Lu Xun Complete Works/zh-ja/Guxiang
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Hometown (故乡 / 故郷)
Lu Xun (鲁迅, Lǔ Xùn, 1881–1936)
| 中文(原文) | 日本語 |
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俗语说:“忠厚是无用的别名”,也许太刻薄一点罢,但仔细想来,却也觉得并非唆人作恶之谈,乃是归纳了许多苦楚的经历之后的警句。譬如不打落水狗说,其成因大概有二:一是无力打;二是比例错。前者且勿论;后者的大错就又有二:一是误将塌台人物和落水狗齐观,二是不辨塌台人物又有好有坏,于是视同一律,结果反成为纵恶。即以现在而论,因为政局的不安定,真是此起彼伏如转轮,坏人靠着冰山,恣行无忌,一旦失足,忽而乞怜,而曾经亲见,或亲受其噬啮的老实人,乃忽以“落水狗”视之,不但不打,甚至于还有哀矜之意,自以为公理已伸,侠义这时正在我这里。殊不知它何尝真是落水,巢窟是早已造好的了,食料是早经储足的了,并且都在租界里。虽然有时似乎受伤,其实并不,至多不过是假装跛脚,聊以引起人们的恻隐之心,可以从容避匿罢了。他日复来,仍旧先咬老实人开手,“投石下井”,无所不为,寻起原因来,一部分就正因为老实人不“打落水狗”之故。所以,要是说得苛刻一点,也就是自家掘坑自家埋,怨天尤人,全是错误的。
【故乡】
【风筝】
【一九二二年】
【估“学衡”】
【为俄国歌剧团】
【无题】
【“以震其艰深”】
【所谓“国学”】
【儿歌的“反动”】
【“一是之学说”】
【不懂的音译】
“早晨,一早到外面去。心情是壮快的。是美丽的早晨。太阳刚从茂林里出来。露水在草上,树上发亮。一切都和婉,一切物象都依然。实在很舒服,不愿意死了。” 其次,是接着遇见老农,和关于吸烟之害及思索之益的叙述,又这样地写道—— “我还想说话,但喉咙里有什么塞住了。我很容易哭了。不能再说话,便别了那老人,也别了欢乐的和婉的感情,含泪走掉了。住在这样的人们之间,怎会有不高兴的道理呢,也怎能有不从这样的人们,期待那最出色的工作的道理呢?” 在逝世的三个月前,他将从一个农家青年得来的感情,写在日记上,用了和上文一样的言语,证明着自己的敏感性。那日记是这样写着的—— “为了欣喜,为了生病,还是为了两样相合的原因呢,我很容易下同情和喜悦之泪了。这可爱的,思想坚固的,强有力而愿做善事的孤独的青年的单纯的话,动了我的心,呜咽之声几乎出口,我便一句话也不能说,离开他的旁边了。” 然而这善感的禀性,是现于Tolstoi 一生中的特色,读者是不看见这眼泪的罢,但他却常抱着甚深的感慨。 Tolstoi的母亲,爱读卢梭,《爱弥儿》是她的案头的书籍,Tolstoi最所爱好的人物,乃是使感情的诗美,来对抗拟古典主义的批判的约翰·藉克·卢梭其人者,实在并非无故的。 Tolstoi在一九○一年,向在巴黎的俄语教授M. Boyer这样说—— “我将《卢梭全集》二十卷熟看了,其中最喜欢的是《音乐字典》,我感谢卢梭。” “我十五年间,帖身挂着雕出卢梭肖像的牌子,以代“十字架”。而卢梭的著作的大半,是恰如我自己所写一般,于我非常亲切的。” 一九○五年Tolstoi应允推选为日内瓦的卢梭协会会员的通告,寄信到日内瓦云,“卢梭是十五岁时代以来的我的教师。于我一生中,给与一大裨益的,是卢梭和《旧约》。” 那协会的会员班尔裨,在协会年报上,载《托尔斯泰是卢梭的后继者》一文(一九○七年),论云—— “Leov Tolstoi是十九世纪的卢梭,或是具体化的爱弥儿。卢梭的精神,透彻于Tolstoi的全创作里。Tolstoi是现代人的评释者。恰如卢梭是十八世纪的或者一般,Tolstoi是现世纪的或者。” 从托尔斯泰协会,赠给卢梭协会的答文云—— “Jean Jacques Rousseau所理想的思想的独立,人类的平等,诸国民之统一,以及对于自然美之爱,是和我们颇为近密的。我国民底智识的代表者的Tolstoi,将全生涯,贡献于上述的理想之发扬和宣传了。” 赞叹,同情或忏悔之泪,是表象Tolstoi的社会观的,昂奋的敏感之泪,则湿透着他的世界观。那天禀的敏感性,洞察了发荣于榨取的条件上的现代文明社会的虚伪,且促他爱好自然的法则和自然人了。他是作为卢梭的后继者,而用卢梭以上的情热和真挚和确信,抉剔了一切虚伪和不诚实的现象的。 他将对于人生的爱情,对于正义和朴素的憧憬,对于虚伪的愤怒与其敏感性,织在和真挚自然相融合的真挚的自己的构想之中了。 然而,为十九世纪的卢梭的Tolstoi,是观察了纷乱的世纪的后半期的社会底矛盾的现象的。诗圣Pushkin,未曾知道这样的大矛盾,据Bielinski所说,则“阶级的原则,乃永久的真理”云。但Tolstoi却并不相信自己的阶级的一定不动性。他目睹Sevastopol之陷落,遇见尼古拉一世之死,观察革新时代的情形,知道那砍断了的大连锁的一端,打着地主阶级,而别一端,则吓了贱农(Muzhik)。他又目击了所谓民众启蒙运动,经验过和都市的发达一同激增的可惊的矛盾的现象,而他自己,则成为最后的贵族了。他于一八七○及八○年代,宣说那将其生活状态,加以诗化,美化而讴歌了的庄园的没落,恰如Gogol的杰作(译者按:“Taras Bulba”中的人物Bulba,向Andrei(译者按:Bulba的儿子)所说的“我做成了你,这我也来杀掉你”一样,也说给了庄园。于是他将自己的思想一变,成为一向遮着艺术的华服的丑秽现象的曝露者了。 《忏悔录》、《爱弥儿》、《新蔼罗若》的著作者卢梭,生于小资产阶级的手工业者的家庭里,历经辛苦而生长,感到十八世纪的虚伪底生活,遂如古代罗马的贱民似的,向贵族阶级宣战了。 《幼年时代》、《哥萨克兵》、“Lucerne”、《我的忏悔》的著者,则生于贵族人家,父系是德意志人,那母系,是远发于留烈克(俄国的始祖)的。 而这白马金鞍的贵公子,遂和自己抗争,经思索多年的结果,竟曝露了贵族阶级的腐败。所以那抗争是戏曲底的事,是谁都可以直觉到的。 Tolstoi 一离母胎,便即包围在旧贵族的氛围气里,为许多男女侍从所环绕,在Iasnaia Poliana的幸福的生活,是全靠着七百个农奴的劳动的。至于教育未来的文豪者,则是长留姓名于《幼年时代》里的德国人和法国人,他的父亲的图书室中,也如在Pushkin的父亲的图书室中一样,有许多十八世纪的法国人的著作。从十三岁到十九岁之间(一八四一——一八四七),他受着Kazan知事之女,退职胸甲骑兵大佐之妻,他的姑母Perageia Ilinishna Iushkova的监督,住在那家里。这家庭,是常是佳节般的热闹,为Kazan的上流社会的聚会之所,法兰西语的社交的会话,是没有间断的时候的……。 青年大学生(Tolstoi)将全世界分为二大阶级,即上流社会和贱民;那姑母则要使Tolstoi成为外交官,或皇帝的侍从,且希望自己的外甥和交际场中的贵女,意气相投。她以和富家女结婚,为他的最大幸福,就是梦想着由这结婚,而Tolstoi能有很多的农奴的。 据Zagoskin的《回忆录》,则青年的Tolstoi,是一个道地的放荡儿的代表者。 跳舞,假装会,演戏,活人画,大学毕业后的打骨牌,流人(Gipsy)歌等,是这青年贵族的生活。关于这生活,后来他在《我的忏悔》里,是不能没有悔恨和恐怖之念,记载出来的。 惯于蔑视本阶级以外的人们的青年,离墨斯科,赴高加索,在等候着做第四炮兵中队的曹长的任命了,其时他穿了时式的外套,戴着襞积的峨冠,套了雪白的鞣皮的手套,在 Tifris的市街上散步。一看见不戴手套的路人时,他便用了嘲笑的调子,对他的弟弟尼古拉这样说—— “他们是废物呵。” “为什么是废物呢?” “为什么?不是没有带手套么?” 在高加索,青年Tolstoi也竭力减交游,避朋友,守身如遁世者。那时他在寄给姑母的信里,说,“我并非自以为高,取着这样的态度的。这是自然而然之势,将我所遇见的本地的人们和我一比较,在教育上,在感情上,又在见解上,都有非常的差异,所以无论如何,和他们不能相投了。” 他于一八五四年,在Silisria(勃加利亚的山地)为司令官属副官时,也是同样的纨袴子;又其处女作出版后,进了Turgeniev,Druzhinin,Fet,及其他的文士之列的时候,也还是这样的人。 然而这青年有世袭的领地,有自己的农民。因此他觉得可以做善良的主人,知道学位证书和官阶,都非必要。而且他感到了恰如《地主的早晨》中的主人公Nekhliudov一般,有着安排七百个农民的幸福和对于神明,负有关于他们的运命的责任……。 在放荡生活中度了青年时代的Tolstoi,到三十四岁,这才成了家庭的人。立农村经济的计画,是他的无上之乐,曾将其经营的办法,向好友Fet自夸。他又为利己底感念所驱,竭力要给家族以幸福,尝醉心于劳动者Iufan的敏捷的工作,而想自行Iufan化。未来之母 Sophia Andreievna响着锁匙,巡视谷仓,大家族的未来之父的他,则到处追随其后……。经年积岁,殆十九年间浸渍于快活的蛰居生活的Iasnaia Poliana的地主,是经营农村,增加财产,牧畜场中,有豚三百头,Samara的庄园里,则马群在腾跃……。这样地,富是日见其增大了,但在一八五六年顷寄给Fet的信中,却写道,“我们的农业,现在宛如藏着那交易所所不要的废票的股东。情形很不好。我决计加以经营,以不损自己的安静为度。最近自己的工作,是满足的,但有饥馑袭来的征候,所以日日在苦虑。” 一八八二年,参加了墨斯科市况调查时,仅用于调查一个Riapinski客栈的几小时,却将较之Iasnaia Poliana生活的几年更有意义的影响,给与Tolstoi了。以这调查为动机而作的《我们该做什么呢?》(一八八二)的冒头上,是用这样的句子开始的:“我向来没有度过都会生活。一八八一年转入墨斯科生活时,使我吃惊的,是都会的穷困。我早知农村的穷困,但都会状态,在我,是新的,而且不可解。” 都会的贫民,是赤贫,不信神,看那眼色,读出了这样的质问—— “为什么,你——别世界的人——站在我们的旁边的?你究竟是谁呀?” 从别世界来的Tolstoi一经观察这不可解的新的都会生活,一向以为愉乐的奢侈生活,在他便反而成了烦闷的根苗。既经目睹了忍寒苦饥,而且被虐的多数人,于是也明白了仅靠博爱,难以解决这问题;又在都会里,也难如村落一般,容易创造爱和协同的氛围气;并且镇静“以自己的生活为不正当的自觉心”的苦恼,有所不能的理由了。他曾这样地写—— “都会的缺乏,较之村落的缺乏为不自然,更急需,更深酷。而主要之点,是在穷困者群集于一处,那情形,实给我以恶感,在Riapinski客栈所得的印象,使我觉得自己的生活的肮脏。” 村落生活者的第一的思慕,是Iasnaia Poliana的安静和幽栖。苦于剧甚的都会生活的烦琐的他,便从墨斯科跑到村落去。到一八八二年的所谓“苦痛的经验”(市况调查)为止,他是为了子女的教育,住在墨斯科的;这之前,在一八七七年,他曾向好友Fet这样地诉说墨斯科生活。“我的墨斯科生活,非常凌乱。神经纷扰,每一小时中,每一分有不同之感。为了妨害我面会必须相见的人们,无须的人们是故意地出现……。” 墨斯科的市况调查后,他从Riapinski客栈,恐怖地跑到Iasnaia Poliana的羽翼之下,一八八二年四月,写信给Sophia夫人云—— “总算已从都会的繁杂之极的世界,复归自己,读古今书,听Agafia Michalovna的纯真的饶舌,非念孩子,而念上帝,在我是心情很舒服的。” Tolstoi之跑到Iasnaia Poliana去,也不但为厌了都会生活的烦劳。他是要避开社会问题的通俗底解决,并且远离深酷的急需底的都会的穷困。而他较之Iasnaia Poliana的生活,倒在跑向农民的生活去的。 社会问题在Toistoi的面前,将那悲剧底实相展开了。他想个人底地,消极底地,将社会问题来解决,以为一切病根,全在佣雇别人,加以榨取,所以应该不去参加榨取别人的事,自己来多作工,而竭力少去利用别人的劳动。 一八八二年他遇见了加特力教派农民Siutaev;Siutaev者,是扶助别人,显示自己的实例,以说“同胞爱”而想缓和社会的矛盾的。Tolstoi又读了Bandarev的《论面包的劳动》,大有所感,便将那为村民作殉道底劳动,借以得自己的良心的和平的主意打定了。社会问题固未能仗这样的个人底出力而解决,但于怠惰豪华的地主生活上,加了打击;是并无疑义的。 Iasnaia Poliana的地主,成为Iasnaia Poliana的隐者;Iufan化了的主人,变作文化底耕作者了。恰如十八世纪的卢梭,抛掉假发,脱白袜,去金扣,居环堵萧然的小屋中,做了Montmorenci的隐者一样,十九世纪的Tolstoi也脱去华美的衣裳,加上粗野的农服,委身于所谓“面包的劳动”了。于是从现代国家的社会底矛盾脱逃的隐者,便进了“枞树下的精舍”,个人底地奉着农民底基督教,依照Siutaev的方式,以度生活了。也就是他Tolstoi,成为改悔的Anarchist,以中产的劳动农民的精神为精神了。“市况调查和Siutaev之说,教了我许多事”,是他屡屡说起的话。 今年广州在禁女学生束胸,违者罚洋五十元。报章称之曰“天乳运动”。有人以不得樊增祥作命令为憾。公文上不见“鸡头肉”等字样,盖殊不足以餍文人学士之心。此外是报上的俏皮文章,滑稽议论。我想,如此而已,而已终古。
