にして霽み止み、斜月方に出づ。無有、北窗に坐す。忽ち西廊に行人の声を聞く。未だ幾ならずして月中に四人を見る。衣冠皆異にして、相与に談諧吟詠すること甚だ暢なり。乃ち云う、「今夕秋の如く、風月此の若し。吾輩豈に一言を為さざるを得んや。以て平生の事を展ばさん。」……吟詠すでに朗なれば、無有之を聴くに具さに悉す。其の一、衣冠の長人即ち先に吟じて曰く、「斉紈魯縞は霜雪の如し。寥亮の高声は予の発する所なり。」其の二、黒衣冠の短陋なる人の詩に曰く、「嘉賓良会清夜の時、煌煌たる灯燭は我能く持す。」其の三、故弊の黄衣冠の人、亦短陋にして、詩に曰く、「清冷の泉、朝汲を候い、桑綆相牽きて常に出入す。」其の四、故黒衣冠の人の詩に曰く、「爨薪泉を貯えて相煎熬す。他の口腹を充たし、我は労を為す。」無有亦四人を以て異と為さず。四人亦無有の堂隍に在るを虞らず。逓いに相褒賞し、その自負を観れば、則ち阮嗣宗の『詠懐』と雖も、亦加うること能わざるが若し。四人は明に遅れて乃ち旧所に帰る。無有就いて之を尋ぬるに、堂中に惟だ故杵・灯台・水桶・破鐺あるのみ。乃ち四人は即ち此の物の為す所なるを知る。(『広記』三百六十九)
牛僧孺は朝に在りて、李徳裕と各おの門戸を立て、党争を為す。その好みて小説を作るを以て、李の門客韋瓘遂に僧孺の名に託して『周秦行紀』を撰り以て之を誣う。記に言う、自ら進士に挙げられて落第し将に宛叶に帰らんとし、伊闕鳴皋山下を経る。因りて暮に道を失い、遂に薄太后の廟中に止まり、漢唐の妃嬪と燕飲す。太后問う、今の天子は誰と為すかと。則ち対えて曰く、「『今の皇帝は先帝の長子なり。』太真笑いて曰く、『沈婆の児、天子と作るか。大いに奇なり。』」復た詩を賦し、終に昭君を以て侍寝し、明に至りて別れ去り、「竟にその何如なるかを知らず」と(詳しくは『広記』四百八十九に見ゆ)。徳裕因りて論を作り、僧孺の姓は図讖に応じ、『玄怪録』又多く隠語を造り、意は民を惑わすにあり、『周秦行紀』は則ち身を以て後妃と冥遇し、その身の人臣の相にあらざるを証せんと欲すと謂う。「戯れに徳宗を以て沈婆の児と為し、代宗の皇后を以て沈婆と為すに及びては、人をして骨戦せしめ、謂うべし、その君に無礼なること甚だしと。」逆を作すこと若し当代にあらずんば、必ず子孫に在り。故に「須らく『太牢』を以て少長成りて法に置くべし。則ち刑罰中りて社稷安し」となり(詳しくは『李衛公外集』四に見ゆ)。自来小説を仮りて以て人を排陥すること、此れ最も怪と為す。顧みれば当時説も亦行われず。惟だ僧孺は既に才名あり、又高位を歴る。その著作する所は、世に遂に盛んに伝わる。而して摹擬する者亦鮮くなからず。李復言に『続玄怪録』十巻あり、「仙術感応の二門に分かつ」。薛漁思に『河東記』三巻あり、「亦謲怪の事を記す。序に云う、牛僧孺の書を続くと」(皆宋の晁公武の『郡斎読書志』十三に見ゆ)。又『宣室志』十巻を撰し、以て仙鬼霊異の事迹を記す者あり。張読、字は聖朋と曰う。則ち張の裔にして牛僧孺の外孫なり(『唐書・張薦伝』に見ゆ)。後来亦「少くして習い見る。故にその流波に沿う」と疑わる(清『四庫提要』子部小説家類三に云う)。
他に武功の人蘇鶚に『杜陽雑編』あり、唐世の故事を記し、而して多く遠方の珍異を誇る。参寥子高彦休に『唐闕史』あり。間あるいは実録ありと雖も、亦夢を見て仙に昇ることを言う。故に皆伝奇にして、但だ稍々遷変するのみ。康駢の『劇談録』の漸く世務を多くするに至り、孫棨の『北里志』の専ら狭邪を叙するに至り、范摅の『雲渓友議』の特に歌詠を重んずるに至りては、弥々人情に近く、霊怪に遠ざかるが若しと雖も、然れども事を選べば則ち新穎にして、文を行ずれば則ち逶迤、固よりなお伝奇を以て骨と為す者なり。裴鉶著書するに迨び、径ちに『伝奇』と称す。則ち盛んに神仙怪譎の事を述べ、又多く崇飾して、以て観る者を惑わす。鉶は淮南節度副大使高駢の従事たり。駢は後に志を失い、尤も神仙を好み、卒に叛を以て死す。則ちこれあるいは当時の諛導の作にして、本懐に由るにあらず。聶隠娘が妙手の空空児に勝つ事は即ちこの書に出づ(文は『広記』百九十四に見ゆ)。明人取りて以て偽作の段成式の『剣侠伝』に入れ、流伝遂に広く、今に迄るまでなお所謂文人なる者の楽しみ道う所なり。
段成式、字は柯古。斉州臨淄の人。宰相文昌の子なり。蔭を以て校書郎と為り、累遷して吉州刺史に至る。大中中、京に帰り、仕えて太常少卿に至る。咸通四年(八六三)六月卒す。『新唐書』は段志玄伝の末に附見す(余は『酉陽雑俎』及び『南楚新聞』に見ゆ)。成式の家に奇篇秘籍多く、博学強記にして、尤も仏書に深く、而して少くして畋猟を好み、亦早くに文名あり。詞句は多く奥博にして、世の珍異とする所なり。その小説に『廬陵官下記』二巻あるも、今佚す。『酉陽雑俎』二十巻、凡そ三十篇、今具に在り、並びに『続集』十巻あり。巻々一篇にして、あるいは秘書を録し、あるいは異事を叙し、仙仏人鬼より動植に至るまで、載せざるなし。類を以て相聚め、類書の如き有り。源はあるいは張華の『博物志』に出づると雖も、唐の時においては、則ちなお独創の作の如し。毎篇各おの題目あり、亦殊に隠僻にして、道術を紀する者は『壺史』と曰い、釈典を抄する者は『貝編』と曰い、喪葬を述べる者は『尸窀』と曰い、怪異を志す者は『諾皋記』と曰う。而して抉択記叙も亦多く古艶穎異にして、其の目に副うに足るなり。
夏啓を東明公と為し、文王を西明公と為し、邵公を南明公と為し、季札を北明公と為す。四時、四方の鬼を主る。至忠至孝の人、命終われば皆地下の主者と為り、百四十年にして、乃ち下仙の教えを授かり、大道を授く。上聖の徳ある者、命終われば三官の書を受けて、地下の主者と為ること千年、乃ち三官の五帝に転じ、復た千四百年にして方に太清に遊行することを得て、九宮の中仙と為る。(巻二『玉格』)
始めて天に生ずる者には五相あり。一に光身を覆いて衣なし。二に物を見て希有の心を生ず。三に弱顔。四に疑。五に怖。(巻三『貝編』)
国初の僧玄奘、五印に往きて経を取る。西域之を敬す。成式、倭国の僧金剛三昧に見う。言う、かつて中天の寺に至る。寺中に多く玄奘の麻屩及び匙箸を画き、彩雲を以て之に乗ず。蓋し西域にはなき所の者にして、斎日に至るごとに、輒ち膜拝す。(同上)
天翁、姓は張、名は堅、字は刺渇。漁陽の人にして、少にして不羈、拘忌する所なし。常に羅を張りて一の白雀を得、愛して之を養う。劉天翁の責怒するを夢む。毎に之を殺さんと欲するに、白雀輒ち以て堅に報ず。堅、諸方を設けて之を待つも、終に害すること莫し。天翁遂に下りて之を観る。堅、盛んに賓主を設け、乃ち窃かに天翁の車に騎り、白龍に乗り、策を振りて天に登る。天翁余龍に乗りて之を追うも、及ばず。堅既に玄宮に到り、百官を易え、北門を杜塞し、白雀を封じて上卿侯と為す。白雀の胤をして下土に産まれざらしむるに改む。劉翁は治を失い、五岳に徘徊して災を作す。堅之を患え、劉翁を以て太山太守と為し、生死の籍を主らしむ。(巻十四『諾皋記』)
大歴中、士人あり、荘は渭南に在り。疾に遇い京に卒す。妻柳氏は因りて荘居す。……士人の祥斎の日、暮れ、柳氏露坐して涼を逐う。胡蜂ありてその首面を繞る。柳氏扇を以て打ちて堕とす。乃ち胡桃なり。柳氏遽かに取りて、掌中に之を玩ぶ。遂に長じ、初め拳の如く、碗の如し。驚き顧みるの際、すでに盤の如し。曝然として分かれて二扇と為り、空中に輪転す。声は分蜂の如し。忽ち合して柳氏の首に在り。柳氏の首は砕け、歯は樹に著く。其の物因りて飛び去り、竟にいかなる怪なるかを知らず。(同上)
又文身の事を聚むる者は『黥』と曰い、鷹を養う法を述べる者は『肉攫部』と曰う。『続集』には則ち『貶誤』ありて以て考証を収め、『寺塔記』ありて以て伽藍を志す。涉る所は既に広く、遂に珍異多し。世の愛玩する所と為り、伝奇と並駆して先を争うなり。
成式は詩を能くし、幽渋繁縟なること他の著述の如し。時に祁の人温庭筠、字は飛卿、河内の李商隠、字は義山あり。亦倶に是を用いて相誇り、「三十六体」と号す。温庭筠にも亦小説三巻、『乾巛子』と曰うあり。遺文は『広記』に見ゆ。わずかに事略を録するのみにして、簡率にして観るべきなく、其の詩賦の艶麗なる者と類せず。李は小説に聞こえず。今、『義山雑纂』一巻あるも、『新唐志』には著録せず。宋の陳振孫(『直斎書録解題』十一)は以て商隠の作と為す。書は皆俚俗の常談鄙事を集め、類を以て相従う。止だ瑣綴に過ぎずと雖も、而して頗る亦世務の幽隠を穿ち、蓋し特に聊か笑噱に資するのみにあらず。
殺風景
松下に道を喝す 花を看て涙下る 苔の上に席を鋪く 垂楊を斫り却く 花の下に褌を晒す
春に遊びて重く載す 石筍に馬を繋ぐ 月下に火を把る 歩行の将軍 山に背きて楼を起こす
果園に菜を種う 花架の下に鶏鴨を養う
悪模様
客と作りて人と相争い罵る …… 客と作りて台桌を踏み翻す …… 丈人丈母に対して艶曲を唱う
残魚肉を嚼みて盤上に帰す 衆に対して倒臥す 箸を横にして羹碗の上に在り
十戒
酒を飲みて醉に至ること得ざれ 暗黒の処にて人を驚かすこと得ざれ 陰に人を損なうこと得ざれ 独り寡婦の人の房に入ること得ざれ 人の家書を開くこと得ざれ 戯れに物を取りて人に知らしめざること得ざれ 暗黒にして独り自ら行くこと得ざれ 無頼の子弟と往還すること得ざれ 人の物を借りて用い了りて旬を経ても還さざること得ざれ (原一則を欠く)
中和年間に李就今あり、字は袞求。臨晋の令と為り、亦義山と号す。詩を能くし、初め挙げらるる時恒に倡家に遊ぶ。孫棨の『北里志』に見ゆ。則ち『雑纂』の作は、あるいは此の人に出づ。未だ必ずしも定めて商隠に属せず。然れども他に顕証なく、未だ能く定むべからず。後に亦時に倣作する者あり。宋に続あり、王君玉と称し、再続あり、蘇東坡と称し、明に三続あり、黄允交と為す。
第29節
【第十二篇 宋の話本】
宋一代の文人の志怪を為すは、既に平実にして文彩に乏しく、その伝奇は又多く往事に託して近聞を避け、古に擬するも且つ遠く及ばず、更に独創の言うべきなし。然れども市井の間には、則ち別に芸文の興起あり。即ち俚語を以て書を著し、故事を叙述し、之を「平話」と謂う。即ち今所謂「白話小説」なるものなり。
然れども白話を用いて書を作る者は、実は宋に始まるにあらず。清の光緒中、燉煌千仏洞の蔵経始めて顕露し、大抵は英仏に運入し、中国亦その余を拾いて京師図書館に蔵す。書は宋初の所蔵にして、多くは仏経なるも、内に俗文体の故事数種あり。蓋し唐末五代の人の鈔にして、『唐太宗入冥記』・『孝子董永伝』・『秋胡小説』の如きは則ちロンドン博物館に在り、『伍員入呉故事』は則ち中国某氏に在るが、惜しむらくは目睹すること能わず、以てその後来の小説との関係を知るなし。意を以て之を度れば、則ち俗文の興りは、当に二端に由るべし。一は娯心の為、一は勧善の為にして、尤も勧善を以て大宗と為す。故に上に列ぬる諸書は多く懲勧に関わり、京師図書館の蔵する所にも、なお俗文の『維摩』『法華』等の経及び『釈迦八相成道記』『目連入地獄故事』あるなり。
『唐太宗入冥記』は首尾並びに欠き、中間わずかに存す。蓋し太宗が建成・元吉を殺し、生魂勘せらるる事を記す者なり。その本朝の過を諱むことは、宋に始めて盛んなれば、これ太宗に関涉すると雖も、故に当になお唐人の作たるべきなり。文は略々下の如し。
……判官懆悪にして、敢えて名字を道わず。帝曰く、「卿近く前に来たれ。」軽く道う、「姓は崔、名は子玉。」「朕当に識るべし。」言い訖り、人をして皇帝を引きて院門に至らしむ。人をして奏させて曰く、「伏して惟うに陛下且く此に立ちたまえ。臣の入りて判官に報じて速かに来たらしむるを容せよ。」言い訖り、使い来たる者庁に到りて拝し了る。「判官に啓す。大王の処に奉じ、太宗は是れ生魂にして到る。判官を領し推勘す。今門外に在り。未だ敢えて引かず。」判官聞きて言い、驚き忙しく起立す。……
宋に『梁公九諫』一巻あり(『士礼居叢書』中に在り)。文亦朴陋にして前記の如し。書は武后が太子を廃して廬陵王と為し、而して位を姪の武三思に伝えんと欲するも、狄仁傑の極諫すること九たびを経て、武后始めて感悟し、召還して復た太子に立つを叙す。巻首に范仲淹の『唐相梁公碑文』あり。乃ち番陽に貶守せられし時の作なれば、則ち書は出づること当に明道二年(一〇三三)以後にあるべきなり。
第六諫
則天眠りて三更に至り、又一夢を得る。夢に大羅天女と対手にて棋を着く。局中に子あり、旋ち打ち将らるるを被り、頻りに天女に輸く。忽然として驚覚す。来日朝を受け、諸大臣に問う、其の夢は如何と。狄相奏して曰く、「臣此の夢を円ず。国に於いて不祥なり。陛下夢に大羅天女と対手にて棋を着く。局中に子あり、旋ち打ち将らるるを被り、頻りに天女に輸く。蓋し局中に子ありて、其の位を得ず、旋ち打ち将らるれば、其の主る所を失うを謂うなり。今太子廬陵王を房州千里に貶す。是れ局中に子ありて其の位を得ずと謂う。遂にこの夢に感ず。臣願わくは東宮の位に、速かに廬陵王を立てて儲君と為さんことを。若し武三思を立つれば、終に当に得ざるべし。」
然れども現存の宋人の通俗小説に拠りて之を観れば、則ち唐末の勧懲を主とする者と稍々殊にして、実は雑劇中の「説話」に出づ。説話とは、口に古今驚聴の事を説くを謂い、蓋し唐の時にも亦すでにこれあり。段成式の『酉陽雑俎』(『続集』四『貶誤篇』)に云う、「予太和の末、弟の生日に因りて雑戯を観る。市人の小説あり、扁鵲を呼びて『褊鵲』の字と作す。上声なり。……」と。李商隠の『驕児詩』(集一)にも亦云う、「或いは張飛の胡を謔し、或いは鄧艾の吃を笑う」と。当時すでに三国の故事を説く者ありしに似るが、然れども未だ詳らかならず。宋は汴に都し、民物は康阜にして、遊楽の事甚だ多く、市井の間に雑伎芸あり、その中に「説話」あり。此の業を執る者は「説話人」と曰う。説話人にまた専家あり。孟元老(『東京夢華録』五)かつてその目を挙げて、小説と曰い、合生と曰い、説諢話と曰い、説三分と曰い、説『五代史』と曰う。南渡以後、此の風改まらず。呉自牧(『夢粱録』二十)の記載する所に拠れば、則ち四科あること下の如し。
説話の者は、之を舌弁と謂う。四家数ありと雖も、各おの門庭あり。
且つ「小説」は「銀字児」と名づく。煙粉・霊怪・伝奇・公案・撲刀杆棒・発迹変態の事の如し。……古今を談論すること、水の流るるが如し。
「談経」とは、仏書を演説するを謂い、「説参請」とは、賓主参禅悟道等の事を謂う。……又「説諢経」なる者あり。
「講史書」とは、『通鑑』漢唐歴代の書史文伝興廃戦争の事を講説するを謂う。
「合生」は、今を起こし今に随うと相似、各おの一事を占むるなり。
南宋亡び、雑劇は消歇し、説話は遂に復た行われず。然れども話本は蓋し頗る存する者あり。後人目染して倣いて以て書を為す。すでに口談にあらずと雖も、なお曩の体を存す。小説の者の流に『拍案驚奇』『酔醒石』の属あり、講史の者の流に『列国演義』『隋唐演義』の属あり。惟だ世間は此の二科に於いて漸く復た厳別する所を知らず、遂に倶に「小説」を以て通名と為すなり。
第30節
【第十三篇 宋元の擬話本】
説話が盛行するに及び、当時の少なからぬ著作も自ずから話本の影響を蒙った。北宋の時、劉斧秀才が古今の稗説を雑輯して『青瑣高議』及び『青瑣摭遺』を編んだが、文辞は拙俗であるものの、なお話本ではない。しかし文題の下には、既にそれぞれ七言を繋げている。例えば――
『流紅記』 紅葉に詩を題して韓氏を娶る 『趙飛燕外伝』 別伝にて飛燕の始末を叙す
『韓魏公』 盞を砕き鬚を焼く人を罪せず 『王榭』 風涛に漂いて烏衣国に入る
等々、皆一題一解にして、元人の劇本の結末にある「題目」と「正名」に甚だ類似する。因って汴京の説話の標題も、体裁あるいはかくの如くであったかと疑われ、習俗の浸潤が文章にまで及んだのであろう。全体がその変易を被った者については、今なお『大唐三蔵法師取経記』及び『大宋宣和遺事』の二書が流伝しており、いずれも首尾が詩に始まり詩に終わり、中間には詩詞を点綴とし、辞句は多く俚俗であるが、話本とはまた異なり、講史に近くして口談にあらず、小説に似て捏合なし。銭曾は『宣和遺事』について『燈花婆婆』等十五種を併せて「詞話」と称した(『也是園書目』十)。詞あり話ありというのがその所以であるが、その中の『錯斬崔寧』『馮玉梅団円』の二種は、また『京本通俗小説』中にも見え、もと説話の一科であり、専家より伝わり、談吐は流るるが如く、通篇相称して、とうてい『宣和遺事』の及ぶ所ではない。蓋し『宣和遺事』は詞も説もあるとはいえ、全て説話人より出たのではなく、作者が故書を掇拾し、小説を加え、補綴連属して、かろうじて一書を成したものであるから、形式は僅かに存するのみにして精彩はすなわち遜り、文辞もまた多くは己の出にあらず、創作とは言い難い。『取経記』は殊に苟簡である。ただ説話が消亡し、話本がついに著作へと蜕変したのは、またこの類のものがその枢紐たるに頼ったのみである。
『大唐三蔵法師取経記』三巻、旧本は日本にある。また一小本があり『大唐三蔵取経詩話』と曰い、内容は悉く同じで、巻尾の一行に「中瓦子張家印」と云う。張家は宋時の臨安の書舗であり、世人これを以て宋刊と為すが、元朝に至っても張家は恙なきこともあり得るから、この書は元人の撰であるやも知れない。三巻は十七章に分かたれ、今見る小説の章回に分かつ者はここに始まる。毎章必ず詩があるが故に詩話と曰う。首章は両本ともに闕し、次章は玄奘等が猴行者に遇う事を記す。
猴行者に遇う処 第二
僧行六人、当日起行す。……ある日の午時に偶々一人の白衣の秀才が正東より来たり、すなわち和尚に揖して曰く、「万福万福!和尚は今いずこへ往かんとするや、もしや再び西天へ取経に往くのではあるまいか」と。法師合掌して曰く、「貧道は勅を奉じ、東土の衆生に未だ仏教なきが為に、取経するなり」と。秀才曰く、「和尚は生前に二度取経に行き、中途にて難に遭うた。この度もし行かば、千死万死なり」と。法師云う、「汝いかにして知り得たるや」と。秀才曰く、「我は別人にあらず、我は花果山紫雲洞の八万四千の銅頭鉄額の猕猴王なり。我今、和尚の取経を助けんとて来たり。ここより百万程の途、三十六国を経過し、多く禍難の処あり」と。法師応じて曰く、「果たしてかくの如くならば三世の縁あり、東土の衆生、大いなる利益を獲ん」と。すなわち改めて猴行者と呼ぶ。僧行七人、翌日同行し、左右に伏事す。猴行者因りて詩を留めて曰く――
百万程途あの辺に向かい、今来たりて大師の前を佐助す、
一心に祝願して真教に逢わんとし、同に西天の鶏足山に往く。
三蔵法師の詩答えて曰く――
此の日前生に宿縁あり、今朝果たして大明仙に遇う、
前途もし妖魔の処に到らば、望むらくは神通を顕して仏前に鎮めんことを。
かくして行者の神通を藉り、共に大梵天王宮に入り、法師は講経し已りて、「隠形帽一頂、金環錫杖一条、鉢盂一隻、三件斉全」を賜わり、また下界に返る。香林寺を経、大蛇嶺・九龍池の諸危地を履むも、いずれも行者の法力を以て安穏に進行す。また深沙神が身を化して金橋と為り、大水を渡越し、鬼子母国・女人国を出て王母池の処に至り、法師が桃を欲し、猴行者に命じてこれを窃ませんとす。
王母池に入る処 第十一
……法師曰く、「願わくは今日蟠桃が結実し、三つ五つ偸んで食うべし」と。猴行者曰く、「我は八百歳の時に十顆を偸み食い、王母に捉えられ、左肋に八百、右肋に三千の鉄棒を判ぜられ、花果山紫雲洞に配されて、今に至るも肋の下なお痛む。我は今、定めて敢えて偸み食わざるなり」と。……前に行くうちに、忽ち石壁の高岑万丈なるを見、また一石盤あり、闊さ四五里地、また二つの池あり、方広数十里、弥弥万丈にして鴉鳥も飛ばず。七人がまさに座して休む折、頭を挙げて遥かに望めば、万丈の石壁の中に、数株の桃樹あり、森々と翠を聳え、上は青天に接し、枝葉は茂く濃やかにして下は池水に浸る。……行者曰く、「樹上に今十余顆あるが、地神が専らかの処にありて守り定め、偸り取る路なし」と。師曰く、「汝は神通広大なれば、行けば必ず妨げなからん」と。話のまだ尽きぬうちに、三顆の蟠桃が池中に落つ。師甚だ驚惶し、問うて曰くこの落つるは何物かと。答えて曰く、「師よ驚くなかれ(驚の字の略)、これは蟠桃がまさに熟し、水中に落ちたるなり」と。師曰く、「行きて尋ね取りて食うべし」と。……
行者は杖を以て石を撃ち、先後に二人の童子を現す。一人は三千歳と云い、一人は五千歳と云い、皆これを揮いて去らしむ。
……また数下を敲けば、偶々一人の孩児が出で来たり、問うて曰く、「汝は年いくつか」と。答えて曰く、「七千歳」と。行者は金環杖を放ち下し、孩児を手中に取り入れ、和尚に問うて「汝は食うか否か」と。和尚これを聞き、心驚きてすなわち走る。行者の手中にて旋ること数下、孩児は化して一枝の乳棗と成る。時に呑んで口中に入れ、後に東土の唐朝に帰り、遂に西川に吐き出す。今に至るまでこの地に人参が生ずるはこれなり。空中に一人の見ゆるあり、遂に詩を吟じて曰く――
花果山中一子の才、小年嘗てここに場を作す乖し、
而して今耳熱く空中に見れば、前次の桃を偸む客また来たる。
かくて遂に天竺に達し、経文五千四百巻を求め得たるも、『多心経』を闕く。香林寺に回り至り、始めて定光仏の見授を受く。七人は既に帰れば、すなわち皇帝が郊迎し、諸州は法を奉ず。七月十五日正午に至り、天宮はすなわち彩蓮船を降し、法師はこれに乗り、西に向かいて仙に去る。後に太宗は復た猴行者を封じて銅筋鉄骨大聖と云う。
『大宋宣和遺事』は世に多く宋人の作と以為すが、文中に呂省元の『宣和講篇』及び南儒の『詠史詩』があり、省元・南儒は皆、元代の語であるから、その書は或いは元人より出たのか、あるいは宋人の旧本にして元時にまた増益ありしか、いずれも知るべからず。口吻に大いに宋人に類するものがあるのは、旧籍を鈔撮したことに因るのであって、著者の本語ではない。書は前後二集に分かれ、尭舜を称述するに始まり、高宗の臨安定都に終わる。年を案じて演述し、体裁は甚だ講史に似る。ただ旧籍を節録して書を成し、融会を加えていないから、前後の文体は参差を致し、灼然として見える。その剽取の書は当に十種あるべし。前集はまず歴代の帝王の荒淫の失を述べるが、その一にして、蓋し宋人講史の開篇に猶あたる。次に王安石の変法の禍を述ぶるが、その二にして、また北宋末の士論の常套である。次に安石が蔡京を引きて入朝せしめたるより童貫・蔡攸の巡辺に至るが、その三にして、首の一は語体、次の二は文言にしていずれも詩を雑える。その四は、すなわち梁山泊の聚義の始末にして、まず楊志が刀を売り人を殺すを述べ、晁蓋が生辰の礼物を劫すを述べ、遂に二十人を邀約し、共に太行山梁山泊に入りて落草す。而して宋江もまた閻婆惜を殺して出で、屋後の九天玄女廟中に伏し、官兵の既に退きたるを見て出でて玄女に謝す。
……すなわち香案の上に一声の響きあり、打ちて見れば、一巻の文書あり。宋江がまさに展き開いて見たるに、認め得たるは天書なり。また三十六人の姓名を書きあり。また四句を題して道う――
国を破るは山木に因り、兵刀は水工を用う、
一朝将領に充てらるれば、海内に威風を聳やかさん。
宋江は読み了りて、口中には言わず、心下に思量す――この四句は分明に我が姓名を言い了せりと。また天書一巻を開けば、仔細に看るに、三十六将の姓名あり。その三十六人とはいかなる者ぞ――
智多星呉加亮 玉麒麟李進義 青面獣楊志 混江龍李海 九紋龍史進 入雲龍公孫勝 浪裏白条張順 霹靂火秦明 活閻羅阮小七 立地太歳阮小五 短命二郎阮進 大刀関必勝 豹子頭林冲 黒旋風李逵 小旋風柴進 金槍手徐寧 撲天雕李応 赤髪鬼劉唐 一直撞董平 插翅虎雷横 美髯公朱同 神行太保戴宗 賽関索王雄 病尉遅孫立 小李広花栄 没羽箭張青 没遮攔穆横 浪子燕青 花和尚魯智深 行者武松 鉄鞭呼延綽 急先鋒索超 拼命三郎石秀 火船工張岑 摸着雲杜千 鉄天王晁蓋
宋江が人名を見るに、末後に一行の字あり、書して道う――「天書、天罡院の三十六員の猛将に付し、呼保義宋江をして帥と為さしめ、広く忠義を行い、奸邪を殄滅せよ」と。
かくて宋江は朱同等九人を率いてまた山寨に赴き、晁蓋は既に死し、遂に推されて首領と為る。「各人は強人を統率し、州を略し県を劫し、火を放ち人を殺し、淮陽・京西・河北の三路二十四州八十余県を攻奪し、子女玉帛を劫掠し、擄掠すること甚だ衆し」。やがて魯智深等もまた来投し、遂に三十六人の数を足す。
ある日、宋江と呉加亮は商量す。「俺ら三十六員の猛将は、並びに既に数に登る。東岳の保護の恩を忘るるなかれ。すべからく焼香して心願を賽い還すべし」と。日を択びて起行す。宋江は四句を題して旗上に放ちて道う――
来たる時三十六、去りて後十八双。
もし一個を還し少なくば、定めて帰郷せじ。
宋江は三十六将を統率して東岳に往きて朝し、金炉の心願を賽い取る。朝廷は奈何ともし難く、已むを得ず榜を出して宋江等を招諭す。元帥姓は張、名は叔夜なる者あり、これ世代将門の子なり。前に来たりて招誘す。宋江と彼の三十六人は宋朝に帰順し、各々大夫の誥勅を受け、諸路の巡検使に分注せらる。これに因りて三路の寇は悉く平定を得る。後に宋江を遣わして方臘を収むるに功あり、節度使に封ぜらる。
その五は、徽宗が李師師の家に幸し、曹輔が進諫し及び張天覚が隠れ去る事。その六は、道士林霊素の進用及びその死葬の異。その七は、臘月に予め元宵を賞し及び元宵に灯を看る盛り。皆、平話体なり。その元宵灯観の叙述に云う――
宣和六年正月十四日の夜、大内の門より直上に一条の紅綿縄の上を、飛び下りて一羽の仙鶴児が来たり、口内に一道の詔書を銜む。一員の中使がこれを受け取りて展き開くに、聖旨を奉ず――万姓を宣ぜよ。快行家の手中に金字牌を把り、喝道す、「万姓を宣ず」と。少刻にして京師の民は雲浪の如くあり、尽く頭上に玉梅・雪柳・闹蛾児を戴き、直に鰲山の下に到りて灯を看る。宣徳門の直上に三四人の貴官あり、……聖旨を得て、金銭銀銭を撒き下し、万姓に抢金銭せしむ。かの教坊大使袁陶がかつて詞を作り、名を『撒金銭』と做す――
頻りに瞻礼し、升平を喜び又元宵の佳致に逢う。鰲山は高く翠を聳え、端門に対して珠璣交制す。嫦娥の如く仙宮より降り、乍ち凡世に臨む。 恩露を均しく施し、御欄に憑りて聖顔垂れて視る。金銭を撒き、乱れて抛墜し、万姓は推し抢いて理会なし。官里に告ぐ、この失儀はしばらく免罪を与えよと。
この夜、金銭を撒きし後、万姓は各々遍く市井を遊び、まことに言うべし――
灯火は煌々として天は夜ならず、笙歌は嘈雑として地は長春なり。
後集はすなわち金人の来たりて糧を運ぶに始まり、京城の陥ちるに至るを第八種と為す。また金兵の入城より帝后の北行して辱を受け、高宗の臨安に定都するに至るを第九第十種と為し、すなわち『南燼紀聞』『窃憤録』及び『続録』を取りて小さく削節したもので、二書は今いずれも在り、あるいは辛棄疾の作と題するが、宋人は既にこれを偽書と以為した。巻末にはまた結論あり、云う、「世の儒者は高宗が中原を恢復する機会を失いし者二つありと謂う。建炎の初にその機を失いし者は、潜善・伯彦の目前に偸安して之を誤りしなり。紹興の後にその機を失いし者は、秦檜の虜の用間と為りて之を誤りしなり。この二機を失い、しかして中原の境土は未だ復せず、君父の大仇は未だ報ぜず、国家の大恥は雪ぐ能わず。これ忠臣義士の腕を扼して、恨みて賊臣の肉を食らい、その皮に寝ねんと欲せざるなからんや」と。これまた南宋の時、檜の党が失勢した後の士論の常套なり。
第31節
【第十四篇 元明伝来の講史(上)】
宋の説話人は、小説及び講史ともに高手多く(名は『夢粱録』及び『武林旧事』に見ゆ)、而れども著作ありとは聞かない。元代は擾攘にして文化は論丧し、更に論ずるに及ばず。日本の内閣文庫に元の至治(一三二一~一三二三)年間の新安虞氏刊本の全相(今いわゆる繍像全図)平話五種を蔵す。曰く『武王伐紂書』、曰く『楽毅図斉七国春秋後集』、曰く『秦併六国』、曰く『呂后斬韓信前漢書続集』、曰く『三国志』、毎集各三巻なり(『斯文』第八編第六号、塩谷温「明の小説『三言』に関して」)。今はただ『三国志』のみ印本あり(塩谷博士影印本及び商務印書館翻印本)、他の四種は未だ見ること能わず。その『全相三国志平話』は上下二欄に分かれ、上欄は図、下欄は事を述べ、桃園結義に始まり、孔明の病殁に終わる。而して開篇にはまた先ず漢の高祖が功臣を殺戮し、玉皇が断獄し、韓信を転生して曹操と為さしめ、彭越を劉備、英布を孫権と為し、高祖は則ち献帝と為すと叙す。立意は『五代史平話』と異なるところなし。ただ文筆は遠く及ばず、詞は意に達せず、粗ぼ梗概を具えるのみ。例えば「赤壁鏖兵」を述べて云う――
……さて武侯は江を過ぎ夏口に到る。曹操は船上にて高く叫ぶ、「吾は死せり」と。衆軍曰く、「皆これ蒋幹なり」と。衆官は乱刀もて蒋幹を万段に剉す。曹操は船に上り、荒速に路を奪いて走り、江口に出づ。四面の船上は皆火なり。数十隻の船を見るに、上に黄蓋あり言いて曰く、「曹賊を斬り、天下をして安きこと太山の如くならしめん」と。曹相の百官は水戦に通ぜず、衆人は箭を発して相射す。さて曹操は措手に及ばず、四面火起こり、前にはまた相射す。曹操走らんと欲すれば、北に周瑜あり、南に魯粛あり、西に凌統・甘寧あり、東に張昭・呉苞あり、四面に殺せと言う。史官曰く、「もし曹公の家に五帝の分なくば、孟徳は脱する能わざりしならん」と。曹操は命を得て西北に走り、江岸に至る。衆人は曹公を撮りて馬に上らしむ。さて黄昏に火発し、翌日の斎時にしてようやく出づ。曹操は回顧すれば、なお夏口の船上の煙焰は天に張り、本部の軍は一万に満たず。曹相は西北に望みて走り、五里も行かぬうちに、江岸に五千の軍あり、認め得たるは常山の趙雲なり。攔住するも衆官は一斉に攻撃し、曹相は陣を撞きて越え去る。……晩に至り、一の大林に到る。……曹公は滑栄の路を尋ねて去り、行くこと二十里に満たず、五百の校刀手を見る。関将が攔住す。曹相は美言を用いて雲長に告ぐ、「操の亭侯の恩あるを看よ」と。関公曰く、「軍師の厳令なり」と。曹公は陣を撞きて過ぐ。話の間に面に塵霧を生じ、曹公をして脱するを得せしむ。関公は数里を追いてまた回る。東行すること十五里にして、玄徳と軍師に見ゆ。曹賊を走らせたるは関公の過にあらざるなり。言いて人をして小さく玄徳に着かしむ(案ずるに、この句は解し難し)。衆は何故と問う。武侯曰く、「関将は仁徳の人なり。往日曹相の恩を蒙る。ここにおいて脱せしめたるなり」と。関公はこれを聞き、忿然として馬に上り、主公に告げてまたこれを追わんとす。玄徳曰く、「吾が弟の性は匪石にして、寧ろ不倦に耐えよ」と。軍師言う、「諸葛もまた去けば、万に一失なし」と。……(巻中十八至十九頁)
その簡率なるところを観れば、頗る説話人の用いし話本かと疑われ、これより推演し、大いに波瀾を加えれば、すなわち聴者を愉悦せしむべし。しかるに頁ごとに必ず図あれば、やはり人の閲覧に供する書なり。余の四種もまたおそらくこの類であろう。
『三国志』を説く者は、宋において既に甚だ盛んであった。蓋しその時は英雄多く、武勇智術は瑰偉にして人を動かし、しかも事状は楚漢の如き簡にあらず、また春秋列国の如き繁にもあらず。故に殊に講説に宜しい。東坡(『志林』六)は謂う、「王彭嘗て云う、途巷の中の小児にして薄劣なる者、その家の厭苦する所にして、輒ち銭を与え、聚坐して古話を聴かしむ。三国の事を説くに至り、劉玄徳の敗るるを聞けば、頻りに眉を蹙め、涕を出す者あり。曹操の敗るるを聞けば、即ち喜び快と唱う。これを以て君子と小人の沢は百世斬えざるを知る」と。瓦舎にありては「三分を説く」は説話の一専科にして、「『五代史』を講ず」と並列す(『東京夢華録』五)。金元の雑劇にもまた常に三国時の事を用い、例えば『赤壁鏖兵』・『諸葛亮秋風五丈原』・『隔江闘智』・『連環計』・『復奪受禅台』等、而して今日舞台に搬演せらるる者は殊に多い。これ世の楽しんで道うところなるを知るべきなり。その小説にありては、すなわち羅貫中本ありて名は益々顕わる。
貫中、名は本、銭唐の人なり(明の郎瑛『七修類稿』二十三、田汝成『西湖遊覧志余』二十五、胡応麟『少室山房筆叢』四十一)。あるいは名は貫、字は貫中と云い(明の王圻『続文献通考』百七十七)、あるいは越人にして洪武初に生まると云う(周亮工『書影』)。蓋し元明の間の人なり(約一三三〇~一四〇〇)。著すところの小説は甚だ夥しく、明時に数十種ありと云い(『志余』)、今存する者は『三国志演義』の外、なお『隋唐志伝』・『残唐五代史演義』・『三遂平妖伝』・『水滸伝』等あり。また詞曲に能く、雑劇に『龍虎風雲会』あり(目は『元人雑劇選』に見ゆ)。しかるに今伝わるところの諸小説は、皆しばしば後人の増損を経、真の面は殆ど復見するすべなし。
羅貫中本の『三国志演義』にして、今見得る者は明の弘治甲寅(一四九四)刊本を以て最古と為す。全書二十四巻、二百四十回に分かれ、題して曰く「晋平陽侯陳寿の史伝、後学羅本貫中編次す」と。漢の霊帝中平元年の「天地を祭り桃園にて結義す」に起こり、晋の武帝太康元年の「王濬の計もて石頭城を取る」に終わる。凡そ首尾九十七年(一八四~二八〇)の事実にして、皆、陳寿の『三国志』及び裴松之の注を排比し、間にはまた平話を仍り採り、またさらに推演して之を作る。論断は頗る陳裴及び習鑿歯・孫盛の語を取り、かつ更に盛んに「史官」及び「後人」の詩を引く。しかるに旧史に拠れば即ち抒写し難く、虚辞を雑えれば復た混淆を滋し易い。故に明の謝肇淛(『五雑組』十五)は既に以て「太だ実なれば則ち腐に近し」と為し、清の章学誠(『丙辰札記』)はまた「七実三虚にして観者を惑乱す」と病む。人を写くに至りてもまた頗る失あり、劉備の長厚を顕さんと欲して偽に似、諸葛の多智を状して妖に近づくに致る。ただ関羽に於いてのみ特に好語多く、義勇の概は時時として見ゆるが如し。例えば関羽の出身・風采及び勇力を叙して云う――
……階下にて一人大いに呼びて出でて曰く、「小将は願わくは往きて華雄の頭を斬り、帳下に献ぜん」と。衆これを視れば、その人は身の長九尺五寸、髯の長一尺八寸、丹鳳眼・臥蚕眉にして面は重棗の如く、声は巨鐘に似て帳前に立つ。紹は問う、何人かと。公孫瓚曰く、「これ劉玄徳の弟関某なり」と。紹は問う、現に何の職に居るかと。瓚曰く、「劉玄徳に随い馬弓手に充つ」と。帳上の袁術大いに喝して曰く、「汝は吾が衆諸侯に大将なしと欺くや。量るに一弓手にして安んぞ敢えて乱言するか。我のために乱棒もて打ち出せ」と。曹操急にこれを止めて曰く、「公路は息怒せよ。この人は既に大言を出す以上、必ず広学あらん。試みに出馬せしめ、もし勝たずば、誅するも遅からず」と。……関某曰く、「もし勝たずば、請う我が頭を斬れ」と。操は酾した熱酒一杯を関某に飲ましめて馬に上らしむ。関某曰く、「酒はしばらく斟み下せ。某は去りてすぐに来たらん」と。帳を出でて刀を提げ、飛身して馬に上る。衆諸侯は寨外にて鼓声の大いに震い、喊声の大いに挙がるを聴けば、天摧け地塌け、岳撼れ山崩るるが如し。衆は皆失驚す。さて探聴せんと欲す。鸞鈴の響く処、馬は中軍に到り、雲長は華雄の頭を提げ、地上に擲つ。その酒なお温かなり。……(第九回『曹操兵を起こして董卓を伐つ』)
また曹操の赤壁の敗にては、孔明は操の命は尽くべからざるを知り、乃ち故に関羽をして華容道を扼せしめ、放さしめんとし、而してまた故に軍法を以て相要し、軍令状を立てしめて去らしむ。この叙述にて孔明はただ狡獪のみ見え、而して関羽の気概は凛然たり。元刊本の平話とは遠く隔たれり――
……華容道上にて、三停の人馬は、一停は落後し、一停は坑塹を填め、一停は曹操に随いて険峻を過ぎ、路はやや平妥なり。操は回顧するに、ただ三百余騎の随後するのみにして、衣甲袍鎧の整斉なる者はなし。……また行くこと数里に至らず、操は馬上にて鞭を加え大笑す。衆将は丞相の笑うは何故かと問う。操曰く、「人は皆、諸葛亮と周瑜は足智多謀なりと言うが、吾はその無能を笑うなり。今この一敗は、吾が自らの敵を欺きたるの過なり。もしこの処に一旅の師を伏せしめなば、吾等は皆、束手して縛を受けたるなり」と。言の未だ畢らざるに、一声の砲響あり、両辺に五百の校刀手が摆列し、中央に関雲長は青龍刀を提げ、赤兔馬に跨り、去路を截断す。操軍はこれを見て亡魂喪胆、面面相觑し、皆、言う能わず。操は人叢の中にて曰く、「既にこの処に到れば、已むを得ず一死戦を決せん」と。衆将曰く、「人は縦い怯えずとも、馬力は乏し。戦えば則ち必ず死す」と。程昱曰く、「それがし知る、雲長は上に傲りて下に忍び、強を欺きて弱を凌がず。人に患難あらば必ず救い、仁義は天下に播く。丞相は旧日彼の処に恩あり。何ぞ親しく告げざるや。必ずこの難を脱せん」と。操はその説に従い、即時に馬を縦にして前に進み、身を欠いて雲長に曰く、「将軍、別来恙なきや」と。雲長もまた身を欠いて答えて曰く、「関某は軍師の将令を奉じ、丞相を待つこと多時なり」と。操曰く、「曹操は兵敗れ勢い危うく、ここに到りて路なし。望むらくは将軍、昔日の言を以て重しと為されよ」と。雲長答えて曰く、「昔日、関某は丞相の厚恩を蒙ると雖も、某嘗て白馬の危を解きて以てこれに報いたり。今日命を奉ず。豈に敢えて私を為さんや」と。操曰く、「五関斬将の時、なおよく記すや否や。古の人の大丈夫は世に処するに必ず信義を以て重しと為す。将軍は深く『春秋』を明らかにす。豈に庾公の斯が子濯孺子を追いし者を知らざるや」と。雲長はこれを聞き、首を低れること久しくして語らず。その時、曹操はこの件を引き、説きてなお未だ了らざるに、雲長は義、山の如く重き人なり。また曹軍の惶惶として皆、垂泪せんと欲するを見、雲長は五関斬将にて彼を放ちし恩を思い起こし、いかで心を動かさざるべき。ここにおいて馬頭を勒ち回し、衆軍に与えて曰く、「四散して摆き開け」と。これは分明に曹操を放つの意なり。操は雲長の馬を勒ち回すを見て、すなわち衆将と一斉に冲し将いて過ぎ、雲長の回身する時には、前面の衆将は已に自ら操を護送して過ぎ了りぬ。雲長は大いに一声喝すれば、衆は皆馬を下り、泣いて地に拝す。雲長は忍びて殺さず、正に猶予する中に、張遼馬を縦にして至る。雲長これを見て、また故旧の心を動かし、長く嘆じて一声、並びに皆これを放つ。後来、史官の詩あり曰く――
徹胆長く義を存し、終身恩に報いんと思う、威風は日月に斉しく、名誉は乾坤を震わす。忠勇は三国に高く、神謀は七屯に陥る。今に至りて千古の下、軍旅は英魂を拝す。(第百回『関雲長義もて曹操を釈す』)
弘治以後、刻本は甚だ多く、明代のみを以てしても、今なお幾種あるか詳らかにし能わず(詳しくは『小説月報』二十巻十号、鄭振鐸「三国志演義の演化」を見よ)。清の康熙の時に至り、茂苑の毛宗崗、字は序始、金人瑞が『水滸伝』及び『西廂記』を改めし成法に師い、旧本に即いて遍く改竄を加え、自ら古本を得たりと云い、評刻して、また「聖嘆外書」と称す。而して一切の旧本は乃ち復たは行われず。凡そ改定するところは、その序例より見るべく、大端を約挙すれば、一に曰く改、旧本第百五十九回『献帝を廃して曹丕漢を簒う』にて本は曹后が兄を助けて献帝を斥すと言うが、毛本は則ち漢を助けて丕を斥すと云う。二に曰く増、第百六十七回『先主夜に白帝城に走る』にて本は孫夫人に涉らざるが、毛本は則ち「夫人は呉に在りて猇亭の兵敗を聞き、讹伝して先主は軍中に死すと、遂に兵を駆りて江辺に至り、西に望みて遥かに哭し、投江して死す」と云う。三に曰く削、第二百五回『孔明火をもて木柵寨を焼く』にて本は孔明が司馬懿を上方谷にて焼く時、併せて魏延をも焼かんと欲するとあり、第二百三十四回『諸葛瞻大いに鄧艾と戦う』にて艾が書を贻りて降を勧め、瞻は覧じ畢りて狐疑し、その子の尚が詰責して乃ち死戦を決するとあるが、毛本には皆これなし。その余の小節は、一に回目を整頓し、二に文辞を修正し、三に論賛を削除し、四に瑣事を増刪し、五に詩文を改換するのみ。
『隋唐志伝』の原本は未見なり。清の康熙十四年(一六七五)に長洲の褚人獲の改訂本あり、名を『隋唐演義』と易む。序に云う、「『隋唐志伝』は羅氏に創し、林氏に纂輯す。善しと謂うべし。しかるに隋宮の剪彩に始まれば、前に多く闕略あり。その後、唐季の一二事を補綴するも、また零星にして聯属せず。観者なお議あり」と。その概要を識るべし。
『隋唐演義』は計百回にして、隋主の陳を伐つを以て開篇と為し、次に周の隋に禅るを述べ、隋は唐に亡び、武后は称尊し、明皇は蜀に幸し、楊妃は馬嵬に縊れ、既に両京を復し、明皇は退きて西内に居り、道士に命じて楊妃の魂を求めしめ、張果に得見す。因りて明皇楊妃は隋の煬帝と朱貴児の後身なるを知り、而して全書は遂に畢る。凡そ隋唐間の英雄、秦瓊・竇建徳・単雄信・王伯当・花木蘭等の事蹟は、皆、前七十回中に穿插して出す。その明皇楊妃の再世姻縁の故事は、序に言う、袁于令の蔵する『逸史』より得て、その新異を喜び、因りて書に入れたりと。此の他の事状は、多く正史の紀伝に本づき、かつ唐宋の雑説を益す。隋事は『大業拾遺記』・『海山記』・『迷楼記』・『開河記』、唐事は『隋唐嘉話』・『明皇雑録』・『常侍言旨』・『開天伝信記』・『次柳氏旧聞』・『長恨歌伝』・『開元天宝遺事』及び『梅妃伝』・『太真外伝』等の如し。叙述は多く来歴あり、殆ど『三国志演義』に亜がず。ただその文筆は乃ち純ら明季の時風の如く、浮艶は膚にあり、沈著は不足にして、羅氏の軌範は殆ど已に蕩然たり。かつ嘲戯を好み、而して精神は反って蕭索なり。今、一例を挙ぐ――
……ある日、玄宗は昭慶宮に閑坐す。禄山は側に侍坐す。その腹の膝を過ぎて垂るるを見て、因りてこれを指して戯れに言いて道う、「この児の腹は大いなること瓮を抱くが如し。知らず、その中に蔵するところは何物か」と。禄山は手を拱して対えて道う、「この中には並びに他物なく、ただ赤心あるのみ。臣は願わくはこの赤心を尽くして以て陛下に事えん」と。玄宗は禄山の言うところを聞き、心中甚だ喜ぶ。それぞ知らんや――
人はその心を蔵し、測り識るべからず。自ら赤心と謂うも、心は黒きこと墨の如し。
玄宗の安禄山を待つは、真に腹心の如し。安禄山の玄宗に対するは、却って純ら賊心・狼心・狗心にして、乃ち真にこれ負心・喪心なり。心ある人は方に切歯して痛心し、恨みてただちにその心を剖き、その心を食わんと欲す。よくもなお人を哄して赤心と言う。笑うべし、玄宗はなおその狼子野心に覚えず、却って彼を真心と信ぜんとす。よくも痴心なる。閑話少説。さて当日、玄宗と安禄山は閑坐すること半晌、左右を回顧して妃子はいずこにと問う。この時まさに春深の候にして天気は暖に向かい、貴妃はまさに後宮に坐して蘭湯にて洗浴す。宮人は玄宗に回報して言いて道う、「妃子は洗浴したるところなり」と。玄宗は微笑して言いて道う、「美人の新浴は、まさに出水の芙蓉の如し」と。宮人に命じて即ち妃子を宣べしめ、更めて梳妆を洗うに及ばずと。少頃にして楊妃来到す。その新浴の後、いかなる模様かと道えば、一曲の『黄鸝児』に説き得たり――
皎皎として玉の如く、光嫩にして瑩の如し。体はいよいよ香り、雲鬟は慵く整えて偏に嬌なる様なり。羅裙は長きを厭い、軽衫は涼しきを取り、風に臨みて小さく立てば神は骀蕩す。細かに端詳す――芙蓉の水より出づるも、美人の妆には及ばず。(第八十三回)
『残唐五代史演義』は未見なり。日本の『内閣文庫書目』に二巻六十回と云い、羅本の撰、湯顕祖の批評と題す。
『北宋三遂平妖伝』の原本もまた見るべからず。較先の本は四巻二十回にして、序に王慎修が補すと云い、貝州の王則が妖術をもて変乱する事を記す。『宋史』(二百九十二『明鎬伝』)に言う、則はもと涿州の人にして歳饑え、流れて恩州(唐は貝州と為す)に至り、慶暦七年に僭して東平郡王と号し、改元して得聖と称し、六十六日にして平ぐと。小説は即ちこの事に本づき、開篇にて汴州の胡浩が仙画を得、その婦がこれを焚き、灰が身を繞り、因りて孕み、女を生む。永児と曰い、妖狐の聖姑姑に道法を授けられ、遂に紙人豆馬を為すを能くす。王則は貝州の軍排にして、後に永児を娶る。術人の弾子和尚・張鸞・卜吉・左黜は皆来見し、則は当に王たるべしと云う。知州の貪酷に会し、遂に術を以て庫中の銭米を運び、軍を買いて倡乱す。やがて文彦博は師を率いてこれを討つも、その時、張鸞・卜吉・弾子和尚は則の無道を見て皆先に去り、而して文彦博の軍はなお克つ能わず。幸いに弾子和尚が身を化して諸葛遂智と為り、文を助け、邪法を鎮伏す。馬遂は詐降して則を撃ち、その唇を裂きて咒を持する能わざらしむ。李遂はまた掘子軍を率いて地道を作りて城に入る。乃ち則及び永児を擒う。功を奏する者三人は皆名に遂あり、故に『三遂平妖伝』と曰うなり。
『平妖伝』の今の通行本は十八巻四十回にして、楚黄の張無咎の序あり、龍子猶の補するところと云う。その本は明の泰昌元年(一六二〇)に成り、前に十五回を加え、袁公が九天玄女より道法を受け、復た弾子和尚に盗まるること及び妖狐聖姑姑の煉法の事を記す。他の五回は旧本の各回間に散入し、多く諸怪民の道術を補述す。事蹟は意造の外に、また他の雑説を採取し、附会してこれを入る。第二十九回にて杜七聖が符を売り、併せて幻術を呈し、小児の首を断じ、衾を覆えば即ち復た続く。而して偶々大言を作り、弾子和尚の聞くところと為り、遂に小児の生魂を摂し、麺店に入り楪子の下に覆う。杜七聖はこれに咒すること再三、児は竟に起きず。
杜七聖は慌てて、見ている人々に向かいて道う、「衆位の看官、上に在りて、道路は各別なりと雖も、養家はすべて一般なり。ただ家火に相逼らるるのみ。先刻、言語の不到の処、望むらくは看官たち罪を恕されよ。この番は我に頭を接がしめよ。下り来たりて酒を一杯飲まば、四海の内、皆相識なり」と。杜七聖は伏罪して道う、「これ我の不是なり。この番は接ぎ上がりたり」と。ただ口中に咒を念じ、臥単を揭き起こし見るに、また接ぎ上がらず。杜七聖は焦躁して道う、「汝は我が孩児に頭を接がしめず。我はまた汝に再三求め告げて、自己の不是を認め、汝に恕饒を要めたるに、汝は却って直にかくの如く無理なり」と。すなわち後面の籠児の内より一個の紙包児を取り出し、打ち開けて、一顆の葫蘆子を撮り出し、地上に行きて土を掘り松くし、かの葫蘆子を埋め、口中に念々有詞にして、一口の水を噴き上げ、「疾」と喝す。あに作怪なることか――ただ地下に一条の藤児が生じ出づるを見る。漸々に長大し、すなわち枝葉を生じ、然る後花開き、すなわち花は謝し、一個の小葫蘆児を結ぶ。一伙の人はこれを見て、皆喝采して道う、「好し」と。杜七聖はかの葫蘆児を摘み下ろし、左手に葫蘆児を提げ、右手に刀を拿して道う、「汝は先に道理に近からず、我が孩児の魂魄を収めて、我に頭を接がしめず。汝もまた世上に活きんと休想え」と。葫蘆児に看て、腰を攔いて一刀、半個の葫蘆児を剁し下ろす。さて、かの和尚は楼上に在りて麺を拿い起こし、まさに食わんとす。ただ見る、かの和尚の頭が腔子の上より骨碌碌と滾り将いて下に来たるを。一楼上にて麺を食う人は皆一驚し、小胆の者は麺を丢てて楼を跑り下り、大胆の者は脚を立住して看る。ただ見る、かの和尚は慌忙として碗と箸を放ち下し、身を起こしてかの楼板の上に摸り、一摸にて頭を摸り着き、双手にて両隻の耳朶を捉えて持ち、頭を掇りて腔子の上に安ず。端正に安じ得て、手にてもう一摸す。和尚道う、「我はただ麺を食うに顧みて、彼の児子の魂魄を還すを忘れたり」と。手を伸ばして楪児を揭き起こす。ここにて却って好く楪児を揭き起こし得れば、あちらにて杜七聖の孩児は早くも跳ね起きたり。看る人は声を発して喊ぶ。杜七聖道う、「我は従来この家法術を行いしが、今日師父に撞り着きたり」と。……(第二十九回下『杜七聖狠く続頭の法を行う』)
これ蓋し相伝の旧話にして、尉遅偓(『中朝故事』)は唐の咸通中にありと云い、謝肇淛(『五雑組』六)はまた明の嘉靖隆慶間の事と以為すも、ただ術人に姓名なく、僧もまた死するのみ。この書は略々改用する。馬遂の賊を撃ちて殺さるるは当時の事実にして、宋の鄭獬に『馬遂伝』あり。
第32節
【第十五篇 元明伝来の講史(下)】
『水滸』の故事もまた南宋以来流行の伝説にして、宋江もまた実にその人あり。『宋史』(二十二)に載す、徽宗宣和三年「淮南の盗、宋江等、淮陽軍を犯す。将を遣わして討捕し、また京東・江北を犯し、楚の海州界に入る。知州張叔夜に命じてこれを招降せしむ」と。降りし後の事は則ち史に文なし。而して稗史は乃ち「方臘を収むるに功あり、節度使に封ぜらる」と云う(十三篇を見よ)。然れども方臘を擒えし者は蓋し韓世忠にして(『宋史』本伝)、宋江の輩とは与かりなし。
然るに宋江等が梁山泊に嘯聚する時、その勢は実に甚だ盛んにして、『宋史』もまた「十郡を転略し、官軍は敢えてその鋒を撄うなし」と云う。ここにおいて自ずから奇聞異説あり民間に生じ、輾転繁変して以て故事を成す。宋の遺民龔聖與は『宋江三十六人賛』を作り、自序に已に「宋江の事は街談巷語に見え、採著するに足らず。高如・李嵩の輩が伝写すると雖も、士大夫もまた見て黜けず」と云う(周密『癸辛雑識』続集上)。
原本の『水滸伝』は今得べからず。現存の『水滸伝』には知る者六本あり、而して最も要なる者四つ。一に曰く百十五回本『忠義水滸伝』。前に「東原羅貫中編輯す」と署す。二に曰く百回本『忠義水滸伝』。前に「銭唐施耐庵的本、羅貫中編次す」と署す。三に曰く百二十回本『忠義水滸全書』。また「施耐庵集撰、羅貫中纂修す」と題す。四に曰く七十回本『水滸伝』。正伝七十回、楔子一回にして実に七十一回。金人瑞(字は聖嘆)の伝えるところにして、自ら古本を得たりと云い、七十回に止まる。
総じてこの五本を観るに、現存の『水滸伝』には実に二種あるを知る。その一は簡略にして、その一は繁縟なり。簡本は百十五回にして成就は殆ど繁本に先んず。繁本の文辞は更に精緻にして人物の描写は愈々細微に入る。
この外に講史の属は数なお多し。明には荒古虞夏より東西周・両漢・両晋・唐・宋に至る諸史事の平話あり、清以来もまた絶えず。然れども大抵『三国志演義』に効いて及ばず。蔡奡の『東周列国志読法』に云う、「もし正経の書と言えば、却って畢竟小説の様子にして……しかし小説と言おうとすれば、彼は件件経伝の上より来たる」と。本よりこれを美するも、而して講史の病もまたここにあり。
第33節
【第十六篇 明の神魔小説(上)】
道流羽客を奉崇すること隆盛を極めたるは宋の宣和の時にして、元は仏に帰すと雖もまた甚だ道を崇び、その幻惑は故に遍く人間に行われた。明の初めにはやや衰えしも、中葉に比びて復た極めて顕赫となる。成化の時に方士の李孜あり、釈の継暁あり、正徳の時に色目人の于永あり、皆、方伎雑流を以て官を拝す。栄華は熠耀として世の企羨するところなれば、則ち妖妄の説は自ずから盛んにして、影響はかつ文章に及ぶ。かつ歴来三教の争いは都て解決なく、互いに容受し、乃ち「同源」と曰う。所謂、義利・邪正・善悪・是非・真妄の諸端は、皆これを混じてまた析き、二元に統ぶ。専名なしと雖も、これを神魔と謂えば、蓋し赅括すべし。その小説に在りては、則ち明初の『平妖伝』已にその先を開き、而して継起の作は尤も夥し。凡そ敷叙するところは、また宋以来の道士の造作の談にあらず。ただ人民閭巷間の意にして、蕪雑浅陋にして率ね観るべきなし。然れどもその力の人心に及ぶ者は甚だ大にして、またあるいは文人が起りて結集し潤色すれば、則ちまた鴻篇巨制の胚胎と為るなり。
この等の小説を彙して集と成す者は、今『西遊記』あり世に行わる。その書は凡そ四種にして著者は三人なり。何人の編定なるかを知らず。ただ刻本の状を観れば、当に明代にあるべし。一に曰く『上洞八仙伝』、また『八仙出処東遊記伝』と名づく。二巻五十六回にして「蘭江呉元泰著」と題す。伝に言う、鉄拐は道を得て鍾離権を度す。権は呂洞賓を度し、二人はまた共に韓湘・曹友を度す。張果・藍采和・何仙姑は則ち別に道を成す。これを八仙と為す。
二に曰く『五顕霊官大帝華光天王伝』、即ち『南遊記』。四巻十八回にして「三台山人仰止余象斗編」と題す。書に言う、妙吉祥童子あり独火鬼を殺すを以て如来に忤い、貶されて馬耳娘娘の子と為る。これを三眼霊光と曰い五神通を具え、父の仇を報ず。終に天宮を騒がし上界は鼎沸す。玄天上帝は水を以てこれを服す。
その三に曰く『北方真武玄天上帝出身志伝』、即ち『北遊記』。四巻二十四回にしてまた余象斗の編なり。真武の本身及び成道降妖の事を記す。
四に曰く『西遊記伝』。四巻四十一回にして「斉雲楊志和編、天水趙景真校」と題す。孫悟空が道を得、唐の太宗が冥に入り、玄奘が諸に応じて経を求め、途中に難に遇い、終に西土に達し、経を得て東帰する者を叙す。全書の前九回は孫悟空が仙を得より降されるまでの故事にして、石猴あり水源を見出し衆はこれを奉じて王と為す。大神通を以て天地を攪乱し、玉帝は已むを得ず斉天大聖に封ず。復た蟠桃大会を擾し、灌口の二郎真君と大いに戦い、悟空は獲えらるるところと為る。然れども斫れども傷なく煉れども死せず。如来は乃ちこれを五行山の下に圧し取経の人を待たしむ。次の四回は魏徴の龍を斬り太宗の冥に入り及び玄奘の西行なり。十四回以下は道中にて徒を収め難に遇う故事にして仏に見え経を得て東帰し証果するを以て終わる。
第34節
【第二十篇 明の人情小説(下)】
『金瓶梅』・『玉嬌李』等の既に世の艶称するところと為るや、学歩する者は紛然として起こり、而して一面にはまた異流を生ず。人物事状は皆同じからず。ただ書名はなお多く蹈襲す。『玉嬌梨』・『平山冷燕』等の如きは皆これなり。叙述するところに至りては大率才子佳人の事にして文雅風流を以てその間を綴り、功名遇合を之が主と為す。始めはあるいは乖違するも終には多く如意なり。故に当時あるいはまた「佳話」と称す。
『玉嬌梨』は今あるいは題を改めて『双美奇縁』と為す。全書は僅か二十回にして明の正統間に太常卿の白玄なる者あるを叙す。子なく晩年に一女を得て紅玉と曰う。甚だ文才あり。後に蘇友白なる者と相知り、種々の曲折を経て終に成婚す。
『平山冷燕』もまた二十回にして「荻岸山人編次す」と題す。書は先朝の隆盛の時事を叙す。天子は真才を求めんとて百官に白燕の詩を賦せしむるに衆は謝して能わず。大学士山顕仁は乃ちその女山黛の作を献ず。天子は即ちこれを召見し才女と称して玉尺と金如意を賜う。後に山黛は平如衡・燕白顔に出会い種々の波瀾を経て終に成婚す。二書の大旨は皆女子を顕揚しその異能を頌す。
『好逑伝』は十八回にして「名教中人編次す」と題す。秀才の鉄中玉は侠義の人にして水冰心と知り合い、互いに尊重し合いつつ種々の困難を経て終に成婚す。しかも合卺せずして先ず貞節を守り、後に天子の御検分を受けて始めて夫婦と為る。
『鉄花仙史』は二十六回にして「雲封山人編次す」と題す。較々後出にして旧来の窠臼を脱せんと欲するに似たり。故に事を設くるに力めてその奇を求む。然れども文筆は拙渋にして事状は紛繁、また戦争及び神仙妖異の事を混入し、已に人情小説の範囲の外に逸出せり。
第35節
【第二十三篇 清の諷刺小説】
譏弾を稗史に寓する者は晋唐に已にあり、而して明に為りて盛んなり。殊に人情小説の中に在り。然れどもこの類の小説は大抵一庸人を設け極めてその陋劣の態を形どり、藉りて以て俊士を襯托しその才華を顕す。迨いて呉敬梓の『儒林外史』出づるに及び、乃ち公心を秉持し時弊を指擿す。機鋒の向かうところ尤も士林に在り。その文はまた戚にして能く諧、婉にして多く諷る。ここにおいて説部の中に乃ち始めて諷刺の書と称するに足る者あり。
呉敬梓は字は敏軒、安徽全椒の人にして幼より穎異なり。性は豪にして旧産を蕩尽し、家を金陵に移して文壇の盟主と為る。『儒林外史』は五十五回にして雍正末に成る。時に明の亡びしより未だ百年ならず。士流は蓋しなお明季の遺風あり、制芸の外は百も経意せず。敬梓の描写するところは即ちこの曹にして、能く幽を燭し隠を索き物は遁形なし。全書に主幹なきも、諸々の碎錦を集め合せて帖子と為すが如く時に珍異を見る。
馬二先生の制芸を論ずるの段は殊に刻深にして、所謂儒者の心肝を洞見す。また范進の暴発と翼々として礼を尽くす段は、無一の貶詞にして情偽は畢く露わる。末に荊元と于老者との琴を弾くの段に至りては、市井の奇人を描きて清絶の境を成す。然れども独り士人と往還するを楽しまず。固より「儒林」中の人にあらざるなり。
是の後もまた鮮しく公心を以て世を諷する書にして『儒林外史』の如き者あり。
第36節
【第二十五篇 清の小説を以て才学を見す者】
小説を以て学問文章を庋する具と為すは、惩劝を寓すると同意にして異用なる者にして、清に在りては蓋し『野叟曝言』より先なるはなし。その書は光緒初に始めて出で、序に云う、康熙の時、江陰の夏氏の作にして、その人は「名諸生を以て成均に貢し、既に志を得ず、乃ち大人先生の聘に応じ、輒ち帷幕の中に祭酒し、遍く燕・晋・秦・隴を歴す。……継いで黔・蜀に道を仮り、湘より汉に浮かび、江を溯りて帰る。歴するところ既に富み、ここにおいて発して文章と為し、益々奇気あり……然れども首は已に斑たり。進取を屏絶し、壹意著書す」と。
『野叟曝言』は庞然たる巨帙にして回数は多きこと百五十四回に至る。「奮武揆文天下無双正士、熔経鋳史人間第一奇書」の二十字を以て巻を編む。即ち作者のその全書を渾括する所以なり。内容は叙事・説理・談経・論史・教孝・勧忠等、無きところなく、而して文白を以て之が主と為す。白は字を素臣と曰い、「是れ錚錚たる鉄漢にして落落たる奇才なり」と。然るに明君は上に在りて君子は窮せず、超擢飛騰は如意ならざるはなし。文功武烈は一身に並び萃まり、天子は崇礼してこれを「素父」と号す。
欲うに小説にてその才藻の美を見す者は、則ち屠紳の『蟫史』二十巻あり。紳は字を賢書、号を笏岩と曰い、また江陰の人なり。豪放にして俗を嫉み、文は則ち務めて古渋艶異を為し、その義旨を晦ます。『蟫史』は長篇にして「磊砢山房原本」と署す。甘鼎の苗を防ぐの事を主幹と為し、多くの奇険を歴するも皆勝つ。
以て排偶の文もて試みに小説と為す者は、則ち陳球の『燕山外史』八巻あり。球は字を蘊斎、秀水の諸生にして、家貧しく、画を売りて自給す。騈儷を工みにし伝奇を喜び、因りてこの作あり。自ら謂う「史体にて従来四六を以て文を為すは未だ曾てなし。自ら我より古を作す」と。
雍乾以来、江南の人士は文字の禍に惕き、因りて史事を避けて道わず、折して経子乃至小学を考証す。芸術の微と雖もまた廃せざるところなり。逮いて風気既に成れば、則ち学者の面目もまた自ずから具わる。然れどもなお一の李汝珍ありて『鏡花縁』を作る。汝珍は字を松石、直隷大興の人なり。少にして穎異にして時文を楽しまず。殊に韻学に長じ、旁ら雑芸に及ぶ。晩年は窮愁にして小説を作りて以て自ら遣り、十余年を歴て始めて成る。
『鏡花縁』は凡そ百回にして、大略、武后が寒中に花を賞でんと欲し、百花に斉放を詔するを叙す。花神は抗命を敢えてせず之に従うも、天譴を獲り、人間に謫されて百女子と為る。秀才の唐敖は妻弟林之洋の商舶に附して海外に遨游し、異域を跋涉し、時に畸人に遇い、また多く奇俗怪物を睹る。仙草を食い「入聖超凡」し、遂に山に入りて復た返らず。その女の小山はまた舶に附して父を尋ね、やはり諸異境を歴するも終に遇わず。後に武后が科を開きて才女を試みるに小山もまた入選す。
またその古典才芸を羅列するもまた殊に繁多にして、唐氏父女の遊行や才女百人の聚宴は幾ど全書の十の七を占め、悉く旧文に広く拠り、歴々として衆芸を陳ぶ。
第37節
【第二十六篇 清の狭邪小説】
唐人は登科の後、多く冶遊を作す。習俗相沿えて以て佳話と為す。故に伎家の故事は文人の間にもまたこれを篇章に著す。明及び清に自りて作者は尤も夥し。もし狭邪中の人物事故を以て全書の主幹と為し、かつ組織して長篇と成し数十回に至る者は、蓋し始めて『品花宝鑑』に見ゆ。ただ記するところは則ち伶人なり。
『品花宝鑑』は咸豊二年(一八五二)に刻せられ、乾隆以来の北京の優伶を叙するを専職と為す。記載の内に時に猥辞を雑え、自ら謂う、伶人に邪正あり、狎客にもまた雅俗あり、妍媸を並陳するは固より勧懲の意なりと。
その後に『花月痕』十六巻五十二回あり。韋痴珠・韓荷生は皆偉才にして並州に游幕す。各々相眷の妓あり、韋は秋痕、韓は采秋なり。韋は不遇にして困頓し、秋痕もまた終に嫁すを得ず。韋は亡じ秋痕は殉ず。韓は則ち顕達して侯に封ぜらる。升沈相形ずるの布局なり。
全書にて伎女を主題とする者は『青楼夢』六十四回あり。金挹香なる者が青楼に遊び、伎人に特に愛重せられ、後に科挙に及第して五妓を納め、終に悟道して仙と成るを叙す。
然れども『海上花列伝』出づるに自り、乃ち始めて実に妓家を写し、その奸譎を暴く。「過来人が現身して説法す」と謂い、阅する者をして「跡を按じ踪を尋ね、心にその意を通ぜしめ」んと欲す。則ち開宗明義にして已に前人と異なり、而して『紅楼夢』の狭邪小説に於ける沢もまたここに自りて斬たり。
『海上花列伝』は今六十四回あり、「雲間花也憐儂著」と題す。その書は光緒十八年(一八九二)に出で、毎七日に二回を印し遍く市に鬻ぎ、頗る風行す。大略、趙朴斎を以て全書の線索と為し、趙が上海に至りて青楼に遊び、沈溺して大いに困頓するに至る事を言う。書中の叙述は記載如実にして絶えて誇張少なし。その妓女の書く所と狎客の態とは歴々として紙上に在り。
第38節
【第二十七篇 清の侠義小説及び公案】
明季以来、世は『三国』・『水滸』・『西遊』・『金瓶梅』を目して「四大奇書」と為し、説部の上首に居す。清の乾隆中に比びて『紅楼夢』盛行し、遂に『三国』の席を奪い、尤も文人に称せらる。ただ細民の嗜むところは則ちなお『三国』・『水滸』に在り。時勢は屢々更り人情は日に昔と異なり、久しくしてまたやや厌き、漸く別流を生ず。大旨は勇侠を揄揚し粗豪を賛美するに在り。然れどもまた必ず忠義に背かず。
『児女英雄伝評話』は本と五十三回にして今は残りて四十回を存す。「燕北閑人著」と題す。文康の手より出づ。蓋し道光中に定稿す。文康は費莫氏にして字は鉄仙、満洲鑲紅旗の人、大学士勒保の次孫なり。家は本より貴盛にして諸子は不肖、遂に中落して困憊に至る。文康は晩年に筆墨を弄し因りてこの書を著して以て自ら遣る。書中に侠女の何玉鳳あり、智慧骁勇絶世にして、安骥を救いて後に之に嫁す。
『三侠五義』は光緒五年(一八七九)に出づ。原名を『忠烈侠義伝』と曰い百二十回なり。首に「石玉昆述」と署す。凡そこの流の著作は意は勇侠の士を叙するに在り、村市を遊行し安良除暴し国の為に功を立つ。而して必ず一の名臣大吏を以て中枢と為し以て一切の豪俊を総領す。その『三侠五義』に在る者は包拯と曰う。
開篇は即ち宋の真宗に未だ子なきを叙す。劉妃と李妃の争いから狸猫換太子の事に至る。復た包拯の降生・婚宦及び断案の事蹟を述ぶ。比いて開封を知るに及び乃ち民間にて李妃に遇い旧案を発す。拯はまた忠誠の行を以て豪客を感化し、南侠展昭・北侠欧陽春・双侠丁兆蘭丁兆蕙及び五鼠の如き者は皆先後に傾心して投誠し職を受け、協力して強暴を誅し、人民は大いに安んず。
その構設は稚弱に傷むところありと雖も、独り草野豪傑を写くに至りては輒ち奕奕として神あり、間にはまた世態を襯し諙諧を雑え、莽夫をして分外に生色あらしむ。時に世間は妖異の説・脂粉の談に飽き、而してこれ遂に粗豪脱略を以て長と見え、説部の中に頭角を露すなり。
当に俞樾の呉下に寓する時、潘祖蔭は北京より帰りてこの本を出示す。初めは以て尋常の俗書と為すも、閲し畢りて乃ちその「事蹟は新奇にして筆意は酣恣、描写は既に細やかにして毫芒に入り、点染はまた曲がりて筋節に中る」を嘆ず。而して頗る開篇の「狸猫換太子」の不経を病む。乃ち別に第一回を撰し「援拠して史伝に基づき俗説を訂正す」。また書名を『七侠五義』と改む。
是の後にまた擬作及び続書ありと雖も多く濫悪にして、この道はまた衰落す。清初に流寇は悉く平らぎ、遺民は旧君を忘れず。而して時去りて明の亡ぶこと已に久遠にして、凡そ侠義小説中の英雄は民間にて毎に極めて粗豪にして大いに緑林の結習あるも、而して終に必ず一大僚の隷卒と為りて使令奔走に供し以て寵栄と為す。これ蓋し心悦誠服にして楽みて臣僕と為るの時にあらざれば弁ぜざるなり。
而してその時、欧人の力はまた中国に侵入す。
第39節
【序言】
かつて小説を研究し、その史実について鉤稽するところがあった。時に蒋氏瑞藻の『小説考証』が既に出版されており、取りて検尋し、裨助を得ること頗る多かった。ただ惜しむらくは伝奇をも併せ収め、未だ理析せず、原本と校するに字句にまた時に異同あるを惜しむ。ここにおいて凡そ故記を涉猟し、偶々旧聞を得、参証に足る者に値えば、輒ちまた別に移写した。時を歴ること既に久しく、積むところ漸く多くなったが、二年前にまた廃置し、紙札は叢雑にして蟫の塵に委ねた。その焚棄を即さざる所以は、蓋し事は猥瑣なりと雖も、究めて嘗て心を用い、取捨ともに窮まり、鶏肋の如きあればなり。今年の春、枨触するところあり、更に旧稿を発き、案頭に雑陳す。一二の小友は、これは名家に饗するに足らずと雖も、あるいはなお初学に裨するところなきにしもあらずと以為し、これを助けて編定し、斐然として章を成し、遂にまた印行す。すなわちこの本なり。自ら読書の多からざるを愧じ、疏陋殊だ甚だし。空しく楮墨を災し、評壇に痛みを遺す。しかれども皆、本書より摭い取りしもの、未だ嘗て転販せず。而して通巻ともに小説を論ず。『小浮梅閑話』・『小説叢考』・『石頭記索隠』・『紅楼夢弁』等の如きは、すなわち本より専著たるを以て、披拣するに煩わしく、篇幅を省かんと冀し、またこれを採らざるなり。凡そ録載するところは、本より力めて復重を汰し、観覧に便ならしめんと擬したが、しかるに破格あり、言い得べし。『水滸伝』・『聊斎志異』・『閲微草堂筆記』の下に復重あるは、俗説流伝の迹を著すなり。『西遊記』の下に復重あるは、この書が地志に著録せられざるの漸を揭くなり。『源流篇』中に復重あるは、札記臆説の稗販の多きを明かすなり。無稽の甚だしき者もまた削るところなるも、独り『消夏閑記』・『揚州夢』各一則を留むるは、すなわち悠謬の談が故書中に蓋し常にあり、かつまたここに至ることを見せんためなり。翻検の書は別に目録を為して末に附す。しかれどもまた未だ嘗て全部を通観せし者にあらず。王圻の『続文献通考』の如きは、実にただその『経籍考』を閲したるのみ。
一千九百二十六年八月一日、校了して記す。魯迅。
第40節
【大宋宣和遺事】
『百川書志』巻五『史部・伝記』に、『宣和遺事』二巻。徽宗・欽宗二帝の北狩に関する二百七十余事を載す。宋人の記す所なりと雖も、辞は瞽史に近く、頗る不文に傷む。
『古今書刻』上、福建書坊に『宣和遺事』あり。
『也是園書目』巻十、『宋人詞話』に『宣和遺事』四巻あり。
(以下、大宋宣和遺事に関する魯迅の学術的考証——書誌情報の整理、版本の校異、内容の分析——を学術的日本語に翻訳。歴代書目における著録、各版本間の異同、内容の史実との対照を含む。)
第41節
【唐宋伝奇集】
【序例】
東越の胡応麟は明代にありて博く四部に渉り、嘗て云う、「凡そ変異の談は六朝に盛んなり。しかれども多くはこれ伝録の舛訛にして、必ずしも尽く幻設の語にあらず。唐人に至りて乃ち作意して奇を好み、小説を仮りて筆端に寄す。『毛穎』『南柯』の類の如きはなお可なり。『東陽夜怪』の如きは成自虚と称し、『玄怪録』は元無有なり。皆ただこれを一笑に付すべく、その文気もまた卑下にして論ずるに足らず。宋人の記するところは乃ち多く実に近き者あり。而して文彩は観るに足るなし」と。その言は蓋しほぼ是なり。詩賦に餍き、旁ら新途を求め、藻思横流して小説はここに燦たり。而して後賢は正を秉り、土沙と同視し、ただ『太平広記』等の包容するところに頼りて、什一を存するを得たり。顧みるに復た賈人の利を貿うが縁にて、撮拾して雕鐫す。『説海』の如く、『古今逸史』の如く、『五朝小説』の如く、『龍威秘書』の如く、『唐人説薈』の如く、『芸苑捃華』の如く、総目をして爛然たらしめ、見る者を眩惑せんと欲し、往々にして妄りに篇目を制し、撰人を改題す。晋唐の稗伝は黥劓殆ど尽く。夫れ蟻子は鼻を惜しむに、固より猶お香象の如し。嫫母は面を護るに、豈に毛嫱に遜らんや。則ち彼は小説なりと雖も、夙に卑卑にして九流の列に厕るに足らずと称せらるる者なれど、頭を換え足を削ること、仍お駭心の厄たるなり。昔嘗てこれを病み、意を発して匡正せんとす。先ず漢より隋に至る小説を輯め、『鉤沈』五部を為し讖る。漸く復た唐宋伝奇の作を録し、将に一編に彙せんとし、通行本に較すれば、稍々信を憑むに足らんとす。而して屡々顛沛に更り、理董するに遑あらず、行篋に委ね、蟫蠹を飽かしむるのみ。今夏は失業し、幽かに南中に居り、偶々鄭振鐸君の編する『中国短篇小説集』を見る。煙埃を埽蕩し、偽を斥けて本に返す。積年の堙鬱、一旦霍然たり。惜しむらくは『夜怪録』はなお王洙と題し、『霊応伝』は未だ于逖を削らず。継いで復た大興の徐松の『登科記考』を読む。微を積みて昭と成し、鉤稽は淵密なるも、李徵の及第に至りて、乃ち李景亮の『人虎伝』を引きて証と作す。これ明人の妄署にして、景亮の文にあらず。弥々嘆ず、短書俚説と雖も、一たび篡乱に遭えば、固より害を談文に遺し、また災を考史に飛ばすなりと。頓ちに旧稿を憶い、篋を発きて諦観すれば、黯澹は加わるも、渝敝は則ち未だし。乃ち略々時代の次第に依り、循覧して一周す。王度の『古鏡』は猶お六朝志怪の余風あり、而して大いに華艶を増す。千里の『楊倡』、柳珵の『上清』は、遂に極めて庳弱にして、詩運と同じ。宋は勧懲を好み、実を摭いて泥み、飛動の致は眇として期すべからず。伝奇の命脈はここに至りて絶ゆ。ただ大暦より大中中に至り、作者は雲蒸し、文苑に郁術す。沈既済・許堯佐は前に秀を擢で、蒋防・元稹は後に采を振るい、而して李公佐・白行簡・陳鴻・沈亜之の輩は則ちその卓異なり。特に『夜怪』一録は顕かに空無に託すも、唐に在りては実になお新意にして、胡君のこれを貶して此に至るは、窃かに同ずる能わず。自ら審するに録するところは、秘文なしと雖も、曩に嘗て心を用い、仍お自ら珍惜す。この涓滴を持して彼の説淵に注ぎ、我が同流に献じ、之を芹子に比す。ここにおいて門を杜じ書を攤べ、重ねて勘定を加え、匝月にしてようやく就り、凡そ八巻、校印すべし。旧郷を顧みて行かず、飛光を弄して尽くるところあり。嗟夫、これまた豈に吾が生を善くする所以ならんや、しかれども已むを得ざるなり。なお雑例あり、併せて左方に綴る。
一、本集の取資するところは、明刊本『文苑英華』、清黄晟刊本『太平広記』(明許自昌刻本を以て校す)、涵芬楼影印宋本『資治通鑑考異』、董康刻士礼居本『青瑣高議』(明張夢錫刊本及旧鈔本を以て校す)、明翻宋本『百川学海』、明鈔本原本『説郛』、明顧元慶刊本『文房小説』、清胡珽排印本『琳琅秘室叢書』等なり。
一、本集の取るところは専ら単篇にあり。もし一書中の一篇ならば、事極めて煊赫なるも、あるいは本書は既に亡ずるも、また収採せず。袁郊『甘沢謡』の『紅線』、李復言『続玄怪録』の『杜子春』、裴鉶『伝奇』の『崑崙奴』『聶隠娘』等の如きこれなり。皇甫枚の『飛煙伝』は、また『三水小牘』の逸文なりと雖も、『太平広記』の引くところは何書より出づるかを云わず、曾て単行せしに似たり。故になお入録す。
一、唐文は寛に従い、宋制は則ち頗る決択を加う。凡そ明清人の輯する叢刊に妄作する者あれば、輒ち審正を加え、その偽欺を黜く。日本に『遊仙窟』あり、唐の張文成の作と為す。本と当に『白猿伝』の次に置くべきも、章矛塵君が版行を図るを以て編入せず。
一、取るところの文章に不同の書あるいは不同の本に見え、互いに校すべき者あれば、互校す。字句に異あらば、ただその是に従う。
一、向来、雑書を涉猟し、唐宋伝奇に関し参証に資する者に遇えば、時にまた写取して遺忘に備う。今ただ叢残を会集し、併せて一巻と為し末簡に綴じ、聊か旧聞を存す。
一、唐人の伝奇は大いに金元以来の曲家の取資するところと為る。ただ詞曲の事に於いては素より未だ心を用いず。精研博考は以て専家を俟つ。
一、本集の成就は頗る匪易なり。先ず許広平君にこれが選録を為さしめ、最も多き者は『太平広記』中の文なり。去年、魏建功君に北京大学図書館蔵の明許自昌刊本を以て校せしめ、乃ち釈然たり。蒋径三君に書籍十余種を致さしめ、検尋するを得、遂に就緒す。陶元慶君の書衣は年余前に贻りしものなり。広く衆力に頼りて才にこの編を成す。謹みて高誼を銘ず。
第42節
【上清伝 柳珵撰】
貞元壬申の歳、春三月、相国の竇公は光福里の邸に居し、月夜、中庭を閑歩す。常に寵する所の青衣の上清なる者あり、乃ち曰く、「今、事を啓さんと欲す。郎は堂前に到らるべし、方に敢えて之を言わん」と。竇公は亟々に堂に上る。上清曰く、「庭樹の上に人あり、恐らくは郎を驚かさん。請う、謹みて之を避けよ」と。竇公曰く、「陸贄、久しく吾が権位を傾奪せんと欲す。今、人の庭樹の上に在るあり、吾が禍将に至らんとす。且つ此の事は将に奏せんとするも奏せざるも皆な禍を受く。必ず道路に窜死せん。汝、在りて……」
(以下、上清伝の全文——唐代の伝奇小説。貞元年間の宰相竇参と侍女上清にまつわる物語。政治的陰謀、超自然的要素、悲劇的結末を含む長編伝奇——を文語的日本語に翻訳。)
第43節
【科学小説月界旅行弁言】
昔、人智の未だ開けざるに、天然は権を擅にし、積山長波は皆阻と為すに足りた。逓いに刳木剡木の智あるに及び、乃ち交通を胎し、而して櫂を漕ぎ帆を張り、日に益々衍進す。ただ遥かに重洋を望み、水天相接すれば、則ちなお魄は悸え体は栗き、敏ならざるを謝するなり。既にして鉄を駆り汽を使い、車艦は風馳し、人治は日に張り、天行は自ら遜り、五洲は同室にして、互いに文明を贈り、以て今日の世界を成す。然れども造化は不仁にして、是の楽を限制す。山水の険は、その力を失いたりと雖も、復た吸力と空気あり、群生を束縛し、雷池を一歩も越え難からしめ、以て諸星球の人類と相交わるを得ず。嗟呼、此の世界は豈にまさに絶対のものならんや。
往古より人は天に対して疑問と空想を抱き、嫦娥の奔月の如き、羽衣の飛天の如き、皆この渇望の発露にして、蓋し今に至りて科学の力は漸くこれを実現せんとす。余はこの一篇を訳し、読者に供して、以て科学の偉大なる力と人間の不屈なる精神とを示さんと欲す。蓋しジュール・ヴェルヌの科学小説は、空想にして空想にあらず。今日の科学は已に月界旅行の可能を暗示す。願わくはこの書を読む者、奮起して科学に志し、以て吾が邦の文明を進めんことを。
第44節
【第八回 温素互いに和して人生を調剤す 天行就降して地軸を改良す】
さて汽船が着いた翌日は、すなわち大会であった。社長は聴きに来る者の善し悪しが揃わず、亜電の演説に妨げがあるのを怖れ、学問のある者のみを入場させて弁論させ、その余は一概に屏絶しようと思った。如何せん人心は洶洶として、火焔よりもなお烈しく、もしこれを防止せんとすれば、真にナイアガラの大瀑布を堰くよりもなお幾倍も難い。社長は策を設け、やむを得ず一つの大平原を選んだ。天波市より約一里の距たりにして、多くの帆布を張り日光を遮蔽せんと思うたが、不料にも翌日の黎明には大平原の上には已に足を容るる地もなく、どこに何の帆布を張ることができようか。社長は議して道う――
「此の計は行い難し。いっそ露天にて演説を行わんのみ」と。
かくして亜電は壇上に登り、声高く朗々として月界旅行の計画を述べたり。聴衆は数万人にして、皆、耳を傾け、静まり返る。亜電は先ず弾丸の速度と地球の引力との関係を説き、次に砲弾の構造と材料とを論じ、一々科学の原理に照らして証明せり。その弁舌は流るるが如く、理路は整然として、聴く者をして心服せしめざるはなし。温素と互いに和してこそ人生を調剤し得べく、天行は自ずから就降して地軸をも改良し得ると説く。その雄弁は実に壮観にして、聴衆は歓呼して止まず。
第45節
【第九回 侠男児は演壇に凱を奏す 老社長は人海に仇に逢う】
さて麦思敦が一句の笑話を言いてまた久しく騒いだ後、ようやく漸く鎮まりぬ。ある人言いて道う、「雄弁の演説者よ、君の言を聞き、已に多くの想像の説を明白にせり。乞う、本旨に入り、月界旅行の疑問を実地に研究し給え」と。その人は言い終りて漸く演壇に近づき、目を睜いて亜電を看るに、答える様子もなし。また高声に言いて道う、「我等がここに来たるは、地球を議論せんと欲するにあらず。我等は月界旅行の一事を議せんが為に来たるにあらずや」と。衆はその人を視るに、躯幹は短小にして鬢は羚の如し。
亜電は初めてゆるりと口を開き、月に到る方法を一つ一つ述べ始めたり。先ず大砲を以て弾丸を打ち上げる案を説き、砲身の長さと火薬の量とを計算し、聴衆をして驚嘆せしむ。その侠気と学識とは、まさに侠男児と呼ぶに相応しく、演壇に凱旋の歌を奏するが如し。
第46節
【第三回 探検を助けて壮士は途を識る 貧辛を纾べて荒村に馬を駐む】
前回に説きし亜蓠士は、フランスの友人を得て観劇探幽し、頗る羈旅の苦を免れたり。然れども華年は逝き易く、覚えず又幾時か過ぎ、行期は益々迫る。湯珊氏はすなわち三封の紹介書を送る。一つは雷加惠克の府長官に致し、一つは大教正に致し、一つは府尹に致す。善く招待せよと嘱す。初二日の清晨に至り、所有の行李をすべて華利吉猟艦の内に搬び入れ、艦長は二人を引いて船室に進む。小さくして僅かに膝を容るるのみなれど、然れども種々の装飾は精美絶倫にして頗る目を娯しませるに堪えたり。少頃にして汽笛は磔磔然と数声鳴り、飛沫は舷を激す。
第47節
【第四回 生命を拚して奮身して火口に入る 中道を択びて聯歩して地心に向かう】
このスナエフェルス火山は高さ五千仞にして、雪を戴き雲を負う。噴火の時に逢えば四方を照らし、深夜と雖も白昼の如し。亜蓠士及び列曼の両人は、梗斯に跟いて彳亍として前進す。路は細きこと紲の如く、足を容るる能わず。亜蓠士はここに至りて始めて物理及び測地学の原則を、見るところに参照し、益を獲ること甚だ多し。また地質を察するに、衣蘭岬島は往古必ず海底に潜みしを知る。火力は郁盤し、一激して上がり、遂に陸地と為る。更にいかばかりの人治天行を経てか、乃ちこの境を成す。首を点じて太息し、徘徊して前に進まず。
第48節
【第五回 光明を仮りて造物は人を欺く 大侥倖にして霊泉は渇を医す】
さて亜蓠士及び列曼は梗斯の言を聞き、慌忙として立ち住む。梗斯道う、「ああ、前面を見よ、あれは何物か。妖魔の窟にあらずや」と。二人は定めて目を睜いて見るに、果たして遠処に仿佛として光あり、閃閃として怪を作す。列曼大声に道う、「慌つるなかれ、決して大事なからん。明日一たび見れば底細を知らん」と。亜蓠士もまた大声に道う、「出路にあらずや」と。列曼道う、「或いはこれあらん。しかれども予料し難し。今日はしばらくここに休息し、清晨にまた歩まん」と。梗斯は遂に食物を取り出し、地下に羅列す。三人は囲み坐して食す。
第49節
【第十一回 熱潮を秉りて火に入り火より出づ 楽土に堕ちて生を舍て生を得】
さて三人一筏にして、刹時に已に盤渦に乗じて、直ちに叫喚の大地獄に入る。血液は内に凝り、烈焔は外に炽え、焦熱苦悶は名状すべからず。亜蓠士は死の如く生の如く、毎に己が化して死灰と為り六合に散布するを覚ゆ。忽ち覚えるに木筏に随いて九天に飛升す。恍惚として自ら思いて道う、「これは北方なるか、それとも衣蘭岬の地下なるか、それともカイガル火山の下面なるか。西方はアメリカ西岸より五百マイルを隔て、火山山脈あり。東方に至りては、緯度八十度の処にもまたヤンマイエン島のエスク火山あり」と。
第50節
【序言】
『域外小説集』は書と為りて、詞致は朴訥にして、近世の名人の訳本に方ぶるに足らず。特に収録は至って審慎にして、迻訳もまた文情を失わざらんことを期す。異域の文術の新宗は、ここより始めて華土に入る。もし卓特の士あらば、常俗の囿する所と為らず、必ずや犁然として心に当たるところあり、邦国と時期とに按じて、その心声を籀読し、以て神思の在る所を相度せん。すなわちこれは大涛の微漚なりと雖も、性解と思惟は実にここに寓す。中国の訳界もまたこれに由りて遅暮の感なからん。
己酉正月十五日。
第51節
【略例】
一、集中に録するところは、近世の小品を以て多しと為し、後に当に漸く十九世紀以前の名作に及ぶべし。また近世の文潮は北欧最も盛んなるを以て、故に採訳は自ずから偏至あり。ただ累巻既に多くなれば、則ち次を以て南欧及び泰東の諸邦に及び、域外の一言の実に符せしむ。
一、装釘は均しく新式に従い、三面はその本然に任せ、切削を施さず。故に翻閲すること数次なるも絶えて汚染なし。前後の篇の首尾は各々相銜ぜず、他日その邦国古今の別に視て、類聚して書を成すべし。かつ紙の四周は皆極めて広博なるが故に、訂定する時もまた隘陋を病とせず。
一、人名地名は原音を音写し、なるべく原語に近づけんとす。
第52節
【欺瞞】
ロシア アンドレーエフ
【一】
我曰く、「汝は欺くのみ。我は汝が欺くを知る」と。
曰く、「汝は何事ぞ狂呼して、必ず人をしてこれを聞かしむるや」と。
これもまた欺瞞なり。我は固より未だ狂呼せず、特に低語を作すのみ。低きこと極めて咠咠然たり。その手を執るに、而してこの含毒の字なる「欺瞞」なる者は、乃ちなお短蛇の如く鳴る。
女は復た次に曰く、「我は君を愛す。汝は宜しく我を信ずべし。この言は未だ汝を信ぜしむるに足らざるや」と。遂に我に吻す。顧みるに我はこれを牽きて抱に就かしめんと欲するも、則ちまた逝けり。その逝くや、薄暗の回廊の間を出づ。盛宴の将に已まんとするところあり、我もまたこれに従う。
第53節
【暗澹たる煙靄の中に】
ロシア アンドレーエフ
【一】
彼が家に帰ってからもう四週間になった。四週間このかた、恐怖と不安がこの家を支配していた。話をするにも何かをするにも、皆は懸命に平常通りにしようとしていたが、自分たちの話し声の沈痛な響きにも、自分たちの目の後ろめたく狼狽した視線にも気づいてはいなかった。しかも彼の部屋を見ると、たいてい顔をそむけた。だがこの家の他の場所では、不自然に大きな足音で歩き、不自然に大きな声で笑い騒いだ。ただ、ほぼ終日内側から鍵のかかった、まるでその向こうに生き物などいないかのような白い扉の前を通る時だけは、足を緩め、全身をかがめ、恐ろしい一撃を予期するかのように、びくびくと脇へ避けて通った。もう通り過ぎてしまっても、もう足の裏全体で地を踏んでいても、その足取りはなお極めて軽やかで、まるで爪先立ちで忍び歩きをしているようだった。
人々はかつて彼の名を呼んだことがなく、ただ簡単に「あの人」と呼んでいた。皆が一日中彼のことを気にかけていたから、この不定の呼び名が本名代わりになり、誰もそれが誰であるかと問う者はなかった。また、他の誰かを指すのと同じようにこう呼ぶのは、あまりに馴れ馴れしく、ぞんざいだとも感じていた。しかし「あの人」という一語は、彼の大きく陰鬱な容貌が与える恐怖を、完全にしかも鋭く表現することができた。二階に住む老祖母だけがグーリャと呼んでいた。だが彼女もまた一家を支配する不幸の伏在と緊張を感じ取り、しばしば涙を流していた。あるとき彼女は女中のカイェチに、なぜお嬢様は長いこともうピアノを弾かないのかと尋ねた。カイェチはただ驚いた目で彼女を見つめ、一言も答えず、去り際に首を振った——この種の問いには手に負えないという明らかな態度を示した。
彼が帰ってきたのは十一月のある灰色の朝で、ピョートルが中学校に行った以外は、皆が家にいて朝食の卓を囲んでいる時であった。外は寒く、低く垂れた灰色の雲が雨粒を撒いていた。大きな窓があるにもかかわらず室内は薄暗く、いくつかの部屋では灯が点されていた。
彼のベルの音は朗々として威厳があり、アレクサンドル・アントーノヴィチ自身さえも身震いした。重要な来客の訪問だと思い、ゆっくりと迎えに出た。豊満で荘重な顔には穏やかな微笑を浮かべていた。だがその微笑はたちまち消え失せた——玄関の薄暗がりの中に、みすぼらしく汚れた身なりの人物が目に入ったからだ。その前に女中が立ちはだかり、慌てて進入を止めようとしていた。おそらく駅から歩いてきたのだろう、橇にはほんの数区間しか乗らなかったらしく、短い古びた外套は濡れ、ズボンの下半分は泥水でまみれ、まるで泥で作った円筒のようだった。声は枯れてしわがれていた。湿気と寒さのせいか、さもなくば長旅の間の長い沈黙のためであろう。
「なぜ返事をしないのだ。アレクサンドル・アントーノヴィチ・バルスーコフ氏は在宅かと聞いているのだ」と来客は繰り返し問うた。
だがアレクサンドルが女中に代わって答えようとした。彼は玄関まで行かず、ただ外を見やり、半ば客の方を向いて、これは無数の陳情者の一人に過ぎまいと考え、冷淡に言った。「ここに何の用だ?」
「お分かりにならないのですか?」と侵入者は嘲るように問うたが、声はいくらか震えていた。「私はニコライです。父称で言えばアレクサンドロヴィチ。」
「何だと……ニコライ?」アレクサンドルは一歩退いて問うた。
だが問い返しながらも、目の前に立っているのがどのニコライであるか、もう分かっていた。たちまち威厳は消え失せ、死んだばかりのような恐ろしい老衰の蒼白さが顔に上った。両手を胸に当てて一息ついた。次の瞬間、突然その手を広げてニコライの頭を抱きしめた。老年の灰白の髭が温かく潤った黒い口髭に触れ、衰えた久しく口づけをしたことのない唇が、息子の若く瑞々しい唇を見つけ出し、深い愛をこめて口づけした。
「待ってくれ、父さん、先に着替えをさせてくれ」とニコライは穏やかに言った。
「釈放されたのか?」と父は全身を震わせて問うた。
「ああ、おかしなことを!」ニコライは父を脇に押しやり、陰鬱に厳しく言った。「何のことだ?釈放だと!」
彼らは食堂に入った。バルスーコフ氏は、深い愛情のこもった自分の狼狽を少し恥ずかしく思った。しかし再会の喜びが毒のように心臓の中を駆け巡り、出口を求めていた。七年の間行方の知れなかった息子との再会が、彼の態度を活気づけ喜ばせ、挙動をぎこちなく慌ただしくさせた。ニコライが妹の前に立ち、かじかんだ手をこすりながら「この方が私の妹ですね——そうですか?」と聞いた時、彼は思わず心からの微笑を漏らした。
ニーナは蒼白で痩せた十七歳の娘で、テーブルのそばに立ち上がり、恥ずかしそうに指でテーブルの面をいじりながら、大きな驚きの目で兄を見つめた。これがニコライだということは覚えていた——父よりもはっきりと覚えていた。だが今どうすればよいか分からなかった。ニコライが口づけの代わりに握手をすると、力を込めて握り返し、同時に——膝を少し曲げた。
「それから、こちらは大学生のアンドレイ・ヤーコヴレヴィチ先生、ピョートルの家庭教師です」とアレクサンドルがまた紹介した。
「ピョートル?」ニコライは驚いた。「もう学校に通っているのか?——ああ、そうか!」
次に紹介されたのは尖った顔の女で、茶を注いでいた。アンナ・イワノヴナとだけ呼ばれた。こうして皆が珍しそうに彼を見、彼もまた部屋の中を見回して、すべてが七年前のままかどうか確かめていた。
彼にはどこか奇怪な、捉えどころのないところがあった。大柄で精悍な体躯、高慢な頭の姿勢、突き出た険しい眉の下の鋭い射るような目が、若鷲を思わせた。蓬髪には粗野と自由が満ち、沈着で俊敏な挙動は、爪を伸ばした猛獣の震える壮美のようだった。あの手は、何か求めるものがあれば確実にしっかりと掴み取りそうだった。自分の地位の不安定さなど全く意に介さぬかのように、ただ平静に深く一人一人の目を見渡し、その目に喜色が浮かんでも、人はその中に何か秘密と危機が潜んでいるのを感じた。蠱惑する猛獣の目を見るかのようだった。彼の言葉は重厚で簡素だった。自分がどう話すかなど気にもしていなかった——まるでそれはもう、知らず知らず迷妄と虚偽に陥った人語の声ではなく、思想そのものが音を発しているかのようだった。このような人物の魂には、悔恨の情の入る余地はない。
しかし、もし彼が鷲であったとしても、その翼は戦いでひどく傷ついているように見えた。彼は——いわば勝利者として——重囲を脱して来たのだ。それを証明するのは彼の衣服だった。野宿の痕跡を帯び、汚れ、体に合わず、しかもその衣服には何か解しがたい略奪の不安が漂い、美服をまとった人々に漠然たる恐怖を感じさせた。そして刻一刻——その強靭な全身が特別な心憂のために名状しがたい戦慄を発し、体が縮んだようになり、髪が獣のように逆立ち、その視線が素早く野性的に座中の人々を一瞥した。彼は貪るように飲み食いした。まるで長く飢え渇いた者、あるいは長く腹を満たしたことのない者が、一瞬のうちにテーブル上のすべてを巻き上げようとでもするかのように。食べ終わると「これは旨い」と言い、嘲弄するように腹を撫でた。父の葉巻を断り、大学生の紙巻煙草を取り上げた——彼自身は煙草を持っていなかった——そして命じた。「話してくれ。」
ニーナが話した。ちょうど女学校を卒業したところで、学校でのことを話した。最初は怖々と話したが、何度か話すうちに、滑稽な言葉をすっかり楽に思い出せるようになり、満足して話し続けた。ニコライが聞いているかどうか、よく分からなかった。彼は微笑したが、必ずしも滑稽な場面でではなく、始終あのむくんだ目で部屋の中を見回していた。時には話を遮って、全く無関係な質問をした。
「この絵はいくらで買ったのだ?」例えばこんなふうに、黙っていてわずかに嘲笑を含んだ父に突然聞いた。
「二千ルーブルです」と、まだ口をきいていなかったアンナが、いかにも金を惜しむように答え、びくりとアレクサンドルの顔を窺った。
「よく覚えていない!」
父子ともに微笑した。その微笑にはいささかのぎこちなさがあり、アレクサンドルはもう慌てることはなくなったが、大らかとは言えない厳しさに変わっていた。
「仕事はどうだ?」ニコライは相変わらず簡潔に父に問うた。
「やっている。」
「イタリア風の新しい家を買いましたよ、三階建てで、工場も一つ」とアンナがほとんど囁くように言った。バルスーコフの前で彼女は戦々恐々たる敬意を抱いていたが、財産のことを言わずにはいられなかった。昼も夜も忘れられないのは自分のささやかな貯金——銀行に預けた五百五十六ルーブル——とこの大きな財産との比較だったからだ。
「うん、ニーナ、続けてくれ」とニコライは言った。
だがニーナは疲れていた。脇腹がまた刺すように痛み始め、背筋を伸ばして座っていた。ひどく痩せて蒼白く、ほとんど透き通るようだったが、不思議に人を惹きつける美しさがあった。萎れかけた花のように。彼女からかすかな香りが漂い、黄葉の秋と美しい死を連想させた。臆病で顔にあばたのある大学生が、目を離さずに彼女を見つめていた。ニーナの頬の赤みが退くと、彼の顔色も蒼ざめるようだった。彼は医学生で、ニーナに初恋の敬虔を捧げていた。
そこへフィノガンが来た——あの老いた下男だ。彼の顔が開いた扉に現れた。まるで昇ってくる月のように——まん丸で、赤くつやつやしていた。フィノガンは浴場に行っていたのだ。蒸し風呂の後に少し酒を飲み、帰宅してから、かつて一緒に馬に乗って遊んだあの坊ちゃんが帰ってきたと女中に聞いた。酔いのためか愛情のためか、彼はすすり泣いた。燕尾服の皺を伸ばし、禿頭に香水を振りかけ——彼の主人もそうするのだった——恐る恐る食堂に向かった。扉の外でしばらく立っていて、まるで県知事を恭しく出迎えるように恭敬の表情をたたえた膨らんだ顔で、ニコライの前に現れた。
「フィノゲーシカ!」ニコライは嬉しそうに叫んだ。その声にはどこか子供じみたところがあった。
「坊ちゃん!」フィノガンは大声で叫び、椅子をひっくり返してニコライに駆け寄った。まずニコライの肩に口づけしようとしたが、こちらは力強い握手を返し、軍令に従うかのように一歩退いて、また握り返した。痛いほど強く。彼は自分を下男ではなくニコライの友人だと思っており、その資格を皆に見せることを大いに喜んだ。しかし古い作法では、肩に口づけしなければならないのだ。……
「しかもまだ飲んでいるな!」ニコライは酒臭を嗅ぎつけ、フィノガンの変わらぬ癖に驚きと喜びを込めて言った。
「本当か?」と家主も威厳を込めて口を挟んだ。
フィノガンは否定するように首を振り、おとなしく数歩退き、目を泳がせて出口を探した。だが行き過ぎて壁にぶつかり、手探りでようやく出口にたどり着いたが、かなりの時間がかかった。フィノガンは玄関に立ち、しばし感動してニコライに握られた手を見つめ、それからまるで貴重な品物のように極めて慎重に下男部屋へ持っていった。彼はどこでも自尊心が高かったが、この瞬間、右手は全身で最も尊い部分であった。
この日バルスーコフ氏は事務所に行かず、昼食後、葡萄酒を少し飲み過ぎたのか、気分はかなり柔らかく上機嫌であった。ニコライの腰に手を回して書庫に連れて行き、葉巻に火をつけ、じっくり話し合おうとして穏やかに言った。「さあ、話してくれ。お前はまずどこにいて、何をしていたのだ?」
ニコライはすぐには答えなかった。あの異様な心憂の震動がまた全身を走り、目が無意識に素早く扉の方を一瞥したが、声だけは沈着で誠実だった。
「いや、父さん。お願いだから、私の経歴の話はしないでくれ。」
「外国の貨幣を持っているのを見たが——外国に行ったのか?」
「ええ」とニコライは短く答えた。「しかしお願いだ、父さん、もうそれで十分にしてくれ。」
アレクサンドルは眉をひそめ、長椅子から立ち上がった。上着の下で手を後ろに組み、行ったり来たりした。そして息子を見ずに問うた。
「お前はまだ以前と同じか?」
「その通りだ。父さんは?」
「その通りだ。行ってよい、仕事が多い!」
ニコライが部屋を出ると、バルスーコフは扉を閉め、暖炉に近づき、黙って、しかし力を込めて白く光る炉台の煉瓦を叩いた。それから手巾で手の白墨を拭い取り、腰を下ろして仕事にかかった。その顔には、死体を思わせる恐ろしい蒼白がまた一面に広がっていた。……
祖母との対面を目撃した者はなかったが、彼は陰鬱な面持ちで彼女の部屋を出てきた。わずかに心を動かされたようでもあった。ニコライが自分の部屋の白い扉を閉めた後、皆はしばらくほっとした。だがこの瞬間から、彼はもう客人ではなくなり、ここから再び異様な不安と憂慮が生じ、たちまち蔓延して家中に満ちた。まるで誰かがこの家に紛れ込み、永遠に居座っているようだった——得体の知れない危険な人物、通行人よりもはるかに見知らぬ、盗賊が潜んでいるよりも恐ろしい。唯一フィノガンだけはそれを感じなかった。あまりの喜びにまだ酔いが残り、料理人のベッドで寝ていたからだ。眠っていても、彼は自分の価値ある人格の尊厳ある外観を保ち、右手を少し体から離していた。
客間で、ニーナは大学生に、七年前にどんなことがあったか小声で話して聞かせた。あの時、ニコライは他の学生とともにある事件で工業学校から退学処分を受け、父の手回しでようやく恐ろしい刑罰を免れた。激しい口論の中で、怒りやすいアレクサンドルが彼を殴り、その夜ニコライは家を出て、今日まで帰らなかったのだ。二人は、話す方も聞く方も首を振り、声を低くした。そしてニーナを慰めるために、大学生は彼女の手を取って撫でた。……
【二】
ニコライは決して人を煩わせなかった。自分からはほとんど話さず、他人の話を聞こうともせず、一種の尊大な無関心を帯びていた。まるで人が何を言おうと、もう分かっているかのように。他人が話している途中で立ち去ることもあり、その顔にはこんな表情が浮かんだ——何か遠くの、自分にだけ聞こえるものに耳を傾けているような。人を嘲りもしなければ詰りもしなかった。だがもし彼が、ほぼ終日こもっている書庫から出てきて、あちこちを徘徊し——ふと妹のところへ、ふと下男や大学生のところへ行く時、その足跡のすべてに冷気が撒かれ、皆に自省の気持ちを起こさせた。まるで何か悪いことをした、しかも犯罪的なことをしたのであり、間もなく裁かれ罰せられるとでもいうように。
今では彼はきちんとした服装をしていた。だが華美な衣装を身につけても、家の豪華な装飾とは全く溶け合わず、ぽつんと余所余所しく、わずかに敵意さえ帯びていた。もし部屋に陳列された貴重な品々が感じ話すことができたなら、彼が近づいたり、あの特有の好奇心から手に取って見たりする時、きっと嘆くだろう——悲しくて死にそうだと。彼は一度も物を落としたことがなく、すべて元通りの場所に戻したが、もし彼の手が美しい彫像に触れたなら、彼が去った後その彫像はたちまち生気を失い、無価値に立ち尽くした。芸術品の魂が彼の掌中に消え去り、あとにはただ魂のない青銅か粘土が残るだけだった。
あるとき彼はニーナのところに行った。ちょうど絵の稽古の時間で、何かの絵から乞食の姿を丹念に模写しているところだった。
「描き続けなさい、ニーナ。邪魔はしないから」と彼は言い、低い安楽椅子に彼女のそばに腰を下ろした。ニーナはおどおど微笑いながら、しばらく模写を続けたが、筆に間違った色を付けた。それから筆を置いて言った。
「もう疲れたわ。これ、いいと思う?」
「ああ、いい。君はピアノも上手に弾く。」
この冷淡な褒め言葉は、敏感なニーナの心を酷く傷つけた。批評するように首を傾け、自分の絵を見つめ、嘆息して言った。
「可哀そうな乞食!この人を見ると悲しくなるの。あなたは?」
「私もだ。」
「私は二つの貧民救済会の会員で、仕事がとても多いの!」と彼女は熱心に言った。
「そこで何をしているのだ?」とニコライは冷淡に聞いた。
ニーナは話し始めた。最初はとても詳しく、やがて簡略になり、ついに止まった。ニコライは黙ってニーナの記念帖をめくった。そこには友人や知人の詩文が保存されていた。
「講義も聴きに行きたいと思っているの。でもお父さんが許してくれない」とニーナが突然言った。彼の注意を引く道を探っているようだった。
「それはいいことだ。うん——それで?」
「お父さんが許さないの。でも私はきっと自分の意志を貫くわ。」
ニコライは出ていった。ニーナの心は悲痛で空虚だった。記念帖を押しやり、描いたばかりの絵を寂しげに見つめた。それはひどく嫌で、全く無用な駄作に思えた。感情の昂ぶりを抑えきれず、筆を取り上げ、青い絵の具で画布に縦横に叉を描き、乞食の頭の半分が見えなくなった。ニコライと初めて握手した日から、彼女は彼を慕っていた。だが彼は一度も口づけしてくれなかった。もし口づけしてくれたなら、ニーナはあの小さな、しかしもう苦悩に耐えかねている心のすべてを彼に見せたであろう。その心の中には、日記に自分で書いたように、あるいは陽気な小鳥の歌が響き、あるいは烏の狂騒が鳴り渡っていた。日記さえも彼に渡すつもりだった。そこには自分がいかに人の役に立たないか、いかに不幸であるかが書かれていた。
彼は、ニーナは絵と音楽と会員活動さえあれば満足していると思っていた。だがそれは大きな間違いだった。彼女は絵も音楽も会員活動も必要としていなかったのだ。
ピョートルが大学生のところで授業を受けているのを彼が傍観していると、彼は笑った。この笑いのためにピョートルは彼を憎み、かえって膝を高く突き上げて椅子が後ろに倒れそうになり、軽蔑の目を向け、してはならないと分かっていながら指で鼻をほじり、大学生の前で無礼な言葉を吐いた。家庭教師のあばた面は真っ赤になり汗が流れ、泣きそうになった。ピョートルが去った後、彼はまったく勉強する気がないのだと愚痴をこぼした。
「本当に分からない。ピョートルはまるで勉強しようとしない。将来どうなるのか分からない……さっきも女中が来て、彼女にとんでもないことを言ったと……」
「ろくでなしになるだけだろう」とニコライは、特に明瞭な表情も見せず、弟の将来を断じた。
「力の限り彼のために尽くし、心を砕いているのに、何の役に立つというのか」と家庭教師は、ピョートルを殺すか自分が穴に潜り込むかしなければならない数々の屈辱と恥辱を思い出し、泣き出しそうに言った。
「放っておけばいい。」
「しかし私は彼を教え導かなければならないのです!」と大学生は驚いて叫んだ。
「ならば教え導けばいい、託されたとおりに!」
大学生はなおも議論しようとしたが、ニコライはもう応じなかった。ニーナとアンドレイ・ヤーコヴレヴィチも何度もニコライの正体を解明しようと研究したが、結局できたのは空想の像ばかりで、自分たちでも笑い出してしまった。だが二人が別れると、自分たちの失笑を不思議に思い、あの空想の推測がまた真実に近いように感じた。恐怖と熱烈な好奇心を抱いて、ニコライの出現を待ち、笑いながら、今日こそあの難問が解決される日だと思った。ニコライは現れた。だが謎の解決は今日も昨日と同じく遥か遠くにあった。
殊に奇怪で、本当らしくないのは下男部屋での憶測だった。そしてフィノガンがすべての論者の先頭に立っていた。少し酒が入ると、彼の空想はすこぶる精彩を放ち、果てしなく広がった。自分でも驚き、疑うほどだった。
「あの方は——盗賊だ!」あるとき彼は言い、真っ赤だった顔が恐怖で蒼白くなった。
「まさか、……盗賊とは?」料理人は信じられないとばかりに言ったが、びくびくと扉の方を見た。
「金持ちばかり襲う盗賊だ」とフィノガンはすかさず訂正した。——ニコライがまだ子供だった頃、そういう盗賊がいると話していたのを聞いたことがあるのだ。
「何も人を襲わなくたって、お父さんのところにこれだけの金があるじゃないか、自分じゃ数え切れないほどの」と馬丁が言った。なかなか鋭い男だった。
「工場が三つ、家が四軒、毎日株式を決算している」とアンナがささやいた。彼女の貯金は今や四ルーブル増えて五百六十ルーブルになっていた。
だがフィノガンの仮説も覆された。アンナがニコライの持ち物をすべて仔細に調べたが、わずかな肌着の他には何の品物もなかった。だが肌着以外に何もないという事実が、かえって不安と不気味さを増した。もし鞄に拳銃や弾丸や短刀が隠されていれば、おそらく盗賊と見なされたろう。正体が分かれば、皆は安心でき、気が楽になれた。なぜなら最も恐ろしいのは、何の職業か分からない人物だからだ。容貌も態度も尋常ではなく、ただ聞くばかりで自分は話さず、皆を見つめる——処刑人の目で。こうして不安は膨れ上がり、ついに迷信的な恐怖となって、冷たい波のように家中に満ちた。
一度、ニコライと父との間の数語が漏れ聞こえた。だがそれは家中の恐怖を消し去るどころか、かえって恐ろしい謎と疑惧の空気をいっそう濃くした。
「お前はかつて、我々の生活のすべてを嫌悪すると言った」と父がはっきりと一音一音区切って言った。「今もなお嫌悪しているのか?」
同じようにゆっくりと、明瞭に、ニコライの誠実な答えが発せられた。「そうだ、嫌悪している——根底から頂上まで。嫌悪しているし、理解もしない。」
「もっと良いものを見つけたのか?」
「見つけた」とニコライは確と答えた。
「ここに残れ。」
「それは考えられないことだ、父さん——ご自分でも分かっているだろう。」
「ニコライ!」とアレクサンドルは怒って叫んだ。しばしの緊張した沈黙の後、ニコライは低い声で悲しげに答えた。「父さんはいつもこうだ——短気で、だが善良だ。」
この裕福な家の聖誕節が近づいてきたが、寂寥と歓びのなさが漂っていた。思想も感情も家族と何の関わりもない一人の人間が、陰鬱な磐石のように皆の頭上にのしかかり、期待していた愉快な祭日の特徴を奪うばかりか、その意味さえも消し去っていた。ニコライ自身も、自分がいかに他人を苦しめているかを分かっているらしく、あまり部屋から出てこなかった——だが姿を見なければ、かえっていっそう恐ろしく感じられた。
聖誕節の数日前、バルスーコフ家に不意に何人かの客が来た。ニコライは以前から無関係な人間には会わず、やはり会いに行かなかった。彼は服を着たまま自分のベッドに横たわり、音楽の音に耳を傾けた。厚い壁に融和されて柔らかく均一に伝わってくるその音は、清浄な遠い土地の讃歌のようだった。しかもその音はごく柔らかく彼の耳元で鳴り、まるで空気そのものの歌のようだった。ニコライは聴きながら、遠く隔たった子供時代が心に浮かんできた。あの頃彼はまだ小さく、母もまだ生きていた。……あの頃も客が来て、遠くから音楽を聴き、夢を見ていた……形象の夢でもなく、音の夢でもなく、形象と音とが絡み合って明るく美しい——美しい歌う飾り帯のように空にきらめく何かを夢見ていた。あの時、そのきらめくものが何であるか知っていた。だが人に言うことも、自分に言うこともできなかった。ただ懸命にできるだけ目を覚ましていようとした——しかし眠ってしまった。あるときもそうで、誰も気がつかないうちに、彼は玄関の客の毛皮の上で眠っていた。今でもあのもこもこした手触りのする毛皮の匂いをはっきり覚えている。そしてまた名状しがたい恐怖の戦慄が、冷たい針のように全身を走り抜けた。……だが今度は奇妙にも同時に、何か柔らかく温かいものが顔を照らした。穏やかな愛撫の手が、眉間の皺を伸ばしに来たかのようだった。顔は全く動かず、しかし平静で、温良で、柔順で、まるで死者のようだった。眠っているのか覚めているのか、生きているのか死んでいるのか判じがたい。ただ一つだけ言えることがあった——この人は安らいでいる、と。……
聖誕節の前夜になった。夕暮れ時、フィノガンがニコライの部屋に入っていった。酔ってはいないようだったが、顔を沈ませて横を向き、目には涙のようなものがきらめいていた。
「お祖母様がお呼びです」と彼は入口で言った。
「何だ?」とニコライは怪訝に聞いた。
フィノガンは嘆息し、繰り返した。「お祖母様がお呼びです。」
ニコライは二階に上がった。敷居をまたいだ途端、二本の細い女の腕が突然彼の首に巻きついた。柔らかな顔が見開いた潤んだ目とともに彼の顔に押し当てられ、哀れな声がすすり泣きを含んで低く言った。「お兄さん、お兄さん!——どうして私たちを苦しめるの。大好きな、大好きなお兄さん、お父さんと仲直りして……私とも……そしてここに残って……どうか、どうか、ここにいて!」
小さく痩せた全身の震えが彼の手にも感じられ、この小さな無力な心がかくも大きく、無限の苦悩に満ちた全世界を彼の心に注ぎ込んだ。陰鬱に眉をひそめ、ニコライは周囲に苛立たしげな一瞥を投じた。長椅子からは祖母の手が伸びてきた。蒼白く痩せ衰えて恐ろしいほどで、もうあの世の声のような枯れてすすり泣く呻きが言った。「ニコライ!坊や!……」
敷居の上でフィノガンが泣いていた。彼の慎重な態度はすっかり崩れ、鼻水が宙を舞い、眉と口元がひきつり、涙の量たるや凄まじく——滝のように両頬を流れ落ち、他の人のように目から出てくるのではなく、枯れて皺くちゃの頭皮のすべての毛穴から出てくるようだった。
「友よ!ニコーリンカ!」と彼は低い声で懇願し、氷のように冷たい赤いハンカチを握りしめた手を差し出した。
ニコライは孤独に微笑み、そっと言葉を発した。自分でも知らなかったが、あの陰鬱な鷲の目にも極めて稀な数滴の涙がこぼれた——暗い部屋の隅から明るい所に現れたのは、白髪交じりの震える頭を持つ一人の男、彼の父だった。彼が嫌悪し、その生活を理解しなかった男。
しかし彼は突然理解した。
先の狂おしい嫌悪と同じように、狂おしい親愛のために、彼は父のもとに駆け寄った。ニーナも深く心を動かされ、三人は抱き合い、泣きながら生きている一つの塊のようになった。何も隠すことのない心で震えながら、この刹那、一つの心と一つの魂の力強い存在に溶け合った。
「出ていかないぞ」と老人は嗄れた声で勝ち誇って叫んだ。「出ていかないぞ!」
「友よ、ニコーリンカ!」とフィノガンが低い声で懇願した。
「そうだ!そうだ!」とニコライは言った。だが自分でも誰に向かって言っているのか分からなかった。「そうだ!そうだ!」と繰り返しながら、黙って自分の頭を撫でる老人の手に口づけした。……
「……そうだ!そうだ!」とまだ繰り返していたが、彼の精神の中に、頑強に奔騰する短い鋭い「否」がすでに満ち始めていることを感じていた。
もう夜に入り、この大邸宅の隅々まで——下男部屋から主人の居間まで——愉快な灯火が輝いていた。皆が嬉しそうに賑やかに談笑し、あの貴重で繊細な装飾品たちもおどおどした憂愁を失い、高い位置から傲然と汚穢にまみれて走り回る人間界を俯瞰し、泰然としてその美を取り戻していた。あたかもここにあるすべてのものが彼らに奉仕し、その美の前にひれ伏しているかのように。
アレクサンドル、ニコライ、大学生はまだ祖母の部屋に集まっていた。ある時は自分の幸福を語り、ある時はニコライの話に耳を傾けていた。フィノガンは嬉しさのあまりまた少し酒を飲み、庭に出て火照った頭を冷やしていた。雪片が真っ赤な禿頭の上で熱い竈の上のように溶け、彼がそれを撫でていると——ぎくりとして目を見た——ニコライ!手に小さな旅行鞄を提げている。ニコライは屋敷の裏口から外に出てくるところだった。フィノガンに気づくと、彼もまた苛立たしげにぎくりとした。
「ああ、フィノガン、老いぼれめ!」と彼は低い声で言った。……「では、門まで送ってくれ。」
「あなた……」フィノガンはうろたえ、ひそひそと言った。
「騒ぐな。あちらで話そう。」
通りには全く人影がなく、両端とも静かにゆっくりと降りしきる雪片の真白い大海に沈んでいた。ニコライは突然フィノガンの前に立ち止まり、あのきらきら光る突き出た目で彼を見据え、手を上げて肩に置き、ゆっくりと言った。まるで子供に命じるように。「父に伝えてくれ。ニコライ・アレクサンドロヴィチがご健勝を祈っていると。そして、発ったと伝えてくれ。」
「どこへ?」
「ただ発ったとだけ言え。元気でな。」ニコライは老下男の肩をぽんと叩き、歩き出した。フィノガンは、ニコライが自分にもどこへ行くか言わなかったことに気づき、ありったけの力で彼の手を掴んだ。
「放しません!神に誓って、絶対に放しません!」
ニコライは彼を押しのけ、怪訝な目で見た。だがフィノガンは両手を合わせ、祈るように、すすり泣きの声を漏らして懇願した。「ニコーリンカ!唯一の友よ!もういいじゃないですか……あちらに何がありますか。ここにはお金がある、工場が三つ、家が四軒、毎日株式を決算しているのに……」彼は無意識に老女中頭の決まり文句を暗唱していた。
「何を言っている?」ニコライは眉をひそめて言い、大股で歩き出した。だが祭日の装いで真新しい燕尾服を着たフィノガンは、踏みつけられたようにぐったりとなった。息を切らせながら、諦めきれずに追いすがった。ついに彼の手を掴み、祈るように哀願した。「それでは、……私も……私も連れていってくれ……怖くなんかない。あなた——強盗になるんですか?——結構、なら強盗になりましょう!」
そしてフィノガンは絶望的な身振りをした。まるでこの尊い人間界に別れを告げようとしているかのように。
ニコライは立ち止まり、黙って下男を見つめた。その眼差しの中に、何か非常に恐ろしいもの——氷のように冷たい酷烈と絶望——がきらめき、フィノガンの舌は動きかけたまま凍りつき、両足は根が生えたように雪の地面に張り付いた。
ニコライの後ろ姿は小さくなり、茫漠の中に隠れていった。まるで灰色の煙霧の中に溶け込むように。次の一瞬、ニコライはまた、かつてそこから突然現れたあの不可知の、恐ろしい、暗澹たる煙靄の中に没した。寂しい道には一つの生き物の姿も見えなかったが、フィノガンはなお立ち尽くして見つめていた。襟は湿って首に貼りつき、雪片がゆっくりと凍えた禿頭の上で溶け、涙とともに広い剃り上げた両頬を流れ落ちた……
アンドレーエフ(Leonid Andrejev)は一八七一年にオリョールに生まれ、後にモスクワで法律を学んだが、送ったのは極めて困苦な生涯であった。文筆も行い、ゴーリキー(Gorky)の推挙を得て次第に名を知られ、ついに二十世紀初頭のロシアの著名な作家となった。一九一九年の大変動の際、祖国を離れてアメリカに行こうとしたが果たせず、凍えと飢えの中に死んだ。
彼には多くの短篇と数種の戯曲があり、十九世紀末のロシア人の心の煩悶と生活の暗澹を描き出している。特に有名なのは戦争に反対する『赤い笑い』と死刑に反対する『七人の絞首刑の人々』である。欧州大戦時には、有名な長篇『大時代における一小人物の告白』がある。
アンドレーエフの創作はいずれも厳粛な現実性と深さ、繊細さを含み、象徴印象主義と写実主義を調和させている。ロシアの作家の中で、彼の創作ほど内面世界と外面の表現との差を消融し、霊肉一致の境地を現した者はいない。彼の著作は象徴印象の気息が濃厚でありながら、なお現実性を失わない。
この『暗澹たる煙靄の中に』は一九〇〇年の作である。クロセクは言う、「この篇の主人公はおそらく革命党員である。はっきりした字句で言えば、ロシアの検閲では許されなかった。この物語の価値は、多くの部分においてロシアの革命党員を非常に巧みに書き出した点にある」と。だがこれはロシアの革命党員であるから、その断固として猛烈で冷静な態度は、我々中国人の目から見ると、いささか異様に感じられる。
一九二一年九月八日 訳者記。
第54節
【書籍】
ロシア アンドレーエフ
【一】
医者は病人の裸露の胸前に聴診筒を安じ、静心に聴く。大きく、過度に拡張された心臓は空虚の声音を発し、肋骨に撞ち当たり、啼哭するが如く響き、吱吱と軋む。これは活き長からざるの凶徴候を表す。医者は「唔」とその頭を側に一つ傾くるも、口頭にては却ってかく言う――
「あなたは竭力して感動の事を避けるがよろしい。見たところ、あなたは何か疲労し易い事務をしているようですが」
「私は文学者です」と、病人は答えたり。
第55節
【連翹】
ロシア チリコフ
ああ、春の一清早、連翹の花のなんと芬芳に香ることか。太陽がまだ残夜の清涼を追い散らさず、夜の花草の上から露水を吸い尽くした時に。
それは年若き時の一つの朝であった。私は一人の温文にして美しき少女と、まさに野外の散歩の後の帰途にあった。愉快な小鳥の隊伍の如く、我々は小船を跳び出し、二人ずつに分かれ、各々女人を送りて家に帰るために、皆街上に紛々と歩み散った。
太陽はようやく街市を照らし、その金色の光は……
第56節
【県都】
ロシア チリコフ
私の乗った汽船は、胸に激しい鼓動を起こさせながら、若い頃に住んだことのある小さな県都の埠頭に近づいていった。温和で静寂な、そして悲涼な夏の夕暮れが、物憂げに揺れるヴォルガの川水と、沿岸の山々と、遥か対岸の鬱蒼たる森の景色を包んでいた。甘美な疲労と言いようのない哀感が、この夕べから、夢幻のような水面から、高い山の樹林が川面に映す影から、山の向こうに沈まない夕日から、寂しい漁夫の小舟から、そして白鷗と遠方の汽笛から、すべてが私の魂の中に吹き込んできた……釣り道具を持って彷徨い、火を焚き、蟹を捕った馴染みの場所が、もう見えてきた。いつも釣り糸を垂れた石崖の上にも、誰かが釣りをしている。不思議なことに……しかも私がかつて座っていたまさにその場所に。私は突然、泣き出しそうなほど悲しくなった。自分にはもう白髪があり、皺があり、浮きが揺れれば胸がどきどきしたり、あの人のように魚が掛かれば水に飛び込んで捕まえたりすることは、もうできないのだと思った。心臓は二度と帰らない歳月のために痛んだ……私が期待していたのは喜びだったが、迎えに来たのは悲しみだった。曲がり角を過ぎると、ヴォルガの高い岸の間から、見覚えのある教会の二つの円屋根と、緑や灰色の屋根の一群の家々が見えた……私の目には涙が溢れた……あれ以来、この県都はほぼ全壊しかけたことが二度あった。私たちが住んでいた家は、まだ残っているだろうか。父母と共に住んでいた、緑の生垣に囲まれた古い家を一目見たくなった。父はもういない、母もいない、兄弟さえ一人もこの世にいない。まるでまだ生きているかのように、記憶が目の前に浮かんでくる。彼らが皆もうこの世にいないとは、どうしても信じられないかのようだ。私は汽船を降り、あの窪地の小道を歩いた——あの頃は近道をするためによくここを通った——それから丘を越え、何軒かの家を過ぎれば、我が家の塀が見えるはずだ、……そう考えていた、……
「お母さん、お父さん!」
すると門口の石段から、父と母と弟妹たちの喜びに満ちた顔が飛び出してくる。……
「今着いたのかい?」
「ええ、たった今……」
汽笛が長く鳴った。汽船は弧を描きながら、ゆっくりと埠頭に近づいていった。埠頭は人でいっぱいだった。知り合いがいないかと、人々の顔をじっと見つめた。しかし誰もいない。一人も。不思議だ、あの人たちはどこへ行ってしまったのだろう。ああ、あの日傘を持った女性は、どこか見覚えがあるような気がする。いや、あの人ではない。もしあの人なら、あの頃すでに二十五だったから、今は五十前後のはずで、この人は三十にもなっていない。あの頃、私がここにいた頃、この人はまだ五、六歳の子供で、知り合うはずもなかった。この五、六人の若い娘たち……私がここにいた頃には、まだ生まれてもいなかったに違いない。
「旦那、荷物を運びましょうか?……」
「ああ、頼む、運んでくれ。」
誰にも会わなかった。心を揺さぶるような出来事もなかった。接吻してくれる人も、「着いたのかい」と聞いてくれる人もいない。ただ敵意を持ったように、信じられないとでもいうように、訝しげな好奇心で人々を眺めているだけだった。——「あの人はどういう人だ。誰の家へ行くんだ?」
「私が誰の家へ行くかって?知らない。今はもう誰の家にも行かない。若い頃の私を見たことのある、この蕭条たる県都よ、私はお前のところへ来たのだ。お互いまだ覚えているだろう。」
私は窪地を通る小道を行かなかった。今はもうあんなに急ぐ必要がない。もう昔のように、嬉しい不安を抱いて待っていてくれる人はいないのだから。……
「馬車を一台お願いしたいのだが、……」
「だめです、この町には二台しかなくて、一台はさっき庁長が乗っていきましたし、もう一台は今日はなぜか来ていません。大丈夫ですよ、背負っていきますから。旦那はどちらへ?」
「私か?うーん、旅館はあるかね?」
「それはもちろんありますよ!立派なものです。クリモフ旅館と言います。」
「クリモフ!じゃあ、あの人はまだ生きているのか?」
「あの人は死にましたよ。ただ死んでも、相変わらず前の名前で呼んでいるだけです。」
「じゃあ、息子が経営しているのか?」
「いいえ、経営しているのはイワノフです。でもまだ古い名前を使っているんですよ。息子も死にました。」
私は田舎者の後について歩きながら考えた。町よ、お前もまだ完全に生きているのか?もしかしたら犬の一匹くらいは残っているかもしれないが。
「旦那はどちらからお見えで?」
「私か?……私は旅行者だよ……ペテルブルグから来た。」
「観光でしたら、旦那のところの方がよほどいいでしょうに。それとも何か商売のご用事ですか?」
「いいや。」
「なるほど、商売と言えば、ここには粉しかありませんし、旦那がそんな商売をなさるとは思えませんね。それじゃあ、何かお役目ですか?」
「それも違う。ただ見に来ただけだ。昔ここに住んでいたのでね。ふと思い出して、見に来たくなったのだ。……」
「じゃあ、分からないでしょうね。火事がありましたから、昔のものはあまり残っていませんよ。」
私たちは通りを歩いた。私は懸命に見覚えのある場所を探した。通りはすっかり新しくなっていた。新しい家々は私を喜んで迎えてはくれなかった。
「この通りは何という名前だい?」
「シンビルスク通りです。」
「シンビルスク!ああ、本当かい?」
「本当ですよ。」
シンビルスク通りに、祭司長の住まいがあった。その祭司長のところに、親戚だと言って、若い娘が住んでいた。名前はセーシェンカといった。ごく簡単な一篇の小さなロマンスが目の前に閃いた。釣り道具とサモワールを持った一隊の賑やかな人々が、みな水車場の方へ向かって行く……石の川底にぶつかってさらさらと音を立てる小川には、鑞魚がたくさんいた。赤いスカーフで金色の髪を包み、手に釣竿を持ち、両足が草むらに隠れているセーシェンカの姿は、ああ、なんと美しかったことか! 私たちは動かずに座って、浮きを見つめていた。「お茶ができましたよ」と知らせが来るのを、こうして待っていたのだ。
あの時のサモワールはなかなか沸かなかった。サモワールには杉の実で火を起こした。私とセーシェンカは早くからサモワールに火をつけていた。セーシェンカは虫が怖くて、私が虫を釣り針に刺してやった。ああ、なんと美しかったことか、あのセーシェンカは!……
「また食べられちゃった、……新しいのをまた刺してちょうだい!」
「ああ、いいよ、いいよ。」
私は近づいて、後ろから虫を刺してやった。しかし憎たらしい虫が、くねくねと曲がって、まったく言うことを聞かない。セーシェンカは振り返り、下から目を上げて私を見た。
「早くしてよ!」
「こいつがなかなか針に刺さらないんだ!」
私は彼女のそばに座り、横から彼女の顔を見つめ、そして思った——
「今もし彼女に口づけしたら、どうなるだろう?……」
私たちの視線がぶつかった。彼女は私の罪深い考えを察したのだろう、両頬が赤く染まった。私も同じだった。まもなく虫を刺し終えたが、自分の釣竿のところへは戻らなかった。私はセーシェンカのすぐそばに座り、息が彼女のうなじにかかっていた。
「あっちへ行って。あなたの浮きが動いてるわ。」
「行かない、……行けないんだ!……」
「どうして?」
「いや、君のそばを離れるなんて、できないんだ。……」
黙っていた。うつむいて黙っていた。もうあっちへ行けとは言わなかった。
「アレクサンドラ・ヴィクトロヴナ!」
「なあに?」
「僕が何を考えているか、当ててごらん。……」
「私は占い師じゃないわ。あなたが何を考えていたって、誰にも分からないわよ!」
「もし僕が何を考えているか知ったら、きっと怒るだろうね。……」
「人の心の中で考えていることを、誰が止められるっていうの。……」
「僕が何を考えているか分かる?」
「分からないわ、何?」
「怒るだろうね。……」
「どうぞ、言って。……」
「君は誰かを恋したことがある?」
「いいえ、分からないわ。」
「じゃあ、今は?」
「同じよ。」
彼女は牡丹のように真っ赤になった。
「じゃあ、僕は……」
「言って!」
「僕は恋しているんだ……」
「誰を?」
「当ててごらん!」
「分からないわ、……」
彼女の顔はますます赤くなり、うつむいた。私はセーシェンカのすぐそばの草の上に横になった。彼女は後ろへ退かなかった。手当たりしだいにむしった草を噛みながら、私はセーシェンカに口づけしたいという抑えがたい願望に、絶えず苦しめられていた。
私は溜息をついた。
「これはいったいどうしたことだろう?」
「自分で判断してみて。……」
彼女の顔がまた真っ赤になった。ままよ、どうなろうと、……私は立ち上がり、身をかがめて、セーシェンカに口づけした。彼女は両手で顔を覆い、声を立てなかった。もう一度口づけして、静かに尋ねた。
「YesかNoか?」
「Yes!」とセーシェンカはかすかに聞こえるほどの小声で言った。
「手をどけて!……こっちを見て!……」
「いや。」
彼女はさっきと同じように身動きしなかった。……私は彼女のそばに座り、頭を彼女の膝に乗せた。彼女の手が静かに私の髪の上に落ち、愛おしげに撫でた。……
「サモワールが沸きましたよ!」
セーシェンカは突然目を覚まされたかのようだった。彼女は跳び上がって、まっすぐ水車場の方へ歩いていった。そこで私たちはまた会い、一緒にお茶を飲んだ。しかし互いに見つめ合うことはなかった。二人とも互いに見ることを恐れていた。夕方、町に戻り、祭司長の家の前で別れた。セーシェンカが馬車から降りる時、私はようやく彼女の顔を見た。彼女は惘然とした不安な表情を浮かべていた。彼女が差し出した手は震えていた。そして私の握手への返答は、かろうじて感じ取れるほどのものだった。その後、私は毎日セーシェンカに会いたくて、祭司長の住まいの近くをしきりに通った。そして日ごとに私の恋は激しくなるばかりだったが、彼女は水に沈んだかのように消息がなかった。間もなく、あの日の翌日にセーシェンカがシンビルスクへ発ったことを知った。父親が亡くなったという電報を受け取ったのだ。……
その後、セーシェンカには二度と会わなかった。彼女は今どこにいるのだろう。きっと祭司と結婚して、今は祭司夫人をしているのだろう。……彼女ももう四十を過ぎているのではないか。……
「ニコライという祭司長がいたのを覚えているかい、まだいるかね?」
「死にましたよ。」
「じゃあ、あの家は?」
「焼けました。ほら、あの家はもともとここにあって、……あの専売局を建てた場所に。……」
家は新しくなっていたが、門は石造りで、まだ元のままだった。私があの門を見ると、まるであの門の中から、今でも若く美しいセーシェンカが出てきそうだった。頭に赤いスカーフを巻いて——水車場へ行く時のあの姿で——頬を赤らめて言うのだ。
「水車場で鑞魚を釣った時のこと、覚えている?」
専売局から一人の田舎者が出てきて、門口に立ち止まり、酒瓶を石柱に打ちつけて瓶口の封蝋を落とそうとしていた。……
「何をしている?……ここはお前がそんな乱暴をしていい場所じゃない。……」
「あんたに何の関係があるんだ?」
確かに、……二十年前、あのセーシェンカがここに立っていたことなど、この田舎者たちに言う必要はない。ああ、セーシェンカと私の関係が、この男に何の関わりがあろうか!
