Lu Xun Complete Works/ja/Guxiang

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故郷 (故乡)

魯��� (ルーシュン, 1881-1936)

中国語からの日本語翻訳。


第1節

一九二七年

黄花節についての雑感

黄花節が近づいてきた。いわゆる文章というものを少々書かねばならない。しかしこの題目について文章を書けと言われても、実のところ以前の試験場で「空策に対す」るようなものである。なぜなら――言ってしまえば自分でも恥ずかしいことだが――黄花節という三文字の意味は当然わかっているものの、黄花崗の戦場で戦死した戦士たちについては、姓名どころか人数さえ知らないのだ。

材料を探して議論の種にしようと、『辞源』を引いてみるしかなかった。載ってはいたが、次のようなものにすぎなかった。

「黄花崗、地名、広東省城北門外白雲山の麓にあり。清宣統三年三月二十九日、革命党数十人、総督府を攻撃するも成らずして死す、ここに合葬す。」

軽描淡写で、私の知っていることとほとんど変わらず、何の助けにもならない。

私はさらに十七年前の三月二十九日の様子を知りたいと思ったが、目撃耳聞の古老もすぐには見つからなかった。他の場所の例から推測するに、当時はおそらく若干の人が痛惜し、若干の人が快意を感じ、若干の人が何の意見も持たず、若干の人が酒後茶余の話の種にしたのであろう。それからすぐに忘れ去られたに違いない。長く圧制を受けた人々は、圧制されている時にはただ苦に耐えるのみで、幸いにして解放されれば歓楽を知るのみ、悲壮な劇は長く記憶に留まるものではないのだ。

しかし三月二十九日の事は特別であった。当時は失敗したものの、十月にはすぐに武昌蜂起があり、翌年には中華民国が誕生した。こうしてこれらの敗れた戦士たちは革命成功の先駆者となった。悲壮劇がまさに幕を閉じようとしたところに、大団円の結末が加わったのだ。

私はまだ自ら黄花節の記念に立ち会ったことがない。ずっと北方にいたからだ。しかし中山先生の記念日には遭遇した。学校では夜に演劇を観に来る者が特に多く、大変な賑わいであった。

三月十二日の夜、私は賑わいの中にいて、深く革命家の偉大さを感じた。恋愛が成就した時に恋人の一方が死んだならば、生き残った者に悲哀を与えるだけだ。しかし革命が成功した時に革命家が死んだならば、毎年生きている皆に賑わいをもたらすことができる。ただ革命家だけが、生きていても死んでいても、皆に幸福を与えられるのだ。同じ愛でありながら結果がこれほど違うのだから、今の青年の多くが恋愛と革命の衝突に苦悶を感じるのも無理はない。

以上のいわゆる「革命成功」とは暫定的なことであり、実は「革命未だ成功せず」なのである。革命に止まりはない。もし世の中に本当の「至善に止まる」があれば、この人間世界は凝固したものになってしまう。しかし中国は多くの戦士たちの精神と血肉によって培われ、確かに以前にはなかった幸福の花と果実が少しばかり芽吹いてきた。もしそう見えないとすれば、継続して培養する人々が少なく、この花を鑑賞し折り取り、この果実を摘み食う人々があまりに多すぎるからである。

皆が毎日先烈を弔うべきだと言っているのではない。一年のうち一日思い出せばよい。しかし広東の現状について言えば、節日の過ごし方はまだ少し改善すべきだ。黄花節は賑やかで、一日賑やかに過ごすのは結構。賑やかさに疲れたら帰って眠ればよい。しかし翌日、元気が回復したら、自分のなすべき仕事にもう一日精を出すべきだ。これは苦しいが、致命的な箇所を銃弾が貫通するよりはずっとましだ。しかもこれもまた幸福の花と果実を培養することであり、後の人々のためなのだから。

(三月二十四日夜。)

中国人の顔について略論する

およそ人は見慣れないものに出会うと、奇異に思うものだ。初めて西洋人を見た時、顔が白すぎ、髪が黄色すぎ、瞳が淡すぎ、鼻梁が高すぎると感じたことを覚えている。理由は言えなかったが、とにかく容貌はこうあるべきではないと。中国人の顔には何の異議もなく、美醜の別はあっても、どれも間違いないのである。

我々の古人は中国人の相貌を放任していたわけではない。周の孟軻は瞳子で胸中の正不正を判じ、漢朝には『相人』二十四巻もあった。後にこの道に入れ込む者はさらに多くなり、二派に分けられる。一つは顔から智愚賢不肖を見る派、もう一つは顔から過去・現在・将来の栄枯を見る派である。かくして天下は紛然とし、多くの人が戦々恐々と自分の顔を研究し始めた。鏡の発明にはこの人々と令嬢方が大いに功があったのではないかと思う。もっとも近頃は前者はあまり講究されなくなり、北京や上海で暗躍するのはもっぱら後者である。

私はずっと西洋人にだけ留意してきた。彼らの皮膚はいささか粗すぎ、毛に白いのがあるのもよくない。皮膚に赤い斑点がよくあるのは色が白すぎるためで、我々の黄色に及ばない。特によくないのは赤い鼻で、時にまるで溶けかかった蝋燭の蝋のようで、今にも滴り落ちそうだ。黄色人種の方がいくらか隠微で安全に見える。要するに容貌はやはりこうあるべきではないのだ。

後に西洋人が描いた中国人を見て、彼らも我々の容貌をあまり敬っていないことを知った。両眼歪斜、口を開けて歯をむき出しているのは我々自身の本来の容貌だが、当時は外国人がわざと過度に誇張したのだろうと思っていた。

しかしその後、中国の一部の人々の容貌に私も一種の不満を覚えるようになった。見慣れない事件や華麗な女性を見たり、心酔する話を聞いたりする時に、顎がゆっくりと下がって口が開いてしまうのだ。精神上、何かの部品が欠けているかのようである。人体を研究する学者によれば、咬筋の力は非常に大きく、成人なら胡桃を噛み砕けるほどだ。これほどの力を持つ筋肉が、時にさして重くもない自分の顎を支えきれないのは、見入っている最中ゆえ情状酌量の余地はあるにしても、あまり体面のよいこととは思えない。

日本の長谷川如是閑は風刺文が巧みな人で、随筆集『猫・犬・人』の中で中国人の顔について述べている。大意は、初めて中国人を見ると日本人や西洋人に比べて顔に何かが欠けている感じがするが、見慣れると何も不足していないと感じるようになり、むしろ西洋人の顔に何かが余分にあると感じるようになる。その余分なもの、それは「獣性」だという。中国人の顔にはこれがない。算式にすると、

人+獣性=西洋人

彼は中国人を賞賛し西洋人を貶めることで日本人を風刺する目的を達した。しかし野牛が家牛となり、野猪が豚となり、狼が犬となって野性は消えたが、それは牧人を喜ばせるだけで本体には何の益もない。人がただ人であるだけなら当然これに越したことはないが、やむを得ないなら、いくらか獣性を帯びている方がまだましだ。もし次の算式に適合するなら、あまり面白くない。

人+家畜性=ある種の人

中国人の顔に獣性の痕跡があるかという疑案はひとまず中止しよう。ただ最近、中国人が理想とする古今の人物の顔に二種の余分なものを見出した。広州に着いて以前いた厦門よりずっと豊富だと感じたのは映画で、大半は「国産映画」だった。映画は「芸術」であるから、映画芸術家たちはこの二種の余分なものを付け加えた。

古装映画は見た目も美しいが、「銀幕」上の人物の顔は古人のように死んでおり、生き生きと見せるために旧式の役者のぼんやりした表情を加えるしかない。

時装人物の顔は清朝光緒年間の上海の呉友如の『画報』と非常に似ている。国産映画の人物は、善人傑士であっても眉宇の間にどこか上海洋場式の狡猾さを帯びている。

聞くところによると国産映画が多いのは華僑に歓迎され利益が上がるからで、新作が来るたびに年配者は子供を連れて行き「見なさい、我々の祖国の人々はこういうものだ」と指差すそうだ。広州でも歓迎されており、昼夜四回上映、いつも満席である。

広州も今や上海と同様にこのようにして趣味を養成している。惜しむらくは映画が始まると電灯が消えるため、観客の顎を見ることができない。

(四月六日。)

革命時代の文学

――四月八日黄埔軍官学校にて講演

今日数言述べるにあたり、「革命時代の文学」を題目とする。この学校からは幾度もお招きいただいていたが、いつも先延ばしにしてきた。なぜか。諸君が私を招いたのは、私がかつて小説を書いた文学者だから文学を聞きたいということだろう。実は私はそうではない。最初に学んだのは鉱業で、石炭掘りの話の方が文学よりましかもしれない。文学書も時折読むが心得などなく、諸君の役に立つことは言えない。ここ数年の北京での経験から、先人の文学論にも疑いを抱くようになった。学生を銃殺した時分、文禁も厳しくなり、こう思った。文学文学と言うが、最も役に立たない、力のない者が語るものだ。実力ある者は口を開かず人を殺し、圧迫される者が語れば殺される。この文学が人々に何の益があろうか。

自然界でもそうだ。鷹が雀を捕える時、声を立てないのは鷹で、鳴き叫ぶのは雀だ。猫が鼠を捕える時も同様。結局、口を利くだけの者が食われる。文学者はうまくやれば当世に称えられるか虚名を得るかもしれない。烈士の追悼会が終わった後、烈士のことはもう語られないが、誰の輓聯がうまかったかは伝え称えられる。これは堅実な商売である。

しかしこの革命の地の文学者は、文学と革命は大いに関係があると言いたがるだろう。宣伝し鼓吹し煽動し革命を促進できると。しかしそうした文章は無力だ。良い文芸作品は他人の命令を受けず利害を顧みず、自然に心からあふれ出るものだからだ。先に題目を掲げてから書くなら八股文と何が違うのか。革命のためには「革命人」が必要で、「革命文学」を急ぐ必要はない。革命人が生み出したものが革命文学なのだ。革命こそが文章と関係がある。革命時代の文学は平時と異なり、革命が来れば文学は色彩を変える。大革命は文学の色彩を変えうるが、小革命はそうではない。

大革命と文学の関係を三つの時期に分けよう。(一)大革命前は叫苦鳴不平の文学がある。しかしこれらは革命に影響しない。叫苦鳴不平に止まる民族にはまだ希望がない。反抗性に富む民族は哀音から怒号に転じ、怒号の文学が現れれば反抗も近い。(二)大革命の最中は文学がなくなる。皆が行動に忙しく、文学を語る暇がない。(三)革命成功後に二種の文学が生まれる。革命を謳歌する文学と、旧社会を悼む挽歌である。

中国にはこの二種がない。革命がまだ成功していないからだ。ソビエトロシアにだけは既に生まれている。今の中国には平民文学もなく、世界にもまだない。今の文学者はみな読書人であり、労働者農民が真の解放を得た後にこそ真の平民文学がありうる。

諸君は革命の戦士だ。今は文学を崇拝しない方がよい。一首の詩で孫伝芳を追い払えないが、一砲で吹き飛ばせる。文学はつまるところ余裕の産物であり、一民族の文化を示すことはできるが。私の演説はこれだけである。最後まで聞いてくださった諸君のご厚意に感謝する。

「労働問題」の序文に代えて

去年の夏、北京で台湾の青年張我権君に会った。「中国人は台湾のことをすっかり忘れてしまったようだ」と彼は言った。

私は痛みを覚えたが口では言った。「いいえ。我が国が破綻しすぎて自分のことで手一杯で、台湾のことはしばらく後回しにするしかないのです……」

しかし困苦の中の台湾青年たちは中国のことを後回しにしなかった。常に中国革命の成功を望み改革を支援しようとしていた。

張秀哲君は広州で出会った。彼は『労働問題』を訳し終えて中国に贈ろうとし、私に序文を書いてほしいと言った。労働問題について何も知らない私だが、訳者が遊学中にもなお民衆のために尽力する努力と誠意は感じ取れる。この努力と誠意は読者もきっと感じるだろう。これはいかなる序文よりも力がある。

一九二七年四月十一日、魯迅、広州中山大学にて識す。

香港についての略談

本年一月、一度香港に行ったが、足の怪我で街を歩けず、講演が終わるとすぐに帰った。印象は薄く香港のことはとうに忘れていた。今日『語糸』一三七期の辰江先生の通信を見て思い出し、数言述べたくなった。

講演の際は干渉があり、反対者が入場券を隠し、講演原稿の新聞掲載も多くが削除・改竄された。しかし私の講演は七、八年前の「陳腐な話」にすぎなかった。

広州から香港への船上で笑い話に遭遇した。ある船員が私の名を知っていて、渡港すれば暗殺されるのではと心配してくれた。着いてみると何事もなかったが、彼はなお安心せず、別れ際に何度も念を押した。私は可笑しく思ったが、心から彼の好意に感謝し、その真剣な顔を覚えている。

三日後、無事に香港を出たが、国粹を攻撃したために何人かの恨みを買った。香港はやはり畏るべき道である。今日の香港『循環日報』にこんな記事がある。

▲陳国、布パンツ一枚を窃取したとして告訴され、スミス判事により藤鞭十二打の判決。

▲昨夜深更、洋装の男二人に英人巡査が身体検査を執行。男は英語で応対するも巡査はこれを意に介さず、さらに□□□で威す。

第一条から中国人がまだ藤鞭を打たれていることがわかる。第二条は「身体検査」のいざこざで、香港では珍しくない。三つの□が何かはわからないが、よいことではあるまい。この□□□は洋装と英語のせいで受けたもののようだ。英国人巡査はこの二つを嫌悪する。これは主人の言語と服装だからだ。

香港である某氏に会った。高等教育を受けた人で、冤罪を英国人官吏に申し立てたところ、返す言葉がなくなっても自分の負けだった。最後の訓戒はこうだ。「とにかくお前が間違っている。私がそう言うからだ!」

書籍を持つ者も厄介で、「危険文書」と指定されかねない。拘留され、書は英訳され、翻訳が終わってから審判。この「英訳」自体が恐ろしい。モンゴル人の「入主中華」の時代、通訳を使った裁判で僧侶の訴状が焚身の願いに書き換えられたことを思い出す。私が講演で元朝に言及したところ「X司」の不興を買ったと聞く。彼らは確かに中国の経史を研究している。

元朝について語ることは「政府」の「X司」だけでなく一部の「同胞」にも不興を買う。果たして、中山大学を出た後、『工商報』に「清党」のため逃走したと載り、『循環日報』では私が「晨報副刊特約寄稿者」で今は「漢口に到った」と書かれた。訂正の手紙を書いたが一ヶ月経っても掲載されない。「とにかくお前はそうなのだ、私がそう言うからだ」というわけか。幸い内地の『語糸』がある。

今でも時折あの船上の広東の友人を思い出す。神経過敏かもしれないが、杞憂とも言い切れまい。

かの「香江」の国粹振興については、六月二十五日の『循環日報』に総督府茶会の記事がある。頼済熙太史が漢文専科と国粹の重要性を演説し、周寿臣爵士も漢文について演説し、総督閣下は華語で演説した。新聞で見た「金制軍」の国粹演説は、前清の遺老だと思っていたが、実は「港督」金文泰、大英国人であった。これは中国国粹振興の鉄証であり、「中国国学振興史」の貴重な史料である。

第2節

俗語に「忠厚は無用の別名である」という言葉があるが、これは少し厳しすぎるかもしれないが、よく考えてみると、人を悪に誘う言葉ではなく、多くの苦い経験を総括した後の警句だと思われる。たとえば落水狗を打つなという話について、その原因は大体二つある。一つは打つ力がないこと、二つは比例を間違えることである。前者はさておき、後者の大きな間違いには又二つある。一つは失脚した人物と落水狗を同一視する誤り、二つは失脚した人物にも良い者と悪い者がいることを見分けられず、同一に扱い、結果として悪を放縦することになる。現在を例に取れば、政局が不安定なため、まさに此起彼伏として回転輪のようで、悪人は氷山に頼って恣意のまま振る舞い、一旦失脚すると、急に哀れみを乞い、かつて親しく見たり、親しく噛まれたりした善良な人々が、急に「落水狗」として見なし、打つどころか、哀れみの情さえ抱き、自分こそ公理を実現し、侠義がここにあると自負している。しかしそれがどうして真に落水したと言えようか。巣窟はとっくに作られており、食料はとっくに蓄えられており、しかもすべて租界にあるのだ。時には傷を負ったように見えても、実際にはそうではなく、せいぜい足を引きずるふりをして、人々の憐れみを引き起こし、悠々と身を隠すことができるだけなのだ。いつの日か復活すれば、やはり最初に善良な人を噛み、「投石下井」、何でもやる。原因を探れば、一部分はまさに善良な人が「落水狗を打たない」ためなのである。だから、厳しく言えば、自分で穴を掘って自分で埋めることであり、天を怨み人を尤めるのは全くの間違いなのである。

六 論現在還不能一味「費厄」

仁人たちは恐らく問うであろう。それでは、我々はもう「フェアプレー」を求めないのか?私はすぐに答えることができる。もちろん必要だが、まだ早い。これが「請君入甕」法である。仁人たちが必ずしも用いたがらないとしても、私はまだ筋道立てて言うことができる。土紳士や洋紳士たちは常々、中国には特別な国情があり、外国の平等自由などは適用できないと言っているではないか?私はこの「フェアプレー」もその一つだと思う。そうでなければ、彼があなたに対して「フェア」でないのに、あなたが彼に対して「フェア」であれば、結果は常に自分が損をし、「フェア」を求めても得られないばかりか、「フェア」でなくても得られないのである。だから「フェア」を求めるには、まず相手を見極めることが最良で、もし「フェア」を受けるに値しない者なら、大いに遠慮なく対処すればよい。それも「フェア」になってから、改めてそれと「フェア」を論じても遅くはない。

これは二重道徳を主張する嫌いがあるようだが、やむを得ないことでもある。なぜなら、そうしなければ中国はより良い道を持つことができないからだ。中国には現在多くの二重道徳があり、主人と奴隷、男性と女性、皆異なる道徳を持ち、まだ統一されていない。もし「落水狗」と「落水人」だけを一視同仁するなら、実に偏りすぎ、早すぎる。まさに紳士たちの言う自由平等が悪くないとしても、中国ではいささか早すぎるのと同じである。だからもし誰かが「フェアプレー」精神を普遍的に実行したいなら、少なくともいわゆる「落水狗」が人間らしさを帯びるのを待つべきだと思う。しかし現在も絶対に実行できないわけではない。上述のように、相手を見極めることだ。しかも等差をつけなければならない。すなわち「フェア」は相手によって施すものであり、どんなに落水しようとも、人であれば助け、犬であれば構わず、悪い犬であれば打つのである。一言で蔽えば、「党同伐異」に過ぎない。

心に「婆理」があって口に「公理」を唱える紳士たちの名言はしばらく論じないとしても、真心の人が叫ぶ公理でさえ、現在の中国では善人を救助することができず、むしろ悪人を保護することさえある。悪人が得意になって善人を虐待する時、たとえ誰かが公理を大声で叫んでも、彼は決して従わず、叫びは叫びに止まり、善人は依然として苦しむ。しかし時に善人がわずかに立ち上がれば、悪人は当然落水するはずなのに、真心の公理論者が「報復するな」「仁恕せよ」「悪をもって悪に対するな」などと大騒ぎする。この時こそ実効が現れ、決して空騒ぎではない。善人がまさにその通りだと思い、悪人はそこで救われるのだ。しかし彼が救われた後は、ただ得をしたと思うだけで、決して改悔しない。しかも早くから三つの巣窟を営み、計略に長けているので、間もなく再び声勢赫々として、以前のように悪事を働く。この時、公理論者は当然また叫ぶが、今度は彼は聞かないのだ。

しかし「疾悪太厳」「操之過急」で、漢の清流と明の東林は、まさにこの点で敗北し、論者もよくこのように責めている。しかしあちら側が「疾善如仇」でないことがあったろうか?人々はそれについて一言も言わない。もし今後光明と黒暗がまだ徹底的な戦いをすることができず、善良な人が悪を放縦することを寛容と間違え、一味に姑息に続けるなら、現在のような混沌状態は無窮無尽に続くことができるのである。

七 論「即以其人之道還治其人之身」

中国人は中医を信じたり西医を信じたりするが、現在比較的大きな都市では往々にして両方の医師がおり、それぞれその所を得させている。私はこれは確実に極めて良いことだと思う。もし推し進めることができれば、怨みの声は一定にもっと少なくなり、あるいは天下はついに至治に達することができるかもしれない。たとえば民国の通礼は鞠躬だが、もし対しないと思う人がいれば、その人だけに磕頭させる。民国の法律には笞刑はないが、もし肉刑が良いと思う人がいれば、その人が犯罪した時は特別にお尻を叩く。茶碗や箸、飯菜は現代人のために設けられているが、燧人氏以前の民になりたいと願う者は、生肉を食べてもらい、数千間の茅屋を再建して、大きな屋敷で堯舜を仰慕する高士たちを皆引き出し、そこに住まわせる。物質文明に反対する者は、当然もっと恨みを抱いて自動車に乗らせるべきではない。このように办れば、まさに「求仁得仁又何怨」、我々の耳も清浄になることであろう。

しかし残念ながら皆がこのようにしたがらず、己をもって人を律しようとするので、天下は多事になる。「フェアプレー」は特に弊害があり、弱点になって悪勢力に利用されることさえある。たとえば劉百昭が女師大学生を殴打し引きずったとき、『現代評論』は屁一つ放たなかったのに、女師大が復活し、陈西滢が女子大学生を煽動して校舎を占拠させた時は、「もし彼女たちが立ち去ろうとしなかったらどうするのか?君たちも強力で彼女たちの物を運び出すのは気が引けるだろう?」と言った。殴って引きずって運び出すのは劉百昭の先例があるのに、なぜこの時だけ「気が引ける」のか?これは女師大の方に「フェア」の気配を嗅ぎ取ったからである。しかしこの「フェア」はまた弱点となり、かえって人に利用されて章士钊の「遺澤」を護衛することになったのだ。

八 結末

あるいは私の上述の言葉が、新旧あるいは何かの両派の争いを激化させ、悪感をより深くし、相持ちをより激しくするのではないかと疑う人もいるだろう。しかし私は敢えて断言する。反改革者の改革者に対する毒害は、従来少しも緩めたことはなく、手段の厳しさもすでにこれ以上ないものであった。ただ改革者だけがまだ夢の中にいて、常に損をしている。そのため中国もまた改革がない。これ以降は、態度と方法を変えるべきである。

(一九二五年十二月二十九日。)

【故郷】

私は厳寒を冒して、二千余里隔たり、二十余年も離れていた故郷へと帰った。

時候は既に深冬であり、故郷に近づくにつれて、天気も陰鬱になり、冷たい風が船室に吹き込んで、うんうんと響いた。帆の隙間から外を望むと、蒼黄色の空の下に、遠近に幾つかの荒涼とした村が横たわり、少しの活気もない。私の心は禁じ得ず悲涼になった。

ああ!これは私が二十年来いつも記憶していた故郷ではないのか?

私の記憶している故郷は全くこのようではなかった。私の故郷はもっと良かった。しかし私にその美しさを思い起こさせ、その佳い所を言わせようとしても、影像もなく、言葉もなかった。まるでこのようでもあった。そこで私は自分で解釈して言った。故郷も元々このようで、進歩はなかったとしても、私が感じるような悲涼もなかったに違いない。これはただ私自身の心境の変化に過ぎず、私が今回帰郷したのは、元々何の良い心緒もなかったからだ。

私が今回来たのは専ら別れを告げるためであった。我々が多年にわたって一族で住んでいた古い家は、既に皆で他姓に売り、家の引き渡し期限は本年中なので、必ず正月元旦以前に、馴染みの古い家に永別し、しかも馴染みの故郷を遠く離れ、私が食を求めている異郷へと引っ越さなければならない。

翌日早朝、私は我が家の門口に着いた。瓦の上に多くの枯草の断茎が風に震えており、まさにこの古い家が易主を免れない理由を説明していた。幾房の本家は大体もう引っ越したようで、とても静かであった。私が自分の家の外に着くと、母はもう迎えに出てきており、続いて八歳の甥の宏児が飛び出してきた。

母はとても喜んでいたが、多くの悲涼な神情も隠しており、私に座って休息し、お茶を飲むよう言い、まだ引っ越しの話はしなかった。宏児は私に会ったことがなく、遠くから向かい合って立って見ているだけだった。

しかし我々は結局引っ越しの話をした。私は外の宿所は既に借りてあり、また幾つかの家具も買い、その他に家にある木器を全部売り、さらに買い足さなければならないと言った。母も良いと言い、しかも荷物もほぼ集まっており、運搬に不便な木器も小半分は売ったが、ただ金が回収できずにいる。

「一両日休んで、親戚本家に挨拶に行ったら、我々は出発できる」と母が言った。

「はい」

「それから閏土もいる。彼が我が家に来る時は、いつもあなたのことを聞いて、一度会いたがっている。私は既にあなたの帰宅の大体の日程を彼に知らせたから、恐らくもう来るだろう」

この時、私の頭の中に突然一幅の神異な絵画が閃いた。深い青の空に一輪の金黄色の円月が懸かり、下は海辺の砂地で、すべて見渡す限りの碧緑の西瓜が植えられており、その間に十一二歳の少年がいて、首に銀の輪をつけ、手に鋼の叉を握り、一匹の猹に向かって力を尽くして刺しているが、その猹は体をひねって、彼の股の下から逃げ去った。

この少年が閏土であった。私が彼を知った時も、十歳あまりで、現在から約三十年になる。その時父はまだ存命で、家の状況も良く、私はまさに一人の坊ちゃんであった。その年、我が家は大きな祭祀の当番年であった。この祭祀は三十余年に一度回ってくると言われているので、とても重んじられていた。正月に祖先の像を供え、供物も多く、祭器も立派で、拝む人も多く、祭器の盗難も防がなければならなかった。我が家には忙月(我々のところで人に雇われて働く者は三種に分かれる。一年中決まった家で働く者を長年といい、日当で働く者を短工といい、自分も田を耕し、正月節句や小作料収集の時だけ決まった家で働く者を忙月という)が一人しかおらず、忙しくて手が回らないので、父に自分の息子の閏土を祭器の管理に呼んでもよいかと言った。

父は許可し、私もとても喜んだ。なぜなら私は早くから閏土という名前を聞いており、しかも彼が私とほぼ同年齢で、閏月生まれで、五行に土が欠けているので、父が閏土と名付けたことを知っていたからである。彼は罠を仕掛けて小鳥を捕まえることができるのだった。

私はそこで日々新年を待ち焦がれ、新年が来れば、閏土も来るのだった。やっとのことで年末になり、ある日、母が閏土が来たと告げたので、私は走って見に行った。彼はちょうど台所にいて、紫色の丸顔で、小さなフェルト帽をかぶり、首に光る銀の首輪をつけていた。これで彼の父が彼をとても愛し、死ぬことを恐れ、神仏の前で願をかけ、輪で彼を守ったことが分かった。彼は人を見ると恥ずかしがったが、私だけは恐れず、他に人がいない時は私と話し、そこで半日もしないうちに、我々は馴染みになった。

我々がその時何を話したか分からないが、ただ閏土がとても喜んで、町に出てから見たことのない多くのものを見たと言ったのを覚えている。

翌日、私は彼に鳥を捕まえるよう頼んだ。彼は言った。

「それはできない。大雪が降らないと駄目だ。我々の砂地では、雪が降ると、私が空き地を掃き出して、短い棒で大きな竹の笊を支え、殻を撒いて、鳥が食べに来る時、遠くから棒に結んだ紐を引けば、鳥は竹笊の下に捕まる。何でもいる。稲鶏、角鶏、鳩、青い背の鳥…」

私はそこでまた雪が降るのを待ち焦がれた。

閏土はまた私に言った。

「今は寒すぎる。夏に我々のところに来なさい。昼間は海辺で貝殻を拾いに行く。赤いのも緑いのもあり、鬼見怖も観音手もある。夜は私と父さんで西瓜の番をする。あなたも行きなさい」

「泥棒の番を?」

「違う。道を歩く人が喉が渇いて瓜を一つ取って食べても、我々のところでは盗みとは言わない。番をするのは穴熊、ハリネズミ、猹だ。月夜に、聞いてごらん、ガリガリと音がしたら、猹が瓜を噛んでいるのだ。あなたは叉を握って、そっと歩いて行く…」

私はその時いわゆる猹というのがどんなものか知らなかった。今でも知らない。ただ何となく小犬のような形でとても凶猛だと思った。

「人を噛まないの?」

「叉があるからね。行って猹を見つけたら、刺すのだ。この畜生はとても利口で、あなたに向かって走ってきて、股の下をくぐり抜ける。その皮毛は油のように滑らかだ…」

私は天下にこんなに新鮮なことがあるとは知らなかった。海辺にこんなに色とりどりの貝殻があり、西瓜にこのような危険な経験があるとは。私は以前ただ果物屋で売られているのを知っているだけだった。

「我々の砂地では、潮が来る時になると、多くの跳魚がぴょんぴょん跳ね、皆カエルのような二本の足がある…」

ああ!閏土の心には無数の珍しいことがあり、それらは皆私の普段の友達が知らないことだった。彼らは何も知らず、閏土が海辺にいる時、彼らは皆私と同じように院子の高い塀に囲まれた四角い空だけを見ていた。

残念なことに正月が過ぎ、閏土は家に帰らなければならなくなった。私は激しく泣き、彼も台所に隠れて泣いて出てこようとしなかったが、結局父に連れて行かれた。その後彼は父に託して貝殻一包みと幾本かの美しい鳥の羽を私にくれ、私も一二度彼に物を送ったが、それ以来再び会うことはなかった。

今母が彼のことを口にしたので、私のこの児時の記憶が、突然すべて稲妻のように蘇り、美しい故郷を見たような気がした。私は返事をした。

「それは素晴らしい!彼は…どうしている?…」

「彼は?…彼の状況もあまり思わしくない…」母は言いながら、部屋の外を見た。「この人たちがまた来た。木器を買いに来ると言いながら、ついでに勝手に持って行くので、私は見に行かなければ」

母は立ち上がって出て行った。門外で幾人かの女の声がしたので、私は宏児を近くに呼んで雑談した。字が書けるか、出かけたいかと尋ねた。

「汽車に乗って行くの?」

「汽車に乗って行く」

「船は?」

「まず船に乗って…」

「はあ!この様子だ!髭がこんなに長くなった!」甲高い奇妙な声が突然大声で叫んだ。

私は驚いて急いで頭を上げると、頬骨が出て、薄い唇の、五十歳ぐらいの女が私の前に立っており、両手を腰に当て、スカートを着けず、両足を開いて、まさに製図器具の細い足の寂しいコンパスのようだった。

私は愕然とした。

「分からないの?私はあなたを抱いたことがあるのよ!」

私はますます愕然とした。幸い母も入ってきて、横から言った。

「彼は長年外に出ていて、みんな忘れてしまった。覚えているはずよ」そして私に向かって言った。「これは斜め向かいの楊二嫂で…豆腐屋をやっている」

ああ、思い出した。私が子供の時、斜め向かいの豆腐屋に確かに終日座っている楊二嫂がいて、人は皆彼女を「豆腐西施」と呼んでいた。しかし白粉を塗り、頬骨はこんなに高くなく、唇もこんなに薄くなかった。そして終日座っていたので、私はこのコンパスのような姿勢を見たことがなかった。その時人々は言った。彼女のおかげで、この豆腐屋の商売は非常に良いと。しかしこれは大体年齢の関係で、私は少しも感化を受けず、だから完全に忘れていたのだった。しかしコンパスは非常に不満で、軽蔑の表情を見せ、まるでフランス人がナポレオンを知らず、アメリカ人がワシントンを知らないのを嘲笑するように、冷笑して言った。

「忘れた?これは本当に貴人の目が高い…」

「そんなことは…私は…」私は慌てて立ち上がって言った。

「それじゃあ、あなたに言いましょう。迅哥児、あなたは身分が上がったのね。引っ越しは重くて大変だから、こんな古い木器なんか要らないでしょう。私にちょうだい。私たち庶民の家では使えるから」

「私は身分が上がったわけではありません。これらを売って、また…」

第3節

「あらまあ、あなたは道台の官職に就いたじゃないですか、それでもまだ裕福じゃないとおっしゃるの?あなたは今や三人の妾を持ち、外出すれば八人担ぎの大きな駕籠、それでもまだ裕福じゃないとおっしゃるの?まあ、何もかも私には隠せませんよ。」

私はもう何も言えないことを知り、口を閉ざして、黙って立っていた。

「あらまあ、本当に金持ちになればなるほど、一厘も手放そうとしない、一厘も手放そうとしないから、ますます金持ちになる……」コンパスは憤慨しながら身を翻し、ぶつぶつ言いながら、ゆっくりと外へ向かい、ついでに私の母の手袋一組を腰に差し込んで、出て行った。

その後もまた近所の本家や親戚が私を訪ねて来た。私は一方で応対し、暇を見つけては荷物を片付け、このようにして三、四日が過ぎた。

ある日は大変寒い午後で、私は昼食を済ませ、座って茶を飲んでいると、外から誰か入ってくるのを感じ、振り返って見た。見ると、思わず非常に驚き、慌てて立ち上がり、迎えに向かった。

やって来たのは閏土だった。一目見て閏土だと分かったが、しかし私の記憶の中の閏土ではなくなっていた。体格は倍になっていた。以前の紫色の丸顔は、既に灰色がかった黄色に変わり、しかも深いしわが加わっていた。目も彼の父親のように、周りが腫れて真っ赤だった。これは私も知っていることで、海辺で畑を耕す人は、終日海風に吹かれて、大抵このようになるのだ。頭には破れたフェルトの帽子をかぶり、身には極めて薄い綿入れ一枚だけで、全身震えていた。手には紙包みと長い煙管を持っていたが、その手も私の記憶にある血色の良い丸々とした手ではなく、太くて不器用で、しかもひび割れて、松の樹皮のようだった。

私はこの時とても興奮したが、どう言えばよいか分からず、ただこう言った:

「ああ!閏土兄さん、——来てくれたのか?……」

私は続いて多くの話をしたくて、数珠つなぎのように溢れ出そうとした:角鶏、跳ねる魚、貝殻、猹……しかし何かに遮られているような気がして、頭の中だけで回転し、口の外に出すことができなかった。

彼は立ち止まり、顔に喜びと侘しさの表情を浮かべ、唇を動かしたが、声を出さなかった。彼の態度は遂に恭しくなり、はっきりとこう呼んだ:

「旦那様!……」

私は寒気に打たれたようだった。私は分かった、我々の間には既に一層の悲しい厚い障壁が隔たっていることを。私も言葉が出なかった。

彼は振り返って言った:「水生、旦那様にお辞儀をしろ。」そして後ろに隠れていた子供を引っ張り出したが、これは正に二十年前の閏土で、ただ黄色く痩せて、首に銀の輪がないだけだった。「これは五番目の子で、世間を知らず、人見知りをして……」

母と宏児が階下に降りて来た。彼らも大方声を聞いたのだろう。

「奥様。お手紙は早くに受け取りました。私は本当に嬉しくてたまりませんでした。旦那様がお帰りになると知って……」閏土は言った。

「ああ、どうしてそんなに丁寧になったの。あなたたちは以前兄弟と呼び合っていたじゃないの?やはり昔通りに:迅兄さん。」母は嬉しそうに言った。

「ああ、奥様、本当に……これでは何の礼儀になりましょう。あの時は子供で、物事が分からなくて……」閏土は言いながら、また水生に前に出て挨拶をするよう呼んだが、その子供は恥ずかしがって、ぴったりと彼の背後に貼り付いていた。

「彼が水生?五番目の?皆知らない人で、人見知りも無理はない。やはり宏児と一緒に歩き回らせましょう。」母は言った。

宏児はこの話を聞くと、水生を誘いに来たが、水生はあっさりと彼と一緒に出て行った。母は閏土に座るよう言うと、彼は少し躊躇した後、遂に座り、長い煙管を卓の傍らに立てかけ、紙包みを差し出して言った:

「冬には何もございません。この少しの干した青豆は自家製で、そこで干したものです。旦那様に……。」

私は彼の境遇を尋ねた。彼はただ首を振るだけだった。

「非常に苦しいです。六番目の子供も手伝えるようになりましたが、やはり食べるのに足りません……また不穏で……どこでも金が要り、決まりもありません……収穫も悪いです。作物を作って、担いで売りに行っても、何度も税を納めなければならず、元手を失います。売りに行かなければ、また腐らせるだけです……」

彼はただ首を振るだけで、顔には多くのしわが刻まれているが、全く動かず、石像のようだった。彼は大方ただ苦しいと感じているだけで、しかしそれを言い表すことができず、しばらく沈黙した後、煙管を取り上げて黙々と煙草を吸った。

母は彼に尋ね、彼の家の事務が忙しく、明日には帰らなければならないこと、また昼食をまだ取っていないことを知り、自分で台所に行って飯を炒めて食べるよう言った。

彼は出て行った。母と私は彼の境遇を嘆息した:多子、飢饉、苛酷な税、兵匪、官紳、全てが彼を人形のように苦しめていた。母は私に言った、持参する必要のないものは全て彼にあげてよく、彼に自分で選ばせればよいと。

午後、彼はいくつかの物を選んだ:長テーブル二つ、椅子四つ、香炉と燭台一組、天秤一本。彼はまた全ての草灰を欲しがった(我々のところでは稲藁を燃やして飯を炊くが、その灰は砂地の肥料になる)。我々が出発する時、彼が船で運びに来ることになった。

夜間、我々はまた雑談をしたが、どれもたいしたことのない話だった。翌朝早く、彼は水生を連れて帰って行った。

また九日が過ぎ、我々の出発の日となった。閏土は朝早くやって来たが、水生は一緒に来ず、ただ五歳の娘を連れて船を見張っていた。我々は終日とても忙しく、もう談話の暇はなかった。来客も少なくなく、見送りに来る者、物を取りに来る者、見送りと物を取りに来るのを兼ねた者がいた。夕方我々が船に乗る時まで、この古い家の中の破れた古い大小粗細の物は、既に一掃されて空になっていた。

我々の船は前へ進み、両岸の青い山は黄昏の中で、皆深い藍色に装われ、連なって船の後方へ退いて行った。

宏児と私は船窓に寄りかかり、一緒に外の朧な風景を見ていると、彼は突然尋ねた:

「おじさん!僕たちはいつ帰って来るの?」

「帰って来る?どうしてまだ出発もしていないのに帰ることを考えているんだ。」

「でも、水生が僕を彼の家に遊びに来いと約束したんだもん……」彼は大きな黒い目を見開いて、ぼんやりと考えていた。

私と母もどこか茫然とし、そこでまた閏土のことが話題に上った。母は言った、あの豆腐西施の楊二嫂は、我が家が荷物をまとめ始めて以来、毎日必ずやって来ていたが、一昨日彼女が灰の山の中から十数個の椀や皿を掘り出し、議論の後、それは閏土が埋めたものだと断定し、彼が灰を運ぶ時に一緒に家に持ち帰ることができると言った。楊二嫂はこのことを発見し、自分でとても手柄だと思い、その狗気殺(これは我々のところで鶏を飼う器具で、木の盆の上に柵があり、中に餌を入れ、鶏は首を伸ばして啄むことができるが、犬はできず、ただ見て悔しがるだけ)を持って飛ぶように走って行った。あんなに高い纏足をしていながら、よくもあんなに速く走れたものだ。

古い家は私からますます遠くなった。故郷の山水も皆だんだん私から遠ざかって行ったが、私はそれほど愛惜の念を感じなかった。私はただ自分の四面に見えない高い壁があって、私を孤独な身に隔てて、非常に息苦しくさせているのを感じた。あのスイカ畑の銀の首輪をした小英雄の影像は、私には本来十分に鮮明だったのに、今は突然朧になり、また私を非常に悲しくさせた。

母と宏児は眠ってしまった。

私は横になり、船底の潺潺たる水音を聞いていて、自分が自分の道を歩んでいることを知った。私は思った:私はついに閏土とこれほどまでに隔絶してしまったが、しかし我々の後世代はまだ一つ心だ、宏児は正に水生を思っているではないか。私は彼らが私のようにもう皆隔たってしまうことがないよう望む……しかし私はまた彼らが一つ心であるために、皆私のような辛苦に翻弄される生活をすることも願わず、皆閏土のような辛苦に麻痺した生活をすることも願わず、皆他人のような辛苦に恣意的な生活をすることも願わない。彼らには新しい生活があるべきで、我々が経験したことのない生活を。

私は希望を思うと、突然恐ろしくなった。閏土が香炉と燭台を欲しがった時、私はまだ心の中で彼を笑い、彼はいつも偶像を崇拝し、いつまでも忘れないのだと思っていた。今私のいわゆる希望も、私自身が手作りした偶像ではないか?ただ彼の願望は身近で、私の願望は漠然としているだけだ。

私は朧の中で、目の前に海辺の碧緑の砂地が展開し、その上の深い青空に金黄色の満月が懸かっているのを見た。私は思った:希望は本来あるとかないとかいうものではない。これは正に地上の道と同じで、実は地上には本来道はない。歩く人が多くなって、それで道となったのだ。

(一九二一年一月。)

【凧】

北京の冬、地上にはまだ雪が積もり、灰黒色の禿げた木の枝が晴れ渡った空にまばらに伸び、遠くに一、二の凧が浮かんでいるのは、私には一種の驚きと悲哀である。

故郷の凧の季節は春の二月で、もしさらさらという風車の音が聞こえれば、仰ぎ見れば淡い墨色の蟹凧や薄青色の蜈蚣凧を見ることができた。また寂しい瓦片凧もあり、風車もなく、とても低く揚げられ、ぽつんと憔悴して哀れな様子を呈していた。しかしこの時地上の楊柳は既に芽吹き、早い山桃も多く蕾をつけ、子供たちの天上の飾りと照応して、一面の春日の温かさを成していた。私は今どこにいるのか?四面はまだ全て厳冬の殺伐で、しかし久しく別れた故郷の久しく逝った春が、この空に漂っているのだった。

しかし私は元来凧揚げを愛さず、愛さないだけでなく嫌悪していた。なぜなら私はこれを出来の悪い子供がする遊びだと思っていたからだ。私と反対なのは私の弟で、彼はその時大体十歳前後であったろう、病がちで、耐えられないほど痩せていたが、しかし最も凧を好み、自分では買えず、私も許さないので、彼はただ小さな口を開けて、ぼんやりと空中を見つめて夢中になり、時には半日にも及んだ。遠くの蟹凧が突然落ちてくると、彼は驚呼し、二つの瓦片凧の絡まりがほどけると、彼は嬉しくて跳び跳ねた。彼のこうした様子は、私から見れば皆笑いものであり、卑しむべきものであった。

ある日、私は突然思い出した。どうやら何日も彼をあまり見かけないようだが、しかし彼が後の庭で枯れ竹を拾っているのを見たのを覚えている。私はいきなり大悟したようになり、人があまり行かない雑物を積んだ小屋に向かって走って行き、扉を押し開けると、果たして塵に埋もれた什器の山の中に彼を発見した。彼は大きな四角い台に向かって、小さな腰掛けに座っていた。とても慌てて立ち上がり、顔色を失って縮こまった。大きな台の傍らには胡蝶凧の竹骨が立てかけられ、まだ紙を張っていなかった。台の上には目玉に使う小さな風車一対があり、まさに赤い紙紐で飾り付けているところで、完成間近だった。私は秘密を暴いた満足感の中で、また彼が私の目を欺き、このように苦心して出来の悪い子供の遊びを密かに作っていることに憤怒した。私は即座に手を伸ばして胡蝶の翼骨の一本を折り、また風車を地面に投げつけて踏み潰した。年長であることといい、力といい、彼は全て私に敵わなかった。私は当然完全な勝利を得て、そこで傲然と歩き出し、彼を絶望して小屋に立たせたままにした。その後彼がどうなったか、私は知らないし、気にも留めなかった。

しかし私の懲罰はついにやって来た。我々が別れて久しい後、私は既に中年で、不幸にもたまたま外国の児童について論じた本を見て、初めて遊戯は児童の最も正当な行為であり、玩具は児童の天使であることを知った。そこで二十年来全く思い出すことのなかった幼い頃の精神への虐殺のこの一幕が、突然目の前に展開し、私の心もまた同時に鉛の塊となったかのように、とても重く重く墜ちて行った。

しかし心は墜ちきって断絶するまでには至らず、ただとても重く重く墜ちて、墜ちていた。

私は償いの方法も知っている:彼に凧を贈り、彼の凧揚げに賛成し、勧め、私も彼と一緒に揚げるのだ。我々は叫び、走り、笑う。——しかし彼はその時既に私と同様に、とうに髭を生やしていた。

私はまた別の償いの方法があることも知っている:彼の寛恕を求めに行き、彼が「私は全然あなたを恨んでいませんよ」と言うのを待つのだ。そうすれば、私の心は必ず軽やかになるだろう。これは確かに実行可能な方法である。ある時、我々が会った時、顔にはもう皆「生」の辛苦の多くの線が刻まれていて、私の心はとても重く、我々は次第に子供の頃の昔話を始めた。私はこの件について話し、少年時代の愚かさを自分で語った。「私は全然あなたを恨んでいませんよ。」私は思った、彼はそう言うつもりで、私は即座に寛恕を受け、私の心もこれから楽になるだろうと。

「そんなことがあったでしょうか?」彼は驚いて笑いながら言った。まるで他人の話を傍聴しているかのようだった。彼は何も覚えていなかった。

全く忘却し、少しの怨恨もなく、また何の寛恕があり得るだろうか?恨みのない恕は、嘘であろう。

私はまだ何を希求することができるだろうか?私の心はただ重くあるしかなかった。

今、故郷の春がまたこの異郷の空にある。既に私に久しく逝った児時の回憶を与え、あわせてまた掴むことのできない悲哀をも運んでくる。私はむしろ殺伐たる厳冬の中に隠れていた方がよいかもしれない。——しかし、四面はまた明らかに厳冬で、まさに私に非常な寒威と冷気を与えている。

(一九二五年一月二十四日。)

【一九二二年】

【「学衡」を見積もる】

私は二月四日の『晨報副刊』で式芬先生の雑感を見て、天下にこれほど頑迷な老先生がいて、世情に疎いことがこれほどまでとは知らず、まだ『学衡』の諸公と学理を談じようとしているのに、大いに訝しく思った。そもそも『学衡』なるものは、私の見るところでは、実は「聚宝門」付近に集まったいくつかの偽骨董が放つ偽の毫光に過ぎない。自ら「衡」と称するといえども、自身の秤星すらまだ釘付けできておらず、ましてや彼らが衡った軽重の是非について言うまでもない。だから、決して較正する必要はなく、ただ見積もってみればすぐ分かる。

『弁言』に言う:「籀繹の作は必ず雅音に趨いて文を崇ぶ」と。「籀繹」がこうであるなら、述作は推して知るべし。そもそも文とは、たとえ「道を載せる」ことができなくても、「意を達する」べきであるが、不幸にも諸公は国学を張皇するといえども、筆下はどうしても疎通を欠き、自ら了することができず、どうして人を「衡る」ことができようか。これは実に大きな欠点である。見よ、諸公はどう言うか——

『弁言』に云う:「雑誌近例弁以宣言」と。按ずるに宣言とは布告のことで、弁とは周人が頭上に戴く瓜皮帽子のような帽子で、明らかに頭上のものである。だから「弁言」は序のことで、「雑誌近例」の宣言とは異なるのに、並べて一談とするのは、あまりに汗漫である。『新文化提倡者を評す』文中に言う:「或いは筆を操って待つ。一つ一つの新書が出版される度に、必ずこれに序をなし、以てその後進を領袖する責を尽くす。顧亭林曰く、人の患いは人のために序をなすを好むにあり。その此れを謂うか。故に彼等に学問の標準と良知を語るは、なお商賈に道德を語り、娼妓に貞操を語るがごときなり。」と。元来序を一篇作って「以てその後進を領袖する責を尽くす」ことに、こんな大罪案があるのである。しかし諸公はまた何ゆえ「突として弁たり」の「言」をし始めたのであろうか?前文の推論に照らせば、それなら私の質問は、まさに「商賈に道徳を語り、娼妓に貞操を語るがごとき」ことになってしまう。

『中国の社会主義提唱の商榷』中に言う:「凡そ理想学説の発生は、皆その歴史上の背景がある。決して懸空虚構し、ユートピアの邦を造り、病なき呻きをなす者ではない。」と。調べるに「英吉利」のモアは、『ユートピア』を作ったのであって、之乎者也と言いつつ、やめることができないのなら、別に古典を探すのも難しいことではないのに、なぜわざわざ中に楦を加えるのか。古には「ユートピア」なるものを聞いたことがなく、今は「ニューギニア」とも言わない。奇句これかくのごとく、真に「病ある呻き」と言うべきである。

『国学摭譚』中に言う:「三皇寥廓にして無極なりといえども、五帝は搢紳先生これを言い難し。」と。人にして「寥廓」たり得るとは、既に奇聞であるが、第二句はさらに費解で、三皇の事を、五帝と搢紳先生が皆言い難いのか、それとも五帝の事を、搢紳先生も言い難いのか分からない。情理を推測するに、後説に従うべきであろうが、しかし太史公のいわゆる「搢紳先生言い難し」とは、「百家言黄帝」を指すのであって、五帝を指すのではない。だから『史記』を開けば、堂々たる一篇の『五帝本紀』があり、また何ぞ曾て「言い難い」ことがあろうか。まさか太史公は漢朝において、下等社会の人と算すべきだろうか?