【革“首领”】
【谈“激烈”】
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俗語に「忠厚は無用の別名である」という言葉があるが、これは少し厳しすぎるかもしれないが、よく考えてみると、人を悪に誘う言葉ではなく、多くの苦い経験を総括した後の警句だと思われる。たとえば落水狗を打つなという話について、その原因は大体二つある。一つは打つ力がないこと、二つは比例を間違えることである。前者はさておき、後者の大きな間違いには又二つある。一つは失脚した人物と落水狗を同一視する誤り、二つは失脚した人物にも良い者と悪い者がいることを見分けられず、同一に扱い、結果として悪を放縦することになる。現在を例に取れば、政局が不安定なため、まさに此起彼伏として回転輪のようで、悪人は氷山に頼って恣意のまま振る舞い、一旦失脚すると、急に哀れみを乞い、かつて親しく見たり、親しく噛まれたりした善良な人々が、急に「落水狗」として見なし、打つどころか、哀れみの情さえ抱き、自分こそ公理を実現し、侠義がここにあると自負している。しかしそれがどうして真に落水したと言えようか。巣窟はとっくに作られており、食料はとっくに蓄えられており、しかもすべて租界にあるのだ。時には傷を負ったように見えても、実際にはそうではなく、せいぜい足を引きずるふりをして、人々の憐れみを引き起こし、悠々と身を隠すことができるだけなのだ。いつの日か復活すれば、やはり最初に善良な人を噛み、「投石下井」、何でもやる。原因を探れば、一部分はまさに善良な人が「落水狗を打たない」ためなのである。だから、厳しく言えば、自分で穴を掘って自分で埋めることであり、天を怨み人を尤めるのは全くの間違いなのである。 六 論現在還不能一味「費厄」 仁人たちは恐らく問うであろう。それでは、我々はもう「フェアプレー」を求めないのか?私はすぐに答えることができる。もちろん必要だが、まだ早い。これが「請君入甕」法である。仁人たちが必ずしも用いたがらないとしても、私はまだ筋道立てて言うことができる。土紳士や洋紳士たちは常々、中国には特別な国情があり、外国の平等自由などは適用できないと言っているではないか?私はこの「フェアプレー」もその一つだと思う。そうでなければ、彼があなたに対して「フェア」でないのに、あなたが彼に対して「フェア」であれば、結果は常に自分が損をし、「フェア」を求めても得られないばかりか、「フェア」でなくても得られないのである。だから「フェア」を求めるには、まず相手を見極めることが最良で、もし「フェア」を受けるに値しない者なら、大いに遠慮なく対処すればよい。それも「フェア」になってから、改めてそれと「フェア」を論じても遅くはない。 これは二重道徳を主張する嫌いがあるようだが、やむを得ないことでもある。なぜなら、そうしなければ中国はより良い道を持つことができないからだ。中国には現在多くの二重道徳があり、主人と奴隷、男性と女性、皆異なる道徳を持ち、まだ統一されていない。もし「落水狗」と「落水人」だけを一視同仁するなら、実に偏りすぎ、早すぎる。まさに紳士たちの言う自由平等が悪くないとしても、中国ではいささか早すぎるのと同じである。だからもし誰かが「フェアプレー」精神を普遍的に実行したいなら、少なくともいわゆる「落水狗」が人間らしさを帯びるのを待つべきだと思う。しかし現在も絶対に実行できないわけではない。上述のように、相手を見極めることだ。しかも等差をつけなければならない。すなわち「フェア」は相手によって施すものであり、どんなに落水しようとも、人であれば助け、犬であれば構わず、悪い犬であれば打つのである。一言で蔽えば、「党同伐異」に過ぎない。 心に「婆理」があって口に「公理」を唱える紳士たちの名言はしばらく論じないとしても、真心の人が叫ぶ公理でさえ、現在の中国では善人を救助することができず、むしろ悪人を保護することさえある。悪人が得意になって善人を虐待する時、たとえ誰かが公理を大声で叫んでも、彼は決して従わず、叫びは叫びに止まり、善人は依然として苦しむ。しかし時に善人がわずかに立ち上がれば、悪人は当然落水するはずなのに、真心の公理論者が「報復するな」「仁恕せよ」「悪をもって悪に対するな」などと大騒ぎする。この時こそ実効が現れ、決して空騒ぎではない。善人がまさにその通りだと思い、悪人はそこで救われるのだ。しかし彼が救われた後は、ただ得をしたと思うだけで、決して改悔しない。しかも早くから三つの巣窟を営み、計略に長けているので、間もなく再び声勢赫々として、以前のように悪事を働く。この時、公理論者は当然また叫ぶが、今度は彼は聞かないのだ。 しかし「疾悪太厳」「操之過急」で、漢の清流と明の東林は、まさにこの点で敗北し、論者もよくこのように責めている。しかしあちら側が「疾善如仇」でないことがあったろうか?人々はそれについて一言も言わない。もし今後光明と黒暗がまだ徹底的な戦いをすることができず、善良な人が悪を放縦することを寛容と間違え、一味に姑息に続けるなら、現在のような混沌状態は無窮無尽に続くことができるのである。 七 論「即以其人之道還治其人之身」 中国人は中医を信じたり西医を信じたりするが、現在比較的大きな都市では往々にして両方の医師がおり、それぞれその所を得させている。私はこれは確実に極めて良いことだと思う。もし推し進めることができれば、怨みの声は一定にもっと少なくなり、あるいは天下はついに至治に達することができるかもしれない。たとえば民国の通礼は鞠躬だが、もし対しないと思う人がいれば、その人だけに磕頭させる。民国の法律には笞刑はないが、もし肉刑が良いと思う人がいれば、その人が犯罪した時は特別にお尻を叩く。茶碗や箸、飯菜は現代人のために設けられているが、燧人氏以前の民になりたいと願う者は、生肉を食べてもらい、数千間の茅屋を再建して、大きな屋敷で堯舜を仰慕する高士たちを皆引き出し、そこに住まわせる。物質文明に反対する者は、当然もっと恨みを抱いて自動車に乗らせるべきではない。このように办れば、まさに「求仁得仁又何怨」、我々の耳も清浄になることであろう。 しかし残念ながら皆がこのようにしたがらず、己をもって人を律しようとするので、天下は多事になる。「フェアプレー」は特に弊害があり、弱点になって悪勢力に利用されることさえある。たとえば劉百昭が女師大学生を殴打し引きずったとき、『現代評論』は屁一つ放たなかったのに、女師大が復活し、陈西滢が女子大学生を煽動して校舎を占拠させた時は、「もし彼女たちが立ち去ろうとしなかったらどうするのか?君たちも強力で彼女たちの物を運び出すのは気が引けるだろう?」と言った。殴って引きずって運び出すのは劉百昭の先例があるのに、なぜこの時だけ「気が引ける」のか?これは女師大の方に「フェア」の気配を嗅ぎ取ったからである。しかしこの「フェア」はまた弱点となり、かえって人に利用されて章士钊の「遺澤」を護衛することになったのだ。 八 結末 あるいは私の上述の言葉が、新旧あるいは何かの両派の争いを激化させ、悪感をより深くし、相持ちをより激しくするのではないかと疑う人もいるだろう。しかし私は敢えて断言する。反改革者の改革者に対する毒害は、従来少しも緩めたことはなく、手段の厳しさもすでにこれ以上ないものであった。ただ改革者だけがまだ夢の中にいて、常に損をしている。そのため中国もまた改革がない。これ以降は、態度と方法を変えるべきである。 (一九二五年十二月二十九日。) 【故郷】 私は厳寒を冒して、二千余里隔たり、二十余年も離れていた故郷へと帰った。 時候は既に深冬であり、故郷に近づくにつれて、天気も陰鬱になり、冷たい風が船室に吹き込んで、うんうんと響いた。帆の隙間から外を望むと、蒼黄色の空の下に、遠近に幾つかの荒涼とした村が横たわり、少しの活気もない。私の心は禁じ得ず悲涼になった。 ああ!これは私が二十年来いつも記憶していた故郷ではないのか? 私の記憶している故郷は全くこのようではなかった。私の故郷はもっと良かった。しかし私にその美しさを思い起こさせ、その佳い所を言わせようとしても、影像もなく、言葉もなかった。まるでこのようでもあった。そこで私は自分で解釈して言った。故郷も元々このようで、進歩はなかったとしても、私が感じるような悲涼もなかったに違いない。これはただ私自身の心境の変化に過ぎず、私が今回帰郷したのは、元々何の良い心緒もなかったからだ。 私が今回来たのは専ら別れを告げるためであった。我々が多年にわたって一族で住んでいた古い家は、既に皆で他姓に売り、家の引き渡し期限は本年中なので、必ず正月元旦以前に、馴染みの古い家に永別し、しかも馴染みの故郷を遠く離れ、私が食を求めている異郷へと引っ越さなければならない。 翌日早朝、私は我が家の門口に着いた。瓦の上に多くの枯草の断茎が風に震えており、まさにこの古い家が易主を免れない理由を説明していた。幾房の本家は大体もう引っ越したようで、とても静かであった。私が自分の家の外に着くと、母はもう迎えに出てきており、続いて八歳の甥の宏児が飛び出してきた。 母はとても喜んでいたが、多くの悲涼な神情も隠しており、私に座って休息し、お茶を飲むよう言い、まだ引っ越しの話はしなかった。宏児は私に会ったことがなく、遠くから向かい合って立って見ているだけだった。 しかし我々は結局引っ越しの話をした。私は外の宿所は既に借りてあり、また幾つかの家具も買い、その他に家にある木器を全部売り、さらに買い足さなければならないと言った。母も良いと言い、しかも荷物もほぼ集まっており、運搬に不便な木器も小半分は売ったが、ただ金が回収できずにいる。 「一両日休んで、親戚本家に挨拶に行ったら、我々は出発できる」と母が言った。 「はい」 「それから閏土もいる。彼が我が家に来る時は、いつもあなたのことを聞いて、一度会いたがっている。私は既にあなたの帰宅の大体の日程を彼に知らせたから、恐らくもう来るだろう」 この時、私の頭の中に突然一幅の神異な絵画が閃いた。