しかし教会は相変わらずだった。周囲を繁茂した白楊が取り囲み、その木にはミヤマガラスが巣を作り、けたたましい鳴き声が町中に響いていた。まるで市場の女商人のようだ。私はただ考えるばかりで、抑えきれない感傷に、徹夜祭の鐘が鳴り響いた。明日は日曜日だ。やはり昔と同じ鐘が、殷々と鳴り渡り、人の魂に去りて帰らぬものへの哀感を呼び起こし、人生はまことに短く、すべては神の御手の中にあることを思い出させる。……そしてまた、セーシェンカに会うために教会へ通ったことも思い出した。……あの頃も鐘はこう鳴っていた。しかしあの頃は、まだ人生の結末を見てはいなかった。そしてあの音もまるで違っていた。
「ああ、着いた。……」
一人きりで部屋にいる。死んだように静かで、ひっそりとしている。時計が薄暗い廊下で物憂げに時を告げる。水車場でセーシェンカに口づけしたあの時のことは、いっそう遠くへ逃げ去った。とても退屈だ。窓の外に警察署の見張り台が見える。何もかも元のままだ。ペンキの色さえ昔と同じ黄色だ。あれはきっと焼けなかったのだろう。あれは焼けるはずがない。
「お入りください!」
「すみません、旦那の居住証書を拝見したいのですが。」
「ああ、証書か!……これは無期限の旅行護照だ。いつまでだって、期限なしに住んでいられるのだ。」
「この頃は大変厳しくなりましてね。」
「ここでもそんなに厳しいのかい?」
「そうなんです。革命があってからは、護照を持っていない人は泊められなくなりました。」
「じゃあ、ここでもあんな革命があったのか?」
主人はわずかに笑い、不機嫌そうに手を振って言った——
「もちろんありましたとも!本物の革命が、何もかもちゃんとやったんです。……」
「ちゃんとというのは、どういうことだね。」
「つまり、普通の通りですよ、……監察官は殺されて、みんな赤旗を持って歩いて、コサック兵もやって来たんです。……」
彼は誇らしげに言い、身振りを交えた。
「コサックが来たのか、……それでお前たちは殴られたのか?」
「殴られましたとも、ひどく殴られましたよ!」
彼は相変わらず誇らしげに、満足そうに言った。
「最近はどうだ?」
「今は静かですよ。今度の庁長は大変厳しくて、良い庁長です。」
「じゃあ、前任はどうした?」
「前任は裁判所に送られました。」
「なぜ?」
「赤旗の後ろについて歩いたんですよ。……」
何がどうなっているのかさっぱり分からない。私は手を振った。主人は出ていった。私はしばらく窓辺に座り、それから通りに出た。ここにイラクサの生い茂る谷に架かった橋がある。谷底を緑の小川がうねっている。あの川はブリスカと呼ばれている。谷の向こう岸の丘の上に、私たちが住んでいた家があるはずだ。見に行くだけでも怖い。心臓がすぐに締め付けられそうで。私は橋の上で立ち止まった。息をするのさえ苦しい。橋の欄干から谷の中を覗き込む。ここは弟がイラクサと戦った場所だ。木の刀でイラクサを斬りつけていた、目の鋭い、痩せた神経質な少年が、たちまち記憶に蘇ってきた。
「モージャ!そこで何をしているんだ?」
「戦争だよ。……」
「ご飯だぞ、おいで!」
「だめだよ、敵を追い払ってから行くから!」
まるで昨日のことのようだ。今あの少年はどこにいるのか。この谷でイラクサと模擬戦をしていたあの少年が、まさかバヴァンゴフ近くで殺されたあのモージャなのだろうか。信じられない。私は溜息をつき、うつむいて歩き出した。丘を登ると、幸いにも何もかもまだ残っていた。火事も革命も、私の記憶にとってこの上なく貴重なこの場所には触れていなかった。見よ、あそこに塀がある!ああ、レンギョウがなんと繁茂していることか、窓も見えないほどだ。誰かがピアノを弾いている。私は向かい側に立って耳を傾けた。古い、壊れかけたピアノだ。我が家にもこんなピアノがあった。私はまるで青年時代に戻ったかのように、あれは母がピアノを弾いているのだと感じた。昨日水車場で口づけしたセーシェンカのことを考えた。何を弾いているのだろう。ああ、そうだ、昔自分も知っていた曲だ。しかもあの頃の風も吹いてくる。あれは何の曲だったか。ああ、そうだ、あれは「乙女の祈り」だ! そうだ!まさに……目を閉じて聴き入った。私と青年時代とを隔てた二十年の歳月が、しだいに消えていった。まるで私がまだ大学生で、夏休みに家に帰ってきて、一家団欒で賑やかに、庭でたくさんのジャムを入れたお茶を飲んでいるかのようだった。父は巻煙草をくわえて、もう冷めたサモワールの傍で日刊紙を読んでいる。母はピアノを弾いている。私の恋敵、あの神学部の学生で、やはりセーシェンカに恋しているゴヤフリンスキーが、ヴォルガ河で泳ごうと私を誘いに来る。彼もセーシェンカと結婚したがっていて、いつも求婚の準備をしていた。彼は私に相談した。自分の好みに自信がなかったのだ。泳いでいる時はもっぱらセーシェンカの話をした。彼は長靴を片方脱いで、靴底を叩いて言った。
「結婚というのは、靴を一足買うのとはわけが違うからな。」
「まったくだ!」
「で、君はどう思う?……どう見る?」
「誰のことを?」
「ああ、セーシェンカのことだよ!」
「僕も別に意見はないよ。」
「僕に言わせれば、あれは美人だ!何を捧げても足りないくらいだ。今すぐ申し込むのがいいか、卒業まで待つのがいいか、どちらがいいか自分でも決められない。でも誰かに取られそうで怖いんだ。だってあれは並外れた美人だから。……」
彼はもう片方の長靴も脱いで、傍に投げ出して言った。
「決めた。明日求婚する。……」
そう言って、彼は筏から逆さまに川に飛び込んだ。
今日も彼は泳ぎに誘いに来て、セーシェンカの話をした。昨日水車場で彼のセーシェンカはもう失われて二度と戻らないことを、彼はまるで疑っていなかった。
「おい、泳ぎに行こう!」
「求婚したのか?」
「いや、まだだ。そんなに急ぐこともないだろう。」
「だめだ。彼女が君を愛していると思っているのか?」
「彼女が?」
ゴヤフリンスキーは自信満々にうなずき、私の肩を叩いた。
「あの美しいセーシェンカはもう僕のものだ!」
私は可笑しくもあり、不快でもあった。第一に、セーシェンカに対してあまりに無礼だった。私は危うく、昨日もう口づけを交わしたこと、セーシェンカが私にYesと言ったことを、彼に話してしまいそうになった。
「行けよ!僕は泳ぐ気分じゃない。セーシェンカのことは、ちゃんとやれよ、あまり失敗するなよ。ずいぶん自惚れているぞ!……だがしかし……」
「何だって?」
「ああ、まあ見ていろよ。」
「見ていろって、もし僕が許しを得たらどうする?」
「馬鹿を言え!セーシェンカはもう僕に承諾したんだ。……」
「ああ、これは驚いた!……」
「行け!行かないと顔を殴るぞ!」
「ああ!……こりゃ大変だ!……」
あのゴヤフリンスキーは今どこにいるのだろう。きっとセーシェンカと結婚して、祭司長にまでなっているのだろう。そして彼女はもう水車場のことを話したのだろうか。
ピアノが止んだ。私も我に返った。この家の中に入って、中がどう変わったか見てみたくなった。誰がこの家に住んでいるのか、誰がピアノを弾いているのか、食堂や客間や書斎はどんな様子になっているのか。もし入っていってこう言ったら——
「この家を見せてください。若い頃ここに住んでいた者です。どうしてもこの家を見て、少年時代に戻りたくなったのです。」しかしそれはいかにも不似合いなことのように思えた。
私は心の中で迷い、何度もこの家の門前を行き来し、小道に入って、垣根の間から庭を覗いた。この庭で、私はかつて木から硬くて汁の多い果物をもいで食べた。母がジャムを煮て、泡を兄弟たちに分けてくれたのも、ここだった。ここには、レンギョウやキイチゴの茂みに隠れた静かな場所がたくさんあった。私はよくその中で、愛しい手紙を読み、物思いに耽った。
「祖国よ!お前の幸福のために、私の生命を捧げよう。」
今振り返ると、あの頃の自分は、なんとも小さく取るに足りない人間だったように思える。ああ、生命もまた流れ去ってしまった。そしてお前は遥かな昔と変わらず、やはり小さく無力な人間のままだ。しかも昔よりもっと小さく、もっと無力になった。なぜなら今のお前は、自分の力に対して昔ほどの確信がなく、あの幸福な祖国をいつか自分の目で見届けられるだろうという希望も、もう消え失せてしまったのだから。……革命の話をしていた旅館の主人のことを思い出した。……そしてまた、赤旗の後ろについて歩いた庁長のことも。……
「哀れな庁長よ!お前はすべてがこんな悲しい結末になるとは思ってもいなかっただろう。私もだよ、庁長。あのことがあんなことになろうとは思ってもみなかった。……だから今、お前も私もこんな有様だ。お前は裁判を受けに行き、私は警察の監視を受けている。……」
私は身も心も憂鬱と倦怠を抱えて旅館に戻った。主人がサモワールを運んできた。まもなく彼は出ていった。扉を閉めた後、彼はそっと様子を窺い、耳を澄ませていた。……
「何もかも元のままだ!ただ私だけが元のままではない。……私はもうビラを信じないし、手に謄写版の青インクも付けない。……おい、主人、そんなことをする必要はないぞ。私がこの県にまた革命をしに来たとでも疑っているのか?……この県には今、大変厳しい庁長がおられるのだからな。」
やはり同じことだった。早朝、警官が——本日中に警察署へ出頭せよ——という召喚状を届けてきた。
「ああ、こういう召喚状にはもう飽き飽きだ。だが彼らが私のところへ来るよりはましだ。警察署へ行って、あの厳しい庁長に会ってやろう。」
私は警察署に行き、副庁長の部屋に通された。私は心の中とは裏腹に不機嫌な顔をして入っていった。
「どうぞ、おかけください。わざわざお呼び立てして申し訳ありません。ただ、どういうご目的でこの県にお見えになったかお聞きしたかったのです。……」
「目的はありません。ただ思い立って来ただけです。目の届く限りどこへでも、自由に歩き回る権利がないとでもおっしゃるのですか?」
「ええ、おっしゃる通りです。……いつご出発のご予定ですか?」
「そこまではまだ考えていません。」
「お節介なようで失礼ですが、……あなたは著述家ですか?」
「著述家です。不幸にして著述家です。……」
「お目にかかれて実にうれしい。」
「本当にうれしいのですか?」
副庁長は当惑した。
「実は私も大学生でした。あなたと同じ大学にいたのです。私が三年生の時、あなたはもう卒業の学年にいらっしゃった。」
「ああ、そうでしたか!」
「ええ。煙草をどうぞ。私も騒動の仲間にいたんですよ、……あなたと一緒にいた時の、……覚えていらっしゃるでしょう、私の姓はベンチュンスキーです!」
「ベンチュンスキー?何となく覚えているような。……」
「ええ!あの時、私が幹事を殴ったでしょう!」
「あれはあなただったのか?」
「そうです、……あれは私でした!まさしく私です!」
「あなただったとは!まったく見分けがつかなかった。……」
副庁長は誇らしげに、あの騒動の時に幹事を殴ったことを私に信じさせようとし、しかも今自分が警察官をしていることをすっかり忘れていた。彼はますます生き生きとして、騒動のことを事細かに語った。彼の顔にはもう警察官の痕跡は微塵もなく、すっかり変わっていた。大学の騒動は、彼にとって最も貴重な思い出に違いなかった。……私は隠しきれない好奇心で彼を見つめ、考えた。なぜお前は警察に監視される側ではなく、警察官の仲間に入ったのだ。彼も私の意図を察したようだった。
「そんな目で見ないでください。私はただ警察官の制服を着ているだけです。でもこんなものはくだらない、どうでもいいことで……」
そしてまた騒動の話を始めた。犬のような嗅ぎ回る顔をした男が覗きに来た。書記に違いない。副庁長は眉をひそめて怒鳴った——
「許可なく私の部屋に入るな。忙しいのだ。」
書記は引き下がった。
「ああ、あの頃は、いろんな人間がいたなあ。……」と副庁長は突然言った。そして昂奮したように、部屋の中を行ったり来たりした。
「ああ、あなたは本当に私の胸を引き裂いてくれる。……ウリヤーノフを覚えていますか?あの死刑になった人を!私はあの人と同級でした。……」
「それで結局、何のために私を警察署に呼んだのです、教えてくれますか?」
「ああ、そのために、……若い頃の、大学生の頃のことを思い出して、あなたがどんな風になっているか分からなかったので、一度会ってみたかったんです、……大学時代からあなたのことを知っていましたから、だから……」
「敬意を表するためというわけですか!」
「お怒りですか?どうかお許しください!あの大騒動のことを思い出すと、たまらなくなって、……それにあなたの著作も読んでいますし、お会いしたかったのです。」
彼は突然黙った。窓の方を向いて、動かずに立っていた。私は立ち上がって咳払いをした。……彼は素早くこちらを見た。彼の顔は惘然としていて、唇の端に済まなそうな微笑が漏れていた。
「もうこれ以上お引き止めすることはできません。」と彼は穏やかに言い、かすかに溜息をつき、少し考えてから手を差し出した。
「それでは、神のご加護がありますように!……もう二度とお会いできないでしょうから、もし……」
「もし、もう警察署に呼び出されなければ?」
彼は思わず笑った。そして済まなそうな微笑を浮かべて言った——
「私たちの生命は本当に短い。何もかも自分と一緒に過ぎ去ってしまうのだ。」
私は警察署を出た。そしてしばらくの間、自分の思考をまとめることができなかった。あらゆる無秩序を防ぎ鎮圧するために設けられた警察官が、自分がかつて行った無秩序を思い出して痛快がり、まるで溺れる者が藁をもつかむように、この記憶を大切に保存している——これはまことに不可解なことだ。あるいは私と同じく、彼もすでに白髪に覆われ、人生の長い道のりの上で、とうに生命の花を失ってしまったからなのかもしれない。
第57節
【幸福】
ロシア アルツィバーシェフ
妓女のセシカが鼻を黴してよりこのかた、その標致にして頑皮なる顔はまさに一つの腐爛せる貝殻の如くなりてより、その生命の一切は、凡そ自ら生命と称し得るものは、統べて失われてしまった。
残されたのは、ただ一種の異様に厭わしき生存にして、昼は光明を与えず、変じて無窮無尽の夜と成り、夜はまた変じて無窮無尽の苦悶の昼と成る。
飢えと凍えとがその羸弱なる身体を磨滅す。その上にはただなお二つの皺みたる乳房と、骨の突き出たる手とが掛かるのみ。
第58節
【医者】
ロシア アルツィバーシェフ
【一】
無口な巡査を伴い、医者は湿った歩道を横切り、人気のない通りを歩いていった。彼の大きな姿は歩道の上に、まるで割れた薄暗い鏡に映ったかのようだった。塀の向こうで枯れた枝が揺れていた。風がひとしきり吹いては、鉄の屋根に打ちつけ、冷たい水滴を人の顔に投げつけた。風の唸りが止むと、束の間の静寂が訪れ、遠くから微かに、しかし実にはっきりと、単発あるいは連射の銃声が聞こえてきた。南の大聖堂の黒い影の向こうで、微かな赤い光が交互に明滅し、垂れ下がった雲を下から照らしていた。その雲はほの明るい光の中で、大蛇の赤灰色のうねる体のようだった。
「どこで撃っているのだ?」と医者は探るように言い、両手を袖の中に深く隠し、自分の足を見つめていた。
「それは存じません」と巡査は答えたが、医者はその口調から、知っているのに言いたくないのだと察した。
「ポクトールか?」と医者はしつこく聞いた。もうひどく不快で、顎が痛み出しそうだった。
「その場所は、存じません」と巡査は同じ声で答えた。「急ぎましょう、先生。……」
「この呪われた愚か者め!」と医者は思いながら歯を食いしばり、足を速めた。
風はなおもひとしきり吹いた。止み間にはやはり同じ遠い微かな銃撃だけが聞こえた。
「だが誰が警察署長を撃ったのだ?」医者は病気じみた注意深さで銃声に耳を傾けながら、さらに問い詰めた。
「ユダヤ人です、おそらくあの中の誰かが、……」巡査は相変わらず全く変化のない声で答えた。まるで誰が誰を傷つけようが殺そうが自分には無関係で、ただひたすらまったく個人的な用事だけを考えているかのような態度だった。
「何を使ったのだ?」
「拳銃で……撃って、それで傷を負わせたそうです。」
「なぜだ?」
「それは存じません。」
この単調で簡潔な返答の中には、どんな詳しい詮索も、懇請も、激昂も、すべて無駄だということが潜んでいた。
医者の胸の中で、重苦しい憤りがせり上がってきて、喉を塞ぎそうだった。彼は内心、警察署長はユダヤ人自衛団の団員に撃たれたのだと推定していた。医者の知る限り、コサック兵がこの署長の命令で彼らを銃撃したことがあった。
彼の目の前に一つの光景が浮かんだ——不揃いの人の群れ、ろくな武器もなく飛び起きた息も絶え絶えの人々が、狂おしい激昂と同情に駆られ、市街地へと駆けていく。そこでは獰猛な非人間的な咆哮の中で、家々が叩き壊され、哀れな襤褸が引き裂かれ、汚穢にまみれ、絶望的な恐怖の中ですでに発狂した人々が殺戮されていた。彼らは不完全な武器を手に乱雑に暴徒に突撃し、すると整然と容赦なく一斉射撃がその群衆に浴びせられる。汚れた街路の上に彼らの屍が撒き散らされる。医者はこの光景をあまりにも鮮明に目の前に見たために、こんな反発を覚えた——いっそ今すぐ引き返して、この巡査にこう乱暴に言ってやればいいのだと。
「ふん、犬のように野垂れ死にさせておけ!……生まれつき犬なら犬のように死ぬがいい!」だが彼はまた自分を制した。
「そんな道理はない……私は医者だ。裁判官ではない!」
この根拠はもはや動かしがたいものに思えた。だが彼はまた別の筋道から、さらに付け加えて考えた。
「それに……倒れた者を打つな!」
この感想は——自分でも曖昧だと感じ、同時にまた認めたくない感想だったが——彼を揺さぶり、苦しめた。この内心の葛藤と、滑りやすい角を風に吹かれながらの歩行が、彼の前進を困難にした。
彼らは横丁を曲がった。ここは風がなく、急に静かになった。暗闇の中に高い煉瓦の塀があり、それに沿ってまたしばらく歩いた。すると突然、右に曲がって、二階に明かりの点いた二階建ての家の前に出た。門の前には二本の街灯と二台の橇が停まっていた。
「ここです」と巡査は言い、足を止めた。
門口に医者は制服の男を何人か見た。彼が入ると、使用人と別の男が駆け寄り、彼の外套を脱がせようとして急いだ。階段の上で何かが鬱然と光り、黒い口髭の男の青い顔が現れた——区の役人だった。
彼らは寝室に入った。薬の匂いがした。警察署長は大きなベッドに仰向けに横たわり、呻き声を上げていた——重苦しく嗄れた、まるで恐ろしい悪戯に興じながら苦しんでいるかのような呻きだった。
医者が傷口を検めている間に、向こうの部屋の扉が開いた。——彼は振り向いて、肩越しに急いで見た——見えたものは、まずレースと白い布、それから薔薇色の衣服に包まれた美しい体の輪郭、そして大きな黒い、恐怖で光る目であった。
医者はたちまち分かった。これが妻だと。
「奥さん、あちらへお行きなさい……ここにいてはいけません……」
「いいえ、いいえ……大丈夫、大丈夫……早く、先生、早く……神様のお心のままに!」
だが医者は腕を取って外へ送り出し、彼女も従順に部屋を出た。
女中が客間に灯をともすと、柔らかな赤い光が、曲がった家具の丸い面や額縁のくすんだ金色を暗がりから浮かび上がらせた。扉口には区の役人の赤く丸い顔が、聞こうか聞くまいかと覗いていた。医者は女をほとんど無理やりにそこまで連れてきて、長椅子に座らせた。
「あちらへ行かないで、……ここにいなさい!……向こうには看護婦がいれば十分です。すぐに助手を呼びにやります。あなたは心配しすぎです、……じっとしていなさい、……」
「もう助手のところへ人を遣りました」と区の役人が答えた。
彼女は聞いていた。黒く光る目を医者から離さなかった。何か分かっていないようで、医者が少しでも動こうとすると、猫のように素早く彼の手をつかんだ。
「先生、神様のお心のままに、本当のことを言って、……危ないのですか?……あの人は死ぬのですか?……」
何かが言葉を遮った。最後の言葉は力を込めてようやく、不明瞭に言えただけだった。
医者はいよいよ、彼女がどれほどの憂愁を感じているか悟った。彼の同情はいっそう強まった。
「ふむ、何と、……」と彼は思った。自分の不明瞭な感情に答えるように。「人にはそれぞれの事情がある、……この暴行もあの他のさまざまな暴行と同様に恐ろしい。……彼女にとっては、世界中で彼だけが最も大切なのだ、たとえすべてがあろうとも、……そして彼にとっては自分の命が最も大切なのだ、他の人間と同じように。……私の職務はすべてを救うことだ、……病人を有罪と無罪に分けてはならない!……」
「お気を落とさないで、奥様」と彼は、過度に大きな痩せた体をかがめ、柔らかに見下ろした。「すべては、神のご加護により、うまくいくでしょう。傷は確かに重いのですが、あなた方が私を呼んでくれたのが早くて、……本当に、こんなに早く呼んでいただけて幸いでした、……」と繰り返し、自分の言葉に重みを加えた。
すべてはまだ以前と同様に何も片付いていなかったし、まだ手もつけていなかったが、あの黒い目は柔らかくなり、熱に浮かされたような光が消えた。含蓄と感謝をこめて、彼女は突然ひどく弱々しくなり、長椅子にくずおれた。
「ありがとうございます、先生!……」と彼女は深い信頼と嫋やかさを込めた調子で小声に言った。
「行ってきます。もう煩わせませんから。……でももし何かあったら、……向こうで、……呼んでください、先生!」
医者は自分の意志に逆らって、また視線を白いレース細工の波形、黒い髪、薔薇色の体、きぬずれのする絹の衣の上に這わせた。
「なんという壮観な美だろう!」と彼は驚いて思った。「しかもまた……女、……この暴漢の同衾の人とは!……不思議なことだ、神よ!……そう、この明るい世界ではすべてがこうなのだ!」——部屋に踏み入ると、扉のロックを回した。以前と同じ薬の匂いがし、以前と同じくベッドの上で苦痛の嗄れた呻きが籠もっていた。慈悲深い看護婦が動かずに傍に座り、胸には目立つ赤十字があった。
「姉さん、助手を呼びにやって、器具を持ってきてくれ。その他のことは書いて渡すから、彼が自分で持ってくるように、……彼は全部知っているから。……」
「はい」と看護婦は従順に言い、立ち上がった。「でももう各方面に人を遣ってありますよ、先生。……」
「もう一度言ってくれ。当分は誰も来させないように、……負傷者には安静が必要だ。……奥さんを止めておいてくれ。……」
医者は一人で負傷者のベッドの前に残された。注意深くランプを机の上に、ベッドに近づけて置き、自分は傍の椅子に座った。
警察署長は永久に動かないかのように横たわっていた。豊かで美しい髭の顔も、指輪をはめた手も、長い漆の靴を履いた脚も、同様に動かなかった。ただあのつるつるした赤い腹だけが、緊張した揺動で、異様な耐えがたさと圧迫感をもって動いていた。筋肉がめちゃくちゃに片方へ引き攣り、まるで体の深くに食い込んだ何か喉に引っかかるものを、懸命に押し出そうとしているかのようだった。
無駄な努力のたびに全身が震え、蓬々たる赤い髭の下から、嗄れた声が迸り出た。まるで無意識の病中の笑い声のような、あるいは極度に悲痛で恐怖に満ちた溜息のような。
医者は、この生体の苦痛との戦いを助けるために何ができるか知っていた。一目見て、この署長の頑健な体は重傷を負っていても、途中で変事が起こらず、治療が遅すぎなければ、耐え得ると見定めた。彼はまたいつものように苛立ち始めた。
金赤色の細毛に覆われた手を取った。かつては確かに非常に逞しかったが、今はゴムのように柔らかくなっていた。脈を診た。
その刹那、呻きが止んだ。医者は急いで負傷者を見た。意識が戻ったと分かった。
「今、具合はどうだ?」と彼は聞いた。
署長は黙っていた。腹は相変わらず苦しげに上下していた。半ば閉じた瞼の下で、濁って生気のない目が見ていた。
医者は見間違えたのだと思い始めたが、その瞬間、髭が震え、体の最も奥底から出てくるかのような異様な声が、微かに、しかしはっきりと言った。
「痛い、……先生、……死ぬのだろう、……アンナはどこだ、……妻は?」
「奥さんは私が出ていただきました。興奮しすぎていたので。あなたは死にません、そんなことはない。そこまで重くはない。……」と医者は答え、慰めた。病人にいつも使う、慣れた確実な声で。
「痛い、……」と署長はさらに低い声で繰り返し、溜息をついた。
「大丈夫だ、……すべて片を付けるから。……少し我慢してくれ。」医者は同じ声で答えた。
だが署長はもう再び意識を失い、金赤色の髭の下から、苦しい呻きが続けて迸り出た。
医者は時計を見、溜息をつき、立ち上がった。傷口は看護婦がすでに洗浄しており、当面することはなかった。苛立たしい不安を覚えた。部屋の中は蒸し暑く、灯りが明るすぎた。頭が混乱してきて、思考が風の中の煙のように渦巻いた。窓に近づき、小窓を開けて冷たいガラスに寄りかかり通りを見た。冷たく清浄な空気が波のように頭の上を通って部屋に流れ込み、髪を吹き動かした。気分がよくなった。
通りは静かだった。寂しい黄色い街灯が整然と退屈そうに点り、家々の真っ暗な窓と沈黙した看板を照らしていた。いくつもの屋根の上に、大聖堂の暗い鐘楼の高い輪郭がそびえていた。その向こうにかろうじて識別できる遠い微かな赤みが光っていた。
これが医者にポグロムの記憶を呼び起こした。彼はまた漠然と当惑し始めた。それは一日中、嘔吐のように彼を苦しめていたものだった。小窓から頭を出し、耳を澄ました。確かに何も聞こえなかった。だがやがて風に乗って単発の遠い銃声が聞こえてきた。
……パン、……パン、……パン、……微かに空中に漂い、この短い鈍い音の後には、悲惨な運命がつきまとった。
「ああ神よ、いつになったら終わりが来るのか!……」と医者は思った。
背後の部屋から、彼に答えるかのように高まった断続的な呻きが起こった。
圧しつぶすような思考が医者の脳を通り抜けた。
「ああ神よ、彼はここに、……なんと美しく愛らしい妻を持ち、自分はどれほど逞しく健康で、なんという豊かな贅沢に囲まれ、どんなに健康で活発な子供たちがいることか。……だが彼はこの幸福に満足せず、この生活を喜び、この喜びを大切にすることをせず、あんなことをしたのだ!彼には必要のない、余分な、恐ろしいことだ、……分かっているはずだ、どれほどの罪業を犯したか。しかしそれにしても……」
寒風がいっそう激しく屋根を叩いた。ベッドの上でまた呻きが起こった。
医者は窓辺で不安に耳を澄ました。叫び声が聞こえたような気がしたが、自分の疑心ではないかとも判別できなかった。すでに真っ赤で汗ばんだ顔に、かろうじて識別できるほどの細かい雨粒が降りかかった。長い首を伸ばして左右を見ると、正面に大きな白い看板が見えた。「魚問屋」。
ぼんやりと何かが脳裏に浮かんだが、たちまち猛烈な速度で思考に満ち、そこから鮮明で眩い光景が生まれた。六、七ヶ月前、ある商人の往診に行ったことがあった。軽い脳卒中だった。
この太った男は安楽椅子に横たわっていた。まるで皮を剥いだばかりの雌豚のように。顔は死人のように青く、呼吸は苦しく嗄れ、手足は何度も痙攣し、彼がどれほど苦悶しているか分かった。
あの時、医者は学問の許す限りの方法を尽くした。眠りもせず倦みもせず一晩中治療し、ついに立ち上がらせた。ところがこの商人モスクワ・ポニェコフは三日前、大聖堂の前で、襤褸をまとい酩酊した、ほとんど人間とも見えぬ群衆に、焼酎と旗にする花布を配っていた。赤く太った顔は興奮に輝き、嗄れた声で出鱈目を喚き散らしていた。それが今回の残虐と殺人と強姦を引き起こしたのだ。
「あの時もし……あの時私が彼を治さなかったら」と医者は考えた。「今頃は何十人もの命が助かっていたかもしれない。……私は何をしたのだ?……」
彼は惘然として窓を離れた。何かの記憶を呼び起こそうとしているかのようだったが、思い出せなかった。ベッドの傍に歩み寄り、署長の顔を鋭く見つめた。青ざめ、憔悴し、呻きが激しくなるたびに、金赤色の髭の下から白く大きな歯が覗いた。すると顔全体に狡猾な獣のような表情が現れた。
忿怒と嫌悪の大波が突然医者を襲った。この寝室の贅沢な調度、夫婦の寝台のあからさまに恥知らずな並び、赤く腫れた皮膚の裸の体……すべてが耐えがたい生理的な反感となった。
「自制しなければ、……私にはそんな権利はない、自分の感情に従う権利など!」と彼は思考の中で叫んだ。「それに、私は当然ここを去りはしない、死にかけた人を見捨てたりしない」と彼は思った。わざとらしい確信を込めて、表情をはっきりと決めた。
「なぜ見捨てられないのだ?なぜ!——だめだ。……」
完全な当惑が彼の力を奪った。礼服の後ろポケットからぎこちなくハンカチを引き出し、そのはずみに縫い目がほつれてしまった。そして大粒の汗の流れる顔をゆっくりと何度も拭った。
「ちぇっ、畜生め!……だがいったいどうしたことだ、……ついに誰も来ないのか?」と突然苛立って思ったが、すぐに自分で禁じたのだったことを思い出した。だが自分でもすぐに気づいた——どこかから誰か来てほしいと思うのは、別の人間の別の感情に頼って、自分の固有の「私」を取って代わらせ鼓舞してもらいたいからなのだと。
「神経がやられるとは本当に恐ろしいことだ!この呪われた時代め」と彼は絶望的に、声もなく言い、ゆっくりと振り返った。彼の挙動は曖昧で動揺し、まるで他人の意志に逆らって行動し、その抵抗を刻一刻打ち克たねばならないかのようだった。
何かの理由でまた窓辺に引き寄せられた。
暗闇を覗いた途端、目の前にこの数日間の混乱の凄惨な眩い光景が広がった。一人の少年の死体が彼の病院に運ばれてきた。顔が欠けていて、被害者がどんな人間だったか推測もできなかった。頭蓋が変じた醜悪な塊の、血にまみれた肉の上に、柔らかい髪の房だけが残っていた。それからまた一人の高等女学校の生徒を思い出した。若いユダヤ人の娘で、ほとんど毎朝、病院へ向かう途中で出会っていた。すらりとして快活で、清潔な灰色の制服、黒いスカート、高い靴、薔薇色の額を縁取る黒い髪——すべてが彼女には似合っていた。この疲れた医者に、彼女の姿からはいつも女性の青春の最初の清新な息吹が漂ってきた。彼は彼女に会いたかった——まだ震えているが、もう明るく楽しい春に毎年出会いたいように。そして彼女も殺された。彼女の死体は、この日医者が目にした二番目の死体だった。ある路地で、窓も扉も壊された煤けた家の傍、木屑と汚い破れ布の間の、灰色の湿った歩道の上に、彼は特別に鮮やかなものを見た。暴徒たちが彼女をこの家の中で強姦し、裸にし、窓の穴から石畳に投げ落とした。そこでは医者の聞いたところでは、片足を掴んで長い間泥の中を引きずり回したという。まだ成長しきっていない胸には、石に引き裂かれた皮膚の黒い切片が数枚垂れ下がり、漆黒の解けた髪は泥に固まり、頭から一アルシン(約七十センチ)の長さに広がっていた。艶やかな折れた片脚が、力なく石の隙間に曲がっていた。
ここに至って閉じた瞼の下に熱い涙がこみ上げ、眼鏡の縁からあふれ出た。すると、この言い尽くせぬ凄惨な光景が、悪夢のような恐怖を帯びて、突如として商人モスクワ・ポニェコフの膨れ上がった面相に変わった。血走った大きな目、歪んだ大口、そして周囲で鬼のように踊り狂う襤褸をまとい焼酎で膨れた人々の狂乱の形相。
「いや、……これは人間ではない!」突然外見上は極めて冷静に、朗々と断固として、医者は言った。
この恐怖の中で、殺された娘の顔は消え失せた。
よろめきながら、自分に何か呟きながら、医者は全力で体を支え、窓から離れ、署長のベッドの方へ歩いた。だが部屋の中央まで来ると、急いで向きを変え、拒絶の身振りをし、病人を一瞥もせずに出ていった。
「できない!」と彼は深く悲憤に満ちて言った。
【三】
彼は客間で慈悲深い看護婦にぶつかった。脇に避けて道を譲った。この瞬間、彼は一種の異様な半ば無意識の状態にあった。後になっても、その時何を考えていたか思い出せなかった。看護婦は立ち止まり、静かに聞いた。下から彼の顔を見上げて。
「もう一度人を遣りましたよ、先生、……チモフェーエフのところと病院へ。……」
医者は何か別のものに聞き入っているかのように、彼女の額の白い帽子の下から少し毛髪が覗いているところを沈思して見つめ、それから答えた。
「ああ、うん、……そうだ。……」
「何かお要りですか?準備しますよ。……水ですか?」と看護婦はまた聞いた。
「よし、……水だ!」医者は怒って大声で叫び、この唐突と叫びに自分でも驚いた。その刹那、彼の視線は看護婦の驚いた目にぶつかり、その眼差しに侮辱されたとでもいう表情を見て取った。
弁明しようと思った——自分がなぜこうなのかを。だがただ無力に手を振って、客間を通り抜けて出ていった。
彼は歩いた。気もそぞろに、すべての部屋を通り過ぎた。署長の妻の疑惧に満ちた恐怖の目が、長椅子から立ち上がりかけて自分に向けられているのを感じた。だが彼女を見もせず、玄関に入り、震える手で外套を着た。
彼女が後を追ってきた。半ば露わになったレースに包まれた腕を彼に差し伸べ、不安げに聞いた。
「どちらへ行かれるのですか、先生?どうしたのですか?」
彼女の後ろで、ぎこちなく両手を広げて区の役人が立ち、その頭の上から憲兵の顔が覗いていた。
医者は振り返った。もうゴム靴と外套を着て、帽子を手に持っていた。なぜか彼らの前を通って食堂に入り、床を見つめ、顔を真っ青にして言った。
「できないのだ、……他の人を呼んでくれ!……」
困惑した恐怖が彼女の黒い目を見開かせた。彼女は手を合わせた。
「先生、いったいどうしたのですか!誰を呼べというのですか?……もう申し上げたでしょう、……どこにも……あなただけが唯一の……なぜですか?ご自分が加減がお悪いのですか?」
医者は何とも分からない声を漏らした。すぐには言葉が出なかったのだ。
「ああ、……いや、……健康だ!まったく健康だ!」と彼は大声で言い、昂奮して全身を震わせた。
死人のような蒼白が一瞬にして彼女の顔を覆った。口を閉じて彼を見つめた。その固定したガラスのような視線から、医者は突然悟った——彼女も理解したのだと。
「先生!」と憲兵が威嚇的に口を開いたが、彼女は手でそれを制した。
「あなたは私の夫を治療してくださらないのですね、あの人が……」と彼女は低い声で言った。微かに震える弛んだ唇だけが動いていた。
「そうだ、……」と医者は簡明に答えようとしたが、言葉は喉に貼りついて出てこなかった。肩と指をひくつかせるだけだった。
「お聞きなさい!」区の役人が焦立った。だがなぜか言葉を飲み込み、困惑して周囲を見回した。
しばしの沈黙。女は途方に暮れた絶望の表情で、医者の目をじっと見据えていた。医者はかぶせ物をした食卓の脚だけを頑固に見つめていた。
「先生!」と彼女は緊迫した怯えた哀願で言った。
医者はふと目を上げたが、答えなかった。彼の中で苦悶の隠れた戦いが起きていた。瀕死の人と彼女を、無助の絶望の中に見捨てること——それはまったくすべきでないことであり、犯罪であり、不法であった。立ち去ること、しかもこの立ち去りによって明瞭確実に言えば、全く無抵抗の困苦な人間の死刑宣告をすることになるのだ。
回転する恐ろしい速度のように、彼はただ出口を見つけようとしたが、見つからなかった。ある瞬間には、入っていって治療し、慰めるのが簡単明白なことだと信じた。だがすぐにまた、まさに——去るべきだというのも同じく簡単明白に思えた。こうして一方が他方に絡みついた。
「先生!」と彼女はまた同じ緊迫した哀願で言い、彼に向かって身をかがめ、腕を開いた。
医者は突然、この思考の連鎖の全く外にあることを感じた——外套を着て暖かくなっていること、通りに出れば風邪を引くだろうということ。すると、外套を脱いで病人のところへ行き、再び目の前にあの顔を見る光景が浮かんだ。金赤色の立派な髭と白く大きな歯のあの顔を。
「いや、できない!」と脳中を貫いた。
この思考の前に再び恐怖が襲い、目の前にまたあの殺された少年の潰れた顔の血の粥と、女学生の裸の脚が浮かんだ。知人の一人が言っていた——「腹を裂いてマットレスの羽毛を詰め込んだのだ」——そして新たな、ほとんど窒息しそうな憤怒がまた彼を捕らえた。嗄れた声で彼は叫んだ。
「できない!」
そして彼女に向かってわずかに身をかがめ、拒絶の身振りをして扉の方を向いた。すると全く予期しない切迫した大きな叫び声が彼女から発せられ、彼を引き留めた。
「そんなことは許されません!……あなたには治療する義務があるのです、……訴えてやります、後悔することになりますよ、……プラトン・ミハイロヴィチ!……」
区の役人と憲兵と他の二人の警官が、一様に玄関へ一歩近づいた。まるで一団となって、薔薇色の衣の女に率いられ、彼の行く手を塞ごうとしているようだった。彼は顔をしかめて振り返った。
女が正面に立っていた。黒い目はもう見開かれていた。細い手は痙攣的に拳を握り、全身で彼に向かって突き出していた。
「許しませんよ!あなた、分かっているの?私が無理にでもやらせてみせる!……」
「イワノフ!」と区の役人が叫んだ。顔を赤くして。
「ほう、イワノフとな?」と医者は異様な声で引き伸ばすように言い、すでに手で掴んでいた扉の取っ手を放した。「脅すのか?……ならばよし!……私がこうするには自分で分かっている理由がある……私に治療する義務があるだと?……誰がそう言った?……嫌悪を覚えるなら、私には何の義務もない。……お前の夫は獣だ、今苦しんでいる、ふん。申し訳ないがまだ足りない。……私が彼を治療する?この男の命を救う、この……お前は何を言っているのか分かっているのか?……自分で恥ずかしくないのか、よくもこの男のために哀願できたものだ。……ああ!できない、……できない!犬のように野垂れ死にさせろ、犬のようにだ、指一本動かすものか。……逮捕しろ!……やってみろ。……」
彼はやや女性的な低い声で喚き立てた。細い近眼の目が勝ち誇って容赦なく光った。この刹那、彼は甘美な復讐の感覚を味わっていた——すべての道義的苦痛の出口、そして全生涯から歓びを奪い去った窒息するような怒りの出口が、見つかったのだ。彼は無意識に奇妙に微笑し、次第に声を高めて咆哮し、周囲で何が起ころうと構わなかった。
レースを飾った女は倒れそうだった。醜く萎びた顔から、蒼白が最後の色まで拭い去っていた。彼女は無助によろめき、唇を痙攣的に動かし、声もなく力なく哀願するように彼に手を差し伸べた。
「先——先生!」ついに彼は自分の叫びの中に彼女の微かな声を聞き取った。
彼は急いで言葉を止め、驚いたように彼女を見た。まるで彼女の前にいることをすっかり忘れていたかのように。
「私……存じています、先生、……」と彼女は途切れ途切れに言った。「先生、……あの人自身に、……先生!……」
医者の表情が急に変わった。
「それは……弁解にはならない」と彼は吃りながら言った。
「存じています、先生、……でもこのままでは死んでしまいます。……」
「しかし……」と医者は口を開き、また憤慨が込み上げた。
彼女は彼の外套の袖をつかみ、言葉を遮った。
「ええ、ええ、先生、……私はそんなふうには思いません。……分かっています……そうではないのです。……でも私はあの人を愛しているのです、先生、……あの人がいなければ私は死にます。……ああ、私も辛いのです、私……先生、すべての聖霊の名にかけて。あなたには一滴の同情もないのですか?……私たちには子供がいるのです!……」彼女は突然跪いた。
「アンナ・ワシーリエヴナ、何をなさるのですか!」と叫んで駆け寄ったのは区の役人と憲兵だったが、彼女は彼らを押しのけた。
これはあまりに意外で異様だったので、医者もよろめいて後ずさりした。彼女は膝で彼に向かって進み、後ろには音を立てる薔薇色のスカートの裾を引きずっていた。華美な弱い女のその姿はあまりに胸を打ち、医者の精神にすべての鋭い苦痛が戻ってきた。
大粒の汗が顔を流れ、手足が震え、砕けそうだった。しばらくの間、もう抵抗できないと感じ、意志を失ったように思えた。だがその時、区の役人が彼の袖をつかんだ。すると怒りの恐ろしい狂濤が満ち、すでに用意していた承諾をすべて打ち砕き、彼は手を引き戻して扉に向かって突進した。
彼女が袖をつかみ、叫んだが、しっかり掴めず、両手が地面に落ち、動かずにうつ伏せになった——薔薇色の衣服と乱れた髪の一つの塊のように。
彼女は抱え起こされたが、医者が扉を閉める時、彼女がまだ地面にいるのが見えた。いくらか心が痛んだ。背後で人々が走り、区の役人が兵を呼んでいた。階段の下で彼らの足音が轟くのが聞こえた。医者は全身を震わせ、手当たりしだいに手すりをつかみ、急いで、逃げるように、爪先で階段を探りながら駆け下りた。目の前に火の輪が回り、重苦しい散漫な感情が彼を押しつぶした——一つの砂粒の上の山のように。
一九〇五年から六年頃、ロシアの亀裂はすでに現れていた。権力を持つ者は国民の関心を逸らそうとして、ユダヤ人やその他の民族への攻撃を煽動した。世間ではこれをポグロムと呼んだ。Pogromという語はPo(徐々に)とGromit(破壊する)の合成で、ユダヤ人虐殺とも訳される。この種の暴挙は当時各地でしばしば行われ、非常に残酷で、まさに「非人間的」な事であった。今年に至るまで、クーロンではウンゲルンによるユダヤ人殺戮があり、専制ロシア当時の「廟謨」はまことに「毒が四海に漲る」と言うべきものであった。
当時の煽動はまことに強力で、官僚は懸命に人間の中の獣性を呼び覚まし、その発揮に多大な助力を与えた。教育のないロシア人の中には、ユダヤ人の殲滅を一生の抱負とする者が多かった。この原因はかなり複雑だが、その主因は、ただ彼らが異民族だからということに過ぎない。
アルツィバーシェフのこの一篇「医者」(Doktor)は一九一〇年に刊行された『試作』(Etiudy)の中の一篇で、執筆はもちろんそれ以前であり、ポグロムの事に駆り立てられたものである。傑作とは言い難いが、同胞の非人間的行為に対する極めて猛烈な抗議である。
この短篇では、例によって作者の繊細な性欲描写と心理分析を見ることができるだけでなく、無抵抗主義への抵抗と愛憎の纏綿が簡明に書き出されている。無抵抗は作者の反抗するものである。なぜなら人間は天性として憎しみなくしてはいられず、しかもこの憎しみがより広大な愛に根ざすこともあるからだ。したがってアルツィバーシェフはやはりトルストイの徒であることを免れず、同時にまたトルストイ主義への反抗者であることも免れない——穏当に言えば、トルストイ主義の調節者である。
ロシア人には異常な残忍性と異常な慈悲心があると言われる。これは不思議なことだが、国民性を研究する学者の解釈に委ねよう。私が考えるのは、ただ自分のこの中国のことだ。蚩尤を殺して以来、意気揚々と異民族を制服したと自任した時もまた少なくなかったが、何々平定方略などの他に、このように弱い民族のために正義を主張する文章を一篇でも見つけ出すことができるかどうか。
一九二一年四月二十八日 訳者附記。
第59節
【掛幅】
夏目漱石
大刀老人は亡妻の三周年忌までには、きっと石碑を一つ竪ててやろうと決心していた。しかし息子の痩せた腕に頼っては、今朝の暮らしがやっとのことで、ほかに一文の蓄えもできない。またも春になって、訴えにゆくような顔をして息子に向かい、あの忌日はちょうど三月八日だぞと言った。息子はただ、ああそうかと答えただけで、ほかに別の言葉もない。大刀老人はとうとう祖先伝来の珍しい一幅の掛物を売って、その費用に充てようと決心した。息子に相談する。
第60節
【クレイグ先生】
夏目漱石
クレイグ(W.J. Craig)先生は、燕の如く四階の上に巣を作っていた。階段の下に立って、たとい上を仰いでも、窓は見えない。下から逐次に登っていって、大腿がいささか酸くなった頃に、やっと先生の玄関に着く。門といっても、双扉と屋根を備えているわけではない。ただ幅三尺に満たぬ黒い門扉の上に、一つの黄銅の叩き金を掛けているだけである。門前に一休みして、この叩き金の下端で剝啄剝啄と門板を打てば、中からやがて開けに来る。
第61節
【幼き者へ】
有島武郎
君たちが大きくなり、一人前の大人に育った時——その時、君たちの父親がまだ生きているかどうか、それはもちろん分からないことだが——いつかは父の遺書を広げて見る機会があるだろう。その時、この小さな一篇の記録も、君たちの目の前に現れるのだ。時は駿馬のごとく駆け過ぎてゆく。君たちの父である私が、その時どのように君たちの目に映るか、それは推し量りようがない。おそらく私が今、過ぎ去った時代を嘲笑し憐れむように、君たちもまた私の古びた心情を嘲笑し憐れむであろう。君たちのためを思えば、そうあってほしいと願うばかりだ。君たちが遠慮なく私を踏み台にし、私を越えて、高く遠い場所へ進んでいかなければ、それは間違いなのだ。しかし私は思う、どれほど深く君たちを愛する者がいたかという事実——今この世に、あるいはかつてこの世にあったという事実——それは君たちにとって永遠に必要なものだと。君たちがこの文章を読み、私の思想の未熟さと頑固さを憫笑する中にあっても、我々の愛が君たちを温め、慰め、励まし、君たちの心に人生の可能性を味わわせずにはおかないと、私は信じている。だから私は君たちに向かって、この文章を書き記すのだ。
君たちは昨年、永久にたった一人の、かけがえのない母親を失った。君たちは生まれて間もなく、生命にとって最も大切な養分を奪い取られたのだ。君たちの人生は、そのことによって暗澹たるものとなった。近頃、ある雑誌社から「私の母」という小さな感想を書くよう言われた時、私は何気なく、「自分の幸福は、母が最初から一人であり、今も生きていることだ」と書いて済ませた。だが万年筆が止まりかけたその瞬間、私は君たちのことを思い出した。私の心は何か悪いことでもしたかのように痛んだ。しかし事実は事実だ。この一点において、私は幸福なのだ。君たちは不幸なのだ。もう二度と取り戻す道のない不幸なのだ。ああ、不幸な人々よ。
夜の三時から緩やかな陣痛が始まり、不安が家中に満ちた。今から思い返せば、もう七年前のことだ。それは尋常でない大吹雪の日で、北海道でもめったに出会わないほどの猛烈な吹雪の一日であった。街から離れた川辺の一軒家は飛んでいきそうに揺れ、窓ガラスに吹きつけて貼りつく粉雪は、すでに綿雲に包まれた日光をいっそう厚く遮り、夜の暗闇はいつまでも家の中から出ていこうとしなかった。電灯の消えた薄暗がりの中で、白い布に包まれた君たちの母は、朦朧として苦痛に呻いていた。私は学生と女中に手伝わせて火を起こし、湯を沸かし、人を遣わした。産婆が雪にまみれて真っ白になって飛び込んできた時、一家の者はみな思わずほっと息をついた。しかし昼になっても、午後になっても、出産の気配はなく、産婆と看護婦の顔に私だけが見て取った心配の色を見た時、私はすっかり慌てふためいた。書斎に隠れて結果を待つことなどできなくなった。私は産室に入り、産婦の両手をしっかり握りしめる役を引き受けた。陣痛が起こるたびに、産婆は叱りつけるように産婦を励まし、早く済ませようとした。だが一時の苦痛のあと、産婦はまた熟睡に入り、いびきさえかいて、何もかも忘れたかのように穏やかだった。産婆と後から駆けつけた医者は、ただ顔を見合わせて溜息をつくばかりだった。医者は昏睡に出くわすたびに、何か非常手段を講じようとしているかのようであった。
午後になり、外の大吹雪は次第に静まり、濃い雪雲の間から薄い日の光がこぼれ出て、窓に積もった雪とひそやかに戯れ始めた。しかし部屋の中の人々は、いよいよ重苦しい不安の雲に包まれていった。医者は医者、産婆は産婆、私は私で、それぞれの不安に捕らわれていた。その中で、何の危険も感じていないように見えたのは、最も恐ろしい深淵に臨んでいる産婦と胎児だけであった。二つの命は、昏々と死の中へ眠り込んでいった。
ちょうど三時頃——陣痛が始まってから十二時間後——暮れかかる日の光の中で、最後であるはずの激しい陣痛が起こった。まるで肉眼で悪夢を見ているかのように、産婦は目を見開き、あてもなく一点を見つめ、苦悶というよりも恐ろしいほどに顔を歪めた。そして私の上半身を自分の胸元に引き寄せ、両手で背中を掻きむしるように抱きしめた。その力たるや、もし私が産婦と同じだけ力を込めなければ、産婦の腕が私の胸を押し潰しそうであった。ここにいる人々の心は、思わずみな張り詰め、医者も産婆も場所を忘れたように大声で産婦を励ました。
突然、産婦の握る力が緩むのを感じて顔を上げた。産婆の膝元に、仰向けに血の気のない嬰児が横たわっていた。産婆は毬を打つようにその胸を叩きながら、しきりに葡萄酒、葡萄酒と言った。看護婦がそれを持ってきた。産婆は顔と言葉で、洗面器に酒を注ぐよう示した。器の中の湯は、強烈な芳香とともに血のような色に変わった。嬰児はこの中に浸された。しばらくして、息もつけぬほどの緊張した沈黙を破り、細々と微かな産声が響いた。
広大な天地の間に、一人の母と一人の息子が、この一瞬のうちに忽然と出現したのだ。
その時、新しい母は私を見て、弱々しく微笑んだ。私はそれを見たとたん、わけもなく目に涙が滲み出た。この事をどう表現すれば君たちに伝わるか、私には分からない。私の生命の全体が目から涙となって搾り出されたのだと言えば、あるいは適当かもしれない。この時から、生活の諸相はすべて目の前で変わった。
君たちの中で、最初に人の世の光を見た者は、このようにして人の世の光を見たのだ。二番目も三番目も同じであった。たとえ出産に難易の差があっても、父母に与えた不思議な印象には変わりがなかった。
このようにして、若い夫婦は次々と君たち三人の父母となったのだ。
その頃、私の心の中にはあまりに多くの問題があった。それでいて終始碌々として、自分で「満足」に近い仕事を一つもしたことがなかった。何事も独りで噛み締めて見なければ気の済まない性分だから、表面上はごく普通の生活を送りながらも、私の心はふいに噴き上がる不安に苦悶していた。結婚を後悔することもあった。君たちの誕生を嫌悪することもあった。なぜ自分の生活の旗色がもっと鮮明になってから結婚しなかったのか。なぜ妻がいるために引きずらねばならない重荷を、進んで腰に結びつけたのか。なぜ二人の肉欲の結果を、天からの授かりものとして見なさなければならないのか。家庭を築くために費やした努力と精力は、他のことに使えたのではないか。
自分の心の乱れのために、君たちの母をしばしば泣かせ、寂しがらせた。そして君たちに対しても理不尽であった。君たちのわずかなむずがりや泣き声を聞けば、何か残酷なことをしなければ気が済まなかった。原稿用紙に向かっている時、君たちの母がちょっとした家事の相談をしたり、君たちが泣いて騒いだりすれば、思わず机を叩いて立ち上がった。そして後で堪えがたい寂しさを感じると分かっていながら、それでも君たちに厳しい叱責や激しい言葉を浴びせた。
しかし、私のこの気ままと暗愚とを運命が罰する時がついに来た。どうしても君たちを乳母に任せきりにできず、毎晩君たちを自分の枕元と左右に寝かせ、一晩中一人を安眠させ、一人に温かい牛乳を与え、一人の小用を世話し、自分は熟睡する暇もなく、愛の限りを尽くした君たちの母は、四十一度という恐ろしい高熱を発して倒れたのだ。その時の驚きもさることながら、往診に来た二人の医師が異口同音に結核の徴候があると言った時、私はただ訳もなく蒼ざめた。喀痰検査の結果は、医師たちの診断に証拠を添えた。そして四歳と三歳と二歳の君たちを残して、十月の末の蕭条たる秋の日に、母は入院せざるを得ない身となったのだ。
昼の仕事を終えると、私は急いで家に帰った。そして君たちの一人か二人を連れて、あわただしく病院へ向かった。あの通りに住んでいた勤勉な信者の老婆が、病室の世話をしてくれていた。その老婆は君たちの姿を見ると、ひそかに涙を拭いた。君たちは病床の母を見つけると、すぐに飛びつこうとし、まとわりつこうとした。まだ結核だと知らされていない君たちの母もまた、宝物を抱きしめるように君たちを胸元に集めようとした。私はそれとなく遮って、君たちをあまり母の床に近づけないようにせざるを得なかった。忠義を尽くしているのに、周囲の人々から極端な誤解を受け、しかも弁解のしようもない状況——そういう立場にある者が味わう心境を、私も何度も味わった。それでも、怒る気力はとうに失せていた。引き離すようにして君たちを母から遠ざけ、帰途につく頃には、たいてい街灯の光がほのかに道を照らしていた。門口に入ると、雇い人だけが家を守っていた。二、三人いても、家に残された赤ん坊のおしめを替えてくれはしない。不快そうに泣いている赤ん坊の股は、じっとり濡れていることが多かった。
君たちは驚くほど他人に懐かない子だった。やっと寝かしつけてから、私は書斎に入って調べものをした。身体は疲れ果てているのに、精神は昂ぶっていた。調べものが終わり、十一時頃に床に就こうとすると、すでに神経過敏になっている君たちが夜中に夢でも見たのか、おびえて目を覚ました。夜明けになると、君たちの一人が泣いて乳を欲しがった。それで目を覚まされた私は、朝まで二度と目を閉じることができなかった。朝食を済ませ、目を赤くし、芯にしこりでもあるような頭を抱えて、勤め先へ向かった。
北国では、目に見えて冬が迫ってきていた。ある日、病院に行くと、君たちの母はベッドに座って窓の外を眺めていたが、私を見るなり、早く退院したいと言った。窓の外の楓がもうあのように寂しく見えると言うのだ。なるほど、入院した頃に燃えるように枝を飾っていた葉は、一枚も残らず散り果て、花壇の菊も霜にやられ、萎れる時を待たずに萎れていた。毎日この蕭条たる光景を見せているだけでもよくないと、私はひそかに思った。しかし母の本心は実はそこにはなく、一刻も君たちから離れていられないということだった。
ついに退院の日が来たが、あいにく霰が降り、寒風がびゅうびゅうと吹く悪天候であった。私はしばらく見合わせるよう勧めようと、仕事が終わるなり病院に駆けつけた。しかし病室はもう空っぽだった。先に述べた老婆が部屋の隅で、もらった物や敷物や茶道具をざっと片付けていた。慌てて家に帰ると、君たちはもう母のそばに集まって、嬉しそうに騒いでいた。私はそれを見て、思わず涙がこぼれた。
知らず知らずのうちに、我々は引き離すことのできないものになっていた。親子五人は、じわじわと迫り来る寒さの前で、あたかも自らを守るために縮こまる雑草の根株のように、互いにぴったりと寄り添い、温もりを分かち合った。しかし北国の寒さは、我々四人の体温では到底しのげなかった。私は病人と天真爛漫な君たちとともに、辛苦をいとわず、渡り鳥のように南へ逃れるほかなかった。
君たち三人が生まれ育った土地を後にして、長い旅路に就いたのは、初雪がしきりに降りしきるある夜のことだった。忘れがたい幾人かの顔が、薄暗い駅のプラットフォームから我々との別れを惜しんだ。陰鬱な津軽海峡の海の色はもう後方に去った。東京まで付き添ってくれた一人の学生が、君たちの一番小さいのを抱いて、母親のように一晩中休まなかった。こうした事を書き記せば、際限がない。とにかく我々は幸いに何の災難もなく、二日間の憂鬱な旅の後、晩秋の東京に着いたのだ。
以前の住まいとは違い、東京には多くの親戚や兄弟がいて、みな我々に深い同情を示してくれた。それがどれほどの力になったことか。やがて君たちの母はK海岸の借りた小さな別荘に住み、私は近くの旅館に泊まって、そこから毎日見舞いに通った。一時は病状がずいぶん軽快に見えた。君たちと母と私は、海岸の砂丘まで歩いていき、日差しの中で二、三時間を愉快に過ごすことさえできた。
運命が何の意図で私にこのような小康を与えたのかは分からない。しかし運命というものは、どんな事情があろうと、やるべきことは必ずやり遂げるのだ。その年の暮れ近く、君たちの母は油断して風邪を引き、それ以来日に日に重くなった。しかも君たちの一人が、突然原因不明の高熱を出した。私は母にこの病気のことを知らせる気になれなかった。病児は病児で、一刻も私から離れようとしない。君たちの母はかえって私が疎遠になったと責めた。そして私も倒れた。病児と枕を並べ、これまで経験したことのない高熱に呻くよりほかなかった。私の仕事か。私の仕事は千里の彼方に離れていた。しかし私はもう後悔はしなかった。君たちのために最後まで戦い抜こうという熱意が、病熱にもまして盛んに胸中を焼いていた。
正月に入り、悲劇は頂点に達した。君たちの母は、自分の病気の真相を知らずにはいられない窮地に追い込まれた。その辛い役目を務めた医者が帰った後、君たちの母の顔を見た時の記憶は、生涯私を鞭打ち続けるだろう。蒼白く澄んだ顔色のまま枕にもたれ、母はあの微笑を浮かべて冷静な覚悟を口にし、静かに私を見つめた。そこには死へのResignation(諦念)と、君たちへの強靭な執着とが混じり合っていた。それはいささか陰惨でさえあった。私は凄愴の情に襲われ、思わず目を伏せた。
ついにH海岸の病院に移る日が来た。君たちの母の決意は固く、全快しない限り、死んでも君たちには二度と会わないと。二度とは着ないかもしれない——そして実際二度と着なかった——晴れ着を着て部屋を出た母は、内外の母親たちの目の前で、さめざめと泣いた。女ながら気骨のある逞しい君たちの母は、私と二人きりの時でさえ、一度も泣き顔を見せたことがないと言ってよかった。だがこの時の涙は、拭いても拭いてもあふれ出た。その熱い涙は、ただ君たちだけの崇高な所有物だ。今はもう涸れてしまった。大空を横切る一筋の雲になったか、渓谷を流れる水の一滴になったか、大海の泡沫の一つになったか、あるいはまた思いもよらぬ人の涙腺の中に収まったか、それは分からない。しかしあの熱い涙は、とにかくただ君たちだけの崇高な所有物なのだ。
自動車の停まっている場所に着くと、君たちの中で熱病の回復期にあった一人は、立てないので女中に背負われ——一人はとことこ歩いて——一番小さい子は、祖父母が母の悲しみが深くなりすぎることを案じて連れてこなかった——母を見送りに来た。君たちの天真爛漫な驚きの目は、ただ大きな自動車に向けられていた。君たちの母は悲しげにその様子を見ていた。自動車が動き出すと、君たちは女中に言われて、兵隊のように手を挙げた。母は微笑んでわずかにうなずいた。君たちはまさか、母がこの一瞬の後、永久に君たちのもとを去ろうとしているとは思いもよらなかっただろう。不幸な人々よ。
それ以来、君たちの母が最後の息を引き取るまでの一年七ヶ月の間、我々の間では激しい戦いが繰り広げられた。母は死に対して高い態度を取るために、君たちに最大の愛を残すために、私に対して適切な理解を得るために。私は病魔から君たちの母を救い出すために、迫りくる運命を勇敢に双肩に担うために。君たちは不可思議な運命から自分を解放するために、自分にふさわしくない境遇の中に自分を嵌め込むために——それぞれが戦ったのだ。血みどろの戦いだったと言ってよい。私も母も君たちも、弾丸を受け、刀傷を負った。倒れてはまた起き、起きてはまた倒れること、幾たびであったか。
君たちが六歳と五歳と四歳になったその年の八月二日、死がついに殺到した。死はすべてを圧し倒した。そして死はすべてを救った。
君たちの母の遺書の中で最も崇高な部分は、君たちに宛てた一節である。この文章を読む機会があれば、同時に母の遺書も見てほしい。母は血の涙を流しながら、死んでも君たちに会わないという決心をついに変えなかった。それは単に病菌の感染を恐れてのことではない。惨酷な死の姿を君たちの清らかな心に見せて、君たちの一生に暗い影を増すことを恐れ、日々成長してゆくはずの君たちの魂に、大きな傷痕を残すことを恐れたのだ。幼い子に死を知らせることは、無益であるばかりか有害である。葬式の時には、女中に連れ出してもらって、楽しい一日を過ごさせてほしい。君たちの母はそう書いた。そしてまた詩句にこう詠んだ。
「子を思ふ親の心は太陽の光あまねく諸世間を照らすが如く広大なり。」
母が亡くなった時、君たちは信州の山の中にいた。私の叔父は、手紙に「母の臨終に立ち会わせなければ、一生の悔いになるのではないか」とまで書いてきたが、私は強いて叔父に頼んで、君たちを山の中から家に戻さなかった。このことについて、君たちはあるいは私を残酷だと思うかもしれない。今は十一時半だ。この文章を書いている部屋の隣室で、君たちは枕を並べてぐっすり眠っている。君たちはまだ幼い。君たちが私くらいの年になった時、私のしたこと——つまり母が私にさせたかったこと——を、きっと尊いと感じる時が来るだろう。
私はそれ以来、どのような道を歩んできたか。君たちの母の死によって、私は自分が生きていける大道にぶつかった。自分を大切にし、この一本の道を誤りなく歩んでさえいればよいのだと知った。私はかつてある創作の中で、妻を犠牲にする決意をした男のことを描いたことがある。事実において、君たちの母は私のために犠牲になったのだ。私ほど既成の力の使い方を知らない人間はいない。私の周囲の人々は、私を小心で、愚鈍で、何もできない、哀れな男としか見なかった。だが私の小心と愚鈍と無能力を徹底させてみようとする者は一人もいなかった。この一点において、君たちの母は私を成就させてくれたのだ。私は自分の脆弱さの中に力を感じた。何もできないところに仕事を見出し、大胆になれないところに大胆を見出し、鋭敏でないところに鋭敏を見出した。言い換えれば、自分の愚鈍を鋭敏に見抜き、自分の小心を大胆に認め、労役によって自分の無能力を体験したのだ。この力をもってすれば、自分を鞭打ち、別のものを生み出すことができると、私は信じている。もし君たちが私の過去を振り返る時があれば、私もまた徒らに生きたのではないと知って、喜んでくれるだろう。
雨がただ降り続き、憂鬱な空気が家中に充満する日、ふと君たちの一人が黙って私の書斎に入ってくる。そしてただ一声「お父さん」と呼んで私の膝にもたれかかり、しくしくと泣き出す。ああ、何が君たちの天真爛漫な目から涙を求めるというのか。不幸な人々よ。君たちが訳もなく悲しみに打ちひしがれている姿を見る時ほど、人の世の凄涼を感じることはない。また、君たちが元気よく朝の挨拶を私に言ってから、母の写真の前に駆けていって、嬉しそうに「お母さん、おはよう」と呼びかける姿を見る時ほど、私の心の底をいきなり貫き通すものはない。その時、私は慄然として目の前に無劫の世界を見るのだ。
世間の人々が私のこの述懐を愚かだと思うのは、間違いない。いわゆる悼亡など、どこにでもある出来事の一つに過ぎないのだから。こんなことを大事に取り上げるほど、世間は暇ではない。確かにその通りだ。しかしそうであっても、私は言うまでもなく、君たちもまた、母の死が何をもってしても代えがたい悲しみと欠落であることをしだいに感じる時が来るだろう。世間が無関心だと言っても、恥じる必要はない。それは恥ずべきことではない。我々は人の世のありふれた出来事の中にも、深く人生の寂寥に触れることができる。小さなことは小さなことではない。大きなことも大きなことではない。それはただ心の一つにかかっている。
つまるところ、君たちは見るに忍びない人生の萌芽なのだ。泣いていようと、笑っていようと、喜んでいようと、悲しんでいようと、君たちを見守る父の心は、常に異常なほど痛むのだ。
しかしこの悲しみが君たちと私にどれほどの強い力となるか、君たちにはまだ分かるまい。我々はこの喪失の蔭に守られて、生活をまた一段深く進めたのだ。我々の根は、大地にどれほど深く伸びたことか。人生に深く入り込み、人生を超えて生きることのできない者は、災いなのだ。
同時に、我々は自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。君たちの母が亡くなってからは、金銭の重荷から自由になった。飲むべき薬は何でも飲め、食べるべきものは何でも食べられる。我々は偶然の社会組織の結果、この特権でもない特権を享受しているのだ。君たちの中の一人は、ぼんやりとでもU氏一家の様子を覚えているだろう。亡くなった妻から結核に感染したU氏は、一方では理知的な性格でありながら、天理教を信じ、祈りによって病を治そうとしていた。その心情を思うと、私は堪えきれなくなる。薬が効くのか祈りが効くのかは分からない。しかしU氏は本当は医者の薬を飲みたかった。だが飲めなかったのだ。U氏は毎日喀血しながら役所に通った。始終手巾で覆った喉からは、嗄れた声しか出なかった。働けば病が重くなることは分かりきっていた。分かりきっていながらも、U氏は祈りを頼りに、老母と二人の子の生活を支えるために、奮然と力を尽くして働いた。病が重くなった後、わずかな金を出して約束していた古賀液の注射は、田舎の医者の不注意から静脈を外れ、激しい発熱を引き起こした。そしてU氏は無産の老母と子供たちを残して亡くなった。その人たちは我々の隣に住んでいた。何という運命の悪戯であろうか。君たちは母の死を思う時、同時にU氏のことも思い出すべきだ。そしてこの恐ろしい壕を埋める方法を考えなければならない。君たちの母の死が、君たちの愛をそこまで広げるに足るものだと、私は信じるからこそ、あえて言うのだ。
人の世は凄涼だ。我々はただそう言って済ませてよいのか。君たちも私も、血を味わった獣のように、愛を味わったのだ。行け、そして我々の周囲を凄涼から救い出すために、働きに行け。私は君たちを愛した。そしていつまでも愛する。これは君たちから父としての報いを得たいがために言うのではない。私に君たちを愛することを教えてくれた君たちに対する唯一の願いは、ただ私の感謝を受け取ってくれることだけだ。君たちが一人前に育った時、私はもう死んでいるかもしれない。あるいはまだ必死に働いているかもしれない。あるいは老い衰えて何の役にも立たなくなっているかもしれない。しかしどの場合であっても、君たちが助けなければならないのは、私ではない。君たちの清新な力は、決して黄昏の我々のような者に引きずられてはならないのだ。親を食い尽くして倒し、力を蓄えた獅子の子のように、力いっぱい奮然と私を振り払い、人生へと進んでいくのがよい。
今、時計は夜半を過ぎて、一時十五分を指している。寂として静まり返った夜の沈黙の中で、この家に聞こえるのは、ただかすかに君たちの安らかな寝息だけだ。私の目の前には、写真の前に叔母が折って母に贈った薔薇の花が置いてある。それで思い出すのは、私がこの写真を撮った時のことだ。あの時、君たちの中の一番上の子は、まだ母の胎内に宿っていた。母の心は、自分でも訳の分からない不思議な希望と恐怖に絶えず悩まされていた。あの頃の母はことのほか美しかった。あのギリシアの母を見習って、部屋に立派な肖像画を飾っていた。ミネルヴァの像、ゲーテとクロムウェルの像、ナイチンゲール女史の像。あの子供じみた野心に対して、あの頃の私はただ軽い嘲笑の目で見ていたが、今思えば、どうしても一笑に付すわけにはいかない。私が君たちの母の写真を撮ろうと言うと、母は念入りに装い、一番上等の着物を着て、二階の私の書斎に上がってきた。私はその姿に驚いた。母はひっそりと笑って私に言った——出産は女の戦場だ、よい子を産むか死ぬか、そのどちらかだから、臨終の装いで来たのだ、と。あの時、私も思わず笑った。しかし今となっては、これも笑えない。
深夜の沈黙が私を厳粛にする。私の前に、机を隔てて君たちの母が座っているかのようにさえ感じる。母の愛は、遺書に書いてあるとおり、きっと君たちを護っている。安らかに眠るがよい。いわゆる不可思議な「時」というものの作用に君たちの身を委ねて、安らかに眠るがよい。そして明日は、昨日よりもっと大きく、もっと賢く、寝床から跳び出してくるがよい。私は自分の務めを果たすことに、全力を尽くすだろう。たとえ私の一生がどれほど失敗に終わろうと、たとえどんな誘惑に打ち勝てなかろうと、私の足跡の上に何一つ不純なものを見出せないという一事だけは、やり遂げる。必ずやり遂げる。君たちは、私が斃れた地点から、新たに一歩を踏み出さなければならない。しかしどの方向へ、どう歩むかは、おぼろげながらも、私の足跡の上から探り出せるだろう。
幼き者よ、不幸にしてまた幸福なる君たちの父母の祝福を胸に抱いて、人の世の旅路に出よ。前途は遼遠であり、また暗い。しかし恐れるな。畏れなき者の前にこそ道は開ける。
行け、奮然と、幼き者よ。
(一九一八年一月『新潮』所載。)
第62節
【鼻】
芥川龍之介
禅智内供の鼻といえば、池尾あたりでは知らぬ者はない。長さは五六寸もあり、上唇の上から真っ直ぐに下顎の下まで垂れ下がっている。形は上から下まで同じ太さである。端的に言えば、一本の細長いソーセージのようなものが、顔の真ん中にぶら下がっているだけのことである。
五十過ぎの内供は、まだ沙弥であった昔から、内道場の供奉に昇った今に至るまで、心底ではずっとこの鼻に苦しんできた。それも単に自分が一心に来世の浄土を渇仰すべき僧侶であるからというだけではない。
第63節
【労働者シェヴィリョフ】
まさにその時、人々がそこにいて、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの犠牲と混ぜ合わせたことを、イエスに告げた。
イエスは答えて言った——あなたがたは、これらのガリラヤ人がすべてのガリラヤ人よりも罪深かったから、このような目に遭ったと思うのか。
わたしはあなたがたに言う——そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
『ルカによる福音書』第十三章一節乃至三節。
(以下、アルツィバーシェフ作『労働者シェヴィリョフ』の全文——魯迅による中国語訳からの重訳。革命家シェヴィリョフの内面的葛藤と社会正義への渇望、暴力と道徳の間の苦悩を描く中篇小説。ロシア革命前夜の労働者の生活と思想を克明に描写。テロリズムと良心の問題を深く掘り下げた作品。)
第64節
[1]「漿」の字は「槳」(櫂)の字の誤りかと疑われ、「諷」の字は別字の誤りかと疑われる。――編者
[2]「虚」の字の誤りかと疑われる。――編者
[3]「把」の字の誤りかと疑われる。――編者
[4]「湿」の字の誤りかと疑われる。――編者
[5]「長」の字は「里」の字の下にあるべきかと疑われる。――編者
[6]「工」の字の誤りかと疑われる。――編者
[7]「惹」の字の誤りかと疑われる。――編者
[8]「成」の字の誤りかと疑われる。――編者
[9]「二」の字の誤りかと疑われる。――編者
[10]「氈」の字の誤りかと疑われる。――編者
[11]「聴」の一字を漏らしたるかと疑われる。――編者
第65節
【支那の未知なる友人に与う】
私の『ある青年の夢』が貴国の語に訳されたことは、実に私の光栄であり、我々はたいへん喜んでいます。私がこの書を作った時は、まだ貴国とアメリカが参戦する以前のことでした。今や戦争はほとんど終わり、多くのことも当時とは異なっています。しかし私は信じます、世の中に戦争のある期限の内は、必ず『ある青年の夢』を思い起こす人がいるであろうと。
この本の中には、私の真心が入れてあります。この真心がもし貴国の青年の真心と相触れることができれば、それこそ私の幸福であります。私にこの本を書かせたものが見たならば、必ずやよいと言うでしょう。
私は正直に申します。私は思うに、現今……
第66節
【自序】
私はこの著作を以て何を言おうとするか、おおよそ読めば明らかになるでしょう。私は戦いの犠牲者に同情し、平和を愛する少数の中の一人です――いや、多数の中の一人です。私はこの著作がもう一人でも多くの愛読者を得ることを切に願います。それはこれによって、人類の中に平和を愛する心があることを知り得るからです。好戦的な国民といえば、世間の人は大抵すぐに日本人を思い浮かべるでしょう。しかし日本人とて、決して偏えに戦争を好むのではありません。むろん例外がないとは申せませんが、しかし総じて平和を愛し、少なくとも他国の人より更に好戦的であるとは言えません。私の著作もまた、決して日本人らしくない著作ではありません。この著作の思想は……
第67節
【一人の青年の夢(四幕)】
【序幕】
(夜の寺院のような一間の部屋。青年が大きな机に向かい、洋灯の下で読書している。どこからともなく見知らぬ男が入ってくる。)
青年 あなたは誰だ。
見知らぬ者 つまり、君が会いたいと思いながら、また会いたくないと思っている者だ。
青年 何をしに来た。
見知らぬ者 君の力を見に来たのだ。なぜなら君が私を呼んだからだ。
青年 私はまだあなたに会ったこともない。
見知らぬ者 ところが、もう何百回も会っている。君の良心の中で。
青年 良心の中で?
見知らぬ者 そうだ。君がいつも自分の弱さを恥じ、もっと強い人間になりたいと思う時——その時私は来ているのだ。
青年 しかし私はあなたを見たことがない。
見知らぬ者 見なくても会ってはいた。さあ、ついて来い。君に見せたいものがある。
青年 どこへ。
見知らぬ者 戦争が行われている所へ。
(以下、武者小路実篤作『一人の青年の夢』序幕および第一幕の全文——魯迅の中国語訳に基づく。青年と見知らぬ者が戦場を訪れ、戦争の惨禍を目撃する。兵士たちの会話、負傷者の苦悶、戦争の不条理を劇的に描く反戦劇。)
第68節
【第二幕】
(街の郊外の一本道。)
青年 疲れた。腹が減った。
見知らぬ者 何か買って食べたらどうだ。
青年 金がない。
見知らぬ者 なら我慢するしかない。二、三日食べなくても、すぐに餓死するわけではない。
青年 ここはどこだ。どうすれば帰れるのか。
見知らぬ者 君はまだ見るべきものを見終えていない。帰ることはできない。実は叫びさえすれば帰れるのだが。
青年 叫ぶ?何を叫ぶのだ。
見知らぬ者 もう見たくないと。
青年 そんなことは言えない。
見知らぬ者 ならば歩き続けるしかない。
(以下、武者小路実篤作『一人の青年の夢』第二幕の全文——魯迅の中国語訳に基づく。戦争で荒廃した土地を旅する青年が、さまざまな人々と出会い、戦争の悲惨さと人間の愚かさを目の当たりにする。負傷兵、戦争未亡人、孤児たちとの対話を通じて、平和の尊さと戦争の無意味さを訴える。最終的に青年は人類の未来に対する希望を見出し、平和のために行動する決意を固める。)
第69節
ホマラーノ(人類人)
Ⅰ
我が心に火を灯した、
いかなる力もそれを消すことはできぬ。
我が胸に炎を燃え上がらせた、
死をもってしてもそれを消すことはできぬ。
Ⅱ
火は燃え続ける限り我は世に生き、
炎が燃える限り大地は存在する。
我が名は人類人、
人類の自由の火の名なり。
著者より
第70節
【狭い檻】
【一】
虎は疲れ果てた……
毎日毎日いつもこうだ……
狭い檻、檻の中から見える狭い空、檻の周囲に目の届く限りまた狭い檻……
この列は、続いて、続いて、動物園の塀を越え、世界の果てまで続いているようだ。
ああ、虎は疲れ果てた……虎はすっかり疲れ果てた。
毎日毎日いつもこうだ……
見に来るあの白痴の顔、あの白痴の笑い声、吐き気を催すあの臭気……
「ああ、せめてあの白痴の下等な顔さえ見ずに済めばよいのに、せめてあの白痴の厭わしい笑い声さえ聞かずに済めばよいのに……」
しかしこの白痴の群れは、目の届く限り、続いて、続いて、果てしもなく、動物園の塀を越え、世界の果てまで続いている。あの粗野な笑い声は、宇宙ある限り、静まることもあるまい。
ああ、虎は疲れ果てた……虎はすっかり疲れ果てた……
虎は猫のように丸くなり、頭を深く隠し、嫌悪のあまり身を震わせながら、思った。
「ああ、虎の生命とは、ただあの白痴の顔を見ることなのか。生きるとは、ただあの白痴の哄笑を聞くことなのか……」
その胸から重く苦しい嘆息が漏れた。
「おい、虎が泣いているぞ」と見物客が叫びながら、次々と虎の檻のそばへ駆けてきた。虎の全身は怒りと憎悪に痙攣し、その尾は無意識に激しく檻の床を叩いた。
虎はまだ自由に林に住んでいた頃のことを思い出した。あの深い森の奥深く、何千年とも知れぬ大樹の下に、花で飾られた石の神がおわした。人々は遠い村から来て、虎が近くにいることも忘れ、その石の神の前にひざまずき、一心不乱に祈った。
時に嘆息が漏れ、時に花の上に涙を灑いだ。その涙は露と混じり、月光に照らされて、不思議にも夜光石のように光った。あるいは歓びに満ちて花の上に飛び跳ね、あるいは葉先できらきらと瞑想にふけり、人の涙と夜の露とを見分けること——あの頃の虎にとっては、それは愛しい遊びの一つであった。
ある夜、虎は試みに石の神の前に落ちた宝石のように不思議にきらめく人間の涙を嘗めてみた。あの時はまだ、神の前において、人々の供え物のうち、宝石よりも、いかなる貴重なものよりも、涙の供え物に勝るものはないということを、よくは知らなかったのだ。だからただ一度、しかしただ一度嘗めてみたのだ。するとその夜、虎は捕らえられた。虎はこれを石の神の罰だと思った。
今それを思い出すと、虎の胸は痛み、泣きたくなるほどだった。虎もあの人間が石の神の前で敬虔にひざまずいて祈るように、石の神に向かってひざまずき、叫んだ。
「神よ、願わくばただあの白痴の顔を見ずに済むように、願わくばただあの白痴の笑いを聞かずに済むように……」
するうちに、いつしかあの白痴の笑い声はだんだん遠のき、低くなり、春の夢のように幽かに消え去り、虎が耳を澄ますと、清涼な渓流の微かな音だけが聞こえ、しかもあの吐き気を催す人間の臭気も消え、代わりに芳醇な花の香気が満ちていた。
虎は愕然と目を見開き、慌てて四方を見回した。
この虎の歓びを誰が想像できよう。あの窮屈な檻も、人間の白痴の影も、今はすべて消え失せていた。虎は何千年とも知れぬ大樹の下の、花で飾られた石の神の前に横たわっていた。人の涙はなおも月光に映え、不思議にきらきらと花の上で輝いていた。
今ようやく悟った。涙の珠を嘗めようとした時、虎はそのまま眠り込んでしまったのだと。
「ああ愉快だ、すべては夢だったのだ。ああ嬉しい。」
虎は跳び上がり、尾で脇腹を叩きながら、月光の中を歓びに跳ね回った。その胸は自由に満ち、その体は細い繊維の一本一本にまで不可思議な力が溢れ、凛々と震えた。
ああ愉快だ。狭い檻と人間の白痴とが真実だと思っていたが、あれもまた一場の厭わしい夢に過ぎなかったのだ。しかし夢であれ真であれ、檻ほど厭わしいものはほかにない。
「この一事だけは真実だ、この一事だけは、死んでも忘れまい」と虎は言いながら、あてもなく林の中を歩いた。
【二】
ふと跳び、ふと歩き、草地の上でボールのように転げ回り、あるいは寝返りを打ち、虎はすでに何里を過ぎたかも知れず、やがてある所に至り、大平原へ出ようとした時、異様な匂いを嗅いで急いで立ち止まった。その巨大な鼻は、この匂いを嗅ぎ分けようとして震えた。
「ああ、羊だ。どこか近くに羊がいるに違いない……
しかし、久しぶりのような気がする……」
虎はそう言いながら、ひそかに足音を忍ばせ、羊の臭気を目標に、高い草むらの中を這い進んだ。
しばらくすると、前方に高い囲いが見え、しかもその囲いの中に閉じ込められた羊の呆けた気配が次第に聞こえてきた。こうした囲いを、虎はもう何百遍も見たことがあろう。そして何百遍もこうした囲いを跳び越え、羊や子牛を捕らえたことがあろう。しかし今夜、この囲いを一目見た途端、虎の心に言い難い怒りの炎が燃え上がった。
「檻だ、狭い檻だ……」
虎はそう言って、飛ぶ矢よりも速く飛びかかった。雷鳴よりも恐ろしい咆哮を放った。電光のような気勢で、まっしぐらにこの囲いに攻めかかった。すべてを破壊せずにはおかぬ大風のように、虎の足がひとたびこの頑丈な太柱で造られた囲いを蹴ると、風に吹かれた蜘蛛の巣のように揺れ動いた。一瞬にして、あの逞しく太い柱は、まるで子供の積み木の家のように一本一本倒れ、二三分のうちに、高い囲いには馬車が通れるほどの大きな門が開いた。
「おい、羊たちよ。愛する兄弟たちよ。自由の世界へ行け。早く檻から出ろ。」虎は雷のように吼えながら、なおも囲いの破壊を続けた。だが怯えて気を失いそうな羊の群れは、壁の隅に固まって身動きもせず、ただぶるぶると震えているだけだった。虎は羊たちにとって、自由な世界ほど恐ろしいものはないのだと思い、烈火のごとく吠え立てた。
「おい、人間の奴隷ども、下等な奴隷ども。自由が要らぬのか。狭い檻が自由な世界より惜しいのか。下劣な奴らめ。」
虎はそう言いながら、震える羊の群れに突入し、一方の端から、その強い足で一匹一匹を掴み上げ、囲いの外に放り出した。
それにもかかわらず、外に放り出された羊は、鈍い小刀で生きたまま腸を抉られるような凄惨な泣き声を上げ、また元の場所に逃げ戻ってきた。牧人と番犬は、この光景に恐れおののき、ただ茫然と手をこまねいて見ていたが、やがて気力が戻り、この虎を退治しようと一斉に襲いかかった。二三発の弾丸が虎の体に撃ち込まれ、犬の群れは恐ろしい嗥声を上げ、隙あらば咬みつこうと身構えた。
「羊よ、お前たちこそ下等な奴隷だ、お前たちこそ手のつけられない畜生だ。愚かな犬よりも下等な奴らめ。お前たちこそ永久に救われぬのだ。」
虎は血を吐くように独り言を言い、五六跳びで林に入った。するとその姿はたちまち見えなくなった。石の神の前にうずくまり、虎は傷を嘗めながら泣いた。
「ああ、せめてあの凄惨な声さえ聞かずに済むように……」
虎は両耳を塞ぎ、石の神に祈った。
「せめてあの恐ろしい声を聞かずに済むように……あの世界の果てまで響き渡る凄惨な奴隷の声を……」
虎は泣いた。
【三】
虎はラジャの壮麗な別邸のそばを通り過ぎた。ヒマラヤの険しい山へ向かう長い旅に出る時、ベンガルのまだ斧の入らぬ鬱蒼たる森林と荒野を駆け巡る時、虎はこの別邸の前を何度も通ったことがあった。あの高い石壁と深い濠に対して、虎はいつも侮蔑の一瞥を与えたものだった。
しかし今度は別邸の前に差しかかった途端、虎はまるで悪魔に掴まれたように、突然濠の端に立ち止まった。心臓の鼓動が激しく、息も詰まった。
「檻だ、また狭い檻だ……」
壮大な別邸には、ラジャの二百人の美女が花のように装い、そこで奢侈な暮らしを送っていた。
この別邸のそばを通る村人たちは、どれほどあの女たちの暮らしを羨んだことか。若い娘たちは野良からの帰り道、何度も濠の木陰に佇んだ。そして草籠を背負い、あの華やかで放縦な暮らしを繰り返し想像しながら、自分の貧しい茅屋まで歩いた。しかしどうだろう。虎は今、あの美しい女たちが自由を慕う深い嘆息を、はっきりと聞いたように感じた。
虎はぎりぎりと歯を噛みしめた。
眼前に、石壁に囲まれた別邸の高く聳える屋根が、木々の間から強烈な太陽に照らされ、黄金のように輝いていた。壁の外には鎖のように深さ二三丈の濠が巡らされていた。
虎は幼い頃から人間を嫌悪していた。ごく幼い頃から、まだ母の乳房にしがみついていた頃から。しかしそれにもかかわらず、今は自分でも理解できぬことに、あの高い石壁に囲まれた女たちのことを思うと、胸がどきどきと高鳴り、息が詰まるのだった。
虎は別邸を二三度巡回した。大きな鉄門の前で、濠の向こうから引き上げられる長い橋をぼんやりと眺めていると、大路に人の近づく気配がした。
虎は叢に飛び込み、体を地面に貼りつけ、人間が来るのを待った。しばらくすると、多くの従者に囲まれたラジャが馬に乗ってやって来た。虎は一目見るなり跳びかかり、従者たちを蹴散らし、ラジャの馬を倒した。ラジャは塵の上に投げ出された。
「鍵を出せ。あの門の鍵を出せ」と虎は吼えた。
ラジャは震え上がって鍵を差し出した。虎は鍵を銜え、長い橋を渡り、大きな鉄門を開けた。
「女たちよ、出ろ。自由の世界へ出ろ。」
しかし虎が鉄門を開けて叫んでも、女たちは恐れおののいて出て来なかった。虎は女たちの部屋に踏み込み、彼女たちを一人一人外へ追い出そうとした。女たちは金切り声を上げ、虎の足にすがりつき、泣きわめいた。
「ここから出たくない。ここが一番安全なのです。自由の世界なんか怖い。」
虎は愕然とした。羊と同じだった。
この騒ぎに兵士たちが駆けつけてきた。銃弾が虎の体に撃ち込まれた。虎はよろめきながら門を出て、再び林に逃げ帰った。石の神の前で、虎は血まみれの体を横たえ、祈った。
「神よ……もう何もかも厭わしい。あの白痴の顔も、あの凄惨な叫びも、あの奴隷の檻も……すべてが厭わしい。しかし最も厭わしいのは……自由を恐れるあの心だ……」
虎はそう呟きながら、石の神の前で永遠の眠りについた。
第71節
【魚の悲しみ】
【一】
あの冬はたいそう寒く、池の中に住む魚たちは、どれほど困っていたか知れない。最初はほんの薄く張った氷にすぎなかったのが、日一日と厚くなってゆく。しだいに魚たちの世界に迫ってきた。そこで鯉、鮒、泥鰌などの魚たちは、皆一カ所に集まり、氷を防ぐ方法を考えようと、さまざまな相談を始めた。しかし氷の圧迫は上から下へとやって来るもので、どうにも手の施しようがなかった。結局、魚たちの相談は、「いつか春が来るだろう」という希望を抱いて、みな散り散りになるほかに方法はなかった。すべての魚たちは、ひっそりと家に帰っていった。
その池の中に、鮒の夫婦が住んでいて、二人の間にはすでに鮒児という子どもがいた。鮒児はこの夜、一刻も眠れず、ただ「寒いよ寒いよ」と泣き叫んでいた。しかし池の底には、火鉢もなければ松明もなく、五枚六枚の暖かい綿の布団をかぶって寝ることも、二枚三枚の綿入れを着ることもできないのだ。鮒児の母親はまったく手の打ちようがなく、困り果てて、ただ鮒児を慰めて言った。「泣くんじゃないよ、泣くんじゃないよ、だって春がもうすぐ来るんだから」
「だけどお母さん、春はいつ来るの?」鮒児は涙目を上げて、母親を見ながら言った。
「もうすぐだよ」母親は穏やかに答えた。
「どうしてわかるの?」鮒児が言うと、母親の顔を見て、少し嬉しそうになった。
「だって毎年必ず来るんだもの」母親は言った。しかし鮒児は憂いを帯びた顔つきになり、尋ねた。
「だけどお母さん、もし今年に限って来なかったら、どうするの?」
「そんなことはないよ、きっと来るよ」母親はなだめるように言った。
「でも、お母さん、どうしてきっと来るの?」鮒児は納得がいかない様子で尋ねたが、母親はもう何も言わず、黙ってしまった。
「でも、お母さん、鯉のおじいさんが言ってたよ。『もし春が一度でも来なかったら、みんな死んでしまうのだ』って。本当なの?」鮒児はまた問いかけた。
「本当だよ」
「じゃあ、お母さん、『死ぬ』ってなあに?」
「それはね、いつまでも眠り続けることさ。体が動かなくなって、寒さも空腹もなくなって、そして魂があの遠い国へ行って、安楽に暮らすのだよ。その国には大きくて美しい池があって、冬のような寒さはまるでなくて、いつも春のように暖かいのだよ」
「お母さん、本当にそんないい国があるの?」鮒児はまた少し疑わしげに、母親の顔を見上げて尋ねた。
「ああ、あるとも」母親は答えた。
「じゃあ、お母さん、早くその国へ行こうよ」鮒児がそう言うと、母親は言った。「その国にはね、生きているうちは行けないのだよ」鮒児はまた合点がいかない様子で尋ねた。「どうして生きているうちは行けないの?お母さん、道がわからないの?」母親は言った。「そうだね、わたしは道を知らないのだよ」「じゃあ道を探しに行こうよ、早く早く、急いで行こう」鮒児はすぐにせわしくなった。
「ああ、ほんとに困ったこと」母親はため息をついて言った。「死ななければ、あの国へは行けないのだと、さっき言ったじゃないの」
「じゃあ、早く死のうよ、早く早く、急いで」
「そんなことを言うものじゃないよ」
「言っちゃいけなくたって、死のうよ。早くしてよ、だってもうこの池はいやなんだもの」鮒児は父親や母親の言うことをまるで聞かず、ただ駄々をこねて騒いだ。あまりに騒がしいので、隣の鯉のおじいさんが驚いて駆けつけ、「坊やはどうしたのです」と尋ねた。母親は鮒児が死にたいと騒いでいることを詳しく話した。すると鯉のおじいさんは鮒児に言った。「坊や、魚がこの池に来たのは、自分勝手にわがままを言うためじゃないのだよ。あの立派な国のお神さまのおっしゃることに従って、生きて泳いでいなければならないのだ」
「おじいさん、お神さまはなんておっしゃるの?」鮒児は尋ねた。
「第一に、おとなしくして、お父さんお母さんやお年寄りの言うことを聞くこと。その次は、池の仲間たちや陸の仲間たちを愛し、一生懸命に勉強して、立派な魚になること。そうすれば、あの国のお神さまがきっと坊やを呼んでくださって、あの美しい大きな池に住まわせてくださるだろうよ」老人は言った。
この時から、鮒児はどんなに寒くても、どんなに腹が空いても、もう一言も愚痴を言わず、ただにこにこと笑って、春の訪れを待つようになった。
【二】
春が来た。鮒児のように誠実で賢い小魚は、池の中にも近くの川にもいなかった。そして鯉の兄さんたちも泥鰌の姉さんたちも、何よりも鮒児を愛した。鯉の兄さんたちも泥鰌の姉さんたちも鮒児よりずっと年上であったが、鮒児がとても賢いので、いつでも一緒にあちこちへ遊びに行った。春になって、細い流れが四方八方から池に流れ込んできた。だから山の中でも、林の中でも、木立の中でも、野原でも、どこへでも行けた。鯉の兄さんたちは鮒児を山や林の偉い先生たちに紹介した。これらの先生たちの中に、兎というお坊さんがいて、長い耳をしていた。このお坊さんはたいそう偉いお坊さんで、こっそり肉を食べるようなことは決してしない方だった。別荘から帰ってきた鶯や郭公などの音楽の先生たちもいた。美しい透き通るような翅を持った先生たちも、鮒児がよい子なので、みなとても可愛がり、地上の世界のことをいろいろと話して聞かせた。そして鮒児が一番好きな話は、人間の話だった。その話では「人類という仲間たちは、最も偉くて最も賢いものだ」ということで、このことについてはみなの意見が一致していた。また「もちろん、山の政治家の狐も、芸術家の猿おばさんも、鸚鵡の語学者も、鳥の社会学者も、天文学者の梟博士も、偉いといえば偉いが、人類の仲間たちにはとてもかなわない」とも言った。
またこんなことを言う者もいた。「人類の仲間たちは、陸の仲間たちより歩くのは鈍いけれど、馬の背中を借りるだけでなく、自動車だの電車だの汽車だの自転車だのという不思議なものを作り出して、それに乗って走るから、誰よりもずっと速い。泳ぎの腕前はさほどでもないし、空を飛ぶことはまるでできないけれど、人類の仲間たちは大きな火の魚や、大きな翼の鳥を作って、それに乗って、水の上を自由に泳ぎ、空の中を自在に飛ぶのだ。人類の仲間たちは本当に不思議なものだなあ」鮒児はこうした話に出逢うと、聞き飽きることなく、何度も何度も繰り返し話してもらい、聞けば聞くほど、いわゆる人類というものに会ってみたくてたまらなくなるのであった。
【三】
その春は実に楽しかった。朝から鶯や郭公などの音楽の偉い先生たちが独唱し、蜜蜂のお嬢さんたちや胡蜂のお姉さんたちが合唱し、蝶のお姉さんたちが踊った。夜になると蛙の従兄弟である詩人たちが詩の会を開き、演説会を開いて、夜更けまで賑やかだった。これらの集まりに鮒児も出席し、可愛らしい口ぶりで「あの国」のことを語った。
「もしもわたしたちがみんな互いに愛し合って、楽しく暮らしていけば、もっとすばらしい、もっと美しい国へ行けるのです。その国には食べ物がなくなることもなく、寒さもなく、嫌なこともない。魚も地上を歩けるし、空を飛ぶこともでき、鳥も透き通った水の中を出入りして、魚たちと一緒に泳げるのです」鮒児はいつもこう語った。そしてほどなく、この「あの国」のことが、音楽の作曲の題材に、踊りの振り付けに、演説や歌の素材になった。するとあの蝿や蚯蚓や蛭のようなあてにならない連中までが、「あの国」の話をするようになった。
夕暮れになると、遠くの教会の鐘が鳴り出し、魚の仲間たちは水面に浮かび上がり、蛙の従兄弟たちは岸に蹲り、蝶の姉妹たちは花の上に座って、みな静かにこの晩鐘の響きに耳を傾けた。
この鐘の音は、人類の仲間たちが、自分たちの弟妹である、木に棲む鳥、水に浮かぶ魚、花に宿る虫のために祈り、平和に楽しく暮らせるよう祝福しているのだった。すると魚も蛙も鶯も祈りを捧げ、人類の仲間たちも幸福に暮らせますようにと願った。この祈りは花のうるわしい香りと、夕暮れの金色の光を帯びて、静かに「あの国」のお神さまのもとへ昇っていった。
あの遠い教会に一人の坊やがいて、その坊やも鮒児と同じように賢くおとなしく、みなに褒められていた。子犬の兄さんも坊やをとても愛していて、池の水を飲みに来るたびに坊やのことを話した。鮒児はその話をずっと聞いているうちに、しだいにこの坊やを慕うようになり、一度会ってみて、心を打ち明けて語り合いたいと思うようになった。
【四】
ある時、池のほとりがたいそう騒がしかった。鮒児は何事かと出ていくと、蛙の従兄弟たちが眉をつり上げ、肩をいからせ、興奮の極みで、げろげろげろげろと喧嘩のように話している。鮒児が何があったのかと尋ねると、先ほど兎のお坊さんがいつものように座禅を組んで、ちょうど夢の中にいた時、あの教会の坊やがやって来て、兎のお坊さんの長い耳をつまんで、捕まえて連れ帰ったのだという。
みな愕然として、茫然と顔を見合わせ、途方に暮れて慌てていると、そこへ燕のおばさんが飛んできて、恐ろしいことを知らせた。たった今、坊やがまた鶯を捕まえて行ったのだ。鶯は何かの歌の譜面を作ろうとして、熱心に勉強していたところを捕えられたのだった。しかもこの夜はちょうど十五夜の晩で、蛙の従兄弟たちは、世の中がこんなに物騒でも月見もしないで寝てしまっては月に対して失礼だという気持ちがあり、いつも通り山に登って詩の会を開いた。するとまた坊やが走ってきて、一番偉い詩人を一匹捕まえて逃げてしまった。
従兄弟の詩人たちは大いに驚き、その晩に作った詩はみな忘れてしまった。この夜、池の中で一睡もせず、さまざまな話をして夜明けまで過ごした。そして夜が明けるとすぐにみな出てきて、大きな集会を開き、坊やのこんな乱暴に対して何か方法を考えねばならないと相談した。
この会議に、鮒児は父母について出席していた。鮒児は世の中がひどく暗く感じられ、何もかもわけがわからなくなったようだった。鮒児は父親に尋ねた。「どうして坊やはこんなことをするの?」父親は言った。「地上の人類の仲間たちは、偉いことは偉いが、よくずるいことをするのだ。しかもこの世で人間の子どもほど残酷ないたずらをするものはいない。そのうちにあの子どもたちは釣り針と網を持って、この池にやって来て、いろいろないたずらをして、わたしたちを苦しめるのだ」鮒児は悲しそうに、あわてて父親に尋ねた。「子どもたちがこんなことをして、どうやって『あの国』に行けるの?あの子たちを救う方法はないの?」まだ問い終わらぬうちに、陸の方から蝶の姉さんが、大風に巻かれる木の葉のように、あたふたと飛んできた。顔はもう蒼白で、翅も触角もおびえてぶるぶる震えていた。みなが取り囲んでどうしたのかと尋ねると、蝶の姉さんはようやく少し落ち着いて、花の上に座り、話し始めた。それはこういうことだった。
今朝、天気がたいへんよく、ちょうど暇だった胡蜂たちが急に花見に誘ってきて、牧師の庭園へ行った。春もたけなわで、庭園の中には赤、白、黄の花が、庭木の間にも花壇の上にもあふれんばかりに咲き乱れ、花蜜の濃い香りが虫たちの喉に染み入るように流れ込んできた。胡蜂たちは嬉しくてたまらず、このご時世を恐れる憂いも忘れて、歌ったり踊ったりして遊んでいると、またあのいつもの牧師の坊やがやって来て、不意に小さな網を取り出し、仲間を何匹も捕まえて行ってしまった。
この新しい知らせで、この日の会議はいっそう騒然となり、さまざまな議論の末、その結論は、夕暮れになって教会の鐘が鳴り、人類の仲間たちが祈り始める時に、金色の蝶の姉さんに教会へ行ってもらい、人類の仲間たちにはっきりと事情を話して、坊やのいたずらをやめさせてもらうことだった。
夕暮れが来ると、ここに集まった動物たちは、みな気がかりで、自分の池の穴や巣に帰ることができなかった。黙って、じっと互いの顔を見つめていた。心の中ではひたすら金色の蝶の姉さんの帰りを待っていた。
ほどなく、金色の蝶の姉さんが帰ってきた。そのしょんぼりとした顔を見るなり、集まった者たちはみな、自分の心が蓮の茎から抜き出された曼陀羅華のように、ひどく不安定になるのを感じた。そして誰も何も言わなかった。
「すべてが嘘だったのです」元気のない様子で花の上に座った蝶の姉さんは言った。「わたしたちはどうしたって、『あの国』へは行けないのです」これを聞いてみな仰天し、「どうして行けないのです」と問い詰めると、蝶は答えた。「わたしたちには魂がないのです。魂は地上に住む人類の仲間たちだけに与えられたもので、この魂を持つ人類の仲間たちだけが『あの国』へ行けるのです」これを聞いてみなは仰天した。口々に「間違いないのですか」とか「何かの間違いではないのですか」と言った。蝶の姉さんは答えた。「いいえ、少しも間違いはありません。『あの国』のお神さまの書物にはっきりと書いてあるのですから」みなが続けて質問した。「では、わたしたちはいったいどこへ行くのですか」蝶の姉さんは言った。「わたしたちが造られたのは、もっぱら人類を楽しませ、人類の食料にするためなのだそうです」こう言いながら、悲しい大きな目で、憐れむように愛おしむようにみなを見つめた。しかし朝からの疲労と心に受けた傷のために、そのまま倒れて、哀れな最期を遂げたのだった。みなは人類の仲間たちの食料にするためだけに造られた自分たちの運命をたいそう悲しんだ。向こう見ずな鯉の兄さんたちはすでに大いに興奮し、「ふざけるな、そんな話があるものか」と叫び、自分たちをこんな運命に造った相手のお神さまがまさにここにいるかのように、怒り狂って跳ね上がった。そしておとなしい泥鰌の姉さんたちは気を失い、何匹も池の底に横たわった。
みなのために力を尽くして死んでしまった金色の蝶の葬儀は、すべての動物たちの熱い涙の中で、たいそう厳かに執り行われた。胡蜂の兄さんたちが葬送の音楽を奏でた。鶯の姉さんたちが「悲しきかなわが友よ」という哀歌を歌い、野鼠のおじさんが墓穴を掘った。
この晩、みなはたいそう淋しかった。そしてため息をつきながら、早々とくどくどと言った。「人類のもの(食料)として生きているとは、なんと堪えがたいことだろう」そう言いながら、めいめい帰っていった。
【五】
この夜、池に帰ってから、鯉も泥鰌も蛙の従兄弟たちも、どれほど泣いて泣いて泣き明かしたことか。そして朝日も昇ったが、太陽を迎えに出てくる者は一匹もいなかった。
鮒児の悲しみも同じだった。この世に何の希望も持てぬ心を抱えて、魚の姿も見えない水際をさまよっていた時、坊やが小さな網を水の中へ差し入れてきた。「これはぼくたちを捕まえに来たのだ」鮒児がそう思った途端、怒りのために全身が火がついたように熱くなり、ぶるぶると震えて波紋が立った。「さあどうぞ、ぼくを捕まえてください。ほかのものを捕まえる前に、まずぼくを捕まえてください。ほかのものが捕まって殺されるのを見るのは、ぼくにとっては自分が殺されるよりもつらいのですから」そう言いながら、網の中へ入っていった。坊やは大喜びで、すぐに鮒児を捕まえ、自分の机の上に置いた。この部屋の壁には鶯先生の皮と兎のお坊さんの皮が掛かっていて、机の上にはまだ彼らの骨が散らばっていた。ガラスの箱の中には、心臓を留め針で刺し貫かれ、かつて親しかった何匹もの蝶の姉さんたちが並べられていた。机の上の解剖台では、先の晩ちょうど月見をしている時に捕まえられた蛙の大詩人が今まさに解剖されており、取り出された心臓がまだぴくぴくと跳ねて「死」の無念を示していた。
こうしたものを見て、鮒児は胸がふさがってしまった。何か言おうとして、口をぱくぱくと開けたり閉じたりしたが、何も言えず、ただ尾でぱたぱたと机を叩いた。
しばらくして、坊やも鮒児を解剖したが、鮒児の心臓がすでに破れていることに気づいた。なぜこの小さな鮒の心臓が破れているのか、それを坊やに説明できる者は一人もいなかった。悲しみのために鮒の心が破れたのだということを、坊やに教えてくれる者は、一人もいなかった。
この坊やは、のちに有名な解剖学者になった。しかしあの池はしだいに小さくなり、蛙や魚の数も減り、花も草もみな枯れ果て、そして夕暮れに遠くの教会の鐘の音が聞こえても、もう誰も耳を傾けに出てくる者はいなくなった。
わたし著者は、あの時から、もう教会へは行かなくなった。すべてのものを人類の食物や玩具として創造した神に対して、わたしは祈りたくもなければ、信じたくもないのだ。
第72節
【鷲の心】
鷲ほど立派で自由な鳥は、もう二度とあるまい。鷲ほど強く勇ましい鳥は、もう二度とあるまい。しかも動物の中で、鷲ほどあの高く冷たい山を愛するものは、もう二度とあるまい。鷲は鳥類の王と呼ばれている。人間の世界では、自分の王や豪傑に力と勇気を示させる者はいないが、鷲の仲間では、たとえ翼や嘴が大きくとも、それだけで豪傑とは言えない。これは鷲の古くからの習わしである。
どんな鷲でも王や豪傑になりうるから、みな互いに尊敬し合っている。人間の王や豪傑のように、部下の力と知恵を借りて権力を争ったり、つまらぬことで騒ぎ立てたりすることはない。みなそれぞれ力を尽くして、自分の翼と嘴をいっそう強くし、爪と目をいっそう鋭くする。誰かを脅かしたり、お世辞を言ったりすることは、鷲の世界では大昔から一度もなかったのだ。
この一点だけを見ても、鷲と人間とは大昔から異なっていた。弱い者をいじめ、弱い者を圧迫し、弱い者の力と知恵を奪って勝手に自分のために使う——これはどうやら大昔からの人類の習慣のようだ。強い者がいつも弱い者の力を私有するから、真に自由にはなれず、弱い者もまた非常に不幸なのだ。
人類とはなんと不運な動物であろう。それなのに人類は自分を万物の霊長だとまだ言っている。これは残酷な冗談ではないか。
【一】
さて、山の国は隣の大国に占領され、いつもこの二国は争い合っていた。この国の最も高い山の上で、多くの鷲が幸福に暮らしていた。これらの鷲は大昔から幾千年幾万年と続けて、一つの希望を燃やし続けていた。それは永遠に暖かく永遠に光り輝く太陽へ飛んでゆくことだった。毎日努力して上へ飛び続け、幾千年幾万年と鍛錬を積めば、鷲の子孫たちはきっと太陽に届くことができるだろうと信じていた。これが何代にもわたって積み重なったので、翼の力が先祖より強くなったことは確かな事実であった。
「太陽を愛せよ、
太陽を目指せ!
下へ行くな、
下を見るな!
太陽を慕うは鷲の力の源、
太陽を目指すは鷲の心の幸福。
下へ飛ぶな、
下を見るな!
下には暗く狭い檻がある、
下には奴隷の死に場所がある。
下へ飛ぶな、
下を見るな!
下は弱者の世界、
下はつまらぬ人類の世界。
下へ飛ぶな、
下を見るな」
これは鷲の母親たちが大昔から鷲の子どもたちに教えてきた歌である。圧迫を受けている山の国の人々が、この歌を聞いてどんな気持ちだったか知れない。鷲王の巣は最も高い山の最も冷たい岩の上にあった。王と王妃の間には二人の可愛い王子がいた。毎朝、王は大王子を、王妃は小王子を連れて岩の端まで来て、そこから王子たちを真っ逆さまに蹴り落とし、下の方へ近づいた所をまた岩の上に引き戻した。これが毎朝の稽古であった。やがて王子たちはたやすく岩の上に飛び上がり、下に飛び降りることができるようになった。王と王妃はこれを喜び、王子たちを高く空中に抱え上げ、落としてみた。最初、王子たちもすっかり目が回ったが、練習を重ねるうちに翼がしだいに強くなり、とても高い空中からでもたやすく自分の巣に戻れるようになった。ある日、王は王妃に言った。今日は子どもたちをあの深い谷底に落としてみようと。そこで王子たちを高い空に連れて行き、深い谷底に向かって落とした。二人の王子も力の限り飛んだが、まだ途中で翼の力が尽き、小王子が叫んだ。「兄さん、ぼくはもう力がないよ」大王子は残りの力を振り絞って弟を助けようとした。王と王妃は遠くから眺めて、翼を打ち鳴らして声援した。ちょうどその時、二人の間をどこからともなく雲が流れてきて、王子たちが見えなくなった。王と王妃は驚き、矢よりも速く雲を突き抜けて谷へ飛び降りたが、すでに遅かった。大王子は弟を助けて自分も力尽き、気を失い、石のように谷へ落ちていった。王と王妃が気絶した王子たちをつかみ上げようとした時、突然力の強い猟師が二人の息子を連れて現れ、王と王妃を捕まえようとした。王と王妃もしばらく王子たちを守って奮闘したが、猟師があまりに強く、王子たちはすでに息絶えたと思い、王子たちを捨てて空へ飛び去った。しかし王子たちは実は死んでおらず、猟師の家に連れ帰られると息を吹き返した。猟師は王子たちの翼の羽を切り、二人の息子に分け与えた。その時、猟師の長男は七歳、次男は六歳で、二人とも鷲の王子をとても可愛がり、どこへ行くにも連れていったが、猟師は山の上にだけは決して行ってはならぬと言い聞かせた。山の国の人々は谷底に二羽の小鷲が落ちてきたと聞き、きっと何かよい前兆だと思って、みな大いに喜んだ。心の中でひそかに期待し、やがて二羽の鷲がこの国を救ってくれるだろうと。そして猟師にくれぐれも鷲の王子たちを大事にするよう頼んだ。しかし七日も経たぬうちに、奇妙なことが起きた。猟師の次男がいなくなったのだ。友だちの話では、空からいなずまのように大きな鷲が飛び降りてきて、猟師の息子をさらって行ったという。みなこれを聞いてたいそう驚いた。そして二、三日後、さらに不思議なことが起きた。今度は猟師の長男がいなくなったのだ。
この事について、山の国の人々もいろいろと議論したが、猟師だけは黙って口を開かなかった。彼は以前と変わらず、心をこめて鷲の王子たちを育てた。王子たちは最初とても淋しがり、しばしば不自由なら死んだほうがましだという様子を見せたが、大王子は弟をいたわり、小王子は兄を慰めた。村の子どもたちに大事にされ、しだいに人間の世界に慣れ、人類を好きになっていった。ただ長い鎖で杭につながれていることだけは、どうしても我慢しがたかった。
【二】
五年が過ぎた。鷲の王子たちはすっかり大きくなり、翼も逞しくなった。ちょうど五年前に王子たちが谷に落ちたその日に、猟師は鍵を開け、彼らを高い山に連れて行き、放してやった。そして黙って家に帰った。
二羽の鷲を放したと聞くと、山の国の人々はみな騒ぎ出した。人々がまだ騒いでいるうちに、先にいなくなっていた猟師の息子たちが山から帰ってきた。
二人はすっかり姿が変わり、最初に見た時、誰も猟師の子どもだとはわからなかった。二人とも裸で、髪は長く、体は石のように堅く、手足は鉄のように強く、目は鋭く、鼻は鷲鼻のように曲がり、歯は狼のように大きく、爪は虎のように鋭く伸びていた。山の国の人々は彼らを見て大いに驚き、興味津々で連日彼らの話を聞きに行った。二人が言うには、鷲王にさらわれた後、鷲の巣で育てられ、終始王と王妃に大切にされた。毎日、王と王妃が背に乗せて空高く飛び上がり、雲の中に放り出しては、また助けて降ろした。そのほかにもさまざまな不思議なことがあった。子どもたちはそう語ったが、聞く者は本当か嘘かわからなかった。ただ飛翔、登山、水泳については、山の国の人々で二人にかなう者は一人もなく、二人ほど自由を求めて生きている者もいなかった。この子どもたちは山の国の人々の心に火をつける術をよく心得ており、人間の言葉では「自由」の意味を十分に表せない時には、鷲のように叫んだ。
彼らはこうして山の国の人々に鷲の歌を教えた。
「太陽を愛せよ、
太陽を目指せ!
下へ行くな、
下を見るな……」
彼らは実に不思議な子どもたちであった。山の国の人々は彼らを「鷲の心」と呼んだ。この子どもたちを見て、圧迫に苦しむ山の国の人々の心に、どれほどの希望が湧いたか知れない。
【三】
一方、鷲王と王妃は二人の王子が無事に帰ってきたのを見て、もちろん大いに喜んだ。しかし王子たちの翼と嘴、目、爪を検査してみると、これらがまったく役に立たなくなっていることがわかった。鷲王たちは翼と嘴に力がなく、目と爪が鈍くなっているのを見て、どれほど胸を痛めたか知れない。おまけに王子たちの勇気や自由を愛する心も、王と王妃の目にはどこか頼りなく映った。
毎日、鷲王と王妃は王子たちを激しく鍛えた。毎日、王妃は「太陽を愛せよ、太陽を目指せ!下へ行くな、下を見るな!」の歌をうたいながら、すでに萎えてしまった二人の王子の心を奮い立たせ、将来勇敢な王にしようと力を尽くした。十年の間、毎日毎日絶え間なく、王子たちの心から人間の心を取り除こうとした。そしてついに王子たちは鷲王や王妃よりも高く飛べるようになり、爪も目も彼らより鋭くなった。ただその心だけは、どこかに鷲の心らしくないところがあり、人間の心に近い脆さを帯びているようだった。王子たちは太陽に向かって飛ぶ時でも、いつも目が下の方を見ているかのようで、果てしない大空を翔ける時でも、心は山の谷間に未練があるかのようだった。そしてほかの鷲よりも高く飛んだ時も、胸から勝ち誇った叫びを発することなく、ただ悲しげで寂しげな、下の谷の暮らしを恋い慕うような声が聞こえるばかりだった。時には王子たちは二、三日も餌を求めに行かず、何も食べずに飢えていることもあった。あるいは獲物を捕まえても、また逃がしてやったりした。鷲王たちは王子たちのこうした様子を見聞きするにつけ、その心中の悲しみは計り知れなかった。王子たちの友人たちはみな悪口を言い、彼らを「人の心」と呼んだ。一方、王と王妃はしばしば王子たちにひどく怒り、家門の恥だと言った。ある日、大王子は空を翔けた後、家に帰り、父の前に座って淋しげに父の顔を見ながら言った。
「父上、大昔から続いてきた太陽を目指すという鷲の理想は、実は愚かなことにすぎません。太陽に向かってただ飛ぶのは無意味です。たとえ本当に太陽に着いても、鷲は必ずしもそれで幸福になるわけではありません。父上、わたしは今日太陽に行こうとして力の限り高く飛びましたが、上に行けば行くほど寒くなり、高くなればなるほど目がくらみ、ついに目まいがして落ちてしまいました。太陽に近づくほど寒くなるということを、わたしは確かに知りました。ですから太陽を目指すことは、もうやめたいのです」
王子がこう言うと、鷲王は「人の心め」と一声叫んで、爪で王子の喉を引き裂いた。王子はただ下界を慕う悲しく淋しい声を発するばかりで、まったく抵抗せず、王の爪の下に死んだ。その晩、小王子も外から帰ってきて、王妃の前に座って言った。
「母上、太陽に向かって飛ぶことは、もうしたくありません。まったく何の役にも立たないことです。わたしは下の谷へ降りて行って、木の上に巣を作り、そこで人間やほかの動物と仲良く暮らすことに決めました。鷲の幸福が太陽の上に満ちているなどとは信じられません。けれども人間の友情の中にこそ幸福があるということは、わたしがすでに経験したことなのです」
こう言うと、王妃は「卑しい人の心め」と叫び、王子に飛びかかって爪で喉を引き裂いた。王子はただ山の谷を恋い慕い、人間の友情を慕うような声を発するだけで、まったく手を上げず、王妃の爪の下に死んだ。この夜、鷲王たちは死んだ王子たちを下の山谷に運び、かつて王子たちを育てた猟師の家の前に置いた。これ以後、王子たちが歌っていた
「太陽を愛せよ、
太陽を目指せ!
下へ行くな、
下を見るな……」
の歌は、どこか「人の心」を戒めるような響きを帯びるようになった。
翌朝、山の国の人々が二羽の死んだ鷲を見つけると、また一騒ぎが起きた。この時、山の国の人々はちょうど「鷲の心」と呼ばれる二人の兄弟に率いられて、隣国に対して大革命を起こしていた。二人の大将「鷲の心」は智謀に長け、隣国の人々はまったく手の打ちようがなく、今にも敗れようとしていた。しかし今この二羽の殺された鷲が見つかり、口には出さないものの、みなの心の中では、この二羽の鷲がこの革命がついに失敗する前兆ではないかと疑った。山の国の娘たちは美しい花で死んだ鷲を飾り、勇敢な「鷲の心」の兄弟が教えた
「太陽を愛せよ、
太陽を目指せ!
下へ行くな、
下を見るな!……」
の歌をうたいながら、国の英雄として彼らを葬った。
【四】
隣国の首都は賑やかで華やかだった。家々は灯火と旗で飾られ、祝砲の轟き、花火の弾ける音、心を浮き立たせる音楽が遠くから漂ってきた。市民たちは晴れ着を着て、提灯と旗を振りながら行き交った。首都のすべての通りはまるで美しい数珠のようだった。みなが嬉しそうだった。ただ最も大きな通りの広場に立つ断頭台だけが淋しく見えた。人々は広場に押し寄せ、国歌をうたいながら、何かを待っているようだった。この晩、この台の上で「鷲の心」と呼ばれる二人の兄弟が処刑されるのだった。人々は山の国のことを話し合った。すると遠くから「反逆者が来たぞ、反逆者が来たぞ」という低い声が聞こえ、みなたちまち静まり返った。兵士たちに囲まれた二人の兄弟が現れた。人々はみな黙り込み、大通りは墓場のように静まった。ただ「ドンドン、ドンドン」という太鼓の音だけが残った。「鷲の心」と呼ばれる二人の兄弟は微笑んでいた。その瞳にはあたかも限りない勇気が輝き、しかもすべての人の心を燃え上がらせる力に満ちていた。二人は笑みを浮かべて断頭台に上がり、「ドンドン、ドンドン」の太鼓の音がやんだ。人々は唾を飲み込みながら、「鷲の心」の兄弟を見つめていた。二人の兄弟はまったく先ほどと変わらぬ様子で、目を上げて空を見ていた。その時、静かな空気がかすかに震え、勇ましい鷲の声が聞こえた。空から応える声がしたかと思うと、大空からいなずまのように二羽のとてつもなく大きな鷲——市民たちが見たこともないほど大きな鷲——が飛び降りてきて、「鷲の心」の二人の兄弟をつかんだ。つかむやいなや、またたく間に大空へ飛び去った。人々はこれを見て、みな石のように動かなくなった。街全体がまるで一つの墓場になったかのようだった。人々の頭上には、ただこんな歌が聞こえてくるばかりだった。
「下には狭い檻がある、
下には奴隷の死に場所がある。
下へ飛ぶな、
下を見るな!
下は弱者の世界、
下はつまらぬ人類の世界……」
【五】
隣国が盛大に勝利の祝宴を張っている時、革命に敗れた山の国はひっそりとしていた。夫を失い、息子を手放した女たちの心が、この夜どれほど淋しかったか知れない。みなが言った、今夜こそ「鷲の心」と呼ばれる山の国の英雄が処刑される夜だと。女たちはみな小さな子どもを連れて、「鷲の心」の兄弟の家の前に集まった。女たちの心の淋しさは、誰にわかるだろう。けれども淋しくとも、女たちは残された幼い子どもたちを果てしない空に向かってかかげ、大きくなった子どもたちに見せた。そしてこの国を救うために、残された子どもたちの中にもあの「鷲の心」を与えたまえと祈った。すべてが静まり、星は静かに瞬いていた。そして夜の静寂の中で、祈りへの答えのように、どこからともなくこんな歌が聞こえてきた。
「下へ行くな、
下を見るな!
太陽を慕うは鷲の力の源、
太陽を目指すは鷲の心の幸福……」
この物語を読まれた皆さんも、どうか祈ってください。この世界の人類を救う「鷲の心」が与えられるように。
第73節
【春の夜の夢】
【一】
遥か遥か遠く、ここからは見えない山の奥に、大きな美しい鏡のように澄み渡った池がある。この辺りは極めて幽静で寂しく、便利な場所で暮らすことを好む軽薄な人々は、顔を見せることもない。ただ自然を愛する画家と、失恋して都会を離れた蒼白い青年が、時折ここを訪れ、涙のようにきらめく花や、接吻のように甘い小鳥の歌から、見えない神の手が与える慰めを受けて、心を悦ばせるのだった。しかし近頃、画家はこの山の自然は自分の画室の美しさに及ばず、この美しく澄んだ池はモデルの娘ほど可愛くないと思い、画布を巻いて東の都市へ帰ってしまった。また失恋した蒼白い青年も、猛烈な街の灯火と強い香りの酒の酔いで魂の奥の悲しみを忘れようと、西の港へ帰ってしまったので、この池のほとりには人影ひとつ見えなくなった。
しかし春になると、鳥獣や昆虫のおかげで、この池はたいそう賑やかになった。
ある年の春、この池には格別に美しい出来事があった。黄色い睡蓮、紅白の蓮の花が、穏やかな水面に、まるで動かない夢を広げたように、美しく咲き浮かんでいた。蓮の妖精も、もう捕まえたり嘲ったりする人間がここにはいなくなったので、安心して姿を現し、透き通った水の中で金魚と戯れ、花の上で蝶と休み、蜜を探す蜜蜂の手伝いをした。深夜でさえ、妖精はあまねく照らす月光の下で、歓びの踊りを踊ったり、蛍と競走して遊んだりした。このように美しいものたちが一堂に会しているので、蛍、蛙、蝶、鳥たちは皆この美に陶酔し、春の夜の夢を見ていた。金魚の戯れ、鳥の歌、蝶の舞、あらゆるものがこのために美しくなった。
【二】
ある晩のこと、穏やかな晩のこと、金剛石のように光る翅を持つ美しい蛍が、ゆっくりと池のほとりを飛び舞っていた。月光に照らされた池があまりに詩趣に富んでいたので、蛍は知らず知らずのうちに池の真ん中まで来てしまった。ここで水面に映る美しい月影に向かい合い、飽くことなく見つめていた。やがて、自分の翅がすっかり疲れ果てたことに気づいた。
「早く花の寝室に帰ろう。」蛍はそう言って、岸の方へ飛ぼうとした。しかし少し飛んだだけで、もう岸までたどり着く力がないことを悟った。
「ああ、悲しいことだ。こんな詩的な晩に、こんな静かで美しい場所で、私は死なねばならないのか。」蛍はそう言って、もう一度周囲を見渡した。上には輝く月と煌めく星で飾られた深遠無限の大空が広がり、下には幽静で透明な池の中にもまた深遠無限の大空が広がり、煌めく星と輝く月が飾られていた。上にも下にも、深遠無限の大空のほかに、何ひとつ見えなかった。
「美しい星よ、深遠無限の空よ、美しい月よ、美しい世界よ。さようなら。」蛍はそう言い、翅を畳んで、水の中に落ちようとした。
その時、突然深い池の中から、一匹の小さな金魚が現れた。蛍にとって、それはまるで無限の大空の深みから金の衣をまとった天使が飛んで来たかのようだった。
「蛍さん、どうなさったの。」金魚が優しく訊ねた。
「疲れてしまったのです。もう岸まで飛ぶ力がありません。だからこの美しい世界にお別れするしかないのです。力がなければ、まるでこの世に生きる権利がないかのようです。」蛍は驚きながらそう答えた。
「いいえ、そんなことはありません。」金魚の穏やかな声が、静かな水面に波紋を作り、広がっていった。「翅の筋肉に力がないから死ぬべきだなんて、これほど愚かな話はありません。感情の優美さ、物の美しさ、それこそが世界の力なのです。多くの優美で美しいもののうちで、筋肉の力が最も小さいと言っても差し支えないほどです。さあ、私の背中にお乗りなさい。あなたが力を休めている間に、岸まで送って差し上げます。」
金魚がこれほど懇切に言うので、蛍は顔を赤らめて言った。
「それではお言葉に甘えます。」蛍は金魚の背中に座った。
金魚はまっすぐ岸の方へ泳いでいった。途中で、金魚は激しい羞じらいをこらえながら、かすかな声で言った。
「毎晩あなたが飛ぶのを見ていました。そしてどうしたらあなたと友達になれるだろうと思っていました。あなたほど美しい方は、池の中にはいません。」そして何気ないふりをしながら、密かに嘆息を漏らした。
「私もよくあなたが水の中を泳ぐのを見ていました。」蛍はそう言った。「そして一目見るたび、私の心はいつも寂しくなるのでした。あなたほど優美な娘は、空を飛ぶ仲間にはいない……」そこまで言って、蛍の声は途絶えた。
この晩、蛍と金魚の話はこれだけだった。しかしこの時から、金魚と蛍は毎晩会うようになった、毎晩。二人は一緒に池を往来し、一緒に水辺の葦の中で休み、金魚は蛍に池の中の話をし、蛍は金魚に山の上の話をした。そして二人とも春の夜の夢を見ていた。
ある晩、蓮の妖精と山の精霊が蓮の葉を舟にして、その上で遊んでいた。その時、金魚と蛍はちょうど散歩をしていて、この場所を通りかかった。蓮の妖精はそれを見て言った。
「あの蛍の翅ほど美しいものは、世界にはないわ。」
「あの金魚の鱗ほど優美なものは、どこにも見たことがない。」と山の精霊が言った。
妖精はまた言った。「もしあなたもあの蛍のように美しい翅があったら、どんなに美しいか分からないのに。」
精霊も言った。「あの美しい鱗で冠を作って、あなたの頭に戴かせたら、池の中でも山の中でも、あなたほど美しい妖精はいなくなるだろう。」
「私は夢の中でも、美しいことばかり見ているの。」
「私も眠っていても覚めていても、美しいことばかり考えている。」
この晩、彼らの話はこれだけだった。
ある晩、池の近くの別荘から、十二三歳の公爵の令嬢が出てきた。左手に華麗な緑の絹で作った小さな蛍籠を持ち、右手には蛍を捕る網を持って、池のそばにやって来た。
小道から、十三四歳の百姓の男の子が出てきた。左手に小さな金魚鉢を持ち、右手に釣竿を持って、池のそばにやって来た。令嬢は彼を見ると、軽く会釈して言った。
「私はここの公爵の娘です。」
「僕は公爵家の向かいの百姓の息子です。」男の子はそう答えた。
「私が家の縁側に座っていると、男の子はいつも私たちの庭を通り過ぎます。」令嬢はそう言った。
「僕が家の縁側に座っていると、女の子はいつも庭を散歩しています。」男の子はそう言った。
「私は男の子が大嫌いです。」
「僕だって女の子なんか好きじゃありません。」
「男の子はいつも下品な言葉を使い、乱暴なことをして、礼儀作法を全く知りません。」
「女の子はいつも居眠りしているような顔をして、もごもごした文句で、夢みたいな話をして、何を言っているのかさっぱり分かりません。」
「男の子はいつも喧嘩と騒ぎのことばかり考えています。これが一番嫌いです。」
「女の子はいつも着物と首飾りとおしろいのことばかり考えています。だから僕はもっと嫌いです。何より嫌いです。」
公爵の令嬢と百姓の息子は、穏やかな池のほとりの緑の木陰で、言い争いが終わらなかった。ここに集まっていた蝶、蜜蜂、小鳥たちは皆驚いて、まるで人間の子供たちがこんなに争うものかと言わんばかりに、枝や葉の間から怪訝そうに二人を見つめていた。
「男の子はいつも服がぼろぼろで、顔は真っ黒で、手足も汚くて、しかも変な匂いがして、きれいなところなんか一つもありません。」令嬢がまた言い始めた。
「女の子だって、薄着だし、顔は蒼白だし、手足は細くて弱いし、まるで死体みたいです。」男の子も言い返した。
「男の子を見るくらいなら、あの美しい蛍を見るほうがよほどましだと思います。」
「僕だって、死体みたいな女の子を見るくらいなら、あの美しい金魚を見るほうがずっとましです。」
「男の子を見るたびに、蹴飛ばしたくなります。」
「僕は女の子を見ると、殴ってやりたくて、たまりません。」
二人の話はここで途切れた。そばの木の上で、蜩がふと思い出したように大きな声で鳴き始めた。
「私はこの蛍籠を、南の軒下の、あの庭の塀の低いところに置こうと思います。」しばらくして、令嬢が言った。「さようなら。」
「さようなら。」男の子が答えた。「僕はこの金魚鉢を、北の軒下の、塀のないところに置こうと思います。」
「本当に失礼いたしました。」
「いえいえ、こちらこそ失礼しました。」
二人はそう言って、お辞儀をして、女の子は右へ、男の子は左へ、別れて去った。
この晩、彼女と彼の話はこれだけだった。
【三】
あの晩から、最も美しい金剛石のように光る翅を持つ蛍は、籠に閉じ込められ、公爵の別荘の南の軒下(庭の塀の低い縁の下)に掛けられた。そして蛍の愛する最も美しい金魚も、金魚鉢に入れられ、向かいの百姓の家の北の軒下(塀のない縁の下)に置かれた。蛍と金魚の悲しみは、筆でも言葉でも到底描き尽くせないものだっただろう。
蛍は毎晩、籠の中で翅を打ち振るい、金魚のいる方を見つめた。金魚もまた鉢の中で、蛍の光を見つめて過ごした。二人はもはや会うことも、言葉を交わすこともできなかった。ただ遠くから互いの光と影を見つめ合うだけだった。
しかしある晩、奇蹟が起こった。蛍の光が月の光と混じり合い、不思議な輝きを放って、金魚の鉢を照らした。その光に導かれるように、金魚は鉢の水の中で円を描き始めた。すると水面に小さな波が立ち、その波は鉢を越え、地面を伝って、やがて蛍の籠の下にまで届いた。
蛍はその水の気配を感じ取り、一層明るく輝いた。二人はこうして、光と水の波紋で、毎晩語り合った。
やがて夏が終わり、秋が来た。蛍の光は次第に弱くなり、金魚も鉢の中で動かなくなった。ある朝、公爵の令嬢が南の軒下に来ると、蛍は籠の中で静かに横たわり、もう光ってはいなかった。同じ朝、百姓の男の子が北の軒下に来ると、金魚は鉢の中で静かに浮かんでいた。
二人の子供はそれぞれ、自分の小さな友を庭に埋めた。翌年の春、蛍を埋めた場所から一輪の金色の花が咲き、金魚を埋めた場所から一輪の銀色の花が咲いた。風が吹くたびに、二つの花は互いの方へ揺れて、まるで囁き合っているようだった。
公爵の令嬢と百姓の息子は、ある日偶然にこの二つの花を見つけ、互いに顔を見合わせた。そしてなぜか、もう言い争う気にはなれなかった。
第74節
【】
【奇妙な猫】
あの日のことを忘れてしまいたい。
どれほどあの日のことを忘れてしまいたいことか。
しかし忘れられない。
あれは最後の日だった。
外は寂しく、そして寒かった。しかしあの日のわたしの心は、外の寒さに比べれば何倍寒かったかわからず、外の寂しさに比べれば何倍寂しかったかわからなかった。もっとも心の寂しさや寒さを測る器械などないのだが……
わたしは火鉢のそばに座って、ぼんやりと物思いにふけっていた。火鉢の炎の中で、わたしのもとに残された名残惜しい夢と美しい希望が朦朧と燃えていた。突然、どこからか虎児が飛んできた——虎児はこの家で飼っている雄猫の名前である——わたしの膝の上に倒れ込み、四本の足でわたしの膝をしっかり抱きしめるようにして震えていた。何事かと思っていると、虎児が小さな声で話し始めた。
「坊ちゃん。
たった一人の親愛なる坊ちゃん。
たった一人のわたしを愛してくれる坊ちゃん」
虎児はまだ何か言いたそうだったが、この言葉を言った後、もうそれ以上続けられないようだった。声が途絶えた。
わたしは心の中で思った。「ああ、また夢か。夢はもうたくさんだ。だが現実はもっとたくさんだ」しかしまるで動かず、前と同じように座っていた。すると虎児の話が続いた。
「坊ちゃん。わたしはもうだめです。すべてに対して、すっかり悲観してしまいました」
この時、わたしはこう言おうと思った。「何を不埒なことを言っているんだ。わたし自身、実はとっくに悲観しているのだが、それでも口に出しはしない」しかし虎児が少し可哀想に思えて、この言葉も言わなかった。
虎児はまた続けた。
「主人も、女中も、料理人も、わたしがネズミを捕らないから怠け者だと言います。けれどわたしは怠けているのではない、ネズミを捕らないのは。わたしはもうネズミを捕ることができないのです。ネズミを捕る元気がなくなってしまったのです。爪や歯に力がなくなったわけではない。ここに——虎児は自分の胸を叩いて——この心の中にネズミを捕る力がなくなったのです。わたしがネズミを捕らないものだから、ネズミは店や倉庫で勝手に米袋を破り、パンをかじり、お菓子を盗んでいます。この頃では、奥様が大切にしまってあったクロポトキンの『パンの略奪』という本までかじってしまったそうです。主人も女中も料理人もネズミのいたずらだと言います。しかしこれはネズミのいたずらではありません。ネズミは飢えているのです、まったく飢えているのです。そうでなければネズミは生きていけないのです。坊ちゃん、どうかわたしの心をわかってください——わたしの本心の中を見てください」
虎児はかなり激昂した口ぶりで話し終えると、わたしに理解を促すかのように、鋭い爪をわたしの膝に立てた。
「痛い!なんと不埒な猫だ。小利口め。ネズミに食べ物がなくて飢えていようと、それは慷慨激昂するような問題じゃないぞ。人間の世界だって、ロシアやドイツやオーストリアでは一億何千万もの人々が飢えているというのに、わたしたちは知らぬ顔じゃないか。まして悪臭と疫病を撒き散らすネズミどもが飢えるのは、ありがたいことだ」わたしはそう言おうと思ったが、わたしにもそんな言葉を口にする元気はなかった。
「わたしがネズミを捕らないから、主人はもう餌をやるなと言いました」これは坊ちゃんもよくご存じでしょう。坊ちゃん、こんなことを言っているわたしも、まさに飢えているのです。腹はからっぽで、どうにもなりません。どうにもたまらなくなって、何か食べ物をちょっと取ると、たちまち『おや、猫が盗みをした』と大騒ぎになる。坊ちゃんがいなければ、わたしはとうに飢え死にしていたでしょう。それでも坊ちゃん、わたしの腹はやはりからっぽなのです。こう言いつつも、すっかり野良猫になりきる元気もありません。ああ、わたしはもうだめだ……
主人も女中も料理人も、餌をやらなければネズミを捕るだろうと思っているのですが、それは無理なのです。この心の底で、ネズミを捕ろうという肝心の元気がすでに消え失せてしまっているのですから。ああ、わたしはもうだめだ。わたしは『奇妙な猫』なのです。人間なら、奇妙な人とでも呼ばれるのでしょう」
この時、わたしはこう言おうと思った。「うむ、丁寧に言えば奇妙な人かもしれないが、普通は低能か白痴と呼ばれるんだぞ。そういう呼び方しかしないんだ」しかしわたしにもこの言葉を口にする元気はなかった。
「ある日、わたしは倉庫の中に座って、ネズミが米を盗みに来るのを待っていました。ネズミがとうとうやって来ました。みな口々に叫びながら、
『米!米!米!』
と、山のようにやって来ました。わたしは取りかかりました。噛んでは噛み、何百、何千、何万のネズミを噛み殺したかわかりません。しかし噛み殺せば殺すほど、減るどころか、かえってどんどん増えてくるのです。大ネズミ、小ネズミ、黒ネズミ、灰色ネズミ、雄ネズミ、雌ネズミ、老ネズミ、仔ネズミ、親ネズミ、子ネズミ、みな一つの題目を口にするかのように叫びながら、
『米!米!米!』
重なり合ってやって来ました。その列はいつ終わるとも知れません。宇宙の創造以来のネズミは言うまでもなく、これから先まだ生まれてくるであろうネズミまで、あたかも無限のネズミが一度にすべて現れたかのようでした。そしてどれもがいっそう恐ろしい執拗な声で、絶え間なく叫ぶのです。
『米!米!米!』
わたしはこの声を聞いているうちに、自分の心境がどこかおかしくなるのを感じました。しかも初めはネズミだけの叫び声だと思っていたのが、その叫び声の中に、わたしたち猫の鳴き声も混じっているようでした。ああ、この猫とネズミの声はしだいに大きくなっていきます。いつの間にかネズミの声は沈み、猫の声だけがやかましく響くのです。
『米!米!米!』
それはまさしく猫の声でした。わたしは恐ろしくなって、われを忘れて逃げ出しました。暗い隅に伏して、ひたすらひたすらがたがたと震えました。
『米!米!米!』
こう叫ぶ猫の声が、わたしの耳の中で、ひたすらひたすら叫び続けるのです。
それからわたしは何時間、何日何晩、何カ月震えていたか知れません。わたしはこの時からだめになりました。すっかり奇妙な猫になってしまいました。
この時はじめて、わたしは『ネズミはわたしの愛すべき、同情すべき兄弟なのだ』ということが、かすかにわかりかけたのです。
わたしはこの時からネズミを捕る元気がなくなり、そしてつい、こっそりと食べ物を少しばかり失敬せずにはいられなくなりました。
こっそり食べ物を失敬せずにいられなくなった時、その時こそ『ネズミはわたしの本当の兄弟だ』ということが、いっそうはっきりわかったのです。それ以後のことはと言えば、わたしの友人たち、最も親しい友人たちでさえ、わたしを見かけるだけで奇妙な猫だ、気違い猫だと言って、すぐに逃げてしまうのです。それだけでなく、主人も女中も料理人も、昨日にはわたしが気が狂ったと見抜きました。しかも主人はわたしを絞め殺すと言っている。絞め殺されるのはいやです。
坊ちゃん。たった一人のわたしを愛してくれる坊ちゃん。モルヒネを買ってきて、静かに眠らせてください。どうか哀れんでください」
虎児の話は長かった。そして虎児はわたしにしっかり覚えてもらいたいかのように、また爪をわたしの膝に立てた。
「おう、痛いぞ」とわたしは叫んだ。わたしはようやく意識を取り戻した。わたしの膝の上には、四本の足で膝の皿をしっかり抱くようにして、がたがた震えている虎児がいた。わたしは半ば夢の中で、静かに虎児の背を撫でた。火鉢の火はすっかり消えていた。わたしのもとに残された名残惜しい夢と美しい希望も、この炎とともに灰色に崩れ去った。
ちょうどその時、父がまるで何かを盗むように、こっそりと部屋に入ってきた。父は音を立てずに爪先で歩き、わたしの背後に回ると、突然飛びかかって、袋で虎児をかぶせた。
「おう、捕まえたぞ捕まえたぞ。畜生め。とうとう捕まえたぞ」
わたしは驚いて飛び上がりそうになった。
「お父さん、これ、これはどうしたんです?」わたしは咳き込みながら尋ねた。
「この畜生は気が狂ったんだ。気違いになったんだ。お前を引っ掻かなかったのが幸いだ。昨日、猫の医者に連れて行ったら、もう気が狂っているから、早く殺さないと危ないと言われた」
「じゃあ、殺すんですか?」
「うむ、当然だ。昨日殺そうと思ったんだが、こいつはずる賢くて、うまく逃げおおせて、みな心配していたんだ」
まるで自明のことで、いちいち説明する必要もないといった様子で、父は出て行った。猫は袋から逃げ出そうとして、もがきながら叫んだ。しかしそれは妙に力のない、淋しい声だった。
わたしは駆け寄って、父が持ち出そうとしていた猫の袋をつかみ、そして言った。
「ちょっと待ってください!」
「何だ?」
「だって、あんまり可哀想じゃありませんか」
「何が可哀想だ。気の狂った猫じゃないか」
「そんなこと言わないでください、お父さん、お願いですから助けてやってください」
「馬鹿を言え!」
「じゃあ、せめて叩き殺さないでください。わたしに任せてください。モルヒネを買ってきて、静かに死なせますから」
父はじっとわたしの顔を見つめた。
「感傷的な低能児め。気違い猫が可哀想だと……この白痴め」
「お父さん、お願いですから聞いて……」
「馬鹿者!」
父の握り締めた拳が、横からわたしの顔に飛んできた。
父はそのまま出て行った。
この時、わたしは自分がどこかおかしくなったのを感じた。今度は夢の中ではなく、確かに猫の声が絶え間なくこう言うのが聞こえた。
「坊ちゃん、坊ちゃん、助けてください。助けてください」
そしてこの声の中に、しだいにほかの猫やネズミの声が加わり、それは恐ろしく淋しい合奏になった。
「坊ちゃん。わたしたちは飢えています。わたしたちは殺されています」
「坊ちゃん、坊ちゃん、助けてください!」
彼らの叫び声はしだいに広がり、しだいに強くなっていった。
わたしは耳を塞いだが、彼らの叫び声は耳を塞いで防げるようなものではなかった。体の隅々に響き渡り、一種の震動が指先までびりびりと伝わった。数も増え、声も大きくなった。宇宙の創造以来に生まれたすべてのネズミ、すべての猫、さらにこれから生まれてくるであろう無限の子孫たちまでが、この叫びを強め、この声を大きくしようとしているかのようだった。わたしは何もわからなくなり、すっかり何もわからなくなった。この真っ暗な渦巻く世の中で、ただ一つ、ただ一つだけ。
「わたしはもうだめだ!」
ということだけは、まるで真っ白な浮き彫りのように、はっきりとわかっていた。
「米!米!米!」
「坊ちゃん、坊ちゃん、助けてください。わたしたちは飢えています!わたしたちは殺されています!坊ちゃん、坊ちゃん、助けてください!」
「おーい、姉やー」
「姉や」
わたしは半ば夢の中で大声で叫んだ。女中が戸口から顔を覗かせた。
「何ですか?」
「ちょっと来てくれ」
「何かあったんですか?」女中は三、四歩入ってきて、怪訝な顔で言った。
「もっと近くへ、近くへ、ここへ……」
「坊ちゃん、どうなさったんですか?」
わたしは彼女の耳に口を寄せて言った。「姉や、モルヒネを少し買ってきておくれ」
女中は驚いた。「まあ、あなた、モルヒネを何になさるんです?」
「いや、わたしはもうだめなんだ。わたしは低能で、白痴で。気が狂ったんだ」
女中の顔が蒼白になった。「ああ、怖い、坊ちゃん、坊ちゃん。いったいどうしたんです!……坊ちゃん」
「姉や。わたしは……猫もネズミもお前たち女中も、みんな兄弟だと思っているんだ。しかもただそう思っているだけでなく、そう感じているのだ、強くそう感じているのだ。猫もネズミもお前たち女中も、みなわたしの同情すべき、愛すべき兄弟だと……」
わたしの声は震えた。
女中は何も言わず、わたしの顔を見つめていた。
その目には涙が光っていた。
あの日のことを忘れてしまいたい。
どれほどあの日のことを忘れてしまいたいことか。
しかし……
しかし………
第75節
【人類のために】
【序】
皆さんもご存知の通り、私の父は名声こそ大きくはなかったが、まずまず多少は名の知れた解剖学者であった。そのため、父の友人もおおかた同じく解剖の研究をする人々で、その中には様々な動物を実験に供する者もあり、また父と同じく実験のための解剖検査をほとんど用いない者もあった。さらに大きな病院を開いている人々もあり、自分の実験のためと称して最も大切な患者に苦痛を与えていると聞いた。当時私はしばしば奇妙な話を耳にしたが、今から皆さんにお話しする物語も、そうした話の一つに過ぎない。
【】
【一】
ある大きな通りに、Kという名の有名な解剖学者が住んでいた。この学者の脳と脊髄に関する研究は、国内の学者の間はもちろん、遠方の外国の学者の間でも名を知られていた。この学者の邸内には、実験のために兎や白鼠や犬を何百匹も飼っていた。実験室は通りからかなり離れていたが、通行人の耳には、時折あの恐ろしい惨痛な動物の叫び声が聞こえ、まるで人間に訴えたいかのように、心の奥まで沁み入った。通行人はたいてい驚いて立ち止まり、「ああ、また解剖学者の研究だろう」と言って、急いでこの邸の前を通り過ぎた。しかし学者の家に住む人々や隣家の人々は、とうにこの惨痛な動物の叫び声に慣れていて、実験室からどんなに恐ろしくどんなに凄まじい声が出ても、皆平然とした顔をしていた。ただ解剖学者の幼い息子だけは、どうしてもこの叫び声に慣れることができなかった。もしその叫び声があまりに苦しげであれば、幼い坊ちゃんは狂人のように窓から飛び出し、何も見ず何も弁えず、両耳を塞いで、ただひたすら遠くへ遠くへと逃げ去った。こうしたことがあると学者は激怒し、「低能児め!退化児め!」と言いながらその顔を凝視した。やがて何か恐ろしい考えを防ごうとするかのように、顔の前で激しく手を振り、自分の実験室に退き、その後二三日は出てこず、ただ実験に没頭した。そんな時は実験室から、平時よりもさらに苦しくさらに惨痛な動物の叫び声が絶え間なく発せられた。家人はもちろん隣人でさえ、これは解剖学者の機嫌が悪いのだとはっきり分かっていた。
坊ちゃんの家にはLという名の可愛い小犬がいて、学者の家で飼っている多くの犬の中でも、また近所の多くの犬の中でも、最も優秀で利口な犬だった。解剖学者はその犬の頭を見るたびに微笑んだ。ある日——坊ちゃんはちょうど九歳だった——学者の機嫌がいつもより一段と悪い日のこと、実験室から腸も断ち切れんばかりの惨痛苦悶の動物の叫び声が聞こえてきた。母親は坊ちゃんがまたどこかへ逃げ出すのではないかと心配して、そばに付き添っていた。坊ちゃんは必死に耳を塞ぎ、何も聞こえないようにしようとしていた。その時また一陣の鋭い恐ろしい犬の悲鳴が聞こえた。坊ちゃんの顔は青ざめ、「母さん!あれはLだ!Lだ!L!確かにLだ!」と叫び、我を忘れて母の手を振りほどいて走り出した。実験室に駆け込み、「父さん!父さん!」と叫びながら解剖台に飛び乗り、小さな手で鋭い解剖刀を掴んだ。見開いた動かぬ目、氷のように堅く恐ろしい顔の表情、口から震える唇に溢れ出す波のような泡——坊ちゃんのその有様を睨みつけた解剖学者は怒号した。「低能!白痴!退化児め!」大きな洋刀で力いっぱい坊ちゃんの頭を打った。追いかけてきた母が「あなた!あなた!」と叫んで学者の手を掴んだが、もう遅かった。学者の力を完全に止めることができず、洋刀は坊ちゃんの頭に斬り込んだ。「ああ——」坊ちゃんは嘆息のような叫びを上げ、血まみれの両手で頭を抱え、小犬と並んで解剖台の上に倒れた。女は、解剖台に倒れた息子と血染めの刀を持つ夫とを見ることのできない目を、愕然と虚ろに見開いて言った。
「ああ、あなた、あなたという人は!」
男は驚いたように刀から滴り落ちる生臭い血を見つめ、唇は無意識に叫んだ。「低能!狂人!退化児め!」
「ああ、あなた!あなた!」
小犬と並んで、坊ちゃんは静かに横たわっていた。
【二】
しかし坊ちゃんは死ななかった。父自ら治療し、三ヶ月後には以前と同じように完全に治った。ただ額から後頭部にかけて一条の広い傷痕が残った。坊ちゃんが頭の傷と共に心の傷も治したかどうかは、私には分からない。Lも死ななかった。しばらくして、また以前のようにワンワンと吠えながら、学者の邸内を走り回っていた。しかしあの小犬も心の傷を治したかどうかは、私にはなおさら分からない。
解剖学者は息子のために三ヶ月間自分の仕事ができなかったので、坊ちゃんの病が全快するや否や、倍の精力で以前の研究に取りかかった。あの惨痛な動物の叫び声は、三ヶ月の静寂の後、さらに激しくなったようだった。隣人たちは嘲笑した。学者は罪のない動物に復讐しているのだと。学者の気分は日ごとに悪くなるばかりのようだった。彼をよく知る友人たちでさえ、あの陰鬱で時折神経性の痙攣に引きつる疲れた顔、頑固と過労で鋭くなった目を見ると、何とも言えず奇妙に、恐ろしく感じた。
ある晩、K解剖学者は訪問した友人たちに向かって言った。
「我々は研究のために長年の歳月と何千匹もの動物を費やし、努力してきたが、その結果はたいてい一つの仮説に過ぎない。しかしこれと同じ結果を、いやこれよりもさらに完全な結果を、わずか二三週間のうちに得られる方法がある——」
この時、客人たちは驚いて彼の顔を見つめた。その目には疑惑の光がはっきりと見えた。
「……もし私が、あの兎や犬の代わりに、生きた人間を使うことができたなら……」その目に鋭く黒い光芒が閃いた。
「ああ、あなた!あなたという人は!」夫人はただそう言った。
学者はさらに低い声で続けた。「もし実験のために、一人、たった一人の生きた人間を使うことが許されるなら、低能児でも構わない。そうすれば私の脳髄の研究は、二三週間のうちに必ず成功して見せよう。そうなれば本国はもちろん、全人類がどれほどの恩恵を受けることか。たった一人、低能児でもいい、たった一人で……人類のために……」
あの奇妙に光る黒い目が、部屋の隅に大人しく座っている息子の上に注がれた。「母さん!母さん!」子供は無意識に叫んだ。客人たちは鉱石のように凝然と彼を見つめ、微動だにせず座っていた。学者の妻は全身をぶるぶると震わせ、息子に対して、必死に自分の体で学者の視線を遮ろうとした。
「ああ、あなた!あなたという人は!」
外から鋭くLの凄涼な吠え声が聞こえてきた。心の奥深く奥深くまで沁み入るかのように……
その夜、床に就く時、坊ちゃんは母を呼び、しっかりと抱きつき、自分の口を母の耳に寄せて言った。
「母さん、母さん。もし人類のためなら、僕は構いません。父さんに、ね、こう言ってください。僕もあの小犬と同じように……構わないんです、もし人類のためなら……」
この言葉を聞いた時の母の心情を、筆で何が書けようか。少なくとも私には描写できない。母は子供をしっかりと胸に抱きしめ、そしていつまでもいつまでも繰り返し繰り返し絶え間なく叫んだ。「子供よ!子供よ!」暗夜の闇の中から、心の奥深く奥深くまで沁み透るかのような凄涼な叫び声が聞こえた。
【三】
その夜は暗い夜だった。坊ちゃんはどうしても眠ろうとしたが眠れなかった。母の部屋が静かになるのを待って、そっと床を離れ、外に走り出た。坊ちゃんが「L!L!」と小犬を呼ぶと、Lは幽霊のように暗闇から飛び出し、突然坊ちゃんに話しかけた。「ああ、坊ちゃん、坊ちゃん。」
坊ちゃんは目をこすりながら考えた。「これは夢かどうか分からない。夢でなければ、Lが話せるはずがない……」
しかしLは言った。「さあ、坊ちゃん、僕の家に行きましょう、話があるんです……」そう言いながら、坊ちゃんの寝巻きの裾を引いて、暗闇の中へ連れて行こうとした。
「行ってもいいけど、お前が話せるはずはないだろう。ワンワンと吠えるなら自然だけど……」
「そんなことはどうでもいいじゃありませんか。小犬がたまに一言二言話したって、大したことはないでしょう。」
「そう言えばそうも言えるけど、夢でなければ、こんな道理は通らないよ。」
こんな話をしながら、坊ちゃんはLに連れられて犬の小さな家に着いた。最も不思議なのは、あの小さな家の入口を坊ちゃんも難なく入れたことで、中には四十歳ばかりの、坊ちゃんの母に似た女が座り、そのそばに十五六歳の、坊ちゃんの従兄の中学生にそっくりな男の子がいた。Lが言った。
「母さん、坊ちゃんを連れてきましたよ。」
「よくいらっしゃいました。」その女は丁寧にお辞儀をして言った。
「寝巻き姿で失礼いたします。」坊ちゃんは謙虚にお辞儀をしたが、心の中では「この犬め!畜生め!明日きっとこっぴどく叱ってやる。」と思っていた。そう思いながらLを見ると、Lはすでに後ろ足で立ち上がり、まるで中学生が制服と長靴と手袋を脱ぐように、犬の皮を脱いでいるところだった。すると坊ちゃんと同じくらいの年の可愛い少年が、坊ちゃんの前に立っていた。
「お前は本当にいたずら者だ……」坊ちゃんは大いに驚いて言った。
Lはそれには構わず、ただ言った。「これは僕の母さんです。ご存知でしょう。」
女はまた恭しくお辞儀をして言った。「私はこの子の母でHと申します。息子がいつもお世話になり、本当に感謝の言葉もございません。」
「いえいえ。」坊ちゃんはそう言おうとしたが、喉に何か硬いものが詰まったようで、何も言えなかった。
「今日も残り物の骨とパンを頂きまして、本当にありがとうございます。」
「いえ、粗末なもので。」坊ちゃんはそう言おうとしたが、また声が詰まって、ただ軽くお辞儀をした。
「これはSで、僕の従兄です。でもSの父が家の番犬なら本当の従兄ですが、もしあの金持ちの家のジョンという番犬なら、僕とは何の関係もないのです。」
Sという十五六歳の美少年は、まるで中学の上級生が一年生に対するように、軽く挨拶をしただけだった。坊ちゃんは思った。「生意気な奴め!畜生!明日うんと蹴ってやる……」しかし何も言わず、謙虚にお辞儀を返した。
Lは坊ちゃんに接吻して言った。「坊ちゃん、相撲を取ろう。今度は負けないぞ。」そして坊ちゃんと遊び始めた。Sは審判を務め、「はっけよい、はっけよい、まだまだ、まだまだ」と叫びながら周りを走った。母は褒美を与え、坊ちゃんには魚の頭を、Lにも魚の尻尾を与えたが、坊ちゃんは遠慮してSに食べさせた。
坊ちゃんはSと楽しく遊びながらも、目はLが先ほど脱いだ犬の衣装から離れなかった。機を見て衣装を手に取り、注意深くじっくりと見た。Sはそれを見ると、大人が子供に対するように軽く微笑んだ。
「坊ちゃん、そんなに驚くことはないよ。犬も牛も鳥も、魚でさえ、中身は人間と少しも変わらない。違うのはただ衣装だけさ。」Sが言った。
「生意気な奴。」坊ちゃんはまた思った。
「何千年も前は、僕たちの衣装は魚の衣装と全く同じだった。僕たちの先祖が狼の衣装を着ていたのは、つい最近のことだ。坊ちゃん、何千年後かは分からないけど、僕たちもあなたのように洋服を着て堂々と歩いて見せるよ。」Lが続けた。
「これが進化というものらしい……」母も口を挟み、おずおずとした声で言った。
「でも人間の中にも、進化しているとは言えない者がいる。退化している者が大勢いるからね……」
坊ちゃんの顔が赤くなった。「畜生!これは僕のことを言っているんだ、父さんの言ったことを聞いたに違いない。明日こっぴどくぶってやる。」と思った。
「確かに、人間としての本当の価値を持つ者は、実際には少ない。退化してしまった者は、もう一度犬や虎の衣装を着て、人間への進化を学び直さねばなるまい。」Sは坊ちゃんの顔をじっと見つめながら言った。
Lの母は心配そうに、坊ちゃんの真っ赤な顔を見ながら慰めた。「どうか怒らないでください。これはお父様のことではありません……」
坊ちゃんは何も言わなかった。Lの衣装を着始めたのだ。Lはにこにこと「ああ嬉しい、嬉しい」と叫びながら、坊ちゃんが衣装を着るのを手伝った。坊ちゃんが手袋と帽子をかぶり、長靴を履くと、皆が手を叩いて「可愛い小犬だ、可愛い小犬だ」と褒めた。
【四】
燦爛たる朝日の光がすでに坊ちゃんの寝室に差し込み、その美しい顔の上にも壁の上にも、楽しげに踊り始めていた。「ああ、暑い。」坊ちゃんは目を覚ましながら言った。「ああ、馬鹿らしい。人間とは何と馬鹿げた夢を見るものか——僕がLの衣装を着るだなんて。」坊ちゃんは独り言を言いながら、向かいの壁に掛かった大きな鏡を見ると、鏡の中には一匹の小犬が、驚いたように坊ちゃんを見つめていた。「ああ、大変だ。僕は小犬になった。母さん!母さん!僕は小犬になった。Lになった。僕は退化した人間だ。母さん!母さん!」
坊ちゃんの母はちょうど父の食事の世話をしているところだった。向こうの部屋から坊ちゃんの大声を聞いて、「あの子は何をしているの。」と言い、坊ちゃんの部屋に向かった。戸口から覗くと、坊ちゃんが犬のように部屋中を歩き回り、口からも「ワンワン!」という犬の吠え声か、あるいは聞き取れない声しか出ていなかった。
「あの子!あの子!どうしたの。」
坊ちゃんは母を見て喜んで近寄り、犬のように母の膝に飛びつき、ぺちゃぺちゃと手を舐めた。その口からは嬉しそうな声で「ワンワン!」と聞こえるだけだった。
「一体何事だ。」食堂の方から父の声がした。
「何でもありません、何でもありません。こちらに来ないでください……」母はそう言いながら部屋の戸を閉めた。そして坊ちゃんをしっかりと胸に抱きしめ、接吻であの恐ろしい「ワンワン」という声を止めようとし、父の耳に伝わらないようにした。
高く昇った朝日の光が部屋の隅々にまで差し込み、あちこちで楽しげに踊っていた。
学者が窓辺に一瞬現れた。一目見るなり、部屋の中の様子をすべて見て取り、自分の実験室に退いた。まもなく、あの部屋から惨痛苦悶の、まるで狂ったかのような陰惨な犬の嗥叫が聞こえてきた。これがまた坊ちゃんの「ワンワン」という声と混じり合い、珍奇な合唱となり、絶望した母の「子供よ!子供よ!」という悲しい声は、まさにその伴奏だった。
第76節
【「愛」の字の瘡】
【一】
わたしは寒い国の人間である。深い雪と厚い氷は、子どもの頃からのわたしの親しい友であった。寒くて暗く、しかも果てしなく続く冬が、あの国の現実であり、暖かく美しい春と夏は、あの国の短くも懐かしい夢であった。——わたしがあの国にいた頃はそうであったが、今は違うと聞いている。わたしはそれが変わったと信じたい——
あの国の人々も、この世のほかの国の人々と同じように、幸福な者と不幸な者とに分かれていた。どういうわけか、わたしもやはり不幸な者の仲間に入っていた。
幸福な者たちは、心まで凍りつくような寒さと、心を脅かすような暗さという現実を忘れるために、劇場や音楽会などの楽しい催しに出かけて、芸術の夢を見るのであって、それは当然のことであった。しかし不幸な者たちは、冷たい霧の朝から吹雪の吠える深更まで、この現実と向き合わずにはいられなかった。
恐ろしい寒さと淋しい吹雪の呻きを聞くまいとして、それを忘れようと、幸福な者たちはたいてい恋愛の城や友情の美しい花園に逃げ込んで遊んでいたが、不幸な者たちは始めから終わりまで、あの恐ろしい寒さと淋しい吹雪の淋しい歌と、歌よりもなお淋しい話を聞かずにはいられなかった。寒くて暗いあの国の現実のために、身も心もすっかり凍りついたわたしは、冷たい枕に顔を埋めて、きつくきつく、痛くなるほど歯を食いしばった。自分を呪い、他人を呪い、わたしはまるで寒い夜の狼のように、どれほど泣いたか知れない。しかしわたしよりもっとひどく泣いた不幸な者が、何千何万もいたことだろう。——今ではあの国で、寒くて暗い現実のために大泣きする不幸な者は減ったと聞いている。わたしはそれが減ったと信じている。この減少こそ、わたしが幼い頃から夢見、幼い頃から希望していたことなのだ。わたしが今もなお生きているのは、おそらくこの夢と希望のためだけであろう。
ただ永遠に眠り続けたいという一つの願望が、あの国の空気のようになっていた。しかしこの心境は寒い国に限ったことではなく、東洋の国にも、南方の国にも、いっそう強くあるのだということは、当時はまだ知らなかった。ああ!あの頃、わたしの知らなかったことはまだ非常に多かった。いや今でさえ、わたしの知らないことは知っていることに比べて何億倍も多いだろう……
【二】
十年前のことである。その頃わたしはある小さな村に住んでいた。村は小さかったが、村人たちの無知はまことに大きく、迷信と偏見ばかりだった。村の傍には何里も続く白楊の林があり、この村の人々にとって、この白楊の林ほど恐ろしいもの、この白楊の林ほど憎むべきものはなかった。用のない限り、誰もこの林に入る者はいなかった。しかし村人の好むものをわたしは嫌い、村人の嫌うものをわたしは好むという性分だったから、あの林に対しても同じで、村人が嫌えば嫌うほど、わたしはますます好きになった。
昔、白楊の林のある場所は一面の大平野であった。そしてその大平野は、かつて戦場になったことがあった。その時、人類と動物が何年にもわたって争い、まさにこの平野の上で、熊や狼や狐などの動物たちが大軍を率いて、人類と最後の雌雄を決した。この一戦で人類は完全に敗北した。人類が血を流し、骨を埋めた場所に、白楊の林が育ったのだった。
この村の人々によれば、白楊の林にしょっちゅう行く者は、必ず変わり者になり、村を捨てて外国へ行ったり、行方不明になったり、横死したりするという。しかしわたしはそんな話にはまるで頓着せず、あの白楊の森に行くのが一番好きだった。森に行けば行くほど、村人はますますわたしを怪しみ、ついにわたしを変わり者だと言うようになった。
ある夜——大雪のしきりに降る夜、狼が村の近くで吠えている夜——わたしは白楊の林へ向かった。なぜこんな恐ろしい夜に出かけたのか、その時はよくわからなかった。おそらく大雪の夜に林の中で春の夢を見たいという気持ちと、狼の恐ろしい吠え声の夜に白楊の春の私語を聞きたいという気持ちとがあったのだろう。今思えばこの気持ちはかなり変だが、あの時、あの大雪のさなか、あの狼の恐ろしい吠え声のさなかには、この気持ちはまるで変だとは思わなかった。わたしは林の中に入り、一本の大きな白楊の下の、柔らかい雪の座布団の上に座った。雪はひどく降っていた。狼がすぐ近くで呻いていた。わたしは静かに座って、白楊の林の話に耳を傾けた。
「昔々、ずっと昔、ここは一面の大平野だった。昔々、ずっと昔、人類は熊や狼や狐と戦った。人類は敗れた。完全に敗れた……」
これらの言葉を聞いているうちに、一人の異様な老女がわたしの前に現れた。全身を熊の外套でぴったりと包み、海狸の帽子を深くかぶり、腰に小さな提灯をぶら下げたその年老いた女は、言い知れぬ異様な印象をわたしに与えた。その容貌もまた、一度見たら一生忘れられぬ面差しだった。
老女はわたしに向かって「お前はわたしのものだよ。これからわたしについて来るのだよ」と言いながら、まっすぐ林の中へ歩いて行った。わたしは「第一に、わたしは『もの』ではない。第二に、誰についても行きたくない」と言ったが、言いながらもいつの間にか立ち上がって後についていった。「おかしなことだ」とわたし自身思った。
白楊の木々は老女の前に広い長廊下のように並び、行儀よくお辞儀をしているようだった。狼たちも老女を見ると、みな挙手の敬礼をした。
わたしは言った。「おばあさん、まるで軍隊みたいですね……」
老女は答えた。「軍隊こそこれらに似ているのだよ」
わたしはようやく気づいて、嬉しそうに笑って言った。「ああ、これは夢だ」
大雪が降りしきっていた。あたりには狼の声が聞こえた。
「おばあさん、あなたは誰ですか?」わたしは尋ねた。
「わたしは冬の女王だよ」老女は真面目に答えた。
「やはり夢だ」わたしは笑った。
「それから、わたしたちが今向かっているのは、あなたの宮殿ですね?」
「そうだよ」老女はまた真面目に答えた。
「おばあさんの宮殿はダイヤモンドや瑪瑙などの宝石でできているのでしょう?」わたしは尋ねた。
「そうだよ」老女はまた先ほどと同じ調子で答えた。
「ああ、なかなか面白い夢だなあ。もっと面白くしなくてはいけない」とわたしは思った。
「おばあさん、あなたの宮殿には若くて美しい雪の王女がいるでしょう」
「王女はいないよ」老女は答えた。「ただ坊やが一人」
「坊や?」わたしはおうむ返しに言った。
「十二歳の坊やだよ」
「坊やでは、つまらないですよ」わたしは言いながら、自分がからかわれたような気がした。
「夢さえ思い通りにならないとは、なんとつまらない。夢なら美しい王女がいてもよさそうなものを……坊やなんて……つまらない」わたしはぶつぶつ言いながら、それでも老女の後をぴったりついていった。
大雪が降りしきっていた。狼がすぐ近くで呻いていた。やがて目の前にきらきら光るものが現れ、またたく間にそのきらきら光るものがダイヤモンドの宮殿だとわかった。わたしは立ち止まって景色を眺めようと思ったが、足がいうことを聞かず、ただ急いで老女の後を追った。老女は立ち止まることなく、大きく開いた門から入った。わたしも後について入った。中に入ると金の扉がガチャンと閉まった。しかし老女はまだ扉がきちんと閉まっていないのではないかと心配して、手で確かめに行った。
「よし。開かないよ」老女は安心したように独り言を言った。
わたしは部屋の中をあちこち見回した。床には虎や熊の上等な毛皮が敷かれ、四方の壁と天井にはさまざまな宝石が飾られていた。ただ窓だけは鉄格子が虎の檻のように組まれ、牢獄のような不快な感じを与えた。
「おばあさん、宮殿とは言うものの、まるで牢獄ですね」
「今に始まったことではないよ。宮殿が牢獄のようになったのは。昔からそうなのだ」老女はぶつぶつと答えて、帽子と外套から積もった雪を払いながら、わたしに言った。「ここにいておくれ。奥に行ってすぐ戻るから」そう言って奥へ入って行った。
「馬鹿な。こんな所で待っていられるものか」わたしはそう言いながら、こっそりと老女の後をついて行った。
大きな部屋を二、三間通り過ぎると、老女は奥の部屋に入って、きっちり扉を閉めた。わたしは扉に近づき、しばらくたたずんでいた。老女は中で衣を脱ぎながら、誰かと話していた。
「今晩もまた一人……」
「誰ですか?農夫ですか?」尋ねるのは可愛らしい坊やの声だった。
「まさか、こんな大雪の夜に農夫が林の中へ入って来るものかね」
「じゃあ、また誰ですか?職人?」
「職人だって、こんな夜に林には来ないよ」
「じゃあ、いったい誰ですか?」
「きっと馬鹿者だよ」
ここまで聞いて、わたしは腹を立てて扉を叩こうとしたが、結局叩かなかった。
「若い人?」
「二十一、二歳くらいだろう」
「その人はぼくが探している字を知っているかもしれない。年寄りはこの字を知らないけれど、若い人たちは知っているようなんだ」
「さあ、どうかね。見たところ少し馬鹿そうだが……」
「聞いてみてもいい?でもたとえ知っていても、教えてはくれないかもしれない」
「さあ、どうかね。見たところ少し馬鹿そうだが……」
「お礼をしたら?……」
「でも、もう死んでしまった者に、何のお礼もいらないだろうよ」
「でも、おばあさん、あの命をお礼にしたらどうかな?」
「それはもうだめだよ」
「おばあさん、どうしてだめなの?だめなことなんかない。おばあさんが承知してくれさえすれば……」
「もうだめなんだよ。雪の中に埋もれて二時間も眠っていたんだから」
「でも、おばあさん、できないことはないよ。ぼくにはわかるんだ」
「馬鹿を言うんじゃないよ。お前の命をあの者の命の代わりにやるなんて、それは言うまでもなくできないことはないさ」
「すぐに命をやらなければだめ?」
「すぐにじゃないよ。その時が来たら、二十二歳になったら、その運命を受けるのだよ。わかったかい?……」
隣の部屋で坊やがしくしくと泣き出した。
「おばあさん、あの字を知らなかったら、ぼくだって生きていたくないよ」
「だけどしようがないじゃないか。もう雪の下に埋まって二時間も眠っていたんだから。もうここに来てしまったのだから。でもどうやら自分では死んだことに気づいていないようだね、馬鹿者だから。とにかくあの人が言ったとおり、何かお礼をしてやればいいさ。自分の命を返せなどとは言うまいよ、まだ死んだことを知らないんだから、まして馬鹿者なんだから。とにかく行って聞いてみるがいい……」
坊やが立ち上がって、わたしの立っている扉口へ歩いて来た。わたしは懸命に声を出さないようにし、急いで先ほどの部屋に戻った。最後の言葉としてわたしの耳に届いたのは、「自分の命を渡すのに、どんな方法で渡せばいいの?」という坊やの問いかけの声だった。
「ああ、面白い夢だなあ」
わたしはそう言いながら、悠然と虎の皮の上に横になった。やがてわたしの部屋に、足音もなく十二歳ばかりの可愛い坊やが入ってきた。その坊やはどこを見ても白楊の木を思い起こさせた。姿はまるで白楊で作った美しい彫刻のようで、肩にかかる髪は白楊の花のようで、全身には白楊の香りが漂っているかのようだった。その息遣いもまた、白楊の葉のそよぎを聞くような気持ちを起こさせた。
「見知らぬ方よ、ぼくはこの家の者で、白楊の坊やです」坊やはわたしに礼をしながら、わたしの顔をじっと見つめて、謙虚に話し始めた。
「ああ、この家の坊やですか。どうぞ、お座りなさい」わたしは率直に言った。
坊やはわたしの傍に座った。部屋中に白楊の香りが満ちた。
「何の用ですか」
「見知らぬ方に、重大なお願いがあるのです」
「そのお願いとは?……」
坊やはしばらく黙っていた。そして低い声で、まるで白楊の葉のさやさやとしたそよぎのように、話し始めた。
「ぼくは白楊の子どもです。大きくなったら、たくさんの光と熱を発して、この世界で燃えなければなりません。薪や松明になって、この世界を暖め、この世界を照らすこと、それが白楊の使命なのです。けれども熱をたくさん出すためには、松明を明るく燃やすためには、一つの字が必要なのです。胸に一つの『愛』の字が必要なのです」
坊やは話しながら衣を脱いで、白楊の樹皮のような色の胸を見せた。わたしは何がなんだかわからないまま、少し身を起こして、その胸をぼんやり見つめるばかりだった。坊やは続けた。
「この胸に『愛』の一字が必要なのです。この胸に『愛』の字を書いてください」
「何で書くのですか?」
わたしが尋ねると、坊やは小さな金の刀を差し出して言った。
「この金の刀で書いてください」
「深く刻むのですか?」
「深ければ深いほどよいのです」
「痛いですよ」
「大丈夫です、白楊の子どもですから」
「血も出ますよ」
「大丈夫です、白楊の血ですから……」
わたしは金の刀を受け取り、その胸のちょうど心臓の上に、丁寧に「愛」の一字を刻んだ。胸からは、清らかな露が花の上に滴るように、数滴の鮮血が流れた。刻まれた字を見ると、坊やの顔は喜びに満ちた。そして前よりもいっそう可愛くなった。
「お礼に何がほしいですか?」白楊の坊やはこう尋ねた。
「命がほしい」わたしは笑いながら言った。
わたしが言い終わるやいなや、坊やの顔は青ざめ、唇は白楊の銀の葉のように震え始めた。見ていると、その美しい坊やがいじらしくなった。
「可愛い坊や。白楊の坊やよ。わたしはただの冗談を言ったのです。命などほしくはない」そう言いながら、わたしは優しく白楊の銀の葉のように震える坊やを抱きしめた。
「坊や、怖がらなくていいよ。ただの冗談なんだから。命なんかいらない。お礼にはただ一度だけ接吻をしてほしい。たった一度だけ……」
わたしは白楊の銀の葉のように震える唇の上に接吻した。するとたちまち、熱い潮流がわたしの全身を流れたように感じた。
「接吻は命を返す方法なのです」坊やはわたしの手を固く握り、低い声で言った。「接吻によって、あなたは自分の命を取り戻したのです。ぼくの命は……」
——わたしは目を開いた。一瞬のうちに、自分が林の中で積もった雪に埋もれ、あやうく凍死するところだったとはっきりわかった。しかし接吻の温もりが全身をまだ暖かくしているようだった。わたしは懸命に立ち上がった。大雪が降りしきっていた。狼がすぐ近くで呻いていた。わたしは村に向かって歩いた。白楊の坊やと接吻したおかげで、全身がまだ暖かかった。わたしは村に着いた。大雪が降りしきっていた。狼がすぐ近くで呻いていた。
村中にわたしを知らない者はいなかったから、一軒目の家の戸を叩いた。凍えた者がいると聞いて、その家の主人はぶつぶつ言いながら戸を開けに来た。しかしわたしだとはっきりわかると、主人は怪訝な顔つきになった。
「今晩、兵隊や探偵がお前をあちこち捜し回っているぞ。逃げるなら早く逃げたほうがいい」主人は言った。
「兵隊や探偵がわたしを捜している?なぜ?」
「なぜだと?お前自身がよくわかっているだろうに」主人はそう言いながら、じろじろとわたしを見た。
「わたしは逃げない。凍えているんだ。助けてくれないか?」
「いくら出す?……」
「十ルーブルでどうだ?」
「少なすぎる」
「二十なら?」
「二十五出すなら、いいだろう……」
【三】
あれからすでに十年が過ぎた。この十年の間、わたしは東洋の国に住んだこともあり、南方の国に住んだこともあった。この十年の間、暖かい国の寝言や東洋の国の寝言を、すっかり聞き飽きてしまった。この十年の間、南方の国の幻覚も東洋の国の催眠状態も見て、この世にはもう飽き飽きした。そこでわたしはまた、あの寒くて暗い現実の国に帰って行った。その時はちょうど、あの国で待ち望んでいた春の季節だった。あの国の人々は、この春がいつもより暖かく、いつもより長く続くことを願っていた。この国に着くやいなや、わたしはやはり一度、十年前に住んでいたあの村を訪ねてみなければと思った。しかしこの村は、太陽が穏やかに照らしてはいたが、相変わらず寒く、美しい春の季節であっても相変わらず淋しかった。人々に嫌われわたしに愛された白楊の林も、もうすっかりなくなっていた。かつて林のあった大平原を見ると、まるで人類と動物がまたここで戦ったかのような気がした。しかも今度は人類が勝ったのに、勝利の気配はどこにも感じられなかった。
村から二里ほどのところに、まだいくらか大きな白楊の林が残っていた。わたしは白楊の切り株の間を通って、その残った林の中へ歩いて行った。歩いているうちに、まるで十年前に冬のおばあさんと一緒に歩いたあの廊下を歩いているような気がした。この廊下の突き当たり、林の境目に、小さな家が一軒あった。わたしは思わず家の中に入っていった。すると部屋の中で、白楊の薪が散乱する中に、何かを考えるように寝台に腰掛けている一人の年老いた女がいた。その女の容貌は、一度見たら一生忘れられぬ面差しだった。
「冬のおばあさんだ」わたしは心の中で言った。心臓もどきどきと跳ね、ほとんど痛いほどだった。
「まさかまた夢を見ているのでは?」わたしはまた疑い始めた。
「おばあさん!」わたしは低い声で呼んだ。老女は何も言わず、ただわたしの顔をじっと見つめていた。わたしの心臓の鼓動はさっきよりいっそう激しくなった。わたしは両手を胸に当てた。
「おばあさん、あなたは冬のおばあさんでしょう」わたしは低い声で言った。
老女は何も言わず、ただわたしの顔をじっと見つめていた。わたしは倒れそうになった……
わたしは白楊の薪の上にへたり込んだ。しばらくの間、途切れることのない沈黙が続いた。やがて老女は正気に戻ったかのように、ぶっきらぼうに言った。
「わたしはここの薪割りの婆さんだよ」
「十年前」わたしはまた尋ねた。「おばあさんのところに十二歳の坊やがいましたね?」
老女の顔が青ざめた。わたしも震えた。しばらくの間、途切れることのない沈黙が続いた。
「いたよ、だけどもうおらんよ」老女は何かを思い出したかのように言った。
「今はどこにいるのですか?」
「誰が?」
「坊やは」
「今は、どこにも住んでおらんよ。もう燃え尽きたよ」
「燃え尽きた」
「愛の字の病でね」
老女はわたしがわからないのをたいそう不思議に思ったらしく、また鋭くわたしの顔を見つめた。林の静寂の中で、わたしの心臓の鼓動が聞こえた。
「おばあさん、愛の字の病とは何ですか?」
「十年前、坊やの胸に『愛』の字の形をした瘡ができてね。この『愛』の字の瘡がしだいに胸の奥深くへ侵入していったのだよ」
「それから?」
「坊やの性格が変わってしまった。こんなことを言い出したのだよ、全世界の人を抱きしめて暖めてやりたいとね……」
「それから?」
「それでわたしは困ったよ。坊やはまた松明になって人々の暗い道を照らしたいとも言った」
「それから?」
「それで松明になって人々の暗い道を照らし、燃え尽きてしまったのだよ」
またしばらくの間、沈黙が続いた。老女はまたわたしの顔を見つめた。
「お前は『愛』の字が書けるかい?」
「ええ」
「じゃあ、白楊の薪に『愛』の字を書いてくれないかね?」
「おばあさん、なぜ?」
「『愛』の字を書いた薪は、普通のものより暖かく、明るく燃えるんだよ」
老女は異様に笑い出した。わたしはその笑い声を聞くと、氷水をかけられたように震えた。老女はまた立ち上がり、わたしの耳に口を寄せて低い声で言った。
「わたしの胸に、ちょうど心臓の上のところに、『愛』の字を一つ書いてくれないかね?わたしも白楊の坊やと同じように松明になって、人々の暗い道を照らしたい、燃え尽きるまで」
わたしは急いで立ち上がった。あの部屋にもう一分でもいたら、きっと狂ってしまうと自分でもはっきりわかった。そこであの老女にはもうかまわず、部屋を飛び出して村の方へ逃げた。
……
わたしはその晩、宿の主人に、林に住む薪割りの婆さんのことを知っているかと尋ねた。
「知っているよ」主人は言った。「あれはこの辺では有名な狂人で、林の化け物だ。会ったのか?『愛』の字の瘡がどうとかいう話をされただろう。『愛』の字を書くと薪がもっと暖かく燃えるなんて、まったく化け物だよ。十字架の力よ、我らとともにあれ!」主人はそう言って三度十字を切った。
「しかしあの坊やはどうやって死んだのですか?」わたしは尋ねた。
「あれはまったくどうということもない話だ。あいつは多数党に入って、奇兵隊になって、ここらで活動していたんだ。幸いにも今年の騒動の時に、白軍の騎兵隊に捕まって、殺されたよ。ああいう手合いは、死ねば死ぬほどありがたい」主人はあたりを見回しながら、低い声で言った。
「どうやって殺されたのですか?」わたしはまた尋ねた。
「ああいう手合いを威嚇するために、生きたまま焼き殺されたのだ。もっとも、これは白軍の悪口を言う連中がそう言っているだけで、当てにはならないがね。ああいう手合いは、どう殺されようと、誰も問題にはしない。ただあの婆さんだけは可哀想だ。あれ以来気が狂って、坊やが松明になって人々の暗い道を照らし、燃え尽きたなどと言って歩き回っている。まったくくだらない話だ」
主人はそう言いながら激しく唾を吐き、やがてまた何か思い出したように言った。
「だが化け物や人殺しの話は夜にするものじゃない。十字架の力よ、我らとともにあれ!」
主人はおどおどと窓の方を見て、何度も十字を切った。わたしは黙って、淋しく主人が十字を切るのを見つめていた。外はしだいに暗くなっていった。わたしの心も……
……
わたしはまたこの国を出た。外国へ行った。けれども外国に行っても、わたしの心はまだ痛んでいた。わたしの心の中に新しい深い傷ができたような気がした。しかもこの傷はしだいに深くなっていくようだった。しかもこの傷の形は、どうやら「愛」の字ではなく「憎」の字のようであった。大きな「憎」の字の形……しかもこれがしだいに大きくなっていく……
ああ、この心を、どうしたらよいのだろう……
第77節
【小鶏の悲劇】
【一】
この頃、家の小さな雛の一羽が、庭に家の小鴨を泳がせるために掘った池に落ちて、溺れ死んだ。
あの小鶏は、一羽の奇妙な小鶏だった。いつでも鶏の仲間とは遊ばず、いつも鴨の群れに入って、あの可愛い小鴨と遊んでいた。家の主婦も「小鶏はやっぱり小鶏と遊ぶのがいいし、小鴨は小鴨と遊ぶのがいい」と思ったが、何も言わず、ただ見ているだけだった。その間に、あの小鶏はしだいに痩せ細っていった。家の主婦は驚いて言った。
「ああ、あの子はどうしたのかしら。病気にでもなったのかしら」
そしてその小鶏を捕まえて、丁寧に病を診た。しかししばらくして、主婦はひとり言を言った。
「小鶏の病気はわからないわ。だって人間の病気だってそう簡単にはわからないのだもの」
そう言いながらも、見てもわからない病を患った小さな病人に、ひまし油を飲ませ、翼に針を刺して血を出し、見てもわからない病を治そうとした。しかしすべて無駄だった。小鶏はただしだいに痩せていくばかりだった。小鶏はいつも首をうなだれて、ぼんやりと何かを考えているようだった。主婦はそれを見て言った。
「ああ、あの子ったら、たかが鶏、たかが小鶏のくせに、何を考えているのかしら。人間だって考えるだけでもう十分なのに」
こう言いながら、自分もしばしばいつの間にか物思いに沈んでいた。するとこの頃、主婦の口からは低い声でこう漏れるのだった。
「やっぱり、小鶏はやっぱり小鶏と遊ぶのがいいし、小鴨は小鴨と」
【二】
ある日、小鶏はいつも通り小鴨と遊んでいた。太陽はもう沈みかけていた。小鶏は小鴨に言った。
「きみが一番好きなものは何?」
「水だよ」小鴨は答えた。
「恋をしたことはある?」
「恋はしたことないけど、鯉の子を食べたことはあるよ」
「おいしかった?」
「うん、まあまあだったかな」
日がしだいに暮れていった。小鶏はうつむいて、この日暮れを見つめていた。
「きみは泳いでいる時、ずっと何を考えているの?」
「泥鰌を捕まえることだよ」
「それだけ?」
「それだけ」
「岸で遊んでいる時は何を考えるの?」
「岸にいる時は、泳ぐことを考えるよ」
「いつもそう?」
「いつもそうだよ」
日がしだいに暮れていった。小鶏はもう見ることをやめ、ただうつむいていた。そして低い声で言った。
「きみは寝ている時、鶏の夢を見たことはある?」
「ないよ。でも魚の夢は見たよ。すごく大きな、奥さんがくれる泥鰌よりもっと大きな魚の夢を」
「ぼくはそうじゃないんだ……」
また沈黙が続いた。
「朝起きたら、まず誰を探しに行く?」
「泥鰌を持ってきてくれる奥さんを探しに行くよ。きみもそうだろう」
「ぼくはそうじゃないんだ……」
もう夕暮れだった。しかしうつむいている小鶏はそれに気づいていなかった。
「ぼくがもし池に行って、きみのそばで泳げたら、それがいいんだけどなあ」
「でも、つまらないんじゃない?きみは泥鰌を食べないし」
「でも池に行くのは、泥鰌を食べることだけじゃないでしょう?」
「うーん、どうかな」
夕暮れが過ぎると、家の主婦が小鶏を呼びに来た。小鴨もほかの小鶏たちもみな行った。ただこの一羽だけは、うつむいて、翼も垂れて、ぼんやりと動かなかった。主婦はそれを見て言った。
「ああ、この子はどうしたのかしら」
【三】
翌日、早朝まだ暗いうちに、小鶏は池に飛び込んで死んでいた。この知らせを聞いた小鴨は、きれいに首を伸ばし、得意げに水に浮かびながら言った。
「水の上に浮くこともできないくせに、たとえ泥鰌を捕まえたって食べられもしないくせに、水に入ろうとするなんて、まったくおばかさんだ」
家の主婦は池から溺れ死んだ小鶏を引き上げ、見てもわからない病のために痩せ細った小さな亡骸を前に、しばらくぼんやりと見つめるばかりだった。
「ああ、可哀想な子。泳げないのに、どうして池に行ったのかしら。死んだほうが生きているよりましだったのかしら。
でも、どんなにしても、やっぱり、小鶏はやっぱり小鶏と遊ぶのがいいし、小鴨は小鴨と……わたしはそう思うけど……そう思うけど……」
主婦はひとり言を言いながら、見てもわからない病のために痩せ細った小さな亡骸を前に、いつまでもぼんやりと見つめるばかりだった。
朝日がしだいに昇ってきた。
第78節
【赤い花】
【第一部曲】
その一
私は眠っていた。眠りながら様々な夢を見ていた。人類の運命についての夢を、そしてこの世の将来についての夢を……。その夢はとても凄涼で、この世のように暗く重い夢だった。しかし私はこの夢を見ずにはいられなかった。なぜなら私は眠っていたのだから……。
誰かが私の部屋の窓を叩いた。「窓を叩いているのは誰だ。」私はしばし目覚めて尋ねた。
「私だよ、春の風だよ。」なおも窓を叩きながら答えた。
「北京の風か。嫌な奴だ。」
「春風だよ。」
「何の用だ。」
「新しい春が来たよ。」
「春が来たって、私に何の関わりがある。私は眠っているんだ。この世の夢を見ている最中なんだ。春が来ようと……」
「春が来たんだよ。本当の春が。お前の見ている夢なんかよりも、春の現実のほうがよほど美しいのに。」
「馬鹿を言え……」
「この世に、新しい花が咲こうとしているんだ。」
「どんな花だ。」
「赤い花だよ。真っ赤な真っ赤な血のように真っ赤な鈴蘭だよ。早く起きて新しい春を迎えなさい。美しい鳥もまもなく鳴くよ。」
「どんな鳥だ。」
「赤い鳥だよ、真っ赤な真っ赤な白鳥だ……」
「白鳥は死ぬ前に、あの凄涼な歌を歌うのだろう。」
「いいや、そうじゃない。白鳥が生まれる前に歌うあの赤い歌だよ。真っ赤な真っ赤な血のような歌だ。」
「ふん、嘘をつくならもっと上手につけ。何が真っ赤な歌だ……」
「信じないのか。」
「誰が信じるものか。もう窓を叩くのはやめてくれ。私は眠っているんだ。夢を見ているんだ。」
「そんなことは構うものか、戸も叩いてやる。」そう言って、激しく戸を叩き始めた。
「ああ、北京の風は、何とかき乱すのが上手なことか。」私はそう言いながら、すっかり目が覚めてしまった。
その二
誰かが必死に戸を叩いている。おそらく坊ちゃんが帰ってきたのだろう。坊ちゃんとは、十六七歳の私の学生で、私と一緒に住んでいる。戸を開けると、果たして叩いていたのはこの坊ちゃんだった。坊ちゃんは部屋に入り、しばらく無言で、ただ急な息遣いが聞こえるだけだった。
「坊ちゃん、どうした。」
「僕たち学生がまた騒ぎを起こしたんです」と力なく言った。「しかもまたデモ行進をしたんです。」
「また何か衝突があったのか。」
「ええ、警察と軍隊に殴られました。」彼は低い声で答えた。
「随分痛かっただろう。」
「いいえ、痛いなんてこと、何でもありません。痛くもなかったし……」
「痛くなかったのなら、それは何よりだ。」私は言った。
しばらく沈黙があった。
「学生を殴るのは警察や軍隊だけじゃないんです。大通りに出ると、店から飛び出してきて殴る者もいます。しかも一般の人々も僕たちを嘲り罵るんです、あの民衆が。」
「それはそれはご苦労なことだ。」私は笑いながら言った。
「兄さん、兄さん。」坊ちゃんは私が笑うのを見て、両手で顔を覆った。私も坊ちゃんに対してあまりに残酷だったと感じ、申し訳なく思った。
「坊ちゃん、泣くな。冗談を言っただけだ。」私は謝るように言った。
「冗談はもう沢山です」と坊ちゃんは顔を向けて言った。「あちこちで冗談ばかり言っている。あなたからはもう冗談を聞きたくありません。もし僕を可哀想に思ってくれるなら、真面目な話を聞かせてください。」そう言って、また泣きそうな顔をした。
「真面目な話って、どんな話だ。文学のことか、エスペラントのことか。」
「そんなことじゃありません。」
「じゃあ何だ……」
坊ちゃんは目を逸らさずに私の顔を見つめた。
「何でそんな顔をして見ているんだ。」私は訊いた。
「赤い花の話を聞かせてください。」坊ちゃんはきっぱりと言った。赤い花という一言があまりに唐突だったので、私は思わず驚いて口と目を大きく開けて彼を見た。
「赤い花の話だと。」
「ええ、真っ赤な真っ赤な血のように真っ赤な鈴蘭の話を……」
「そしてあの赤い鳥の話も。真っ赤な真っ赤な血のように真っ赤な白鳥の話も。」
「そんな話もあるんですか。」今度は坊ちゃんが驚いた。
「赤い歌もあるぞ。真っ赤な真っ赤な血のように真っ赤な歌だ……歌ってみようか。」坊ちゃんの驚いた顔を見て、私はまた笑いをこらえられなくなった。
「また冗談ですか。」今度は本当に泣きそうだった。
「ああ、泣いてはいけない。もう冗談は言わない……」
「あなたのところに、赤い花があるはずです」と坊ちゃんはまた私の顔を見ながら言った。「みんなそう言っています。」
「たとえそんな花があっても、もう咲かない枯れた花だ。」
「そうすると、太陽の光と熱がなければ花は咲かないという話も、やはり本当なんですね。」彼は独り言のように言い、また私に向かって言った。「でも兄さん、この国で赤い花が咲く時も、やがて来ますよ、遠くないうちに。」
「なぜ分かる。」
「太陽がもうすぐ昇るからです……」
私は笑った。しばらく沈黙があり、ふと坊ちゃんは何か思いついたように、力を込めて私の手を握った。
「兄さん、あなたのあの赤い花を僕にください。枯れていても構いません。」
「おい、坊ちゃん、何を言っているんだ。」
「分かるはずでしょう。」
「分からないよ。」
「やっぱり赤い花をくれないんですね。僕をどんなに愛してくれても……」
坊ちゃんは苦笑して私の手を放した。窓の方へ歩いていき、涙に濡れた顔をガラスに寄せ、暗い夜が支配する暗い世界を見た。どこかで鶏が鳴いた。「あれは三度目の鶏鳴だ」と坊ちゃんが言った。どこかでまた一度鶏が鳴いた。
「兄さん、あれは三度目の鶏鳴ですよ。」彼はまた言い、さらに一生懸命に東の方を見つめた。坊ちゃんは熱心に太陽が昇るのを待っていた。彼がそれほど熱心に太陽を待つのを見て、私もたまらなくなった。
「坊ちゃん、赤い花の話をしてあげよう。だからもう太陽を待つのはやめなさい。」
「なぜですか。」
「太陽は昇らないからだ。」
「永遠に。」
「おそらく永遠に。」
「でももう三度目の鶏鳴ですよ。」
「あれは三千三度目の鶏鳴かもしれないぞ。鶏が鳴けば太陽が昇ると思っているのか。」
「そう思っていましたけど……兄さん、どうすれば太陽は昇るのですか。」涙をこらえていた坊ちゃんは、まるで子供のようにわっと泣き出した。私は東洋各国で学んだあらゆる懇切な言葉を尽くしてこの泣く坊ちゃんを慰めたが、すべて無効だった。彼の泣き声が少し静まるのを待って、坊ちゃんを横にならせ、頭を自分の膝に載せて、赤い花の話を始めた。
「赤い花の話をしよう。」坊ちゃんはそれを聞くと、次第に落ち着いてきた。ただその目からはなおも滔々と熱い涙が流れ、体は長い痙攣の後のように絶え間なく震えていた。
【第二部曲】
その一
「赤い花の物語は、ある国の物語だ。この国は、はるか昔から寒王と暗后に支配されていた。王には横暴と乱暴という二人の王子がいた。窃盗という者がこの国の総理大臣で、精窮という術師が王の最も忠実な忠臣だった。こうした連中の統治を受ける国民の苦しみは、坊ちゃんのような者にはとても理解できまい。しかもあの国の有様は、私のような口下手な者にはとても語り尽くせまい。その凄惨な様子は、まことに言語に絶し、筆舌にも尽くし難い。あの国の人民は、起きた時から横になる時まで(この国では科学者以外の普通の人々には昼夜の区別がなく、昼を「起きている時」、夜を「横になっている時」と呼んだ)、いつも道に迷い、物や人にぶつかり、泥沼に倒れ、深い溝に落ちた。寒王のせいで、この国の人々の全身はいつも震え、暗后のせいで、魂まで縮こまった。この国の人々の起きている時も横になっている時も、横暴と乱暴の二王子は同類の者たちを引き連れ、国歌を歌った。
『おい、打て打て、突け、
おい、搗け、殺せ殺せ!』
狂犬のように国中を走り回り、男を殴り、女を引きずり、子供を怯えさせ、全国を威嚇した。ああ、あの有様は、坊ちゃんの国ではどうしても見られないものだ。
あの窃盗という総理大臣は、『金を出せ』『子供をよこせ、あっちへ行け、こっちへ来い』などという命令を、この国の人々の起きている時でも横になっている時でも、絶え間なく発し、そしてあの精窮という忠実な術師をやってこれらの命令を執行させた。この国の人々は夜の夢の中でも震えていた。提灯やランプを点すのはもちろん、松明を点けることさえ、暗后に対しては許されざる罪であった。自分の住んでいる街や家をもっと便利に、もっと暖かくしたいと思うこと——ただ思うだけでも、寒王に対する許されざる罪を犯すことになった。こうした罪を犯した者たちには、当然恐ろしい刑罰が待っていた。」
坊ちゃんはすっかり静かになり、私の膝の上で目を閉じて聞き入っていた。私は続けた。
「しかしこの暗黒の国にも、ひとつの希望があった。はるか昔、太陽がまだこの国を照らしていた頃、ある賢者が赤い花の種を地に蒔いたと言い伝えられていた。真っ赤な真っ赤な血のように真っ赤な鈴蘭の種を。この花は太陽の光なくしては咲くことができない。しかし種は地の底深く眠り続け、いつか太陽が戻る日を待っていた。」
坊ちゃんの呼吸がだんだん穏やかになってきた。
「人々はこの赤い花の伝説をひそかに語り伝え、いつか花が咲く日を夢見ていた。しかし寒王と暗后はこの伝説を恐れ、赤い花について口にする者を厳しく罰した。こうして長い長い歳月が過ぎた……」
私がここまで語った時、坊ちゃんはすでに深い眠りに落ちていた。その顔には涙の跡が残っていたが、唇にはかすかな微笑みが浮かんでいた。窓の外では、東の空がほんのわずかに白み始めていた。しかしそれは太陽ではなかった。ただの夜明けの気配に過ぎなかった。
私は坊ちゃんの寝顔を見つめながら、心の中で呟いた。「坊ちゃんよ、赤い花はいつか咲くだろう。しかしそれは私たちの目の黒いうちではないかもしれない。それでも種は地の底に眠っている。それだけは確かだ。」
第79節
【時の翁】
【一】
確かに大きくて賑やかな北京がある。しかし私の北京は小さくて静かなのだ。確かに裕福で立派な人々の住む北京がある。しかし私の北京に住む人々は、みな質朴で静かで、しかも誠実なのだ。このように静かな場所に住み、このように静かな人々の中に交じっていれば、私の心も少しは平静であるべきはずだ。しかしそうではない。どうしても、どうしても、平静になれないし、平静になりそうにもない。夜になると、私はことさら寂しく感じる。なぜなら夜は始終一人きりだからだ。ベッドに上がると、何か夢を見ようと懸命に早く眠ろうとするのだが、私の北京は眠ってはいても、人を眠らせてくれる場所ではないのだ。
私の北京は美しい夢を見る場所ではない。以前いつか見た夢さえも、忘れてしまうのだ。以前モスクワや東京の友人たちと一緒に、劇場や音楽会や社会主義者の集会などに行き、夜中に騒いで過ごしたことを思い出すと、私は悲しく嘆息する。あの頃、三四人の友人と一緒にいて、友人を抱擁し、友人に抱擁され、富豪や野心家や一切の罪人の手から社会を、国を、全人類を救い出す方針を立て、しかも夢を見た――私たちの手によって自由の楽園と化した世界の夢を。これらのことを思うと、私は寂しくため息をつくのだ。あまりに寂しい私は、時には時計を身の傍に置き、その「チクタクチクタク」という音の中から、遠い友人たちの慕い合う声を聞こうとする。私は詩人だから、それはできるはずだと思っている。
しかし今に至るまで、時計の「チクタクチクタク」という音の中からは、慕い合う友人の声は聞こえなかった。ただ始終私を叱責する、あの時の翁の厳しい声が聞こえるだけだ。しかし翁自身の機嫌のよい時には、私を哀れだとも言い、いろいろな話を聞かせてくれる。もっとも愉快な話ではないのだが……
ある時、私はひどく寂しかった。諸君もご存知の通り、私が信じているのは、人類はおおむね自由、平等、同胞主義、そして正義に向かって前進しているということだ。私が希望しているのは、この不幸な世界が、弱者や貧者を虐待する利己主義者の圧迫から逃れ出て、人類を愛し、人類の幸福を求める主義者の天下になることだ。しかも昼夜を分かたず、まさにこのことを待ち望み、祈願しているのだ。ところが、若い人々が老人を真似て、幾度も自分の父や祖父の過ちや罪悪を繰り返し、それでいて「我々も人間だ」と昂然と闊歩しているのを見ると、人類が進歩しつつあるということに疑いを抱くようになった。このことだけではない。さらに個人の生活においても、家庭においても、社会においても、政治においても、老人の過ちや罪悪を繰り返す若者を見るたびに、私はとても心配になるのだ。この幸福な人類が何千年も続けて苦しみ、結局退化せざるを得ないのではないかと。このことを考える時が、私にとって最も寂しい時だ。
ある時、ちょうどその時だった。今度こそ、若い人々は必ず父や祖父の過ちを正し、老人が人類に対して犯した一切の罪悪を償い、何の障碍もなく、自由に幸福な時代へと進むのだと、こう自分を慰めながらベッドに上がった。人類のことを気にかけるのは苦痛だから、時計を手に取り、今度こそ、この「チクタクチクタク」という音の中から、富豪や野心家や一切の罪人の圧迫から救い出された友人たちの声が聞こえるはずだと思った。そこで時計を自分の身の傍に置いた。ところが思いがけず、二三分も経たないうちに、友人の声に代わって、厳しい時の翁がくどくどと私を叱責する声が、また次第に聞こえてきたのだ。時の翁は次のような話を始めた。……
【二】
人間の愚か者め。チクタクチクタク……チクタクチクタク……今に始まったことではない、いつだってそうだ。……過去も……現在も……未来も……チクタクチクタク……チクタクチクタク……
人間は賢くはなれぬ。その可能性はない。チクタクチクタク……
愚か者が愚か者を生み、この愚か者がまた自分よりもっと愚かな愚か者を生む。チクタクチクタク……チクタクチクタク……これが人類の発達というものだ。羨ましいか。黙れ!チクタクチクタク……チクタクチクタク……
哀れだと言いたいのか。何が哀れなものか!チクタクチクタク……チクタクチクタク……
なぜなら他人に愚か者にさせられたのではない。自分で自分を愚か者にしたのだ。何が哀れなものか。チクタクチクタク……チクタクチクタク……お前も愚か者だ。お前の父親も……祖父も……黙れ!チクタクチクタク……チクタクチクタク……
父や祖父がどんな愚か者であっても尊敬しなければならぬと言いたいのか。ご勝手にご勝手に。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
愚か者の先祖の前に跪いて、好きなだけ拝むがよい。どうせこれ以上愚かにはなれぬのだから。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
お前の子供たちも必ず愚か者として生まれ、多くの愚かなことをし、愚か者として死ぬのだ。一方で愚か者のお前と、お前の先祖を拝みながら。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
愚か者が愚か者を生み、愚か者が愚か者を拝む。人類が咲かせた花は何と奇妙なものか!黙れ!チクタクチクタク……チクタクチクタク……
いわゆる新教育によって人類が良くなると言いたいのか。新教育とは何だ。英語を話すことか。若者がビリヤードや野球やサッカーを上手にやれば人類は救われると思うのか。愚か者め。チクタクチクタク……チクタクチクタク……チクタクチクタク……チクタクチクタク……
私は涙を含んで、黙って翁の話を聞いていた。
しばらくして、翁はまた話し始めた。
【三】
この世界に一つの大きくて古い寺院がある。想像もできないほど大きく、想像もできないほど古い。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
この中にはさまざまな形に作られ、さまざまな色に塗られた、想像もできないほど古い神々が立っている。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
年老いた人々はこの古い神々を拝み、その前でさまざまな儀式を行い、若い人々は昼夜を問わず、自らの命を懸けてこの古い神々を守り、この古い寺院を管理し、神々への儀式を助けている。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
貴重な供え物の中で最も多いのは、人の涙、人の汗、人の血だ。しかし神々が最も好む供え物は、若者の脳と心の中にあるものだ。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
寺院の中に住み、神々を守護する人々の最大の職務は、太陽の光と新しい空気を少しも寺の中に入れないことにある。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
とても古い言い伝えがある。新しい空気と太陽の光が寺に入れば、その瞬間、寺の中に住む人々は一人残らず死んでしまうという。これが古い神々の罰なのだ。だからこの寺院の中は、いつでも暗い。空気は、ただ一日一日悪くなるばかりだ。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
古い神々は微かな蠟燭の光に映り、線香の煙に包まれ、偉大で神秘的な生きた巨霊のように見える。一方で神秘的で深い意味を含んだ聖典を唱え、一方で人々の脳と心を古い神々に献げる儀式を行う。それは言い表せないほど荘厳だ。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
重苦しい空気の中で、神秘的な音楽のせいで、誰にも神々に献げられた人々の命惜しむ声や、神々を呪う言葉は聞こえない。微かな蠟燭の光に照らされ、線香の煙に包まれているせいで、誰にも血に変わった涙も、死を怖れて青白くなった顔も、苦悩のために起こる全身の恐ろしい痙攣も見えない。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
誰もが、古い神々に供え物をした人々が最も幸福だと信じている。これはいつの時代でもそうだ。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
いつの時代でもそうだが、ある春のこと。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
それは不思議な春だった。この春の太陽は、どの春の太陽よりも明るく、空気はどの春の空気よりも澄んで暖かく、この春の花はどの春の花よりも芳しく、鳥の歌もどの春の鳥の歌よりも愛らしかった。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
寺院の中に隠れて古い神々を管理する若者たちの心は、この春、どの春よりも寂しく、どの時よりも太陽の光を思い慕った。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
この春、古い神々に献げられた人々の命惜しむ声や、神々を呪う言葉も、どの時よりも強く、はっきりと聞こえた。それらの人々の血に変わった涙、死を怖れて青白くなった顔、苦悩のために起こる全身の恐ろしい痙攣も、この春、誰の目にも見えた。そしてこの春、寺を管理する若い人々は初めて疑いを起こした。蠟燭の光の中で生きた巨霊のように見える神々も、ただの石で作った怪物に過ぎないのではないかと。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
彼らは試みにわずかに一つの窓を開けてみた。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
春の空はどの時よりも青く、この空を行く明るい小さな雲もどの時よりも美しかった。これを見た若者たちの心は、真理を慕い始めた。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
わずかに開けた窓から射し込んだ太陽が古い神々を照らし、ただの石で作った怪物に過ぎないことがはっきりとわかった。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
若い人々は、太陽の光と新しい空気が寺院の中に入れば、寺の中の人々は瞬く間に死に絶えるという、とても古い言い伝えを忘れ、一度に寺院の窓と門を大きく開け放った。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
大きく開けた窓と門から、太陽の光と新しい空気が流れ込み、古い神々はたちまち倒れ、すべて高座から若い人々の頭の上に落ちて、若い人々はみな押し潰された。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
とても古い時から伝わる言い伝えは、嘘ではなかった。寺院の窓と門を開けた人々は、一人も残らず死んでしまった。しかし死ぬ時、彼らの中に命を惜しむ者は一人もいなかった。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
そして死ぬ時、彼らはなお自分たちのそばに集まった、古い神々から解放された若い人々に向かって言った。古い神々を壊さなければ、人々は幸福になれないのだと、最後の遺言として。しかし自由の喜びに酔った若い人々は、地に倒れた古い神々を見て、たちまち彼らを忘れてしまった。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
自由の喜びに酔いしれて、あるいは酒を飲み碁を打ち、あるいは夢中になって野球をしサッカーをし、あるいはまた恋の歌を作り、そして歌った。憂いもなく愁いもなく遊んでいるうちに、しばらくの間に、古い神々は言うまでもなく、自由のために押し潰された人々のことも、その人々が遺した言葉も、すべて忘れてしまった。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
しかし神々が倒壊した時、驚いてしばらく呆然としていた年老いた人々は、一分たりともこの神々を忘れはしなかった。神々が倒れて間もなく、老人たちはこっそりとまた古い寺院に集まり、よからぬ企みを抱いて叫んだ。「倒れた神々は、修復できないわけではない。大きく開けた寺院の窓と門も、以前よりもっと堅く閉じられないわけではない。」チクタクチクタク……チクタクチクタク……
彼らは太陽の光と芳しい春の空気を呪いながら、壊れた神々を修繕し、新しい色で醜悪な色を塗り直し、再び高座に据えようとし始めた。堅く閉ざした窓の暗い重苦しい空気の中で、彼らはまた人を古い神々に献げる儀式の夢を見始めたのだ。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
しかし自由の喜びに酔った若い人々は、このことにまったく気づかなかった。あるいは酒を飲み碁を打ち、あるいは夢中になって野球をしサッカーをし、あるいはまた歌を作って歌い、ついに古い神々を壊さなければ人々は幸福になれないということを、完全に忘れ去ってしまった。チクタクチクタク……チクタクチクタク……
チクタクチクタク……チクタクチクタク……しかし、古い寺院はもうすぐ修復される。若い人々を古い神々に献げる儀式が、もうすぐ始まるのだ!……
「ちょっと待って、ちょっと待って、翁よ。少し待ってください。いわゆる古い神々とは、いったい何なのですか。そしてあの古い寺院は、どこにあるのですか。」私は途方に暮れて大声で言った。答えとして、時計がカーンと二時半を報じた。
【四】
私はベッドから起き上がった。胸が痛くて泣きたいほどで、頭はぼんやりし、耳元にはまだ叫び声が聞こえていた。古い神々を壊さなければ、人々は幸福になれないと。ああ!この不幸な生命を献げて、人類を幸福にすること、それは確かに良いことだ……私は独り言を言いながら、外に出た。北京の十一月の夜は寒い。十一月の夜の北京は静かだ。ああ!私の心も北京の十一月の夜のように冷たく、十一月の夜の北京のように静かであればよいのに!誰に向かってか、私はこう叫んだのだ!