『白鹿洞で虎を語るを記す』中に言う:「諸父老よく健談す。談多く虎を称す。その抉噬の状を摹示するに当たりて、聞く者で色変せざる者は鮮し。退きてこれを記すも、また詼諧の類に資するなり。」と。姑くその「能」「健」「談」「称」、床上安床を論ぜずとも、「抉噬の状」は結局記されず、「変色」の事は、ただ「詼諧に資する」だけというのも、事情からあまりに遠いと言える。もしただ「詼諧に資する」だけなら、先の聞いて色変した者は、単なる馬鹿者ということになる。『記』にまた云う:「伥者は、新鬼にして虎牙に膏る者なり。」と。新鬼になったばかりで、すぐ「虎牙に膏る」とは、実に憐れむべきである。それでは、虎は人を食うだけでなく、鬼をも食うということになる。これは古来未知の新発見である。

第4節

《漁丈人行》の冒頭にこうある。「楚王無道にして伍奢を殺す。覆巣の下に完き家なし。」この「完き家なし」は「完き卵なし」より目新しいものの、語法上の誤りは免れまい。もし「家」が鳥の巣のことであれば重複の過ちを犯し、しかも「之下」の二字の置き所がなくなる。もし人家のことだとすれば、落ちてきた鳥の巣はあまりにも重すぎることになろう。大鵬金翅鳥(『説岳全伝』に見える)を除けば、彼らの家屋を押し潰せるほどの大きな巣など断じてあり得ない。もし押韻のためやむを得なかったというのなら、敢えて言おう——これは「掛脚韻」というものだ。押韻がここまで来れば、『詩韻合璧』の「六麻」を開いて、「完き蛇なし」「完き瓜なし」「完き叉なし」と書いたとて、何でも構わないことになる。

さらに《浙江採集植物遊記》に至っては、題名からして通じない。採集には務めがあり、漫遊ではないのだから、古人が記を作る際には、務めと遊びを並べ挙げず、地名と遊びを結び付けた。廬山・峨眉は山であるから「紀遊」と言い、硫黄を採り碑を訪ねるのは務めであるから「日記」と言った。採集の折に遊覧も兼ねるとはいえ、それは主たる事務の中に包含されるべきものであり、一つ一つ列挙してしまえば「古」ではなくなる。例えばこの記の中でも食事や睡眠のことに触れているが、題名を《浙江採集植物遊食眠記》とするわけにはいくまい。

以上は手当たり次第に拾い上げた事に過ぎず、細かく挙げていけばさらに筆も墨も時間も労力も費やすことになり、割に合わないので中止する。したがって諸公の論理については指摘する必要もない。文章すら通じぬものに、理屈をどこに託すというのか。辺鄙な田舎の中学生の成績でさえ、ここまでひどくはあるまい。

つまるところ、諸公が新文化を攻撃し旧学問を喧伝するのは、自己矛盾さえしなければ、一つの主張として成り立たぬこともない。惜しむらくは旧学への門径もなく、主張を唱える資格さえ備わっていないことだ。もし文字の通じぬ者でも国粋の知己と見なされるなら、国粋の方がかえって恥ずかしくてたまるまい!一通り「衡」ってみたところ、「衡」り出したのは自分自身の軽さだけであって、新文化には何の損傷もなく、国粋にも遠く及ばない。

私が諸公に感服するのはただ一点——この手のものを堂々と発表する勇気があることだ。

【ロシア歌劇団のために】

私は知らない——実のところ知っていると言ってもよいのだが、敢えてこう言おう——ロシア歌劇団がなぜ故郷を離れ、この美妙な芸術を携えて中国まで来て、わずかなお茶代を稼ごうとするのかを。あなたたちはやはり帰った方がよい!

私が第一舞台にロシアの歌劇を観に行ったのは、四日の夜、開演二日目のことであった。

門を入るなり、異様な心持ちが湧き起こった。中央に三十余人、傍らには大勢の兵士がいたが、楼上の四等五等席にはなお三百人余りの観客がいた。

初めて北京に来たある人が、間もなくこう言った。「私はどうやら砂漠に住んでいるようだ。」

そうだ、砂漠はここにある。

花もなく、詩もなく、光もなく、熱もない。芸術もなく、さらに趣味もなく、さらには好奇心すらない。

重い砂……

私はなんと臆病な人間であろうか。この時私は思った——もし私が歌い手であったなら、私の声はきっと消え沈んでしまうだろう、と。

砂漠はここにある。

しかし彼らは舞い踊った、歌い上げた。美しく、誠実に、そして勇猛に。

流れ動き、歌い吟ずる雲……

兵士たちが手を叩いた、接吻の場面で——兵士たちがまた手を叩いた、また接吻の場面で。

兵士でない者も何人か手を叩いた、やはり接吻の場面で。そのうちの一人は最も大きな音で、兵士たちを凌いでいた。

私はなんと偏狭な人間であろうか。この時私は思った——もし私が歌い手であったなら、きっと竪琴をしまい込み、歌声を沈黙させてしまうだろう、と。さもなくば、私は反抗の歌を歌うだろう。

そして本当に、私は私の反抗の歌を歌ったのだ!

砂漠はここにある、恐ろしい……

しかし彼らは舞い踊った、歌い上げた。美しく、誠実に、そして勇猛に。

漂流し転々とする芸術家たちよ、寂寞のうちに歌い舞って、もう帰りたい気持ちになっているだろう。あなたたちにはおそらく復讐の意図はないだろうが、一度帰ってしまえば、我々もまた復讐されたことになるのだ。

砂漠よりもさらに恐ろしい人の世がここにある。

ああ!これこそ私の砂漠に対する反抗の歌であり、見知った者にも見知らぬ者にも同感を持つ友への呼びかけであり、寂寞のただ中を彷徨う歌い手たちへの広告でもある。

(四月九日。)

【無題】

私立学校の遊芸大会の二日目、私も何人かの友人と中央公園へ足を運んだ。

私は入口に「崑曲」の二文字が貼られた部屋の外に立っていた。前は壁で、一人の男が全力で私の背後から押し上がろうとし、息もできぬほど押し付けられた。彼は私を実体のない霊魂と思ったらしいが、それは少々間違いと言わざるを得ない。

帰りに子供たちにお菓子を分けてやろうと思い、ある製糖会社に買い物に行った。買ったのは「黄枚朱古律三文治」。

これは箱に書かれた名前で、いかにも神秘的な趣がある。だが実はそうでもなく、英語で言えばChocolate apricot sandwichに過ぎない。

この「黄枚朱古律三文治」を八箱買い定め、代金を払い、衣のポケットに収めた。不幸にも私の視線がふと横に逸れてしまい、その会社の店員が五本の指を広げ、私が買わなかった残りの「黄枚朱古律三文治」すべてを覆い隠しているのが目に入った。

これは明らかに私への侮辱だ!しかし実際のところ、これを侮辱と受け取るべきではないかもしれない。なぜなら、もし彼が覆い隠さなければ混乱の中で永遠に盗まれないという保証は私にはできないし、私自身が泥棒でないとも証明できず、過去・現在そして未来にわたって盗みをしないとも自ら保証できないからだ。

だがその時、私は不愉快になり、偽りの笑みを浮かべてこの店員の肩を叩いて言った。

「その必要はないですよ、私は余分に一つ取ったりは決してしませんから……」

彼は「いえいえ、とんでもない……」と言って慌てて手を引っ込め、そして恥じ入った。これは全く予想外であった——私は彼がきっと言い張るだろうと思っていたのだ——そこで私もまた恥じ入った。

この種の恥じらいは、往々にして人類を疑う私の頭上に落ちる一滴の冷水となり、これは私にとって損なことである。

夜、一人で部屋に座り、人々から少なくとも一丈余りは離れていた。分け残りの「黄枚朱古律三文治」を食べながら、トルストイの本を数頁読み、次第に私の周囲を遠く人類の希望が包んでいるような気がしてきた。

(四月十二日。)

【「以て其の艱深を震わさんとす」】

上海の租界にいる「国学家」たちは、白話文を書く者はたいてい青年で、古書など読んだことがないに違いないと思い込み、いわゆる「国学」で彼らを脅かそうとした。

『時報』にある涵秋の署名による《文字感想》が載り、その中にこんな一節がある。

「新学家は国学を薄んじて足らざるものとし故に鉤輈格磔の文を為して以て其の艱深を震わさんとするなり一読之すれば嘔を欲し再読之すれば昏昏として睡り去るのみ」

拝承した。私は以前、「鉤輈格磔」とは古人が鷓鴣の鳴き声を形容するのに用いたもので、他に深い意味はないと思っていた。この《文字感想》のおかげで、これは鷓鴣が「艱深」に鳴くのを咎めたものだとようやく分かった。しかしいずれにせよ、「艱深」が人に「嘔を欲」させることはあり得ない。鷓鴣の鳴き声を聞いて嘔吐する者など世にいないし、文章で言っても、「粤れ稽古に若く」と注釈が紛々と付き、「絳すなわち東雍」と句点が途切れぬのは、まさに艱深と言うべきだが、これで胃がむかついたという話は聞いたことがない。嘔吐の原因は他人の文章の「艱深」にあるのではなく、自分自身の体内にある。おそらく「国学」を蓄え過ぎて、筆が追いつかず、溢れ出したのであろう。

「以て其の艱深を震わさんとするなり」の「震」の字は、国学の門外漢から見ても意味が通じないが、植字工の手違いかもしれない。排字印刷も新学なのだから、やはり「以て其の艱深を震わさん」としてしまうのかもしれぬ。

さもなくば、このような「国学」は、艱深ではないものの悪文には違いなく、まさに「一読之すれば嘔を欲し」、再読之すれば必ず嘔するであろう。

国学よ国学よ、新学家はすでに「薄んじて足らざるものとし」、国学家もまた道いて亨くし能わず、汝はまことに道窮まり途尽きようとしているのだ!

(九月二十日。)

【いわゆる「国学」】

今日突如現れた「国学家」たちのいわゆる「国学」とは何であるか?

一つは商人と遺老たちが数十部の旧書を翻刻して金儲けをすること、もう一つは洋場の文豪がまた何篇かの鴛鴦蝴蝶派の小説を書いて出版することである。

商人や遺老の刻書は書籍の骨董化であり、重きを置くのは書籍ではなく骨董である。遺老に金があれば、あるいは自ら楽しむに過ぎないかもしれないが、商人はこれを大々的に宣伝して利を貪る。さらに茶商や塩商など、もとより「士類」からは歯牙にもかけられぬ輩が、今や新旧紛擾に乗じて、刻書を名目に遺老・遺少の「士林」に潜り込もうとしている。彼らが刻す書にはいずれも民国の年月がなく、元版か清版か判別できず、すべて骨董の趣で、少なくとも一冊二、三元、綿連紙に錦の帙、古色蒼然として、学生には手が出ない。これが彼らのいわゆる「国学」である。

しかし抜け目のない商人は学生の金も決して見逃さず、粗悪な紙と墨で何とかの「菁華」だの何とかの「大全」だのを別に刷って搾り取る。定価はさほどでもないが、紙と墨を比べれば高い買い物だ。これらの「国学」書の校勘となると、新学家は頼りにならず、当然上海のいわゆる「国学家」の手になるわけだが、誤字続出、破句連綿(用いているのは新式句読点ではない)、まったく若者を愚弄しているようなものだ。これが彼らのいわゆる「国学」である。

洋場でかつて文豪と称された者たちは、「卿卿我我」「蝴蝶鴛鴦」の類を確かに少々書いたが、洋場の始まって以来、誰もこれらの文章(?)を国学と呼んだことはなく、彼ら自身も「国学家」を自称してはいなかった。今やなぜか忽然として奇想天外にも、塩商や茶商に倣い、何の根拠もなく「国学家」の列に割り込もうとしている。しかし事実は惨憺たるもので、彼らのいわゆる国学とは、「拆白の事は各処に皆有るも上海の一隅を以て最も甚しとなす(中略)余は課余の暇に筆墨を浪費するを惜しまず事実を編纂して一篇の小説を作り以て閲者に饗す想うに亦閲者の楽しんで聞く所ならん」(原本は各句に密に圏点あり、今は省略、排工を省くため、読者諒とされたし。)

「国学」とはかくの如きものに過ぎないのか?

試みに歴史の《儒林伝》や《文苑伝》を繙いてみるがよい。旧書を骨董扱いする鴻儒がいたか? 拆白を以て読者に饗する文士がいたか?

もし今年から、これらが「国学」だと言うのなら、それこそまた「新」しい前例というものだ。あなたたちは「国学」を講じているのではないのか?

【童謡の「反動」】

一 童謡 胡懐琛

「お月さま!お月さま!

もう半分はどこへ行ったの?」

「人に盗まれたよ。」

「盗んで何にするの?」

「鏡にして映すのさ。」

二 反動歌 子供

空に半分のお月さま、

「破鏡天に飛ぶ」かと思えば、

なんと人に盗まれて地上に下りたのか。

面白いなあ、面白いなあ、鏡になったとさ!

でも僕は丸い鏡も四角い鏡も長方形の鏡も八角の鏡も六角の鏡も菱花式の鏡も宝相花式の鏡も見たことがあるけれど、

半月形の鏡はまだ見たことがないぞ。

僕はここにおいて甚だ面白くないのである!

謹んで案ずるに、子供はわずかに新潮に触れただけで、たちまち妄りに詰難を敢えてし、人心古からず、まことに慨然たるべし!しかし原詩を拝読するに、小さな誤りも存す。もし第二句を「二つの半分ともどこへ行ったの」と改めれば、すなわち全璧となろう。胡先生は夙に改削に長けておられるゆえ、鄙言を河漢とはされまい。夏暦中秋前五日、某生謹注。

(十月九日。)

【「一是の学説」】

私は『学灯』で呉宓君の《新文化運動の反応》を駁した文章を見てから、『中華新報』を探して彼の原文を読んだ。

それは浩々洋々たる長文で、一万字を超えるだろう——しかも作者呉宓君の写真まで載っていた。記者はまた論の前にこう紹介していた。「涇陽の呉宓君は米国ハーバード大学の修士にして現在国立東南大学西洋文学教授なり。君は既に西方文学に精通してその神髄を得、国学もまた涵養甚だ深し。近ごろ学衡雑誌の主撰となり実学の提唱を任となし、時論これを崇む」と。

しかしこの大文の内容は甚だ簡単である。大意を言えば、新文化はもとより提唱してもよいが、提唱する者は「博大なる眼光、寛宏なる態度を以て、力を学術に注ぎ、深く精研し、その全体を観て貫通澈悟し、しかる後に情を平らかにし理を衡り、中を執りて物を馭し、一是の学説を造成し、中西の精華を融合して、一国一時の用に供すべし」というのである。しかるに恨むべきは「近年いわゆる新文化運動なる者あり。その偏激なる主張に本づき、宣伝の良法を佐とし……加うるに新を喜び盲従する者の多きをもって」忽ち声勢浩大となった。思うに「物極まれば必ず反す。理に固より然り」というわけで、「近ごろ新文化運動を懐疑し批評する書報漸く多し」となった。これを「新文化運動の反応」と謂うのである。しかし「また、いわゆる反応とは反抗の謂いにあらず……読者幸いにわが論がここに列するを以て、遂にこれを新文化に賛成せざる者と疑うなかれ」云々。

反応の書報は全部で七種挙げられており、大体においていずれも「中を執りて物を馭し」、「正軌」の新文化を宣伝するものである。ここで私も一通り紹介しよう。一、『民心週報』、二、『経世報』、三、『亜洲学術雑誌』、四、『史地学報』、五、『文哲学報』、六、『学衡』、七、『湘君』。

これ以外は、呉君のこの七種の書報に対する「情を平らかにし理を衡る」批評(?)である。例えば『民心週報』について、「発刊より停版に至るまで、小説及び一、二の来稿を除き、全て文言を用い、いわゆる新式標点を用いず。この一端だけでも、新潮がまさに盛んなる時に、砥柱中流と謂うべし」と。『湘君』が白話と標点を用いていることについては、また別の理屈があり、それは「『学衡』は事理の真に本づく、故に粗劣なる白話及び英文標点を拒斥す。『湘君』は文芸の美を求む、故に通妥なる白話及び新式標点を兼用す」というのだ。つまるところ、主張が偏激であれば標点も偏激となり、その白話は自ずと「通妥」でなくなる。例えば私の白話など、通妥からは程遠いし、私の標点は「英文標点」というわけだ。

しかし最も「貫通澈悟」に富むのは、『経世報』を引っ張り出して「反応」に仕立てたことだ。『経世報』が出版された頃はまだ「万悪は孝を先となす」という流言はなく、彼らは早くから崇聖の高論を多く発していた。惜しむらくは今や日刊から月刊になり、実に萎縮の様相を呈している。「その君臣の倫に於いて、別に新解を下す」とか、「『亜洲学術雑誌』はその牽強付会を議し、必ず君を以て帝王となす」というのは、実際のところ誤っていない。これこそ「新文化の反応」と言えるのだが、呉君はまた「則ち過てり」とする。それこそ自分が「則ち過てり」なのだ。時代の関係上、当時の「君」は当然帝王であって大総統ではなかった。また民国以前の議論も、時代の関係上、自ずと革命の精神を多く含んでおり、『国粋学報』もその一つだが、呉君が学術を論じながら革命にも触れるのを咎めるのは、やはり時間の前後を過度に「融合」してしまった結果である。

このほかにもう一つ、まるで見識のないところがある。それは『長青』『紅』『快活』『礼拝六』等、近ごろ風起雲湧する書報を遺漏していることだ。これらはいずれも実に「新文化運動の反応」であり、しかも「通妥なる白話」を用いているのだ。

(十一月三日。)

【分からない音訳】

およそ一つの事があって、永遠にこんがらがって解きほぐせぬものは、おそらく我が中国に勝るところはあるまい。

第5節

一九二七年

無声の中国

――二月十六日香港青年会にて講演

こんな聞くに値しないつまらない講演を、こんな大雨の中、これほど多くの方々が聞きにいらしてくださった。まず鄭重に感謝の意を表さなければならない。

今日の題目は「無声の中国」である。

今、浙江・陝西では戦争が行われている。あちらの人民は泣いているのか笑っているのか、我々にはわからない。香港は太平のようだが、ここに住む中国人が快適なのかそうでないのか、他の人にもわからない。

自分の思想や感情を皆に知らせるには文章を用いなければならないが、文章で意を達することは今の一般の中国人にはまだできない。これも我々を責められない。なぜならそもそもあの文字が、祖先から伝えられた恐るべき遺産だからだ。人々は何年もの工夫を費やしてもなお運用が難しい。難しいので多くの人はそれを放棄し、自分の姓すら張なのか章なのかはっきり書けない者さえいる。あるいは全く書けず、「Chang」と言うだけだ。話すことはできても数人にしか聞こえず、遠くの人々は知らない。結局は無声と同じだ。また難しいために宝物のように扱い、手品のように之乎者也を弄ぶ者もいるが、わかるのは数人だけ――しかも本当にわかるかどうかも定かでない――大多数の人にはわからない。結局これも無声と同じである。

文明人と野蛮人の区別の一つは、文明人には文字があり、思想や感情を大衆に、将来に伝えられることだ。中国には文字があるが、今や大衆と無関係になっている。用いるのは難解な古文で、語るのは陳旧な古い思想だ。あらゆる声は過去のものであり、零に等しい。だから皆が互いに理解できず、一盤の散砂のようになっている。

文章を骨董品として、人に読ませない、わからせないのが良いとするのも面白いことかもしれない。しかしその結果は、我々がすでに言いたいことを言えなくなってしまったことだ。我々は損害を受け侮辱を受けても、言うべき言葉を言い出せない。最近のことで言えば、日清戦争、義和団事件、民元革命といった大事件について、今に至るまでまともな著作があるだろうか。民国以来も誰も声を上げない。むしろ外国では中国のことがよく語られるが、それは中国人自身の声ではなく、他人の声である。

この声を出せない弊害は、明朝にはまだこれほど深刻ではなかった。彼らはまだ比較的に言いたいことを言えた。満洲人が異族として中国に侵入してから、歴史を語る者、特に宋末の事を語る者が殺され、時事を語る者も当然殺された。だから乾隆年間には人民はますます文章で語ることを恐れるようになった。いわゆる読書人は隠れて経を読み、古書を校刊し、当時と何の関係もない古い時代の文章を書くしかなかった。新しい意見があっても駄目で、韓愈か蘇軾の模倣しかなかった。韓愈や蘇軾が自分の文章で当時言うべきことを言ったのは当然だが、我々は唐宋時代の人間ではない。どうして我々と無関係の時代の文章が書けるのか。たとえうまく書けても唐宋時代の声、韓愈や蘇軾の声であって、我々現代の声ではない。しかし今に至るも中国人はこのような古い手品を弄んでいる。人はいるが声がない。寂として静かだ。――人に声がないことがありうるか。ない。それは死んだのだ。遠慮して言えば、すでに啞になったのだ。

この多年無声の中国を回復するのは容易ではない。死んだ人に「生き返れ」と命じるようなものだ。宗教でいう「奇跡」を現出させるようなものだと思う。

この仕事を最初に試みたのは「五四運動」の前年、胡適之先生が提唱した「文学革命」である。「革命」の二字はここでは恐ろしいかどうかわからないが、文学と二字連なった「革命」はフランス革命の「革命」ほど恐ろしくはない。単に革新にすぎない。一字替えれば平和になるので「文学革新」と呼ぼう。その大意もさして恐ろしくない。要するに、古代の死者の言葉を苦心して学ぶ必要はなく、現代の生きた人間の言葉を話すべきだ。文章を骨董品と見なさず、わかりやすい白話の文章を書くべきだということだ。しかし文学革新だけでは不十分で、腐敗した思想は古文でも白話でも書けるからだ。そこで後に思想革新を提唱する者が現れ、思想革新の結果、社会革新運動が生まれた。

しかし中国では文学革新を言い出しただけで反動が起きた。ただし白話文は次第に流行し始め、さほど阻害されなかった。なぜか。同時に銭玄同先生が漢字の廃止とローマ字母の採用を提唱したからだ。改革を嫌う中国人がこれを聞いて大騒ぎとなり、比較的穏やかな文学革命を見逃して銭玄同を罵倒するのに全力を注いだ。白話文はこの機会に乗じて多くの敵を減らし、かえって障害なく流行できた。

中国人の性分は調和や折中を好む。たとえばこの部屋が暗すぎるからここに窓を開けようと言えば、皆決して許さない。しかし屋根を取り壊そうと主張すれば、彼らは調和しようとして窓を開けることに同意する。より激烈な主張がなければ、穏やかな改革すらしようとしないのだ。白話文が通用したのは漢字を廃してローマ字母を用いるという議論があったからだ。

青年諸君はまず中国を有声の中国にすることができる。大胆に話し、勇敢に進み、一切の利害を忘れ、古人を押しのけて、自分の真心の言葉を発表するのだ。――真は容易ではない。態度にしても容易に真にはなれない。しかし比較的真の言葉を語り、比較的真の声を発することはできる。真の声だけが中国の人と世界の人を動かすことができる。真の声があって初めて世界の人と共にこの世界に生きることができるのだ。

今声のない民族がどの民族か考えてみよう。エジプト人の声が聞こえるか。安南、朝鮮の声が聞こえるか。インドはタゴール以外に声があるか。

我々にはこれから二つの道しかない。古文を抱いて死ぬか、古文を捨てて生きるかだ。

どう書くか

――夜記の一

何を書くかが一つの問題であり、どう書くかもまた一つの問題である。

今年はあまりものを書かず、『莽原』に書いたものは特に少ない。その原因は自分でわかっている。言えば極めて可笑しいが、紙質が良いからだ。ちょっとした雑感があっても、よく見ると大した意味がなく、あんなに潔白な紙を黒くするまでもないと思い、やめてしまう。良いものもない。私の頭はかくも荒蕪で浅陋で空虚なのだ。

論じるべき問題は当然たくさんあるが、私にはどれも論じられない。まだ去年、厦門島に隠れていた頃のことを覚えている。人に嫌われすぎて、ついに「鬼神を敬して之を遠ざく」式の待遇を受け、図書館の二階の一室に祀られた。昼はまだ館員や製本工や閲覧する学生がいたが、夜九時を過ぎるとすべて散じ、大きな洋館には私以外誰もいなくなった。私は沈静した。寂静は酒のように濃く、人をほのかに酔わせる。後窓の外、骨のように立つ乱山の中の多くの白い点は叢塚であり、一粒の深い黄色の火は南普陀寺の琉璃灯だ。前方は海天茫々として、黒い綿のような夜色がまるで心の底に押し寄せてくるかのようだった。石の欄干によりかかって遠望すると、自分の心音が聞こえ、四方にはなお無量の悲哀、苦悩、零落、死滅がすべてこの寂静の中に入り混じり、それを薬酒に変え、色を加え、味を加え、香を加えるかのようだった。この時、書きたいと思ったが書けなかった、書きようがなかった。これがすなわち私の言う「沈黙している時、充実を覚える。口を開くと同時に空虚を感じる」ということだ。

ニーチェは血で書かれた書を読むのを好んだ。しかし血で書かれた文章はおそらくないだろう。文章は結局墨で書かれるのであり、血で書かれたものは血痕にすぎない。それは文章よりも当然心を打ち、直截で明瞭だが、変色しやすく消磨しやすい。この点で文学に本領を発揮させなければならないのだ。あたかも塚の中の白骨が、古今を通じて、常にその永久性をもって少女の頬の薄紅を嘲るがごとく。

書かなくてすむならもっと愉快だろうが、もし書かねばならないなら、適当に書くしかない。どのみちこれしかできないのだから。

「どう書くか」の問題には以前考えたことがなかった。この問題の存在を知ったのはまだ二週間前のことだ。たまたま街に出てたまたま丁卜書店に入り、たまたま『こう為すべし』を見つけて一冊買った。表紙に騎馬の少年兵士が描かれた刊物だ。この刊物のある文章の中に「どう書くか」の問題があった。

文学の体裁は実は随意でよいと思う。破綻があっても構わない。作為的に手紙や日記を書いたところで破綻は免れず、一つ破綻すれば収拾がつかなくなる。破綻を防ぐよりは破綻を忘れた方がよい。

鐘楼にて

――夜記の二

私がまだ厦門にいた頃、柏生が広州から来て、愛而君もそこにいると教えてくれた。おそらく新しい生命を求めに来たのだろう。K委員に長い手紙を書いて、自分の過去と将来の志望を説明したという。

「君、愛而という者を知っているか。長い手紙を書いてきたが、読み終えなかった。そもそもこの手の文学者気取りで長い手紙を書くこと自体が反革命だ!」ある日K委員が柏生に言った。

またある日、柏生が愛而に伝えると、愛而は飛び上がって言った。「なんだと?……どうして俺が反革命だって言うんだ?!」

厦門はまだ暖かい晩秋で、野の石榴が山中に咲き、黄色い花が楼下に咲いていた。私は花崗石の壁に囲まれた楼の中でこの小さな話を聞き、K委員の眉をしかめた真面目な顔と、愛而の活発さの中に沈鬱を帯びた若い顔が目の前に浮かんだ。窓の隙間から遠い空を望んで思わず笑った。

しかし同時に、ソビエトロシアのかつて名高い詩人、『十二人』の作者ブロークの言葉を思い出した。「共産党は詩を書くことを妨げない。しかし自分を大作家だと思うことは妨げる。」

共産党と詩、革命と長い手紙は、本当にこれほど相容れないのか。

広州に着いて、飯鍋のそばに座った時、彼はもうそこにいなかった。

私が住んだのは中山大学の最も中央で最も高い場所、通称「大鐘楼」だった。夜になると十数匹の鼠が現れて文壇を駆け巡り、食べられるものは何でも食べ、箱の蓋まで開けることができた。朝になると「工友」たちが大声で歌った。

昼に訪ねてくる本省の青年たちは大抵好意を持っていた。何人かの改革に熱心な者は、広州の欠点を激しく攻撃してほしいと望んだ。その熱誠に感動したが、私はまだ本地の事情に詳しくなく、しかも既に革命が行われており攻撃すべき点がないと言って、やんわりと断った。

最大の障碍は言語だった。広州を離れるまで私が知った言葉は、数字のほかに、外江佬なら誰でも覚える「Hanbaran」(全部)と、異地の言語を学ぶ者が最も覚えやすい罵倒語「Tiu-na-ma」の二つだけだった。

広東の花と果物は「外江佬」の目には依然として奇異だった。私が最も好んで食べたのは「楊桃」で、滑らかで脆く、酸味と甘味がある。

第6節

一九二八年

「酔眼」の中の朦朧

旧暦と新暦の今年は、上海の文芸家たちに特別な刺激を与えたようで、二つの正月が相次いで過ぎると、期刊が続々と出てきた。彼らはおおむね全力を偉大あるいは尊厳な名目に注ぎ、内容を圧殺することも辞さない。一年以上続いた刊物でさえ、必死のあがきと突然変異を見せている。作者には初見の名もあるが、多くは見慣れた名前だ。先に彼らが何をしていたか、なぜ今年一斉に筆を執ったか。要するに以前は筆を執らずにすんだが、今は執らざるを得なくなったということだ。

しかし各種の刊物は、措辞がいかに違おうと、一つの共通点がある。それはいくらか朦朧としていることだ。この朦朧は、官僚や軍閥に既に瓜葛があるか持ちたい者は笑顔で皆に愛想を振りまくが、夢の中で鎌と槌を恐れるため、現在の主人をはっきり賞賛することもできず、朦朧を残す。瓜葛がないか断たれた者は大衆に向かうが、指揮刀を忘れる馬鹿者は少なく、ここにも朦朧を残す。

実のところ朦朧はさして重大ではない。最も革命的な国でさえ文芸に朦朧はある。しかし革命者は自己批判を恐れず、明言する勇気がある。ただ中国が特別なのだ。

創造社は前年に株本を募り、去年は弁護士を雇い、今年ようやく「革命文学」の旗を掲げた。復活した批評家成仿吾は「芸術の宮殿」の守護を離れて「大衆を獲得」しに行こうとしている。文芸家は没落を感じ取り、あらゆる方向にしがみつく。今は大時代であり、動揺の時代であり、転換の時代だ。中国以外では階級対立が既に鋭化し、労農大衆が日増しに重要性を増している。没落から自らを救い出そうとするなら、当然彼らの方へ向かうべきだ。

成仿吾が人々に小資産階級の根性を克服せよと教え、「大衆」を「給与」と「維持」の材料にしようとする。しかし文章の最後に小さくない問題が残る――もし「最後の勝利を保障」することが難しければ、あなたは行くのか、行かないのか。

創造派は「革命のための文学」を唱え、「芸術の武器から武器の芸術へ」と進もうとする。しかし即座にまた問題が生じる。なぜ直ちに「武器の芸術」に至らないのか。答えはこうだ――あちらに「武器の芸術」があるから、こちらは「芸術の武器」でしかありえないのだ。

芸術の武器は実は不得已であり、無抵抗の幻影から脱して紙上の戦闘という新たな夢に陥ったにすぎない。

司徒喬君の画を見て

司徒喬君の名を知ったのはまだ四、五年前のことだ。当時は北京で、彼が授業も構わず師も求めず、自分の力で終日古い廟、土山、壊れた家、貧しい人、乞食を描いていると聞いた。

北京の展覧会で、私は作者が中国人の天然に対する頑強な魂を表現しているのを既に見ていた。「四人の警官と一人の女」の一幅を手に入れたこともある。

今回上海で再会した。後に描かれた爽朗な江浙の風景、熱烈な広東の風景は作者の本色だ。しかし私は北方の風景と対照して黄埃の方を愛する。明るい心を抱く作者が、人と天然の苦闘の古戦場に驚き、自ら戦闘に参加する様が見て取れるからだ。

中国全土は疎通されなければならない。将来割拠に至らなければ、歴史を背負い黄埃を払おうとする青年の中国の彩色は、まずこのようなものだろう。

(一九二八年三月十四日夜、上海にて。)

上海の魯迅より告示

約一ヶ月以上前、開明書店からM女士の手紙が転送されてきた。「一月十日に杭州の孤山でお別れして以来……ご指導のお約束……」と書いてあった。私は返信で、杭州に行っていないこと、彼女が見たのは別人であることを説明した。

調査の結果、杭州の城外で教師をしている人物がおり、自ら周と名乗り、かつて『彷徨』を書いて八万部売れたと言っているが不満で、近々もっと良いものを発表するとのことだった。

中国にもう一人、周姓か非周姓で魯迅を名乗る者がいるのは私にはどうしようもない。しかし彼の自叙の大半が私と同じなのには困る。マンシュの墓に題した詩も上等とは言えず、勝手に人に「他年公に随わん」と言わせるのもはなはだ専制だ。

私は上海に来てから書店を開いたとか杭州に行ったとか新聞に書かれたが、実は書店も開かず杭州にも行かず、相変わらず二階にこもって翻訳をしている。もう一人の「魯迅」が私の代わりに説教し題詩し、その結果を私一人で背負わされるのでは堪らない。よってここに改めて告示する。私以外に今年少なくとももう一人「魯迅」がいるが、その「魯迅」の言動は、かつて『彷徨』を印刷したが八万部は売れなかった魯迅とは無関係である。

(三月二十七日、上海にて。)

文芸と革命

来信・回信

冬芬先生よりの手紙は、文学と政治の乖離、芸術の独立的価値、天才の重要性について論じ、革命文学の「似て非なる」主張への疑問を述べている。

私の回信の要旨:私は芸術家ではなく、芸術を特別崇高とは思わない。文芸は社会現象の一つであり、時代の人生の記録にすぎない。人類が進歩すれば、いかなるものも陳旧となり滅亡する。

各種の主義の名称の勃興も必然だ。世界に革命があれば革命文学があり、民衆が覚醒すれば民衆文学がある。

現在の中国のいわゆる革命文学家は看板こそ掲げたが、仲間の文章を吹聴するだけで、目前の暴力と暗黒を直視しようとしない。作品はあるがしばしば拙劣で新聞記事にも及ばない。

私は文芸の乾坤を旋す力を信じないが、もし他方面に応用しようとする者がいれば、それもよかろう。たとえば「宣伝」がそうだ。アメリカのシンクレアは「一切の文芸は宣伝である」と言った。一切の文芸は宣伝であり、人に見せさえすれば。ただし先に内容の充実と技巧の向上を求め、看板掛けを急ぐべきではない。一切の文芸は確かに宣伝だが、一切の宣伝が文芸とは限らない。革命が口号・標語・布告の他に文芸を必要とするのは、まさにそれが文芸だからだ。

第7節

一九二九年

「革命軍馬前卒」と「落伍者」

西湖博覧会に先烈博物館を設けることになり、遺物を募集している。これは欠かせない盛事である。先烈がいなければ、今なお辮髪を引きずっていたかもしれないのだから、ましてやこれほど自在でいられるはずがない。

しかし募集の最後に「落伍者の醜史」とあるのは、いささか奇妙だ。飲水思源の後に汚水を一口飲ませ、芳烈を経験した後に悪臭を嗅がせるようなものだ。

しかも募集する「落伍者の醜史」の目録に「鄒容の事実」があるのは、さらに奇妙である。印刷に誤りがなく鄒容が別人でなければ、私の知る限りではこうだ。彼は清朝の時に『革命軍』を書いて排満を鼓吹し、自ら「革命軍馬前卒鄒容」と署した。後に日本から帰国し上海で逮捕され、西牢で獄死した。一九〇二年のことである。彼の主張は民族革命にすぎず、共和を思いもよらず、まして三民主義も共産主義も知らなかった。しかしこれは皆が許すべきことだ。彼はあまりに早く死んだのだから。彼の死の翌年にようやく同盟会が成立したのだ。

聞くところによると中山先生の自叙にも彼のことが触れられているという。目録を作る諸公は公務の余暇に調べてみてはいかがか。

後の烈士は実に進歩が速い。二十五年前の事がもう茫然としているのだから、美しい歴史というべきだ。

(二月十七日。)

「近代世界短篇小説集」小引

一時代の記念碑的文章は文壇に常にはなく、あっても大部分は大著である。一篇の短い小説で時代精神の居する大宮殿となるものは極めて稀だ。

しかし今日なお、巍峨燦爛たる巨大な記念碑的文学のかたわらに、短篇小説もまた存在する十分な権利を持っている。巨と細、高と低は相依って命をつなぐのだ。大伽藍に入れば全体の宏麗に眩むが、一つの彫欄、一つの画礎を細かく見れば、得るところはいっそう分明であり、そこから全体を推し量れば感受はいっそう切実になる。

現在の環境では人々は生活に忙しく長篇を読む暇がない。短篇小説の繁殖にはこれも大きな原因だ。ほんの一時で一斑から全豹を知り、一目で精神を伝え、数刻で種々の作風、種々の作者、種々の人物事象を知ることができる。

我々――訳者がこの書を合印するのもこの理由による。少ない労力で多く紹介しようとするいくらか怠慢な欠点は、自問すれば免れないかもしれないが、一輪の花を咲かせられるなら朽ちゆく腐草になっても構わないという気持ちもある。

現代文芸の諸相

文芸は人生に密着したものであるから、社会が変われば文芸も変わる。しかし中国の現状は変動の最中にあって、文芸もまだ確固たる方向を定めていない。

いわゆるプロレタリア文学にせよ革命文学にせよ、まず問うべきは内容の充実と表現の誠実さである。看板を掲げるだけでは何にもならない。

現在の中国には真の意味での革命文学も平民文学もない。あるのはただ革命の叫びと旧式の文章だけだ。真の文学は社会の実質的変革の後にしか生まれない。

文芸批評についても、各種の尺度が乱立している。英国尺、米国尺、独国尺、露国尺、日本尺、中国尺。真を求める者、闘争を求める者、超時代を求める者。しかし超時代とは実は逃避であり、現実を直視する勇気がなくて革命の看板を掲げたいなら、自覚的にせよ不自覚的にせよ必然的にその道に入る。身は現世にあって、どう離れるのか。自分の手で自分の耳を持ち上げれば地球を離れられるという者と同じく人を欺くものだ。

第8節

トルストイは賛嘆の涙、懺悔の涙、同情の涙を好んだ。一九〇九年に書いた『通りすがりの人の話』は、このような文で始まっている——

「朝、早くから外に出た。気分は壮快であった。美しい朝だ。太陽が茂みの林から昇ったばかりで、露が草の上に、木の上に光っている。万物は和やかで、すべての景色は変わらない。実に心地よく、死にたくないと思った。」

次に、老農夫との出会い、そして喫煙の害と思索の益についての叙述が続き、さらにこう書いている——

「まだ話したかったが、喉に何かが詰まった。すぐに涙が出てしまう。もう話すことができず、あの老人に別れを告げ、また歓びの和やかな感情にも別れを告げて、涙を含んで立ち去った。このような人々の間に住んでいて、どうして嬉しくないことがあろうか、またどうしてこのような人々から、最も見事な仕事を期待せずにいられようか。」

逝去の三ヶ月前、彼はある農家の青年から得た感情を日記に書き、上の文と同じ言葉を用いて、自分の敏感さを証明している。その日記にはこう書かれていた——

「歓喜のためか、病気のためか、それとも二つが合わさった原因か、同情と喜悦の涙がたやすく流れるようになった。この愛すべき、思想の堅固な、力強く善事を為さんと願う孤独な青年の素朴な言葉が、私の心を動かし、嗚咽の声がほとんど口から漏れそうになり、一言も話すことができず、彼のそばを離れたのだ。」

しかしこの多感な天性は、トルストイの全生涯に現れた特質であり、読者にはこの涙が見えないかもしれないが、彼は常に深い感慨を抱いていたのである。

トルストイの母はルソーを愛読し、『エミール』は彼女の机上の書であった。トルストイが最も愛好した人物が、感情の詩美をもって擬古典主義の批判に対抗したジャン=ジャック・ルソーその人であったのは、決して理由のないことではなかった。

トルストイは一九〇一年、パリのロシア語教授M・ボワイエにこう語った——

「私は『ルソー全集』二十巻を熟読したが、その中で最も好きなのは『音楽辞典』である。私はルソーに感謝している。」

「十五年間、ルソーの肖像を彫った牌を身に付けて「十字架」の代わりにしていた。そしてルソーの著作の大半は、まるで自分で書いたかのように、私にはこの上なく親しいものなのだ。」

一九〇五年、トルストイはジュネーヴのルソー協会の会員に推挙された通知に応じて、ジュネーヴに書簡を送り、「ルソーは十五歳の時代以来の私の教師である。私の生涯において、一大裨益を与えてくれたのは、ルソーと『旧約聖書』である」と述べた。

その協会の会員バルビは、協会年報に『トルストイはルソーの後継者である』と題する一文(一九〇七年)を載せ、こう論じた——

「レフ・トルストイは十九世紀のルソーであり、あるいは具体化されたエミールである。ルソーの精神はトルストイの全創作を貫いている。トルストイは現代人の評釈者である。ちょうどルソーが十八世紀のそれであったように、トルストイは今世紀のそれなのだ。」

トルストイ協会からルソー協会への返書にはこうあった——

「ジャン=ジャック・ルソーが理想とした思想の独立、人類の平等、諸国民の統一、そして自然美への愛は、我々にとって極めて近しいものである。わが国民的知性の代表者たるトルストイは、全生涯を上述の理想の発揚と宣伝に捧げたのだ。」

賛嘆、同情あるいは懺悔の涙は、トルストイの社会観を表象するものであり、昂奮した敏感の涙は、彼の世界観を浸し透していた。その天賦の敏感性は、搾取の条件の上に栄える現代文明社会の虚偽を洞察し、さらに彼を自然の法則と自然人への愛好に促したのだ。彼はルソーの後継者として、ルソー以上の情熱と真摯と確信をもって、一切の虚偽と不誠実の現象を抉り出したのである。

彼は人生への愛情、正義と朴素への憧憬、虚偽への憤怒をその敏感性とともに、真摯にして自然と融合する真摯なる自己の構想の中に織り込んだのだ。

しかし、十九世紀のルソーたるトルストイは、紛乱した世紀の後半期の社会的矛盾の現象を観察した者であった。詩聖プーシキンはこのような大矛盾を知らず、ベリンスキーの言うところでは「階級の原則こそ永久の真理」であった。だがトルストイは、自己の階級の不動を信じてはいなかった。彼はセヴァストーポリの陥落を目の当たりにし、ニコライ一世の死に遭い、革新時代の情勢を観察し、断ち切られた大鎖の一端が地主階級を打ち、もう一端が農奴(ムジーク)を怯えさせることを知った。彼はまた、いわゆる民衆啓蒙運動を目撃し、都市の発達とともに激増する驚くべき矛盾の現象を経験し、そして彼自身は最後の貴族となった。一八七〇年代と八〇年代に、彼はその生活状態を詩化し美化し讃歌した荘園の没落を宣説した。ちょうどゴーゴリの傑作(訳者注:『タラス・ブーリバ』の登場人物ブーリバがアンドレイ(訳者注:ブーリバの息子)に言った「おまえを造ったのはこの俺だ、おまえを殺すのもこの俺だ」のように、荘園にも告げたのである。かくして彼は自己の思想を一変し、これまで芸術の華やかな衣に覆われていた醜悪な現象の暴露者となった。

『懺悔録』、『エミール』、『新エロイーズ』の著者ルソーは、小ブルジョア手工業者の家庭に生まれ、辛苦を経て成長し、十八世紀の虚偽的な生活を感じ取り、遂に古代ローマの平民のように貴族階級に宣戦した。

『幼年時代』、『コサック兵』、「ルツェルン」、『わが懺悔』の著者は、貴族の家に生まれ、父系はドイツ人、母系はリューリク(ロシアの始祖)にまで遡る。

そしてこの白馬金鞍の貴公子は、遂に自己と格闘し、多年の思索の結果、ついに貴族階級の腐敗を暴露した。その格闘が劇的であったことは、誰もが直感できるところである。

トルストイは母胎を離れるや、たちまち旧貴族の雰囲気に包まれ、多くの男女の侍従に囲まれ、ヤースナヤ・ポリャーナでの幸福な生活は、七百人の農奴の労働にすべて頼っていた。未来の文豪を教育したのは、『幼年時代』に長く名を留めるドイツ人とフランス人であり、彼の父親の書斎には、プーシキンの父親の書斎と同様、十八世紀のフランス人の著作が数多くあった。十三歳から十九歳まで(一八四一年——一八四七年)、彼はカザン知事の娘にして退役胸甲騎兵大佐の妻である叔母ペラゲーヤ・イリニーシュナ・ユシコワの監督のもと、その家に住んでいた。この家庭は常に祝祭のように賑やかで、カザンの上流社会の集いの場であり、フランス語の社交的会話が途切れることはなかった……。

青年大学生(トルストイ)は全世界を二大階級に分けた。すなわち上流社会と賤民である。叔母はトルストイを外交官か皇帝の侍従にしようとし、甥が社交界の貴婦人と意気投合することを望んだ。彼女は富家の娘との結婚を彼の最大の幸福と考え、この結婚によってトルストイが多くの農奴を持てることを夢見ていた。

ザゴースキンの『回想録』によれば、青年のトルストイは正真正銘の放蕩児の代表者であった。

踊り、仮装舞踏会、芝居、活人画、大学卒業後のカルタ遊び、ジプシーの歌——これが青年貴族の生活であった。この生活について、後に彼は『わが懺悔』の中で、悔恨と恐怖の念なしには記すことができなかった。

自分の階級以外の人々を蔑視する習慣のあった青年は、モスクワを離れてカフカスに赴き、第四砲兵中隊の曹長の任命を待っていた。その時彼は流行の外套を着、ひだ飾りの高帽を被り、真っ白ななめし革の手袋を嵌め、ティフリスの街を散歩していた。手袋をしていない通行人を見ると、嘲笑の調子で弟のニコライにこう言った——

「あいつらは屑だ。」

「なぜ屑なんだ?」

「なぜって?手袋もしていないじゃないか。」

カフカスにあっても、青年トルストイは交遊を極力減らし、友人を避け、遁世者のように身を守った。その頃、叔母に送った手紙の中でこう述べている。「自分で偉いと思ってこのような態度を取っているのではありません。自然とそうなるのです。この地で出会う人々と自分とを比較すると、教育においても、感情においても、また見解においても、非常な差異があり、どうしても彼らと気が合わないのです。」

一八五四年、シリストリア(ブルガリアの山地)で司令官の副官を務めていた時も、やはり同様の放蕩息子であった。また処女作の出版後、ツルゲーネフ、ドルジーニン、フェートその他の文人の列に加わった時も、まだ同じ人間であった。

しかしこの青年には世襲の領地があり、自分の農民がいた。だから善良な主人になれると思い、学位証書も官位も必要でないと悟った。しかも『地主の朝』の主人公ネフリュードフと同じように、七百人の農民の幸福を取り仕切り、神に対して彼らの運命の責任を負っていると感じていたのだ……。

放蕩生活の中で青年時代を過ごしたトルストイは、三十四歳にしてようやく家庭の人となった。農村経済の計画を立てることは彼の無上の楽しみであり、その経営の方法を親友フェートに自慢したものだ。また利己的な感念に駆られて家族に幸福を与えようと力を尽くし、労働者ユファンの機敏な仕事ぶりに心酔して、自らユファン化しようとした。未来の母ソフィア・アンドレエヴナが鍵を鳴らしながら穀倉を巡視すると、大家族の未来の父たる彼はその後をどこまでも追い従った……。歳月を重ね、約十九年間、快活な蟄居生活に浸ったヤースナヤ・ポリャーナの地主は、農村を経営し、財産を増やし、牧畜場には豚三百頭、サマーラの荘園では馬群が跳ね回っていた……。このように富は日増しに大きくなったが、一八五六年頃フェートに送った手紙にはこう書いている。「我々の農業は、今やあの取引所が引き取らぬ廃券を蔵した株主のようなものだ。状況はよくない。自分の安静を損なわぬ範囲で経営することに決めた。最近の自分の仕事には満足しているが、飢饉の襲来の兆候があり、日々苦慮している。」

一八八二年、モスクワの市況調査に参加した際、リャーピンスキー旅館一つの調査にわずか数時間を費やしただけで、ヤースナヤ・ポリャーナでの数年の生活よりも意義深い影響をトルストイに与えたのだった。この調査を契機に書かれた『我々は何をなすべきか』(一八八二年)の冒頭は、このような文で始まっている。「私はこれまで都会の生活を送ったことがなかった。一八八一年にモスクワの生活に入った時、私を驚かせたのは都会の貧困であった。農村の貧困は早くから知っていたが、都会の状態は私にとって新しく、かつ理解し難いものであった。」

都会の貧民は赤貧で、神を信じず、その目つきからはこのような問いが読み取れた——

「なぜ、おまえは——別世界の人間が——私たちのそばに立っているのだ?おまえはいったい何者だ?」

別世界から来たトルストイがこの理解し難い新しい都会生活を観察するや、これまで愉楽と思っていた贅沢な生活は、かえって煩悶の根源と化した。寒さに耐え飢えに苦しみ、しかも虐げられる多数の人々を目の当たりにして、博愛だけではこの問題を解決し難いことを悟り、都会では村落のように容易に愛と協同の雰囲気を創り出すことも難しく、また「自分の生活を不正当だとする自覚の心」の苦悩を鎮めることもできぬ道理を悟ったのだ。彼はこう書いた——

「都会の窮乏は、農村の窮乏に比べてより不自然で、より切迫し、より深刻である。そして主要な点は、貧窮者が一か所に群集していることで、その情景は実に私に悪感を与えた。リャーピンスキー旅館で得た印象は、私に自分の生活の汚穢を感じさせた。」

農村生活者の第一の憧れは、ヤースナヤ・ポリャーナの静寂と幽棲であった。激しい都会生活の煩瑣に苦しむ彼は、モスクワから農村へ逃れた。一八八二年のいわゆる「苦痛の経験」(市況調査)に至るまで、子女の教育のためにモスクワに住んでいたのだが、それ以前の一八七七年には、親友フェートにモスクワ生活をこう訴えている。「私のモスクワ生活は非常に混乱している。神経が騒ぎ、一時間のうち一分ごとに異なる感覚がある。会わねばならぬ人々に面会するのを妨げるかのように、不必要な人々が故意に現れるのだ……。」

モスクワの市況調査の後、彼はリャーピンスキー旅館から恐怖に駆られてヤースナヤ・ポリャーナの翼の下に逃げ帰り、一八八二年四月、ソフィア夫人に手紙を書いた——

「ようやく都会の極めて繁雑な世界から自分に立ち戻り、古今の書を読み、アガーフィヤ・ミハイロヴナの純真なおしゃべりを聞き、子供のことではなく神のことを思うと、私の気持ちはとても安らかだ。」