深い青の空に一輪の金黄色の円月が懸かり、下は海辺の砂地で、すべて見渡す限りの碧緑の西瓜が植えられており、その間に十一二歳の少年がいて、首に銀の輪をつけ、手に鋼の叉を握り、一匹の猹に向かって力を尽くして刺しているが、その猹は体をひねって、彼の股の下から逃げ去った。 この少年が閏土であった。私が彼を知った時も、十歳あまりで、現在から約三十年になる。その時父はまだ存命で、家の状況も良く、私はまさに一人の坊ちゃんであった。その年、我が家は大きな祭祀の当番年であった。この祭祀は三十余年に一度回ってくると言われているので、とても重んじられていた。正月に祖先の像を供え、供物も多く、祭器も立派で、拝む人も多く、祭器の盗難も防がなければならなかった。我が家には忙月(我々のところで人に雇われて働く者は三種に分かれる。一年中決まった家で働く者を長年といい、日当で働く者を短工といい、自分も田を耕し、正月節句や小作料収集の時だけ決まった家で働く者を忙月という)が一人しかおらず、忙しくて手が回らないので、父に自分の息子の閏土を祭器の管理に呼んでもよいかと言った。 父は許可し、私もとても喜んだ。なぜなら私は早くから閏土という名前を聞いており、しかも彼が私とほぼ同年齢で、閏月生まれで、五行に土が欠けているので、父が閏土と名付けたことを知っていたからである。彼は罠を仕掛けて小鳥を捕まえることができるのだった。 私はそこで日々新年を待ち焦がれ、新年が来れば、閏土も来るのだった。やっとのことで年末になり、ある日、母が閏土が来たと告げたので、私は走って見に行った。彼はちょうど台所にいて、紫色の丸顔で、小さなフェルト帽をかぶり、首に光る銀の首輪をつけていた。これで彼の父が彼をとても愛し、死ぬことを恐れ、神仏の前で願をかけ、輪で彼を守ったことが分かった。彼は人を見ると恥ずかしがったが、私だけは恐れず、他に人がいない時は私と話し、そこで半日もしないうちに、我々は馴染みになった。 我々がその時何を話したか分からないが、ただ閏土がとても喜んで、町に出てから見たことのない多くのものを見たと言ったのを覚えている。 翌日、私は彼に鳥を捕まえるよう頼んだ。彼は言った。 「それはできない。大雪が降らないと駄目だ。我々の砂地では、雪が降ると、私が空き地を掃き出して、短い棒で大きな竹の笊を支え、殻を撒いて、鳥が食べに来る時、遠くから棒に結んだ紐を引けば、鳥は竹笊の下に捕まる。何でもいる。稲鶏、角鶏、鳩、青い背の鳥…」 私はそこでまた雪が降るのを待ち焦がれた。 閏土はまた私に言った。 「今は寒すぎる。夏に我々のところに来なさい。昼間は海辺で貝殻を拾いに行く。赤いのも緑いのもあり、鬼見怖も観音手もある。夜は私と父さんで西瓜の番をする。あなたも行きなさい」 「泥棒の番を?」 「違う。道を歩く人が喉が渇いて瓜を一つ取って食べても、我々のところでは盗みとは言わない。番をするのは穴熊、ハリネズミ、猹だ。月夜に、聞いてごらん、ガリガリと音がしたら、猹が瓜を噛んでいるのだ。あなたは叉を握って、そっと歩いて行く…」 私はその時いわゆる猹というのがどんなものか知らなかった。今でも知らない。ただ何となく小犬のような形でとても凶猛だと思った。 「人を噛まないの?」 「叉があるからね。行って猹を見つけたら、刺すのだ。この畜生はとても利口で、あなたに向かって走ってきて、股の下をくぐり抜ける。その皮毛は油のように滑らかだ…」 私は天下にこんなに新鮮なことがあるとは知らなかった。海辺にこんなに色とりどりの貝殻があり、西瓜にこのような危険な経験があるとは。私は以前ただ果物屋で売られているのを知っているだけだった。 「我々の砂地では、潮が来る時になると、多くの跳魚がぴょんぴょん跳ね、皆カエルのような二本の足がある…」 ああ!閏土の心には無数の珍しいことがあり、それらは皆私の普段の友達が知らないことだった。彼らは何も知らず、閏土が海辺にいる時、彼らは皆私と同じように院子の高い塀に囲まれた四角い空だけを見ていた。 残念なことに正月が過ぎ、閏土は家に帰らなければならなくなった。私は激しく泣き、彼も台所に隠れて泣いて出てこようとしなかったが、結局父に連れて行かれた。その後彼は父に託して貝殻一包みと幾本かの美しい鳥の羽を私にくれ、私も一二度彼に物を送ったが、それ以来再び会うことはなかった。 今母が彼のことを口にしたので、私のこの児時の記憶が、突然すべて稲妻のように蘇り、美しい故郷を見たような気がした。私は返事をした。 「それは素晴らしい!彼は…どうしている?…」 「彼は?…彼の状況もあまり思わしくない…」母は言いながら、部屋の外を見た。「この人たちがまた来た。木器を買いに来ると言いながら、ついでに勝手に持って行くので、私は見に行かなければ」 母は立ち上がって出て行った。門外で幾人かの女の声がしたので、私は宏児を近くに呼んで雑談した。字が書けるか、出かけたいかと尋ねた。 「汽車に乗って行くの?」 「汽車に乗って行く」 「船は?」 「まず船に乗って…」 「はあ!この様子だ!髭がこんなに長くなった!」甲高い奇妙な声が突然大声で叫んだ。 私は驚いて急いで頭を上げると、頬骨が出て、薄い唇の、五十歳ぐらいの女が私の前に立っており、両手を腰に当て、スカートを着けず、両足を開いて、まさに製図器具の細い足の寂しいコンパスのようだった。 私は愕然とした。 「分からないの?私はあなたを抱いたことがあるのよ!」 私はますます愕然とした。幸い母も入ってきて、横から言った。 「彼は長年外に出ていて、みんな忘れてしまった。覚えているはずよ」そして私に向かって言った。「これは斜め向かいの楊二嫂で…豆腐屋をやっている」 ああ、思い出した。私が子供の時、斜め向かいの豆腐屋に確かに終日座っている楊二嫂がいて、人は皆彼女を「豆腐西施」と呼んでいた。しかし白粉を塗り、頬骨はこんなに高くなく、唇もこんなに薄くなかった。そして終日座っていたので、私はこのコンパスのような姿勢を見たことがなかった。その時人々は言った。彼女のおかげで、この豆腐屋の商売は非常に良いと。しかしこれは大体年齢の関係で、私は少しも感化を受けず、だから完全に忘れていたのだった。しかしコンパスは非常に不満で、軽蔑の表情を見せ、まるでフランス人がナポレオンを知らず、アメリカ人がワシントンを知らないのを嘲笑するように、冷笑して言った。 「忘れた?これは本当に貴人の目が高い…」 「そんなことは…私は…」私は慌てて立ち上がって言った。 「それじゃあ、あなたに言いましょう。迅哥児、あなたは身分が上がったのね。引っ越しは重くて大変だから、こんな古い木器なんか要らないでしょう。私にちょうだい。私たち庶民の家では使えるから」 「私は身分が上がったわけではありません。これらを売って、また…」 「あらまあ、あなたは道台の官職に就いたじゃないですか、それでもまだ裕福じゃないとおっしゃるの?あなたは今や三人の妾を持ち、外出すれば八人担ぎの大きな駕籠、それでもまだ裕福じゃないとおっしゃるの?まあ、何もかも私には隠せませんよ。」 私はもう何も言えないことを知り、口を閉ざして、黙って立っていた。 「あらまあ、本当に金持ちになればなるほど、一厘も手放そうとしない、一厘も手放そうとしないから、ますます金持ちになる……」コンパスは憤慨しながら身を翻し、ぶつぶつ言いながら、ゆっくりと外へ向かい、ついでに私の母の手袋一組を腰に差し込んで、出て行った。 その後もまた近所の本家や親戚が私を訪ねて来た。私は一方で応対し、暇を見つけては荷物を片付け、このようにして三、四日が過ぎた。 ある日は大変寒い午後で、私は昼食を済ませ、座って茶を飲んでいると、外から誰か入ってくるのを感じ、振り返って見た。見ると、思わず非常に驚き、慌てて立ち上がり、迎えに向かった。 やって来たのは閏土だった。一目見て閏土だと分かったが、しかし私の記憶の中の閏土ではなくなっていた。体格は倍になっていた。以前の紫色の丸顔は、既に灰色がかった黄色に変わり、しかも深いしわが加わっていた。目も彼の父親のように、周りが腫れて真っ赤だった。これは私も知っていることで、海辺で畑を耕す人は、終日海風に吹かれて、大抵このようになるのだ。頭には破れたフェルトの帽子をかぶり、身には極めて薄い綿入れ一枚だけで、全身震えていた。手には紙包みと長い煙管を持っていたが、その手も私の記憶にある血色の良い丸々とした手ではなく、太くて不器用で、しかもひび割れて、松の樹皮のようだった。 私はこの時とても興奮したが、どう言えばよいか分からず、ただこう言った: 「ああ!閏土兄さん、——来てくれたのか?……」 私は続いて多くの話をしたくて、数珠つなぎのように溢れ出そうとした:角鶏、跳ねる魚、貝殻、猹……しかし何かに遮られているような気がして、頭の中だけで回転し、口の外に出すことができなかった。 彼は立ち止まり、顔に喜びと侘しさの表情を浮かべ、唇を動かしたが、声を出さなかった。彼の態度は遂に恭しくなり、はっきりとこう呼んだ: 「旦那様!……」 私は寒気に打たれたようだった。私は分かった、我々の間には既に一層の悲しい厚い障壁が隔たっていることを。私も言葉が出なかった。 彼は振り返って言った:「水生、旦那様にお辞儀をしろ。」そして後ろに隠れていた子供を引っ張り出したが、これは正に二十年前の閏土で、ただ黄色く痩せて、首に銀の輪がないだけだった。「これは五番目の子で、世間を知らず、人見知りをして……」 母と宏児が階下に降りて来た。彼らも大方声を聞いたのだろう。 「奥様。お手紙は早くに受け取りました。私は本当に嬉しくてたまりませんでした。旦那様がお帰りになると知って……」閏土は言った。 「ああ、どうしてそんなに丁寧になったの。あなたたちは以前兄弟と呼び合っていたじゃないの?やはり昔通りに:迅兄さん。」母は嬉しそうに言った。 「ああ、奥様、本当に……これでは何の礼儀になりましょう。あの時は子供で、物事が分からなくて……」閏土は言いながら、また水生に前に出て挨拶をするよう呼んだが、その子供は恥ずかしがって、ぴったりと彼の背後に貼り付いていた。 「彼が水生?五番目の?皆知らない人で、人見知りも無理はない。やはり宏児と一緒に歩き回らせましょう。」母は言った。 宏児はこの話を聞くと、水生を誘いに来たが、水生はあっさりと彼と一緒に出て行った。母は閏土に座るよう言うと、彼は少し躊躇した後、遂に座り、長い煙管を卓の傍らに立てかけ、紙包みを差し出して言った: 「冬には何もございません。この少しの干した青豆は自家製で、そこで干したものです。旦那様に……。」 私は彼の境遇を尋ねた。彼はただ首を振るだけだった。 「非常に苦しいです。六番目の子供も手伝えるようになりましたが、やはり食べるのに足りません……また不穏で……どこでも金が要り、決まりもありません……収穫も悪いです。作物を作って、担いで売りに行っても、何度も税を納めなければならず、元手を失います。売りに行かなければ、また腐らせるだけです……」 彼はただ首を振るだけで、顔には多くのしわが刻まれているが、全く動かず、石像のようだった。彼は大方ただ苦しいと感じているだけで、しかしそれを言い表すことができず、しばらく沈黙した後、煙管を取り上げて黙々と煙草を吸った。 母は彼に尋ね、彼の家の事務が忙しく、明日には帰らなければならないこと、また昼食をまだ取っていないことを知り、自分で台所に行って飯を炒めて食べるよう言った。 彼は出て行った。母と私は彼の境遇を嘆息した:多子、飢饉、苛酷な税、兵匪、官紳、全てが彼を人形のように苦しめていた。母は私に言った、持参する必要のないものは全て彼にあげてよく、彼に自分で選ばせればよいと。 