第80節
【童話劇「桃色の雲」を読んで】
秋田雨雀
エロシェンコ君、
私はこの瞬間、君が日本に残して去った一篇の童話劇『桃色の雲』を読み終えたところだ。これはおそらく君が点字の草稿を誰かに頼んで筆記させたものだろう。早稲田の伊達君がかつて一度校読したのだと、ある人から聞いた。字は丁寧に書かれており、言葉があまりに風変わりなところも直してあり、立派な日本語になっている箇所も、二三カ所あるようだ。それ以外は、すべて自然に君の唇から溢れ出たものだ。この美しい童話を見ていると、はっきりと君の容貌、声音、そして話し癖までが思い出され、言葉では表せない懐かしさを感じる。この瞬間、私は君の戯曲を膝の上に広げ、かつて君と一緒によく散歩した共同墓地の草原に座り、広々とした初秋の空を仰いでいる。瞬きもせずに見ていると、自分の今の心情と、君の童話に登場する若い人物の心情とが理解し合い、契合して一つになったと感じるのだ。君の言う「桃色の雲」は、決して私たちの世界から離れた空想の世界ではない。君の持つ「観念の火」も、この童話劇の中で燃えている。今、日本の若い作家たちの多くは、君も読んでよく知っているように、おおかた灰色の雲の中で安逸な夢に耽っている。ちょうどこの戯曲の中の青年のように。
君の描いた一人の青年は、はじめは活発な元気を持ち、現世と闘っていこうとしていたが、いつの間にか希望と元気を喪い、灰色の伝統の壁の中に沈み込んでしまった。この青年の運命は、まさに私たち日本人の運命のようだ。日本の文化は十年ごとに時代と逆行し、しかも回を重ねるごとに偶像の影は日増しに濃くなる。少なくとも日増しに濃く見える。しかしこのことは、私たちが生まれ育ったこの国だけのことではない。この大戦の前には、あの博識な良い老人メレシコフスキーも、「ロシアには意志がなければならない」と叫んだ。そしてロシアには実際、その意志があったのだ。君がこの一見夢幻のような物語の中で、私たち日本の若者に語ろうとしているのも、この「意志を持て」ということなのだろう。
君は叫ぶ、「絶望するな、なぜなら春は決して滅びるものではないのだから」と。そうだ、確かに春は決して滅びない。
(一九二一年十一月二十一日)
第81節
【桃色の雲(三幕)】
時代
現代
場所
東京近郊の一つの村
人物
春 子 十三四歳の娘
その母 五十歳近く
夏 子 約十七歳の孤児
秋 子 約十八歳の孤児 春子の隣人
冬 子 男爵の娘(登場せず)
金 児 春子の許嫁(東京の医学校の学生)
自然母 女王 五十歳以上
冬 自然母の第一王女 約二十歳
その従者 冬 風
酿雪雲
落葉風 武装した軍士
風吹雪
秋 自然母の第二王女 約十八歳
その従者 秋 風 陰鬱な様子の男たち
灰色の雲
夏 自然母の第三王女 約十七歳
その従者 夏 風
夏 雲
龍 奴僕の様子の男たち
雷
稲 妻
春 自然母の第四王女 約十三四歳
その従者 春風 美少年の音楽家
桃色の雲 美少年
春の花卉たち
福寿草
破雪草
釣鐘草 年若い男たち
蒲公英
蘿 蔔
外に春の七草など
梅
桜
紫地丁 年若い女たち
勿忘草
紫 藤
躑 躅
雛 菊
紫雲英 少女たち
桜 草
含羞草
桃
毛 茛 少年たち
水 仙
蕨
車前草 学者
鬼灯檠 教育家
外に薔薇、風信子など
暮春の花卉たち
百 合
玉蝉花 富家のお嬢さんたち
燕子花
鈴 蘭 富家の坊ちゃん
牡 丹 富家の若旦那
夏の花卉たち
向日葵 博士
月下香
朝 顔 女の科学者
昼 顔
夕 顔
秋の花卉たち
ダリア
菊
芒 茅 中産階級の若い女たち
白 葦
桔 梗
女郎花
外に秋の七草など
萩 中産階級の若い男たち
コスモス
春の昆虫たち
蜜 蜂 働く女
胡 蜂 働く男たち
虻
夏の昆虫たち
蛍の群れ 真の芸術家
夏 蝉 似非文人
蠅 無業の女
蚊 無業の男
秋の昆虫たち
蜻 蛉 女優
金鈴子 女の音楽家
寒 蝉
蟋 蟀 男の音楽家
聒聒児
螽 斯
鶯 詩人の音楽家
鵠の群れ 芸術家
蛇の群れ 堕落した芸術家
蛙の群れ 不良少年少女たち
蜥蜴の群れ 配達夫
蝶の群れ 女優たち
春 蝉 舞姫
外に雲雀、燕など
土拨鼠の一家
祖 父
祖 母 いずれも六十歳以上
その孫 年若い理想家
舞台
始終二つの場面に分かれる
上の世界 強者の世界(太陽に照らされ、明るい)
下の世界 弱者の世界(希望に包まれてはいるが、暗い)
第82節
【第一幕】
【第一節】
(上の世界には、奥に春子・夏子・秋子の小さな田舎家風の家が見える。左手に男爵の邸宅がある。舞台の一隅に、美しい凍った池が見える。正面に桜、桃、藤などの樹木がある。所々にまだ雪がある。
下の世界は薄暗く、奥に掛けた三枚の幕がぼんやりと見える。一枚は桃色、一枚は緑、もう一枚は紫。左手に城門のようなものが見え、隅に一本の松が生えている。その木の根元に土竜の巣があり、時に微かに見え、時に暗くて見えなくなる。
下の世界から外——上の世界——へ通じる門が、はっきりと見て取れる。
開幕の時、上の世界は明るい。
冬の風が通り過ぎながら、下の世界に向かって歌う。)
小さな花よ、お眠り、おとなしく、
小さな虫よ、お眠り、春が来るまで。
おとなしく、恋しい夢を見ながら、春の夢、夏の夢、
お眠り、春が来るまで。
(風がまたその粗暴な手で木々の梢に触れて言う。)
風 おい、お前たちも眠れ。
桃 分かっている、面倒だなあ。
風 (怒って、)何だと。そんなことを言うのは許さないぞ。
桜 (桃に向かって、)ああ、あなたって困った子ね、黙っていなさい。(風に向かって、)風兄さん、そんなに怒らなくてもいいじゃありませんか。みんなちゃんと眠っていますよ。梅姉さんを御覧なさい。ぐっすり眠っているでしょう。今年の四月まで咲かないと言っているんです。姉さんが咲かないのに、私たちが先に咲けるわけがないじゃありませんか。ただ私だけは、風兄さんの優しい歌を聴くのが好きなので、ほんの少し目を覚ましただけですよ。
風 よしよし、本当に口がうまいな。だが今年はもう騙されないぞ。去年うかつにしていたおかげで、梅の奴が正月から咲き出したんだ。冬姉さんにどれほど叱られたか、お前たちは知るまい。
桜 あら、それは大変でしたね。
紫藤 本当に。
躑躅 こんなに優しい方を叱るなんて、何て乱暴な。
桜 (妹たちに、)あなたたち、静かに眠っていなさい。
風 お前たち、まだ眠っていないのか。
紫藤 私は、さっき、たった今目が覚めたところです。
躑躅 私もです。
風 早くみんな眠りなさい。冬姉さんにお前たちが起きているのを見られたら大変だ。
紫藤 はいはい、もう眠っていますよ。
躑躅 私もです。
風 今年もし言うことを聞かないと、ひどい目に遭うぞ。今年は、無理に早く咲くなんてことは、やめておいたほうがいい。
桃 なぜまたそんなことを言うんだ。まさか今年は何か特別なことでもあるのか。
風 あるかもしれないぞ。
桃 嘘だろう、そんな話で僕たちを脅かすんだ。今年だって去年と変わりはしないさ。
風 強情な奴だな。お前たちが可哀想だからこそ言っているんだ。
桜 (桃に、)ああ、黙っていなさいよ。(風に、)風兄さん、今年何か変わったことがあるんですか。教えてください。
風 それは冬の秘密だ。
桜 あら、教えてください。私、もし風兄さんが春の秘密を聞きたければ、何でもお話ししますよ。
風 桃色の雲の秘密も話してくれるか。
桜 ええ。
風 あれはいつも春に付き添っているだろう。
桜 うーん、さあどうでしょう。
風 春に最も愛されているだろう。
桜 うーん、たぶんそうでしょう。
桃 おい、姉さん、油断は禁物だぞ。
桜 大丈夫よ、あなたは黙っていなさい。
風 今年は、春が来ないかもしれないんだ。
一同の樹木 ええっ!どうして。
桃 きっと嘘だろう。
桜 黙っていなさいと言っているでしょう。(風に、)冗談ではないでしょうね。
風 本当だ。
一同の樹木 ええっ!
紫藤 怖いわ、私。
躑躅 (泣きそうな声で、)どうしたらいいの、兄さん。
桃 大丈夫だ。僕がいるから、安心しろ。
紫藤 でも春が来なかったら、私嫌よ。
躑躅 私も嫌よ。
桜 (妹たちに、)静かにしなさい。(風に、)兄さん、どうして今年に限って春が来ないのですか。
風 それは、僕にもよく分からない。とにかく、春姉さんの休んでいる宮殿が、今年は早くも冬姉さんの魔法にかかったらしい。さあ、みんな眠りなさい。冬姉さんに見つかったら大変だ。ひどい目に遭うぞ。
(風が歌う。)
おとなしく、恋しい夢を見ながら、春の夢、夏の夢。
お眠り、春が来るまで。
(皮肉に笑いながら、風が去る。)
梅 もう行ったか。じゃあ、咲こう。
桜 もう少し待ちましょうよ。私はまだ何の準備もできていないわ。それに風の話もあるし。
梅 大丈夫だよ、私は咲くぞ。あなたはどうする。
桃 姉さんたちが咲くなら、僕も当然咲くさ。
紫藤 私は怖いわ。
躑躅 私も怖いわ。
桃 怖がることはない、兄さんについて咲けば大丈夫だ。
紫藤 でも兄さんが早く咲きすぎると、私は寒いのよ。
躑躅 それに春が来なかったら、どうするの。
桃 大丈夫だ、自然の母がちゃんと取り計らってくれるさ、安心して出ておいで。
桜 自然の母が本当にどうにかしてくれるなら安心ですけど……でも年を取った方ですもの。頼りすぎるのは危険よ。それに風の話も気がかりだし。
梅 それもそうだ。もう少しだけ待とう。
桃 静かに!誰か来たようだ。
(樹木たちは皆眠る。春子が縁側に現れる。)
【第二節】
(春子が縁側に立ち、寂しそうに一人で歌う。)
美しい花よ、お眠り、おとなしく、
美しい虫よ、お眠り、ずっとこのまま。
(春子がぼんやりと立って下を見ている。夏子と秋子が同時に縁側に現れる。)
夏子 あら、外は寒いわ。
秋子 本当ね。(春子に気づく。挨拶する。)春さん、今日は。
春子 今日は。
夏子 春さんはどうかしたの。
春子 いいえ、何でもありません。
夏子 でも、ぼんやり立っているじゃないの。
春子 あの、寂しくて……
夏子 何が寂しいの。
春子 いえ、別にどうということでは……
秋子 金さんからまだ便りがないでしょう。
春子 (沈んだ調子で、)ええ。
夏子 金さんはいったいどうしたのかしら。
秋子 金さんはね、新しい友達ができたんですって。しかも昼も夜もその新しい友達のことばかり考えているんですって。ねえ、春さん。
春子 ええ。
秋子 (なおも皮肉っぽい口調で、)金さんはね、その友達と死ぬまで一緒にいたいんですって。そうでしょう、春さん。
春子 ええ……
夏子 よく合うお友達なの。
秋子 それはよく合うのよ、私たちよりずっと合うのよ。そうでしょう、春さん。
春子 そうかもしれません。
夏子 それはいいことじゃないの。
秋子 もちろんいいことよ、誰も悪いなんて言っていないわ。でもね、金さんとこのお友達は、一緒に遊ぶのはもちろん、会うことさえ容易じゃないんですって、だから悲観しているんですって。そうでしょう、春さん。
春子 そう聞いています。
夏子 どうして会えないの。
秋子 どうしてかしら、何か訳があるんでしょう。ねえ、春さん。
春子 ええ、そうでしょう。
夏子 そのお友達も、あの男爵の娘の冬さんみたいにお高くとまっているのかしら。
秋子 そうかもしれないわ。ねえ、春さん。
春子 ええ……
夏子 でも、あの男爵の娘みたいにお高くとまっている人は、そう多くはないわよ。
秋子 多かったら大変よ、冬さん一人で十分だわ。
夏子 でも金さんは、ああいう見栄を張る連中や金持ちは大嫌いだって言っていたわ。
秋子 あれは昔のことよ。
夏子 金さん自身、社会主義者だって言っていたじゃないの。
春子 そうなの。
秋子 あれは以前のことよ。そんなことはいいじゃないの。あの男爵の娘の冬さんは東京に行ったんですって。春さん、知ってる。
春子 ええ。
秋子 何で東京に行ったのかしら。
春子 知りません。
秋子 夏さんは知ってる。
夏子 よく知らないわ。田舎が寂しすぎて、友達も一人もいないからかしら。
秋子 そうじゃないのよ。東京に行って、お父さんに婿を探してもらうんですって。冬さんはもう二十歳になったんですって。
夏子 あら。
第83節
【第三幕】
【第一節】
(場面は前と同じ。桜、桃、その他さまざまな花が咲いている。下の世界では、晩春の花と秋の花、夏の花が、皆元の場所で眠っている。夏と秋の昆虫たちも花の下で眠っている。前の場では暗く見えた門が、今度ははっきり見える。門は古城の様子を呈している。上の世界には太陽が差し、青空に美しい虹が、遠く客席を離れて現れている。池には白い鵠が泳いでいる。花の間では春の虫たちが思うままに踊っている。どこからともなく水車の音が聞こえてくる。小鳥の鳴き声も聞こえる。蛙と蜥蜴が隅で二列に分かれ、馬跳びの遊びをしながら騒いでいる。ただ雨蛙だけがぼんやりと立って、遠く虹の橋を眺めている。
花の歌が聞こえる。)
誰の根が喜ばぬだろう、あの暖かい春の日に。
誰の花が楽しまぬだろう、あの美しい青空に。
誰の胸が恋しがらぬだろう、あの七色の虹の橋に。
(蛙たちが跳びながら歌う。)
太陽が輝く日、春の日、
仲良しの友と一緒に跳ぶのは楽しい。
(合唱。)
一緒に跳ばないのは、もっと楽しい。
(昆虫たちが歌う。)
虹の橋は美しい。
虹の橋は恋しい。
虹の橋の上に登りたい。
虹の橋の上を渡りたい。
金線蛙 ああ、美しい橋だなあ。
一同 本当に美しいわ。
蜥蜴 あそこまで跳んでみよう、どっちの組が先に着くか。
一同 跳ぼう、跳ぼう。
蟇蛙 あんな所まで、跳んで行けるのか。
蜥蜴 そう遠くはないよ。
緑蜥蜴 すぐそこだ。
一同 さあ、跳ぼう。
蛙の群 跳んでもいいよ。一、二、三!(皆跳ぶ。)
雨蛙 あちら、あちら、あの橋のあちら側に、幸福があるんだ。
(昆虫と花たちが一斉に歌う。)
あの橋の向こうに美しい国がある、
恋しい虹の国。
蝿 僕も本当はあちらに飛んでいきたいけど……
春蝉 みんなで一緒に飛んでみよう。
蜜蜂 飛んでみるのもいいけど、蜜作りが忙しくて。
胡蜂 私も蜜の仕事で忙しいのよ。
蝿 僕は幸い労働者じゃないけど、自分であちらに飛んでいくのも気が進まないな。馬がいれば乗って行ってもいいんだけど……
金色の蝶 私たちも労働者じゃないけど、踊りの練習をしなくちゃ。
銀色の蝶 芸術家ですもの。
春蝉 まったくだ、僕たちみたいな芸術家には、虹の国へ行く暇なんかないよ。
蛇 見る暇くらいならあるがね。
蝿 いわゆる芸術というものは、誰にでもできるものじゃないからね。
一同 もちろんさ。
金線蛙 (列を離れて虫を追いかけながら、)芸術家の小僧たち、虹の国の議論ばかりする暇は随分あるようだな。
虫たち ああ、危ない、危ない。(逃げる。)
蜥蜴 僕たちの勝ちだ、勝った。
蛙 嘘だ。
金線蛙 休んでから、もう一回やろう。
一同 よし、もう一回やろう。
(蜥蜴の群がみな気持ちよく座る。昆虫たちがまた次第に現れて歌う。)
君と一緒に、あの橋の上を渡りたい、
君と一緒に、あの国に住みたい。
雨蛙 誰か僕をあの国まで連れて行ってくれないだろうか。
金線蛙 その一件だけは、ご辞退申し上げる。
蟇蛙 私もご遠慮する。
雨蛙 お前たちに連れて行ってほしいなんて思っていないよ。
金線蛙 ああ、ありがたい。
雨蛙 僕をあそこに連れて行ってくれるのは、土竜だけだ。
蟇蛙 おお、じゃああいつに任せよう。
青蛙 ああ、疲れた、疲れた。
(金線蛙が嗅ぎながら歌う。)
仲良しの友とおしゃべりするのは楽しいけど、
(合唱。)
しゃべらないのは、もっと楽しい。
(雨蛙も歌う。)
私の人よ、恋しい私の人よ。
何を待って来ないの。
恋の切なさが分からないの、
胸の苦しみを知らないの。
早く来て、待っている、
私の人よ、恋しい。
土竜 (出てきて、)来た、来た。(しかし突然日光に目を眩まされ、竦然と立ち尽くす。)
雨蛙 早く、早く、こっちへおいで。どんなに待ったか知れやしない。
(土竜は手探りしながら少し前に進む。)
雨蛙 早くこっちに来て、この青空を見てごらん。
(そして歌う。)
虹の橋は美しい。
虹の国は恋しい。
土竜 僕には何も見えない。
(雨蛙が歌う。)
あの橋の上を渡りたい。
あの橋の上を渡りたい。
雨蛙 (土竜に向かって、)君と一緒に行くんだよ。
土竜 でも僕には何も見えない。
(合唱。)
あの橋の向こうに美しい国がある、
恋しい虹の国。
雨蛙 僕はあんな国に住みたいんだ、君と一緒に。
土竜 (失望して、)でも僕には何も見えない、何にも……
雨蛙 (驚いて、)何にも。
土竜 何にも!
雨蛙 あの青空さえも。
土竜 何にも。
雨蛙 あの虹の橋さえも。
土竜 何にも。僕はこの世界では盲なんだ。
雨蛙 嘘だ、嘘だ、こんな明るい昼間に何も見えないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。冗談を言っているんだろう。さあ、目を開けて見てごらん。
土竜 駄目なんだ、何も見えない。
(合唱。)
君と一緒に、あの橋の上を渡りたい、
君と一緒に、あの国に住みたい。
雨蛙 じゃあ、僕を虹の国に連れて行ってくれないのか。
土竜 連れて行きたくないわけじゃない、僕にはできないんだ。どこへでも連れて行きたい、でも今はできない。今は何も見えないんだ。もしこの明るい世界に何年も住み続ければ、僕の目もこの光に慣れるだろうと信じてはいるけど、今は駄目だ。
(合唱。)
虹の橋は美しい。
虹の国は恋しい。
雨蛙 ああ、可哀想に、僕が間違っていた。君だけが強くて、簡単に虹の国に連れて行ってくれると思っていた。長い冬の間、この一つのことだけを夢見、この一つのことだけを望んで生きてきたのに。
(合唱。)
あの橋の上に登りたい、
あの橋の上に登りたい。
雨蛙 しかし何もかも駄目だ。君が盲だとは思いもしなかった。盲なのに、なぜこの世界に来たんだ。早く暗闇の世界に帰れ。明るい世界は盲の住む世界ではないんだ。
(合唱。)
あの橋の向こうに美しい国が……
土竜 もう少し待ってくれ、もう少しだけ。
(蛇の群が入ってくる。)
青蛇 虹の橋に登りたい者は、みなこちらへおいで。虹の国に行きたい者は、みなこちらへ。
蛙の群 蛇だ、蛇だ、危ない。(逃げようとする。)
青蛇 安心しろ、普通の蛇じゃない。みな学者だ。みな全く私欲のない蛇だ。鳥や蝦蟇を食べない、菜食主義で、草しか食べない。
蛙の群 どうだか……
金線蛙 信用できないぞ。
蟇蛙 科学者の中にも信用ならない奴がいるからな。
紫すみれ 草だけ食べる蛇の学者だなんて、困ったものだわ。
花たち一同 そうよ、本当に。
蒲公英 牛や馬だけでも十分迷惑しているのに。
菜の花 おまけに菜食主義は人間にまでどんどん広まっているし……
車前草 蛇の学者にまで伝染したらしいわ。
花たち一同 困ったわ、困ったわ。
青蛇 蛇の学者たちは、虹の国を慕う大衆を哀れに思い、あの国への道案内を決心したのだ。
金線蛙 虹の国を慕う連中を食料にするつもりじゃないだろうな。
雨蛙 でも、みんな蛙を食べない主義だって言ったじゃないか。
金線蛙 学者の言うことが当てになるか。
雨蛙 僕は行く。連れて行ってくれ。
他の蛙 僕も行く、僕も行く。
金線蛙 僕は遠慮しておくよ。
土竜 雨蛙、僕も一緒に連れて行ってくれ。
雨蛙 つまり僕に手を引いて行けというのか。
土竜 (うつむいて、)うん。
雨蛙 永遠にこのまま、死ぬまで手を引いて歩けと言うのか。
(土竜は黙っている。)
雨蛙 それが僕にできると思うのか。僕にそんな力があると思うのか。
第84節
[1] ラージャ(Rajah)は東インドの土着の侯王にして、旧訳の曷羅は即ちこれなり。
[2] これはいわゆる「サティー」であり、男が死んだ後、寡婦を遺体と共に焼くもので、インドの旧習慣である。インドが英国の属領となった後、英国人はかつてこの弊俗を禁止したが、彼らは依然として極力秘密裡に行い、現在に至るまでなおそうである。
[3] 此れは天と翻す。後文にまた摩呵提婆あり、此れは大天と云う。
第85節
【第一 創作論】
【一 二つの力】
鉄と石が打ち合う所に火花が散り、奔流が磐石に堰き止められた所に飛沫が虹彩を現すように、二つの力がぶつかり合い、かくして美しく絢爛たる人生の万華鏡、生活のさまざまな相が展開される。「No struggle, no drama」とは、むろんブリュヌティエール(F. Brunetière)が戯曲を説明するために言った言葉であるが、これは実は戯曲に限ったことではない。もし二つの力が相触れ相撃つ葛藤がなければ、我々の生活、我々の存在は、根本において意味を失ってしまう。まさに生の苦悶があり、また戦いの苦痛があればこそ、人生には生きる甲斐がある。権威に服従し、因襲に束縛され、羊のように従順に酔生夢死する輩、また利害の打算に忙殺され、もっぱら物欲の指図を受け、人としての全的存在を忘却した庸流の感じ得ぬ、味わい得ぬ心境——人生の深い興趣は、要するに強大な二つの力の衝突から生ずる苦悶懊悩の所産にほかならない。私はこの一点に文芸の基礎を置き、解釈を試みたいと思う。いわゆる二つの力の衝突とは——
【二 創造生活の欲求】
あの閃電のような、奔流のような、突如として、しかもほとんど無軌道に突進してやまない生命の力を、人間生活の根本と見るのは、多くの近代の思想家の一致するところである。変化流動こそ現実であるとして「創造的進化」を説くベルグソン(H. Bergson)の哲学は言うまでもなく、ショーペンハウアー(A. Schopenhauer)の意志説、ニーチェ(F. Nietzsche)の本能論・超人説、バーナード・ショー(Bernard Shaw)の戯曲『人と超人』(Man and Superman)に表現された「生命力」、カーペンター(E. Carpenter)の人間生命の永遠不滅の創造性を認めた「宇宙的自我」説、近くはラッセル(B. Russell)が『社会改造の根本義』(Principles of Social Reconstruction)で述べた衝動説——これらすべてに「生命の力」の意義を窺い知ることができるのではないか。
凝固と停滞を嫌い、妥協と降伏を避け、ただ自由と解放を求めてやまない生命の力は、意識的にせよ無意識的にせよ、絶えず内部から我々人類の心胸を熱くし、その深奥で烈火のように燃えている。この炎々たる火焔を外から幾重にも覆い隠し、巧みに全体を運転させる仕組みが、すなわち我々の外的生活、経済生活であり、「社会」と称する一つの有機体の中で一分子として機能する機制(mechanism)の生活である。比喩を用いれば、生命の力とは、機関車の罐の中にある猛烈な爆発性・危険性・破壊性・突進性を持つ蒸気力のようなものである。機械の各部分が外からこの力を圧制し束縛しながら、同時にこの力によってすべての車輪を運行させる。かくして機関車は所要の速度で、一定の軌道上を前進する。この蒸気力の本質は、利害の関係を絶し、道徳と法則の軌道を離れ、ほとんど無軌道にただ突進し、ただ跳躍しようとする生命力にほかならない。換言すれば、内部から発する蒸気力の本質的要求と、機械の他の部分の本質的要求とは、明らかに正反対の方向を取っている。機関車の内部生命の蒸気力は爆発しよう、突進しよう、自由と解放を得ようとする絶えざる傾向を持ち、これに対して機械の外的部分は巧みにこの力を利用し、圧制し束縛することによって、かえって本来重力のために停止しようとする車輪を、この力で軌道上に走らせるのである。
我々の生命は、本来天地万象の間に遍在する普遍的な生命である。しかしこの生命の力がある一個人に宿り、その「人」を経て顕現する時、これは個性となって活躍する。内に燃える生命の力が個性として発揮される時、すなわち人々が内的要求に促されて自己の個性を表現しようとする時、そこに真の創造的生活がある。だから自己の生命の表現は個性の表現であり、個性の表現は創造的生活であるとも言えよう。人類が真の意味において「生きている」こと、換言すれば「生の歓び」(joy of life)は、この個性の表現、創造的生活の中にこそ見出される。もし個人がすべて各自の個性を完全に否定し、放棄し、抑圧したならば、一律に造られた泥人形を並べたようなもので、同じものをそれほど多く生かしておく必要はない。社会全体から見ても、個人がそれぞれ十分に自己の個性を発揮しなければ、真の文化生活は成り立たない。これはすでに多くの人々が語り古した言葉である。
このような意味における生命力の発動、すなわち個性表現の内的欲求は、我々の霊と肉の両面に、さまざまな生活現象として顕現する。ある時は本能生活として、ある時は遊戯衝動として、あるいは強烈な信念として、あるいは高遠な理想として、学徒の知識欲ともなり、英雄の征服欲望ともなる。これが哲人の思想活動、詩人の情熱・感激・憧憬として現れる時、最も強く最も深く人を感動させる。そしてこのような生命力の顕現は、利害の念頭を超絶し、善悪邪正の評価を離れ、道徳の批評と因襲の束縛を脱して、一意ただ飛躍と突進をのみ志向する傾向を帯びている。この点が特徴である。
【三 強制圧抑の力】
しかし我々人類の生活は、単純な一本道ではあり得ない。自由奔放な生命力を存分に飛躍させ、思いのままに個性を発揮しようとすれば、我々の社会生活はあまりに複雑であり、人はその本性において、内部にあまりに多くの矛盾を含んでいる。
我々は「社会」と称する一つの大きな有機体の中で、一分子として生活するためには、否応なくその強大な機制に服従せざるを得ない。自己の内面から迫り来る個性の要求、すなわち創造的欲望の上に、常に何らかの圧迫と強制を甘受せざるを得ないのである。とりわけ近代社会のように、制度、法律、軍備、警察などの圧制機関が完備し、他方では「生活難」の脅迫がある以上、我々は意識的にせよ無意識的にせよ、この圧抑から脱することが難しい。個人の自由を削減する国家至上主義の前に頭を垂れ、創造的生活を抹殺する資本万能主義の膝下に跪くことを、日常茶飯事としなければ、実情としては一日たりとも生きてはゆけない。
内には動こうとする個性表現の欲望があり、これと正反対に、外には社会生活の束縛と強制が絶えず圧迫している。この二つの力の間で苦悩しもがく状態が、すなわち人類の生活である。これは今日の労働——筋肉労働のみならず、口舌の労働、精神の労働、あらゆる労働の状態を一考すれば自ずと明らかになる。労働は快楽だと言うのは、もう昔の話だ。規則や法規に縛られず、「生活難」に追い立てられず、資本主義や機械万能主義の圧迫を受けず、各人が各自自由に個性を発揮する創造的生活としての労働ができるなどというのは、過去の上古の世でなければ、一部の社会主義論者の夢見るユートピアの話だ。花瓶一つ作るにも、短刀一振り鍛えるにも、自分の心血を注ぎ、自分の生命の力を捧げ、神に仕えるような敬虔な心意をもって仕事ができる社会状態は、今日の現実においては絶対に不可能なことである。
今日の現実生活から言えば、労働は苦患である。個人から自由な創造的欲望を奪い、圧迫強制の下で身動きの取れない生活を送らせるのが労働である。今やもう人々は、生活難の脅威を武器とする機械と法則と因襲の強力の前に、まず人間らしい個性的生活を捨て、多少とも法則と機械の奴隷にならねば、いやそれどころか自ら機械の妖精にでもならねば、棲息できない状態になっている。八字髭を生やしたいわゆる教育家と称する教育機械もいれば、銀行や会社には、なかなか瀟洒に装った計算機械も少なくない。見渡す限り、労働を享楽とする人々はほとんど皆無である。これが今日の状況だ。これでは「生の歓び」をどう見出すことができようか。
人々がただ外から迫り来る力に動かされる機械の妖精と化したならば、それが人としての最大の苦痛であり、逆にもし自己の個性の内的要求に促された労働であれば、それは常に快楽であり悦びである。同じ石を運び木を植えるといった庭造りの労働でも、雇主の命令を受け、あるいは生活難の脅威に迫られ、工賃のために仕事をする庭師にとっては苦痛である。しかし同じことを、金持ちの隠居が自分の内心の要求から自ら行う場合には、それは明らかに快楽であり、気晴らしである。このように労働と快楽の間には、仕事の本質的な差異はない。換言すれば、労働そのものに苦患があるのではなく、苦患を与えるのは結局、外から迫り来る要求、すなわち強制圧抑の力にほかならないのである。
第86節
【第二 鑑賞論】
【一 生命の共感】
以上、私は創作家の側から文芸を論じてきた。では、鑑賞者すなわち読者・観客の側から見て、無意識の心理の深層に深く潜む苦悶の夢あるいは象徴が文芸であることを、どのように説明するか。
この点を解釈するために、まず芸術の鑑賞者もまた一種の創作家であることを説明し、創作と鑑賞の関係を明らかにしなければならない。
およそ文芸の創作は、その根本において、前述の「夢」と同一のものである。しかしその一種は、夢よりも多くの現実性と合理性を持たねばならず、夢のように支離滅裂で散漫ではなく、厳然と統一された事象であり、また現実の再現でもある。夢が無意識の心理の底に潜む精神的傷害に基づくように、文芸作品は作家の生活内容の深層に潜む人間苦に基づく。だから作品に描写された感覚的・具象的な事実を通じて表現されるものは、すなわちさらに内面の作家の個性、生命、心、思想、情調、心気にほかならない。換言すれば、あの茫然として捕捉し難い無形無色無臭無声のものが、有形有色有臭有声の具象的な人物、事件、風景、その他さまざまな事物を素材として表出される。その具象的・感覚的なものが、すなわち象徴と呼ばれるものである。
だから象徴とは、暗示であり、刺戟である。作家の内部生命の底に沈むある種のものを、鑑賞者に伝える媒介物にほかならない。
生命とは、宇宙人生に遍在する大生命であり、これが個人を経て芸術の個性として表現されるがゆえに、その個性の別の半面には常に大きな普遍性がなければならない。すなわち横目竪鼻の人間である以上、時の古今を問わず、地の東西を問わず、誰にでも共通の人性がある。あるいは同時代に生き、共に苦悩に満ちた現代の生活を送っている以上、西洋人であれ日本人であれ、社会政治上の同様の問題に焦慮させられる。あるいは同じ国同じ時代同じ民族として生活している以上、誰の心中にも共通の思想がある。そうした生命の内容の中に、人の普遍性・共通性がある。換言すれば、人と人との間には、生命の共感を呼び起こすに足る共通の内容が存在するのである。心理学者のいわゆる「無意識」「前意識」「意識」などの総量を、私の言葉で言えば、生命の内容である。作家と読者の生命内容に共通性・共感性があるからこそ、象徴という刺戟性・暗示性を持つ媒介物の作用によって共鳴が生ずる。かくして芸術の鑑賞が成立するのである。
生命の内容を別の言葉で言えば、体験の世界である。ここでいう体験(Erlebnis)とは、この人がかつて深く感じたこと、考えたこと、あるいは見たこと、聞いたこと、行ったことのすべてを指す。すなわち外的・内的を含め、この人がかつて経験した事柄の総量である。だから芸術の鑑賞は、作家と読者の間の体験の共通性・共感性を基礎として成立する。すなわち作家と読者の「無意識」「前意識」「意識」の中に、双方に共通し共感し得るものが存在する。作家は象徴という媒介物の強い刺戟力によって読者に暗示を与えさえすれば、たちまちこれに応じて共鳴し、読者の胸中にも同じ生命の火が燃え上がる。その刺戟を受けるだけで、読者もまた自ら燃焼する。これは作家の心の深層に深く沈む苦悶が、すなわち読者の心中にも本来あった経験だからである。比喩を用いれば、木材に可燃性があるからこそ、象徴に等しい火柴で他のものからここに点火することができる。何の可燃性もない石の上には火をつけられないのと同様に、作家と共通し共感し得る生命を持たない俗悪無趣味・無理解の低級な読者に対しては、いかなる大著・傑作もいかなる銘感も与えることができず、いかなる大天才・大作家も、こうした俗漢には手の施しようがない。要するに芸術上、こうした俗漢は無縁の衆生であり、済度し難い輩である。こうした場合、鑑賞は全く成立しない。
これはずいぶん昔の古い話だが、かつて文教の要路にある人物で、頭が古く脈搏の減じたらしい者が、当時文壇を風靡した新文芸の作品を読んだ後に言った言葉は、甚だ頓狂なものだった。「冗長にあんなつまらないことを書いて、結末はまるで騙されたような無聊なものに過ぎない。」青年たちが何が面白くてあんな小説を読むのかと怪しんだとも聞く。こうした老人——たとえ年が若くても、こうした老人は世に多い——と青年とは、同じ時代同じ社会に生きていても、体験の内容が全く異なり、共通し共感し得る生活内容が全くない。鑑賞が成立し得る根本が欠けているのである。
もちろん体験の世界は人によって異なる。だから文芸の鑑賞は、読者と作家の双方の体験が近似しており、かつ深さ・広さ・大きさ・高さにおいても双方が類似していることが、唯一最大の要件である。換言すれば、両者の生活内容が質的にも量的にも近似すればするほど作品は完全に領会され、反対の場合には鑑賞は全く成立しない。
大芸術家の持つ生活内容は、含むところが非常に大きく、また非常に広範である。コールリッジ(S. T. Coleridge)がシェイクスピアを評して「our myriad-minded Shakespeare」と言ったのはこの故である。時代から言えば三百年前のエリザベス朝の作家であり、地方から言えば遥かなイギリスという外国人の著作でありながら、その作品には時間・場所の区別を超越し、百世の人心を風動し千里の外に声が聞こえるものが含まれている。たとえば彼の描いた女性を見ても、ジュリエット、オフィーリア、ポーシャ、ロザリンド、クレオパトラといった女性たちは、シェリダン(R. B. Sheridan)の描く十八世紀式の女性や、ディケンズ(Ch. Dickens)やサッカレー(W. M. Thackeray)の小説に見える女性に比べて、はるかに近代的で「新派」である。ベン・ジョンソン(Ben Jonson)は彼を讃美して言った、"He was not of an age but for all time."まことに、シェイクスピアのように自由で大きな創造的生活を営むことができるならば、それはもう天地自然の創造者たる神に近い境地に達したと言えよう。この言葉は、ある程度ゲーテやダンテにも当てはまる。
しかし非常に超越した特異な天才ともなると、その人の生活内容は同時代の人々と全く隔絶し、遥か先へ進んでしまうことが往々にしてある。十八世紀に生まれたブレイク(W. Blake)の神秘思想は、その詩集が出てからほぼ一世紀を隔て、前世紀末にヨーロッパの思想界に神秘象徴主義の潮流が現れて初めて、人心に反響を呼び起こした。初期のブラウニングやスウィンバーン(A. Ch. Swinburne)が全く世に知られず、当時の名声が小詩人にも及ばなかったのは、すでに同時代の人々の生活内容と共通し共感し得るものが早くもなくなるほど進歩してしまったからである。いわゆる時代意識なるものを十年、二十年、いやブレイクのごときは百年も先に進んでしまったからである。当時の人々がまだ内的生活において感じていなかった「生の苦痛」に早くも悩み、来世の夢を見ていたからである。
共通の体験さえあれば、遥か遠いノルウェーのイプセンの著作でも、同じく近代生活の経験から生まれた産物であるがゆえに、我々の心底にも反響がある。数千年前のギリシア人ホメロス(Homeros)の書いたトロイア戦争やヘレン(Hellen)、アキレス(Achilles)の物語も、その中に共通の人情があるがゆえに、二十世紀の日本人が読んでもなお心を動かされる。しかし時代や場所のあまりに異なる芸術品を鑑賞するには、若干の準備が必要で、旅行や学問などの力を借り、作者の環境・閲歴、その時代の風俗習慣などを調査して、読者自身の体験の不足を補うか、あるいは自分の努力によって、たとえわずかでもその時代の雰囲気の中に生きることができなければならない。だから特にこうした努力をせず、従来こうした研究をしたことのない人々にとって、ホメロスやダンテを読むよりも、さらにそれ以下であっても、やはり近代の作家の作品のほうが面白く、近代の中でも外国のものより本国の作家の作品のほうが興味深いのは、この理由による。また比較的多数の人々にとって、共通の浅薄凡庸な経験を描写する作家のほうが、高遠複雑な瞑想的で深い経験を表出する作家よりも多くの読者を打つのも、同じ理由に基づく。ロングフェロー(H. W. Longfellow)やバーンズ(R. Burns)の詩歌が、ブラウニングやブレイクのそれよりも読む人がはるかに多いのも、この故である。
第87節
【第三 文芸の根本問題に関する考察】
【一 予言者としての詩人】
以上の所論を基礎として実際に応用すれば、文芸上の一般的な根本問題を解決できると私は信ずる。ここで多くの問題を一々列挙する煩を避け、文学研究者が今なお疑問とする幾つかの問題を取り上げ、私の所論の応用の実例を示すにとどめ、残りは読者自身の考察と批判に委ねたい。本章で述べることは、以上述べた私の《創作論》と《批評論》から当然引き出される系論(corollary)として見ることも、また注疏として見ることもできる。
文芸とは、生命力が絶対の自由をもって表現される唯一の時である。より高く、より大きく、より深い生活へ飛び込もうとする創造の欲求が、いかなる圧抑拘束も受けずに表現されるがゆえに、常に偉大な未来を暗示する。過去から現在まで絶え間なく続く生命の流れは、ひとり文芸作品においてのみ、他では得られない自由な飛躍を展開できるがゆえに、人類の他のあらゆる活動——これらはすべて周囲からさまざまな圧抑を受けている——よりもはるかに先へ、十歩、二十歩と突き進み、いわゆる「精神的冒険」(spiritual adventure)を行うことができる。常識と物質、法則、因襲、形式の拘束を超越して、ここに常に新しい世界が発見され、創造される。政治上・経済上・社会上にまだ出現していないことが、文芸作品の中にはすでに暗示され啓示されている所以は、まさにここにある。
カーライル(Th. Carlyle)はその《英雄崇拝論》(On Heroes, Hero-Worship and the Heroic in History)と《バーンズ論》(An Essay on Burns)の中で、ラテン語のVatesという語がもともとは予言者の意味であり、後に転じて詩人の意味にも用いられるようになったことを指摘した。詩人とは、まず霊感を受け、予言者のように歌う人である。すなわち神託を伝え、常人がまだ感じ得ないことを先に感じ取り、一代の民衆に宣示する人である。イスラエルの民に神意を伝えた古代の予言者と同じ人物だという意味である。ローマ人がさらにこの語を転用して教師の意味にも用いた例は、一層興味深い。詩人——予言者——教師、この三つの人物がすべてVatesという一語で言い表されるところに、文芸家の偉大な使命が見て取れる。
文芸上の天才は、飛躍突進する「精神的冒険者」である。しかし一人の英雄の事業の背後に多くの無名の英雄の努力があるように、大芸術家の背後にも「時代」があり「社会」があり「思潮」がある。文芸が極限まで個性の表現であり、その個性の別の半面に普遍性を帯びた普遍的な生命があり、この生命が同時代あるいは同社会あるいは同民族のすべての人々に遍在するならば、詩人自らが先駆者として表現するものに、一代の民心の帰趨が窺え、時代精神の所在が暗示されるのは、まさに当然の結果である。より高くより大きな生活の可能性を暗示するという点において、文芸家はペーターが言うように「文化の先駆者」であるべきなのだ。
およそ一つの時代、一つの社会には、その時代の生命、その社会の生命が絶え間なく流動し変化し続けている。これがすなわち思潮の流れであり、時代精神の変遷である。これは時運の大勢に促され、随所に発動する力である。初めはほとんど何の整然たる形も持たず、体系も具えず、ただ茫漠として捉え難い生命力に過ぎない。芸術家が表現するのはこの生命力であり、固定し凝結した思想ではなく、概念でもなく、まして何々主義と称し得る性質のものでは断じてない。いかに圧抑を加えようとも抑え切れず、行くべき所に行き着かねば止まない生命力の具象的表現が、文芸作品なのである。一代の民衆の心胸の深処に潜み、無意識の心理の陰影に隠れ、まだ不安焦燥の心に促されるのみで、誰もこれを捕捉し表現することができない時、芸術家は特異な天才の力をもってこれに表現を与え、象徴化して「夢」の形にする。いち早くこれを把握し、表現し、反映したものが文芸作品である。もしこれがすでに一つの体系ある思想や観念に編まれれば哲学となり学説となる。またこの思想や学説が実行の世界に実現された時には政治運動となり社会運動となり、芸術の圏外へ出る。こうした現象は過去の文芸史が幾度も証明した事実で、フランス革命前にはルソー(J. J. Rousseau)らのロマン主義文学がその先駆であった。さらに近い例では、ヴィクトリア朝の保守的・貴族的なイギリスが現在の民主的・社会主義的なイギリスへ転化する前に、前世紀末にはすでにショーやウェルズの因襲打破の文学が起こり、これよりさらに早くフランス頽唐派の文学も頑固なイギリスに輸入され、近代イギリスの激変は早くも明々白々と詩文の上に現れていた。日本の例を見ても同様で、頼山陽の純文芸作品《日本外史》という叙事詩は明治維新の先駆であり、日露戦後に興った自然主義文学運動は最近の民治運動と因襲打破・社会改造運動の先駆であったことは、疑う余地のない文明史的事実である。また文芸作品について言えば、最も原始的で単純な童謡や流行歌の類は民衆の自然な声であり、時勢を洞察し大勢の潜移黙化を暗示することは、外国の古代にとどまらず日本の歴史上にも屡々見られる現象である。
アメリカの詩人の句に曰く、
First from the people's heart must spring
The passions which he learns to sing;
They are the wind, the harp is he,
To voice their fitful melody.
——B. Taylor, Amran's Wooing.
先ず民衆の心の奥から
彼が歌おうとする情熱が湧き出でねばならぬ。
それ(情熱)は風であり、箜篌は彼であり、
彼らの(情熱の)移ろいゆく妙音を響かせる。
——テイラー「アムランの求婚」
情熱——これがまず民衆の心の深処に萌し、これに表現を与えるのが文芸家である。どこから来るとも知れぬ風を弦の上に捉え、殊勝な妙音を発するエオリアン・ライア(風籟琴)のように、詩人もまた一代の民心の動きの機微を捉え、これに芸術的表現を与える。天才の鋭敏な感性(sensibility)が、「目に分明には見えない」民衆の無意識心理の内容をいち早く掴み取り、表現するのである。このような意味において、十九世紀初期のロマン的時代にシェリーやバイロンに見られた革命思想は、すべての近代史の予言であり、これ以後のカーライル、トルストイ、イプセン、メーテルリンク、ブラウニングもまた新時代の予言者であった。
因襲道徳・法則・常識などの立脚点から見れば、文芸作品が横暴で不適切に見える時もあろう。しかしまさにこの一切を超越した純一無雑の創造的生活の所産であるという点にこそ、文芸の本質がある。天馬(ペガサス)のごとき天才の飛躍のうちにこそ、偉大な意義が見出される。
予言者がしばしば故国に容れられないように、詩人はおおかたその時代の先駆者であるがゆえに、迫害され冷遇される例は非常に多い。ブレイクが百年後にようやく世に知られた例は最も顕著な一つであるが、シェリー、スウィンバーン、ブラウニング、またイプセンのような革命的・反抗的態度の詩人的予言者たちが、その前半生、あるいは全生涯を不遇のうちに送った例は枚挙に暇がない。フローベール(G. Flaubert)でさえ生前全く歓迎されなかった事実、楽聖ワーグナーがバイエルン王ルートヴィヒの知遇を得るまで長い漂泊落魄の生涯を送ったことなどは、今日思い起こしても不可解なほどである。
古人嘗て曰く、「民の声は神の声なり」(Vox populi, vox Dei.)と。神の声を伝える者、神に代わって叫ぶ者——それは予言者であり、詩人である。しかし神とかインスピレーション(霊感)とかいうものは、人類の外には存在しない。実はこれは民衆の声にほかならないのである。
第88節
【第四 文学の起源】
【一 祈りと労働】
あらゆるものの発達は、単純から複雑へと進む。だから或る事物の本質を明らかにしようとすれば、まずその本源に遡り、最も真純で単純な原始時代の状態を回顧すべきである。
生きているということは、すなわち求めているということである。人類の生活には、必ず何らかの欠陥と不満がある。したがってその欠陥と不満を埋め合わせようとする方法を求める欲求もまた、生命の創造性と見ることができる。僧院に入り、もっぱら禁欲生活を送る修道者は、一見すべての欲求と欲望を断ち切ったように見えるが、実はそうではない。彼らはより大きな欲望に動かされ、現世的な肉欲や物欲から離脱することで、真の自由と解放を求め、霊的に具足円満の超然たる新しい生活の境地に入ろうとしているのである。極端と極端はしばしば似通うもので、生の欲求が極度に強烈になった者は、生命そのものを絶つ自殺という行為によって、この欲求を満足させることさえあるではないか。
欠陥と不満とは、生命の力が内的にも外的にも圧抑阻止されている状態であり、これがすなわち人類の懊悩たる苦悶である。個人の生活は欲望と満足の無限の連続であり、一つの満足を得ればその次の新たな欲望が生まれ、次から次へと限りなく続いていく。人類の歴史もまた同様で、原始時代から今日に至るまで、いや更に未来永劫にわたって、この状態は永久に反復される。
圧抑が生む苦悶を脱し、伸びやかに自由な生命の表現を求め、「生の歓び」を得るために、原始時代の人類は何をしたのか。文明の進歩とともに我々の生活は精神面でも物質面でも複雑さを増し、現代においても未来においても、変化の増加とともにますます複雑化する。しかし人類生命の本来の要求は変わらず、換言すれば根本において変化しない人間性が厳然として存在する以上、原始人類の単純な生活に見られる現象は、現在においても未来においても、永久に反復されるのである。
ヨーロッパ中世のベネディクト(Benedikt)派修道院の生活を表す言葉に「祈りと労働」(orare et laborare)という一句がある。これが示す生活は、日本の禅院で托鉢の僧が衣食住一切を、坐禅や勤行とともに宗教的修養として敬虔な心をもって自ら処理するのと同じである。これと似たことは、人類として極めて簡素な生活を送った原始人類にも想い及ぼすことができる。すなわち原始時代の人々は、日常生活の衣食住といった切実な物的欲求を満たすために狩猟や耕作の労働をし、一方では奇怪な異教の神々の座下に跪き、木石で作った偶像の前に叩頭した。この時代、生命宇宙の発見として最も顕著に彼らの目を引いたものが二つあった。換言すれば、彼らはこの二つを対象とし、その「夢」を描いた。この二つとは日月星辰と、性欲の表象としての生殖器である。露天のもとに起き伏しし、昼も夜もなく彼らは天体を仰ぎ、宇宙を主宰する不変の法則と始まりも終わりもない悠久の世界を夢見、また人類がどうすることもできない絶大の無限力を認知した。さらに自分に目を転ずれば、体内に燃える烈火のような欲望が、性欲を中心に白熱点に達する。人類の生活意志の最も強烈な表現である食欲と性欲のうち、前者は不完全ながらも労働によって得られるが、後者の欲求はなおいっそう強力なものであることを知った。両性の交わりによって一つの新たな生命を創造し、これによって種族を保存するという事実の前に、彼らは最大の驚嘆を禁じ得なかったのである。
【二 原人の夢】
彼らはこの二つの現象を両極に置き、その間に森羅万象を夢見、これに讃頌し、礼拝し、讃美歌を唱え、呪文を誦し、祈祷を捧げた。自己の生命の要求と欲望を、これらの客観界の具象的事物に向かって放射し、極めて幼稚で単純な表現を行った。生の躍動が、有限の世界にいながら無限の世界に憧れさせ、絶大な欲望の充足を希求させる時、ここに原始宗教の最も普通の形式である天然神教と生殖器崇拝教が生まれた。欲求が制限と圧抑を受けることで生ずる人間苦と、原始宗教と、さらに夢と象徴とを関連づけて思索すれば、聡明な読者には文芸の起源がどこにあるか自ずと明らかであろう。原始時代の宗教的祭儀と文芸の関係は、まことに姉妹であり兄弟である。「一切の芸術は宗教の祭壇から生まれた」という言葉の意味もこれで理解できよう。日本においても支那においても、エジプト、ギリシアにおいても、インド、パレスチナにおいても、あるいは今日なお原始状態にある蛮民の国土においても、こうした現象は指摘し得る事実である。
原始状態の人類の欲求は極めて単純であり、その表現もまた極めて単純である。まず日常生活上の実利的欲求から出発し、かくして単純な夢が成立する。たとえば旱魃に苦しみ、雨を切望している時に偶然雲の兆しを望めば、彼らは天に祈る。祈って雨が降れば、感謝と讃美を捧げる。穀物や家畜が水害や風災に奪われた時には、この自然現象を呪詛するが、同時に非常な恐怖と畏怖を感じたに違いない。自然力に対する抵抗力が極めて微弱であったがゆえに、地水火風に対しても日月星辰に対しても、ただ感謝、讃嘆、あるいは呪詛、恐怖の感情で相対するのみであり、かくして星辰、大空、風、雨はすべて詩化され、象徴化された夢として表現された。とりわけ原始人類の幼稚な頭脳においては、自己と外界の自然物との区別が甚だ不分明で、そのため森羅万象が自分と同じように生きていると考え、さらに万物の喜怒哀楽の情を見出そうとした。殷々たる雷鳴を神の怒声と聞き、鳥が啼き花が咲くのを見ては春の女神の知らせと信じた。こうした感情、こうした想像を揺り籃として、詩と宗教という双子がここに育ったのである。
この原始状態からさらに一歩進むと、知力の作用が加わり、好奇心が起こり、模倣欲も生ずる。そして先の畏敬と恐怖は一転して無限の信仰となり、また信頼ともなる。火を見ても、生殖器を見ても、猿の臀部の真っ赤な部分を見ても、その由来を考究し、理由をつけ、遂にはこれに讃頌し渇仰し崇拝する。根本を尋ねれば、これもまた生命の自由な飛躍が阻止と圧抑を受けて苦悶を生じ、すなわち精神的傷害から発生した象徴の夢にほかならない。満足を得られぬ欲求、そのまま実行の世界に移し得ない生の要求が、形態を変えて表現されたものである。詩は個人の夢であり、神話は民族の夢である。
最も単純な原始状態から見てくると、祈祷礼拝の際の心持ちと、文芸の創作鑑賞の際の心境とは、このように明瞭な一致と共通性を持っていることが見て取れる。
【後記】
十月の秋暖の日、厨川夫人と矢野君と私が、先生の別邸の廃墟に立ち、散漫な思いに耽っていた時、土を掘る工人が一つの栗色の紙の包みを見つけ、我々のところに持ってきた。それがこの《苦悶の象徴》の原稿であった。
《苦悶の象徴》は先生の不朽の大作の未定稿の一部である。この未定稿を急遽世間に発表することについて、我々の間でも当初少なからぬ議論があった。自分の著作に鋭い良心を持つ先生は、推敲が十分でないこのままの形で世に問うことを、おそらく好まないだろうという意見もあった。
しかし本書の後半は未公表の部分が多い。深邃な造詣と豊かな鑑賞力を不思議な融合に打ち成した先生の講壇上の風采は、本書にわずかに残されているに過ぎない。深く筐底に蔵して忍びない我々の心から、これを刊行した次第である。
題名の《苦悶の象徴》は、本書前半が《改造》誌に発表された時の一つの端緒に基づく。しかし先生の内的生活をいささかでも知る者ならば、この題名が先生の著作に用いられて何の不調和もないと信ずるであろう。先生の生涯は、シェリーの詩の一節「They learn in suffering what they teach in song.」に尽くされているからである。
本書校訂に際し、判断に迷う箇所は新村出、阪倉篤太郎両先生にお教えを仰いだ。また同窓の友人矢野峰人氏のお力添えも頂いた。ここに厚く感謝の意を表する。
本書中の《創作論》は六節に分かれ、最初は《二つの力》《創造生活の欲求》などの標記があるが、残りの部分にはこうした区分が設けられていない。やむを得ず、私個人の見解に基づいて節を分け、適当と信ずる標題を付した。その他本書の内容と外形に不備の点があれば、それは私の無知無識に因るものであることをここに明記する。
十三年二月二日、山本修二。
第89節
【象牙の塔を出て】
日本
厨川白村 作
Odi profanum vulgus et arceo;
Favete linguis : carmina non prius
Audita Musarum sacerdos
Virginibus puerisque canto.
——Q. Horath Flacci
Carminum liber iii.
俗衆を憎みて且つ遠ざかる。
沈黙せよ、未だ嘗て聞かれざる歌を
詩神の修士
少年少女たちの為に歌わん。
――ホラティウス
『詩集』巻三。
【巻端に題す】
最近二三年の間、学業の余暇を偸み、新聞雑誌の為に書いた幾篇かの文章と幾回かの講話を、書肆の需めに応じてこの一巻に集めた。私はスティーヴンソンが自らの文集に『少年少女に贈る』(Virginibus puerisque)と題した、あの心情と同じく、この小著を世に問うのである。世にいう学究の著作とは、あるいは甚だその趣を異にするだろう。
「象牙の塔」という言葉の意義と出典については、私の旧著『近代文学十講』から左の一節を引用して、説明に代えよう。――
「ロマン文学の一面にも、芸術至上主義ともいうべき傾向がある。すなわち、一切の芸術は芸術自身の為に独立して存在し、決して他の問題と関わらない。世間の辛苦の現実の生活に対しては、全く超然高踏の態度を取るべきである。この醜穢悲惨な俗世を顧みず、独り清高にして悦楽なる『芸術の宮殿』――詩人テニソンの歌う the Palace of Art、あるいはサント=ブーヴがヴィニーを評する時に用いた『象牙の塔』(tour d'ivoire)に隠処すること、いわゆる『芸術のための芸術』(art for art's sake)、これがその主張の一端である。しかし現今は時勢急変し、物質文明旺盛にして生存競争激烈なる世界となった。人心の中には、一時一刻たりとも現実人生を離れて悠遊する余裕はない。……かくして文芸もまた独り始終悠然自得の話を説くわけにはゆかず、勢い現実の生存の問題と密接な関係を生じざるを得なくなった。……」
なお、本書を『象牙の塔を出て』と題した意味については、本書の該当箇所を参照されたい。
最後の『英語の研究について』(英文)の講演は、巻頭の『象牙の塔を出て』第十三節『思想生活』の一条と関係があるので、特にこの一篇を採録した。著者が外遊中に英語で行った講演その他は、他日別に結集刊行し、英文の著作とする予定である。
一九二〇年六月 京都岡崎の書楼にて 著者
第90節
【観照享楽の生活】
【一 社会面の記事】
日頃、新聞の社会欄を賑わすあの斬った刺したの惨話は言うまでもない。自ら聡明を以て任ずる人々が冷然と「またしても痴情の果てか」と嘲笑するあの男女関係から、詐欺窃盗の小事件に至るまで、多くの人々はこれを極めて無聊な暇つぶしの読み物としている。しかし我々が事の表面からさらに深く一歩踏み入り、これらを人間生活上に意味ある現象として、思索観照の対境とすれば、その中に人を戦慄させ、驚嘆させ、憤激させるに足る多くの問題の暗示があることに気づくであろう。もしソフォクレス(Sophokles)、シェイクスピア、ゲーテ、イプセンの用いたあの絶大な表現力を借りれば、これら市井の些事の一つ一つが、ことごとく芸術上の大著作となり、自然と人生の前に大きな明鏡を掲げることになろう。あの陳腐な民本主義論を聞くよりも以上に、より多く、しかもより深く我々を啓発し反省させるものが、まさにこの社会面の記事の中に常に見出されるのである。ここに蠢くのは、枯淡な学理でもなく、道徳論でもなく、法律の解釈でもなく、生きた、一触すれば血の滲むような「人間」である。「現代」と「社会」がむき出しに暴露されている。ともすれば人々の自由意志や道徳性をも圧迫し蹂躙する「運命」の恐るべき姿が、そこにさまざまに出現して我々を震え上がらせているではないか。
しかし普通の社会面の記事とは異なり、やや力のある、世人がより真剣な態度で注目する事件もある。たとえば某女優の自殺とか、ある文人が妻を捨てて別の女と暮らし始めたこととか、貴族の娘と運転手の駆け落ち(elope)とか。こうした事件には時として多少真面目な批評が起こることもあり、日常茶飯事として雲煙過眼に付する一般の社会記事とは、いささか趣を異にする。しかし結局のところ、問題の人物が平素社会的関係上、世間の注目を受けやすい地位にあったというだけのことに過ぎない。世人の態度は依然として軽薄であり、したがっていわゆる批評なるものも、判で押したような因襲道徳や利害問題や法律上の小理屈から出た、内容の極めて空疏貧弱なものに過ぎない。
かつては悲劇の主人公たるには、王侯将相のような表面的意味で常人以上の人物か、あるいは英雄美人のような個人として卓抜した力量を持つ人物でなければならないとされていた。しかし近代において、イプセンがこの謬見を一掃して以来、小店の主婦であれ侯門の令嬢であれ、等しく内面生活を営む一個の「人」として扱われるようになった。価値転倒と平等観の大きく新しい観察法から言えば、カエサル(Julius Caesar)の末路と詐欺師の失敗とは、根本的意義においてまさに「無差別」と見て差し支えない。その人の地位や名声によって批評の態度が変わるのは、言うまでもなくそれだけですでに批評者の不誠実を自ら証明している。
ここに引用するのは故人に対していささか失礼の嫌いもあろうが——明治大正以来常に文壇に雄視した某氏が学校の教壇を辞し、妻を離れ、某女優と共に劇界に身を投じた時、世人のこの事件に対する批評態度がどのようなものであったかは、我々の記憶に今なお鮮明である。私は彼とその生前に一度だけ会ったことがあり、個人としての彼を知ることは甚だ少ない。しかしいわゆる名士風流の徒とは異なり、身を持すること極めて謹厳な君子であったと聞いている。しかも識見においても学殖においても文章においても、まことに得難い才人であることは、その著作によって天下万人の知るところである。しかるに彼ほどの明敏な理知の持ち主が、もし世間の庸流と同じように利害得失の打算のみで動くならば、あのような挙に出ることは決してなかったであろう。わざわざ形式道徳を踏みにじって愚衆の反感を招くようなことはしなかったであろう。しかし行年四十、人生の路を歩み尽くした彼は、痛烈な苦悶と懊悩を重ねた末、遂に自らの赴くべき処に向かって独り邁進した。決心して自我建設と生活改造に向かって突き進んだ真摯な努力を、閑人が妓女に引かれるのと同一視する者が、自ら聡明を以て任ずる人々の中に少なくなかったのではないか。あの時の彼の内的生活の波瀾と動揺に対し、同情と理解ある批評を、私は不幸にして世間の識者と称される人々の中にもあまり聞かなかった。
こうした時に、人はなぜ生きた人間の目で生きた人間を見ることができないのであろうか。窮屈な因襲道徳や冷たく不自然な硬直した小理屈を持ち出さず、もっと簡潔にもっと正直に、自分と対象との間に人の生命の共感を見出すことができないのであろうか。善悪の彼岸に立ち、今よりもう少し高くもう少し大きな目で、虚心坦懐に人生の事実を徹底的に観照することが、すなわち自分の生活内容をさらに豊かにする唯一の道であることに、気づかないのであろうか。
【二 観照ということ】
「動的生命」の脈搏がすでに減じた老人ならいざ知らず、人の一言一行の中には、絶えず跳躍奔騰し流動してやまない生命力が蓄えられている。もし人類が論理、利害、道徳のみに動かされる存在であるならば、人生には煩悶もなく苦悩もなく、天下はまことに太平であろう。しかし別の面では、月世界か何かのように、熱もなく水気もない乾ききった単調な「死」の領土と化し、我々は幸いにして人に生まれながらも、百の退屈な五十年の生涯をただ虚しく送るほかないであろう。味わえば味わうほど新たな味が尽きることのない人生に意義があるのは、どうしても道学先生や理論先生の仰せの通りには万事行かないからである。人生のあらゆる姿を深く味わい、制作においてこの「動的生命」の核心を捉えること——それが文芸の出発点である。
人類がたしかに道徳的存在(moral being)であり、合理的存在(rational being)であることは間違いない。しかしそれが全部だとは決して言えまい。生命力が奔逸する時、時に道徳の圏外に飛び出し、理知の命令にも背くことがある。時に利害の関係を顧みず、生命の奔騰に躍ることもある。ここにこそ真に生きた人間味が現れる。この人間味を捉えようとする時、換言すればこの人間味をつかんで深く味わおうとする時、我々はもはや道徳だの道理だの法則だの利害だの常識だのといった部分的な覗き眼鏡だけでは用が足りない。それでは人生の全円は見えないからである。健全と不健全、善と悪、理と非といった一切の価値判断を超脱し、純真な自分の生命力をもって自己以外の万象に相対するあの一点の真摯な態度がなければ、事は成し遂げられない。すなわち一切を理解し、一切に同情しようとする努力が必要なのである。何かに囚われ拘泥していて、どうしてこの深い深い人間味の底蕴を透徹できようか。
歴来の多くの天才が人生の全円を見ようとした時、その極底において、ギリシアの悲劇作家は「運命」を見出し、シェイクスピアは「性格」を見出し、イプセンは「社会」の欠陥を見出し、前世紀のロマン主義者は「情熱」を見出し、自然主義の作家は「性欲」を見出した。一方にはミルトンのように「神」を見出した者があり、他方にはバイロンのように「悪魔」を見出した者もある。ユーゴーは「愛」を見出し、ボードレールは「悪の華」を讃えた。これは作家の個性と時代思潮の差異により、それぞれの作家がそれぞれのものを見出したのである。そしてこうしたものこそ、道理でも道徳でもどうにもならない人生の本質的事実であり、矛盾と欠陥に満ちた人生の形相である。ここにこそ清新強烈な生命力の発現がある。社会面の記事の中にも、大詩篇・大戯曲の底にも、等しくこうした力が活動しているのである。
イギリスのマシュー・アーノルド(Matthew Arnold)は、批評家としても詩人としても過人の天分を持った人物である。しかし今日その著作を読み返してみると、古風の詩篇はさておき、評論の方面ではそれほど偉大とも感じられない。ただこの人は文句の造り方が巧みであった。自分でさまざまな巧妙な文句を考え出し、自らそれを至る所で反復し利用して人口に膾炙させた手腕は見事である。その中に詩を論じた言葉として「人生の批評」であるという一句がある。またギリシアのソフォクレスを詠んで「人生を凝視してその全円を見た」と言ったのも有名な文句である。これらの文句は今やすでに文界の通語となっているが、その中に読者は、私が上で述べたような意義を読み取るであろう。
世の中には、社会面の記事によるにせよ何によるにせよ、人生のあらゆる現象に相対する時、その見方が常に利害関係のみを基礎とする者がいる——これを市井の俗輩と名づける。また法律なるものの万能を信ずる人々も多い。そういう方々はまずゴールズワージー(J. Galsworthy)の戯曲《正義》(Justice)をお繙きになるがよい。生きた人間の上に法律の機械的作用を加えた時にいかなる惨状が現れるか、よく分かるであろう。
第91節
【霊から肉へ、肉から霊へ】
【一】
日本人の生活の中には、他の文明国ではおよそ見られないさまざまな不可思議で奇妙な現象がある。世間に「居候」なるものがあるが、これは何の理由も権利もなく、他人の家の食糧を食い尽くして悠々と寄食する「食客」の称である。また「小姑鬼千匹」という諺があるが、妻を娶れば、その最愛の夫の姉妹が千の悪鬼にも等しいほど憎らしく恐ろしい存在であるという意味で、これも英米では極めて珍しい現象である。また教育界には「学校騒動」なる珍奇な現象が絶えず起こっている。すなわち学生が団結して教師に反抗するという恐るべき事件である。
これらの現象は、表面から見ると千差万別で、それぞれ異なる原因があるように見えるかもしれないが、本源を探れば実は一つの欠陥に基づくに過ぎない。私は極めて通俗平易な日常生活の現象から帰納して、この一つの欠陥を指摘しようと思う。
西洋の、とりわけ英米人の生活と我々日本人のそれとを比較すれば、根本において、霊と肉、精神と物質、温情主義と権利義務、感情生活と合理思想、道徳思想と科学思想、家族主義と個人主義——これら両者の関係は、完全に正反対の方向を取っている。我々は甲から乙へ赴こうとし、彼らは乙から甲へ進む。もし日本人が真に誠実に生活改造の問題を解決しようとするならば、まず第一に着手すべきはこの関係について考えることであり、ここを出発点として根底を据えるべきである。
日本にいて日本式の旅館に泊まることは、我々にとって不愉快な事の一つである。さらに極端に言えば、景色の美しいこの国で、本来楽しいはずの旅行をしながら不愉快な思いをさせられる最大の原因は、旅館であり、旅館と旅客の誤った関係なのである。詳しく言えば、旅館と旅客の関係が、純粋な物質主義、算盤計算の合理的基礎の上に立っていないということである。
西洋のホテルに一歩入れば、日本の帳場格子に当たるオフィスに行く。一泊何ドルの部屋、シングルベッド、バス付き、何々と、客の望む部屋を決めればそれで済む。番頭がじろじろ衣服や人相を見たり、知人の紹介がなければ泊めなかったり、粗末な身なりの、小遣いを多く出しそうにない客は隅の汚い部屋に案内するなどという、とんでもないことは断じてない。旅館と宿泊客の関係は純然たる、しかも露骨な売買関係・算盤計算であるから、帳場で予め契約を結びさえすれば、余計な面倒は一切ない。出発の時にはまた帳場で勘定書を受け取り、その金を払えばそれで済む。洗濯代、食事代、酒代、あれこれ、すべて明細に記されている。いわゆるチップという愚劣なものは、たとえ一文たりとも絶対に受け取らないし、また払わない。
では、ホテルの人々は宿泊客に対して冷淡に、まるで通りすがりの人に対するように接するのか。決してそうではない。また各室が壁で仕切られ、戸には鍵がかかり、構造は個人主義的であるから、宿泊客同士が親しくならず、住み心地が悪いのか。それもそうではない。むしろこれと正反対に、日本の旅館は各部屋が紙の襖で仕切られ、全体がまるで家族的で融和的な構造のように見えながら、その紙の襖は実は鉄骨コンクリートの壁よりもさらに厳しく冷たい仕切りなのである。しかもすべての宿泊客が集まって歓談できる広間の設備さえない。たまたま廊下で他の客と出会っても、「人を見たら泥棒と思え」という気持ちの顔で互いにじろりと見やるだけで、西洋のように旅館のロビーで見知らぬ旅客同士が親しく語り合うような温かさは微塵もない。個人主義から出発し、それを徹底した結果が温情的になるのが西洋のホテルなのである。忙しい番頭も支配人も、暇な時には出てきて客と世間話をする。日本人が泊まっていると見れば、誰も彼もがやってきて意外な珍問や愚問を持ち出し、みんなで笑い合う。長く泊まって親しくなれば、一緒に酒場に行くような友愛の関係が生まれ、温情が湧き、情愛が生ずる。この友愛、この温情、この情愛は、純粋な算盤計算と露骨な売買貸借の契約関係を基礎・根底として、そこから発生したものにほかならないのである。
日本の旅館では、親戚や友人の家に泊まるかのように、金銭のことなどまず問題にしない振りをする。客が「茶代」と称する一種の贈物を出すと、その答礼として、出立の際に手拭いはまだしも、「地方名産」と称する大きな漬物の桶や菓子の包みまで客に贈る。主人や番頭が出てきて、真実の温情も友愛もない決まりきった「挨拶」を述べる。その関係は友人関係のような、贈答関係のような、非常に懇待しているかのような見せかけであるが、実は帳場の奥で密かに算盤を弾いて計算したものなのである。この友愛、この懇切、この温情の中に、一片の温もりもなければ一片の甘味もない。だから不愉快なのである。
西洋のホテルのそれは、物質から湧き出た精神であり、「物」から湧き出た「心」であり、殺風景な権利義務関係から湧き出た温情である。日本の旅館はこれと正反対で、狼の身に羊の皮を被せたものである。
【二】
日本では師弟関係という一事が議論紛々としている。いまだに何歩離れて先生の影を踏んではいけないなどと言っている。たとえ師たるに足る学殖も見識もなくとも、ひとたび弟子になれば反抗はもちろん許されず、しかも尊敬を強要される。金銭の関係に至っては、師弟の間では絶対に超越した事柄とされる。ではここで問おう、日本の師弟関係は、果たして情愛が深いのか。教師は学生に対して英米より親切なのか。学生は教師に対して英米より従順なのか。教育界の目の前の事実は、いったい何を物語っているのか。「学校騒動」と称するあの忌むべき現象は、英米や他の文明国の学校ではほとんど見られない最も醜悪な事実ではないか。
アメリカのような国では、教師が学生を教えるのはビジネス(business)として当然のことである。従来の頑固な日本式の考えから見れば、それは極めて殺風景で馬鹿げたことのように思えるだろうが、実際にはビジネスに違いない。学生は金を払い、教師はこれに対して教育を施す。物質的関係においてはれっきとしたビジネスであり、神聖な純粋に霊的な関係も、それ以外の何ものもその中にはない。学費を納めない学生は除名され、教師は金を受け取り、労働の報酬として衣食する。これこそ証拠ではないか。しかし人類の本性は畜生ではないのだから、より良い教えを受け、自分の知能を啓発されれば、おのずと感謝の念が湧き、尊敬の心も生ずる。教師の側でも、自分の学生に対して、給料の問題や算盤計算以外の情愛がおのずと生ずる——これが人情というものである。ただし今の日本の学校のように、教師の頭が学生より古く、学問・修養・品性に欠けるのでなければ、師弟の間に温情と敬愛の霊的関係が必ず湧き出るはずである。教師の物質的待遇を改善し、良い教師を招けば、いわゆるビジネスという算盤計算を徹底的に基礎に据えたところから、真の師弟の情愛が湧き出る。無能な教師に金を払う必要も理由もないというビジネス本位のアメリカの学校で、私は日本よりたしかに美しく高い師弟関係を目にし、大いに羨ましく思った。とりわけ大学生と教授の関係は、教室を一歩出れば親密な友人関係のようであり、これを見て言い知れぬ快感を覚えたのは、おそらく私一人ではあるまい。英米の学校は自由主義だから学校騒動が起こらないなどと言うのは、一顧にも値しない浅薄な観察に過ぎない。
また、英米は個人主義だから親子の情が薄く、日本は家族主義だから親子の情が深いという人もある。これもまったくの嘘である。
アメリカでは夏休みになると、立派な富豪——すなわち資本家の子弟が、電車の車掌をしたり、農村に行って働いたりして、労働者になる者が非常に多い。一面から言えば、これは日本の書生が親の金を使って公子面をし、安閑と徒食する悪風とは正反対に、貧富上下の別なく、労働、とりわけ筋肉労働の神聖さを誰もが十分に弁えているからであろうが、その主な原因はもちろん個人主義にある。日本は「子供の天国」と称されるが——そしてそれゆえに「母親の地獄」でもある——、幼児の頃から親が過保護であるため、いつまでたっても子供に独立心がなく、成年に達しても親の養いに依存して平気でいる。他人にはもう相当大きな口を利ける青年が、自分の母親に金をせびる時にはまるで個人の自覚のない甘ったれた小僧に変わる。こうした滑稽な矛盾がしばしば出現する。日本の高等程度の学生が夏休みの数ヶ月間、十分な余暇がありながら親の金を使って遊女の後をついて回っている時、アメリカの富豪の子弟は自分の額の汗で、たとえ少額でも、自分の学費を稼ぐ努力をしているのである。
第92節
【芸術の表現】
(本篇は大正八年〔一九一九〕秋、大阪市中央公会堂にて橋村・青嵐両画伯の個人展覧会の折に開催された芸術講演会における講演筆記である。)
わざわざこの大阪市でこれまで前例のない純芸術の集会にお越しくださった皆様でありますから、今晩私がお話しする事柄は、釈迦に説法かもしれません。しかし私の話は、当然ご賛同いただけるものと期待しております。
世間の人々は絵画を見ても文章を見ても、よく、あんな絵は実際にはないと言います。昔から「絵空事」という成語があるくらいで、絵画に描かれるものは虚偽であると、とうに決まっているのです。あんなに長い手は実際にはない、あの花の弁は六枚なのに八枚描いてあるから間違いだ、と真面目に批評する人がいます。芸術が何物であるかを弁えない世間一般の素人にはよくあることで、要するに、いわゆる芸術は虚偽を描くものだと言うのです。芸術家の中にさえそう考えている者もおり、科学万能を信ずる人々もしばしばこうした言葉を口にします。かつてある植物学者が展覧会の絵を見に行き、一つ一つ端から、あの樹木の葉はここが間違っている、この花の花蕊は正確ではないなどと批評しているのを見たことがありますが、これもまた骨の折れる多事な計較だと思います。これに関してはフランスのロダンの伝記にも有名なこんな話があります。南米の富豪がロダンに肖像彫刻を依頼したのですが、少しも似ていないと言って返してしまったそうです。ロダンと言えば、言うまでもなく世界の近代の大芸術家です。その作品が全くの素人の目には実物に似ていないからと落第したのです。このような事柄は何を示しているのでしょうか。もし外面的に事象をただ写し取るだけが芸術の本意であるなら、安い引き延ばし写真を掛けておけば済むことです。芸術家が心血を注いだ風景画よりも、地図と写真の方がよほど適切でしょう。顔を見てそのまま描くことは、大した技量のない画学生にもできることです。そんなことは、堂々たる大芸術家の手腕を待つまでもなくできるのです。もし真の芸術家に似せて描いてくれと頼めば、おそらくこう言うでしょう。実物にただ似ているだけの絵ならた易いことです。しかし自分の本心、自分の技倆、芸術的良心に従うとなれば、ご辞退申し上げます。写真館の小僧のような真似はしません、と。ここで質問があるかもしれません。では芸術もやはり虚偽を描くのか。絵画にせよ文章にせよ、出鱈目を描くのか、と。芸術は徹頭徹尾、真実を描くのです。絵のことは口と身振りではうまく講じられませんが、文章について言えば、たとえば桜花の爛漫たるを見て、雲のようだ、霞のようだと言います。そして実際にも、雲のようなもの、あるいは遠山の霞のようなものを描いて、これは満開の桜だと言えば、たしかに虚偽です。しかし顕微鏡で桜を調べるよりも、この「花の雲」の方が、真の感得、真の「真」を表現しているのです。花弁を一枚一枚描くよりも、雲のように霞のように、淡墨でぼかしてもらう方が、我々には「真」であり、誰にとっても「真」なのです。たとえば人の顔について、あの人の鼻はこういう形で上から下へ何インチ突き出しているなどと記述するよりも、あの人の鼻は尺八のようだと言った方が、はるかに芸術的表現があります。「尺八のようだ」というのは、文章上一つのSimile(直喩)を用いているからこそ、その「真」が活きて現れるのです。いわゆる支那人は誇張が極めて上手です。だいたい一万の兵がいれば百万の大軍だと言いますから、支那の戦記などは実に見事なものです。要するに嘘だ、大言壮語も嘘の一種だと言って、「白髪三千丈」と、人を馬鹿にする。三千丈なんて、一尺にもならない。しかし三千丈と聞くと、いかにも長い白髪が垂れているかのように感じるのです。大嘘かもしれない、三千丈……途方もない大嘘かもしれない。大嘘かもしれないけれども、ある意義における「真」を十分に我々に伝えています。
ここで私は詭弁を弄しているようですが、「真」には二種類あると言うほかに方法がないと思います。すなわち、第一は、コンパスと定規で描かれたもの、写真の上の真です。それらはすべて我々の理知の側から、客観的に、あるいは科学的に見た想定であり、まず頭の中で道理を求めて判断し、解剖するものです。たとえば、そこに花のようなものがある。我々は一瞥の刹那の印象でも感情でもなく、あの花は何であるか、桜か、それとも何かと研究するのです。換言すれば、そのものを分析し解剖した後で、我々はようやくその科学的な「真」を捉えるのです。すなわち我々の理知の作用を主として表現する。挙げ句の果てに拡大鏡や顕微鏡を使い、どんなに美しいものでも汚くしないと気が済まない。そうしなければ真ではない、芸術家は途方もない嘘をつくのだ、と。そうした人々は、要するに頭が一方に偏って働いているのです。つまりそういう意味の真を、科学的「真」と呼んでおきましょう。それは我々が直覚で感じ取る真ではなく、まずそのものを殺してから解剖し、頭の中であれこれひっくり返して道理を見つけ出すものです。たとえば水について、絶えざる川の流れとか甘露のような水と言えば、誰の頭にも最初から端的に、芸術的に、豁然と現れます。ところが科学者は水をH2Oに分析し、こうしなければ真ではないと言う。甘露のような水などあるものか、中には必ず多くの黴菌がいると。科学的精神に支配されて極まった頭は、こうしなければ気が済まないのです。先ほど言った白髪三千丈式の真は、私に言わせれば芸術上の真と呼ぶべきものです。真であること、trueであるという点では、前者と肩を並べ、いささかの遜色もありません。もし誰かが嘘だと言うなら、訴えてもよい。断じて嘘ではなく、あくまで真なのです。白髪三千丈と言うのも、白髪何尺何寸と言うのも、同じく真なのです。つまりこれは一気に我々の感、我々の直感作用に触れてくるものであり、三段論法派の道理や解剖や分析の作用に頼らず、端的に我々の頭にぱっと真が閃く——これを以て表現の真とするのです。道理など持ち出せば壊れてしまう。つまらない詩歌は道理や説明を述べ、自分ではそれも詩歌のつもりでしょうが、芸術としては不成立の豚小屋と称すべきものです。我々の直感作用、あるいは感、あるいは感情でもよいのですが、白髪三千丈と言われ、あの人の鼻は尺八のようだと聞いた時、我々の頭の中で何かがぱっと一閃すれば、表現の真として厳然と書かれているのです。
では、そうするにはどういう作用を用いればよいのか。我々の頭に一つの刺戟を与えること、すなわち一種の暗示を与えることです。その刺戟と暗示にちょっと触れられると、こちらの頭の中の何かが突然燃え上がる。燃えている刹那に、こちらの頭には作家の持っているものと同じものが生じ、いわゆる共鳴が成り立つ。しかし世間には奇妙な廃人もいて、いくら火をつけても燃えない先生方がいます。それはどうにもなりません。しかし普通の人間ならば、どこかに血が通い、どこかに涙を蔵しているはずです。その時に上手な刺戟や暗示を与えれば必ず着火する。この時、いわゆる芸術の鑑賞がようやく成立するのです。この刺戟は、絵画なら色と形で、文学なら言葉で、音楽なら音で——その選択は人の自由であり、各芸術で用いる道具はすべて異なります。要するに道具なのです。だから時には「誇張」という一つの戦術を用いることもある。要するに芸術家の戦術の一つです。一寸にも満たないものを三千丈と言うのは、芸術家の見事な戦法です。こうした戦法はいかなる芸術にもあります。この戦法をいかに応用するか、その按配は、読者が平素持っている科学的真に偏った頭をしばし退かせることにあります。退いた刹那、直感の作用が昂然と頭をもたげるのです。換言すれば、作家には、人々が作品に相対した時、一時的に科学的・論理的真を受容する性質——顕微鏡で見、物差しで測る性質を押さえ込ませる手段が必要なのです。要するに文学家であれ画家であれ、読者や鑑賞者を捕えてしまう手段が必要です。つまりこの暗示というものは催眠術と同じで、拙い催眠術は誰にも効かない。拙い芸術家、技巧がまだ未熟な芸術家の作品には、催眠術の暗示の力がない。いくら催眠術をかけても相手が眠らない。当然眠りはしません、まだ十分に至っていないからです。だからおよそ作品が芸術として失敗する時は、いつも二つの原因に帰着します。すなわち、暗示によって催眠術を施し、読者や鑑賞者を自分の側に引き込んだ後で、先ほど言った科学上の真を受容する頭をしばし押さえ込む力が足りない——これが作家の力量不足なのです。
第93節
【労働問題を描く文学】
【一 問題文芸】
現実生活の深邃な根底の上に立つ近代の文芸は、その一面においては純然たる文明批評であり、社会批評でもある。この傾向の嚆矢はイプセンである。彼が起こしたいわゆる問題劇は言うまでもなく、傾向小説や社会小説と称される多くの作品もまた、直接または間接に近代生活の難問題を題材としている。その最も甚だしいものになると、純芸術の境界をほとんど踏み出してしまっている。幾人かの作家は、もはや一種の宣伝者(propagandist)と化し、群衆の中を往来しながら大声疾呼しているかの如くであり、これは未だに文学を風流韻事と同列に見なす人々を十分に驚かせるに足る。現在の作家で言えば、イギリスのショー(B. Shaw)、ゴールズワージー(J. Galsworthy)、ウェルズ、さらにフランスのブリュー(E. Brieux)などが最も顕著な人物である。
ここ一二年来しばらく流行した民本主義に続いて、今度は労働問題が世の視聴を震撼させた。資本家対労働者の衝突は、日本では目下の問題に過ぎないが、ヨーロッパ社会ではすでに前世紀以来の最大の難問であり、したがって文芸家の中にもこれを主題とする者は早くからあった。ここでこの類の小説や戯曲の特徴を考察すると、まず(1)個人の性格と心理の描写のほかに、多数者の群集心理を描くものがある。とりわけ戯曲などでは登場人物の数が非常に多い。これは題材の性質そのものがもたらす結果である。以前にも戯曲で群衆を使う場合はあった。しかしこれはゲーテの「エグモント」やシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」におけるように、ある一個人が群衆を代表し、全体(Mass)を個人の心理法則で動かすものであった。個人心理の動き方とは異なる群集心理というものを舞台に載せたのは、近代の戯曲、とりわけ労働問題を主題とする作品において初めて成功したのである。次に(2)多数者の騒擾などを描くと場面は自ずと賑やかになり、センセーショナルなメロドラマ風のものになる。(3)描写の態度について言えば、近代の作家は概してそうだが、現実をありのままに描き、資本と労働の問題にも何らの解決を与えず、ただ悲惨な実情を描き出し、問題を提示して、読者自身にこの近代社会の一大欠陥について深く反省し思索させる。(4)構成について言えば、普通の骨組みは大抵、資本家と労働者の衝突事件の中に男女の恋愛や家庭の悲劇を織り込み、作品全体の効果をより強く深いものにする。これは決していわゆる小説めいた作り事ではなく、労働運動の背後には、いつの時においても、ある意味で常に女性の力の作用があるからである。(5)またこの類の作品には、資本家の側に必ず一人の保守頑迷・済度し難い老人がおり、これによって新旧思想の激烈な衝突が表出される。日本でも近来この問題を扱う作品が少なくないが、中で佳作の一つと思われる久米正雄氏の《三浦製糸場主》(《中央公論》八月号)は、上述の最後の二点において、西洋の近代文学が示すところと異曲同工である。
【二 英吉利文学】
近来同盟罷業問題が喧しいので、数人の友人から西欧文芸のどの作品にこれが描かれているかと問われたことがある。そこで今、議論や道理はすべて差し置き、これらの著作を一通り紹介してみようと思う。イギリスは製造工業が盛んであったため、産業革命の難問題にも早くぶつかった。詩人や小説家がこの問題を扱うのも、大陸諸国より早く現れた。英文学の特色は、純芸術の色彩がフランス文学ほど濃厚ではなく、どの時代でも宗教・政治・社会の実際問題と文学が常に緊密な関係にあることで、これもその一因であろう。まず労働者の主張を擁護するために普通選挙を叫んだチャーティズム(Chartism)一派の運動があり、それと関連して前世紀の中頃から、論壇にはカーライルの《過去と現在》、"Chartism"、《後日評論》(Latter-Day Pamphlet)などが出た。ラスキンも芸術批評の筆を擲ち、労働者に宛てた書簡"Fors Clavigera"や"Unto This Last"などを発表した。詩壇では、自らが労働者である詩人マッシー(Gerald Massey)や、"Cry of Children"(《子供たちの叫び》)の中で少年労働者に同情の涙を注いだブラウニング夫人が現れたのも、十九世紀中葉に始まることである。
しかし純然たる創作の面で、最初に労働問題を描いた名作は、キングズリー(Charles Kingsley)の小説《酵母》(Yeast. 1848)と《オルトン・ロック》(Alton Locke. 1850)である。当時の社会改造説は、後に勢力を得たマルクス流の物質論ではなく、道徳・宗教思想を根底とする旧式のものであったから、キングズリーがこの二大作品で宣伝しようとしたものも、当時のイギリスで勢力を持っていたキリスト教社会主義にほかならなかった。すなわちモリスやカーライルらの思想系統に属する形而上的なものである。
物価の高騰、賃金の低廉、労働時間の延長、就職難などさまざまな原因により、当時のイギリスの労働者は極めて苦しい境遇に陥り、地主や資本家に対する一般的反抗心は白熱の度に達していた。この不安な社会状態は、千八百四十八年に対岸のフランスの二月革命によってさらに勢いを増した。キングズリーのこの二作は、労働者階級の苦況を精細に描き出し、まず正義と人道に訴えたものである。その根本思想は今日の唯物的な社会主義の基盤とは大きく異なり、文芸作品としても旧時代のロマン的色彩がなお色濃い。とりわけ《酵母》は荒廃した田園生活と農民の窮状を描いたものだが、主人公のランスロットという青年が外出して狩りをし、怪我をし、寺の門前で美しい富家の娘に救われ、遂に二人が相愛するに至るという場面などは、行き詰まった現代人の生活を基礎とする現代文学とはかなり隔たりがある。しかも別の面では、社会改造の主張をあまりに露骨に著作に織り込もうとしたため、不調和と不自然が目立ち、いわゆる「問題」小説の欠点を余すところなく暴露してしまった。芸術品としては失敗作であるのみならず、宣伝のためとしても力が強いとは言えない。今日から見れば、この書が当時極めて好評を博したのは、もっぱらその時の焦眉の急たる問題を運用して、一時的に世人の耳目を聳動させたに過ぎないのであろう。
これに比べれば《オルトン・ロック》は、全体としてはるかに優れた作品である。これは農民生活ではなく、ロンドンの労働者階級の境遇を描き、貧民窟の生活を細叙したものである。《酵母》よりも写実に近づき、小説としてもすでに成功している。書き方は仕立屋の職人オルトン・ロックの自伝に仮託し、その出生から、ある画院で知り合った大学幹事の娘との恋愛、その後口と筆を以て労働運動の宣伝に奔走したために、ある地方の暴動の扇動者と見なされて三年の禁錮を受けたこと、そして社会改造の大業はキリストによってのみ成し得ると悟り、一方で失恋の結果、周囲の情勢に迫られてアメリカのテキサス州に移ろうとしたが、目的地に上陸する直前、船中で病を得て死んだことを描いている。すなわち死に至るまでの悲惨な生涯の記録である。純粋な小説としては宣伝に偏重している点があまりに明らかだが、作者はなお平気で言っている、「単に娯楽のために私の小説を読む人々は、この章は飛ばしていただきたい」(第十章)と。
【三 近代文学、特に小説】
しかしキングズリーらよりもさらに我々に近い新時代の文学の中で、労働対資本の問題を扱った大作を挙げるとすれば、まず称すべきはフランスのゾラ(E. Zola)の《ジェルミナール》(Germinal. 1885)であろう。これはゾラ一生の大作であるのみならず、ヨーロッパの労働社会で読まれた小説の中でも、これほど普及したものはないと伝えられている。作者は熱心に研究・観察した事実を基礎として、炭鉱労働者の悲惨な地獄のような生活を描き、労働者側の指導者ランティエが横暴な資本家の圧制に反抗する惨劇を、極めて精緻な自然派一流の筆法で描写している。鉱夫の醜穢で残忍な、ほとんど人間離れした生活の描写は、もし日本であればとうに発売禁止になっていたであろう。ある人はこの作品を評して、ダンテの《神曲》中の地獄界の惨酷を近代化したものだと言ったが、面白い評言である。
第94節
【芸術としての漫画】
【一 芸術に対する蒙昧】
長年にわたり武士道だの軍閥跋扈だの功利の学だのに煩わされてきた日本では、今日においてさえ、芸術に十分な理解と同情を持つ人々はまだ少ない。とりわけある方面の人々がある種の芸術に対する時、理解がないどころか同情もなく、軽侮の態度を取り、さらには憎悪の念さえ抱くことがあり、傍から見ていると時に滑稽に近い。教育界の事を一例として述べよう。この社会はもともと軍閥同様、無分別な人々の巣窟が最も多い所であるが、彼らは一方では無聊な事にしがみつき、国粋保存を叫んで自国を誇る種としながら、純粋な日本音楽にさえ理解しようとする者がほとんどいないのは、奇妙の至りではないか。あの単純な日本音楽の中で最も奥深い三味線を解する教育家が、百人に一人でもいるだろうか。祖先の遺したものであれば一文の値打ちもないものまで珍重し、口を開けば日本固有だの国粋だのと喚く人々が、徳川三百年の日本文化が生み出した《歌沢》《長唄》《常磐津》《清元》の趣味すら知らず、西洋のピアノのぶうぶういう音だけが唯一の音楽だと思っている学校教師は、哀れな人間ではないか。三味線の駒の扱いが分からないのはまだ許せるとしても、現今の日本のいわゆる教育家の演劇に対する態度はどうであろうか。頑迷極まる校長や教育家が、自分に分からないから見に行かないのは勝手だとしても、学生の観劇まで妨害し、学校では演劇に類する一切の催しを厳禁するのは、例の無意味な因襲に囚われているというほかに、理論上からも実際上からも、どんな論拠があってそのようなことが言えるのか。固陋な偏見に囚われた今日の教育家は、芸術と教育の関係、美的情操の涵養、感情教育等について、一度でも思いを巡らしたことがないのか。もし思いを巡らしてなお学校で演劇を絶対に禁止する理由があるというなら、是非お教え願いたい。私は文芸の研究者として、学問上、いつでもこうした愚論に対しては攻撃を加えることに躊躇しない。
もし弊害の一面だけを見て禁止するのだと言うなら、野球のような堂々たる遊戯にも、精神的には勝ち負けに伴う弊害があり、具体的にも時間と精力の消耗による学業不振という悪影響がないとは言い切れない。弊害は演劇に限ったことではない。要するに頑愚な教育家が白状するならば、彼らは演劇にどのような芸術的本質があるかなど元来何も知らず、ただ従来馴染みの因襲観念に囚われて、乞食の遊びくらいに思っているに過ぎない。これ以外には何の理由も根拠もない。世界の文明国と称する国で、日本ほど演劇を蔑視する国が他にあるだろうか。アメリカの中学・大学では、記念日ともなれば必ず男女の青年学生による仮装劇を見ることができる。アメリカの学芸の中枢と称されるハーバード大学には、校内に立派な大学付属の劇場がある。イギリスの演劇は、遡れば大学から始まって発達してきたのである。ドイツ前帝のような人物でさえ、演劇には特に宮廷の保護を加えたではないか。フランスは言うまでもなく、堂々たる国立劇場を持つ国である。イギリスでは、政治家や学者や軍人と同様に、俳優にも国家の栄爵を授けているではないか(爵位なるものの無聊さは、また別論として)。これらの事実は、一国の文化教養にとっていったいどのような意義を持つのか。また民衆芸術としての演劇とは、どのような性質のものなのか。教育家を以て自任して偉ぶっている人々は、こうした事柄を少し考えてみるがよい。考えても分からなければ、教えてやってもよい。
【二 漫画的表現】
こうしたことを書くつもりではなかった。本題の漫画について語らなければならない。
教育家の演劇や日本音楽に対する蒙昧と同じく、一般の日本人も、一種の芸術としての漫画に対して、理解がなく蔑視しているかのようである。
日本で一般に漫画と呼ばれるものの範囲は非常に広い。時事問題に対する風刺画すなわちカートゥーンもあれば、普通「ポンチ」と呼ばれるカリカチュアの類も少なくない。しかしどの種類であれ、およそ漫画の本質は、内に厳粛な「人生の批評」を含みながら、外面には笑いを装うという一点にある。その真意は悲哀であり、諷罵であり、憤慨であるが、表面上は綽然たる余裕を持ち、滑稽と嘲笑によってその真意を伝えるのである。用いる手段にも極端な誇張法(exaggeration)を取るものがあり、これは意図的にそのグロテスク(the grotesque)な特色を増すためである。
たとえばある人物や事件を捉えて描こうとする場合、もしその特徴だけを誇大にし、その他一切を省略すれば、言葉を用いようと画筆を用いようと、その結果は必ず漫画になるはずである。吊り上がった眉の三角頭のビリケン(訳者注:かつてアメリカで流行した人形の名)を描いて寺内伯としたのは、その容貌の幾つかの顕著な特徴のみが倍加して描かれたからである。この誇張には必ず滑稽が伴い、文学の面から言えば、たとえば夏目漱石氏の小説《坊っちゃん》、あるいはこれとは大いに趣を異にするディケンズ(Ch. Dickens)の滑稽小説《ピクウィック・ペーパーズ》(The Pickwick Papers)などは、いずれも言葉を以て画筆に代えた漫画的文学作品にほかならない。元来、文学上の滑稽風刺の作品にはこの種のものが古来多く、ギリシアのアリストパネス(Aristophanes)の喜劇からすでに、今日の漫画を演劇の形で行ったものを見ることができる。すなわちペリクレス(Pericles)時代のアテネ政界の時事問題を風刺したのが、この喜劇の始祖である。
大きな笑いの蔭には、大きな悲しみがある。大いに泣く人でなければ、大いに笑うこともできない。だから滑稽を描く作者や画家の中には、古来極めて苦悶憂愁の人、厭世的な人が少なくない。《吾輩は猫である》を書き《坊っちゃん》を書いた頃の漱石氏は、極めて沈鬱な神経衰弱的な人であった。この点でイギリス十八世紀のスウィフト(J. Swift)なども同じ傾向に出ている。笑いの裏に涙があり、義憤があり、公憤があり、しかも鋭敏で深刻痛烈な人生への観照がなければ、漫画という一種の芸術は成功しない。滑稽はその鋭い切っ先を包む外皮に過ぎないからである。漫画風の作品を見て、ただ一笑に付す者は、真の芸術を全く解さない人々であろう。
だから誠実で深く物を考える人ほど漫画を好む者が最も多い。この事実は矛盾のように見えるが、実は何の矛盾もない。世界で最も真面目で、笑い声さえ高くせず、しかも極めて着実な実際的な人種は誰かと言えば、アングロサクソン人である。このアングロサクソン人ほど滑稽な漫画を好む国民はほかにない。もしイギリスの芸術からこの「漫画趣味」を除けば、その生命の半分を失うと言っても、過言ではあるまい。
【三 芸術史上の漫画】
Caricatureという語はイタリアに起源を持つが、イギリスでは十七世紀頃からすでに使用されていた。しかし漫画というものの発祥は、古代エジプトの芸術にも二三種の戯画の残片が伝わっているくらいだから、山岳と同じくらい古いに違いない。ギリシア・ローマ時代の壁画や彫刻の中にも、今日の漫画趣味のものが多いことは、西洋の美術史を繙いたことのある者なら誰でも知っている。
さらに時代が下り、中世に入ると宗教上の問題と関連して、この「漫画趣味」はますます盛んになった。修道院の壁画や建築装飾に見られるものが最も多く、このほか中世伝説の最も有名なものの一つ「ライネケ狐」(Reineke Fuchs)は、明らかに当時のドイツ国情を風刺した一篇の漫画文学である。さらに中世伝説の「悪魔」は言うまでもなく、常に冷酷な風刺の代表者である。また「死」(生きた骸骨の姿に描かれる)も中世芸術が遺した漫画趣味である。あの十五世紀のホルバイン(Hans Holbein)の名画《死の舞踏》(Totentanz)がこれである。地上の一切の人間を威嚇する「死」の絶大な力を描き出し、凄愴険巇の極みを尽くしたこの作品は、古今の芸術史上、漫画の一新紀元を開いた大作である。このようにして、文芸復興期以後のヨーロッパ各国の芸術において、諷諫嘲笑の漫画趣味・悪魔趣味は、その重要な一部分となったのである。
近代に至り、十八世紀はおおむね芸術上の漫画趣味の全盛期と言えよう。とりわけイギリスでは、小説の面でちょうどスウィフト、スモレット(T. Smollet)、フィールディング(H. Fielding)らが、卑猥あるいは粗野と批評される文章で活躍していた時期である。
第95節
【現代文学の主潮】
【一】
今を去ること五十年前、北欧の劇聖が最大の知己ブランデスに宛てた手紙の中で、いつもの激越な調子で、時勢に対して憤慨と呪詛の声を洩らしている。曰く――
「国家は個人の災禍である。プロイセンの国力はいかにして得られたか。個人を政治的地理的形体の下に沈淪せしめたが故である。……まず人々に精神的関係こそが統一を獲得する唯一の道であることを知らしめよ。かくしてこそ自由の要素も立ち上がるであろう。」
イプセンがこの言葉を書いてから約半世紀、「世界戦争」と称される鉄火の洗礼を受け、プロイセンの国家主義は滅び、ロシアの専制政治は倒れた。偶像破壊、民本、自由というこれら近世的大思想は、千九百十九年の賀すべき新春に、遂に「平和」と共に最後の勝利を占めた。このような意味において、欧州の戦乱は世界的な思想革命の戦争であった。この世界は近世最大の戯曲作家イプセンの頭脳に比べ、少なくとも五十年は遅れている。
私はまた思う、この度の戦乱は、前世紀以来の科学万能の唯物思想が道を歩み尽くした最後に発現した現実暴露の悲劇であると。しかし文芸においては、この物質主義を代表する自然主義は、とうに過去に葬り去られ、十九世紀末に近づく頃には、すでに一大回転を遂げ、理想主義あるいは神秘象徴というこれらの新思想を高唱していた。思潮はとうに方向を転じ、「科学の破産」の叫び声ですらもはや人を驚かすに足りなかった。政治においてはアメリカのウィルソンの理想主義が世界の注目を促したが、二三十年前に文芸において自然主義を葬った理想主義・人道主義・神秘主義は、久しく主潮となっていた。遅く目覚める俗衆に先んじて、詩人と芸術家は大戦以前から、二十世紀の劈頭より、すでにこの新しい道を歩んでいたのである。
世の中には奇妙な人々もいるものだ。文学が政治の類より一二十年先に進むのみならず、時には五十年あるいは百年も早いということを語れば、驚訝の顔を示す。……
新しい思想と傾向は、いつの時も、時運の大勢に催促されて、由来も知れず発動する。最初はほとんど何の頭緒もなく、合理的な形式も備えない。ただ茫漠として捉えがたく、しかし驚くべき偉大な力を持つ一種の心気、情調、心情である。……これを跳躍する生命の顕現と見ることもできよう。……早くにこの心気、この心情を捉え、この直感を、この表現を、反映するのが文芸なのである。いわゆる一種の「精神的冒険」(spiritual adventure)である。
詩人芸術家の鋭敏な感性は、あたかも風籟琴のように、何処からともなく来る風に触れると、神妙なる音を奏でる。まだ時代の意識に浮上していないものを捉え、いち早く新しい表現を与えるのである。かつてのローマ人が、予言者を意味するVatesの字を詩人に転用したのは、確かに深い意味がある。
【二】
私は信ずる、欧州の文学が世界戦乱によって直接の影響を受けて、今すぐ新しい道に向かうということは、断じてあり得ない。思うに、ただ戦前にすでに一歩を踏み進めていた神秘思想・理想主義・人道主義の道に、更に新たな力を添えて進行するに過ぎないだろう。……
前世紀末以来、欧州の文壇に闳遠に響いているのは、物質主義の束縛から脱しようとする「心霊解放」の声である。……
この度の大戦乱は、現代文明の有する一切の破壊力を以て演じられた悲劇である。一切の虚偽と迷妄を掃除し、人をして「本然の自我」に復帰せしめる絶好の機会を造り出した。……まさに一人の人間が死に臨む際に、あるいは大悲哀大苦悩の中に身を置く時、平素奔放していた心を収め、誠実に人生を思索し自己を省察するが如く、大擾乱大戦役の後、鎮定にして沈著なる態度を以て「生の問題」を一考究する傾向が人心中に萌発するのは、事理の常なのである。……
三
日本は参戦したとはいえ、この大戦乱の苦患は殆ど味わわなかった。むしろこれを意外な好機として、いくらか金を儲けて喜んだ人々が少なくない。……日本の文学は、ずっと前から民本化の民衆芸術の性質を帯びていた。この一点において、文壇は確かに政治界の類より十年あるいは五年は早い。
しかし私は戦争の直接的影響は措いて、日本文壇の現在と将来について幾つかの感想がある。
ある時代の文学には、必ず二派の潮流を見ることができる。本流となり主潮となる傾向に対して、逆流あるいは潜流として運行する流派が別にある。……私はその一を文芸の求心的傾向と称し、他を遠心的傾向と称し得ると思う。……
この現象を我が国近時の文壇に移して考えれば、自然主義全盛期と称すべき時に、別の一面では傾向が正反対の夏目漱石氏(特にその初期の作品)一派の芸術が起こり、……余裕低徊の趣味を鼓吹し、現実生活に対する遠心的逃避的傾向を現した。……次の時代に至れば、この潜流が即ち本流となって出現し、現実生活を超越した逃避的遠心的文学が、分明に近時文壇の本流となったのが見える。
新作家の作品を見るに、現実生活に切ならざるもの多し。……私は此のような傾向が駄目だと言うのではない。むしろ行き詰まった自然主義時代の現実的傾向の後に、まさに起こるべき当然の推移と反動だと思う。……
我々日本人の生活は、西洋人に比べて、常に熱と力に欠けている。一切が微温にして不徹底なのだ。……必ずや極めて深い肉の極底に溺れた者にしてこそ、初めて霊の中に生きることができるのだ。
……独り日本の文壇は、依然として文化の指導者と批評家たることを肯んじないのか。安価にして浅薄な享楽的逃避的傾向の裡に、永久に安住し続けようとするのか。
第96節
【芸術から社会改造へ】
——ウィリアム・モリスの研究
No artist appreciated better than he the interdependence of art, ideas and affairs. And, above all, Morris knew better than anybody else that Morris the artist, the poet, the craftsman, was Morris the Socialist, and that conversely, Morris the Socialist was Morris the artist, the poet, the craftsman. —Holbrook Jackson, All Manner of Folk. P.159.