トルストイがヤースナヤ・ポリャーナに逃げ帰ったのは、都会生活の煩労を厭うたからだけではない。彼は社会問題の通俗的な解決を避け、深刻にして切迫した都会の貧困から遠ざかろうとしたのだ。そして彼はヤースナヤ・ポリャーナの生活よりも、むしろ農民の生活へと向かっていた。

社会問題はトルストイの前に、その悲劇的な実相を展開した。彼は個人的に、消極的に社会問題を解決しようとし、一切の病根は他人を雇い搾取することにあるのだから、搾取に加担せず、自ら多く労働し、他人の労働の利用を極力減らすべきだと考えた。

一八八二年、彼はカトリック教派の農民シュターエフに出会った。シュターエフとは、他人を助け自らの実例を示し、「同胞愛」を説いて社会の矛盾を緩和しようとする者であった。トルストイはまたボンダレフの『パンの労働について』を読んで深く感ずるところがあり、村民のために殉教的な労働をなし、それによって自らの良心の平和を得ようという決意を固めた。社会問題はもとよりこのような個人的努力では解決できないが、怠惰で豪華な地主生活に打撃を加えたことは疑いない。

ヤースナヤ・ポリャーナの地主は、ヤースナヤ・ポリャーナの隠者となった。ユファン化した主人は、文化的耕作者に変わった。ちょうど十八世紀のルソーが鬘を投げ捨て、白い靴下を脱ぎ、金のボタンを外し、四方の壁だけの小屋に住み、モンモランシーの隠者となったように、十九世紀のトルストイもまた華美な衣裳を脱ぎ、粗野な農服を纏い、いわゆる「パンの労働」に身を委ねた。かくして、現代国家の社会的矛盾から逃避した隠者は「樅の木の下の精舎」に入り、個人的に農民的キリスト教を奉じ、シュターエフの方式に従って生活を送ったのだ。すなわち彼トルストイは、悔い改めたアナーキストとなり、中産の勤労農民の精神を自らの精神としたのである。「市況調査とシュターエフの説は、私に多くのことを教えた」——これは彼がしばしば口にした言葉である。

第9節

一九三〇年

「硬訳」と「文学の階級性」

聞くところによると『新月』月刊の同人たちが、今は売れ行きが良くなったと言っているそうだ。おそらく本当だろう。私のように交際の極めて少ない者でも、二人の若い友人の手で第二巻六、七号の合本を見かけた。ざっと繰ってみると、「言論の自由」を争う文章と小説が多い。末尾近くに梁実秋先生の「魯迅先生の『硬訳』について」という一篇があり、「死訳に近い」とし、「死訳の風は断じて長ずべからず」と、私の三段の訳文を引いている。

新月社は組織がないと声明しているが、実は組織がある。少なくとも政治に関する論文はこの一冊の中で互いに「呼応」している。文芸についても、この一篇は同じ批評家の「文学に階級性はあるか」の余波である。

梁先生は自ら一切の中国人の代表をもって任じ、これらの書が自分にわからなければ一切の中国人にもわからないとし、中国においてその生命を断つべしとして、「此の風断じて長ずべからず」と宣した。

しかし事はそう単純ではない。第一に、梁先生は「硬着頭皮で読んだ」と自認するが、本当に硬かったかどうか。硬いと自認して実は綿のように軟らかいのは新月社の一つの特色だ。第二に、梁先生は自ら一切の中国人を代表するが、果たして全国で最も優秀な者かどうかも問題だ。

しかし私が最も興味を覚えたのは、梁先生の文中に二箇所「我々」とあることだ。いくらか「多数」や「集団」の気味がある。しかし「我々」があれば我々以外の「彼ら」がある。新月社の「我々」は私の「死訳の風」は長ずべからずとしたが、読んで「無所得」ではない読者が別に存在し、私の「硬訳」は「彼ら」の間に生存しているのだ。

私も新月社の「彼ら」の一人であり、私の訳作は梁先生の求める条件とはすべて異なる。梁先生の論文は誤訳は死訳に勝ると言い、「部分的な曲訳はたとえ誤りでも、読む時には爽快だ」と述べている。しかし私の訳作は読者に「爽快」を与えようとしたことはない。むしろ不快を、さらには気鬱、嫌悪、憤怒をすら与えることがある。「爽快」な読書は新月社の人々の訳著に任せよう。

「硬訳」は「死訳」とどう違うのか。地図を見るのが「楊貴妃出浴図」を見るほど「爽快」ではなくても、地図は死図ではない。「硬訳」にも同一の労があるが、「死訳」とは区別がある。ABCDを知って新学者を気取っても化学方程式とは無縁であり、算盤ができて数学者を名乗っても筆算の演草は理解できない。今の世の中、学者になったからとて万事に通じるわけではない。

梁先生は「文学に階級性はあるか」で二首の訳詩を挙げ総評した。「おそらく偉大な無産文学はまだ現れていないのだろう。ならば私は待とう、待とう、待とう。」しかし私は同じ号の創作から一段を引いて、同様のことができる。

要するに、看板ばかりで実質のない「革命文学」には何の力もない。文芸が宣伝に使えるなら使えばよいが、まず内容の充実と技巧の向上を求めるべきだ。一切の文芸は宣伝だが、一切の宣伝が文芸とは限らない。花にはすべて色があるが(白も色に数える)、すべての色が花とは限らないのと同じだ。

第10節

一九三一年

「唐三蔵取経詩話」の版本について

──開明書店中学生雑誌社に寄す

編集先生:

この手紙を『中学生』に載せていただけるでしょうか。

事情はこうです。『中学生』新年号の鄭振鐸先生の大作「宋人話本」の中に、『唐三蔵取経詩話』について次のような一節があります。

「この話本の時代は不明だが、王国維氏が巻末の『中瓦子張家印』の数字に基づいて宋版と断定しており、その言はかなり信ずるに足る。よってこの話本も当然宋代の産物であるはずだ。ただし疑う者もいる。しかし元代の呉昌齢の『西遊記』雑劇を一読すれば、この原始的な取経物語の産生は必ず呉氏の『西遊記』雑劇より前であることがわかる。つまり必ず元代以前の宋代のものだ。そして『中瓦子』の数字はまさにそれが南宋臨安城中の産物であることを証明しており、何の疑義もない。」

私はかつて『中国小説史略』を書いた際にこの書を元版ではないかと疑い、収蔵者の徳富蘇峰先生の不満を大いに招いたことがあります。鄭振鐸先生の大作でいう「人」とは実は「魯迅」であり、唾棄の中にもなお身代わりの美意が込められており、万分に恥じ入りかつ感謝しております。

しかし考証は荒唐であってはならないが、墨守すべきでもないと思います。世間の多くの事は常識で了然となります。蔵書家は所蔵の版本が古いことを願い、史家はそうではありません。旧書については、欠筆で時代を定めず(遺老が今なお儀の字を末筆欠いて書くように、しかし今は中華民国です)、地名だけで時代を定めず(私は紹興に生まれましたが南宋人ではありません、多くの地名は朝代とともに変わらないからです)、文意の華朴巧拙だけで時代を定めません(作者が文人か市人かで作品は大いに異なります)。

よって積極的な確証がない限り、『唐三蔵取経詩話』はなお元版と疑いうるのではないでしょうか。鄭振鐸先生が引拠する同じ「王国維氏」には別に『両浙古刊本考』二巻があり、その巻上「杭州府刊版」の「辛・元雑本」の項に『大唐三蔵取経詩話』三巻が含まれています。これは『取経詩話』を元版と定めただけでなく、『通俗小説』をも元本としたものです。

専此布達、並請、撰安。

魯迅啓上。一月十九日夜。

柔石小伝

柔石、本名趙平復。一九〇一年、浙江省台州の寧海に生まれる。卒業後に教員となり、後に上海に出て文学に従事した。

彼は誠実で純朴、人を疑うことを知らない人物だった。ともに夜道を歩いた時、彼は私の右側を歩くことを好んだ。私が左利きで左手に杖を持っているからで、右手で私を支えようとしたのだ。

一九三一年一月十七日、左翼作家連盟の五人の青年作家の一人として秘密裡に逮捕され、二月七日あるいは八日、他の二十三人とともに銃殺された。

彼の遺体がどこにあるか、誰も知らない。

上海文芸の一瞥

上海は中国の文芸の中心と称されるが、実はここの文芸は独特のものではない。中国各地の文芸の縮図であり、同時に外来の影響を最も早く受ける場所である。

上海の文芸界は商業化の圧力の下にあり、文芸が商品として流通するこの都市では、作家は市場の需要に応じて書くことを余儀なくされる。

しかし同時に、ここでは最も鋭い社会批判も生まれる。なぜなら矛盾が最も集中的に現れる場所だからだ。富と貧の対照、古と新の衝突、東と西の交錯――すべてがこの都市に凝縮されている。

文芸は社会の産物であり、社会を映す鏡でもある。上海の文芸を一瞥すれば、中国社会の縮図を見ることができる。

第11節

今年、広州では女子学生の胸を縛ることが禁止され、違反者には罰金五十元が科されている。新聞はこれを「天乳運動」と称した。樊増祥に命令を書かせなかったのを惜しむ者もいる。公文に「鶏頭肉」等の文字が見られないのは、文人学士の心を満足させるに足りないというわけだ。その他は新聞の洒落た文章、滑稽な議論ばかり。私は思う、これだけのことだ、永遠にこれだけのことだ、と。

私もかつて「杞憂」を抱いたことがある。将来、中国の学生出身の女性は哺乳の能力を失い、家ごとに乳母を雇わねばならなくなるのではないか、と。しかし胸を縛ることだけを攻撃しても無駄である。第一に、社会の考え方を改め、乳房に対してもっと寛大にならねばならない。第二に、衣服を改良し、上衣をスカートの中に入れるようにすべきだ。旗袍も中国の短い上着も、乳の解放には適さない。なぜならその際に胸部以下がめくれ上がり、不便でもあり、見た目もよくないからだ。

もう一つ大きな問題がある。乳が大きいことが突然犯罪と見なされ、受験できなくなることはないだろうか。中華民国が成立する以前の中国では、「四民の列に歯せざる者」だけが試験を受けることを許されなかった。理屈から言えば、女子の断髪は男女の区別を失わせるから有罪であるなら、天乳はかえって男女の区別を際立たせるのだから、功績があるはずだ。だが天下には口舌で争って決着のつかぬことが多く、結局は上諭か、さもなくば刀の指揮が要るのだ。

さもなくば、すでに「短髪犯」があるのだから、これに加えて「天乳犯」が増え、あるいはまた「天足犯」も現れるかもしれない。ああ、女性の身体にまつわる趣向も格別に多く、人生もここから苦しみが増すばかりだ。

もし我々が革新だの進化だのを語らず、もっぱら安全を考えるならば、女子学生の身体は長髪、胸を縛り、半解放足(一度纏足してから解いたもの、一名文明脚)が最もよいと思う。なぜなら私は北から南へ、通り過ぎた土地で看板も旗もさまざまに異なるが、このような女性に対して、仇視する所があるとは一度も聞いたことがないからだ。

(九月四日。)

【「首領」の革命】

この二年来、私は北京で「正人君子」に殺退され、海辺に逃げた。その後、また「学者」の類に殺退され、別の海辺に逃げた。その後、また「学者」の類に殺退され、西日の差す楼上の一室に逃げ込み、全身あせもだらけで茘枝のようになり、戦々恐々として一言も発さず、これで罪を免れるだろうと思った。ああ、それでもだめだった。ある学者が九月に広州に来て、一方では教授をしながら、一方では私と裁判をすると言い、しかもあらかじめ私に逃げるなと言って、ここで「開廷を待て」というのだ。

五色旗の下でも青天白日旗の下でも、同じく華蓋に命を覆われ不運が頭上に降りかかると思えば、必ずしもそうではない。いつの間にか、知らぬ間に「文芸界」で出世していたのだ。信じられぬとおっしゃるなら、陳源教授すなわち西瀅の『閑話』の広告を証拠に挙げよう。全文を写すのは退屈なので、切り抜いて貼り付ける——

「徐丹甫先生が『学灯』でこう言っている。『北京はやはり新文学の策源地であり、根が深くしっかりしていて、隠然として全国文芸界の牛耳を執っている。』いったい北京文芸界とは何か。端的に言えば、ここ一、二年の北京文芸界は、現代派と語糸派が交戦する場であった。魯迅先生(語糸派の首領)が恃みとした大義、その戦略は、『華蓋集』を読んだ人なら既にご承知であろう。しかし現代派の義旗と、その主将——西瀅先生の戦略は、我々にはまだ明らかでない。そこで我々は特に西瀅先生と相談し、『閑話』を選集して専書として印刷した。文芸界の掌故に関心のある方は、必ず先に読むことを喜びとされるだろう。

「ただし『閑話』を単なる掌故と見るのもまた間違いだ。——

西瀅先生の文筆を鑑賞したい方、

西瀅先生の思想を研究したい方、

この文芸批評界の権威を知りたい方——

とりわけ『閑話』を読まずにはいられまい!」

これは「詩哲」徐志摩先生の、少なくとも「詩哲」の類の「文筆」によく似ていて、かくも飄々としているので、私でさえ読んで一冊買いたくなりそうだった。だが、自分のことを思うと、また躊躇した。二、三年は決して長くない。「正人君子」に「学匪」と指さされ、さらに「豺虎に投げ与えよ」と言われたことを、私は覚えている。いくらかの雑感を書き、時にはこの西瀅先生に及んだことも覚えている。これらのものを「詩哲」は見もせず、西瀅先生は直ちに「行くべき所へ行け」と命じたことも覚えている。後にとうとう『華蓋集』が出たのも事実だ。しかし「北京文芸界」なるものがあり、しかも私が「語糸派の首領」となって「大義」を恃みにこの「文芸界」で「現代派の主将」と交戦したなど、全く知らなかった。この「北京文芸界」は徐丹甫先生が『学灯』上で認定し、隠然として動かし難いものになったとはいえ、自分の華々しく語られた戦績については、依然として狐狸精に化かされたかのようにさっぱり分からないのだ。

現代派の文芸など、私はもともと気にしたことがなく、『華蓋集』のどこで触れたというのか。ただ、ある女史が「ピア・ワーズリー」の画を盗んだ時に、『語糸』上で(あるいは『京報副刊』上で)誰かが一言触れたことがあり、後に「現代派」の口ぶりでは、この文章を私が書いたと思っているらしかった。ここに鄭重に声明する——あれは私ではない。楊蔭楡女史に殺退されて以来、あらゆる女史に対して失礼を犯す勇気がなくなった。女史の機嫌を損ねると「男士」の義侠心が湧き起こり、「通緝」されかねないことを知ったので、もう口を開かなくなったのだ。したがって私は現代派の文芸とは寸毫も関わりがない。

しかしとうとう幸運が巡ってきて「首領」に昇進し、しかも現代派の「主将」と「北京文芸界」で交戦したことになったのだ。なんと堂々たることか。本来なら部屋の中で喜色を浮かべ、黙って受け入れるのも、少々は大物めいた風格があろう。だが近頃、人に気軽に持ち上げられたり貶されたり、あるときは「権威」と呼ばれ、あるときは「権威」を許されず「先駆者」にしかなれないと言われ、またあるときは「青年の指導者」に改められる。甲が「青年叛徒の領袖」と言えば、乙が冷笑して「ふん、ふん、ふん」と言う。自分は少しも動いていないのに、名前だけが何度も浮き沈みと冷暖を経験した。人々が気ままに言って私を一種の材料として扱うのは、まあよい。最も恐ろしいのは広告的なお世辞と広告的な罵倒だ。まるで膏薬の屋台に吊るされた蛇の抜け殻のようなものだ。だからこのたび現代派に追封されたとはいえ、この「首領」の栄名は、やはり公に辞退せざるを得ない。もっとも毎回こうするとは限らない。そんな暇はないのだから。

背に「義旗」を差した「主将」が出馬するなら、相手はもちろん大物の方がよい。我々は演義の類でしばしば見る。「来将、名を名乗れ!わが宝刀は無名の将を斬らぬ!」主将が「交戦」に来て私を「首領」に昇格させたのも、おそらく「やむを得ず」なのだろう。だが私はそうではない。そんな大仰な構えはなく、チビ犬であろうと臭い便所であろうと、唾を吐きかけるのであって、必ずしも背中に五本の尖った旗(義旗?)を差した「主将」が登場してからでなければ「刀筆」を動かさぬ、などということはない。もし誰かが私の便所を攻撃する文章を見て、それも私の強敵だと思い込み、その臭いがまだよく分からぬのが残念で、もう一度嗅ぎに行こうというなら、私は責任を負わない。この広告を例に引く者がいるかもしれぬので、念のため声明しておく。巻き添えを避けるためである。

西瀅先生の「文筆」、「思想」、「文芸批評界の権威」は、もちろん「鑑賞」し、「研究」し、かつ「認識」すべきものだ。惜しむらくは「鑑賞」しようにも……今のところ『閑話』一冊しかない。だが我らが「主将」のあらゆる「文芸」の中で、最も出来がよいのは、『晨報副刊』に載った、志摩先生への——大半は魯迅をこっぴどく罵る——あの一通の手紙だろうと私は思う。あれは熱を出している時に書いたものなので、すでに紳士の黒い洋服を脱ぎ捨て、真の姿が躍如としている。しかも『閑話』と比べると全く態度が異なり、二つのうちの一方が虚偽であることを証明している。これもまた西瀅先生の「文筆」等々を「研究」するための好材料だ。

しかしこの一通の手紙の中ですら、区別して見なければならぬところがある。例えば「志摩よ、……眼前には遥かに茫々と薄霧の中にかすむ目的地がある」の類。私の見るところ、実はそのような「目的地」などなく、もしあったとしてもそれほど「遥々茫々」としてはいない。これは熱がまだあまり高くないためで、もし九十度ほどに上がれば、この「遥々茫々」もすべて一掃され、純粋に近づくことが期待できよう。

(九月九日、広州にて。)

【「激烈」を語る】

書籍や雑誌を携えて「香江」を渡ると、「危険文字」と見なされて「鉄格子と斧鉞の風味」を味わう危険があることは、『香港略談』で既に述べた。だがどのようなものが「危険文字」なのか分からないので、始終気がかりだ。なぜか?上海保安会が言うように「中国の元気が損なわれすぎる」ことを恐れるからではなく、自分勝手な理由で、自分もいずれ香港を通らねばならないかもしれず、気をつけておく必要があるからだ。

今年はどうやら青年が特に死にやすい年回りらしい。「千里風を同じくせず、百里俗を同じくせず。」ここでは平常のことが、あちらでは過激と見なされ、煮え油で指を焼かれる。今日正当なことが、明日には犯罪となり、籐の鞭で尻を打たれる。もし若者が田舎から出てきたばかりなら、きっと訳も分からず焼かれて、今はこういう制度が流行っているのだろうと思うに違いない。私はといえば、一昨年すでに四十五歳で、しかもとうに「心身ともに病んで」いるのだから、それほど命を大事にし、患いに備えて予防する必要もなさそうだ。だがそれは他人の意見であって、私自身はやはり苦しい目に遭いたくない。「新時代の青年」諸君にはどうかお察しいただきたい。

だから用心に用心を重ねた。果たして、「天は自ら助くる者を助く」で、今日ついに『循環日報』上にいささかの参考資料を見つけた。事件はこうだ。広州の執信学校の学生が香港を通過(!)した際、「尖沙咀碼頭で一五七号の中国人巡査に行李を捜索され、その木箱(謹んで案ずるに、トランクのことなり)の中から激烈文字の書籍七冊が発見された。内訳は、執信学校印行の『宣伝大綱』六冊、および『侵奪中国史』一冊。かかる激烈文字は、華民署の翻訳員による抄訳が完了し、昨日午後、連司に送られ訊問を受け、激烈文字の書籍を所持した罪で起訴された。……」新聞の書き写しも面倒なので、大略を述べると、「抄訳」期間中は保釈金五百元で外に出られ、後に被告が書物は友人に頼まれて運んだものだと供述したため、「軽く罰金二十五元に処し、書籍は没収焚毀」となったという。

執信学校は広州の穏当な学校であり、「清党」の後であれば、『宣伝大綱』は三民主義にほかならぬことは明らかだが、ひとたび「尖沙咀」に至ると「激烈」になるのだ。恐ろしい。ただ友邦に対して「侵奪」の文字を用いたのは、確かにいささか「激烈」ではある。なぜなら彼らが我々のために「国粋を保存」してくれている恩を忘れたからだ。だが「侵奪」の上にはまだ字があったかもしれず、記者が書き出す勇気がなかったのだろう。

私はかつて元朝のことを何度か持ち出したが、今夜考えてみると、まだ正確ではなかった。元朝は中国語の書籍に対して、これほどまで気を配らなかった。この一手はやはり清朝を模範とすべきだ。清朝は「文字の獄」を何度も起こして叛徒を大いに殺しただけでなく、宋朝の人が書いた「激烈文字」にも細心の注意を払って削除改変した。同胞の「復古」への熱心さと友邦の「復古」支援は、まさに師法とすべきものであろう。

清朝の人が宋の人の書を改変した例として、私はかつて『茅亭客話』を挙げた。だがこの書は『琳琅秘室叢書』に収められており、現在の時価は一部四十元もする。ちょっとした金持ちでなければ手に入るまい。近ごろ別の一部が出た。商務印書館から出た『鶏肋編』、宋の庄季裕の著で、一冊わずか五角。清朝の文瀾閣本と元の鈔本がどのように異なるか、見ることができる。いくつかを摘録すると次の通り——

「燕の地の……女子は……冬の月に括蔞を顔に塗り、……春暖かくなってから洗い落とす。長く風日に侵されぬゆえ、白玉の如く潔白なり。今、中国の婦女をことごとく異俗に汚すは、漢唐の和親の計、いまだ屈とはなすまじ。」(清の人は「今、中国の」以下二十二字を、「その南方と異なること此の如し」の七字に改めた。)

「古来、兵乱あれば、郡邑の焚毀さるるは之あり。盗賊残暴なりといえども、必ず室廬に頼りて住すゆえ、存するもの有るべし。靖康の後、金の虜が中国を侵凌し、露天に居り異俗にして、凡そ経過する所、尽く焚燼す。曲阜の先聖の旧宅の如きは、魯の共王以来、ただ増修あるのみ。莽・卓・巢・温の徒も、なお儒を崇める振りをなし、かつて犯すことを敢えてせず。金寇に至りて遂に煙塵と化し、その像を指して罵りて曰く『汝は夷狄にも君有りと言いし者ぞ!』中原の禍、書契以来、未だ之有らざるなり。」(清朝の改本は大いに異なる。「孔子の宅は今の仙源の故魯城中、帰徳門内の闕里の中に在り。……漢の中微に遭い、盗賊奔突し、西京の未央・建章の殿より皆隳壊せらるるも、霊光は巍然として独り存す。今その遺址は復た見るべからず。而して先聖の旧宅も、近日また兵燹の厄に遭えり。嘆くべきかな。」となっている。)

書き写しも面倒なので、もうやめよう。だが第二条を見れば、上海保安会が切望する「規矩に循い軌道を踏む」道がよく分かる。すなわち、原文はいくらか憤激を帯びているから「激烈」であり、改本は「嘆くべきかな」に過ぎないから「規矩に循い軌道を踏む」のだ。なぜか。憤激すれば竿を掲げて蜂起する可能性があるが、「嘆くべきかな」ではぼんやりしており、たとえ全国が一斉にため息をついても、結果はため息に過ぎず、「治安」には毫も妨げがないからだ。

だが私は青年諸君にもう一つ警告しておく。我々が今後「嘆くべきかな」式の文章だけ書けば安全だと思ってはならない。新しい先例はまだ研究が足りないが、清朝の旧例だけを見ても、ため息を許すのは古人に対する優遇であって、今人には適用されない。奴隷がみなため息をつくのは大した害はないが、主人が見ればやはり気分がよくない。ラッセルが称賛した杭州の駕籠かきのように、常に笑顔でいなければならないのだ。

だが私は自分のためにも少し弁解しておく。「笑顔」に対していくらか異論めいたことを言ったようだが、「階級闘争」を鼓吹する意図はない。なぜなら私のこの一篇を杭州の駕籠かきが目にすることはないと分かっているし、ましてや「討赤」の君子たちは誰も笑顔で駕籠を担ぎに行こうとはせず、駕籠担ぎを苦境と見なすのは「乱党」に限らぬことが分かるからだ。しかも私の議論も、実のところ「嘆くべきかな」に過ぎぬのだ!

現今の書籍はとかく「激烈」であり、古人の書籍にも不穏当な箇所がないわけではない。では、中国のために「国粋を保存」する者は、どうするのか。私にはまだよく分からない。ただ知っているのは、マカオでは目下「徴詩」が行われ、応募巻数七千八百五十六本を集め、「江霞公太史(孔殷)の評閲」を経て、二百名が取録され、第一名の詩はこうだという——

南中多楽日高会。。。 良時厚意願得常。。。

陵松万章発文彩。。。 百年貴寿斉輝光。。。

これは香港の新聞からそのまま写したもので、三つ連なった丸印も原本のままだが、おそらく密圏のつもりだろう。この詩にはおそらく「嵌字格」の類の一種の「格」があるのだろうが、私は門外漢なので語らぬことにする。私が得た益は、ここからようやく将来の「国粋」は詩詞駢文を正統とすべきだと悟ったことだ。史学などは発達しまい。研究するにしても、まず老師や宿儒が改定の手間をかけねばなるまい。ひとり詩詞駢文だけは弊害が少ない。ゆえに駢文の神に入った饒漢祥が亡くなると、日本人すらこれを慨嘆せずにはいられず、「狂徒」はまた罵倒される破目になるのだ。

日本人は北京で駢文を崇拝し、「金制軍」は香港で「国故を整理」する。中国を愛護し、その滅亡を恐れること、まことに至れり尽くせりだ。しかるに釐金の廃止と関税の引き上げには、みな賛成しないのはなぜか。思うに釐金は国粋であり、関税は国粋ではないからだ。「嘆くべきかな」!

今宵は中秋、璧月は澄み渡り、ため息を終えてもまだ眠くならない。「徴詩」を改めて吟じてみるが、さっぱり分からない。原稿に紙の余白があるので、「江霞公太史」の評語を録して読者に良さを知らしめよう。ただし圏点は私が僭越ながら加えたものである——

第12節

観闘

我々中国人はいつも自分が和平を愛すると好んで言うが、実は闘争を愛している。他のものの闘争を見るのが好きで、自分たちの闘争を見るのも好きだ。

最も一般的なのは闘鶏、闘蟋蟀で、南方には闘黄頭鳥、闘画眉鳥があり、北方には闘鶉がある。一群の暇人がまわりを囲んでぼんやり見物し、さらにそれで賭けをする。古くは闘魚があり、今は大道芸の者が蚤を戦わせることができる。今年の『東方雑誌』を見て、金華にはまた闘牛があることを知ったが、スペインとは違い、スペインでは人が牛と闘い、我々は牛と牛を闘わせる。

彼らが闘うままにさせ、自分は闘わず、ただ見る。

軍閥たちも勝手に闘っているが、人民は関知せず、ただ見る。

しかし軍閥たちも自ら親しく闘っているわけではない。兵士たちを互いに闘わせているのだ。だから年々悪戦が続くが、頭目は皆つつがない。忽ち誤解が解け、忽ち杯を交わして和み、忽ち共同で外敵に当たり、忽ち報国を誓い、忽ち……。言うまでもなく、忽ちまた打ち合いが始まる。

しかし人民は彼らに好きなように手品をさせ、ただ見る。

だが我々の闘士は外敵に対してだけは二様である。近い敵には「不抵抗」、遠い敵には「弩を負いて前駆す」という。

「不抵抗」は字面通り明白だ。「弩を負いて前駆す」は、弩機の制度はとうに失伝しており、考古学者が研究して製造してからでなければ負うことも前駆することもできない。

やはり国産の兵士と買い入れた軍火で自分たち同士闘い続けるのだろう。中国の人口は多いから、暫くは見物する遺民がいるだろう。しかしそうするなら外敵に対しては「和平を愛す」るしかない。

(一月二十四日。)

逃げることの弁護

古の時代、女は不幸で、一挙一動すべてが間違いで、あれにも罵られこれにも罵られた。今はこの不幸が学生の頭に降りかかった。進んでも罵られ退いても罵られる。

一昨年の冬以来、学生がどう騒いだか覚えているだろう。南に来ようとする者があり北に上ろうとする者があり、どちらも列車を出してもらえなかった。やっと首都に着いて請願すれば、「反動派に利用された」として多くの頭が銃剣や銃床に「ぶつかった」。中には「自ら失足して水に落ちた」者もいた。

検屍の報告書には「身体五色」とあった。私には全くわからない。

今年、学生たちは賢くなった。頭で銃剣にぶつかることはもうしない。新しい方法を発明した。皆散り散りになって家に帰ったのだ。

これはここ数年の教育の成果というべきだ。

しかしまた罵る者がいる。童子軍は烈士の輓聯に「遺臭万年」と書いた。

しかし考えてみよう。言語歴史研究所の命なき骨董品でさえ引っ越しているではないか。学生が一人一人自前の飛行機を持てるわけでもない。国産の銃剣で頭をぼんやりさせられて研究室に引っ込む者が、外国の飛行機や大砲で研究室から叩き出されずにいられるだろうか。

阿弥陀仏。

(一月二十四日。)

崇実

事実は字面ほど良く見えないことが常だ。

たとえばこの『自由談』は実は自由ではないが、『自由談』と呼ばれているので、我々はこうして自由に談じているわけだ。

またたとえば今回の北平の古物移転と大学生の避難禁止。命令を出す側にも道理があり、批判する側にも道理がある。しかしこれらは字面であって精髄ではない。

古物が古くて唯一無二だから宝であり急いで運び出すべしと言うなら、それは確かに筋が通る。しかし我々には北平も二つとなく、しかもそこは現存するすべての古物よりもさらに古い。なぜそちらは放っておいて古物だけ運ぶのか。正直に言えば、古物の「古さ」のためではなく、北平を失った後でも身につけて持ち運べ、いつでも売って金にできるからだ。

大学生は確かに「中堅分子」だが市場価格がない。もし欧米の市場で一人五百ドルの値がつくなら、きっと箱に詰めて専用列車で古物と一緒に運び出し、租界の外国銀行の金庫に保管するだろう。

しかし大学生は数が多くて新しい。惜しいことだ。

無駄口は少なくして、崔顥の「黄鶴楼」の詩を剥いてこれを弔おう。

第13節

たとえばある人間が憎らしいと感じ少しばかり苦い目に遭わせようとすれば次のような手がある。もし広州にいて「清党」以前ならばひそかに彼が無政府主義者であると宣伝すればよい。共産青年は当然「反革命」と言い有罪となる。「清党」以後ならば「親共派」と指せばよい。以前私は人は罪があるから銃殺されたり投獄されたりすると思っていた。今やその多くは先に「憎らしい」と認められその末に罪を犯したことになるのだと知った。多くの罪人は「憎らしい人」と呼ぶべきだ。(九月十四日。)

【「意表の外」】有恒氏が私がなぜ黙っているかと怪しんでいるがこれは一種の新しい「世故」である。私の雑感はしばしば罵倒を免れないが今年になって罵倒が被罵倒者にとって概ね有利であることを発見した。広告に利用されるのは明白だ。さらに——一、私に罵倒された者が私を憎む者を味方にしようとすれば私の雑感を広げて見せるだけで「蘭譜」となる。二、ある人が事業をしている時私が口を開けば彼は私のせいにできる。私はイエスでもないのになぜ他人のために十字架を背負わねばならぬのか。だが「新法」を定めた。以前言っていた「主将」の類のほかは新しいものにはもう本名を出さず「某学者」「某教授」と呼ぶ。「罵倒」はある人々にとっては有利なのだ。人を噛み殺す毒蛇でさえ商人は酒に漬けて金を稼ぐ。

【新時代の金貸し法】もう一つの新しい「世故」がある。以前私は債権者は必ず金持ちでなければならないと思っていたが「新時代」には精神的資本家がいる。中国は砂漠のようだと言えばこの資本家は自らを泉だと称する。社会は冷酷だと言えば自らを熱だと言い周囲は暗黒だと言えば自らを太陽だと言う。もし君に少しばかりの財産があるならそれは彼が賜ったものだ。愛する人がいるとしてもそれも彼が賜ったものだ。彼が「来い!」と言えば女性たちはみな飛んで行くが言わなかったから君は今の愛人を得ている。彼は毎回同情を一荷担いで来る。百回で百荷。勘定の時が来る。「帮忙」に命じられた通りしなければ罪大悪極だ。だが私は「新時代の新青年」の身辺にこれほど多くの帳簿が隠されているのを見てしまった。門を閉じ酒瓶に栓をし財布を握りしめる。(九月十四日。)

【魏晋の風度と文章と薬と酒の関係】——九月広州の夏期学術講演会にて。中国文学史の研究は容易ではない。漢末魏初は文学に重大な変化が起こった重要な時代である。曹操が現れたが『三国志演義』の花面の奸臣としてではなく英雄として見なければならない。曹操の統治下の第一の特色は刑名を尚ぶことであり文章は清峻の風格を生んだ。第二に通脱を尚んだ。党錮の禍以前の清流の固執に反対して気ままさを力唱し思うところを思うままに述べる文章が大量に生まれた。

曹操は人材を徴して不忠不孝でも才能さえあればよいと言った。遺令でも格式に従わず衣服や妓女の処置にまで及んだ。曹丕は「詩賦は麗を欲す」「文は気を以て主と為す」と述べ「文学の自覚時代」と言える一派を代表した。漢末魏初の文章は「清峻、通脱、華丽、壮大」である。

建安の七子のうち孔融は専ら曹操に楯突いた。袁煕の妻・甄氏の件で曹操に手紙を書き武王が妲己を周公に与えたと言った。曹操が禁酒しようとした時も女で亡国したのになぜ婚姻を禁じないのかと反対した。曹操は不孝を口実に孔融を殺した。孔融は母と子の関係は瓶に物を入れるようなもので中身を出せば終わると主張し、飢饉で父が善くない人間なら他人に食物を与えるべしと述べた。曹操は自ら不忠不孝でもよいと言いながら不孝の名で人を殺した。禰衡も孔融と共に曹操に反対し後に黄祖に殺された。

第14節

何晏の名声は甚だ大きく地位も高かった。『老子』と『易経』の研究を好んだ。彼は曹氏の一派であり司馬氏が嫌ったため記載は不満に満ちている。何晏について知られることが二つある。第一に空談の祖師、第二に服薬の祖師である。

「五石散」は一種の毒薬で何晏が服み始めた。五種の薬——石鍾乳、石硫黄、白石英、紫石英、赤石脂。服めば弱を転じて強となるという。当時の流毒は清末の阿片とほぼ同じだった。服んだ後は歩かなければならず「行散」と名づけた。全身が発熱し発熱の後に悪寒が来るが服薬後の悪寒は逆に薄着冷食冷水を要する。別名「寒食散」。

皮膚が発熱するため窄い衣服は着られず幅広い衣服を着なければならない。晋人の軽裘緩帯は薬のためだった。靴も不便で木屐を履いた。衣服を洗えず虱が多くなり「扪虱而談」が美談として伝えられた。散発の時は空腹であってはならず冷たいものを急いで食べた。晋の「居丧無礼」に影響し飲酒食肉は名士派と尊称された。

何晏と志を同じくしたのは王弼と夏侯玄で「正始の名士」と呼ばれる。東晋以後は文章を作らず清談に流れた。王弼は二十余歳で亡くなり夏侯玄と何晏は司馬懿に殺された。

晋の皇甫謐は散を服む苦しみを述べた。薬性が発すれば不注意で命を落とし発狂する。晋朝の人々の気性が激しかったのは大方服薬のためだ。

魏末「竹林の七賢」が興った。正始の名士は薬を服み竹林の名士は酒を飲んだ。嵇康と阮籍が代表である。阮籍は青眼と白眼を使い分け後に「口に人物を臧否せず」の境地に達した。嵇康は終始気性が悪く遂に司馬氏に殺された。阮籍の飲酒は思想のみならず環境による。司馬氏が簒奪を企て阮籍の名声が大きかったため言葉を発するのが難しく仕方なく酒を多く飲んだ。司馬懿が縁組みしようとした時阮籍は二ヶ月酔い続けた。

嵇康の『山巨源に絶交する書』の「湯武を非とし周孔を薄しとする」のために殺された。魏晋は孝を以て天下を治めたが天位が巧取豪奪から来たため忠を主張すれば足場が不安定になるからだ。嵇康の害は議論を発したことにある。

魏晋の礼教反対者は実は礼教を信じて固執の極みに至っていた。曹操や司馬懿が不孝を口実に人を殺すのを見て礼教の冒涜に不平を覚え激して礼教を語らなくなったが本心ではかえって礼教を宝物と見なしていた。

第15節

さらにもう一つ実証がある。嵇康・阮籍は他人が自分を模倣することを望まなかった。阮籍の息子が加入しようとした時わが家にはすでに阿咸がいれば十分だと拒んだ。嵇康の『家誡』を読むとまるで別人のようだ。長官の所に頻繁に行くな泊まるなと教え宴席で人が議論を始めたら去れと教える。嵇康はあれほど傲慢なのに息子には凡庸であれと教える。彼自身も自分の振る舞いに満足していなかったのだ。世には息子が自分に似てほしくない父親がいる。乱世に生まれやむを得ずこのような行いをしたのであり本来の姿ではない。

何晏・王弼・阮籍・嵇康の名声が大きかったため一般の人々が表面のみを学び社会には無意味な空談と飲酒が多くなった。政治にも影響して「空城計」となり実際がなくなった。劉勰の「嵇康は心に師ひて論を遣り阮籍は気を使ひて詩に命ず」が魏末晋初の文章の特色である。

東晋に至ると風気は変わり仏教の思想が混入した。陶潜は気ままに酒を飲み食を乞い怨みもなかった。甚だ貧しくして心は平静で「菊を採る東籬の下悠然として南山を見る」。この自然の境地は模倣しがたい。だが『陶集』の『述酒』は当時の政治を述べており世事を遺忘してはいなかった。

昔の人でも政治をまったく超越した「田園詩人」は存在しない。詩文もまた人事であり詩があれば世事を忘れ得なかったことが分かる。墨子は当然著書するが楊子は絶対に著さない。これこそ「為我」だ。

漢末から晋末に至る文章の変化と薬および酒との関係は以上の通りだ。

【小雑感】蜜蜂の刺は一度使えば自らの命を失う。犬儒の刺は一度使えば自らの命を苟延する。ミルは言った——専制は人々を冷笑家に変えると。しかし共和が人々を沈黙に変えることを彼は知らなかった。戦場に赴くなら軍医が一番、革命するなら後方が一番、人を殺すなら死刑執行人が一番。英雄にして安泰。

かつて裕福だった者は復古を求め今まさに裕福な者は現状維持を求めまだ裕福でない者は革新を求める。概ねそうだ。女性の天性には母性と娘性がある。妻性はない。妻性は強いられたもので母性と娘性の混合に過ぎない。自ら盗賊と称する者は警戒する必要がないが自ら正人君子と称する者は必ず警戒すべし。

階下の男は病んで死にかけ隣室では蓄音機をかけ向かいでは子供をあやしている。人類の悲歓は相通じない。私はただ彼らが騒がしいと感じるのみ。座敷犬はしばしばその主人よりも厳格である。革命の被杀于反革命、反革命の被杀于革命、不革命の或いはどちらにも殺される。革命、革革命、革革革命……。人は寂寞を感じた時に創作する。創作は常に愛に根ざす。楊朱に著書なし。短い袖を見れば直ちに白い腕を想い直ちに全裸体を想う。中国人の想像力はこの一面においてのみかくも飛躍する。(九月二十四日。)

第16節

一方の同胞が手提鞄と衣装箱を調べている間もう一方は網籠を調べていた。だがその検査法は統舱で書箱を調べた時とはまた異なっていた。あの時はまだ荒らすだけだったが今回は毀損に変わった。魚肝油の紙箱を引き裂いて床に投げ捨て蒋径三君の茶葉の瓶に穴を開けた。テーブルの上に小さなナイフを見つけた。北京で白塔寺から十数銅子で買い広州に持って行き楊桃を削ったものだ。華尺五寸三分。「これは凶器だ。あんたは罪を犯した」と言った。

第二の箱の中身は写真、抄本、訳稿、他人の原稿、研究資料だった。私は手巾包の中の十元分の銀角子を取り出し彼に見せた。彼は枕の下に押し込んで出て行った。もう一方の同胞は壺の封口を突き刺し蓋の木板を床に叩きつけて砕き饼を握りつぶして壺に放り込んだ。

二人の同胞が最初に荒らしたのは悪意ではなかった。値段交渉にも多少の乱雑の後でなければならない。「人の耳目を掩う」ためだ。同胞の外に高い鼻と白い肌のご主人様がいる。後の毀損にはいささか悪意があった。銀角子は制服のポケットに入れると重くご主人様に見つかりやすい。

白人が来て「検査は終わったかね?」と笑顔で聞いた。同胞の一人がまた来て「開けろ」と言い「あんたは金を渡したな?贈賄を……」と。もう一人が枕の下から金を取りその後は姿を見なかった。テーブルの上に鋏と缶切りと小さなナイフが集められていた。あの十元の銀角子がなければこれを「凶器」として脅すつもりだったのだろう。

茶房は「あなたが痩せすぎるから阿片の密売人ではないかと疑われた」と言った。まこと人寿に限りあり「世故」は無窮だ。人として痩せすぎてはならないことは香港に来て初めて気づいた。同胞の「査関」を監督する白人は実によく肥え太っていた。香港は一島に過ぎないが中国の縮図を活写している——中央に数人の洋人のご主人様、その手下に「高等華人」と奴隷同胞、それ以外はすべて黙々と苦しむ「土人」だ。(九月二十九日の夜、海上にて。)

【革命文学】今年南方では誰もが「革命」と叫ぶ。「革命」は文芸界にまで侵入した。最近広州の日刊紙に四人の革命文学者を師法とすべしとあった——ダヌンツィオ、ハウプトマン、イバニェス、呉稚暉。二人の帝国主義者、一人の反逆者、一人の国民党救護の発起人。革命文学は訳が分からなくなった。世間は二種の文学を革命文学と誤認する——指揮刀の下で敵を罵る文学と「打て打て」「殺せ殺せ」の文学だ。だがこの文学は強暴者に対する革命ではなく失敗者に対する革命だ。

根本問題は作者が「革命人」であるか否かだ。噴泉から出るものはすべて水であり血管から出るものはすべて血だ。だが「革命人」は稀有だ。エセーニンの自殺やソボーリの「もう生きていけない!」。革命文学者が続出する場所は実は革命がなされていない所なのだ。

【「塵影」題辞】中国の現在は大時代に向かう時代である。だがこの「大」は生を得ることも死を得ることもあり得る。愛のために身を献じた多くの者はすでにこれによって死を得た。一九二七年十二月七日、魯迅上海にて記す。

【陶元慶君の絵画展覧の際に】彼は新しい形と新しい色を以て自己の世界を描き出すがその中にはなお中国従来の魂魄すなわち民族性がある。陶元慶君の絵画には内外の二重の桎梏がない。内外両面がともに世界の時代思潮と合流しつつなお中国の民族性を滅ぼしていないからだ。一九二七年十二月十三日、魯迅上海にて記す。

【ルソーと胃袋】『社会契約論』のルソーは死なないうちから非難と迫害を受け今日に至る。梁実秋教授は「ルソーの教育論には一つとして正しいところがないが唯一女子教育論は精当である」と言う。「人」の字は辞書から抹消すべきだ聡明の者も蠢笨の者も同じく人と呼ぶ。「正当な女子教育とは女子を完全な女子にすること」だと。

第17節

ならばいわゆる正当な教育者とは「弱不禁風」の者を完全な「弱不禁風」に「蠢笨如牛」の者を完全な「蠢笨如牛」にすべきだ。ルソーの『エミール』前四編の「一つとして正しいところがない」はかくして疑いない。だがこの「一つとして正しいところがない」は「聡明絶頂の人」に対してのみ言えることで「蠢笨如牛の人」にとっては「正当な」教育となる。

多くの問題は「胃袋」から生じる。上海一隅で前二年はアーノルドを語り今年はバビットを語っている。シンクレアの一節を引く——「ルソーのいかなる批評家にもまず解決すべき問題がある。あなたはなぜ彼と争うのか。自由平等に道を開くためか。それとも大学生が疑問なく教授の講義に感服する善良な古代に連れ戻すことが目的か。」原書は『Mammonart』で「財神芸術」と訳せる。(十二月二十一日。)

【文学と汗】上海の教授が文学は永久不変の人性を描くべきでさもなくば久しからずと言う。だが人性は永久不変か。類人猿から今人まで進化するなら人性は不変ではあり得ない。たとえば汗を掻くことは古にもあり今にもあるが令嬢が掻くのは香汗で労働者が掻くのは臭汗だ。イギリスでは小説は以前奥方のために書かれ香汗が多かったが十九世紀後半にロシア文学の影響で臭汗の気が生じた。中国では道士から道を聞き批評家から文学を聞くと毛穴が痙攣し汗が出せなくなる。これこそ中国の「永久不変の人性」かもしれない。(一九二七年十二月二十三日。)

【文芸と革命】文芸を維持する人々は革命の地では「文芸は革命の先駆だ」と言いたがる。私はこれを疑わしく思う。中国には特別の国情がある。一、革命軍が先駆。二、人民代表が第二先駆。三、文学者が第三先駆。外国では革命軍の前にルソーやコロレンコがいた。(十二月二十四日夜零時一分五秒。)

【「大内档案」について】いわゆる「大内档案」は清朝の内閣に三百余年堆積し孔廟に十余年詰め込まれ誰も沈黙していた。歴史博物館がこの残余を紙屋に売り紙屋がロ振玉に売りロ振玉が日本人に売ってから号泣の声が起こった。金梁は杭州の駐防旗人で遺老であり民国のなすことはすべて憎い。ロ振玉も遺老で古董を外国人に売る。王国維は水に遺老生活を結んだ老実人だ。

F総長が教育部に来て私とG主事に麻袋を試し見させた。中身は大抵賀表と奏章で宋版書は破れた半冊か数枚の紙片だった。考察欧美教育で名高いY次長やC参事も急に考古家に変じ検出物を持って行って返す時にはいつも少なくなっていた。F総長は「高等官吏学」に通じ焼いてはならないことを知っていた。一度焼けば宝物に変わる。歴史博物館が売却した後に神秘的な波紋が巻き起こった。中国の公共の物は保存が容易でない。当局者が門外漢なら物を台無しにし通人なら物を盗み尽くす。(一九二七年十二月二十四日。)

第18節

当時の整理法は「保存」と「放棄」の二部に分けられた。数十人の部員が毎日埃と破れ紙の中を出没した。「保存」の一部は北京大学がさらに大部分を分け取った。不要のものは午門の門楼の上に散放された。

各部に員を派遣して共同で再検査させた。二週間もせぬうちに各部から派遣され新たに海外留学から帰った何人かが忽然として考古家に変じ破れた紙片を洋ズボンのポケットに突っ込んだ。この儀式が挙行されれば各部が責任を負うべきで午門の楼上の空気は先ほどまでの緊張はなくなった。

F総長は「高等官吏学」に精通し焼いてはならないことを知っていた。一度焼けば必ず宝物に変わる。やがて彼も「下野」した。残余の破れ紙に宝物はないが外で唐画や蜀石経や宋版書が続出しているのは権力者が以前こっそり盗み出した物が公表の機会を得たからと多くの偽造された古董が八千麻袋の看板を掲げて市場に出たからだ。

中国の公共の物は実に保存が容易でない。当局者が門外漢なら物を台無しにし通人なら物を盗み尽くす。(一九二七年十二月二十四日。)

【擬予言——一九二九年に出現する瑣事】公民某甲が各県に大学と監獄の設置を上書したが却下された。科学文芸軍事経済の連合戦線が成った。正月元日上海で多くの新期刊が出版された——文芸又復興。宇宙。太太陽。新新生命。同情。正義。……等々。正月三日哲学と小説が同時に滅亡した。蒙古がロシアに接近し五族から除名され白系ロシア人で補充して「五族共和」とした。革命文学者がマルクス学説を「マルクスだの牛クスだの」の一言で覆した。全世界が敬服しユダヤ人は大いに恥じた。

【第二回 愛情を割いて征途に上る】亜蓠士は夢うつつに叫び声を聞いて驚いた。洛因が窓を叩きながら「もう起きないと叔父さんに叱られますよ」と。叔父の列曼は満面笑みでまだ貪り食っていた。「何もかも用意したか」「全部済みました」「よしよし駅馬車はもう門外で待っている」。亜蓠士は洛因と握手して馬車に乗り黄塵を巻いて駆け出した。迦修荆士の汽車駅で乗り換え吉黎海岸に着いた。

列曼は汽船を探しに行きすでに船上で乱跳していた。船は夜中まで出ないため平原に出て風景を眺めた。翌日コペンハーゲンに着き北方博物館のトムソン氏を訪ね六月二日のデンマーク艦がレイキャヴィクに向かうと聞き喜んだ。列曼は亜蓠士を謡楼に登らせようとしたが亜蓠士は目眩がすると言った。「このような臆病者では地底を旅行できるものか!」と叱られ戦々兢兢として登り遂に絶頂に達して壮大な景色を見た。

【第十二回 故郷に返り新説で群儒を服す】

第19節

さて一行は語りつつ歩みつつ、一面の大平原に到った。心神が定まった後、次第に疲労を覚え、次第に炎熱を覚え、次第に飢渇を覚えた。みな足を止め、草に臥すること二時間、ようやく前進を始めた。ほどなく遠くに一叢の村落が見えた。前は清流に臨み、翠竹と白砂、明瑟として画の如し。林中に石榴は血のごとく粲き、葡萄は房を垂れていた。三人はこれを見て喜び、村人に道を問うた。村の古老が言った。「これより南に進めば大きな洞穴がある。我々の先祖が伝えるところでは、底に至ると別天地があるという。」列曼はこの言を聞いて大いに興奮し、直ちに出発しようとした。亜蓠士は村の娘が微笑むのを見て、しばし立ち去り難い思いであったが、叔父に促されてやむなく腰を上げた。一行は古老の指し示す方角に向かい、午後遅くになってようやく岩山の麓に到着した。果たして巨大な洞口があり、冷気が噴き出していた。列曼は松明を灯し先頭に立って降りていった。