午後、彼はいくつかの物を選んだ:長テーブル二つ、椅子四つ、香炉と燭台一組、天秤一本。彼はまた全ての草灰を欲しがった(我々のところでは稲藁を燃やして飯を炊くが、その灰は砂地の肥料になる)。我々が出発する時、彼が船で運びに来ることになった。 夜間、我々はまた雑談をしたが、どれもたいしたことのない話だった。翌朝早く、彼は水生を連れて帰って行った。 また九日が過ぎ、我々の出発の日となった。閏土は朝早くやって来たが、水生は一緒に来ず、ただ五歳の娘を連れて船を見張っていた。我々は終日とても忙しく、もう談話の暇はなかった。来客も少なくなく、見送りに来る者、物を取りに来る者、見送りと物を取りに来るのを兼ねた者がいた。夕方我々が船に乗る時まで、この古い家の中の破れた古い大小粗細の物は、既に一掃されて空になっていた。 我々の船は前へ進み、両岸の青い山は黄昏の中で、皆深い藍色に装われ、連なって船の後方へ退いて行った。 宏児と私は船窓に寄りかかり、一緒に外の朧な風景を見ていると、彼は突然尋ねた: 「おじさん!僕たちはいつ帰って来るの?」 「帰って来る?どうしてまだ出発もしていないのに帰ることを考えているんだ。」 「でも、水生が僕を彼の家に遊びに来いと約束したんだもん……」彼は大きな黒い目を見開いて、ぼんやりと考えていた。 私と母もどこか茫然とし、そこでまた閏土のことが話題に上った。母は言った、あの豆腐西施の楊二嫂は、我が家が荷物をまとめ始めて以来、毎日必ずやって来ていたが、一昨日彼女が灰の山の中から十数個の椀や皿を掘り出し、議論の後、それは閏土が埋めたものだと断定し、彼が灰を運ぶ時に一緒に家に持ち帰ることができると言った。楊二嫂はこのことを発見し、自分でとても手柄だと思い、その狗気殺(これは我々のところで鶏を飼う器具で、木の盆の上に柵があり、中に餌を入れ、鶏は首を伸ばして啄むことができるが、犬はできず、ただ見て悔しがるだけ)を持って飛ぶように走って行った。あんなに高い纏足をしていながら、よくもあんなに速く走れたものだ。 古い家は私からますます遠くなった。故郷の山水も皆だんだん私から遠ざかって行ったが、私はそれほど愛惜の念を感じなかった。私はただ自分の四面に見えない高い壁があって、私を孤独な身に隔てて、非常に息苦しくさせているのを感じた。あのスイカ畑の銀の首輪をした小英雄の影像は、私には本来十分に鮮明だったのに、今は突然朧になり、また私を非常に悲しくさせた。 母と宏児は眠ってしまった。 私は横になり、船底の潺潺たる水音を聞いていて、自分が自分の道を歩んでいることを知った。私は思った:私はついに閏土とこれほどまでに隔絶してしまったが、しかし我々の後世代はまだ一つ心だ、宏児は正に水生を思っているではないか。私は彼らが私のようにもう皆隔たってしまうことがないよう望む……しかし私はまた彼らが一つ心であるために、皆私のような辛苦に翻弄される生活をすることも願わず、皆閏土のような辛苦に麻痺した生活をすることも願わず、皆他人のような辛苦に恣意的な生活をすることも願わない。彼らには新しい生活があるべきで、我々が経験したことのない生活を。 私は希望を思うと、突然恐ろしくなった。閏土が香炉と燭台を欲しがった時、私はまだ心の中で彼を笑い、彼はいつも偶像を崇拝し、いつまでも忘れないのだと思っていた。今私のいわゆる希望も、私自身が手作りした偶像ではないか?ただ彼の願望は身近で、私の願望は漠然としているだけだ。 私は朧の中で、目の前に海辺の碧緑の砂地が展開し、その上の深い青空に金黄色の満月が懸かっているのを見た。私は思った:希望は本来あるとかないとかいうものではない。これは正に地上の道と同じで、実は地上には本来道はない。歩く人が多くなって、それで道となったのだ。 (一九二一年一月。) 【凧】 北京の冬、地上にはまだ雪が積もり、灰黒色の禿げた木の枝が晴れ渡った空にまばらに伸び、遠くに一、二の凧が浮かんでいるのは、私には一種の驚きと悲哀である。 故郷の凧の季節は春の二月で、もしさらさらという風車の音が聞こえれば、仰ぎ見れば淡い墨色の蟹凧や薄青色の蜈蚣凧を見ることができた。また寂しい瓦片凧もあり、風車もなく、とても低く揚げられ、ぽつんと憔悴して哀れな様子を呈していた。しかしこの時地上の楊柳は既に芽吹き、早い山桃も多く蕾をつけ、子供たちの天上の飾りと照応して、一面の春日の温かさを成していた。私は今どこにいるのか?四面はまだ全て厳冬の殺伐で、しかし久しく別れた故郷の久しく逝った春が、この空に漂っているのだった。 しかし私は元来凧揚げを愛さず、愛さないだけでなく嫌悪していた。なぜなら私はこれを出来の悪い子供がする遊びだと思っていたからだ。私と反対なのは私の弟で、彼はその時大体十歳前後であったろう、病がちで、耐えられないほど痩せていたが、しかし最も凧を好み、自分では買えず、私も許さないので、彼はただ小さな口を開けて、ぼんやりと空中を見つめて夢中になり、時には半日にも及んだ。遠くの蟹凧が突然落ちてくると、彼は驚呼し、二つの瓦片凧の絡まりがほどけると、彼は嬉しくて跳び跳ねた。彼のこうした様子は、私から見れば皆笑いものであり、卑しむべきものであった。 ある日、私は突然思い出した。どうやら何日も彼をあまり見かけないようだが、しかし彼が後の庭で枯れ竹を拾っているのを見たのを覚えている。私はいきなり大悟したようになり、人があまり行かない雑物を積んだ小屋に向かって走って行き、扉を押し開けると、果たして塵に埋もれた什器の山の中に彼を発見した。彼は大きな四角い台に向かって、小さな腰掛けに座っていた。とても慌てて立ち上がり、顔色を失って縮こまった。大きな台の傍らには胡蝶凧の竹骨が立てかけられ、まだ紙を張っていなかった。台の上には目玉に使う小さな風車一対があり、まさに赤い紙紐で飾り付けているところで、完成間近だった。私は秘密を暴いた満足感の中で、また彼が私の目を欺き、このように苦心して出来の悪い子供の遊びを密かに作っていることに憤怒した。私は即座に手を伸ばして胡蝶の翼骨の一本を折り、また風車を地面に投げつけて踏み潰した。年長であることといい、力といい、彼は全て私に敵わなかった。私は当然完全な勝利を得て、そこで傲然と歩き出し、彼を絶望して小屋に立たせたままにした。その後彼がどうなったか、私は知らないし、気にも留めなかった。 しかし私の懲罰はついにやって来た。我々が別れて久しい後、私は既に中年で、不幸にもたまたま外国の児童について論じた本を見て、初めて遊戯は児童の最も正当な行為であり、玩具は児童の天使であることを知った。そこで二十年来全く思い出すことのなかった幼い頃の精神への虐殺のこの一幕が、突然目の前に展開し、私の心もまた同時に鉛の塊となったかのように、とても重く重く墜ちて行った。 しかし心は墜ちきって断絶するまでには至らず、ただとても重く重く墜ちて、墜ちていた。 私は償いの方法も知っている:彼に凧を贈り、彼の凧揚げに賛成し、勧め、私も彼と一緒に揚げるのだ。我々は叫び、走り、笑う。——しかし彼はその時既に私と同様に、とうに髭を生やしていた。 私はまた別の償いの方法があることも知っている:彼の寛恕を求めに行き、彼が「私は全然あなたを恨んでいませんよ」と言うのを待つのだ。そうすれば、私の心は必ず軽やかになるだろう。これは確かに実行可能な方法である。ある時、我々が会った時、顔にはもう皆「生」の辛苦の多くの線が刻まれていて、私の心はとても重く、我々は次第に子供の頃の昔話を始めた。私はこの件について話し、少年時代の愚かさを自分で語った。「私は全然あなたを恨んでいませんよ。」私は思った、彼はそう言うつもりで、私は即座に寛恕を受け、私の心もこれから楽になるだろうと。 「そんなことがあったでしょうか?」彼は驚いて笑いながら言った。まるで他人の話を傍聴しているかのようだった。彼は何も覚えていなかった。 全く忘却し、少しの怨恨もなく、また何の寛恕があり得るだろうか?恨みのない恕は、嘘であろう。 私はまだ何を希求することができるだろうか?私の心はただ重くあるしかなかった。 今、故郷の春がまたこの異郷の空にある。既に私に久しく逝った児時の回憶を与え、あわせてまた掴むことのできない悲哀をも運んでくる。私はむしろ殺伐たる厳冬の中に隠れていた方がよいかもしれない。——しかし、四面はまた明らかに厳冬で、まさに私に非常な寒威と冷気を与えている。 (一九二五年一月二十四日。) 【一九二二年】 【「学衡」を見積もる】 私は二月四日の『晨報副刊』で式芬先生の雑感を見て、天下にこれほど頑迷な老先生がいて、世情に疎いことがこれほどまでとは知らず、まだ『学衡』の諸公と学理を談じようとしているのに、大いに訝しく思った。そもそも『学衡』なるものは、私の見るところでは、実は「聚宝門」付近に集まったいくつかの偽骨董が放つ偽の毫光に過ぎない。自ら「衡」と称するといえども、自身の秤星すらまだ釘付けできておらず、ましてや彼らが衡った軽重の是非について言うまでもない。だから、決して較正する必要はなく、ただ見積もってみればすぐ分かる。 『弁言』に言う:「籀繹の作は必ず雅音に趨いて文を崇ぶ」と。「籀繹」がこうであるなら、述作は推して知るべし。そもそも文とは、たとえ「道を載せる」ことができなくても、「意を達する」べきであるが、不幸にも諸公は国学を張皇するといえども、筆下はどうしても疎通を欠き、自ら了することができず、どうして人を「衡る」ことができようか。これは実に大きな欠点である。見よ、諸公はどう言うか—— 『弁言』に云う:「雑誌近例弁以宣言」と。按ずるに宣言とは布告のことで、弁とは周人が頭上に戴く瓜皮帽子のような帽子で、明らかに頭上のものである。だから「弁言」は序のことで、「雑誌近例」の宣言とは異なるのに、並べて一談とするのは、あまりに汗漫である。『新文化提倡者を評す』文中に言う:「或いは筆を操って待つ。一つ一つの新書が出版される度に、必ずこれに序をなし、以てその後進を領袖する責を尽くす。顧亭林曰く、人の患いは人のために序をなすを好むにあり。その此れを謂うか。故に彼等に学問の標準と良知を語るは、なお商賈に道德を語り、娼妓に貞操を語るがごときなり。」と。元来序を一篇作って「以てその後進を領袖する責を尽くす」ことに、こんな大罪案があるのである。しかし諸公はまた何ゆえ「突として弁たり」の「言」をし始めたのであろうか?前文の推論に照らせば、それなら私の質問は、まさに「商賈に道徳を語り、娼妓に貞操を語るがごとき」ことになってしまう。 『中国の社会主義提唱の商榷』中に言う:「凡そ理想学説の発生は、皆その歴史上の背景がある。決して懸空虚構し、ユートピアの邦を造り、病なき呻きをなす者ではない。」と。調べるに「英吉利」のモアは、『ユートピア』を作ったのであって、之乎者也と言いつつ、やめることができないのなら、別に古典を探すのも難しいことではないのに、なぜわざわざ中に楦を加えるのか。古には「ユートピア」なるものを聞いたことがなく、今は「ニューギニア」とも言わない。奇句これかくのごとく、真に「病ある呻き」と言うべきである。 『国学摭譚』中に言う:「三皇寥廓にして無極なりといえども、五帝は搢紳先生これを言い難し。」と。人にして「寥廓」たり得るとは、既に奇聞であるが、第二句はさらに費解で、三皇の事を、五帝と搢紳先生が皆言い難いのか、それとも五帝の事を、搢紳先生も言い難いのか分からない。情理を推測するに、後説に従うべきであろうが、しかし太史公のいわゆる「搢紳先生言い難し」とは、「百家言黄帝」を指すのであって、五帝を指すのではない。だから『史記』を開けば、堂々たる一篇の『五帝本紀』があり、また何ぞ曾て「言い難い」ことがあろうか。まさか太史公は漢朝において、下等社会の人と算すべきだろうか? 