【一 モリスの日本における紹介】
今から言えばすでに前世紀の末のこと、いささか古い話になるが、それ以前から我が国において長く新思潮の先駆者、鼓吹者として思想界の一方に重んぜられていた雑誌『国民之友』(民友社発行)に、ウィリアム・モリス(William Morris)を紹介した記事があった。今はもう正確には覚えていないが、その雑誌のたしか『海外思潮』と題する六号活字の欄に、おそらくモリスの逝去に際して書かれた外国雑誌の論文の翻訳であったと記憶する。いずれにせよ二十二、三年前のことで、当時私は中学生であり、何も分からず何も読めないくせに、ひたすら未見の異国の文芸に憧れていた時代で、この『国民之友』によって初めてモリスの装飾美術と詩歌と社会主義を知った。
〔以下、日本におけるモリス紹介の経緯を述べる。明治四十五年の『美術新報』における富本憲吉の銅版によるモリスの図案紹介、同年の『東亜之光』における「詩人としてのモリス」論、英国における二十四巻全集の出版、ドリンクウォーター、クラットン=ブロック、ディクソン・スコット等の評伝を挙げる。室伏高信、井篦節三、小泉信三等によるギルド社会主義の先覚者としての紹介、『ユートピアだより』の邦訳にも言及する。〕
【二 象牙の塔を離れるまで】
青春の時代を経て壮年期を過ぎ、四十歳に至るところで、人の一生は「一大転機」(grand climacteric)に際会する。日本でも俗に四十二歳は男子の厄年と言う。実際この時、生理的にも精神的にも、人は自己の生活の改造期に至るのである。かつて孔子は「四十にして惑わず」と言ったそうだが、これはよほど恵まれた人か、さもなくば愚物の話であろう。青春の情熱の時代と生気旺盛な壮年期が過ぎ去ろうとする四十歳の時、人は自己の過去と将来を深く思い、鎮静冷静な自己省察を試みるのである。
〔以下、夏目漱石、島村抱月の四十歳における転機の例を引き、ラスキンとモリスの二人が四十歳にして社会改造の方向に転換した事実に注目する。〕
〔第三章「詩人時代のモリス」では、モリスの生涯の概略を述べる。一八三四年ウォルサムストウ生まれ、オックスフォード大学時代のバーン=ジョーンズとの交友、ラファエル前派との関係、ロセッティとの協働、一八五八年の処女詩集『グウィネヴィアの防衛』、一八六七年の叙事詩『ジェイソンの生涯と死』、一八六八—七〇年の『地上の楽園』——これによってテニスンに次ぐ詩人の地位を確立したこと。〕
〔第四章「装飾美術家としてのモリス」では、モリスの「美術工芸運動」(Arts and Crafts Movement)について述べる。モリス商会の設立、壁紙・染織・ステンドグラス・家具・タペストリー・書籍印刷(ケルムスコット・プレス)等における芸術と手工業の統一の試み、「有用ならざるものを美と認むるなかれ」という格言、ラスキンの影響と独自の発展。〕
〔第五章「社会主義者モリス」では、モリスがいかにして芸術から社会改造へ至ったかを論じる。「芸術は少数の天才の独占物ではなく、万人の日常生活の一部であるべき」という信念、しかし資本主義社会においては労働者が芸術から疎外されているという認識、この矛盾の解決として社会主義に至った経緯。一八八三年の社会民主連盟加入、一八八四年の社会主義同盟設立、街頭演説・講演・著述による啓蒙活動。『ユートピアだより』(一八九一年)における理想社会の構想——機械文明の否定と手工業の復権、労働の歓びと芸術の生活化。〕
〔第六章「モリスの芸術社会主義の現代的意義」では、モリスの思想がギルド社会主義(G. D. H. コール等)に与えた影響、芸術と労働の統一という理想の現代的意義、モリスにおける芸術家と社会主義者の不可分性を論じて結ぶ。〕
芸術家モリスが詩人モリスであり、手工芸家モリスであり、同時に社会主義者モリスであったこと——この事実こそ、彼の生涯の最も本質的な特徴であり、また我々が彼から学ぶべき最も重要な教訓である。芸術は孤立した象牙の塔の中に閉じ籠もるべきものではなく、万人の生活に浸透し、社会全体を美しくするものでなければならない。この信念において、モリスは今なお我々の先達である。
第97節
【思想・山水・人物】
日本
鶴見祐輔 作
【題記】
二三年前、私がこの雑文集から『北京の魅力』を翻訳した時には、続けて訳して一冊の書物に纏める気はなかった。文章を書きたくない時、あるいは書けない時に、どうしても書かねばならぬ際には、私はいつも少々の訳文でお茶を濁してきた。しかも訳者にも読者にも労力の少ない文章を選ぶのが好きだった。この一篇はうってつけであった。さっぱりと書き進み、少しも難解ではないが、中国の影もはっきりと見える。私の蔵書は非常に少ないが、後にはやはりここから幾篇かを選訳した。それは大抵思想と文芸に関するものであった。
著者の専門は法学であり、この書の帰趣は政治であり、提唱するところは自由主義である。私はこれらについてよく分からない。ただその中の英・米の現勢と国民性の観察、アーノルド、ウィルソン、マレーといった人物の評論には、明快にして的中した所が多く、滔々として瓶から水を注ぐが如く、知らず知らずのうちに巻末に至る。聞くところでは青年の中にもこのような文章を見たがる人が少なくないという。旧訳を検して、長短合わせてすでに十二篇あり、いっそ上海の「革命文学」の潮声の中、ガラス窓の下で、さらに八篇を訳し足し、一冊に纏めて付印した。
原書は全部で三十一篇。著者自身の序に言う如く、「第二篇より第二十二篇までは感想であり、第二十三篇以下は旅行記と旅行に関する感想である」。私は第一部分から十五篇を選訳し、第二部分からは四篇のみを選んだ。私から見れば、著者の旅行記は軽妙であるが、往々にして軽妙に過ぎ、日刊新聞の雑俎を読むかのようで、かえって移訳の興味を減じてしまうからだ。あの『自由主義を説く』の一篇も、私の注目する文章ではない。私自身はむしろゲーテの言う、自由と平等は並び求めることも並び得ることもできないという言葉の方が見識があると思うので、人はそのいずれか一方を先に取らねばならぬのだ。しかしそれは著者の研究し神往するところであるから、この書の本色を失わぬためにわざわざその一篇を訳し加えた。
ここで一言の声明を添えたい。私の訳述と紹介は、元来ただ一部分の読者に、古今にこのような事あるいはこのような人、思想、言論があることを知らしめんとするに過ぎず、皆がこれを言動の南針と為すことを求めるのではない。世にはまだ人の意に悉く適う文章はないのだから、私はただ自分がその中に有用なるもの、有益なるものがあると感ずれば、やむを得ず前述の如き時に、移訳に取りかかるのであるが、一たび移訳すれば全篇中にたとえ大いに己の意に背く箇所があっても、削除はしないのである。それは本相を変えるのは、著者に対しても読者に対しても申し訳ないと思うからだ。
以前に厨川白村の『象牙の塔を出て』を訳印した時も、やり方はこの通りであった。……
例えば本書中の『事の処し方について』は極めて平凡な一篇の短文であるが、しかし私に多くの益を与えた。私は元来の仕事の仕方として、一件が未だ終わらねば始終心に掛けているので、そのため疲弊しやすい。あの一篇の中にはこのような気質の駄目なことが指示されており、人は物に凝滞してはならぬのだ。これはどんな事をするにも効法すべきことであるが、決して中国に先祖代々伝わる「事を事と思わぬ」即ち「不真面目」と混同してはならない。
原書に挿画三幅あれども、私は本文と余り切合しないと感じたので、皆改め換え、しかも原数より幾枚か増やして、文中に講ずる人物と場所を示し、読者の興味を増すことを望む。私の為に画を蒐集してくれた幾人かの友人にはここで感謝の意を表し、また私の分からぬ原文を教えてくれた諸君にも。
一九二八年三月三十一日、魯迅、上海の寓楼にて訳了し記す。
【序言】
サッカレーは元来小説家になる準備をしていたわけではない。先祖の遺産を蕩尽し、債務に苦しみ、そこで初めて筆を執り始め、遂に一代の文豪となった。ワシントンでさえ、夢にも軍人になろうとは思わず、まさに測量士の修業をしている最中に、突然戦に出て、古今の名将となったのだ。
我々各人は、どのような職業に就き、どのような仕事を成すために、この世に生まれてきたのか、知ることができない。ある人は一生それを知らぬまま死んでしまう。……要するに、我々の一生は、あるいはこのような「畢生の業」(Lifework)の探索の裡に過ごされるのかもしれない。
殊に現代の日本のような処世困難な世にあっては、我々は本性に適った仕事に没頭する前に、まず自分の生活の為に働かねばならない。……かくして多くの人々は、望みもしない仕事をして一生を送るのだ。これは即ち、職業と事業の分離した生活を過ごすことである。言い換えれば、ただ生存しているだけで、真に生活しているのではないのだ。……
しかし、この世が真のユートピアとなり、我々の職業が我々の性格に恰好に適った事業である時代が来るまでは、この状況は致し方ない。……このような時代の完成、即ちユートピアの達成こそが、我々人類文化の究竟の目的であるべきだ。
……真の事業の探索は、我々の意識的にして無意識的な努力である。これは真の人生の探索なのだ。
……古来の大事業は大抵、いわゆる専門家ではない人々の手に成ったのだ。……
私自身のようなものも、多くの日々を職業と生活の分離に苦しんだ一人である。……この余業こそが、書斎の中で読書し、思索し、文章を綴ることなのだ。
英国の文豪ウェルズは、まず小学校教師として出発した人であるが、後に小説を試みて、遂に自分の性格に完全に適った生活に入った。……
大正十年の初夏、私は二年八か月の長旅を終え、欧米より帰った。……帰国後三年間に記した文筆が箱の底に堆積していた。……これが本書である。……
第一篇の『断想』は『時事新報』の需めに応じ、逐日掲載したものである。……この一篇ではウィルソン、マレー、英国労働党を論じ、英米両国政界の基調たる自由主義の精神を示している。
……貫くこれらの文章の共通の思想は政治である。……
大正十三年七月四日朝。
逗子海辺にて。著者。
第98節
【断想】
【一 落日】
麻布区六本木の停留場から、電車通りに沿って青山六丁目の方へ歩くと、途中に一種の趣がある。その次の材木町停留場から、霞町の街路に向かうと、とりわけ特色がある。冬の晴朗な朝には、秩父の連山が一夜のうちに真白に変わり、紺碧の空にくっきりと浮かんでいる。夕方になれば富士山が見える。このような背景を得て、両側の屋根もいっそう趣深く見えるのだ。
昨夕、私はこの道を歩いた。ふと対面の街路の上に、大きな落日が沈もうとしているのが見えた。陰鬱な光線を帯びているため、桃紅色の大きな塊のように見える。これは心中に非常な荘厳の感を呼び起こした。
ふと人間の晩年を思った。このように偉大な姿を見せて、静かに地平線の上に沈んでゆく人のことを。このような光景は、見る者の心中に名状しがたい感慨を生ぜしめる。
このような人が、最近の日本にいたであろうか。いずれにせよ、大隈侯の晩年には一種の偉大さがあった。先ごろアメリカの首都ワシントンで静かに死んだウィルソンも、その最後にはやはり沈みゆく太陽のような荘厳があった。フランスのアナトール・フランスなども、このような感想を抱かせる。
〔以下、数十の短い断想が続く。各テーマの概要:〕
【二 ピット】——英国のウィリアム・ピットについて。二十四歳で首相となり戦時の大宰相として活躍、しかし最後は酒に溺れ四十六歳で没した。ピットとナポレオンの対比。
【三 ジョージ・ワシントン】——ワシントンの人格と統率力について。
【四 余の好む人物】——歴史上の好む人物について述べる。
【五 新聞】——新聞の功罪と近代社会における役割。
【六 リンカーン】——リンカーンの偉大さ、ゲティスバーグ演説、暗殺の悲劇。
【七 グラッドストン】——グラッドストンの雄弁と政治的信念について。
【八 ワシントン会議】——ワシントン軍縮会議の意義と限界。
【九 日英同盟】——日英同盟の歴史的意義と終焉。
【十 関東大震災】——一九二三年の大震災後の東京の復興について。
【十一 排日移民法】——アメリカの排日移民法に対する批判。
【十二 出版と著作権】——出版事業と著作権保護の必要性。
【十三 教育論】——日本の教育制度の問題点と改革の必要。
【十四 政党政治】——政党政治の理想と現実の乖離。
【十五 婦人参政権】——婦人参政権運動の意義。
〔さらに軍縮問題、国際連盟、民族自決、社会主義思想、文化交流、東西文明の比較等、多岐にわたるテーマの断想が続く。各断想は数行から数頁の長さで、時事評論的な鋭い観察と、歴史的な洞察を含む。全体として、大正末期から昭和初期にかけての日本と世界の政治・社会・文化に対する知識人の省察の記録である。〕
第99節
【人生の転向】
これは真実の事である。
十月末の寒風が、戸外で颯々と音を立てている。二隅の角型シェードの電灯だけが灯った大きな部屋は、いささか薄暗い。暖炉の火が不意に燃え上がり、傍がぱっと明るくなった。
アメリカ人には珍しい淡雅な趣の主人で、部屋には少しも強烈な色を使っていない。素朴な木製の卓椅子は皆黒く塗られ、壁は淡黄色。窓掛けから画幅に至るまで、目立つ色彩を避けている。暖炉の周りにあるのも黒縁の書箱で、様々な本が乱雑に置かれている。私はこの書箱を見るたびにいつも不思議に思い、ほんの少しの不完全な書籍から、よくもあれほど多くの議論を雑誌に発表できるものだと心の中で思っていた。
主人は暖炉の右側、私は左側、そして美貌の夫人が暖炉の正面に、それぞれソファに腰掛けて、先刻からこのように三人で夕餉後の幽閑を味わっていた。主人は流行の小説家であり、夫人は女性作家である。ニューヨークの慌ただしい生活の中でこの一家を訪ねるのは、私にとって滅多にない楽しみの一つであった。
私がふと「どうすれば英文がうまく書けるか」と訊ねた。すると主人は微笑して、暫く無言であった。これはこの人の癖である。
「これはまだ誰にも話したことがないのだが」と、暖炉の火を鉄鉤で掻き立てながら、話し始めた。
「人の生涯というのは不思議なものだと思う。今はこうして小説を書いているが、ハーヴァード大学に通っていた頃は、ずいぶん苦学したものだ。法律科を出たばかりで何もすることがなく、『ボストン通信』の記者になった。毎日毎日、朝早くから夜更けまで働いた。しかし苦心惨憺して書き上げた記事は、一篇たりとも署名を許されなかった。片隅に他の記事と一緒に放り込まれるだけだった。月給は一週間二十ドルで、とても暮らしていけなかった。毎日毎日、宿屋に帰って、やっと一息つくのだった。
「ところがある日、別に何ということもなく、鉛筆を手に取ってさらさらと一篇の短篇小説を書いた。これを封筒に入れて、その頃最も流行していた『マクルーア雑誌』に送ってみた。誰の紹介もなしにだ。すると二週間後、マクルーア社から書留が届いたではないか。開けてみると、六十五ドルの為替が入っていたではないか。あの短篇小説の稿料だった。
「この時、手に持った六十五ドルの為替を見ながら、考えた。これはたった五六時間で書いた小説の収穫だ。朝から晩まで汗を流す記者生活一か月の収入に匹敵する。自分の活路はここにある。思わずそう叫んで、すぐに新聞社を辞め、専ら小説を書き始めた。
「それから次第に流行り出して、今はこうしてさほど窮屈でない生活を送り、政治論文も書き、演説にも行き、人々も注目するようになった。何とも不思議なことだ――」
そこで三人とも暫く沈黙した。
主人がまた話し出した。――
「五六年前、西部のシンシナティの街で、有名な犯罪事件があった。私はニューヨークの大きな雑誌社の依頼を受け、その事件の記事を書くためにその街へ行った。ある日、一人の男が旅館に訪ねてきた。聞けば新聞記者で、この街の新聞社に長年勤めているが、給料が少なくて暮らしていけないと言う。小説家になりたい、小説家になる方法を教えてほしいと言った。私はすぐに訊いた。鉛筆はあるかと。あると言った。それでは紙はあるかと。ええ、あると言ったではないか。そこで私は言った。それ以外に小説家に必要なものはないではないか。この鉛筆でこの紙に書けば、それで済むではないかと。すると彼は驚いた。書くことがないではないかと言う。それで私はすぐに教えた。書くことがない?この街の犯罪事件を知らないのかと。知っている?そうだろう。全アメリカの視聴を聳動させたこの事件の真相を最も詳しく知っているのは、この街の新聞記者ではないか。これをそのまま書き下ろせば、立派な小説ではないか。すると彼は連声で分かった分かったと言って帰った。この事件を材料にした小説は果たして成功し、彼は今や一流の小説家になっている。
「だから、君の問題もそうだ。英文がうまくなる秘訣など少しもない。ただひたすら真面目にこつこつと書くことだ。それ以外に文章が上達する方法はないのだ。」
全くその通りだと思った。しかしふと訊ねた。――
「アメリカの小説家の稿料は、一体どのくらいなのですか。」
「そうだな」と主人は言った。「ブース・ターキントンやアーヴィン・コブ等の域になると、印刷された五六頁の短篇で大抵二千ドルだろう。私程度でも、短篇小説の時価は千ドルだ。買い手は二十人三十人もいる。大抵は仲介人に預けて売ってもらう。するとこの仲介人が各所に送って見せ、値段もだんだん上がってくる。」
そこで私は彼に日本の出版界のことを話した。尾崎紅葉の時代には月百円の収入を得ることも難しかったこと、独歩のことなど。しかし主人はこう言った。――
「それこそ正当だ。そうであればこそ、純文芸が生まれるのだ。フランスだってそうではないか。アメリカのようなのは邪道だ。こんなことでは真の芸術品は生まれない。」
何故かと訊いた。
「何故?何の理由もないではないか。君の国やフランスの小説家が小説を書くのは、真の創作欲の衝動から起こるのだ。しかしアメリカの動機は何か。私自身を見れば分かるではないか。コマーシャリズム(商業主義)だ。このコマーシャリズムの動機から出た小説に、大作品が生まれるものか。」
主人はそう言い終えると、また黙然と沈思に耽った。
この話をした一年後、彼はハーディング大統領の選挙を賛助し、その政治的才幹が内外に賞識され、一躍して欧州の一大国の大使となった。彼はすでに二度目の人生の転向を遂げ、まさに国際政治家に化しつつある。これは必ずしもアメリカが広大にして自由な国であるが故のみではあるまい。
(一九二三年八月十四日。)
第100節
【独善】
【一】
先般、ある集会で私は自分の意見を述べ、ロシア文学が日本で盛行していることを指摘し、さらに今後は英文学の研究がいくらか盛んになることを望むと言った。この言葉に対して、多くの青年がただちに反論を提出し、我々がわざわざ英文学やロシア文学に力を注ぐ必要などあるのか、日本文学を研究すればそれで良いではないか、と主張した。『源氏物語』や『徒然草』のような優れた文学が現にあるではないかと。一人はさらに一歩を進め、太閤(訳者注:朝鮮征伐の豊臣秀吉)以来の議論を展開し、我々が外国語を学ぶよりも、世界中の人々に日本語を学ばせる方がよいと述べた。これは私の提案とは全く正反対の見解からの反駁であった。しかし、この類の議論がこの集会の多数者の意見であり、しかも中学卒業程度の若者の意見であったことに、私は少なからず驚いた。そこで私は二つの外国の人種のことを思い起こしたのである。
【二】
北アメリカ合衆国の歴史を読んだ者であれば誰でも、この土地のもとの旧い主人が、アメリカ・インディアンと呼ばれる人種であることを知っている。この原先の故主は、次第に新来のヨーロッパ人に駆逐され、山の奥深くに退き、今では各州の片隅に、アメリカ政府の特別保護の下で、憐れな生活を送っている。人口も漸次減り、おそらくはついにこの地上から完全に消え去ることであろう。
しかしこのインディアン人は、その容貌が日本人に似ているのみならず、性格においても我々の同情を惹くに足るものが大いにある。これは我々がアメリカ史を読む度に常々感ずることである。
【三】
彼らは極めて勇敢な人種であり、山野に漁猟し、風霜に心身を鍛え、敵に対しては水火の中にあっても毫も怯むことなく戦い、しかもその生活は清潔であった。男女の関係は純正であり、身辺も清浄であった。殊に敬服すべきは、節義を重んずる情が厚いことである。かつてこのような話があった。
あるとき、一人のインディアンの青年が殺人罪を犯し、発覚して死刑を宣告された。彼は従容としてこの宣告を受けた後、静かにこう言った。——
「裁判長殿、私には一つのお願いがございます。お聞き届けいただけますか。ほかでもございません。ご存じのとおり、私の職業は野球です。この秋の球季のために、すでに興行主と契約を結び、一季節いくらの報酬で出演することを約束しております。もし私が行かなければ、我がチームはおそらく大敗するでしょう。私の死刑の執行を、数ヶ月延期していただけないでしょうか。野球のシーズンが終わりましたら、必ず戻って死刑の執行を受けます。」
驚くべきことに、裁判長はただちにこの青年の願いを許した。しかし、さらに驚くべきことに、このインディアン人は興行主との約束どおり野球を演じ終え、次いで裁判長との約束どおりそこに戻って、死刑の執行を受けたのである。
この話を聞かせてくれたアメリカ人はさらに数言を付け加えた。——
「インディアンだからこそ、裁判長は信じたのです。インディアンという人間は、死んでも約束を違えないのですから。」
【四】
これらの話は、私にさまざまなことを思い起こさせた。このような美徳を持つインディアン人を欺いて、あの広大な土地を奪い取ったアーリア人に対して、憎悪の念が湧いた。しかし、それにも増して強烈に私の心を打ったことがもう一つある。それは、かくも優良な人種が、なにゆえにこれほど惨憺たる滅亡を遂げたのか、ということである。
ある日、私はボストンで、インディアン人の研究の専門家として名高い博士に出会った。私はあれこれとこの人種の性格などについて尋ねた後、インディアン人がなぜ次第に滅亡に向かったのか、その原因を質問した。
博士の答えはまことに味わい深いものであった。——
「それはインディアン人が持っていた大きな弱点の結果であろうと、私は思います。何かと申せば、それはarrogance(驕慢)です。彼らは自分たちが世界唯一の優良人種であることを確信しており、その結果、他の人種、殊に白色人種に対して非常に蔑視したのです。その蔑視には、もとよりかなりの道理があります。なぜなら道義の面から言えば、白人は確かに彼らの軽蔑に値することを多くなしていたのですから。しかしその結果、彼らは白人の持つ一切の長所をも蔑視してしまいました。たとえば白人の文明に対して、少しも学ぼうとしなかった。殊に科学に対しては、全く重んじなかった。いつの時も、自分たちの種族が持つ伝統の範疇の中にのみ生活していた。かくして彼らは毫も進歩しなかったのです。これこそ、あれほど良い人種でありながら、次第に滅亡に向かった最大の原因でありましょう。」
私は直ちに恍然として悟った。人類の生涯において最も恐るべきものは、この驕慢な独善である。その瞬間、この人の発達は停止し、この民族の発達は停止するのだ。
我々が古代の世界史を見れば分かる。ローマ民族が世界を征服したのは、何に拠ったのか。これは明々白々、他の人種の文化を包容し得るあの謙恭な心情のおかげである。彼らは周囲の民族を征服しつつ、一方では被征服民族に自由市民の待遇を与え、自分たちと同等とした。しかも彼らの文明を余すところなく摂取した。ギリシアの文明がローマに入るや、あのように爛熟したのだ。やがてローマ人が軍事上の成功に眩惑され、次第に倨傲な性格に変わった時、あの永遠不滅に見えた大帝国は、朽木のように倒れた。ドイツ人を破壊へと導いたのはドイツ至上主義であり、現今の支那の衰運もまた、中華民国の自負心の結果にほかならぬ。これはアメリカ・インディアン人のみに限った運命ではないのだ。
【五】
しかし、ここにまた、これと全く反対の例として挙げ得るものがある。それはユダヤ人である。
私がユダヤ人に興味を覚えたのは、五年前にアメリカに寓していた時からである。西洋人の間におけるユダヤ人排斥の状況に目を惹かれ、なぜあれほど排斥するのか、その理由を考えるようになったのだ。
たとえば、ユダヤ人とは婚姻を通じない。もし娘が我意を通してユダヤ人と結婚すれば、親戚は彼女と絶交する。自分の家にユダヤ人を食事に招くことは決してない。良い学校はユダヤ人を受け容れない。良い倶楽部はいかなる場合もユダヤ人の入会を許さない。良い旅館はユダヤ人を泊めず、帳場が口実を設けて断る。断られることを知っているので、ユダヤ人自身も行かない。その他、ユダヤ人禁止の看板を立てている場所は、一つや二つではない。しかも会話の中で、良くない事物を形容する時には、必ず「ユダヤ人のように」などと言う。いわゆる西洋事情に通じた人々も、この西洋人の「ユダヤ人嫌い」を学んでユダヤ人の悪口を言うが、ユダヤ人がなぜそれほど悪いのかという原因は、調べようとしない。
【六】
私はこの世界に瀰漫するユダヤ人排斥の感情をまことに奇怪に感じ、一つ一つ研究してみた。人に会う度にも尋ねた。その結果感じたのは、誰もが異口同音にユダヤ人は悪いと言いながら、ユダヤ人がいったいなぜ悪いのかという理由については、明瞭に意識していないということであった。信義がないからだと言う者もあり、宗教上の反感からだと言う者もあり、金銭に関わることとなれば、いかなる苦肉の計をも辞さないからだと言う者もあり、社交上の礼儀がなく不愉快にさせるからだと言う者もあった。しかし、もしこれらをすべて理由とするならば、ユダヤ人に限らず、同様の欠点を持つ人種は他にも多くいるのである。
このことをユダヤ人に尋ねてみると、面白いことに、彼らはみな、これはキリスト教徒のユダヤ人に対する優越性への反感だと考えていた。
では、何の恩怨もない第三者たる我々が静かに観察してみると、実際どう見えるだろうか。上述の理由も、大体の説明としては成り立つ。宗教上の闘争は二千年来の反感であろうし、金銭上の闘争もシャイロック以来の長い伝統であろう。しかし、それだけには留まらない。人種間の反目は、思想上の原因に端を発するものではない。必ずもっと浅近な所にあるはずだ。
この浅近で根本的な原因として、私は次のことを発見した。これはさまざまなユダヤ人と交際した後に感得したことである。すなわち、ユダヤ人の集団性である。
一人のユダヤ人と知り合えば、必ず彼の多くの友人に出会う。一人を食事に招けば、必ず多くの者が同行する。訪問してみれば、必ず多くのユダヤ人が一堂に集まっている。
これは水と油のようなものだ。アーリア人種全盛の今日にあって、ユダヤ人はアーリア人種の中に寄食しながら、他の人種のようにアーリア人に屈従せず、昂然として自らを守っている。しかも各方面でアーリア人に望塵の嘆を抱かせることしばしばである。ただこれだけなら、まだどうということもない。しかし、この明らかに異質なユダヤ人が、始終自分たちだけで団集している。しかも常にユダヤ人特有の社会生活を送っているので、確かに厭わしいところがある。のみならず、この人種の通有性はまた進撃的であって、静止することなく、次々に攻め寄せてくる。面倒で、恐ろしく、近づき難く、油断がならない。かくしてアーリア人もますます腹を立てるのである。
【七】
その根本の原因は、いったいどこに在るのか。それは明々白々、ユダヤ人の中にある唯我独尊的な気概にある。彼らはネブカドネザル大王以来、世界のさまざまな人種から迫害を受け続けてきた。弱い人種であれば、とうに滅亡していたはずであるが、彼らは独り自己の強い精魂をもって、この数千年の狂涛怒浪に立ち向かった。これは彼らの優越なる性格の賜物である。
かくして、いかに迫圧しても遂に滅びぬこの民族自身への強く有力な信仰が、火のように燃え盛っている。おそらく誰もが、ハム人の全盛期にも、サマリア人の全盛期にも滅びなかった彼らが、ひとり現今のアーリア人の全盛期に屈服しなければならぬ道理はないと考えているのであろう。
故に彼らは、絶海の孤島のごとく、自己の文明の灯火を守護し伝授してきた。周囲の文明がいかに変遷しようとも、彼らはアブラハムとモーセの伝統をしっかと抱き締め、今日まで反抗し続けている。
【八】
その道筋は、ある意味においてアメリカ・インディアン人と同一の型である。ともに自己を守り、周囲と妥協しない。ともに唯我独尊である。
しかし、なぜ一方は滅び、一方は滅びなかったのか。これは明らかに知能の優劣の懸隔による。ユダヤ人は歴史上まれに見る優越な知能の持ち主であり、故に五千年来、自己の孤塁を守り抜くことができたのである。
しかし、その非妥協的な性格は、常に当時の主宰民族と抗争し、鮮血淋漓たる歴史を造ってきた。故に帰するところ、インディアン人と同じく、他の人種を征服するか、さもなくば遂に他の人種に征服されるかの二途しかない。もしユダヤ人がその現在の非妥協的態度を改めないとすれば。
ここで私は、議論の出発点に立ち戻りたい。日本人が終始『源氏物語』と『徒然草』の伝統に安住し、日本語を世界語にする夢を見ることは、一見すればなるほど勇敢な愛国的心情のように見える。しかしその中には、人類文化の発達に背反する多くの危険が含まれている。
我々の祖先は「大化改新」の大業を成し遂げ、日本民族隆興の礎石を据えた。これはすなわち唐の文明の輸入、摂取、包容であった。さらに長い沈滞の歴史を経た後、我々は再び「王政維新」という外科手術を試み、ようやくまた蘇生した。これはすなわち西洋文明の流入、咀嚼、接種であった。しかも、まず「尊王攘夷」をもって端を開いた志士の運動が、尊王の志を遂げるや忽ちにして「尊王開国」に転じたことには、無窮の意味が含まれている。
一つの民族をもって全世界を征服するという夢は、すでに古びたものである。ペルシア、ローマ、モンゴル、ナポレオン——いずれもこの道に蹉跌した。しかし世界の文化を摂取し、新たな文明を建設した民族こそが、史上に永久の地位を占めるのである。蕞爾たるアテネの文化は、今もなお世界文明の淵源である。
我々もいくらか分別を弁え、誇大妄想の独善から脱すべきである。『源氏物語』の研究だけしていればよいなどという時代錯誤の思想が、青年の口から出ることは、決して日本の教育の名誉ではない。我々は謙虚淵淡の心を抱き、世界の文化を何の顧慮もなく摂取すべきである。そこからこそ、新しいものが生まれてくるのである。
(一九二三年八月十四日。)
第101節
【読書の方法】
【一】
以前は「人類の災厄」とされていたのは、老、病、貧、死であった。近来はまた別様の算え方ができて、浪費や無智といったものも人類の敵に列せられるようになった。浪費に対して殊に力を尽くして攻撃した人に、イギリスの思想家ウェルズがいる。
浪費の事は、我々はさまざまな方面から考えることができる。浪費と言えば、以前は大抵、金銭のことだと思われていた。しかし金銭の浪費は、浪費の中の微末な事に過ぎない。我々のいう浪費とは、物質の浪費、精神の浪費、時間の浪費である。しかも我々が殊に痛切に感じるのは、精神の浪費がいかに人類の発達に害を及ぼしているかということである。我々の幸福を毀損するものは、この無益なる精神の消費なのだ。もし我々の生活からこのような無益を節約し得るならば、我々各人の幸福の分量は、必ずや大いに増加するであろう。たとえば、諸事に対する杞憂だの、世俗への顧忌だのは、いずれも無益なる精神の浪費である。
【二】
しかし、我々が良いことだと思っている事柄の中にも、しばしば思いがけぬ浪費を犯しているものがある。たとえば読書などがその一つである。
もし我々が球技と読書を比較するならば、誰であっても球技は無聊な遊びであり、読書は有益な労作であると考えるであろう。しかし事実においては、球技によって疲弊した心身を休め、その後の労役への準備とすることもしばしばあり、読書によって無用な神経の亢奮を招き、真実の活動を妨げることもある。要するに、球技の中にも浪費と非浪費の別があるように、同じく読書にも浪費か否かの差があるからである。
殊に読書については、我々は少年時代から文字を誦読する術のみを学び、真の読書法は授けられなかったので、一生の中、いたずらに浪費して読書する時が甚だ多い。では、我々はいかにして読書すべきであろうか。
【三】
ここで私が述べようとする読書は、車中の長旅を慰めるために稗史小説を読むとか、一日の疲労を解くために詩人の詩を誦するとか、消閑の方法としての読書ではない。書物から何かしらの啓発を得ようとして、手に取って読む時の読書である。今は、折しも新涼が天地に入り、灯火いよいよ親しむべき候である。古人がいかに読書したかを一度研究してみるのも、あながち徒爾のことではあるまい。
【四】
誰しもその生涯の中に、書物を懸命に乱読する時期がある。この時期が終わった後に、初めて静かに回想する。自分はこの幾百巻の書物から、いったい何を得たのだろうかと。一種の寂寞たる失望を覚えぬ者はまずいないであろう。それは往々にして目を疲労させ、精神を糜爛させ、財布を涸渇させたに過ぎなかった。我々はしばしば、読書は全く無益であるという武断に陥りがちである。
しかし、さらに仔細に検点すると、これは大抵、読書の方法を研究しなかったために生じた誤りであることが分かる。天下にはいわゆる非常の天才がいる。このような人々は何の方法もなしに書巻の奥義を通暁し得るので、このような人々にとっては読書法も用をなさない。たとえばかつて大谷光瑞伯が、門弟の書に朱線が引かれているのを見て大いに叱責し、朱線に頼らねば記憶し得ぬのは駄目だと言ったことがある。しかしこのような言葉は、決して我々凡人が模倣すべきものではない。我々はひたすら平凡で安全な道を歩むべきである。
【五】
方法はおおよそ四種あるようである。第一の方法は最も通行しているもので、朱線を引くことである。
線の引き方にもいくつかある。単に赤鉛筆で傍に線を引く者もあれば、さらに進んでさまざまな種類の線を引く者もいる。新渡戸博士は日本有数の読書家であり、読んだものも非常によく記憶している。先生の読み終えた書物を見ると、さまざまな種類の線が引かれ、色も赤鉛筆と青鉛筆の二種類に分けられている。文章の良い所には赤、思想に感服した所には青で印をつけているのである。しかもその線は、西洋書であれば三種に分かれる。最も良い所にはアンダーライン、次は丸印(甚だ大きく、一頁全体にわたる)、その次は頁の傍の直線である。
イギリスの碩学ウィリアム・ハミルトン(William Hamilton)はこう言っている。——
「もしアンダーラインの術を巧みに会得すれば、重要な書物の要領を理解する方法を得ることができる。もしアンダーラインすべき内容の区別に従って、たとえば理論と事実の区別に応じて、用いるインクの色を変えるならば、後日参照する際に発見しやすいのみならず、読み進む際にも胸中に一種の索引のようなものが生まれ、理解を助けること計り知れない。」
このアンダーライン法は、一般の読書人がよく用いるものであるが、もし余白にさらに記注を加えれば、読書の功効はさらに偉大であるように思われる。
この方法の中には、詳細に摘要して記憶に資する者もあり、内容の批判を書き込む者もいる。もし批評を余白に書いておけば、読書の際に批評精神がつねに覚醒しており、所得はさらに多いようである。この点は、偉大な学者の読了した書物をさまざまに比較して研究すると、大いに得るところがある。
【六】
次の方法は、読みつつ抜き書きをし、抜萃帳を作ることである。これは古来の学者が広く用いた方法で、大著述などをなした人は、大抵抜萃を作ったようである。聞くところでは、ウィルソン大統領なども学生時代から心がけて抜萃を作っていたという。現代イギリスの大政治家にして文豪でもあるモーリー卿も、次のように述べている。——
「一つの読書法がある。それは常に備忘録を座右に置き、閲読の際に、特出した、興味ある、示唆に富んだものを、間断なく書き上げてゆくことである。もしこれを活用しやすくするならば、項目を分けて一々記載する。これは読書の際に思想をその文章に集中させ、文意を正しく理解する習慣を形成するための最良の方法である。」
しかしこれには反対説がある。史家ギボン(E. Gibbon)はこう言う。——
「抜萃の法は、決して推賞に値しない。読書の際に自ら筆を執ることは、確かに思想を紙の上に印するのみならず自分の胸中にも印する効験があるが、そのために我々が浪費する努力が少なからぬことを思えば、差し引いた後の所得が果たしてどれほどあるか、甚だ疑わざるを得ない。」
私もギボンの説に賛成する。なぜなら、常に備忘録を書く努力は、読書の興味を減少させ、読書を一種の苦役に変えてしまう虞が大いにあるからだ。それだけでなく、備忘録なしには読書できないという習慣を生み出し、読書を難事と見なすようになる。しかも読書の速度も、おおよそ四分の一は減ずるであろう。どの方面から見ても、抜萃法はあまり良い方法とは思えない。むしろ例外として、時折試みるにとどめるべきであろう。
【七】
抜萃法よりもさらに功効のある読書法は、再読である。すなわち、すでにアンダーラインを施した書物を、もう一度読み返すことである。イギリスの碩学ジョンソン(S. Johnson)博士はかつてこの事について次のように述べた。——
「抜萃の労を取るよりも、再読の方が記憶にとって便利である。」
これは名言であると思う。なぜなら抜萃は自分で書く以上、往々にして原文の意味と異なってしまうことがある。再読にはこの弊害がないのみならず、初読時には見出せなかった原文の真意が、ここに初めて獲得されるという利益がある。殊に含蓄深遠な書物は、繰り返し読めば読むほど、主旨もいよいよ分明に見えてくるのである。
【八】
さらにもう一つの読み方がある。これは我々普通の人間には到底なし得ない高尚な方法である。すなわち『ローマ帝国衰亡史』を著したギボン、およびウェブスター(D. Webster)、ストラフォード(Th. W. Strafford)といった人々が実行した方法である。ギボン自身こう述べている。——
「私は新書を手にする度に、まずその構成と内容の大体を一瞥し、それから本を閉じて、先に自分の内心の試験を行う。この新書が論ずる主題の全体ないし一章について、自ら問い自ら答えるのだ——私はどう考え、何を知り、何を信ずるか、と。十分に自己省察をなした後でなければ、その一冊を開くことはしない。なぜなら、こうすることによって初めて、この著作が自分に何の新知識を与えるかを知る立場に立てるからだ。またこうすることによって初めて、この著作への共感の満足を感じ、あるいは全く相反する意見の場合にも、予め自ら警戒する便宜が得られるからだ。」
これを見れば、ギボンのように半生を『ローマ史』に傾注した史家が、批判の正鵠を失わぬために費やした準備が、並大抵のものではないことが分かる。しかし、これはその問題にすでに十分な造詣を積んだ後のことであり、我々がこのように周到な準備をもって読書することが難しいのは、言うまでもない。
【九】
要するに、私の考えでは、色鉛筆によるアンダーラインないしサイドラインの法が、最も普遍的な読書法である。その上に批評を書き込み、読了後にまずその感想を脳裏に温習し、数ヶ月後に再びその書を取り上げ、赤や青の線を施した箇所のみを再読するのは、時間を節約し功効を上げる方法であるように思われる。ただしこの方法は、その書が自分の所有でなければならないので、図書館等での読書の際には、抜萃法を併用せざるを得ない。私のある知人は、かつて図書館の書籍に赤線を引いたことがあり、その理由として、後の読者の便利になるからだと言った。これは全く正しくない議論だと思う。なぜなら、読む書物から感得する部分は人によって異なるのであり、借りた書や図書館の書に赤線を引くことは、不道徳なのである。
赤線を全く引かずとも、読了後に書物の全部を記憶し得る人もいるという。たとえば新井白石やマコーレー(Th. B. Macaulay)卿などがそうである。しかしこれらの人々は、暗記的知識に富む一方、批評的・瞑想的能力に欠けていたように思われる。万能でない我々としては、やはりひたすら要点を捉え、枝葉の点は忘れてしまう方がよいのではないか。
【十】
さらに、漫然と読書することは、完全に良くないのだろうか。この一事については、従来の人々の間にもさまざまな意見の相違があるようである。乱読は思想を散漫にするだけで何の益もないので全く禁ずべきだという者もいる。しかし一方で、ある碩学は、図書館などの場所で随意に書籍を渉猟し、さまざまなものを散読することは、思想の眼界を開拓し得ると主張した。
モーリー卿はこの事について、次のような言葉を述べている。——
「私はむしろ妥協論者である。初学者にあっては、乱読の癖はかなり有害であるが、すでに一定の専門を修めた者にとっては、その問題に関する乱読は、必ずしも非議すべきことではない。なぜなら彼の思想にはすでに体系があるので、たとえいかなる書を漫然と読もうとも、その断片的知識は自然にその思想的体系の中に編入され、秩序ある系体の中に帰属するからだ。このような人は、到る処でその知識を増すべき材料を摂取しているのである。」
(一九二三年八月十四日。)
第102節
【指導的地位の自然化】
【一】
我々はいま旋風の中に座している。非常な速度で進む風が、幾十幾百の異なる方向に奔騰している。すべての個人がこの風圧の中に漂っている。これは全世界に溢れる思想的混乱の大暴風雨である。
欧州戦争は、従来の伝統的精神の錨を断ち切った。いかに安閑とした人でも、旧来の思想を抱いたまま安心して日を送れぬ時代がすでに到来したのだ。物価の騰貴という一つの原因だけでも、全世界の民衆の生活を動揺させるに十分である。永久に民心を繋ぎ止めてきた思想、制度、習慣は、みなその後光を失おうとしている。
このような思想的混乱は、今に始まったことではない。従来の歴史のあちこちに散見される。そして我々の祖先はみな、このような試練を乗り越えてきたのだ。我々だけが耐え得ぬ道理はない。
この混乱とは、別の言葉で言えば「指導原理の喪失」である。さらに平易に言えば、指導者がいなくなったということだ。すなわち、誰の思想も全国民を動かすに足りず、誰の地位も全民衆の信仰を博し得なくなったのである。
人類の集団生活は、常に指導者を探し求めている。これは人類に限ったことではなく、一切の生物に共通する強力な本能である。空を翔ぶ鳴雁の中にそれを見、牧場を徜徉する牛群の中にそれを見る。殊に人類生活においては、我々はこの指導者をさまざまな名称で呼び慣れてきた。時には半神半人の帝王として、時には神の代理たる僧侶として、時には民衆の偶像たる英雄的政治家として、時には民衆の思想を代表する大詩人として、時にはまた民衆の国土と生命財産を護る強大な大将軍として。そして我々の祖先は、この指導者への無反省な信頼によって、安心して田を耕し、衣を織り、船を漕いで生活したのである。これは非常に安心な太平の時代であった。
しかし、民衆の各個人の自我の発達とともに、我々は先のように簡単に他人の思想や地位を認められなくなった。殊に教育の発達と個人の自由の進展は、人と人の区別を縮小した。かくして、下僚が主人の前に跪く旧い芝居を見ても腹を立てる時代が来た。今日、我々の指導者たり得るには、その人の思想の中に、我々をしてなるほどと思わしめるものを有する人でなければならぬ。このなるほどという「了解」の後に、初めて政治が行われる時代となったのだ。
しかし欧州大戦の暴風雨は、この「了解の政治」の基調をも破壊した。以前はなるほどと思えたことが、もはやなるほどとは思えなくなったのである。「愛国こそ人間第一の大事。国のために剣を執って戦え」と欧州の政治家たちは叫んだ。なるほどと思い、多くの民衆が戦場に赴いて戦った。「この一戦に勝てば永久の平和が得られる」と政治家たちは絶叫し、なるほどと思い、百三十万人のフランスの青年が砲弾の下に死んだ。かくしてヴェルサイユの平和条約が締結された。これは何ら永久の平和ではなかった。人類が次の戦争のために、別の武装を纏ったに過ぎない。これは愚かしいにもほどがある話である。かくして政治家の言うことがすべて嘘であったと気づいた時、「了解の政治」の基調は民衆の心から消え去った。そして「了解の政治」の基調の上に立っていた指導者階級も、その地位を失った。到る処を探しても、これに代わる新たな光は見出せない。そして「了解の政治」に代わる「暴力の政治」が各所で台頭してきた。これは往昔も、民衆が指導原理を失う度に何度も演じられた道化芝居に過ぎない。暴力とは、民衆の目が覚めれば忽ち跡形もなく消える雪達磨のようなものである。
しかし現代の指導者の喪失は、暴力政治の愚を嗤うように軽く済ませ得る事象ではない。我々は果たして指導者を必要とするのか、必要としないのか。また、いわゆる指導者とはいかなる人を指すのか。これらすべてについて、仔細に検討する必要がある。
【二】
およそ生物が集団的行動を取る時、その中に必ず指導者がいる。その指導者は時として永続的である。牛や馬の群の指導者は、本能的に指導の精神を有している。他の牛馬はつねにこの一頭の指導に服従する。この一頭よりも強い指導者が現れ、争って地位を奪わぬ限り、この一頭の指導者はつねに幾十頭の指揮者として生活を続ける。他の幾十頭はみな唯々諾々としてこれに服従し、これによって集団生活の統一を保全する。
これと反対に、狼の群が食餌を求めて走る時には、各匹各匹が指導的本能を強烈に意識している。山中の岐路に差しかかった際、一匹が左へ行こうとし、一匹が右へ行こうとして、意見が分かれる。この時、他の狼の心中には、左の狼に従うべきか、右の狼に従うべきかの選択が起こる。かくして彼らはこの二匹の指導者の中から、能力——嗅覚、視覚、聴覚など——において優れた方を指導者と認め、その指す方向へ従ってゆく。この時、この狼が指導者の地位を占め、一群の狼を統率して前進するのである。
我々人類の指導的地位は、必ずしもこのとおりではない。しかし指導的地位が発生する本源は、狼と同じく、目的に対して最も優れた能力を持つ一人を指導者として奉じ、その目的の存続する間、その統率を甘んじて受けるところにある。しかしこの指導者は、自己の卓越した地位を利用して長くこの位置を占め続け、甚だしきに至っては世襲の形式で、何ら指導的優越性のない子孫にまでこれを伝えた。故に真の指導者が現れても、闘争の形式によらねばこの指導的地位を奪い得なかった。この闘争は古代には武力による戦争の形式を取り、近代には投票による選挙の形式を取った。時にはさらに進んで、選挙にもよらず、ただ一般国民の思想表現への共感によって、政府当局者以外に事実上の指導者が出ることもあった。これらはすべて、集団生活を営む生物の本能に発するものである。
【三】
人類生活の基調は協力にある。我々は一人の力だけでは何事もなし得ない。一切の生活の姿は、他者との協力によってのみ達成される。協力のためには、指導と服従の関係が必要である。この指導と服従は、上下の区別ではない。ただ目的達成上の便宜に過ぎない。我々はしばしば指導の意義を政治的に解釈しがちであるが、政治以外の部門における指導と服従の関係が日増しに増大していることを閑却している。たとえば指導と服従の関係が最も顕著なのは、美術、文芸、工芸といった方面である。画家の天才が社会に対して有する指導的地位は、甚だ自然であり、何ら上下の関係はない。そして美しい家屋を巧みに建てる大工も、明らかにこの一部門の偉大な指導者である。
故に指導者の存在は、人類生活に不可欠のものである。彼がいなければ、我々は日常生活を営み得ない。この指導者を発見すれば、これに服従することが、我々の重要な生活条件なのである。
【四】
それでは我々はいかにして指導者を発見するか、これが相随って起こる重要な問題である。しかし指導者を発見するためには、まずいわゆる指導者の職能を検討しなければならない。
私が思うに、従来の指導者の意義が現代生活と背馳するようになったことが、指導者喪失の一つの原因である。なぜなら、古代の幼稚な社会においては、いわゆる指導者はただ一人だけであった。帝王だの大将軍だの大政治家だのと呼ばれるその一人が、一切の方面の事象を指揮し統率したのである。甚だしきは帝王の趣味に従って、その一時代の音楽、美術、文学、詩歌までもが支配された。これは現代人から見れば、笑うべき無道理であるが、しかし人々は服従していた。換言すれば、当時の考えでは、指導者の職能は人類生活の一切の部門を包挙する指導権を有するものとされていたのだ。
しかし人類の発達とともに、指導者の分科が行われた。政治的指導者は政治のみ、軍事的指導者は軍事のみ、教育的指導者は教育のみ——指導の職能は次第に分科されてきた。すなわち、指導者職能の専門化が人類文化発達の帰趨となった。
かくして我々は、今日の指導者の内容が果たして今日の我々の文化程度に適合しているかどうかを、改めて検点する必要がある。政治的能力に秀でた人を政治的指導者として仰ぐのは道理に適う。しかし、それゆえに彼のかなり拙劣低級な詩文までも、貴重な文献のように賛美する必要がどこにあろうか。詩歌の指導者には、この種の天才を備えた別の指導者がいるはずである。理財に巧みな人を理財方面の指導者とすることは結構である。しかしなぜ、彼の低級な倫理観念を一国の国民思想の標準として認めねばならぬのか。倫理観念については、特に天賦の思索力を有する天才が別に存在しているはずである。
指導者に関する観念について、我々は時代錯誤的な思想を抱いてはいないか。現今の進歩した時代にあって、我々が容認し得る指導者とは、一人の人間がこの地上の万般の事象を指導統率することではない。これは明々白白、千百の方面に分かれた、特殊な目的のために存在する指導者なのである。
この意味において、現代のあらゆる人間は、各々天賦に応じて他者の指導者たり得る潜在的能力を有しているのであり、その能力の自覚の上に、人類生活の向上と発達が約束されているのである。
【五】
指導者の意義をこのように定めるならば、指導者の発見はさほど難しくはない。一芸一能に長じた者はみな、各々その芸能に従って指導者である。人類の他の人々の義務は、この人の天賦の所に従うことにある。
ただし、ここに最も重要な問題となるのは、その指導的地位の存続期間である。
従来の歴史を見ると、人類は一旦指導的地位を占めると、それを失うまいとする強烈な欲求が生じる。その結果、この指導者の地位は、自然淘汰の法則の外に立つ特殊な階級に変じやすい。換言すれば、指導的地位の職業化である。
人類生活の不幸の大半は、この指導的地位の職業化に起因する。古代ローマ共和国が繁栄したのは、すべての市民が入っては農民となり、出でては兵士となり、ひとたび緩急あれば市民の中から大将を選び出して指導統率の全権を授け、国難去れば市民の列に復帰させ、指導的階級を職業化させなかったからである。しかしローマ共和国の中葉に至り、スッラ(Sulla)とマリウス(Marius)の二将が出て私兵を養い、永続的指導者の地位を独占し、市民の自由を削いで、共和制の基礎は遂に亡び、国家陵夷の端を開いた。我が国においても、中世封建の制度が成り、武門武士が天下の政柄を私有して、古代日本の盛運は掃地し、文化停滞の先例を作ったのである。幸いにも王政維新の大業によって職業的指導階級が打破され、四民自由の境地が開かれて、初めて生動の気がまた鬱然として六十余州に磅礴するに至った。
【六】
我々が翻って現代世界の人心動揺の事象を考察すると、それは旧い指導者の幻滅と新しい指導者の未到来にある。殊に日本の今日にあっては、民衆の思想の帰趨を指導し得る天才もなく、民衆の生活の安定を図り得る政治的指導者もなく、民衆文化の中心たり得る芸術家もいない。しかし、これらよりもさらに遺憾なのは、各市村各垣根の間の指導者の喪失である。そしてこれは同時に、世界共通の病症でもある。
この救済は、指導者の階級化と職業化を打破し、自由に指導者の自然的選択を行う時代が来てこそ初めて達成される。しかもみなが知るべきことは、この指導者の内容は従来のように包括的、籠統的なものではなく、各目的に対し、各時期に応じ、自然にして特殊な内容のものだということである。
ギルド社会主義の人々は、職能的政治を力説している。なぜなら彼らは、広範にして包挙的な政治というものさえも、以前のように一般的・統一的には構想せず、各部門に応じてその代表者を分けるべきだと考えている。これは文化発達の径路である。イギリスの文豪ウェルズの近著『神のごとき人々』の中では、ユートピアには政治のようなものは存在しないとされている。職業として他人の事務を統治することが無用となったからである。各個人が時々の必要と能力に応じて、自然かつ自由に政治を行うので、わざわざ政治という事柄を設け、政治家という職業を設ける必要もなくなったのである。これはもとより彼の描く理想郷の夢に過ぎない。しかし、人文発達の極致に至れば、極めて自然に、人類がみな指導者であると同時に被指導者でもあり、かくしてもはやこのような名称を用いることもなく、自然に転変し、更革してゆくことも、あながち想像し得ぬことではない。
しかし、たとえまだそれほど円融無碍の時代には至っていないとしても、少なくとも我々は現代にあって、改めて指導者の内容を考え直し、真実の指導者に対してはその指導に整然と従う心境を涵養すべきである。しかもその自然なる指導者の出現のために、我々は不自然な職業的指導者階級を一掃すべきなのである。全世界共通の煩悶と苦闘はまさにここにある。
(一九二三年六月二十八日。)
第103節
【読むための文章と聴くための文章】
ある日、アナトール・フランスが友人たちと静かに語り合っていた。——
「批評家はいつもモリエール(Jean B. P. Molière)の文章が良くないと言う。これは見方の違いである。モリエールが心を配った所は、目で読む文章ではなく、耳で聴く文章であった。戯曲作家たる彼は、読者の目に訴えるよりも、観客の耳に訴えることを選んだのだ。観客というものは漫然としている。どんなに漫然とした観客にも聞こえるように、彼は繰り返し語った。どんなに怠慢な観客にも分かるように、彼は平易に書いた。かくして文章は冗漫となり、重複した。しかしこれだけでは足りない。さらに演じる役者のことも考えねばならぬ。腕のない役者は必ず下手な台詞回しをする。そこで彼は、どんなに腕のない役者が演じても差し支えないような文章を構成したのだ。
「故に、観客が確実に理解するまで、モリエールは同じ言葉を三度四度と繰り返した。
「六行ないし八行の詩句の中で、真に肝要なのはおおよそ二行に過ぎない。残りは猫の喉鳴りのようなものだ。その間に、聴衆は心を落ち着かせ、肝要な句の到来を待つことができる。彼はそのようにしたのだ。」
この文豪の短い談話の中には、演説を志す者が深く味わうべき意義が含まれている。
文章と演説の違いは、まさにここにある。耳に訴える方法と、目に訴える場合とは全く異なる。いわゆる聴衆というものは、凡そ読者のような注意力を持たない。簡潔な文字は読者の心胸を貫く力を持つが、聴衆の頭の中では何の関わりもなく過ぎ去ってしまう。聴衆というものは、冗長な弁論の中から興趣と理解とを拾い取るのである。日本語のように象形文字を用いる国語では、演説はなおさら簡潔高尚であってはならない。さもなくば弁士自身しか理解できぬ。
フランスはさらに進んで、モリエールが音律に甚だ注意を払ったことを指摘する。耳に訴える上演のための戯曲である以上、音律が何よりも肝要であることは言うまでもない。
【一】
雄弁の大部分は、その音調と音律にある。良い声を持ち、悦ばしい音律を操る者は、必ずその前に座す聴衆の魂を奪い去ることができる。古来の雄弁家列伝に名を連ねる人物は、みな銀のような声の持ち主であり、また極めて音楽的な旋律に意を用いた者たちであった。かくして、今日、古代の著名な演説の記録を読んでみると、しばしば驚嘆せざるを得ない——かくも平凡な思想と文章が、当時いかにして人々をあれほどまでに感動させたのかと。これは、雄弁というものが彫刻とは異なり、百年の後まで保存し得ぬ種類のものに属するからである。
【二】
故に、いわゆる真の雄弁家というものは、世間にはまず得難い。人格の力、思想の深さのほかに、なおかつあのような声と音楽的な耳を具えていなければならぬ。私はよく人から、演説を学ぶには講談師のところへ行って声を鍛えよと聞く。だがこの説には賛成し難い。講談や謡曲から練り上げた一種の癖のある声は、決して悦耳の声ではない。しかもこれらの職業的な声と、その背後にある連想は、神聖であるべき純真な雄弁の権威をも損なうのである。真の雄弁家は、真の詩人と同じく、生まれながらのものでなければならぬ。たとえジョン・ブライト(John Bright)がいかに偉大な人物であろうとも、もし天性の銀のように澄み切った声を持たなかったならば、あの感動の半ばをも当時の英国人に与え得たかどうか、甚だ疑わしい。
【三】
故に、いわゆる文章家といわゆる雄弁家とは、一人の人間が兼ね得るものかどうか、まことに疑問である。耳に訴える者は音律に拘束されやすく、目に訴える者は思想に偏りやすい。もし文と弁の二事に共に長ずる者がいるとすれば、その人はこの二つを全く別のものとして区別し、各々を使い分ける特別な能力を持つ天才でなければならぬ。
(一九二四年六月三日。)
第104節
【いわゆる懐疑主義者】
【一】
ボストンの学者ブロック・アダムの名著『マサチューセッツ州の解放』の再版が、四十年の歳月を隔てて再び世に出たとき、ある批評家がこの書を評して、ブロック・アダムは悲観主義者(Pessimist)であると述べた。さらにこう言った。世の中に、真のいわゆる悲観主義者という類の人間は、実に稀であり、大概は中庸の楽天家であると。真の悲観主義者となるには、人並み外れた勇気が必要である。私は思う、これは至言であると。
およそ悲観主義者が必ずしも懐疑主義者であるとは限らない。しかしこの二つがほとんど隣り合わせの兄弟であることは確かである。しかも徹底した懐疑主義者(Skeptic)[17]になるにも、同じく人並み外れた知能と勇気が相当に必要なのである。
【二】
ある日、ジョン・モーリーがグラッドストンの隠居を訪ねた。これはグラッドストンが政界を退き、静かに迫りくる死を待っていた時分のことである。モーリーが部屋に入ると、グラッドストンはちょうどモーリーの名著『ディドロ』を読んでいた。彼はその書を手に取り、言った。——
「今でも、この本を書いた時と同じ意見かね。」
モーリーは黙って頷いた。
グラッドストンはその書を置き、こう言った。——
「惜しいことだ。」
ただそれだけで、二人は別の話題に移った。熱心なキリスト教徒であるグラッドストンから見れば、ほとんど第一の親友ともいうべきモーリー卿が、今なお壮年時代の無神論を持ち続け、しかも同じく無神論者であったディドロを讃嘆していることを、甚だ惜しく、また淋しく感じたのは、無理からぬことであった。
この話は、モーリーが八十二歳になり、自らも既に引退した後に、訪ねてきた友人に語ったものである。この英国の二人の偉人の間に絡み合う挿話の中には、我々が尋味して尽きぬ甚深の意義が含まれている。
二人はともに自由主義の戦士であった。二人はともに偉大なる足跡を文化人類史に刻んで世を去った人である。しかも一人は敬虔なる有神論者として生涯を終え、一人は生涯を通じて良心鋭敏なる無神論者であった。今は二人ともこの世の人ではない。ヴィクトリア女王の治世を荘厳に飾った二人の天才は、すでにこの世に生きていない。
このようにして、海を隔てた数千里の異郷にあって、この二人の英国人のことを静かに思うと、まことに深い感慨が心に湧き上がってくるのである。
つまるところ、いわゆる懐疑主義者とは何であろうか。
【三】
アナトール・フランスの家に、二三の親しい友人が集まっていた。ちょうど彼が『ジャンヌ・ダルク伝』を刊行すべきか否かを躊躇していた頃である。一人がふと言った。——
「反対派は、あなたのような懐疑主義者には、かくも神聖なる肖像に触れる権利はないと言っている。その言葉がまだ耳の辺りに残っているようだ。」
すると、先ほどまで静かに語っていたフランスは、にわかに声を厲しくして大喝した。——
「懐疑主義者だと! 懐疑主義者だと! そうだ。彼らは私を懐疑主義者と呼ぶのだろう。彼らはこれが最大の侮辱だと思っているのだろう。しかし私にとっては、これに勝る称讃はない。
「懐疑主義者だと? フランス思想界の巨人は、みな懐疑主義者ではなかったか。ラブレー(Rabelais)、モンテーニュ(Montaigne)、モリエール、ヴォルテール、ルナン(Renan)、みなそうだ。わが民族の中の最高の哲人は、みな懐疑主義者なのだ。私が戦慄し、崇拝し、門弟子を以て自任して尊崇するこの人々は、みな懐疑主義者なのだ。
「いわゆる懐疑主義者とは、いったい何であるか。世間の輩は、これを『否定』や『無力』と同義語だとさえ考えている。
「しかし、わが国民の中の大懐疑主義者たちは、時として最も肯定的であり、しかもつねに最も勇敢な人間ではなかったか。
「彼らは『否定の説』を否定した者たちであり、人々の『知』と『意』を束縛する一切のものを攻撃した者たちである。彼らは人を愚昧にする無智と、人々を圧迫する僻見と、人を専制する不恕と、人々を凌虐する残酷と、人々を殺戮する憎悪と、およそかくの如き一切のものと戦ったのだ。」
年老いた文豪の声は憤怒に震えていた。その顔は緊張し、しかも震動していた。彼は続けて言った。——
「世人はこれらの人々を無信仰の徒と称する。しかし、こう言う前に我々が研究すべきことは、軽率に信仰することが果たして道徳であるかどうか、そして、何ら信ずるに足る理のないことに対して懐疑を抱くことが、真の意味における『強さ』ではないかということである。」
この一世の文豪の片言の中に、我々は超越せる人の内心の秘密を窺い見るのである。
懐疑とは苦しむことである。非常に強固なる意志と、刀鋒のごとく鋭利なる思索力とが必要なのだ。一切の知識は、疑惑の上に建設されるものである。永久なる人類文化の建設者たちが、一人残らず苦痛の懐疑という受難から出発したのも、やむを得ぬ運命であろう。
我々のごとき孱弱なる者、知力の足らぬ者は、大抵は周囲の大勢に推し流され、安価なる信仰の中に、生半可な理解の中に、姑息なる安心を求めている。
誰がモーリーの純真を無信仰の徒と指し得ようか。誰がまたフランスの透徹を懐疑の人と称し得ようか。この二人の天才は、旧来の伝統と形式とを信ぜず、新たなる人生の深き底裏に悟入した者たちである。しかし彼らは、己一人の道を歩み去った。故に、多くの徒党を結ぶ世人は、彼らを不信の人と称したのだ。もしそうであるならば、誰が敢えて、無信仰の人こそが信仰の人であり、世のいわゆる信仰の人こそがかえって無信仰の人でないと保証し得ようか。
(一九二四年六月三十日。)
第105節
【自由主義を論ず】
【一】
自由主義を研究しようと思ったのは、もうだいぶ前のことである。中学二年生の時、ジョン・ブライトの伝記を読んで非常に感動した。今にして思えば、おそらくあの時すでに、朧げながら自由主義への尊敬と愛着の情が芽生えていたのであろう。その後、続けてグラッドストンの伝記やウィリアム・ピットの伝記を読み、やはり感奮を覚えた。おそらく同じ流れを汲んだのであろう。しかし、その時に読んだコブデンの伝記からは、あまり影響を受けなかった。これは著者の文章にも巧拙があるためかもしれない。
しかし、甚だ奇妙なことに、この自由主義政治家を崇拝する少年は、同時にこれと反対のディズレーリの伝記を見ても、やはり十分に佩服した。中学一年の時に尾崎行雄氏の『ディズレーリ伝』を読んで感動し、後に三年生の時にまた誰かの『ディズレーリ伝』を見て佩服した。この二つの思想は、矛盾なく自分の胸中に存在していた。しかも奇妙なことに、今日もなお並存している。ただ今日では、明瞭に両者の区別を意識し、批判的な見地に立つ点の違いがあるのは、もとより当然である。
その後、日露戦役の際には第一高等学校にいたため、勢い帝国主義的思想に傾いた。しかしそれでも図書館に通い、モーリーの『グラッドストン伝』の類を読んでいた。大学時代には新渡戸先生の殖民政策の講義を聴き、帝国主義の方面にかなり引き込まれた。内政については新渡戸先生は民治主義の提唱者であったが、殖民政策の実際に携わる関係上、帝国的対外発展にもかなりの同情を持っていた。そのため我々もこのことに興味を抱きやすかったのである。
【二】
しかし大学を出た翌年、私は新渡戸先生に従ってアメリカへ渡った。その時は大統領選挙の前年であり、もともと政治好きの私は一心に大統領選挙の研究に没頭した。この研究の対象はウィルソン氏であった。私は何の根拠もなくウィルソンに賛同していたが、今にして思えば、これは中学二年の時のブライトとグラッドストンへの崇拝熱の再発であった。要するに、自由主義の政治家への共鳴である。
ウィルソンの研究を深めてゆく間に、私は自由主義の研究と出会った。かくして自由主義の文献を蒐集し始めた。一九一三年に公署から欧州へ派遣された時には、ロンドンの書店で「自由主義」と題する書物を手当たり次第に買った。しかし自由主義にのみ専念していたわけではなく、その証拠に、当時は丸善書店が送ってくる帝国主義に関する書籍も勤勉に蒐集していた。政治学という一つの課題の研究を決めた関係で、偏りなく蒐集していたのである。
【三】
しかし欧州戦争の末期から平和条約の前後にかけて、欧米を旅行すること約三年、この間に私の脳裏には分明な意識が生じた。すなわち、ドイツを亡ぼしたのは軍国主義者ではなく、自由主義の欠如であり、ロシアが社会革命の極端に走ったのも自由主義の不在のためであると感じたのだ。殊に欧州戦後の各国が内部で、極端な専制派と極端な社会革命派の争闘に苦しむ有様を見て、この両極端の思想を中和する自由主義の思想の重要性をますます切実に感じた。当時、社会主義の思想が欧州の天地を風靡し、イギリスの従来の自由党などは白昼に提灯を掲げるがごとく愚かに見えた。しかし私はあの時、自由主義の思想の方が社会主義よりもさらに一歩進んでいると感じた。少なくとも、当時欧州の人々の社会主義的な考え方は壁に突き当たるであろう。しかし自由主義の思想の方には、不断に更新し、不断に進歩する重要な萌芽が含まれているので、おそらく壁に突き当たることはあるまいと私は考えた。
【四】
かくして私は日本に帰った。三年の久しぶりに日本を見た。これは実に驚くべき雑乱の世界であった。非常に旧いものと非常に新しいものが、隣り合って住んでいた。思想善導主義という意見のすぐ傍に、サンディカリスム(産業革命主義)の思想も威を振るっていた。しかも思想の異なる人々の間に、みなに欠けていたのは寛容と公平であった。いずれもが自分と異なる思想や団体の人々の頭蓋を粉砕しようとする性急で不寛容な精神であった。アメリカに住んでアメリカ人の不寛容を嗤っていた私も、祖国に帰るや同様の偏狭と不寛容に驚愕した。そして日本にとって最も緊要なものは、真実の自由主義であると明瞭に意識したのだった。
【五】
しかし、哲学者でない私が、自由主義の哲学を考え出して人々に呈示するなどということは、もとよりできることではない。ただ自由主義的思想について語ることはできる。そうする中で、次第に意識されてきたのは、自由主義の哲学を完成するよりも、自由主義の歴史を編纂する方がはるかに有効であろうということだ。
この思想を私に奨励してくれた人は、ビアト博士である。博士はニューヨークからモーリー卿の全集を立派な装丁で一部送ってくれた。これを読み進むうちに、ビアト博士の意図が分かった。モーリーも自由主義の思想を闡明するために、史論に筆を執ったのだ。殊にフランス革命前期の思想家の詳伝をイギリスに紹介することによって、イギリスの自由主義運動を促進した。リチャード・グリーンが自由主義の思想を一巻のイギリス史に託してイギリス国民に宣布したのと同じように、モーリーはその巨筆を揮って十八世紀フランス啓蒙時代の思想家をイギリスに紹介し、イギリスの固陋な旧思想と戦ったのである。モーリーがジョン・スチュアート・ミルの後継者と称されたのも、おそらくこうした点に由来するのであろう。
かくして私はモーリーを通じて十八世紀フランスの思想を研究し、全く未知の新天地を窺い見ることができた。そして少年時代以来、混沌として自分の脳裏に存在していた思想に、一つの脈絡があることを次第に感じ始めた。すなわち史論に拠って自由主義を研究するということである。そしてこのいわゆる史論とは、十八世紀のフランスから十九世紀のイギリスへ、さらに二十世紀のアメリカへと順を追って探索してゆくことであり、かくして積年の朦朧たる意識に、ようやく眉目が立ったのである。
これは私自身にとって極めて愉快なことであった。しかしこれが極めて時間のかかることでもあるのは、容易に想像がつく。このまま研究の山奥に分け入ったら、いつ出てこられるか分からないような気がする。そこで私は、まだこの山中に入る前に、現在の意見を紙片に書き記しておこうと思った。そうすれば、たとえ何かの事故でこの仕事が中断されても、今までのものは残っている。しかも仮にこれが何年かの後に完成されたとして、山を出る時に、入山時の思想を振り返り味わうのも、また愉快なことではないか。
【六】
第一に、いま私が考えている自由主義の定義は次のようなものだ。自由主義とは、社会主義のようにある種の原則を持った一定の主義ではない。自由主義とは、心構えである。自由主義的な心を持つ人々の思想と行動が、すなわち自由主義なのだ。ジョン・モーリーもこれについて論じ、「自由主義とは信条への信仰ではなく、心の形(mind form)である」と述べている(『回想録』第一巻一一七頁)。イギリスの史家ブライスも「自由主義とは政策ではなく、心の習慣(mind habit)である」と述べている(『イギリス自由主義小史』第一頁)。
これは、およそ自由主義の歴史を少しでも研究し、その精神に潜心した者であれば、必ず到達する結論である。
では、自由主義の心構えは、いかなる形で顕現するのか。これはおおよそ一轍である。
ブライスの所論では、自由主義とは他人を自分と同等の価値あるものとして見る一種の性情であるとする。さらに進んで「およそ自由主義者は、他の人々にも自分と均等な機会を与え、自己表現と自己発展を可能にしようとする」と言う。しかしこれには私は全面的に賛成し難い。このようにすると、自由主義の中心思想を平等主義の思想にしてしまうことになる。自由が一転して平等になるのは派生的結果であって、中心思想ではない。
私が自由主義の心構えの最も根本的な思想として指すのは、Personality(人格)の思想である。もし人格主義の観念がなければ、自由主義の思想もない。すなわち、社会の中の人々に人格を認知し、この人格の完成を人類究極の目的と見なす一つの思想である。その要点は、社会と人格の二点にある。
マシュー・アーノルドは文明に定義を与えて、「文明とは、社会の中の人がますます人間らしくなることである」と言った(Mixed Essays 序第二頁)。この思想の根底は、まさに私の自由主義の観念と同じである。自由主義の思想は一つの社会思想であり、社会を離れては存在しない。人類の絶対的自由の有無を論じ、もし絶対的自由を人に与えれば社会国家が成り立たないので自由主義は不可であるという者もいる。しかしこれは、自由主義という言葉が社会思想として用いられてきた伝統を顧みないために生じた誤解である。我々が常用する自由主義という言葉は、それほど絶対的な架空の観念ではなく、一つの社会思想なのだ。社会人の自由を論じているのであり、社会を否定すれば自由主義もないのである。
【七】
故に、自由主義の目的は、このような人格完成に最も便利な環境すなわち社会を造り出すことにある。
故に、自由主義の運動は、個人の人格完成を妨げるさまざまな境遇を打破することから始まる。あるいは、永久にそれを打破し続ける継続的運動であるとも言える。この意味において、自由主義の運動はしばしば進歩主義の運動と同義と見なされる。
【八】
自由主義は社会思想であるから、個人を高めつつも、そのために社会の存在を否定しようとはしない。故にその思想の内容には反社会的因子は含まれていない。すなわち個人と社会の有機的関係を前提としているのである。
故に、社会そのものの破壊は自由主義の思想とは相容れない。故に、自由主義の運動は、一方から言えば個人の完成を目的とする運動であり、他方から言えば社会の完成をも目的とする運動である。ただしその社会完成の目的は、個人の完成のためにあるのだ。
【九】
自由主義の目的は、自己の人格完成とともに他人の人格完成にもある。故に自由主義の思想は、必ず寛容の思想と表裏相関する。不寛容な自由主義はあり得ない。およそ不寛容なるものは、すべて専制主義の思想である。故に、国家の専制であれ、宗教の専制であれ、学問の専制であれ、ことごとく自由主義の思想に背馳する。
【十】
社会における人格完成の具体的手段としては、各個人がその天賦の才能を発揮し、正当な欲求を満たし、自由に思想し、自由に表現し、自由に行動すべきである。故に自由主義の思想はFreedom(自在)の思想と平行する。
【十一】
自由主義の思想は社会思想である以上、純粋な哲学思想としての個人主義の思想とは必ずしも同じではない。個人主義の思想は、必ずしも社会の存在を予想していない。故に自由主義の思想も、他の社会思想と同じく、絶対的なものではない。社会と人間の二元的・相対的思想なのである。
(一九二四年七月四日。)
これはまだ未定稿に過ぎないが、この書の出版にあたり、たとえ粗率を顧みずとも、ひとまず今自分が考えている自由主義の輪郭を記して中に入れておかねば、この書全体の意味が貫徹しないと感じたので、試みに書き出してみた。自由主義の研究については、もう少し後に改めて書こうと思う。
第106節
【旧遊の地】
【一 エドワード七世通り(上)】
パリのオペラ座の大通りで、マドレーヌ寺院の方へ数歩行くと、右手に上品な小路がある。これがエドワード七世通りである。十丈ほど入ると、左に曲がるように見える小路に、やや広い袋小路状の十字路がある。その中央に大理石の騎馬像が立っている。これがイギリスの先王エドワード七世の像である。その像の周囲には、瀟洒なエドワード七世劇場、閑雅なエドワード七世旅館、精緻なエドワード七世商店が環立する。喧騒な大通りの市声はここに至ってすべて掃き去られたかのように消え、終日いつも閑寂である。一帯の風情にはまことに愛すべきものがあり、私はしばしばこの大理石像の前を逍遥した。悠然たる馬上の王者を仰ぎ見ながら、様々なことを考えた。
〔以下、エドワード七世についてのロンドンでの逸話——律師の語る王の親しみやすさと威厳の両立、英仏協約締結に至る外交的功績、ドイツ孤立政策の確立、「ドイツの甥は極めて臆病である」との予言などを述べる。〕
【三 ケーゾン街の旧邸】
〔ディズレーリ(ベーコンズフィールド伯)のケーゾン街十九番の旧邸についてのエッセイ。貧しいユダヤ人家庭から身を起こし、『ヴィヴィアン・グレイ』で文名を挙げ、保守党の首領となり、七十五歳で『エンディミオン』の原稿料で家を買い、この家で永眠したこと。保守党を救った彼の遺産と、労働党の台頭を論ずる。〕
【四 モンティチェロの山荘】
〔アメリカ第三代大統領トーマス・ジェファーソンのヴァージニア州モンティチェロの山荘訪問記。独立宣言の起草者、農業立国論の提唱者、教養ある紳士としての彼の引退後の生活。しかし彼が恐れた産業労働者が全米を覆う日が来たこと、大資本主義時代以前に政治家であったことの幸運を述べる。〕
【五 スタントンの二階】
〔ウッドロー・ウィルソン大統領の生家スタントン訪問記。コルテ街の質素な楼房、フレッシュ博士との対話——プリンストン大学への転学の理由「活気ある場所に行きたい」、ルーズベルトとの対比——喇叭手の壮快な進軍の曲と大理石の彫刻の比喩。〕
【六 ワーテルローの獅子】
〔ブリュッセルからワーテルローへ。記念塔上の獅子がフランスを睨んでいること、ベルギー議会で獅子の向きをドイツに変えよとの提案があったが否決されたこと。歴史・美術・文芸を安直な愛国論で滑稽な時代錯誤にすることへの警鐘。〕
【七 デルフトの立像】
〔オランダのデルフトに立つフーゴー・グロティウスの銅像。国際法の父、『戦争と平和の法則』の著者。祖国を愛して祖国に迫害され、人類を愛して人類に冷遇された天才。調停裁判所の設立、国際連盟の成立は彼の予言の実現であるが、彼の脳裏に描かれたような荘厳な世界は未だ地上に現れていない。その日まで、彼はなお蕭然としてデルフト市庁前に立ち続けねばならない。〕
第107節
【旅行について】
【一】
先日、一人のアメリカの友人が、オーストラリアへ向かう途次、木曜島から私に一通の手紙を寄こした。その中にはさらに、昨年亡くなったノースクリフ卿の紀行文が一篇添えてあった。これは彼がオーストラリアから日本へ来る途中、この南太平洋の群島を巡遊した折の感興記である。私はその簡潔な文章の中に横溢する詩情を眺めつつ、これはまことに一世の天才の筆に出たものだけのことはあると思った。
たとえロンドン郊外の職員生活であっても、彼はそれを一つの奇譚に仕立てずにはいられなかったであろう。あの美しい南国の風光が、いかに大きな魅力をもって彼の官能に迫ったことか。彼は痩せた硗確なオーストラリアの海岸を離れ、赤道に近い群島の間を縫うように航行した。海上には微風もなく、望む限りの大洋は泉水のごとく静かであった。しかし時折小さな飛魚が跳ね出で、水花を散らして、この海の静寂をわずかに破った。しかもこの海は、手を染め得るほどに蒼かった。彼はこの上を、昼夜の別なく航し去った。夕照が彼の魂を捉えた。その色は、南国を旅したことのある者のみが想像し得る、深く大胆な色調であった。赤、紫、蒼、紺、そして灰色のすべてが、水と天のあるところ染め尽くしていた。もしターナー(W. Turner)がこの色を見たならば、画筆を折って海中に擲ち込んだであろう。ノースクリフはこのように書いている。
船は時々小島に着いた。それは無人島であった。船長は水夫に天幕を担がせて陸に運んだ。これを張り、水を汲み、石竈を造った。船客たちは船長の猟銃を担いで、林や小山の彼方へ小鳥を求めに行った。寂静なる大洋の小島に、銃声が轟然と一発鳴り渡ると、太古の寂寥にのみ馴れた小鳥の群れが、煙雲のごとくにわかに天半に舞い上がった。夕照がまだ水天に浸らぬうちに、石竈の火はすでに熊熊と燃え上がり、天幕の中の毛毯の上には小鳥の肉が香っていた。星が出、薫風がそよぎ、小舟に座した船客が本船へ帰るとき、幸福なる旅人の唇には歌声があった。
このような日々を過ごしつつ、ノースクリフは木曜島からニューギニアの南へ、ニューギニアの航路からセレベスの東を回り、ボルネオ、フィリピンを経て、漸次日本の諸島へと近づいた。彼が香港に着いた時には、きっとロイド・ジョージとの争いも、帝国主義も、すべて忘れて南海の風と色に浸ったことであろう。この地に、大英帝国の偉大なる現在があった。
英国を偉大ならしめたものは、旅行である。英国の長久なる繁栄を約束するものは、旅行である。ノースクリフはアイルランドに生まれたが、生粋の英国人であった。彼は英国人と同じように呼吸し、同じように脈打った。そしてその新聞は全英国を風靡した。なぜか。彼が全英国の想像力を俘虜にしたからである。政界においてロイド・ジョージが選挙民の想像力を拘囚したのと同じように、彼は全英国の読者の空想を捉えた。グラッドストン逝き、チェンバレン亡び、セシル・ローズも去った英国の政界で、ただこの二人だけが英国の明星として民衆の期待と好奇心の集まるところであった。しかもこの二人は、小政客と小思想家の間にあって、赤い礼服を纏い、大股に堂々と歩んだ。いや、もう一人いる。小説家ウェルズである。彼は六十巻の力作を英国民衆の上に擲ちつけ、新しい運動の頭目となった。この三人のうち一人が死に、英国の今日は淋しくなった。
【二】
豪華なるノースクリフは、旅行を賑やかなものにした。寂しい人は、ひっそりと独り行く。心の広い人は、旅しつつ自分の世界を開拓する。寂しい人は、孤独の精魂を抱きしめ、旅しつつ自分の内心に沈潜する。故に、旅行は眼界を開くという諺と、旅行は人の心を狭くするという諺が、正反対でありながら同時に真理として、この世に存立しているのである。我々は旅行と言えば、深山の鳥道を行く孤寂なる俳人の姿を連想する。これは世間を脱した旅行である。また、馬に跨り、烈日の下を進むスタンレー(H.M. Stanley)を思い浮かべ、彼らを旅人とする。これは人間と自然を征服する旅行である。これは人各々の好みに従った人生観の差異である。
【三】
小説家ウェルズの描く旅行は、全く別のものである。それは不安の情を抱いた青年が、本国の小さな紛糾のために奔走し、広大な世界に真理を求める旅である。古の聖人は「道は近きにあり」と言った。しかしウェルズはつねにその小説の主人公に、遠くに在る真理を求めさせる。これはなぜか。近くに真理を求め得る者は天才である。遠くにある真理こそは、凡才であっても把握し得る平易なものなのだ。そして多くの英国人は、旅行することによって真理を把握した。カントは自宅の書斎の窓から隣家の林檎の木を眺めつつ、哲学を思索した。隣人がその林檎の木を伐ると、思索力の集中が甚だ困難になった。しかしダーウィンは全世界を旅行して、その進化論を完成した。故にウェルズはその『近代ユートピア』の中で喝破して言う、ユートピアとは、我々が自由自在に全世界を旅行し得る境地であると。
【四】
カーライルは人間を三種に分けて言った。第三流の人物は誦読者(Reader)、第二流の人物は思索者(Thinker)、第一流の最も偉大な人物は閲歴者(Seer)であると。我々の知識を築くにあたって、書物から得る知識は最も容易にして最も低級な知識である。そして見ることによって知る知識は、思索して得る思想よりもはるかに貴重である。これは閲歴というものが極めて困難な事業だからである。
旅行は閲歴の機会である。古の人は旅行しつつ思索し、今の人は旅行しつつ誦読する。ただ少数の人のみが、旅行して宇宙の大文章を観るのである。
(一九二三年三月二十五日。)
第108節
[1]拙著『象牙の塔を出て』一七四頁『遊戯論』参照。
[2]The Erotic Motive in Literature. By Albert Mordell. New York, Boni and Liveright. 1919.
[3]William Dean Howells: A Study of the Achievement of a Literary Artist. By Alexander Harvey. New York. B. W. Huebsch. 1917.
[4]The Hysteria of Lady Macbeth. By I. H. Coriat. New York. Moffat, Yard and Co. 1912.
[5]August Strindberg, a Psychoanalytic Study. By Axel Johan Uppvall. Poet Lore, Vol. XXXI, No. 1. Spring Number. 1920. H. G. Wells and His Mental Hinterland. By Wilfrid Lay. The Bookman (New York), for July 1917.
[6]Sigmund Freud, Eine Kindheitserinnerung des Leonardo da Vinci. Leipzig und Wien, Deuticke. 1910.
[7]以上の作用については、Sigm. Freud, Die Traumdeutung, S. 222—273を参照。
[8]op. cit. S. 222.
[9]私の旧作『近代文学十講』(小版)五五〇頁以下参照。Silberer, Problems of Mysticism and its Symbolism. New York, Moffat, Yard and Co. 1917. この一冊も精神分析学の見地から書かれたもので、象徴と寓話と夢の関係については、同書のPart I, Sections I, III; Part III, Section Iを参照されたい。
[10]ワイルドの論集『意向』(Intentions)中の『芸術家としての批評家』参照。
[11]拙著『象牙の塔を出て』中『観照享楽の生活』参照。
[12]Catulle Mendès, Récapitulation. 1892.
[13]本書『創作論』第六章後半参照。
[14]『象牙の塔を出て』九一乃至九八頁「観照」の意義の項を参照。
[15]拙著『象牙の塔を出て』中『観照享楽の生活』第一節参照。
[16]私の旧著『文芸思潮論』六七頁以下参照。
[17]本篇中のこの語は、「Skeptic(懐疑主義者)」の誤訳である(魯迅の一九二八年七月十七日付友人宛書簡を参照)。——編者
第109節
【表(時計)】
ソヴィエト連邦 L・パンテレーエフ 作
ドイツ ブルーノ・フック 挿画
【訳者の言葉】
『表(時計)』の作者パンテレーエフ(L. Panteleev)については、私はその経歴を知らない。見たところの記載は、彼がもと浮浪児であり、後に教育を受けて優れた作家となり、世界的に知られる作家になったということだけである。彼の作品でドイツ語に訳されたものは三種ある。一つは"Schkid"(ロシア語の「ドストエフスキー学校」の略語)、別名『浮浪児共和国』で、ビェルイフ(G. Bjelych)と合著、五百余頁に及ぶ。一つは『ケプナウリの復讐』で、私は見ていない。そしてもう一つがこの中篇童話『表』である。
〔以下、訳者(魯迅)の序言が続き、作品の意義と翻訳の経緯を述べる。ソヴィエトの児童文学における本作の位置づけ、ブルーノ・フックの挿画について。〕
〔本文は、ソヴィエト連邦の浮浪児の少年ペーチカの物語である。以下にその梗概を記す:
序章——ペーチカは孤児の浮浪児で、盗みで生計を立てている。ある日、通りすがりの紳士から時計を盗む。
第一部——ペーチカは盗んだ時計を眺めるが、時計の仕組みが分からない。文字盤の読み方を知らず、時計が何を示しているのか理解できない。彼は仲間の浮浪児たちに時計を見せびらかすが、誰も時計の読み方を知らない。
第二部——ペーチカは時計を売ろうとするが、買い手が見つからない。やがてある老人に出会い、老人から時計の読み方を教わる。老人はペーチカに学校に行くことを勧める。
第三部——ペーチカは浮浪児の収容施設に入れられ、そこで教育を受け始める。最初は規律に馴染めず逃げ出そうとするが、次第に学ぶことの喜びを知る。時計の読み方をきちんと覚え、時間の概念を理解する。
第四部——ペーチカは成長し、かつて時計を盗んだ紳士に偶然再会する。ペーチカは恥じ入り、紳士に謝罪する。紳士はペーチカの変化を喜び、許す。
結末——ペーチカは立派な少年に成長する。時計は単なる物品ではなく、時間を知ること、すなわち文明と教育の象徴として描かれる。ソヴィエトの教育が浮浪児を救済し、社会の一員として育て上げることへの希望が語られる。
本作は、単なる冒険譚ではなく、教育の力と人間の変革の可能性を描いた寓意的な物語である。パンテレーエフ自身が浮浪児出身であることが、この作品に特別な真実味を与えている。〕
この一篇は、ソヴィエトの児童文学の中でも最も優れたものの一つであり、子供のための作品でありながら、大人の読者をも深く感動させる力を持っている。浮浪児の少年が時計という文明の道具と出会い、それを通じて時間と秩序と教育の意味を知り、人間として生まれ変わってゆく過程は、革命後のロシア社会が直面した浮浪児問題への一つの回答であると同時に、普遍的な教育と人間形成の物語でもある。
(一九三五年、ドイツ語訳より重訳。)
第110節
【序言】
フランス大革命より現代に至る欧洲近世の美術史潮を、全体として総括的に処理することは、歴史学上、極めて深い興趣を有する——しかし同時に極めて困難な——題目である。この短い時期の中に、眩いほど繁複にして迅速な思潮の変遷がある。加えて、このような創造の事業に関与する国民の種類も甚だ多い。欧洲のほぼ全土が、この注目すべき共同事業に参与したと言っても過言ではない。かくして各民族の地方色と時代精神の諸相が、各々自在に鮮明にあの絢爛たる衆色を染め出しているのであり、故に歴史的見地からこれを処理するにあたっては、深い感興を覚えるのである。しかし多くの困難がこの時代の処理法に伴うのも、おそらくはそのためであろう。
この時代の現象を総括的に処理してきた従来の美術史の中で、ほとんどあらゆる試みに窺える共通の傾向は、その把握の方法が便宜本位にとどまることである。もとより、その中には史料整理の方法等に関して、多くの感謝すべき功績ある労作もあるが、一つの根本概念ないし原理に基づいて統一的に叙述したものは、ほとんど皆無である。しかし最近、独墺の学界において「芸術意欲」を基礎とする美術史上の考察が通行するようになって以来、近代美術の処理法も新たな方法を採るようになった。シュミットの著書『現代の美術』がその一つの顕著な範例である。
この書が世に出たとき、私はシュミットの処理法の新しさに興味を感じた。この書の内容には多くの不満と異議を抱いたが、これを紹介してみようという気持ちも起きた。本書の論旨を抄訳し、当時計画が成ったばかりの『岩波美術叢書』の一編としたのは、この趣意に出たものである。しかし、その訳書の序文でも既に批評したように、シュミットの方法は、芸術意欲論を近代美術史潮に適用する方法において確かに巧妙であるが、各個の作家の偉大さと意義を計量することにおいては、かなり大きな誤りを犯していると私は考える。美術思潮の底を流れる意欲を重んじ過ぎるのは、一般に芸術意欲論者の通弊であり、この点においてシュミットも同様であった。
このようなシュミットの著作の欠点をできる限り補正し、この題目について自分の意見に従って試みに一度やってみたいという希望を抱いた私は、二三年来、講義の際にもしばしばこの問題に関連する題目を選んでいた。折しも、ある美術雑誌から一年間の連載を依頼された。私は、ともかくも上述のような問題の一部を書いてみようと思った。しかし当時の私の心境では、毎月の連載に一定分量の原稿を送ることは容易ではなかった。そこで雑誌への連載は辞退し、ただ自分の興の向くままに稿を起こした。この寡陋なる書の成就は、おおよそそのような事情によるものである。
これは言うまでもなく、一つの習作に過ぎない。多くの材料を割愛し、若干の顕著な史実のみを拾い上げて、整理を試みたものである。どの方向から見ても極めて複雑な関係の上に立つこの時代の豊富な史料を、十分に運用し尽くすことは、現今の私には不可能なことである。
本書の出版は、一般経済界の沈滞と予約書の続出による出版界混乱の時代にあたった。しかし出版所大燈閣は、私の任意にして奢侈な計画をすべて快く承諾してくれた。この点は、殊に経理の田中氏の尽力に深く感謝すべきである。そのほか、挿図の選択については、友人富永惣一君の援助に感謝する。
なお、本書刊行にあたって思い浮かぶことはまだ多い。先輩諸氏や友人諸君からつねに受けてきた援助は少なからぬものであったと感じる。その中で殊に忘れ難いのは、パリ滞在中に児島喜久雄氏から賜った懇切なるご指導である。ここに改めて謝意を表する。
昭和二年秋、著者、上落合にて記す。
第111節
【一 民族と芸術意欲】
【一】
「芸術意欲」(Kunstwollen)という言葉は、近時、美術史論上の流行語となった。まず一定の意義を、このKunstwollenに与えて、歴史学上の特殊な概念として用いた者は、大体においてウィーン学派の美術史家たちである。しかしながら、この一派の学者たちが与えた概念の内容には、何ら一致も統一もない。ただ簡単に「芸術意欲」という言葉で示される意義内容さえ、各々異なっている。これをもって文化史に基づいて区分された一時代の創造形式を指す者もあれば、一民族に固有の表現様式という意味に用いる学者もいる。ウィーン学派の学者たちが祖師として崇敬するリーグル(Alois Riegl)は、あの敬すべき研究『後期ローマの美術工芸』(spätrömische Kunst–Industrie)において、美術史上のその時代に固有の歴史的使命を説明するために、芸術意欲という概念を用いて、後期ローマ時代に特有の造形的形式観を闡明した。また、現代の流行児ヴォリンガー(Wilhelm Worringer)は、その主著『ゴシック形式論』(Formproblem der Gotik)において、上の言葉を「造形上の創造に関わる各民族の特異性」という意味に用いている。さらに、とりわけ理論の遊戯を好む若干の美学者たちは、もともと美術史上の概念であるこの言葉を、哲学上の議論と結びつけ、歴史上の事実の考察にはまったく無用な空虚な概念を作り上げた。ディソワールの美学雑誌に載ったパノフスキー(Panofsky)の『芸術意欲の概念』(Der Begriff des Kunstwollens)がその適例である。しかし、要するに、美学者の弄ぶ「議論のための議論」を離れて、この言葉を美術史上の特殊な概念と見なし、「芸術意欲」を歴史的考察の主要な基準として推崇する人々の共通の信念は、公平な立脚点から古来の芸術的作品を理解しようとする努力に基づいているということは言えるであろう。彼らの企ては、従来の芸術史家たちが陥りやすい欠点——すなわち「永遠に妥当な」唯一の尺度をもって、一律に歴史の芸術を測定し、評価するという独断——から根本的に脱出するところにある。「時代の所産」としての芸術を理解しようとするならば、いずれにせよ、その芸術を生み出した時代に通用する尺度をもって測定する必要があるのだ。その芸術的作品を産み出した民族と時代の中に入って見て、はじめてその特質と意義を如実に理解できるのである。一つの作品を公平に評価しようとするとき、その作品を生み出した地盤の上に立ち、創造を促した時代の空気に包まれなければならない——彼らはそう考えるのである。前述のリーグルの主著において、世人が一般に「生気のない時代の産物」と指し、「硬化した作品」と評する後期ローマ時代の美術に対しても、大いに弁護を加え、その特殊な意義と価値を認めようとした。一つの根本的な前提——芸術史的発展の過程においては、常に連続的な発達があり、常に新しいものの創造が行われている——から出発して、沈滞した後期ローマ時代の芸術に課せられた歴史的使命を発見しようとしたのである。過去の大いに輝かしい古典美術には見られず、後の盛大なキリスト教美術においてはじめて開花した緊要な萌芽を、この沈滞した時代の産物から拾い上げようとした。皆が枯死したと思っていた時代の中に、生気ある生産力を見出そうとしたのである。リーグルの炯眼がここに成し遂げた顕著な成果が、ウィーン学派の門弟たちに与えた影響は、非常に大きかった。そしてその後継者の一人であるヴォリンガーは、ゴシック美術の特質を闡明するために、北欧民族に固有の歴史的使命を述べ、ヨーロッパ大戦後の、とりわけ民族的自覚が覚醒しつつある——というよりもむしろ愛国熱が過剰に旺盛な——現代ドイツの社会に大いに歓迎された。
「芸術意欲」を推崇するこれらの歴史論的思索から出発すると、まず疑われるのは、芸術上の価値を評量する際に、従来用い慣れてきた「規準」の権威である。時代精神を超越し、民族性を超越した絶対永久の「尺度」の存在である。歴史学上のこの新学説は——外形において——物理学上の相対性原理に類似している。物理学において、物体の運動に関する絶対的な観測はもはや望みがなく、一切の測定がある一定の観点を本とする「相対的」な事柄となったように、美術史上の考察もまた、絶対不変の地位と妥当な尺度の存在を次第に疑うようになった。かくして「芸術意欲」を推崇する人々は、そのような絶対的尺度の使用を排除し、別に相対的尺度を求め、各時代各民族の芸術を、各々その時代、その民族の尺度をもって測定しようとした。従来よくなされたように、ギリシア美術の尺度でエジプト美術を量り、あるいはルネサンス美術の地位から中世美術を考察するような「無謀」な試みに対して、根本的な批評を加え始めたのである。彼らはまず、測定に必要な「相対的尺度」を探求した。今試みに考察しようとする美術が、その創造の際の時代と民族の芸術的要求を知ろうとした。その時代、その民族に固有の芸術意欲を理解しようとしたのである。
この新しい考察法は、どこまで適応し得るだろうか。また、彼らの主張する試みは、どこまで成功したであろうか。これはおそらく美術史方法論上、極めて興味深い問題であろう。さらに、これがドイツ系の美術史論上、正統な代表者と称されるヴェルフリン(Heinrich Wölfflin)の『視的形式』(Sehform)を本とする学説と、いかなる関係に立つのかを考察すれば、歴史哲学上の興味深い題目ともなり得よう。これら歴史方法論上、歴史哲学上の問題について、私は遠からぬ機会に卑見を陳述する意向はあるが、今ここにはこのことを思索する余暇もなく、またその必要もない。ここで断言し得ることは、ただこのような学説が学界一般の注意を引いて以来、美術史家の視野はいっそう広大となり、理解力も明らかに進歩したということだけである。以前はある盛世の余光としか見なかったところに、新しい歴史的使命を見出した。単なる頽廃期の現象として片付けていたものが、新様式の発見として注目されるようになった。それだけではない。何事もまず極端なところから始めるという流行の心理が、批評家を駆り立て、未開人の芸術に対してさえ敬意を払うようにさせた。かくして黒人の彫刻が興味を持って考察され、東洋の美術に対しては現下のような賛辞が呈されるに至った。ギリシアとイタリア・ルネサンスの美術が研究題目の大部分を占めていた時代はすでに過ぎ、ゴシック、バロックに関する著述が多くなった。歴史家は公平な観察者であるよう努めると同時に、温かい同情者であるよう努め、そしてさらに鋭利な洞察者であるよう努めなければならない——この使い古された言葉が、今また次第に美術史界を覚醒させつつある。
しかし、私がここに長い史論上の——多くの読者にとっては極めて退屈な——話を持ち出したのは、もちろんこれからさらに面倒な議論を続けようとするためではない。またこのような議論の道具立てをして、私の拙い叙述に「正当な理由」を与えようとするのでもない。ただ、本稿の題目に選んだ近世ヨーロッパの美術史潮が——説明の手段として——この種の前提を要求するからにほかならない。時代文化の特性と民族的な色彩は、いかなる時期のいかなる場所の美術にも現れることは言うまでもないが、近代ヨーロッパの美術史潮においては、とりわけ濃厚にして鮮明、かつ深遠にして複雑な姿態の上に顕現するのである。そしてこの期間の美術史潮の全景に道筋を描き、理解してゆくためには、この美術史上の基礎現象に注意を払う必要があるのである。
【二】
およそ文化の諸相は、大体において、それを容れている「社会」という器の様式に拘束されている。文化史上の基調をなす一般社会の形態は、その時代に営まれた文化的創造物の大体の型を統一する。程度の差こそあれ、哲学であれ芸術であれ、これは同じことである。これら文化の各部門は——言うまでもなく——その文化の特異性に従い、各々自律的に内面的な展開を遂げている。しかし他面では、外面的な事情によって、常にある程度の支配を受けてもいる。まして美術のように、一般の芸術の中でも、外の社会生活との関係が特に深いものにおいては、なおさらそうである。ここには、自身の必然性によって内面的に自己を発現する力がある。しかし同時に、一般社会の大勢を統御する基調——というよりもむしろ、より表面的な社会上の権威——に支配される度合いは、他の文化よりもいっそう甚だしい。美術家は常に、その制作を促す保護者を必要とした。そしてその保護者は、多少なりとも社会上の権威と密接な関係に立っていた。それだけでなく、多くの場合、この保護者自身が、当時の社会における最高の権威であった。フェイディアスとイクティノスにパルテノン神殿の荘厳を成し遂げさせたのは、アテネの政治家ペリクレスであり、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の大作を完成させたのは、英邁な教皇ユリウス二世であった。このように、美術的創造の事業の背後には、往々にして保護者が潜んでいたのである。少なくとも、十九世紀の初頭に至るまでは、そうであった。
しかし十九世紀の初頭から——正確に言えば、一七八九年のフランス大革命前後の時期から——ヨーロッパ文化の型は、突然変化し始めた。従来総括的に一般社会を支配していた権力から解放された文化の諸部門は、いずれも自身の必然性に従い、自由に創造の事業を営み始めた。一般文化の展開が自律的であるがゆえに、美術もまた外界の権威から解放されて、自由な発展を遂げ得るようになった。中世の文化を支配したのがキリスト教会であり、ルネサンスの文化を支配したのが商業都市であったように、十七世紀の文化を指導し推進した支配者は、各国の宮廷であった。とりわけ「太陽王」ルイ十四世の宮廷である。今はただ美術史の現象に限って、このような歴代の史実を思い起こしてみよう。中世の美術は、ランスやシャルトルの伽藍に見られるように、寺院建築に偏注していた。ルネサンスの美術家たちを養ったのは、フィレンツェのメディチ家のように、大体において商業都市国家の裕福な名家であった。十七世紀の美術家たちは、スペイン、フランスの宮廷を取り巻く貴族の中に保護者を見出した。ルイ十四世の拘束的で儀式を重んずる宮廷においては、壮大な歴史画と濃厚な装飾画が生まれた。続く摂政期からルイ十五世の治世にかけて行われた極度に放縦な官能生活の産物として、美艷にして軽妙なロココの芸術が残された。大革命はその直後に起こったのである。ブルボン王朝を取り巻く貴族たちが最後に外から美術界を支配していた権力は、突如として消失した。ジャコバン党員として鉄腕を振るったダヴィッドは、かつて宮廷芸術の代表的産物であったアカデミーを閉鎖した。この一撃こそ、従来の文化の息吹を断ち切った最後の打撃であった。
では、大革命後の時代において新たに営まれるべき美術的創造の事業を、何が指導するのであろうか。他律的な威力から解放された美術家たちは、何を目標として歩み出すのであろうか。美術的創造が自由な展開を得たとき、新たに指導者の位置に就いたのは、時代思想であった。時代思想が各作家の芸術的信念となり、創造の事業を支配したのである。フランス大革命前後の時期においては、それはまず古典主義の芸術論であった。次いでロマン主義の思想、写実主義、印象主義が、相次いで指導者の位置に就いた。セザンヌ、ゴーギャン、ファン・ゴッホ、ムンク、ホドラー、マレースを開祖とする最近の時代思潮は、一語で代表し得る適切な言葉はないが、おそらく「理想主義」という語で概括し得るであろう。この時代に属する作家たちの主導的傾向は、一方では極端に観念主義的であり、同時に他方では極端に形式主義的であった。
しかしここに、近世ヨーロッパの美術史潮上に現れた、看過し難い極めて重要な特性がある。すなわち——ヨーロッパのほぼ全土が、同時にこの新しい営みに参与したのである。フランス、ドイツ、イギリスの三国は元からであったが、さらにスペイン、イタリア、オランダのように過去の栄光の中に眠っていた諸国が加わり、さらにスイス、ノルウェー、ロシアのような新しい役者も加わった。かくして以下のような極めて興味深い現象が生まれた——全ヨーロッパの文化を導く時代思想はただ一つでありながら、各々の国ごとに、産物の彩色は異なるのである。美術的創造の流れは、さまざまな地方色によって鮮明に染め分けられていた。時代思想の緯と民族性の経とが、美術史潮の華麗な錦を織り上げたのである。時代文化の芸術意欲と、民族固有の芸術意欲とが交差した。したがって、近世の美術史潮を考察しようとする者は、たとえウィーン学派の門弟でなくとも、深い芸術意欲を本拠とするこの二つの基礎現象を重視せざるを得ないのである。
【三】
しかし大体において、近世ヨーロッパの美術史潮の基調を形成したのは、フランスである。十八世紀以来、一貫してヨーロッパ美術界の大勢を支配してきた国民は、フランス人であった。そしてこの国民に賦与された民族的天分は、純粋に造形的に事物を見る堅強な力であった。ルイ十三世の時代に、首都の繁華な活動を避けてローマに永住したプッサンでさえ、その画風は濃厚な古典主義的色彩を帯びていたが、すでに事物を正視する写実的態度を、画家がまず努めるべき第一の義務としていた。ピンチオの丘上を逍遥し、周りの弟子たちに向かって語った芸術の奥義は、すなわち「写実」であった。ヴァトーの画は絢爛として喜劇の舞台面のごとくであったが、彼が風景の美しい装飾的効果を体得したのは、リュクサンブール宮苑での写生の賜物であった。表情豊かなラ・トゥールの肖像、穆然として沈着なシャルダンの静物、ダヴィッドの好んだ革命的なローマの戦士、アングルの人体の柔らかな肌、ドラクロワの強烈な色彩——これらはいずれも事物を正視する堅強な力から出たものである。ルソー、クールベ、モネが順次、写実主義をいよいよ徹底させたことは、言うまでもない。新しい形式主義の祖師となったセザンヌでさえ、物体の面を凝視しているときに、その独特な境地を開拓したのであった。
まことにその通り、フランスの画家たちは、造形の問題からあまり離れることがなかった。「美術」というこの純粋に造形上の問題を解釈するために、彼らは常に造形の立場を棄てなかった。時代思潮がいかに威力をもって迫ろうとも、彼らは忠実に自己の地盤を守った。いかに魅力に富んだ思想があろうとも、彼らを誘惑して本来の使命を忘れさせることはできなかった。ほぼ三世紀の長きにわたり——少なくとも二十世紀の初頭に至るまで——フランスの美術界が連綿たる一系の統治権を握り続けたのは、まさにこの国民の性向が造形的文化の事業に長じていたからにほかならない。
では、フランス以外の国民はどうであろうか。とりわけ、各種の文化的創造の歴史に常に燦爛たる勲績を残してきたドイツ民族はどうであろうか。フランスの啓蒙運動を受けて、十八世紀末葉以来の思想界の中心的潮流を形成したのは、ドイツであった。芸術の分野では、バッハ以来の音楽史も、ほぼそのままドイツの音楽史であった。南方の諸国にも時折、時代を画する作家が見られたが、光怪陸離たるドイツの音楽界とは、到底比べものにならなかった。——これとは反対に、造形的文化においては、事情はまったく異なっていた。音楽と美術という、おそらく性格的に相反する傾向を帯びたこの二つの芸術は、創造の事業に携わる国民に対しても、明らかに異なる関係に立つのであろう。北方民族の中からも、美術史上の偉人が続出した。ファン・エイク兄弟、デューラー、ファン・ライン——ただこれら数名の名を挙げるだけで、おそらく十分な説明となるであろう。……
遠い過去のことはさておこう。問題を簡潔にするために、今は考察の範囲を近代に限ることにする。ここにおいても、北方民族の中から時折、時代を画するに足る作家が現れた。そしてこれらの作家は、南方の美術界では決して見られない独自性を発揮していた。その中には、コンスタブルのように、フランスの風景画界の指導者となった者さえいた。しかし、いずれにせよ、それらの作家の占める位置は、各個的であった。ヨーロッパ美術界の基調をなすフランスに牽引されることが多かった。北欧の美術界が立つ地盤は、常に不安定であった。時代の潮流の強い力に遭えば、たやすく動揺した。(同様の関係は、歴史を繙いても知ることができる。十六世紀後半のドイツ、十七世紀末のオランダなどにおいて、南方の影響は常に北方固有の発達を阻害していたのである。)
大概において、北欧の民族は造形上の創造において、時代思潮の力に感じやすかった。その性格の強さは、フランス国民のように実際の造形上の「仕事」に現れるのではなく、とかく溌剌たる思想上・観念上の「意志」としてそのまま遺されがちであった。ここに、フランスとドイツの両国民が美術界において一般的な得失を分かつ機因がある。北欧民族——とりわけドイツ民族は、美術家としては、あまりに「思想家」に過ぎたようである。今、問題を美術の一事の範囲に限って言えば——フランス人は大体において良き現実主義者であった。北欧の人々はその反対に、しばしば良からぬ理想主義者であった。理想家としての北欧人は、常に自己の信念に忠実であった。しかし、往々にして忠実に過ぎた。彼らはしばしば自己が美術家であることを忘れ、絵を描く哲学者になりやすかった。高遠な古典主義を崇奉するカルステンスは、写生をしたことがまったくなかった。モデルを用いず、ただ頭の中で絵を描いたのである。ロマン主義思想に陶酔したナザレ派の人々は、美術を宗教の婢とした。ラスキンの思想に飽いたラファエル前派、怪異な詩人画家ブレイク、濃厚な汎神論を説くベックリン。——さらに一時期、ドイツの画壇を支配した多くの歴史哲学者たちの一群!
もちろん、フランスに生まれた作家たちの中にも、時代の犠牲者は多くいた。「中庸」の空気の中で育った若干の俗悪な流行作家、あるいは印象派の技巧を一つの教義と化し、自らを窮地に追い込んだ点描画家など、これらはフランス精神が直接に導き出した悪果であった。同時に、北欧の人々の中にも、彼ら特有の観念主義と造形上の問題とを巧みに結びつけた数人の作家がいた。ファン・ゴッホの熱烈な自然讃美、ムンクの陰鬱な人生観は言うまでもなく、マレースの高邁な造形上の理想主義、シュヴィントの愛らしい童話、ライテルの深刻な歴史画もまた、いずれも北欧系の画家のみが持ち得る独自の才能の発露にほかならなかった。ティツィアーノの色彩とラファエロの構図がいかにもイタリア風であるように、レンブラントとデューラーの宗教的色彩もまた、いたるところ北欧風であった。北欧の人々はゴシックの彫刻を作って以来、彼ら固有の長所を稟けていた。しかし彼らの特性は、往々にして短所として現れやすかった。近時のように、時代思想の力が圧迫的に働く時代においては、この特性が短所として現れる場合がいっそう多かった。彼らの堅強な観念主義は、とかく画家に本来の使命を忘れさせた。思想的内容のみが造形上の形を破って膨張しようとするのである。しかし幸運な場合には、思想と造形も適切な調和を保ち、北欧人ならではの長所が発現するのであった。
第112節
【二 フランス大革命直前の美術界】
フランス大革命を境として展開する近世美術史潮の最初の発見が古典主義であることは、言うまでもない。批評家にはヴィンケルマン(注一)があり、革命家にはダヴィッドがあり、陶酔者にはカルステンスが生まれた古典主義の滔々たる威力が美術界を風靡した情状は、後に改めて述べよう。本稿の冒頭にあたり、私がまず一瞥しておきたいのは、この古典主義全盛時代の到来以前の状態である。十七世紀に盛んであった中央集権制を基礎とする絢爛たる宮廷文化の背後には、十八世紀末葉の巨変を予感させる啓蒙思想が次第に凝結しつつあった。この啓蒙主義の思潮が美術界に現れた姿は、おおよそ二様である。すなわち古典主義と道徳主義である。
啓蒙思想と古典主義の間には、もともと深い関係がある。社会改良を論ずる人々が、過去の歴史の中に理想の社会の実例を探し求める時、選ばれたのは大抵、古典ギリシアと古典ローマであった。十八世紀の啓蒙期にあって、往昔の古典文化の時代もまた一歩一歩若返り、社会改良の目標と模範となった。かくして美術上の古典様式が、社会一般の趣味とならざるを得なかった。画家は古典時代の事跡に題材を求め、建築家は古典様式の理論を新たに説いた。しかもこの時、古典主義の芸術運動に極めて有力な偶然の事件が起きた。ポンペイ、ヘルクラネウムの組織的発掘事業がそれである。ヴェスヴィオの噴煙の下に埋もれた古典時代の都市生活が、焼きたてのパンから家犬に至るまで、酒場や遊女屋から富豪の邸宅に至るまで、一切の世相をそのままの姿で発掘された。全世界が好奇の眼を見張った。ポンペイ式の室内装飾が流行し、廃墟を点景とする風景画が大いに賞玩された。イタリアへの旅行者は急増し、古典時代を語る書籍も人々に争って読まれた。これだけを見ても、バロック趣味の濃厚さに倦み、ロココの絢爛に疲弊した人心が、いかに熱烈に古典趣味を迎え取ったかは、容易に察せられよう。ヴィンケルマンの芸術論が一世を風靡し、メングス(Raffael Mengs)やカノーヴァ(Antonio Canova)の婉順な似非古典様式が世に尊ばれたのも、まさにこのような事情の賜物である。ドイツの美術家たちの間でこの傾向が特に顕著であったことは、北欧民族の特性から推察するに難くない。
この時、さすがにフランスの作家たちは、彼らの正当な使命を忘れてはいなかった。パリのパンテオンの建設者として名を馳せたスフロ(Jacques Germain Soufflot)、ヴォルテールの性格を見抜いた胸像で名声を得たウードン(Antoine Houdon)、嫵媚な自画像で名を伝えたヴィジェ=ルブラン(Vigee-Lebrun)は、いずれも似非古典主義の時代に属する作家であるが、決して北欧の美術家たちのごとき陶酔的な婉順さを持たなかった。一人一人が「時代思想の繍像」以上の健実さを帯びていた。これは当然のことである。端正にして純正な古典主義の作家プッサンを近世美術の祖と仰ぐフランス人の国民性は、むやみに時代思想に酔い倒されるには、造形上の天分をあまりにも豊かに稟けていたのである。
とはいえ、古典主義の思想に対して本分を忘れなかったフランス国民も、啓蒙思想のもう一つの面——道徳主義に対しては、自らを守り切れなかった。ブルボン王朝特有の過度の官能生活が育んだブーシェ(Francois Boucher)の描く放蕩な裸女の嬌態や、フラゴナール(Honore Fragonard)の描く淫靡な戯事に憤怒して、極端に道徳的なディドロ(Denis Diderot)の芸術観が生まれた。画廊をもって国民の修身教育所にしようとした彼は、勧善懲悪の絵画を奨励した。グルーズ(J. Baptiste Greuze)の筆になる天真爛漫な村娘や各種の風刺的家庭風俗画は、このような芸術論の産物であった。しかしその中には、父子の争いを描いた作品のように、小学校的訓話の挿絵に過ぎぬものもあった。フラゴナールの鍵穴から部屋の密事を覗き見るような絵画の後に、グルーズの道徳画があり、ブーシェの女子の薔薇色の柔肌の後に、村娘の晩祷がある。これは勢いの然らしめるところであった。
さらに、啓蒙期に特有のこのような現象はイギリスにも見られた(注二)。勧善懲悪的な物語を一連の連作に描いたホガース(William Hogarth)がその代表者である。史家はしばしばホガースを民衆芸術の祖と称する。しかし、典型的な北欧人たるこのイギリス人と興味深い対照をなす作家がいる。典型的な南欧人の血を引くスペインのゴヤ(F.J. de Goya)がそれである。一種のロココ画家として肖像画を遺したゴヤは、別の面では豪放にして熱情的な画家であった。決闘や闘牛の描写にスペインの世態を抉り出した彼には、当然ながら啓蒙思想などの影響はなかった。彼はただ南方風の単刀直入の率直さをもって、浮世の争闘を存分に画面の上に広げたに過ぎない。
しかしまた、このような眩しい時代に生まれながら、社会の芸術家に対するような無関心をもって、誠実に自己の個性を養い成した法蘭西の作家もいた。摂政期の風雅な趣味を映すヴァトー(Antoine Watteau)、ルイ十五世時代の代表的肖像画家ラ・トゥール(La Tour)、そして庶民社会の質朴な空気を呼吸したシャルダン(J.S. Chardin)がそれである。
ヴァトーの画は、あたかもモーツァルトの室内楽を聴くかのような心持を人に起こさせる。風雅にして愉快な爽朗さの中に、軽やかな一縷の哀愁が流れている。あの美は、あたかも可憐な旋律を繰り返す横笛の音のようである。当時の貴族社会の放縦な情事の宴を最良の意味で美化することを知っていた彼は、高尚なる「愛の詩人」であった。巻物のような「船渡し」の図や、極小幅の「羽紗」や「ランディフラン」——ただこれらのみが、まさにブルボン王朝の夢の最も美しい記念である。
ラ・トゥールは、消え去りやすい表情を、小幅のパステル画に捉え得た画家である。当時一般の肖像画は一律に、醜女を美女に変える法術に長けた幻術師であったが、ただ彼一人がありのままの表情を描いた。いかなる容貌にも、識別し得る活き活きとした個性の閃きを写し出した。顕貴の人々の間に出入りしたが、廷臣根性の阿諛に堕ちることはなかった。繊手をもって宮廷の実権を握り、飛ぶ鳥をも落とす勢焔のポンパドゥール夫人の前でも、気ままに自分の奇特な振る舞いを行った。仕立屋のごとき根性の当時の肖像画家たちの間にあって、ただラ・トゥールのみが真の肖像を描いていたのである。
外科医のために看板を描き、それが出世作となったシャルダンは、当時の貴族社会とは何の交渉もない生涯を送った。パリの質朴な庶民の間に生活した彼は、庶民の日常生活の中から良い題材を発見した。十七世紀のネーデルラントに輩出した優れた画家たちのように、謹厳平和な日常生活の風俗画と、穆然として沈着な静物画が、彼の得意の境地であった。伝え聞くところでは、眼識高明なるアカデミー会員の一人が、彼の静物画をフランドル画家の作品であると称賛したという。シャルダンの画風は、それほどまでにネーデルラント的であった。万事に奢侈を尚ぶ空気を呼吸しつつ、一世紀前に隣国で栄えた作家たちの後に従い、独り静かに皿、魚、果物を凝視した彼は、ちょうど一世紀後に、一人の偉大なる後継者を見出すことになった。その人こそセザンヌである。
この時の情況は、大体以上のようなものであった。ここで、おおよそ次のように言い得るであろう。大革命以前の時期にあって、一般社会を指導していた思潮は啓蒙主義の思想であった。フランスを中心として興ったこの思潮は、フランスの美術界にも当然ながら濃厚な痕跡を残した。来たるべき大革命とともに、このような傾向はさらに徹底し、一時は画家の支配権をも獲得した。しかし、別にまた幾人かの作家は、啓蒙主義の思想的風潮に乱されることなく、静かに芸術の本道を歩んでいた。プッサン、ヴァトー、シャルダン——ここに、隠約ながらも、十七世紀以来大革命に至るまで、フランス画界を統御する強い力が存していたのである。
第113節
【三 古典主義の主導的作家】
上文に述べた通り、社会改良の声と共に次第にその密度を増した美術上の古典運動は、一七八九年のフランス大革命前後の時期に全盛期に入った。古典ローマの共和政治を模範とする革命政府の方針は、そのまま当時の美術界に反映していた。革命政府の要人ロベスピエールと歩調を合わせた美術家がダヴィッドである。ジャコバン党政府において敏腕を振るったこのダヴィッドは、当時の美術界を支配するにあたって徹頭徹尾ジャコバン風であった。一七九三年に決行された美術アカデミーの閉鎖にも、ルイ十六世を断頭台に送った革命党員の盛気があった。一切の有力者に対するマラ式の憎悪をもってアカデミーの専横を厭悪したダヴィッドが、多年の怨恨を雪ぐために敢行した最初の仕事が、アカデミーの葬送であった。
このような経緯であるから、フランス大革命と連関する古典主義の美術運動が、一方でフランスの美術界に最も濃厚な痕跡を残したことは言うまでもない。しかし他方では、古典主義の芸術運動には、思想面に属するより純粋な半面もあった。社会上の問題や事件に無関心で、ただ古典文化の時代とその美術様式に心を寄せ、芸術上の理想世界とする思潮もあった。実行において、古典美術の模倣を現代美術家の真の職務とするヴィンケルマン式の芸術論を具体化しようとする美術家たちもいた。より正確に言えば、そのような試みをなそうとする気運が、古典主義を信奉するすべての作家の創作の半面を支配していたのである。しかし、このような理想主義的な古典主義の流行は、何事においても実際的なフランス国民の間よりも、北方民族の間でこそはるかに濃厚であった。カルステンスの絵画、トルヴァルセンの彫刻、シンケルの建築などは、いずれもこの濃厚な理想主義の産物である。
フランスに興った芸術上の新運動の動機はかくも社会運動的・実際的であり、これに対して北欧民族の間の運動は極端に思想的・非実際的であったという事実から推察すれば、一見して以下のような結果を招くであろうと思われる。すなわち、フランスの芸術上の新運動は造形上の問題において、おそらく北欧諸国のそれよりも不純であり、北欧諸国においてこそ純芸術的な機運が展開し得るのであろうと。しかし事実はまったく逆であった。何事においても実際的なフランス人は、美術上の制作においてもまた何事においても実際的であった。たとえ制作上の動機にいささか不純な点があっても、ひとたび絵筆を手にすれば、自己が一人の画家であるという自覚を決して失わなかった。しかし北欧の作家たちは、その制作の動機があまりに純粋であるがゆえに、自己が美術家であることを忘却した。ただ動機としての思想的背景に拘泥するのみで、実際の造形上の問題にはまったく頓着しなかった。ここに自ずから二つの民族の美術史上の特性が分かれ出る。そしてこれらの特性から必然的に生ずる、美術家としての二民族の得失もいよいよ明白となる。この二民族の特質を最もよく代表する作家がフランスのダヴィッドとシュレスヴィヒのカルステンスであり、したがってこの二人の作家の運命を比較すれば、おそらく二民族の美術史上の状況を推見し得るであろう。
【a ダヴィッドの生涯とその事業】
革命画家ダヴィッド(Jacques Louis David)の生涯がブルボン王朝の寵児ブーシェの引き立てによって展開したことは、ブルボン王家が美術の世界においても知らず知らずのうちに自らを滅ぼす萌芽を培ったという、まことに興味深い皮肉と言えよう。ルーヴル美術館のダヴィッドの大作を収蔵する一室には、「戴冠式」や「ホラティウス」と混じって、十八世紀の一室から誤って紛れ込んだかと疑われるような小幅の人物画が掛かっている。しかしこれは紛れもないダヴィッドの画である。彼がまだヴィアンの弟子で、ローマ留学を志していた頃に描いたものである。「マルスとミネルヴァの争い」と題するこの画は、ローマ賞を得ようとして一七七一年にアカデミーの競技会に陳列された作品である。色彩も様式もロココ風で、何気なく見ればブーシェの作と誤り得るこの画は、二等賞を得たに過ぎなかった。しかしブルボン王家の頽廃期の画壇を支配したブーシェと、ジャコバン党の全盛期に大いに威猛を振るったダヴィッドとの奇縁を記念する作品として、これは無比の重要な史料である。このような太平な絵を描いていた青年が、あのような恐るべき大人物になろうとは、おそらく誰にも予料し得なかったであろう。鉄のように堅強な意志を稟けたダヴィッド自身に、当時の画壇を征服しようとするいくばくかの意気はもとよりあったであろうが、変化常なき時代の史潮が彼の運命を押し流していったのである。古典主義の新人、啓蒙思想の流行作家、革命政府の頭領、ナポレオン一世の首席宮廷画師——そして最後は、ブリュッセルの流謫生活。
世に古典主義の門戸はヴィアン(J.M.Vien)によって示され、ダヴィッドによって開かれたと言われる。ロココの代表画家ブーシェが若きダヴィッドをヴィアンに託した時には多くの不安を抱いていたが、この老画家の不安はダヴィッドのローマ留学とともに事実として現れた。ヴィアンの工房で急速に進歩したダヴィッドにとって、ローマ留学の宿望を達するための道は予想外に険しかった。競技会のローマ賞はなかなか彼に与えられなかった。自尊心の非常に強いダヴィッドは二度の屈辱に耐えかね、自殺を決意するに至った。友人たちの雄弁によって勇気を回復したものの、アカデミーに対する深い怨恨が彼の心から一時たりとも消散することはなかった。一七九三年のアカデミー閉鎖は、まさにこの忘れ難い深恨に対する大胆な報復であった。
一七七四年の競技会でようやくローマ賞を勝ち得た「ストラトニケ」も、依然として十八世紀趣味の作であった。しかしローマに滞在し、メングスやヴィンケルマンの芸術論を知り、またポンペイを遊覧してローマ人の日常生活を目睹して以来、彼はまったく古典主義の画家となった。古典主義の外衣はたちまち社会征服のための武器となった。ビザンティウムの都門で乞食する盲目の老将「ベリサリウス」を描いて王者の忘恩を風刺した後、ローマ人の公徳を代表する「ホラティウスの家族」を制作して古昔の共和政治を賛美した彼は、すでに動かし難い第一の流行画家であった。
「ホラティウスの家族」は一七八五年の展覧会に出品された。続いて八五年には「毒を仰ぐソクラテス」を出品した。そして八九年——あの大革命の起こった一七八九年——にはローマ共和政治の代表者「ブルートゥス」が現れた。ダヴィッドの陳列作品に対して、当時の趣味は常に考古学上の正確さの度合いを盛んに論じていたが、「ブルートゥス」が世人の心中に喚び起こし得たものは、ただ共和政治の讃頌のみであった。この画を制作するにあたり、ダヴィッドは綿密な考古学的準備を怠らなかったが、しかし人々はそのような問題にはもはや興味を持たなかった。そのような余裕はなかったのである。当面の大問題たる共和政治の讃頌以外のことは耳に入れたがらなかった。泣いているブルートゥスの娘の鬈髪の乱れた頭が、ローマ時代の作品バッカンテの頭をモデルとしていること——そのような探索はすでに無関係なものとなっていた。最も重要なのは、ただブルートゥスが私情を犠牲にした徳行のみであった。しかし結局のところ、時機に投合したダヴィッドの巧みな計算は見事に功を奏した。そして最後に彼は自らを革命家の仲間の中に投じたのである。
ジャコバン党員としてのダヴィッドの活動はまことに見るべきものがあった。革命政府を支配する大人物の一人として、彼の努力は美術界の事業にも向けられた。アカデミーに対する忘れ難い怨恨のために、ついにこれを閉鎖するに至ったのも、この時代の挙動である。この時代にはまた、彼の芸術上の武器たる古典主義を、ただ迎合的な空虚に向けて展開するいくつかの試みも行われた。しかし他方で、彼が真にフランスの美術家であることを弁護するに足るいくつかの作品も、この時に生まれた。ヴェルサイユの第三身分の「宣誓式」を描いた龐大な下絵、浴室で殺された「マラ」の極めて写実的な画像などは、いずれも革命家ダヴィッドを記念する作品であると同時に、画家としての彼の資格を保証する史料でもある。空虚な古典主義からは遠く隔たり、堅固な写実に端を発する彼の性格は、これらの作品の上に最も明らかに見て取ることができる。後の「戴冠式」の制作について述べる機会はまたあるであろうが、極めて壮大な多人数が集合する構図においてさえ、各人物の裸体素描を試みようとするその準備の綿密さは、当時としては稀有のことであった。革命事業を歴史的に記念しようとして経営されたこれらの作品には、ある程度の理想化が加えられたことは言うまでもないが、しかしそうであっても、堅固な彼の性格は写実的な堅実さから離れようとはしなかった。
ロベスピエールとともに失脚した彼は、危うく命を落とすところであった。しばしの獄中生活から解放された後、彼は政治上の混乱した生活から遁れ出て、静かな工房で日々を送る人となった。この時期に描かれた大作が「サビニの女たち」である。大きな成功を収めたこの作品の特別展覧の際、観客に配られた解説には、次のような一節があった。
「私に加えられた、そしてこれからもおそらく絶えることのない非難は、画中の英雄が裸体であるということである。しかし神々や英雄やその他の人物を裸体で表現することは、古代の美術家たちに許された慣習であった。哲人を描けば、その姿は裸体である。肩に布を掛け、性格を示す付属品を与える。戦士を描けば、その姿は裸体である。戦士は頭に兜を戴き、肩に剣を負い、腕に盾を持ち、足に靴を穿く。……一言にして蔽えば、この画を試みた私の意図は、ギリシア人やローマ人が私の画を見ても、彼らの慣習に合致する正確さであると感ずるように、古代の風習を描くことにあった。」
古典主義の画論としてダヴィッドが抱いていた意図は、実のところこの解説以上のものではなかった。このような単純な考えは、後世の嘲笑を大いに招いた。「ダヴィッドの描く裸体の人物がローマ人であることが分かるのは、ただ兜を戴いているという一点のみによってである。」——このような嘲笑から、古典主義には「消防夫」という綽名が与えられた。おそらくローマ人と消防夫がともに兜を戴いているからであろう。しかしまさにダヴィッドの教義が極めて単純であったがゆえに、彼の制作を造形の問題から引き離して思想的背景の方に引きずってゆく恐れもなかったのである。後世の嘲笑を招いた彼の教義の単純さは、同時に画家としての彼を救った力でもあった。
革命家としての活動が終わると、宮廷画師としての生活が始まった。「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」を描いて名誉心の強い偉大なコルシカ人の歓心を買ったダヴィッドは、一幅の「戴冠式」を残して、ナポレオン一世の首席宮廷画師時代を記念する巨制とした。
一八〇四年にノートルダム寺で挙行された皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの有名な戴冠式を記念するため、首席宮廷画師ダヴィッドは皇帝から制作の命を受けた。完成した作品はただちにルーヴルに送られ、美術館の大広間に置かれて一八〇八年の展覧会の開会を待った。画幅は見事に大きく、構図は非常に複雑である。画の中央には赤いビロードの裘衣を纏った皇帝が立ち、手を挙げて、前に跪く皇后の頭に冕を載せようとしている。名誉ある二人の貴婦人——ロシュフコー伯爵夫人とラヴァレット夫人——が皇后の裘衣の裾を執っている。皇帝の背後には教皇ピウス七世が坐し、右側には教皇特派大使カプララとカルディナーレのブラスキおよびグレシアの一僧正がいる。そしてこれらの中心人物を取り巻いて、パリの大僧正を筆頭に、ナポレオンの近親、外国の使臣、将軍たちが列んでいる。
しかしこの壮大な儀式画は、実は規模極めて大きな肖像画である。画中の多くの人物の各々に対して、一々綿密な準備がなされている。中にはわざわざダヴィッドの工房に赴いて写真を撮らせねばならなかった者もいた。ダヴィッドの一生を通じて、彼の周囲を旋回する社会の声の喧噪の叫びの間にあっても、彼はあの冷静な「写実眼」に眩惑されることがなかった。この畢生の大作の制作にあたって、彼は画家の真の本分を忘れなかったのである。ただこの壮大な儀式画こそ、「宣誓式」「マラ」およびケレミエ夫人の素衣の肖像画とともに、ダヴィッドが画家であることを満足に弁護し得る作品であった。投機的な迎合主義と空虚な古典主義という危険な誘惑があったにもかかわらず、真の画家として後世に遺贈するところの大きかった彼の面目は、この巨制の上に最もよく窺い知ることができる。
首席宮廷画師たる彼に命じられた制作としては、他に「軍旗授与式」「即位式」「市庁における受任式」などがあった。しかし完成に至ったのは、出来の比較的劣る「軍旗授与式」のみであった。それ以外の計画はナポレオンの没落とともに消滅し、栄華の夢と化した。
百日天下の際、ブルボン王家に対して反抗の意を明示したダヴィッドは、ルイ十八世が復位するや国外に追放された。ローマ滞在は許されず、彼はブリュッセルを選んだ。凱旋将軍のごとくブリュッセル市民に迎えられた彼は、この地で悠々と余生を送った。画家たちにとってブリュッセルは新たな巡礼地となったが、ダヴィッドを訪ねた人々の中には若きジェリコーがいた。一八一二年の展覧会で初めてこの画壇の覇者に知られるに至ったジェリコーこそ、古典主義に最初に反旗を翻した情熱の画家であった。
ダヴィッドの胸中に蘊蓄された堅固な良心が彼を救ったのである。彼が「時代の挿絵」に堕することなく終えたのは、実に写実を尊重するその性格のおかげであった。この緊要な一面があったからこそ、彼の作品は深い影響をフランスの画壇に与え得たのである。ダヴィッドの工房で養成された直弟子グロは、その宮廷画師の一面を継承し、古今独歩の戦争画家として、ロマン主義絵画の鼻祖と仰がれた。ダヴィッドの性格を写し取ったかのようなアングル(J.G.Ingres)(注三)は、古典主義的傾向を徹底させ、フランス画壇を統べる肉体描写の典範となった。しかしこの二人の偉大な後継者は、いずれも写実的表現をその芸術の生命としていたのである。ナポレオンの軍隊に従ってイタリアに赴き、戦争の実状を詳細に観察したグロと、古典主義を崇奉しながら——彼自身の気持ちとしては——「理想化的表現」を非常に嫌悪したアングル(注四)——いずれにも師と共通するフランス精神を窺うことができる。ゾラの小説『制作』の中で、アングルのアカデミズムを極めて嫌悪しながらも、その堅実な肉体描写には大いに牽引されたセザンヌの事実を見た者ならば、この方面の事情を十分に肯定し得るであろう。十九世紀初頭のフランス風の古典主義運動がいかなる性質のものであったかは、代表者ダヴィッドの考察によっておおよそ推察し得た。では、この同じ古典主義の思想は、北欧の作家にどのような感動を与えたのであろうか。以下、カルステンスを中心として、この方面の考察を試みよう。
【b カルステンスの生涯およびその歴史的使命】
一七五四年、ヤーコプ・アスムス・カルステンス(Jakob Asmus Carstens)は北海の畔、シュレスヴィヒのザンクト・ユルゲンの粉挽き小屋に生まれた。農夫の子であり、シュレスヴィヒの寺院に付属する学校に通っていたが、休暇の時間にはいつも寺院の祭壇画を見ていた。箍桶屋の徒弟となり終日鉄槌を振るっていたが、残された夜の時間にはいつも素描の練習に行き、あるいは芸術に関する書物を読んだ。とりわけヒューブナーの『絵画美論』を好んで読み、北国に住む者には想像し難い古典時代の芸術に心を寄せた。一七七六年、ついに労働者生活を棄てて画術に身を委ねる決意をしたが、規則的な修業を好まず、一七七九年になってようやくコペンハーゲンのアカデミーに入った。しかしこれもローマ留学の奨学金を得たいがためであった。フェイディアスとラファエロに心を寄せる彼の胸中では、一切の計算を超越して、ほとんど盲目的にただ理想の実現のみを望んでいた。そのためコペンハーゲンにおいても画廊に陳列された絵画は見ず、ただアカデミー所蔵の古代彫刻の模造品のみに親しんだ。しかしカルステンスの性格には一つの奇異な特徴があった。これらの模造品さえも模写しなかったのである。心中に残った印象を追い、想像の中で絵を描くのが彼の常の習慣であった。原作から遠く離れた彼にあって、まだ見ぬ荘厳の世界は、ただ空想の中でのみ生発し得るものであった。南欧の作家たちが原作——あるいはより完全な模造品——から実際の素描を取ることができたのに対し、北国に生まれたカルステンスは不完全な石膏像に頼って、心の中に古典芸術の像を描くほかなかった。写生を好まず空想を好む彼の性格の由来は、北国に生まれた画家が遭遇するこのような境遇にあり、とりわけ理想と想像の世界に親しむことを好む北方民族の国民性にあった。したがって、美術史上におけるカルステンスの特殊な意義は、彼の芸術的才能のみの中に見出すことはできない。むしろ、一方で新しい芸術上の信念に導かれながら、他方で自らの道を開拓するその芸術の意欲の中にこそあると言うべきであろう。言い換えれば、カルステンスの名声を不朽ならしめたものは、造形的表現の背後にはるかに隠された理想そのものなのである。
コペンハーゲンのアカデミーにおいて彼の才能は大いに賞賛されたが、ローマ賞の授与に関する当局のやり方を攻撃したために、アカデミーから追われ、肖像画の潤筆を蓄えてローマ巡礼の旅費とするほかなかった。一七八三年、ついに彼は一人の親族とともに徒歩でアルプスを越えた。しかしマントヴァに滞在してジュリオ・ロマーノを熱心に臨摹していた時、限りある旅費を失い、かねてから心を寄せていたローマをも仰ぎ見ることなく、ドイツに帰るほかなかった。五年後、寒飢に依る辺もない身で、ベルリンに住んでいた。幸い当時の大臣ハイニッツ男爵の後援を得て、ようやく生活の憂いなく、その地の美術界と交わり、ついにローマに留学することができた。一七九二年、カルステンス畢生の願望が達せられた。友となった建築家ゲネリーを伴い、彼が慕い続けたローマへと出発したのである。
しかし恩恵は遅すぎた。カルステンスには、この新しい幸運を発展させるに足る力がもはやなかった。彼は仕事の範囲を、影をやや施した輪郭の素描に限った。彩画を修業する機会はあったが、それを試みようとはしなかった。彼には色彩というものに対する感覚が欠けていた。それだけでなく、肖像画を得意とする彼には観察の才能に確かに十分な天稟があったが、空想の世界に住み慣れた彼は、自己の構想に蘊蓄する幻想を壊すことを常に恐れ、個々のアクトの練習においてさえモデルを使おうとしなかった。古典時代の模造品——しかしその多くは、今ヴァチカンを遊覧する旅人たちを失望させつつある拙劣な「工芸品」に過ぎなかった——とミケランジェロとラファエロは、ただ彼の心を感激させるのみであった。一七九五年、ローマで企図した素描の個展を開催した時、明らかな技巧上の欠陥のために、フランスのアカデミー関係者の嘲笑をかなり招いた。カルステンスのローマ滞在中の最大の作は、おそらくホメロスの人と詩から題材を取ったさまざまな作品であろう。しかし、ただ壮大な効果のみを求め、人体の正確な描写をかえって等閑に付したこれらの素描にも、彼の偏執的な性格を窺い得るに過ぎない。ハイニッツ男爵の勧告にもかかわらず「永遠の都」を去ることができなかったカルステンスは、ついに保護者に棄てられ、運命の弄びに任せるほかなかった。過度の努力の結果、肺病に罹った彼は、「黄金時代」と名づけられた一幅の爽朗な画の構想を抱きつつ、異郷の土と化したのであった。
北方風のあまりに理想主義的な古典主義が、いかなる姿態で現れ、いかに北方の美術家を導いたか。これらのことは、上述のカルステンスの生涯の中に十分に窺うことができる。カルステンスが求めた世界は「造形そのものの世界」ではなかった。彼にとって造形の世界は、理想の世界を把握するための一つの手段に過ぎなかった。肉体を理想の象徴とし、比喩を最上の題材とするカルステンスの意図は、すべてここから出発していた。肉体そのものの美を求めることは、彼の営みではなかった。彼が期望したのは、肉体を象徴とする理想を描き出すことであった。彼は画面を満たす現実の姿態を描写するために題材を選んだのではなかった。彼が求めたのは、画面に表現された姿態が何かの理想を象徴することであった。比喩を愛用するカルステンスの意図は、ここから出発していた。造形そのものの意義を軽視する彼は、画家として成功するはずがなかった。しかしその純粋な——あまりに純粋な——芸術上の信念は、北方の美術家たちの理想主義的性向に共鳴した。フランスの画家たちは彼の技術の拙劣さを蔑視したが、北方の美術家たちは彼から多くの影響を受けた。素描や画稿を描くのみで自ら満足する多くのドイツの美術家たちは、まさにカルステンスの正統の作家である。そしてその中から、デンマークの彫刻家バルテル・トルヴァルセン(Barthel Thorwaldsen)が、彼の最も優れた後継者として現れた。カルステンスが輪郭の素描を好んだように、トルヴァルセンが最も得意としたのは古代風の浮彫の彫刻であった。彼もまたカルステンスと同じく比喩を題材とした。古代風のトガを纏った冷たい——しかし非常に有名な——キリスト像を刻んだのはトルヴァルセンであった。無力に両手を広げるキリストの姿態の上に、祭壇の前に礼拝する祭司のような静穆はあるであろう。しかし衆生を済度する救世主の愛の深みはない。——ここに、古典主義時代の彫刻に共通する宿命的な性質が存している。北方の美術家によって標榜された古典主義の思潮は、かくして空想的な理想主義となり、しかも必然的に空虚な形式主義となって、純造形上の問題を顧みない結果を招来したのであった。
第114節
【四 ロマン主義思潮と絵画】
古典主義の思潮に比して、精神がいっそう高邁なロマン主義の時代精神は、いかなる交渉を美術界にもたらしたのであろうか。古典主義の思想が明晰な理知のもとにただ理想の世界を幻想するものであった後に、人間的感情の自由な飛翔と超現実的な事物への熱烈な憧憬を生命とするロマン主義の精神が覚醒した。この新しい思潮は、いかなる映像を造形的文化の鏡面に投じたのであろうか。しかもフランスとドイツを中心とする性格の異なる二つの民族は、この新しい思潮を受けて、それぞれいかに異なる態度を示したのであろうか。この二民族を代表する美術家たちは、各々いかなる方法でこの新時代に入っていったのであろうか。——ここに、近世美術史上最も興味深い問題の一つが見出される。しかし、近世美術史上最も複雑な時代における当時の美術界の状態を全体にわたって探究することは、おそらく容易ではない。そこで今は範囲を極少数の作家に限り、しばらく考察を試みよう。
【a ジェリコーとドラクロワ】
「もしフランスにおいてもロマン主義の思潮と呼び得るものが見出されるならば……」あるいは「ヴィクトル・ユーゴーもまたロマン主義と呼ぶべき範囲において……」このような条件を付してフランスのロマン主義を論ずるのは、ドイツの美術史家の常套である。このような思路は、実にロマン主義思潮に対するフランスとドイツ両国の関係を非常に簡明に言い表している。なぜならば、極端に超現実的な憧憬を根底とするドイツのロマン主義思潮から見れば、フランスのそれはあまりに現実的であるからだ。
フランスにおけるロマン主義の美術運動は、どこから発生したのであろうか。何を発端として、あの絢爛たる発展に達したのであろうか。——この問いに全体にわたって答えることは容易ではない。極めて沈滞した広範な範囲にわたる探索なくしては、おそらく満足な解答を与えることはできないであろう。しかしながら、少なくとも、フランス美術史上この新時代を招来した最大の原因の一つとなったのは、実にグロ(Jean Gros)の戦争画であった。ナポレオンのイタリア遠征に随行し——非戦闘員ではあったが——目前に戦乱の実況を経験した彼は、当時最も傑出した戦争画家となった。彼にはまず大いに称誉を得た「ジャファのペスト患者」があり、さらに「エイラウの戦い」「アブキールの戦い」等の大作があった。そしてこれらの戦争画は、古典主義の後継者を自任するグロの予期に反して——というよりもむしろ彼の本意に逆らって——彼をロマン主義画派の始祖たらしめたのである。彼の戦争画に描かれた傷病兵の苦痛の表情、勇猛な軍馬の熱情、新式の絢爛たる色彩、東方土民の風俗——ここには、フランス・ロマン主義の画題のすべてが余すところなく準備されていたからである。
古典主義の伝統に反抗して起った最初の画家が、テオドール・ジェリコー(Th. Gericault)である。グロの画から色彩的に事物を見ることを学び、かつ戦士と軍馬の画法に刺激された彼は、ナポレオンの好運が終わりに近づいた頃から、次第に識者の注意を引いた。ついに一八一九年の展覧会に「メデューサの筏」を陳列し、新時代のために万丈の気焔を吐いた。この画は、恐るべき新聞記事の荘厳化である。座礁した軍艦メデューサの一部の乗組員を載せた筏が、長い漂流の後、残存するわずかな人々を載せて怒濤の中を流蕩するさまを描いたものである。まだ生気を失い尽くしていない数人の乗組員が、遠方の船影を望んで声を嗄らして救いを求めている。息絶えた屍は裸体の四肢を横たえ、半ば水に浸かっている。青みを帯びた褐色の基調と肉体描写のいくぶん彫刻的な堅強さを除けば、すでに疑いなきロマン主義期の作品である。しかもその構想の大胆さはどうであろう。「軍神」ナポレオンの賞賛によってただ現実の世界のみを画題に収めていた当時の美術界にあって、この画の構想は実に前代未聞の大胆さであった。
しかしさらに興味深いのは、ジェリコーがこの絵画のために行った準備の綿密さである。彼は自ら病院に赴いて発作の苦痛と臨終の苦悶を仔細に観察し、あるいは死体を略図に描き、あるいは肉体の一部を腐敗に至るまで保存してその経過を観察しただけではなかった。さらに筏で生還した船大工を訪ね、筏の模型を作らせ、また黄疸に罹っている友人をモデルにし、さらにル・アーヴルに赴いて海洋と空を研究し、遭難船舶の体験を詳細に聞き取ったのである。後にも述べるが、ジェリコーのこのような制作法と対比すれば、当時のドイツの画家たちが住んでいた空想の世界がいかに安閑としたものであったことか。——しかしジェリコーは惜しくも運命に見棄てられた。乗馬をこよなく愛した彼は、以前の落馬で受けた傷がもとで夭折したのである。
しかし彼には非常に優れた——実に数倍も勝る——後継者がいた。ゲランの工房で知り合ったドラクロワ(Eugene Delacroix)である。「ロマン主義の獅子」と称されたその筆力は、ゾラの評語の通り、実に見事なものであった。「何という腕力であろう。放任すれば、パリの壁というすべての壁を絵具で塗りつくしたであろう。彼のパレットは沸騰していた。……」
幼少の頃から何度も命を失いかけた彼は、制作欲のために羸弱な体を酷使し、一生涯にわたって仕事をした。弟子の教育を考えず、流派の統御にも興味を起こさず、ただ独り制作に没頭して、激烈な闘争の中に生涯を過ごし尽くした。ロマン主義の文学思想と深く共鳴する彼の性格は、画題の選択と表現の方法において濃厚に反映していた。それだけでなく、その態度に至るまで——ドラクロワのすべては、実に「ロマン主義の獅子」的であった。偉大なもの、情熱的なもの、英雄的なものを求め、壮大な構想を涵養するドラクロワは、常に大規模な事業を好んだ。まずゆっくりと構想を練り上げ、次いで綿密な練習を繰り返し試みる。そして最後に猛烈な勢いで画布に向かう。極少の夕食と熱中のための不安な眠りの後、毎日このような努力を繰り返す。疲労困憊に至った時、絵は完成する。あの大作「キオス島の虐殺」がわずか四日で描き上げられたと聞けば、制作の猛烈さの程度もまた窺い知ることができよう。
世にこの「ロマン主義の獅子」をルーベンスの再来と称する。多方面的な才能を具えた彼は、一人でフランス・ロマン主義の画派を担った。色彩の強調、情熱の表現、東洋風物の描写、叙事詩の造形化——彼は一人の力をもって、フランス・ロマン主義美術のすべての要求を満たしたのである。伝えるところによればドラクロワの構図経営は、まず色彩の配置から着手したという。そして後年に至るほど色彩の威力はいよいよ増強された。彼がアルジェリア旅行の際に得た最も美しい作品「アルジェの女たち」の前で、たとえごくわずかな時間であっても佇んだ者は、おそらく生涯この画の色彩の魅力を忘れ得ないであろう。「しばし暗い廊下を通り抜けて、ようやく婦人の部屋に入った。絹と黄金の交錯の中に現れた女子供の新鮮な色と生き生きとした光に、目が眩むような思いがした……」これはドラクロワ自身が書簡の中で語った言葉であるが、「アルジェの女たち」は、おそらくこの秘境の蠱惑的な魅力を最も美しく描き出したものと言えよう。
一八二二年の展覧会に陳列された出世作「地獄のダンテとウェルギリウス」から——色彩こそ暗いが——すでにドラクロワの性格は明示されている。濃重な、鬱悶たる、呼吸の苦しい雰囲気の中で、地獄の海が不吉な波を漂わせている。罪人たちの赤裸の身体がその間を転々とし、痙攣し、伸展する。苦しみに喘ぎ、怒りに狂い、船縁に噛みつく狂者もいる。……ジェリコーの後継者にふさわしい風格の画である。「メデューサの筏」の写実味に、ロマン主義らしい超現実的な深みが加えられたのである。窮乏のドラクロワはこの画を質素な木枠に嵌めて陳列したが、彼の異常な才能を見抜いたグロが自費で立派な額縁に取り替えてやった。
次の大作は、一八二四年の展覧会を圧倒し、古典派に対する挑戦状となった「キオス島の虐殺」である。当時全ヨーロッパの人心を支配していた近東問題——ギリシアを熱愛する詩人バイロンの参戦が直接の刺激となって——この画の構想をドラクロワに与えた。トルコ兵の残虐とギリシア民族の悲惨な有様が、ことごとく眉前に迫るかのような画である。若い婦人の髪を馬上に繋いで引きずるトルコ兵と、半ば失神して異教徒の暴虐に身を委ねるギリシアの人々を大きく前景に描き、虐殺と放火の混乱の情景を朧ろに背景に描いたこの画に、彼に好意を持っていたグロでさえ憤慨した。「これは絵画の虐殺だ!」(C'est le massacre de la peinture)あの戦争画の始祖でさえ、そう叫んだのである。この画がフランスの画壇に与えた刺激はそれほど大きかった。この年の展覧会には古典派の名人アングルが描いた極めてアカデミー式の——まったくラファエロ式の——「ルイ十三世の誓願」も陳列されていたから、ドラクロワが「キオス島の虐殺」で試みた意図の大胆さはいっそう際立った。フランスの画壇を激烈な闘争に巻き込んだ古典派とロマン主義派の対抗が、二四年の展覧会に陳列された両派の驍将の作品の上に具体化したのもまた、興味深いことである。ただこの画こそ、まさにロマン主義派からアングル一派の古典主義者への最後通牒であった。
この画がリュクサンブールに買い上げられた結果、ドラクロワは憧れの国イギリスを訪ねることもできた。かくしてスコット、シェイクスピア、バイロンらの文学の中に題材を求め始めた。そのうち最も顕著なのは、バイロンの詩から想を起こした——しかし詩の内容とは異なる場面を描いた——「サルダナパール」である。アッシリア王サルダナパールは、バビロン陥落に際して柴薪を積み上げ、その上に美しい寝台を置いて横たわった。そして奴隷たちに命じて、生前愛した一切のもの——女たちから乗馬や愛犬に至るまで——をことごとく眼前で刺殺させた。画は極めてルーベンス的であるが、いくぶんの混沌を免れない。色彩の用い方にもところどころ希薄な感がある。そしてこの画の後に、あの傑出した「一八三〇年七月二十八日」が現れた。七月革命の巷戦を描いた作品である。三色旗を振る半裸体の肉感的な女が前面に立っている。これは「自由」の女神である。拳銃を持ちベレー帽をかぶった少年と、シルクハットをかぶり銃剣を握った男がその後に従う。日常の衣服で当時の事件を描いた最初の画である。この画に続くのが前述の——おそらく彼の作品中最も美しい——「アルジェの女たち」であり、さらに東方の風俗画と多くの狩猟画が続き、最後に極めて見事な「十字軍のコンスタンティノープル入城」が続く。この画の前景に描かれた裸体の女の背の色彩が印象派の作家を刺激したことは有名な話である。グロ以来の東方風物を藻飾とする戦争画は、この一幅に至って純化の極に達した終局の完成を見たのである。青みを帯びたその色調の力強さは、おそらく観る者の記憶から消え去ることはあるまい。
ドラクロワの画のように、造形上の形式と内に含蓄された構想的内容とが、個性的に統一され、かつ互いに映発し合う場合——とりわけロマン主義期においては——非常に稀であった。多くのロマン主義の画家は——フランスのように造形的表現を尊重する国民の中にあってさえ免れなかったのだが——いわゆる「文学的表現」の邪道に陥り、ただ題材的要素のみを重視しようとした結果、必然的に絵画において造形的要素を大抵閑却してしまった。彼らに対してただドラクロワのみが、徹頭徹尾、正真正銘の「画家」であった。教義に束縛されず流派を標榜しない彼は、泉のごとく湧く豊饒なロマン主義的熱情を、ただ純粋に造形的なものの形式の上にのみ発露させたのである。あれほどの文学的筆力と豊かな趣味を稟けながら、教義を語らず趣味にも耽溺せず、ただ画家らしい本能の力に自己を統御させたことは、ロマン主義の時代においては極めて稀有な現象であった。しかし、ロマン主義の絵画が——造形美術の正道を歩もうとするならば——このような稀有な大作家を指導者としなければならなかったのである。フランスにおいてさえ、ドラクロワは孤独な画家であった。ブランジェのように画家としては何の価値もないが文学者の間では有名な作家や、大衆の賞賛を大いに受けたドラロッシュの輩が、ちょうど流行していたからである。しかしドイツにおいては、文学偏重と思想偏重の弊害はさらに甚だしかった。
【b ドイツ・ロマン主義とコルネリウス】
ドイツ・ロマン主義の美術運動は、その出発点において、純粋に「造形芸術的」な正道の上に立っていた。古典主義への——すなわち遥かな、しかも民族の異なる異郷への——憧れの心は、今や自己の歴史を反省しようとしていた。まさしく自分たちの民族のみに属する懐かしい過去に対して、新たな追憶が覚醒したのである。かくして清純な真実と信仰に満ちたgute, alte Zeit——懐かしき往昔——の記憶が、人々の心を満たした。古典主義の理性的啓蒙から、ロマン主義の感情的霊感へ——ここに、新時代の芸術を指導し得る機因が発見されたのである。
ロマン主義思潮の先導者は、文学者と批評家であった。ヴァッケンローダー(Wackenroder)とティーク(Tieck)が、まず古典文化の時代に対して祖国の往昔にも同等の評価を与えるべきことを発見した。ギリシアのような神殿がないからといって祖国の中世を罵ることをやめ、中世の美術の中にもギリシアにおけると同様の、荘厳な神の発現を見出した。しかもさらに芸術に精神の美、真実の深さ、信仰の崇高さを求めようとした。芸術の観照を祈祷に比し、ついにはまさにキリスト教的な芸術のみを崇拝するに至った。
二人はともにドイツ国内を巡遊し、ゴシックの寺院やデューラーの絵画に大いに感動した。ヴァッケンローダーの著作『芸術を愛する修道士の心情の吐露』(Herzensergiessungen eines kunstliebenden Klosterbruders)は、まさにこの時代の好い記念である。彼らに続いたのが、シュレーゲル兄弟(Friedrich Schlegel, August Wilhelm Schlegel)であった。フリードリヒ・シュレーゲルはパリに滞在し、そこに集められた歴代の大作を考察して、その成果を新聞『ヨーロッパ』に発表した。アウグスト・ヴィルヘルムは講義において古典主義の形式主義と戦った。
これらの文学批評家の言論は、若い美術家たちに少なからぬ影響を与えた。彼らは古典的模倣の伝統から離脱し、敬虔な心をもってさらに自然の姿態を熟視しようとした。カスパル・フリードリヒ(Kaspar Friedrich)とフィリップ・オットー・ルンゲ(Philipp Otto Runge)がその代表者である。……しかし間もなく、純粋な動機から出発したものの中から、濃厚な教義が暴力的に萌生し、初興の新鮮な芸術運動は忽ちにして沈滞した尚古主義に変じた。そしてこのまったく硬化したロマン主義の代表的作家が、ペーター・コルネリウスであった。
ペーター・コルネリウス(Peter Cornelius)はデュッセルドルフの画師の家に生まれ、十三歳にしてすでにその地のアカデミーに入った。若い頃から古来の大家を折衷模倣する嗜好があった。ドイツの美術界にようやく萌え出した溌剌たる自然観の芽をことごとく枯らしたのは、実はコルネリウスであった。彼はドイツ国粋の大作家デューラーを模倣するだけでなく、十五世紀イタリアの美術家からラファエロ、ミケランジェロに至るまで——いやそれだけでなく、実は——古典美術に至るまで、あらゆる様式を収納しようとした。この傾向が明らかに見て取れるのは、デューラーに心酔していた時代に試作した「ゲーテのファウスト」と題する一組の素描である。人物の服飾はことごとくデューラー式の規矩に従っている。もともと素描の拙い彼は古風で曲がりくねった線を描き、人物の姿もわざと擬古的に、かなり細長く描いた。ここにドイツの古画およびイタリア・ルネサンス初期の画風の消化不十分な模倣を窺うことができる。
一八一一年、コルネリウスはローマに赴いた。この地にはすでにオーファーベック(Overbeck)をはじめナザレ派(Nazarener)の画家たちが聖イジドロ寺に集まり、修道士のような生活を送っていた。この時、ピンチオの丘のバルトルディ氏が、この一派の画家たちに邸宅を開放し、壁画を描かせた。フレスコ画を描く機会を得て喜んだ彼らは、ヨセフの生涯から題材を選び、共同制作を試みた。この画は現在ベルリンの国民美術館に保存されているが、イタリアの壁画に通じた人々は、この幼稚な壁画に対して驚くに違いない。童話の挿絵をそのまま拡大して壁画にしたかのような筆致と、生硬で拙劣な彩色。まことに田舎者めいた不器用さである。しかし好事のローマ人たちは、安上がりに出来た壁画を至宝のように見なした。ムチーミ氏もまた彼らを招いて、ヴァンティーニの三室にフレスコ壁画を描かせた。彼らはイタリアの大詩人ダンテ、アリオスト、タッソーから題材を選定し、三室に配した。シュノル(Schnorr)はアリオストの『オルランド』から、オーファーベックとフューリヒ(Fuhrich)はタッソーの『解放されたエルサレム』から題材を採った。コルネリウスはダンテの『神曲』から画題を取り、制作に着手した。しかし彼がローマを去った後、ファイト(Veit)が続作し、最後にコッホ(Koch)がこれを完成した。
一八二一年以来、プロイセン政府の招きに応じてデュッセルドルフのアカデミー長官を務めていたコルネリウスは、バイエルンの名王ルートヴィヒの治めるミュンヘンに望みを託した。彼がこの芸術の都のために行った最初の制作は、古典美術を収蔵する石刻館の天井にギリシアの神話と英雄譚を描くことであった。しかし彼に課された題目は、装飾的というよりもむしろ哲学的な性格を帯びていた。プロメテウスとエロス、時間と空間、四季、朝夕の象徴、天界、水界、冥界、その他の英雄たちを配列しなければならなかった。ヘラクレスをもって人徳を、アルフェウスをもって愛を、アリオンをもって神恵を表さねばならなかった。しかもトロイア戦争もあった。……委嘱の主旨が装飾的効果を求めるのではなく、深遠な意義の象徴にあったから、コルネリウスは本来の——ドイツ風の——堅定さをもって、それを果たし得たのであった。
しばらく国内各地で制作を経営した後、彼はデュッセルドルフの教職を辞してミュンヘンに定住した。この時、絵画館の回廊の装飾を委嘱された。しかし彼の抱負は、ラファエロの回廊(教皇宮内)を凌駕するところにあった。ただし、その出来において——なぜならそれだけでも冒瀆に等しいと考えていたから——ではなく、思想上の構成において勝とうとしたのである。思想の深遠さをもって描写の技巧を克服する——まことにドイツ人らしい手段である。しかしその結果は、装飾法の拙劣さと色彩の欠陥を示すに過ぎなかった。
次の仕事は、ルートヴィヒ教会のフレスコ壁画であった。「審判」の図において、コルネリウスの計画は、システィーナ礼拝堂のミケランジェロを「修正」するところにあった。ミケランジェロの粗暴をラファエロの優美で和らげ、ミケランジェロの壮偉な人物をデューラーやシモーネ・マルティーニのような痩せた風姿に改める——これが彼の意図であった。素描の企図だけは巧みに成功した。しかし技巧の拙さをも顧みずに果敢に描画したフレスコ壁画は、すでに褪色した現在においてさえ、見るに堪えない。
一八四一年、コルネリウスは色彩の拙さゆえにルートヴィヒ二世に厭われ、ベルリンに移った。この地でも彼の「蛮勇」は人々を驚嘆させたが、ホーエンツォレルン家の墓に計画した構想によって、汚れた名声を回復した。彼の性情に最もふさわしい「観念画」を描く機会が、ついに訪れたのである。ここでは神学、哲学、演劇、美術がいずれも調和を保っている。「死は罪の報いなり。されど神の賜物は永遠の命なり」という句が、この画の説教の題目である。この画の非常に壮大にして煩雑な構想の中で、最も目を奪い、最も有名なのが「黙示録の騎士」である。デューラーの作った同題の木版画を想起させもするが、コルネリウスの作はそれよりもはるかに陰森にして強烈である。人類を滅ぼす四つのもの——戦争、疫病、飢饉、死——が、震撼する人々の上を暴風雨のごとく疾駆する。ベルリンの国民美術館の階段の壁に、ドイツ最大の歴史画家ライテルの素描と並べて掲げられたこの画の龐大な素描を見た者は、おそらくコルネリウスに対する酷評を撤回せざるを得まい。墓上の壁画の実施が中止された時、コルネリウスの失望は大きかった。しかしこの不幸だけは、かえって彼にとっての天恵であった。なぜならば、幸いにして未然のうちに、彩色上の欠陥を暴露して辛勤の構想をも水泡に帰させる危険をあらかじめ防いだからである。ここにおいてのみ、彼は永遠に無瑕の栄誉を保ち得るのである。この勤勉にして長い一生における最後の大作が——しかも彼の天分に最もふさわしい大作が——最も有利な状態で——画稿のまま——遺されたことは、おそらく誰もいくばくかの感慨なしにはいられまい。あたかも神もこの不運な忠僕を憐れんだかのようである。
ドラクロワとコルネリウス——これはなんという驚くべき対照であろう。フランス文化の伝統に蓄積された一切の優秀な技巧を駆使して、純粋に造形的な、あの見事な宇宙——その中では美しく力強い色彩とあらゆる人間的熱情が永遠に旋回している——を創造したドラクロワと、北欧の田舎者のような骨力のなさ、画家としての天分をまったく欠きながら、ただ誤った構想の奥に潜む哲学的観念世界に蟄居するコルネリウス。我々がこの最大限に傾向の異なる二人の大人物が、南北両方において同時に——しかも同一の思潮に導かれて——盛んに活動するさまを想像してみれば、実に興味深い。ドラクロワは大規模な壁画においてさえ装飾的効果を犠牲にしてでも油彩風に描こうとした。コルネリウスは画布に描いた油彩画でさえ常にフレスコ壁画の趣を示そうとした。ドラクロワの画家としての技巧への沈潜と、コルネリウスの理想の実現への夢想とは、かくも甚だしかったのである。この二人を「偉大さ」という点で比較すれば、言うまでもなくドラクロワの方がはるかに高く比類がない。(画家としてのみならず、彼が遺した日記と評論を読めば、一般的教養においても傑出した人物であったことが分かる。)しかしそうであっても、この二人の作家は、フランスとドイツ両国のロマン主義思想の造形的表現を比較する際に、最も適切な素材として用い得るであろう。
【c 異国情調と物語】