第20節

あの武士は最初微笑をもって敵に対したが、八弥が一刀斬り込んだ時、武士は明らかに狼狽した。この少年の刀風の鋭さに驚愕した。自らの軽率を悔いた。このような気餒の自覚がさらにこの武士を不利な地位に陥れた。次第に八弥に上風を占められ、追い詰められて退く一方であった。武士の額に汗が滲み、息が荒くなった。八弥は一歩も退かず、身軽に跳躍しながら刀を振るった。やがて武士の足がもつれ、地に膝をついた。八弥は刀を止め、静かに一歩退いた。武士は顔を上げ、この少年の目に怒りではなく澄んだ光があるのを見て、かえって己の未熟を恥じた。刀を鞘に収め、深々と頭を下げた。

第21節

しかし、そうではない人もいた。以前、大団体の旅行者の一群がアメリカからやって来た。世界周遊団体である。その中の一人は西洋便器の総本店の主人であった。彼はホノルル、日光、西湖、セイロン島を歴覧しながら、同時に新式便器の卸売代理店を各地に建設していた。旅行と商売を兼ねるその手腕は見事というほかなかった。彼は各地の風土を観察しつつ、その地の衛生事情に合わせた商品を提案した。旅の終わりには、世界中に代理店の網を張り巡らせていた。

第22節

数日後、持参した紹介状と自分の手紙を大統領の秘書長テイマルタイ(J. P. Tumulty)に送った。何日経っても返信がない。一週間待っても返信がなかったので、カリフォルニアのエリウッド夫人に手紙を書く際に、ついでにこの件に触れた。夫人は直ちに電報を打ってくれたようで、間もなく秘書長から丁重な返事が届いた。大統領との面会の日取りが決まり、ホワイトハウスを訪問することになった。指定された日の朝、正装して出かけた。広大な庭園を通り、厳重な警備を経て応接室に通された。

第23節

朝から降り始めた雨が夕方に止んだ。蒸し暑い天気であった。我々二人は皺だらけの制服を着、泥に汚れた革靴を履いて、小石川の高台の先生の宅門口に姿を現した。それは今はもう取り壊された古い家で、薄暗い宅門の中の左手に、およそ十畳ほどの日本風の洋室があった。先生はそこで我々を迎えてくださった。部屋には書物が壁を埋め、机の上にも原稿用紙が積まれていた。先生は痩せた体で椅子に腰かけ、穏やかな目で我々を見つめた。

第24節

耳を澄ますと、時折、轟轟たる音が聞こえた。まさに大砲の音である。今まさに戦争が始まったのだ。長辛店の争奪戦である。北京の南、三十余里の地に京漢鉄路の長辛店駅がある。張作霖率いる奉天軍がまさにこの丘陵を占拠し、呉佩孚率いる直隷軍と戦っていた。奉直戦争である。砲声は遠雷のように響き、時に窓が震えた。街の人々は不安げに空を見上げていたが、日常はなお続いていた。商店は営業し、車夫は客を運び、子供たちは路地で遊んでいた。ただ時折、砲声がいっそう近づくと、人々は足を止めて互いに顔を見合わせた。

第25節

彼は実に小さな家を、父親のプレストを渇慕していた——だが困苦で愁いに満ちた再会に比べれば、ここで平静な渇慕に堪えている方がよいと思った。ここではまた何の妨げもなく旋児のことを思い馳せられるように感じた。家では叶わないことだ。旋児はきっと行ってしまったのだろう。遠く遠くへ。だが彼の心の中では旋児は常にそこにいた。小さな部屋の窓辺に座り、夕暮れの光の中で編み物をしている姿が浮かんだ。彼女の柔らかな微笑みが見えた。彼は目を閉じ、その幻影に身を委ねた。

第26節

あの小鳥はずる賢く中を覗き込んでから、また探し回り遊び回りに行った。

「続けて話して、ヨハン、おまえが見たすべてのことを。」

ヨハンは喜んでそうした。ロン児は彼の話を聞いていた。信じて、そして凝神と。

「でもなぜすべてが止まってしまったの?なぜおまえは今はもう見えないの?」

ヨハンは首を振った。「わからない。ある朝目が覚めたら、何もかも消えていた。あの美しい庭園も、あの不思議な泉も。ただ普通の壁しか見えなくなった。」

ロン児は悲しげに頷いた。「でもおまえは確かに見たのよね。それは本当のことなのよね。」

「本当だ」とヨハンは言った。「僕はこの目で見た。」

第27節

だが蔷薇のことを少しでも知っている者は一人もいなかった。それらはすべてこの夏のものであった。あの高慢な王燭でさえそうだった。

「ああ、あれはどこにあるの?どこにあるの?」

「では、おまえも私を騙したのだな?」と将知は言った。「私はとうに思っていた、人間はいつもこうだと。」

彼は振り返って庭を見渡した。夏の花々はすでに色褪せ、枯れかけた葉がちらほらと地面に散っていた。蔷薇はもうどこにも見えなかった。ただ棘のある茎だけが壁に沿って伸びていた。将知は長い溜息をついた。

第28節

「ああ、そうではない、まったくそうではない。永終は実に忠厚な人間だ。見間違えられたのだ。」

門前の梯子で誰かが足をつまずかせた。橐橐!橐橐!木の梯子の上で音がした。そして誰かが扉を叩いた。まるで鉄が木を打つかのように。

一人の長い、痩せた男が入って来た。彼は深く窪んだ目をしていた。外套は擦り切れ、靴は泥にまみれていた。寒さに震えているようであったが、その目には妙な輝きがあった。彼は部屋の中を見回し、暖炉の傍の椅子に目を留めた。

「座ってもよいか」と彼は低い声で言った。

「どうぞ」と主人は答えた。「火にあたりなさい。外は寒かろう。」

男は椅子に腰かけ、両手を火に翳した。しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

第29節

「あの星たちのことかい? お前は自分が何を言ったか分かっているのか、子供よ。あの上にあるのは小さな光ではない、お前がここで四方に見る灯火のようなものではないのだ。あの全てが世界なのだ。千もの都市を持つこの世界と比べても、遥かに大きく、我々は一粒の微塵のごとく、それらの間に漂っている。しかも、そこには上も下もなく、到る処に世界があり、永遠に世界があり、そしてそれは永遠に、永遠に尽きることがないのだ。」

「そんなことはない! そんなことはない!」ヨハンは恐れて叫んだ。「そんなことを言わないでくれ、言わないでくれ! 広大な暗い野原の上に、僕は小さな光が上にあるのを見ているのだ。」

「そうさ、お前には小さな光にしか見えないだろう。お前が上を呆然と見つめて一生を過ごしたとしても、暗い野原の中でお前の上にある小さな光しか見えまい。しかしお前は知ることができるし、知らねばならない。あれは世界なのだ。上もなく下もなく、そこにはあの球体があり、何の意味もなく、何ものでもなく消え去ってゆく、哀れに蠢く人の群れを載せているのだ。だから、もう『星たち』などと言ってくれるな。まるでそれが二、三十個であるかのように。それは無意識というものだ。」

ヨハンは黙っていた。卑しきものを高める偉大さが、卑しきものを押し潰してしまったのだ。

「さあ、行こう」と穿鑿が言った。「面白いものを少し見よう。」彼らのもとに美しい響きの音楽が聞こえてきた。暗い街の一角に、高大な建物が立ち、多くの高い窓から明るく光が漏れていた。前には馬車が長く並んでいた。馬の蹄の音が夜の静寂の中に空しく響き、馬の頭は揺れていた。閃光が馬具の銀の鋲と馬車の漆の光の上に煌めいていた。

中は明るい光に満ちていた。ヨハンは半ば眩惑されながら、百もの揺れる炎の眩い色彩と、鏡と花の輝きを見つめた。鮮やかな姿が窓の前を過ぎ、皆が微笑みの表情と親しげな態度で互いに近づき合っていた。広間の奥まで、盛装した人々が回っていた。ゆったりとした歩調で、あるいは旋風のような素早い旋回で。大声の喧噪と歓びの声、擦れる足音と長い衣裳の衣擦れの音が、ヨハンが遠くで聞いたことのある柔らかな音楽の悠揚の中に交錯して、通りへと伝わってきた。外の、窓に近い所に、二つの暗い姿があり、その顔だけが、彼らが貪るように見つめている輝きに照らされ、不均一に鮮明であった。

「なんと美しい! なんと壮麗だ!」ヨハンは叫んだ。彼はこれほど多くの色彩と輝きと花の観覧に陶酔していた。「何があったのだ? 中に入れるのか?」

「おお、これを美しいと言うのか? それともお前はまず兎の穴を選ぶかね? しかし見るがよい。人々がどのように微笑み、輝き、そしてお辞儀をしていることか。見よ、男たちがどれほど立派で美しく、女たちがどれほど艶やかに装っていることか。踊りもまたなんと真剣なことか、まるで世界で最も重要な事件であるかのように!」

ヨハンは兎の穴の中の踊りを思い出し、記憶を呼び覚ますいくつかのことも見て取った。しかしこれは遥かに盛大で、遥かに燦然としていた。盛装した若い女たちが長く白い腕を高く伸ばし、活発な踊りの中で顔を傾けると、まるで妖精のように美しく見えた。給仕たちは整然と往来し、恭しくお辞儀をしながら貴重な飲み物を差し出していた。

「なんと華美なことか! なんと華美なことか!」ヨハンは大声で言った。

「美しい眺めだね、そう思わないか?」穿鑿が言った。「しかしお前は鼻の先にあるものより遠くを見なければならない。お前は今、愛らしい微笑みの顔しか見えないだろう? ふむ、この微笑みの大部分は欺瞞と偽りなのだ。広間の壁際に座っている温和な老婦人たちは、池の周りの漁師のようなもの。若い女たちは餌で、紳士たちは魚だ。彼らはあれほど親しげに語り合っているが――互いの釣果を嫉妬深く不快に思っている。もし若い女の一人が喜んでいるとすれば、それは他の者より美しく着飾っているか、より多くの紳士を惹きつけたからであり、紳士たちの特別な楽しみは剥き出しの首と腕なのだ。微笑む目と親しげな唇の裏には、全く別のことが隠されている。そして恭しい給仕たちは、全く恭しくないことを考えている。彼らが考えていることを突然暴露すれば、直ちにこの美しい宴会は終わりだ。」

穿鑿が全てを指し示すと、ヨハンは表情と態度の中の偽りをはっきりと見、微笑みの仮面から虚栄、嫉妬、退屈がどのように露出するかを、あるいはその仮面を一旦脇に置けば突如として明らかになるのを見た。

「ああ」と穿鑿は言った。「彼らの好きにさせるがよい。人間も喜ぶべきだ。他の方法では、彼らには全く分からないのだから。」

ヨハンは、まるで誰かが背後に立っているかのように感じた。振り返ると、それは見覚えのある、長い姿だった。蒼白い顔が眩い輝きに照らされ、目は二つの大きな黒い点になっていた。低い声で独りごちながら、指を華美な広間の方へ差し向けていた。

「見ろ!」穿鑿が言った。「あいつがまた見つけ出したぞ。」

ヨハンはその指が指す場所を見た。年老いた婦人が会話の最中に突然目を閉じるのが見え、美しい若い娘が身震いし、そのまま立ち止まって前方を凝視するのが見えた。

「いつなのだ?」穿鑿が死に尋ねた。

「それは私のことだ。」死は言った。

「この同じ社交界をもう一度ヨハンに見せたいのだが」と穿鑿は言った。口を歪めて笑い、目を見開いた。「いいか?」

「今夜か?」死は尋ねた。

「なぜいけない?」穿鑿は言った。「あの場所には時間も時刻もない。今あるもの、永遠にあるもの、そしてこれからあるもの、全て既にそこにあるのだ。」

「私は一緒に行けない」と死は言った。「仕事が多すぎる。しかしあの名を使え、我々二人が知っているあの名を呼べ。私がいなくても道は見つかるだろう。」

こうして彼らは寂しい街を抜け、しばらく歩いた。ガス灯の炎が夜風の中で明滅し、暗く冷たい水が堤防を打っていた。柔らかな音楽は次第に低くなり、ついに大都市の上に横たわる大いなる静寂の中に絶えた。

突然、高みから金属的な音が響き、清朗で厳粛な歌が聞こえた。

それは高い塔から不意に眠れる都市の上に落ちてきた――小さなヨハンの沈鬱で暗い魂の上に。彼は驚いて上を見た。鐘の音は歓呼とともに立ち昇り、力強く死の静寂を引き裂いた響きの調べは悠然と去った。静かな眠りと暗い悲しみの間のこの喜びの声、典礼の歌を、彼は非常に聞き慣れぬものに感じた。

「これは時計だ」と穿鑿は言った。「いつもこのように陽気なのだ、年が去り年が来ても。毎時間、同じ力と興味で同じ歌を歌う。夜には昼よりも面白く響く――まるで鐘が眠らずに済むことを歓んでいるかのように。その下には千もの憂いと泣き声があるのに、それでも同じく幸福に歌い続ける。しかしもし誰かが死ねば、一層面白く鳴り響くのだ。」

再び歓呼の声が立ち昇った。

「いつの日か、ヨハン」と穿鑿は続けた。「静かな部屋の窓の裏に、微かな小さな光が灯るだろう。物思いに震え、壁に影を踊らせる、沈鬱な小さな光だ。低く塞がれた嗚咽の他には、部屋の中に何の音もしない。白い帳の寝台があり、皺のある影がある。寝台の上に何かが横たわっている、同じく白く静かに。それは小さなヨハンだ。――ああ、するとこの歌が大声で陽気に部屋に響き入り、歌声の中で、彼の死後の最初の時間に儀式を行うのだ。」――

十二の重い打撃が、遅れながら空中に轟いた。最後の一撃の時、ヨハンはまるで夢に入ったかのようになり、もう歩かず、穿鑿の手に導かれて通りの上を漂った。疾風のような飛行の中で、家々と街灯が傍らを滑り過ぎた。死は消えた。今や家々は疎らになった。単純な列を成し、その間に暗い秘密に満ちた洞穴、溝、水溜り、廃墟や木材があり、時折ガス灯に照らされていた。やがて重い柱と高い柵のある大きな門が現れた。一瞬にして彼らは漂い過ぎ、大きな砂山の傍の湿った草の上に降り立った。ヨハンは庭の中にいると思った。周囲で木々がざわめく音が聞こえたからだ。

「それでは気をつけろ、ヨハン! 私が旋児より多くは知らないとまだ思っているのだな。」

すると穿鑿は大声で短く暗い、ヨハンを戦慄させる名を叫んだ。闇が四方からその声に応え、風が唸りながら旋回してそれを持ち上げた――高い天の中に絶えるまで。

ヨハンは、雑草がどのように頭の高さまで伸び、先ほどまで足元にあった小石がどのように視界を遮っているかを見た。穿鑿は彼の傍に、同じように小さくなって、両手で小石を掴み、全身の力で回していた。細く高い声の混乱した叫びが、荒れ果てた地面から立ち昇った。

「おい、ここに誰がいる? これはどういうことだ? 野蛮な奴め!」すぐさまそう発せられた。

ヨハンは黒い形が忙しく走り回るのを見た。素早い黒いヤスデ、光る褐色のハサミムシとその精巧な鋏、丸い背のダンゴムシ、そして蛇のようなムカデを見分けた。その中に一匹の長いミミズが、電光のように速く自分の穴に引っ込んでいった。

穿鑿はこの騒がしい群れを斜めに突き抜け、ミミズの穴口へ向かった。

「おい、この長い裸の悪党め。――出て来い、赤い尖った鼻を持って!」穿鑿は大声で言った。

「どうすればいいのだ?」虫は穴の奥から尋ねた。

「出て来なければならない、私が入りたいのだ、分かるか、光る砂噛み野郎!」

ミミズは周りを見回しながら穴口から尖った頭を出し、あちこちを探ってから、ゆっくりと長い裸の体を少しずつ地面に引き寄せた。

穿鑿は好奇心に駆られて集まってきた他の動物たちを見回した。

「お前たちの一匹が一緒に来て、我々の前で灯りを照らさねばならぬ。いや、黒ヤスデよ、お前は太り過ぎだし、千本の足で目が回る。おい、お前、ハサミムシ! お前の外観が気に入った。一緒に来い、鋏に光を持って! ヤスデよ、走って迷い光を探すか、腐った木の小さな灯りを持って来い。」

彼の号令の声が動物たちを動かし、彼らはそれに従った。

彼らは虫道を下っていった。前にはハサミムシが光る木を持ち、次に穿鑿、次にヨハン。下は狭くて暗かった。ヨハンは砂粒が淡い青い微光の中に微かに照らされているのを見た。砂粒はどれも石のように大きく見え、半透明で、ミミズの体に磨かれて密で滑らかな壁になっていた。ミミズは好奇心に駆られて後をつけてきた。ヨハンが振り返ると、その尖った頭が時に前に伸び、時に体が追いつくのを待っているのが見えた。

彼らは黙って下へ下った――長く深く。ヨハンには急すぎる道では、穿鑿が彼を支えた。終わりがないかのように思えた。常に新しい砂粒、常にハサミムシが下へ這い進み、道の曲がりに従って回り巡った。ついに道は少し広くなり、壁も互いに離れた。砂粒は黒く湿り、上方は洞窟となり、洞面に水滴が光る筋を引き、木の根が洞窟に入り込んで、固まった蛇のようであった。

するとヨハンの目の前に、突然真っ直ぐな壁が立ちはだかった。黒く高く、彼らの前方の全空間を遮断していた。ハサミムシが戻ってきた。

「よし、これで奥に着いたのだ。ミミズはもう知っている。ここは奴の家だ。」

「さあ、道を教えろ!」穿鑿が言った。

ミミズはゆっくりとその節のある体を黒い壁の根元に引きずり、探った。ヨハンは壁が木であることを見て取った。あちこちで淡い褐色の塵となって崩れていた。虫は中へと潜り込み、長く柔らかい体を穴に滑り込ませた。

「さあ、お前も」と穿鑿は言い、ヨハンをその小さく湿った穴に押し込んだ。一瞬、柔らかく湿った塵の中で息が止まりそうになったが、やがて頭が自由になり、全力を尽くして小さな穴から体を出した。周囲は広い空間のように思えた。地面は硬く湿り、空気は濃厚で耐え難いほど鬱々としていた。ヨハンはほとんど呼吸する勇気がなく、名状し難い恐怖の中で待っていた。

彼は穿鑿の声が地下室のように空洞に響くのを聞いた。

「こっちだ、ヨハン、ついて来い!」――

彼は、目の前の地面がどのように山のように隆起しているかを感じた――穿鑿に導かれ、濃密な闇の中でその地面を踏んだ。まるで衣服の上を歩いているようで、足の下で高低した。溝と丘に躓きながら穿鑿を追い、やがて平らな場所に着き、柔らかい管のような長い茎にしっかりと掴まった。

「ここに立つのがよい! 灯りを持って来い!」穿鑿が叫んだ。

遠くから微かな小さな光が現れ、持っている虫とともに上下していた。光が近づくにつれ、惨澹とした明かりが空間を照らし、ヨハンの苦悩も増していった。

彼が踏み越えたあの山は、長く白かった。手に握っていた管は褐色で、下方に燦然とした波線を描いていた。

彼は人の長く硬直した体を見分けた。そして彼が立っている冷たい場所は額であった。

目の前に二つの深い黒い穴が現れた――落ち窪んだ目であった。淡い青い光は痩せた鼻と、恐ろしい硬直した死の笑みで開いた灰色の唇をも照らした。

穿鑿の口から鋭い笑い声が発せられたが、直ちに湿った木の壁の間で消えた。

「これは驚きだな、ヨハン!」

長い虫が死衣の襞の間から這い出て、周囲を見回し、下顎の上に這い、硬直した唇を越えて、真っ暗な口腔の中に滑り込んでいった。

「これが舞踏会で最も美しかった者だ――お前が妖精よりも美しいと思った者だ。あの時、彼女の衣裳と巻き髪は甘い香りに溢れ、あの時、目は流し目で唇は微笑んでいた――今はもちろん少し変わったが。」

あらゆる戦慄の中でも、ヨハンの目には不信が隠れていた。こんなに早いのか?――先ほどあれほど華美であったのに、もう既に……?

「私を信じないのか?」穿鑿は口を歪めて笑った。「あの時と今との間に、既に半世紀が過ぎた。あそこには時刻も時間もない。既に過ぎたものは永久であり、これから来るものは既に過ぎている。お前にはこれが考えられまいが、信じるべきだ。ここでは全てが真実だ。私がお前に示した全てが、真実なのだ、真実なのだ! これは旋児には主張できぬことだ!」

穿鑿は嬉笑しながら死体の顔の上を飛び跳ね、極めて悪質な悪戯をした。眉毛の上に座り、長い睫毛を引いて瞼を開いた。あの目、ヨハンがかつて喜びに輝くのを見たあの目は、疲れて凝固し、薄黄色い小さな光の中で皺だらけに白かった。

「さあ、もっと下へ!」穿鑿は大声で叫んだ。「他にも見るものがあるぞ!」

ミミズがゆっくりと右の口角から這い出て、この恐ろしい行進は続いた。

引き返すのではなく――新しい、同様に長く暗い道を進んだ。

「古いのが来た」とミミズは、また黒い壁が行く手を阻んだ時に言った。「ここにはもう長いことおる!」

これは前回よりもいくらか耐えられた。形を失った塊の中から白骨が覗いている他には、ヨハンには何も見えなかった。何百もの虫や昆虫が黙々と忙しく働いていた。光が騒ぎを引き起こした。

「お前たちはどこから来た? 誰が光をここに持ち込んだ? 我々にはこんなもの要らぬ!」

彼らは急いで溝や穴に潜り込んだ。しかし同種の者を認めた。

「お前はここにいたことがあるか?」虫たちが尋ねた。「木はまだ硬いぞ。」

先の虫は否定した。

第30節

彼らはさらに遠くへ歩いた。穿鑿が案内者として、知っていることを小さなヨハンに指し示した。形の崩れた顔が現れた。睨みつけるような丸い目、膨れた黒い唇と顔。

「これはかつて優雅な紳士だった」と穿鑿は嬉しそうに言った。「お前も見たことがあるかもしれない。あんなにも裕福で、幅を利かせ、高慢だった。尊大さだけは保たれたままだ。」

このように進んでいった。痩せ衰え蝕まれた姿もあった。微光を映して淡青く光る白髪の間に、大きな頭蓋の子供も、中年の沈思の面もあった。

「見ろ、死んでから老いた者たちだ。」穿鑿は言った。

口髭の男に近づいた。唇は高く吊り上がり白い歯が光っていた。額の中央に丸く真黒な小さな穴があった。

「この男は永終に手早く片付けられた。なぜもう少し待てなかったのか。いずれにせよここに来ることになっていたのに。」

そしてまた道が、新たな道が、横たわる体が硬直した醜怪な顔と動かぬ組んだ手とともにあった。

「これ以上下には行かない」とハサミムシが言った。「この辺りはあまり知らない。」

「引き返そう。」ミミズが言った。

「前へ、ただ前へ!」穿鑿は叫んだ。

一行はまた前進した。

「全て、お前が見るもの全てが存在している」穿鑿は進みながら言った。「これらは全て真実だ。ただ一つ真実でないものがある。それはお前自身だ、ヨハン。お前はここにいないし、いることもできない。」

ヨハンがその言葉に恐怖の硬直した目を見せると、穿鑿は響き渡る笑い声を上げた。

「これは行き止まりだ、もう進まない。」ハサミムシが苛立って言った。

「私はあえて進む」と穿鑿は言い、道の尽きた所で両手で掘り始めた。「手伝え、ヨハン!」

ヨハンは困窮の中で思わず従い、湿った微細な土を掘った。

汗にまみれ黙々と作業を続け、やがて黒い木に突き当たった。

ミミズは節のある頭を引っ込め後ろへ消えた。ハサミムシも灯りを置いて引き返した。

「入れないよ、木が新しすぎる。」去り際にそう言った。

「入って見せる!」穿鑿は言い、爪で木から白い削り屑を引き裂いた。

恐ろしい苦悩がヨハンを襲った。しかしそうせざるを得なかった。

暗い隙間がついに開いた。穿鑿は灯りを取り慌てて中に這い込んだ。

「ここだ!」彼は叫びながら頭の方へ走った。

しかしヨハンが胸の上に静かに組まれた手の所に着いた時、休まねばならなかった。痩せた蒼白い指が目の前にあった。突然それを認めた。指の切り傷と皺、長い深い藍色の爪の形。人差し指に褐色の小さな点。これは彼自身の手だった。

「ここだ!」穿鑿の声が頭の方から叫んだ。「一目見てみろ、彼が分かるか?」

哀れなヨハンは立ち上がり光の方へ歩こうとした。しかしもはやそれはできなかった。小さな光は完全な闇に消え、彼も意識を失って倒れた。

【十二】

彼は深い眠りに落ちた。夢のないほど深いところまで。

再びこの闇から起き上がった時――ゆっくりと――朝の蒼茫として涼やかな光の中で、斑爛たる優しい古い夢を払い落とした。露の雫が花から滑り落ちるように、夢が魂から滑り落ちていった。

まだ美しい光景の錯綜の中で、半ば夢見ている目の表情は穏やかで温和だった。

しかし薄暗い白昼を前にした苦痛のために、光を嫌う者のように目を閉じた。過去の朝に見た全てが見えた。遥か昔のことのようだった。しかし悲しい朝から寒気立つ夜まで、絶えず魂の前に現れた。あの全ての恐怖が一日のうちに現れたとは信じられなかった。

柔らかな夢が影も形もなく魂から滑り去った――穿鑿が彼を揺さぶった――沈鬱な時が始まった。怠惰で色のない、他の全ての前駆であった。

しかし前夜の恐ろしい行進で見たものは彼のもとに留まった。ただの恐ろしい悪夢だったのか?

躊躇いながらこれを穿鑿に尋ねると、穿鑿は嘲りと驚きの目で見た。

「何を考えている?」

しかしヨハンはその嘲りに気づかず、自分がはっきりと見たものが本当にそのように現れたのかと尋ねた。

「いや、ヨハン、なんと愚かなことか!そんなことは決して起こり得ない。」

ヨハンは何を考えるべきか分からなくなった。

「これからお前に仕事を与えよう。そうすればこんな馬鹿な問いはしなくなる。」

彼らは番号博士のところへ行った。

賑やかな通りで穿鑿が突然立ち止まり、群衆の中から一人の男をヨハンに指し示した。

「まだ見覚えがあるか?」と尋ね、ヨハンが蒼白になって凝視すると響き渡る笑い声を上げた。

ヨハンは昨夜彼を見たのだ。深く、地の底で。――

博士は親切に迎え、叡智を授けた。何時間も聞き入った。この日もその後の多くの日々も。

ヨハンが探し求めるものを博士もまだ見つけてはいなかった。しかしもう少しだと言った。ヨハンを自分と同じ高みに導くと。

ヨハンは傾聴し学び、勤勉に忍耐強く何日も何ヶ月もの間。光を求めるほど周囲は暗くなった。学んだことの始まりは良かったが、深く掘り下げるほど全てが淋しく暗くなった。動物や植物から始めたが、長く観察すると番号になった。全てが番号に分散し紙は番号で埋まった。博士は番号を素晴らしいと考え光明だと言ったが、ヨハンにとっては暗闇だった。

穿鑿はつきまとい、厭きて疲れると刺激を与えた。楽しみや賞賛の瞬間ごとに叱責した。

ヨハンは花の精妙な組み合わせ、実の結び方、昆虫の無自覚な天職の助けを学ぶたびに驚き喜んだ。

「素晴らしい。全てがなんと詳細に計算され精巧に造られていることか!」

「格別に適切だ」と穿鑿は言った。「残念ながら大部分は無用だ。どれだけの花が実を結び種が木になるのか?」

「しかし全てが壮大な計画に従って作られたかのようだ」とヨハンは答えた。「蜜蜂は蜜を求めて花を助けることを知らず、花は色で蜜蜂を誘う。これが計画であり、両者がそれに知らず知らず取り組んでいる。」

「見事だが欠けているものも多い。蜜蜂は花の下に穴を噛み開け精巧な仕組みを台無しにする。賢い工匠が蜜蜂に馬鹿にされるのだ!」

人間と動物の組み合わせはさらに悪く見えた。穿鑿はヨハンが美しいと思うもの全てから不完全さと欠点を指摘した。

「この工匠はヨハン、狡猾だが一つ忘れた。人間は休みなく補修する。お前の周りを見ろ!傘、眼鏡、衣服と住居、全てが人類の補修工事だ。壮大な計画とは無関係だ。工匠は人間の寒さや読書の必要を計算に入れなかった。子供たちに衣服を与えたが成長を計算に入れず、殆ど全ての人間が天然の衣服から成長してしまった。彼らは全てを自分の手に取り工匠を顧みない。与えられぬものも奪い取り、明白なのは彼らを死なせることだ。だから彼らは様々な策略でこの死を回避する。」

「しかし人間の罪だ」とヨハンは言った。「なぜ自然から離れたのか?」

「愚かなヨハンよ!乳母が子供に火遊びをさせ焼けたなら――誰の罪だ?火を知らぬ子供か、火を知る乳母か?人間が困窮の中で道を誤ったなら、彼ら自身の罪か、彼らと比べれば無知な子供のような全知の工匠の罪か?」

「しかし彼らは知っていた……」

「ヨハン、子供に『火を弄るな、痛いぞ』と言い、子供がそれでも弄ったなら、痛みを知らなかったからだ。人間は子供のように聾で愚かだ。ガラスは脆く粘土は軟らかい。人類を造りながら愚かさを計算に入れぬ者は、ガラスで武器を造りながら割れることを顧みぬ者と同じだ。」

これらの言葉は飛び散る火の雫のように魂に落ちた。胸に大いなる悲痛が芽生え、以前の夜の不眠の苦痛を追い払った。

ああ!眠ること!――かつて多くの日の後に、眠りが最良の時であった。思考も悲痛もなく、夢はいつも以前の生活へ導いた。夢の中では華美だったが、昼にはもう想像できなかった。憧憬と苦痛だけを知っていた。かつて旋児を恋い慕い、栄児を待っていた。なんと華美であったことか!

栄児!――まだ恋い慕うのか?学ぶほど憧憬は消えた。これも断片に散り、穿鑿は愛が何かを悟らせた。番号博士はまだそれから番号を作れないがもうすぐだと言った。小さなヨハンの周りはこのように暗くまた暗かった。

微かに感謝を覚えた。穿鑿との恐ろしい行進で栄児を見なかったことに。

穿鑿に話すと何も言わず狡猾に微笑んだ。ヨハンは理解した。憐れんでいるのではないと。

ヨハンに暇な時間があると穿鑿は人間世界へ連れ出した。病院で病人たちが大広間に横たわり、蒼白な顔が長い列をなし、憂鬱な静寂はただ喘ぎと叫びに中断された。穿鑿は何人かが二度とこの広間を出ないだろうと示した。人が病める親族を見舞う時、穿鑿は言った。「皆分かっている。彼ら自身もこの暗い大広間に入り、結局は黒い箱で運び出されるのだ。」

「どうしてあの人たちはあんなに喜べるのだろう?」ヨハンは思った。

上階の小さな広間に連れて行った。哀傷の半暗に満ち、隣室からオルガンの響きが夢のように伝わった。群衆の中から壁に沿う一筋の陽光を鈍く凝視する病人を指し示した。

「彼はここに七年いる」と穿鑿は言った。「船乗りで、インドの椰子の木、日本の青い海、ブラジルの森を見た。今では七年の長い日々を一筋の陽光とオルガンで過ごしている。もう出られないがまだこの倍の年月を過ごし得る。」

この日以来恐ろしい夢を見た。目覚めると小さな広間の哀傷の半暗の中にいて、最期まで現れては消える黄昏しか見えなかった。

穿鑿は大聖堂にも連れて行き、宴会へ、式典へ、閨房へと導いた。

ヨハンは人々と知り合い、以前の生活や旋児の童話を思い出した。ある人々は星の中に亡くなった仲間を見ようとした蛍を想起させ、あるいは生活の義務を語った黄金虫を。自分自身は光の中へ飛んでいく幼い黄金虫に比べた。無力に絨毯の上を這い回り、鋭い糸で穿鑿に牽かれていた。

ああ、二度とあの庭を見つけられまい――重い足はいつ来て踏み潰すのだろう?

旋児のことを話すと穿鑿は嘲った。次第に旋児は存在しなかったと信じるようになった。

「穿鑿よ、それなら匙児も成り立たず、何もかも成り立たない。」

「何もない!ただ人間と番号だけが真実だ。無限に多くの番号が。」

「穿鑿よ、それなら私を騙したのだ。止めろ、探すのをやめさせろ、一人にしてくれ!」

「死がお前に何と言ったか忘れたか?お前は人間にならねばならない、完全な人間に。」

「嫌だ。恐ろしすぎる!」

「お前はそうせねばならない。番号博士を見ろ、恐ろしいと思うか?お前も彼のようになれ。」

確かに番号博士はいつも穏やかで幸福そうだった。倦むことなく自分の道を行き、学び教え、満足し平穏だった。

「彼を見ろ」と穿鑿は言った。「全てを見ているが何も見ていない。人間を観察するが自分は別の存在のように。病気と困窮の間を傷つかぬかのように進む。死とさえ不死者のように付き合う。ただ理解を望み、明らかなもの全てを正当と見なす。理解すれば直ちに満足する。お前もそうなれ。」

「私には決してできない。」

「では私にはもう助けることはできない。」

第31節

这永是他们的交谈的无希望的结束。ヨハン是疲乏而且随便了,寻觅又寻觅,是什么和为什么,他不复知道了。他已如旋児所说的许多人们一般。

冬天来了,他几乎不知道。

当一个天寒雾重的早晨,潮湿的污秽的雪躺在街道上,并且从树木和屋顶上点滴着的时候,他和穿鑿走着他平日的路。

在一处,他遇见一列年青的姑娘,手上拿着教科书。她们用雪互掷着,笑着,而且彼此捉弄着,他们的声音在雪地上清彻地发响。听不到脚步和车轮的声响,只有马的,或者一所店门的关闭,象似一个铃铛的声音。高兴的笑声,清彻地穿过这寂静。

ヨハン看见,一个姑娘怎样地看他而且向他凝望着,她穿一件小皮衣,戴着黑色的帽子。他熟识她的外貌,却仍不知道她是谁。她点头,而且又点一回头。

“这是谁呢?我认识她。”

“是的,这是可能的。她叫马理,有几个人称她栄児。”

“不,这不能是。她不象旋児。她是一个平常的姑娘。”

“哈!哈!哈!她不能象一个并不存在的或人的。然而她是,她是的。你曾经这样地很仰慕她,我现在要将你弄到她那里去了。”

“不,我不愿意见她。我宁可见她死,象别人一样。”

ヨハン不再向各处观看了,却是忙忙地前奔,并且喃喃着:

“这是结局。全不成立!全无!”

【十三】

最初的春晨的清朗温暖的日光,弥漫了大都市。明净的光进到ヨハン住着的小屋子中;低的顶篷上有一条大的光条,是波动着的运河的水的映象,颤抖而且闪动。

ヨハン坐在日照下的窗前,向大都市眺望,现在是全然另一景象了。灰色的雾,换成灿烂的蓝色的阳光,笼罩了长街的尽头和远处的塔。石片屋顶的光线闪作银白颜色;一切房屋以清朗的线和明亮的面穿过日光中,——这是浅蓝天中的一个温暖的渲染。水也仿佛有了生气了。榆树的褐色的嫩芽肥而有光,喧嚷的麻雀们在树枝间鼓翼。

当他在眺望时,ヨハン的心情就很奇特。日光将他置身于甜的昏迷中了。其中是忘却和难传的欢乐。他在梦里凝视着波浪的光闪,饱满的榆芽,还倾听着麻雀的啾唧。在这音响里是大欢娱。

他久没有这样地柔和了;他久没有觉得这样地幸福了。

这是他重行认识的往日的日照。这是往日叫他去到自由的太阳,到园子里,他于是在暖地上的一道旧墙荫中,——许多工夫,可以享用那温暖和光辉,一面凝视着面前的负暄的草梗。

在沉静中,于他是好极了,沉静给他以明确的家乡之感,——有如他所记得,多年以前在他母亲的腕中。他并不饮泣或神驰,而必须思想一切的过去。他沉静地坐着,梦着,除了太阳的照临之外,他什么也不希望了。

“你怎么这样沉思地坐着呢,ヨハン?”穿鑿叫喊,“你知道,我是不容许做梦的。”

ヨハン恳求地抬起了出神的眼睛。

“再给我这样地停一会罢,”他祈求说,“太阳是这样好。”

“你在太阳里会寻出什么来呢,喂?”穿鑿说。“它并非什么,不过是一枝大蜡烛,你坐在烛光下或是在日光下,完全一样的。看罢!街上的那阴影和亮处,——也即等于一个安静地燃烧着而不闪动的灯火的照映。而那光,也不过是照着世界上的极渺小的一点的一个极渺小的小火焰罢了,那边!那边!在那蔚蓝旁边,在我们上面和底下,是暗,冷而且暗!那边是夜,现在以及永久!”

但他的话于ヨハン没有效。沉静的温暖的日光贯澈了他,并且充满了他的全灵魂了,——在他是平和而且明晰。

穿鑿带着他到番号博士的冰冷的住所去。日象还在他的精神上飘泛了一些时,于是逐渐黯淡了,当正午时分,在他是十足的幽暗。

但到晚间,他又在都市的街道上趱行的时候,空气闷热,且被潮湿的春气充塞了。一切的发香都强烈了十倍,而在这狭窄的街中,使他窘迫。惟在空旷处,他齅出草和树林的新芽。在都市上,他看见春,在西方天际嫩红中的平静的小云里。

黄昏在都市上展开了嫩色的柔软的银灰的面纱。街上是寂静了,只在远处有一个手拉风琴弄出悲哀的节奏,——房屋向着红色的暮天,都扬起一律的黑影,还如无数的臂膊一般,在高处伸出它们的尖端和烟突来。

这在ヨハン,有如太阳末后照在大都市上时的和蔼的微笑,——和蔼地如同宽恕了一件傻事的微笑似的。那微微的温暖,还来抚摩ヨハン的双颊。

于是悲哀潜入了ヨハン的心,有这样沉重,致使他不能再走,且必须将他的脸伸向远天中深深地呼吸了。春天在叫他,他也听到。他要回答,他要去。这一切在他是后悔,爱,宽恕。

他极其神往地向上凝视。从他模胡的眼里涌出泪来。

“去罢!ヨハン!你不要发呆罢,人们看着你哩。”穿鑿说。

蒙胧而昏暗地向两旁展开着长的单调的房屋的排列。是温和的空气中的一个苦恼,是春声里面的一声哀呼。

人们坐在门内和阶沿上,以消受这春天。这于ヨハン象是一种嘲侮。污秽的门畅开着,浑浊的空间等候着那些人。在远处还响着手拉风琴的悲哀的音调。“呵,我能够飞开这里,远去,冈上,海上!”

然而他仍须伴着高的小屋子,而且他醒着躺了这一夜。

他总要想念他父亲,以及和他同行的远道的散步,——如果他走在他的十步之后,那父亲就给他在沙土上写字母。他总要想念那地丁花生在灌木之间的处所,以及和父亲同去搜访的那一天。他整夜看见他的父亲的脸一如先前,他在夜间安静的灯光中顾盼他,还倾听他笔锋写字的声响。

于是他每晨祈求穿鑿,还给他回乡一回,往他的家和他的父亲,再看一遍沙冈和园子。现在他觉出他先前的爱父亲,过于プレストー和他的小屋子了,因为他现在只为他而祈求。

“那就只告诉我,他怎样了,我出外这么久,他还在恼我么?”

穿鑿耸一耸肩。——“即使你知道了,于你有什么益呢?”

春天却过去了,呼唤他,越呼越响。他每夜梦见冈坡上的暗绿的苔藓,透了嫩的新叶而下的阳光。

“这是不能久长如此的,”ヨハン想,“我就要支持不住了。”

每当他不能入睡的时候,他往往轻轻地起来,走到窗前,向着暗夜凝视。他看见蒸腾的蒙茸的小云,怎么慢慢地溜过月轮旁边,平和地飘浮在柔和的光海里。他便想,在那远方,冈阜是怎样地微睡在闷热的深夜中!在深的小树林间,绝无新叶作响,潮湿的莓苔和鲜嫩的桦条也将发香,那该是怎样地神奇呵。他仿佛听得远处有虾蟆的抑扬的合唱,满是秘密地浮过田野来,还有唯一的鸟的歌曲,是足以伴那严肃的寂静的,它将歌曲唱得如此低声地哀怨地开头,而且陡然中断,以致那寂静显得更其寂静了。鸟在呼唤他,一切都在呼唤他。他将头靠着窗沿,并且在他的臂膊上呜咽起来了。

“我不能!——我受不住。倘我不能就去,我一定会就死了。”

第二天穿鑿叫他醒来的时候,他还坐在窗前;他就在那里睡着了,头靠在臂膊上。——

日子过去了,又长又热,——而且无变化。然而ヨハン没有死,他还应该担着他的苦痛。

有一日的早晨,番号博士对他说:

“我要去看一个病人,ヨハン,你愿意同我去么?”

番号博士有博学的名声,而且对于病和死,有许多人来邀请他的帮助。ヨハン是屡次伴过他的。

穿鑿在这早晨异常地高兴。他总是倒立,跳舞,翻筋斗,并且玩出各种疯狂似的说笑来。他不住地非常秘密地窃笑着,象一个准备着给人一吓的人。

但番号博士却只是平常一样严正。

这一日他们走了远的路。用铁路,也用步行。ヨハン是还没有一同到过外边的。

这是一个温暖的,快乐的日子。ヨハン从车中向外望,那广大的碧绿的牧场,带着它欲飞的草和吃食的家畜,都在他身边奔过去了。他看见白胡蝶在种满花卉的地上翩跹,空气为了日热发着抖。

但他忽而悚然了:那地方展布着长的,起伏的连冈。

“唉,ヨハン,”穿鑿窃笑着,“那就要中你的意了,你看罢!”

半信半疑地ヨハン注视着沙冈。沙冈越来越近。仿佛是两旁的长沟,正在绕着它们的轴子旋转,还有几所人家,都在它们旁边扑过去了。

于是来了树木;茂密的栗树,盛开着,带着千数大的或红或白的花房,暗蓝绿色的枞树,高大而堂皇的菩提树。

这就是真实:他须再见他的沙冈。列车停止了,——三人于是在成荫的枝柯下面行走。

这是深绿的莓苔,这是日光在林地上的圆点,这是桦条和松针的幽香。

“这是真实么?——这是实际么?”ヨハン想,“幸福要来了罢?”

他的眼睛发光了,他的心大声地跳着。他快要相信他的幸福了。这些树木,这地面,他很熟识,——他曾经屡次在这树林道中往来。

只有他们在道路上,此外没有人。然而ヨハン要回顾,仿佛有谁跟着他们似的。他又似乎从槲树枝间,望见一个黑暗的人影,每当那路的最末的转角,便看不分明了。

穿鑿阴险地暧昧地注视他。番号博士大踏步走,看着目前的地面。

道路于他更熟识,更相信了,他认得每一丛草,每一块石。ヨハン忽然剧烈地吃了惊,因为他站在他自己的住所前面了。

屋前的栗树,展开着它那大的手一般的叶子。直到上面的最高枝梢上,在繁密的圆圆的丛叶里,煊赫着华美的白色的繁花。

他听到开门的熟识的声响,——他又齅到他自己的住所的气味。于是他认出了各进路,各门户,每一点,——都带着一种离乡的苦痛的感觉。凡有一切,都是他的生活的,他的寂寞而可念的儿童生活的一部分。对于这些一切物事,他曾经和它们谈天,和它们在自己的理想生活中过活,这里是他决不放进一个他人的。然而现在他却觉得从这全部老屋分离,推出了,连着它们的各房间,各进路和各屋角。他觉得这分离极难挽回,他的心绪正如他在探访一个坟庄,这样地凄凉和哀痛。

只要有プレストー迎面跳来,那也许就减少一点非家的况味,然而プレストー却一定已经跑掉,或者死掉了。

然而父亲在那里呢?

他回顾开着的门和外面的日光下的园子,他看见那人,那似乎在路上追随着他们的,现在已经走向房屋来了。他越来越近,那走近仿佛只见加增。他一近门,门口便充满了一个大的,寒冷的影子。于是ヨハン就认出了这人。

屋里是死静,他们沉默着走上楼梯去。有一级是一踏常要作响的,——这ヨハン知道。现在他也听到,怎样地发了三回响,——这发响象是苦痛的呻吟。但到第四回的足踏,却如隐约的呃逆了。

而且ヨハン在上面还听到一种喘息,低微而一律,有如缓慢的时钟的走动,是一种苦痛而可怕的声音。

他的小屋子的门畅开着。ヨハン赶紧投以胆怯的一瞥。那地毯上的奇异的花纹是诧异而无情地凝视他,时钟站得静静地。

他们走进那发出声音来的房里去。这是父亲的卧室。太阳高兴地照着放下的绿色的床帏。シモン,那猫,坐在窗台上的日照里。全房充满着葡萄酒和樟脑的郁闷的气味。一种低微的抽噎,现在就从近处传来了。

ヨハン听到柔软的声音的细语和小心的脚步的微声。于是绿帏便被掣起了。

他看见了父亲的脸,这是他近来常在目前看见的。然而完全两样了。亲爱的严正的外貌已经杳然,但在可怕的僵视。苍白了,还带着灰色的阴影。看见眼白在半闭的眼睑下,牙齿在半开的口中。头是陷枕中间,每一呻吟便随着一抬起,于是又疲乏地落在旁边了。

ヨハン屹立在床面前,大张了僵直的眼睛,瞠视着熟识的脸。他想什么,他不知道,——他不敢用手指去一触,他不敢去握那疲乏地放在白麻布上的,衰老的干枯的双手。

环绕他的一切都黑了,那太阳,那明朗的房子,那外面的丛绿,以及历来如此蔚蓝的天空,——一切,凡有在他后面的,黑了,黑,昏昧地,而且不可透彻地。在这一夜,他也别无所见,只在前面看见苍白的头。他还应该接着只想这可怜的头,这显得如此疲乏,而一定永是从新和苦痛的声息一同抬起的。

定规的动作在一转瞬间变化了。呻吟停歇,眼睑慢慢地张开,眼睛探索似的向各处凝视,嘴唇也想表出一点什么来。

“好天,父亲!”ヨハン低声说,并且恐怖地发着抖,看着那探索的眼睛。那困倦的眼光于是看了他一刹时,一种疲乏的微笑,便出现在陷下的双颊上。细瘦的皱缩的手从麻布上举起,还向ヨハン作了一种不分明的动作,就又无力地落下了。

“唉,什么!”穿鑿说,“只莫是愁叹场面!”

“给我闪开,ヨハン?”番号博士说,“我们应该看一看,我们得怎么办。”

博士开手检查了,ヨハン却离开卧床,站在窗口。他凝视那日照的草和清朗的天空,以及宽阔的栗树叶,叶上坐着肥蓝大的蝇,在日光中莹莹地发闪。那呻吟又以那样的定规发作了。

第32節

一匹黑色的白头鸟在园里的高草间跳跃,——大的,红黑的胡蝶在花坛上盘旋,从高树的枝柯中,冲出了野鸽的柔媚的钩辀,来到ヨハン的耳朵里。

里面还是那呻吟,永是如此,永是如此。他必须听,——而且这来得一律,没有变换,就如下坠的水滴,会使人发狂。他紧张着等候那每一间歇,而这永是又发作了,——可怕如死的临近的脚步。

而外面是温暖的,适意的日和。一切在负暄,在享受。因了甘美的欢乐,草颤抖着,树叶簌簌着,——高在树梢上,深在蠢动的蔚蓝中,飘浮着一只平静地鼓翼的苍鹭。

ヨハン不懂这些,这一切于他都是疑团。他的灵魂是这样地错乱和幽暗。——

“怎么这一切竟同时到我这里呢?”他自己问。

“我真是他么?这是我的父亲,我本身的父亲么?——我的,我ヨハン的?”

在他,似乎是他在说起一个别的人。一切是他所听到的故事。他听得有一个人讲,讲ヨハン,讲他所住的房屋,讲他舍去而垂死的他的父亲。他自己并非那他,他是听到了谈讲。这确是一般悲惨的故事,很悲惨。但他和这是不相干的。

是的!——是的!偏是!他自己就是那他,他!ヨハン!

“我不懂得这事情,”番号博士站起身来的时候,说,“这是一个疑难的症候。”

穿鑿站在ヨハン的近旁。

“你不要来看一看么,ヨハン?这是一件有趣味的事情。博士不懂它。”

“放下我,”ヨハン说,也不回头。“我不能想。”

但穿鑿却立在ヨハン的后面,对他絮语,照例尖利地传入他的耳朵来。

“不想?——你相信,你不能想么?那是你错了。你应该想。你即使看着丛绿和蓝色的天,那是于你无益的。旋児总是不来的。而且在那边的生病的人,无论如何就要死的。这你看得很明白,同我们一样。他的苦恼是怎样呢,你可想想么?”