『白鹿洞で虎を語るを記す』中に言う:「諸父老よく健談す。談多く虎を称す。その抉噬の状を摹示するに当たりて、聞く者で色変せざる者は鮮し。退きてこれを記すも、また詼諧の類に資するなり。」と。姑くその「能」「健」「談」「称」、床上安床を論ぜずとも、「抉噬の状」は結局記されず、「変色」の事は、ただ「詼諧に資する」だけというのも、事情からあまりに遠いと言える。もしただ「詼諧に資する」だけなら、先の聞いて色変した者は、単なる馬鹿者ということになる。『記』にまた云う:「伥者は、新鬼にして虎牙に膏る者なり。」と。新鬼になったばかりで、すぐ「虎牙に膏る」とは、実に憐れむべきである。それでは、虎は人を食うだけでなく、鬼をも食うということになる。これは古来未知の新発見である。 《漁丈人行》の冒頭にこうある。「楚王無道にして伍奢を殺す。覆巣の下に完き家なし。」この「完き家なし」は「完き卵なし」より目新しいものの、語法上の誤りは免れまい。もし「家」が鳥の巣のことであれば重複の過ちを犯し、しかも「之下」の二字の置き所がなくなる。もし人家のことだとすれば、落ちてきた鳥の巣はあまりにも重すぎることになろう。大鵬金翅鳥(『説岳全伝』に見える)を除けば、彼らの家屋を押し潰せるほどの大きな巣など断じてあり得ない。もし押韻のためやむを得なかったというのなら、敢えて言おう——これは「掛脚韻」というものだ。押韻がここまで来れば、『詩韻合璧』の「六麻」を開いて、「完き蛇なし」「完き瓜なし」「完き叉なし」と書いたとて、何でも構わないことになる。 さらに《浙江採集植物遊記》に至っては、題名からして通じない。採集には務めがあり、漫遊ではないのだから、古人が記を作る際には、務めと遊びを並べ挙げず、地名と遊びを結び付けた。廬山・峨眉は山であるから「紀遊」と言い、硫黄を採り碑を訪ねるのは務めであるから「日記」と言った。採集の折に遊覧も兼ねるとはいえ、それは主たる事務の中に包含されるべきものであり、一つ一つ列挙してしまえば「古」ではなくなる。例えばこの記の中でも食事や睡眠のことに触れているが、題名を《浙江採集植物遊食眠記》とするわけにはいくまい。 以上は手当たり次第に拾い上げた事に過ぎず、細かく挙げていけばさらに筆も墨も時間も労力も費やすことになり、割に合わないので中止する。したがって諸公の論理については指摘する必要もない。文章すら通じぬものに、理屈をどこに託すというのか。辺鄙な田舎の中学生の成績でさえ、ここまでひどくはあるまい。 つまるところ、諸公が新文化を攻撃し旧学問を喧伝するのは、自己矛盾さえしなければ、一つの主張として成り立たぬこともない。惜しむらくは旧学への門径もなく、主張を唱える資格さえ備わっていないことだ。もし文字の通じぬ者でも国粋の知己と見なされるなら、国粋の方がかえって恥ずかしくてたまるまい!一通り「衡」ってみたところ、「衡」り出したのは自分自身の軽さだけであって、新文化には何の損傷もなく、国粋にも遠く及ばない。 私が諸公に感服するのはただ一点——この手のものを堂々と発表する勇気があることだ。
【ロシア歌劇団のために】 私は知らない——実のところ知っていると言ってもよいのだが、敢えてこう言おう——ロシア歌劇団がなぜ故郷を離れ、この美妙な芸術を携えて中国まで来て、わずかなお茶代を稼ごうとするのかを。あなたたちはやはり帰った方がよい! 私が第一舞台にロシアの歌劇を観に行ったのは、四日の夜、開演二日目のことであった。 門を入るなり、異様な心持ちが湧き起こった。中央に三十余人、傍らには大勢の兵士がいたが、楼上の四等五等席にはなお三百人余りの観客がいた。 初めて北京に来たある人が、間もなくこう言った。「私はどうやら砂漠に住んでいるようだ。」 そうだ、砂漠はここにある。 花もなく、詩もなく、光もなく、熱もない。芸術もなく、さらに趣味もなく、さらには好奇心すらない。 重い砂…… 私はなんと臆病な人間であろうか。この時私は思った——もし私が歌い手であったなら、私の声はきっと消え沈んでしまうだろう、と。 砂漠はここにある。 しかし彼らは舞い踊った、歌い上げた。美しく、誠実に、そして勇猛に。 流れ動き、歌い吟ずる雲…… 兵士たちが手を叩いた、接吻の場面で——兵士たちがまた手を叩いた、また接吻の場面で。 兵士でない者も何人か手を叩いた、やはり接吻の場面で。そのうちの一人は最も大きな音で、兵士たちを凌いでいた。 私はなんと偏狭な人間であろうか。この時私は思った——もし私が歌い手であったなら、きっと竪琴をしまい込み、歌声を沈黙させてしまうだろう、と。さもなくば、私は反抗の歌を歌うだろう。 そして本当に、私は私の反抗の歌を歌ったのだ! 砂漠はここにある、恐ろしい…… しかし彼らは舞い踊った、歌い上げた。美しく、誠実に、そして勇猛に。 漂流し転々とする芸術家たちよ、寂寞のうちに歌い舞って、もう帰りたい気持ちになっているだろう。あなたたちにはおそらく復讐の意図はないだろうが、一度帰ってしまえば、我々もまた復讐されたことになるのだ。 砂漠よりもさらに恐ろしい人の世がここにある。 ああ!これこそ私の砂漠に対する反抗の歌であり、見知った者にも見知らぬ者にも同感を持つ友への呼びかけであり、寂寞のただ中を彷徨う歌い手たちへの広告でもある。 (四月九日。)
【無題】 私立学校の遊芸大会の二日目、私も何人かの友人と中央公園へ足を運んだ。 私は入口に「崑曲」の二文字が貼られた部屋の外に立っていた。前は壁で、一人の男が全力で私の背後から押し上がろうとし、息もできぬほど押し付けられた。彼は私を実体のない霊魂と思ったらしいが、それは少々間違いと言わざるを得ない。 帰りに子供たちにお菓子を分けてやろうと思い、ある製糖会社に買い物に行った。買ったのは「黄枚朱古律三文治」。 これは箱に書かれた名前で、いかにも神秘的な趣がある。だが実はそうでもなく、英語で言えばChocolate apricot sandwichに過ぎない。 この「黄枚朱古律三文治」を八箱買い定め、代金を払い、衣のポケットに収めた。不幸にも私の視線がふと横に逸れてしまい、その会社の店員が五本の指を広げ、私が買わなかった残りの「黄枚朱古律三文治」すべてを覆い隠しているのが目に入った。 これは明らかに私への侮辱だ!しかし実際のところ、これを侮辱と受け取るべきではないかもしれない。なぜなら、もし彼が覆い隠さなければ混乱の中で永遠に盗まれないという保証は私にはできないし、私自身が泥棒でないとも証明できず、過去・現在そして未来にわたって盗みをしないとも自ら保証できないからだ。 だがその時、私は不愉快になり、偽りの笑みを浮かべてこの店員の肩を叩いて言った。 「その必要はないですよ、私は余分に一つ取ったりは決してしませんから……」 彼は「いえいえ、とんでもない……」と言って慌てて手を引っ込め、そして恥じ入った。これは全く予想外であった——私は彼がきっと言い張るだろうと思っていたのだ——そこで私もまた恥じ入った。 この種の恥じらいは、往々にして人類を疑う私の頭上に落ちる一滴の冷水となり、これは私にとって損なことである。 夜、一人で部屋に座り、人々から少なくとも一丈余りは離れていた。分け残りの「黄枚朱古律三文治」を食べながら、トルストイの本を数頁読み、次第に私の周囲を遠く人類の希望が包んでいるような気がしてきた。 (四月十二日。)
【「以て其の艱深を震わさんとす」】 上海の租界にいる「国学家」たちは、白話文を書く者はたいてい青年で、古書など読んだことがないに違いないと思い込み、いわゆる「国学」で彼らを脅かそうとした。 『時報』にある涵秋の署名による《文字感想》が載り、その中にこんな一節がある。 「新学家は国学を薄んじて足らざるものとし故に鉤輈格磔の文を為して以て其の艱深を震わさんとするなり一読之すれば嘔を欲し再読之すれば昏昏として睡り去るのみ」 拝承した。私は以前、「鉤輈格磔」とは古人が鷓鴣の鳴き声を形容するのに用いたもので、他に深い意味はないと思っていた。この《文字感想》のおかげで、これは鷓鴣が「艱深」に鳴くのを咎めたものだとようやく分かった。しかしいずれにせよ、「艱深」が人に「嘔を欲」させることはあり得ない。鷓鴣の鳴き声を聞いて嘔吐する者など世にいないし、文章で言っても、「粤れ稽古に若く」と注釈が紛々と付き、「絳すなわち東雍」と句点が途切れぬのは、まさに艱深と言うべきだが、これで胃がむかついたという話は聞いたことがない。嘔吐の原因は他人の文章の「艱深」にあるのではなく、自分自身の体内にある。おそらく「国学」を蓄え過ぎて、筆が追いつかず、溢れ出したのであろう。 「以て其の艱深を震わさんとするなり」の「震」の字は、国学の門外漢から見ても意味が通じないが、植字工の手違いかもしれない。排字印刷も新学なのだから、やはり「以て其の艱深を震わさん」としてしまうのかもしれぬ。 さもなくば、このような「国学」は、艱深ではないものの悪文には違いなく、まさに「一読之すれば嘔を欲し」、再読之すれば必ず嘔するであろう。 国学よ国学よ、新学家はすでに「薄んじて足らざるものとし」、国学家もまた道いて亨くし能わず、汝はまことに道窮まり途尽きようとしているのだ! (九月二十日。)
【いわゆる「国学」】 今日突如現れた「国学家」たちのいわゆる「国学」とは何であるか? 一つは商人と遺老たちが数十部の旧書を翻刻して金儲けをすること、もう一つは洋場の文豪がまた何篇かの鴛鴦蝴蝶派の小説を書いて出版することである。 商人や遺老の刻書は書籍の骨董化であり、重きを置くのは書籍ではなく骨董である。遺老に金があれば、あるいは自ら楽しむに過ぎないかもしれないが、商人はこれを大々的に宣伝して利を貪る。さらに茶商や塩商など、もとより「士類」からは歯牙にもかけられぬ輩が、今や新旧紛擾に乗じて、刻書を名目に遺老・遺少の「士林」に潜り込もうとしている。彼らが刻す書にはいずれも民国の年月がなく、元版か清版か判別できず、すべて骨董の趣で、少なくとも一冊二、三元、綿連紙に錦の帙、古色蒼然として、学生には手が出ない。これが彼らのいわゆる「国学」である。 しかし抜け目のない商人は学生の金も決して見逃さず、粗悪な紙と墨で何とかの「菁華」だの何とかの「大全」だのを別に刷って搾り取る。定価はさほどでもないが、紙と墨を比べれば高い買い物だ。これらの「国学」書の校勘となると、新学家は頼りにならず、当然上海のいわゆる「国学家」の手になるわけだが、誤字続出、破句連綿(用いているのは新式句読点ではない)、まったく若者を愚弄しているようなものだ。これが彼らのいわゆる「国学」である。 洋場でかつて文豪と称された者たちは、「卿卿我我」「蝴蝶鴛鴦」の類を確かに少々書いたが、洋場の始まって以来、誰もこれらの文章(?)を国学と呼んだことはなく、彼ら自身も「国学家」を自称してはいなかった。今やなぜか忽然として奇想天外にも、塩商や茶商に倣い、何の根拠もなく「国学家」の列に割り込もうとしている。しかし事実は惨憺たるもので、彼らのいわゆる国学とは、「拆白の事は各処に皆有るも上海の一隅を以て最も甚しとなす(中略)余は課余の暇に筆墨を浪費するを惜しまず事実を編纂して一篇の小説を作り以て閲者に饗す想うに亦閲者の楽しんで聞く所ならん」(原本は各句に密に圏点あり、今は省略、排工を省くため、読者諒とされたし。) 「国学」とはかくの如きものに過ぎないのか? 試みに歴史の《儒林伝》や《文苑伝》を繙いてみるがよい。旧書を骨董扱いする鴻儒がいたか? 拆白を以て読者に饗する文士がいたか? もし今年から、これらが「国学」だと言うのなら、それこそまた「新」しい前例というものだ。あなたたちは「国学」を講じているのではないのか?