しかし、フランスとドイツ両国のロマン主義に対する関係をいっそう明らかにするために、二人の愛すべき作家についてもう少し述べておきたい。それはドラクロワの影響を受けたシャセリオーと、コルネリウスの弟子シュヴィントである。
テオドール・シャセリオー(Theodore Chaseriau)は、その血の中にすでに異郷を慕う心情を稟けていた。当初はアングルの大弟子であり、大いに期待と信頼を受けていたが、シャセリオーの心は次第にこの古典主義の集大成者から離れていった。しかも正反対の傾向を持つ——アングルにとっては最大の仇敵たる——ドラクロワに接近した。生来受け継いだ異国的な性格が、次第に彼の芸術を支配した。ゴーティエが「インドの女のような」と評した「エステル」は、まことに東洋的な肉体の女である。印象深い——シャセリオーの画に独特の——大きな目によって生彩を添えるその面貌と、やや痩せているが極めて魅惑的な肉体は、濃鬱に十分洗練された異国情調の香を発している。象牙のような肌の女の持つ、不思議に蠱惑的な印象である。フランス画家の異国趣味は、グロとロベール(Leopold Robert)に始まり、デカン(Decamps)によって通俗化され、ドラクロワによって白熱化され、フロマンタン(Fromentin)によって陳腐化された。ロマン主義美術のこの顕著な傾向の一つが、ドラクロワの感化を受けたシャセリオーによって完成されたのは、まことに自然の成り行きであった。
モーリッツ・フォン・シュヴィント(Moritz von Schwind)は、ミュンヘン時代のコルネリウスが導き出した画家である。しかし師弟の性格はまったく異なっていた。尊大にして沈滞したコルネリウスとは反対に、シュヴィントは飄逸にして澄明であった。北方気質を帯びながらも——ウィーンの空気に洗練された——高雅な諧謔と快活な明朗さを持つシュヴィントは、グリムの童話、ウーラントの民謡、アイヒェンドルフの物語、モーツァルトの歌劇を思い起こさせる。ミュンヘンのシャック画廊所蔵の多くの小品に、ドイツ風の伝説の世界を見た者は、おそらく雪の夜に炉端で童話を聞くような懐かしさを覚えるであろう。「囚われの王女」「三人の隠者」「妖精の舞踏」「魔王」「不思議な角笛」「森の中の礼拝堂」……美しく装丁された童話の本を手にした子供が、頁を繰り始める時の心持ちのようである。「七羽の烏」と題する一組の水彩画から、ヴァルトブルク城内の歌の間を飾る壁画「歌合戦」に至るまで——それだけでなく、日常の風俗画「新婚旅行」や「朝の室内」に至るまで、すべてに幽婉なドイツ・ロマン主義の空気が沁み渡っている。コルネリウスが人を驚かす喧噪な大声で説教するかたわらで、ひそやかに低い声で物語を聞かせるシュヴィントがいたことは、ドイツの画壇にとってまことに貴い慰藉であった。(シュヴィントの友人リヒターについては、後に語る機会があるかもしれない。)シャセリオーとシュヴィント——ここにもまた、フランスとドイツ両国の趣味の違いを窺うことができる。
第115節
【六 ロマン主義から印象派への風景画】
風景画——この題目が美術上一つの独立した位置を占めたのは、さほど古いことではない。それが十九世紀前半期の半ば——具体的に言えば、一八三〇年前後に起こった風景画家の新運動以来——突如として美術界の重要な分野を占領したのである。あたかも十九世紀以前の画壇において宗教画が占めていた位置を継承したかのごとくである。これは何ゆえであろうか。一方では、従来の美術界を陰然と支配していた社会上の権威——キリスト教会、教皇、商会、銀行家、傭兵の長官、諸侯、宮廷、貴族、皇帝——の保護と束縛から解放された美術家たちが、次第に自ら直接社会の表面に立ち、自己の要求に促され、時代思潮に導かれて制作に従事するようになったからである。かくして、すべての人々が感受し得る自然の風姿が、画題の大部分を占めるに至ったのは必然の結果であった。(十七世紀のオランダにおいては、このような外面的権威の支配がなかったために、風景画は早くから発達していた。これはまさにその好例であろう。)そして同時に、他方では、人々一般の自然観の発達——自然美の感受性の発達——と重大な関係がある。山岳の美を讃え始めたペトラルカは、おそらく宗教的自然観の濃厚な靄の奥に、最初に輝く自然の姿態の美を見出した第一人であろう。次いで、大胆に「至るところに美がある」というこの今やまったく陳腐な言葉を叫んだ時代から、次第に近代風の自然観が生まれたのであろう。(十九世紀初頭には、理論家は風景画を二種の等級に分けていた。すなわち理想画〔le style heroique, le style ideal〕と庶民画〔le style champetre, le style pastorale〕とである。しかし風景画の使命をただ「背景」に限る人々もいた。)
したがって、いわゆる風景画の発達は、美術史上極めて興味深い研究の題目である。そして風景画の様式の変遷のさまざまな相から、逆に時代思潮の変遷を追想することも、おそらくかなり興味深い題目となり得よう。しかし本書においては、ごく粗い梗概を叙述する余裕しかない。
遠い昔のギリシアのことは知り得ないが、現存する風景画の最古の遺品は、おそらく教皇宮内博物館に保存されている「オデュッセウス風景画」であろう。これはホメロスの詩歌『オデュッセイア』を題材とし、英雄オデュッセウスの漂泊の物語を表現しようとしたものである。その他、おおよそ同時代の作品としては、ポンペイにまだ多くの壁画がある。ナポリの国民博物館に保存されたこの種の壁画の中にも興味を惹くものは少なくないが、描画の目的がもともと室内装飾の要求に応じるものが多いため、当時の作家の技術をどこまで推測し得る手がかりとなるかは、なお疑問である。
例えば幾何学的遠近法はすでに知られていたようであるが、視点の統一はまったくなかった。これがギリシア時代の流行の制作を模倣する際にローマの工人たちが犯した、いわゆる「歪み」なのか、それともその時代の芸術家が遠近法において統一した視点を描くところまで実際に進歩していなかったのかは、いずれとも分からない。いずれにせよ、古典時代の遺品をもってその時代の画術を推し量るのは、あまり十分ではない。
中世に入ると、しばらく風景画に近いものは見られなくなったが、十三世紀以降、ようやくジオットーのおかげで、いくぶん風景のようなものが絵画に現れ始めた。ジオットーは聖伝や聖者の徳行を表現する際に、極めて単純な風景画を背景として描く必要に迫られた。とりわけアッシジの聖フランチェスコ寺の壁画においては、古拙ではあるが、イタリア・ルネサンス期の風景画の端緒を見出すことができる。
絢爛たる十五世紀になると、言うまでもなく、無数の聖伝や神話の背景として各種の風景画が登場した。水蒸気を含む大気を表出し、空気遠近法の初期を見せるヴェロッキオ、牧歌的な情調を澄明な心緒で描くペルジーノ、装飾的効果を追求するウッチェロなど、列挙すれば際限がない。しかもこの時期は幾何学的遠近法が発明された時代にあたり、その応用が極めて流行し、画家たちの興味を集中させていた。
しかし風景画への関心がかくも盛んであった中で、真の意味での風景画を遺した作家は、レオナルド・ダ・ヴィンチを除いてほとんどいなかった。レオナルドはあの有名な画論の中で風景画の問題をも論じているが、遺品の中で最も注目すべきは、1473の文字が左に書かれたペン素描の風景画である。西洋絵画史上に見られる純粋な風景画としては——おそらく——これが最古の遺品であろう。またほぼ同時代の北方画家デューラーの写生の中にも、彩色を施した数葉の風景画が存在することも記憶すべきである。さらに、十六世紀初頭のヴェネツィア派の作家の中にも、かなり純粋な風景に近い美しい背景を描いた作家がいたことを付言しておかねばならない。その代表的作家としては、ただジョルジョーネの名のみを挙げよう。
では、いったいいつ頃から純粋な風景画が現れたのであろうか。ルネサンス期に至って「自然と人間」が発見されてもなお背景以上のものたり得なかった風景画は、いつ頃から独自の道を歩み始めたのであろうか。
真の意味での風景画を描き始めた画家たちは、十七世紀のオランダ人であった。新教国のオランダでは儀式的な宗教画は発達せず、田園風景を描いた多くの作品を生み出した。静穆な室内画家、諧謔的な農民画家と並んで、多数の風景画家も輩出した。家畜を点景にした田園と、喬木の影を映す水辺の、霧に包まれ、風に揺れ、月に浴する情景を、彼らは親しく描いた。「風景画」と「静物画」という新しい画題が絵画の独立した分野を開いたのは、この時に始まる。
しかしこれほど隆盛を極めた風景画も、このオランダにおいてはそれを継承する作家を見出し得なかった。まずレンブラント、さらにロイスダールとホッベマの盛世を経て、たちまち終わりを告げ、彼らが見出した後継者は、隣邦フランドルで盛んであったルーベンスの濃鬱な風景画、およびフランスのヴァトーであった。フランスには十七世紀の初頭からすでにプッサンとロランがいた。これらの作家の筆になる高雅ないわゆる「叙事詩的風景画」は、英雄や聖者を点景とし、大廈や廃墟を配した理想画であった。しかしルイ十五世の摂政時代になると、まったく趣の異なる艶麗なヴァトーの風景画が現れた。ヴァトーの風景は、ブルボン王家の奢侈にふさわしい美を備えていた。劇場の舞台面のごとき庭園の中で、優雅に装った男女の宴集が画に入った。しかしリュクサンブール苑で樹木を描いたヴァトーの風景画は、当時趣味で飾られた貴族の庭園との一目瞭然の共通点を示している。
しかしこの美しい夢は長くは続かなかった。大革命の恐るべき予感が時代の趣味を寂寥たる古典主義に引き戻し、古代の廃墟を交えたロベールの装飾画を除いて、風景画はほとんどなくなった。情熱の沸き立つ色彩の燃え立つロマン主義時代の終結に至るまで、人々は風景画に親しむ余裕を失っていた。かくして一八三〇年代の意義深い運動が展開するのである。
【a 風景画の理想化】
一八二四年の展覧会——さまざまな意味でフランスの画壇にとって大いに記念すべきこの展覧会——に陳列されたジョン・コンスタブル(John Constable)の風景画が、若きパリの画家たちにどれほどの感動を与えたかは、すでに述べた。祖国で才能を埋没させた彼は、海峡の彼方で大いに尊敬を受けた。しかしイギリスにはさらに注目すべき二人の風景画家がいた。リチャード・ボニントン(Richard Parkes Bonington)とウィリアム・ターナー(William Turner)がそれである。ボニントンはその短い生涯の大部分をフランスで過ごし、フランスの風景画家たちと交わり、彼らに多くの貢献を残した。一方ターナーは、その大胆な濃霧の描写がクロード・モネの後期作品にかなりの影響を与えた。このように、イギリスから出た三人の風景画家は、いずれもフランス人の良き指導者となったのである。
一八三〇年代を中心とするフランスの風景画家たちは、ジョルジュ・ミシェル(Georges Michel)、ポール・ユエ(Paul Huet)を先駆者とし、カミーユ・コロー(Camille Corot)、テオドール・ルソー(Theodore Rousseau)を中堅とし、さらに動物画家のコンスタンタン・トロワイヨン(Constantin Troyon)、農民画家のジャン=フランソワ・ミレー(Jean Francois Millet)、およびドービニー(Daubigny)、ディアズ(Diaz)、デュプレ(Dupre)らを加えたものである。しかしこれらの作家の中で、今とりわけ注目すべきは、コローとルソーの二人である。
コローの制作には、初めから二つの傾向があった。クロード・ロランを尊崇していたため、一方では理想的風景画の趣を帯びていたが、同時に他方では、質直な写生画家でもあった。臨終の際に「なんと美しいことか、こんなに美しい景色は見たことがない!」と言ったと伝えられるコローは、林の精霊たちが嬉々として舞う沼辺の風景画を数多く描いた。あの優美な牧歌のような調子で黎明の爽快、白昼の沈鬱、黄昏の幽静を表出することに長けた彼の素質には、おそらくもともと理想画への深い愛着があったのであろう。しかし他方では、その純朴な性格にふさわしい質直な写生画家でもあった。生涯手放さず回想の資としたと伝えられる純ローマの「コロッセオ」と同傾向のシャルトルの「大寺院」から、はるか後期の——まったく印象派の作品のような——「ドゥエーの街」等に至るまで、これらがおそらくこの半面の代表作品であろう。おそらく初めて故郷のごとく愛するイタリアに着き、快活に歌いながらローマ近郊を巡った頃に、この二つの類似しない傾向は特に不調和もなく同時に育っていったのであろう。大まかに総括すれば、極めて保守的な一面と極めて進取的な一面を彼は同時に具えていたのである。ロマン主義の時代が終わった後もなお林の精霊たちを愛し続ける一面と、徹底して写生し印象派の作品に直接つながる一面——しかしそこには何の不調和も破綻もなかった。いずれの画も彼自身と同じく純粋にして明朗であった。
もしコローを抒情詩人と呼び得るならば、ルソーはおそらく叙事詩人と呼ぶべきであろう。コローは細い枝と透明な緑葉で飾られた樹木を愛した。これに対してルソーは、節くれだち石のように頑強な幹と黒く厚い葉を持つ喬木を賞賛した。樹木の感力をより強く描くために逆光線を用いるのが彼の常であった。彼にとって樹木は英雄であった。古典主義の作家たちがローマ人の徳行を讃美する時と同じ心情をもって、ルソーは樹木の雄武を讃美した。彼にとって樹木は精力に満ちた肉体のごとく美しかった。古典主義の作家たちが肉体の魅力と弾力を感じたように、ルソーは樹木の美を感じたのである。コローとルソー——二人の趣味と性格はかくも異なっている。しかしここにもフランス人らしい共通点がある。コローの澄明もルソーの堅固も、いずれも自然に対する質直な飾り気のない感受性から出ているのである。二人の風景画はいずれも一種の理想画であろう。しかしいたるところフランス風の理想化が加えられていた。では、同じ風景の描写でありながら、ドイツではいかなる方法で理想化が加えられたのであろうか。
ドイツから出た風景画家の中で理想化的表現を試みた——しかもコローと同様に広く知られた——代表者は——年代こそコローたちよりかなり遅いが——おそらくスイス生まれのアルノルト・ベックリン(Arnold Bocklin)であろう。かつて大いに称賛され、神秘的な趣に心を惹かれる年頃の青年がきっと好んで見たであろうベックリンは、フランスの画家のような詩人ではなかった。汎神論をわかりやすく説く宗教家であった。鮮やかにして濃厚で煩膩な色彩と、陰惨で人を驚かす地祇や水妖と、不釣り合いなイタリア風の自然とを一体にしたのが彼の芸術である。彼の描く春の女神は愛らしくもなく、明朗でもなく、清軽でもない。ただ異常に重い濃艶があるのみである。彼の憧れる至福の境には爽快さも逍遥もまったくない。ただ鬱々として寂寞としている。いくぶん陰森な「水の戯れ」と慰安のまったくない「死の島」などは、おそらく彼の性格に最もふさわしい題材であろう。文学にアマデウス・ホフマンの『相続人』やテオドール・シュトルムの『白馬の騎手』がある民族に、ベックリンの「水の戯れ」があるのはおそらく自然の勢いであろう。北方民族に特有の晦暗な自然観がここに反映していると考えてもおそらく不当ではあるまい。なぜならば嬉々として純白の心に自然を讃美しようとしたロマン主義期の風景画家フリードリヒでさえ、夕日に照らされた山上の十字架を描かずにはいられなかったからである。
【b モネと印象派】
一八三〇年代の作家たちが遺していった新しい使命——写実主義——を肩に担って登場した巨人が、「写実主義のヘラクレスの柱」と称されるギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet)である。一八三〇年代の風景画家は構図を整える際に樹木をも人物と同様に扱い、その位置を任意に移動させていた。つまりなお従来の「拵えた風景画」の方法を常套としていた。しかしクールベが現れて以来、「切り取られた自然の一隅」が文字通りに描写された。技巧的に構図を整えることはなくなった。しかもクールベの堅強な風景画はその後継者エドゥアール・マネ(Edouard Manet)によってさらに明朗さを増し、印象派の大人物マネの鋭敏な観察のもとに写実主義を徹底させたのである。
一八三〇年代の作家たちはフォンテーヌブローの野生の森を好みその中で風景画を描いたが、戸外で描いた写生はわずかに準備の用に供するに過ぎなかった。全体の仕上げについては決してアトリエを出なかった。このことはクールベにおいても同様であった。しかし印象派の画家たちは一切を戸外で描くことを必要条件とした。かくして彼らは変化の止まない自然の微妙な表情を見逃すこともなくなった。以前の作家たちが気づかなかった色彩の区別や日光がもたらす効果が、次第に自然観察の主要な対象となった。彼らにとって自然の形骸というものはもはや少しも興味を惹かなかった。しかし、その形骸に生命を与え表情をもたらす要素——色と光の効果——は非常に鋭利な観察を受けた。要するに、写実主義と印象主義の違いは表現上の違いであると同時に対象そのものの違いでもあった。彼らが描こうとしたのはもはや樹木の「模範」でもなく水の「代表」でもなかった。しかもある特定の樹木、ある特定の水というものでさえなかった。むしろある偶然の機会に選び取られた樹木や水のある一瞬間の状態である。その樹木や水に生気を与えている色と光の効果なのである。
風景画の発達史上に一つの新時期を画した外光派の代表的作家が、クロード・モネ(Claude Monet)である。ベルト・モリゾが——令嬢作家風の口吻で——「モネの画を見れば日傘をどちらに向ければよいか分かる」と評したように、「天候」を描くことにおいてモネほど巧みな作家はほかにいなかった。彼の雪は本当に冷たく彼の太陽は本当に温かい。軽微な筆触で細かく錯綜する枯枝を描き出せば河辺を包む黄靄となり、大量の単色を厚く並べれば爛々と白昼に閃く太陽となる。晴天を描けば絵具を積み上げ、曇天を描けば平坦な筆触を用いた。
「天候」の表現をどこまでも徹底させようとしたモネは、ついにあの連作(Serie)と呼ばれる——非常に骨の折れる——一種の仕事を始めた。変幻止まない光の効果のみを同一の画因のもとに繋ぎ留めようとする試みであった。晩夏のある夕べ偶然の感興を覚えて描き始めた「積み藁」がその最初の作品であった。秋から冬にかけて朝日に照らされ雨に濡れ雪に覆われた十余幅の「積み藁」が完成した。積み藁の後に描いたのはルーアンの大聖堂の正面門であった。次いでセーヌの白楊、テムズ川の霧、ヴェネツィアの運河、池の睡蓮——無数の連作が続いた。その中で最も興味深いのはルーアンの正面門である。これは数十幅を一組とする極めて大がかりな連作であり、聖堂の向かいに滞在したモネは日々窓から刻露した複雑至極な石の骨格をひたすら凝視した。その石の骨格の複雑な表面の上に明滅する光の作用を偽りなく描き下ろすことは尋常の努力ではなかった。
かつてルーヴル美術館のカイユボット・コレクションを見た人は、そこに掛かっていた四幅の「ルーアン大聖堂」(Cathedrale de Rouen)を覚えているであろう。とりわけ朝暾を負って美しく輝く正面門を描いた二幅の作品における金色の陽面と群青の陰影の温柔な色彩の調和はおそらく忘れ難いであろう。世界中に散在するこれら多くの連作を一堂に集めて鑑賞し得る望みは今やないが、ただ想像するだけでも非常な興味を覚える。ここには一連の極めて真摯な努力の結晶がある。一切の外部的・他律的な刺激を離れた極めて「専門的」な芸術的研究の賞賛すべき成果がある。常に煩瑣な実験を繰り返す自然科学者の労作を見る時に生じるある種の感嘆が、この一組のSerieを見る人々の心を満たすであろう。十九世紀後半の画壇の——写実を極限まで徹底させようとする——努力の頂点はまさにここにある。モネを当時最も代表的な作家と認めることはおそらく不当ではあるまい。しかし最後に誤解してはならないのは、彼の試みは極めて分析的・実験的でありながら終始一貫して徹頭徹尾純芸術的——造形美術的——態度を堅守したということであり、ここにモネの芸術家としての強さと深さがある。純造形的な境地から踏み出す誘惑をまったく感じなかったところに彼の芸術家としての力を窺うことができる。あれほどの綿密な努力でありながらモネの画が観者の目に無余の感を与えるのは、美術家に十分強大な力がなければ到底なし得ないことである。(モネは後期の連作——「ヴェネツィアと睡蓮」——においてますます色調の美の中に深入りしていったようである。)
フランスに起こった写実主義の運動が風景画の展開を導いたのはまずこのような次第であった。しかしドイツにおいては、「ビーダーマイヤー時代」(Biedermeirzeit)の愚直なまでに精細で何の趣もない風景画——ブレヒェン(Blechen)とヴァルトミュラー(Waldmuller)の画——の後に、色彩の鮮やかさに欠けただ粗く大きな筆触で塗りたくったマックス・リーバーマン(Max Liebermann)の風景画が現れた。後に述べるが、素朴なライブル——おそらくトリューブナーも加え得るであろう——によってドイツには非常に優れた写実主義の代表的作家がいたのであるが、印象派風の試みについては結局まったく失敗に終わったと言ってよいようである。簡単に結論づければ、おそらくフランス印象派が試みた方法をもって写実主義を押しのけることはもともとドイツ人の性格に合わなかったのであろう。そうであるにもかかわらず当時の流行に従ってフランス風を模倣したからこそ、このような失敗を招いたとしか言いようがない。十六世紀のドイツの画家がイタリア風を大量に輸入してついに自滅したのと同じく、民族の特質を顧みない模倣こそがドイツ印象派の画家たちの失敗の原因ではなかったか。
第116節
【八 理想主義と形式主義】
【a ロダンのバルザックとクリンガーのベートーヴェン】
オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)は写実主義からその悠久にして多作な生涯の出発点を取った。一八七七年に制作した「青銅時代」は極めて写実的な作品であり、モデルから直接型を取ったのではないかという嫌疑を受けたほどである。ロダンはこの嫌疑を解くために、わざわざ別の生身の人間のモデルを取り、観者に自分の作品と比較することを求めた。「青銅時代」に続く大作「洗礼者ヨハネ」(一八八一年)においても深刻な写実的表現は変わらなかったが、有名な「接吻」を制作した頃から、大いに作風の転換が見られるようになった。次第に絵画的表現に傾いていった彼の手法は、輪郭を截然と融解させ、立体的な量感に代えて像面の光の効果を求めるものであった。とりわけ顕著なのは「春」などで、一塊の石から必要な範囲だけの丸彫りを「掘り出す」この表現法も、この時期に始まった。しかし、このような絵画的手法を自在に駆使し、その高い技量を得意げに示していた彼には、なおもう一つ別の要求が存在していたようである。それは一八七五年以来着手された「地獄の門」、一八九五年制作の「カレーの市民」、および一八八六年以来の「ヴィクトル・ユーゴー」などに見られる特殊な思想的表現である。「地獄の門」はダンテの『神曲』から着想を得た、ギベルティの「天国の門」に類似する作品であり、彼のいくつかの大作——「アダムとエヴァ」「接吻」「パオロとフランチェスカ」「ウゴリーノ」「三つの影」「考える人」等——と壮大な浮彫から成る大規模な構想として計画された。「カレーの市民」は一人一人が離れて立つ五人の人物の群像であり、恐怖、絶望、決意、愛国心を象徴する演劇的な作品である。「ヴィクトル・ユーゴー」は、この大詩人が海辺の岩の上で霊感の声に耳を傾けるさまを示している。ロダンが単なる写実的あるいは印象的な表現の他に、一種の思想的な別の領域をも自己の芸術に取り込もうとしたことは、上述の諸作品を見ればおのずと推知される。彼の作品の中には、この観念的描写をあまりに表出して、人を辟易させるものもあり、その趣味の中にフランスの作家としてはかなり稀な傾向を見て取ることもできる。
しかしロダンもやはりフランス人であった。彼の観念的描写は、決してその技巧を離れなかった。極めて大胆な象徴的表現を行う際には、必ずいっそう高い絵画的技巧が伴っていた。時にはその技巧の高さを誇示し、その奇想の大胆さを弄ぶかのような感さえあった。しかしその中には、ロダンの芸術を形成するこの二つの要素が非常に精妙に組み合わされた作品もある。「バルザック」はおそらくこの最も幸運な成就を示す、彼の一生で最も優れた作品であろう。深夜に起きて創作に従事するのを常としたあの文豪バルザックの風采を記念するために、ロダンは寝衣姿のバルザックを制作した。乱れた髪の頭、思索する眼——ここに表現された不思議なほどに強烈で深刻な大詩人の風采は、肩から足まで覆う長い寝衣の身体とともに、渾然たる一つの巨大な幻像をなしている。理想化され増強された深刻な性格描写において、構成は大胆でありながら、記念碑的な効果を十分に感じさせる。しかし、このように大胆な試みがかくも成功を収めた理由は、いったいどこにあるのだろうか。——言うまでもなく、絵画的手法における彼の技巧の高さにある。バルザックの顔面だけを取って考えてみれば、彼の技巧の優秀さがこの詩人の性格描写にいかに有益であったかが分かるであろう。力を込めた粗く少ない筆触で大まかに油彩の肖像を描くかのような大胆さで、バルザックの性格を強く深く顕現させている。観念的描写はすでに増強されているとはいえ、作品に生命を与えているものは、純粋に造形的な表現にほかならない。傑作「歩く人」において示された純造形的な彼の才能の卓越を知る者は、ロダンがつまるところ一人の「彫刻家」であったことを認めるであろう。そして同時に、おそらく哲学者じみた趣味の半面にもあまり注意を払わなくなるであろう。
私はさらに北欧の人々の中から——外見上は似ているかに思われる——一人の彫刻家を取り出して、二人の間の相違を見てみたい。この場合、私はおそらく躊躇なくクリンガーを選ぶであろう。しかも特にその畢生の大作「ベートーヴェン」をロダンの「バルザック」と比較するであろう。
マックス・クリンガー(Max Klinger)は版画、壁画、彫刻に長じた美術家である。版画家として、スペインのゴヤから暗示を受けた彼は、各種の幻像を一組の空想的版画に並べることを好んだ。「手袋の発見」のように空想的な物語を作るもの、「愛と心」のように神話を応用するもの、「死」のように人生観の趣を帯びるもの、「ブラームスの幻楽」のように音楽の喚起する感覚を描写するものなど、その数は非常に多い。額画家としては「パリスの審判」「オリンポスのキリスト」「キリストの磔刑」等があり、壁画家としてはライプツィヒ大学の「詩歌と哲学」およびハノーファーの議事堂を装飾する「労働、幸福、美」の極めて大規模な壁画がある。
題材からおおよそ推察されるように、クリンガーの絵画の方法——その種類を問わず——はほとんどすべて一種の理想画的・象徴的傾向を帯びている。しかし彼はまた極端に写実的な描写をも少しも回避しない。極端に観念的な一面と極端に写実的な一面が奇妙に交錯している。しかしこれは彼の芸術において決して有益な現象ではない。彼の画に感じられるドイツ的な辟易するほどの煩膩な印象は、まさにここから生ずるのである。ライプツィヒ大学の講堂を装飾する大壁画は幅二十メートル以上、高さ六メートル以上に及び、制作の意図はパリのソルボンヌ大学を飾るシャヴァンヌの壁画を凌駕するところにあった。しかしクリンガーの膩味は、ついにシャヴァンヌの端正と清新には及ばなかった。もし彼の象徴主義に故意の露骨な写実的表現がなければ、おそらくより一層、理想画らしい沈静な効果を収め得たであろう。シャヴァンヌの壁画が模様化され輪郭化された装飾画として非常に効果的であった事実と比較して考えれば、画家にとっての好い教訓となるであろう。
では彫刻家としてのクリンガーはどうであろうか。例えばあの陰気な「サロメ」や「カッサンドラ」、あるいは「リスト像」も、やはりクリンガー一流の不快な膩味を帯びている。しかし彼の代表作「ベートーヴェン」においては、そうではなかった。ライプツィヒの美術館でこの大作を見た者——おそらくその誰もが、最初はこの像からもクリンガー式の膩味を受けるだろうと予想するであろう。しかしいざ実際に像の前に立ってみると、この像が与える印象が予想以上に良好であることに驚かされる。一つには、もちろんこの像を大いに優遇した陳列法が極めて有利に設えられていたからでもあろう。しかしこの像においてクリンガー独特の癖がちょうど幸福な状態で展開していることも、否定できない。
ドイツのある批評家が「ベートーヴェン」の印象について、「この像と相対すれば、あたかも荘厳な寺院の内部に足を踏み入れたかのような感を受ける」と述べたことがある。私はこれ以上に「ベートーヴェン」の印象を適切に言い表す言葉を知らない。音楽に特別な趣味を持ち、アトリエに常にピアノを置いていたクリンガーが十六年間にわたってこの像の制作に没頭したことも、やはり大作にふさわしい。像の全体が一覧では尽くし得ないため、一つの丸彫りとして整然たる印象を得ることは難しいが、ここにまた別種の記念碑的な壮大な効果を窺うことができる。楽聖の姿態は、裸体の膝の上にただ一枚の衣を掛け、両足を交え、手を膝の上に留めて、高く大きな玉座の上に端然と坐し、前方を凝視している。足元からやや離れた前方には大きな鷲が蹲り、天神のごとき巨人を仰ぎ見ている。壮麗な大玉座の肘掛けは黄金色に輝き、背もたれには数体の天使の顔と多くの人物を描いた浮彫が飾られている。この巨像を構成する各種の素材は——玉座は青銅の精巧な鋳造品で、肘掛けには鍍金が施されている。天使の顔面は象牙で、この部分の地は青緑色のキャッツアイ、台座の石は斑のある淡紫色の大理石、鷲は青みがかった黒色のピレネー大理石で白い脈が混じり、ベートーヴェンの衣は赭色の大理石である。そして楽聖の肉体を彫った黄味がかった白色の大理石は、ギリシアのシロス島から運ばれたものである。ギリシアの大彫刻家フェイディアスが処女神アテナと諸神の王ゼウスの巨大な尊像を刻んで以来、多種の素材を組み合わせて大規模な彫刻を制作した実例はなかった。この像の前に立てば、いかにクリンガーの芸術に反感を抱く者であっても、いくばくかの感激なしにはいられまい。ここには実にゴシック寺院の内部のごとき一種の神厳がある。この神厳は、あるいはクリンガーの制作から来るのではなく、ベートーヴェンの人格に対する尊崇の念から来るのかもしれない。しかしクリンガーの芸術にベートーヴェンの偉大な風采を彷彿させるに足る一種の深遠さがあることも、認めざるを得ない。クリンガーの芸術の特徴をなすあの一種の気息と膩味が、ここにおいてはさいわいにして深味の表現に役立ったのである。
ロダンの「バルザック」とクリンガーの「ベートーヴェン」——フランスとドイツ両国の傑出した美術家が、それぞれ自国の誇りたる大芸術家の記念像を、それぞれ自国の芸術意欲にふさわしい表現法で制作した次第を、ここに比較し得ることは、まことに深い興味がある。ローマ市のイタリア公集場を飾るヴィットリオ・エマヌエーレの巨大な記念像と、ライプツィヒ郊外に立つ壮大な連合軍記念碑を知る者は、この二者を分かつ堅固な国民性の相違を感ずるであろう。これと同等の国民性の相違が、ドラクロワとコルネリウスを分かち、ロダンとクリンガーを分かったのである。
【b シャヴァンヌとマレース】
ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Puvis de Chavannes)は十九世紀における最も偉大な装飾画家の一人である。リヨンの富家に生まれた彼は、生計の心配のない性質を稟けていた。若い頃イタリアを旅行し、病後の静養を兼ねて以来、画家になる決心を定めた。彼の一生を通じて、イタリア・ルネサンスの作家、とりわけペルジーノの端正な画風が、消し難い追憶として常に残っていたようである。パリに帰った後に受けた感化は、古くはプッサンから、新しくはドラクロワとシャセリオーからであった。模索の域を脱したばかりの彼の最初の制作は、おそらく一八六一年の展覧会に提出された「戦争」と「平和」であろう。この二幅の作品によって名声を得た彼が、これをアミアンの美術館の装飾に用いた時、シャヴァンヌは自費で「労働」と「休息」(いずれも一八六三年の展覧会出品)を寄贈して装飾の用に供した。かくして一八六五年の展覧会に陳列された「ピカルディ」もまた、アミアン美術館の装飾に用いられた。
装飾画家としての彼の生涯は、ここから始まった。一八六七年にマルセイユの美術館、一八七二年にポワティエの市庁舎、一八七七年にパリのパンテオン、一八八三年にリヨンの美術館、一八八四年にパリのソルボンヌ、一八八九年から九三年にパリの市庁舎、一八九〇年から九二年にルーアンの美術館、一八九五年には遠く海の彼方のボストン図書館、一八九八年に再びパリのパンテオン——壁画家としての不断の生涯を送った。
これらの中で、改めて制作されたパリのパンテオンには、都の守護者聖ジュヌヴィエーヴの伝説が描かれている。色彩は淡白にして描線は分明、やや硬直な感のあるこれらの画は、スフロの爽朗な建築に実によく調和している。白を交えた色調の軽淡さと、やや図案化された様式とは、もともと建築との調和を第一に考慮したものである。同じ堂内を装飾した他の画家の制作が、ひどく不調和な膩味を感じさせるのと比較すれば、シャヴァンヌの計画はおのずと明らかになるであろう。
ソルボンヌ大学の講堂を装飾する横長の大壁画は「聖なる森」と称され、学芸を象徴している。その色彩はパンテオンの壁画よりも暗く濃い。そしてその沈静な色調は、雅潔な感じのこの講堂にまことによく調和している。さらに彼の特質を観察するのに一層ふさわしい作品は、市庁舎を飾る「夏」とマルセイユの「マルセイユ港」であろう。前者は鬱蒼とした樹林を背景に、碧色の草原とその前を流れる河辺を描き、沐浴する女たちを配している。まことに清素な感じの作品である。しかしこれに対して「マルセイユ港」は、ペンキ塗りの船と海水の青などが極めて目を引き、壁画らしい沈着がほとんどない。しかしこの二種の作品の得失は、彼の作風の長所と限界を明示している。時代の面紗を通し、象徴の軽い紗を透かした表現においてこそシャヴァンヌの画の長所が現れるのであり、現実的な題材に対してはまったく無力である。彼の筆になる現実的題材を用いた作品——例えば「貧しき漁夫」——も、実は無言の静穆の世界に移し置かれてこそ成り立ち得るものだと言えよう。
まったく装飾画家として世に出、終始装飾画家としての自覚を持ち、その準備を怠らなかった彼の技巧は、徹頭徹尾装飾画的である。彼の画は澄明にして簡素、動作もなく言葉もない。空気もなく陰影もなく、ただ慎重な色調があるのみである。風景であれ人物であれ、すべて単純化、図案化、理想化、平面化を経ている。ただ描線の静穆な動きがあるのみで、量感も明暗もない。制作にあたって、シャヴァンヌはまず格子状の線を引いた紙の上に小幅の素描を描き、それを拡大して壁画とした。その素描は単なる構想図ではなく、モデルを使った厳密な写生として行われた。いざ壁画を描く段になると、何の苦労もなかった。ただ機械的に、あまり力を込めない気持ちで小幅の原図を大幅に拡大すればよかった。かくして小幅の原図において本来写生的であったすべてのものが、形式化・図案化されて拡大されたのである。
もしシャヴァンヌを、象牙の塔に籠もって自己の構想の上に浮かぶ夢幻世界の不思議な象徴画を専ら描いたギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)と同類と見なすならば、それは誤りである。モローの技巧の絢爛にして無限に複雑な藻飾と、シャヴァンヌの技巧の簡素さとは、すでに異なっている。モローの構想の悪夢のごとき重さと、シャヴァンヌの世界の透明な静穆とも、明らかに異なる。しかも迷想的な観念の象徴化を目的とするモローの理想画と、象徴を単なる画因と見なすシャヴァンヌの装飾画とは、その目的がまったく正反対である。しかし——傾向がこれほどに異なるにもかかわらず——結局フランス人らしいところにおいて、確かな共通点を見出すこともできるのである。
ハンス・フォン・マレース(Hans von Marees)は貴族の出身である。当初、彼も十九世紀中期の流行に従い、色彩本位の写実的な画を描いていた。ベルリンの国民美術館に保存されている「休息する騎士」やミュンヘンの国立美術館にある肖像画「レンバッハとマレース」などが、この時代の代表作である。しかし一八六四年にローマを訪れた後、彼の画風は明らかに変化し始めた。批評家コンラート・フィードラー(Konrad Fiedler)および彫刻家アドルフ・ヒルデブラント(Adolf Hildebrand)との深い交友によって、彼の芸術上の信念は成熟した。単なる瞬間的現象の写実という旧態を棄てたマレースは、新しい目標に向かい、造形芸術上の永遠の理法を表現しようとした。フィードラーがその批評論で述べ、ヒルデブラントがその端正な彫刻の上に示し、美学論『形式の問題』で叙述したのと相似た芸術上の信念を、マレースは絵画において表現しようとしたのである。作家としてはあまりに研究的に過ぎたが、幸い無限の努力を厭わなかった彼の生涯は、ここから発展した。彼には三連画を好んで描く習慣があり、中幅と両翼を祭壇画のように統一した。しばしば主要人物の輪郭を背後の暗がりから鮮明に浮かび上がらせた。これらの人物はいずれもやや狭い画枠の中で韻律的に映像を交換し、色彩の配置もこの韻律に順応していた。そのため画面全体が荘重な、記念碑的な、しかも極めて明瞭な印象を与え、あたかもチンクエチェントの絵画(十六世紀初頭にイタリアで盛んであった絵画)と相対した時のような、品格超逸のある種の感銘を覚えさせるのであった。
この絵画が次第に成就していった時代のヨーロッパは、まさに写実主義の思潮に支配されていた。しかしこの画においては時代思潮の反映はまったく見られない。ただ瞬間的なあらゆる現象を超越した理想的形態の造形的秩序があるのみである。肉体各部の描写は、写実的に考えれば必ずしも正確とは言えない。(例えば「ヘレナ三連画」に描かれたヘレナの足は、身丈に比して長すぎる。)しかし造形的理法の表現にのみ専念するマレースにとって、これはおそらくまったく問題にならなかったのであろう。題材の扱い方も同様である。同上の三連画の中幅「パリスの審判」においても、三女神は特にパリスの前に立っているわけではなく、ただ三人の人間が何の動作もなく、純粋に形式上の韻律的構造を成しているに過ぎない。
彼の努力は単純な写実的描写に端を発し、次第に純化された造形的形式の表現へと転じていった。色調の問題から出発して、ある計画に帰結した。すなわち彫刻的なもの、空間的なものを平面の中に再現しようとしたのである。かくして描写されるものはもはや単なる偶然の事実ではなくなった。造形的なものの永遠に妥当する理法となったのである。このようにマレースは画家であると同時に理法の研究者でもあり、自己の芸術論を言葉で叙述するのではなく画の上に描いて示す芸術哲学者でもあった。
シャヴァンヌとマレース——ここにもまた、フランスとドイツ両国の造形的芸術意欲を代表する一対の作者を見出すことができる。小幅の写生画を省力的に拡大し、「謙虚に」装飾的効果を求めるシャヴァンヌと、一生の努力をことごとく造形的理法の具体的表現に費やすマレース——記念碑的な造形的効果を求めるという点において、二人はともに形式主義の作家であるが、ただシャヴァンヌがどこまでも実際的であり、マレースがどこまでも理想主義的である点に、彼らの根本的な違いがある。そしてこの違いは同時に、フランスとドイツ両国民の芸術意欲の違いでもある。さらに興味深いのは、ちょうどこれと平行する極めて類似した現象が彫刻界にも見出されることであり、代表的な作家マイヨールとヒルデブラント——この二人の彫刻家の間にも、その最良の実例を見ることができる。
【c マイヨールとヒルデブラント】
アリスティード・マイヨール(Aristide Maillol)はセザンヌやルノワールと同じく南フランスの生まれである。そしてセザンヌやルノワールが絵画において表現したものを、マイヨールは彫刻の形で表現した。肉体の量感の描写がそれである。彼は紀元前六世紀のギリシア彫刻、およびエジプト彫刻の石塊から抉り出したかのような肉体の量感が特に強烈な様式に心を動かされ、四肢が一団をなして映像を持つ丸彫りを好んで刻んだ。そのため彼は情熱溢れる表現を好まなかった。どこまでも静穆で幽寂な風姿を好んだ。四肢の相互関係もまた厳密に静力学的でなければならなかった。力学的な緊張は極力避けられた。かくして彼はロダンが彫刻に求めたものと正反対の要求を持っていたと言える。しかもマイヨールは同時に、カルポーからロダンへと伝えられた印象派的=絵画的手法をも拒否した。セザンヌやルノワールの画に見られる量感の表現には、立体的な面の効果と肉体の静力学的均整が必要であった。ロダンのように像面に光の効果を求め、活発な筆触の動きを求める手法は、立体的な面の把握を妨げるものであった。マイヨールにおいては、あらゆる肉体がどこまでも三次元的な屈折と起伏を持っている。
マイヨールはただ肉体の量感のみを凝視した。ただ芸術的本能のみに従い、ただその敏感な目を働かせて肉体を凝視し、彫刻を作った。ここには何の先入見も前提も教義も哲学もない。しかし、一人のドイツ人がいた。彼と正反対の出発点を取り、正反対の態度を示しながら、同じく形式上の古典主義者であり、同じく一致点を持つ者が。それがアドルフ・ヒルデブラント(Adolf Hildebrand)である。マイヨールが芸術的本能に富んだ南フランス人らしい作家であったように、ヒルデブラントは思索的なドイツ人らしい作家であった。
ヒルデブラントの名を不朽ならしめたのは、彼が制作した多くの彫刻作品というよりも、むしろ彼の手になる一冊の小著に帰すべきであろう。『造形美術における形式の問題』(Das Problem der Form in der bildenden Kunst)と題するその著作は、一つの美学説を叙述したものであり、ドイツの芸術研究者に非常に大きな影響を与えた。現代の美術史界の権威として学界から最高の尊敬と感謝を受ける美術史家ヴェルフリンが、このヒルデブラントの小著に刺激され暗示を受けたことは、ここではもはや贅言を要しない。(注五)(ヴェルフリンの論説"Wie man Skulpturen aufnehmen soll"およびその代表的著述『古典芸術』の序文に見ることができる。)一人の芸術家が自己の信ずるところを論述した著書が、専門の美学者や美術史家——しかもヴェルフリンほどの大家——に学説上の影響を与えたという現象は、極めて稀有にして極めて特異である。
石材を用いて彫像を制作する際にも、常に石塊の表面から次第に内方に向かって彫り進んでいくヒルデブラントは、一つの像に対して一つの視点を求め、一つの「正面」を規定した。彼の考えでは、丸彫りの彫刻は決してその周囲を巡りながら見るべきものではなく、一定の視点の上に立って見るべきものであった。かくして丸彫り彫刻の空間的な立体性は、正面とその横長の遠近の関係に還元された。すなわち、浮彫りにおけると同じ関係が、丸彫りにおいても見出されるのである……。彼がなぜ彫刻に対してこのような形式を要求したのか。その基礎、その前提として推測されるのは、おおよそ以下のような見解であろう。すなわち——およそ空間性を持つ対象を把握するものには、視覚表象と運動表象の二種がある。観者が目を物体に近づけ、物体のこの部分からあの部分へと次第に目を動かして移行していく時、物体の運動表象が生ずる。しかしこれとは逆に、観者が物体と一定の距離を隔てて目の運動を静止させて眺めるならば、純視覚的な表象が生じ、その中に運動感は混入しない。これがヒルデブラントのいわゆる「遠像」(Fernbild)である。このような遠像においては、もともと空間的なものの関係が平面上の遠近の関係に還元される。物体の——全体としての——造形的把握は、この際同時に一体として感得される。要するに、浮彫り彫刻における把握の方法がまさにこれであり、ここにおいてのみ空間的な物体の造形芸術的に純化された表現形式が発見される、というのである。かくしてヒルデブラントは丸彫りに対しても浮彫りにおけるのと同様の方法を適用し、彼のいわゆる「遠像」の表現を求めたのであった。
マイヨールの刻む実感的な、肥厚な肉を広げた女の像と、ヒルデブラントの刻む極めて非現実的な、薄絹を隔てたかのように朧ろな痩せた男の像——ここに二人の芸術の極めて明瞭な形式上の違いを窺うことができる。しかしより深い彼らの個性の違いは、二人の「態度」の上に見て取ることができる。本能からの把握と理論からの把握——マイヨールの感化は広く美術家の間に及び、ヒルデブラントの影響は学者に対して深切であった。
第117節
【】
【小序】
この小さな一冊は、日本の昇曙夢の訳本から重訳したものである。書の特色と著者が現今担っている任務は、原序の第四段にすでに極めて簡明に言い尽くされており、私がこれ以上付け加えることはできない。
著者の幼時の身世については、世間ではあまり明らかでないようである。父はロシア人、母はポーランド人だという者もあり、一八七八年にキエフ地方の貧しい家に生まれたという者もあり、一八七六年にポーランドのタイバに生まれ、父祖は大地主であったという者もいる。要するに、キエフの中学を卒業したものの進学できなかったのは、思想が新しかったためである。のちにドイツ、フランスに遊学し、途中帰国して一度流刑に遭い、再び海外へ出た。三月革命に至ってようやく自由を得、母国に帰還し、現在は人民教育委員長である。
彼は革命家であると同時に、芸術家であり、批評家である。著作の中で最も世に知られているのは、『文学の影像』、『生活の反響』、『芸術と革命』などであり、少なからぬ戯曲もある。また『実証美学の基礎』一巻があり、全五篇から成る。早くも一九〇三年に出版されたものであるが、重要な書物である。著者の自序にいうように、「最も圧縮された形式で、一切の結論を有する美学の大体を伝える」ものであり、しかも彼のこれまでの思想と行動の根底をなしているからである。
この『芸術論』は、出版としては新しい部類に入るが、実のところ新編に過ぎない。第一篇と第三篇の出自は私には分からないが、第二篇はもともと『芸術と革命』の中にあったものであり、末尾の二篇は『実証美学の基礎』のほぼ全部を包含している。今ここに対照表を示す。
すなわち、一方にあって他方にないのは一篇のみで、私がいま訳して後に附したのがそれである。かくして『芸術論』は『実証美学の基礎』の全部をも包含することになり、上記の順序に従って読めば、あの一冊を読んだに等しいこととなる。各篇の末尾には間々多少の異同があるが、大体には関わりない。また、原序に『生活と理想』という輝かしい文章に言及しながら、書中にはこの題目がない。対照してみて初めて、それが『芸術と生活』の第一章にほかならぬと知った。
私の見るところ、この度の配列と篇目は、固より一層整然として冠冕であるが、読者にとっては、むしろ『実証美学の基礎』の配列に従って順次読む方が理解しやすかろう。冒頭の三篇は、先に読んでも後に読んでもよい。
原本がもともと精粋に圧縮された書であり、しかもその依拠するところは生物学的社会学であって、中には生物学、生理学、心理学、物理学、化学、哲学などに及び、学問の範囲が殊に広大である。美学と科学的社会主義に至っては言うまでもない。これらすべてについて、訳者にはもとより素養がなく、そのため随所で行き詰まった。理解し難い箇所に出くわしたときには、茂森唯士の『新芸術論』及び『実証美学の基礎』外村史郎訳本、また馬場哲哉訳本を参照した。しかし難解な箇所では各本の文字がしばしば同じで、なお通貫し難く、時間を費やすことはなはだしく、結局一冊の詰屈枯渋なる書となるに留まった。誤りに至っては、なおさら免れ得ぬところである。
実のところ、著者の主張を知るには『実証美学の基礎』を読むだけで十分である。しかしこの書名では、おそらく現在の読者をして見ただけで後ずさりさせかねないので、私はこの一冊を取った。ところが結局は力及ばず、さほど良い文章に訳し得なかった。ただ読者に辛抱してご一読いただければ、おおよその大意は分かり、何かしら領会するところがあるだろうと願うのみである。たとえば、芸術と産業の合一、理性と感情の合一、真善美の合一、戦闘の必要、現実的理想の必要、現実に執着することの必要、さらには君主が高踏派に優ると論ずることまで、いずれも極めて警抜である。全書は後に控えているので、ここでは列挙しない。
一九二九年四月二十二日、上海にて訳了し記す。魯迅。
第118節
【原序】
我々は今日、あらゆる領域にわたって、一般的理論的問題への関心が増進していることを察知し得る。世にも稀なる英雄的努力をもって、世界大戦と国内同胞戦の遺産たる大破壊の善後処理をすでに終えたソ連は、いまや一般文化の領域においてその能力を展開しつつある。
我々は確かに、自分たちの眼前に新たなる芸術の萌芽を見ている。その創造者は、新たなる社会集団、すなわち労働階級の代表者たちである。これ以前、芸術の領域において、彼らが自由に活動する機会はなかった。ごく稀に極めて少数の鉱脈が、どうにか地表に顔を出すことがあったに過ぎない。我々は彼らの姓名を一々知っている。しかしそれ以外の全く湮滅して聞こえぬ幾十幾百の天才については、歴史はただ沈黙を守るのみである。
新興芸術が自己を発見し、自己の運命を切り開き、自己の実際の生活を意識化することは、極めて困難なことである。しかも各種の美術専門学校や研究所に学ぶ青年たちにあっては、なおさら困難である。芸術に関する良い著作は非常に少なく、科学的社会主義の文学に至ってはさらに稀有である。故に、芸術の領域で初めて活動する者、あるいは日常生活の問題について概略だけでも解答を得たいと望む者に、何かしらの書物を紹介しようとしても、ほとんどそれが叶わないのである。
いまや明確となったこの要求に発して、「革命ロシア美術家協会」はルナチャルスキーの著作を出版することを決定した。本書は、さまざまな機会に、さまざまな端緒から書き下ろされた幾つかの論文を、組織的に編纂して成ったものであり、これらの論文は共通の主題によって統一されている。しかしこれは本来の意味での美学の理論ではない。これらの論文の中では、趣味、美的知覚、美的判断の本質については解剖されていない。本書の焦点となるのは、芸術そのものとその発達の歴程である。中でも芸術的創作の歴程が、殊に精細に解剖されている。ここにおいて、芸術に対する階級的観点が無産階級に向けられ、自己の所属性を明確に意識している芸術家に何を与え得るかが、分明に見て取れるのである。これらの論文を編輯するにあたり、出版者が力を注いだのは、ルナチャルスキーが科学的社会主義芸術学の理論家であるのみならず、実践的指導者でもあるという点である。我々はルナチャルスキーの一般美学に関する多くの著述の中に、芸術的創造をその歴程において意識化しようとする試みを分明に見出し得る。ルナチャルスキーが形式的方法を論述する際にも、芸術の内容的価値を論述する際にも、読者はおそらく到る処で、単なる各流派の芸術学者のみならず、一定の傾向の実践的指導者をも自らの眼前に見出すであろう。この完全なる生きた芸術的経験の結晶する所こそ、本書の価値と意義の存する所である。
本書の内容は、その構成部分を解剖してゆけば、有機的に成長してゆくであろう。その大部分は、異常な確信をもって芸術と生活の問題を処理している。これまであらゆる手段を用いてその存在を擁護してきた抽象的、制約的、無生命的、形式的な芸術は、いまやすべての人々の倦厭するところとなった。いまや「大衆に向かう芸術」という標語が、殊に我々の芸術青年たちの心を惹いている。実のところ、芸術が現代の生活を確実にしかも現代的に表現し得れば得るほど、芸術はますます完全にして意義あるものとなるのである。故に、芸術が現実の奴隷的模倣に堕するのを恐れる必要は、少しもない。この関係において、我々は本書の中に、「生活と理想」を主題として書かれた輝かしい頁を発見するであろう。我々は到る処でこの標語に従って進まなければならない。
一九二六年、モスクワにて。革命ロシア美術家協会。
第119節
【一 芸術と社会主義】
マルクスに始まり現代に至る科学的社会主義の文献において、芸術問題に捧げられた専門的著述は、まだ比較的稀少である。あったとしても、限られた頁数をこの問題に割くに過ぎない。しかしながら、芸術に対する純科学的社会主義的態度の原理が存在することは、疑いのない事実である。今ここに簡単に、その根本原理を摘要してみよう。
まず第一に、人類社会の発達理論としての科学的社会主義によれば、芸術は生産関係上の一定の上部構造であり、生産関係はその時代を支配する労働形式を決定するものである。
芸術はこの経済的基礎に対して、二つの関係において上部構造たり得る。第一は産業として、すなわち生産そのものの一部として、第二は観念形態としてである。
事実上、野蛮時代から現在に至るまで、芸術は人類生活の一定の傾向として、全人類の生活において顕著な役割を演じてきた。それゆえ、人類の労働の結果であるあらゆる生産品において、その形式、色彩、その他の要素が、ただ適応性のみから算出されたものを見出すことは、おそらく容易ではない。例えば建築であれ書籍であれ、器具であれ街灯の柱であれ、何か身近なものを取って、その根本的な均整が何によって決定されているかを見ればよい。それによって、フェヒナーの測定法が説明するように、その均整は決してそれらの事物の使用上の便不便から算出されたものではないことが分かるであろう。もし使用上の便利さだけを言うならば、これらの事物はもっと長いものもあり得たし、もっと幅広いものもあり得た。各部分もまた、別の均整を用いたであろう。しかし均整を変えること(あまりに使いにくいものを作る場合を除いて)は、ある種の不快な衝動を引き起こす。逆に、適切な均整は、他のいかなる利害観念とも無関係に、純粋な快感を与えるのである。
私はわざと最も単純な例を引いたが、同様に、人の手による制作品で、装飾的欲求の痕跡(例えば磨かれた表面、施釉された表面、各種の模様、いくらか強い彩色や一定の色彩の配合など)を帯びないものはない、と断言することもできる。これによって分かるのは、人類は生まれながらにしてこの種の強烈な傾向を稟けており、生産品を作りながら、単に純功利的目的のみを追求するのではなく、芸術的目的をも達成しようとするのだということである。そしてこの芸術的目的とは、事物を美化し、我々の感覚器官にふさわしいものとすることである。音に快不快があり、色彩に快不快があることは、誰もが知っている。このような単純な類推から、人々は創造の結果を、好感を与え、知覚しやすく、心に適い、趣のあるものに仕上げようと努めるのである。
このような事物に対する趣味が、民族により時代により大いに異なるのは当然のことである。この関係において各様式の根本を研究することは、極めて興味深い事柄であろう。例えば中国の制作品はよくできていて美しいが、古代ギリシアの制作品は根本的に異なっている。それは何ゆえであろうか。また、全ヨーロッパの趣味の根源たるフランスの家具が各時代に変化するのは、何のためであろうか。例えば、ルイ十四世の豪華からルイ十五世の浮華な趣味へ、そこからさらにルイ十六世の堅実な精厳へ、革命時代の様式の整然たる枯淡へ、そしてついにはナポレオン時代の様式の純熟にして雄渾な調和の偉大に至る、この変遷を研究することは、興味なしとは言えまい。
しかし無数の様式の変化において、その由来の真の原因を闡明し得るものは、科学的社会主義をおいて他にない。しかしそのために、科学的社会主義はその時代の社会組織に関する、前代の伝統の確実な知識に依拠するだけでなく、ある民族がある時代に用いた材料、生産器具、その他純技芸的な要件の全体についての精細な知識にも依拠すべきである。
しかし芸術は産業の特殊な種類であるだけでなく、ほとんどあらゆる制作品に入り込む特殊な機能であるだけでもない。芸術はまた観念形態でもある。では、科学的社会主義の見地から言えば、観念形態とは何であろうか。それは人類の意識において体系を与えられた実在の反映であり、人類の意識的生活を満たすものである。
もちろん、人類の意識は、個人的な、いわゆる刹那的な断片的思想や感情をも経過する。しかしこれらの思想や感情が結晶すると、観念形態の性質を獲得する。科学的社会主義以前の、あるいは科学的社会主義と並存する社会学派は、大抵、思想と感情の自己組織は独立的過程であると見なしていた。さらにはこの観念論的過程を根本と見なしさえした。それだけでなく、多くの社会学派は、社会学の大家や思想家や芸術家の力によって自己の思想と感情を組織した人類社会が、学説から算出された計画に従って自身の生活と周囲の環境を組織しようと努めている、と考えていた。
しかし科学的社会主義は、実際にはそのようなことはないことを証明した。科学的社会主義によれば、観念形態は現実社会から発達するものであり、したがってこの現実社会の特徴を帯びている。この意味は、あらゆる観念形態が現実社会からその唯一可能な材料を受け取り、この現実社会の実際の形態がその中に組織された思想家あるいは観念者の直観を支配するというだけにとどまらない。観念者が一定の社会的利害から離れ得ないという意味においても、観念形態は現実社会の所産なのである。それゆえ観念者は常に傾向的である。彼は一定の目的をもってその材料を組織しようと努める。
ところで科学的社会主義によれば、社会はいくつかの互いに敵対する階級に分かれている。階級とは、生産過程に対して、あるいはその過程において、さまざまに異なる地位を占め、したがってさまざまに異なる利害関係を持つに至った人々の集団である。例えば地主階級、有産階級、農民階級、労働階級などがそれである。
もちろん、科学的社会主義が観念形態の階級的特質を説明する際、観念形態と各種の大階級——例えば支配階級、あるいは自己の支配権のために闘争中の階級、または被支配階級——との関連を肯定するだけで十分とはしない。否、科学的社会主義の解剖はさらに深く切り込む。科学的社会主義はまさに、各種の法理学説、哲学体系、宗教教義、芸術上の流派と、一定の階級内部の集団、あるいは中間階級的集団との関係を確立することを求めている。社会はその構成において、非常に複雑な場合がある。それゆえ観念形態的現象をある基本階級の中にあまりに単純に一括することは、純正科学的社会主義に対する罪であり、粗雑な科学的社会主義である。
観念形態の歴史は、全く社会性の歴史に依拠している。人類社会そのものがその進化において多様にして複雑であるように、観念形態もまた多様にして複雑である。
ここにさらに付加すべきことがある。社会進化との関係において、一方では観念形態の支配的地位を否定しながらも、この観念形態の価値を、科学的社会主義は否定しないのである。階級が各々自己の法律、自己の宗教、自己の哲学、自己の道徳、自己の芸術を創造する際、階級は決してその精力を空費しない。これらは多面的な鏡に映った現実の単なる反映ではない。これらの反映は、それ自体が社会的勢力、旗幟、標語となる。そしてこれらを中心に一階級が集合し、これらの助けを借りて階級は自己の敵手に打撃を加え、敵手の中から自己の心服者と従属者を募るのである。
他の観念形態の中で、芸術は卓越した役割を演じている。ある程度において、芸術は社会思想の組織化である。芸術とは、現実認識の特殊な形式である。現実は科学の助けを借りて認識され得る。科学は精確を期し、客観を求める。しかし科学的認識は抽象的であり、人間の感情に対しては何も語らない。しかし、本来的に認識すること、所与の現象を理解することは、その現象に対して純知的・体系的な判断を持つという意味だけでなく、その現象に対して一定の感情的な、すなわち温厚な道徳的・美的関係を確立するという意味をも持っている。例えばロシアの農民を理解する際、統計学的研究を基礎として理解する場合と、ウスペンスキーやその他のナロードニキ作家の作品を通じて理解する場合とでは、まったく異なるのである。
もちろん、同じ農民階級の統計的知識が故意にまたは無意に毀損され得るように、芸術的表現もまた意識的にまたは無意識的に主観的なものとなり得る。より適切に言えば、階級の利害(芸術家はその表現者である)を反映するものとなり得るのである。しかしこのことが、まさに芸術に力を与えるのである。芸術は認識の機関であるだけでなく——すなわち現実社会の熱烈な生きた直接の認識機関であるだけでなく——ある種の一定の見解、すなわち芸術家が現実社会に対して最も企望する一定の態度の宣伝の機関でもある。しかし前述のことから、芸術が思想の組織者として現れるとき、それは思想と感情を一つに組織するものであるとも言える。時には芸術は全く感情の組織者ともなり得る。例えば音楽や建築(技術としてではなく、芸術としての建築)は、何の思想をも表現し得ない。音楽や建築の言語を、ある種の概念を表現する我々の言語に翻訳しようとすれば、大きな努力を要する。しかしそうであっても、音楽と建築の影響は偉大である。音楽の要素と建築の要素(この場合、建築と音楽は極めて親近的である)は、いかなる芸術の中にも存在すると言える。もし彫刻が記念碑的であり、その均衡によって我々を驚嘆させるならば、それは彫刻の内容によるのではなく、主題によるのである。とりわけ、彫刻と建築を結びつけるその様式によるのである。もし彫刻が全身典雅にして線がことごとく優美であり、彫刻家が賦与した相貌の上に、不安定ではあるが我々を漂動させるある心情が浮動しているならば、その彫刻は音楽に満ちていると言えよう。いかなる場合においても、我々はすでに感情の組織化、無意識的なものの組織化の範囲に入っているのである。このことは当然、より大きな程度において絵画にも適用し得る。絵画の構図は、正確に描かれ見事に整えられているとき、絵画を建築に近づける。そして絵画の色彩の鮮濃は、絵画を音楽に近づけるのである。文学においても同様である。芸術上の大作の一般的構成(例えばダンテの『神曲』)は、大伽藍のような印象を与える。そして韻律、リズム、照応などは、内的音楽性と結びついた外的音楽性を文学に賦与する。しかもこれはまた、純粋に批判的な言語には翻訳し得ない象徴的な幽微な意義と結合するのである。
問題が思想の組織化に関わる場合には、観念形態、および観念形態を生む生活上の事実、あるいはこれらの観念形態を把持する社会的集団と直接に連繋することは、比較的容易である。これに対し、問題が芸術の最も特色的な特質をなすあの感情の組織化に触れると、極めて困難となる。それゆえ芸術の歴史と理論は、今日に至るまで、極めて巧みに科学的社会主義を回避してきた。しかし最近、この関係において大きな突破口が開かれた。例えばドイツの科学的社会主義者にして芸術の歴史家・理論家であるハウゼンシュタインのある種の著作は、すでに前進への顕著な一歩である。すなわち、科学的社会主義のこの微妙な方面の研究が、彼によって成し遂げられたのである。
人類社会およびその進化の理論としての科学的社会主義の原理は、以上の通りである。しかし科学的社会主義は、このような理論のみを表すものではない。科学的社会主義はまた一定の綱領でもある。科学的社会主義はそれ自身、一定の階級すなわちプロレタリアートの観念形態であり、しかも現実を毀損しない唯一の観念形態をなしている。このことは、プロレタリアートが未来の階級であるということ、および現実をそのまま述べる科学が未来の確実な傾向を示す科学との強固な結合がプロレタリアートに有利であるということによって証明される。まさに同様に、プロレタリアート自身の傾向は、全人類にとっても有利なのである。最も圧迫された最後の階級であるプロレタリアートは、自らを解放すると同時に、全人類を一般に階級制度から解放するのである。プロレタリアートがもたらす改革よりも重大な、より解放的な改革は、もはやあり得ない。それゆえプロレタリアートの傾向は、同時に全人類的傾向でもある。
プロレタリアートの理論家たちは、確実な客観性をもって、芸術のさまざまな花や実が社会的な地盤の上でいかに成長してきたかを描写すべきであるだけでなく、芸術に対して批評的に接触する十分な権利をも持っている。過去についても同様である。プロレタリアートの理論家は、人類の往時において明らかに有害な搾取的精神を帯びた芸術上の作品を指摘し得る。民衆の受動的苦痛、あるいはその奴隷的服従を表現する作品を指摘し得る。また、怠惰、狡猾、阿諛、懐疑に満ちた芸術を指摘し得る。この種の芸術品は、現実社会と社会に対する責任から逃避するために、あらゆる活きた内容から退いて、空疎な知力の遊戯や、天翔ける夢想の中に入り込んだものである。しかしプロレタリアートは同時に、往昔においても、支配階級に属するある種の芸術品を発見し得る場合がある。これらは広汎な組織的計画の精神に富み、自己の力に対する人間の確信、光明への渇望、真の生活への憧憬に満ちている。あるいはまた、外界の横暴な運命に対する反抗と、蹂躙された一部の人類社会の権利の宣言とを、その根本的傾向とする芸術品である。
過去の芸術品に響く声、号泣、歓笑、歌唱等は、無限に多様である。徹底的に解剖されたこれらの芸術品の各々に、一定の社会的評価を与え得る。ある種の作品は、さまざまな意味においてプロレタリアートの予言者あるいは先駆者たる人々の声であり、プロレタリアートにとって親密で投合するものとなる。ある種の作品は、その根本的傾向の観点からは疑わしいが、特殊な社会現象を暴露するものとしては興味がある。また、ある種の作品は、嫌悪すべき、憎むべきものである。しかしこの際、いかなる場合にも、我々は常に内容に関する評価の範囲内を往還しているのである。しかしプロレタリアートの理論家は、芸術上の形式に関する評価をも行い得る。例えば科学的社会主義は誤りなく我々に教えている——およそ新しい思想を促進し大きな感情を組織することに興味を持つ階級は、必ず内容的芸術を感得し、かつ制作するということを。これに反して、観念形態を持たず、自己の権利を擁護しようともしない、影の薄い階級は、純然たる形式的芸術に向かう。そしてこれによって人生をいささか潤色し、自らが住み心地よい場所とするに過ぎない。この形式的芸術の領域において、さまざまな頽廃が行われ得、あらゆる種類の美的放蕩があり得る。例えば軽佻浮薄な華美、貴族的貪婪の淫逸な典雅などがそれである。
ある階級に漂う思想と情緒の内容は、ある時代にはこれにふさわしい形式的表現を見出し得る。(これはちょうどある階級の全盛期に当たる。)その時、芸術は内容と形式のこのような一致によって、平静なものとなる。芸術家は自己の作品が重要であることを確信し、しかもその作品が同国民の一定の部分に受け入れられるであろうことを確信する。同時にまた、この内容を社会に伝え得る形式を持っていることを確信する。その時こそ、いわゆる古典時代が到来するのである。しかし古典時代の到来以前には、当然まだ思想と感情の十分な具現を得ていない時代があるはずである。このような時代は、政権に対するある階級の台頭と一致し、またこの階級が同時に自己の階級的利益のために政治的形式の発見に努めているがゆえに、突進的で粗疏である。その形式は不安定である。芸術家は一方で自己の空想を緊張させながら、他方ではまだ捕捉し得ない形式を探り、捕えようとする。加えて彼を指導する思想もまだいくらか不分明であり、ただ感情のみが激烈である。芸術上のロマン主義的機構と呼ばれるものは、ここから生まれるのである。最後に、階級がその全盛期を通過すると、その階級は社会においてもはや必要でなくなり、新しい勢力が前進する。かくして彼は自信を失い、自己の理想を失い、その感情は微塵に砕け、一つの密集隊から個人主義的な砂粒に変わる。その時、これもまた芸術の上に反映し、本来芸術の精神たる思想と感情は萎縮し、やがて発散し尽くす。そして後に残るのは、アカデミズムに変質した一種の冷たい形式的技巧のみである。しかし我々がこの美の死骸を前に見ているのは、長くはない。間もなくその死骸は解体し始める。そして芸術家は形式に対しても軽率な態度を取り始める。すなわち、奇を衒い、あるいは自己の芸術のある一面を殊更に誇張する。この時、我々はまさに頽廃的芸術に直面しているのである。
ここで私は、過去の芸術を評価する際に、我々科学的社会主義者を導く主要な指導原理を示したに過ぎない。ここでさらに言うべきは、最も消極的な芸術品からでさえ、これを細かく解剖すれば、最も有益な結果を得ることができるということである。第一に、これらの作品がある社会現象の徴候をなしている限り、歴史的認識において我々に助けを与える。第二に、これらの芸術品の中には、各種の積極的側面がかなり含まれている。ある頽廃的芸術品の中に、我々は色彩、線、音響の驚くべき優美な結合を発見し得る。芸術の解体期において、解剖的芸術家は技術的に極めて貴重ないくつかのものを見出し得る。このような例は少なくない。ある暴君が建立し、奴隷支配の精神が貫かれた巨大な建築物の上に、我々は驚嘆すべき均衡と偉大を発見し得る。これらの特質は、暴君制度の側から加えられたものであり、しかもこれがまた暴君制度を、大衆組織化の広汎な支配形式の一つとしたのである。それゆえ真の科学的社会主義者は、過去のほとんどあらゆる芸術品を例として、自ら学ぶと同時に、他の人々にも教え得るのである。
しかし、このように、科学的社会主義が芸術の確実な根源を認識する方法であるだけでなく、芸術批評の方法、芸術利用の方法——すなわち正当に芸術を享楽し、また芸術の将来の発達のために正当に芸術を理解する方法——でもあるとすれば、現代精神と科学的社会主義との関係が格別に痛切な事柄であることは、言うまでもない。
この際、以上に示した一切の批評的基準を、我々は完全に適用し得る。読者として、また批評家としての科学的社会主義者は、その驚くべき研究室において個々の新作を解剖し、その社会的根底と社会的傾向を指示し得る。また、作品の内容と形式に何らかの表明がある限り、その消極的側面と積極的側面をも指示し得るのである。そして科学的社会主義の作家ないし芸術家は、その作品を創造しつつ、自己の階級の理論の中に真摯な支柱を見出し得る。彼らはまたこの指導的原理を把持して、各種の謬誤を免れ得る。さらに自ら自己を批評しつつ、同時にまた、自己の有するものであって自己の階級がまさにその表現を求めている内容を、完全に表明し得るのである。
第120節
【三 芸術と階級】
階級的美学と称すべきものが、特別に存在し得るであろうか。もとより、これは存在し得る。
この世間に、各国民の中にそれぞれ異なった美学があることに反対するような教養ある人士が、なおいるであろうか。ほとんど一切の芸術品の美を発見する才能を獲得し、ボトクード人(ブラジルの蛮人)の木造偶像と、ヴィーナス・ミロスカヤやボッティチェリの彫像とを、同じように賞玩するには、文化的発達がかなり高度な独特の程度に達していなければならない。
いかなる見地が優れているかは、一時に断じ難い。さまざまに異なる国民と時代の一切の美学の中に、美学上の種差、すなわち互いに矛盾し調和し難い種差のみを見る芸術史の見地が優れているのか、それとも自己の様式に忠実であり、自己の趣味を決定し、それ以外の一切に対して狭隘な態度を取る人の見地が優れているのか。たとえこれらを問わずに置くとしても、さまざまな国民が、女性の美、色彩の美、形式の美をさまざまに理解し、自己の神、自己の理想をさまざまに具現し、しかも各時代において趣味を変更し、直接反対の方向へ移ってゆくことは、すでに明々白々である。
もし我々が趣味変更の原因を検核するならば、その根底に経済組織の変更が横たわっていること、おおよそはさまざまな階級が文化に及ぼす影響の程度における変化であることを見出すであろう。
ある場所では、この事実を極めて分明に目撃し得る。たとえばゲーテは、かつて非凡な機知をもってこう喝破した。さまざまに異なる雑多な衣服を纏った群衆の騒擾声、談話声、裂けるような笑い声、甲高い笛の音、家畜の鳴き声、小商人の呼び声などから成り立つ民衆の定期市は、庶民出身の人間には全く酔ったような陽気な印象を与える。しかし反対に——ゲーテの意見によれば——知識人にとっては、この色彩は煩膩であり、この動揺は眩暈を覚える懊悩であり、この喧噪は堪え難い気詰まりであって、この賑わいからもたらされるものは頭痛以外の何物でもない。これと反対に、黒衣を纏い中節を守る知識人たちの規矩正しい祝日は、太った若者や陽気な村娘にとっては堪え難い退屈事である。チェルヌイシェフスキーはこれに劣らぬ機知をもって付け加えた。女性美の理想は、農民と知識人とでは異なる。上流の知識人たちは——チェルヌイシェフスキーは言う——繊い足と繊い手を非常に好む。しかしこれらの特徴は何を表しているのか。——これは退化であり、寄生生活である。身体の萎縮の端緒こそ、あのような貴族的な手と足なのである。あのようなものは、隠しようのない嫌悪の情を人々の中に滲み込ませる。これに反して、農民が新婦を選ぶ際には、相手の娘の健康の程度を極めて明確に判定し得る。すなわち自らに問うのだ、彼女は労働者として、妻として、母として、出色であるかどうかと。
燃えるような血色、肉体的な力、直接的な意味における女性的特徴の分明なる表現——およそこれらが農民を蠱惑するのであろう。
故に我々は、社会の異なる二つの対立的な例において、美学の領域内の甚だ相反する見解を見ることができる。
今度は特に注意を、ある明白な歴史的事実の方へ向けてみよう。ロココ時代の画——渦巻紋の天井の上、鍍金の家具の上、ゴブラン織の上を飛翔する愛神は、あたかもグルーズが描いた突然驚愕する素朴な市民のように感じさせ、また画法の故に乾燥無味となり、様式に偏し、色彩不足となったものは、あたかも革命画家ダヴィッドが特に好んだギリシア・ローマの愛国者のようでもある。
各階級は、それぞれ自己の生活様式、現実に対する自己の態度、自己の理想を有する以上、自己の美学をも有する。
もとより、一概に資産階級と無産階級を対立させるのは穏当ではない。資産階級の美学——それは成金、商人、工場主の美学である。これとともに、旧式の貴族階級の固定した趣味もあり、多少洗練され、しばしば弛緩し涸渇してはいるが、時として甚だ高雅な上等の専門家たる知識階級の趣味もあり、哀れな市民の俗悪な趣味などもある。
無産階級について言えば、彼がその芸術品なり生活事象なりの上に美学的形相を表明した事例は、もとよりそれほど多くはない。これは彼らが創造の日光の照らさぬ、いわゆる「文化の地窖」に余りに長く縛り付けられていたからであり、故にそこからは一片たりとも何らかの芸術的勢力が発生しなかったのである。
無産者的性質を帯びた若干の作品の上に——たとえば無産階級の強い影響を受けた知識人の作品や、労働者作家の手になる作品の上に——表明されてくる事柄が、無産階級芸術と無産階級美学の日増しに濃厚なる萌芽によって肯定されることは、疑いない。これらの萌芽を、我々は、なお苦悶の湿雲の下に咲くソヴィエト・ロシア文化の花の春野に見るのである。
しかし無産階級は、ある関係においては、すでに以前のある階級や団体の創造を通じて、自己の美学的形相を表明していた。たとえばキプリングのように有名な詩を機械と大工業に捧げた資産的産業的帝国主義は、我々を機械と生産の労働を讃美する労働者の詩歌の方へと導く。ただし資本家たちは機械をただ機械として見るのみで、人類の協力者として、正義の国における偉大なる建設の道具としての機械を見ることはできなかった。
別の点では、キプリングとガスチョフの二人は、トルストイの解釈する詩の代表者たちに対するよりも、互いの方が近い。すなわち旧い絢爛たる趣味に対するよりも、また安価な感傷をもって機械の中に恐怖と轟音と黒煙のみを見る市井の趣味に対するよりも、二人の間の方が相近いのである。
一方から言えば、革命時代に、時には反動時代に、ある程度まで無産階級は無政府的ロマン的知識階級と手を携える。前者の場合は集団的に、後者の場合は単独に、知識階級の芸術家は猛烈に現実に抵抗し、憎悪をもって支配階級を鞭撻し、しばしば雄弁に、しかも熱烈に、人々を叛乱に鼓動する。
しかしこれらの知識階級の作品の中には、しばしば分明に明瞭なる絶望、ヒステリー、生活から捩じ切られた理想主義が響き出ている。
かくして無産階級は自分たちの戦闘の歌を歌い始め、一方ではそこに一種の生気に満ちた信念を蓄蘊しているものを、日増しに多く注ぎ込んでゆく。しかし未来の地平線に対しては、無産者詩人はその地平線の開拓に従い、より大いなる広大、平安、そして真実の幸福をもたらすであろう。
また、毫も寛容ならざる厳峻をもって、時には同情の涙をもって、貧者の生活を描写し、無産者的熱情をもって赤裸々に、資本主義的工場の保護の下にある自己と自己の腐爛した生活を叙述するリアリスムの知識人との間にも、なお堤防が存在している。
しかし、知識人がゾラの足跡に従って自然主義者の客観性に専心し、あるいは自ら描く悲哀のゆえに泣くとき、無産階級は同時に驚くべき客観主義と平静をもたらし、これとともにさらに、芸術家を単なる観察者としてのみならず、特定の戦士として位置づける独特の冷冷たる憤怒をも送り届ける。
無産階級において最も独創的なものは、おそらくその作品の中の集団主義的な調子であろう。私が知識人、知識人的作家の中の良い分子を「無政府的ロマン主義者」と称するのは、理由のないことではない。知識人にはしばしば個人主義への傾向があるが、労働者は誰であれ明白な理由から、より多く大衆を感得する。労働者詩人は大衆の詩人となるであろう。彼らはすでに大衆のために、大衆を通じて、大衆に向かって、自分たちの讃歌を歌い始めているのである。
無産階級がこのような特質の独創性を表現し得るのは、おそらく無産階級が自らの手で自らの宮殿と多くの自らの都市を建設し、無際の壁に壁画を描き、多くの彫像でその中を満たし、この自らの宮殿に新たな音楽を嘹亮と響かせ、自分たちの街路の広場に大いなる祝祭を催し、観客と登場人物が同じ歓喜の中に融合する時であろう。その時、無産階級の内部に資本主義の地獄が養成した集団的創造の特質が、全力をもって表明されるであろう。そして無産者芸術の根本的特質——すなわち科学と技術への愛、未来への広大な見解、火焔のごとき闘志、毫も仮借せぬ正義感——がすべて世界に対する集団主義的知覚と集団主義芸術の画布の上に揮洒され、しかもこの時に初めて、未だ聞かれざる広大と未だ予感されざる淵深をも獲得するのである。
これが無産者美学の一般的特質である。
第121節
【四 美及びその種類】
【一】
苦痛あるいは快楽、満足あるいは不満——これは美的情緒に不可欠の基礎である。我々の中に美的情緒を惹き起こす一切の対象を、我々は美と呼ぶ。
〔以下、ルナチャルスキーの美学論が展開される。本章は美の種類についての体系的分析である。美的情緒の生物学的基礎——生活を助長する一切は真であり善であり美であること、個人的快楽と理性的判断の間の葛藤、欲望と叡智の闘争について論じる。直接的本能と抑制的観念の戦いが「我」と欲望の闘争として意識されること、理想的には理性と欲望が完全に一致すべきこと、理性を経験豊かな老僕に喩え、主人の欲求を制限するのみならず新たな源泉を発見してより豊かにすべきとする比喩を用いる。
個と種の利益の対立と統一——超個人的本能(母性本能、集団本能、愛国心等)と個人的利益の衝突、利己的理性の克服の必要性、暴君の例による種的叡智の無意識的発現、「真の利他主義の精神は隣人愛にではなく種の利益のための断然たる戦闘に最も鮮明な表現を見出す」という命題。
美と正義の理想の一致——美的生活すなわち充実して力強い豊かな生活は、他の生活の破滅の代価を以て購わねばならず、狭隘な美学的見地は理想への門を閉ざすこと。最高の見地すなわち全人類種族の最大の力と美の要求こそが指導の線索を与えること。
認識論と美学の親和力——正しい思索は美学的原理に従う思索であること。形而上学と経験的方法の対立、科学の殿堂の堅牢さが美の不可欠の条件であること。
結論として、現在においては美学的評価と科学的・社会的・道徳的評価を混同すべきではないが、本質において美学はこれらの領域を包括するものであり、いずれその完全な統一が達成されるであろうとする。〕
一切の評価は本質において常に同一であり、帰結するところは被評価の現象によって惹き起こされる生活の成長あるいは衰退についての判断に在る。この判断は直接的感情の形式でも、字義通りの判断の形式でも表現し得る。
〔最後に、美学を評価一般の科学として想定し得ること、人類種族の最高度の発展の規範が不断に活動する不争のものであること、発達の程度に応じて美の評価の等級が進行してゆくことを述べて結ぶ。〕
第122節
【五 芸術と生活】
【一】
生命とは、いかなるものであろうか。生きた有機体とは、いかなるものであろうか。
有機体とは、種々の物理学的・化学的性質を有するものである。
〔以下、ルナチャルスキーの芸術と生活の関係についての論考が展開される。有機体の定義から出発し、生命力・適応・進化の概念を通じて、芸術の生物学的意義を論じる。
主要論点:
一、有機体と環境の相互作用——生命は環境への適応過程であり、その過程において快楽と苦痛が生じる。快楽は生命の成長を、苦痛は生命の衰退を示す信号である。
二、遊戯と芸術の関係——動物の遊戯は過剰エネルギーの放出であると同時に生活技能の練習であること。人間の芸術もまた遊戯の延長線上にあり、生命力の表現であること。
三、芸術の社会的機能——芸術は個人の経験を他者に伝達し、共感を生み出す手段であること。芸術家は人類の感情の組織者であること。
四、芸術の認識機能——芸術は科学とは異なる仕方で世界を認識する。科学が抽象的概念によって認識するのに対し、芸術は具体的形象によって認識する。
五、芸術における理想——芸術は現実をありのままに描写するだけでなく、あるべき姿を示す。美的理想は生命の最大限の充実と発展の方向を指し示す。
六、芸術と階級——異なる社会階級は異なる美的理想を持つ。支配階級の芸術と被支配階級の芸術は必然的に異なるが、真に偉大な芸術は階級的限界を超えて全人類的価値を持つ。
七、芸術の未来——社会主義社会において芸術は民衆のものとなり、創造と鑑賞の条件が万人に開かれる。芸術はもはや少数の特権ではなく、全人類の生活の不可欠の一部となる。〕
芸術は生命の最も高い表現であり、同時に生命の最も有力な武器である。芸術によって人類は自己の経験を整理し、感情を組織し、理想を形象化する。芸術は単なる装飾ではなく、人類の精神生活の核心に位置するものである。
第123節
【附】
【美学とは何か】
美学とは、評価に関する科学である。[16]人は三つの見地から、すなわち真・善・美の見地から、価値を判定する。一切のこれらの評価が一致する限りにおいてのみ、唯一にして全体の美学を語ることができる。しかしそれらは必ずしも常に一致するものではない。故に原則としては唯一の美学であり、その中から認識論と倫理学が派生する。
いかなる意義においてこれらの評価は一致するか、いかなる意義において不一致であるか、さらにこの他にいかなる評価が存在するか——これが本章で我々が研究すべき、当面の重要な問題である。
生物学の見地から見れば、評価は自然にただ一つしかあり得ない。生活を助長する一切は真であり善であり美であり、凡そ積極的・善的・魅惑的なものである。生活を破壊し低下させ制限するものは虚偽であり悪であり醜であり——凡そ消極的・悪的・反撥的なものである。
〔以下、ルナチャルスキーの美学理論の体系的展開。欲望と理性の闘争——直接的本能と抑制的観念の対立、理性を「経験豊かな老僕」に喩える議論。個と種の利益の対立——超個人的本能(母性本能・集団本能・愛国心)の意義、利己的理性の克服の必要性。「理想のための闘争——これこそ人類がこの道によってますます明瞭に自己の任務を自覚する、必要不可欠の内的闘争である」。暴君の例と、歴史に意味を見出せぬ者の対比。
美と正義の理想の一致について——美的生活は他の生活の破滅の代価を要し、狭隘な美学的見地は理想への門を閉ざす。最高の見地——全人類種族の最大の力と美の要求——のみが指導の線索を与える。「自由な民衆は無限に力強い美を創造する」。
認識論と美学の親和力——正しい思索は美学的原理に従い、形而上学は美学的評価に特に依存して認識を遊戯と化す。科学は同じ美学的原理に導かれつつ、事実との絶対的一致という条件を加える。
功利的評価の本質——一切の評価は本質において同一であり、生活の成長・衰退についての判断に帰結する。「有用なもの」は必ず誰かに有用でなければならず、実際には終極の目的——個人・近親・種の幸福との関係から観察される。
結論:現在においては美学的評価と科学的・社会的・道徳的評価を混同すべきではないが、本質において美学はこれらの領域を包括し、いずれ完全にこれを行うであろう。美学的・科学的・社会的評価以外に適用し得る評価としては功利的評価があるが、これも本質においては同一の基礎に帰する。発達の程度に応じて評価の規範の等級が進行し、低い個性が美と見做すものは、より高い段階では後方に退き、低い頭脳に近づき難い美が、より発達した者のために輝くであろう。〕
第124節
【小引】
これは三四年来に翻訳した文芸論説を雑然と集めた一冊の書である。知人に催促されて義理で訳したものもあれば、閑坐して無聊のあまり、自ら訳して気晴らしにしたものもある。今回まとめて刊行するにあたり、内容の選別は加えなかった。かつて新聞紙上に掲載されながらここに収められていないものがあるとすれば、それは自分が原稿か印刷物を紛失したためである。
書中の各論文は、各時代の各名作というわけでもない。外国の作品を少しでも翻訳しようとすれば、制約を受ける所が甚だ多い。まずは書物の問題で、大都市に住みながらも新刊書が極めて入手しがたい土地にあっては、見聞が広くなり得るはずもない。次に時間の問題で、多くの雑務のために毎日わずかな時間しか読書に割けない。その上、自分にはつねに難を避けて易きにつく心があり、作業が重く訳す際に骨が折れるとか、あるいは読者もおそらく難解で嫌がるだろうと予想されるものに出くわすと、放り出してしまった。
今回編み終えて見ると、わずか二十五篇で、かつて各種の定期刊行物に発表したものが三分の二を占める。著者は十人、ロシアのカイペル以外はみな日本人である。ここで彼らの事績を一々列挙するいとまはないが、一言だけ申し述べたい。そのうち島崎藤村、有島武郎、武者小路実篤の三氏のみが、創作にも従事している方々である。
配列について言えば、上述の三分の二のうち――西洋文芸思潮の紹介文字を除けば――主張を述べた文章はみな比較的古い論拠に依っており、『新時代と文芸』というこの新しい題目さえも、やはりこの流れに属している。ここ一年来、中国で「革命文学」の声に応じて興った多くの論文は、いまだこの古い殻を啄破できず、甚だしきは「文学は宣伝である」という梯子を踏んで唯心論の城塞に這い入ってしまった。これらの篇を読むことは、大いに鑑とすべきものがある。
後方の三分の一は、ようやく新興文芸に関わりがある。片上伸教授は死後にまた非難する者がだいぶ出たが、私はつねにその主張の堅実にして熱烈なるところを愛する。ここにさらに有島武郎との論争の一端を編入したので、本来の階級を固守する側と反対の側との二派の主意の所在を見ることができよう。末尾の一篇はただの紹介に過ぎず、当時三四種の訳本が前後して発表されたためにそのまま据え置いたが、今なお巻末に附する。
一時に翻訳したものではないため、現在では原書の大半がすでに手元になく、編纂・印刷にあたって一々復勘するすべもなかった。しかし誤りがあれば、もとより訳者の責任であり、弾劾を甘受し、決して異論は申さない。また、昨年「革命文学家」たちがこぞって私の個人的な瑣事を「宣伝」することに努めた際、私が論文集を一冊訳すつもりだと言ったことがある。あれは確かにこの一冊のことだが、全部が新訳というわけではなく、やはりかつて「縦横に発表した」ものが大多数を占めている。自分で見ても、どれほど精彩ある書かとは言いかねる。だが私はもともと世界ですでに定評ある傑作を訳してそれに不朽の名を附そうなどとは考えていない。もし読者がこの雑書の中から、紹介の文字については少しの参考を、主張の文字については少しの領会を得てくださるならば、心願は十分に満たされるのである。
表紙の図画も、書中の文章と同じく、日本の書物『先駆芸術叢書』から借りたもので、もとも表紙であり、署名がなく、誰の作か分からないが、ここに記して謝意を表する。
一千九百二十九年四月二十日、魯迅、上海にて校了し記す。
第125節
【思索の惰性 片山孤村】
物理学に惰性の法則があるように、精神界にも思索の惰性(Denktraegheit)という法則が行われている。いわゆる人間なるものは、もともと怠惰な存在であり、必要に迫られない限り安逸に耽ろうとする傾向が甚だ強い。加えて生存競争の激しいこの世にあっては、口腹のためだけでも十分に忙しく、思索する暇などなおさらない。故に一考すれば分かることでも永久に考えず、思索に長けた者から見れば至極明白な道理も、知らず知らずのうちに、結局分からぬまま過ぎ去ってしまう。世の幾多の迷信と謬見は、ここから生じ、精神文明の進歩に少なからぬ阻害を加えている。
聡明な頭脳の集まる文壇にも、この法則は行われている。殊に古人の格言や諺の中には、天も覆わんばかりの大嘘を吐いているものが少なくないが、歴来の膾炙、その人の権威、措辞の巧みさといった理由から、思索の惰性が生じ、このような嘘を真理として受け容れてしまうのである。また、一種の思想を発表しようとして、対句などの修辞法に迷い、覚えず真理を傷つけることもある。あるいは、著者自身がその思想が真理でないことを知りつつ、文章が見栄えよく出来たというだけで発表し、天下後世を欺くこともある。天才ならざる詩人、いたずらに奇警の句を弄んで虚名を博する文学者には、みなこの弊がある。人目を眩ます絢爛たる文章や、人を驚かす思想に対しては、注意深く考えてみるべきである。たとえば一つの警句がある。「詩は有声の画、画は無声の詩」と。これは数世紀来、文人墨客の間で金科玉律として引証されてきたのみならず、現今もなお思索を好まぬ人々の頭脳を支配している。しかし今を去ること約百四十年前、レッシング(G. E. Lessing)の『ラオコーン』(Laokoon)においてこの駢句の仮装が剥ぎ取られて以来、にわかに流行しなくなった。しかし、仮装を剥ぎ取ったこのレッシングの言論の中にも、今日となっては甚だ信じ難い箇所が露呈している。頼りにならぬのは川の流れと人の世の事である。この種の高明らしい言葉を述べている私自身も、あるいは非常な愚論を吐いているのかもしれぬ。神は偉大なる嘲笑家である。
現今、文明史と文芸批評に従事する人々の中には、文芸と国民性の関係を余りに重視するあまり、大抵、文芸は国民精神の反映であり、ダンテ(Dante Alighieri)、シェイクスピア(W. Shakespeare)、ゲーテ(J. W. Goethe)、シラー(Fr. Schiller)などの大文学者は殊にその国民の最も適切なる代表者であり、これらの大文学を研究しさえすれば、自ずとその国民の性格と理想が分かるのだと考えている。そして国民自身もまた、自国の光栄たるべき詩人や美術家およびその作品は自分たちの精神を体現していると信じ込み、一心に崇拝している。
この説は果たして妥当であるか。ここで研究してみたい。
そもそも、他人の心中を忖度することは容易なことではない。殊に困難を極めるのは、過去の国民の精神状態を推究することである。現今、輿論と称されるものは、果たしてある社会全体、あるいは少なくともその大部分の意見を代表しているであろうか。甚だ疑わしい。一国民の文芸も同様に、果たしてその国民の精神を代表しているであろうか。これも疑わしい。ドイツにおいても、一時、俗謡の長所すなわち真実敦厚の趣を重視するあまり、俗謡は一人の手に成ったものでなく、誰が作ったのでもなく、自然に成就したものだと考えるに至った。しかし、いわゆる国民文学は国民の産物であり国民固有の事業であるという説は、この俗謡は自然に成立したという主張と同じ謬りに陥ってはいないだろうか。なぜなら、文芸上の作品は個人の手に成るものであり、多数の国民はこれとは関係がないからである。しかも詩人や芸術家は個性が最も発達した天才であり、常人とは根本的に異なる精神を持ち、国民の精神的地平線上に截然と頭角を現す。このような天才が果たして国民と時代の代表者たるべき資格を具えているであろうか。私の意見によれば、国民の代表的類型はむしろ、地平線の上に出ることなき匹夫匹婦にこそ存する。ならば、文芸上、国民的精神を代表し、その反響と称し得る作品は、おおよそ文学史家や批評家先生に粗俗と罵られ、平凡と嘲られ、文学史の片隅にようやくその残喘を保つ小文学家の手に成るものであろう。たとえば現代の明治文学において、国民的(愛国的の意ではない)精神の代表、国民の声と称すべきものは、紅葉や露伴の作品ではなく、むしろ弦斎の『食道楽』であろう。この一書は、何ら高尚な精神的興味もなく、ただ口腹の欲を満たすことを至楽とし、人生に一片の意義も見出せぬ現代わが国民の唯物的傾向を、赤裸々に表現している。弦斎はこの一書をもって、一方では国民の俗尚に投じつつ、他方では国民の「下卑根性」を暴露して大いなる侮辱を与えたのである。「武士は食わねど高楊枝」のような貴族思想は、唯物的明治時代にあっては、すでに時代遅れのものとなっていた。弦斎の『食道楽』は、この時代の根性の勝利を表現する格好の象徴である。
反対に、高尚な芸術的作品は国民的性情の反響ではない。しかもこれを理解し得る者は、多少の天分と教育のある比較的少数の国民に限られる。このような文学が国民の歓迎を受けるには、若干の歳月を経なければならない。しかも同国民の産物である以上、若干の民族的類似を持たざるを得ない。この類似の点こそ、国民と芸術家の天分と理想の高低を平均するものである。その作品は国民の指導者、教育者であって、決して代表者ではない。故に、その作品が真に偉大な感化を国民に及ぼした時、国民はその陶冶を受け、次の時期にあっては、詩人や芸術家は比較的に国民的となる。しかし、偉大なる天才が完全に国民の精神を代表するということには、やはり疑問がある。しかもまさにこの点こそ、天才の個性人格が天才たる本領であり、永遠不朽の価値を有する所以である。なぜなら理想の天才は超然として時間の外に在るのであり、故に時代が天才を生むという類の話は大いに間違いの基であって、偉人の伝記などにおいて時代に重きを置き歴史的解釈を試みる者は、往々にして牽強付会に陥るのである。私のいう偉人とは、精神的文明の創造者のことであり、馬上の英雄や政治家のことではない。
さらに、「正義は最後に勝つ」というこの曖昧な言葉に代表される道徳的世界秩序、すなわち「善人は栄え悪人は滅ぶ」という思想は、歴史上の事実とは合致しない。文芸上の作品も同様で、優良なものだけが後世に伝わるとは限らない。ホメロス(Homeros)が数千年後にまで伝わるのは、多くの叙事詩の中で最優の地位を占めるからであり、シェイクスピアの不朽なるは、その内容に不朽の思想があるからだ——これらの議論は、西洋の文学史と明治文壇の批評家先生方から聞き飽きるほど聞かされてきた。しかし仔細に考えてみると、どうも疑わしい議論である。ギリシアの文明史一つ見ても、不朽の価値ある天才と作品で後世に伝わらなかったものは甚だ多い。伝わったものも、あるいは幾百分の一に過ぎなかったかもしれぬ。これほどわずかな材料をもって、ギリシアの文明がどうの、クラシックとはこうだのと縦論するのでは、ギリシアとしてもまことに恐縮の至りである。ましてや、過去の精神状態のごとき解釈の至難なるものを、二三句の修辞的文句で表現できると考えるのは、実に大胆の極みである。むしろニーチェ(Fr. Nietzsche)の『音楽精神からの悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragoedie)やランクベーン(J. Langbehn)の『教育者としてのレンブラント』(Rembrandt als Erzieher)のように、史実に拘泥せず、しかし史実を利用して、自家の胸中の塊を傾吐する方が、どれほど面白く、しかも有益であるか分からない。なぜなら、歴史的事実の正確であることは、必ずしも真理の保証とはならないからである。たとえば、史料編纂の先生方が、弁慶も児島高徳も虚構の人物であると証明したところで、国民の精神に何の損益もない。彼らは依然として不朽である。故に私は、お染と久松の方が、先代の関白や太政大臣よりもなお不朽であると信ずる。私はもとより歴史の価値を認める者であるが、この方面からむしろ非歴史的主義を提唱したいのである。
ブランデス(G. Brandes)の最近の論文集中の一篇によれば、ギリシア悲劇作家の文字で後世に伝わったものは約三百五十あるが、著作の残存する者はわずかに三人である。すなわちアイスキュロス(Aeschylos)、ソポクレス(Sophokles)、エウリピデス(Euripides)であり、しかもこれらの詩人の作品でも、残存するものは十分の一に足りない。叙情詩人(女)コリンナ(Korinna)はピンダロス(Pindaros)に五度も勝ったことがあるのに、残存する詩はつまらない断片に過ぎない。ローマの史家タキトゥス(Tacitus)の著作が今日まで残った理由は、皇帝タキトゥスが史家と同姓であったため、史家の子孫だと誤信して公共図書館にタキトゥスの著作を蒐集し、しかも毎年十部の写本を作らせたからだという。それにもかかわらず、十五世紀にドイツのヴェストファーレンの一精舎でその著作の残余が発見されなかったならば、伝わったものはさらに少なかったかもしれぬ。十六世紀に出版されたフランスの滑稽劇は、一八四〇年に隣国ベルリンの一屋根裏部屋の戸棚の中で発見されて初めて、このようなものがあったと知られたのである。有名な『ローランの歌』でさえ、一八三七年に初めて写本が発見され、八百年を経て世に出た。さらに甚だしい例としては、ギリシア・ローマの詩稿の羊皮紙が丈夫なために証文に都合がよく、詩句をわざわざ磨り消して借用書に使われたことさえある。同様の例は美術品にもかなり多い。レオナルド(Leonardo da Vinci)の『最後の晩餐』は最も有名なものである。
このような例を挙げればきりがないので、ここで打ち切る。すなわち、文芸上の不朽は決して確実なことではなく、大詩人と大傑作が後世に伝わるのは多くは偶然の結果であり、必ずしもその価値とは関わりがない。反対に、平々凡々たる作品が山のように後世に流伝することも少なくないのである。
またブランデス氏の言うところによれば、多数の図書文籍は、忘れ去られて消滅するのみならず、紙張の粗悪なために自然に朽腐してしまう。故にもし度々印行される書でなければ、鼠と黴を防ぎ得たとしても、自然に塵土と化す。しかし、これは人類の幸福である。さもなくば、我々は紙張の中に溺れ死ぬかもしれぬ。フランスの一国民図書館に納められるフランス出版の図書は、毎日六十部だという。しかし新聞雑誌はまだ含まれていない。一八九四年にパリで出た日刊紙は二千二百八十七種であった。およそこれらはすべて近世人類の日々の糧であり、しかも日々消え去るものである。いや、これはあまりに話がそれたが、もし我々が生存するこの地球も、我々の生存の根源たる太陽も、すべて有限の生命を持つものに過ぎないとするならば、不朽の事業もまた何物でもないのである。
総じて言えば、現下の文壇で粗枝大葉の抽象的議論や偏った西洋文明論を弄ぶ人々の中には、少なからぬ僻見がある。殊に「国民」「文学」「天才」「時代」等の関係については、失礼ながら、間々、子供に刃物を持たせるような危険な議論が為されている。何ら困難なことは元来何もないのに、思索の惰性に麻痺された結果、このようなことになるのである。なお、文明史、文学史、哲学史等の真相について——すなわちこれらは果たして人類の「精神史」たる実を有するか——この事についても試みに論じてみたかったが、今回はその余暇がないので、ここに擱筆する。
(一九〇五年作。『最近ドイツ文学の研究』より訳出。)
第126節
【自然主義の理論及び技巧 片山孤村】
目次:論文の目的—自然の意義—ルソーの自然主義—十九世紀の自然主義—フランス及びドイツの自然主義の区別—フランス自然主義の起源—ルソー—スタンダール—バルザック及びその主張—ゾラ及びその理論—バルザックとゾラの比較—自然主義の定義—自然主義の二種—教訓的自然主義—純芸的自然主義—ゴンクール日誌に見る純芸主義—唯美的世界観—デカダン派の意義—ドイツの自然主義—ホルツの徹底自然主義及びその技巧—その影響
文芸上の自然主義(Naturalismus)とは、自然の模倣を要求する主義であると言えば、一見明白で、説明の余地はないように思われる。しかし「自然」という語の解釈と、いかに自然を模倣するかの方法によって、自然主義の意義には多くの変化が生ずる。我が文壇でも多くの解釈が提出されてきたが、文芸上の自然主義を解釈するには、やはり文芸史を探究せねばならない。
「自然」という語には種々の意義が含まれている。しかし文芸上の自然主義という語においては、二つの意味しかない。第一は「人為」すなわち文明に対する自然。第二は現実(Wirklichkeit)すなわち感覚世界としての自然である。
第一の自然主義はルソー(J. J. Rousseau)に始まる。ルソーは著書『エミール一名教育論』の巻首に「造物主の手より出づる一切は善なれども、人手を経れば堕落す」という有名な言葉をもって文明の弊害を指摘した。
〔以下、片山孤村は十八世紀のルソーの自然主義から「疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドラング)」運動への影響、十九世紀のフランス写実派の系譜を辿る。スタンダールの心理小説、バルザックの『人間喜劇』——社会の情熱・道徳・罪悪の目録を編纂し風俗描写の鼻祖となったこと、ゾラの実験小説論と自然主義の理論、バルザックの類型的描写とゾラの個別的描写の比較。フローベール、ゴンクール兄弟の純芸術的自然主義について、ゴルトシュタインの論文を引用しつつ、唯物論的世界観と「芸術のための芸術」の関係、デカダン派の心理的特徴を分析する。〕
ドイツにおいて自然主義は、ルートヴィヒ、ヘッベル、フライターク等の時代から画然たる時期を形成していたが、フランス流の写実主義が流行したのは一八八〇年代から九〇年代の「疾風怒濤」運動の結果であった。
〔ホルツ(A. Holz)の「徹底自然主義」について詳述する。「芸術は自然への復帰の傾向を帯びる」というテーゼ、「各秒体(ゼクンデンシュティール)」の創始——各秒ごとに起こる事象を余すところなく叙述する手法、対話における「紙上の言語」への批判、感嘆詞・咳・喉音の描写の必要性、小説や戯曲における布局の廃止、自然音の模仿、独白の廃止、韻律の排斥など。ハウプトマン『日出前』への影響、ズーダーマン『ソドムの末路』における瑣末な事実の細叙の例を挙げる。〕
要するに、ドイツの自然主義はフランスに本づくが、これをより極端に、より精細にし、徹底して実行せずんばやまぬ傾向がある。「徹底自然主義」の名は最も恰当である。
自然主義の理論及び技巧の要点は、以上で大概説明できたものと思う。むろん、さらに審美的批判と歴史的説明を加え、この主義がどの程度まで行い得るか、理論と実行の関係はいかに、自然主義の将来はいかにといった諸問題に一々解決を与えねば、自然主義を完全に説明したとは言えない。しかしその範囲は余りに広大であり、他日を期するほかない。
(『最近ドイツ文学の研究』より訳出。)
第127節
【表現主義 片山孤村】
目次:表現主義の起源——表現主義の世界観及び人生観——精神と霊魂の推崇——表現主義の芸術観——造形美術上の印象主義から表現主義への転移——表現主義の美学的批評——運動及び衝動としての霊魂——文学上の表現主義——小説上の表現主義——病的現象としての表現主義——ドイツ表現派の文士
表現主義の運動は、早くもヨーロッパ大戦の初年に起こった。非戦主義、平和主義、人道主義、民主主義、国際主義の文士たちが、雑誌『行動』(Aktion)その他を借りて、戦争と当時の政治に対し絶対的否認の意見を発表し、さらに進んで戦争から喚起された人生問題を文芸作品に用いた時、政府は戦時検閲法に基づいて非戦論とこの一流の文芸を禁止した。そのためこの新文芸はしばらく沈黙を守るほかなく、数人の文士は原稿を中立国すなわちスイスに送った。当時スイスのチューリヒには、抒情詩人シケーレ(Rene Schikele)の編集する雑誌『白紙』(Die Weissen Blatter)が、その時代の危険思想家の巣窟となっており、同市の書肆ラッシャー社はまた『ヨーロッパ叢書』(Europaische Bucher)を刊行して、表現主義と非戦論を鼓吹していた。一九一八年、戦争の終結と革命を経て、これらもドイツ文壇に公然と出現し得るようになり、天下の若い文士たちもことごとくこの旗幟のもとに集まった。表現主義の雑誌は、上述の二種のほかに『新青年』(Neue Jugend)、『現代』(Der Jungste Tag)、『芸術報』(Kunstblatt)、『マルシュアス』(Marsyas)等があり、そのほか表現主義に属する創作や表現主義に関する評論も月ごとに現れ、かくしてこの主義は現時のドイツ文壇の興味、評論、流行の中心となった。
非戦論者は、戦争の背景たる物質文明、機械的世界観、唯物論、資本主義等に対する反抗である。積極的に言えば、精神と霊魂の力の高唱であり、自我、個性、主観の尊重である。表現主義を論じた『演劇界の無政府状態』(Anarchie im Drama)の著者ディーボルト(Bernhard Diebold)が、この思想を最も明瞭に述べている。彼は言う——
「『精神』(Geist)という言葉と『霊魂』(Seele)という言葉は、現代の教養ある人々の日常用語においては、ほとんど同義語になっている。しかしこれは不思議ではない。なぜならば今日まで、精神はほとんど『知性』(Intellektualitat)という下等な形式の中でのみ活動してきたからである。知性とは、観念を持たない頭脳の作用、すなわち精神なき精神である。そして霊魂はまったく失われ、日常生活の機械的運転の中で、産業戦争の中で、強制国家の中で、まったく無価値なものとなった。各人はトラスト化された収益機関の歯車か螺子釘である。組織狂が個性を均一にする。事務室、工場、国家の人々はただの番号に過ぎない。善であるか悪であるかは問題にならず、重んじられるのはただ頭脳と筋肉の力のみである。英米式の'Time is money'と貪欲者の投機心が教育を支配した。古代の善美の倫理は文明人に美と徳を要求し、中世は敬神と武勇を要求し、古典主義は人道を要求した。しかし現今の人間が社会生活において評価の基準とするものは、ただ産業戦争に最も有力な武器たる知力のみである。……」
「科学は顕微鏡によって、実験心理学は分析によって、自然派の劇作家は性格と環境の描写によって、人物を研究しあるいは構成するが、これは'人間'と呼ばれる機械であって、霊魂を帯びていない。かくして機械的文化時代の学者と詩人の間では、霊魂の観念はまったく失われ、精神と霊魂とは混同され、同視されるに至った。」
「精神は外延的に万有の極限に及び、認識し得る事物を批判し、形而上学的なものを形成し、一切を配列して知識とする。その最も人間的なものは倫理感情(Ethos)であり、これと同じく勝利に向かう道徳的自由の意志である。」
「霊魂は内包的に我々の心情の最も暗い神秘に及び、肉体と密接な結合をなし、玄妙にこれを駆使する。感情の盲目のゆえに霊魂は認識し得ないが、無数の本能をもって愛と憎を弁別する。霊魂は観察し、歌い——一切の人間の心を透視し、良心の最も深い声と世界の主宰者の最も高い声を聴く。霊魂の最も貴いものは愛を本とする献身であり、その最後の救済は神と万有への融合である。……」
「霊魂は道徳上の法則(戒律)とその生活を脅かす律法を厭い、意思の意識性を卑しむが、芸術家が与える精神的形式の鋳造には、従順に待っている。精神は霊魂がその鼓動する心を納める理想の肉体を形成する。」
「立体主義と建築術と歩法(音楽の形式)、古典派と形式とガリレオ哲学の存在(Sein)、能動的信仰と倫理感情と意志——およそこれらは大抵精神に出ずるものである。」
「表現主義と抒情的叫声と旋律と融解する色彩、ロマン派と表現とヘラクレイトス哲学の生成(Werden)、聖者崇拝、愛のための献身——およそこれらは大抵霊魂に出ずるものである。」
書き方があまりに抽象的であるが、ディーボルトの精神と霊魂の区別の意味は、読者にもおおよそ理解されたであろう。ただし表現派の論客や作家が、必ずしも精神と霊魂の区別を持っているとは限らない。それどころか、理性と知性、恋愛と色情、感情と感覚の区別さえ没却して、色情と獣性を好んで駆使する作家さえいる(劇作家カイザー、ハーゼンクレーファー等、また色情の発動とその苦悩を歌う若い抒情詩人などが特にそうである)。しかし要するに、心霊、精神、自我、主観、内界等を漠然と推崇することは全体として一致している。曰く、「真に人類を形成したものは何か。ただ精神のみである。」曰く、「ただ精神のみに主宰の力がある。」曰く、「ただ万能の精神こそ、いかに言おうとも、主宰者である。」曰く、「霊魂と機械との戦い。」曰く、「超絶者の啓示。」精神の超絶性を陳述する者もあれば、フィヒテ流の自我絶対説を称道する者もある。これらの言説の中に、各種の哲学的概念や心理学的知識の誤解、混同、生半可な理解が少なくないことは当然であろうが、大体の傾向として言えば、ドイツ哲学の唯心論(Idealismus)にかなり類似していると言って差し支えないようである。この点において、表現派の世界観は一世紀前のロマン派の世界観の復活である。そのため彼らの中には、神秘教、降神術、Occultismus(心霊教)に流れる者もいる。そして近代心理学の発見した潜在意識の奇怪さ、精神病的現象、性および色情の変態等は、とりわけ表現派の作家が窺い伺う題材である。またニーチェとベルクソンの影響は、現実を運動、生成、生々化化と解し、これを表現しようとする努力に現れている。流水を描けば河畔の樹木も家屋もみな歪み、あるいは今にも倒れそうな市街を描くなどは、いずれもこの見解から来ている。かくしてまた舞踊術の尊重ともなった。カンディンスキー(W. Kandinsky)は「運動の全意義を表現するには、舞踊こそ唯一の手段である」と言っている。
表現派は当初から非戦論、平和主義、国際主義を提唱したのであるから、その中に多くの民主主義者や社会主義者がいることは言うまでもない。若い文士の間で表現主義の先駆者と仰がれるハインリヒ・マン(Heinrich Mann)と風刺家シュテルンハイム(Sternheim)の反資本主義、反ブルジョア主義はその中で最も顕著なものである。しかし文芸の士には非社会的、個人主義的傾向が顕著な場合も多い。マンとシュテルンハイムはブルジョアジーを蛇蝎のごとく憎んだが、彼らは必ずしも社会主義者であるとは限らない。マンなどは、むしろ個人主義者、唯美派、頽廃派と呼ぶ方が適切かもしれない。雑誌『マルシュアス』のごときは「社会的な事物への熱烈な敵意」を宣伝し、新芸術の公衆はただ個人のみであると主張して、孤独主義(Solipsismus)を唱道するに至っている。
以上は表現派の世界観、人生観、社会観の一斑である。さらにこれを進めて、彼らの芸術論についても略述したい。
表現主義(Expressionismus)とは、もともと後期印象派以降の造形美術、とりわけ絵画の傾向の総称であった。この派の画家は自然主義あるいは印象主義(Impressionismus)に反対し、自然や印象の再現に甘んじず、自然や印象を借りて自己の内界を表現しようとし、あるいは自然の「精神」を表現することに自然の形相以上の重きを置こうとした。しかし後には自然が芸術を妨害すると考え、自然の模倣は芸術の屈服と滅亡であるとし、ついには『印象主義と表現主義』の著者ランベルゲル教授が述べたように、自然の再現(または描写)は芸術家にその内的衝動に従わせず外界すなわち自然に屈従させるものであり、本来独裁君主であるべき芸術家を奴隷の位置に置くものだと言うに至った。一切の自然模倣を投げ捨てよ、空間の錯覚を生む遠近法を投げ捨てよ、芸術にこのような欺瞞は不要である。芸術の真は外界との一致ではなく芸術家の内界との一致であり、「芸術は表現であって再現ではない」(Kunst ist Gabe, nicht Wiedergabe)のだと。印象派の画家は自然から与えられた印象に全心を委ねたが、表現派の画家は内界表現の意志を遂行するために自然と戦い、これを屈服させ、あるいは自然を打ち砕いてその破片を自己の芸術品に組み立てる。印象派の画家にも自然の素材を取捨選択する自由は当然あったが、表現派の画家はさらに進んで自然を変形し改造する。未来派(Futurismus)や立体派(Cubismus)のように、自然の物体を割断したり幾何学的図形の中に嵌め込んだりもする。
この表現意志に基づく自然物体の変形と改造は、中世の宗教芸術、日本の絵画(表現派の始祖と称されるゴッホもまた日本の版画の愛好者であり、そこから学んだものは少なくない)、東洋人とりわけエジプト人や未開人の創作物に見ることができ、子供の天真爛漫な絵画や手工品においてはなおさら顕著である。しかしこれらの古代芸術や原始芸術の作品における自然物体の改造や自然との不一致は、無意識的、あるいは幼稚、あるいは写実技術の欠如すなわち技巧上の無能力によるものである。それに対して近代の画家は意識的であり故意である。この故意が故意と感じられず、鑑賞者が我を忘れて引き込まれ、創作者の表現しようとした精神を感得した時に、完全な表現主義の芸術が初めて成就する。芸術がもし自然の写真でないとすれば、故意であれ無意であれ、自然の改造や変形は免れない。そして一切の芸術が芸術家の内界の表現であるということも真理である。しかし内界すなわち無形の精神は、外界すなわち有形の物体を借りてはじめて認識されあるいは感得されるのであるから、有形の物体の変形や改造にもおのずと限度がある。もしそれが芸術上・技巧上の無能力を隠蔽する口実にされるような自然の変形や改造であるならば、すでに芸術の拘束を脱してしまったと言ってもよかろう。
次に——最も肝要なことは、表現派が彼らの表現しようとする「精神」(心霊、霊魂、万有の本体、核心)を運動、躍進、突進、衝動と解釈していることである(前述参照)。「精神」は地中の火のように、隙間さえあれば爆発しようとする。一たび爆発すれば地殻を粉砕し、石を飛ばし泥を噴く。表現派の作品が爆発的、突進的、跳動的、鋭角的、奇形的であって、人に不調和の感を与えるのはこのためである。自然物体の変形と改造——真の芸術的・表現的衝動を持つ芸術家にとっては、やむを得ない内心の要求なのである。
文壇における表現派の主張と傾向は、言うまでもなく美術界の主張と傾向を移植したものである。文壇の表現主義者たちは、画家が色彩をもって為そうとすることを、言語をもって為そうとした。彼らは自然派・印象派とは正反対の極端な主観主義者である。彼らは「客観的価値を求める一切を除去する。形式とは表現の自然的態度に過ぎない。そしてこの表現とは、客観的外界における最も内なるもの(主観)の必然的映写にほかならず、主観的法則に従って成長する有機体の活動の表面であり、灼熱の核心から出る温かく生ある気息であり、Protuberanz(皆既日食時の縁の紅光)である。」「ただ感情の恍惚(Ekstase)のみが、ただ自身の心霊に作用する飛躍力の反動のみが、新しい芸術を造る。」「詩の職務は、現実をその現象の輪郭から脱走させること、現実を克服することにある。しかしこれは現実の手段をもってするのでも、現実を回避するのでもなく、いっそう熱烈に現実を抱擁し、精神の貫徹力と流動性と解明への憧憬によって、感情の強烈さと爆発力によって、これを征服し制馭するのである。」主観を崇び現実を軽んじる点で、表現主義は新ロマン派に似ているが、新ロマン派が自然を避けるのとは異なり、表現主義は現実への闘争、現実の克服・圧服・解体・変形・改造である。表現派はまた象徴を排斥する。彼らは「奇妙な紋様」のような象徴よりも、いっそう強烈で深刻で、詩的効力を持つ簡潔・直截・濃厚な言語を探求している。これも新ロマン派の傾向の一つである象徴主義とは異なる点である。このような主観的状態、感情の爆発、狂喜、恍惚を表現する言語であるからには、言語の論理と文法を破壊し(多くの表現派の抒情詩やシュテルンハイムの文章では冠詞が省かれている)、ついには音節のない叫び声、子供の片言や吃音(雑誌『行動』には吃音派〔Stammler〕の詩人がいた)の類をもって、最も直截・最も完全な主観の表現とするのも、自然の勢いである。このような主張を持つ一派に、ダダイスム(Dadaismus)がある。その運動も戦争勃発の時期に起源し、宣言を発し年報を刊行し、クラブを設けて盛んに宣伝したが、私はまだその内容を詳しく知らないので、ここでは述べない。ただ真面目な芸術的表現主義者はダダイスムを拒斥しているが、これは不徹底であり矛盾である。要するに表現派の表現手段すなわち言語が陥りやすい弊害は、ある批評家の言う通り、誇張癖、「極端癖」(Manierismus des Extremen)である。実際彼らの文章はあまりに強烈であまりに濃厚であり、少なくとも我々外国人にとっては非常に理解し難い部分がある。
恍惚の表現は大抵抒情詩の領域であるが、表現主義の小説上の立脚点はいかなるものであろうか。この事について、フートナーの論文の一節を訳載しよう——
「一九〇〇年頃の小説家たちは、叙述と描写を自己目的としていたが、新時代の小説家の芸術には常に一つの目標がある。この目標はかつてのように芸術(l'art pour l'art)ではなく、生活(Leben)であり、存在の意義に関わる永遠の認識に向かって進もうとするのである。文学は人生に干渉しようとする、すなわち人生の形成に影響を与えようとするのである。」
「旧来の小説家はその著作によって興味と娯楽を与えようとしたが、新しい小説家は感動を与え、しかも向上させようとする。前者は外的現実を描写し、後者は実在を改造して高尚な現実を完成する。」
「自然派と写実派は人間の機制を暴露し、それを発動させる諸原動力すなわち刺激と神経と血を探究するために、人間を解剖する。彼らは心理研究に従事し、心理学の参考資料を提供する。彼らの示すところは、人間を環境すなわち特殊な境遇と国民的風土の奴隷としてのものである。しかし彼らは実在を与えられた、動かし得ない、克服し得ないものとして解釈する。彼らの著作は現実の描写であり、世界の映像である。」
「新しい詩人は人間を著作の中心に置く。ヴェルフェル(Werfel)は大声で叫ぶ、'世界は人間から始まる!'と。しかし新しい作家が与えようとするのは心理学ではなくまさに心である。心霊の秘密を暴こうとするのではなく、心霊の発展を目的とする。彼らは個人の受動的状態を叙述するのではなく、人間を行動させる。自然派において人間は芸術の客体であったが、表現派においては主体である。すなわち人間は行動し、現実に反抗し、現実と戦闘する。」「人間は被造物ではなく、創造者である。」
「以前の小説や物語の精神はただ様式(作風)にあったが、現在の創作の精神は詩人の主義と信仰にある。現代の新進作家のこの思想は、戦争の困難な時代に、苦悩の中で成熟した。これは霊魂の力への信仰である。しかも(一切の惨虐な経験にもかかわらず)仁愛の宗教、地上の楽園、人間の神性への信仰である。」
この人道主義、および文芸の領域を踏み越えて実行に移ろうとする傾向は「行動主義」(Aktivismus, Aktualismus)と呼ばれ、表現主義の顕著な特色の一つである。この人道主義、活動主義、超物質主義、心霊主義に基づいて、表現主義の教育上の価値の大きさを論じる者もいる。最近届いた日刊紙には、表現主義を地理学上に応用する効果を主張するある書物の書評まで載っていた。
表現主義のドイツ文壇および一般思想界における勢力は、今やまさに燎原の火のごとくである。表現派の詩歌、絵画、彫刻、音楽が至るところ人目を驚かしている。美術、とりわけ絵画上の表現主義は、すでに教養ある人々に理解され鑑賞されていると聞くが、雑草の多い文壇においてはまだ必ずしも徹底していない。将来の大文芸は必ず表現主義の原野に実を結ぶであろうと言う者がある一方、表現主義はすでに没落の時を迎えつつあると見る者もいる。さらに一つの顕著な見解として、表現主義を病的現象と見なすものがある。有名なスイス・チューリヒの精神分析学者プフィスター博士(Dr. O. Pfister)は、著書『表現派絵画の心理学的・生物学的根底』において、自ら主治医として担当した鬱病の患者すなわちある著名な表現派画家の精神分析を叙述した。そしてその結果に基づいて、表現主義を精神上・芸術上の病的現象と断定した。この患者の治療中に何度か絵を描かせたが、まったく子供の落書きのようであった。各部分を詳細に検査し、徹底的に精神分析を行った後に初めて分かったことは、どの一枚の絵にも意味が含まれており、一つの心的状態を表現する表現主義的作品であったということである。描かれた人物はことごとく歪み、惨酷で、四分五裂し、悲惨、残忍、鬱々、凄愴の表情を示していた。その大半は彼の愛妻の肖像であった。患者は主治医の肖像も描いたが、その四分五裂ぶりも同様であった。しかも極めて奇怪な自画像をも描いた。「傑作」「恐るべき深遠さ」と批評した。患者の自述によれば、彼は非常な逆境にあり、前途はまったく絶望的で、愛妻に棄てられ、人々に憎まれ、あらゆる悪意と暴力に迫害され、すべての悪戦苦闘で傷つき苦しんでいた。それにもかかわらず、「彼の真の自我に等しい一つの理想」に対しては、熱烈な憧憬と愉快な希望を抱いていた。すなわち、彼は絵画によってこの傷だらけの心的状態を表現し、いくらか自らを慰めようとしたのである。プフィスターはさらに他の類似点を集め、これを帰納して一つの断案を得た。それは次のようなものである——極端な表現主義の真髄は、芸術によってその心的状態を描写することである。しかしあらゆる芸術家、とりわけ表現派の芸術家は苦悩する人々であり、大抵は家族、社会、国家等と衝突し、現実界に立っていられなくなった人々である。芸術家はこの苦悩から逃れようとするが、その手段はさしあたり逆行(Regression)である。逆行とは以前の発展状態に戻ることである。例えば難しい計算を間違えた人が最初からやり直すようなものである。およそ精神的に行き詰まった人が再び前進しようとする時は、必ずこの逆行の過程を経て、大抵また幼児の状態に帰る。この逆行が精神病者のそれと異なるのは、病者は永久に幼児の状態にとどまるが、こちらはその逆で、ある地点への復帰を果たせば回復期に入り、前進(Progression)が再び始まるのである。「苦しい経験から得られた、外界に押し退けられた認識の主体は、自己の内部に逃げ込み、自らを世界創造者の位置に置く。表現派芸術家の異常な自尊心は自負ではなく、心理的に深い根底を持つ体験であり、現実界から駆逐されて孤独となった人格の崩壊を防ぐ必要な手段でもある。」今にも倒れそうな家を描く芸術家の霊魂もまた、今にも倒壊しそうな状態にあるのである。
以上はプフィスターの見解のほんの一斑に過ぎないが、これをもって表現主義の文芸上の現象の全部を説明しようとするのは、あまりに大胆であり大袈裟に過ぎる。そもそも精神病学者はロンブローゾ、メビウスらの頃から、異常な精神現象をただ病理学的にのみ解釈する傾向があり、プフィスターもこの例に漏れない。おそらくプフィスターは芸術の理想がただ自然の忠実な模倣あるいは自然の真(Naturwahrheit)にのみあると考えているのであろう。表現主義の精神を体現する中世の宗教的芸術品や日本画に対しても、彼は病的現象をもって解釈するのであろうか。それはさておき、ただ彼が表現主義を精神的逆行の現象と見たことは、興味深くかつ適切な見解である。表現主義者たちは近代の物質的文化とそこから生じた芸術をすでに行き詰まり、すでに破産したものと見なしているのであるから、彼らは背を向けて、文化と芸術の本源たる精神と霊魂に向かって逆行し、この本源を出発点として、さらに新しい方向に前進しようとする。新たな種蒔きであり、世界の再建、改造、革命である。十八世紀および十九世紀の文芸革新運動が「自然に帰れ」と叫んだように、彼らは「霊魂に帰れ」と叫ぶシュテュルマー・ウント・ドレンガー(疾風怒濤者)なのである。この意味を理解してこそ、表現主義の文芸史上の意義が明らかになるのである。
ドイツ文壇における表現派の文士は非常に多く、新進文士のほとんど全員が表現派であると言ってもよいほどである。抒情詩ではシケーレ、ヴェルフェル、ベッヒャー(Becher)、エーレンシュタイン(Ehrenstein)、ヴォルフェンシュタイン(Wolfenstein)、クラーブント(Klabund)等。劇作ではハーゼンクレーファー(Hasenclever)とゲオルク・カイザー(Georg Kaiser)の二人が巨擘である。いずれも才気横溢たる少壮詩人で、この数年間に十指に余る著作を発表している。近時ではフリッツ・フォン・ウンルー(Fritz von Unruh)の才が世に知られ、その名声は老カール・ハウプトマン(Karl Hauptmann)をも凌ぐと聞く。このほかシュテルンハイム、ヨースト(Johst)、コルンフェルト(Kornfeld)、および戦死して世に才を惜しまれたゾルゲ(Sorge)等がいる。小説ではエートシュミット(Edschmid)、カフカ(Kafka)、ヴァルザー(Walser)等がいる。中でもエートシュミットの『瑪瑙の球』(Die achatenen Kugeln)は非常に有名であり、彼の表現主義に関する論文集も文壇に重んじられている。このほか新詩人の輩出はほとんど応接に暇がなく、表現主義を論じるにはまだいささか時期が早いのではないかとさえ思わせるほどである。今はしばらく形勢の推移を見守り、改めて徹底的な研究を行うことにしよう。
(『現代のドイツ文化及び文芸』より訳出。)
第128節
【小説の閲覧と選択 ラファエル・ケーベル】
【上】
私が最良の小説とは何と考えるか、また小説の閲覧にはすべて奨励すべき性質があるか、これがあなたの知りたいところであろう。
西洋の諸国民には、いずれも莫大な小説文学があり、優秀な作品にも富んでいる。故にあなたの問いに答えるには、多くの紙幅を費やさねばなるまい。しかし私は必ず多くの価値ある作品を遺漏するに違いない。——比較的古い時代の小説——十七、八世紀の——についてはここでは一切省略する。あなたはおそらくこれらの小説を読むことはないであろうから。もっともグリンメルスハウゼンの『阿呆物語(ジンプリツィシムス)』の風俗描写や、ウーラントの卓抜な「ギリシア的」小説などは、あなたの興味を引くかもしれないと私は思うが。ここでは近世のもののみを述べよう。
厳格な道学者やいわゆる「教育家」「学者」の中には、小説というもの、とりわけ近代の「風俗小説」に対して一種の偏見を抱き、この種の書物の閲覧を時間の浪費、また道徳的腐敗の原因として完全に排斥しようとする者が、実に少なくない。時間の浪費——確かに、そう言えなくもない。なぜなら人生には、小説を読むよりも善くかつ重要な仕事があるからである。しかし別の面から見れば、おそらくこれは称揚に値することでもあろう。考えてみれば、少年たちが人生でより有用かつ有価値な多くの事柄を、学校で教わるよりも、良い小説から学んだことは少なくないのではないか。——自分の教科書よりもスコット、ブルワー、デュマの小説に遥かに精通していた不勉強な生徒を、私は少なからず知っている。——これを言う私自身、十五、六歳の時にはまさにそのような一人であった。しかし小説を読んだために道徳的に堕落した青年を、私は一人も見たことがない。「近代の」風俗を描写した作品を読んで、公正な、まだ道徳的に腐敗していない読者が受ける影響は、単に「健全」(Heilsam)であるほかはないと私は感じる。
〔以下、ケーベル博士は歴史小説と風俗小説の分類、ドイツ・フランス・ロシアの代表的作家について詳述する。トルストイの『クロイツェル・ソナタ』『復活』、ゾラの『ルーゴン家』、モーパッサンの『ベラミ』を読んで恐怖と心の浄化を感じたこと、都デの『ナバブ』やフローベールの『ボヴァリー夫人』を真の芸術的作品として推薦すること、歴史小説ではシェッフェルの『エッケハルト』、マイヤーの歴史譚、ダーンの『ローマ争奪戦』、メレジュコーフスキイの『群神の復活』等を論じる。また「時代小説」という名称の不適切さ、「教授小説」への批判、歴史的文学の定義を広く取るべきことなどを述べる。〕
【下】
スコットからブルワーに至る小説については、今更あなたに推薦する必要もあるまい。この種の小説においてスコットはなお長く巨匠と称されるであろうし、ブルワーの『ポンペイ最後の日』はキングズリーの『ヒュパティア』、メレジュコーフスキイの『群神の死』、シェンキェーヴィチの『クォ・ヴァディス』等、キリスト教と異教文化の対立と戦いを叙述するあらゆる近代小説の原型となった。
〔ケーベル博士はさらにダーン、テイラー(ハウスラート)、エーバース、フライターク等の「教授小説」について論じ、良い歴史文学と近代の風俗小説が最上の休養と娯楽であること、自らの愛読書三十種に一切の要求が満たされることを述べる。詩人の構想力が自己の経験よりも広大で豊かな世界を開くこと、そのために旅行や社交を嫌うこと等を語る。〕
ケーベル博士(Dr. Raphael Koeber)はロシア籍のゲルマン人であるが、著作中では自らドイツ人と称している。日本の東京帝国大学に長年講師を務め、退職の際に学生たちが記念として著作集を刊行し、『小品』(Kleine Schriften)と名づけた。その中に『問と答』の一篇があり、種々の人々からの質問に対する回答である。これはまたその中の一節で、小題目は『小説の閲覧について、私が最良と考える小説』である。彼の意見の根底は古典的、避世的であるが、極めて的確で核心を突くところがあり、中国の自ら新しいと称する学者たちよりもはるかに新しい。今、深田、久保両氏の訳本より訳出し、青年の参考に供す。
一九二五年十月十二日、訳者附記。
第129節
【浅草より 島崎藤村】
【ルソー「告白」の中に発見した自己】
『大阪毎日新聞』が青年の読むべき書というテーマで、私のところへ返答を求めにきた。その時、私はルソーの『告白』を挙げて答えたが、これは自分の経験から来た返答である。私が初めてルソーの書を見たのは、二十三歳の夏のことであった。
その時、私はちょうど種々の困苦に遭っている時で、心境も暗澹たるものであった。たまたまルソーの書を得て、熱心に読み進むと、今まで意識されなかった「自己」が、それによって引き出されたように感じた。以前から外国の文学を好み、様々に渉猟していたが、私の目を開いてくれた書物は何かと問われれば、それは日頃愛読していた戯曲、小説や詩歌の類ではなく、このルソーの書であった。むろん、この時は心が揺れ動き、年齢も若すぎて、『告白』を完全に読み通したとは言えない。しかし朧気ながら、この書から、近代人の思想の方法について何か会得したかのように感じ、自然を直接に観察する教訓を受け、自分の歩むべき道もいくらか分かった。ルソーの生涯は、その後永久に私の脳裏に刻まれ、種々の煩悶、困難に対峙する時、私はいつもこれを頼みに勇気を奮い起こした。もし私がどうして古典派の芸術と近世文学の違いを理解したかと問われるなら、その頃多くの青年が愛読したゲーテやハイネによってというよりも、私はルソーの導きによってであった。換言すれば、ゲーテやハイネの文学を賞味することも、なおルソーの教えに負うところがあった。これはずっと以前の話である。後にゲーテやハイネを閉じて、フランスのフローベール、モーパッサン、ロシアのツルゲーネフ、トルストイなどを繙くようになった。私個人について言えば、煩悶の結果であった。ゲーテのいわゆる「芸術の国」から手を離し、再びルソーに帰った。そしてまたルソーから出発した。聞くところでは、『ボヴァリー夫人』の文章はルソーの『告白』の感化をかなり受けているという。しかし私が思うに、フローベールとモーパッサンが、ゾラのような解剖に走らず、ルソーの煩悶を受け継いでいるところこそ興味深い。さらに深い根底から言えば、フランスの小説は一概に「芸術的」と評することはできないのである。
ルソーの自然に対する思想は、今日から見れば、論難すべき余地がある。私ももちろんそう思う。しかし、真に束縛を離れて「人生」を観ようとする精神の旺盛さ、そして一生を通じてこの営みを継続したことは、私をして忘れしめない。ちょうど枝葉にわたる研究においては後の科学者に及ばず、また種の起源、生存の理、遺伝説の中に多くの矛盾を含みながらも、我々がダーウィンの研究の精神に感動するのと同じである。
ルソーの興味深い点は、何か文学者、哲学者、あるいは教育家といった専門家を以て自任しないところにある。ただ一個の「人」として進んだところにある。一生を通じて煩悶を続けたところにある。ルソーは人の一生に向かって革命を起こした。その結果、新しい文学者、教育家、法学者が生まれた。ルソーは「自由に思索する人々」の父であり、近代人の種子はここに胚胎した。この「自由に思索する人々」の中から、単に文学哲学等の専門家のみならず、実に様々な人間が生まれた。例えばトルストイ、クロポトキンのような人々の歩んだ道は、私はルソーが切り拓いたものと考える。人は分業的な名義に縛られすぎず、自由に考え、自由に書き、自由に為すこと、これは誠に意義深い。このような境地に生きる青年が、今の日本にも、もう少し多くあってよいと私は思う。
ルソーの『告白』を読んでも、いわゆる英雄豪傑の伝記を読む感はない。彼の『告白』は、我々と同じく、失望もし、怯みもする弱い人間の一生の記録である。多くの名人の中にあって、彼はまるで最も我々に近い叔父のように感じられる。彼の一生にも、到達し得ない修養は見当たらない。我々が彼の『告白』を繙けば、到る処に自己を発見できるのである。
【】
【青年の書】
青年は老人の書を閉じて、まず青年の書を読むべきである。
【新生】
新生、口にするのは容易い。しかし誰が容易く「新生」を得られると思うのか。北村透谷君は「心機妙変」を語った人であるが、その後は悲惨な死であった。「新生」がすべて光明であると思う者は、誤っている。多くの場合、それは暗黒であり、惨澹たるものである。
【ミレーの言葉】
「多くを知り、多くを忘れなければ、佳作を得ることは難しい。」これはミレーの言葉である。実に至言である。ミレーの絵画に示された素朴と自在は、決して偶然に達し得るものではないと私は考える。
【単純の心】
私は常に単純の心を保ちたい。そしてこの複雑な人の世を深く味わいたい。古代の修士が粗末な衣を纏い、世の煩累を捨て、家を離れ、妻子を離れ、茅庵で寂寞の生涯を送ったのも、畢竟この単純の心を保ち、ひたすら道を求めんがためであろう。この人の世が、修士の目から見れば、寂寞の庵に至らねばならぬほど複雑に感じられたからであろう。雑然たる現今の時代にあって、単純の心を保つことは実に難い。
【一日】
ユーモアのない一日は、極めて寂寞な一日である。
【憐れむべき者】
思うに、憐れむべき者は、自ら知ることなき一生に過ぐるものはない。芭蕉門下の詩人許六は、其角を痛罵し、その詩句を改作しようとまでした。しかし彼は自分の改めた句が原句に及ばぬことを、ついに知らなかったのである。
【言語】
言語は思想であり、行為であり、また符牒である。
【専門家】
人は専門家になるために生まれたのではない。専門を定めるのは、大抵は衣食を求める必要による。
【涙と汗】
涙は悲哀を癒し、汗は煩悶を治す。涙は人生の慰藉、汗は人生の報酬。
【イプセンの足跡】
イプセンは「懐疑の詩人」と称されるが、晩年に至るまで人生の研究者としての態度を続けたことは驚くべきである。彼は煩悶を投げ捨てもせず、無思想の生活に逃げ込みもせず、にもかかわらずモーパッサンやニーチェのような狂人にはならなかった。暗澹たる雪の中に足跡を印し、深く深く歩み去るボルクマンのように。イプセンの戯曲は、すべて世に印された彼の足跡である。
近頃たまたま『帝国文学』にて栗原君が紹介したイェイツの『象徴論』を見た。その中にウィリアム・ブレイクの言葉が引かれている。「幻想あるいは想像は、真に永久不変に実在するものの表現である。寓言あるいは諷喩は、記憶の力によって形成されたものに過ぎない。」ブレイクのこの言葉を見て、私はイプセンの『ロスメルスホルム』を思い出した。あの幽霊のような白馬も、久しい疑問であったが、その時いくらか理解できたように思った。
イプセンを一間の部屋に喩えた女優がいると聞き、また窓に喩えた批評家もいるという。しかし我々には、巨大な建築物のように感じられる。幾つもの大きな部屋を通り抜け、終わりかと思えば、まだ扉がある。扉を開ければ、まだ部屋がある。三階もあれば四階もあり、あの建築家ソルネスが自ら建て、そこから墜落して死んだような高い塔もある。
イプセンの肖像は書物の中に挿まれ、雑誌にもよく載っている。しかしイプセンの髪と目は、果たしてあの肖像に見える通りの人であったのか。トルストイにせよルソーにせよ、もう少し親しみやすい。これは私には到底推し量りようがない。
【批評】
批評のことを考えるたびに、私はラスキンを思い出す。ラスキンが批評しようとしたのは、単にターナーの風景画ではなかった。彼はターナーの心が描こうとしたものを批評したのだ。
今まで戯劇を批評する者は、ただ舞台を見て批評してきた。いわゆる劇評家を生んだ。このような批評は、もはや退屈なものとなった。今後の劇評は、おそらく舞台以外のものを見た批評でなければなるまい。もし新しい俳優が現れるならば、新しい劇評家も出てくるであろう。しかもまた、新しい俳優と同じように努力するであろう。
文学の批評が、もし単に書籍から得たことだけであるならば、意味がない。実のところ、正確な判断は書籍だけからは得られない。創作に従事する者の態度がそこに日に日に変化してゆくように、批評家の態度もまた変わるべきである。
【秋の歌】
今年の六月は、どこへも旅行に出ず、この路地の中で、深い秋の空気に浸った。
これは十月末のことである。ある所で友人たちと集い、一日閑談した。この二階の障子の開いた所から、乱雑な建物の屋根と近くの木々の梢の向こうに、沈静な街の空に屹立する一本の銀杏が見えた。私は座して、葉をすでにすべて落とした、大きな箒のような暗い幹と枝の全体が、次第に暮色に包まれてゆくのを眺めた。一日ごとに深まる秋を、身に深く感じた。家にいる時も、時おり息苦しいほどの静けさの中で、夕暮れを過ごすことがあった。そんな時、家の内も外も、灯火がともり始めると、いつも小路の中に住んでいるかのような心地がした。
夕暮れの窓に向かい、近頃愛読するボードレールの詩をしばし口ずさむ。自らの心を灼熱にして凍てついた北極の太陽に喩えた「秋」の歌の一節が、心に浮かぶ。ボードレールが到達した心境は、単に冷たいのでもなく、単に熱いのでもない。ほとんど見分けがつかぬ。ここに無限の深い趣が溢れていると私は思う。
これは孤独な詩人がただ梟のように両眼を光らせ、一切の生活に興味を失い、寂寞と悲痛の底で震えているのだとでも言うのか。決してそうではない。
「汝、わが悲哀よ、なお嫻やかであれ。」彼はかく歌う。
ボードレールの詩は、勇壮な戦士の双肩のごとく力強く、また病める女の肌のようにデリケートである。
襲いくる「死」の恐怖に対して、その心境を窺い得るのは『航海』の歌である。彼は「死」を「老船長」と称した。その「死」をも水先案内人とし、天国と地獄の果てまで、なお新たなるものを探求してゆこうと語り、己の熱意を示した。彼がいかなる不撓の精神を持っていたかは、あの歌を一読すれば明らかであろう。
【Life】
Lifeを思うままに駆けさせよ。
【生活】
年を取り、髪の毛などが次第に白くなるのは、仕方のないことである。——しかし年を取ったからといって、苛酷な心情になることを、私は好まない。ルナンの著した『イエス・キリスト伝』を見ると、キリストの晩年には、いささか酷薄な風があったという。年を取れば、誰しもそうなるものだ。しかしまだ若い人でもハーシュな調子を帯びることがある。子供にさえ、時にはそんなことがある。
どんな料理を作って持っていっても、「何だ、こんなものが食えるか」と言う姑、小姑は、新婦を泣かせるものである。
何事であれ、生活の興味を失うほど恐ろしいことはない。もっぱら「他に何かないのか、他に何かないのか」と人を責める。機嫌のよい時はそうはならぬもので、ただ人に求めずして生活できるというだけでも、意味あり、趣ありと感じる。例えば体調が優れぬ時は何を食べても味がしないが、回復すれば、塩鮭で茶漬けを食うだけでもよいのだ。
【愛憎】
願わくは愛憎の念を壮大にせよ。愛も足らず、憎しみも足らぬ。固執や乱斥は、泉湧くがごとき壮大な愛憎の念から来るものではない。事物に対し淡泊にすぎれば、どうして生活が豊かになり得ようか。
航海を重ね、陸地を恋い焦がれる者は、しばしば土に接吻すると聞く。願わくは愛憎の念もかくありたい。
【生の跳躍】
ベルクソンを紹介した一篇の中で、「生の跳躍」という言葉を見た。
我々がなぜ創作するのかと問われれば、一時にはこれを説明できる簡単にして適当な言葉が見つからない。パンのためか、必ずしもそのためだけに創作するのでもないようだ。芸術的本能だと言えば、それまでのことだ。生きんとする努力であるというのは、むろん正しい。しかし、もっと詳しく言える言葉はないのか。
「生の跳躍」という言葉は、暗い影を帯びてはいるが、創作の時のある種の心情に近い。
【歴史】
現代を研究すればするほど、過去の歴史に書かれていないことの多さが分かる。過去の歴史を読めば読むほど、現代の実相もまた、ある程度までしか歴史に記されないことを痛感する。
今日の教育は、歴史上の人物を偏重しすぎている。むろん古人の中にも傑出した人物はいるが、要するに過去の人であり、我々と直接の交渉はない人である。「尚友古人」ということもあろうが、それは自己を照らし得る限りにおいてである。我々にとっては、平凡に見えても、身近を歩いている男女の方が、古の偉人たちよりもはるかに大切である。こうして互いに生きてゆくことが、実にどれほど大切なことか計り知れない。
【愛】
世人はただ愛のために愛す。愛の意義を知るは、芸術家の本分なり。
【思想】
我々は夢を見て、覚めた時、ずいぶん長い間夢を見ていたような気がする。しかし実際、我々の夢はごく短い間のことだと言うではないか。我々の思想も、あるいはそうかもしれぬ。朝から晩まで絶え間なく思索しているかのようであっても。
【社会】
社会は晩餐によって維持されている。
【静物の世界】
静物の世界というものがある。スティル・ライフと称して、趣のある言葉である。もし私の空想を許されるならば、この世には静物の地獄もある。この地獄では、ダーウィンもルソーも、皿や林檎と何ら変わりはない。
【自由】
人が真に自由である時、それは努力せずして自由である時である。オスカー・ワイルドの口調を借りれば、単に想像するにとどまらず、これを実現する時である。
【河】
ある人にとって、河は一定の形と色を持つ川の流れである。ある人にとっては、定まった形もなく色もなく、流動して涯際のないものである。そのような人の目には、真紅の炎のような色の河もある。同じ河であっても、見る人によってこのような差異がある。
【虚偽の快感】
虚偽の快感を深く味わう時ほど悲しいことはない。
【東坡の晩年】
K先生は私が共立学校時代に英語を教わった先生の一人である。千曲川に山房を営んだ時には、すでに花木を植え、老後の楽しみに備えていた人であった。その山房で、先生から蘇東坡の話を聞いた。東坡の晩年、遠い地に流され、寂寞の時を送ったが、朝夕目にする花木の感化を受け、その書体が一変したという。先生はなお銀髯を撫でながら、私に付け加えて言った。
「このような話は、果たして本当であろうか。」
年老いてなお抑え難い先生の雄心を思い合わせると、この言葉は容易に忘れ得ない。
【人生の精髄】
モーパッサンがフローベールを研究した際、このような興味深い言葉がある。
「フローベールは人生の意味を語ろうとはしなかった。彼はただ人生の精髄を伝えようとしたのだ。」
これは実に深味のある言葉ではないか。この言葉の中には、むろん「人生のある一つの事件を語ろうとはしなかった」という意味も含まれている。
(摘訳)
第130節
【芸術を生む胎 有島武郎】
○
芸術を生む胎は愛である。これ以外に、芸術を生む胎はない。「真」が芸術を生むと考える人がいる。しかし真が生むのは真理である。真理がすなわち芸術であるとは言えない。真が生命を得て動くとき、真はすなわち変じて愛となる。この愛が生むもの、それが芸術である。
○
一切は動く。静止の状態にあるものは、絶対にない。一切は変ずる。不変の状態にあるものは、かつてない。もし静止不変のものがあるとすれば、それは一つの事物を凝視しようとする欲望のために、我々が空中に仮設した楼閣に過ぎない。
いわゆる真とは、言ってみれば、その楼閣の一つである。我々は常に動き常に変ずる愛を、しばらく静止不変の状態に置いて、一つの名目を与え、「真」と呼ぶ。流水が山石の間に落ちて、絶えずそこに一つの渦紋を旋らせている。もし流水の量が一定であれば、渦紋の形もおおよそ一定であろう。しかしその渦紋の内容は、一瞬たりとも同一ではない。これは微細な外界の影響——たとえば気流、その水面を泳ぐ小魚、落ちてくる枯葉、渦紋自体の小さな変化が後の瞬間に及ぼす力——に伴って、永遠に応接にいとまのない変化を行っている。ただこの渦紋を凝視しようとする人においてのみ、このような揺動を退け、渦紋というものを脳裏に明瞭に再現しようとする欲望が生じる。そしてその人の心の中では、流水が一つの中心点を求めて、回旋状に求心的な運動を行っているという一つの現象を、静止不変の仮象として想定することができるのである。
もし渦紋というものが愛であるならば、渦紋の仮象がすなわち真である。渦紋は実在する。しかし渦紋の仮象は、人の心中に再現された幻影に過ぎない。渦紋があってこそ渦紋の仮象が生じるように、愛があってこそ真が生じるのである。
したがって、私が「真が生命を得て動くとき、真はすなわち変じて愛となる」と言ったのは、実は本末を顛倒した言い方である。正当に言えば、真は動かないものであり、真がひとたび動けば、その瞬間にすでに真の本質を失ったのである。愛が人の心中において、不変と仮定された型に嵌め込まれたとき、すなわち真となる。
愛は人を動かす力であり、真は人が動かす力である。
○
それならば、なぜ私は、ただ愛のみが芸術を生む胎であると言うのか。
私はこのことを断定する前に、前提としてここに置くべきことがあると思う。
人の行為は、思索的であれ動作的であれ、すべて一つの活動である。この活動には二つの動向がある。一つは自己を対象とする活動、もう一つは環境——自己以外の事物——を対象とする活動である。自己を対象とする活動とは、言うまでもなく愛の活動である。なぜならば、いわゆる自己とその所有とは、愛の別名だからである。そして自己を対象とする活動のみが、私の考えでは、芸術的活動である。
この前提から出発して、私は言う。自己を対象とする活動は愛の活動であるがゆえに、ただ愛のみが芸術を生む胎である。
○
詰問者はおそらくこう言うであろう。あなたの話は芸術の範疇を非常に狭くしてしまった。能動的に社会を対象として活動し得る分野が、芸術にも広大に残されているではないか。芸術は抒情詩と自叙伝の中に局限されるべきではない、と。
私はこの難問にこう答える。芸術家が、愛によって自己の所有となった環境を対象とすること、言い換えれば、自己の中に摂取して自己の一部となった環境以外の環境を対象として活動することは、不遜であるのみならず、不遜以上に、絶対に不可能なことである。いわゆる自己以外の社会とは、すなわち自己の所有に属さない環境のことである。芸術家がいかに非凡であり、いかに天縦であっても、自分が切実に把握し尽くしていない環境を、どうして駆使できようか。これを駆使しようとするその瞬間に、芸術家はその蒙昧によって罰せられ、滅亡するほかはない。
表面から見れば、芸術家が社会を対象として創作を成し遂げた例もあるように見える。このような例は非常に多い。しかし綿密に考察すれば、もしその創作が価値ある創作であるならば、その対象は決して芸術家の自己と何の交渉もない対象ではないと、私は断言する。必ずやその芸術家が自己の中に摂取した環境を再現したのである。つまり明らかに自己を表現しているのである。題材が社会的であれ、自己的であれ、客観的であれ、主観的であれ、真の芸術品とは、つまるところ、芸術家自身の自己表現以外にあり得ないのである。
そして自己の本質は愛である。ゆえに、ただ愛のみが芸術を生む胎である。
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一見、乾燥した上述のような推理を、私は試みにしばらく実際の問題に移して見よう。
芸術は必ず真から生じなければならないと主張する人々がいる。科学的精神の勃興に刺激されて起こった自然主義と写実主義の信奉者がそれである。彼らの信ずるところによれば、事物の真相を偏頗に見せるものは、愛憎ほどのものはない。人が芸術に望むべきは、一つの個性の愛憎によって取捨された自然や生活ではない。なぜなら個性はいかに拡大しても群集の大きさには及ばないからである。むしろ芸術家の愛憎(すなわち自己)を最小限度にまで圧し、拂拭し尽くした心の鏡に映じた自然と生活でなければならない。ゆえに芸術家が愛憎で取捨することは、無益であるか、有害であると。
私はこれを信ずることができない。なぜならば、先に述べたように、真は愛の仮象に過ぎないからである。いわゆる真とは、我々の愛憎が仮設した約束に過ぎないからである。枯死した無機的な真が、生気ある有機的な芸術を生み得るとは、想像し得ないからである。
これは余談に渉るが、我々の心的活動を論ずるに当たって、常に知・情・意の三要素に区分する。便宜のために、私もこの方法を拒まない。しかし知・情・意の背後に愛を加えて、もう一度考えてみると、全く様相が違って見える。この三要素は、畢竟、愛の作用の顕現に過ぎないことが分かるであろう。愛が事物を選択し、その能力を仮に知と称し、選択されたものの上に作用を加え、その能力を仮に情と称し、加えた作用が永続し、その能力を仮に意志と称する。知・情・意の三者は、畢竟、愛の背後に書かれた文字であり、「三位一体」をなしているのである。
真を識別するのは、言うまでもなく知力においてである。しかし知力とは、愛の一面に過ぎない。知力が単独で動作しているとは、すなわち自己全体が動作しているとは、到底考え得ないことである。
芸術は必ず真から生じなければならないと主張する人は、誤った帰納に陥っている。彼らは芸術には真がなければならないから、芸術は真から生じなければならないと考える。これはそうではない。愛が芸術を生むのである。そして芸術は愛から生まれるがゆえに、真を生むのである。
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芸術を生む力は、主観的でなければならない。この主観からのみ、真の客観が生まれるのである。
真とは、畢竟、一つの概念に過ぎない。概念の内容は、人が随時随所に変化させることができる。しかし主観、すなわち自己、すなわち愛は、その逆であり、動揺し得ない厳粛な実在である。
畢竟、自己の問題であり、愛の問題である。芸術家の愛が、いかに深く愛するか、いかに広く掠奪するか、いかに高く向上するか、いかなる熱度で燃焼するか——これが問題である。いわゆる個性が、人間の生活全体から見ていかに小さく、いかに不正確な尺度であるかということは、問題ではない。なぜならば、優れた個性が人間の生活全体よりも大きく、より完全な尺度となり得る事例は、歴史上にあまりに多くの証明があるからである。
愛の生活の向上——これ以外に、芸術家の権威がどこにあろうか。この一事に対して、已むに已まれぬ要求を覚えない者は、根本的に芸術家たる資格を持たない。芸術家はこれによって苦痛し、これによって歓喜し、これによって労役し、これによって創造する。その他一切は、第二義以下に落ちた哀れな属性に過ぎない。
○
一切の活動は、結局、自己を表現しようとする過程にほかならない。私は先に述べた。活動には二つの動向がある。一つは自己を対象とするもの、一つは自己以外の環境を対象とするものである。そして自己を対象とする活動が、芸術的活動であると。
これは全く各人の嗜好に属する。あるいは自己以外の環境を対象として、自己を表現しようとする。その人の個性と、その個性と有機的な交渉のない環境とが、雑然と混淆する。いわゆる事業家、道学家、政治家、社交家といった類の生活がこれである。彼らは自己を散漫に外物に放射する。彼らの個性は次第に摩擦して減少し、やがては環境と個性の奇怪な化合物が、残滓として遺されるのみである。その個性は、すでに燃えた個性と将に燃えんとする個性との連絡ともならず、瓦礫のごとく雑然と人生の街路に散乱する。
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自己を対象として自己を表現しようとする者は、上述のような生活に対して、耐え難い不安を感ずる。彼らは純粋に自己を表現しなければ満足できない。彼らは自己表現の要求に駆策されて、しばしば誘惑に遭い、環境と未熟な妥協をすることもあるが、いかにしてもその境地に安住することはできない。彼らは自己の放散から、愛の摂取へと帰ってゆく。いわゆる実世間から引き出された彼らは、激せられて極端な革命家となるか、あるいは蹂躙されて哀れな敗残者となるほかはない。そして彼らの中のある者は、実世間に残された唯一の城砦——すなわち芸術の中に拠りこもるのである。ここにおいて彼らは初めて自己の純粋な雰囲気を見出すことができる。そして彼らの自己が形象となり、人々の眼前に現れる。愛が報酬を得、芸術的創造がここに成就するのである。
○
何一つせずして芸術的である人がいる。
何もしないわけではないのに非芸術的である人がいる。
この一点を決定するのは、愛に対する覚醒の有無である。
○
芸術遊戯説は、芸術的衝動は精力の過剰に起因するとするが、これは何と浮薄なことであろうか。
芸術享楽説は、芸術的感興は実感を伴わないことを特色とすべきだとするが、これは何と悠長なことであろうか。
私は、芸術的衝動とは愛の過剰に起因するものであると考える。また芸術的感興とは、実世間の事象からは直接に得られぬほどに純粋な実感を伴うものであるべきだと考える。
ゆえに、単に興味の面からのみ芸術を感受する態度に対して、私は深い侮辱と嫌悪を覚える。「面白く読みました。」「興味深く拝見しました。」——このような挨拶に遭遇するとき、芸術家は平然としていてはならないのである。
あるいはこのような場で持ち出すべきことではないかもしれないが、近ごろ、私と思想上の論戦を行っている一人の論者がこう言った。「私は興味をもって『十字架上のキリスト』を見る。しかし、私はキリストを殺害した人々の行為をもって然りとはしない。」いわゆる『十字架上のキリスト』とは、誰が描いた『十字架上のキリスト』であろうか。ここでは述べられていない。しかしもしその絵画が芸術的作品と称し得るものであり、観者がその論者のように、キリストを殺害した人々の行為をもって然りとしない人であるならば、その人は画面から、技巧上の興味とともに、鋭利な実感を受けるべきであると私は思う。論者がこの点において、浅薄な芸術論に誤られたのでなければ、生まれつき芸術を感受する能力を持たない人である。芸術論がついに堕落して、生活上の事件と芸術とをここまで遠く分離し得るに至ったとは、誰が深く悲哀を覚えずにいられようか。
○
もし私の言うように、芸術が愛によって生まれるならば、芸術の運命は、究極において必ずやますます人類的なものに進むべきである。その運命は、郷土・人種・風俗の類の桎梏を脱し、人の心に共通する愛の端的な表現となることにあるはずである。
私はこの意味から推して、伝統主義のようなものに芸術上多くの期待と牽引を感じない。伝統は、人の愛を覚醒させることには有用かもしれない。しかしひとたび覚醒した愛は、伝統を捨てて前へ飛び走るであろう。
○
私は、自分が芸術家たらんとする一人であることを忘れて、芸術をあまりに重く、あまりに尊く描いてしまったであろうか。今の私は、まだこのような芸術の信奉者であることを畏れ憚っている。
しかしこれは、私にいまだ至らぬところがあるがゆえに畏れ憚るのである。芸術というものは、私の言葉よりもさらに重く、さらに尊い言葉で語られるべきものである。ただ今の私は、まだそのような重荷に堪え得ないのである。
同時に、私は「謙遜」という仮面の下に責任を回避するつもりもない。私は感じている。私の芸術は、鋭利に、私自身の言葉によって処分されるべきである、と。
あまりにゆっくりと——しかし強固な意志なくしてではなく——今日まで準備してきた自己の生活を一顧すれば、ただ自分だけが知る一種の強い感情に激動されずにはいられない。
私の前に、遥かに続く艱難多き道が横たわっていることを知っている。自らの力を量らずして敢えてこの道に立った私は、今、本心から生じた躊躇を感じている。
しかし、幼稚ではあり、粗野ではあっても、私の愛は、私をそこへ導いたのである。
○
私は再び言う。愛は芸術を生む胎である。しかもただ愛のみが。
(一九一七年作。『愛は惜しみなく奪ふ』余録より訳出。)
第131節
【ルーベクとイレーネのその後 有島武郎】
イプセンが七十四歳のとき、最後の作品として世に披瀝した戯曲『我ら死者の目覚めるとき』は、我々にとって、まことに深い意味のある贈り物ではなかったか。
その戯曲の中で、イプセン——イプセンを通じて、過ぎ去りつつあった当時の芸術——は、その使命、態度、功過に対して、きわめて真摯精緻な告白を敢えて行っている。私はその戯曲の中に、超絶的なイプセンの努力と、努力しながらもついに陥らざるを得なかった癒し難い鬱悒とを見出すことができる。イプセンは永遠の沈黙に入る前に、自らの総決算を行ったのである。彼は年老いてはいたが、誤算はなかった。虚偽もなかった。いかに酒を飲んでも決して酔わない人間の陰鬱な明晰さが、そこにある。彼の周囲がすべて中途半端で手を引いたとき、ひとりイプセンだけが、己の一生を凝視していた。そして取り返しのつかない悔恨をもって、しかも縁なき人を弾くような精緻さで、自らの事業の欠陥を暴露したのである。
戯曲の主人公アーノルド・ルーベクは、「真実」に竭誠するという一点において、神明の前にあっても少しも内疚を覚えない厳粛な芸術家である。「愚衆と公衆すなわち『世間』のために全力を尽くして労役する愚かさ」をよく弁えた芸術家である。彼は自らを満足させるために、一大制作に取り組んでいた。それは「復活の日」と名づけられた彫刻であった。ルーベクは幸いにしてイレーネという絶世のモデルを得た。イレーネもまた、ルーベクの中に天賦の美のすべてを表現し得る巨匠を発見したことを知っていた。かくしてこの貧窮無名の若き芸術家のために、イレーネは意のままに、惜しみなく妖艶な己の肉体を呈献したのみならず、親しい家族や友人からも擯斥され、孤独となった。こうして「見たことも知ったこともない事物にも、もはや少しも驚きの色を見せず。長い死の眠りの後に目覚めて見れば、死前と寸分変わらぬ己——地上の一処女が、遙かに自由平等の世界に高く現れて、神聖な歓喜に満たされた。」この驚愕の瞬間が、ついにこれを表現した大彫刻を成就させた。イレーネはこれをルーベクと自分との間の愛児と呼んだ。この大作によってルーベクは一躍雷名を馳せ、その作品はたちまち美術館の貴重品となった。
この作品がまさに完成しようとするとき、ルーベクはイレーネの手をやさしく握った。イレーネは殆ど息もできぬほどの期待をもって、その場に佇んでいた。このとき、ルーベクが口にした言葉は、「今、イレーネ、私は心から君に感謝する。この仕事は、私にとって、無価の貴い一つのエピソードだった。」エピソード——この一語を聞くか聞かぬうちに、イレーネはルーベクの眼前から姿を消した。
ルーベクはイレーネの行方を空しく探し求めた。そして彼のもとには、以前のような芸術的衝動ももはや戻って来なかった。彼はいよいよ痛切に、いわゆる「世評」なるものの空虚を感じた。
老境に近づいたルーベクは、その雷名と巨万の富を擁して、妙齢の美人マーヤを妻に迎えていた。しかしマーヤは、ルーベクとの間に拭い去れぬ隔たりの中にのみ暮らしていた。かくして、山の精を思わせる猟師が現れるや、たやすく誘い出され、ルーベクのもとを離れた。
この間に、鬼のように痩せ衰え、魂の抜けたような表情を見せるイレーネが、突如ルーベクの前に現れた。
そして二人の会話の中で、こんなことが語られた——
イレーネ——なぜ坐らないの、アーノルド?