“我不知道那些,我不要知道那些。”

ヨハン沉默了,并且倾听着呻吟,这响得如低微的苛责的哀诉。番号博士在一本小书上写了一点略记。床头坐着那曾经追随他们的黑暗的形象。——低着头,向病人伸开了长臂膊,深陷的眼睛看定了时钟。

尖利的絮语又在他的耳边发作了。

“你为什么这样凄凉地注视呢,ヨハン?你确有你的意志的。那边横着沙冈,那边有日光拂着丛绿,那边有禽鸟在歌唱和胡蝶在翩跹。你还希望什么呢,等候旋児么?如果他在一个什么地方,那他就一定在那地方的,而他为什么不来呢?——他可是太怕那在头边的幽暗朋友么?但他是永在那里的。”

“你可看出,一切事情都是想象么,ヨハン?”

“你可听清那呻吟么?这比刚才已经微弱一点了,你能听出它不久就要停止。那么,怎么办呢?当你在外面冈蔷薇之间跑来跑去的时候,也曾有过那么多的呻吟了。你为什么站在这里,悲伤着,而不象你先前一般,到沙冈去呢?看哪!那边是一切烂熳着,馥郁着,而且歌唱着,象毫无变故似的。你为什么不参与一切兴趣和一切生活的呢?”

“你方才哀诉着,神往着,——那么,我就带领你去,到你要去的地方,我也不再和你游览了,我让你自由,通过高草,躺在凉荫中,并且任飞蝇绕着你营营,并且吸取那嫩草的香味,我让你自由,就去罢!再寻旋児去罢!”

“你不愿意,那你就还是独独相信我。凡我所说给你的,是真实不是?说谎的是旋児,还是我呢?”

“听那呻吟!——这么短,这么弱,这快要平静了。”

“你不要这样恐怖地四顾罢,ヨハン。那平静得越早,就越好。那么,就不再有远道的游行,你也永不再和他去搜访地丁花了。因为你走开了,这二年他曾经和谁游行了呢?——是的,你现在已经不能探问他。你将永不会知道了。你就只得和我便满足。假使你略早些认识我,你现在便不这样苦恼地注视了。你从来不这样,象现在似的。从你看来,你以为番号博士象是假惺惺么?这是会使他忧闷的,正如在日照中打呼卢的那猫一样。而且这是正当的。这样的绝望有什么用呢?这是花卉们教给你的么?如果一朵被折去了,他们也不悲哀。这不是幸福么?它们无所知,所以它们是这样。你曾经开始,知道一点东西了,那么,为幸福计,你也就应该知道一切。这惟我能够教授你。一切,或简直全无。”

“听我。他是否你的父亲,于你有什么相干呢?他是一个垂死的人。——这是一件平常事。”

“你还听到那呻吟么?——很微弱,不是么?——这就要到结局了。”

ヨハン在恐怖的窘迫中,向卧床察看。シモン,那猫,跳下窗台,伸一伸四肢,并且打着呼卢在床上垂死者的身边躺下了。

那可怜的,疲乏的头已经不再动弹,——挤在枕头里静静地躺着,——然而从半开的口中却还定规地发出停得很短的疲乏的声音。这也低下去了,难于听到了。

于是死将黑暗的眼睛从时钟转到沉埋的头上,并且抬起手来。于是寂静了。僵直的容貌上蒙上了一层青苍的阴影。寂静,渺茫的空虚的寂静!——

ヨハン等待着,等待着。——

然而那定规的声息不再回来了。止于寂静,——大的,呼哨的寂静。

在最末的时刻,也停止了倾听的紧张,这在ヨハン,仿佛是灵魂得了释放,而且坠入了一个黑的,无底的空虚,他越坠越深。环绕他的是寂静和幽暗。

于是响来了穿鑿的声音,仿佛出自远方似的。

“哦,这故事那也就到结局了。”

“好的,”番号博士说,“那么,你可以看一看这是什么了。我都交付你。我应该去了。”

还半在梦里,ヨハン看见晃耀着闪闪的小刀。

那猫做了一个弓腰,在身体旁边冷起来了,它又寻得了日照。

ヨハン看见,穿鑿怎样地拿起一把小刀,仔细地审视,并且走向床边来。

于是ヨハン便摆脱了昏迷,当穿鑿走到床边之前,他就站在他前面。

“你要怎么?”他问。因为震悚,他大张着眼睛。

“我们要看看,这是怎么一回事。”穿鑿说。

“不用。”ヨハン说。而且他的声音响得深如一个男子的声音。

“这是干什么?”穿鑿发着激烈的闪烁的眼光,问。“你能禁止我这事么?你不知道我有多么强么?”

“我不要这事!”ヨハン说。也咬了牙关,并且深深地呼吸。他看定穿鑿,还向他伸出手去。

然而穿鑿走近了。于是ヨハン抓住他的手腕,而且和他格斗。

穿鑿强,他是知道的,他向来未曾反抗他。但是他不退缩,不气馁。

小刀在他眼前闪烁,他瞥见红焰和火花,然而他不懈,并且继续着格斗。

他知道他倘一失败,将有何事发生。他认识那事,他先前曾经目睹过。然而躺在他后面的是什么呢,他的父亲,而且他不愿意看见那件事。[12]

当他们喘息着格斗时中,他们后面横着已死的身体,伸开而且不动,一如躺着一般。在平静的瞬息间,眼白分明如一条线,嘴角吊起,显着僵直的露齿的笑容。独有那两人在他们的争斗中撞着卧床的时候,头便微微地往来摇动。

ヨハン还是支持着,——呼吸不济,他什么都看不见了。当他眼前张起了一层血似的通红的面纱。但他还站得住。

于是在他掌握中的那两腕的抵抗力,慢慢地衰退了。他两手中的紧张减少,臂膊懒散地落下,而且捏着拳的手里是空虚了。

他抬眼看时,穿鑿消失了。只有死还坐在床上,并且点头。

“这是你这边正当的,ヨハン。”他说。

“他会再来么?”ヨハン低声说。死摇摇头。

“永不,谁敢对他,就不再见他了。”

“旋児呢?那么,我将再见旋児么?”

那幽暗的人看着ヨハン许多时。他的眼光已不复使人恐怖了——却是温和而加以诚恳:他吸引ヨハン如一个至大的深。

“独有我能领你向旋児去。独由我能觅得那书儿。”

“那么你带着我罢,——现今,不再有人在这里了,——你也带着我罢,象别人一样!我不愿意再下去了——……”

死又摇摇头。

“你爱人类,ヨハン。你自己不知道,然而你永是爱了他们。成一个好人,那是较好的事。”

“我不愿意——你带着我罢……”

“不然,不然。你愿意——你不能够别样的……”

于是那长的,黑暗的形体,在ヨハン眼前如雾了。它散成茫昧的形状,一道霏微的灰色的烟霭,透过内房,并且升到日光里去了。

ヨハン将头俯在床沿上,哭那死掉的人。

【十四】

许多时之后,他抬起头来。日光斜照进来,且有通红的光焰。这都如直的金杖一般。

“父亲!父亲!”ヨハン低声说。

外面的全自然,是因了太阳,被灿烂的金黄的炽浪所充满了。每一片叶,都绝不动弹地挂着,而且一切沉默在严肃的太阳崇奉中。

而且和那光,一同飘来了一种和软的声息,似乎是明朗的光线们唱着歌:

“太阳的孩子!太阳的孩子!”

ヨハン昂了头,倾听着。在他耳朵里瑟瑟地响:

“太阳的孩子!太阳的孩子!”

这象是旋児的声音。只有他曾经这样地称呼过他的,——他现在是在叫他么?——然而他看见了身边的相貌——他不愿意再听了。

“可怜的,爱的父亲!”他说。

然而他周围又忽地作响,从各方面围着他,这样强,这样逼,至使他因为这神奇的枨触而发抖了。

“太阳的孩子!太阳的孩子!”

ヨハン站起身来,且向外面看日。怎样的光!那光是怎样地华美呵!这涨满了全树梢,并且在草莽间发闪,还洒在黑暗的阴影里。这又充满了全天空,一直高到蔚蓝中,最初的柔嫩的晚云所组成的处所。

从草地上面望去,他在绿树和灌木间看见冈头。它们的顶上横着赤色的金,阴影里悬着天的蓝郁。

它们平静地展伸着,躺在嫩采的衣装里。它们的轮廓的轻微的波动,是祷告似的招致和平的。ヨハン又觉得仿佛先前旋児教他祷告的时候了。

在蓝衣中的光辉的形相,不是他么?看哪!在光中央闪烁,在金蓝的雾里,向他招呼的,不是旋児么?

ヨハン慌忙走出,到日光中。他在那里停了一瞬息。他觉到光的神圣的敬礼,枝柯这样地寂静,他几乎不敢动弹了。

然而他前面那里又是光辉的形相。那是旋児了,一定的!那是。金发的发光的头转向他了,嘴半开了,似乎他要呼唤。他用右手招致他,左手擎着一点东西。他用纤瘦的指尖高高地拿着它,并且在他手中辉煌和闪烁。

ヨハン发一声热情洋溢的幸福的欢呼,奔向那心爱的现象去。然而那形相却升上去了,带着微笑的面目和招致的手,在他前面飘浮。也屡次触着地面,慢慢地弯腰向下,但又即轻捷地升腾,向远处飘泛,仿佛因风而去的种子似的。

ヨハン也愿意升腾,象他先前,象在他的梦里一般,飘向那里去。然而大地掣回他的脚,他的脚步也沉重地在草地上绊住了。他穿过灌木,尽力觅他的道路,柯叶瑟瑟地拂着他的衣裳,枝条也鞭打他的脸。他喘息着爬上苔封的冈坡。然而他不倦地追随着,并且目不转睛地看着旋児的发光的现象和在他擎起的手里闪烁的东西。

他于是到了冈中间。炎热的谷里盛开着冈蔷薇,用了它们千数浅黄的花托,在日光中眺望。也开着许多别的花,明蓝的,黄的和紫的,——郁闷的热躺在小谷上,并且抱着放香的杂草。强烈的树脂的气味,布满空气中。ヨハン前行时,微微地觉得麝香草和柔软地在他脚下的干枯的鹿苔的香气。这是微醺的美观。

他又看见,在可爱的,他所追随的形象之前,斑斓的冈胡蝶怎样地翩跹着。小而红的和黑色的胡蝶,还有沙眸子,是带着淡蓝色的绸似的翅子的有趣的小蝶儿。生活在冈蔷薇上的金色的甲虫,绕着他的头飞鸣,又有肥胖的土蜂,在晒萎的冈草间嗡嗡着跳舞。

只要他能到旋児那里,那是怎样地华美,怎样地幸福呵。

然而旋児飘远了,越飘越远。他必须绝息地追随。高大的浅色叶片的棘丛迎面而来,并且抓他,用了它们的刺。他奔跑时,倘将那黯淡而蒙茸的王烛挤开了,它们便摇起伸长的头来。他爬上沙冈去,有刺的冈草将他的两手都伤损了。

他冲过桦树的矮林,那地方是草长至膝,有水禽从闪烁于丛莽之间的小池中飞起。茂密的,开着白花的山梔子,将它的香气夹杂着桦树枝和繁生在湿地上的薄荷的芳香。

但那树林,那丛绿,那各色的花朵,都过去了。只有奇异的,淡黄的海蓟,生长在黯淡的稀疏的冈草里。

在最末的冈排之巅,ヨハン看见了旋児的形象。那东西在高擎的手里,耀眼地生光。那边有一种大而不停的腾涌,十分秘密地引诱着作声,被凉风传到。那是海。ヨハン觉得,这于他相近了,一面慢慢地上了冈头。他在那上面跪下,并且向着海凝望。

第33節

当他从冈沿上起来的时候,红焰绕着他的周围。晚云为了光的出发,已自成了群了。它们如一道雄伟的峰峦的大圈子,带着红炽的墙,围绕着落日。海上是一条活的紫火的大路,即是一条发焰的灿烂的光路,引向遥天的进口的。

太阳之后,眼睛还未能审视的处所,在光的洞府的深处,蠕动着蓝和明红参杂起来的娇嫩的色采。在外面,沿着全部的远天,晃耀着通红的烈焰和光条,以及从垂死的火的流血的毛毳中来的明亮的小点。

ヨハン等待着——直到那日轮触着了通日的红炽的路的最外的末端。

他于是向下看。在那路的开端上,是他所追随的光辉的形象。一种乘坐器具,清晰而晃耀如水晶,在那宽广的火路上飘浮。船的一边,立着旋児的苗条的丰姿,金的物件在他手中灿烂。在别一端,ヨハン看出那幽暗的死来。

“旋児!旋児!”ヨハン叫喊。但在这一时,当ヨハン将近那神奇的乘具的时候,他一瞥道路的远的那一端。在大火云所围绕的明亮的空间之中,也看见一个小小的黑色的形相。这逐渐大起来了,近来了一个人,静静地在汹涌的火似的水上走。

红炽的波涛在他的脚下起伏,然而他沉静而严正地近来了。

这是一个人,他的脸是苍白的,他的眼睛深而且暗。有这样地深,就如旋児的眼睛,然而在他的眼光里是无穷的温和的悲痛,为ヨハン所从来没有在别的眼里见过的。

“你是谁呢?”ヨハン问,“你是人么?”

“我更进!”他说。

“你是耶稣,你是上帝么?”ヨハン问。

“不要称道那些名字,”那人说,“先前,它们是纯洁而神圣如教士的法衣,贵重如养人的粒食,然而它们变作傻子的呆衣饰了。不要称道它们,因为它们的意义成为迷惑,它的崇奉成为嘲笑。谁希望认识我,他从自己抛掉那名字,而且听着自己。”

“我认识你,我认识你,”ヨハン说。

“我是那个,那使你为人们哭的,虽然你不能领会你的眼泪。我是那个,那将爱注入你的胸中的,当你没有懂得你的爱的时候。我和你同在,而你不见我;我触动你的灵魂,而你不识我。”

“为什么我现在才看见你呢?”

“必须许多眼泪来弄亮了见我的眼睛。而且不但为你自己,你却须为我哭,那么,我于你就出现,你也又认识我如一个老朋友了。”

“我认识你!——我又认识你了。我要在你那里!”

ヨハン向他伸出手去。那人却指向晃耀的乘具,那在火路上慢慢地漂远的。

“看哪!”他说。“这是往凡有你所神往的一切的路。别一条是没有的。没有这两条你将永远觅不到那个。就选择罢。那边是大光,在那里,凡你所渴欲认识的,将是你自己。那边,”他指着黑暗的东方,“那地方是人性和他们的悲痛,那地方是我的路。并非你所熄灭了的迷光,倒是我将和你为伴。看哪,那么你就明白了。就选择罢!”

于是ヨハン慢慢地将眼睛从旋児的招着的形相上移开,并且向那严正的人伸出手去。并且和他的同伴,他逆着凛烈的夜风,上了走向那大而黑暗的都市,即人性和他们的悲痛之所在的艰难的路。

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我大概还要给你们讲一回小ヨハン,然而那就不再象一篇童话了。

【附录】

【拂来特力克·望·蔼覃                                                  オランダ 波勒·兑·蒙德】

在新倾向的诗人们——我永远不懂为什么,大概十年以前,人还称为颓废派的——之中,戈尔台尔,跋尔卫,克罗斯(Kloos),斯华司,望兑舍勒,科贝路斯,望罗夷(van Looy),蔼仑斯(Ehrens),——那拂来特力克望蔼覃,那诗医,确是最出名的,最被读的,是被爱的,而且还是许多许多的读者。望兑舍勒因为实况的描写有时有些粗率,往往将平均读者推开,克罗斯因了诗体和音调上的一点艰涩,斯华司是因了过甚的细致和在她的感觉的表现上有些单调。而他触动,他引诱,借着他的可爱的简明,借着理想的清晰,借着儿童般的神思,还联结着思想的许多卓拔的深。

当他在八十年代之初,发表了他的最初的大的散文诗,《小ヨハン》(Der kleine Johannes),这迄今,——在オランダ的一件大希罕事,——已经到了第四版的,这书惹起了偌大的注目,一个真的激动在北方和南方,而且竟在麻木的オランダ人那里。

许许多,是的,大部分,是愤怒了,对于那真的使人战栗的坟墓场面,当那穿鑿,那科学底研究的无情的精神,“不住地否认的精神”,将可怜的幼小的ヨハン,领到坟墓之间,死尸之间,蛆虫之间,那在经营腐烂事业的……

许多人以为这是“过度”(overspannen,オランダ人所最喜欢的一个字),然而几乎一切都进了那在故事的开端的,魅人的牧歌的可爱的幻惑里:寂寞的梦幻的孩子在冈阜间的生活,在华美的花朵和许多动物之中,这些是作者自己也还是孩子一般永远信任的:兔,虾蟆,火萤和蜻蜓,这都使オランダ的冈阜风景成为童话的国土,一个童话的国土,就如我们的诗人爱之过于一切似的。

这故事的开演,至少是大部分,乃在幻惑之乡,那地方是花卉和草,禽鸟和昆虫,都作为有思想的东西,互相谈话,而且和各种神奇的生物往还,这些生物是全不属于精神世界,也全不属于可死者的,并且主宰着一种现时虽是极优胜,极伟大者也难于企及的力量和学问。

但在“童话”这字的本义上,《小ヨハン》也如谟勒泰都黎的小威绥(Woutertje)的故事似的,一样地这样少。却更胜于前一作品,仅有所闻和所见,在外界所能觉察的诗。这全体的表现虽是近于儿童的简单的语言,而有这样强制的威力,使人觉得并非梦境,却在一个亲历的真实里。

《小ヨハン》也如哲学底童话一般,有许多隐藏的自传。这小小的寓言里面的人物:旋児、将知、栄児、穿鑿,我们对于自然的诗,有着不自识的感觉,这些便是从这感觉中拔萃出来的被发见的人格化,而又是不可抵抗的知识欲,最初的可爱的梦,或是那真实的辛辣的反话,且以它们的使人丧气的回答,来对一切我们的问题:怎么样,是什么,为什么?

《爱伦,苦痛之歌》,作为抒情诗的全体,是一个伤感的心的真实的呼号,而且那纯净伟大的人性的高贵而正直的显现,我们在这书的每一页中都能看出。蔼覃的这工作,是具有大的简素和自然的性质的,凡在一首强烈的伤感和纯净的感觉的歌中,尤须特别地从高估计。没有无端的虚掷,没有徒然的繁碎,而且在每一吟,在每一短歌或歌中,仍然足有很多的景象,为给思想和语气以圆备的表现起见,在极严的自己批评之际是极有用的。

将这歌的纯粹栖息在语气上的内容,加以分析,是我极须自警的。倘将这一类的诗,一如诗人在这“语气”里所分给我们的那样,照字面复述,怎样地自从爱伦出现之后,生活才在十分灿烂里为他展开,怎样地他为了她那出自心魂的对于他的善举的感化,在那歌中向她致谢,我以为是一种亵黩。所有现存的仇敌,沉默着和耗费着的,“不要声音也不要眼光的”,却只是可怜的肉体自己,将他的星儿从他的臂膊上掣去得太早,遂使这歌的大部分,除是一个止于孤寂的诗人的灵魂的无可慰安的哀诉,他的寂寞的歌的哀诉,大苦痛的卓拔的表白之外,不能会有别样了。

从他的《苦痛之歌》的外面的形式看来,望蔼覃可以被称为一个极其音乐底诗人。“爱伦”的拈来和表出,即全如一种音乐底工作,但这工作,为那善于出惊的通常的读者,则又作别论。

然而这音乐底,几乎只限于字声的谐美,一种谐美,此外只能在我们的独创而天才的戈尔台尔那里可以觅得它。一切的子夜小歌,虽然我在第二首里指出了很失律的一行,——最末的夹(Intermezzo)中的诗,尤其是可惜不能全懂的:“All’ mooie dingen verminderen”和《尾声》(Nachspiel),在这观点上都负着赏誉。

这歌的最圆满的部分,照我的意见是第二和第三吟。单用这短歌(Sonett),已足举一个诗人如望蔼覃者为大的,真的,高的艺术家了。诗句是稀罕的,几乎是女性的娇柔,时时触动读者。在有几篇,例如这子夜小歌的第三首,是诗人用了仅足与一篇古代极简的民歌相比的简单来表出,在言语、形式、景象上,完全未加修饰的。例之一:“现在我愿意去死,”人将读而又读,永不会厌倦。

《ヨハン跋妥尔》,蔼覃的第三种显著的工作,据我的意见是被オランダ的读者完全误会了,连那原有文学的修养者。由我看来,这是一本书,只有我们时代的最美者足与相比的,却绝不是因了它的高尚的艺术的形式,也不是因了在里面说及的哲学的纯粹,这是一篇象征底散文诗,其中并非叙述或描写,而是号哭和欢呼,如现在已经长成了的ヨハン,当他在一个满是人类的悲痛的大都市中,择定了他的住所之后,在那里经历着哀愁的道路,由哀愁与爱,得了他自己的性格的清净,这两者是使他成为明洁的,遐想的和纯觉的人的。我不大懂得这书,这个,我乐于承诺,并非这样地容易懂得,有如通行的抗宣斯(Conscience)的一个故事,或者颇受欢迎的望伦芮普(van Lennep),或如珂支菲勒特(Koetsveld)或培克斯坦因(Bechstein)的一篇童话。这是一本书,人可以如侃丕斯(Thomas à Kempis)的一般,读十遍,是的,读一百遍,为的是永远从中发见新的和美的。

《弟兄》是用戏曲底形式所成就的,而诗人却还称它为悲剧……并非照着古式的悲剧,倒不如说是一篇叙事诗,那外面的服饰使人忆及悲剧,但仍然并不尽合,虽然从中也发生合唱。这是一篇戏曲底叙事诗,一如玛达赫的《人的悲剧》(Madachs“Tragödie des Menschen”),浩司诃茀的《流人》(Hausohofers“Verbannte”)瞿提的《孚司德》(Goethes“Faust”)。我不愿深入这书的哲学底观察,虽然望蔼覃有着这样的一个目的,也是真的。在我,那《弟兄》用了艺术家的眼睛便够观察,而且我乐于承认,这工作,即使也有些人对于全体的结构或几部分有所责备,然而远过于中庸了。要从它来期待大的戏曲底效果,是不行的,但它的最好的地方,如彼得和伊凡在墨斯科侯家的弟兄血战,却给我们一个大的,成形的景象。

这《弟兄》的大反对,除了《理亚波》(“Lioba”)便难于着想了。这戏曲,较好不如说是这戏曲底童话,所赐给我们的印象,大部分其实是风俗图。然而较之那样的戏曲,即倘有艺术家们,如那时在波亚(Lugné Poé)之下,最新的法国和德国的戏场改革者所曾经实演的许多新试验一般,起而开演,便将收获不少的欢迎,如那别有较胜于它之处的默退林克的《沛莱亚和美理桑》(Maeterlincks“Pelléas et Mélisande”)者,也已相去得如此之远。

按材料和根本思想,《理亚波》彻头彻尾是德国底。在拈得上,尤其是在结束上,多多少少,和《孚司德》的第二分相同。

“Jam vitae flamina,

rumpe,o anima!

Ignis ascendere

gestit,et tendere

ad coeli atria;

Haec mea patria.”

虽然也还远一点,这不使人忆及《孚司德》的奇美的结末合唱:“一切过去的不过是一样”么?因为叙述恋爱,这一样的根本思想也贯彻全篇中。

这篇的开首,是那女的主要人物,将作苦行的童贞的理亚波,当她将入庵院的前一天,立在她的花卉之间;她在高兴她还无须穿童贞的法服。她沉思地站着时,有游猎的事接近了。她观看苍鹭和鹰在空中的斗争,而当她打算救那可怜的受伤的鸟的时候,近来了オランダ的诺尔王,赫拉尔特(Harald)。王一见她柔和地怀抱和爱护那禽鸟时,他对她说:

“阿,你温和的柔顺的小姑娘,

你要这么柔和地怀抱这野的鸟儿,

你不肯喜欢是一个母亲么,

并且静稳地抚育一个小儿?”

第34節

他用这话触动了理亚波心情中的强有力之处——母爱的冲动。她随着年老的白发的王,忘却了禁欲的誓愿,而且成为他的妻了。然而她没有生产一个孩子,永不生产,虽然人们责备她,以为她有和一个勇士私通的有罪的恋爱——和她在寂寞中爱过的丹珂勒夫(Tancolf),纵或全然无罪,因为她的嘴唇只有一次当月夜里在沙冈上触着他的马的胸脯,——却生了一个孩子。她丈夫死后,被一切所摈弃了,负着重罪,她和他一同烧死在烈焰的船里。

既不论那直到现在还未完成的《影象和实质之歌》(德译“Liede von Schein und Wesen”),更不论那哲学底,社会底,医学底和文学底论著的种种的结集,这固然含有许多值得注意的,而且也如凡有望蔼覃所写的一切一样,在现今的オランダ文学上,显然是最高和最贵的东西,然而我为纸幅所限。我临末只还要揭出零星的韵言(“Enkele Verzen”)来,这是几月以前所发表的他的最近的工作,克罗斯也在《新前导》上说过:“诗人只是那个,那诗,无论为谁,都不仅是空洞的文字游戏,却是他的灵魂的成了音乐的感觉……”

倘在这一种光中观察它,则拂来特力克望蔼覃的这《零星的韵言》,在我们现今的文学所能提示的书籍里,是属于最美的。宛如看不见地呼吸着,喷出它的幽静的生活来的,幽静而洁白的花朵者,是这韵文。它将永远生存。

望蔼覃,先前以医生住在亚摩斯达登,自停止了手术以来,就也如许多别的北オランダ的著作家一样,住在蒲松。他不仅是最大的我们的现存的诗人之一,也是最良善,最高超的人。到他那里去,人说,正如往老王大辟(David),是“负着负担的人,以及有着信仰的人”。的确,虽然他从来不索报酬,而他医治他的病者,抚养衰老者,无告者,人说,他的医治,大抵是用那上帝给他多于别个诗人的,神奇的力,——磁力的崇高的电流,那秘密,他已经试验而且参透了。因为充当医生,他也是属于第一等……

【动植物译名小记】

关于动植物的译名,我已经随文解释过几个了,意有未尽,再写一点。

我现在颇记得我那剩在北京的几本陈旧的关于动植物的书籍。当此“讨赤”之秋,不知道它们无恙否?该还不至于犯禁罢?然而虽在“革命策源地”的广州,我也还不敢妄想从容;为从速完结一件心愿起见,就取些巧,写信去问在上海的周建人君去。我们的函件往返是七回,还好,信封上背着各种什么什么检查讫的印记,平安地递到了,不过慢一点。但这函商的结果也并不好。因为他可查的德文书也只有Hertwig的动物学和Strassburger的植物学,自此查得学名,然后再查中国名。他又引用了几回中国唯一的《植物学大辞典》。

但那大辞典上的名目,虽然都是中国字,有许多其实乃是日本名。日本的书上确也常用中国的旧名,而大多数还是他们的话,无非写成了汉字。倘若照样搬来,结果即等于没有。我以为是不大妥当的。

只是中国的旧名也太难。有许多字我就不认识,连字音也读不清;要知道它的形状,去查书,又往往不得要领。经学家对于《毛诗》上的鸟兽草木虫鱼,小学家对于《尔雅》上的释草释木之类,医学家对于《本草》上的许多动植,一向就终于注释不明白,虽然大家也七手八脚写下了许多书。我想,将来如果有专心的生物学家,单是对于名目,除采取可用的旧名之外,还须博访各处的俗名,择其较通行而合用者,定为正名,不足,又益以新制,则别的且不说,单是译书就便当得远了。

以下,我将要说的照着本书的章次,来零碎说几样。

第一章开头不久的一种植物Kerbel就无法可想。这是属于伞形科的,学名Anthriscus。但查不出中国的译名,我又不解其义,只好译音:凯白勒。幸而它只出来了一回,就不见了。日本叫做ジセク。

第二章也有几种:——

Buche是欧洲极普通的树木,叶卵圆形而薄,下面有毛,树皮褐色,木材可作种种之用,果实可食。日本叫作橅(Buna),他们又考定中国称为山毛榉。《本草别录》云:“榉树,山中处处有之,皮似檀槐,叶如栎槲。”很近似。而《植物学大辞典》又称。者,柏也,今不据用。

ヨハン看见一个蓝色的水蜻蜓(Libelle)时,想道:“这是一个蛾儿罢。”蛾儿原文是Feuerschmetterling,意云火胡蝶。中国名无可查考,但恐非胡蝶;我初疑是红蜻蜓,而上文明明云蓝色,则又不然。现在姑且译作蛾儿,以待识者指教。

旋花(Winde) 一名鼓子花,中国也到处都有的。自生原野上,叶作戟形或箭镞形,花如牵牛花,色淡红或白,午前开,午后萎,所以日本谓之昼颜。

旋児手里总爱拿一朵花。他先前拿过燕子花(Iris);在第三章上,却换了Maiglöckchen(五月钟儿)了,也就是Maiblume(五月花)。中国近来有两个译名:君影草,铃兰。都是日本名。现用后一名,因为比较地可解。

第四章里有三种禽鸟,都是属于燕雀类的:——

一、Pirol。日本人说中国叫“剖苇”,他们叫“苇切”。形似莺,腹白,尾长,夏天居苇丛中,善鸣噪。我现在译作鹪鹩,不知对否。

二、Meise。身子很小,嘴小而尖,善鸣。头和翅子是黑的,两颊却白,所以中国称为白颊鸟。我幼小居故乡时,听得农人叫它“张飞鸟”。

三、Amsel。背苍灰色,胸腹灰青,有黑斑;性机敏,善于飞翔。日本的《辞林》以为即中国的白头鸟。

第五章上还有两个燕雀类的鸟名:Rohrdrossel und Drossel。无从考查,只得姑且直译为苇雀和嗌雀。但小说用字,没有科学上那么缜密,也许两者还是同一的东西。

热心于交谈的两种毒菌,黑而胖的鬼菌(Teufelsschwamm)和细长而红,且有斑点的捕蝇菌(Fliegenschwamm),都是直译,只是“捕”字是添上去的。捕蝇菌引以自比的鸟莓(Vogelbeere),也是直译,但我们因为莓字,还可以推见这果实是红质白点,好象桑葚一般的东西。《植物学大辞典》称为七度灶,是日本名Nanakamado的直译,而添了一个“度”字。

将种子从孔中喷出,自以为大幸福的小菌,我记得中国叫作酸浆菌,因为它的形状,颇象酸浆草的果实。但忘了来源,不敢用了;索性直译德语的Erdstern,谓之地星。《植物学大辞典》称为土星菌,我想,大约是译英语的Earthstar的,但这Earth我以为也不如译作“地”,免得和天空中的土星相混。

第六章的霍布草(Hopfen)是译音的,根据了《化学卫生论》。

红膆鸟(Rotkehlchen)是译意的。这鸟也属于燕雀类,嘴阔而尖,腹白,头和背赤褐色,鸣声可爱。中国叫作知更雀。

第七章的翠菊是Aster;莘尼亚是Zinnia的音译,日本称为百日草。

第八章开首的春天的先驱是松雪草(Schneeglöckchen),德国叫它雪钟儿。接着开花的是紫花地丁(Veilchen),其实并不一定是紫色的,也有人译作堇草。最后才开莲馨花(Primel od.Schlüsselblume),日本叫樱草,《辞林》云:“属樱草科,自生山野间。叶作卵状心形。花茎长,顶生伞状的花序。花红紫色,或白色;状似樱花,故有此名。”

这回在窗外常春藤上吵闹的白头翁鸟,是Star的翻译,不是第四章所说的白头鸟了。但也属于燕雀类,形似鸠而小,全体灰黑色,顶白;栖息野外,造巢树上,成群飞鸣,一名白头发。

ヨハン讲的池中的动物,也是我们所要详细知道的。但水甲虫是Wasserkäfer的直译,不知其详。水蜘蛛(Wasserläufer)其实也并非蜘蛛,不过形状相象,长只五六分,全身淡黑色而有光泽,往往群集水面。《辞林》云:中国名水黾。因为过于古雅,所以不用。鲵鱼(Salamander)是两栖类的动物,状似蜥蜴,灰黑色,居池水或溪水中,中国有些地方简直以供食用。刺鱼原译作Stichling,我想这是不对的,因为它是生在深海的底里的鱼。 Stachelfisch才是淡水中的小鱼,背部及腹部有硬刺,长约一尺,在水底的水草的茎叶或须根间作窠,产卵于内。日本称前一种为硬鳍鱼,俗名丝鱼;后一种为棘鳍鱼。

Massliebchen不知中国何名,姑且用日本名,曰雏菊。

小ヨハン自从失掉了旋児,其次栄児之后,和花卉虫鸟们也疏远了。但在第九章上还记着他遇见两种高傲的黄色的夏花:Nachtkerze und Königskerze,直译起来,是夜烛和王烛,学名Oenother biennis et Verbascum thapsus。两种都是欧洲的植物,中国没有名目的。前一种近来输入得颇多;许多译籍上都沿用日本名:月见草。月见者,玩月也,因为它是傍晚开的。但北京的花儿匠却曾另立了一个名字,就是月下香;我曾经采用在《桃色的云》里,现在还仍旧。后一种不知道底细,只得直译德国名。

第十一章是凄惨的游览坟墓的场面,当然不会再看见有趣的生物了。穿鑿念动黑暗的咒文,招来的虫们,ヨハン所认识的有五种。蚯蚓和蜈蚣,我想,我们谁也都认识它,和ヨハン有同等程度的。鼠妇和马陆较为生疏,但我已在引言里说过了。独有给他们打灯笼的 Ohrwurm,我的《新独和辞书》上注道:蠼螋。虽然明明译成了方块字,而且确是中国名,其实还是和Ohrwurm一样地不能懂,因为我终于不知道这究竟是怎样的东西。放出“学者”的本领来查古书,有的,《玉篇》云:“蛷螋,虫名;亦名蠼螋。”还有《博雅》云:“蛷螋,蛷也。”也不得要领。我也只好私淑番号博士,看见中国式的号码便算满足了。还有一个最末的手段,是译一段日本的《辞林》来说明它的形状:“属于直翅类中蠼螋科的昆虫。体长一寸许;全身黑褐色而有黄色的脚。无翅;有触角二十节。尾端有歧,以挟小虫之类。”

第十四章以Sandäuglein为沙眸子,是直译的,本文就说明着是一种小胡蝶。

还有一个münze,我的《新独和辞书》上除了货币之外,没有别的解释。乔峰来信云:

“查德文分类学上均无此名。后在一种德文字典上查得münze可作minze解一语,而 minze则薄荷也。我想,大概不错的。”这样,就译为薄荷。

一九二七年六月十四日写讫。鲁迅。

【七 写実主義与平民趣味】

【a クールベ和ライブル】

生于オルナン的,那粗笨的乡下人乔斯泰夫クールベ(Gustave Courbet)决计到パリ作画的时候,指导他,启发他者,无论怎么说,总是ルーヴル美术馆内的诸大家。其中尤其使他爱好的,是オランダ的画家们。十七世纪的オランダ画家,都忠实地描写着“他们所生活着的时代”这一端,更是惹了クールベ的兴味。他的对于应为新时代负担重要使命的明了的豫感,看来是此时已经觉醒了。一八七四年所企图的オランダ旅行,便是确证他这样的心情的事实。

一八四八年的政变以来,官僚的空气显然减少了的法国美术界,便毫无为难之处,承认了他的艺术。但他于パリ活动之暇,往往滞留在故乡オルナン,和这地方的素朴的自然相亲近,并且画着风景,狩猎和农民。他将家里的仓库改成工作场样,就在那里面作画,而这样的嗜好,却护持了他的艺术的纯朴了。不为风靡着当时フランス画界的沉滞了的皮相底的空气所毒,他的画的清新,大概也是クールベ的趣味之所致的罢。在四九年的展览会上,得了佳评的“オルナン的午后”和他一生中的代表作“オルナン的下葬”,便是这样地画出来的。和当时盛行提倡的平民主义的社会思潮相平行的——即使并无直接的关系——新的农民画家所共通的倾向,在这里可以窥见。农民的同情者的ミレー——他的作品的美术底评价,作为别一问题——和后文要讲的ドイツ的赍不勒和クールベ这三个人,都是当时的最为代表底的农民画家,而他们自己的生活,也都是亲近田园,为农民的好友的。(先前的“田园画”(Paysage Pastorale)是谐谑底地描写农民的“风俗”以娱都会人的好奇之目的,从这传统得了解放,而农民的地位,在美术的题材上也显然增高者,可以说,是和由四八年代的社会运动所致的平民阶级的社会底向上相符合的现象。)

第35節

“オルナン的下葬”是将数十个人物,画作等身大,拂里斯的浮雕似的,横长地排着的构图。下葬的处所是广漠的野边,远处为平冈相连的单调的自然所围绕。送葬的人们——除了牧师和童子——都穿黑色衣服。只除死者的至亲似的人们以外,他们都漠不相关地站立着。牧师的脸上,毫无什么表情。似乎只为做完自己的公事,翻开着圣典。单调的自然,倦怠的仪式,无关心的表情,暗淡的色彩——由这些表现所生的坚硬之感,都统一于クールベ所特有的确固的强。在很随便,然而生气横溢的这画上,有一种强有力的紧张。凡クールベ的画所通有的这种力,在“オルナン的下葬”上更其特别强烈地感得。相传画在那上面的人们,是都到クールベ的工作场里,给他来做模特儿的。クールベ所标榜的写実主義,可以说,在这幅画上,是表示了那最有光辉的具体底显现了。在ダヴィッド的“加冕式,”グロ的“黑役病人,”ドラクロワ的“一八三○年”……等常是代表新时代的——而且都是写实的——大作之中,“オルナン的下葬”似乎也可以加进去的。

和“オルナン的下葬”一同,代表着クールベ的还有两幅画。那就是“石匠”和“工作场”。“石匠”是描写在オルナン路旁作工的两个劳动者的。クールベ每日总遇见他们俩,这就是所以画了这画的机因。“工作场”上,加有Allégorie réele的旁注。在刚作风景画的クールベ自己的身旁,立一个裸体的模特儿女子;右边,有和他的艺术关系很密的诗人ボードレール和社会思想家プルードン;左边是曾经给他的图画做过模特儿的牧师和农民们。——从这两幅画的共通的倾向,可以推知クールベ和当时的社会运动之间的直接的关系。在事实上,クールベ对于帝政派原是常怀反感的,且又和同乡人プルードン相亲。然而他始终是一个画家。“石匠”和“工作场,”决不是为宣传社会运动起见,故意经营的制作。在他自己,只是试行平民生活的写实底表现罢了。其实,在这里,和社会思潮的关系,恐怕——在暗地里——可以看出来罢。但这是クールベ自己所没有意识到的。他的作画,仅出于标榜他的写実主義的艺术底意识。

一八五五年,在パリ开设万国博览会之际,也举行美术展览会。其时クールベ所提出的许多作品中,重要的几乎全被拒绝了,而且那审查的结果,是不满之处还很多。于是他要想些方法,和他们对抗,便在展览会场的左近,租了房屋,开起挂着REALISME的招牌的个人展览会来。说到个人展览会,现在是成了谁也举行的普通习惯了,但当时,实在还是希罕的事件。在这展览会的目录上,就说明着以“活的艺术”为目的的事,以及应该表示现代的风俗和思想的事。这展览会颇惹了世人的注目,自然不待言。就如见于ドラクロワ的日记的一节中那样,虽是那“ロマンティック的狮子,”也赞扬着这新的画界的后继者。

从一八五八年的弗兰克孚德的展览会以来,クールベ便和外国——特是德国——生了密切的关系,在六九年举行于绵兴的万国博览会之际,则得了很大的名声。当时以艺术上的保护者出名的路特惠锡二世,既给他特异的光荣;ドイツ的美术家们也表示了亲密和尊崇,加以款待。这时候,他的名望,在フランス国内,也到了那极顶了,千八七○年授Légiond’ Honneur勋章,但身为プルードン党员的他,却拒绝了这推荐。普法战争时,因为和师丹陷后勃发起来的恐怖时代执政团体之乱有关,由拿破仑党员的固执的敌意,遂被告发;又由官僚画家メソニエ而被挤出美术界,终至放逐国外,亡命スイス,就这样子在失意中死掉了。拿破仑党的巨匠ダヴィッド所曾经陷入的同一的运命,为社会党员的他就来重演了一回。代表十九世纪前半期初头的美术界的ダヴィッド和后半期初头的代表作家——在思想底的一方面,是各从正相反对的立脚点的——都代表着那时代的思潮,而同得了牺牲底的最后,实在是兴味很深的事。但在这里,有不可忘却者,是他们两人都常不失其为美术家的自觉的。虽有时代思潮的强有力的诱惑,而能守住他们的本能的“护符”,实在是フランス人传来的写实眼。

正如フランス人的クールベ,被欢迎于ドイツ一样,ドイツ人的ライブル,也在フランス得了赞赏。他们两人,是都有粗豪的野人气质的。加以在画风上,两人也非常类似。凡描写质朴的农民画,那趣味和样式都全然相同。从那么性格相异的法、德两国民之中,看见了这么相象的作家,这是极其希罕的现象。

威廉ライブル(Wilhelm Leibl)是一八六九年往パリ的。和クールベ,曾在绵兴相见,也会面于パリ。两人的交情——因为クールベ不懂德国话,ライブル也不懂法国话——也许未必怎么深罢,然而在艺术上,却不消说,ライブル是受着クールベ的感化。只要知道那时所作的ライブル的“科谷德,”是怎样地クールベ一流的作品的人,大概就不至于否定这样的推测的。不但这一点。当ライブル寓居パリ时,还受了マネ的轻快而明朗的画风的影响。但不多久,普法战争开始了。战争之后,在パリ——恐怕较之在德国——是可以占得幸福的社会底地位的,但他不愿意这样。于是自一八七三年以来,便躲在上巴伦地方的乡村里。格外喜欢野人生活的他,不耐在都会里过活。散策,狩猎,骑马等类的愉快而健康的生活,使他的艺术到处坚实地长发起来。连和女性的关系,几乎也不大有。因为他的异常的羞耻心,相传便是女人的Akt素描也不写的。

他就在日常围绕着他的农民的生活里,探求题材。ライブル不象ミレー那样,来讲农民的伦理,也不同绥庚谛尼那样,用诗意来粉饰农民。他但如クールベ一般,将平凡的农民实写出照样的平凡的姿态。许多的猎人,酒店,寺中,肖像等,便是这样地制作的。待到フランス人的影响逐渐稀薄下去的时候,他的画风即也逐渐现出北欧人似的强固来了。十五世纪的泥兑兰人和十六世纪的ドイツ人——尤其是荷勒巴因——以来的坚实,渐次形成了他的个性了。古典主义以来的许多ドイツ画家们所希求的描写大规模的生地壁画那样的事,他已经全不在意。只要在较小的匾额画上,描些日常的环境,他便满足了。但在这里,也具有生成的底力和深邃和伟大。而且那伟大,是和十六世纪的大作家所具的伟大相象的。

【b 都人所画的风俗画和村人所画的风俗画】

生于十六世纪的ドイツ的滑稽的风俗画,入十七世纪的オランダ,至十八世纪以来,遂广布了欧洲的全土。イギリス的荷概斯,スペイン的戈雅,フランス的菲拉戈那尔,就是那代表者。在十九世纪以来的フランス,则经流行了古典主义的壮大的表现和ロマンティック的大排场的舞台之后,这才到了一八四八年以来的平民画流行期,“而这一种卑近的风俗画,也还不过在画界的一隅,扮演一点小小的脚色。作为那代表作家,是可以举出ドーミエ,吉伊,ドガ,ロートレック这四个人的罢。如果要从中再求更惹兴味的作家,那么,这恐怕要算ドーミエ和ロートレック了。

阿诺来ドーミエ(Honoré Daumier)于石版画殊有名。以パリ为舞台,开手先描赛因河边的浣妇和街市的事件的他,将三等客车的情形以及娱乐场、裁判所等,画成滑稽,是得意之笔。在巧妙地运用了飘逸,但却非常有力的大胆的描写,写下那确是适切的性格描写的他的画面上,是具有フランス风的诙谐的轻快的。他在油画上;也有显出和石版一样的效果的手段。将比ドラクロワ和ルーベンス的用笔更其单纯化了的粗大的笔触,蜿蜒着,一面施以效果强大的简单的色彩,来作多半是小幅的,大胆的画。将戏园里舞台上的台面灯光的特别趣味之类,开始应用于绘画者,恐怕就是ドーミエ了。

安理兑图路士ロートレック(Henri de Toulouse–Lautrec)的出身是颇好的,但因为少年时候挫折了两足,足的发达便停顿,脊骨也弯曲了。和身子不相称的大头的畸形的身体,使他的心成了冷嘲。虽曾尊敬ドガ,受其感化,但没有ドガ那样冷静的性格。身入パリ的黑暗面的最下层去,将那里的生活的黑暗,照实感一模一样,分明地抉剔出来。而且那绘画的表现法,品气又非常之坏。不知道是故意呢还是嗜好,连那色彩的用法,也元不无聊而且卑猥。有如正在作下等的跳舞的妓女的画之类,那表现的不净,是可以使人转过脸去的。所以美术史家中,竟有不喜欢将他列入历史底人物里面去的人。ドーミエ的表现,是轻快的诙谐,和这相对,ロートレック的表现却太实感,太深刻。但倾向虽有这样地不同,而两人究竟都象フランス人样。凡有如表见于フランス的自然主义时代的文学上完全相同的倾向,从这两人的作品上,也一样可以感到的。

但在ドイツ——和在文学上一样——却不能寻出这样的绘画来。对于这,就有和フランス的卑俗的风俗画相平行似的一种风俗画。但不象フランス的作家那样,以都会人的嘲讽的心情,将现实的丑,加以暴露而有所夸张,但是乡下人一般的质朴的心情,以长闲的现实为乐的。并无フランス人那样干练的灵敏的手段的ドイツ画家们,是用了孩子似的“拙”,来表示他们的纯朴。真如诚笃的外行人,勤勤恳恳地描成了的画一般——令人要这样想。

这种ドイツ画家的代表者,是リヒター和シュピッツヴェーク。シュヴィント的好友路特惠锡リヒター(Ludwig Richter),是虽在イタリア旅行之际,还是怀念着故乡的风光的“ドイツ”人。即使写生了罗马的郊外,而描好的画,却到处都成了ドイツ气了。如果并不留心画题,而误以南国的景色,为北国的风光,也决不是观者的不名誉。因此,リヒター是仿佛只为要增长爱乡之情起见,所以漫游了イタリア似的。

“我愿全然以单纯的孩子的心情,把捉自然;而且一样地表以天真烂漫的形式。”曾经这样说着的リヒター,于童话的插画家,是最为相称的。(他的朋友シュヴィント也如此。)然而他并不学木版术的进步的技巧,也不想写实的彻底。至于性格描写之类,是完全没有兴味的。除了妥贴的琐细的生活以外,一无所求的他,是深于信仰而慈于儿孙的和善的老翁。在称为“祷告”,“基督教徒的喜悦”之类的他的木版画上,有着基督降诞节夜似的幽静的亲密。

关于“愚直派”的代表作家凯尔シュピッツヴェーク(Karl Spitzweg),是无须多讲的。他就只用了象个“愚直派”的素朴,来描写都会和乡村的小景,也时时夹杂些轻松的诙谐和嘲讽,但没有一种不是极平凡,极平稳的。爱护花盆的老人,令人发笑的牧师,年青的子夜歌的歌者,是屡次描写的他所爱好的题材。

【c カルポー和ムニエ】

倘不表示一点感激,也不说一句称赞的话,而要来讲カルポー,恐怕是不可能的罢。十九世纪的フランス,于ドラクロワ得了最大的画家,于カルポー有了最大的雕刻家。正如十七世纪有普珊,十八世纪有域多一样,在十九世纪,则有ドラクロワ和カルポー。在构想力之深和意志之固这一端,又在バロック艺术的复兴这一端,ドラクロワ和カルポー,实在是好一对的巨匠。

ヨハン巴普谛司德カルポー(Jean Baptiste Carpeaux)是リュード的学生。“特贝的渔夫之子”较之リュード所作的“弄龟的那波里渔夫之子”,那成绩是有出蓝之誉的。在太过于写实底的凄惨的“乌俄里诺”群像上,则可见密开朗改罗的模仿。当表现苦于饥饿的这不幸的父子的闷死的情形时,他曾求构想的模范于“劳恭群像”,自然不待言。但当这些令人想起先进者的感化的明朗的制作之后,却续出了许多发露着他的才能的作品。饰着ルーヴル宫雨花神殿的花神的风姿,饰着喀尔涅所建的歌剧馆正门的“舞蹈”,守着パリ天文台的泉的“世界的四部”,还有许多清朗的肖像。——

第36節

从这时候起的カルポー的作品上,就显出バロック特有的技巧来。カルポー者,原是构想力非常之强,而绘画底才能也很好的。(他的素描,就全如画家的素描一样。他所作的油画,ルーヴル博物馆也在保存着。)ルーベンス描写丰丽的肉体美时,所驱使的强烈的笔触,和ベルニーニ要将极其充实的生命,赋与冰冷的大理石时,所运用的巧妙的刀法,这二者,就养育了カルポー的艺术。使像面极端紧张,将阴影描得极强,极浓,极深,是他的雕刻上所特有的技巧。只要一看“花神”的蹲着的丰满的肉体,和围绕着她的童子们的肥大的身躯,就总要想起ルーベンス来。所不同者,只在将ルーベンス的野人底的粗,代以カルポー的雅致的细。在“世界的四部”,则负了地球仪站着的四个女子——这是用代表四大民族的状态来表现的——的裸体的肌肉,结构都极佳。“舞蹈”群像是在手持小鼓的少年的周围,裸体的女子们绕着携手游戏的情景。将青春的欢喜,描写得如此美而艳,是从来所没有的。能如这从喀尔涅所建的歌剧馆的バロック风的华美的正门石级的中途,俯视着热闹的广场的群像,示其和环境善相调和的成绩者,实在不多见。和装饰凯旋门的リュード的“马尔赛斯”,确是出类拔萃的好一对的作品罢。因为这像的成绩好,“舞蹈”便酿了纷纭的物议了。总爱多说废话的道学者们,很责难这裸体女子们的放肆的态度。但女子们却显着若无其事的无关心的笑容,依然舞蹈着。现在站在这像的前面的人,即使要想象半世纪前,这群像所受的不当的非难,也是不容易的。