【童謡の「反動」】 一 童謡 胡懐琛 「お月さま!お月さま! もう半分はどこへ行ったの?」 「人に盗まれたよ。」 「盗んで何にするの?」 「鏡にして映すのさ。」 二 反動歌 子供 空に半分のお月さま、 「破鏡天に飛ぶ」かと思えば、 なんと人に盗まれて地上に下りたのか。 面白いなあ、面白いなあ、鏡になったとさ! でも僕は丸い鏡も四角い鏡も長方形の鏡も八角の鏡も六角の鏡も菱花式の鏡も宝相花式の鏡も見たことがあるけれど、 半月形の鏡はまだ見たことがないぞ。 僕はここにおいて甚だ面白くないのである! 謹んで案ずるに、子供はわずかに新潮に触れただけで、たちまち妄りに詰難を敢えてし、人心古からず、まことに慨然たるべし!しかし原詩を拝読するに、小さな誤りも存す。もし第二句を「二つの半分ともどこへ行ったの」と改めれば、すなわち全璧となろう。胡先生は夙に改削に長けておられるゆえ、鄙言を河漢とはされまい。夏暦中秋前五日、某生謹注。 (十月九日。)
【「一是の学説」】 私は『学灯』で呉宓君の《新文化運動の反応》を駁した文章を見てから、『中華新報』を探して彼の原文を読んだ。 それは浩々洋々たる長文で、一万字を超えるだろう——しかも作者呉宓君の写真まで載っていた。記者はまた論の前にこう紹介していた。「涇陽の呉宓君は米国ハーバード大学の修士にして現在国立東南大学西洋文学教授なり。君は既に西方文学に精通してその神髄を得、国学もまた涵養甚だ深し。近ごろ学衡雑誌の主撰となり実学の提唱を任となし、時論これを崇む」と。 しかしこの大文の内容は甚だ簡単である。大意を言えば、新文化はもとより提唱してもよいが、提唱する者は「博大なる眼光、寛宏なる態度を以て、力を学術に注ぎ、深く精研し、その全体を観て貫通澈悟し、しかる後に情を平らかにし理を衡り、中を執りて物を馭し、一是の学説を造成し、中西の精華を融合して、一国一時の用に供すべし」というのである。しかるに恨むべきは「近年いわゆる新文化運動なる者あり。その偏激なる主張に本づき、宣伝の良法を佐とし……加うるに新を喜び盲従する者の多きをもって」忽ち声勢浩大となった。思うに「物極まれば必ず反す。理に固より然り」というわけで、「近ごろ新文化運動を懐疑し批評する書報漸く多し」となった。これを「新文化運動の反応」と謂うのである。しかし「また、いわゆる反応とは反抗の謂いにあらず……読者幸いにわが論がここに列するを以て、遂にこれを新文化に賛成せざる者と疑うなかれ」云々。 反応の書報は全部で七種挙げられており、大体においていずれも「中を執りて物を馭し」、「正軌」の新文化を宣伝するものである。ここで私も一通り紹介しよう。一、『民心週報』、二、『経世報』、三、『亜洲学術雑誌』、四、『史地学報』、五、『文哲学報』、六、『学衡』、七、『湘君』。 これ以外は、呉君のこの七種の書報に対する「情を平らかにし理を衡る」批評(?)である。例えば『民心週報』について、「発刊より停版に至るまで、小説及び一、二の来稿を除き、全て文言を用い、いわゆる新式標点を用いず。この一端だけでも、新潮がまさに盛んなる時に、砥柱中流と謂うべし」と。『湘君』が白話と標点を用いていることについては、また別の理屈があり、それは「『学衡』は事理の真に本づく、故に粗劣なる白話及び英文標点を拒斥す。『湘君』は文芸の美を求む、故に通妥なる白話及び新式標点を兼用す」というのだ。つまるところ、主張が偏激であれば標点も偏激となり、その白話は自ずと「通妥」でなくなる。例えば私の白話など、通妥からは程遠いし、私の標点は「英文標点」というわけだ。 しかし最も「貫通澈悟」に富むのは、『経世報』を引っ張り出して「反応」に仕立てたことだ。『経世報』が出版された頃はまだ「万悪は孝を先となす」という流言はなく、彼らは早くから崇聖の高論を多く発していた。惜しむらくは今や日刊から月刊になり、実に萎縮の様相を呈している。「その君臣の倫に於いて、別に新解を下す」とか、「『亜洲学術雑誌』はその牽強付会を議し、必ず君を以て帝王となす」というのは、実際のところ誤っていない。これこそ「新文化の反応」と言えるのだが、呉君はまた「則ち過てり」とする。それこそ自分が「則ち過てり」なのだ。時代の関係上、当時の「君」は当然帝王であって大総統ではなかった。また民国以前の議論も、時代の関係上、自ずと革命の精神を多く含んでおり、『国粋学報』もその一つだが、呉君が学術を論じながら革命にも触れるのを咎めるのは、やはり時間の前後を過度に「融合」してしまった結果である。 このほかにもう一つ、まるで見識のないところがある。それは『長青』『紅』『快活』『礼拝六』等、近ごろ風起雲湧する書報を遺漏していることだ。これらはいずれも実に「新文化運動の反応」であり、しかも「通妥なる白話」を用いているのだ。 (十一月三日。)
【分からない音訳】 一 およそ一つの事があって、永遠にこんがらがって解きほぐせぬものは、おそらく我が中国に勝るところはあるまい。 トルストイは賛嘆の涙、懺悔の涙、同情の涙を好んだ。一九〇九年に書いた『通りすがりの人の話』は、このような文で始まっている—— 「朝、早くから外に出た。気分は壮快であった。美しい朝だ。太陽が茂みの林から昇ったばかりで、露が草の上に、木の上に光っている。万物は和やかで、すべての景色は変わらない。実に心地よく、死にたくないと思った。」 次に、老農夫との出会い、そして喫煙の害と思索の益についての叙述が続き、さらにこう書いている—— 「まだ話したかったが、喉に何かが詰まった。すぐに涙が出てしまう。もう話すことができず、あの老人に別れを告げ、また歓びの和やかな感情にも別れを告げて、涙を含んで立ち去った。このような人々の間に住んでいて、どうして嬉しくないことがあろうか、またどうしてこのような人々から、最も見事な仕事を期待せずにいられようか。」 逝去の三ヶ月前、彼はある農家の青年から得た感情を日記に書き、上の文と同じ言葉を用いて、自分の敏感さを証明している。その日記にはこう書かれていた—— 「歓喜のためか、病気のためか、それとも二つが合わさった原因か、同情と喜悦の涙がたやすく流れるようになった。この愛すべき、思想の堅固な、力強く善事を為さんと願う孤独な青年の素朴な言葉が、私の心を動かし、嗚咽の声がほとんど口から漏れそうになり、一言も話すことができず、彼のそばを離れたのだ。」 しかしこの多感な天性は、トルストイの全生涯に現れた特質であり、読者にはこの涙が見えないかもしれないが、彼は常に深い感慨を抱いていたのである。 トルストイの母はルソーを愛読し、『エミール』は彼女の机上の書であった。トルストイが最も愛好した人物が、感情の詩美をもって擬古典主義の批判に対抗したジャン=ジャック・ルソーその人であったのは、決して理由のないことではなかった。 トルストイは一九〇一年、パリのロシア語教授M・ボワイエにこう語った—— 「私は『ルソー全集』二十巻を熟読したが、その中で最も好きなのは『音楽辞典』である。私はルソーに感謝している。」 「十五年間、ルソーの肖像を彫った牌を身に付けて「十字架」の代わりにしていた。そしてルソーの著作の大半は、まるで自分で書いたかのように、私にはこの上なく親しいものなのだ。」 一九〇五年、トルストイはジュネーヴのルソー協会の会員に推挙された通知に応じて、ジュネーヴに書簡を送り、「ルソーは十五歳の時代以来の私の教師である。私の生涯において、一大裨益を与えてくれたのは、ルソーと『旧約聖書』である」と述べた。 その協会の会員バルビは、協会年報に『トルストイはルソーの後継者である』と題する一文(一九〇七年)を載せ、こう論じた—— 「レフ・トルストイは十九世紀のルソーであり、あるいは具体化されたエミールである。ルソーの精神はトルストイの全創作を貫いている。トルストイは現代人の評釈者である。ちょうどルソーが十八世紀のそれであったように、トルストイは今世紀のそれなのだ。」 トルストイ協会からルソー協会への返書にはこうあった—— 「ジャン=ジャック・ルソーが理想とした思想の独立、人類の平等、諸国民の統一、そして自然美への愛は、我々にとって極めて近しいものである。わが国民的知性の代表者たるトルストイは、全生涯を上述の理想の発揚と宣伝に捧げたのだ。」 賛嘆、同情あるいは懺悔の涙は、トルストイの社会観を表象するものであり、昂奮した敏感の涙は、彼の世界観を浸し透していた。その天賦の敏感性は、搾取の条件の上に栄える現代文明社会の虚偽を洞察し、さらに彼を自然の法則と自然人への愛好に促したのだ。彼はルソーの後継者として、ルソー以上の情熱と真摯と確信をもって、一切の虚偽と不誠実の現象を抉り出したのである。 彼は人生への愛情、正義と朴素への憧憬、虚偽への憤怒をその敏感性とともに、真摯にして自然と融合する真摯なる自己の構想の中に織り込んだのだ。 しかし、十九世紀のルソーたるトルストイは、紛乱した世紀の後半期の社会的矛盾の現象を観察した者であった。詩聖プーシキンはこのような大矛盾を知らず、ベリンスキーの言うところでは「階級の原則こそ永久の真理」であった。だがトルストイは、自己の階級の不動を信じてはいなかった。彼はセヴァストーポリの陥落を目の当たりにし、ニコライ一世の死に遭い、革新時代の情勢を観察し、断ち切られた大鎖の一端が地主階級を打ち、もう一端が農奴(ムジーク)を怯えさせることを知った。彼はまた、いわゆる民衆啓蒙運動を目撃し、都市の発達とともに激増する驚くべき矛盾の現象を経験し、そして彼自身は最後の貴族となった。一八七〇年代と八〇年代に、彼はその生活状態を詩化し美化し讃歌した荘園の没落を宣説した。ちょうどゴーゴリの傑作(訳者注:『タラス・ブーリバ』の登場人物ブーリバがアンドレイ(訳者注:ブーリバの息子)に言った「おまえを造ったのはこの俺だ、おまえを殺すのもこの俺だ」のように、荘園にも告げたのである。かくして彼は自己の思想を一変し、これまで芸術の華やかな衣に覆われていた醜悪な現象の暴露者となった。 『懺悔録』、『エミール』、『新エロイーズ』の著者ルソーは、小ブルジョア手工業者の家庭に生まれ、辛苦を経て成長し、十八世紀の虚偽的な生活を感じ取り、遂に古代ローマの平民のように貴族階級に宣戦した。 『幼年時代』、『コサック兵』、「ルツェルン」、『わが懺悔』の著者は、貴族の家に生まれ、父系はドイツ人、母系はリューリク(ロシアの始祖)にまで遡る。 そしてこの白馬金鞍の貴公子は、遂に自己と格闘し、多年の思索の結果、ついに貴族階級の腐敗を暴露した。その格闘が劇的であったことは、誰もが直感できるところである。 トルストイは母胎を離れるや、たちまち旧貴族の雰囲気に包まれ、多くの男女の侍従に囲まれ、ヤースナヤ・ポリャーナでの幸福な生活は、七百人の農奴の労働にすべて頼っていた。未来の文豪を教育したのは、『幼年時代』に長く名を留めるドイツ人とフランス人であり、彼の父親の書斎には、プーシキンの父親の書斎と同様、十八世紀のフランス人の著作が数多くあった。十三歳から十九歳まで(一八四一年——一八四七年)、彼はカザン知事の娘にして退役胸甲騎兵大佐の妻である叔母ペラゲーヤ・イリニーシュナ・ユシコワの監督のもと、その家に住んでいた。この家庭は常に祝祭のように賑やかで、カザンの上流社会の集いの場であり、フランス語の社交的会話が途切れることはなかった……。 青年大学生(トルストイ)は全世界を二大階級に分けた。すなわち上流社会と賤民である。叔母はトルストイを外交官か皇帝の侍従にしようとし、甥が社交界の貴婦人と意気投合することを望んだ。彼女は富家の娘との結婚を彼の最大の幸福と考え、この結婚によってトルストイが多くの農奴を持てることを夢見ていた。 ザゴースキンの『回想録』によれば、青年のトルストイは正真正銘の放蕩児の代表者であった。 踊り、仮装舞踏会、芝居、活人画、大学卒業後のカルタ遊び、ジプシーの歌——これが青年貴族の生活であった。