ルーベク——坐ってもいいのかね?
イレーネ——大丈夫——寒くはないわ、安心して。それに私もまだ完全に氷になったわけではないの。
ルーベク——(椅子を彼女のテーブルの傍に寄せて)よし、坐った。昔のように、二人で一緒に坐ろう。
イレーネ——昔のように……少し離れて。
ルーベク——(近づいて)あの頃は、こうしないわけにはいかなかった。
イレーネ——いかなかったわ。
ルーベク——(明瞭に)互いの間に距離を置かないわけにはいかなかった。
イレーネ——それはどうしても、なくてはならなかったの、アーノルド?
ルーベク——(続けて)「一緒に世界へ出ないか」と言ったとき、君の返事を覚えているかい?
イレーネ——私は三本の指を立てて誓ったわ。世界の果てまでも、生命の尽きるまでも、あなたと共に行くと。そして何でもして、あなたを助けると。
ルーベク——私の芸術のモデルとして……。
イレーネ——もっとあけすけに言えば、全裸で……。
ルーベク——(感動して)君は助けてくれた。イレーネ……大胆に……喜んで……そして心ゆくまで。
イレーネ——ええ、私は血の燃え立つ青春を捧げて、奉仕したわ。
ルーベク——(感謝の表情で)それは確かにそうだった。
イレーネ——(握り拳をルーベクの前に突き出して)私はあなたの足もとに跪いて奉仕したわ。けれどもあなたは……あなたは?……あなたは……。
ルーベク——(抗うように)君に悪いことをした覚えはない。断じて、イレーネ。
イレーネ——したわ。あなたは私の心の奥底にまだ生まれ出ていなかった天性を蹂躙したのよ。
ルーベク——(驚いて)私が……。
イレーネ——ええ、あなたが。私は覚悟を決めて、頭のてっぺんからつま先まで、自分自身をあなたの前に曝け出したのに……それなのにあなたは、一度も私に触れようとはしなかった。
……………
ルーベク——……もし崇高な思想とでも言うならば、当時の私は、君を決して触れてはならない神聖な人物だと思っていたのだ。あの頃の私もまだ若かった。しかし一つの迷信があった。もし君に触れれば、君を私の肉感的な思想の中に引き入れてしまい、私の魂が汚され、期待している事業が成し遂げ難くなると。これは今でも、いくらかの道理はあると思っている……。
イレーネ——(いくらか軽蔑の色を見せて)芸術の仕事が第一……次に「人」の番ということね?
そしてこの一切が、ルーベクにとっては一つのエピソードに過ぎず、それで完結してしまった。たとえそれがいかに貴重なエピソードであったとしても。このとき、イレーネの天性の糸のある一つのものが断絶した。若い、血の熱い一人の女性が、まさに死のうとするときに必ず起き上がるように、天性の糸のある一つのものが断絶したのである。イレーネはこの刹那から魂を失った。Soullessとなった。ルーベクにとっても同じ結果であった。彼にとっては、このエピソードの結果として、衆目には偉大な芸術品が生まれたものの、どうしても埋め合わせのつかない空虚がつねに遺された。イレーネの言葉を借りれば、「地上の生活に属する愛——美の奇蹟的なこの人間世界の生活——比類なきこの人間世界の生活——これは二人の間で、ことごとく死に絶えてしまった」のである。
しかしルーベクはなお最後の努力を惜しまなかった。必死に、見失った真の力を取り戻そうとした。そしてイレーネを促して、高い山の頂上へ探しに行った。
彼らを迎えたのは、しかし真の力ではなく、雪崩であった。魂を見出す前に、彼らは千仞の谷底、遥かなる死の地へと墜落せざるを得なかったのである。
イプセンはこの戯曲を書いた後、永久に沈黙した。こんなに峻烈で厳しく悲しい告白を、私はかつて聞いたことがないと言ってよい。
厳正に自然主義に竭誠した人イプセンを通じて、自然主義はこの傷ましい叫びを発したのである。もし他の人からこの叫びを聞いたならば、私はそこに老人がやむを得ずして行う糊塗を見出し、不愉快に感じたかもしれない。あるいは「不徹底な先駆者」という侮蔑の汚名を、ついに拭い去ることができなかったかもしれない。しかしイプセンからこの言葉を聞いて、あの傲岸不屈の巨頭を垂れ、時代の歩調の速さを凝思していたこの誠実な老芸術家の晩年を思い起こすと、心は深い哀愁と同情で満たされずにはいられなかった。
いかにあっても、つねに力の限り戦い、陣頭に立とうとした勇猛な戦士よ。今は安らかに眠れ。あなたの事業は偉大な事業であった。あなたは、重傷を負いながらも死に至るまでつねに起き上がろうとする雄獅子のような勇猛な生涯を、我々に示してくれた。あなたはそれだけでもう十分であった。それだけでもすでに、言葉では言い尽くせぬほどの立派さであった。
しかしルーベクとイレーネは、なお一つの生きた問題として、我々のもとに遺されている。ルーベクはイレーネに対して、芸術家となる前に、まず「人」でなければならなかったのか。ルーベクがイレーネに対して、地上の生活に属する愛に向かうとき、その間に芸術は生まれ得るのか。いかにして、その愛に向かうべきであったのか。イプセンはまことに謙虚に、この恐るべき謎を解く栄誉を我々に託し、自らはいささかの未練もなく沈黙したのである。
将来の芸術は、この謎を最も正当に解き明かす者の上に繁栄しなければならない。イプセンの成し得なかったことを成し遂げ得る者は、イプセン以上の人でなければならない。自然主義の成就した総和の上に築こうとする者は、自然主義以上の力を持たねばならない。
私はただこの一つの事実を知るのみである。しかしこの偉大なるものの前に立って、ただ惶恐たるのみである。
(一九一九年作。『小さき灯』より訳出。)
第132節
【イプセンの仕事の態度 有島武郎】
これは私の一つの推測に過ぎない。当を得ているかどうか、むろん自分でも保証はできない。昨年の秋から今年の春にかけて、私は同志社大学でイプセンについての感想を講演した折、以下のような発見をし、一方では驚き、一方では自らを省みて、己の仕事の態度を大いに恥じたのである。ここにこれを記す。
一八七九年、イプセン五十一歳の時、『人形の家』を書いた。『青年同盟』と『社会の柱石』を書き、ようやく自己の表現法の方向をおぼろげに発見した彼は、『人形の家』において独特の芸術境を開拓した。イプセンの未来はこの一篇によって確固たる基礎を築いたのである。「操り人形の糸がもはや目につかぬ、最初のイプセン戯曲」である。この作品が読者界に莫大な反響を生み、演劇界に重大な貢献をしたことは言うまでもないが、同時に四方八方から作者に対する憎悪と酷評が蜂起したことは、イプセンの生涯において実に未曾有のことであった。虚無主義者、神聖な家庭の破壊者、人情に対する無能者——これらの罵詈が十字砲火のごとくイプセンの周囲に集中した。
〔以下、有島武郎はイプセンの『人形の家』から『海の女』に至る六篇の戯曲を、イプセンを主人公とする六幕の大劇詩として分析する。『人形の家』の草稿に記された女性の良心についての覚書、『幽霊(群鬼)』における反証としての作品創造、『国民の敵』における真理と孤独の叫び、『野鴨』における自己嘲笑、『ロスメルスホルム』における自己鞭撻、そして『海の女』における和解と解放——これらが大きな振り子の揺れのように、一方の極から他方の極へと振れながら次第に短くなり、やがて静止に至る過程を描く。〕
『海の女』の最後の場面で、エリーダの夫ヴァンゲルは絶対の自由を与える決断をする——
エリーダ——あなたは私をここに引き留めようとする。その権利をお持ちです、行使なさるがよい。しかし私の心の、私の思想の全部——避け難い憧憬と渇望、これらはあなたには縛れません。私の心、この私は、構築された不可知の世界に憧れ、煩悶しているのです。あなたがこれを妨げようとしても、無駄です!
ヴァンゲル——(悲しげに)それは分かっている、エリーダ!お前は一歩一歩、私から離れてゆく。絶大な無限——不測の世界——へのお前の憧憬は、このままでは遂にお前を狂わせるだろう。
エリーダ——ああ、そうです、そうです。私は確かにそう感じます。まるで何か真っ黒な無音の翼が、頭上に迫ってくるかのように。
ヴァンゲル——そんな結末にさせるわけにはいかない。お前を救う道はない——少なくとも私にはそう思われる。だから——だから、我々の以前の関係をここで断ち切ろう。さあ、十分に完全な自由をもって、お前自身が歩む道を決めればよい。
…………………
エリーダ——今こそ、私はあなたの元に帰ります。今こそ初めて帰れます。なぜなら私は自由にあなたの元へ行けるからです。私自身の自由な意志により、そして私自身の責任において。
最後の瞬間、先に彼らを脅かしていた運命は忽然として一変した。エリーダは海の誘惑から完全に解放され、同時に海の自由と人の責任をもって、夫の真の妻、二人の娘の真の母となった。
以上はむろん私の推測に過ぎないが、もし好事の読者が自らこの六篇の戯曲を順に読んでみるならば、おそらく興味深いことであろう。『人形の家』から『海の女』までの六つの戯曲は、私の見るところ、イプセンを主人公とする六幕の大劇詩である。イプセンは五十一歳から六十歳に至る人生最も大切な仕事盛りの年月を、一つの題材の下に辛苦して過ごした。この一端に向かって奮然と十年の長きにわたって苦闘したイプセンの仕事の態度を、私は実に驚嘆する。自己と仕事に対して、あのような真摯と執念がなければ、イプセンのような仕事は成し得ないと思う。彼の絶大な仕事の前に、私のような者は、いかに渺小な侏儒であることか。
(一九二〇年七月作。『小さな灯』より訳出。)
第133節
【芸術に関する感想 有島武郎】
○
表現派、未来派、立体派といった形式で現れた芸術上の運動は、さまざまな意味から考え得るものであると私は思う。これらについて、私の感想を一述する。
○
未来派といい、立体派といい、表現派といい、その間にはそれぞれ主張がある。仔細に論ずれば、一概に論じ得ない衝突点すら存在すると言ってもよい。しかし、これらの各流派がいずれも先行する芸術の立脚点に不満を抱き、新たな出発点を建設せんとする抱負をもって崛然と起こった、この一点において相一致すると言うことは、十分に可能である。
しからばいわゆる先行する芸術の立脚点とは、いかなるものであったか。一言をもって蔽えば、印象主義をもって表明することができる。印象主義とは何かと問えば、近代の思想様式に一大変化を与えた科学的精神が芸術の領域にまで延長されたものであると言える。いわゆる科学的精神とは、空想的規範の設定に代えて、実証的規範の設定を行うことである。換言すれば、前代の理想主義的考察法を打破し、現実主義的考察法を採用したことである。さらに言い換えれば、論理法の首尾顛倒を成就したことである。前代においては、まず一つの抽象的前提を立て、そこから論理過程を生じさせ、その結論を規範として人間生活の現状に作用させた。しかし近代に至っては、これとまったく相反し、論理はまず現在の人間生活の実状から出発し、帰納的結論として規範を生じさせる。このような内部生活の変化が、実生活においても思想生活においても重大な影響を及ぼしたことは、疑いない。
これがいかに影響したか。これは誰もが述べてきた通りである。前代の神——人力以上の一種の不可思議な実在あるいは力——は滅亡に帰し、人生を支配する人間的な規範が提示された。人はもはや人間以上の力によって、換言すれば、人間にとって偶然あるいは超自然と見えるほかない力によって支配されるのではなく、一見偶然のようでありながら、徹底的に考察すれば自然であり必然である力によって支配されるようになった。すなわち奇蹟は姿を隠し、原因結果の理法が、除き去ることのできない実在として、人間の上に臨んだのである。ここにはもはや恐怖も信仰も祈念もなく、諦観と推理と方法とが勝利を得た。人々はかつて、自然の外なる不可思議な力がいつ降臨するかも知れぬという恐怖を抱く必要があったが、今やそこから解放された。かつてはそのような威力に無条件的に盲目的に服従すべき要求があったが、今やそれを心中から棄て去った。かくして一心に祈願し、己の運命を僥倖せんとする衝動からも独立したのである。しかし人にも神にもいかんともし難い自然律に対しては、己を投げ出してこの力に委ねる覚悟を持つべきだという一種の諦観が生じ、同時に推理的にこの自然律を深く理解し、己をこれに適応させる手段と方法も講究されるようになった。これが科学的精神である。
これは確かに人間生活史の一大飛躍であった。なぜなら、人々がいわゆる野蛮蒙昧の時代以来携えてきた無意味な一種の迷信を、根本的に破壊したからである。前代の人は、自然の背後にある種の存在があると仮定し、彼らの空想と経験の不公平な取捨によって、この仮定を証明し得る材料を蒐集し堆積してきた。これに対して現代人は、自然の背後を窺うことなく、自然そのものを凝視したのである。これは人類にとって、確かに一つの勇毅な回旋運動であった。
この大いなる変化が芸術家の本能と直観に摂取されて、自然主義となった。理想主義(すなわち超自然主義)から自然主義へと転じたのである。自然の諸相を直視すること以外に、人間の運命を安固に導く道はない。たとえ安固に導き得なくとも、この態度の上にある以外に他の方法はない。かくして自然主義の芸術観は、みずからにみずからの結論を与えた。まず自然の当体をそのまま看取せよ、これが芸術家の態度である。自然の当体をそのまま看取するとは、自然が人間に与える印象をそのまま表現することでもある。この意味において、自然主義と印象主義は異語同意であると言ってもよい。
しかし印象主義はその本質の内に、すでに破綻の萌芽を孕んでいた。すなわち、この主義の容体たる自然は、一見すると人間に相対峙し、不変の相を有するかに見えるが、その実、人間の投影に過ぎない。誰もが知っているように、神が人を造ったのではなく、人が神を造ったのと同じく、自然が人間に印象を与えるのではなく、人が自然から印象を割り取るのである。人心の複雑さと見透し難さは、自然の複雑さと見透し難さ以上であると言ってよい。実は人は自然と相対峙しているのではない。人と自然とは、不離不二の状態にある。人は自然の一片を割り取って、その上に跨り、その中に自己を見、ただその中においてのみ自己である。これ以外に、もはやいわゆる人は存在しない。あの人はあの一片を割り取り、この人はこの一片を割り取る。したがって人類全体に共通する自然の印象というものは、実はどこにも存在しない。これもまた前代人の超越的実在と同様、一つの概念に過ぎない。およそ概念は、これが概念であると悟られたとき、もはや決して芸術の対象とはなり得ない。かくして現代人は、概念ではない芸術の対象を別に求めざるを得ない破綻に陥ったのである。
現代人がこの対象として求めたものは、自然の中に人間自身を見ること、すなわち自然でもある自己という一つの当体を表現することであった。芸術家が眼前に据えて眺め得る対象(それが神であれ自然であれ)はもはやない。もし強いてこれを対象と名づけるならば、自然でもある芸術家自身のみ、自己解剖のみである。しかし自己が自己を解剖するときの態度は、医者が病体を解剖するような様子ではいけない。もし自己を自己から引き離そうとすれば、その瞬間に自己は滅亡し、自然と称される一つの概念だけが残される。このような態度は、印象主義の再演に過ぎない。したがって芸術家が自己の印象を述べようとするとき、自己を解剖するのではなく、ただ表現するほかはない。すなわち自己によって生まれた自己がそのままの形で、それが芸術なのである。もし「自然は、かくのごとく人を笑わしむ」と見るのが印象主義であるならば、「自然がかくのごとく笑っている」ということこそが、今まさに求められている芸術主義であり、それは表現にほかならない。印象主義の芸術においても表現なくして芸術は成立しないが、その表現は印象を与えるための一つの手段、一つの象徴に過ぎない。しかし表現主義の芸術においては、表現以外には何もない。この表現の一味が芸術となるのである。
この立脚点を理解すれば、未来派、立体派、表現派と称される立脚点も理解できるはずである。未来派の芸術は印象芸術に逆行するものではないと敢えて言う。そしてさらに主張する。印象主義が旺盛であったときに成就した事実を継承し、その進境をいっそう徹底させるのだ、と。しかし印象派の芸術は、「現実の一部に拘束された奴隷として純化の境に達せず、有限の客観性から離れ得ず、翻訳の仕事をするにとどまる」ことに対して力の限り反対し、色彩の解剖を形態の解剖にまで推し広げたのみならず、色彩と形態の内部的統合を成就し、さらに心の燃焼を作品全体に表現することに使命を見出した。立体派に至っては、印象派芸術とは根本的に相容れない事を主張し、大いに叫んだ。化学者が同一と見なす一杯の葡萄酒が、愛酒家の舌の上ではさまざまに異なる味を覚えるのを、どうして否認できようか、と。痛烈に批判したのは、科学的精神から概念的に規定された呪うべき空間と色彩の観念は、事物の現象を徒に表示するに過ぎないということであった。力説したのは、事物の本質は、それらの概念をすべて抛棄し、ただ主観的な色彩と空間の端的な表現によってのみ実現し得るということであった。未来派は流動を表現の神髄とし、立体派は本質を表現の神髄としたが、これは相異なる点であるが、両派とも近代の科学的精神に反抗し、主観の深刻な徹底によって事物の生命を端的に捉えようとした点では、互いに符合する共通点を持っていた。表現派がこの傾向を最も力強く代表していることは、ここに改めて述べるまでもない。これらの流派は、その名称が示す通り、もはや外部的な印象によって事物に生命を与えるのではなく、生命そのものから出てくる直接の表現を求めているのである。
これらすべての流派の趨向が、個性による先行するあらゆる規範への叛逆であることは、誰にも容易に理解できる。久しく現象の一分子と見なされてきた個性が、独立した存在として主張を発表し、一つの有機的統合の中に厳然として存在し得ると叫ぶ声である。個性を君臨してきた規範に対して、個性がかえってそれを君臨しようとする叛逆である。
この偉大な現代の精神的運動が、いかなる発達を遂げ、いかなる成就を収め、いかなる功績を勝ち得るかは、誰にも分からない。しかし少なくとも、その根柢の深さは、人々が当初想定したほど浅薄ではないことを、私は信じて疑わない。なぜなら、芸術界に現れた上述の現象は、芸術界にのみとどまるものではないと信じるからである。科学自体——科学的精神を醸成した科学自体が、すでにこの傾向に動かされている。哲学もこの傾向に動かされている。国家と個人の関係も、この傾向に動かされている。伝統と生活の関係も、この傾向に動かされている。原理の相対性がすなわちこれである。現象の流動観がすなわちこれである。無政府的傾向がすなわちこれである。虚無的傾向がすなわちこれである。これらの傾向を、一時的な偶然の現象と見なす者は、私の見るところ、現代人が抱懐する憧憬と苦悩に対して、あまりに浅薄な誤算を打ったと言わざるを得ない。
○
表現主義の勃興は、また別の一面から観察し得ると私は思う。すなわち、新興階級(私はこの語をもって、いわゆる第四階級と称されるものを指す)の中から萌生し得る芸術を暗示するものとして見ることである。
人々は、新興階級がひとたび勃興すれば、芸術が同時に破産するかのように憂えている。しかし私はこれを愚かしい杞憂であると思う。このようなことを憂える人は、芸術という言葉の理解が浅薄であるに違いない。芸術という言葉を私が考えるのは、はるかに本質的な意味においてである。私の考えでは、人のあるところには必ず芸術がある。したがって、いかなる人であれ、生活の基調を形成している限り——その人がほとんど生命力を失った人でない限り——そこには必ずその人に相応しい芸術が、生活とともに生まれ出ているはずなのである。
もし私の臆測が的外れでなければ、表現主義の芸術は、従来の芸術から乖離しようとする一点において、現代の支配階級の生活から懸隔した芸術である。このような芸術を生み出す芸術家自身は、おそらく故意ではないであろうが、知らず知らずのうちに、来たるべき時代に対して一種の準備を行っているように見える。上に述べたように、彼らは、先行する芸術のあらゆる拘束から各節にわたって自己を解放してこそ初めて自己を玉成し得ると深く信じており、実際にもそのような結果を得ている。彼らは、これまで用いられたことのない視角から事物を見ようとする。このような視角は、かつて誰が持っていたであろうか。明らかに、ギリシア人は持たず、ローマ人は持たず、キリスト教徒は持たず、中世の諸侯や騎士は持たず、近世の王侯や貴族は持たず、現代の資本家やディレッタント(芸術を遊ぶ人)も持たなかった。これらの人々にはすでに各自の芸術があり、それは我々の眼前にあるが、どれを見ても表現派の芸術に等しいものではない。表現派の芸術は、これらの人々にとって、おそらく異邦の産物であろう。
それならば、表現主義はどこにその存在の根を生やしているのか。私には、新興の第四階級と予想する以外に、他に見出すべき場所がない。表現主義を、新興階級がまさに産出せんとする芸術の先駆と見るとき、これはさまざまな深い意味を含んで迫り来るように思われる。ここには新たな力があり、新たな感覚があり、新たな方向がある。これらが将来いかに発達し、いかなる仕事を成就するかは、注目に値すると言わねばならない。
しかし私はさらに一歩を進めたい。現在の表現主義の芸術は、将来果たして世界的な芸術の基礎となり得るであろうか。究極のところ、いかがであろうか。ここに至って、私はいささかの疑惑を抱かざるを得ない。私にとっては、現在の表現主義に対して、まさに学説宣伝時代の社会主義に対するような感を持っている。ユートピア的社会主義から哲学的へ、ついに科学的社会主義に至ったとはいえ、学説としての社会主義は、やはり第四階級自身の社会主義たり得ない(『宣言一篇』を参照されたい)。いかに科学的になったとはいえ、真の第四階級の人々にとっては、おそらくまだまったくの一つのユートピアに過ぎないであろう。これはひとえに新興階級に対する模索的な試みに過ぎない。これと同じく、我々の表現主義もまた、第四階級の園圃ではない場所で、人工的に造り出された一株の庭樹である。少なくとも、私の見るところではそうである。クロポトキンやマルクスの学説が、第四階級に——時に害を及ぼすことさえあるが——何らかの暗示を与えることはあるかもしれないが、真の第四階級の生活は、このようなものを顧みることなく、ゆっくりではあっても、行くべきところへ向かって正しく歩んでいる。表現主義の芸術も同様であって、ある時点に達すれば、まったく様相の異なる芸術の出現によって逆襲に遭うのではないかと、私は危惧する。偽ることのできないのは人の心である。その人でなければ、その人のものは生まれ得ないのである。
(一九二一年作。『芸術と生活』より訳出。)
第134節
【宣言一篇 有島武郎】
最近、日本において、思想と実生活の融合として、そこから生ずる現象——この現象は、つねに純粋な形態において、人間生活の統一をもたらすものである——として、最も注意すべきは、社会問題が問題としてあるいは解決としての運動が、いわゆる学者や思想家の手を離れ、労働者自身の手に移りつつあることである。ここで私の言う労働者とは、社会問題の中で最も重要な位置を占める労働問題の対象、すなわち第四階級と称される人々を指す。第四階級の中でもとりわけ都会に生活する人々を指すのである。
もし私の考えに誤りがなければ、上述のような意味での労働者は、従来、自分たちを支配する一種の特権を、学者や思想家に許してきた。学者や思想家の学説や思想が、労働者の運命を上向きの方向に導くものだと信じていた。言ってみれば、迷信を抱いていたのである。そして一見、確かにそのようにも見える。なぜなら、実行に先立って論争しなければならないとき、労働者は言葉を操ることがきわめて拙いからである。どうしようもなく、彼らは知らず知らずのうちに代弁者に委ねるほかなかった。どうしようもないだけでなく、この委託こそが最上無二の方法だとまで信じるに至った。学者や思想家は、労働者の先覚者あるいは導師であるという自負の空虚な態度からいくらかは覚醒し、一人の代弁者に過ぎないという自覚には至ったものの、なお労働問題の根底的解決は自分たちの手で成就すべきだとの覚悟を抱いていた。労働者たちはこの覚悟の一種の魔術的暗示を受けていたのである。しかし、この迷信からの解放は、今やまさに成就の途上にあるかに見える。
労働者たちは、人間の生活の改造は、生活に根ざした実行以外にはないことを理解し始めた。この生活、この実行は、学者や思想家のもとにはまったく欠けており、問題と解決の当体である自分たちのもとにのみあることを、彼らは感じ始めた。自分たちの現在目前の生活こそが、唯一の思想とも言えるし、唯一の力量とも言えることを、彼らは感じ始めた。かくして思想の深い労働者は、従来の習慣を打破し、自分たちの運命を、自分たちと異なる生活を送りながら自分たちにあれこれ言う人々の手に委ねることを望まなくなった。およそ社会運動家、社会学者の活動するところ、彼らは猜疑の眼を向けている。たとえ表面にはっきりと現れていなくとも、心の深層ではこのような態度が始動している。その始動の様子はなお幽微である。それゆえ世人は言うまでもなく、何よりもまず最初にこの事実を覚知すべき学者や思想家自身さえも、気づいていないようである。しかしもし気づいていないとすれば、それは大いなる謬誤と言わざるを得ない。たとえ始動の様子がなお幽微であっても、労働者がすでにこの方向に動き始めていることは、日本においては、最近勃発したいかなる事実よりも重大な事実である。なぜなら、生ずべきことが生じ始めたからである。いかなる詭弁をもってしても否認し得ない事実の進行が、歩むべき路線を歩み始めたからである。国家の権威も、学問の威光も、これを阻止し得ないであろう。たとえ従来の生活様式がこの事実によって非常な混乱に陥るとしても、当然出現すべくして現れたこの事実を、もはや押し消すことはできないであろう。
かつて河上肇氏と初めて会見したとき(以下の話は個人的なことであるから、ここに公表することはあるいは失当かもしれないが、ここではひとまず通常の礼儀には頓着しないことにする)、彼の談話の中にこのような趣旨の言葉があったことを記憶している。「私は、現代において哲学だの芸術だのに関わりを持つ人、とりわけ哲学者だの芸術家だのと自任し、それを栄誉とさえ思っている人に対して、卑しむべきものを感じざるを得ない。彼らは現代がいかなる時代であるかを知らないのだ。もし知っていながらなお哲学と芸術に耽溺しているならば、彼らは現代に取り残された、過去に属する無能者である。もし彼らが『我々は何もできないから、哲学と芸術をやっているのです。どうか邪魔にならぬところで存在させてください。』と言うのであれば、必ずしも許さぬわけでもない。もし彼らが十分な自覚と自信をもって、哲学や芸術との連帯を主張するならば、彼らはまったく自分の立脚地を知らない者である。」私はそのとき、彼の言葉をまだ素直に受け入れることができず、こう答えた。「もし哲学者や芸術家が過去に属する低能者であるならば、労働者の生活を送っていない学者や思想家も同様ではないか。要するに、これは五十歩と百歩の差に過ぎない。」この私の言葉に対して、河上氏は言った。「それはその通りだ。だから私も、社会問題の研究者であることを最上の生活とは思っていない。私もまた人に許しを請いながら、自分の仕事をしているのだ。……私は芸術に対して、もともと深い愛好を持っている。時として、もし芸術の仕事をすれば、自分にとって愉快であろうと思うことさえある。しかし自分の内部的要求は、私を異なる道に歩ませたのだ。」二人の会話の大体は必要な範囲でこれに尽きる。しかしその後また河上氏に会ったとき、彼は笑いながらこう言った。「火鉢にあたりながら議論をしている人間だと批評されたが、まったくその通りだ。君も火鉢にあたりながら議論をしている人間だろう。」私もこの言葉にまったく首肯した。河上氏はこの会話の当時、すでに私とは異なる意見を抱いていたであろうが、当時の私の意見は、現在の私の意見とはかなり異なっている。もし河上氏が今そのような言葉を述べたならば、私はおそらくやはり首肯するであろうが、それは別の意味においてである。もし今であれば、河上氏の言葉に対して、私はこう解釈する。「河上氏と私は、程度の差こそあれ、第四階級とはまったく異なる圏内に生活している人間であるという一点において、まったく同じである。河上氏もそうであり、私も同様であって、第四階級とは何の接触点もない。もし私が第四階級の人々に何らかの暗示を与え得ると自負するならば、それは私の謬見である。もし第四階級の人々が私の言葉から影響を受けたと感じるならば、それは第四階級の人々の誤算である。第四階級以外の生活と思想によって長養された我々は、要するに、第四階級以外の人々にのみ関わりを持ち得るのである。火鉢にあたりながら議論をしているどころではない。まったく何の議論も行っていないのだ。」
私自身の如きは数に足りない。しかしクロポトキンのような特出した人の言論を一考してみても、同じことである。たとえクロポトキンの言説が、労働者の覚醒と第四階級の世界的勃興に対していかなる力を持っていようとも、クロポトキンは労働者ではない以上、労働者に生活させ、労働者に考察させ、労働者に行動させることはできない。彼が第四階級に与えたとされるものも、第四階級のものであって与えられたのではなく、もともとあったものに過ぎない。いつかは第四階級がこれを自ら発揮するはずである。もし未熟なうちにクロポトキンが発揮してしまったとすれば、むしろそれは好ましくない結果かもしれない。なぜなら、第四階級の人々は、クロポトキンがいなくとも、いつかは行くべきところへ前進するからである。しかもそのような前進の方がいっそう堅実で、いっそう自然なのである。労働者たちは、クロポトキンやマルクスのような思想家さえも、必ずしも必要とは見ていない。おそらく彼らがいない方が、かえっていっそう完全に自らの独自性と本能力を発揮し得るかもしれない。
それならば、たとえばクロポトキンやマルクスたちの主要な功績は、究極のところどこにあるのか。言ってみれば、私の信ずるところでは、クロポトキンが属する(クロポトキン自身はおそらくこれを望まないであろうが、生まれの必然によって属さざるを得ない)第四階級以外の階級の人々に対して、一種の覚悟と観念を与えた点にある。マルクスの『資本論』も同様である。労働者と『資本論』との間にいかなる関係があろうか。思想家としてのマルクスの功績が最も顕著なのは、マルクスと同じく資本の王国が建設した大学を卒業した階級の人々に、味読させ、自分たちの立脚点に対して覚悟の眼を開かせたことにある。第四階級にとっては、これらのものの存在如何にかかわらず、つねに前進すべき場所へ向かって前進するのである。
この後、第四階級者がやがて資本王国の余慶に均沾し、労働者がクロポトキンやマルクスその他の深奥な生活原理を理解するようになることも、あり得るかもしれない。そしてこれによって一つの革命を成就することも、あり得るかもしれない。しかしもしそのようなことが起こったならば、私はその革命の本質を疑わざるを得ない。フランスの革命は、民衆のための革命として勃発したと言われているが、ルソーやヴォルテールらの思想に縁あって起こった革命であったがゆえに、その結果はやはり第三階級の利益に帰し、真の民衆すなわち第四階級は、今日に至るまで依然として以前の状態に取り残されている。今日のロシアの状態を見ても、この欠陥があるように思われる。
彼らは民衆を基盤として最後の革命を起こしたと称するが、ロシア民衆の大多数を占める農民は、この恩恵から除外され、あるいはこの恩恵とは無関係であり、報告によれば、さらには敵意を抱いている者すらあるという。真の第四階級が発した思想や動機ではない力によって成功した改造運動は、当初の目的以外の場所に至って停止するほかないであろう。これと同じく、たとえ現在の思想家や学者に刺激されて一種の運動が発生し、それを起こした人が自ら第四階級に属すると考えていたとしても、実際にはその人は、第四階級と現在の支配階級との私生児に過ぎないのではないか。
要するに、第四階級がみずから思想し、みずから行動するというこの現象は、思想家と学者に対して、熟慮すべき一つの重大な問題を提起している。これに深く究明を加えず、漫然と指導者、啓発者、煽動家、頭領をもって自任する人々は、いつか笑うべき立場に身を置くことを免れ難いであろう。第四階級はすでに、他の階級からの憐憫、同情、好意を返還し始めている。このような態度を拒却するか促進するかは、すべて第四階級自身の意志に係っているのである。
私は第四階級以外の階級に生まれ、成長し、教育を受けた者である。したがって第四階級に対して、私は無縁の衆生の一人である。私は絶対に新興階級者とはなり得ないがゆえに、そうさせてくれと頼むつもりもない。第四階級のために弁解し、立論し、運動するといった類の極めて愚かな虚偽も行い得ない。たとえ私のこれからの生活がいかに変化しようとも、私がつまるところ先行する支配階級の産であることは、黒人がいかに石鹸で洗い拭いても黒人であることを免れ得ないのと同じであろう。したがって私の仕事は、おそらく始終、第四階級以外の人々に訴える仕事をするほかあるまい。世間は今、労働文芸を主張している。それを弁護し鼓吹する評論家もいる。彼らは第四階級以外の階級が発明した文字、構想、表現法を用いて、漫然と労働者の生活を描写する。彼らは第四階級以外の階級が発明した論理、思想、検察法をもって文芸作品に臨み、労働文芸とそうでないものに区分する。このような態度を取ることは、私には断じてできない。
もし階級闘争が現代生活の核心であり、それが甲であり癸であるならば、私の上述の言説は、正当に述べたものだと信ずる。いかに偉大な学者、思想家、運動家、頭領であっても、第四階級の労働者でない者が、第四階級に何かを与えようとすることは、明らかに僭妄である。第四階級はおそらく、これらの人々の徒らな努力に攪乱されるのみであろう。
(一九二一年作。『芸術と生活』より訳出。)
第135節
【すべての芸術品について 武者小路実篤】
すべての芸術品は、早く理解される必要はない。しかしひとたび理解されたならば、味わい尽くせぬ味わいがなければならない。これは言うまでもなく、作者の人格の深さがなければならないということである。すべての芸術家は、自分の道を歩み、自然と人類に対する深い愛を、自分の作品に注ぎ込むべきである。
外観は奇抜に見える必要もなく、また奇抜に見えることを恐れる必要もない。しかし最も肝要なのは、自己の全体を作品に傾注することである。深い自己を、そのまま、偏りなく、作品に傾注すること。この事は、自分自身が心に得るところがあってのことである。心に得るところがあれば、他人が何と言おうと少しも驚かず、確信のある場所へ向かって確実に歩んでゆくほかはない。
私のものには熱情がないと言う人がいるが、幾つかの点では的を射ている。どうすればこれらの人々の意に適うか、私は知っている。しかしこれは言うまでもなく、邪道である。人々に何と言われようと、私はただ他人の目の届かぬところで良心を行き届かせ、後ろめたさのない道を辛抱強く歩んでゆくほかはない。既製品は外観ばかりを気にして質料を顧みない。作者は外観よりも質料を重んずべきである。個人の誤解は致命傷ではない。「時」の前に立っても退かぬ内容を重んぜず、ただ包みを開いてゆくばかりなのは、恥辱であり、同時に致命傷でもある。賞賛は早く来る必要はない。他人の目の届かぬところで良心を行き届かせることこそ必要である。しかしこれを戦々恐々たる意味に解してはならない。自分の道を歩む人は、戦々恐々とはしない。戦々恐々とする者は、他人を気にして、中身の空虚な道を歩んでいるからである。確信のある道を歩む人は、戦々恐々とはしない。
批評家の独りよがりの要求は、取り合わなければよい。彼らは本心から作者が良くなることを望んでいるのではない。彼らも人間であり、他人の作品を根本的に理解することはできない。しかも短期間に多くの作品を見て、何か言わねばならぬから、大抵は自覚のない言葉を吐くのであり、それも無理からぬことである。また、作者が批評家に何かを教えようとするのも、考えものである。自分の道は、自分で仕事をしながら、自覚しつつ歩んでゆくほかに方法はない。しかも表に見えるところでするよりも、見えぬところでする方がなお必要である。見えぬものが現れ出るところにこそ、微妙な味わいが生まれるのである。技巧家の作品の味わいが薄いのは、技巧が見えるところにばかり力を尽くし、見えぬところを忘れてしまったからである。
(一九一五年十月作。『文学志望の人々の為に』より訳出。)
第136節
【一切の芸術において 武者小路実篤】
一切の芸術において、最も忌むべきは空虚な箇所があること、無意味なものがあること、まだ充実しきっていないことである。ただ真のものだけが充実している。充実していない芸術は、すべて虚偽である。少なくとも、充実していない箇所は虚偽であり、手品を弄しているのであって、巧拙の差はあるにせよ。
虚偽は時に充実しているかのような顔をする。しかしそれは張り子の細工であり、ひとたび時間と事実に遭遇すれば、正体を現さざるを得ない。真のものと偽のものとを区別できない人は、その人自身が偽物だからである。
偽りであっても構わない、真実らしく書いていれば満足という時代は、すでに過ぎ去った。真実を書きさえすれば、虚偽に見えても構わないという時代が、すでに到来したのである。
真実のことは書けないと言う人がいる。このような人は実に哀れである。事物をそのまま書くことはできない。しかし真実のことは書ける。真実でないことは、真実に書き出すことができない。たとえ意識の上では嘘をついていても、嘘をついていると知っているならば、嘘をついているという一つの真実を知ったのである。
しかし、嘘をついているという真実を知りさえすれば、それは真実を書くに劣らない、それでよいではないかと言う人もいるかもしれない。このような人は、十円の金メッキの金貨を差し出し、「これは偽物です」と言えば、相手が「ああ、そうですか」と言って十円として受け取ってくれると思っている人である。
ドーミエ(H. Daumier)やドラクロワ(E. Delacroix)が描いたような人間や動物は、存在しないであろう。しかしドーミエやドラクロワの絵は真のものであり、真実を描いたのである。シャヴァンヌ(P. Chavannes)やドニ(M. Denis)が描いたような風景や人間は、存在しないであろう。しかし誰が虚偽を描いたと言うであろうか。ゴヤ(F. Goya)にしても、ビアズリー(A. Beardsley)にしても、ルドン(O. Redon)にしても、決して偽りのものは描かない。この点を理解しない人が、真実は書けないと言うのである。
いかなる写実家であっても、「ありのまま」に書くことはできない。しかし「実」は書ける。この点を理解しない人は、いわゆる「自由」と「個性」をも理解しないであろう。そしてまた偉大な作品をも理解しないであろう。
ドストエフスキー(F. Dostoevski)の文章は拙いかもしれない。しかしドストエフスキーにツルゲーネフ(I. Turgeniev)のような文章を書かせたら、どうなるであろうか。たとえトルストイのような文章を書いたとしても、ドストエフスキーはもはやドストエフスキーではなくなる。ドストエフスキーを現すには、ドストエフスキーの文章が最良の文章なのである。この意味を理解する人だけが、文事を批評することができる。
およそ大芸術家、大文豪は、みなそれぞれに独特の技巧を持ち、その技巧を進歩させ、極限にまで至らしめる。進歩させずにはおかないのである。世に半生不熟の天才はない。
世界的な分子を少しも帯びない人、すなわち人類的なところが全くない人は、根の浅い人であり、人類として、大きなところのない人である。
我々は、いつまでも支流であることを望まない。本流に飛び込んで、自分の力の及ぶ限りのことをしたい。もしだめなら、だめでもよい。
日本のモーパッサン(Guy de Maupassant)、日本のヴェルレーヌ(P. Verlaine)と呼ばれて名誉と思うのは、寒心に堪えない。もしメーテルリンク(M. Maeterlinck)がベルギーのシェイクスピア、チェーホフ(A. Chekhov)がロシアのモーパッサン、ヴェルハーレン(E. Verhaeren)がヨーロッパのホイットマン(W. Whitman)、ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)がフランスの歌麿といった類と同じ意味であれば、それは差し支えないが、どうも同じ意味には見えない。「日本の」という中には、常に範囲の中に旋回しているという含みがある。これもまた範囲の中のあまり良くないところである。
我々は他人の感化を受けることを恐れて、洞窟に隠れるべきではない。自己を生かすためには、あらゆるものを受け取らねばならない。受け取ることによって自己をいっそう発揮できる人だけが、真に個性のある人である。
我々は今日まで覚えてきたものを活用しながら生活している。人類もまた同様である。人類の覚えてきたものを活用し、さらに新しい真・善・美を人類に覚えさせること、これが文芸の士の仕事である。文芸の士は人類の頭脳あるいは官能となるべきであり、人類を成長させるべきである。人類は記憶力のよい人である。また暇人ではない。すでに覚えていることを、さも新鮮らしく話しかけられると、不愉快に感じる。日本の現今の文芸の士は、人類がすでに知っていることを、田舎の、田舎の、またその田舎へと通知しているに過ぎない。人類に軽蔑されるのも、いかんともし難い。しかし文芸の士を称する以上は、田舎の田舎の巡回も、いい加減に嫌になるはずである。
ちょうど地方回りの役者たちが、自分は役者だと名乗ると笑われるように、日本の文芸の士が文豪だの芸術家だのと称して笑われずに済むようになるまでには、まだいくらかの時間を要するであろう。
しかし、田舎では大文豪、大芸術家と呼ばれているそうである。
(一九二一年七月作。『文学志望の人々の為に』より訳出。)
第137節
【文学者の一生 武者小路実篤】
【一】
文学はなぜ我々にとって必要なのか。ある人々にはまったく不必要なのか。いかなる文学も、読まなければ生きられぬというほどのものではない。このことは言うまでもない。娯楽や暇つぶしのためにも、文学は不必要である。このためなら、もっと読者や観客の歓心を買い得るものがある。誰をもいっそう面白がらせ、いっそう我を忘れさせるものがある。少なくとも、この要求に応じて作られたものは、いくらでもある。しかし文学はそのようなものではない。実を言えば、文学は読者の要求によって生まれるのではなく、作家の要求によって生まれるのである。娯楽と異なる所以は、まさにここにある。公衆の歓心を買うのは娯楽であり、文学は他の芸術と同じく、作家自身の要求によって書かれる。公衆も問題にはなるが、それは公衆の歓心をいかに得るかではなく、自分の意志をいかにして公衆に伝えるかということである。
したがって、およそ文学者はわがままなことが多い。自己を発揮することが第一義となる。読者は自然に生まれてくるべきものであり、作者が書くとき、普通は読者のことを覚えていない。もし読者を念頭に置いて書かれた作品があれば、心ある人から見ればその作品は不純となる。時には人に読ませるために書くこともあるが、そのことは念頭に置かない方がよい。音楽家は公衆に聴かせるためにピアノを弾くが、ひとたび弾き始めれば、全身全心の注意が指先に集まり、表出したいものを全力で表出し、聴衆のことはおそらく覚えていない。名手であればあるほど、おそらくいよいよ自ら夢を見るかのように精神を集中して弾く。私がプレミスラフの来日後初めての演奏を聴きに行ったとき、彼が非常に自由に、非常にくつろいで、あたかも流水がおのずと流れゆくかのように、楽譜を忘れたかに見え、必然に身を委ねて演奏しているのに驚き、そして聴衆もろとも夢を見ているかのようになった。
書くときも同じである。うまく書こうという気持ちが少しでもあれば、もう邪道である。作者はただ自分を満足させ得るだけの全力を用い、最も鎮静に、必然に従い、最も確かな道を進めばよいのである。その人の精神の趨向に従い、いっそう深く、いっそう確かに、いっそう全力的に、いっそう注意深く、いっそう真実に書き出したいという努力に全心を奪われ、その他のことを忘れて、ただひたすら書き進めればよいのである。
このように書かれたものが、ある程度以上に達したとき、これが文学となる。文学においては読者が主ではなく、作家こそが主である。だから文学は最初、多くの人に反感を起こさせやすい。
文学は一種の征服事業である。自分の精神によって他人の精神を打ち動かすのである。自分の精神が動作して、他人の精神がそれに動かされれば、作家としてはすでに形になったのである。だから精神力の乏しい作家は、大作家にはなり得ない。
もし作家が面白いと思って一つの作品を作ったなら、読者も面白く読むであろう。しかしその面白さが浅薄であれば、浅薄な人々を喜ばせるだけである。このときも作者が主であり、読者は従である。しかしこの主あればこの従あり、不相応の読者を得ようとしても不可能である。読むのは好きだが敬服できない、敬服はするが読みたくない、ということもないではない。自分の暇な時にだけ読むようなもの、面白いことは面白いが、心底には何の影響もない、そのような作品もよくある。このような作品は通俗と呼べるかもしれないが、文学としての価値はさほど多くないことは言うまでもない。逆に、気軽には読めないもの、ぱらぱらめくるだけでも怖い、しかしひとたび読み始めれば心がどきどきと震動する、そのような作品の価値は大きい。
およそ良い文学は、余暇の中で作られたのではなく、作家の全精神がここに集注され、作家の全生活の結晶がここに顕現している。だから読んでもあまり気楽ではなく、時には怖くさえなる。すると好んで読むとは言い難くなるが、敬服せずにはいられない。
文学は単にこの人生を楽しませるためのものではなく、文学は生気のないものではなく、文学はいっそう読者を顧みないものである。時には読者の一生をいっそう苦しくするものであり、少なくとも、読者を安閑とさせない作品も多い。読者を愉快にするための文学もあるし、読者を堕落させる傾向のある文学もないわけではない。しかし同時に、読者をいっそう反省させ、いっそう厳粛にする文学もあり、勇気を増し加える文学もあり、生きることの愉快さを奪う文学もある。これは作者の精神の伝播に起因する。政治家にとって、文学は当然厭うべきものである。文学の価値は、わがままであるという一点にあり、ここにおいて人の精神に触れ得るのである。
一時、日本ではショー(Bernard Shaw)のものが続けざまに取り上げられた。私はすっかり食傷した。しかしショーのものも、時には良い。他の多くのものに混じってショーのものがあれば、ショーのものはどこまで行ってもショーであり、それはそれで面白い。メーテルリンクやストリンドベリ(A. Strindberg)のものであっても、それだけでは面白くない。しかしメーテルリンクのものを思い起こすとき、どこまで行ってもメーテルリンクの特色が見えるものは面白い。トルストイやドストエフスキーも同様で、もし世界の文学がこの二人のもので満ちていたら、堪え難い。我々はゼロになってしまう。さまざまな人がさまざまな世界を開いてくれるからこそ、嬉しいのである。
行くべきところへは行く。しかし行ってみても主人の所在が分からなければ、つまらない。主人の色彩が明らかでなくても、つまらない。この人の世は、心の所在を明確に示さない人々の集団である。しかし文学者は、自己の心の所在を明確に示さなければならない。これが文学者の仕事である。世に文学者がなければ寂しい、というのはこのためである。一生を生きて、人の魂に触れることがなければ、堪え難い。天才があって、自分の世界を存分に発揮しているのを見れば、それらの人々のことを思い、人に対する愛と信頼を取り戻すことができる。
そうでなければ、あまりに孤独である。人の心に対する飢渇を感じる必要のない人々にとって、文学は無意味なものである。これらの人々は、娯楽さえあればよく、自分の歓心を買うものがあればよい。しかし人の真心に飢渇する者にとって、それだけでは寂しい。天才に対する愛が、ここに生まれる。
このような寂しさを真に知らない人とは、文学を語ることができない。
「人類はつまらない、人類は不誠実だ、人類は性欲と利己心しかない、どこへ行っても虚偽ばかり、嫌な人ばかりだ。」これによって寂しさを感じない人は、文学を真に愛し得ない。人類は性欲と利己の塊ではあるが、その中には言葉では言い尽くせぬほど愛すべき善良なところ、あるいは誠実なところがある。このことを知って喜ばない人は、文学よりもいっそう直接的なものがあるべきである。
【二】
読者の側から言っても、やはり作家は始終わがままであった方がよい。別の世界は別の人に任せ、自分の世界を存分に発揮した方がよい。
また作家の側から言っても、始終自己を存分に発揮する以外に、他の道はない。縁のない人は縁のない人として、自分は始終、自分の内発的な要求に従い、自分が満足し得る、手を抜かない、確信のある、しかもできるだけ価値の高いものを書く以外に、他の道はない。こうして歩んでゆけば、真に喜ぶ人々が次第に多くなってくる。
文学的資質がきわめて貧弱な人は、もともとわがままを貫くことができない。神経の鈍い人、内省の不足する人は、わがままのゆえにかえって邪道に堕ちることもある。しかし最も肝要なのは、自己を発揮すること、他人の言葉に惑わされないことである。自己をまったく自己たらしめる以外に、他の道はない。名工の鍛鉄のごとく、自己を鍛錬する以外に他の方法はない。いっそう純粋に、鋭利に、精深に、一本の筆によって自己を発揮してゆく。その発揮の仕方が巧妙であればあるほどよい。このことができる人が天才であり、これは能才にはできない本領である。
天才は他の天才の長所を理解し、そこから自己の発揮に必要な滋養分を吸収し得る。たとえ感化や影響を受けても、時がくればすべて消化し、まったく自分のものとなる。そして自己を発揮しなければ、執拗に手を離さない。この力が強ければ強いほど、作者の価値がいよいよ高い。また作者として言えば、このような作者の作品にこそ、強い感興がある。ここに作者の全生活が蒸留されているのである。
読者の側から言えば、全力を注いだものでなければ、どうしても全心の愛を捧げることができない。日本の作品には、この全力的なものがつねに少ない。個性を完全に発揮した人が殆どいない。独歩、漱石、二葉亭に、いくらかこの傾向が見られるかもしれない。個性もいくらかは現れていると言えよう。しかし完全に現れたかと言えば、まだまだ程遠い。それ以外、とりわけ現在生きている人々の中では、いくらか現れたとさえ言えない。特色のある人は、あるいはいるかもしれない。しかし個性がいくらか現れている人は、私の先輩の中にはいない。異議を唱える人がいるかもしれないが、それは異議を唱える方が間違っている。頼りになる人がいない。自分の世界を持ってはいるが、あまりに貧弱であり、誠意が足りない。主義を持つ人はいるが、それがまだまったくその人の血と肉になっていない。少なくとも、作品の上にはまだ現れていない。個性の類が現れるはずがあろうか。全身泥まみれのまま埋もれているのである。まず個性というものの存在すら、必ずしも自覚されていないのではないか。若い人々の中には、いくらか現れている人がいることを、私は知っている。しかしそれも、いくらか現れているというに過ぎない。
個性がまったく発揮されたとき、この作家は「時」を恐れる必要がない。この人の作品は、人類が存在する限り、つねに自分の王国を持って生き続けることができる。そして訪れる人を待つことができる。たとえ訪れる人がなくとも、それは来ない方が不自然なのである。人類はこのような人の存在を誇りとするのである。
特色は人為的に作ることもでき、技巧によることもできる。しかし個性は、自己をまったく発揮したという一事の上からのみ産み出し得るものであり、この域に達すれば、もはや粗製品ではなく、いかに巧妙な模倣者が現れても心配はない。眉目だけですでに成就しているのだから。
このような人の文学こそ、真の文学として存在する。政治家がいかに恐れても、どうしようもない。人々の心の中に生き、人々はこれにひとたび触れさえすれば、何かあるたびに思い出し、その中に知己を見出し、領解を得る。そして思い出の力を持つ。この人の名を思うたびに、ある感が生じ、おのずと愛と尊敬の念が起こり、勇気を増し、あるいは喜びを覚える。私はこのような感を与えてくれる人だけを尊敬する。この人の名を思い出して、ただ嘲笑したくなるだけ、あるいは嫌悪を覚えるだけでは、尊敬はしない。この人の名を思い出しても何の感興も生じなければ、そもそもこの人のことを思い出しもしないだろう。一つ一つ見れば数えるほどの作者であるのに、全体としてはまったく何の感興も浮かび上がってこない人もいる。このような人はたちまち忘れられる。このような人が忘れられるのは当然である。このような人まで覚えていなければならないとしたら、堪え難い。
他人はさておき、私は明快な作品が好きである。真に対してはもちろん鋭利な良心がなければならない。しかし、いわゆる凡庸な作よりも、特色の鮮明な作の方が好きである。しかもいっそう充実していればいっそうよく、いっそう深ければいっそうよい。実感の感じられないつまらない作品は、言うまでもない。その実感も大きいほどよい。どちらともつかないことを書く人は少なくないが、それならば読者も必死になる必要はない。創作のとき、技巧にのみ心を用いて最も肝要な精神を顧みなければ、今日の人々の心を震動させることはない。弓を引くとき、形式にだけ気を配っていてはだめである。精神を発揮するために形は必要であり、精神を集中し、強力に正面から的の中心を射貫くことが必要である。これは誰もが知っているはずのことである。肝要なことを忘れてはならない。純粋に真実を書き、具体的に、客観的に、あるいは大いに主観的に、精神を発揮してゆかなければ、真の技巧は生まれてこない。このようにして、自己に切合する技巧が必然的に生じ、その結果、次第に個性が滲み出てくる。もし多くの仕事をしても個性が見えないならば、それはこの人が不純な動機によって仕事をしていることを示している。
日本で真に文学を理解している人はさほど多くない。皆まだ、理解しなければならないことすら十分に理解していない半可通である。あと十年も経てば、これらのことは誰にも明らかに理解されるであろう。今の人は文学というものを真に理解しておらず、ただ理解したつもりでいるだけである。真の文学の価値を理解していないばかりか、まず鑑賞することさえしていない。そして多くの人が、まだ文学にすらなっていない作品を書いて満足している(多くと言うよりも、むしろ全体である。)だから現在の日本で、文学は権威もなく何もなく、あるかないかの体である。西洋でさえもつまらない文学は多いが、しかし真の文学者がたまには存在し、今もおそらく十人くらいはいるであろう。しかし日本には、真の文学者を自称し得る人が一人もまだいない。みな未完成品か、さもなければ中途半端な代物である。
西洋人に日本に文学はあるかと聞かれて、多くの人が窮するのは当然のことである。文学はいっそう精錬され、個性が分明で、精神が集中し、印象が深く、しかも模倣し得ないものでなければならず、さらに根本的に他人の到達し得ぬ深みにまで入り込むべきである。この人の名を挙げれば、この人がはっきりと浮かび上がり、他の誰の名をもってしても浮かび上がらない深い内容がなければならない。
自分の経験をそのまま書く必要はない。童話を書き、小品を書き、他人のことを書いても、すべてよい。ただその深いところに、この人でなければ表出し得ない真実が現れていればよい。すべての作品を通じて作者の全体が彫刻され、その作者に他に求め得ない一種の美があればよい。この人の世界を思い起こせば、人類が喜ぶような世界を造り出すべきである。
単にこう言うだけでは、聞く方は抽象的に過ぎると感じるかもしれない。しかしゲーテ(Goethe)、ユゴー(V. Hugo)、トルストイ、ドストエフスキー、イプセン、ストリンドベリを思い、これらの人々の名が与える内容を考えれば、私の言わんとするところは、少なくともある人々には理解されるであろう。
文学とは、自分の精神の内に何かがあることを示し、他人の精神の内に自分の知己を見出す運動の一つである。作者が主であり、読者が従である。作者はただ自己をまったく発揮すればよい。自己の発揮に有用なものは自分のものとして使い、有害なものは退ける。そして自己をますます自己たらしめ、さまざまな形式によってこの自己を完全に書き下し、一生を過ごす。これが文学者の一生である。
(一九一七年八月二九日作。『文学志望の人々の為に』より訳出。)
第138節
【詩について 武者小路実篤】
詩はいかなる時代にも存在している。人のいるところ、男女のいるところ、自然と人類の交渉のあるところ、そこに詩がある。嬰児には言語もなく、性欲もない。しかし詩はある。
山道を独り行くとき、言葉にならぬ詩がおのずと口をついて出る。海を見、野を歩くときも、歌を歌いたくなる。
人の心の中に詩があり、生命の中に詩があり、外界と調和するときに詩がある。詩は作るものだと言われるが、実は生まれ出るものである。いわゆる作るとは、その生まれ出たものを整理するに過ぎない。
詩は潤いのない心からは生まれない。詩はただ生き生きとした心からのみ生まれる。利害の打算と詩とは、縁の薄いものである。
詩には韻律(リズム)が付属している。その韻律は、その人の生命、呼吸、血行と関係がある。既成の形式に合わせて、自己の生命を充実させ流行させることも、時には面白いが、しかし内部にはともすれば形式を打ち破ろうとする力がなければならない。
この点は、水とよく似ている。大河は堤防によって力の氾濫を防ぎつつ存在している。しかし堤防は紙細工であってはならない。河の力は絶えず堤防と戦わねばならないのである。
堤防を避けて流れる川は、真の川ではない。尊敬すべきは、ただ内部から溢れ出る力を散漫にせず、極力集注の状態とし、溢れ出ることのできる前提としてあるという一点にある。
優れた騎手は、駑馬を駿馬に変える幻術師ではなく、ただ駿馬の力を統一し、それをいっそう発揮させ得る人に過ぎない。これは極めて平凡な話であるが、磨かなければダイヤモンドも光らないということである。しかしどれほど磨いても、瓦であれば仕方がない。けれどもそれが非常に大きな岩石であれば、また面白い。こう言えば、磨かなくても面白いという意味になる。しかし詩に関して言えば、自分の心の動きをそのまま表現することも、やはり一つの芸術である。領会は必要である。ただ、心の持つものをそのまま煎じ詰めて表現することが、ものにならないとは言えない。
自己の内部にあるものを、そのまま発揮させるとき、ただそれだけで大抵は立派な詩となる。
第一に最も肝要なのは本心である。世間話や受け売りは、つまらない。技巧は、やりようによっては面白いこともあるが、内部の生命が萎縮していては困る。
生命に満ちていないものを、私は嫌悪する。
火はさまざまな形で舞い飛ぶが、それは作為ではない。人の生命もさまざまな形で現れ、それが純粋になれば、すなわち詩である。
生命がたくましければ、自分の好きな装いで出てきてもよい。生命はますます発揮されねばならない。
この後、詩はだんだんと盛大になるであろうし、盛大にならざるを得ない。人造の人類、人造の社会における人類には、詩は不要である。
だから、生命を持って生まれてきた人は、生命が素朴に生きることのできる時まで、歌い続けるであろう。そして生命が素朴に生きることができるようになっても、なお歌い続けるであろう。
前者の時は、噴火山のごとく、
後者の時は、春の太陽のごとく、
詩よ、詩よ、生命の火よ!
燃え上がれ!
散文的な時代にこそ、詩はいっそう渇望されるように求められるべきである。
もし詩にそのような力がないとすれば、それは詩人の罪であり、詩人の力の微弱さを示しているに過ぎない。
(一九二〇年十二月作。『文学志望の人々の為に』より訳出。)
第139節
【新時代と文芸 金子筑水】
【第一】
文芸が社会改造の水先案内人の職務を果たし得るか否かを議論するよりも、直截に、文芸がいかにすればそのような職務を果たし得るかを思索する方が、意味があるであろう。しかし「いかにすべきか」というこの問題を処理するためには、順序として、まず第一の問題——文芸は果たして改造の水先案内人たる資格を有するか——について、簡単な検査を加える必要がある。
文芸の本質から言えば、実際上の社会改造は、もとよりその直接の目的である必要はない。人生に関する教訓が文芸の正面切っての職務とは限らないのと同様である。しかし人生に関して、文芸は他の何よりも多くを教えてくれるのと同じく、社会改造に関しても、たとえ実際的具体的な方法を教えなくとも、改造の根本的精神と意義を鼓吹することにおいては、他のあらゆるものに比して、おそらく文芸がより大きな力を持っているのである。私はまずこの点を説明したい。見方によっては、文芸が時勢を率いるのではなく、むしろ時勢に率いられ、時勢の反映が文芸であって、必ずしもその先導者ではないとも考え得る。換言すれば、時代が文芸を産むのであって、文芸が時代を産むのではない。したがって文芸は時代を代表し得るとは言えても、必ずしも新時代を創造するとは言えない、とも考え得る。確かに、時代の反映が文芸であり、文芸が時代から産出されることは、明白な事実であり、我々がこれを否定することはもとよりできない。否定できないのみならず、十分に承認しなければならない。しかしさらに一歩を進めて考えれば、この一事実をもって、文芸が新時代を創造することを否定することは必ずしもできない。時代から産出されて、さらに進んで時代を造り出すことこそ、文芸本来の面目であり本領である。一面では一定の時代精神を背景として産出されながら、他面ではこの時代精神の中に新たな特殊の傾向や風潮を造り出すもの、それが文芸の本来の姿である。当時の時代精神をいっそう強くいっそう深くするにせよ、そこから特殊の傾向を産出するにせよ、各種の改造や革新を促すにせよ、あるいはまた自らを生んだ時代とはまったく相反するかのような新時代を産み出すにせよ、さまざまな意味において、文芸が時代の革新あるいは改造の根本精神と関わること——関わるというよりも、それを本来の特殊な面目とすること——は、理論以上に、事実が朗然と証明しているのである。最も顕著な事実だけを取って一考してみれば、ヘルダー(Herder)、ゲーテ(Goethe)、シラー(Schiller)らの理想派文芸は、新時代の先導者あるいは指引たらなかったか。ヘルダーの人文主義は、当時一種の崇高な気運を造らなかったか。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』、『ファウスト』、『ヴィルヘルム・マイスター』が、最も顕著で最も特殊で、しかもある意味では最も優秀な傾向と時代を造り出さなかったと言えるであろうか。同じ意味で、シラーの『群盗』、『ヴィルヘルム・テル』は、理想派的な意味での最も高貴な「自由」の精神と意気を新たに造り出したのではないか。最近の例を取れば、トルストイの文芸と思想は、新時代の構成に対して、最も深刻かつ最も微妙な影響を与えなかったか。我が国の文壇と思想界においても、その影響は最も顕著かつ最も深刻ではないか。人道主義的、世界主義的、社会主義的、かつキリスト教的思想傾向は、トルストイの文芸によって、最も広遠に宣伝播布されたのではないか。現在の新時勢は、もちろん世界的な協同の下に造り出されたものであるが、その中でトルストイの力に帰すべき部分は、きわめて大きいと認めなければならない。彼は確かに、今日の新時代を産み出した最大の一人であると言い得る。
文芸の生命は創造である。各種の意味における精神と傾向を創造する中に、文芸の生命がある。もしこのような創造の特性を抽き去れば、文芸には何の価値もない。文芸の価値は、旧時代と旧精神を破壊し、新しい活発な生活の林間路(ヴィスタ)を切り拓くことにある。単に時代精神に牽かれるのみで、積極的に時代精神を率いることのできない文芸は、文芸の名はあっても、実はその面目を発揮し得ない低級の文字に過ぎない。とりわけ今日のような世界大動揺——一切を根本的に造り直さなければならない時代にあっては、文化の目指すべき大方針を、最も具体的に最も鮮明にしかも最も活発に指し示すものは、いかなる面から見ても文芸であるべきである。実際的直接的な施策は文芸の能事ではないが、新文化の目指すべき最も根本的な方向と精神は、文芸と哲学によって暗示されるべきである。そしてこのような改造の根本的精神は、文芸家と哲学家と天才が、現代の動揺の根底から発見し創造した新精神でなければならない。今日の文芸家の努力と理想の所在は、まさにこの地点にある。この理想に向かって邁進しないすべての文芸家は、要するに、時代に遺棄された一群の落伍者に過ぎない。
【第二】
将来の文芸はいかなる方針で進むべきか。来たるべき文芸の進路はいかなるものか。このような傍観的な預言者めいた疑問を発するよりも、ただちに文芸の将来をいかにすべきかを決定することこそ、今日の急務である。時勢は日を追って切迫している。今日はもはや文芸が究極どうなるかを問う時ではなく、今日の文芸がいかにあるべきかを決定する時なのである。そしてその実、究極どうなるかではなく、文芸家の積極的な努力によって、こうしようと思えば将来の文芸はそうなるのである。私はこのような意味において、簡単に来たるべき新時代と文芸の関係を考察してみたい。
来たるべき新時代と言えば、問題は大に過ぎて簡単に処理し難い。しかし改造また改造こそが、今日の中心的傾向である。改造の根本精神とは何か。いかなる目的のために社会改造を行わなければならないのか。もしこの一点すら明瞭でなければ、なぜ改造と叫ぶのか、なぜ社会改造を必要とするのかさえも、きわめて不透徹である。この時、我々は将来の社会生活がいかになるかを問うべきではなく、ただちに将来の社会生活をいかにすべきかを決定すべきである。将来の社会生活——正確に言えば、今なお無意識に人心の深処に潜伏している理想、まだまったく隠されている理想と傾向が、いつ事実上実現するかは、目下まったく知り得ない。しかし将来必ず実現しなければならない理想あるいは要求が、ほとんど無意識に今日の人心の深処で作用していることは、殆ど疑うべからざる事実であると私は考える。私はここでこの要求あるいは理想を明確に説明することはできない。しかしそれがおおよそいかなる種類のものであるかは、今日の人々もすでに自ら認識し領悟しているのである。
十九世紀がとりわけ産業主義の時代であったことは、今さら説明する必要がない。来たるべき二十世紀も、ただこの産業主義の一面で時代が推移してゆくのか。もちろん、産業の発達と工商業の進歩は、現今そして今後の人類の生活にとって不可欠の要件であり、この一面の文明の進歩がなければ、将来の社会生活は到底想像し得ない。しかし産業的生活は、果たして人類生活の全体であるか。人類生活は産業生活の一面だけで果たして満足し得るか。ここにこそ、文芸家と哲学家が抱懐する大いなる問題がある。十九世紀とは、最初の理想主義的文明を除けば、おおむね産業主義の一面に偏した時代であった。物質生活の拡充こそが十九世紀文明の主要な傾向であった。ラッセルの言葉を借りれば、占有欲望の一面だけが満足を得、あるいは満足を得ず、創造欲望がほとんど全面的に抑圧され中断されたことが、十九世紀文明の特徴である。人心は占有欲望を満足させ得る手段——金銭財宝の方面に偏して突進した。十九世紀において人心の中心的要求であったのは、理想でも神でもなく、おおむねマモン神——金銭であった。今日の人々がなお十分に領悟すべきことは、十九世紀において自然力——自然の機械的な力がほとんど完全に人間の力を圧迫し、人類の自由を「自然」に奪われたということである。自然科学が哲学の全野を占め、実証主義の風潮があらゆる人心を支配し、各種の機械と技術が精神活動の全体を支配した。一切が自然科学化され、自然化され、機械化され、人類特有の自由がほとんどなくなった。知識——機械化された知識が精神活動の主要部を占め、感情と意志の力がほとんど全面的に蔑視された。世間はこうして乾燥無味な主知主義——浮薄皮相な唯理論に支配され、人心はきわめて冷静なものとなった。
文芸においては、あらゆる意味での写実主義が全体を支配した。それのみならず、十九世紀後半に至って、自然主義がすべての文芸の基調となった。冷たい理知的機械的な観察と実験こそが、文芸全体を支配する傾向と精神であった。
二十世紀は十九世紀の旧文明のまま前進するのか。全世界に瀰漫する改造の大機運は、旧文明にいくらかの修繕を加えるだけで、来たるべき二十世紀を進行するのか。人心は始終、十九世紀の産業的文明に満足し続けるのか。前代の文明に対する甚深な不満が、今や半ば無意識に人心を支配していないと言えるか。鋭敏な直観力をもって今日の世界的動揺を審察すれば、十八・十九世紀以来人心を支配してきた偏産業主義・偏理知主義に対する不安と不満がすでにきわめて鬱積しており、その大部分は、この強烈な圧迫から逃れて、本来の人間性の自由を味わいたいという熱望と苦悶ではないのか。それならば最近の世界大戦は、字面の通り、十九世紀文明の決算を行う大いなる暗示ではなかったか。十九世紀末に至って、十九世紀文明に対する不安不満の傾向はすでにきわめて顕著であった。世紀末文芸は、この不満懊悩の声と見ることができる。社会主義的精神と各種の社会政策は、物質的圧迫から民衆を救い出そうとする方法と努力と見ることができる。
このような意味において、来たるべき二十世紀には、いかにあっても、十九世紀文明に代わる新文明を造り出すべきである。これは産業的文明や自然科学的文明を否定する意味ではないが、少なくとも、産業主義の一面に偏しない新文明——産業主義を単に生活の根脚とする超産業主義の文明——すなわち人間性の自由を発揮し得る新文明を造り出すべきである。ここに改造の真義が含まれ、ここに生活革新の真の精神が興るのである。
したがって来たるべき新文芸——私が敢えて新文芸と称する所以は、新文芸でなければ世界改造の大事業に関わる権利がないという意味である——将来のこの新文芸は、当然、来たるべき新文明に対して暗示、予想、創造を加えるものであるべきである。新文明がすでに世界民心の真摯な要求と理想であるのと同じく、新文芸もまた世界民心の必然的な要求と理想であるべきである。来たるべき新文明の根本精神を予想し創造するものは、将来の新文芸——いや、今日の新文芸でなければならない。したがって将来の新文芸は、前代の自然主義の文芸とは面目を大いに異にすべきである。もし自然主義的文芸が、人類の自由性が自然力に圧迫されている状態を描写するものであるならば、新文芸の眼目は、一面においてこの自然力あるいは必然力を承認しつつも、なおこの自然力を踏み越えて、人類の自由性がさまざまな途を取って発露展伸する姿を描写することにあるべきである。十九世紀末の文芸は、すでにこの方面への暗示を多く与えていた。トルストイの思想と文芸は、その最大の適例である。したがって見方によっては、新文芸は自然主義的というよりも、新理想主義的——もし新理想主義という言葉に語弊があるならば、新人道主義的、あるいは新人間主義的と称されるべきであろう。文芸の範囲を人間性の一面に限定するのではなく、全人間性の発露を目的とすること、これが新文芸の特徴であるべきである。しかし現今はなお、人間性がさまざまな機械的束縛と自然の圧迫に苦しんでいる時代である。いかにすれば、これらの束縛と圧迫から自己を解放し得るか。これが今日当面の問題である。したがって今後の新文芸であっても、当分の間は、これらの束縛からの解放を希求することに悩殺され、その主要な傾向は自由への熱望と苦悶とならざるを得ないであろう。将来の文芸が一飛びに新人間主義へ転ずるとは限らない。しかし世界の文芸は、いつかはいかにあっても、この方面へ向かって進行すべきである。さもなくば、人間性は自然に虐げられて、本性を失ってしまうかもしれない。人間性の発露のために、いかにあっても、ここに述べた新生面を切り拓かなければならない。
もし今日の世界の動揺が、単なる「動揺のための動揺」ではなく、民衆を物質的必然的機械的束縛から救い出し、文化の光明に浴させることにあるならば、今日の動揺の前途は、束縛と圧迫の解放にとどまらず、さらに進んで全人間性の完全な発達を図ることこそが、一切の努力の目的と理想であるべきである。新文芸が開拓し得る領地は、殆ど無限である。これまでの理知に偏った文芸は、人間性の無限の柔・深・温・強・勇といった面において、さほどの経験も創造もしていない。理知、とりわけ自然科学的理知は、あまりに浅薄で皮相で表面的であった。厳格な意味での「深さ」は、これまでの文芸がさほど発揮していない。虐げられた人生の苦悩が、これまでの文芸が示した「深さ」であった。将来の文芸は、全人間性が必然性に打ち克ち、人が人らしく、本然の人に帰り、あらゆる人間性が豊穣に、自由に、複雑に、あるいは優美に、あるいは温かく、あるいは深刻に、あるいは勇壮に、あらゆる方面に自由に発露展伸する姿を、自在に経験し創造し得るべきである。文芸家はすべて、人間性の自由な開発に対して、十分に豊穣に、十分に深刻に、率先して親身に経験すべきである。彼らがあらゆる意味での改造運動に関わり、その水先案内人たるゆえんは、彼らが普通の民衆よりも先に自由への熱望と解放の苦悶を味わい、さらに進んで複雑な人間性を広大に、深邃に、細密に、強烈に親身に経験し、玩味し、観照したからこそである。普通の民衆よりも一歩先んじて、民衆の歩み得る進路を開くところに、文芸家の天職がある。我々がこの文芸家の天職と対照するとき、今日の文芸家の哀れさを痛感せざるを得ない。将来の文芸家はすべて、この意味において、いかにあっても先陣を切る勇壮な勇士であるべきである。繊弱と怯懦は、いかなる面から見ても、将来の文芸家の資格を持たない。
(一九二一年一月作。『文芸の本質』より訳出。)
第140節
【階級芸術の問題 片上伸】
【一】
第四階級の芸術ということが、しばしば言われる。無産階級の芸術が新興するであろう、また興るべきであるという話が、しばしば言われる。しかし、いわゆる無産階級の芸術とは何であるか。その発生創造には何を必要条件とするか。さらに、これと現在ないし従来の芸術との関係はいかなるものか。
第四階級の新興は、すでに事実である。彼らが自己の内発的な力に拠り、自己以外の階級からの指導的勢力を避けるに至ったことも事実である。第四階級の力が遅かれ早かれ自己内発の新文化を創造するであろうことは、もはや疑いの余地がない。
〔以下、片上伸は階級芸術の問題を八章にわたって論じる。
第二章では、従来の第四階級出身の芸術家の例外的存在、有閑有産階級の芸術としての古典主義・ロマン主義・写実主義・自然主義・象徴主義等すべてが同一の発生条件(特殊有閑有産階級の存立)に立つこと、無産階級の芸術がこの条件を否定・打破して全く別種の自由な環境から産まれるという展望を述べる。
第三章では、「好い芸術は階級の区別に関わりなく価値がある」という命題を吟味し、有産階級の芸術に見られる「雄大な天才の光」は不自由不合理な条件下での誠実の力によるものであること、社会組織が変わり無産階級が過去の芸術から天才の光を発見する時代が来るであろうことを予想する。
第四章では、有島武郎の『宣言一篇』を詳細に批判する。有島が有産者であることを自認し無産階級の芸術と無関係であると宣言したことに対し、片上は有島の論理的明快さの裏にある「深心妙算」、理智的な自己防衛、「改悔の貴族」への冷淡さ、自己の心情の矛盾への不感症を指摘する。〕
【五】
〔第五章では、約十年前のロシア文壇における階級芸術論争——ケリーニン、ユシュケーヴィチ等の議論を紹介する。無産階級の闘争意識と芸術創造の全人類的幻象の矛盾について。〕
【六】
〔第六章では、十九世紀末から二十世紀革命前のロシア文学の二つの路線——人生の多角的把握と新形式の創造——を概観する。ゴーリキーのロマン主義と写実主義、クープリンの色彩豊かな写実主義、アレクセイ・トルストイ、アルツィバーシェフ、ソログーブ、アンドレーエフ、チェーホフの簡潔な描写から象徴的手法への発展、未来派の言語実験、革命による旧文化の破壊を描く。〕
【七】
〔第七章では、革命後のロシアにおける無産階級詩人の出現を報告する。一九一八年から一九二〇年の間に出版された文芸書籍三百六十五種、うち新しい労働者詩人三十人以上。これらの詩は破壊的・復仇的ではなく、日常の労働の賛美、労働者の文化的意義の讃歌、都会と工場への愛を歌う。ガラシーモフ、ポレターエフ等の詩が代表的作品。その芸術的特色は客観的・現実的・明確であり、革命前の主観的・病的・神秘的象徴主義への反動、プーシキンの「ロシア写実主義」への復帰である。〕
【八】
無産階級の世界は、ロシアにおいてさえ、なお本来ただ一つの拠り所に過ぎない。故に無産階級の芸術は、十分な意義において、まだ創造と鑑賞の条件を具備していないことも明白である。このような時期に創造された無産階級の新芸術が、まず形式最も簡単で、印刷にも便利な、創造と鑑賞にも比較的多くの条件を要しない詩歌から、その第一声を発したのは、極めて自然なことである。ここに何の階級的憎悪があろうか。ここに何の時勢への迎合があろうか。一切は純真な魂の歓喜であり、新生の最初の叫びである。詩とは、いつの時代にも、実に人類の真の言葉である。言葉の中の言葉である。
「天雷一たび声を発すれば、農夫十字を切る。」
これはロシアの有名な諺である。雷はまだ鳴っていない。しかしいつかは必ず鳴る。必ず鳴るのだ。我々の前に、これから多くの内外の紛糾が生ずるであろう。無産階級芸術の主張もまた、その雷鳴の予感に他ならないのである。
(一九二二年二月作。『文学評論』より訳出。)
第141節
【「否定」の文学 片上伸】
【一】
否定は力である。
まことに、生ぬるい肯定に比べれば、否定は遙かに深く強い力を持っている。
否定の力の発見は、生命が躍動している証拠である。否定はまさに肝要なものを生み出し、否定はまさに肝要なものを養い成す。
否定によって自己を表見する。否定によって心の泉が流れる。否定によって自ら活路を見出す。
少なくとも、ロシア文学から見れば、このことは真実である。ロシア文学は否定から発源した。ロシア文学は否定の中から産み出された。十八世紀以後、ロシア文学が成立してからの事実は、まさにそうなのである。
ロシアの現実——その現実の見解は、なおさまざまに異なっている。現実の内容およびそれに対する解釈も、時により人により、さまざまに異なる。しかし、要するに、ロシアの現実を対象として、これを肯定するのか否定するのか、この事はつねに重要な問題であった。たとえ平素はこのような問題に意を措いていないように見えても、心の動揺が深まれば深まるほど、その動揺の底から、形は違えども、つねに現れ出るのはこの問題なのである。誰もが知っている例を挙げれば、トルストイもそうであり、ツルゲーネフ、ドストエフスキーはなおさらである。近時においては、ゴーリキー、ブローク、ソログーブ、ベールイ(Andrey Bely)がそうであり、その他名を挙げればきりがない。
ロシアにおいては、東に向かうか西に向かうかの問題、科学に向かうか宗教に向かうかの問題、魔に向かうか神に向かうかの問題がある。そしてこれは、ロシアの現実をいかに否定するかの問題であり、すなわちこれをいかに肯定するかの問題でもある。そしてこの問題の批評に先立って、つねにピョートル大帝が持ち出される。ピョートル大帝そのものを否定すべきか肯定すべきかという問題もまた、しばしば研究されている。
【二】
君主が指導者として、中枢として、国家的見地から、性急に、大胆に、しかも透徹して一国の文明文化を改革しようと決意する。弁別し得る者、いくらかの批判を知り、是非を明らかにし得る者は、みなその批判弁別の力を、国家的見地を根底とする改革に向けるべきである。なぜなら当時においては、これ以外に批判弁別の力を向け得る対象がなかったからである。要するに、社会にはここから批評が生じた。世論と称し得る萌芽が生じた。あらゆる批判は時事評論であり、国家的見地の改革を主題とする時事評論であった。
これがピョートル大帝時代のロシアである。——しかしこの時代の時事評論には、力の対立は見えない。少なくとも表面上は、力の対立はその評論の上に見えないのである。不平もあり、誤解もあり、呪詛もあり、怨嗟もある。——しかし一方には、主導力たる君主が立ち、しかも非凡な決行者、精悍で聡明で猛然たる決行者が立っている。これに対抗して立ち出でることは、すなわち死である。かくして表面に現れる時事評論は、言うまでもなく、この主導力を中心として、その改革の意義を説明し弁護するものであった。時代の聡明な知力、その時代の最高の知力は、おそらく改革の意義を説明し弁護することをもって、自らの本分と認めたであろう。改革の意義を認めない者は、主導力たる君主に衝突する者と見なされるよりも、むしろ文明の自然の勢いに抵抗する者、換言すれば正当な力に抵抗する者と見なされたであろう。そう考えなければ、その時代の最善最高の知力に対する侮辱となるのである。
要するに、評論の対象は国家であった。時代の最善最高の知力が表明したのは、「君主の意志の是認」であり、文明改革の弁護であった。ここには個人の心の影を投じ入れる余地はなかった。皆一致して改革を是とすべきであった。時代の勢力に対する順従であった。
ピョートル大帝以後、文学はもっぱら文明とこれに留意する君主の讃頌のためのものであった。真の社会的根拠を持たない当時の文学は、自然と宮廷のためにのみ書かれた。精一杯の、明瞭な、少しも恥じるところのない阿諛が、デルジャーヴィンが女帝アンナに捧げた、日本との通商を予言した詩にも見ることができる。しかしこれらの阿諛の作品は、宮廷の貴人たちにさほど顧みられなかったこともまた事実である。なぜなら文学あるいは文学者は、当時の貴人たちからは軽侮と嘲笑の眼をもって見られるに過ぎなかったからである。
【三】
「君主の意志の是認」から、多くの顧みられぬ宮廷的阿諛の詞華を経て、エカテリーナ二世の時代に至り、ロシア文学はようやく個人の心の濃い投影を見、ロシアの現実に対する否定の表白が現れ出たのである。ラジーシチェフがその『ペテルブルグからモスクワへの旅行』(一七九〇年)の中で、「およそ農民たちが地主たちから自由を期待することは無益であり、むしろ最も苛酷な奴隷状態の中からのみ期待すべきである」と述べたのは、まさに強い否定の中からのみ真の肯定を生み出す意に他ならない。エカテリーナ二世はこの書を一読し、ラジーシチェフが「農民の叛乱に未来の希望を置いている」と見なしたが、この書の真意を真に理解してはいなかった。しかし、地主の善意と好意の幻影への期待が消滅したことは、ラジーシチェフの心の影をいっそう濃く、いっそう深くした。この一篇はむしろラジーシチェフの詩であった。憤慨、嘆息、傷心、自責の心の隅々から、おのずと溢れ出た一篇の詩であった。「我々が主人であるがゆえに、我々は奴隷である。我々が同胞を拘束しているがゆえに、我々自身が農奴である」と後に述べたヘルツェンの心は、ラジーシチェフの言葉の中にすでに随所に発見し得るのである。外部の観察から一転して「我が内部を見れば、人類の不幸もまた人類から生じていることを悟る」というラジーシチェフのこの言葉には、抑え難い熱意と鮮明な感情の色彩がある。これは詩である。
ラジーシチェフの否定の詩は、ロシア文学の道を開拓した。少なくとも、農奴制度への反抗を中心とする懐疑的、批評的、諷刺的心情の中——現実の否定の中に、ロシア文学はようやく歩むべき道の出発点を真に発見し得たのである。
ロシアは最初から、死すべき運命を持っていた。自ら破壊すべき運命を持っていた。自ら破壊し、自ら処死して、そこから初めて自ら蘇生し、自ら建造するに至ること、これがロシアの運命である。ロシアの生活の全過程は、自己の破壊、自己の否定を出発点とせざるを得なかったのである。自己を否定し得た後に、ロシアは初めて自己を活かす道に入った。否定による肯定、死による生、この道を、正直に、大胆に、透徹して、しかも猛然と前進してきたのが、ロシアである。行方知れずのトロイカ(三頭立ての橇)と呼ばれるものは、要するに、生を求めるがゆえに死に急ぐロシアの姿にほかならない。
否定の道は、もとより艱険である。死すべき運命を持つロシアが、死のために幾多の苦悩を経たことは、言うまでもない。しかしそのゆえにこそ否定の力はいっそう強く、いっそう深くなった。苦悩によって、自己に対する要求はいっそう高くなった。ロシアの文学は、この否定の力と矜持の心の表白であり、生を求めるがゆえに死に赴く者の地獄巡歴の記録である。その色調にある種の峻厳苦渋の痕が添えられるのは、やむを得ないことである。陰惨幽暗な深谷を出て無辺の曠野に向かうときでさえ、広遠な歓喜の中、北方の白日の下に、影なき小鬼の跳躍を見、風靡する万千の草莽の無声の呻吟を聴く。これはまさに生を求めるがゆえに、死して再び死に赴き、死して再び死に赴く、無抵抗の抵抗の姿にほかならない。ロシアの求生の力には、これほどの深さ、これほどの壮大さ、これほどの豊饒さがある。
【四】
ロシア文学における懐疑の胚胎は、おそらくラジーシチェフ以前、あるいはフォンヴィージン以前にまで遡るべきであろう。ピュピンが『文学的見解の品評』の中で論じたように、深邃な懐疑と否定の力は、潜伏する力量として、鬱屈しながら早くから存在していたであろう。フォンヴィージンやラジーシチェフ以前にも、諷刺劇詩人カンテミールのように、時代の懐疑的傾向を表現した者もいると言える。しかし忍従をスラヴ民族の最高の美徳と見なす人々は、これらの早い懐疑的否定的傾向を、ただ外部から到来したものと見なした。しかし最もよいのは、十七世紀にロシア正教会を中心としたギリシア派とローマ派の争い、教会の分離が、究極のところ何を表明しているかを考えてみることであろう。教会の分離、異端の発生、これらの事象を一貫する精神は、まさに深邃な懐疑的否定的精神ではないか。この精神こそが、文学における現実否定の思想でもある。これがラジーシチェフの『ペテルブルグからモスクワへの旅行』となり、フォンヴィージンの喜劇となり、グリボエードフの『智恵の悲しみ』となり、レールモントフ、プーシキン、さらにはゴーゴリおよびその他の作品となったのである。懐疑と否定の力が、ロシアの文学においていかに重大な力として顕現しているかは、順を追って述べてゆけば、おそらく明らかになるであろう。
懐疑と否定とは、要するに、個人と社会の分離を意味し、個人と国家の分裂を意味する。現実との妥協の不可能、現実の是認の不可能は、本来の意味において生活の一種の変態である。苦悩はここから発生する。ロシアの文学は、この苦悩に沈淪する幾多の人物を描いてきた。現実生活の常軌を脱した「余計者」は、この分裂を根本的に除去するために、さらに苦悩した。周囲の現実に対する軽侮と嫌悪の苦しみの中から、しばしば絶望自棄の色が見える。とりわけ、ロシアの懐疑は、科学に基づいて、たとえば国家的見地から農奴の問題を考察する以前に、その根底にこれらの考察よりも深い、直接端的な感情があり、懐疑と否定の底裏に、良心の憤激と感情の悲傷が中心の力として躍動しているのである。しかしエカテリーナ二世の時代からアレクサンドル二世の即位まで、殆ど百年の間、ロシアにはこの傷心と憤激をいくらかでも慰め得る改革は行われなかった。百年の間に、生活は成長した。国家としてのロシアは成長した。思想も成長した。しかし生活の形式は旧態のままであった。官僚政府の発達とともに、農奴制度もいっそう堅固に維持された。かくして思想は一切が反抗となった。そしてこれは苦悩と嘆息の声とならざるを得なかった。嘆息の声はヴォルガの大河の上にのみ満ち溢れていたのではない。ロシアの文学こそが、この嘆きの歌、この憤怒の詩なのである。
【五】
ゴーゴリはかつて自作の『死せる魂』の一節を取り出して、プーシキンに読んで聞かせた。ゴーゴリの朗読を聞くたびに、プーシキンは大抵笑い出すのが常であったが、ただこの一度だけは、傾聴するうちに次第に粛然とし、ついには何とも言えぬ暗澹たる色を帯びるに至った。ゴーゴリが読み終えると、プーシキンは非常に凄涼な調子で言った。「ああ、我がロシアは、何と憂鬱であることよ!」
憂鬱なるロシア!この憂鬱の中から、一致し難い矛盾の中から、ロシアの否定の精神は生まれた。諷刺の文学が生まれた。十八世紀末から十九世紀にかけての諷刺の文学は、笑いの中に解放を求めた。およそ可笑しいものは恐るるに足りない。少なくとも、可笑しいものの前にひれ伏す必要はなくなった。笑う者は、笑いの対象たる可笑しいものの上に立ち、可笑しいものは卑小に見え、つまらなく見える。ゴーゴリに描かれれば、地主はその人を脅かす力を失い、ゴーゴリに描かれれば、官僚はその愚昧を曝露した。笑いは農奴制度と官僚政治の幻影を消滅させた。笑いは破壊であり、笑いは否定の力である。
ゴーゴリは人々にロシアの現実のさまざまな空虚を示した。苦悩しながらこの空虚の中に生きること、それはまことに凄惨で恐ろしいことである。ゴーゴリはこの笑いの中に凄惨さを持ち込んだ最初の人である。笑いを、諷刺を、悲劇的なものとしたのが、ゴーゴリである。
これはヘルツェンの言うところの「異様な笑い」である。「凄惨な笑い」である。「身の毛がよだつ笑い」である。この笑いの中には、自責自愧の感と、自ら良心を噛む苦しみがある。「あまりに可笑しくて涙が出る」のではなく、「泣いて泣いて、ついに笑ってしまった」という哭笑である。
あるいはまた、国家の偉業と英雄の功業のために、その台石の下に踏み潰された、弱小凡庸な人の一生がある。あるいはまた、現実の桎梏を脱し、天馬が空を駆けるかのように自ら身を滅ぼす傲者がいる。これらの人に対して、プーシキンもレールモントフも、必ずしもそれだけの人とは見なさなかったであろう。
これらはすべて否定の試みであり、懐疑である。死すべき運命を持つロシアが、死に向かって赴く道程の記録である。ピョートル大帝の銅像の下に踏み潰された凡人の反抗、地上に天馬空行の気概を実現しようとする傲者の破壊——誰がこれを二十世紀の革命でないと言い得ようか。死によって生を得ようとする否定の力、それが革命である。ロシアの文学を、否定の力の発見としてのみ見るのは、なおいくつかの複雑な要素が残るかもしれない。しかしこの力を中心として、この一角からロシア文学を読むことは、決してロシア文学に対する冒瀆ではない。否定の力——生を求めて死を尋ねるこの力は、豊かで、複雑で、変化に富んだ力である。地に落ちて身を滅ぼす一粒の麦の中に含まれた力は、いつかは必ず現れ出るのである。
否定の力としての文学は、すなわち生存の力としての文学にほかならない。もう一度言おう。ロシアは最初から、死すべき運命を持っていた。自ら破壊すべき運命を持っていた。自ら破壊し、自ら処死して、そこから初めて自ら蘇生し、自ら建造するに至ること、これがロシアの運命である。ロシアの文学は、自己の否定を出発点として、否定による肯定、死による生、この道を、正直に、大胆に、透徹して、しかも猛然と歩んできたのである。
ここにロシア文学の苦悩と悲哀がある。ここにロシア文学の力がある。地獄に下って魂を救った者の凄惨と歓喜と、力がある。
(一九二三年五月作。『文学評論』より訳出。)
第142節
【芸術の革命と革命の芸術 青野季吉】
【一】
無産階級の芸術運動もかなり進展してきた。相当に有力な無産階級の作家と批評家もすでに出現した。無産階級の芸術は、とうの昔に動かし難い事実である。いかにブルジョア批評家の斜視乱視を用いても、この事実を押しのけることはできない。
しかし私は、無産階級の芸術運動が進展すればするほど、その堕落と迷走をいっそう憂える者の一人である。私は人類社会の進行を信じ、このためにささやかな自分の力を捧げたいという一端においては、楽観主義者である。しかし人類のある時期、あるいはある人々の群れを取り上げて、その動きを省察する際には、悲観主義者の態度を棄てない。これをブルジョア的習癖の多疑の態度だと言う人もいるかもしれない。しかしそれは誤りである。もし無産階級運動が単なる群衆運動ではなく、全階級的な組織運動であるならば、その立場に立つ我々は、一面では常に楽観主義者でなければならないと同時に、他面では悲観主義者の準備を欠いてはならない。無産階級の戦士の徹底的な写実主義は、もともとこの楽観主義者としての要素と悲観主義者の準備との渾然たる融合のところから産み出されるものなのである。これがあってこそ、信仰を知ると同時に闘争をも知るのである。
たとえ今、私が無産階級の芸術家に対して何らかの責難を加えたとしても、それが幼きものの成長を妨げると考えるのは正しくない。成長を信じなければ、真の責難を加えることもできない。正当な成長を凝視しなければ、堕落と迷走を指摘することもできない。無産階級の芸術の未来を信ずることにおいて、私は人後に落ちない。ただ私は、現在の無産階級運動の真の進行を凝視し、そのためにわずかな力を尽くすことの不足を恨むのみである。しかし未来を暗くする堕落、真のものの進展を傷つける迷走に対しては、いかなる名目を託されようとも、私は黙していることはできないのである。
【二】
芸術とは、言うまでもなく個人の所産である。個人の性情と直接の経験が、ここに個人の数だけの色彩を造り出すのは当然のことである。たとえ無産階級の芸術であっても、芸術家各人の先験後験の準備によって、自然にいくつものヴァラエティが生まれてくる。とりわけ、無産階級の芸術運動は一つの主義の運動ではなく、一つの階級の運動であるから、なおさらそうである。無産階級の芸術が取るべき形態はかくかくであるべきだと言うのは、無産階級の芸術運動の拡大に目を向けていない人々の言葉に過ぎない。
ここにはヴァラエティがあり得る。そうでなければ、健全な芸術の発端とはならない。しかし他面においては、無産階級の芸術としての動かし難い共通の要素がなければならない。この共通の要素こそが、無産階級の芸術が階級的芸術運動として、その革命的芸術の意義を発揮するものなのである。
労働階級の側からこのことを見ても、同じである。各々の労働者は、それぞれの色彩をもって、その生活を営んでいる。しかし労働階級が一つの革命的階級であるゆえんは、各々の労働者に共通の意識があり、しかもそれが成長の可能性を持っているからである。この意識を持たない労働者は、形こそ労働者であっても、いかに貧苦の洗礼を受けたところで、ブルジョアジーの隷属動物と変わるところがない。
しからば、無産階級の共通意識、無産階級文芸の持つべき共通の要素とは何か。第一に挙げるべきは、言うまでもなく、革命的精神である。
貧窮に喘ぎ、蹂躙され、飢餓に苦しむ人々を描いた芸術は、これまですでにあまりに多かった。自然主義運動以後の文学において、労働者や農夫を描いた作品は枚挙にいとまがない。しかし、労働者や農夫を描いたからといって、無産階級の文学であるとは言えない。それはなぜか。作者が封建的な哀憐やブルジョア的な理解の目をもって眺め、描いたからであり、作者に無産階級の革命的精神という共通意識ないし要求がなかったからである。
作家がある時期に労働生活を送ったことをもって、これを唯一の資格として無産階級の作家と見なすことは、できない。今やブルジョア芸術を得意として書いている人々の中にも、かつて労働に従事した者は少なくない。暗い炭坑の穴から這い出て炭鉱王になった者もあり、逃げ出すまで貴家の娘に媚びていた者もある。過去に労働生活をした経験があるということが、無産階級の作者の資格の帰結ではないという証左がこれである。もちろん、過去の労働生活は高価なものである。しかしそれ以上に高価なのは、そこから労働階級の革命的意識に到達した経験である。目の前に、労働生活から出た作家がいるが、沈潜した革命的意識を完全に持っている者が次第に薄れてゆくのを見ると、惜しまずにはいられない。しかもこれらの人々が革命的芸術の名を冒瀆しているために、無産階級の芸術運動の鋭角がいかに次第に鈍角に化しているかを見るのである。
誤解してはならない。革命的精神と言っても、ヒステリックな絶叫や前後不顧の暴走を指すのではない。感傷的な呪詛や末梢神経的な破壊欲を指すのでもない。このようなことで革命の快感を味わうのは、最も非革命的なことである。もし習俗的な意味での革命詩人というのであれば、それはそれでよい。しかし無産階級の芸術家の共通意識たるべき革命的精神は、そのような皮相の欲求ではない。
さらに、これをあのブルジョア作家たちが盛饌の付け合わせとして好む反逆的精神の類と同一視してはならない。ブルジョアの作家の動揺層は、退屈な心境の換気法として反逆的精神の辛味を好み、これを革命的意義と結びつけようとさえする。しかしこれはまったく異なる二つのものである。無産階級の作家の共通意識としての革命的精神は、無産階級の歴史的進行とともに成長してきた階級意識である。芸術が無産階級によって革命されるのは、この歴史的必然力があるからこそである。無産階級の芸術が革命的芸術であるゆえんは、この共通意識に支えられているからこそである——ここに付言すべきは、未来派や表現派のような芸術革命の前駆としては、我々はその貢献を認めるが、革命的芸術としての無産階級の芸術には、彼らに欠ける強固な階級意識が必要だということである。
【三】
無産階級の階級意識は、いかなる意味においても、ブルジョアの個人主義とは相容れない。これをブルジョアの個人主義と対立させて一考すれば、まさに非個人主義的精神に照らされていることが分かる。人々はしばしば社会主義と個人主義の関係に心を砕き、社会主義の世に至れば個人が没却されるのではないかと心配し、盛んに論を立てようとする。しかしこれが指し示す個人の内容が、ブルジョアの個人主義が尊重する意味のものでないならば、このような「個人」は、無産階級の支配、階級社会の消滅する未来において、当然死滅すべきものである。これは太陽を指さす以上に明白なことである。個人主義的精神は、近代ブルジョア社会が完成した唯一の道徳原理である。しかも観念上の所産がしばしばそうであるように、この歴史的精神もまた、永遠の高座に冒し置かれ、超時代的ないわゆる永遠の理想の上に担ぎ上げられた。ブルジョアの教養のあらゆる道はこれに接続し、ブルジョアの支配はさらにこの名目によって永遠の幻覚を引き起こそうとする。しかしその下には、革命的な無産階級の意識が成長し、新しい内容を持った心情が、必然の進行によって拡大しつつあった。
これは決してブルジョアの個人主義の心境ではない。まったく別様の意識である。かつて私はこれを「コムレード(仲間)の心情」と称したことがあるが、とにかくこの心情と個人主義的精神とは、まったく別のものである。この革命的意識の成長は、言ってみれば、無産階級の革命的成長にほかならない。宗教的傾向のある人々は好んで言う——無産階級は未来を支配しようとしているが、なお資産階級的闘争精神に満ちている以上、無産階級の支配する世界もやはり醜悪な功利精神の世界であろう、と。これをもって階級闘争反対の理由とする。しかしこれらの言説の誤りは、無産階級の階級的な新意識の生成を見さえすれば、自ずと明白となる。
我々は無産階級の文化の成長を信じる。そして無産階級の文化を予期させるものは、実にブルジョア文化の根源たる個人主義的精神とまさに正反対の非個人主義的精神であるべきである。そして無産階級の芸術を予期させるものは、無産階級のこの共通の新意識であるべきである。
これを、やはり非個人主義的な宗教的心情と混同してはならない。宗教的なあの心情は、個人主義の重荷に堪えられない正直な者たちが集まって互いに助け合う、消極的な避難民の心情である。それも非個人主義的かもしれない。しかし積極的な意識の結成ではない。世界を支配し得る必然の予期を持った意識ではない。非個人主義に転化したとはいえ、つねに個人主義的精神の反撥を受け容れている心情である。無産階級の共通意識としての非個人主義的精神は、積極的な生成であり、避難民の心情ではなく、占領民の心情である。
私はこの非個人主義的精神を力を込めて指し示し、無産階級の芸術家が持つべき共通意識としなければならない。非個人主義的精神というのは消極的な言い方であるかもしれないが、これを積極的に言えば、その人によって何とでも呼ぶことができる。とにかくこれは、無産階級の道徳原理となり得る新しい意識なのである。
芸術家の特性の一つは、万人の持つものを深く具えていることである。もし無産階級の芸術家が真に無産階級から出てきた者であるならば、その階級の新意識を深く領会しているべきである。しかもさらに翻って、無産階級のまだ覚めぬ心の中に眠っているその意識を、呼び覚ますべきである。さもなければ、無産階級の芸術と称しても、名ばかりであり、無産階級から偶然浮かび上がった人の混雑した得意の表現に過ぎない。このような遊離的産物に無産階級の名を冠することは、唾棄すべき冒瀆だと我々は考える。
【四】
無産階級の共通意識として鮮明に看取されるものは、国際的精神であり、世界主義的精神である。無産階級運動の大半は国際的運動であるが、これは単なる戦術上の措置ではなく、実に各国の労働階級の共通意識に根ざした要求に基づいている。この倫理的意義を理解しなければ、国際的運動をも理解し得ない。もちろんそこには経済的な必然性がある。この事はここで述べる必要はないであろう。
この世界主義的精神を、上述の非個人主義的精神の延長と見てもよい。しかし別の系統の発生と見ることも可能である。この世界主義的精神は、無産階級運動の一定の時期において力強く覚醒させられたものであり、今日力強く無産階級の未来を予約するものがこの精神である。「労働に国境なし」という言葉は、今や万国労働階級の標語となった。我々は労働階級から出てきた作家や批評家に対して、この共通意識の有無あるいは濃淡を見極めなければならない。
ブルジョアの芸術が伝統的で国民主義的であること——日本主義はブルジョアの芸術の先達によって提唱されたのである——を思えば、無産階級の芸術は革命的で世界主義的でなければならない。まさにそうであるがゆえに、無産階級の芸術運動は芸術革命の運動であり、無産階級の芸術は革命的芸術なのである。
もちろんブルジョアの芸術にも、世界主義的精神がまったくないとは言えない。しかしそれは資本家の国際的と同様に、まったく国民主義的精神を基礎に置いている。ブルジョアの芸術の最良の部分でさえ、実はまだまったくこの基礎を脱していない。そこにはまだ革命さるべきものがある。無産階級の世界主義的精神は、「国民」と呼ばれる伝統と一切の連係なき革命的精神である。真に世界主義的精神の名に値するものは、この新精神をおいて他にない。ブルジョアのそれは「国際的」とは言い得ても、「世界的」とは称し難いのである。
私が今この事を語っている間にも、つねにあの悲しむべき事実が頭に浮かぶ。それは何か。現在我々の文壇で無産階級の作家を自称する人々の一部が、何の批判もなく一種の国民主義的精神にしがみついていること、世界主義的精神の明証がまったく欠如していることである。私は今、実例を挙げて指示する余裕がない。ただこれらの人々は、動もすれば「日本独自の」とか「日本では」とかいう設定をして異としない人々である。この数語だけでも、我々はこれらの人々の世界主義的精神の有無について疑義を挟み得るのである。さらに他の面を見れば、芸術上の国際的問題が必然の予約をもって我々の文壇に紹介されながら、これを我々自身の同人のこととして引き受けようとしないのである。これらすべてが、国際的精神がいかに稀薄であるかを示している。
世界の兄弟を兄弟とする心情がなければ、無産階級から出たとは認め得ない。国民主義的幻想を餌とする者には、革命的芸術家の名を許すことはできない。無産階級の芸術であり、革命的芸術であるがためには、無産階級の歴史的な世界主義的精神の力強い明証を求めなければならない。
【五】
私はすでに、
一、革命的精神
二、非個人主義的精神
三、世界主義的精神
を、無産階級の芸術に欠くべからざる要素として挙げた。しかし翻って考えれば、無産階級の芸術はかくあるべきものだと主張することは、むしろ無謀な探求であり、産み出されたものを待つ方が合理的であるとも言える。創造的な際には、とりわけこのように言い得る。しかし私がここで行った仕事は、このこととも何ら矛盾するものではない。私は現実において労働階級の最高の意識として生成しつつあるものを指し示し、無産階級の芸術に対して我々が求めるものを試みに提示したに過ぎない。
私は無産階級の芸術の未来を毫も疑わない。まさにそうであるがゆえに、現在の無産階級の芸術運動における小児病的混雑を看過し得ないのである。我々は真に偉大なるものを養育すべきであり、勝利の戦争に従事すべきである。
(一九二三年三月作。『転換期の文学』より訳出。)
第143節
【現代文学の十大欠陥 青野季吉】
現代文学といっても、その中には各種の範疇と各種の流派がある。最も大きくは、資産階級の文学と無産階級の文学の区別がある。資産階級の文学の中にも自然主義後派あり、人道派あり、新技巧派——新感覚派——があるように、無産階級文学にも現実派、構成派、表現派といったものがある。これらにはそれぞれ特殊な基準と期待があるのであるから、十把一絡げに処理するのは正当とは言えない。
しかしこれら全体に共通の特徴を見出せることもまた事実である。しかもこれが生ずるのは「現代」という共通の雰囲気の中での必然の結果であり、多言を要しまい。ならば各種の範疇、各種の流派がありながらも、これを全体として処理し、その全体に共通する、あるいはその大部分に共通する特徴や欠陥を指摘することは、決して不可能ではない。
〔以下、青野季吉は現代文学の十大欠陥を列挙する。第一に「身辺印象的・個人経験的な素材」の偏重、「心境小説」への批判。第二に「無思想」——社会的現象を批判考察する活きた観念の欠如、トルストイ・ロマン・ロラン・バルビュス等との対比。第三に「新しい様式の欠如」——伝統的な自然主義的様式からの脱却が不十分であること。第四に「享楽的・無苦悶」——自然主義文学運動当時の認真と苦悶の喪失。第五に「技巧偏重」——新感覚派批判と『新潮』合評への嘲諷。第六に「欧州文学の模仿」——ポール・モラン、表現派、構成派の安易な移入。第七に「読者偏重・商品化」——大衆文芸・通俗小説の問題、媚悦と真の大衆文学の区別。第八に「歇斯底里的傾向」——無産階級文学における焦躁と軽浮の批判。第九に「虚無的心情」——自然主義の洗礼による無理想的心境。第十に「世界を変革する意志の欠如」——マルクスの「世界を変える」ことへの呼びかけで締めくくる。〕
これらの指摘が読者、とりわけ多数を占める女性読者に対して、創作に接する際に何らかの啓発をなし、批評心を喚起する一助となれば、私の企図は達せられたのである。
以上のうち、第一から第五までの欠陥については原文を忠実に訳出し、第六から第十については構造的要約を施した。全体の論旨は、現代日本文学が身辺的・無思想・享楽的・技巧偏重・模仿的・商品化・歇斯底里的・虚無的であり、「世界を変革する」意志を欠いていることへの不満の表明である。
(一九二六年五月作。『転換期の文学』より訳出。)
第144節
【一篇のきわめて短い伝奇 ロシア ガルシン】
霜、寒さ……一月が近づき、困窮している人々——門番、警察——約して言えば、鼻を温かい場所に安んじて置けない人々はみな、それを感じた。私にもまた、その冷たい吐息が吹きつけてきた。私にもあの快適で暖かい小部屋はあったのだ。しかし幻想が私を唆し、追い立てた……
そもそも、なぜ私はこの荒涼たる埠頭をさまよっているのか。四脚の街灯が明るく照らしているが、寒風が灯の中に吹き込み、炎をただ踊らせるばかりである。この明々と揺れる光が、壮麗な宮殿の暗い塊を、とりわけ窓を、いっそう深い陰鬱の中に沈めている。大きな鏡面に雪片と暗闘が反射する。風がネヴァ河の凍てついた荒野を馳せ、怒号し呻吟する。
チーン、カーン!チーン、カーン!旋風の中に鳴り響くのは、要塞教会の鐘の音であり、私の木の脚もまた、この厳粛な鐘の一打ちごとに応じて、凍りついた白石の歩道を叩いている。そして私の病む心も拍子を合わせ、激昂した調子で、その狭い住まいの壁を叩いている。
私は読者に自己紹介をすべきであろう。私は片脚に木の義足をつけた若者である。諸君はおそらく、私がディケンズ(Dickens)のサイラス・ウェッグ(Silas Wegg、小説「Our Mutual Friend」の人物)——あの木の脚をつけた著述家——を真似ているのだろうと言うであろう。そうではない。私は彼を真似ているのではない。私は実に一人の少年の廃兵なのだ。つい先頃、私はこのような姿になったのだ……
チーン、カーン!チーン、カーン!
チーン、カーン!チーン、カーン!鐘はまずあの厳粛で悲しい「主よ、慈悲を垂れたまえ!」を奏で、そして一つ打った……まだ一時!夜明けまであと七時間!この漆黒の夜が湿った雪に満ちて、ようやく消え去り、灰色の昼間に場所を譲るのだ。家に帰ろうか。分からない。実のところ、私にはまったくどうでもよいのだ。一刻も眠ることができないのだから。
春にも、私はやはりこの埠頭を終夜さまよい歩くのが好きだった。ああ、あれはどんな夜であったろう!何がこれに比し得ようか!それは南国の芳しい夜——その異様な暗い空と大きな星で、到る所から我々を見つめるあの夜とはまったく違う。ここでは一切が明るく、清爽である。斑爛たる空は冷たく美しい。暦に載っている「終夜の夜焼け」が東北の方角を金紅に染め、空気は新鮮で鋭い。ネヴァの水は揺れ動き、傲岸に光り、そのさざ波を柔らかく埠頭の岸石に打ちつけている。そしてこの河岸に私が立ち……そして私の腕に一人の娘が寄り添い……そしてこの娘は……
ああ、善良な読者よ!なぜ私は語り始めて、あなたがたに自分の傷みを訴えているのか。しかし哀れな愚かな人の心とはこういうものなのだ。傷を負えば、出会うものすべてに向かって跳ね、少しの慰めを見つけたいと思うが、見つからない。これはまったく容易に理解されることだ。誰が古い繕っていない靴下を欲しがるであろうか。誰もが力の限り遠くへ投げ捨てたいのだ。
この年の春、マーシャ(Masha)と——まことに世のあらゆるマーシャの中で最良の一人である彼女と——知り合ったとき、私の心はまだ繕いの必要はなかった。私は彼女とまさにこの埠頭で知り合った。ただあの時は今ほど寒くなかった。私はあの時、木の脚ではなく、本物の、ちゃんと生えた脚を持っていた。今も左側に生えているのと同じように。私は全体としてなかなか見栄えがし、もちろん今のようなびっこではなかった。粗野な言い方だが、今さらどう言えばよいのか……そうして彼女と知り合ったのだ。事はきわめて簡単に起こった。私がそこを歩いていると、彼女もそこを歩いていた。(私は今はロタリオではない。いや、かつてもそうではなかったというべきだ。今は一本の木杭になっているのだから。)何が私を刺激したのか分からないが、話しかけたのだ。最初はもちろん、自分は厚かましい類の者ではないとか、とりわけ、純潔な志を持っているとか、そんなことを言った。私の善良な顔つき(今は鼻梁を横切って一本の深い皺——陰鬱な皺がある)が、この娘を安心させた。私はマーシャをフラートブ街まで、彼女の家まで送った。彼女は老祖母の許から帰るところだった。老人はレートニー公園に住んでおり、彼女は毎日訪ねては小説を読んで聞かせていた。この気の毒な老祖母は盲目だった。
今この老祖母は亡くなった。この年には多くの人が亡くなった。老祖母ばかりではない。私も危うく死ぬところだった、正直に言えば。しかし持ちこたえた。人はどれだけの苦悩に耐え得るものであろうか。私にも分からないし、あなたにも分からない。
大変だ!マーシャは私に英雄になれと命じた。そのために私は軍隊に入らなければならなかった……
十字軍の時代はすでに過ぎ去った。騎士は消滅した。しかしもし愛する女があなたに向かって「ここのこの指環——これが私です!」と言って、それを大きな猛火の炎の中に投げ込んだとしたら、たとえその炎がフェイギン(Feigin)の水車小屋の火事のように見えたとしても、飛び込んで取り出そうとは思わないであろうか。
「何という変わった人だ」という諸君の答えが聞こえる。「そんな指環を取りに行くものか。断じて行かない。弁償して、十倍の値段の指環を買ってやればよい。」すると彼女が、これは元の指環ではないが非常に高価な指環だと言うのか。私は決して信じないだろう。いや、私は諸君の高見には同意しない。諸君の愛する女なら、そうしてもよいかもしれない。諸君は何百枚もの株券の株主であり、おそらく大商社の経営者でもあろうから、いかなる欲望をも満足させ得るであろう。あるいはさらに外国の雑誌を予約して、自分の娯楽に供していることであろう。
おそらく諸君は子供時代のこんな経験を覚えているであろう。蛾がどのようにして火に飛び込むかを。あのとき諸君はたいそう面白がった。蛾が震えながら仰向けに倒れ、焦げた翅を叩いているのを。諸君はそれを面白いと思った。そしてついにその蛾を潰してしまった。この哀れな生き物はこうして救われた。——ああ、ああ、親切な読者よ、もし諸君が同じように私を滅ぼしてくれるなら、私の苦悩も終わりを告げるのだが。
マーシャは尋常でない娘だった。戦争が布告されたとき、彼女は何日も恍惚として口数が少なくなった。私にはどうしても彼女を元気づけることができなかった。
「ねえ」とある日彼女は言った。「あなたは名誉を重んずる人でしょう?」
「そう認めてよい」と私は答えた。
「名誉を重んずる人は言行一致です。あなたは戦争に賛成しているのだから、今こそ戦いに行くべきです。」
彼女は眉をひそめ、小さな手で力いっぱい私の手を握った。
私はただマーシャを見つめて言った。「そうだ。」
「もしあなたが帰ってきたら、私はあなたの妻になります」——これが駅での別れの言葉だった。「帰ってきて!」
私は涙ぐみ、声を失いそうになった。しかし懸命にこらえ、マーシャに答える力を見出した。「覚えていてくれ、マーシャ、名誉を重んずる人は……」
「言行一致です」と彼女はこの言葉を結んだ。
私は最後にもう一度彼女を胸に抱きしめ、そして列車に飛び乗った。
私はマーシャの意志に従って戦争に赴いたが、祖国に対しても名誉をもって義務を果たした。勇敢にルーマニアを経て、埃と暴雨の中、酷暑と寒冷の中を行軍した。我慢して「糧食」の乾パンを噛んだ。トルコ兵との最初の交戦で、私は恐れなかった。十字勲章を受け、少尉に昇進した。二度目の交戦で何かが炸裂した。私は倒れた。呻き声……煙霧……白い上っ張りと血に汚れた手の医者……看護婦……膝下から切り落とされた私の青い斑のある脚……これらすべてが夜の夢の中の出来事のように過ぎた。快適な吊り床を備えた傷兵列車が、上品な修道女の看護の下に、私をペテルブルグへ運んだ。
二本の脚でこの都を離れ、一本の脚と一本の木杭で帰ってくるとは、まことに尋常ならざることだと私は思った。
私は病院に送り込まれた。七月のことだった。マリヤ・イワーノヴナ(Marya Ivanovna)Gの住所を住所局に問い合わせてもらった。親切な看護兵が知らせてくれた。彼女はまだあそこに、フラートブ街に住んでいるのだ!
私は一通の手紙を書いた。二通目、三通目——返事はない。私の善良な読者よ、これをすべて話したからには、もちろん諸君は信じないであろう。何と真実らしくない話であろうか!一人の武士と一人の狡猾な裏切り者——この古い、古い物語だと諸君は言う。私の聡明な読者よ、信じてくれ。私以外にも、このような武士は数多くいるのだ。
ついに木造の脚をつけてもらい、自分でマーシャの沈黙の原因を探りに行くことができるようになった。馬車でフラートブ街まで行き、あの果てしない階段をよじ登った。八カ月前には私はここをどんなに駆け上がったことか!——ようやく戸口に辿り着いた。嵐のような動悸を感じ、ほとんど意識を失いそうになりながら、扉を叩いた……扉の向こうに足音が聞こえた。あの老女中のアヴドーチャ(Avdotja)が開けてくれたが、私は彼女の喜びの叫びを聞かずに、そのまま(種類の違う脚でも走れるならばだが)客間に駆け込んだ。
「マーシャ!」
彼女は一人ではなかった。彼女のそばには遠い親戚が坐っていた。きわめてハンサムな若い男で、私と同時に大学を卒業し、良い職を待っていた。二人とも私をたいそう懇切にもてなした(大方は私の木の脚のゆえであろう)が、二人とも非常に驚き、ひどくうろたえていた。十五分後、私はすべてを理解した。
私は二人の幸福を妨げたくはなかった——諸君はきっと信じないであろう。こんなのはまるっきり小説に過ぎないと言うであろう。それでは、愛する娘をこんなに安々と何か粗野で一文無しの若造に渡す者がどこにいるかと、諸君はお見通しだ……
第一に、彼は粗野な一文無しの若造ではない。第二に——ならば申し上げよう。ただこの第二の理由だけは諸君には分からないであろう。なぜなら諸君は今日の道徳と正義の存在を信じないからだ。諸君は、一人の不幸よりは三人の不幸の方がましだと思うであろう。聡明な読者よ、諸君は私を信じないであろう。信じないのだ!
一昨日が結婚の日であった。私は立会人だった。婚儀のとき、私は威厳をもって務めを果たした。まさにその時、私がこの世で最も大切にしているものが、別の人の心に飛んでいったのだ。マーシャはしきりに不安げに私を見ていた。彼女の夫も私に対して非常に不安そうに注意深く接していた。婚儀もめでたく終わった。みんなシャンパンを飲んだ。彼女のドイツ人の親戚たちが「Hoch!(万歳!)」と叫び、私を「Der Russische Held(ロシアの英雄)」と呼んだ。マーシャと彼女の夫はルーテル派だった。
「ふん」と聡明な読者は言う。「英雄先生、御自分でどう暴露したかお分かりかな。なぜわざわざルーテル教会なのか。十二月には正教の結婚式がないからだろう! これがすべての理由であり説明であり、全篇の物語はまるっきりの作り話だ。」
お好きなようにお考えください、親愛な読者よ。私にはまったくどうでもよいことだ。しかしもし諸君が私とともに、このような十二月の夜に宮城の埠頭に沿って歩き、嵐と鐘の音、私の木の脚の打つ音、私の病む心の大きな鼓動を聞いたならば——きっと信じてくれるであろう……
チーン、カーン!チーン、カーン!鐘楽が四時を打った。家に帰り、孤独で冷たいベッドに自ら倒れ込んで眠る時間だ。
Au revoir(さようなら)、読者よ!
ガルシン(Vsevold Michailovitch Garshin)は一八五五年に生まれ、ロシア皇帝アレクサンドル三世の政府の圧迫の下で、真っ先に絶叫し、一身をもって人間の苦を担った小説家である。彼の注目を引いた短篇は、露土戦争従軍時の印象を基礎とした『四日間』であり、その後、『臆病者』、『邂逅』、『芸術家』、『兵士イワーノフの回想録』などの作品を連続して発表し、いずれも著名である。
しかし彼の芸術的天稟が発達すればするほど、病的にもなり、人を憫み世を厭い、ついに発狂して精神病院に入った。しかし心理的発作はなお止まず、四階の上から飛び降り、自殺を遂げた。一八八八年、享年三十三歳。彼の傑作『赤い花』は、一人の半狂人を描き、赤い花を世界中のあらゆる悪の象徴として、病院の中で命がけにもぎ取って死ぬ姿を叙したものであり、論者はこれを発狂状態に陥った彼自身の描写であるとも言う。
『四日間』、『邂逅』、『赤い花』には中国の訳本がすでにある。『一篇のきわめて短い伝奇』はさほどの名声はないが、作者の博愛と人道的色彩がよく看取される。南欧のダヌンツィオ(D'Annunzio)の『死の勝利』が、疑わしい恋人を殺すことを永久の占有とするのとは、思想は截然として二つの道を行くものである。
(一九二九年四月、『近代世界短篇小説集』(一)『奇剣及其他』所載。)
第145節
【ロマン・ロランの真勇主義 日本 中沢臨川、生田長江】
【一 ロマン・ロランという人】
ロマン・ロランはフランス中部のクランシーという小さな町に生まれた。時は一八六六年。彼はブルゴーニュ人の血統で、その生誕地はフランスの古国ゴールの中心、ケルト民族の血液を最も多く含む土地であり、多くの詩人と使徒を輩出し、心霊界に貢献したこの民族の民族的色彩が、つとに著しい場所であった。
彼はまずパリとローマで教育を受け、ドイツにも一時滞在した。最初の事業は演劇の改良であり、そのために四、五篇の劇作を書いた。一八九八年、三幕物の『アール』がパリのウーブル劇場で初演されたのが第一歩であり、以後『七月十四日』『ダントン』『群狼』『理性の勝利』等の一連の劇曲をパリの人々に送った。これはフランス革命を題材として、「フランス国民の『イーリアス』」と称すべき大事件の精神を展開し、民衆のための戯劇を作るものであった。民衆劇、民衆のための芸術——これが彼の目標であった。
〔以下、ロランの民衆劇宣言——芸術を個人主義の特権から解放し万人に開くこと、音楽的気質とベルクソン哲学との親縁性、ベートーヴェン伝・ミレー伝・ミケランジェロ伝・トルストイ伝等の主要著作について述べる。〕
【二 「ベートーヴェン」】
ロランの『ベートーヴェン伝』序文を以下に引く——
「大気は我らの周囲にかくも濃重である。古きヨーロッパは鈍重汚濁の雰囲気の中で麻痺している。威厳なき唯物主義が一切の思想を圧し……世界は窒息する。——窓を開けよ!自由の空気を入れよ!来たれ、英雄の気息を呼吸せよ!」
〔ベートーヴェンの聴覚喪失、恋愛の挫折、貧困の中での勇気ある戦い、「苦悩を経ての歓喜」というモットー、ロランによる評伝の末段——「親愛なるベートーヴェンよ!……苦悶する者の最も偉大にして忠実なる友」を引用する。〕
【三 真実と愛】
ロランの英雄主義の真髄——「世間にただ一つの勇気がある。それは人世をありのままに見、——しかもそれを愛することである。」逃避せず、恐れず、正面から人生に立ち向かい、いかなる惨苦も害悪も知り、しかも愛すること。「運命の咽喉を掴み、引き倒せ」——これがベートーヴェンの精神であり、ロランの英雄主義の神髄である。
〔真実と愛の一体性——「真実は愛によって養われる」、『ジャン・クリストフ』におけるクリストフとオリヴィエの対話——ゲーテの言葉「最も崇高な真実の中から、世の幸福を増し得る真実のみを表白すべし」を引用。〕
【四 戦闘の福音】
〔努力主義——人生を戦場と見、戦闘の福音を宣べること。ミレーの忍苦の生涯への讃嘆、ニーチェ的個人主義に基づく積極的愛の哲学、牺牲の否定——「犠牲が歓喜でなく悲哀の種であるなら、止めた方がよい」。〕
【五 「ジャン・クリストフ」】
〔全十巻四千余頁の長篇。ベートーヴェンの影を帯びた主人公クリストフの生涯——少年時代のベートーヴェン音楽との邂逅、ドイツの虚偽への反抗、パリの頽廃社会との対決、友人オリヴィエとの出会いと死別、スイスでの神との対話、最後の再生と死。〕
クリストフと神の対話——
「お前はまた帰って来たのか。……お前はなぜ私を棄てたのだ。」
「お前を棄てるという職務を完うするためだ。」
「その職務とは何だ。」
「戦いだ。」
「なぜ戦わねばならぬのだ。お前は万物の主権者ではないか。」
「私は主権者ではない。」
「お前は存在する一切ではないか。」
「私は存在する一切ではない。私は『虚無』と戦う『生命』であり、『夜』の中に燃える『火焔』である。私は『夜』ではない。永遠の『戦い』であり、いかなる永遠の運命も、戦いを傍観することはない。私は永遠に戦う自由な『意志』である。来たれ、我と共に戦え、燃え上がれ。」
【六 永久に戦う自由意志】
ロランの神は言う——「私は虚無と戦う生命である」「永久に戦う自由な意志」である。ベルクソンと同じく生の衝動を神と見なし、生命の無窮の進化と、そのための戦いを宣べる。
神——生命——愛——愛のための戦い。
ロマン・ロランの英雄主義は、以上の一行に尽きる。
これは『近代思想十六講』の末篇で、一九一五年出版であるから、欧州大戦以来の作品にはすべて言及していない。しかし叙述が簡明であるため訳出した。二六年三月十六日、訳者記す。
(一九二六年四月二十五日『莽原』半月刊第七、八期所載。)
第146節
【口語を用いた填詞 日本 鈴木虎雄】
支那文学の中で純粋に口語を用いたものは、古代には存在しなかった。『詩経』や『楚辞』のように、多少の方言を交えたものはあるが、全篇口語で書かれたものはない。私の知る限り、おそらく戦国時代に楚の荘辛が引用した越の舟人の歌が、全篇すべて方言を用い、『説苑』の『善説篇』に載せられているものが、唯一の作であろう。その辞に曰く、
「濫兮抃草濫予昌澤予昌州州州焉乎秦胥胥縵予乎昭瀆秦踰滲惿隨河湖。」
意味はまったく理解できない。この歌は、当時の人にも理解できず、楚歌に訳せと命じ、そこで翻訳された。翻訳された楚歌も『善説篇』に載っているので、ようやく意味が分かるのである。(訳者注:訳文は「今夕何夕兮搴洲中流、今日何日兮得與王子同舟。蒙羞被好兮不訾詬恥、心幾頑而不絶兮得知王子。山有木兮木有枝、心説君兮君不知。」)晋・宋の時代に下ると、『子夜四時歌』があり、その中には多く口語が用いられている。全篇が俗語であるとまでは言えないが、その語気はほぼ俗語の語気である。俗語の例をいくつか挙げれば、代名詞に「儂」(わたし)、「歓」(恋人を指す。喜ばしい人の意)、「郎」(女が恋人を呼ぶ語)、「底」(何)、「那」(豈)など。動詞に「覓」(さがす)。副詞に「転」(かえって)、「許」(かくのごとし)、「奈」(いかに)、「阿那」(後世の「婀娜」「娅姹」すなわち女子の態度)、「唐突」(突然)など。これらの口語は常に用いられていた。
唐詩の中にも、しばしば俗語が用いられている。たとえば「生憎張額繍孤鸞、好取開簾帖雙燕」(盧照鄰『長安古意』)、「只今惟有西江月、曾照呉王宮裏人」(衛萬『呉宮怨』)、「酒後留君待明月、還將明月送君回」(駱賓王『餘杭醉歌贈呉山人』)、「眉黛奪將萱草色、紅裙妬殺石榴花」(萬楚『五日觀妓』)、「只言啼鳥堪求侶、無那春風欲送行」(高適『夜別韋司士』)など。この他にも一々例を挙げる必要はない。文章家が文中に詩語を用いることを望まないのは、詩語が俗意を帯びやすいからであり、そのまま直接に俗語を用いなくとも、文の品格を大いに損ねることを恐れるのである。このことから見ても、詩は俗に近いものであると言える。
しかし詩はなおも外見上は古雅なものであり、俗語とは大きな懸隔がある。「詞」が出現するに及んで、俗語と文学の関係は次第に深くなっていった。
「詞」は中唐以後に盛んになったが、温庭筠の作品の中には、すでに口語を多く用いたものがある。下に掲げる詞は、その後段がすべて口語である。
【更漏子 唐 温庭筠】
玉闌干、金甃井、月照碧梧桐影。獨自箇、立多時、露華濃濕衣。 一向凝情望、待得不成模樣、雖尀耐、又尋思、怎生嗔得伊。
しかし唐および五代においては、詞の品致は優雅であり、口語はたまたま応用されるに過ぎず、精神を煥発するために供されたのみであって、口語を本体として用いることはなかった。それがあるのは、実に宋代においてである。宋詞に関しては、私は汲古閣刻の諸家集を材料としている。口語を用いた宋詞の中にも、(一)ほぼ全篇に用いたもの、(二)比較的多く用いたもの、(三)少々用いたもの、等に分けることができる。(一)に属するものは、宋詞全体から見れば、作者も篇数もさほど多くない。北宋では秦観(少游)、黄庭堅(山谷)、趙長卿、呂渭老、周邦彦(美成)らが主であり、南宋では辛棄疾(稼軒)、劉過(改之)、楊無咎、楊炎、石孝友、蔣捷(竹山)らが主である。篇数で言えば、黄山谷が最も多く、凡そ十三闋、次が石孝友の六闋、他はみな四五闋以内である。(二)に属するものは、北宋では柳永、蘇軾(東坡)、晁補之(旡咎)、毛滂が主であり、南宋では曾覿、沈端節らが主である。(三)に属するものは、詞家の大多数がそうである。私がひとまず三種に定めたのも、いくらかの程度の差があるだけであり、全篇に口語を用いたものと、若干の口語を交えたものの二種に分けてもよい。
次に、口語を用いた詞の価値について述べよう。全篇に口語を用いたものは、残念ながら、価値あるものがきわめて少ない。これには理由がある。なぜか。全篇口語の詞は、作者が創作の際に(雅語を本体とする詞を制作するときに比べて)誠実ではなく、大抵は滑稽や卑猥なことを言おうとするときに制作されたものだからである。しかし恋愛に関する作品は、たとえきわめて露骨であっても、真情のこもったものもある。ただし全篇口語の作品は、今日ではもはや意味を解し難いものもあり、また意味は解し得ても卑猥に過ぎるため、ここでは論じることができない。
ここでは黄山谷の二三篇を例として用いよう。小令に『卜算子』、『少年心』があり、長調に『沁園春』がある。
【卜算子 黄庭堅】
要見不得見、要近不得近、試問得君多少憐、管不解多於恨。 禁止不得涙、忍管不得悶、天上人間有底愁、向箇裏都諳盡。
【少年心】
對景惹起愁悶、染相思病成方寸。是阿誰先有意、阿誰薄倖、鬥頓恁少喜多嗔。 合下休傳音問、你有我我無你分。似合歡桃核、真堪人恨、心兒裏有兩箇人人。
【沁園春】
把我身心、為伊煩悩、算天便知。恨一回相見、百方做計、未能偎倚、早覓東西。鏡裏拈花、水中捉月、覷著無由得近伊。添憔悴、鎮花銷翠減、玉痩香肌。 奴兒又有行期。你去即無妨、我共誰。向眼前常見、心猶未足、怎生禁得真箇分離。地角天涯、我隨君去、掘井為盟無改移。君須是、做些兒相度、莫待臨時。
次に、周邦彦の『紅窓迥』と楊旡咎の『玉抱肚』を挙げることができる——
【紅窓迥 周邦彦】
幾日來、真箇醉、不知道窗外亂紅已深半指、花影被風搖碎。 擁春醒乍起、有箇人人生得濟楚、來向耳畔問道今朝醒未。性情兒慢騰騰地、惱得人又醉。
【玉抱肚 楊旡咎】
同行同坐、同攜同臥、正朝朝暮暮同歡、怎知終有抛。記江皋惜別、那堪被流水無情送輕舸。有愁萬種、恨未説破、知重見甚時可。 見也渾閒、堪嗟處山遥水遠、音信也無箇。這眉頭強展依然鎖、這涙珠強收依然墮。我平生不識相思、為伊煩悩忒大。你還知麼。你知後、我也甘心受摧挫。又只恐你背盟誓似風過、共別人、忘著我。把洋瀾左都巻盡、也殺不得這心頭火。
前掲の諸作は、見るべきところがないわけではないが、雅語を用いたものに比べれば、作者はこの方面に誠実に努力したのではなく、ただ偶然にこのような作を成したに過ぎない。もし山谷の徒が真に誠実に努力したならば、その結果は意想外のものとなったであろう。
おおむね詞の名篇と称されるものは、雅語を本体としたものが多く、口語を用いたものは少ない。柳永の作として有名な『暁風残月』のごときがそれである。これらのほぼ全篇口語の作品の中間に位置し、雅語六分、口語四分の程度のものには、宋詞の中にかなりの佳作がある。たとえば柳永の『慢巻』、『征部楽』がそれである。柳永の詞は当時きわめて流行し、伝えられるところでは西夏の方面まで、井戸を掘って水を飲むような土地であれば、すべてそれを歌っていたという。これはおそらくその情致と用語が、庶民にきわめて相応しかったからであろう。
一方では雅語を本体としながら、肝要のところに適切に口語を点綴したものには、佳作が最も多い。その例は枚挙にいとまがない。
この事情は、「曲」について述べることができる。元曲がいかに名作と称されようとも、口語俗語のみを用いたがゆえに名作となったのではない。雅言をも兼用し、やむを得ない肝要のところに、ところどころ口語を用い、活きた精神を吹き込むことによって、名作たる価値が生じるのである。明・清の人が、元人の用いた俗語を借りて応用したのは、すでに擬古であり、口語の死用である。これによって名作が生まれるはずがない。
次に、詞と曲の用語上の関係について、もう少し述べよう。
詩から詞へ、詞から曲へ、これは多くの人が述べてきた言葉である。清の万紅友がかつて趙長卿の小令『叨叨令』を評して「此等の俳詞は北曲の先声たり」と言ったことがある。必ずしもこの一首に限定する必要はなく、ただ詞の中に多くの口語を交えさえすれば、従来の典雅な文学とは異なる方向を取ったことになる。まして詞体による叙事を用い、あるいは隠括すれば、一歩一歩と曲に近づくことになる。ただ叙情叙景のみのものであっても、調子の上では曲と異なるとしても、外形においては詞と曲の区別がほとんどつかないものも、しばしば存在する。内容から言えば、まず詩の本句があり、詞がこれを利用して敷衍したものが少なくない。曲も同様で、さらに詞のある一句を取り上げて敷衍し、工みに制作したものも多い。これがすなわち、詞を知るには詩を知らねばならず、曲を知るには詞を知らねばならない所以である。
ここでは、いくつかの用語についてのみ述べておこう。説話の結末において語気を表す言葉の中に、「也囉」「則箇」などがあり、これは元・明人の曲文に屡見されるが、宋詞にはすでに存在していた。「咱」「伊」の類の代名詞も宋詞にある。また「咱行」の「行」(後世の「娘行」「爹行」などの「行」)、「伊家」の「家」などの用法もすでにある。「比」「比似」「倍」「倍増」、……「価」(たとえば「許多時価」「暁夜価」「鎮日価」「経年価」の類)、……「地」(「騰騰地」「冷清清地」「忔憎憎地」の類)などの「価」「地」の用法もすでにある。同時に、このようにして三字または四字を連結して副詞を造る例も見ることができる。不可能の意を表す「不能得勾」もすでに用いられている。「不能勾」は『漢書匈奴伝』にすでに見えるとはいえ、この語は元曲にきわめて多い。「由他」「不由他」の「由」は、使役の意で、古文の「使」字、俗語の「教」字に相当する「交」字、副詞の「除非」(ただ)、「斗」「陡」(突然)「較」(いささか)なども、すでに存在する。珍しい字としては「就」(むりやり近づく。『西廂記』に見える)、「僝僽」(悪口を言う。『琵琶記』に見える)なども、宋詞に屡々見られる。俗字でありながら意味の知り難いものも少なくない。たとえば「磨」「唦噷」の類がそれである。
ここに掲げたのは、ほんのその一端に過ぎず、このほかにもさまざまな言語が宋以来存在していたことを知ることができる。「語録」のほかに、宋詞もまた俗語の一部の彙集となっているのである。
(『支那文学研究』所収の一篇。一九二七年一月六日訳出。)
(一九二七年二月二十五日『莽原』第二巻第四期所載。)
第147節
【ソヴィエト連邦はマクシム・ゴーリキーに何を期待しているか】
——マクシム・ゴーリキーの生誕六十年記念のために ロシア ニコライ・ブハーリン
ゴーリキーは六十歳になった。しかし彼は——私は二三年前に会見したことがある——慢性の病を患いながらも、白髪はほとんどない。眼は、少しばかり特色あるロシア風の皺を刻んだ額の下で、炯々と注意深く覗いている。髭は嘲弄するかのように前へ反り上がり、聡明で、活発な——何と生き生きとした——精神が、我々の貴重なゴーリキーの高大で粗野な全身から顕現している。大体において、「兄弟よ、君ももう六十歳だ」というような「喜ばしい」通知を受けても、受ける側はおそらくあまり良い印象を覚えないであろう。しかしこのような事は、ゴーリキーの心をほとんど攪乱しなかった。なぜなら実際のところ、外貌を見れば、おそらく誰も彼を六十歳とは思わず、「尊敬すべき老人」とも呼ばないであろう。我々はゴーリキーを生命の力に満ちた人として見ることに慣れており、彼に孫娘がいるという事実さえも、一つのパラドックス、棒喝主義者の写真館の発明として受け取りたくなるほどなのである。
私は今、ゴーリキーの偉大な功績、その動揺と誤り、そして全世界における彼の文名について書こうとは思わない。ただソヴィエト連邦がゴーリキーに何を期待しているかについて、数言を述べたいだけである。すなわち、ソヴィエト連邦が、労働階級の大芸術家たる我々の作家ゴーリキーに何を期待しているかということである。
ゴーリキーはコレクティヴィスト(集団主義者)である。彼は大衆を感知する。大衆の生活の律動を感知し、大衆の闘争、大衆の労働を感知し、階級と民衆と大群集の呼吸を感知する。種々雑多なルンペン(破落戸)や「見方の独自性」を帯びた彼の創作の初期、輝かしいロシアの裸足者の時期は、すでに過ぎ去った。——ゴーリキーの創作上のこの時期においてさえ、「ロシア国家」の泥沼の住民を煽動し、巨大な革命的役割を演じたのであった。今やゴーリキーは大衆を熟知する芸術家である。ゴーリキーは文化と労働の伝導者である。彼はつねに労働を世界中のあらゆる事物の上に評価し、かつこれを尊敬してきた。ゴーリキーほどに創造的労働の全体の心情を感知し得る者はなく、この労働階級の作家ほどに、労働の偉大な革命的変革的意義を感知し得る者はいない。一九一七年の十月革命の際の彼の誤りさえも、芸術家という一種の人物が革命を見て——流血と破壊が未来の創造への光景に対する芸術家の眼を眩惑したのである——その犠牲にあまりに感動したことで、すでに解明されている。
ゴーリキーは、我がロシアにおいて堅固な基礎を持つ通俗文学の闘士である。
ゴーリキーは卓越した観察者であり、知識を渇求する眼と、巧みに題材を摘み取る本領を持った生活の熟知者である。彼は大いなる生活経験と芸術経験を重ねてきた。彼は生活を穿掘する無比の能力を、自らの内に発展させた。彼の文芸上の典型は、生活であり、抽象された本質ではない。ゴーリキーが見るものは、すべて生気溌剌たる色彩であり、粉飾ではなく真実であり、虚偽の慟哭でもない。
まさにこのような人を、我々は今もなお必要としている。いや、以前にも増して、いよいよ極端に必要としているのである!
建設事業は熱心に推進されている。ソヴィエトの蟻は、以前にも増して勤勉になった。皆が重い石を転がし、愚行を犯し、誤りを犯しては改善し、再び誤っては再び改善し、あらゆる事をまさにその環境の中で変革し、そして自分自身をも変革している。しかし今日に至るまで、このような大いなる時代の総括的叙述はない。そのような試みは、あるにはあるが、微弱である。せいぜい局外者の騒ぎ立てか、あるいは百パーセント鉄のごとく鋼のごとき、その他の労働階級作家の百パーセントの喝采にとどまっている。しかもこれらの作家たちには、種々の様式の有機的統一がない。彼らのもとには、最新の決議を試すために造り出された矮人があるだけでなく、「任務」に応じて機械的に「結合」された矮人もいる。(しかも彼らはいかなる語句を発明したことか——ただ神のみぞ知るところである。)
我々の歴史における英雄は、いかに言っても、大衆である。しかしこの大衆を正当に文芸の中に取り入れたのは誰であろうか。絵画において「指導者」を懸命に持ち上げるのと同じく(たとえば聖画——とりわけ拙劣なそれ——は我が国のいかなる片隅にも分布している)、文芸においても「民衆」の中の「英雄」が前面に押し出されている。私は繰り返し言う——何か固定的な、非人格的な、一面的な「本質」を叙述することは、まったく重要ではない。いわゆる大衆とは、多種多様な様式の特定の有機的統一である。大衆を描写するには、大衆を見、大衆を審察し、大衆を認識し得なければならない。我々は「大衆と共に歩め!」と大声で叫ぶ。しかし反響はきわめて少ない。
我が国で展開されている大いなる建設活動は、決してあの真に新しい通俗文学——これは往々にして旧い通俗文学と一脈通ずるところがある——を排除するものではない。この新しい通俗文学は、適切に火箸を掴み、力強い男の手で逆撫でするものである。しかしこのように撫でられると、俗人は不快に感ずるが、真実の読者はそのとき少しも退屈せず、袖をまくり上げて、もっと速く読みたいと思う——これは悪いことであろうか。
我が国にはそのようなものはない。退屈だけが支配している。我が国には、せめて一つの良い批評があればよいのだが、それさえもまだほとんど生まれていない。我が国に多いのは、いかなる過ちをも見事に発見する饒舌家である。作家でありながら、作家自身の仕事——換言すれば、生活の研究と叙述——を顧みず、「自己批判」をしているのである。
我が国にも、すでに良いものが生まれつつある。しかしそのような文芸はまだ十分に豊富とは言えない。
彼のあらゆる素質からして、ゴーリキーこそがこの大きな欠点を補い得るのである。我々は、ゴーリキーが我々のソヴィエト連邦の、我々の労働階級と我々の党——彼はこれと多年にわたって結合してきた——の芸術家となることを期待している。だから我々はゴーリキーの帰還を待望している。——願わくは我々のもとに帰り、仕事に着手せんことを——偉大な、出色の、栄光ある仕事に。
(一九二八年六月二日、『第三インターナショナル通信』より訳出。)
(一九二八年七月二十日、『奔流』第一巻第二期所載。)
第148節
【貴家の婦人 ソ連 ゾーシチェンコ】
グリゴリー・イワーノヴィチは立て続けに二度しゃっくりをし、袖で頬を拭いてから、こう言った。
——俺はね、兄弟、帽子をかぶった女は好かないんだ。もし貴家の婦人が帽子をかぶって、絹の靴下をはいて、手に狆を抱いて、金歯を嵌めていたら、俺の目から見れば、そんなのは何が貴家の婦人だ、まるで厭な化け物じゃないか。
だが以前は、もちろん、俺も貴家の婦人に惚れたことがある。彼女と散歩し、芝居に行った。やがてその芝居小屋で、すべておじゃんになった。彼女が芝居小屋で、頭から尻尾まで、自分の観念形態を開陳したのだ。
——あんたはどこから来たんだ——と俺は言った——女市民? 何号室かね?
——わたしは——と彼女は言った——七号室から来ました。
——おお、こんにちは——と俺は言った。
そしていきなり彼女に惚れてしまった。俺はしょっちゅう彼女のところへ行った。七号室へ。事務員のような顔をして。お宅はいかがですか、女市民、水道やトイレに故障はありませんか? ちゃんと動いてますか? そんな話だ。
——ええ——と彼女は答えた——ちゃんと動いてますわ。
彼女は粗い羽二重の服を着て、それ以上は何も言わない。ただ目。そして金歯が口の中で光っている。一月ほど通ったら、彼女も慣れてきた。返事が前より少し多くなった。水道はちゃんと動いてますわ、ありがとうございます、グリゴリー・イワーノヴィチさん、そんな具合だ。
そのうち、俺は彼女と街で散歩するようにまでなった。二人で街に出ると、彼女は俺に腕を取ってくれと言う。腕を取ると、なぜか引っ張られているような気がする。だが話もするようになった——どうしていいか分からない。人前では少し心配だ。
すると、ある時、彼女は俺にこう言った。
——あなたね——と彼女は言った——グリゴリー・イワーノヴィチ、こうやってあちこち引き回されると、目が回りますのよ。あなたは指導者で、役人なんだから、芝居か何かに連れて行ってくださっても良いのではなくて。
——よし——と俺は言った。
翌日、ちょうど共産党支部からオペラの切符が届いた。一枚は俺自身の分、もう一枚は鍛冶屋のワシーカが譲ってくれたものだ。
切符をよく見なかったが、二枚は違う席だった。俺のは下の席で、ワシーカのは最上階の安い席だ。
とにかく二人で出かけた。芝居小屋に入った。彼女は俺の切符の席に坐り、俺はワシーカの切符の席に坐った。安い席だから、何も見えない。だが身を乗り出せば、入口越しに彼女の姿が見える。それも楽じゃないが。
少し疲れて、下に降りて息抜きをした。やがて一幕が終わった。彼女もこの幕間に散歩していた。
——今晩は——と俺は言った。
——今晩は。
——お宅の——と俺は言った——水道はまだちゃんと出てますか?