在ルーヴル美术馆冷静的下面的一室里,看见カルポー的作品的一群的时候,凡有观者,大约心中无不感到异样的爽朗的罢。在这里,可以看见和大作的石膏模特儿以及草稿之类相杂的许多美丽的肖像。也有歌剧馆的作者霞勒喀尔涅的胸像,和泼剌的夫人的石膏像等。恰如搜集着ラ・トゥール的垩笔画的一室一样,这里也洋溢着爽朗的热闹的风情。卢森堡的美术馆中,有一幅描写カルポー的大幅的象征画。许多裸体的人物,装着出于カルポー所作的若干群像的风姿,围绕着在工作场中惝恍于构想的他,幻影一般舞蹈着。那幅画本身的价值,是不足道的,但作为藻饰这荣光烂然的カルポー一生的纪念而观,兴味却不浅。リュード和カルポー和ロダン——三个伟大的雕刻家,相继而出的フランス美术界,是多幸的。

至于别的国度——尤其是北欧的诸国——里,却没有出怎样出色的作家。然而只有一个人,惟独比利时的ムニエ是例外。用煤矿区域的筋肉劳动者们为模特儿,制作了许多整雕和浮雕的他,是恰如使ミレー做了雕刻家的作者。自然,在技巧方面,他的优于ミレー,是无须说得的。说起倾向来,则在全然写实底的ムニエ的美术上,有一种幽静的深奥。而在这里,可以看出和ミレー的显然的共通点来。例如在那对于“满额流汗以求面包者”的同情之心,自然洋溢着的那沉着的青铜的浮雕上,也就令人觉得十九世纪中叶的社会思想,谨慎地反映着。

カルポー和ムニエ——这两人,都确是写实派全盛时代的子息。然而倾向又何其如此之不同呢?将女性,表以欢乐的丰姿,青春的荣耀和肉体美的朗润的カルポー,和画以被虐于生活的苦役,污于煤烟和汗水的姿态的ムニエ——然而,同时这也就是两种巨大的目标,为写実主義艺术之所常在追寻的。

【九 最近的主导倾向】

试将进了十九世纪以来,从新兴起的造形美术上的新倾向,要约起来,加以考察,在这里也窥见以フランス和ドイツ为中心的两种艺术意欲的相异。尤其显然触目的,是这一时代特有的倾向,即在欧洲诸民族的广大的领域上,都来共同参与了。在向来的时代,是只有极少数的国民——特以法、德两国民为中坚,而别的诸民族——例如イギリス、意大利等——不过随时底地,并且随伴底地,加在这里面的,但到最近的时代,则法、德两国之外,连スペイン、イタリア这些南方民族,スイス、オランダ、ノルウェー、ロシア这些北方民族,也都一齐相当地带了重要的使命,来参与这一件——永远的——共同事业了。并且依照着这些国民所各各特有的民族底色彩,而发生了极其多色底的兴味深长的现象。不消说,关于这新的艺术史上的现象,要从“历史底见地”来讲,是还嫌过早的。但若对于目前的主题,已经可以看出一个极其代表底的示例来,则也不忍将一切委之将来,默而不问。所以就只用极粗略的大端的看法,来一瞥全体的倾向罢。

最初,也就先来说一说现代美术史家所蹈袭着的旧有的办法,而将这——姑且——作为出发点罢。这里首先成为问题的,是将这些极其多色而复杂的各样的倾向,在大体上可以整理起来的主导目标,但历来的民族本位的区分法,似乎也还可用。即对于南方民族和北方民族,各统一了大体的性情,而加以考察便是。称为南方系统的民族,是以フランス为中心,加上イタリア,スペイン去;成为北方系统者,中心是ドイツ,其余则オランダ,スイス,ノルウェー及ロシア之类的国民。(注六)至于历史上的种属概念,常是相对底的事,在这里是可以不言而喻的了。フランス则フランス,ドイツ则ドイツ,各各怀着那一民族固有的不变的艺术意欲的事,恐怕是并无怀疑的余地的“事实”罢。然而于单纯的事实的“整理,”例如将这些民族归入南方系统去还是归到北方系统去呢之类的整理,有着用处的概念,是大概不过从便宜上被想定的。这大抵只是相对底的概念,而决不是“事实。”所以当美术史上的主导倾向,由法、意两国代表着的中世纪的时候,便以这两国为目标,“便宜上”分为南北两系统。但到考察十九世纪以后的时代,即美术史潮的主导者已经换了法、德两民族了之际,也就“便宜上”不得不以这两国民为南北两系统的代表者了。曾经代表北方系统的フランス,这回便成了南方系统的主导者。要而言之,因为不过是相对底的区别,所以很是粗略的办法,但也觉不出怎样不妥之处来。将先前已经指点出来的法、德两国民的艺术意欲,和这大体的性情连结起来,而将南方系统,统一于纯造形底的艺术意欲;和这相对,则将北方系统归到思想本位的艺术意欲去,这样考察,大约“便宜上”也没有什么不当的。

关于系统的问题,其次所应该审察的事,是:从那里看出最近的倾向的发端来?是时代区划的问题。换了话说,就是;最近的造形美术所共通的——在这时代的制作上是个性底的——色彩,在那一时代的制作上,这才特别浓厚地——或是意识底地——显现出来了?现代美术的主导倾向,将认怎样的作家,作为“直接”的始祖呢”?成为问题的是这些事;但从许多美术史家和批评家起,以至作家们所容认为现代画的“始祖”者,如下文。就是,从セザンヌ,ゴーガン和卢诺亚尔,生出南方系统的新倾向来,而认ファン・ゴッホ,ムンク,ホドラー,为北方系统的先驱者,这似乎是多数的人们所共通的大概一致之点。然而事实上的关系,是恐怕还要麻烦的。为什么呢?因为南北这两系统,既有成为互相交叉的关系——即使那影响的模样并不是本质底的——的时候,(例如ファン・ゴッホ的样式,刺戟了フランス的作家们,ゴーガン则对于ドイツ的画家们,鼓吹了南洋趣味,)而也有如玛来斯和ホドラー那样,虽经从新承认其价值,崇为先觉者而受着非常的敬仰,但于制作上,却并未给与什么影响的作家。所以在被称为所谓先觉者的过去的作家们之中,也含有仅由舆论之声所推选,而实际上却并无那种资格的人们的。

现在将依据了现代美术史家所沿袭下来的旧有的区分法,加了区分的两种的系统,和从舆论之声所选出的现代画的先觉者们,先行想定如上,再将这比照着历史上的“事实,”来进行观察的步伐罢。

【a フランス】

先从掌握着南方系统的霸权的フランス起首。十九世纪的末顷,印象主義是终于到了要到的处所了。而对于接踵而起的作家们——セザンヌ,ゴーガン,思拉等——的新的尝试,则给以“新印象派”呀,或是“后期印象派”呀的这些名目,作为“便宜上”临机应变底的名称。这新时代的作家们,要用“印象派”这一个名目来加以总括,自然是不可以的。在他们那里,甚至于反而也窥见和印象派站在相反的立脚地上的意向。然而,他们也是フランス人。而且是正和フランス人相称的形式主义者,实证主义者。这三个人之中,只有若耳治思拉(Georges Seurat)一个,没有成为新时代的始祖,竟做了他所生活着的时代思想的牺牲了。想将印象派的作家们一面凝视着自然,一面制作成功的事业,理论底地建筑起来的他,是自己阻碍了自己的发展,亲手将自己赶进没有出路的绝地里去了。但别的两个——セザンヌ和ゴーガン——却作为新时代的祖师,而从新被认识了那历史底意义。

称为“一切画家中最象画家的画家”的保罗セザンヌ(Paul Cézanne)是由着マネ而觉醒的作家。他一向就不往流行作家的工作场去,并未学得琐屑的定规的技巧,但凭自己,画着正直的画。虽然画一个苹果,也要长久的时间的他,是凝视着物体,专心致志地下笔的。全然是粉刷墙壁一般的笔触的使用法。画成了的画,则岂但嘲笑而已呢,无论何时,总是受着迫害,终于弄到也不能给人看,也不想有人买,只因为自己的要求,画着绘画了。到后来,便只缩到诞生的故乡蔼克斯去,但在不知不觉之间,他竟成了历史的支配者。被代表新时代的许多作家们,供在指导者的位置上了。

在セザンヌ的艺术上,主要的题目有二。就是画面的构图的“综合底统一”和为表现物体的体积起见的“面的结构。”为要综合底地统一画面计,则于物体的形态上,来求视觉底的统一点;或将物体的配列,统一底地结构起来;或应用半是鸟瞰底的透视法。而关于物体的“面”的结构法,则其使用光和色彩,也极惨淡经营之致。在セザンヌ的绘画上,色彩所有的机能,是极为复杂的。在这里,正如他自己说过:“不是素描,也不是体态。只有色调的对照。……不当称为Modeler(体态),应该说是Moduler(色调的推移。)……云云”(注七)一样,セザンヌ的画,是色彩都互有严密的关系,色彩的效果,同时也成为空间底效果的。和要捕捉物体的外底的现象的印象派,恰相反对,他想将物体的造形底地内在底的约束,表现出来。其致力于统一画面和结构物体的“面”,就都为了对于这目的。由他而表现的画象,其实,这东西本身,便是整然的一个造形底的世界。

然而,仰セザンヌ为始祖,将他的到达点,作为新的出发点,而开始制作的セザンヌ的后继者们,却难于说是一定得了那始祖的真意。大约可以认为セザンヌ正系的后继者的安特来ドラン(André Derain),是意识底地,归向セザンヌ的凝视着物体而自然达到了的结论的。他想借“面”的对比底的配置,而在平坦的画面上,显出立体底之感来。但在ドラン,还没有——从自由的制作上夺去生命,使这成了化石的——“教义。”而在属于所谓“立体派(キュビスム)”的画家们,则セザンヌ的艺术——明明是受着误解——硬化为一个“教义”了。将セザンヌ的“在自然界,一切皆以球体,圆锥体,圆柱体为本而形成”这有名的话,凭自己的意见加了解释的立体派(キュビスム)的人们,是希图将这样的单纯的形态,结构起来,以表现物体的立体性。

属于立体派(キュビスム)的作家之中,最为重要,而又居极其特殊的位置的,是巴勃罗ピカソ(Pablo Picasso)。生于スペイン的这才子,到了パリ以后,开首是画着风俗画——从ロートレック风转向スペイン风的异乡情调去了——的,但从一九○七年的时候起,便带了立体派(キュビスム)底的倾向,动手画起轮廓硬而锐,而形态非常单纯化了的绘画来。凡物体,都被还原为单纯的几何学底形态。其时还有在莱斯泰克画着风景的丛画的别一个立体派(キュビスム)的大人物——若耳治ブラック(Georges Braque) ——和ピカソ是从不同的路前进的,但得了同倾向的到达点。于是从一九○八年的时候起,两人的协力底的运动便开端,立体派(キュビスム)绘画所喜欢的题材,即描着乐器的静物画,也制作起来了。在抽象底地,图型化了的静物画的一部分里,插入极其写实底的形体去;或セザンヌ风地,视野截然分开了。于是以——上面已经说过的——セザンヌ的有名的话“物体者,球体,圆锥体,圆柱体……云云”为本,而将几何学底的单纯的形体,当作一切物体“的视觉底范畴”了。这不消说,物的立体底表现,自然是他们所努力的主要的眼目。黑种人的雕刻品的质朴的立体底表现法——不单是提起了他们的兴味——在他们的尝试上,积极底地给了暗示的事,恐怕是也可以承认的。

第37節

还有,作为属于立体派(キュビスム)的别的作家,则有和ピカソ及ブラック倾向相同的斐尔南莱什(Fernand Léger);有藉了使物体的形态歪斜,以增重其立体性的罗拔尔陀罗内(Robert Delaunay);又有将人体也矿物的结晶似的,还原为立方体的拉孚珂涅(A. Le Fancounier);有正象一个女性,画着木偶的叙情诗的马理罗兰珊(Marie Lauren–cin)等。而且连德国人中,也有了生在纽约的里阿,内勒ファイニンガー(Lyonel Feininger)。好象将空间性这东西,加以抽象化一般的他的建筑画,是依然到处ドイツ气,而受了和表現派作家倾向大不相同的,南方风的绘画的分明的影响。

接着セザンヌ,将很大的影响,给与现今的画界的作家,是保罗ゴーガン(Paul Gauguin)。和象征主义的文学运动,曾有亲密的关系的他,在别一方面,是フランス画界相传的赞美异乡情调的代表者。陀康和ドラクロワ以来的南国趣味,在ゴーガン,便显示着最浓厚的发露。从南国的自然景物的简索的情形,和有色人种的皮色和服饰,造出一种雅净的织纹一流和图案来。在ゴーガン,求得画面的装饰底的效果,是他的制作的主要的目的。将颜色用得平坦而无光泽,使全体为雅洁的色调所支配的他的画,以壁画为理想,是不待言的。到晚年,数奇已极的泰易谛岛的生活,以贫困和病苦的窘促,来换去了乐园的欢乐的时候,他曾计画自杀,逃入山中,吃了许多砒霜,想将自己的死尸,去喂野兽。此举不成,跄踉下山之后的他的作品,虽然恐怕是他一生中的大作,但那构想,却是纯全的壁画风。题着“我们从那里来?我们是什么?我们往那里去?”的这画,照例是常常和沙樊的壁画相比较的。假使称沙樊的画为“寓意底,”则ゴーガン的这作品,该也可以称为“象征底”罢。然而,在造形上的构想和那壁画风的效果上,是各显着相似的样式的。

承这ゴーガン之后,在现代的画界上占着重要的位置者,是安理マティス(Henri Matisse)。他也如ゴーガン一样,是受了南洋风物的刺戟,从壁画上感到非常的兴味的。恰如看见质地美艳而彩色鲜明的东洋磁器似的他的画,乃在求得色彩的装饰底效果。将物体还原为色彩,而以工艺品一流的味道示人,是他的绘画的主眼。使人觉得好象是由这才子的笔,翻弄着フランス传来的技巧的高强一般。

正和“时辰虫”这绰号相合,一步一步,一任着才子的善变的心之所向,变化着画风的ピカソ,盖是画界的Don Juan。高手的陶工似的,挥着才笔,而弄色彩的妙技的マティス和ピカソ,加以セザンヌ正系的ドラン——这三个人,恐怕便是代表现代フランス画界的作家罢。他们的努力,到处总不离造形的世界。要以纯造形底的技巧之高强示人的他们的艺术意欲,到处总都是フランス风。

【b 北方系统的先驱者和ドイツ】

现代ドイツ的画界,是即使志在肯定他们的艺术,措辞极为爱国底的批评家,也不能直接在同国人之中,寻得他们的好的指导者。虽是那远则在中世纪的虔诚的雕刻里,在格林纳瓦勒特的阴郁的祭坛画里,近则在渥多伦该的ロマンティック的自然赞美里,在翰斯望玛来斯的超逸的理想画里,寻得“国粹底”的美术的美的发现,而欣然自乐的ドイツ民族,也不能在祖国的作家中,觅得表現主義绘画的直接的始祖了。只好在比较底广大的范围里,即北方底的,日耳曼民族底的之中,来寻求他们的指导者。这样地挑选出来的作家,是オランダ的ファン・ゴッホ,ノルウェー的ムンク和スイス的ホドラー。

文参德ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)是经过做了教士,在煤矿区域说教的生活之后,这才成为画家的。既经在安斯达登,赞美了继续着弗兰支哈尔斯和レンブラント的血脉的祖先的大作,乃到フランス,和印象派的作家往来。然而他的性格里,是有着和印象派的作家全不相容的“北方底”的东西的。所以退入埃尔以后的他,毫不受フランス画界的影响,而只进向他自己的路。热情底地亢奋了的自然的情形,是他的世界。这倒是他的心眼所见的超自然底的世界。一切的现象,在这里是起伏,交错,燃烧。白日的光使万物亢奋而辉煌,树木喘息着,大地战栗着。那又厚又浓,从颜料筒中挤了出来的颜料的强有力!再没有能如ファン・ゴッホ那样,能捕自然的泼剌的生命的作家了。他的绘画,是已经超过了造形底的东西的世界,而表现着隐藏在那深处的深的“力”。便是赞美同一的太阳,印象派的画家们是不过将这作为造形底的现象,加以静观。不过象自然科学家一样,以客观底平静,熟视着日光的动作法。然而ファン・ゴッホ却直接感到日光的温暖了。他要画出太阳的“伟力”这东西来。无论怎么说,在这里总不能否定超越了造形底的东西的世界的——一种精神底的——境地的存在。曾经被批评家取以与印象派的作家们混为一谈的他,和表現主義的勃兴一同,一跃而成北方民族的代表者,尊在不可动摇的开祖的位置上,正是自然之势。然而,所可惜者,是他仅只被崇仰为伟大的开祖而已,却不能得到一个并不辱没他的声名的后继者。单想在笔触上,传他衣钵的奥大利的阿思凯珂珂勖加(Oskar Kokoschka)则只有表现的粗疏。无论那里,都没有深沉的强的力。只看见徒然靠着声音和姿势,闹嚷着的空虚。

有着狂信者一般虔敬的父亲,和因肺病而天亡的母亲的爱德华特ムンク(Edvard Munch)原是阴郁的性质,于生活的黑暗,是尤其容易感到的。最初,他画着印象派一流的画。到得パリ,受了毕萨罗的影响时候的作品,则全是毕萨罗风。然而有时落在困穷的生活里,至于不得不靠着街灯的光去刻木版,又因为易于激动,一时还受了精神病院的招呼。因了这样的事情,在艺术上,不久也就发见了他自己的境地,来表现人生的黑暗了。以幽暗的心绪,观察浊世的情形,将隐伏在人间生活的深处的惨淡的实相,用短刀直入底的简捷,剜了出来,是他的特殊的嗜好。运用着粗而且平的迅速的笔触的ムンク的技巧,是和简素的——虽然如此——一种给人以演剧底的紧张味的构图法相待,以造成他独特的一种幽暗的心绪的。将“恋爱生活”和“死”作为主题,而写出人间底的冲动和恐怖。统括底地,运用这种题材者,是使浊世的诸相,手卷一般展了开来的舞台飞檐“生活”。这个主题,ムンク是尝试过许多回的,但最见个性的,恐怕是要算受了马克斯赉因哈勒特之托,饰着ベルリン的室内剧场的装饰画了。他在这作品上的计画,并不想描写生活诸相的各个底的场面,倒是要在一套的飞檐上,将感情生活的节奏统一起来。

ムンク的画上所常用的得意的技巧,是将性格底的表情,给与向着正面的人物,简明地暗示着情况,而一面理好构图。他的画,东西虽极简单,却很能收得演剧底的效果的原因,大约就在此。在剜出浊世的“场面”的巧妙上,能够和他站在同一水平上的作家,恐怕先要推ドーミエ和ロートレック这两人了罢。在ドーミエ,一切都用淡淡的诙谐包裹着。ロートレック的画,是全象黑暗面模样,不干不净的。这在ムンク,则但为阴郁的情绪所统一。ロートレック和ムンク——在这里,恰有如フランス自然主义的小说和北欧的戏曲之不同。而惟ムンク艺术上所特有的这“精神底阴郁”——对于现世的形而上学底的恐怖——的表现,乃是使他所以成为表現主義之祖的缘故。

被许多批评家们推举为表現派的始祖之一的スイス的呵特费(Ferdinand Hodler),是带着一种象征底的色彩的装饰画。ムンク也试画过在克理斯楷尼亚的大学讲堂上的壁画那样的大作的,然而他的特性,却似乎于这一方面并不近。至于ホドラー,则原是装饰底的壁画家。ドイツ的批评家们,要从ホドラー的画的什么处所寻出表現主義的萌芽来,是莫名其妙,但于“表現派的绘画”这东西和ホドラー的艺术之间,要发见直接——或间接——的连络,在我是以为困难的。

其次,来史实底地一想,表現主義的直接的运动,是从什么时候开始的呢?要回答这问题,恐怕是未必容易的。为什么呢?第一,是将总括在“表現主義”这一个种属概念之中的诸倾向,应该怎样分类?其中的那一种,是真是“表現主義”底东西?这样的问题,仅在言论上,是无论发多少议论,也不中用的,除了委之“时”的选择以外,没有别的法。倘不是表現主義的运动这件事,先有一个着落,则什么是“表現主義底”,实在也无从明白。既然不明白什么是“表現主義底”,则要发见这新运动的直接的起源,也就不能够。况且这新运动初起的时候,和这一派已经相当地确立了社会底位置的现在,主张和倾向,都很有些变化了。批评家们之中,虽然也有将这新运动分为若干种倾向,各各给以特别的名称的人,然而并无出于简单的想头以上的,所以这些言说,也不足凭信。但是,倘单将成为重要目标的事件,列举起来,则大致就如下。

要考察ドイツ画界上作风的自然底变迁之际,可以注目的作家,大约是基力斯谛安ロールフス(Christian Rohlfs)罢。他是从印象派的画风,渐进底地,移入所谓“表現派底”的倾向的,说起来,也就是指示出过渡期的样式的画家。他在一九○○年以后所作的风景画——大抵是都会的写生——都显示着笔触非常动摇的,色彩强烈的,宛如彩画玻璃的花纹一般,粗粗地作高低之感的画风。大概是一九○六年顷罢,他和表現派的代表画家ノルデ往来很密了。于是在一直属于后期之作的宗教画等,那样式便全是ノルデ风,加以夸张的奇拔之感,非常强烈。在这里,和ノルデ接近以后的作风,且作为问题以外的事,但在这以前的风景画,那样式的“自然底”地逐渐倾向表現派气息的“形式的夸张,”是值得注目的。这就因为从印象主義到表現主義的——无意识底的——ドイツ画家的趣味的推移,在这里可以窥见;而将表現派画家的作品中,往往发见ドイツ印象派的骁将里培尔曼的手法这一件事实,和这连起来一想,是颇为有趣的事。一种革命底的这新运动,事实上一面却显示着向来的样式的连续底展开之迹,这于“历史底”地考察表現派的运动的时候,是可以作为良好的参考史料的罢。

其次,一查新运动的直接的机因和结果,则以一九○六年成立于特来式甸的画会 Brücke(桥梁)会员的出品为主的“分离落选画展览会”,一九一○年在ベルリン开会了。桥梁派是从一九○二年顷起,以ヘッケル,キルヒナー,シュミット=ロットルフ等为中心,新倾向的作家渐渐聚集,因而成立的画界;一九○五年ノルデ加入,翌年ペヒシュタイン加入了。是以制作为本位,极其切实地进行的,但到一九一二年,终于解散了。这画会,是成为表現派运动的中心分子的。

当约略同一的时期,在绵兴市,则有了“新艺术家协会”(Neue Kunstler Vereinigung Munchen)。这协会于一九○九年由カンディンスキー及别的人们所倡设,渐次而拉孚珂涅(一九一○)マルク(一九一一)等都入了会,但不久就分裂,カンディンスキー和マルク一派的人们,便另外形成了称为Der blaue Reiter(青的骑士)的一团。这以南ドイツ为中心的一群美术家们的工作,所可注目的,是当协会举行第二回展览会的时候,加入了ブラック,ドラン,ピカソ这些南方系统的代表作者,以及由渥林该尔,カンディンスキー等,发表了“在艺术上的精神底东西”(Das Geistige in der Kunst)和其他的宣言。

又,ベルリン的海瓦德跋尔典因为想开催一个网罗新艺术的一切方面的综合底的会合,则于一九一二年设立协会曰Der Sturm(暴风雨),还开了展览会。在这协会里,是不但绘画,也加上雕刻,工艺,舞台艺术,诗文等;并且举行了连续讲演和讲习之类的。

当欧洲大战正烈的时候,表現派的艺术运动也步步增加了那社会底地位,到现在,则在德国各地的美术馆里,也看见陈列着这一派的作品了。ベルリン的国民美术馆的新馆和利俾瑟的美术馆等不待言,便是特来式甸的绘画馆那样,丰富地收藏着古来的大作的美术馆中,也侵入着表現派的粗豪的作品。在因有ラファエロ和レンブラント的作品,而空气穆然沉静着的馆里,看见了表現派的试作的,技巧极粗的表现露骨的绘画,是很有不调和之感的。但也令人知道这派的新运动,已经——至少是一时之间——获得艺术上的社会底地位,到了如此地步的情形。

第38節

以这样的状态,渐次——意识底地——急速进行的这新运动中,作为中坚者,无论怎么说,总是桥梁派罢。对于这一画派的制作,给以直接的刺戟,给以构想者,第一,是古来的北欧美术,第二,是未开化人的艺术,第三,是现代フランス的美术。作为北欧美术的影响,最为显著的,是ムンク,ファン・ゴッホ等,在近代特为个性底的北欧画家的作品;以古代的艺术而言,则戈谛克的感化,是几乎大家都感察到的,至于部分底地,则望蔼克,格林纳瓦勒特等,似乎也给了若干的刺戟。其次是未开化人的艺术,但这样的影响,フランス也一样,(倒不如说是较盛,)在现代美术界,是共通的流行。在桥梁派,是一九○四年キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)对于特来式甸的人类学博物馆所藏南洋群岛土人和黑种人的雕品,发生兴趣,将这给ペヒシュタイン看,给了许多的刺戟,成为直接的动机的。于是ノルデ(Emil Nolde)便从一九一三年起,直至欧战时,由德属南洋,往访爪哇,缅甸;ペヒシュタイン(Max Pechstein)则于一九一四年赴德属南洋,因为大战勃发,被日本军使他退出巴拉乌岛了。

但他们的赴南洋,由于ゴーガン的先例的刺戟,是明明白白的。ゴーガン对于表現派画家的作风,给了很大的影响——如将油画的画面弄成生地壁画样之类——而在生活上,对他们也鼓吹了南洋趣味。所以倘将和フランス美术的交涉,置之度外,则表現派画家的南洋趣味,也就无从着想的。然而フランス的影响,还不止这一点。シュミット=ロットルフ(Karl Schmidt–Rottluff)由立体派(キュビスム)的感化,想在立体底量的表现上,试行一种解决;摩兑生勃开尔(Paula Modersohn–Becker)则从ゴーガン受了作风上的刺戟。至于已经说过的ファイニンガー,是成着纯然的立体派(キュビスム)的作家,那更可以无须赘说了。在全体上,フランス美术的刺戟,颇是根本底地,决定着表現派画家的作风的事——无论他们愿意与否——大约是不可掩的分明的事实罢。

还有,“青骑士”一派的作家,还显示着倾向上和“桥梁”的趣味,非常两样的表现法。想借了纯粹调音底绘画,将纯主观底的感情,翻译在色调上的华西里カンディンスキー(Wassily Kandinsky),和喜欢作孩子似的绘画的保罗クレー(Paul Klee),以及说是从动物自己的立脚点,来画动物的弗兰支マルク(Franz Marc)等,便是那代表者。倘承认他们的主张,那么,在他们的尝试上,也有相当的理由的罢,但恐怕他们的苦心,就仅是他们的苦心罢了。又如ロートレック风的若耳治グロス(George Grosz)和极端恶道的渥多ディックス(Otto Dix)的漫画(?),那是无话可说。他们之所谓“艺术,”除了显示着因大战而粗犷的国民之心的丑恶而外,是什么也没有的。倘作为时代趣味的是最极端地到达了所要到达之处的示例,那自然,可以成为兴味很深的“病理学上的参考资料”的罢。或者,又于——证明在理想主义的全盛期生了斐希德,自然主义的陶醉期出了ヘッケル的ドイツ国民的极端的性格,也能够作为材料之用。但是,以曾经有过巴赫和贝多芬的ドイツ,而于这样恶趣味的作家——这一句话,则或一程度为止。也通用于所谓表現派的全体——加以容许,是决不成为他们的名誉的。

【c イタリア和ロシア】

一说起发生于イタリア的艺术上的新运动来,便即想到未来派,但这本来却并非以纯艺术为主旨的运动。倒是志在打破传说的一种极端的社会运动。这派的主导者,诗人マリネッティ(F. T. Marinetti)的宣言(一九一○年)上所说,“我们要破坏博物馆和图书馆……云云”的句子,就可以说,是很适宜地显示着这运动的性质的罢。所以在未来派运动的艺术底表现上,对于极力打破了传统的“新的”形式,加以尝试的事——至少——是成为最初的动机的。因此于音乐,于诗文,都试行着种种新的表现法,而在绘画,则自然生出一种新的规范来。首先,未来派画家之所寻求的东西,是运动的大胆的表现法。那盛行尝试的,是将一件事故的种种情形,或物体运动的种种状态,“同时底”地,作为一个的造形底表象,表现出来。那结果,便连只是荒唐无稽的——带些器作剧模样的——“尝试”,也在其中出现了,然而有时也有收了相当的效果的兴味颇深的作品。如セヴェリーニ(G. Severini)的“斑斑舞蹈”,大概便是代表作品罢。在色彩鲜明的嵌镶画饰一般的那表现法上,有着很是耀人眼睛的印象,喧嚷于活泼的运动中的群众的扰攘之感,巧妙地描写着。但是,这不消说,作为造形美术的表现法,这种尝试能有怎样程度的价值,是又作别论的。

然而到最近,随着在フランス的立体派(キュビスム)的隆盛,又有倾向全然不同的一种美术运动—— Valori plastici派——出现了。在一方面,这运动是出于未来派的连续底展开,而从别方面看起来,也可以当作又是对于未来派向来的样式的廓清运动。未来派的绘画,有着使观者之心急躁起来那样的扰攘;和这相对,新倾向的绘画,则冷结了似的,带着静默的冷。用立体底的,然而抽象底的造形底形态,结构而成的这派的绘画,简直是给人以物理学实验上所用的器械一般之感的。例如若耳治キリコ(Giorgio Chirico)的表现着“形而上学”的几幅画,便是那最为特殊的作品。在过去之世曾有那么许多光荣的历史的イタリア,而南方系统的形态主义,却显示着至于这样极端的——病理底地凝结了的——状况,是大有兴味的事。那么,显示着正相反的性情的北方系统,又是怎样情形呢?

北方风的极端的表现,在ロシア画家シャガール和セガール的绘画上,很适宜的代表着。マルクシャガール(Mare Chagall)是将ロシア风的农民艺术,代表在绘画之上的作家。当寓居パリ的时候,首先是很受了フランス画界的空气的影响的,但渐渐回向他祖国和他自己的境地里去了。这是和ブラック的立体派(キュビスム)相隔颇远,和カンディンスキー一流的绝对派也两样的。是素朴之中,含有一种奇拔的诙谐的——ロシア农民艺术上所特有的——表现法。宛如ロシア的童话那样,带着土气的一种神奇。

显示着和这相反的——然而仍然是斯拉夫底——的,是住在特来式甸的拉萨尔セガール(Lasar Segall)。是将ノルウェー的ムンク,斯拉夫化了似的描写阴郁的画的作家。那题材,大抵是讽刺浊世的生活的。在题为“临终的床边”,或“男和女”,或“永远的流亡者”的他的画上,可以窥见鬼气而阴森的观念的表现。シャガール和セガール——并未来派以来的イタリア的绘画,就可见最近美术界上成为倾向的两极的现象了。况且这两极的画风,从地理上看来,也发生于南北最相隔离的民族,则尤是惹人兴味的事。纵使这些试作在美术上的价值,作为另外的问题,在这里还不能算是得到了近代美术史潮的结论么?

一 Johann Joachim Winckelmann(一七一七——一七六八)。主要著述如下:——

Gedanken über die Nachahmung der griechischen Werkee in der Malerei und Bildhauerkunst. (1755)

Geschichte der Kunst des Altertums. (1764)

二 启蒙文化无论在美术上,在文学上,英国都是中心。将在文学史上已经公认了的关系,类推到美术史上去,以为这些处所,イギリス也将影响给了フランス,恐怕没有什么不当罢。因为那时的イギリス,在欧洲的美术界,是占着极重要的位置的。

三 アングル在一切フランス所出的美术家中,是最为フランス底的美术家之一。荣盛于十九世纪初头的古典主义,怎地逐渐受了纯化的呢?要考察这一个问题的时候,是特要注目的作家。但我在本书,将关于他的考察颇加省略者,因为他的地位,是纯粹只关于フランス美术史的内部,而和他可以比较的作家,在别国的美术家中是全然难以觅得的缘故。在这样的试以“比较”为主的本书里,对于他可惜没有详细叙述的机会了。

四 アングル自以为自己的艺术是“纯粹地写实底的东西”的意见的情形——正因为他的性格很固执——几乎是弦子似的。关于这事,Leon Rosenthal在他的著作La Peinture Romantique中,所举的史料如下:——

一、アングル的言语。

“Il est aussi impossible de se former l’idée d’une beauté à part,d’une beauté supérieure à celle qu’offre la nature……”

“Il nous est impossible d’elever nos idées au delà des beautés des ouvrages de la nature……”

“Croyez vous que je vous(对学生说)envoie au Louvre poury trouver ce qu’on est convenu d’appeler le beau idéal, quelque chose d’autre que ce qui est dans la nature?……”

二、逸话。

或时,对于アングル之作“阿迪普斯”照例称赞的人和アングル曾有如下的会话。

Je reconnais ton modèle.

Ah!n’est–ce pas, c’est bien lui.

Oui, mais tu l’as ferment embelli!

Comment embelli?Mais je l’ai copié, copié servilement.

Tant que tu voudras,  mai il n’était pas si beau que cela.

Aussi, comme il s’emportait!

Mais vois donc, puisque tu te le rappelles,c’est son portrait……Idealisé……

Enfin!penses–en ce que tu voudras;moi j’ai la prétention de copier mon modèle,d’en étre le trés humble serviteur et je n’idéalise pas.

五 希勒兑勃兰特和威勒夫林的关系,可参照大正十五年《思想》四月号所载泽木四方吉氏的论文;希勒兑勃兰特的《形式的问题》已被译出,在《岩波美术丛书》内。(上述的泽木氏的论文,待完成之后,也豫定作为同丛书而刊行。)

六 德国的美术史家——尤其是以“艺术意欲”为根本概念者——常有一种习惯,就是使日耳曼民族和腊丁民族相对立,以作区分这种系统的目标。但因为依照这样目标而成的分类,是将特定的民族,“永久”地指定在一定的美术史底地位上,所以分类的目的,也就不仅是相对底的便宜上的事,而不能不认为绝对底的事实了。但是,这就为难。看上面所说的关于フランス民族的位置的事就明白,要毫无什么“不自然”地来考察和这对立的——倾向非常不同的——民族的相互的关系,便烦难起来。但历史上的分类,决非在“事实”之前,是无须赘说的。所以为不枉“事实”起见,还是以不用这样的分类法,较为安全。我之不用这样的习惯上的分类法,而偏是漠然地采取了南方系统北方系统这个目标者,就因为竭力想将目标作为相对底的自由的东西,而一味尊重历史底事实的缘故。

第39節

七 “Il n’y a pas de ligne, il n’y pas de modele, il n’y a que des contrastes. Ces contrastes, ce ne sont pas le noir et le blanc qui les donnet;c’est la sensation colorée. Du rapport exact des tons résulte le modelé. Quand ik sont harmonieusement juxtaposés et qu’ils y sont tous, le tableau se modèle tout seul.—On ne devrait pas dire modeler, on devrait dire moduler.—Le dessin et la couleur ne sont point distincts;au fur et à mesure que l’on peint ou dessine;plus la couleur s’harmonise, plus le dessin se precise. Quand la couleur est a sa richesse, la forme à sa plénitude. Les contrastes et les rapports des tons, voilà le secret du dessin et du modelé.”

【食人人种的话 法国 腓立普  】

这话,是食人人种的话。关于吃人的人,一向就写得很不少了,但我相信,这些记录和故事,都未必怎样确实。果然,最近我所实现了的中部亚非利加内地的旅行,竟教给我了别人所说的闲话之类,是决不可信的。无论怎样的败德的人的心底里,也总剩着一点神圣之处。为要竭力表明这事实,所以我在这故事里,就专着重于人类的本性,勉力隐去了和事实相连的地方色彩,用我自己所得的材料,将食人黑种的生活的一面,照样叙出来。

称为“谟泰拉司”的一个黑人部落,所以成为好战的部落的理由,并不因为这部落的喜欢战争;这不过是不喜欢劳动的结果。要去战斗,原也须费去许多劳力和勇气的,然而当战争时,发大叫喊,跳过沟渠,砰砰的放枪,凡这些事,虽在本不喜欢战斗的人们,也觉得好象在玩一种什么户外运动。以运动而论,自然也未免有多少过激之处,但倘若看作一种手段,借此来达体育保健等类体面的目的的,那就当然成为应该的事了。

在谟泰拉司部落中,一定也有奸细的,因为最近他们向邻接的部落去远征之际,他们不过发见了住民逃走之后的空部落。那是一定有谁去通知了他们的来袭,所以敌人便逃跑了。黑人是决不加害于自己们的一伙的。这个谟泰拉司的勇士们,也没有在敌人的村子上放火。而他们向故乡凯旋的时候,只将一个女人和她的孩子作为俘虏,合计带了两个人。这在他们,也并非有什么另外的恶意,不过要表示他们所化费的时光之正当的理由罢了。

谟泰拉司的勇士们当凯旋之际,从本部落的女人和老人们受了非常的薄待。无论那里的老人,是都象法国的千八百四十八年的共和党的。他们看着我们造成的共和国,显着几乎要说“现在的人们是做不出一件满足的事了呀”的脸相。至于女人呢,她们是,无论在什么时代,总向男人这样说,

——你还是在家里看看孩子的好,因为你的事情,我能更好的给你办的。

他们还被嘲骂为败北者,因为他们寻不出可战的对手,所以也没有背了战胜来。勇士们对于这辱骂,恰如对于不名誉似的,辩解了一场。他们这时候记起了一件事。就是在白人渡来以前,他们曾经吃过敌人的肉。他们以为提起这传统来,一定能博父老的欢心的;况且讲到吃,也该可以给贪嘴的妇女们的感情高兴。他们自己,原也并非乐于做食人人种的,然而事出于不得不然。

他们的回答,是这样说,

——我们虽然只捉了两个俘虏来,但这是为了将两个都吃掉的。

看起来,俘虏来的女人是出色的女人。她二十岁。她是胖胖的。她的肉色,是带紫的黑色,腰的周围尤其肥。她为大家所中意了。人们说,

——是的,她该是很好吃的。

然而,那孩子呢,(她不过上了七岁,)就是骨头粗,手脚却又小又细。因为先前的食料太不好了罢。恰如专吃不消化东西的人们的肚子一样,她的肚子鼓起着。仅有的一点肉,也很宽松,不坚紧。

多数的人们嚷起来,

——这样的孩子,那里有可吃的地方呢!

谟泰拉司的勇士们,决不是残忍的人们,他们还在专心避开纷争的,所以用了调停的口气回答,

——没有法子,留着吧。好好的养起来,会肥也难说。

他们对于决计吃掉的孩子的母亲,他们也决不蛮来的。不用屠牛者,却使一个巫女来杀。这巫女,同时也是一位神官。他们决不将这俘虏的女子,来做野蛮的本能的牺牲,是用她来报复爱秩序和正义而强有力的诸神的。所以吃这受难者的肉的祝祭,特地不在平常日子举行,却选定了宗教上的祭日。

黑人是信仰很深的人。没有一个迟到的。祝日的早晨,便聚集在村的广场上的面包树荫下,老幼男女,和酋长的家眷一起,等候时间的到来。

规定的时间一到,执事人便分送了各人的份儿。

大家吃了。

然而这祝典,却没有大家所高兴地豫料着那样的快活。

虽是会众中最残酷的人们,一听到那做了牺牲的女子的遗体的女孩的哭喊声,也不禁有一些不舒服,好好的祭日,给一个不做美的女小孩弄糟了。愤怒的私语,从各处发出,

——那贱种,也得放了血才好!

然而许多女人们,和尝过了人生的苦辛的经验的几个男人们,却回答道,

——不要说那样的话,那娃儿,就给这样静静地放着罢。

大家都被这女孩子分了心。惯于抚慰小儿的母亲们,从自己的碟子里挟出煮透了的美味似的肉片来,送给那孩子,一面说,

——瞧这个哪,很好吃的,来,好孩子,吃罢。

可怜的孩子却谁的话都不听。她将小小的自己的指头插在眼睛里,只是哭,仿佛她要取出更多的眼泪,撒在四方上下似的。当啜泣中,她间或叫喊。她说,

——要母亲呀!给我母亲!

——对你说过,你的母亲是死掉了的。好不懂事的孩子呀。女人们回答说。

因为太不听话了,谁都生气,想呵斥她一通。无论怎么说,她总不吃。大家恼怒起来了。将一声不响的别的小孩给她看,

——看那个男孩罢,他不哭,在和大家一同吃哩。你也莫哭了,来吃呀,呵,吃起来有那么好味儿呢。

但这说谕也无益,那愚蠢的女孩只说着,

——要母亲呀!还我母亲来呀!哭得不肯歇。

一个男人来摇着女孩的肩膀,指教道,

——喂,不要和肚子闹脾气,吃罢,吃罢。

就是这样,从宴会的开头到煞尾,她总是哭。因为她发了非常的大声,到后来,竟至于大家的耳朵也痛起来了。但是虽然如此,看她哭着专慕母亲到这样,便是平日不很喜欢孤寂人物的人们,也不禁渐渐发生感动。母亲们告诉自己的孩子,说那是很好的女孩。诚然,在这女孩的悲痛里,是有着很美的一面的。

——看那女孩罢,不哭着么。那是因为她的母亲,遭了不幸的事呵。

向着不孝顺的孩子,便是

——即使我死掉了,你也不见得那么哭罢。

有些人流着泪哭了,那从小便是孤儿的男女,和经了不幸的少年时代的人们。他们说,

——我很懂得那孩子的悲痛。真的,在那孩子,这世上已经没有一个肉亲了,当那么幼小时候,当然,那是凄惨的。

其中竟还有了向部落的勇士们说出不平来的人们。

——你们为什么不就将这可怜的两个人,留在她们的故乡的呢!

多话的女人们即刻说,

——疯话呵!即使我们遭了杀掉的那个女人似的殃,你们是也以为不要紧的哩。

勇士们知道对于他们的诘责是重要的,竭力辩解道,

——这不是我们的罪过呀。今天的祝祭,是因为我们从远征回来时,大家都是很不高兴的样子,实在也不能不开这样的罪过的筵宴了。原来是想讨大家的欢喜的,但到现在,便是我们,也象你们一样的在后悔。

的确,这筵宴,是凄凉的筵宴。一个孩子的眼泪,就够在国民全体的心里,唤起道德之念来。酋长站起身,说,

——不要为这女孩哭泣了罢,因为我感于她的诚心,要收她为义女了。可怜,死了的母亲,是已经迟了,一点法子也没有!只有因为她的死,弄出来的这悲哀的事,但愿作为我们的规诫。我们永远不要忘却,人肉的筵宴是悲哀的,而不给一点高兴的事罢。

会众都垂了头,而在心底里,是各在责备自己,竟犯了那么可耻的口腹的罪过。

(一九二九年四月,《近代世界短篇小说集》(1)《奇剑及其他》所载。)

【农夫 苏联 雅各武莱夫  】

辛苦的行军生活开头了。在早晨,是什么地方用早膳,什么地方过夜,一点也不知道的。市街,人民,虚空,联队,中队,丛莽,大小行李,桥梁,尘埃,寺院,射击,大炮(依兵卒的说法,是太炮),篝火,叫唤,血,剧烈的汗气——这些一切,都云一般变幻,压着人的头。也疑心是在做梦。

有时也挨饿。以为要挨饿罢,有时也吃得要满出来,从小河里直接喝水。这四近的水——小河——非常之好,简直是眼泪似的发闪。身子一乏,任凭喝多少,也不觉得够。

互相开炮的事情是少有的。单是继续着行军。

一到晚上,兵卒因为疲劳了,就有些不高兴——大家都去寻对手,发发自己的牢骚。

“オーストリア的小子们,遇见了试试罢,咬他……”

但这也大抵因为行军的疲劳而起的。

休息到早晨,便又有了元气了。玩笑和哄笑又开头——青铜色的脸上,只有牙齿象火一般闪烁。

“ビリチコフ,喂,你,晚上做什么梦了?”

就在周围的人们,便全部——半中队全部——全都微笑着,去看ビリチコフ。但那本人,却站在篝火旁边,正做着事。从穿了没有带的绿色小衫,解着衣扣看起来,好象是一个壮健的汉子。拿了人臂膊般粗细的树枝来,喝一声“一, 二呀,三!”抵着膝盖一折,便掷入火里去。这人最以为快活的,就是烧篝火。

“昨夜呵,兄弟,我呀,是梦到希哈努易去了。就是带着儿子,在自己的屋子里走来走去……那小畜生偷眼看着我呀。那眼睛是蓝得吓人,险些要脱出来的——这究竟是什么兆头呢?”

ビリチコフ暂时住了口,蹙着脸吹火去了——火花聚着飞起,柱子似的。

“那是,一定又要得勋章了。”有人愚弄似的说。

“唔,那样的梦,有时也做的。但是,得到勋章的时候,我觉得好象是讨老婆……”

“阿唷,阿唷……要撇了现在的老婆,另讨新的了么?”

“不是呀,我自己也着了慌的。我说,我已经有老婆的。可是大家都说,不,你再讨一个罢。一个老婆固然也好,但有两个,是好到无比。这时我说了。我们是不能这么办的。我有一个老婆就尽够。因为是ロシア人,不是鞑靼人呀……这么说着,硬不听……他们也说着先前那些话,硬不听。可是到底给逼住了。早上,醒过来,我呀,自己也好笑,心里想这究竟是怎么一回事呢?但不久,中队的命令书来到了,是给ビリチコフ勋记的。不过这些事由它去罢……无论什么,好不有趣呵。”

兵卒们嘲笑他。但已经没有疲劳,也没有牢骚了。

于是集合喇叭响了起来。

——准备!

于是又是行军,新的地土,再是道路,市街,大炮,尘埃,叫唤,射击——疲劳。

然而——ビリチコフ是不怕的。他这人就是顽健。总是很恳切,爱帮忙,一面走,一面纳罕地看着四处的丛林,园圃,房屋,而且总将自己的高兴的言语,拉得曼曼长。

“有趣,呀——”

并不是说给谁的,就是发了声,长长地这么说。

但是,忽而,又讲起想到的事来,别人听着没有,是一向不管的。

“喂,兄弟,怪不怪?瞧呀,——寺院也同俄国一样;便是脸相,不也和我们一样么?只有讲话,却象满嘴含着粥或是什么似的,不大能够懂。不过,那寺院呵。——这几天,我独自去看过了,都象我们那里一样,画着十字;圣像也一样的,便是描在圆房顶上的萨拉孚神,也是白头发,大胡子哩。

“‘开尔尼谟天使’也和我们那里一样的。这样子了,大家却打仗……真奇怪呵!”

第40節

于是沉默了。用了灰色的,好事的眼,环顾着四近。忽然又象被撒上了盐一样,慢慢深思起来。

“有趣,呀……”

有一回,枝队因为追赶那退却的敌人,整天的行军。

敌人,依兵卒的用语来说,是“小子们”,似乎还在四近。他们烧过的篝火,还没有烧完。道路的灰尘上,还分明看见带钉的鞋子的印迹。有时还仿佛觉得有オーストリア兵所留下的东西的焦气味和汗气,从空中飘来。

“瞧呀,瞧呀,是小子们呀。”

到晚上,知道了“小子们”的驻处了。大约天一亮,就要开仗。

中队和联队,便如堰中之水似的集合起来;开始作成战线,好象墙壁。

ビリチコフ的中队,分布在一丛树林的近旁,这林,是用夹着白的石柱子的木栅围绕起来的。一面,有一所有着高栋的颇干净的小屋子——在这里,是中队长自己占了位置。疲劳了的兵卒们,因为可以休息了,高兴得活泼地来做事,到树林里拖了干草和小树枝来,发火是将木栅拗倒,生了火。但在并不很远,似乎是树林的那一面的处所,听得有枪声。然而在惯透了的他们,却还比不上山林看守人的听到蚊子叫。那样的事,是谁也不放在心里的。

ビリチコフ正在用锅子热粥。

在渐渐昏暗下去的静穆的空气中,弥漫着烟气。从兵卒们前去采薪的树林里,清清楚楚地传来折断小枝的声音。

远处的树林上,带绿的落日余红的天际的颜色,已经烧尽,天空昏黯——色如青玉一般。在那上面,星星已经怯怯地闪起来了。兵卒们吃完晚餐,便从小屋里,走出那联队里绰号“鲤鱼”的浓胡子的曹长来。

“喂,有谁肯放哨去么?”大家都愕然了。

“此刻不是休息时候么?况且在这样的行军之后,还要去放哨!?不行呀。脚要断哩。”

谁也不动,装着苦脸。笑影一时消失了。但总得有一个人去,是大家都很明白的。

因为很明白,所以难当的寒噤打得皮肤发冷。

曹长从这篝火走到那篝火边,就将这句话,三翻四复地问。

“有谁肯放哨去么?”

“有了,叫ビリチコフ去!”有谁低笑着,说。

“ビリチコフ?”曹长回问。“但是,ビリチコフ在那里呢?”

“叫ビリチコフ,叫ビリチコフ去!”兵卒们都嚷了起来。因为寻到推上责任去的人了,个个高兴着。

已经如此,是无论愿否,总得去的。

“ビリチコフ,在那里呀?”

“在这里呀。”

“你,去么?”