この生活について、後に彼は『わが懺悔』の中で、悔恨と恐怖の念なしには記すことができなかった。 自分の階級以外の人々を蔑視する習慣のあった青年は、モスクワを離れてカフカスに赴き、第四砲兵中隊の曹長の任命を待っていた。その時彼は流行の外套を着、ひだ飾りの高帽を被り、真っ白ななめし革の手袋を嵌め、ティフリスの街を散歩していた。手袋をしていない通行人を見ると、嘲笑の調子で弟のニコライにこう言った—— 「あいつらは屑だ。」 「なぜ屑なんだ?」 「なぜって?手袋もしていないじゃないか。」 カフカスにあっても、青年トルストイは交遊を極力減らし、友人を避け、遁世者のように身を守った。その頃、叔母に送った手紙の中でこう述べている。「自分で偉いと思ってこのような態度を取っているのではありません。自然とそうなるのです。この地で出会う人々と自分とを比較すると、教育においても、感情においても、また見解においても、非常な差異があり、どうしても彼らと気が合わないのです。」 一八五四年、シリストリア(ブルガリアの山地)で司令官の副官を務めていた時も、やはり同様の放蕩息子であった。また処女作の出版後、ツルゲーネフ、ドルジーニン、フェートその他の文人の列に加わった時も、まだ同じ人間であった。 しかしこの青年には世襲の領地があり、自分の農民がいた。だから善良な主人になれると思い、学位証書も官位も必要でないと悟った。しかも『地主の朝』の主人公ネフリュードフと同じように、七百人の農民の幸福を取り仕切り、神に対して彼らの運命の責任を負っていると感じていたのだ……。 放蕩生活の中で青年時代を過ごしたトルストイは、三十四歳にしてようやく家庭の人となった。農村経済の計画を立てることは彼の無上の楽しみであり、その経営の方法を親友フェートに自慢したものだ。また利己的な感念に駆られて家族に幸福を与えようと力を尽くし、労働者ユファンの機敏な仕事ぶりに心酔して、自らユファン化しようとした。未来の母ソフィア・アンドレエヴナが鍵を鳴らしながら穀倉を巡視すると、大家族の未来の父たる彼はその後をどこまでも追い従った……。歳月を重ね、約十九年間、快活な蟄居生活に浸ったヤースナヤ・ポリャーナの地主は、農村を経営し、財産を増やし、牧畜場には豚三百頭、サマーラの荘園では馬群が跳ね回っていた……。このように富は日増しに大きくなったが、一八五六年頃フェートに送った手紙にはこう書いている。「我々の農業は、今やあの取引所が引き取らぬ廃券を蔵した株主のようなものだ。状況はよくない。自分の安静を損なわぬ範囲で経営することに決めた。最近の自分の仕事には満足しているが、飢饉の襲来の兆候があり、日々苦慮している。」 一八八二年、モスクワの市況調査に参加した際、リャーピンスキー旅館一つの調査にわずか数時間を費やしただけで、ヤースナヤ・ポリャーナでの数年の生活よりも意義深い影響をトルストイに与えたのだった。この調査を契機に書かれた『我々は何をなすべきか』(一八八二年)の冒頭は、このような文で始まっている。「私はこれまで都会の生活を送ったことがなかった。一八八一年にモスクワの生活に入った時、私を驚かせたのは都会の貧困であった。農村の貧困は早くから知っていたが、都会の状態は私にとって新しく、かつ理解し難いものであった。」 都会の貧民は赤貧で、神を信じず、その目つきからはこのような問いが読み取れた—— 「なぜ、おまえは——別世界の人間が——私たちのそばに立っているのだ?おまえはいったい何者だ?」 別世界から来たトルストイがこの理解し難い新しい都会生活を観察するや、これまで愉楽と思っていた贅沢な生活は、かえって煩悶の根源と化した。寒さに耐え飢えに苦しみ、しかも虐げられる多数の人々を目の当たりにして、博愛だけではこの問題を解決し難いことを悟り、都会では村落のように容易に愛と協同の雰囲気を創り出すことも難しく、また「自分の生活を不正当だとする自覚の心」の苦悩を鎮めることもできぬ道理を悟ったのだ。彼はこう書いた—— 「都会の窮乏は、農村の窮乏に比べてより不自然で、より切迫し、より深刻である。そして主要な点は、貧窮者が一か所に群集していることで、その情景は実に私に悪感を与えた。リャーピンスキー旅館で得た印象は、私に自分の生活の汚穢を感じさせた。」 農村生活者の第一の憧れは、ヤースナヤ・ポリャーナの静寂と幽棲であった。激しい都会生活の煩瑣に苦しむ彼は、モスクワから農村へ逃れた。一八八二年のいわゆる「苦痛の経験」(市況調査)に至るまで、子女の教育のためにモスクワに住んでいたのだが、それ以前の一八七七年には、親友フェートにモスクワ生活をこう訴えている。「私のモスクワ生活は非常に混乱している。神経が騒ぎ、一時間のうち一分ごとに異なる感覚がある。会わねばならぬ人々に面会するのを妨げるかのように、不必要な人々が故意に現れるのだ……。」 モスクワの市況調査の後、彼はリャーピンスキー旅館から恐怖に駆られてヤースナヤ・ポリャーナの翼の下に逃げ帰り、一八八二年四月、ソフィア夫人に手紙を書いた—— 「ようやく都会の極めて繁雑な世界から自分に立ち戻り、古今の書を読み、アガーフィヤ・ミハイロヴナの純真なおしゃべりを聞き、子供のことではなく神のことを思うと、私の気持ちはとても安らかだ。」 トルストイがヤースナヤ・ポリャーナに逃げ帰ったのは、都会生活の煩労を厭うたからだけではない。彼は社会問題の通俗的な解決を避け、深刻にして切迫した都会の貧困から遠ざかろうとしたのだ。そして彼はヤースナヤ・ポリャーナの生活よりも、むしろ農民の生活へと向かっていた。 社会問題はトルストイの前に、その悲劇的な実相を展開した。彼は個人的に、消極的に社会問題を解決しようとし、一切の病根は他人を雇い搾取することにあるのだから、搾取に加担せず、自ら多く労働し、他人の労働の利用を極力減らすべきだと考えた。 一八八二年、彼はカトリック教派の農民シュターエフに出会った。シュターエフとは、他人を助け自らの実例を示し、「同胞愛」を説いて社会の矛盾を緩和しようとする者であった。トルストイはまたボンダレフの『パンの労働について』を読んで深く感ずるところがあり、村民のために殉教的な労働をなし、それによって自らの良心の平和を得ようという決意を固めた。社会問題はもとよりこのような個人的努力では解決できないが、怠惰で豪華な地主生活に打撃を加えたことは疑いない。 ヤースナヤ・ポリャーナの地主は、ヤースナヤ・ポリャーナの隠者となった。ユファン化した主人は、文化的耕作者に変わった。ちょうど十八世紀のルソーが鬘を投げ捨て、白い靴下を脱ぎ、金のボタンを外し、四方の壁だけの小屋に住み、モンモランシーの隠者となったように、十九世紀のトルストイもまた華美な衣裳を脱ぎ、粗野な農服を纏い、いわゆる「パンの労働」に身を委ねた。かくして、現代国家の社会的矛盾から逃避した隠者は「樅の木の下の精舎」に入り、個人的に農民的キリスト教を奉じ、シュターエフの方式に従って生活を送ったのだ。すなわち彼トルストイは、悔い改めたアナーキストとなり、中産の勤労農民の精神を自らの精神としたのである。「市況調査とシュターエフの説は、私に多くのことを教えた」——これは彼がしばしば口にした言葉である。 今年、広州では女子学生の胸を縛ることが禁止され、違反者には罰金五十元が科されている。新聞はこれを「天乳運動」と称した。樊増祥に命令を書かせなかったのを惜しむ者もいる。公文に「鶏頭肉」等の文字が見られないのは、文人学士の心を満足させるに足りないというわけだ。その他は新聞の洒落た文章、滑稽な議論ばかり。私は思う、これだけのことだ、永遠にこれだけのことだ、と。 私もかつて「杞憂」を抱いたことがある。将来、中国の学生出身の女性は哺乳の能力を失い、家ごとに乳母を雇わねばならなくなるのではないか、と。しかし胸を縛ることだけを攻撃しても無駄である。第一に、社会の考え方を改め、乳房に対してもっと寛大にならねばならない。第二に、衣服を改良し、上衣をスカートの中に入れるようにすべきだ。旗袍も中国の短い上着も、乳の解放には適さない。なぜならその際に胸部以下がめくれ上がり、不便でもあり、見た目もよくないからだ。 もう一つ大きな問題がある。乳が大きいことが突然犯罪と見なされ、受験できなくなることはないだろうか。中華民国が成立する以前の中国では、「四民の列に歯せざる者」だけが試験を受けることを許されなかった。理屈から言えば、女子の断髪は男女の区別を失わせるから有罪であるなら、天乳はかえって男女の区別を際立たせるのだから、功績があるはずだ。だが天下には口舌で争って決着のつかぬことが多く、結局は上諭か、さもなくば刀の指揮が要るのだ。 さもなくば、すでに「短髪犯」があるのだから、これに加えて「天乳犯」が増え、あるいはまた「天足犯」も現れるかもしれない。ああ、女性の身体にまつわる趣向も格別に多く、人生もここから苦しみが増すばかりだ。 もし我々が革新だの進化だのを語らず、もっぱら安全を考えるならば、女子学生の身体は長髪、胸を縛り、半解放足(一度纏足してから解いたもの、一名文明脚)が最もよいと思う。なぜなら私は北から南へ、通り過ぎた土地で看板も旗もさまざまに異なるが、このような女性に対して、仇視する所があるとは一度も聞いたことがないからだ。 (九月四日。)
【「首領」の革命】 この二年来、私は北京で「正人君子」に殺退され、海辺に逃げた。その後、また「学者」の類に殺退され、別の海辺に逃げた。その後、また「学者」の類に殺退され、西日の差す楼上の一室に逃げ込み、全身あせもだらけで茘枝のようになり、戦々恐々として一言も発さず、これで罪を免れるだろうと思った。ああ、それでもだめだった。ある学者が九月に広州に来て、一方では教授をしながら、一方では私と裁判をすると言い、しかもあらかじめ私に逃げるなと言って、ここで「開廷を待て」というのだ。 五色旗の下でも青天白日旗の下でも、同じく華蓋に命を覆われ不運が頭上に降りかかると思えば、必ずしもそうではない。いつの間にか、知らぬ間に「文芸界」で出世していたのだ。信じられぬとおっしゃるなら、陳源教授すなわち西瀅の『閑話』の広告を証拠に挙げよう。全文を写すのは退屈なので、切り抜いて貼り付ける—— 「徐丹甫先生が『学灯』でこう言っている。『北京はやはり新文学の策源地であり、根が深くしっかりしていて、隠然として全国文芸界の牛耳を執っている。』いったい北京文芸界とは何か。端的に言えば、ここ一、二年の北京文芸界は、現代派と語糸派が交戦する場であった。魯迅先生(語糸派の首領)が恃みとした大義、その戦略は、『華蓋集』を読んだ人なら既にご承知であろう。しかし現代派の義旗と、その主将——西瀅先生の戦略は、我々にはまだ明らかでない。そこで我々は特に西瀅先生と相談し、『閑話』を選集して専書として印刷した。文芸界の掌故に関心のある方は、必ず先に読むことを喜びとされるだろう。 「ただし『閑話』を単なる掌故と見るのもまた間違いだ。—— 西瀅先生の文筆を鑑賞したい方、 西瀅先生の思想を研究したい方、 この文芸批評界の権威を知りたい方—— とりわけ『閑話』を読まずにはいられまい!」 これは「詩哲」徐志摩先生の、少なくとも「詩哲」の類の「文筆」によく似ていて、かくも飄々としているので、私でさえ読んで一冊買いたくなりそうだった。だが、自分のことを思うと、また躊躇した。二、三年は決して長くない。「正人君子」に「学匪」と指さされ、さらに「豺虎に投げ与えよ」と言われたことを、私は覚えている。いくらかの雑感を書き、時にはこの西瀅先生に及んだことも覚えている。これらのものを「詩哲」は見もせず、西瀅先生は直ちに「行くべき所へ行け」と命じたことも覚えている。後にとうとう『華蓋集』が出たのも事実だ。しかし「北京文芸界」なるものがあり、しかも私が「語糸派の首領」となって「大義」を恃みにこの「文芸界」で「現代派の主将」と交戦したなど、全く知らなかった。