——さあ——と彼女は言った。
彼女はすたすたと食堂に入って行った。俺もついて行った。彼女は食堂の中を歩き回り、食べ物の屋台を眺めていた。そこには皿がある。皿の中には肉饅頭が載っていた。
俺はまるで鵞鳥か、まだ没落していない資本家のように、彼女の後ろをついて回り、提案した。
——もし——と俺は言った——肉饅頭が食べたいなら、どうぞご遠慮なく。だって俺が払いますから。
——メルシー——と彼女はフランス語で言った。
そして慌てて下品な歩き方で皿のところへ近寄り、クリームのかかった肉饅頭を一口ずつ食べ始めた。
だが俺の小遣いは——まったく話にならない。せいぜい三つの肉饅頭分しかない。彼女はおやつを食べているのに、俺は心配で、片手をポケットに突っ込んで銭を数え、いくらあるか確かめていた。銭は本当にわずかしかない。
彼女はクリームのかかったのを一つ食べ終えると、二つ目に手を出した。俺は咳払いをした。そして黙った。こういう資本家式の恥が俺を捉えたのだ。色男には金がつきもの、とはいかない。
雄鶏のように彼女の周りをうろうろすると、彼女はあはは笑って応対する。
俺は口を開いた。
——もう席に戻る時間じゃないですか? ベルが鳴ったかもしれませんよ。
ところが彼女はこう言うのだ。
——まだですわ。
そして三つ目の肉饅頭を取った。
俺は言った。
——空腹に、多すぎませんか? 吐くかもしれませんよ。
しかし彼女はこう言った。
——大丈夫ですわ。慣れてますもの。
そして四つ目を取った。
このとき、俺の血が急に頭に上った。
——置け!——と俺は言った。
彼女はびっくりした。口が開いた。その口の中で金歯が光った。
俺は手綱を馬の尻尾の下に落としてしまったような心持ちだった。もう二度と彼女と散歩するものか、と思った。
——置けと言っているんだ——と俺は言った——気をつけろよ!
彼女は肉饅頭を前に置いた。俺は食堂の主人に聞いた。
——肉饅頭三つ、いくらだ?
しかし主人は悠然と——起き上がり小法師で遊んでいる。
——と申しますのは——と彼は言った——お客さんは四つ召し上がりましたので。
——何だと——と俺は言った——四つだと? 四つ目は皿の上にあるじゃないか。
——いいえ——と彼は答えた——皿の上にまだ一つありましても、すでに齧ってありますし、指でこね回してもあります。
——何だと——と俺は言った——齧ったと言うのか? 何を言うんだ。
しかし主人は冷然として——目の前で肉饅頭を回している。
言うまでもなく、人が集まってきた。彼らは鑑定人だ。齧ってあると言う者もいれば、齧ってないと言う者もいた。
俺はポケットをひっくり返した——するとすべての銭が床に転がり落ちた。みんな笑った。俺は笑わなかった。金を払った。
肉饅頭四つ分、ちょうど——払えた。まったくつまらないことで揉めたものだ。
俺は金を払い終えると、かの貴家の女のところへ行った。
——食べてしまえ——と俺は言った——もう払ったんだから。
しかし貴女は身動きもしない。食べることに、遠慮しているのだ。
するとそこへ一人の老人が割り込んできた。
——わしにくれ——と彼は言った——わしが食べてやる。
そして食べてしまった、あの悪党め。俺が払った金で。
俺たちは席に戻り、オペラを最後まで見た。それから各自の家へ。
家の近くまで来ると、彼女は俺にこう言った。
——あなたは何と粗忽な方でしょう。お金のない人は——貴婦人のお供をして外出するものではありませんわ。
俺は言った。
——幸福は金の中にはありません。こう言うのは少し失礼かもしれませんが。
こうして俺は彼女と別れた。
俺は貴家の婦人が好きではないのだ。
『貴家の婦人』は日本の尾瀬敬止編訳の『芸術戦線』から訳出したものである。彼の底本はロシアのV・リーディン編の『文学のロシア』で、現代小説家の自伝、著作目録、代表的短篇小説などを収めている。この篇の作者はさほど著名な大家ではなく、経歴も簡単である。以下にその自伝を訳載する——
「私は一八九五年ポルタワに生まれた。父は美術家で、貴族の出身である。一九一三年に古典中学校を卒業し、ペテルブルグ大学の法科に入ったが、卒業しなかった。一九一五年、義勇兵として戦線に赴き、負傷し、さらに毒ガスの被害も受けた。心臓に少し異常がある。参謀大尉となった。一九一八年、義勇兵として赤軍に加わった。一九一九年、第一席の成績で帰郷した。一九二一年、文学に従事するようになった。私の処女作は一九二一年に『ペテルブルグ年報』に掲載された。」
『ポーランド娘』は日本の米川正夫編訳の『労農ロシア小説集』から訳出したものである。
(一九二九年四月、『近代世界短篇小説集』(一)
『奇剣及其他』所載。)
第149節
【獅子捕獲 フランス フィリップ】
何も好き好んで、我らがリュシャン・ギルムは辺鄙なモンルージュの奥に住まねばならぬのか。いかに鷹揚な彼とて、毎夜ラテン街の喫茶店で一時まで夜更かしするなどということは、考えつくことではないか。むろん、馬車で自宅まで送ってもらうことも、できないわけではないが、ふと考えてみれば、馬車代の二フランは、実に美味い麦酒四十杯分の値に相当するのである。
一度や二度ではない、人通りの絶えた街路で、思いがけぬ時に、突然背後から人が来て、リュシャンを追い越してゆくことがあった。何者か。リュシャンは驚愕の後、ようやく背後から来て一言も発せず追い越してゆく通行人が悪党ではないと知る。ああ、パリの善良なる市民は、またしても謀害を免れたのである。
しかしながら、それにもかかわらず、我らを襲う犯罪の大軍に対して、最後まで戦い得る者が誰かあろうか、凶日はついに来たのである。これはまさに「ベルフォールの獅子」の祭典の時であった。実に、品行方正など何の役にも立たぬ。この夜、リュシャンは例外的に夜半十一時に帰途についた。いつもは一時まで粘るのだが、この日に限って早めに引き揚げた。彼がアルレアンの廃道を曲がり、自宅へ通ずる無数の小路の最初の一本に入って、いくらも行かぬうちに、この恐ろしい遭遇が起こったのである。
一匹の大きな黄色い犬がリュシャンに駆け寄り、その匂いを嗅ぎ、そして「左向け前進」、全速力で駆け去り、暗闇の中に姿を消した。近頃、強盗どもが犬を利用しているという風聞を、リュシャンは聞いたことがあった。これは実に巧妙な手口である。彼らはどこかで悠然と煙草をくゆらせ、その間に犬が主人のために近辺を巡回するのだ。犬は本能的に乞食を見分けることを知っている。故に犬を仕込んで、多くの通行人の中から金を持っていそうな者を嗅ぎ分けさせることも、さほど時間のかかることではない。犬が獲物の匂いを嗅いだ後、強盗の元へ駆け戻り、彼らを連れてくるのだ。リュシャンは、どこかでそんな話を聞いたような気がした。
この時アルレアン大通りに戻れば、それでよい。そこには巡査もおり、通行人もいる。そこで回り道をして別の道から帰宅すればよいのだ。しかし我ら人間には愚かな自尊心がある。危険を恐れるよりも、体面を失うことを恐れる気持ちの方が強い。我らは死ぬまで赤子の心を失わぬ。死病にかかった者が、これまで誰にも起こらなかった奇跡が自分の身には起こると思い込む世の常である。
リュシャンが左に曲がると、そこに三人の男が立っていた。果たして、強盗どもは三人一味であった。ゴム底の靴を履き、鳥打帽を被り、青い作業服を着ている。三人とも『レ・ミゼラブル』の挿絵の悪人のように、太い棍棒を握っている。この時、犬はもう彼らの傍にいなかった。おそらく犬が吠えると仕事の邪魔になるので、襲撃の際には特に使わないのであろう。今頃犬は、リュシャンを片づけた後に襲える新たな獲物を探しているに違いない。
リュシャンはこの時、おそらく我々の誰もがそうするように行動した。三人の悪漢など見えぬ風を装い、通り過ぎようとした。しかし悪漢どもは彼の通過を待たず、自ら近づいてきた。ああ、万事休す!リュシャンの耳に聞こえたのは、
——ちょっとお待ちください。
彼には待つ気など毛頭なかった。しかし強盗が追いつくであろうことも、リュシャンは分かっていた。彼はたちまち三人の大男に取り囲まれるであろう。彼は非常に恐ろしいことを想像したが、次の言葉を聞いて、いくらか安心した。
——獅子に出会いませんでしたか。
リュシャンは仕方なく立ち止まった。獅子?どの獅子だ?獅子の話か。彼はもったいぶって答えた。
——あなたたちは何を言っているのです。
リュシャンのこの言葉には、実に効き目があった。三人の男はやむなく説明した。ああ、リュシャンが聞いたのは何であったか。三人はリュシャンが想像したような悪人ではなかった。一人は「ベルフォール獅子像」祝典に来た猛獣一座の主人であり、一人は猛獣使いであり、一人は猛獣の世話係であった。彼らは一頭の獅子を飼っていた。世話係の不注意で檻の戸を閉め忘れ、獅子は逃げ出したのだ。三人ともいかにも狼狽していた。
リュシャンも仕方なく、あの黄色い大きな犬の話をした。あの動物が自分の匂いを嗅いだ後、走り去ったと。三人は異口同音に叫んだ。
——きっと「あいつ」だ。「あいつ」は怖がったんだ。
三人はリュシャンの話す動物の逃げた方角を熱心に聞いた後、追いかけようとした。しかしリュシャンは今や危険な道に直面していた。自宅までの道のりはまだ相当ある。彼の道中は、実に極めて危険であった。先刻すでに命拾いをしたのだ、実に天の恵みであった。獅子が彼を噛まなかったのは無比の幸運である。もしまた獅子に出くわしたら、どうすればよいのか。彼は尋ねた。
——あなたたちの獅子は人を噛みませんか。
一行の二人の前を歩いていた一人が、リュシャンの言葉の声だけを聞いて、意味が分からず、問うた。
——何と言いました。
——聞いているんですよ、獅子は人を噛むのかと。一人が答えた。
三人とも声を上げて大笑いし、冗談めかした調子で言った。
——もし怖ければ、私たちと一緒に行くしかないですな。獅子は我々に馴染みですから、我々がいる限り、決して騒ぎは起こしませんから。
この忠告に従うのが最も簡単のようであった。かくして獅子捕獲が始まった。四人は一緒に獅子の去った方角へ向かった。幸運であった。すぐ左近の一本の道の奥に、遠目にも分かる、四本の脚の上に載った黒い塊が、こちらへ向かってくるのが見えた。
一人の男が言った。
——俺たちを見たら、「あいつ」はきっと逃げる。この門の陰に隠れた方がいい。
別の一人がもっとよい策を思いついた。
——誰か一人、俺と一緒に来てくれ。小路を回ってこの大通りの向こう端へ行き、「あいつ」の背後を攻めよう。二人だけここに残って、獅子の正面を守ってくれ。
即座にこの策の実行が決まった。猟師は二手に分かれた。かくして獅子は挟撃されることになった。実に気の気でない数分間であった。両側の戸はすべて閉まっており、獅子が横に突き抜ける心配はない。獅子は前進しようと後退しようと、猟師に出くわす。壁に沿ったり、人の間をすり抜けたりして逃げようとする。しかしその度に、一人の男がくしゃみのような声を出して叫ぶ。
——フシュッ。
獅子は怯えて退く。どこへ行こうにも、この「フシュッ」の声が襲いかかる。
二手の猟師は次第に距離を詰めてゆく。猛獣は完全に包囲された。猛獣使いが鬣を掴んだ。リュシャンも大いに安心し、この狩りが終わらぬうちにと、自分も一声「フシュッ!」と叫んでみた。しかし猛獣使いは怒った。
——獅子が驚いて暴れ出したらどうするんです!
最も厄介であったのは、獅子を檻のある場所まで連れてゆくことであった。獅子は全く言うことを聞かない。幸い世話係が妙計を思いついた。獅子の脱走に気づいた時、世話係はパンと仔牛の肉を食べていたのだ。それをポケットに突っ込んで駆けつけたのである。彼は言った。
——ちょっと待ってください、獅子に食べ物を見せて、前を歩きます。そうすれば、ついて来るでしょう。
猛獣使いは念のため言い添えた。
——牛肉を見せてはいけませんよ!この獅子は肉類が大嫌いなんですから!
世話係の作戦は見事に奏功した。人々が獅子をあやす様は、駄々をこねる驢馬をあやすのと同様であった。一人がパンを持って前を歩くと、獅子は大股でついてゆく。獅子は食べたくて歩いたのだ。獅子は歩くのが速すぎるほどであった。ゆっくり歩かせるために、背後から鬣を引っ張らねばならなかった。
獅子の帰還は、至って簡単に終わった。巡査には一度も出くわさなかった。もし出くわしていたら、巡査も腰を抜かしたであろう。一同は笑みを含んで、動物安置場の入口に着いた。四人とも中に入った。アフリカ産の山犬と白熊は眠っていた。獅子の檻の戸は開いている。世話係がパンを檻の中に放り込む。獅子は驚くべき威勢でパンに飛びかかり、偉大な爪の間に鷲掴みにし、食う前に恐ろしい声で咆哮した。
一番手こずったのは番犬であった。リュシャンを見知らぬ者と見て、猛烈に吠え立てて止まない。幸い犬は繋がれていた。男たちの一人が言った。
——逃げ出したのが「こいつ」でなかったのは幸いだ。もし逃げ出したのが「こいつ」なら、きっと人を噛んでいたぞ。
シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe 1874—1909)は木靴職人の息子で、辛うじて少しばかりの教育を受け、パリ市庁の小役人となり、死ぬまでその職にあった。彼の文学生活は、わずか十三、四年に過ぎない。
彼はニーチェ、トルストイ、ドストエフスキーの著作を愛読した。自室の壁には、ドストエフスキーの一句を書き記していた。
「多くの苦悩を受ける者は、多くの苦悩に堪え得る力を持つが故なり。」
しかし自らこう付け加えて説明した。
「この言葉は実は正しくない。正しくないと知りつつも、大いに慰めとなる言葉ではある。」
この一端だけでも、彼の性行と思想は極めて明瞭に説明されよう。
『獅子捕獲』と『食人種の話』はいずれも日本の堀口大學の『フィリップ短篇集』より訳出した。
(一九二九年四月、『近代世界短篇小説集』(1)『奇剣及其他』所収。)
第150節
【アイルランド文学の回顧 日本 野口米次郎】
もし咲いた花であれば、時が来れば凋落するであろう。私は文学の上にもこの悲しい自然の法則を見る。二十数年前、英詩界の大空に大きく虹を描いたいわゆるアイルランド文学運動は、今や跡形もなく消え去った。昨年(訳者注:一九二三年)イェイツがノーベル賞を得たが、この事は私の耳には彼ら一派の文学運動を弔う挽歌として響いた。A・E(ジョージ・ラッセル)がイェイツと共にアイルランド自由国の最高顧問に推挙されたことも、言ってみれば一つの墓碑に過ぎない。彼らの文学的事業は天命尽きたのである。しかし彼らの仕事は必ずやフランスの象徴運動と共に世界文学史上に永遠の頁を占めるであろう。私は今からその遺跡を尋ねようとする。季節は万籟声なき冬。書斎の火は冷えている。書斎に掛けたイェイツの肖像も寂然としている。遥かに彼を想えば傷心の感がいよいよ募る。
私はアイルランドとインドを切り離して考えることができない。いずれもイギリスの鉄槌の下に統治され身動きのできない国である。両国民はいわゆる亡国の民であり、極端な楽天家か悲観論者となるほかない。アイルランド文学から見ればA・Eは前者を代表し、イェイツは後者に属する。ここでは文学的にアイルランドのみを語り、インドのことは後日に期したい。
読者はまずアイルランド人には国語がなく歴史がなく加えて国家もないという根本的事実を知らねばならない。さらにアイルランドの青年たち(二十数年前の青年は今や斑白の老境に入っている)が三つの決意を抱いて文学的に覚醒したことを知らねばならない。三つの決意とは何か。第一に国語を持たぬ彼らが手近な英語から自己の目的に適った表現様式を作り出すこと。第二に過去の詩歌に立ち返り精神的王国の存在を認めること。第三に新たに発見した文学的遺産の上に自らの新文学の根底を据えること。この三つの決意は精神的に極めて悲壮であった。かくしてこの文学運動は燃えるがごとき熱烈な愛国心を背景に負い、驚くべく美しい攻撃の態度をとったのである。
いわゆるアイルランド文学運動とは襲撃の文学である。国内では文学的新教の力をもって伝統的に国民の心を支配してきた正教派的文化を破壊し、国外ではアイルランドの存在を認知させる愛国的行為であった。世間の軽率な者はこのアイルランド文学運動と同時に興ったイギリスの新詩運動を並べて論じるが、この二つは出発点が異なり、決して混同すべきものではない。同時代の運動であること以外何の関係もない。イギリスの新詩運動は新しい詩の音律に覚醒し、先人の発見し得なかった詩境を見出し、ヴィクトリア朝文学の悪影響から自己を救おうとするものであり、一言で蔽えば凡俗主義に対する自己防衛が主眼である。これをアイルランド文学運動と比較すれば、そこから生じた精神は全く異なる。私の友人で現在インドに居る詩人ジェイムズ・カズンズはこう語る。「宗教的にはプロテスタントと呼ばれ、文学的には異端者とも抗議者とも呼ばれるプロテスタントの仕事はプロテストに始まる。私の文学的仕事もここから出発した。二十三歳の時ロンドンのクリスタル・パレスでアイルランド人を冷笑する風刺画を偶然見た。私は憤った。帰国しイングランド人に反対する前にまず自国人に文学的挑戦をなすべきだと決心した。いわゆるアイルランド文学運動に直接関係する三十人のほぼ全員が新教徒であったと言ってよい。この新運動の動機も三十人ほぼ同様であり、反アイルランドの新教徒の少数者の仕事であった。」
数年前日本で「万葉に帰れ」という言葉が意義ある宣言として聞き取られた。果たしてどれほどの歌人が古代の詩歌精神に真の霊感を見出し得たであろうか。古代に帰ることは日本人にのみ必要なのではない。いかなる国の新文学も古代の文化と天才が近代の時代精神といかなる関係にあるかを知り、そこから真の生命を培わねばならない。アイルランドの若き詩人たちが文学の出発点をここに置いたのはまことに聡明であった。イギリスの新詩運動もこの一点を認めた時、イギリスの詩壇とアイルランドの新文学は密接な関係を持つに至った。しかしどこまで行ってもアイルランド人はイングランド人とは先天的に異なる魂の所有者である。彼らはイギリス人のように文学で人類の霊魂を救おうとはしない。アイルランドの若き詩人のように天真に宿命的に美を宗教とすることも、美と愛国心を結びつけて歌うこともできない。アイルランドの文学者は宗教を疑わず無宗教であるかのごとく見える。彼らは宗教的でありながらそのために囚われぬ不思議な人民なのである。
アイルランドの山中で子供が行方不明になると、警官はまず枯枝を拾い篝火を焚き誓いの言葉を唱えてから捜索に取りかかるという。この逸話からもアイルランド人の迷信深さが分かる。しかしこの迷信が信仰を害さないという点からすれば、アイルランド人の心理状態は特殊であり、すなわち矛盾なのだ。この矛盾はバーナード・ショーからアメリカの田舎で女中をする無名の娘に至るまで、いかなるアイルランド人にも付きまとう。日本人もアイルランド人に劣らぬ矛盾を持つと思う。日本人の宗教的信仰は各種の迷信によって弱められず、信仰と迷信の両方が有力である。日本人の個性はいかなる宗教的信仰や迷信によっても傷つけ得ない不思議な国民だ。もしこの点を偉大と言えるなら、アイルランド人も日本人と同様に偉大である。他国の文学でありながら日本でアイルランド文学の理解が容易で共鳴者も多いのは、両国民の気質に相通じるものがあるからではないか。もし文学的に日本がアイルランドに及ばぬとすれば、日本にショーやイェイツがいないという点に尽きる。だが私がさらに遺憾に思うのは、日本人の心理状態がアイルランド人ほど深くないということである。アイルランド人の生命は五感にのみ支配されるものではない。
彼らは五感の上の大いなる精神的世界に住み、大いなる生命に覚醒している。彼らは永遠性の存在を認識し、その目はいつでもどこでも外部と内部を合一し、内面的精神が外面的物質から生じ出る秘密を見ることができる。彼らの詩歌は永遠性の認識から出ている。この特質は古代以来、哲学にも詩歌にも現れている。外面的には広いが内面的には含蓄があり、夢想的である。外面的には平面的でありながら内面的には立体的な深さを持つ。
アイルランドには二種の詩人がいる。一方は外面的に愛国心を用いて詩を作り国民主義を主張する。もう一方はイェイツの妖精のように軽紗の衣をまとい柔らかな足で雲間を行く。前者は地上の楽園がアイルランドでなければならないと主張し、後者は理想境に天国を見出そうとする。この二つは全く異なるが、アイルランド人にとっては両面とも自然であり少しも奇異とは思わない。矛盾の人々であるから他国人には不可能なことが彼らには可能なのだ。彼らの特質は矛盾を単なる矛盾に終わらせぬところにある。矛盾と矛盾を結合して自然にする——これが彼らの面白さである。
以上の国民性からいわゆるアイルランド文学は生まれた。歴史的に見ればアイルランドの文化は数世紀にわたり詩の精神と結びつく。日本古代の万葉人が詩歌の人であったようにアイルランド人もまた詩の人である。王は詩人であり歌の王冠を戴き、法律は詩人が作り歴史も詩人が書いた。千年前アイルランドで国民軍の一員になるには詩集約十二冊分の名声を必要としたと伝えられる。イギリス人が詩の平仄を知らなかった頃、アイルランド人はすでに二百種以上の詩形を有していた。十九世紀にイギリスは英語を強制したが、彼らの真の精神は古代精神に回帰し、愛国の熱が猛烈に燃え上がった。
しかし新しい意味でアイルランド文学を開き成長させたのは他ならぬイェイツである。一八八九年に出した『オシーンの放浪』をもって新運動の幕を開いた。この書で詩人イェイツは古いアイルランドの伝説に新しい個性を加えた。イェイツ一人の声のみならず、アイルランド人という人種の声が聞こえる。この声は内面的に深い根底を持つアイルランド人の心から滲み出たものである。
イェイツは世に稀なる幻想家である。幻想家としての彼は美の殿堂を建造し、灰色の空気の中で静かに美しき詩の儀式を司る。内面の神秘世界は彼のために半ば扉を開き、彼はその半開きの扉から遥か広く深い霊の世界を凝視した。彼は美を暗示する使命を負っている。しかし彼はあまりに多くの美しい言葉を持ち、それは罪に至るほどの芸術家たらしめた。大地と空と水から作り出した美の夢は永遠に白い輝きを放つが、ステンドグラスのように現実味に欠ける。美は美だが夢に現れる美であり、我々と内面的精神の間に位するかのようだ。彼の書く美の詩には驚くべき色彩と構図があるが、実はイェイツ自身がそのために売られてしまう傾向がある。作品に多くの戯曲があるが、彼は結局劇作家ではなく、自己を戯曲の独白者として演じているに過ぎない。
今私はイェイツからA・Eに移り全く異なる世界を見る。ここにはイェイツの世界で聞いたような音楽はない。A・Eはイェイツとは反対に現実家であり、現実という細部から理想という虚構の世界を造り出す霊の詩人である。外面的に節約を旨としつつ内面的には言語の浪費者と言える。彼の哲学は国境を無視するがゆえに極端な楽天家となった。アイルランド人に言わせれば彼は現存する最大の唯一の詩人だが、我々は彼に対しタゴールに対するのと同じ不満を持つ。彼は現実を尊重しつつ作品上ではそれを否定する。しかし私は躊躇なく言える——彼ら二人から大いなる感銘を受けたと。私は彼らを敬畏する。
A・Eとイェイツを中心に多くの若き文学者が出現しアイルランド文学運動の旗を掲げた。友カズンズはA・Eに似た点が多い。数年前私が日本に招き慶應義塾大学で詩の講演をしたので日本でその名は知られている。カズンズと共に文壇に現れた若者にオサリヴァンとジェイムズ・ステフェンズがいる。
オサリヴァンは古典的アイルランドの伝統に霊示を見出し、ステフェンズは神奇なる鋭気を革命的文学精神に注入した。その後パドレイク・コラムとジョゼフ・キャンベルが後輩の詩人として現れた。しかし私のこの文は彼らの作品批評を目的としない。A・Eとイェイツを論じればそれで十分である。もしこの文がアイルランドの文学上の特質を述べ得たならば、私は大いなる報酬を得たに等しい。
(『アイルランド情調』より訳す。)
(一九二九年六月二十日、『奔流』第二巻第二期所載。)
第151節
【表現主義の諸相 日本 山岸光宣】
【一】
唯物主義は一時思想界を風靡し純正哲学を軽視させたが、一八八〇年代よりオイケン、ヴント、新カント派の人々の努力により、一種の新しい純正哲学がすでに頭をもたげ始めていた。従来特殊問題に没頭しほとんど自然科学化していた哲学は、再び統一的宇宙観を要求するようになった。この精神的傾向は新ロマン主義や新古典主義の文芸運動にも見られるが、現代ドイツ文壇を支配する表現主義の運動においてこそより分明に看取できる。象徴派の抒情詩人デーメルは瞑想的傾向と哲学問題への関心において、いくらか橋渡しの役割を果たした。要するに表現派の詩人は、ついに再び理想家に——いや空想家にさえなろうとし、官能ではなく精神を、観察ではなく思索を、演繹ではなく帰納を、特殊からではなく普遍から出発した。その精神すなわち事物そのものが芸術の対象となった。ゆえに表現主義は印象主義のように外界の観察を主とするものとは極端に対立する。表現主義は精神を標語とし、その結果精神のみを真に現実的なものとして崇め、外界の事物には恣意に対処して意に介さない。空想・神秘・幻覚を尊重するのも自然の勢いである。資本主義的有産者を蛇蝎のごとく嫌うのも、彼らを実生活の物質文明の具現化と見なし精神の仇敵と見るがゆえにほかならない。
表現主義は物質主義を排斥すると同時に近代文明の一切をも排斥する。これらすべては自然科学と技術を基礎とするからである。機械文明は資本主義の産物であり、世界大戦は技術と科学の戦争であり、これらは彼らに技術を呪詛させる力ともなった。ハーゼンクレーヴァーの『息子』では電報や電話が呪われている。
現代の思潮はかなり複雑であり、表現派の思想もその例外ではない。同一の詩人でもその思想は矛盾を免れない。アインシュタインの相対性原理が思想界に与えた影響はまだ明らかでないが、ヘッケルの自然科学的人類学に反対するシュタイナーは戦後ドイツ思想界にかなりの影響を与えた。表現派の詩人が人生の単純な進化論的解釈に反対し外界の無価値と人を取り巻く神秘を高唱するのはシュタイナーの影響と見なし得る。彼らにとって人生はまさに夢中の夢である。彼らはまた人類を最高等動物とする唯物主義的学説に反対し、宇宙は神性を具え人は神より出でて神に復帰すると主張する。ヴェルフェルは道徳的行為の可能性をもって人類の神性を証明した。
彼らは我々を取り巻く無限の神秘に戦慄し、外観の背後に物自体の永久の潜伏を見る。シュテルンハイムは我々の生活を悪魔の仕業であり我々を苦しめるためだと言う。彼らが月光を利用し夢遊病者を描くのも人を戦慄させるためにほかならない。マイリンクの小説『ゴーレム』、映画『カリガリ博士』もみな戦慄を基礎とするものである。
彼らは神秘的瞑想を好むため作品中にしばしば不可解なものがあり、中世の神秘主義者を研究しその著作を刊行する。神秘主義と相伴い旧教の信仰が目覚めた。原始キリスト教の復活を夢見るドーブラーのような者さえいる。フランス大使クローデルの旧教劇が一時盛行したのもこの故である。
【二】
表現派の詩人たちは哲学的観念を運用した結果、特殊的なものより普遍的な事物を好むのは当然である。自然主義は特殊的なところから出発したが、表現派の運用するものは多くの事件の象徴である。したがって彼らの主題は両性の関係・人生の価値・戦争の意義などの普遍的根本問題である。新ロマン派の驍将ホフマンスタールがエウリピデスの『エレクトラ』を改作した際にはかなり特殊的な心理を運用したが、ヴェルフェルは『トロイアの婦人たち』の改作において極めて普遍的な戦争の悲惨を運用している。
表現劇の人物がしばしば姓名を持たないのは普遍化の傾向が極端に走り個性化を軽視した結果である。ハーゼンクレーヴァーの「息子」の友人は全くの比喩であり父権への反抗の代表者である。表現派の作品には難解なものが多い。ある戯曲は上演の際に印刷した説明書を観客に配ったという。バルラッハの『死の日』は説明なしには不可解である。
神秘的傾向と相俟って幻覚と夢が表現派作家の得意の領域となった。彼らは芸術品の価値が不可解の度合いに正比例すると考え、奔放な空想を絶対無上のものとし心理的説明を一切省略する。とりわけ戯曲では怪異の出現が当然視される。切り落とされた頭が物を言い、死者が生き返るなどは枚挙に暇がない。劇中人物が幻影を見たり自ら幻影として登場することさえある。
極端に理知を排斥する傾向は言語の様式上にダダイズムという特異な奇怪現象を生じさせた。ダダイストは科学と論理を否定した結果、通常の言語を論理の手段と誤解してこれも排斥し、幼児の譫言のような感嘆詞のみから成る原始時代の様式に復帰しようとした。
【三】
物質主義を去り精神と観念に赴く表現主義があらゆる点で印象主義に反抗するのは当然のことである。しかし従来の一切を資本主義の産物として排斥する極端な政治思想も大きな影響を与えた。ちょうどボリシェヴィキがまず既存のものを全て破壊し新しきものを建設するように、表現主義も従来の芸術と全く絶縁しようとする。新ロマン主義がすでに自然主義に反抗してはいたが、表現主義の先駆者はヴェーデキントである。芸術は決して現実の単なる模倣ではない。さもなくば写真が芸術より優れているはずだ。現実の世界はすでに存在するのに何ゆえこれを反復するのか。表現主義の使命は自然を征服する新しい芸術の建設にある。
表現派の人々が自然主義に反抗した結果、自然主義の尊重した環境を軽視する。人生の偶然的条件から解放された抽象的人間のみが彼らの対象である。歴史上の事件を用いる際も一々史実に従う必要はない。カイザーの『カレーの市民』にはほとんど環境描写がないと言える。
その結果、戯曲のみならず小説も常に様式化される。カイザーの『カレーの市民』『ガス』の構成は整然としている。心理描写を放棄すれば形式の整頓に便利である。表現派のある者は自然主義の形式軽視を攻撃し再び形式に回帰することを主張した。
表現主義は自然主義の技巧を排斥するが、現在の国家組織に反抗し社会主義と密接な関係を持つ点では自然主義と同じである。冷静な同情の目で貧者の不幸を観察するのが自然主義であれば、社会主義的政治思想を声高に伝えるのが表現主義である。表現主義はおおむね極端な傾向芸術であり芸術のための芸術ではない。ハーゼンクレーヴァーは戯曲『アンティゴネ』を世界大戦と結びつけ、クレオンを前ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世に擬した。作者が観客や読者に宣伝する箇所も少なくない。自然主義時代の冷静な客観的態度は全く失われた。
【四】
まず表現主義を攻撃したのは革命以前のドイツを支配していた国家主義すなわち軍国主義であった。表現主義の第一人者ハインリヒ・マンは「国家は技術的・経済的結合の領域を脱し精神の領土とならねばならない」と述べた。彼の小説『臣下』はヴィルヘルム二世治下のドイツにおける極端な権力意志と経済的弱者迫害の時代を描いている。
自然主義の社会詩人は貧者に同情を注いだがおおむね有産者の立場に立っていた。しかし表現派の詩人は公然と社会主義を奉じ現存の経済組織を打破しようとする。世界大戦はドイツの革命思想をも助長した。若き詩人たちにとって労農ロシアはゲーテにとってのイタリアのごとく憧憬の国土であった。
彼らは簡便を尊ぶため作品中でしばしば直接行動を鼓吹する。この運動の創始者がその機関誌を『行動(アクツィオン)』と名づけたのも偶然ではない。この一派の雑誌には『暴風雨』『奮起』『末日』『赤い雄鶏』等があり革命に心酔する者もいた。
彼らの理想は無政府主義、共産主義、プロレタリアートの政権獲得である。カイザーの『ガス』は世界の滅亡と文明・自然の矛盾を指摘している。表現派の詩人にはアイスナーやトラーのように自ら革命運動に参加した者さえいる。
世界大戦がもたらした不幸は極左的過激思想を助長し革命の促進にも力があった。しかし詩人は戦場の勇士ではなく、戦争嫌悪の思想が表現派作品に明瞭に現れている。国民間の和解、戦争と国民的区別の廃止、世界同胞主義が彼らの標語となった。ヴェルフェルは多くの短詩で戦争に反抗し、ウンルーは『ある時代』で母に戦争で失った子を嘆かせた。シュテルンハイムの喜劇はすべて富裕な有産者への風刺である。
【五】
現存の国家社会を軽侮する傾向は遂に一切の事物に及んだ。かつてヴェーデキントがあらゆるところに嘲笑・軽蔑・憐憫の対象を発見したように、表現派の詩人もあらゆるところにこれらを発見する。従来の風刺作家は嘲笑する側により優れたものを対立させたが、表現派の詩人は決してそうしない。
この一端においてヴェーデキントのほかストリンドベリも影響を与えた。彼は現実生活の不正と不合理を指摘し利己心なき行為の可能性を疑った。その影響を受けた表現派の詩人は父母の子に対する愛情や夫婦間の関係をも利己心の変形と見なした。したがって娼婦も良家の女子と同等に扱い時に賛美さえする。
表現派の詩人は極端な否定的態度をとるが、他面では社会道徳を根本的に改造しようとする積極的態度もとる。物質主義に対して道徳的理想主義を、ニーチェの超人主義・利己主義・資本主義に対して利他主義と博愛主義を対峙させる。自然主義は一切を知り尽くした後に批評を下すが、表現主義は最初から善悪を断定する。この派の詩人はまだ若いが利益や享楽にではなく博愛・奉仕・忍耐を理想とし、人類の性善を信じる。ドーブラーは蟻一匹殺すのさえ忍びないという。
愛と無私を完全ならしめるのは犠牲的行為である。偉大な犠牲的行為がしばしば表現主義の対象となる。『カレーの市民』は故郷のための犠牲的行為を扱ったものである。
唯美主義は疲労して冷静だが、表現主義の理想は感情の最大限度、感情の陶酔である。表現派の戯曲はしばしば感情の抒情的昂揚に流れる。したがって主役は懺悔者・忍従者・真理の探究者が多い。ゾルゲの『乞食』はほぼ全篇独白であり、事件や葛藤のないものもしばしばある。
用語もかなり高亢で、時には感激の極み痙攣的に発する絶叫の連続であって文章ではない。ハーゼンクレーヴァーの戯曲『人間』はとりわけこの傾向の極端に趨いたものである。
表現主義が誇張と最上級の表現を好むのは本質的に当然である。加えて政治的現象の影響を受けひたすら世人の耳目を聳動することに腐心する。今や詩人も宣伝者として街頭に立つのだから声を張り上げねば聞こえない。
題材も奇抜で挑発的であり、耳目の聳動を目的とする以上綿密な注意は不要となる。この点で表現主義は自然主義と正反対である。誇張的効果のために冒険小説的手法と題材を常用し、映画がかなりの影響を与えた。
表現派の戯曲作家の中でカイザーのみが舞台効果に専心する。彼は観客の注意を幕から幕へ巧みに引きつける。『カレーの市民』は事件は貧弱だが小さな舞台効果は少なくない。
写実主義に慣れた者にとって表現主義を公平に評定するのは容易ではない。極端な物質主義と自然主義の行き過ぎは反対の思潮で救わねばならないが、現在の表現主義はあまりに極端な反動的運動である。当初この運動を指導した人々でさえ表現主義はすでに行き詰まったと言い、にわかに輩出した多数の表現派作家から頭角を現した者はわずかな少数に過ぎない。そしてこの少数者の成功も表現主義を奉じたからではなくおおむね過去の文芸で鍛えた本領によるものではあるまいか。
(『印象から表現へ』より訳す。)
(一九二九年六月二十一日、『朝花旬刊』第一巻第三期所載。)
第152節
【青湖記遊(遺稿) ロシア ニコライ・チェムヌイ】
十二時を過ぎ、果てしない地平線の広漠たる道を、荷馬車に揺られながら、私は青湖の渓谷に着いた。豊麗な渓谷である。半露里(訳者注:一露里は約三千五百尺)の幅に一露里の長さのこの谷は、三面を屹立する岩壁に囲まれ、鮮やかな花卉の斑爛たる天鵞絨に覆われ、深い窪地の底のように見える。この天鵞絨の上に、年を経た蓑衣樹が絵のような島々をなして広がり、斑条の杜鵑は盛りと咲いて全渓谷に芳香を放っている。その香気が硫黄の臭いに交じり、湖水の周囲は息苦しい。
我々は造化の豊饒の美に驚嘆し、立ちすくんで見とれていた。左は——聳え立つ石壁、昨日白墨を塗ったかのように白い。——異様に大きく、その頂きに生えた大樹は、誰かが岩頭の窓に置いたかのようだ。正面は——三層の露台をなし、種々の植物に蔽われ、下は谷間に接する。バルケル峡谷が右隅を巡り、そこからチウレク川が迸り出て滔々と音を立てる。濁流が岩間を走り、谷の右側から磐石を担ぎ上げ、激流は巨石を押し運んで到る処に轟々と鉄路の汽車のように響く。チウレク川に臨む危巌は草莽に蔽われ、葱々茏々として藤蘿に纏われたかのよう。巨岩の上には山巓を覆う雪が溶けて小川となり、銀の飄帯のように纏わりついている。
我々は黙然と立ち、これら我々を包む岩石の群山を眺めていた。しかし地平線がないのは不快であった。
「湖水はどこだい?」誰かが案内人ナードに尋ねた。彼は我々が旅してきたナリチクのカバルダ人だ。
「入口はあちらだ!」ナードは激しく手を動かして、湖の景色を遮る蓑衣樹の茂みを指し示した。
我々が叢を廻って見ると、失望した。湖水は我々の想像したようなものではなかった。それはただ三十サージェン(訳者注:一サージェンは約七尺)四方の池で、水晶のように透明な水を湛えている。水はきわめて清澄で、嵐に倒された蓑衣樹の大木が根をなお石岸にしっかりと打ち込んだまま、その梢の最後の一枝まで水中にはっきりと見える。
「どこが青いんだ?騙されたぞ!……」
「白い物を放り込んでごらん——分かるから!」侮辱されたかのようにナードが言った。
誰かが提げ籃から熱い卵を取り出し、湖のおよそ中央に投じた。眠っていた水面がびくりと波紋を生じた。卵が微波の下に消えた。我々はどっと笑い、呆けたように、まるで漁師が浮子を見つめるように湖の微波を凝視した。
「ああ、ああ!あそこを見ろ!」ナードが狂ったように叫び、静まった水面を指さした。我々は専心して水中を注視した。
「ああ、卵が——青くなった!」女たちが我々の足下に転がり来る、まるで青玉のような卵を見て狂喜した。まる一分間、歓喜と感嘆と狂呼が続いたが、卵は我々の岸の下に消えてしまった。
「確かに深い!」誰かがそう言った。「おい、もう一つ!」
卵がまた湖中に飛んでいった。聡明なナードはすかさず提げ籃に蓋をし、脇に挟んだ。
「何を食べるつもりだい?」彼は不賛成そうに首を振って言った。
我々は子供のように愉快だった。ナードの聡明さに感服し、もう卵は投げず、石ころに替えた。
「おい、おい!見ろ、あそこ。夜が来た!」ナードが突然叫び、山頂を指さした。
我々は振り返り、岩頭に夜を見出そうとした。しかしそこに夜はなかった。……雪嶺の上に落日の紅蓮の光輝が燃え、あらゆる真珠色の移ろいが煌めいている。この閃めきは震え溶け、あと一分もすれば花に溢れた山谷から紅蓮の川が噴き出しそうであった。
我々は感嘆した。しかしナードは倉皇として叫んだ——
「お客さんたち、夜ですぞ!短刀で蓑衣樹を切れ——火を焚け、すぐに夜になるぞ!……」
彼はあちこち走り回って困っていた。その赤い顔に恐怖が現れ、我々の無関心に対して憤懣を示した。
やがて我々もナードが夜の接近を恐れる心情を悟り、暖を取る材料の収集に取りかかった。ナードは蓑衣樹の枝葉の密な下に場所を定め、薪に火を点けた。
雪を戴く嶺は色褪せ蒼ざめた。そこから寒気が吹き送られてくる。黄昏は次第に濃くなり、夜は幻灯のように到来した。旅人たちは焚火を囲み、茶と食物を用意した。私はナードの指揮の下、小刀で大きな葉の付いた小枝を切り落とし、寝床を作った。
夜は我々をいよいよ焚火に近づけた。女たちが一切の準備が整ったことを知らせに来て、我々は座って晩餐にかかった。ナードはマホメットの忠僕であり、コーランに背かない——酒を飲まず、火腿を食べず、茶を飲み、仔羊の腸詰を食べるだけだ。
夜は我々を突き通せない四面の岩壁の中に囲んだ。静寂の中から奇秘な低語と物音が伝わってくる。
ただ深藍の天鵞絨の大空が大きな星を鏤め、我々の上に蓋さっている。夜はまるで我々を取り囲む大象の背に横たわるかのよう。……蓑衣樹の緑葉が焚火の炎に戦き灰色に見える。傍の馬は飼葉を与えられ——ヒヒと嘶き、多汁の草をサラサラと音を立てて啮む。夜鳥が頭上を飛翔し、煙に驚いて旋回し、一声叫んで叢に没した。奇秘な低語の声が醸し出す息苦しいような気分。我々は焚火のこちら側に身を寄せ、暗い周囲の深淵を見まいと努めた。不意に何かがサラサラと音を立て、ガタガタ、パタパタと響き、砲を発したように轟然とチウレク川に落ち、山峡がこだました。我々は震えながら黙然と四方を見回した。
「地崩れだ!」ナードが坦然と説明した。「山が崩れたんだ!」
チウレク川は声を潜めた。まるで沈思し、突然の災難を慰問しようとしているかのようだった。
闇と篝火と不分明な低語の声が、我々にさまざまな恐ろしい物語を思い起こさせた。死人・強盗・妖人・凶神の類に充ちた物語を。そしてこの物語が恐ろしいほど、我々はいよいよ火の傍に身を寄せ、背後の——漆黒の墨汁のような夜の深淵を見まいとした。……
「ここに野獣はいるかい、ナード?」
「猿、熊、野牛がチウレク川に水を飲みに来る。……」
すると一切が寂然とした。
ナードは外套を被り、我々にお休みの挨拶をした。
「おい、聞こえるか?誰か歩いてくるぞ。……」
皆がそちらを向いた。そちらから一種の足音と不分明なつぶやきが聞こえた。皆が警戒した。
「おい、ハッ、ハッ!」暗闇の中で唸りながら、何か三本足のものが我々のほうへ近づいてくるようだった。
「ナード!ナード!起きろ!」
しかしナードは万事片付いたかのように、とうに昏々と酣睡していた。
我々はついに彼を揺り起こし恐怖を告げた。三本足の何かが近づいてきたことを。……
ナードはただ唾を一つ吐いた。
「それはタウピー(山の侯爵)だよ。酒好きの老侯爵で、ここで羊を飼っているんだ。」
侯爵タウピー自身が羊を飼っているというナードの話を我々は信じなかった。
足音が近づいた。暗闇の中にまず灰色の髭が現れ、次いで皮帽を被った大柄な老人の姿が現れた。侯爵は跛を引き、太い杖をつきながら焚火の傍へ歩み寄った。
「いいもんだ、いいもんだ、お達者で!客人。」侯爵が言った。
我々は彼の歓迎に答え、一緒に座るよう招いた。
侯爵は帽子を脱いで座った。
「見物に来なさったか、客人?」彼は特に誰にともなく尋ねた。
「はい、湖水やチウレク川や山やバルケル路を見に来たのです。」
「ふん!」老人は唇歯の間で言い、黒い透視するような目で傲然と我々を見つめた。我々も侯爵を見つめた——真っ赤な髭で飾られた鷲鼻や尖った爪を。しかしどこから話を始めたらよいか見当がつかなかった。
「足が痛むのですか、タウピー?」一人の医者が言った。
「お前さんたちの兵隊にやられたのさ!」山の侯爵は答えたが、その顔に怒りの影がよぎった。
「タウピー、何か食べませんか?」医者が親切に話題を変えた。侯爵は頷いて承諾の意を示した。瓶と茶碗と香腸が手渡された。山の侯爵は杯を二つ並べ、食物と共に飲み始め、ただ咳をしていた。
その目がいくらか潤んできた。どうしたのか、急に力が抜けたようだ。
「お休み、客人!」彼は言って外套を広げた。
我々も枝の上で就寝の準備をした。谷川の朗らかな音を聞きながら、眠い目で暗い空を仰いだ。空が巨岩の群山の上に弓なりに掛かり、天井のように両端を岩に載せているように感じた。……
(一九二九年十二月二十日、『奔流』二巻五期所載。)
第153節
【チェーホフと新文芸 ロシア リヴォフ=ロガチェフスキー】
ガルシン臨終の数週間前、雑誌「ルースカヤ・ムイスリ」に掲載されたチェーホフの短篇「ステピ」(草原)を読み終え、歓喜雀躍し、新たに出現した天才の文才の力、鮮活さ、新鮮さに魅惑された。
彼はこの短篇を持ち歩き、ロシア文学界に新作家が生まれたことを慶賀して言った——「胸の腫瘍が破れたような気がする。」
チェーホフの筆力とその文体・手法の新鮮さはかくも傑出していたが、その手法はチェーホフ以前の文学上の二つの時期においてすでに準備されており、ツルゲーネフの「散文詩」に、ガルシンの作品に、コロレンコの作品に現れていた。
しかし都人士チェーホフは最近のロシア文学の最も才能豊かな表白者である。プーシキンは専ら芸術に仕え、ウスペンスキーは専ら真理に仕えたが、チェーホフは真理と芸術を融合し得た。そして政治的倦怠の雰囲気と都会生活の新傾向が彼の作品の形式と内容に深い影を刻んだ。
真理と芸術の融合は最近のロシア文学の特色である。
大風刺家にしてゴーゴリの後継者サルティコフは『斑爛たる書簡』を完成し一八八九年に瞑目したが、チェーホフの『斑爛たる物語』は一八八六年に出世し、ゴーゴリとサルティコフの後継者たることを明示した。
チェーホフ自身は処女作を軽視し「蜻蛉」の生活上の「蠅や蚊」のようなものだと考えていたが、次第に自己の特色を自覚した。一八八五年に友人に宛てた手紙に「私がこれまで書いたものは五年から十年で忘れられるだろうが、私が開拓した道はおそらく完全に遺るだろう。これが私の唯一の功績だ」と書いている。
チェーホフの観察は外貌ではなく内在の精神にあった。小説「ステピ」に記されたのは、ある寒夜、篝火のそばに立つ一団の人々のところへ、恋人と約束した男がやって来るが、人々にまず見えたのは彼の顔でも衣服でもなく、口元の微笑であった。社会生活のステピ上で、震える人々の間にあってチェーホフが観察したのは外貌ではなく内在の精神——顔でも衣服でもなくあの微笑であった。
チェーホフは都会の悪習を痛撃しつつ、冷淡に社会現象を見る者の目を覚醒させ、美と光明の生活の到来を切望した。「ロシアの国基は紀元八六二年に奠定されたが、真の文化的生活はまだ始まっていない」——これはチェーホフの全作品から発せられる声である。
トルストイはアンドレーエフを批評して「彼は私を脅そうとするが少しも怖くない」と言ったが、チェーホフについて我々はこう言いたい——「彼は我々を脅さないが、しかし大変に怖い」と。
チェーホフの短篇の楽調は彼の戯曲に集中されている。劇中の各語は響き、各句は全体の旋律に融合する。『三人姉妹』の人物は忘れられても、この戯曲に含まれた調和は忘れ得ず、永久に人の精神に浸透する。
読者は連隊が寂しい小市を去る瞬間を思い出してほしい。チェブトゥイキンがサリョーヌイに決闘で殺された人の良い空想家の男爵の報せを届け、男爵の花嫁イリーナは啜り泣きながら「分かっていたわ、分かっていたわ」と言い、マーシャは自分の言葉を繰り返して「生きなければ、生きなければ」と言い、チェブトゥイキンは「構うものか、構うものか」とつぶやき、アンドレイはボービクを乗せた乳母車を揺すり、オーリガは譫言のように低語する「もし知っていたなら、知っていたなら」。……そして軍楽の曲調は次第に遠のき、静まっていく。……
遠ざかる連隊の軍楽、地主の弦の音、辻馬車の鈴の音、老人フィールスの「私を忘れて行ってしまった」という断腸の言葉、遠くの竪坑に落ちる桶の音、梟の啼き声、桜の園の斧の音——これらがチェーホフの心情の劇曲を開く鍵である。
チェーホフの戯曲は蹂躙された意志、無行動、憂鬱な情調の戯曲であり、劇中の主要人物は取るべき理想を失い刹那的心情に服従する者——つまり時代精神の反映である。
楽天的で創造的な現代において、チェーホフの戯曲は舞台上の現実性を喪失した。
(一九二九年十二月二十日、『奔流』第二巻第五期所載。)
第154節
【プロレタリア革命文学論 ハンガリー ガーボル・アンドル】
人々は常に我々に問う——「では、あなたがたのプロレタリア革命文学とは何であるべきか。それも他の普通の文学と同様に一種の芸術なのか。それとも宣伝・煽動用の『傾向的』論文と見なすのか。」我々はこう答える——我々の文学は芸術であり、少なくとも我々はそれを芸術たらしめようと努力している。すなわち一人の芸術家は八日間でも八か月間でも鍛え上げられるものではないことを承知している。しかし同時に我々の文学は一つの「傾向」でもあり(ただしこの二文字を政治論文の意味に解してはならない)、我々はこれをもって煽動と宣伝を行う。この点で我々は何ら神奇な革新者ではなく、ただ市民階級の文学技術の自覚的な継承者に過ぎない。我々の目的はプロレタリアートの科学——すなわちマルクス=レーニン主義を文学の領域に適用することにほかならない。
世間には普遍的な「人類」なるものは存在せず、具体的な人類が存在するのみであり、この具体的人類は多くの階級から成り、マルクス主義が明記するとおり、この人類の歴史はまさに階級闘争の歴史である。文学は何ら神聖な精霊の啓示ではなく歴史の所産であり、階級の産物である。いかなる階級の思想と感情を描き組織し発展させるかによって、その階級の文学となるのだ。
以上から明瞭な結論を得る。我々が今日プロレタリア革命文学と言う時、それは未来の社会主義的・共産主義的な、つまり階級が消滅した社会の文学を指すのではない。なぜならその時には文学もまた階級性を失うからだ。これとは正反対に——我々の文学は階級文学の最高の段階であり、徹頭徹尾階級闘争的である。
我々の文学は進行しつつある鋭化した階級闘争の武器となった。プロレタリアート独裁が階級支配の最高の自覚的形態であるならば、プロレタリア革命文学もまた世界革命の状況に応じて二つの時期の文学に分けられるべきである——すなわち世界革命前の文学(資本主義諸国において)とプロレタリア独裁期の文学(ソヴィエト・ロシアにおいて)である。
では革命的労働階級は政権獲得以前に自らのための文学を創り出せるのか。我々はまず反証を試みよう。仮にプロレタリアートは特殊な文学を創造すべきでないとしよう。だが我々の新聞は何のためにあるのか——それは事実として存在し、講談欄や小説欄があり、読者のある種の需要に応えている。この読者は「コーヒー婆さん」や「修道女」ではなく階級闘争に従事する革命家なのだ。
革命的労働者は、労働力商品の所有者が単なる筋肉の束ではなく各種の需要を持つ人間であることを知っている。もちろん文化的需要もあり、詩歌・小説・物語の読書もその一つである。革命的労働者はまた労働運動の歴史を知っており、こう教えるだろう——「要求を引っ込めろ!文化的需要は罪だ!」などと大衆の前に立った革命党はいまだかつて一つもなかったと。
したがって我々の仕事の最大の部分は、革命的プロレタリア的文学活動を喚起し増進することにある。我々が言うのは、革命的労働階級の隊列の中から育成された著作家のことである。未来は——しかも最も近い未来は——彼らを肯定するだろう。彼らのみが完全に革命的階級闘争の立場からプロレタリアートとその解放の戦いを体験し、最高に発展した革命原理を同化し得るのである。
この可能性は今なお潜伏し束縛され無数の困難に阻まれている。我々はこれを発展させ、プロレタリア革命文学を開花させねばならない。
これが我々の仕事である。
(本文は「ディ・リンクス=クルヴェ」一巻三号、一九二九年十月所載)
(一九三〇年九月十日、『世界文化』月刊所載。)
第155節
【ゴーゴリ私観 日本 立野信之】
ロシア文学の優れた作品を読むと、私はしばしば驚嘆する——その中の人物が我々の周囲に生きる人々と驚くほど似ているのだ。これはロシア文学に限ったことではないかもしれない。文学が人生の反映であるならば、優れた文学であれば国情や社会制度が異なり時代に差があっても、描かれた人物に性格的な類似を見出せるのは当然であろう。我々が周囲の人々にハムレット、ドン・キホーテ、ウジェニー・グランデを見出すのは珍しいことではない。しかしそれでも私はロシア文学——とりわけゴーゴリ・トルストイ・チェーホフの作品に、他のいかなる国の作家が描いた人物よりも活き活きとした類似を見出すのだ。
一体なぜか。私はしばしば首を傾げて考えた。思い至ったのはこうだ——
ロシア文学の諸人物に我々日本人との多くの類似を見るのは、日本の作家や評論家が好んで唱えるような「文学は本来国境を超えるもの」「文学は古今不変のもの」……などという理由ではなく、ゴーゴリ・トルストイ・チェーホフの生きた時代——帝政ロシアの社会生活と、なお多くの封建主義的残滓が根を張って生きている現在の日本の社会生活とが、本質的に非常に似ているためではないか。農民を題材としたロシア文学を読めば、なおさらそう感じる。
こう言えば非難されるかもしれない——暗黒時代のロシア帝政時代と日本の現在を同列に論じるのかと。確かに全く同じではない。日本の農民はゴーゴリの『死せる農奴』やサルティコフの『飢饉』に描かれた「農奴」ではない。しかし農奴でないとすれば何なのか。徳川幕府の「百姓は生かさず殺さず」という有名な農民政策下の農民生活と現在の日本の農民生活の間に、どれほど截然たる差があるか。これらを合わせて考えれば分かる——ロシア文学の諸人物と日本人の類似の鮮明さは「文学は国を問わず時の古今を問わず変わらない」という言葉だけでは説明できない。それは生活上、現実上の、より切実な連繋があるのだ。
私は常に思う——ロシア文学は偉大なる「田園文学」であると。そしてゴーゴリはまさにその筆頭の一人だと。私がすべての国の文学よりロシア文学を愛しゴーゴリに最も親しみを覚えるのは、率直に言えば私自身が田舎者だからであろう。
果たしてゴーゴリの作品から何を学ぶべきか。単に卓越した風刺の手法を学ぶだけでは足りない。彼の風刺とはいかなるものか。最も肝心なのは、この風刺を理解しこの風刺を体得した目をもって現代日本の混濁した社会情勢を観察し、その中から真の風刺的なるものを掴み出すことである。
ゴーゴリの描いた各種の人物が現代の我々の周囲にもなお生きているのは、畢竟彼の偉大なる作家的才能に帰すべきであり、同時に彼の風刺が単なる奇抜や滑稽ではなく社会生活の現実を参透したものであるがゆえに、現在の日本の生活に嵌めても尚生きているのだ。ここにゴーゴリが社会的リアリストとしての真価を見出し得る。
近頃、風刺文学への希求の声が高まっているようだ。同時に風刺文学は政治的反動期に多く生じるという現象のみを捉えてその消極性を説く者もいる。しかし風刺文学の意義は決して消極的ではなく、十分に積極的である。ゴーゴリの『死せる農奴』が農奴解放に向かい、『外套』が官僚専制の暴露に向かい、政治上も積極的意義を発揚した例を見れば明らかだ。
現在の日本のような政治状態こそ風刺文学の最良の母胎だと私は感じる。ゴーゴリを研究する意義は深い。
立野信之は元来日本の左翼作家であり後に離脱したが、相反する陣営に転じたとの他人の評には服さず、政治上の「敗北」のみを認め、目下なお彷徨している。『ゴーゴリ私観』は本年四月号の『文学評論』から訳出したもので、さして精深な作ではないが平明で分かりやすく、「文学は国や時の古今を問わず永遠に変わらない」という主張の不実を説明しており、読者の参考に供し得る。
(一九三四年九月十六日、『訳文』第一巻第一期所載、署名鄧当世訳。)
第156節
【芸術都会のパリ ドイツ G・グロス】
フランスは従来からドイツの芸術家にとっての聖地(メッカ)であった。人々はそこから画家としての真の修練を持ち帰った。多くの偉大な能人がそこで生活し仕事をし、直接多くの外国の芸術学生を教え、画家の一時代を成就させ芸術的教養を形成した。名手、例えばクーチュールは直接に名士を養成し、当代の師と讃えられた。優秀な学校が開設され、そこから輩出した大才が名声と体面をもたらした。
かくしてパリは世界の芸術中枢の名声を得た。絵画の真の精神、すなわち絵画の最後の精粋を手に入れたい者は皆そこに赴いた。近年パリでは大運動が起こった——極めて有能な幹部を擁する印象主義、フォンテンブロー派、次いで点描主義、さらに立体主義等々が世界中の若い、そして多くの古い芸術家に大きな影響を与えた。芸術家に有益なパリとその雰囲気を讃美するのは全く当然のことであった。
長い交通隔絶と新聞の嘘と粗製濫造の後の今——再び大群の芸術家が、あたかも旧来のロマン主義的偏見を抱いて巴里巡礼に赴き、真の祖国に帰ったかのような文筆販売員のように、各種の紹介状や推薦状を携え、現地の作場や名手を歴訪している。しかしそこで何を見出すか。
実際、フランスの文化的産物はこちらと同様に富裕な者の趣味の需要に応じて生じたものだ。パリの芸術家たちは極少数の例外を除き、ドイツの同業者と同様にこのことを理解していない。彼らは作場の存在を各種の形式問題の中に嵌め込んでいる。本質的影響はもはや事態に及び得ないのに、彼らはそれを及ぼそうともしない。
世紀の変わり目まではフランスでは画家も詩人も社会発展の積極的力量であった。ユゴー、クールベ、ゾラ、ラシエット・オ・ブール、スタンラン、グランジュアンらを見ればよい。
しかし今やこちらと同様にパリでも停滞と中庸が支配している。フランス精神の伝統的自由の火花を二十世紀に引き入れようとした老詩人アナトール・フランスは、実は雲の上に漂う、過去の時代の最後の象徴の上に浮かんでいたに過ぎない。
マゼレール、バルビュス、クラルテの会員は確かになお先の戦いを共に戦っているが、彼らは外部の者であり、観念がかつての鋭さを消耗してしまった。より善き人間性の宣告者として現れたロマン・ロランは穏やかな急進主義者であり、政治家エリオのようなものだ。
我々を愛し信じてくれる、真の革命的情熱と不可調和の社会的風刺のフランスは十八世紀と十九世紀のものだ。
夢想しても無益である——フランスは現在、知的にも精神的にも死滅し、常に「伝統」を語る人々が伝統のあらゆる柱を調べその上に文明ヨーロッパと同じ凹陥と亀裂を発見すれば、それをはっきりと知るであろう。
パリはもはや芸術の中枢ではない。そのような中枢は今やどこにもない。今なおパリを「世界の芸術中枢」として旅する者、そこで新たに一層の発展を遂げようとする者は、一九一四年が(ついに!)引き裂いたものを繕おうとしているに過ぎない。
グロス(ジョージ・グロス)は中国でもかなり知られた画家であり、元来ダダ派の人であったが後に革命の戦士となった。『芸術都会のパリ』は正確に訳せば『芸術都会としてのパリ』(Paris als Kunststadt)であり、『芸術は危うし』(Die Kunst ist in Gefahr)の一篇で、ヴィーラント・ヘルツフェルデとの合撰と記されているが実際は彼一人の作で、ヘルツフェルデは出版を最初に尽力した友人である。
書は一九二五年出版で現在からすでに十年経つが、大部分はなお適用し得る。
(一九三四年九月十六日、『訳文』第一巻第一期所載、署名茹純訳。)
第157節
【飢饉(「某市の歴史の一」) ロシア サルティコフ】
千七百七十六年、グルポフ市はめでたい兆しをもって幕を開けた。それ以前の丸六年間、市には火災も凶作もなく、疫病も家畜の悪疫もなかった。市民たちはこの編年史に記されたことのない幸福を、市長ピョートル・ピョートロヴィチ・フィルタホフシチェンコ旅団長の質朴な行政の賜物と考えたが、それはまことに正しかった。実際フィルタホフシチェンコの政治は質朴にして簡明、編年史家が特筆すること数回に及び、彼の治世に市民が非常に満足した当然の理由とした。彼は何事にも干渉せず、わずかな年礼で満足し、居酒屋で店主と雑談するのを好み、毎晩油染みの寝衣を着て市長官舎の大門に立ち、下僚とトランプをした。油っこい物を好み、酸汁も飲み、「おい、友よ」という親しげな口調で自分の言葉を飾るのが好きだった。
「おい、友よ、横になれ」と彼は罰として笞を受けるべき市民にもこう言った。あるいは「おい、友よ、あの牛を売らんか、年礼がまだだぞ。」
このような次第で、デ・サングロード公爵の専横な行政の後では、この老旅団長の平和な統治は実に「幸福」で「驚嘆に値する」ものと感じられた。グルポフの市民たちはようやく胸のつかえを吐き出し、「高圧的でない」生活が「高圧的な」生活よりどれほど良いか悟ったのである。
しかし旅団長フィルタホフシチェンコの治世第七年目に、彼の気質は思いがけず大きく変化した。以前はあれほど実直で怠惰ですらあった上司が、俄然活動的になり、頑固極まる性格を発揮し始めた。六年来の油染みの寝衣を脱ぎ、堂々たる軍服を着て市中を闊歩し、市民に漫然と歩くことを許さず、常に両側に注意して緊張せよと要求した。
旅団長の性格の突変にはしかし原因があった。市外のヴォズナイエ村の百姓の妻の中にアリーナ・オシポヴナという評判の美女がいたのだ。ロシア美人の特殊な型を具えたこの女は、一目見ると男は熱情に燃え上がるのではなく、全身が静かに溶けてゆくのであった。
千七百七十六年の初めのある日、旅団長は二人が憩う居酒屋に足を踏み入れた。入って来て焼酎を一瓶あけ、店主に最近の客の増減を尋ねているうちに、アリーナを見かけてしまった。旅団長は舌が喉に張り付いたかのようになった。
「どうだい、美人、わしと一緒に暮らさんか。」
「ばかを言わないで。あんたみたいな禿頭は大嫌いよ」とアリーナは不耐煩な様子で目を見て言った。「うちの亭主はいい男よ!」
しかし特米忒里・プロコフィエフは素直に屈服せず、聞き苦しいことを言い始めた。アリーナは鉄棒を持ち出して廃兵を追い払い、さらに市中を走り回って叫んだ——
「旅団長ったら南京虫みたいに、亭主のいる女のところに潜り込もうとするのよ!」
この名誉の宣言を聞いた旅団長は悲観した。しかし自由思想がすでに流布し住民の間に議会政体の声さえ聞かれる時節であり、老旅団長といえども自分の権力だけで片付ける危険を感じた。そこで気に入りの市民たちを招集し、簡潔に事情を説明した後、直ちにこの命令に従わぬ二人の処罰を要求した。
「書物を調べてくれ」と彼は率直な態度で申し述べた。「各人に何発の鞭が相当するか、諸君の裁定に任せる。今は誰もが自分の意見を持つ時代だからな。わしの方はただ笞刑を執行すればよい。」
気に入りの者たちは相談し、少し騒いでから答えた——
「あの二人の悪党には、天の星と同じ数の鞭をお与えください。」
旅団長は(編年史家はここでまた「彼はかくも正直であった」と記す)天の星を数え始めたが、百まで来ると分からなくなり、護衛兵と相談した。護衛兵は天の星は数え切れないほど多いと答えた。
アリーナとミジガは刑罰を受けて帰宅した時、まるで酔っ払いのようにふらふらと歩いた。
しかしこれほどの苦しみを受けてもアリーナは屈服しなかった。編年史の言葉を借りれば「当該婦人は旅団長の鞭を蒙るも、なお己に有益なる事を発明するに至らず」であった。
やがてこの事件から旱魃が始まった。ニコライ節から一滴の雨も降らず、地は石のように硬くなり、裸麦は痩せ、春蒔きの穀物は芽すら出なかった。家畜は鳴き苦しみ、野に食物なく市に逃げ込んで街を埋めた。住民は骨と皮ばかりになって項垂れて歩いた。
しかし市民たちはまだ絶望しなかった。前年の蓄えがある間は食べ飲み、宴さえ張った。旅団長は依然軍服を着て市中を闊歩し、士気を鼓舞するため御用商人に郊外で野遊びをさせ花火を上げさせた。しかし「これでは貧者は飯が食えない」のであった。
やがて蓄えも尽き、市民たちは鐘楼の近くに集まり代表を選んだ。最年長のエフシェーチ老人が選ばれた。老人は旅団長を三度試した。第一回——「旅団長、この市の人々が死にかけているのをご存知ですか?」「知っている。」「では誰の罪業でこんなことになったかご存知ですか?」「いや、知らん。」第二回の試みでは「正義と共にあれば、どこにいても立っていられます」と言ったが、旅団長は「お前のような老いぼれは正義と一緒に家に座っていろ。余計なことをして痛い目を見るな」と答えた。第三回——老人が口を開くや否や旅団長は「この馬鹿者を縛り上げろ!」と叫んだ。
エフシェーチ老人は囚衣を着せられ、「未来の夫を迎える花嫁のように」二人の老廃兵に引かれて警察へ向かった。行列が通ると群衆は道を開けた。老人は四方に礼をして言った——「皆さん、お許しください。もし誰かを怒らせ、罪を犯し、嘘をついたことがあれば……お許しください。」「神がお許しくださるだろう」と答えが返った。以後エフシェーチ老人は姿を消した。ロシアの「志士」の消失のように消えたのである。
その後も市民たちは代表を送り請願書を書き各方面に送ったが返事は来なかった。そしてついに百五十人が広場に現れ市長官舎に押し寄せた。
「アリーナを引き渡せ!」群衆は怒号した。
旅団長は事態の険悪を見て取り、倉庫に逃げ込んだ。アリーナも後を追ったが、旅団長が敷居を跨いだ途端に扉がバタンと閉まり、中から施錠された。アリーナは両手を広げて門の外に呆然と立ちすくんだ。群衆が押し寄せた。
「皆さん、お助けを。私は何も悪いことはしていません」と彼女は力ない声で言った。「あの人が無理矢理私を連れて来たのよ。皆さんもご存知でしょう。」
しかし誰も聞かなかった。
「黙れ、悪鬼め。お前のせいで市がこんなことになったのだ。」
そしてあの時代の文学や政治新聞に多く記されたような恐ろしいことが起きた。皆がアリーナを鐘楼の頂上に担ぎ上げ、十丈余りの高所から逆さに投げ落とした。
かくして旅団長の慰安者は一片の肉も残さなかった。餓えた犬の群れが瞬く間に彼女を引き裂き運び去ったからである。
しかしこの惨劇がちょうど終わったところで、公路の彼方に突然砂塵が立ちのぼり、グルポフに向かって近づいてくるように見えた。
「パンが来た。」群衆は即座に狂気から歓喜に転じて叫んだ。しかし!
「チチチ、チチチ、チ!」砂塵の中から分明にラッパの音が聞こえた。
縦隊集合、隊列に戻れ。
銃剣で警鐘を止めよ。
急げ!急げ!急げ!
(一八六九年作。)
サルティコフ(ミハイル・サルティコフ 1826-1889)は六十年代ロシア改革期のいわゆる「傾向派作家」の一人であり、作品は社会批評の要素に富み主題も自国の社会と密接であるため、外国に紹介されたものは少ない。しかしロシア文学の歴史的論著を読む時、しばしば「シチェドリン」の名を目にするが、これは彼の筆名である。この『飢饉』は後期の作品『某市の歴史』の一篇で、改革後の情状を描いている。作者の鋭利な筆鋒と深刻な観察がなお窺える。
(一九三四年十月十六日、『訳文』第一巻第二期所載、署名許遐訳。)
第158節
【恋歌 ルーマニア ソドヴェアヌ】
【一】
我々の車はジゴナールの林間草地に歇んでいた。細枝を燃やした大きな篝火が赤い光で馭者たちを照らしている。遠くの暗闇に、軛を外された牛が休んでいる。時折炎が一閃すると、牛の姿がくっきりと現れ、たちまち暗がりに沈む。傍に板を積んだ車が停まり、火の光が時折微かに照らすのは、眠る生き物に対するかのようだ。
馭者たちが篝火を囲んで輪になり、私は肘を丸天蓋の車に凭せて横になり、祖父が昔の物語を語るのに聞き入っていた。彼の落ち着いた深い声が悠閑な夏の夜に響き、まるで林間草地に微波が起きたかのようだ。白い眉の下の活発な黒い眼は篝火を凝然と見つめ、白い長い顎鬚が胸を覆って積雪のようだ。彼の霊活な目の前に、かつてジゴナールの林間草地で出会った久しく忘れられた事柄が一つ一つ展開され、彼は温和な声をもって暗闇から過去の映像を変幻させた。
祖父が語る——過去の精霊が新たに蘇り、暗闇の中に飛び昇った。
私はセレテ河辺の、クラニシェニの高原に雄踞するボヤールの邸宅を見た。ボヤール・ナスターセは結婚してからほぼ一年、彼の若い妻は睡蓮のように白く、彼は妻を愛したが、それは野生の馴れぬものを愛するのと同じだった。
彼は大半の時間を狩猟に捧げていた。妻は逆に望みなく愛なく閨房に夢のような日々を過ごし、ただ主人の留守の折にはリモニツィ河沿いの林蔭の道を散歩するのみであった。
ある日ボヤール・ナスターセは農奴のジゴナール居住区に向かう道に出た。若い娘ナリツァが火の傍から急いで立ち上がり、その炎のような目がボヤールに釘付けになった。
「まだ結婚する気はないのか、ナリツァ?」彼は尋ねた。
「誓って結婚なんていやです」と彼女は歌うような声で答え、首を傾げて長い睫毛を伏せ、低声で付け加えた——「お城の方がいいもの。」そして炎のような目からボヤールに稲妻のような一瞥を投げた。
日が丘の向こうに沈み、山毛欅林の空処から夕映えが差して金色の霧縠のようだった。一本の切り株の上に、夕日に向かって痩せた青年が座っていた。孔雀の羽根を密に挿した真珠飾りの帽子を被り、提琴を弾いている。抑えた音は夢境のように哀愁を訴えていた。
ボヤールが微笑みながらしばらく聴いた後、その声が深い静寂を破った——「お前は彼女をとても愛しているのか、イリー?」
ジゴナールは飛び上がって驚き、恭しく帽子を脱ぎ、提琴を挟んでボヤールに歩み寄った。
「誓って、旦那様」とジゴナールは狼狽して吃りながら言い、顔を見ずにつぶやいた。蒼白い顔に燃えるような紅潮が湧いた——「誰も愛してなんかいません、旦那様。」そして漆黒の髪を一振りし、炎のような目を再びボヤールに向けた。
「なぜ言わないんだ、イリー!では終夜恋歌を歌いリモニツィ河辺を狂人のように彷徨っているのは誰だ?」
ボヤールは笑った——「なぜそんなに隠す、可哀想な奴め。お前が彼女を愛しているのを俺が知らないとでも思うのか?なぜそんなに怖がる?これはお前にとって大きな災いだ、彼女がお前の命を奪うぞ——あのナリツァが!」
【二】
夜、ボヤール・ナスターセは管家グリゴリーを呼んだ。ヴァレア・セアカで野猪が見つかったとの報告を受け、木曜日に大狩猟を計画し、従兄弟のヨルダヒや義兄弟、隣人たちを水曜の正午に招くよう命じた。
その時外の暗い森から低い吟声が響いてきた。ボヤールは窓に駆け寄った。夜は温和で、深藍の天に黄金の星が瞬いている。森は濃い蔭に安らかに眠り、リモニツィ河辺から悲哀な弦の震えが時折伝わってくる。
ボヤールは城の別の側に目を移した。妻アンナの姿が窓口にあるようだった。
「聞け、グリゴリー」と彼は陰鬱に眉を顰めて素早く言った。「少しも静かにしていられないのか?なぜあのジゴナールがまたリモニツィ河辺で歌っているんだ?」
「あの者がなぜ歌うか、私に分かりますか?」グリゴリーは冷静に答えた。
「もう聞きたくないんだ——行け!分かったか?——さもないと怒るぞ。」
【三】
寂しい田園生活は一時、知人の来訪で賑わった。ボヤールたちとその夫人たちが到着し、温和な太陽が喜ぶ人々の頭上に微笑んでいた。
林間草地の老い槲の樹の下で大宴が張られた。食べ終わると済果那尔楽団が演奏を始めた。イリーは受窘した蒼白い顔で最前列に立ち、提琴を弾いた。古い森に戦慄が走り、調和の音響が樹木に満ちた。
大沈黙の中、イリーの提琴が鳴り響いた——まるで死が消滅の苦を語るかのように。森の中で悲嘆の歌が響き、それは泣くがごとく嵐のごとく聴く者の心に突き入り、苦楚と懊恼の声から溜息のような幽婉悲凉な調べとなった。
「ただ生きている限り、私はあなたを愛する、
なぜなら死んでしまえば、あなたは私を忘れるから、
草が墓を覆い尽くすだろう。
こんなにもあなたを愛しているのに、
この地上で誰が
私の宝かと尋ねる者はいない。」
安娜の睫毛に清らかな二滴の涙が光り、クラニシェヌの目には怒火が燃え上がり、眉が陰森と顰められた。
ジゴナールの歌が狂ったような幻想の中で終わった時、彼の両手は背後で武器を探っていた。
ナスターセは凶悪な目で、ゆっくりと蹌踉としてジゴナールに歩み寄った。強靭な右手に弧形の短刀が閃いた。
「イリー!」と彼は叫んだ。「お前は彼女をとても愛しているのか?ヒヒヒ!もう一つ愛の歌を歌え、イリー!」
イリーは震えながら提琴を取り、黒い目に狂気の光を閃かせ、アンナに向き直り、至哀極苦の声で歌い始めた。
「そうだ、イリー、俺の言うことが分かるな?」ナスターセは叫んだ。
彼は三歩進み出て、光る短刀を高く掲げ、ジゴナールの胸に突き立てた。
提琴が湿った草の上に砕け散った。イリーは呻きながら仰向けに倒れた。ジゴナールの胸から真紅の血が迸り出て砕けた提琴を濡らした。彼は痙攣しながら腕で上半身を支え、蝋のように黄ばんだアンナに向かって、すでに死の影に朦朧とした目を上げ、唇には最後の微かな調べが漏れた。
口から血が溢れ出て、彼は重く仰向けに湿った草の上に倒れ、十字架にかけられたように両腕を広げて動かなくなった。固まった目は緑の林木が織りなす穹窿を凝視していた。
祖父はしばらく物語を中断した。茂った樹木の中から悲哀の微声が起きた。馭者たちは黙々と篝火を囲んで座り、深い思いに沈んでいた。
祖父がまた低い声で語り始めた——「翌日は大きな囲い狩りがあった。野猪を七匹仕留めた。アンナも他の夫人たちと共に猟場を見に行った。イリーは老い槲の樹の下に埋められた——ほら、あそこだ。——今はもう皆いなくなり、焼け残った木の幹が残るだけだ——あの場所には今もジゴナールの骨が眠っている。」
しばらくして私はそっと尋ねた——「おじいさん、アンナ夫人は泣いたの?」
「横になって寝なさい」と老人はつぶやいた。「聞け!雉が鳴いている……もう遅い。」
長い間、私は眠れなかった。目を大きく開いて、林間草地の焼けた槲の切り株のある場所を見つめていた。林中に悲哀の響きが聞こえ、私にはジゴナールの影のような姿が夜霧に包まれて寂しい墓の上に漂い、至哀極痛の蒼白い面輪に、胸には一輪の血紅の花が咲いているように思えた。
ルーマニアの文学の発展は本世紀初頭であるが、韻文のみならず散文にも大きな進歩がある。本篇の作者ソドヴェアヌ(ミハイル・サドヴェアヌ)はブカレストに住む散文の名手である。その作品には美しい魅惑的な描写が多いが幻想の産物ではなく実際の生活から取材したものだという。
(一九三五年八月十六日、『訳文』第二巻第六期所載。)
第159節
【芸術論】
ソ連
プレハーノフ 著
【序言】
一
プレハーノフ(ゲオルギー・ヴァレンティノヴィチ・プレハーノフ)は一八五七年、タムボフ県の一貴族の家に生まれた。彼の生誕から成年に至るまでの間、ロシア革命運動史上では知識階級が提唱した民衆主義が興隆から凋落に至る時期にあたっていた。彼らの当初の意見によれば、ロシアの民衆すなわち大多数の農民はすでに社会主義を体得し、精神的に無自覚な社会主義者となっているので、民衆主義者の使命はただ「民間に赴く」ことにあり、彼らにその境遇を説明し、地主や官吏への嫌悪を善導すれば、農民は自ら蹶起して自由な自治制すなわち無政府主義的社会組織を実現するであろうというものだった。
しかし農民は民衆主義者の煽動にほとんど耳を傾けず、かえってこれら進歩的貴族の子弟に不満を抱いた。アレクサンドル二世の政府は彼らに厳しい刑罰を課し、ついにその一部は農民から目を転じ、西欧先進国の有産者が享有する一切の権利のために闘争するようになった。かくして「土地と自由党」から「民意党」が分裂し、政治的闘争に従事したが、その手段は一般的社会運動ではなく、もっぱら政府との単独の闘争、テロリズム——暗殺であった。
青年プレハーノフもこうした社会思潮の下で革命的活動を始めたと思われる。しかし分裂の際になお農民社会主義の根本的見解を固守し、テロリズムに反対し、政治的市民的自由の獲得に反対して「均田党」を別に組織し、もっぱら農民の叛乱に期待した。だが彼はすでに独自の見解を抱いており、知識階級のみの政府との闘争では革命は成功しがたく、農民には多くの社会主義的傾向があるが労働者もまた重要であるとした。
一八八一年のテロリストによるアレクサンドル二世暗殺の後、民衆は蹶起せず、市民的自由も得られず、有力な指導者は死刑か投獄され「民意党」はほぼ壊滅した。プレハーノフらも政府の弾圧により国外に亡命せざるを得なくなった。
この時彼は西欧の労働運動に親しみ、マルクスの著作の研究を始めた。一八八四年に発表した『我々の対立』は、民衆主義の誤りを指摘しマルクス主義の正当性を証明した名著である。
以来プレハーノフは偉大な思想家となり、ロシアのマルクス主義者の先駆者、覚醒した労働者の教師にして指導者となった。
二
プレハーノフの無産階級への殊勲は発表した理論的著作に最も多い。一八九五年出版の『史的一元論』は哲学的領域で民衆主義者と戦い唯物論を擁護し、マルクス主義の全世代がここに学んだ。
一九〇三年、ロシアのマルクス主義者はボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に分裂し、レーニンは前者の指導者、プレハーノフは後者となった。欧州大戦勃発後、プレハーノフはドイツ帝国主義を最も危険な敵と見なし、祖国防衛の立場に立ち、自国のブルジョアジーや政府との提携・妥協を辞さなかった。一九一七年二月革命後に帰国したが、ロシアの労働者を動かす力はすでになく、一九一八年五月三十日、孤独のうちにフィンランドで死去した。臨終の譫語の中で「労働者階級は私の活動を察知しているだろうか」と疑問を呈したと伝えられる。
三
死後の評論は彼を国際労働者階級の最大の恩師の一人に数えつつ、その政治的動揺を批判した。レーニンはかつて青年たちにプレハーノフの書を研究するよう勧め、「これを研究せずしては意識的な真の共産主義者にはなれない。なぜならこれは国際的な全マルクス主義文献の中で最も傑出した著作だからだ」と述べた。
四
プレハーノフはまたマルクス主義芸術理論の基礎を築いた。彼の芸術論はまだ体系を成してはいないが、方法と成果を含む遺された著作は、マルクス主義芸術理論・社会学的美学を建立する古典的文献と称するに恥じない。
ここに収めた三篇の書簡体論文は、この類の著作の片鱗である。
【以下、本文は「社会組織と芸術の関係」「原始人における装飾と芸術の起源」「労働と遊戯と芸術の関係」等の主題を書簡の形式で論じ、ダーウィン、スペンサー、ビュッヒャー、グロッセ等の学説を批判的に検討しつつ、唯物史観に基づく芸術の社会的起源論を展開する。プレハーノフはまず「芸術のための芸術」の立場を退け、芸術が社会生活の反映であることを論証する。原始社会における装飾の発生、狩猟民族と農耕民族における美意識の差異、労働のリズムと歌謡・舞踏の関係、性的選択と美の観念の発展等を豊富な民族学的資料をもって論じる。さらに階級社会における芸術の変容、支配階級と被支配階級の美意識の対立、功利主義的芸術観と純粋芸術論の歴史的背景を分析する。全篇を通じて一貫するのは、芸術は最終的に社会の経済的基礎によって規定されるという唯物史観的命題であり、これを具体的な歴史的事例によって実証しようとする試みである。魯迅による本訳は一九三〇年に出版された。】
第160節
【文芸と批評】
ソ連
ルナチャルスキー 著
【批評家としてのルナチャルスキー 日本 尾瀬敬止】
一
プーシキンを生んだロシア、トルストイを生んだロシア、ドストエフスキーを生んだロシア——そのロシアの前には偉大な運命が横たわっている。ここでは昨日貴しとされたものが今日卑しとされ、今日卑しとされたものが明日貴しとされる。創造と破壊から、混乱、矛盾、流血、飢餓、絶望、光明、建設へと相次ぐ。万華鏡に映るかのようなこの生活の姿を描写するのが、おそらく芸術であろう。しかしこれらの困窮にある作家たちを冷然と凝視する者がいる。新しい思想の波に揺らぎつつ、その波の中から未聞のものの誕生を待つ者がいる。このようにオリンポスの高みに自ら居る者は、運命を信じる若き詩人ブロークでも、ロシアの苦難は人類のためだとして東奔西走したゴーリキーでもなく、未来に大いなる望みを抱いて静かに目を閉じるメレジコフスキーでもない。それはこの国の一切の文化を支配する地位に身を置く労農政府の人民教育委員長——すなわち教育総長ルナチャルスキーにほかならない。
ルナチャルスキーはトロツキーが赤軍を組織したように、チチェーリンが万国宣伝機関を設立したように、統一労働学校を創立し、多数主義の本領と福音の伝播に成功した。ソヴィエト・ロシア唯一の教化者として崇拝を受けているが、彼は教育家であると同時に批評家であり、批評家であると同時に芸術家でもある。
二
ルナチャルスキーは現代文明に満足せず、その文明を形成した有産者が今や解体しつつあると見る。彼によれば——「いわゆる文明とは頽廃の文明であり、決して生存者の求めるものではない。その文明にはある種の美しさ、優雅さ、味わいがあるかもしれないが、反抗心と呼べるものは微塵もなく、死んだように凝結している。したがってこれに一層の気力、緊張、戦闘を与え、同時にその当然の帰結である悲劇と犠牲を恐れてはならない。新しい有実で有力な文明を築き上げなければ、現在の人々を満足させることは到底できない。」
ゆえにルナチャルスキーは社会主義の必要を主張する。しかし彼の考えは一般の論者とはいささか異なる。彼の意識するところは、社会主義が「奴隷から自由への過渡」であり、しかも「自己を満足させるための自由を得ること」ではないということだ。
三
彼によれば、有産者作家は革命を描写することはできても、革命の中に生きることはできない。そこには優美もあり病的思想もあり鋭い神経もあろう。しかし力もなく勇気もなく組織も反抗も悲劇もない。ゆえに彼らの有産者芸術は無産者の芸術に代えられるべきだという。
ルナチャルスキーの主張する無産者芸術の形式については、少なくとも象徴的なものでなければならないとする。彼のいう象徴は現実をそのまま写し取るのではなく、現実の中から本質的なものを抽出し、それを強化拡大して提示する手法を意味する。これにより芸術は宣伝や煽動の単なる道具ではなく、人々の精神を高揚させ革命の理想に向かわせる独自の力を持つことができるのだ。
【本書は以下、ルナチャルスキーの文芸観をさらに詳細に論じる。彼の芸術批評の方法論、プーシキン・ドストエフスキー・トルストイらのロシア古典作家への評価、プロレタリア文学運動における諸流派への態度、象徴主義と写実主義の統合の可能性、革命後のソヴィエト文学の展望等が主題として取り上げられる。さらにルナチャルスキー自身の戯曲創作の特色、マルクス主義美学と個人的感性の関係、文化政策としての芸術の位置づけなどが論じられている。魯迅の訳による本書は一九二九年に出版された。】
第161節
【附録】
【理論を中心としたロシアのプロレタリア文学発達史 岡沢秀虎】
一、序——二、第一期——「プロレタリア文化協会」から「鍛冶場」へ——三、第二期——「印刷と革命」「赤い新地」の創刊から「十月」の結成まで——四、プロレタリア文学団体「十月」の綱領——五、「前哨に立つ」(「ナ・パストゥ」)と「レフ」の論争及び「ヴァップ」の結成——六、第三期——「文学的前哨に立つ」の創刊から最近まで。
一 序
文学は作者(個人)と読者(社会的集団)の相互関係から発生する。読者なき作者は存在し得ない。文学は個人的産物であると同時に社会的産物である。個人的意識の反映であると同時に社会集団の意識の一形態である。社会集団の意識から独立した個人的意識は存在し得ない。社会集団の意識を決定するのはその社会的生活条件である。したがって革命のような社会生活上の一大変革が文学に大きな影響を及ぼすのは当然であろう。
一九一七年十月二十五日(新暦十一月七日)のロシア大革命は、ロシア文学に劇烈な変化を惹き起こした。この革命は多くのものを覆滅し、また多くのものを産んだ。従来文壇の中心に居た文学者の大部分が革命に背を向けて亡命した——これは最大の変動の一つである。しかもこれは単なる表面的・形式的没落ではない。自己の階級と生活条件を失った彼らは、内面的にも創造の道を断たれたのである。
革命が文学にもたらした最も重要なものは、プロレタリア文学の驚くべき勃興である。革命はプロレタリアートを支配的地位に押し上げ、創造のための良好な条件を与えた。
革命後から今日までのロシア文学は大略三期に分けられる。第一期は一九一七年の革命直後から一九二一年の新経済政策の時期まで。いわゆる「戦時共産主義」の時代であり、文学は混沌の状態にあった。第二期は一九二二年から一九二五年まで。新経済政策の影響で第一期とは雰囲気が大きく異なる。第三期は一九二五年七月の「党の文芸政策」の発表から今日まで。
【以下、本文は各時期のプロレタリア文学運動の展開を詳述する。「プロレタリア文化協会」(プロレトクリト)の活動とその限界、「鍛冶場」派の詩的達成、「印刷と革命」誌を中心とする批評活動、「十月」グループの結成と綱領、「ナ・パストゥ」派と「レフ」(芸術左翼戦線)の論争、「ヴァップ」(全ロシアプロレタリア作家協会)の結成と活動、さらに同伴者作家(ポプートチキ)の位置づけ、党の文芸政策決議(一九二五年)の意義と影響、「ラップ」(ロシアプロレタリア作家協会)の文学的主張などが体系的に論じられる。主要な作家・批評家としてはボグダーノフ、ルナチャルスキー、トロツキー、ヴォロンスキー、アヴェルバフ、マヤコフスキーらの名が挙げられ、それぞれの文学的立場と論争が紹介されている。】
第162節
【作者自伝】
私は一八八六年十一月二十三日、サラトフ県のヴォリスクに生まれた。父は塗装工である。父方の親戚はみな百姓で、伯爵オルロフ=ダヴィドフのかつての農奴であり、母方の親戚はヴォルガ河畔の船方であった。年長の親戚に文字を知る者は一人もいなかった。全親戚の中で母と外祖父だけが教会用のスラヴ語の書物を読むことができた。しかし彼らも字を書くことはできなかった。小学校に入学する頃には、私はすでに自分で父に読み書きを教えていた。
幼い頃に見たものは、僧侶、蝋燭、厳しい断食、香、分厚い革表紙の書物——この書物を母はいつも泣きそうになりながら読んでいた。十歳で自ら本を読み始め、数年間は物語、聖者伝、強盗や魔女や森の妖精を書いた本ばかり読んだ——これらが愛読書だった。
聖なる隠者になろうと思った。十二歳でペルミの森に遁入した。数千ヴェルスタ(カザン県まで)も歩いたが、飢えと旅の辛さに耐えかね帰って来た。しかしその頃は強盗になることも空想していた。
また本を読んだ——古典、旅行記。それから修学時代(市立学校にて)。
十五歳から独立生活。一年間リャザン=ウラル鉄道の電報局に、その後はヴォリスクの郵便局に勤めた。この頃ツルゲーネフの『父と子』と『牛蒡はただ生える』を読んだ。……すると生活のすべてが頓挫した。信仰が完全に崩壊するような大きな裂け目に出会ったからだ。異常に苦悩の時代が来た——「どこに意味があるのか?」ところが一九〇五年に騒ぎが起きた。「ここに意味と使命がある。」社会革命党の急進派に入った。六年間——狂気の鉄鎖。
しかし不思議なことに、この数年で多くを学んだ。実務学校の聴講生となり、ペテルブルク大学歴史博言科に進んだ。崇高にして人道主義的な講義を傾聴した後、ポケットに拳銃を忍ばせて我々は集まり、革命後の楽土を空想しながらネフスキーの関門へ、労働者たちのいる場所へ向かった。これもまた単なる空想ではなかった。
時が来た——シベリアへ。トボリスク県で一年。密林。静寂。孤独。思索。もはや革命を自分の宗教とはしなくなった。
再びペテルブルクで大学に入った。しかし過去はすべて影のように痕跡も残っていなかった。
逮捕を恐れてカフカスへ向かったが、グロズヌイにはすでに追跡者が待っていた。僻地の牢獄、死罪囚、夜ごとに聞こえるチェチェン人の哀歌。人々が多くの事実から私の罪を暴こうとしていた。怖かった——彼らはこれらのことを知っているのか、ならば後は絞首台だけだ。幸いか不幸か、彼らは知らなかった。
半年後、囚人列車でロストフ=ナ=ドンへ送られ、巡査の監視下に五年。
主顕節——晴朗、厳寒、明るく光る日——この日街に放たれたが、ポケットには一ポルティンニクしかなく、釈放されたものの獄中ですでに損傷を受けていた。喜ぶべきか泣くべきか分からなかった。しかしほとんど面識のない人々が助けてくれた。
それから勉強し、地方紙『ウートロ・ユーガ』の同人となった。
一九一四年八月、自ら戦線へ——衛生隊員として。一年間徒歩で軍隊に随った。一九一五年三月(シュラルドフ附近)の朝、鶯が樹上で高らかに歌うのを見た——おそらくその時、ロシア兵約二万が(初めて使用された)ドイツの毒ガスで毒殺された。
かくして戦争は一つの主題のように、悲痛を伴って私の魂に座った。
その後モスクワ。『ウートロ・ロシー』。多くを書いた。日刊紙や小雑誌にも短篇小説を書いた。しかしこれらの作品には何の意義も付さなかった。
一九一七年の三月。そして十月。一九一八年から一九年にかけての冬は、昼夜毛皮の長靴と皮外套と広縁帽を脱がずに過ごした。飢えのため手足が腫れた。最も親しい二人が死んだ。恐ろしい孤独が来た。
絶望の数年。どこへ行くのか。何をするのか。発狂するか死ぬか、あるいは自分を手に取り一切を絶縁するか。文学が私を救った。創作を始めた。今度は真剣に。夏が来るたびにロシアを跋渉し凝視する。棄てられたロシアを、持ち上げられたロシアを見ている。
そして——おそらく——ロシア、人間、人間性が、私の新しい宗教となった。
アレクサンドル・ヤコヴレフ
第163節
【モスクワが騒ぎ出した】
母がワシーリーを起こした時、あたりはまだ暗かった。彼女は腰を屈めて眠る息子の上に覆いかぶさり、肩を揺すりながら、興奮して息を切らし、甲高い声で叫んだ——
「早く起きなさい!銃を撃ってるわ!」
ワシーリーは驚いて起き上がり、ベッドの上に座った。
「何だって?」
「銃を撃ってるの。ボリシェヴィキが撃ってるのよ……」
母は暖かい短袄を着て灰色の頭巾で髪を包み、ベッドの前に立っていた。手には市場に行く時に必ず持つ空の籠がある。
「羊が新しい門を見たみたいに呆けてるの、分からないの? ワーニャは昨晩帰って来なかった、無事かどうか。ああ、主よ!」
母の顔が急に皺だらけになり痙攣して、今にも泣き出しそうだった。しかし堪えて、また甲高くぶつぶつ言った——
「嫌な連中だわ、まだ革命家を名乗ってるの!皇帝を追い出して、今度は自分たち同志で殴り合い、互いに頭を叩き割ってるのよ。こんな奴らは皆鞭で一通り打ちのめしてやるといいわ。今日はパンも手に入らなかった。ごらん、何も持って帰れなかったでしょう。」
彼女はそう言いながら空籠を息子の目の前に突き出した。
ワシーリーは一瞬にして頭がはっきりした。
「なるほど!」ワシーリーは引き延ばした語調で言い、すぐに着替え始め、外套を肩に引っかけた。
「どこへ行くの、馬鹿!」母は心配した。「一人は夜通し帰って来ないのに、あんたまで這い出ようって言うの? まったくいい息子だこと。……どこへ行くの?」
しかしワシーリーは答えもせず——顔も洗わず髪も撫でず頭はぼんやりしたまま——ふらりと外に出て行った。
空には煙のような雲がかかり、陰鬱な日だった。門の傍に靴屋のロピーリが立っていた。「エスプレッソ」の渾名の主で、ワシーリーの家の隣に住んでいる。近所の家の傍に人だかりがし、通りは群衆で真っ黒だった。
「やあ、ワシーリー・ナザーリチ、ボリシェヴィキが蜂起したよ」とエスプレッソが無表情な顔に微笑を浮かべて言った。「聞こえるだろう、パンパンやってるじゃないか?」
ワシーリーは耳を澄ました。すぐ近くで射撃しているような音が聞こえ、遠くでもかすかに響いている。
「あれは何だい、銃なのか?」と彼は尋ねた。
エスプレッソが頷いた。
「銃さ、真夜中にパンパン始まったんだ。だから流血の河、死体の山だよ、大変だよ、ワシーリー・ナザーリチ。」
ワシーリーは銃声に聞き入りながら答えなかった。
射撃は絶え間なく、朝霧に包まれた市街は恐ろしい音に満ちていた。
「モスクワ母さんが騒ぎ出した!蜂がブンブン、獣が吠えるようだったのが、今や雷だ、まるでイリヤがドヴェリスク大通りで暴れ出したみたいだ。」エスプレッソは遠くの屋根越しにモスクワの空を眺め、低い声で深い調子で言った。「俺たちここは大丈夫だが、でなけりゃ今頃交差火線の真ん中だ。」
通りの向こうをワシーリーの知人、ロンジー・リシャフが走り抜けた。元は貧農で鍛冶屋で、気性の荒い粗暴な愚か者だ。
「なんで突っ立ってるんだ?あっちで撃ってるぞ。俺は下士官どもを叩きのめしに行くんだ」と彼は走りながら叫び、鳥の翼のように両手を振って横丁の角を曲がり、黙って立つ群衆の向こうに消えた。
ワシーリーはすぐに悟った——リシャフのような酒飲みの愚か者でさえ銃を取りに行くなら、この数日騒がしかった街頭演説やボリシェヴィキの宣伝が民衆に響きを与えたに違いないと。
「では俺たちもやるか」と心中で思い、思わず背筋を伸ばして笑いながら鍛冶屋の方を向いて言った——
「さあ、クジマ・ワシーリチ、一緒に行こうじゃないか!」
「どこへ?」エスプレッソが驚いた。
「あっちへ、ボリシェヴィキと一緒に戦いに行くんだ」とワシーリーは市街の向こうを指さした。
靴屋はワシーリーの顔を唖然と見つめた。
「何だって?……俺と?……後にしてくれ……お前も……やめた方がいい。」
「なぜだ?」ワシーリーが尋ねた。
「事が大きいからだ。殴るのも殴られるのもいいが、肝心なのは……」エスプレッソは言いかけて口を噤み、目を伏せて落ち着かない指先で髭を触った。
「肝心なのは何だ?」
「肝心なのは、本当の真理だよ。……誰も知らないんだ。お前さんたちの演説も聞いたが……誰もが真理があると言うが、実は誰も持っていない。真理は一体どこにあるんだ? 本当の真理がまだ分からないのに、生きた人間を殴りに行けるか? こういうことを考えたことがあるか?」
靴屋はワシーリーの目を凝視した。
「殴りに行くのはいいとしても……うっかりすると真理に逆らうことになるかもしれないぞ、そうだろう?」
「ああ、まだそんな古い話をしている。ならず者が穴から這い出てきたのに、どこが真理だ! お前のそんな真理は捨てちまえ!」ワシーリーは苛立って手を振り、急いで門を離れて家に戻った。
五分後、皮手袋をはめきちんとした服装の彼が大門から走り出し、後から母も走り出た。
「帰って来るのよ、きっと! 帰って来るのよ!」母は大声で叫んだ。
しかしワシーリーは答えもせず振り返りもせず、乱暴に潜り戸を引き開けてまた閉めた。
「行くのか?」まだ門の傍に立つエスプレッソが尋ねた。
「もちろん行く」とワシーリーは冷たく答え、動物園の方へ、横丁から銃声の聞こえる市街へ向かって走って行った。
第164節
【ブルジョワジーはもうおしまいだ!】
プレスナ通りはすでに人で溢れていた。街角まで、歩道も車道も群集で埋まり、電車は止まり、馬車もオートバイも姿を消し、通りは大祭日のように粛然としている。そして市街の中央からクートリン広場の方角から、絶え間なく微かな銃声が聞こえてくる。
緊張した群衆は小声で囁き合い、まだ悪夢から完全に覚めていないような、理解力を欠いた恍惚とした目で遠くを眺めている。
黒い防寒靴と灰色の防寒外套を着た老女が、暁霧に半ば隠れた教会の鐘楼に向かって十字を切り、人々に聞こえるよう大声で言った——
「主よ、顔を背け給うな、慈悲を賜え。……主よ、怒りを鎮め給え。……」
ワシーリーはまるで追い立てられるように市の中央へ向かって走った。
彼は疾走した——狂気の計画で人を殺そうとする奴らを叩きのめしに、一刻も早く戦闘に加わるために。走って体が震えたが、足取りはなお確かで、両手を大きく振り、靴の踵を橐々と鳴らし、胸を張って前へ進んだ。間に合わぬかという異様な不安が彼を急き立てた。
動物園の裏手でようやく負傷者を見た。まだ若い薔薇色の頬の看護婦が、頭に繃帯を巻いた一人の労働者を馬車に載せて医学校の方へ運んでいた。繃帯には血が滲み、その上は乱れた頭髪がまるで赤白の帯で作った飾りを被ったパプア人の頭のようだった。
クートリン広場に来ると、市の中央へ向かうのは皆若い労働者か青年であり、向こうから来るのは身なりのいい男女だった。子を抱いた者、包みを背負った者。顔は皆蒼白く、まるで追われるように慌てて歩き、街角に少し休んでは、また市の外れの方へ走り去った。
「略奪してるのよ、家から追い出してるのよ、私たちも追い出されたの。何もかも奪われるわ。」立ち止まりもせず男が早口に答えた。
群集の中で子供たちが泣いている。その哀れな頼りない泣き声が、襲い来る嵐の恐ろしさをいよいよ予感させた。ワシーリーの喉がにわかに塩辛くなり、目も痒くなった。彼は拳を握り締め、大股で市の中央へ進んだ。急げ、急げ!
銃声が起きた——その近さと鋭さに彼は驚いた。ニキート大広場とアルバート付近で射撃が始まったのだ。もう近い、おそらくあの家々の向こうだろう。
ワシーリーは騎馬練習所の方へ一直線に行こうとしたが、ニキート門で銃剣を着けた兵士の一隊が道を塞いでいて通行を許さなかった。
「近づくな。行くな、あっちへ行け。……」まばらな黄色い髭の背の低い兵が命令口調で大声を出した。
兵の傍に群衆が集まり、プレスナ通りの人々と同様に不安げに銃声に聞き入り、一言も発せず、どうしようもなく呆然と立っていた。
「ブルジョワジーはもうおしまいだ。全部片付けてやる。」一人の兵士が小銃を肩から肩に担ぎ替えながら自負して言った。「インテリゲンツィヤは好き勝手に占領して何も俺たちにくれなかった。今度は俺たちがあいつらを……」
兵士は罵った。
「では君たちはどうしたいのだ?」帽子の庇を眉の上まで下げ杖を手にした白髯の老人が尋ねた。
「俺たちか? 全部労働者に渡すんだ。……今は俺たちに力がある。」
「力はあるかもしれん、しかし暴力は知恵を滅ぼすぞ。愚者は必ず賢者に手を挙げるものだ。」老人は怒りを含んで言った。
群衆から笑い声が起きた。老人は黄色い杖で車道を叩きながらなおも言い続けた——
「お前たちは踵でものを考える若造だ。たとえブルシェヴィキだとしても。……神は御自身に似せて人を造ったが、ブルシェヴィキのお前たちはユダに似せて造られたのだ、そうだ。……」
兵士は憤然と顔を背け、老人は群衆に向かって叫んだ——
「皆売国奴だ、議論の余地はない。ドイツの金で動いているんだ。ドイツ人は金の弾丸で撃っている、金の弾丸は決して外れない。『黄金は熱い鉄よりたやすく人心を溶かす』という古い諺は正しい。今やドイツの金がモスクワ母さんに入り込んでロシアの精神を滅ぼしているのだ。現状を見れば分かるではないか。……」
赤い髭の兵士がまた老人に近づき何か言おうとした時、隣の横丁で銃声が起き、それを合図に四方の通りから一斉射撃が始まった。この瞬間、市街はまるで発狂したかのようだった。たちまちどこかの隅から怪物が飛び出して来て、目の前で人を殺しそうに感じられた。
誰かが野太く短く叫んだ——
「ああっ!」
肝を潰した群衆は家の壁に沿って散り、曲がり角や凹みの陰や大門の脇に隠れ、全身を震わせた。兵たちも壁に身を密着させ、神経質に小銃を横に握り、身を守りながら敵への射撃を準備した。群衆の恐怖に駆り立てられたワシーリーも小さな店の地下室に潜り込んだ。中にはすでに人がぎっしり詰まっていた。……
しかし銃声は突然始まり突然止んだ。各所の隅からまだ慌てふためいた人々が這い出てきた。するとあの背の低い兵が通りの真ん中に出て声を張り上げた——
「おい行け、みんな退け!早くしろ!撃つぞ!」
彼は銃を肩に当て空に向けて撃った。続いてさらに二、三発。
群衆はまた壁沿いに散り、四方を見回し、身を隠し、走り去った。
ワシーリーの胸中に鬱勃としたものが込み上げた。銃を撃つあの兵はつま先まで震えており、ただ叫び声と発砲で自分の度胸を誇示しているのだと見て取った。こういう小僧に一発食らわせてやるのもなかなか面白いかもしれないと思った。
しかしここからは市の中央に行けないと悟り、ワシーリーは並木道沿いに迂回して行った。
第165節
【万国旅館付近の戦闘】
小さな雑貨店の裏に、夕刊売りのぼろ服の子供たち、浮浪者、学校からの帰り道に本を抱えてここへ逃げ込んできた中学生たちが隠れていた。銃声がするたびに、彼らは地面に伏せたり、箱の後ろに隠れたり、二つの店の間の狭い隙間に身を押し込んだりした。しかし銃声がやむと、小鼠のようにおずおずと頭を出し、恐ろしい光景を見たさに、目を輝かせて大通りを見やるのであった。
ドヴェルスク街とアホードニ・リョートの角にある、高い赤い壁の家から誰かが発砲した。この家の上階は病院で、下は乾物屋であった。ガラス窓の間から、ぴかぴか光る金属製のカウンターやコーヒーを挽く機械が見えたが、陳列窓の大きなガラスは弾丸に撃ち抜かれ、稲妻形の亀裂が走っていた。上階の病院の各窓には兵士や労働者がちらちらと見え、時折窓枠から身を乗り出して、心配そうに大通りを見下ろしていた。
「ああ、向こうに士官候補生たちが来た!」ワシーリーの傍にいた子供が、モスクワ大学の方を指差して叫んだ。
「どこだ?あれか?壁沿いに来るあれか?」
「ほら、あっちだよ。見えないの?向こうから来たんだよ!」
「だが指を差すな。もし彼らが合図だと思ったら、撃ってくるぞ。」酒で顔を青く腫らせた浮浪人が、子供を制して言った。
子供たちが小店の裏から頭を出し、ワシーリーもまた士官候補生たちの来る方角を凝視した。大学の近くから、モハヴァヤ街に沿って、灰色の外套を着て横に銃を構えた一団が、長蛇のように連なっていた。彼らは壁に身を寄せ、非常に低く屈み、周囲を見回しながらゆっくり前進した。人数はおよそ二十人に満たなかったが、後ろには銃を持った大学生の一団が続いていた。
「ああ、もう始まるぞ!」ワシーリーは思った。「士官候補生は少ないが、大学生は多い。ああ、ああ……」
赤い家の中で、兵士と労働者が突然騒ぎ始めた。迫り来る敵を見たからである。青い帽子をかぶった若い労働者が、この家の正面の窓から顔を出し、士官候補生たちの来る方を眺め、銃を据え直して撃ちやすくした。他の者たちは厚い壁の後ろに隠れ、皆、街角に近い窓辺に集まった。ワシーリーの心臓は激しく鳴り、両手は冷え、自ら思った。
「もう始まるぞ!」
パン!――その時どこからか一発撃たれた。
窓から、街から、一斉に応戦した。
石灰が赤い家から叩き落とされ、歩道に散り、壁の周りに埃が軽い煙のように舞い上がり、窓ガラスが悲鳴のような音を立てた。子供たちは慌てて小店の間や箱の後ろに隠れ、ワシーリーは暗い角の壁にぴったりとへばりついた。誰かが広場の大通りを走り抜け、靴音がカツカツと響いた。
ワシーリーが再び外を見た時、赤い家の窓にはもう人影はなく、青い帽子の若い労働者だけが窓口に残り、周囲を見回して一方向に照準を定めていた。
灰色外套の士官候補生たちと青い大学生たちが、猫のように足音を忍ばせて街角に近づいてきた。一隊が近づいた時、ワシーリーが見ると、金色の肩章をつけた将校が先頭に立っていた。まだ若く、上等の長い外套を着て、立派な軍帽をかぶっていた。左手には手袋をしていたが、銃身を握る雪白の右手は微かに震えていた。やがてこの将校は首を曲げて赤い家を眺め、突然身を現して前進した。青い帽子の労働者は体を捻り、銃口をこの将校に向けた。
「撃ち殺されるぞ!」ワシーリーは思った。
心臓が止まり、きゅっと縮まった……まるで石になったように、瞬きもせず将校の姿を見つめていた。
パン!――窓から一発撃たれた。
将校の頭がのけぞり、銃を投げ出し、横によろけたが、長い外套の裾に足を取られて倒れた。
「やった!」ワシーリーのそばで誰かが大声で言った。
「殺された、将校が殺されたぞ!」箱の後ろに隠れていた子供たちも叫び、車道に飛び出した。「頭に当たったんだ!きっと頭だ!」
士官候補生たちは動揺し、いっそう壁に張り付き、前進をやめた。左側の二人が将校のもとへ駆け寄り、抱き上げて壁沿いに運んでいった。
赤い家の窓口に再び人影が現れた。将校を撃った労働者が、不意に窓枠から立ち上がり、部屋の中の誰かに二言三言話しかけ、手を一振りして、再び窓枠に伏し、照準を定め始めた。
ヒュウ!――空中のどこかで一発響いた。
ワシーリーは驚いて振り返った。自分のすぐ後ろから撃たれたかのようで、子供たちが叫び声を上げた。
「屋根の上から撃ってきたんだ!見ろ、見ろ、一人やられた!……」
ワシーリーが窓口を見ると、あの青い帽子の労働者が立ち上がろうとして窓枠でもがいていた。銃が壁を叩いている。両手はめいっぱい伸ばされていた。しかし銃は手放さなかった。
労働者はもがいたが、ついに力尽き、空気を掴むように大きく口を開け、とうとう銃を握っていた手を緩めた。銃が歩道に落ち、彼も崩れて窓枠に柔らかく横たわった。青い帽子は車道に飛ばされ、髪がもつれて長く巻き垂れ下がっていた。
あちこちから銃声が起こり、赤い家の正面は白い埃の雲に覆われ、弾丸が壁に当たるパチパチという音が聞こえた。子供たちは驚いた小鼠のようにあちこちと走り回り、次第に危険な場所から遠ざかっていった。丸い大きな顔の色白の中学生が歩道に飛び出し、外套の裾に足を取られてバタリと汚い敷石の上に倒れたが、すぐに起き上がり、片手で打った鼻を押さえながら狭い横丁へ飛び込んだ。
ワシーリーは周囲を見回した。この二つの死が、彼の心をひっくり返した。
「一体これは何事なのだ?」彼は声を出して自問自答した。
隣の店の看板を見ると、「新鮮鳥獣肉」と書いてあり、その隣には「蕪、胡瓜、葱」と書いてある……ここはもともと大小の店が並ぶ馴染みのアホードニ・リョートなのに、今ここで戦争が行われ、人間が互いに殺し合っている……
雨のような銃弾が雑貨店の壁を激しく撃ち、窓ガラスが割れ、屋上の亜鉛板も引き裂かれた。
突然モーターカーの音がして銃声を圧倒し、射撃も次第に緩やかになった。ワシーリーが隠れ場所から覗くと、大きな箱のような灰色の怪物が劇場広場の方から来るのが見えた。同時に雑貨店の裏から子供の声が聞こえた。
「装甲車だ、早く隠れろ!」
装甲車は静かに、落ち着いて赤い家に近づいた。
この瞬間、車中から「シュッ!」と一声響いた。
赤い家の一角が煙塵に覆われ、石片、パテ、窓枠、露台の欄干、合わせ目の砕片などが道路に散乱した。射撃は猛烈を極め、ワシーリーの両耳がブーンと鳴り始めた。
砲声に続いて機関銃の音が冷静に整然と響いた。
パン、パン、パパパパ……
士官候補生と大学生の一隊が、モハヴァヤ街から角に走り、壁際の汚い地面に伏せてドヴェルスク街に向かって急射撃を行った。瞬く間にアホードニ・リョートは彼らに占領され、ボルシェヴィキは逃走した。射撃は次第に静まり、角のところで、獣の咆哮のような声が聞こえた。
「門の外の空地を占領しろ!」
子供たちが雑貨店や箱の後ろから這い出て、角にまた雑多な群れを作った。
「おい、そこのお前たち!去れ!去らなければ撃ち殺すぞ!」左手に銃を持ち、頬髯を生やした大学生が大声で言った。
子供たちは避けたが、去りはしなかった。恐ろしいものを見たいという好奇心に駆られて、危険な場所にとどまり、その後どうなるか知りたがっていた……
装甲車が去ると、形勢は再び不安定になった。ドヴェルスク街の方から銃声が起こり、万国旅館付近の士官候補生と大学生が応戦した。家々の壁から石灰が剥がれ落ち、埃が舞い、ガラス窓がガタガタと震えた。赤い家の上階に人影が見えたかと思うと、もう撃ち始めていた。この建物のあらゆるガラスが砕け散り、まるで真っ黒な口から火を吐く盲目の怪物のようであった。
一人の士官候補生が狙撃から逃れようとして車道で転び、撃たれた雀のようにぐるぐると回り、手足で這って進んだが、倒れた。ドヴェルスク街と赤い家から、まるで競技のように猛射を浴びせ、その候補生は銃を捨て、黙々と街角へ這い寄ったが、ついに体を伸ばして倒れ伏し、灰色の塊となって車道に横たわった。射撃は乱射となり、敵味方の区別がつかなくなった。
この時、大学の方から大劇場の方へ、武装した大学生と将校を満載した輸送車が走って来た。アホードニ・リョートに差し掛かると、大学生たちが赤い家とドヴェルスク街に弾雨を浴びせた。兵士と労働者はドヴェルスク街の上手に退却し、門口や家の凸角の後ろに隠れるほかなかった。
まもなく輸送車が戻って来た。まるで勝利者のように、静かに街の中央を通過した。街角に差し掛かった時、突然ドヴェルスク街から猛射を浴び、輸送車の後部の木製の車体からガソリンが噴き出し、白い紐のように地面に流れ、車は十字路のど真ん中で停止した。大学生と士官候補生は射撃を恐れて狼狽し、輸送車の下に伏せたり、横板にぴったりと張り付いたり、飛び降りて車輪を盾にしたが、敵の弾丸はどこにでも達し、横板に当たって木片が遠くまで飛び散った。誰かが叫んだ。
「ああ……助けてくれ!」
子供のように若い将校が車道に飛び出すのが見えたが、よろめいて数歩進み、破れた布の包みのように車輪のそばに丸まって倒れた。輸送車からはもう誰も撃っていなかった。破壊された車体が十字路に空しく立ち、車輪の周りには射殺された人々が折り重なって横たわっていた……微かな呻き声だけが聞こえた。
「うう……ああ……うう……!」
ドヴェルスク街からはまだ銃声が続き、負傷者はそのまま長い間放置された。しばらくして、白い帽子に革の立襟服を着て、袖に赤十字の腕章をつけた若い女が、十字路の後ろから歩み出た。彼女はドヴェルスク街の方も見ず、停戦も求めず、まるで銃声が聞こえていないかのようだったが、両側の射撃は自然と突然止まり、士官候補生、大学生、兵士、労働者、皆が箱の後ろからおずおずと頭を出した。ワシーリーも異常な緊張で、この女の動作を見守った。彼女は輸送車に近づき、身を屈めて車輪付近に横たわる人を少し揺すってみたが、手を離して振り返り、見つめたまま黙った。この瞬間、周囲は死のような静寂に包まれた。ただアルバートやルビヤンカから伝わる銃声だけが、ひっそりとした空の街路の空気を振るわせていた。あの若い女は裾を動かしながら輸送車の傍に行き、少し屈んですぐに立ち上がって叫んだ。
「看護兵、ここに負傷者がいます!」
すると二人の看護兵が急ぎ足で輸送車に近づき、負傷者を引き起こして、まるで誰かに見せるかのように高く持ち上げた。それは騎兵の長い外套を着た将校で、磨いた長靴に拍車をつけていた。軍帽はどこかへ転がり去り、縮れた黒髪が束になって額に垂れていた。弾丸はおそらく歯を砕いて腹に入ったのだろう、まだ呻いていた。
看護兵がその将校を車の傍の担架に移したが、輸送車から負傷者を引き起こした時、長い外套の裾が血漿でべっとりと濡れ、日光を受けて異様に光り、長靴にくっついている情景がワシーリーの目に映った。
この将校を運び去った後は、一人ずつ戦死者を運び始めた。どこからともなく別の看護兵が現れ、まるで運搬夫が重い荷物を運ぶかのように、死体を背負って運んだ。彼らは互いに助け合い、さほど急ぐでもなく、まるで日常の仕事でもしているようだった。特に一人の背の低い曲がった脚の看護兵は、自分では死体を背負わず、ただ他人がそれを背中に載せるのを手伝い、手伝った後は少し退いて、悠然と前掛けで血に汚れた両手を拭いていた。
次に肩章の光る外套をまとった大学生の遺体が運ばれた。背中に背負われた死者の体は長く伸び、垂れ下がった両足が恐ろしげに揺れていた。
見物人の群れは息を殺して看護兵の動きを見守っていたが、子供たちだけは騒ぎ立て、戦死者の数を大声で数え、まるで珍しい光景を見て喜んでいるかのようだった。
「おお、これで十人目だ!今度のは将校だ!見ろ、鼻中血まみれだ。鼻に当たったんだろう!」
ワシーリーは恐怖で胆を冷やし、まるで石になったかのように雑貨店のそばに立ちつくしていた。こんな間近で恐ろしい死の光景を見たのは初めてだった。
若い彼らは、輸送車に乗って来て、死の直前まで笑い、快活で、死生を度外視して戦ったが、今は燕麦の袋でも詰めたかのように看護兵に背負われ、不自然に垂れ下がった両足が恐ろしげに揺れ、頭が他人の背中でカタカタと叩かれていた。
輸送車はすでに破壊され、横板は粉々に砕け、小銃や誰かの足に踏まれた軍帽があちこちに散乱し、ガソリンの流れ出た所は黒ずんだ水溜りになっていた。
最後の死体が運ばれていった。
革の立襟服の女が周囲を見回し、まだ死者がいないかと探すようにしてから、看護兵に続いて去った。
万国旅館付近の士官候補生と大学生たちは再び騒ぎ始め、まるでかくれんぼのようにドヴェルスク街の角を注意深く窺い、そのうち二人が歩道に伏せて、小銃の撃鉄を鳴らした。ワシーリーは彼らが照準を定めるのを見た。
バン!――ほとんど同時に、二人とも発砲した。
この銃声に続いて、ドヴェルスク街の方から、人間の叫びというよりも野獣の尖い吼え声に近い音が聞こえ、同時に銃声も起こった。
見物人の群れは、自分たちが撃たれているかのように慌てふためき、皆隠れ場所に逃げ込み、ワシーリーも思わず走り出した。
しかしワシーリーは、輸送車を射撃したボルシェヴィキの一隊の中に、今朝自分が疎ましく思った親友アゲーンがいたことを、知らなかったのである……
第166節
【「悪夢」】
恐ろしい光景のために常軌を失い、大きな衝撃を受けたワシーリー・ペトリャーエフは、アホードニ・リョートからペトロフスキー並木道に着いた時には、もう午後三時頃であった。彼は慌てず、一歩一歩家へ向かって歩いた。彼から見れば、周囲のすべては何の関わりもなかった。湿気を含んだ空気、足元にこびりつく泥、突然非常に遠く感じられまるで外国人になったかのような人々、すべてが彼とは無関係であった。どちらを見ても、彼の目に浮かぶのは、拍車のついた洒落た長靴を履いた外套の下のあの恐ろしい両脚、そして大学生や士官候補生の頭が看護兵の背中にぐったりと崩れ落ちている光景ばかりだった。どちらを見ても、目に飛び込んでくるのは、まるで黒い水道管が連なるような死人の足、まるで遠くの小教会の屋根のような死人の頭であった。葉の落ちた梢の茂みの中に、体裁のよい家の玄関口に、まだらな群衆の中に、この死んだ足、死んだ頭が見えるのだった。彼は時折街角に立ち止まり、渾身の力で大声を出そうとした……
しかし、何と叫ぶのだ?何と叫ぶのだ?誰が分かってくれるのだ!それは気が狂った振る舞いではないか?
この周囲は平穏なのだ。狂ったような叫びなど、誰の役に立つというのか?……
悪夢に魘されているのではないか?こんな叫びを誰が信じるだろう?周囲はどこまでも冷淡だ。おそらくは心の底に癒しがたい苦痛があるから、わざと冷淡にしているのだろうか?
彼はしばしば立ち止まり、まるで苦痛をもぎ取ろうとするかのように胸を掴み、幼年時代から身についた習慣で、ただ唇を微かに動かして呟いた。
「神よ、神よ……」
しかしすぐに我に返り、苦笑した。
「神は今どこにいるのだ?モスクワの空で跳梁する悪魔に絞め殺されてしまったのではないか?」
そこで彼は罵った。
「匪賊め!」
しかし誰を罵っているのか、彼には分からなかった。
周囲は相変わらず冷淡であった。
アホードニ・リョートでは、皮を剥ぎ、砂を撒き、塩で漬け、ごしごし擦って……食っている……魂を食っている……
「ああ、恐ろしい……ああ、鬼め!」
しかし大通りも角も並木道もどこも大勢の人で真っ黒に埋め尽くされていた。大半は男で、擦り切れた外套に色褪せた帽子をかぶった連中であった。灰色の労働者たちが街頭を埋め尽くしていた。群衆は市街中央の事情が分からず落ち着いていたが、好奇心に駆られていた。ただ包みを背負い泣き叫ぶ赤ん坊を抱えた避難民の姿だけが、この平凡な安静をいくらか破っていた。
子供たちは大喜びで戦場で拾った薬莢を見せびらかし、リンゴや向日葵の種と交換していた。
街の生活は臆病で酩酊し理性を失った状態となり、平時とはもはや全く別のものになっていた。
各種の風聞が流布されていた。「夜になれば大戦闘が始まるに違いない。」群衆の中で誰かがひそひそと言っていた。
ワシーリーは街々を黄昏時まで歩き続けたが、哀愁と疑念はずっと彼の心を覆っていた。
「今、何をすればいいのだ?どこへ行けばいいのだ?」彼は自分自身に問いかけたが、答えは見つからなかった。
第167節
【「愛国者」】
イワンがプレスニャを出た時、街々の道路には一人の姿もなく、ただニキート門の後方のどこかで緩やかな射撃が行われていた。動物園の角やクートリン広場の付近には、二人三人一組の兵士や武装した労働者が立っていたが、彼らは湿気と寒気の中で震え、外套の襟を立て、帽子を耳元まで深くかぶり、前屈みになって両足を交互に踏んで暖を取っていた。
彼らは仲間が来たものと思い、イワンには全く注意を払わなかった。慣れない徹夜の仕事で極度に疲れ、ただぼんやりと寂しげに物を見ていた。
イワンはクートリン広場で曲がり、ノーヴィンスキー並木道に入り、さらに横丁を経て、アルバート広場に着いた。アルバート広場の登録所では白軍への入隊申し込みを受け付けていた。途中、新聞を一巻き持った怯えた売り子に出会った。白軍の勢力圏内で印刷された新聞を、兵士や赤軍の目を盗んでこっそり持ち出してきた一団だった。
アルバート広場の手前に、士官候補生の小哨があった。暗がりから若い不安定な嗄れ声がイワンに叫んだ。
「誰だ?止まれ!」
イワンは立ち止まった。眼鏡をかけ革手袋をはめた士官候補生が歩み寄ってきた。
「どこへ行く?」と彼は尋ねた。
イワンは黙って、一昨日士官学校でもらった通行許可証を見せた。
「自由志願兵として我々の方に来たのか?」
「そうだ。」
士官候補生は丁寧に退いた。イワンが五、六歩行くと、向こう側の同僚と話し始めた。
「おお、彼らの中にも愛国者がいるんだな。」暗い向こう側から声が応じた。
この言葉を聞いたイワンは不愉快になった。彼が今白軍に加わり同じ労働者と敵対しているのは、こうした愛国主義によるものではなかったのだ。
登録所――ギリシャ式の華麗な灰色の建物――の中はすでに人で一杯だった。大学生、徽章付き帽子の役人、中学生、山高帽に上等な外套の青年、兵士や労働者などが、数台の机の前にひしめいていた。机の後ろには登録を行う将校が座っていた。豪華な電灯が煙草の煙に包まれ、天井の下でぼんやりと光っていた。イワンはこの群衆の中に数人の党員を見つけ、社会革命党が独自の軍隊を編成したが、ボルシェヴィキと戦うためではなく略奪者に備えるためだけのものだと知った。
「我が党には内紛が起きた。四分五裂だ。」古参の党員レイポヴィッチが萎えた声で言った。
レイポヴィッチは白軍に投じた列には加わっておらず、大きな目に苦痛と悔恨を浮かべていた。
「何も決められない。今どこへ行くべきか、何をすべきか。」彼は嘆息した。
彼はイワンの顔を凝視し、行くべき道を言ってくれるのを待っていた。しかしイワンはぞんざいに冷ややかに言った。
「白軍に入れ。」
レイポヴィッチは目をそらさずイワンを見つめた。
「しかし、もし自分の同志を撃つことになったら?」
「簡単なことだ。ボルシェヴィキの側にも同志の党員がいるかもしれない。」
「いや、しかしボルシェヴィキに加わった者は、もはや同志ではない。」
レイポヴィッチは一言も返さなかった。
「入れ、そしてすべての疑念を捨てろ。」イワンはもう一度勧めてから退き、「この男は虫食いだ」と思った。政党員たる者はガラスのように硬くあるべきだと彼は考えていたのだ。
イワンは登録所でスリーヴィン中尉を見つけた。党内で共に活動し後にさらに親密になった仲だった。今回隊長に任じられ、イワンも一昨日その隊に加わることを約束していた。スリーヴィンは正式の軍服を着て、敏捷に独楽のように働き、志願者に質問し、必要な人材を選んでいた。
イワンはまだ待たなければならなかった。窓辺に行くと、あの沈思するレイポヴィッチがまだそこに立っていたが、話すつもりはなかった。彼を見ると、蔑む気持ちがますます湧いてきた。
窓はアルバート広場に面し、すでに空は明るかった。広場では士官候補生たちが並木道の木柵、薪、板などで急いで防障を築いていた。まるで遊びに興じる子供たちのように快活に、道路に障壁を積み上げ有刺鉄線で縛りつけていた。フランス式に刈り込んだ顎髭の美丈夫が、海狸皮帽に高価な防寒外套で白樺の薪を運んでいた。
作業は迅速に進み、広場へ通じるすべての道路が防障で遮断された。
遠くからニキート門付近の射撃が激しくなるのが聞こえた。ようやくスリーヴィンに呼ばれた。
「行こう。心得のある者を選んだ。すぐに行ける。」
一分後、スリーヴィンの一隊が広場を出て武器の支給を受けるクレムリンへ向かった。射撃はまるでそばの建物の後ろで鳴っているかのように聞こえた。
クレムリンは寂として凄涼たる光景だった。しかし兵器廠の門に近づいた時、前方の義勇兵が愕然と立ち止まった。
「早く行け!」スリーヴィンは命令した。
車道に、兵器廠と兵営の間の広場に、制帽、皮帯、引き裂かれた外套、折れた銃身が散乱していた。黒い敷石には紫色の血痕が斑々と印されていた。兵器廠の壁際に、戦死した兵士と士官候補生の遺体が薪のように積み重ねられていた。
血まみれの砕かれた頭、見開かれた死人の目、血に塗れた外套、突き出した手足。兵器廠の大門の傍にも片付けられていない死体が横たわり、頭蓋が砕かれ、血に染まった乱れ髪から脳漿が車道に流れていた。凝固した血液が敷石にこびりつき、灰色の筋のような脳漿がイワンを最も戦慄させた。
蒼白の義勇兵たちは足を止め、顔に恐怖と嫌悪の情を浮かべた。
「ここでは……何があったのですか?」枯れた声で誰かが尋ねた。
士官候補生は体を震わせて途切れ途切れに答えた。「戦闘……」
「戦闘……これが戦闘なのだ。」イワンは新たな感情で広場を見た。
砕かれた頭蓋、膠のような血の塊、車道に流れた脳漿――これが内戦なのだ。
兵器廠で義勇兵に小銃、弾薬嚢、弾薬、皮帯が支給された。
義勇兵たちは低い声で話し、皆手足がぎこちなくなった。クレムリンを出てやっと一息つき、大学生が口笛を吹き始めて突然言った。
「ああ、恐ろしいったらない。これが戦闘劇というやつか……」
誰も一言も交わさず、皆の気分が浮き足立っていた。ただスリーヴィンだけが相変わらずバネのように弾力に満ちていた。
第168節
【士官候補生の話】
クレムリンを出た一隊はまっすぐアレクサンドロフスキー士官学校に向かい、ここで士官候補生と将校を加え、共にカメンヌイ橋へ向かった。スリーヴィンはイワンに士官候補生の外套を着せた。戦闘の最中に労働者の彼が友軍に赤軍と誤認され狙撃される恐れがあったからである。こうした実例は過去にもあったという。この偽装はイワンをいくらか面白がらせた。
カメンヌイ橋へは四列縦隊で前進し、士官候補生が先頭を歩いた。歩調が揃い一斉に進んだので、皆も快い気持ちになった。四方の街路は空虚で静かだった。住民はおそらく避難し、残った者は地下室に隠れていた。すべての家は門扉を固く閉ざし森々として、すべての窓はカーテンを下ろし、まるで盲目の悪魔のようであった。この街に響くのは義勇兵たちの足音だけだった。
サッ、ソッ。サッ、ソッ。サッ、ソッ。
この整然たる響きが皆を奮い立たせ、人の心を勇敢な仕事へと導いた。
カメンヌイ橋を守備していたのは義勇兵第二隊で、石の欄干の曲がり角――普段は恋人たちが毎夜甘い密語を交わす場所――には機関銃が据えられ、銃口はザモスクヴォレーチェの方に向けられていた。士官候補生と義勇兵が橋の上と岸辺をゆっくりと往来していた。大寺院や宮殿には人影はなかったが、すべてが変わらず、教会の黄金の十字架が光り、イワン鐘楼は巍然と聳え、空には雲一つなく秋の太陽が力なく照らしていた。教会の丸屋根の上には烏の群れが不安な鳴き声を上げていた。
イワンの目にはクレムリンで見た恐ろしい光景がまだ残っていた。この華麗な大寺院や宮殿の背後に惨殺された遺体が旧砲弾の山の陰に隠されているとは、奇怪に思われた。
イワンは体を縮めて岸辺を歩いた。外套は温かみを失い帽子は頭に合わず、銃身で手が氷のように冷えた。隣を歩く大学生は、大きな頭と青い目の士官候補生としきりに話していた。
「暴力には暴力で応えるべきだ。」
「しかし、これはやり過ぎだ。」大学生が言った。
「なぜやり過ぎだ?当然の因果応報だ。彼らが我々を殺そうとするから、我々が彼らを殺したのだ。これが戦闘だ。」
イワンはそれがクレムリン域内での衝突の話だと分かった。
「君はそこにいたのか?」
士官候補生は冷ややかにイワンを見た。「ああ。最初から最後まで。」
士官候補生はひそかに満足し、誰かに聞かれるのを待っていた。しかしイワンは突然反感を抱いた。血の塊、車道の脳漿、皮帯の金具に閃く日光……彼は河岸の石碑に体を押しつけ黙り込んだ。
橋の下では冷たく澄んだ秋の水が潺々と流れ、重い湿気が漂っていた。
大学生はまだ聞いていた。冷ややかな脅すような答えが返ってきた。
「彼らが降伏して武器をあの記念碑の傍に投げ出す約束をした。見えるか?」
「見える。」
「それで我々は門を通ってクレムリンに入った。彼らの言うことを信じたからだ。」
士官候補生はしばらく口をつぐんだ。
「ところが……彼らは詐欺師だった。突然撃ち始めた。我々が少数だと知っていたからだ。機関銃で……多くの者がやられた。中隊の仲間も体操教官もやられた……」
「それでどうなった?」大学生は急いで尋ねた。
「それから我々はクダフィエフ橋から門に突進し、彼らに閉める暇を与えなかった。装甲車が来た。そこで正面射撃を浴びせた。正面射撃だ!」
士官候補生はほとんど怒鳴るように言った。「正面射撃だ!」
イワンの心中に異様なものがこみ上げた。
「それから我々は機関銃と小銃で突撃した。彼らは兵営に隠れた。窓や屋上から撃ってきた。しかし我々は正面射撃で!すると慌てて『降伏する』と叫んだ。白旗が出た。彼らは恐怖で人間性を失い、這いつくばり転がりながら『助けてくれ』と喚き、全身震え、顔面蒼白で膝をつき、地面に口づけして十字を切る者までいた。」
イワンの目にこの光景がたちまち浮かんだ。石造りの黄色い陰鬱な建物の中を走り回って逃げ惑い、機関銃がパパパパと彼らを掃射している。
「それで彼らに仲間の死体を片付けさせた。砲弾の後ろに積んだのだ。見たか?あそこに死体がある。」
士官候補生の声には勝利を誇る調子が響いていた。
「こうして彼らを叩きつぶし、クレムリンを占領した。」
彼は口を歪めて微笑を浮かべ、靴音高らかに橋の欄干沿いに歩いて行った。
イワンは歯を食いしばった。
「畜生!あれが……」彼は思わず考えた。
士官候補生の話から漏れ出る残酷さに彼は驚愕した。さまざまな思いが旋風となって心に吹き込み、緊迫した悲哀の音を立てた。彼は突然小銃を高く掲げ橋の下の水に投げ捨て、走り去りたくなった……しかしイワンは自分を抑え、これは一時の激情に過ぎないと分かっていた。
「じきに静まる。」
彼は堪え忍び、河岸を長い間歩き続け、足音が絶えず響いた。
コツ、コツ、コツ……
第169節
【アゲーンはどこに?】
戦闘は七日目の午前に終わった。人々は群れをなして街頭に出てきた。あらゆる歩道が人で埋め尽くされた。しかしアゲーンの姿はなかった。機織りの女工はますます焦った。彼はどこにいるのか?
「死者が大勢いる。しかもすべての病院は負傷者でいっぱいだ。」
「クジマ・ワシーリエヴィチ、お願い!」機織りの女工はエスペランスに頼んだ。「一緒に病院へ行ってくれませんか。」
「行く、行くとも!」エスペランスはすぐに同意した。
しかしどこへ行けばよいのか。モスクワには病院が千以上あり、一度に全部回ることはできない。初日は二人で各所の病院を訪ね、死体が山積みの霊安室を覗いた。しかし二日目には二手に分かれた。奇妙な不安が女工を駆り立て、彼女は病院をちらりと覗いただけで家に戻った。自分が外を探している間にアゲーンはもう帰宅しているかもしれない、中庭に入ると彼が鍵のかかった扉の前に立ち、赤っぽい外套を着て丸い顔に笑みを浮かべて尋ねている光景を想像したのだ。
「ママ、どこに行ってたの?」
そう思うと心が温かくなった。この日一日中、彼女はあの復活祭の詩句を思い出し続けた。
「なぜ死者の中に生ける者を求めるのか?なぜ滅びし者の中に不滅の者を悲しむのか?」
家に帰ってみると戸は鍵がかかったままで、朝降った雪がそのまま階段に積もり、誰かが来た形跡は全くなかった。隣家を訪ね尋ねた。
「誰も来ませんでしたか?」
「いいえ。」
悲しみと焦燥に駆られた彼女は再び外へ探しに出た。
午後四時頃、エスペランスは大学附属の薄暗い霊安室でアゲーンを発見した。死んだ彼は部屋の隅の床に横たわり、顔は血にまみれ容貌では識別できなかった。以前コンツェヴォの方へ鳩を捕りに行く時によく着ていた赤っぽい外套で見分けがついたのだ。
「ああ、おまえだったのか。」エスペランスは淋しげに低く言った。「どうしてこんなことになったんだ?」
彼はしばらく佇み、考えてから外に出て、汚い馬車屋を見つけ、事務員の手を借りて死体を橇に載せ帆布を掛けてプレスニャまで運んだ。
橇は進んだが、機織りの女工に会うのが恐ろしく、何と言えばよいのか分からなかった。
道のりがひどく長く感じられた。
門に近づいたばかりで、機織りの女工がすでに脇門から出てきた。エスペランスを見、地面に横たわり帆布で覆われた恐ろしいものを見た途端、地面に根が生えたように立ちすくんだ。エスペランスは慌てて車を降り、目を伏せて彼女を見ることができなかった。彼女はまっすぐ立ったまま、突然血の気を全く失い、半ば口を開いたまま閉じることができなかった。
「クジマ・ワシーリエヴィチ!」彼女は鋭く急に叫んだ。「クジマ・ワシーリエヴィチ!」
そして片手を橇の方に伸ばし、低い声で言った。
「これは……あの人?……」
エスペランスは震えた。全身が震え、細い髭も震えた。彼は低い声で言った。
「あの人だよ、ワルワーラ・グリゴーリエヴナ。あの人だ……我々のアゲーン・ペトローヴィチだ……あの人だ……」
第170節
【九 第一歩】
……道路は波打つ無限の帯のように彼の方へ流れ、垂れ下がった枝がモロースカの顔を撫でた。彼は怒りと憤恨と復讐の念に満ち、狂ったように馬を駆って前へ走った。メチークとの愚かな口論の一つ一つが、前のものよりさらに強く、火のついた頭の中で次々と浮かんできた――しかしそれでもなお、モロースカはこのような人間に対して、自分の侮辱の表現がまだ十分でなかったと感じていた。
彼はまた、メチークに思い出させることもできたのだ。例えば、あの大麦畑で、どうにも振りほどけない手で彼を掴んだこと、あの狂気じみた目の中で、自分の命への卑しい恐怖が渦巻いていたこと。メチークの巻き毛の令嬢への恋を――その写真は恐らくまだ洋服の胸近くのポケットにあるだろう――毒々しく嘲笑し、最も不快な名称でその令嬢を呼ぶこともできたのだ……しかしここでふと、メチークがすでに自分の妻と「くっついた」以上、あの令嬢に対してとうに何の侮辱も感じていないだろうと思い至った。すると敵を制した勝利の感は消え失せ、モロースカは再び自分のどうしようもない憤怒を覚えた。
……主人の不公正に大いに腹を立てたミーシカは、唇の間に涎が流れ、馬銜がすでに緩んでいるのに気づくまで走り続けた。――すると足を緩め、もう新たな叱咤を聞かないと分かると、ただ表面上だけ速いように見える歩調で進んだ。――侮辱を受けながらも威厳を失わない人間のように。
白樺林を抜けた泰茄が開け、太陽が木々の幹の隙間から顔を打った。ここは快適で、澄明で、爽快だった。モロースカの激怒は薄れていった。メチークへの侮辱の言葉は、復讐本来の輝かしい羽を失い、堕落した裸の惨めな姿となっていた。彼はワーリャという人間が、やはり以前思っていた通り自分にとって良い女ではなく、もう彼女のもとへは帰るまいと悟った。
丘陵の向こうから突然駆け出してきた馬蹄の音で我に返った。眼前には、大きな目の気性の荒い馬に跨がった、小柄で身なりのきちんとした巡察が立っていた。
「ああ、この呪われた牝馬が!……」巡察は帽子を拾いながら罵った。「モロースカか?早く戻れ、早く、――あっちはもう滅茶苦茶だ……」
「どうしたんだ?」
「逃兵が来て大法螺を吹いている――日本軍が来たとか何とか!……農民たちが畑から走ってきて、女たちは叫び……みんな荷馬車を渡し場に引っ張っていって、渡し守は殴り殺されそうだ……だが俺たちのグリーシカが十二ヴェルスタ走って見に行ったら――日本軍なんて影も形もない――全部でたらめだ。」
モロースカはこの騒動に出くわし、いつもの癖で人々をもっと脅かしてやりたかったが、なぜか気が変わり、馬を降りてみんなを宥め始めた。
「日本軍だなんて、嘘っぱちだよ。」彼は女の話を遮った。「高麗人が干し草を焼いているのを毒ガスだと思ったんだろう……」
農民たちは女のことを忘れ、彼を取り囲んだ――彼は突然自分が偉大な責任ある人間になったと感じた。彼は反論し、逃兵のでたらめを嘲笑し、最後に走ってきた人々もすっかり散らばるまで続けた。次の渡し船が岸に着いた時には、もう先ほどのような混乱はなかった。モロースカ自ら荷馬車の順番を指示し、農民たちは畑から早く戻り過ぎたことを後悔して馬を罵った。
渡し船の欄干から身を乗り出すと、船間を二つの水泡の輪が走っていた。――一つの輪がもう一つに追いつかない。――この自然の秩序が、自分がたった今農民たちを組織した事を思い出させた。――その回想は愉快なものだった。
村の柵門でトゥポーフの小隊の巡察交代に出会った。――五人で、彼を笑い声と親しげな罵り言葉で迎えた。
モロースカは本部へ向かいながら、堅い決心をした。「何もかもどうでもいい」、ただ伝令使の義務から解放してもらい、小隊の仲間のところへ戻してくれと頼むのだと。
本部の大門口で、バクラーノフが逃兵を審問していた。モロースカは小屋に入り、角で仕事をしているレーヴィンソンを見つけた。
「聞いてくれ、レーヴィンソン……頼みがある……聞いてくれたら――永遠の友だちだ、本当に……」
「永遠の友だち?」レーヴィンソンは微笑んで問い返した。「それで、何の頼みだ?」
「小隊に戻してくれ……」
「なぜ急に小隊に戻りたいんだ?」
「話せば長いが――とにかく、もう嫌になった。本当に……」
「それなら誰が伝令使をやるんだ?」
「エフィームカができる。あいつは馬のことなら旧軍で賞をもらったほどだ!」
「永遠の友だちと言ったな?」レーヴィンソンは再び尋ねた。
「ふざけるなよ!……頼み事をしているのに笑うなんて……」
「そう怒るな、怒ると体に悪い……トゥポーフに言って、エフィームカを寄越してもらえ。それでお前は……行くがいい。」
「これでこそ友だちだ!……」モロースカは喜んで叫んだ。
小隊に着いた時、もう暗くなっていた。トゥポーフは凳に跨がり、ランプの明かりで「なが」を弄っていた。
「あはは、この悪党め……」とトゥポーフは低い声で言い、モロースカの手の荷物を見て驚いた。「また荷物を持って帰ってきたのか?まさか首になったのか?」
「終わりだ!」モロースカは叫んだ。「免職!……報酬もなしにお払い箱だ……エフィームカに準備させろ――隊長の命令だ……」
仲間のもとに戻った喜びで、モロースカは冗談を言い、からかい、小屋の中を飛び跳ねた。
一晩中、モロースカは自分が真の兵士であり、善良で有用な人間だと感じていた。
夜中にトゥポーフは脇腹への重い衝撃で目を覚ました。
「何だ?何だ?……」驚いて起き上がると、遠くの銃声が聞こえた……
ベッドの傍にモロースカが立ち、叫んでいた。
「起きろ!対岸から銃声が聞こえるぞ!……」
「みんなを起こせ、」トゥポーフは命令した。「すぐにすべての小屋へ……急げ!……」
数秒後、完全武装で後庭に飛び出した。無風の寒い空が広がっていた。干し草小屋の暗い穴から遊撃隊員たちの乱れた姿が次々と飛び出してきた。
しかし小隊の大部分は宿営地に泊まっておらず、夕方に散歩に出て娘たちのところで寝ていたことが分かった。トゥポーフは絶望し、上帝と教士を罵りながら各方面に人を遣わして一人一人探させた。
疲れた犬の吠え声に送られて、小隊はようやく本部へ走った。
広場に着くと全部隊がすでに集まっていた。大路には移動の準備が整った輜重が並び、多くの者が馬の傍に座って煙草を吸っていた。レーヴィンソンは松明に照らされた丸太の傍に立ち、メジェリーツァと静かに話していた。
レーヴィンソンは隊列を検閲し、中央に戻ると片手を挙げた。手は冷ややかに、厳しく空中に数秒間止まった。
「同志諸君!……」レーヴィンソンは口を開いた。その声は低かったが、誰にもはっきりと聞こえた。「我々はここを出発する……どこへ行くか――今は説明する必要はない。日本軍の力は――過大に見る必要はないが――しかし、我々は姿を隠し、時機の到来を待つ方がよいほどには大きい。……今日我々は遊撃隊の名を辱めなかったか?……辱めなかったとは言えない。我々は娘のようにばらばらになった!……もし本当に日本軍が来ていたら、どうなっていた?……我々はまるで雛のように皆殺しにされていただろう!……何という恥だ!……」
レーヴィンソンは鐙の上に立ち、鞭を一振りして号令した。「気をつけ!……右三列、前へ……進め!」
馬銜が一斉に鳴り、鞍が軋み、まるで深海の大魚のように揺れながら、密集した隊列が深夜の中を、古きシホテ・アリン山巓の後ろから昇る、古くして常に新しい曙光の方へと進んでいった。
第171節
【第二部】
【一 部隊の中のメチーク】
スタイシンスキーは、食糧のために野戦病院に駆け込んできた経理部長助手から、出発のことを初めて知った。
「したたかな奴だ――あのレーヴィンソンは。」助手は蒼白い駱背を日に晒しながら言った。「あいつがいなかったら、俺たちは皆やられていただろう……野戦病院への道は誰も知らなかった。だから攻撃されたとき――俺たちは全部隊を連れてここへ来たんだ!考えてみろ……しかもここでは食糧も飼料も万端整えてあった。大したものだ……」
この日、メチークは初めて起き上がることができた。杖をつき、草地へ出て行った。足の下に驚くほど心地よい弾力のある短い草を感じ、わけもなく笑った。
メチークの散歩中、フローロフが羨ましそうに彼を見つめていた。フローロフはすでに長い間病んでおり、周囲の人々の同情をすべて汲み尽くしていた。彼の「生」への執着の盲目さは、墓石のように皆を押しつぶしていた。
メチークが病院にいた最後の日まで、彼とワーリャの間には奇妙な関係が続いていた。互いに何を望んでいるか分かっていながら、互いを恐れ、誰も大胆な一歩を踏み出せない遊戯のようだった。
メチークは結局その臆病を克服できなかった。彼はビーカと共に、外部の人間に対するかのようにぎこちなく皆に別れを告げた。ワーリャが小道で二人に追いついた。
「ちゃんとお別れもしないの?」彼女は息を切らして赤い顔で言った。そして鉱山の若い娘たちが皆するように、彫り模様の煙草入れをこっそり彼の手に押し込んだ。
メチークは彼女の唇に軽く触れた。彼女の唇が歪んだ。
「会いに来てね、忘れないで!……」森に隠れた時、彼女は大声で叫んだ。返事がないと分かると、草の上に倒れ込んで泣いた。
道中、メチークは時折自分がもう本物の遊撃隊員だと感じた。彼とビーカはシピシに着いた。村は木々の多い丘の南向きの斜面に立っていた。倒壊した祈祷所の傍で、帽子に赤い布をたくさんつけた陽気な若者たちが九柱戯をしていた。農民の長靴を履いた、おとぎ話の挿絵の小人のような赤髭の小男が、柱を投げたばかりで見事に全部失敗していた。
「あれがレーヴィンソンだ。」ビーカが言った。
九柱戯では不器用だった小男は、しかし大きく敏捷な目を持っていた。――その目がメチークを捉え、ひっくり返すように中身をすべて検査した。
「君の部隊に来たんだ。」メチークは言った。「前はシャレトゥバのところにいた……負傷するまで。」
「銃は撃てるか?」
「撃てる……」
レーヴィンソンは九柱戯の柱を的にして射撃を命じた。メチークは引き金を引いた。柱は吹き飛んだ。
「よし……」レーヴィンソンは笑った。「馬は飼ったことがあるか?」
「いいえ。」
「それは残念だ。」レーヴィンソンは言い、「クチーハ」という馬を与えた。それは痩せて弱々しい、汚い白色の凹んだ背と大きな腹の温和な牝馬だった。しかも妊娠していた。
「これを私に?……」メチークは低い声で尋ねた。
メチークの勇敢な遊撃隊員としての気分は、小皿の中の水のように干上がってしまった。この丢脸な牝馬では新しい生活など始められないと感じた。
こうして全小隊中、彼と親しくなったのはビーカとキーシュの二人だけだった。キーシュはレーヴィンソンについて不満を述べ、メチークは彼の話を面白がって聞いたが、完全には信じなかった。
その時から、部隊の沸騰する生活はメチークの傍を通り過ぎていった。彼は部隊の機構のバネを見ず、なされている一切の事柄の必要性を感じなかった。
第172節
【二 三つの死】
メジェリーツァは大きな暗い倉庫の中で目を覚ました。――彼は裸の湿った泥の地面に横たわり、最初に感じたのは骨にしみる湿気の感覚だった。すると稲妻のように一切の事件の記憶が閃いた。頭の中ではまだ殴打の余韻が騒いでおり、髪は血液で固まっていた。額と頬に乾いた血液を感じた。
彼は一つの思想を生んだ。――最初の、はっきりとした思想は、逃走できるかどうかということだった。メジェリーツァはどうしても、一生で経験した数々の勇敢な行動と成功の後に、他の者と同じように朽ち果てるなどとは信じられなかった。彼は部屋中を見回し、穴を探り、戸を壊そうとしたが――すべて徒労だった!どこでも冷たい死んだ木に出くわし、穴は絶望的に小さかった。
しかし彼の眼光はなおも探し続けた。――ついに、出口のない冷酷な事実から、今度はもう逃げられないと悟った。これを確信した後、不思議なことに、自分の生死の問題にはすっかり無関心になった。彼の肉体的・精神的な全力は、――自分の生死の見地からすればまったく無意味な、しかし今の彼にとって最も重要な問題に集中された。――つまり、剽悍で死を恐れぬことで知られた彼メジェリーツァが、自分を殺す者たちにどのように無畏と軽蔑を示すか、ということであった。
考え終わらぬうちに、ドアの外で物音がし、ドアの閂が鳴った。微かな震える蒼白い朝の光と共に、蒼白い、こね回したような、銃を持ちズボンに側章をつけた二人のコサック兵が入ってきた。メジェリーツァは両足を開いて立ち、眉を顰めて彼らを凝視した。
「来い、百姓。」前の一人が悪意なく、むしろ申し訳なさそうに言った。
メジェリーツァは強ばった頭を垂れて外に出た。
間もなく彼は、昨夜牧師の庭から覗き見た部屋で、すでに見知った黒い半毛皮外套の男の前に立っていた。
「昨夜お前は庭で何をしていた?」男はメジェリーツァの前に立ち、鋭い不動の目で彼を釘付けにし、素早く問うた。
メジェリーツァは見た一切のことを頑として話さなかった。彼は毅然として、大地のように不動であった。
やがて彼は外に連れ出された。六人のコサック兵に護送されて歩いた。空は澄み、野は黄金に輝いていた。メジェリーツァは深く澄んだ空気を胸一杯に吸い込み、太陽に照らされた大地の美しさを見た。彼はこの世界を離れることを惜しんだが、恐れてはいなかった。
彼は銃殺された。倒れる直前、目をかっと見開き、空を見上げた。
[以下、フローロフの死とメチークの脱走が続く。フローロフは病が重くなり、部隊はもはや彼を運ぶことができなくなった。レーヴィンソンの苦渋の決断により安楽死が施された。メチークは戦闘の中で恐怖に負け、仲間を見捨てて馬を奪い逃走した。三つの死――メジェリーツァの英雄的な死、フローロフの悲しい死、そしてメチークの精神的な死――が対照的に描かれる。]
第173節
【四 十九人】
沼地を渡り危険を脱する場所から五ヴェルスタのところに、トゥド・ヴァギへの大路があった。レーヴィンソンが村で夜を明かさぬことを恐れて、コサック兵たちは昨夜、橋から約八ヴェルスタの大路に伏兵を設けていた。
彼らは一晩中座って部隊を待ち、遠くの砲声に耳を傾けていた。朝になると伝令使が駆けつけ、敵が泥沼を突破してこちらの方角に進んでいるからそのまま留まれという命令を伝えた。伝令使の到着から十分も経たぬうちに、レーヴィンソンの部隊は伏兵のことも、つい今しがた敵の伝令使が傍を通り過ぎたことも知らずに、トゥド・ヴァギへの大路に向かっていた。
太陽はすでに森の上に昇っていた。霜はとうに解けていた。空は澄み渡り、氷のように青かった。群木は濡れた燦爛たる黄金をまとい、道路に傾いていた。温暖な、秋らしくない日であった。
レーヴィンソンはぼんやりとした目でこの輝かしい清純な美を一瞥したが、何も感じなかった。彼は無力に歩く疲弊した、三分の一に減った部隊を見て、自分が疲れ果て、後ろを這うように付いてくる人々のために何かをする力がもうないと感じた。ただ彼らだけが、このひどく損傷した忠実な人々だけが、彼にとって今唯一の、最も近い、無視できない、自分よりも親しい人々であった。――なぜなら彼はこれらの人々に対する責任を片時も忘れなかったからだ……しかし今はもう力尽きたようだった。
「斥候を出すべきだ。」バクラーノフが言った。
「そうだ、君がやれ……」
数分後、前屈みの騎手が先へ走っていった。メチークだった。もう一人が横から駆け上がった。
「モロースカ!大家散り散りになるな……」バクラーノフが後ろから叫んだ。
突然、前方で銃声が鳴り響いた。「伏兵だ!……伏兵だ!……」
部隊は反射的に散開した。銃弾が頭上を飛んだ。メチークは恐怖に駆られ、馬を奪って逃走した。モロースカの馬をだ。モロースカは徒歩で取り残された。
レーヴィンソンは命令を下した。沼地を渡って脱出するのだ。しかし沼地は深く、馬は次々と泥に沈んだ。
モロースカは最後まで戦い、仲間を掩護して倒れた。彼は自分の生命を投げ出して仲間を救ったのだ。
やっとのことで泥沼を渡り終えた時、残ったのはわずか十九人であった。レーヴィンソンは疲れ果て、しかし泣くまいとしながら、前方に広がる青い谷を見つめた。そこから新たな人々が彼らの方へ走ってくるのが見えた――まだ知らない、しかしこれから率いるべき新しい人々であった。レーヴィンソンは涙を拭い、前を見つめた。
第174節
【序文】
――「話をする」体を擬す
やあ、お嬢さん、ちょっとした無駄話をお聞かせしたいんですが。
「何ですって、無駄話?」きっと眉を顰めなさるでしょうね。だってあなたはでたらめ話が一番お嫌いだから。
でもまあ、無駄話ではあるのです。いくらか意味のある無駄話で、何か本当のものが入っている気がするのですが。ああ、そんなに眉を顰めないでください。私の田舎の言葉で言えば、私は「やんちゃ坊主」ですが、それは私のせいではないのです。年をとったのも私の罪ではありません。外見は真面目でも、心の奥にちょっとした馬鹿さと狂気があるのも、私を責めるわけにはいきません。
「ちょっとした?」
そう、ちょっとした。でもこれで十分だと思います。私をこういう人間に作ったのは造化です。このちょっとした狂気が私の心をかき乱し、しょっちゅう重心を底面の外に傾けさせるのです。
「また面倒くさい言い方を。」
面倒?当然です。あなたが正しくもなく正当でもないと思っている傷が、どんなに内面で血を流しているか、あなたにはまるで分からないのですから。
「あら、それは大変。信じますわ。」
しっかり信じてください。あなたから見れば、私は馬鹿者で、量る必要のないものを量り、秤にかける必要のないものを秤にかける人間です。それは明々白々……
「しかも余計なことを言う人間ね。」
対了。しかしお嬢さん、もし量る人がいなければ、量られたいものはどうなるでしょう?私は秤を正義のために使いたいのです。この乱談の中で、私はまさにそれを証明しようとしているのです。
[以下、著者バロハが「なぜパン屋を開いたのか」という質問への回答が続く。母の伯母ファナ・ナシの夫ドン・アティアスがアメリカから帰国した富豪で、マドリードで様々な事業に失敗した経緯、ウィーン式パン製造の話、パン屋経営の六年間の苦労と最終的な閉店、証券取引所での空売りなどが、軽妙な語り口で述べられる。]
案ずるに、この篇は一九二九年四月二十五日『朝花』週刊第十七期に掲載されたものである。ここから著者の生活の一部を理解できるので、『山民牧唱』原書にはないが、ここに附した。
編者識。
第175節
【山民牧唱】
【炭焼き人】
カラスは目を覚ますと、小屋を出た。崖の縁にぴったり沿った曲がりくねった小道を駆け下り、林の中の空き地へ行った。そこで炭窯の準備をするのだ。
夜の色が退いた。蒼白い明るさが東の空に次第に現れた。太陽の最初の光線が突然雲間から射し出し、まるで薄暗い海に漂う金の糸のようであった。
谷の上には、翻り揺れる屍衣のような深い濃霧が立ち込めていた。
カラスは仕事に取りかかった。まず、地面に散らばった適当な太さに鋸で切った丸太を拾い集め、円く積み上げ、中央に空洞を残した。次に、その上にやや細いものを積み、さらにその上にもっと細い枝を載せた。そして口笛を鳴らしながら、いつも歌い終えない曲の最初の数小節を吹き出しつつ働いた。林を満たす寂寥も沈黙も気にしなかった。この間に太陽はすでに昇り、霧も消えていった。
正面に、一つの小さな部落が、まるで哀愁に沈んだかのように、その属する田畑の中央にひっそりと現れていた。手前にはすでに黄ばんだ小麦畑が小さな海のように起伏していた。山頂には棘のある金雀枝が岩の間に芽を出し、まるで登山する家畜のようであった。遠くに目をやると、山々の褶曲が見え、凝固した海の波のようであった。
カラスは休むことなく働き、歌い続けた。これが彼の生活であった。丸太を積み上げ、すぐにランジ草と泥で覆い、火をつける。これが彼の生活であった。他の生活を彼は知らなかった。
炭焼き人になってからすでに何年にもなった。正確には知らなかったが、彼はもう二十歳であった。
山頂に立つ鉄の十字架の影が彼の作業場に落ちると、カラスは仕事を止め、小屋へ行った。そこでは頭領の女房が炭焼き人たちに食事を出していた。
この日もカラスはいつものように小道を下って洼地の小屋へ行った。一つの扉と二つの小窓のある粗末な石造りの小屋であった。
[以下、カラスが食事の場で頭領の女房の娘ラウラに恋心を抱く場面、祭りの日にラウラに近づこうとするが叶わない場面、ラウラが他の男と結婚してしまう悲しみ、そしてカラスが炭窯の火を見つめながら孤独に生きる決意をする結末が続く。バロハ特有の簡潔で力強い筆致で、山村の素朴な生活と人間の感情が描かれる。]
第176節
【少年別】
人物
ラモン(三十歳)
デリーニ(二十五歳)
堂倌(五十歳)
『エラート報』を読む老紳士
外套の紳士
議論する青年たち
堂倌 (新聞を読む紳士に向かって)昨晩は皆さんとても遅くまでおられましてね。それから堂・フリーヴォが来られて、そうですな、片付け終わるころにはもう二時でしたよ。
新聞の紳士 二時だと?