“去呀……”

“好,那么,赶快准备罢。”

不多久,一切都准备了。ビリチコフ出了树林;在平野中,从警戒线又前进了半俄里,于是渐渐没在远的昏黄中了。

右手,有一座现在已为昏暗所罩,看不见了的略高的丘。中队长就命令他前去调查,看敌军是否占据着这处所的。

ビリチコフ慢慢地前进了大约三百步,便伏在栅旁的草中。栅边有烂东西似的气味。有旧篝火的留遗的气息。心脏突突地跳了起来——非镇静不可了。已经全然是夜——一切都包在漆黑的柔软的毯子里了。

树林早已在后面。在树林中,有被篝火和群集所惊的,既不是猫头鹰,也不是角鹰,连名字也不知道的夜鸟,不安地叫着。

左手的什么地方,在远处有枪声。那边的天,是微见得帽子般的样子上,带一点红色——起火罢。ビリチコフ放开了鼻孔。有泥土和草的气息——惯熟的气息。和在故乡希哈努易,出去守夜的时候,是一样的。

在前面,远的丘冈的那边,浮着落日的临终的余光,四近是静静的,单是漆黑。“小子们”就在这些地方。也许还远。或者一不凑巧,也会就在旁边,和自己并排,象ビリチコフ一样的伏着,也说不定的。专等候和自己相遇,要来杀,装着恨恨的脸,躲在那里,也说不定的。

“记着罢,如果遇见敌人,万万不要失手呵!”中队长命令说。“一失手,不但你死,我们也要吃大亏的。”

ニキフォル·ビリチコフ自己也知道,失手,是不行的,不是杀敌,便是被杀于敌的。

旁边的什么地方,有猫头鹰在叫,黑暗似乎更浓重了。心脏跳得沉垫垫地,砰,砰,砰。

ビリチコフ几乎屏了呼吸,再往前走。木栅完了,此后是宽广的路。路的那边,堆着谷类,如墙壁一般。ビリチコフ用指头揉一揉穗子看。

“是小麦呵。”

但是,这时候,跨进一步去,田圃就象活的东西一样,气恼地嚷起来了——“不要踏我!”忽然觉得害怕。也觉得对不起。因为比践踏谷类的根更不好的事,是再没有了的。

“跟着界牌走罢”,ビリチコフ就决计在左边走。

中队长曾嘱咐他数步数。ビリチコフ数是数的。但数到七十,就一混,是出了八十步呢,还是九十步呢,一点也不清楚了。一面数步数,一面侦敌人,分心到这边来,自然也是万万办不到的花样,只好弯着身子,耸起耳朵向前走。并且寻出界牌来。道路忽然成了急坂,走进洼地了,界牌就在那洼地的尽头。潮湿的空气,从下面喷起,这里的草润着露水,是湿的。

因为湿气,还是别的原因呢,ビリチコフ骤然颤抖起来了。脊梁上森森的发冷,牙齿打得格格地响。心脏是仿佛上面放了冰块似的,停住了。ビリチコフ在心里,觉得了自己现在完全是一个人,在全世界,只一个人,在这星夜之下,在这昏暗之前,完全只是一个人。即使此刻被杀了,谁也不知道……

恐怖使他毛发直竖了。

黑暗忽而变了沉闷的东西,似乎准备着向他扑来,将他撕碎的敌人,就满满地充塞在这些处所。

ビリチコフ骤然之间,就挫了锐气。

他仿佛被从下面推翻,软软的坐在地面上。周围很寂静,黑暗毫不想动弹。树林里面,还有禽鸟在叫。远处的天空中,已不见火灾的微红了。略一镇静,ビリチコフ便竖起一膝,脱下帽子,侧着耳朵听。从不知道那里的远处,听到有钝重的轰声。

ビリチコフ将耳朵紧贴在地面上。

这是向来的农夫的习惯。

夜里一个人走路的时候,用耳朵贴着地面听起来。说是凡有路上是否有人,是远是近,并且连那数目,也可以知道的。

现在呢,地面是平稳地,钝重地在作响。

他这样地听了许多时。于是仿佛觉得远远的什么处所,散布着呻吟声,故意按捺下去似的呼吸的声音。

呜,呜,呜……

ビリチコフ发抖了,拚命紧靠着地面。

兵卒们说过,地面是每夜要哭的。

他从一直先前起,就想听一听地面的哭声,但还没有这机会。然而现在,如果静静地屏住呼吸,便分明听到那奇怪的呻吟。这究竟是怎么一回事呢?也许远处正在放大炮罢……但他不能决定一定是这样。他相信地面真在啼哭了。况且地面也怎能不哭呢?每打一回仗,基督的仆人不是总要死几千么?地面——是一切人类的生身母亲……自然觉得大家可怜相……

呜,呜,呜……

“嗡,哭着呀。”

ビリチコフ直起上身来。

“母亲在哭哩。地面在哭哩。”

他感动了,亲热地向暗中看进去。有母亲在,有大地在,自己并非只是一个人。这又怕什么呢?有爱怜自己者在,有自己的生身母亲在,有大地在。

他即刻勇壮起来,觉得周围的一切,都如希哈努易一样的亲热的东西,无论是地面,是草气息,是天空的星星。

心脏跳得很利害,使ビリチコフ想要用手来按住它。触着灰色的外套,触着扣子,触着那得到以后,从未离身的小小的若耳治勋章。

但是,辗转之间,这也平静了。于是在黑昏中,浮出中队长的脸来。

“要检查那丘冈上可有敌人的呵。”

黑暗便又成了包藏敌意的东西。ニキフォル又觉得自己是一个人,没有一些帮助。他忍住呼吸,缩了身子,并且将中队长的命令放在心上,再往前面走。恐怖又一点一点来动他的心。他两手捏着枪,沿着界牌,走下洼地去,是想从这里,暗暗走近丘边去的。他现在分明知道,友在那里,敌在那里了。周围的幽静,也可怕起来了。静到连心跳也可以听到。靴子作响,野草气恼地嚷。为了疲劳和紧张,眼睛里时时有黄金色的火星飞起。

忽而听到异样的声音。好象在那里的远地里,转动着机器一般的声音。那声音,每隔了一定的时光,规则整然的一作一辍。是什么曾经听得惯熟了的那样的声音。在ニキフォル,是极其亲热的声响,只是猜不出是什么,他便一面侧着耳朵,一面向前走。声音逐渐清楚起来了。似乎就从这丘的斜坡上的草里面发出来的。

“是什么呢?”ビリチコフ十分留心地侧着耳朵想。

平常是一定知道的声音——但是,竟不知道究竟是什么!

于是他忽而出惊,就在那里蹲下了。

“阿阿,有谁在打鼾呵!”

全身骚扰起来。

“逃罢!”

然而,好容易又站住了,好象周身浇了冷水。他紧张着全身,侧着耳朵,是的,的确是有谁在打鼾。健康的鼾声,真正老牌的农夫的鼾声。ビリチコフ野兽似的将全身紧张起来,爬近打鼾的处所去。进一步,又停一回,上两步,又住一次,一面爬,一面抖。他准备着无论什么时候都能够开枪,以及用刺刀打击。两只手象铁钳一样,紧紧地捏着枪。

黑暗中微微有一些白,就从这里,发出粗大的,喇叭似的鼾声来。是睡得熟透的人的,舒服的,引得连这边也想睡觉的鼾声。

ビリチコフ又放了心。他一直接近那睡着的人的旁边去。

是这小子。是这小子。这小子就是了。撒开了两条臂膊,仰着,歪了头。但是,究竟是什么人呢?也许是俄国兵呀。ビリチコフ的鼻子,嗅到了不惯的气味。

“是オーストリア呵。我们,是没有那样的气味的。”

他蹲在那里,开始向各处摸索。

旁边抛着枪枝和革制的背囊。

枪上是上着枪刺——开了刃的家伙——的。在夜眼里,也闪得可以看见。ビリチコフ拖过枪枝来。这么一来,就是敌人已经解除武装了。

“哼,好睡呀。有趣呵……”ビリチコフ想着,凝视那睡着的人。

是一个壮健的オーストリア兵。生着大鼻子。嘴大开着,喉咙里是简直好象在跑马车。这打鼾中,就蕴蓄着一种使ビリチコフ怜爱到微笑起来,发生了非常的同情的声响。

“乏了呀。也还是,一样的事情。”

他决不定怎么办才好,便暂时坐在睡着的人的身旁,忍住呼吸,耸着耳朵听。除远远的枪声之外,没有一点声音。

他于是慢慢地背了背囊,右手拿了オーストリア兵的枪,左手捏着自己的枪,很小心的,退回旧来的路上,走掉了。自己十分满足,狡猾地微笑着——但敌人还是在打鼾。

当站在中队长的面前时,ニキフォル几乎已经不知道自己有脚没有了。吓!也许又要得一个勋章哩。因为夺了オーストリア的步哨的军器来,实在也并不很容易呀……

但是,在中队长的面前笑,是不行的,于是紧紧地闭了嘴,一直线几乎要到耳朵边。脸上呢,却象斋戒日的煎饼一般发亮。

“查过了么?”

“唔,查了,队长,查过了。队长说的那丘上呵……”

“唔?”

“那丘上呵,是有オーストリア的小子们的。”

他的脸,是狡猾地在发亮。他挨次讲述,怎样地自己偷偷的走过去,猫头鹰怎样地叫,在什么地方遇见了敌人。

“将枪和背囊收来了。”

中队长取起枪枝来,周身看了一遍。收拾得很好,还装着子弹。

“嗡,办得好。背囊里面,查了没有。”

“不。还没有看呀。”

打开背囊来看。装着小衫裤,食料,还有小小的书。

“唔——”中队长拉长了声音说。

“但是,将那オーストリア兵,竟不能活捉了来么?”

“那是,到底,近旁就有听音呀。虽然悉悉索索,可是听得出的。要是打醒了拖他来呢,杂种,就要叫喊……”

“那倒也是。好,办得不错。”

“办妥了公事,多么高兴呵,队长。”

“但是,那小子怎么了?”

“唔?”

“又‘唔’什么呢?”军官皱了眉。“我问的是,将那小子,那敌人,怎样处置了。”

“将枪和背囊收来了。”

那我知道。我说,是将那敌人怎样办了?”

“那小子是还在那地方呵。”

“还在那地方,是知道的,问的是,你怎样地结果了那小子。”

ビリチコフ圆睁了吃惊的眼睛,凝视着军官的脸。他是微麻的顽健的汉子,而浮在脸上的幸福的光辉,是忽然淡下去了。微微地张着嘴。

“你,将他结果了的罢。”

“不。”

“什么?竟没有下手么!?”

“因为他睡着呀,队长。”

“睡着,就怎样呢,蠢才!”

军官从椅子站起,大声吆喝了。“你应该杀掉他的。看得不能捉,就应该即刻杀掉的。那小子究竟是你的什么?是亲兄弟,还是你的老子么?”

“不,那并不是。”

“那么,是什么呢?敌人不是?”

第41節

“是呀。”

“那么,为什么不将那小子结果的?”

“所以我说过了的……那小子是睡着的,队长。”

军官显出恨恨的暗的眼色,凝视着ニキフォル的脸。

“这样的木头人,没有见过……。唔?我将你交给军法会议去。”

军官从桌子上取了纸张,暂时拿在手里,但又将这抛掉了。他满脸通红。“队长还没有懂——倘不解释解释……”ビリチコフ想。

“队长,オーストリア的小子,是睡着的。打着鼾。一定是乏了的。如果没有睡着,那一定不是活捉,就是杀掉。但是,那小子睡着,还打鼾哩。好大的鼾。只要想想自己,就明白。我们乏极了,不知道有脚没有的时候,一伙的小子们在营盘里,也是这么说的。尼启希加,不要打鼾哪。”

军官牢牢地注视着ビリチコフ的脸。看眼睛,便知其人的。

操典上也这样地写着。

灰色眼珠的壮士,什么事也能做成似的脸相,在胸膛上,是闪着若耳治勋章。

忽然之间,军官的唇上浮出微笑来。并不想笑,但自然而然地笑起来了。

“唉唉,你是怎样的一个呆子呢!蠢才!你也算是兵么?你是乡下人罢了。好了,去罢!”

ビリチコフ就向右转,满心不平的走到外面去。一出小屋,便是一向的老脾气,不一定向谁,只是大声的说。

“因为那小子是睡着呀。大半就为此呀。是睡着,还在打鼾的。……”

雅各武莱夫(Alexandr Iakovlev)是在苏维埃文坛上,被称为“同路人”的群中的一人。他之所以是“同路人”,则译在这里的《农夫》,说得比什么都明白。

从毕业于彼得堡大学这一端说,他是智识分子,但他的本质,却纯是农民底,宗教底。他是禀有天分的诚实的作家。他的艺术的基调,是博爱和良心。他的作品中的农民,和毕力涅克作品中的农民的区别之处,是在那宗教底精神,直到了教会崇拜。他认农民为人类正义和良心的保持者,而且以为惟有农民,是真将全世界联结于友爱的精神的。将这见解,加以具体化者,是《农夫》。这里叙述着“人类的良心”的胜利。但要附加一句,就是他还有中篇《十月》,是显示着较前进的观念形态的。

日本的《世界社会主义文学丛书》第四篇,便是这《十月》,曾经翻了一观,所写的游移和后悔,没有一个彻底的革命者在内,用中国现在时行的批评式眼睛来看,还是不对的。至于这一篇《农夫》,那自然更甚,不但没有革命气,而且还带着十足的宗教气,托尔斯泰气,连用我那种“落伍”眼看去也很以苏维埃政权之下,竟还会容留这样的作者为奇。但我们由这短短的一篇,也可以领悟苏联所以要排斥人道主义之故,因为如此厚道,是无论在革命,在反革命,总要失败无疑,别人并不如此厚道,肯当你熟睡时,就不奉赠一枪刺。所以“非人道主义”的高唱起来,正是必然之势。但这“非人道主义”,是也如大炮一样,大家都会用的,今年上半年“革命文学”的创造社和“遵命文学”的新月社,都向“浅薄的人道主义”进攻,即明明白白证明着这事的真实。再想一想,是颇有趣味的。

A. Lunacharsky说过大略如此的话:你们要做革命文学,须先在革命的血管里流两年;但也有例外,如“绥拉比翁的兄弟们”,就虽然流过了,却仍然显着白痴的微笑。这“绥拉比翁的兄弟们”,是十月革命后墨斯科的文学者团体的名目,作者正是其中的主要的一人。试看他所写的ビリチコフ,善良,简单,坚执,厚重,蠢笨,然而诚实,象一匹象,或一个熊,令人生气,而无可奈何。确也无怪Lunacharsky要看得顶上冒火。但我想,要“克服”这一类,也只要克服者一样诚实,也如象,也如熊,这就够了。倘只满口“战略”“战略”,弄些狐狸似的小狡狯,那却不行,因为文艺究竟不同政治,小政客手腕是无用的。

(一九二九年九月,《近代世界短篇小说集》(2)

《在沙漠上及其他》所载。)

【附】

【星花 】

B. 拉甫列涅夫 作  靖华 译

当大齐山双峰上的晨天,发出蓝玉一般的曙色的时候,当淡玫瑰色的晨曦,在蓝玉般的天上浮动的时候,齐山就成了黑蓝色的分明的,巍峨的兀立在天鹅绒般的静寂的深谷上。

阵阵的冰冷的寒风,在花园的带着灰色蓓蕾的瘦枝上,在墙头上的带着灰尘的荒草上,在溅溅的冰冷的红石河床的齐山上吹着。

龙吟虎啸的寒风,捋过那一摇三摆的木桥,掊击到茶社的低矮的院墙上。

白杨也抖擞着,栏干上搭的花地毡的穗子,也被吹了起来,带着黑绿胡须的茶社主人石马梅,睁开了吃辣椒吃成了的烂眼。

将带着皱皮长着毛的胸前的破袍子紧紧的掩了掩。由袍子的破绽里露着烂棉絮。

用铁火箸子把炉子里将熄的炭火拨了拨。

黎明前的寒风,分外的刺骨而恶意了。阿拉郝[14]送来这一阵的寒风,使那些老骨头们觉得那在齐山双峰上居住的死神将近了。

但阿拉郝总是慈悲的,当他还没有要出那冰寒的严威的时候,山脊上的白雪,已经闪出了一片光艳夺目的光辉,山脊上已经燃起了一轮庄严的血日。

雄鸡高鸣着,薄雾在深谷的清泉上浮动着。

已经是残冬腊尽的时候了。

石马梅面朝太阳,坐在小地毡上深深的拜着,干瘦的白唇微动着,念着经。

“梅吉喀!”

“干吗?”

“把马鞍子披上!弄草料去!”

“马上就去!”

梅吉喀打着呵欠,由一间小屋里出来。

戴着压平了的军帽,灰色的捲发,由军帽下露出来,到得那晒得漆黑的脸上。

他的眼睛闪着德尼浦江上春潮一般的光辉,他的嘴唇是丰满的,外套紧紧的箍在他那健壮的花刚石般的脊背上,把外套后边的衣缝都挣开来。

梅吉喀眯缝着眼睛去到拴马场里吃得饱腾腾的马跟前。

他现在二十三岁,是白寺附近的人,都叫他デメト·李德文。

在家的时候,老妈子们都这样称呼他,有时称梅陀罗,在晚会上的时候,一般姑娘们也都是这样称呼他。

两年来他已经把梅陀罗这名字忘掉了,现在都叫他的官名:骑兵九团二连红军士兵李德文。

现在环绕他的,不是故乡的旷野,不是遍地芳草的故乡的沃壤,而是终年积雪的石山,顺石河床奔流的山水,和默然不语,居心莫测,操着异样语言的人民。

帖木儿故国的山河,亚细亚的中心,四通八达的通衢,从亚力山大的铁军到史可伯列夫的亚普舍伦半岛的健儿,古今来不知多少英雄的枯骨,都掩埋在这热灼的黑沙漠里。

但是デメト不想这些。

他的事情很简单。

马,枪,操练和有时在山上剿匪时剽悍英勇的小战。

デメト牵了两匹马,捆着捆肚,很和蔼的马肚子上拍着。

“呵——呵,别淘气!……好好站着!……别动!……走的时候你再跑。”

马统统披好了。デメト骑了一匹,另一匹马上骑着一位笨鳖似的郭万秋。

马就地即飞驰起来,黄白的灰球,随着马蹄在镇里街上飞扬着。

市场里杂货的颜色,一直映入到眼帘里。今天礼拜四,是逢集的日子,四乡来赶集的人非常的多。

雅得仁的集镇是很大的。从人丛中挤着非常的难。

两匹马到这里慢慢的走着,那五光十色的货物,把デメト的眼睛都映花了。

这家铺子里摆着地毡,绸缎,刺绣,铜器,金器,银器,锦绣灿烂的酒白帽[15]和柳条布的花长衫。

铺子里边的深处,是半明半暗的。阳光好似箭头一般,由屋顶的缝隙里射进来,落到那贵重的毛毡上,家中自染的毛织物,在那半明半暗的光线里,也映着鲜血一般的红斑。

门限上蹲着一位穿着绣花撒鞋,头上裹着比羽毛还轻的印度绸的白头巾,长着黑胡子的人。

刮了脸的肿胀的双颊上发着黑青色。眼睛半睁半闭着,安静恬淡中含着一种不可言状的神气。这样的眼睛,デメト无论在奥利尚,无论在白寺,无论在法司都,无论在畿辅,就是在那繁华的莫斯科也没有看见过的。

望着这样的眼睛好象望着魔渊似的,真真有点可怕而感到不快,デメト到这里已经两年了,但是无论如何总是看不惯。

就是死人的眼里,也表现着这种令俄国人不能明白的秘密。

有一次デメト看见了一个巴斯马其[16]的头目。

他是在山中的羊肠鸟道上被红军的子弹打倒的。他躺在路旁胡桃树下的草地上,头枕着手,袍子在隆起的胸前敞开着,白牙咬着下嘴唇,睁得牛大的眼睛瞪着面前的胡桃树根。

在他那已经幪上一层浊膜的黑睛珠上,也是带着那样安静的,无所不晓的胜利的秘密。

デメト无论如何是不能明白这个的。

集上收摊了。

窄小的街道,蛇一般的在很高的围墙间蜿蜒着。

谁知道是谁把它们这样修的呢,但是到处都是如此的,由小村镇起,一直到汗京义斯克·马拉坎德,好象蛇一般的到处都蜿蜒着小街道,有的向下蜿蜒着,横断在水渠里,有的蠕行到山顶上,有的横断在墙跟前,深入到围墙里,有的穿过了弓形的牌楼,自己也不知道蜿蜒到什么地方去。

土围墙好似狱墙似的永远的死寂,空虚,无生气。

街上没有窗子,没有房子,只有带着雕刻和打木虫蚀成花纹的深入到围墙内的木门。

他们不爱外人的眼睛。

外人的眼睛都是邪恶的眼睛,坚厚的土围墙,隔绝了外人的眼睛,保护着这三千年的安乐窝。

デメト与郭万秋懒洋洋的骑着马在街上走。

デメト卷着烟草,吸着,喷着蓝烟。

“哦,他妈的,这些鬼地方!”

“什么?”郭万秋问道。

“什么,到此地两年了,好象钻在墓坑里一样。所见的只有灰尘和围墙!多么热的……而人民……”

デメト默然不语,向前望着。

一个四不像的灰蓝色的东西,带着四方形的黑顶,在春光里由围墙的转角处冒出来浮到路上。

望见了骑马的人,就紧紧的贴在墙上了。

当红军士兵走跟前经过的时候,它完全贴到墙上去了,只有身子在隔着衣服抖颤着,只有那睁大的,不动一动的眼里的黑睛珠,隔着琴白特[17]的黑网迸着惊惧的火星。

デメト恶恨恨的唾了一口。

“瞧见了吗?……你看这像人形吗?可以说,我们家里的女人虽说不像人,但总还是女人。”デメト不能够再明了的表现自己的意思,但郭万秋同情的点着头。“可是这是什么呢?木头柱子不是木头柱子,布袋不像布袋,脸上好象监狱的铁丝网一样罩着,不叫人看见,你要同她说一句话,就会把她骇的屁滚屎流,立刻她的鬼男人就要拿刀子来戳你,你要跑的慢一步,你的肠子都会叫他挖了出来的。”

“不开通,”郭万秋懒洋洋的说:“他们识字的人太少,识字的人,也不过只会写个祈祷文。”

街尽了,已经发青了的两行杨柳中间的道路也宽旷了。

巍峨大齐山上的积雪,隔着这路旁的杨柳,闪着藤色,蓝色,淡红色的光辉。

路旁水渠的水溅溅的流着。

春日的小鸟,在杨柳枝上宛转的歌唱着。

在路的转角处,有一个草场,那里堆着去年的苜蓿。

都下了马,把马拴到路旁的木桩上,就去弄干草去了。

这里的巨绅就是亚布杜·ガンメル。

雅得仁镇上最大最富的商铺,就是亚布杜·ガンメル的商铺,就是デメト和郭万秋由跟前经过的时候,屋子里边的深处,由箭头一般的射进去的阳光,地毡上映着鲜血似的红斑的铺子。

ガンメル是一个巨绅,而且是一个圣地参拜者。青年的时候,同其余的参拜者结队去参拜圣地麦加。

从那时起,头上就裹着头巾,作自己尊严的标志。

当他回到故乡雅得仁那天的时候,这青年参拜者的父亲,请了些乡里极负胜望的人物,去赴他那豪奢的宴会。

波罗饭在锅里烹调的响着,放着琥珀一般的蒸气。盘子里满装着食品。

第42節

发着绿黄宝石色的布哈尔无核的葡萄干,加塔古甘和加尔孙的蜜团,微酸的红玉色的石榴子,希腊的胡桃,葡萄的,胡桃的,白的,黄的,玫瑰色的蜜,透亮的香瓜,砂糖浸了的西瓜,冰糖,用彩色纸包着的莫斯科的果子糖,盘内的茵沙尔得[18]泛着浓厚的雪白的油洙。

ガンメル整齐严肃的坐到父亲的右旁的上座上,这天他亲自来款待宾客,席上每个宾客敬他的饮食他都吃了喝了。

他傲然的,慢慢的在席间叙述着他的游历,叙述着那用土耳其玉镶饰的教堂的圆顶,和用黄金铺着街道的城市,叙述着叶芙拉特谷的玫瑰园,在那里的树枝上歌着的带着青玉色尾巴的金刚鸟,在山洞里住着的有长着翅膀的美丽的仙女。

叙述着死的旷野,在那里阿拉郝的愤火散了整千整万的异教者,到了夜里的时候,土狼把死人的死尸抓出来到地狱去,而狗头铁身的野人袭击着来往的旅队。

来宾都大吃大嚼着波罗饭,拌着嘴,都争先恐后的角逐着那甘美的一脔,象是都很注意的听着,点着头,惊异的插着嘴。

“难道吗?……阿拉郝万能呵!”

不久ガンメル的父亲就归天了,他就成了雅得仁附近最肥美的土地和雅得仁镇上最富的一家商铺的所有者。

他的生活质朴而且正经。不把父亲的遗产虚掷到吃喝嫖赌上,他把钱统统积蓄着。

ガンメル已经讨了两个老婆了,生得微黑的,肉桂色的小兽,结实得好似胡桃一般,这热烘烘的夜间的果子,正合《可兰经》上所说的“最强壮的种子,落到了未曾开发的处女地里。”

ガンメル的心与手,在雅得仁镇上是铁硬的,数百佃农和佣工,都在他那产米和棉花最丰饶的田地里耕种着,都在他那满枝上的果实结的压得树枝都着了地的果园里作着工。

当蓝眼睛的俄国人在城里起了革命,把沙皇推倒的时候,后来,秋天在炮火连天中,穷光蛋夺取了政权向富而有力的人们宣战的时候,佃农和佣工们都由ガンメル的田地里跑了,可怕的穿着皮短衣的,只承认自己腰里挂着的手枪匣中的东西为正义的人们,把ガンメル的田地夺去的时候,——他就默然的隐忍着一切的不幸。

他剩下的只有花园与商铺。同这点家产过着也绰有余裕的。

人生是由阿拉郝支配的,如果阿拉郝要夺取了他的田地——这是命该如此的。ガンメル不信穷光蛋们的统治能长久的。

他不断的同慕拉[19]在自己铺子里闲坐,有一天老慕拉给他说了一个很聪明的故事:

“一个糊涂的耗子,住在帖木儿的京城里,这耗子,猫已经居心想吃它了。耗子虽然糊涂,但很敏捷而诡诈。猫子于是就反复的思索着怎么才能吃了它。有一天耗子在仓库里把头由洞里往外一伸,就望见猫子坐在粮食口袋上,穿着锦绣的袍子,头上裹着头巾。耗子就奇怪起来。

“‘呵呀!’耗子说:‘我敬爱的猫子,我贤慧的亲侄女,告诉我吧,你穿这一身是什么意思呢?’猫子把胡子耸了耸,把眼睛向天上望着。

“‘我现在成了斋公了,’猫子说:‘马上就到寺里去念经呢。我已经是不能再吃肉了,你可以告诉一切的耗子去,说我从今以后再不遭它们了。’

“糊涂的耗子高兴疯了,就到仓里跳起舞来大叫着:‘万岁!万岁!自由万岁!’跳着跃到猫跟前。一转瞬间——耗子的骨头在猫嘴里嚼的乱响着。

“我说——正道人会悟开的。”

ガンメル悟开了。

当穿皮短衣的人们由城市来到此地,招集些群众在集市的旷场上开露天大会的时候,那激烈的锋利的关于斗争,报复,和未来的幸福的言辞,激动着空气的时候,ガンメル坐在铺子里,目不转睛的望着演说者和群众,脸上挂着若隐若现的微笑。

“转瞬间……正道人会悟开的……”

山那边就是阿富汗的君主,英国人和其余的君主帮助他一些大炮,枪支,军官,勇敢的驸马安畏尔在布哈尔山上招集义军。

耗子跳着,耗子呼着:“自由万岁!”

转瞬间——耗子没有了。

ガンメル心平气静,只由那不幸的经历,额上褶起了几道皱纹,从此他就和家中人以多言为戒。

肃然的由集上回来,同自己的妻们不说多余的话,在家里当听见女人或孩子们有一点声音的时候,就把眉头一皱。

立时一切都寂然了。当回答妻们问安的时候,ガンメル老是一句话:

“少说话!……女人的舌头就是路上的钟,无论什么风都会把它刮响的……”

ガンメル去年讨了第三个老婆。

头两个都讨厌了;都长老了,脸上有皱纹了,腰也弯得好象弯腰树一般。

邻居贾利慕的女儿マリア长大了。

当她做小姑娘在集上跑的时候,ガンメル就看见她那童女的面孔上两只圆圆的眼睛和弯弯的眉毛;石榴一般的嘴唇和玫瑰色的双颊。

去年春天マリア已经到了成熟期了,黑色的面幕已经罩到她脸上。

这么一来,她即刻就成了神秘的他的意中人了。

ガンメル打发了媒人。穷而倒霉的贾利慕因为同雅得仁镇上最富的巨绅做亲,几乎喜欢得疯起来。赶快的商定了聘金,マリア就到ガンメル家里了。

那时ガンメル三十六岁,她十三岁。

夜里主人而兼丈夫的ガンメル,来到那战兢恐惧的妻跟前。

マリア长久的哭着,前两妻温存的安慰着她,坐到她旁边抚摩着她那被牙齿咬得青紫的肩膀。

她们不知道嫉妒,在这个国里就没有嫉妒,眼泪在她们那褶成皱纹的双颊上滚着,也许她们是回想起当年她们初来到ガンメル家里做妻的时候,夜里所受的这样的楚痛。

她们从前也是这样的痛哭着,就这样的被征服了。

但是没有把マリア征服下去。

虽然ガンメル每夜都来,每夜マリア的火热的身子都燃烧着——但她总是坚决的狂愤的憎恨着ガンメル。

但ガンメル除了她的可以用铁指拧,可以摸,可以揉,可以咬,可以抱,可以压到自己的身子底下发泄性欲的她的肉身子以外,什么也不要的。

正午的时候,デメト由营房出来到街上去。

“上那去?”站在大门口的班长问他道。

“到街上去的。买葡萄干和蜜饯胡桃去。”

“难道你发了财吗?”

“昨天由塔城寄来一点钱。”

“怎么呢,请客吧?”

“你说怎么,班长同志。请喝茶吧。”

“呵,去呵!”

デメト口中啸着到街上去了,走过去皮靴将路上的灰尘都带了起来。

走过了集上的旷场,就转向ガンメル的铺子去。

除了蜜饯胡桃和葡萄干,他还想买一顶绣着金花的酒白帽,这帽子他久已看好了的。

“当兵当满的时候,回到奥利尚戴着这帽子叫姑娘们瞧一瞧,真不亚于神父们戴的脑顶帽。”デメト想着。

ガンメル好象平日一样,坐在铺子里吸着烟。

デメト走到跟前。

“好吧,掌柜的。怎么样?”

ガンメル慢腾腾的喷了一口烟。

“你好吧,老总。”

“你瞧,我想买一顶酒白帽。”

“你想打扮漂亮些吗?想讨老婆的吗?”

“掌柜的,那里的话。在此地那能找来女人呢?难道去同老绵羊结婚吗?”

“呵呀!这样漂亮的老总,无论那一个美人都会跟你的。”

“好吧:……你给我说合吧,现在拿帽子来瞧一瞧。”

“你想要那样的?”

“要最好最漂亮的。”

ガンメル由背后什么地方取出一顶绣着金线,绿线,橘色线等的布哈尔花缎的酒白帽,金线闪出的光辉,把デメト的眼睛都映花了。

“顶呱呱的,”ガンメル说着,几乎笑了出来。

デメト把酒白帽嵌到头上,由衣兜里掏出一个破镜片照着。得意而骄傲的微笑着。

“真漂亮!活像一个土匪头!”

ガンメル点着头。

“唔,掌柜的,你说吧,多少钱?说老实价。”

“两万五千卢布,”ガンメル回答着,拈着胡子。

“你说那的话?……两万五。一万卢布,再多了不出。”

ガンメル把手一伸,由デメト头上把酒白帽取过来,默然的放到背后的货架上。

“你老实说要多少钱?你这鬼家伙。”デメト气起来。

“我已经说过了。”

“你说了吗!……你说那算瞎扯!——给你一万三,别再想多要。”

“一万三?你还的太少了。亚布杜·ガンメル有老婆,要吃饭呢……”

“吃,谁都要吃呢,”デメト带着教训的口气:“你想要多少钱,一下子说出来。”

“老总,两万三卖给你。”

“去你的吧!……你自己也不值那两万三!”

デメト扭过身子,出了铺子走了。

“老总!……老总!……两万!……”

“一万五!多一个大也不出……”

“两万!”

“一万五!”

太阳蒸晒着。デメト扭回头走了五次,每次ガンメル都把他喊回来。最后デメト出了一万七把酒白帽买到手里了。

他把头上的英雄帽褶起来,装到兜里,把酒白帽嵌在后脑上。

“你为什么这样戴?……我们人不这样戴呢。往前戴一戴吧。”

“得了,这样也不错。再见吧,掌柜的。”

デメト去买葡萄干去了。

ガンメル的视线在后边送着他,心里默想着。

花园和葡萄园到忙的时候了。ガンメル一个人干不过来,老婆们无力,孩子们太小。

正需用着一两个有力的做活人。

可是,要是你雇两个工人的话,即刻就是叫你上税,工会和县苏维埃也连二赶三的给你弄得不快活。这位老总是少壮有力的人。你瞧他的脊背!

デメト弯下腰买蜜饯胡桃,ガンメル满心满意的望着他那个把衣服都挣得无褶的脊背。

请他园子里去做活,给他说果子熟的时候请他来吃果子。俄国的老总们都挨饿的,只是喝稀饭,将来请他吃水果,他一定会来园里做活的。

デメト买了好吃的东西,付了钱,转回头来走着,手里拿着装着葡萄干和蜜饯的纸袋。

“喂,喂!……老总!”ガンメル打着招呼。

“什么?”

“请来一下……来叙一叙。”

“唔,有什么鬼话可叙呢?”

“请来一下吧。我有花园,有葡萄。春天到了,葡萄枝得割一割呢,葡萄架得搭一搭呢……你想到园里做活吗……将来水果长熟了,请你来吃果子不要钱……樱桃,橘子,梨,苹果,葡萄。还可以带些送朋友。”

デメト想了一下。

“那么……我,掌柜的,我忙得很。你大概知道,我们当兵的事情多得很。枪,马,还有什么宪法,什么关于资本家捣鬼等政治功课……”

什么政治功课,什么资本家捣鬼,ガンメル都没有明白,只是平心静气的说:

“白天忙,——晚上闲呢。要不了多大工夫。来一两点钟就可帮不少的忙。再找一个朋友来。两个人干。水果好吃得很。”

デメト半闭着眼睛。

他回想起了奥利尚,回想起了故乡的静寞的河流,回想起了开得满树的樱桃园和晚会上的嘹亮的歌声,想到此地,那整年在黑壤里耕种的庄稼汉的心,就皱缩起来,狠狠的抖跳了一下。

他起了一种不可忍受的心情,想去挖地,想去用手抓那发着土气的土块,就是异乡的黄土壤也好,总想去用那快利的锄深深的去掘那温顺的准备着播种的土地。

他笑了一声,带着幻想的神情说:

“好!……想一想再说!”

“明天给回信吧。”

“好吧!”

喝过了茶,吃了蜜饯胡桃以后,デメト躺到床上,幻想着故乡的奥利尚,幻想着草原,幻想着田间。

给马倒草料的郭万秋走到他跟前。

“デメト,你想什么心思呢?”

デメト在床上翻了一下身子。

“我告诉你,老郭。刚才我在街上买酒白帽的时候,那掌柜的请我到他园子里做活。在那里割葡萄枝,挖地,搭葡萄架。他说——带一个朋友一块来,晚上做一两点钟,将来水果长熟的时候,白吃不讨钱。你想怎么样?我老想下地里去做活。”

他的嘴唇上露着不好意思的怯懦的微笑。

郭万秋的手掌在膝盖上拍了一下,不紧不慢的答道:

第43節

“怎样呢!……一定很不错的!……我赞成……不过连长怎么样?”

“什么?我们去请求一下好了!反正一个样——晚上总是白坐着的。没有书看;与其在家里闲躺着,不如去做点活。”

“好吧!”

“我们现在就去找连长吧。我真是等不得!……”

デメト话没说到底。

从今年春天起,他就愁闷起来,他自己也不知道这愁闷是因何而起,总觉得有一种奇怪的淡漠和发懒。

不断的坐在营房的土堡上,用那无精打采的眼睛望着天,望着山,望着河,望着山谷。

他怎样了呢——自己也不明白。

或者是因为他怀想着故乡的静寂的田野,怀想着樱桃树下的茅舍,或者是怀想着那拉着手琴唱着歌的欢乐的游玩,或者是怀想着那长着可爱的眼睛,头发髻上结着彩色的缎条,带着歌喉的笑声,紧紧的,紧紧的贴着自己身子的姑娘。

他总觉得若有所失……

“唔,找连长去吧!”

他们由营房出来,去到茶社里,在茶社的二层楼上的像燕雀在笼子似的住着连长希同志。

希同志坐在茶社二楼的露台上,削着细棍做鹌鹑笼,那鹌鹑是茶社的主人送给他的。

他听了デメト和郭万秋的请求以后,即时允许了。

“弟兄们,不过出去别闹事!好好守规矩,别得罪掌柜的。你们自己知道——人民都不是自家人,他们有他们的风俗,我们应当尊重这些。入乡随乡,别照自己的来。下给前线上的命令看了吗?”

“我们为什么得罪他呢,”デメト答道:“连长同志,我们明白的。我们很想到地里去做活。”

“好……去吧。果子熟的时候别忘了我。”

“谢谢你,连长同志!”

“告诉班长,就说我允许你们的,别叫他留难你们。”

回到营房里,郭万秋望着微晴的天空,伸了一个懒腰说:

“到园子里去真好得很!”

第二天中饭后,デメト和郭万秋到ガンメル家里去了。

主人在街上迎着,把他们引到客室里,那里锅煮着波罗饭,放着好吃的东西。

“坐下吧,老总……吃一点。”

“谢谢……刚偏过。”

“请坐,请坐。不许推辞——不然主人都要见怪的。”

喝过了营里的公家汤以后,这肥美的波罗饭分外的有味而可口。

郭万秋吃了三碗饭,饱饱的喝了一顿茶。

喝了茶以后,ガンメル把他们引到园子里,把锄给他们,并且教他们到树周围如何的掘土。

“现在挖坑,后来割树枝,搭葡萄架。”

在花园的另一角里有三个女人在那里掘土,女人从头到脚都被大衫和琴白特遮蔽着。

ガンメル自己也拿起锄,工作就沸腾起来了。

郭万秋好奇的向女人作工的那角里望了一眼。

“掌柜的,掌柜的!”

“什么?”

“你说为什么你们女人们出来都弄个狗笼嘴戴上?”

ガンメル继续的掘着地,带理不理的抡了几句:

“法规……教主说过……女人不应分叫外人看见。免生邪心。”

郭万秋笑起来。

“是的……那里会生邪心?谁能辨出那口袋里装的什么货?或许是女人还像个女人,年青的;或许是一个老妖精,夜间要看见她简直要吓得屁滚屎流呢。”

デメト由树后说:

“因为这他们才想的好调门呢,他们的女人当过了二十岁的时候,——你瞧,都成了活妖怪。都干了,有皱纹了,好象炙了的苹果一样。因此才把她们遮盖起来叫去嫁人。隔着笼嘴丈夫辨不出是什么样的脸,娶过了门——就活忍受吧。”

都默然了。一阵轻风由山上送来,围墙跟前的白杨迎风飒飒的响着。

早春的甲虫嗡嗡的在树间飞着。

暮色上来的时候就收工了。

ガンメル把他们送到街上,握了手。

“活做的好。多谢得很,老总!”

“再见吧,掌柜的。”

“再见。请明天再来吧。”

爽凉的深青的夜幕升起了。

ガンメル由清真寺做礼拜回来,去到マリア房里。

她安然的盖着被子熟睡着,ガンメル脱了衣服,鞋子,钻到被窝里。他推着她,催醒着她,把嘴唇贴到她那温润的嘴唇上。

マリア温顺的,不得已的躺着听男人的摆布。

今天比平时更其外气而冷淡。

“你怎么躺着好象木头柱子一样呢?”ガンメル恶恨恨的低声说着,咬着她的奶子。

“我今天病了。”她低声答道。

“你怎么了?”

“不晓得……身上发烧,出什么疹子。”

ガンメル怕起来。想着她或许发什么瘟疹子,可以传染上他。于是就野头野脑的用膝盖在她肚子上蹴了一下。

“为什么不早些告诉我呢?”

“我没来得及……”

ガンメル由被窝里爬出来,穿上鞋子。

老婆的身子把他激怒了。她没有满足他的欲望,站着迟疑了一下,走过了小院子,到旧老婆宰拉房里去了。

他已经三年没有到她房里去了,她吃了一惊,当她还没来得及醒的时候,就觉着自己已经被人抱住了。

マリア当丈夫走了以后,胳膊支到头下,隔着门望着那四四方方的一块碧蓝的夜天。北极星好似金水珠一般在上边微颤着。

マリア的眼睛死死的钉着那灿烂的星光,忽然间,她呵哈了一声,就把头抬起用肘支着。那星光灿烂的地方浮动着一个带着俄国帽子的人头。红星帽子下边露着灰色的发环一付水溜溜的快活的仁善的眼睛。

北极星继续的在帽子上发着光辉,但成了鲜明的,五支光的,大红的红星。

マリア惊惧的闭起眼睛,觉得窒息的,频繁的,有力的心脏的跳动。

身上起了一阵温柔的懒洋洋的抖颤,仿佛谁用那温柔的抚爱的情人的手,触着了她的弹性的温暖的身子。

她呻吟着,把手指的关节活动了一下,身子伸向那灿烂的北极星的金水珠。

嘴里在不住的微语着可爱的动人的名子。

后来,她向后一躺,伸了一个幸福的疲惫的懒腰,侧着身子,屈成一团,就入到梦乡了。

院中雄鸡已经司晨了。

デメト与郭万秋在园里做活已经是第二个礼拜了。

树统统都剪好了。洼也挖好了,树干的下部都用油和石灰汁涂好了。

还得要割葡萄枝,将葡萄枝捆到葡萄架上去。

发大的半开的樱桃花苞上已经涨着淡红的颜色。

收工的时候ガンメル放下锄说:

“明天阿拉郝给一个好天,樱桃开起来,是很好看的。”

早晨全园都汛滥着柔媚的淡红的轻浮的荡漾的花浪。

这日正是礼拜。デメト一个人从早晨就来了。郭万秋到三哩远的当俘虏的养蜂的匈牙利人那里弄蜂蜜去了。

ガンメル已经在做着活,带着欢迎的样子给デメト点着头。

他已经干了便宜事。俄国的士兵是不要钱的很好的做活人。

“谢谢!……不久我们就可以吃水果了。拿起锄吧,デメト!”

デメト跟着主人挖着水渠。

女人们在葡萄树上乱忙着。

マリア尽力的用刀子割着葡萄枝,眼睛时时瞟着那微扁的デメト的英雄帽上闪着的红星。

突然间她觉着激烈的血潮涌到头上来。

她起来,抓住葡萄架杆子,发昏了的眼睛向园中环顾了一下。

淡红的花浪到处都沸腾了,忽然间她觉得在那久已熟识的平常的树枝上开的不是花,而是大红的红星。

全园都怒放着眩目的大红的星花。

マリア踉跄了一下,刀子落到地下了。

ガンメル向她喊了一声什么。デメト抬起头来。

マリア没有回答。

ガンメル走到老婆跟前,又粗又野的命令的喊着。她仍然不答。

那时ガンメル抬起手用力向她一撞。她呵哈了一声,倒到葡萄架杆子上,杆子被压倒了,她仰天倒在地下。

ガンメル骂起来。

デメト走上去护她。

“掌柜的,为什么打呢?你没瞧见——女人在太阳下边晒晕了。没精神的。”

“女人应当有精神的。女人有病——该驱逐出去。女人是混蛋!”

“为什么这样?女人是助手,应当要怜惜女人,尊敬女人。应当把她扶起来,喷点水。”

デメト忘了他是在雅得仁,不是在奥利尚,用英雄帽到水渠里舀了一帽子水,去到躺着的人跟前。

ガンメル抓住他手。

“不行,老总!教主没有吩咐……请把水倒了吧。叫女人们来扶她。”

他向他的妻们喊了一声,她们都跑来把マリア扶起来,架到家里。

デメト把手挣脱了,带着轻视的神气望着ガンメル的眼。

“你真是混帐人,我叫你瞧一瞧呢。谁要不尊重女人,那他就比狗还坏!女人生了我们,受了苦,一辈子都为我们做活。难道可以轻视女人吗?”

ガンメル耸了耸肩。

过了两天都割着葡萄枝。

男人们在很长的葡萄树行的一端做着活,女人们在另一端做着。

デメト在树行间走着,隔着葡萄枝望见那一端闪着的长衫,望见那用心用意做着活的小手。

“那个大概就是昨天晕倒的,”他想着。

デメト到现在还不能将她们辨清楚。身干一个样,长衫一个样,都戴着狗笼嘴。谁晓得那是那呢?

树行尽了。

デメト割着干枝的头端,举目一望,甚觉茫然。隔着疏枝望见一副两颊绯红的可爱的惊人的美丽的容颜。

一副水溜溜的扁桃眼好似太阳一般的发着光辉,丰满的美丽的半月形的双唇上挂着微笑。

伸着纤手,火焰一般的抖颤着,到那强壮的兽蹄似的デメト的手上触了一下。

后来把手指贴到嘴唇上,放下琴白特,这一幕就完了。

デメト站起来,把刀子插到葡萄架的杆子上,不动一动的,惊愕的欣喜的久站着。

“怎么不做活呢,老总?”走到他跟前的ガンメル问着他。

デメト默然了一会。

“有点累了……太阳晒得太利害。好!”

“太阳是好的。太阳是阿拉郝做的。太阳——不分善人恶人一齐照。”

デメト出其不意的向主人望了一眼。

“是的,连你这老鬼也照呢……你奶奶的。你这胖鬼讨这样花一般的老婆。最好不照你这狗仔子。”他心里想着。

后来拿起刀子,恶恨恨的,聚精会神的默然的一直做到收工的时候。

这夜在营房里的硬床上,在同志们的甜睡中和气闷的暑热中,デメト好久都不能入睡,总想着那惊人的面容。

“这样一朵纤弱的,好看的小花。好象雁来红一样。嫁了这样一个鬼东西。大概打的怪可怜的。”

那美丽的面容招唤的可爱的给他微笑着。

工作快到完结的时候了。

再有一天——葡萄园的活就做完了。

デメト对园子满怀着惜别的心情。

他割着葡萄枝,时时向女人的那一端偷看着,——能不能再露一下那难忘的微笑。

但在葡萄园里移动着可笑的口袋,面上盖着极密的琴白特,隔着它什么也辨不出来的。

已经是将近黄昏的时候了,デメト到葡萄园头坐下休息,卷着烟草。

当擦洋火的时候,觉得肩上有种轻微的接触,并望见伸着的手。他快忙的转过身来,但琴白特没有揭开。

只听得低微的耳语,可笑的错误的异地的语言。

“弗作声,老总……夜……鸡啼……墙头……你知道?”她赶快的用手指向通到荒原的围墙的破墙头指着。

“我等你。等老总……ガンメル亚拉马日沙一旦[20]……老总好!……マリア爱老总。”

手由肩上取去了,マリア藏起了。

デメト连呵呵一声都没来得及。

向她后边望着,摇着头。

“真是难题!一定是找我来幽会的。真好看的女人!她可别跳到坑里去!这次一定没有好下场。刀子往你肚子一戮——就完了。”

他掷了烟卷,起来。

郭万秋走来了,ガンメル在他后边跟着。

第44節

“呵,活做完了,掌柜的!”

“谢谢。老总们真好,真是会做活的人。来吃果子吧。来当客吧。”

ガンメル给红军士兵们握了手,送到门外。

血红的太阳吞没了旷野的辽远的白杨的树顶。

デメト不作声的走着,望着地在想心思。

“デメト,你又在想心思吗?”

デメト抬起头来,耸了耸肩。

“你瞧,这是多难的事。掌柜的女人请我半夜去幽会的。”

郭万秋好象树盘似的站在当路上,这出其不意的奇事使他口吃起来。

“不撒谎吧?怎么回事?”

“就这么回事。”デメト短简的答着他。

“这么这么……你怎么呢?”

“我自己也不知道究竟呢,怕什么?”

“同他们来往是危险的!他们是凶恶的人!不要头了可以去。”

“那我不怕。或许我把他们的头拔下来的。不过别把她弄到火坑里去。叫我去就去,因为她很请求我的。那黑鬼大概她讨厌了。女人需要安慰的。”

“怎么呢,祝你们的好事成功吧。”

“郭万秋,你别开玩笑,因为这不是什么儿戏。我觉得那女人在那绅士手里,好似畜牲一样活受罪。她要人的话去安慰呢,去同她谈知心话呢。”

“你怎么同她谈呢?她不会说俄国话,你不会说她们的话。”

デメト耸了耸肩,啸着,仿佛想逐去那无益的思想,说:

“要是爱,那就用不着说。心心相……”

晚饭后デメト躺到床上,吸了烟,决然的起来到排长那里去了。

“鲁肯同志,请把手枪今天借我用一下吧。”

“你要它干什么呢?”

“今天此地一位先生请我去看他们结婚的。请让我去玩一玩,手枪带着可以防什么意外,因为他住在镇外花园里,夜间回来方便些。”

“如果要发生什么事情呢?”

“要是有手枪,什么事情都不会发生的。会发生什么事情呢,附近没有土匪,人民都是很和平的。”

“唔,拿去吧!”