この「北京文芸界」は徐丹甫先生が『学灯』上で認定し、隠然として動かし難いものになったとはいえ、自分の華々しく語られた戦績については、依然として狐狸精に化かされたかのようにさっぱり分からないのだ。 現代派の文芸など、私はもともと気にしたことがなく、『華蓋集』のどこで触れたというのか。ただ、ある女史が「ピア・ワーズリー」の画を盗んだ時に、『語糸』上で(あるいは『京報副刊』上で)誰かが一言触れたことがあり、後に「現代派」の口ぶりでは、この文章を私が書いたと思っているらしかった。ここに鄭重に声明する——あれは私ではない。楊蔭楡女史に殺退されて以来、あらゆる女史に対して失礼を犯す勇気がなくなった。女史の機嫌を損ねると「男士」の義侠心が湧き起こり、「通緝」されかねないことを知ったので、もう口を開かなくなったのだ。したがって私は現代派の文芸とは寸毫も関わりがない。 しかしとうとう幸運が巡ってきて「首領」に昇進し、しかも現代派の「主将」と「北京文芸界」で交戦したことになったのだ。なんと堂々たることか。本来なら部屋の中で喜色を浮かべ、黙って受け入れるのも、少々は大物めいた風格があろう。だが近頃、人に気軽に持ち上げられたり貶されたり、あるときは「権威」と呼ばれ、あるときは「権威」を許されず「先駆者」にしかなれないと言われ、またあるときは「青年の指導者」に改められる。甲が「青年叛徒の領袖」と言えば、乙が冷笑して「ふん、ふん、ふん」と言う。自分は少しも動いていないのに、名前だけが何度も浮き沈みと冷暖を経験した。人々が気ままに言って私を一種の材料として扱うのは、まあよい。最も恐ろしいのは広告的なお世辞と広告的な罵倒だ。まるで膏薬の屋台に吊るされた蛇の抜け殻のようなものだ。だからこのたび現代派に追封されたとはいえ、この「首領」の栄名は、やはり公に辞退せざるを得ない。もっとも毎回こうするとは限らない。そんな暇はないのだから。 背に「義旗」を差した「主将」が出馬するなら、相手はもちろん大物の方がよい。我々は演義の類でしばしば見る。「来将、名を名乗れ!わが宝刀は無名の将を斬らぬ!」主将が「交戦」に来て私を「首領」に昇格させたのも、おそらく「やむを得ず」なのだろう。だが私はそうではない。そんな大仰な構えはなく、チビ犬であろうと臭い便所であろうと、唾を吐きかけるのであって、必ずしも背中に五本の尖った旗(義旗?)を差した「主将」が登場してからでなければ「刀筆」を動かさぬ、などということはない。もし誰かが私の便所を攻撃する文章を見て、それも私の強敵だと思い込み、その臭いがまだよく分からぬのが残念で、もう一度嗅ぎに行こうというなら、私は責任を負わない。この広告を例に引く者がいるかもしれぬので、念のため声明しておく。巻き添えを避けるためである。 西瀅先生の「文筆」、「思想」、「文芸批評界の権威」は、もちろん「鑑賞」し、「研究」し、かつ「認識」すべきものだ。惜しむらくは「鑑賞」しようにも……今のところ『閑話』一冊しかない。だが我らが「主将」のあらゆる「文芸」の中で、最も出来がよいのは、『晨報副刊』に載った、志摩先生への——大半は魯迅をこっぴどく罵る——あの一通の手紙だろうと私は思う。あれは熱を出している時に書いたものなので、すでに紳士の黒い洋服を脱ぎ捨て、真の姿が躍如としている。しかも『閑話』と比べると全く態度が異なり、二つのうちの一方が虚偽であることを証明している。これもまた西瀅先生の「文筆」等々を「研究」するための好材料だ。 しかしこの一通の手紙の中ですら、区別して見なければならぬところがある。例えば「志摩よ、……眼前には遥かに茫々と薄霧の中にかすむ目的地がある」の類。私の見るところ、実はそのような「目的地」などなく、もしあったとしてもそれほど「遥々茫々」としてはいない。これは熱がまだあまり高くないためで、もし九十度ほどに上がれば、この「遥々茫々」もすべて一掃され、純粋に近づくことが期待できよう。 (九月九日、広州にて。)
【「激烈」を語る】 書籍や雑誌を携えて「香江」を渡ると、「危険文字」と見なされて「鉄格子と斧鉞の風味」を味わう危険があることは、『香港略談』で既に述べた。だがどのようなものが「危険文字」なのか分からないので、始終気がかりだ。なぜか?上海保安会が言うように「中国の元気が損なわれすぎる」ことを恐れるからではなく、自分勝手な理由で、自分もいずれ香港を通らねばならないかもしれず、気をつけておく必要があるからだ。 今年はどうやら青年が特に死にやすい年回りらしい。「千里風を同じくせず、百里俗を同じくせず。」ここでは平常のことが、あちらでは過激と見なされ、煮え油で指を焼かれる。今日正当なことが、明日には犯罪となり、籐の鞭で尻を打たれる。もし若者が田舎から出てきたばかりなら、きっと訳も分からず焼かれて、今はこういう制度が流行っているのだろうと思うに違いない。私はといえば、一昨年すでに四十五歳で、しかもとうに「心身ともに病んで」いるのだから、それほど命を大事にし、患いに備えて予防する必要もなさそうだ。だがそれは他人の意見であって、私自身はやはり苦しい目に遭いたくない。「新時代の青年」諸君にはどうかお察しいただきたい。 だから用心に用心を重ねた。果たして、「天は自ら助くる者を助く」で、今日ついに『循環日報』上にいささかの参考資料を見つけた。事件はこうだ。広州の執信学校の学生が香港を通過(!)した際、「尖沙咀碼頭で一五七号の中国人巡査に行李を捜索され、その木箱(謹んで案ずるに、トランクのことなり)の中から激烈文字の書籍七冊が発見された。内訳は、執信学校印行の『宣伝大綱』六冊、および『侵奪中国史』一冊。かかる激烈文字は、華民署の翻訳員による抄訳が完了し、昨日午後、連司に送られ訊問を受け、激烈文字の書籍を所持した罪で起訴された。……」新聞の書き写しも面倒なので、大略を述べると、「抄訳」期間中は保釈金五百元で外に出られ、後に被告が書物は友人に頼まれて運んだものだと供述したため、「軽く罰金二十五元に処し、書籍は没収焚毀」となったという。 執信学校は広州の穏当な学校であり、「清党」の後であれば、『宣伝大綱』は三民主義にほかならぬことは明らかだが、ひとたび「尖沙咀」に至ると「激烈」になるのだ。恐ろしい。ただ友邦に対して「侵奪」の文字を用いたのは、確かにいささか「激烈」ではある。なぜなら彼らが我々のために「国粋を保存」してくれている恩を忘れたからだ。だが「侵奪」の上にはまだ字があったかもしれず、記者が書き出す勇気がなかったのだろう。 私はかつて元朝のことを何度か持ち出したが、今夜考えてみると、まだ正確ではなかった。元朝は中国語の書籍に対して、これほどまで気を配らなかった。この一手はやはり清朝を模範とすべきだ。清朝は「文字の獄」を何度も起こして叛徒を大いに殺しただけでなく、宋朝の人が書いた「激烈文字」にも細心の注意を払って削除改変した。同胞の「復古」への熱心さと友邦の「復古」支援は、まさに師法とすべきものであろう。 清朝の人が宋の人の書を改変した例として、私はかつて『茅亭客話』を挙げた。だがこの書は『琳琅秘室叢書』に収められており、現在の時価は一部四十元もする。ちょっとした金持ちでなければ手に入るまい。近ごろ別の一部が出た。商務印書館から出た『鶏肋編』、宋の庄季裕の著で、一冊わずか五角。清朝の文瀾閣本と元の鈔本がどのように異なるか、見ることができる。いくつかを摘録すると次の通り—— 「燕の地の……女子は……冬の月に括蔞を顔に塗り、……春暖かくなってから洗い落とす。長く風日に侵されぬゆえ、白玉の如く潔白なり。今、中国の婦女をことごとく異俗に汚すは、漢唐の和親の計、いまだ屈とはなすまじ。」(清の人は「今、中国の」以下二十二字を、「その南方と異なること此の如し」の七字に改めた。) 「古来、兵乱あれば、郡邑の焚毀さるるは之あり。盗賊残暴なりといえども、必ず室廬に頼りて住すゆえ、存するもの有るべし。靖康の後、金の虜が中国を侵凌し、露天に居り異俗にして、凡そ経過する所、尽く焚燼す。曲阜の先聖の旧宅の如きは、魯の共王以来、ただ増修あるのみ。莽・卓・巢・温の徒も、なお儒を崇める振りをなし、かつて犯すことを敢えてせず。金寇に至りて遂に煙塵と化し、その像を指して罵りて曰く『汝は夷狄にも君有りと言いし者ぞ!』中原の禍、書契以来、未だ之有らざるなり。」(清朝の改本は大いに異なる。「孔子の宅は今の仙源の故魯城中、帰徳門内の闕里の中に在り。……漢の中微に遭い、盗賊奔突し、西京の未央・建章の殿より皆隳壊せらるるも、霊光は巍然として独り存す。今その遺址は復た見るべからず。而して先聖の旧宅も、近日また兵燹の厄に遭えり。嘆くべきかな。」となっている。) 書き写しも面倒なので、もうやめよう。だが第二条を見れば、上海保安会が切望する「規矩に循い軌道を踏む」道がよく分かる。すなわち、原文はいくらか憤激を帯びているから「激烈」であり、改本は「嘆くべきかな」に過ぎないから「規矩に循い軌道を踏む」のだ。なぜか。憤激すれば竿を掲げて蜂起する可能性があるが、「嘆くべきかな」ではぼんやりしており、たとえ全国が一斉にため息をついても、結果はため息に過ぎず、「治安」には毫も妨げがないからだ。 だが私は青年諸君にもう一つ警告しておく。我々が今後「嘆くべきかな」式の文章だけ書けば安全だと思ってはならない。新しい先例はまだ研究が足りないが、清朝の旧例だけを見ても、ため息を許すのは古人に対する優遇であって、今人には適用されない。奴隷がみなため息をつくのは大した害はないが、主人が見ればやはり気分がよくない。ラッセルが称賛した杭州の駕籠かきのように、常に笑顔でいなければならないのだ。 だが私は自分のためにも少し弁解しておく。「笑顔」に対していくらか異論めいたことを言ったようだが、「階級闘争」を鼓吹する意図はない。なぜなら私のこの一篇を杭州の駕籠かきが目にすることはないと分かっているし、ましてや「討赤」の君子たちは誰も笑顔で駕籠を担ぎに行こうとはせず、駕籠担ぎを苦境と見なすのは「乱党」に限らぬことが分かるからだ。しかも私の議論も、実のところ「嘆くべきかな」に過ぎぬのだ! 現今の書籍はとかく「激烈」であり、古人の書籍にも不穏当な箇所がないわけではない。では、中国のために「国粋を保存」する者は、どうするのか。私にはまだよく分からない。ただ知っているのは、マカオでは目下「徴詩」が行われ、応募巻数七千八百五十六本を集め、「江霞公太史(孔殷)の評閲」を経て、二百名が取録され、第一名の詩はこうだという—— 南中多楽日高会。。。 良時厚意願得常。。。 陵松万章発文彩。。。 百年貴寿斉輝光。。。 これは香港の新聞からそのまま写したもので、三つ連なった丸印も原本のままだが、おそらく密圏のつもりだろう。この詩にはおそらく「嵌字格」の類の一種の「格」があるのだろうが、私は門外漢なので語らぬことにする。私が得た益は、ここからようやく将来の「国粋」は詩詞駢文を正統とすべきだと悟ったことだ。史学などは発達しまい。研究するにしても、まず老師や宿儒が改定の手間をかけねばなるまい。ひとり詩詞駢文だけは弊害が少ない。ゆえに駢文の神に入った饒漢祥が亡くなると、日本人すらこれを慨嘆せずにはいられず、「狂徒」はまた罵倒される破目になるのだ。 日本人は北京で駢文を崇拝し、「金制軍」は香港で「国故を整理」する。中国を愛護し、その滅亡を恐れること、まことに至れり尽くせりだ。しかるに釐金の廃止と関税の引き上げには、みな賛成しないのはなぜか。思うに釐金は国粋であり、関税は国粋ではないからだ。「嘆くべきかな」! 今宵は中秋、璧月は澄み渡り、ため息を終えてもまだ眠くならない。「徴詩」を改めて吟じてみるが、さっぱり分からない。原稿に紙の余白があるので、「江霞公太史」の評語を録して読者に良さを知らしめよう。ただし圏点は私が僭越ながら加えたものである—— |