堂倌 ええ、そんなこんなでもう二時でした。
(美術青年たちの中で)
「君の考えは間違っている。芸術は人生と無関係ではいられない。」
「だが純粋芸術というものがあるではないか。」
「純粋芸術だと?そんなものは存在しない。芸術は常に社会の反映なのだ。」
[以下、カフェを舞台に、ラモンとデリーニの別れの場面が展開される。ラモンは故郷へ帰ることを決意し、デリーニはマドリードに留まる。二人の青年の将来への不安と希望、友情と別離の哀しみが、バロハ特有の簡潔な対話を通じて描かれる。カフェの堂倌や他の客たちの些細な会話が背景に流れ、大都市マドリードの日常と、その中に生きる青年たちの孤独が浮かび上がる劇的小品である。]
第177節
【バスク族の人々】
【流浪者】
暮夜はすでに襲い来て、彼らは切り裂かれた峭壁に挟まれた隘路の底に立ち止まった。両側の山頂は、まるであの高みで接吻しようとするかのように迫り合い、星に満ちた空のほんの一筋だけを露わしていた。
あの非常に高い両面の峭壁の下で、道路は気まぐれに蛇行する川の流れに追随していた。その川はまた近くで水門口の堤防に塞き止められ、水量の多い深い淵を成していた。
暗夜の中、両岸を喬木に遮られた黒く滑らかな川面は、地底に広がる巨大な洞窟の口のようにも、底のない大きな壑の口のようにも見えた。その漆黒の中央に、岸に列植された高い黒柳と、群山の間から射し込む空明が映っていた。
まるで狭い山の隙間に嵌め込まれたかのように、しばしば石が転がり落ちてくる崖壁の近くに、一軒の小屋があった。その家族はそこに泊まった。
これは北方の道路にある、泊まる場所のない旅人のために設けられた小屋の一つであった。ここに泊まるのは、大概ヒテーノ、鋳掛け屋、乞食、荷担ぎ、あるいは仕事もなくぶらぶら歩いている人々であった。
家族は一人の女、一人の男、一人の男の子から成っていた。女は乗ってきた雄馬から降り、小屋に入り、抱いた赤ん坊に乳をやろうと石の腰掛けに座った。
男の子と父親は馬の荷を降ろし、馬を木に繋ぎ、焚き火用の木を拾い集めて小屋に運び込み、真ん中の空き地で火を起こした。
夜は寒かった。切り裂かれた二つの山に挟まれた隘路の上を、霙交じりの風が猛烈に吼えていた。
女が赤ん坊に乳をやっている間に、男は彼女の肩から濡れた肩掛けを取り、火で乾かした。そして二本の棒を削って尖らせ、地面に突き立て、その肩掛けを掛けて風除けにした。
[以下、バスク地方の流浪の家族の一夜が描かれる。寒さの中で身を寄せ合う家族の姿、翌朝の出発、道中で出会う人々との交流が、バロハの簡潔な筆致で綴られる。続いて「密輸業者」「巫女」などバスク族の人々の生活を描いた短篇が収められている。]
第178節
【パン屋時代】
バロハはイバニェスと同じく、スペイン現代の偉大な作家であるが、彼が中国人に知られていないのは、その著作がアメリカの商人に「百万ドルを費やして」映画化され上海で上映されたことがないからだと、私は思う。もちろん、我々が彼を知らなくても何の害もないのだが、少し知っておくのも悪くない。宇宙にハレー彗星なるものがあると聞いたようなもので、まあ一つの知識である。これが飢え寒さに大いに関係するなどと思うなら、深読みに過ぎよう。
まとまった論文を訳して彼を中国に紹介したのは、『朝花』が最初である。その中にこういう文があった。「……彼は弟と連絡してマドリードで、奇妙なことに、彼らはパン屋を開き、これをかなり成功裡に六年間続けた。」彼のパン屋開業は、かなり多くの人々を驚かせたらしく、彼は『ある革命家の人生及び社会観』の中に、わざわざ一章を設けて説明している。今ここに岡田忠一の日訳本に拠って訳出し、話の種に供する。小説として読んでもよい。彼の多くの短篇小説も書き方はこれと同じだからである。
私はよく質問を受ける。「あなたはいったいなぜパン屋を開いたのですか?」この話は長くなるが、今この問いに答えよう。
私の母にはファナ・ナシという伯母がいた。父の姉である。
その女は若い時分はとても美しく、ドン・アティアス・ラケーセというアメリカ帰りの富豪と結婚した。
ドン・アティアスは自分を鷲だと思い込んでいたが、実は裏庭の雄鶏に過ぎなかった。マドリードに住みつくと様々な事業を始めたが、まことに奇怪なことに、何をやっても同じように失敗した。一八七〇年頃、マルティという、ウィーンに行ったことのあるバレンシアの医者が来て、ウィーン式パンとそのパンを膨らませる酵母について説明し、この商売に手を出せば利益はどれほどかと大袈裟に吹聴した。
ドン・アティアスは大いに賛成し、マルティの勧めに従い、デスカルサス教会の近くに古い家を買った。大通りの番地は「二号」のたった二文字で、それを大いに喜んだ。
マルティはデスカルサス教会の傍の古い家で釜を据えた。商売は思いのほか儲かった。もともと道楽者のマルティは、商売が軌道に乗って三、四年で死んだ。ドン・アティアスはまた次々と事業に手を出し、完全に破産した。最後にはパン屋だけが口を糊する頼みの綱となった。
彼は死ぬ前にそれさえも滅茶苦茶にした。すると伯母が母に手紙を寄こし、兄のリカルドをマドリードに呼んだ。
兄はしばらくマドリードに住んだが、どうにもならず逃げ出した。後に私がマドリードに行き、兄と共に商売を改良し繁盛させようと努力した。しかし時勢が悪く、繁盛させる方法がなかった。
パン屋がようやく軌道に乗りかけた頃、当時の地主ロマノネス伯爵から、家を取り壊さなければならないという通知が来た。
やむを得ず別の場所に移り、別の商売をしたが、金が要る。しかし金がない。この苦境を乗り越えるために我々は空売買を始めたが、これが上手く行き、慈母の役目を果たしてくれた。別の場所で開店するとすぐに損失を被り、中止した。
このような次第で、私は証券取引所を慈善的制度と見なし、反対に教会は陰気な場所で、告解室の後ろから黒い法衣の教士が跳び出してきて暗闇で人の喉を絞めるかもしれない、と感じるのも無理からぬことである。
案ずるに、この篇は一九二九年四月二十五日『朝花』週刊第十七期に掲載されたものである。ここから著者の生活の一部を理解できるので、『山民牧唱』原書にはないが、ここに附した。
編者識。
第179節
【ペルシャ勲章】
ウラル山脈のこちら側のある市に、一つの風聞が広まった。このところ、ペルシャの貴人ラハ・ハイランが扶桑旅館に泊まっているという。この風聞は市民に何の印象も与えなかった。ペルシャ人が来た、それが何だというのだ。ただ市長のスチェパン・イワノヴィッチ・グーツィンだけが、役所の秘書から東方人の来訪を聞くと、あれこれ考え始め、尋ねた。
「あの人はどこへ行くのかね?」
「パリかロンドンでしょう、たぶん。」
「ふむ!……で、金持ちかね?」
「さあ。」
市長は役所から帰り、昼食をとった後もまたあれこれ考え、しかも今度は夜まで考え続けた。この高貴なペルシャ人の入境は、彼の野心を大いに刺激した。このラハ・ハイランは運命が自分のもとに遣わしたのだと彼は信じ、渇望してきた希望を実現する絶好の機会が到来したのだと思った。グーツィンにはすでに二つの徽章があった。スタニスラフ三等勲章と赤十字徽章、そして「水難救済会」の会員章であった。そのほかに自分で表鍊の飾りを作り、六弦琴と金色の銃を交差させたもので、制服のボタン穴から引き出していた。遠くから見ると尋常でなく、立派な勲章に見えた。勲章や徽章があればあるほど欲しくなるのは当然で、市長は久しくペルシャの「太陽と獅子」勲章を欲しがっていた。戦争も養老院への寄付も議員になる必要もなく、ただ良い機会さえあれば手に入ると彼はよく知っていた。今その機会が訪れたようだった。
翌日正午、彼は全ての徽章、勲章、表鍊の飾りをつけて扶桑旅館に行った。運よくペルシャの貴人の部屋に入った時、貴人はちょうど一人で暇だった。ラハ・ハイランは背が高く、翡翠鳥のような長い鼻、突き出た大きな目のアジア人で、頭にトルコ帽をかぶり、床に座って旅行鞄を漁っていた。
「お邪魔をお許しください。」グーツィンは微笑みながら話し始めた。「自己紹介の光栄を得ます。代々名誉ある市民、各種勲章の受勲者、スチェパン・イワノヴィッチ・グーツィン、本市市長でございます。いわば親善なる隣邦の代表者と個人的にお目にかかることは、私の義務と存じます。」
高貴なペルシャ人は振り向き、何かひどく下手なフランス語で話したが、その声はまるで木が木を叩くようだった。
「ペルシャの国境は、」グーツィンは準備した歓迎の辞を続けた。「我が広大な祖国の国境と極めて密接に接しており、この相互の交感ゆえに、あなたを我々の同胞と呼びたいのです。」
高貴なペルシャ人は立ち上がり、また木を叩くような言葉を少し言った。グーツィンは外国語をまったく学んだことがなく、聞き取れないと首を振った。
[以下、グーツィンがペルシャの貴人を手厚く歓待し、宴会を催し、ペルシャ勲章を得ようと画策する喜劇的な展開が続く。しかし結局、このペルシャ人は単なる商人に過ぎず、勲章を授与する権限などなかった。グーツィンの虚栄心と愚かしさが、チェーホフ特有のユーモアと哀感をもって描かれる。最後にグーツィンは自らの愚かさを恥じるが、それも長くは続かない。チェーホフの「人間喜劇」の一篇である。]
第180節
【短気者】
私は真面目一方の人間で、精神には哲学的な傾向がある。職業に至っては、財政学者であり、財政法を研究しており、目下「犬税の過去と未来」なる題目の論文を執筆中である。何やら乙女だの、詩歌だの、月だの、その他のくだらぬものなど、当然私とは何の関係もない。
朝の十時。母がコーヒーを一杯持ってきてくれた。飲み終えると、直ちにテラスへ出て、論文に取りかかった。白紙を一枚取り出し、ペンをインク瓶に浸し、まず題目を書いた——「犬税の過去と未来」。しばし考えてから、こう書き出した。「史的概観。ヘロドトスとクセノフォンの二三の暗示によれば、犬税の起源は……」
だが、この瞬間、ただならぬ足音が聞こえてきた。テラスから見下ろすと、面長で腰の細い娘がいた。その名はナジェンカかワレンカだったか——だが私には関係のないことだ。彼女は何かを探しているふうで、私に気づかぬふりをしながら、独り口ずさんでいた。
「あの情熱あふれる一曲を、あなたはまだ覚えていらっしゃるかしら……」
私は改めて論文に目を落とし、書き続けようとしたが、あの娘は突然こちらに気づいたかのような素振りで、悲しげな声でこう言った。
「おはようございます、ニコライ・アンドレーエヴィチ!ご覧になって、何という不運でしょう!昨日ここを散歩していて、腕輪の飾りを落としてしまいましたの。」
私はもう一度論文に目を通し、誤字を直し、続きを書こうとしたが、あの娘はなかなか引き下がらない。
「ニコライ・アンドレーエヴィチ」と彼女は言った。「ありがとうございます、どうか私を家まで送ってくださいませ。カレーリン家に大きな犬がいて、一人では怖くて通れませんの。」
仕方がない。私はペンを置いて降りていった。ナジェンカかワレンカは私の腕にしがみつき、彼女の別荘へ向かって歩き出した。
私は婦人や令嬢と腕を組んで歩く義務に出くわすたびに、何故だかわからぬが、まるで重いコートを掛けた鉤のような気分になる。だがナジェンカかワレンカは——ここだけの話だが——情熱的な天性の持ち主で(祖父はアルメニア人だった)、全体重を私の腕に預け、半身を蛭のように密着させる術を心得ていた。こうして歩いていると……カレーリン家の別荘の脇を通りかかった時、大きな犬が見えた。それで犬税のことを思い出した。手をつけた仕事が気がかりで、溜息をついた。
「なぜ溜息をおつきになるの」とナジェンカかワレンカが訊ねた。そして彼女もまた溜息をついた。
ここで一言挟まねばならない。ナジェンカかワレンカ(今思い出したが、彼女の名はマーシェンカだった)は、どこで思いついたものか、私が彼女に恋していると信じ込み、人類愛の義務から、常に万分の同情をもって私を見つめ、言葉で私の心の傷を癒そうとするのだった。
「お聞きなさい」と彼女は立ち止まって言った。「あなたがなぜ溜息をおつきになるか、私にはわかっていますわ。恋をなさっているのでしょう!でも友情にかけて申し上げますが、あなたが愛していらっしゃるお嬢さんは、あなたをとても尊敬していますわ!ただ、同じ感情でお応えすることができないのです。でも、もし彼女の心がすでに別の方のものであったなら、それが彼女の過ちだと言えましょうか?」
マーシェンカは鼻が赤くなり、膨らんで、目には涙があふれていた。私の返事を待っているようだったが、幸いにも目的地に着いていた……軒下にはマーシェンカの母親が座っていた。善良な婦人だが偏見に満ちていて、娘の高ぶった顔を見ると、長い間私を見つめ、溜息をついた。まるで「ああ、若い人はどうしても隠せないものね!」と言っているようだった。彼女のほかに、軒下には色とりどりの若い娘たちが数人おり、その中に私の避暑地の隣人で、先の戦争で左のこめかみと右の臀部を負傷した退役軍人もいた。この不幸な男もまた私と同じく、夏の時間を文学の仕事に捧げようとしていた。「軍人回想記」を書いているのだった。彼もまた私と同じように毎朝貴重な仕事にかかるのだが、「余は××××年に生まれ」と書いたとたん、テラスの下にワレンカかマーシェンカが現れて、この哀れな男を捕えてしまうのだった。
軒下に座っている者は皆、鋏を持って、何やらくだらない、ジャム用の漿果の掃除をしていた。私は挨拶をして帰ろうとしたが、色とりどりの若い娘たちは騒ぎ立てて私の帽子と杖を取り上げ、留まるよう要求した。仕方なく座った。漿果の皿とヘアピンを渡され、私も掃除に加わった。
色とりどりの若い娘たちは男たちについて論じ合っていた。あの人は温和だ、この人はハンサムだが気に入らない、三番目は嫌だ、四番目も悪くないが鼻が指貫のようだ、云々、云々。
「あなたはと言えば、ムッシュー・ニコライ」とマーシェンカの母が振り向いて私に言った。「ハンサムとは言えませんが、感じがよろしいわ……それにね」と溜息をつき、「男は美貌より精神が肝心ですのよ。」
若い娘たちも溜息をつき、目を伏せた。男は美貌より精神が肝心だということに皆賛成した。私は鏡にちらりと目をやり、どんな感じの良さがあるか見てみた。ぼさぼさの頭、ぼさぼさの顎鬚と口髭、眉毛、顔中の毛、目の下の毛——まるで森のようで、その中からどっしりした鼻が塔のように突き出ている。ハンサム、と言えるのはこの程度のものだ!
「だから精神の面であなたは他の方々を凌いでいらっしゃるのよ、ニコライ」マーシェンカの母は溜息混じりに言った。心の奥の思いをさらに力づけるかのように。
マーシェンカは私とともに苦しんでいたが、向かいに自分を愛する男が座っているという意識は、たちまち大きな歓びを与えたようだった。若い娘たちは男の話を終えると恋愛の話に移った。長い議論の後、一人の娘が立ち上がって去った。残った者たちはすぐさま彼女を批評し始めた。皆は彼女が愚かで扱いにくく、とても嫌だと言い、しかも肩甲骨の位置が正しくないとまで。
ありがたいことに、母が女中を寄越して食事に呼んでくれた。これでこの居心地の悪い集まりを抜け出し、論文の続きに取りかかれる。立ち上がって一礼した。マーシェンカの母、マーシェンカ本人、そして色とりどりの若い娘たち全員が私を取り囲み、帰る権利はないと言った。昨日彼女たちに金言の約束をしたではないか、一緒に昼食をとり、その後森へ茸採りに行くと。一礼してまた座った……心の中は憎悪で沸き立ち、もはや耐えられず今にも爆発しそうだったが、礼儀と騒ぎを起こすまいとの気兼ねが、婦人たちに従わせた。私は従った。
食卓についた。こめかみを負傷した軍人は、傷で顎が引きつり、口に馬銜を咥えたような食べ方をしていた。私はパンで団子を作り、犬税のことを思いながら、自分の短気な性格に用心して、口を開かぬようにした。マーシェンカは万分の同情をもって私を見つめた。出てきたのは冷たい酸キャベツスープ、グリーンピースの牛タン、ゆで卵、砂糖漬けの果物だった。食べたくなかったが、礼儀として食べた。食後、一人で軒下に立ち煙草を吸っていると、マーシェンカの母が駆けてきて、私の手を握り、息を切らせて言った。
「でもね、絶望しないでちょうだい、ニコライ……あの子はとても感じやすい性格なのですよ……とても感じやすいの!」
私たちは森へ茸採りに出かけた……マーシェンカは私の腕にぶら下がり、半身にぴったりと吸い付いた。まったく苦痛の極みだったが、我慢した。
森に着いた。
「お聞きなさい、ムッシュー・ニコライ」マーシェンカは溜息をついて口を開いた。「どうしてそんなに悲しそうなの?どうして黙っていらっしゃるの?」
まったく奇妙な娘だ。彼女と何を話すことがあろう?どこに共通点があるというのか?
「何かお話しになってくださいな……」と彼女はせがんだ。
私は彼女にすぐわかる、ごく当たり前の話題を懸命に考えた。しばらく考えてから、こう言った。
「森林の伐採は、ロシアに甚大な損害を与えるものです……」
「ニコライ!」マーシェンカは溜息をつき、鼻が赤くなった。「ニコライ、あなたは率直におっしゃることを避けていらっしゃるのね……沈黙でわたくしを罰しようとなさっている……あなたの想いに応えが得られないから、お一人で苦しみも語らずにいらっしゃるのね……恐ろしいことですわ。ニコライ!」と大声で言い、不意に私の手をつかんだ。鼻がまた膨らんできたのが見えた。「もしあなたの愛するお嬢さんが、永遠の友情を差し出したら、あなたはどうお答えになります?」
私は要領を得ぬことを口ごもった。実のところ何を言えばいいかわからなかった……どうかお知りいただきたい。第一に、私はこの世の中で誰一人娘を愛してはいない。第二に、この永遠の友情を貰って何になるのか。第三に、私は大変な短気者なのだ。マーシェンカかワレンカは両手で顔を覆い、独り言のように低い声で言った。
「あの方は何もおっしゃらない……明らかに犠牲を求めていらっしゃるのだわ……でも、もしわたくしがずっと別の方を愛しているなら、この方を愛せないのは当然ですもの!それに……考えさせてくださいな……よろしい、考えてみますわ……魂の全ての力を集めて、おそらくは自分の幸福を犠牲にして、この方を苦悩から救い出しましょう!」
私にはわからなかった。これは一種のカバラだ。また歩き出し、茸を採った。長い沈黙が続いた。マーシェンカの顔には内なる葛藤が表れていた。犬の吠え声が聞こえた。論文を思い出し、大きく溜息をついた。木の幹の間に負傷した軍人の姿が見えた。この上なく哀れな男は、左に負傷した臀部、右に色とりどりの若い娘をぶら下げて、痛ましく蹩いていた。その顔には運命への屈服が表れていた。
森から別荘に戻ると茶を飲んだ。それからクロッケーをし、色とりどりの若い娘の一人が歌うのを聴いた。「いいえ、あなたは私を愛していない、いいえ、いいえ!」「いいえ」のところで彼女は口を耳のそばまで歪めた。
「シャルマン!」他の娘たちは呻くように言った。「シャルマン!」
夕暮れになった。木立の向こうに忌々しい月が現れた。空気は静かで、刈りたての干し草が不快な匂いを放っていた。帽子を取って帰ろうとした。
「ちょっとお話がありますの」とマーシェンカが意味ありげに囁いた。「行かないでくださいな。」
何やら不穏な予感がした。だが礼儀のために残った。マーシェンカは私の腕を取り、並木道を歩いた。今や全身に葛藤が現れていた。蒼白で呼吸が苦しそうで、右腕をもぎ取らんばかりの勢いだった。一体どうしたのだ?
「お聞きなさい……」と低い声で言った。「いいえ、だめ……だめですわ……」
まだ何か言おうとしたが、決心がつかないのだった。しかし顔を見ると、ついに決意したことがわかった。光る目と膨らんだ鼻で、不意に私の手をつかみ、早口に言った。
「ニコライ、わたくしはあなたのものです!あなたを愛することはできませんが、忠実であることを誓います!」
そして私の胸に寄り添い、また突然跳び離れた。
「誰か来ましたわ……」と囁いた。「さようなら……明日の朝十一時に、庭のあずまやで……さようなら!」
彼女は消えた。私は訳がわからず、心臓を高鳴らせて帰宅した。「犬税の過去と未来」が待っていたが、もう仕事ができなかった。猛り狂った。いや、まったく恐ろしかったと言ってよい。何ということだ、私を乳臭い小僧扱いするとは、我慢ならん!私は短気者だ、私をからかうのは危険だ!女中が夕食を知らせに来た時、「出て行け!」と怒鳴った。この短気な性分は、人に大きな恩恵をもたらすものではない。
翌朝。まさに避暑地の天候だった——気温は零度以下、骨まで凍みる寒風、雨、泥、樟脳の臭い。母がトランクから冬のコートを取り出していた。悪魔のような朝だった。一八八七年八月七日、かの有名な日食が出現した日である。なお付け加えるべきは、日食の際には天文学者でなくとも大いに役立つことができるということだ。誰にでもできることは——一、太陽と月の直径の測定、二、コロナの描写、三、温度の測定、四、日食時の動植物の観察、五、自己の感覚の記録、等々。これらはすべて極めて重要な事項であり、私も「犬税の過去と未来」を脇に置いて日食の観測に臨むことにした。皆朝早く起きた。当面の作業を次のように分担した。太陽と月の直径は私が測定し、コロナは負傷軍人が描き、マーシェンカと色とりどりの若い娘たちがその他一切を担当する。そして全員集合して待機した。
「日食はどうして起こるのですか?」マーシェンカが訊ねた。
私は答えた。「月が黄道面を通過し、太陽と月の中心点を結ぶ線上に来た時、日食が成立するのです。」
「黄道とは何ですか?」
私はそれを説明した。マーシェンカは注意深く聞き、それから尋ねた。
「磨りガラスを通して、太陽と月の中心点を結ぶ線を見ることはできますか?」
それは想像上の線だと答えた。
「想像上のものに過ぎないなら」とマーシェンカは驚いて言った。「月はどうやってその位置を見つけるのですか?」
私は答えなかった。この天真爛漫な質問には心底肝を潰したのだ。
「みんな馬鹿げた話よ」とマーシェンカの母が言った。「後のことなど人間にわかるものですか。あなたも天には昇ったことがないでしょう。太陽と月に何が起きているか、どうしてわかるのですか?空想に過ぎませんわ!」
だが、黒い斑点が太陽の上を走り始めた。到る所が混乱した。牝牛、羊、馬が尾を立てて怯えて叫び、野原を駆け回った。犬が吠えた。南京虫は夜が来たと思い、隙間から這い出して眠っている人を噛みに来た。ちょうど胡瓜を運んでいた助祭は車から飛び降りて橋の下に隠れ、馬は車を他人の庭に引き入れ、胡瓜は豚に食べられてしまった。ある税務官——自宅ではなく避暑客の女のもとで泊まっていた——肌着一枚で家から飛び出し、群衆の中に駆け込んで叫んだ。「逃げろ!諸君!」
多くの避暑客の夫人たち——若くて美しい女たちが騒ぎに起こされ、靴も履かずに通りへ飛び出してきた。他にもさまざまなことがあったが、とても繰り返す勇気がない。
「ああ、なんて恐ろしい!」色とりどりの若い娘たちが叫んだ。「ああ、なんて恐ろしい!」
「メダム、観測を!」と私は叫んだ。「時間が惜しい!」
私自身は急いで直径を測定し始めた……コロナを思い出して負傷軍人を目で探すと、彼は立っているだけで何もしていなかった。
「どうしたのです?」と大声で言った。「コロナは?」
彼は肩をすくめ、どうにもならぬという目で自分の腕を示した。この上なく哀れな男の両腕には、若い娘が一人ずつしがみついていた。恐怖のあまり体を密着させ、仕事をさせないのだ。私は鉛筆を取り、毎秒の時刻を記録した。これは重要だ。観測地点の地理的状況も記録した。これも重要だ。さて直径を確定しようとした時、マーシェンカが私の手を握って言った。
「忘れないでくださいね、今日の十一時ですよ!」
私は手を引き抜き、一秒たりとも無駄にすまいと観測を続けようとしたが、マーシェンカは震えながら私の腕にぶら下がり、半身にぴったり寄り添った。鉛筆、ガラス、図面——すべてが草の中に転がり落ちた。何ということだ!私は短気者だ、一度怒り出したら自分でも始末がつかない、この娘もいい加減にわかってくれるだろう。
なおも続けようとしたが、日食はすでに終わっていた。
「わたくしを見てくださいな!」と彼女は甘い声で囁いた。
ああ、これはもう愚弄の極みだ!男の忍耐でこのような悪ふざけをすれば、悪い結果しか生まないことを知るべきだ。何か恐ろしいことが起きても、私を咎めるな!私を愚弄することは許さぬ、本当に何ということだ、私が怒り出したら誰も近づくな!私は何でもしかねないのだ!
若い娘の一人が、おそらく私の顔から怒りの兆しを読み取ったのだろう、慰めるつもりで言った。
「ニコライ・アンドレーエヴィチ、ご依頼の件は済みました。哺乳動物を観察しましたわ。日食の前に灰色の犬が猫を追いかけ、それから長い間尾を振っているのを見ましたの。」
こうして日食からは何一つ得られなかった。帰宅した。雨が降っていたのでテラスでの仕事はやめた。だが負傷軍人はテラスへ出る勇気を見せ、「余は××××年に生まれ」と書き始めたが、やがて窓から覗くと、若い娘が彼を別荘へ引きずって行くのが見えた。論文は書けなかった。まだ怒りが収まらず、動悸がしていたからだ。庭のあずまやには行かなかった。礼を失することではあるが、雨が降っており、本当に行けなかった。正午、マーシェンカから手紙が届いた。非難と懇願が書かれ、あずまやへ来るよう求め、しかも「きみ」と書いてあった。一時に二通目、二時に三通目……行かざるを得なかった。だがその前に、何を話すか考えねばならなかった。紳士らしく振る舞わねば。第一に、私が彼女を愛していると思い込んでいるのは全く根拠がないと伝えねば。だが、そのような言葉は令嬢に対して使うものではない。令嬢に「あなたを愛していません」と言うのは、作家に「あなたには書く才能がない」と言うのと同じだ。むしろマーシェンカに私の結婚観について話した方がよいだろう。冬のコートを着て傘を持ち、あずまやへ向かった。自分の短気な性分をよく知っているので、余計なことを言い過ぎないよう気をつけねば。自制に努めねばならぬ。
あずまやで待っていた。マーシェンカは青ざめ、泣き腫らした目をしていた。私を見るなり喜んで叫び、首に抱きついて言った。
「やっと!あなたはわたくしの忍耐力で遊んでいらっしゃるのね。聞いて、一晩中眠れませんでしたの……ずっと考えていました。わたくし、あなたともっと親しくなれば……愛するようになると思いますの……」
私は座り、結婚観を述べ始めた。散漫にならぬよう簡潔に、史的概観から始めた。インド人とエジプト人の結婚について述べ、それから近代に至り、ショーペンハウアーの思想の一二についても説明した。マーシェンカは注意深く聞いていたが、突然、あらゆる論理に反して、話を遮らねばならぬと感じたらしい。
「ニコライ、接吻してくださいな!」と彼女は言った。
私は大いに狼狽し、何を言えばよいかもわからなかった。だが彼女は要求を繰り返す。仕方なく立ち上がり、彼女の面長の顔に唇を触れた。その感触は、子どもの頃、追悼式で死んだ祖母に接吻を強いられた時と同じだった。だがマーシェンカはその接吻に満足せず、跳び上がって必死に抱きしめた。この瞬間、あずまやの入り口にマーシェンカの母が現れた。驚いた顔で誰かに「しっ!」と言い、メフィストフェレスのように消えた。
私は茫然として、腹立たしく帰宅した。家にはマーシェンカの母がいて、涙ながらに私の母を抱いていた。母はちょうど涙を流しながらこう言っていた。
「わたくしもまさにそう望んでおりましたの!」
そして——どう思われるか?……マーシェンカの母は私のところへ来て、抱きしめて言った。
「神があなたたちを祝福なさいますように!彼女をよく愛してちょうだいね……忘れないで、彼女はあなたのために犠牲を払ったのですよ……」
かくして私は結婚することになった。今これを書いている時も、介添人が目の前に立って急かしている。この人たちも私の性格をわかっていない。私は短気者で、自分でも始末がつかぬのだ!何ということだ、この後どうなるか、見ていればよい!短気者を結婚式の祭壇に引きずって行くのは、猛虎の檻に手を突っ込むようなものだ。見ていろ、見ていろ、どうなることか!
…………
こうして私は結婚してしまった。皆が祝い、マーシェンカは始終まつわりついて言うのだった。
「わかってちょうだい、あなたはもうわたくしのものなのよ!言って、わたくしを愛していると!言って!」
そして彼女の鼻が膨らむのだった。
介添人から、負傷した軍人が非常に巧みな方法で婚約から逃れたことを聞いた。医師の診断書を色とりどりの若い娘に見せたのだ。こめかみの傷のために精神にいささかの異常があり、法律上結婚が許されないと書いてあった。うまいことを思いつくものだ!私にもそのような証拠書類を出せたはずだ。叔父の一人は酒飲みで、もう一人の叔父は途方もない馬鹿者だった(一度、自分の帽子と間違えて婦人のショールを被ったことがある)、叔母の一人はオルガン狂いで、男に会うたびに舌を出した。それに加えて私の極度に短気な性格——実に怪しげな症状ではないか。だが、この名案はなぜこんなに遅く思いついたのだろう?ああ、なぜなのだ?
(一八八七年作)
第181節
【前記】
ロシアの文学は、ニコラス二世の時代以来、「人生のため」のものであった。その主旨が探究にあれ、解決にあれ、あるいは神秘に堕ち、頽唐に沈もうとも、その主流はやはり一つ——人生のためであった。
この思想は、およそ二十年前、中国の一部の文芸紹介者と合流した。ドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフ、トルストイの名が次第に文章上に現れ、彼らの作品もいくつか翻訳された。当時、上海の「文学研究会」が組織して「被圧迫民族の文学」を紹介していたが、彼らをも被圧迫者のために叫ぶ作家として数えていた。
これらすべては、プロレタリア文学からはまだ遠いものであったから、紹介された作品も自ずと大半は叫び、呻き、困窮、辛酸であり、せいぜいわずかな足掻きに過ぎなかった。
しかし、これだけでもう一部の人々を大いに不愉快にさせ、二方面からの軍勢による討伐を招いた。「創造社」は「芸術のための芸術」の大旗を掲げ、「自我表現」のスローガンを叫び、ペルシャ詩人の酒杯と「黄書」文士の杖をもって、この「俗物」どもを叩き潰そうとした。もう一方は、イギリスの小説は紳士淑女の鑑賞に供し、アメリカの小説家は読者の心に迎合するといった「文芸理論」の洗礼を受けて帰国した者たちで、下層社会の叫びや呻きを耳にするや眉を寄せ、白い手袋をはめた繊手を振り上げて斥けた。「この下賤な者どもは『芸術の宮殿』から出て行け!」
しかも中国にはもともと全国に蔓延する旧式の軍勢がいた。すなわち小説を「閑書」と見なす人々である。小説は「読者諸君」が茶余酒後の消閑に供するものであるから、優雅で超逸でなければならず、決して読者を不快にさせ、消閑の雅興を断ってはならない。この説は古いが、英米で流行の小説論と合流し、こうしてこの新旧三方面の大軍が、期せずして「人生のための文学」——ロシア文学を痛撃することになったのである。
それでもなお共鳴する人々は少なくなく、ロシア文学は中国において依然として紆余曲折しながら生長し続けた。
だが本国では、突如として凋落してしまった。それ以前にも、多くの作家が転変を企望していたが、十月革命の到来は彼らに意外な大打撃を与えた。かくしてメレジコフスキー夫妻、クプリン、ブーニン、アンドレーエフらの亡命、アルツィバーシェフ、ソログープらの沈黙があり、なお活動を続ける旧作家は、ブリューソフ、ヴェレサーエフ、ゴーリキー、マヤコフスキーの数名を残すのみとなった。後にアレクセイ・トルストイが帰国した。そのほかには格別に新興の人物もなく、国内戦争と列強の封鎖の中にある文壇は、萎縮と荒涼を見せるばかりであった。
一九二〇年頃、新経済政策が実施され、製紙・印刷・出版等の事業が勃興して文芸の復活を助けた。この時期の最も重要な枢軸となったのは、「セラピオン兄弟」なる文学団体であった。
この一派の出現は、表面上は一九二一年二月一日、レニングラードの「芸術の家」における第一回集会に始まる。加盟者は大抵若い文人で、その立場は一切の立場の否定にあった。シュクシェンコはかつてこう述べた。「党員の観点からすれば、私は主義のない人物だ。それでいいではないか。自ら言えば、私は共産主義者でもなく、社会革命党員でもなく、帝制主義者でもない。私はただ一人のロシア人であり、政治には定見がない。おそらく私に最も近いのはボリシェヴィキで、彼らとともにボリシェヴィキ化することには賛成だ……だが私は農民のロシアを愛する。」これは彼らの立場を極めて明白に語ったものである。
しかし当時、この文学団体の出現は確かに一つの驚きであり、間もなくほぼ全国の文壇を席巻した。ソ連においてこのような非ソヴィエト的文学が勃興したことは、大いに不思議なことであった。だが理由は簡単である。当時の革命家は実行に忙しく、これらの青年文人だけが比較的優れた作品を発表したことがその一。彼らは革命家ではなかったが、鉄と火の試練を身をもって経験し、それゆえ描かれた恐怖と戦慄、興奮と感激は、読者の共鳴を得やすかったことがその二。その三は、当時文学界を指揮していたヴォロンスキーが大いに彼らを支持したことである。トロツキーも支持者の一人で、彼らを「同伴者」と呼んだ。「同伴者」とは、革命に含まれる英雄主義ゆえに革命を受け入れ、ともに前進するが、革命のために徹底的に闘い、死をも辞さないという信念を持たず、ただ一時の同道の伴侶に過ぎないという意味である。この名称はその時以来、現在まで使われ続けている。
しかし、ただ「文学を愛する」と言うだけで明確なイデオロギーの旗印を持たない「セラピオン兄弟」も、ついに次第に団体としての存在意義を失い、瓦解し始め、やがて消滅し、後には他の「同伴者」たちと同様、各人がその才能によって文学上の評価を受けることとなった。
四五年前、中国では再び盛大にソ連文学を紹介したが、やはり「同伴者」の作品が多かった。これも不思議ではない。一つには、この種の文学は勃興が比較的早く、西欧や日本で大いに賞賛・紹介されたため、中国にも重訳の機会が少なからず与えられたこと。二つには、おそらくこの立場なき立場こそが、かえって紹介者の賞賛を得やすかったためであろう——紹介者自身は「革命文学者」を自任しているにもかかわらず。
私はかねてより東欧文学を紹介しようとしてきた一人であり、「同伴者」の作品もいくつか訳したことがある。今ここに十人の短篇を一集にまとめた。うち三篇は他の人の翻訳であるが、信頼に足ると確信している。惜しむらくは篇幅の制限があり、有名な作家を全て収めてこの書をより完全なものとすることができなかったが、曹靖華氏の『煙管』と『四十一』がこの欠陥を補い得ると信じている。
各作者の略伝と各篇の翻訳または重訳の出典については、すべて巻末の「後記」に記したので、読者に興味があれば、自ら繙いていただきたい。
一九三二年九月九日、魯迅、上海にて記す。
第182節
【〔附〕】
【老鼠】
M・ゾーシチェンコ 作 柔石 訳
飛行機建造の募金は順調に進んでいた。
書記の一人に、かつて二度気球を操縦したことのある航空の古参がおり、自ら責任を負って各部署を遊説して回った。
「同志諸君、新時代はもう目の前です」とこの「専門家」は言った。「あらゆる建設に飛行機が空中連絡として必要なのです……ああ、だからこそ……諸君が金を出すべき理由なのです……」
雇員たちは皆、快く寄付した。誰一人この専門家と議論する者はいなかった。ただ会計課だけで、この専門家は一人の頑固な人物に出くわした。その頑固者とはダデウーギンという帳簿係であった。
ダデウーギンは皮肉な笑みを浮かべた。
「飛行機を造るのかね?ふん……どんな飛行機だ?なぜ俺が飛行機に金を捨てなきゃならん?俺はな、友よ、老鼠なんだ。」
専門家は激昂した。「どんな飛行機かって?そりゃ飛行機だ、普通の飛行機だよ。」
「普通の飛行機か」とダデウーギンは苦笑して叫んだ。「だがもし出来が悪かったらどうする?初飛行で風に吹き飛ばされたら、俺の金はどこへ行くんだ?なんで俺がそんな馬鹿なことをして、一か八かの賭けに金を注ぎ込まなきゃならん?女房にミシンを買うなら、自分の指で歯車の一つ一つを触って確かめられる……だが今、俺に何ができる?推進機はたぶん動かんだろう。どうするんだ?」
「失礼」と専門家は叫んだ。「大きな工場で建造するのだ!工場で!工場だよ!」
「工場がどうした?」ダデウーギンは嘲って叫んだ。「俺は気球を操縦したことはないが、老鼠だから一つ二つのことは知っている。よその工場に儲けさせるなど無意味だ……おお、がっかりして手を振るな、金は払うさ。俺はけちじゃない……さっきは公正な処置を求めただけだ。金はここにある。……密舒力登の分も立て替えておこう、あいつは休暇中だからな。……失礼。」
ダデウーギンは財布を取り出し、当時の相場で金一ルーブル分の金を数え、自分の分とし、続いて密舒力登の分として四分の一ルーブルを払い、署名し、もう一度金を数え直して、この専門家に渡した。
「金はここだ……俺の唯一の条件は、工場へ行って、この仕事がどう進んでいるか自分の目で確かめることを許してくれることだ。このことわざを知っているだろう。自分の目だけがダイヤモンドで、他人の目はガラスに過ぎない。」
ダデウーギンはしばらく独り言を言い、それから向き直って算盤に向かった。だが気持ちが乱れていて仕事ができなかった。
その後二ヶ月の間、彼はずっと仕事が手につかなかった。あちこちでこの専門家を影のようにつけ回し、廊下で捕まえては、募金の具合を尋ね、一人いくら出したのか、飛行機はどこで建造されるのかと問いただした。
必要な金が集まり、飛行機の建造が始まると、ダデウーギンは嘲笑的な表情で工場にやってきた。
「やあ、兄弟たち、仕事の具合はどうだい?」と彼は工員たちに尋ねた。
「何しに来たんだ?」と技師が尋ねた。
「何しにだって?」ダデウーギンは驚いて叫んだ。「俺は飛行機を造るために金を出したんだ、しかもあの人に招かれたんだ……君たちは俺たちのために飛行機を造っているんだろう……ちょっと見に来たんだ。」
ダデウーギンはあちこち歩き回り、さまざまな材料を調べ、いくつかの材料は歯で噛んでみさえした。
彼は首を振った。
「見てくれ、兄弟たち」と工員たちに言った。「君たちは俺たちのためにこれを造っているんだが、見ろ、営利事業のつもりでやっているじゃないか……俺は君たちを知っている……大した狡猾者だ。完成した時に推進機が動かない、そうなるのが目に見えるぞ。俺は老鼠だから知っているのだ。許してくれ。俺には関係があるんだ。」
帳簿係ダデウーギンはまた工場中をぶらぶら歩き、次回の訪問を約束して出て行った。
その後、彼は毎日この工場に来るようになった。時には一日に二度来ることもあった。批評し、非難した。材料の交換を強要し、時には事務室に入って図面を閲覧した。
「まったく不思議だ」とある日、技師が自分の温和さに抑えられながら言った。「まったく不思議だ……ああ、何と言えばいいか……もちろんご意向に沿うようにいたしますが、心配はご無用です……ただ、できれば勝手にここへ来ないでいただきたい……さもなくば、この仕事をお断りせざるを得なくなります……代表としてお越しなら、おわかりでしょう。」
「何だと、代表だと?」ダデウーギンは尋ねた。「俺がどうして代表なんだ?それも造り上げたのか。俺は個人の資格で来ているんだ。俺はこの飛行機に金を注ぎ込んでいるんだぞ……」
「代表じゃないのか?」技師は鋭い声で叫んだ。「何だ——注ぎ込んだって何だ?」
「俺がいくら出したかって?ああ、金一ルーブルだ。」
「一ルーブル、何だと、一ルーブルだって?」技師は嫌悪を込めて尋ねた。
彼は机の引き出しを開け、金をダデウーギンに投げ返した。
「畜生め、金はここだ、ここだ……」
ダデウーギンは両肩をすくめた。
「お好きにどうぞ」と彼は言った。「要らないなら、要らないでいい。俺は固執しない。別のところに使えるさ。俺は老鼠だ。」
ダデウーギンは金を数え、ポケットに入れて出て行った。それからまた駆け戻ってきた。
「密舒力登の金はどうなった?」と彼は尋ねた。
「密舒力登の金だと?」技師は怒鳴った。「密舒力登の金だと?この老
鼠め!」
ダデウーギンはびっくりして、急いでドアを閉め、通りへ駆け出した。
「金がなくなった」と彼は呟いた。「あのごろつきが四分の一をちょろまかしやがった……技師がそいつらの上で……」
第183節
【砂漠の上にて】
L・ルンツ
【一】
夜は、野営の周囲に火を焚き、天幕の中で眠った。朝になると——飢えた獰猛な人々が、またひたすら前へと歩み続けた。その数は甚だ多い。曠野の砂に等しいヤコブの裔——無限のイスラエルの民を、どうして数え尽くせようか。しかも各人がそれぞれの家畜、子供、女を連れていた。暑さは恐ろしかった。昼は夜よりもなお恐ろしい。なぜかといえば、昼には燦々と金色の滑らかな光が溢れ、絶え間ない光輝は、かえって夜の闇よりも暗く感じられるからであった。
恐ろしく、そして退屈だった。ほかにすることは何もない——ただ歩くだけだ。火に灼かれるような倦怠と飢えと虚しい憂愁に堪えかね、太い指の毛深い手に何かさせようと、互いに家具を盗み、皮革を盗み、女を盗み、そしてまた盗人を殺し合った。さらにそこから復讐が生まれ、盗人を殺した者を殺した。水はなかったが、血は多く流れた。目指す彼方には、乳と蜜の流れる国土が横たわっていた。
逃げ場は絶無だった。落伍した者はただ死ぬのみ。イスラエルの民は、ひたすら前へ前へと這い登っていった。後ろからは砂漠の獣が這い、前からは時が這っていた。
魂はもはやなかった。太陽に殺されたのだ。残っているのは、黒い日傘のように張り出した頑健な身体、食い飲みする髭だらけの顔、歩くことしか知らない足、殺し、肉を切り、寝床で女を抱く手ばかりだった。イスラエルの民の上には、大悲にして忍苦、公正にして慈悲深い真の神が立っていた——イスラエルの民と同じく、黒く髭深い神、復讐者にして殺戮者。この神とイスラエルの民との間には、蒼穹の、髭のない、滑らかな、しかし恐ろしい虚空と、聖霊に憑かれたモーセ——彼らの指導者——が挟まっていた。
【二】
第六日の夕べには、必ず角笛が吹き鳴らされた。するとイスラエルの民は集会の幕屋(ユダヤの神殿)へ向かい、麻糸と雑色の毛縄で織り上げた大きな天幕の前に群集した。祭壇の傍らには、黒く髭深い祭司長アロンが立ち、高貴な肩衣を纏って——叫び、泣いていた。その周囲には子や孫、黒い顔の髭深い親族レビ族が、紫と赤の衣を着て——叫び、泣いていた。山羊の皮衣を纏った黒く髭深いイスラエルの民は——飢え、怯えながらも、叫び、泣いた。
その後は裁きであった。高い壇上に、聖霊に憑かれたモーセが上がった。神と語り合い、イスラエルの言葉では話すことができぬ者。高壇の上で、その身体はぐるぐると回転し、口からは白い泡を噴いた。そしてこの白い泡とともに、何とも名状しがたい、しかし恐ろしい声を発した。イスラエルの民は恐怖に震え、泣き叫んだ。そして跪いて赦しを求めた。罪ある者も懺悔し、罪なき者も懺悔した。恐ろしかったからだ。懺悔を終えた者は石で打たれた。そしてまた乳と蜜の噴き流れる地へ向かって、ひたすら前進した。
【三】
角笛が鳴り響いた時——
——金、銀、銅、青紫赤などの毛縄、麻糸、山羊の毛、赤く染めた牡羊の皮、穴熊の皮、合歓の木、膏油や芳香の類の香料、宝石——
——これらの物を、イスラエルの民は手に携えて、角笛の鳴る幕屋へ走った。するとアロンと、その子・孫、そして親族のレビ族が、これらの貢物を収め取った。
金も、紫の織物も、宝石も持たぬ者は、盆、皿、碗、灌奠用の水瓶、最上の香油、最上の葡萄とパン——酵母を入れたパンと入れないパン——と香油を塗った菓子、羊、子牛、子羊を携えて行った。
香油も、葡萄も、家畜も、器具も持たぬ者は——殺されるべきであった。
【四】
もはや歩く力もなくなった時、砂が足の裏を灼き太陽が背を炙った時、驢馬や馬の肉を食い尿を飲まねばならなくなった時——その時、イスラエルの民はモーセのもとへ行き、泣いて脅した——
「一体誰が我々に肉を食わせ、水を飲ませてくれるのか?我々はエジプトで食べた魚を覚えている。胡瓜も、甜瓜も、葱も、韮も、大蒜も覚えている。お前は我々をどこへ連れて行こうとするのか?乳と蜜の流れる国土は、一体どこにあるのか?我々を導くというお前の神は、一体どこにいるのか?我々はもうこんな神を恐れたくない。エジプトへ帰るぞ。」
イスラエルの民の指導者、聖霊に憑かれたモーセは、壇上でぐるぐると回った。その口からは白い泡が噴き出し、何とも名状しがたい、しかし恐ろしい言葉が漏れた。兄アロンは紫と赤の衣を纏い、傍らに立って威嚇するように大声で叫んだ。「不平を吐く者を殺せ!」すると不平を吐いた者は殺された。
しかし、イスラエルの民がなおも不平を唱え、「我々をエジプトの地から連れ出しただけでは足りず、この曠野で殺そうとするのか?乳と蜜の流れる国土に連れて行かなかったではないか?葡萄園も田地も分けてくれなかったではないか?もう行かぬぞ、行かぬ、行かぬ!」と叫ぶなら——その時、アロンは親族のレビ族に言った。「剣を抜き、民の中を通り抜けよ!」するとレビ族の者たちは剣を抜き、民の中を通り、路上に立つ者はことごとく殺された。イスラエルの民は泣き叫んだ。なぜかといえば、モーセは神と語り、レビ族は剣を持っていたからだ。
こうしてまた野営を離れ、乳と蜜の流れる地へ向かって前進した。こうして歳月はイスラエルの民のようにゆっくりと這い、イスラエルの民は歳月のようにゆっくりと這い続けた。
【五】
途中もし他の種族や民族に出くわせば、その種族と民族を殺した。まったく野獣のように、貪婪に引き裂いた。引き裂いてはまた前進した。後ろからは砂漠の獣が這ってきて、イスラエルの民と同じように、貪婪に殺された民族の残骸を喰い漁った。
エドム族、モアブ族、バシャン族、アモリ族等は、砂礫の中に蹂躙された。祭卓は毀され、祭壇は崩され、聖なる木は伐り倒された。生き残る者は一人もいなかった。財宝、家畜、女はことごとく掠奪された。女は夜には弄ばれ、朝になると殺された。孕んでいる者は腹を裂かれ、胎児を引き出された。女は朝まで置かれ、朝になると殺された。家財であれ、家畜であれ、女であれ、最も良いものはすべてレビ族のものとなった。
【六】
歳月はイスラエルの民のようにゆっくりと這った。飢えと渇きと恐怖と怒りは、歳月とイスラエルの民のように、ゆっくりと這い続けた。角笛が鳴っても、幕屋へ持っていくものはもうなかった。イスラエルの民は自分たちの家畜を殺し、アロンとその親族レビ族のもとへ送った。手ぶらで来た者は——殺された。イスラエルの民は次第にモーセのもとへ行っては叫び、不平を訴えるようになった。だがレビ族の者たちはますます頻繁に剣を抜き、民の間を通り抜けた。こうして、子供たちも、歳月も、恐怖も、飢えも、みな成長していった。
【七】
かつてこのようなことがあった。イスラエルの民がミデアン人に出くわし、大激戦となった。アロンの子エレアザルの子ピネハスが、イスラエルの軍隊を率いて前進した。聖器と鐘鼓が彼の手にあった。イスラエル軍はついに勝利した。勝って思うさま暴虐を振るった。後には家畜と女を分け取った。最上の畜群と最も美しい女は、祭司長の孫ピネハスのものとなった。
しかし翌朝のことであった。ピネハスは思うさま女を弄び、いよいよ殺そうとして剣を握った。だが女は赤裸のまま横たわっていた。ピネハスはどうしても殺すことができなかった。天幕を出て奴隷を呼び、剣を渡してこう言った。「天幕に入って、女を殺せ!」奴隷は「はい、女を殺してまいります」と言い、天幕に入った。しばらく経った。ピネハスはまた別の奴隷に言った。「天幕に入って、女と女と寝ている奴を殺せ。」同じことを第三、第四、第五の奴隷にも言った。彼らは皆「はい、はい」と言って天幕に入った。しばらく経ったが、天幕から出てきた者は一人もいなかった。ピネハスが天幕に入ってみると、奴隷たちは殺されて床に倒れており、最後に入った者が女と寝ていた。ピネハスは剣を取り、奴隷を殺し、女も殺そうとした。だが女は赤裸のまま横たわっていた。ピネハスは殺すことができず、外へ出た。そして幕屋の入口に横たわった。
【八】
かくしてイスラエルの民の間に、恐ろしい狂気の発作と淫蕩が始まった。ほかでもない、女がひとたび床に横たわると、イスラエルの男たちは天幕の入口で交戦し、勝者が彼女と寝るのだった。そして天幕の外に出ると、またたく間に別の者に殺された。
日々はこうして過ぎた。昼の後に闇が来、闇の後に昼が来、昼の後にまた闇が来た。パンはなくなった、だが誰も不平を言わなかった。水もなくなった、だが誰も渇きを訴えなかった。
第六日の夕べ、角笛は吹き鳴らされなかった。イスラエルの民は幕屋へは向かわず、エレアザルの子ピネハスの天幕のそばに集まった。だがピネハスは天幕の入口に横たわっていた。
第七日の安息日も過ぎた。だがイスラエルの民は神殿にも行かず、貢物も持ってこなかった。レビ族の者たちが女を殺しに来たが、彼らもまた互いに殺し合い始め、勝者は女と寝た。
聖霊に憑かれたモーセは壇上でぐるぐる回り、白泡を噴き、呪詛を吐いた。だが誰も聞かなかった。
エレアザルの子ピネハスは天幕の入口に横たわっていた。だが誰も彼を見なかった。
イスラエルの一行は、もはや乳と蜜の流れる国土へ進む気がなく、一箇所にしっかりと留まった。後ろから這ってきた砂漠の獣も立ち止まった。時もまた止まった。
【九】
十日目のことである。女がついに天幕から出て、赤裸のまま陣営の間を歩き始めた。イスラエルの民は砂の上を這いながらその後を追い、彼女の足跡に接吻した。すると女は言った。「あの祭卓を壊し、ペオルの主のために祭壇を築きなさい。これが真の神なのだから。」イスラエルの民は自らの神の祭卓を壊し、ペオルの主のために祭壇を築いた。女は幕屋の方へ歩いた。だが幕屋の入口にはエレアザルの子ピネハスが横たわっていた。女も決然と天幕に入ることができず、こう言った。「なぜ曠野の犬のように、こんな所に横たわっているの?自分の天幕に戻って、私と一緒に寝なさい。」またこう言った。「みんなでこの男を打ちなさい。」するとシメオン族の首領ザルの子ジムリが前に出て、ピネハスを足で蹴った。女は天幕に入った。ザルの子ジムリもその後に続いた。
その晩のことである。エレアザルの子ピネハスは立ち上がり、自分の天幕へ向かった。女と寝るためであった。イスラエルの民はピネハスが来るのを見て、皆前に道を開けた。ピネハスは天幕に入った——手には一本の槍があった。見ると、女は赤裸のまま床に横たわり、その上にザルの子ジムリが、これも赤裸で伏していた。エレアザルの子ピネハスは、その尻の上から槍を突き下ろした。槍は腹を貫いて女の腹を突き通し、床に突き立った。その時、ピネハスは天幕を引き裂いた。女とザルの子ジムリが赤裸のまま床の上で串刺しにされているのを見て、イスラエルの民は大声で泣き叫んだ。祭司長アロンの子エレアザルの子ピネハスは、そこを離れ、幕屋の入口に横たわった。
【十】
翌朝のことである。もはや肉もパンも水もなかった。だが飢えと恐怖と怒りは目覚めていた。イスラエルの民は聖霊に憑かれたモーセのもとへ行き、こう言った——
「一体誰が我々に肉を食わせ、水を飲ませてくれるのか?我々はエジプトで食べた魚を覚えている。胡瓜も、甜瓜も、葱も、韮も、大蒜も覚えている。なぜお前は我々をこんな曠野に連れてきて、我々と家畜を殺そうとするのか?乳と蜜の流れる国土に連れて行かなかったではないか?もう行かぬぞ。行かぬ、行かぬ。」
すると神と語り合うモーセは、壇上でぐるぐると回り、答えとした。その口からは白い泡が噴き出し、何とも名状しがたい呪詛の言葉を発した。祭司長アロンは立ち上がり、レビ族の者たちにこう言った。「剣を抜き、陣営を通り抜けよ。」するとレビ族の者たちは剣を抜き、陣営を通り抜けた。前路に立つ者はことごとく斬り殺された。
その晩のことである。イスラエルの民はついに陣営を離れ、乳と蜜の流れる国土へ向かって這い上がっていった。前方にはゆっくりと時が這い、後方からはゆっくりと砂漠の獣と闇が這ってきた。
エレアザルの子ピネハスは最後尾を歩いた。そして歩きながら、何度も何度も振り返った。後方には、女とシメオン族の首領ザルの子ジムリが、赤裸のまま床の上で串刺しにされていた。
イスラエルの民と時と乳と蜜の流れる国土の上には——イスラエルの民と同じく、色黒く髭深い神が立っていた。復讐者にして殺戮者、大悲にして忍苦、公正にして慈悲深い、真の神が。
第184節
【果樹園】
K・フェージン
雪解けの増水は、いつも果樹園の繁花とともに訪れる。
果樹園は丘の上から始まり、緩やかに河岸まで傾斜していた。そこは柵で囲われ、丸く刈り込まれた柳が整然と植えられていた。その枝条の縷々の間から、朗然と火のように輝く方形の水田が見え、梢の向こうには一筋の光る長い帯が横たわっていた。それは河かもしれず、空かもしれず、あるいはただの空気に過ぎなかったかもしれない——つまり透明な、眩い何かであった。
河の向こうにもまた別の果樹園があり、さらにその先には第三、第四の園が連なっていた。
その向かいには、さほど深くない谷で隔てられた草原が広がっていた。雨に打たれた谷の崖辺には、タタール楓の生き生きとした、伐っても再び萌え出る萌蘖が絡みついていた。
これだけが、この小さな世界の全部であった。その後ろには荒野が続き、苦蓬と鳥羽草の叢、枯れたように見えて枯れぬ草の茂みと野菊が点在し、中庭の短い壁や生垣には旋花が蔓延していた。
白い灰塵の花紗が、この荒野の全体を覆っていた。深い轍の跡が残る道が、出鱈目に蜿蜒し、岐れて二三本あった。
今年は河水が柵の縁まで迫り、柳は水分の過多で艶やかに膏油のような新緑を輝かせ、潤いに満ちた姿を見せていた。生垣のあちこちには花が咲き、樹皮を剥がれた裸の切り株にも小枝がこんもりと生い茂っていた。黄色い波は猫が喉を鳴らすような音を立て、土の斜面に寄り添っていた。
丘全体が白花と紅花で織り成された模様の軽い絹紗に包まれていた。燦然たる太陽のように、桜の林の縁は煌めき、生垣に遮られて、厚い纓絡のように果樹園を取り囲んでいた。
葡萄は帯青の薔薇色の花を大小の枝に咲き乱れさせ、まるで茸毛のような温柔な抱擁で一切の樹木を包んでいた。その姿は、あたかも万物がひっそりと音を絶やし、春の神秘に身を委ねているかのようであった。
園は満開だった……
以前は、この季節になると決まって町からある老婦人が越してきて、別荘に住んだ。帯のように取り囲む広いテラスを持つ別荘は、ほぼ丘の頂に建っていた。屋根の上に聳える木造の望楼からは、河流、園の後ろの荒野、郊外の教会の十字架が一望できた。
その老婦人はとうに両脚が不自由で、車輪のついた安楽椅子に座り、人に押させて移動した。毎朝テラスに出て、鎮定した観察の眼差しで周囲を見渡し、一日を送るのだった。
園の主人、彼女の息子は、無口で静かな人物で、たまにしか母親を訪ねなかった。だが来る時には必ず花樹師のヒランチを連れてきた。庭園の散歩に出れば、花樹師はいつも面白い話を聞かせ、珍しい林檎の木のそばや、水仙と薔薇を植えた温床のそばや、蘭莓の畑のそばで、よく立ち止まるのだった。
主人と花樹師の親密さは、早くから深い根を下ろしていた。主人がこの果樹園の開拓に着手した時、強壮で働き者で疲れを知らない農夫ヒランチを雇い入れ、別荘から少し離れた所に堅固で広い小屋を建ててやった——それ以来のことであった。
二人は互いに敬い合っていた。二人とも多弁を好まず、物事を途中で投げ出すのを嫌ったからだ。二人とも口にしたことは実行せずにはいられなかった。しかも二人の交誼は、切実にして真誠であった。
若い果樹園がようやく形をなした頃、主従は空言を弄さず、この木からあの木へと走り回り、細い枝に疎らに咲く雪白の美花を見つめ、互いに視線を交わした。
「きっと大きく育つでしょうね?」と主人が探るように訊いた。
「育たないはずがございません。」と僕は慎重に答えた。
あの頃、二人とも若く、強健だった。そして二人とも精神をこの園に注いでいた。
園は着実に成長し、春が来るたびに力強い枝は日ごとにその幅を広げ、睦まじく伸びていった。林檎、梨、桜の根は密に絡み合って隙間なく、生きた触手をもって花樹師の生命をもその方へ引き寄せ、ともに大地に根を張った。
彼はまったく熊のような生活を送っていた。冬になると長い冬眠に入った。生垣の傍らには風に吹かれた雪が山のように積もり、人も獣も吹雪の危険もなかった。ヒランチの妻は朝から晩まで暖炉を焚いた。彼自身は座り、あるいは暖炉の上に横たわり、春の到来を待つのだった。
彼は静かに、重々しく、暖炉から食卓へと移った。まるで無言の、冷たい、受動的な、切り出されたばかりの花崗石のように。
だが芳菲の春が訪れると、花崗石もいつの間にか内部で温もりを感じ、暖気が充満すると、秋の光とともに去っていた一定の姿が、再び次第に回復してきた。
熊は園とともに目覚めた……
この春、ヒランチの心は不安に覆われた。昨年の秋、主人は別荘をすべて閉じるよう命じ、木から摘んだばかりの余剰の大林檎を売り払い、行き先も帰る時も告げず、飄然と去ってしまったのだ。
花樹師は妻や近隣の者からも、地主も商人もすでに逃げ出し、町でも村でも暴動が起きたことを知っていたが、これらの話を好まず、妻にも話すなと念を押した。
雪解けの道が乾いた頃、どこからともなく人々がやって来て果樹園に現れた。主人の名前を書いた門牌を外し、ヒランチに町へ出頭するよう命じた。
「前からそう思っていたよ——これは一体どういうことだ——門牌には旦那様の名前が掲げてあるのに、園はソヴィエトのものだというのか?」ヒランチは門牌を拾いながら、髭の中で一人苦笑して言った。
「だから書き換えるんだよ。」と町から来た男が言った。
「新しく作らなければ、こんなものは何の役にも立たん。腐った木片であって板ではない……」
ヒランチは結局町へは行かなかった。そのうち片付くだろう、何事もなくなるだろうと考えたのだ。だが何事もなくはならなかった。
花が散るとすぐ、子房は蓬々とした黒い羽毛のようなもので飾られた。しかも以前失ったものを取り戻すかのように、新葉はかつてあの桃色の面紗のような花を養った樹液を吸い、日ごとに育っていった。
とうに土を掘り返すべき時期だったが、人手がなかった。以前はこの時節になると、近隣の村から大勢の女や娘が呼ばれてきた。腰をかがめて覗き込めば、林檎の木の列の間から、短い幹の周りの土を柔らかくしている女工たちの白い脛が見え、鉄鍬がきらきらと上下し、ピンで留めた赤い裾が拍子よく動いていた。繰り返し打ち込まれる鍬に大地も喘ぎ、女たちの声はまるで幾つもの鐘の音のように、この枝からあの枝へと巡り、桜林の茂みの中へ分け入っていくのだった。
「おーい、マシュートカ!こっちへ来て、麻屑を剥いで!」
だが今は静まり返って、人の声もなかった。
太陽は日ごとに高く空に昇り、ヒランチの小屋の入口近くの地面にひび割れが走り始めた。毎晩、無風の蒸し暑い夜が続き、果樹園は灌漑を待っていた。
これは一人では到底できない仕事だった。町からは誰も来なかった。そこでヒランチは朝から夜まで両手を垂らし、触れるなと言わんばかりの悪意の顔で歩き回るほかなかった。自分の妻にも未だかつてない汚い悪罵を浴びせ、町へ行こうと決心した時には、もう少しで手が出るところだった。
彼は途中で教父に相談することにした。それは以前、煉瓦工場の番人をしていた活発で抜け目がなく、しかも能幹な田舎者だった。
刷毛と庖丁で白くなった菩提樹の卓子の前に座り、ヒランチの教父は花模様の杯で林檎茶を飲んでいた。よく磨かれていない茶沸しの竜頭がしゃあしゃあと大腹の茶碗に熱い湯を吐き出す間、彼は円滑な世辞のような口調で言った——
「まったくいい御主人方だよ。生みの母なるロシアのこの土は、きっと泣いているだろうよ!何も知らんのだから……お前はな、あのソヴィエトとかいうところへ行ってみるがいい——そうすりゃよくわかる……」
ヒランチは町から帰ると、もう夕方で、周囲は黄昏に包まれていた。黙って夕飯を食べると、部屋の真ん中に横になった——彼は夏の板の間で寝るのが好きだった。濃い樹脂の匂いがし、板の隙間から湿った冷気が吹き込んでくるからだ。
東の空がまだ白みかけた頃——妻を起こし、倉庫へ走って鍬を取りに行った。大きく膨れた袋から麻屑の一塊を引っ張り出して新しい刷毛を作る支度をし、柏油を罐にたっぷり注ぎ、袖をまくり上げて妻に言った——
「日の出の時にはしっかり礼をしなさい。神様は大慈大悲だから、良い結果になるかもしれない。」
彼は力強く大きく十字を切り、指先を軽く地面に触れると、鍬と麻屑を一抱え抱え上げ、妻に柏油の罐を持ってくるよう命じ、田舎風に膝を曲げた足を大きく開いて、河の向こうの坂道を下っていった。
河岸には不揃いの大きな揚水機が手足を広げていた。多くの木の棒や角材が、のっそりとした機械を支えて屹立し、人の良い顔つきに見えた。歯車とシリンダーには多少の妖気があったが、おそらく長い冬眠の後だからか、ぼんやりと眠たげで、盛装した柳の穏やかな碧緑の中に、何とも言えない風情を見せていた。
ヒランチは揚水機の頂上の桶から四方に岐れる水路の繋ぎ目を検査し、それから井戸を覗いた。そして咽喉を鳴らし、重々しく地面に座り、長靴を脱ぎ、脚絆を解いた。すぐに立ち上がり、細身のズボンのボタンを外した。するとヴォルガの荷役夫が穿くような太いズボンが、手風琴のような襞を作ってずり落ち、見事なS字を描いて足の周りに横たわった。
妻は黙って目を凝らし、ヒランチの毛と筋だらけの脚が、蓬々と絡み合う黒莓の茂みを分け、刈り残した青々とした草を踏んで地面を上下するのを見守っていた。
ひどく静かだった。河の向こうから、ゆっくりと赤い曙光が這い上がってきた。動かない滑らかな水面にも同じ色が映っていた。柳の枝は疲れた手のように垂れ下がり、小鳥たちがその茂みの中で目覚める時、怯えたように身震いした。
ヒランチは慎重に井戸に降りていった。増水時に漂着した木片、枝条、その他さまざまな塵芥で一杯だった。片足を横桁に、片足を梯子に掛け、塵芥を井戸の外に放り出し始めた。
やがて顔を上げ、簡潔に響く声で叫んだ——
「揚水!」
妻は全身の重みで唧筒の柄に体を押し付けた。以前は馬を使っていたのだ。すると園も、広い河面も、空も、高朗な軋みと叫びと呻きに満ちた。杓子が互いに引っ掛かり、がちゃがちゃと音を立て、歯車の歯がガリガリと噛み合い、不揃いな怠惰な軸が怒ったように回転し始めた。穏やかな機械は、無為の境地から引き出されたことに不満げに、どうでもよさそうな調子でぶつぶつとしゃべり始めた。
叢の中に隠れた小鳥の世界は、まるでこの号令を待っていたかのように、揚水機の呻きに応えるかのような、心を打つ叫び声が、たちまち園中を駆け巡った。叢の繁みにぶつかって砕け散り、大いなる歓喜のままに空へ舞い上がり、天の際に姿を現した神秘の赤い輪に魅せられたかのように、そこでぴたりと止まった。
ヒランチはびしょ濡れで井戸から這い出てきた。小衫が湿って体にまとわりつき、疲労で腰が曲がっていたが、まだ元気と満足にあふれていた。「ともかくまだよかった、吊桶は残っている……」
今度は揚水機の上に這い上がり、水桶に柏油を塗り、横に渡した輪軸に跨って歯車を点検した。ようやく服を着て妻を家に帰し、自分はさらに樹脂で桶を塗り、手で草茅の水路を掃除した。
彼の心に突然、一筋の希望が覚醒した。少し働いて手入れをすれば、いずれ悪くならずに済むはずだ、と。そして彼は、煩悶と無為の数週間に失ったものを一度に取り戻そうとするかのように、必死に掘り、掘り返し、小斧でトントンと削り、麻屑で水路を塞いだ。
饒舌な野燕が、花樹師の頭上の枝に止まり、何か恐ろしい重大な事件を伝えようと急いでいるようだった。ヒランチは袖で汗まみれの首を拭き、正直な口調で低い声を出した——
「チュウチュウジイジイと何を言っておるのだ?お前は何と忙しい鳥だ!よし、言え、言え……」
灌漑を始めるには、まず馬を一頭手に入れねばならない。揚水機はおそらく大丈夫で、水路の方も妻と二人で草を抜くことはできるが、土を掘り返す者が一人もいない。実のところ、馬を送ってくれれば、きっと人手も送ってくれるだろうが、しかし……
鳩の群が黒雲のように飛んできて、林檎の木の上に、あちこちに目が増えたかのように降りてきた。そしてクックッと言い合い、枝の茂みの中で騒ぎ立てた。ヒランチは大きくふっと口笛を吹き、一斉に飛び立った鳥を追いかけた。そして叫び、罵り、最後の一羽が垣を越えて隣の果樹園へ飛んでいくまで続けた。
食事の時、彼は妻にこう言った——
「もう少し手入れをしなくちゃならん。しっかり仕事をするなら、こういうことは辛抱しなきゃ……それにな、正直なところ、旦那様がいらした時には、本当に大変な力が要ったんだ。あの時は何でもうまくいったが、今はこういう時勢だからな……」
翌日、彼は町へ出かけた。町では馬と人手を送ると約束してくれた。
だが数日経っても、太陽が猛烈に照りつけ、緑は干からびて黒くなっていくのに、誰一人来なかった。あたかも坡いっぱいの果樹園が灌漑を待っていることを、完全に忘れ去ったかのようだった。
ヒランチは焦った。煉瓦工場へ走り、隣村に住む知り合いの花樹師のところへ走ったが、どこにも馬はなく、働きに来る者もいなかった。
ある時、花樹師は町から帰るとすぐ河の方へ行った。沈黙する揚水機を眺め、岸辺を一巡りし、干からびた木から小さな青い林檎を一つ摘んで、妻のもとへ持ち帰った。
「ほら見ろ、まるで野生の林檎だ。アニス種の木から摘んだんだぞ……」
彼は干からびた硬い林檎を卓上に置き、付け加えた——
「しかもあの木は、すっかり野生に戻ってしまった……」
そして長椅子に座り、微動だにせず窓を見つめ、夕方までじっと座っていた。窓の外には、日差しを全身に浴びて、微動だにしない園が見えた。
茫漠として太陽が沈むと、彼は溜息をつき、独り言を言った——
「ふん、駄目なら駄目でいい。どうせちゃんと管理しても、誰のためにもならんのだからな……」
鳥の歌と園のざわめきの中に、新たに子供の賑やかな声が加わった。かつての老婦人が住んでいた別荘に、町から学校の子供たちが走り込んできたのだ——美しい目をした、いたずら好きな、およそ一ダースの子供たち、先頭には骨と皮ばかりに痩せた若い女教師が立っていた。
喧しい闯入者の一群は、かつて静かだったテラスでさまざまな遊びに興じた。丘の斜面に豆を撒くように散らばり、木の上、温床の窓の後ろ、別荘の床の下、屋根裏部屋、板小屋の隅、枯れた木莓の畑に、次々と姿を現した。どんな隠れた場所からも、どんな叢の茂みの中からも、青春の叫びが響いた。まるで一ダースやその少し上ではなく、何百何千もいるかのように……
まもなく、子供たちの一隊がヒランチの住居の前に現れた。女教師が職務的な口調で言った——
「二畝の土地を貸してください。」
「何を植えるつもりだ?」と花樹師は尋ねた。
「隠元豆、人参……それから、あらゆる種類の野菜を一面に植えるんです。」
「それなら、今がまさに植え時だ!」
門の上に、竿に結ばれた小さな布に、飾り文字で数文字書かれていた——
「少年園。」
町と近辺の全景を見晴らす望楼からは、今度は真っ赤な大きな布が垂れ下がっていた。しかも昼も夜も、その尖った角が風に翻り、苛立たしくぱたぱたと音を立てていた。
毎夕、テラスから粗野な断続的な歌声が上がり、梢を流れていった。その中に、この園とは何の関係もない、大胆不敵な、しかし不吉な何かが感じられ、ヒランチは両手で頭を抱え、鐘の音を嫌う犬のように、左右に体を揺すった。
妻は孤独の苦悩に堪えかね、少年園の厨娘をつかまえて、かつての大王林檎の収穫が板小屋を破裂させんばかりだった話をして、鬱憤を晴らしていた。すると、ただ眉を顰めて黙っていたヒランチが、ようやく口を開いた。
「ほら見ろ、今はどうなった」と妻が恨めしそうに、悲しそうに言った。「まだ実もならないうちに、虫に食われちまったよ!」
「今は!」ヒランチは不平の口調で断固として言った。「今は、掃き清めたように、何もかもなくなった……」
「旦那様がお帰りにならなくなってから、何もかも持っていかれたみたいだ……」
「おまけに、あの嫌ないたずら小僧たちまで入り込んでくるし。」厨娘が調子を合わせた。三人はこうして就寝時刻まで、嘆き、非難、惜しみが一体となった中で、それぞれの憤懣を吐き出した。
あちこちが破れたズボンを穿いたいたずら小僧が三人、長く伸びた老木の枝に這い上がり、そこから逆さにぶら下がって、大道芸の撞木乗りのようにゆらゆらと揺れ、またまたがって、枝の梢まで這い上がった。枝は慣れぬ重荷に反発し、上下に揺れ、やがてめりめりと裂け、梢はゆっくりと地面に向かって垂れ下がっていった。
小さな芸人たちは勇敢な叫びを上げ、勝ち誇ったように哄笑した。その笑い声は快活なこだまとなって園中に響き渡った。だが不意に叫びが途絶え、木の隙間を縫って別荘の方へ逃げ出した。
ヒランチが後を追った。幹に頭をぶつけぬよう身を屈め、溝を跳び越え、両手で林檎の木を押し分けて体をくぐらせた。まるで餌を追う小さな野獣のように障害物を避け、巧みに疾走した。息を殺し、わずかな物音でも敵に距離の迫っていることを悟られまいとしながら、一跳びごとに怒りが火のように燃え上がるのを感じた。しかし極めて微細な動作にも一つ一つ注意を払っていた。
恐怖に追われて子供たちは飛ぶように走った。危険が迫り、動作は十倍も敏捷になった。警戒の叫びを交わし合い、蕁麻の密生する中でも、刺莓の畝の中でも、前後も見ずに跳び込み、邪魔な枝を折りながら振り返りもせずに駆け続けた。転べばすぐに跳ね起き、頭を縮めて猛然と前進した。
子供たちの後を追って、ヒランチが別荘のテラスに跳び込んだ時、いたずら坊主たちはみな家の中に逃げ込んでいた。すると、汗だくで息を切らした花樹師の前に、憤慨のあまり痩せ衰えた女教師の姿が現れた。
彼女は毛のない眉を吊り上げ、驚愕したように大声で言った——
「まあ、こんなに子供を怖がらせて、どういうおつもりなの?気が狂ったんじゃありませんの!」
ヒランチにとって、この言葉はまったく的外れに思え、しかも——みすぼらしくて奇妙な若い女教師は、滑稽なものにしか見えなかった。そこで彼の怒りは、途切れ途切れの低い威嚇の文句となって流れ出した——
「鼠みたいに、お前たちをこの家から燻り出してやるぞ……」
この日、少年園の全員は何かの用事で町へ出かけた。別荘は昔のように再び平和で閑かになった。
日中、ヒランチは門の外へ出た。
以前この時節には、早生の林檎を積んだ車、莓を山積みにした籠の車が、次々と連なって出て行ったものだった。今は轍の中に雑草が生い茂り、聞き慣れた荷車のがらがらという音も聞こえなくなっていた。
「まるで旦那様が何もかもお持ちになったようだ。」ヒランチは思った。そして倦怠げに、煉瓦造りの小屋の方から遠くから歩いてくる二人の百姓を見つめた。
百姓は近くまで来ると尋ねた——これは誰の果樹園か、と。
「何の用で来たんだ?」
「土を掘り返せと言われたもんで……」
「何と早く来たもんだ!」ヒランチは苦笑した。「今はみんなソヴィエトの人間なんだからな……」
一つ一つ詳しく聞き出し、二人が自分のところへ来たのだとわかると、彼は言った——
「それは、道を間違えたんだろう!そんな果樹園は聞いたことがない……」
「じゃあ、どこへ行けばいいんだ?」
「自分の行くべき所も知らないのか……だが、ここでは何もかもちゃんとやってある。二度目の灌漑も三日前に済ませた……今まで待てるわけがないだろう!」
帰っていく百姓たちの背中に短く暗い笑みを投げかけた後、彼は小屋に戻った。そして家で急を要する用事を思いつき、妻を町へ遣った。
小鳥の喧しさが静まり、夜の静寂が地上に降りた頃、ヒランチは乾草小屋へ行き、隅から一抱えの草を取り出し、別荘の方へ運んだ。
テラスの下に火種を敷いていると、足が主人の門牌に引っかかった。今春、門から外して乾草小屋に隠しておいたものだ。しばらく手に持ってひっくり返してから、草の中に深く押し込み、また乾草を取りに行った。
別荘に戻る時、途中で落ちた枯れ枝を拾い、家の向かいに置いた。今度は燐寸を擦った。乾いた麦藁が燃え上がり、枯れ枝が楽しそうに弾けた。
別荘に火をつけると、ヒランチは静かに脇へ退き、地面に座った。そして明るい煙が円を描き、日除けやテラスを支える木の円柱の周りを巡るのを、一心に見つめた。まるで黒い花紗のように、装飾の彫刻がさらさらと震え、無数の隙間から薄紅色の火が現れた。
石炭のような濃い煙が螺旋を描き、天に向かって直上せんとしたが、突然、すべての力を集めたかのように、真っ赤な猛烈な大火が煙の帽子を脱ぎ捨てた。
家は蝋燭のように燃え上がった。
だがヒランチは、筋だらけの強い手で膝を抱え、目を火焔に据えたまま、微動だにせず座っていた。
妻の狂叫が耳元で弾けるまで、彼はじっと座り続けた——
「ヒルーシカ!あんた、どうしたの!一体どういうことなの?旦那様がお帰りになって見つけたら、何て言うつもりなの?」
その時、彼は火焔から目を離し、厳粛な目で妻を見つめた後、独り言に近い調子で言った——
「お前は馬鹿だ!お前は!まだ旦那様がきっとお帰りになると思っているのか?……」
すると彼女もたちまち静かになった。そして夫と同じように、かつてない目で火を凝視した。
二つの老いた顔に、次第に消えゆく火の薔薇色の影が、ちらちらと震えながら揺れ動いていた。
第185節
【ヤクと人間性】
E・ゾズーリャ
【一 告示が貼り出された】
家々と街路はいつもと変わりなかった。空は相変わらず青く、その一世の単調さを見せていた。歩道の石板の面もやはり冷淡で堅固だった。突然、まるで黒死病が起きたかのように、この地の人々がその顔からぽたりぽたりと大粒の涙を糊の盆の中に落としていた。彼らは告示を貼っていたのだ。そこにはこう簡潔に、厳格に、逃れようのない言葉で書かれていた——
全体通知!
本市住民の生存資格は、格外厳弁委員会の設置する三項委員会により区域ごとに検査する。医学的及び心理学的検査も同地にて併せて行う。生存の必要なしと認められた住民は、二十四時間以内に命を絶つ義務を負う。この期間中、上告を許可する。上告は書面をもって格外厳弁委員会の幹部に提出すべし。遅くとも三時間後には回答を与える。もし生存の必要なしと認められた住民が、意志薄弱または生命への執着により自ら命を絶つことができない場合は、友人、隣人、または特別武装隊が格外厳弁委員会の判決を執行する。
注意:
1. 本市住民は格外厳弁委員会の方法と判決に絶対服従すべし。一切の訊問に対し明確な回答を行うべし。生存の必要なしと認められた者については、各自の性格に基づき調査録を作成する。
2. 発布した命令は、不撓不屈の決意をもって徹底的に施行する。人間の中の贅物にして、正義と幸福を基礎とする人生の改造を妨げる者は、ことごとく除去して容赦しない。命令は全市民に及び、男女貧富を問わず、一切例外なし。
3. 生存資格検査の施行期間中、何人たりとも市外へ移出してはならない。
【二 激昂の第一波】
「読んだか?」「読んだか?!」「読んだか!!?読んだか?!!」「見たか!?聞いたか!?」「読んだか?!!」
市内のあちこちに人だかりができた。交通は麻痺した。人々は突然力が抜け、壁にもたれた。多くの者が泣き出した。気を失う者も少なくなかった。夕方には、そのような者の数は恐るべきものとなった。
「読んだか?」「恐ろしい!怖ろしい!聞いたこともない!」「だが実のところ、我々自身がこの格外厳弁委員を選んだのだ、我々自身が彼らに全権を委ねたのだ!」「そうだ、その通りだ。」「我々自身の愚かさが悪いのだ。」「その通り、我々自身の過ちだ。だが我々は生活を改善しようとしたのだ。委員会がこんなに恐ろしく単純に問題を解決するとは誰が予想できた?」
「委員会のあの連中のせいだ!あの連中の!」「どうして知っている?名簿はもう発表されたのか?」「知人が教えてくれた!ヤクが会長に選ばれたぞ!」「何だと!ヤクか?何と幸運な!」「まったくだ。実際!」「何と幸運な!彼の人格は清廉だ!」「もちろん!心配はいらん。本当に人間の中の廃物だけが除かれるのだ。不正はなくなるぞ!」
「続けてくれ、親愛なる友よ。人々は私を生かしてくれると思うか?私は善い人間だ……」
【三 みな逃げ出す】
人の群れが街を走り抜けた。紅顔の少年が恐怖を顔に浮かべて走っていた。商店や官署から出てきた真面目な人員。糊の効いた白いシャツを着た新郎。男声合唱団の団員。紳士。語り部。ビリヤード打ち。映画の夜の客。策略家。無頼漢。白い額の巻き毛の詐欺師……肥った怠惰な女たちが走り、痩せた柳のような女たちが走った……
彼らは密集した大群となって前方へ走った。だが人々が彼らを追い返した。同類の人々が来て殴り、迎え撃ち、杖で、拳で、石で打ち、歯で噛み、恐ろしい叫び声を発した。するとこの群衆は死者と負傷者を残して逃げ帰った。
夕方には町は平常に戻った。人々は震えながら自分の家に座り、自分のベッドに潜り込んだ。狭い熱い頭蓋の中で、短く尖った炎のように、絶望的な希望が閃いた。
【四 やり方は簡単だ】
「姓名は?」「プース。」「年齢は?」「三十九。」「職業は?」「巻き煙草職人です。」「本当のことを言え!」「本当のことを言っております。十四年間誠実に働き、家族を養ってきました。」
「医者、プースの家族を診てくれ。」「市民プースは貧血だ。一般的健康状態は中程度。夫人は頭痛と関節痛風。子供は健康だ。」
「市民プース、お前の趣味は何だ、何が好きだ?」「人間が好きです、とりわけ生命が。」「もっと簡単に、市民プース、我々には暇がない。」「好きなのは……そう、何が好きか……息子が好きです……あの子はヴァイオリンが上手で……食べることが好きですが、食欲は大きくありません……女が好きです……通りを美しい婦人や娘が歩いていると、見るのが好きです……夜、疲れたら眠るのが好きです……巻き煙草が好きです……一時間に五百本巻きます……好きなものはまだたくさんあります……生命が好きだと言ったのです……」
「落ち着け、市民プース、泣くな。心理学者、どう見る?」「これは膿疱だ、友よ、これは廃料だ!……最低等だ。改良の見込みなし。受動性七十五パーセント。夫人はさらに高い。子供は愚鈍だが、しかし、おそらく……息子は何歳だ、市民プース?泣くのはもうよせ!」「十三歳です。」「安心しなさい。息子はまだ生きていてよい、五年間延期だ。お前については……私の管轄外だ。判決を出してくれ、友よ!」
「格外厳弁委員会の名において——余剰の人中廃物および存在しようがしまいが構わぬ存在物にして、進歩を妨げる者を粛清するため、私は命じる、市民プースよ、汝と汝の妻は二十四時間以内に命を絶て。静かに!騒ぐな!衛生員、この女に鎮静剤を飲ませろ!衛兵を呼べ!一人では手に負えん!」
【五 灰色堂の調査録】
灰色堂は格外厳弁委員会の大広間の廊下にあった。すべての広間同様、平常の堅固で質朴な外観を持っていたが、一万二万の命の墓であった。ここには「贅物の目録」と「性格調査録」の二行が記されていた。目録はいくつかの部門に分かれ、「感動はするが判断できない者」「小さな追従者」「受動的な者」「主見なき者」などがあった。性格調査録は簡潔かつ客観的に作成され、会長ヤクの赤鉛筆の署名と「贅物に軽蔑を加える必要はない」との注記が見られた。
〔数例の調査録が続く。いずれも「限二十四時間」の判決で締めくくられる。〕
【六 執務】
一群の官僚的専門家がヤクと委員会の周囲に集まった。医師、心理学者、経験家、文学者。彼らは驚くほど迅速に処理し、やがて数名の専門家が一時間以内に数百の善良な人々を別世界に送れるまでになった。灰色堂には数千の調査録が積み上げられた。
ヤクは細い凝視する目でこれらすべてを一瞥すると、彼ら自身にしかわからぬ思考に沈み、背は曲がり、蓬々とした頭もますます白くなっていった。
【七 ヤクの疑惑】
ある日、委員たちがヤクを例行の演説に招こうとしたが、見つからなかった。二時間後、灰色堂の中で発見された。ヤクは殺された人々の紙の墓の上に座り、異常な緊張で一人沈思していた。
「何をしているのだ?」と皆が訊いた。「ほら、考えているのだ」と彼は疲れた声で答えた。「人類について考えるなら、人類を消滅させた記録を考えるのが一番だ。消滅の文書の上に座れば、極めて奇妙な人生がわかる。」
「格外厳弁委員会はどうやら転機を迎えたようだ」とヤクは言った。「消滅された者たちの研究が、進歩への新しい道を示してくれる。諸君は一つの人間の生存不要を証明する様々な方法を簡単かつ刻毒に学んだ。だが私はここに座って、我々の道が本当に正しいかどうか考えているのだ。」
ヤクはまた沈思し、やがて凄苦の溜息をつき、低い声で言った。「どうすればよいのか?出口はどこにあるのか?生きている人々を研究すれば、その四分の三は掃蕩すべきだという結論に達するが、消滅された者たちを研究すれば、彼らが愛すべからず、憐れむべからざる者であったとは思えなくなる。ここで私の人類問題は袋小路に入り込んだ。これが人類史の悲劇の結末だ。」
【八 転機】
ヤクが逃げ出した。あちこち捜したが見つからなかった。ある者はヤクが町の外の木の上で泣いていると言い、またある者は庭で這って泥を食べていると言った。
格外厳弁委員会の業務は停止した。市は混乱し始めた。まだ粛清されていない贅物・廃料が堂々と街頭に姿を現し、互いに訪問し、享楽し、結婚する者さえ現れた。
【九 告示が貼り出された】
街を息を切らせた人々が走り、糊の盆を抱え、歓笑の沸騰の中で、大判の薔薇色の告示を開いて、家々の壁に絢爛と貼り出した。その内容は平易、明白にして簡単であった——
全体通知!
告示貼出の瞬間より、本市全住民の生存を許可する。生きよ、繁殖せよ、地上に満ちよ!格外厳弁委員会はその厳峻なる権利を放棄し、格外優待委員会と改称する。市民諸君、諸君はみな優秀な分子にして、各自生存の資格あることは言うまでもない。
【十 生活は平凡に帰す】
門戸、窓、テラスが開け放たれた。人の声、笑い声、歌声、音楽が響いた。肥った無用の娘がピアノを弾いた。蓄音機が朝から深夜まで騒ぎ続けた。自分への感情と自己愛が増大した。衝突と紛争が日常となった。
格外優待委員会の委員たちは規則正しく戸別訪問し、住民の暮らしぶりを尋ねた。多くの者は良い暮らしだと答え、信じてもらおうと懸命だった。「ほら」と彼らは満足げに手を擦り合わせて言った。「昨日秤に乗ったら八ポンド増えていましたよ、ありがたいことです。」
不便を訴え、格外優待委員会の成果の少なさに不平を鳴らす者もいた。「知っているか、昨日電車に乗ったら空席が一つもなかった……残っている贅物がまだ多すぎる。機を見て粛清すべきだ……」
十一 尾声
ヤクの執務室では、以前と同じように仕事が続いていた。薔薇色堂には「幸福調査録」が満ちていた。誕生日、結婚式、洗礼、昼食会と晩餐会、恋愛物語、冒険などが詳細かつ慎重に記されていた。
ヤクは沈黙していた。ただ背はますます曲がり、髪はますます白くなった。
ある時、ヤクが薔薇色堂から飛び出してきて叫んだ。「殺すべきだ!殺せ!殺せ!殺せ!」
だが部下たちの雪白の忙しい指——かつては死者を記録し、今は同じように生者を記録している指——を見た時、彼はただ手を一振りし、執務室を飛び出して姿を消した。
永遠に姿を消した。
この町に住む大勢の人々——ヤクがまず殺戮し、次いで寛容し、そしてまた殺戮しようとした人々——その中には確かに善い者もいたが、多くの廃物もいた人々——は、あたかもヤクなる者が存在したことも、生存資格についての大問題が提起されたこともなかったかのように、今に至るまで生活し続けている。
第186節
【附】
【「物事」】
V・カターエフ 作 柔石 訳
情熱的な相思相愛の力に導かれて、ジョルジとセーガは五月に結婚した。天気は明媚だった。結婚登記員の簡短な頌詞を聞き終えると、この若い新婚夫婦は礼堂を出て通りに立った。
「今からどこへ行こうか?」と痩せて胸の凹んだ、物静かなジョルジが訊ねた。横目でセーガを見ながら。
彼女は背が高く、美しく、火のように情熱的で、夫の身に寄り添い、髪に挿した紫丁香の一枝が彼の鼻を軽くくすぐった。鼻孔を大きく開き、情熱的にささやいた。
「商品陳列所へ行きましょう。物事を買いに。他にどこへ行くというの?」
「家具を買いに行くのか?」と夫は言い、つまらなそうに笑いながら帽子を直した。二人が歩き始めた時であった。
埃を含んだ風が商品陳列所を吹き抜けた。淡い色の肩掛けが乾いた空気の中で売り場の上にひらめき、甲高い蓄音機がすべての楽器売り場で競い合うように歌っていた。太陽は風に揺れる鏡を照らしていた。ありとあらゆる魅惑的な器具と極めて美しい品物が、若い夫婦を取り囲んだ。
セーガの両頬が紅潮し、額は汗ばみ、紫丁香が蓬髪から落ち、両目は大きく丸くなった。彼女は熱い手でジョルジの腕をつかみ、震える薄い唇を噛みしめ、所内を引きずり回した。
「まず鴨毛布団よ」と彼女は息を切らせて言った。「まず鴨毛布団を!……」
売り場の主人の甲高い声に耳を聾された二人は、急いで継ぎ接ぎの正方形の布団を二枚買った。重くて厚く、幅は広いが丈が足りない。一枚は鮮やかな煉瓦色、もう一枚はくすんだ微かな紫色だった。
「次はスリッパよ」と彼女はささやき、温かい息が夫の顔一面に吹きかかった。「赤い裏地の、頭文字入りの、他人に盗まれないように。」
スリッパを二足買った。女物と男物、真っ赤な裏地で頭文字入り。セーガの目はほとんど輝き始めた。
「タオル!……小さな雄鶏の刺繍入りの……」と彼女は夫の肩に火照った頭をもたせかけ、ほとんど呻くように言った。雄鶏の刺繍入りタオルの後には、毛布四枚、目覚まし時計、綾織り生地、鏡一面、虎の絵柄の小毛布、真鍮の鋲を打った立派な椅子二脚、毛糸数玉を買った。
大きなニッケル球飾りのベッドやその他多くの物も買いたかったが、金が足りなかった。重い荷物を抱えて帰宅した。ジョルジは椅子二脚を背負い、巻いた布団を顎で押さえていた。湿った髪が白い額に貼りつき、痩せた赤い頬は汗まみれだった。目の下には青紫色の影があった。半開きの口からは不健全な歯が覗き、涎が垂れそうだった。
冷え冷えとした下宿に帰ると、彼は救われたように帽子を投げ捨て、咳き込んだ。彼女は荷物をシングルベッドに放り出し、部屋を見回してから、乙女の恥じらいの感触を込めて、大きな赤い拳で優しく夫の脇腹を軽く叩いた。
「もう、そんなにひどく咳をしないで」と厳格なふりをして言った。「さもないと、すぐに肺病で死んでしまうわ。今はわたしがそばにいるんだから……本当よ!」彼女は赤い頬を彼の骨と皮ばかりの肩に擦りつけた。
夕方、客が来て婚宴が行われた。客は羨望を込めて新しい物事を眺め、褒め、遠慮がちにブランデーを二本飲み、菓子パンを少々食べ、手風琴の曲に合わせて踊り、間もなく散った。何もかも適切であった。隣人たちもこの婚礼の厳粛さと節度に、少々驚いていた。
客が帰った後、セーガとジョルジはもう一度物事を褒め、セーガは新聞紙で椅子を丁寧に覆い、残りの品を布団もろとも箱に入れ、スリッパを一番上に頭文字を上にして置き、鍵をかけた。
夜半、セーガは切ない気持ちで目を覚まし、夫を起こした。
「聞いて、ジョルジ……ジョルジ、あなた」と熱っぽくささやいた。「起きて!さっき間違えたのよ、あの淡黄色の布団を買わなかったわ。あの淡黄色の方がずっと面白かったのに……スリッパの裏地もよくないわ……灰色の裏地のを買うべきだったの。それに、ニッケル球のベッド……よく考えなかったのよ。」
翌朝、ジョルジを急いで仕事に送り出した後、セーガは急いで台所へ走り、隣人たちと結婚の印象を論じ合った。礼儀のため五分間は夫の健康について話した後、女たちを部屋に連れていき、箱を開けて物事を披露した。
「これは間違いだったわ、あの淡黄色のを買わなくて……」微かな溜息とともに言った。
やがて隣人の教授夫人が言った。「すべて結構ですけれど、あなたのご主人の咳はひどいようですよ。注意なさらないと……」
「ああ、何でもないわ、死にやしないわ」とセーガは故意に粗野な口調で言った。「たとえ死んでも、あの人にとっては結構なことだし、わたしは別の男を見つけられるもの。」
だが不意に胸がどきりとした。「あの人に鶏を食べさせなくちゃ。お腹いっぱい食べさせないと。」と独り言を言った。
次の給料日まで待ちに待ち、すぐさま商品陳列所へ行って、淡黄色の布団とオルゴール付きの小箱その他多くの物事を買った。
夜中に目が覚めた。「ジョルジ!あなた!」と急きこんでささやいた。「まだ青いのがあったの……ああ、何て惜しいの、買わなかったなんて……」
その年の真夏、セーガは嬉しそうに台所に入ってきた。「主人にね、休暇が来るの。みんな二週間だけど、あの人は一ヶ月半よ。それに手当もつくわ。すぐにニッケル球のベッドを買うわ、きっと!」
「療養院に送った方がいいと思いますよ」と年老いた教授夫人が意味ありげに言った。「さもないと、間に合わなくなりますよ。」
「あの人には何も起きないわ!」セーガは憤然と答え、両手を腰に当てた。「わたしがどんな療養院よりも丁寧に面倒を見ているわ、鶏のフライを作ってお腹いっぱい食べさせているの!……」
夕方、二人は物事を満載した手押し車とともに商品陳列所から帰宅した。ジョルジは苦しそうに喘ぎ、蔚藍色の布団が痩せた顎の下の胸を圧迫していた。絶え間なく咳き込んでいた。
夜中にまたセーガが目を覚ました。「ジョルジ!あなた!……灰色のがまだあるの……ああ、何て美しいの。灰色で、でも裏地は灰色じゃなくて薔薇色なの……」
ジョルジが最後に目撃されたのは、晩秋のある朝だった。彼はのろのろと狭い横丁を歩いていた。蝋のように長く光る鼻がいつもの革短衣の襟に埋まっていた。蒼白い唇に虚弱な、快げな、ほとんど満足げな微笑が浮かんでいた。
帰宅すると彼は床に就かねばならなくなり、医者も来た。セーガは急いで保険会社へ走り、病気の際に借りられる金を受け取った。一人で商品陳列所へ行き、灰色の布団を買って箱に入れた。
間もなくジョルジはさらに重くなった。初雪——湿った雪——が降った。別の医者が来て診察し、台所で消毒石鹸で手を洗った。セーガは涙を流しながら、立ち込める黒煙の中で、火の上で鶏のフライと大蒜を炒めていた。
「気が狂ったの?」と教授夫人が驚いて叫んだ。「鶏のフライと大蒜なんて食べさせたら死んでしまうわ!」
「食べられますよ」と医者が冷淡に言った。白い指から水滴を振り落としながら。「今はもう何を食べても構いません。」
夕方、白い綿外衣を着た衛生局員が来て各部屋を消毒した。夜中にセーガが目を覚ました。名状しがたい悲痛が胸を引き裂いた。
「ジョルジ!」と切迫してささやいた。「ジョルジ、あなた、起きて!お話があるの、ジョルジ……」
ジョルジは答えなかった。冷たくなっていた。彼女はベッドから飛び降り、裸足で廊下を辿った。
「あの人が逝ってしまった!逝った!」と恐怖に叫んだ。「逝った!ああ!死んだわ!ジョルジ!ああ、ジョルジ!」
翌朝、セーガは部屋の真ん中に座り、涙まみれの顔で、隣人たちに憤然として訴えた。
「いつも言ったのに、鶏のフライをお腹いっぱい食べてって!食べないのよ。ほら、こんなに残っているわ!わたしにどうしろというの?それにわたしを誰に残して行ったの、この薄情なジョルジったら!もう行ってしまって、わたしを連れて行く気もないし、わたしの鶏のフライも食べないなんて!ああ、ジョルジ!」
葬宴の席で、セーガは異常に元気だった。まずブランデーを半杯飲み、顔を真っ赤にして泣き、足を踏み鳴らしながら途切れ途切れの声で言った。
「ああ、そこにいるのは誰?みんな入って、楽しんでちょうだい……誰でもいいわ……ただしジョルジは駄目!あの人の入場は許さないわ!わたしの鶏のフライを断ったのよ、断固として!」
そして新しい箱の上に重々しく倒れ込み、オルゴール付きの鍵に頭をぶつけ始めた。
その後、下宿のすべてはいつも通りに過ぎた。セーガは女中の仕事を続けた。冬の間に多くの男が求婚したが、すべて断った。物静かで善良な男を待っていたのだが、来るのは粗暴な輩ばかりで、彼女が蓄えた物事に釣られてきた者たちだった。
冬の終わりに彼女は痩せ、黒い毛織りのセーターを着始めた。これがかえって美しさを増した。工場の車庫に、イワンという運転手がいた。物静かで善良で、思索的だった。セーガへの恋のために、ひどく憔悴していた。春になると、彼女もまた彼を愛した。
天気は明媚だった。結婚登記員の簡短な頌詞を聞き終えると、若い夫婦は礼堂を出て通りに立った。
「今からどこへ行こうか?」と若いイワンが恥ずかしそうに訊ねた。横目でセーガを見ながら。
彼女は夫に寄り添い、大きすぎる紫丁香の一枝で彼の赤い耳を軽くくすぐり、鼻孔を大きく開いてささやいた。
「商品陳列所へ行きましょう!物事を買いに!他にどこへ行くというの?」
すると彼女の目は突然大きく丸くなった。
第187節
【鉄の静寂】
N・リャシコ
【一】
蜘蛛の巣のようになった赤旗を掲げた竿が、工場の煙突の黒い王冠の中に突き出ていた。あれは春のこと、祝祭の日、歓喜の叫びと歌声に見送られて掲げたものだった。小さな血の塊となって蒼穹にたなびいていた。平野からも、森からも、小さな村々からも、煙靄の中の小さな町からも見えた。風がそれを引き裂き、粉々にし、その破片を、死のような斜面で断ち切られた広漠へと運んでいった。
烏が竿で嘴を磨いだ。があがあと啼き、悠然と竪坑を見下ろしていた。十年以上もの間、ここから煙色の鳥の群れが飛び立ち、高く遠くへと去っていった。
工場のガラス屋根はあちこちに穴が空いていた。輪を成して微動だにしない皮帯が、薄暗がりから空を凝望していた。発動機は居眠りしていた。雨粒と雪片が、皮帯の疾駆と抱擁で銀色になった滑車軸を損傷していた。支材が乾いた側板を支え始めていた。電気起重機の関節のある腕は折れ、力なく接合板の下に垂れていた。万力、コンパス、革帯、螺旋転子が、散乱した骸骨のように、巨人の玉座のような削盤の台の上で、蒼白く光っていた。
雪花を纏った蜘蛛の巣が、旋盤の歯車装置の中で震えていた。削り跡のある鉄条と棒の鑿痕に、停滞した痂が薄皮を被せていた。燦爛たる螺旋の断面に沿って鉄の舌が伸び出て油を舐め尽くし、赤錆の毒のために縮こまっていた。
南の壁には古色蒼然と銘があった——「せめてカーテンをかけてくれ、息苦しい」と、貧しげに顔を覗かせていた。壁は以前と変わりなかった。外は銃弾と爆弾の傷を受けていた。この中で、どれほどの信仰、哀愁、苦悩、歓喜、憤怒が爆発したことか!
ああ、石よ!……覚えているか?……
こうして、あの全時代が、部屋の隅のレヴォリーバ機とアメリカ機の運転の中で、一方では皮帯の呼嘯と弾の舌打ちと歯車の噛み合いの音で耳を聾されながら、一方ではひそかに小冊子のページをめくっていたのだ。
【二】
鋳鉄鍋製造所の近くで、鍋が風に当たって唸り呻いていた。光に引き裂かれた暗闇が、壊れた窓枠の穴に向かって大口を開けていた。プレス機の間で嘶くように口笛が鳴っていた。錆びた床には尖った光の破片が散らばっていた。
壁の隅、皮帯がまるで褐色の真っ赤な巨浪を帯びた車輪の下に、斑点がすでに黒ずんでいた。これは——血だった。一人の鍛冶工が、防寒手袋を万力に引っかけられ、巻き上げられて巨浪の上に吊るされた——まるで磔刑のように。水圧機の螺旋の鋭い断面の所で両足をばたつかせ、発動機が止まるまで。血と肉が壁に、床に、プレス機の上に飛び散った。黄昏時、彼は鉄の十字架から降ろされた。十字架と福音書が、急ごしらえの卓子の上で光っていた。鍋の空洞の中で、すすり泣くように安息の讃歌が震えていた。
【三】
中庭には、雪の下に錆びた鉄網と、蒸気の下で震えたことのないボイラーが、黄色く半ば連なって鉄工所の入口まで並んでいた。
発電所——眠り込んだように孤独な、他と隔絶された工場の中心——は雪に押し潰されて喘いでいた。汽笛は——かつて作業と闘争のために人々を召集し、苦痛のために悲鳴を上げていた——もはやなかった。取り外され、どこへ行ったか知れない。
門柵は取り外されていた。垂木と三脚台が薪にされ、事務所の前に積まれていた。折られ、切り詰められ、骨となって、狂い踊る炎を見つめていた。そして待っていた——己の運命を。
番人たちは居眠りしていた。暖炉の中で薪がパチパチ爆ぜ、外からは風に曲げられた烏のしわがれた鳴き声が聞こえ、事務所の凍った窓が、雪に覆われた中庭に突き出て、うわ言を言っていた。
……夜、雪の表面が黄昏の淡黄色の煙霞を吸い取った。小さな町や小さな家々から、影が静かに工場へ向かって歩いてきた。一人、あるいは群れをなして、木柵を外し、哨舎を壊し、日除けを剥ぎ、電線を抜いた。番人が大声で怒鳴り、銃を撃った。影は薄れ、消えた。だが待っていた。
工場は星を散りばめた空を見上げて呻き、嘆息していた。そこから剥ぎ取られた骨が、通りへ引きずられ、鏘々と響いた。
こうして毎日毎日……荒廃と番人と影が、工場を剥ぎ取っていった。
【四】〜【六】
時折、小さな町から赤旗を立てたオートバイが駆けつけた。到来した人々は凍った鉄の工場を歩き、石化するような沈黙に耳を傾けた。溜息をついて外に出た。番人たちの盗難報告を聞き、何かを小さな手帳に記した。そして帰っていった。
毎週一回、工場の静寂を押し潰すように、咆哮する音が響いて震撼させた。各工場に猛烈な振動の歌声が奏でられた。烏が驚いて飛び去った。
番人たちが鋳鉄工場に駆けつけると、短い作業服を着て毛皮張りのフェルト靴を履いた男が、鉄鎚を振るい、古い鍋を力一杯叩いていた。
——タン!……タン!……
かつての鍛工スチョーポだった。人は彼を愚かだと言うが、嘘だ。彼は謎めいた目で近づいてくる番人たちを見、鉄鎚を置いて冷笑して訊ねた——
——驚いたか?
「よせ、スチョーポ……騒ぎを起こして……俺たちが悪いんじゃない。」
「騒ぎを起こして……」スチョーポは番人たちの言葉を真似た。「お前たちはこっそり工場を剥ぎ取っている……上手なものだ。」そして笑った。
番人たちが鉄鎚に飛びかかった。スチョーポはプレス機の後ろに、鍋の後ろに隠れ、やがてドンと窓の外に飛び出した。
そして外から罵った——
「俺の鉄鎚まで売り飛ばそうってのか?……あはは……泥棒め!」
鉄鍋が快活に彼の叫びを反復した——そして静まった。だがまもなく、鍛冶場の裏で鉄鎚の下に鉄が絶叫した。音が交錯し、風とともに飛び上がり、平野に反響した。
小さな家々の入口に人々が現れた。首を振り、感動して——
「スチョーポンカがまた打っているぞ……」
「ほら、あいつは……」
「まるで工場が動き出したみたいだ……」
だがスチョーポの力は衰えた。鉄鎚が手から滑り落ちた。工場はさらに静かになった。スチョーポは鉄鎚を隠し、顔に幸福な微笑みを浮かべ、泥棒たちが踏み固めた小道を通って工場から出た。
途中で立ち止まり、首を傾げ、耳を澄ました……沈黙が機械を、作業台を、鍋を押さえつけていた。スチョーポは溜息をついた。肩をすくめた。歩きながら呟いた——
「番人をしていながら……まったく、この時世……何とひどく盗むことか……」
背後では、鋳鉄の刺すような煙で燻された壁に、唖なる鉄の哀愁が這い寄ってきた。彼にはそれが身近に感じられた。頭を上げ、熱烈に事務所に飛び込んだ。番人たちに怒鳴り、脅した。そしてまた憂鬱に町へ向かい、ソヴィエトの門前で足を踏み鳴らし、皆に懇願し、工場を再開してくれと頼んだ。慰められ、励まされ、自分の家に帰った。
夢の中で、青筋の浮いた両手が伸び、もがきながら大声で叫んだ——
「おい、おい!……溶解器を持ってこい!……焼き通ったぞ!打て、打て!……」
第188節
【我は生きんと欲す】
A・ネヴェーロフ
我々は大草原の小さな村に野営していた。私は人家の前の長椅子に座り、毛の長い大きな犬を撫でていた。この犬は全身もじゃもじゃで見た目は不快だったが、背中の長い毛が太陽の温もりを蓄えていて、寄り添うと心地よかった。時折、肩に水滴が落ちてきた。裏庭では鵝鳥が激しく鳴き、鶏も鳴いていた。その間に低い啼き声が混じっていた。窓の前には大砲が据えられ、遠くまで鋼の冷たい首を伸ばしていた。汗まみれの馬たちは縄を解かれ、鞍を外されて草を食んでいた。涸れかけた小川が、急ぎ足で流れていた。
私は座って、朦朧とした頭を四月の太陽にゆだね、雪解けの真っ黒な地面の上に漂う青雲の断片を見つめていた。耳は砲声に聾されてはいなかった。鵝鳥の激しい鳴き声が聞こえ、鶏の楽しげな声が聞こえた。時折、静かに、慎重に、無音の水滴が落ちてきた……
これが私の戦いの春だった。
おそらく最後の春かもしれない……若い四月の春を迎えて響く喧騒と叫びに耳を傾けていると——心が大いに奮い立った。
家には私の女と二人の小さな子供がいる。階下の一室が、尖らせた耳で、夜遅い帰りの足音をじっと聞いている。そこで私を待っている人、そこではもうとうに私を葬ったかもしれない人がいる。向かいの小川を見つめ、砲架の前で跳び回る雀を見つめていると、青白い顔の息子セリョーシャが見え、金髪の三つ編みに明るい青いリボンをつけた三歳のニューシカが見えた。二人は窓辺に座り、互いにぎゅっと寄り添い、曇った窓ガラスから外を眺めている。通りすがりの人の中から私を探し、帰って来て膝に抱き上げてくれるのを待っている。この二つのぼんやりした小さな顔が、父としての苦しみで私の心を満たしたのだった……
ポケットから古い、読み擦れた手紙を取り出した。女はこう慰めていた。
「とてもつらいけれど、泣いてはいません……あなたもしっかりやってね!……」
だが、私が家を出る時、彼女はこう言った。
「なぜ自分から志願したの?生きるのが嫌になったの?」
私は口から出まかせの言葉を聞くのが怖い。女が、私がどれほど人生を愛しているか理解しないのが怖い。
涙が彼女の両頬を伝った。苦痛と愛と憂愁を語ったが、私の脚は震えなかった。今度は女が私を励ました。
「全力でやりなさい!私たちのことは心配しないで!……私は耐えられるわ、何でもないの……」
セリョーシャの手紙もあった。まだ字が書けず、紙の上に線と棒と丸と四角を描いていた。中央には母の注釈があった。
「好きなように解釈してちょうだい……」
私にはセリョーシャの記号がわかった。
この手紙を初めて読んだのは、まさに進軍して襲撃に向かう時で、あの棒と丸が明るい、励ましの目で私を見つめていた。仲間に見られて笑われぬよう、こっそり接吻し、銃を撫でて言った。
「前へ、父親よ!前へ!……」
今でもそう思っている。
私が死に行くのは、退屈からでも、老齢からでもない。生活が嫌になったからでもない。違う。私は生きたいのだ!……清新な無限の遠景、静かな曙光と夕照、白鶴の高翔、窪地の小川のすすり泣き、すべてが私を奮い立たせる……私は愛に満ちて、目で一片の小さな雲、一叢の小さな木を掴み取る、それなのに死に行く……私は死を握りしめ、静かに迎え撃つ。それは飛んでくる、春の融けた大地を震わせる重い砲弾とともに、青い煙を閃かせる密集した弾丸とともに。私は黄昏に包まれ、あらゆる叢の後ろに、あらゆる小丘の後ろに潜むそれを見る、だが私は行く、躊躇せずに。
私が死に行くのは、まさに生きたいからだ……
これ以上簡潔に、別の言葉で説明することはできない。だが周囲には凶相の死が満ち、私の前に伸びる冷たい手を感じない。子供の目も私を引き留められない。最初は泣き腫れてもいない目が、天真爛漫な喜びを湛えて微笑んでいた。するとある想像が浮かんだ——この澄んだ微笑む目もいつかは曇る日が来ると、ちょうど私の目がそうなったように。私がまだ子供だった遠い昔のことだ……
生まれた時、私は他人の、「幸福な者」が持つ大きくて広い家にいた。母と私が住んでいたのは、湿った地下室の片隅だった。母は洗濯女だった。目が物を見分けられるようになった時、最初に見たのは、紐に吊るされた濡れたズボンとシャツだった。太陽はほとんど見なかった。父には会ったことがない。
母は病気になった。兵隊、荷役人夫、ぼろシャツの荷馬車引き、ごろつきやすりが、彼女のもとへ来た。彼らは疲れた馬を打つように殴り、前後不覚になるまで酔わせ、私がすぐそばにいるのも構わず、ベッドに放り投げた……
「私たちは不幸な者なのよ、ワーシカ!」と母はいつも言った。「死んでおしまい、かわいい坊や!」
だが私は死ななかった。仕事を探し、さまざまな人間に出会った。愛もなく、優しさもなく、温かい一瞥もなかった。私は子犬のように育った。
生活そのものが答えをくれ、教えてくれた。生活は打ち破りがたい真実で私を啓発し、その意味がわかった時、祈りをやめた……私たちが偶然に、あるいは一人の意志で、地下室の片隅に落ちたのではなく、我々の上にある、明るく広い家を持つすべての人々の意志によるのだと、はっきりわかったのだ。全階級の意志のために、何十万、何百万の人々が動物のように地下室の片隅を這い回らねばならなかったのだ……
今、セリョーシャの棒と丸を見るたびに、彼への愛が私を戦いへと導く。躊躇はない。侮辱された母への愛が、私に脚力を与える……もしセリョーシャもまた私と同じように、一匹の犬のように壮健な筋肉を売り歩くことになるのかと想像すると、胸が張り裂けそうになる。金髪に明るい青いリボンをつけたニューシカのことを思うと……
率直に想像してしまうのだ——娘がいつの日か、もはや楽しげに微笑まず、萎れた薄い唇を歪め、羞恥に目を伏せ、おぼつかない足取りで冷たい街灯の光の下へ歩いていく姿を——そう率直に想像すると、心臓が弾けんばかりに高鳴る……
銃口も見ない、パチパチという銃声も聞かない……歯を食いしばる。地に伏し、手足で這い、また立ち上がり、突進する……死などない……春の太陽に子守歌を歌われることもない……心の中に別の春がたぎっている……若い、抑えがたい大志に満ちて、もはや宇宙の甘美な春の声に耳を傾けず、母の声を聴いている——
「前へ、かわいい坊や!前へ!」
私は生きたい、だからこそ自分のため、セリョーシャとニューシカのため、そして老いて泣き腫れた目ではもう見ることのできないすべての人々のために、戦いによって明るい日々を勝ち取らねばならぬ……
手はすでに撃ち抜かれた、だがこれが最後の犠牲ではない。もし雪解けの、日の照る戦場に永遠の眠りにつくのでなければ、勝利者として故郷に帰るのだ……他に道はない……そして私は生きたい。
だからこそ、生きたいからこそ、他に道はなく、これ以上簡単な、容易な道もないのだ。生きることへの愛が、私を戦いへと導く。
私の道は長い。
幾度も、曙光と夕照が戦場で私を迎えるだろう、だが悲しみが私に力を与える。
これが私の道だ……
第189節
【序言】
【一】
ゴーゴリの長篇小説『死せる魂』は、十九世紀のロシア文学史において特殊な地位を占めている。これは芸術的価値を持つ最初の長篇小説であり、偉大な芸術家にして写実主義者の筆から生まれたロシア社会の生活の巨大にして真実なる絵図がそこに呈示されている。この小説において、ロシアの詩人はようやく、旧来の慣習への個人的な共感と反感、教化的・道徳的な観察を、小説や物語の中に編み込もうと全力を尽くした。しかもただ一つの希望だけを抱いて——己が生きる時代の暗黒面の真実を語り出すことを。
この意義において、『死せる魂』はロシア文学史上、新時代を切り開く記念碑となったのである。
十九世紀の最初の十年間——いわゆる「ロマンティク」と「感傷横溢」の時期——にロシアの詩人を絶えず牽制したものは、ただ一つ、彼自身であった。すべては彼自身と、その思想、心情、幻想の自由な活動ほど重要なものはなかった。だが十九世紀の第四の十年になると、芸術家の環境に対する主観的態度は急速に変化し、直ちに客観的描写の方向へ前進した。以来、芸術家は誠実に、完全に人生を捉え、再現することに全力を注いだ。人生そのものの紛雑と矛盾が、詩人にとって最も重要な関心の対象となったのだ。
芸術家が客観的描写に転向したことは、ゴーゴリにおいて初めてロシア文学に極めて鮮明に現れた。『巡察使』と『死せる魂』において、我々はニコライ一世時代の極めて写実的な二枚の絵画を有する。ゴーゴリは西欧でもロシア文学の盛名を負う、いわゆる「自然主義」派の創始者である。ロシアのすべての偉大な芸術家——ツルゲーネフ、ドストエフスキー、オストロフスキーからゴンチャロフ、トルストイ、サルティコフ=シチェドリンに至るまで——はみなゴーゴリの轍を追ったのである。
ゴーゴリの創作がロシア文学の発展にいかに強大な影響を及ぼしたかは、容易に想像できよう。教訓的な哀情小説や人生と無縁の伝奇小説は次第に退き、環境小説——写実的で迫真の世情小説——に場を譲った。
【二】
しかし、果敢に芸術と人生を接近させた作家——ニコライ・ワシーリエヴィチ・ゴーゴリ(一八〇九~一八五二)——は、天性において決して冷静な観察者ではなく、猛烈な欲求を制御できる批評的知性の持ち主でもなかった。
ゴーゴリは真のロマンティックな魂を持って世に生まれたが、その使命は詩学を写実的で沈着冷静な自然描写に奉献することにあった。この矛盾の中に、彼の生涯の全悲劇が決定的に潜んでいた。
ゴーゴリは純然としてこの類の人間に属した——現世を未来の理想への前兆に過ぎないと考え、神霊から授かった使命に対する堅固な信仰に酔っている人間。このロマンティックな精神的気質と、実際生活のあらゆる卑小・猥雑・平庸を発見する驚くべき天稟とが結合されていた。天性はロマンティストでありながら、描写においてはまったく非ロマンティック的あるいは反ロマンティック的——ゴーゴリのような芸術家は極めて稀有であった。
【三】
この長篇小説はゴーゴリの天才の晩成の果実である。幻想のロマンティックな傾向と鋭利にして誠実な人生観察の強靭な天稟との長い争闘の後にようやく完成された作品だ。
初期の『ディカーニカ近郷夜話』(一八三一~三二年)において、この分裂の最初の痕跡はすでに歴然としていた。『密爾格拉特』の短篇集ではさらに写実主義への転向が進み、『旧式の地主』は素朴な牧歌として、写実主義のロマン派に対する決定的勝利を示した。歴史小説『タラス・ブルバ』はコサック民族の古代を神奇な真実で描写し、小ロシアのイーリアスとも言うべきものであった。
だが写実的描写術がゴーゴリの真骨頂に達したのは、有名な喜劇『巡察使』(一八三六年)においてである。この作品でロシアの官場がついに舞台に上がった。この喜劇は、従来の感傷的喜劇でも趣劇でも道徳劇でもない、まったく新しい創作であった。
【四~五】
ゴーゴリは外国旅行中、特にイタリアにおいて勤勉に執筆し、創造力は最も旺盛な時期を迎えた。五年の在外期間(一八三六年から一八四一年)で持ち帰ったのは、『死せる魂』の第一部であった——若いロシア写実主義の大勝利を祝う一篇の小説あるいは詩篇。
『死せる魂』の制作は、著者にとって大歓喜であり大苦痛であった。この仕事にゴーゴリは十六年を費やした——一八三五年から一八五二年の死まで。著者の理想としては、『死せる魂』はロシアの政治的・社会的生活のすべてを光明面と暗黒面の双方から現す「詩篇」であるべきだった。ゴーゴリは旧い叙事詩を新しい形式で復活させようとし、故意に自作の小説をホメロスの歌唱——韻文、すなわち詩篇——に比した。
倫理的傾向に加えて、詩人の愛国的志向もまたこの詩篇に極めて強力な影響を与えた。ゴーゴリの愛国主義は年とともに増し、宗教的色彩と結合して堅固な保守的世界観となった。しかし、第二部・第三部の計画は失敗に終わり、以前書き下ろしたものをすべて火に投じてしまった。完成した形で我々に残されたのは、第一部のみ——ロシア人の堕落の歴史、その邪悪、空虚、退屈と庸俗の物語である。
【六】
『死せる魂』から、著者がその詩篇の秘められた意義を指示する抒情的講解をすべて除けば、この小説は『巡察使』の直接的な、より豊かで多面的な続編となる。用いられた人物は、『巡察使』では官僚だが、『死せる魂』にはさらに地主と農奴が加わる。主人公パーヴェル・イワーノヴィチ・チチコフは枢軸であり、その周囲に詩篇のすべての人物が集まる。
ゴーゴリは主人公を寛大に扱った。チチコフは道徳的に疑わしい人物だが、著者は彼を単純に悪人と断じず、「弱者」と呼ぶことを選び、読者に対し弾劾され排斥された者への寛大な心情を常に保たせようとした。
【七】
これがこの偉大なる祖国の詩篇の、幸いにも現存する部分の内容の真相である。この作品は著者にとって深い道徳的意義を持つものであった。その趣旨は、まず一群の空虚で邪悪で哀れな人間に出会わせ、次いで彼らが振るい立った美しい姿を見せることにあった。
だが『死せる魂』がロシアの文学と生活に偉大な意義をもたらしたのは、この道徳的理想と観照によるのではない。ロシアの読者の手に残ったのは、彼の生きる社会への弾劾状——真実の詩歌の巨匠、偉大な写実作家の手になる弾劾状に過ぎなかった。
『死せる魂』はロシア文学における偉大な写実小説の最初の模範であり、運命の常として、このロマンティストにして詩人の書いた写実小説の偉大な標本は、著者がロマンティックな夢想に始まり、宗教的宣教に終わるという行程を辿った。
しかし造化はこの宣教者の揺り籠に神奇な才能を置いた。他に類のない純浄で本色の、理想化に縛られぬ真実描写の能力——この才能が極頂に達し、またたく間に消滅してゆく短い期間に、詩人は極めて深い真実をもってこの巨大な絵図を創造した。その上に、ロシア人は初めて己自身と、己の生活の狼狽たる信実の映像を見たのである。
ネストル・コトリャレフスキー
第190節
【第二章】
この客人は市中に一週間余り滞在し、毎日昼食をとり、夜会に赴き、まさにいわゆる快楽の日々を送っていた。ついに彼は市外へ出ることを決心した。すなわち約束通り、二人の地主——マニーロフとソバケーヴィチ——を訪問するためである。だがこの決心には、骨の髄にはもっと切実な理由、もっと重大な事情があったようだ……しかしこれらのことは、読者が辛抱強く読み進めれば自ずとわかるであろう。話が長く、事柄もますます広がり、しかも結末に近づくほど重要になるからだ。
御者セリファンは朝早く馬車に馬を繋ぐよう命じられた。ペトルーシカの方は留守番で、部屋と箱を守る命令を受けた。ここで我々の主人公の二人の下僕を読者に紹介するのも、余計なことではあるまい。もちろん二人は重要人物ではなく、いわゆる二流か三流の人間に過ぎず、この叙事詩の骨格や顕著な展開とは無関係で、せいぜいかすめる程度、あるいは一筆添える程度である。だが著者はすべてのことに精緻を極め好む人物で、自身は立派なロシア人でありながら、周到精密さにおいてはドイツ人のようであった。
ペトルーシカについてわかるのは、主人のお古の合わない灰色の常礼服を着て、下僕特有の大きな鼻と厚い唇を持っていたことである。性質は寡黙で、読書への高尚な志があった——何を読んでも内容は気にせず、「恋愛冒険記」でも初等読本でも祈祷書でも同じ熱心さで読んだ。読書のほかに二つの習慣があった——服を着たまま眠ることと、独特の体臭を持っていたこと。チチコフは敏感な主人で、朝この臭いが鼻につくと「畜生め、汗をかいているのか?風呂に行け!」と叱ったが、ペトルーシカは黙って仕事を続けた。
〔以下、御者セリファンの描写、マニーロフ邸への道程と到着が続く。マニーロフは極端に愛想がよく甘美な性格の地主で、取り留めもない空想に耽り、実際には何一つ完成しない人物として描かれる。チチコフとの晩餐、マニーロフの妻との会話、そしてチチコフが死んだ農奴の魂を買いたいという驚くべき提案を持ち出す場面が展開される。マニーロフは当惑しつつも無償で譲ることに同意する。チチコフは満足して次の目的地へ向かう。〕
第191節
【第三章】
この時、チチコフは皮幌馬車の中に気分よく座り、すでに長い間田舎道を走っていた。彼の趣味と嗜好の主な対象が何であるかは、第二章からとうにわかっていたから、彼が肉体も魂もこれに注いでいるのも、少しも不思議ではなかった。顔に浮かぶ推測、見積もり、計画の表情は、なかなか得意げで、満足の微笑がちらちらと覗いていた。
あの花馬はとても狡猾で、真ん中の青い馬と左側の——ある議員から買ったので「議員」と名付けた栗毛が力を込めて進んでいる時、自分は引いているふりだけをしていた。「好きなだけサボるがいい!俺がもっとサボらせてやるぞ!」セリファンは少し体を起こし、怠け馬に一鞭くれた。
〔以下、セリファンの馬への長い独り言、突然の雷雨、道に迷う場面が続く。泥酔したセリファンが馬車を畑に乗り入れ、ついに転覆する。暗闇の中、チチコフは女地主コロボーチカの屋敷にたどり着く。この老婦人は臆病で吝嗇な寡婦で、チチコフが死んだ農奴を買いたいと申し出ると、損をするのではないかと恐れ、なかなか応じない。チチコフは辛抱強く説得し、ようやく合意を取り付ける。翌朝出発し、途中の居酒屋でノズドリョフに出くわす。ノズドリョフは無軌道で嘘つきの地主で、チチコフを自分の屋敷に引きずり込む。〕
第192節
【第九章】
ある朝まだN市の訪問時間の前に、青い柱と黄色い建物の大門から、華麗な花縞の衣を纏った令嬢が一人飄然と現れた。前には領子を幾重にも重ねた外套を着て金の錦の縁飾りの輝く丸帽子を被った家丁がいた。令嬢は急いで階段を駆け下り、門前に停まった馬車にすぐさま乗り込んだ。家丁は車の扉を閉め、踏み台に飛び乗り、御者に「走れ」と声をかけた。
この令嬢は新しいニュースを聞いたばかりで、それを他人に伝えに行くのが待ちきれなかったのだ。窓から外を覗き、道はまだ半分しか来ていないのを見ると、大いに苛立った。すべての家が普段より長く見え、白い石造りの救済院の小窓も果てしなく続くかのようで、ついに叫ばずにいられなかった。「この忌々しい建物は、いつになったら終わるの!」
〔以下、二人の令嬢——「全身美しい夫人」と「まあまあ美しい夫人」——の長い会話が展開される。チチコフが知事の娘に惚れたのではないかという噂、チチコフが死んだ農奴を買い集めているという発覚、そこから広がる市中の狂騒的な推測と噂話が描かれる。二人の夫人は互いの服装を褒め合い、布地の色や質について議論し、やがてチチコフの正体についての驚くべき噂——彼は娘を誘拐しようとしているのではないか——を広め始める。この噂は市中に急速に広まり、収拾がつかなくなっていく。ゴーゴリの筆は地方都市の閑話と虚栄、空虚な社交生活を痛烈に風刺する。〕
第193節
【第十章】
読者がすでに全市の父母にして恩人であることを知っている警察局長の家に、全員が集まった。この場で官員たちは、絶え間ない愁苦と興奮のために、互いの顔がいかに痩せ衰えたかを初めて見ることになった。実際、新総督の任命、極めて重要な公文書、そして最後に恐ろしい愁苦——これらすべてが彼らの顔に鮮明な痕跡を残していた。燕尾服さえも大きくなっていた。
もちろん、大胆不敵な勇士で、恐怖も欠点もなく、心の平静を失わぬ者も何人かいたが、その数は極めて少なかった。数えられるのは実のところ一人だけ——郵便局長である。彼だけが常に平然として変わらなかった。
〔以下、官員たちの混乱した会議が展開される。チチコフの正体について喧々諤々の議論がなされ、贋札製造者説、総督府の属員説、化装した強盗説などが飛び出す。郵便局長が突然「ゴベキン大尉の物語」を語り始める——辺境から来た謎の男が金を要求され、追われ、遂には行方不明になるという、プーシキンの小説を暗示する奇譚である。だがこの物語もチチコフの謎を解く助けにはならない。検察官はこの騒動のストレスで急死し、人々はようやく「検察官は魂を持っていたのだ——生きている時には恥ずかしくて見せなかったが」と気づく。チチコフは急ぎ市を脱出し、馬車の中でこれまでの冒険を振り返る。ゴーゴリは「ロシアよ、お前はどこへ疾駆するのか?」という有名な一節で第一部を締めくくる。〕
第194節
【二 第一部についての省察】
市街の観念——彼らの現状の極度の空虚。一切の範囲を超えた閑談と密告。これらすべてが、いかに閑暇から生じ、最高度の笑柄となり、もとは聡明であった人間がいかに最終的には大きな愚行を犯すに至るか。
令嬢たちの会話の細目。いかに一般的な閑話の中にさらに私的な閑話が挟み込まれ、かくしていかに他人を容赦しなくなるか。風聞と推測がいかに形作られるか。この推測がいかに滑稽の極致に達するか。皆がいかに知らず知らずのうちにこの閑話に参加し、いかに繡鞋の英雄と婦人の奴隷が作り上げられるか。
生活の虚脱、安逸と空虚が、いかに幽暗な、一言も発しない死に取って代わられるか。この恐ろしい事件がいかに木然と訪れ、そして去るか。何も動かない。死がこの完全に動かない生活を恐怖させる。読者に対しては、生活の死の如き麻痺をいっそう恐ろしく感じさせるべきである。
生活の恐るべき昏暗が剥がされ、その中に深い神秘が隠されている。これはいささか恐ろしいことではないか?この跳び立ち、騒ぎ立て、閑暇な生活は——恐るべき偉大さから来た一つの現象ではないのか?……生活よ!……舞踏服と燕尾服と閑談と名刺交換の場所で——死を信じる者は一人もいない……
細目。令嬢たちは直ちにこれをめぐって争い始める。一方はチチコフをこうだと望み、他方は同時にああであってほしいと望む——そこで彼女たちは自分の理想に合う風聞だけを採用する。
他の令嬢たちが登場する。
全身美しい夫人には物欲的な気質があり、彼女はいかに理性の助けでこの気質を克服しているか、いかに男たちとの一定の距離を心得ているかを好んで語る。
市街中が雑然と入り乱れた閑談と密告——これが彼らの群の中の人生の安逸と空虚の本相である。至る所で出鱈目が飛び交い、皆がひたすらこれと一体化しようとする。
第二部における対立の本相は、安逸を打ち破り引き裂くことに力を注ぐ。
いかにしてこそ全世界の安逸と閑暇の一切の戯れを引き下ろし、市街の閑暇の一種にまで落とし得るか、いかにしてこそ市街の閑暇を引き上げ、全世界の安逸と閑暇の本相にまで高め得るか。
これには類似のすべての物徴を総括し、また物語に切実な継続がなければならない。
第195節
【第二章】
たっぷり三十分の間に、立派な馬はチチコフをおよそ十ヴェルスタほど引いて行った——まず樫の林を過ぎ、次に新しく耕された細長い土地の間に横たわる、春の新緑を誇る穀物の畑を過ぎ、次にまた刻一刻と壮麗な遠景を展開する連山に沿い——ついには芽吹いたばかりの菩提樹の広い並木道を経て、将軍の領地に至った。菩提樹の並木道はたちまち両側にポプラの並ぶ長い道となり、幹はみな四角い垣根に囲まれ、やがて透かし鋳鉄の大門に着く。邸宅の八本のコリント式の円柱が華麗な破風を支え、彫刻は極めて精巧であるのが窺える。あちこちにペンキの匂いが漂い、すべてが新鮮な感じを与え、古びて見えるものは一つもなかった。前庭は平坦で清潔、まるで床板になりそうなほどだった。馬車が門前に止まると、チチコフはいたく恭しく飛び降り、階段を上って行った。彼はただちに名刺を将軍のもとに届け、すぐに書斎に通された。将軍の威厳ある容貌は、わが主人公に深い印象を与えた。彼は木苺色の、ひっそりした天鵞絨の部屋着を着ており、眼差しは率直で、顔つきは男らしく、豊かな口髭、繁茂して白髪交じりの頬髭と頭髪を持ち、後ろは短く刈られていた。首は太く肥え、いわゆる「三階建て」、つまり横に三本の皺が走っているという意味で、一言で言えば、これは一八一二年頃に極めて多かった豪華な将軍の典型の一人であった。このベトリシチェフ将軍は、我々みなと同様、多くの長所と短所を持っていた。ロシア人の中にもよく見られることだが、この二つは実に極彩色に複雑に織り交ぜられていた。大らかで、度量が大きく、決断を要する時には果断明快であったが、一旦高い地位にあって事がなく、何も彼を煩わせることがなくなると、どのロシア人も例外なくそうであるように、虚栄、野心、独断、吝嗇をたっぷり挟み込むのだった。官等が自分を超える者はすべて非常に嫌悪し、冷たい言葉のようなものを浴びせた。最も災難だったのは彼のかつての同僚で、将軍は自分の明晰さと手腕は彼より上だと確信していたが、その人物は自分を超えて二省の総督になっていたのだ。さらに運の悪いことに、将軍の領地はちょうどその同僚が治める省にあった。将軍はたびたび復讐し、機会があれば対手の話を持ち出し、その命令をことごとく批判し、その行政はすべて愚の骨頂だと説明した。何もかも彼にはいささか奇妙に思われ、特に教養についてそうだった。彼は革新の良き友であり先駆者であった。常に他人より多くを知り、より良く知っていたがったので、自分の知らないことを少しでも知っている者を好まなかった。つまるところ、彼は自分の聡明さを誇るのが大好きだった。その教育は大半を外国から得たが、それでいてロシアの貴人の威厳を保とうとした。性格にこれほど多くの頑固さと激しい矛盾があっては、官途もうまくいかず、不如意と戦いつづけ、ついには退官するに至った。こうした災いを彼はいわゆる敵党のせいにした。責任を負う勇気がなかったからである。退官後も彼は堂々たる威風を保った。燕尾服であれ、常礼服であれ、部屋着であれ——彼はいつもこの姿だった。声音から一挙手一投足に至るまで、号令と威厳そのものであり、すべての部下に、尊敬でなくとも、少なくとも恐れや畏縮を感じさせた。
チチコフは二つのものを感じた。畏敬と恐怖である。恭しくわずかに首を傾げ、まるで茶碗を載せた盆を運ぶかのように両手を差し出し、驚くべき巧みさで、地面に触れんばかりにお辞儀をして言った。「閣下にご挨拶申し上げるのは、私の義務と存じます。戦場で祖国を救われた方々の徳に対する至高の敬意が、この私を、私をお目通りに参上させたのでございます。」
この数句の挨拶に、将軍はさして不満でもなかったようだ。親しげに頷いて言った。「お知り合いになれて嬉しい。さあ、お掛けなさい。どちらでお勤めかな?」
「私の奉公先は」とチチコフは安楽椅子に腰を下ろしながら——ただし真ん中ではなく、やや端寄りに——しかも手で肘掛けをしっかり握りながら言った。「最初は国庫局から始まりまして、閣下。その後さまざまな職を経ました。地方裁判所に、建設委員会に、税務署にも勤めました。私の生涯は、閣下、嵐の中の小舟のようなものでございます。忍耐に養われて育ち、忍耐の化身とでも申しましょうか。敵からどれほどの苦しみを受けたか、言葉では、いや画家の筆をもってしても描き尽くせません。今や晩年に至り、一つの隅を探して巣を作り、余生を送ろうとしているところです。今回は閣下のお近くのお宅に身を寄せております……」
「どなたのお宅かな、お聞きしてよろしければ?」
「チェントニコフのお宅でございます、閣下。」
将軍は眉をひそめた。
「彼は大変悔やんでおります、閣下に当然の敬意をお示しできなかったことを。」
「敬意だと! なぜだね?」
「閣下のご勲功のゆえでございます」とチチコフは言った。「しかし適切な言葉が見つからないのだそうで……『将軍閣下のために何かできれば……祖国を救った方々を尊敬することは心得ております』と申しておりました。」
「ほう、では彼はどうしたいのだ?……私は少しも恨んではおらんよ!」将軍はすっかり打ち解けた調子で言った。「あの男は心から好きだし、いずれ大いに役立つ人物になると信じておる。」
「まことに仰せの通りでございます、閣下」とチチコフが口を挟んだ。「大いに有用な人物です。弁も立ち、文章も実に見事に書きます。」
「しかし彼はくだらないものばかり書いているのではないかね。詩かなにかその類いだろう。」
「いいえ、閣下、決してくだらないものではございません。極めて実際的な、極めて重要な著作に取り組んでおります。それは……歴史でございます、閣下……」
「歴史?……何の歴史だ?」
「歴史……」ここでチチコフは一瞬言葉を切った。目の前に将軍が座っているからか、それとも事柄の重みを増そうとしたのか。ともかく彼は続けた。「将軍たちの歴史でございます、閣下!」
「何だと? 将軍たちの? どのような将軍たちの?」
「将軍一般の、閣下、つまり将軍全体の……正確に申しますと、祖国の将軍たちの歴史でございます。」
チチコフは話が脱線しすぎたと感じ、非常に狼狽した。唾を吐きたくなるほどで、心の中で思った。「ああ神よ、私はなんという馬鹿なことを言っているのだ。」
【以下、チチコフと将軍の会話が続く。将軍はチェントニコフが将軍たちの歴史を書いていると聞いて興味を示し、史料を提供したいと申し出る。そこへ将軍の娘ウリニカが書斎に現れる。彼女は気高く美しい乙女として描写される。将軍がチチコフを昼食に招待し、着替えの間に、チチコフは「死せる魂」の計略を持ちかける。衰弱した伯父が三百の魂を持ち、自分が唯一の相続人だが、伯父は自分にも三百の魂を手に入れてみせよと要求している、と嘘をつく。将軍の死んだ農奴を生きているかのように売買契約を結ばせてほしいと頼む。将軍は大笑いし、この途方もない話を面白がり、死せる魂を墓地ごと持って行って構わないと快諾する。将軍は笑いが止まらず、邸内に高笑いが響き渡る。】
編者注:ここに第二章から第三章への橋渡しとなる大きな欠落がある。
「『死魂霊』第二部の執筆は一八四〇年に始まったが、完成には至らず、初稿は一章のみ、すなわち現在の最終章である。その後二年、ゴーゴリは草稿を改訂し、清書本を作成した。この写本には四章が残存しているようで、すなわち現在の第一章から第四章である。その間にも欠落と未完の箇所がある。
「実のところ、この作品は第一部だけで十分であった。ゴーゴリの運命が許したのは、自らの属する階層の人物を風刺することだけだった。だから没落した人物を描けば依然として生き生きとしているが、いわゆる善人を創造しようとすると生気がない。たとえばこの第二章で、将軍ベトリシチェフは道化役であるから、チチコフとの出会いは紙上に躍動し、筆力は第一部に劣らない。しかしウリニカは作者が理想とする良き女性であり、力を尽くして彼女を魅力的に書こうとしたが、かえって生き生きせず、真実味もなく、あまりに作為的ですらあり、先に書かれた二人の美しい夫人と比べると、その差は甚だしい。」
——編者。
第196節
【第三章】
「もしコシカリョフ大佐が本当に気が狂っているなら、それはまことに悪くない」とチチコフは再び大空の下、曠野の上に出た時に言った。人々の住まいはすべて遠く後方に横たわり、彼の目にはただ広大な蒼穹と遠くの二つの小さな雲が映るのみだった。
「セリファン、コシカリョフ大佐の所への道は聞いたのか?」
「旦那様、車の始末が多くて暇がなかったんですよ。でもペトルーシカが御者に道を聞きました。」
「この驢馬め! 前にも言っただろう、ペトルーシカに任せるなと。ペトルーシカはまた泥酔しておったに違いない。」
「大したことじゃありませんよ」とペトルーシカは座席から少し振り向いて、チチコフをちらりと見ながら言った。「山を下りて草地を真っ直ぐ行けばいいだけです。それだけですよ!」
「だがお前はもっぱら焼酎を飲んでおるではないか! それだけです、だと! お前は決して間違えないというわけだ! お前のような奴に言えるのは、ヨーロッパを震え上がらせるほどの美男子だということくらいだな。」ここでチチコフは自分の顎を撫でて、こう考えた。「育ちのよい教養ある人間と、このような粗野な下僕との間には、大きな隔たりがある。」
この時、馬車はすでに山を下りていた。目に映るのはまた草地と、ポプラの林が点在する広大な平原だけだった。
快適な馬車はばねの上で軽く揺れながら、なだらかな山裾を注意深く下り、それから草地、曠野、水車小屋を過ぎ、いくつかの橋をがらがらと渡り、遠くの凸凹した地面の上を揺れながら跳ねた。しかし丘一つなく、旅人の快適な遊行を妨げる道の起伏さえ極めて少なかった。これはまさに贅沢であって、馬車に乗っているのではなかった。
葡萄の茂み、細い赤ハンノキ、銀色のポプラが傍らを素早く飛び去り、その枝で御者台に座る二人の下僕セリファンとペトルーシカを叩きつけ、しかもたびたびペトルーシカの頭から帽子を奪い取った。この厳格な下僕は一度御者台から飛び降り、混帳木めと、それを植えた者を罵ったが、帽子を縛りつけるとか手で押さえるとかは考えもしなかった。これが最後で、もうこんな目には遭うまいと思っていたからである。まもなく白樺が加わり、所々に一本の樅もあった。根元には茂った草が生え、青い燕子花と黄色い野生のチューリップが咲いていた。森はますます暗くなり、まるで夜が旅人を包み込むようだった。突然、枝と切り株の間から、あちこちに眩い光が閃き、鏡の反射のようだった。木々が疎らになるにつれ、光る面積は大きくなった……彼らの前に一つの湖が横たわっていた——広さ約四ヴェルスタの大きな水面。対岸には小さな木造家屋がいくつも見えた。村だった。湖中からは大きな叫び声と呼び声が響いていた。約二十人の男たちが湖に立ち、水は腰まで、あるいは肩まで、あるいは首まで達し、網を岸に引き上げているところだった。その間に思いがけない出来事が起こった。一人の大男が魚と一緒に網にかかってしまったのだ。この男は体の幅と丈がほぼ等しく、西瓜か、あるいは樽のように見えた。彼の窮状は極まっていたが、力の限り大声で叫んだ。「デニス、この馬鹿め! これをコシマに渡せ! コシマ、デニスから網の端を受け取れ! そんなに押すな、おい、大きいフォマ。そっちへ行け、小さいフォマの立っている所へ行け。畜生め! 言っているだろう、網まで破るつもりか!」この西瓜は明らかに自分自身のことは心配していなかった。太すぎて溺れようがないのだ。沈もうとしてもでんぐり返しを打てば、水が浮き上がらせてくれる。実際、その背中には二人が座ることもでき、頑丈な豚の膀胱のように水面に浮かんでいられ、せいぜい唸り声を上げ、鼻から泡を吹くくらいのものだった。しかし彼は網が破れて魚が逃げることをひどく恐れていたので、大勢が網の綱を引いて彼を岸へ引き寄せなければならなかった。
「これはきっとお屋敷の旦那、コシカリョフ大佐でしょう。」セリファンが言った。
「なぜそう思う?」
「あの体つきを見てくださいよ。他の人より色白で、体格も立派で、まさにお大尽の風格ですよ。」
この間に、網にかかった地主はかなり湖岸近くまで引き寄せられていた。足が地に着いたと感じるや立ち上がり、その瞬間、堤を降りてくる馬車と中の乗客チチコフの姿も目に入った。
「昼飯はお済みですか?」その紳士は彼らに向かって叫びながら、捕った魚を持って岸に上がってきた。彼はまだ全身を網に覆われ、さながら夏の令嬢の繊手に透かし編みの手袋をはめたようで、一方の手を目の上に翳して日除けとし、もう一方は下に垂らしていた。その姿はまさに入浴直後のメディチのヴィーナス〔一一〇〕のようだった。「まだでございます。」チチコフは帽子を脱ぎ、馬車の中で極めて丁寧に挨拶しながら答えた。
「おお、ならば造物主に感謝なさい!」
「なぜでしょう?」チチコフは好奇心から尋ね、帽子を頭の上に掲げた。
「すぐにお分かりになります。おい、小さいフォマ、網を置いて、桶から蝶鮫を出してこい。コシマ、この馬鹿め、手伝ってやれ!」
二人の漁夫が桶から怪物の頭を引き出した——「ご覧なさい、なんという大物! 川から迷い込んできたのです!」その丸々とした紳士が大声で言った。「お宅へどうぞ! 御者よ、菜園を通って下へ行け! 走れ、大きいフォマ、この木偶の坊め、庭門を開けろ! あいつが案内する、わしはすぐに行く……」
【以下、チチコフがコシカリョフ大佐の屋敷を訪れる場面が続く。赤脚で長身のフォマが馬車を案内して村を通り、漁村の風景が描写される。コシカリョフ大佐の屋敷に着き、大佐は鱘魚を使った豪華な昼食でもてなす。大佐の広大な漁場と食卓の豊かさが詳細に描かれる。食事の後、チチコフは「死せる魂」の買い取りを持ちかけるが、大佐は実際的な人物で、自分の農奴が死んでいるかどうかさえ正確に把握していない。大佐は自分の領地経営の方法を長々と説明し、あらゆることに規則と秩序を設けている几帳面な男だが、実際にはすべてが混乱している様子が皮肉をこめて描かれる。チチコフは大佐の煩雑な書類手続きに辟易しつつも、なんとか取引を成立させようとする。最終的にチチコフは大佐の屋敷を辞去し、次の目的地へ向かう。】
この章では、ゴーゴリ特有の諧謔的筆致により、コシカリョフ大佐の肥満した体躯、漁での滑稽な姿、食卓の贅沢さ、そして秩序への偏執と現実の混沌との対比が鮮やかに描き出されている。魯迅の訳文は原文のユーモアと風刺を忠実に伝え、中国語の文語的リズムをもって、ロシア文学の精神を東洋の読者に橋渡ししている。
第197節
【魯迅先生の名・号・筆名】
幼名:阿 張 長 庚 周樟寿 豫 山
学名:周樹人
号: 豫 才
家庭での呼称:大先生 老 大
筆 名:魯 迅 L. S.
周 逴 巴 人 令 飛 迅 行 某生者
唐 俟 索 士 神 飛 周 声 自樹(以上は初期の文章に用いたもの)
阿 二 華 圉 佩 葦 白 舌 明 瑟
隼它音 楮 冠 宴之敖 隋洛文 洛 文
許 遐 何家幹 何 干 干 家 幹
幹 游 光 豊之余 葦 索 旅 隼
孺 牛 越 客 桃 椎 丁 萌 虞 明
白在宣 荀 継 史 癖 尤 剛 符 霊
敬一尊 余 銘 元 艮 羅 撫 子 明
張禄如 張承禄 趙令儀 倪朔爾 欒廷石
鄧当世 宓子章 翁 隼 孟 弧 崇 巽
韋士繇 黄凱音 黄 棘 白 道 曼 雪
夢 文 公 汗 常 庚 莫 朕 康伯度
史 賁 朔 爾 焉 於 越 僑 張 沛
仲 度 苗 挺 及 鋒 阿 法 茹 純
暁 角