排长由手枪匣里把手枪掏出来,给デメト。

デメト把手枪接到手里,看了看,装在兜里。

十一点钟的时候,他由营房出来,顺街上走着。

薄雾起了,很大的,倾斜的,暗淡的,将没的月亮在薄雾里抖颤而浮动着。

到会期还有两小时。

デメト下了狭街道的斜坡,走到桥跟前,过了齐河,坐在岸边的一个大平石上。

溅溅的河流,沸腾着冰寒的水花,水花激到桥柱上,飞溅到空中,空气中都觉得湿润而气闷。

齐山峰上的积雪,映着淡绿的真珠的光辉。

デメト坐着,凝视着石间的急流组成的花边似的旋涡,卷了起来,又飞了出去,一直看到头晕的时候。

第一声雄鸡的啼鸣远远的由镇中的深处送来。

デメト由石上起来,伸了一个懒腰,向山走去了。走过了死寂的集市。在铺子旁边,一匹在旷场上闲跑的马,走到他跟前,热腾腾的马鼻子撞在他肩膀上,吃的干草气扑到他脸上,马低声的温和的嘶着。

デメト在它脖子上拍了一下,转入一条熟识的小街上,很快的向花园走去了。

心脏一步比一步击得响而且快起来,鬓角的血管也跳起来,发干的舌头勉强能在口里打过弯来。

右边展开了黑暗的,神秘的荒原。

デメト想按着习惯划一个十字,但一想起了政治指导员的讲演,就低低的骂了一句算了。

跨过了残垣,沿着杨柳树行,无声的走到通入ガンメル的园中的破墙头跟前。破墙头好似一个破绽一般,在灰色的围墙上隐现着。

破墙头对面兀立着一个被伐的树盘。デメト坐到上边,觉得浑身在发着奇怪的寒颤,手入到兜里握住那暖热了的手枪。

雄鸡又鸣了。月亮完全没入山后,周围黑暗了,寒气上来了。

细枝在树杪里沙沙作响,多液的花蕾发着香气。

墙那边哗喇的响了一声。デメト坐在树盘上,向前伸着身子。

破墙头上出现了一个黑影。

她向周围环顾了一下,轻轻的跳到荒原里。

“老总?……”デメト听到抖颤的微语。

“这里!”他答道,站起来,几乎认不得自己的破嗓音。

女人扑向前去,那抖颤的烧手的身子在デメト的手里颤动着。

他不知所措的,迷惑的不会把她紧紧的抱住贴着自己。

他语无伦次的微语道:

“我的小花,我的可爱的小姑娘!”

マリア偏着头,用那黑溜溜的,火热的,无底井一般的眼睛望着他的脸,后来双手抱着他的颈,把颊贴到他的颊上,低语些什么温柔的,抖颤的,动情的话。

デメト不懂,只紧紧的将她拥抱着,用嘴唇去找着她的嘴唇,当找着的时候——一切都沉没在响亮的旋风里了。

好似齐山积雪上赤霞的反光,一连三夜在燃烧着。

デメト成了疯疯癫癫,少魂少魄的了。红军兵士们都哈哈大笑着,猜七猜八的胡乱推想着。

但是他的心儿全不在这上边,就是白天当洗马,练习去障碍,或听政治指导员讲演パリ公社的时候,那无底的眼睛和红玉的嘴唇现到他面前,遮住了一切!他什么也看不见,什么也听不见。

夜里是熟路,荒原和甜蜜的期待。

每夜在鸡鸣以前,温顺的女人接受着憎恨的丈夫的宠爱,嘴唇都被咬得要出血了。

ガンメル当性欲满足了以后,就上到二层楼上,不久,当他的鼾声把芦苇风屏震动的时候——她就一声不响的起来,好似看不见的黑影一般,经过葡萄园去到水渠上,仔仔细细的由嘴唇上,颊上,乳上,将丈夫拥抱的痕迹由全身上洗了下去。

把薄小衫往那用清水新爽了的,复活了的身上一披,就向破墙头跑去了。

她两三小时无恐惧,无疑惑的同俄国的,强壮的,羞答答的,温柔的士兵饮着自己的深夜的幸福。他给她微语着那些不明白的动情的蜜语,好象她给他微语的那些一般。

当第三夜完了以后,マリア回来的时候,宰拉睡醒了,到园子去上茅房。

她看见一个黑影在树间轻轻的移动着。

初上来把她骇了一跳——是不是恶鬼在园中游魂,等着拉她到地狱去呢,——可是,即刻她就辨清了是マリア。

摇了摇头,回到房里,又盖起被子睡了。

次晨就把昨夜的奇遇告诉了ガンメル。

不是因为妒嫉。她爱惜而且怜悯マリア,可是,——不成规矩。良家的女子夜里不应当不知去向的在园里走。

ガンメル的血涌上了心头,把眉头一皱,说道:

“别作声!……”

第四夜又到了。

ガンメル照例的上到二层楼上,マリア起来了。

ガンメル静悄悄由二层楼上下来,跟在她后边,爬过了葡萄园。

看着マリア如何的在水渠里洗身子,如何走到破墙头跟前,如何的消失在那里。

他爬到墙跟前,由破墙头上望着。

心血涌到头上来,腿也抖颤了。恶恨恨的抽出刀子,但即时想到同老总干是危险的。老总一定有手枪,当ガンメル还没走到倒戈的老婆跟前的时候,老总会早用手枪把他打死了呢。

用牙齿咬着围墙的干土,顺着嘴唇流着白沫。但不作声的冷结在气疯的紧张的注意中。

他看见マリア如何同デメト辞别,如何吻他,デメト如何向镇里的街上走去,マリア如何的在他背后望着。

她愁眉不展的低着头,静悄悄的,轻轻的抬起赤足向回走去。

脚刚刚跳过破墙头,——ガンメル一声不响的扑到她跟前。

マリア短短的叫了一声,坚硬的手掌就盖在她嘴上了。

“你是什么妻!……去偷外教的俄国人,你这该死的畜生……你背叛了教义……按教规去处分你……明天……”

但是,マリア竭着猫一般的弹力,由那橡树似的手里挣脱出来。

她的气成疯狂的眼睛,白斑似的在黑暗里乱闪着。

“鬼东西!……坏东西!……杂种,你这顶坏的东西!……我憎恨你,……你这该咒的,我憎恨你!……我爱兵士!……趁我还没把你打死的时候——你把我打死吧……”

ガンメル惊骇的战栗着。他第一次听见女人口里说出这些话。无论他自己,无论他的父亲,无论他父亲的父亲,从来都没有听过这样话。他觉得脚下的地都漂浮起来了。

他不知所措的环顾了一下,望见旁边一根搭葡萄架的带刺的长棍子。把棍子由地下往外一拔,用力一挥,打到女人的腰里。

マリア倒了,那时ガンメル牛一般的吼着,挥起棍子,不紧不慢的到她身上排着。

她初上去呻吟着,后来就不作声了。

ガンメル掷了棍子,弯下腰向着那不动一动的身子。

“够了吗,狗东西?”

但是可怜的缩成一团的身子,突然伸直了,翻了一翻身,ガンメル即觉到左脚跟上边的筋好似刀割一般,难忍的楚痛,マリア的牙齿竭着疯狂的力气在那里咬了一口。

那时他痛得呵哈了一声,由腰里抽出刀子照マリア的乳下边刺进去。血窜到他手上,身子抖颤着,脚乱踢着。

呻吟了一声就寂无声息了。

ガンメル用衣襟把刀子拭了拭。

“躺着吧,畜生!……明天我把你拉到谷里去叫狗吃你!……”

他在死尸上踢了一脚,跛行着回去了。

彩霞已经在齐山上的宵夜的碧蓝的地毡上织成了轻微的绿花。岩石分外的发着黑色,河流声渐渐的低了下去。

营房门口的快活的守卫的背着马枪,低声的动人的唱着关于青春,关于斗争,关于农民的歌。

唱着,在门口来回的走着。一点钟以前デメト愉快的迷昏的去幽会回来。在门口同守卫的谈了一会,把自己的幸福给他分了一点。把守卫的撩的愁不得,喜不得。

他打着呵欠,用手摸了摸门口的木柱子,又走向靠镇的那一面,但突然的站了起来,向前伸着身子,忙快的端起枪来。

望见在对面的围墙下爬着一个什么东西。

围墙在背影的,很黑,但仿佛有一个什么灰色的斑点向他蠕动着。

“谁在走的?”

枪机搬的响着。

寂静……沉重的,潮湿的,晨曦以前的寂静。

“谁在走的?”守卫的声音抖颤了一下。寂静。但守卫的已经显然的望见在墙跟前徐徐的,低低的爬着……不像狗也不像人,一个四不像的东西在墙跟蠕动着。

“站住!我要开枪的!”守卫的喊着。急忙的在昏暗中用枪的标星向斑点瞄着准。

他的手指已经放到搬钩上去的时候,微风由墙跟前送来一声清亮的呻吟。

他放下马枪。

“这是什么家伙,他妈的?……仿佛在哼的?……”

他小心的照墙跟前走去,走到跟前,辨清了一个人身子的轮廓,半坐着靠着围墙。

“这是谁?”

没有回答。

守卫的弯下腰,就看见好象用粉笔涂了的白脸,带着凹陷的眼睛和由割破了的,由肩上脱下的小衫里,望见流着什么黑色的,小小的女人的乳头。

“女人!……你这家伙!……怎么的!……”

他直起腰来。

空气中激动着啸子的颤音。

营房里的人们都乱动着,说着话,点着灯,红军士兵们都只穿一条衬裤,不穿布衫跑了出去,但都带着枪和子弹匣。

“什么?……为什么打啸子?……在那里?……谁?……”

“排长同志,到这里来。这里有个死女人……”

排长向围墙跟前跑过去,但デメト已经飞到他前边去,跑到跟前,望着,紧紧握着拳头……

“用刀子戳了她,鬼东西,”低声的,气愤愤的对排长说。

“这是谁?她是谁家的女人?”

“我的,排长同志!就是我爱的那一个。”

排长向墙跟前的死白的脸上看了一眼,把眼光转移到デメト的坚硬的脸上。

在那经过欧洲大战的和经过国内战争的排长的嘴上,抖颤着怜惜的褶纹。

“呵……都站着干吗呢?……把她抬到营房去。或者还活着的……可惜医生没有在,去领药品去了……好吧,——政治指导员会医道的。架起来!”

第45節

那些惯于拿枪的铁手,好象拿羽毛似的把マリア抱了起来。

到营房里,把她放在排长的床上。

“请快跑去请指导员去!告诉他说伤了人,要裹伤的!”

三个人就即刻跑去找指导员去了。

“弟兄们,都走开,别挤到这里……空气要多一点的!……呵哈,鬼东西!”排长说着,弯下腰,把煤油灯照到マリア身上,把布衫拉的将乳头盖起来。

“戳的多利害!”他望着由右乳下边一直穿到锁骨上的很深的刀伤:“差一点没有穿到奶头上。”

“死不了吧,排长同志?”デメト抖颤的问道。

“为什么死呢?……别说丧气话!死是不会死,得受一点苦。你作的好事。将来希同志约束我们,恐怕要比他的鹌鹑还严呢。”

デメト好象扇风箱似的长叹了一口气。

“怎么呢,你爱她吗?”

“怎么呢,排长同志?我不是儿戏的,不是强迫的,我第一次看见她的时候,看她很受那鬼东西的虐待,受那大肚子的折磨,我心里很过不去。这么小的。这么好的,简直是小雀子装在笼子里。我很可怜她,我待她也就好象老婆一样,虽然我不明白她说的话,她也不明白我说的……”

“在那里?谁受伤了,什么女人?”指导员走来问着。“闹什么玩意呢?”

“不,不是闹玩意,可以说是一件奇事。因为你懂得医道,因为医生没在营里,所以我着人把你请来。帮她一点忙吧!不然デメト会心痛死了呢!”排长用目向デメト指示了一下。

“完全是小姑娘的!”指导员说着,向マリア弯着腰。

“弟兄们,拿点水来,最好是开过的,拿两条手巾和针来……呵,快一点……”

“怎么一回事?这里发生什么事情了?”

这已经是被一个红军士兵惊醒的连长希同志说的话。

排长把身子一挺,行着举手礼。

“官长同志,报告……”

希同志不作声的听着报告,怒视着排长,用手指拈着胡子,平心静气的说:

“デメト因无连长允许,擅自外出,拘留五日。你,鲁肯同志,因排内放荡和不善于约束部下,着记过一次。”

后来希连长转过身向门口走去了。

“连长同志!”指导员喊道。“对女人怎么办呢?”

连长转过身来,沉思了一下。

“伤裹一裹,送到医院去。早晨到我那里去。关于一切都得商量一下的。你晓得这会闹出什么事情呢?不痛快的事情已经不少了。充军似的生活就这样也够过了。”

早晨就闹得满城风雨了。

红军士兵们在集市上都谈着昨夜所发生的事件。

居民们都摇着头,哭丧着脸,到清真寺去了。

快到正午的时候,慕拉由寺里出来,前后左右都被人民包围着到茶社去了。

希连长和政治指导员由早晨起都在茶社里坐着。

指导员好久的,激烈的给希连长说不能够把マリア交给丈夫去。

“希同志!这是反对我们的一切宗旨的,反对共产主义伦理的。要是女人甘心离开丈夫,要是她爱上别的人,我们的义务就是要保护她,尤其是在此地。把她交回本丈夫——这就是送她到死地去。他不过是再把她割一割而已。你把这件事放到心上想一想没有?”

“我知道……可是你晓得,要是我们不放她,——怕周围一二百里的居民都要激动起来的吧?你晓得这将来会闹到什么地步呢?那时怕要把我们都要赶走的。你晓得什么叫做东方政策?”

“你听着,希同志。我担这责任。党有什么处分的时候我承当,但是要把女人往刀子下边送,我是不能的。并且今天我同デメト谈过话的。他是很好的人,这回事并不是随随便便的闹玩笑,也不是闷不过的时候想开心。他爱她……”

“他不会说一句这里的土话,女的不会说俄国话,他怎么能会爱上她呢?”

指导员笑了一声。

“呵,爱是用不着说话的!”

“他将来对她怎么办呢?”

“他请求把她派到塔城去。我允许给他有法子办,着妇女部照管她,把她安插到学校寄舍里,教她俄文。至于デメト的兵役期限马上就期满了,他说他要娶她,因为他说他很爱她。”

“奇事!你办着看吧!不管你!我却不负一切的责任。”

“连长同志!慕拉要来见连长的。”值日的进来说。

“呵!……来了。现在你可去同他周旋吧!”连长说。

“我去对付他!……不是头一次了……叫他进来。”指导员说着,到长着乱蓬蓬的头发的后脑上搔着。

慕拉庄重的进来,拈了一下胡须,鞠了一躬。

“日安。你是连长吗?”

“同他讲吧。”连长答着,用手指指着指导员。

“你,同志,把女人交出来!”

指导员坐到凳子上,脊背靠着墙,带着讽刺的神气望着慕拉的眼睛。

“为什么交出来?”

“教法是如此的,教主说……妻是丈夫的……丈夫是主人。丈夫是教民——妻是教民。你手下的老总作的很不好,夺人家的有夫之妻。唉,不好!你们这布尔塞维克——知道我们教民的法规吗?法规存在呢。”

“我们怎么呢,没有法规吗?”指导员问道。

“为什么这样呢?……我们是我们的法规——布尔塞维克是布尔塞维克的法规。你有你们的,我有我们的。把女人交出来。”

“可是,你是住在那一国呢,——住在苏维埃国呢,或是什么别的国呢?或是苏维埃的法律对你不是必然的呢?”

“苏维埃的法规是俄国的,我们的教主就是法规。我们的法规存在呢。”

“怎么呢,这是按着你们的教法,夜间好象宰羊一般来杀妻吗?”

“为什么宰羊?……妻对丈夫变节了……丈夫可以杀她。教主说的。”

“别提你的教主吧。我告诉你,慕拉!女人爱我们的红军士兵。这是她自己说的。我们苏维埃有这样的法律——女人爱谁就同谁住。谁也不能强迫她去同不爱的人住。我们不能把女人交出来,我们要派她到塔城去的。这是我最后的话。你可以不要再来吧。”

“你得罪了居民……居民要震怒的!人民要去当巴斯马其的。”

指导员要开口去回答,但希连长把话打断了。

当慕拉回答那句话的时候,他已经忘了他说他不干与这件事情了。他的筋肉都收缩起来,走到慕拉紧跟前,带着不可侵犯的严威,一字一板的说道:

“你这是干吗呢……拿巴斯马其来骇我吗?我告诉你。要是这镇里有一个人去当巴斯马其的时候,我认为这是你把他们煽动起来的。那时没有多余的话。不管你什么慕拉不慕拉——就枪决你,你回去告诉一切的人,别教拿这话来骇我。要是有一个人敢用指头弹一弹我的士兵的时候,我把全镇上洗得寸草不留。开差吧!”

慕拉走了。希连长气愤愤的在室内来回踱着。指导员哈哈大笑起来。

“怎么,沉不住气了吗?”

“同这些鬼东西真难缠。在此地作工作真是难。真是反动,顽固。一切的将军,大元帅,协约国,就是连那些土豪都被我们打得落花流水,可是这些呢?……我们还得听从他,得受他们的摆布……真讨厌得很。”

“是的,很得一些工作做呢。要想打破他们的旧观念,迷信,此地得数十年的工作做呢。现在耳朵很得要放机警一点呢。”

デメト在小屋里五天已经坐满了,那里发着牛粪和灰尘气。

到第六天就把他释放了。

洗了洗手脸,清了清身上,就去到连长那里。

“连长同志!请让我去看一看マリア!”

连长笑了一声。

“你爱她吗?……”

“大概,是这样。”デメト羞惭惭的笑着。

“呵,去吧!可是夜间别再出去逛,不然就把你交到军法处里去!”

デメト到营里的军医院去了。

由塔城回来的医生坐在门限上。

“医生同志!我要看一看マリア。连长允许了的。”

“你想她了吗,武士?去吧,去吧,她问过你的。”

デメト心神不安的跨过门限,站着。

マリア坐在被窝里,憔瘦,纤弱,面无血色。她的睫毛抖颤了一下,好象蝴蝶翅膀一般展开来,眼睛放着炽热的光辉,她拉着デメト的强壮的手。

“デメト……爱……”

デメト不好意思的走到被窝跟前,双膝跪着,头倒在被子上。

マリア静静的手指抚摩着他的头发,低语了几个温存的字。

デメト不知如何好,欢喜的热泪在他那砖头似的颊上滚着。

マリア恢复康健了,已经出来在医院的小院里晒太阳的。

デメト每天来到医院里,他到山谷里摘些野花,结成花球给她送来。

他带了一位红军士兵克尔格支人ウーチーバイ同他一块来,借着他的帮助同マリア谈了些话。

她很愿意到塔城去,很愿同デメト回到他的故乡去。

她的眼睛一天天的愉快起来,笑声也一天天的高起来。

全骑兵连好似都带上了这爱史的标记,士兵们都心不在肝的带着幻想的神情逍遥着,相互间谈论着罗漫的奇遇。

ガンメル依旧的坐在自己铺子里,严肃的,沉默的,一切都放在心里,全不介意那邻人的私语。

礼拜日的晚上,マリア把デメト送到营房门口又回到医院里。

炎热的,沉闷的,恼人的苦夜袭来了。黑云在齐山脊上蠕动着,打着电闪。隆隆的春雷也响起来了。

到夜半的时候,マリア睡醒了,室内闷得很,发着药气。她想呼吸点新鲜空气。

她静悄悄的起了床,出来跨过了在门口睡着了的医生,走过了院子。

新鲜的凉风扬着微尘,爽快的吹着那炽热的身子。

マリア出了大门,凭依着围墙瞻望着那对她最末一次的远山。明天她就要到很远的塔城去的,由那里要同デメト到更远的地方去的。

电打闪得更其频繁了,温和的雷声慢慢的在山坡上滚着。

マリア深深的呼吸了一口气,想回到室内去,但即刻有一个什么东西塞住了她的口,窄窄的刀子在空中一闪,刺到她的咽喉里。

胸部窒息了,血好似黑浪一般在咽喉里呼噜着,她由围墙上滚到灰尘里。

橙色的环圈在她眼前浮动着,忽然间:地,天,围墙,树木——立时都开放着眩惑人目的鲜红的星花,好象她第一次看见デメト的那夜一般,不过星花更觉得分外的美丽,分外的灿烂。

后来黑暗好似急流一般的涌来。

被她的鼻息声惊醒的医生飞奔到门口,惊起了骚乱。

士兵们都跑来了,希连长也来了。

マリア已经用不着救助了。

刀子穿过了颈脖,达到脊椎骨上。

希连长即时就吩咐了一切。

侦缉队即刻飞奔到ガンメル和慕拉家里去。

慕拉带来了。ガンメル无踪迹……

妻们说昨晚マリア的父亲去见ガンメル,他们披好了马,夜间出去了。

随后回来骑上马,打得飞快的就跑走了,向那去了——不晓得。

慕拉被释放了。

第二天把マリア葬到镇外的附近。

デメト憔悴了,面色苍白了,走起路来好象失了魂一般。

当黄土冢在她身上凸起的时候,他挺起身子,咬着牙,默然的用拳头向深山那方面威吓着。

过一礼拜在安格林沟里发见了巴斯马其。

骑兵连往山里派了侦探。一队骑探向南去,一队向东去。

第二队骑探里有郭万秋,デメト,ウーチーバイ,此外还有两个人。

他们沿着那两旁开得火一般的罂粟花夹着的山径走了三十哩,没遇见敌人,于是就在苏村一位相识的在教的家里宿了夜。

早晨由原路向回走去了。

到安格林的下坡上得排成一条线走。

马在小圆石路上谨慎小心的走着,喘着气,滑的打着跛脚。

ウーチーバイ懒洋洋的在马鞍上一摇三幌的摇着,哼着克尔格支的悲歌。

デメト在马上无精打采的垂着头,当马打跛脚的时候,两次都几乎跌下马来。

“デメト,醒一醒吧!”郭万秋喊道。

デメト只挥了一挥手。

第46節

在安格林沟对面,在山径旁绿灰色的花刚岩上,很高的太阳射着小小的反光的环圈,环圈移动着,抖颤着,对准着デメト的马。

当马走到了摇动的桥上的时候,反光的小小的环圈在刹那间蔽起了一层蓝蓝的薄膜。

一声宏亮的枪声在满山上滚着。

デメト伸手向脖子里,失了缰绳,由马鞍上跌下来落到桥板上。两只腿在狂暴的安得林的山水上悬挂着。

但ウーチーバイ把缰绳一勒,一步跨上前去,由鞍上把手一伸,把他由桥边上拉了过来。

转过身来,向郭万秋喊道:

“把马打开!”

ウーチーバイ把马鞭一扬,马好象雀子一般飞过了桥,但即时第二声枪声又响了,马头跌到碎石上,ウーチーバイ缩成一团滚到一边去。

郭万秋飞驰到前边去,紧紧的握着马刀。

他看见一个人带着步枪,穿着条子布长衫,由石头后边出来向悬岩上奔去。

马喘着气向山上跑着。

“赶上赶不上呢?”郭万秋心里想着,狠狠的把马刺一蹬。

马飞开了。

那人与郭万秋中间的距离突然缩得比那人到岩跟前的距离小起来。

那人知道是跑不脱了,转过身来,端起枪。

郭万秋把身子一闪。

拍……子弹由身边飞过去。

马把身子一缩,两跃就追到那人跟前。

郭万秋即时就认清了那肥胖的,油光的,面熟的脸,认清了他的黑胡子。

ガンメル手忙脚乱的拉着枪拴。

但还没有来得及二次端起枪的时候,郭万秋已经完全到他跟前了。

郭万秋向前把身子一欠,马刀向上一挥,喊道:

“领受吧!……为着デメト!……为着マリア!……”

ガンメル的头应着这在空气中激出啸声的马刀落了下去。

……………………………………………

把枪上的皮带拿来挽结到两匹马的中间,把デメト放上去,运到雅得仁镇上。

晚上回到镇上,郭万秋就去报告了希连长。

“真能干!”连长说。

将肺打穿了的,人事不省的デメト,在第二天早上就用马车送往塔城军医院里去了。

帖木儿的故土真是严峻而坚固呵。

耸入云霄的山巅的积雪,万代千秋都不溶消,黑沙漠里的荒沙,万代千秋都呼吸着不当心的旅人的灼热的死。

岩石万代千秋都躺在山径上,下边奔放着山水的急流。

帖木儿国度的人民好象岩石似的——不动,坚固。

在他们的眼睛里,就是死了以后也是石头一般,莫测的隐密。

仿佛三千年以前似的,红石的齐水的河床上,兀立着低矮的茶社,闪着绿色光辉的大齐山双峰上的彩霞,照着那万代千秋的黄土。

仿佛三千年以前似的,那带着黑绿胡须的茶社主人石马梅,早晨裹着破袍子,抵当那阵阵吹来的冰冷的寒风。

只有那山谷里的花园,到第六年春天的时候,开着灿烂的,鲜红的星花,只有那山谷里的花园,到第六年春天的时候,扩张,放大,盖括了山岩与巨石。

在那用四方万国的人民的枯骨——由亚力山大的铁军到史可伯列夫的亚普舍伦半岛的健儿——培养成的沃壤上,灿烂的星花开得更其壮美而胜利。

【附录(德国 沃多·培克 编)】

【一 “死魂灵”第一部第二版序文(一八四八年)】

【作者告读者】

无论你是怎样的人,亲爱的读者,无论你居于怎样的地位,任着怎样的官职,不问你是有着品级和勋位,是一个普通身份的平常人,倘由上帝授以读书识字的珍贵之赐,又因偶然的机缘,手里玩着这本书,那么,我请你帮助我。

在你面前的书,大约你也已经看过那第一版,是描写着从俄国中间提了出来的人的。他在我们这ロシア的祖国旅行,遇见了许多种类,各样身分,高贵的和普通的人物。他从中选择主角,在显示俄国人的恶德和缺失之点,比特长和美德还要多;而环绕他周围的一切人,也选取其照见我们的缺点和弱点,好的人物和性格,是要到第二部里这才提出的。这书里面所叙述的,有许多不确之处,而在ロシア祖国所实现的事物,也并不如此,这是因为我实在没有能够深通一切的缘故。尽一生之力,来研究我们的故乡的现状,就是百分之一也还是做不到的。加以还会有我自己的草率,生疏和匆促,混入许多错误和妄断,至使这书的每一页上,无不应加若干的修改,所以我恳求你,亲爱的读者,请赐我以指正。你不可轻视这劳力。纵使你的教养和生活是怎样的高超,并且觉得我的书是怎样的轻微和不足道,加以订正和指点,在你是怎样的琐细和无聊,我却还是恳求你,请你做一下。但是还有你,亲爱的读者,就是平常的教养和普通的身分,也不要以为一无所知,就不来教导我。每一个人,只要生在世间,见过世界,遇着过许多人,即一定会看出许多别人之所失察,懂得许多别人之所不知。所以我不愿意放弃你的指导。只要你细心的看过一遍,对于我的书的什么地方会没有话要说,这是决不至于的。

假如罢,只要人们中有了一个人,知识广博,经验丰富,熟悉我们描写的人们的地位,记下他对于全书的指示来,而且阅读之际,仅有手里一枝笔和他放在面前的桌上一张纸,这是多么的好呢。如果他每回读完一两页之后,就一想他一生的经历,他所遭遇的一切人,他所目睹的一切事,以及他所亲见亲闻的种种,看和描写在我的书中的事件是否相像,或者简直相反——而且如果他细细写下他的记忆来,寄给我每张写满的纸,这样的一直到读完了全书,这又是多么的好呢。他给了我怎样的一个很大的实惠呢。文章的风格和词藻是不必介意的:这里所处置的只在事情本身和它的真实,并不是为了风格。如果加我指摘,给我谴责,或者要置之危险,使我毁伤,说我做了一件事情的误谬的叙述,也都用不着顾忌,但愿有用和改善,乃是我真正的目的。对于这一切,我是统统真心感谢的。

更好的事,是如果有一个地位很高的人,那各种关系——从生活以至教养——都和我的书中所描写的地位相差甚远,然而明白他自己所属的地位的生活,而且这样的人肯打定主意,一样的把我的书从头看起,使一切地位很高的人们在他精神的眼目之前一一经过,并且严密的注意,看各种地位不同的人们中是否有一点什么相通的东西,看大抵出现于下等社会中者,是否也有时再见于上流社会;并且把想到的一切,就是把出于上流社会的各种事故,和拥护或排斥相关的这思想,写得十分详细,恰如他所观察一样,不忘记人物本身和他的脾气,嗜好和习惯,也不放过他们周围的无生物,从衣服起,下至器具以及他们所住的房屋的墙。我必须知道代表着国民的精华的这上流社会。在我明白了俄国的各方面的生活之前,至少,在具备了我的作品所必要的分量之前,我是不能把我那作品的末一部发表出去的。

这也不坏,如果有一个人,具备着丰富的幻想和才能,活泼的想象着一切人间的关系,并且到处从各种生活状态上来观察人,——一句话,就是如果有一个人,知道深入他所阅读的作者的精神,或者引申和开拓他的思想——把见于我的书中的各人物,细心的追究下去,还肯告诉我在这种或那种景况中,他们应该怎样的举动,从开端来加推断,在故事的进行中他该有怎样的遭遇,由此能够际会到怎样一种新的情形,以及我还应该把什么添在我的著作里;凡此一切,到我的书印成一本新的,较好和较出色的本子,显在读者面前的时候,我都要郑重的加以考虑的。

还有一件,是我真心的恳求那肯以他的指点,使我欣悦的人:他写起文字来,不要以为写的是给和自己有同等的教养,和自己有一样的趣味和一样的思想,许多事情是不必详说也会了然的人去看的文字;倒要请他写得好象是给教养全不能和自己相比,几乎毫无知识的人去看似的。如果他不算写给我,却当作写给一个一生都过在那里的穷乡僻壤的野人,那就更其好,对于这等人,倘要说明一点小事情,使他懂得略有印象,是几乎像对孩子一样,用不着出于他的程度之上的言语的。如果谁都把这一点永是放在心中,如果谁准备写给我关于我的书的指示,永是把这一点放在心中,则这指示之有意思和有价值,还在他自己之所意料以上;他给我一个很大的实惠了。

如果我的读者肯顾全和充满我的真心的希望,如果其中真有一两个人秉着非常的好意,要回答我的恳求,那么,可以用这方法把你的指示,寄给我:把写着我的地址姓名的封筒,套在另一个封筒里,寄给下列的人们:圣彼得堡大学校长彼得·亚历山特洛维支·普来德纳夫大人收(地址是圣彼得堡大学),或者墨斯科大学教授斯台班·彼得洛维支·绥惠略夫先生收(地址是墨斯科大学),看那一处和寄信人相近。

临末,对于批评和议论我这书的记者和作家全体,还要声明我的率直的感谢;虽有不少天然的过份和夸张,但给我的心和精神,却指示了很大的决断和益处,所以我恳求他们,这回也不要放下他们的批评。我可以预先坦白的说,只要是给我启发和教导,我全都很感激的接受的。

第101節

私は厳しい寒さを冒して、二千余里を隔て、二十余年も別れていた故郷へと帰った。

時は已に真冬であった。故郷に近づくにつれ、天気はまた陰鬱となり、冷たい風が船室に吹き込み、嗚々と鳴った。篷の隙間から外を望めば、蒼茫たる空の下、遠近に幾つかの蕭条たる荒れ村が横たわり、一片の活気もなかった。私の心は悲涼を禁じ得なかった。

ああ! これが私の二十年来つねに思い出していた故郷であろうか。

私の記憶している故郷は、まるでこのようではなかった。私の故郷はもっとずっと良かった。されど、その美しさを思い出し、その佳き所を語ろうとすれば、映像もなく言葉もないのだった。彷彿としてやはりこのようであったか。そこで私は自ら解釈した——故郷は元来こういうものなのだ。進歩はないにしても、私が感じるほどの悲涼があるわけでもあるまい。これはただ自分自身の心境の変化にすぎない。なぜならば今度の帰郷に、格別良い心持ちがあるわけではないのだから。

今度は専ら故郷に別れを告げるために来たのだ。私たちが多年にわたり一族で住んでいた古い家は、已に他姓に売り渡してあった。引き渡しの期限はこの年内で、それゆえ正月の元日より前に、馴染み深い古い家に永の別れを告げ、しかも馴染み深い故郷を遠く離れて、私が糊口を凌いでいる異郷へ引っ越さねばならなかった。

翌日の早朝、私は我が家の門前に着いた。瓦の棟の上の多くの枯草の折れた茎が風に揺れ、まさにこの古い家がやがて持ち主が変わることの由縁を語っていた。幾部屋かの一族の者は恐らく已に引っ越したのだろう、だから甚だ静かであった。私が自分の部屋の前に着くと、私の母は已に出迎えており、続いて八歳の甥の宏児が飛び出してきた。

私の母はとても喜んでいたが、多くの淒涼の面持ちを隠してもいた。私に座れ、休め、お茶を飲めと言い、しばらくは引っ越しの話はしなかった。宏児は私に会ったことがなく、遠くから向かい合って、ただじっと見つめていた。

やがて私たちは引っ越しの話になった。私は外の借家は已に契約済みで、幾つかの家具も買った、このほかは家の中の木器をみな売り払い、それで補充しなければならぬと言った。母もそれでよいと言い、荷物もおおよそ揃い、運びにくい木器は半ば売り払ったが、ただ代金が回収できないのだと言った。

「一両日休んで、親戚や一族を一回り訪ねたら、私たちはもう発てますよ。」と母は言った。

「ええ。」

「それから閏土がね、家に来る度に、いつもお前のことを尋ねて、ぜひ一度会いたいと言っているよ。お前が帰る大体の日取りは知らせておいたから、もう来るかもしれないよ。」

この時、私の脳裏に忽ち一幅の神異なる絵が浮かんだ——深い藍の空に金色の丸い月が懸かり、その下は海辺の砂地で、一面見渡す限り碧緑の西瓜が植わっており、その間に一人の十一、二歳の少年が、首に銀の輪を掛け、手に鋼の叉を握り、一匹の猹に力いっぱい突きかかる。するとその猹は身を翻して、かえって彼の股の下から逃げ去ったのだ。

この少年が即ち閏土であった。私が彼を知ったのは、やはり十歳余りの頃にすぎず、今からすれば三十年近くも前のことであろう。あの頃は私の父もまだ存命で、家の暮らしも良く、私はまさしく坊ちゃんであった。あの年、我が家は大きな祭祀の当番の年であった。この祭祀は三十余年に一度しか回ってこないというので、甚だ厳かに行われた。正月に祖先の像を供え、供え物も多く、祭器も凝ったもので、拝む人も多く、祭器の盗難も警戒せねばならなかった。我が家にはただ一人の忙月がいるだけだった(私たちの地方では人に雇われて働く者に三種ある。一年を通じて決まった家で働く者を長年と言い、日雇いで働く者を短工と言い、自分でも耕作し、年末年始や小作料の徴収時だけ決まった家で働く者を忙月と呼ぶ)。忙しくて手が回らぬので、彼は父に、息子の閏土を呼んで祭器の番をさせてはどうかと言った。

第102節

私の父は許した。私も大いに喜んだ。なぜならば以前から閏土という名を聞いており、しかも彼が私とほぼ同い年で、閏月の生まれで、五行に土が欠けているから、父親が閏土と名付けたのだと知っていたからだ。彼は罠を仕掛けて小鳥を捕まえることができるのだった。

私はそれゆえ日々新年を待ち望んだ。新年が来れば、閏土も来るのだ。ようやく年末になり、ある日、母が閏土が来たと告げたので、私は飛ぶように駆けていって見た。彼はちょうど台所にいた。紫色の丸い顔、頭には小さな氈帽を被り、首には銀の首輪をぴかぴかと光らせていた。これで分かるように、彼の父親は彼をとても愛し、死ぬことを恐れて、神仏の前で願を立て、輪で彼を繋ぎ止めたのだ。彼は人見知りが激しかったが、私だけは怖がらず、他に誰もいない時には私と話した。こうして半日も経たぬうちに、私たちはすっかり親しくなった。

あの頃、何を話したかは覚えていない。ただ閏土がとても嬉しそうにしていて、城に上がってから、それまで見たこともない多くのものを見たと話していたことだけは記憶している。

翌日、私は彼に鳥を捕まえてくれと頼んだ。彼は言った。

「それは駄目だ。大雪が降らなければ。僕たちの砂地では、雪が降ると、僕は一画の空き地を掃き出して、短い棒で大きな竹笊を支え、秕を撒いておく。鳥が食べに来た時に、僕が遠くから棒に結んだ縄をぐいと引くと、鳥は竹笊の下に被さるんだ。何でもいるよ。稲鶏、角鶏、鵓鴣、瑠璃……」

私はそこでまた大いに雪を待ち望んだ。

閏土はまた私に言った。

「今は寒すぎるよ。夏に僕たちのところへおいでよ。昼間は海辺に貝殻を拾いに行くんだ。赤いのも緑のもある。鬼見怕もあるし、観音手もある。夜は僕と父さんで西瓜の番をしに行くから、君もおいで。」

「泥棒の番?」

「違うよ。道を行く人が喉が渇いて瓜を一つもいで食べるのは、僕たちのところでは盗みとは言わないんだ。番をするのは猯豚や、針鼠や、猹のことだよ。月夜にね、聞いてごらん、がさがさと音がする。猹が瓜を齧っているんだ。そうしたら胡叉を握って、そっと近づいて行く……」

私はその頃、いわゆる猹なるものがどんなものか知らなかった——今でも知らないのだが——ただ漠然と小犬のような形で甚だ獰猛なものと思っていた。

「噛まないのか?」

「胡叉があるだろう。近づいて行って、猹を見つけたら突くんだ。この畜生はとても利口で、かえってこちらに向かって来て、股の下をすり抜ける。毛皮は油のように滑らかでね……」

私はそれまで天下にこれほど多くの珍しいことがあるとは知らなかった。海辺にはあのような五色の貝殻があり、西瓜にはこのような危険な経歴があることを。私は以前はただ果物屋で売られているのを見るだけだった。

「僕たちの砂地では、潮が来る時になると、跳ね魚がぴょんぴょん跳ねるんだ。蛙みたいに二本足があって……」

ああ! 閏土の心の中には無窮無尽の不思議なことがあった。それは私のいつもの友達が知らぬことばかりだった。彼らは何も知らない。閏土が海辺にいる時、彼らは皆、私と同じように、中庭の高い塀の上の四角い空しか見ていなかったのだ。

惜しむらくは正月が過ぎ、閏土は家に帰らねばならなかった。私は泣きじゃくり、彼もまた台所に隠れて泣いて出て来ようとしなかったが、結局は父親に連れて行かれた。その後、彼は父親に託して私に一包みの貝殻と何本かの美しい鳥の羽を送ってくれた。私も一、二度ものを送ったが、それきり二度と会うことはなかった。

第103節

今、母が彼の話をすると、私のこの幼い日の記憶が、忽ちことごとく稲妻のように蘇ってきて、あの美しい故郷が目に見えるようであった。私はすぐに言った。

「それは素晴らしい! 彼は、——どうしている?……」

「あの子は?……暮らし向きもあまり良くなくてね……」母はそう言いながら、部屋の外を見やった。「またあの人たちが来たわ。木器を買うと言いながら、ついでに何でも持って行ってしまうんだから。ちょっと見てこなくちゃ。」

母は立ち上がって出て行った。戸口に何人かの女の声がした。私は宏児を呼び寄せて、雑談をした。字が書けるか、外に出てみたいかと聞いた。

「汽車に乗るの?」

「汽車に乗るよ。」

「船は?」

「まず船に乗って……」

「まあ! こんなになって! こんなに髭が伸びて!」甲高い奇妙な声が突然大声で叫んだ。

私はぎくりとして、慌てて顔を上げると、頬骨の突き出た、薄い唇の、五十前後の女が私の前に立っていた。両手を腰に当て、前掛けもせず、両足を開いて、まるで製図器具の中の、細い脚のぶらぶらしたコンパスのようだった。

私は呆然とした。

「お分かりにならない? 私はあなたを抱いたこともあるのに!」

私はますます呆然とした。幸いにも母がちょうど入って来て、傍から言った。

「あの子は長年家を離れていたから、みんな忘れてしまったんですよ。覚えているでしょう、」と私に向かって言った、「この人は斜め向かいの楊二嫂さんよ、……豆腐屋さんの。」

ああ、思い出した。子供の頃、斜め向かいの豆腐屋に確かに終日一人の楊二嫂が座っていた。みな彼女を「豆腐西施」と呼んでいた。しかしあの頃は白粉を塗っていて、頬骨もこれほど高くなく、唇もこれほど薄くはなかった。しかも終日座っているだけで、このコンパスのような姿勢を見たこともなかった。あの頃、人は言った——彼女のおかげで、この豆腐屋は商売が大いに繁盛したと。しかしこれはおそらく年齢のためであろう、私は一毫も感化を受けた覚えがなく、すっかり忘れ去っていたのだ。ところがコンパスは甚だ不満で、蔑みの表情を浮かべ、まるでフランス人がナポレオンを知らず、アメリカ人がワシントンを知らぬのを嘲笑うかのように、冷笑して言った。

「お忘れに? これだからお金持ちは目が高い……」

「そんなことは……私は……」私は狼狽して、立ち上がりながら言った。

「じゃあ、お話しするわ。迅兄さん、あんたは金持ちになったんだから、引っ越しの荷物も嵩張るし、こんなぼろっちい木器なんかもういらないでしょう。私にちょうだいな。うちみたいな小さな家には役に立つんだから。」

「金持ちなんかじゃありませんよ。これを売って、それで……」

「あらまあ、道台さまにまでなったくせに、金持ちじゃないなんて! お妾さんが三人もいて、外出すれば八人担ぎの大きな駕籠に乗っているくせに、金持ちじゃないですって? ふん、何だって私にはお見通しよ。」

私はもう何も言えぬと悟り、口を閉ざして黙って立っていた。

「まったくもう、金があればあるほどびた一文も出し惜しみする。出し惜しみすればするほど金が貯まる……」コンパスは憤然と身を翻しながら、くどくどと呟き、ゆっくりと外へ歩いて行き、ついでに母の手袋を一組、ズボンの腰に押し込んで、出て行った。

その後も近所の親戚や一族が訪ねて来た。私は一方で応対しながら、暇を見ては荷造りをし、こうして三、四日が過ぎた。

ある日は甚だ寒い午後で、昼食を済ませて茶を飲んでいると、外から誰か入って来るようだったので、振り返って見た。見た途端、私は思わず甚だ驚いて、慌てて立ち上がり、迎えに行った。

やって来たのは閏土であった。一目見てすぐに閏土だと分かったが、しかし私の記憶の中の閏土ではもはやなかった。背丈は倍にもなっていた。以前の紫色の丸い顔は、已に灰黄色に変わり、しかも深い皺が刻まれていた。目も父親と同じように、周囲がすっかり赤く腫れていた。私は知っている、海辺で耕作する者は終日海風に吹かれ、おおむねこのようになるのだ。頭には破れた氈帽を被り、身にはただ一枚の極めて薄い綿入れを着て、全身をぶるぶる震わせていた。手には紙包みと一本の長い煙管を持っていたが、その手は私の記憶にある赤くふっくらとした丸い手ではなく、ごつごつとして不器用で、しかもひび割れて、まるで松の樹皮のようであった。

私はその時とても感激したが、何と言ってよいか分からず、ただ言った。

「ああ! 閏土兄さん、——来てくれたか?……」

続いて多くの言葉が、真珠を連ねたように湧き出しそうだった。角鶏、跳ね魚、貝殻、猹、……しかしいつも何かに遮られているようで、脳の中で旋回するだけで、口の外に出て来なかった。

彼は立ち止まった。顔には喜びと淒涼の表情が現れ、唇を動かしたが、声は出さなかった。その態度はついに恭しくなり、はっきりとこう呼んだ——

「旦那さま!……」

私は身震いしたようだった。私はもう分かった。私たちの間には已に一層の悲しむべき厚い壁が隔たっているのだと。私もまた言葉が出なかった。

第104節

彼は振り返って言った。「水生、旦那さまにお辞儀しなさい。」そして背中に隠れていた子供を引っ張り出した。これはまさに二十年前の閏土であった。ただ少し黄色く痩せていて、首に銀の輪がないだけだ。「五番目の子でして、世間知らずで、おどおどしておりまして……」

母と宏児が階下に降りてきた。恐らく声が聞こえたのだろう。

「奥様。お手紙はとうに頂いておりました。旦那さまがお帰りになると知って、本当に嬉しゅうございまして……」閏土は言った。

「まあ、どうしてそんなに他人行儀になったの。昔は兄弟みたいに呼び合っていたじゃない。前の通り、迅ちゃんでいいのよ。」母は嬉しそうに言った。

「いやあ、奥様は本当に……これでは何の礼儀にもなりません。あの頃は子供で、わきまえがありませんでしたから……」閏土はそう言いながら、また水生を呼んで挨拶させようとしたが、その子は恥ずかしがって、しっかりと彼の背中にくっついていた。

「この子が水生かい? 五番目? みんな知らない人ばかりだから、人見知りするのも無理はないわ。宏児、一緒に遊んでおいで。」母は言った。

宏児はこの言葉を聞いて、水生を誘いに来ると、水生はさっぱりと一緒に出て行った。母は閏土に座れと言ったが、彼はしばらくためらった後、ようやく腰を下ろし、長い煙管を卓の脇に立て掛けて、紙包みを差し出して言った。

「冬はこれといったものがございません。この少しばかりの干し青豆は、うちで干したものでして、旦那さま……」

私は彼の暮らし向きを尋ねた。彼はただ首を振るばかりだった。

「とても苦しゅうございます。六番目の子ももう手伝えるようにはなりましたが、それでも食べるのが足りず……それに世の中も物騒で……どこもかしこも金が要り、決まりもなく……作物を作っても、担いで売りに行けば何度も税を取られて元手割れになるし、売りに行かなければ腐るだけですし……」

彼はただ首を振るばかりだった。顔には多くの皺が刻まれているが、まるで動かず、石像のようであった。彼はおそらくただ苦しいと感じているだけで、しかしそれを言い表すことができず、しばらく黙った後、煙管を手に取って黙々と煙草を吸い始めた。

母が尋ねると、彼は家の用事が忙しいので明日には帰らねばならぬとのことだった。しかも昼飯もまだだというので、母は自分で台所へ行って炒飯を作って食べるように言った。

彼は出て行った。母と私はともに彼の境遇を嘆いた。多くの子供、飢饉、苛税、兵匪、官紳、すべてが彼を木偶のようにしてしまった。母は私に言った、持って行かなくてもよいものは何でも彼にやってよい、彼に好きなように選ばせなさい、と。

午後、彼は幾つかの品を選んだ。長い卓二脚、椅子四脚、香炉と燭台一揃い、秤一本。それから稲の灰を全部欲しいと言った(私たちのところでは飯を炊くのに稲藁を焚く。その灰は砂地の肥料になる)。私たちが出発する時に、船で運ぶとのことだった。

夜、私たちはまたとりとめのない雑談をした。どれも大した話ではなかった。翌朝早く、彼は水生を連れて帰って行った。

第105節

それからまた九日が過ぎ、私たちの出発の日となった。閏土は朝早く来たが、水生は一緒ではなく、五歳の娘だけを連れて船の番をさせていた。私たちは終日忙しく、もう話をする暇もなかった。来客も少なくなく、見送りの者、物を取りに来る者、見送りがてら物を取りに来る者もいた。夕方、私たちが船に乗り込む頃には、この古い家の中の大小粗末なもの一切が、きれいさっぱりと片付いていた。

私たちの船は前へと進み、両岸の青い山々は黄昏の中で深い黛色に装い、次々と船尾の方へ退いていった。

宏児と私は船窓に寄りかかり、一緒に外のぼんやりとした景色を眺めていたが、彼がふと尋ねた。

「おじさん! 僕たち、いつ帰ってくるの?」

「帰る? まだ行きもしないうちから帰ることを考えているのかい。」

「だって、水生が僕を家に遊びに来いって約束したんだもの……」彼は大きな黒い瞳を見開いて、ぼんやりと考えていた。

私と母もいくらか惘然とし、そこでまた閏土の話になった。母が言うには、あの豆腐西施の楊二嫂は、我が家が荷造りを始めて以来、毎日必ず来ていたが、先日、灰の山の中から十幾枚もの皿や碗を掘り出し、議論の末、これは閏土が埋めておいたもので、灰を運ぶ時に一緒に持ち帰るつもりだったのだと断定した。楊二嫂はこの発見を大いに手柄とし、あの狗気殺(これは私たちのところの鶏を飼う道具で、木の盆の上に柵があり、中に餌を入れ、鶏は首を伸ばして啄めるが犬はできず、見ているだけで悔しくて死にそうになるというもの)を持って飛ぶように走り去ったという。あのような纏足の小さな足で、よくもあれほど速く走れたものだ。

古い家は私からますます遠ざかり、故郷の山水もまた次第に私から遠ざかっていった。しかし私は格別の未練を感じなかった。ただ四方に見えない高い塀があって、私を孤身に隔てているように感じ、甚だ気が塞いだ。あの西瓜畑の銀の首輪をした小さな英雄の姿は、元来甚だ鮮明であったのに、今はにわかにぼやけてしまい、それがまた甚だ悲しかった。

母と宏児は眠っていた。

私は横になって、船底を流れる潺々たる水の音を聞きながら、自分が自分の道を歩いているのだと知った。私は思った。私はついに閏土とここまで隔絶してしまった。しかし私たちの後の世代はまだ一つであり、宏児はまさに水生を思っているではないか。私は彼らが、私たちのように、互いに隔膜を生じることのないよう願う……。しかしまた、彼らが一体であろうとして、私のように辛苦して転々とする生活を送ることも望まず、閏土のように辛苦して麻痺した生活を送ることも望まず、他の人々のように辛苦して恣肆に生きることも望まない。彼らには新しい生活があるべきだ、私たちがかつて経験したことのない生活が。

私は希望を思い、ふと恐ろしくなった。閏土が香炉と燭台を欲しがった時、私は心ひそかに笑って、相変わらず偶像を崇拝していると思ったものだ。今、私のいわゆる希望もまた、自ら手で作った偶像ではないか。ただ彼の願いは身近であり、私の願いは茫遠であるにすぎない。

私は朦朧の中に、眼前に一面の海辺の碧緑の砂地が展け、その上の深い藍の空に金色の丸い月が懸かっているのを見た。私は思った——希望とは本来あるとも言えず、ないとも言えぬものだ。それは地上の道のようなものだ。実は地上にはもともと道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

(一九二一年一月。)

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